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二次創作まとめ

【#41-50】ようこそウロボロスハウスへ

【ノアミオ/タイユニ/ランセナ】

ゼノブレイド3

■現パロ

■長編

 

act.41


川釣りを終えた頃、空は既に夕暮れ時を迎えていた。
車に乗り込んだ一行は、一路今夜宿泊する予定の温泉宿へ向かうことに。
運転手はランツから交代してタイオンが担った。
助手席はミオとノアに促される形でユーニが腰かける。
ハンドルを握るタイオンと、隣に腰かけるユーニの間にはぽつりぽつりと会話が生まれているが、そこまで盛り上がっているようには見えなかった。

対して一番後ろの席に腰を落ち着けたランツとセナは、それまでの気まずい空気が嘘のように軽やかなテンポで会話をしている。
川釣りでの体験が、2人の気まずさを遠くに追いやってしまったのだろう。

いつも通りに戻ってよかった。
後ろの席を盗み見つつ安堵するミオだったが、今度は前に座っているタイオンとユーニが気になり始めてくる。
この2人も傍目から見ればいつも通りだが、じっくり観察しているとほんの少しの違和感が浮き彫りになって来る。
以前までとは比べ物にならないほどユーニのことを気にしているタイオンと、そんなタイオンとの距離を測りかねているユーニ。
ほんの少しの違和感ではあったが、他人の変化に敏感であるミオがその小さな異変に気付かないはずがなかった。

この変化に関しては、ミオの恋人でもあるノアも気が付いていた。
旅行直前、ミオから“タイオンの気持ちに変化が表れ始めている”と聞いて以降、彼は注意深くタイオンを観察している。
確かにミオの言う通り、タイオンがユーニへちらりと視線を向ける回数が格段に増えたような気がする。

以前も彼はユーニを気にしているようではあったが、その頻度が以前までの比ではない。
分かりやすさに拍車がかかっているというか、あからさまにユーニの気を惹こうとしているのだ。
自分の気持ちを誤魔化し続けてきたタイオンにしては素直すぎるその態度に、ノアは少々驚いていた。
まさか本当にミオの言う通り、タイオンは自分の気持ちと折り合いをつけ始めたのだろうか、と。

そして同時に、ユーニの態度も妙に引っ掛かっていた。
これまでユーニは“タイオンに告白させる”と公言していた通り、自らタイオンを翻弄するかのような態度ばかり取っていた。
だが今は、その片鱗が全く見えない。
わざと気を持たせるような甘やかな態度も、曖昧な言葉も、必要以上の笑顔も見せていない。
避けているわけではない。だが、タイオンとの間に薄く透明な壁を作っているように見えた。
ユーニはユーニで何故あんな態度を取っているのだろう。
タイオンが好きなんじゃなかったのか?
幼馴染の突然の方針転換に、ノアの疑問は深まるばかりだった。

18時。
一行を乗せた車は目的の温泉宿に到着した。
地元で有名なその宿は、海外からも多く観光客が泊まりに来る所謂老舗の宿である。
車を宿のスタッフに任せ、荷物を持って暖簾をくぐると、女将らしき美しい妙齢の女性に深々と頭を下げられた。
“いらっしゃいませ”と出迎えてくれる大人たちを前に、一同は慌ただしく頭を下げる。

宿の予約をしたのはノアとミオだった。
2人が揃って受付でチェックインを済ませている間に、ランツとユーニはフロントの壁に設置されている館内案内図に目を通していた。
この温泉は露天風呂が有名で、源泉かけ流しの湯は疲労回復や美容にも効果があるらしい。
露天風呂は離れにあり、同じ敷地内にゲームセンターや卓球が出来る共有スペースが設けられているとのこと。
“男湯・女湯”の文字が並ぶ露天風呂の案内図を見上げながら、ユーニは胸を躍らせていた。


「アタシ風呂上りにアイス食いてぇ」
「馬鹿。風呂上りといえばコーヒー牛乳だろ」
「アタシはアイス派なんだよ!」


そんなやり取りをしているうちにチェックインは完了した。
女将に案内され、一同は4階の部屋へと向かう。
廊下の突き当り、並んでいる3つの部屋が予約している部屋だという。
“それではごゆっくり”と微笑みながら去っていく女将の背を見送ったタイオンは、すぐに予約を担当したノアとミオに問いかけた。


「3部屋も予約したのか?男子部屋と女子部屋の2つでよかったんじゃ」
「ポイントがたまってたから1部屋分ほとんど無料で予約出来たんだよ」
「せっかくなら少人数で広くお部屋使いたいじゃない?」
「はぁ……」


1部屋分のポイントがたまっていたというのは本当だが、それが3部屋予約した本当の理由とではない。
ノアとミオがわざわざ1部屋分多く予約したのは、ちょっとしたお節介からくる行動であった。
3部屋あるということは、2人1組でペアを組まなければならないということ。
どんな組み合わせを採用しても、必ず一組は男女のペアが生まれてしまう。
それこそがノアとミオの狙いだった。


「じゃあペアを決めなきゃね。どこか1部屋は男女のペアにならなくちゃいけないから……」
「普通にいつもの部屋割りでいいんじゃね?ノアとミオが一緒の部屋で、あとは男女別」
「それはだめ!」


ユーニの言葉に、ミオが激しく反対した。
既に交際しているノアとミオを同じ部屋に放り込むのは何の問題もないはず。
そう思って提案したユーニだったが、それではノアとミオの企みが実らない。
ミオだけでなく、ノアまでもが“いつも通りの組み合わせ”に反対しているようだった。


「せっかくの旅行なんだし、いつも通りじゃつまらないじゃない?」
「いや、そんなこともないと思うが……」
「どうだろう。ここは全部屋男女のペアで泊まるっていうのは」
「「「「はぁッ!?」」」」


ノアからのまさかの提案に、聞いていた4人の面々は一斉に素っ頓狂な声を挙げた。
浮かんでくる組み合わせといえば、ノアとミオ。ランツとセナ。タイオンとユーニの組み合わせしかない。
交際しているノアとミオはともかく、まだその域に達していない他二組が同じ部屋で眠るというのはいかがなものか。
当然、4人は素直に首を縦に振ろうとはしなかった。


「な、何故そうなる!?」
「お前さんたちは良くても俺らは巻き添えじゃねぇか」
「そ、そうだよミオちゃん。いくら何でも男女一緒の部屋っていうのは……」
「えー、みんな嫌なの?」


じとっとしたミオからの問いかけに、ランツ、セナ、タイオンは気まずげに視線を逸らしながら押し黙る。
淡い気持ちを抱いている相手がいる身としては、心から嫌だとは言えないのだ。
下心と葛藤する3人。だが、ユーニだけは考えるそぶりも見せずすぐに反論し始める。


「じゃあせめて1部屋だけにしねぇ?流石に全部屋男女一緒の部屋なのは常識的に考えてナシだろ。着替えとかも同じ部屋でやるわけだし、男部屋女部屋作っておいた方が都合いいだろ」
「それはまぁ、確かに……」


完全に男女一緒の部屋にしてしまうと、着替えの際かなり面倒になる。
一部屋だけ男女一緒の部屋にしておけば、そこに当たった2人は着替えの際だけ別の部屋に避難することが出来る。
ユーニの冷静沈着な提案に、ノアとミオも納得せざるを得なかった。


「じゃあ誰が男女一緒の部屋に入る?」
「そこはお前さんたちでいいだろ」
「さっきミオが言ってただろ?“いつも通りはつまらない”って。組み合わせは俺とミオ以外だ」


ノアとミオは、何としてもタイオンとユーニ、もしくはランツとセナを二人きりにさせたかった。
そのためには、自分たちは別の部屋で寝泊まりしなければならない。
恋人と離れ離れになるのは寂しいが、いつも家では一緒の部屋で眠っているのだ。
たまには遠慮するのもいいだろう。

羽織っていた上着の内ポケットから小さなメモを取り出したノアは、ページを切り取り半分にちぎる。
内一方の紙片の先端をペンで黒く塗りつぶすと、背中に隠してシャッフルし、二本の紙片を握っている手を差し出した。


「先端が黒く塗りつぶされてる方が男女一緒の部屋に入る。これでどう?」
「くじ引きってことね」
「そういうこと。ランツとタイオンに引いてもらって、当たった方がユーニかセナを選んで一緒の部屋に入る」
「なっ……」


ノアが定めたルールを聞いた瞬間、タイオンは焦りを滲ませ始めた。
もし自分があたりを引いてしまったら、ユーニかセナ、どちらかを自らの意思で誘わなくてはならない。

セナはランツのことが好きだと知っているし、ランツも既にセナに想いを伝えている。
両想いのこの2人を引き裂くように自分がセナを指名するわけにはいかない。
となると残るはユーニのみ。

選択肢があるように見えて、実質選べる道はただ一つだけ。
しかも自らの意思でユーニを同室に誘わなくてはならないなんてハードルが高すぎる。
だったらせめて、最初から組み合わせだけでも確定してもらっていた方が良かった。
下手に選択出来る余地を与えられると、そのチョイスに意味が生まれてしまう。
もしあたりを引いてしまったらどうしよう。
バクバクと高鳴る心を必死で押さえながら、タイオンはくじへと手を伸ばす。
反対側の紙片をつまんだランツと息を合わせて引き抜くと、目の前には真っ白なままの紙片が。


「あ、俺かよ」


どうやら当たりくじはランツが引いたようだ。
安堵する一方で、ほんの少しだけ落胆している自分がいる。
ふとユーニの方へ眼をやれば、彼女は当たりくじを引いたランツをすまし顔で見つめていた。
くじ如きで一喜一憂しているのは自分だけだったらしい。
なんだか虚しくなって、タイオンは摘まみ上げた紙片を握りつぶした。


「で、ランツはどっちを誘うんだ?」
「……分かり切ったこと聞くんじゃねぇよ」


揶揄うような笑みを浮かべつつ鍵を差し出して来るノア。
そんな彼から鍵を受け取ると、ランツは足元に置いてあったセナの荷物を持ち上げた。


「セナ、行くぞ」
「えっ、あ、う、うんっ!」


誰もが予想できた展開だったが、いざ目の前でラブコメ的な展開が繰り広げられると見ている方まで恥ずかしくなってくる。
これから始まるランツとセナの恋の行方に胸を躍らせながら、ミオは去っていくセナに小声で“頑張れっ”とエールを送った。
真っ赤な顔で頷くと、彼女はランツと共に一番手前の部屋へと入っていくのだった。

鍵を開け、中に入ると靴を脱ぐための玄関が広がっていた。
揃えて靴を脱ぎ、中扉の障子を開けると畳の広い部屋が顔を見せる。
脚の低い机に座布団が二つ置かれ、窓際には小さな机と椅子。
床の間には大き目のテレビが設置されている。
布団は恐らく押し入れの中に収納してあるのだろう。
窓の外には軽井沢の雄大な自然が広がっている。


「うわぁ、すっごい!」
「いい部屋だな。広いし景色もいい」
「ホントだね。ねぇ、窓の外出られるみたいだよ!」


荷物を畳の上に置くと、セナは跳ねるように窓際に近付いた。
大きな窓の外はベランダになっており、手すりのすぐ下には川が流れている。
山々に沈みゆく夕陽と、下から聞こえてくる渓流の水音が心を癒してくれる。
普段都会の喧騒の中で過ごしている身には、あまりにも現実離れした癒しの空間だった。


「うおー、すげぇな」
「ね!いい眺め……」


先にベランダに出たセナの後を追うように、ランツも窓の外へ出た。
手すりに身を預け遠くを見つめているセナの横顔は、真っ赤な夕日に照らされ儚げに輝いている。
あどけなさの陰に見え隠れするセナの色気に見とれてしまう。
彼女は大人っぽさや艶めかしさとは対照的な場所にいる人物だ。
だが、そんな彼女も不意に色気を滲ませる時があった。
いつもどこか幼く振舞っている彼女とのギャップに、ランツは毎度毎度心乱されている。
実のところ、この部屋で2人きりで寝泊まりとすると決定したその瞬間から、無様に動揺してしまっているのだ。


