【タイユニ】
■ゼノブレイド3
■SS
命のヒカリ
戦闘での負傷はつきものである。
それは敵兵相手でもモンスター相手でも同じこと。
その日、ユーニはモンスターとの戦闘で負傷し、未だとどめを刺しきれていない状況にあるにも関わらず敵前でダウンしてしまった。
6人中1人分の戦力が縣ければ、戦況も大きく変わる。
ユーニがダウンした瞬間、攻撃に集中していた一同は一斉に守りに転じた。
アタッカーであるノアやセナは後方へと周り、身軽さに自信のあるミオが前に出て敵の目を惹きつける。
その隙に、ランツとタイオンがユーニへと駆け寄った。
ランツがブレイドを地面に突き立て壁の役目を果たし、その背後でタイオンが回復アーツを展開しユーニの傷を癒す。
しゃがみこんだ膝の上にユーニの頭を乗せ、上体を起こさせるように支えながらモンドを繰り出した。
エーテルを纏ったモンドが彼女の周りを飛び回り、やがて失われていた意識が回復する。
ぼやける視界に移ったのは、心配そうにこちらを見下ろしているタイオンだった。
あぁまずい。気を失ってたのか。
一瞬で状況を理解したユーニ。盾となっているランツの背中越しに、怒り狂った四つ足のモンスターを必死で抑え込むノアたちの姿が見えた。
彼らだけで相手をするのは流石に限界らしい。
そう判断したタイオンは、ようやく意識を取り戻したユーニの腕を掴み、腰に腕を回し、枕にしていた足をユーニのひざ裏に滑り込ませると、強引に引っ張り上げて彼女を立ち上がらせた。
「ユーニ、立てるか!?」
「うおっ」
半ば無理やり立ち上がらされたユーニは、その勢いでよろけそうになってしまう。
咄嗟にブレイドを出現させ、杖代わりに地面に突き刺してバランスをとる。
助け起こしてくれたのはありがたいが、怪我人なんだからもう少し手加減して欲しいものだ。
そんな不満を込めながら、ユーニはブレイドを構える。
「ったく、もっと優しく起こせよ……、なっ!」
ブレイドの先端からエーテル弾が放たれる。
ランツの盾をすり抜けてまっすぐ放たれた翡翠色のエーテル弾は、モンスターのこめかみに直撃。
ミオを狙っていたそのモンスターは、ユーニの一撃でよろめき一瞬の隙が出来た。
「ナイスだユーニ!」
「畳みかけよう!」
仲間たちの声が響く。
今こそ攻勢に転じる好機である。
数十分の死闘の末、一行はようやく対峙していたモンスターを討伐した。
それは、このあたりを支配していた狂暴なモンスター。いわゆる“名を冠する者”であった。
***
「ったく、もう少し優しく丁寧に起こせねぇのかよタイオン」
「あの状況なら仕方ないだろう。そもそもあんなタイミングでダウンした君が悪い」
「はぁ~?それこそ仕方ねぇじゃん。お前がそっと助け起こしてくれればいいだけの話だろ?」
「十分優しかったと思うが?」
「どこがだよ。腕引っこ抜けるかと思ったわ」
「あれくらい強引な方な立ち上がりやすいだろ。我が儘を言わないでくれ」
「くっそ。今度お前がダウンしたらめちゃくちゃ強引に起こしてやるから覚悟してろよ?」
「生憎だが僕はそう簡単にダウンするほど迂闊じゃない。君と違ってな」
シティー、ロストナンバーズ地下会議室。
モニカに呼ばれて集まっていた一行は、用意された椅子に腰かけながらモニカやトラビスの来訪を待っていた。
その間、狭い会議室に響いていたのはユーニとタイオンの言い争いである。
出会ったばかりの頃は何度も揉めていたこの2人だが、今となっては以前ほど言い合う頻度は低くなった。
そんな彼らが久しぶりに揉めている光景に、ノアたち4人の外野は一様に苦笑いを浮かべている。
ダウンしてしまったという負い目がある分、今回の舌戦はタイオンの方が優勢のようだ。
最後に捨て台詞を吐いたユーニは、足と腕を組み“ふんっ”とそっぽを向いてしまう。
ようやく2人の言い合いが幕引きが見えた頃合いで、奥の部屋からモニカとトラビスが会議室にやって来た。
自分たちを呼び出した張本人のお出ましに、椅子に座っていた一同の背筋が伸びる。
「呼び立ててすまない。お前たちに頼みがあってな」
神妙な様子でそう切り出したモニカの様子から察するに、それなりに重大な頼み事らしい。
そんなタイオンの予想はまさに的中していた。
テーブルの上に広げた資料を指さしながら、モニカとトラビスは“頼み事”の内容を解説し始める。
結論から言うと、今回6人に頼みたいことというのは“脱走兵の捕縛”である。
ロストナンバーズは、“本物の女王を取り戻しアイオニオンを正しい姿に戻す”という高尚な目的のために命を懸けているわけだが、志が立派だからと言って決して一枚岩とは言い難い。
“保守派”、“強硬派”と呼ばれる二つの大きな派閥が存在し、その派閥の中でも考え方は多岐にわたる。
まるで毛細血管のように枝分かれした思想はグループを形成し、一部で過激な反乱分子を生み出してしまう。
今回脱走した兵は、“強硬派”と呼ばれる派閥のさらに過激な思想を持ったグループである。
長老であるモニカを失脚させることを第一に考えている彼らは、シティーを内部から分裂させようと目論んでいる。
そのために、未だ命の火時計から解放されていないケヴェス、アグヌスのコロニーに亡命し、そこの兵たちと合流することで兵力増大を図ろうとしているのだという。
ただの亡命目的ならば、モニカやトラビス指揮の元ロストナンバーズの兵たちだけで対処していたことだろう。
だが、どうしてもウロボロスたちの力を借りてでも彼らの亡命を阻止しなければならないだけの理由があった。
亡命した者たちの中には、ロストナンバーズの機密情報を持っている者が含まれているのだ。
ロストナンバーズが駐屯地として密かに使っている拠点や、使用しているオートマトンの情報、ため込んでいる兵糧の保管場所、さらにはシティーの動力源の位置など、メビウス側に知られればシティーの存続にも関わるほどの重大な情報である。
恐らく、亡命を目論んでいる面々の中で既にこの機密情報は共有されてしまっているだろう。
メンバーとして名前が挙がっている者たちを1人たりともこのシティーから出してはならない。
さらに、他にもこの情報を漏らした相手がいないか尋問する必要があるため、生け捕りにしなければならないというかなり難しい任務である。
そのため、実力もありケヴェス、アグヌスに太いパイプを持っている6人のウロボロスたちに白羽の矢が立ったのだ。
一息に事情を説明してくれたモニカに、ノアは迷わず“協力しよう”と頷いた。
他の面々も異存はない。
諜報活動に出向いていたグレイからの情報によると、当該の面々は明日このシティーを秘密裏に発つ腹積もりらしい。
その現場を押さえるのが、6人に課せられたミッションである。
やがて夜は明け、未だ陽が昇り切らない早朝に6人は行動を開始する。
モニカから何人かロストナンバーズの私兵を派遣させようかと打診があったが、タイオンが丁重に断った。
今回の任務は機密性が高い隠密任務である。人数が多ければ多いほど気取られやすくなり、取り逃がす可能性は高まる。
任務に赴くのは6人のウロボロスと、彼らに付き従う2匹のノポンたちだけだった。
シティー地下搬入倉庫。
たくさんの資材が運搬されるこの倉庫に、一同は身を隠していた。コンテナの隙間から覗き込むと、倉庫の中央に何やら怪しげな兵たちが10人ほど輪を作って話し合っていた。
間違いない。あれが当該の亡命者たちである。
互いに顔を見合わせた6人と2匹は、ノアの“行くぞ”の掛け声と共にコンテナの陰から飛び出した。
「そこまでだ!」
「神妙にしなさい!」
ブレイドを構えながら飛び出した6人に、亡命者たちは驚き声を挙げた。
“ウロボロス!?”
“なんでこんなところに!?”
“くそっ、やっちまえ!”
高い天井に響き渡るほどの大声が、倉庫内に反響する。
どうやら彼らは想像以上に腕の立つ兵士たちらしい。
ウロボロスの姿を確認するや否や、すぐに隊を二つに分けて行動を開始する。
一方は銃型のブレイドを構えて後方から射撃を開始し、もう一方はコンテナの陰に隠されていたオートマトンへと乗り込む。
4機のオートマトンと5人のシューターに囲まれては、流石にウロボロスと言えど生身では分が悪い。
すぐにそう判断した彼らは、互いにパートナーと顔を見合わせインタリンクを開始する。
ノアとミオ、ランツとセナの身体が一つとなり、巨大なウロボロスの身体を形成する。
銃弾の雨をもろともせず戦闘を開始する二組を横目に、タイオンとユーニも遅れてインタリンクしようと顔を見合わせた。
だがその瞬間、足元にいたリクがふわふわな耳で真っ直ぐ前を指しながら切羽詰まった様子で声を張り上げる。
「まずいも!アイツ逃げるつもりも!」
視界に入ったのは、1人の兵士が非常口から逃げ出そうとしている光景だった。
モニカから与えられた任務は、全員を生け捕りにすること。
一人でも取り逃がせばこの任務は失敗に終わり、下手をすればシティーが未曽有の危機に晒されることになるだろう。
例えたった一人だけでも、逃がすわけにはいかなかった。
「タイオン、ユーニ!ここはいいから追ってくれ!」
「わかった!行くぞユーニ!」
「おう!」
オートマトンの相手をしていたノアが、ウロボロスになった姿のまま指示を飛ばす。
一行のリーダーからの指示を受け、タイオンとユーニは走り出す。
その後を、リクとマナナも丸々とした体で懸命に飛び跳ねながらついてくる。
男が出て行った非常口から倉庫の外を出て、錆びついた狭い階段を駆け上がる。
その先に続いていたのは、レウニス倉庫だった。
ケヴェス、アグヌスの軍勢から奪取したレウニスを保管しておくための倉庫である。
この広い倉庫内の端に、男の姿はあった。
ケヴェスのレウニスに乗り込み、エンジンをかけ始めている彼の様子にタイオンは焦りを滲ませる。
まずい。あのレウニスで逃げるつもりか。
やがて倉庫のハッチが開く。
倉庫の外にはカデンシアの大地が広がっている。
ハッチが開ききったその瞬間、男が乗ったレウニスは一気にアクセルをふかし物凄いスピードで倉庫外へと出て行ってしまった。
「まずいデスも!あいつ逃げちゃいましたも!」
「大丈夫も。あの型のレウニスはあんまりスピードが出ない旧式も。今から別のレウニスで追えば追いつくも!」
そう言って、リクは走り出す。
倉庫の右側にはケヴェスのレウニスが。左側にはアグヌスのレウニスがずらりと並んでいる。
迷うことなくケヴェスの最新式のレウニスに乗りこんだリクに続き、ユーニとマナナも狭い機体へと潜りこんだ。
コロニー9でメカニックを担当していたリクには、どのレウニスであれば一番スピードが出るか一目瞭然なのだろう。
運転席に腰かけたリクは、早速エンジンをかけ始める。
その様子を運転席の椅子に掴まりながらマナナと共に見守っていたユーニだったが、傍らにタイオンがいないことに気が付いた。
「あれっ、タイオン!?」
≪ここにいる≫
ユーニの瞳に、タイオンから緊急通信が入る。
相手はタイオンだった。
背景を見る限り、どこか狭いところにいるらしい。
「えっ、どこだよそこ」
≪アグヌスのレウニスだ。二手に分かれて追跡したほうが先回りしやすいだろ≫
「いやでもお前、レウニスの運転できんのかよ?」
タイオンがレウニスの操縦桿を握っている光景など今まで一度も見たことが無い。
レウニスの操縦はそれなりに難しく、メカニックや専属のパイロット兵でなければ上手く操縦できないだろう。
だがタイオンは、ユーニの切羽詰まった問いに得意げな笑みを浮かべながら眼鏡を押し上げた。
“僕を誰だと思っている?”
そう言い放った瞬間、彼は勢いよくアクセルを踏みレウニスを発進させた。
フロントガラスの向こうで、タイオンが運転する白いレウニスが急カーブしながら倉庫を出て行った。
キュルルと甲高い音をたてながら遠ざかるそのレウニスを眺めながら、操縦桿を握るリクは眉をひそめる。
「危なっかしい運転も」
「でもタイオンさんの言う通り2機で追えばきっと追いつけマスも」
「だな。アタシらも行こう!」
「了解も!しっかり掴まってるも!」
リクが運転するケヴェスの黒いレウニスも、全速力で倉庫から発進した。
タイオンの運転を“危なっかしい”と評価した割に、リクの運転も彼に負けず劣らず荒々しい。
マナナと一緒に操縦室の壁に叩きつけられたユーニは、椅子に座ったまま勇ましく前を見据えている小さな運転手を睨み、“お前も人のこと言えねぇじゃねぇか…”と呟いた。
エンジンを燃やしながら走行するリクのレウニスは、ものすごい速さでカデンシアの大地を走る。
砂地に残されたタイヤ痕を頼りに進むと、ものの5分程度で前方を走っているレウニスが見えてくる。
黒い旧式の機体。間違いない。あの亡命者のレウニスだ。
「追いついたも!」
「このままとっ捕まえマスも!」
白熱する2匹のノポン。
だが、前方に見えるのは黒いレウニスだけで、タイオンのレウニスは見当たらない。
彼はどこにいるのだろうかと不安になり始めたユーニの“瞳”に、再び通信が入る。
タイオンからの通信である。
≪こちらタイオン。ユーニ、今どこにいる?≫
「えー、座標値X134、Y23。今目の前に当該のレウニスが走行中!そっちは?」
≪座標値X131、Y19。君たちが走行している道の一本奥の道だ!≫
「奥の道?」
リクが座っている運転席の背もたれにしがみつき、機体の揺れに耐えながら“瞳”の上でマップを確認する。
今現在リクのレウニスと逃亡者のレウニスが走行している道は、このまままっすぐ突き進めば崖沿いの道に交わる。
この道のすぐ隣、並行に並んでいる道をタイオンのレウニスは走行中らしい。
こちらの道もまっすぐ進めば崖沿いの道に交わる。
つまり、崖の手前でタイオンが先回りして挟み撃ちを狙えるという位置取りだった。
タイオンの現在位置を聞いた瞬間、彼の狙いを察したユーニは操縦室の天井を見上げた。
このレウニスの操縦室は、真上に設置された円形の扉から外に出ることが出来る。
その扉に続くはしごを上りながら、ユーニは通信で繋がっている相方に指示を仰ぐ。
「挟み撃ちだよな?」
≪あぁ!≫
「どうする?攻撃したほうがいい?」
≪出来れば≫
「タイヤ?」
≪いやエンジンだ!タイヤを狙ったらスピンして中にいる兵も危ない!エンジンだけ狙えるか?≫
梯子を上り切り、レウニスの頭部に設置してある扉を開く。
そこから身を乗り出した瞬間、激しい突風がユーニの髪と羽根を舞い上げた。
時速100メテリを超える速度で走行しているレウニスから顔を出しながら、彼女はブレイドを構える。
そして、得意げな笑みを浮かべながらユーニは言い放った。
“アタシを誰だと思ってるんだよ?”と。
ガンロットを構え、前方を蛇行運転するレウニスへと狙いを定める。
ユーニはガンナーとして非常に優秀な狙撃手である。
例え動き回る相手でも、ひとたび集中すれば外すことはない。
トリガーを引いた瞬間発射されたエーテル弾は、まっすぐ前方のレウニスを貫いた。
その瞬間、エンジン部分が爆発する。
戦闘に特化したケヴェスのレウニスは、たとえエンジンが爆発炎上したとしても操縦室にまで被害が及ばないよう設計されている。
機体で小爆発を起こしたとしても、操縦室はきつめの衝撃を受けるだけでパイロットが命を落とすことはないだろう。
それを計算しての一撃だった。
「流石ユーニ!命中も!」
「ユーニさんカッコいいデスも!」
下の操縦室から、自分を称賛する2匹のノポンたちの声が聞こえてくる。
煙を上げる前方の機体を得意げな顔で眺めていたユーニだったが、すぐに異変に気付く。
レウニスの速度が全くと言っていいほど落ちないのだ。
通常、エンジンを破壊されたレウニスは操縦の自由を失うためブレーキをかけて停止するほかない。
だが、前方のレウニスは、ブレーキが踏まれる気配が全くないのだ。
最初は逃げるために必死になっているだけなのかと思ったが、この先に待っているのは崖だ。
操縦が効かないこの状態でブレーキを踏まないのは、誰がどう見ても自殺行為である。
状況を俯瞰した瞬間、ユーニはある仮説にたどり着く。
「やばいタイオン!中の奴気絶してるかも!」
≪何!?≫
操縦している張本人の意識が失われていれば、ブレーキなど踏めるはずもない。
おそらく、先ほどエンジンを打ち抜いた衝撃でどこかに頭をぶつけたのだろう。
そうでなければ説明がつかない。
この道は崖に向かって緩やかな下り坂になっている。
このまま放っておけば、崖の下に真っ逆さまだ。
そうなれば、どんなに頑丈に作ってあるレウニスであっても無事では済まない。
中にいる操縦士もろとも木端微塵になるだろう。
まずい。何とかしなくては。
焦ったユーニは、急いで下の操縦室を覗き込み操縦桿を握っているリクに声を張り上げた。
「リク!なんとかして追いつけない!?」
「無茶言うなも!これ以上加速したらリクたちも崖下に落っこちるも!」
「そんな……」
このままでは死なせてしまう。
例え亡命者であっても、情報を握っている限りは生きてシティーへ連れ戻さなくてはならない。
目の前の絶望的な状況に、ユーニの思考は完全に停止してしまった。
どうする、どうする、どうする。
焦るユーニお名前を、繋げたままにしてある通信からタイオンが呼んできた。
“ユーニ!”と声を張り上げられたことで、強風に髪をなびかせていたユーニの肩が震えた。
≪後のことは任せたぞ≫
「は?どういう意味?」
≪レウニスが止まったら、速やかに例の男を救出してくれ!僕のことは後でいいから≫
「ちょ、言ってる意味が——」
一方的にまくしたてた直後、タイオンは通信を切った。
引き留めるように何度か彼の名前を呼んだが、もはや遅かった。
“後のことは任せた”
その言葉の意味は、前方に見えた光景を視界に入れた瞬間分かってしまった。
先回りしたタイオンの白いレウニスが、崖に向かって一直線に進んでいるレウニスの行く手を阻むように停止している。
まさか——。
そう思った瞬間、タイオンのレウニスは全速力で発進し、暴走している亡命者のレウニスに向かって突き進む。
制御を失ったレウニスを破壊せずに止める方法は一つだけ。
正面からぶつかって力業で止めるしかない。
だがその場合、衝突される側の被害は免れない。
