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二次創作まとめ

【#21-30】ようこそウロボロスハウスへ

【ノアミオ/タイユニ/ランセナ】

ゼノブレイド3

■現パロ

■長編

 

act.21


駅から徒歩5分ほど離れたコンビニエンスストア
大学入学直後からセナはそこでアルバイトをしていた。
その日、彼女はレジに立ちながら一日中考え事をしていた。
彼女の頭の中を支配しているのは他でもない、ランツの存在。
ディスティニーランドでの一件以来、彼女はずっとランツとの距離感に悩み続けていた。

彼を視界に入れると胸がドキドキする。
名前を呼ばれると心が躍る。
笑顔を向けられると顔が赤くなる。
どんなに“違う気のせいだ”と自分に言い聞かせても、寝ても覚めても治まることを知らないこの症状は、セナに可愛らしい恋心の芽生えを教えてくれていた。
だが同時に、複雑な気持ちも心に生まれていた。
それは、先日釘を刺してきたユーニの言葉。

“あいつと付き合ったらロクな結果にならない。アイツだけは好きになるな”

ランツのことをよく知っているユーニの言葉は、セナに迷いを与えていた。
彼女ほどではないが、セナ自身もランツのことはそれなりに知っている。
明るくて頼りになって、時々アホっぽくてとっつきやすい。それがランツだ。
彼のいいところも悪いところもよく知っている。だからこそ分かってしまうのだ。ユーニは正しい、と。

確かにランツはモテる。
顔も悪くないし、身長もガタイも大きい彼は誰が見ても頼りがいがあるだろう。
だが、筋トレを趣味としている彼にとっては恋愛や恋人の優先度は極めて低い。
彼が恋人と一緒にいるところを見たことはないが、“恋人を蔑ろにしがちだった”というユーニの言葉は、正直言って頷けてしまう。
 
想像通りというかランツらしいというか。ユーニの言いたいことも大いに共感できる。
もしもランツと付き合っても、大切にされないんじゃないだろうか?
いや、迷っている要因はそれだけではない。
“ランツはモテる”という不動の事実が、セナの肩身を狭くしているのだ。

ランツみたいな人に、きっと自分は似合わない。
来るもの拒まず去る者追わずな彼に告白すれば、きっと受け入れてもらえるだろう。
でもきっと彼は自分のことなんて好きになるわけもなく、結局最後は傷付いた末に破局する。
そんな未来が明らかに見えているというのに、好きになっても無駄なんじゃないだろうか。
自分なんて、かっこよくて頼りになるランツとは釣り合わないんじゃないだろうか。


「はぁ……」
「何ため息ついてんだよ」
「えっ、」


声をかけられたと同時に、レジ台の上に複数の商品が置かれる。
焦って顔を上げると、そこには今の今まで頭の中を支配していたランツ本人がそこにいた。
どうやら客として来店したらしい。
噂をすればなんとやら。頭の中で何度も浮かんでは消えていったランツの登場に、セナは大いに動揺した。


「ら、ランツ!なんでここ?」
「いや普通に買い物。明日の昼飯買いに来たんだよ」
「あ、あぁ、なるほど……」


レジ台に置かれた商品に手を伸ばし、動揺しながらひとつひとつバーコードを読み取っていく。
カップラーメンにエナジードリンク。そして小さなプリン。
最後のプリンを手に取った瞬間、その可愛らしいパッケージに目がいった。
このプリンは最近人気が出ているネットドラマ、“相方ごっこに終止符を”とコラボしている商品である。
かつて戦場で命を預け合ったバディでる男女が、ある日突然偽装結婚することとなり、偽りの夫婦として一つ屋根の下で暮らし始める、というストーリーだ。

同じ家で生活を共にしている男女がゆっくりと恋に落ちていく様に、セナは密かに共感を覚えていた。
そうだよね。同じ家に住んでたら友達だと思ってても好きになっちゃうよね。わかる。
ドラマが放送されるたび、そんなことを心で呟いていたセナ。
今まで恋愛ドラマに全く共感を覚えなかったセナが、ここに来て初めて夢中になって視聴してしまったのは、間違いなく自分も恋をしているからなのだろう。
とはいえ、あのドラマの2人のように、自分たちの関係は“友達”の域から出る気配はないのだが。

そもそも、“友達”ごっこに終止符を打とうとしていること自体が間違いなのかもしれない。
きっと自分はランツに釣り合わない。
友達として好かれている自信はあるが、女として好かれているとは思えない。
恋愛感情を向けられているのならともかく、来る者を拒まない彼のスタンスに甘えて付き合ったところで、きっとマトモな交際は望めないだろう。
だったら、今まで通り“友達”のままでいたほうがいいのかもしれない。
友達の位置をキープしていれば、今のまま一番近い距離でランツと一緒にいられる。
それが今の自分に掴みとれる最大限の幸せなのではないだろうか。


「えっと、1020円です」
「ほいよ」


スマホに表示させたバーコード決済で会計を済ませるランツ。
袋詰めした商品とレシートを渡した直後、彼は店内に設置された壁掛け時計を一瞥した。


「お前さん、今日バイト何時まで?」
「あと10分で終わるけど……」
「じゃあ外で待ってっから、ちょっと付き合えよ」
「へ?」


“付き合え”
その言葉にドキッとしてしまうのは、セナが人よりも恋愛経験が少ないからなのかもしれない。
だが、当然彼の“付き合え”という言葉は“交際”という意味ではない。
“腹減ったから飲みに行こうぜ”という彼からの誘いに、セナは少しだけ肩を落としながら反射的に承諾してしまった。
 
頷くセナに満足そうに微笑むと、ランツは後ろ手に手を振りながら店から出て行ってしまう。
自動ドアを通る“ピロリロン”という音を聞きながら、セナは一瞬で後悔した。
今ランツと二人きりになるのは不味い。
せっかく友達のままでいようと決めたのに、心がまた昂ってしまう。
こういう時こそ距離を取って落ち着きたいのに。
けれど、ランツに誘われて喜んでいる自分がいるのもまた事実。
人は恋をすると、情けないほど盲目になってしまうらしい。
喜びと迷い。二つの感情が複雑に混ざり合う胸を抱えながら、セナは再び深いため息を吐くのだった。


***

運ばれてきたハイボールとレモンサワーのグラスを傾け、2人は乾杯する。
カウンター席には唐揚げやエイヒレ、サラダが並んでいる。
アルコールがそこまで得意ではないセナに比べて酒好きなランツは、一口目でハイボールのグラスを半分ほど空にしていた。
“ぷはーっ”と息を吐きながらぐらを置いたランツを横目に見ながら、セナは控えめに微笑む。
こうして彼と二人で酒を飲んだことは何度かあったが、相変わらずいい飲みっぷりである。

2人が入ったのは駅前の居酒屋。
全国どこでも見かけるほどの大手チェーン店である。
カウンター席に腰掛けた2人は、遅めの夕飯兼晩酌を開始する。
最初はランツの誘いに乗ること自体躊躇っていたセナだったが、いざこうしてついていくとやはり楽しい。
ほろ酔いの状態で他愛もない会話をするうちに、いつの間にか1時間、2時間と時間が経過していた。
そろそろ日付が変わるというタイミングで、ちょうどよく二人のグラスは空になる。
料理もほとんど食べつくしたことで、2人の間に何となく帰宅の空気が流れ始めていた。

“そろそろ行こう”
どちらかがそう言いだすよりも前に、ランツがそっと席を立った。


「悪い。ちょっと俺トイレな」


そう言って、ランツは軽く手を振りカウンター席を離れていった。
その背中を見送った後、テーブルに置かれた伝票へと視線を向ける。
ランツが帰ってきたら会計になるだろうから、あらかじめ割り勘用の現金を用意しておこう。
そう思い、かばんに手を伸ばしたその時だった。


「あれ?セナ?」


聞き慣れない声から名前が呼ばれる。
反射的に振り返ると、そこには自分と同い年くらいの男が立っていた。
見覚えはない。誰だろう。
首を傾げていると、振り返ったセナの顔を見た瞬間、男の顔がにやりと笑みを孕む。
口角を無理やり上げたような気味の悪いその笑顔を見た瞬間、背筋に悪寒が走る。
この笑顔が、心の奥に仕舞い込んだセナの暗い記憶を呼び起こす。


「あ……」
「やっぱりセナだよな!? やばっ、超久しぶりじゃん!俺のこと覚えてる?覚えてるよな?」
「う、うん……」
「何だよお前、こっち上京してきたのかよ。つか、相変わらずちんちくりんなのな、お前」


男の手が、セナの頭に乗せられる。
まるで押さえつけるかのようなその手つきは、セナを不愉快にさせた。
だが、“やめて”とは言えなかった。
今も昔も、彼には言いたいことが何も言えないのだ。

目を逸らし、ただただ彼が自分の前から去ってくれることを願っていたセナだったが、不意に頭に乗っていた手の感覚がなくなる。
ふと見上げると、そこには先ほどまでセナの頭を抑えつけていた男の手を強く掴んでいるランツの姿があった。
突然大男に手を掴まれ驚きを隠せていないその男を睨み下ろしながら、ランツは口を開く。


「おい、人のツレに随分馴れ馴れしいな」
「は?誰?まさか彼氏?」
「だったら何だよ」
「ら、ランツ……!」


ランツが否定しなかったのは、以前のようにセナのことを守るためだろう。
だが、この男がセナに声をかけてきたのは十中八九ナンパ目的ではない。
この男の素性を知っているセナだからこそ分かるのだ。
彼が自分をナンパなんてするわけがない、と。
案の定、男はケラケラと笑いながらランツに掴まれている手首を軽く振りほどいた。


「マジかよ本当に彼氏かよ。心配しなくてもいいっすよ彼氏さん。俺、コイツの中学の同級生なんで」
「同級生……?」


事実確認をするためか、ランツは無言で背後のセナへと視線を向けた。
その男の言葉は本当だ。5年以上ぶりに会う彼は、当時真っ黒だった明るい髪を茶色に染め、耳にはいくつもピアスをつけている。
容姿は大きく変わっていたが、この常に半笑いな喋り方は印象的だった。
彼はランツに向かって笑いながら言い放つ。“つーかこんなのナンパするわけないじゃないですか”と。


「セナに彼氏とか笑うわ。暗いしオドオドしてて人をイラつかせる天才って言われてたのに、よく彼氏なんて出来たな。物好きな彼氏さんに感謝しろよー?セナ」
「……」
「俺なら絶対お前と付き合うとか無理だわ。死んでも無理。彼氏さん、コイツのどこに好きになる要素があったんすか?」


相変わらず不愉快な笑顔を浮かべながらすらすらと嫌味な言葉を言い放つその男に、セナの心臓はバクバクと騒ぎ出す。
思い出したのだ。教室という閉鎖的な空間で、当時中学生だった彼から浴びせ続けられていた数々の暴言を。
あの時も、こうして心臓が破裂しそうなくらい騒いでいた。
傍らにはランツがいる。何も言い返せない自分の姿を、ランツにだけは見てほしくなかった。
逃げたい。この場から今すぐ駆け出して消えてしまいたい。
そんなことを想い始めた時、男から問いかけられたランツが口を開いた。


「どこを好きになったか?そうだな——」


ゆっくりと前に出ると、ランツは手を伸ばし、強引に男の胸ぐらをつかんだ。
戸惑う男を力強く引き寄せると、至近距離で睨みつけながら言い放つ。


「テメェと違って人を傷つけたりしねぇところだな」
「は、はぁ!?」
「お前、自分が今どんだけ失礼なこと言ってるのか分かってんのか?分かってねぇなら人としてどうかしてるぞ」
「ちょ、ちょっとランツ!」


男の胸ぐらをつかみ上げたランツの手を抑え、何とか引きはがそうとするも、渾身の力で掴んでいるせいか彼の拳はびくともしない。
カウンター席で大柄の男が他の男性客に掴みかかっている光景は、周囲の客には非常に恐ろしく見えただろう。
店内で酒を飲んでいた客たちが、怪訝な目でこちらを見つめている。
だが、頭に血が上っているランツにはそんな周囲の状況などまるで見えていなかった。


「てめっ……イキナリ何しやがる!」
「人のこと上から目線で批評できるようなタマかテメェは!? アァ!? 同級生だか何だか知らねぇが調子乗ってんじゃねぇぞ!」
「やめて!やめてってば!」


力を込めると、ようやく男の胸ぐらをつかんでいたランツと手を引きはがすことが出来た。
これ以上彼が男に危害を与えないよう、セナはとっさにランツの太い腕に自分の腕を絡ませる。
男が怪我をしないように庇ったわけではない。
これ以上危害を加えて、ランツが加害者になってしまうことが嫌だったのだ。


「もういいよ!早く外出よう」
「けどよ……!」
「いいから!」


伝票を手に、ランツの腕を掴みながら店の出口に向かって歩き出す。
背中を向けて去っていくセナとランツに、1人取り残された例の男は怒りをあらわにしながら“おい逃げんじゃねぇ!”と怒鳴り散らす。
その怒鳴り声に反応したのは、ランツではなくセナの方だった。
やっぱり、逃げているように見えるのだろうか。
あの頃と同じように、ただ背を向けて逃げるだけの自分は嫌だった。
ほんの少しでも牙をむきたくて、セナは足を止めて振り返る。


「私だって、アンタなんて死んでも無理だから!」


それは、初めての反論だった。
言い返されるとは思っていなかったのか、男は目を見開きながら戸惑ったように固まっていた。
その隙に、さっさと会計をすまし店を出る。
早歩きで飲み屋街を往くセナの腕は、未だランツの腕に絡んだままだった。


***

夜の住宅街を歩く二人の間に会話はない。
先ほど居酒屋で遭遇した喧騒が嘘のような痛い沈黙に、セナはそろそろ我慢の限界を覚えていた。
ランツは居酒屋を出てから一度も口を開いていない。
無理矢理出てきてしまったことを怒っているのだろうか。
何にせよ、家に着くまでこの沈黙が続くのは耐え難かった。
状況を打開するため、セナは勇気を出して沈黙を破る。


「聞かないんだ?」


セナの問いかけに、ランツは前を向いたまま“ん?”と聞き返してくる。
そんな彼の横を歩きながら、セナは言葉を続けた。


「あの人のこと、詳しく聞かないんだ?」
「気にはなるけど、お前さんにとって気分のいい話じゃないんだろ?」
「うん。まぁ……」
「なら聞かねぇ。少なくともセナが自分で話したいと思えるようになるまではな」


それはランツの気遣いだった。
居酒屋で会った男とセナのやり取りを見ていれば、ただならぬ“何か”があると察してしまうのは当然の流れだろう。
明らかにセナの表情が暗くなっていた事実にも気づいている。
となれば、強引に聞き出すのは彼女のためにならない。
そんなランツの優しさを浴びたセナは、うつむきながら薄く微笑んだ。
ランツは優しい。きっとみっともない過去を吐露したとしても、彼なら変わらず接してくれるだろう。
彼は大事な友人であり、心を寄せている相手だ。
だからこそ、すべてを打ち明けたい。

同じ速度でゆっくり歩いていたセナの足が止まる。
少し遅れてランツも足を止め、突然立ち止まった彼女の方へと振り返る。
俯いていたセナは、少し悲し気な笑みを浮かべながら口を開いた。


「ちょっとだけ、時間貰ってもいいかな」


住宅街の中央にある児童公園。
ブランコとシーソーだけが設置されているこの小さな公園には、既に深夜であるためか人影は一切見当たらなかった。
鈴虫の声だけが響く静かな公園で、2人は並んでベンチに腰掛けた。
手には近くの自販機で購入した缶コーヒー。
微糖のコーヒーを一口飲むと、セナは意を決したように例の男との関係性を口にした。


「私、ミオちゃんやタイオンと同じ高校出身だけど、中学の頃は別の地域に住んでたんだ。高校進学と共に引っ越したの」
「そうなのか」
「さっきの人、中学の頃の同級生って言ったでしょ?私ね、いじめられてたんだ。あの人たちに……」
「チッ……そんなことだろうと思った」


隣に腰掛けていたランツが、勢い良く立ち上がる。
なんとなく嫌な予感がして、セナは手に持っていた缶コーヒーをベンチに置き、とっさに彼の手を握って引き留めた。


「ちょ、ちょっとランツ、どこいくの!?」
「戻ってあの馬鹿ぶん殴るんだよ!当然だろ!」
「だめだよそんなの!もう過去の話だからいいの!」
「だからってなぁ……!」
「それに、あの人だけにいじめられてたわけじゃないから!クラス全員にいじめられてたから!だからあの人個人にはそんなに恨みとかないから大丈夫!」


さらっと悲しい事実を言い放ったセナに、ランツは呆れて言葉を失ってしまう。
深く深くため息をつきながらベンチに腰掛けると、彼は頭を抱えた。
“そういう問題じゃないだろ……”という彼の呟きは、セナの耳には届かなかったらしい。
ようやく諦めてくれたランツの様子に安堵すると、彼女はぽつりぽつりと過去の回想を始めた。

セナが生まれ育ったのは、ここから新幹線の距離にある地方都市だった。
当時の彼女は今と同じように気弱な性格で、あまり自分に自信を持っていなかった。
勉強が出来るわけではない。顔が特別可愛いわけではない。多くの人に好かれるような明るい性格でもない。
運動は出来る方だったが、自己肯定感が上がるような要因とは言い難かった。

控えめな性格からくる自身の無さは、彼女から“自我”を奪っていく。
意見を聞かれても人に合わせて笑顔を作り、“私もそう思う”と連呼する。
そうして周りに合わせていれば、誰にも嫌われないと思っていた。
とある放課後、誰もいなくなった教室で、同じクラスの男子に想いを告げられるまでは。

“俺と付き合ってください”

それは、サッカー部に所属している同級生だった。
顔を合わせれば挨拶する程度の仲で、親しいとは言い難い。
運動神経が良く頭もいい彼は、女子たちかの羨望の的だった。
そんな彼からの告白に一瞬喜びを覚えたセナだったが、数秒後には疑心に支配される。
私のことが好き?なんで?どこが?こんな私のなにがいいの?取り柄なんて無いし、暗いし、人と関わるの苦手だし。
からかってるのかな?罰ゲームか何か?
どちらにせよ、私なんか釣り合わないよ。
こんな私に、君みたいな人は勿体ないよ。

こうしてセナは、彼からの告白を断った。
彼は苦笑いを浮かべて納得してくれたようだが、翌日には既にセナが彼をフッたという噂が出回っていた。
人気者の彼が陰気なセナに告白し玉砕したというゴシップは男女ともに関心を集め、やがて反感を買う事になる。

彼の告白を断るなんて、身の程知らず。
釣り合ってない。どうせ罰ゲームか何かで告白したに違いない。
そんな陰口が、セナの耳に入るようになったのだ。

仕方ないと思った。
告白を断ったのは事実だし、釣り合っていない上に断ったなんてたしかに身の程知らずだ。
じゃあ、告白を受け入れていたら何かが変わっていたのかな?
いや、きっと違う。受け入れたところで、何であんな地味なやつと?と反感を買うだけだ。
私が私である限り、きっとどんな選択をしたって上手くいかなかったに違いない。

そんな事を考え始めていたある日、友人だと思っていた人達の話を盗み聞きしてしまった。
今思えば、わずかに残っていた自己肯定感が崩れ去ったのはあの瞬間だったのかもしれない。

“セナってさぁ、正直メンドクサイよね”
“わかる。意見聞いても笑ってごまかすだけで自分の意見全然ないし”
“そうそう。遊びに行く約束してもさぁ、どこ行きたいか聞いてもどこでもいいしか言わないし”
“人に合わせてばっかりだよね。話してて超疲れるわ”

自覚はあった。人に合わせてばかりで“自分”がない。
嫌われないように懸命に取り繕った結果、“友達”なんて最初から一人もいなかった事実に気付いてしまう。
学生というものは残酷な生き物で、教室という限られた空間で毎日同じ顔と過ごしているうち、集団は無意識にカーストを形成してしまう。
集団内の空気を少しでも結束させるため、はみ出し者が1人いれば徹底的にたたき始めるのだ。

最初はクラスの女子数名から無視される態度だった。
だがその悪意は次第にクラス全体に広がり、セナはあっという間に“はみ出し者”の地位に納まってしまった。
女子からは陰口をたたかれ、男子からは分かりやすく嫌がらせをされる。
気の弱いセナに、反撃しようなどという考えは一切浮かんでこなかった。
そんな日々が続き、とうとう彼女は中学2年の冬に不登校となった。

幸いにも、セナの両親は最初から最後まで彼女の味方でいてくれた。
都市部から離れた田舎に引っ越すことで、心機一転を図ろうと提案してくれたのだ。
進学先に選んだ高校は、通っていた中学からは1人も進学する予定のない公立高校である。
新しい環境ならきっとなじめるはずだと両親は信じていたが、現実はそううまくいかなかった。
彼女が引っ越した地域は人口が少なく、まさに“田舎”と呼んで差し支えない場所である。
当然子供も少なく、その地域に住んでいる子供たちは小学校から高校までほとんど同じ学び舎で育つ。
高校進学時には既に生徒たちの人間関係は形成されており、そこによそ者であるセナが入り込む隙は無かった。

入学して1カ月の間、セナはずっと一人で過ごしていた。
以前のようにいじめられることはなかったが、周囲が自分のことを認識してくれない孤独感は辛いものがある。
結局自分はまた“はみ出し者”なのか。
諦めかけていた彼女に救いの手を差し伸べたのは、1学年年上のミオだった。
 
たった一人で過ごしていた彼女を気にかけ、休み時間になるたびわざわざ下の学年である自分の教室まで様子を見に来てくれる。
そんな優しいことをしてくれる人に出会ったのは初めてだった。
 
生徒会に入ったのも、ミオの勧めである。
当時生徒会長を務めていたタイオンを紹介してもらったことで、彼女の人生で初めての“男友達”ができた。
美人で人望がある先輩のミオ、そして生徒会長のタイオンと親しくなったことで、セナの交友関係は一気に広がっていった。
いじめられていた過去が嘘のように友達が増えていく。
毎日こんなに学校に行くのが楽しみなのは初めてだった。

アイオニオン大学に入学したのも、ミオがいるからだ。
人生を変えるきっかけをくれた彼女に、セナは大きな憧れを抱いていた。
だからこそ、アパートで一緒に住もうと誘われたときも嬉しくて仕方がなかった。
大学入学後も新しい友人は増えたが、すべてミオからの紹介である。
ノアと知り合ったのもミオの彼氏だったから。ユーニと仲良くなったのもミオが紹介してくれたから。
今思えば、高校入学から今まで、セナはずっとミオに寄りかかっていた。
彼女に頼ってばかりで、自分一人で友達すら作ったことがない。
いじめられる日々は終わったが、自分はきっとあの頃のまま何も変わっていないのだろう。

ランツはセナの話を黙って聞いていた。
いつの間にか缶コーヒーは空になっていて、彼の大きな手の中でぐしゃりと握り潰されている。


「だからね、もし今日みたいに誰からに絡まれたら、彼氏だなんて嘘つかなくていいよ」
「……なんでだよ」
「だって私、ランツの彼女に見えないもん」
「は?」
「私なんか、嘘でもランツに相応しくないよ。暗いし、自信ないし、ミオちゃんがいなくちゃ友達だって作れないし……」
「……」
「庇うためだったとしても、ランツにそんな嘘つかせるの、嫌だもん」


両手で缶コーヒーを握るセナの手が震える。
瞳を揺らすセナの隣で、ランツは空になった缶コーヒーを遠く離れたゴミ箱へと投げ入れた。
投げられた缶は綺麗な放物線を描き、気持ちいいほどダイレクトにゴミ箱の中に吸い込まれる。
見事な投球に感心していると、隣に座ったままのランツが低いトーンで淡々と言葉を紡ぎ始めた。


「俺はセナじゃねぇから、お前さんの自己評価に“そんなことない”とか気軽には言えねぇ。だから否定も肯定もしねぇ。けどな、一つだけ間違ってることがある」
「間違ってる……?」
「ミオがいなくちゃ友達が作れねぇとか言うけど、じゃあ俺はどうなんだよ?」
「え……」
「俺とお前さんの馴れ初めに、ミオは一切関わってねぇだろ」


ランツからの指摘に、セナはハッとした。
確かにそうだ。ランツとの出会いのエピソードに、ミオの名前は一切登場していない。
ランツに声をかけられたことで始まった2人の関係は間違いなく友人と呼称できるが、彼はセナの友達リストの中で唯一、ミオに頼らず作った友人だった。
しかし、あの時最初に声をかけてきたのはランツの方だ。
自分の力で彼と友達になったわけではない。


「で、でも、あの時はランツが声をかけてくれたから……」
「ばーか。それは1回目の話だろ?2回目に話した時のこと、忘れたのか?」


最初に2人が出会った日、ランツはセナの連絡先を聞かずに帰ってしまった。
というのも、明らかにセナが自分に警戒心を抱いていたからだ。
2回目の邂逅はそれから約1か月後。同じジムでセナを見かけたものの、前回話した時の警戒っぷりを思い出し、遠慮してしまったのだ。
彼女の気配を気にかけながらも、ランツは声をかけずに筋トレを開始する。
そんな彼に、背後から声がかかった。

“あ、あのっ、こんにちは”
たどたどしく話しかけてきたのは、他の誰でもないセナだった。
緊張した様子でそこに立っている彼女に、ランツは嬉しくなって笑顔を見せ、こう言い放った。
“よお、また会ったな”と。