「なんか悪いな、俺と相部屋で」
「えっ?」
「俺と一緒じゃ心休まらねぇだろ。いろんな意味で」
「そ、そんなこと……!なくもないけど……」


ランツと2人きりで心休まるわけがなかった。
むしろ心臓は既に悲鳴を挙げている。
好きな人と、いやそもそも家族以外の異性と同じ部屋で眠るなどセナにとって初めての経験である。
平常心でいられるわけがない。
そんな彼女の様子を横目で見ていたランツは、ふっと柔らかく笑みを零すとベランダの手すりに背中を預けた。


「まぁ安心しな。いくら好きな奴相手だからって、寝込み襲ったりしねぇからよ」
「お、襲っ……」
「付き合ってるなら話は別だけどな」


そんな軽口を叩きながら、ランツはベランダから室内へと戻っていってしまった。
揶揄っているのか本気で言っているのかよく分からない。
けれど、目の前にいる男が自分に好意を寄せてくれていることは間違いない。
ここにきてセナは初めて、自分とランツがいい年をした異性同士だということに気が付いた。
手を伸ばせば届く距離で眠るのだ。
“そういうこと”になってもおかしくはない状況に、今自分は足を突っ込んでいる。
そう思うと、緊張でどうにかなってしまいそうだった。


***

ランツとセナの部屋のすぐ右隣の部屋は、ミオとユーニが使うこととなった。
同じ家に住んでいながらも、この2人の組み合わせで一緒の部屋になるのは初めてである。
広い部屋に目を輝かせているユーニの背を見つめながら、ミオは息を呑む。
こうしてユーニと二人きりになれる機会はそうそう巡ってこない。
この機に、聞きたいことがあった。


「ユーニ的には残念だったんじゃない?タイオンと同じ部屋になれなくて」


窓の外の景色を見つめているユーニへ、ミオはなるべく自然な形で話を振った。
荷解きをしながら問いかけてきたミオの言葉に、ユーニはほんの少しだけ答えを渋っている。
やがて薄く笑みを浮かべると、視線を窓の外に戻しつつ呟いた。


「別に?むしろ安心した。タイオンと一緒じゃなくて」
「えっ、どうして?好きじゃなかったの?」
「……やっぱりお前ら、ランツとセナだけじゃなくてアタシらまでくっつけようとしてただろ」
「うっ、バレた?」
「バレバレだっつーの」


ノアからは止められていたが、やはりタイオンとユーニのことも気になって仕方がなかった。
やたらとユーニに意識が引っ張られているタイオンと、そんなタイオンとの距離を微妙に開けているユーニ。
花火大会以降変わりつつある2人の関係性に、ミオは不安を覚えていた。
ランツとセナはもちろんだが、タイオンとユーニにも幸せになってもらいたい。
もし2人に何かしらの障害が発生したというのなら、出来る限り乗り越える力になりたいのだ。
例えお節介だったとしても。

だが、当のユーニはタイオンと部屋が別れて悲しむどころか安堵しているという。
こういう場合、好きな人と二人きりになりたいと思うのが普通ではないだろうか。
ユーニのように積極的な性格ならなおさらだ。
やはりユーニはタイオンとの距離を空けようとしている。
その真相を掴むべく、ミオは質問を投げかける。


「もしかして、タイオンのこと好きじゃなくなっちゃった?」
「いや?アタシの気持ちは変わってねぇよ。ただ向こうがな……」
「タイオン側の問題?」
「あいつ、ずっとアタシへの気持ちを自分で否定し続けてるみたいじゃん。そういう相手にアプローチし続けて何の意味があるんだろうなーって」
「ユーニ……」


タイオンは今の今まで、誰かにユーニへの気持ちを問いかけられるたび激しく否定し続けてきた。
恐らく、ユーニ本人に対してもわざと突き放すような言動を繰り返してきたのだろう。
照れ隠しと表現すれば可愛げが出るが、それをされ続ければどんなに好きな相手でも気持ちが萎えてしまうもの。
素直さに欠けるタイオンの態度が、ユーニの心に暗雲を呼んでいる。
その事実を前に、ミオは焦り始めた。

あぁもう。言わんこっちゃない。
タイオンがうだうだ“好きじゃない”を繰り返してきたせいで、ユーニの気持ちが沈み始めてしまっている。
このままじゃマズい。
タイオンが天邪鬼な態度を取り続ければ、ユーニはますますそっぽを向いてしまう。
彼がユーニに手を伸ばそうと決意した時にはもう、ユーニはタイオンへの興味を失っている可能性が出てきた。
むしろ今までこんなに素直じゃないタイオンに根気強く付き合っていた方が奇跡だったのだ。
早く何とかしないと。
焦るミオだったが、窓の外に浮かぶ悲し気な夕日を見つめるユーニの言葉が、その焦りに拍車をかけた。


「それに、今までタイオンに好かれてるって思い込んできたけど、もしかしたらアタシの気のせいだったかもしれないしな」
「えっ、どういうこと?」
「あいつ、他の女と映画デートしてたらしくてさ」
「はぇっ!?」


あまりに予想外な一言に、ミオはらしくないほど素っ頓狂な声を挙げた。
タイオンが他の女性と映画?
そんな馬鹿な。明らかにユーニのことが好きで好きで仕方ない様子なのに。


「あいつとランツの部屋にあるごみ箱に使用済みの映画のチケットが入っててさ。ランツは行ってねぇって言ってたし、たぶんタイオンだろうなって」
「で、でも、男の子と一緒に行ったのかもしれないし……!」
「“カップル割”で行ってたんだよ」
「あ……」


ゴミ箱に投げ込まれたチケットに印字してある“カップル割”の文字は、タイオンが異性と映画館に行った確固たる証拠である。
動かぬ証拠を手にしてしまったユーニを論破する術はない。
どうやらタイオンは本当にユーニ以外の女性と映画に行ったらしい。

先日リビングで展開された“どこからが浮気か”という議論が脳内で再現される。
ユーニはハッキリと言っていた。“二人で映画に行くのは浮気だ”と。
ユーニとタイオンはまだ交際には発展していない。当然今回の行為は浮気には当たらないのだが、異性と2人きりで観に行く映画は浮気だと断言したユーニにとってはかなりショックだろう。
今の話を聞いてようやく合点がいった。
ユーニは、他の女と映画館デートに出かけたタイオンに少しだけ怒っているのだ、と。


「別にさ、タイオンが誰とどこに行こうがアタシに口出しする権利なんてねぇよ。付き合ってもねぇわけだし。でもさ、普通好きな女いるのに他の奴と2人っきりで出かけたりする?しかも映画。アタシの記憶が正しければその日、アイツ結構帰り遅かったんだよ。絶対その足で飲みに行ったじゃん。そんなのさぁ、デートじゃん」
「う、うん……」
「アタシのことが好きならちゃんとアタシを誘えばいいじゃん。映画くらい着いて行ったのに。誘ってすらくれないってことはさ、やっぱ、全然そういう対象じゃないってことじゃね?」
「そ、そんなこと……」
「タイオンにとってはその映画デートの相手が本命なんじゃねぇの?アタシの言動にいちいち動揺しまくってたのはただ単に女慣れしてなかったってだけ。そう思うと、なんか今までの自分の行動が全部滑稽で虚しく思えてきてさぁ。なんかもう……」


ユーニの拳が、軽く窓を叩いた。
ドンッという鈍い音共に、項垂れるユーニは掠れた声で囁く。


「温泉入りたい……」
「よ、よし行こう!温泉入ってさっぱりしよう!嫌なこと忘れようよユーニ!」
「んー……」


脱力し、しおれているユーニの両肩を支えながらミオは強引に部屋を出ることにした。
普段のユーニは細かいことはあまり気にしないタイプだが、今回に関してはセナにも負けないくらいネガティブになっている。
それだけタイオンが他の女性と出かけた事実がショックだったのだろう。
ミオが今友人として出来ることは、ユーニの心を晴らすために話し相手になってやることだけ。
彼女が温泉に行きたいというのなら連れて行ってやろう。
そう意気込み、項垂れるユーニを連れて部屋を出ると、ちょうど隣の部屋からノアとタイオンが外に出てきた場面とかちあった。


「あれ。そっちも温泉?」
「あぁ。ちょうどよかった。ランツたちも誘ってみんなで露天行くかって話してたんだ」


どうやらノアたちも温泉に行くために部屋を出たらしい。
ここは温泉が売りの旅館だ。
折角なら入らなくては損だろう。
着替えを片手に部屋を施錠しているノアの横で、タイオンはミオに寄りかかるように項垂れているユーニの様子に首を傾げた。


「ユーニ、どうしたんだ?体調でも……」
「シャーーーっ!」
「えぇっ!?」


ユーニへと手を伸ばしたタイオンに、ミオの威嚇がさく裂する。
項垂れるユーニの身体を抱きしめながら、まるで“触るな”とでも言いたげな目で睨みつけてくるミオ。
何故そんな顔で睨まれているのか分からず、タイオンはただただ驚いていた。


「な、なんだ……?」
「タイオン、ミオの機嫌を損ねるようなことでもしたのか?」
「いや、覚えはないが……」


ユーニの背中を押しながらひたすらタイオンに敵意を向け続けているミオ。
分かりやすく威嚇している自分の彼女に苦笑いを零すノアだったが、隣に立ち尽くしているタイオンには全く身に覚えがないらしい。
ミオに寄りかかりながら前を歩くユーニの背中を見つめつつ、タイオンは彼女に近付けないジレンマを抱え始めていた。

 

act.42


6人が宿泊している温泉宿の自慢は、やはり源泉かけ流しの露天風呂だろう。
軽井沢の山々を一望できる素晴らしい景観と、滋養強壮や美容にも効果がある湯は、6人の身体を奥の奥まで癒してくれる。
男湯と女湯はヒノキの壁一枚で完全に仕切られているが、意外にも遮音性に優れているらしい。
壁越しに男湯と女湯で会話を楽しむことは出来そうにない。
だが、今回に至っては都合がいい。
女湯に浸かっているミオ、ユーニ、セナの3人は、自分たちの声が男湯の方へ聞こえていないことをしっかり確認したうえで作戦の進捗を確認し始めた。


「ではセナさん。ランツ撃墜大作戦の進捗を報告してください」
「は、はいミオちゃん。えっと、進捗は……。特にありません」
「やっぱりかよ」


視線を外し、気まずそうに答えるセナにユーニはため息を零した。
この旅行中、ミオやユーニらの協力の甲斐もありランツとセナが2人きりになる場面はそれなりに多かったはず。
しかしセナは未だランツに告白の返事が出来ていないらしい。

この状況に、当人であるセナはかなり焦っていた。
引っ張れば引っ張るほど言い出しにくくなる。
とはいえ、気軽に気持ちを口にできるほど恋愛慣れしているわけではない。
タイミングと自然な流れ、そしてセナの覚悟が揃ったその瞬間、ようやく返事が出来るというもの。
しかし、旅行1日目の夜に至っても、その3つが揃う瞬間は一向に訪れそうになかった。


「セナ、この夜が勝負だよ!せっかくお部屋で2人きりになれるんだから」
「う、うん。でも、大丈夫かな。ちゃんと言えるかな」
「大丈夫だよ!思ったことを素直に打ち明ければ、きっとランツも受け入れてくれるはずだって」


セナの顔が赤いのは、露天風呂に逆上せたわけではないのだろう。
これから来たる告白の瞬間を前に、緊張し赤面している。
そんな初心なセナを勇気付けようと、一つ年上のミオは懸命に励ましている。
その光景を横目に見ていたユーニだったが、彼女はミオほどセナを心配していなかった。