なにせ全速力で衝突されるのだ。脆い機体なら全損しても無理はない。
ユーニは知っていた。タイオンが操縦桿を握っているあの白いレウニスは、何世代か前の旧式レウニスであることを。
旧式のレウニスは機体が劣化し、脆くなる。そのことをタイオン自身も知らないわけはない。
「やめろっ!タイオン!」
特攻を仕掛けようとしているタイオンのレウニスをまっすぐ見つめながら、ユーニは叫ぶ。
だが、そんな彼女の叫びもむなしく、タイオンのレウニスは亡命者のレウニスに正面から衝突した。
その瞬間、白い機体の接合部が爆発を起こす。
煙と火花を散らしながら、タイオンのレウニスは引きずられていく。
このままでは亡命者のレウニスに後ろから突っ込んでしまうと判断したリクは、咄嗟にハンドルを右に切りながらブレーキをかけた。
全速力で突っ込んだ亡命者のレウニスが、タイオンのレウニスを押し出していく。
やがて、タイオンのレウニスが崖から落ちるギリギリのところで2台のレウニスは停止した。
「タイオンっ!」
悲鳴に近い声を挙げながら、ユーニは乗っていたレウニスから飛び降りた。
身体を寄せ合うようにして停止している2機のレウニスに駆け寄るユーニの後を追うように、2匹のノポンたちも操縦室から飛び出す。
「リク、マナナ!向こうを頼む!アタシはタイオンを……!」
「わかったも!」
ユーニの指示を受け、リクとマナナは煙を上げている黒い機体へと走っていく。
正面から受け止めたタイオンのレウニスはところどころ炎を上げ、正面部分がひしゃげている。
背中部分にある操縦室の扉は変形していた。
渾身の力を込めてドアコックを引っ張ると、派手な音と共に操縦室の扉が開く。
中の光景を見た瞬間、ユーニは息を詰めた。
狭い操縦室の中で、たった一つだけ設置された操縦席。タイオンはそこに力なく座っていた。
「しっかりしろ!大丈夫か!?」
座ったまま動かないタイオンの様子を覗き込み、ユーニは一瞬頭が真っ白になった。
衛生兵として特務小隊を支えてきた彼女は多少なりとも医学の心得があり、大抵の怪我の具合は一目見ただけで分かってしまう。
そんな彼女だからこそ絶望を覚えてしまうのだ。
タイオンの怪我は、どう見たって重症だ。
右腕は恐らくマヒしている。脇腹を怪我しているのか、戦術士の白い上着には血が染みている。
両足もひしゃげた機体に挟まっているためきっと折れているだろう。
頭も打っているらしくこめかみのあたりから血が垂れ落ちている。
膝の上には割れた眼鏡。一刻も早く治療を施さなければならない状態である。
このままではいつこの機体が崖下に堕ちるか分からないため、何とかタイオンの身体を外に運び出したいが、下半身はひしゃげている機体に挟まれ動かすことが出来ない。
両手で押してみたが、変形した機体はびくともしない。
こうしている間にも、脇腹に負った傷からの出血がひどくなっていく。
「くっそ!」
ブレイドを出現させると、ユーニはタイオンの足を挟み込んでいる機体の隙間にブレイドを差し込み、てこの原理でひしゃげている部分を押し上げた。
ようやくタイオンの足が、挟み込まれていた機体から解放される。
「ユーニさん!亡命者さん生きてますも!気を失っているだけで——!た、タイオンさん!」
どうやらもう一方のレウニスから亡命者を救い出すことが出来たらしい。
救出作業に一区切りつけたリクとマナナが、こちらのレウニスの様子を見にやって来た。
操縦室を覗き込んできたマナナの表情が、タイオンの姿を見た瞬間真っ青になる。
すぐ横にいたリクもまた、あまりの惨状に言葉を失っていた。
「リク、マナナ、ちょうどよかった。こいつを押さえておいてくれ」
「わ、わかったも!」
2匹の小さな体が、ひしゃげた部分に差し込まれたユーニのブレイドを固定する。
その隙に、ユーニはタイオンの両腕を後ろから引っ張る形で操縦席から救出した。
ユーニと2匹のノポンたちによってタイオンの身体はようやくレウニスから引き抜かれ、柔らかな草の上に横たえられる。
その瞬間、崖のすぐそばでバランスを保っていた白いレウニスはゆっくりと傾き始め、崖下へと真っ逆さまに落ちてしまった。
轟音と共に、遠くで爆発音が聞こえる。
あと数分タイオンを助けるのが遅ければ、あのレウニスと一緒に崖下へ落ちていたことだろう。
タイオンが横たわっている草の上に、血が染みていく。早く治療をしなければ。
横たわるタイオンのすぐそばに立ち、ユーニは再び出現させたブレイドを地面に突き立てた。
展開したのはラウンドヒーリング。
エーテルの流れを利用し周囲を回復させる技である。
しかし、このアーツは所詮応急処置にすぎない。
命に関わるほどの大きな外傷を回復するほどの力はないのだ。
「駄目デスも。傷、治りませんも!」
「アーツの力だけじゃどうしようもないも……ちゃんとした治療を受けないと治らないも」
「でも、シティーに運んでる暇なんてありませんも!」
シティーの医療施設に運べば、きっと傷も治るだろう。
だが、もはやタイオンの身体に猶予はない。
シティーに運んでいる間に失血死してしまってもおかしくはなかった。
唇をかみしめながら、ユーニはメディックガンナーの上着を脱ぎ捨てタイオンの傷へと押し当てる。
これ以上血が出ないように、止血のつもりだった。
だが、ユーニの緑色の上着はすぐに赤黒く染まっていく。
次第に流れ出ていく彼の血が、タイオンの残り時間を表しているようで辛かった。
あの時、レウニスのエンジンを撃ち抜いていなければ。
タイオンがしようとしていたことにもっと早く勘付いて止めることが出来ていれば。
様々な後悔が襲ってきてはすぐに消えていく。
シティーの平穏のためとはいえ、自分の命を懸けてまでレウニスを止めようとするなんて。
タイオンはそういう人間だ。守るべきと決めた者のためなら、自分の命だって投げ出せる男だ。
でも、だからって本当に命を捨ててまで止めようとするなんて間違っている。自分の命は何より大切なはずだ。
少なくともユーニにとってタイオンの命は、自分の命の次に、いや、同じくらい大切な存在だった。
嫌だ。タイオンが死ぬなんて嫌だ。
瞳から涙が零れ落ちる。
相方である彼を失うことは、半身をもがれたように辛い。
せめてあの時、レウニスではなくインタリンクした状態で後を追っていれば、少しは結果も変わっていたのかもしれないが——。
ん?インタリンク?
そこでユーニは初めて希望を見た。
そうだ。ブレイドのアーツが無理でも、インタリンクした状態のアーツならタイオンの傷も癒せるかもしれない。
ウロボロスの力は、生身の力より何十倍も優れている。
それは回復力に関しても言えることで、致命傷となり得る傷でさえ、ユーニの癒しの力を使えば助けることが出来る。
彼とインタリンクして、回復アーツを自分に向けて使えば、もしかしたら——。
「インタリンクだ……!」
「インタリンク?」
「インタリンクして回復アーツを使えば助けられるかもしれない!」
ユーニの言葉にハッとするリクとマナナ。
そんな彼らを横目に、ユーニは投げ出されているタイオンの手に自分の手を重ねた。
いつものように集中し、神経を研ぎ澄ませてみるが、一向に彼と一つになれる気配がない。
どういうことだ。今までインタリンク出来なかったことなんて一度もないのに。
ふと瞼を閉じたままのタイオンの顔へと視線を向ける。
全く動く気配のないタイオンを見つめながら、ユーニは一つの仮説を立てた。
そうか、タイオンが意識を失っているからインタリンクが出来ないのか、と。
インタリンクは、互いの心を一つにした瞬間成立する現象である。
一方が無意識の状態であれば、心の矢印は一方通行になってしまい、心と身体を重ね合わせることなど出来るわけがない。
タイオンの意識が回復しない限り、ウロボロスの力を得ることは不可能なのだ。
だが、タイオンは重い瞼を閉じたまま。
どう見ても意識の回復など見込めない状態だったが、ユーニは瞳に涙を貯めながら彼の名前を呼んだ。
「タイオン、インタリンクだ!インタリンクしよう!そうすればきっと助かる!」
「ユーニさん……」
「目覚ませよ……!アタシが回復してやるから!なぁ、タイオン!」
「ユーニ、無茶言うなも……。タイオンはもう……」
「嫌だ!」
ユーニの喚き声が、草原に響く。
とめどなく涙を流すユーニは、命の炎が消えかかっているタイオンの身体に抱き着きながら、まるでシティーの子供のように泣き喚いた。
「やだ!やだァ……!死んじゃやだ!タイオン……!」
彼女らしからぬ言葉に、リクとマナナの目からも涙が零れ落ちる。
ユーニの白く美しい羽根が、タイオンの血で赤く染まっていく。
もはや温もりすら感じにくくなっている彼の身体を抱きしめていたユーニは、濡れた瞳でタイオンの顔を至近距離から見つめた。
瞼は完全に閉じられている一方で、唇はわずかに開いている。
小さな呼吸が漏れ出ている彼の息を吹き返すにはどうしたらいいのだろう。
そういえば、少し前にミオから借りたシティーの“ショウセツ”で、こんな話を呼んだ。
毒殺された“オヒメサマ”が、“オウジサマ”からの口付けで息を吹き返すというお話だ。
あんなものはお伽噺だ。空想上の話にすぎない。
第一自分は“オウジサマ”ではないし、タイオンは“オヒメサマ”でもない。
どうせ上手くいかないことは分かっていた。けれど、今は不確定な“お伽噺”にすら縋っていたかった。
安らかに眠っているタイオンの顔に、ユーニの顔が近付いていく。
青い瞳を閉じて、彼のほんの少しだけ開かれた唇にユーニの唇が重なった。
「ユーニ……」
「ユーニさん……」
すぐ隣で、2匹のノポンが息を詰めた。
唇を重ねながら、ユーニの手は力なく投げ出されているタイオンの手を握る。
閉じられた瞳から、涙が一筋零れ落ちた。
沈黙の中、脳内で伝える想いはただ一つ。
タイオン、死なないで。
数秒間の口付けを見つめていたリクとマナナは、不意に訪れた変化に目を見開いた。
重く閉じられていたタイオンの瞼が、震えながらゆっくりと薄く開かれたのだ。
ぼやける視界、全身を襲う痛み、そのすべてが現実のものとは思えない。
だが、この唇に押し付けられている柔らかな感触だけは本物だと確信できる。
まだインタリンクしていないにも関わらず、タイオンにはユーニの心が手に取るようにわかってしまった。
さっさと起きやがれ!
握られている手が痛い。そんなに全力で握りしめなくてもいいのに。
まったく、随分優しい起こし方だな。
脳裏でそう呟きながら、タイオンはユーニの手を握り返した。
その瞬間、2人の身体が優しい光に包まれる。
青く美しい光が2人の身体を溶かし合い、二つの存在を一つにまとめ上げる。
出現したのは、翼をもつ黒いウロボロス。
無事インタリンクに成功した彼女は、自らの羽根を広げてひらりと一回転した。
薄紅色の羽根が、まるで花弁のように舞い散る。
そして、両腕を空に掲げた瞬間、彼女の手から翡翠色の光が広がっていく。
膨大なエーテルを含んだ、癒しの光である。
全ての傷を癒すこの優しい力は、彼女の中にいるもう一つの命を癒すために輝き続ける。
ウロボロスの限界時間は、力を使い続けるごとに削られていく。
彼女が癒しの光を出し続ける限り、彼女の身体も熱く発熱していく。
死なせない。絶対に救ってみせる。
そんな彼女の想いが、自身の命を削りながら力を増大させていく。
だが、今の彼女には自らを俯瞰して見る冷静さが失われていた。
既に体は熱を発し、限界を知らせる警告音が鳴り響いている。
それでもなお癒しの力を放出し続ける彼女に、傍から見ていた2匹のノポンは焦りを露わにし始めた。
「ユーニさん!それ以上はだめデスも!」
「ユーニやめるも!これ以上力を使ったら、ユーニの身体が持たないも!」
2匹の叫びは、彼女の耳にもしっかり届いていた。
だが、それでもいい。
例えこの身が壊れても、タイオンが助かるのならそれでいい。
ユーニのような頭に羽根を持つ人間は、他の生き物よりも体に滞留しているエーテルが豊富だ。
だが、自らの身体に内包されているエーテルを使い果たせば、たとえ“羽根持ち”であろうと命に係わる。
身体に宿るエーテルが尽き、命の炎が燃え尽きたとしても、タイオンだけは救いたい。
その思いだけが、彼女を突き動かしていた。
エーテルの光に包まれながら、視界がぼやける。
まだだ。まだ足りない。限界を迎えるにはまだ早い。
アタシはまだやれる。
限界を越えようとする彼女の身体から、不意に力が抜ける。
抱え込んでいた命に背中を突き飛ばされたような感覚がユーニを襲った。
その瞬間、ウロボロスと化していた彼女の身体は一瞬にして光に包まれ、インタリンクが解除されてしまった。
“えっ、なんで?”
そう思ったのもつかの間。とてつもない疲労感が身体を包み、足腰に力が入らなくなる。
倒れそうになったユーニの身体を抱きとめたのは、傍らに着地したタイオンだった。
脱力したユーニの上半身を抱きしめながら、タイオンはゆっくりとその場に腰を下ろす。
ぼやける彼女の視界に映ったのは、心配そうに自分の顔を覗き込むタイオンの顔。
どうやら彼の意識は戻ったらしい。インタリンクを強制解除したのも、タイオンの判断だろう。
一命をとりとめた彼の様子に、ユーニは密かに安堵する。
「タイ、オン……」
「なんて無茶を……!死ぬところだったぞ!」
「だって、助けたかった、から……」
「ユーニ……」
タイオンの腕の中で、ユーニはゆっくりと目を閉じた。
急いで駆けつけたリクとマナナが彼女の顔を覗き込む。
僅かに開いた唇からは息が漏れており、ただ気を失っているだけだということが分かる。
安堵し、深く息を吐く2匹のノポン。
彼らのくりくりとした両目が、今度はタイオンへと向けられた。
「タイオンさんは大丈夫デスも?」
「あぁ。彼女のおかげでな」
そう言って、タイオンは血の染みが広がっている戦術士の上着をまくり上げた。
露出された褐色の素肌は、先ほどまで深い傷を負っていたにも関わらず傷跡すら残っていない。
これも、ウロボロスとなったユーニの回復力がなした業である。
あの深手を完全に回復されるだけの力を使うには、相当なエーテル力が必要だ。
限界近くまで力を使い果たしたユーニは、エーテル欠乏症にかかり気を失ったのだろう。
命に関わるような大きな症状ではないが、なるべく早く休ませてやる必要がある。
「君たちが乗って来たレウニスでシティーに帰ろう。リク、運転を頼めるか?」
「了解も!」
「マナナ、例の亡命者は無事か?」
「はいデスも!気を失ってマスも!」
「よし、あとでレウニスに乗せよう。まずはユーニからだ」
気を失っているユーニを横抱きにして抱き上げ、タイオンは立ち上がる。
傷が治ったとはいえ、体力が全て回復したわけではない。
疲労感にふらつきながらもユーニをしっかり抱き上げたタイオンは、ほんの少し息が上がっていた。
レウニスに向かってひょこひょこと前を走る2匹のノポン達の後を、タイオンはゆっくり歩く。
腕の中で眠っているユーニの羽根が、歩くたびにゆらゆらと揺れている。
彼女の羽根に付着している赤い血は、おそらく自分の血だろう。
この命を救うために彼女が無茶をしたのだと思うと、たまらなく心が締め付けられた。
「まったく。こんなことをされたら、二度と無茶なんて出来なくなるな」
ため息交じりなタイオンの独り言は、意識を失っているユーニにの耳には届かない。
全身から力が抜け、すべてをゆだねるように寄りかかっている彼女の身体を抱きながら、タイオンは薄く微笑むのだった。
END
愛しい瞳
それは星が綺麗な夜だった。
始めて見る流星群を見上げながら、タイオンはすぐ横で散り行く命の手を握っていた。
逝かないで。僕より先に逝かないで。
そう願い続けても、短い命は虚しく散っていく。
次に生まれ変わる時が来たとしても、きっと二人はまた敵同士で、世界の理に従って殺し合うのだろう。
そんな虚しい一生、もう嫌だ。
命が消えてしまう。“出会えてよかった”と微笑んでいた彼女が消えてしまう。
あぁ、もっと違う形で出会えていたら、こんな結末にはならなかったのかもしれない。
どうしようもない後悔を抱いたところでどうにもならない。
ユーニが消える。その事実はどんな道を辿っても変えられはしないのだ。
もしも願いが叶うなら、ユーニとの“今”が、永遠に続けばいいのに。
そんな愚かな願いを胸に秘め、タイオンは目を閉じた。
叶えよう、その願い。
***
浜辺での野宿というものは中々に大変だ。
森林や荒野に比べて風が強く、砂浜が舞い上がるたび目に細かい砂が入って不快になる。
そのうえ、海辺という特性上湿り気が多く、焚火がすぐ消える。
そろそろ日が沈みそうな頃合いで、ノアの提案により一行は野宿の準備を進め始めた。
薪を拾い火をつけたはいいものの、炎は風と湿り気によってすぐに消えてしまう。
苛立ちながら一生懸命薪の中の小さな炎に息を吹きかけていたランツだったが、とうとう器官に砂が入ったらしく“ゲホゲホ”と派手にせき込み始めた。
どうやらランツの肺活量に頼るのももう限界らしい。
新しい薪を見つけて来よう。
話し合いの結果そのような結論に至った一行は、セナが紙に書いたあみだくじで薪拾いの係を決めることになった。
2匹のノポンも加えて意気揚々とあみだの先を見つめる。
結果、貧乏くじを引いたのはタイオンとユーニだった。
厄を免れた他の仲間たちに手を振られ、2人は薪を探して陸地の奥へと足を進めた。
このあたりはあまり木が生えていない。
砂浜に流れ着いていた流木は先ほど使い切ってしまったし、この地で薪を集めるのはそれなりに時間がかかるかもしれない。
だらだらと歩いていた二人だったが、前方に何かを見つけたユーニが“オイ”とタイオンの服の袖を軽く引っ張った。
目の前に広がるのはのどかな丘である。
地面には白い花が咲き乱れている。恐らくセリオスアネモネだろう。
だが、ユーニが指をさしたのは馴染み深い花がたくさん生えていたからではない。
その花の上に、巨大な鉄巨神が鎮座しているのが見えたからである。
あの白い機体は間違いなくアグヌスの鉄巨神だ。
だが、このあたりにコロニーが展開しているなど聞いたことはない。
何故あんな所に?
