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二次創作まとめ

Eunie

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■ED後時間軸

■短編


モルクナ大森林は、かつて世界が別々の星として存在していた頃の残骸が多く残っている場所である。
かつての世界にも人の営みはあり、文明と呼べるものが存在した。
遥か古の世界がどんな輪郭をしていたのか、この深く怪しい森にはそのヒントが多く残されている。
それゆえに、タイオンは大森林の上層に鉄巨神を構えているコロニータウに寄るたび、暇を見つけては周囲の遺跡の調査に赴いていた。
 
だが、この場所の下層は強力なモンスターが数多く生息している。
1人で出歩くには危険すぎるため、彼はいつもパートナーであるユーニを伴って調査に出かけていた。
彼女が傍らにいれば、もしものことがあってもインタリンクすることで危機を回避できるだろう。
 
調査に誘うたびユーニは面倒そうに眉を潜めていたが、一言二言文句を言いつつ最後には必ず同行に承諾していた。
その日もまた、彼女は朝早くからタイオンに叩き起こされモルクナ大森林の調査に引っ張り出された。
同じ天幕ではノアやミオたち旅の仲間がまだ寝息を立てている。
どうしてこんなに朝早くから行かなければならないのかと抵抗したが、“朝早い方がモンスターも活発化していないから”と話すタイオンに渋々同行した。

森林の上層から下層の間に位置しているこの鋼の建物たちは、鉄巨神やキャッスルの様なこのアイオニオンに存在している建造物とはまるで形が異なる。
天高くそびえ建ついくつもの鉄の箱は、巨大な樹木に埋もれ、太い根が絡みつき、廃墟と化している。
この鉄の箱が古の世界でどんな役割を担っていたのか分からないが、これほどまでに大きな建造物をいくつも建てるほど進んだ文明だったのだろう。
廃れた鉄の箱の一室を見て回っていたタイオンは、四方八方謎に包まれているこの空間に目を輝かせていた。
そんな相方の背中を、ユーニは壁に寄りかかりながら見つめている。

タイオンは知識欲旺盛な男だ。
ティーに初めて到着した時も、知らない文化や価値観を前に一番興奮していたのは彼だった。
アグヌスの女王、ニアからこの世界の成り立ちを教えられた今、彼の興味は古の世界へと向けられている。
元の世界を知ることが、この世界や自分たちのルーツを知る手掛かりになると信じ、一心不乱に調べていた。
 
だが、そんなタイオンの行動に、ユーニはあまり賛同出来ずにいる。
ニアから語られた真実が本当だとしたら、アイオニオンというこの歪な世界は因果の流れから外れた不本意な世界である。
ウロボロスとなった自分たちが当初から掲げていた“世界をあるべき姿に戻す”という目的は、この世界の離別を表していた。
世界の全容を知ったことで、この目的へ突き進むことに迷いが生じたとか、嫌になったとか、そう言うわけではない。
だが、古の世界のことを知れば知るほど思い知ってしまうのだ。
ケヴェスとアグヌス。戦い続けることを強いられたこの二つの存在は、どうあっても混じり合うことは出来ないのだ、と。

朽ちかけている壁に寄りかかり、腕を組みながらユーニは廃材を調べているタイオンの背に視線を送る。
何光年も昔の過去を調べることで、何光年も先の未来を見据えようとしている彼は、まっすぐ前しか見えていない。
彼は分かっているのだろうか。その先の世界に、自分たちが交わる未来が存在していないことを。
いつか避けられない運命によって引き裂かれた自分たちは、きっと二度と再会することないのだろうという事実を。

古の世界のことなんて、知りたいと思えなかった。
知れ知るほど、距離の遠さを実感してしまう。
寂しいと思っているのは、自分だけなのだろうか。
自らの白い羽根を撫でながら、ユーニは夢中になって廃材を漁っているタイオンに気付かれないよう密かにため息をついた。


「やはり、この鉄の箱を築いた文明は相当進んだ技術を手に入れていたようだな」
「ふぅん」
「今の僕たちでは想像も出来ないほど便利で近未来的な技術に囲まれながら生活していたのだろう。この技術を再現できればいいが、なかなか難しいだろうな」


朽ちているこの鉄の箱の一室に投棄されているのは、当時使われていた生活の道具なのだろう。
小さな部品から大きな機械まで、さまざまなものが錆び付きながら転がっている。
その廃材を、タイオンは宝の山を見るような目で見つめていた。
そんな彼の楽しそうな声色とは裏腹に、大して興味が無さそうな冷え切った声でユーニは相槌をうつ。
ガタガタと派手な音を立てながら廃材をかき分けているタイオン。
そんな彼の背をじっと見つめていたユーニだったが、彼の調査が終わるのをただ待っているだけのこの時間に退屈さを感じてしまい、ゆっくりとその場に腰を下ろした。


「そんなに進んだ技術の中で生きてたなら、今じゃあり得ないことも出来てたりしたのかな」
「というと?」
「例えば……。もすごく遠くにいる奴にも、一瞬で会いに行けたりとか」


背後で呟かれたユーニの言葉に、タイオンは一瞬だけ廃材をいじる手を止めた。
聡い彼には、ユーニの沈みゆく心が手に取るように分かってしまう。
だが、不器用な彼にはユーニの心を喜ばせるだけの素敵な言葉が見つからなかった。
現実主義な彼は、ロマンチックな甘い言葉より現実感のある灰色の言葉を好む。
だからこそ、少し気落ちしているユーニが相手であっても、そういった堅苦しい知識を披露することで元気づけようとした。


「流石に無理だろうな。転移装置の様なものは存在していたかもしれないが、流石に別の世界に飛べるほどの技術があったとは思えない」
「あっそ」


事実だけを述べるタイオンの言葉は、ユーニに少しの希望も与えてはくれない。
こういう時は少しくらい気を遣って嘘を吐くもんなんだよ。本当に鈍いな。
相方の不器用さに苛立ち唇を尖らせるユーニ。
そんな彼女を背に、タイオンは“だが……”と言葉を続けた。


「遠くにいる人間に会いたいという価値観は、古の世界にもあったのだろう。その片鱗は今も残っている」
「どういう意味?」
「コロニータウの風習だ。あそこに根付いている独自の風習は、このモルクナ大森林に広がる遺跡の影響を強く受けていると僕は考えている」


ユズリハが軍務長を務めているあのコロニータウは、他のアグヌスのコロニーと比較してかなり独特な風習が根付いている。
そのほとんどが執政官によって意図的に伝承された悪習だったが、そのすべてが人為的に継承されたものだとは思えない。
このモルクナ大森林に広がる遺跡から読み取れる古の世界の文化、価値観が、かつてコロニータウを興した者たちによって独自に解釈され、風習として根付いたとしか考えられないようなものも多かった。
執政官、ひいてはメビウスの益にならない妙な風習がいくつか残っているのがその証拠だろう。
この説を裏付けるように、タイオンは先日ユズリハからタウに伝わる不思議な伝承を聞いていた。


「タウには“月の儀”と呼ばれる儀式が伝わっているらしい」
「月の儀?」
「満月が空に浮かんだ夜、心から会いたいと思う者の温もりが宿っているモノに願をかけ、満月が映っている波のない水面に浮かべると、会いたい者に会えるという」


ユズリハ曰く、この月の儀は仲間が戦死した日に行われる儀式だったらしく、コロニー付近にある池や湖で定期的に行われていたのだとか。
この儀式の歴史は古く、随分昔から行われていたそうだが、ここ数世代前に廃れてしまったらしい。
確証はないが、この不思議な伝承も古の世界の影響を受けて伝承されたものなのだろう。


「ふぅん。胡散臭いな」
「当然、コロニータウで行われてはいたものの、“会いたい者”に会えた者は1人としていないそうだ」
「そりゃそうだ。そんな簡単に会えるなら苦労しねぇよ。でも——」