相手はよく知る幼馴染のランツ。
セナが行動を起こせなかったとしても、ランツが勢いで何とかしてくれるだろう。
なにせ彼は、花火大会で勢いに任せて告白だけでなくキスまでかましてしまったツワモノだ。
例えセナが赤い顔で石のように動かなくなったとしても、あのランツならその強引さで無理やりにでも前に進ませてくれるはず。
だが、強引で勢い任せなランツの本質を知っているからこそ、ユーニには別の心配事があった。


「まぁ、告白に関しては何とかなるんじゃね?両想いなことは確実なんだし。それよりアタシは、返事した先のことの方が心配だけどな」
「先のこと?」
「もしセナが上手く返事できれば2人は付き合うことになるわけだろ?付き合いたてホヤホヤの男女が一緒の部屋に泊まることになるんだぜ?」
「それが何か……?」


あろうことか、セナだけでなくミオまでもが意に介していないようでキョトンとしている。
恋愛初心者な2人は、この状況がどれだけ危険なのか分かっていない。
いや、ある意味では好都合なのかもしれないが、覚悟が決まっていない女からしてみれば危険なのだ。
だからこそ、セナには注意喚起しておかなければならない。
“そういうこと”になる可能性がある事実を。


「ランツのやつ、ちゃんとコンドーム持ってきてんのかな……」


ため息交じりに囁かれたユーニの言葉から3秒ほど時間を置いて、ようやく2人の乙女たちはその言葉の意味を理解し始める。
そして、ほぼ同時に顔を真っ赤に染め上げた。
ユーニの心配事とやらの正体に気付いた瞬間、セナの脳裏に先ほどランツから言われた言葉がよぎる。

“寝込み襲ったりしねぇからよ”

否定はしていたけれど、あの発言が出るということはそういうハプニングが起きたとしても一般的には違和感のない状況に置かれているということでもある。
自分が置かれている状況のマズさにようやく気が付いたセナは、他の入浴客の目もはばからず勢いよく湯船から立ち上がった。


「し、しししないよそんなこと!ランツだってそんなことしないって言ってたし!」
「それはまだ付き合ってないからだろ?彼女になったら問答無用で迫って来るかもしれないだろ」
「そ、そんなこと……!」


否定しようとした瞬間、またランツの言葉が脳裏をよぎる。

“付き合ってるなら話は別だけどな”

それはつまり、付き合った後はどうなっても知らないぞ(意訳)ということになるのでは?
マズい。非常にマズい。
知らないうちに、崖っぷちに立たされていたのかもしれない。
真っ赤な顔でゆっくりと再び腰を下ろし、呆然としているセナに、同じくらい顔を赤くさせたミオが詰め寄った。


「ご、ごめんねセナ。そんなことになるかもしれない可能性なんて全然考えてなくて……。言い出したのは私だし、も、もしそうなったら、私が持ってきたやつ1つあげるから……」


いや持ってきてんのかよ。
脳内で静かに突っ込むユーニだったが、そんな彼女が口を挟む隙もなくセナは激しく遠慮し始めた。


「い、いいいよそんなっ!だ、ダイジョブ、絶対そんなことにはならないから!た、たぶん……」


何処か煮え切らないセナの様子に、ユーニとミオは一層不安になった。
誰がどう見てもセナは押しに弱いタイプである。
そんな彼女が、誰がどう見ても押しが強いタイプであるランツに迫られたとしたら、十中八九流されてしまう。
ランツはそんな強引なことをするような男ではないと思いたいが、男女のこととなると人は変わるものだ。
絶対にしないとは断言できないだろう。
夜が明けたら、ランツとセナの関係性がガラリと変わっていたらどうしよう。
そんな一抹の不安を胸に抱えながらも、ミオとユーニは“きっと大丈夫なはず”と思い込むしかなかった。


***

盛り上がる女湯とは壁を隔てた隣の露天風呂では、男湯の暖簾をくぐったノア、ランツ、タイオンが湯船につかりながら星空を眺めていた。
広い露天風呂には彼らのほかにも数人の入浴客がいる。
どうやらこの温泉宿は前評判の通り相当人気らしく、客層も老若男女幅広い。
源泉かけ流しの広い露天の端で肩まで湯につかっていた彼ら3人は、旅の疲れや日頃の暑さを溶かすような湯の心地よさに深く息を吐いた。


はえ~、極楽だなおい」
「あぁ。人気なのも頷ける」
「たまにはいいな、こういうのも」


白濁した湯につかり、石畳で仕切られた縁に寄りかかりながら癒される3人。
女性陣3人にも言える事だが、こうして一緒に風呂に入り裸の付き合いをするのは初めてのことだった。
中でも一番ガタイのいいランツが、濡れた手で顔を擦りながら話題を投下する。


「にしても、なんか悪かったな。俺ばっかり得しちまってよォ」
「得?」
「部屋割だよ。いつも一緒の部屋で寝てるノアはともかく、タイオンはユーニと一緒の部屋になりたかったんじゃねぇの?」


1時間ほど前正式に決定した部屋割は公平なくじ引きで決まった。
ランツとしては好きな相手と一緒の部屋になれたこと自体棚から牡丹餅状態と言えるわけだが、一方で当たりくじを逃したタイオンのことも気にかけていた。

本人は何度も否定しているが、彼は明らかにユーニに気がある。
本心ではそれなりに期待していたはず。
彼の心境を探るため、ランツはニヤニヤと笑みを食みながら突っ込んだ。
恐らくはまた“そんなわけないだろ”と天邪鬼に否定されることだろう。
質問したランツだけでなく、端から聞いていたノアもそう予想していたのだが、質問を投げかけられた当のタイオンは意外な反応を見せた。


「……まぁ、仕方ないんじゃないか?くじ引きで決まったことだし」


その反応に、ノアとランツは顔を見合わせる。
いつもなら顔を真っ赤にしながら否定するはずなのに、今日は何故かやたらと素直だ。
否定することもなく、むしろ間接的にユーニと一緒の部屋になれなかった事実を残念がっているように見える。
口をあんぐり開けて驚いている2人の同居人の様子に気付いたタイオンは、ばつが悪そうにムッとしながら眉を潜めた。


「……何だその反応は」
「いや、なんというか。やたらと素直だなって」
「いつもならほら、“そんなことあるわけないだろ!”とか言いながら必死に否定するだろ?」
「……事実に反することを否定するのはもうやめた。無駄なことに労力を割くのは馬鹿馬鹿しい」
「じゃあつまり、タイオンはユーニのことを……」


石橋を渡るかの如く恐る恐る問いかけるノア。
もはや逃げることなど出来そうもない。
視線を逸らし、露天の縁に並べられた飾り石に肘をつきながら吐き捨てた。


「ハイハイ好きだ、好き!何か文句あるか!?」
「「おぉ~~!」」


ここにきてようやくユーニへの想いを自白したタイオンの姿に、2人の男たちはほぼ同時に拍手を贈った。
やはり天邪鬼なタイオンには想いを口にすること自体がハードルが高かったらしく、眼鏡を外した彼は口をぎゅっと噤みながら顔を赤らめている。
この旅行に出かける直前、ミオはタイオンの気持ちにちょっとした変化が訪れたのではないかと疑っていた。
その時は半信半疑だったが、どうやらミオの言う通りだったらしい。
今まで頑なにユーニへの気持ちを否定し続けていたタイオンが、こうもあっけなく好意を受け入れた。
これはまさに、彼の心境に変化が訪れたという確固たる証拠と言えるだろう。


「いやぁついに受け入れたかタイオン!俺は応援するぞ」
「……頼むから本人には言わないでくれよ?下手にバレて距離を取られるのだけは御免だ」
「言うわけないだろ?それで、告白はしないのか?」
「しない」
「なんで?」
「なんでって……」


ノアやランツはユーニの気持ちを把握している。
彼女もまたタイオンに好意があり、告白さえしてしまえば交際は秒読みだ。
だが、タイオン本人はこの幸せな事実に気付いていない。
黄昏るように空を仰ぎながら、彼はため息交じりに語り始める。


「ユーニはモテるだろ。そういう人には星の数ほどの選択肢がある。その選択肢の中から僕が選ばれる保証なんてない。せめてもう少し選ばれる確率を上げてから気持ちを伝えたい」
「確率を上げるって……?」
「要するに、ユーニに好かれる努力をしてから告るってことか?」
「まぁ、そういうことだ」


ユーニは手を延ばせばすぐに握り返してくれる状況にあるというのに、タイオンはどうやらかなりの遠回りをしようとしているらしい。
“ユーニもタイオンのことが好きなんだぞ”と教えることは簡単だが、第三者であるノアやランツがそれを伝えるのはデリカシーに欠けると言えるだろう。
これは本人たちの問題だ。必要以上に他人が介入すべきではない。

だが、タイオンの気持ちが固まった今、ミオの言う通り2人の関係が発展するように背中を押すことくらいは出来る。
ユーニの幼馴染として、そしてタイオンの友人として、相応しいことをしよう。
そう決意したノアは、腕を組みながら真剣な表情で口を開いた。


「なるほど。ユーニ篭絡大作戦か」


女性陣がしばしば実行している数々の作戦名を参考に命名したノアだったが、ランツとタイオンの心には響かなかったらしい。
“ダッセェな”というランツのあまりにもストレートな呟きに、ノアは密かに傷付くのだった。


***

「行くぜっ!ウルトラアルティメットストロングウルトラサーブだ!オラぁ!」
「うわっ、ちょっ」


卓球ラケットを片手に構えたランツが、長々しい技名と共にピンポン玉を弾く。
ウルトラを2回言った気がするが気のせいだろう。
素早いサーブは目にもとまらぬ速度で卓上を跳ね、対面で構えていたノアの脇を虚しく潜り抜けた。
呆気にとられるノアから1点を奪ったランツは、ガッツポーズを決めながら喜びを爆発させている。
その様子を主審として卓球台の脇から見ていたタイオンは、苦笑いを禁じ得なかった。

ランツは高校の頃から運動神経抜群だったらしく、部活で怪我を負うまでは柔道でオリンピックを目指せるほどの実力を持っていたのだという。
そんな彼は、柔道だけでなくスポーツ全般得意らしい。
卓球も例外ではなかったようで、先ほどから相手をしているノアが哀れに見えるほどの一方的な試合展開だった。
サーブの力強さはともかくネーミングセンスが最悪すぎるだろ。
そんなことを考えつつ、タイオンは“ランツのマッチポイントだ”と呟いた。

女性陣よりも一足早く露天風呂から上がった3人の男たちは、着慣れない浴衣に着替えて脱衣所を出ると、温泉施設内にある卓球に目を付けた。
“買った方がフルーツ牛乳を奢る”という条件の元始まったこの試合は、ランツの勝利に終わってしまいそうだ。
とはいえ、ノアもまだまだ諦めたわけではない。
どうせ戦うなら勝ちたい。たとえ相手が脳まで筋肉に浸食されているあのランツであっても。

マッチポイントを迎え、窮地に立たされたノアはラケット片手に考える。
あの強靭なマッチョを打ち倒す策を。
そして思いついた。真っ向勝負で勝てないのなら心を責めるしかない。
ここは心理戦だ。
ミオには決して見せられそうにない暗黒じみた笑みを浮かべると、ノアは早速サーブを放とうとしているランツに攻撃を仕掛ける。


「そういえばランツ、あれは持ってるのか?」
「あれ?」
「もしそういうことになってもちゃんと使うんだぞ?」
「だから何をだよ」
「俺に言わせる気か?」


遠回しな言い方を繰り返すノア。
そんな彼の言葉を理解できないランツは、眉間にしわを寄せながら首を傾げていた。
鈍さを発揮するランツの一方で、勘のいいタイオンは気付いてしまう。
ノアの言わんとしていることを。
そして、あえて遠回しな言い方を多用してきたノアに変わり、タイオンがストレートに言葉をぶつける。


