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二次創作まとめ

つべこべ言わずに僕と付き合え

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■現パロ

■短編

 

 


「では、各自ビーカー類をきちんと片付けておくように。以上。日直、号令」


そう促すと、理科室の後ろの方の席に腰かけている女子生徒が“起立”と声を挙げる。
生徒たちが一斉に立ち上がり、“気を付け、礼”の掛け声に合わせて頭を下げた。
ほぼ同時に頭上のスピーカーから授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。
よし、今日も時間通りに終えることが出来た。
黒板に書いたチョーク文字ををクリーナーで消し始める僕に、数人の生徒たちが理科室を後にしながら“タイちゃん先生お疲れー”と手を振ってきた。
“はいはい”と適当に返事をしつつ、内心少しだけ呆れてしまう。

誰が“タイちゃん先生”だ。
ちゃんと“タイオン先生”と呼べ。

私立アイオニオン学園。
中高一貫のこの学校は生徒数も多く、在籍している生徒の偏差値もかなり幅広い。
僕がこの学校の化学教師になったのは3年ほど前のこと。
あの頃はまだ“新任教師”と言われる立場だった。
だが、3年も同じ職場にいればそれなりに慣れてくるもので、生徒たちからも“タイちゃん先生”などというあまりにもフランクなあだ名で呼ばれている。
時折生意気な生徒に頭を抱えることもあるが、人にものを教える教師という職は僕に向いているように思えた。

黒板の文字をすべて消し終わるころには、理科室にいた生徒たちは全員出て行った後だった。
誰もいない理科室を後にした僕は、隣に位置している化学準備室へと移動する。
化学を担当する僕にとって、この化学準備室はある意味専用ブースとも言える。
実権に使ったビーカーやフラスコを丁寧に棚に戻すと、先ほどの授業で生徒たちが提出してきた実験レポートの枚数を確認し始める。
さて、きちんと各班ごとに回収できているだろうか。


「痛っ」


1枚、2枚とめくっていくと、紙の先端がスルッと僕の親指をかすめた。
小さな痛みが走る。紙とはいえ、扱いを間違えれば指の皮膚など簡単に傷付けることが出来る。
右手の親指を見ると、指の腹にピッと一本の切れ目が入り、そこから血のふくらみが広がっていた。
しまった。手を切ってしまうとは。
絆創膏なんて持っていただろうか。

引き出しの一番目を開けた瞬間、僕の脳裏にいいアイデアが浮かぶ。
絆創膏くらい探せばあるだろう。
が、どこにあるのか分からない絆創膏を暫く探すより、確実にある場所に向かった方が手っ取り早い。
学校で怪我をした人間が行く場所なんて、一つしかない。
仕方ない。そう、これは仕方ないことなんだ。
会いに行く口実が見つかったからとか、そんな下心は決してない。断じてない。

実験用の白衣を着たまま化学準備室を出た僕は、まっすぐ廊下を進み1階へと降りていく。
職員室の前を通り、向かった先は一番奥の部屋。
“保健室”と書かれている扉を3回ノックすると、中から“どうぞー”と入室を促す声が聞こえてきた。
その瞬間、僕の心臓は激しく高鳴ってしまう。

落ち着け。絆創膏を貰いに来ただけだ。他意はない。
自分を落ち着けながら扉を開けると、そこには丸椅子に腰かけデスクに向かっている白衣の養護教諭、ユーニの姿があった。
タイトスカートで組まれている白い足が、白衣の合間から見え隠れしている。
デスクに向かいながらチョコレートを食べていた彼女は、入室してきた僕を見るなり焦ったように目を見開いた。


「ん、やべっ」
「……何食べてるんだ」
「チョコ」
「そういうことを聞いてるんじゃない。仕事中にそんなの食べるな。生徒が真似するだろ」
「別によくね?うちの学校飲食物持ち込みOKだし」
「そういう問題じゃ……」


彼女の名はユーニ。この学校唯一の養護教諭。所謂保健室の先生である。
ユーニと僕は同い年であり、同じタイミングでこの学校に赴任してきたいわば同期だ。
とはいえ、どちらかといえば真面目な気質である僕とは正反対に、彼女はいささか自由過ぎる。
こうして保健室にいるときは大抵お菓子を食べているし、訪問者がいないときは保健室ベッドで昼寝をしていることもあった。
仮にも教員がこんなことでいいのか。
何度小言を飛ばしても、彼女が態度を改めることは一切ない。


「で、化学教師がこの保健室に何の用?」
「……指を怪我したんだ。絆創膏を貰いに来た」
「はぁ?絆創膏くらい持っとけよ。女子力低いなァ」
「女子じゃないからな」


面倒さそうに立ち上がったユーニは、デスクの脇にある棚の中をごそごそと漁り始めた。
そんな彼女の様子を横目に、デスクに置かれていたアーモンドチョコレートに手を伸ばした。
美味い。ポリポリという咀嚼音に気付いたユーニは、絆創膏片手に恨めし気な視線を向けてくる。


「お前も食ってんじゃん。てか勝手に食うなよ」
「別にいいじゃないか一つくらい。ケチだな」
「絆創膏いらねーの?」
「すまん。謝る。早くくれ」


手を伸ばして催促する。
絆創膏が手渡されるかと思ったが、彼女は絆創膏を持っていない左手で僕の右手首を掴んできた。
突然の行動に驚いていると、“そこ座れ”と丸椅子に座るよう促される。
指示されるまま腰かけると、彼女は僕の手を握ったまま絆創膏の用意をし始めた。


「このくらい自分で出来る」
「利き手に巻くのムズイだろ。ちゃんと巻かないと黴菌入って悪化するんだよ」
「大げさな」
「切り傷を甘く見んなよな」


そう言いながら、彼女は僕の手を握り絆創膏を丁寧に巻いていく。
今年27歳になる僕だが、ユーニに手を握られているというこの状況に無様なほど胸を高鳴らせていた。
顔が近い。あまりにもいたたまれなくなって顔を逸らすと、ユーニはようやく絆創膏を僕の右手親指に巻き付けてくれた。
“よし完成!”と微笑む彼女は僕の手を握ったままである。


「ユーニ先生聞いてよー!……あ!」


最近の若者というものは、ドアをノックするという簡単な挨拶すらも省くことが多い。
スカートをこれでもかというほど短くした高等部2年のこの女子生徒も、そんな破天荒な若者の一人だった。
ヒマリ。17歳。所属は2年4組。最悪なことに、彼女は僕が担任をしているクラスの生徒だった。
保健室の扉を無遠慮に開け放った彼女は、手を握っているユーニと握られている僕を見た瞬間大声をあげる。


「ちょ、やばっ!タイちゃん先生とユーニ先生がいちゃついてんだけど!」
「こ、こら!違う!やめなさい!」


立ち上がった衝撃で、腰かけていたキャスター付きの丸椅子が遠くへ転がっていく。
他の誰かならともかく、この女子生徒に妙な勘違いをされるのはマズい。
彼女はそれなりに派手なグループに属している子で、所謂スピーカータイプの人間だ。
口が綿毛よりも軽く、事実確認をしないまま野次馬のごとく噂に群がり、そして吹聴する。

僕たち教師にとって一番恐れるべきは、生徒にプライベートを詮索されることである。
ユーニとの間を噂されたら最後、すれ違う生徒全員にニヤ付かれるのは必至。
そんなの絶対にごめんだ。
焦る僕だったが、すぐ隣に腰かけているユーニはいたって冷静に否定して見せた。


「絆創膏貼ってただけだよ。いちゃつくなら学校の外でやるわ」
「なぁんだ吃驚したぁ。そうだよね、タイちゃん先生とユーニ先生とかありえないかぁ」


過度な否定は余計な疑念を呼び寄せる。
それをユーニはよく分かっているらしい。
さらりと冗談を交えて否定した彼女の言葉を、ヒマリはあっさりと受け入れた。
だが、僕とユーニの仲が“ありえない”というのはいささか気になる。
どういう意味だと詰め寄ってやりたかったが、墓穴を掘るのも嫌なので黙っておいた。


「んで?どうかした?体調悪い?」
「ううん違う。ユーニ先生に話聞いてもらおうと思ってぇ」
「この前の男の話?」
「そうそう!」


我が物顔で丸椅子に腰かけるヒマリは、別に体調が悪いわけでも怪我をしたわけでもないらしい。
保健室はコイバナをしに来る場所じゃない。
体調不良者を治療する場所だ。
呑気に世間話を始めようとする生徒が、自分が担任している生徒ならば余計に見過ごせない。


「こら。無駄話する場所じゃないぞここは」
「タイちゃん先生だってユーニ先生に会いに来てんじゃん」
「違っ……、僕は怪我をしたから来たのであって別にユーニ先生に会いに来たわけでは……」
「まぁまぁ。生徒のメンタルケアもアタシの仕事の内だし。悩んでることがあるなら言ってみ?」
「さっすがユーニ先生なんだけど!タイちゃん先生と違って優しい!」


優しくなくて悪かったな。
ユーニは男子女子関係なく生徒たちからの人気が高い。
彼女と話をするために保健室を訪れる生徒が後を絶たないのは、ユーニの話しやすさにあるのだろう。
今訪れているヒマリもまた、ユーニを慕っている生徒の一人である。
確かに生徒の悩みを聞くというのは養護教諭だけでなく教員全員の仕事だ。
ヒマリが何かに悩んでいるというのであれば耳を傾けてやるべきなのかもしれない。
心を改めて聞く姿勢を作ってみると、ヒマリは唇を尖らせながら嘆き始める。


「なんかさァー、最近ぴっぴが冷たい気がしてさァー、バイト中話しかけても超素っ気ないんだよ?ひどくなーい?」


あまりにしょうもない相談の内容に、僕はため息をつきたくなった。
なんだそれは。深刻そうに話すわりに物凄く軽い内容じゃないか。
だが、ユーニはそんなヒマリの中身のない話にもきちんと相槌を打ち聞いてやっているようだった。


「なんか気に障るようなことしたんじゃねぇの?」
「してなーい!この前もずっとラインしてたし。アタシが寝落ちするまで電話付き合ってくれたりしたしさぁ」
「へぇ。優しいじゃん」
「でしょー?なのに最近ラインの返事遅いしさぁ。マジぴっぴが何考えてるか分かんなーい」


正直僕はヒマリが何を話しているかの方が分からない。
そもそも、ちょくちょく話に登場する“ぴっぴ”というのは一体なんだ。
未知の単語に首を傾げていると、そんな僕の様子に気が付いたユーニが話を振って来る。