壁に寄りかかりながら、ユーニは空を見上げた。
この鉄の箱の一室は壁の一部が崩れており、そこから外を覗くことが出来る。
崩れた壁の向こうに見えるのは、登ったばかりの太陽と、未だ少しだけ暗い空。
太陽の光に負けてはいるが、反対側に薄い月の輪郭が見えた。
少し欠けているその薄い月を見つめながら、ユーニは言葉を続ける。


「もし本当に会えるなら、信じてもいいかもな」
「会いたい人がいるのか?」
「今はいない。でも多分、この先会いたくて仕方なくなるだろうなって奴はいる」
「それは……」
「……ん?」
「……いや、なんでもない」


振り返り、何かを言おうとしたタイオンだったが、結局言葉を飲み込んでまた手元に視線を落としてしまう。
何を言いたかったのか、何故言葉を飲み込んでしまったのか、ユーニには手に取るようにわかった。
彼は不器用で少し臆病な人だ。ユーニの本心がはっきり見えないうちは、必要以上に踏み込まないように心掛けているのだろう。


「けどさ、例えその儀式が成功して会えたとしても、そいつがアタシのこと忘れちまってたら意味ねぇよな」
「いや。忘れるわけない。そいつはきっと記憶力がすこぶるいいはずだから、君のことも覚えているはずだ」
「自信満々だな」
「当たり前だ。断言できる」


こちらに背中を向けているが、タイオンの声色は随分と得意げだった。
きっといつものように眼鏡を押し上げ、したり顔を浮かべているに違いない。
そんな彼の顔を想像しながら、ユーニは胡坐をかいていた膝を両手で抱え、上目遣いでその広い背中を見つめた。


「じゃあもし再会したら、そいつがアタシの名前ちゃんと呼び当てるまで絶対名前名乗らないようにするわ」
「いいんじゃないか?忘れていたとしてもどうせすぐに思い出すだろうからな、絶対に」


大した自信だった。
核心を突かない二人の会話は、暗黙の了解が漂う空気の中進んでいく。
少し離れた場所でガラクタを仕分けているたった一人の相方、タイオンは、珍しくユーニの期待通りの言葉をくれた。
現実的主義で、不確定なことを口にしたがらない性格である彼が、“絶対”という強い言葉を使って断言してくれた。
その事実が嬉しくて仕方がなかった。
彼の言葉一つで不安は取り除かれ、きっと大丈夫だと思えてしまう。
浮ついた気持ちのまま、ユーニは柔らかい笑みを彼の背中に向けつつ呟いた。


「約束だからな、タイオン」


***


あれから幾度もの朝と夜が去って行った。
因果は6人のウロボロスの力によって正され、歪な世界は二つに裂ける。
惜しみながら離別した世界は、次第に互いの存在を忘れながらそれぞれの未来に突き進んでいく。
似ているようでどこか違うこの二つの世界が交わることはない。
二つの世界、巨神界とアルストの未来はどこまでも並行をたどり、再び邂逅することは無かった。

アイオニオンという世界の存在を知る者は、もはや誰もいない。
巨神界に生きる少女、ユーニもまた、己の壮絶な過去など知る由もなく平凡な日常を生きていた。
優しい父と母、同じ腹から生まれた兄妹、幼い頃から家族のように育ってきた幼馴染たち、同じコロニーで切磋琢磨してきた友人たち。
彼女を取り囲む人間関係は実に良好で、何の憂いもなかった。
 
完璧な人の輪に囲まれたユーニは幸せな生を送っていたが、20歳を間近に迎えた頃、彼女の平凡で幸せな日常にちょっとした事件が起きた。
部屋の棚の裏から、埃にまみれた一冊の手帳が出てきたのだ。
その手帳は、幼い頃からずっと持ち続けていたもので、内容はハーブティーのレシピ。
なぜこんなものを物心つく前から持っていたのかは覚えていないが、久しぶりに棚の裏から発掘したその手帳に、ユーニは大きな懐かしさを覚えていた。


「うわぁ。マジかよ超懐かしい。昔よく見てたなぁ、これ」


表紙に付着した埃を手で払い、パラパラとめくりながら中を見る。
このレシピ帳は手書きで書かれており、焙煎方法や茶葉の植生など、丁寧に記載されている。
誰が書いたものかは知らないが、これの筆者はかなり几帳面な人間だったのだろう。
字は丁寧だし、記載されている文章は非常に分かりやすい。
だが、手書きで書いてあるがゆえに、ところどころ文字が薄くなって読み取れなくなってしまっていた。
 
昔は真っ白だった手帳の紙は褪せて色が変わってしまい、インクが滲んで消えかかっている。
古くなってしまった手帳に視線を落としながら、ユーニはノスタルジックな気分に浸っていた。
やがて一番最後のページをめくった時、何も書かれていないそのページにちょっとした違和感を感じた。


「ん?なにこれ」


裏のページに滲んだインクのせいで、何も書かれていなかったハズのページに文字のようなものが浮かんでいる。
なんだろうと手帳を頭上に掲げてみると、窓の外から差し込む陽の光に照らされ、ぼんやりと字が滲んでいた。
その光景を見たユーニは確信してしまう。
最後のページは白紙だと思っていたが、どうやら違うらしい。
インクの出ない先端が鋭いもの。例えば万年筆の様なもので文字が刻まれている。
裏のページにインクが滲んだことで、刻まれた文字が浮き出てきたのだ。

自らのひらめきに頼り、ユーニは自分の机の引き出しから鉛筆を取り出し、一見白紙に見える最後のページを軽く塗りつぶしてみた。
すると、刻まれた文字がはっきりと浮かんでくる。
インクで書かれた文字は、長い年月をかけていずれは消えてしまう。
だが、紙に残った筆圧は残り続ける。
筆者はそれを見越してわざとこんな面倒なやり方で文章を残したのだろう。
そうまでして残したかったメッセージとはいったい何なのだろう。
食い入るように浮かんできた文章に視線を落とすと、レシピ帳の筆跡と同じ字で書かれた文字が書き連ねてあった。


ユーニへ
すまない。こんな形でヒントを与えてしまうのはズルいと思ったが、なりふり構っていられない。
どうしても、また君に会いたい。
あの時君は胡散臭いと言っていたが、たまには非現実的な伝承に頼ってみるのも悪くはないだろう。
今から記載する方法を試してみてくれ。物は試しだ。
多分このメッセージを見ている君は何も覚えていないだろうし、きっと訳が分からなくて首を傾げていると思う。
でも、どうか信じてほしい。
会いに来てほしい。待っているから。
タイオン


「タイオン……?」


聞き覚えのない名前だった。
知り合いにも友人にも、タイオンという名の人物はいない。
だが、宛名は自分の名前になっているし、これが自分宛てに書かれているメッセージであることは間違いない。
不審に思ったユーニだったが、好奇心旺盛な彼女はこのメッセージの指示通りに動いてみることにした。
もしかしたら、この“タイオン”という人物に本当に会えるかもしれない。
そんな期待を込めて。

手帳に記載されていた指示は、あの丁寧なレシピ帳の筆者らしく随分と分かりやすかった。
まずはこの手帳の適当なページを切り取り、詳しく記載があるとおりに折り込んでいく。
完成したのは人型の様なカタシロだった。
残されていたメッセージにこのカタシロの呼び名が記載されている。どうやらこれはモンドという代物らしい。
このモンドを持って、満月の夜に波のない水辺に行けとあった。
満月の夜まで待たないといけないのか。めんどくせぇな。
少し不満に思いつつも、ユーニは指示通り満月の夜まで待った。