「ゴムのことだろ」
「は、はぁ?なんだよそれ!」
「別名コンドーム」
「馬鹿!ゴムの意味を聞いてるんじゃねぇよ!」
「誰が馬鹿だ」


ノアやタイオンからもたらされた突然の話題に、案の定ランツは動揺していた。
心理攻撃は効いているらしい。
しめしめと笑みを浮かべながら“早くサーブを打て”と促すと、ランツはむっとした表情のまま再びラケットを構えた。


「持ってないなら俺の1つ分けようか?リスク管理は大事だぞ?」
「いらねぇよっ!」


ノアの提案を否定しつつ、ランツはようやくサーブを放つ。
カコンという小気味よい音と共にピンポン玉は跳ね上がるが、やはり先ほどよりも勢いがない。
例のウルトラなんとかサーブを打つほどの余裕はないのだろう。
動揺がぬぐえないランツに、ノアの心理攻撃は続く。


「えっ、まさか避妊もせずにするつもりか?それは流石にどうかと思うぞ?」
「ちげーよ!つかなんでする前提で話してんだ!」
「だって大学入学当初から好きだったんだろ?そんな相手と一緒に部屋で一夜を明かせるなんて何も期待しない方がおかしいだろ」
「いやそれは……」
「隙ありっ!」
「うおっ!」


ランツの注意が散漫になったその瞬間をノアは見逃さなかった。
鋭く決まったスマッシュは、ランツのラケットをすり抜けていく。
見事に1点取り返したノアは、随分と嬉しそうに“よしよし!”と喜んでいる。
そんなノアを横目に見つめながら、タイオンは呆れた表情を浮かべていた。

わざと動揺を誘ったのか。なんて卑怯な……。
一方のランツは悔しがりながらも深いため息をつき、卓球台に両手を突きながら項垂れていた。
やはり、セナと同じ部屋になるという事実に思うところがないわけではないのだろう。
まだほんの少し水気を含んだ髪を乱しながら、ランツはつぶやく。


「……変な誤解生まねぇように先に言っとくけどよ、絶対しねぇからな」
「随分と言い切るんだな。何があってもか?」
「当たり前だっつーの。そもそも俺はあいつの気持ちが整うまで待つつもりだったのに、勢いに任せて告っちまったんだ。その時点で十分困らせてるのに、この上襲うなんて出来るわけねぇだろ」
「それはそうか。他の誰かならともかく、相手はあのセナだしな」


ノアの言葉に素直に頷くランツ。
彼はセナという女性の心の内を嫌というほどわかっていた。
好かれているのは間違いないが、彼女は必要以上に自分を卑下するきらいがある。
遠慮深く、ネガティブな彼女をその気にさせるには、強引さだけではだめだ。
慎重に距離を詰め、彼女の心が定まるその時まで根気強く待つ必要がある。
告白は勢いに任せてしてしまったが、それ以上のことは流石に勢い任せにするわけにはいかないのだ。

ランツの決意に、同じ男としてノアやタイオンは感心していた。
相手も自分を好きだと分かっている状態で、据え膳を我慢できるのは立派なことだ。
簡単なようで、誰もが出来ることではない。
幼馴染の男らしい決意を前に、ノアはラケットを卓上に置いたまま駆け寄りランツの肩に手を添えた。


「流石だランツ。据え膳食わぬは男の恥なんて言うけど、据え膳に手をつけず我慢できる男はそういない。尊敬するよ」
「据え膳を1年も我慢していた君が言うのか……」


目を輝かせ、友を称賛するノアの背に、タイオンからの鋭いツッコミがが入った。
交際していた上に同じ布団で毎日眠っていたミオに手を出さなかったノアが“凄い!”とランツを称賛したところで、正直説得力はなかった。


「まぁ、付き合ってたら話は別だけどな」
「えっ」
「えっ」


最後に付け加えられたランツの満面の笑みから繰り出された言葉に、ノアとタイオンの笑顔が引きつる。
“付き合っていたら話は別”
それはまるで、付き合ったら据え膳を我慢する気はないと言っているかのようだった。


「も、もしも付き合ってたら、するのか?」
「当たり前だろ?むしろ我慢する理由なんてないだろ」
「そ、そうだよな、ははは……」


さも当然のことのように答えたランツの様子に、2人の男たちは確信する。
これは冗談などではない、と。
2人は知っていた。セナがこの旅行中にランツに告白の返事をしようとしていることを。
もし今夜中にセナが返事をして、晴れて2人が付き合った暁には、ランツがセナという据え膳を前に我慢する理由は消え失せる。
それはつまり、今宵セナの貞操が危うくなるという事実でもあった。
これはやはりゴムを持たせておいた方がいいかもしれない。
そう判断したノアは、その後こっそりランツに自分の手荷物に準備していた一封の小袋を押し付けるのだった。

 

act.43


男性陣に遅れること20分後。
宿の浴衣に身を包んだ女性陣が女湯の暖簾をくぐりようやく合流した。
彼女たちの浴衣姿は花火大会で既に目にしているが、風呂上がりの無防備な姿に着流しを着用している今の姿は色気が増しているように思える。
各々の意中の相手の浴衣姿に胸を高鳴らせつつ、男性陣は女性陣を連れ大広間へと向かった。

大広間には人数分のお膳が並べられており、宿の従業員たちが夕食の用意を始めている。
並んでいたのは地元で採れた野菜や魚を使った懐石料理。
普段なかなか食べる事のない豪勢な料理を前に、一同は色めき立った。
男性陣はこの宿自慢の1つだという焼酎を、ユーニはビールを、ミオはレモンサワーを、そして下戸であるセナはソフトドリンクの麦茶を注文し、それぞれコップや杯にお酌していく。
全員の飲み物が行き渡ったところで、一行を代表してノアが乾杯の音頭を取ることとなった。


「えーっと、それじゃあ、楽しい旅行に乾杯っ!」
「「「かんぱーい!」」」


それぞれのグラスを片手に持ち上げ、一同は乾杯する。
焼酎は宿が自慢として推しだしているだけあって癖も少なく、非常に美味い。
並べられた色とりどりの懐石料理に関しても、どれもこれも上品な味わいで自然と箸が進んでしまう。
美味い酒、美味い料理に、一同の気分は高揚する。
ノアもまた、鯛のお造りに舌鼓を打っていたのだが、盛り上がる一同をぼんやり眺めながら頭では全く別のことを考えていた。

ゼオンから依頼されていた、学祭のバンドの代役の件、どう返事をしたものか。
数日前から悩んでいたことだったが、結局誰にも相談することなく今日まで引きずってしまっていた。
せめて自分と同じく音楽に精通しているミオにくらいは相談しようと思っていたのだが、なんだかんだと機会を逃し続けている。
いつ相談しよう。出来ればミオと2人きりになりたかったが、部屋も分かれてしまったしこの旅行中に話すのは難しいかもしれない。
そんなことを考えていると、隣の座布団に座っていたミオがじりじりと距離を詰め、何やら耳打ちをし始めた。


「ねぇノア。ユーニの話し聞いた?」
「ん?ユーニ?」
「なんかね、タイオンの部屋で使用済みの映画のチケット見つけたんだって。しかもカップル割って印字してあったらしくて」
「えっ、本当に?」


ミオからこそっと囁かれた事実に、ノアは思わずタイオンの方へと目を向けた。
彼は隣に座っているユーニに甲斐甲斐しくお酌をしている。
が、何故かユーニはそこまで嬉しそうにしていない。
一応いつも通り接しているようには見えるが、浮かべた笑顔が少しぎこちないように見える。
あのぎこちなさは、タイオンの部屋で見つけてしまった映画のチケットが原因なのだろう。
だがおかしい。ノアは先ほど、男湯でタイオンの気持ちを聞いたばかりである。
彼の言葉が本当なら、タイオンは間違いなくユーニに気があるはずだ。


「タイオンがユーニ以外の誰かと付き合ってたり、片想いしてるって話し聞いてたりする?」
「いや。むしろさっき、真逆のこと言ってたんだ」
「真逆?」
「タイオンのやつ、とうとう認めたんだよ。ユーニのことが好きだって」
「えぇっ!?!?」


ミオの声は、大広間全体に木霊するほどのボリュームだった。
突然大声を挙げたミオに、他の4人の友人たちは会話を止め、不思議そうに彼女へと視線を向ける。


「ミオちゃん、どうかした?」
「う、ううん、なんでもないの!あはは……」


下手な誤魔化しと共に苦笑を浮かべたミオは、ノアの腕に自分の腕を絡めながら強引に後ろを向かせた。
会話を聞かれるわけにはいかない。
友人たちに背を向けたミオとノアは、さらに顔をぐっと近づけて小声の会議を続行する。


「み、認めたって、本当に?」
「あぁ。ミオの言う通りだったよ。たぶん花火大会で何かあったんだろうな」
「でも、そうだとして何で他の女の子と映画なんか……」
「タイオンの中でユーニへの気持ちに整理がつく前の出来事だったんじゃないか?それまでは必死に否定してたしな」
「そっか。それをユーニが知っちゃったわけか。すれ違いが起きちゃってるみたいね……」


花火大会以前のタイオンは、誰が聞こうとユーニへの気持ちを完全に否定していた。
彼自身、ユーニへの恋愛感情など存在しないと自分に言い聞かせていたはずだ。
ユーニへの気持ちを自認していない以上、他の女性とデートをしていたとしても不思議ではない。
映画デートの後にユーニを好きだと自認したのだろうが、ユーニから見ればタイオンの気持ちが切り替わったタイミングなど分かるわけもない。
自分に気があると思っていた相手が他の女とよろしくやっていた。実は全部自分の勘違いだったのかもしれない。そう思っても仕方がないのだ。


「どうしよう。ユーニに言ったほうがいいかな、タイオンの気持ち。それともタイオンに言うべきかな。ユーニが映画館デートのこと知って傷付いてるって」
「いや。今俺たちが動いても余計事態をこじらせるだけだ。ここは2人がちゃんとお互いの気持ちを話せるチャンスを与えるべきだな」
「お互いの気持ちを話せるチャンス、か……。ランツとセナのこともあるし、同時進行できるかな」
「やるしかない。多少強引にでもそういう機会を作れればいいけど……」


ノアとミオは2つのミッションを抱えていた。
1つは当初からの課題であった、セナにランツへ告白の返事をさせる事。
これはセナ自身が既にやる気になっている以上、2人きりにさせることが出来れば簡単に遂行できるだろう。
彼らは今夜、同じ部屋で眠る予定だ。深夜になれば自然と同じ部屋に2人きりの状況を作ることが出来、ミッションは無事達成するはず。

だが問題は、つい先ほど発生した2つ目のミッションにあった。
ユーニの誤解をタイオン自身に解かせるというものである。
ノアやミオが強引に介入し誤解を解くことも可能だが、対応を誤れば一層こじれる可能性がある。
いちばん手っ取り早い解決方法は、どちらかが相手に想いを伝えることにある。
両想いであることは間違いないため、片方が気持ちを吐露すればあとはとんとん拍子に解決することだろう。

だが、言うは易く行うは難しというやつだ。
この二人に関してはどちらも告白する意思を持っていないためそこまで促すのは至難の業である。
さてどうしたものかと悩むノアだったが、すぐ隣にいるミオは何かをひらめいたように顔を挙げた。


「仕方ないわね。ちょっと強引で運任せだけど、私にいい考えがある」


至極真剣な表情でそう呟くミオ。
策士の顔をしているこの恋人に、ノアは不安を募らせた。
彼女は色恋事となると何故かIQがハチャメチャに下がる傾向にある。
なんだか嫌な予感がする。
その予感は、約1時間後に的中することとなった。


***

「デスパレートババ抜き開始ーーーっ!」


トランプのケースを片手に高らかに宣言し始めたミオに、ノアは空いた口が塞がらなかった。
それは他の面々も同じだったようで、皆一様にぽかんとした表情ミオを見つめている。