「どうかした?」
「いや、先ほどから話に出ている“ぴっぴ”というのは一体どういう意味だ?」
「えっ?好きピのことだけど?」
「すきぴ?」
「ちょ、マジ?タイちゃん先生おっさんかよー!」


腹を抱えながらゲラゲラと笑うヒマリに青筋が浮かぶ。
失礼な。僕はまだ20代だぞ。決しておっさんなどではない。
まぁ確かに華の女子高生からしてみればおっさんと言えなくはないかもしれないが、世間一般的にはまだ若者に分類される年齢だ。
それに、ヒマリが相談を持ち掛けている相手であるユーニも僕と同じ27歳だ。
僕をおっさん呼ばわりするならユーニだっておばさんということになってしまうじゃないか。
どうせユーニだって“すきぴ”とやらの意味を理解していないはずだ。


「誰がおっさんだ。ユーニ先生だって知らないだろ?」
「いや、流石に好きピの意味くらい分かるって」
「えっ」
「やばーっ、草なんだけど!ほらァ、ユーニ先生はちゃんとわかってるもんねー!」


馬鹿な。ユーニだってヒマリたち高校2年生の女子高生とは10歳も年齢が離れているはず。
彼女たちが駆使している謎の言語を理解できるはずがない。
世代による壁なのだと思い込んでいたが、どうやらこれば感性の違いからくるものらしい。
つまり僕の感性は実年齢よりもおっさんだということだろうか。
気付いてしまった事実にショックを受けていると、天井に設置されたスピーカーから昼休み時間終了のチャイムが聞こえて来る。
そろそろ午後の授業が始まってしまう。
自分のクラスの生徒が保健室にたむろし続ける状況を打破するため、僕はヒマリに教室へ戻るよう促し始めた。


「さぁほら、授業始まるぞ。帰った帰った」
「えーもう?てかタイちゃん先生はここにいていいわけ?」
「僕はいいんだよ」


5時限目は授業が入っていない。所謂空きコマだ。
この保健室に留まっていても、文句を言ってくる輩はどこにもいない。
ヒマリを強引に立たせ、背中を押して保健室から追い出すと、彼女は不満げにブーブー文句を垂れながら渋々教室へ戻って行った。
その背を見送って保健室のドアを閉めると、ユーニが丸椅子に腰かけたまま声をかけて来る。


「職員室戻んねぇの?」
「……なんだ、人を邪魔者みたいに」
「別にそうは言ってねぇけどさ。絆創膏貼り終わったんだしもう用はねぇんだろ?」
「用ならあるぞ」


デスクに散乱しているチョコレートのゴミを片付け始めたユーニの背にゆっくりと近づく。
そして、デスクの上に両手を突いて顔を近付けると、彼女の青い目をじっと見つめながら真剣な表情で質問をぶつけた。


「……好きピって結局どういう意味だ?」
「はぁ……」


分からないことを分からないままにしておくのは気分が悪い。
たとえそれが女子高生の造語であっても、意味を理解できるまでこのモヤモヤは晴れないだろう。
至極真剣なまなざしで教えを乞う僕に、ユーニは呆れた表情を浮かべながら教えてくれた。


「好きな人って意味だろ」


真っすぐこちらを見つめ返しながら答えたユーニの言葉に、一瞬だけ戸惑った。
そうか、好きな人か。そういうことか。
つまりヒマリは、好きな人が冷たくして来たからあんなに騒いでいたと。
全く人騒がせな子だ。その程度であんなに喚くなんて。


「……な、なるほど。好きな人か。ふぅん」
「ほら、教えたんだからもう行けよ。仕事中なんだから」
「何が仕事中だ。誰も来ていないし一人でくつろぎながらチョコを食べていたじゃないか」
「保健室に他の先生がたむろしてたら生徒が入りにくいだろ?ほら、行った行った」
「うわっ、ちょ……っ」


白衣を着たままの背中を強引に押され、僕はユーニの手によってあっという間に保健室から追い出されてしまった。
“じゃあな”と微笑みながら保健室の扉を閉めたユーニに、僕はなすすべもなく立ち尽くす。
何だその態度。せっかく会いに来たのに。
流石に冷たくないか?少しくらい付き合ってくれてもいいじゃないか。
ムッとしながらも、再び保健室の扉を開けることなく大人しく職員室に向かうことにした。

ユーニとは同い年でありこの学校では同期というなかなかに珍しい間柄だ。
当然、親しくなるのも自然な流れだった。
新任教師と新任養護教諭として、互いに情報共有しながら慣れない職場に溶け込もうとする日々は、今振り返ればいい思い出である。
先輩教師や生意気な生徒、厄介な保護者への対応に不満を募らせ、2人で酒を煽りながら愚痴りあったこともある。
そういう日々を過ごしていく中で、僕たちはいつの間にかただの“同僚”の枠を超えた間柄になっていた。

休みの日に彼女を誘い、ドライブに出かけたことがある。
仕事帰りに彼女の家に招かれ、手料理を振舞ってもらったこともある。
その日は何もなかったが、いい雰囲気になったのは間違いない。
週に何度か、ユーニから“暇だから付き合って”と言われ夜遅くまで長時間通話することもある。
正直言って、僕たちは“いい感じ”だと思う。

ユーニはきっと僕に対してそれなりに好意を持ってくれているだろうし、かく言う僕も悪い気はしていない。
正反対な性格だが一緒にいて楽しいし、見た目も好みだ。
もしもユーニにその気があるのなら、付き合ってみるのもいいかもしれない。
そんな気持ちを抱いていた僕だったが、未だユーニに交際を提案できずにいた。


***

学生時代、僕は弓道部に所属していた。
その縁もあり、教師となった今では弓道部の顧問を担当している。
とはいえ、うちの弓道部は外部から指導員を呼んでいるため、顧問である僕の仕事は備品の管理や大会出場の申請くらいだ。
ほぼやることなどないのだが、懸命に部活を頑張っている生徒を放って帰宅するわけにはいかない。
学生たちが部活を終えるまで職員室で小テストの採点をこなし、部長を務める生徒が部活動の終了を報告してくると同時に帰り支度を始めた。

今日は随分と部活が長引いたらしく、職員室には既に数人の教員しか残っていなかった。
残業している同僚に“お先に”と声をかけ、職員室を出る。
教職員用の下駄箱へ向かうと、靴を履き替えている女性の後ろ姿が見えた。
ユーニである。
思わず声をかけると、彼女は柔らかく微笑み“お疲れ”と返事をした。


「今帰りか?珍しく遅いな」
「まぁな。さっき部活中に体調悪くなった生徒を介抱してたから」
「なるほど。大丈夫だったのか?」
「あぁ。軽い脱水症状だった。暫くベッドで休んでたら治ったよ」
「そうか。ならよかった」


取り留めのない会話を交わしながら、ジャケットの内ポケットからスマホを取り出す。
時刻は19時半。
飲みに行くには最適な時間である。
だが、一人で飲みに行く気にはなれない。すぐ隣に気の合う同僚兼現在“いい感じ”である女性がいるのだから、誘わない道理はない。
靴を履き替えながら、僕はいたって平静さを装い口を開く。


「これから飲みに行くつもりなんだが、君も来るか?」


来ると言え。言ってくれ。
内心懇願しつつも、表情ではいつも通りを装う。
するとユーニはほんの少し悩んだ様子を見せたあと、スマホの時刻を確認しつつ承諾した。
“いいよ”の一言が飛んできた瞬間、僕の心は歓喜する。
だが、無様に喜びを表に出すことはしない。スマートに、平然と、余裕を持った態度で接したほうがきっと好感度を稼げるだろう。

よしよしとほくそ笑みながら、僕はユーニを連れて一緒に夜の学校を出た。
向かった先は駅前の焼き鳥屋。
普段ならプライベートで外食する際は生徒にバッティングしないよう少々遠くの店を選ぶのだが、この店のようにアルコールを提供している店舗では流石に生徒とばったり会うことはないだろう。
運ばれてきた焼き鳥の盛り合わせを肴に、僕たちはビールで乾杯した。

教職に関わらず、同僚との酒の席で交わされる話題は基本的に仕事のことばかり。
ユーニとの時間も例に漏れず、ほとんどが職場である学校の話しかしていなかった。
その流れでユーニが挙げた話題は、職場内でのスキャンダル話だった。


「そういえばさぁ、ランツとセナの話聞いた?付き合ってるんだってよ」
「えっ、そうなのか?」
「最近付き合いだしたんだって。ノアやミオといい、最近よく聞くよな、こういう話」


話題に出たランツとセナというのは、どちらもうちの体育教師であり、同僚である。
同じ教科を担当しているという縁もあり、元々親しくしているようではあったが、まさか交際しているとは。
1年ほど前から、数学担当であるノアと音楽担当であるミオも交際していると噂が立っている。
本人たちは隠しているようだが、生徒はともかく同僚である僕たちの目から見ればバレバレだ。

こうして同じ学校に務める教職員同士が交際している例は少なくない。
学校という限られた世界で働いている僕たちには同世代との出会いが少なく、出会おうにも近所に顔見知りの生徒たちがわんさか住んでいる状況では行動も起こしにくい。
となれば、近場である職場で相手を探すのが一番手っ取り早い。
そういう背景もあり、教職員同士で交際し結婚に発展するカップルが非常に多いのだ。
ノアとミオ、そしてランツとセナもまた、その星の数ほどある凡例のひとつでしかない。
そしてこの僕も、望み通り目の前にいるユーニと交際に発展すればその仲間入りを果たすことになるのだ。


「まぁ、出会いもないわけだし、近場で探そうという思考も分かる」
「タイオンもそうなの?」
「僕は、まぁ……。そういう君はどうなんだ?いいと思える人、近場にいるのか?」


探りを入れたつもりだった。
僕以外にそういう相手がいるのかどうか。
そもそもユーニとは、こういう恋愛の話を深くしたことはない。
当然、彼氏がいるのかとか、好きな人がいるのかとか、そういうことを聞いたこともない。
それなりにいい関係性を築けていると思ってはいるが、この気持ちが一方的なのは流石に嫌だ。
希望を感じる答えを求めていたのだが、ユーニはクスッと笑みを零すとテーブルに頬杖を突きながら僕を見つめて来る。