「連絡先交換したのは2回目に会った時だろ?お前さんがあの時声かけて来なかったら、たぶん今みたいに深夜の公園で並んで話したりしてねぇって」
「そう、かな」
「そうだよ。だから、お前は友達くらい一人で作れんだよ。俺が証人だ」


後ろに両手を突きながら、ランツは快活に笑った。
その笑顔が、セナの心を鷲掴む。
どんなに暗い過去がこの心を覆っても、ランツに“大丈夫だ”と笑いかけられた途端心の雲に光がさしていく。
ランツはセナにとって友人であり、好きな人であり、憧れの人でもあった。
明るくて楽しくて力強い。そんな彼に、セナはずっと憧れていた。
もしかすると、この淡い恋心もずっと前から抱いていたのかもしれない。

口元に笑みを浮かべると、セナは空になった缶をランツと同じようにゴミ箱へと投げ入れる。
綺麗な放物線を抱いた缶は、カコンと小気味よい音を立てながらゴミ箱の中へと入った。
そして小さくガッツポーズを決めたセナは、ベンチから勢い良く立ち上がり満面の笑みをランツに向けた。


「ありがとう。ランツのおかげで、私、ちょっとだけ明るくなれる気がする」
「なんだそれ。お前さんは今でも十分明るいだろうが」
「それは私のことを理解できてないなぁランツくん。本当はものすごく暗くて陰気な性格なんだよ?私」
「はいはい。んじゃあ暗くて陰気なセナさんよォ、もう1時回ってるし、さっさと帰るか」
「そうだね、帰ろっか」


セナに微笑みを反すと、ようやくランツはベンチから立ち上がる。
そして自分より背の低い彼女の頭を軽く撫でると、肩を回しながら歩き始める。
そんなランツの背中を追いながら、セナは独り言のようにつぶやいた。


「ありがとう。ランツと友達になれてよかった」
「友達、ね……」


足元に視線を落としているセナは気付かなかった。
前を歩くランツが、ほんの少しだけ寂しそうに笑っていたことを。

 

act.22


スマホのニュースサイトを見ていたユーニは、トップニュースとして取り上げられていた天気に関する記事をタップした。
どうやら関東地方が梅雨入りいたらしい。
6月下旬に突入したこの時期の梅雨入りは例年通りの速さと言えるだろう。
実際、今日も空は厚い雲に覆われ、昼頃からずっと雨模様だ。

大学内のラウンジで時間をつぶしていたユーニは、スマホ片手に窓の外へと視線を移す。
少しだけ蒸し暑いこの季節は、湿気で髪が広がってしまうからあまり好きではない。
だが、この梅雨を乗り越えれば夏がやって来る。
夏にはルームメイトの5人と一緒に温泉旅行に行く予定がある。
その他、友人たちと出かける予定はいくつかあったが、その予定の中に、タイオンとの予定はない。

以前までは3か月に1回程度の頻度でタイオンと飲みに行っていたのだが、一緒の家に住み始めてからはわざわざ二人で出かける理由もなく、彼と二人きりで食事に行く機会はめっきり失われてしまった。
その分日常生活を共にできるという利点はあるが、2人きりになれないというデメリットはかなり大きい気がする。
これは、ルームシェアに誘ったのは間違いだっただろうか。
そんな後悔がユーニの心に生まれつつあった。

ひとつ屋根の下で一緒に過ごせば、きっとこの停滞した関係も進展するはず。
そんな目論見があったのだが、相変わらずタイオンは同じ距離感を我慢強くキープしている。
ユーニはミオやセナのように、恋に恋する可愛らしい乙女ではない。
ゆっくり距離を縮めて心を通わそうという考えはあまりなかった。
むしろ強引に押し倒してくれれば話は早いのに。
 
だが、真面目で堅物なタイオンは間違ってもそんなことはしないだろう。
タイオンが自分に好意を寄せていることは重々承知している。
彼が両手を広げて“おいで”と言ってくれさえすれば、何もかもがうまくいくはずなのに。
とはいえ、受け身であるのは自分も同じ。その自覚があるため、タイオンを責める気にはなれなかった。


「ユーニ、ここにいたか」


ぼうっと外の雨を眺めていると、誰かから声をかけられた。
視線を向けた先にいたのはゼオン。ノアやランツと同じく、高校の同級生である。
ノアと同じく経済学部である彼とはあまりキャンパス内で会うことはないが、彼の親友でもあるカイツ共々、ユーニとは会えば挨拶する程度の仲である。
そんな彼から突然声をかけられ、ユーニは目を丸くする。
1人でラウンジに腰掛けていたユーニの正面の席に座ると、ゼオンは両肘をテーブルに突き前のめりになりながら口を開いた。


「2つ聞きたいことがある」
「え?何だよ急に。こわっ」
「まずは1つ目。今彼氏はいるか?」
「はぁ?」


何の脈絡もなく落とされた質問に、ユーニは思わず間の抜けた声を出してしまう。
ゼオンは昔からこうだった。
少し変わっているというか、唐突に妙な言動をとることが多かったのだ。
そんな彼の悪い癖は、未だに直っていないらしい。
こいつ会話へたくそか。
そんなことを心の中でぼやきながらも、ユーニは素直に答えてやることにした。


「いないけど?」
「よし。じゃあ2つ目。7月の第3土曜日は空いているか?」
「第3土曜日?」


手に持っていたスマホからスケジュールアプリを立ち上げ、提示された日程を確認してみる。
幸い、その週の土日はどちらも空いていた。
2つ目の質問に“空いてる”と答えると、ゼオンは再び小さく“よし”と頷く。


「なら、俺と花火大会に行こう」
「花火大会ィ!? ゼオンとォ!?」
「不服か?」
「うん。絶対お前のこと狙ってる女どもの反感買うじゃん。ダルいだろそんなの」
「そんなのいないと思うが」
「お前なぁ……」


ゼオンを狙っている女がいない、なんてあり得ない。
彼は顔がいい。そのうえスタイルも良ければ勉強もそれなりに出来るため、高校時代からノアに負けず劣らずモテていた。
だがゼオン自身はあまり色恋に興味が無いらしく、いちいち告白してくる女子生徒を一人ひとり丁寧にお断りしていた。
 
ゼオンのモテっぷりは大学に進学して以降も変わらず、むしろ拍車がかかったように思える。
ノアにミオという彼女が出来たことで、彼に熱を上げていた面食いの女子たちが、一斉にゼオンへと流れたのだ。
彼をジャニーズ感覚で推している者は多い。
そんな彼と二人で花火大会などに行ったら、きっと面倒なことが起きる。
昔からやたらとモテるノアやランツという幼馴染とつるんできたユーニには、同性からの嫉妬に対する危機管理能力が人一倍高かった。


「そこをなんとか頼む」
「やだって」
「人助けだと思って」
「そんなに女と花火大会行きたいならお前のファンの女といけよ」
「俺はアイドルじゃないからファンなんていない」
「それがいるんだっつーの。自分の顔の良さ自覚しやがれ馬鹿」


ゼオンは顔がいい。それは間違いない。
だが、ユーニは1度たりともゼオンに恋心を抱いたことはなかった。
彼はいい人だが、どこか天然というか変わっているというか、やけに鈍いところがどうも噛み合わない。
正直って、一緒にいるとツッコミで疲れてしまうのだ。
それに、たとえ相手がゼオンでなくとも二人きりで花火大会に行くのは憚られる。
付き合っているわけではないが、ユーニには好きな相手がいるのだ。
タイオンが自分に好意を寄せていることも知っている。
そんな状況で、わざわざ他の男と2人きりで出かけるような愚行はしたくない。


「ユーニじゃなきゃ都合が悪いんだ。俺やカイツのことをちゃんと知ってる人じゃないと誘えない」
「はぁ?カイツ?なんでそこでカイツが出てくんの?」


話が見えてこない。
よくよく聞いてみると、どうやらこの誘いは“ダブルデート”の誘いだったようだ。
それもただのダブルデートではない。偽りのダブルデートである。
 
ことの原因はカイツにあった。
国語学部に所属する1歳年下の後輩、ユズリハに一目惚れしたカイツが、彼女を花火大会に誘ったことがそもそものきっかけなのだ。
誘われたユズリハに“2人でですか?”と問いかけられたカイツは臆病風に吹かれ、“俺の友達のカップルも誘って4人で行こう!”と口走ってしまったらしい。
 
ユズリハからはOKを貰ったそうだが、嘘をついてしまった手前このままではまずい。
彼は即座に親友であるゼオンを頼った。しかし、ゼオンには彼女がいない。
彼女役として誰か適当な女性を誘う必要があるのだが、共通の友人であるカップルという設定になっているためゼオンやカイツの知人であることが条件になって来る。
ゼオンともカイツとも親しい異性。この検索条件に当てはまる女性は、ユーニだけだった。


「要するに、嘘ついたカイツのために彼女役をやって欲しいってことね」
「そういうことだ」
「しょーもねぇ奴だなカイツも……」


話題に上がったカイツという人物も、ゼオンと同じく高校時代の友人である。
後輩や友人に慕われている彼は間違いなくいい奴だが、彼も彼で少々癖が強い。
惚れっぽいという決定的な弱点があるのだ。
どうやらその惚れっぽさが、後輩の女性に向いてしまったらしい。
こうなったらもうカイツは猪突猛進だ。
ユズリハとやらを彼女にするため猛進し続けるだろう。
そんな哀れな友人のために、少しくらいは協力してやってもいいかもしれない。


「つか、お前もそういうことは早く言えよ。2人で行くのかと思ったじゃん」
「すまん。俺にその気はない」
「なんでアタシがフラれたみたいな空気になってんだよ……。まぁいっか。協力してやるよ」
「本当か!?」
「その代わり、祭りではちゃんと奢れよ?」
「あぁ。たこ焼きでも焼きそばでもなんでも奢ってやる」
「よっしゃ。言ったな?覚悟しとけよ?」


こうして、夏休み期間の新しいスケジュールが埋まった。
無事ユーニの承諾を取り付けたゼオンは、満足げに微笑みながら席を立つ。
“じゃあ当日は頼む”と言い残して去っていくゼオンの背中を見送ったユーニは、再びスマホのスケジュールアプリを立ち上げる。
来月の第3土曜日に“ゼオン 花火大会”と入力し、試しに花火大会のHPを確認してみる。
この夏まつりはそれなりに大規模で、近くの河川沿いに多くの屋台が並ぶ。
県外からも多くの観覧客が訪れるほどの祭りであるため、ユーニも子供の頃何度か行ったことがあった。


「あれ。土日の2日間開催なんだ」


今までは土曜だけの1日開催だったはずだが、どうやら今年から2日間にわたって開催されるようになったらしい。
ゼオンから誘われたのは土曜。
日曜もやっているのなら、他の人を誘って行ってみるのもいいかもしれない。例えばタイオンとか。
向こうから誘ってくれるだろうか。いや、無理だろうな。
あいつは想像を絶するほど奥手だから。
諦めに似たため息を零しながら、ユーニはスマホをしまった。


***

午後16時。
全ての授業を終えて帰宅の途につこうとしたタイオンだったが、雨が降り続く空を前にして自らの失態に気付いてしまった。
しまった。折り畳み傘がない。
朝は雨が降っていなかったせいか、かばんに入れてくるのを忘れてしまったらしい。
面倒だが、大学の購買でビニール傘を買った方がいいかもしれない。
そんなことを考えていると、背後から聞き慣れた声で話しかけられた。


「おやおや~?お困りのようだねタイオンくん」


そこにいたのはセナだった。
折り畳みの傘を頭上に広げている彼女は、得意げな表情で笑っている。
これは地獄に仏。豪雨に傘だ。
傘を持っていないタイオンの目には、今のセナが女神に見える。
セナの登場に微笑みを零すと、タイオンは彼女の手から折り畳み傘を受け取り、雨の中を並んで歩き出す。

タイオンとセナの友人関係歴は意外に長く、互いに高校1年の頃にミオからの紹介で知り合って以降、ずっと友人として一定の距離を保ってきた。
気が弱いセナが心を許せる数少ない男友達の一人である。
タイオンが持つ傘の下に潜り込みながら、セナは彼の横顔を見上げる。
相合傘なんて、恋愛漫画やドラマでよくある光景だ。
だが、タイオンには悪いが一切ドキドキはしない。
例えば、今隣にいるのがタイオンではなくランツだったとしたら話は変わってくるのだろう。


「ねぇねぇタイオン」
「うん?」
「女の子と一緒にいるとき、どういう時にドキッとする?」
「なんだ急に」
「ちょっと気になって」


突然セナから向けられた質問の意図がわからず怪訝な表情を浮かべるタイオン。
ドキッとする時と言われても、すぐには浮かんでこない。
何か披露できるエピソードがあっただろうかと考えてみるが、浮かんでくるのはユーニとのやりとりばかり。
照れくささを感じながらも、タイオンは言葉を選びつつセナからの質問に答えることにした。


「なんというかこう……。少し揶揄ってきたり、期待させるようなことを言われたりすると、心に来るものがある」
「ふぅん。つまりタイオンは、好きな子に手のひらの上でコロコロ転がされたいってこと?」
「えっ」
「小悪魔な態度取られるとドキッとするんでしょ?」
「それはまぁ…うーん……」


転がされたいのか僕は。転がされているのか僕は。
そんなつもりは一切なかったが、セナの目からはそう見えているのは事実なのだろう。
なんだか気に入らない。
一方的にもてあそばれているようで腹が立つ。
ユーニはやっぱり、ただただ揶揄っているつもりなのだろうか。


「——というか、そんな質問をしてきた意図が分からないんだが?」
「だから何となくだってばぁ」
「頭の片隅でそういうことを考えているからそういう質問が出て来るんだろう?好きな人でも出来たのか?」


冗談のつもりで投げかけた質問だった。
セナが色恋ごとに興味が無いということもよく知っている。
きっと、“そんなわけないじゃん”と笑いながら否定してくるだろう。
そう思っていたタイオンの予想は大きく外れた。
頬を紅潮させ、うつむき加減に黙ったのだ。
何だその反応は。まさか図星なのか。


「えっ、な、何だその顔は。まさか本当に……?」
「いいでしょ別に。私だって好きな人くらいできるよ」
「だ、誰だ!?誰が好きなんだ!?」
「言いふらしたりしない?」
「しない」
「神に誓える?」
「か、神!? ま、まぁ誓うよ」
「本当に?」
「本当に」


他人の好きな人をべらべらと言いふらす趣味はない。
だが、今まで色恋ごとに全く興味を示してこなかったセナのハートを射止めた色男が誰なのか、気にならないわけがなかった。
絶対に言いふらさないという誓いを立てたタイオンに、セナは少しだけ迷いながらぽつりとつぶやいた。
“ランツだよ”と。

その瞬間、タイオンは持っていたセナのピンク色の傘を落としそうになってしまった。
言葉を失い、凝視してくるタイオンの様子に気付いたセナは、抗議めいた目線を彼に向けた。


「なぁにその反応」
「いや……。ランツ、なのか?本当に?」
「うん」


ほんのり頬を赤く染め、もじもじしているセナの様子が、彼女の言葉が真実であることを物語っている。
どうやら彼女は本当にランツに恋をしているらしい。
そういえば先日、ディスティニーランドから帰る車中でランツがセナに気があるようなことを口にしていた。
タイオンの頭の中で、バラバラになっていたパズルのピースが組み上がる。
事実その1。セナはランツのことが好き。
仮説その1。ランツはセナのことが好き。
仮説その1が事実だとしたら、この二人はまごうことなき両想いということになる。
目の前で判明した甘い事実に、タイオンを柄にもなくエキサイトさせてしまう。


「やっぱりタイオンも、やめておいた方がいいって思う?」


黙ったままのタイオンの様子に不安になったのか、セナは恐る恐る問いかけてきた。
彼女は先日ユーニから突きつけられた“やめておいた方がいい”という言葉をずっと気にしていた。
そのうえ、やはりランツには自分は相応しくないという気持ちが、彼女を不安にさせる。
だが、ランツの気持ちを何となく察しているタイオンには、全くと言っていいほど否定的な気持ちが湧かなかった。


「いや全く。むしろお似合いだと思うが」
「えっ、本当に!?」
「あぁ。ランツの筋トレジャンキーっぷりについていける人間なんて、君くらいだろ。お似合い以外の何物でもない」
「そ、そうかなぁ~、ぅえへへ……」


タイオンの言葉に、セナは照れ笑いを零していた。
全く分かりやすいことだ。
ユーニもセナくらい分かりやすかったらもっと早く踏ん切りがついたというのに。
そんなことを話しているうちに、2人はウロボロスハウスへと到着する。
傘を畳み、雨粒を振り払って綺麗に袋へ収納すると、お礼を言いつつセナに返した。
鍵を開けて中に入り、玄関で靴を脱ぐ。
どうやら家には既にユーニがいるらしい。
靴を見て彼女の帰宅を知った瞬間、心が跳ね上がった。
先に靴を脱いで玄関に上がったセナは、未だ玄関で上着についた雨粒を手で払っているタイオンへと振り返った。


「タイオンもお似合いだと思うよ」
「え?」
「私、応援してるからね!一緒に頑張ろうね!」


そう言って、セナは軽い足取りでリビングへと引っ込んだ。
何を?とはあえて聞かなかった。答えは分かり切っている。
セナもきっと、タイオンの本心を見透かしているのだろう。
ノアといいランツといいセナといい、そんなに自分は分かりやすいのだろうか。
まさかミオにも気づかれているのではないか。
そんな不安が的中しているとも知らず、タイオンは小さなため息をついて玄関へと上がった。

 

act.23


アルバイトを終えたミオは、夜の住宅街を歩いていた。
両耳には無線のイヤホン。お気に入りの曲を聴きながら歩いていた彼女だったが、突然流れていた音にノイズが混じり始めていることに気が付く。
どうやらイヤホンの充電が切れかかっているらしい。
 
仕方ない。この辺で音楽を聴くのはやめておこう。
そう思ってイヤホンを耳から取り外し、ポッドに戻したその時だった。
背後から足音が聞こえたような気がした。
勢いよく後ろを振り返るも、そこには誰もいない。
気のせいか。そう思い再び歩き出すと、暫くしてまた気配を感じた。
再び振り向いてみたが、やはり誰もいない。

人影のない住宅街の路地を見つめながら、ミオは背筋にひんやりと冷や汗をかいていた。
先ほどまでは音楽を聴いていたせいで気が付かなかったが、やはり誰かにつけられているような気がする。
何処からともなく視線も感じる。
かつてストーカー被害に悩まされていたミオの頭に、あの頃の記憶がフラッシュバックする。
 
一瞬で恐怖を感じ、ミオは脱兎のごとく走り出した。
静かな夜の住宅街に響くのはミオの足音と、数メートル後ろから聞こえる知らない足音。
背後から迫りくる気配を感じながら、ミオは必死で走った。
怖い。助けて、お願い、ノア。

彼氏の名前を心で呼びながら、ミオは走り続ける。
やがて、十字路に差し掛かった彼女は全速力で角を右折した。
その瞬間、同じように角を曲がって来た何者かと正面衝突してしまう。
全力で走っていたせいで勢いよくぶつかってしまい、ミオの身体は跳ね返される。
よろける彼女の腕を、ぶつかった相手である何者かが掴んで支えた。


「おっと、大丈夫か?」


怯えながら見上げると、そこにいたのはランツだった。
どうやらジョギング中だったらしい。
パーカーのフードを頭からかぶった彼は、ほんの少しだけ息を乱していた。


「ランツ……」
「何だミオか。そんなに走ってどうしたんだ?」


見慣れた友人の顔を見た瞬間、心の奥から安堵感があふれ出す。
緊張がゆるんだことで全身から力が抜け、思わずその場に倒れ込みそうになった。
急にふらふらし始めたミオに驚き、ランツはとっさに彼女の身体を抱き留める。


「うおっ。おいミオ、どうした!? 大丈夫か!?」
「ゴメン。なんか、安心して、腰が抜けちゃった……」
「安心って……」


ミオの腕を掴んで支えているランツは気付いていた。
彼女の身体が小さく震えていることに。
ただならぬ雰囲気を察したランツは、未だ下半身に力が入らない様子のミオを背負って帰ることにした。
彼女は何度も謝って来たが、その度ランツは気にすんなと返していた。
やがて、共同生活を送っているウロボロスハウスへと到着する。
玄関を開けて中に入り、ミオを背負ったままリビングに入ると、先に帰っていたユーニ、タイオン、そしてセナが一斉にぎょっとした目でランツを見つめた。


「み、ミオちゃん!?」
「どうした?体調悪いのか?」
「ランツ、何があった?」
「俺もいまいちわかんねぇんだ。セナ、とりあえず水用意してやってくれ」
「う、うん!分かった!」


指示を受けたセナは、急いでキッチンへ向かい、浄水器の水をコップに注ぐ。
その間に、ランツは背負っていたミオをそっとソファへと降ろした。
そして膝を折りながら“平気か?”と問いかけるランツに、ミオは堅い笑顔を向けながら“うん、ありがとう”と返す。
 
明らかにミオの様子は普通とは言い難かった。
疲弊している様子のミオに、ユーニとタイオンは思わず顔を見合わせる。
やがてセナがコップに注がれた水を運んできた。
速足でミオの元に駆け寄り、“ミオちゃん、お水どうぞ!”とコップを差し出す。
そんな彼女にお礼を言いつつ、ミオは申し訳なさそうに肩を落とした。


「セナ、ゴメンね」
「え、何が?」


何に対する謝罪なのか理解出来ずにいるセナ。
そんな彼女に、ミオはちらっとランツの方へと視線を向けた。
人よりも鈍いセナだったが、流石に察することが出来た。
ミオは、セナの想い人であるランツに背負われたことを謝罪しているのだ。
全く持って気にしていなかったセナは、急に好きな人とのつながりを実感して顔を赤らめる。


「い、いいってそんなの。それより、大丈夫?何があったの?」
「それは……」


セナの問いかけに、ミオは俯きながら言いよどむ。
どうやら話しにくい事らしい。
ミオの心情を察したタイオンが、なるべく優しい声色で口を開いた。


「無理に話さなくてもいい。内緒にしておきたいことくらい誰だってあるだろ」
「違うの。内緒にしておきたいわけじゃないの。ただ、心配かけたくなくて……」


水が入ったコップを両手で握りながら、ミオは弱々しく呟いた。
ランツは“心配…?”と首を傾げているが、傍から見ていたユーニはその様子に何となく事態を察してしまった。
彼女は以前、ノアからミオの過去の一端を聞いたことがある。
それに関連する何かが起こったのだろうか。
もしそうなのだとしたら、放っておけない。
ソファに腰掛けているミオの横に移動したユーニは、彼女の僅かに震えている手を握った。


「心配くらいさせろよ。アタシたち、もうそんな他人行儀な仲じゃないだろ?」
「ユーニ……」


ミオを心配していたのは、ユーニだけではない。タイオンやセナ、ランツもまた、彼女を気遣う瞳を向けていた。
皆は優しい。むしろここで何も言わなければ、余計に心配されるだろう。
そんなことになるよりは、今この場ですべて打ち明けてしまったほうがいいのかもしれない。
そう考えたミオは、意を決しすべてを話し始めた。
約1年前までストーカー被害に遭っていたこと。
強姦されかけたところでノアに救われたこと。
ノアと交際を開始して間もなくストーカー被害が止んだものの、今日久しぶりに後をつけられているような気配を感じたこと。
全てを話し終わる頃には、友人たち、とりわけ男性陣は随分と怖い顔をしていた。


「チッ、なんだよそいつ。腹立つってレベルじゃねぇぞ
「つまり、その男は未だに捕まっていないわけか。後味が悪いな……」


ミオの話に登場した“ストーカー男”に怒りをあらわにするランツとタイオン。
そんな彼らの隣で、ユーニは1人申し訳なさげに肩を落としていた。


「悪いミオ。アタシ、ミオがそういう被害に遭ってたこと知ってたんだ」
「ノアから聞いたんだよね?私たちを繋いでくれた人だから、ユーニにだけは話しておいたって言ってたから」
「そっか。ミオの事情知ってたのに、アタシ、何も出来なかった。ゴメン」
「ユーニが謝ることじゃないよ。気にしないで」


事情を知っている人間として、何かできることがあったかもしれない。
そんな小さな後悔を抱えていたユーニだったが、ミオはまったく気にしていなかった。
それどころか、気遣ってくれていたユーニに対して感謝していたくらいだ。


「さっき後をつけられてたかもって言ってたけど、やっぱり同じ人なのかな?」
「分からない。1年前も暗くて顔は分からなかったし……」
「警察には相談したんだよな?」
「うん。でも相手がどこの誰かわからない限り動きようがないって」
「日本の法律は、ストーカー行為に対してまだまだ無力だからな……」


ストーカー男が捕まっていない以上、また被害に悩まされるかもしれないという恐れは拭えない。
かといって、相手の顔も名前も分からないこの状況では、どうせ警察は動いてくれないだろう。
今夜背後に感じた気配が、1年前の男と同一人物かどうかも分からない。
そもそも、後をつけられていたこと自体自分の勘違いだったのかもしれない。
 
何もかもが不確定なこの状況は、ミオの不安を余計に煽ってしまう。
またあの不安な日々を過ごすことになるのだろうか。
俯き、目を伏せるミオ。そんな彼女を黙ってじっと見つめていたランツは、“よし”と一言呟くと、前のめりになって口を開いた。