夕食が終わってすぐ、一同はランツとセナの部屋に集合した。
時刻は20時。眠るにはまだ早い時間帯だったため、深夜までみんなで過ごそうという流れになったのだ。
そこでミオは、手荷物から持参していたトランプを取り出し聞き慣れない単語を口にした。
“デスパレートババ抜き”
そのあまりにも治安が悪そうな響きに、ノアは不安を覚えてしまう。
数秒の痛い沈黙の後、セナが“なにそれ…?”と恐る恐る問いかけたことで、ミオはよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの勢いで解説を開始する。


「みんなババ抜きって知ってる?」
「誰でも知ってると思うが」
「ジョーカーを最後まで持ってた人が負けっていうゲームなんだけど」
「だから知ってるって」
「負けた人は拳銃で自らの頭を撃ち抜かなくちゃいけないの」
「えっ、こわい!」
「主にロシアで行われていたゲームよ」
「そうなんだぁ。ミオちゃん物知りだね!」
「絶対嘘だから信じない方がいいぞ、セナ」


タイオンのツッコミが何度も炸裂しているが、純粋無垢なセナはミオの嘘八百を全て信じ込んでしまっている。
急に何を言い出したかと思えば何故急にババ抜きなんだ?
恋人の奇行に、ノアは内心首を傾げていた。
だが、ミオの企みは次の言葉ですぐに露見することになる。


「流石に楽しい旅行中に死人が出るのは憚られるので、ここはルールを変えようと思います!」
「というと?」
「負けた人はベランダに出て外に向かって好きな人の名前を叫ぶ」


ミオの提示した新ルールを聞いた途端、その場にいた全員が息を呑んだ。
それすなわち、公開告白の提案である。
ここに至って、ノアはようやくミオの考えを理解できた。
もしもランツが負ければ再びセナに告白する羽目になり、セナの返事を促す空気が生まれる。
逆にセナが負ければ、ランツへの返事をする機会を作り出すことが出来る。
タイオンやユーニが負けても同じこと。強制的に告白する機会を作り出し、2人の間に生じた誤解を打ち砕きつつ仲を進展させることが可能だ。

すごいぞミオ。なんて強引でデリカシーのない作戦なんだ。
一つ年上の彼女が提示したドS極まりないその罰ゲームは、当然容易に受け入れられるものではない。
特にタイオンとセナに関しては、羞恥心からか激しい反発があった。


「じょ、冗談じゃない!なんでそんなことしなくちゃならない!?」
「そ、そうだよ……!好きな人を叫ぶなんて……」
「俺は別に構わねぇけど?」


だが、意外なところからミオへの援護射撃が放たれた。ランツである。
“要するに勝てばいいんだろ?”と言い放つ彼は、このデスパレートババ抜きに意外にも乗り気らしい。
というのも、彼は既にセナへの告白を済ませている身であるため、今さら公開告白の罰ゲームに当たったとしても失うものなどないのだ。
むしろ、セナに当たれば例の告白の返事が聞けるかもしれない。
このふざけたババ抜きによる罰ゲームは、ランツにとって都合がいいものだった。


「アタシも構わねぇよ。そういう罰ゲームがあったほうが盛り上がるだろうしな」


更に、ユーニまでもがミオの援護射撃を開始した。
ミオからトランプのケースを受け取り一同に配り始める彼女もまた、この罰ゲームにちょっとした魅力を感じていた。
タイオンの気持ちがイマイチ分からなくなった今、もしも彼が罰ゲームを受ける羽目になったら何もかも分かるかもしれない。
彼の口から自分の名前が飛び出してくれば吉。その場で返事をして付き合ってしまえばいい。
自分以外の名前が飛び出したら凶。自分の一方的な勘違いだったと反省し、潔くタイオンを諦めればいい。

もし自分が罰ゲームに当たってしまったら、その時はもう腹をくくるしかない。
正直にタイオンの名前を叫んでしまおう。フラれるかもしれないが、その時はその時だ。
この状況にあって、ユーニは半ばやけくそ気味になっていた。
タイオンが他の女に入れ込んでいるかもしれないという事実はユーニの気分を沈ませ、諦めの色を濃くしていく。
もうこうなったら何もかもハッキリさせたい。両想いなら付き合う。片想いなら諦める。道はどちらか一方だ。
この罰ゲームがその道を決めるいい機会かもしれない。そんなことを考えてしまっていた。


「そ、そんなぁ……」
「本気か二人とも」
「本気だって。まぁ嫌なら見てればいいんじゃね?」
「だな。その代わり、俺やユーニが罰ゲームに当たってもお前ら二人は聞こえないように部屋の外出てろよ?」
「えっ、な、なんで!?」
「当たり前じゃん。参加せざる者聞くべからずってな」


罰ゲームの結果を聞けないのは、セナやタイオンにとって非常に都合が悪かった。
意中の相手が誰の名前を叫ぶのかきちんと聞き届けたい。
その気持ちが、2人の背中を激しく押した。


「……わかった。僕も参加する」
「私も。自分だけ聞けないのは嫌だし」
「よし!じゃあ決まりね!早速始めましょ!」


セナとタイオンの参加が決定し、これで役者は揃った。
全員に手札が渡り切ったところで、ミオが提案したデスパレートババ抜きが満を持して幕を開ける。
隣に座っている相手の手札からカードを引き抜き、1枚のジョーカーが残るまで緊迫した空気は続く。
隣り合って座っていたノアとミオは、罰ゲームを他の4人のうち誰かに受けさせるため何としても早く抜けなくてはならない。
互いに目配せしあってジョーカーを避ける2人は、当然のごく八百長をしていた。
自然な流れで2人は1番、2番手にあがる。

残る4人の間で熾烈なバトルが繰り広げられる。
そして、3番手にあがったのはランツだった。
僅差で4番手に挙がったのはタイオン。
なんとか手札をすべて消化し、公開告白を免れたタイオンは小さくガッツポーズを取りながら歓喜する。
一方で、タイオンが挙がってしまったことにミオは内心舌打ちを決め込んでいた。

残ったのはセナとユーニ。
2人のうちどちらが負けても、ノアとミオが抱えているミッションは大きく進展する。
セナの手札は1枚。ユーニの手札は2枚。うち1枚はジョーカーである。
このターン、セナがジョーカーを引けばユーニの勝ち。
ジョーカー以外を引き当てればセナの勝ちである。

先にあがったランツとタイオンは、この世紀の対決を固唾を飲んで見守っていた。
セナからの返事を期待するランツと、ユーニが誰の名前を叫ぶのか気にしているタイオン。
期待と不安が混じり合う男たちの視線を浴びながら、セナは手を伸ばす。

右か、左か。迷うセナの手は震えていた。
正直、絶対に負けたくない。告白の返事をするにしても、流石にみんなの前で叫ぶなんて恥ずかしすぎる。
せめてランツと2人きりになったタイミングで、ちゃんと覚悟を決めて打ち明けたい。
そう考えていたセナの指先が右のカードに触れそうになった、その時だった。
対峙しているユーニが、セナへと目配せし始める。
左だ。左を取れ。そう言っているように見えるユーニの視線に、セナは驚きそして戸惑った。

セナが罰ゲームに怯えていたことを、ユーニは何となく察していた。
きっと彼女なりに返事をするタイミングを図っているのだろう。
少なくともそれは今じゃない。
ならばこそ、ここは代わってやった方がいいかもしれない。
セナとランツの恋路を応援しているユーニだからこその自己犠牲の精神だった。

そんなユーニの視線を、セナは素直に信頼することにした。
彼女の指は右から左へと移動し、そのままカードを引き抜く。
獲得したのはスペードのエース。セナがもともと持っていたのはハートのエース。
ジョーカーはユーニの手に残り、デスパレートババ抜きはユーニの敗北という形で幕を閉じた。


「アタシの負けかぁ。あーあ」
「ユーニ、もしかして気を遣ってくれた……?」
「なんのことだよ。さて、んじゃあ罰ゲームだな」


手元に残ったジョーカーを投げ捨てると、ユーニは立ち上がる。
やけに潔い彼女の態度に、ランツやセナ、ノアは勿論、提案した本人であるミオさえも驚いていた。
そんなに軽いノリで言ってしまっていいのだろうか。
早速ベランダに出ようとするユーニに、いちばん焦っていたのはタイオンだった。
彼女が誰の名前を叫ぶつもりなのかは気になる。だが、聞くのが怖い。
自分の名前が呼ばれる可能性など1ミリも考えていないタイオンは、失恋するその瞬間が目の前に迫っているような気がして怖気づいていた。


「ちょ、ちょっと待った!流石に人前で好きな人の名前を叫ぶなんて酷じゃないか?ユーニだって嫌だろ」
「別にいいって言ってんじゃん」
「というか、そもそも好きな人なんているのか?いないなら叫ぶ意味なんて……」
「いるけど」
「えっ……」
「いるよ、好きな人」


短く言い放たれたユーニの言葉に、タイオンは思考を停止させた。
ユーニに好きな人がいる。
その相手が自分だという可能性を考えていなかったタイオンにとって、その事実は実に残酷だった。

言葉を失い、表情を硬くさせるタイオンを横目に、ユーニは窓際に歩み寄る。
締め切られたカーテンに彼女が手をかけた瞬間、タイオンは再び口を開こうとした。
やはり聞きたくない。ユーニの好きな人なんて。

心で駄々をこねている自分が、ユーニを引き留めるために背中を蹴り上げる。
だが、彼がユーニを呼び止めるよりも早く、ユーニは窓のカーテンを開け放っていた。
シャッと勢いよくカーテンが開け放たれたと同時に、ユーニの“あっ”という声が聞こえて来る。
窓の外を見て見ると、激しい雨が打ち付けていた。


「雨降ってんじゃん」
「嘘。昼間は晴れてたのに?」
ゲリラ豪雨かもな。1時間くらいしたらあがるだろ」


夏場のこの季節は天気が崩れやすい。
恐らく週に1度程度のペースで降っているゲリラ豪雨の類だろう。
ランツとセナの言葉の通り、天気予報では1時間後にあがる予定だった。
窓に打ち付ける激しい雨を見つめていたユーニだったが、立ち上がったタイオンがそんな彼女の脇から手を伸ばしカーテンを強引に閉める。
そして彼女の肩を押して半ば無理矢理座らせると、眼鏡を押し上げながらその横に腰掛けた。


「外は雨なんだ。もう罰ゲームはなしでいいだろ」
「そうだな。ミオもそれでいいか?」


ユーニの隣に腰掛けていたノアが、反対側に座っているミオに問いかけたその時だった。
外から激しい雷鳴が聞こえてきたとほぼ同時に、部屋の明かりがぷつんと消える。
一瞬のうちに真っ暗になったことで、ユーニとセナが驚き“ぎゃあ!”と悲鳴を挙げた。
恐らく雷による停電だろう。


「お、おいなんだ急に!」
「停電だな」
「恐らくすぐ復旧するだろ。待っていればそのうち……」


タイオンが言い切る前に、部屋の電気はすぐに点灯した。
1分と経たず復旧するとは、宿の従業員は仕事が早いらしい。
早急の復旧に安堵したタイオンは、無意識にすぐ隣のユーニへと視線を向ける。
だがその瞬間、視界に飛び込んできた光景に息を詰めた。
ユーニが、隣に座っているノアの腕に自分の腕を絡めて抱き着いているのだ。


「ゆ、ユーニ、なにしてる!?」
「えっ、あぁ、なんか咄嗟に……。悪いな、ノア」


ユーニは昔からその性格に反し怖がりな性格だった。
突然の停電に驚き、咄嗟に左隣に座っていたノアにしがみついてしまったのだろう。
謝るユーニに、ノアは涼しい顔で“気にしなくていいって”と微笑んでいた。
幼馴染とはいえ、交際相手がいる男に抱き着くのは流石にマズかったか。
罪悪感を抱いたユーニは、ノアのさらに隣にいるはずのミオへと視線を向けた。