「それ、タイオンが聞くのかよ?」


飲んでいるビールが喉に詰まりそうになってしまう。
口元に笑みを浮かべているユーニは、どこか挑発的な笑みを含ませながら曖昧な答えを差し出してくる。

やっぱり、ユーニも僕との仲を自覚している。
恐らく駆け引きのつもりなのだろう。
僕を試すような言葉を投げかけて、こちらの出方を伺っている。
彼女は前からこういうところがある。僕の気持ちを煽るように微笑みながら、心をくすぐる態度で翻弄してくるのだ。
よく言えば小悪魔。悪く言えば思わせぶり。 
そんなユーニに、僕は徐々に徐々に振り回されていく。

これ以上、ユーニの小悪魔的態度に翻弄されたくはなかった。
駆け引きなんてガラじゃない。距離感をじりじり図るようなやり方は好みじゃない。
曖昧で中途半端なのは嫌なんだ。いい加減ハッキリさせるべきなのかもしれない。

飲み屋を出た僕たちは、駅に向かってゆっくりと歩いていた。
明日も仕事がある。あまり遅くはいられない。
だが、先ほどのユーニとのやり取りで僕は既に決心していた。
今夜こそ、ユーニとの仲をハッキリさせる。

駅に到着し、“それじゃあまた明日”と軽く手を振りながら去ろうとするユーニの手を、咄嗟に引き留めた。
ここで簡単に返すわけにはいかない。
驚いて振り返って来たユーニに、僕は今まで一番真剣なまなざしを贈りつつ言葉を紡ぐ。


「ユーニ、僕と付き合わないか?」
「へ?」
「話が合うし、一緒にいるにいると楽しい。それなりに好かれていると思っていたんだが、勘違いだったか……?」


言ってやった。
恐る恐る聞いた直後生唾を飲むと、ユーニは困ったように目を伏せ始めた。
正直、喜んでくれると思っていたから、この反応には少し驚かされた。
あれっ、もしかして本当に勘違いだったか?
そもそもユーニにその気なんて一切なくて、僕が1人で盛り上がっていただけだったのか?
恐ろしすぎる可能性が頭をよぎったが、ユーニはそんな僕の手を振り払うことなく見つめてきた。


「……アタシも、タイオンが好き」
「えっ、ほ、本当か?じゃあ……」
「でも悪い。無理だ」
「え、」


聞き間違いかと思った。
好きだと言ってくれたのに、“無理だ”なんて。
そんなのおかしい。道理に合っていない。
目を丸くする僕に、ユーニはとどめを刺すように言うのだった。


「タイオンのことは好きだけど、付き合えない」

 

***


うちの学校の体育館はそれなりに大きい。
全校生徒が全員集まってもそれなりにスペースが余る程度の広さを誇っている。
開放感のある体育館に生徒たちがひしめき合い、ほぼ全員の視線が壇上の校長へと向いている。

校長の話は長いことで有名であり、今朝のような全校集会の機会ではほぼ必ず10分以上特に中身のない話を続けている。
仮にも部下である僕がこんなことを思うのは罪なのだろうが、正直この長い話にはうんざりしていた。
生徒たちは体育館で列になった状態で座りながら聞いていられるが、僕たち教職員はそんな生徒たちに気を配らなければならないため、体育館の端でずっと立っていなければならない。
これが地味にきついのだ。

壇上では相変わらず校長の長い話が続いている。
恐らくこの空間で校長の話を真剣に聞いている人間など、ほとんどいないだろう。
マイクのスピーカー越しに聞こえて来る校長の話をBGM代わりに聞きながら、僕は全く別のことを考えていた。
脳裏に浮かぶのは昨晩のユーニとのやり取り。
“付き合おう”と提案した僕に対し、ユーニは言ったのだ。
“タイオンのことは好きだけど、付き合えない”と。

意味が分からなかった。
好きなのに付き合えないとは一体どういうことか。
深く聞き出す前に、彼女は足早に改札を通り僕の元から去って行ってしまった。
帰ってから今の瞬間まで、僕の頭を支配しているのはユーニとのことばかり。
フラれたのか、僕は。
いや、僕のことを好きだと言っていたのだからフラれたわけではないのか。
でも“付き合えない”とハッキリ言われたのも事実。
これはフラれたことに相当するのではないか。
考えれば考えるほど、心が沈んでいった。

整列し、体育館に腰かけている生徒たちの群れをぼうっと眺めながら密かにため息をつく。
すると、横から静かにこちらに近付いてくる気配を感じた。
教員の誰かが遅れてやってきたのだろう。
その“誰か”は、僕のすぐ隣で立ち止まり横に並んだ。
何となく誰なのか気になって視線を向けた瞬間、息が止まる。
すぐ隣に立っていたのは、白衣を羽織った養護教諭、ユーニだった。

担任を持っている教員は全校集会への出席は必須だが、養護教諭や用務員に関しては出席する必要はない。
いつもは来ないはずなのに、何故今日に限って出席したのだろう。
珍しい出来事に思わず彼女を凝視してしまう僕だったが、不意に彼女はこちらに視線を向けてきた。
交わる視線に心臓が跳ねる。
しまった。目が合ってしまった。流石に昨日の今日じゃ気まずい。
不意に絡み合った視線に戸惑っている僕とは対照的に、ユーニはこちらをじーっと見つめながら柔らかく微笑んできた。


「っ、」


なんだその笑顔。
内緒で付き合っている彼氏に媚びるような微笑みは何なんだ。
昨日盛大に僕をフッてきたくせに、そんな思わせぶりな笑顔を向けて来るな。
急いで視線を逸らし、顔を隠すように眼鏡を押し上げる。
ユーニから視線を逸らした後も、胸の高鳴りが収まることはなかった。


***

全校集会が終了し、1限の時間に突入した校内は実に静かなものである。
たまたま授業が入っていなかった僕は、大股で廊下を歩き保健室へ向かっていた。
当然、ユーニに会いに行くためだ。
昨晩のことをきちんと話す必要がある。
何故好意があるにも関わらずフラれなければならないのか。
納得のいく答えを得られなければ素直に引き下がれそうにない。

保健室の扉をノックすると、中からユーニの声で“どうぞー”と聞こえてきた。
デスクに腰掛けてチョコを頬張っている彼女は、入室してきた僕に動揺することもなく視線を向けて来る。


「なに?」


ぼりぼり音を立てながらチョコを食べている彼女に腹が立つ。
“なに?”じゃない。昨日あんな意味の分からない振り方をしてきたくせによくも何もなかったかのように振舞えるな。
保健室の奥に並べられているカーテンで仕切られたベッドを覗き込むと、誰も横になってはいなかった。
この部屋に僕とユーニしかいないことを確認し、ようやく本題に入った。


「昨日のあれ、どういう意味だ?」
「“昨日のあれ”って?」
「とぼけないでくれ。好きだけど付き合えないとはどういうことだ?」
「あぁあれか」


全く白々しいことだ。
こっちは昨晩のことが頭を支配して眠れなかったというのに。
足を組みかえたユーニは、デスクに置かれたお茶の湯飲みに口をつけ、すまし顔で話し始める。


「言葉のまんま。タイオンのことは好き。でも付き合うのは無理なんだ」
「何故だ」
「ここを離れたくないから」
「……は?」


言葉の意味が分からず目を丸くする僕に、ユーニは心の内を明かしてくれた。
教職員の人事異動は1年に一回あるが、学校間の異動は基本的に4年から6年のスパンで行われる。
当然人によって細かな違いはあるが、大体の教員が平均4年から6年ほどで他校へ異動することになるのだ。
だが、その期間にも例外はある。
1つは学校側に長期間勤めてほしいと望まれた場合。これは教員の指導力が高ければ高いほど発生しやすい。
もう1つは、教員同士の結婚に伴う異動が発生した場合である。

教職に就いている人間はどうしても出会いの機会が少なく、同じ学校に務める教職員同士で結婚するパターンが非常に多い。
そうなった場合、基本的にどちらかが別の学校に異動しなくてはならないという暗黙のルールがある。
この風潮により、結婚の報告と同時に学校を去って行った同僚を何人も見てきた。
これは結婚に限らず、交際に対しても同じことが言える。

教職員同士で交際する分には個人の自由であるため異動の措置が取られることはないが、教育の現場に相応しくない影響が出始めた場合はやむを得なくどちらかを異動させることがある。
要するに、同僚の教職員だけでなく生徒達にまで関係が公になった場合、異動が発生することがあるということだ。

生徒たちにとって“先生”は、家族の次に身近な大人である。
そんな先生たちの恋愛事情に強い興味関心を抱く生徒は少なくない。
同じ学校に交際している事実が明るみになっている2人の教員がいれば、当然生徒も気にするだろう。
彼らはまだ十代の子供。他人の恋愛に無関心でいられる大人と違い、必要以上に色恋に対して敏感なのだ。
学校内の風紀を乱して生徒や他の教員に影響が出ないよう、交際が知れ渡ってしまったカップルはやむを得なく異動させられるというわけだ。
ユーニが懸念していたのは、まさにそこらしい。


「アタシ、この学校が好きなんだよ。生徒たちとも上手くやっていけてるし、同僚の先生たちとも馬があう。すげぇ居心地がいいんだ。なるべく長くこの学校にいたい」
「だから僕とは付き合えないと?そんなの、付き合っているからといって絶対に異動になるわけじゃないだろ。なるとしても僕の方かもしれない」
「はぁ……。よく考えてみろよ。常勤の化学教師と非常勤の養護教諭、異動させやすいのはどっちだ?」
「そ、それは……」


もしも僕たちの交際が明るみになり、異動が発生するとしたら、十中八九異動を命じられるのはユーニの方だろう。
ひとつの学校に教師は数十人と所属できるが、養護教諭はせいぜい一人か二人。
枠が少ない分、養護教諭志望の人間が世間に溢れかえっている現状がある。
つまり、残酷な言い方をすれば代わりになる人材などいくらでもいるのだ。
ユーニ自身、それをよく分かっているらしい。


「せっかくこんなに雰囲気の良い職場に巡り合えたんだ。異動しなくて済むならそれに越したことはねぇだろ?」


気持ちはわかる。
僕もこの学校を大いに気に入っている。
異動したくないと思う気持ちは共感できる。
だが、だからと言って好きな相手との交際を諦める必要はないだろう。
選択が極端すぎる。
君の僕への気持ちは、そんなに聞き分けよく諦められる程度のモノだったのか。
回転式の椅子に腰かけデスクに向かっているユーニの身体を強引にこちらへ向けると、白衣を羽織った華奢な両肩に手を添え説得を試みる。


