Mizudori’s home

二次創作まとめ

ファジーネーブルに会いたくて

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■現パロ

■短編


店舗のレジに置いてあるPCの表示時間は21時。
既に客がいなくなった店内には、トレンドの服だけが寂しく並んでいる。
レジの売り上げ計算をこなし、店の閉め作業が終わったのは21時半。
ロッカーで着替えを済ませたアタシは、店舗が入っている商業ビルを急いで出た。
ネオンがいくつも浮かんでいる都内中核。交通量の多い有名な交差点に隣接している大型商業ビルの4階に入っている20代前半向けのアパレルショップ。
そこがアタシの職場だった。

高校卒業後、このブランドを手掛けている企業に正社員で入社してから、今年で早くも5年。
それなりに先輩風を吹かせられるようになった今日この頃、この春からアタシはこのビルに入っている店舗の店長を任されることになった。
商品の在庫確認から発注業務、バイトのシフトや採用、さらには売り上げの管理。平社員だった頃に比べてやることは圧倒的に多い。
必然的に愚痴や不満も多くなったけど、その分やりがいも感じられるようになった。
多分、仕事という分野においては今が人生のピークだと思う。

上手くいっているのは仕事だけではない。恋愛という分野においても、今のアタシは絶好調だった。
残念ながら彼氏はいない。いるのは好きな人。
今夜急いでいるのは、その“好きな人”に会えるからだった。

アタシは昔から結構男勝りな性格で、同性の友達ももちろん多かったけど、男の友達もそれなりにたくさんいた。
中でも幼馴染のノアやランツが今のアタシを見たら、きっと口をあんぐり開けて驚くことだろう。
“好きな人に会うだけではしゃぐような可愛い女じゃないだろお前は”と。
確かに、こんなのガラじゃないと思う。
アイツに会いに行くだけで、こんなに胸を躍らせているなんて。
でも仕方ない。だってアイツは金曜の夜にしか会えないんだ。
週に一度しか巡ってこない機会に心躍るのは当たり前のことだろ?

ビルを出て小走りで交差点を渡り、大通りから外れた路地に入る。
飲み屋やバーが軒を連ねているこの薄暗い路地に、そのビルは建っていた。
築40年は経過しているであろう古いビル。所謂雑居ビルという奴だ。
そこの7階に、目当ての店はある。

狭くて古いエレベーターに入り、7階のボタンを押すと、ちょっと不気味な音を立てながら扉が閉まる。
アタシを乗せたエレベーターが7階目指して上昇している間に、小さなバッグに入れたスマホを手に取った。
自撮りモードを起動させ鏡代わりにしながら前髪を整える。
化粧を直す暇がなかったから少し不安だったけど、とりあえず大丈夫そうだ。

やがて、エレベーター上部に表示された回数表示が“7”を示した瞬間、アタシは息を吐いて気合を入れる。
エレベーターを出て狭い廊下を進むと、“Bar サフロージュ”と書かれた薄紅色の立て看板が見えた。
毎週金曜の夜、アタシはいつもこのバーに通っている。
目的はここで酒を飲むためじゃない。
同じく毎週金曜の夜に客としてここを訪れている、アイツに会うためだ。

レトロな扉を開けると、奥のカウンター席に見慣れたアイツが座っていた。
扉を開けたアタシに気が付くと、彼は眼鏡の奥に見える褐色の瞳を柔く細めて笑みを向けて来る。
そして、大好きな声で言い放つ。


「お疲れ、ユーニ」
「お疲れ」


彼の名前はタイオン。アタシがこの一週間会いたくてたまらなかった、“好きな人”である。
笑みを返して隣のカウンター席に座ると、マスターである少し年上の女性、ナミが“いらっしゃい”と声をかけてきた。
初めてここに来たときは女性がバーのマスターなんてなんだか珍しいなと思ったが、ここに通って3か月になる今となってはもはや違和感はない。


ジンライムで」
「はい。少し待ってね」


ここで頼むのはいつもジンライム
特段好きだからというわけではないけれど、最初に訪れたときに何となく頼んだのがジンライムだったから、流れでいつも同じものを注文しているだけだった。
ふと、隣に腰掛けるタイオンの方へと視線を向ける。
彼が飲んでいるのは、薄いオレンジ色の酒。
アタシと同じように、ここに来るたびいつも頼んでいる酒である。


「またファジーネーブル?」
「いいだろ別に。これしか飲めないんだ」


彼の手に収まっているグラスには、ファジーネーブルがまだ十分すぎるほど残っている。
恐らくまだ注文して間もないのだろう。
よし、今夜は比較的長く一緒にいられる。
思わず心の中でガッツポーズを決めると同時に、ナミがカウンター越しにジンライムのグラスを差し出してきた。
お礼を言いながら受け取ると、左隣に座っていたタイオンがこちらに視線を向けて来る。


「それじゃあ、今週もお疲れ」
「ん、お疲れさん」


互いにグラスを傾け乾杯すると、狭く静かな店内にグラス同士がぶつかり合う甲高い音が鳴り響いた。
こうしてこのバーでタイオンと一緒に過ごす時間が、アタシにとっては1週間分の疲れを癒す至福の時間と言えた。
けれど、残念ながらタイオンと一緒にいられる時間は限られている。
氷が解け始めるカランという音が、タイオンのファジーネーブルが入ったグラスから聞こえてくる。
 
彼は酒がすこぶる弱い。
アルコール度数が低いファジーネーブルでも、2杯以上飲めば完全に酔っぱらってしまうほどの下戸なのだ。
そんな彼は、いつもファジーネーブルを1杯だけ飲んで帰ってしまう。
残っているファジーネーブルの量はあと半分。
タイオンがこのオレンジ色の酒を飲み干せば、この至福の時間もあえなく終了してしまうのだ。
何故こんなにも酒に弱いのに毎週金曜にわざわざ飲みに来ているのかと尋ねたとき、彼は苦笑いを浮かべながらこう言った。
“特訓しているのだ”と。


「で、通い始めてからしばらく経つけど、酒には強くなったのか?」
「どうだろうな。前ほどはマシになったとは思うが」


タイオンはアタシと同い年の23歳で、いわゆる普通の会社員だ。
高卒で働き始めたアタシと違い、大卒である彼は今年社会人1年目。
しっかりとスーツを着こなしているものの、本人曰くまだネクタイを締めること自体になれていないのだという。
 
彼が配属された部署はそれなりに飲み会が多く、先輩と居酒屋に飲みに行く機会も多いのだとか。
その度“下戸なので”と先輩のお酌を断るのも申し訳ない。
せめてビールの1杯は飲めるようになりたいが、いきなりビールに挑むのはハードルが高い。
ならばアルコール度数が低くて飲みやすい酒を、例え酔っても迷惑が掛かりにくい場所で飲むことにしよう。
そんな考えから、元々知り合いだったというこのナミの店で、アルコール度数5%前後のファジーネーブルを相手に特訓を開始したということらしい。

毎週彼がファジーネーブルをちびちびと飲みながら顔を赤くしている場面を見ているが、一向に彼がアルコールに慣れる気配はない。
その証拠に、ファジーネーブルを1杯飲み終えると彼はいつも眠そうに瞼を擦り始めるのだ。
 
真面目でしっかりしている彼が、アルコールに負けてとろけている様子を見るのは好きだったけれど、眠気眼を擦りながら帰り支度をされるといつも寂しくなってしまう。
こんなにもタイオンのことが好きになってしまったのはいつからだっただろう。
思えば、最初に出会った時から心奪われていたのかもしれない。
腹が立つほど真面目で、お人好しな彼に。


***

タイオンに出会ったのは3か月ほど前のこと。
その日は店舗のスタッフたちと飲み会があって、3軒はしごして夜遅くまで飲み歩いていた。
やがて終電の時間が迫ったことで、朝まで飲むという元気な大学生バイトたちに手を振って駅に向かう。
いつも通りスマホ交通系電子ICで改札を通ろうとした時、まさかの事態に気付いてしまった。
 
スマホの充電がいつの間にか切れている。
昨晩寝るときに上手く充電できていなかったのが原因だろう。
仕方ない。財布に入っているICカードで通ろう。
そう思い鞄を漁り始めたが、悪い事はなぜか重なるもので、鞄の中をいくら見渡しても財布の姿はなかった。
最近はスマホの電子決済で会計することが多く、財布を使う機会がめっきり減ってしまった。
そのせいで、財布を他の鞄に入れたまま気付かず家を出てしまったらしい。

マズい。本格的にマズい。
スマホの充電が切れたせいで電子決済が使えない。
かといって財布もないからICカードでの決済もクレジットカードでの決済も現金での決済もできない。
キャッシュカードも財布の中だし、現金を引き出すことすら出来ない。
家までの片道料金は約400円。
ワンコインで事足りる料金であるにも関わらず、そのわずかな金額すら用意できない。
詰んだ。これは完全に詰んでしまった。どうしよう。

電光掲示板を見ると、終電まで残りはあと5分。
これを逃せばもう家には帰れない。
ホテルや漫画喫茶に泊まろうにもお金が払えないのだから無意味だ。
こういう場合どうしたらいいんだろう。
キャリアショップでスマホを充電できるサービスはあるけれど、そもそもそのキャリアショップはもうとっくに営業時間を過ぎていて、朝まで待たないと充電は出来ない。
ということはもう、朝まで公園か何処かで野宿するしかないのだろうか。


「それはきちぃよな……」


誰も並んでいない切符販売機のそばで頭を抱えながら項垂れる。
あぁもう、なんでスマホを充電し忘れてしまったんだろう。
財布を家に忘れてしまったんだろう。
せめて携帯充電器を持ってきていれば何とかなったはずなのに。
情けなくて泣きそう。明日も仕事があるのにどうしよう。


