Mizudori’s home

二次創作まとめ

【#51-60】ようこそウロボロスハウスへ

【ノアミオ/タイユニ/ランセナ】

ゼノブレイド3

■現パロ

■長編

 

Act.51


その日、タイオンは襲い来る激しい頭痛と共に目を覚ました。
昨晩参加したバイト仲間との飲み会で飲み過ぎてしまったらしい。
二次会の店に到着したところまでは覚えているが、それ以降の記憶は一切ない。
朝起きたらウロボロスハウスのリビングのソファで泥のように眠っており、不安定な体勢で横になっていたせいか頭だけじゃなく腰や肩も痛めていた。
記憶はないが、なんとか家には帰って来れたらしい。
知らない場所で目覚める羽目にならなくてよかったと安堵した半面、記憶をなくすまで飲んだのは初めてだったため同時に自責の念に苛まれた。

我ながらだらしない。
幸いにも起床したのは午前5時半とかなり早い時間だったおかげで、ルームメイトたちにこの二日酔いでボロボロになった姿を見られることはなかった。
寝ぐせもひどいし目も半開き。
私服のまま眠ってしまったせいで服は見苦しいほど皺だらけだ。
こんな姿、他の誰かならともかくユーニにだけは見られたくはない。

二日酔いでズキスギする頭を抱えながら、タイオンはシャワーを浴びることにした。
熱いシャワーを頭からかぶっていると、微睡んだ意識が徐々にハッキリしてくる。
身体を拭きながら脱衣所に移動し、着替えてリビングに出ると、卵が焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
キッチンを覗き込むと、そこには目玉焼きを作っているユーニの姿が。
時刻は6時半。彼女にしては随分と早い起床である。
良かった。間一髪だった。もう少し起床が遅れていたら、寝起きの酷い有様をユーニに見られるところだった。


「ユーニ、おはよう」


背後から声をかけると、彼女の肩が大袈裟なほどビクリと跳ね上がった。
勢いよく振り返った彼女は、目を見開きながら驚いた様子でこちらを見つめている。
そんなに驚かせてしまっただろうか。
不思議に思っていると、ユーニは視線を泳がせながら“お、おはよう”と返してきた。


「随分早起きだな」
「あー、うん。なんか寝れなくて」
「そうか。体調でも悪いのか?」
「いや、そういうわけじゃねぇけど……」


言葉を濁しつつ、ユーニは何故か頑なにこちらを見ようとはしなかった。
不自然なほど視線を逸らしている彼女の様子が気になり首を傾げるタイオン。
そんな彼を横目に、ユーニはフライパンで焼いていた目玉焼きをじっと見つめながら恐る恐る口を開いた。


「あのさ、昨日のことなんだけど……」
「ん?昨日?」


ユーニは何か言いたげだったが、その先の言葉を口にすることはなかった。
“昨日”というワードを用いてもタイオンが何も反応を示さなかったことで、ユーニは察してしまう。
あぁ、覚えていないのか、と。

それを思い知った瞬間、彼女は頭をふるふると横に振りながら“いやなんでもない”と呟くと、フライパンの上で焼いていた目玉焼きを皿の上に移し、冷蔵庫からケチャップを取り出した。
右手に目玉焼きの皿と箸、そして左手にケチャップを持った彼女は足早にリビングを後にしようと歩き出す。
何故か急いで去って行こうとするユーニに、タイオンは背後から咄嗟に声をかけた。


「どこ行くんだ?」
「上」
「食卓で食べないのか?」
「う、うん。自分の部屋で食うわ」
「そうか」


タイオンが引き留める間もなく、ユーニはさっさとリビングを出て階段を登って行った。
何となくユーニの様子がおかしい気がする。
妙に挙動不審というか、少し落ち込んでいるように見える。
何かあったのだろうか。

もしかすると、自分が飲みに行っている間にこのウロボロスハウス内で何かあったのかも。
悲しい事でもあったのだろうか。例えば誰かと喧嘩したとか。
好きな人のわずかな変化にタイオンは敏感になっていた。

もし悩みがあるなら力になってやりたい。頼って欲しい。
ほんの少し心配になりながら、タイオンはユーニのことばかり考えていた。
だが彼は、ユーニの挙動不審の原因が自分にあることなど全くもって知らずにいた。

階段を駆け上がり自室に飛び込んだユーニは、扉が閉まったと同時に深いため息をついていた。
目玉焼きとケチャップを両手に持ちながら、扉に背を預け力なくその場に座り込む。
窓のカーテンは閉まっており朝日を遮断しているため、室内はまだほんの少しだけ暗い。
部屋の奥に置かれたダブルベッドでは、セナが幸せそうに寝息を立てていた。

異様なほど入眠が早いセナの隣で、ユーニは昨晩一睡もできなかった。
原因はただ一つ。タイオンである。
昨晩、水分補給のためリビングに降りたユーニは飲み会から帰宅したばかりのタイオンに会った。
ソファに横になりながら眠ろうとしていた彼を起こすため声をかけたのだが、訳の分からないことを言いながら腕を引かれた。
不意のキスに、心が跳ね上がる。
なんで、どうしてと問い詰める前に、タイオンはふにゃふにゃ寝言のようなことを言いながら再びソファに横になり、夢の世界に堕ちてしまった。

意味が分からなかった。
タイオンがこんなにも泥酔している理由も、腕を掴みながら舌ったらずな口調で言われた内容も、突然キスをされた背景も、何もかも分からない。

タイオンをソファから起こす気力を失ったユーニは、呆然自失のまま部屋へと戻った。
布団をかぶりながら天井を一点に見つめる彼女だが、一向に眠気がおそってこない。
王子が口付けると姫は眠りから覚めるのがおとぎ話の定石だが、起きている状態で王子に口付けられると目がバキバキになるらしい。
瞳をかっ開いたまま天井を見つめるユーニは、そのままの状態で朝を迎えてしまった。

寝不足状態でベッドから抜け出したユーニだったが、最悪なことにタイオンは昨晩のことを一切覚えてはいないらしい。
あんなに人の心を搔き乱しておいて自分はすっきり忘れているなんて酷くないか?
理不尽だろ、こっちは一晩中アホみたいに心臓バクバクさせて一睡も眠れなかったというのに、アイツだけソファで何も知らずスヤスヤなんて。
ふざけんなクソが。忘れてんじゃねぇよ。


「何なんだよアイツマジで死ねよもう」


怒りに任せ、ユーニは手に持っていたケチャップを目玉焼きの皿に向けて渾身の力で握りつぶす。
良く焼けた目玉焼きの白身が、どんどん真っ赤に染まっていく。
なにも覚えていないタイオンに怒りを感じながらも、ユーニの心臓は未だ治まることなく高鳴り続けるのだった。


***

夏休みが明けた今、ウロボロスハウスの面々はいつも通りの大学生活を送り始めていた。
4年生のミオはほとんど単位を取り終えているらしく週に1度程度しか大学に顔を見せていないが、その分内定をもらった企業からの入社前研修などでそれなりに忙しくしている。
他の面々は全員3年生であるため、まだまだ大学に行く機会も多い。

バイト仲間たちと飲みに行った2日後の月曜日。
タイオンは授業に出るためキャンパスへと向かった。
今日は3限と4限の授業に出席する予定で、4限の授業は全学部の3年生にとっての必修科目である。
授業が開かれる大教室へと一人向かっていたタイオンだったが、廊下で立ち話している男女のグループが不意に視界に入って来た。
そのうちの一人は見覚えがあった。ユーニである。
3人の見知らぬ男相手に、笑顔で立ち話している。

その光景を横目に見ながら、タイオンは平静を装いつつ真横を素通りした。
すぐ近くにある大教室の扉をくぐり、後ろの方の席に腰掛けた瞬間もやもやとした感情が心の奥底から湧き上がって来る。
こうなるのが分かっていたから好意を自覚したくなかったんだ。
タイオンは己の器の小ささをよく理解している。
ユーニが知らない男と笑顔で話しているだけで、嫌になるほど心がざわめいてしまっている。

彼女は男女問わず人に好かれやすい。
人気者であるユーニはいつも人に囲まれていて、タイオンの知らない顔に対して楽しそうに笑顔を向けている光景は何度も見たことがある。
その度、この天邪鬼で独りよがりな心は叫ぶのだ。
僕の知らない奴と楽しそうにするな。
その笑顔は僕にだけに向けて欲しい。
そこの男、僕の好きな子に馴れ馴れしく話しかけるな。
心に浮かんだ本音は、どれもこれも口に出した途端ユーニに嫌われてしまうのが目に見えている。
幼稚な己の嫉妬深さに呆れつつ、タイオンは密かにため息をついた。

ユーニと話していたあの男たちは誰だろう。
同じ学部の連中だろうか。もしくはノアやランツのように、高校から一緒だった元同級生かもしれない。
もしかすると、ユーニの好きな人とやらがあの中にいたのかも。

考えれば考えるほど気持ちが下向きになってしまう。
先日の“交流会”でユーリに痛い言葉を貰って以降、タイオンは悩んでばかりだった。
ユーニはすぐ近くにいるのに、その心には手が届かない。
いや、ただ手を伸ばしていないだけなのかもしれない。
このままでいいのだろうか。
いつか見知らぬ男に掻っ攫われる未来に怯えながら、必死に“友達”の席に縋りつく。
こんな状態を続けることに、意味なんてあるのだろうか。

そんなことを考えていると、ふと見慣れた背中が視界に入って来た。
大教室は黒板や教壇が見やすいように階段状に席が配置されている。
階段となっている通路を背後から降りてきたその背中が真横を通った瞬間、タイオンは咄嗟にその背を呼び止めていた。


「ユーニっ」


彼女はミルクティー色の髪をなびかせながら振り返る。
少し驚いたように丸くなっている青い瞳に射抜かれ、タイオンはハッと我に帰った。
どうやら彼女もこの必修の授業を履修しているらしい。
無意識に呼び止めてしまった自分の行動に焦るタイオンだったが、呼び止めてしまった事実はもう覆せない。
動揺を必死に隠しながら、立ち止まりこちらを振り返るユーニへと言葉を続けた。


「ここ、座るか?」
「えっ、あぁ……。うん」


戸惑った様子を見せながらも、ユーニは頷いてくれた。
急いで席をずれてスペースを開けると、彼女は荷物を置きながらすぐ隣に腰掛けて来る。
こうしてユーニと同じ授業を受けることはそう珍しい事ではない。
2人きりで同じ授業を受けたことも何度かあるが、好意を自覚して以降は初めてだった。

少し強引だっただろうか。もしかしたら、他に一緒に受ける約束をしていた友人がいたかもしれない。もしそうだったら悪いことをした。
嫌がられていないだろうか。迷惑じゃないだろうか。
そんなことを心配しているうちに、大教室の前扉から教授が入室してきた。
教壇に置かれたマイクを手に取り、教授がスイッチを入れたと同時に授業は始まる。

私語をしていた学生たちはすぐに口を閉じ、全員の視線が前方の黒板と教授へと向けられている。
そんな中、タイオンだけはすぐ横に座っているユーニへと意識を向けていた。
頬杖を突き、前方の黒板をぼうっと見つめている彼女の目はどこか心ここにあらずな空気感を纏っている。
昨日の朝からこの調子だった。少し元気がないというか、ふと気付けばどこか遠い目をしているのだ。
そんなユーニを、タイオンは密かに気にかけていた。

やっぱり何かあったのだろうか。
ルームメイトの面々にもさりげなく聞いてみたが、全員覚えがないと言っていた。
となると、彼女がトラブルを抱えているとすれば家の外の人間関係ということになる。
大学の友人か、実家の家族か、それとも例の好きな人とやらか。

客観的に見て一番可能性が高いのは好きな人とのトラブルだ。
所謂恋煩い。片想い相手と何かあったのかもしれない。例えばフラれてしまったとか。
気になる。気になって仕方がない。
聞いたところで複雑な感情になるだけだということは分かっている。けれど、聞かずにはいられなかった。

広げたルーズリーフの端にボールペンを走らせる。
短く記入したメッセージをユーニの手元に差し出すと、彼女はタイオンから向けられた手書きの質問に視線を落とした。


“何かあったのか?”


大教室とはいえ、この静かな空間で声を出せばそれなりに目立ってしまう。
だからこその筆談だった。
机に転がっていた自分のボールペンを手に持つと、彼女はタイオンが書いた質問のすぐ下に追記していく。


“なにかって?”


質問に質問が返って来た。
すぐさまタイオンは新しいメッセージを書き記していく。


“元気がないように見えるから”


そのメッセージに視線を落としたまま、ユーニは暫く考え込んでいる様子だった。
何か書くわけでもなく、口で伝えてくるわけでもなく、こちらを見てくるわけでもないユーニの無反応さに、タイオンは少しだけ焦ってしまう。
マズい。余計なお世話だっただろうか。
返事を待つこと約1分。
暫く考え込んでいたユーニはようやくルーズリーフの上にボールペンを走らせる。
視線を落とし、そこに記されたメッセージを視界に入れた瞬間、タイオンの思考は停止してしまった。


“好きな人にキスされた”


「えっ……」


一瞬目を疑った。
“キス”ってあれか?唇と唇を重ねるあれか?
思わず隣のユーニへと視線を向けると、彼女は前の黒板を見つめながら表情を一切変えていない。
照れている様子もなければ喜んでいる様子もない。
そんな彼女の横顔に戸惑いながらも、タイオンはほんの少し震える手で次の質問をぶつけた。


“告白されたのか?”


その問いに対する答えは即座に返って来た。


“されてない”


その回答に安堵してしまう。
良かった。
交際には発展していないらしい。
だが、キスをされたということは相手もユーニに好意があるのは確実だろう。
恐らくだが、2人が付き合い始めるのも時間の問題。

ボールペンを握る手に力が入る。
ユーニが自分の知らない男とキスを交わしている光景を想像し、胃がむかむかした。
きっと彼女は嬉しかったに違いない。
何と言っても“好きな相手”にされたのだ。喜ばないわけがない。
心ここにあらずな様子だったのも、きっと惚けていたからだろう。

やっぱり付き合うのだろうか、その男と。
もしそうなったら、彼女はきっとものすごく喜ぶだろう。
喜んだ末、きっと彼氏に昇華したその好きな人を大事にするにはず。
妙な勘違いをされないように、本当親しい男友達以外とは一定の距離を保つようになるかもしれない。
そうなったとき、自分はユーニと今のままの関係でいられるのだろうか。
下手をすれば、彼女はあのウロボロスハウスからも出て行ってしまうかもしれない。
自分の彼女が他の男とたちと一緒にひとつ屋根の下で暮らしている状況を良しとする男などいない。

ユーニに彼氏が出来た途端、今自分が縋りついている友人兼同居人という薄い繋がりはあっという間に取り上げられてしまう。
関係性はいとも容易く断ち切られ、本当の意味で手が届かなくなってしまうだろう。先日ユーリというあの女性が言っていたように。

それは嫌だ。引き留めたい。誰のモノにもなって欲しくない。
ユーニの隣に居続けるためには、誰にも渡さないようにするにはどうすればいいだろう。
どんな手段をとれば、ユーニからその男を引き剥がせるだろう。


「では本日は以上になります。お疲れさまでした」


教授の一言により、90分の授業は終わりを告げた。
大人しく席についていた学生たちはいっせいに立ち上がり、教室から出て行くために荷物をまとめ始める。
タイオンもまた、脳内でユーニの気を惹く策を考えながら立ち上がる。

そんな時だった。机に置いていた鞄がコロンと倒れ、中身が僅かに机の上に散らばった。
財布やペンケースと一緒に、白い封筒がするりと鞄の中から出てきてしまう。
中身が僅かに見える状態で出てきてしまった白い封筒を拾おうと手を伸ばしたその瞬間、隣のユーニが“あっ”と声を挙げた。


「なにこれ。オペラ座の怪人?」


タイオンの手が届くよりも早く、ユーニが白い封筒を拾い上げる。
中に入っていた2枚のチケットを覗き込んだ彼女は、タイオンの手荷物から出てきた意外な所持品に目を丸くしている。


「あぁ。バイト先の店長が従業員に配っていたんだ。社割で大量に貰ったからって」
「へぇ、ラッキーじゃん。これ有名な劇団のミュージカルだろ?いつ行くの?」
「いや、行く予定はない。ミュージカルはあまり好きじゃないからな」
「え、そうなの?」
「なんというか、あの劇中にいきなり歌いだす感じがあまり得意じゃなくて」


子供の頃から、アニメや映画で触れるミュージカル作品はどうも苦手だった。
盛り上がる展開でイキナリ気持ちよく歌い始める登場人物に、全く現実味を感じず共感できないのだ。
見ていて恥ずかしくなる。共感性羞恥という奴だろう。
このミュージカルの劇場は横浜にあり少々遠い。
いくら無料で貰ったものとはいえ、苦手なものを観るためわざわざ車や電車で遠出する気にはなれなかった。
ノアやミオ、もしくはランツやセナあたりに譲ろうと思っている。そう伝えると、ユーニは“ふぅん”と視線を落とした後に驚くべきことを口にした。


「じゃあさ、アタシに譲ってくんない?」
「え?」
「実はミュージカル好きなんだよアタシ。この劇団の公演いつか観に行きたかったんだけどチケット中々取れなくてさ。あ、もちろん金は払うから。無料で貰ったなら、定価の半額でどう?」
「いや、別に金をとる気はないが……。それペアチケットだぞ?一人で行くのか?」
「まさか。流石に誰か誘って行くよ」


手元の2枚のチケットに視線を落とし、ユーニは目を輝かせていた。
タイオンとは対照的に、ユーニの方はというと幼い頃からミュージカルが大好きだった。
だが、触れるのは映画やアニメなどの映像コンテンツばかりで実際に劇場まで足を運び観劇したしたことは一度も無い。

いつかは観に行きたいと思っていたところに舞い込んできたこのチャンスに、ユーニは胸を躍らせていた。
ミオかセナ、もしくは他の女友達を誘って観に行こう。
そう思っていた彼女だったが、目を輝かせているユーニを前にタイオンは大いに焦っていた。

誘うってまさか、例の“キスをしてきた好きな人”を誘う気なんじゃ……。
まずい。男女でミュージカル鑑賞なんて紛れもなくデートじゃないか。
しかもキスをした間柄ならこのデートを期に交際に発展する可能性だってある。
駄目だ。看過できない。ユーニにだけは絶対に譲れない。


「今度お礼するから。なっ?だめ?」


手を合わせて頼み込んでくるユーニに、ぐっと息が詰まる。
ズルいぞ。そんな顔で頼んでくるなんて。
けれど、やっぱり彼女が好きな人とノコノコ出かける状況に自分が手を貸すわけにはいかない。
ユーニはミュージカルが好きだと言った。
彼女が好きな場所に出かけるとき、その手を取ってエスコートするのはいつだって自分でありたい。
他の男になんて、渡してたまるか。

この瞬間、タイオンは“ユーニの視線を独占する策”を思いついてしまった。
ずっと避け続けていた捨て身の策だ。いい結果に転ぶ可能性はゼロに等しい。
けれど、ユーニに自分という存在を刻み付けることは出来る。
“友達”というなりたくもない枠から抜け出すことは出来る。
どう見ても釣り合いがとれない自分という存在が、ユーニの気を少しでも惹くためには、特攻しかない。
これはつまり、戦略的特攻だ。


「譲るのは構わない。ただ条件がある」
「条件?」


首を傾げるユーニを前に、生唾を飲む。
当たって砕けろ。
持てる勇気の全てを振り絞り、タイオンはユーニの手から封筒ごとチケットを奪い取った。


「……一緒に見に行く相手は僕じゃなきゃダメだ」


ユーニの目がまん丸に見開かれる。
不思議そうにぱちくりと瞬きしているユーニの視線に射抜かれながら、タイオンの心臓は信じられないくらいバクバクと高鳴っていた。


「え、いや、でも、ミュージカル苦手って今言ってたじゃん」
「よく考えたらミュージカルなんて映画やアニメでしか触れてこなかったからな。生で観劇したらもしかしたら気に入るかもしれない。ちゃんと観たことがないのに苦手意識を持つのは失礼だろ?それにミュージカルが好きな君と一緒なら楽しめるかもしれない。だから付き合ってくれ」


ほとんど言い訳でしかない言葉をつらつらと早口で並べ立てるタイオンに、ユーニは戸惑っている様子だった。
こんなことになるくらいなら、“ミュージカルが苦手”だなんて言うんじゃなかった。
何を言っても言い訳にしか聞こえないじゃないか。
苦しい大義名分を言い終えたその瞬間、タイオンは最後に添えた“付き合ってくれ”という言葉にほんの少し動揺した。


「あ、いや、今の“付き合ってくれ”はそういう意味じゃなく、デートに付き合ってくれという意味であって……」
「え?デートなの?これ」
「えっ、あっ……」


思わず口を滑らせてしまった。
デートのつもりで誘ったのは間違いない。けれど、その単語を素直に口に出して誘えるほどタイオンは豪胆ではない。
違う。デートじゃない。
そう言ってしまえば“いつものタイオンとユーニ”として気軽に出掛けられるだろうが、今回ばかりはそれじゃ駄目だ。
“友達”として出かけたいわけじゃない。“男と女”として出かけたいのだ。


「……嫌か?やっぱり」


視線を逸らしたのは、ユーニの顔をまっすぐ見る勇気がなかったから。
熱がこもり始める顔を隠すように眼鏡を押し上げ、緊張を誤魔化しながら問いかける。
どうか頼む。断らないでくれ。行きたいと言ってくれ。
心の中で懇願していると、ユーニはふっと笑みを零し、席に置いてあった自分の荷物を持ち上げ口を開いた。


「じゃあ、ちゃんとプラン考えておけよ?初デートなんだから」
「……えっ、えぇっ?いいのか?嫌じゃないのか?」
「嫌なわけなくね?期待してるからな、いろいろと」


つい先ほどまで憂い顔を浮かべていたユーニは、妙に晴れやかな笑顔を浮かべながら去って行った。
階段状になっている通路を歩き、大教室から出て行くユーニの背を、タイオンは呆然と見つめている。
あれはつまり、デートに付き合ってくれるということか。
OKということか。
全身から力が抜け、再び椅子に腰を落とす。
そして両手で口元を抑えながら、騒ぐ心を必死になだめ始めた。

誘えた。ユーニをデートに誘えた。
それだけじゃない。ちゃんとOKを貰えた。
しかも“嫌なわけない”と、“期待している”とまで言われた。
嬉しい。嬉しすぎる。
これでユーニの一日を確実に独占できることが確定した。
この事実に、タイオンは歓喜する。
これはまたとない機会だ。ユーニの心に少しでも自分という存在を刻み付けるまたとない好機。
無駄にするわけにはいかない。このデート、絶対に成功させなければ。
タイオンはこの日、ようやく決意を固めた。

ユーニとのデート当日、告白してやる。

気持ちを伝えて、ただの友達ではいられないことを知らしめてやる。
見ていろユーニ。例えフラれる羽目になろうとも、生涯心に残る告白をぶつけてやる。
汗ばむ手を握りしめたタイオンは、意を決し、頼れる友人たちへとスマホでメッセージを送る。
ユーニという大敵をオトす策を練るために。


Act.52


アイオニオン大学音響スタジオ。
もはや恒例の場所となったこのスタジオで、ノアはゼオン達バンドメンバーと共に全体練習に参加していた。
こうして全員で音合わせするのはもう5回目だが、すでに形になっている。
既存メンバーである4人はもともとこの楽曲を学際で披露するため練習を重ねていたが、約1か月前に楽譜を渡されたばかりのノアに関しては呑み込みが早すぎる。
やはり経験者は違う。ゼオン達バンドメンバーは、ノアという心強い助っ人を得て大いに沸き立っていた。

だがそんな中で、バンドリーダーであるゼオンだけは、ノアの演奏に小さな違和感を抱いていた。
全体を通しての音合わせが終わったことで、ベースを首からぶら下げたままゼオンが問いかけてくる。


「ノア、ちょっと聞いてもいいか?どうして演奏中目を閉じているんだ?」


演奏中、ゼオンは何度か隣で演奏しているノアへと目を向けることがあった。
弓を引くノアはいつもその瞼を固く閉ざしており、目を開けている様子はない。
最初は音を感じ取りやすくするためかと思いっていたが、自分とパート以外も目を瞑っている様子を見て不審に思ったのだ。
それを指摘すると、ノアは少し苦笑いを浮かべ始める。


「あぁ。小さいころからの癖なんだ。特に理由はないよ」
「そうか……」


ゼオンからの問いかけに、ノアは少しだけ嘘をついた。
幼いころからの癖であることは事実だが、理由はちゃんとある。
コンクールの際、審査員の顔を見ないようにするためだ。
目を開けて弾いていたら、露骨に落胆する審査員の顔が見えてしまう。
だから目を瞑っていた。
自尊心を守るためのこの幼い癖が、大人になった今も出てしまっているらしい。

自信の無さの表れだな。
自分自身に呆れつつも、この癖を治せないままな自分が嫌だった。


***

音合わせは無事終了し、全体練習は午前中で解散となった。
午後は授業があるため大学に残らないといけないが、少しだけ空き時間がある。
さて何をして過ごそうかと考えながらキャンパス内の廊下を歩いていたノアだったが、不意にジャケットの内ポケットにしまっていたスマホが震え始める。
誰かから着信のようだ。
ディスプレイに表示されていた懐かしい名前に、思わず心臓が止まりそうになってしまう。

表示されていた名前はクリス。
ノアにとってたった一人の兄であり、音楽界ではかつて神童ともてはやされていた天才ヴァイオリニストである。


「……もしもし」
『やあノア。久しぶり』
『……あぁ。久しぶり、クリス』


スマホのスピーカー越しに聞こえてくるクリスの声は、昔と何も変わらない。
兄のクリスとは3歳違いの兄弟だった。
ヴァイオリンに打ち込む前は誰が見ても仲のいい兄弟でしかなかったが、ノアがヴァイオリンを手放して以降、二人の間には徐々に溝ができ始めていた。

神童の兄と、凡才な弟。
クリスへの世間的評価が高まれば高まるほど、ノアはクリスを遠ざけるようになった。
一緒にいて辛かったのだ。
常に比較されていることもそうだが、自分自身がクリスとの違いにいちいち傷ついてしまうのが。

音大を卒業したクリスは、2年ほど前からウィーンでプロとして活動を開始している。
向こうでもかなり名前が売れているらしく、コンサートも大盛況らしい。
クリスが本格的にウィーンで活動を始めて以降、こうして電話がかかってくるのは初めてのことである。


「どうしたんだ?急に」
『実は今ウィーンから帰ってきていてね。実家にいるんだけどノアの姿が見えないから』
「そうなのか。今俺、大学の近くで友達とルームシェアしてるから」
『へぇ、ルームシェアか。楽しそうでいいね』


穏やかに笑むクリスに、笑みを返す気にはなれなかった。
どうやらいつの間にか帰国していたらしい。
両親が兄の帰国を弟である自分に伝えなかったのは、おそらくこちらの気持ちを察してのことだろう。
両親は、ノアがクリスと距離を置きたがっている事実をよく知っている。


『そういえば、近々ノアの大学で学際があるらしいね?』
「あぁ、まぁ……」
『実は僕も同じ日、近くで講演会があるんだよ。終わってから時間があったら寄らせてもらおうかな』
「えっ、寄るって、うちの大学に?」
『あぁ。久しぶりに可愛い弟の顔も見たいしね』


その言葉に、悪意はないのだろう。
だが、学際に寄ると宣言している兄にノアは焦った。
その日の夕方、自分はゼオン達と一緒にバンドの演奏をしなくてはいけない。
クリスの前で、ヴァイオリンを弾いている姿は見せられない。
自分の未熟さは、兄が一番よく知っている。
兄の背を必死で追いかけて、何度も転んだ末無様に諦めてしまった自分の情けない姿を、また兄にさらしたくはなかった。


「ノアっ!」


すると不意に、遠くからこちらの名前を呼ぶ声がした。
とっさに顔を上げると、そこにはこちらに手を振りながら軽や駆けてくるミオの姿が。
どうやら彼女も大学に来ていたらしい。
こちらに駆け寄ってくるミオの姿に気を取られていると、耳元でクリスが言葉を続けた。


『それじゃあ、久しぶりに会えるのを楽しみにしてるよ、ノア』
「ちょ、ちょっと待ってくれクリス!」


引き止めもむなしく、クリスは電話を切ってしまった。
通話終了の表示が出ているスマホのディスプレイに視線を落としながら、ノアはため息をこぼす。
すると、遠くから駆け寄ってきたミオがスマホを見つめているノアのすぐそばまで到着した。


「あっ、ごめん。電話中だった?」
「いや、いいんだ。大した用じゃないから」
「そう?」


とは言うが、ミオの目には“大した用じゃない”ようには見えなかった。
スマホに視線を落とす彼の様子が、どこか焦燥している。
なにか嫌な連絡を受けたのかもしれない。
だが、あまり話したがっていないようにも見える。
ここで根掘り葉掘り聞くのはどうなのだろう。
迷っているうちに、またノアのスマホが震えた。今度はメッセージが届いたらしい。


「……ん?」
「どうかした?」
「いや、なんかタイオンが……」


眉間にシワを寄せながらノアはスマホの画面を見せてくれた。
ディスプレイに映っているのは、ウロボロスハウスの男性陣だけで組まれたグループチャット。
そこに、タイオンが“相談がある。今夜飲みに行こう”と突然投げかけていた。


「あ、それ似たような内容私にも来た。こっちはユーニからだけど」


つい数分前のこと。
ミオのスマホにもユーニから“相談がある”という旨の連絡が届いていた。
こちらもウロボロスハウスの女性陣だけで組まれたグループチャットで投げかけられたものである。
同じタイミングで、タイオンとユーニから持ち掛けられた相談事。
内容はおおよその予想がついている。おそらくは恋愛に関するものだろう。
二人の間に何かあったのだろうか。
最近はランツとセナの仲にばかり注視していたせいで、ノアとミオには皆目見当がつかなかった。


「もしかして、どっちかが告白したとか?」
「まさか。タイオンとユーニだよ?急にそんなに発展しないって」
「そうだよな。さすがにないか」


そう言って笑い合っていた二人だったが、数時間後、その予想があながち間違いではなかった事実に気付く羽目になる。


***

タイオンから指定されたのは、駅前の個室居酒屋だった。
店の前で合流したランツと一緒に席に向かうと、先に到着していたらしいタイオンの姿があった。
だが、彼が待つ個室に入ろうとした瞬間、ノアは一瞬ためらってしまう。
タイオンから発せられる妙な覇気というかオーラに、圧倒されてしまったのだ。

居酒屋のテーブルに両肘をつき、顔の前で両手の指を絡ませ俯いているタイオンの様子は、さながらどこぞの司令官のようだ。
まるでこれから世界を脅かす使途と戦わんとしているかのようなそんな空気感に、ノアとランツはただただ戸惑っていた。


「タイオンのやつ、どうしたんだ?」
「さ、さぁ……。相談があるとは言ってたけど」
「余命宣告でもされたのか?なんだかわかんねぇけど思い悩みすぎだろ」


呼びつけた当人であるタイオンの対面に腰かけたノアとランツは、切羽詰まったオーラを放つタイオンを前にこそこそと耳打ちし始める。
やがて、タイオンはゆっくり顔を上げながら二人の友人に相談内容を持ちかけた。


「急に呼びつけてすまない。今日は二人の知恵を借りようと思って」
「知恵?」
「頭のいいお前さんが俺らに何の知恵を借りるんだよ」


タイオンはもともとレベルの高いアイオニオン大学の首席として法学部に籍を置いている。
彼の頭脳明晰ぶりは折り紙付きで、その知恵を貸すことはあっても他人から知恵を借りることなどめったにないだろう。
だが、今日のタイオンにはどうしてもこの二人を頼らなければならない用事があった。
視線をそらし、口元を手で隠し、どこか恥ずかしそうに瞬きを繰り返しながらタイオンはか細く呟く。