やがて、巨神界の夜に満月が浮かぶ。
家の近所にある小さな湖に向かったユーニは、次の指示を実行するためモンドを手に持った。
次の指示は、モンドに“タイオンに会いたい”と願をかけ、満月が浮かぶ水辺に浮かべろというもの。
なんだか指示がオカルトチックになってきた。
こんなことをしても会えるわけがないのに。

半信半疑で、モンドを片手にユーニは願をかけた。
“タイオンに会いたい”
顔も知らないその人物のことを考えながら、ユーニは満月が映った湖にモンドをゆっくりと浮かべた。
水に浮かんだモンドはスーッと水面を進み、やがて湖の中央に映っている満月と重なり合う。
モンドは月が映る湖の中へゆっくりと沈んでいったが、特に何も起きることはなかった。


「何やってんだろうなぁ、アタシ。帰ろっ」


急に馬鹿馬鹿しさを感じたユーニは立ち上がる。
話のタネになればいいくらいの軽い考えで実行した不思議な儀式はものの数秒で終了し、時間の無駄だったことを実感してしまう。
あのメッセージを残した“タイオン”という人間がどんな男なのかは知らないが、少なくとも満月を待っている間はワクワクできた。
そういう意味では感謝していいだろう。
そこまで考えて、ユーニはハッとした。

あれ?なんで“タイオン”が男だって前提で考えてるんだろう。

そんな考えが頭をよぎったその瞬間だった。
背後の湖が淡く柔らかい光をポゥッと放ち始める。
これは水面に映った月の光などではない。
湖の奥から放たれている光だ。
一体どうなっているのだ。
驚いて再び湖の水面を覗き込むと、そこには先ほど映っていた月はなく、かわりに見慣れない丘の様なものが映っていた。
空を映し出しているはずなのに、なぜ水面は陸地を映し出しているのだろう。


「どうなってんだ?これ……」


あり得ない光景に戸惑い、思わずユーニは湖の水面へと手を伸ばした。
指先が水面に触れたその瞬間、まるで何かに引き込まれたかのように身体が引っ張られ、不思議な引力によって湖の中に飛び込んでしまった。


「うわっ」


小さな悲鳴と共に、ドボンと音を立てて水の中に落ちてしまうユーニ。
ぶくぶくと水泡が目の前を覆い、一瞬視界を失った。
体中に浮遊感を感じて目を開けると、そこに広がっていたのは、無数に浮遊する大きな水泡の群れ。
美しい水泡には、まるで記録映像の様な記憶の回想が映り込んでいた。
 
硝煙が立ち上る戦場。
命を奪い合う若者たち。
広い世界を旅する6人と2匹の背中。
そして、自分の隣を歩く褐色の青年。
水泡に映るその数々の記憶を目にした瞬間、ユーニの脳裏に封じられた思い出がフラッシュバックする。
これは、命を何度も繰り返していた頃の記憶。アイオニオンの記憶。

やがて、目の前の水疱がはじけて消える。
水の中にいたはずのユーニは、いつの間にかゆっくりと空から降り立つように、草花が生えている丘に降り立っていた。
ふわりと風を纏いながら着地したのは、先ほど水面に映っていたあの丘だ。
 
柔らかい草の上に膝をつき、上を見上げると、そこには満天の星空が広がっている。
美しい星空に月は見えない。おそらく新月なのだろう。
だが、ここが一体どこなのかとか、自分の身に何が起きたのかとか、そんなこと今はどうでもいい。
脳裏に蘇った壮絶な記憶がユーニの心を搔き乱し、様々な色をした感情が波のように襲ってくる。
そして、一度に押し寄せた感情は涙となってユーニの蒼い目からこぼれ落ちる。


「あ、あぁ……」


涙が堪えきれない。
力なく草花の上に座り込んだユーニは、夜空を見上げながら泣いていた。
どうして忘れていたのだろう。
絶対に忘れないと思っていたのに。
自分が自分じゃなくなるような感覚に、ユーニはどうしようもなく悲しくなった。
そして、このあのレシピ帳に残されていたメッセージの意味も理解できた。
あのメッセージを遺した“タイオン”という人物が、いったい誰なのかも。


「そこで何をしてるんだ……?」


不意に背後からかけられた声に、ユーニは肩を震わせた。
柔らかなその声は、もう何年も聞いていなかったハズなのにすぐに誰のものか分かってしまった。
振り返った先にいたのは、懐かしいあの顔。
褐色の肌に眼鏡をかけた癖毛の彼は、あの頃から何も変わらぬ容姿でそこにいた。
そしてその姿を見た瞬間悟る。ここが“彼の世界”であるということを。


「タイオンっ!」


涙で震えた声でその名を呼び、ユーニは地面を蹴って駆け出した。
両手を広げ、少し離れた場所に立ってこちらを見つめているタイオンの胸に飛び込むと、頭の上で彼が息を呑む気配がした。
タイオンだ。タイオンがいる。ずっと会いたかったタイオンがいる。
この顔も声も匂いも、全部あの頃のままだった。


「会いたかった……ずっと会いたかった……っ」


囁く声は涙でかすれていた。
彼の背中に手を回し、頬を胸板に押し付けながら背中に腕を回す。
とにかく再び会えたことが嬉しくて、もう一瞬たりとも離れたくはない。
そう思って力強く抱き着くユーニだったが、タイオンが彼女の身体を抱きしめ返すことは一向になかった。
 
やがて、彼の手がユーニの両肩に添えられぐっと押し返される。
見上げると、困惑したような顔でこちらを見下ろすタイオンの顔が視界に入って来る。
その表情は、幾数年ぶりの相方との再会を喜んでいるようには見えない。
まるで、見知らぬ人の奇行に驚いているような、そんな目だった。


「君は、一体……?」


不思議そうに見下ろしてくるタイオンの言葉を聞いた瞬間、上がり切ったユーニの熱は途端に温度を下げた。
冷静に考えたら当たり前のことだった。
自分でさえつい数分前は何も覚えていなかったのだから、彼も覚えているわけがない。
かつて彼は“記憶力がいい”と自分を評していたが、これは記憶力の問題で解決できるものではない。
別の世界に生きているという分厚い事実が、2人を隔てている。
今にも地上に落ちてきそうな星々が見守る夜のこと。世界の壁を越えて再会したタイオンは、まっさらなままユーニのことを覚えてはいなかった。


***

タイオンが住居を構えているコロニーラムダは、アルストのはずれにある湖のほとりに面していた。
夜になればランプスが光を放ちながら飛び回るその湖は、アルストでも有数の秘境として有名だった。
その湖の奥には、月が良く見える小高い丘がある。
インヴィディア山脈のふもとに位置している関係上、セリオスアネモネという希少な花が咲き乱れており、非常に美しい景観を保っている。
 
夜、月を眺めながらその丘を散歩するのがタイオンの日課でもあり、ちょっとした趣味でもあった。
風にさざめく草花のさらさらという音を聞きながら物思いにふけるこの時間は、タイオンにとって重要な息抜きの瞬間である。

その夜も、タイオンは夜風を浴びながら小高い丘の上を目指して歩いていた。
いつもは夜空に輝いている月が、その夜は出ていない。新月の夜だった。
星々がきらめく夜空から、一人の少女がふわりと草花の上に降り立つ光景を見て、彼は息を詰める。
まるで空からやって来たようなその少女は、夜の闇に映える真っ白な羽根を頭に生やしていた。
夜風に明るい髪と美しい羽根を揺らしながら、彼女は静かに泣いていた。
声をかけると、その少女は髪を靡かせながら勢いよくこちらに振り向く。
蒼く大きな彼女の瞳が、タイオンを捉える。
その瞬間、目を奪われた。