「大丈夫ですか?」


項垂れていたアタシに、誰かが声をかけてきた。
顔を挙げると、そこにはかっちりとしたスーツを着た真面目そうな眼鏡の男が。
首元には、オレンジ色のちょっとダサいマフラーが巻かれている。
1人で肩を落としている成人の女はそれなりに目立つらしい。
心配になって声をかけてくれたのだろう。


「あー……。ちょっと、帰りの電車賃が無くて」
「え?もしかしてスリにでもあったんじゃ……」
「いやそうじゃなくて、スマホの充電切れたり、財布家に忘れたり、いろいろあって」
「なるほど。そういうことか」


納得したように頷くと、彼はスラックスのポケットから二つ折りの黒い財布を取り出した。
そして、クレジットカード類が収納されている中から1枚のカードを取り出すと、アタシに手渡してくる。
それは全国共通どこでも使える、交通系ICカードだった。
戸惑い、“えっ”と顔を挙げると、彼は眼鏡を押し上げながら口を開く。


「今現金の持ち合わせがないから、これで帰ってくれ」
「えぇっ?いいってそんな!てかアンタもこれで帰るんだろ?」
「僕はこの駅が最寄だから問題ない。気兼ねなく使ってくれ」
「い、いやいやだからって受け取れねぇよ!」
「帰れないんだろ?それなりに入っているはずだから、片道くらいなら足りるはずだ」
「でも……」
「ほら、もう終電が来るぞ」


焦って振り返ると、電光掲示板には“まもなく電車がまいります”の文字が流れ始めていた。
今すぐ改札を通ってホームに上がらなければ、終電に間に合わないだろう。
終電に乗れなければ野宿が確定してしまう。流石にそれだけは御免こうむりたかった。
仕方ない。せっかくの厚意に甘えておこう。
そう判断したアタシは、彼から差し出されたICカードを両手で受け取った。


「ごめん、本当にありがとう!」


受け取ったICカードを使って改札を通る。
改札の画面に表示されたICカードの残金は5,000円と出ていた。
うわ、本当に“それなり”に入ってる。
名前も知らない赤の他人に貸していい金額じゃねぇぞ。
もしかして、こんなにたくさん入金してあること忘れてるのかな。
だとしても、5,000円もの大金が入ったこのカードは何としても返さなくちゃいけない。
そう思ったアタシは、改札を出てすぐに振り返った。
駅から去って行こうとしているスーツの彼を、“ねぇ”と大きな声で引き留める。
足を止め、振り返ったその眼鏡姿に、アタシは急いで問いかけた。


「名前だけ教えて!アタシはユーニ!」
「タイオンだ」
「タイオンね。了解!絶対返すから!」


言いたいことだけまくしたてて、アタシは手を振りながら走り去る。
急いでホームに上がると、既に最終電車はホーム内で停車していた。
駆け込み乗車にならない程度の速足で乗り込むと、数秒後に駅員のアナウンスと共に扉が閉まる。
セーフ。何とか間に合った。
安堵感から深いため息が出る。

扉の脇に立ち、手すりに掴まりながら手元のICカードに視線を落とす。
これのおかげで助かった。
あの人、タイオンって言ってたっけ。
知らない奴に5,000円も入ったICカードをポンと渡せるなんて優しい奴だな。
きっといい奴なんだろうな。絶対に返さなくちゃ。
 
そこまで考えて、アタシは致命的なミスに気付いてしまう。
しまった。名前は聞いたけど、それ以外の個人情報は何一つ聞けてない。
名前よりも前に、まず“明日の20時にこの駅に来て!”的なことを言えばよかった。
そうすれば明日以降問題なく合流出来て、このICカードを返せたかもしれないのに。

あぁ最悪。名前なんて聞いてどうすんだよアタシ。
まぁ何も知らないよりはマシだけどさ。
さっきアイツは、あの駅が最寄だと言っていた。
あそこはアタシの職場でもある商業施設の最寄り駅でもある。
明日もあそこに行くわけだし、仕事帰りにずっと待っていればまた会えるかもしれない。
 
なんとしても返そう。こんなに親切にしてもらったのに、恩を返さないのはアタシの流儀に反する。
それになんとなくだけど、もう一度会って話したいな、なんて思っている自分がいる。
別に深い意味なんてない。お礼を言って、ついでにご飯でも奢れればそれでよかった。
この時はまだ、タイオンへの気持ちは“恋”と呼べるほど大きく育っていなかった。

翌日。仕事を終えたアタシはすぐに駅に向かった。
時刻は21時過ぎ。時間的には結構遅いし、もう仕事を終えて既に帰ってきてしまった後かもしれない。
けれど、今日は金曜日だし誰かと飲みに行っている可能性も十分ある。
それならきっとまだ帰宅はしていないはずだ。
 
片手に持ったICカードに視線を落とし、“よし”と気合を入れる。
このカードを返してお礼を言うまで、毎日ここで待ってやる。
そう決意したその瞬間だった。どうやら電車が駅に到着したようで、乗客が次々と降りてきた。
改札を通過する人の群れに、彼はいた。
正直ダサいあのオレンジ色のマフラー、間違いない、タイオンだ。
彼を待ち始めて約3分。こんなにも早く会えるなんて、もはや運命なんじゃね?
なんて馬鹿らしいことを考えながら、アタシは人混みをかき分けて走り出す。


「タイオンっ」


名前を呼ぶと彼はすぐに足を止めて振り返って来た。
そして、息を乱しながら走り寄るアタシの顔を見ると、眼鏡のレンズ越しに瞳を大きく見開いた。


「君は確か……ユーニか」
「おっ、正解。覚えててくれたんだな」
「深夜の駅で項垂れている成人女性はなかなかいないからな」
「あはは……」


名前覚えててくれたんだ、嬉しい。
なんて思った瞬間、あまり嬉しくない言葉が飛んできて苦笑いを浮かべてしまう。
嫌な印象の残り方だよな、それ。
とはいえ、会えたことには感謝だ。
これであのICカードを返すことが出来る。
昨日借りたあのカードを両手で差し出し、アタシは口を開く。


「これありがとう。ホント助かった」
「もしかして、これを返すためにわざわざ待っていたのか」
「うん。まぁな」


待っていたと言っても、ほんの3分くらいだけど。
するとタイオンは、アタシからICカードを受け取りながら柔い微笑みを向けてきた。


「親切だな、君は」
「えっ」


いやいや。いやいやいやいや。
親切とか、それアンタが言う?
アタシなんかよりも見ず知らずの女に5,000円入ってるカードを迷わず渡せるそっちの方が親切じゃね?
お人好しなのかな。聖人なのかな。流石にいい奴過ぎない?


「5,000円も入ってるカード貸してくれた奴に親切とか言われたくねぇって」
「え?5,000円?」
「うん、5,000円」
「……」
「……」


妙な沈黙があたりを包む。
あ、もしかしてこの感じ、このICカードに5,000円も入ってたこと把握してなかったのか?
だって今、“やべぇそんなに入ってたのか。返ってきてよかった”って顔してる。


「もしかして、いくら入ってるか把握してなかった?そんなに入ってないと思ったからアタシに貸してくれたとか……」
「そ、そんなわけないだろう!ちゃんと把握していたとも。把握したうえで貸したに決まってる」
「えー、ホントかー?」
「当然だ。その疑いの目はやめてくれ」
「あははっ、じゃあそういうことにしておいてやるよ」


本人は否定していたけれど、最初から5,000円も入っていると知っていたらきっと貸してはくれなかっただろう。
当然だ。アタシだって見ず知らずの人間に現金ではないにしろ5,000円相当のものは流石に貸せない。
彼は間違いなくいい奴ではあるし、とても優しい性格ではあるのだろうが、理解が及ばないほどお人好しというわけではなさそうだ。
もしかしたら5,000円をドブに捨てる結果になっていたかもしれないという事実に密かに怯えつつ、それでも見栄を張ろうとしているタイオンに、なんだか親近感を覚えてしまう。


「なんにせよ、貸した相手が君でよかった。下手をしたら5,000円の損失になってただろうからな」
「だろ?良識あるアタシに感謝しろよー?」
「はいはい。それじゃあ僕はこれで」
「えっ、あっ、ちょっと待った!」


呆気なくその場を去ろうとしてしまうタイオンに焦り、アタシは咄嗟にその腕を掴んでしまった。
驚くタイオン。ノープランで彼を引き留めてしまったアタシは、自分でしたことながら動揺してしまう。
あ、やばい。引き留めたはいいものの何を言えば……。
必死に頭をフル回転させ、苦し紛れに言葉を絞り出す。


「えっと……。お、お礼がしたいんだけど」
「お礼?いや、そんな気にしなくていい。こうしてわざわざ待ってくれてまで返してくれただけで——」
「でもほら、片道400円ちょっとはそのカードから出してもらったわけだし、その分はちゃんとお礼しなきゃじゃん?」
「400円くらい気にすることないぞ?」
「いいや気にする!せめて1杯だけ奢らせて?な?タイオンの好きな店でいいから!」


やんわり断られているのに、何故かアタシは引き下がろうとしなかった。
ここで別れたら、この優しいオレンジマフラーとは二度と会えないような気がする。
それはなんだか嫌だった。
柄にもなく縋るように腕を掴むアタシにタイオンは困ったように笑っている。
あぁ、しつこいと思われたかな。やっぱりほどほどにして引き下がればよかった。
そう思い始めたアタシに、彼は意外な言葉をかけて来る。


「じゃあ、1杯だけ……」
「え?いいの?」
「奢ってくれるんだろ?」
「奢る奢る!よっしゃ、いこいこ!」


どうやらアタシに奢られてくれるらしい。
やった。嬉しい。心が躍る。
少し迷惑がられているような気がするけど、次に繋がるなら何だっていいじゃないか。
タイオンの腕に自分の腕を絡ませると、強引に引っ張りながら歩き出す。
なんだか胸がドキドキする。こういう感覚は久しぶりだった。
まるで恋してるみたいな……。