「けど、僕のことを好きでいてくれているんだろ?だったら、そんなに簡単にあきらめなくても……」
「タイオン」


彼女の手が、自らの両肩に添えられている僕の手に重ねられる。
そして、ゆっくりと触れている肩から引きはがすと、手を握りながら少し寂しそうな表情で微笑みかけてきた。


「タイオンと同じくらい……。いや、それ以上に今の仕事が好きなんだよ、アタシは」
「ゆ、ユーニ……」


ハッキリと口に出された優先順位に、僕の心は沈んでゆく。
例えば他の男相手に競り負けたのなら素直なら悔しいと思えるだろう。
だが、僕が負けた相手は“仕事”だ。
僕との交際よりも、今現在の仕事を続ける事の方が価値があると判断された。
仕事を引き合いに出されたら、それ以上何も言えなくなるじゃないか。
好かれているのは分かっているのに付き合えないなんて、そんなの——。


「なんだそれ。そんな断り方、ズルいじゃないか……」


感極まりそうになった瞬間、保健室の扉の外から複数の声が聞こえてきた。
足音と共にその声はどんどんこちらに近付いてくる。
恐らく生徒だろう。
椅子に腰かけているユーニの両肩に手を添え迫っていた僕は、脳裏によぎった嫌な予感に従い慌てて彼女から離れた。
その瞬間、保健室の扉がノックもなしに勢いよく開かれる。


「ユーニ先生!この子具合が……。あれ?タイオン先生?」


うちの学校では、ジャージの色や上履きの色でその生徒の学年が見分けられる。
紺に緑のラインが入ったジャージを着用している1年の女子生徒が、同じ色のジャージを着用した具合が悪そうな女子生徒を支えながら入室してきた。
この保健室にユーニ以外の教員がいることに驚いたのか、彼女は僕の顔を見ながら目を丸くした。
“化学教師がこんなところで何をしているんだ?”
そんな質問が今にも飛んできそうだったが、椅子から立ち上がったユーニが先に口を開いた。


「どうした?具合悪いのか?」
「えっ、あぁ、はいっ。さっきの体育で気持ち悪くなっちゃったみたいで……」
「体育で何してた?」
「マラソンです」
「軽い脱水かもなぁ。ベッドまで運べる?」
「はいっ」


女子生徒が余計な質問を投げかけて来る暇を与えず、ユーニは彼女に指示を出す。
支えられている方の生徒は顔色も悪く、かなり具合が悪そうだ。
付き添いの女子生徒に支えられながらゆっくりとベッドへ腰掛けた彼女に、ユーニはコップ1杯の水を差しだした。
“ゆっくり飲みな”と促すユーニの言葉に従い、顔色の悪い女子生徒はちびちびと水を口に含み始める。
どうやら保健室に到着したことで安心したらしい。
ほんの少し落ち着いたようだ。


「暫く寝てな。あとで一応熱測ろうな。お前はどうする?」
「もうすこし付き添ってます」
「わかった。授業始まるまでには戻るんだぞ?」
「はぁーい」


いちばん奥のベッドで休み始めた女子生徒たちに微笑みかけ、ユーニはベッドを仕切る白いカーテンを閉めた。
あの様子なら、1、2時間休めば回復するだろう。

生徒の目があるにも関わらずこれ以上保健室に滞在するわけにはいかない。
何も言わず出て行こうと背を向けた僕だったが、不意に背後から腕を掴まれ引き留められる。
驚き振り返ると、僕の右腕を両手でしっかり掴み、こちらを見上げているユーニの姿があった。


「もう行くのかよ?」
「当たり前だろ。生徒がいる場で話すことじゃない」


カーテンの向こうにいる女子生徒たちに聞こえないよう、小声で話す僕とユーニ。
流石に僕がユーニに交際を申し出た事実を生徒に知られるわけにはいかなかった。
そもそも保健室に2人きりでいたというこの状況を見られたこと自体がそれなりにマズい。
早いトコロ退散しようとする僕だったが、ユーニは腕を掴んだまま放そうとしない。
そんな彼女の態度に首を傾げていると、ユーニは背伸びをしながらぐっと顔を近付けてきた。
彼女の端正な顔がゆっくりと接近してくる事実に、心臓が飛び出そうになる。
まさか、キスでもする気なんじゃ……。
息を詰める僕に、ユーニは口付けることなく耳元に唇を寄せてきた。


「じゃあさ、放課後仕事終わったら会いに来いよ」
「はっ、はぁっ!?」
「ちゃんと2人きりの時間が欲しい。いいだろ?」
「……っ」


至近距離にいる彼女の青い目が、上目遣いに僕を見つめて来る。
まるで甘えるかのようなその声色と表情は、僕の心を大いに搔き乱す。
あまりにも可愛いかった。
数メートル先のカーテンの向こうに生徒たちがいるんだぞ。
こんな状況でそんな誘いをかけるなんて何考えてるんだ。
というか、そもそも行くわけないじゃないか。
たった今フラれた相手のところになんて。


「あ、あのな、行くわけないだろっ、そんなの……」
「えー」


不満そうに唇を尖らせるユーニの手から腕を引き抜くと、僕はそそくさと保健室を後にした。
廊下を大股で歩きながらも、頭の中はユーニのことでいっぱいだった。

何が“2人きりの時間が欲しい”だ。思わせぶりなことを言ったところで、どうせ僕と付き合う気はないんだろ?
そんな相手の元にのこのこ行くわけない。
都合のいいように利用されるのはまっぴらだ。
これっきりユーニのことは忘れよう。いくら彼女が僕を好いてくれていても付き合う気がないなら意味がない。
引きずり続けてもいい事なんてない。もう忘れてやる。
今さら彼女が引き留めてきたってもう遅い。
絶対行ってやらない。仕事が終わったら即座に帰宅してやる。
自分にそう言い聞かせながら、僕は2限の授業の準備に取り掛かるのだった。


***

少し立て付けの悪い保健室の扉は、スライドさせると派手な音が鳴る。
ガラガラという音を響かせながら室内へ入った瞬間、自分の単純さを改めて実感して嫌になった。
時刻は18時半。放課後を迎え、完全下校時刻をとうに過ぎた校内に生徒たちはほとんどいない。
茜色の夕日が窓から廊下へ差し込んでいる光景を横目に、僕の足はいつの間にか保健室に向いていた。

あぁもう。何をしているんだ僕は。
絶対に行かないと固く誓っていたのに、こんなにあっさり訪れてしまうなんて。
やっぱり帰ろう。これじゃユーニの思うつぼだ。
思い直し、踵を返して保健室から出て行こうとしたが、ベッドを仕切るカーテンの影から顔を出したユーニが引き留めて来る。


「あっ、タイオンやっと来たな」


カーテンの影からひょっこり現れた彼女は、羽織っている白衣をひらひらとはためかせながら僕に駆け寄って来る。
迷うことなく腕を取って来た彼女は、随分と嬉しそうに微笑みかけてきた。


「なんだかんだ言って来てくれるとか、やっぱ優しいなタイオンは」
「ちょっと時間が空いたから顔を出しただけで、別に……」
「とりあえずこっち来て!」
「えっ、ちょ……」


僕の腕に自分の腕を絡ませ、彼女は跳ねるような態度で保健室の奥へと引っ張り込む。
連れて行かされた先は、奥に並んでいる白いベッド。
カーテンをめくり、ベッドの方へと連れて行こうとするユーニのまさかの行動に、流石に焦りを感じてしまう。
生徒たちの下校は完了しているとはいえ、ここは学校だ。
こんなところでそういう空気になるわけにはいかない。
ユーニを止めるため口を開こうとした瞬間、ベッドの脇に置いてある大きな布袋の存在に気が付いた。
なんだこれは。怪訝な表情でその巨大な布袋を見つめていると、ユーニはニッコリ微笑みながら言い放った。


「シーツ取り換えなきゃいけないんだけどさ、一人じゃ大変だから手伝ってくんない?」


屈託なく言い放たれたその一言に、僕の額に青筋が浮き上がる。
悪気があるのかないのか、可愛らしい笑顔を見せながら巨大な布袋を指さしていた。
恐らくこの袋の中に収納されているのは新調したシーツなのだろう。
保健室に並んでいるベッドは5つ。
すべてのベッドのシーツを取り換えるのは彼女にとって重労働だったらしい。
だからこそ、僕を頼ったと。
“2人きりになりたい”なんて口実でおびき寄せて、手伝わせようとしているわけか。

なんだそれ。人を都合よく使おうなんて卑劣な。
誰が手伝うか。君の仕事は君1人で片付ければいい。
“彼女”ならともかく、ただの“同僚”でしかない君の仕事を手伝う義理なんて僕には——。


「こういの、タイオンにしか頼めないからさ」
「はぁ……」


あぁもう。そうだろうな。こんな雑務、それなりに心許せる相手にしか頼めないだろうな。
僕しか頼める相手がいないのなら仕方ない。
困っている同僚を放っておけるほど僕は冷酷な人間じゃない。
これは絆されたわけじゃなく、同僚としてのボランティアだ。他意はない。
こうなったらとっとと終わらせてやる。


「全く仕方ないな……」
「よっしゃ。流石タイオン!頼りになるな」


きつく縛り上げられている布袋を解きにかかる僕に、ユーニはまたあのやたらと可愛らしい笑顔を向けて来る。
調子のいい奴だ。別に僕は君に都合よ使われているわけじゃない。
そこだけは勘違いしてくれるなよ。

5台すべてのベッドのシーツと掛布団カバーを付け替える作業は、確かに一人で担うにはそれなりの重労働だった。
僕が作業している間、ユーニはデスクでお茶をすすりながら書類仕事をこなしている。
数十分後、ようやくベッドメイキングがすべて完了した。
作業終了を報告すると、ユーニは椅子に腰掛けながらくるりとこちらへ振り向く。


「ありがとな。めちゃくちゃ助かった」
「次からは一人でやってくれよ?もう手伝わないからな?」
「とか言って、頼めば協力してくれるんだろ?タイオンは」
「いやそんなこと……」
「そういう優しいとこ、好き」


唐突に投下された爆弾のような一言を浴び、心臓が跳ね上がる。
急に何を言ってる?
目を見開きユーニを凝視すると、彼女はやっぱりあの可愛い笑顔で微笑みかけた後、くるりと背中を向けてデスクへと帰って行った。
何事もなかったかのように書類仕事を再会する彼女の背を、僕は言葉を失いながらただただ見つめていた。

僕とは付き合えないと言っておきながら、なんだその爆弾発言は。
好かれている事実は知っているが、このタイミングでそんな甘い台詞を吐くなんて。
そんなのズルくないか?おかしくないか?
付き合えないなら突き放せばいいのに。なんでそんな——。


「なんだそれ」
「ん?」
「僕とは付き合えないと言っておきながら、なんだその態度。その気がないなら気を持たせるような態度を取らないでくれ」
「なんで?」
「な、なんでって……」