不思議に思ったタイオンは、ユーニを後ろに従えながらゆっくりと前進した。
近くの大岩の陰に隠れてよく見てみると、鉄巨神の前に数人の兵士が並んでいる。
兵装からしてアグヌスの兵だろう。
両手を縛られている様子から察するに、捕虜の類だろうか。
だが、彼らを拘束しているのもまたアグヌスの兵たちだ。
味方同士で拘束するということは、脱走兵の類かもしれない。
「どうする?助ける?」
「いや、相手は多勢だ。二人だけで飛び出すのは危険だな」
「ノアたち呼ぶか」
「それがいいかもしれない」
「了解」
タイオンの言葉に従い、ユーニは“瞳”を起動させる。
ノアへと通信を繋げようとしたその時だった。
岩陰から様子を見ていたタイオンが、突然“いや、待て”とユーニを止めたのだ。
何事かと前方を見ると、鉄巨神から一人の男が降り立った。
その風貌に、ユーニは息を呑む。
白銀と黄金が混ざったあの装いは見覚えがあった。
もう一人のミオである、あのエムというメビウスと同じ兵装である。
エムはミオと入れ替わったことで既にこの世にないし、あれはどう見ても男だ。
別人だが同じ兵装ということは、あれはエムと同等レベルのメビウスということか。
そんな人間が、一体何故こんなところに?
困惑するタイオンとユーニだったが、そんな彼らの目の前で、件のメビウスは丘の上に無理やり座らされている捕縛兵の身体を腰に差していた剣で突き刺した。
思わず息が止まりそうになる2人。
驚き、言葉を失っているタイオンとユーニの眼前で、メビウスは並ばされた兵たちの命を次々に奪い始めた。
もう見ていられない。
“行こう”と言い立ち上がったユーニを一瞬引き留めようとしたタイオンだったが、既に怒りに震えている彼女の横顔を見た瞬間、止めることは出来そうにないと悟った。
「やめろォォッ!」
駆けだし、前出たユーニは素早くブレイドを出現させ、正確な狙いでエーテル弾を発射させる。
だが、そんなユーニの気配にいち早く気付いた件のメビウスは、右手を前に掲げてシールドを展開させる。
透明なシールドを前に、ユーニが放ったエーテル弾は不発に終わってしまった。
「クソっ、なんだあのシールド!」
「ブレイドを使わずに壁を張れるのか!?」
白銀と黄金の兵装を身に纏ったその男は、頭全体を覆っているヘッドギアのせいで素顔が見えない。
目の前でブレイドを構え、臨戦態勢を取っているタイオンとユーニの姿を暫く見つめると、彼はヘッドギアの分厚い装甲越しに“フッ”と笑い声を漏らした。
余裕を見せる男の態度が癪に障る。
ユーニは舌打ちすると、男に向かって“何笑ってやがる!?”とどすの利いた声で怒鳴り上げた。
「いや、エヌやエムの残滓が生まれたと聞いて、もしやと思ったが、まさか本当に会えるとはな」
「は?」
「どういう意味だ!?」
「君たちに会えたことは、僕にとっては僥倖だ。だが君たちにとっては——」
その瞬間、捕虜となっていた最後の一人が悲痛な悲鳴を挙げる。
男の剣が、素早く兵の胸を貫いたのだ。
止める間もなかった。
真っ赤な命の粒子をまき散らしながら息絶える兵を足蹴にしながら、件のメビウスは頭を覆っていたヘッドギアを解除させる。
「不幸と言えるだろうな」
「なっ……」
目の前に現れた顔は、ユーニにとってひどく見覚えのある顔だった。
タイオンと全く同じ顔が、そこにいる。
何故、どうして。動揺しながら振り返ると、自分の相方であるタイオンもまた、臨戦態勢を取りながらも目を丸くしていた。
メビウスの兵装を身に纏っている“もう一人のタイオン”は、今隣にいる彼と違って色の濃い目をしている。
光の宿らないその目は、もう一人のノアであるあの“エヌ”にそっくりだった。
「まさか、お前もエヌと同じ……!」
「天空の砦でのことは僕も聞き及んでいる。エヌやエックスを退けたそうだな。終の剣を持っていながらあのざまとは。だが、僕はそう簡単にはいかない」
右手に持っていた剣を勢いよく凪ぐと、剣にべったりと付着していた捕虜たちの血がはじけ落ちる。
足元に咲き乱れるセリオスアネモネの花びらが、血で赤く染まっていく。
だが、そんな些事を気にすることなく、もう一人のタイオンはセリオスアネモネを踏みにじりながら不敵な笑みを浮かべていた。
「このメビウス“ティー”が、お前たちの希望を断ってやろう」
「ティー!? ティーって確か……」
「あぁ、トライデンも“ティー”と自称していたはずだが……」
このアイオニオンを巡る旅の中で、2人は様々なメビウスと対峙してきた。
その中に、今目の前にいるもう一人のタイオンと同じく“ティー”の名を持つ者がいる。
メビウスでありながらウロボロスに力を貸している異端児、トライデンである。
“ティー”の名を持つメビウスは2人いたのかと驚くふたりだったが、そんな彼らを嘲笑うかのようにもう一人のタイオンは口元に笑みを浮かべだ。
「メビウスが一体何人この世界に存在していると思っている。この名は与えられたものに過ぎない。エックスやワイ、そしてゼット以外のメビウスは同じ名前を冠する者も複数いる。僕はただその一端を担っているだけのことだ」
「なんだそれ。メビウスってそんなにたくさんいるのかよ……!」
「無駄話はこれで終わりだ。そろそろ死んでもらうぞ」
剣を構えるティーに、タイオンとユーニは警戒した。
そして、そよ風が2人の頬を撫でたその瞬間、ティーは地面を蹴り上げ目にもとまらぬ速さで駆けだす。
狙いはユーニの方だった。
彼がユーニに食らいつく前に、タイオンはモンドを飛ばす。
鳥の形に姿を変えたモンドたちが、主人と同じ顔をしたメビウスへと一直線に向かう。
だが、寸前でモンドの接近に気が付いたティーはその場で高く飛び上がり、追いかけて急上昇してきたモンドを、素早い剣裁きでただの紙くずに変えてしまった。
“何だと!?”と嘆くタイオンの隣で、ユーニはガンロットを頭上へと構えた。
空中なら避けられないはず。そう判断したユーニは、的確に狙いを済ましエーテル弾を発射する。
だが、青い光を纏ったその一撃すらも、ティーの剣で一閃されてしまった。
そんな馬鹿な。
戦闘では、一瞬の思考停止が命取りになる。
真っ逆さまにユーニ目掛け落ちてきたティーは、落下速度を利用して剣を振り下ろす。
咄嗟に両手で持っていたガンロットで防いだユーニだったが、落下の衝撃が加わったメビウスの力に敵うわけもない。
彼女の身体はあっという間に後方へと吹き飛ばされてしまう。
膝をついたユーニに、ティーは追撃を図る。
先ほどからティーはユーニばかりを執拗に狙い続けている。
そこまで固執する理由が分からないが、とにかく守らなければ。
ユーニを庇うように立ちはだかると、即座にモンドの壁を展開してティーの刃を防いだ。
流石のメビウスでも、この壁は容易に突破できないらしい。
ティーが後方へ飛びのいたことで、一瞬の休息が訪れる。
「ユーニ、平気か?」
「あぁ……っ」
ガンロットを杖代わりによろよろと立ち上がるユーニ。
どうやらまだ戦えるようではあるが、消耗戦は厳しいだろう。
隙を見てノアたちに応援を頼みたいが、その隙すらも与えてくれる気配がない。
何とかしなくては。
焦るタイオンをじっと見つめていたティーは、彼と同じ顔で力の抜けたように笑みを浮かべた。
「そんなに彼女が大事か」
「何……?」
「身を挺して守るほど大事か。そうだろうな。彼女は、お前の“希望”だものな」
光の灯らない目が、タイオンとユーニを捉える。
もう一人の自分の言葉の意味が分からず、一瞬怯んでしまったタイオンだったが、剣を手に駆け出したティーに素早く反応し、再びモンドで壁を作った。
相手の剣と、タイオンの壁がぶつかり合う。
防げてはいるが、ものすごい力だ。このままじゃ押し負けるか、壁が破られてしまう。
強度を保つため、広く守っていたモンドたちを剣に触れている部分に集結させ、壁をあえて狭くすることで一点集中型の防御方法に切り替えた。
だが、これはタイオンの判断ミスだった。
自ら守る範囲を狭めた彼の行動を目に、ティーは不敵な笑みを浮かべる。
「判断を誤ったな、“タイオン”」
空いていたティーの左手から、もう1本の剣が出現する。
まさか、双剣だったのか。
今更わかってももはや遅い。
自ら防御範囲を狭めたタイオンの脇腹を狙い、ティーは左手に持ったもう1本の剣を突き立てようとした。
まずい。殺される。そう思ったその時だった。
「タイオンっ!」
背後からユーニの悲痛な叫び声が上がった。
必死に防御癖を展開する自らのパートナーの背に向かって、彼女は走り出す。
そして、その背を抱きしめるように彼の腰に腕を回した瞬間、2人の身体が聖なる光を纏い始める。
光と共に衝撃波が周囲を襲い、ティーはタイオンの脇腹に剣を突き立てる前に後方へと飛ばされた。
体勢を立て直し、前を向き直ったティーの視界に映ったのは、黒く巨大なウロボロスの姿。
美しい薄紫色の羽根を持つその身体を見つめるティーは、両手の剣を握る力を強めた。
これがインタリンク。
自分たちが実現しえなかった希望の産物。
忌々しい。
「くらえっ!」
ユーニの声と共に、花びらのような鋭く尖った羽根がティーめがけて飛んでいく。
だが、彼は両手に握った双剣を目の前で交差させ、透明なシールドを展開させる。
襲い掛かる羽根は全てシールドに阻まれ、彼の体に傷一つつけることはできない。
「くそっ、またあのシールドか!」
「それならこれはどうだ!」
ウロボロスの姿が、瞬時に黒から白へと姿を変える。
凛としたその姿から放たれる羽根を持ったモンドたちが、ティーの足元に突き立てられた。
足元ならばそのシールドでも防げまい。
白き身体を持つウロボロスは、その両手に力を込めて“爆散”と力強く唱えた。
彼の言葉と同時に、地面に突き立てられたモンドたちは次々と爆発していき、あたりは黒煙に包まれる。
「やったのか!?」
だが、広がる煙を切り裂くようにティーが飛び上がる。
そして、その2本の剣を突き立てた瞬間、白いウロボロスの両足は切断される。
あまりに一瞬のことで、何が起きたのか分からなかった。
足を失ったウロボロスは、もはや浮遊することすらできず真っ逆さまに地面に落ちていく。
身動きが取れないこの体のままでいるよりは、インタリンクを一旦解いたほうがいい。
そう判断したのはユーニだった。
半ば強引にインタリンクを解くと、生身となった2人の身体は草花の上に叩きつけられる。
全身が痛い。ティーからの一撃は重かった。
背中から地面に落ちたせいだろうか、四肢に力が入らない。
何とか立ち上がろうとするユーニだったが、覆いかぶさるように首を掴んできたティーによって阻まれる。
両足はティーの足によって動きを封じられ、起き上がることが出来ない。
両手を使いたいが、首を絞められているこの手を押し返さないと息が出来ない。
苦しい。痛い。ぼやける視界に映ったのは、タイオンと同じ顔をしたティーの姿だった。
「君の死に顔を見るのは二度目だな」
「が……、あ……っ」
「もう二度と見たくないと思っていたが、仕方ないな」
「……っ、」
剣が降り上げられる。
鋭い剣先が視界に入る。
あぁ、嫌だ。殺される。
誰か助けて、タイオン。
「やめろオオォォォッ!!!!」
その声はタイオンらしからぬ悲痛さが込められていた。
咲き乱れるセリオスアネモネの上を這いつくばりながら、彼は力を振り絞った。
必死に振りかぶった手から、モンドの束がまっすぐティーに向かって飛んでいく。
先ほどまでとは違い、ユーニの首を掴んでいる彼の体勢ではあのモンドは防げない。
仕方なくユーニの上から飛び退いたティーは、モンドの一撃を受けずに済んだ。
ティーの魔の手から逃れたユーニは、ようやく上体を起こすことが出来たが、未だ体を動かすだけの余裕はない。
首元を抑えながら“ゲホゲホ”とせき込んでいる彼女に、タイオンは痛む足を引きずりながら駆け寄った。
彼もまた、満身創痍だった。
最早あのティーと互角に渡り合えるほどの力は残っていない。
ユーニを抱き起こし、腕の中に仕舞い込みながらタイオンはティーを睨みつける。
その眼差しを、ティーはあの光の灯らない瞳でじっと見つめていた。
互いに距離を取ってにらみ合い、痛い沈黙が続く。
そんな沈黙を切り裂くように、どこからともなく人影が出現する。
他のメビウスがしているように、どこからか転移してきたその人影は、白い羽根をなびかせながらタイオンとティーの間に立ちはだかった。
「き、君は……!」
目の前に現れたその人物に、タイオンは目を見開く。
ミルクティー色の髪に白く美しい羽根。そして青い瞳。
間違いない。あれはユーニだ。
タイオンの腕に抱かれながら、ユーニはぼやける視界でもう一人の自分を捉える。
タイオンがメビウスとして存在している事実が分かった以上、もう一人の自分も存在する可能性は頭によぎっていた。
嫌な予感ほど当たるものだ。
漆黒と黄金の兵装は、エヌが身にまとっていたものによく似ている。
メビウスの姿をした自分をこの目で見る事になるなんて。
相変わらず四肢に力は入らないが、この身体を抱いているタイオンの手は自分を守るように力を強めている。
嫌な状況だというのに、近くタイオンがいるというだけで何とかなるような気がした。
「もう十分だろ、ティー」
「イー……」
「rb:私 > アタシたち役目はウロボロスの打倒じゃない。そういうのはエヌの役目だ」
「……」
「これ以上無駄な時間を過ごすなんて、貴方らしくない」
ユーニと同じ顔をしている“イー”と呼ばれたそのメビウスは、淡々とティーを説き伏せていた。
その口調は、ユーニのそれとはまったく違う。
エムの口調がミオのそれとは似ても似つかないのと同じように、ユーニとイーもまた、見た目以外は全くの別人のように思えた。
やがて、ティーは両手に握っていたブレイドを消滅させると眼鏡を押し上げ、動けずにいるタイオンとユーニに背を向けた。
「いいだろう。君に免じて今日のところは退いてやろう。ウロボロスはエヌの得物だ。勝手に仕留めたら面倒なことになりそうだからな」
“帰るぞ、イー”と言い残し、ティーは歩き出す。
その背に続くようにイーも歩き出すが、そんな彼女の背に向かって、タイオンは思わず“待て!”と叫んでしまった。
「お前たちは一体何なんだ!? エヌやエムと同じように、過去の僕たちなのか!?」
ティーとイーの存在は分からないことだらけだった。
自分とユーニも、ノアやミオのように遠い過去から縁を結んでいたのだろうか。
目の前にいるもう一人の自分たちが、過去を紐解く鍵を握っているのだとしたら、このまま行かせるわけにはいかなかった。
タイオンに引き留められたイーは、足を止めゆっくりと振り返る。
彼女の蒼い瞳には、やはり光が灯っていない。
満身創痍のユーニを大切そうに抱きかかえながらこちらを見つめているタイオンの目を見つめ、イーは目を細めた。
タイオンの褐色の瞳は、光を放っている。希望を孕んだ勇敢な瞳である。
「その目、懐かしいな……」
「え?」
タイオンの問いかけに、イーが答えることはなかった。
代わりに儚げな笑みを残して、彼女は自分と同じ顔をしたティーと共に転移してしまう。
結局何も分からないまま、取り逃がしてしまった。いや、見逃されたと言ったほうが適切だろう。
あのまま戦っていたら、きっと二人とも無事では済まなかっただろう。
ユーニの身体を抱き寄せながら安堵するタイオン。そんな彼の背後から、心配して様子を見に来た仲間たちが名前を呼ぶ声が聞こえていた。
***
ティーとイーが転移した先は、オリジンの最深部。
薄暗い廊下にたどり着いた二人は、沈黙のままゼットが待つ劇場へと向かっていた。
前を歩くティーが突然足を止める。
背後を黙って付いて歩いていたイーもまた、彼につられるように足を止めた。
「何故来た?ここにいろと言ったはずだ」
ティーは振り返ることなく問いかけて来る。
何処か冷たさを感じるその言い方に、イーは僅かに視線を逸らした。
「なかなか帰ってこなかったから」
「君はここにいればいい。君の分の命は僕が全て狩ってくる。安心して待っていればいいんだ」
「……」
何も言わないイーに、ティーはゆっくりと振り返る。
そして彼女の白い頬に手を添えると、彼女の唇に触れるだけの口付けを落とした。
唇が離れたと同時に目を開けると、ティーの暗い色をした瞳が視界に入る。
彼の目から光が失われたのは一体いつからだっただろう。
イーは、彼のこの目がたまらなく嫌いだった。
「エムの顛末は聞いているだろ。君にはエムの二の舞になって欲しくない。分かるな?」
「……あぁ」
イーの細い腰を引き寄せ、ティーは彼女を腕の中に閉じ込める。
彼女を束縛するように、離さないように。
包み込むその腕の中で、イーはあの丘で見た“タイオン”のことを思い出していた。
ユーニの身体を守るように抱きしめながらじっと睨みつける彼の目は、とてもきれいだった。
今自分を抱きしめているこの弱くて脆い男も、かつてはあんな目をしていたのに。
あの目、好きだったんだよな。
ティーの背中に腕を回す。
ゼットから与えられた“永遠の今”は、2人にとって甘美な褒美だった。
命の終わりなど考えずに済むこの生き方は幸せで、あの頃漠然と抱いていた不安や恐怖など全く感じない。
けれど、あまりにも長い時を過ごす中で、2人は変わってしまった。
ティーはあの頃のように柔らかく微笑むことはなくなったし、自分も声を挙げて笑うことが無くなった。
彼の希望にあふれたあの目を、もう一度見る事は敵わないのだろうか。
またあの頃の“タイオン”には戻れないのだろうか。
もう一度、“ユーニ”と呼んでくれる日は二度と訪れないのだろうか。
後悔してももう遅い。既に自分たちは選んでしまったのだ。この悲しい道を。
どんなに時が経っても、どんなに変わっても、アタシのタイオンはここにいる。
彼の背を撫でながら、イーはその蒼く美しい瞳から涙を零した。
END
きみの翼になれたなら2
ノア達に遅れること丸1日。カーナの古戦場で足止めを食らったタイオンとユーニは、ようやくコロニー30に到着した。
己の骸を目にして怯えていた昨日までの様子が嘘のように、ユーニはいつも通りを装っている。
昨晩、タイオンの肩に寄りかかり心を落ち着かせていた彼女は言っていた。
“今日のことは他の皆には内緒にしてほしい”と。
そんな彼女の要望を叶えるため、タイオンは平静を装った。——つもりだった。