……ん?恋?
いやいやナイナイ。
いくらめちゃくちゃ優しいとはいえ、昨日今日会ったばかりの男にコロっと惚れるほどアタシは単純じゃない。
ただ親切にしてもらっただけじゃないか。別に深い意味はない。
これから始まる飲みの席も、ただ単純にお礼目的なだけ。別に好きだからとか、そういうことじゃない。違う。絶対違う。大丈夫。アタシは別にタイオンに惚れてなんかいない。
そう言い聞かせながら、アタシはタイオンに案内されるがまま、彼の知り合いが経営しているという小さなバー、サフロージュを訪れるのだった。

初めて訪れたそのバーは、8人程度しか腰掛けられないカウンター席だけが並んだかなり狭い店だった。
薄暗い店内はヒーリング系のBGMがかかっているせいか妙に落ち着く。
マスターは“ナミ”という名前の女性で、タイオンの大学時代の先輩なんだとか。
品があって知性を感じるその人は、タイオンと一緒に店を訪れたアタシを見て微笑んだ。


「タイオンが女の子を連れて来るなんて珍しい」


その言葉に、ほんの少しの喜びを感じてしまったのは気のせいなんかじゃないだろう。
カウンター席に腰を落ち着け、メニューを開きながらタイオンの顔を覗き込む。


「すげぇいい雰囲気の店なのに、デートとかで使わないんだ?」
「まずそういう相手がいないからな」


どうやらタイオンに特定の相手はいないらしい。
そっか。いないんだ。ふぅん。そっかそっか。
無意識に緩む口元を必死で引き締めながら、アタシはマスターのナミにジンライムを注文した。
隣に座っているタイオンは、ほとんどメニューを見ずにファジーネーブルを注文する。
えっ、そんなジュースみたいな酒でいいの?
折角奢られるんだから、もっといい酒頼めばいいのに。
そう伝えると、彼は苦笑いを浮かべながら言った。
“あまり酒が強くないんだ”と。

そうだったんだ。だったら酒じゃなくて食事を奢ればよかった。
“1杯奢る”と言った時、少し戸惑ったように見えたのは迷惑そうにしていたからではなく、酒が苦手だったから迷っていただけだったのか。
なんだ、そうなのか。良かった。
安堵しているとジンライムとファジーネーブルが運ばれてくる。
互いのグラスを片手に乾杯して、2人だけの酒宴が始まった。

その日、タイオンが1杯目のファジーネーブルを飲み終えるまで、アタシたちはいろんな話をした。
タイオンがアタシと同じ23歳だということ。
所謂メガバンクに務めているということ。
暫く彼女はいないということ。
もはや芸能人への囲み取材化のように、いろんな角度で質問をぶつける。
タイオンは見た目通り真面目な男だったらしく、今まで付き合ってきた男や友達にはいないタイプだった。
堅物だけど、不思議なほど話しやすい。一緒にいて楽しい。そう思えた。


「へぇ、大学1年から彼女いないのか。そりゃ長いな。モテないの?」
「随分はっきり聞くんだな。まぁその通りなんだが」
「マジで?なんで?」
「さぁな。ただ、“タイオン君は優しいけど異性としては見れない”とはよく言われる」
「あぁなるほど。所謂“いい人止まりの男”って奴か」
「そうなんだろうな。いい人というより、どうでもいい人になりがちなんだろうな、僕は」


少し寂しそうな顔をしながら、タイオンはファジーネーブルのグラスに口をつける。
グラスを持つ骨張った褐色の手は、男らしい色気を持っている。
手首にはめられたシルバーの時計が、タイオンがグラスを傾けるたびスーツの袖からちらりと見える。
横目でその光景を見るたび、アタシの胸は小さな火が灯ったようにじんわり熱くなる。

いい人止まりか。
“いい人”の何がいけないんだろう。
見ず知らずの人間に迷わず手を差し伸べられるような人、今のご時世なかなかいないじゃん。
かっこいいじゃん、そういうの。
アタシはそういう奴と付き合いたいけどな。


「アタシは好きだけどな、そういう人」
「ん?」
「名前も知らない女に5,000円も貸せる奴、超カッコいいじゃん。まだタイオンのことよく知らねぇけど、少なくとも“どうでもいい人”なんてアタシは思わないかな」
「……そうか」


不愛想な返事が返ってきたことで、アタシは初めて我に帰った。
あぁまずい。なんだかものすごく恥ずかしいことをドストレートに言ってしまったような気がする。
それなりに仲良くなった相手ならともかく、昨日今日知り合ったばかりの異性にこんなに真っ向から誉め言葉を投げつければ戸惑われるに決まってる。
うわぁ、距離感ミスったなぁ。
すげぇぐいぐい来るじゃんとか思われたらどうしよう。
恐る恐る左隣に視線を向けると、彼は半分残ったファジーネーブルを一気に飲み干していた。

えっ、酒苦手だったんじゃねぇの?
そんなに一気に飲んで大丈夫か?
案の定、空になったグラスを置いたタイオンは顔を赤くしていた。
たった1杯でそんなに酔ったのか。本当に弱いんだな、酒。


「え、大丈夫か?顔真っ赤だけど」
「もう。特訓の成果、あまり出てないみたいね」


少し離れたところで酒のボトルを整理していたナミが、空になったタイオンのグラスを回収した。
特訓とは何のことだろう。
聞くと、社会人たるもの酒くらい飲めるようになっておかなくちゃいけない、という謎の真面目思想によって、毎週金曜にこの店でファジーネーブルを飲みながらアルコール耐性をつける特訓をしているのだとか。
 
真面目かよコイツ。アルハラなんて言葉が出てきたこの時代、別に酒が飲めなくても全く問題ないだろうに。
わざわざ酒に強くなるためにバーに通ってるなんて。

たった1杯のファジーネーブルで真っ赤になってしまうほど、タイオンはアルコール耐性がないらしい。
カウンターに肘をつき、眼鏡を外して目頭を押さえている彼の顔を覗き込む。


「なぁ平気か?気持ち悪い?」
「大丈夫。うん、大丈夫」
「ホントに?大丈夫そうには見えないんだけど?」
「んー……、ほんとは、ちょっと眠い」


重くなった瞼を擦るタイオン。
片目だけ開かれた褐色の潤んだ瞳と目が合った瞬間、アタシの心はぐわっと強く鷲掴みにされた。
さっきまで優しくてかっこいいとすら思っていたタイオンが、アルコールにやられて顔を赤くしながら弱っている。
力が抜けてふにゃふにゃしているように見えるその姿が、たまらなく魅力的に見えた。
 
なにそれ。なにその顔。可愛いんですけど。
あ、やばい。これヤバいやつだ。
着々と沼に足を取られている気がする。
タイオンという、優しくてカッコよくて、ほんの少し可愛い男の沼に。

その日から、アタシは彼のことが好きになっていた。
以降、毎週金曜日に飲酒の特訓をしているというタイオンに会うため、“アタシもこの店が気に入ったから”という名目でBarサフロージュに通うことになるのだ。


***

3か月前の出会いの日を脳内で思い出しながら、アタシはジンライムのグラスを傾ける。
気付かれないようにこっそり隣に視線を送ると、タイオンのファジーネーブルはもう半分以上減ってしまっていた。
あのグラスが空になったら、タイオンは帰ってしまう。
タイオンがファジーネーブルを飲み干すまでのこの短い時間が、アタシに与えられた僅かなアプローチタイムなのだ。

タイオンとはいろんな話をしてきた。
仕事のこと、プライベートなことは、アタシが問いかければ向こうも質問を返してくれる。
けれど、恋愛のことになると答えはしてくれるものの逆に質問を向けられることはなかった。
“彼氏はいるのか?”とか、“好きな人はいるのか?”とか、そういう基本的な質問すら投げかけられたことは無い。
多分、そこまでアタシの恋愛事情に興味が無いんだと思う。
完全な片想いだ。切なくはあったけど、悲しくはなかった。
向こうに彼女がいるだとか、好きな人がいたのなら少しは傷付きもするのだろうが。


「君はいつもジンライムだな」


不意に、タイオンから新しい話題を振られた。
オレンジ色のファジーネーブルを飲み続けるタイオンと同じように、アタシは緑がかった透明なジンライムをひたすら飲み続けている。
毎週飲んでいても飽きがこないのは、タイオンが隣にいるからなのだろう。


「まぁな」
「そんなに美味いのか?」
「うん、結構美味い。でもアルコール度数はそれなりに高いからタイオンには厳しいかもな」
「前から思っていたが、酒強んだな。ペースも早いし、いつも2杯以上飲んでるようだし」
「そうかな。タイオンが遅いだけじゃね?」


アタシの指摘に、タイオンはグラスを片手に持ちながらぐっと気まずげに息を詰めた。
それなりにきつい酒ならともかく、アルコール度数5%前後のファジーネーブルをこんなに長時間かけて飲む奴はなかなかいない。
まぁ、1分1秒でも長くタイオンと一緒にいたいアタシにしてみれば、そのペースの遅さが逆にありがたかったりするわけだけど。


「アタシ、大人数での飲み会も好きだけど、こうやってサシで飲むのも好きなんだ。酔ってるからこそ出来る話とかあるじゃん?」
「僕はそういう話が出来る前にすぐ酔ってしまうからよく分からないが、そういうものか?」
「そういうもんだよ」
「ふぅん」


