Mizudori’s home

二次創作まとめ

【前編】サンドリヨンは逃げ出した

【ノアミオ/タイユニ】

ゼノブレイド3

■ED後時間軸

■長編

 

ロミオはジュリエットのために

 

狭い屋根裏に、天窓からの光が差し込む。
僅かな陽の光に照らされて、舞い上がる埃がきらきらと輝いている。
親が不在のこの家で、未だ幼い二人は天井裏を探検していた。
積み重なった荷物の中から引っ張り出したのは、一冊のアルバム。
開いた瞬間ぶわりと埃が舞い上がり、同時にくしゃみが出る。
そして2人の子供は、ノアとユーニは顔を見合わせケタケタと笑い合った。

ページをめくった先に並んでいるのは、未だ赤子だったころの2人の写真。
数日違いで生まれた2人は、両親が親友同士だった縁もあり生まれたその日からずっと一緒だった。
何もできない乳飲み子だった頃から隣同士で寄り添い、手を繋いで安らかに眠っている自分たちの写真を眺めながら、2人は微笑み合う。


「ノア、いっつも親指咥えてるな」
「ユーニはいつも泣いてる」
「人を泣き虫みたいに言うなっての」


軽口を叩き合いながらまたページをめくると、互いの両親の膝の上に乗せられながら仲良く笑顔を向けている幼い日の2人の姿が切り取られている。
まだ3歳くらいだろうか。
今年12歳になったばかりの2人は、10年近く前の自分たちの写真に視線を落としながら、互いに笑い合う。
 
巨神界の中枢。隻腕の英雄シュルクによって治められているコロニー9で2人は生まれ育った。
巨神界の女王であるメリアの守護を得ているこのコロニーは、人口も多くかなり栄えている。
そんなこのコロニーで、ノアとユーニの父親は女王メリアの専属騎士として活躍している。
更に母親はどちらもメリアの近衛使用人であり、両親ともに女王とは懇意の仲であった。
 
当然、子供であるノアやユーニもまた、何度か女王に目通りしたことがある。
メリアは2人に会うたび、いつも慈しむように目を細め、“元気そうで何より”と声をかけてくれていた。
まるで懐かしい旧友を見るかのような彼女の目に、ノアとユーニはいつも敬意を払っていた。


「ノア! ユーニ! いるか!?」


不意に、家の一階から自分たちを呼ぶ声がする。
あの声には聞き覚えがあった。
幼馴染の一人、ランツの声である。
切羽詰まった様子の彼の声に顔を見合わせた2人は、開いていたアルバムを閉じて屋根裏部屋から1階を覗き込んだ。
木製の梯子が延びている屋根裏部屋の入り口からひょっこり顔を出すと、自分たちを探して右往左往しているランツの姿が見える。
そんな彼の背中に、ノアは声をかけた。


「ランツ、どうした?」
「そこにいたのか!大変なんだ!お前らの両親を乗せたレウニスが崖から落ちて……!」


蒼い顔をしたランツは、必死の形相で訴えてきた。
信じ難いランツの言葉に、ノアとユーニは同時に目を見開く。
埃だらけの屋根裏から飛び出した2人の少年少女は、ランツに連れられコロニーのはずれにある崖下へと走った。
人だかりができているその現場には、黒煙を上げながら無残に大破しているレウニスの残骸と、変わり果てた両親の姿があった。
子供の目にはあまりにも残酷なその光景に、ノアとユーニはただただ言葉を失いながらその場に立ち尽くしていた。


***

「2人ともまだ12歳なのに、かわいそうね……」
「えぇ。ご両親が一気に亡くなるなんてね」
「いい人たちだったのに、悲しいわ……」


幼い二人の身体には、真っ黒な喪服はまだ似合わない。
二人並んで白い花を抱え、互いの両親の写真が掲げられている献花台へと歩み寄る。
周りを取り囲むコロニーの住人たちは、幼くして両親を失ったノアとユーニを見つめながら涙をこらえていた。
 
同情的な視線を向けられたまま、2人は同時に献花台に花を手向ける。
笑顔で映っている両親の写真を見上げながら、ユーニは俯き泣き出してしまう。
ずっと堪えていた感情の波が堰を切ったように溢れだす。
肩を震わせ俯くユーニの背中を、隣に立っていたノアはそっと支えるように撫ではじめる。
悲しみの空気が献花会場を包んだその時だった。
奥の扉がゆっくりと開き、多くの近衛兵を従えながら一人の女性が背後から献花台に近づいてい来る。
巨神界の女王、メリアだった。


「女王様だ……」
「女王様が来てくださった……」


突然現れた信仰の対象に、コロニーの住人たちはありがたがるようにざわめいた。
彼女の傍らには、このコロニー9の指導者である隻腕の英雄、シュルク
彼に導かれる形で、メリアは幼いノアとユーニに歩み寄る。


「不幸な事故だった。そんなありきたりな言葉で片付けてよいことではないな」


背後で立ち止まったメリアの声に反応し、ノアとユーニはゆっくりと振り返る。
見上げてきた幼い二人の蒼い目は、涙で濡れていた。
そんな二人のあどけない表情を見つめながら、メリアは再び口を開く。


「そなたたちの両親には、私も恩がある。そして、そなたたち自身も、私の恩人だ」


相も変わらず慈しみ深い目で見つめて来るメリアに、ノアとミオは互いに顔を見合わせた。
まだ子供である2人はメリアと片手で数えられる程度しか顔を合わせたことがない。
女王である彼女に恩を売った覚えは当然無かった。
不思議そうに見つめて来るノアとユーニに目線を合わせるように、メリアはその場で膝を折った。


「ノア、ユーニ。そなたたちを私の近衛騎士見習い、近衛使用人見習いに任命する。これよりは私の元で、皇都アカモートに移り住むがよい。責任を持って面倒を見よう」


メリアの言葉に、周囲を取り囲むコロニー9の面々は一層ざわめきはじめる。
この巨神界において、女王メリアの元で働くことは最大の名誉とされている。
未だ子供である二人にも、彼女からの申し出がどれほどありがたく、そしてどれほど喜ばしいものなのかは容易に想像できた。
驚き、目を丸くするノアとユーニ。
そんな二人の頭を撫でながら、メリアは目を細め微笑む。

この世界でたった一人の女王の胸に抱かれ、戸惑っている2人はまだ知る由もなかった。
かつて自分たちが、ウロボロスとしてこの世界を、そして女王メリアを救った過去を持っている事実を。


***

「困ったことになったな……」
「そうだな。まさか、彼らがこんなものを遺しているとは……」


コロニー9、研究棟。
普段はシュルクのアトリエと化しているこの場所で、メリアとシュルクは一枚の紙を片手に頭を抱えていた。
それは、ノアの両親とユーニと両親、双方の住居から発見された手紙であり、いわゆる遺言状である。
遺された息子と娘に充てられたその手紙をテーブルに広げながら、2人は腕を組み眉間に皺を寄せていた。
 
遺言状の内容はほとんどが取り留めのないものだった。
遺産の分配方法や大切なものの保管場所、鍵の在処などが淡々と綴られていたが、その中にひとつだけ驚きを隠せない内容が混ざっている。
それは、ノアとユーニ、2人の結婚を指示する内容であった。
二組の夫婦は非常に仲が良く、互いの子供が異性同士であると判明して以来ずっと2人を結婚させることを夢に見てきた。
そんな願望を、遺言という形で残しているのだ。

両親たちが自分たちの結婚を望んでいた事実を、当人であるノアとユーニも気付いていた。
だが、まさか遺言に残すほどまでに本気だったとは。
この遺言状の出現に、メリアは肝を冷やした。
亡くなった二組の夫婦は、自分たちの子供がウロボロスであった事実を知らない。
当然、ノアやユーニたち本人にもその記憶はない。
“誰も知らない”というこの状況が、この遺言状を生み出してしまったのだ。

メリアはよく知っていた。この世界では未だ12歳の少年でしかないノアが、かつてミオという少女と深い縁を結んだという事実を。
未だ無垢な少女であるユーニが、かつてタイオンという相方と心を通わせたという事実を。
だが、本人たちも知りえないこの事実は、記憶を持たない彼らにとっては気に留める価値もない過去でしかない。
ノアとユーニには、結ばれるべき相手がいる。だが、その存在を差し置いてこの縁談を進めてよいものなのだろうか。メリアは深く悩んでいた。


「メリア。これはふたりの両親が決めたことだ。気持ちはわかるけど、僕たち第三者が深く介入していい事じゃない」
「それはそうだが……。そうなのだが……」


シュルクの言葉は至極正論だった。
アイオニオンでの出来事は過去でしかない。
今の2人には今の人生があり、いつまでも過去にしがみついてはいられない。
当人たちにその過去の記憶がないのであれば尚更だ。
彼らにアイオニオンにいた頃の記憶があり、なおかつ離別したアルストとの融合がすぐにでも叶う状況であるならば、迷うことなくこの遺言は破棄されていたことだろう。
 
だが、残念ながら融合の鍵となるオリジンの再建は未だ目途が立たず、後世の人間に託すこととなるかもしれないという状況に陥っている。
アルストとの融合は、叶ったとしても実現は遠い未来となるだろう。
そんな予測がされているこの現状では、過去を引きずったまま生きる方が酷と言えるだろう。
2人のためにも、新しい人生を歩ませてやるのが一番なのかもしれない。


「女王様」


不意に、2人きりの空間に幼い影が近づいてきた。
ノアとユーニである。
シュルクの研究室に入り、頭を悩ませている2人をまっすぐ見上げたノアとユーニはしっかりとした口調で言い放った。


「その遺言、受け入れます」
「ノア……。しかし……」
「亡くなった両親が望んでいるのなら、叶えたいんです。それが今のおれたちに出来る唯一の親孝行だから」
「それにアタシたち、前々から親に言われてたからな。お前たちは結婚するんだぞって。だから今さらそんなに驚かなかったし」


そう言って、ユーニは自分よりも少しだけ背の高いノアを見上げて微笑みかけた。
2人は互いに分かり合える親友でもあり、自他ともに認める許嫁でもある。
今まではタダの口約束でしかなかったその関係性が、互いの両親が亡くなり、遺言書という形で正式なものになった。
仮確定していた未来が、正式に確定しただけの話である。
 
煩わしく思いどころか、遺言状で語られた“結婚”という言葉は、未だ幼い2人にとって心強い命令だった。
2人は“両親を失った”という意味では同じ環境に身を置いている。
孤独にさいなまれないように、2人はこれから運命共同体として生きることになる。
結婚を命じているこの遺言状は、そんな二人が寄り添い合う都合のいい大義名分と化していた。


「それでよいのか?後悔しないか?」


幼い二人に視線を合わせるように、メリアは膝を折り問いかけた。
女王の問いかけに、何も知らない2人は小さな手を握り合いながら力強く頷く。


「そうか。分かった。ならばこうしよう。2人の婚姻は、そなたたちが互いに20歳を迎えてからだ。その間気が変わらなければ、遺言通り縁談を進めよう」


メリアが示したのは、執行猶予の様なものだった。
2人はまだ子供の域を出ていない。
自己決定権のない彼らに、いくら親の遺言とはいえ結婚という人生を左右する決断をさせたくはなかったのだ。
女王の言葉に、2人は納得した様子で頷いた。
こうして、ノアとユーニの結婚は正式に決定された。
いずれ来たる未来に、2人が何の不安も抱いていなかったのは、心の奥の奥まで晒し合える親友だったからかもしれない。
だがそこに、恋愛感情はない。あるのは親愛の感情のみだった。


***

皇都アカモート。
メリアの私庭となっている最上層で、ノアは横笛を手に安らかな旋律を奏でていた。
白い横笛は彼が物心ついたときから持っていたもので、以来彼の宝物としていつも懐に仕舞い込んである。
19歳になった今も、気が向けばこうして旋律を奏でていた。
剣技以外では、ノアにとって唯一の趣味と言えるだろう。
 
彼の美しくも儚い旋律を、ユーニもまたすぐ近くで聴いていた。
メリアが丹精込めて育てている花たちを眺めながらノアの旋律を耳にするこの時間は、ユーニにとって心を癒す優しい時間である。


「その旋律、子供の頃から奏でてるよな」


美しく並んで花弁を咲かせているセリオスアネモネを指先でつつきながら、ユーニは問いかける。
背中から投げかけられた声に、ノアは横笛から口を離して演奏を中断させる。


「あぁ」
「何の曲なの?聞いたことない旋律だけど」
「さぁな」
「“さぁな”って……」
「子供の頃から頭に張り付いて離れないんだよ、この旋律。多分どこかで聴いた曲だとは思うんだけど」
「ふぅん。でもまぁ、なんか懐かしくなる旋律だよな」


セリオスアネモネの花壇から立ち上がったユーニは、少し離れたベンチに座っているノアの隣に腰掛け、手に持っていた水筒を差し出した。
これは彼女がいつも持ち歩いている水筒で、中身は決まってセリオスティー
彼女は男勝りな性格に反し、ハーブティーを趣味として嗜んでいる。
このセリオスティーは、ユーニにとって一番好きなお茶だった。
“飲む?”と問いかけながら差し出されたその水筒をありがたく受け取と、ノアは蓋を開けてコップに注ぎ始める。


「ユーニは相変わらずハーブティーが好きだな。これも例のレシピ帳を見て淹れたのか?」
「まぁな。美味いだろ?」
「うん。美味い。流石だな」


微笑みながらハーブティーに口をつけるノアを横顔を、ユーニは目を細めながら見つめていた。
ユーニの手元には、いつから持っていたのか思い出せないハーブティーのレシピ帳がある。
誰が書いたのか、どこから手に入れたのかもわからない謎のレシピ帳だったが、彼女のハーブティー好きはこの手帳がルーツだった。
ノアにとっての宝が横笛ながら、ユーニにとっての宝はこのレシピ帳なのだ。


「あのさ、ノア。ホントに良かったのか?」
「ん?何がだ?」
「結婚相手。アタシでよかったの?」


足元に転ぶ小石を蹴り上げながら、ユーニは問いかける。
珍しく遠慮しているような彼女の様子に、ノアは少しだけ驚いてしまった。
互いの両親が命を落として約7年。その間、2人はメリアの元でずっと一緒に育ってきた。
孤独感にさいなまれた夜も、無性に泣きたくなった朝も、ずっと手をつなぎながら生きてきたのだ。
 
2人の関係は友人と呼ぶにはあまりにも深く、恋人と呼ぶには少々シリアスな関係である。
一緒に孤独と戦ってきた二人は、ある意味で運命を共にするパートナーと呼んで差し支えないだろう。
だからこそ、ユーニは遠慮していた。
 
自分とノアの間に、甘い恋心はない。
どんなに見つめ合っても、生まれるのは甘い空気ではなく信頼関係のみ。
ノアとの関係は良好だ。だが、恋人や夫婦とは言い難い。
そうこうしている間に時は経ち、いつの間にか2人の結婚は1年後に迫っていた。
このまま両親の遺言に従って結婚してしまっていいのだろうか。ノアは自分が相手でいいのだろうか。
そんな淡い疑問が、ユーニの心を支配し始めていた。


「ユーニは嫌になったのか?俺との結婚」
「全然。ノアはある意味アタシにとって運命共同体みたいなもんだから。むしろノアが相手じゃなかったらあんな遺言絶対無視してたって」
「無視はひどいな」


肩をすくませ、ノアは笑う。
すっかり大人になった彼は、メリアの近衛騎士として名声を挙げている。
幼い頃から女王を守る懐刀として活躍してきたノアは、誰よりも優れた剣技を身につけ、アカモートの騎士たちが羨望するほどの騎士に成長した。
剣を携え、凛々しくメリアの背を守る彼に恋焦がれる女性は多い。
望めば女など選び放題だというのに、遺言に縛られ自分との結婚を余儀なくされている。
そんなノアの状況に、ユーニは罪悪感を感じていた。


「俺もユーニと同じ気持ちだよ。ユーニじゃなかったら、きっと受け入れてなかったと思う」
「そう?」
「ずっと一緒に生きてきたんだ。俺にはユーニが必要だし、たぶんユーニにも俺が必要なんだと思う。だから、これでよかったんだよ」
「ノア……」
「俺たちはいつまでも親友で、運命共同体だ。この関係性に、新しく“夫婦”ってタグが追加されるだけの話」
「……随分簡単に言うよなぁ」


深くため息をついたユーニの頭の羽根は、元気を失いしおれていた。
そんな彼女の様子に、ノアは優しく微笑みかける。
ノアは優しい男だった。誰よりも物事を深く多角的に捉えることが出来て、人とは少し違う感性を持っている。
その感性に触れるたび感心させられる。
自分はノアほど大人になり切れていない。これからの未来に不安ばかりが募っていた。
 
これから夫になる男の隣に寄り添いながら、ユーニは眼下に広がるアカモートを見下ろす。
するとその時だった。メリアの私庭の扉が勢いよく開き、もう一人の親友が駆け込んできた。
ランツである。


「いたっ!ノア、ユーニ!やべぇぞ大ニュースだ!」


ノアと同じくメリアの近衛騎士として活躍しているランツが、剣を腰に携えたまま息を乱し、2人の元に駆け寄って来る。
突然慌てた様子でやってきた幼馴染の様子に、ノアとユーニは揃って首を傾げた。
“大ニュースって?”とノアが問いかけると、ランツは額に冷や汗をかきながら叫ぶのだった。


「オリジンが……オリジンが完成したって!」


***

アルマが引く馬車はゆっくりと坂道を登り、キャッスルへの距離を縮めていく。
馬車の窓から外を見つめながら、メリアは鬱々としたため息を吐いた。
そんな彼女の正面に腰掛け本を読んでいた隻腕の英雄、シュルクは、困ったように眉を曲げながらメリアに微笑みかける。


「憂鬱そうだね、メリア」
「そなたは楽しそうでいいな、シュルク
「そりゃあ楽しいさ。旧友に会えるんだから。君だって向こうの女王似合うのは久しぶりなんだろう?」
「それはそうだが……」


キャッスルに近づくごとに、メリアの胸騒ぎは大きくなっていく。
自分たちが乗っている馬車のすぐ後ろには、共を頼んだ騎士や使用人たちが乗っている。
その中には、当然ノアやユーニの姿もあった。
自分があのキャッスルに登城する分には何も思わない。だが、ノアやユーニたちも一緒に足を踏み入れるのだと思うと、気が重かった。

1年前、メリアの元にシュルクから大きなニュースがもたらされた。
完成は数十年、下手をすれば数百年かかると予想されたオリジンが、完璧な姿で再建されたというのだ。
そのニュースは本来喜ぶべきものだったが、アルストとの離別から幾数年たっている今となっては複雑なニュースでしかない。
再会など叶わぬと踏んだ結果、ノアとユーニは結婚の誓いを立ててしまっている。
挙式が1カ月後に迫ったこのタイミングで、巨神界とアルストは融合を果たしてしまったのだ。

時間がかかると言っていたではないか。
再会が叶わぬと踏んであの遺言通りノアとユーニの婚姻を進めていたというのに。

これも、オリジン再建に携わった技師であるシュルクやリクが有能過ぎた結果だろう。
まったく何故このタイミングでオリジンなど完成させてしまったのか。
そうぼやいてしまいたかったが、寝る間も惜しんでオリジンと向き合い続けたシュルクたちの努力を否定など出来そうもなかった。
 
それに、オリジン再建に携わったのは巨神界の技師たちだけではない。
アルストの優れた技師たちもまた、世界を再会させるために血の滲むような努力をしてきた。
2つの世界の英雄たちが骨を折ってまで実現させたこの再会を、無下にするわけにはいかなかった。

そして今日は、巨神界とアルストが融合して以来初めての女王同士の会談日を迎えた。
3日間にわたって行われる会談は、ふたつの世界の親密な交流を目的としている。
場所はアルストの女王であるニアが拠点にしている、通称アルストキャッスルにて行われ、3日間とも夜になれば舞踏会が開かれる。
 
当然、ニアや彼女のパートナーでありシュルクの旧友でもあるレックスとも再会することになるだろう。
そして、彼らの娘であるあの少女にもきっと会うことになる。
ノアやユーニは何も知らない。おそらく先方も何も知らないだろう。
アイオニオンという世界の存在も、自分たちがウロボロスの一員だった事実も、深い縁を結んだ事実も知らないまま、他人として再会する。
その状況はあまりにも残酷だ。


「そのことについてレックスとも話そうと思う。向こうも巨神界とこんなに早く融合が果たされるとは思っていなかったらしくてね。既に娘の婚姻を進めてしまっているらしいから」
「な、なんだと!?」