蒼い瞳に明るい髪、そして大きな青い瞳。
彼女を構成するすべてが美しくて、夜空を背景に佇むその光景は実に綺麗だった。
一言でいうなら、一目惚れ。
この世のモノとは思えないその美しい姿に、タイオンは一瞬にして心を掴まれた。

その少女は容姿も中身も不思議な人だった。
初対面のはずなのにいきなりタイオンの名前を叫び、泣きながら抱き着いてくる。
驚いて名前と事情を尋ねると、今度は向こうが驚いたように目を見開き、“覚えてないのか…”と囁いた。
何処かで会ったことがあっただろうか。いや、流石にないだろう。
頭に羽根が生えた人間など、このアルストでは見たことも聞いたこともない。
会ったことがあるのなら、きっと記憶に残っているはずだ。

タイオンは、その夜初めて会った美しい少女にたくさん質問を投げかけた。
名は何というのか、どこから来たのか、ここで何をしているのか、どうして自分の名前を知っているのか、その頭の羽根は何なのか。
だが、彼女は何一つとして明確に答えてはくれなかった。
理由を聞くと、彼女は寂し気に微笑みながら答えた。“約束だから”と。
誰とのどんな約束なのかと問いかけても、やはり答えはしなかった。
ただ、“タイオンに会いたかった”とだけ口にして、嬉しそうに目に涙を溜めて見上げて来るだけ。

訳が分からなかった。
会いたかったと言われる理由も分からないし、彼女が何故自分を知っているのかも不明。
それどころか名前すら教えてくれないなんて。
ただ、悪い気はしなかった。
こんなに可憐な人に熱視線を送られ、“会いたかった”なんて言われたら、当然のように舞い上がってしまう。

その日、タイオンは彼女が現れた丘に並んで腰かけ、ずっと話をしていた。
基本的なプロフィールを何も教えてくれない彼女のことを少しでも知りたくて、会話の端々から情報を得ようとした。
彼女は美しい見た目とは裏腹に、中身は随分と男勝りのようだった。
口は悪いし所作もがさつ。だが、時折見せる笑顔は少女のようにあどけなく、それでいて無垢だった。
初めて会ったはずなのに、何故だか随分昔にも会ったことがあるような、そんな懐かしい感覚に陥る。
これも、一瞬で好きになってしまったせいなのだろうか。

その晩、タイオンは一晩中彼女と語らった。
だが流石の彼も眠気には勝てず、朝が来る直前にいつの間にか眠ってしまっていた。
目が覚めた頃にはとっくに太陽が空に登っており、闇に包まれていたはずの丘はすっかり日の光に照らされ明るくなっている。
すぐ隣に腰掛けていた彼女の姿はなかった。
周囲を見渡し、その姿を探してみるがやはり見当たらない。
どうやらいつの間にか去ってしまったらしい。
名前も住んでいる場所も分からない彼女を探し当てる術はなく、タイオンは肩を落とした。

それから約ひと月の間、タイオンは悶々としながら過ごしていた。
夜眠る前は必ずと言っていいほど彼女の顔が思い浮かび、耳には彼女の声が残っている。
せめて名前くらいは知りたかった。
どこの誰だったのだろう。
もう少し話したかった。
会いたい。今どこで何をしているのだろう。
タイオンの頭の中は、新月の夜に出会った彼女の顔で埋め尽くされていた。

何かの間違いで、またあの丘に来てくれるかもしれない。
そんな期待を込めて、タイオンはあれから毎晩のように例の丘に登った。
だが、夜の闇はタイオンの孤独を増幅させるだけで、一向に彼女の気配を感じることはない。
もう会えないのか。諦めかけていたその時だった。
月が見えなくなる新月の夜。彼女はまた現れた。
丘の上に腰掛け、夜風に美しい羽根を靡かせながら、彼女はタイオンを見つめて微笑みかけている。
夢にまで見た彼女の姿を見つけ、タイオンは思わず速足で近づく。


「よっ、タイオン」
「もう会えないかと思った……」
「あ、もしかして寂しかった?」
「……い、いや、別に」


誤魔化しつつ、タイオンは彼女の隣に腰掛ける。
右隣に腰掛けている彼女の顔を直視できず、視線を外す。
本当は会いたかった。また会って、話がしたかった。
まだ自分は彼女のことを何も知らない。
何度聞いても教えてくれる気配がないから、きっとこれからも分からないままなのだろうが、それでも知りたかった。


「なぁ、そろそろ名前くらい教えてくれてもいいんじゃないか?」
「なんで?」
「なんでって……。普通知り合ったら一番に名乗るだろ」
「かもな。でもアタシは絶対に名乗らない。約束だから」
「だから誰との約束なんだ?」
「それも教えない」


頑なに情報を教えてくれない彼女の態度にタイオンはますますむっとする。
分からないことだらけだ。
このままでは彼女のことを何と呼べばいいのか分からないし、どこに住んでいるのか分からない以上こちらから会いに行くことすら出来ない。
もどかしさに苛立った僕は、隣に座っている好きな人に無駄だと知りながらもまた言葉を投げかけた。


「君は僕のことを知っているのに、僕だけ知らないなんてズルいじゃないか」
「タイオンはアタシの名前知ってるはずなんだよ。でも忘れてるだけ」
「何を言ってる?この前が初対面だろ僕たちは」
「どうかな」


タイオンは自分の記憶力が優れているという自負があった。
そんな自分の頭をいくら引っ掻き回しても、この羽根が生えた少女の記憶はひとかけらも見つからない。
初対面なのは間違いない。だが、彼女が自分の名前を知っているのは事実。
会ってはいないだけで、名前だけは知っている程度の関係性だったのだろうか。
それを自分は忘れているだけで、本来は知っているはずだと?
だが、やはり思い当たる記憶はない。
腕を組んで考え込むタイオンを横目に、彼女はやけに楽しそうに微笑みながら“仕方ねぇな”と口を開いた。


「じゃあ1つだけアタシのこと教えてやる」
「ん?」
「好きな飲み物はハーブティー。特にセリオスティーが好き」
セリオスティー?」


セリオスアネモネが多く植生しているこの丘が近くに位置しているため、タイオンはたびたびこの花を茶葉としてハーブティーを淹れることが多かった。
ハーブにはそれぞれ効能がある。
セリオスティーにはリラックス効果があるため、疲れている時やあまり眠れないときに有効であり、タイオン自身何度もこのセリオスティーを自分で淹れている。
そんなお茶を好物として挙げた彼女に、タイオンは少しだけ喜びを感じていた。
そうか。セリオスティーが好きなのか。
次に会った時用意すれば、喜んでくれるだろうか。


「じゃあ、今度淹れて来る」
「おっ、マジで?」
「その代わり、次はいつ会えるか教えてくれ。それくらいは教えてくれてもいいだろ?」


ほんの少しだけ身を乗り出し、問いかけるタイオンに、彼女は小さく微笑んで頷いた。
セリオスティーを餌にすることで、ようやく彼女の情報を一つだけ得ることが出来た。
曰く、新月の夜だけここに来ることが出来るのだという。
何故新月の夜だけなのかと聞いてみたが、“こっちの世界は満月だから”というよく分からない回答しか得られなかった。
とにかく、次に彼女に会えるのは1か月後の新月の夜。
それだけ知ることが出来れば十分だった。
 
結局、その夜も、タイオンは眠気に負けて夜明けが来る前に丘の上で眠ってしまった。
そして、やはり目を覚ますと彼女の姿はなくなっている。
相変わらず風のように去っていく彼女に落胆しながらも、次にいつ会えるかわからなかった前回よりかは落ち込まずに済んだ。