「タイオン、暫く俺らでミオの送り迎えするぞ」
「え?」


ランツの言葉にいち早く反応したのはミオだった。
ストーカー被害に遭っているミオを気遣っての提案だろう。
大学やアルバイトの帰りなど、ミオが夜に帰って来る予定の日はランツとタイオンが交代で迎えに行き、一人きりにさせないようにする。
そんなランツの提案に、タイオンは考えるまでもなく即答した。


「そうだな。それがいいかもしれない」
「それアタシもやる。お前ら二人だけじゃ大変だろ」
「うん!私もミオちゃんのボディーガードやる!」
「いや、女二人だけだと流石に危ねぇだろ」
「あぁ。僕とランツに任せて、君たちは大人しくしていてくれ」


ランツとタイオンの言葉に、ユーニとセナはいささか不満げだった。
彼らの提案は非常にありがたいし、何よりうれしい。
けれど、その提案に甘えるのは少々憚られた。
ランツはセナの、タイオンはユーニの“好きな人”である。
自分にはノアという彼氏がいるが、それでも大事な友人たちの好きな人と2人きりで帰る約束をするというのはどうなのだろう。


「ありがとうみんな。でも、そこまで気を遣ってくれなくても……」
「いやいや、ここは甘えとけって。何かあってからじゃ遅いだろ?」
「そうだよミオちゃん。ランツやタイオンと一緒にいれば安全だよ!」
「2人とも……」


ユーニとセナは、嫌がるどころかむしろ推奨してきた。
そんな彼女たちの優しさに、ランツやタイオンの気遣いに、ミオはなんだか泣きそうになってしまう。
なし崩し的に始まった共同生活だったが、一緒に暮らすことになったのが彼らでよかった。
この人たちだけは、心から信頼できる。そう思えた。


「みんな、本当にありがとう。けど、一つだけお願いがあるの。このこと、ノアにだけは内緒にしてて欲しい」


ミオの言葉に、一同は目を丸くさせる。
ノアはミオの彼氏だ。むしろ一番最初に共有すべき相手だというのに、何故内緒にすることを望むのか。
“理由を聞いても?”と問いかけるタイオンに、ミオは薄く笑みを浮かべながら口を開いた。


「心配させたくないの。またストーカーに遭ってるって聞いたら、きっとすごく気を遣わせちゃうから」
「でも……本当にいいの?ミオちゃん」
「うん。お願い」


数週間前からずっと、ノアは明け方に帰宅する毎日を送っている。
何故そんなに帰りが遅いのか、理由は未だに分からない。
もしかすると、本当に浮気をしているのかもしれない。
そんな疑惑がぬぐえないこの状況で、2人の関係を揺るがすような情報を与えたくはない。
なるべく穏便に、平穏に日々を過ごしていたいのだ。

ミオの頼みに、友人たちは了承した。
ノアはその日の夜も、結局帰ってこなかった。
翌朝になっていつの間にか隣に寝ていたノアの寝顔を見つめながら、ミオは深いため息を吐くのだった。


***

夜21時。ミオがバイトをしている駅前のケーキ屋の前で、タイオンは壁に寄りかかりスマホの画面を見つめていた。
ミオからストーカー被害を訴えられてから約1週間。
ランツとタイオンは、互いに予定を合わせて交互にミオの送り迎えを行っていた。
二人とも予定が入っていた日は、ユーニとセナが二人でミオを迎えに行く。
そんな日々を送る中で、ミオの望み通りノアにはまだ知られていない。
というより、ノアは最近夜遅くに帰って来ることが多く、この状況を知る由もないのだろう。
交際相手が大変な時だというのに、彼は一体何をしているのか。

そんなことを考えていると、点灯していたケーキ屋の看板の明かりが消灯する。
どやらもう閉店時間らしい。
やがて、暗くなった店の中から私服に着替え直したミオが出てきた。


「お待たせタイオン」
「あぁ。じゃあ帰るか」


スマホをポケットに仕舞い、タイオンはゆっくりと歩き出す。
その後ろを追うようにミオも歩き出した。
あれから1週間ほどが経過しているが、毎日の送迎の甲斐もあり今のところ背後に人の気配を感じることはないという。
だが、このままずっとミオの送り迎えをし続けるのは物理的に難しい。
根本的な解決にもなっていないし、状況を打開する必要があるかもしれない。
何かできることはないだろうかと歩きながら考えるタイオンだったが、そんな彼の名前を一歩後ろからついてくるミオが呼んだ。


「タイオン、忙しいのにいつもゴメンね」
「いや、気にするな。ユーニも言っていたが、何かあってからでは遅いからな」
「ありがとう。なんかユーニに悪いな」


ミオの口から飛び出したユーニの名前に、タイオンはムッとした表情を浮かべた。
今ここでユーニは関係ないだろう。
何故彼女に罪悪感を感じる必要がある?


「何故ここでユーニの名前が出るんだ」
「何故って……。皆気付いてるよ、タイオンがユーニのこと好きなの」
「なっ……」


確かに、今までランツにもノアにもセナにも散々このことを指摘されてきた。
自分の行動を顧みながら、タイオンは考える。
そんなに僕は分かりやすかっただろうか。
いや違う。これはミオたちの勘違いだ。
僕はユーニのことなんて好きでもないんでもないし、そんな勘違い迷惑だ。


「何度も言っているが僕はユーニのことなんて好きじゃない。君たちの勘違いだ」
「じゃあタイオンにとってのユーニって何なの?」
「そりゃあ……。友達、だろ」
「ふぅん。じゃあ例えばユーニから告白されたとしたら、友達だからって断るの?」
「それは……」


ユーニが僕に告白?
そんなことあるわけない。
現実感のない荒唐無稽な仮説を立てるのは嫌いなんだ。
ユーニが頬を染めながら、自分の服の袖をつかみ、“タイオンが好き”と告白してくる。
そんなの、ありえないだろ。現実的じゃないだろ。
そう自分に言い聞かせつつも、心臓がやたらと騒いで仕方なかった。
答えを渋り続けるタイオンに、ミオは顔を覗き込みながら追い打ちをかける。


「で、断るの?断るんだよね?ユーニは友達だもんね?」
「い、いや……。せっかく告白してきてくれたんだし、断るのは、その、申し訳ないというか、勿体ないというか……」
「それってユーニのこと少しでも好きな気持ちがるからじゃないの?」
「違っ……!情だ!ただの情!フることで傷つけるのは可哀そうだろ!?」
「ふぅん。タイオンって情で好きでもない人と付き合える人だったんだ。意外だなあ」
「そういうわけじゃ……。あぁもう……」


何を言っても華麗に打ち返してくるミオに、タイオンはたじたじだった。
こういった論戦には強いはずの彼だが、本心を偽っている今はすこぶる弱い。
 
頭を抱え始めるタイオンだったが、そんな彼の耳に妙な物音が届く。
背後から聞こえたその物音は、衣擦れの音のように聞こえた。
咄嗟に背後を振り返ってみるが、そこには誰もいない。
 
“どうしたの?”問いかけて来るミオに返事もせず、来た道を駆け出したタイオンは、曲がって来た路地の影を覗き込む。
だが、やはりそこにも人の姿はなかった。
誰かの気配があったのは明確だったが、どうやら随分と逃げ足の速い奴らしい。
逃げられた事実に唇を噛みしめていると、ミオが息を切らしながら追いかけてきた。


「タイオンっ、もしかして、誰かいたの……?」
「逃げられたようだがな。やはり送り迎えは必須だな」
「……そうね」


歩き出すタイオンの影を追って、ミオもまた歩き出す。
やっぱり、例のストーカーがまた付き纏い始めたんだ。
その事実を実感し、ミオは密かに指先を震わせる。
そんな彼女の様子を横目で見ていたタイオンは、小さく息を吐きながら口を開いた。


「すまないミオ。ちょっと“フリ”をさせてもらう」
「フリ?」


首を傾げるミオの方に、タイオンの手が回される。
肩を抱くように引き寄せられたことに驚いて彼を見上げると、タイオンは人差し指を唇に押し当て“しーっ”と息を吐いた。


「ノアには今度謝る。今はこうしていたほうが効果があるだろう」


どうやら“フリ”というのは“彼氏のフリ”だったらしい。
ノアという彼氏が出来た直後に被害がいったん止んだ過去を踏まえると、確かに効果はあるかもしれない。
ここはタイオンの機転に大人しく身をゆだねることにした。
ミオの華奢な肩を抱き寄せ歩くタイオンは、照れている様子もなく随分とスマートだ。
このスマートさがユーニ相手にも発揮できたのなら、きっともっと早く進展できていたに違いない。
妙な意地張ってないでユーニにもやってあげればいいのに。
そんなことを考えながら、ミオはタイオンのと共に夜道を歩き続けるのだった。

 

act.24


ミオからストーカー被害を打ち明けられて約2週間。
相変わらずランツとタイオンがミオを送迎する日々は続いていた。
バイトの帰りなど、帰りが夜になる日のみボディーガードの役割を果たしていた二人だったが、流石にこの毎日が続くことに限界を感じ始めている。
 
ランツやタイオンにも生活があり、彼らがバイトをしている日は送迎が難しい。
ミオもミオで、善意でボディーガードを引き受けてくれている2人に気を遣い、最近は飲み会や遊びの誘いを断り早く帰宅するように心掛けていた。
なるべくミオの身が危険にさらされないよう守ってやりたいが、ずっとこの生活が続くのはやはり厳しいものがある。
何かこの状況を打開する策はないものか。
ウロボロスハウスのリビングで、ランツとタイオン、そしてユーニとセナは食卓に座り考えを出し合っていた。

時刻は20時半。
今夜はミオがバイトに出かけており、送迎担当はランツだった。
相変わらずノアは不在が続いており、恐らく今夜も遅くに帰ってくるのだろう。


「やっぱよォ、ストーカー野郎をとっ捕まえるのが一番なんじゃねぇの?」


腕を組むランツは、ため息交じりに意見を出した。
ミオを迎えに行くため家を出るまで残り20分。
それまでの間、彼はルームメイトたちと対ストーカー男対策会議に参加していた。
半ば投げやりな意見ではあったが、それは正論でもあった。
ストーカーを捕まえさえすれば万事解決するのは間違いない。だが、それが出来れば苦労はしないのだ。


「簡単に言うけどさ、ミオだって何度も警察に相談してるんだろ?それでも捕まらないってことは、やっぱムズいんじゃね?」
「そうだろうな。実際、どこの誰なのか正体がはっきりしないことには捕まえようもない」
「そうだよねぇ。この状態が続くのは大変だろうし、なんとか捕まえる方法はないのかな?」


1年前、雨の公園で襲われかけた時も、暗がりのせいでミオはストーカーの顔をしっかり見ることが出来ていなかった。
知り合いかもしれないし、見ず知らずの男かもしれない。
そんな曖昧な状況では、警察はパトロールを強化することしかできない。
せめてその男が誰なのか特定し、さらにミオに対してストーカー行為を働いていたという証拠がなければ解決は出来ないだろう。

沈黙の中考え込む一同だったが、やはりどれだけ考えても答えは出ない。
ふとユーニが時計を見上げると、そろそろミオのバイトが終わる時間が迫っていた。


「ランツ、そろそろ時間じゃね?」
「あぁ、じゃあ行ってくるか」


食卓に置かれたスマホを手に取り、ランツが食卓を立ったその時だった。
遠くで玄関が開く音がする。
誰かが帰ってきたらしい。
ミオのバイトが終わる時間はまだのはず。
となると、残る候補はただ一人だった。
リビングに入ってきたノアの姿に、全員の視線が集中する。
まだ日付が変わる前に彼が帰ってくるのは最近ではかなり珍しい。
久しぶりに見たノアの姿に、ランツたちは驚き目を丸くした。


「おかえりノア。今日は早かったね」
「てかお前、最近なんでそんなに帰りが遅いんだよ?」


セナとユーニの言葉に、ノアは苦笑いを浮かべながら“ちょっとな”と答えた。
荷物を下ろしながら誤魔化すノアに、タイオンは眉をひそめる。
まったく、彼女が大変な状況とは知らず呑気なものだ。
言ってやりたいが、ミオから口止めされているためうち明けるわけにはいかない。
苦々しい感情を抱くタイオンだったが、そんな彼の視界の端で、ノアは疲れた様子を見せながら口を開いた。


「みんな、今夜ちょっと時間貰えるかな?頼みたいことがあるんだ」
「頼みたいこと?なんだよ?」


腕を組み首を傾げるランツ。
そんな彼の脇を通ると、ノアは上着の内ポケットから白い封筒を取り出した。
それを食卓に乗せてスーッと指で押し滑らせる。
突然ノアが差し出してきた封筒に、一同は不思議そうに顔を見合わせた。
 
そして、タイオンが封筒を手に取り中身を改める。
白く無機質な封筒の中から出てきたのは、複数枚の写真だった。
そこに映っていたのは見知らぬ男。
どうやらこの写真はウロボロスハウスの近所で撮影されたものらしい。
被写体の男は、電柱や路地裏にコソコソ隠れるようにして、ウロボロスハウスにスマホを向けている。

ミオが玄関から出た瞬間、後をつけるように後ろを歩いている写真や、ウロボロスハウスのポストに何やら手紙のようなものを投函する瞬間を捉えた写真も混ざっている。
それを見れば、誰しも察してしまうだろう。
これは例のストーカー男の犯行の瞬間を捉えた写真である、と。
 
まるで週刊誌のパパラッチのごとく物陰から男の悪行を切り取っている写真の数々に、タイオンは驚き言葉を失う。
彼が手に持っている写真を覗き込んでいたユーニやセナ、そしてランツもまた、明らかに驚いていた。
全ての写真を見終わった後、タイオンは食卓に腰を落ち着けたままノアを見上げた


「ノア、これは……」
「みんなの力を借りたいんだ。こいつを捕まえるために」


ノアは誰に対しても優しい青年だった。
誰が見ても好青年である彼は、いつも柔らかい空気を纏っている。
だが、今日のノアはどこか違う。
彼と付き合いの長いランツとユーニにはなんとなく分かってしまう。
ノアは、これ以上ないくらい怒っている。
静かな怒りを滲ませる彼の“頼み”を、4人が断る理由などどこにもなかった。


***

21時。
アルバイト先のケーキ屋の閉め作業を終えたミオは、私服に着替えて店の鍵を閉めた。
今夜迎えに来てくれるのは確かランツのはずだ。
待たせてはいけない。急いで店の表に回ったが、そこで待っていた意外な人物にミオは驚いた。


「お疲れ、ミオ」


店の壁に寄りかかり待っていたのは、ランツではなくノアだった。
何故ここに?
ミオがそう問いかける前にノアは教えてくれた。
急用が出来たランツの代わりに迎えに来たという。
“帰ろう”と手を伸ばして来る彼の手をたどたどしく取り、ミオは歩き出す。

ランツの代わりに来たと言うが、もしかしてノアはまた自分がストーカー被害に遭っている事実を知ってしまったのだろうか。
だが、ノアはいつも通り優しい彼のままで、何も聞いてこようとはしない。
ランツたちから事情を聞いたわけではないのだろうか。

ふと、隣を歩くノアを見つめる。
その視線に気付いた彼は、ミオを見下ろしながら柔らかい微笑みを向けてきた。
相変わらず彼はかっこいい。
けれど、やっぱり相変わらず何を考えているのか分からない。
毎日のように明け方近くに帰ってきては、朝早くに家を出て会話をする時間もない。
この状況をひとに話せば、皆浮気に違いないと口をそろえて言う始末。
ノアのことは信じたい。けれど、状況が物語っているのだ。自分の彼氏は浮気をしているのだと。


「ねぇ、ノア」
「うん?」
「私、ノアのこと、信じていいのかな?」


こんな試すような質問、本当はしたくない。
けれど、聞かずにはいられない。
もしも“他に好きな人が出来た”なんて言われたらきっと立ち直れないだろう。
一日中泣きはらして、何がいけなかったのか後悔に後悔を重ねてしまう。
そこまで考えて、ミオは改めて思うのだ。

私、こんなにもノアのことが好きになっていたんだ、と。

ノアへの想いを際限なく積み上げた先に待っているのは、虚しく崩れ落ちていく未来。
付き合い始めた頃は、こんな日が来るなんて想像もしていなかった。
ノアの気持ちを疑って、未来を憂う日が来るなんて。
高校時代ずっもフルートに打ち込んでいたミオは、こんなに人を好きになったことはない。
誰かを好きになることの辛さを知り、彼女は傷心していた。


「どうしてそんなことを?」


泣きそうな顔をしているミオに、ノアは問いかける。
視線を外し、震える声色でミオは言葉を続けた。


「最近、帰りが遅いでしょ? 何してるのかなって……」
「……」
「もしかして、他の女の子のところに行ってる?」


隣でノアが息を詰める気配がした。
暗く静かな住宅街を歩くノアの足が止まる。
そんな彼と手を繋いでいたミオの足もまた、つられるように止まった。
振り返った先にいたのは、哀しそうな目をしたノアの姿。
どうしてそんな顔をしているの?
ミオが問いかける前に、ノアは口を開いた。


「ごめん、ミオ」


謝罪の言葉を聞いた瞬間、ミオの心が悲しみに支配され始める。
あぁやっぱりそうなんだ。
こういうとき、どんな顔をすればいいか分からない。
でも、泣いたところで何の解決にもならない。
けれど、何故かノアを責める気にはなれなかった。
いっそ怒鳴り散らして怒りをぶつけられればすぐに切り替えられたかもしれないのに。
何も言えずにいると、ノアはゆっくりと歩み寄り、立ち尽くすミオの身体をそっと抱きしめ始めた。

どうして今更そんなことするの?
優しくされたところで、亀裂が入ったこの関係が元に戻るわけじゃない。
なら放っておいてよ。
ただでさえ好きなのに、こんなことされたら余計に嫌いになれないじゃない。
ノアの腕に包まれながら、ミオは泣いていた。
そんな彼女の背中に腕を回し、ノアは彼女をなだめるように頭を撫でる。


「もっと早く言うべきだったな。全部正直に打ち明けたら、きっと怖がらせるだろうと思って」
「どういうこと……?」
「守りたかったんだ。ミオを」
「守りたかった?」
「あぁ。そこにいる、ストーカー男から」


ノアの視線が、暗がりの路地の向こうへと鋭く向けられる。
その視線を追うようにミオも目を向けてみるが、そこには夜の闇が広がっているだけで人の姿はない。
だが、ノアには見えていた。
路地の角に身を隠し、息を殺している男の気配が。


「そこにいるんだろ?出てきたらどうだ?」


ノアの声掛けに、男は応じない。
静かなままの暗い路地を睨みながら、ノアはミオを自らの背後に庇うように移動させた。


「ずっと隠れてるつもりか?それでも構わないが無駄だぞ。アンタがどこの誰なのかはもう見当がついてる。何なら言い当ててやろうか。3丁目に住む会社員のカジハラさん」
「え……?」


彼の口から飛び出た名前は、聞いたことのない名前だった。
そんな名前の知り合いはいない。
ノアがこちらの知りもしない名前を当てずっぽうで言っているようには思えない。
堂々と聞き慣れない名前を言い放ったノアの言葉に、路地裏に潜む男は息を詰める。
だが、まだ飛び出る気にはならないらしく、相変わらず路地の影に隠れていた。


「アンタがやったことは全て把握してる。1年前に夜の公園でミオを襲ったこともな。どんなに隠れたってどこへ逃げたってもう遅い。俺は全部知ってるぞ」


ノアの言葉は、暗い路地に低くおどろおどろしく響いた。
いつも優しいノアのこんな声色を聞くのは初めてだった。
明らかに怒っている彼の横顔を見つめていたミオは、再び視線の先にある暗い路地へと目を向ける。
その瞬間、隠れていた男の気配が地面のコンクリートを蹴り上げて駆け出した。
男が逃げ出した瞬間、ノアはミオの両肩から手を離し、後を追いかけるように駆け出した。


「ミオ、そこにいてくれ!」
「えっ、ちょ、ちょっとノア!?」


ミオを夜の路地に残し、ノアは逃げた男を追うため走り出す。
路地を曲がって姿が見えなくなってしまった彼を追うために一歩踏み出すミオだったが、背後から自分を呼ぶ声に気付いて足を止める。
咄嗟に振り返ると、ノアが走り去っていった反対の方角から見慣れた2つの人影が駆け寄ってくるのが見えた。
ユーニとセナである。


「ミオちゃん!よかったぁ、無事だった!」
「セナ……ユーニ……?」


胸へと飛び込んできたセナを受け入れながら、ミオは彼女たちの顔を交互に見つめた。
一人ぼっちになったところに現れた2人の友人を見つけ、安堵するとともに戸惑ってしまう。
何故二人がここに?
その疑問の答えは、安堵したような微笑みを見せるユーニによって判明する。


「ノアから頼まれたんだよ。自分がストーカーを追いかけ始めたらミオのことを頼むって」
「な、なにそれっ。じゃあ、ずっとそばにいたの?」
「まぁな。会話盗み聞きしちまって悪かったな」


そう言って、ユーニは肩をすくませながら謝って来た。
会話を聞かれたことよりも、今は何故ノアがストーカーの名前を知っていたのか、そして、まるでこうなることを最初から予測していたかのようにユーニやセナに指示を出していたのかが気になってしまう。
状況がいまいち掴めず戸惑っているミオだったが、そんな彼女に抱き着いていたセナが、自分よりもほんの少しだけ背が高いミオを見上げながら口を開いた。


「ミオちゃん。ノアは浮気なんてしてないよ。帰りが遅かったのは、ずっとストーカーの正体を調べてたからなんだよ!」
「調べてた……?」
「ノアの奴、四六時中家の周りを見張ってたらしいんだ。ストーカーを捕まえるために、その正体を掴もうとしてたんだ」


ノアの帰宅が明け方になり始めた初日。
バイトに出かけようとしていたノアは、ウロボロスハウスのポストに投函されていた一枚の封筒を確認していた。
宛名も切手もなく、ポストに直接投函されたらしいその手紙の中身を見た瞬間、ノアは気付いてしまったのだ。
かつてミオを苦しめていたあのストーカーが、再び彼女に接近しだしている、と。
 
封筒の中身は、文字がびっしり書かれた手紙が1枚と、ミオの隠し撮り写真だった。
手紙の内容は、自分がどんなにミオに好意を寄せているか、そして複数の男と一つ屋根の下で一緒に暮らしているこの状況を窘める内容である。
 
歪んだ愛と一方的な憎しみが込められたその文面は、明らかに異常で危険な思想が入り混じっている。
さらに同封されていた隠し撮り写真は、どう見てもウロボロスハウスのすぐ近くから望遠レンズで部屋の中を覗き、撮影されたものだった。
こんなものが直接ポストに投函されたということは、この家の場所が既にストーカーに知られているうえ、頻繁にこの近くで待ち伏せしている証拠でもある。
その事実を噛みしめた瞬間、ノアは怒りに震えた。

1年前、あの男は雨の公園でミオを押し倒していた。
幸いにも未遂に終わったものの、あの一件はミオの心に大きな恐怖を与えたに違いない。
あんなおぞましいことをした人間が、また平気な顔をしてミオの周囲に姿を現した。
 
許せない。見逃せるわけがない。何としても捕まえたい。
その日、ノアは手にした写真や手紙を持って最寄りの警察署へ相談に行った。
対応した警官は、ノアの持ち込んだものを苦々しい顔で見つめたあと、言葉を選びながら回答を差し出した。

ストーカー被害に遭っている本人の話も聞かなければそれを“ストーカーだ”と断言して対応することは出来ないという。
ミオが自分で“ストーカーに困っている”と声を挙げなければ、第三者がただただ騒いでいると認識されてしまうということだ。
だが、それはつまりこの写真や手紙が届いた事実をミオに伝えなければならないということ。
この事実を知れば、きっと彼女はまた怯えるだろう。なるべく彼女を困らせたくなかったノアにとって、その選択は決して取れるものではなかった。

傷害などの実害が出ない限り、警察にも限界がある。
1年前に襲われかけたという実害はあるが、その時の証拠はもう残っていない。
となると、もはや警察に頼ることは出来そうになかった。
警察を頼れないなら、自分で何とかするしかない。
1年前に相談したときは、“どこのだれかわからない限り対処のしようがない”と返答を貰った。
ならば、こんなことをする男の正体を自分で掴み、ストーカー行為をしている証拠をつかんだうえ、さらに現行犯で通報すればいい。
そうすれば、確実に相手を捕まえることが出来る。
そう心に決めた日から、ノアの戦いは始まった。

毎晩遅くまで家の近くをめぐり、怪しい人物がいないか見回る日々。
誰よりも朝早く家を出ていたのは、毎日のようにポストに投函される手紙や写真を回収し、ミオの目に触れさせないようにするためだ。
たった一日だけバイトの帰りにミオを迎えに行き、一緒に家まで帰ったあの日は、ミオがいつも後をつけられていないか確認するため。
背後に気配を感じたことで、彼女が常日頃からストーカーの付き纏いに遭っている事実に気付いてしまった。
その時点ではミオはまだストーカーの存在に気付いていないようだったが、彼女が勘付いてしまうのも股間の問題だろう。
もはや猶予はなかった。

毎日のように見張りをしていた甲斐もあり、ノアはついにストーカー男の正体にたどり着くことが出来た。
顔を確認し、逆に後をつけて家を特定したのだ。
顔と家が分かれば、あとは名前や職場を特定するのは簡単だった。
ミオもこうしてあの男にすべてを暴かれたのだと思うと、余計に腹が立つ。
そして、すべての情報を手に入れたノアは、この日、ずっと頭の中でくみ上げていた計画を実行するため友人たちに協力を仰いだのだ。