どうもユーニを視界の端に捉えると、心がざわつくのだ。
彼女の気配が近くにいないと落ち着かなくなる。
どこにいるのか、何をしているのか気になってしまう。
無意識に彼女の存在を探し、いつも通り過ごしていると分かれば安堵する。
そんなことを繰り返していくうちに、タイオンは己の心情の変化を自覚した。
これはきっと、意識してしまっているのだ。
怯えている彼女を落ち着かせるためとはいえ、肩を貸したり抱き寄せたり。
あまつさえ唇を重ねてしまった。
あの行為はシティーでは“キス”と呼ばれる特別なスキンシップだという。
唇を重ねた経緯は単純。過呼吸に陥った彼女の呼吸を元に戻すためである。
そこに深い意味はないし、あの時はユーニを落ち着かせるために必死だった。
もっと適切な処置法はあったのかもしれないが、あの時のタイオンにはこれが精一杯の対処だった。
後悔はしていない。ユーニも嫌がってはいなかったし。
だが、あの行為がタイオンの心を搔き乱し、動揺させているのは間違いなかった。
「ということで、君から頼まれていた素材はすべて回収した。先ほどコレペディアで送ったから確認してくれ」
《あらありがとう。さすが仕事が早いわね、タイオン》
積み上げられたコンテナに寄りかかり、タイオンは“瞳”の通信機能を利用していた。
相手はニイナ。コロニーイオタの軍務長である。
数日前、イオタに立ち寄った際彼女から素材の収集を依頼されていた。
新しいレウニスを建造するのに必要な素材らしい。
リストアップされた素材をすべてコレペディアでイオタ宛に贈ると、網膜の向こう側に映し出されたニイナは満足そうに微笑んだ。
《今確認したわ。これで新しくレウニスを作れる。今度お礼をしなくちゃいけないわね》
「構わない。どうせ各地を旅しているついでだからな」
《そう。ならついでと言っては何だけど、もう一つ頼まれてくれないかしら?》
「なんだ?」
《レウニスに搭載するエーテル砲台の固定器具なんだけど、アグヌスの技術では少々心もとないの。だからコロニー30で砲台建設の技術を——》
ニイナが全て伝え終える前に、遠方から“タイオン!”と名前が呼ばれる。
その声の主が誰なのか、タイオンにはすぐに分かってしまう。
顔を上げると、少し離れた天幕から顔を出したユーニがこちらに手招きしていた。
笑顔でこちらを見つめながら手招きするユーニの姿を見た瞬間、タイオンの中の優先順位が入れ替わる。
彼の意識が別のところへ向けられていることに気が付いたニイナは、自分の話をちゃんと聞こうとしてくれないタイオンに眉を潜めた。
《ねぇちょっと、聞いてるの?》
「えっ、あぁすまない。ニイナ、その話、また後でもいいか?」
《え?結構大事な話なんだけど?》
「すまん。急用が出来た。あとですぐに折り返すから」
《ちょ、ちょっと待っ——》
引き留めるニイナに構うことなく、タイオンは強制的に通信を遮断する。
そして、踊る心を抱えながら、手招きするユーニの元へ駆け寄った。
“どうした?”と問いかけると、彼女は笑みを浮かべながら無言で手を取って来る。
突然の出来事に驚き、心臓が跳ね上がる。
そんなタイオンの様子に気付いてるのかいないのか、彼女は手を引きながら天幕の奥に引き込んでいく。
何を考えているのか分からないユーニの行動と笑顔に、タイオンの心は激しく搔き乱されてしまう。
それでもなお、この状況に小さな喜びを覚えている自分は少しおかしくなってしまったのかもしれない。
やがてタイオンはユーニの手によって天幕の一番奥へと連れ込まれた。
この天幕は物置になっており、多くのコンテナや収納ボックスが所狭しと積まれている。
部屋の奥に並べられた棚の一番上。そこに積み上げられた一つの箱を指さしてユーニは微笑んだ。
「あれ取ってくんない?」
「え、あぁ……」
ユーニに促されるまま、タイオンは棚へと歩み寄り腕を伸ばす。
なんだ。わざわざ呼ばれたのはこれを取って欲しいだけだったのか。
別に何かを期待していたわけじゃない。だが、なんだか肩透かしを食らった気分になってしまう。
箱は案外軽く、中身はおそらく大したものではないのだろう。
棚の一番上にあったとはいえ、そこまで高い場所ではない。
ユーニでもそのあたりのコンテナを踏み台に使えば十分手が届く高さだった。
箱を手に取り、ユーニを手渡すと、彼女は箱にうっすら積もった埃を手で払いながら礼を言ってくる。
「ありがと。助かった」
「わざわざ僕を呼ばなくても一人で取れたんじゃないか?そこまでの高さじゃなかったし」
「かもな」
「“かもな”って……」
「この前、“頼られたい”って言ってたろ?」
「まぁ、言ったが」
「だから頼ってみた」
肩をすくませ笑うユーニは、まるでこちらを揶揄っているかのよう。
相変わらず心を搔き乱してくる彼女の言動に、タイオンは顔を赤くしながら視線を逸らした。
“なんだそれ……”
彼の呟きにユーニが答えることはなく、“じゃあありがとなー”と軽く手を振りながら去っていく。
呆気なく離れてしまうユーニの背中を見つめながら、タイオンは肩を落とした。
頼ってくれるのは嬉しいが、もっとこう、何かないのか。
“ありがとな”の一言じゃなくて、もう少し益のあるようなことをしてほしい。例えば——。
頭に浮かぶのは、ユーニと唇を重ねたあの瞬間の光景。
フラッシュバックした例の記憶に、タイオンは急に恥ずかしくなって頭を抱えながらその場にしゃがみ込んだ。
「ああぁぁもう……」
最近の自分は変だ。
ユーニを前にするとどうにも落ち着かなくなる。
妙な期待を胸に抱いてしまう。
彼女に親切をするたび、見返りを求めている自分がいた。
言葉だけのお礼ではなく、心を満たしてくれる甘い甘い礼が欲しい。
そんな浅ましい心の存在に気付きながら、タイオンは思い悩んでいた。
***
その日の夜、天幕内に並べられたベッドで横になっていたタイオンは、一向に訪れない眠気に苛立っていた。
同じ部屋で眠っているノアやランツは、とうの昔に規則正しい寝息を立てはじめている。
1時間経っても2時間経っても眠れそうにないのは、頭の中でずっとユーニの微笑みが浮かんでいるからだ。
静かな空間で目を瞑っていると、余計に妙なことを考えてしまう。
少し気分転換したほうがよさそうだ。
そう思ったタイオンは、ゆっくりとベッドから抜け出し、天幕の外へと出た。
深夜のコロニー30は異様なほど静かで、無数にいるノポンたちの声で騒がしい昼間とは正反対だった。
未だ完成しない巨大なレウニス、ドルークの前を通り過ぎ、隔絶されたコロニー30の入り口へと向かう。
門をくぐり外へ出ると、気持ちの良い夜風が頬を撫でる。
空を見上げれば星空が雲間に見えていて、月の光だけがあたりを照らしている。
そういえば、あの日ユーニと寄り添っていた日もこんな綺麗な星が見えていた。
「あぁもう!また考えてる!気を紛らわせるために来たのに!」
「何騒いでんの?」
背後からかけられた声に、タイオンは肩を震わせた。
焦って振り返った先にいたのは、他の誰でもないユーニの姿。
思考を搔き乱していた張本人の頂上に、彼は分かりやすく動揺した。
“うおっ”と情けない声を挙げ後ずさる相方の姿に、ユーニは怪訝な表情を浮かべる。
「何その反応」
「いや、別に。ちょっと驚いただけだ」
「ふぅん。何してんのこんなところでこんな時間に」
「気分転換だ。ちょっと寝付けなくてな」
「なるほどな」
「……君は?」
「アタシもまぁそんなとこ」
「そうか」
何をするわけでもなく、ただ黙って空を見上げる2人。
静かな夜に漂う沈黙は、タイオンから落ち着きを奪っていく。
忘れるために出てきたというのに、彼女が傍らにいては忘れたくても忘れられない。
出来れば早くこの場を立ち去って欲しい。
平穏さを取り戻すためそんなことを考え始めていたタイオン。
彼の気持ちを察したのか、ユーニは小さく息を吐くと、タイオンを見上げた。
「じゃ、アタシは先に戻るわ」
「えっ……。もういくのか?」
「うん。だめ?」
「いや、その、別に……」
早く何処かへ行ってほしいと願っていたにも関わらず、いざユーニがこの場を去ろうとすると急に猛烈な寂しさが襲い来る。
口から漏れ出てしまった引き留めるような言葉に一番驚いたのは、タイオン本人だった。
誤魔化しながら視線を逸らす彼を見つめながら、ユーニはクスッと笑みを零す。
そして、その場から去ることなく留まると、彼女はタイオンの顔を覗き込みながら口を開いた。
「ずっと言おうと思ってたんだけど、あの時、ありがとな」
「あの時?」
「ほら、アタシが過呼吸になった時止めてくれただろ?人工呼吸で」
「っ、」
「助かったよ。あのままだったらヤバかった」
その話題は、今一番穿り返されたくない話題だった。
頭の奥の奥に押し込めようとしていたあの時の記憶が、ユーニ本人の手によって引っ張り出されてしまう。
そしてまた搔き乱すのだ。タイオンの心を。
腕を組み、眼鏡を押し上げ、タイオンは赤くなった顔を隠すようにそっぽを向く。
「別に普通のことだ。ただ助けたかっただけで深い意味はない。あれはただの人工呼吸なんだし……」
「でもおかげで助かったことは事実だろ?何かお礼しなくちゃな」
「お、お礼……?」
“なにがいい?”
そう言って微笑むユーニに、心に隠したあさましい期待感がぶわりと広がる。
なにがって、その決定権をこちらに委ねるのか?
そんなの困る。お礼という名の都合のいい大義名分のもと、ユーニはタイオンの答えを待っている。
彼女を前に、“礼なんていい”などとカッコつけた言葉は言えそうになかった。
迷った末、彼はゆっくりと両手を広げた。
そんなタイオンを前に首を傾げるユーニ。
顔を真っ赤にしながら視線を逸らす彼の行動に、ユーニはようやく察しがついた。
「……ハグ?」
「ふ、深い意味はないぞ!? ハグにはストレスを軽減させる効果があるという。実益をかねた行動だ!」
「そんなにストレス溜まってんのかよ」
「……まぁ、それなりに」
嘘だった。
別にストレスなんて溜まっていない。
両手を広げて招き入れようとしたのは、浅はかな下心がさせた行動である。
そんな彼の心を見透かしたかのように、ユーニは微笑みゆっくりと歩み寄る。
そしてタイオンの胸に寄り添うと、タイオンの背中に腕を回した。
彼女の華奢な体を腕の中に閉じ込めた瞬間、ユーニの香りがふわりと漂ってくる。
柔らかな体は抱き心地が良くて、ずっとこの腕に仕舞い込んでいたくなる。
心臓がバクバクと鼓動している。
皮膚越しにこの鼓動が伝わってしまっているかもしれないが、それでもいい。
ユーニを抱きしめていると、高揚感と共に安堵感に支配された。
「どうだ?癒された?」
「……えっと、まぁ、そうだな。それなりに」
「なんか、アタシも落ち着く」
「もう怖くないか?」
「どうだろ。また思い出してビビっちまう日は来るだろうな」
「そうか」
「でも、その時はこうやって抱きしめてくれるんだろ?」
「僕でいいなら、いくらでも……」
「タイオンじゃなきゃ意味ないって」
その言葉は、タイオンを軽率に喜ばせてしまう。
彼女の身体を抱きしめる手に力がこもってしまったのは、無意識だった。
最初は単純に、悪夢に怯えるユーニの心を癒したくてした行動だった。
彼女が“落ち着く”と言うから抱き寄せて、頭を撫でて、気が済むまで寄り添ってやる。
彼女のため、ユーニのためだと言い聞かせてしていた行動が、次第に自分のためになっていく。
抱きしめる理由が、“ユーニが望んでいるから”ではなく“自分がそうしたいから”にすり替わる。
大きな願望を叶えることが出来たタイオンは、ユーニの身体を抱きしめながら満足感に浸っていた。
以降、“ユーニを落ち着かせる”という都合のいい大義名分のもと、毎晩彼女の身体を抱きしめる習慣が形成されたのは言うまでもない。
ユーニのためなどではなく、自分自身のためにしているだなんて、タイオンの口からはとてもではないが言えそうになかった。
END
長い話のその後で2
コロニーガンマの夜は実に静かなものだった。
虫の声だけが響く真っ暗なコロニーの端を、ユーニは天幕の陰に隠れつつ突き進んでいく。
目指すはコロニーの正面門。唯一の出口である。
二国間人材交流。数年前に融合を果たした巨神界とアルストの交流を目的としたこの定期交流企画にユーニが選ばれたのは約3か月ほど前。
事前に定められた交流期間はとっくに終了しているはずだが、彼女は未だ派遣先であるコロニーガンマにいた。
理由は簡単。このコロニーの作戦課長兼ユーニの上官に当たる男、タイオンのせいである。
1か月前、タイオンが自分たちにはない“特別な記憶”を持っていることを知った。
その記憶の上で、自分と彼がただならぬ関係であることも判明し、大いに驚かされた。
だが、それは世界が融合する前の話であり、いわば前世のようなもの。
今を生きるユーニには全くと言っていいほど関係がない。
彼と自分が過去にどんな縁を結んでいたとしても、だからと言って彼に惹かれる理由にはならない。
そう思っていたのに、タイオンに見合いの話が持ち上がっていることを聞いたユーニは、あろうことか止めに入ってしまったのだ。
今思えばあれが間違いだった。あんな馬鹿なことをしなければ、今頃故郷であるコロニー9に帰れただろうに。
タイオンは元々ユーニを特別扱いしていたが、あれ以降その扱いの手厚さが目に見えて酷くなった。
仕事をしにこのガンマへと赴いているというのに、仕事を貰おうとするとタイオンに“必要ない”と止められる。
ならば他の兵たちに仕事を分けてもらおうとすると、“作戦課長に叱られてしまうので”と全員遠慮して何も手伝わせてくれない。
暇で暇で死にそうにな日々が3か月も続けば、誰しも思うだろう。
帰りたい、と。
現在、タイオンはキャッスルに出払っていてコロニーを留守にしている。
つまり、今日は彼の監視の目がないということ。
ユーニはこの瞬間をずっと待っていたのだ。
陽が落ちてからひっそりとガンマ脱出計画を実行しよう。
そう思い待ち焦がれていたユーニに、ようやくチャンスの時が訪れた。
正面門が見えた。
あそこから出ればもうコロニーの外だ。ようやくコロニー9に帰還できる。
そう思った瞬間の出来事だった。
「おやおや、脱走は感心しませんね、ユーニさん」
正門の陰から現れた人影に、ユーニはぎくりと身体を固くする。
月の光に照らされたその人影の正体は、作戦立案課に所属する兵の一人、アシハラだった。
彼はタイオンの直属の部下であり、右腕のような存在でもある。
自分が不在の間、彼は必要以上にユーニの行動に目を光らせていた。
恐らくタイオンから“よく見ておくように”と念押しされているのだろう。
尊敬している上司からの命令に忠実な彼は、ユーニの脱走計画を見逃すはずがない。
「うげっ、ミニタイオン……」
「勝手に出て行かれては困ります。タイオン作戦課長が悲しみますよ」
「そう思うならアタシに仕事回せよ。暇死しそうなんだよこっちは!」
「それは無理です。作戦課長の意向なので」
一言目には“作戦課長”と口にするこの男の言葉に、ユーニは苛立ちを隠せなかった。
アシハラだけではない。このコロニーガンマでは、タイオンは大いに慕われている。
最年少で作戦課長の座に就くほどの有能さは、部下たちの憧れの視線を集めていた。
さらにこのコロニーガンマでは、軍務長であるシドウが本国の教導官を務めている関係で不在にしがちである。
そのせいもあって、常々不在の軍務長よりも常駐しているナンバー2である作戦課長に実権が集中している状態なのだ。
このコロニーガンマは、もはやタイオンのコロニーと呼んでも差し支えない。
タイオンが支配するこのコロニーから脱出するなど、初めから無理だったのだ。
結局その日の脱出計画は、アシハラの出現によって阻まれてしまう。
折角の機会を失ったユーニは、肩を落としながらとぼとぼと兵舎に帰るのだった。
***
「あーもう帰りてぇ……」
彫刻道具が散乱しているテーブルに項垂れながら、ユーニはつぶやく。
幼馴染のそんな言葉を聞きながら、正面に座るヨランは一心不乱に小さな木片を削り続けていた。
同じくコロニー9から派遣されてきたこのヨランという青年は、ユーニの幼馴染である。
ユーニと違って彼にはきちんと仕事が割り振られており、毎日充実しているようだ。
同じように派遣された人材だというのにどうしてこうも扱いが違うのか。
ヨランを見るたびユーニはたびたび不満を抱くのだ。
「そんなに帰りたいの?いいところじゃない、ここ」
「お前にとってはな。朝から晩まで何もできず、コロニーの外にも出られないアタシの身にもなってみろよ。ほぼ軟禁状態だぜ?帰りたくなるだろそんなの」
「そうかなぁ。僕はも少しここにいてもいいかなって思うよ?こんな工房も作ってもらえたし」
そう言って、ヨランは嬉しそうに微笑みながら狭い工房内を見渡した。
この小屋は、彫刻が趣味であるヨランのためにタイオンが即席で作らせた専用の工房である。
当然、自分専用の工房を貰ったヨランは大いに喜び、彼の中に“コロニー9に帰りたい”という気持ちはもう一切残っていないのだろう。
ユーニは知っている。これはタイオンの策だ。
彼はユーニと一緒に派遣されてきたヨランを抱き込むことで、ユーニと共謀しガンマから出て行かないようにしているのだ。
さらに、ユーニたちと入れ替わりでコロニー9に派遣されたという2人の女性は、タイオン曰くノアやランツとかつて深い絆を結んだ者たちだという。
それを知っていて向こうに派遣したのは、彼女たちがコロニー9滞在延長を希望する未来を見据えてのことだろう。
先方が延長を希望している以上、ユーニもこのガンマ滞在延長を余儀なくされる。
何もかもがユーニをここへ留めるための策略だ。
着々と外堀を埋めてくるタイオンの行動に、ユーニは少しずつ身動きが取れなくなっていった。
「なんでこんなにアタシを囲うんだろ、アイツ」
「そりゃあ好きだからでしょ?前世でいろいろあったらしいって言ってたじゃない」
「そうなのかねぇ……」
「ユーニはタイオン作戦課長のこと好きじゃないの?」
「うーん、どうだろうな」
正直、好きか嫌いかと問われればよくわからなかった。
嫌いではないのは確かだ。どちらかというと好きな方だろう。
だが、何故好きなのか、どこが好きなのかはよく分からない。
タイオンの言う“前世の記憶”とやらが、本能的にタイオンを求めているのかもしれない。