シュルクがさらりと言い放った事実に、メリアは思わず大声をあげてしまう。
ニアとレックスの娘。それは十中八九“ミオ”という名の女性だろう。
彼女はノアと縁を結んだ過去がある。
そんな彼女もまた、ノアと同じように別の相手と婚姻を結んでしまったのだという。
こちら側だけの問題ならまだ解決する方法はあったかもしれないが、相手方にも事情があるとなれば話は別だ。


「あ、相手は誰だ!?」
「詳しい名前は聞かなかったな。ただ、ミオ姫専属の近衛騎士長だと聞いているよ」
「専属近衛騎士長……」


腕を組み、口元を手で覆いながらメリアは眉間にしわを寄せた。
その専属近衛騎士長とやらが一体誰なのかは分からないが、嫌な予感がする。
居心地の悪い胸騒ぎを抱えたまま、メリアとシュルクを乗せた馬車はキャッスル脇の客邸へと到着した。
 
ここは遠方からやって来たキャッスルに登城する予定の客人を宿泊させるための邸宅である。
この邸宅は二棟に分かれており、長い渡り廊下を渡った先は女王や姫、その親族たちが生活している私邸となっている。
客邸の正面門で馬車は停車し、先に降り立ったシュルクはメリアに手を差し伸べた。
その手を取って道に降り立ったその時。客邸の正面からやって来た白い兵装を纏った騎士に声をかけられた。


「お待ちしておりました。メリア女王陛下」


凛々しく声をかけてきたその男の姿を見た瞬間、メリアは息を詰めた。
白い騎士兵装に良く映える褐色の肌。癖の強い柔らかい髪。そして黒縁の眼鏡。
その男には見覚えがあった。かつてウロボロスとして活躍した6人のうちの1人。タイオンである。
 
記憶のない彼はメリアのことなど覚えていないらしく、涼しい顔で深々と頭を下げてきた。
早速知った顔に遭遇してしまった事実に焦るメリアは、ふと奥に停車されている馬車へと視線を向ける。
近衛騎士や使用人たちが詰めていたその馬車からは、ノアやユーニ、ランツが続々と降り立ちこちらへ歩み寄ってきていた。
タイオンはユーニにとってかつてのパートナーである。
恐らくは互いに覚えていないだろうが、このまま顔を合わせてしまってよいものだろうか。
内心迷っていたメリアだったが、そんな彼女の目の前でタイオンはトンデモナイ自己紹介を始める。


「はじめまして。ニア女王陛下がご息女、ミオ姫専近衛属騎士長のタイオンと申します」
「なっ!? せ、専属近衛騎士長!? ではそなた、ミオの……。ニアの娘の、許嫁なのか?」


タイオンの肩書を聞いた瞬間、メリアが血相を変えた。
彼の両腕にしがみつき、問いただすように質問を投げかける。
突然驚いた様子を見せる巨神界の女王に戸惑っていたタイオンだったが、すぐに苦笑いを浮かべながら眼鏡を押し上げ、“耳が早いですね”と口にした。
否定しない彼の態度に、メリアの顔色はどんどん悪くなっていく。
ふと横を見ると、側近であるユーニが近衛騎士であるノアと共にこちらに近づいてきている光景が目に入って来る。
ミオの許嫁の地位に立っているタイオンと、ノアの隣に寄り添っているユーニを見比べた瞬間、メリアは腹を抱えながらよろめき始めた。


「め、メリア!?」
「胃が……。胃がものすごく痛い……」


背後に控えていたシュルクに支えられる形で、メリアは彼に寄りかかってしまった。
自分の判断で婚姻を進めてしまったノアとユーニ。そんな2人と深い縁を結んだミオとタイオンは、なんとアルストで許嫁となっていた。
運命の悪戯としか言いようのないこの事態に、アイオニオンにいた頃から彼らを知るメリアは胃を痛めていた。
 
彼らは何も知らない。自分たちが本来結ばれるべき相手が一体誰なのか。
こうして、縁の糸が入り乱れる3日間の舞踏会が幕を開けた。


姫は王子の名を知らない


アルストは、激動の末に新しい世界を形成した。
ニアを女王に据えたのは、導くべき存在を立てることで世界をまとめるためでもある。
この世界は、ニアという女王の元平和が保たれていた。
アルストで生きる人間たちはニアの統治に光を見出し、敬愛の念を向けている。
彼女が歴戦の英雄、レックスとの間に子をもうけたときも、未来の女王の誕生に人々は歓喜した。

ニアとレックスの愛娘、ミオは、言葉通りまさに箱入り娘として育てられた。
キャッスルの皇族たちが生活している私邸。そこがミオの限られた行動範囲だった。

外へ出るときはいつも監視の目が付き纏い、未来の女王を守るためにぞろぞろと騎士たちが後ろをついてくる。
息抜きをしようとしても息が詰まるこの状況に、ミオは幼い頃から不満を抱いていた。
定期的に監視の目をかいくぐり、私邸から脱走していたのはそんな不満からくる反抗行為だった。
彼女の脱走癖は、16歳になった今も続いている。


「ミオちゃん、今なら誰も見てないよ!」
「ありがと、セナ!」


専属使用人であるセナは、幼い頃からミオに仕えていたため、彼女にとって心を許せる数少ない友人でもあった。
さらに言えば、彼女はミオの脱走を手助けしてくれる心強い共犯者でもある。
 
ベッドのシーツを結び合わせ、窓からロープ状にして垂れ落とせば、2階にあるこのミオの私室からでもバレずに外に降りることが出来る。
ドレスから動きやすい白いワンピースに着替えたミオは、外を見下ろして人がいないか見張っていたセナに見送られ、しゅるしゅるとシーツで出来たロープを降りていく。
 
いともたやすく外の石畳に着地することが出来たミオは、上を見上げセナへと手を振った。
自分が私室からいなくなったとしても、暫くはセナが誤魔化してくれるだろう。
笑顔で見送ってくれるセナを残し、ミオはキャッスル敷地内の庭へ向かって走り出す。
だが、走り出してすぐに目の前に立ちふさがった少年の姿を見て、思わず立ち止まってしまった。


「また脱走ですか。ミオ様」
「タイオン……」


呆れた顔で目の前に立ちはだかったのは、騎士服を纏い帯剣したタイオンだった。
彼はセナと同じく幼い頃からミオに仕えている人物で、専属近衛騎士である。
先日15歳になったばかりの彼は、幼い頃に比べて身長が一気に伸びて大人び始めている。
眼鏡を押し上げてため息をついている彼は、ミオにとって今一番会いたくない人物だった。


「私室にお戻りください」
「いや」
「ミオ様」
「言ったでしょ?敬語はやめてって。近衛騎士とはいえ幼馴染みたいなものじゃない」
「しかし……」
「敬語やめてくれなきゃ戻らない」


次期女王という立場上、彼女には心から友と呼べる存在は少なかった。
心を許せる存在が少ないからこそ、幼い頃から一緒に育ってきたセナとタイオンは大切な存在だと断言できる。
そんな2人には、どうしても自分を女王扱いしてほしくなかった。
友人として、砕けた関係でいてほしいのだ。
 
だがこの真面目な専属騎士には、次期女王に砕けた態度で接するということは相当難しい事だったらしい。
会うたび敬語で接してくる彼に、ミオはいい加減腹を立てていた。
彼女が強引に催促したことで、ようやくタイオンは観念したようにため息を零す。


「はぁ……。ミオ、何度も言っているが立場をわきまえてくれ。外に出るなら誰かと一緒に行くべきだ。君は次期女王なんだぞ」
「じゃあタイオンが一緒に来てくれる?庭園に遊びに行きたいの」
「どうして僕が……」
「誰かと一緒にいれば外に出てもいいんでしょ?それに——」


歩み寄ると、1つ歳下の真面目な近衛騎士の手を取った。
急に手を取られたことに、タイオンは少し戸惑いながら目を丸くさせた。
そんな彼を柔く引きながら、ミオは微笑む。


「婚約者、でしょ?」


そう言うと、彼は少し複雑そうな表情を浮かべながら視線を逸らした。
反論する気はないらしく、手を引くミオに大人しく従い、歩き出す。
幼い頃から専属近衛兵としてミオのそばに仕えていた彼の剣技は、年齢の割にはかなり優れている。
下手な暴漢相手であればすぐに退けられるだろう。
頼もしい近衛兵兼婚約者の手を引きながら、ミオは堂々と私邸から抜け出した。

向かう先はキャッスル敷地内の庭園。
大きな噴水や長大な花壇が並んでいてるその庭は、このキャッスル内でミオが一番好きな場所でもある。
庭園のはずれ、屋根付きのガーデンベンチに腰掛けて花を眺めるのが、ミオにとって癒しの時間であった。
庭園で摘んだ花の茎を編み込み、花と花を繋いでいく。
手元の花に視線を落としながら、ミオは傍らに立つタイオンに声をかけた。


「隣、座ったら?」
「姫の隣に気安く座れる立場じゃない」
「婚約者なのに?」
「挙式は5年後だ。今の君と僕は夫婦ではなくただの主従。その辺の距離感は弁えなければならない」
「堅いなぁもう」


軽く笑みを浮かべながら、ミオは花を繋いでいく。
その様子を横目に見つめながら、タイオンは背筋を伸ばした。
 
彼がミオの婚約者の立場になったのは、まだ物心つく前のこと。
タイオンの父はミオの父、レックスの旧友であり、その縁でこの縁談が決まった。
皇族の人間が生まれた瞬間から結婚相手を決められていることは珍しくない。
次期女王であるミオもまた、例外ではなかった。
 
レックスの紹介によりミオと引き合わされたのは、まだ5歳にも満たない子供の頃のことである。
初対面であるミオを前に、タイオンは選択の余地なく彼女の専属近衛兵に、そして彼女の婚約者になった。
不満があるわけではない。物心つく前に道を決められたおかげで、不満を抱く隙すらも無かった。
この立場になったことで、タイオンは次期女王の婚約者、つまりは次期王子の立場に納まり、専属騎士の名誉までも甘受できている。
不満など抱きようもなかったが、罪悪感だけは心に残ったままだった。


「反故にするなら今だぞ?」
「何が?」
「婚約のこと。今ならまだギリギリ間に合うだろ」
「タイオンは反故にしたいの?」
「僕に選択権はない。君がこのままでいいというなら従うし、嫌だと言うなら身を引く。だが、もうあと数年もすれば後戻りできなくなる。大人になるにつれて、次期女王の立場に責任が伴うことになるからな」


2人の婚約は既に公にされている。
とはいえ今の2人はまだ婚約者の域を出ていない。
式を挙げて、正式に結婚するのは1つ年下であるタイオンが20歳を迎える5年後である。
その時が近づくにつれ、次期女王であるミオと、そんな彼女の伴侶となるタイオンの責任は重くなっていく。
後戻りはできなくなる。
いずれ来たる結婚する未来を回避するなら、まだ時間がある今しかない。
それを分かっているからこそ、タイオンは念を押すように確認してきたのだ。


「私はむしろタイオンでよかったと思ってるよ?全然知らない人より安心できる」
「……僕でいいのか?今後君にとって魅力的な人間が他に現れるかもしれないだろ」
「それはタイオンも同じでしょ?私でいいの?」
「どこの世界に次期女王を拒絶する男がいる?」
「あははっ、そっか。断りたくても断れないよね、タイオンは」


女王とレックスが決めた婚姻を、近衛騎士であるタイオンが突っぱねられるわけがない。
彼の本心がどうであれ、ミオの心次第で彼の未来も一緒に決まってしまうのだ。
少し悲し気に目を伏せながら花を編み込むミオ。
そんな彼女を横目に見たタイオンは、ガーデンベンチの壁に寄りかかりながら遠くを見つめる。


「ただ、君がそれでいいというのなら、僕はこの生涯をかけて君を守る。近衛騎士として、そして夫として」


タイオンは責任感が強い青年だった。
まだ15歳という若さで背負うには、その責任は重すぎる。
自分のせいでその責任を負わせてしまっている事実を、ミオは重々分かっていた。
互いに罪悪感を抱き合う関係は不毛だ。
ならばこれが正しい道だと信じて生きていくしかない。

花を編み終わったミオは、ゆっくりと立ち上がりタイオンの前に立つ。
そして手に持った花冠を、彼の癖毛頭にそっと乗せる。


「頼りにしてるね、タイオン」


微笑みかけて来るミオに、タイオンは少しだけ照れたように視線を逸らした。
そして、頭の上に乗せられた可憐な花冠を気にしながら眼鏡を押し込む。


「似合わないだろ、こんなの」
「そう?結構似合ってるよ?」


ミオは確信していた。
この不器用ながらも優しい騎士と添い遂げれば、きっと幸せになれると。
彼に抱いているのは恋愛感情ではなく、親しい友人に向ける親愛の情。
恐らくはタイオンも自分に対して似たような感情を抱いているのだろう。
恋心はないけれど、愛情はある。そんな不思議な関係性を保ったまま、2人はゆっくりと大人になっていく。

この頃の2人は知る由もなかった。
かつて自分たちがウロボロスという名の力を持ち、世界を救ったことを。
アイオニオンという名の世界で、苛烈な生を送っていたことを。
そして、互いに心を通わせた相手がいたということを。

運命は残酷なまでに交差する。
数百年は交わらないだろうと予想されていた2つの世界が、有能な技師によって再建されたオリジンによって融合が果たされることになる。
この再会が波乱を呼ぶことになろうとは、タイオンもミオも予想していなかった。


***

キャッスルの窓からは、インヴィディア山脈が良く見える。
だが今は、その山々を遮るように機械で出来た半円の巨大建造物が浮遊している。
その半円、オリジンを、ニアはキャッスルのバルコニーから苦々しい表情で見つめていた。
遥か古の昔にも目にしたことがあるその物体は、当時は希望の象徴だった。
交わりの日を無事に迎えるための箱舟。結果的にメビウスに利用されはしたものの、あれは数年やそこらの年月では再現できないほどの技術力が詰まっているはずだった。

かつてアイオニオンから離別したもう1つの世界が再び交わる瞬間は、きっと数百年後の未来になるに違いない。
その予想は、先日見事に覆ってしまった。
オリジン再建の指揮を執っていたノポンの技師、トラから連絡があったのだ。
“オリジンの再建が無事完了した”と。
それはつまり、2つの世界が交わる未来が間近に迫っていることを示していた。


「トラからまた連絡が来たぞ。“再会の日”は3か月後だそうだ」
「そっか……」


バルコニーからオリジンを見つめていたニアは、背後からかかった声に気を落とした。
背中からゆっくりと近づいてきたのは、女王である彼女の伴侶、レックス。
次期女王であるミオの父親でもある彼だが、彼は皇族として名を連ねてはいない。
他にも伴侶を抱える彼や、彼の他の伴侶たちの立場を慮ってのことである。

オリジンが完成した今、巨神界との再会はもはや目と鼻の先にある。
光を用いて通信していた巨神界の女王、メリアもまた、向こうの世界で準備を進めているという。
もはやこの再会は止められない。いや、止める選択肢などないのだ。


「待望の瞬間だってのに、嬉しくなさそうだな」
「嬉しいよ。嬉しいけどさぁ……」


そう言って、ニアはバルコニーから少しだけ身を乗り出して下を見下ろす。
庭園には、今年で21歳になるミオと、20歳になるタイオンの姿があった。
相変わらずミオの脱走癖は治っていないらしく、今日もミオがこっそり建物の中から抜け出し、タイオンが護衛として寄り添っているのだろう。
一定の距離を保ちながらも仲睦まじく会話をしている2人を見下ろし、ニアは目を伏せる。


「なんで私、ミオの婚約を急いじゃったんだろう」
「仕方ないだろ。あの頃はいつオリジンの再建がいつ叶うか分からなかったんだから」


ミオにはアイオニオンにいた頃の記憶がない。
いや、ミオだけでなくこの世界に生きる命のすべてが記憶を失っており、記憶を所持しているのは女王であるニアと、そして世界を陰から支え見守ってきたレックスの2人のみである。
当然ミオは、アイオニオンで何度も運命を交差させた相手、ノアのことも覚えてはいない。
 
当初ニアは、愛娘であるミオをノアと再会させることを望んでいた。
記憶を失ってはいるものの、オリジンが完成すれば記憶を呼び起こす装置の開発も可能だ。
再会した2人の記憶を呼び起こすことさえできれば、ミオはかつて深い縁を結んだノアと本当の意味で再会できる。
それがきっと、娘にとって最大の幸せなのだと信じて疑わなかった。
だが、現実はそう上手くはいかない。
オリジンの再建には膨大な時間と労力がかかることが予想され、何世代も経なければ巨神界との再会は叶わぬだろうという見解が主流となっていた。

それを聞いたニアは大いに迷った。
一生叶わないかもしれない再会を待ち続けるより、何も知らないまま新しい幸せを探した方がミオのためになるのではないか、と。
幸い、ミオには記憶がない。
記憶があればノアを恋しく思い辛くなることもあるだろうが、何も知らない今のミオであれば、きっと新しい幸せを迷わずつかみ取ることが出来る。
全てを知ったうえで孤独にノアを待ち続けて年を取るより、何も知らないまま新しい幸せを甘受したほうがマシだ。

こうして、ニアはミオに婚約者を宛がった。
相手にタイオンを選んだのは、彼もまた、ミオと同じ状況下にあるためだった。
記憶がないとはいえ、彼もまたアイオニオンでミオと共に戦った者の一人だ。
ノアが存在しない今、ミオのことを任せられる異性は彼を置いて他にいない。
彼もまた、アイオニオンで深い縁を結んだ相手がいるが、やはり再会は叶わぬだろう。
互いの幸せのため、孤独を遠ざけるための婚姻だった。

だが、事態は一変する。
ミオとタイオンの婚姻が1年後に迫ったある日、オリジンの研究に当たっていたトラから知らせがあったのだ。
再建の目途が立ちそうだ、と。


「だいたいさぁ。トラがいけないんじゃん!“再建には数百年かかるも~”とか言っておきながら実際は十数年で仕上げるなんてさぁ」
「まぁ、“向こう”にいるシュルク達の見立ても似たようなもんだったんだろ?誰も予想できなかったんだよ、こんなに早く再建できるなんて」
「それはそうかもしんないけど……」
「不思議なもんだな。本来再会は喜ぶべきものだったのに、こういう状況じゃ素直に喜べない」
「うん……」


ニアの隣に寄り添い、レックスはバルコニーの縁に背中から寄りかかる。
彼と知り合ったのは、彼がまだ少年の域を脱していなかった頃のこと。
あの頃に比べて見違えるほど屈強な姿になったレックスは、今やアルストの英雄として崇められている。
 
ニア以外にも伴侶がおり、帰る場所が複数ある彼をこのキャッスルの中に留めておくことはできない。
となれば、娘であるミオが今後は女王としてこのアルストをまとめ上げなければならない。
巨神界との融合が決まったことで、恐らく世界はそれなりに混迷するだろう。
人々を導き、あるべき世界を作っていくのはニアとメリア、2人の女王の仕事だが、その後の世界を維持していくのは、次の世代であるミオの役割である。
 
責任は大きい。次期女王への期待が高まっている今、そう易々と婚姻の破棄は出来ないだろう。
ノアとの再会が、タイオンの隣に寄り添っている今のミオにとって悲劇となるか喜劇となるか、想像しただけでニアの胃には穴が開きそうだった。


「ちなみに、記憶装置も無事建造されたらしい。ウロボロスストーンを媒体に作られたものだから、アイオニオンの記憶がすべて詰まってる。あれに触れさせれば、きっと一瞬のうちに何もかも思い出すだろうな」


腕を組み、遠くを見つめながらレックスは言う。
彼の言葉に、ニアは苦い表情を浮かべた。
トラが独自で開発した記憶装置には、あのウロボロスストーンの破片が使われている。
元々、オリジンの金属からニアが作り出したものであるため、アイオニオンが消滅した後もアルストに存在し続けることが出来たのだ。
 
かのウロボロスストーンには、アイオニオンに関するすべての記憶が詰まっている。
そこにトラが手を加えることで、触れた者の失われた記憶を呼び覚ます力が追加された。
この記憶装置の実験に身を投じた最初の人物こそ、レックスの血を引くもう一人の娘、カギロイであった。