「ユーニと、その……デートすることになって……」


ぼそぼそと呟かれたその言葉に、ノアとランツの脳内理解が遅れた。
タイオン+ユーニ=デート。
この法則性を頭で理解できたのは3秒後のこと。
タイオンの慎重さを痛いほどよく知る二人の男は、同時に“うえぇぇぇぇぇっ!?!?”と大声を挙げながら身を乗り出した。


「はっ?デート?なんで?どういう流れで!?」
「む、むこうも了承してるのか?というか、なんで急にそんな話になったんだ!?」
「どっちから誘ったんだ!? つか、あっちはデートだってちゃんと認識してんのか!?」
「いつ行くんだ?というかまだ別に付き合ってはいないよな!?」


身を乗り出しながら矢継ぎ早に質問してくるノアとランツの様子に、タイオンは徐々に身体をのけぞらせていく。
これじゃまるで不倫した芸能人の囲み取材のようだ。
とにかく埒が明かない。
恥を忍びつつ、タイオンは経緯を1から10まで丁寧に説明した。

バイト先の店長からミュージカルのチケットをもらったこと。
ユーニが興味があると言うので勢いに任せて誘ってしまったこと。
誘いを了承してくれたこと。
そして、ユーニもきちんとデートだと認識している状況であるということを。
そのすべてを話し終えると、ノアとランツはようやく状況を理解したらしい。
二人そろって腕を組み、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。
明らかに面白がっているその表情が気に入らず、タイオンはむっと目を細める。


「二人ともなんだその顔は」
「いやいや。知らない間に発展してたんだなぁと」
「じゃあもしかして、俺らに相談ってデートプランを一緒に考えてくれ的なやつか?」
「あぁそうだ。君たちならユーニの好みをすべて把握しているだろうし。それに――」


何かを言いかけたタイオンは、また少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らす。
そして、緊張している面持ちを隠すかのように眼鏡を押し上げ、言い放った。


「……告白しようと思ってるから」


その言葉を聞いた瞬間、二人並んでタイオンの話に相槌を打っていたノアとタイオンはおもむろに手元のおしぼりを顔に押し当て、わざとらしく泣き真似をして見せた。
いや、実際泣いていたのかもしれないが、とにかく誇張した仕草で鼻をすすり始めている。


「聞いたかノア。タイオンのやつ、ユーニに告白を……!」
「あぁ。タイオン……。あんなに慎重で奥手だった奴が、こんなに成長して……!」
「おいなんだそのノリは。なんで若干母親目線なんだ」


ノアとランツ、そしてユーニは、物心ついたばかりのころからずっと一緒に過ごしてきた幼馴染である。
ユーニのことを聞くなら、まずこの二人に聞くのが一番早くて確実だ。
告白をすると心に決めた以上、結果がどうあれユーニにとって“いい思い出”として残る一日にしたい。
その一心で、タイオンは二人を頼ったのだ。

そんなタイオンからの救援要請に、ノアとランツは当然快く応じることにした。
二人から見ても、これ以上もだもだと距離を測りあっているタイオンとユーニを見ているのは流石にじれったい。
もうとにかくいち早くくっついてほしかった。


「そういうことなら任せておいてくれ。俺たちは幼馴染だし、ユーニのことなら大体知ってるつもりだ。な?ランツ」
「おう。身長体重、足のサイズにほくろの数、血液型に星座、好きな食い物から母親の旧姓まで、ユーニのことなら何でも知ってるぜ?誕生日以外はな」
「逆に何でそこまで知ってるのに誕生日だけ知らないんだ……?」


タイオンからのSOSに、ノアとランツは必要以上にやる気を見せていた。
2人揃って胸を張り、大船に乗った気でいろとでも言いたげなドヤ顔を浮かべている様子は頼もしくもあり、同時に不安でもあった。


「それで?デートってどこに行く予定なんだ?ミュージカルに行くって言ってたけど劇場の場所は?」
「横浜だ。みなとみらいのあたりだな」
「横浜か。いいな。あそこならデートスポットもたくさんあるはずだし」
「ミュージカルならユーニも喜ぶだろうな。アイツあぁいうの好きだったし」


流石ユーニの幼馴染と言ったところか。
タイオンは全く知らなかったが、2人はユーニのミュージカル好きをよく知っていた。
多少の不安はあるが、やはりユーニのことはこの2人に聞くのが一番だ。
ミュージカルの上映時間は休憩時間を含む約2時間半ほどだ。
午後一番の公演を観劇し終えたあと、かなり時間が余る。
そこから夕食までのプランを考えるため、2人の意見を聞きたかったのだ。

劇場の場所が横浜にあると聞き、すぐにランツがスマホで何かを調べ始めた。
周辺のデートスポットでも調べてくれているのだろうか。
すぐに“おっ”と妙に嬉しそうな声を挙げると、嬉々としてスマホの画面を見せびらかしてきた。


「見ろタイオン。横浜周辺のラブホ、16件もあるぞ!」
「おい!もっと先に調べることがあるだろ!」


場所を聞いていち早く収集するのがラブホの情報なのは流石におかしいだろ。
呆れているタイオン相手にめげることなく、ランツは強引に口コミランキング1位のホテルを見せて来る。
随分と綺麗な部屋だ。
浴室も広く、ベッドも大きい。
しかもカラオケ設備もあるうえコスチュームの貸し出しもしている。しかも部屋のバルコニーに簡易露天風呂がついているのか。これは確かになかなか——。


「い、いや、行かないから!」
「行けよそこは。既成事実作れよ」
「その前に告白だ。そういうことはちゃんとOKを貰ってからしたい」
「真面目だなぁ」
「至極当然のことだろ」


慎重で真面目なタイオンだが、男としてユーニと“そういうこと”をしたい欲は当然ある。
だが今はそれ以前に、ちゃんと想いを伝えたい。
付き合いたいだのそういうことをしたいだの、そんな贅沢を口にするのはきちんと告白してからだ。


「とにかく、ユーニが喜びそうなことを片っ端から教えてもらいたい。それを元にプランを組むから」
「ユーニが喜びそうなことかぁ……」
「そういやぁアイツ、あんな性格だけど妙に乙女というか、女子が好きそうなものは大体好きだよな」
「女子が好きそうなもの……?」
「可愛いものとか綺麗なものとか、あとは甘いものとか」


ノアの言葉に、タイオンは深く頷いた。
ユーニは男勝りな性格だが、確かに妙なところで女の子趣味なところがある。
具体的に好きなものは分からないが、虫が苦手だったり暗がりが苦手だったり、その性格に見合わない乙女感を持っていた。
男勝りだからと言って、男性が好むようなさっぱりしたデートは合わないかもしれない。


「ユーニが好きなものといえばアレだろ。もふもふだろ」
「もふもふ?」
「動物だよ動物。あいつガキの頃遠足で行った動物園でふれあいコーナーから一生出てこなかったことあっただろ?」
「あぁあったあった!延々と羊撫でてて最終的に先生に無理やり連れていかれて泣きじゃくってたっけ」
「そうそう!親が死んだのかってくらい泣いてたよなアイツ」


なんだそのほのぼのエピソードは。
引率の保育士に抱き上げられ、羊から無理引きはがされて泣きわめく小さなユーニの姿が容易に想像できてしまう。
なるほど動物か。動物と触れ合える場所がないか調べてみよう。
スマホのメモ帳に、タイオンは甘い物ともふもふと記入した。


「あとは景色がいいところも好きだと思うぜ?横浜だったら海が見えるところとか」
「海か……」
「花とかも好きだよな。あとは夜景とか」
「なるほど。景観が美しい場所でゆっくりできれば喜んでもらえるかもしれないな」


横浜は海に面した歴史情緒あふれる街である。
景観のいい場所なら探せばいくらでも見つかるだろう。
例えば海が見える公園のような場所や、夜景が良く見える高いところで告白すれば印象にも残りやすいはず。
動物と触れ合えそうな場所、甘いものが食べられそうな場所、そして景色がいい場所。
この3つが今回のデートのカギになるだろう。


「よし。大体は分かった。なんとかなりそうだ」
「頑張れよタイオン。期待してるからな?」
「付き合ったら教えてくれよ?みんなで祝おう」
「そもそもOKされる保証なんてないがな」


嘲笑しながら手元のハイボールを煽るタイオン。
そんな彼の言葉に、ノアとランツは顔を見合わせながら苦笑いを零した。
彼はまだ知らない。
これから挑もうとしている告白という名の大勝負は、既に勝ちが確定しているという事実を。


***


「それ絶対告白されるやつーーー!」


夜のウロボロスハウスに、セナの魂の叫びが木霊する。
そんな彼女の横で、一つ年上のミオも希望に満ち溢れたキラキラした目で深く頷いている。

時刻は21時半。男性陣は全員外に飲みに出てしまっており、家には3人の女性陣しかいない。
3人で協力して作った夕食をつつきながら、彼女たちはリビングの食卓でささやかな女子会を開いていた。

本日の話題の中心にいるのは、事前に“相談がある”と周知していたユーニである。
彼女の口からもたらされた、タイオンにデートに誘われたという事実に、聞き手に回っていたミオとセナは当たり前のように驚いた。

何故そういう展開になったのか根掘り葉掘り問い詰めて来る2人の勢いに押し負けそうになりながらも、ユーニはなるべく丁寧に背景を説明する。
しかし、酔っぱらったタイオンに勢いでキスをされたことだけは伏せておいた。
タイオン本人は覚えていないようだし、言いようによってはタイオンの株が落ちる可能性があるからだ。


「ついに“その時”が来たのねユーニ!」
「長かったね……。やっと2人も付き合うんだね!」
「いやいや。まだ告られると決まったわけじゃねぇだろ」
「絶対告白されるって!だってはっきりデートだって言ってたんでしょ?間違いないわよ」


ウキウキ顔のミオは、もはや告白されること前提で考えているらしい。
“絶対”と強い言葉で断言するミオとは対照的に、ユーニはどこか自信なさげに視線を逸らしている。
当然、ユーニとしても告白を期待していないわけではない。
だが、ここまで長々と微妙な距離感を保ち続けていた歴史がある以上、今回も不発に終わるのではないかという不安の方が大きくなってしまう。
期待した結果何も言葉を贈られることなく、勝手に落ち込んでしまう未来が怖かった。


「はっきりデートに誘ってくれたのは嬉しかったけどさ、正直あんま期待してねぇんだよ。あいつ、告白なんてする気ないって前に言ってたし」
「でもでも、デートしている間に気が変わるかもしれないよ?ね、ミオちゃん!」
「そうね。向こうにその気がないなら、その気にさせればいいのよ!」


随分と簡単に言ってくれるが、ここ数カ月ずっとその作戦を実行し続けてきたユーニにはよく分かっていた。
タイオンを“その気”にさせることの難しさを。

だが、最近のタイオンが今までの彼とは違い妙に積極的になっているのもまた事実。
今全力で押せば、もしかすると“その気”になってくれるかもしれない。
当初から告白の予定はなくとも、デート中にそれを決心させることは出来るのではないだろうか。

当然、簡単なことだとは思えない。今まで失敗続きだった戦績を鑑みれば、成功確率はかなり低い。
だが、試してみる価値はある。
折角のデートだ。丸一日費やされるタイオンとの時間を、無駄に終わらせたくはない。


「その気に、させられるかな……?」
「出来るよ!絶対できる!」
「頑張ってユーニ!タイオン攻略大作戦、再始動だよ!」


もはや存在すら忘れかけていた懐かしい作戦名に、ユーニは背中を押された思いだった。
こうなったらやってやる。
ユーニとしても、これ以上曖昧な関係をもだもだと続ける気はない。
今回のデートでいい加減白黒はっきりつけてやろう。
胸に小さな決意を秘め、ユーニは力強く頷いた。

デートは約2週間後。
大学祭の前日に予定されている。


Act.53


その日、空は雲一つない晴天に恵まれた。
気温も適温。風もなければ湿度もちょうどいい。
気持ちのいい秋晴れとなったその日、ユーニはいつも以上に気合を入れてアイラインを描いた。
今日はタイオンとのデート当日。
彼がいつも以上に気合の入ったこのメイクに気付くとは思えないが、これは自分の気分的な問題である。
髪の毛先から指先まで念入りに気を遣うことにより、今日はきっと大丈夫だと自分に自信が持てるのだ。

たぶんタイオンは派手なメイクや装飾を好むタイプではないだろうから、ナチュラルブラウンを主軸とした大人しめの秋色を採用。
服は露出を抑えたミモレ丈のスカートにブーツ。
髪は毛先だけ軽く巻いてふわりと香る程度にヘアオイルを塗る。
耳には控えめなピアスを装備し、上着は黒のレザージャケットを選んだ。

顔も服も髪も完璧。今出来る最大級の“可愛い”を引き出したところでドレッサーから立ち上がる。
その瞬間、背後でカチッカチッと何か堅いものをぶつけあうような音が聞こえて振り返った。
そこには、ニコニコ笑顔のミオとセナが。
手にはネイルの小瓶が握られている。


「頑張ってユーニ!いざ出陣、だね!」
「武運を祈ってるよ!」
「お、おう、ありがとな。てかアタシは戦に出る武将かよ……」


ネイルの小瓶を火打石のようにかち合わせた2人は、まるで戦に出陣する武将を見送るかのようだった。
同室のセナはともかく、いつもは隣の部屋で眠っているミオまでもがこの女子部屋に遊びにやってきて、デートに出かける準備をしていたユーニを激励しようとしている。
応援してくれている気持ちは確かなのだろうが、その気持ちの半分は明らかに“興味”で占められている。
朝からウキウキ顔で“がんばれ”を連呼してくるこの二人の言動に、ユーニの緊張は無駄に煽られつつあった。

スマホと財布とメイクポーチが入った小さなバッグを持って部屋を出ると、後ろからミオとセナもひょこひょこついてくる。
ニコニコ笑顔を浮かべながらぴったり後ろからついてくる2人はまるでピクミンのようだった。
何でついてくるんだコイツら。

ミオとセナを背後に従えながら玄関へ向かうと、扉は開け放たれており、玄関扉の両脇を何故かノアとランツが固めていた。
階段から降りてきたユーニを、2人の幼馴染はニヤニヤしながら見つめている。
そんな彼らの向こう側。玄関から見えるガレージには、車に寄りかかり少し呆れた顔で腕を組んでいるタイオンの姿が見えた。

前方にはニヤついているノアとランツ。後方にもニヤついているミオとセナ。
そして気まず気に視線を落としているタイオン。
目の前に広がる光景に、ユーニは猛烈な居心地の悪さを感じた。
最悪だ。こいつら、めちゃくちゃ面白がってる。


「よぉユーニ。タイオン待ってるぞ」
「早く行ってやれ。ほらほら」
「ちょ、おいっ」


ノアとランツに強引に腕を掴まれ、タイオンの方へと背中を押される。
力ずくなやり方に腹が立ち、よろけながら振り向くと、ノアとミオ、ランツとセナがニヤニヤしながら手を振って来た。
温かく見守っているつもりなのだろうが、あのニヤつきが気まずさを助長している事実に気付いていないのだろうか。
まるで中高生のように人の恋路を応援しようとする4人の様子に、タイオンとユーニはほぼ同時にため息をついた。


「ユーニ、とりあえず行くか」
「だな」


6人全員で共有している車に2人は乗り込み始める。
運転席にはタイオンが、助手席にはユーニが乗り込み、それぞれシートベルトを装着する。
未だにニヤニヤしている4人のピクミンを横目に、2人を乗せた車はウロボロスハウスを出発した。
向かう先は横浜。オペラ座の怪人を公演している劇団雨季の劇場である。

暫くは下道を走り、高速に乗って向かうわけだが、こうしてタイオンと2人きりで車に乗って出かけるのは初めてだ。
折角の機会だというのに車内が沈黙のままなのは、4人の同居人によって生み出された気まずさのせいだろう。

あいつらが盛大にニヤニヤしながら見送ってくれたおかげで死ぬほど気まずいじゃねぇか。
この世の全ての気まずさを凝縮したかのような車内の空気は、聴覚を失ったのかと疑うほどに静かだった。
心の中で4人を呪うユーニだったが、“この先首都高”の看板を見つけ慌てて口を開いた。


「あ、ねぇ。高速乗る前にコンビに寄らね?飲み物買いたい」
「あぁ、そうだな」


高速道路に乗ったらしばらくは止まれない。
いつでも水分補給できるよう、事前に飲み物を手に入れておきたかった。
ユーニの要望に応える形で、タイオンは車をコンビニの駐車場へと進入させる。
空いているスペースに車を停めると、ユーニがシートベルトを外しながら問いかけてきた。


「タイオンは待ってな。なんか欲しいものある?」
「いや、大丈夫だ」


そう言うと彼女は、車から降りて早歩きでコンビニへと入って行った。
その背を見届けると、車内に1人取り残されたタイオンは緊張から解き放たれたように深く息を吐いた。
まだデートが始まって10分も経っていないのにこんなにも気を張っている。
それもこれも、ユーニがあまりにも可愛らしい恰好をしているせいだ。

いつもよりメイクに気合が入っているような気がするし、服も髪型も綺麗だ。
普段はしないくせに控えめなネイルまでしている。
その気合の入り様が、自分とのデートの為だと思うと心が歓喜した。

当然、タイオンも今日のためにいろいろと準備をしてきた。
ノアやランツに聞いたユーニの好きなものの情報を頼りに、三日三晩寝る間も惜しんで今日のプランを練って来た。
告白するタイミングも言葉も、ドラマの台本の如くしっかり考え込んでいる。
返事の色はともかく、うまくいけばちゃんと印象に残る告白が出来るはずだ。

大丈夫。あんなに頭の中で何度もシミュレーションしてきたんだ。大丈夫。
そう言い聞かせつつも緊張が拭えないのは、タイオンの中に眠るユーニへの感情がそれほど大きい証拠なのだろう。

そうこうしているうちに、コンビニに飲み物を買いに行ったユーニが戻って来た。
助手席に座り、再び彼女がシートベルトを装着し終えたことを確認してからタイオンはエンジンをかけなおす。
コンビニの駐車場から出てすぐに、2人を乗せた車は首都高に乗りはじめる。
ハンドルを握るタイオンの横で、ユーニはコンビニの袋から取り出した2本のボトルを持ち上げつつ声をかけてきた。


「お茶と紅茶、どっちがいい?」


横目でちらっと視線を送ると、ユーニの手に握られていたのは緑茶とストレートティーのボトルだった。
片方をくれるつもりらしい。


「じゃあ緑茶の方で」
「えっ、マジ?紅茶の方がいいかと思ってた」
ストレートティーよりミルクティー派なんだ」
「そうなの?あんな甘いのよく飲んでられるな。余計に喉乾くだろ」
「甘い方が好きなんだ。そういう君はストレートティー派なのか?」
「まぁな。こっちの方がさっぱりしてるし」


タイオンが選択した緑茶はユーニの手によって左手側のドリンクホルダーに置かれている。
一方、ユーニはストレートティーのボトルを開封し早速一口飲み始めた。


「んー、じゃあさ、あれは?ミスドのエンゼルクリームとカスタード、どっちが好き?」
「中身が生クリームの方だな」
「うーわマジ?アタシは断然カスタード」
「生クリームの方が美味いだろ」
「いや絶対カスタードの方が美味いって。じゃあきのこの山たけのこの里は?」
「普通たけのこだろ」
「うわぁ。アタシきのこ派


その後もユーニからの“どっちが好きか”の質問は続いた。
ハンドルを握りながら答え続けていたが、ことごとくユーニとの回答は一致しない。
前々から何となく察していたが、ユーニとは食の好みがあまり合わない。
タイオンが美味いと思うものをユーニは微妙な顔をして食べていることが多く、その逆もまたしかりである。


「タイオンとアタシって、味覚全然合わないよな」
「まぁそうだな。合ったためしがない」
「そういう奴と結婚したら大変そうだわ」


聞き捨てならなかった。
まるで“タイオンと結婚したくない”と言われているようで。
確かに味覚の相性は交際や結婚に関してかなり重要になって来る。
食の好みは性格の相性とも一致するところがあるからだ。
だからこそ、ユーニには“タイオンとは食の好みが合わない”という認識のままでいてほしくなかった。
焦ったタイオンは、ハンドルを握り前を見据えながら口を開く。


「じゃあ、目玉焼きには何をかけて食べる?僕は醤油」
「え、ケチャップだろ」
「カレーはチキンとビーフ、どちらが好きだ?僕はビーフ
「普通にチキン」
「白米のお供といえば?僕は納豆!」
「明太子じゃね?」
「じゃ、じゃあ……。シチューはビーフとホワイト、どっちだ?僕はホワイト!」
「うーん……。アタシもホワイトかなぁ」
「ほら見ろ!一致したじゃないか!食の好みは合致してる!」


ようやく一致した好みに、タイオンは喜々として大きく反応する。
必死で味覚の相性の悪さを否定するタイオンは、まるで遠回しに“自分たちは相性がいい”とアピールしているかのようだった。
そんな彼の必死さに、ユーニは思わず笑ってしまう。
そんなに相性が悪いって認めたくないのかよ。
そのいじらしさがやけに可愛く思えて、彼女は“ハイハイ”と苦笑い交じりに頷いた。

つい先ほどまで車内を支配していた気まずさは、いつの間にかどこか遠くへ消えていた。
緊張感に溢れた空気は談笑しているうちに温まり、2人の表情を柔らかくする。

その後もいつも通り談笑を重ねていくうちに車内の窓から横浜の海が見えてきた。
レトロな街並みとお洒落な店が入り乱れる横浜は、デートにはうってつけの場所である。
カーナビに従い、2人の車は本日の目的地である劇団雨季の劇場へと進む。
駐車場に車を停め、店長から譲ってもらったチケットを使って中に入ると、既に劇場内には多くの観劇客が席についていた。


「ミュージカル観に来るの初めてだわ。めちゃくちゃ楽しみ」
「それはなにより」


入り口で配られていた無料のパンフレットを眺めながら、ユーニは目を輝かせている。
2人の席は2階席の中央。
そこまで値段が高い席とは言えないが、ステージ上を見渡すことが出来るという点においてはいい席と言えるだろう。


「てかホントに良かったのか?タイオンってミュージカル苦手なんだろ?」
「それはそうだが、ユーニは好きなんだろ?」
「まぁな」
「ならいいじゃないか。好きな人と観れば今までとは違った観点で楽しめるかもしれないし」
「そっか」
「……あ、いや、“好きな人”というのはそういう意味じゃなく、“ミュージカルが好きな人”という意味だからな?」


自分の発言にちょっとした含みを持たせてしまったのではと心配になったタイオンは、焦って補足をいれた。
そんなタイオンの発言に、ユーニはケタケタと笑いながら“ハイハイ”と受け流す。
今日のデートで告白する予定だが、こんな何気ない会話でポロっと気持ちを伝える気はない。
そうこうしているうちに、劇場の明かりはゆっくりと消灯し劇が始まった。

ステージ上で展開されている“オペラ座の怪人”は、世界的にも有名な小説がもとになったミュージカルの代名詞的なタイトルである。
オペラ座の若手歌手、クリスティーヌと、彼女に恋をしているオペラ座の地下に住みついている“ファントム”との歪な恋を描いた作品だ。

醜悪な容姿を仮面で隠しているファントムは、その歌唱の才を活かしクリスティーヌに声だけで指導をし続けていたが、ある日彼女とその恋人、ラウルのやり取りを盗み聞き激しく嫉妬する。
歪な愛を押し付けるように、ファントムはクリスティーヌを拉致。
自らが住処としているオペラ座の地下へと彼女を無理やり連れ込んでしまう、というストーリーだ。

ステージ上ではドレスに身を包んだ役者たちが悠々と演技をしているが、その真下では演奏者たちが控えているらしい。
舞台がオペラ座ということもあり、このタイトルには歌唱シーンが多く含まれている。
歌唱シーンがやってくるたび、ステージの真下で繰り広げられている生演奏の音がスピーカーを伝って観客席に鳴り響き、ステージ上の演者が美しい歌声で劇を彩っている。
ミュージカル俳優たちの美しい歌声と奏者たちによる生演奏は、息を呑むほど圧巻だった。
知らなかった。生で見るミュージカルが、こんなにも素晴らしいものだったとは。

場面が変わるたびに見事なほど素早く切り替わるセットも、役者たちの熱演も、ステージ下で繰り広げられる生演奏も、何もかもがこの劇場を彩り、非日常を演出している。
苦手だったはずのミュージカル作品を、タイオンはいつの間にか食い入るように見入っていた。

やがて、約2時間半のプログラムは終了した。
劇場は拍手喝采に包まれ、演者たちの深々としたお辞儀を最後に舞台の幕は下りた。
劇場の明かりが灯ったあとも、余韻に浸るタイオンはすぐに席を立てずにいた。
圧巻だった。こんなに素晴らしいなんて。もっと早く観ていればよかった。


「すごかった……」
「な!? な!? すげぇだろ!?」
「あぁ……。歌も演奏も素晴らしかった。とくにあのクリスティーヌとファントムのデュエットの場面が素晴らしい」
「分かる。あとさ、最後の方のファントムのソロもヤバくなかった?」
「あそこはいいな。哀愁が漂っていた。役者の演技が凄すぎる」
「セットもあっという間にコロコロ変わってすごかったよな。どうなってるんだろうアレ」
「確かに。セットにキャスターでも着いているんだろうか。どういう作りになっているのか気になるな」


これがデートだという事実も忘れ、2人は数分前に終わったばかりである劇の感想を言い合っていた。
どのシーンが印象的だったか、どのセリフが良かったか、興奮気味に語らう2人の熱量は同等。
席から立ち上がり、劇場から出るため歩いている最中も、2人の感想語りは終わることがなかった。
ミュージカルが苦手だと言っていたタイオンも、眼鏡の奥で目をきらめかせながら楽しそうに語っている。
そんな彼の様子を横目に、ユーニは嬉しそうに笑みを食んだ。


「タイオンが楽しんでくれててよかったわ」


劇場に来る直前まで、ユーニは少々タイオンを心配していた。
元々ミュージカルが苦手だと言っていたし、退屈そうにしていたらどうしよう、と。
誘ってきたのは向こうからだが、好きなものに付き合わせてしまっているのはこちらのほうだ。
どうせ一緒に観劇するなら、楽しんでもらいたい。
そう願っていたユーニだったが、終了と同時に肯定的な感想を述べてくれたタイオンに安堵した。
良かった。タイオンも楽しんでくれている。

そんなユーニに、タイオンは“君と一緒だったからだ”と素直に伝えようとしたのだが、照れくささに押し負けて言葉を飲み込んでしまった。
ユーニと一緒なら、きっとどんなことだって楽しいと思えてしまう。
沢山の人に愛されるユーニの時間を、今自分が独占している。
ただそれだけで心が浮ついてしまうのだ。

劇場を出るころには、15時半を回っていた。
まだ陽は高い。夕食に誘うには流石に早すぎる時間である。


「で、この後どうする?」
「そうだな……。じゃあ、もふもふと甘い物、どっちがいい?」
「えっ、なんだその幸せな二択」


今日のプランは綿密に立てていた。
ユーニの好きなものを調べ上げ、喜んでもらえそうな場所を徹底的にリスト化して頭に叩き込んでいる。
ユーニが何を選択しようとも、その要望に応えられるくらいの余裕は大いにあるのだ。
彼女が好きな“もふもふ”と“甘い物”を二つ並べて選択を迫ると、ユーニは暫く腕を組んで考え込み始めた。
そして、数秒考え込んだ後に顔を上げ、期待に満ちた表情で“甘い物!”と選択する。


「よし、じゃあ行こう。ちょうど小腹もすいてきたしな」
「おう。てか甘いものって何があるんだよ?」
「行ってからのお楽しみだ」


ユーニを連れて向かったのは、レトロな街並みが広がる港側の商業施設。
そこにあるシックな佇まいの店舗に、タイオンはユーニを連れて来店した。
その店はこのあたりでも有名なチョコレート専門店で、店の中には様々なチョコレート菓子が所狭しと並んでいる。
甘いもの好きにとってはたまらない光景だろう。
ユーニも例外ではなかったようで、店の扉をくぐった瞬間目つきが変わった。


「うわやばっ、チョコレート専門店なんて初めて来た」
「僕もだ。チョコレートだけでこんなに種類があるとは驚きだな」


右手の棚には小粒のホワイトチョコレートが、左手の棚にはミルクチョコレートの板チョコが、その奥にはビターチョコレートのアイスクリームが並んでいる。
店内の一番奥はガラス張りになっており、店頭に置かれる予定のチョコレート菓子を作っているショコラティエたちの様子が観察できるようだ。
トロトロに溶かしたチョコレートを、熱した鉄板の上で形を整えながらこねていくその様子が物珍しく、2人揃って暫く見入ってしまう。

甘いチョコレートの香りに包まれながら、ユーニは実に楽しそうに店内を散策していた。
いつの間にか両腕にはチョコレートの箱がいくつも抱えられている。
ナッツチョコレートやチョコレートのラングドシャ、ガトーショコラに生チョコと、その種類は様々である。


「そんなに買うのか?」
「みんなにお土産だよ。帰ったらまたみんなで食べような」


楽しそうに笑いながらまた棚の商品を吟味し始めるユーニが可愛らしくて、思わずこちらも笑みがこぼれてしまう。
よかった。チョコレート専門店も喜んでもらえたらしい。

土産として集めたチョコレートを購入した後、2人はイートスペースでお茶をすることにした。
注文したのは、この店の名物でもあるショコララテ。
甘さの中に香るカカオの苦みがたまらない逸品である。
クリームが上に盛られたその可愛らしいビジュアルのドリンクに、ユーニは大喜びでスマホを構えた。


「ミオやセナに自慢してやろっと」


嬉しそうに笑いながら、ユーニはショコララテを写真に収め、そしてようやく口をつける。
ビターマイルドなその味は、いくら飲んでも飽きがこない癖になる味だった。

イートスペースで向き合いながら談笑しているうちに、2人のグラスはあっという間に空になった。
次第に陽は傾き始めてきたが、まだまだあたりは明るい。
店の窓から見える景色を横目に見ながら、ユーニは頬杖を突きつつ問いかけてきた。


「なぁ、さっき“もふもふ”と“甘い物”どっちがいい?って聞いたけど、もふもふの方は何だったわけ?」
「気になるか?」
「そりゃあまぁな」
「じゃあそっちも行くか」
「えっ、マジ?いいの?」


腕にはめた時計に目を向けると、まだ時刻は16時過ぎ。
時間的余裕もたっぷりある。
“もふもふ”の方へ足を運んでも問題ないだろう。
なにより、ユーニが行きたがっているのだから連れて行ってやりたい。
席から立ち上がり“行こうか”と促すと、ユーニは嬉しそうに返事をしながら立ち上がる。
向かう先は駅近くの商業施設。
たくさんの“もふもふ”が待ち構えている、屋内動物園である。


Act.54


「おわぁーーーっ!」


目の前で可愛らしく愛嬌を振り撒く“もふもふ”に、ユーニは目を輝かせていた。
みなとみらいの商業施設内に入っている屋内動物園。
そこでは、カピバラフェネック、モルモットやウサギなどをはじめとする小型から中型の動物たちが部屋の中で自由に動き回っていた。
ユーニが大好きな“もふもふ”を見せてやるという目的を叶えるため、この施設には前々から目を着けていた。
案の定ユーニは、目の前の動物たちにもはやメロメロ状態である。

この施設の看板となる動物はずばりカピバラだ。
猫足型のバスタブがいくつか並んでいる暖かな部屋で、のっそりとしているカピバラたちは目を細めながら入浴を楽しんでいる。
その光景はあまりにも愛らしく、ユーニははしゃいでいる子供たちに混ざってスマホを構え、写真を連射していた。