もしくは、タイオンに“好きだ”と言われてなんとなく惹かれただけの可能性もある。
どちらにせよ、タイオンから注がれる愛情と同等の愛を返せる自信はなかった。
ユーニはまだ、純粋に愛を囁けるほどタイオンのことを知り尽くしてはいない。
「作戦課長のご帰還だーっ!」
外から聞こえてきた声に、ユーニは無意識に震えあがった。
どうやらキャッスルに赴いていたタイオンがガンマに帰還したらしい。
あぁ、とうとう帰ってきてしまった。
項垂れていたユーニだったが、ヨランに促されながら工房の外へ出る。
コロニーの中央へ移動すると、そこには人だかりが出来ていた。
人々の中央にいるのは、先ほどキャッスルから帰ったばかりのタイオン。
アシハラの報告を聞きながら頷いていた彼は、人混みの向こうに見えるユーニとヨランの姿を視界に捉え、穏やかに笑みを浮かべた。
報告を続けていたアシハラに一言断りを入れ、人だかりをかき分けながらゆっくりと2人に近付いていく。
タイオンの目当ては、当然ヨランではなくユーニだった。
まずい。早速こっち来やがった。
逃げるか?いや、ここで逃げたら流石に露骨か。
腹いせに外堀を更に埋められる可能性がある。
どうする。どうする。
考えている内に、タイオンはあっという間に目の前まで来てしまった。
眼鏡の向こうに見える彼の瞳は、優し気に細められている。
そして、ユーニの頬に手を添えながらその小さな耳に口元を寄せる。
「今夜10時、部屋に来てくれ」
「えっ……」
驚き目を見張るユーニ。
そんな彼女に微笑みを向けながら、タイオンは離れていく。
そして、アシハラたち多くの部下を引き連れながらコロニーの奥にある作戦立案課の天幕へと立ち去った。
その背を見つめながら、ユーニは彼に触れられた頬に手を当て顔を真っ赤にしていた。
何だ今のは。“部屋に来い”? 帰って早々それかよ。
というか、周りにコロニーの連中がわんさかいるのに、少しは人目を気にしろよ。
真っ赤な顔で遠くに消えていったタイオンの姿を睨みつけるユーニの顔を、隣に立っていたヨランがのぞき込む。
「頑張ってね、ユーニ」
「なにをだよ、ったく……」
***
夜が更け、いつの間にかタイオンとの約束の時間がやってきてしまった。
ほんの少しの憂鬱さを感じながら、ユーニはタイオンから指定された通り作戦立案課の棟を訪れる。
このコロニーガンマには各課の棟が建造されており、執務室や所属している兵たちの私室が設けられている。
ユーニが向かっていたのは、作戦立案課棟の最上階。最奥に位置しているタイオンの私室である。
廊下の突き当りに両開きの扉が見えた。あれがタイオンの部屋だ。
深呼吸してから扉をノックすると、中から“どうぞ”と声がする。
ゆっくりと扉を開き中を覗くと、タイオンは奥に置かれた執務席に腰かけなにやら書類に目を通していた。
部屋に入ってきたユーニの姿を見ると、真剣な眼差しだった彼の目が優しく細められる。
「ようやく来たか」
そう言って、タイオンは片腕を広げる。
それは“こちらへ来い”の合図だった。
有無を言わさぬ彼の空気に従いそっと近づくと、タイオンはユーニの腰を引き寄せ自らの膝の上に座らせた。
急激に顔と顔が近くなる。
息を詰め瞬間、タイオンに引き寄せられ唇が重なった。
抵抗する理由は特にない。
されるがままに受け入れると、口付けはさらに深くなっていった。
こうしてタイオンに口付けられるのはもう既に慣れきってしまっている。
会うたびこうして抱き寄せられ、口付けを交わされる。
そのたび心が浮き上がってしまうのは、ユーニの中に残っている“タイオンとの記憶”が歓喜しているからなのだろう。
身に覚えはないのに、タイオンから愛を注がれると心が疼く。
いっそ記憶をすべて思い出せたなら、こんな複雑な気持ちにはならないだろうに。
「僕が留守の間、ガンマから出て行こうとしたらしいな」
唇を開放したタイオンは、ユーニの腰を捕まえながら問いかける。
どうやらアシハラが早速バラしてしまったらしい。
どんだけ忠犬なんだよあの眼鏡。
心の中で悪態をつきつつ、ユーニは何も答えない。
無言はただの肯定でしかない。
何も答えてはくれないユーニに、タイオンは少しだけ哀し気に瞳を揺らしながら問いかけを続けた。
「君は僕が嫌いか?」
「そんなことねぇけど……」
「なら何故逃げようとする?」
「みんなアタシを特別扱いするから居心地が悪いんだよ。“タイオン作戦課長の女”みたいな認識されて、誰も仕事振ってくれないし」
「言っただろ?君は何もしなくていい。僕のそばにいてくれればそれでいいと」
「それが嫌なんだよ。何もしないなんてただの穀潰しみたいじゃん。これでも衛生兵なんだから、せめてモンスターの討伐任務ぐらい同行させろよ」
「駄目だ」
「なんで!?」
思わず声を荒げてしまったユーニ。
そんな彼女の髪に指を絡ませ、愛おし気に愛でながら、タイオンは囁く。
「君にはもう二度と戦ってほしくない」
「え……?」
「せっかく戦わずとも生きられる世界に生まれてこられたんだ。君には平穏に、安全に生きて欲しい。僕の元で」
まっすぐ見つめてくるタイオンの言葉に、ユーニは反論する気力を失ってしまう。
彼から“過去”の話はざっくりと聞いている。
この世界はかつて全く別に形をしていて、“アイオニオン”と呼称されていたらしい。
アイオニオンでは人の命は軽く、長くとも10年しか生きられなかったという。
命の循環を繰り返すアイオニオンは、今では考えられないほど悲惨な世界だったのだ。
ユーニもまた、アイオニオンの悲惨な運命の上に生きていたらしい。
その時の記憶は一切ないが、時折見覚えのない光景がフラッシュバックするのはその時記憶が見せた幻なのだろう。
自分の知らない過去の話を持ち出されたら、何も言えなくなってしまう。
「うわっ」
黙ったままのユーニの身体を、タイオンが急に横抱きの状態で抱き上げた。
そして、少し離れた場所に置かれているベッドの上にゆっくりと寝かされる。
上から覆いかぶさるように組み敷いてきたタイオンに、ユーニはようやく焦り始めた。
彼とは求められるがままに何度か体を重ねたが、今日はあまりその気がなかったのだ。
「ちょ、仕事中だったんじゃねぇの!?」
「書類をチェックしていただけだ。問題ない」
「いや、けど——」
「遠征で疲れたんだ。少し充電させてくれ」
眼鏡を外し、タイオンはユーニの首筋に顔をうずめた。
彼の舌がユーニの白い首筋を這い、何度もちゅうちゅうと音を立てて吸い付く。
それがなんだかくすぐったくて、ベッドの上で足を擦り合わせてしまう。
タイオンの癖毛が頬に当たる。
身体をまさぐり始めた彼の手つきに自然と甘い声を挙げながら、ユーニは問いかける。
「ね、ねぇ、聞いていい?」
「ん?」
「アタシたちって、昔もこういうことする間柄だったの?」
ユーニからの質問に、タイオンの動きが止まる。
そして首筋にうずめていた顔を上げ、彼は驚いたように目を丸くしながら“何故そんなことを聞く”と返して来た。
「だって、もし恋人同士じゃなかったなら、こういうことするのに意味なんてあるのかなって」
「……もしそういう間柄じゃなかったとしたら、君は僕を拒絶するのか?」
「それは……」
タイオンからアイオニオンのことを聞いたことはあったが、自分たちが具体的にどんな関係だったのかは一度も聞いたことが無かった。
ただ、“それなりの関係だった”という言葉だけで、恋人だったとか友人だったとか、明確な関係を匂わせる言葉は何もくれないのだ。
もし恋人でも何でもなかったとしたら、この行為に意味はあるのだろうか。
もし赤の他人だったとして、自分はタイオンを受け入れるべきなのだろうか。
何も覚えていないユーニには、何もわからなかった。
目を逸らすユーニを見下ろしながら、タイオンはそっと口を開く。
「……恋人だった」
「そう、なの?」
「あぁ。こういうことは何度もしてきたから、心配しないでくれ」
再びタイオンの口付けが降ってくる。
その言葉を信じるしかないユーニは、彼の首に腕を回して舌を受け入れる。
過去の記憶が戻る気配は相変わらずないが、記憶を取り戻すことで今の関係が崩れるくらいなら、何も思い出さない方がいいのかもしれない。
そんな馬鹿気たことを考えてしまうほど、彼のことが好きになっていたのかもしれない。
唇の端から吐息を漏らしながら、2人は睦み合う。
タイオンの言葉に嘘が含まれていることをなんとなく察しながらも、ユーニはそれ以上過去のことを掘り返すことはなかった。
END
最高火力のアイコトバ2
コロニー9は巨神界領域に展開している大規模なコロニーだったが、アルスト出身である僕達3人にとっては行き慣れたコロニーだった。
互いの相方に会うため、転移装置を駆使してコロニー間を行き来する生活を送っている、6人の元ウロボロスたち。
互いが住まうコロニー間はそれなりに距離があるが、転移装置を使えばあっという間にたどり着く。
二つの世界に引き裂かれた過去を思えば、どんなに遠くとも会いに行こうと思えば行ける距離にいられる今の環境は、非常に幸せと言えるだろう。
だが、そんな僕たちは避けられぬ大きな問題を抱えている。
それは、言語の壁である。
元々一つの世界だったとはいえ、離別していた期間が長い巨神界とアルストでは、使用している言語が全く違う。
2人の女王も、言葉ではなく“光”で互いに交信し合っていたらしく、相手の世界の言語には明るくない。
当然言語訳を記した教本などがあるわけもなく、互いの世界の言葉を知ろうにも、手段は限られていた。
そんな中、6人はついに言語を習得するための頼もしい味方を得ることが出来た。
それこそが、巨神界の英雄、シュルクという存在である。
彼は巨神界の人間だが、アルストの友人から言葉を教わったことがあるのだという。
つまり彼は、この世界ではかなり希少な“二つの言葉を話せる存在”なのだ。
そんなシュルクの存在を、6人が見逃すわけがない。
いの一番に彼の講義を受けたユーニを筆頭に、6人はシュルクに教導を依頼した。
シュルクは巨神界の英雄として毎日多忙な生活を送っている。
そんな彼だったが、他でもない元ウロボロスの頼みは無下にできない。
互いの相方ともう一度円滑なコミュニケーションがとりたい。
そんな願いを抱く6人のために、シュルクは一肌脱ぐこととなった。
「うわあぁぁん、わかんないよぉ……」
大声で嘆きながら、セナは大袈裟に突っ伏した。
そんな光景を、同じテーブルに着いて学んでいた僕とミオは苦笑いしながら見つめていた。
シュルクの講義は週に2回ほど行われる。
巨神界の3人にアルストの言葉を教える回と、アルストの僕たち3人に巨神界の言葉を教える回が交互に行われていた。
今日は後者の番であり、シュルクが講義を開いているコロニー9へはるばる転移装置でやって来たのだ。
巨神界の言葉は非常に難しい。
文法の並びや単語の発音が、アルストの言葉とはまるで違うのだ。
セナがこうして弱音を吐きたくなるのも理解できる。
座学にはそれなりの自信がある僕も、巨神界の言葉には苦労させられる。
だが、諦めようとは思わなかった。
あの頃のように、言葉の壁を感じさせないくらい気楽にしゃべりたい。
僕を突き動かしていたのは、そんな願望だった。
「巨神界の言葉って難しいよね。少し舐めてかかってたかも……」
「確かに難解ではあるが、規則性を見つければ覚えるのは容易いと思う」
「自信ありげだな。じゃあ、次はタイオンに巨神界の言葉で自己紹介をしてもらおうか」
一同が苦戦している様子を見守っていたシュルクが、にこやかに僕に振って来る。
言語を身につけるには、座学でひたすら学ぶより実際に口に出して話した方が身につく。
それをシュルクはよく知っているのだろう。
これは勉強の成果を見てもらういい機会かもしれない。
そう思った僕は、ゆっくりと席を立ち、小さく咳ばらいをすると淡々と巨神界の言葉を紡ぎ始める。
「rb:蜒輔?縺Taion縺ァ縺吶。 > 僕の名前はタイオンです。
rb:繧ウ繝ュ繝九?繧ャ繝ウ繝槫慍蠖螻槭@縺ヲ縺?∪縺吶。 > コロニーガンマ地形局作戦立案課に所属しています。
rb:繝上?繝悶ユ繧」繝シ繧呈キケ繧後k縺ョ。 > ハーブティーを淹れるのが趣味です。rb:繧医m縺励¥縺企。倥>縺励 > よろしくお願いします」
「流石だな、タイオン。完璧だ」
巨神界の言葉でさらりと自己紹介してみると、ミオとセナが“おぉ~!”と感嘆の声を挙げながら小さく拍手を贈って来た。
覚えの良さには元々自信がある。
そのうえユーニと一層距離を縮めたいというこの願いが、僕の知識欲に拍車をかけているのだろう。
自分で言うのもおこがましいかもしれないが、ミオやセナよりは巨神界の言葉を話せている方だと言える。
拍手を贈られている僕に、背後で自己紹介を聞いていたシュルクは満足げに頷き肩に手をかけてきた。
「日常会話程度なら問題なさそうだな」
「ありがとうございます。まぁ、まだ高尚な会話は出来そうにありませんが……」
「伝えたい言葉があるなら訳してやろう。なんでも聞いてくれ」
「伝えたい言葉、ですか……」
ユーニに伝えたい言葉なら山ほどあった。
その中でも、最も伝えたいこと。いや、交渉したいことがひとつだけある。
だが、それをここで言うのは憚られる。
シュルク1人にこっそり教えてもらうならともかく、ミオやセナもいるこの場で聞くのは流石にマズい気がした。
ユーニとは、恋仲と呼んで差し障りない関係を築けている。
未だ言葉でのコミュニケーションはたどたどしいが、身振り手振りで何とかなっている状況だ。
例え相手の言いたいことが伝わらずとも、手を握り、身体を抱きしめ、口付けをかわせばあっという間に甘い空気が出来上がる。
ユーニに恋い焦がれていた身としては、夢にまで見た状況ではある。
だが人間とは不思議なもので、一度甘い飴を貰ったらもっともっと甘い飴が欲しくなる。
欲望はとめどなく溢れ、ユーニとの距離が近づくたびに我慢できなくなってしまう。
この世界はアイオニオンとは違う。
恋だの愛だのという概念をきちんと理解出来る今だからこそ、こんなに邪な欲求が生まれてしまうのだろう。
ユーニと睦み合いたい。
彼女を抱きたい。
真面目で堅物なこの性格にも、そんな健全な下心が潜んでいるのだ。
だが、伝え方を一歩間違えたらきっと嫌われる。
かといって強引に押し倒すのはガラじゃないし、そっちの方が嫌われてしまうだろう。
言葉を尽くし、嫌われないようゆっくりと距離を近づけたい。
だがそのためには、もっと巨神界の言葉を覚える必要があった。
ユーニといざこざが起きたとしても、ちゃんと仲直りが出来るように。
「……えっと、とりあえず今のところはありません」
「そうか。もし何かあればいつでも言ってくれ。そろそろ時間だし、今日はこの辺りでおしまいにしよう」
シュルクの言葉に、一同は一斉に立ち上がる。
彼は忙しい。女王であるメリアの懐刀としても活躍している彼は、毎日のように巨神界領域の各地を回り、困りごとの解決に尽力していた。
そんな英雄シュルクを、これ以上拘束させるのは申し訳ない。
3人は引き留めることなく、シュルクの言葉に従った。
シュルクによる言語講義が行われているのは、コロニー9研究棟にあるシュルクの研究室である。
モナドレプリカが飾られている部屋を後にした4人は、研究棟のロビーへと足を進めた。
ロビーには長椅子が設置されており、そこに並んで腰かけている見慣れた人影があった。
ノアとランツ、そしてユーニの3人と、シュルクの息子であるニコルの4人である。
今年で4歳になるニコルは、ユーニの膝の上にちょこんと座りながら大人しくしていた。
研究室から出てきたシュルクたちを見た瞬間、ユーニは自分の膝の上でウトウトしているニコルの顔を覗き込む。
「ニコル、お父さん来たぞ」
「おとーさん……?」
その言葉に、眠気と格闘していたニコルは徐々に覚醒していった。
ニコルを抱きしめ、そっと床に降ろしたユーニ。
彼女の腕から離れたニコルは、短い両腕を広げながらシュルクへと真っすぐ走って行った。
駆け寄って来る幼い息子を両手を広げて歓迎すると、シュルクは慣れた様子でニコルを抱き上げた。
「よしよしニコル。またここに遊びに来たのか?」
「おかーさんが呼んでた。サンドイッチ作ったって」
「そうか。じゃあ食べに帰ろう。フィオルンのサンドイッチは絶品だからな」
父であるシュルクの首に小さな手を回し、コルニは頷いた。
そして、そんな可愛らしい親子の光景を眺めていた僕たちに振り返ると、“それじゃあお疲れ”と微笑みながらシュルクは研究棟を後にした。
遠ざかる彼の背中に、僕はミオやセナと共に頭を下げながらお礼を口にする。
こうして、講師がいなくなった研究棟には6人の元ウロボロスたちだけが残された。
互いの言語を学び始めて以降、以前よりはまともにコミュニケーションを取れるようになった6人だが、まだ完全に会話が出来るような状態ではない。
さてどうしようかと迷っていると、隣に立っていたミオが口を開いた。
「ごめん二人とも。私、これからノアと用事があるから、これで……」
「あ、私もランツと出かける予定なんだ。じゃあね、タイオン」
「えっ」
戸惑うタイオンを横目に、両脇のミオとセナはそれぞれノアとランツに寄り添いながら研究棟を出て行ってしまった。
彼女たちは僕ほど巨神界の言葉を理解できていないはずだが、それでもパートナーとの交流はうまくいっているらしい。
ほんの少しだけ心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。
取り残された僕とユーニ。
互いに目を合わせると、彼女は柔く微笑みゆっくりと歩み寄って来た。
「どうする?」
「rb:縺昴≧縺?縺ェ> そうだな……」
僕とユーニの間には、ちょっとした決まりごとがある。
なるべく早く互いの言葉に慣れるよう、僕は巨神界の言葉を、ユーニはアルストの言葉を使うよう心掛けているのだ。
アルストの言葉でたどたどしく聞いてくるユーニに、僕は考え込んだ。
このまま帰るのはもったいないが、どこに行きたいかと問われても特に目当ての場所はない。
さてこれからどうしようかと考えていると、ユーニは僕の手をそっと握って来た。
「うち、くる?」
「えっ、う、うち?」
突然の誘いに、思わず約束を破ってアルストの言葉が口から出てしまう。
“うち”とはどういう意味だ?