実権は成功。カギロイは見事アイオニオンでの記憶を取り戻し、その瞬間レックスの胸で大泣きしたという。
その光景を見ていたニアは、泣き崩れるカギロイにミオを重ねて見ていた。
父との過去を思い出し涙しているカギロイは、喜びの感情に包まれて感極まっている。
後々彼女は、“思い出せてよかった”と清々しく笑っていたという。

知らない方が幸せなこともある。けれど、それは知った者だけが抱く感情であり、何も知らないままの人間は、歓喜する機会も後悔する機会も奪われている。
知らないまま生きていくのは、果たしてミオのためになるのだろうか。
赤の他人としてノアと再会することを、アイオニオンにいた頃のミオは望んでいたのだろうか。

“いつか会いに行く”
“いつか必ず”

そう言って手を振り合っていたあの時二人は、再会の日が来ることを心から望んでいたはず。
彼らの望みすら奪う権利が、自分たちにあるのか。いや、ないはずだ。
ミオは知らなければならない。
自分という存在の正体を。
自分が歩んできた本当の過去を。
全てを知った先に待っているのが哀しみであったとしても、虚しさであったとしても、再会を誓って別れた以上、何も知らずにすれ違うだけの再会などあってはならない。


「レックス」
「うん?」
「私、きっとミオに恨まれると思う。でも、何も知らないままにしておくなんて、そんなの無理だ。私……。私……」


バルコニーから愛娘の姿を見下ろしながら、ニアは声を震わせる。
溢れる感情の波を抑えていた彼女の華奢な肩に、レックスの大きな手がそっと添えられた。


「大丈夫だ。少なくとも、俺はちゃんとわかってる」


隣に寄り添うレックスを見上げ、ニアはその琥珀色の瞳から一筋の涙をこぼした。
頬を伝う涙を指で拭いながら、彼女は何度も頷く。
アルストでたった一人の女王、ニア。この高貴な立場には、さまざま責任が伴う。
自分だけの判断で全てを決定できないもどかしさを感じた彼女は、ミオの選択に全てを任せる道を選んだ。
アイオニオンでの彼女たちも、自ら意思で全てを決めた。
なればこそ、すべてを知ったうえでどう生きるか選択させるのが筋というものだ。
涙を流す未来が待っていたとしても、自らの意思で選び取った道ならば、きっと後悔せず歩いていけるはず。

ニアはその日、レックスに肩を抱かれながら決意した。
世界が再びまみえたら、ミオに記憶を明け渡そう、と。


***

アルストキャッスル、皇族私邸4階。
ミオは私室のバルコニーから身を乗り出し、キャッスルに続々入ってくる馬車の列を見下ろしていた。
規則正しくゆっくりと行進していくその様は、まるで蟻の行列のよう。 
行列の中にいる兵たちは全員見慣れない兵装に身を包んでおり、彼らが異世界からやって来た人間なのだということを物語っていた。
 
アルストが巨神界と融合を果たしたのは数週間前のこと。
元々同じ世界だったと聞いているが、こうしてみると人々の見た目や兵装にもかなり違いがある。
アルストにはグーラ人に由来する獣耳が生えた人間が多くいるが、あの行列の中にそのような見た目の人間はいない。
代わりに灰色の肌をした不思議な皮膚を持つ人々や、頭に羽が生えた者までいる。
見慣れない巨神界の人間たちを見つめるミオの目は、実に輝いていた。


「すごいねミオちゃん。あんなにたくさんの馬車、始めて見た」
「そうね。“向こう”ではアルマに馬車を引かせるのが主流なのね。兵装も随分見た目が違うし、面白い」


今日から3日間、このアルストキャッスルでは巨神界とアルストの交流を目的とした舞踏会が開催される。
本来の目的は女王同士の会談であり、夜に行われる舞踏会はそのおまけ程度でしかないが、ミオにとってはこの舞踏会こそが一番の楽しみだった。
世界が融合して数週間が経つが、未だ巨神界の人間とは話したことはもちろん会ったこともない。
初めて巨神界の人々と交流が出来る今夜の舞踏会に、ミオは心躍らせていた。


「もう少し近くで見てみたい。ちょっと行って来るね!」
「えぇっ!? 今から?でもタイオンにまた怒られちゃうよ?」
「大丈夫!タイオンは今向こうの女王様のお出迎えしてるはずだから!」
「あぁっ、ミオちゃん!?」


引き留めようとするセナを残し、ミオはあっという間に私室のドアから抜け出してしまった。
今夜の舞踏会に向け、着替えとメイクの時間が夕方ごろに予定されている。
それまでに戻れば問題ないだろう。
 
長い白髪を揺らしながら、ミオは長年の脱走癖で培ったスニーキングスキルを駆使し、廊下ですれ違う兵たちの視線をかいくぐっていく。
やがて彼女は、私邸の渡り廊下へとたどり着く。
この廊下を渡れば、巨神界から来たお客様たちが滞在する客邸に忍び込める。
 
いそいそと前進し渡り廊下を渡ると、そこは見たことのない光景が広がっていた。
頭に羽根を生やした兵士に、腕や顔に不思議なラインが入った兵士。
すれ違う者たちは全員巨神界の住人らしく、誰もミオの正体に気付いていない。

誰の視線を気にすることなく堂々と歩けるって素敵。
そんなことを考えながら、すれ違う巨神界の人間たちを観察していたミオ。
やがて廊下の角に差し掛かったその瞬間、前からやって来た男の存在に全く気付かなかった。
正面からぶつかってしまい体勢を崩したミオは、小さく悲鳴を挙げた。
そんな彼女の腕を、ぶつかってきた男は咄嗟に引っ張り引き寄せる。


「大丈夫か?」
「あ、ありがとう……」


引き寄せられたことで、男の整った顔がすぐ近くまで迫っていた。
驚いて少し距離を取ると、彼はどこか優し気な瞳で不注意を謝ってきた。
長い黒髪をひとつにまとめ上げ、青い瞳のその青年は、黒い騎士服を身に纏っている。
恐らくは彼も巨神界の人間なのだろう。
謝罪を述べる彼の言葉に“こちらこそ”と返したミオだったが、不意に彼の視線が自分の頭の上にじっと向けられていることに気が付いた。
不思議そうに見つめるその視線がなんとなく恥ずかしくて、ミオは咄嗟に自分の耳を両手で隠した。


「な、なに……?」
「あ、いや、ごめん。こっちではそういう耳、すごく珍しいから」
「なぁんだ。汚れでもついてるのかと思って少し焦っちゃった」
「そんなことない。すごく綺麗だよ」
「え?」
「その耳」
「あ、あぁ、耳ね。耳か……」


一瞬、自分の容姿を褒められているのかと勘違いしてしまった。
己の自惚れ具合にさらに恥ずかしくなったミオは、赤くなった顔を隠すために視線を逸らす。
そんな時だった。背後から、複数の男の声が聞こえてくる。
 
“全くどこへ行ってしまわれたのか……”
“そう遠くには行っていないはずだが……”
 
聞こえてきた会話の内容にヒヤリとし、咄嗟に背後を振り向くと、遠くの方にアルストの騎士たちの姿が見えた。
間違いない。自分を探してる。
このままだと見つかってタイオンに怒られる。
焦ったミオは、アルストの騎士たちがいる方とは反対方面に向かって駆け出した。
目の前にいる青年の腕を掴んでしまったのは、ほとんど無意識のことである。


「えっ、ちょっ……」
「ごめんっ、ちょっとお散歩付き合って!」
「お、お散歩!?」


2人は走る。
すれ違う巨神界の兵たちが不思議そうにこちらを見ているが、構うことなく走った。
階段を降り、目指すは下の庭園。ミオがいつも息抜きに使っている場所である。
 
巻き込まれた青年も最初は戸惑っていた様子だったが、柔軟な性格なのか、1階に到着した頃にはミオから突然拉致されたこの状況をもはや受け入れているようだった。
どうやらこのあたりにアルストの兵はいないようだ。
少しは落ち着けるだろう。
安どのため息をついたミオは、ようやく自分が青年の手を握っていたままだったことに気が付いた。


「あっ、ごめんなさい!急に連れ出したりして」
「別にいいよ。ちょうどこのキャッスルの中を見て回りたいと思ってたところだし」
「そう、なの?」
「あぁ。お散歩ついでに案内してもらえるか?」


彼はミオの正体を知らない。
知っていれば、きっとこんな風に気さくに話してはくれないだろう。
異世界の騎士からの何の遠慮もない微笑みに、ミオは小さな喜びを感じていた。
“もちろん”と返事をすると、早速自慢の庭園を案内するために先を歩き始める。
彼女の背に着いて行くように、青年もまた歩き出す。


「そういえば、名前なんて言うんだ?」


問いかけられた瞬間ぎくりと身体を固くした。
名乗ってもいいのだろうか。もし女王の娘であることが知られたら、今のように気安い態度で接してくれなくなってしまうかもしれない。
それに、最悪この身柄をアルストの兵たちに引き渡される可能性もある。
それは嫌だ。もう少し自由な時間を堪能していたい。
けれど、だからと言って名乗らないのも不自然だ。
彼が“女王の娘”の名前を知らない可能性に賭け、ミオは恐る恐る本名を名乗った。


「み、ミオ」
「ミオか。いい名前だな」


どうやら彼は“女王の娘”の名前を知らなかったらしい。
けろっとした様子の彼に安堵感を覚えると、ミオは長い白髪をなびかせながらくるりと振り返り、青年に微笑みかけた。


「貴方は?なんていうの?」
「ノアだよ」
「ノア……。そっちもいい名前ね」
「ありがとう、ミオ」


ノアに微笑みかけられた瞬間、ミオの心臓は急に高鳴った。
姫である彼女は、いつも“ミオ様、ミオ様”と敬われてばかり。
彼女を敬称も着けずに呼び捨てにするのは、家族以外では婚約者のタイオンだけである。
そんな彼も、こちらが促してようやく呼び捨てにしてくれる程度で、いつでも気安く自分を“ミオ”と呼んでくれる者はほとんどいない。
初対面の、それも異性に初めて名前を呼び捨てられたことで、ミオの心は不意に跳ねてしまったのだ。

巨神界の騎士、ノア。
彼は、アルストの未来を担うミオにとって初めて出来た巨神界の友人だった。
そんな彼と楽しく会話を進めながら、庭園へと向かう。
そう言えば、タイオン以外の男の人とこの庭園に来るのは初めてだった。
自分の話を微笑みながら聞いてくれるノアを前に、ミオは立場も忘れ遠慮なく笑顔を向けていた。
ノアとミオ。運命が何度も引き寄せたこの2人の再会は、こうしてさりげなく幕を開けた。

 

ジュリエットは王子の心を


「重いぞ。気を付けてくれ」
「ありがと」


踏み台に乗ったユーニは、専属近衛騎士の男から重たい箱を受け取った。
ずしりと両腕にのしかかる重みに“うっ”と小さくうめき声を上げつつ、棚の上に荷物を乗せる。
アルストキャッスルの客邸内にあるこの絢爛豪華な一室は、巨神界の女王であるメリアのために宛がわれた部屋である。
 
到着早々胃痛を訴えたメリアの代わりに、側近を務めているユーニが代わりに彼女の荷物を部屋に運び入れることになったのだ。
近衛騎士長を名乗るこの眼鏡の男に案内された部屋の豪華さに、ユーニは思わずあんぐり口を開けて驚いてしまう。
こんなに豪華な客室が用意されているだなんて、流石は女王と言ったところか。

運び込まれた荷物の箱をせっせと収納しようとし始めたユーニだったが、“手伝おう”と申し出てくれた専属近衛兵長の言葉に甘えることにした。
彼はアルストの女王、ニアの娘の専属騎士であり、その中でも最も地位の高い騎士長の立場にある。
最初は慣れない敬語で接していたのだが、会話の途中で同い年だということが判明し、“敬語はいい”と遠慮された。

騎士の割には腕っぷしよりも頭脳働きの方が得意そうな風貌である彼は、それなりに気が利く人物だったらしい。
騎士長を表すエンブレムがついた立派な白い外套を脱ぎ捨て、動きやすいベスト姿になって腕まくりをしてまで重い荷物の運搬を手伝ってくれた。
終始仏頂面な男だったが、優しい気遣いにユーニは好感を覚えていた。


「この箱で最後だ」
「オッケー、ありがとな、騎士長サマ」


荷物が入った最後の箱を手渡した彼は、ユーニからの言葉に少し不満げな表情を見せた。
そして、踏み台に登り棚の上に箱を積み上げようとしているユーニを見上げ、文句を垂れる。


「その呼び方やめてくれないか?さっき名乗っただろ」
「あぁ悪い悪い。なんだっけ? ライアン?」
「“タイオン”だ。しっかり覚えておいてくれ、ユーニ」


突然名前を呼ばれ、ユーニは箱を押し上げながら目を丸くした。
彼、タイオンに自分の名前を名乗った記憶はない。
何故知っているのだろう。
驚きながら“なんで知ってるの?”と問いかけると、彼は涼しい顔で“さっき女王陛下がそう呼んでいたから”という実につまらない回答が返って来た。
一瞬、こいつは人の心が読めるのか。だからそんなに若いのに専属近衛騎士長などという高位を手に入れたのか、と思ったのだがどうやら勘違いだったらしい。


「よし、これで全部終わったな」
「あそこの箱はいいのか?」


踏み台から飛び降りたユーニの横で、タイオンは少し離れた壁際にそっと積んである3つの箱を指さす。
アレはメリアの荷物ではなく、側近である自分の荷物である。
メリアの荷物を運び入れた後、自分に宛がわれた部屋に運び入れようと思い、いったんこの部屋に運んでいたものだ。
その事実を伝えると、タイオンは“そうか”と一言つぶやくと、例の荷物の前に歩み寄りすぐ傍で膝を折る。


「じゃあこれも運ぶか」
「いやいいよこれは。アタシのだし自分で運ぶって」
「僕の今日の役割は女王陛下とその側近たちの案内と手助けだ。女王陛下の側近である君もその範疇に入っている。変に遠慮して僕の仕事を奪わないでくれ」


どうやらこのタイオンという男は、妙な方向に生真面目だったらしい。
女王の荷物ならともかく、ただの側近でしかない自分の荷物にまで責任を持とうとするなんて。
関心しながらも、ユーニは彼のその生真面目さを少し揶揄ってやりたくなった。
箱を2つ持って立ち上がったタイオンの顔を覗き込みながら、彼女は口元に笑みを浮かべる。


「ふぅん。割と暇なんだな、専属近衛騎士長サマは」
「……手伝ってほしくないらしいな」
「ウソウソ!手伝ってほしいデス。ヨロシクオネガイシマス」


わざとらしく頭を下げると、タイオンは小さく笑みを零して歩き始める。
残された箱を1つ持ち上げると、ユーニも彼の背を追って部屋を出た。
 
客邸は渡り廊下を渡った先にある皇族の私邸に負けないくらい広く、掃除も行き届いている。
メリアの部屋は最上階の4階に位置しているが、側近や騎士たちに宛がわれた私室は1階に並んでいる。
豪華な照明がぶら下がっている階段や廊下をきょろきょろと見渡しているユーニを、タイオンは隣を歩きながらこっそり盗み見ていた。

噂には聞いていたが、本当に頭から羽根が生えている人間がいたとは。
こういった種族は、巨神界では“ハイエンター”と呼ぶらしい。
女王メリアはまさにそのハイエンターなのだが、同じく羽が生えているこのユーニという女性もまた、側近ではあるが高貴な生まれなのだろうか。
そんなことを考察しながら見つめていると、視線に気付いたユーニが不意にこちらに視線を返してきた。
ぶつかり合ってしまった視線に戸惑い目を見張るタイオンに、ユーニは首を傾げた。


「なに?」
「あ、いや、すまない。羽根が珍しくて」
「あぁこれ?結構手入れ大変なんだぜ?綺麗だろ?」
「あ、あぁ……」


羽根を揺らしながら、ユーニは笑う。
彼女の言う通り、その真っ白な羽根は日の光に当たり輝いているせいか、とても美しく見えた。
だが、羽根とはいえ女性の容姿を真正面から綺麗だとか美しいだとか、ストレートな言葉で褒めることに気恥ずかしさを覚えたタイオンは、なんとなく顔を逸らしてしまう。
 
巨神界の人間とは、まだ数人程度しか話したことはない。まして羽根を持っている人間を目の前で見る機会は少ない。
他のハイエンターの羽根も、このユーニのように美しいのだろうか。
ノポン達からは“鳥のヒト”と呼ばれているらしいが、鳥というよりはむしろ天使に近い気がする。
そんな恥ずかしい事、流石に本人の前では言えそうにないが。


「あっ」


不意に、ユーニが足元に視線を向けながら歩みを止める。
どうやら運んでいた箱の中から荷物がひとつこぼれ落ちてしまったらしい。
廊下の床には何やら筒状の缶が転がっていた。
その場でしゃがみ込み、箱を置いて缶を拾い上げるユーニに、タイオンは問いかける。


「それは?」
ハーブティーの茶葉だよ。ちなみにセリオスアネモネ
ハーブティー?自分で淹れてるのか?」
「まぁな。昔からの趣味なんだ」
「そうか。まさか異世界に同じ趣味の人間がいたとはな」
「えっ」


缶を箱の中に戻すと、ユーニはその蒼く大きな目でタイオンを見上げた。
そして、期待を込めた目で“タイオンもハーブティー趣味なの?”と問いかけて来る。
その問いかけに頷くと、彼女は途端に目を輝かせた。


「マジかよ!アルストにもハーブティー趣味にしてる奴いたんだ!」
「僕も驚いた。巨神界にもハーブティーの文化はあるんだな」
「あるある!結構メジャーだぜ?アタシなんて毎日淹れてるくらいだし」
「毎日か。それはなかなかの熱量だな」


このキャッスルの庭園では、セリオスアネモネが多く植生している。
その影響で、この花を使ったハーブティーを淹れることが彼の趣味になっていた。
男の身でハーブティーを嗜んでいる者は少なく、あまり理解されない趣味だったのだが、どうやら共通の趣味を持つ人間を見つけてしまったらしい。
ユーニほどではないが、タイオンも不意に現れた同じ趣味を持つ異世界の住人にちょっとした喜びを感じていた。


「アタシさぁ、このセリオスアネモネハーブティーが一番好きなんだよ。味も香りもいいし、リラックス効果もあって実益もバッチリだし」
セリオスアネモネが一番好きなのか。なら、この荷物を運び入れたらいい場所に案内してやろう」
「いい場所?」


不思議そうに首を傾げるユーニに、タイオンは眼鏡のレンズ越しに瞳を細めて微笑みかけた。
その微笑みを見つめた瞬間、ユーニは不思議な感覚に陥った。
何故だろう。ずっと昔にこの微笑みを見たことがあるような気がする。
気のせいか。アルストの住人であるこの男の顔に見覚えがあるわけがない。
不思議に思いながらも、ユーニは隣を歩くタイオンに不思議な親近感を覚えていた。


***

一面に広がる白いセリオスアネモネと、真っ白な噴水。そして木製の屋根付きガーデンベンチ。
ノアに“キャッスルを案内してほいい”と頼まれたミオは、一番にこの場所を訪れた。
この場所はキャッスルで一番美しい場所であり、ミオにとって一番お気に入りの場所だったから。
理由はうまく説明できないが、ノアにはこの場所をどうしても教えておきたかったのだ。
新しく出来た巨神界のトモダチに、自分の好きな場所を見せびらかしたかったのである。

ノアの反応は期待通りのものだった。
一面に広がるセリオスアネモネを眺め、感嘆のため息を零す。
まとめ上げた長い黒髪をそよ風になびかせながら、“すごいな……”と呟き周囲を見回している。
自分の好きな場所を褒めてもらえるのはやはり嬉しい。
ミオもまた、長く美しい白髪を風に靡かせながら微笑んだ。


「でしょ?ここはね、私の秘密の場所なの」
「秘密の場所?」
「そう。癒されたい時にこっそり来る、秘密の場所。隠れ家みたいなものね」
「そんな大切な場所、俺に教えてよかったのか?」


ノアの言葉に、ミオはハッとした。
そういえば、この場所をタイオン以外の誰かと訪れたことは一度も無かった。
キャッスルの広い中庭の一番端にあるこの場所は、他の人はあまり訪れない場所である。
誰からも見られていないこの空間は、ミオにとって特別な場所であり、キャッスルの中で私室以上に心休まる場所でもあった。
 
タイオン以外の誰かに、この場所が自分にとって特別であることは一度も話したことがなかったのに、何故ノアには容易に話してしまったのだろう。
ノアという男から醸し出されている、何でも優しく受け入れてくれる空気感が、ミオの警戒心を簡単に取り払ってしまったのかもしれない。