「やばいやばい超かわいい!なにここ天国?タイオンよくこんな場所知ってたな」
「まぁな。たまたまだ。たまたま」


こんな可愛らしい施設、前々から知っていたわけがない。
“たまたま”とは言ったが、本当はユーニを喜ばせるために必死で探した結果の産物である。
考えに考え抜いてプランを組んだ甲斐あって、ユーニは随分と喜んでいる。
のそのそと部屋の中を歩くカピバラの尻をわさわさ撫でながら、“意外に硬い!”と興奮気味にこちらを見つめてきた。

いつも男勝りなユーニが、愛らしい動物を前にはしゃいでいる。
その姿がやけに可愛くて、思わず口元が緩んでしまう。
この笑顔は自分が引き出したものなのだと思うと、嬉しくてたまらない。


「あっ、タイオンあっち!あっちも見たい!」


そう言って、ユーニはカピバラのエリアの向こうにある小動物エリアを指さした。
どうやらモルモットやフェネックなどが並んでいるらしい。
ユーニは興奮気味にタイオンの腕に自分の腕を絡めると、ぐいぐいと引っ張り始めた。
その強引さに戸惑うと同時に、下心からくる喜びが胸の奥から湧き上がって来る。
恐らくユーニは、はしゃいだ反動で無意識に腕を絡めてきたのだろう。
特に深い理由も意味もない。それは分かっているはずなのに、喜びを抑えられない。

ユーニに引っ張られるような形で、2人はカピバラのエリアから小動物のエリアへと移動していた。
モルモットやミーアキャット、プレーリードッグハリネズミまでいる。
そのどれもが愛らしく、観察している客の視線を独占しているが、タイオンだけは動物をあまり見ていなかった。
隣で楽しそうにしているユーニの顔ばかり視線がいってしまう。

腕に絡んでいた彼女の手は、いつの間にか下に移動してタイオンの手を握っていた。
その手を握り返すと、自然に指と指が絡み合う。
ただ手と手が重なり合っているだけのことなのに、心臓が破裂しそうだった。

ユーニはちゃんとわかっているのだろうか。
今君の手を握っている男は、どうしようもなく君に惚れているのだという事実を。
嫌なら振り払って欲しい。気を持たせるようなことをしないで欲しい。
でも、少しでも希望があるのなら、このまま受け入れてほしい。
手を繋いでいるだけで、この乾いた心は水を与えられたように簡単に潤ってしまうから。


「良かったら抱っこしてみますか?」
「えっ、いいんすか?」


ユーニがあまりにもキラキラした目で見ていたせいか、スタッフの女性がにこやかに声をかけてきた。
彼女の腕の中には、もふもふした小さなモルモット。
くりくりの目でこちらを見つめているその姿は実に愛らしかった。

もふもふの誘惑に敵うはずもなく、ユーニは二つ返事で“抱っこ”を受け入れた。
握られていたタイオンの手をパっと放すと、彼女は両手でそっとモルモットを受け取る。
手が離れた瞬間、惜しい気持ちが心を支配したのは言うまでもない。
あぁ、せっかく手を繋げたのに。
だが、ユーニの手を引き留められるわけもなく、彼女の小さくて柔らかい手はもふもふのモルモットを抱くために奪われてしまった。


「うわぁ超かわいいんだけど!な、タイオン」
「あぁ、そうだな」


モルモットの身体を丁寧に撫でるユーニの手つきに、腕の中のもふもふは気持ちよさそうに目を閉じている。
全く羨ましいことだ。
さっきまで彼女の手は自分のものだったのに。
不満気にモルモットを睨みつけてみるが、小さなもふもふは意に介していなかった。

暫く大喜びで撫でつけていたユーニだったが、ようやく満足したのかスタッフの女性に小さなモルモットを返す。
あわよくばまた手を繋ぎたい。そう思っていたタイオンだったが、空いたユーニの右手をこちらから握りに行く勇気はなかった。
彼女は変わらず楽しそうにガラスの向こうにいる可愛らしい動物に見入っているが、タイオンは歯がゆくて仕方がない。

また手を繋いできてくれないだろうか。強引に腕を絡めて来るでもいい。服の袖を引っ張るとか、そういうのでもいいから、とにかくまたきっかけが欲しかった。
そして気付く。勇気をもって告白しようとしているというのに、未だ受け身の状態で怯えている自分自身の臆病さに。

こんなんじゃだめだ。
もっとちゃんとしなくては。
見ているだけじゃ終われない。気持ちを伝えて、心を渡して、ユーニの気持ちを聞き出して、そして彼女の特別になりたい。
自分にとっての彼女が唯一無二の存在であるように、彼女にとっての自分もそうでありたい。
せめてユーニの隣に立つに相応しくあれるように、“男らしいタイオン”でありたい。
そのためには、言わなくちゃ。好きだって。君が好きで好きでたまらないって。

自分の中にいるもう一人の自分が、臆病者の自分を激しく鼓舞する。
けたたましく騒ぎ立てる自分自身の声に従い、タイオンは目の前でうさぎを観察しているユーニの手をそっと握りった。
振り返るユーニのまん丸くなった青い瞳に、真っ赤になったタイオンの顔を映り込む。
手が振り払われることはなかった。
嫌がられてはいない。大丈夫。きっと大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせ、タイオンは赤い顔のまま囁く。


「そろそろ行こうか。店、予約してるんだ。夕食はそこで食べよう」


指先が震える。
懸命に男らしく振舞っているタイオンに応えるように、ユーニは一回り大きなタイオンの褐色の手を握り返し、そして頷くのだった。


***

屋内動物園を出てからずっと、タイオンはユーニの手を握り続けていた。
指先がほんの少しだけ震えている。
隣を歩いている彼はさっきから無口なままで、話を振っても“うん”だの“あぁ”だの短く返事をするばかり。
一向に目を合わせようとしない彼の耳は、異様なほど赤く染まっていた。
きっと緊張しているのだろう。
手を繋いだだけで口数が少なくなるほど緊張するなんてまるで男子高生のようだ。
けれど、そんな初心な彼を笑えないほど、ユーニの心臓もバクバクと高鳴っていた。

タイオンに連れられて入ったのは、随分とお洒落なバルだった。
どうやらここの看板メニューはローストビーフクラフトビールらしい。
所謂肉バルと呼ばれるその店は、内装はお洒落で料理も美味しそうだが価格はそこまで高いわけでもなく、付き合っていない2人のデートにはちょうどいい空気の店だった。
どうやらコース料理で予約を取っていたらしい。
予約名を告げると、店員はスムーズに2人を海が見える窓際の席へと案内した。

対面の席に腰掛けメニュー開くと、豊富なドリンクメニューに目移りしてしまう。
本来なら迷わずアルコールを頼むところだが、今日は車で来ている。
恐らくタイオンはソフトドリンクを注文するだろう。
となると、自分だけアルコールを頼むわけにはいかない。
注文を取りに来た店員にジンジャエールを注文するタイオンに会わせて、ユーニも同じものを注文した。


「ソフトドリンクでいいのか?僕に遠慮せず飲めばいいのに」
「いいって。一人だけ酔ってるのもなんかアレだし。今度また電車で連れてきてよ。その時一緒に飲もうぜ」


メニューを閉じて微笑みかけると、タイオンは少し照れたように眼鏡を押し上げながら“そうだな”と呟いた。
ふと周りを見ると、どの席もカップルでいっぱいだ。
お洒落な外観の通り、デートスポットとしてよく使われている店らしい。
窓から見える横浜港の景色も、陽が暮れた今は夜の闇にネオンが映えてとても綺麗だ。


「いい店だな。さっきの動物園といいチョコの店といい、随分横浜詳しいんだな」
「まぁ、何度か来たことがあるしな」


そう言って、タイオンは一瞬目を伏せた。
ユーニはあまり横浜の土地に明るくない。
中華街や赤レンガ倉庫があることは知っていたが、あんなお洒落なチョコレート専門店や屋内動物園が近くにあるなんて全く知らなかった。
恐らくタイオンは、自分の知らないところで横浜デートを経験していたのだろう。
そんなことを思いながら窓の外の景色に視線を向けていたユーニだったが、そんな彼女の真正面で視線を落としていたタイオンは静かに息を吐いた。


「……すまない。嘘をついた」
「ん?」
「横浜には詳しくない。来たこともあまりないんだ」
「え?そうなの?でもあんな穴場みたいな店……」
「僕なりに色々と考えたんだ。君に喜んでほしくて」


お得意の理論武装を全て取り払った素直な自白に、ユーニは面食らった。
ユーニがよく知っているタイオンという男は、随分と天邪鬼な男である。
いつもの彼なら、得意げに眼鏡を押し上げながら“僕を誰だと思っている?あんな店くらい元から知ってたさ”なんて強がる場面だった。
なのに今は、そんな強がりも見え張りもすることなく、まっすぐ素直に“君に喜んでほしい”と語った。
そのしおらしさに、心が沸き立つ。そして確信してしまった。

あぁ、アタシ多分、今日こいつに告白されるわ。

これはただの勘だ。それも、至極自分に都合のいい解釈が働いた、願望に近い勘だ。
けれど、妙に積極的なタイオンの態度が、素直な言葉が、真剣な表情が、この勘の正しさを物語っている。
心が浮ついて、期待せずにはいられない。
長い間欲しかった甘い言葉を、今日のタイオンなら言ってくれるんじゃないか。
そんな淡い期待を胸に、ユーニは少しずつ緊張の度合いを高めていった。

やがて飲み物と料理が運ばれてくる。
前菜が運ばれてからも、メインが運ばれてからも、そしてデザートが運ばれてからも、タイオンからそれらしい言葉をまだもらえていない。
けれど、美味い料理を口にしているせいかいつもより会話に花が咲いているような気がした。
タイオンとのひと時は楽しい。
軽口を言い合って、真面目で堅物なタイオンを揶揄ったり、時々タイオンが話す雑学に感心したり。
そんなタイオンとの時間が、ユーニは好きで好きで仕方なかった。

友達としてこうして一緒にいるだけでこんなにも楽しいんだ。タイオンの彼女になれたらもっと楽しいに違いない。
だから早く言ってほしい。“好きだ”って。
“僕と付き合ってくれ”って。
そう言ってくれさえすれば、考える間もなくすぐに頷くのに。

食事を終えた2人は、タイオンの“そろそろ行こうか”の一言で席を立った。
互いに学生であるため当然割り勘だと思っていたユーニだったが、彼女がトイレに立っている間にタイオンは会計を済ませてしまっていた。


「いくら?半分払うよ」
「いや、遠慮しておく。誘ったのはこっちだしな」
「でも付き合わせたのはアタシの方じゃね?」
「いいんだホントに。少しはカッコつけさせてくれ」


その言葉で、ユーニは諦めることにした。
今日はその言葉に甘えておくことにしよう。
また次に来た時はこっちが奢ればいい。それを理由に2回目のデートにつなげることだってできるのだから。
店を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。
結局それらしい言葉はまだ贈られていない。
やはり勘は勘でしかない。少しばかり期待しすぎていたかもしれない。
今日は距離を縮めるだけに留めておいて、そういうのはまた次の機会にってことなのかな。


「そろそろ帰る?車何処に停めたっけ?」


そう問いかけると、前を歩くタイオンが突然立ち止まった。
海からそよぐ風に髪を揺らしながら、彼は振り返ってこちらを見つめて来る。
その表情はやけに真剣で、褐色の瞳がゆらゆらと揺れていた。

 

「最後にどうしても行きたいところがあるんだ。もう少し付き合ってもらえるか?」


どうやら今日一日かけたデートは、まだ終わっていなかったらしい。
タイオンの真剣なまなざしを前に、ユーニは再び期待感を高鳴らせた。
期待しすぎというわけでもないのかもしれない。
この真剣な目と声色、間違いない。最後に行きたいところとやらで、告白される。
ユーニの中に宿る女の勘が、そうに違いないと告げている。
断る理由なんてなかった。告白してもらえるなら、どんなところにだって付き合うに決まっている。

“いいよ”と頷くと、タイオンはほっとしたように柔く笑って右手を差し出してきた。
“手を繋ぎたい”という合図である。
その素直な仕草でさえ、ユーニの期待を煽る材料になる。
差し出されたその手を握ることはなく、両腕で抱き着くように腕を絡ませた。
驚き目を丸くするタイオンに、寄り添いながら微笑みかける。


「アタシ、こうしてる方が好き」
「そ、そうか」


タイオンの声が上ずっている。
また耳まで赤くして、表情を隠すように眼鏡を押し上げる。
照れを隠す時にいつもやるその癖が、ユーニの心を温かくする。
なんでもいい。気持ちを言ってくれるなら、どんなに不格好でたどたどしい言葉でも構わない。
何を言われても、喜んで受け入れるだけなのだから。

タイオンは腕に絡みつくユーニをエスコートしつつ、夜の横浜を行く。
向かった先は遠くからでもよく目立つ街中の遊園地。
楽し気な空気が漂うその空間を、彼は迷うことなくまっすぐ歩く。
そしてたどり着いたその先で、星空が広がる空を指さした。


「……あれに乗ろう。付き合ってもらえるか?」
「えっ……」


タイオンが指さした先にそびえたっていたのは、遊園地の中心にそびえ立つ大観覧車。
地上からでもわかるその高さと大きさに、ユーニは言葉を失った。
呆然と観覧車のてっぺんを見上げるユーニに、タイオンは念を押すかのように言葉を続ける。


「あそこで大事な話がしたいんだ。2人きりの空間で」


先ほどまでは嬉しくてたまらなかったタイオンの真剣なまなざしと声色が、今度はユーニを追い詰める。
ココじゃなきゃダメ?
もっと別の場所がいい。
ここだけは、ここだけはどうしても無理なんだ。
そう言いたかったけれど、言えなかった。
もはやこの場所で告白されるのは確定していると言っても過言ではない。
だからこそ、折角告白する勇気を出してくれたタイオンの決意を挫きたくはなかった。
こっちも勇気を出さなくちゃ。
手の震えを懸命に隠しながら、ユーニは“いいよ”と頷いた。


***

タイオンがプランを考え抜いたユーニとの初デートはおおむね成功と言っていいだろう。
行く場所すべてでユーニは可愛らしい笑顔を見せてくれた。
会話もちゃんと盛り上がった。
手を延ばせば、繋ぐどころか腕を絡ませてくれるほどの空気を作れた。
今まで全くと言っていいほど自信はなかったが、なんだかいけるかもしれない。
いい返事が聞ける保証はないが、少なくも印象的な告白の場面を迎えることは出来るだろう。
後は最後の一手を決めるだけだ。

ノアとランツから、“ユーニは意外に乙女趣味だ”と聞いた瞬間から、告白のシチュエーションは決めていた。
綺麗な夜景を見ながら、ストレートに気持ちを伝えたい。
だが、何処かのビルの展望台のような他人の目がある場所は避けたい。
どうせ緊張するだろうから、2人きりで落ち着ける空間がいい。
夜景が楽しめて、絶対に2人きりになれる場所。
となれば選ぶ場所はただひとつ。横浜の中心にある遊園地の観覧車。ここしかない。

あの観覧車からなら、横浜の海と夜景が一望できるだろう。
そんな景観の中告白されたら、流石に印象には残るはず。
最後の一手を完遂させるために、タイオンは少しだけ口数が少なくなったユーニと共に観覧車に乗り込んだ。

先ほどからユーニは視線を自分の膝元に落としたままやけに大人しい。
もしかするとこの空気を察して緊張しているのかもしれない。
当然、タイオンの方もユーニ以上に緊張していた。
この静かな空間で、対面に座っているユーニに高鳴りが聞こえてしまいそうなほど心臓が騒いでいる。
手に汗が滲む。せっかく眼下に横浜のきらめく夜景が広がっているというのに、ゆっくり堪能できるほどの余裕はなかった。


「……夜景綺麗だな」
「うん」
「結構高いな。遠くまで見える」
「そうだな」
横浜駅はあっちのほうか。こうして見ると横浜も広いんだな」
「うん」


ユーニの視線は自分の手元に落とされたまま、窓の外を一向に見ようとしない。
短い返事しか返さないユーニの態度に、タイオンは少しずつ焦りを募らせていった。
まずい。ユーニの反応が悪い。
告白の瞬間を前にして、つまらない話ばかりしてしまっている。楽しくないのかもしれない。
もっと自然な成り行きで、さらっとスマートに告げたかったのだが、この空気では無理そうだ。
とはいえ、告白しないという選択肢はもうない。

今日、タイオンはこの胸に抱え込んだ淡い恋心を吐露するためだけにここにいる。
昼間観た素晴らしいミュージカルも、甘くて美味しいチョコレートも、愛らしいもふもふも、雰囲気の良い店も、この瞬間のために用意された前座でしか無い。

たったニ文字の気持ちを伝えるその瞬間を、タイオンは昨日何度も脳内でシュミレーションしていた。
シュミレーション上では、付き合ってほしいと伝えたタイオンの言葉にユーニが首を縦に振ることは一度もなかった。
返ってくる言葉はいつも一緒。"ごめん。好きな人がいるから付き合えない"だった。
けれど、ユーニは断ったあと必ずこう付け加えるのだ。"でも嬉しい"と。
断られることはわかってる。その"嬉しい"さえ聞ければ、多分それだけで満足できる。
君に惚れているんだと知ってもらえるだけで、今日という日に大きな価値が生まれるのだ。

2人を乗せたゴンドラはどんどん上昇し、やがて観覧車のてっぺんへとたどり着く。
ここが一番夜景がきれいに見える場所に違いない。
気持ちを伝えるなら、今しかない。
ゴンドラの高度とタイオンの緊張が頂点に達した瞬間、彼は意を決して口を開いた。
好きだと伝えるために。

だが——。


「ユーニ、あの、実は……っ」
「ごめん。やっぱ無理……」
「へ?」


正面に座っていたユーニが、急に両手で顔を覆いながら前のめりに身体を縮め始めた。
突然告げられた拒絶の言葉に一瞬戸惑ってしまったが、ユーニは震える声で“ごめん”を繰り返す。
その様子は、まるで何かに怯えているかのようだった。


「どうした……?」
「周り暗いし大丈夫かなって思ったけど、やっぱ駄目だった……」
「駄目って、何が駄目なんだ?」
「アタシ……。高いトコロ、苦手なんだ……」
「えっ?」


やっと合点がいった。
両手で顔を覆っているのは、窓の外の景色を見ないようにするため。
ずっと口数が少なかったのは、高所に怯えていたから。
ユーニ自身の言葉を裏付けるかのように、彼女の手は僅かに震えている。
いつも気が強い彼女がこうまで怯えているのだから、相当苦手なのだろう。
豹変したユーニの態度を見て、タイオンはようやく後悔の念を抱き始めた。
そう言えば、ノアやランツにユーニの好きなもについて尋ねはしたが、苦手なものに関しては全く聞かなかった。
まさか高所が苦手だったなんて。


「ご、ごめんっ、知らなかったんだ!本当にゴメン!」
「ん、平気……。でも悪い。ちょっと動かないで欲しい。揺れるとやばいから……」
「あ、あぁ、わかった……」


ユーニは両手で口元を覆いつつ、声を震わせていた。
手が、肩が、足が震えている。
長い睫毛が生えそろった大きな目からは、今にも涙がこぼれ落ちそうになっていた。
恐怖感で目に涙をためるほど嫌な場所に連れてきてしまったということか。

つい30分前まで楽しそうに笑っていたユーニから笑顔が消えた。
今の今まで、なにもかもが上手くいっていたはず。
あとは気持ちを伝えるだけだったのに、最後の最後で失敗したのか。
"嬉しい"と言って貰えればそれで良かったのに、喜ばせるどころか怖がらせてしまった。

違う。そんなつもり無かった。こんなはずじゃなかった。
こんな状況、全く想定していない。
どうしたらいい?一体どうしたら……。

恐怖に懸命に耐えているユーニを前に、タイオンはどんどん自責の念に苛まれていった。
ユーニが高いところが苦手だと知っていたら、こんなところには連れてこなかった。怖い思いをさせてしまった。楽しませたかっただけなのに。
小さくなって恐怖と涙をこらえているユーニを前に、もはや告白なんてできそうになかった。


***

ゴンドラが真下の乗降口に到着するまで、2人の間に会話はなかった。
ようやく観覧車から降りた後も、ユーニは恐怖感からうまく歩けなかった。
そんな彼女に、タイオンは何度も謝罪の言葉を口にする。
浮ついていたはずの二人の空気は、まるで葬式帰りのように地の底に沈んでいる。
“ごめん”と言われるたびに、ユーニは何度も自分を責めていた。
こんな空気にしたかったわけじゃない。自分はただ、タイオンに告白してほしかっただけなんだ。
もう少し自分に忍耐力があれば、きっとこんな悲惨な空気にはならなかった。
全部自分のせいだ。高いところが苦手な自分のせい。

涙は引っ込んでも、この重たい空気が消えることはなかった。
ほとんど無言のまま、2人は停めていた車へと乗り込み、帰路につく。
行きはあんなに楽しかったのに、帰りの車内は逃げ出したくなるほどの痛い沈黙が包んでいる。
車の窓から見える夜の空を見つめながら、ユーニは泣きたくなった。

あーあ。多分あの時、アタシがもう少し我慢してたらあの観覧車で告白してもらえてたんだろうなぁ。
折角タイオンが決意してくれたのに、その機会を手に出来なかったのはアタシの責任だ。
聞きたかったな。タイオンがなんて言うつもりだったのか。
どんな素敵な言葉を用意してくれていたのか。
想定上では、帰りの車内はもっと甘い空気に包まれていたはずだったのにな。

やがて車は長い帰路の末にウロボロスハウスへと到着した。
告白することもされることもないまま、2人は出発した時と同じ“ただの友達”として帰ってきてしまった。
“タイオンの彼女”になる機会を、見事に逃してしまったのだ。


「……ついだぞ、ユーニ」
「うん……」
「その……。今日は本当にすまなかった。怖い思いをさせてごめん」
「いいって。無理矢理我慢しようとしたアタシも悪い」
「……」
「……」
「とにかく、中に入ろうか」
「そうだな……」


車から降りた2人は、重い足取りでウロボロスハウスの玄関へと向かう。
先を歩くタイオンの背中を見つめながら、ユーニの心は死にそうになっていた。
ロマンチックな空気も、素敵な言葉も、もう何もいらない。
本当は、この気持ちが一方的なものではないと互いに確かめ合えればそれでよかったんだ。

目の目にいるタイオンが、ウロボロスハウスの玄関に鍵を差し込み扉を開ければ、また友達としての平凡な日々が始まる。
一体いつまで待てばいいのだろう。分かり切った好意の在処を、無駄な駆け引きで隠す日々にはとっくの昔に飽きている。

プライドが高くて、自尊心が強くて、天邪鬼なタイオンからの告白を心待ちにしていたけれど、事はそう簡単には進まない。
何故ならも、タイオンに負けないくらいプライドが高くて、自尊心が強くて、天邪鬼で、それでいて臆病者だったから。

自分だけでももっと素直になっていたら、こんなに長々とじれったい関係が続くことはなかったかもしれない。
たった二文字の気持ちを口に出来ていたら、こんな苦しい思いをしなくて済んだかもしれない。
答えはもう既に出ているはずなのに、いつまで見栄を張っているつもりなのだろう。

もう嫌だ。これ以上この気持ちを隠していたくない。
明日以降もタイオンの友達で満足していられる自信がない。
もっとアタシを見て欲しい。
自然に見つめ合えるような関係になりたい。

アタシは、もういい加減“次”に行きたいんだ。
タイオンと一緒に。


上着のポケットから鍵を取り出すと、タイオンは玄関の鍵穴にそれを突っ込んだ。
右に回すと、ウロボロスハウスの玄関扉は簡単に開錠する。

この扉を開いたら、また友達としての平凡な日々が始まる。
一体いつまで待てばいいのだろう。自覚してしまった好意の正体を、無駄な駆け引きで隠す日々にはとっくの昔に飽きている。

ユーニとの関係を壊したくないばかりに、くだらない理屈をこねくり回し、告白という試練から逃げ続けている。
実に臆病で情けないことは自覚していた。
こんな男らしさのかけらもない男、きっとユーニは好きになってくれない。相手にしてくれない。
相応しい自分でありたいと思う一方で、ユーニを前にすると緊張して怖気づいてしまう。

そうやって、何度機会を失っただろう。
これから先も、ユーニの友達として何度も何度も機会を見逃し、誰かがユーニの恋人のポジションを手に入れてからも指を咥えて見ていることしか出来ないのだろう。
ユーニが好きだという淡く激しい心を抱えたまま、ただの“友人B”で終わるのか。

そんなの嫌だ。これ以上この気持ちを隠していたくない。
明日以降もユーニの友達で満足していられる自信がない。
もっと君の日々に関わりたい。
代えの効かない唯一無二になりたい。

“友達”なんて称号いらない。
僕がなりたいのは、君の“彼氏”なんだ。


扉にかけていた手を放し、振り返る。
伝えなきゃ。もうシチュエーションとか雰囲気とかそんなものはどうでもいい。
この限界まで肥大化した好意を、飾ることなくぶちまけてしまいたい。
衝動に身を任せ、背後のユーニへと振り返ったその瞬間、左手の服の袖が掴まれた。
そして、夜の静かな住宅街にか細い声が響き渡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「好き」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


眼鏡の向こう側で、褐色の瞳が見開かれる。
たった今自分が口にしようとしていたその二文字が、目の前で俯いている大好きな人によって囁かれたような気がした。
その言葉が空耳などではないと確信したのは、顔を上げたユーニの瞳が今にも泣きそうなほど潤み、ゆらゆらと揺れていたから。
切なげな表情と、掠れた声色で、彼女は呆然としているタイオンへととどめの一言を言い放つ。


「アタシ、タイオンが好き」


コンマ1秒単位で遅れをとったタイオンは、ユーニからもたらされた信じがたい言葉に思考を停止させた。
何度か夢で見たシチュエーションだった。
あまりにも現実離れし過ぎている。
これも夢なのか?それにしては随分とリアルだ。
飛び出そうになるほど高鳴っているこの心臓も、まっすぐ見つめて来るユーニの瞳の青さも、左手の服の袖を掴んでくるユーニの指の震えも、何もかも現実にしか思えない。

心が、頭が、気持ちが、現実に着いて行かない。
この世で一番好きな子に告白されたという夢のような現実は、タイオンから思考力を奪っていった。


Act.55

 

午前8時。
アイオニオン大学祭当日。
その日ノアはいつもより早く家を出るため、寝ているミオを横目に支度を始めた。
私服に着替え、私物のヴァイオリンをケースに仕舞い背負う。
部屋からそっと抜け出すと、土曜の朝ということもありルームメイトたちはまだみんなまだ眠っているらしい。
階段を降りて玄関に向かうと、私服に着替えて靴を履こうとしているユーニの後ろ姿を見つけた。
特に深く考えることなくその背に声をかけると、ユーニは大きく肩を震わせて勢いよく振り返る。


「あぁなんだノアか……」


背後から声をかけた正体がノアだと分かると、彼女はすぐに安堵したような表情を見せた。
ユーニは昨日、タイオンと横浜へデートに出かけたはず。
帰って来た時間が遅かったせいか、留守番していた4人は全員タイオンとユーニに会っていない。
昨晩のデートで二人の仲がどれほど進展したのか、気にしていない者はいないだろう。
当然、ノアも2人のことを気にかけていた。


「もう出るのか?」
「あぁ。なんかミスコン優勝者はリハーサルに参加してくれって運営から言われててさ」
「あぁなるほど」


去年ミスターコンで見事優勝したノアには経験があった。
特設サイトで投票を募った結果、各部門で1位を獲得した学生は、大学祭当日ミスター&ミスコンの結果を発表する授与式に参加することになる。
その授与式のリハーサルは朝早く行われるため、自分も去年はこの時間に家を出た記憶がある。

ノアに彼女がいることが周囲に知れ渡ってしまったため、票はノアからゼオンへと流れている。
同じ理由で、ミオに集中していたミスコンの票はほとんど次点のユーニへと流れ、今年のミスター&ミスコングランプリの座はゼオンとユーニのものとなったのだ。


「そっちは?バンドのリハ?」
「まぁな」
「そっか。じゃあ一緒に行こうぜ」


今年、ミスターコンにノミネートされることが無かったノアだったが、それとは別に早朝から大学に向かわなければならない用事があった。
ゼオンに誘われ、臨時メンバーとして参加しているバンドのリハーサルがあるのだ。
バンドの練習に参加し始めて約2カ月。
練習の成果を披露するその瞬間がようやくやって来たのだ。

長らくヴァイオリンに触れることが無かったノアだったが、この2カ月の間必死に練習し、なんとか人前で演奏するに足る実力を取り戻すことが出来た。
とはいえ、まだまだ不安要素が全て拭えたとは言い難い。
演奏中に観客の視線から逃げるように目を瞑る癖は未だ治っていない。
目を瞑っていても演奏に支障はないが、この癖はノアの余裕のなさがさせた悪癖である。
自然と目を瞑っている自分を、ノアは苦く感じていた。

ヴァイオリンケースを背負ったノアは、ユーニと共にウロボロスハウスを出た。
朝の住宅街は休日ということもありいつも以上に静かである。
鳥のさえずりだけが聞こえるこの閑静な住宅街を歩きながら、2人は取り留めのない世間話に花を咲かせていた。
だが、ノアは一番聞くべき話題を明らかに避け続けている。
恐らく気にしているはずだ。にも関わらず一向に聞いてこないノアにしびれを切らし、ユーニはぽつりと話題を投じた。


「聞かねぇの?昨日のこと」
「そういうのはユーニが話したい時に話した方がいいと思うから」


昨日、タイオンとユーニがどんな結果をたどったのか、当然ノアも気にしていた。
だが、自分から掘り出そうとしなかったのは、ユーニを気遣ってのことである。
ユーニという人物と幼い頃から友人関係を築いてきたノアにはよく分かっていた。
彼女は話したことがあればいの一番に報告してくるはず。
自ら話さないいうことは、あまり話したがっていない証拠なのだ。


「まぁ、なんとなく察してるよ」


きっと、タイオンからの告白は不発に終わったのだろう。
もし告白されたのなら、ユーニは迷うことなくその好意に応えているはず。
見事交際に発展すれば、今この場で結果を報告してくるだろう。
嬉しそうに、ニコニコ笑顔を浮かべながら。
だが今のユーニは、落ち込んでいるようにも見えないが喜んでいるようにも見えない。
それはつまり、“なにもなかった”という事実の裏付けである。


「いや、別にフラれたとかそういうことじゃねぇからな?」
「分かってるよ。タイオンから何も言われなかったってだけだろ?」
「まぁ、うん。それはそうなんだけど……」


ユーニは何故か歯切れが悪かった。
たどうやら、“なにもなかった”という言葉で片付けられるような事態ではなかったらしい。
ではなにがあったというのか。
彼女からの言葉を待っていると、ユーニはなにやら言いにくそうに打ち明けてきた。


「玄関先でさ、告ったんだよね。アタシが」
「……え?」


ユーニの言葉に、ノアの眉間に一瞬で皺が寄った。


「タイオンじゃなくて、ユーニが告白したのか?」
「そう」
「えっ、あれ?うん?」


ノアは以前、タイオンから相談を受けていた。
デートの場でユーニに告白するつもりだ、と。
タイオンが告白をするのは頷ける。
だが、ユーニが告白する流れになるのはイマイチ理解が追い付かない。
混乱するノアに、ユーニは何故そんなことになったのか少しずつ事情を話すことにした。