僕の言葉に矛盾やおかしな点があったとは思えない。
至極まっとうなことを言っているつもりだった。
にも関わらず、ユーニはまるで僕が常識から逸脱したことを言ったかのような不思議そうな目で見つめてきた。
“なんで”も何も、普通付き合えないと決断を下したのなら相手と距離を取るものだろ。
フッておきながら距離を縮めようとするなんておかしいじゃないか。


「気を持たせる態度くらい取るだろ。だって実際タイオンが好きなわけだし」
「だから、付き合う気がないなら僕に構うのはやめてくれ!お互い次にいけないだろ」
「やだ」
「はぁ?」


意味が分からない。
僕からの言葉をぴしゃりと否定して見せたユーニは、デスクから立ち上がり僕との距離をゆっくり詰めながら驚くべき持論を展開し始めた。


「付き合う気はねぇけど、タイオンのことが好きなのは事実なんだよ。好きな奴には好かれたいと思うのが普通だろ?」
「何言って……」
「アタシはこれからも態度を変えるつもりはねぇよ?好きな奴に“好き”って言って何が悪いわけ?」


口角を上げながら僕を見つめてくる彼女の笑顔は、どこか挑発的で、それでいて妙に扇情的で、その余裕が腹立たしかった。
よく恋愛ドラマや映画であるじゃないか。告白されてフッた側が、告白した側の心情を慮ってこれ以上期待させないように距離を取ろうとする展開。
あれは一種の気遣いだ。気持ちに応えられない代わりに、相手がこれ以上無駄な期待をして傷付くことが無いようわざと距離を取っているのだ。
気持ちをぶつけられた以上、フッた側にはそれ相応の優しさと気遣いがあるべきだ。なのに彼女は真逆の行動を取っている。

こっちの気持ちを分かったうえで距離を詰めてくる。
気を持たせるような態度を振りまいて、わざと期待させようとしている。
どうせ付き合う気なんて微塵もないくせに、可愛らしく笑って、媚びを売って、僕の心を引き留めようとしている。
そこに、気遣いや優しさの類は一切ない。
完全に自分本位。僕の気持ちなんて全て無視したうえで、自分だけ得をしようとしている。

何て女だ。
こんなに露骨に人を都合のいい男扱いするなんて。
ふざけるな。僕はそんな手に引っ掛かったりしない。
君の承認欲求を満たすためだけの存在なんかになってたまるか。
そういう打算的な女性は好きじゃないんだ。
幻滅した。もう好きでも何でもない。ユーニのことなんて、1ミリも好きじゃない。
そう言い聞かせる僕の心を強引に押しのけて、彼女はその白くしなやかな手で僕の右手を柔く握ってきた。
そして、指を絡ませながら僕の顔をじっと見つめ、瞳を揺らしながら攻撃を続ける。


「付き合えなくても、アタシはタイオンだけを見てるから」


やめろ。


「他の奴に取られるのはヤだ。アタシだけ見てて」


やめてくれ。


「ずっと好きだよ、タイオン」


可愛い顔で、可愛い声で、可愛い言葉をぶつけ続けるユーニに、僕はもう満身創痍だった。
だめだ、絶対だめ。
騙されるな僕。この人は僕と付き合う気なんて1ミリもないんだ。
飛び込んだって後悔するだけ。馬鹿を見るだけ。
どうせ手に入らないと分かり切っているものを求めて何になる?
損をする羽目になるのは目に見えてるだろ。
目を覚ませ。ユーニなんて好きじゃない。
治まれ心臓。ユーニになんてときめかない。
鎮まれ心。ユーニになんて乱されるな。

脳内でもう一人の僕が懸命に叫ぶ。
その女に近付くな、いいことなんてないぞ、と。
けれど、彼女の攻撃によってぐちゃぐちゃに掻き回された心と頭は、そんな叫びなど無視してユーニの手を握り返す。
そして、馬鹿で愚かでどうしようもない僕は堕ちるのだ。
ユーニという名の深い沼に。


「僕も、君が好き……」


一番言ってはいけない言葉を紡いだ瞬間、目の前のユーニが笑った気がした。


***

 

「あの性悪っ!」


グラス一杯のジントニックを飲み干した僕は、空になったグラスを叩きつけるようにカウンターに置いた。
語気を荒げて喚いても、心を支配した怒りが消えることはない。
誰がどう見ても苛立っている僕の様子に、カウンター越しにコップを磨いていたニイナは苦い顔を浮かべていた。

彼女、ニイナは僕の大学時代の友人である。
去年まではメガバンクでバリバリ働いていた彼女だったが、今年の春ごろ脱サラしてこのバーをオープンさせた。
それなりに繁盛しているらしいが、僕も友人の一人として売り上げに貢献するため、暇を見つければ頻繁にこの店に顔を出すようにしている。

今夜も仕事終わりに職場である学校からこの店に直行したわけだが、酒を煽りながら思わずぽろっと口にしてしまったのだ。
気になっていた職場の女性に交際を提案してしまったあの日のことを。

カウンター越しに聞いていたニイナは、当然興味を抱き深く詳細を聞いてくる。
仕方なくユーニのことを軽く話し始めた僕だったが、酒が進むごとに口はどんどん軽くなっていく。
最終的には、ユーニにいいように利用され、“付き合えないけど好き”などという意味の分からない理論をぶつけられた事実まで話してしまった。
こんなに深く話すつもりはなかった。
だが、話してしまったことはもう仕方ない。
聞いたからにはとことん話に付き合ってもらうとしよう。


「随分荒れてるわね。仕事ならともかく恋愛のことでそんなに荒れるなんて珍しいじゃない?」
「別に荒れてない。苛立っているだけだ。いいように利用されて気分がいいわけないだろ」


ニイナの手によって新しく用意されたジントニックに早速口をつけると、カウンター越しの彼女は呆れるように肩をすくませていた。
なんだその顔は。めんどくさそうにするな。君から聞いてきたことじゃないか。
幸い今夜はこの狭い店に僕以外の客はいない。ニイナにたっぷり愚痴をこぼす絶好の好機だ。


「何が“好きだけど付き合えない”だ。意味が分からない。そんなの都合が良すぎるだろ」
「まぁそうね」
「今の学校から異動したくないとか、仕事を大切にしたいとか、いいように言ってるが全部僕をあしらうための言い訳じゃないか」
「かもしれないわね」
「その割にあんなに好き好き口にするなんておかしいだろ。明らかに面白がってる。弄ばれてる。ふざけるな。人の気持ちを何だと思ってる。くそっ」


腕に絡みつき、あの大きく美しい瞳で見つめ、揶揄うような笑みを見せながら彼女はその好意を惜しみなく向けてくる。
けれど彼女は“付き合えない”と言って僕との間に薄く透明な壁を作っている。
その壁は僕から超えることは出来ず、ただひたすら向こう側で手招きしている彼女を指を咥えてみているしかない。
この状況を、ユーニは面白がっているのだ。

気に食わない。腹が立つ。
どうして僕だけがこんな気持ちにならなくちゃいけない。
僕のことが好きなら下手な理屈なんてこねていないで素直に付き合えばいいんだ。
彼女が口にした事情は、好意を向けられた僕にとってはただの言い訳にしか聞こえてこない。
思い通りにならないことが悔しくて、らしくもない口調で愚痴をこぼしてしまう。
そして、力なくカウンターに突っ伏すると、誰に言うでもなく独り言の声量で弱弱しく呟いた。


「君の事情なんて知ったことか。つべこべ言わずに僕と付き合え……」


頭上から大き目のため息が聞こえてくる。
ニイナの呆れを孕んだ吐息である。
“酔い過ぎよ”と呟く彼女の声は聞こえていたが、あえて無視をした。
酔っていて何が悪い。これが酔わずにいられるか。
“好かれてるだろうな”と思っていた相手に交際を提案した結果無残にフラれ、その上都合のいい男として面白がられているんだぞ。
これだけならまだ取り返しがついた。
ユーニのことなんか忘れて、相手にしなければいいだけのことだった。なのに、最悪の餌を与えてしまったのだ。

“僕も君が好き”

真白になった頭は危険信号を発信することすら忘れ、一番言ってはいけない言葉をユーニに投げかけてしまっていた。
突き放すのが正解だった。僕はもう君のことなんて何とも思っていないと言って、冷たく接するべきだった。
なのに、まるで毒気を抜かれたように素直な言葉を吐いてしまったのは明らかに悪手である。
好きだと伝えた直後に見せたユーニのしたり顔は、今もまだ僕の脳裏にこびりついている。
あの余計な一言のせいで、僕は完全にユーニの掌に堕ちてしまった。
実に不本意だ。こんな状況、僕のプライドが許さない。

こうなったら意地でもユーニに“付き合ってくださいお願いします”と言わせてやる。
ただ言わせるだけじゃだめだ。
三つ指ついて頭を深々と下げ、懇願させなければ僕の気が済まない。
僕との交際と仕事とを天秤にかけた結果仕事を取ったというのなら、その選択を後悔させてやる。
だがどんな手段を取るべきだろう。
ユーニの気を惹くにはどんな手段を用いればいいだろう。
カウンターに突っ伏しながら考える僕に、再びニイナの声が頭上から聞こえてきた。


「そんなに性悪な人なら、いっそ忘れて次にいったら?」
「次?」
「どうせ他にいい人が現れたらすぐに忘れるわよ、そんな人のこと」
「……それだ」


ニイナの言葉に天啓を得た僕は、突っ伏していたカウンターから勢いよく顔を上げる。
当のニイナは突然の僕の反応に驚いているようだったが、彼女には感謝してもしきれない。
ユーニを後悔させるとっておきの策が、彼女の言葉のお陰で思いついたのだから。

そうだ。次の相手を作ればいい。
ユーニが僕を好きでいること自体は間違いない。
ならその好意を逆に利用して、嫉妬心を煽ってやる。
僕が他の女性に靡いていると知ったら流石に焦るはず。
やっぱり付き合っておけばよかったと後悔し、向こうから縋るように懇願してきてもおかしくはない。
見ていろユーニ。この僕を都合のいい男扱いしたことを絶対に後悔させてやる。
ジントニックのグラスを片手にほくそ笑む僕を、カウンター越しのニイナは引いた目で見つめていた。


***

土日の休日を挟み、月曜の朝を迎えた僕はいつも通り家を出た。
独り暮らししているマンションから学校までは電車で3駅ほど離れている。
学校の近くに家を借りることも考えたが、学区内と生活圏内がかぶっていると生徒に遭遇する確率も上がり、非常に面倒だ。