今日初めて会ったのに、何故だか初めてな気がしない。
少しも警戒する気が起きないのは、相手がノアだからだろうか。
こんな無防備な自分を見られたら、きっとタイオンに叱られてしまうだろうな。
そんなことを思いながら、ミオは人差し指を唇に押し当てノアに笑いかけた。


「ここのこと、他の人には内緒ね?」


可憐な微笑みを向けられたノアは、青い目を細め穏やかに頷いた。
満足そうにニコッと笑顔を浮かべ、ミオは長い髪をなびかせながら背を向け歩き出す。
そして、近くに設置されていたガーデンベンチに腰掛けると、懐から一本の黒い横笛を取り出した。
美しい模様が施されたその横笛を見た瞬間、何故かノアの心は僅かにざわめく。

なんだ?あの横笛、何処かで見たような……。
眉を寄せながら見つめていると、ガーデンベンチに腰掛けたミオがその横笛に口をつけ、美しい旋律を奏で始めた。
その光景に、ノアは少し驚いてしまう。
彼女も笛を嗜むのか、と。
 
髪も肌も、そして着ている服も真っ白な彼女が持つ笛は、彼女に一点の黒を与え、まるで自己を主張するようにその細い指先に鎮座している。
彼女が奏でるその穏やかな旋律も、初めて聞くはずなのに妙に懐かしい感じがした。
遠い昔に聞いたことがあるような、そんな不思議な旋律だ。

ノアの足が、自然とミオの隣に向かう。
空いている彼女の横に腰掛けると、ノアは自らの懐に仕舞い込んだ白い笛を取り出し、口をつける。
そして、彼女の旋律に合わせるように、今まで何度も奏でてきた自分の旋律を奏で始めた。
その瞬間、隣で笛に息を吹き込んでいたミオが目を丸くさせ、笛から口を離してこちらを見つめて来る。


「えっ、ノアも笛吹けるの?」
「あぁ。子供の頃から嗜んでる」
「私もなの。誰に教わったわけでもないのに、初めてこの笛を手にしたときから難なく吹くことが出来て」
「もしかして、その旋律もミオのオリジナル?」
「いいえ。昔どこかで聴いた旋律。いつどこで聴いたのかは覚えてないんだけど……」


ミオにとって、宝物と呼べるものはこの世に2つあった。
1つはこの庭園。そしてもう1つは、手元にある黒い笛である。
物心ついたときからいつの間にか大事に仕舞われていて、どんな経緯で手に入れたのかすら思い出せない。
けれど、捨てる気にはなれなかった。
 
これはとても大切で、尊い物だと本能が告げていたのだ。
以来、ミオはうっすら聞き覚えのあるこの旋律だけをずっと奏でてきた。
魂が洗われるような、そんな落ち着く音符の羅列は、奏でるたびにミオの心を癒してくれる。

ミオが話す横笛とのエピソードに、ノアは大きな共感を覚えていた。
笛との出会い方も、何処かで聞き覚えのある旋律を奏で続けている状況も、何もかもが同じである。
これは偶然か?いや、偶然でしかないはずだ。
2人は互いに巨神界とアルストという、異世界で生まれ育った人間なのだから。


「なぁ、互いの旋律で一緒に演奏してみないか?」
「え?イキナリ?アドリブで?全然違う旋律なのに、合わせられるかな……?」
「大丈夫だって。それに、音楽ってそもそもそういうものだろ?」


そう言って微笑むと、ノアは自らの白い横笛を構えた。
彼の笑顔は、まるでミオを催促しているかのよう。
姫という立場上、ミオは一度も他の演奏者と合奏したことはない。
誰かと合わせるのは、これが初めての経験だった。
不安は少なからずあったけれど、ノアの“大丈夫”の一言でその不安は吹き飛んでしまう。
たとえうまくいかなくても、彼が相手なら一緒に笑い合える気がした。


「……それもそうね」


微笑みを返し、ミオはノアと同じように黒い横笛を構えた。
そして、ノアの蒼い瞳とミオの琥珀色の瞳が見つめ合う。
目で合図しあった瞬間、2人の優し気な旋律が、庭園内に響き始めた。
音符の配列もリズムも全く違うはずなのに、この2つの旋律はまるで元々1つの曲だったかのようにぴったり重なり合った。
異なる旋律が、2つの色をゆっくり混ぜ合わせていく。
風が優しく吹き、セリオスアネモネの白い花弁が風に乗って空へと舞い上がる。

不思議だ。前もこうして、異なる旋律を互いに奏で合いながら、舞い上がる白い光を見上げたことがあるような気がする。
そんな経験一度も無いはずなのに、この旋律の心地よさは確かにこの心に深く刻まれている。
何だろう、この不思議な感覚は。
旋律を奏でながら、ミオはふと隣のノアを盗み見る。
その瞬間、伏せていた目をこちらに向けた彼と目が合ってしまった。
何となく恥ずかしくなって、視線を逸らす。

手を延ばせば触れられる距離にいるこのノアという青年に、妙な感覚を覚えている自分がいる。
心が浮き上がるようなこの感覚を、ノアもまた抱いてくれているのだろうか。
同じ気持ちだったら嬉しいな。
そんなことを考えながら、ミオは瞳を伏せた。


***

荷物の運搬を全て終えたユーニは、タイオンの案内でキャッスルの庭園へ向かった。
一面に広がるセリオスアネモネの花が、そよ風に花弁を揺らしながら甘い香りを漂わせている。
美しいその光景に、ユーニは青い目を輝かせて感嘆のため息をついた。


「なにここ……。すっご……。全部セリオスアネモネじゃん」
「あぁ。キャッスル内で飲まれているハーブティーは全てここにある花から抽出されている。セリオスティーが一番好きなら、気に入るかと思って」


膝を折り、揺らめいている白い花を見下ろすユーニ。
自分と同じくセリオスティーを好む彼女なら、一面セリオスアネモネに囲まれているこの庭園を見ればきっと喜ぶと思ったのだ。
その予想は大当たりだったようで、ユーニは背後に立っているタイオンに振り返り、その白く美しい羽根を風に揺らしながら満面の笑みを向けて来る。


「うん、すっげぇ気に入った。教えてくれてありがとな、タイオン」


明るい髪を耳にかけながら笑う彼女の顔は、その男勝りな性格とは対照的に随分とあどけない。
眩しいほどの笑顔を向けられた瞬間、その表情に視線が釘付けになってしまった。
だが、すぐにハッとして視線を逸らすと、誤魔化すように眼鏡を押し上げる。


「喜んでくれたのなら、何より……」
「喜ばないわけないだろ?こんな一面のセリオスアネモネ見せられたら、普通に感動するって」
「そ、そうか」


このユーニという巨神界の女性は、随分と素直な性格らしい。
喜びを表情と仕草、そして言葉で惜しみなく表現するその姿に、タイオンは少しだけ戸惑ってしまう。
こんなにも感情を前面に出す人は、周りに1人もいなかったからである。
 
前を向き直り、すぐ近くに咲くセリオスアネモネの花弁を指で優しくつつくユーニの様子を、タイオンは背後からじっと見つめていた。
風に羽根と髪を揺らすその姿を見ていると、何故か心が騒ぐ。
彼女がハイエンターという未知の人間だからだろうか。
見慣れないその容姿に、特別感を抱いているのかもしれない。
だとしたら、この言い知れぬ懐かしさは何だ?
ずっと昔にも、風に揺れるこの白い羽根を見つめていたことがあったような気がする。
そんなこと、あるはずないのに。


「ん?なんか聞こえない?」
「え?」


花と触れ合っていたユーニが、不意に立ち上がり耳を澄ませた。
何か音が聞こえるというユーニの言葉に首を傾げつつ、タイオンは目を瞑り神経を集中させる。
すると、さらさらという風の音に紛れて聞き覚えのある音がほんのり聞こえてくる。
これは、笛の音だ。
キャッスル内で聞こえてくる笛と言えば、思い浮かぶ演奏者は1人しかいない。


「すまん。ちょっと行ってくる」
「あ、待った!アタシも行く。知り合いかもしれない」
「知り合い……?」


走り出すタイオンの背を、ユーニが焦りながら追ってきた。
笛の奏者は十中八九ミオだが、別の旋律が重なるように聞こえてくるのが気になる。
もしかして誰かと一緒にいるのか?
危険な奴かもしれないと一瞬ひやりとしたが、ユーニの“知り合いかも”の一言でほんの少しだけ不安が和らいだ。
 
とはいえ、夜の舞踏会が始まるまで私室で待機するよう言い聞かせていたミオがまた逃げ出したのは間違いないだろう。
自分という護衛がいない状況で、見ず知らずの誰かと接触させるのはマズい。
焦りつつも、タイオンはユーニと共に笛の音を追って庭を駆けた。
そして見つけた。ガーデンベンチに並んで腰かけ、横笛で旋律を奏でている二人の男女の姿を。

女性の方はやはりミオだった。
だが、隣にいる黒い騎士服の男は誰だ?
あの兵装はアルストの人間のモノではない。巨神界の人間だ。
まずい。どこの馬の骨かもわからない人間とアルストの姫であるミオとの接触を許してしまうとは。
声をかけようと一歩踏み出した瞬間、背後から追いついてきたユーニはタイオンを追い抜かしながら二人の男女に向かって口を開いた。


「何やってんだよ、ノア」


ユーニの声に、2人の旋律はぴたりと止まる。
並んで横笛を奏でていた2人の視線がこちらに向けられた瞬間、ミオが露骨に眉を潜めて“げっ”とでも言いたげな表情を浮かべた。
あの表情からみて、勝手に抜け出してきたのは間違いない。


「ミオ、また抜け出したな?」
「あぁ……、見つかっちゃったか」
「知り合いか?」


隣に立っていたノアが不思議そうに見つめて来る。
そんな彼に、ミオは“うん、まぁね”と曖昧に返した。
いずれ露見することにはなるだろうが、ノアには出来るだけ長い間自分の正体を知られたくはなかった。
自分の正体を知れば、きっと彼は委縮する。
今までの気安い接し方をしなくなってしまうかもしれない。
それだけは嫌だった。


「そっちも、お知り合い?」
「あぁ。せっかくだし紹介するよ」


ノアの目が、ユーニに向けられる。
その視線に導かれるように、ユーニはタイオンの隣からするりと抜け出し、ノアのすぐ隣に寄り添った。
同じ巨神界出身だからだろうか。並ぶ2人からは同じような空気を感じてしまう。
2人が寄り添い合った瞬間、ミオの頭に嫌な予感がよぎった。
そして、その予感は無残にも的中してしまう。


「彼女はユーニ。俺の幼馴染で許嫁だ」
「え!?」
「許嫁?」


ノアからの紹介に、ユーニは一切否定することなく軽く会釈をしてきた。
その会釈を返しながら、ミオは思ってしまう。
許嫁、いたんだ……。

瞬間、無意識に気落ちしていた自分にハッとする。
何を考えてるんだろう私は。
ノアはたった今知り合った友人で、入れ込むには早すぎる。
それに、自分にだって婚約者はいる。こんな気持ちを抱くなんて、タイオンにも失礼でしかないのに。
そう思いながらそっとタイオンを盗み見ると、ミオは少しだけ驚いてしまった。
ノアとユーニを見つめるタイオンの目が、一瞬だけ悲しそうな色に染まったような気がしたのだ。
だが、彼はすぐに目を伏せ、ミオへと歩み寄る。


「ミオ、戻ろう。大騒ぎになる前に」
「えぇ、そうね……」


これ以上、脱走中のミオを放っておくことは出来ない。
彼女の腰に手を回しながら、タイオンは促した。
いつもは“もう少しいたい”だの駄々をこねるミオだったが、今日は珍しく素直に従っている。
タイオンと共にしおらしくその場を去ろうとするミオ。
そんな彼女の背中に、ノアが声をかける。
“ミオ”と名前を呼ばれた瞬間、彼女は足を止めた。
タイオンに腰を抱かれたままゆっくりと振り返ると、そこには白い横笛を手に持ったノアの微笑みが待っていた。


「案内してくれてありがとう。合奏も楽しかった」
「……えぇ。私も楽しかった」


ノアに柔らかく微笑みかけるミオの表情は、いつになく大人びて見えた。
その横顔を見つめていたタイオンは、不意に背後のユーニへと視線を向ける。
すると彼女は、風に白い羽根を揺らしながら手を振って来た。
その笑顔を視界に入れながらも、タイオンは何も返すことなく逃げるように視線を逸らす。
 
“行こう”と促しながら、半ば強引にミオの身体を引き寄せる。
後ろ髪惹かれるように背後を気にしているミオだったが、ようやく前を向いて歩き出した。
草花が咲き誇る庭園を並んで歩きながら、ミオはタイオンの顔を見上げる。
真っすぐ前を見据える彼は、先ほどの哀しみの色など感じさせないほどにいつも通りだった。

勘違いだったかな?
ノアとユーニの関係を聞いたとき、タイオンが一瞬傷付いているように見えた。
多分、気のせいなんかじゃない。
タイオンの心の機微も、この心を貫く僅かな痛みも。
けれど、きっとお互いこの感情には気付いてはいけないのだろう。
挙式は3か月後に迫っている。アルストの人間たちは、皆自分たちの結婚を待ち望んでくれている。
次期女王という責任ある立場にある以上、自分だけの感情で動くわけにはいかない。
自分たちはもう、後戻りできないところまで足を進めてしまっているのだ。

 

全てを狂わす糸車

 
アルストの女王はどうやら気前のいい性格らしく、巨神界の女王メリアは勿論のこと、彼女の従者である者たちにも平等に部屋を割り当てられるよう、大きな客邸を丸々貸し切ってくれていた。
お陰で、メリアの側近であったユーニもまた、二世界間会談が行われる3日間、この絢爛豪華な客邸に私室を設けることが出来た。
自らに割り当てられた部屋でドレッサーの前に腰掛け、鏡と向き合っていた彼女は、髪に乱れがないか念入りにチェックしている。
そんな彼女の背中に視線を向けている者が1人。
許嫁でもある幼馴染、ノアである。

陽が沈み始め、会談1日目も終盤差し掛かった頃。
アルストキャッスルではこれから始まる舞踏会に向けて準備が進められていた。
部屋の外では、キャッスルの使用人たちが慌ただしく歩き回っている。
その喧騒を聞きながら、早々に準備を終えたノアは許嫁をエスコートするためユーニの部屋を訪れていた。
彼女のベッドに腰掛け、ユーニの準備が終わるのを待っている。
鏡に映る背後のノアを横目に見ながら、ユーニは準備を進めつつ口を開いた。


「良かったのかな。アタシたちまで舞踏会に参加しちまって」
「今回の舞踏会は巨神界とアルストの交流が目的だからな。今夜ばかりは立場も忘れようという2人の女王の心遣いだろう」
「ふぅん。まぁ、こんな綺麗なドレス着れるんだかアタシは別にいいけど」


着替えを終えたノアは、黒で統一された騎士服を身に纏っている。
公式の場でのみ着用を許されるメリア護衛騎士の正装だ。
そんな彼に合わせるように、ユーニもまた黒で統一されたドレスを着用していた。
シックな衣装に身を包んだ二人の衣装は、自分たちの目から見ても統一感があり並ぶとしっくりくる。
ノアの衣装に合わせてこの色を選んでよかった。
ユーニは用意していたネックレスを手に取りながらそんなことを考えていた。

腕を回し、ネックレスを身につけようとするユーニだったが、首の後ろで金具を繋げることに苦戦してしまう。
あれ、なんか上手くいかない。
なかなかつけられず難儀していると、その様子を見ていたノアが立ち上がりゆっくり歩み寄って来た。
そしてユーニのすぐ後ろに立った彼は、苦戦している彼女の代わりにネックレスをつけてやった。


「ありがと」
「結構似合ってるな、そのドレス」
「だろ?アタシも着飾れば結構いい女になるんだって。結婚式も楽しみにしてろよ?」


楽しそうに笑うユーニの笑顔に、ノアはその蒼い瞳を細めて微笑みを返した。
2人の結婚式は1か月後に迫っている。
既に当日の会場や衣装の手配も済んでおり、あとはその日がやって来るのを待つばかりである。
 
元々親が決めた結婚ということもあって、ユーニは結婚式を挙げることに消極的だったが、ノアが“空から見ている両親のためにも挙げよう”と提案したことで挙式が実現した。
ユーニは結婚式に淡い憧れを抱くような乙女チックな性格はしていないが、いざ挙げるとなるとやはり楽しみだった。
当日は純白のドレスに身を纏い、ノアの隣を歩く予定である。
ドレスなどほとんど着たことがないユーニにとって、今日の舞踏会は結婚式に向けてドレスに慣れるための予行練習のようなものだった。


「そろそろ行こうか。遅れたらさすがにマズい」
「だな」


ドレッサーに腰掛けるユーニに、ノアが出を差し伸べる。
延ばされたその手に首を傾げると、彼は穏やかに笑みを食みつつ言った。


「こういう時はエスコートするものだろ?」
「うわ、なんかそれっぽい。カッコいいじゃん」
「まぁ、たまにはな」


許嫁とはいえ、2人は幼馴染として長く付き合ってきたため、恋人らしいことなど何一つしてこなかった。
指を絡めるように手を繋ぐことも、互いの目を見つめながら甘く抱き合うことも、心臓を高鳴らせながら口付けを交わしたこともない。
だが、1か月後には夫婦になるのだ。
今からでもそういうことに慣れておくべきだろう。
ほんの少しの照れくささを感じながらも、ユーニはノアの手を取ってゆっくりと立ち上がった。
そして、エスコートする彼の腕に自分の腕を絡ませ、互いに目を見ながら笑い合う。

私室を後にした2人は、寄り添いながら廊下を進み、舞踏会の会場となっているキャッスルの大広間へと向かう。
既に大広間には大勢の人々が集まっていた。
アルストの人間は勿論、巨神界の人間たちも多く見受けられる。
 
正装に身を包んだ群衆の向こう側には、様々な楽器を手に優雅な旋律を奏でている音楽隊の姿が見えた。
巨神界には、舞踏会を開く文化はない。
皇都アカモートにて祝宴が開かれることはないが、互いに向き合ってダンスを踊る機会はほとんど無いと言っていいだろう。
ノアの腕に寄り添うユーニは、今さらながら不安を感じ始めていた。


「なぁ、アタシ踊りなんて出来ないんだけど、大丈夫かな?」
「一応俺が練習してきたから、エスコートするよ」
「マジで?流石ノア。ちなみに誰と一緒に練習したんだ?」
「……ランツ」
「ぶはっ!」


真面目な性格のノアは、どうやら事前にきちんとダンスの練習を積んできたらしい。
しかも相手はあのランツに務めてもらったのだとか。
ノアが大柄で筋肉質なランツ相手にダンスの練習をしている光景を想像し、ユーニは吹き出した。
“マジかよ”と言いながらケタケタと笑っていると、ノアに“笑い過ぎだ”と頭を小突かれる。
 
ランツもまた、この二世界間会談には近衛騎士として同行している。
けれど、パートバーがいない彼は舞踏会には参加しないはずだ。
ダンスの経験値だけを無駄に上げたランツのことを考えると、面白くて仕方がなかった。

暫く2人で話していると、管楽器の演奏と共にアルストの騎士服を着た一人の老人が、2階のギャラリーへ続く階段の上から一同に向けて声を張り上げる。


「お待たせいたしました。二世界間交流を目的とする舞踏会を開催いたします。まずは、今回の主役であらせられるお2人の女王陛下にご入場いただきます。最初に、巨神界よりお越しいただきましたメリア女王陛下と、パートナーを務められますシュルク様っ!」


会場から大きな拍手が沸き起こる。
2階から腕を組みゆっくりと降りて来るのは、美しい漆黒のドレスを身に纏ったメリアと、そんな彼女をエスコートする巨神界の英雄、シュルクであった。
群衆の中から拍手を贈りつつその光景を見つめていたユーニは、隣のノアにそっと耳打ちをする。


「メリアのパートナー、シュルクなんだな」
「メリアは独り身を貫いているからな。あの人のパートナーを務められるのは、シュルクくらいだろう」
「それもそうか」


シュルクには妻がいる。
幼馴染と恋愛結婚した彼だが、妻とメリアもかなり深い仲らしく、“他の誰かならともかくメリアが相手なら”ということでシュルクがパートナーになることを許したのだという。
本人たちにしか分からない信頼関係というものがあるのだろう。
幼馴染で結婚したというシュルクとその妻の関係は、これから挙式を控えているノアとユーニの関係に共通するところがある。
自分もシュルクたち夫婦のように、うまくやっていけるだろうか。
そんなことを考えながら、ユーニは拍手を贈り続けていた。