月が現れ、満月を経てまた欠けていく。
月の影が一周した1か月後。新月の夜にタイオンは約束通りセリオスティーを淹れた。
保温が利く水筒に入れて、意気揚々とあの丘へ急ぐ。
今夜は彼女が来ると事前に分かっていたため、仮眠をとっておいた。
これで眠気に負けることはない。朝が来るまでゆっくり話していられるだろう。
丘に到着すると星空を見上げている彼女の姿があった。
草花の上に腰掛けている彼女の背を見つけ、タイオンはゴクリと生唾を飲む。
そして、緊張した面持ちで彼女の隣に腰掛けた。


「久しぶり」
「うん。久しぶり」
「その、元気だったか?」
「まぁまぁだな。そっちは?」
「まぁまぁだ。ほら、約束のセリオスティーだ」
「おぉっ、やった」


手に持った水筒の蓋を開け、コップに注ぐ。
保温性のいい水筒に入れていたおかげで、まだ中身は温かい。
湯気が僅かに沸き立っているセリオスティーのコップを手渡すと、彼女は両手で受け取りながら大事そうに飲み始めた。
その仕草が、男勝りな彼女の態度とは対照的でやけに可愛らしい。
コップから口を離すと、彼女はほっと一息ついたように息を漏らし、柔らかく微笑んだ。


「やっぱり美味いわ」
「気に入っていただけたようで何より」


温かいセリオスティーを片手に、2人は夜空を見上げながら会話に花を咲かせた。
名前も知らない。どこから来たのかもわからない人が相手だというのに、一緒にいて楽しいと思えるのが不思議だった。
相変わらず彼女は肝心なことは何も話してはくれなかったが、それでも彼女との時間は充実している。
心が浮ついて、もっと一緒にいたいと思ってしまう。
やがて水筒の中身が空になった頃合いで、東の空がゆっくりと白み始めた。
そろそろ夜明けがやって来る。
明るくなり始めた遠くの空を見つめながら、彼女は呟く。


「そろそろ帰る時間だな……」
「もう行くのか」
「朝まではいられないんだ」
「次はいつ会えるんだ?」
「また新月の夜に」
新月……」


彼女が提示した次回の予告は、また1カ月の新月だった。
また、会えない日が続くのか。しかも1カ月も。
まだ話し足りない。もっと一緒にいたい。
遠くの空を見つめている彼女の横顔に視線を送りながら、タイオンは寂しさに身悶えしていた。


「……まだ帰らなくていいんじゃないか?」
「え?」
「朝までいればいいじゃないか。朝食、ご馳走するから」
「それは無理だな。ここには夜までしかいられない」
「じゃあ、せめて新月の夜だけじゃなく、他の日も来ればいい。1カ月に1回きりしか会えないなんて、そんなの……」


こんなことを口にするなんて、ガラじゃないことは分かっていた。
けれど、言わずにはいられない。
引き留めずにはいられない。
新月だけしか姿を現さないのは彼女の気まぐれなのか。
もしそうなら、もっと顔を見せてほしい。
気が向かないなら、また来たくなるようにセリオスティーだけでなく茶菓子でも用意しておくから。
だから、もっとたくさん会いたい。
そんな幼い我儘を言ってしまいたくなるほど、タイオンは彼女に想いを寄せていた。
縋るようなタイオンの要望に、彼女は薄く微笑みながら問いかけて来る。


「なに?寂しいわけ?」
「っ、そ、そうだ!悪いか!? もっと会いたいんだ!なのに君は朝になったらさっさと帰ってしまうし月に一度しか会いに来てくれないし、名前も住んでる場所も教えてくれない。こんなのあんまりだろ」


もはや誤魔化すだけの余裕はなかった。
この気持ちが露見しても構わない。
それよりも彼女を引き留める方が最優先だった。
こんなの滑稽だ。名前も知らない人に恋い焦がれるなんて。
だが彼女は、赤い顔で取り乱すタイオンを一瞥すると寂しそうに微笑み“悪い”と言葉を漏らした。


「アタシも会いたい。タイオンと一緒にいたい」
「じゃあ……」
「でも無理なんだ。朝が来たら、アタシは強制的にこの世界から弾かれる。アタシの世界に満月が上る夜にしか、この世界への扉は開かない」
「この世界?何の話をしているんださっきから」


ミステリアスな彼女の言葉に、タイオンの心は搔き乱される。
彼女はこんな状況で冗談を言うようなタイプではない。
眉間にしわを寄せながら深堀しようとすると、彼女はまた切なげな笑顔を浮かべて言い放った。


「アタシはこの世界の人間じゃない。ここから遠く離れた世界に生きてるんだ」


まるでおとぎ話のような話だった。
目の前に現れた可憐な少女は、遠く離れた異世界からやってきた天使の様な存在だった。
新月の夜にしか存在できない彼女は、この心を惑わして風のように去っていく。
にわかには信じられそうにない。
だが、遠くの空から太陽が昇り始めたと同時に、目の前の彼女の身体が薄く透過していく光景が広がり、タイオンは息を呑んだ。


「ほらな。朝までいられないんだよ、アタシは」


薄くなり始めた自らの両手に視線に落としながら寂し気に微笑む。
彼女はいつも朝になったらその足で帰っていたのではなく、強制的にこの世界から弾き出されることでタイオンの前から去っていたのだ。
本当なのか。本当に異世界の人間なのか。そんなことがあり得るのか。
だが、目の前で一人の人間が今にも消えそうになっている光景が、彼女の言葉に説得力を持たせている。
戸惑うタイオンをじっと見つめながら、彼女は目を細めた。


「寂しいな、タイオン」


彼女の蒼く大きな瞳が揺れる。
この心に渦巻く淡い好意が、タイオンの背中を蹴り上げた。
今にも消えそうになっている彼女の頬に手を添えると、まだわずかに感触があった。
そして、吸い込まれるようにその唇に口付ける。
触れているのかいないのか、よくわからない曖昧な感触だった。
これをキスと呼称して良いものか。その答えが出るよりも前に、彼女の存在は消えてゆく。
触れているはずの感触は次第に薄くなっていき、目を開ける頃には彼女の姿は完全に消え失せていた。
陽は昇り、朝が夜を押しのけてやって来る。
夜空を照らす朝日を睨みながら、タイオンは拳を強く握りしめるのだった。


***

ユーニが口にした“この世界”という単語に、タイオンはひどく困惑していた。
彼は現実主義だ。おとぎ話のような曖昧で不思議な話は信じない。
だが、朝が来ると同時に薄くなっていく彼女の影を目にしたのは紛れもない事実。
口付けた感触がゆっくりと消えていったのも、紛れもない現実である。
恋い焦がれた相手が、自分の生きている世界の住人ではなかった。
遠いどこか、別の世界に生きる存在だった。
にわかには信じがたい話ではあったが、他の誰でもないあの彼女がそう言ったのだから、信じざるを得ない。

だが、彼女と自分の存在の遠さを実感した後も、この心に生まれた淡い恋心が消え去ることはなかった。
むしろ、強くなる一方だ。
彼女の存在が遠くなれば遠くなるほど、恋しくなる。会いたくなる。
胸をつくこの感情をどこにぶつければいいのか分からなかったタイオンは、ただただ新月を待った。
 
彼女曰く、この世界で月が見えなくなる夜は“向こうの世界”では満月が出ているらしい。
満月の夜にしか、彼女は会いに来てくれない。
毎夜毎夜夜空を見上げ、星を見つめながら月が完全に消えるのを待つ。
輝く星々を独りで眺めていると、寂しさが加速していくのは気のせいだろうか。
 
別の世界に生きていると言った彼女は、最初に会った夜、空からゆっくりと降り立った。
まるで夜空に浮かぶ星々から落ちてきたかのように。
もしかしたら彼女は、ここから見えているどこかの星に住んでいて、自分に会いに来るためだけに何光年も離れた空を駆けているのかもしれない。
もしそうなら、君がいる星は一体どこにあるのだろう。どれくらい離れているのだろう。この足で会いに行くことは可能なのだろうか。
手を伸ばしても届かない星々を見上げ、タイオンは瞳を揺らしていた。