生徒やその保護者に会わないよう、わざわざ少し離れた場所に居を構える教師は多い。
とはいえ、最寄り駅に到着してから学校までの道のりは、生徒と教職員によるパレード状態だ。
右を見ればうちの学校の生徒。左を見てもうちの学校の生徒。
時折追い越しざまに挨拶してくる顔見知りの生徒に挨拶を返しながら、僕は人波に乗って学校を目指していた。
その間、考えることといえばやはりユーニのことだろう。

例の“嫉妬作戦”は実行に移すとして、問題は誰を相手に嫉妬させるかだ。
この作戦は、僕がユーニ以外の女性と親しくしていないと成立しない。
それもユーニの視界に入る範囲内で親しさをアピールしなければならない。
この条件に宛てはなる相手といえば学校関係者しかいないが、ユーニが嫉妬するほど親しい異性の教員など思い浮かばない。
この作戦は早くも頓挫しかけていた。


「……あ、」


今のように寒い冬は、肩をすくませ視線を足元に落とすことが多い、
だからこそ気付かなかった。10メートルほど先の前方に、見慣れた背中が歩いていることを。

白いマフラーを首にぐるぐる巻いているミルクティー色の髪をしたあの背中は間違いなくユーニだ。
同じように学校を目指して歩いている彼女は、後方を歩く僕の存在に気付いていない。
これは面倒なタイミングでかちあってしまったものだ。
どうする?声をかけるか?
いやいや、声なんてかけたところでどうする。
こっちから歩み寄るような行動は厳禁だ。
でも、1人でいるようだし、挨拶くらいはしてやっても……。


「タイちゃん先生おはよっ!」
「うおっ」


不意に背中を思い切り叩かれ、肩が跳ねる。
焦りを滲ませながら振り返ると、そこにいは僕のクラスの生徒であるヒマリが立っていた。
驚いて声を挙げた僕の反応が面白かったらしい。
彼女は両手をパンパン叩きながら“ビビりすぎっしょー”と笑っていた。

そりゃ驚くだろ。前方に気を取られていたせいで後方に全く注意を向けていなかったのだから。
“先生を脅かすのはやめなさい”と眼鏡を押し上げつつ注意する僕の言葉など全く聞く耳を持たず、ヒマリは前方を指さしながら元気よく声を挙げた。


「あっ!ねぇあれユーニ先生じゃない?せんせー!ユーニ先生!!」
「うわっ、こら!やめろ!やめてくれ!」


僕の制止もむなしく、ヒマリのあまりに大きく元気な声は周囲に響き渡る。
前方を歩いていたユーニにもきちんとその声が届いていたようで、立ち止まった彼女はこちらを振り返った。
手を振るヒマリは、僕の腕を強引に引っ張りユーニの元へと走り寄る。
あぁ、高校生というのはどうしてこうも元気なのだろう。
はつらつとしたそのまっすぐさが羨ましくもあり、疎ましくもあった。


「ユーニ先生おはー!」
「おー、おはよ。タイオン先生も一緒か。担任の生徒と仲良く登校なんて、いい先生だなぁ」
「……君が言うと嫌味にしか聞こえないが」


ユーニは相変わらず腹立たしいほどにいつも通りだった。
僕が現れたことに動揺もしなければ照れたりもしない。
僕のことが好きだと口にしていたが、本当なのか?
好きなら好きでもう少し恥ずかしそうにするとか頬を染めるとか、そういうモーションがあってしかるべきだと思うのだが。

やがて僕たちは、ヒマリを真ん中に並んで学校への道を歩き始める。
息が白くなるほど寒い朝だというのに、ヒマリはこれでもかというほどスカートを短くして、右隣を歩くユーニに嬉しそうに話を振っている。
恐らくユーニもヒマリと同じ、学生時代は“ギャル”と呼称される人種だったのだろう。
10歳も年が離れたヒマリとこんなにも話を合わせられるのは、そもそもの性格が似ているからなのかもしれない。


「そういえばさ、昨日ぴっぴとデートしてきたんだよねぇ」
「へーいいじゃん。最近冷たい~とか言ってたあれは大丈夫だったわけ?」
「うん!もうどうでもよくなった」


ヒマリは晴れ晴れと笑っているが、そんなんでいいのだろうか。
それまで冷たくされていても少し優しくされただけでコロッと許してしまうなんて、流石に簡単すぎないか?
その単純さこそ若さの成せる業なのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、ヒマリは突然空爆のような勢いで恐ろしい話題を投下してきた。


「ねーねー、ユーニ先生は彼氏いないの?」


何気なく投下されたその話題に、僕は息が止まりそうになった。
今一番避けたかった話題だ。
何故女子高生という生き物は、口を開けばコイバナばかりなんだ。
そういう話は友達同士で完結させてくれ。教員を巻き込むな。
内心文句を垂れつつも、ユーニからの返答が気になって仕方がない。
なるべく気にしていることを勘付かれないようポーカーフェイスを保ちながら、僕は必死に耳をそばだてる。


「いねぇよ彼氏なんて。けど、いい感じの奴はいるかな」
「えー!マジで?付き合わないの?」
「さぁどうだろうなぁ」


ユーニの目が、一瞬だけ僕へと向けられる。
そのやけに挑発的な目と緩んだ口元、そして曖昧な言葉が僕の心を搔き乱す。
腹が立つ。なにが“どうだろうなぁ”だ。付き合う気なんてないくせに。
言ってやりたい。“この女は付き合う気もないのに好きな相手を翻弄する悪女だから気をつけろ”と。
相手が生徒であるヒマリじゃなければ確実に言っていた。
今は堪えろ。冷静になれ、下手な行動に出て僕とユーニの仲を疑われれば、ユーニだけじゃなく僕までも面倒なことになる。
それは流石に避けたかった。


「誰?どんな人?年上?年下?それとも同い年?」
「質問攻めだなおい」
「だってユーニ先生の好きな人気になるじゃん!ねぇ?タイちゃん先生」


よりにもよってこのアホなギャル生徒は僕に話を振ってきた。
同調して欲しいようだがそうはいかない。
ユーニの好きな人なんて分かり切っている。そして彼女の悪辣な本性もまた、嫌というほど分かり切っている。


「……同僚の色恋ごとに興味はない」
「ふぅん。興味ないんだぁ?」


ぴしゃりと言い放った僕に、ユーニがねっとりと聞き返して来る。
口元に笑みを浮かる彼女はまるで、“そんなことないだろ素直になれよ”とでも言いたげな表情をしている。
そんなニヒルで妖艶な笑みを向けられ、動揺しそうになる心を必死で抑え込んだ。
ここで目を逸らしたら負けだ。心を乱すな。迎え撃ってやれ。


「ほう、君は僕が自分に興味津々だとでも思っているのか?とんだ自惚れだな」
「さっきから興味ありげに話聞いてくせに良く言うぜ」
「だぁれが君の好きな人なんて気にするものか。世界情勢や日経平均株価の方がよっぽど気になるぞ」
「嘘つけ。新聞にアタシの恋愛コラムが掲載されてたら経済ニュースの欄より先に読むぜきっと」
「そんなわけないだろ。君の恋愛ニュースなんてクダラナイ芸能人の不倫より興味がない。読まずに捨てる!というか新聞に君の恋愛コラムなんて掲載されてないだろ!」
「は?してるし」
「すぐばれる嘘つくな!」


軽快な言い争いは随分と目立っていたらしく、いつの間にか周囲を歩いている生徒たちがチラチラとこちらに視線を送っていた。
まずい。少し大声で話しすぎた。
ユーニもようやくまずさを感じたのか、互いに周囲を見渡した後しおらしく口を閉じる。
そんな僕たちの間を歩いていたヒマリは、珍しく笑顔を引きつらせながら言い放つ。


「なんか、仲いいね……」


僕とユーニを交互に見つめるヒマリの目は、妙な疑いの眼差しだった。
これ以上墓穴を掘るのはマズい。
ユーニと一緒にいると嫌でも心が惑わされる。
一刻も早くこの場を去らなくては。
危機感を抱いた僕は、腕にはめた時計に視線を落とすと、わざと大き目な声で“あっ!”と声を挙げた。


「そ、そういえば今日は職員会議があったんだ。先にいくぞ、それじゃ!」


片手を軽く上げて2人に別れの挨拶を済ませると、そのまま競歩の勢いで早歩きを開始する。
ようやくユーニの元から逃れられた安堵感で落ち着くと同時に、また無様に心乱され敗走している自分が情けなくなった。
やはりユーニに僕を弄んでいる罪悪感は一切無さそうだ。
改心させる必要がある。
近い将来、その余裕ぶった表情を崩し、無様に“付き合ってください”と縋らせてやる。
せいぜい今は一時の優勢を楽しむがいい、ユーニ。


***

 

2限終了のチャイムと共に授業を終えた僕は、教科書やプリント類を片手にまっすぐ職員室へと戻った。
暖房が効いている職員室内には他にも何人か教員がおり、それぞれ自分のデスクに向かって授業のプリント作成やらテストの丸付けを行っている。
僕のデスクは入り口から比較的近い場所にある。
同じ2年生の担任同士で席は固まっており、すぐ隣は数学を担当しているノアが腰かけていた。
どうやら小テストの採点の真っ最中らしい。
いつもなら“お疲れ”と声をかけるところだが、それなりに集中していたようなのであえて声はかけないことにした。


「ねぇタイオン」


不意に横から声をかけてきたのは、全学年の音楽を担当しているミオだった。
白いスーツに身を包んだ彼女は、こちらの様子を恐る恐る伺っている。
彼女は以前から、今隣に腰かけているノアと交際しているという噂があった。
大人として、その噂の真偽をいちいち確かめるような真似はしないが、恐らく事実なのだろう。
彼氏であるノアではなく僕に用があるのか。
少し不思議に思いながら返事を返すと、彼女は声を抑えながら言葉を続けた。


「あのね、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」


その瞬間、ノック音の後に職員室の扉が開け放たれる。
反射的に扉の方へと視線を向けた瞬間、心臓がいち早く反応した。
どうやら職員室を訪ねてきたのはユーニだったらしい。
白衣を身に纏った彼女は誰かを探しているようで、職員室内をきょろきょろと見渡していた。
そしてこちらに視線を向けると、ゆっくりと歩み寄って来る。

もしかして僕に用事があるのだろうか。
僕から保健室に会いに行くことは度々あったが、彼女が僕を訪ねてわざわざ職員室までやってくるのは初めてだ。
何の用だろう。何か話でもあるのだろうか。
落ち着かない様子でユーニの様子を横目で気にしていると、彼女は僕のすぐ横で立ち止まった。