「続きまして、我らがアルストが誇る女王陛下、ニア様。そしてパートナーを務められますレックス様っ!」


再び拍手が大きくなる。
メリアとシュルクに続くように階段から降りてきたのは、白い皇衣を身にまとったアルストの女王、ニアと、彼女の伴侶である屈強な男、レックスであった。
こうしてアルストの女王を直接目にするのは初めてである。
アルストの人間独特の獣のような耳を生やしている彼女は、白く美しい髪と琥珀色の澄んだ瞳を持っている。
 
伴侶であるレックスにエスコートされ、ゆっくりと階段を降りて来るアルストの女王を見つめながら、ノアは妙な既視感を覚えていた。
あの耳、あの髪色、そしてあの瞳の色。
似ている。昼間会ったあの“ミオ”という名の女性に。
まさか——。いや、さすがに偶然だろう。そんなはずはない。


「ノア、どうかした?」
「あ、いや、なんでもない」


ニアを凝視して眉間にしわを寄せている自らの許嫁に、ユーニは声をかけた。
ハッと我に帰り視線を逸らしたノアだったが、彼の現実離れした仮説はすぐに事実として裏付けられることになる。


「最後に、ニア女王陛下がご息女にて、次期女王陛下、ミオ様。そしてパートナーを務められますは、ミオ様の婚約者でもあらせられる専属近衛騎士長、タイオン様っ!」
「え?」
「は……?」


老練な騎士が声を張り上げながら伝えた事実に、ノアとユーニは同時に顔を上げた。
次期女王?婚約者?
驚きながら見つめる二人の視界に飛び込んできたのは、ニアとレックスの後に続くように階段を降りている一組の男女の姿。
 
真っ白なドレスを身に纏い、小ぶりな耳が生えている頭にティアラを乗せている姫君、ミオと、そんな彼女をエスコートしている白く豪華な騎士服を身に纏っているタイオンの姿。
彼らはまさに、昼間ノアとユーニが共に過ごした人物だった。

拍手で迎え入れられているあの二人は、次期女王とその婚約者だと紹介されていた。
その事実に困惑を隠せないノアとユーニは、ゆっくりと顔を見合わせる。


「次期女王とその婚約者だったのか……」
「全然知らなかった……」


2人の背筋に冷や汗が伝う。
全く知らなかったとはいえ、アルストの皇族とその婚約者に随分と馴れ馴れしく接してしまっていた。
流石の2人も数時間前の自分たちの態度に少々マズさを感じてしまう。

こうして、初日の舞踏会は幕を開けた。
それぞれのパートナーと寄り添い合い、音楽隊による生演奏の旋律に身体を揺らしながら参加者たちは優雅にダンスを楽しんでいる。
ユーニもまた、ノアに手取り足取り教わりながらダンスを楽しんでいた。
やがてそろそろ踊り疲れた頃合いで、歓談していた2人に一組の男女が近づいてくる。
その二人の到来を察知した瞬間、2人は背筋を伸ばした。


「これはミオ様、タイオン様」
「えっと……ご、ご機嫌麗しゅう……?」


ほぼ同時に頭を下げたノアとユーニに、声をかけようとしたミオとタイオンは困ったように眉を潜めた。
こんなにも畏まられるのは不本意である。
特にミオの方は、元々必要以上に敬われることを嫌っているため、2人の態度に小さな悲しみを覚えてしまう。
ミオは隣でエスコートしているタイオンと顔を見合わせ苦笑いを浮かべると、ノアとユーニに視線を向け口を開いた。


「そう畏まらないで?必要以上に礼儀を重んじられるのは好きじゃないの」
「しかし……」
「さっきみたいに普通に接して?名前も“ミオ”って呼び捨ててもらって構わないから。ね?」


折角出来た初めての巨神界の友人を失いたくはなかった。
出来れば次期女王であるこの身分は隠しておきたかったが、やはり無駄な足掻きだったらしい。
あんなに派手に紹介されては、集まった巨神界の人々にも顔が知られてしまう。
この立場を知られていなかったとはいえ、一時でも親しくしてくれたノアだけはそのままでいてほしかった。

ミオからの言葉に躊躇するように顔を見合わせた2人だったが、彼女本人がそう望むのなら拒む理由はない。
“分かったよ、ミオ”と微笑み頷いたノアに、ミオは安堵した。
そんな時。大広間に響いていた旋律が止まり、別の曲がゆっくりと流れ始める。
その曲が流れ始めたと同時に、先ほど2人の女王とミオを呼び込んだ老練の騎士が再び声を張り上げた。


「これよりは、パートナーを変えてのダンスタイムとなります。皆様どうぞお楽しみください」


そのアナウンスを聞いた瞬間、ユーニは内心“げっ”と声を挙げたくなった。
まずい。ダンスが苦手な以上、ノア以外の誰かと組めば無様を晒すかもしれない。
かといってこのままノアと踊り続けるわけにはいかない。
どうしようかと迷っていると、隣に立っていたノアが正面に立っているミオへと手を差し伸べる。


「ミオ。俺でよかったら、エスコートさせてもらえないか?」


ノアの一言にその場にいた全員が驚いた。当然ユーニも驚きを隠せない。
次期女王を堂々と誘うなんて、豪胆かよこいつ、と。
当のミオも、驚いてはいるものの満更ではない様子。
隣に寄り添っている婚約者、タイオンの機嫌を伺うように視線を向けている。
タイオンが許可を出すように微笑みながら頷くと、ミオは表情を明るくシ、ノアの手を取った。


「私でよければ、喜んで」


少しだけ照れているのか、ミオは飾り付けられたその長く美しい白髪を耳にかけながら、ノアの手を握り返す。
互いに微笑みながら手を取り合い、ノアはミオをエスコートしながら去っていく。
ミオの腰を抱きながら、ノアはそっとユーニへと振り向き微笑みを向けていた。
“がんばれよ”とでも言いたげな笑顔である。
勝手に人を置いていきやがって。
少しむくれていると、目の前に立っていたタイオンが“ゴホン”と咳払いしながら一歩前に出る。


「ユーニ、良かった僕たちも……」
「余り者同士ってこと?でもアタシ、ダンスまともに出来ないけどいいの?」
「僕がエスコートするから任せていれば問題ない。安心してくれ」
「へぇ、頼りになるじゃん」


揶揄うように笑うと、タイオンは眼鏡を押し上げ右手を差し出してきた。
その手を取ると、彼の褐色の手が腰に回る。
力を込めて引き寄せられると、ほんの一瞬だけ心臓が高鳴った。
ノアよりも少しだけ身長が高いタイオンにリードされ、ユーニの足はゆっくりと動き出す。

そう言えば、こうしてノア以外の異性に腰を抱かれたり引き寄せられたり手を繋いだりしたのは初めてだ。
親が決めた許嫁とはいえ、将来結婚を約束した相手がいる以上、軽率に異性に近付くようなことをしてこなかった。
ガラにもなく少しだけ緊張しているユーニの目は、自然と少し離れた場所で踊っているノアとミオへと向けられた。
顔を近付け会話している2人は、随分楽しそうに笑い合っている。
その光景を見つめていると、その視線に気付いたタイオンが“気になるのか?”と頭上から声をかけて来る。


「え?」
「あのノアという男、許嫁なんだろ?他の女性と踊っているのが気になるのか?」
「うーん……。気にならないって言ったら嘘になるかな」


他の女性と仲睦まじくしている様子に嫉妬しているだとか、そういうことではない。
とはいえ、許嫁として無関心ではいられない。
正直言って、ノアへの恋愛感情はほとんどないが、特別視はしていた。
なにせ彼は子供の頃から一緒に育ってきた幼馴染であり、家族のような存在だ。
酸いも甘いも一緒に経験してきた彼は、ユーニにとって特別な相手である。
それを正直に伝えると、タイオンは視線を逸らしながら“そうか”と呟いた。
どこか遠い目をしているタイオンは、昼間会った時に比べて妙に暗い気がする。
何か気分が落ち込むようなことでもあったのだろうか。


「それにしても吃驚したよ。まさか姫様の婚約者だったなんて。てことは、未来の王子様ってことになるよな?」
「……まぁ、一応は」
「王子様かぁ。そんなのと踊れるなんて一生に一度の経験だろうな。堪能しとこっと」


巨神界の女王であるメリアは伴侶がいないため、必然的に“王子”という立場は存在しない。
目の前にいるタイオンは、アルストにしかいない希少な“王子様”になり得る存在だ。
そう思うと、なんだか今のこの状況がとてつもなく貴重で特別感があるように思える。
微笑みながらタイオンを見上げると、彼は少し気まずそうな表情を浮かべながら瞼を伏せていた。


「僕は“王子様”なんてガラじゃないがな」
「そう?結構似合ってね?」
「やめてくれ。器じゃないことは自分でもよく分かってるんだ」


そう言って、タイオンはまた視線を逸らす。
何処か寂しげな、そして悲し気なその表情を見つめながら、ユーニは思った。
もしかすると彼は、あのミオという姫と一緒になることに不安を感じているのかもしれない。
相手は皇族の人間だし、きっと自分たちのように第三者が決めた結婚なのだろう。
ミオのことを好きになれないからというよりも、結婚に伴って“王子”という立場に納まることが嫌なのかもしれない。
次期女王とその伴侶となる王子には、きっと自分には想像もできないくらい大きな責任が伴うのだろう。
不安を感じるのも無理はない。


「タイオンはさぁ」
「ん?」
「もしも自分があのお姫様の婚約者じゃなかったら、“この人と結婚したい”と思える相手、いる?」


ユーニからの質問に、タイオンは一瞬足を止めた。
フリーズしたように身体を固くしたあと、彼はじっとこちらを見つめてきた。
眼鏡のレンズ越しに、視線と視線が絡み合う。
そして目を逸らすと、タイオンは吐き捨てるように言った。


「いない。いるわけない」
「そっか。ならまだ救いはあるのかもな」


他に好きな人がいたのなら、第三者に決めつけられた結婚など地獄でしかない。
だが、タイオンにはそう思える相手はいなかったらしい。
想い人がいないのはユーニも同じ。この結婚に不安はあれど嫌悪感を一切感じないのはそのおかげなのかもしれない。
 
結婚式を挙げて、長く続く夫婦生活が始まれば、きっと相手を好きになれる。
恋愛結婚で結ばれた夫婦たちと同じように、強い絆で結ばれるはず。
ユーニはそう信じていた。
遠くでミオと踊るノアの姿から目を逸らし、タイオンを見上げて微笑みかけるユーニ。
そんな彼女からあえて目を逸らしたタイオンは、彼女の腰を抱く力を僅かに強めるのだった。

一方、ノアにエスコートされたミオもまた、長年一緒にいたタイオンという婚約者以外の異性に腰を抱かれるのは初めての経験だった。
タイオンよりもほんの少しだけ目線が低いノアは、顔を上げればすぐそこに顔がくる。
そのせいで、彼の顔をまっすぐ見られないという現象が起きていた。

おかしい。ダンスの経験ならタイオン相手に何度もあるはずなのに、今さら緊張するなんて。
初めての相手だから?
タイオン以外の異性が相手だから?
それとも、相手がノアだから?
いくら考えても答えは出なかった。
だが、この疑念と戸惑いの理由を深堀してはいけないような気がした。
気付いてはいけない心の変化に触れてしまいそうだったから。

優雅な旋律に合わせながら、2人は舞い踊る。
ノアのエスコートによって腰を抱かれるミオは、ドレスをひらめかせながら会場の中央で回っていた。
純白のドレスを身にまとうミオと、漆黒の騎士服を身に纏うノアの二色は、並ぶと良く映える。
2人きりで踊る時間が長引けば長引くほど、ミオの心はどんどん昂っていった。


「勢いで誘ったけど、良かったのかな」
「えっ、何が?」
「俺は巨神界側のただの騎士だし、次期女王陛下を気安く誘うべきじゃなかったかなって。婚約者もいたみたいだし」


ミオの腰を引き寄せながら、ノアは苦笑いを浮かべていた。
次期女王の座にある自分と踊っている状況に遠慮しているのだろう。
この立場を理由に距離を置かれるのは嫌だ。
焦ったミオは、ノアの腕を軽く掴みながら顔を上げ、“そんなことない”と口を開いた。


「私、嬉しかったよ?立場上、こういう場で私を積極的に誘ってくれる人なんてなかなかいないから。それに——」


ふと、少し離れたところでユーニと踊っているタイオンへと視線を向ける。
いつも冷静沈着で落ち着いているタイオンだが、ユーニを目の前にしている今の彼は少し落ち着きが無いように思える。
長年一緒にいたミオには分かる。視線が泳ぎ、顔を逸らしているあの仕草は、照れている証拠だ。
タイオンがあんなふうに特定の相手を前に照れているところは初めて見た。
あのユーニという女性には心を許しているのかもしれない。
でも彼女は、今目の前で自分をエスコートしてくれているこのノアの許嫁だ。
その事実を、タイオンはどう思っているのだろう。


「タイオンは、私が他の誰かと踊っていたとしても何も言わないと思うから」
「なんでだ?婚約者なんだろ?」
「えぇ。でも、子供の頃に親が決めた相手だから……」


タイオンが相手であることに不満があるわけではない。
だが、彼を恋愛的な意味で好きになれるかと聞かれれば答えはNOだった。
タイオンと一緒にいると安心できる。でもその安心感は、父や母と一緒にいるときの安心感と同じでしかない。
きっとタイオンも、自分に対して恋愛感情を抱いてはいない。
恐らくは、専属近衛騎士長としての義務感からこの結婚を受け入れているのだろう。
 
騎士としてミオを守っていた彼は、今後は夫としてミオを守ることになる。
関係性を表す言葉が少し変わるだけで、実質的な2人の関係性は何も変わらない。
義務感と責任感で雁字搦めになった今のミオとタイオンの間に、甘い空気が流れることはない。
その事実を伝えると、ノアは“そうか…”と俯いた後、薄く笑みを浮かべて言葉を続けた。


「じゃあ、俺たちと同じだな」
「え?俺達って……」
「俺とユーニのこと。俺たちの結婚も、親同士の遺言で正式に決められたものなんだ」
「じゃあ、恋愛感情があるわけじゃないの?」
「あぁ。多分向こうも俺にそういう感情はないと思う」
「そう、なんだ……」


“もちろん大切には思ってるけどな”
そう後付けしたノアの言葉に、小さな喜びを感じている自分を見つけてしまって嫌になった。
気のせいだと思いたかった。けれど、どうやらもう誤魔化せそうにない。
恋なんて一度もしたことがなかったこの心は、出会ったばかりのこのノアという青年に引き寄せられてしまっている。
 
困ったな。気付いてしまったところで、諦める以外に選択肢はないのに。
自分にはタイオンという大切な人がいる。そしてノアには、恋愛感情はないとはいえ結婚を約束した相手がいる。
この気持ちを露見させてはいけない。心の奥深くに仕舞い込んで、しっかりと鍵をかけ、間違っても外に出てこないように隠しておかなくては。
こんな気持ち、表に出したところで誰も得しないのだから。

やがて、大広間に響いていた優雅な旋律が終わりを告げる。
パートナー交換の時間が終了したことで、自然と周囲から拍手が沸き起こった。
あぁ、もう終わりなのか。
無意識に惜しんでしまうこの心が憎い。
腰を抱いていたノアの手が離れ、彼は深く頭を下げてきた。


「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」


短い間だけのパートナー関係は、こうして解消された。
顔を上げると、穏やかな表情を浮かべたノアの顔が視界に広がる。
その姿を目にするたび、心が無様に跳ね上がってしまうのだ。
思わず視線を逸らしたミオに、ノアは目を丸くさせながら“ミオ……?”と不思議そうに名前を呼んできた。


「ミオ」
「ノア」


背後から名前が呼ばれる。
振り返ると、タイオンとユーニが二人並んでこちらに歩み寄って来た。
どうやら迎えが来たらしい。
ミオは長い髪をなびかせながらノアに背を向けると、歩み寄って来たタイオンの右腕に強引に自分の腕を絡ませると、彼を見上げながら言い放つ。


「行こう、タイオン」
「え?あ、あぁ……」


いつになく強引なミオに引きずられ、タイオンは戸惑いながらも彼女に従った。
軽く頭を下げたタイオンに会釈を返すユーニ。
遠ざかっていく2人の背を見送った後、ユーニはすぐに自分の許嫁であるノアへと視線を向けた。
彼もまた、不思議そうに、それでいてどこか寂しそうにミオとタイオンの背中を見つめていた。


***

大広間に面したバルコニーからは、ミオのお気に入りの場所である庭園が良く見える。
日が暮れた今の時間帯、花壇の花たちはよく見えないが、代わりに綺麗な星空を見ることは出来る。
大広間の喧騒から離れ、バルコニーに出ていたミオとタイオンは、静かな空間で二人並んで夜空を見上げていた。


「ミオ、疲れたのか?」
「どうして?」
「さっき様子が変だったから」


まるで逃げるようにノアとユーニの前から立ち去ろうとしたミオに、タイオンは違和感を覚えていた。
長い事踊ったことで、疲労がたまってしまったのかもしれない。
従者として彼女の体力が心配になった彼は、ミオの顔をそっと覗き込む。
だが、そんなタイオンの顔をミオはじっと切なげな表情で見上げた。


「ミオ……?」


突然見つめて来る彼女に戸惑うタイオン。
彼の褐色の右手を両手で握ると、ミオは深く息を吐いた後に何かを決意したような表情を向けて来る。


「タイオン。今夜舞踏会が終わったら、私の部屋に来てほしいの」
「え……?」
「意味、わかるよね?」


ミオの言葉の裏側を察することなど、頭脳派なタイオンにとっては容易なことだった。
夜、婚約者である男を自室に誘う理由など、ただ一つしかない。
2人の婚約は子供の頃から決まっていたことだったが、今まで性交渉は勿論キスの1つも交わしたことがない。
キスはともかく、性交渉は正式に結婚してからとタイオンが一方的に決めていたのだ。
 
皇族である立場上、いずれ子供はもうけなければならない。
だが、互いに恋愛感情がないことは火を見るよりも明らかだったため、せめて結婚前は手を出さないと固く誓っている。
そんな彼の誓いを、ミオも何となく察してはいた。
理解したうえで、こんな提案をしているのだ。


「急にどうした?何かあったのか?」


問いかけるタイオン相手に、素直に言えるわけがなかった。
あなた意外の男の人に惹かれつつある、なんて。
だから自分の心を彼から引きはがすために、強引にあなたのモノになってしまいたいの、なんて。
タイオンに抱かれれば、この心も少しは揺り動くかもしれない。
タイオンを好きになれるかもしれない。
ノアを諦められるかもしれない。
そんな希望を孕んだ提案だった。


「式まであと3か月でしょ?それまでに覚悟を決めておきたいの。だから、お願い……」


琥珀色の瞳を揺らしながら、ミオは懇願する。
このまま放っておけば、この心はどんどんノアへと引き寄せられていく。
間違いを犯す前に、悲しみが大きくなる前に、完全にタイオンの所有物になってしまいたい。
そんな願いを込めたミオの視線を浴びながら、タイオンはそっと視線を大広間の方へと向けた。
見つめる先には、ノアと一緒に楽し気に語らうユーニの姿。
その背中を見つめて目を細めると、彼は何かを決意したように頷いた。
そして、ミオによって握られていた手を彼女の白い頬に添える。


「……わかった。必ず行くから待っていてくれ」
「うん。ごめんね、タイオン……」
「何故謝る?僕たちは婚約者だろ?」
「だって、だって……」


ミオには、タイオンを縛り付けている自覚があった。
次期女王の婚約者という立場は、このアルストで莫大な権力を得られるという甘美な一面はあるものの、タイオン本人が望んだポジションではない。
嫌がっているわけではないのだろう。だが、喜んで受け入れているわけでもない事実を、ミオは知っている。
ただ断れなかったのだ。“姫を守れ”という重すぎる任務を。
頬に添えられた彼の手に自分の手を重ねたミオは、悲し気な微笑みを向けた。