「ミオ、ごめんな。って、あれ?」


謝罪の言葉を口にしながら、ユーニは目を丸くする。
先ほどまで元気にはしゃいでいたミオが、いつの間にかノアの肩に寄りかかりながら眠っていた。
比較的酒が弱いミオにしてはそれなりの量を飲んでいたようだし、きっと酔ってしまったのだろう。
規則正しい寝息を立てているミオへと全員の視線が集中する。


「ミオちゃん、いつのまにか寝ちゃってるね」
「一番テンション高かったのにな」


瞼を閉じているミオの様子に、ユーニは密かに安堵していた。
ミオなら許してくれるだろうが、ノアに抱き着いてしまった手前少々ばつが悪かった。
見られていないのならラッキーだ。

内心ほっとしているユーニだったが、彼女は未だにノアの腕に自らの腕を絡めたままである事実をすっかり忘れていた。
そんな彼女の腕を強引に引き寄せ、無理矢理ノアから引きはがした男がいた。タイオンである。
突然彼に腕を引き寄せられたユーニはノアから離れ、目を丸くしながらタイオンを見つめる。
そんな彼女の目に映るタイオンの表情は、どこか不機嫌な色を浮かべていた。


「飲み物を買いに行こう。ユーニ、付き合ってくれ」
「え?今?てかなんでアタシ?」
「ババ抜きで負けたのに罰ゲームを免れただろ。罰ゲームの代わりだと思ってくれ」
「えー、なんだよソレぇ」
「いいから。ほら行こう。早く」
「ちょ、そんな引っ張んなって!」


面倒くさがるユーニに構うことなく、タイオンは強引に彼女の腕を引っ張って連れ出した。
そんな彼に半ば引きずられながら、ユーニは渋々立ち上がる。
部屋から出て行った2人を見送るのは、残されたランツとセナ。そしてミオに寄りかかられているノア。
3人はタイオンとユーニが出て行った部屋の扉を呆然としながら見つめていた。
そしてしばらくの沈黙の後、ランツが口を開く。


「……なんかタイオンのやつ、最近やたらと積極的じゃね?」
「確かにね。何かあったのかな?」


揃って首を傾げている2人に対し、ノアは少し安心していた。
経緯はどうあれ、タイオンとユーニを2人きりにすることには成功したらしい。
あとはランツとセナだけ。
だが、ここに関してはもう簡単だ。
ここは元々この二人に割り当てられた部屋である。
自分がミオを連れてこの場を去れば、2人きりにすることは容易である。


「さて、俺ももう行こうかな」
「は?もう部屋戻るのかよ」
「あぁ。ミオも寝ちゃったみたいだしな」


眠っているミオをそっと支えながら、ノアは彼女を背負った。
力なく寄りかかって来る彼女の温もりを背中に感じながらゆっくり立ち上がると、ノアは座ったままのセナへと視線を向ける。
そして、柔らかく微笑みながら囁いた。


「頑張れよ」


その一言に含まれた意味を、セナはすぐに察してしまう。
そしてすぐに赤くなる。
ノアは、自分がランツに返事をしやすくするために気を遣ってくれているのだ。
その事実を咀嚼し、セナの緊張は一層高まった。
ミオを背負ったノアはあっという間に部屋を出て行ってしまい、先ほどまでにぎやかだったはずの一室は静まり返る。
2人きりになってしまったこの部屋で、ランツとセナは自然と顔を見合わせた。
そして、すぐに真っ赤になったセナが視線を外す。
この妙に甘酸っぱい空気に、ランツは乱暴に頭を掻きむしる。
そして察するのだった。これは友人たちのお節介によって生み出された状況なのではないか、と。


***

スマホをかざしてボタンを押すと、“ガコン”と派手な音を立ててお茶のボトルが落ちてきた。
しゃがみ込み、自販機の取り出し口に手を突っ込んでボトルを取り出したタイオンだったが、そんな彼の横でユーニは未だ何を買うか迷っていた。

この広い温泉宿で自販機が設置してある場所は1Fのロビーのみ。
部屋からユーニを連れ出し、階段を降りてこのロビーまでやって来たはいいものの、2人きりになれたこの状況をタイオンはうまく活かしきれていなかった。
ユーニとこうして一緒に過ごせる時間は貴重だ。
なるべくいい雰囲気に持っていきたいが、どうすればいいか分からない。
何より、つい数十分前に判明した“ユーニには好きな人がいる”という事実が彼を一層臆病にさせていた。

ユーニに彼氏がいないことは確認済みだ。だが、好きな人の有無は気にしていなかった。
一体誰だろう。彼女は男友達が多い。候補になり得る人物が多すぎて絞り込めないのだ。
彼女の想い人の正体を知りたい。だが、知るのが怖い。
その正体をハッキリ聞き出してしまったら、本格的に希望がない事実を思い知ってしまうだろうから。

そうこうしているうちに、ユーニはタイオンと同じお茶のボタンを押して購入を済ませた。
取り出し口に落ちてきたおそろいのお茶を手に取ると、早速ボトルを開けて一口飲む。
“飲み物を買いに行く”という大義名分が果たされた今、これ以上ここに留まる理由はなくなってしまった。


「飲み物も買えたし、そろそろ戻るか」
「そうだな……」


部屋に戻ったら、ユーニと2人きりのこの時間は終わってしまう。
正直って惜しかった。
もう少し2人で話したい。だが、ユーニをこの場に引き留める理由が見つからない。
何かないか。ユーニの気を惹ける何かが。
先に歩き始める彼女に気付かれないよう必死であたりを見渡すと、飲み物の自販機の横に珍しいものを発見した。
あれだ。あれを使えばユーニの気を惹けるかもしれない。
そう思った瞬間、タイオンは前を歩く彼女の腕を掴み咄嗟に引き留めていた。
タイオンに腕を掴まれたユーニはその場で足を止め、背後のタイオンへと振り返る。


「なに?」
「アイス食べたくないか?」
「アイス?」
「あぁ。奢るから」


タイオンが指さす方に鎮座していたのは、ハーゲンダッツの自販機だった。
バニラにストロベリー、チョコなど人気のフレーバーが並んでいるその細長い自販機を前に、ユーニは断る理由を見つけられなかった。
しかも“奢る”と言われれば、余計に甘えざるを得なくなる。
“食べたい”と素直に頷くユーニに安堵し、タイオンは表情に滲み出そうになる喜びを必死に抑えこむのだった。

ユーニが選んだフレーバーはストロベリー。
対してタイオンが選んだのは抹茶だった。
自販機のすぐ横には木製のベンチが設置されている。
アイスを購入した宿泊客がここですぐに食べられるようにという宿側の配慮だろう。
そのベンチに腰掛けながら、ユーニはタイオンから無事奢ってもらったストロベリーのアイスに舌鼓を打った。
硬いアイスの表面にプラスチックのスプーンを刺し込みながら、彼女はすぐ隣に腰掛けているタイオンを盗み見る。

花火大会以降、タイオンの態度に若干の変化が起きていることにユーニも気がついていた。
妙に積極的というか、隙あらば自分を連れ出し2人きりになろうとしている気がする。
とはいえ大きな進展はなく、いざ2人きりになるとタイオンは途端に無口になる。
照れているのか、はたまた何を話すべきか迷っているのか。
昼間に釣りをしたときも、宿で一緒にお土産コーナーを見ていた時も、そして今も、彼は視線だけチラチラとこちらに寄越しながら口数は少ないままだった。

タイオンが何を考えているのか、イマイチよく分からない。
今までなの自分なら、積極的に行動してくれているタイオンに素直に喜んでいただろう。
だが、彼が他の女性と映画に出かけていたという事実を知った今は喜びも半減してしまう。
映画デートに行ったらしい見知らぬ女のことが好きなのか、はたまたやっぱり自分に気があるのか。
すぐ隣にいるはずの彼の心の在処がわからなかった。

黙ってアイスを食べ続けるユーニだったが、隣のタイオンから抹茶のアイスが入ったカップが差し出される。
自分のアイスから視線を外しタイオンへと目を向けると、彼はいつも通りの仏頂面で顔を逸らしていた。


「抹茶、一口食べるか?」
「あぁ、うん。貰うわ」


差し出された抹茶のカップには、タイオンが使っていたスプーンが刺さったままになっていた。
カップごと受け取り、刺さっていたスプーンを使って抹茶アイスを一口食べると、ほろ苦い抹茶の風味が校内に広がる。
“美味い。ありがと”と礼を言いながらカップを返すと、彼は“うん”と頷きながら受け取り自分もスプーンを使って手を付け始める。
同じスプーンを使って抹茶のアイスを食べているタイオンの横顔を見つめながら、ユーニはあることに気が付いてしまった。


「あっ」
「なんだ?」
「いや別に。間接キスだなーって」


言った瞬間、タイオンは面白いくらいに目を大きく見開いた。
彼の褐色の肌がどんどん赤く染まっていく。
激しく戸惑い視線を泳がせる彼は、動揺を誤魔化すように足を組み眼鏡を押し上げた。


「そ、そんなこといちいち口にしないでくれ!中高生じゃあるまいし……」


そんなことでいちいち動揺しているのはそっちじゃないか。
そう思いつつも、ユーニはなにも言わなかった。
こんな些細なことにもいちいち照れているタイオンの態度は、端から見ればわかりやすくユーニに気があるように見える。
2人だけで映画に行くほど親密な相手がいるのに、なぜ自分に対してそんな態度がとれるのか。
複雑な心境を抱きながら、ユーニは自分のスプーンで手元のストロベリーアイスをすくいとった。
その瞬間、突然スプーンを持ったユーニの手が、横から延びてきたタイオンの手によって掴まれる。
何事かと驚いて彼の方を見ると、タイオンの顔がゆっくりと近づいてきた。

えっ、なに?
戸惑い、石のように固まるユーニだったが、そんな彼女の手に握られたアイスのスプーンを、タイオンはぱくりと咥え込む。
強引にユーニの手からアイスを奪ったタイオンは、ほんの少し顔を赤らめながらスプーンから口を放した。


「え……」
「君だってこっちのを食べたんだから別にいいだろ」


照れを隠すようにそっぽを向いているタイオンの突然の行動に、ユーニの心臓は珍しく高鳴っていた。
何今の。急に何?
タイオンらしからぬ強引さと脈の無さは、ユーニの心を搔き乱す。
一瞬、ほんの一瞬だけ、キスされるのかと思ってしまった。
そんなことあるはずないのに。


「んだよ。勝手に食いやがって……」


思ってもないクレームを口にしながら、ユーニは先ほどタイオンが咥え込んだスプーンを使いアイスをすくいあげる。
ぱくりと咥えると、ストロベリーの甘酸っぱい風味が舌に広がった。
そして実感してしまう。この胸の高鳴りは、間違いなくタイオンに恋をしているのだと。

最初は気になる程度の気持ちだった。向こうはこっちに気があるみたいだし、一緒にいて楽しいから付き合うのもアリなのかな、という軽い好意。
だが、タイオンへの気持ちは自分でも制御が出来なくなるほどいつの間にか大きく育っていたらしい。
こんなに好きになってしまうなんて。
タイオンへの好意が積み重なれば積み重なるほど、彼の本心が気になって仕方なくなってしまう。

一緒に映画に行った女は誰だ?
そいつのことが好きなのか?
アタシのこと、ホントはどう思ってるの?