「ノア、ちょっといいか?」
「ん?」


舌打ちしそうになった。
なんだ、用があったのはノアだったのか。紛らわしい。
すぐ隣で立ち止まり、ノアに声をかけたユーニを横目で軽く睨んだ後、僕は正面のミオへと向き直った。


「あぁすまない。聞きたいことって?」
「うん、あの……。タイオンって彼女いる?」
「え?」


何故そんなことを?
疑問と同時に、僕の視線は自然とユーニへと向いていた。


「お前のクラスの女子、さっき発熱で保健室来たぞ」
「えっ、ホントに?」
「37.8℃だった。結構熱あるし、早退させた方がいいかもな」


どうやらユーニは仕事の話をノアにしているらしい。
真剣な表情で報告している彼女の横顔を盗み見ながら、僕は嘘偽りなくミオからの質問に答えることにした。


「いや、いないが……」
「あっ、ホントに?実は友達から男の人紹介して欲しいって言われてるんだけど、紹介できそうな人いなくて……。よかったらどうかな?この子なんだけど……」


そう言って差し出してきたスマホの画面には、ミオともう一人、知らない顔の女性が映っていた。
ミオの友人というだけあって清楚な雰囲気の女性である。
ユーニとは正反対なタイプだが、見た目だけで言えばかなり可愛らしい。
僕には恋人がいない。交際を望んだ相手はいるが、訳が分からない理由で断られてしまった。

再び、ノアと話しているユーニの方へと視線を向ける。
これは好機なのではないだろうか。
ニイナの言葉にヒントを得て編み出した“嫉妬作戦”。これを実行できる貴重な機会だ。
この紹介を受け入れ、写真の女性と親しくなることが出来れば、もしかするとユーニが妬いてくれるかもしれない。
そして僕をフッたことを後悔し、他の女性に取られないよう行動を起こす可能性も高い。
ミオからもたらされたまたとないチャンスを逃す手はなかった。


「綺麗な人だな。紹介してもらえるか?」
「えっ、本当に?いいの?」
「あぁ。ちょうど僕も出会いが欲しかったんだ。断る理由はない」
「そっか、良かった!タイオンなら安心して友達紹介できるよ。もし付き合ったら報告してね」
「気が早いな。でもまぁ、そうなればいいな」


スマホを取り出し、件の女性の連絡先を受け取りながら横目でユーニを盗み見る。
すると、一瞬だけこちらを向いたユーニと目が合った。
いつもは僕から逸らしている視線が、今回はユーニの方から逸らされる。
その行動を目の前で見た瞬間、勝利を確信した。

どうやらユーニにも僕たちの会話の内容はきちんと聞こえていたらしい、
よしよし。慌てて目を逸らしたということは、それなりに動揺している証拠。
好きな相手が他の異性との出会いを求めている場面を見れば普通は動揺するだろう。
そうだ。もっと焦るがいい。離れていく僕を予感して縋って来るんだ。
しおらしく謝って“やっぱり付き合いたい”とさえ言ってくれば許してやろう。
勝利を確信する僕のスマホに、ミオから件の女性の連絡先が届く。
けれど、その女性とのトーク画面は結局一度も開かれることはなかった。


***

校舎内が最も活気に満ちる瞬間。それはずばり昼休みだろう。
授業を終えた生徒たちが一斉に教室から外に出て、学食や購買に向かっている。
うちの学校は私立ということもあり学食はそれなりに大きいが、職員がそこで食事をとることは滅多にない。
かく言う僕も、あらかじめ近所のコンビニで購入した菓子パンを職員室で食べている。
今日は午前中に小テストを行ったため、その採点をしながらの昼食である。

昼食用に購入したクリームパンを完食し、小テストの採点もすべてこなしたことで、肩の荷が下りる。
トイレに行って用を足し、職員室に戻りながら腕時計の時刻を確認すると、昼休み終了の予鈴まであと5分を切っていた。
今日は午後イチで2年生の授業が入っている。
職員室に戻って早めにプリントの準備をするとしよう。


「冗談なんかじゃありません!」


そんなことを考えていると、突然どこからともなく語気を荒げた男の声が聞こえてきた。
なんだ?生徒同士が喧嘩でもしているのか?
ならば止めねばと使命感にかられた僕だったが、その声が保健室の中から聞こえてくると分かるや否や、使命感は好奇心へと変わった。

保健室にユーニ以外の誰かがいるらしい。
それ自体は珍しくもなんともないが、聞こえてきた声が妙に切羽詰まっているように聞こえたのが少し気になった。
中で何をしているのだろう。
気になった僕は、悪いと思いつつ保健室の扉をほんの数センチ開き中を覗き込んだ。


「信じてくださいよ、先生!」
「んなこと言われてもなぁ……」


保健室の中にいたのはユーニと、見慣れない男子生徒だった。
履いている上履きの色から察するに、恐らくは3年生だろう。
かなり高身長なようで、彼の背中はユーニの背に比べて20センチ以上高かった。
必死にユーニに詰め寄る男子生徒と、困った表情を浮かべているユーニ。
2人の会話の内容がイマイチ掴めず眉間にしわを寄せていると、不意に男子生徒がとんでもないことを口にした。


「俺、ユーニ先生のことが好きなんです!」
「っ、」


衝撃的な告白に、扉越しにそれを聞いていた僕は思わず声を上げそうになってしまった。
生徒が先生に想いを寄せるなんて、正直よくある話だ。
相手の熱量に違いはあれど、若い教師なら誰しも生徒からそれらしいモーションをかけられた経験があるだろう。
この僕も何度か経験がある。

少々ませた女子学生からバレンタインのチョコレートを贈られたり、卒業式で連絡先を渡されたり。
あの年頃の学生にとって、教師というのは親の次に距離が近い大人でもある。
比較的若い異性の教員というだけで、無条件に魅力的に映るのだろう。

よくあることだ。動揺するような事象じゃない。
いつもなら微笑ましいとスルーする程度の話だが、今回ばかりは見逃せなかった。
他の教員なら見て見ぬ振りも出来ただろう。しかし、今目の前で生徒に迫られているのはあのユーニだ。
僕を好きだと言ってきたあのユーニなんだ。
気にならない方がおかしいだろう。

とはいえ、生徒に対するユーニの返答はあらかた予想が出来ていた。
相手はまだ十代の男子生徒。しかも自分が勤めている学校の生徒だ。
そんな相手の告白を容易に受け入れるわけはない。
教員なら、いや常識ある大人なら、迷わず断るはずだ。
大丈夫。僕が焦ったり動揺したりする必要なんてない。

だが、扉の隙間から覗き見ていた僕の視線と、保健室内で生徒からの告白を受けていたユーニの視線が不意にかち合った。
まずい。覗いていたことがバレた。
途端に焦りに支配されたが、そんな僕を見つけた瞬間、先ほどまで困ったように眉を下げていたユーニの口元がニヤリと口角を上げる。

嫌な予感がした。あのいやらしい顔は今まで何度か見たことがある。
人を貶めようとしている魔性の顔だ。
案の定ユーニは、自分に想いの丈をぶつけてきた目の前の男子生徒へ一歩近づくと、彼の耳元で囁き始める。


「生徒相手にはそういう気にならねぇな。せめて卒業してからじゃねぇと」
「じゃ、じゃあ、卒業したら俺と付き合ってくれますか?」
「さぁ。卒業して以降もお前の気持ちが変わらないようなら、検討くらいはするかもな」


お得意の曖昧な答えを口にしながら、ユーニは微笑みを浮かべている。
“付き合う”とは言っていない。“好きだ”とも言っていない。
けれど、否定しているわけでもないユーニの言葉は、男子生徒の心を舞い上げる。
代わりに、扉越しに見ていた僕の心は地面に叩きつけられた。

頬を紅潮させ、興奮気味な男子生徒は“卒業したらまた告りに来ます!”と嬉しそうにしている。
そんな彼に、ユーニは何も言わずに微笑みを返していた。
その笑みが、一人の哀れな男を毒牙にかけてゆく。

すっかりユーニの虜になっている件の男子生徒は、元気よく“それじゃあ失礼します!”と礼儀正しく頭を下げ、踵を返し歩き出す。
まずい。こっちに来る。
急いで扉から離れて曲がり角まで走って陰に隠れると、男子生徒は鼻歌交じりに上機嫌な様子で保健室から出て行った。

あれは完全にその気になっている。
可哀そうに。あの年で悪い女に引っ掛かるなんて。
あの生徒は僕のクラスの生徒ではないが、流石に未成年相手に期待を持たせるようなユーニの好意を看過するわけにはいかない。
ここは教師としてちゃんと注意をしなければ。

足早に保健室へと戻り乱暴に扉を開けると、デスクに腰掛けチョコを頬張るユーニがそこにいた。
僕の到来をはじめから読んでいたかのように“よお”と口を開く彼女は、全くもって驚いた様子がない。
なにが“よお”だ。生徒とあんなやり取りを同僚の教員である僕に見られたにも関わらず、危機感が薄すぎるだろ。
しかも僕は君にとって“好きな人”でもあるわけだろ。もっと焦るべきじゃないのか?