***

「アタシ、タイオンが好き」


それはユーニにとって不測の事態だった。
言うまいとしていた言葉が、なんとしても相手に言わせようとしていた言葉が、するりと滑り落ちるように口から溢れてしまう。
もはや限界だったのだろう。
心に生まれたタイオンへの好意はじわじわと質量を増し、もはや封じておけないほど大きく肥大化していく。
結果、こうしてほとんど無意識に気持ちを口にしてしまったのだ。

溢れ落ちた“好き”に、ユーニは焦って口元を片手で覆った。
まずい。何言ってんだアタシ。
視線を泳がせた末にタイオンを見上げると、彼は眼鏡越しに褐色の瞳を大きく見開いていた。
信じられないものを目にしたときのような、そんな驚きに満ちた表情である。
どうやらあの呟きはタイオンにもバッチリ聞こえていたらしい。
もはや誤魔化しは効かない。無かったことにはできない。

違う違う。好きじゃない。ウソウソ!忘れて!
そう言って振り切ってしまおうか。
いやでもそんなことをしたら一生タイオンとの距離は縮まらなくなってしまう。
冗談で告白するデリカシーも常識もない女だと思われてしまう。
でもでも、ここで告白なんてしたら当初からの計画が台無しだ。
意地でもタイオンから告白させるというこの作戦が。
どうしよう。どうしたら。
あまり働かない頭をフル回転させ打開策を考えていたユーニだったが、彼女の頭が最適解を叩き出すよりも前に、タイオンが口を開いた。


「す……。え?あの、好きって、言ったか?」
「あ、えっと……」
「い、いや、聞き間違いだったらすまない。流石にありえないか」


瞼を伏せ、切なげに笑うタイオンを前に、ユーニはまた自分の意思とは正反対の行動をとっていた。
タイオンの服の袖を掴んでいた手に力を籠め、彼女は言う。


「言った」
「えっ……」
「好きって言った。タイオンが好き」


駄目だ。もう誤魔化せない。
この言葉を言ってしまえば、もう後戻りはできない。
友達になんて戻れない。
タイオンの気持ちはわかり切っているけれど、それでも好きな人に気持ちを伝える瞬間は心臓が暴れて仕方なかった。

夜の住宅街はやたらと静かで、2人が何も言葉を発しなければ痛い沈黙が流れてしまう。
相変わらずタイオンは黙りこくったままで、俯くユーニの頭上からは何も言葉が降ってこない。
いい加減何か言って欲しい。

恐る恐る顔を上げタイオンを見上げてみると、彼は予想の何倍も赤い顔で視線を泳がせていた。
戸惑っているのだろう。ユーニに掴まれている袖とは反対の手で口元を覆い、何度も瞬きをしている。
耳まで赤くなったその顔を前に、ユーニもまた収まりつつあった羞恥心が蘇っていく。

あぁどうしよう。今すぐ逃げたい。
穴があったら入りたい。何もかも投げ出してベッドにダイブし、枕に顔を埋めながら絶叫したい。
こうなると分かってたから自分から告白するのは嫌だったんだ。
死ぬほど恥ずかしい。

とにかく何か言ってくれ。なんでもいいから言ってくれ。
この沈黙にはこれ以上耐えられそうにない。
心の奥から湧き上がる羞恥心がキャパシティーを越えて、頭がオーバーヒートしてしまいそうだ。
逃げ出したい衝動と戦っていたユーニだったが、そんな彼女にようやくタイオンが言葉を投げかける。


「その、あ、あの、冗談とかではない、よな?」
「……こんな冗談言わねぇだろ普通」
「そ、そうだよな。うん。そうだろうな」
「……」
「揶揄っているわけではないよな?その、本心で言ってくれていると思っていいのかなと」
「そうだって言ってんじゃん」
「そ、そうか。えっと、うん。そうか……」
「……」
「……ドッキリとかではなく?」


いちいち疑ってかかるタイオンに少し苛立ちを覚えてしまう。
この小さな怒りを隠すことなく不満げに睨みつけると、彼は“ご、ごめん”と焦りつつ謝って来た。
一世一代の告白、と言うには少々勢い任せだったが、この気持ちは本物だ。
この淡く切ない恋心を疑われるのは気に入らない。
タイオン自身、疑ってかかるのは失礼だと自覚があったのだろうが、それでもやはり戸惑いは拭えそうになかった。


「あの、“好き”というのは、そういう意味の“好き”か?あ、い、いや、疑っているわけじゃなく、変に勘違いしたくないからで……」
「……」
「友達としての“好き”で合ってるか?あくまで友人として、同居人としての“好き”であって、その、れ、恋愛感情とかじゃ……」
「あぁもう!」


不本意に投げかけてしまった“好き”を深堀されたことで、ユーニの羞恥心はついに限界値を突破した。
心の耐久メーターに羞恥心だけでなく疑われたことで発生した苛立ちまで加算され、感情の制御が出来なくなる。
羞恥心と苛立ちに任せて大きな声で出すと、タイオンはびくりと肩を震わせ一歩後ずさる。
驚いた表情を見せるタイオンに、感情の操縦桿を手放してしまったユーニは押し殺していた気持ちをまくしたてるように叫び始めた。


「テメェ何回言わせんだ!好きっつってんだろクソが!この状況で“お友達として好き~”なんて言うわけねぇだろ頭湧いてんのか!」
「す、すまない……」
「人がせっかく気持ち伝えてんのにドッキリだの冗談だの失礼にもほどがあるだろうが!」
「ご、ごめん……」
「つか何?アタシがこの状況で告白ドッキリ仕掛けるようなやべぇ女だと思ってたわけ?んなことするワケねぇだろアホが!」
「申し訳ない……」
「“好き”の種類とかいちいち聞くんじゃねぇ!好きって言ったら好きなんだよ!恋愛感情なんだよ!分かったかコラ!」
「は、ハイ。わかりました。スミマセン……」


タイオンはいつのまにやら両手を前で握り、俯きながら謝罪を繰り返していた。
まるで不祥事を起こした企業の謝罪会見のようである。
状況を知らない人間が見たら、とてもではないが告白している女とされている男には見えないだろう。
羞恥心と苛立ちに身を任せて一気にまくし立ててしまったユーニは、これ以上言うことがなくなったことで急に勢いが失速する。

まずい。沈黙を埋める次の言葉が出てこない。
怒鳴り散らしてしまったせいで、もはや甘い空気など皆無。
この張りつめた空気の中、“ねぇタイオンは?アタシのこと好きィ?”などと媚びた態度で聞けるわけがない。
甘酸っぱい雰囲気を自ら壊してしまったユーニは気まずさに支配され、今すぐ尻尾を巻いて逃げ出したい衝動に駆られてしまった。


「……わ、分かったならもういい。じゃあ、その、そういうことでっ」
「えっ」


もはや耐えられなかった。
この静けさから一刻も早く立ち去りたい。逃げ出したい。
その衝動に従い、ユーニは目の前のタイオンを押しのけた。

戸惑う彼をよそに、既に鍵が明けられているウロボロスハウスの扉を速やかに開け、中へと入る。
帰宅というよりも避難に近かった。
扉の向こうからユーニの名を呼ぶタイオンの声が聞こえるが、すべて無視。
彼が家の中に入ってくる前に、ユーニは駆け足でセナと共同で使っている自室に駆け込み扉を閉めた。

時刻は既に12時を回っている。
セナはベッドの中ですやすやと寝息を立てていて、ユーニの帰宅に気付いていない。
扉を背に寄りかかりながら、ユーニは深く深く息を吐いた。
未だに心臓がバクバク高鳴っている。
頭が上手く回らない。

状況を整理しよう。
今夜自分はタイオンから誘われて意気揚々とデートに出かけた。
タイオンはデート中終始緊張しているようで、何か行動を起こす気配があった。
案の定、緊張した面持ちで観覧車に案内され、“大事な話がある”と言っていた。

あと一歩。あと一歩だった。
なのに告白されるよりも前に音を上げて空気は最悪に。
気まずさと戦いながら帰還したものの、このまま友達の状態をキープすることに嫌気がさし、咳をするように自然と言ってしまった。
“好きだ”と。
言われるはずだった言葉を、先に言ってしまった。


「ああぁぁぁ………っ」


言葉にならない呻き声を上げながら、ユーニはその場に座り込む。
頭を抱え、俯く彼女は耳まで真っ赤になっていた。
タイオンが部屋まで後を追ってこなかったのは、羞恥心で死にそうになっているユーニにとって不幸中の幸いと言えるだろう。
襲い来る気恥ずかしさに悶えながら、ユーニは一睡もできず朝を迎えたのだった。


***

「要するに、告白するだけして逆ギレして逃げたってことか?」
「……そうやって簡潔に要約されるとしんどいな」


昨晩、同居人たちが眠っていた間に巻き起こった騒動を詳しく聞いたノアは、無遠慮に要約してみせた。
彼の認識は間違いではない。間違いではないのだが、いざ言葉で言い表されると自分の行動がいかに理不尽で意味不明だったのか痛感してしまう。

だが仕方なかった。あのまま張りつめた空気に身を置いていたら、羞恥心と気まずさで心が爆発し、あれ以上に訳の分からないことを言ってしまっていたかもしれない。
ユーニにとってあの時の逃避は、これ以上タイオンに八つ当たりしないための妥協案だったのだ。
結果、告白したはいいものの肝心の返事を聞き出すのを忘れてしまったわけだが。


「けど、なんで返事聞かなかったんだ?」
「なんでって言われても、聞ける空気じゃなかったし」
「タイオンは?って聞くだけだろ。返事は分かり切ってるんだし、空気なんて気にしても仕方ないんじゃないか?」
「そうだけどさぁー……」


それは分かってる。
“タイオンは?”と問いかければ、間違いなく“YES”という回答が返って来るだろう。
それは間違いない。けれど、だけど、それでも、どうしても聞けなかった。


「……恥ずかしいじゃん」


歩きながら視線を逸らし、誤魔化すように髪の毛先を指で遊ばせていると、隣からぎょっとしたようなノアの視線が突き刺さる。
彼の青い目は言っていた。
“え、そんな理由で聞けなかったの?”と。


「んだよその目!絶対今“うわこつガラにもねぇこと言ってる”って思っただろ!」
「いや別に思ってないって。ほんの少ししか」
「少しは思ってんじゃねぇか!分かってんだよガラじゃねぇことくらい!でも仕方ねぇだろ。ハズいもんはハズいんだよ!だから耐えられなくなって理不尽に八つ当たりしちまったんだよ!」
「まぁ、そこはユーニらしいけど」
「最悪だよなアタシ。急に告ったてきたと思ったら急にヒスったと思われてるよな絶対。あぁもうやり直したい。昨日の昼くらいからやり直したい」
「うーん、流石にそれは無理だな……」


後悔に項垂れるユーニの横で、ノアは苦笑いを浮かべるしかなかった。
空気や雰囲気など小さなことばかり気にして上手く立ち回れないユーニは、相手との距離感を測りすぎて慎重になっているタイオンとよく似ている。
なんだかんだと言って、2人はどちらもどうしようもないほど不器用なのだ。

だが、不本意だったとはいえユーニが気持ちを伝えることが出来たことは事実。
それなりに勇気もいっただろう。懸命に振り絞られたユーニの“好き”は、きっとタイオンの心を動かしたはず。
ユーニのこの行動を、ノアは幼馴染として賞賛すべきだと考えた。


「けど、よく言えたな。タイオンもきっとちゃんと返事くれるはずだよ」
「だといいけどな」


不本意ながらも、ユーニは気持ちを伝えることに成功した。
あとはタイオンの行動次第だ。
ユーニがタイオンの返事を聞き出さなかったのは、羞恥心に負けたからというだけの理由ではない。
本当は、タイオンの方からも“好き”を聞きたかったのだ。

自らの意思で、勇気を振り絞り、震える声で気持ちを伝えてきてほしかった。
そしてその言葉を噛みしめ、笑顔で“YES”と答える。それが理想だった。
相手から好意を伝えてほしい。そんな我儘な乙女心が、ユーニを躊躇させる。
こちらが返事を促して引き出す“好き”に、そこまでの価値はない。
タイオンが自ら絞り出した“好き”にこそ、この心を歓喜させるだけの大きな価値がある。

タイオンから聞きたかったな、“好きだ”って。

こんな本音を口にしたら、隣を歩くノアはきっと驚くだろう。
付き合いの長い彼でも、ユーニの中にそんな乙女な側面があるとは知らないはず。
この桃色な思考回路は、タイオン相手にだけ発揮されるものなのだから。


***

いつも通り、自室で筋トレに励んでいるランツとセナの気配で起こされ、タイオンはベッドから起き上がった。
この筋トレカップルから揃ってニヤニヤと含みのある視線を向けられたが、何も言わず部屋を出る。

階段を降りて廊下を進み、洗面所へと向かう。
歯磨き粉をつけた歯ブラシを咥え込み、ぼうっと鏡に映る自分を見つけると、ようやく頭が覚醒し始める。
クリアになっていく頭は、次第に昨晩の夢のようなひとときを想起させた。

このウロボロスハウスに入る直前、ユーニ袖をきゅっと掴まれ引き留められた。
甘い空気を漂わせながら、彼女は言った。“好きだ”と。
そしてその直後、信じられないほど罵倒された。
馬鹿だのアホだの散々罵られ、最終的に外に置き去りにされた。
何が起きたのか分からず呆然としていたが、ようやく我に帰ってユーニの後を追うと既に彼女は自室に籠城しており、しつこく後追いするのは躊躇われる状況だった。

昨晩のあれは結局何だったんだ?
告白されたと思ったら急にブチギレられた。
揶揄われたわけでも、冗談を言われたわけでもないらしい。
彼女は顔を真っ赤にしながら鬼のような形相で“恋愛感情だ!”と叫び散らしていた。
あそこまでハッキリと断言された以上、疑う余地はない。
つまり昨晩のアレは、正真正銘間違いなく、告白だったということになる。

歯を磨く手がゆっくりとフリーズする。
感情の波が心の奥からぶわりと津波のように押し寄せ、タイオンから冷静さを奪う。
顔に熱がこもる。空いている片手で目元を覆いながら、タイオンは洗面台に項垂れた。

告白されたのか。ユーニに。あのユーニに。
この世で一番好きな女の子に。
正直信じられない。だってあのユーニだぞ。
男友達が多くて、やたらと可愛くて、憎たらしいほどモテるあのユーニだぞ。
そんなあの子が、恥ずかしそうに頬を赤らめながら好意を向けてくれただなんて、夢でも見ているようだ。
やっぱりドッキリなんじゃないか?明らかに釣りあっていないし。
いやいや、そうやって疑って昨晩は怒られたんじゃないか。
きっと嘘でも冗談でもない。


「いや、待てよ……?」


コップの水で口を濯ぎ、口内に残った歯磨き粉を吐き出した直後、重要なことに気付いてしまう。
そういえばデートに行く数日前、ユーニは好きな人からキスをされたと言っていた。
だが自分にはユーニにキスをした記憶などない。恐らく別人だろう。
ということはやはり昨晩の告白は嘘だったということにならないか?

いや待て。ユーニはあんなに怒るほど疑われることを嫌がっていた。
彼女が冗談を言っているようには思えない。
そうなると考えられるのは、昨晩のデート中に好意を寄せてくれたという仮説だ。
昨日のデート中、ユーニはずっと楽しそうにしてくれていた。
あんなに可愛くおしゃれをして来てくれたわけだし……。


「あっ」


また重要なことに気付いてしまった。
服やメイク、髪形を褒めることをすっかり忘れていたのだ。
それだけじゃない。歩いている時、彼女の荷物はちゃんと持ってやろうと思ってたのにそれも忘れていた。
車道側を歩かせないように気遣おうと思っていたのにそれもやっぱり忘れていた。

デート中気を付けるポイントは事前に頭に叩き込んでいたというのに、何もかも実行できなかった事実に今更後悔してしまう。
緊張して、何もかも全て飛んでしまっていたのだ。
それなりに楽しませていたと思っていたが、今こうして振り返ってみると失態も多い。
最終的には苦手な高所に連れて行ってしまったわけだし、やはり昨日のデートで好きになってくれた可能性は薄いだろう。

だとしたら、何故ユーニは告白なんてしてきたんだ?
キスをしてきたという“好きな人”とはどうなったんだ?
分からない。この小さな矛盾が気になって気になって仕方ない。

次々浮かんでくる疑問符に頭を抱えていると、背後でガラッと洗面所の扉が開く音がした。
顔を上げると、そこにいたのはミオだった。
洗面台の前で頭を抱えてうなだれているタイオンを見た瞬間、彼女の大きな目はまん丸く見開かれる。


「何してるの?大丈夫?」
「……気にするな。なんでもない」
「そう?」


ミオの目には、タイオンが朝っぱらから頭を抱え悶えているようにしか見えなかった。
不審に思いながらも、特に深堀することなく彼女はタイオンの横に並んで歯ブラシに手を伸ばす。


「昨日はどうだった?楽しかった?」
「あぁ、まぁ」
「告白は出来たの?」


やはりというか何というか、ミオはいの一番に昨日のデートについて質問を投げかけてきた。
昨晩、タイオンとユーニが横浜デートを楽しんでいる間、ウロボロスハウスに残された面々は2人が上手くいくことを願いながら夜を過ごしていた。
デートの結果が気にならないわけがない。
案の定触れられたデートの話題に苦い思いをしつつも、隠すことの無意味さを悟ったタイオンは素直に話すことにした。


「告白はしてない。逆に向こうからされた」
「え?ホントに?好きって言われたの?」
「あぁ」


キョトンとした表情で見つめて来るミオは、流石に驚いている様子だった。
だが、すぐに何かを察したように“そっかそっか”と噛み砕くようにつぶやき始める。


「辛抱できなくなっちゃったんだね、ユーニ。絶対自分からは告白しないって言ってたのに」
「……ちょっと待ってくれ。なんだその言い方。まさか知っていたのか?ユーニの気持ちを」
「うん」
「うん!?」


あっさりと認めたミオに、タイオンは思わず大声で驚いてしまった。
ユーニが自分に好意を寄せていたという事実を、ミオは把握していたらしい。
それだけじゃない。“ていうか全員知ってたよ?”とさらりと告げられた事実に、タイオンはこれでもかというほど目を見開きながら言葉を失った。
全員知ってた?なんだそれ。僕は知らなかったぞ。いや、僕だけが知らなかったのか。
あまりにも悔しい現実に戸惑いながら、タイオンはミオに詰め寄った。


「な、何で言ってくれなかった!?」
「人の恋愛事情に必要以上に首突っ込むのはご法度じゃない?余計なお世話でしょ」
「全然余計じゃないんだが。じゃあ何か?君たちはユーニと僕が両想いであることを知っていながら思い悩む僕をニヤニヤ面白がっていたということか!?」
「まぁ……。そうだね」
「なんてことだ……!この僕の半年間の苦労は何だったんだ……」
「でもほら、その苦労があってようやく付き合えたわけだし、無駄な時間ってわけでもなかったんじゃない?」


ミオの言葉に、タイオンは何も言わず視線を逸らした。
ユーニから告白されたということは、それはつまり2人の関係の発展を意味している。
聞かずとも交際が始まった事実は堅いと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。
“え、付き合ってないの?”
そう恐る恐る問いかけると、タイオンは眼鏡を押し上げ目を泳がせながら控えめにうなずいた。


「えーーっ、なんでぇ!? 断っちゃったの!?タイオンだって好きだったんでしょ?」
「こ、断ってない!断るわけない!ただちょっと、返事をし損ねただけで……」
「え?返事しなかったの?」
「まくしたてるように告白された後、すぐ逃げるように立ち去ってしまったから」
「追いかけなかったの?」
「……追いかけなかったな」
「自分も好きって言わなかったの?」
「……言わなかったな」
「えっ、なんでなの?」
「……なんでだろうな」


理解不能とでも言いたげなミオの視線が、タイオンへと突き刺さる。
彼自身、自分の行動を激しく後悔していた。
昨晩、突然告げられた好意に戸惑ったタイオンは、耄碌し困惑し思考停止した末ユーニの後を追いかけることなく大人しくベッドに入ってしまった。

あの晩、ユーニの後を追ってきちんと話をしていれば、きっと今頃幸せな結果になっていたことだろう。
あぁ、なんで強引に彼女の手を取って引き留め、“僕も好きだ。付き合ってくれ”と言えなかったのか。
戸惑いを隠しきれず、冷静ではいられなかったのだ。
今さら悔いても、逃したチャンスは戻ってこない。


「返事しないの?」
「もちろんするつもりだ。ただ……」
「ただ?」


部屋着のポケットからスマホを取り出し、ユーニとのトークルームへアクセスする。
朝起きてすぐ、彼女に送った“話がしたい”というメッセージは、既読が着いたまま返事が来ていない。

彼女は今朝、ミスコン発表のリハーサルがあるため早くに家を出ているはず。
リハーサルで忙しいのか、それとも故意に無視しているのか。
前者であってほしいと願っているが、後者である可能性の方が高いだろう。

ユーニの気持ちもは分かった。けれど、今現在の彼女の機嫌は分からない。
彼女の気持ちを何度も疑った上、困惑して返事をし損ねた意気地無しな自分に愛想が尽きてしまったのかもしれない。
気持ちが冷めてしまったのかも…。
折角好きだと言ってもらえたのだ。こんなくだらない事で嫌われたくはない。
無反応なスマホの画面に視線を落としつつ、タイオンは深いため息をついた。

 

Act.56


大学祭当日を迎えたアイオニオン大学は、所属学生や外から遊びに来た近隣の住人たちで活気に満ちていた。
正門をくぐった並木道には、各ゼミやサークル、団体による出店が乱立している。
バンドとミスコンのリハーサルのため先に家を出たノアとユーニ以外のルームメイトたち4人は、昼前にウロボロスハウスを出ると、大学祭に湧くこのキャンパスへと訪れた。


「それはユーニが悪いだろ」
「えー、タイオンに非があると思うけどなぁ」


並ぶ出店で焼きそばやたこ焼きを購入し、イートスペースとして設けられたテーブルにつく。
学祭を楽しむ人々の波を横目に観察しながら、4人は熱い議論を交わしていた。
正確に言えば、議論を交わしていたのはランツとセナの2人。
昨晩のデートの結果を詳細にタイオンから聞いたこの2人は、焼きそばとホットドッグを肴にどちらに非があるか激論を展開している。
デートをこなした本人であるタイオンを横目に盛り上がるランツとセナは、まるで討論番組のコメンテーターのようだった。


「だってよォ、そもそもユーニが高いトコロ苦手だって最初から言っておけば変な空気にならずに済んだんじゃね?」
「それはタイオンが告白してくると思ったから無理しちゃったんだよ!タイオンがもう少し察しが良ければこうはならなかったって」
「察せるわけねぇだろタイオンは鈍いんだから」


ランツの言葉は、同じテーブルについているタイオンの胸に容赦なく突き刺さった。


「つか、ユーニも告るんだったらちゃんと返事まで聞けってんだよ」
「恥ずかしかったんだよきっと!タイオンが先に告白してれば万事解決だったんだって」
「タイオンの告白が遅れたのは仕方ねぇだろ。コイツは引くくらい慎重で恋愛偏差値底辺高校レベルなんだから」


再びランツの言葉が矢のように突き刺さる。
ランツはタイオンを庇うように味方してくれているつもりらしいが、正直セナよりも彼の言葉のほうが心を抉られる。
流石にこれ以上傷心したくなかったタイオンは、2人の激論にようやく口を出した。


「ちょっと待ってくれ。ランツ、庇ってくれるのは嬉しいが、さっきから言葉が全部心に突き刺さってるから……」
「えっ、あぁ悪い。思ったこと素直に言い過ぎたな」
「……」


慎重すぎる自分の性格はとっくに自覚している。
ユーニの気持ちを知った今、この性格のせいで何度も機会を失っていたことも痛いほど分かっていた。
彼女も自分に気があったということは、あの時もあの時も、さらにはあの時すらも両想いだったということ。
何ということだ。もっと早く気持ちを伝えてさえいれば、とっくの昔に特別な関係になれていたというのに。

じりじりと距離感を測ることに時間をかけすぎてしまったがゆえに、ユーニを随分と待たせてしまった。
その結果、辛抱できなくなったユーニが爆発するように気持ちを口にしてしまったのだろう。
これ以上彼女を待たせたくはない。
いち早く返事をして“友達”の境界線を踏み越えたいが、現状こちらからのアクションにユーニが全く反応を示していないのが問題だった。


「というか、こんなところでのんびりしてないで早く返事したほうがいいんじゃない?」
「したいのは山々なんだが、LINEの返事が来ないんだ」


助言するミオに、タイオンは懐から取り出したスマホの画面を見せる。
表示されていたのはユーニとのトークルーム。
“昨日の件で話がしたい。時間を作って欲しい”というタイオンの実に業務的な内容に、既読はついているもののユーニからの返事はまだ来ていない。


「今ミスコンのリハーサル中だろうから、忙しくて返信できないのかもね」
「うーん。でもさっき私が送ったLINEには返信来たよ?ほら」


ミオのフォローも虚しく、横からセナがスマホの画面を見せてきた。
同じくユーニとのトークルームが表示されている。
“ミスコン頑張ってね!”というセナからのメッセージに対し、可愛らしいウサギのキャラクターが親指を立てているスタンプが届いていた。
セナには返事をしているのに、なぜ自分は既読無視なのか。
明らかに避けられている事実に、タイオンは落胆を禁じ得なかった。

セナが見せて来たスマホの画面を見た瞬間、タイオンは死んだ目をしたまま机に額をぶつけた。
ゴンッと痛々しい音が響くも、魂が抜けたように机に突っ伏している。
誰がどう見ても落ち込んでいる様子のタイオンに憐みの目を向けながら、ミオは彼の背中を優しくさすり始めた。


「ショックだよね~。好きな子に無視されてるのショックだよね~」
「あっ、ご、ごめんねタイオンっ!ユーニも故意に無視してるわけじゃないと思うんだ!ミスコンのリハーサル中で忙しいだけで、ちょっと面倒だから後回しにしているんだよきっと」
「僕のメッセージへの返信はそんなに面倒なのか……」


本格的に傷心モードに入ったタイオンに、一同は苦笑いを零すしかなかった。
ミスコンのグランプリ表彰式は昼過ぎごろに予定されている。
それが終わるまでは、ユーニと会う時間を作るのは難しいだろう。
少なくとも、タイオンがユーニに告白の返事をするタイミングはすぐには巡ってこないはず。
この曖昧で不安定な状況が続くことに落胆しているタイオンを横目に、ランツは懐からスマホを取り出した。


「ミスコンなー……。表彰式って何時にどこでやるんだっけか?」
「公式HPに載ってるんじゃない?」


表彰式が行われる場所と時間を調べるため、ミスコンの公式HPにアクセスしてみるランツ。
どうやら13時から第一体育館にて表彰式は行われる予定らしい。
グランプリに輝いているユーニとゼオンの写真が、HPの上部に大きく表示されている。

画面を下にスライドさせていくと、2位以下の順位が小さく表示されていた。
そういえばグランプリにばかり目がいっていて、2位以下のメンツを全く気にしていなかった。
ノアやミオは去年までこのランキングの常連として名を連ねていたし、他にも知り合いがランクインしているかもしれない。
興味本位で2位以下の順位を覗き見た瞬間、ランツはそこに表示された名前に思わず言葉を失った。


「ランツ、どうかした?」
「えっ?あ、いや別にっ」


横からセナに問いかけられた瞬間、心臓が跳ねる。
焦ってスマホを懐に仕舞い込み誤魔化すと、セナは不思議そうに目を丸くしていた。

ミスター&ミスコンの公式HPに掲載されていた投票結果は、ランツにとって予想外過ぎるものだった。
1位のユーニから下にランクインしていたミスコン入賞者のほとんどは知らない顔だったが、一人だけよく知る人物が名を連ねている。
8位の座に、彼女であるセナの名前があったのだ。
今までミスコンのランキング上位者にセナが食い込むことは一度も無かったはず。
しかし今年に入り急に8位にランクインするなんて。

セナは可愛い。この投票結果も、ランツにとっては妥当どころか低すぎると感じるほどだ。
だが、今までセナの大きすぎる魅力に気付いている人間は少なかった。
だからこそ、誰も気付いていないセナの可愛さに数年前から気付けている自分自身に優越感を覚えていた。

セナの可愛さは自分だけが気付いていればいい。
自分だけにしか見せない可愛さを独り占めできているこの状況はあまりにも甘やかだ。
しかし、セナを独占できていた現状にヒビが入り始めている。

最近、セナは自分という彼氏が出来たことでほんの少し自分に自信が生まれたのか、一層可愛くなった。
まずい。自分以外の男どもがセナの魅力に気付きつつある。
それは嬉しい反面、焦りを感じる事実でもあった。
セナのファンがじわじわ増え始めている状況を前に、ランツはようやくタイオンの気持ちに共感出来た。
なるほど、ライバルが多い相手を好きになるということは、こういうことか。


「タイオン、頑張れよ」
「なんだ急に」
「周りのことなんて気にすんな。お前らは最初からお互いしか見えてねぇんだからな」


その大きく屈強な手をタイオンの肩に手を乗せ、ランツは爽やかに微笑みかける。
突然屈託なくエールを贈って来たランツの様子に、タイオンはただただ首を傾げるしかなかった。


***

模擬店をめぐって様々なグルメを楽しんでいるうちに、時刻はあっという間に正午を過ぎた。
そろそろミスター&ミスコンの表彰式が行われる時間である。

結果は既に分かり切っているが、ミスコングランプリに輝いた同居人の雄姿を見守るため、4人は表彰式の会場となっている第一体育館へと向かった。
広い体育館には観客用のパイプ椅子が無数に並べられ、既にほぼ満席の状態である。

このミスター&ミスコンは学外でも広く注目されており、設営された会場には近隣から見学に来た一般客の姿も多数見られた。
既に盛況である会場に空いている席は見当たらない。
4人は仕方なく2階のギャラリーへ登り、立ったままステージを見守ることにした。


「すごい賑わってるね。ユーニ緊張してないかな?」
「ユーニは度胸あるし、きっと大丈夫よ。それに表彰式って言っても大したことやらないから」
「そういやぁ、去年まではミオが連続でグランプリだったんだよな?」
「うん。ノアと付き合ってるってみんな知ってるから、私には票が集まらなかったみたい」
「やっぱり恋人の存在って強いんだね。相手がいるってだけで皆興味なくしちゃうのかな」
「そうなのかもね。まぁ私はノアだけに好かれてればそれでいいんだけど」


ミオがこの大学に入学して以降、ミスコングランプリの座は3年連続彼女のモノだった。
だが、4年目になる今年、ミオにノアという彼氏が出来たというニュースが流れ、例年彼女に集まっていた票は蜘蛛の子を散らすかの如くばらけていった。

票を入れていた男たちが、全員ミオとのロマンスを夢見ていたわけではないのだろうが、それでも恋人がいるという事実は票の集まりに影響するらしい。
“ミオはノアのもの”という認識が大学内に広まった事で、ミオへと向けられていた熱視線の温度が一気に下がったのだ。
それはつまり、ノアにとってライバルの減少を意味している。

もっと早くユーニの好意に気付いていれば、もっと早く告白していれば、もっと早く付き合っていれば、“ユーニはタイオンのもの”という認識が広まり、ユーニがグランプリに輝くこともなかったのだろうか。

ミオたちの会話を横で聞きながら、タイオンはそんな不毛な仮説を思い描いていた。
だが、今さら悔いても過ぎ去った時間は帰ってこない。
好意に気付いた今もまだ、ユーニはタイオンのものになってはいない。
誰のモノでもないユーニは、今まさに男たちからの熱視線を集め、“この大学で一番の人気者”としてステージに上がるのだ。