浮かんだ疑問を一つもぶつけることが出来ないまま、ユーニはアイスを食べ続けるのだった。

 

act.44


ミオを横抱きにしたノアは、ランツとセナを残し部屋を出た。
廊下に出て向かった先は、すぐ隣に位置しているミオとユーニの部屋。
既に宿の従業員によって布団が敷かれている部屋に足を踏み入れ、眠ってしまっている彼女の身体を布団の上に横たえた。

本当はゼオンにバンドメンバーの代理を頼まれていることを相談しようと思っていたのだが、眠ってしまったのなら仕方ない。
また次の機会に話すとしよう。
自室に戻るため立ち上がろうとしたノアだったが、突然腕をぐっと掴まれた。
驚いて振り返ると、そこには布団から起き上がり琥珀色の目をパッチリ開けたミオの姿があった。


「ミオ。起きてたのか」
「うん。寝たふりしてた。その方がセナとランツを2人きりにさせやすいかなと思って」


てっきり酔い潰れて眠っているのだと思っていたのだが、どうやら演技だったらしい。
彼女が狸寝入りをしたおかげで、思惑通り自然な流れで二人を部屋に残し退散することが出来た。
ミオの策は強引ではあったものの、結果的にすべてうまくいっている。
不覚にも感心してしまっていたノアに、ミオは目を細めながら優しく微笑みかけた。


「それに、ノアも何か話したそうにしてたから」
「えっ、なんでそれを……」
「わかるよ。君のことくらい」


ミオに相談する機会を伺っていたことは、彼女本人にはとっくにバレていたらしい。
ランツとセナを2人きりにするためだけじゃなく、ノアと自分が2人きりになる状況を作り出すための狸寝入りだったのか。
全く勘のいいことだ。
観念したように乾いた笑みを零すと、ノアはミオと向き合うように布団の上に胡坐をかいた。


「ミオ相手に隠し事は出来ないな」
「そうだよ。ノアのことはなんでもお見通しなんだから」
「じゃあ、俺が何を言おうとしているか予想ついてるのか?」


問いかけてみると、ミオは誤魔化すように笑顔を作りながら露骨に視線を外している。
鼻高々にこちらの考えを看破しているかのような口ぶりだったくせに、肝心なことは察しがついていなかったようだ。
可愛らしく誤魔化しているミオの様子にぷっと吹き出すと、ノアはゆっくりと両手を広げた。
“おいで”の合図である。
そんな彼の甘やかな合図に従い、身をよじりながらノアの胸板に頬を寄せるミオ。
素直に寄り添ってきた彼女の身体を優しく包み込みながら、ノアはずっと胸に抱えていた“悩み”を初めて口にした。


「花火大会の時、ゼオンから電話があったの覚えてるか?あの時、ちょっと頼まれごとしてさ」
「頼まれごと?」
「あいつ、カイツたちとバンドを組んでるんだ。そのうちの一人が事故に遭って練習に来られなくなったから、学祭のイベントで代わりを務めてくれないかって」
「つまり、バンドメンバーとして参加してくれってこと?いいじゃない。ノア、ギターとかベースとかキーボードとかも出来るんでしょ?」
「あぁ、まぁな」


生粋の音楽一家の次男として生を受けたノアは、驚くほど多くの楽器に精通していた。
高校時代打ち込んでいたフルートは勿論、ギターやベースといった弦楽器、ピアノやアコーディオンのような鍵盤楽器。さらにはサックスやトランペットといった金管楽器まで、幅広く演奏することが出来る。

フルートの腕に関してはミオの方が数段勝っているが、こなせる楽器の多さに関してはノアの右に出るものはいないだろう。
多彩なノアなら、どんな役割でもそつなくこなせるはず。
だが今回のゼオンからの依頼には、ノアを大いに悩ませる要因がひとつだけあった。


「ギターやベースの代役なら俺も喜んで引き受けたと思う。でも、ゼオンから頼まれた楽器は……ヴァイオリンなんだ」
「えっ」


ノアの胸板に頬を寄せていたミオが、目を丸くしながら顔を挙げた。
ノアがヴァイオリンに対して特別な思い入れがある事実を、ミオはよく知っている。
彼は幼い頃、天才ヴァイオリン奏者だった兄の背を追い同じくヴァイオリニストを志していた。
しかし、どこで演奏しても神童ともてはやされた兄と比較され、一方的に落胆される毎日。
練習しても練習しても追いつけない兄の背に絶望し、ヴァイオリニストの道を諦めた過去があった。

それまで大好きだったはずのヴァイオリンは、ノアにとってトラウマの産物へと成り下がってしまっている。
今でもヴァイオリンを目にしたり、その音色を耳にすると、あの頃の記憶がよみがえる。
大人たちに“兄に比べて劣る”と評価され続けた忌々しい記憶が。


「昔は大好きだったんだ。ヴァイオリンを弾くのも、音色も聞くのも。でも今は、まともに向き合える気がしない」
「ノア……」
「怖いんだ。人前でヴァイオリンを弾くのが」


幼い頃出場した数々の演奏会やコンクールで、ノアは大人たちから過度な期待を孕んだ眼差しを常に浴びていた。
あの神童の弟なのだから、さぞ素晴らしい演奏をしてくれるのだろう。
そんな一方的な期待を押し付けてきた大人たちは、ノアが演奏を終えると途端に苦笑を浮かべるのだ。
“なんだ、そんなものか”と。

期待に応えられないことが怖かった。楽しんで演奏していたはずのノアの旋律は、いつの間にか大人に“上手い”と褒めてもらうためだけの演奏へと変わっていき、次第に楽器に触れるだけで吐き気を催すようになった。
辞めたくて辞めたわけではない。辞めざるを得なくなったのだ。

ヴァイオリンから遠のき、フルート奏者へと転向したノアに、世間の大人たちは冷たかった。
兄と違って才能がない。兄のようになれなかったからヴァイオリンから逃げた。
そんな心無い評価を背中から浴びせられ、一層ノアはヴァイオリンを遠ざけてしまったのだ。
学祭のバンド演奏とはいえ、人前で演奏する状況には変わりない。
大人からの評価を気にし続けたノアにとって、ヴァイオリンを人前で弾くという行為は容易ではないのだ。


「ねぇノア。家のクローゼットに入っているヴァイオリンケースって、ノアが子供の頃弾いてたやつ?」
「あぁ。仕舞ってあること、知ってたのか」
「うん。この前見つけちゃったの。ノアにとってヴァイオリンはもう見たくもないものなんでしょ?だったら、どうして捨てないの?」
「それは……」


ミオが部屋のクローゼットの奥に収納されていたヴァイオリンケースを発見してしまったのは、あのウロボロスハウスへ越してきて数日後のことだった。
当時からノアが多くの楽器に精通していることはよく知っていたし、ヴァイオリンも趣味の一つとして嗜んでいるものだとばかり思っていた。

しかしその後、ノアの過去を聞いて以降ずっとその存在が不思議で仕方なかったのだ。
トラウマになるほど嫌になってしまったのなら、さっさと手放してしまえばいいのに。
クローゼットの奥にまるで封印するかのように大事に仕舞いこんでいるのは、ノアがまだヴァイオリンへの情熱を捨てきれていないからなのかもしれない。
埃をかぶったケースを思い出しながら、ミオはそんな仮説を立てていた。


「本当はまだ好きなんじゃない?ヴァイオリン。だから手放せずにいた」
「……」
「今回のことだって、本当にヴァイオリンに対して何も愛情がなくなったのなら、依頼を受けた時点ですぐに断ってたはず。なのに答えを保留にしてたってことは、ノアの中でまだ迷いがあるってことだよね?」
「……ホント、ミオには敵わないな」


乾いた笑みを浮かべながら、ノアはミオを抱きしめる腕に力を込めた。
彼女の指摘は全て図星である。
どうしても捨てきれなかったのだ。幼い頃に抱いた情熱も、ヴァイオリンへの愛情も。
今でも時々夢に見てしまう。多くの観客の前でヴァイオリンを演奏し、会場から割れんばかりの拍手をもらっている夢を。
いつまでも未練たらしいと呆れる一方で、自分を誤魔化しきれていない事実に戸惑ってしまう。
そんなノアの心情を何となく察していたミオは、いつもより少しだけ小さく感じる彼の背に手を回し、優しく抱きしめ返した。


「好きなものを素直に好きって言えないのは辛いよね。好きなままでいられたきっと幸せなのに。今回の件は、ノアがヴァイオリンとヨリを戻すいいきっかけになるんじゃないかな」
「きっかけ……?」
「うん。今回はコンクールでも演奏会でもない。ただの学祭。ノアを“神童の弟”として評価してくる大人は1人もいない。自分の好きなように演奏できるまたとないチャンスじゃない」


常に評価の目に晒されていたノアにとって、人前での演奏=他人からの評価が下される場、という認識だった。
だが、今回に関しては彼女の言う通り評価を下す大人は1人も存在しない。
ただ単に、会場に集まった観客たちを楽しませるためだけの演奏をすればいい。
神童の弟として恥ずかしくない演奏をする必要もなければ、大人たちを納得させるための演奏もしなくていいのだ。
そんな単純な前提を、ノアはすっかり見逃してしまっていた。


「ただ楽しめばいいのよ。他人からの評価は気にしなくていい。その場にいる人たちを楽しませればいいだけ。そう思うと、少しは気が楽にならない?」
「それは……。確かに」
「それにね」


ノアの胸板に頬を寄せていたミオが、彼の顔を覗き込む。
優しく、そして柔く微笑む彼女の瞳が、ノアを一点に見つめている。
その優しい微笑みを絶やさぬまま、彼女は囁いた。


「私も聴いてみたいんだ。ノアのヴァイオリン」
「ミオ……」
「完全に私の我儘だけど、だめかな?」


同じく音楽の道を歩んできた人間として、そしてノアの恋人として、彼の演奏をこの目で見たい。聴きたい。
そんな願望をまっすぐに投げかけられたことで、ノアの心はあっけなく決まってしまった。
憧れでもあった“ミオ先輩”にそんなおねだりをされたら、断れるわけもない。


「もう十年近く弾いてないから、うまい演奏なんて出来ないかもしれないけど……」
「言ったでしょ?楽しめばいいって。私が聴きたいのはうまい演奏じゃない。ノアが楽しく弾いてればそれでいいの」


微笑むミオの気遣いに、目頭が熱くなる感覚を覚えた。
そしてたまらず強く抱きしめると、彼女は“わっ”と小さく悲鳴を挙げる。
それでも放してやる気にはならない。
かすれた声で“ありがとう、ミオ”と礼を囁くと、彼女は何も言わず背中を擦ってきた。

数秒間強く抱きしめ合ったあと身体をゆっくりと離すと、ノアはミオの銀色の髪に指を差し入れながら目を細めた。
目と目が合って、二人の唇はそっと重なり合う。
互いの温もりを渡し合うような口付けが終わると、再びノアはミオの華奢な体を自らの腕の中に閉じ込めた。


「ミオ、ごめん」
「ん?なぁに?」
「今、すごくミオに甘えたい気分なんだ」
「ふふっ、珍しいね。いいよ。私、これでも年上なんだから」


ミオの白い手が、ノアの黒髪を撫でる。
まるでなだめるようなその手つきに癒されながら、ノアは彼女の首筋に唇を寄せた。
甘えるようにミオに擦り寄るノア。
彼の腕がミオの身体を掻き抱き、そしてゆっくりと布団の上に沈んでゆく。
左手は彼女の腰に巻かれた帯へと延ばされ、しゅるりしゅるりと音を立てて解かれる。
事の始まりを予感しながら、ミオはほんの少し頬を紅潮させ、目を閉じるのだった。


***

同時刻。隣の部屋に残されたランツとセナは、互いに気まずげに顔を逸らしたまま距離を取っていた。
窓際の椅子に腰かけるランツと、布団の上で膝を抱え腰掛けているセナ。
静かすぎる部屋には、時計の秒針が時を刻む音しか響いていない。
この世の気まずさを全て詰め込んだようなこの空間に、セナの緊張は限界に達しようとしていた。
何か話さなくては。でも一体何を?
頭が爆発しそうになりながら、彼女は必死で話題の引き出しをこじ開ける。


「た、タイオンたち、戻ってこないね……」
「もう自分たちの部屋戻っちまったんじゃねぇのか?」
「そ、そうなのかな……」


タイオンがユーニを連れ出し、ノアが眠ったミオを抱えて部屋を出て行ってから、既に30分以上が経過している。
もはやあの二組がこの部屋に戻ってくることはないのだろう。
時間は刻一刻と過ぎてゆく。そろそろ深夜に突入しようかという時間帯を前に、セナは焦っていた。