「ノア……」


ユーニやセナから聞かされた事実に、ミオの胸はこれまでにないほど強く締め付けられた。
寝る間も惜しんで自分を守ってくれていたのに、彼の浮気を疑ってしまった。
一体ノアの何を見てきたのだろう。
申し訳なさと自責の念を抱きながら、ミオはノアが走り去っていった夜の道を見つめ、愛しいその名前を呟くのだった。

 

act.25


前を走る黒いウィンドブレーカーの男は、小太りながら意外にも足が速かった。
“待て!”と大声で叫ぶノアだったが、当然男が素直に立ち止まるわけなどない。
必死に前を走るその男は、息を乱しながら角の道を右折した。
右折した先の道をまっすぐ行けば、駅に通じる大通りに出る。
そこまで行けば、人込みに紛れて逃げ切れると踏んだのだろう。
だが、男のそんな打算は目の前に立ちはだかった筋肉質な男の影によって阻まれる。


「行かせねぇよ!」


男の目の前に立ちはだかったのはランツだった。
ノアからの連絡を受け、随分前からこの路地で男を待ち伏せしていたのだ。
突然目の前に現れた大男に焦り、男は方向転換する。
背後には追いかけてくるノア。前方にはランツ。
挟み撃ちに遭ったことで焦った男は、わき道を左折する。
大回りにはなるが、左折した先の道も大通りに出ることが出来るはず。
ノアとランツが合流したことで、追手が2人に増えた。
流石に焦りを感じた男は。後方を気にしながら走り続ける。
後ろを振り返りつつ走っていたため、前方に立ちふさがる男の影に気付くのが遅れてしまった。


「悪いが通行止めだ」


目の前で立ちふさがったのはタイオンだった。
ランツと同じく、ノアから連絡を受けてこの場で待ち伏せしていたのである。
2度も先回りを食らった男は、いよいよ冷静さを失った。
前方のタイオンを避けるように脇の小道に入ったが、彼はすっかり忘れていた。
その道の先が行き止まりだということに。

数メートル走った末、男は路地の突き当りに阻まれた。
まずい。急いでUターンしようとしたが、既に背後には3人の追手が迫っていた。
万事休す。もはや逃げ場が無くなった男は、息を乱しながら顔を真っ青に染めあげていく。


「ったく、逃げ足が速い奴だな」
「もう逃げ場はない。潔く諦めるんだな」


追ってきたランツとタイオンの言葉に、男は下唇を噛んだ。
そして、“くそっ”と吐き捨てながら中央に立っているノアへと突進する。
無駄と分かっての行動は、あっさりと脇からノアを守るように立ちはだかったランツに受け止められてしまう。
そして、男のタックルは不発に終わり、ガタイで勝るランツによって虚しく後方に投げ飛ばされた。
コンクリートの上倒れこんだ男の上の身体をうつぶせに寝かせ、ランツは上から動きを塞ぐように両手を押さえつけた。
完全に制圧された男は、額に汗をかきながら前方のノアとタイオンを睨みあげている。
だが、そんな醜い睨みにもひるむことなく、ノアはゆっくりと男に歩み寄った。


「ずっとミオに付きまとっていたのはアンタだな」
「……」
「そして、1年前夜の公園でミオを襲ったのもアンタだ」
「……フッ」


ランツにのしかかられながら、男は不敵に笑う。
その笑みを見下ろしながら、ノアは眉間にしわを寄せた。


「俺がやったって証拠あんのかよ!? お前らの勝手な憶測だろ!」
「アァ!? 現に今付きまとってただろうが!」
「違う!たまたま帰る方向が同じだっただけだ!」
「じゃあなんで逃げたんだよ!?」
「男3人で急に追いかけられたら普通逃げるだろうがよ!」
「テメェ……!」


吠えるように言い訳を繰り返す男の言い分に、ランツは彼の両手を掴む力を強めた。
数歩離れた場所で聞いていたタイオンもまた、眼鏡を押し上げながら“苦しい言い訳を……”と呆れるように呟いている。
 
現行犯とはいえ、確かにこれまでのストーカー被害が全てこの男によるものと断定するのは難しい。
しかし、ノアにはこの男の悪行を暴くに至るだけの証拠があった。
羽織っていたジャケットの内ポケットから取り出したのは、複数枚の写真。
コンクリートの上にひれ伏す男に向かってそれを投げると、写真の束は虚しく地面に散らばった。
その写真たちは、目の前でランツに囚われている男がウロボロスハウスの前で息をひそめている隠し撮り写真だった。


「この写真を見ても、言い逃れできるか?」
「っ、」
「毎晩のようにうちの近くに張り込んで、部屋を望遠レンズで覗いていただろ。週に2回の頻度でその時撮影した写真や手紙を投函してたな。ミオがバイトの日は当然のように後をつけていた。全部知ってるんだよ」
「……、」


目の前で証拠を提示されたことで、男はもはや何も言えなくなってしまう。
そんな彼の目の前でノアはゆっくりと膝を折り、醜く肥えた男の顔を覗き込む。


「1年前のことは証明しようがないが、最近のアンタの行いなら全部証明できる。もう逃げられないぞ」


ストーカーを捕まえることがどれ程難しいことなのか、ノアはきちんと理解していた。
だからこそゆっくりと時間をかけ、ひとつひとつ逃げ道を塞いでいたのだ。
ゆっくりと真綿で首を絞められているとも知らず、男は呑気にミオを付け回し続け、手紙や写真を大量に投函することで数多くの痕跡を残してくれた。
ノアが見事この男の悪行を証明する物的証拠を掴めたのは、男の不注意さのお陰でもある。
後悔してももう遅い。
警察でも弁護士でもない3人の大学生に追い詰められてしまった男は、自暴自棄になりながら本性を現し始めた。


「ふざけんな……、ふざけんなよ!俺はただ、あのビッチに灸を据えてやろうとしただけだ!」
「ビッチ?」
「1年前、彼氏なんていないとか言ってやがった癖に勝手に男作りやがって!しかも複数の男がいる家に一緒に住むなんて聞いてねぇんだよ!」


男がミオと初めて関りを持ったのは1年半前のことだった。
仕事帰りに立ち寄ったケーキ屋で初めて、店員としてカウンターに立っていた彼女に、男は一瞬で心を奪われた。
以降、頻繁に店を訪れては同じショートケーキを1つ購入する日々が始まった。
 
毎日同じ時間に来店し、ショートケーキを購入する男の存在はやがてミオも認知することとなり、接客上手な彼女は常連であるその男に、ある日いつもは言わない一言を添えてケーキを手渡したのだ。
“いつもありがとうございます”と。
 
“いつも”のたった3文字が、男の心を舞い上げた。
認知されていることへの喜びは何にも代えがたい。
彼女は自分を知っている。一人の人間として認知してくれている。
喜び勇んだ男は、ある日ケーキを受け取る際に問いかけたのだ。“彼氏はいるのか”と。
 
当時まだノアと交際していなかったミオは正直に“いませんよ”と答えた。
田舎から上京してきて1年ほどしか経過していないうえ、当時交際経験がなかったミオには圧倒的に警戒心というものが欠けていた。
その質問の裏に潜む男の浅はかな期待を読み取ることが出来なかったのは、ミオの失態である。

“彼氏がいない”という事実は、男の心を更に舞い上げた。
自分が彼女の交際相手に。なんて大それたことは考えていなかった。
だが、まだ誰のものにもなっていない彼女と仲良くなることくらいは許されるはずだ。
けれど、女性という生き物との距離の測り方を、この男は知らなかった。
だから観察することにしたのだ。ミオという女性がどんな人なのか知るために。

名前は店のレシートで知った。
駅の向こうの大学に通っている事実は、バイト仲間との会話を盗み聞きしたことで知った。
どこに住んでいるのか知りたかったので、バイトが終わる時間まで店の近くで待ち伏せて後をつけた。
誰かと住んでいるようなので彼氏かと思ったが、一つ下の学年である同性がルームメイトだと知って安心した。彼氏がいないというのはどうやら本当だったらしい。正直な子は好きだ。
 
いずれ遊びに誘いたいが、何が趣味なのか分からなかったので家の近くで張り込み、休日は何をしているのか観察することにした。
どうやら高校時代はフルートに打ち込んでいたらしい。
カーテンの隙間からフルートを演奏している様子は見えたが、音が聞こえてこない。
どうしても彼女の演奏を聞いてみたかったため、仕方なく盗聴器を仕掛けることにした。
彼女たちがいない間に合鍵を作り、中に忍び込んで仕掛けたのだ。
流石少し罪悪感があったが、おかげで彼女の奏でる心地よいフルートの音が毎日のように聞けて幸せだった。
 
だが、その盗聴器は聞きたくもない会話まで拾ってしまった。
彼女が誰かに男を紹介されたというのだ。
“ノア”という明らかに男の名前が時折彼女の口から発せられるたび、怒りがこみ上げた。
彼氏はいないと言っていたのに、まさか男を作ったのか。
やり場のない怒りを募らせた男は、雨の日の夜、衝動的にミオを背後から押し倒した。
彼女の口から上がった悲鳴が、男の怒りを余計に増長させる。
なんだよ、そんなに俺が嫌なのかよ。

結局その日は邪魔が入ってしまったが、どうやらその日以降ミオには彼氏が出来てしまったらしい。
腹も立ったし、傷付きもした。
けれど、もう人のものになった女に不思議と興味は薄れていった。
それ以降、男は付きまとい行為をやめた。
 
暫く平穏な日々を過ごしていたが、最近駅前でたまたまミオを見かけたことで彼女への熱が蘇ったのだ。
それは今年の春のこと。彼女はルームメイトである小柄な少女と共に駅できょろきょろとあたりを見回していた。
そんな2人に合流したのは、眼鏡の男だった。
知らない男の登場に、男は再び怒りの感情を覚えた。
 
ミオの彼氏は確か長髪を一つに結んだ男だったはず。あんな眼鏡の男じゃない。
気になってしまった男は、3人の後を着けることにした。
たどり着いた先は随分と大きな邸宅。
そこには男女3人が住んでいて、ミオの彼氏である男のほかに、ガタイのいい筋肉質な男の姿もあった。
彼女が例の男たちと一緒にこの家に引っ越すこととなる事実を知ったのは、それから間もなくのことである。


「あの女、清純そうな顔して複数の男と一緒に暮らし始めるなんておかしいだろ!しかも最近は毎日違う男と一緒に家まで寄り添って帰ってやがる。どうせお前ら3人であの女マワしてやがったんだろ!? とんだビッチじゃねぇか!だからちょっと痛い目合わせてやろうと思ったんだよ!俺を騙した罰としてなァ!」


男の口から言い放たれたあまりにも身勝手で理解しがたい理屈に、ランツとタイオンは言葉を失っていた。
世の中には、理解できない感情でとんでもない行動を起こしてしまう輩がいる。
目の前でコンクリートに体を押し付けられているこの男もその一人である。
もう我慢ならない。3人の中で一番気が短いランツが男を殴ってやろうと手に力を込めたその瞬間だった。
男の目の前で膝を折り、黙ってその言い分を聞いていたノアが、“フッ”と笑みを零したのだ。


「随分知ったようなことを言うんだな、赤の他人の分際で」
「なん——」


男が何か言いかけた瞬間、ノアの手が彼の顔面に伸びる。
地面にひれ伏している男の顎を力強く掴みあげ、無理やり上を向かせたノアの強引な行動に、背後で見ていたタイオンは思わず止めに入りそうになった。
無理矢理上を向かされたことで、男は苦しそうに息を詰めている。
だが、そんな男の様子など気に留めることなく、ノアは冷たい目をしたまま言葉を続けた。


「ここにいるランツとタイオンはミオや俺の友達だ。ストーカーからミオを守るためにずっと一緒にいてくれたんだ。誰のこと言ってるか分かるか?アンタだよ。ずっとミオに気味悪く付きまとってたアンタから守るために、ミオを、俺の彼女を守ってくれてたんだよ!」
「ぁ……がっ……」
「アンタ、ミオの何だ?彼氏か?家族か?友達か?知り合いですらないだろ。何の繋がりもない赤の他人に、知ったようなこと言う権利なんてどこにもない。ましてストーカーの言葉なんて聞くに値しないんだよ」
「す、ストーカー……?おれは……っ」
「アンタは紛れもないストーカーだ!アンタの中でどれだけ立派な大義名分があったのかは知らないが、やってることはただの犯罪なんだよ!」


男の顔を掴みあげるノアの手に一層力が入る。
ランツに取り押さえられ、強引に上を向かされている男の顔がどんどん赤くなっていく。
恐らく無理な体勢をし続けているせいでうまく呼吸が出来ていないのだろう。
このままではまずい。ノアを止めるため、タイオンは少し焦りながら“ノア、それくらいにしておけ”と声をかけた。
 
その様子を見ていたランツもまた、ノアの行動には驚きを隠せずにいる。
ノアと付き合いの長いランツは、彼がどんなに冷静な性格かよく知っている。
誰よりも優しい彼が、こんなにも怒りをあらわにしている光景を今まで一度も見たことが無い。
だが、彼が怒りに震える気持ちはよく分かる。
だからこそランツは、タイオンのように止める気にはなれなかった。

男が抵抗する気力を失ったと同時に、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
手筈通り、ミオを保護したユーニとセナが通報してくれたのだろう。
次第に近付いてくるサイレンの音を聞いたノアは、再び男に視線を落とし、冷たい目をしたまま吐き捨てた。


「俺はミオとは違って優しくない。たとえミオが許したとしても、俺は絶対にアンタを許さない。またミオの前に現れてみろ。もう情けはかけないからな」


ようやくノアの手から解放されたことで、男はようやく呼吸を取り戻した。
荒くなった息を整える男の顔は、醜く歪んでいる。
ノアは、警察が駆け付けるまでの間その男の醜い顔を瞬きもせずずっと見つめていた。
このストーカー男の顔を一生忘れないように。


***

駆けつけた警察によって、男の身柄は確保された。
6人は事情聴取のため一路最寄りの警察署に向かったが、当事者であるミオと、実際に証拠を集めていたノアの事情聴取は長時間に渡って行われた。
ランツやタイオンらは1時間ほどで解放されたが、2人の聴取は数時間もの時間を要し、結局解放されたのは明け方頃だった。
 
“ご協力ありがとうございました”と一礼する制服警官にお辞儀をして、ノアとミオは重い足取りで警察署から外に出る。
昨日の夜からずっと食事も満足に取れなかったため、流石に2人の疲労はピークに達していた。
特に、ストーカー男を捕まえるため暫く睡眠時間を削っていたノアの憔悴ぶりは顕著である。
あくびを零し、眠気眼を擦っているノアを横目に、ミオはゆっくり歩きながら口を開いた。


「ノア、ごめんね」
「うん?」
「私のせいで、迷惑かけて……。それに、酷い誤解までしちゃって」
「いや、あの状況なら確かに浮気を疑われても無理ない。俺がもう少し気を遣うべきだったよ」
「そんなことない!私がもっと……」


自責するミオの唇に、突然ノアの人差し指が押し当てられる。
突然のことに驚き、言葉を飲み込むミオ。
そんな彼女を眠気が覚めないとろけた目で見つめながら、ノアは微笑みを向けた。


「俺はミオの安心した顔が見たかったんだ。謝罪が聞きたかったんじゃない」
「ノア……」
「付き合った時約束しただろ?守るって。ようやくあの約束、完全に果たせたみたいだ」


“帰ろう”
そう言って、ノアは左手を差し伸べてきた。
あふれ出そうになる涙を堪え、ミオは彼のしなやかな手に自らの白い手を重ねた。
ノアの手から伝わってくるのは、優しいぬくもり。
このぬくもりを肌で感じていると、無条件に安心してしまうのは何故だろう。
胸に広がる愛しさが告げている。もうこの手を二度と離したくはない、と。

やっぱり私、この人のことが好き。

この1年間、ミオは何度もノアへの想いを心に刻んできた。
“守るため”という大義名分のもと始まったこの恋は、いつの間にかミオの中で本物の恋心を形成するに至った。
きっと相手がノアじゃなければ、こんな気持ちを抱くことはなかったのだろう。
1年前、この人の申し出を受け取ってよかった。

そこまで考えて、ミオはとある事実を思い出してしまう。
あれ?そういえば今日って……。


「おーーーい、ミオ!ノア!」


不意に名前を呼ばれた。
声がする方へ視線を向けると、警察署の正門前に1台のファミリーカーが停車している。
あれはウロボロスハウスの車である。
助手席から顔を出し、こちらに向かって手を振っているのは少し眠そうにしているユーニ。
その隣の運転席には、同じように少し眠そうにしているタイオンが座っている。
彼らはランツやセナと一緒に先に帰ったはずだが、どうやらわざわざ迎えに来てくれたらしい。
二人同時に顔を見合わせると、ノアとミオは駆け足で車に駆け寄った。


「迎えに来てくれたのか」
「まぁな。こっからじゃ家まで遠いし、この時間じゃタクシーも捕まらねぇだろうと思って」
「ありがとう、2人とも。眠くない?」
「物凄く眠い。だから事故っても僕を恨まないでくれ」
「よっしゃタイオンブラックコーヒーアタシの分も飲んでいいぞ。あとフリスクもいっぱい食え。頑張れ寝るな」
食べ合わせ最悪だなその組み合わせ」


眠そうにしているタイオンの手に、同じく眠そうにしているユーニがフリスクをシャカシャカと振り下ろしている。
白いフリスクが一気に零れ落ち、タイオンの手からいくつか無残に落ちてしまっているが、眠気と戦っている2人はあまり気にしていなかった。
そんな光景を後部座席に乗り込みながら見ていたノアとミオは、思わず笑いだしてしまう。

ブラックコーヒーとフリスクでなんとか眠気に打ち勝ったタイオンの運転で、4人は無事ウロボロスハウスへと帰還した。
疲労と眠気でフラフラになりながら玄関の扉を開けると、リビングからランツとセナがドタドタと派手な音を立てて駆け寄ってくる。


「ミオちゃぁん、おかえりぃー!」


やはり眠そうにしているセナが、とろけた口調で出迎えてくれる。
両手を広げて抱き着いてきた彼女に、ミオは笑顔を向けながら“ただいま”と返した。
そんな彼女の背後には、同じく眠そうにしているランツが立っている。
どうやらノアとミオの帰りを寝ずに待ってくれていたらしい。
“先に寝てればよかったのに”と口にするノアに、ランツは力なく壁に寄りかかりながら“そういうわけにはいかねぇだろ”と呟いていた。

この場にいる6人全員が、昨晩の事件のせいで眠気を催している。
この状況に、ミオは途端に申し訳なさを抱き始めた。
けれど、この場合ノアが言っていた通り相応しいのは謝罪などではないのだろう。
未だ抱き着いたままのセナの背中を撫でながら、ミオは友人たちの顔を一人一人見つめながら口を開いた。


「みんな、本当にありがとう。私、皆にどう恩返ししたらいいか……」
「そういうのいいって。アタシらが好きでやったんだし。な?」
「だな。まぁどうしても礼がしたいってんなら、今度なんか美味いもんでも作ってくれればいいからよ」
「いいな、それ。じゃあ俺はカレーが食べたい」
「えっ」
「いや、カレー以外にしようぜ」
「だな、カレーは当分食いたくねぇ」
「え?なんでだ?」
「知らない方が身のためだぜ、ノア」


ユーニとランツの言葉に、ノアは首を傾げていた。
そんな彼のすぐ後ろで、タイオンが気まずげに視線を逸らしていたことは言うまでもない。
一連のやり取りを見て苦笑いを零していたミオだったが、ずっと黙ったままミオに抱き着き続けているセナの様子がおかしいことに気が付いた。
ミオの耳元で、規則正しい寝息を立て始めたのだ。
どうやら限界を迎えてしまったらしい。
ミオに抱き着いたま眠っているセナの様子に、一同は笑顔を零した。


「器用なものだな。人に抱き着きながら寝るとは」
「まぁ一睡もしてないしな。仕方ないさ」
「しゃーねぇ、俺が運んでやる。ユーニ、部屋開けてくれ」
「はいはい。アタシも寝るわ。そろそろ限界」
「僕も失礼する。今にも倒れそうだ」


セナを横抱きにしたランツ、そして眠気を隠しきれないユーニとタイオンは、重い足取りで2階の階段を上がっていった。
そんな彼らを下から見上げながら、ミオは“ありがとう、おやすみ”と声をかける。
やがて1階には、ノアとミオの2人だけが残された。
改めてノアにお礼を言おうと振り返ったミオだったが、大きなあくびを零しているノアの顔が視界に入ったことで思わずクスッと笑いが込み上げてきてしまう。
どうやら今はお礼よりも、睡眠を優先したほうがいいらしい。


「私たちも寝ようか」
「そうだな。今日は久しぶりに安眠出来そうだ」
「そうね」


微笑みを交わし合い、2人は階段を上る。
話したいことは山ほどあるが、今日という日はまだ始まったばかりだ。
仮眠から起き後にたくさん伝えればいい。
時間はたっぷりあるのだから。

早朝4半、6人はようやくそれぞれの部屋で眠りについた。
梅雨の終わり際、ノアとミオが交際を開始して1年の記念日のことである。

 

act.26


「ちわーす。ウーバーイーツでーす」


インターホンが鳴り響き、外から宅配を告げる声が聞こえてきた。
取りに向かったのはタイオンだった。
受け取ったのは近くの高級寿司店の出前。
6人分ともなるとかなりの量と額になったが、この日くらいは誰も文句を言わないだろう。
出前を届けてくれた男から渡されたのは大きな寿司桶が3つ。
さすがにタイオン一人で持つには厳しい大きさだった。


「あ、手伝う」
「あぁすまん」


リビングから顔を覗かせたユーニが、玄関先で3つの寿司桶を抱えて難儀しているタイオンを発見する。
駆け寄ってきた彼女に安堵して、タイオンは重ねて抱えていた寿司桶を1つだけ彼女に持ってもらうことにした。
二人そろってリビングに入ると、テーブルに食器を並べていたランツとセナがタイオンたちが抱えている寿司桶を見つめ揃って“おぉ~”と感嘆の声を挙げた。
 
例のストーカー騒動から数時間。昼過ぎに起きてきたユーニ、ランツ、タイオン、そしてセナの4人は、怖い思いをしたミオと、そんな彼女を守るためずっと努力してきたノアのためにちょっとしたパーティーを開こうと画策していた。
結果、話し合いという名の喧嘩のもと、高級寿司を4人で割り勘して頼むという終着点に落ち着いた。
大量の寿司を前に、ランツとセナは目を輝かせている。

後はノアとミオが起きてくるのを待つばかりだが、夕方を過ぎたこの時間になっても彼らは一向に下に降りてこない。
色々あった直後だし、それほど疲れているのだろう。
そう思っていたタイオンとユーニだったが、18時を過ぎたあたりから2人の頭にちょっとした仮説が立ち始めていた。

雨降って地固まる、という言葉がある。
大きな障害は2人の愛を育む結果となり、すべてをいい方向へと導いてくれる。
ノアとミオという絆が深まったカップルは、今2階の寝室で一緒に寝ている。
しかも、ダブルベッドで、同じ部屋で。
こんなに長い時間起きてこないということは、やはり——。

そんな仮説が2人の頭の中で色濃くなり始めた頃、しびれを切らしたランツがスマホを取り出した。


「いい加減起きてくるの遅くね?あいつら」
「確かにね。お寿司勿体ないし、起こそうか」
「だな。電話しようぜ」


ランツがスマホを操作し始めた瞬間、大人しく食卓に腰かけていたタイオンとユーニは互いに顔を見合わせた。
そして同時にランツを凝視する。
マジかコイツ、空気読む力ゼロかよ。
このままではまずい。2人の甘い空気を壊してしまうかもしれない。
そんな危機感を感じた2人は、ほとんど同時ランツの両脇に飛びついた。


「待てランツ!早まるな!」
「は?なんだよ」
「空気読め馬鹿!今電話なんてしたら——」
「あっ、もしもしミオちゃん?おはよー、寝てた?」


横から聞こえてきた能天気な声に、再びタイオンとユーニはぎょっとする。
満面の笑みを浮かべたセナが、スマホを耳に押し当てながらハイテンションで電話をかけていた。
相手はミオだろう。
一足遅かった。
“お寿司あるよー!”と明るい声で告げている彼女を前に、タイオンとユーニは揃って頭をもたげた。

すまんノア。同じ男としてここは何としても止めるべきだった。
ごめんミオ。アタシどこまでも役立たずだったわ。

心で互いの友人に謝罪しつつ、2人はため息を零す。
自分の両腕に引っ付きながら深くため息をついているタイオンとユーニの姿に、ランツはただただ首を傾げるしかなかった。


***

まどろみの中、目を覚ます。
ぼやける視界に一番に映ったのは、大好きな彼氏の顔だった。
長い髪を下ろし、隣に横たわっているノアは、目を覚ましたミオを見つめながら優しく微笑みを浮かべている。


「ノア……?」
「おはよう、ミオ」
「今、何時?」
「18時だな」
「えっ、えぇっ!? もうそんな時間!?」


上体を起こしてスマホを確認すると、時刻は既に17時57分。
早朝に仮眠のツモリで横になってから、13時間近くが経過していた。
どうやら肉体的にも精神的にも相当疲れていたらしい。
こんなに長時間眠ったのは初めてだ。
人はあまりにも長い間眠っていると、逆に疲れてしまうらしい。
長時間横になり続けていたミオの身体は凝り固まっていた。