まさか、ユーニの家という意味か?
淡い期待を寄せた僕の目をまっすぐ見つめながら、ユーニはまた問いかける。
「いや?」
「まさか!けど、いいのか?」
「ことば、わすれてる」
「あっ、rb:繧エ繝。繝ウ> ごめん……」
あまりに動揺して、巨神界での言葉を忘れたまま会話を続けてしまった。
思わぬ失態に恥ずかしくなって顔を逸らすと、ユーニは楽しそうに笑って僕の手を引いた。
2人の手が重なり、指が絡む。
今更手を握るくらいで緊張などはしないが、これから向かう場所のことを考えるとどうにも落ち着かなかった。
こういう関係になってしばらく経つが、ユーニの家に赴くのはこれが初めて。
淡く、そして邪な期待を孕ませながら、僕はユーニの白い手を強く握り返した。
***
ユーニの部屋は、コロニー9の居住区のはずれに位置している集合住宅の一室だった。
あまり広くはない部屋だったが、部屋に置かれた家具や小物の1つ1つが彼女らしさを表している。
部屋に到着するなり、甘えた様子で“ハーブティーが飲みたい”と強請って来たので、キッチンを借りて作業を開始した。
彼女の家にもハーブティーを淹れるためのポッドや茶葉が揃っている。
おそらくアイオニオンでの別れ際に贈ったレシピのおかげだろう。
あのレシピに記載したハーブティーを自分で淹れるため、こうして道具を一式そろえたのだと思うと可愛くて仕方がなかった。
ようやく淹れ終えたハーブティーをトレイに乗せてリビングに運ぶ。
ソファに座って待っていたユーニは“待っていました”と言わんばかりに目を輝かせた。
「ありがと」
「rb:縺ゥ縺?>縺溘@縺セ縺励> どういたしまして」
ハーブティーが注がれているカップを両手で持ち、彼女はゆっくりと口をつけた。
カップのハーブティーに視線を落とすユーニの表情は綺麗で、いつもより大人びて見える。
何処か色気すら感じさせるその横顔に見とれていると、彼女は微笑みながらこちらを見つめてきた。
「おいしい」
「rb:縺昴l縺ッ菴輔h繧> それはなにより」
自分の世界の言葉ではないせいだろうか。
アルストの言葉を話す時のユーニは、いつもより口調が柔らかくなる。
男勝りな彼女の口から聞こえてくる可愛らしい言葉の数々に、胸がきゅっと締め付けられる。
ギャップという奴だろうか。どうやら僕は、こういうところに弱いらしい。
「タイオンのハーブティー好き」
「rb:遏・縺」縺ヲ繧> 知ってる」
「でもタイオンも好き」
あまりに唐突な告白に、思わず飲んでいたハーブティーを吹き出しそうになってしまった。
勢いよく彼女の方を見つめると、何故か得意げな笑みを浮かべている。
なんだその可愛すぎる一撃は。不意打ちにもほどがあるだろ。
なんだかユーニをまっすぐ見つめられなくなって、思わず視線をそらしてしまった。
言葉が伝わらなかった頃は羞恥心なく好意を口に出来たのに、この言葉がユーニに届くと分かった途端、急に言葉がすんなり出て来なくなる。
懸命に絞り出した“好きだ”の一言は、きっと少しだけ震えていたに違いない。
顔に熱がこもっている。きっと今、赤い顔をしているのだろう。
そんな僕の顔を覗き込みながら、ユーニはその蒼く可愛らしい目を輝かせて見つめてくる。
「もういっかい言って?」
「っ、」
ユーニはまだ、簡単なアルストの言葉しか話せない。
遠回しな表現はせず、短くストレートな言葉を投げつけて来る彼女の言動は、僕の心臓に悪い。
とどめを刺されたような感覚に陥り、可愛く強請って来るユーニにもはや僕の心は限界を迎えていた。
「あぁもう!君には羞恥心というものがないのか!? 使える言葉が少ないのは分かるがもう少し言葉を選んでくれ!ストレート過ぎてこっちの心臓が持たない!」
「え、おこった?」
「怒ってない!怒ってない、けど……!」
また、巨神界の言葉を使うルールを忘れてしまっていた。
まくしたてるように言い放った言葉は、うまく伝わらなかったせいでキツく聞こえたらしい。
少し困ったように眉を潜めながら、ユーニはこちらを上目遣いで見つめてきた。
彼女の白い羽根は力なくしおれ、落ち込んでいる様子が見て取れる。
マズい。余計なことを言ってしまった。
別に嫌だったわけじゃないんだ。むしろ嬉しかった。
ただユーニのあまりの素直さに押されてしまったというか、少し恥ずかしくなってしまったというか。
それだけのことなんだ。
こんなことでユーニを不安な気持ちにしたくない。
彼女の心を晴らす巨神界の言葉をまだ知らない僕は、気持ちを行動で示すことにした。
ユーニの手を握り、彼女の小ぶりな唇に口付けを落とす。
一瞬だけ驚いたように肩をすくませたユーニだったが、すぐに僕の口付けを受け入れてくれた。
指と一緒に、舌が絡む。
互いを求めあうように深く舌を絡ませていると、理性という名の氷が熱でゆっくりと溶けていってしまう。
彼女は分かっているのだろうか。
今自分と舌を絡めている人間が、好きな女性と2人きりの状況で“マテ”が出来るほど我慢強くないという事実を。
真面目で堅物とはいえ、あの頃と違って邪な欲を持っている健全な男だという事実を。
静かな部屋に、2人の吐息とリップ音だけが響く。
舌を絡めるキスというものは、脳内の興奮作用を増幅させる効果がある。
つまり、このキスで体の中心が熱を帯び始めても仕方がないということだ。
もう少しキスに酔いしれていたかったが、ユーニがそろそろ苦しそうに息を吐いたことで、惜しみながらも唇を開放した。
唇の端から唾液が垂れ落ちそうになる。
親指でそっと自分の唇を拭うと、ユーニのとろけた顔が視界に入って来た。
そんな顔で見ないでくれ。今、懸命に我慢しようとしている最中なのだから。
だが、彼女はそんな僕の必死な努力をあざ笑うかのように、そっと上体を倒して僕の膝に頭を乗せてきた。
「ちょっ……」
突然僕の膝を枕にし始めたユーニに焦りが生じる。
まずい。そこに頭を寄せるのは非常にマズい。
既に熱を孕んでいるその場所のすぐ近くにユーニの頭があるという状況が、僕の心臓を激しく高鳴らせた。
そして、赤らむ僕の顔を見上げながら、ユーニはとんでもない一言を発する。
「いいよ」
「えっ」
「いいよ、タイオン」
まるで何もかも受け入れるかのような彼女口ぶりに、都合のいい仮説ばかりが頭に浮かぶ。
“いいよ”って、何がだ? まさか、いやいや。流石にそんなはずは……。
今はまだ言葉による完璧なコミュニケーションが取れない状況だ。
下手に舞い上がって嫌がられたくはない。
「えっと、あの、rb:縺?>繧医▲縺ヲ> いいよって、rb:菴輔′> 何が……?」
ユーニを見下ろしながら、僕は恐る恐る問いかけた。
すると彼女は僕の手を取ってその指先に優しく口付けると、僕の足に羽根を擦り付けながら見つめて来る。
「タイオンなら、いいよ」
心を搔き乱すユーニの微笑みに、僕の理性はもはや崩壊していた。
多分これはそういうことだ。そうに違いない。
たとえ違かったとしても、こんなに挑発的な態度を取って来るユーニが悪い。
横たわるユーニの脇腹にそっと指を這わせると、くすぐったかったのか彼女は僕の膝の上で“んっ”と艶めかしい声を挙げ身をよじった。
そして、またあの挑発的な笑みを向けて来る。
あぁ、もうだめだ。無理だ。限界だ。
こんな可愛らしい姿を見せつけられて、黙っていられるほど僕は出来た人間じゃない。
言葉など通じなくとも、相手の気持ちはもうわかっている。
これ以上まごついている理由はどこにもなかった。
眼鏡を外し、膝の上で見上げて来る彼女の唇へと再び口付ける。
これから始まる行為に胸を躍らせながら、僕は巨神界の言葉で囁いた。
END
Puppy Love 2
窓から外の景色を覗いてみると、青空は変わらずそこにあるというのに、地面に生えている木々はものすごい速度で右から左へと流れていく。
こんなにも早い乗り物に乗るのは初めてだった。
どうやらこれは“特急列車”という乗り物らしい。
ユーニが運転する車もそれなりに早かったが、この乗り物は比べ物にならないほど速い。
近くに見える木々や遠くに見える山々を見つめながら、僕は密かに胸を高鳴らせていた。
“わんちゃんといく1泊2日温泉旅行”の旅行券を獲得したのは3か月ほど前のこと。
愛犬の足の速さを競う大会に出場した時のことだった。
見事優勝を勝ち取った僕の活躍で、この旅行券は僕とユーニの手に渡った。
そして3か月後の今日、僕たちは旅行券を使うため地方の温泉地へと向かっている。
遠出は初めてのことだったので、正直かなり興奮していた。
何とかこの幼稚な昂ぶりを抑えようとはしていたが、どうやら“飼い主”であるユーニには見透かされているようだ。
向かい合っているボックス席の正面に座っている彼女は、窓の外を眺めていた僕をじっと見つめながらにやけている。
「そんなに列車が珍しいかねぇ」
「仕方ないだろ、初めてなんだ」
「にしても半獣ってこういう時便利だよなぁ。一応宿では一人と一匹ってことで予約しているけど、こういう公共の場では人間になってればいいんだから」
旅行券を使用して泊まる予定の宿は、ペットと一緒に泊まれる温泉宿である。
“愛犬と行く”という前提があるため、僕は今日から二日間、ユーニの“愛犬”として宿で過ごすことになる。
だが、こういった公共交通機関を犬の姿のまま利用するのは憚られる。
それゆえに、移動の時だけはこうして人間の姿になっているのだ。
ある時は飼い主と飼い犬に。そしてある時は人間同士の恋人に姿を変えることが出来る。
半獣の身であることを呪ったことは何度もあったが、ユーニと想いが通じ合って以降は“この身体も悪くない”と思えるようになった。
ボックス席で正面に座りながら、僕たちは駅で購入した弁当を食べ始める。
こういうのを“駅弁”というらしく、どうやらこれを食べるのが旅の醍醐味と言えるらしい。
犬の姿で食べるドックフードも悪くないが、正直人間の食べ物のほうが味が濃くて僕は好きだった。
エビの天ぷらが丸々入っているこの天重は実に食欲をそそられる。
割り箸を割り、いざ天重に手をつけようとしたその時。
隣のボックス席から“ワハハッ”と大きな笑い声が上がる。
驚いてそちらに視線を向けると、通路を挟んで反対側のボックス席には妙齢の女性たち4人組が座っていた。
どうやら話に夢中になって思わず大きな笑い声をあげてしまったらしい。
すぐに自分たちの声が目立ってしまっている事実にいが付いた女性たちは、ハッとして口元に手を当て、僕たちの方を見て頭を下げてきた。
「あらぁ、ごめんなさいね。うるさかったかしら」
「いえ、いいっすよ、全然」
ユーニはそう答えて微笑みを反していた。
実際、女性たちは先ほどまで小さな声で話していたためそこまで騒音には思えなかった。
これがずっと大声で話されていたのなら気になっていたのかもしれないが、一瞬だけ大きな笑い声が上がっただけで目くじらを立てるほど、僕も彼女も気が短くはない。
ユーニの返答を聞いた女性たちは安堵したように笑うと、ニコニコと笑みを浮かべながら僕とユーニを交互に見比べた。
「お似合いの2人ねぇ。ご夫婦かしら?」
「あ、いや……」
どうやら女性たちは僕たちを夫婦だと勘違いしたらしい。
見る目があるご婦人たちだが、残念ながら僕らはまだ夫婦にはなっていない。
間違いは正さなければならないだろう。
言葉を詰まらせるユーニの代わりに、僕はさらりと返答した。
「いえ。飼い主とペットです」
「えっ」
「お、おいこら馬鹿!」
正直に答えたというのに、何故ユーニに馬鹿呼ばわりされてしまった。
僕のどこが馬鹿だ。むしろ犬の中では他に類を見ないほど賢い部類だ。
何故怒られているのか分からなかったが、問いかけてきた張本人であるご婦人たちは苦笑いを浮かべ、明らかに引いた様子で顔を逸らしてきた。
「ま、まぁ……。最近の若い方は進んでるのね……」
「そういうお付き合いの仕方も、ありなのかしらねぇ……」
ご婦人たちが気まずげな顔をしている意味がよく分からない。
首を傾げて戸惑っていると、正面に座っていたユーニが隣に移動してきた。
そして僕の腕を引き、耳元に口を寄せながらコソコソと耳打ちし始める。
「アホかっ、馬鹿正直に言うな!今の姿でそんなこと言ったらやべぇ性癖だと思われるだろ!」
「やべぇ性癖……?」
「アタシをSM嬢にすんな!」
「えすえむじょう……?」
言葉の意味がひとつも分からなかったが、とにかく不味い事だったらしい。
人間というのはよく分からない価値観を持っている。
世間体だとか体裁だとか、理解しがたいものを大切にする傾向にある。
ユーニと恋人同士である以上、この世間体や体裁というものをきちんと理解しておく必要があるかもしれない。
あぁそうか。恋人ですと言えばよかったのか。
実際恋人なんだから、そこをアピールすれば万事解決だったに違いない。
よし、これから人間の姿でユーニといるときは積極的に恋人だと言いふらしていこう。
「何ニヤニヤしてんの?」
「してない」
***
特急列車から在来線に乗り換え、家を出てから約2時間半。ようやく宿へと到着した。
予約は1人と1匹なので、宿につく直前僕はユーニの指示で犬の姿へと戻った。
最近は人間の姿で過ごすことが多くなっているため、四つ足になるのはかなり久々である。
宿泊する予定の宿は随分と立派な宿であり、正面玄関をくぐると従業員や女将らしき女性が深々とお辞儀をしながら出迎えてくれた。
なるほど、これが温泉宿というものか。初めて来たが、こんなに絢爛豪華な建物だとは思わなかった。
フロントでチェックインの処理を進めるユーニの脇に座りながら、背筋を伸ばしつつ周囲を見回す。
すると、薄桃色の着物を着た美人な女将が、僕の顔を微笑みながら覗き込んできた。
「ジャーマンシェパードですね?大人しくていい子ですねぇ。撫でてもよろしいですか?」
「どうぞー」
チェックインの紙に名前を書きながら、ユーニは女将に返事をする。
袖を片手でよけながら、女将のしなやかな手が僕の手を撫でる。
犬の姿で撫でられるのは嫌いじゃない。
だが、ユーニと一緒に住み始めて以降、彼女以外の誰かから撫でられるのはかなり久しぶりだった。
女将は色気があり、妙にいい匂いが漂っている。
大人しく撫でる手を受け入れている僕に笑顔を向けながら、女将は“カッコよくて可愛いわんちゃんですね”とまた褒めてくれた。
いや、それほどでも……。
少し照れて視線を逸らすと、頭上から殺気のようなおどろおどろしい気配を感じた。
背筋を震わせながら見上げると、ユーニがボールペン片手に親の仇を見るような目でこちらを見下ろしていた。
今にも人を殺しそうなその目を見た瞬間、肝が冷える。
“何デレデレしてやがるこのクソ犬”
そんな囁きが聞こえてくるようだった。
やがてチェックインが済み、女将によって部屋へと案内される。
宛がわれた部屋はこの宿の中でも最高級クラスの部屋らしくかなり広かった。
畳の和室は井草の匂いが漂っており妙に落ち着く。
ベランダは貸し切りの露天風呂が付いており、これは犬用の風呂なのだという。
“ごゆっくり”と微笑み出て行った女将の背を見送ったユーニは、さっそくクローゼットの中を開けた。
中には着流しが2着。片方は予備だろう。
その着流しをありがたく受け取った僕は、犬の姿から人間の姿へと戻った。
「ん?これどうすればいいんだ?」
着流しを着てみたものの、初めて袖を通すため帯の結び方が分からず難儀してしまう。
そんな僕にユーニが近付き、正面に立って着流しの前合わせに指を這わせた。
「男は右前なんだよ」
「右前……?」
「タイオンから見て右側が手前に来る着方のこと」
「なるほど」
「帯はこうやって……」
「複雑なんだな。でもまぁ、覚える必要はないか。すぐに脱ぐわけだし」
「え?」
彼女が顔を上げた瞬間、その頬に手を添えて口付けを落とす。
驚いたユーニは逃げ腰になっていたが、そう簡単に逃がすわけにはいかない。
腰に腕を回して引き寄せると、“んんっ”と艶めかしい吐息を漏らした。
最初の頃はこの“キス”という行為にも不慣れだったが、回数を重ねるごとに随分慣れてきた。
今では舌をからめとることも容易に出来てしまう。
暫くユーニの唇を味わった後そっと解放してやると、少し戸惑った様子のユーニと目が合った。
「え、もうするの?」
「嫌なのか?」
「着いたばっかりなのに」
「ずっと我慢してたんだ。仕方ないだろ」
そう言って首筋を食むと、ユーニの手が背中に回って来る。
どうやらなんだかんだと言いながら、彼女も嫌ではないらしい。
相変わらずいい匂いがするユーニの身体をまさぐりながら壁に押し付けると、結ばれている帯を引きするすると解いていく。
ようやく彼女の豊満な胸元が露になり、僕の欲を煽る。
谷間に顔を埋めながら舌を這わせ、スンスンと匂いを嗅いでいると、ユーニの手が僕の頭を撫で始める。