「失礼いたします。ミオ様、タイオン様。ニア女王陛下がお呼びです。ご案内いたしますので、お越しいただけますか?」


バルコニーで過ごしていた2人に声がかかる。
話しかけてきたのは、一人の女性使用人だった。
恐らくはニアの側近なのだろう。
物静かな様子で頭を下げる彼女は、有無も言わさぬ様子だった。
今は舞踏会の真っ最中だ。こんな時に呼び出すなんて、一体何の用だろう。
不思議に思ってタイオンを見上げると、彼もまた眉間にしわを寄せていた。
互いに顔を見合わせて、“了解した”とタイオンが返事をする。


「ではこちらへ……」


ゆっくりと歩き始める従者の背を追い、2人も歩き始める。
大広間の脇を通りって扉をくぐると、薄暗い廊下を進む。
向かう先は、キャッスルの端の端。人通りのほとんどない物置のような場所である。
やがて、古びた両開きの扉の前で従者は立ち止まる。
こんなところでニア女王が待っているというのだろうか。
不思議に思っていると、背後から近づいてくる足音に気付き2人は振り返る。
するとそこには、同じようにニアの側近らしき従者に案内されたらしいノアとユーニの姿があった。
あちらもミオとタイオンがいるとは思わなかったのだろう。
4人は再びのバッティングに互いに目を丸くしていた。


「君たちまで……。何故ここに?」
「メリアに……。うちの女王が呼んでいるらしくてな」
「そっちもなの?」
「そっちもって?タイオンたちも呼ばれたのかよ?」
「僕たちはニア女王陛下にだがな」


どうやら4人は、それぞれメリアとニアに呼び立てられたらしい。
やがて4人を引き連れてきた2人の従者は、目の前にある両開きの扉を同時にゆっくりと開け放ちながら、“中へどうぞ”と促してくる。
戸惑いつつも、ノアとタイオンを先頭に4人は扉の先を進む。
 
この広い空間はどうやら倉庫のようだった。
光源が少なく薄暗い中を進む4人だったが、最奥にポゥッと灯った明かりを見つけた。
どうやらロウソクの明かりだったらしい。
そこには2人の女王の姿と、舞踏会で女王たちのパートナーを務めたシュルクとレックスの姿がある。
彼らの前には、少し大きくて丸い何かが置かれてあるようだが、黒い布が上から被されておりその正体は分からない。

倉庫内にいたのは、女王たちだけではなかった。彼らと向き合うように、体格差のある2人の男女の背中が見えた。
あの背中には見覚えがある。
彼らを見た瞬間、ノアとミオがほぼ同時にその名前を叫んだ。


「ランツ?」
「セナ、どうしてここに?」
「ノア、ユーニ、なんで……」
「ミオちゃん、タイオンまで……」


ノアやユーニと一緒に巨神界のコロニー9で一緒に育ってきた幼馴染、ランツ。
そしてタイオンと同じく幼い頃からミオの側近として仕えてきた少女、セナ。
面識のない二人が先客としてこの場にいる状況に、一同は困惑した。
2人はそれぞれ舞踏会開催の裏で騎士と使用人として仕事をこなしていたのだが、ノア達を連れてきた従者に“女王が呼んでいる”と声をかけられ、ここまでやって来たのだという。
 
何故出会ったばかりのこの6人が突然こんなキャッスルの端に呼ばれたのか。意味が分からないまま戸惑っている一同を前に、ようやくメリアが“役者は揃ったようだな”と呟きゆっくりと歩み寄る。


「皆、急に呼び立ててすまない。舞踏会に人が集まっているこの時しか機会が無くてな」
「ということは、他の人間には聞かれたくない話がある、と?」
「あぁ。その通りだ」


タイオンの言葉に、メリアは深く頷く。
人のいない場所と時間を選んでまで呼び立てられたのだ。きっと相当な話なのだろう。
薄暗い倉庫内に集められた6人に緊張が広がる。
そして、一歩前に出ていたメリアに目配せされたシュルクとレックスは、前に出る。
目の前に置かれた大きくて丸い物体に被されていた布を同時に引く2人。
布は取り払われ、隠れていた球体が姿を現した。
機械で出来たそれは、まるで卵のような形をした不思議な装置だった。
一体何のための装置なのかまるで分らなかった6人だが、メリアはその装置を見つめた後、隣に立っているニアへと視線を向ける。


「本当に良いのだな?ニア殿」
「……えぇ」
「わかった」


俯くニアの様子は、いつもと違ってやけに暗かった。
様子がおかしい母の姿に、娘であるミオが気付かないわけがない。
なぜそんな悲し気な顔をしているのだろう。
母が悲しい空気を纏っている理由を、ミオは数分後すぐに理解することになる。


「皆、この装置に手を触れてみてほしい」
「どういうことだ?意図が分からないんだが……」
「今は分からずともよい。口で説明するよりも実際己の目で確かめるのが早いだろう。大丈夫。触れるだけで危険はない」
「まぁ、女王様がそう言うなら……」


“装置に触れろ”というメリアの指示は、あまりにも意図が掴めない内容だった。
とはいえ、あのメリアが言うことならば本当に危険はないのだろう。
訝しみながらも、ノア、ユーニ、ランツの3人は女王を信頼し、その命令を承諾した。
だが、ミオをはじめとするアルストの3人は未だ戸惑っているらしく、装置に近づこうとしない。
そんな彼を見つめていたニアは、かすれた声で口を開いた。


「タイオン、セナ、そしてミオ。貴方たちもお願いします」
「母様……」
「触れればわかります。今のこの状況も、すぐに理解できるはず」


その命令の意味がひとつも理解できないまま、ミオたち3人は顔を見合わせる。
だが、女王の命令を無下にするという選択は最初から持ち合わせていない。
渋々了承すると、3人もまたノア達と同じように装置へと近づいた。
 
卵型の機械装置の名は、記憶再現装置。
シュルクやリク、そしてトラをはじめとする高名な技師が知恵の技術を持ち寄って完成させた、失われた記憶を呼び起こす装置である。
だが、6人はこの装置の正体を知らない。
輝きを放つ機械を囲み、見下ろしている6人は、まだ出会ったばかりの“知り合い”程度でしかない。
だが、同時に手を伸ばし、指先が装置に触れた瞬間、6人の脳裏に同じ記憶が駆け巡る。

蜂の巣のように並ぶゆりかご。
手に持ったブレイドの感触。
人の命を奪う光景。
舞い上がる命の粒子。
失った命を前に流す涙。
身体に刻まれた刻印。
迫る命の限界時間。
初めての邂逅。
命と身体を共有する感覚。
初めて触れた命のぬくもり。
穏やかで優しいおくりびとの旋律。
温かくて心を落ち着かせてくれるハーブティーの香り。
別れ際に突き合わせた拳。
手渡されたレシピ帳。
交わされた口付け。
遠ざかるパートナー。
最後に見た朝日。

知恵と技術が詰まったこの装置は、6人の失われた記憶を強引に、そしてあっという間に引き出してしまう。
一瞬でよぎった記憶は、今まで巨神界とアルストで生きてきた約20年の記憶を押しのけた。
蘇った記憶を理解するのに時間がかかったのは、その量がひとつの脳で処理するにはあまりにも膨大な情報量だったからだろう。
6人は同時に手を放し、そして沈黙が訪れる。
混乱、困惑、戸惑い。
混ざり合う6人の思考回路が静けさを生み出していた。
そんな沈黙を一番に破ったのは、ランツとセナの2人である。


「ら、ランツ……!」
「セナっ!」


上擦った声で互いの名前を呼び合い、2人は両腕を広げて抱き合う。
今まで“赤の他人”であった事実が嘘のように、2人は身体を寄せ合い再会を喜ぶ。
小柄なセナを抱きしめながら、ランツは囁く。“やっと会えた”と。
そんなランツの胸板に頬を寄せ、涙を流しながらセナは囁く。“会いたかった”と。
 
再会を待ち望んでいたはずなのに、そのことすらも忘れてしまっていた事実が悲しい。
と同時に、また会うことが出来た事実がたまらなく嬉しい。
この世でたった一人しかいないパートナーとの再会に喜び合うランツとセナだったが、ふと、自分たち以外の周りの空気が凍っていることに気が付いてしまう。

あぁまずい。この空気感はマズい。
自分たち二人は独り身だし、恋人もいなければこれから結婚する予定もないからこんなに喜んでいられるのだ。
けれど、自分たち以外の4人は状況が違う。
全員婚約者がいるのだ。しかも相手は——。

抱き合っていたランツとセナは、恐る恐る顔を上げる。
4人の方へと視線を向けると、案の定彼らは全員青い顔で固まっていた。
その表情に、“喜び”の感情などは一切見られない。
あるのは大きな戸惑いと絶望だけ。
言葉を失っている4人を前に、傍から様子を見ていたニアは胸を痛めていた。

やはり、想像通りの反応だった。
きっと彼らがもっと身軽な身の上だったなら、ランツとセナのように迷わずかつてのパートナーの胸に飛び込み、喜びを分かち合ったことだろう。
だが、今の4人には結婚を約束した相手がいる。
しかもその相手もかつての仲間。
運命の縁は4人の間を交差し、複雑に絡み合っている。
この状況で無邪気に再会を喜べるほど、彼らは愚かではなかった。

ミオの目に、ノアの姿が映る。
彼の姿を目にした瞬間、今まで感じていたすべての違和感の辻褄が合ったような気がした。
初めて会ったというのにあんなに心動かされたのは、相手があのノアだったから。
一緒に旋律を奏でたときに懐かしい感覚に陥ったのも、やはり相手があのノアだったから。
けれど、何もかもがもう遅すぎる。目の前にいるノアの隣には、既にユーニの姿がある。
それに、自分の隣にだって既に——。


「ミオ……っ」


ノアに名前が呼ばれる。
やめて、呼ばないで。あの頃と同じ声色で、同じ表情で、私を呼ばないで。
もう戻れない。彼に心を寄せるなんて許されない。
だって今の自分には、婚約者がいる。タイオンという大事な大事な婚約者が。

後ずさりながらノアから視線を外す。
すると、隣に立っているタイオンへと視線が行った。
彼の目はまっすぐユーニを捉え、ユーニもまた、青い瞳を見開きタイオンを見つめて呆然としている。
やがてタイオンの視線が、ミオへと向けられた。
ノアとタイオン。2人の戸惑ったような、切ないような、悲しいような、そんな複雑な視線を浴びながらミオは泣きたくなってしまった。
嬉しい再会のはずなのに、知りたくなかった。
知りたかったはずなのに、悲しくてたまらない。
どうしようもない二律背反を繰り返し、耐えきれなくなった彼女は長い髪を振り乱しながら走りだす。


「ミオっ!?」


駆け出し、倉庫を出て行ったミオの背中を呼ぶノアの声は、悲痛なものだった。
一瞬だけ後を追おうとした彼だったが、すぐに足を止める。
すぐ隣にいるユーニの存在を思い出したからだ。
自分以上に戸惑っているユーニを放ってミオの後を追うことは、今の自分にとって正しい選択なのだろうか。
その答えがすぐに出せなかったノアは、ミオを追うことを躊躇った。
タイオンもまた、ミオが出て行った倉庫の出口を見つめたまま下唇を噛んでいる。
壮絶な空気が支配する中、ランツとセナは残された3人にどう声をかけていいか分からずにいた。


「レックス、あとのこと頼んでいい?」
「あぁ、行ってこい」


伴侶であるレックスに後のことを託し、ニアはミオの後を追って駆け出した。
母として、取り乱した娘の姿を放ってはおけなかったのだろう。
出て行ったニアの背中を見送ったメリアは、呆然とその場に立ち尽くしているかつてのウロボロスたちに歩み寄り深々と頭を下げ始めた。


「皆、すまない。この状況は、私とニア殿誤算が原因だ。これほどまでに早く再会が叶うとは思わず、目先の幸福を優先させてしまった。すまない。本当に申し訳ない」


深々と頭を下げるメリアに、残された一同は驚いた。
この状況下で、メリアを責めるつもりなど誰もなかったからである。
アイオニオンにいた頃から6人のことをよく知っていた彼女たちならば、再会の日がすぐに実現すると分かってさえいれば許嫁を宛がうなどしなかっただろう。
誰も予想できなかった。ただそれだけのことである。
 
だが、かつてのパートナーを思い出したからと言って、すぐにその胸に飛び込むだけの身軽さを失ってしまったのは事実である。
巨神界とアルストで生まれ、今まで生きてきた20年間で積み上げた人間関係を投げ出すことは出来ない。
今の彼らには、今の彼らの事情があるのだ。
覆すことのできない大きな事情が。


「女王様たちが謝ることではありません。僕たちが忘れてしまっていたのが悪い」


そう言って、タイオンは背を向け歩き出す。
倉庫の出口に向かって足を進める彼の背に、ユーニは咄嗟に名前呼んでしまう。
“タイオンっ”
かつてのパートナーのかすれた声で名前を呼ばれ、タイオンは一瞬だけ足を止める。
視線だけ振り向いた彼だったが、何も言うことなくすぐにまた歩き出す。
恐らく、ミオの元へ行ったのだろう。
引き留めたところで何を言うべきか分からなかったユーニは、タイオンが出て行ってしまった倉庫の出入り口を見つめながら目を細めた。
そんな彼女の肩に、ノアが手を添える。


「ユーニ。少し話そう」
「……あぁ、そうだな」


2人の視線は交わらない。
これからどうするべきか混迷しているかつての仲間を前に、ランツとセナは何と声をかけていい変わらずその場に立ち尽くしていた。

 

深夜0時に魔法は解ける

 
カツカツと甲高い音を鳴らしながらヒールを履いた足は廊下を駆ける。
見慣れた自室に飛び込み、閉まった扉に寄りかかると力が抜けた。
ずるずるとその場に座り込むと、今日のためにせっかく用意した純白のドレスがシワだらけになっていく。
全部台無しだ。舞踏会が始まる前は、巨神界の人たちとたくさん交流できると思って内心はしゃいでいたのに、今はもうはしゃげる気分ではいられない。
押さえ込んでいた感情の波がまるで津波のように押し寄せて、ミオの心を乱していく。
そして、琥珀色の瞳から堰を切ったように涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

何度も命を繰り返し、その度再会してきた愛しい人。彼の名前はノア。
あんなに大切な人の名前を、どうして自分は忘れていたのだろう。
もっとはやく思い出せていたら、こんなことにはならなかったのに。
今、私の隣には婚約者という立場の人間がいる。彼の名前はタイオン。
アイオニオンでも仲間だった彼は、同じく仲間の一人だったユーニのパートナー。
そしてそのユーニは、今やノアの許嫁でもある。


「っ、」


息が詰まる。
頭が混乱して、どうしていいかわからなくなる。
今までは、タイオンと歩む未来に疑問なんて抱いていなかった。
そりゃあ少しくらい不安はあったけれど、この道が正しいと信じて疑わなかったのに。
アイオニオンの記憶を取り戻した瞬間、目前にもう一本の道が現れた。ノアへと続くその道は、茨で覆いつくされている。

私はずっとノアに会いたかった。
好きで好きでたまらない、私の大切なノア。
今すぐその胸に飛び込んでしまいたいのに、私の足に絡みつく“責任”という名の茨が道を阻む。
私はアルスト次期女王だ。タイオンとの婚約は幼い頃から既に世間に公表されており、挙式が3か月後に迫った今、この道を引き返すことは出来ない。
ノアにもまた、ユーニという許嫁がいる。
今さら思い出したところで遅すぎる。ただただ悲しい思いをするだけだった。


「ミオ」


扉の向こうで、母の声がする。
どうやら倉庫を飛び出した自分を追って来たらしい。
声がすぐ近くで聞こえるということは、扉を挟んですぐそこにいるのだろう。
母の声を聞いた途端、ミオは小さな怒りを感じてしまう。


「どうして?どうしてあんなことしたの?思い出さなければ、こんな気持ちになることもなかったのに」


記憶装置を作らせたのは、おそらく2人の女王の指示だろう。
そして、今夜あの装置を使い6人の記憶を呼び覚まそうと決めたのも十中八九女王たちだ。
こうなることは予想できたはず。
再会の日がこんなにも早く訪れることは予想できずとも、記憶を取り戻すことで混乱を招いてしまうことは容易に予想できたはずなのに。
わかっていて、何故あえて記憶を取り戻させたのか。
ミオには母の考えがひとつも分からなかった。


「何も知らない方が幸せだったと?」
「だって……っ」
「アイオニオンで生きていた頃の貴方は、ノア達といつか再会することを望んでいた。何も知らずに、赤の他人のまま生きていくことも出来たでしょう。けれど、あの頃の貴方たちはそれを望まない」
「……」


反論は出来なかった。
確かに、遠ざかるケヴェスの大地に手を振りながら別れを惜しんでいたあの頃の自分は、心の奥底から思っていた。いつか彼らに会いたい、と。
たとえどんな運命を辿ろうと、いつかノアと再会し、“また会えたね”と笑い合える日が来てほしい。
そう願っていた。
 
何も知らずに生きていくことが本当の意味で幸せなのかと問われたら、即答は出来ない。
現に今、混ざり合う様々な感情の中に、“喜び”も混じっている。
これはきっと、長年待ち続けたノア達との再会に歓喜している気持ちなのだろう。
けれど、だからと言って心から喜ぶことは出来ない。
床に座り込んだまま何も言えないミオに、扉越しのニアはゆっくりとした口調で語り掛ける。


「ごめんなさい、ミオ。すべての記憶を明け渡すことで、貴方が混乱することは分かっていた。でも、アイオニオンでの貴女を見ていたからこそ、何も知らないままなのは酷だと思ったのです。すべてを知ったうえで、自らの未来を選び取って欲しい。アイオニオンでの貴女たちがそうしたように」


“選び取って欲しい”
その言葉に、ミオは疑問を抱いた。
選ぶも何も、選択肢など最初からないじゃないか。
今さらノアを選べるわけがない。
自分はアルストの次期女王なのだ。この両手にのしかかる責任という名の重圧は、自らの感情ひとつで好き勝手出来るほど軽くはない。
 
例えタイオンとの婚約を破棄してノアを選んだとして、女王を崇めるアルストの人々はどう思うだろう。
結婚直前で二心を抱いた浮ついた姫だと揶揄される。女王への不信感は、世界の均衡を崩しかねない。
それに、ずっと一緒に隣を歩んできたタイオンの手を今更振りほどくことなんてできない。
第一、ノアにだってユーニという許嫁がいる。
彼には彼の人生があり、向こうも既に道が決まっている。
もはや既定路線でしかないのだ。今更このレールを降りるなんて、そんな無責任なことは出来そうにない。


「ニア様、失礼します」


不意に、外から母以外の声が聞こえてきた。タイオンである。
彼もまた、自分を追ってきたのだろう。
皮肉なものだ。こういう時、後を追ってくるのはいつもノアの役目だったのに。
この新しい世界では、自分を迎えに来てくれるのはいつもノアではなく、タイオンなのだ。
扉の外にいるであろうニアに一言断りを入れた彼は、扉を優しくコツコツとノックして、ミオの名前を呼んだ。


「ミオ、戻ろう。次期女王の君が舞踏会の席をいつまでも外すわけにはいかない」


扉の向こうにいるであろうタイオンの声は、いつもと同じように淡々としていた。
その抑揚のなさが、一層ミオの心を締め付ける。


「君には責任がある。自分の感情とは反する道を歩まなければならない時もあるだろう。今日のように」
「……」
「ミオ。君の専属近衛騎士になった時から、僕は心に決めていた。どんなことがあろうと君を守ると。これが僕の責任だ」
「……」
「互いに責任を果たしていこう。もう後戻りはできない。君のことは、僕が守るから」


固く閉ざされた扉に手を添え、タイオンは掠れた声で囁く。
その様子を、ニアはただただ黙って見つめていた。
かつてタイオンは、ミオの近衛騎士として名誉ある称号を与えられたその瞬間に固い誓いを立てていた。
次期女王たる彼女の伴侶となる自分は、次期王子の称号を得ることになる。
その責任は重く、ただの騎士には務まらない。
ミオの伴侶となり、生涯に渡ってその身を守ることこそが、タイオンに課せられた一生の任務なのだ。
アイオニオンの記憶を取り戻したとて、ユーニのことを思い出したとて、その誓いが歪められることはない。

すると、閉ざされていた扉がゆっくりと開かれる。
中から出てきたのは、今にも泣きだしそうな顔をしたミオだった。


「タイオン、ゴメンね。タイオンはユーニのこと……」
「もう何も言うな。こうなった以上、割り切らなければならない。僕も君も」
「……えぇ、そうね」


差し伸べられたタイオンの手に、ミオは自らの白い手を重ねた。
2人ともに表情は暗い。
タイオンは早々に決心してしまったのだろう。ユーニのことを忘れる決心を。
自分も心を決めなければ。タイオンのためにも。
婚約者である彼の腕に自らの腕を絡めたミオは、背後でその様子を見ていたニアへと視線を向け、そして口を開く。