やがて新月の夜がやって来た。
仮眠を取り、セリオスティーが入った水筒を用意し、彼は家を出る。
ランプスが光を灯す美しい丘を登り、星々がきらめくあの場所へ向かった。
しかし、いつもは先に来ているはずの彼女の姿はなく、そこには誰もいない。
まだ来ていないだけなのかもしれない。そう思って丘の上に腰掛け暫く待っていたタイオンだったが、彼女はいつまでたってもやって来なかった。

夜空に浮かぶ星が、時間が経つごとにゆっくりと流れていく。
丘に寝転がり、散らばる星を見上げながらタイオンは何時間も待っていた。
一向に彼女はやって来ない。刻一刻と過ぎていく時間の上に横たわりながら、彼の心は不安で満たされていく。
 
何故来ないんだ?今夜は新月の夜なのに。
何かあったのか?来れない事情でもあるのか?用事でもできたのか?
それとも、もう自分に会いたくなくなってしまったのだろうか。
名前や故郷のことを何度も聞いてしまったし、しつこいと思われたのだろうか。
前回会った時、別れ際に引き留めてしまったのがまずかったかもしれない。
いやもしかしたら、消えゆく彼女にキスをしたのが間違いだったのかも。
目を開けて反応を伺う前に彼女は消えてしまったし、本当は不快に思われていた可能性もある。
嫌われたのか。もう会いに来てくれないのか。まだ気持ちを伝えていないのに。

結局、その夜彼女が姿を見せることはなく、虚しく新月の夜は空けてしまった。
会えなかった事実はタイオンの心を傷つけ、苦しませる。
また次も来てくれなかったらどうしよう。
本格的に嫌われたという線が濃厚になる。
会って話したい。顔が見たい。だが、どうしようもなかった。

次の新月がやってくるまでの1カ月間はまるで地獄のようだった。
いつも彼女のことが頭から離れなくて、思い浮かべるたびに切なくなる。
もう20歳を迎えようとしているにも関わらず、まるで初恋に疾患したようだった。
月がゆっくりと現れ、満月を経てやがてどんどん欠けていく。
ようやく訪れた新月の夜を、タイオンはようやく不安なまま迎えた。

仮眠を取り、セリオスティーを用意してあの丘に向かう。
不安と期待が入り混じる胸を抱えながら、ゆっくりと夜の丘を登る。
夜風が頬を撫でて、足元の雑草やセリオスアネモネの花を揺らしていた。
 
満天の星空が広がる空の元、彼女はいた。
あの白い羽根と明るい髪を揺らし、夜の空を見上げながら彼女は立っている。
思わず足が止まる。手に持った水筒が、するりと地面に落ちてしまった。
水筒が草花の上に落ちる音が響き、その音に反応した彼女が肩を揺らしながら振り向く。
蒼く大きな瞳がこちらを見つめた瞬間、タイオンは衝動的に走り出してしまった。
そして、存在自体が曖昧な彼女の身体を束縛するように、その華奢な身体を抱きしめる。


「タイオ……っ」


突然抱きしめられたことに驚き、彼女は息を詰める。
もう放したくはなかった。
その体を胸に閉じ込めた瞬間、どこか懐かしい香りがふわりと鼻腔に広がった。
会えた。ようやく会えた。会いに来てくれた。
その事実が嬉しくて、タイオンは今にも泣きだしてしまいそうだった。


「もう、会いに来てくれないのかと……」
「んなわけないじゃん」
「でもこの前は……」
「あの日、雨が降ったんだ。だから満月が水面に映らなくてさ」


相変わらず彼女の言っていることは意味がよく理解できなかった。
けれど、もうどうでもいい。
きっと彼女なりに会いに行きたくても行けない事情があったのだろう。
自分に会いたくないわけじゃなかった。
それだけ分かれば十分だった。

彼女の顔を覗き込めば、揺れる大きな蒼と視線が交わる。
可愛くて綺麗で美しい彼女の目を見つめながら、タイオンはそっと顔を近付ける。
やがて彼女は、接近してくるタイオンを受け入れるように目を閉じた。
触れる唇の感触は確かにそこにあって、彼女の体温が柔らかな感触を通じて伝わって来た。
違う世界に生きていると彼女は言っていたけれど、それでも今の彼女はここにいる。
目の前で、この口付けを受け入れてくれている。
それだけで幸福に思えた。
唇を離すと、彼女の瞳から一筋の雫がこぼれ落ちる。
その涙を見て分かった。彼女もまた、自分に会いたがってくれていたのだと。


「君が好きだ」


そう伝えると、彼女は一瞬驚いたように目を見開いた後、目を細めて小さく笑った。


「アタシの名前も知らないのに?」
「名前なんてどうでもいい。……とは言い難いが、それでもいい。とにかく好きなんだ」


自分でも馬鹿気ていると思う。
名前も知らない、出自もよく分からない、どこに住んでいるのかもはっきりしない人が好きだなんて。
でも、この気持ちは本物だ。
名前なんて知らなくても、会えるならそれでいいと思えた。
そんなタイオンの心に触れた彼女は、再び彼の胸板に頬を寄せ、深い声で囁く。


「アタシも、タイオンが好き」


彼女のことは、未だ謎に包まれている。
けれど、彼女の気持ちだけは手に取るようにわかった。
同じ気持ちを抱いている。その事実だけで十分だ。
タイオンは、なるべく二人の身体の間に隙間が空かないよう、再びきつく彼女の身体を抱きしめた。

その後、2人は丘に寝そべりながら空に広がる星々を眺めていた。
“あれがフェリス座、あれがアンセル座、あれがヴォルフ座”
と一つ一つ指差し星座の名前を口にしてくタイオン。
彼女は彼の広げられた腕を枕にしながら、同じように空を見上げ指さす先を見つめていた。


「星座、やっぱりアタシの世界と位置関係がちょっと違うんだな」
「そうなのか。あっ、そうだ」


星を見上げていたタイオンが、突然上半身を起こした。
突然腕枕から解放され、隣に寝ていた彼女も反射的に起き上がる。
彼が懐から取り出したのは、一枚の紙と万年筆だった。
その紙を広げ、今度はうつぶせに寝転がると彼女に万年筆を手渡した。


「覚えてる限りでいいから、君の世界から見える星の位置を描いてみてくれないか?」
「えっ、いいけど……。なんで?」
「星の位置関係から、君の世界が僕の世界とどれくらい離れているか予測出来るかもしれない」
「そんなこと分かるのかよ。すげぇな」
「当然だ。僕を誰だと思っている」


得意げに言い放たれたタイオンの台詞に、彼女はクスッと笑みを零した。
そして、渡された万年筆を手に、彼女は記憶にある限り星々の位置関係を描いていく。
そのどれもが見覚えのない星で、彼女が描く星の数が増えれば増えるほど、タイオンの心は暗くなる。
余りにも見覚えのないその星々は、彼女の世界がこの世界からはるか遠く離れている事実を教えてくれていた。
自分の世界と彼女の世界は、すれ違う可能性すらないほど離れているのか。
判明した事実に、タイオンは視線を落とす。


「遠いな、君の世界は」
「まぁな。遠いけど、結構と似てると思う」
「そうなのか?」
「うん」


星を描き終わった彼女は、紙をタイオンに手渡した。
その位置関係は明らかに自分の世界の星々とは異なっている。
今夜空に見えている星々のどれかが彼女の世界なのかと思っていたが、どうやらそんな希望も打ち砕かれるほど彼女の世界は遠いところにあるらしい。
そもそも物理的に手が届くところにあるのかすら怪しい。
何光年も先とはいえ、そこに“存在している”のならまだいい。
だが、例えば次元や時代が違うような、手を伸ばしても物理的に届かないような世界ならどうしようもない。
もしそうだとしたら、自分と彼女は一生関係を結べないまま終わってしまうのではないか。
そんな不安がタイオンの胸を支配する。
そして、その不安を何とか払拭したくなったタイオンは、隣で同じようにうつ伏せで寝転がっている彼女の手を握った。