犬の姿で頭を撫でられるのも好きだが、人間の姿の時に頭を撫でられるのも悪くはない。
もう限界だ。早く抱きたい。
ボリュームのあるユーニの胸を揉み始めたその時だった。
ピンポーン
扉の外から鳴り響くインターホンの音に、僕とユーニの動きはぴたりと止まった。
どうやら部屋に誰か尋ねてきたらしい。
扉の向こうから、声が聞こえる。
「すみませんお客様、お伝えし忘れたことがあるのですが、少々お時間よろしいでしょうか?」
この声は、先ほどの女将だ。
伝え忘れたことがある、と焦った様子で呼びかけている彼女の声を無視する選択はなかった。
ユーニは僕の胸板を渾身の力で押し返すと、乱れた着流しを整えながら僕に叫ぶ。
「犬にもどれ!今すぐ!」
「え、ちょ、ちょっと待ってくれ!」
最近、人間から犬に戻るには少々時間を要するようになってしまった。
特にユーニと一緒にいるときは余計に変化の速度が遅くなる。
かなり集中しないと早く犬に戻れないのだ。
集中したいのは山ほどだが、たった今ユーニを抱こうとしていた状況で冷静になれる気がしない。
だがユーニは待つ気などないようで、着流しを整え終えると駆け足で部屋の入口へと向かった。
この部屋にユーニ以外の人間がいると知られたらまずい。
仕方なく僕は物陰に隠れ、犬に戻るために全神経を集中させることにした。
やがて、部屋の扉を開けたユーニと訪ねてきた女将の会話が聞こえてくる。
「はいはーい」
「あっ、何度も申し訳ありません。朝食のことをお伝えし忘れておりました」
「朝食?」
「はい。コースが3つございまして、“並”と“上”と“特上”がございます。こちらがお料理のお写真なのですが、どれにいたしましょう?」
「うーん、じゃあ上で」
「かしこまりました。ワンちゃんの御朝食もお選びいただけます。同じくこちらの3種類から選択が可能なのですが、こちらはいかがいたしましょう」
「あぁそれは並で」
はぁ?何故即答なんだ。冗談じゃない。
ようやく犬の姿に戻れた僕は、体を覆っている人間用の着流しの中から這い出ると、急いでユーニたちの元へと駆け出した。
恐らく犬が吠えているようにしか聞こえないのだろうが、“ちょっと待った!”と口にして前足をユーニの腕に乗せる。
女将が広げて見せている朝食のメニュー表の中から、“特上”と記載された写真を肉球で指差す。
これだ。これ以外認めない。
「えーなに?特上がいいの?」
『当然だ。勝手に並にするな』
「しょうがねぇなぁ……。まぁ宿代はタダみたいなもんだし食事くらいグレード上げてもいいか」
『その通り。せっかくの旅行なんだからケチるなユーニ』
「すみません、コイツの朝食は特上でお願いします」
「かしこまりました。ふふふっ」
女将は頷きつつ、口元を手で覆いながら軽やかに笑みを零した。
その笑顔の意味がよく分からず、ユーニと一緒に首を傾げてると、女将は“すみません”と謝りながら軽く頭を下げる。
「なんだか、あまりにも賢くて人間のように見えてしまったもので……」
「えっ」
ぎくりと身体を固くする僕とユーニ。
女将の勘は的中していた。
正確に言えば人間ではなく半獣なのだが。
とはいえ、この身体のことを悟られるわけにはいかない。
僕たちは顔を見合わせ、疑われたときのために用意しておいたとっておきの誤魔化し方を披露し始める。
「いやいや、コイツは普通に犬ですよ。なっ?タイオン、おすわり!お手、おかわり!」
ユーニの指示通り、僕は犬らしく芸を披露した。
こんな芸、僕にとっては容易いことだ。
即座に指示を遂行していく僕の様子に、女将はいちいち歓迎して小さく拍手を贈って来る。
その後もおまわりやジャンプの指示をこなしていくが、その度女将は“すごい。カッコいい。賢い”と惜しみなく褒めてくれる。
いやいやそれほどでも……。
そろそろ照れ始めたその時だった。またユーニから殺気がにじみ出る。
まずい。そう思った時にはもう遅かった。
真っ黒な微笑を浮かべたユーニは、最後にトンデモナイ指示を飛ばし始めた。
「じゃあ最後。ちんちん」
『なっ……』
「ほらどうした?賢い名犬タイオーン。ち ん ち ん は ?」
僕にはどうしても出来ない芸がひとつだけあった。
それこそがまさに“ちんちん”である。
人間としての理性を半分持っている僕には、裸の状態で前足を持ち上げるあのポーズは羞恥プレイ以外の何物でもない。
だってそうだろ。ちんちんだぞ。ちんちん。
その名の通り、急所を自ら見せつけるような芸だ。
恥ずかしいにもほどがある。
他の犬たちはよくあんな恥ずかしげもなくあの芸を披露できるものだ。
絶対に嫌だ。やりたくない。
だが、ユーニの殺気を忍ばせた目は言っている。“はやくやれ”と。
これを無視したらきっととんでもないことになる。
そう悟った僕は、恥を忍んでゆっくりと前足を上げた。
「すごーい!本当に何でもできるんですね!」
「まぁな。うちの愛犬は賢いから。なー、タイオン」
そう言って、ユーニは嬉しそうに僕の頭を撫で始めた。
この加虐思考主義者め。
僕にこんな辱めを強制した罪、あとで贖ってもらうぞ。
嫌だと言っても放さずひぃひぃ泣かせてやる。
覚悟しておけユーニ。後悔してももう遅いからな。
“ぐぎぎ”と羞恥に耐えていると、ようやく女将は満足した様子で部屋から出て行った。
あぁもう疲れた。人間に戻る気力もなく、僕は敷かれている布団に犬の姿のまま寝転がる。
そんな僕に寄り添うようにユーニは傍で腰を下ろし、丸くなった僕の背中を撫で始めた。
「どうした?怒ったの?てかまだちんちん恥ずかしかったんだな、お前」
『……』
「ごめんて。拗ねんなよ。風呂入れてやるからさ」
“風呂”
その単語に、僕の耳が無意識にピクリと動いた。
何が風呂だ。そんなもので僕の機嫌を取ろうなんて大間違いだ。
僕はそんなに単純じゃない。
“ふんっ”と鼻を鳴らし顔を逸らした僕だったが、ユーニはそんな僕の様子を見ながらニマニマと笑っていた。
何がそんなにおかしいんだ。
彼女は僕の尻のあたりを見つめながらニヤついている。その視線を追ってみれば、ブンブンと左右に揺れている自らの尻尾が視界に入る。
どうやら無意識に尻尾を振ってしまっていたらしい。
あぁもう。我が尻尾ながら腹が立つ。
ヤメロ止まれ動くな。僕は嬉しくなんかない。
「入ろうか」
そう言って、ユーニは僕の額にキスを落とした。
僕としてはどっちでもいいが、まぁ君がどうしても一緒に入りたいというのなら付き合ってやってもいいだろう。
せっかく来たのに別々に入るのも寂しいし。いや僕がじゃなくてユーニがな。
ユーニのためにも僕が骨を折ってやろうじゃないか。
そう思い、僕は渋々腰を上げた。
***
どうしてこうなった。
背中をごしごしとタオルで擦られながら僕は遠くを見つめていた。
“風呂に入ろう”と連れてこられたのは犬用の貸切露天風呂。
てっきり人間用の露天風呂に一緒に入るのかと思っていた僕は流石に面食らってしまった。
“聞いてないぞ”と抗議すると、ユーニはキョトンとした表情を浮かべて至極当然のことのように言い放った。
“お前は犬としてチェックインしてるんだから、露天に行くまでにさっきの女将とかに見られたらやばいだろ?”
至極まっとうな言い分だった。
人間の姿でしれっと露天風呂に入ること自体は可能だが、そこに行くまでにこの宿の従業員とすれ違いでもしたら大変だ。
一人で来ていたはずの女性客が、見慣れない男と一緒に歩いていれば流石に怪しまれるだろう。
下手をすれば予約の人数を偽ったとして大事になるかもしれない。
それを避けるためには、こうして僕は犬用の風呂を使い、ユーニだけが人間用の露天に行くの一番安全だ。
分かってる。それは分かってはいるが、やりきれなかった。
これじゃあ普段と変わらないじゃないか。
折角一緒に入浴できると思ったのに。
犬の姿のままである僕の背中を流しているユーニは、しっかり服を着ている。
飼い主が飼い犬の背中を流しているこの状況が、ユーニの彼氏である僕としてはあまりにも不満だった。
「タイオン気持ちいい?」
『……』
「何不貞腐れてんだよ?まだちんちんのこと根に持ってんのか?」
そうじゃない。いやそれもあるが、僕は君と二人きりで露天風呂を楽しみたかったんだ。
くそっ。さっきから彼女に翻弄され続けている気がする。
気に入らない。腹いせにこうしてやる。
全身に泡を着けた僕は、そのままスッと立ち上がり、思い切りブルブルと体を震わせた。
その拍子に、全身に着いた泡や水滴が周囲に飛び散る。
「うわ馬鹿っ!何しやがるこのアホ犬!」
顔に泡をつけたユーニへと振り返り、嘲笑う。
いい気味だ。僕の願望を叶えない君が悪い。
その後、僕の体を洗い流すユーニの手つきはいつもより荒くなったものの、犬用の五右衛門風呂に浸かるのはなかなかいい経験だった。
ユーニとの露天風呂は叶わなかったが、これはこれでありかもしれない。
極楽だ。
***
宿に到着して2時間ほどが経過した。
外はすっかり夜の闇に覆われ、外から見える渓流の音が心地よく響いている。
人間の姿に戻った僕は、窓のへりに腰かけながら外の様子を眺めていた。
ユーニと一緒に住んでいる家はそれなりに栄えた街の中心地にあり、活気のある繁華街もすぐ近くにある。
栄えている町の方が住みやすいのだろうが、僕はどちらかというとこういう自然あふれる場所の方が好きだ。
やはり半獣であるこの身には、人間の営みの中よりも自然界の中の方が落ち着くのかもしれない。
いつかユーニと二人でこんな自然あふれる場所に移住したい。
そんなことを伝えたら、ユーニはやはり困るのだろうか。
「ふぇー。いい湯だったぁ」
すると部屋の扉が開き、ユーニが中に入ってきた。
露天風呂から帰って来たらしい。
首にハンドタオルとかけている彼女は、髪の毛先がまだわずかに濡れている。
長い間湯に浸かり血行が良くなった彼女の顔は、ほんの少し赤らんでいてやけに色気がある。
上機嫌に鼻歌を歌いながら、ユーニは既に敷かれている敷布団の上で膝を折り、枕元に置いたポーチを何やらガサゴソ漁っている。
こちらに背中を向けている彼女は、髪を片耳にかけており、白いうなじが良く見える。
細いおくれ毛が垂れ落ちているその首筋を見つめた瞬間、体の奥から熱い何かがせり上がってくる感覚を覚えた。
僕はただの人間ではない。半分は野性的な獣だ。
そんな男の前で、よくもそんな扇情的な姿を晒せたものだ。
我慢に我慢を重ねていた僕は、もう辛抱たまらなかった。
腰かけていた窓のへりから立ち上がり、速足でユーニの元へと歩み寄ると、敷布団の上に彼女の身体を押し倒す。
突然のことに小さく悲鳴を挙げたユーニだったが、僕が上から覆いかぶさり唇を塞いだことで、悲鳴を飲み込んでしまう。
風呂に入ったせいで、ユーニ本来の匂いが薄れてしまっている。
けれど、髪から香るこのシャンプーの香りも、悪くない。
漂うユーニの香りが僕の欲を煽り、人間としての理性を削っていく。
暫く唇を押し当てていた僕だったが、苦しそうに唸りながら胸板を押し返して来るユーニの行動に、仕方なく唇を開放した。
「なんだ?」
「なんだじゃねぇ。急にやめろよ」
「もういいだろ。どれだけ待たせれば気が済むんだ?」
「犬なんだし“待て”は得意だろ」
「残念だったな。今は人間だ」
ユーニが着ている着流しの帯を引くと、シュルシュルと音を立てて簡単に乱れていく。
白い両足の間に膝を割り込ませ、露出した胸元に舌を這わせると、ユーニは本格的に焦り始め、僕の髪を軽く引っ張り始めた。
痛い。犬になった時頭だけハゲたらどうするつもりだ。
「ちょ、せめて化粧水は塗らせろよ」
「そんなの後にしてくれ」
「アタシが将来皺だらけになったらどうすんだよ!」
「パグみたいで可愛いじゃないか」
「ぶっ飛ばすぞ!うぁっ」
脇腹を撫でると、面白いくらいにユーニの腰が跳ねた。
人間との交尾にもとっくに慣れた。
ユーニのキモチイイ場所もよく知っている。
一緒に露天風呂に入れなかったんだ。これくらいのわがままは許してくれ。
白い体を貪る僕を、ユーニは“もう……”と不満げな声を漏らしつつ受け入れ始めた。
ユーニの甘い声を耳で、甘い香りを鼻で、甘い肌を舌で味わいながら、僕は自らの帯を解くのだった。
END
忘れてしまえよ、そんな奴2
互いの感情を確かめ合った二人が一緒に住み始めたのは自然な流れだった。
巨神界領域に展開しているコロニー9出身であるユーニが、タイオンが住むコロニーガンマへ移住してきたことで、2人の共同生活は幕を開けることになる。
2人だけの生活は甘く優しい日々が続いた。
顔を見合わせればどちらからともなく口付け、夜になれば互いの愛を確かめ合うために素肌を晒す。
傍から見れば実に幸せな生活だろう。
だが、タイオンはユーニの身体を抱きながらどこか物足りなさを感じていた。
理由は明白。ユーニが熱視線を向けているのは自分ではなく、自分の中に存在する“過去のタイオン”だからだ。
ユーニには過去の記憶がある。
この世界に生まれる前の、ありし日々の記憶である。
その記憶の上で、“タイオン”はユーニと共に戦い、命を預け合い、ウロボロスとして世界を救ったという。
まさに運命共同体。
ユーニは、斬っても斬れないほど強固な絆を過去の自分と築いていた。その事実に、タイオンはひどく嫉妬していた。
“相手は同じタイオンだ”とユーニは言っていたが、彼女と違いその頃の記憶がない以上たとえ過去の自分とはいえ赤の他人と変わらない。
ユーニが楽しそうに“過去のタイオン”との思い出を語るたび、彼の心は荒むのだ。
もしかすると彼女が好きなのはあくまで過去の自分であって、過去が無ければ今こうして一緒にいてくれることもなかったのではないか、と。
不毛な考えだということは分かっている。
だが、考えずにはいられなかった。
ユーニへの感情が高まれば高まるほど、“今の自分”を見てほしいという気持ちが強くなっていく。
過去なんて忘れてしまえ。ユーニにとっては酷く残酷なこの言葉が、いつも喉元でつっかえているのだ。
「やっぱりこれ綺麗だよな。コアクリスタル」
バスタブに浸かりながら、ユーニは正面に向き合ったタイオンに擦り寄る。
彼の胸板に頬を寄せ、胸元で光る美しいコアクリスタルに指を這わせながら口を開いた。
こうして一緒に入浴するのは久しぶりだった。
この関係になってから数カ月経過した今となっては、彼女の裸を見た程度では何とも思わなくなったが、それでもこうして素肌と素肌を寄せ合いながら密着する時間は特別である。
「そんなに気に入っているのか?見るたびに言っているような気がするが」
「昔から好きだったんだよ、これ。お前はいつも恥ずかしがってちゃんと見せてくれなかったけど」
その言葉には、“過去の自分”の影が見え隠れしている。
ユーニと“過去の自分”が紡いだ絆の一端を見せつけられたような気がして、タイオンには面白くなかった。
自分の胸板に寄りかかっているユーニの濡れた髪を撫でながら、彼は口を開く。
「過去の男の影をちらつかせるのはヤメてくれないか?」
「いやいや。タイオンのことじゃん」
「記憶もないのに同一人物と言えるのか?」
「アタシにとっては今も昔もタイオンはタイオンだよ。まぁ、確かにちょっと違うところはあるけど」
「……というと?」
「昔のタイオンは少し慎重過ぎるって言うか、こっちの様子を伺ってばっかりだったんだよ。何をするにもアタシが許可を出さない限り何もしてこない。そんな奴だった」
「……」
「ま、今思えばアタシに嫌われないよう必死だっただけなんだろうけど」
ユーニの言葉は、愛おし気に浴室に響き渡る。
“あの男”との思い出を語るときのユーニは、いつもこの声色だ。
思い出の輪郭を愛おし気に撫でつけるような声に、タイオンはいつも嫉妬していた。
これ以上聴きたくなくて、彼はユーニの顎に手を添え強引に上を向かせると、その口を塞いだ。
柔らかな唇がぶつかり、舌が侵入してくる。
「んっ、んん、」
絡みつく舌を受け入れながら、ユーニは呆然と考えていた。
昔のタイオンと今のタイオンに違いがあるとすれば、こういうところだ。
過去の彼は慎重さに慎重さを重ねたような性格だった。
恐る恐るこちらの様子を伺いながらゆっくりと距離を詰めて来る“過去のタイオン”に対して、“今のタイオン”は比較的積極的だ。
あの頃から変わらぬ不器用さと天邪鬼さを持ち合わせながらも、過去の彼とは違い自分の感情を隠そうとはしない。
抱きしめる腕にも、口付けのために添えられる手にも、身体を抱く手つきにも、一切の迷いがない。
好意が赴くままに愛情表現をしてくる“今のタイオン”を前に、ユーニは喜び半分寂しさ半分を抱えていた。
***
しとしとと降り注ぐ雨が身体を濡らす。
目を開けるとそこは見慣れない場所で、どこかの渓谷のようだった。
赤い葉が絨毯のように道を染め上げている。
ここはどこだ?