「今更後戻りはできない。次期女王として正しい道を行きます」
「そう、ですか……」


俯くニアの横をすり抜け、ミオはタイオンのエスコートで廊下を進む。
舞踏会が行われてる大広間に戻るべく遠ざかっていく2人の背を見つめながら、ニアは瞳を揺らした。
今さら過去を後悔してももう遅い。
ミオは既に少女の域を脱し、大人の女性として自らの人生の舵を握っている。
彼女がその道を行くと決めたのならば、例え母である自分でも口出しは出来ない。
暗い顔をしたミオに笑顔を取り戻すことはもうできないのだろうか。
泣きたくなる気持ちをぐっとこらえ、ニアは2人の後を追うように歩き始めた。


***

腕を組み、寄り添い合いながら2人の男女は階段を降りてゆく。
大広間に戻って来た次期女王とその婚約者を前に、舞踏会の参加者たちからは自然と拍手が沸き起こる。
その拍手の輪の中に帰り、ミオとタイオンは笑顔を作りつつ向き合った。
タイオンの手がミオの腰を引き寄せ、音楽隊が奏でる旋律に合わせて踊りだす。
純白のドレスと騎士服をひらめかせながら踊る2人の姿を、ノアとユーニは大広間の2階ギャラリーから見下ろしていた。

アイオニオンでのあの二人は、同じアグヌス出身者として互いに親しくはしていたものの、特別な感情を抱き合っているようには見えなかった。
彼らの間にあるのは親愛の情だけで、男女間で生まれる淡い恋心など皆無。
 
だが、今この新しい世界で形成された2人の関係性は、アイオニオンで築かれていた関係性とはまるで違う色をしている。
政略結婚とは言え、婚約者は婚約者。
幼い頃から“この人と添い遂げるのだ”と言い聞かせられていれば、かつての記憶が戻ったとしても婚約者を突き放すことなど出来ないだろう。
まして、あの二人はアルストの皇族だ。そう簡単に現在の人間関係を捨てることなど出来ない。


「どうするんだ?ノア」
「どうするって……。どうにもならないだろ」


かつてのパートナーたちを見下ろし、ノアとユーニは暗い表情を浮かべていた。
かつてノアは、アイオニオンでミオという相方と深い縁を結んだ。
あの頃は愛だの恋だのという感情は理解できなかったが、今ならば断言できる。
自分は間違いなく、ミオを愛していた。
 
もしも生まれたときからアイオニオンでの記憶を保持していたのなら、きっとこの再会を心から喜べただろう。
だが、今となってはもう遅い。
アルストの姫である彼女は既に、タイオンの腕の中にいる。
そして自分の腕の中にも、ユーニという許嫁がいる。
過去を知ったところで、この状況では何もできないのだ。


「いいのかよ。ミオのこと……」
「よくない。いいわけない」
「だったら——」
「けど、割り切るしかないだろ。相手はアルストの次期女王だ。俺の気持ちひとつで手を引いても、迷惑がかかるだけだ。そんなのミオのためにならない」
「ノア……」
「それに——」


ノアの手が、手すりの上に置かれたユーニの手に重ねられる。
唐突に手を握られたことで、ユーニは驚き隣に寄り添うノアへと視線を向けた。
子供の頃から見慣れたノアの蒼い目が、すぐそこにある。
切なげに瞳を揺らしながら、彼は吐息交じりに囁いた。


「ユーニのことだって、放っておけない」
「アタシのことは別に……」
「俺たちの両親が死んだとき、決めたんだ。ユーニと2人で生きていくって。もうユーニを独りにはさせないって。だから俺は、俺は……」


ノアの手と声が震えている。
歩むべき正しい道と、進みたいと思える本命の道を前に、葛藤しているのだろう。
知らなかった。ノアが自分に対してそんな責任感を抱いてくれていただなんて。
きっとその気持ちに応えるのが、許嫁として正しい道なのだろう。
けれど、ノアの胸に素直に飛び込むには懸念事項が多すぎる。
 
アイオニオンにいた頃、ノアとミオが深い縁を結んでいた事実をユーニはよく知っている。
何度も命を繰り返し、その度巡り合い、最終的にミオとの永遠の今を望んでしまうほど、ノアが彼女を大切に思っていたことも重々承知していた。
だからこそ、ノアの目を見るたび過ってしまうのだ。ミオの顔が。
ノアが手を取る相手は自分じゃない。ミオだ。
ミオの隣に立つべきはノアしかいない。けれど、現状彼女の隣に立っているのは、かつて自分の相方だった男、タイオンである。

タイオンと自分は、ノアとミオのようにアイオニオンで深い交わりを経験したわけではない。
だが、心を通わせていた自覚はある。
ユーニにとってタイオンは大切な存在だった。そんな彼が、今ミオの手を取り人生という名の道を歩もうとしている。
この事実が、苦しくてたまらなかった。


「なぁ、ノア」
「うん?」
「今夜、アタシの部屋に来て」


ユーニの囁きに、ノアは目を丸くした。
彼らは許嫁である以前に、幼馴染でもある。
2人の間で特に話し合ったわけではないのだが、未だ性交渉は一度も経験していなかった。
“部屋に来て”
その誘い文句が何を意味しているのか、ノアにもわかっていた。
脳裏に浮かぶのはミオの顔。こんな心境のままで承諾してしまっていいのだろうか。
ミオとユーニ。双方に失礼なのではないか。
何も言えず黙っていると、ユーニはノアの手を握り返し懇願するように顔を覗き込んでいた。


「ごめん。今夜は1人になりたくないんだ。余計なこと考えちまいそうで」
「ユーニ……」
「頼むよ、ノア。話し相手になるだけでいいから」


躊躇するノアの心境を察したのだろう。
“話し相手になるだけでいい”と強調し、彼女は強請って来る。
ユーニを放っておくわけにはいかない。彼女は許嫁なのだ。
1人になりたくないと彼女が言うのなら、そっと隣に寄り添ってやるのが許嫁である自分の責任というものだ。
今、すぐ下でミオに寄り添っているタイオンのように。


「わかった。必ず行く」
「……ありがと、ノア」


迷った挙句、ノアはユーニの誘いを承諾した。
2人の指は、寂しさを埋めるように緩く絡み合っていた。

大広間で舞い踊るミオは、一瞬だけ視線を上に向けた。
視界に飛び込んできたのは、2階のギャラリーでユーニの手を握っているノアの姿。
その光景を見た途端、目の前が真っ白になって思わず足を止めてしまった。
目が離せない。心が痛い。
割り切ろうと決めたはずなのに、心がノアを捉えて離さない。
固まるミオの視線に何があるのか、タイオンも当然気付いていた。


「見るな」


彼女の視線を逸らせるために、タイオンはミオの腰を強く引き寄せる。
抱き寄せられたことでミオの額は彼の胸板に押し付けられ、視界が塞がれる。
これはきっと、タイオンの優しさなのだろう。
今ノアとユーニを見上げれば、きっと心が死んでしまう。
だからこそ、無理矢理見ないでいいように目を塞いでくれた。
けれど、ミオもまたタイオンの心の傷に気がついていた。
腰に回った彼の手が、ほんの少し強張っている。
“今は集中するんだ”と囁く彼の声が、僅かに震えている。
タイオンもきっとまだ割り切れていないのだ。今のミオと同じように。


***

舞踏会は日付が変わるまで行われた。
巨神界とアルストの人間たちは、大広間で振舞われた豪勢な料理と音楽、そしてダンスを介して交流を深め、これから同じ世界の住人として歩んでいくため距離を縮めてゆく。
しかし、そんな和やかな空気の中にいても心穏やかでいられない者たちがいた。
先刻記憶を取り戻したばかりの元ウロボロスたちのうち、4名の男女は未だ心を乱している。

ようやく舞踏会から解放されたミオは、一人で自室へ戻るとドレスを脱ぐ間もなくすぐにベッドに飛び込んだ。
今日はもう疲れてしまった。いろいろ考えてしまったせいで、頭も心も疲弊している。
もう何も考えたくない。現実から逃げ出してしまいたい。
目を閉じ、暫く暗い部屋で脱力していた彼女だが、扉がノックされたことで目を開ける。

そういえば、タイオンに“舞踏会が終わったら部屋に来てくれ”と声をかけていた。
あの時のミオは、タイオンと本当の意味で結ばれるために誘いをかけた。
だがあれは記憶を取り戻す前のことで、今は状況が変わっている。
受け入れてしまっていいものだろうか。
だが、どちらにしてもきちんと彼と話をしたい気持ちはある。
とにかく会わなくては。
そう思ったミオは、重い身体を引きずりながら扉を開けた。


「えっ……、ユーニ?」


そこにいたのは予想外の人物だった。
頭から羽根を生やしたかつての仲間であり、ノアの許嫁であるユーニ。
扉の向こうに立っていた彼女は、舞踏会で纏っていた黒いドレス姿のままそこにいた。


「ごめんミオ。ちょっと付き合って」
「へ?ちょ、ちょっと!?」


ミオが部屋から出てきた途端、ユーニは挨拶もなしに彼女の白い手首を掴み、ツカツカとヒールを鳴らしながら廊下を歩き始めた。
強引な彼女の腕に連れ去られたミオは、引きずられるように廊下を進む。
何度か転びそうになりながら、ミオは自分の腕を引き前を歩くユーニに問いかけた。


「ユーニっ、どこに行くの!?」
「決まってんだろ?ノアのところだよ」
「えぇ?何言って……」


ユーニの口から飛び出したその名前に、ミオは動揺を隠せない。
何故彼女が許嫁であるノアの元へ連れて行こうとしているのか分からなかった。


「お前たちはちゃんと話すべきなんだ。せっかく再会できたのに、何も話さず終わるなんて駄目だ」
「どうしてユーニがそんなこと……。ノアはあなたの許嫁でしょ?」
「そうだけど……。でも、こうなった以上、ミオのことも放っておけない」
「だめよ。私、もう決めたの。今のこの世界で正しい道を歩くって。だから……」
「タイオンにそう言われたのか?」


速足で前を歩いていたユーニの足が止まる。
前を向いたまま呟く彼女の声色は、いつもより低く感じた。
その問いに応えずにいると、ユーニはかすかな声で“あの馬鹿……”と呟くと、くるりとミオの方を振り向き彼女の双肩を両手で掴む。


「ミオ。立場とか責任とか、アタシなんかより考えなきゃいけないことがたくさんあるのは分かる。けど、だからって自分の感情を後回しにするなよ!ノアとミオは、そんな簡単に割り切れるような関係じゃねぇだろ?」
「ユーニ……。でも……」
「素直に答えて。ノアと話したいだろ?」


顔を覗き込み、畳みかけるように問いかけるユーニ。
そんな彼女の詰問に、ミオは心を隠せず吐露するしかなかった。


「……話したい。本当は、少しでも話したい」


ノアのことは忘れなくてはいけない。
けれど、だからと言ってすぐに割り切れるわけがない。
あんなに深い縁を結んだ相手のことを赤の他人扱いなんて出来ない。
本当は話したい。“元気だった?”とか、“久しぶり”とか、かけたい言葉はたくさんある。
けれど、彼と話すことは許されないような気がしていた。
タイオンにも、そして目の前にいるユーニにも不誠実な行いだから。
だが、ユーニは否定するどころかミオの腕を再び掴んで歩き出す。


「だったら会おう。会って二人で話せ」
「でも、ユーニはそれでいいの?」
「……自分でもわかんない。でも、アタシの存在がお前たちを引き裂いてるなら、アタシは……」
「ユーニ……」


震える声で本心を語るユーニの気持ちは、ミオにも痛いほどよく理解できた。
ノアとミオの間には、ユーニが立ちはだかっている。
この状況に、ユーニ自身は複雑な心境を抱いているのだろう。
ノアのことを大事に思う一方で、ミオにも罪悪感がある。
この絡み合う感情の糸は、ミオの心にも生まれていた。
 
彼女と自分が置かれている状況はほとんど同じだ。
自分もまた、タイオンとユーニの間に立ちはだかる壁のような存在になってしまっている。
タイオンの隣に寄り添うのが正しいと思いつつも、ユーニのことが気になって仕方がない。
戸惑いと、傷心と、罪悪感と——。
様々な感情が交差する中で、ミオはユーニの手を振り払うことが出来なかった。
ノアに会いたい。その心が、彼女を間違った道へと引きずり込んでいく。


***

“今夜、アタシの部屋に来て”
脳内に反響するユーニの声を聞きながら、ノアはミオの顔を思い浮かべていた。
真夜中、客邸の廊下を歩くノアの足音だけが周囲に響いている。
規則正しい革靴の音は、ゆっくりとユーニの私室に近づいていく。
 
ユーニは許嫁ではあるが、未だ一度もその体を抱いたことはない。
いつかはこうなるとは思っていた。結婚することは幼い頃から決まっていたし、いずれ来たる未来が今到来しただけのことでしかない。
確定された未来だというのに、今さら迷いが生じているのは記憶を取り戻したせいだろう。
 
今夜、もしもユーニとそういう流れになったとして、本当にそれでいいのだろうか。
ユーニを相手にしながら、頭ではミオのことを考えてしまうに違いない。
そんなの、ミオにもユーニにも失礼だ。
いやそれだけじゃない。タイオンにだって失礼だ。
ミオはもう、タイオンのモノなのだから。

ノアの足が、ユーニの私室の前で止まる。
この扉の向こうにユーニがいる。
もはや覚悟を決めなくては。アイオニオンで生まれた感情も価値観もすべて捨て去って、ユーニだけに集中しなくては。
ミオのことは、いつかきっと忘れられる。
時間が解決してくれる。そう思わなければやっていられなかった。

ユーニの部屋の目の前で、彼は足を止める。 
扉をノックしようと右腕を上げたその時だった。近くで人の気配がする。
ハッとして気配の方へと視線を向けると、そこには廊下の角を曲がって歩いてきたらしい男の姿があった。
タイオンである。目を見開き、驚いたような表情でノアを一点に見つめている彼は、舞踏会で見たときのまま白い騎士服に身を纏っていた。

「タイオン……」
「……ノア」
「どうしてここに?」
「……ただの見回りだ」
「……そうか」


すぐに嘘だと分かった。
ここは巨神界側の住人に宛がわれた客邸。
ここの警備は全て巨神界側の騎士たちに任されており、アルストの騎士であるタイオンがわざわざ見回りに来る道理はない。
加えて自分を見た瞬間のあの表情。間違いない。
この部屋を訪ねようとしたのだろう。ユーニに会うために。

視線を外し、タイオンはノアの後ろを通り過ぎその場を去ろうとする。
すぐ後ろを通りすがったタイオンの背に、ノアは思わず声をかけた。
“なぁタイオン”
ノアによって名前を呼ばれた彼は、その場で足を止める。
立ち止まったタイオンに、ノアは薄く微笑みを浮かべて口を開いた。


「ミオのこと、よろしくたのむ」
「……君に言われずとも」


そう囁いて、タイオンは足早にその場を去って行った。
遠ざかる彼の背中を見つめ、ノアは目を細める。
タイオンの誠実さと真面目さはよく知っている。
彼ならミオを任せられる。
彼ならきっと、ミオを幸せにできる。
大丈夫。ミオは大丈夫。自分と一緒にいるより、タイオンと一緒にいたほうが幸せなはずだ。
心にもない言葉を自分自身に言い聞かせながら、ノアは拳を握りしめた。
そして、その拳でユーニの部屋の扉を叩く。

そうだ。ミオの幸せを考えるなら、これが一番なんだ。
ミオはアルストの次期女王としてタイオンと結婚し、幸せな人生を歩んでいく。
自分はユーニと結婚し、彼女への責任を果たす。
これが一番円満なエンディングだ。なにも間違いなど発生しない、正しい結末なのだ。
ミオの幸せは、きっとそこにある。
でも、でも——。
その結末に、“俺”の幸せはあるのか?

ノックした先の扉が開く。
黒い扉が音を立てながらゆっくりと開かれ、中にいた人物が顔を覗かせた。
その瞬間、ノアの蒼い瞳が見開かれる。
視界に飛び込んできたのは漆黒のドレスに身を纏ったユーニではなく、純白のドレスを着たかつての想い人、ミオだった。


***

廊下を歩きながら、タイオンは自らの行いを心の中で責め続けていた。
僕は馬鹿だ。大馬鹿者だ。
ミオと一緒に生きると決めたのに、ミオを生涯かけて守ると誓ったのに、何故ユーニの部屋に行こうなどと思ってしまったのか。
 
何か考えがあったわけではない。行ったところで、会ったところで、何を話すか決めてすらいなかった。
なのに自然と足が向かってしまったのは、ほんの少しでもいいから2人で話したいと思ってしまったからだ。
こんな気持ちを抱くなんて間違ってる。
ミオという婚約者がいながら、ノアという許嫁がいるユーニに近づこうだなんて。
不誠実にもほどがある。
もう忘れよう。割り切るんだ。自分にはミオがいる。そしてユーニにも、ノアがいる。
どんなに足掻いてもその事実は変わらない。

そう自分に言い聞かせるたび、心が荒む。
今頃ユーニは、自分より一足早く部屋を訪ねてきたノアと2人きりになっていることだろう。
真夜中の私室で、ベッドもある私室で、婚約者であるノアと、2人で。
下唇を強く嚙んでいたのは無意識の行動だった。
廊下を歩く足取りが早くなる。
向かう先はミオの私室だった。

彼女は自分に、“部屋に来てほしい”と言っていた。
恐らくは“そういうこと”になるだろう。
自分はミオの婚約者だ。彼女の部屋を訪ねたところで誰も文句は言うまい。
あのノアだって、つい先ほど自分に“ミオを頼む”と言ってきた。
この道は間違ってなどいない。ミオと一緒に過ごすことで、この心に生まれたわずかな迷いすら消してやる。
ユーニのことなんて考える隙がなくなるくらい、この頭をミオで満たせばいい。

渡り廊下を渡ったタイオンは、やがて皇族の私邸へとたどり着く。
あの角を曲がった先が、ミオの私室だ。
忘れろ。ユーニのことなんて忘れるんだ。僕はミオの婚約者なのだから。
そう自分に言い聞かせていたタイオンだったが、角を曲がった先に見つけた人物を視界入れた途端、頭が真っ白になってしまう。
純白のドレスを着たミオに会うはずが、そこにいたのは漆黒のドレスを着たかつてのパートナー、ユーニだった。

 

かぐやは月の使者に攫われて

 

「なんでここに……」


見開かれたノアの瞳に映るのは、物憂げな表情で見上げて来るミオの姿。
アルストの姫としてタイオンにエスコートされ、大広間の真ん中で踊っていた時と同じ格好のまま、彼女はユーニの部屋の中にいた。
扉を開けた先で待っていた彼女の存在に、ノアの思考は止まる。
ユーニが出てくると思ったのに、扉の隙間から顔を出したのがミオだったのだから当然だ。
戸惑った様子で見下ろしてくるノアに、ミオは視線を逸らしながら答える。


「ユーニに連れてこられたの。ノアと話した方がいいって……」
「はぁ……。だから急にあんなことを……」


ノアは、ここで初めてユーニが自分を部屋に誘った理由を理解した。
最初からミオに引き合わせるためだったのか。
“ミオと話せ”と素直に促したところで、きっと周囲の目を気にして遠慮するはずだと踏んだのだろう。
 
部屋の中にユーニはいないらしい。
全くどうしたものかと頭を抱えていると、遠くからこちらに歩いてくる人の気配を感じた。
タイオンが戻ってきたのだろうかと一瞬身構えたが、どうやら別の誰からしい。
おそらく、見回りをしている巨神界の騎士だろう。
アルストの姫とこんな真夜中に一緒にいるところを見られるのは流石にマズい。


「ミオ、ちょっとごめん」
「え、わっ」


扉から顔をのぞかせたミオの肩を掴み、強引に中に押し入る。
戸惑うミオの口を塞ぎ、閉まった扉に寄りかかりながらノアは自らの唇に人差し指を押し当て、“しーっ”とミオに静かにするよう促した。
顔が近い。口元を塞いだ手から感じるノアの温もりに、ミオはほんの少しの懐かしさを感じていた。
見回りの騎士は足音を立てながらこの部屋の前を通過していく。
どうやら気付かれずに済んだようだ。
安堵したと同時に、ノアは自分とミオの身体があまりにも接近しすぎている事実に気付いて焦りを滲ませた。