「なぁ」
「ん?」
「前に言っていたな。僕は君の名前を忘れているだけだと」
「あぁ、言ったな」
「じゃあもし、もしもいつか君の名前を思い出して、呼び当てることが出来たら……」


そこまで口にして、タイオンは言葉を飲み込んだ。
流石に馬鹿らしく思えてしまったのだ。
“呼び当てることが出来たら、僕と結婚してほしい”なんて。
そもそも彼女の世界に“結婚”という概念があるのかどうかも分からないのに、こんな要望を押し付けても困らせてしまうかもしれない。
臆病で慎重なタイオンは、喉元まで出かかった言葉を何とか飲み込み、口を閉じる。
だが彼女は、そんなタイオンの様子を不審に思って首を傾げた。


「呼び当てることが出来たら、なに?」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「えー、気になるじゃん。言えって」
「……いや、やめておこう。言ったところで誰も得しない」
「そうやって隠されると余計にモヤッとするんだよ。教えろって」
「……あぁもう。じゃあ僕が君の名前を呼び当てられた時に言ってやる。それでいいか?」
「しゃーねぇな。今はそれで手を打っておいてやるよ」


楽し気に笑い、彼女はタイオンの身体に体重を預けてきた。
そんな彼女の肩を抱き寄せ、こめかみに口付ける。
彼女の羽根が首筋に当たってなんだかくすぐったい。
この感触も彼女の匂いもその声も、どこか懐かしい気がする。
けれど、一向に思い出せなかった。
もしも本当に彼女の名前が分かったら、その時は遠慮なんてせずに言ってやる。
結婚してほしい。妻になって欲しい。ずっと一緒にいてほしいと。

やがて、幸福な時間は終わりを告げる。
遠くの空が白み始め、朝の到来を予告する。
少しだけ眠くなった目をこすりながら空を見上げるタイオンは、丘の上に腰掛けながら彼女の身体を後ろから抱きしめていた。
もう、離れなくてはいけない。
また会えない1カ月間が始まる。
彼女曰く、向こうの世界で雨が降れば会いに来れなくなるのだという。
もしまた雨が降ったら、また更に1カ月間会える日が延びてしまう。
タイオンと名前も知らない彼女を繋ぐ糸は、今にも切れそうなくらい細い繋がりだった。


「もう朝か。早いな」
「あぁ」
「寂しい?」
「……あぁ」
「また会いに来るから」
「……うん」


後ろから彼女の白い頬を撫でる。
すると、彼女はゆっくりとこちらを振り向き、青く美しい瞳をタイオンに向けた。
今夜は幸せな夜だった。
何度も彼女を抱きしめて、キスをして、気持ちを伝えあった。
最後の口付けを落とすと、彼女はふっと笑って呟く。


「じゃあな、タイオン」


不意に、丘の上に突風が吹く。
風や花びらを舞い上げた風に顔を逸らすと、いつの間にか彼女の姿は見えなくなっていた。
舞い上がる風に乗って、彼女の白い羽根がゆらゆらと散っている。
手を伸ばしてその羽根を掴み取ると、抜け落ちたばかりの羽根からはまだほのかに彼女の温もりが残っていた。
また彼女は行ってしまった。
どこか遠くにある、彼女の世界に。


***

繰り返される朝と夜の間で、タイオンは彼女への思いを募らせていった。
会いたい気持ちは夜明けとともに加速して、月よ早く消えてしまえと願ってしまう。
そんなことを考えて過ごす日々はひどく辛くて、タイオンから気力を奪っていく。
 
ある夜、彼はいつものように丘の上を散歩していた。
ふと上を見上げると、そこには大きなまん丸い月が鎮座している。
浮かぶ満月を見上げながら、タイオンは彼女の顔を思い浮かべていた。

そう言えば、彼女はこの世界が新月の日は向こうの世界では満月が出ていると言っていた。
つまり、こっちの世界で満月が出ているということは向こうの世界では新月になっているということだろうか。
もしかしたら、向こうも今の自分と同じように月のない夜空を見上げているかもしれない。
空を見上げ続ければ、何光年も先の世界にいる彼女と目が合うような気がしたけれど、一向に彼女の気配は感じられなかった。
ふと、懐からこの半月間大事に持ち歩いていたものを取り出す。
それは、前回の新月の夜、別れ際彼女が風に舞い上げた白い羽根だった。

この羽根は、手元に残った唯一の彼女の欠片だ。
朝がきて、月が空に登っても、この羽根だけは手元に残ってくれる。
それはきっと、この羽根が彼女の身体から抜け落ちたものだからかもしれない。
彼女の温もりが宿るこの羽根を胸に、タイオンはずっと彼女を思い出していた。
名前も知らない、この世で最も愛しい人のことを。

会いたい。彼女に会いたい。
半月後の新月なんて待てそうにない。
今すぐに会って、彼女を抱きしめたい。

そう願った直後のことだった。
星々に見下ろされた丘に突風が吹き荒れる。
その突風に怯んだ瞬間、手に持っていた羽根がふわりと飛ばされてしまった。
まずい。急いで飛ばされた羽根を追うと、風に飛ばされた軽い羽根は丘の近くに面している小さな湖の水面へと降り立った。
光を灯すランプスが舞っているその湖に降り立った羽根は、波紋を広げながらゆっくり流れていく。
あの羽根はタイオンにとって宝のようなもの。手放すわけにはいかなかった。
 
水面に映る満月に重なるように浮き進んでいった羽根を見下ろす。
すると、波紋を広げる湖に羽根が沈んだと同時に、水面に妙な光景が映っていることに気が付いた。
見慣れない森林が映っている。先ほどまで満月と星空を映し出していたはずなのに、何故地上の見慣れない光景が映っているのだろう。
不思議に思って手を伸ばしたその瞬間だった。
タイオンの身体がまるで吸い込まれるかのように湖の中に引き込まれてしまう。

ドボンと派手な音を立て、タイオンの身体は水に沈む。
ぶくぶくと沈みゆく中で、妙な浮遊感を感じて目を開ける。
すると、目の前に迫りくる数えきれないほどの水泡が、タイオンの視界に飛び込んできた。
そこに映り込んでいたのは、遠い過去に忘れ去られたはずの記憶。
何度も命を繰り返し、生きるために命を奪い続けていたアイオニオンの記憶。
そして、どうあっても思い出せなかった彼女の記憶。
やがて草花の上にふわりと降り立ったころには、感情の波に押しつぶされそうになっていた。

そうか。そうだったのか。
どうして僕は、こんなに大切なことを忘れてしまっていたのか。
絶対に忘れないと約束したのに。
涙が溢れそうになる。
頭を抱えたその瞬間、視界の端に人影が見えた。
森林の向こう。木々の合間に背中を向けて立っているのは、見慣れた後ろ姿。
白い翼を携え、夜風に明るい髪をなびかせる彼女の正体を、タイオンはよく知っていた。
あれは、彼にとってこの世で唯一のパートナー。
一番大切で、一番愛しい存在。彼女の名前は——。