「ちょっと寝すぎちゃったね」
「俺は結構前から起きてたけどな」
「え?起こしてくれればよかったのに」
「ヨダレ垂らして気持ちよさそうに寝てたから、起こしちゃ悪いかなって」
「よ、ヨダレ!?」


思わず口元を覆う。
けれど、涎を垂らしていた痕跡はない。
必死に確かめているミオを横たわったまま見つめていたノアは、クスッと笑みを零した。


「うそ」
「もう、やめてよ」


照れながら口元を隠し、ミオは再びノアの隣に横になる。
鼻先が触れ合いそうなほど近い距離で、2人は見つめ合う。
暫く目を見ていたが、ノアのしなやかな手がミオの頭をゆっくりと撫で始めた。


「よく寝れた?」
「えぇ。ノアのお陰」
「そうか。ならよかった」


見つめ合っていたミオが、不意にノアの胸板に顔をうずめた。
突然のことに、ノアは息を詰める。
そんな年下な彼の様子を知ってか知らずか、ミオは彼の腰に腕を回し甘えるように頬を寄せた。
ひとつ年上のミオだが、彼女はまるで年下かのように甘えてくるところがある。
そこがたまらなく可愛いところなのだが、きっと彼女は全く意識せずにしているのだろう。
そして、抱き着かれているノアがこれほどまでに心搔き乱されているとも知らず、彼女はまた高威力の一言を彼に言い放つ。


「ノア、ありがとう。大好き」
「ミオ……」


シンプルな一言ほど、人の心に突き刺さるものだ。
それが長年思いを寄せてきた相手なら尚更。
ノアは、高校の頃からミオという存在に淡い憧れを抱いてきた。
憧れは恋心に代わり、恋心は独占欲へと変わる。
淡いパステル色をしていた彼の心は、いつの間にか濃い色へと変わり、純粋な気持ちはとうの昔に塗りつぶされてしまった。
ストーカーを何としても見つけ出してやろうと意気込み、夜遅くまで張り込んでいたあの執念も、独占欲がさせたことだ。

ミオが心配だったとか、怖い思いをしてほしくないだとか、そういう気持ちはもちろんあった。
けれど、先行したのは群青色の独占欲。
自分のものをよこしまな目で見られたという怒り。
また汚い手で触られるかもしれないという恐怖。
ノアの中にある負の感情が、彼を行動させたのだ。
こんなことを馬鹿正直に言ったら、ミオはどう思うだろう。
言えるわけがなかった。
独占欲に駆られてあんなことをしただなんて。
ミオの前では、“清廉で優しいノア”でいたい。

けれど、抑え込めそうにない薄汚い感情はもう一つだけ存在した。
今、ノアはその感情と戦っている。
それは男であれば誰しも持ち合わせているもの。
組み敷いて、撫でまわして、自分の色に染め上げてしまいたくなるこの欲は、存在を認めた瞬間ノアの清廉さを殺してしまう。
1年も辛抱してきた彼の身体は限界だった。
付き合って1年。ひとつ屋根の下で生活を共にし、隣で眠り始めてからそろそろ3か月が経過しようとしている。
獣になるなという方が無理だ。
ノアとて、所詮は男なのだ。

衝動にかられたノアは、腰に腕を回しているミオの身体に覆いかぶさった。
横に並んでいた身体は制圧する側とされる側へと変化し、力関係も変わってしまう。
ノアに組み敷かれながら、ミオは自分の心臓がひどく高鳴っていることを実感した。


「ノア……?」
「ミオ……っ」


自分の名前を呼ぶノアの声が、切迫している。
その声を聞いた瞬間、すべてを察してしまった。
そうか。ノアは“する気が起きなかった”んじゃない。ずっと“我慢してた”んだ、と。
耐えて耐えて耐え抜いて、すべてが解決するこの日を待っていたんだ。
彼にはもう、ミオに遠慮する理由などなくなった。
ミオもまた、男に組み敷かれることに恐怖する理由がなくなかった。
2人を隔てる“しない理由”という壁は、もはやない。

自分を見下ろすノアの目が、熱を帯びている。
いつも冷静でかっこよかったノアから、余裕が消えた。
代わりに生まれているのは野性的な炎。
目の前の男をじっと見つめながら、ミオは彼の首に両腕を回した。


「いいよ、ノア」
「ミオ?」
「ノアなら、いいの」


ノアの目が細められる。
枕に頭を乗せたミオへと、彼の顔が少しずつ近づく。
柔らかな唇と唇が触れ合うその瞬間だった。

ピロリロリロンっ

この空気をぶち壊す間抜けな着信音が、大音量で2人の邪魔をする。
その音を聞いた瞬間、2人は目を見開いて固まった。
着信音を叫び続けていたのは、ミオのスマホだった。
ゆっくりと、2人の顔が赤く染まる。そして、熱に浮かされたいたこの空間は一瞬で現実に引き戻された。


「ご、ごめんっ」
「いっ、いいのっ!こっちこそごめんなさいっ」
「で、出たほうがいいんじゃないか?」
「そ、そうね……」


ディスプレイに表示されていた名前は“セナ”だった。
応答すると、スピーカーの向こうでやけに元気で明るい彼女の声が聞こえてきた。
“あっ、もしもしミオちゃん?おはよう寝てたー?”という能天気なセナの声に、ミオは肩を落としながら答えた。
“寝てないよ!!!!”と。


***

“いただきます”と手を合わせ、一同の寿司パーティーは幕を開けた。
食卓に広がる色とりどりの寿司を前に、6人の若者は色めき立つ。
それぞれ好きな寿司ネタを思い思いにつまんでいく中、タイオンは隣の席に腰掛けているノアを気にしていた。
 
セナの電話によって招集されたノアとミオは、2人そろって2階から降りてきたのだが、両者ともに頬を赤らめていた。
そして今、正面の席に腰掛けているにもかかわらず不自然なほど目を合わせていない。
自分のことはともかく、他人事となると視野が広くなるタイオンは察していた。
この二人、やっぱり何かあったな、と。


「ノア、大丈夫だったか?」
「え?な、なにが?」
「なんというかその、さっきの電話、邪魔をしてしまったんじゃないかと……」


誰にも聞こえないよう、きわめて小さな声で耳打ちするタイオン。
そんな彼の言葉に、ノアは口に含んでいたイカの寿司をほとんど噛むことなくゴクリと丸呑みしてしまう。
その瞬間、器官が詰まりノアは自分の胸を叩きながら派手に咳き込み始めた。


「グッ、ご、ゴッホゴッホ!」
「お、おい大丈夫か?ほら水……」
「ありが、ゴッホ!グッホ!」


タイオンから手渡された水のコップを受け取ると、器官に詰まったイカを飲み込むためごくごくと喉を鳴らしながら飲み干した。
そしてようやく落ち着きを取り戻したらしいノアは、空になったコップを勢いよくテーブルに置き、引きつった笑顔を隣のタイオンへと向ける。


「だ、大丈夫!全然大丈夫だから!なにもしてなかったから!いやホントに」


必死な形相で誤魔化そうとしているノアは、ゆでだこのように真っ赤な顔をしていた。
これは器官に食べ物が詰まったせいで苦しくなったからだろうか、それとも激しく狼狽し照れているせいか。
どちらにせよ、彼が動揺しているのは間違いない。
いつもは落ち着いているノアの挙動不審な様子を前に、タイオンは呆れながら心の中で呟く。
絶対大丈夫じゃないだろ。絶対何かしてただろ。

ふとミオへと視線を向けると、彼女は彼女でやはり頬を紅潮させながらちらちらと正面に座っているノアの様子をうかがっている。
互いに意識しあっているのは明らかだった。
分かりやすすぎないか、この二人。
高校生か?高校生なのか?
そんなことを考えているタイオンだったが、右側から聞こえてきたセナのうめき声に気を取られた。


「うえぇ、ワサビ入ってるぅ……」
「セナ、お前さんワサビ駄目なのか?子供舌だな」
「だって苦手なんだもん」
「仕方ねぇな。俺が箸でワサビ拭ってやるよ」
「えっ、いいの?」
「おう。何食いたい?」
「じゃあえんがわ!」
「お、おう、渋いな」


右隣では、甲斐甲斐しく割り箸でワサビを抜いてやっているランツと、そんなランツの様子を嬉しそうに見つめているセナの姿。
タイオンは知っていた。この二人が互いに恋愛感情を抱き合っている事実を。
右側ではラブコメが展開され、左側でもラブコメが展開されている。
なんだこの甘い空気は。
急にこのウロボロスハウスがテラスハウスのような空気になっている。
取り残されてないか?僕。


「タイオン」


不意に、正面に座っていたユーニから名前を呼ばれる。
このラブコメ空気に疎外感を感じていたタイオンは、淡い気持ちを寄せている彼女からこのタイミングで声をかけられたことにちょっとした期待を抱いた。
瞬時に顔を上げると、彼女は寿司桶の端に盛られているガリを大量にシャリの上に乗せ、満足げに見せびらかしてきた。


「見て見てガリ寿司~」
「……チッ」
「おいなんで舌打ちしたよ今!」


少しはこの空気に馴染むような可愛らしいことを言ってくるのかと思ったら、何がガリ寿司だ。
可愛らしく“タイオ~ン、アタシのワサビも取ってぇん”くらい言えないのか君は。
いやユーニはそんなこと言わないか。

1人で自己完結するタイオンと、そんなタイオンを不満げに見つめながらガリ寿司を食べ始めるユーニ。
2人の様子を横から見ていたミオは、薄く苦笑いを浮かべながら口を開いた。


「みんな、改めて本当にありがとう。このお寿司もすごく嬉しい」
「気にすんなって。アタシらが食いたかっただけみたいなところもあるし」
「そうそう!最近お寿司って食べてなかったから、久しぶりに食べたいなぁって」
「俺らが理由つけて食いたかっただけだから、あんま気にすんな」


爽やかに笑うランツたちに、ミオは小さく笑って“ありがとう”と改めて礼を伝えた。
ストーカーを直接捕まえたのはノアの功績だが、ランツやタイオンが毎晩のように護衛をしてくれたおかげで恐怖が和らいだのも事実。
ユーニやセナがずっと心配してくれていたのも大きいだろう。
 
ミオが1年以上抱えてきた大きな問題を解決できたのは、ノアだけでなく、ここにいる5人全員のおかげと言っても過言ではないのだ。
大きな恩が出来てしまった。今度皆にお礼をしなくちゃ。
そんなことを考えていたミオを見つめていたノアは、柔らかく微笑みを浮かべていた。


「そうだ。みんなはどの寿司ネタが一番好き?」


突然ノアから投げかけられた質問に、その場にいた全員が目を丸くした。
全く脈絡のないハナシを振り始めたのは、これ以上ミオに気を遣わせないための心遣いだった。
そんな彼の気遣いを一番に察したのは、ユーニである。


「アタシはサーモン。ミオは?」
「えっ、私?私は……びんとろかな」
「私は中トロ!」
「俺はまぐろ」


まるでオークションかの如く次々好きな寿司ネタを羅列していく一同。
どうやら話題を逸らすことには成功したようだ。
最後に好きな寿司ネタを口にしたランツが、“言い出しっぺのノアは?”と質問を反してくる。
そんなランツに、ノアはコップに注いだビールを飲みながら反応した。


「俺はいくらの軍艦かな。ビールと一緒に飲むのが一番美味い」
「お前絶対将来痛風になるぞ……」


頬杖を突きながら呟くユーニ。
プリン体を多く含むラインナップを好んで食べているノアの将来を心配しつつ、正面に座っていたミオは唯一好みを発表していないタイオンへと目を向けた。


「タイオンは何が一番好き?」
「僕はそうだな……。アナゴだな」
「ウナギの下位互換じゃん」


ユーニのそんな呟きに、タイオンが俯きながら席を立つ。
椅子を蹴るようにして立ち上がった彼に、全員の視線が向いた。
顔を上げたタイオンは、怒りに満ちた鬼の形相でユーニを睨みつける。


「表へ出ろユーニ。サーモンが一番好きな君の子供舌にアナゴの素晴らしさをじっくり叩き込んでやる」
「おうおう望むところだ。そっちこそサーモンの美味さを骨の髄まで分からせてやらぁ」
「そんなことでいちいち決闘すんな。西部の酒場かここは」


ビールジョッキを煽っているランツの一言で、タイオンとユーニは渋々着席する。
この中で一番アルコール耐性が低いセナは、そんなランツを一瞥した後、お茶を一気飲みして遠慮がちに手を挙げた。


「はいっ、発言いいですか!」
「えっ、あ、あぁ、全然いいけど……」


授業中の優等生がごとく発言権を要求してきたセナ。
そんな彼女に、ノアは戸惑いつつも発言を促した。
するとセナは、すぅーっと息を吸い込むと、意を決したように本題をぶちまける。
“花火大会に行きませんかっ!?”と。


「花火大会?」
「そう!7月下旬の土日にあるの。よかったらみんなでどうかなぁって……」
「いいんじゃね?俺は賛成」
「ほ、ホントに?」
「セナは行きてぇんだろ?じゃあ行こうぜ」


微笑むランツに、セナは顔を赤らめて喜んだ。
自分の要望に一番に賛成してくれたのが、他でもない好きな人だった。
その事実がたまらなく嬉しいのだ。
本当ならランツと2人で行きたい。けれど、流石に2人きりで花火大会に誘うのは勇気がいる。
だからこそ、この場にいる友人たちを全員巻き込む形で誘うことにしたのだ。

慎重さと淡い恋心が孕んだセナの提案は、タイオンにとっても好都合だった。
7月下旬に行われる花火大会の存在は、近くの商店街に張り出されていたポスターを見て知っていた。
ユーニを誘いたい気持ちはある。彼女のことが好きなわけではないが、まぁ一緒に行けたら楽しいだろうな、くらいの感覚だ。
だが、誘う理由がない。難儀していたタイオンがこの話に乗らないわけがなかった。
しかし、左隣に腰掛けている一組のカップルの存在が、タイオンを躊躇させる。


「僕は構わないが……。2人はいいのか?」
「どういう意味だ?」
「せっかくだし、2人きりで行きたいんじゃないのか?」


ノアとミオは、ほとんど同時に顔を見合わせた。
そして案の定僅かに頬を赤らめ、苦笑いを零す。
2人きりで行きたいという気持ちは勿論あるが、だからと言って6人で行きたくないわけではなかった。
むしろ人数が多い方が祭りは楽しいだろう。
友人思いな2人の気持ちは同じだった。


「いや、せっかくだし皆で行こう」
「そうね。人数は多い方が楽しいと思うし」
「やったぁ!」


ノアとミオの承諾を得たことで、セナは素直に喜びを爆発させる。
これでセナとランツ、ノアにミオ、そしてタイオンの花火大会参加が確定した。
残るはユーニただ一人である。
今のところ何の意思表明もしていないユーニに、ランツは“ユーニ、お前さんは?”と視線を向けた。


「アタシも別にいいけど、行くなら日曜にしてくんない?土曜は先約があるから」
「先約って?もしかして他の人と花火大会行く約束してるとか?」
「あぁ、まぁな」
「なぁんだそういう……。え?」


ミオは冗談のつもりで仕掛けていた。
どうせ、“んなわけねぇだろ?”と笑い飛ばすと思ってたのだが、ユーニはあっけなく認めてしまう。
彼女の口から飛び出した“YES”の返答に、ミオだけでなくその場にいた全員が目を丸くした。
そして、一拍遅れてノア、ミオ、ランツ、セナの4人が“ええええぇぇぇっ!?”と大声で狼狽し始める。


「ど、どういうことユーニ!花火大会行くの?」
「だ、誰と!? まさか男か!?」
「まぁな。ゼオンに誘われた」
ゼオン!? な、なんでゼオンと!?」
「ノア、ゼオンって?」
「俺たちの高校の同級生だよ。でもなんでゼオン?」


質問攻めにあっているユーニは、少し気まずげな表情を浮かべながら視線を外している。
どうやら彼女が異性に花火大会へ行こうと誘われたのは本当らしい。
動きようのない事実を前に、ミオは恐る恐るタイオンへと視線を向ける。
すると彼は、遠い目をしながら自分の取り皿にひたすらガリを盛り、“美味いなぁこのガリ……”と小声でつぶやいていた。

傷付いてる。ユーニが他の男の子と花火大会行くって聞いて傷付いてる!
やっぱりタイオン、ユーニのことが好きなのね……!

誰がどう見ても落ち込んでいるタイオンの姿を横目に、ミオはそんな確信を得ていた。
だが、事実は残酷だ。タイオンがまごまごしているうちにユーニは他の異性と花火大会に行く約束を取り付けてしまい、しかも承諾している様子。
ユーニが男にモテる事実は、この場にいる全員が承知している。
彼女に好意を抱いている男が多い以上、タイオンの慎重さは仇にしかならないのだ。
 
タイオンがユーニに好意を抱いていることは、このウロボロスハウス内では周知の事実と化している。
全員彼を密かに応援していたため、ゼオンと一緒に花火大会に行くと決めてしまったユーニをまるで責めるかのように質問を投げ続けていた。
まるで不倫した芸能人への囲み取材のようなこの状況に、ユーニは苛立ち深いため息を吐く。


「言っとくけど、2人っきりじゃないからな?」


席を立ち興奮する一同に、ユーニは事情を1から10まですべて話すことにした。
カイツが1学年年下のユズリハに一目ぼれしてしまったこと。
ユズリハを花火大会に誘いたいがため、ダブルデートの前提で声をかけてしまったこと。
この嘘が原因で、ゼオンに彼女のふりをしつつ一緒に花火大会に来てほしいと頼まれてしまったこと。
そのすべてを話すころには、興奮し全員起立していた一同は大人しく席についていた。


「じゃあつまり、カイツがそのユズリハって子を誘うために嘘を吐いたと……」
「そのせいでユーニがダブルデートに巻き込まれたと……」
ゼオンって人の彼女のふりをする羽目になったと……」
「カイツの奴、しょうもねぇな」


状況を理解した4人は安堵したようだった。
良かった。どうやら妙な誤解を与えずに済んだらしい。
ユーニとしても、ゼオンと付き合っていると勘違いされるのは不本意だった。
特に、目の前に座っているタイオンには誤解されたくない。


「そんなことだろうと思った。ちょっとトイレに行ってくる」


そう言って、タイオンは涼しい顔で席を立つ。
リビングから出て行ってしまったタイオンの背中を見つめつつ、ユーニはムッと表情を険しくさせた。
 
あいつ、なんであんなに平気そうなんだよ。
アタシのこと好きなんじゃなかったのかよ。
好きな奴が男と夏祭りに行くんだぞ。普通はもっと焦るだろ。
ちょっと冷静過ぎないか?
冷淡なタイオンのそっけない態度に、ユーニはガラにもなく乙女心を搔き乱されていた。

一方、リビングを出て行ったタイオンはトイレの扉を開け、中へと入る。
扉を閉め、密室にこもった瞬間、彼はトイレの壁に両手の拳を叩きつけてうつむいた。


「びっっっっくりした……、」


首筋に冷や汗が垂れ落ちる。
かすれた声は密室の中に溶け込み、誰にも聞こえないままタイオンの震える声だけがトイレの中に響く。
正直、かなり驚いた。ユーニについに彼氏が出来てしまったのかと。
彼女はモテる。いつかは出来るだろうと思っていたが、まだ心の準備が出来ていない。
心臓はバクバクと高鳴っているし、未だに思考が上手く回らない。
自分が動揺しているのは認めざるを得なかった。
ユーニのことなんて好きじゃない。
そう言い聞かせていたのに、今更彼女に男の影がちらついただけでこんなに狼狽するなんて。
本当に大丈夫か僕は。


「はあぁ……。もう認めるしかないのか……?」


トイレの壁に寄りかかりながら、タイオンは便座と向き合うように座り込む。
ふと、壁にかけられたカレンダーへと視線を向ける。
7月に突入したばかりの今日から数えて、花火大会は約3週間後。
ユーニが疑似ダブルデートを楽しむ予定である3週間後の土曜日の欄を睨みながら、タイオンは深くため息を吐くのだった。

 

act.27


ストーカー撃退を祝う会は深夜の1時まで続いた。
その間、タイオンは酒をしこたま飲んで潰れてしまい、現在は自室で休んでいる。
彼が自棄になって酒を飲んでいた理由はただ一つ。
ユーニが自分以外の男と花火大会に行く約束を取り付けてしまったせいである。
 
彼女自身が言っていたように、これはデートではない。
嘘をついてしまった友人をフォローするための、いわば人助けである。
だが、それでもタイオンは気に入らなかった。
ユーニが嘘とはいえ知らない男の彼女役としてダブルデートに参加するという事実が。
 
明らかに不貞腐れているタイオンに、ウロボロスハウスの面々は苦笑いするしかなかった。
彼は必死になって隠しているようだが、その本心は既にこの家に住む者全員が知っている。
感情の矢印を向けられているユーニでさえ、彼の好意には気付いていた。
だが、彼が秘密にしたがっている以上そっとしておくしかない。
“両想いなのにな…”と心の中で呟きながら、セナは酒を煽るタイオンを憐れんでいた。

宴会が終わり、リビングには今夜の後片付け係であるランツとセナの2人だけが残っていた。
タイオンは部屋で眠っており、ユーニは風呂へ、ノアとミオは早々に自室に引っ込んでしまった。
空になった皿を片付けながら、セナはタイオンのことを考えている。
 
本人は否定しているものの、明らかにユーニに淡い恋心を抱いているタイオンに対して、セナは親近感を覚えていた。
モテるユーニを好きになったところで幸せにはなれない。自分では不釣りあいだと言い聞かせて自制している彼の気持ちは、セナのランツへの気持ちとどこか形が似ている。
タイオンと一方的に“片想い同盟”を組んでいる気でいたセナは、同じ穴の狢であるタイオンが自棄になっている様子がどうも気がかりだった。


「タイオン大丈夫かな。すごく落ち込んでたみたいだけど」
「ま、自分の好きな女が他の男と祭りに行くなんて気が気じゃ無いだろ。気持ちはわかる」


皿を洗いながら、ランツはセナの言葉に反応した。
ユーニが一緒に夏祭りに行く約束をした相手、ゼオンは、ランツにとっても高校時代の友人である。
ユーニがゼオンとどうにかなるなど全く想像がつかないが、タイオンにとってゼオンは赤の他人。
面識がない相手だからこそ落ち着かないのだろう。


ゼオンさんってどんな人なの?」
「どんな?うーん……。真面目な奴だな。冗談がきかなくて、堅苦しい。頭でっかち」
「なんか悪口ばっかりじゃない?」


ランツとゼオンは、高校時代から犬猿の仲だった。
仲が悪いというわけではないが、性格が正反対な彼らは磁石のSとNのように反発しあっている。
顔を合わせれば小さな口論を繰り返していた2人は、大学に進学してからもその距離感は変わらなかった。


「別に悪い奴じゃねぇんだよ。ただちょっと真面目過ぎるというか」
「真面目……。もしかして、性格はタイオンと似てたりする?」
「あー、若干似てるかもな。真面目で堅物なところとか。タイオンよりゼオンの方が若干天然だけど」


その言葉を聞いて、セナは少々危機感を抱いた。
タイオンとそのゼオンという人が似ているのなら、ユーニがゼオンを好きになってしまう可能性もあるんじゃないか、と。
マズいよタイオン。結構ピンチなんじゃない?
ランツが洗い終わった皿を拭いていたセナは、タイオンの顔を脳裏に思い浮かべながら焦りを感じていた。


「祭りと言えば、お前さんは浴衣とか着ていくのか?」
「えっ、浴衣?」


不意にランツから投げかけられた質問に、セナはキョトンとした表情を浮かべた。
今浴衣の話なんてしてたっけ?