「ごめんっ」


掴んでいたミオの両肩を押し、急いで距離を取った彼はミオから視線を逸らす。
避けるように押しのけられたことで、心が沈む。
やはりノアは、もう自分を忘れようとしている。
その事実を咀嚼したミオは、深く深く息を吐き俯いていた顔をゆっくりと挙げた。


「久しぶりね、ノア」
「あぁ……」
「元気だった?」
「うん。ミオも元気そうで何より……」
「変わってなくて安心した」
「ミオは……。少しだけ変わったな」
「えっ、そうかな」
「髪。アイオニオンにいた頃は短かったから」
「あぁ……。うん」


かつて、アイオニオンにいた頃のミオは一度だけもう一人の自分であるエムと身体が入れ替わったことがあった。
その際、一時的に長い髪を手に入れたのだが、すぐに短く戻していた経緯がある。
ミオのこの短い髪は、ノアの中で非常に強い印象を残している。
最後に彼女に口付けたとき、頬に添えた手の甲を彼女の短い髪が触れた感触を、今もよく覚えている。
風がある日は時々白い髪が口に入ってしまい、苦笑いしながら耳にかけなおしていたあの仕草も、嫌というほど覚えている。
可憐だったあの短い髪が、ノアは好きだった。


「長い方が似合ってるって言われたから」
「……そうか」


“誰に?”とは聞かなかった。聞かなくても分かってしまうから。
自らの長い髪をいじりながら、ミオは瞳を伏せる。


「記憶を取り戻したこと、後悔してる?」
「……どうだろう。まだなんとも言えない。でも、何も知らないままよりは良かったのかもしれない」


囁くノアに、ミオは“そっか”と小さく相槌を打った。
メリアとニアがあの記憶装置を使わなければ、自分たちは一生己の過去を知ることなく生きていただろう。
ノアは遺言状通りユーニと添い遂げ、ミオもまたタイオンと結婚する。
何もいらないままの結末はきっと幸せをもたらしてくれただろう。
 
だが、記憶が戻ったこと自体を嘆くつもりはなかった。
アイオニオンが二つに裂ける直前、あの場にいた6人は全員再会を望んでいた。
理想的な再会は果たせなかったが、再び会えたことは事実。
再会できたこと自体は、不幸と断じることなど出来そうになかった。

髪に指を通していたミオは、その琥珀色の美しい瞳をノアに向ける。
じっと彼を見つめるミオの目線は、切なさと物悲しさを孕んでいた。
その目を見た瞬間、ノアは息を詰める。
予感がしたのだ。甘く、罪の香りがする予感が。
これから彼女が発する言葉を真に受けてはいけない。
喜んではいけない。舞い上がってはいけない。
そう思いつつも、ノアは彼女の口から告げられた言葉に心を塗り替えられてしまう。


「私、最初は嘆いてた。記憶を取り戻したところでどうにもならないのにって。でも、こうしてノアの顔を見た瞬間変わった。嬉しかったの。すごく」
「ミオ……」
「こうして会えただけで、目が合っただけで、名前を呼んでくれただけで、たまらなく嬉しいの」


彼女の大きな瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
白い頬を涙で濡らし、彼女は無理矢理笑顔を作りながらノアを見上げた。
“また会えてよかった”
そう言って微笑むミオの顔を見た瞬間、ノアの心は一気に締め付けられる。
 
そうだ。ずっと会いたかった。彼女に、ミオに、一番愛しい人に会いたかった。
心が白く染まっていく。アイオニオンにいた頃抱いていた激しい感情が、あっという間にノアを飲み込んでいく。
これがどんなに罪深い感情かわかっているはずなのに、彼の奥底に仕舞い込まれた淡い色の恋心は、ミオを前にした途端に暴れだす。
 
ガラスの瓶に詰めて、二度と外に出ないように押し込めていたはずの感情は、一瞬にして瓶にヒビを入れながら膨張していく。
何十年、何百年、何千年とかけてミオを思い続けてきたこの心は、もうとっくの昔に歯止めがきかなくなっていた。


「でも、私たちにはもう、新しい人生があるんだよね」
「……」
「ノアにはノアの、私には私の大切な人がいる。だから、もう、会わない方が、いいね」
「っ、」


1つ1つ噛みしめるように伝えるミオ。
そんな彼女の言葉に、ノアは思わず顔を上げた。
焦りと絶望感を滲ませた彼の顔を、ミオは見ていない。
自分の足元に視線を落とし、涙をこぼしている彼女はノアの顔を見ることが出来なかった。
彼をまっすぐ見てしまったら、口にしてはいけない想いが涙と一緒にこぼれ落ちてしまいそうだったから。
だから気付かなかったのだ。目の前にいるノアが、自分に熱のこもった視線を向けている事実に。


「私、もう行かなくちゃ」
「ミオ、俺……」
「ユーニのこと、幸せにしてあげてね」


彼女の口から許嫁の名前を聞いた瞬間、ノアの中で何かが弾けた。
横をすり抜け部屋から出て行こうとするミオの腕を掴んで引き留める。
彼女が危機感を感じたときにはもう遅かった。
ノアの腕が自分の肩と腰に回り、後ろから強く抱きしめられる。
突然の抱擁に、ミオの心臓は急激に跳ね上がった。
婚約者であるタイオン以外の異性に抱きしめられているこの状況は、どう考えてもまずい。
そう思っていながらも、心臓が高鳴って仕方がない。


「の、ノア!?」
「ごめんミオ。困らせたいわけじゃないんだ。でも、やっぱり……」
「……」
「俺、ミオのことが——」
「だめ!聞きたくない!」


喚くように声を荒げると、ミオはノアの言葉を遮った。
自らの耳を塞ぎ、首を横に振る彼女は一層感情を昂らせている。
そして、震えたか細い声で囁き始めた。


「わたし、アルストの姫なの。次期女王なの。だからっ、自分の感情を優先させるわけにはいかないの……っ」
「ミオ……」
「だから、お願い……。それ以上言わないで、ノア……」


彼女は泣いていた。
泣きながら、ノアを拒絶していた。
自分が暴走し、彼女を無理やり腕に抱くことで、ミオは傷付いてしまう。
彼女の置かれた立場を実感した瞬間、ノアの心にようやく罪悪感が訪れた。

俺はミオを困らせたかったわけじゃない。
ミオを泣かせたかったわけじゃない。
傷つけたかったわけじゃない。
今この胸を支配している感情は、ただの独りよがりなわがままだ。
唇を噛みしめながら、ノアはミオから距離を取る。
そして、泣きながら肩を震わせている彼女の背に、小さく囁いた。


「ごめん。ごめんな、ミオ」


***

ユーニの姿を見た瞬間、タイオンは眼鏡のレンズ越しにその瞳を大きく見開いた。
驚くのも当然だろう。自らの婚約者の部屋の前に、かつてのパートナーが座り込んでいるのだから、
驚いた様子で言葉を失っているタイオンに目を向けたユーニは、すぐに彼から視線を逸らす。
あまり視界に入れたくなかったのだ、“ミオの婚約者”として着飾っているタイオンのことを。


「こんなところで何をしている?」
「何でもいいだろ」
「よくない。ここはミオの私室だぞ?」
「知ってる。ミオに会いに来たの?」
「それは……」
「ミオならここにはいねぇよ」
「なに?どういうことだ?」


問いかけにユーニが答えることはなかった。
夜の月に照らされた暗い庭園を見つめ、無表情で黙っている。
その様子を見てすぐになんとなく分かってしまった。
ミオはきっとユーニの部屋にいる。
ユーニの手によって連れ出され、ノアと密かに引き合わせたのだ。


「君が連れ出したのか。ノアに会わせるために」
「……」
「ユーニ」
「……」
「くそっ」


何も言わないユーニに苛立ったタイオンは、踵を返す。
ミオの婚約者として、彼女がノアと二人きりでいる状況を見過ごすわけにはいかなかった。
恐らく、ノアはユーニの部屋で待っているのがミオだとは思っていなかったのだろう。
もし分かっていたのなら、“ミオを頼む”などと無神経なことは言わないはずだ。
急いでユーニの部屋に戻ろうとするタイオンの背に、ユーニは“やめとけよ”と声をかける。
反射的に立ち止まってしまったタイオンの姿を見つめながら、ユーニはゆっくりと立ち上がる。


「今から行っても、アイツらの密会の邪魔になるだけだぜ?」
「邪魔?それをミオの婚約者である僕に言うのか。大体、ノアだって君の許嫁だろう?どうしてそんなに冷静でいられる!?」
「ノアの隣にいるべきなのは、アタシじゃないと思ってるから」


目を伏せながらユーニは言う。
激情に駆られているタイオンとは対照的に、彼女は嫌に冷静だった。
まるでタイオンをなだめるように静かで淡々とした口調で説き伏せる。


「タイオン。お前だってあの二人の背景は分かってるだろ?ノアにはミオしか、ミオにはノアしかいないんだよ。あの2人にとってアタシたちの存在は障害でしかないんだ。だから——」
「だから、ミオにノアを無理やり宛がって僕から引き剝がそうという魂胆か?」


低く威圧するようなタイオンの声が、ユーニの言葉を遮った。
怒りと苛立ちを纏ったその声と言葉に、ユーニは思わず息を呑む。
そして、怯む彼女が立っている背後を振り返ると、タイオンは呆れたような表情で言い放った。


「なにも分かっていないな、君は」
「え……?」


戸惑うユーニに、タイオンはゆっくりと近付きながら静かに怒りをあらわにしていく。
それはアイオニオンにいた時には見たことのない、苦しく、苦く、それでいて悲しい感情の発露であった。


「ミオはアルストの次期女王だ。彼女の両腕には途方もない重圧と責任がのしかかっている。彼女の生き方はアルストの民の模範でもあるんだ。そんな彼女が、幼いころから決められていたこの結婚を投げ出しノアを選んだらどうなると思う!? 重圧や責任に耐え兼ね好き勝手な道を選んだと揶揄される。ミオは自分の感情ひとつで人生を決めていい立場じゃないんだ!それなのに君は……!」
「じゃあ聞くけどさ!」


まくしたてるようなタイオンの言葉に、ユーニの感情も徐々に昂っていく。
震える声でタイオンの言葉を遮った彼女は、青く大きな瞳を揺らしながら顔を上げた。


「二人が結婚した先の未来に、お互いの幸せはあるのかよ?」


ミオの置かれた状況はユーニにも理解できていた。
メリアという女王の生き様をすぐ隣で見てきた彼女は、世界は違えど同じく女王の立場になり得るミオの苦悩が手に取るようにわかる。
ミオは責任感の強い女性だ。一度その頭に女王の証たるティアラを乗せれば、彼女は一生抱え込んだ重苦しい責任という名の荷を下ろすことはないだろう。
 
女王として正しい道を歩み、女王としてすべきことを成し、女王としてあるべき姿を保つ。
けれど、その道の先に、ミオ個人の幸せは存在しているのだろうか。
タイオンの隣に立ち、女王として生きていくことを、ミオは本当に望んでいるのだろうか。
ユーニには、ミオが満たされているようにはとてもではないが見えなかった。
そして、目の前にいるかつての相方であり次期女王の婚約者もまた、幸せそうには見えない。


「ミオの幸せはノアの隣にある。だから、アイツらは一緒にいなくちゃいけないんだよ」
「……なら、君はどうなる?」
「え?」
「ノアの隣をミオに譲ってしまった君はどうなる?君の幸せはノアの隣にあるんじゃないのか!?」
「なにそれ。アタシが心配なわけ?」
「当たり前だ!他の誰かならともかく、相手がノアだからこそ僕は……。僕は、君を……」


言葉を途中で呑み込んだのは、タイオンが寸前でブレーキをかけたからだった。
震える声は簡単に本音を口から零してしまう。
これ以上言葉の先を零してしまったら、きっと後戻りできなくなる。
ぐっと言葉を飲み込むタイオンだったが、そんな彼と向き合っていたユーニには分かっていた。
彼が何を言おうとしていたのか。
 
タイオンとはかつて命と体を共有した関係だ。彼の考えなど、顔を見ればすぐにわかる。
涙を堪えるようなこの苦しい顔は、本音を懸命に隠そうとしている顔だ。
相手のことを慮り、自らの心を偽ろうとしている顔。
言葉を飲み込んでも無駄だ。その表情が、彼の心の在り処を知らせてくれている。


「アタシの幸せは、いつだってここにある」


一歩二歩と歩み寄り、ユーニは目の前で立ち尽くすタイオンの胸板へと寄り添った。
彼のネクタイに頬を寄せ、背中に腕を回し体を密着させる。
心臓の音が聞こえる。トクントクンと鼓動する彼の音は、少し早くなっているような気がした。
懐かしい彼の匂いに身をゆだねながら、ユーニは囁いた。


「タイオン。会いたかった」


素直すぎるユーニからの言葉に、タイオンの心は震えた。
彼女は愚かだ。“会いたかった”という短いその言葉に、タイオンがどれほど喜びを感じてしまうか想像できていない。
揺れ動く心はタイオンを苦しませる。
誰よりも真面目で誠実な彼は、道を外れることを何より嫌う。
理想と現実の間に押し潰されそうになりながら、彼は震える手でユーニの両肩を掴み、そっと引き離した。


「……君に相応しいのは、僕じゃない」


強引に引きはがされたユーニの目は驚きと悲しみを纏った目でタイオンを見上げていたが、タイオンはユーニの目をまっすぐ見ることが出来なかった。
懸命に振り絞った拒絶の言葉がユーニを傷付けていることは承知していた。
だが、だからと言って前言撤回は出来ない。
 
彼女が自分を見つめてくるのなら、絶対に目を合わせてはいけない。
彼女が手を伸ばして来るのなら、絶対にその手を取ってはいけない。
彼女が名前を呼んできたのなら、絶対に名前を呼び返してはいけない。
自分はミオの婚約者であり、そしてユーニはノアの許嫁なのだ。
大きく立ちはだかるその事実が、2人を間を引き裂いている。


「僕たちはもう、アイオニオンのタイオンとユーニじゃない。新しい世界での役割があるだろ。その役割を全うしよう」
「……」
「ノアとなら、きっと幸せになれるから。だから——」


“ごめん”
小さく謝って、タイオンはユーニの両肩から手を離した。
踵を返し、ゆっくりと去っていく。
向かう先はユーニの部屋。ノアとミオが一緒にいるであろう場所へ、婚約者を取り戻しに行かなくてはならなかった。
背後には一人残されたユーニの気配。
かつて他人の気配を追うことに長けたブレイド、モンドの繰り手として活躍していたタイオンは、周囲の気配にひと一番敏感だった。
だからこそ分かってしまう。
背後で立ち尽くしていたユーニが、その場に座り込み泣いている気配が。
 
僅かに聞こえてきた鼻をすする音に、タイオンの足は一瞬だけ止まった。
振り返って、引き返して、抱きしめてしまおうか。
そんな思いを必死に掻き消して、彼は再び歩き出す。
速足でユーニから距離を取り、廊下を曲がった瞬間瞳から涙が零れ落ちた。
泣いている自分に気が付いて、タイオンはここでようやく自分の心に気が付いた。
そうか。好きだったんだ、と。
 
アイオニオンにいたあの頃、自分はあの少し生意気な相方に恋をしていたのだ。
今はもう過去となってしまった記憶を手繰り寄せ、今更確信してしまった事実を咀嚼する。
どうせなら気付きたくなかった。ユーニのことが好きだったなんて。今も変わらず好きだなんて。
そんな感情。邪魔なだけなのに。


***

背後からミオを抱きしめていたノアは、名残惜しさを感じながらも彼女から離れた。
彼女の心の在り処は痛いほど伝わってきた。けれど、ミオには立場というものがある。
激しくも切ない感情を抱きながらも、懸命にその気持ちを隠す義務があるのだ。
もし今自分が強引にミオに迫れば、きっと彼女は断り切れない。
迷いながら、戸惑いながら、傷付きながら、自分を受け入れてくれることだろう。
 
だが、ノアはミオを悲しませたくはなかった。
ミオが幸せならそれでいい。彼女がその道こそ正しい道なのだと判断したのなら、潔く諦めるべきだ。
嫌だ嫌だと駄々をこねる自分自身を心の中で何度もなだめ、ノアはミオから離れる。
誰よりも優しく、誰よりもミオを想っているからこそ、身を引かざるを得なかった。


「引き留めてごめん」
「……うん」


扉を押し開けると、薄暗いユーニの部屋の中に月の光が差し込んだ。
先に廊下に出て扉を開けてやると、廊下の奥から誰かが歩いてくるのが見えた。
タイオンである。
険しい顔をしたかつての仲間の登場に、ノアは一抹の気まずさを感じてしまう。
先ほどここを通った彼が戻ってきたということは、ミオを探しにやって来たに違いない。
その証拠に、同じ部屋から出てきたミオの姿を見た瞬間一瞬だけ目を細めていた。
そしてミオもまた、タイオンの登場に息を詰めて驚いている。


「タイオン……」


足音を慣らしながら廊下を歩いたタイオンが、2人から数メテリほど距離を取って立ち止まる。
ミオとノアをまっすぐ見つめるタイオンの表情は、どう見ても怒りを纏っていた。


「ノア、先ほど僕に言ったな。“ミオを頼む”と」
「あぁ」


ノアの隣に立っていたミオが、驚いたようにノアを見上げた。
だが、2人の視線が交わることはない。
ノアをまっすぐ見据えたまま、タイオンの鋭い言葉が投げかけられる。


「僕からも君に言わせてもらう」
「……なんだ?」
「ユーニのこと、くれぐれもよろしく頼む」


それは、明らかに釘をさすための一言だった。
その言葉の裏に隠された2つの意味を、聡いノアは瞬時に気付いてしまう。
“これ以上ミオに近付くな”。そして、“ユーニを悲しませるな”。
タイオンなりの牽制は、ミオに心が吸い寄せられているノアに突き刺さる。
 
そうだ。自分にはユーニがいる。
子供の頃誓ったはずだ。同じ日に親を失ったあの日、生涯をかけてユーニを守ると。
彼女を孤独にしない。自分たちは一緒に生きる運命にある。
そう信じて疑わなかったのに、今更この決意が揺らぐなんて不誠実にもほどがある。
帰ろう。戻るべき場所へ。
ノアがそう決心した瞬間、正面に立つタイオンがミオへと手を伸ばす。


「戻ろう、ミオ」


息を呑み。ミオはゆっくりゆっくりと歩き出す。
彼女のヒールの音が、ノアから離れタイオンの元へと近付いていく。
ミオは振り返らなかった。
白く長い髪を持つ彼女の背中を見て、ノアは思う。
やっぱり、ミオは短い髪の方が似合うな、と。

タイオンの手を取ったミオは、そのまま彼の隣に寄り添った。
舞踏会でしていたように、タイオンはミオの腰に手を回しエスコートしながら歩き出す。
ノアの気配が遠ざかっていくのを感じながら、ミオは声を震わせ囁いた。


「ごめんなさい」
「君が謝ることじゃない」
「でも……」
「君がしたいようにすればいい。僕は君の判断に従う」


まっすぐ前を見据えながら言い放ったタイオンの言葉に、ミオは下唇を噛んだ。
皆ズルい。母も、タイオンも、そして寸前で離れていったノアすらも、全員判断を私にゆだねている。
“ミオがしたいように”と言うけれど、したいようにできるわけがない。
この両手にのしかかる責任と重圧が、この体から自由を奪っているのだ。
 
もしもノアが、先ほどのユーニのように強引にこの身を連れ出してくれるなら、少しはこの雁字搦めな状況に抗おうと思えたのだろうか。
けれどノアは、哀しいほどに優しい人だ。
こちらが“連れ出して”と口にしない限り、彼は連れ出してはくれないだろう。
だが、ミオはそんな身勝手なことを口にできる立場にない。

言えないよ。“私を連れ出して”なんて。


「次期女王として、正しい道を往く」
「……わかった。君がそれを望むなら」


タイオンの言葉は力強かったけれど、彼は一度もミオの方を見ようとしなかった。
その視線の先に何が見えているのか、ミオには痛いほどに分かってしまう。
縛り付けられているのは自分だけではない。隣にいるこの婚約者も縛られているのだ。
彼を縛っているのは、きっと次期女王である自分だ。
自分とノアは、タイオンとユーニにとって障害でしかないのだろう。

ごめんね、タイオン。

心の中で謝りながら、ミオは視線を落とした。


続く