「なんだ今のは」
「なにが?」
「告白されていただろ、あの男子生徒に」
「やっぱ覗いてたんだ。趣味悪いなぁ」
「とぼけないでくれ。何でもっとちゃんと断らない?あれじゃ無駄な期待をさせるだけじゃないか」
「無駄な期待?そんなのさせた覚えねぇけど?アタシは思ったままの気持ちを正直に言っただけだって」
「卒業したら検討するなんて、期待させているようなものじゃないか。本当はそんなつもり一切ない癖に」
「なんで決めつけるんだよ。それも含めて全部本心だっつーの」
「こ、子供相手に交際を検討するというのか?」
「高校3年生はもう子供って年齢でもねぇと思うけど?」


涼しい顔で言い放つユーニに、僕はどんどん動揺を煽られる。
馬鹿げてる。相手は10歳も年下の未成年だ。
社会に出たこともない青二才を異性として見れるというのか。
この僕とは付き合わないと頑なに拒絶しているくせに、10も下の子供とは付き合うのか?
可笑しいだろそんなの。
溢れる感情の発露に従い、僕はユーニが腰掛けているデスクに両手を勢いよく突いて迫った。


「うちの学校の生徒だぞ?教員が手を出していいわけがないだろ」
「“卒業したら”って言っただろ。アイツはもう3年だし、あと数か月で卒業する。そうなれば生徒でも何でもない。ただの男と女の関係になるだろ」
「そ、それはそうだが……」
「それとも何?もしかして嫉妬してるとか?アタシが10歳も年下の子供相手に奪われると思って焦ってるとか?」


キャスター付きの椅子に腰かけたユーニは、その長くしなやかな足を組んだうえに頬杖を突いている。
僕を見上げている青い瞳は挑発的な色を放っていた。
まるでこちらの心をくすぐっているかのような声色と言葉、そして表情に、頭に血が上っていく。

違う。断じて嫉妬なんかじゃない。
僕はイチ教員として、君のような魔性な存在の毒牙にかかりつつあるあの男子生徒を心配しているだけだ。
誰が嫉妬なんてしてやるものか。


「あ、あの男子生徒の心配をしていただけだっ!君が他の誰とそういう関係になろうが僕にはもう関係ない!」
「ふぅん」


よし。言ってやった。それでいい。
これ以上ユーニに振り回されるのは御免だ。
そもそも僕は、君の方から頭を下げて“付き合ってください”と懇願してくることを望んでいた。
僕が嫉妬なんてしてどうする。これ以上君に手綱を握られるのは勘弁願いたい。

そうだ。逆に嫉妬させてやればいい。
他の男を誘惑している暇があるくらいならもっと必死に僕に媚びを売って来い、と。
僕にだって次のアテはある。ついさっきミオから女性を紹介されていた場面を君だって見ているはずだろ。
このカードがある限り、僕の優位は揺るがない。
今ここで紹介された女性のことをさりげなく話題にしてやれば、きっとユーニの気も惹けるはず。
男子高生に構っている場合ではないと焦るに違いない。

ユーニの心を引っ張り込むため、今朝がた紹介された女性のことをさりげなく口にしようとした僕だったが、それよりも先にユーニのため息が保健室内に響き渡った。


「……そりゃあ嫉妬なんてしないよな、タイオンは」
「え?」
「今朝、ミオから女紹介されてたもんな……?」


僕が自ら話題に出すよりも前に、ユーニ方からその件について触れてきた。
不意打ちを食らい驚く僕を前に、ユーニは俯きながら目を伏せていた。
その表情はいつもとは比べ物にならないほどしおらしく、どこか哀しげに見える。
まさか傷付いているのか?僕が他の女性を紹介してもらったことを。
いやそんなことあるはずない。だって相手はユーニだぞ。
この僕を都合のいい男扱いした性悪のユーニだぞ。
こんなにしおらしい顔で、悲しげな眼で、愁いを帯びた表情で、悲しむわけなんてないんだ。


「この前タイオン、アタシのこと好きって言ってくれただろ?アレすげぇ嬉しくて、正直舞い上がってた。でも、他の女の紹介を断らなかったってことは、タイオンはもうアタシのことなんて忘れて次に行きたいってことなんだよな?」
「い、いや、それは……」
「次に行きたがってる相手を未練がましく引き留めるのは流石に迷惑だろ?タイオンが他の女と付き合いたいって言うなら、アタシもお前のこと忘れて、次の相手を探すべきなんだろうなって」
「え……」


目を伏せ、淡々と告げられるユーニの言葉は、僕の首をゆっくりと絞めてゆく。
つい先日まで何度も“好き”と口にしてたユーニが、悲しそうに視線を落としながら去っていくような気がして、心がざわついた。

違う。違うんだ。次に行きたかったわけじゃない。君を忘れたかったわけじゃない。
僕はただ、ちょっとだけ君を困らせたかっただけなんだ。
ミオから紹介された相手も、本気で興味があるわけじゃなかった。
ただ君の気を惹きたいがために、慣れない駆け引きをしようとしただけのこと。
傷付けるつもりも、遠ざけるつもりもなかったんだ。
焦り始める僕にとどめを刺すように、ユーニは椅子から立ち上がりながらか細い声で言葉を続ける。


「タイオンのことは好きだけど、付き合えない相手にいつまでも縋り付くのは失礼だよな。アタシも早いとこ次の相手探すことにする。お前の言う通り生徒に手を出すのは問題だし、アイツが卒業してから真剣に考えてみるよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


僕から遠ざかろうとするユーニへ必死で手を伸ばし、彼女の腕を捕まえる。
振り返り、ようやくこちらを向いた青い目をまっすぐ見つめながら、僕は彼女の華奢な肩を両手で掴んだ。
このままじゃ、君は僕の傍からいなくなってしまう。
他の男にその視線が奪われてしまう。
そんなの嫌だ。ずっと僕を見ていてほしい。不安にさせてしまったのなら謝るから、どうか、僕だけを好きでいてほしい。


「ユーニ、ごめん。君の気を惹こうとしただけなんだ。本当は紹介されても会う気なんてなかった。君を遠ざけるつもりなんて一切なかったんだ」
「……本当に?」
「本当だ!ホラ、ミオから紹介された女性の連絡先、今ここで消すから!」


懐からスマホを取り出しLINEを起動させると、つい数時間前に入手したばかりの女性の連絡先を迷わず消去する。
件の女性が消えた“友達一覧”の画面の見せつけながら“ほら!”とスマホを差し出すと、彼女は黙って画面に視線を落としていた。
ユーニに遠ざけられたくない。その一心で、僕は必死に彼女の心を捕まえようとする。


「僕が好きなのは君だけなんだ。だから……君も“次に行く”なんて言わないでくれ。たのむ」


恥も外聞もプライドもかき捨てた、なんともカッコ悪い懇願だった。
だが、今はもう見え方なんてどうでもいい。
ユーニが僕のことを好きでい続けてくれるなら、もう何だっていいんだ。
声を震わせながら必死に頼み込むと、ユーニは一瞬だけ俯いてふっと笑みを零す。
安堵の笑みに見えた。どうやら分かってくれたらしい。
顔を上げたユーニは、それまでのしおらしさが嘘のように明るい表情に戻っていた。


「ありがとな、タイオン」


踵を上げ、ゆっくりと背伸びをしたユーニの顔が迫って来る。
息を止めた瞬間、頬に柔らかい感触が触れた。
青く美しい瞳が揺れ、僕をまっすぐ見上げている。
頬にキスをされたのだと理解した瞬間、僕の顔はまるで思春期の男子高生のごとく真っ赤に染まっていった。
ユーニの唇が触れた頬に手を添え、動揺して視線を泳がせている僕に、ユーニはいつもの微笑みを向けながらとどめの一撃を言い放つのだった。


「また浮気しようとしたら怒るからな?」


きゅううぅぅぅと信じられない力で心臓が締め付けられる。
言葉では怒っているいるけれど、表情は少し喜んでいるようなユーニの空気感に、僕の思考は溶かされていく。
脳の奥がぴりぴりする。ユーニを前にすると何も考えられなくなって、ただただ甘い空気に酔ってしまうのだ。
そして、最終的に“うん”としか言えなくなる。
骨の髄まで思考をしゃぶりつくされた僕は、惚けた表情でユーニを見つめていた。

やがて昼休み終了のチャイムが鳴り、ユーニに促される形で保健室を後にする。
“またな”と手を振るユーニに手を振り返す僕の口元は緩みまくっていたに違いない。
保健室の扉から外に出た僕は、鼻歌を歌いながら軽い足取りで職員室に向かっていた。

聞いたか、あの言葉。
“浮気したら怒るからな?”だって。
なんだそれ。可愛い。可愛すぎる。
拗ねていたんだ、僕が他の女性を紹介されていたことに。

まったく、そんなに心配せずとも僕の気持ちはそう簡単に変わらないというのに。
ユーニが好きだ。好きで好きでたまらない。
あぁもう。なんとかして付き合えないものか。
あの可愛くて綺麗で色っぽくて少し小悪魔なユーニを僕だけのモノにすることが出来たならどんなに幸せだろう。

いっそ泣き落としでもしてみるか。
どうしても付き合いたいです。お願いしますと懇願してみれば、ユーニも“しょうがねぇな”と笑いながら受け入れてくれるかもしれない。
そうだ。そうしよう。今度命一杯おねがいして、付き合ってもらおう。
断られても誠心誠意この気持ちを伝えればきっとわかってくれるはず。

そう決意を抱きながら、僕は職員室の扉に手をかける。

 

 

 

 

 

 


…………ん?

 

 

 

 

 

 

 

 


職員室の扉に手をかけたまま、僕は石のように身を固くした。
ちょっと待て。おかしい。おかしいぞ。
そもそもユーニに“付き合ってください”と頭を下げさせるのが目的だったはず。
僕が懇願する側に回るのはおかしいじゃないか。

ユーニに嫉妬させて焦りを促すためにわざとミオからの紹介を受け入れようとしていたのに。
いつの間にかそのカードすら自ら捨て去り、あまつさえユーニに“次に行くなんて言わないで”などと縋ってしまった。
上を取るはずが、気付けば上を取られていた。
手綱を握るはずが、むしろこっちが握られていた。

ここにきて僕はようやく気付いてしまった。
ユーニの術中にまんまとハマっていることを。


「あんの性悪……っ!」


扉のドアノブを握る手に力が入る。
今思えば、僕が縋った直後に俯き一瞬だけ笑みを浮かべていたが、あの笑みは安堵ではなく“してやったり”の笑顔だったようにも見える。
こいつチョロすぎだろ。そう思って笑みを浮かべたに違いない。

冷静に考えれば何が“浮気したら怒る”だ。
そもそも僕たちは付き合ってすらいないんだから僕が誰と親密になろうが浮気には当たらないだろ。
それをまるで“タイオンはアタシのモノだから”とでも言いたげな理論で浮気を禁じて来るなんて傲慢にもほどがある。
僕は君のモノなんかじゃない。
僕の浮気を禁じたいのであればつべこべ言わずにこの僕と付き合えばいいんだ。


「くそっ……。腹が立つ!」


あんな性悪の口車にまんまと乗せられて、舞い上がって、簡単にかどわかされてしまった単純な自分自身に腹が立つ。
“白衣の天使”なんて言葉があるが、彼女の場合は“白衣の小悪魔”の称号がよく似合う。
僕の心を雁字搦めにして、甘い言葉で褒美を与えつつ的確にくすぐってくる。
こんなの、抜け出せなくなるじゃないか。

日を追うごとに加速していく甘やかな恋心に、僕は焦りを禁じ得なかった。
以降、ユーニの性悪で魔性な誘惑はどんどん威力を増していき、僕を更なる沼の奥深くへ突き落すこととなるのだが、この時の僕はまだそんな未来の存在を知らずにいた。


END