「うーん、私浴衣持ってないんだよねぇ……」
「マジかよ。じゃあ着ていかねぇの?」
「うん。だって私が着てもどうせ似合わないだろうし……」


浴衣は持っていたが、上京すると同時に実家に置いてきてしまっていた。
例え持っていたとしても着ていくことはないだろう。
あぁいうのは、ミオやユーニのように元々可愛い女の子が着るからこそ輝くのであって、平凡な自分には過ぎた衣装だ。
普通な見た目の女がどれだけ着飾っても、“普通”の域を脱することは出来ない。
 
自分に自信が持てないセナは、着飾ることにも臆病になっていた。
だが、自己肯定感の低いセナの自虐を決して受け入れない人間が、この家には一人だけいる。
彼女が想いを寄せている相手、ランツである。


「いや似合うだろ、絶対」
「え……」


心臓がドキッと高鳴って、思わず手に持っていた皿を落としそうになってしまう。
ランツを見上げると、彼は皿をスポンジでこすりながら至極当然のことのように言い放つ。


「お前さんが浴衣似合わないとかあり得ねぇだろ」
「そう、かな……」
「そうだろ。俺は見たいけどな、セナの浴衣姿」


浴衣など一切着るつもりがなかったセナだったが、ランツの“見たい”の一言で考えがコロっと変わってしまった。
もしも浴衣姿でランツの前に出たら、褒めてくれるだろうか。
少しくらいは見惚れてくれるだろうか。
可愛いと思ってくれるだろうか。
もしも、たった一言でもランツに褒めてもらえたなら、他の誰に何を言われたって別にいいと思えてしまう。
ランツに褒められたい。可愛いと思われたい。
その気持ちが、セナに小さな勇気を与える。


「じゃあ、着てみようかな……」
「おっマジで?」
「うん。その代わり、笑わないでね?」
「笑うかよ。いいか?俺に一番に見せろよ?ノアやタイオンに先に見せたら怒るからな」
「えー!無茶言うなぁ」


“楽しみにしてるからな”
そう言って笑うランツの笑顔に、セナは心を躍らせていた。
ランツが、自分の浴衣姿を見たがってくれている。
こんな私なんかに期待してくれている。
そう思うだけで嬉しかった。

よし、着ると決まったらさっそく浴衣を買いに行かないと。
もうすぐ夏だから、早く行かないといい浴衣はきっと売り切れてしまう。
ミオやユーニを誘って一緒に選んでもらおう。
ランツはどんな色の浴衣が好きかな。
私服は黒や青を着ることが多いから、寒色系が好きなのかもしれない。
髪飾りはどうしよう。
どんなものを着けていけば、ランツに可愛いと思われるかな。

セナの思考回路は、いつの間にかランツを中心に回っていた。
恋する乙女と化した彼女は、僅かに頬を紅潮させながら手元の皿を拭き続ける。
そんな彼女に、隣に立っていたランツが柔らかな微笑みを向けていたことに、セナは気付いていない。


***

同時刻。
2階の自室にて、ミオは念入りにスキンケアを施していた。
つい数時間前、セナからの電話に阻まれる直前、ミオとノアは甘い空気に包まれていた。
恐らく彼女からの呼び出しが無ければ、確実にあのまま次のステップに進んでいただろう。
結果的に機を逃してしまったが、早くも次の機会が訪れた。
宴会が終わり、あとは寝るだけとなったこの時間。
もしノアが行動を起こすとしたら、この時間しかない。

今夜、たぶん私は本当の意味でノアのものになれる。

付き合って以来ずっと望んできたことだった。
いつまでたっても手を出されずやきもきしていたが、いざその時を迎えると少し怖くなってしまう。
ストーカーに襲われかけたことが原因というわけではないが、やはり何事も初めては怖いもの。
ノアは高校生の頃既に彼女を作っていたとユーニに聞いたことがあるし、きっと経験はあるのだろう。
彼にゆだねていれば問題ないはず。
 
やっぱり痛いのかな。血は出るのかな。あまりに痛すぎて入らなかったらどうしよう。
そんな不安感を抱えながら、ミオはひたすら化粧水を己の肌に叩き込んでいた。

鏡に向き合い一心不乱にスキンケアをしていたミオだったが、不意に部屋の扉が開いた。
その瞬間、ミオの肩が大げさなほど跳ね上がる。
部屋に入って来たのは、やはりノアだった。
風呂から上がったばかりの彼は、まだほんの少しだけ湿り気を帯びている長い黒髪をなびかせながら、ローテーブルでスキンケアをしていたミオに微笑みかけた。


「おまたせ、ミオ。そろそろ寝ようか」
「え、えぇ、そうね」


ローテーブルに並べていた化粧水や乳液を急いで仕舞い込み、綺麗に片付けると、先にベッドに腰掛けたノアは手を伸ばして“おいで”と促してくる。
ノアはいつも余裕があって、年下であるという事実を時々忘れてしまう。
彼の手を取ってゆっくりとその隣に座ると、しなやかな指がそっと絡み合った。
風呂から上がったばかりのためか、彼の手は暖かい。
この手が自分を守ってくれたのだと思うと、愛おしくて仕方がなかった。


「今日はいろいろあったな。疲れてないか?」
「平気。ノアこそ疲れてるんじゃない?ずっと見張ってくれてたんでしょ?」
「あぁ。でもさっきぐっすり眠ったから、疲れも取れたよ」


ノアがストーカーの行動を見張り始めてから数週間。彼はずっと深夜に帰宅して早朝起きる生活を送っていた。
いくら若いとはいえ、そんな生活を数週間も続けていれば流石に疲労困憊なはず。
けれど今目の前にいる彼は、そんな素振りなど一切見せず微笑みを浮かべている。
優しいノアの態度に、ミオの心はじんわりと温まっていく。
無性に彼に甘えたくなったミオは、彼との距離を縮めるとその肩口に頭をもたげた。


「ありがとう、ノア。私、ノアの彼女になれてよかった」
「ミオ……」
「ノア、好き。大好き」


鈴の音を転がすようなその囁きに、ノアは柔く微笑みを浮かべ、彼女の真っ白な美しい髪に指を掻き入れた。
彼女の頭を撫でながら、その髪に軽く口づけを落とす。
 
高校生の頃からずっと恋い焦がれてきた一つの年上の少女、ミオ。
彼女が自分の恋人になってくれたこと自体信じがたいのに、今こうして完全に気を許し甘えてくれている。
この状況に、ノアの心は満たされていく。
たった今、本当の意味でミオの心をすべて手に入れることが出来たような気がした。


「ミオ、今日は何の日か覚えてる?」
「うん。付き合って1年の記念日でしょ?」
「あぁ」
「覚えててくれたんだ」
「当たり前だ。プレゼントだって用意してる」
「え?」


そう言って、ノアはベッドの脇に置かれたサイドチェストの引き出しを開けた。
引き出しから取り出されたのは、小さな小箱。
その箱を差し出された瞬間、ミオは驚き目を見開いた。
その小箱が、どう見ても指輪の箱だったからだ。
やがてノアの手によって小箱が開け放たれる。
中で眠っていたのは、小さな2つのリング。
シンプルなデザインであるそのリングを見て、ミオは察してしまった。
これはペアリングだ、と。


「これって……」
「ペアリング。今までおそろいで何か身につけたことなかっただろ?」
「いいの?こんなに高そうなもの……」
「もちろん。俺自身へのプレゼントでもあるんだから」


小箱から2本のリングを取り出すと、大きな方を手に取りノアは自らの右手薬指につけた。
そして小さい方のリングを手に、彼はミオの手を取った。
彼女の細くしなやかな右手薬指に、リングがそっとはめられる。
サイズは見事にぴったりだった。
指にはめられた小さなリングを前に、ミオは目を輝かせながら見つめていた。


「嬉しい。ありがとう、ノア」
「喜んでくれてよかった」
「でもごめんね。私、何も用意してなくて……」
「気にしなくていい。そうやって喜んでくれるだけで、十分だから」


指輪をはめたノアの右手が、ミオの頬に添えられる。
ゆっくりと距離を縮める二人は、どちらからともなく唇を重ねた。 
触れるだけのキスから始まり、やがて啄むようなキスへと変わる。
柔らかな唇の感触を楽しむように食み合い、そして舌を絡めあう。
 
交際して1年が経つ2人だが、意外にも舌を絡ませ合う深いキスはあまりしてこなかった。
理由は単純。ノアが自らの理性を保つためである。
互いを求めあうような淫靡なキスは、気分を高揚させ、興奮を煽り、必死に押さえ込んできた欲望を爆発させてしまう。
 
ストーカーに襲われかけた経験を持つミオは、きっと男に触れられることに一抹の恐怖感を残しているに違いない。
だからこそ、せめて交際1年を迎えるまでは何としても手を出さずにおきたかった。
折角付き合えたのだ。大切にしたい。怖い思いをさせたくない。
手を出さずに一定の距離感を保ち続けた結果、ミオの不安をあおる結果になるとは露知らず、ノアは欲を溜め続けた。
 
そして今日、ミオを怖がらせた張本人であるストーカーは見事捕まり、そして晴れて交際1周年を迎えた。
ミオからも、“ノアならいいよ”と熱っぽい目で受け入れてもらったばかりである。
もはやノアに、ためらう理由など無かった。

絡み合った舌が離れ、唇を開放すると、熱に浮かされたような目をしたミオと視線が絡み合った。
あぁ、もう我慢の限界だ。
もう一度その唇に口付けを施すと、ゆっくりと彼女の身体をベッドの上に押し倒す。
ミオの白い髪が、枕の上に散らばった。
期待と不安に満ちた目で見上げて来る彼女の顔はやけに色っぽくて、ノアのわずかに残った理性を勢いよく削っていく。


「ミオ、怖い?」
「ちょっとだけ……。でも大丈夫。ノアなら、きっと優しくしてくれるだろうから」


絶大な信頼を向けられている事実に、ノアはほんの少しだけ目を細めた。
優しくしたいのは山々だが、そんなに無防備に信頼しないで欲しい。
自分は彼女が思っているほど完璧な人間じゃない。
邪な欲も、自分勝手な欲も、獣の様な欲もある。
ただ自分を律するのが少しだけ得意なだけで、本質はあのストーカー男と何ら変わりない。
ミオのことが好きで、そのすべてを手に入れたいと願っている、浅はかで強欲な男なのだ。
自分を見上げて来るミオの白い頬を撫で、ノアは目を細めた。


「俺さ、ミオが思うほど出来た人間じゃないよ」
「え…?」
「本当は欲まみれなんだ。ミオのことを独占したいし、ミオの全部が欲しいと思ってる」
「ノア……」
「何でもないふりしておきながら、本当はずっとシたかったんだ。毎晩毎晩、襲いそうになる自分を必死で抑えてた。でももう限界だ。多分、優しくする余裕なんてないと思う。だから……。嫌だったら言ってくれ。今ならまだ——」
「嫌じゃない」


ノアの言葉を遮るように、ミオが呟く。
頬に添えられた彼の手に自らの手を重ねながら、ミオは目に涙を浮かべ訴えた。


「私も同じ。いつかこうなりたいって思ってた」
「ミオ……」
「私……。ノアのものになりたい。心も、身体も」


ミオの大きな瞳の端から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
と同時に、ノアは目を細め彼女の唇に噛みつくようなキスを落とした。
強引で、すべてを奪うようなキスだった。
いつも優しくて、こちらの様子をうかがいながら距離を縮めて来るノアからこんなにも力強いキスをされたのは初めてだ。
投げ出された手にノアの手が重ねられ、押し倒された身体に覆いかぶさるようにノアが跨って来る。
これから始まるであろう初めての経験に、ミオはどうにかなりそうなくらい心臓を高鳴らせていた。

その夜、2人は長い時間をかけて身体を重ねた。
ノアが念入りにミオの身体を愛でたおかげで、痛みはあったものの二人の“初めて”は無事に遂行された。
身も心もノアのモノになることが出来たミオは、一つ年下の優しい彼氏の腕の中で、安らかに眠りに落ちるのだった。

 

act.27.5

※R18注意

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act.28


その日、タイオンは頭痛と軽い吐き気で目が覚めた。
上体を起こした瞬間、猛烈な気持ち悪さが襲ってくる。
十中八九二日酔いだった。
理由は明白。昨晩行われた“ストーカー撃退を祝う会”にて、酒をしこたま飲んでしまったせいである。
タイオンは元々酒に強いわけではない。
それでもなお節操なく酒を煽ってしまった理由はただ一つ。
ユーニが自分の知らない男たちと夏祭りに行く約束を取り付けたことを聞いてしまったためである。

彼女と自分は付き合っているわけではない。ただの友人だ。
にも関わらず、まるで嫉妬しているかの如くむくれてやけ酒に走るなど馬鹿げている。
しかも、別に本当のデートに行くわけではない。
友人が吐いてしまった嘘をカバーするための、いわば偽のデートである。
なのにいちいち気分を害するなんておかしいじゃないか。
そう思いつつも、タイオンの気分は晴れなかった。

ランツは珍しくまだ寝ているようで、少し離れたベッドでいびきをかきながら眠っている。
頭がガンガンする。気持ち悪い。
とりあえず顔を洗おう。
そう思い立ち上がると、寝ているランツを起こさないようにそっと部屋を抜け出した。
2階の廊下に出た瞬間、隣の部屋のドアが開く気配がした。
ふと視線を向けると、そこには今一番会いたくなかった人物が立っている。ユーニだった。
ある意味でこの二日酔いの原因であるユーニとのバッティングに、タイオンは内心“げっ”と眉を潜ませる。


「あ、おはよ、タイオン」
「あぁ……、おはよう」
「顔色わるっ。なに?二日酔い?」
「みたいだな」
「あんなにハイペースで飲むからだっつの。ちょっと待ってな」


そう言うと、ユーニは再び自室に引っ込んでしまった。
そしてしばらくして戻って来た彼女は、タイオンへと歩み寄りその手のひらに薬の箱を手渡す。
どうやら二日酔いに効く薬らしい。
彼に薬の箱を手渡すと、ユーニは腰に手を当てニッコリ微笑みを向けてきた。


「これっけこう効くから。水と一緒に飲みな」
「……ありがとう」


礼を伝えながらも素直に笑顔を向けられなかったのは、相手がこの二日酔いの原因を作った張本人であるせいだった。
そもそも君のせいじゃないか。君が偽のダブルデートなんてクダラナイ約束を取り付けてきたから。
なんでそんな頼み聞いてしまったんだ。
まさか、そのゼオンとかいう男のことが好きなんじゃないだろうな。
あわよくば本当に付き合えたら、なんて思ってるんじゃないのか?
いや、別に君が誰を好きになろうと僕には関係ない。関係ないが、僕に少しくらい相談があっても良かったんじゃないか?
だってほら、ルームメイトなわけだし、それ以前に友人なわけだし。
もし事前に相談されていたら、きっと……。


「ユーニ」
「うん?」
「その……。一緒に祭りに行くゼオンという男とは、それなりの仲なのか?」
「それなりの仲って?」
「だからその……。好きなのか?」


タイオンの問いかけに、ユーニは一瞬驚いたように目を見開いた。
もしも“好きだ”と言われたらどうする?
いや、どうもしない。“そうか”で済む話だ。
彼女が誰を好きになろうと、自分に口出しする権利はない。
友人の一人として応援するだけだ。
そうだ。応援するために聞くんだ。
この前セナが自分にしてきてくれたように、ユーニからの恋愛相談にも乗ってやれるかもしれない。
ゼオンが好きだと言って頬を赤らめる彼女の背を押す。ただそれだけのことだ。
それだけのことなのに……。


「好きだよ」
「えっ……」
「……って言ったらどうする?」


一瞬の肯定に、タイオンの胸がドキリと高鳴った。
まるで弄ぶかのような返答だ。
ゼオンに恋をしているユーニの心を想像すると、胸が押しつぶされるような感覚に陥った。
無理だ。応援なんて。
ユーニが他の誰かに恋心を向けるなんて、そんなの耐えられない。
“好きじゃない”と言え。“ただのトモダチだ”と言ってくれ。
そう言ってくれるだけで、この心は救われる。


「……どうと言われても、別にどうもしないが」
「好きじゃねーよ」
「えっ?」
「友達としては好きだけど、別に男として好きなわけじゃねぇって。もちろん、一緒に行くカイツもな」


そう言って、ユーニはタイオンの前を通り過ぎる。
“好きじゃない”
望んでいた回答が得られたことに、タイオンの心臓はバクバクと鼓動し始める。
聞き間違いじゃないよな?“好きじゃない”とハッキリ言ったよな?
1Fに降りる階段を降り始めたユーニの後を彼は急いで追った。


「ほ、ホントか?好きじゃないのか?」
「ホントだって」
「1ミリも好きじゃないのか?ただの友達だと言い切れるか?」
「言い切れるって。ってか何だよさっきから。別にアタシがアイツのこと好きでも気にしないんじゃなかったのかよ」
「それは……」
「それとも——」


1階に降り立ったユーニは、まだ階段の途中に立っていたタイオンを見上げつつ振り返った。
揶揄うような笑顔が向けられ、ぎくりと身体を固くする。
あの顔は、盛大におちょくって来る時の顔だ。
案の定彼女は、小悪魔の様な笑顔でトンデモナイ質問を投げかけてきた。


「アタシがアイツを好きじゃなくて安心したとか?」
「なっ……そんなわけないだろ!なんで僕が」
「照れんなよ。アタシを取られると思って焦ったんだろ?可愛いとこあるじゃん」
「だから違う!調子に乗るな!」


肘でぐいぐいと突いてくるユーニに怒りながら、タイオンは彼女を追い抜かし廊下を突き進む。
そんな彼を、ユーニはにやけ顔のまま揶揄い続けた。
何で僕が焦らなくちゃならない?冗談じゃない。
絡みつくように“そうなんだろ?素直になれよ”と顔を覗き込んでくるユーニを振り切りながら、タイオンは“違う違う”と否定し続ける。
そして、そんな攻防を繰り返しながら二人は洗面所の引き戸を開けた。
その瞬間——。


「あっ」
「あっ」


開け放った扉の先にいたのは、ノアとミオ。
洗面所の鏡の前で互いの腰に腕を回し合い、今にも唇が重なりそうなほどの距離感で見つめ合っていた。
その光景に遭遇し、タイオンとユーニは一瞬にして真顔になる。
一方で、2人きりの密会を見られたノアとミオは、洗面所に入って来た2人を視界に捉えた瞬間一瞬にして焦りを滲ませた。
やばい。見られた。
そんな呟きが聞こえてきそうなほど青い顔をしている2人を前に、タイオンとユーニはほぼ同時に言い放つ。


「「失礼しました」」


バタンッと派手な音を立てながら、2人は洗面所の扉を閉めた。
見てはいけないものを見てしまった。
というかこんなところで盛るなよ。
2人の気持ちは口に出さずともシンクロしていた。
そっとその場を離れようと顔を見合わせたタイオンとユーニだったが、そんな彼らの目の前で再び洗面所の扉が開いた。


「違うの!言い訳させて!違うの!ほんとに!」


扉を開けたのは真っ赤な顔をしたミオだった。
その奥では、洗面台に寄りかかりながら頭を抱えているノアの姿もある。
彼の顔もまた、同じように赤面していた。
“違う違う違うから!”と喚くミオの言葉を聞きながら、タイオンとユーニはあきれ顔を浮かべていた。
何が違うというのか。朝っぱらから洗面所で死ぬほどイチャついていたのは事実。
いくら弁明を繰り返しても、交際1年を迎えたばかりであるノアとミオがTPOをわきまえていない事実は変わりなかった。


***

本日の朝食当番はミオである。
キッチンに立ち、6人分の朝食を用意し始めたミオの隣には、何故かノアの姿。
隣に寄り添い何やら一緒に作業をしている彼は、ミオの手伝いをしている様子。
随分近い距離感でキッチンに立ちながら朝食の用意を進める二人を、タイオンとユーニは食卓に着きながら頬杖を突きつつ観察していた。


「ノア、お醤油取ってもらえる?」
「あぁ。はい」
「ありがと。熱っ」
「どうした?」
「ちょっと油が跳ねたみたい」
「見せて?火傷してないか?」
「大丈夫よこのくらい」
「一応消毒して絆創膏貼っておこう。跡が残ったら大変だ」
「もう。大丈夫なのに」
「いいから。ほら」
「ありがと、ノア」


キッチンで繰り広げられている甘いやり取りをジトッとした目で見つめていたタイオンとユーニは、互いに同じことを考えていた。
あの二人、自分たちの世界に入り込んでないか?
カウンターを挟んで2メートルも離れていない食卓に腰掛けているタイオンとユーニの存在はまるで眼中に入っていないらしい。
構わずイチャつき始めた2人に視線を向けながら、タイオンとユーニは今にも舌打ちしてしまいそうだった。


「なぁタイオンくん」
「なんだユーニさん」
「あの二人、どう思う?」
「どうって……。おかしいだろ」
「おかしいよな」
「変だろ、どう考えても」
「変だよな。どう考えても」


ノアとミオは元々仲のいいカップルだった。
だが、比較的常識的な2人はいつも節度をわきまえた距離感を保っていたはず。
こうして人目がある空間であからさまにイチャついたり、甘い空気を醸し出したりすることは無かった。
にも関わらず、今はタイオンとユーニの目があるこの空間でも構わず近い距離感で接している。
ノアは時折ミオの頬を愛おしげに撫でているし、ミオも頻繁にノアへボディータッチをかましている。
昨日まではこんな空気じゃなかったハズなのに、一夜明けていったい何があったのか。
傍から観察していた2人には不思議で仕方なかった。


「明らかに距離感おかしいよな?」
「あぁ。まぁ例のストーカーの一件で絆が深まったと言われれば納得はするが……」
「雨降って地固まるってやつ?それにしたって距離感縮まり過ぎじゃね?」
「そうだな。2人だけの世界に引きこもっているというか、背景がお花畑と化しているというか……あっ」


キッチンで仲睦まじくサラダを作っているノアとミオをじっと観察していたタイオンが、不意に声を漏らす。
“どした?”と問いかけて来るユーニとの距離を詰め、彼は小声で耳打ちする。


「2人の右手薬指を見てみろ」


指示通り視線を送ってみると、ノアとミオの右手薬指にはおそろいの指輪がはめられている。
昨日まではしていなかったハズのその指輪を見た瞬間、ユーニは目を丸くしながらタイオンへ視線を戻した。
あれは間違いない。ペアリングだ。
あの二人、知らない間にペアリングなんて買っていたのか。
驚きと衝撃が、ユーニの脳内を支配する。


「ペアリングしてんじゃんっ。めっちゃペアリングしてる!」
「おそらくノアが贈ったものだろう。時期的に交際1年記念のプレゼントと言ったところか」
「じゃあ二人の距離が縮まったのはあのリングのおかげ?」
「いや、いくらペアリングとはいえプレゼントなら今までだって何度も贈り合っているだろう。それが原因とは思えない。きっと昨晩僕らが知らない間に何かあったんだ。あそこまでイチャつくほどの何かが」
「うーん……」


2メートルも離れていない距離で議論を交わしているというのに、キッチンに立つノアとミオは一切気にしていないようだった。
2人で甘い会話を交わしながら卵焼きを作っている。
相当砂糖を入れたのだろう。匂いからしてかなり甘ったるそうだ。
 
糖分たっぷりなカップルを前に、頭脳派であるタイオンとユーニは考える。
理性的だった2人をあそこまで盲目にするということは、それほど強烈で甘いイベントがあったに違いない。
昨晩あったことと言えば、宴会で好きな寿司ネタを言い合って乱闘寸前になったり、夏祭りに行く約束を取り付けたことくらいだろうか。
後のことはそれぞれの部屋に帰ってしまったため知りようもない。
ということは、部屋で二人きりになった時に何かあったということだろうか。
昨晩就寝する寸前のことを思い出しながら、2人は腕を組み唸り始めた。


「昨日の夜かぁ……。そういえばアタシが寝る寸前、ノアとミオの部屋から何かゴソゴソ物音がしたような……」
「そう言えば僕も、寝る前にノアとミオの部屋から甲高い声が聞こえてきたような……」
「……あっ」
「あ……」


その可能性に気付いてしまったのはほぼ同時だった。
腕を組んだまま察してしまった二人は、石のように固まり黙り込む。
そんな彼らの背後から、キッチンで仲睦まじく作業を進めるノアとミオの会話が聞こえてくる。
“もう、ノアったら——”
“ミオだって——”
あははうふふと甘ったるい空気を醸し出しているこのカップルが、急激に距離感を縮めた原因。
それに気づいた瞬間、タイオンとユーニは第三者であるにも関わらず顔を赤くした。
そして、互いに視線を逸らしながらボソボソと言葉を続ける。


「超えたのか、一線を……」
「みたい、だな……」
「そうとしか考えられないよな……」
「あぁ。確定だろうな、これは……」


気付いてしまった事実に、気まずさが止まらない。
まずい。どんな顔であの二人を見ればいいかわからない。
つい先日まで“ノアに手を出されないの……”と悩まし気な表情を浮かべていたミオだったが、どうやらその悩みは解消されたらしい。
友人の性事情を察してしまったことで、タイオンとユーニはどうしていいかわからなくなっていた。
そんな時、リビングの扉が開け放たれ眠気眼を擦りながらランツが入って来た。
“おはよう”と微笑みかけるノアに“おう”と返事をすると、彼は隣同士で食卓に腰掛けていたタイオンとユーニの正面の席に腰を下ろす。


「ふあぁ、眠い。なんか昨日よく眠れなかったんだよな。ノアとミオの部屋から聞こえてくる変な物音が気になってよォ」
「えっ」


何も理解していない様子のランツの言葉にミオとノアが同時に固まる。
そんな二人の様子も全く意に介さず、ランツは眠気眼を向けたまま容赦のない質問を投じる。


「お前ら昨日夜中に何してたんだ?」
「い、いや……」
「それは……」


戸惑うノアとミオ。
この凍り付いた空気をかち割るように、食卓に並んで腰かけていたタイオンとユーニは互いに勢いよくテーブルを叩きながら立ち上がると、同時にランツへと掴みかかった。


「テんメェこの野郎!空気読みやがれこの馬鹿!」
「君の辞書にはデリカシーという文字はないのか!?」
「えっ、えっ?」
「男女の部屋から聞こえてくる物音って言ったらアレしかねぇだろこの鈍感!」
「わざわざ聞くまでもないだろ!それでも男か君は!」
「えっ……なんで俺怒られてんの?えっ……」


ランツに掴みかかり、怒りをぶつけるタイオンとユーニは気付いていなかった。
自分たちが一番ストレートにノアとミオの羞恥心を煽っていることに。
キッチンに並んで立っている2人は、顔を真っ赤にしながら頭を抱えている。
そんな二人の様子に気付くことなく、2人はランツを介してノアとミオの所業を容赦なく暴いていった。