酒は割と好きな方だった。
みんな苦手意識を持ちやすいビールも比較的すぐに好きになったし、ワインや焼酎も好き。
もちろん浴びるように飲むようなことはせず、きちんと節度を持って飲むようにはしているけれど、同年代の女子に比べて飲む量が多いのは確かだ。
飲みの場も好きだし、そういう場に顔を出すのも好き。
酒を飲んで盛り上がっている人の和の中に入るのも、こうやってサシで飲んでしっぽり語り合うのも好きだった。


「気持ちわかるわ。特にそれが彼氏や好きな人だったら、なおのこと楽しいわよね」


アタシの言葉にあまり納得できていないタイオンを横目に、マスターであるナミは賛同を示してくれた。
“そうそう!好きな人と飲む酒ほど美味いもんはないよな”
そう言うと、ナミは微笑みながら頷いてくれる。
実際、こうしてタイオンと一緒に飲むジンライムはめちゃくちゃ美味い。
他の店で一人で飲むジンライムよりも格段に上手く感じるのは、隣に彼がいるからなのだろう。

2杯目のジンライムに口をつけながらふと前を見ると、カウンター越しに立っているナミがなにやら含みのある笑みを浮かべているのが見えた。
彼女の視線は、まっすぐタイオンに注がれている。
その視線に気付いているのか、タイオンは少し顔を赤くしながら視線を逸らしている。
目配せしている2人のやり取りに気付いた瞬間、嫌な予感がよぎってしまう。
赤らんだその顔は、酔いからくるものなのだろうか、それとも——。


「ナミさん、ファジーネーブルをもう1杯お願いします」
「えっ」


いつの間にか空になっていたグラスを差し出し、タイオンは2杯目を所望した。
3か月間一緒にこの店に通ってきたが、タイオンが2杯目を注文している場面に遭遇したのは初めてのことである。
1杯でいつも酔っているのに、2杯目なんて頼んで大丈夫なのだろうか。
戸惑っていると、空のグラスを回収しながらナミが心配そうに口を挟んだ。


「あら、大丈夫なの?」
「最近は1杯飲み干してもそこまで酔わなくなってきたので大丈夫かと」
「そう?無理はしない方がいいわよ?」
「無理じゃありません。いけます」
「はいはい」


ナミの前で意地を張っているタイオンは、まるで子供のよう。
なんで?なんでそんな意地になってるの?
まるで、もう下戸じゃないとアピールしているみたいだ。けど、誰に?

やがて、2杯目のファジーネーブルが出来上がる。
タイオンの前にグラスを置いたと同時に、ナミはやはりあの含みのある笑顔を浮かべながら小声で言った。
“頑張って”と。
その言葉に、タイオンは少し恥ずかしそうに顔を赤らめ視線を逸らしつつ“はい”と返した。
そして、綺麗なオレンジ色をした2杯目のファジーネーブルに口をつける。
赤らむタイオンの横顔を見つめながら、アタシの心は少しずつ傷付いてしまう。

あーあ。やだな。気付いちゃったじゃん。
タイオンが意地でも酒に強くなりたがっていた理由も、ナミからの目配せに照れていた理由も。
タイオンは、ナミが好きなんだ。
だからこの居酒屋に通ってるんだ。酒に強くなりたいという大義名分を掲げて、ナミに会うために。
好きな人に会うために店に通うなんて、アタシと同じじゃん。
めっちゃ片想いじゃん、アタシ。かっこわるっ。


「はぁ、かっこわる……」


小さなため息と共に、アタシはジンライムに口をつけた。
隣のタイオンが目を丸くしながらこちらを見つめてきていたが、その視線を見つめ返す気にはなれなかった。
ナミのために我慢してファジーネーブルを飲み干そうとしている今のタイオンを見ていたら、きっと辛くなる。
てかこの状況、タイオンにとって今のアタシ、めっちゃ邪魔者じゃん。
折角二人きりでいたのに、アタシがいつもいつもこの店来るからナミと2人きりになれないんじゃん。
アプローチするどころか、邪魔してたわけだ。あーもうやだ。消えてなくなりたい。


「アタシ、そろそろ帰るわ」
「え?」
「あら、もう帰るの?」
「うん。なんか眠くなってきたからさ。お会計いい?」


残っていたジンライムを一気に飲み干して、カウンターから立ち上がる。
今までは1杯目のファジーネーブルで音を上げていたタイオンに合わせる形で一緒に帰っていたけれど、こうしてアタシが先に帰るのは初めてのことだった。
タイオンは終始不思議そうな顔でアタシを見つめていたけれど、声をかけてくることはなかった。
 
レジで会計を済ませ、“また来てね”と笑いかけて来るナミに頷き店の扉に手をかける。
店から出ようと扉を押し開けたその時だった。黙ってカウンターに座っていたタイオンが、初めて“ユーニっ”と声をかけて来る。


「えっと、また来週」
「……うん」


短く返事をして、足早に店を後にする。
エレベーターに乗り込み1階のボタンを押した瞬間、古めかしい扉がゆっくりと閉まった。
降下していくエレベーターの壁に寄りかかると、ほとんど無意識に深いため息が口から漏れ出る。
何が“また来週”だよ。絶対邪魔者でしかなかったのにそんなこと言うなんて、どこまで優しいんだよ。
 
来週からどうしよう。やっぱり行かない方がいいよな。
好きな人がいる奴にわざわざアプローチかけるなんて時間の無駄だし、なによりナミをいちいち意識しているタイオンを見たくない。
行ったところで辛くなる。やめよう。諦めよう。それがいい。
来週の金曜までに踏ん切りをつけなくては。
深呼吸をして気合を入れたアタシは、エレベーターが開いたと同時に大股でその建物を後にした。


***

それからの1週間、アタシはなるべくタイオンのことを考えないように過ごしていた。
だって少しでも考えてしまったら、どうしても会いたくなってしまうから。
真面目で堅物なアイツを揶揄って、酔っぱらって赤くなった可愛い顔が見たくなる。
でも、アイツはアタシじゃない他の人が好なんだ。その事実はどう足掻いても変わらない。

3か月あの店に通ったおかげで、マスターのナミとはそれなりに話すようになった。
連絡先も交換したし、隣にいるタイオンを置いてけぼりにして彼女と世間話に花を咲かせたこともある。
ナミはアタシやタイオンより3つ年上で、誰が見ても清楚な女性だ。アタシとは正反対のタイプと言っていいだろう。
美人だし、品があるし、知性もある。そうだよな、アタシよりあっちを選ぶよな、普通。
アタシが男でもそっちに行くわ。
考えれば考えるほど勝ち目なんてなくて、ガラにもなく落ち込んでしまう。

これ以上余計なことを考えちゃだめだ。
とにかく忘れよう。
脳内に居座るタイオンの影を追い払うように一心不乱に働いた。
そして1週間後の金曜日。
いつもなら急いで店を閉めて例のバーに駆け込むところだが、今夜は行かないと決めている。
というか、もう一生行かないと決めている。
このまま物理的な距離を取っていれば、きっといつか忘れられる。時間が解決してくれる。そう信じて。

のんびりと店を閉め、職場のビルを出て、とぼとぼと駅へ向かう。
スマホの時刻は22時と表示されていた。
駅に到着すると、帰宅する会社員やOLが改札を行き来している。
スマホを片手に改札を通ろうとしたその時だった。正面から改札を通って来た眼鏡の男と目が合った。
あ、やばい。タイオンだ。
そう言えばこの駅が家の最寄だって言ってたっけ。
今まで仕事帰りのコイツと駅でかち合ったのは初めて会ったあの日だけだったのに、なんでこんなタイミングで遭遇してしまうのか。
戸惑い、改札前で立ち止まるアタシを見つけたタイオンは、当然のことのようにこちらに歩み寄って来る。


「お疲れユーニ」
「あぁ、うん。お疲れ」
「こうして駅で会うのは久しぶりだな」
「そう、だな」
「ん?何かあったのか?いつもより元気がないような……」
「いや、別に何でも。じゃあアタシ、帰るわ」
「えっ?」


これ以上話していたら、きっと決意が揺らいでしまう。
とにかくここはさっさと帰らなくちゃ。
タイオンの脇を抜けて改札を通ろうとしたアタシだったが、すれ違う直前腕を掴まれ引き留められた。
力強く腕を掴まれたその瞬間、アタシの心臓も同時に跳ね上がる。


「店、寄って行かないのか?」
「あ、いや、今夜は……」
「何か用事でも?」
「そういうわけじゃないんだけどさ……」
「じゃあなんで——」


立て続けに問いかけようとしたタイオンは、言葉の途中で我に帰ったように“あっ”と声を漏らし、アタシの腕を掴んでいた手を放した。
視線を逸らし、誤魔化すように咳ばらいをした彼はアタシから距離を取って謝って来る。


「すまない。毎週金曜は君と飲むのがいつの間にか習慣化していたから、つい気になって……」
「あぁ、うん」
「じゃあ、その……。また来週。お疲れ様」


右手を軽く挙げ、タイオンは去っていく。
駅前の喧騒の中へと遠ざかっていくタイオンの背中を見つめていると、心がぎゅううっと握り込まれるような苦しい感覚に苛まれた。
この改札をくぐれば、タイオンとは少なくともあと1週間は会えなくなる。
寂しい。もっと一緒にいたい。話したい。
胸の奥に仕舞っていた淡い感情が、タイオンに会った途端蓋を押し上げながら溢れ出てしまう。
そして、溢れ出る感情に背中を押され、意志の弱いアタシは走り出す。

人混みの間を縫って、まっすぐタイオンの背中へ走り寄る。
そして先ほどタイオンに腕を掴まれた時と同じように、今度はアタシが彼の腕を掴んで引き留めた。
振り返った彼の眼鏡越しの目と視線が絡み合う。
驚いたように目を丸くしているタイオンを見上げながら、少し震えた声で呟く。