「ユーニっ!」


幾数年ぶりにその名前を呼んだ瞬間、彼女は肩を震わせ、目を丸くしながら振り返った。


***

“忘れるはずがない”
その言葉を完全に信じていたわけじゃなかった。
けれど、心のどこかでうっすら期待していたのは間違いない。
だからこそ、タイオンの不思議そうな表情を見たとき、ユーニは傷付いてしまった。
分かっていた。自分だって忘れていたのだ。相手だけ覚えている保証などどこにもない。
気落ちしながらも、ユーニは記憶の中にあるタイオンとの約束を守り、彼に何度問いかけられても名前を教えることはなかった。

タイオンの世界に飛べるのは、決まって満月の夜だけ。
月に一度しか会えない日々は気持ちを高ぶらせる。
会えば切なくなるくせに、会いたくてたまらない。
この気持ちを新しい世界での価値観に当てはめると、きっと“恋”という言葉がぴったり合うのだろう。
かつて相方として命を預け合っていた彼に恋心を抱くなんて、あの頃は思いもよらなかった。
いや、もしかしたら気付いていなかっただけで、あの頃からずっと好きだったのかもしれない。

雨の夜をはさみ、久しぶりに会ったタイオンから“好きだ”と告げられた時、心が躍った。
嬉しい。気持ちが通じるとういうのは、こんなにも心躍るものなのか。
けれど、タイオンは一向に過去の記憶もユーニの名前も思い出す気配がなかった。
名前も知らない自分に好意を抱いてくれているタイオンに、じわじわと罪悪感に似た感情が生まれて来る。
タイオンは自分のことが好きだと言った。
けれど、記憶が全て戻ったらその感情も無くなってしまうかもしれない。
何も思い出せないタイオンの心につけ入っているような気がして、心が痛かった。

それでも、タイオンに会いたい。
彼のことが好きな気持ちは日に日に加速して、もはや止まりそうになかった。
月に一度の逢瀬はあまりにも短く、そして間隔が長すぎる。
早く満月になれ。早くその日が来てほしい。そう願い続けて星空を見上げる日々は、切なさを積み上げていく。
せめて、もう少しだけ会える日が増えればいいのに。
1週間に一度。いや、半月に一度でもいい。頻度が少しでも増えればもっと心に余裕が出来るのに。

今夜もまた、ユーニは星空を見上げる。
今夜は月が隠れる夜。新月だ。
タイオンに会いに行ける満月の夜、あちらの世界では新月になっている。
ということは、こちらの世界で新月となっている今夜は、向こうの世界では満月が出ているはずだ。
今夜はタイオンもこの星空を見上げているのだろうか。
きらめく星々の向こう側にじっと目を向けると、何光年も離れた先でタイオンと目が合うような気がした。
そんなことを考えながら星を見上げていたその時だった。


「ユーニっ」


不意に背後から名前を呼ばれる。
驚いて振り向くと、そこにはタイオンの姿があった。
何故ここに?今名前を呼んだのはタイオンなのか?
様々な疑問が一瞬で頭をよぎり、思考が停止する。
目を見開き呆然と立ち尽くしていると、再びタイオンは嚙みしめるように囁いた。


「ユーニ」


眼鏡の向こう側に見えるその瞳が揺れている。
真っすぐこちらを見つめているその顔は、あの頃のタイオンそのものだった。
彼の声で名前を呼ばれたのは、一体何年ぶりだろう。
心の奥から、喜びの波が湧き上がっていく。
ずっとずっと会いたかった本当のタイオンが、そこにいる。
感情の波に背中を蹴られるまま、ユーニは勢いよく走り出す。

駆け寄って来たユーニに両手を広げたタイオン。
そんな彼の胸に飛び込んだ瞬間、タイオンから香る懐かしいハーブの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
互いの背中に腕を回し、きつく抱きしめ合う2人。
タイオンの胸に頬を押し付けながら、ユーニはその大きな青い瞳から涙を流していた。


「タイオン……。やっと会えた」
「ごめん、遅くなって。ずっと会いたかった……」
「アタシも……。もう一回、名前呼んで?」


胸板に顔を埋めていたユーニが、タイオンの顔を覗き込む。
彼女の白い頬に手を添えた彼は、あの優し気な瞳を細めて微笑んだ。


「ユーニ」


名前を呼ばれるだけで、心が躍る。
微笑みかけられただけで、嬉しくなる。
触れられただけで、心臓が高鳴る。
恋い焦がれたタイオンを前に、ユーニは踵を上げて背伸びをする。
そしてタイオンもまた、僅かにかがんで彼女に顔を近付ける。
柔らかな唇が触れ合って、月夜に照らされた二人の影が重なった。
静かな夜の森林に、互いの心臓の音だけが聞こえている。
星々がきらめく空の下、満月に見下ろされながら、タイオンとユーニは本当の意味で再会を果たすことが出来た。


***

「巨神界か。不思議な世界だな」


高所に位置している丘に登り、2人は眼下に広がる自然を見つめていた。
大きな湖の向こうに、エーテル灯が作り出すいくつもの人工的な光が見える。
あそこに展開しているコロニーは、ユーニが生まれ育った場所だった。
高所から見える巨神界の世界は、タイオンにとっては物珍しい光景である。


「お前の世界……。アルストだっけ?あっちの世界とそんなに変わらないと思うけどな」
「確かに、思ったよりは違いが少ないな。アイオニオンにもよく似ている」
「満月の夜ならどっちの世界からでも行き来できるって分かったことだし、今度お互いの世界を案内し合おうぜ」
「いいかもしれないな。僕も君の生まれ育った世界を知りたい」


夜風に髪を揺らしながら、タイオンは微笑んでくれる。
その笑顔はアイオニオンにいたあの頃と何も変わらない。
タイオンの笑顔に微笑みを返しながら、ユーニは隣に立っている彼との距離を詰めた。


「そういえばさぁ、あの約束は?」
「約束?」
「この前なんか言い淀んでただろ?何を言おうといたのか、アタシの名前を思い出せたらちゃんと教えてくれるって言ってたよな?」
「そ、それは……」


先日、タイオンは何かを言いかけて言葉を飲み込んでいた。
あの時の彼の顔は妙に切迫していたし、きっとそれなりに覚悟がいる言葉を贈ろうとしていたのだろう。
あんな顔をされたら、当然気になってしまう。
名前を呼び当てることが出来たらちゃんと教えてくれるという約束を掘り返しながら、ユーニはタイオンの顔を覗き込んだ。
言及された彼は、何故か顔を赤く染め上げながら視線を逸らしている。
何故そんなに恥ずかしそうな顔をしているのだろう。


「で、なに言おうとしてたわけ?」
「いや、その……。教えるのはまた今度にしないか?」
「はぁ?ダメだって。約束だろ?言えよ、タイオン」
「か、勘弁してくれ!せめてもう少し落ち着いてから……」
「いいから教えろって。なに?何言おうとしたんだよ?」
「うっ……」


相変わらず真っ赤な顔で後ずさりするタイオンを、ユーニは容赦なく追い詰める。
結局その夜は朝が来るまで“教えろ”、“嫌だ”の攻防が終わらぬまま幕を閉じた。
しかし、何度か逢瀬を重ねた末、ようやく彼は観念したように真っ赤な顔で真意を伝えてくれた。
戸惑うユーニだったが、彼女がタイオンの言葉を拒絶するわけもなく、満面の笑みで頷くことになる。
 
月に一度きりだった逢瀬は二度に増えたものの、それでも互いの心が満たされることはない。
朝が来てもずっと一緒にいたい。そんな願いを胸に抱き続けたタイオンは、アルストでとある研究を始めた。
かつて一つの世界だったアルストと巨神界を結ぶ巨大な装置を再建するとう志のもと始まったその計画の名は、“プロジェクト・オリジン”。
このプロジェクトが完遂されるのは果たしていつになるのか、誰にも分らない。
だが、タイオンとユーニだけは信じていた。
いつかこの世界が再会を果たし、夜を越え朝がきてもずっと二人一緒にいられるその日が来ることを。