あぁ、見たくない。
不特定多数からの人気を集めているユーニの姿なんて、見たくない。
自分だけが彼女を見つめていたい。そしてあわよくば、彼女も自分だけを見つめていてほしい。
互いに熱を孕ませながら、視線を絡ませ合えるような関係になれればどんなにいいか。
そこまで考えて、タイオンは単純なことに気付いてしまう。

“アタシ、タイオンが好き”

掠れる声で囁かれたユーニの言葉が、脳裏に蘇る。
一方通行だと思い込んでいた時期が長すぎて、忘れていた。
既にユーニの視線が自分に向いている事実を。
2人の視線はとっくの昔から絡み合っていた事実を。


「お待たせいたしました!アイオニオン大学ミスター&ミスコン、表彰式を始めたいと思いまーす!」


考え込んでいるうちに、表彰式開幕の時間がやってきたようだ。
やたらとテンションが高い司会の学生が、マイク片手に会場を盛り上げる。
椅子に座って表彰式の開幕を待っていた観客は、司会に煽られるまま拍手や歓声を挙げていた。
随分な盛り上がりを見せる会場に、隣に並んで見守っているミオやランツ、セナも楽しそうに拍手を贈っていた。
この場において浮かない顔をしているのは、タイオンただ一人だけである。


「それでは早速、グランプリに輝いたお2人に登場していただきましょう!ミスター部門グランプリ、ゼオンさん!そして、ミス部門グランプリ、ユーニさんの登場です!どうぞー!」


司会の渾身の呼び込みと共に、紙吹雪が舞い上がる。
体育館のステージ両脇から、ゼオンとユーニが薄っすら照れ笑いを浮かべながら入場してきた。
2人ともいつもの私服ではなく、恐らくこのステージのために用意されたであろうスーツとカジュアルドレスに身を包んでいる。
ステージ上に登場した2人の美男美女を前に、女性の観客からは黄色い歓声が、男性の観客からは割れんばかりの歓声が贈られる。


「うわぁ、ユーニ可愛い!」
「ホントね。ドレスすごく似合ってる」
「朝早くに家出てったのはあぁやってめかし込むためだったのか。大変だな、ユーニもゼオンも」


ステージに登壇している2人に、ミオたちはにこやかに拍手を贈っている。
そんな仲間たちのすぐ隣で、タイオンは眼下に立っている着飾ったユーニの姿を拍手もせず呆然と見つめていた。

観客たちの視線が、ステージ上のユーニに向けられている。
こんなにも盛り上がるのは当然の流れだろう。だって、今あそこにいるユーニはあまりにも可愛い。
肩まである明るい髪を緩く巻き、黄色いカジュアルドレスに身を包んでいるユーニは、まさにミスコン優勝者に相応しい華やかさを振り撒いている。
ゼオンと共に観客からの熱視線を独占しているユーニを見つめ、タイオンの胸はぎゅっと締め付けられた。
ユーニが遠い。遠すぎる。


ゼオンさん、ユーニさん、グランプリおめでとうございます。今のお気持ちを聞かせてください!」


そう言って、司会はハイテンションのまま隣に立っているゼオンへとマイクを渡した。
マイクを遠慮がちに受け取ったゼオンは、少し戸惑いながら左隣に立っているユーニへの様子を伺っている。

ユーニと同じく、ゼオンもまたこのようなコンテストの優勝を両手放しで喜べる性格ではない。
“お気持ちを”と聞かれても、特に答えられることはないのだろう。
だが、ここまでの盛り上がりを見せている観客たちを前に、“特にありません”などと空気の読めない返答は出来そうにない。
少々迷いながら、ゼオンはマイクを口元に持っていく。


「えー……。正直驚きましたが、ありがたいです」


そう短く答えると、彼はすぐにユーニにマイクを回した。
ユーニも少しだけ困ったように苦笑いを浮かべると、仕方なくマイクを受け取る。


「アタシもびっくりしました。でもまぁ、嬉しいです」


2人の回答は可もなく不可もない、実に面白みのない内容だった。
だが、それでも大学一の美男美女に選ばれた2人の言葉というだけで価値があるのだろう。
2人が答え終わると、観客は無意味な歓声と拍手を再び贈り始めた。
ユーニの手からマイクが司会の学生に戻されると、司会はまたもノリノリで質問を投げかける。


「グランプリに輝いたお2人に憧れている学生も多いかと思います。そこでお聞きしたいのですが、ずばり、お2人とも彼氏彼女はいますかっ!?」


司会が発した無遠慮な質問に、タイオンは思わず肩をビクつかせた。
驚くタイオンとは対照的に、観客は司会の踏み切った質問を賞賛するかの如く大盛り上がりを見せている。
期待と熱気が渦巻く会場の熱視線が、一気に温度を上げる。
その光景を眼下に見つめながら、タイオンは内心怯えていた。

やめろ。そんなこと聞くな。
聞きたくない。聞かせたくない。


「彼女はいません」


マイクを回されたゼオンが、迷うことなくきっぱり答える。
その瞬間、会場の女性観客たちは一気に色めき立つ。
キャーキャーと黄色い歓声を挙げながら、ゼオンに期待の眼差しを向けている彼女たちは、きっと彼とのロマンスを夢見ているのだろう。
そんな彼の手から、マイクがユーニへと渡る。
マイクを受け取ったユーニは、一拍迷うそぶりを見せた後、はっきりと答えた。


「アタシもいません」


ユーニの答えと共に、男たちの歓声と拍手が沸き上がる。
会場のどこからか“俺と付き合って—!”などとふざけたヤジが飛んでいた。
自分が長い間言えずにいた言葉が簡単に投げかけられたことで、心の奥から激しい感情の波が押し寄せる。
答えは分かり切っていた。自分とユーニは付き合ってなどいない。
誰のモノでもない事実を彼女が口にした瞬間、そこらじゅうの男たちが期待を孕んだ目でユーニを見つめ始めている。

見るな。そんな目でユーニを見るな。
そんな軽々しく“付き合って”なんて言うな。
彼女は僕の、僕だけの——。

心の奥から押し寄せる感情の津波が、タイオンを突き動かす。
頭で考えるよりも先に足が動いていた。
強い力で掴んでいたギャラリーの手すりを手放し、横に並んでステージを見下ろしていた仲間たちに何も言わずに背を向ける。
そして、衝動に駆られるままに走り出した。


「お、おいタイオン!?」
「えっ、どこ行くの?」


背後から仲間たちの自分を呼ぶ声が聞こえたが、足を止めることはなかった。
2階のギャラリーから階段を下って慌ただしく1階へと降りる。
ダバダバと派手な音を立てて階段を降りている途中、どこかのスピーカーから司会の声で“以上、表彰式を終わります!ありがとうございました!”と場を閉めるアナウンスが聞こえて来る。
その声を聞きつつ、ようやく1階へと到着したタイオンはステージに拍手を贈っている観客たちの席の脇を走り抜ける。

向かった先はステージ袖。
舞台の脇に設置された小さな扉を抜けると、ミスコン運営に携わっているスタッフたちが数人立っていた。
部外者であるタイオンが突然現れたことで、スタッフたちの怪訝な視線が集中する。
だが、いちいち気にしていられなかった。

舞台袖に目を向けると、ステージから降壇した司会とゼオン、そしてユーニ姿が見えた。
もはや迷っている暇も、躊躇している暇もない。
舞台袖に控えているスタッフたちをかき分け走り寄ると、タイオンの姿を見つけたユーニの目が大きく見開かれる。


「えっ、タイオン?なんでここに……」
「来てくれ!」
「は?えっ、ちょっ……」


タイオンの褐色の手が、ユーニの白く細い手を掴む。
周囲からの注目に臆することも躊躇することもなく、彼は強引にユーニの手を引き走り出す。
突然現れてミスコン優勝者の身を攫って行こうとするタイオンに、司会をはじめとするスタッフや先ほどまで一緒に登壇していたゼオンは驚きを隠せなかった。

彼らの戸惑う声を背中に聞きながら、タイオンは急いで舞台袖を後にする。
着飾ったユーニの手を引きながら観客席の脇を通り、まるで誘拐犯の如く走り去っていくタイオンの様子は、その場にいた多くの学生が目撃していた。
当然、取り残されたミオたちも2階のギャラリーでその様子を見下ろしている。
何がどうなっているのか分からず、ギャラリーで見物していた3人の仲間たちは互いに目を見合わせる。
その間に、タイオンはユーニの手を決して放すことなく、会場から外に彼女を連れ出すのだった。


***

アイオニオン大学のキャンパスは広大な敷地面積を誇っている。
体育館は2つ。集会用のホールは3つ。グラウンドは3つ。授業等で使われる建物はA棟からD棟まで4つある。
そんな広いキャンパス内は、どこもかしこもお祭りムードで溢れていた。
いつもは人がいない場所も、出店が乱立し人の通りが激しくなっている。
そんな浮かれている学生たちの中を、タイオンはユーニの手を引きながら黙って歩いていた。


「お、おいタイオン!どこまで行くんだよ!」


戸惑うユーニの声が背後から聞こえて来る。
困らせていることは分かっていた。
けれど、今さら後戻りはできない。
いつもは良く回る頭が、今日ばかりは思考を停止させていた。

やがて、暫く歩いた末にタイオンの足が止まる。
たどり着いた先は、C棟と第二音楽ホールの間を通る小さな通路だった。
どこもかしこもお祭りムードに支配されているキャンパス内で、ここだけは随分と静かで人通りも少ない。
普段のキャンパスライフでもなかなか訪れる事のない場所に連れてこられたことで、ユーニはさらに動揺していた。


「タイオン……?」


“来てくれ”と力強く手を握られ表彰式の会場から連れ出されて以降、タイオンは一言も喋っていない。
こちらを振り返ることもなく、ただただ無言で手を引くタイオンがなんだか怖かった。

不安が募る。いつも分かりやすいタイオンが、口を開かず顔も見せてくれないせいで今は何を考えているのか全く分からない。
恐る恐る彼の名前を呼んでみても、タイオンは背を向けたまま振り返ることはなかった。

一方、ユーニを半ば強引に連れ出してしまったタイオンの脳内は今にも爆発寸前なほど混乱していた。
まずい。衝動に任せて何も考えずにつれ出してきてしまったが、これからどうすればいいんだ。
やることは分かっている。昨晩の返事をしなくては。
でも、ユーニの心を揺り動かす素敵な返事の言葉をまだ一言も考えていない。
無計画にもほどがある。

タイオンという男は、いつ何時であっても計画性を忘れない人間だった。
何か行動を起こすときは、1から10まで手順を脳内でシミュレーションし、結果を予想したうえでようやく動く。
それが彼のやり方である。

衝動や思い付きで無計画に行動を起こしたことなど一度も無いタイオンだが、今まさにユーニを前にして計画性を失っている。
台本と計画書ありきで動いていた彼にとっては、初めての“ノープラン”。
もはや、今この胸に宿る思いのたけを、飾ることなくありのまま伝える他ない。
例えどんなに無様で不格好な言葉だったとしても、もう言うしかない。
慎重さで着飾った鎧を脱ぎ捨てて、タイオンは裸のままの心を打ち明けるために息を吸った。


「あのっ」


早速声が裏返った。
イキナリかっこ悪い。
急にひっくり返った大声を出したせいで、背後に立っているユーニがびくりと肩を震わせていたのだが、背を向けているタイオンは気付かない。


「……すまない。急に連れ出して。どうしても、話したくて」
「それはいいけど、なんで背中向けてんの?こっち向いて話したら?」
「いや、それは無理だ」
「なんで?」


背中を向けられたままでは、タイオンの顔が見えない。表情が見えない。
顔が見えない会話は、対面で話していないのと同義だ。
相手の顔色が見えないまま大事な話をすることに、ユーニは小さな抵抗感を覚えていた。
向き合って話すよう促す彼女だったが、タイオンはかたくなに拒否をする。
理由を尋ねると、彼は少し俯いてかすれた声で返答してきた。


「今君の顔を見たら、素直に話せなくなるから……」


いつもプライドと自尊心の鎧を纏っていたタイオンにしては、随分と弱々しい声だった。
その声色と、真っ赤に染まった耳を見て、彼が今どんな顔をしているのかすぐに分かってしまう。
正面から向き合う理由を失ったユーニは、それ以上追及することなく素直に“分かった”と口にした。
背を向け続けるタイオンの広い背中を見つめながら、彼の言葉を待つユーニ。
彼女からの蒼い視線を背後に感じながら、タイオンは深く息を吸い、そして吐いた。


「昨晩のこと、しつこく疑ってすまなかった。どうしても信じられなかったんだ。君が、君みたいな人が、僕を好きでいてくれたなんて」
「うん」
「嬉しくてたまらなかった。ホントに、夢を見ているようで……」


相手の表情が分からないのは、背を向けているタイオンも同じだった。
彼女の顔が見えない。どんな顔でこの言葉を聞いているのか分からない。
振り返ってユーニの顔を覗き込むのは簡単だが、それをすればきっと今以上に心臓が騒ぎ出してしまう。
辛うじて繋ぎ留めている冷静さを失いたくはない。
必要以上に心を乱されて、昨晩のような失態を犯すことだけはもう嫌だった。


「でも、僕は君が思っているよりずっと、姑息な人間なんだ」
「姑息?」
「なんだかんだと理由をつけて君から逃げてるくせに、君が知らない誰かと距離を縮めると途端に引き留めたくなる。決定的な言葉は何も言えないのに、それでも、近くにいてほしくて……」


自らの褐色手を左の胸の上に押し当てると、笑ってしまうほどにバクバクと心臓が高鳴っていた。
胸が苦しい。呼吸が上手く出来ない。頭も回らない。顔に熱が帯びる。目頭が熱くなる。
知らなかった。好きな人に気持ちを伝えるだけのことが、これほど恐ろしいものだったとは。


「君は皆に好かれてる。君の隣に居たいと思っているのは僕だけじゃない。だから、君を取り囲む輪の一員でいられればいいと思ってた。それだけで満足だって言い聞かせてた。でも……」


タイオンの頭の中には、台本も計画書も何一つ収納されていない。
衝動と勢いによって後押しされた丸裸の言葉を、タイオンは飾ることなく囁いた。


「本当は、君の“一番”になりたい……」


自分でも驚くほどにストレートな言葉だった。
もっとスマートに、比喩や暗喩を交えながらもっとユーモラスに素敵な言葉を贈るべきなのに。
言った直後に後悔の念に苛まれたタイオンは、何とか軌道修正するために早口で言い訳じみた言葉を並べ立てる。


「だからその、君が誰を好きだとか、誰に好かれてるだとか、そんなこともうどうだっていい。君のことを独占出来たらいいのにって、僕だけのユーニでいてくれたらいいのになんて思ってしまうくらい姑息で独りよがりな男なんだ僕は。本当はものすごく嫉妬深いしワガママだし独占欲が強いし面倒くさいし、それでも僕は君を……。あ、いやちょっと待て、違う。そういう流れで言いたかったんじゃない。もっとこうちゃんとした言い回しで……。あぁもう!要するにだな、えっと、僕が言いたかったのは……」


台本も計画書もないタイオンの“お返事”は、早くも根元から崩れ始めていた。
もっと素敵な言葉で、もっと綺麗な流れで、もっと美しいやりとりで、この気持ちを伝えたかった。
たった二文字の言葉を口にするだけだというのに、策をこねくり回して結果的に複雑な絡まり方をしてしまう。
言いたいことがまとまらず、迷宮に迷い込み始めたタイオンは焦りを滲ませる。

どう軌道修正したものか。もう最初から言い直すか?いやいやここまできてそれは不格好すぎる。
ここから逆転して素敵な告白の返事をするにはどこまで巻き戻るのが適切だろう。
こうしている間にも、ユーニが呆れてどこかへ行ってしまうかもしれない。
考えろ、考えろ。挽回の方法を考えるんだ。
動きの鈍くなった頭で必死に打開策を絞り出そうとするタイオンだったが、そんな彼の背中にユーニの穏やかな声が投げかけられる。


「タイオン、こっち向いて」
「え?」
「こっち、向いて?」
「い、いや、今は勘弁してくれ……」
「いいから、早く」


正直、振り返るのは嫌だった。
こんなにも頼りなく無様な顔、ユーニには見られたくない。
今さら働き始めた自尊心が邪魔をする。
だが、ユーニに“こっち向いて”とお願いされたら断れるわけがない。
情けない顔に失望されることを覚悟しながら、タイオンは背後のユーニへと振り返った。

タイオンの褐色の目とユーニの蒼い目が見つめ合ったその瞬間。
ユーニが何も言わずぐっと距離を詰めて来る。
踵が浮き、軽く背伸びをした彼女の鼻先が目の前に迫った。
タイオンが驚くよりも前に、彼女はタイオンの服を軽い力で掴みながらその柔らかい唇をタイオンの唇に重ねる。
触れ合う唇と唇に、成す術なくタイオンは目を見開いた。

ユーニにキスされている。
その事実を咀嚼できたのは、既にユーニの唇が離れた後のことだった。
石のように固まり、言葉を忘れているタイオンに笑いかけるユーニの頬は、らしくないほど赤く染まっている。


「姑息でもいいじゃん。ワガママでもいいじゃん。そういう奴じゃなきゃ好きになんてなってない」
「ゆ、ユーニ……」
「“一番”どころか、とっくの昔に“特別”になってたんだよ、タイオンは」
「……っ、」
「だからアタシ、タイオンと……」


何かを言いかけたユーニだった、その言葉は最後まで口にすることなく遮られてしまった。
瞳を潤ませたタイオンが、彼らしからぬ力強さでユーニの華奢な身体を引き寄せ、腕の中に閉じ込めたのだ。
渾身の力で抱きしめて来るタイオンに驚いたユーニは、思わず“わっ”と小さなな悲鳴を挙げてしまう。
そんな彼女の戸惑いに構うことなく、腕の中にユーニを束縛したタイオンは今にも消え入りそうな震えた声で囁くのだった。


「好きだ、ユーニ……。君が好きだ。大好きなんだ……っ」


真面目で堅物で、成績優秀な彼の口から“大好き”などという幼い告白の台詞がこぼれ落ちたことで、ユーニの胸がきゅんと可愛らしい音を立てた。
ずっと欲しかった言葉なのに、あまりにも言われ慣れていないせいか無性に恥ずかしい。
身体の奥からむずむずした感覚に襲われながら、ユーニは溢れる恥ずかしさを誤魔化すように笑いを零した。
そして、抱き着いてくるタイオンの広い背中を両手で撫でながら、ほんの少しの意地悪を言ってみる。


「言うのおせーよ、ばーか」
「……ごめん。ずっと言いたかった。言えなかったんだ」
「いいよ。アタシもおんなじだから」


抱きしめて来るタイオンの腕が、ほんの少し力を強めた気がした。
大好きでたまらないタイオンの腕に抱きしめられながら、ユーニは彼の背中を撫で続ける。
タイオンの温もりが身体に伝ってきて、幸福な気持ちが湧き上がって来る。

この瞬間を何度も夢に見てきた。
タイオンに“好きだ”と告げられて、自分も頷きどちらからともなく抱きしめ合う。
天邪鬼な仮面を脱ぎ捨てて素直になれば、とっくの昔に成就していたはずのこの恋は、必要以上に遠回りした末ようやくゴールへとたどり着いた。

気持ちが通じ合うことは、こんなにも幸せな気持ちになれるものなのか。
湧き上がる幸福感を噛みしめながら、ユーニは自分を抱きしめたままのタイオンの背中をひたすらに撫で続ける。
そして、撫でつけるユーニの手がタイオンの背中を20往復したあたりで、彼女はあらぬことを思ってしまう。

………長くね?このハグ、長くね?

タイオンがユーニを抱きしめてから、実に5分もの時間が経過している。
その間、タイオンは黙ったまま。
流石に無言で抱き合うには5分という時間は長すぎる。
タイオンが渾身の力で抱きしめているせいか、若干反り腰の体勢になってしまっているため腰が痛くなってきた。

あぁどうしよう。やばい。めっちゃ腰痛い。
正直放してほしい。今すぐ離れてほしい。しんどい。辛い。痛い。
だが、限界を訴え始めるユーニの身体とは裏腹に、タイオンは抱きしめる力を緩めようとしはない。
流石にもうよくね?5分も抱き合うのは流石に長すぎるだろ。
言ってしまおうか。“離れて”と言ってしまおうか。
いやでも折角気持ちが通じ合ったこのタイミングで相手を拒否するような言葉を吐くのはちょっと……。

男勝りな性格に相反して気遣いが出来るユーニは、タイオンの心情を察して“離れて”の一言が言えずにいた。
だが流石に腰が限界値を突破しつつある。
もう言ってしまおうか口を開きかけた次の瞬間、先ほどまできつく抱きしめていたタイオンが急にユーニの両肩を掴み身体を開放してきた。
驚き、丸い目で見上げると、タイオンは何故か妙に憐れむような薄い笑みを浮かべながらとんでもないことを言ってきた。


「離れがたいのは分かるが、すまない。そろそろ腕が辛くなってきた。もういいか?」
「……はぁぁぁ?」


まるでこちらがくっついていたがっていたかのような“もういいか?”の一言が、ユーニの心に火を着けた。
何が“もういいか?”だ。
コアラみたいにひっついてきたのはそっちだろうが。
こっちはお前が抱き着いていたいのかなと思ったから腰の痛みにも耐えて黙ってやっていたというのに。


「いやいや、放さなかったのはお前の方だろ?」
「君がずっと背中を擦ってきたからこのままの状態がいいのかと思って放さなかっただけだ」
「お前がゴリラみたいな力で抱きしめてきたからだろ?」
「誰がゴリラだ!」


つい先ほどまで甘い気持ちを渡し合っていたにも関わらず、2人は突如フルスロットルで言い合いを始めてしまった。
先ほどまでの甘い空気は一瞬にして押しのけられ、“いつものタイオンとユーニ”のやり取りが開始される。

人通りの少ない細い通り道でぎゃいぎゃい言い合っていた2人だったが、突然タイオンの上着の内ポケットに収納されていたスマホが震え始めた。
どうやら誰かからメッセージが届いたらしい。
一旦言い争いを中断しスマホの画面を確認したタイオンだったが、すぐさま焦った様子を滲ませながらユーニへとスマホの画面を見せてきた。


「まずい。ノアのバンドのことをすっかり忘れていた」
「あっ」


タイオンのスマホに表示されていたのは、セナからのメッセージ。
“そろそろノアの出番だよー?”というそのメッセージを確認し、ようやく思い出したのだ。
あと10分足らずで、ノアが臨時で参加しているバンドの出番が回って来る事実を。
会場は第一ホール。ここから徒歩5分はかかる距離にある。
今から急いで行けば何とか間に合うだろう。
顔を見合わせたタイオンとユーニは、ようやく焦り始めた。


「やっべぇ。急いで行かなきゃじゃん。あぁでもその前に着替えなきゃな。一番近い更衣室ってどこだろ」
「ちょ、ちょっと待った!」


急いで移動しようと歩き始めたユーニの手を、タイオンが慌ただしく引き留める。
何事かと振り返ると、つい先ほどまでぷりぷり怒っている様子だったタイオンが顔を赤くしながらこちらを見つめていた。


「重要なことを言い忘れてた」
「なに?」
「今更かもしれないが、その……。僕と、付き合ってくれ。……ませんか?」


命令口調は良くないと思ったのだろう。
急遽質問口調に変えてきたタイオンからの言葉に、ユーニはぷっと吹き出した。
本当に今更だ。
けれど、今更でもきちんと確認を取ってくれる真面目さは、タイオンらしい行動である。
その真面目なところがたまらなく好きだったユーニはふっと笑みを零し、揶揄うようにタイオンの顔を覗き込んだ。


「うーん、どうしよっかな」
「えぇっ!?」


流石にこの流れで断られるとは思っていなかったタイオンは、ユーニからのまさかの言葉に素っ頓狂な声を挙げた。
100点満点なリアクションを得られたことで満足したユーニは、“あははっ”と快活に笑うとタイオンの腕に自らの腕を絡ませる。


「冗談だって!付き合うに決まってんだろ?」
「はぁ……。まったく、人を揶揄うのも大概にしてくれ」


そう言いながらも、タイオンの口元は緩んでいた。
今、自分の腕に絡みついて楽しそうに笑っているユーニは、この瞬間から自分の“彼女”になったのだ。
そう思えば、憎らしいユーニからの揶揄いも可愛く感じる。
“早く行こうぜ”と腕を引っ張るユーニに形だけの悪態をつきながら、タイオンの心は少年のように跳ねていた。

迷いなく握られた2人の手は、指と指を絡ませぴったり重なり合う。
距離感を測りあう不毛な関係に幕を閉じた2人は、ようやく“恋人”ととして歩き出すのだった。


Act.57


第一ホールでは終日、サークルや同好会による有志のバンドたちのライブが開催されていた。
ノアが臨時メンバーとして参加するバンドの出番は、午後からのブロックの一番手。
順番としてはかなり優遇された位置だった。

運営が順番を優遇してくれたのは、恐らく話題性を重視した結果だろう。
今年ミスターコングランプリに選ばれたゼオンと、昨年度グランプリに輝いたノアの2人が参加するバンドなのだ。
注目されないわけがない。
案の定、ノア達の演奏が始まる直前である今、第一ホールには多くの客が殺到していた。

ミスコンの表彰式が終了したその足で第一ホールに向かったミオ、セナ、そしてランツだったが、既にホール内の席は満席状態。
席に座っている客のほとんどは、ゼオンやノアを目当てとしているらしい女性客ばかりである。
その光景をホールの2階ギャラリーから立ち見の状態で見渡しながら、3人は時間を気にしていた。


「タイオンたち、戻ってこないね……」
「そうね。大丈夫かしら」
「平気だろ。どうせアイツらのことだから、どっかでラブコメかましてんだろ?」
「ラブコメって……」


適当な彼氏の言葉に、セナは呆れたように目を細めた。
ミスコン表彰式の会場から慌ただしく姿を消したタイオンとユーニが、揃って戻ってこないのだ。
状況から察するに甘酸っぱいイベントが2人の間で巻き起こっているのだろう。
そう考えると、わざわざ電話をかけるのは憚られる。
仕方ない。LINEのメッセージを送るだけにとどめておこう。
そう思ったセナは、懐からスマホを取り出し、とりあえずタイオンに様子を伺うメッセージを送ることにした。


「悪い。始まる前に俺ちょっとトイレ行ってくるわ」
「うん。分かった。行ってらっしゃい」


ノアの演奏が始まるまであと15分。
用を足すならこのタイミングしかないと見込んだランツは、セナとミオを残して速足でその場を去っていく。
その背を見送った直後、少しだけそわそわとしながら舞台袖を気にしているミオの様子に気が付いた。
舞台袖につながる小さな扉には、このライブの関係者らしきスタッフたちが忙しそうに出入りしている。

恐らく、一番手であるノア達バンドのメンバーも、あの扉の先で控えているのだろう。
ミオは、まさにそこに控えているであろうノアのことを気にしているに違いない。
そう察したセナは、タイオンへメッセージを送信したと同時にミオへと声をかけ始めた。


「ねぇミオちゃん。ノアの様子見てきたら?」
「えっ、でも……」
「私ここで待ってるから、行ってきなよ。気になるでしょ?」
「確かに気にはなってるけど……。セナ、一人にしちゃって平気?」
「平気平気!ランツもすぐ帰ってくるだろうし心配しないで!」
「そう?わかった。じゃあ、ちょっと行ってくるね」


人見知りなセナを一人きりにすることに不安を感じていたようだが、セナ自身が背中を押したことで踏ん切りがついたらしい。
申し訳なさげな控えめの笑みを浮かべると、ミオは手を振りながら駆け足で1階に続く階段へと向かった。

にこやかに送り出してくれたセナを、あまり長い間一人にしたくない。
急いで階段を駆け下りホール1階に降りたミオは、舞台袖に繋がる小さな扉に手をかけた。
そっと中を覗き込むと、中には楽器やスピーカー、コード類が散乱している中スタッフの学生たちが慌ただしく動き回っていた。
ノアはどこだろう。見知らぬ顔がたくさんいる空間に戸惑いつつ、開けた扉の隙間から彼氏の姿を探したミオだったが、すぐ背後から声がかかる。


「何してるんだ?」


振り返ると、そこにいたのは随分と端正な顔。
直接の面識はないが、彼のことはつい数十分前のミスコン表彰式で見かけたためよく知っている。
今回ノアが臨時メンバーとして参加するバンドのリーダー、ゼオンである。
ゼオンの方もまた、面識はなくともミオのことをうっすらと認知していた。
彼女は高校の頃からの同級生でもあるノアの恋人であり、去年までミスコンで連続グランプリに輝いている有名人だ。
知らないわけがなかった。


「あっ、えっと、ノアを探してて」
「そうか。ちょっと待っててくれ」


そう言うと、扉の隙間から中を覗き込んでいたミオの間をするっと抜けて中に入ると、ゼオンは迷うことなく舞台袖の奥へと向かって歩いて行った。
恐らく、彼もミスコンの表彰式が終わった後、着替えてすぐにここにやって来たのだろう。
周りのスタッフから“お疲れ”と声を駆けられている様子だった。
そんなゼオンは、物陰の奥へ入り込んでいく。
その後すぐ、見慣れた人影がこちらに向かって駆け寄って来た。ノアである。


「ミオっ」
「ごめんねノア、忙しい時に……」
「全然いいって。もしかして、顔見せに来てくれた?」
「うん。そんなとこ」


奥からやって来たノアは、思っていたよりいつも通りだった。
良かった。久しぶりに人前でヴァイオリンを演奏するこの状況を前に緊張していると思っていたけれど、心配し過ぎていたらしい。
予想以上に落ち着いた様子であるノアの様子に、密かに安堵してしまう。


「頑張ってね、ノア。私たち、2階のギャラリーで見てるから」
「あぁ」
「じゃあ、私もう行くね。忙しい時にごめ……」


1人きりでギャラリーに残してしまったセナのことを頭の片隅で心配していたミオは、ノアにすぐに別れを告げその場を去ろうとする。
その瞬間、不意に背後からノアに腕を掴まれた。
どうしたのだろうかと振り向いたその時、ミオの身体は強い力で引き寄せられ、ノアの腕の中に閉じ込められる。
突然抱きしめられたことに驚き、息を詰めるミオ。
そんな彼女の耳元で、ノアは少しだけ震えた声で囁いた。


「ごめん。ちょっと充電させてほしい」


そのか細い声を聞いて初めて気が付いた。
自分を抱きしめているノアの腕が、僅かに震えていることを。
そっか。平気そうな顔をしていても、やっぱりまだ怖いんだ。ヴァイオリンを人前で弾くのが。

一度逃げ出したものと向き合うのは簡単なことではない。
同じ音楽に精通した人間として、自分の演奏を他人から評価されることの恐ろしさはよく分かる。
けれど今は、このコンクールでもなければ発表会でもない。大学祭のイベントであるこの場には、審査員も批評家もいない。
ノアを追い詰める存在など、この場には一人とていないのだ。
彼の震える心に寄り添うように、ミオはノアの背中にそっと手を伸ばし優しく撫でおろす。


「大丈夫だよ。ノアなら大丈夫」
「……あぁ」
「今のノアは、上手な演奏なんてする必要ないの。会場の皆を楽しませればいいんだよ」
「楽しませる、か……」
「そう。皆、楽しむためにこの会場にいるんだから。もちろん私もね」


一瞬だけ、ミオを抱きしめるノアの腕の力が一層強くなった。
そして、深く息を吐くとゆっくりミオの身体を開放する。
見つめて来るノアの蒼い目は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。


「ありがとう、ミオ。行ってくる」
「あっ、もう充電いいの?」
「あぁ。あんまり長くいると、必要以上に甘えてしまいそうだから」
「そっか」


別にいいのに。
そんな心の呟きを口に出してしまったら、きっとノアのためにならないのだろう。
すぐに抱擁から解放されたことに、むしろ自分の方が惜しく思ってしまったミオだったが、ここは我慢が必要だ。