「やっぱ、行こうかな」


あぁ、アタシやっぱり馬鹿だ。
このままタイオンと一緒にいても何の得もない。
むしろこいつの恋の邪魔をするだけなのに、それでも離れがたいと思ってしまう。
折角会えたんだから、折角話せたんだから。
“折角”の積み重ねの上、無駄だと知りながらその背に飛び込んでしまうのだ。
もしかしたら、今夜の1杯で少しでもアタシを好きになってくれるんじゃないか、なんて夢みたいな希望を胸に抱きながら、結局今夜もあの店のカウンター席に座るのだった。


***

店に入ると、いつも通りカウンターにはナミの姿があって、“いらっしゃい”と微笑みかけて来る。
そしていつも通りカウンター席に腰掛け、やっぱりいつも通りジンライムを注文する。
隣の席に座ったタイオンのチョイスも、いつも通りのファジーネーブル
オレンジ色と薄緑色のグラスを傾けて乾杯すると、今夜もまたアタシとタイオンの酒宴が始まる。
けれど、前回までのように心から楽しいとは思えなかった。
彼の心の内を何となく察してしまったからだろう。
“それでもいい”なんて思えるほど、アタシはひたむきなタイプじゃない。
でも、この心は無様なほど高鳴っているし、そわそわしてしまう。
タイオンへの好意は薄れることはなく、濃度は上がる一方だ。
彼が飲んでいるファジーネーブルの度数と同じくらい、この気持ちも薄まってしまえばいいのに。


「ユーニさん、確かアパレル業界で働いるのよね?」


ジンライムのグラスを煽っているアタシに、ナミが問いかけて来る。
素直に頷き、担当しているブランドの名前を出すと、ナミは表情を明るくさせながら“私もそのブランド好きなの”と笑いかけてきた。
アタシが働いているショップのブランドはいわゆるカジュアルブランドで、老若男女問わず愛用できる幅広い商品展開を売りにしている。
ナミもうちのブランドのヘビーユーザーだったらしく、タイオンを放置してナミとアパレルトークで少しだけ盛り上がってしまった。


「そうそう。客層が幅広いせいで変な客も結構いてさー」
「そうなのね。ユーニさん可愛いしスタイルもいいから、お客さんにナンパされることもあるんじゃない?」
「うーん、まぁ、無いこともないけど」
「えっ、そうなのか?」


ナミと話していると、隣のタイオンが急に話に入って来た。
目を丸くしながら掘り下げて来る彼に、“時々な”と返すと、“ふぅん”と素っ気ない返答が投げ返される。
売り場に出ている時、馴れ馴れしく声をかけてきてしつこく連絡先を聞いてくる輩も時々いる。
その度適当にあしらって断ってはいるが、厄介なことこの上なかった。


「そういう時どうしてるの?」
「“彼氏いる”って適当な嘘つくかな」
「嘘ってことは、実際いないの?」
「うん。いない」
「そっかそっか。いつからいないの?」
「えっ、あぁ、いつからだっけな……」


何故かナミは興味津々な様子でアタシの恋愛事情を掘り下げてきた。
なんでそんなにホクホク顔で聞いてくるんだ?
というか、タイオンの前でこういう話はあまりしたくない。
変に恋愛の話を振ると、タイオンにこの気持ちがバレるかもしれない。
向こうに好きな人がいる以上、バレたところでいいことは何もない。
なるべくこの気持ちは隠したかった。

曖昧に、そして適当に誤魔化しながらナミの質問をかわしている間、タイオンはほとんど話に入ってくることはなかった。
やっぱりアタシの恋愛事情には興味なんてないんだな。
それとも、ナミがアタシにばっかり構うから拗ねてるのか?
分かってはいたけれど、態度が露骨すぎて流石のアタシでも傷付きそうになる。

ふと、テーブルの上に置いているスマホの画面に視線を落とす。
そろそろ終電の時間が近づいている。
タイオンの方へ視線を向けると、グラスのファジーネーブルはまだ半分近く残っていた。
元々飲むペースが遅い彼だけど、今夜はいつも以上に1杯を飲み干すのに時間がかかっているような気がする。
やっと彼が全て飲み終えた頃には、既に終電30分前になっていた。

会計を済ませ、外に出ると少しだけ寒かった。
いつもように駅の方へと並んで歩き出すアタシたち。
適当な話題で場を繋ぐだけの余裕もなく、なんとなく無言になってしまった。
タイオンも無理に話題を振ってくることはなく、並んで歩きながらも冷え切った沈黙がこの場を包んでいる。
アタシが頑張って話題を探さなければ、まぁこんなもんか。
タイオンからしてみれば、アタシは恋愛対象外の女だもんな。

沈黙を保ったまま、アタシたちは駅に到着する。
けれど、いつもとはどこか違う空気を纏った駅の様子に嫌な予感を覚えてしまう。
改札前に人だかりができているその光景を見つめ、絶望した。
電光掲示板には“人身事故のため運転見合わせ”の文字が躍っている。
最悪だ。終電間際に人身事故が発生したらしい。
しかも発生場所は隣の駅。どう考えても1時間やそこらで復旧する見込みはなかった。


「うわ、マジかよ……」
「人身事故か。これはしばらくかかりそうだな」
「だな。帰れねぇじゃん。どうしよ」


明日は休みだから、仕事の心配をする必要はないけれど、流石にこの深夜にいつ復旧するかも分からない電車を待ち続けるのはしんどいものがある。
この辺にビジネスホテルとか漫画喫茶とか、24時間営業のファミレスとかあったっけ。
スマホで地図アプリを開きながら眉間にしわを寄せていると、隣に立っていたタイオンが少し小さい声で提案してきた。


「じゃあ、うちにくるか?」
「……え?うち?」
「あぁ」
「“うち”って、タイオンの家ってこと?」
「……あぁ」


まさかの提案に、思考が停止する。
真面目で堅物な彼のことだから、あまり家に人を招きたくないタイプなのかと勝手に想像していた。
しかも好きな人がいるわけだし、他の女を家に泊めるなんて誠実さに欠ける!なんて古めかしい価値観を持っているのだとばかり思っていたが、そんなこともなかったらしい。
というか、家に泊まるってつまりそういうことだよな。
アタシたちはそれなりに大人の男女だし、女が男の家に行くということはつまり、“それでもいい”という暗黙の合図みたいなものだ。

誘われてるの?アタシ。
いや、流石に違うか。タイオンには好きな奴がいるわけだし。
コイツのことだから、きっとただの善意で提案してくれているだけだ。そうに違いない。
でも、男ならヤれそうな状況に陥ったらとりあえず食らいついておくもんじゃねぇの?
好きな人がいるとかいないとかそういうの関係なく、“あわよくば”を狙っているんじゃ……。
うわ、どうしよう。
乗るべき?断るべき?
戸惑っていると、タイオンはその表情に焦りを滲ませ始めた。


「あっ、いや、当然何もしない!でも、もし落ち着かないなら無理にとは言わないから……」


あぁ、何もしないんだ。
何もしてくれないんだ。
タイオンの言葉に少しがっかりしている自分を見つけた瞬間、決心がついた。
もういいや。どうせ正攻法で振り向いてくれないなら、ちょっと卑怯な手を使わせてもらう。
“そういう関係”になれば、“週に一度会うだけの飲み友達”という面白みのない関係性から少しは発展できるかも。
そういう攻め方になってしまうのは不本意だけど、これしか手段が残されていないのだから仕方ない。
泊まれそうな場所を検索していた地図アプリを閉じると、アタシはタイオンの腕をそっと掴んで囁いた。


「じゃあ、甘えようかな」


精一杯の色気と可愛げを出してみたつもりだった。
けれどタイオンはすぐに視線を逸らして眼鏡を押し上げると、“分かった、行こうか”と口にして歩き出す。
なんだか反応があっけない。
もうすこしこう、何かあってもいいだろ。照れるとかデレデレするとか。
とことんアタシに興味ないのかよ。

タイオンが歩き出した方角は、先ほどアタシたちが店から歩いてきた方向だった。
来た道を引き返すように歩くタイオンに理由を聞くと、どうやら彼の家は先ほどまで一緒に飲んでいたナミの店の向こう側にあるという。
店を出た後いつも一緒に駅まで歩いていたから、タイオンの家も駅の向こう側にあるのかと思っていたが、どうやら反対方向だったらしい。
わざわざアタシを駅まで送っていたということか。
そういう小さな優しさを見つけるたび、またアタシはタイオンを好きになってしまう。
アタシってこんなに単純だったっけ?