「ふあぁ、おはよー……。えっ、なにこれ」


遅れて起床してきたセナの目に飛び込んできたのは、まさかの光景だった。
怒り狂った表情でランツに掴みかかっているタイオンとユーニ。
戸惑いながら怯えているランツ。
そしてキッチンで赤面しながら立ち尽くすノアとミオ。
たった今起きてきたばかりのセナには、状況が全く理解できなかった。


***

大学は既に夏季休暇の期間に突入している。
ほとんどの学生は休暇中の大学に用などないが、夏季限定で行われる特別講義に参加する学生は例外である。
メディアで頻繁に露出している高名な教授によるこの特別講義は、受講希望者が殺到しているため抽選が行われた。
抽選の結果、無事受講権利を勝ち取ったタイオンは、夏季休暇中にも関わらずこのキャンパスを訪れている。
 
大教室の後ろの席に腰掛け、教壇に立っている教授の話を聞いていたタイオンは、どこか心ここにあらずの状態だった。
彼の頭を支配しているのはユーニの顔。
彼女は一緒に夏祭りに行く予定のゼオンのことを“好きじゃない”と一蹴していたが、相手の方はどうなのだろう。
向こうはそれなりに気があるんじゃないのか?だから誘ったんじゃ……。
ユーニは誰とでも仲良くなれる性格だし、顔も可愛い。
モテるわけだし、好かれて当然だ。
もし相手がユーニに恋愛感情を持っていて、嘘を誤魔化すためという大義名分のもと、下心を持って誘ったのだとしたら。
そこまで考えて、少々苛立った。

ルームメイトであるノアとミオは、口には出さなかったものの明らかに次のステップを進んでいる。
更にランツとセナも、互いに気付いていないだけで明らかに両思いだ。
順調な恋路を進んでいる友人たちを、密かに羨んでいた。
自分にも彼女と呼べる存在が出来れば、この心にも余裕が出来るのだろうか。
彼女になり得る人……。例えばユーニとか——。


「それでは、次の講義までに“ローマの休日”に関するレポートを書いてくるように。今日の講義は以上です」


教授がマイクをオフにしたと同時に、受講していた学生たちは一斉に立ち上がる。
しまった。あまり話を聞いていなかった。
どうやら課題が出たらしい。ローマの休日と言えば、1950年代に公開された古い名作映画だ。
その映画に関するレポートを書けということか。


ローマの休日ねぇ……。名作だけど、古すぎて観る手段は限られてそうね」


隣の席に座っていたのは、同じ学部の同期であるニイナだった。
彼女もこの講義の抽選に受かった幸運な学生だ。
テキストを鞄に仕舞いながら声をかけてきた彼女に、タイオンは“そうだな”と頷く。


「うちで契約している動画配信サービスでは観られないらしい。DVDを借りるしかないかもな」
「そんなあなたに朗報よ」


そう言って、ニイナは自分の白いスマホを差し出した。
彼女のスマホに表示されていたのは、駅前の映画館のHP。
そこには、“クラシック映画特集”と大きく記載されている。
どうやら期間限定で、割安な価格で昔の名作映画を公開しているらしい。
ラインナップはどれも聞いたことがあるタイトルで、その中にはローマの休日も入っていた。


「半額で観られるのか。いいな」
「でしょ?しかもほら。次の木曜は割引が効くのよ。“カップル割”でね」
カップル割?」


怪訝な表情で首を傾げるタイオンに、ニイナは“そう”と頷いた。
この映画館では、毎週木曜はカップルデーとされており、男女で映画を見に行くと1人500円の割引となる。
通常の価格は2000円。クラシック映画特集のラインナップはその半額の1000円。
さらにそこから500円のカップル割が適応されれば——。


「500円で観られるわけか」
「お得でしょ?どう?一緒に」
「君とか?」
「あら。他に誰がいるの?」


ニイナの申し出に、タイオンは腕を組んで考え込む。
別に映画の費用をケチるほど金に困ってはいない。
だが、名作とはいえ昔の映画を視聴する方法は限られており、少なくともウロボロスハウスで契約している動画配信サービスでは視聴できないらしい。
 
となると映画館で視聴するかDVDを借りるしか方法はないのだが、残念ながら最寄り駅にレンタルショップはない。
実質、映画館で観るしか方法はない。
それ以外に方法がないのであれば、出来るだけ安く済む手段で観たいと思うのは当然の思考だろう。
 
ニイナの提案はタイオンにとっても理があった。
2人で映画館に赴くことで割引が効くならかなりお得と言えるだろう。
だが、ニイナと2人で行っていいものか。
彼女は友人と言って差し障りない間柄だが、別に付き合っているわけでもなければ好意を抱いているわけでもない。
とはいえ、異性であることは変わりないし、そんな相手と2人きりで映画なんて、それはデートにあたってしまうのではないか?

タイオンの脳裏に浮かぶのはユーニの顔。
彼女の顔が浮かび続け、タイオンに罪悪感を与え続けていた。

馬鹿馬鹿しい。なんで僕がユーニ相手に罪悪感を覚えなければらないんだ。
僕はユーニの彼氏でも何でもない。
他の女性と2人で映画に行っても何の問題もないだろう。
しかもこれは課題をこなすための映画鑑賞だ。そこに妙な下心などない。
彼女だって他の男と夏祭りデートする予定を立てているじゃないか。
なら別にいいだろ。彼女に遠慮する理由などどこにもない。
どうせ僕がニイナと映画に行ったところで、彼女は気にも留めないだろうから。


「分かった。行こうか」
「助かるわ。安く観られるに越したことはないものね」


“それじゃあ土曜日に。また連絡するわ”
そう言って、ニイナは軽く手を振り去って行った。
荷物をまとめたタイオンは、他の学生たちに遅れて教室を後にする。
廊下に出た彼は、スマホでスケジュールアプリを立ち上げた。
数日後の土曜日のスケジュールに、新規の予定を入力する。
“ニイナ 映画”というタイトルで登録した直後、無意識にため息が漏れた。

映画か。そう言えばユーニと2人で映画に行ったことは一度も無かったな。
彼女はどんな映画が好きなのだろう。
もし誘ったら、ついてきてくれるだろうか。

いやいや。何を考えているんだ。
いい加減ユーニのことを考えるのはヤメロ。
どうせ考えたってうまくいかない。釣り合わないんだから。

半ばやけくそになりながら、タイオンはスマホを服のポケットに仕舞った。

 

act.29


7月に突入し、本格的に夏祭りシーズンが到来した今日この頃。
百貨店や専門店では浴衣や水着フェアが開催され、店頭に夏を感じさせる衣装が所狭しと並んでいる。
ミオ、ユーニ、セナの3人は、夏に向けた特売を行っている都内の百貨店に揃って足を運んでいた。
狙いはただ一つ。夏祭りに着ていく浴衣を入手するためである。
元々浴衣を購入する予定ではなかったのだが、今回はセナの強い希望により女性陣は揃って夏祭りに浴衣を着ていく運びとなった。

浴衣売り場で数着試着した彼女たちは実に2時間もの時間をかけてじっくりと自分に合う浴衣を購入した。
ミオは白地に赤い金魚模様が入った女性らしい柄を。ユーニは黒地に白い毬模様が入った色気のある柄を。そしてセナは青地に白い花火模様が入った涼やかな柄をチョイスした。
帯や下駄、巾着も一緒に購入できたことで、3人の気分はこれ以上ないほど高揚している。
中でもセナは特に上機嫌でニコニコと笑顔を浮かべている。
帰りの電車に揺られている3人は、浴衣が入った大きな紙袋片手に会話に花を咲かせていた。


「いいの買えてよかったね~」
「だな。てか着付けどうするよ?アタシ出来ねぇぞ?」
「大丈夫。私昔教えてもらったことあるから」
「流石ミオちゃん!頼りになる!」


ミオの実家は、地元でもそれなりに有名な名家である。
大きな会合に着物で出席することも多く、着物や浴衣、袴と言った和装を身に纏う機会が多かったミオもまた、母から着付けのスキルを受け継いでいた。
当日は彼女がユーニやセナの浴衣を着つけることになる。
着付けの心得があるミオの存在に、ユーニとセナは大いに安堵した。


「でも、珍しいね。セナが自分で浴衣着たいなんて言い出すなんて」
「確かに。どういう風の吹き回し?」


平日昼の在来線は人もまばらで、車両にはあまり乗客がいない。
3人揃って座席に座っていた彼女たちの視線は、一番端の席に座っていたセナへと注がれる。
彼女が夏祭りで浴衣を着たいと言い出したのは今朝のことだった。
自分だけじゃ恥ずかしいから2人も着て欲しいと頼んできた彼女の言葉に、断る理由がなかった2人は承諾したわけだが、何故突然セナがそんなことを思い立ったのか不思議だった。
 
セナは良く言えば謙虚、悪く言えばあまり自分に自信がない性格である。
そんな彼女が、自ら積極的に着飾ろうとしているこの状況は、セナの性格をよく知るユーニやミオにとっては意外でしかなかった。
彼女の心を上向かせる何かがあったのだろうか。
問いかけてくるミオとユーニに、セナは照れながら答えた。


「えっと……。実は、ランツが見たいって言ってくれて……」
「え?見たいって、セナの浴衣姿を!?」
「うん」
「そっかぁ!それは着ていかなきゃだめだね」


ミオの言葉に、セナは嬉しそうに頬を染めながら頷いている。
その表情は、誰がどう見ても恋する乙女の顔だった。
先日、セナはランツに惹かれつつある事実を吐露してくれた。
その時はまだそこまで自らの感情に確証を得られていないようだったが、今のセナは完全に恋をしているようにしか見えない。
どうやら本格的にランツを好きになってしまったらしい。
だが、ユーニにはどうにも腑に落ちなかった。

あのランツが。
女に興味のないあのランツが、セナの浴衣姿が見たいと口にしたというのか。
にわかには信じられない。
彼は花より団子。女より筋肉をモットーに生きている。
そんな彼が、セナにそんなこと言うなんて。
またいつもの天然鈍感発言の類だろうか。
だとしたらかなり厄介だ。片想いしている相手にそんなことを言われたら、誰だって期待してしまう。
ランツのためにウキウキで浴衣を選び、ランツのために一生懸命着飾ったにもかかわらず、“別にそんなつもり一切なかった”という結果に終わったとしたらあまりにもセナが不憫だ。
ランツはセナのことをどう思っているのだろう。
そしてセナは、どこまで本気でランツのことを想っているのだろう。


「あのさ、セナ。今更なこと聞くんだけどさ」
「うん?」
「ランツと付き合いたいと思う?」


ユーニからの問いかけに、セナの笑顔はどんどんしおれていく。
やがて、少し悲し気な表情を浮かべ、ぽつりぽつりと本心を吐露し始めた。


「うーん。よく分かんない。ランツのことは好きだけど、付き合うなんて大それたことは考えられないな。それに、私なんかじゃランツには釣り合わないだろうし……」
「何言ってるのセナ。そんなことないよ」


セナのいつもの下向き発言に、すかさずミオが否定する。
しかし、姉のように慕っている彼女の言葉でさえもセナの心を塗り替えることは出来なかった。
哀し気な表情のまま、セナは首を横に振る。


「ランツと付き合えたらきっと幸せだと思う。でも、私こんな性格だから、たぶん付き合ってても不安になると思う。卑屈になっちゃうと思う。私なんかでいいの?って」
「セナ……」
「もう少し、明るくて可愛くて、自分に自信があったら変わってたのかもしれないね……」


セナの自己肯定感の低さは幼少期の頃に経験したいじめが原因である。
しかし、彼女はその過去をランツ以外には話していない。
彼女の性格を形成しているその背景を全て理解できているわけではないミオとユーニは、自信が持てない彼女に“そんなことないよ”と笑いかけるしかできない。
 
だが、いくら2人がセナの存在を肯定したとしても、彼女が上を向くことはない。
セナは、ミオやユーニとは違う。
ミオのように人に慕われやすい性格ではないし、ユーニのように誰とでも仲良くなれる性格でもない。
自分に持っていないものをたくさん持っている彼女たちの言葉は、セナの心の奥には響かない。

光の中にいるランツや、ミオやユーニの隣に立つたび、自分の根暗さが目立ってしまう。
事あるごとに私なんか、と自分を卑下しているような人間が、彼ら彼女らの隣に立つには勇気がいるのだ。
もしもランツに求められたとして、セナにはその手を迷わず取れる自信がなかった。

浴衣が入った紙袋を抱えて俯くセナに、ユーニは複雑な心境を抱いていた。
セナのランツへの気持ちは大きい。
大きいがゆえに、着地点が見えず際限なく膨らみ続けている。
そうか。そんなにランツのことが好きなのか。
これはどうしたものだろう。
ランツと付き合ってもセナが幸せになるビジョンが見えない。かと言って、セナのランツへの感情は日に日に多くなっている。
もはや後戻りが出来ないところまで来てしまっている事実に、ユーニの胃はキリキリと痛みだしていた。


***

戦利品である浴衣を手に入れた3人は、意気揚々とウロボロスハウスへと帰宅した。
玄関の様子を見るに、どうやらランツだけが家の中にいるらしい。
紙袋を持って2階に上がった3人は、全員でユーニとセナの部屋へと入った。
梱包されている浴衣を取り出し、3着とも丁寧にクローゼットへ入れていく。
当日はどんなメイクで行こうかと話していた3人だったが、不意にミオがベッドの下をじっと見つめながら固まった。


「どうした?ミオ」
「なんか今、気配が……」
「気配?」


ベッドの下をじっと見つめているミオの視線を追い、ユーニとセナも同じように視線を送る。
するとミオの言う通り、ベッドの下で何かがうごめいているのが見えた。
嫌な予感がする。3人同時にごくりと生唾を飲んだ瞬間、気配の主はカサカサと不気味な音をたてながらベッドの下から這い出てきた。
その黒い影を視界に入れた瞬間、3人の乙女は顔面蒼白になる。
ベッドの下から姿を現したのは、黒い閃光。人類普遍の敵。コードネーム“G”である。


「「「ぃぃいやああぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!!」」」


まるで死体を発見したかのような壮絶な叫びと共に、3人は部屋から飛び出した。
そして、隣の部屋に突撃する。
ランツとタイオンの寝室となっているその部屋では、ランツが一人トレーニング器具を使い筋トレをしていた。
ぎゃあぎゃあ大騒ぎしながら突然部屋に入ってきた女性陣3人に、ランツは驚き肩を震わせた。


「うおぉっ、な、なんだ急においっ」


この家にいる唯一の男性であるランツに、女性陣3人は群がった。
彼の鍛え上げられた太い腕にしがみつき、3人は小刻みに震えている。
そして、ランツの背中に張り付いているセナは、震える声で彼に助けを求めた。


「た、助けてランえもん……!」
「ランえもん?」
「奴が出たんだよ奴が!」
「奴って?」
「Gが出たの!」
「なっ……」


ミオの言葉に、ランツは息を詰める。
レーニング器具に腰かけたままの彼は、瞬時に状況を把握して頭を抱えた。
蒸し暑くなってきたこの季節、奴らは増殖する。
遥か昔から姿を変えずに生き続けている彼らの生命力は異常である。
この世で最も忌々しく、そして醜い生き物の出現情報に、ランツは冷汗をかき始めた。
 
念のため“どこだ?”と問いかけると、3人の女性陣は彼の腕を強引に引っ張り廊下へ向かった。
Gが出現したユーニとセナの部屋を、4人は恐る恐る覗き込む。
中には浴衣が入っていた紙袋やビニールカバーのごみが散乱している。
一見、例の黒い影は見当たらない。


「ほ、ほらランえんもん。頑張って」
「は?お、俺がやんのかよ」
「虫退治は男の仕事だろうが!」
「男女平等の時代に何言ってんだお前さんは!」
「ランえもん!とにかく何とかしてぇー……」


半泣きの状態でセナはランツの背中を押している。
筋肉隆々な大男であるランツは、基本的に腕っぷしで誰かに負けたことはない。
筋肉はすべてを解決する。という脳筋スタンスで生きている彼にとって、怖いものはほとんどない。
だが、虫だけは別だった。
特にあの黒いボディーを光らせている奴だけは、昔から恐ろしくて仕方がない。
虫には拳も効かなければ威圧も効かない。
唯一筋肉パワーが効かない強大な敵なのである。

部屋の入り口でまごまごしていると、不意に散乱しているビニールカバーがガサッと音を立てて僅かに動いた。
Gの姿は確認できない。だが、この状況での物音はイコールGの存在を表していると言っても過言ではない。
物音を聞いた瞬間、3人の乙女と1人の大男は、“ぎえぇぇぇぇっ!”と叫び声を挙げながら階段を駆け下りた。

ドタドタと派手な音をたてながら階段を駆け下りた4人は、玄関先でほぼ同時に転倒する。
それなりの大人が4人、絡み合いながらフローリングに転ぶ光景は中々に滑稽である。
脱兎のごとく地獄から逃げ出した4人は、全員無駄に息を荒げていた。
中でもランツの怯えようはすさまじい。
見た目にそぐわず1匹の小さなGに怯えている幼馴染に、ユーニは怒りをあらわにした。


「テメェこらランえもん!何お前まで逃げてんだ!」
「仕方ねぇだろ俺だってGは嫌いなんだよ!」
「その筋肉は何のためにある!? アタシらをGの脅威から守るためだろうが!」
「絶対違ぇよ!!!!」


激しい口論が展開され始めた時、すぐ近くの玄関からガチャっとドアが開く音が聞こえてきた。
誰かが帰宅してきたらしい。
全員の視線が玄関へと向かう。
そこに立っていたのは、4人の大人たちが全員フローリングの上で転んでいる光景に目を丸くしているノアだった。


「え、何してるんだ……?」
「ノアえも~ん!」


帰宅した2人目の男手、ノアの登場に、彼の交際相手であるミオは縋りつくように彼に抱き着いた。
突然胸に飛び込んできた彼女に戸惑いつつ、彼はミオの腰に手を回す。
全員虫嫌いというこの状況下で、ノアという存在はかなり頼りになる。
ノアに抱き着いていたミオは、恐怖におびえた表情を浮かべながら助けを求めた。


「Gが!Gが2階に!」
「なんだって!?」


ミオのSOSを聞いたノアは、靴を脱ぎ階段から2階を覗き込む。
誰もいない2階は実に静かで、不気味なほどの静寂が支配していた。
このウロボロスハウスは築3年も経っていない所謂新築である。
まだ新しいこの家では一度も例の黒い閃光が出現したことはなく、ノアやランツ、ユーニが住み始めて以降初めての遭遇であった。
 
初めての事態に狼狽えるユーニとランツ。
だが、いつかこんな日が来ると予想していたノアは入念に対策グッズを用意していた。
怯えるミオを落ち着かせ、ノアは洗面所へと向かう。
しっかり掃除されている洗面台下の戸を開け、彼は赤と黒のスプレー缶を取り出した。


「テレレレッテレ~、ゴキジェット~!」
「おぉ……!」


軽快なセルフ効果音と共にノアが取り出したのは、G専用の殺虫剤だった。
こんなこともあろうかと、彼は事前にこの殺虫剤を用意していたらしい。
ノアが手にしている赤と黒のスプレー缶は、ランツたちの目にはまるで聖なるエクスカリバーのように見えていた。
堂々と掲げられた殺虫剤に、一同は感嘆の拍手を贈る。


「流石ねノア。用意がいい!」
「これがあればGも簡単に仕留められる」
「よっしゃ!そんじゃ早速G討伐作戦実行だ!」
「おぉー!」


ランツの掛け声に、セナは元気よく拳を掲げた。
こうして、ゴキジェットエクスカリバーを装備した勇者ノアを戦闘に、一同は2階へ進軍を開始する。
ゆっくりと階段を登り、廊下を進む彼らだったが、先頭を行くノアが息を詰めながら突然足を止めた。
急に立ち止まったノアに、彼の背中に隠れながら進んでいたミオは“どうしたの?”と問いかける。
ノアは、開け放たれたユーニとセナの部屋の扉を指差し恐ろしいことを口にした。


「あの扉、いつから開いてる?」
「え?確か、Gを最初に発見した時から……」
「ずっと開いてるのか?」
「開いてるな。うん」
「てことは、Gはあの部屋から出てる可能性もあるよな」
「えっ……」
「あの部屋から出て、別の場所に移動した恐れもあるよな」
「それは、つまり……」
「この状況、もうこの家のどこにGがいるのか分からなくなってるよな」


淡々と告げるノアの言葉に、後ろで控えていた女性陣とランツの表情はみるみるうちに白くなっていった。
ユーニとセナの部屋は、最初に黒い閃光が目撃された瞬間からずっと開け放たれている。
もしもこの空いたドアから外へ逃げてしまっていたとしたら、この家中のどこに現れてもおかしくはない。
恐ろしい事態に陥っていることに気付き、彼らは背筋を凍らせる。
ウロボロスハウスに現れた黒い閃光は、どんなホラー映画よりも強烈な恐怖を一同に与えていた。


***

一方、夏季限定講習に出席していたタイオンは、セミが鳴き始めた初夏の空の下、帰宅するために住宅街を歩いていた。
ニイナと映画を見に行く約束を取り付けた彼は、脳裏にユーニの顔を思い浮かべつつ罪悪感に似た感情を抱いていた。
 
まったく、何故僕がこんな感情を抱かなくちゃならない。
ユーニだって男と夏祭りに行く約束をしているんだ。だったら僕だっていいじゃないか。
それに僕とユーニは別に付き合っているわけじゃない。罪悪感を抱く意味などどこにもないのだ。
自分でそう言い聞かせた直後、何故か気落ちしてしまう。
この不毛な感情のやり取りに嫌気がさし始めた頃合いで、ようやく見慣れた家が見えて来る。
鍵を開け、玄関を開けて中に入ったその時だった。


「タイえも~ん!」
「え?うおっ」


廊下の奥からドタドタと派手な音を立て、先ほどまで脳裏を支配していた張本人、ユーニが突進してきた。
彼女は勢いよくタイオンに抱きつき、その胸板に突撃する。
いつもなら彼女の突拍子もない行動に動揺し、顔を赤らめるところではあるが、動揺する間もなくタイオンは突進してきたユーニに突き飛ばされ、背後の玄関扉に頭をぶつける。
ゴンッという鈍い音と共に“いだっ!”というタイオンの痛々しい呻きが玄関に響く。


「急に何だ……。奇襲か?」
「助けてタイえもん!緊急事態だ!」
「は?」
「いいからこっち!」


タイオンの腕を掴み、ユーニはぐいぐいと家の奥へ引き込もうとする。
まだ靴を脱いでいなかったタイオンは、そんな彼女の強引さに戸惑いながらも急いで靴を脱ぎ捨てる。
ユーニに引きずられるようにリビングへ入ったタイオンは、そこに広がっていた異様な光景に目を疑った。


「え?なにしてるんだ?みんな」
「タイえも~ん……!」


ミオ、セナ、ランツの3人は食卓の上に座りながらフルフルと震えている。
ノアはリビングの中央に立っているものの、悩まし気な表情で腕を組み、眉間にしわを寄せている。
暴漢にでも押し入れられたのかと見紛うほどの異様な光景に、タイオンはぎょっとした。
ミオとセナは互いに抱き合いながら、ようやく帰宅した最後の救世主、タイオンの登場に涙を流している。


「どういう状況なんだこれは」
「奴が出たんだよ」
「奴?」
「GだよG!」
「G?あぁゴキブ……」
「言うな馬鹿!その名前を言うな!」
「んぐっ」


黒い閃光の正式名称を口にしようとした瞬間、ユーニはタイオンの両頬を片手でつまんで強引に黙らせた。
人類普遍の敵であるあの虫が出現したとなれば、一同がここまで動揺している理由も理解できる。
だが、いると分かっているのならさっさと退治すればいいのに。
そんなタイオンの疑問は、ノアからの説明でようやく解決する。


「退治したいのは山々なんだが、今奴がどこにいるかもわからなくてな」
「なるほど。だから食卓に避難しているのか」


食卓の上に正座しているミオとセナ、そしてランツを見つめ、タイオンは苦笑いを零した。
2人の女性陣はともかく何故ランツまでそんなに怯えているのか。
どうやら筋肉隆々の彼にも怖いものはあったらしい。
呆れるタイオンの腕に未だしがみついているユーニもまた、ランツと同じくらい黒い閃光に怯えていた。


「そもそも、見つけたとしてどうやって退治するんだよ?ゴキジェット吹きかけたところで逃げられるかもしれねぇだろ」
「はぁ……ユニ太君はじつにバカだな」
「は?」


眼鏡を押し込みながら、タイオンは得意げな表情で言い放った。
苛立つユーニだったが、やはり家のどこにいるかもわからない黒い閃光の存在は怖いらしい。
怒りをあらわにしながらもタイオンの腕を離そうとはしなかった。
そんなユーニを引きずりながら、タイオンはキッチンへと向かう。
引き出しを開け、取り出したのは小さな紙コップだった。


「テレレレッテレ~、紙コップ~!」


何の変哲もない紙コップを手に1人で盛り上がっているタイオンだが、同居人たちは誰も反応しない。
盛大にスベってしまった事実に少し顔を赤らめながら、タイオンは小さく咳払いして誤魔化した。
そして、同じ紙コップを3つ用意し、ノアとランツにひとつずつ手渡す。


「いいか。奴を見つけたらこれを被せるんだ。そして隙間からゴキジェットを吹き込む。そうすれば逃げられることなく確実に奴を仕留めることが出来る」
「すごい……!そんな手があったなんて」
「賢いなタイオン!子供の頃塾行ってただろ?」
「今それ関係あるか……?」