“じゃあ”と柔らかく笑みを浮かべながら手を振るノアは、舞台袖の奥に引っ込んでいってしまった。
本番直前であるため、いろいろと準備があるのだろう。
頑張れ、ノア。
大好きな彼氏に心の中でエールを贈りながら、ミオは舞台袖を後にした。


***

2階のギャラリーで一人待っていたセナは、スマホの画面に視線を落としたまま難しい顔をしていた。
タイオンに送ったメッセージはすぐに既読がついたものの、まだ返事が来ていない。
あのきっちりした性格のタイオンが、メッセージを既読したにも関わらず返事をしないなど珍しい。
返事すらできないほどの状況なのだろうか。
ユーニと一緒にいるのは間違いないが、ちゃんと上手くやれているのだろうか。
心配しながらスマホと睨み合っていたセナだったが、そんな彼女の背後から声がかかった。


「ねぇ君、一人?」
「え?」
「良かったら俺たちと一緒に回らない?ご飯おごるよ?」


振り返った先にいたのは、見知らぬ二人組の男たちだった。
派手な髪色をした目立つ容姿の2人は、誰がどう見ても軽そうだ。
突然話しかけてきた2人の姿を見た瞬間、セナは驚き身を縮こませてしまう。
今までなら疎くて戸惑うばかりだったが、今なら分かる。
この声の掛け方は、きっとナンパという奴だ。
どうしよう。どう断ろう。なにも返答できず戸惑っていると、2人のナンパ男たちはぐいぐいと距離を詰めて来る。


「うちのサークルさ、お好み焼き売ってんだ。食べに来ない?」
「可愛い子は無料にしてんだ。ね、おいでよ」


男のうちの一人が、強引にセナの華奢な肩に腕を回してきた。
その瞬間、全身に鳥肌が立つ。
これはもしや、嫌悪感という奴だろうか。
見知らぬ男に触れられた瞬間、何も言えず戸惑うばかりだったセナの頭にランツの顔が浮かぶ。
自分には、大好きでたまらない大切な彼氏がいる。
この嫌悪感は、ランツという存在がいるからこそ生まれた生理的な現象なのだろう。
そう思った瞬間、セナは肩に回された男の手からそっと逃れると、たどたどしく言葉を紡ぎ始めた。


「ご、ごめんなさい。私、彼氏いるから……」


かつて同じように見知らぬ男から声をかけられた際、ランツに教えてもらった対処法。
“嘘も方便”という言葉を体現化したような方法だったが、今となっては嘘偽りない真実だ。
ランツという彼氏がいる事実を伝えさえすれば、きっと男たちも諦めてどこかへ去っていくはず。
そう思いつつ勇気を振り絞りながら断ったセナだったが、男たちは“あーそうなんだぁ”と適当に流しながら顔を見合わせていた。


「でもほら、ちょっと一緒にご飯行くだけだからさ」
「えっ」
「ちょっとくらい他の男と遊んでも良くない?」
「いや、でも……」


男たちの諦めの悪さに、セナは戸惑ってしまう。
あれ、おかしい。彼氏がいると伝えれば何とかなると思っていたけれど、こんなにも粘られるなんて想定外だ。
必殺の“彼氏います”攻撃に怯む気配もない二人の男に、セナは次の一手を見失っていた。
どうしよう。ランツに教えてもらった必殺技が効かないなんて。
困惑するセナを追い詰めるように、2人の男たちは積極的に距離を詰めて来る。


「てかさぁ、たぶん彼氏さんも他の男と遊んだくらいじゃ怒らないでしょ」
「そんなことで怒るような彼氏、心狭くない?」
「悪かったな、心が狭くて」


聞き覚えのある声が、目の前に立ちはだかる男たちのすぐ後ろから聞こえてきた。
顔を上げた先にいた大好きな彼氏、ランツを視界に入れた途端、筆舌に尽くしがたい安堵感が心奥から湧き上がって来る。
男たちの脇を抜けてランツの背中に隠れると、ランツはセナを庇いながら男たちを見下ろし威圧感をたっぷり振り撒きはじめた。


「お前さんたちの察しの通り俺は心のが狭いからな。人のツレに馴れ馴れしく声かけるような野郎を笑って許してやれるほど余裕ねぇんだよ」
「す、すんません!もう近づきませんから……」
「ご迷惑おかけしましたっ」


大柄で強面なランツが睨みを効かせれば、大抵の男は威圧できる。
誰がどう見ても腕っぷしが強そうなランツの登場に、2人の軽い男たちは尻尾を巻いて去っていく。
去っていくその背を睨みながら、ランツは深くため息を吐いた。
少し離れただけでこんなにも簡単にナンパ男どもが寄って来るとは、やはりセナは自覚がないだけでどんどん可愛くなっている。
その事実が喜ばしいと同時に、どうにも危機感を抱いてしまう。


「ありがとうランツ。ごめんね、迷惑かけて……」
「迷惑じゃねぇって。むしろちゃんと“彼氏いる”って言って断れたことは成長だろ」
「うん。でも全然退いてくれなくて焦っちゃった。言い方が悪かったのかな……」
「いや。相手の諦めが悪かっただけだ。気にすんな」


自分よりも数十センチ背の小さいセナの頭を撫でると、彼女は嬉しそうに笑顔を浮かべながら遠慮がちに頷いた。
その人懐っこい笑みが、人を惹きつけている事実に彼女自身気付いていない。
ずっと独占出来ていたセナが、日を重ねるごとに男たちの視線を集め始めている事実は、ランツを少しずつ焦らせていく。


「うかうかしてらんねぇな……」
「え?なにが?」
「いや、何でもねぇよ」


ギャラリーの手すりに両肘をつきながら遠くを見つめるランツ。
そんな彼氏の含みのある言葉に、セナは不思議そうに目を丸くしながら首を傾げていた。
そんな2人の元に、階段を登って来た一人の女性が“ごめんお待たせー!”と駆け寄って来る。
ノアの顔を見に行っていたミオが、ようやく戻って来たらしい。
“おかえり”と声をかけたセナに、ミオは柔らかく微笑みながら“ただいま”と返していた。


「ノアの様子、どうだった?」
「うん。やっぱりちょっと緊張してるみたいだった」
「ま、久しぶりに人前で演奏するんだし、当然だな」
「大丈夫かな、ノア」
「あいつなら平気だろ。そんな弱い奴じゃねぇって」


不安げにステージを見下ろすセナとは対照的に、ランツはさほど心配している様子はなかった。
幼馴染であるがゆえに、ノアという親友の強さを信頼しているのだろう。
ランツの言葉に、ミオもまた共感していた。
ノアならきっと大丈夫。不安や緊張に押しつぶされることなくやり遂げてくれるはずだ。

開演時間が1分1秒と迫るごとに、ホールの熱気も高まっていく。
やがて時計の針が開演1分前を指し示した頃、スマホの画面で時間をチェックしたミオが“そういえば……”と呟いた。


「タイオンとユーニ、まだ来ないね……」
「あっ!いた!」


遠くから突然聞こえてきたその声は、ユーニのものだった。
妙に切羽詰まったその声に反応し、3人は反射的に声が聞こえてきた方へと視線を向ける。
すると、1階に繋がる階段から登って来たらしいユーニとタイオンがこちらに向かって駆け寄ってきている光景が視界に飛び込んでくる。
ようやく現れたタイオンとユーニに驚く3人だったが、彼らの視線は2人の手元へと一点に注がれていた。


「あー間に合った!タイオンが走るのおっそいから間に合わないかと思ったぜ」
「君が随分のんびり着替えていたからだろ。おかげで全力疾走する羽目になった」
「だって背中のファスナーに手が届かなかったんだから仕方なくね?下ろしてって頼んでもお前やってくんなかったし」
「ぼ、僕がそんな事するべきじゃないだろ」


ほんの少し息を乱しながらいつも通り幼い口論を繰り広げるタイオンとユーニ。
だが、目の前の2人にはいつも通りとは言えない箇所がひとつだけあった。
タイオンの左手と、ユーニの右手がしっかりと握られているのだ。
しかも指が絡み合っている恋人つなぎの状態。
走っているうちに自然と繋いでしまったわけでもないらしい。
しっかりと絡み合っている2人の手を無言でじっと見つめているミオたちの視線にようやく気が付いたタイオンとユーニは、互いに少し顔を赤らめながら3人を睨みつける。


「な、なんだその顔。ニヤニヤすんな馬鹿!」
「……事情は後で話すから、今は何も言わないでくれ」
「「「ふぅ~~~ん」」」


正直、詳しく聞かずともなんとなく結果は察することが出来る。
力強く握られている2人の手がその答えだろう。
3人は声を合わせながらニヤニヤと含みのある笑みを浮かべていた。

明らかに面白がられているその視線に居心地の悪さを感じながら、タイオンとユーニはつないだ手を放すことはない。
そうこうしているうちに、明るかったホール内の照明はゆっくりと落とされていった。
暗くなったホール内は熱気に包まれ、期待に胸を躍らせた観客たちはざわめき始める。
そして、ステージを覆っていた幕が、明るい照明と共にのぼっていった。

いくつもの照明に照らされたステージ上には、楽器を構えたバンドメンバーたちの姿が。
ようやくステージ上に現れた彼らの姿に、観客は黄色い声援を送り始めた。
ボーカルのカイツ、ベースのゼオンをはじめとする正規メンバーの横で、ヴァイオリンを構えたノアの姿も確認できる。


「ノアー!がんばれー!」
「張り切りすぎんなよー!」


ギャラリーの手すりに身を乗り出しながら、声を張り上げエールを贈るランツとユーニ。
そんな2人の隣で、ミオは両手を胸の前で握り込みながら祈るように見守っていた。

どうかうまくいきますように。
そんな願いを込めながら不安げに見守るミオだったが、少し離れたところで同じようにステージを見守る一人の男性の姿が視界の端に入って来た。
金色の長髪を一つにまとめたその男性は、どこかノアに似た空気感を纏っている。
声援を送っている他の観客とは違い、彼は随分と静かにステージを見守っていた。
まるで見定めるかのような目でステージを見つめるその様子は、ホール内を包む熱狂的な空気とまるで合っていない。

不思議な雰囲気を醸し出しているその男性を数秒間横目に観察していたミオだったが、スピーカーからボーカルのカイルの声が聞こえてきたことで視線をステージ上へと戻した。


「えー、それでは聞いてください。“キミソラ”です」


ホール内を包む歓声が一斉に止む。
ステージ中央に立っていたカイツがバンドメンバー全員に目配せをすると、ゼオンのベースの音色と共に演奏が開始される。
静かなイントロと共に始まった曲は、ノアによるヴァイオリンの音色が重なった瞬間大きく盛り上がる。
ホールの入り口で配っていた色とりどりのサイリウムが観客席に灯り、カイツの歌声に合わせて跳ねるように揺れている。

ゼオンのベース、フォクスのギター、イストのドラムと調和するように、ノアが奏でるヴァイオリンの優しく上品な音色がカイツの歌声を彩っている。
あんなにも自信なさげにしていたというのに、ノアが奏でる音色は非常に美しかった。
緊張はしているようだが、やはりコンクールの常連だった実力は確かだったらしく、その演奏には安定感がある。


「ノアがヴァイオリン弾いてるところ、初めて見た……」
「あぁ。素人目だが、流石に上手いな」


ステージ上で演奏するノアの様子を見下ろしながら感心しているタイオンとセナ。
だが、2人は気付いていないようだった。
ノアがヴァイオリンを弾きながら、両目の瞼をきつく閉じている事実に。

どうして目を閉じているのだろう。
以前家で一人練習しているところを見たことがあるが、その時のノアは目を閉じてなどいなかった。
まるで恐ろしいホラー映画を観ている時のように、目の前の光景を視界に入れないよう必死で目を閉じているかのように思える。
まさか、まだ人前で演奏する恐怖感を拭えずにいるのだろうか。

そんなミオの予想はまさに的中していた。
ステージ上で眩しいほどの照明を浴びているノアは、その眩しさとは裏腹に目を閉じた先にある暗闇の中で音を奏でていた。

目の前には数百人の観客の目がある。
ステージに立つ自分を見ているその無数の目が、かつての記憶を呼び覚ましてしまう。
記憶に刻まれている全てを見定められるかのようなあの視線が、ノアの恐怖心を煽る。

もう評価されるのはうんざりだった。
上手いだの下手だの、そんな他人からの評価を受けるために演奏しているわけじゃない。
ミオは言っていた。“目の前の人たちを楽しませればいい”と。
評価など関係なく、ただ楽しませるために自分は今ここに立っているのだ。

暗闇の中で演奏し続けるノアは、楽譜通りの優等生な演奏を続けていた。
失敗しないように、迷惑をかけないように。
やがて2番のサビに入ったところで、ノアは気付いてしまう。
ずっと目を閉じていたせいで、観客が楽しんでいるのかが分からない。
これでは本末転倒ではないのか。

けれど、今目を開ける勇気はない。
視界に映る自分を見つめる視線たちを見た瞬間、思考が停止してしまうかもしれない。また恐怖に打ちひしがれるかもしれない。
もしそうなったら、俺は———。

“大丈夫だよ。ノアなら大丈夫”

不意に、先ほどミオに囁かれた言葉が脳裏に浮かんできた。
何もかもを包み込み、自分のすべてを認めてくれるその言葉が、ノアの心を後押しする。
このままでいいのか。恐怖から目を逸らしたままで。
ヴァイオリンと再び向き合うと決めたはずなのに、このままじゃ前に進めない。
怖くても、辛くても、きちんと目を開けて現実を見なくては。

大丈夫。俺なら大丈夫。
自分自身の強さを信じながら、ノアはゆっくりと目を開けた。

曲は大サビに向けてギターによる静かなソロが続いている。
重い瞼をゆっくりと開けた瞬間、天井から降り注ぐ眩しいほどの光が視界に入って来た。
あまりにも眩しい光に目をが慣れたその瞬間、視界に広がった光景にノアは目を疑った。
目の前にあったのは、自分を見定める居心地の悪い視線などではない。
揺れるサイリウム片手に、笑顔を浮かべながら曲に合わせて楽しそうに跳ねている観客たちの姿。
かつてノアを苦しめた批判的な視線を向けている人間など、一人もいなかった。

自分たちの演奏を聞いて、観客たちはこんなにも楽しんでいる。
目の前に広がるこの事実を噛みしめた瞬間、心の奥から喜びが湧き上がって来る。
そうだ。この感覚を忘れていた。
演奏するたびに聴いてくれている人が笑顔になって、音色に合わせて身体を揺らしてくれているその姿を見るのが好きだった。
その様子を見ているとこっちまで楽しくなって、もっともっと楽しませたいと思ってしまってしまう。

上手いとか下手とか、そんな評価はどうでもいい。
今目の前にいるこの人たちを、もっと笑顔にしたい。
俺がしたかったのは、上手い演奏じゃない。人を楽しませる演奏なんだ。
自分自身の中に仕舞い込んでいた答えを見つけたと同時に、ヴァイオリンのソロパートに続くカイツのワンフレーズが入る。


《音色で染まった群青があふれてしまわぬように 両の手を束ね僕たちは昨日より強くなれた》


息を止め、目をしっかり開けたまま弓を引く。
ノアによるヴァイオリンのソロパートが始まった瞬間、会場のボルテージはマックスに到達する。
品を保ちながらも湧き上がる昂ぶりを音色に乗せ、曲は最高潮に盛り上がる。

先程までの優等生なノアはどこにもいなかった。
ステージで一心不乱に音色を奏でるノアは、誰よりも演奏を楽しんでいる。
やがてヴァイオリンのソロパート終了と共に、曲は大サビへと突入する。
カイツの歌声に呼応するように、すべての楽器が美しいまとまりを見せながらホール全体を盛り上げる。
笑顔を浮かべながら楽しそうに演奏しているノア。
そんな彼の様子を2階のギャラリーから見下ろしながら、ミオは目に涙をためていた。

何が“上手くない”よ。
すっごく上手じゃない、ノア。


「ノアがあんなに楽しそうにヴァイオリン弾いてるの、久しぶりに見たな」
「確かに。なんか、ちょっと泣けてきたな」


ランツとユーニの呟きを聞きながら、ミオは何度も何度も頷いていた。
目を潤ませ、涙を必死にこらえながら見下ろす彼女の心は、大きな安堵と感動に包まれている。
そして、ステージ上の音楽は余韻を残しながら最後の一音を奏で終わった。
その瞬間、大きな歓声がホール内を包む。

割れんばかりの歓声と拍手を受けながら、ノアは感極まりそうになっていた。
視線を落とした先には、幼少期からずっと奏でてきた少し古いヴァイオリンが両手に抱えられている。
ようやく向き合えたな。
目を細めると、ノアは他のバンドメンバーたちと一緒に観客へと頭を下げた。

天井から幕が下りて来る。
完全に幕が下り切ったことを確認した瞬間、自然とメンバーたちは集まり歓声を挙げながら抱き合い始めた。
緊張していたのは自分だけではなかったらしい。
無事演奏が終了したことで緊張の糸が途切れ、あのいつも仏頂面のゼオンでさえも柔らかい笑みを浮かべている。


「みんなお疲れ!なんとか無事に終わったな」
「あー!緊張した……」
「マジで手震えたわ」
「ノア、改めてありがとう。お前がいてくれて本当に助かった」
「こっちこそいい経験になったよ。ありがとう」


メンバー一人一人と握手を交わすノアの手は、いつの間にか震えが治まっていた。
いつまでもこのステージ上に残っているわけにはいかない。
次の出番が控えているバンドのメンバーと入れ替わるようにステージから降りて舞台袖にはけると、ちょうど舞台袖にやってきたルームメイトたちとかちあった。
どうやら演奏が終わってすぐにやってきてくれたらしい。
にこやかに名前を呼んでくるミオを先頭に、見慣れた仲間たちがこちらに駆け寄って来た。


「ノア、お疲れ様!すごかったよ!」
「うんうん!なんか私鳥肌立っちゃった」
「またヴァイオリン弾けるようになって良かったな。おめでとさん」
「ありがとう皆。正直、緊張で死ぬかと思った」
「だろうな。お前さん、ステージ上がるときモロ顔強張ってたしな」
「確かにいつもの2倍は顔が白かったな」
「えっ、そんなに顔に出てたか……?」


焦りながら自分の顔を頬を触るノアに、笑いが沸き起こる。
どうやらノアを包んでいた緊張は完全に消え去ったらしい。
リラックスした様子の彼氏の姿に、ミオもまた安心していた。

そんな時、“ノア”と彼の名前を呼ぶ柔らかな声がかかる。
自然と声がかかった方へと視線を向ける一同の目線の先にいたのは、金髪の髪を一つにまとめた優しい風貌の男性。
演奏が始まる前、ミオの視界に入っていたあの男性である。
“あっ、あの時の……”
驚くミオが声を挙げるよりも早く、ノアが小さな声で呟いた。


「クリス……」
「久しぶりだね。元気そうで何より」
「あぁ。そっちも」


どうやら彼はノアの知り合いだったらしい。
とはいえ、ミオやセナ、タイオンにとっては初対面でその正体が全くつかめない。
ランツやユーニに小声で“知り合い?”と問いかけると、2人は少し躊躇しつつも応えてくれた。
“ノアの兄貴だよ”と。

えっ、あの人が?
驚きのあまり目を丸くしてしまうミオ。
ノアの兄のことはうっすらと話に聴いていた。
神童ともてはやされた天才ヴァイオリニストで、彼の存在こそがノアにとってプレッシャーそのものとなっていたのだという。
海外で活動していると聞いていたが、今ここにいるということはいつの間にか帰国していたということだろうか。


「さっきの演奏、聴かせてもらったよ」
「そうか。その……どうだった?」
「相変わらずだと思ったよ」


“相変わらず”
呟かれた兄のその言葉は、ノアの心に鈍く響いた。
あまりいい意味には思えない。
神童の兄からしてみれば、自分の演奏などいつまでたっても幼稚しない劣った旋律でしかないのだろう。
突きつけられた現実に視線を落とすノア。そんな弟を前に、クリスは柔く笑みを浮かべながら言葉を続けた。


「相変わらず、ノアの旋律は人を楽しませる力がある」
「え……」


思わぬ返答に、ノアは顔を上げた。
目の前で微笑んでいる兄の表情は、幼い頃一緒に楽器を演奏していたあの頃のままだった。


「ノアの演奏は聴き手をいつも笑顔にする。音楽が一番輝くのは、上手い演奏をした時じゃない。聴き手を楽しませた時こそ、何物にも代えがたい価値が生まれるんだ。聴き手を楽しませるノアの旋律に、僕はずっと憧れていた」
「何言ってるんだ。クリスの演奏の方がずっと——」
「僕には楽譜通り正確に旋律を奏でることは出来ても、人の心を躍らせるような演奏をする技術はないよ。今日のノアのような演奏を目指してはいるけど、なかなかうまくはいかないね」
「クリス……」


知らなかった。
神童ともてはやされていた兄が、劣等生の自分に憧れていただなんて。
驚くノアに、クリスは青い瞳を細めながら言葉を続けた。


「暫くこっちに滞在する予定なんだ。だから、また今度うちに遊びに来てくれ」
「いいのか?」
「あぁ。また二重奏でもしよう。あの頃みたいに」


幼い頃、ノアは兄と一緒に毎日ヴァイオリンを演奏していた。
あの時間は心の奥底から楽しくて、毎日こんな時間が続けばいいのにと思っていた。
けれど、兄が世間の脚光を浴びるごとにどんどん手が届かなくなっていって、ただただ楽しむために演奏する時間はいつの間にか無くなってしまった。
寂しかった。兄が遠くに行ってしまったようで。
あの時間を楽しいと思っていたのは、自分だけだったのだろうか。

心を閉ざし、光を浴び続ける兄とは対照的に、ノアは逃げるようにヴァイオリンから背を向けた。
だが、寂しいと思っていたのは兄も同じだったのかもしれない。
そう思うと、途端に喜びが襲ってきた。
一方的に遠く感じていただけで、本当は兄はすぐ近くにいたのかもしれない。


「あぁ。今度行く。絶対行くよ、クリス」
「待ってるよ。ユーニ、ランツも、これからもノアと仲良くしてやってくれ」
「うっす」
「もちろん」
「それと——」


クリスの視線が、ノアのすぐ隣に寄り添っているミオへと向けられる。
じっと見つめられていることに戸惑い、目を丸くするミオだったが、そんな彼女に微笑みを向けながら、クリスは弟へと最後の言葉をかけた。


「“いい人”が出来たなら、今度またきちんと紹介するように」
「へっ……?」


含みのある笑顔を浮かべながら、クリスは背を向けて去っていく。
どうやらミオとの関係を見抜かれていたらしい。
呆然としているノアとミオを両脇を固めていたランツとユーニが小突きながらニヤついている。
“バレバレだなお前ら”
そう言って揶揄ってくる仲間たちの笑顔をかわしながら、ノアとミオは少し赤くなりながら顔を見合わせていた。


Act.58


大学祭は土日を使った2日間、盛大に開催された。
ミスコンや有志によるバンド演奏ををはじめ、多くの模擬店が出店したキャンパス内は活気に満ち溢れ、学生たちの青春で満ちている。

ウロボロスハウスに住まう6人の学生たちも、例に漏れず大学祭を謳歌していた。
楽しい時間というものはあっという間に過ぎ去り、日曜の夜となった今日、熱狂の祭りは終了した。
陽が暮れるまで大学のキャンパス内で楽しんでいた6人は帰り際合流し、近隣のスーパーに立ち寄って酒やオードブル、つまみ類を購入。
家に帰還した彼らは、さっそく大学祭の打ち上げと称したパーティーを開くことになった。

広い食卓にはスーパーで購入した総菜やつまみ、そして大学の模擬店で購入した屋台飯が所狭しと置かれている。
ノアやランツ、タイオンやユーニはビールを、ミオはチューハイを、そしてセナはノンアルコールカクテルを片手にそれぞれ食卓についている。
こうしてちょっとしたパーティーを開くのは、ミオを長年悩ませていた厄介なストーカー男を協力して撃退した時以来である。
全員の準備が整ったところで、すでに上機嫌になっているランツがビール缶片手に席を立った。


「んじゃあ乾杯の音頭は俺から……。全員酒持って起立!」


まだアルコールを一口も摂取していないにも関わらず、ランツは既に場酔い気味だった。
やたらとテンションが高いランツに促された一同は、呆れ笑いを零しながらそれぞれ席を立つ。


「えー、それでは、ノアのバンド演奏大成功と、ユーニのミスコン優勝と、俺とセナの交際3か月記念と――」
「えっ、ちょっと待って!聞いてない!今日で3か月なの?」
「うん、まぁ……。えへへ」


さらりと告げられた事実に、ミオは焦ってランツの言葉を遮った。
照れ笑いを浮かべるセナを横目に、一同の視線は壁に駆けられたカレンダーへと集中する。
可愛い犬と猫がじゃれ合っているユーニチョイスのカレンダーをめくったノアは、ちょうど3か月前の今日の暦に“軽井沢旅行”と記載されていることに気が付いた。


「ほんとだ……。今日で3か月だ」
「まじかよ。時の流れ早っ」
「おめでとうふたりともーっ!」
「ありがとう。なんか照れちゃうね」


ほんの少し赤くなっているセナと、その隣に寄り添うランツに拍手が贈られる。
が、まだ祝うべき事項が一つ残っている。
長引く拍手を強制的に終わらせるがごとく、ランツは大きく咳ばらいをして“仕切りなおすぞ”とビール缶を掲げなおした。


「じゃあ改めて。ノアのバンド演奏大成功と、ユーニのミスコン優勝と、俺とセナの交際3か月記念と、そしてー?」


含みを持たせたランツの言葉と共に、一同の視線が今度はタイオンとユーニへ集中する。
その視線が何を意味するのか、ふたりはすぐに察してしまう。
そして、珍しく気恥ずかしそうにしているユーニが、隣のタイオンを肘で小突く。
“えっ、僕か?”と当たり前のことを聞いてくる“彼氏”に、ユーニは頷いた。
少しだけ赤くなった顔をごまかすように眼鏡を押し上げたタイオンは、浮つく心を必死に隠しながら口を開く。


「……僕とユーニの交際開始を祝って」
「っしゃあー!乾杯!」
「「「かんぱーーーい!!」」」


6人の跳ねるような声と共に、6つの缶が軽くぶつかりあう。
全員が飲み物をあおった後、ミオを筆頭に全員が自然と拍手をしていた。
タイオンとユーニは、お互い顔を見合わせながら少しだけ照れたように笑っている。

今の今まで、二人の口から“付き合っている”という言葉は一度も出ていなかったが、ミスコン表彰式を皮切りに明らかに空気が変わった二人の様子に4人は察していた。
これは間違いなく何かあったぞ、と。

その予想は見事に的中しており、タイオンとユーニは紆余曲折の末ようやく交際へと発展した。
ふたりのもどかしい感情のやり取りを見ていた4人のルームメイトから見れば、その報告は待ちに待った朗報でもある。
この甘酸っぱい朗報を得て、ウロボロスハウス内はお祝いムードに満ちていた。


「マジでやっとくっつきやがったな。流石にじれった過ぎて死ぬかと思ったぜ」
「大げさだ。というか僕らの話はもういいだろ。それよりノアの演奏の話をしよう」
「いや俺はいいって。昨日の夜さんざん皆に褒めてもらったし」


ミスコンやノアのバンド演奏が行われたのは大学祭1日目のこと。つまりは昨日である。
昨晩の夕食の席で、ノアはルームメイトたちから多くの称賛をもらっていた。

人前で聴かせる腕じゃないと謙遜していたが、とんでもない。
臨時メンバーだというのに見事に既存メンバーと調和を果たし、美しく壮大な音色を奏でていた。
事故で出演を取りやめていた元々のヴァイオリン担当、カミラからも、“本当にありがとうございます。ノアさんがいてくれてよかった”と半泣きで感謝されたほど。

恐らく自分が事故で参加できないことに申し訳なさを感じていたのだろう。
そんなカミラの怪我は無事完治しており、次の公演には本調子に戻るだろうと口にしていた。
ゼオン達のバンドは、カミラを取り戻し再始動している。
もうバンドメンバーではなくなってしまった事実にほんの少しの寂しさを覚えていたノアだったが、ヴァイオリンへのトラウマを克服できた喜びの方が何倍も大きかった。

と、このような話を昨晩酒を飲みながらさんざんルームメイトにしていたノアにとって、もはや今更話すことなど何もない。
今日の主役はずばり、昨日付き合い始めたばかりのタイオンとユーニなのだ。

だが、どうやらタイオンはこの話題に照れてしまっているようだ。
先ほどから少し恥ずかしそうに話題を逸らそうとしているものの、4人のルームメイトたちはそんな彼を無視して好き勝手に語っている。
特に、女性陣からの質問攻撃はすさまじい勢いで、目をキラキラ輝かせながら質問という名の砲撃を浴びせていた。


「はいはい!週刊アイオニオンのセナです!お二人に質問いいですか?」
「はいセナさんドーゾ」


勢いよく挙手して質問を申し出てきたセナに、何故かユーニが承諾する。
そんな“彼女”の行動に、タイオンはぎょっと目を見張った。
質問なんて受け付けたら絶対いらないこと言うだろ君は。
週刊誌の記者の真似をするようにメモ帳を構えたセナは、そんなタイオンの不安を見事に貫く質問を投げかけてきた。


「ちゅーはしましたか?」
「ぶふッッ」


あまりに遠慮のない質問に、タイオンはビールを吹き出しそうになってしまう。
そんなアホみたいな質問飛ばしてくる週刊誌の記者がどこにいる。
そう突っ込んでやりたかったが、生憎むせているので声が出せなかった。
ゲホゲホとむせ返るタイオンのすぐ隣で、ユーニは腕を組みながらニヤついている。


「えー、そうですねぇ……。ちゅーに関しては……んぐっ」
「言わんでいい!ノーコメントで!」


今にも事実を打ち明けてしまいそうなユーニの様子に焦ったタイオンは、急ぎ腕を回して彼女の口を塞ぐ。
“ノーコメント”とは言っているが、激しく狼狽するタイオンの態度に、横で見ていたノアとランツは目を細めながら心の中で同じことを呟いていた。

“したんだな”

まだしていない二人なら、きっと頬をほんのり赤く染めながら顔をそらし、恥ずかしそうに否定するはずだ。
だが、否定も肯定もせずただ真っ赤な顔で慌てて誤魔化すタイオンの姿は、明らかに“している奴”の態度である。
信じられないほど誤魔化すのが下手くそなタイオンに、二人の男性陣はひそかに苦笑いを浮かべていた。
だが、そんな彼らをよそに女性陣からの囲み取材は続く。
次に手を挙げたのは、同じようにメモ帳を構えているミオだった。


「はいっ!ウロボロス新聞のミオです!質問いいですか?」
「はいドーゾ」
「タイオンからは何と返事を貰ったんですか?」
「あー、それはなぁ……」
「ストップ!それもノーコメントだ!」


この質問に関しても、タイオンのガードが入る。
彼がユーニに返事をしたのは、ミスコン表彰式の直後のこと。
頭の中でシミュレーションをしていなかったせいで言いたいことがまとまらず、混乱の末たどたどしく思いを伝えてしまった。
あんなかっこ悪くて情けない状況、とてもではないが聞かれたくない。

再びユーニの口を塞いで回答を控えようとするタイオンだったが、そんな彼の往生際の悪さにミオとセナは腹を立てた。
タイオンが隣にいる状況では、質問をことごとくブロックされてしまう。