戸惑い、あたりを見渡してみると渓谷の中央にはコンテナが散乱していた。
その奥に、飛空艇らしき壊れた機体が転がっている。
そこに設置された大型コンテナの中に、その人影はあった。
頭に翼を生やした女が、褐色の男に組み敷かれている。
あれは間違いなく、ユーニと自分だった。
これは夢なのか?
そう思い始めたタイオンの目に映るのは、ユーニの身体を揺さぶる自分の姿。
目の前で繰り広げられる不思議な光景に呆然としていると、ユーニを組み敷いている自分と目が合った。
その瞬間、目の前の男は口元に不敵な笑みを浮かべる。
まるでこちらを嘲笑っているかのようなその笑顔に、タイオンは確信する。
アレは自分じゃない。過去の自分だ。
ユーニの心の中に居座り続ける忌々しい過去の幻影だ。
怒りが込み上がる。
触るな。ユーニに触るな。
押しのけてやろうと近づいたその瞬間、見えない壁に阻まれる。
これ以上はお前の入っていい領域ではない、と世界から隔絶されているかのようだった。
手が出せない状況に拳を握るタイオン。
彼を一瞥した後、目の前で愛しい人を組み敷いている憎き“過去の幻影”は、ユーニへと顔を近づける。
二人の唇は重なり、吐息が漏れる。
それだけでも胸が張り裂けそうに痛かったというのに、ユーニが例の男の首に腕を回し、嬉しそうに受け入れている光景が拍車をかけた。
想い合っているのだ、あの二人は。
これが、アイオニオンとやらで二人が築き上げた思い出の一端なら、やはりユーニが見ているのは“今のタイオン”ではない。“過去のタイオン”である。
この事実を突きつけられた“今を生き続けるタイオン”には、“過去のタイオン”に太刀打ちできる術など何もないのだ。
***
「っ!」
悪夢に苦しみ、タイオンは勢いよく起き上がった。
息が乱れ、背中には冷や汗が伝っている。
真っ暗な部屋は見慣れた自分の寝室で、あれが夢だったのだと安堵させてくれる。
息を整えながら頭を抱えたタイオンに、隣から声がかかる。
「どうした?」
横で眠っていたユーニが、眠気でとろけた目でこちらを見つめている。
どうやら起こしてしまったらしい。
彼女は夢で見た姿と寸分変わらぬ姿をしている。
やはりあれは、間違いなくユーニ本人だったのだろう。
「すまない。起こしてしまったな。少し嫌な夢を見て……」
「ハーブティーでも淹れてやろうか?そういう時に飲むと落ち着くだろうから」
ハーブティーがユーニにとってどれほど特別な意味を孕んでいるのか、タイオンはよく知っていた。
“過去の自分”がその存在を刻み付けるために贈った遺物、それこそが例のハーブティーのレシピである。
あのレシピのせいで、ユーニは幼い頃から卑怯で臆病な“タイオン”を探し続けていた。
ハーブティーは“過去の自分”とユーニを繋ぐ鎖のような存在だ。
そんな忌々しい存在に頼りたくなくて、タイオンはベッドから抜け出そうとしたユーニの手を掴んで引き留める。
「そんなものいらない。それより——」
眼鏡を外したままのタイオンが、ユーニの青い目をまっすぐ見つめる。
彼の瞳を見ていれば、何を望んでいるのか一瞬で分かってしまう。
ベッドから立ち上がろうとしていたユーニは、再びマットレスの上に腰を落ち着け、タイオンへとそっと口付ける。
食むような短い口付けの後、彼女は熱っぽい視線を向けてくるタイオンに向かって分かり切った質問を投げかけた。
「したいの?」
「嫌か?」
「さっきもしたのに」
ユーニの言葉を無視して、タイオンは彼女の身体をそっと押し倒す。
嫌なわけではなかったが、少々強引なタイオンに苦笑いが漏れてしまった。
タイオンはタイオンだ。根っこの部分は何も変わらないのだろうが、時たま思ってしまう。
“あの頃のアイツなら、こんな強引なことはしないのだろうな”と。
今と昔を比較して優劣をつけるつもりなど一切ない。
だが、タイオンの彼らしからぬ行動を前にするたび小さな寂しさが胸をつく。
この気持ちを馬鹿正直に打ち明けたりしたら、“今のタイオン”はきっと傷つくのだろう。
だから、何も言わない。
首筋に吸い付きながら部屋着に手を忍ばせ、下着を身に着けていない胸を優しく揉みこむタイオンの手つきに甘く鳴きながら、ユーニは彼を慰めるように背中を撫でた。
愛撫に慣れている彼の指は、ユーニの悦いところを確実についてくる。
こういうところも、あの頃とは違うのだ。
***
“遠出しよう”
ユーニからそう提案されたタイオンは、特に深く考えずに承諾した。
だが、出発して数時間後、彼はひどく後悔することになる。
たどり着いた場所が、あの夢で見た赤い葉の絨毯が広がる渓谷だったからだ。
夢で見た通り渓谷の真ん中にはコンテナと飛空艇が転がっている。
違うところがあるとすれば、転がっているコンテナや飛空艇があの夢で見た光景よりもだいぶ古びていることだろうか。
雨風に浸食されたコンテナは錆びつき、飛空艇やその横で口を開けている大型コンテナには無数のツタが絡まっている。
時の流れを感じさせる光景は、“過去の自分”とユーニの繋がらりが遥か昔から続いている事実を突きつけてきた。
「すげぇ、アルフェド渓谷だ!昔のまんまじゃん!」
目を輝かせ、ユーニはコンテナが転がっている渓谷中央へと走り出す。
この世界には、かつて“アイオニオン”と呼ばれていた世界の遺物が数多く残っている。
その頃の記憶がある者は極めて少ないが、記憶を持っているユーニから言わせてみれば、あの頃を想起させる建造物や地形は各地に点在しているのだという。
この渓谷も、アイオニオン時代に存在していた場所なのだろう。
口を開けている大型コンテナの中を覗き込む彼女の横に並び、同じように中を覗き込む。
人が手入れをした形跡が一切なく、そこは埃にまみれていた。
「思い出の場所なのか?」
「あぁ。タイオン達とはここで出会ったんだ。いわば旅の始まりの場所だな」
「……そうか」
本当にそれだけか?
そう聞きたかったが、やめておいた。
聞き出した結果傷つくのは目に見えている。
あの夢で見たのは間違いなくこの場所だ。
この渓谷、この大型コンテナの中で、ユーニは自分と同じ顔をした“過去の幻影”に組み敷かれていた。
あの夢が、自分の中にわずかに存在する過去の記憶の残滓が見せたものだとしたら、ユーニはここで——。
「ユーニ、一つだけ聞いてもいいか?」
「うん?」
「僕のこと、どう思ってる……?」
答えを聞くのが怖かった。
だが、聞かずにはいられない。
“過去の自分”との思い出の地を前に、彼女は“今の自分”のことをどう思っているのか。
理想的な答えは、“誰よりも好きな人”だった。
今も過去も関係なく、現在進行形で生きているタイオンが好きなのだと言ってくれればそれでよかった。
だが、ユーニは少しだけ驚いたように目を見開くと、すぐに穏やかな笑みを浮かべながら即答した。
「フォーチュンクローバーかな」
「え?」
「正確に言うと、フォーチュンクローバーの4枚目の葉ってところだな」
正直よく分からなかった。
それはつまりどういうことだ?
即答した答えにしては遠回しすぎるというか、まるですでに答えを用意していたかのように思える。
ユーニの言いたいことがイマイチ理解できなかったタイオンは、微妙な表情を浮かべながら首を傾げた。
「僕は葉っぱと同等ということか?」
「ぷっ……あははっ」
突然声を挙げて笑い始めたユーニに、タイオンはますます意味が分からなくなって眉間に皺を寄せる。
そんなに大声で笑われるようなことを言っただろうか。
すると、快活に笑っていたユーニがタイオンの顔を覗き込むように正面に立った。
「やっぱりタイオンはタイオンだよ」
「何の話だ?」
「何度生まれ変わっても、どれだけ時間が経っても根っこは変わらない。記憶があるとかないとか、アタシには正直どっちだっていいんだ。タイオンっていう存在そのものが好きなんだから」
「ユーニ……?」
「好きだよ、タイオン。今までもこれからも、永遠に」
踵を浮かせて背伸びをするユーニによって、身長差がゆっくりと縮まっていく。
唇が重なった瞬間、覚えのない記憶が瞼の裏で明滅し始める。
硝煙の匂い、遠くで聞こえる爆発音、優しい笛の旋律、舞い上がる命の光、セリオスアネモネの香り、そして、目の前で風に揺れる白い羽根。
脳裏に浮かんでは消えてゆくそのすべての光景が、タイオンの記憶を呼び覚ます。
そしてユーニの口付けを受け入れて目を閉じた瞬間、目の前が白く染まっていった。
***
目の前に広がるのは茜色の空。
夕陽ではなく朝日だろう。
昇りゆく太陽を背に、眼前には遠ざかる大地が見えていた。
見慣れない2人の男とノポンの隣で手を振っているのは、間違いなくユーニだった。
ふと視線を落とすと、目の前で地面に膝をつき、崩れ落ちる男の背中が見える。
自分だ。もう一人の自分がそこにいる。
哀しみの色に染まり切った声色で“ユーニ…”と彼女の名前を呼びながら地面の草を握り締めているのは、恐らく“過去のタイオン”。
今まで嫉妬していた相手が目の前で無様に泣いている光景に、タイオンは察してしまう。
そうか、こうして彼らは別れたのか。
泣き崩れる背中が語っている。
離れたくない。彼女が愛おしいと。
まだ恋を知らないはずの“過去の自分”は、本能的にユーニへの感情を理解していたのかもしれない。
これは、ただの仲間に向けるような感情ではない。特別な相手に向けられるべき感情なのだ、と。
途端に哀れになって、思わず手を伸ばそうとする。
すると“過去の自分”は、膝から崩れ落ちた状態のまま大声で“触るな!”と怒鳴り散らした。
「“僕”からユーニを奪い取った奴に、同情なんてされる筋合いはない!」
「奪い取った……?」
「ユーニの心も身体も命も、全部僕のモノだったはずなのに!僕の…、僕だけの……っ」
泣いている自分と同じ顔を見た瞬間、タイオンはようやく分かった。
“過去の自分”もまた、同じように嫉妬していたのだ。
記憶をすべて失い、のうのうとユーニを愛そうとしている“未来の自分”に。
ユーニとの人生を誰にも引き裂かれることなく歩んで行ける“未来の自分”に。
そうか、所詮は同じ“タイオン”だ。
狡猾で嫉妬深い性格は、今も過去も変わらない。
ユーニはそれをよく分かっていたのだ。だからあんなことを——。
「違う。ユーニは君だけのものじゃない」
「なに……?」
「ユーニは“タイオン”のものになりたがっていた。“過去”でも“未来”でもなく、“タイオン”という存在のものになりたがっていたんだ。ユーニは、“僕たち”のものだ」
「“僕たち”?」
「あぁ。だってそうだろ。僕たちは同じ存在、同じ“タイオン”なんだから」
手を差し伸べる。
膝をついていた“過去のタイオン”は、伸ばされた手を一瞥すると、ゆっくりと“未来のタイオン”を見上げた。
泣いていたせいか、褐色瞳が赤くなっている。
ユーニは“彼”のことを、慎重で臆病な奴だと称していたが、どうやらその通りだったらしい。
「行こう。もうアイオニオンに君の居場所はない。君が向かうべきは、新しい世界での未来だ」
「“僕”を受け入れるのか?あんなに邪険にしていたのに」
「あぁ。君は僕で、僕は君だからな。さあ、未来へ還ろう。ユーニが待ってるぞ」
柔らかく微笑むと、“過去のタイオン”は“未来のタイオン”の手を取った。
影と影が重なり合い、アイオニオンを消し去る光と共に溶けていく。
過去と未来が混ざり合い、今日初めてタイオンは、長く続いた嫉妬と劣等感の渦から解放された。
***
数秒間の口付けが終わり、ユーニは背伸びをしていた踵を元に戻した。
目を開き、彼を見上げる。
するとそこには、褐色の瞳から一筋の涙を流すタイオンの姿があった。
キスしただけで泣くなんて大げさな奴だな。
なんてことを考えていると、彼はユーニの頬に手を添えながら震える声で囁いた。
「初めてだな、君からしてくれたのは」
「え、そう?割としてたと思うけど……わっ、」
今までキスなんて何度も交わしてきたし、その中にはユーニから仕掛けたことも何度もあった。
随分おかしなことを言ってくるタイオンに首を傾げるユーニだったが、次の瞬間、彼に引き寄せられ腕の中へと閉じ込められた。
突然抱きしめられたことに驚き、思わず体を固くするユーニ。
そんな彼女の耳元で、タイオンは今にも泣きだしそうなほど弱弱しい声で言い放った。
「ユーニ、やっと会えた……」
「タイオン、まさか記憶が……!」
彼からの答えは得られなかったが、代わりに背中に回された腕の力が強くなる。
加減を知らないその抱きしめ方は、忘れもしない“あの頃のタイオン”のものである。
懐かしさを胸に滲ませながら、ユーニもまたタイオンの広い背中に手を回す。
「おかえり、タイオン」
抱きしめていた力がようやく緩くなる。
顔を覗き込むと、彼は褐色の瞳を揺らしてユーニをまっすぐ見つめていた。
懐かしいあの優しい瞳を前に、ユーニまで泣きそうになってしまう。
すると、タイオンの手が再びユーニの頬に添えられる。
そして、乞い強請るような目で問いかけた。
「もう一度、いいか?」
相変わらず許可を取る癖は治っていないらしい。
まぁいいか。この慎重さこそがタイオンだ。
こういうところもひっくるめて好きだった。今思えば、アイオニオンにいた頃から、自分はタイオンに恋をしていたのだろう。
そんな今更なことを考えながら、ユーニは“いいよ”と頷いた。
嬉しそうに顔を綻ばせながら、タイオンはゆっくり優しく唇を重ねてくる。
長い旅路の末にたどり着いた新たなる未来で、2人はようやく再会した。
***
「なんで目逸らすんだよ」
バスタブに浸かりながら、ユーニは正面にいるタイオンへと湿った視線を向けていた。
抗議がましいユーニの視線を浴びながら、タイオンはバスタブに肘をつき、赤くなった顔を隠すように口元を手で覆って。
まっすぐ前を見ればユーニの白く妖艶な裸が待ち構えているというのに、彼はずっと視線を逸らしたまま。
そんな彼の今更な反応に、ユーニは面白半分呆れ半分な心持だった。
「し、仕方ないだろ。直視出来ないんだ」
「一緒に風呂入るなんて習慣みたいなもんだろ?つかこの前まで普通にしてたくせに」
「それは記憶を取り戻す前の話だろ?今の僕は違うんだ。アイオニオンでは一緒に入浴するなんてしてなかったし……」
「それ以上のことはしたのに?」
ユーニの無遠慮な言葉に、タイオンはぎょっとする。
そして、反論するすべもなく押し黙ってしまった。
何も言い返してこない彼に気を良くしたユーニは、にやりと笑みを浮かべながら追撃を開始する。
「あの時のことは今でも覚えてるわ。確か二人で散歩してたら雨が降ってきて、あの大型コンテナに入ったんだよな。そんでお前がアタシと手繋ぎたいとか言ってきて、いろいろしてるうちにお前のがたっ——」
「あーーー!もうやめろ!それ以上言うな!人の恥をほじくり返すな!」
真っ赤な顔で抗議してくるタイオンの必死さに、ユーニは思わず笑ってしまう。
あれはアイオニオンにいた頃、オリジンに出立する前日のことだった。
ガンマに立ち寄った足で散歩中、雨に降られたことがきっかけだった。
しんしんと降り続く雨は世界から二人を隠すよう周囲を静寂で包む。
雨音と虫の声を聞きながら、2人は初めての行為に踏み切った。
あの頃のタイオンは、今では考えられないほどたどたどしく、実に不慣れだった。
当時は自分も初めてだったから何とも思わなかったが、あの時のタイオンはやけに素直で頼りなくて、それでいて可愛らしかったように思う。
こんな風に思うのは、“恋”というものが一体何なのか深く理解できるようになったからなのかもしれない。
途端に目の前の赤面男が愛おしく思えて、ユーニはそっと彼の胸板に体を預けた。
「タイオン」
「なんだ?」
「しよっか」
「えっ、い、今、ここでか?」
「なに?嫌なの?」
「い、いやだって、せ、狭いし、その、えっと」
もごもごと言い訳を並べ立てている彼だが、下半身がしっかりと反応しているのは随分前から気付いていた。
本当は我慢しているくせに、慎重で臆病な彼はユーニに嫌われまいと必死に取り繕おうとしている。
そんな彼の不器用さに触れるたび実感できるのだ。タイオンが自分のことをどれだけ好いてくれているのかを。
「あーあ。ちょっと前の強引なタイオンは男らしくてカッコよかったのになぁー」
タイオンは煽り耐性が極端に低い。
それはアイオニオンにいた頃から変わらない彼の特徴だ。
どう煽れば彼がその気になるのかよく理解しているユーニの前では、本心を隠そうとしているタイオンの小細工など児戯に等しい。
案の定、“もう一人の自分”と比べられたことに腹を立てた彼は、ユーニの肩を掴むとようやく彼女を直視した。
「あぁもうわかった!そんなに抱かれたいなら抱いてやる!その代わり逆上せても知らないからな!?」
「ふぅん。逆上せるまでシてくれるんだ?」
「君はホントに……っ」
挑発するような言葉と視線に、タイオンはたまらなくなってしまう。
どこでそんな挑発の仕方覚えたんだ。まさか“もう一人の僕”相手に練習していたんじゃないだろうな。
相も変わらず嫉妬深い彼は、“もう一人の自分”に負けじとユーニの首筋に吸い付いた。
嫉妬心を向けられていることを知りながら、ユーニはタイオンの癖毛をそっと撫でるのだった。
END
がんばれタイオン君2
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