紙コップを受け取ったノアとランツは、頼もしく策を講じるタイオンに感激し賞賛の言葉を贈った。
用意されたゴキジェットは3つ。男性陣が紙コップと共に装備することで、まずは2階から別れて捜索を開始することになった。
 
ノアとミオは自分たちの寝室を。
ランツとセナは男子部屋を。
そして最も虫に耐性のあるタイオンはユーニと共に最初に黒い閃光が現れた女子部屋を捜索することになった。
これ以上被害を広げないために、3組は部屋の扉を完全に締め切って死地へ身を投じる。

女子部屋にやって来たタイオンは、自分の背中に引っ付き怯えているユーニを携え周囲を見渡す。
百貨店の紙袋や購入してきた浴衣のビニールが散乱したままのこの部屋は死角が多く、小さな標的を見つけるのは困難だった。


「ど、どう?いた?」
「いや、今のところはどこにも……」


タイオンの背中に張り付いているユーニは、震え声で問いかける。
いつもは男勝りな彼女も、あの凶悪な黒い閃光を前にするとただのか弱い女になるのか。
その小さなギャップに密かに胸を高鳴らせていたタイオンだったが、すぐ近くで感じた気配にハッとした。
視線を向けると、そこには白い壁に張り付いている黒いシルエットが。
その光景を見つめ、タイオンとユーニは身体を固くした。


「ユーニ。ここでマメ知識を披露していいか?」
「……どうぞ」
「奴らはな、不思議と床にいる間は飛ばないんだ。あぁして壁に登って初めて飛翔することが出来る」
「それってつまり……」


ユーニが言い終わる前に、壁に張り付いていた黒い閃光は凄まじい勢いで羽根を羽ばたかせ、蛇行しながら飛び上がった。
急に飛翔した黒い影は想像を絶する恐怖をユーニに与え、タイオンの肩を掴みながら絶叫する。


「ぎゃあぁぁぁっ!」
「危なっ……」


ユーニがタイオンの肩を力強く引いたことで、前に立っていた彼はバランスを崩してしまう。
そして、足元に散乱していたビニールを踏みつけてしまったことで完全に体勢を崩し、背後のユーニを巻き込む形で倒れそうになった。
 
まずい。このままだとユーニの上に背中からのしかかってしまう。
危機感を覚えたタイオンは、瞬時に体を反転させた。だがその判断が仇となった。
運よくベッドに倒れ込んだユーニ。その上から覆いかぶさるように倒れ込むタイオン。
まるでユーニを押し倒したかのような体勢になってしまったことにタイオンの思考は停止する。 
急に倒れ込み、タイオンに覆いかぶさられたユーニもまた、目を見開きながら固まっている。
ベッドに横たわるユーニと、覆いかぶさるタイオン。
不本意ながら展開されたこの体勢に、2人は沈黙しつつどうしようもなく胸を高鳴らせていた。だが――。

カサカサっ

不意に視界の端で感じた気配に、2人を包んでいた甘い空気は一瞬にして壊れた。
ほんの数秒間頭から抜け落ち閉まっていたが、この部屋には二人以外に邪魔者がいる。
マズい。こんなことしている場合じゃなかった。
互いに焦りを感じた2人は、赤い顔をしながら部屋の真ん中に鎮座している黒い閃光を睨みつける。


「た、タイオン!Gが!」
「よ、よし任せろ!」


飛び立ったことで壁から床に着地した黒い閃光は、タイオンの素早い行動により紙コップを被せられる。
逃げ場を塞いだところで、タイオンは紙コップの隙間からゴキジェットのアースを差し込み一気に噴射する。
数秒間煙を吹き込んだことで、忌々しい黒き侵入者はようやくこと切れた。
奴の死を確認した瞬間、タイオンとユーニは“はあぁぁぁ……”と深い深い安堵のため息を漏らす。


「お、おい大丈夫か二人とも!?」
「何かすごい叫び声がしたけど……!」


ここでようやくノアとランツが女子部屋に飛び込んでくる。
彼らの背後では、ミオとセナが相変わらず抱き合いながら震えている。
ベッドに力なく腰掛けているユーニと、床の上で紙コップを押さえ込んだままタイオンは、心配して駆け込んできた彼らを見つめ、同時に呟いた。


「「心臓止まるかと思った……」」


その言葉に二重の意味が含まれていた事実は、当人たちしか知らない。

 

act.30


「サラダ油、酒、醤油、バター、酢。あと何だっけ?」
「食品はそんなもんじゃね?あとはトイレットペーパーとティッシュだろ」
「柔軟剤と食器用洗剤も無かったよな」


スマホのメモアプリに打ち込みながら、ユーニは収納棚を覗き込んでいた。
そんな彼女の両脇に立っているのは、幼馴染のノアとランツ。
月に1度、この家では大規模な買い物が実行される。
足りないものを徹底的に洗い出し、車を出して近所のスーパーや薬局に買い出しに行くのだ。
今回の買い出し当番はノア、ランツ、ユーニの3人。
朝から不足品のチェックを行っていた3人は、忙しなく家中の収納スペースを覗き込んでいた。

春まで3人だけで暮らしていたこの家も、いつのまにやら住人の数が倍になっている。
住んでいる人間が増えれば、日用品や食品の消費も必然的に激しくなる。
当然、買い出しにかかる費用も倍になるうえ、買い物の荷物も多くなるだろう。
このシェアハウス生活において、今日という買い物イベントは重要な意味合いを持つのだ。


「っしゃ、じゃあ買うもんはこのくらいか?」
「あぁ。今回も結構かかりそうだな」
「まぁ仕方ねぇだろ。なるべく安いのを選んで買っていこうぜ」


ユーニのメモアプリに並んだ買い物リストは、項目が30を超えている。
金額もかかれば時間もかかるだろう。
私服に着替え終わった3人は、荷物を持ち、ぞろぞろと玄関へと向かう。
車のカギを片手に玄関で靴を履き始めた3人は、ちょうど2階の階段から降りてきたタイオンと鉢合わせた。
彼もまた私服に着替え、髪をセットしスマホを片手に持っている。
これからどこかに出かけるつもりなのだろう。
買い物班である3人に出くわしたタイオンは、階段を降りながら彼らに声をかけた。


「買い物、今日だったか。これから行くのか?」
「まぁな。タイオンも行く?」
「いや……」


それは特に深い意味のない気軽な誘いだった。
だが、ユーニからの問いかけにタイオンは何故か気まずそうに視線を逸らしてしまう。


「すまん。先約があるんだ」
「ふぅん」
「なんだよタイオン。もしかしてデートか?」
「なっ……、そんなわけないだろ!」


靴ひもを結んでいたランツからの揶揄いに、タイオンは過度なほどの反応を示した。
否定はしているものの、やけに動揺している様子が気になる。
少し不審に思いながらも、ユーニはあえて深く追及はしなかった。
だって自分はタイオンの彼女ではない。
誰とどこに行くのか、なんていちいち詮索する権利など持ち合わせていないのだ。

出掛ける準備を進めていたタイオンを残し、3人は家のガレージに停めていた車に乗り込む。
運転席にはノアが腰掛け、助手席にはユーニが座る。
後部座席にはランツがどかりと座り、全員がシートベルトを締めたことを確認するとノアはエンジンをかけて車を発進させた。
3人を乗せたファミリーカーは、大通りを抜けて近所のスーパーに向かう。
車の窓に頬杖を突き、ぼーっと流れていく外の景色を見つめているユーニの表情は浮かない。
隣の席に座っている幼馴染のそんな様子を、ノアは一瞥した。


「“タイオンのやつ、誰とどこに行くんだろうなぁ”」
「え?」
「って思ってる?」
「はぁ?」


揶揄うようなノアの言葉に、ユーニは上ずった声で聞き返す。
人の心の声を勝手にアフレコすんな。
そう言おうとした瞬間、後部座席に座っていたランツが勢いよく助手席の背もたれに身を乗り出してきてた。


「なんだよユーニ。そわそわしてんのか?タイオンが誰とどこに行くか気になってそわそわしてんのか?」
「アホか!んなわけねぇだろやめろって」


うしろから頭をわしゃわしゃ乱暴に撫でまわしてくるランツに、ユーニは顔を真っ赤にしながら抵抗していた。
正直、ノアやランツの言う通りだった。
タイオンの態度を見るに、彼が自分に好意を抱いてくれている可能性は高い。
だが、ハッキリ言葉で気持ちを伝えられたわけではないし、確信できる証拠は何もない。
自分の勘違いだった、という結果だったとしても頷けてしまうほど、タイオンとの関係性は曖昧なままである。
 
だからこそ、たびたびガラにもなく不安になってしまう。
実はタイオンは自分のことなど1ミリも好きじゃなくて、全部勘違いだったんじゃないか。
彼には自分以外に好きな人がいて、自分はそれに気付いていないだけなんじゃないか、と。


「ユーニはやっぱり、タイオンのことが好きなのか?」
「……好きじゃなかったら一緒に住もうなんて誘わねぇだろ、普通」
「ははっ、確かにな」


前を見据え、ハンドルを握りながらノアは笑う。
隣に座っているノアも、後ろでニヤついているランツも、10年上の付き合いになる幼馴染だ。
彼らにはどんな隠し事をしようともすぐに暴かれてしまう。
この気持ちにはとっくに気付かれているだろうとは思っていただろうが、やはり予想通り見え見えだったらしい。


「ま、お似合いなんじゃね?タイオンもどうせお前さんのこと好きだろうし」
「……やっぱそう思う?」
「分かりやすいかあなぁ、あいつ」


タイオンが分かりやすくユーニを意識している事実は、ウロボロスハウスで生活している者全員が承知している。
本人は上手く誤魔化せているつもりなのだろうが、その気持ちはユーニにも透けて見えていた。
だが、彼の気持ちを疑い少々迷いを抱いていたユーニは、ランツの言葉に小さな喜びを感じてしまう。
良かった。第三者から見てもタイオンは自分に気があるように見えるのか。自意識過剰じゃなかった。
安堵しているユーニに、前を向いたままのノアが再び問いかける。


「告白しないのか?」
「……しない」
「なんでだよ。ユーニが告ったらアイツ絶対喜んで頷くぜ?」
「そうかもな。でもしない。アタシからは絶対しない」
「なんでそんな頑ななんだ」


足を組み、窓の外を眺めるユーニの表情は少しだけ寂しげである。
タイオンへの気持ちに気付いたばかりの頃、当然彼に交際を申し込むことも考えた。
だが、彼と接していくうち何となく察してしまったのだ。
彼が自分への好意を必死に否定していることに。
何故そんなにも自分の気持ちを否定しているのかは分からない。
だが、“僕はユーニのことなんて好きじゃない”と自分に言い聞かせていることは誰が見ても明らかだ。

ユーニが一歩接近すれば、必ず彼は二歩後ずさる。
ユーニが期待を込めて見つめれば、彼は必ず顔を逸らす。
ユーニが手を延ばせば、彼は必ず一度は拒絶しようとする。
タイオンは明らかにユーニから距離を取り、この関係性に線を引こうとしていた。
そんな今のタイオンに想いを告げた先に見える未来は、ユーニが望むものとは少し違った色をしている。


「今のアイツに告ったら普通に付き合えるとは思うけど、たぶんタイオンの中で“ユーニが僕を好きだと言うから付き合った”って方程式が出来上がるだろ」
「まぁ、そうだろうな」
「それの何が悪いんだ?」
「アタシは……。アイツに自分の気持ちを自覚させたうえで告られたいんだよ。“ユーニが言ったから”じゃなくて、“自分がユーニを好きだから付き合った”って認めさせたいんだ」
「なんだそれ。複雑な乙女心ってか?ガラじゃねぇだろ」
「うっせぇ。余計なお世話だ」


ガラじゃないことくらい自覚はあった。
こんなこだわりとっとと捨てて、積極的にタイオンに告白しに行けば万事うまくいくだろう。
けれど、この心に居座った乙女心が“それじゃいやだ”と主張する。
ちゃんと好きだと言って欲しい。付き合ってくれと言って欲しい。
こっちばっかり好きなのは嫌だった。


「まぁ、慎重になる気持ちはわかるよ。俺もミオとのことになると足踏みしっぱなしだったし」
「そう言えばノア、お前らこの前ヤッただろ?」
「え˝っ」


突然ユーニから振られた話題に、ノアはまるで石のように身体を固くさせた。
例のストーカー男を撃退したその翌日。
ノアとミオの空気は明らかにそれまでとは違っていた。
甘い空気感を纏っていた2人の様子を見てもしやと思っていたが、どうやらユーニの予想は的中していたらしい。
正直者のノアは今にも“ぎくり”という効果音が聞こえてきそうな反応を見せている。


「は?え?ヤッたって何を?え?マジで?ヤッたのかよノア!セックスを!」
「やめろハッキリ言うな!生々しいだろ!」


いつも淡々としているノアが、珍しく狼狽している。
この状況に、2人の幼馴染はニヤニヤと笑みを浮かべていた。
彼が1年もの間、ミオに手を出さず懸命に耐えていた事実はよく知っている。
例の事件が解決したことで、ノアの我慢期間も流石に終了したらしい。
ミオもそれを望んでいたため、ようやく全員納得の終着点に落ち着いたと言ったところだろう。


「良かったなノア。念願のセックスが出来て」
「いやぁやっぱお前さんすげぇわ。俺なら好きな女と一緒に寝ててセックス我慢するとか絶対無理だわ」
「さっきからセックス連呼するのやめてもらえないか……?」
「は?セックス程度で何恥ずかしがってんだよ。中坊か?」
「いいじゃん別に。ミオとしたんだろ?セックス」
「あぁもう……!」


2人からその単語を突きつけられるたび、自分がミオとそういう行為をしたという事実を改めて実感してしまう。
あの日が初体験というわけではなかったが、相手は長年片想いしていた相手なうえ、1年以上手を出さずに見つめていたミオだ。
文字通り念願だった行為は今思い出しても幸福感に溢れたものだった。
脳裏にあの日のことが浮かぶたび、まるで高校生のようにいちいち照れてしまうのだ。
このままではまずい。揶揄い倒される前に、何とか話題を変えなければ。
焦ったノアは、赤信号で車が停まったと同時に後部座席に座っているランツへと話を振った。


「ランツの方はどうなんだ?浮いた話をしばらく聞いてないけど?」
「俺?いや俺は——」


話題の中心がランツへと移ったことで、ユーニの興味のアンテナが反応する。
ユーニの目から見て、ランツの本心はイマイチ見えてこない。
セナは彼に気があるようではあるが、ランツの方は彼女をどう思っているのだろう。
恋愛に興味など微塵もない彼のことだ。
きっと友達程度にしか見ていないのだろう。
そう思いながらランツの言葉を待っていたユーニだったが、彼は一向にその先の言葉を発することはなかった。
どうかしたのだろうかと後部座席を振り返ると、彼は窓に張り付くようにして外の景色を凝視していた。


「お、おい、誰だあれ」
「え?」


ランツの視線の方へ目を向けるノアとユーニ。
3人が乗っている車は交差点で停止しており、横断歩道の向こう側の大通りに見慣れた人影が見えた。
セナである。
私服で立ち止まっている彼女は、背の高い若い男と立ち話をしていた。
茶髪の髪をワックスで固めたその男は、見た目だけで言えばセナがあまり関わらない部類と言えるだろう。
明らかにチャラチャラしている男の手が、セナの頭に伸びる。
彼女の髪に指を這わせ、毛先をすくうようにして視線を落としている。
突然セナの髪を撫で始めた男の行動に、車の中から見ていたランツは息を詰めた。


「何してんだアイツ。なに馴れ馴れしく触ってんだ」
「美容師なんじゃないか?ほら、セナたちが立ってるところ、美容室の前だし」
「そう言えばセナのやつ、今日髪切りに行くとか言ってたなぁ。担当の美容師に髪触られてるだけだろ」
「……」


セナが立っている場所は、彼女が通っている美容室の目の前だった。
男の風貌から察するに、彼はセナの担当美容師なのだろう。
さしずめ、セナが帰り際に髪質の相談でもしたのだろう。
毛先の様子を観察するために彼女の髪を指ですくった、と考えれば違和感はない。
 
そもそもあの人見知りで男性を苦手としているセナが、ナンパしてきた見ず知らずの男に髪を触られて嫌がるそぶりを見せないわけがない。
だか彼女は、男の行動に動揺もしていなければ嫌がりもしていない。
ノアとユーニのちょっとした推理を耳にしながらも、ランツは気に入らないと言った様子でずっと窓の外を眺めていた。
やがて、信号は青に変わり車が発進する。
ゆっくりと動き出した車に焦ったランツは、運転席のノアに向かって叫んだ。


「ちょ、おいノア!なんで発進するんだよ!?」
「いや信号青だから」
「ちょっとあの道に戻ってくれ!今すぐ!」
「えぇ?無茶言うなって。迂回するの難しいんだぞこの道」
「そこをなんとか!」
「なに焦ってんだよランツ。ただ美容師と一緒にいただけだろ?」


この道は迂回路が限られている。
今すぐ戻れと言われても、時間と労力がかかってしまう。
突然焦り始めたランツの様子に、ノアもユーニも怪訝な表情を浮かべていた。


「ナンパかもしれねぇだろ!」
「だとしてもいちいち戻ることねぇだろ。セナだって大人なんだから普通にあしらえるだろ。過保護すぎねぇ?」
「だからってあんなに馴れ馴れしく触ってる光景見て放っておけるかよ」
「何だよそれ。お前はセナの彼氏かよ」


……ん?彼氏?
その台詞を口にした瞬間、ユーニは妙な違和感を覚えた。
今のランツの態度は、まるで嫉妬しているかのようにも見えた。
ただの女友達相手に、そんな感情と態度を示すのは流石におかしい。
もしや——。いやまさか——。
脳裏に渦巻く疑念は実に信じがたい仮説だったが、確かめずにはいられない。
ユーニはゆっくりと後部座席を振り返ると、恐る恐る問いかけた。


「ランツ、お前まさか……。セナのこと好きなの?」


問いかけてきたユーニを一瞥すると、ランツは後部座席の窓に頬杖を突くと、窓の外の景色を見つめながら言い放った。


「……だったらなんだよ」
「え………。えええええぇぇぇぇぇぇぇっ!?!?」


ユーニの大声が狭い車内に響き渡る。
隣の運転席に腰掛けていたノアが、急に左で発せられた爆音にびくりと肩を震わせていた。
ランツは相変わらず遠い目で窓の外を見ているが、そんな彼にユーニからの追及は続く。


「な、えっ、す、好きなの!? お前セナのこと好きなの!?」
「さっきから声でけぇよ馬鹿」
「なんで!? い、いつから!?」
「初めて会った時から」
「初めて会った時……ってもう3年も前じゃねぇか!え!? うそォ!さ、3年間片想いしてたの!?」


ランツとセナが知り合ったのは大学入学直後のことだった。
ジムで1人小柄な女性が重いベンチプレスを持ち上げていた姿に、ランツは一瞬にして心奪われてしまっていた。
今まで彼に好意を寄せてきた女性たちは皆、“ランツ君って筋肉隆々で頼りになりそう!”と一様に“頼られたい”、“守られたい”願望が強い女性ばかりだった。
 
セナのように、自分自身の身体を鍛えることに興味関心を向けている女性など、身の回りに1人もいなかったのである。
自分よりもはるかに小さな体で重たいベンチプレスを持ち上げ、歯を食いしばりながら筋トレにいそしむ彼女の姿を一目見て、ランツは思った。

何だあの子、めちゃくちゃ可愛い。

声をかけたのはほとんど勢いに身を任せた結果だった。
あまりに急に話しかけてしまったから驚かせてしまったのは彼自身の落ち度だろう。
実際に話してみたセナは、つい数分前まで勇ましく筋トレにいそしんでいたとは思えないくらい控えめな性格で、そのギャップにまたやられてしまった。
 
筋トレしている最中は神経を集中させ、勇ましさすら感じてしまうほどだというのに、いざベンチプレスを下ろしたら人よりも控えめで大人しくて遠慮深い、少し弱気な女の子へと様変わりする。
この変化がランツの心を鷲掴みし、“守りたい”とすら思わせてしまった。
今思えば一目惚れだったのだろう。
だから、二度目に会ったとき向こうから声をかけられた時はかなり舞い上がってしまった。


「でもなんで!? ランツ、自分から誰かを好きになったこととかなかったじゃん!なのになんで……!」
「あぁもううっせぇな!仕方ねぇだろ!見た目も中身も声も話し方もスタイルも全部ドストライクだったんだからよォ!! 惚れねぇ方が無理だろ!」
「ま、マジかよ……」


半ば自棄になって吐き捨てたランツの言葉に、ユーニは他人事ながらなんだか恥ずかしくなって顔を赤くした。
あのランツが。恋愛の優先度は下から数えたほうが早いくらいのあのランツが、セナを好きだと言って自棄になっている。
後部座席で繰り広げられているその事実が、ユーニを大いにワクワクさせた。


「流石にそこまで前から好きだったとは俺も知らなかったな」
「えっ、ノア、ランツの気持ち知ってたのかよ?」
「あぁ。前にランツがそんなようなこと言ってたから」
「はぁぁ?」


ノアがランツの気持ちを知ったのは、ディスティニーランドの帰りの車内でのこと。
ハッキリと好きだと言っていたわけではないが、うっすらそのようなことを口にしていたランツに、ノアだけでなくタイオンもまた察しがついていた。
残念ながらセナを含む女性陣は疲れ切ってぐっすり眠っていたため、ランツの気持ちなど知る由もない。

まさかランツがセナに好意を寄せていただなんて。
あぁもうどうしてもっと早く言ってくれなかったのか。
セナもランツに好意を抱いていることは間違いない。
ということはつまり、2人は両想いということになる。
衝撃の事実に、ユーニは1人吐きそうになっていた。


「こ、告らねぇの?」
「……告らねぇよ」
「なんで?」
「お前と似た理由だよ」


想いの矢印が向き合っている事実を知ったユーニは、先ほどからランツに投げかけられた質問をそっくりそのまま返してみることにした。
だがランツは首を横に振り、訳の分からないことを言っている。
どういうことかと首を傾げると、ランツは相変わらず遠い目をしたままぽつぽつと心情を語り始めた。


「アイツ、異様なまでに自分に自信がねぇだろ。そりゃあ俺が好きだって言えばそれなりに喜んでくれるかもしれねぇが、たぶんアイツは俺を受け入れはしない。“自分とランツは釣り合わない”みたいなこと言うに決まってる」


ランツの言葉は驚くほどに的を射ている。
セナは自分自身を必要以上に卑下してしまうところがある。
実際、先日ユーニが“ランツと付き合いたいか?”と問いかけると“私じゃ釣り合わない”という返答が返って来た。
例え思いが通じ合っていたとしても、自分に自信がないせいで卑屈になってしまい、クダラナイ迷いが生じてしまうもの。
自己肯定感が高い者には理解できないであろうセナの価値観を、ランツは3年間ずっとすぐそばで見てきた。
だからこそ分かるのだ。自分が彼女に交際を申し込んでも、きっと遠慮される。
受け入れられたとしても、漠然とした不安を抱えたままの交際が始まるだけだ。
少なくとも、告白するタイミングは今じゃない、と。


「じゃあ、一生告白するつもりないのか?」


ハンドルを握りながら問いかけて来るノアの質問に、ランツは“いや——”とかぶりを振った。


「いつかはする。けど今じゃねぇ。少なくとも、あいつがちゃんと自分自身を認められるようになってから伝えたい」
「いつになるかもわからねぇのに?」
「もう3年も待ってるんだ。いつまでだって待てる」
「ランツ、お前……」


窓の外を見つめるランツの顔はいつもより凛々しく見えた。
そんな彼の様子をセンターミラーで確認しながら、ノアは噛みしめるようにつぶやく。
“それくらい好きなんだな”と。
肯定はしなかったが、ランツは何も言わずに目を細めていた。
その表情が語っていた。セナへの想いの強さを。

知らなかった。ランツがそんなにセナを思っていただなんて。
ランツとは10年以上の付き合いだ。彼のことは何だって理解しているつもりだった。
けれど、彼がこんなに切な気な顔が出来るだなんて、全くもって知らなかった。
 
いや、知ろうとしなかっただけなのかもしれない。
人間、時間が経てば少しずつ大人になっていくもの。
価値観も生き方も少しずつ変化していくのが当たり前だというのに、“ランツは恋愛なんて興味ないしどうでもいいと思っている”と決めつけていた。
本当は3年も前から好きな人がいて、その人に想いを押し付けることもなくずっと近くで見守っていただなんて。
そんなことも知らず、ユーニはセナに言い放ってしまった。
“ランツはやめろ”と。
“アイツと付き合ったところで幸せにはれない”と。

自身の発言を顧みて、ユーニは泣きたくなった。
もしかしてアタシ、すっごい最悪なことセナに言っちまったのか?
ランツの気持ちも知らずに、セナの気持ちも推し量らずに、自分の価値観と主観だけで二人の関係性を決めつけて、意見を押し付けてた。
最悪だ、アタシ。

ランツからセナへの恋心を感じるたび、大きな事故嫌悪感が喉奥からせり上がってくる。
ランツとセナ、2人の友人の間を裂くような言動をしていた自分を恥じ、ユーニは腰掛けた膝の上にぐっと拳を握り続けていた。

続く