あの眼鏡、邪魔ね。
高校からの同級生でもあるタイオンを疎ましく思った二人の女性陣は、互いに顔を見合わせ最終兵器を召喚する。


「ノア!」
「ランツ!」
「仕方ないな……」
「へいへい」


彼女たちの招集に応じ、ノアとランツはビール缶を渋々テーブルの上に置いた。
そして二人の男たちは、ユーニの口をがっちりガードしているタイオンの両脇に陣取ると、哀れみの視線を向けてくる。
ノアとランツに囲まれたタイオンは、嫌な予感を感じ取りながら二人の友人の顔を交互に見比べていた。


「な、なんだ……?」
「タイオン、気持ちはわかるけど、悪いな」
「こういう時は潔くしたがった方が身のためだぞ」
「は?何を……、うわっ!」


ふたりの男たちに突然両脇を固められ、突然タイオンの身柄は後方へと連行された。
ランツはもちろん、ノアに関してもタイオンよりは筋肉質で力がある。
そんな二人に両脇を固められれば、そう簡単には抜け出せない。
強制的にユーニから引きはがされてしまったタイオンは、必死に抜け出そうと暴れてみるもノアとランツによって身を固められしまう。
その隙をつき、ミオとセナはユーニへと質問を続けた。


「それで?タイオンからはなんて言われたの?」
「言うなよユーニ!わかってるな?絶対に言うなよ?」
「私たちはユーニに質問してるの!タイオンは黙ってて!」


もはや直接ユーニの口を塞ぐことが出来なくなったタイオンは、ノアとランツに両腕を拘束されながら必死に訴える。
まるで洋画の拷問シーンのような光景だった。
頼むユーニ。あんな恥ずかしい状況を暴露しないでくれ。
そう願いながらユーニを見つめるタイオンだったが、不意にこちらに視線を向けてきた彼女の表情を見て絶望した。
目を細め、ずいぶんと楽しそうな顔をしている。
ダメだ。あれは悪いことを考えているときの顔だ。
そんなタイオンの予想通り、ユーニは遊び心をたっぷり含ませながらミオたちの質問に回答し始める。


「そうだなぁ。随分と情熱的だったぜ、タイオンのやつ」
「ほうほう、具体的にはなんて言われたの?」
「“めぐり逢えた瞬間から魔法が解けない”!」
「おぉ!」
「ちょ、ちょっと待て!言ってないぞそんなこと!」


両脇を固めているノアやランツから“そんなくさいセリフ言ったのか”とでも言いたげな微妙な視線が注がれているが、残念ながらそんな詩的な台詞を吐いた記憶はない。
即座に否定したタイオンだったが、ユーニは構うことなく返答をつづける。


「“身も心も愛しい君しか見えない”!」
「おーっ!」
「言ってない!」
「“めぐり逢えた瞬間から死ぬまで好きと言って”!」
「ひゅーっ!」
「それも言ってない!」
「“見つめ合うと素直におしゃべり出来ない”!」
「ひゃーっ!」
「だから言ってない!というかそれ全部TSUNAMIの歌詞じゃないか!」


タイオンの言葉を受け、酒に酔った一同はランツの“さぁ〜皆さんご一緒に〜?”というの掛け声とともに一斉に歌い始めた。
“見つめ合うと素直におしゃべり出来ない”のフレーズを、全員ふわっとボーカルのモノマネを交えながら歌う様子は実にカオスだった。

熱唱する4人のルームメイトたち。その光景を見て腹を抱えて笑うユーニ。そして赤くなりながら項垂れるタイオン。
結局、ユーニがタイオンからもらい受けた本物の言葉を仲間たちに教えることはなかった。
きっと彼女なりに気を利かせたつもりだったのだろう。
だが、おかげでタイオンはこの日以来カラオケやテレビでTSUNAMIが聴こえてくるたび赤面する羽目になってしまうのだった。


***

リビングで行われた宴会は日付が変わるまで続いた。
酒をすべて明け切ってしまった一同は、現在デザートをいただいてる。
タイオンとユーニが横浜土産として購入してきたチョコレートである。
ナッツチョコレートやチョコビスケットを頬張りながら、ノア、ミオ、ランツ、そしてセナの4人は食卓を囲んでいた。
話題はもっぱらこの場にいないあの二人のことである。


「でもよかった。あの二人が上手くいって」
「ユーニはともかくタイオンがネックだったよな」
「そうそう。このままずーっと告白しなかったらどうしようって思ってた」


ナッツチョコレートをつまみながら、ミオとランツが言葉を交わす。
タイオンとユーニはこのルームシェア生活を始めた当初から互いに想い合っていのが歴然だった。
そんな彼らがめでたく交際を始めたことで、ずっと応援してきた4人にとっては肩の荷が下りたような思いである。

はたから見ていても、もどかしい日々だった。
明らかに想い合っているのに互いに一歩踏み出さず、距離感を図り続ける毎日。
背中を押してやるのは簡単だが、これは中高生の幼い恋愛とはまた違う。
まだ若いとはいえ、既に二十を超えている二人の恋を、第三者である彼らが必要以上に干渉するのは悪手でしかない。

もどかしすぎて、もう無理やり背中を押してやろうかと何度も思った4人だが、結局手を貸さずに済んだのはタイオンとユーニならきっといつかうまくいくはずだと4人全員が信じていたからだろう。
結果、見事に二人は進展し、ここに交際がスタートしたのだ。
その事実に達成感を覚えながら、4人は甘いチョコをひたすらつまむ。
口の中でチョコレートを溶かしながら、不意にノアが独り言のような声量で呟く。


「部屋、どうしようか」
「部屋って?」
「今はランツとタイオン、セナとユーニの組み合わせで寝てるだろ?なんかこうなってくると、今の部屋割りの方が違和感あるなって」


ノアの言葉に、一瞬だけ沈黙が生まれる。
ミオやセナたちがこのウロボロスハウスに引っ越してきた当初、ノアとミオ以外は誰も交際に発展していなかった。
そのため、ノアとミオを相部屋にし、それ以外の部屋は男子部屋と女子部屋に分けることとなった。

あの時は自然な流れでそうなったわけだが、3組のカップルが成立した今、男子部屋と女子部屋に部屋を分けておく道理が失われてしまっている。
この事実を指摘したノアの言葉に、セナは静かに“確かに……”と頷いた。
4人の視線が、自然と天井へ向く。
それぞれの部屋がある2階へと思いを馳せながら、4人は静かにデザートタイムを楽しむのだった。


***

「なぁ機嫌直せって」


午前0時を過ぎた頃。
1階のリビングでデザートタイムを楽しんでいたノアたちと時を同じくして、タイオンとユーニは2階のベランダでふたりきりの時間を過ごしていた。
女子部屋と男子部屋は横に並んでおり、壁で隔てられているもののベランダはつながっている。
ベランダの手すりに両肘をつき遠くを眺めているタイオンに、隣に寄り添うユーニは声をかけ続けていた。

どうやら先ほどの宴会で、タイオンからの返事としてあることないこと話してしまったことをいじけているらしい。
ほぼ嘘で構成された話ではあったが、おかげでノアやランツには死ぬほどからかわれる羽目になってしまった。
誰よりもシャイなタイオンにとっては、機嫌を損ねる要因足りうる出来事である。


「何が“見つめ合うと素直におしゃべり出来ない”だ。適当言って……」
「似たようなことは言ってただろ?」
「……」
「悪かったって。それともありのままを話した方がよかった?“君の一番になりたい”とか、“独占できたらいいのに”とか、“大好きなんだ”とか……」
「あぁもうやめてくれ。人の羞恥心を煽るな」


ベランダの手すりに突っ伏するような体勢で遠くを見つめているタイオンは、まだ少し顔を赤くしていた。
この赤面は酒のせいだろうか。それとも恥ずかしがっているからだろうか。
“彼氏”に昇格してからも相変わらずぶっきらぼうなタイオンがなんだか微笑ましくて、ユーニは少し距離を取りながら同じようにベランダの手すりに突っ伏する。


「なんでそんなに嫌がるんだよ。嬉しかったのに」
「もっとちゃんとした言葉で気持ちを伝えようと思ってたんだ。なのにあんな纏まりもなく勢い任せに伝える羽目になるなんて、不格好だろ」


そんな小さなことを気にしていたのか。
確かに途中で混乱している様子はあったが、それでも彼はきちんと“好き”を伝えてくれた。
事前に言葉を考えていなかったせいか、驚くほどにまっすぐで、飾り気のない言葉で。
抱きしめながら掠れた声で囁いてくれたあの“大好き”という言葉は、きっと一生忘れられないだろう。
不格好なんかじゃない。十分嬉しかった。
そう伝えようと口を開けたユーニだったが、“それに…”と言葉を続けるタイオンに遮られてしまう。


「……なにかも受け身で、情けない」
「受け身?」
「手を繋ぐのも、告白も、キスだって、ふたを開けてみれば全部君からだった。僕から行動したのはせいぜいデートに誘うことくらいで、他は全部受け身だ。男らしさのかけらもない。君から告白してくれたのだから、せめて最初のキスくらいは僕からするべきだったのに」


ユーニという高嶺の花に似合う男になるには、彼女の隣に歩くに相応しいほどに男らしく、そして頼り甲斐のある男でいなければと思っていた。
スマートに彼女をエスコートし、何においても一歩先を行ってリードしつつ、その手を取る。
これがタイオンにとって、理想的なユーニとの付き合い方だった。

だが実際はどうだ。
自分はスマートさとは対極の醜態をさらしてばかりいる。
目が会えば狼狽えて逸らすことしかできず、指の一本でも触れられようものならすぐに顔が赤くなる。
ユーニへの思いが募れば募るほど、腕に抱え込んだ大きな感情を手渡すことに躊躇して、途端に臆病になってしまっていた。

結果、歩み寄ってくるのはいつもユーニの方からだった。
ウロボロスハウスでのルームシェアを提案してくれたのもユーニ。
初めて腕を絡ませてきたのもユーニ。
好きだと最初に口にしてくれたのもユーニ。
背伸びをして口づけてくれたのもユーニ。
なにもかもユーニからの行動だった。

自分はただただ、そんなユーニからの行動に一喜一憂して、受け身のまま彼女が近付いてくれるのを待つことしか出来なかった。
彼女が行動していなければ、一生友達の枠から出られなかったかもしれない。
情けないにもほどがある。
このまま交際が始まってからも、きっと自分は受け身のまま変わらないのだろう。
そんな自分に呆れていると、すぐ横からクスクスと笑う気配がした。


「笑うところか?」
「いや、マジで覚えてないんだなぁと思って」
「何がだ」
「最初のキスはタイオンからだったよ」
「え?いやいや、君からだろ。だって昨日……」
「昨日のキス、実は2回目。1回目は付き合う前にしてる」


ユーニの言葉に、タイオンは困惑を禁じえなかった。
彼女とキスを交わした記憶はたった1度だけ。
告白の返事をした昨日の記憶である。
それ以外に覚えているものはない。
だがユーニが嘘を言っているようにも思えず、必死で記憶のタンスをすべて引き出してみるが、一切そんな記憶は見当たらなかった。
視線を泳がせ困惑するタイオンに、ユーニはようやく答えを差し出す。


「横浜行くちょっと前。バイト仲間と飲みに行ってた日、覚えてる?」
「あ、あぁ。あの時は随分酔っぱらってて、いつの間にかソファで寝てたから正直あまり覚えて……」


そこまで言いかけて、はっとした。
あの日の記憶は途中で途切れていて、気付いたら朝になっていた。
ウロボロスハウスのリビングのソファで目が覚めたわけだが、どうやって帰ったのか、そして帰ってきた後なにがあったのかは全く覚えていない。
まさか。


「夜、ソファで寝てるタイオンを起こそうとしたら急に腕引き寄せられた」


ここで初めて、すべての辻褄が合ったような気がした。
あの日、ユーニは何故か気まずそうにしていた。
しかもそのあと、授業で一緒になったとき打ち明けられたのだ。
“好きな人にキスされた”と。
自分以外の別人のことだと思っていた。
まさかあれが自分のことだったとは。

何たる失態。
好きな子に強引にキスをしてしまったうえに、覚えていないなんて大罪じゃないか。
セクハラで訴えられてもおかしくはない。最悪だ。
事の重大さにようやく気が付いたタイオンは、真っ青な顔で謝罪を開始する。


「す、すまないっ!ごめん!申し訳ない!そんなことをするつもりは……、あ、いや、そういう下心があったことは否定しきれないが、本当にごめん!不快な思いをさせて……」
「そんな必死に謝んなって。そりゃあ忘れてたことにはちょっとイラっと来たけど、キス自体は嫌じゃなかったよ。タイオンだったし」
「そ、そうか……」


必死に謝ってみたものの、ユーニは随分あっけらかんとしていた。
タイオンからキスを贈られたとき、酔った勢いだとわかっていながらもやはり嬉しかった。
これが好きでも何でもない男からのキスだったのなら、強烈なビンタをお見舞いしてやったのだろうが、相手はあのタイオン。
不快になるわけがないのだ。
だが、当のタイオンは少しだけ顔を赤らめているものの何やら不満げなまま。
再びベランダの手すりに突っ伏した彼は、肩を落としながら遠くを見つめ始めている。


「だが、そうなると余計に悔しいな」
「なんで?」
「せっかく僕からしたというのに、全く記憶にないなんてもったいないじゃないか。出来ることならやり直したい」


タイオンという男は、基本的には現実主義な男だった。
本来ロマンチストとは程遠い彼が、自分とのキスを“やり直したい”と言っている。
過去のことは変えられない。そんなことは百も承知なくせに、まるで子供のようなことを言うタイオンがやたらと可愛らしくて、心がきゅんと音を立てる。
このぶっきらぼうな彼の幼い願望をかなえてやりたい。
そう思ってしまったユーニは、手すりに突っ伏するタイオンへとぐっと距離を詰め、同じように手すりに突っ伏しながら彼の横顔を至近距離で見つめた。


「じゃあ、やり直してよ」
「え?」
「アタシはいつでもいいよ?」


ユーニの甘い囁きが、タイオンの心に熱を灯してゆく。
心を覆うプライドという名の氷が、いとも簡単に溶かされる。
彼女の大きな青い瞳から、目をそらせない。
ゆっくりと吸い込まれるように顔を近づけ、鼻先が触れ合う。
どちらからともなく目を閉じれば、間もなく唇に柔らかな感触が触れ合った。

何度夢に見たことだろう。
恥じらいながら、ふたり唇を合わせるこの瞬間を。
ユーニと、あのユーニとキスを交わしている。
夢のような現実に、まるで背中に羽が生えたかのようにふわふわ浮き上がりそうになった。
やがて触れ合った唇がゆっくりと離れていく。
目を細めながら嬉しそうに微笑んでいるユーニが、可愛くて仕方ない。


「かわ……っ」
「え?」
「あ、いや……」
「なんて言った?川?」
「い、いや、なんでもない」


無意識に漏れ出そうになった“可愛い”の一言を、口から飛び出す前にとっさに抑え込む。
危なかった。らしくないことを言ってしまうところだった。
ノアじゃあるまいし、歯が浮くようなセリフを言うようなキャラじゃない。
抑え込んだ言葉を飲み込むと、すぐ横にくっついているユーニが不思議そうに顔を覗き込んでくる。


「あのさ、ひとつ約束してほしいんだけど」
「うん?」
「思ったことがあったら全部その場で言うことにしようぜ。好きだなぁとか可愛いなぁとか愛おしいなぁとか、そういうポジティブな感情は特に。思ったことは口に出さないと伝わらないだろ?」


タイオンの奥手さはユーニが一番よく知っている。
彼からの“好き”を1年以上も待ち続けたのだから。
せっかくお互いの気持ちを伝えあえたのだ。
付き合って以降は、臆面なく気持ちをぶつけあいたい。
口下手なタイオン相手だからこそ、そんな欲求が沸いてしまうのだろう。
ユーニの要望を聞き届けたタイオンは、“それは構わないが…”と前置きしたうえで、ずいぶんと困った表情を浮かべつつ言い放った。


「そうなると、1分に1回は“好きだ”と言う羽目になる。不便極まりないだろ」


剛速球の如く投げられた言葉の球は、ユーニの心に高威力でぶつかってきた。
だが、当のタイオンは自分が発した言葉が恐ろしい威力を放っている事実に気づいていないらしい。
腕を組み、眉間にしわを寄せている彼は至極真面目にユーニからの要望を検討しているようだった。

1分に1回“好き”と言わなくちゃいけないほど、そんなに好きなのか。
石のように体を硬直させながら、ユーニは顔を真っ赤にしつつその青い瞳を見開いていた。
互いに気持ちを伝えあった瞬間、あっけないほど簡単に淡い好意を口にしてくるタイオンは、ユーニを惑わしてしまう。
言われ慣れていない甘い言葉に貫かれ、ユーニの心臓は無様なほど高鳴っていた。


「ユーニ、どうかしたか?」
「な、なんでもねぇよ!」
「思ったことはすぐに口にしてほしいんじゃなかったのか?君が隠してどうする」
「アタシはいいんだよ」
「よくない。不平等だ。何を思ったか言ってみろ。ほら、怒らないから」
「お母さんかお前は!ヤダ言わない」
「駄々をこねるな。君が言い出したことだろ?」
「あーもう!じゃあ前言撤回!好きって思ったりきゅんとしたとても言わなくていい!はい終わり!」
「なんだそれ……」


呆れたようにため息をつくタイオンを横目に、ユーニは赤くなった顔を隠すように逸らしていた。
言えるわけがない。さっきの一言にきゅんとしてしまったなんて、そんな悔しいこと言えるわけがない。

タイオンは元来慎重で奥手な男だが、それは片思い状態だったからこそのことなのかもしれない。
境界線を越え、晴れて“恋人”の座に収まった今、タイオンの慎重さは鳴りを潜めつつある。
先ほどのさりげなく甘いセリフがその証拠。
タイオンは、彼自身が思い込んでいるほど“受け身”な性格ではないのだろう。
タイオンの本質を見抜き始めたユーニは、これから待っている彼との甘やかな日々を想像し、覚悟するのだった。


Act.59


たとえ身の回りの環境に大きな変化が訪れたとしても、朝はいつも通りやってくる。
ユーニという彼女を獲得したばかりのタイオンは、いつも通り室内に感じる他人の気配で目を覚ました。
ランツとセナのカップルが、今日も元気に筋トレに勤しんでいる。
このウロボロスハウスに引っ越して以降、セナはほぼ毎朝必ずと言っていいほどの確率でこの部屋にやってきては、彼氏であるランツと共に己の筋肉をいじめている。
“ふんっふんっ”という気合の入った彼女の掛け声とともに目を覚ましたタイオンは、ベッドから起き上がり深い深いため息をついた。


「二人とも、筋トレするのは自由だが早朝はやめてくれないか?」
「えっ、なんで?」
「ゆっくり寝たい休日なのに7時に気配で起こされるこっちの身にもなってくれ!」
「じゃあタイオンも筋トレすればよくね?」
「そうだよ!一緒に筋トレしよっ」
「……遠慮しておく」


ムキムキマッチョカップルに、筋トレ一般人であるタイオンの常識は通用しない。
ささ身とブロッコリーを主食とする彼らには、筋トレで迷惑が掛かる相手がいるという事実も理解できないのだろう。
これ以上の問答をする気になれず、タイオンは寝起きのふらついた状態のまま部屋を後にした。

階段を降り、洗面所へと入る。
歯磨きをして顔を洗えば幾分かさっぱりしたが、やはり眠気が消えることはない。
毎朝筋トレするために朝早く部屋を訪ねてくるセナと、そんな彼女を迎え入れて仲良くダンベルを上げているランツのおかげで地味に寝不足なのだ。

こっちは筋トレに命を懸けている二人とは違い、たまにはゆっくり昼まで寝ていたい日もある。
それすら許さない二人のムキムキ筋トレコミュニケーションは、タイオンの体力を一日1ミリずつ削っていた。
結果、ルームシェアを初めて半年以上が経過した今、限界が目前に迫ってきたのだ。
寝不足が少しずつ積み重なり、なんだかもうストレスがすごいことになっている。
現在口内炎が4つほど出来ているのはそのせいだろう。
せっかくユーニと付き合えたというのに、こんなくだらないことで悩む羽目になるとは。


「あ、タイオンおはよ」


背後から声をかけられた。
タオルで顔を拭きながら鏡を見ると、そこにはユーニが立っていた。
少し乱れた髪を結びながら洗面台の前に立つ彼女に“おはよう”と返すと、ユーニはふっと笑みをこぼす。


「なんか疲れた顔してんな」
「やっぱりそう思うか?」
「付き合いたての彼女がいる奴の顔じゃねぇな」


“彼女”本人からの指摘に、思わず苦笑いがこぼれる。
かけていた眼鏡をはずし、洗面台の鏡を開けて専用の眼鏡クリーナーを一枚箱から引き抜いた。
眼鏡の汚れをクリーナーで拭いつつ、壁に寄り掛かったタイオンは愚痴を吐き出す。


「他人も住んでいるからある程度は仕方ないとはいえ、やはり最低限の配慮は必要だと思うんだ」
「その心は?」
「ランツとセナの筋トレがうっとうしい」
「ふふっ」


素直なタイオンの一言に、ユーニは歯を磨きながら笑ってしまった。
ハッキリ言いすぎだろこいつ。
口を水でゆすぎ終わり、“そんなに?”と問いかけると彼は眼鏡をごしごしと力強く拭きながら頷いた。


「毎朝毎朝7時に起こされてこっちはいい迷惑だ」
「健康的じゃん」
「鶏の鳴き声で起きるならともかくランツの鼻息で起きてるんだぞこっちは。どこが健康的か」
「それは嫌だな確かに」
「セナもセナだ。彼氏外の男が寝ている部屋によくもまぁあんなに無遠慮に入れるものだ」
「まぁセナだし。気にしてないんだろ」
「ランツも嫌じゃないのか?僕だったら自分の彼女がほかの男も寝ている寝室に入って露出度の高いトレーニングウェア姿で筋トレしていたら流石に怒るぞ」
「ふぅん。怒るんだ」
「怒るだろ」
「ふぅん」


洗顔を終えたユーニは、タオルで顔を拭きながらにやにやと含みのある笑みを浮かべていた。
そんな彼女のにやけ顔に気が付いたタイオンは、裸眼のまま眉間にしわを寄せる。


「何ニヤニヤしてるんだ」
「別に?」


独占欲の強さがはみ出ているタイオンの言葉に、思わず口元が緩んでしまった。
そんな事実を口にすれば、きっとまた怒られるに違いない。
だから黙っておこう。
そう決め込んだユーニは、タオルをもとの場所に戻すとタイオンの頭へと手を伸ばす。
彼女が何をしようとしているのか一瞬で分かったタイオンもまた、おとなしくその場で頭を下げた。
いつも通り、ユーニの指がタイオンの寝癖を丁寧にほぐしていく。
その手の感触にほんの少し胸を高鳴らせながら、タイオンは照れを隠すように早口で言葉を続けた。


「だいたい、筋トレするなら夜にすればいいんだ。わざわざ早朝にやることないだろ。しかも休日だろうが平日だろうがお構いなしだ。しかも二人が筋トレに勤しんでいる間、部屋に入るのが憚られるじゃないか。あそこは僕の部屋でもあるのに。こんなの不条理だ。毎日眠いし」
「はいはい。そんなに嫌なら二人に言ってみたら?朝は勘弁してくれって」
「言ったさ。でも爽やかな笑顔で“タイオンも一緒に筋トレやろう”と誘われた」
「あははっ、容易に想像つくわー」


快活に笑ったユーニは、しばらく触れていたタイオンの髪から手を放す。
どうやら寝癖を直し終わったらしい。
顔を挙げたその瞬間、背伸びをしたユーニがちゅっと音を立てながら頬に口づけてきた。
その瞬間、自分でも情けなくなるほど心臓が暴れだす。


「機嫌直った?」
「……僕をなだめるためにこんなことを?」
「怒ってるっぽかったから」
「別に怒ってない。癇癪を起こした子供じゃないんだから、そんなことしなくていい」
「へいへい」


微笑みを浮かべると、彼女は髪を解いて洗面所を後にする。
不意打ちは卑怯だ。するならすると言ってほしい。
急な接近に驚いたせいでつい心にもないことを言ってしまったじゃないか。
口づけられた頬に手を添えて呆然としていたタイオンは、鏡に映る自分の赤い顔を見て即座に表情を引き締めた。
この家には自分とユーニ以外にも住人がいる。
こんなに隙だらけな呆けた顔をいつまでもしていられない。

洗面所を出ると、ユーニがリビングのソファに腰かけスマホの画面を見つめていた。
リビングには彼女以外の住人はいない。
どうやらノアやミオもまだ自室で寝ているらしい。
キッチンに立ったタイオンは、2つのカップを取り出し毎朝の日課であるハーブティーを入れることにした。
このハーブティーはユーニも気に入っている。
数分かけてハーブティーを淹れ終わると、ソファに腰かけているユーニの隣に腰を降ろし、カップを目の前のローテーブルに置いた。


「おっ、ありがと。今日のハーブは?」
ローズヒップだ」
「ほーん」


聞いたはいいものの、ローズヒップがどんな植物なのかよくわからなかったユーニは深堀することなく赤みの強いハーブティーを口にする。
相変わらずタイオンが淹れるお茶はうまい。
ゆっくりと味わっていると、隣に腰かけたタイオンが大きなあくびをこぼした。


「眠そうだな」
「言っただろ?寝不足なんだ。筋トレジャンキーたちのおかげでな」
「じゃあ寝たら?」
「部屋に戻ってもまだ筋トレの真っ最中だろ。寝れるわけがない」
「違う違う。ここで寝たら?って意味」
「え?」


ハーブティーカップを目の前のローテーブルに置くと、ユーニはソファに腰かけた自らの膝をポンポンと優しくたたいている。
それは“膝枕”のお誘いだった。
それがわかった瞬間、息をのんだ。

“ここで寝たら”って、本当にこのソファで、君の膝を枕にしてという意味なのか。
そんな恥ずかしいこと、できるわけがない。
いや、したくないわけじゃない。むしろ魅力的な提案だが、他の住人の目もある手前、流石にそんないちゃつくようなことをするのは憚られる。
迷っていると、ユーニは首をかしげながらとどめの一撃を言い放つ。


「やだ?やめとく?」
「……し、仕方ないな」


せっかくの提案だ。無下にするのはユーニがかわいそうだ。
ユーニが言ったから膝を借りるのであって、僕がそうしたかったからしたわけじゃない。
もし誰かが2階から降りてきたらそう言い訳しよう。
心に決めたタイオンは、上体を寝かせて恐る恐るユーニの膝の上に頭をのせた。


「寝れそう?」
「どうだろう……」
「子守歌でも歌ってやろうか?」
「やめてくれ。子供じゃあるまいし」


頭の上に、ユーニの手が乗せられる。
白く柔らかい彼女の手が、ゆっくりと頭を撫で始めた。
そのあまりにも優しい感触は、高ぶった心を徐々に癒していく。
緊張しているのに、どこか心地いい。
まるで甘やかされているかのようだった。

相手は同い年の彼女だというのに、何をこんなに甘えているのだろう。
自分自身の行動に嘲笑しつつも、ユーニの膝の上からどくことはできなかった。
このままずっとこうしていたい。そんな気持ちに支配されながら、眠気を我慢できなかったタイオンはまどろみの底に落ちていく。

タイオンが規則正しい寝息を立て始めたのは、膝枕を初めて5分後のことだった。
随分と速い入眠である。相当眠かったのだろう。
そんなにもランツやセナの筋トレに困っているのか。

確かにタイオンは割と神経質な性格で、ミオほどではないが小さな物音にも反応しがちだ。
そんな彼にとって、毎朝部屋にやってきて筋トレにいそしむランツたちの行動がストレスになってしまっているのも頷ける。
いくら親しい友人同士とはいえ、生活リズムやこだわりは一人ひとり違う。
そこの擦り合わせをきちんとしていなければ、このルームシェアが長続きすることはないだろう。


「あー。なに朝からいちゃついてるのー?」


不意に、リビングの入り口から声をかけられた。
どうやらノアとミオが起きてきたらしい。
二人揃ってにこやかにこちらへ歩み寄ってきている。
そんな二人の到来に焦ったユーニは、すぐさま人差し指を口元に押し当てて“しーっ”と静かにするよう促した。
せっかく眠れているのに、タイオンを起こすのは忍びない。


「タイオン、寝てるのか?」
「あぁ。なんかランツとセナの筋トレが原因で寝不足なんだって」
「そうなんだ。そういえば引っ越してきたばっかりの頃もそんなこと言ってたね。朝早く起きちゃうって」
「ま、あいつらに悪気はないんだろうけどな。確かに気は散るよな」


ランツとセナが筋トレを趣味としていることも、朝早く起きて食事制限までしながら本気で取り組んでいることもよく知っている。
だが、同じようにタイオンが寝不足に悩んでいる現状もよく理解できる。
タイオンのストレスに理解を示すユーニは、自らの膝の上で規則正しい寝息を立てているタイオンを見下ろしながら、優しいまなざしを向けていた。
そんなユーニの横顔を観察しつつ、ミオはソファの背もたれに寄り掛かり揶揄い始める。


「もうすっかり“タイオンの彼女”だね、ユーニ」
「うっせ」


照れたようにそっぽを向くユーニに、ミオは笑顔を向けている。
そんな二人のやり取りを横目に見つめていたノアは、一人別のことを考えていた。
腕を組み、難しい顔をしながら心で呟く。
“やっぱり、部屋割りは見直した方がいいのかもな”、と。


***

タイオンが目を覚ましたのは午前の10時ごろ。
どうやら3時間もユーニの膝の上で眠ってしまっていたらしい。
ずっと同じ体勢で居たせいか身体が痛い。
ゆっくりと上体を起こすと、自分に膝を貸してくれていたユーニもソファに腰掛けた状態ですやすや寝息を立てていた。

長い睫毛が綺麗な彼女の寝顔に見とれてしまう。
あまりにも無防備なその横顔に口付けてしまいたくなったが、寸前で衝動を押さえ込んだ。
自分には酔って無理矢理キスをしてしまったという前科がある。
反省の意を込めて、ユーニがちゃんと起きている時にしかそういうことはしないよう心がけよう。

眠っているユーニを優しく揺さぶって起こすと、2人は揃って大学に行く準備を始めた。
今日は1コマ分だけ授業が入っている。
2人で一緒に受講している授業である。
家を出てキャンパスに向かっていると、ユーニは積極的に腕を絡めてきた。

当たり前かもしれないが、彼女との物理的距離は交際が始まって以降急激に縮まっている。
誰も見ていないところで急に頬にキスをしてきたり、何の脈絡もなく顔を近付けて微笑んできたり、はたまたこうして腕を絡ませてきたり。
ユーニから甘えられるたび、彼女を自分のモノに出来た実感が湧いていちいち浮かれてしまうのだ。

ユーニに腕を組まれている状態でキャンパス内を歩いていると、見知らぬ男たちからの視線をしきりに感じる。
先日の大学祭でミスコングランプリに輝いたユーニは、キャンパス内ではちょっとした有名人となっていた。
そんな人と腕を組みながら歩いているのだ。注目されないわけがない。
羨望の眼差しを感じ、どうにも優越感に浸ってしまう。

羨ましかろう。だが残念だったな。
君たちがまごついている間に、ユーニは僕の彼女になってしまった。
絶対に誰にも渡しはしない。


「何ニヤついてんの?」
「失礼な。ニヤついてない」


緩みがちな口元を見られていたらしい。
腕を組んで隣を歩いているユーニに顔を覗き込まれてしまった。
流石に君と付き合えて優越感に浸っていたなどと素直に言えるわけもない。
適当に誤魔化しながら歩いていると、前方の廊下から見慣れた女性がやって来るのが見えた。
その女性、ニイナは、タイオンと目が合った瞬間“あら”と目を丸くする。