駅から10分ほど歩くと、タイオンの住まいに到着した。
新しめの単身向け賃貸で、部屋は2階の角部屋。
鍵を差し込み扉を開けてくれたタイオンにお礼を言って中に入ると、男性の一人暮らしにしては整理整頓された部屋が出迎えてくれる。
間取りは1DK。想像通り綺麗な部屋に感心していると、タイオンはクローゼットから部屋着を取り出して手渡してきた。

“少し大きいと思うが、我慢してくれ”
そう言って渡されたのは、男物のスウェット。
恐らくタイオンのだろう。
うわ、好きな人のぶかぶかスウェット着るとか、なんかちょっと緊張する。
まるで恋を覚えたての少女のように高鳴る鼓動をひた隠し、とにかく冷静にお礼を言う。
促されるままシャワーを浴びに行く。
熱い湯を頭から浴びながら、それはもう念入りに身体を洗った。
もしもそういうことが起きてもいいように、丁寧に、隅々まで。

シャワーを浴び終えると、アタシと入れ替わるようにタイオンが浴室に引っ込んだ。
髪を乾かしている間、アタシの緊張は最高潮に達していた。
最後にそういう行為をしたのは1年くらい前。当時付き合っていた彼氏とだった。
めちゃくちゃご無沙汰というわけではないのにこんなに緊張しているのは、きっと相手がめちゃくちゃ好きな男だからなのだろう。
落ち着けアタシ。相手はタイオンだ。乱暴なことは絶対にしないはず。

髪を乾かし終え、ベッドに座って深呼吸していると、浴室から部屋着に着替えたタイオンがバスタオルを被りながら出てきた。
癖の強い髪をタオルで拭いている彼は、眼鏡を外した裸眼の状態である。
 
うわぁ、完全にオフモードだ。いつものかっちりしたスーツ姿とは違うその力の抜けた雰囲気に、また緊張のメーターが上がってしまう。
やばい。オフモードのタイオン、めっちゃツボだ。すんごい可愛い。
赤くなりそうな顔を抑えながら観察していると、タイオンはそそくさとクローゼットから毛布を取り出し、その辺に置いてあった小さなクッションを床に置き始めた。
えっ、まさか。そう思った矢先、彼はそのクッションを枕に床に寝転んで毛布をかぶってしまう。


「えっ、ちょ、そこで寝るの?」
「あぁ。君はベッドを使ってくれ」


このベッドはシングルベッドで、部屋には横に寝転がれるソファもない。
寝れそうな場所が他にないからこそ床を選択したのだろうが、まさかそこで寝ようとしているとは思わずアタシは焦ってしまう。


「いやいやいや。ここお前ん家なんだからむしろアタシが床に寝るべきじゃね?」
「客を床で寝かせるわけにはいかないだろ」
「だからってお前がそこで寝ることないだろ。流石に寝苦しくね?」
「……まぁ、寝心地は正直悪いが」
「じゃあこっちで一緒に寝ればいいじゃん」
「はっ!?」


布団をめくり上げて隣に来るよう促すアタシに、タイオンはぎょっとした。
流石にストレートに誘い過ぎただろうか。
“いや流石にそれは”ともごもご口籠っているタイオンに、ほんの少しだけ苛立ってしまう。
女の方から隣に誘ってるんだからそこは食らいつけよ。
どんだけ真面目なんだよお前は。


「明日休みとはいえ風邪でも引いたら仕事に支障が出るだろ?」
「それはまぁ……」
「いいから来いよ。アタシは別に気にしないから」


スペースを開けて布団の上を軽く叩くと、タイオンはようやく意を決したように動き出す。
“それじゃあお言葉に甘えて”と呟き、もぞもぞと距離を詰めてきた。
男女で一緒に寝るには、シングルベッドはいささか狭すぎる。
向かい合って横になると、予想以上の近さに顔が熱くなっていく。
部屋が暗くてよかった。顔が赤くなっていたとしても相手には気付かれない。

ふと視線を上げると、同じようにこっちを向いていたタイオンと目が合った。
暗がりで絡み合う目と目。触れ合う膝と膝。
狭いベッドの中は、同じシャンプーの匂いで満ちていた。
まっすぐタイオンの目を見ながら懸命に念じる。
手を出して来い。キスでもハグでもいい。もういっそ上に跨ってくれてもいい。
とにかく手を出せ。据え膳はお前に食べられたくてうずうずしてるんだ。だから手を伸ばせ。

けれど、そんなアタシの呪いじみたテレパシー攻撃は、あえなくタイオンに撃墜されることになる。
絡み合っていた視線はすぐに逸らされ、あろうことか向き合っていた身体を反転させてこちらに背を向けてきたのだ。
嘘だろ?マジで?なんにもしないの?え?無防備な女が横に転がってるのに?
OKサインは十分すぎるほどに出してたよな?もうウェルカム状態だったよな?
なのになんで——。

あぁ、忘れてた。
コイツは“クソ”が付くほど真面目な男だった。
ナミという好きな人がいるというのに、他の女に軽率に手を出すような奴じゃないんだ。
アタシだってあの店の常連だ。もしここで手を出したら、話しの流れでタイオンとアタシが体の関係を持った事実がナミに知られるかもしれない。
もしそうなったら、ナミの中でタイオンの株が下がる可能性もある。
そういうことまで考えると、今ここでタイオンがアタシに手を出すメリットはどこにもない。
むしろデメリットだらけだ。
そのデメリットをすべて呑み込んだうえで手を出したいと思えるほど、アタシは魅力的じゃなかったということか。

視線を落とし、アタシもタイオンに背を向ける。
中越しにタイオンの温もりを感じて切なくなった。
なるほどな。タイオンが“いい人どまり”になりがちな理由がよく分かった。
優しすぎるし、誠実すぎるんだ。
間違いを起こさない彼だからこそ、発展しない。
その辺の女はそういう真面目なこいつに退屈さを感じるのだろうが、アタシは違う。
タイオンが真面目であればあるほど、どんどん好きになっていく。
こいつの優しくて堅苦しいところが、泣きたくなるくらい大好きなんだ。

でももう、潮時かもしれない。
身体の関係を持つという卑怯で強引な作戦も失敗した今、タイオンという堅牢な砦を落とす策はもう残されていない。
お手上げ状態だ。白旗を上げるなら今なのかもしれない。
たぶんタイオンを振り向かせられるのは、この世でただ一人。ナミだけなのだろう。
あーあ。毎週金曜の楽しい時間も、これで本当に終わりか。ちょっと寂しいよな。
瞳に溜まる涙を気にすることなく、アタシは瞼をきつく閉じた。


***

「いらっしゃいませー!何名様でしょうか?」
「一人で」
「ではカウンター席でよろしいでしょうか」


頷くと、大学生くらいのアルバイト店員は混みあう店内に向かって“おひとり様ご来店でーす!”と叫び散らした。
広くて明るい店内は活気に満ちており、これまで通っていたあの店とはずいぶん雰囲気が違う。
正直あまり落ち着かないけれど、今は賑やかなところで飲んでこの金曜の夜を乗り切りたかった。

タイオンの家に泊った朝。アタシは早朝、彼が起きるよりも前にこっそり家を出た。
“泊めてくれてありがとう”とだけメッセージを送って、それ以降は一度もアイツとのトーク画面を開いていない。
あれから1か月ほどが経過して、金曜の夜は今夜を入れて5回ほど回って来たけれど、1度も例の店には顔を出していなかった。
タイオンと出会って以降、毎週金曜日は一度も欠かすことなく店に通っていたアタシのルーティーンは崩れ、今は大人しく別の店で一人晩酌を楽しんでいる。

今でも駅の改札を通る直前、例の店に行きたくなってしまう衝動に駆られるけれど、そのたび何とか自分を抑えて我慢している状況だ。
1か月経ってもまだ、タイオンを忘れられる気配はない。
時間が解決してくれる、なんて言葉があるけれど、今回ばかりはそうは思えなかった。
だって、毎週金曜になるといつもタイオンから電話が来るから。
時々メッセージも来る。“今日は来ないのか?”とか、他愛もない文面で。
電話に折り返すことはないし、メッセージも一度も返していない。
けれど、時々送られてくるタイオンからのアクションに、未だ胸を高鳴らせてしまっているのもまた事実。
ホント情けない。忘れたいのに。


「ご注文お伺いいたします」


呼出しボタンを押すと、あまり愛想のない若い女性店員が伝票片手にやって来た。
メニューを開き、ドリンク一覧の中から飲み慣れた酒を指さす。
ジンライムで”
そう言おうとした瞬間、その少し上に記載されているメニューに視線を奪われてしまう。
そういえば、今までほとんど飲んだことなかったな。


「……ファジーネーブルで」
「承知しましたー」


注文した飲み物はすぐに運ばれてきた。
黄色に近いオレンジ色をした、なんとも子供っぽいカクテル。
乾杯する相手もいないので、運ばれてきてすぐにグラスを傾ける。
オレンジと桃の甘酸っぱい風味が口の中に広がって溶けていく。
なにこれ。ほぼジュースじゃん。あいつ、こんなので毎回酔ってたのかよ。ホントに弱いんだな。


「女子大生が飲む酒だろこれ。可愛いかよ」


マドラーでオレンジ色を掻き回しながら、独り言を呟いた。
きっと隣にタイオンがいたら、少し恥ずかしそうな顔をしながら“うるさい。いいだろ別に”といじけたフリをするのだろう。
酔うとあいつは口調が砕けて、眠くなるせいか少し甘えた態度を取ってくる。
かっちりした素面の時の性格とのギャップが可愛くて、いちいち心を奪われていたっけな。

氷が溶けだす前に、アタシは細長いグラスに注がれたファジーネーブルを飲み干してしまった。
飲めば飲むほど稚拙な味だ。酒と呼ぶにはあまりにも甘くて幼稚。
この胸に残った甘くて苦い稚拙な恋心も、ファジーネーブルと一緒に全部飲み干してしまいたい。
そんなこと、たぶん無理なのだろうけど。

空になったファジーネーブルのグラスをテーブルに置いたその瞬間。同じくテーブルに置いていたスマホが震え始めた。
もしかして。そう思って画面を確認すると、表示されていたのは予想外の人物の名前だった。


「はいはーい」
「あ、もしもしユーニさん?今大丈夫?」


かけてきたのは、あの店のマスターでありタイオンの片想い相手でもある女性、ナミだった。
彼女とは個人的にも連絡先を交換していて、時々連絡を取りあう仲だった。
席から立ち上がり、周りの迷惑にならないよう店外に出ると、スピーカー越しにコソコソと話すナミの声が良く聞こえるようになる。


「最近お店来ないけど、どうかしたの?」
「いや、ちょっと忙しくてさ」


咄嗟についた嘘はあまりにもありきたりな内容だった。
誰が聞いても嘘だと分かる嘘を言ったアタシに、ナミは深く追求してこない。
その代わりに、少し明るい声色で妙なことを提案し始めた。


「じゃあ、今夜だけでも顔出してくれない?面白いものが見れるから」
「面白いもの?」
「いつものジンライム、1杯奢るから。絶対来てね!それじゃあ」
「え、ちょ、ナミ!?」