「お疲れ様、タイオン」
「あぁ、お疲れ」


ニイナはタイオンと同じ学部の友人である。
異性でありながらなかなか話の合う貴重な相手で、キャンパス内ですれ違えば必ず挨拶を交わす仲でもある。
どうやら彼女も今日は授業を受けていたらしい。テキストを数冊腕に抱えながら歩いてきたニイナといつも通り挨拶を交わすと、隣で腕を組んでいたユーニがこちらを見つめてきた。


「知り合い?」
「あぁ。同じ学部の……」
「ニイナよ。よろしく」


その名前を聞いた瞬間、ユーニはタイオンと腕を組んでいる力を強めた。
“ニイナ”の名前には聞き覚えがある。
確かタイオンと一緒にカップル割で映画デートに出かけた女だ。
お前か。お前がニイナかコラ。人の彼氏とローマの休日なんて観に行きやがって。
いやあの時はまだ付き合ってなかったけどさ。
ユーニは心でブーイングをかましながら、ニイナに警戒心むき出しの視線を向ける。


「アタシはユーニ。こいつの彼女」
「あら?付き合えたのね」
「まぁ、おかげさまで」
「良かったじゃない。おめでとう」


友人の一人として、ニイナは純粋にタイオンの片想いを応援していた。
タイオンから話は聞いていたが、ユーニとこうして面と向かって会話をするのは初めてだ。

タイオンの話を聞く限り、ユーニという女性は彼にとって高嶺の花であり、好意の天秤は一方的な傾き方をしているものだと認識していた。
だが、目の前のユーニは自分に明らかな警戒心を抱いている。
“高嶺の花”と呼称されていたユーニは、“彼氏の女友達”をいちいち警戒する程度にタイオンを想っているらしい。
タイオンの熱量が一方的に高いのかと思っていたが、どうやら2人の天秤はタイオンが思っている以上に拮抗しているようだ。

なによ。全然片想いじゃないじゃない。

堅物真面目で浮いた話が一切ない友人の切ないロマンスにウキウキしていたニイナにとって、交際を開始し甘い空気感に包まれているタイオンを見ているのは少々退屈だった。
ほんの少しのいたずら心が芽生えてしまったニイナは、含みのある笑みを浮かべながら言い放つ。


「せっかくなら映画にでも連れて行ってあげたら?私の時みたいに」
「に、ニイナ……!?」


余計な一言を言い放ったニイナは、楽しそうに口元に笑みを浮かべながら去っていく。
何故煽られたのかわからないまま呆然とその背を見つめていると、突然ユーニが胸ぐらを強引に掴んで引き寄せてきた。
怒りを滲ませるユーニの顔が至近距離まで迫る。
驚いて息を詰めると、彼女は般若のような顔で釘を刺してきた。


「おうコラ。金輪際アタシ以外の女と2人っきりでデートなんてするんじゃねぇぞ。もししたら眉毛全部引きちぎるぞ」
「わ、分かった……」


まるでガラの悪いチンピラに絡まれているかのようだった。
素直に了承すると、ユーニは満足げに頷きプンスコ怒りながら歩き始める。
もしかすると、嫉妬してくれたのだろうか。
ユーニは怒っているというのに、大きな喜びを感じてしまっている。
またニヤけそうになる口元を必死に抑え、タイオンは前を歩くユーニに小走りで追いつくのだった。


***

「えっ……」


その日の夜。珍しくウロボロスハウスの住人は全員揃った状態で夕食を迎えていた。
普段はバイトや私用で出かけているメンバーがいる場合が多く、全員揃うことは珍しい。
この機会に、ノアは夕食の席で大胆な提案を口にした。
内容はずばり、部屋割の再編成である。

現在、2階にある3つの寝室は2人部屋として使用されており、ノアとミオ、タイオンとランツ。そしてユーニとセナの組み合わせで相部屋となっている。
この部屋割を決めた当時は、ノアとミオ以外の4人はまだ交際を始めていなかった。
そのため、自然な成り行きで男女別の部屋を使用する流れになったのだが、3組すべてのカップルが成立した今、男女別で部屋を分ける必要などないのではないかとノアは持論を展開した。
そんな提案に、タイオンは夕食のから揚げを食べつつ思わず声を漏らした。


「それはつまり、僕とユーニ、ランツとセナの組み合わせで部屋を使うということか?」
「まぁそうなるな」


“もちろんみんなが使う部屋だからみんなの意見を尊重するけど”
そう前置きをしたノアの言葉に、タイオンは箸を置き腕を組みながら考え込み始めた。
そんなタイオンとは対照的に、ランツとセナは随分乗り気なようだった。


「俺は賛成。断る理由もねぇしな。な?セナ」
「う、うん。私も賛成かな」


少し照れた様子ではあったが、セナもまたランツとの相部屋に賛同の意を示した。
やはり好きな人と少しでも長く一緒の空間で過ごしたいという気持ちが強いのだろう。
だが、この提案には1つ問題がある。家具に関する問題だ。
それぞれの部屋にはそれぞれの私物が置いてある。
部屋割を変えようなどと簡単に言うが、身一つで部屋をトレードするわけにはいかない。


「それぞれの部屋にそれぞれの私物があるだろ」
「お前さんの私物なんてあんまりないだろ?セナだってそんなに大きい荷物は部屋に置いてねぇみたいだし」
「そうれはそうだが、家具はどうする?トレーニング器具やそれぞれのベッドを移動させるのは流石に大変じゃないか?」
「だったらタイオンとセナが荷物持って部屋交換すればよくね?そうすればトレーニング器具移動させる必要もねぇだろ。ベッドも元の部屋にあるやつ使えばいいし」


理にかなった策だった。
レーニング器具が置いてある現在の男子部屋にセナが移れば、わざわざ大変な思いをして模様替えする必要はない。
男子部屋のベッドはタイオンとランツがそれぞれ使っているシングルベッドが既に2つあるため、ベッドを移動させる必要もない。

だが、問題はタイオンとユーニの部屋だった。
元々女子部屋だったその部屋では、ユーニとセナが同じダブルベッドで寄り添うように眠っていた。
タイオンがそちらの部屋に移動するということはつまり、ユーニとダブルベッドで一緒に寝る羽目になるということだ。
この事実が、タイオンをひどく悩ませる。


「アタシはどっちでもいいかな。皆に合わせるわ」


肝心のユーニは決定権を他人にゆだねてしまっている。
賛成2人、中立1人、反対0人の状況だ。
ノアとミオはこの議論に関してほとんど部外者であるため、意見を出すことなく黙って4人のやり取りを聞いている。
このままでは多数決の結果、部屋割を再編成することになってしまうだろう。

嫌なわけではない。むしろユーニと相部屋になれるのは非常に魅力的な提案だ。
だが、ノアやミオ、ランツやセナと違ってまだ交際1週間も経っていないこの状況でイキナリ相部屋は流石にハードルが高い。
しかも同じベッドで添い寝する未来が確定してしまっている。
正直、正気を保てる自信がない。
ユーニは“どっちでもいい”などと呑気なことを言っているが、きちんと理解しているのだろうか。
付き合いたての男と同衾することの危うさを。


「セナと同じ部屋になれば、タイオンに遠慮することなく存分に朝から筋トレできるし、俺としては都合がいいんだよな」
「……前々から遠慮なんてしてなかっただろ君は」
「でも、ランツの言う通りじゃない?タイオンも寝不足だって言ってたし、部屋割を変えたほうがタイオン自身のためにもなるんじゃないかな」


ミオの言葉はもっともだった。
毎朝早くから筋トレを始めるランツとセナのルーティーンに巻き込まれていたタイオンにとって、トレーニング器具が置いてあるあの部屋以外で眠れることは僥倖以外の何物でもない。
寝不足解消のためにも、この提案は受け入れる必要があるのかもしれない。
そう考えたタイオンは、ノアからの提案を渋々受け入れることにした。


「……分かった。僕も賛成だ」


最後の一人が賛成したことで、ここに部屋割の再編成案が可決された。
以降、2階の寝室はノアとミオ、ランツとセナ、そしてタイオンとユーニの組み合わせで使用されることとなる。
交際開始から今までのスピード感に戸惑いつつも、タイオンは高鳴る鼓動を隠せずにいた。


Act.60


タイオンとセナの寝室トレードがウロボロス会議にて決定されたその日の夜。
2階では慌ただしく作業が進められていた。
部屋を移動することとなったタイオンとセナの二人は、今まで使っていた部屋からすべての私物を回収し、新しく使うことになった部屋へと移していく。
部屋にそこまで多くの私物を置いていなかったタイオンの移動はスムーズに済んだが、服や化粧品を数多く置いていたセナの荷物移動にはそれなりの時間を要した。
ふたりの部屋移動作業がすべて完了したのは、作業開始から1時間後のことである。


「ふぅ……。これで全部かな」


持ってきた服をすべてハンガーにかけなおし、クローゼットにしまう作業を終えたセナは、流石に疲労感を感じていた。
力なく近くのシングルベッドに腰を下ろす。
このベッドは昨日までタイオンが使っていたものであり、枕だけ交換しあとはそのままセナが引き継ぐ形で使わせてもらうこととなった。

直前まで男が使っていたベッドに寝ることに抵抗感はないのかとタイオンは心配しているようだったが、セナにとってタイオンは高校時代からの友人のひとり。
タイオンの綺麗好きな性格を知っているからこそ、抵抗感や嫌悪感は一切感じなかった。

壁沿いに置かれたこのベッドの対面には、同じように壁沿いに設置されているランツのベッドが鎮座している。
今までは壁一枚隔てた別の部屋で眠っていたが、今日からは同じ部屋で彼氏と寝ることになるのだ。
その事実を今更実感し、セナは秘かに赤面していた。


「よぉ、荷物運び終わったか?」
「えっ?あ、うん!終わった終わった!」


不意に、風呂から上がったランツが部屋へと戻ってくる。
急に声をかけられたことに驚きつつも、セナは赤面した顔を隠すように逸らしながら答えた。
するとランツは、セナの私物が増えた自室を見渡し満足げな表情を浮かべると、“よし”と呟きセナが腰かけているシングルベッドに手をかける。


「んじゃあこれも移動させるか」
「へ?移動って?どこに?」
「決まってんだろ。俺のベッドの真横にくっつけるんだよ」
「えぇっ!?」


あまりに予想外な提案だった。
対面の壁に沿うように置かれたベッドには、5メートルほどの間隔が空いている。
その隙間を埋めようというのか。
驚きのあまり反射的に立ち上がってしまったセナだったが、そんな彼女に構うことなくランツは持ち前の怪力でベッドを移動させようと試みる。


「ちょ、ちょっと待って!家具に移動は必要ないんじゃない?」
「いやいや、せっかくならくっつけてダブルベッドにした方がよくね?」
「でも今までは離して使ってたんでしょ?」
「当たり前だろ。今まではタイオンと相部屋だったんだから。俺にあいつと添い寝する趣味はねぇよ」


タイオンとランツがダブルベッドに横たわり、窮屈そうに眠っている様子を想像して笑いそうになってしまったが、今はそんな空想を膨らませている場合ではない。
交際して3か月経過したとはいえ、セナはまだランツと片手で数える程度しかそういった行為に及んでいない。
恋愛経験皆無だった彼女は、いまだキスだけで緊張してしまうほど奥手なまま。
こんな状態にも関わらず、真横に並んで寝る羽目になるなんて緊張して眠れないかもしれない。
焦るセナだったが、彼女のあわあわとした抵抗も虚しくふたつのシングルベッドはあっという間に合体してしまった。


「これでよしっと」
「うぅ……」
「んだよその反応。俺と一緒に寝るのがそんなに嫌か?」
「嫌とかじゃなくて、緊張しちゃうんだってば……」


広くなったベッドにどかりと腰を下ろすランツ。
彼は目の前で立ったままもじもじとしているセナの腕を強引に引き寄せた。
大きく広げられたランツの足の間に、セナの小さな体がすっぽりと挟まってしまう。
後ろから抱きすくめられるような体勢となったランツは、セナのこめかみあたりに軽く口づけながら言い放つ。


「じゃあ緊張しねぇように何回もシたほうがいいな」
「も、もう……!」


恥ずかしげもないことを口にするランツに、セナは真っ赤になりながら抗議の視線を送った。
不慣れなセナにとって、なんでも経験済みなランツに歩調を合わせるのは難しい。
初めて事に及んで以降、ランツとの物理的な距離は明らかに縮まってはいるものの、ようやく足を踏み入れた男女交際という名の新世界に、いまだセナは慣れていなかった。

一方で、いちいち赤くなっている無垢で純粋なセナの反応が、ランツにとってはツボ以外の何物でもなかった。
赤面しながら“もう!”と軽く叩かれるたび、もっと揶揄ってやりたくなる。
まるで好きな人に意地悪をして気をひこうとしている小学生だ。
実に幼稚だと自覚していながらもやめられないのは、セナに向けているこの気持ちが今まで経験したことがないくらい純朴で、真っすぐなものだからかもしれない。


「けど、やっぱり部屋変えてよかったよな。なんだかんだ一緒の部屋でいた方が都合いいし」
「……いつでも“そういうこと”できるから?」
「へー。お前さんはそれを“都合がいい”って思ってんのか。やらしーなオイ」
「ち、違うよ!さっきランツがそういう話題出したからじゃん!」


ピーピー鳥の鳴き声のように怒るセナは、自分を後ろから抱きしめているランツの厚い胸板を軽く押し返す。
少し揶揄いすぎたかもしれない。
そう思ったランツは笑いながら謝ると、ひとつにまとめられていたセナの髪をするりと解くと、毛先を指で遊ばせながら再び言葉を続けた。


「いやほら、お前さん、毎朝こっちの部屋に筋トレしに来てただろ?タイオンもいる部屋であんなエロい恰好して運動させられねぇだろ」
「え?そんな格好してた?普通にトレーニングウェア着てただけじゃない?」
「十分エロいじゃねぇか」


理解できない理屈だった。
セナがいつも着ているトレーニングウェアは、上下で分かれているセパレートタイプのぴっちりとしたものである。
筋トレを趣味にしている女性たちの間ではスタンダードな格好であり、ジムに行けば同じような格好の筋トレ女子がたくさんいる。
至って普通の格好だというのに、どこがエロいというのか。


「ユーニみたいにおっぱい大きい子なら分からなくもないけど、私みたいにぺったんこな身体じゃそこまでえっちじゃなくない?」
「馬鹿。余計にエロいだろそれは」


ランツの言っている意味が本気で理解できず、セナは首を傾げた。
きょとんとしている彼女の頭上には、複数のクエスチョンマークが浮かんでいる。
男の言う“エロい”の定義がまるで分らない。
グラビアアイドルのような豊満な胸や尻に興奮を覚えるというのなら理解できるが、こんな断崖絶壁とも言える僅かな膨らみしかない胸に欲情する男などいるのだろうか。
何もわかっていない無垢な表情を見せるセナに、ランツは大袈裟なほど大きなため息を吐いた。


「お前さん、何もわかってねぇな。人には人の性癖があるんだよ」
「いや、そんな“人には人の乳酸菌”みたいに言われても……」
「セナみたくちんまりした乳で程よく鍛えられたスレンダー体型にムラムラする奴だっているんだよ。俺みたいに!」


何故か妙に偉そうなランツに、セナは“はぁ…”と困り顔を向けるしかなかった。
確かに人の好みはそれぞれだ。
女性の間でも身長が高い男を好む者もいればぽっちゃりとした体型を好む者もいる。
胸の大きさに関しても、大きければそれでいいというわけでもないのだろう。


「……でも、タイオンは私みたいな体型好きじゃないと思うなぁ」
「分かんねぇだろ。あいつだってお前のその腰回りの引き締まり方見て良からぬ妄想してるかも知んねぇぞ」
「だってタイオンの好きな人ってユーニだよ?バインバインのユーニだよ?絶対好みとは正反対だって」
「好きな女と好みの体型は必ずしも一致するわけじゃねぇんだよ!」
「じゃあランツは巨乳が好きなの?」
「馬鹿言え俺は好きな女の体型がそのまま好みに直結するタイプだ。つまり貧乳派だ!」


そう高らかに宣言した瞬間、ランツは一瞬で後悔した。
まずい。今のは失言だったかもしれない。
案の定、腕の中でおとなしくしていたセナはその褐色の瞳を細め、ゴミを見るような目でこちらを見上げていた。
貧乳の自覚はある。だが本当のことだからと言って他人に言われるのは腹が立つ。それが女心というものである。


「あ、いや、違う。貧乳って言うとあれだな、貧相な胸って書くのが失礼だよな。言い方変えよう。えっと、“控え目乳”とか」
「……」
「う、嘘嘘!“ストイック乳”!いやなんか違うな。……“発展途上乳”?」
「もういい。おやすみ」
「悪かった!ホント悪かったって!」


そそくさと布団の中に潜り込み、そっぽを向いてしまったセナの態度に、ランツは盛大に焦り始める。
なんとか彼女の機嫌を直そう努力するランツだったが、結局“女の価値は乳じゃない”の一言を繰り出すまでセナの機嫌が直ることはなかった。


***

時を同じくして、ランツとセナの部屋のすぐ隣の部屋では、タイオンが己の理性と壮大なバトルを繰り広げていた。
部屋の移動作業も無事終了し、ようやく一息つこうと新しい部屋に足を踏み入れた瞬間、彼の思考は停止する。
今日から寝る予定のダブルベッドに、風呂からあがったばかりのユーニがうつぶせの状態で寝転がってスマホをいじっているのだ。
それ自体はそこまで珍しい光景ではない。
問題は彼女の格好にあった。

普段、リビングでくつろいでいるときのユーニは布地のショートパンツに太ももまである着圧ソックスを履き、上はもこもこ生地のパーカーを羽織った状態で過ごしている。
だが今のユーニは、着圧ソックスを履いていないため白い足がつま先から太ももまで惜しみなく露出されているうえ、いつも羽織っているはずのパーカーも着ておらずノースリーブのインナー一枚で過ごしている。

胸元がざっくり空いたインナーからはシーツに押し付けられた豊満な胸が今にも零れ落ちそうになっている。
短いショートパンツから覗く白い足をゆっくりとバタつかせながらスマホに視線を落としているユーニは信じられないほど無防備だった。
随分扇情的な格好でベッドに横たわるユーニを前に、タイオンはその優秀な頭をフル回転させる。

これはどういうことか。
交際3日目になる彼女が、恐ろしく露出度の高い服でゴロゴロしつつネットショッピングを楽しんでいる。
どういうつもりだユーニ。
まるでさぁどうぞ食べてくださいとでも言いたげな格好(タイオン調べ)じゃないか。
誘っているのか。襲われ待ちなのか。
今日から自分という“彼氏”と同じ部屋、しかも同じベッドで寝ようというこのタイミングそんな痴女(タイオン調べ)のような格好でくつろぐなんて露骨にもほどがある。
これはもうOKということなのだろうか。紆余曲折を経てようやく付き合えたのだから、同部屋になったこの機会にとりあえず抱かれておこうというユーニの決意の表れなのだろうか。

いやちょっと待て。冷静になれ僕。
相手はあのユーニだ。揶揄い上手のユーニさんだ。
ここで下心丸出しでシーツに飛び込んでみろ。
即座にニヤッと笑いながら“えーなにー?もうそういうことシたいわけ?猿かよタイオン”とものすごく腹の立つ顔で煽ってくる可能性がある。
それだけじゃない。そもそも交際3日でそういう行為に踏み切るのは早すぎるのではないか?
身体目当てだと思われるのも嫌だ。
女性としては交際3日で誘われるとどう感じるものなのだろう。何が正解なのだろう。

脳裏で浮かんでくるのは、ノアとランツ。2つの事例。
1年間ミオに手を出さなかったノアが、タイオンの頭の中で囁く。
“あまり早く手を出し過ぎると体目的だと誤解されるぞ。女性は身体の繋がりより心の繋がりを大事にする傾向にある。純愛を貫くならせめて1年は待つべきだ”と。
いやいや1年?1年も同じベッドで眠りながら耐えろというのか。
ふたつの果実が目の前にぶら下がっているのに手を伸ばさず耐えろというのか。
流石にそれは男として拷問に近いものがあるぞノア。

心の中で言い訳を並べていると、今度は交際初日にセナに手を出したランツが頭の中で囁く。
“そうだそうだ。男たるもの据え膳には全力で食らいつくべきだ。交際期間なんか関係ねぇ。要は勢いだ。ヤリてぇとと思ったときに誘えばいいんだよ”と。
いやいやちょっと待て。確かに勢いは大事かもしれないが、君の場合手を出すのが早すぎてミオやユーニから非難轟々だったじゃないか。
あの犯罪者を見るような女性陣の目を忘れたのか。
僕もあんな目で見られるのはごめんだぞランツ。

思考を揺らすタイオンの目の前で、ユーニの白い足が右、左と交互に揺れる。
なんということだ。
タイオンが参考にしようとした2つの事例はあまりに極端だ。何の参考にもならない。
理性に従うべきか、欲望に従うべきか。
囁くノアとランツの声を振り払い、タイオンは意を決し最適解と思われる行動に出た。

ユーニが寝転ぶベッドの端にゆっくりと腰を下ろしたタイオン。
羽織っていた白いパーカーを脱ぐと、ユーニの華奢な肩にそっとかけてやった。
そして、爽やかに微笑みながら言うのだ。


「風邪をひくぞ。そんな薄着でゴロゴロするのはやめなさい」


これだ。これで間違いない。
ユーニの身を案じつつ上着を貸してやるという実に紳士的なムーブを発揮することができた。
ガッついていない余裕ある男であることをアピールできた上、無駄に扇情的なユーニの露出度を抑える事もできて一石二鳥。

これならユーニも頬をわずかに紅潮させながらきゅんとするに違いない。
なにせ女性は優しい男に惚れると古から決まっている。
この法則にのっとれば、ユーニは今のタイオンの優しさしかない対応に惚れ直さざるを得ないのだ。

どうだユーニ参ったか。この紳士的な男と付き合えたことに涙を流しながら感謝するといい。
したり顔を浮かべていたタイオンだったが、そんな彼に向ってユーニは半笑いを浮かべながら暴言を吐いてきた。


「なんかタイオン、お父さんみたいだな」


オトウサン。
“彼氏”とは対極の位置にあるその比喩に、涙が出そうになった。
紳士的な彼氏を演じたつもりだったが、ユーニの目には世話を焼いてくる面倒くさいお父さんのようにか見えなかったらしい。
ひどい。こんなに優しくしたのに。


「おい誰がお父さんだ。彼氏に向かってそれはないだろ。謝りなさい」
「いや言い方お父さんじゃん」
「人と話している最中にスマホをいじるのはやめなさい」
「うわこのお父さんウゼー」
「目を合わせて話しなさい。ほらスマホは没収だ」
「あっこら返せ!」


服のオンラインショップを開いていたスマホが、タイオンの手によって強奪される。
まだ買い物は済んでいない。
大事なスマホを突然奪われたことに驚き、ユーニは肩からタイオンのパーカーを羽織ったままベッドから起き上がった。
手を伸ばしてみるが、タイオンに奪われたスマホには届かない。

返すまいとスマホを頭上に掲げるタイオンと、奪い返そうと手を伸ばすユーニ。
腕の長さがあまりにも足りないことに苛立ったユーニがタイオンの肩に片手を置いて身を乗り出したその瞬間、タイオンは急にかけられたユーニの体重によってよろめいてしまった。

ベッドに倒れ込むタイオンと、その上から覆いかぶさるように倒れ込むユーニ。
まるでユーニに押し倒されたような体勢になってしまったことで、タイオンは息を詰めた。

上に乗っているユーニと目が合い、焦りが加速する。
まずい。この体勢は本当にまずい。
ユーニの顔が近すぎるうえに、豊満で柔らかな胸がふたつ、タイオンの胸板に惜しみなく押し付けられている。
少し視線を下げれば、ザックリ胸元が空いたユーニのインナーから谷間が見えてしまいそうだ。
しかも、ユーニの足の間にちょうどタイオンの下腹部が当たっている。
下手をすれば気付かれてしまうかもしれない。期待と欲を孕ませ、反応しつつあるこの状況に。

焦るタイオンは、いつの間にかスマホを手放してしまっていた。
力の抜けた彼の褐色の手からスマホが零れ落ち、枕元に落下した瞬間、上に乗っているユーニはにやりと不敵な笑みを浮かべ始める。


「顔赤っ」
「っ、」


いつだってユーニは“上”をとってきた。
片想いしていた時も、こうして付き合えてからもユーニには敵わない。
常に彼女の掌の上で転がされている。
悔しいと唇を噛むタイオンだったが、反撃はできなかった。
ユーニは驚くほどに余裕綽々で、照れるそぶりも緊張している様子も見せていない。
こっちは反応し始めたその部分に気づかれないよう必死だというのに。


「い、いいからどいてくれっ」
「ヤダって言ったら?」
「やめろ揶揄うな!わかってるのか、今どういう状況なのか」
「分かってるよ?タイオンがちょっと期待してるってこと」


ユーニの下半身が、タイオンの下腹部に押し付けられる。
完全に反応し始めてしまったそこに、ユーニはとっくに気付いていたらしい。
挑発するような笑顔を見せながら、彼女は乱れた髪を耳にかける。
そして、タイオンの胸板に体をこれでもかというほど密着させながら、笑顔で最後の一押しとなる質問を投げかけてきた。


「する?」


楽しそうな笑顔だった。
大事なことなのに、選択権をこちらに委ねるようなその聞き方はズルい。
タイオンの中の雄がアクセルを踏みつぶし、奥手で慎重な彼を獣に変えてしまう。
返事をする代わりに上体を起こし、反転してユーニを押し倒す。

元々抵抗する気などないユーニの体は簡単にシーツの上に沈み、組み敷いてきたタイオンにまた挑発的な笑みを向ける。
何だその顔は。
付き合ったばかりの彼氏に押し倒されているんだぞ?少しは戸惑ったらどうだ。
君だけ余裕なんてズルいじゃないか。
今にも心臓が破裂しそうなくらい緊張しているのは自分だけなのか。
その笑顔に辛抱たまらなくなったタイオンは、ユーニの唇へと噛みつくようにキスを落とした。


「んんっ、ふゥっ」


ユーニの体の上に跨り、その華奢な体を両腕で力強く抱きしめながらキスをする。
貪るように唇を食むタイオンの背中には、ユーニの白い腕が回っていた。
こうして舌を深く絡ませ合う口付けは初めてだ。
先程まで紳士的に努めようとしていたにも関わらず、ユーニの身体に縋るように抱きついて唇を押し付ける今のタイオンは、みっともないほどガッついている。
己の不格好さを自覚しながらも、ユーニという餌を前に何も考えられなくなっていた。
静かな部屋に、互いが互いを求めあう淫靡な水音だけが響いている。

唇の端からユーニが時折艶めかしい吐息を漏らすたび、タイオンの理性はごりごりと削られていく。
あぁだめだ。可愛い。
全部奪い取りたい。みんなの羨望のまなざしを一身に受けるユーニの体に余すことなく口付けて、彼女の心も体もすべて自分のものなのだと証明してやりたい。

乱れているユーニが見たい。
甘く喘ぐユーニの声が聴きたい。
ユーニの中に入って朽ち果てたい。
際限なく欲があふれ出てきて、タイオンから正気を奪う。
やがて彼の手がユーニの豊満な果実に触れそうになったその時、タイオンはぴたりと動きを止めた。
唇と唇が離れ、ぐぬぬと何かを堪えるかのように苦い顔をしたタイオンに、ユーニは不安を感じてしまう。
“タイオン?”と恐る恐る彼の名前を呼ぶと、情欲の色に染まりつつあるタイオンの目と視線が絡み合った。


「……し、しない」
「へ?」
「今日はしない」


予期せぬ回答に目を丸くしていると、タイオンは上体を起こしユーニの上からどいた。
釣られるように上体を起こしたユーニの肩に半ば無理やりパーカーを着させると、いそいそと距離を取り布団を頭から被りつつ座った状態で背を向けてきた。
何がどうしたというのだろう。
布団をかぶり、背中を丸めているタイオンに向かってユーニは問いかけた。


「もしかして、気分じゃなかった?」
「違う。そんなわけない」


マジメで堅物とはいえ、タイオンも男だ。
人並みに欲はあるし、長年想い続けてきたユーニとの一夜を夢見ないわけもない。
本当はシたくてたまらない。
今すぐその体を貪ってしまいたいが、寸前で思いとどまったのはユーニとの“これから”のことを考えての行動だった。


「付き合ってまだ1週間も経っていないのに手を出すのは流石に軽薄すぎるだろ」
「そう?アタシは別に気にしねぇけど……」
「せっかく付き合えたんだ。ちゃんと大事にしたい。せめて1カ月は健全に付き合うべきだ」
「真面目かよ」
「そういう性格なんだ。悪いか」


背中を丸めながらぽつぽつと呟くタイオンの後ろ姿は、いつもより少しだけ小さく見えた。
ユーニはそういった行為に躊躇するほど無垢な少女ではない。
手を出されないから大切にされているかと言われれば、きっとそんなことはない。
我慢せずに手を出されるからこそ愛情を感じることもある。
だが、目の前の真面目な彼氏は、欲望を必死で押し殺しながら“大切にしたい”と言ってくれた。
その気持ちは間違いなく嬉しい。

タイオンに触れられたいという欲求は勿論あるが、彼が落ち着いた付き合い方を望むならそれも悪くないだろう。
激しく求めあうよりも、微笑み合いながら隣に寄り添う方が自分たちらしいのかもしれない。
そう感じたユーニは、渡されたパーカーに大人しく袖を通すと、彼の背中にそっと頬を寄せた。


「ん、分かった。タイオンがそうしたいなら、そうしよう」
「……あぁ。すまない」
「けどさ、アタシはいつでもいいからな?」


背中から聞こえてきたユーニの囁きは、タイオンの耳に柔らかく届いた。
無理に求めることも逃げることもせずそこに居続けてくれるユーニの優しさが何よりありがたい。
そんなユーニを大切にしたいと思う気持ちに嘘はない。
けれど、少し綺麗事を言い過ぎた。
ユーニに手を出さないのは、いや、出せないのは、もう1つだけ理由があった。

タイオンの視線が、自らの足の間に落とされる。
先ほどまで元気に自己主張していたのに、今ではすっかり大人しくなってしまった相棒の様子を見て、内心肩を落とす。
この行為において、男性にとっては“緊張”こそが一番の敵だった。
ユーニに嫌われたくない。
下手を打ちたくない。
そんな気持ちがプレッシャーとして心の上に押し重なり、タイオンの身体をこわばらせてしまうのだ。

緊張のせいでそこが使い物にならなくなるのは生理現象だ。
むしろ相手に大きな恋心を抱いているからこその現象である。仕方がない。
けれど、まるで反応を示す気配がないそこを目にした時、ユーニは傷付くかもしれない。
気まずい空気が流れるかもしれない。
それだけはどうしても避けたかった。

かといって、“緊張で勃ちそうにない”などと情けない理由は言えそうにない。
だから綺麗ごとを言って嘘をついた。
恐らく、今はまだ付き合ったばかりだから、ユーニとこうして触れ合うことに慣れていないせいで余計に緊張が増長してしまうのだろう。
1カ月もあればきっと緊張もほぐれていくに違いない。
その間に、ユーニに触れること自体に慣れておかなくては。
いざという時、きちんと奮い立てるように。

振り返り、寄り添っているユーニを抱き寄せる。
こうして彼女に触れるたび、まだいちいち心臓が高鳴ってしまう。
いつか慣れるときは来るのだろうか。
来てもらわなければ困る。
じゃなきゃ、一生ユーニを抱けなくなってしまう。

あぁもう抱きたい。抱いてしまいたい。
心の中で本音を吐き出しながら、タイオンはユーニを抱きしめたまま眠るのだった。

 

 

続く