引き留めもむなしく、ナミは強引に電話を切ってしまった。
通話終了の文字が表示されるスマホに視線を落としながら、アタシは眉間にしわを寄せる。
幸い、ここはあの店がある駅の近く。行こうと思えばすぐに行ける距離ではある。
とはいえ、今夜は金曜日。多分、恐らく、いや絶対に、タイオンがいる。
でも“面白いもの”って何だろう?それは少し気になる。
店先の壁に寄りかかり、しばらく考え込むアタシ。
タイオンとバッティングする可能性がある以上行くべきではない。
でも気になる。すごく気になる。今までナミがこんな風に強引に店に来るよう勧誘してきたことは一度もなかった。だからこそ気になってしまう。

今まではタイオンに会う目的であの店に行っていた。けれど今夜アタシを呼んだのはナミだ。
タイオンに会いに行くわけじゃなく、ナミに会うのが目的だということを忘れなければ変な気も起きないんじゃないか。
そうだ。そう言うことにしよう。
ナミは1杯奢ると言っていたけれど、それも遠慮して一瞬だけ顔を出すだけに留めよう。
それに、タイオンが絶対にいるとは限らない。もしかしたらいないかもしれないし。
よし決めた。一瞬。ほんの一瞬。10分だけ。いや5分だけ顔を出してソッコー帰る。
これなら大丈夫だろう、うん。
そうと決めたアタシは、席に置いてきた荷物をまとめ、ファジーネーブル1杯分の会計を済まし、店を出た。


***

2F、3F、4F。
エレベーター上部に浮かんでいる階数表示が上昇していくほど、アタシの緊張は高まっていった。
やべぇマジでどうしようお腹痛い。
なにやってるんだろうアタシ。こんなに緊張するなら来なければよかった。超帰りたい。
 
今から帰るか?ナミに“今夜は無理”とメッセージでも送ってトンズラするか?
いやでももう店が入ってるこのビルについちまったし。
今更逃げ出すのはあまりにも情けなくない?
ここまで来たら行くしかないって。
“面白いもの”とやらをチラッと見て、さっさと帰るんだ。
くそっ、ナミの奴、“面白いもの”が本当に面白くなかったらただじゃおかねぇからな。

そんなことを考えていると、エレベーターはあっという間に店が入っている7Fに到着してしまう。
あぁ、ついちゃった。
緊張で昂っている自分の心を落ち着かせるために“ふひー”と息を吐きながらゆっくり店の入り口まで歩みを進める。
“OPEN”の看板がかかっている店の扉の前に立ち、ガラスになっている部分からそっと店内を覗き込んだ。
すると、カウンターにはナミの姿があった。
そんな彼女と向き合うように、カウンター席の奥には背広姿の男性が座っている。
間違いない。タイオンだ。

うわぁ、やっぱりいるじゃん。どうしよ。
タイオンはカウンター席に腰かけながら姿勢を崩し、項垂れている。
いつもは姿勢正しく座っているのに、あんなにだらけているなんて珍しい。
まさかもう酔ったのか?
よく見てみると、タイオンの目の前に置かれた細長いグラスは半分近く残っていた。
あれは間違いなくファジーネーブルのグラスだろう。
まだ1杯飲み切っていないにも関わらず、あんなにだらけるほど酔ってしまったのだろうか。

扉の向こうに広がる光景を不思議に思ったアタシは、タイオンに気付かれないようにそっと静かに扉を開けた。
僅かに開けた扉の隙間から顔を覗かせると、カウンターに立っているナミと目が合う。
アタシの姿を視界に入れた彼女は、笑みを浮かべながら口元に人差し指をたてた。
静かにそこで聞いていろということだろうか。
首を傾げていると、カウンター席でうなだれているタイオンが弱々しい口調で言葉を発し始めた。


「やっぱり嫌われたんでしょうか……」


どうやらタイオンは背後の扉で聞き耳を立てているアタシに気付いていないらしい。
カウンターに突っ伏しながら言葉を発した彼に、カウンター越しに立っているナミが返答した。


「どうしてそう思うの?」
「だってもう1か月も来てないじゃないですか。今までは毎週通ってたのに」


話の内容を聞いた瞬間ピンと来てしまった。
うわ、絶対アタシの話じゃん。
自分が話題に上がっていると知ってしまったら、流石に気にならないわけがない。
扉にしがみついて耳をそばだてるアタシに気付かないまま、タイオンは頭を抱えながら顔を上げた。


「連絡も全部無視されてるし、絶対に避けられてます。やっぱり家に誘ったのがまずかったのかも……」
「でも別に手を出したわけじゃなかったんでしょう?」
「出すわけありませんよ。付き合ってもないのに出来るわけない」


あれ?なんか空気感おかしくね?
アタシを家に連れ込んだこと、そんなに簡単にナミに話していいわけ?
ナミのこと好きなんだろ?何もなかったとはいえ、そういうことは言わない方がよくね?
てかなにこれ。なんでアイツはそんなにアタシに避けられてることを気にしてるわけ?
これじゃまるでタイオンがアタシのこと——。


「せっかく応援してたのに。相変わらず奥手ね」
「仕方ないじゃないですか。こういうことには不慣れなんです」
「まぁ、奥手にならざるを得ないほど、ユーニさんのことが好きってことかしら」
「……はい」
「えぇっ!?」


反射的に出てしまった驚愕の声は、自分でも驚くくらい大きな声量で店内に響いてしまった。
その瞬間、タイオンがこちらに振り返る。
目と目が合った瞬間、彼は今にも椅子から転げ落ちそうなほど体をビクつかせて目を丸くしていた。
驚きのあまり言葉を失っているようだが、アタシも同じくらい驚いていた。
だって、“はい”って。
“ユーニさんのことが好きってことかしら”という問いに対して、ハッキリと言ったんだ。“はい”って。
うそ。え?本当に?
おかしいおかしい。だってタイオンが好きなのは——。

視線を横にずらし、ナミを見つめると、彼女は随分と楽しそうに笑いながら言った。


「さぁ、今夜はもうお店閉めるから、ふたりとももう帰ってね」


***

ナミから半ば強制的に店から追い出されてしまったアタシとタイオンは、仕方なく夜道をとぼとぼと歩いていた。
駅へ向かって歩く2人の間に、会話はない。
死ぬほど気まずい空間だった。

まずい。何を話していいか分からない。
聞きたいことは山ほどあるけれど、何をどう切り出していいか分からない。
この期に及んでアタシの勘違いってオチはないよな?
不安に視線を泳がせていると、歩き始めて5分ほど経過した頃合いでようやくタイオンが口を開いた。


「あ、あの……。今日はどうしてあの店に?」
「……ナミ来いって言われたんだよ。“面白いものが見れるから”って」
「あの人は全く……」


呆れたようにため息を吐くタイオンの顔は赤く染まっていた。
口元を覆って隠してはいるものの、その紅潮がアルコールのせいではないことはバレバレだった。
そして赤い顔のまま、彼は次の質問をぶつけてくる。


「最近店に顔を出さなかっただろ。どうしてだ?」


あー、やっぱりそれ聞くんだ。
言いたくないな。けど、言わなきゃダメなんだろうな。
視線を足元に移しながら歩き続けるアタシは、胸の内に隠した無様でかっこ悪い気持ちを吐露することにした。


「邪魔しちゃ悪いと思って」
「邪魔?」
「タイオンはナミのことが好きなんだろうなって思ってたからさ」
「え?僕が?ナミさんを?」


訳が分からないとで言いたげな表情で見つめてくるタイオンの顔に文句をつけたくなった。
訳が分からないのはこっちの方だ。
お前はナミのことが好きだと思って疑わなかったのに、今更アタシのことが好きってどういうことだよ。
あんなに仲良さげにしてたくせに。


「誤解だ。ナミさんのことは慕っているが、別に恋愛感情派ない。それに彼女は既婚者だぞ」
「へ?既婚者……?」


なにそれ聞いてない。
驚きを隠せないアタシに、タイオンは呆れながら言ってきた。
“指輪もしてただろ”と。
正直、左手薬指に指輪がはまっていたかどうかなんていちいち見てなかった。
気付いていないだけで、ナミは最初から指輪をはめていたのかもしれない。

タイオン曰く、元々あの店はナミの夫が経営しているバーで、金曜の夜はたまたまナミが一人で店を請け負っているというだけの話らしい。
夫である人物とタイオンは知り合いで、むしろナミよりもその夫との繫がりの方が深いのだという。
真面目で堅物なタイオンが、既婚者であるナミに横恋慕するわけがない。
タイオン=ナミのことが好きという確立していた方程式が一瞬で崩れ果ててしまった。


「え、じゃ、じゃあ、あの店に通ってたのはナミに会うためじゃなかったわけ?」
「当たり前だろ。僕があの店に通っていたのは君に会いたかったからで……!」


口を滑らせた、という言葉はまさにこういうことを表すのだろう。
早口で零れ落ちた自らの言葉にフリーズするタイオン。
石のように身体を固くした彼の顔色は、どんどんゆでだこのように赤くなっていく。
やがて勢いよく顔を逸らし、頭を抱えながら“あ゛ぁ……”とザラついた声色で項垂れ始めた。


「こんな流れで言うつもりじゃなかったのに……」


耳まで赤くなっているタイオンの背中が、アタシに真実をもたらしてくれる。
どこか頼りなくて可愛いその背中を見ていると、胸がバクバクと高鳴り始めた。
まるで心の真ん中で小人が大きな太鼓を叩いているみたいだ。
大きな期待がじんわりと広がって、アタシを急かしている。
今捕まえておかないと、この照れ屋な眼鏡と次のステップに進む機会はしばらく訪れないぞ、と。
衝動の赴くままに、タイオンのジャケットの袖を摘まむと、彼の頼りない瞳と視線がかち合った。


「アタシも、タイオンに会うためにあの店に行ってた」
「え……?」
「アタシ、タイオンが好き」


タイオンの褐色の瞳に、アタシの顔が映り込んでいる。
ゆっくり見開かれるその瞳をまっすぐ見上げながら、心に秘めた甘く切ない気持ちを手渡した。
先に想いを伝えれば、きっと彼も打ち明けてくれると思ったから。


「だから教えて。タイオンの気持ち、全部知りたい」


唇をきゅっと紡いだ彼は相変わらず真っ赤な顔をしていて、スーツを着ているにも関わらずなんだか高校生のように初心だった。
やがて、真っ赤になった顔で正面から向き合うのが流石に恥ずかしくなったらしく、眼鏡を押し上げながら表情を隠す。
そして、声を震わせながら口を開いた。


「あ、歩きながらでいいか?長くなるから……」


頷くアタシの肩を両手で押し返し、物理的な距離を開けた彼は再びゆっくりと歩き出す。
隣に並ぶアタシをちらちら気にしながらタイオンは話し始めた。
 
そもそも彼があの店に通い始めた理由は、当初話していた通り酒に強くなるためだったらしい。
けれど一向に強くなる気配がないことに焦れ始め、週一で店に通うルーティーンももう終わりにしようかと思っていた頃、アタシと出会ったのだという。
 
アタシもあの店に毎週通い始めたことで、タイオンが店を訪れる理由は“酒に強くなるため”から“アタシに会うため”へとシフトしていった。
3か月かけてゆっくりゆっくり距離を縮めようとしていたタイオンだったが、1か月前の金曜日、人身事故ががあった夜、彼は少々大胆に動きすぎてしまった。
 
家に誘ってしまったうえ、同じベッドで眠ってしまった。
何とか手は出さなかったが、その翌週から明らかに避けられたことで大いに傷付いたのだという。
もしかしたら、家に誘った段階で不快に思われたのかもしれない。
同じベッドで寝たのはまずかったのかもしれない。
そもそも、それ以前に気に障るようなことを言ってしまったのかもしれない。
連絡も無視されるし、店に来る気配もない。以前のように駅でばったり会うこともない。
この状況に悲観し、先ほどまでナミ相手にやけ酒を煽っていたのだという。

そもそも酒自体飲めないのにやけ酒って……。
話に聞くタイオンの心境はあまりにも奥手で臆病だ。
家に泊ったあの日、変に遠慮しないで手を出してくれさえすればこんなすれ違いが起きることはなかったのに。
そう言うと、“そんな誠実さに欠けること出来るわけないだろ”と彼は吐き捨てた。

真面目な奴だ。真面目で誠実で堅物。
この性格が災いして遠回りしてしまったのは事実だが、そういうちょっと面倒くさいくらい真面目なタイオンが好きなんだ。


「タイオンってさ、とにかく優しい奴だよな」
「そうか?」
「だって、当時他人だったアタシにICカード貸すくらいだぜ?優しいだろそれは」
「……この際だから言っておくが、僕が誰彼構わず優しさを振りまいていると思ったら大間違いだぞ。あれも十分打算的な行動だ」
「打算的?」


少し先に駅の入り口が見えてきた。
既に日付が変わってしまっているこの時間は、終電まであと10分と迫っている。
急いで帰宅しようとするサラリーマンやOL、飲み会帰りの学生が足早に改札を通っていく中、タイオンはぴたりと足を止める。
突然立ち止まった彼に釣られるようにアタシも立ち止まると、先ほどまでの赤い顔をしたのが嘘のように真剣な表情を浮かべたタイオンがそこにいた。


「一目惚れした相手が深夜の駅で困った顔をしていたら、そりゃあ誰だって声をかけるだろ」
「え……」


1年前。新入社員として日々神経をすり減らしながら会社に通っていたタイオンは、自宅の最寄り駅で帰りにすれ違う女性にある日目を奪われた。
その女性は決まった曜日にいつも現れる。
改札を出る自分とすれ違う彼女は、改札を通ってホームへあがっていく。
恐らく職場がこの近くなのだろう。
週に何度かすれ違うだけのその女性に、タイオンはいつしか恋焦がれるようになった。
 
何度も声をかけようとしたが、気持ち悪がられたらどうしようという心配が勝って一歩踏み出せないままだったのだとか。
そんな日々が続いたある日、仕事から帰って夕食をそのあたりの店で済ませた帰り。
終電が迫った駅で困った顔をしながら項垂れているその女性を見つけた。
その“女性”というのが、アタシだったのだという。


「だから、僕は誠実でも何でもないんだ。君に声をかけたのも、その……。“あわよくば”を狙っただけで……」


気まずげに視線を逸らすタイオン。
彼の口から語られる真実は、軽率にアタシを喜ばせてしまう。
1年前から一目惚れしてた?
下心で声をかけた?
なにそれ。アタシの一方的な片想いだとばっかり思ってたのに、蓋を開けてみるとタイオンの片想いが途中で両想いになっただけの話だったってわけ?
そんなの、そんなの、嬉しいに決まってる。

何か言わなくちゃと口を開けたその瞬間だった。
駅構内に、最終電車の到来を知らせるアナウンスが流れ始める。
もう電車がホームに到着するらしい。
シンデレラが12時の鐘で帰らねばならなかったように、現代に生きるアタシにもタイムオーバーを知らせる鐘が存在する。
それこそが“終電”である。
あぁ、帰らなきゃ。帰れなくなる前に帰らなきゃ。


「ほら、もう終電の時間だ。行ったらどうだ」
「う、うん……」
「また来週、店に来てくれると嬉しい」
「……分かった」


まだ話は終わってない。
聞きたいこと、話したいこと、伝えたい気持ちはたくさんある。
でも、終電が迫っているのだから仕方ない。
 
タイオンに背を向け、アタシは改札に向かって歩き出す。
1歩、2歩、3歩。よたよたと改札に向かうアタシの心は、身体に反してタイオンのそばを離れたくないと叫んでいた。
 
この終電を逃したら帰れない。でも、帰りたくない。
そもそも、この状況で帰らなくちゃいけない理由ってなんだ?
すぐ後ろには好きな人がいる。
アタシに一目惚れしたと言ってくれている好きな人が。
こんなに都合のいい状況なのに、律儀に終電の時間を守るなんて馬鹿馬鹿しくないか?
タイオンは真面目な奴だけど、アタシはそんなに真面目じゃいられない。
好きな人を前に“待て”が出来るほど利口じゃないんだ。
帰りたくない。もっと一緒にいたい。好き、大好き。タイオンが好き。
この気持ちはもう止まらない。

終電なんか無視してアイツの胸に飛び込もうと振り返ったその瞬間。
目の前の視界が塞がれる。
腕を掴まれ、腰を引き寄せられ、唇に柔らかい感触が当たる。
タイオンにキスされているということを理解するまでに数秒かかってしまったのは、それがあまりにも衝撃的な行動だったから。
 
振り返り際に唇を押し付けてきた彼はいつも真面目で、こういう強引なことをするようなタイプじゃなかった。
だからかな。今、心臓が飛び出るんじゃないかってくらいバクバクしてる。
なんだよ、こういうカッコいいことも出来んじゃん。

タイオンのジャケットにしがみつき、ゆっくりと目を閉じる。
キスを受け入れた瞬間、タイオンの唇からファジーネーブルの甘さが伝わってきた。
この香りを嗅いでいると、頭の裏がピリピリする。
甘酸っぱいこの香りに溶けてしまいたい。

やがて、ホームの方から“発車いたします”というアナウンスと共に電車の扉が閉まる音が聞こえてきた。
“プシュー”という空気が漏れる音と共に、電車は走り去っていく。
アタシを乗せるはずだった本日最後の電車は、虚しく遠ざかる。
その音を耳にしながら、アタシたちはそっと唇を離した。


「あーあ。タイオンのせいで終電逃しちまったじゃん」
「すまない。つい……」
「いいよ。今夜も泊めてくれるんだろ?」


そう言って、タイオンの胸板に頬を寄せた。
彼の心臓はこれでもかというほど高鳴っていて、アタシの心臓と同じくらいうるさく騒いでいた。
その音を聞いて実感してしまう。あぁ、本当に同じ気持ちなんだな、と。
そして彼は、アタシの大好きな骨ばった褐色の手で頭を撫でてくる。
吐息交じりの深い声で、“もちろん”と答える彼の回答に安堵していたアタシだったけれど、次に言い放たれた言葉に心臓が止まりそうになった。


「でも、今夜は手を出すからな」


驚いて顔を上げると、また真っ赤に染まった顔がアタシを見下ろしていた。
なにそれ。台詞はカッコいいのに、言ってる本人は真っ赤になってるってアンバランスすぎるだろ。
あぁもう。やっぱり駄目だ。アタシ、タイオンのことが好きすぎて、なんでもかんでも可愛く見えてしまっている。
男前なこと言いながら顔赤くしているその顔も、ファジーネーブルなんて幼稚な酒を飲んでいるその横顔も、グラスを持っている骨ばった手も、風呂上がりで乱れているその癖毛も、眼鏡を外したときの素顔も、酔って眠そうにしている目も、何もかも好きなんだ。


「いいよ、タイオン」


ファジーネーブル1杯分しか飲んでいないのに、なんだかアタシも酔ってしまったらしい。
頭がくらくらする。もういいや。今夜は酒のせいにして、とことん甘えてやる。
ガラにもない甘え方して引かれたとしても、全部ファジーネーブルのせいにすればいい。
たった5%しかアルコールが含まれていない弱々しい酒に責任を擦り付けながら、アタシはタイオンの手に指を絡ませた。