どうしよう。いつ返事をしよう。どんな流れで言えばいいのだろう。
告白の返事をする自然な流れって、そもそもどんなものだろう。
考えれば考えるほど、タイミングを逃してゆく。
いい加減腹をくくらなくては。焦り始めていたセナだったが、そんな彼女の背後からランツの“あっ”という声が聞こえてきた。
次に、カーテンと窓を開ける音が聞こえてくる。
反射的にランツの方へと視線を向けると、彼は窓の外のベランダへと出て空を見上げていた。


「雨、いつの間にか止んでたみたいだな」
「えっ、ホントに?」


ランツの後を追うようにベランダに出てみると、確かに外の雨はすっかり上がっていた。
雨上がりの夜空は晴れ渡っていて、見事なほどに美しい星空が広がっている。
短時間でこんなに天気が回復するとは。
山の天気は変わりやすいと言うが、この軽井沢も例外ではなかったらしい。
ランツの横に並んだセナはベランダの欄干に手をかけ、雲間に見える星を見上げながら口を開いた。


「涼しいね。真夏とは思えない」
「雨上がりだからな。元々ここは避暑地だし、熱帯夜とは無縁なのかもな」
「そうだね。都会とは全然違うね。星もこんなにきれいだし」
「だな。バルコニーのある部屋でよかったかもな」


ランツの言葉を聞き、セナは思わず身を固くした。
彼の口から飛び出した“バルコニー”という単語が、昼間のとあるやり取りを想起させる。
軽井沢に向かう車中での一幕。6人は誰が言い出したか心理テストに興じていた。
出題された問題の中には、理想の告白場所を占う質問もあった。
その質問に、ランツはこう答えていた。“バルコニー”と。

今現在、ランツとセナは並んで部屋のベランダ、別名バルコニーに揃って出ている。
雨上がりのひんやりとした空気のなか、美しい星空を見上げながら、ランツの理想の告白場所であるバルコニーにいる今の状況は、告白の返事をするための好条件が怖いくらいに揃っている。

まずい。たぶん今この瞬間が、いちばん返事をするのに適したシチュエーションだ。
この機を逃したら、きっとこれ以上の条件がそろった機会は巡ってこない。
言うなら今だ。今しかない。
言わなくちゃ。言わなくちゃ。

途端に緊張がセナの胸を包む。
ごくりと生唾を飲み込み、セナは覚悟を決める。


「ら、ランツ、あのね」
「ん?」
「あの、えっと、その……」
「どうした?」
「……わ、私、こういう状況慣れてなくて、うまく言えないと思うんだけど、話し聞いてくれる?」


恐る恐る見上げながら問いかける。
すると、セナの切羽詰まった様子に気付いた彼は、表情を引き締めながら“あぁ”と頷いた。
上手く伝えられるか分からない。
もしかすると、支離滅裂なことを言ってしまうかもしれない。
けれど、自分の気持ちは自分自身の言葉で伝えたい。
声が震えるのを必死でこらえながら、セナは懸命に言葉を絞り出す。


「私ね、知ってると思うけど、ずっと自分のことが好きになれなかった。ミオちゃんみたいに可愛くないし、ユーニみたいに明るくないし、自分に自信もない。だから、誰と一緒にいても嫌われないように必死だったの。また、人に疎まれるのが怖かったから」
「……あぁ」
「誰かと一緒にいるときの私は、いつも窮屈で、息苦しかった。でも、でもね、ランツと一緒にいると、息苦しくないの。全然窮屈じゃない。むしろ、すごく居心地が良くて、私らしくいられる気がする」
「……セナ」
「私ね、ランツと一緒にいるときは、自分を好きでいられる。ランツのおかげで、はじめて自分のこと好きになれたの」
「そうか」
「その理由、つい最近まで分からなかった。どうしてだろうって考えてたら、やっと気付いたの」


どうしても声が震える。
自分の気持ちを吐き出すことが、こんなにも怖いことだとは思わなかった。
感情が昂り、セナの心を乱す。
一杯一杯になりながらも、セナは顔を挙げ、自分よりも20センチ以上身長が高いランツを一生懸命見上げて言い放った。


「わたし、わたし……っ、ランツのことが好き」


セナの大きな瞳からは、涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
褐色の頬に大粒の涙が伝う。
濡れた頬を拭う余裕もなく、震えた声で彼女は言葉を続けた。


「わたしを、ランツの彼女にしてください……っ」
「っ、」


ランツの男らしい腕が、セナの華奢な身体を強引に引き寄せた。
体格差のある彼女の身体は簡単にランツの腕の中に納まり、勢い良く抱きしめられたことでセナは息を詰める。
涙で顔を濡らしながら戸惑う彼女の耳元で、ランツはかすれた声で囁いた。


「馬鹿野郎。お前さんが泣くのは違うだろ」
「だ、だって……!」
「つか、頼むのは俺の方だろ。告ったのは俺なんだから」


きつく抱きしめていた身体をゆっくりと離したランツは、未だ涙が止まらないセナの目元を拭い、目を細める。
何かを堪えるようなその目は切なげで、彼にしては珍しく泣きそうな色をしていた。
真っすぐ自分を見下ろしてくる彼は、その大きな手でセナの小さな頬を撫でながら目を細める。


「いいんだな?“やっぱなし”とか、受け付けねぇからな」
「言わないよ、そんなこと。大好きなんだもん」


セナの目から再び涙がこぼれ落ちそうになったと同時に、ランツは彼女の後頭部に手を添えて引き寄せた。
身を屈めたランツが、小柄なセナへと力強く口付ける。
驚き目を見開いたセナだったが、すぐに受け入れるように瞼を閉じた。
二度目のキスは、5秒ほどで終わりを告げた。
再びセナを抱きしめたランツは、彼女の頭に手を添えながら口を開いた。


「いいかセナ。俺はお前さんのことが一番好きだ。けどな、お前さんは俺じゃなく自分自身を一番好きでいろ」
「え……?」
「俺は二番目でいい。セナはもっと自分を好きになるべきだ。自分を認めて、許して、好きになって、自己嫌悪なんて全部捨てちまえ」
「ランツ……」
「お前さんが自分を心から好きになれるまで言い続けてやるから。好きだって」


引っ込みかけていた涙が、再びボロボロと流れ落ちる。
声がひっくり返りながらお礼を言うと、ランツは軽く笑いながら抱きしめる力を強めてきた。
しがみつくように背中に腕を回したセナは、ランツの胸の中で声を殺しながら泣き続ける。
哀しみの涙ではなく、心からの喜びの涙だった。
そんなセナの背中をなだめるように軽く叩きながら、ランツは最後に呟くのだった。
“付き合おう”と。


***

1階のロビーでゆっくりとアイスを楽しんでいたタイオンとユーニは、暫く2人で過ごした後、就寝するため部屋へと戻ろうとしていた。
時刻は既に23時半をまわっている。
どの部屋の宿泊客も既に部屋で休んでいるらしく、廊下はすっかり静まり返っている。
先ほどまで集まっていたランツとセナの部屋の前を通過し、2人はそれぞれの部屋への前で立ち止まった。


「じゃあおやすみ、タイオン」
「あぁ。また明日」


ユーニに別れを告げ、タイオンはノアと相部屋になっている自室の扉を開けた。
結局、彼女の好きな人について質問を投げかけることは出来なかった。
好きな人とはいったい誰のことなのか。自分のことをどう思っているのか。
聞きたいことなら山ほどあるはずなのに、問いかけようとするたび怖気づいてしまう。
いつか核心を突く質問を投げかけられる日は来るのだろうか。
そんな杞憂を抱きながら部屋の中に入った瞬間、タイオンは違和感を覚えた。

部屋には誰もいないらしく、明かりがついていなかった。
もう遅い時間だし、ノアは先に部屋に戻っているとばかり思っていたが、まだ戻っていないらしい。
ランツやセナの部屋でまだ話しているのだろうか。
部屋の電気を着けたその瞬間、外からドタドタと派手な音が聞こえてきた。
そして、閉めたはずの部屋のドアが乱暴に開かれ、先ほど別れたばかりのユーニが押し入って来る。
突然何事かと驚いていると、彼女は切羽詰まった様子でタイオンに迫って来た。


「や、やべぇよタイオン!ノアとミオが!思いっきり致してる!」
「は?」


突然のことに気が抜けるタイオン。
ユーニ曰く、どうやら彼女とミオの部屋にノアがいたらしい。
部屋に入る直前、2人の気配を感じて襖越しに覗いたところ、友人同士の甘い空気感を垣間見てしまったのだとか。
そしてたまらず部屋を飛び出し、隣のこの部屋に避難してきたと。


「致してるって……。何やってるんだ全く」
「何ってだからセッ……」
「あぁもう言わんでいい!するなら自分の部屋で……。いやここ部屋でやられても困るが……」
「どうしよう最悪なんだけど!アタシ戻れねぇじゃん」


“流石にあの空気の中乱入するわけにはいかねぇし……”
そう嘆くユーニは、肩を落としながら頭を抱えていた。
とはいえ、告白の返事をするという大きなミッションを抱えているセナやランツの部屋に避難するわけにもいかない。
となると、もはや取れる手段は一つしかなかった。


「……じゃあ、ここで寝るか?」
「え?」
「セナたちの部屋に行くわけにもいかないだろ。心配しなくても何もしない」
「……」
「い、いや、勘違いしないでくれ!別に変な下心があるわけじゃないし、それ以外解決策が思いつかないから仕方なく提案しただけだ!その……。い、嫌ならいい。無理にとは言わないから……!」


少し踏み込み過ぎただろうか。
流石に男と同部屋は嫌だったかもしれない。
下心があると思われたらマズい。いや、そういう気持ちが全くないとは言い難いが、流石に妙なことをするつもりも度胸もない。
引かれていないか、嫌がられていないか心配になりながら返答を待っていると、ユーニはしばらく考えた後ゆっくりと頷いた。


「……なんにもしてくれないんだ」
「へ?」
「朝、ちゃんと起こせよ?アタシ早起き苦手だからさ」
「あ、あぁ、分かった」


そう言って、ユーニはすでに敷かれている布団の上に腰を下ろし、いそいそと掛布団の中に潜り込んでしまった。
これはつまり、一緒の部屋でいいということだろうか。
呆然としていると、彼女は布団から顔を覗かせながら声をかけて来る。


「寝ねぇの?」
「ぅえっ!? あ、うん。ね、寝る」


戸惑いを隠せないまま、タイオンは部屋の電気を常夜灯に切り替えた。
そして、ユーニの隣の布団に入るために腰を下ろす。
敷布団をめくろうとしたその時、ユーニの布団にぴたりと密着していることに気が付いた。
近い。あまりにも近すぎる。
ユーニとこんなにも近い距離にいて、まともに寝れるわけがない。
言い知れぬマズさを感じたタイオンは、そっと自分の布団を引っ張ってユーニから1メートルほど離すことにした。

そして、ゆっくりと布団の中に潜り込む。
ユーニの方に身体を向けることは出来なかった。
バクバクと高鳴る心臓が鬱陶しい。
背中に感じる彼女の気配が、タイオンの緊張感をどんどん高めていった。

時刻は24時。日付が変わろうとしているものの、タイオンは一向に眠れる気がしなかった。

 

act.45


約21年間生きてきた生涯で、タイオンは一番と言っても過言ではないほど緊張していた。
背を向けて寝転んでいる先に、この世で一番好きな女の子が眠っている。
暗くなった部屋で布団に入っているにも関わらず一向に眠気が襲ってこないのは、同じ空間でユーニが眠っているこの状況のせいだった。
右隣の部屋には恐らく告白の返事を試みているセナとランツがいる。
そして左隣の部屋には盛大に致しているノアとミオがいる。
逃げ場はない。今夜はここでユーニと共に眠るしかないのだ。


「タイオン、もう寝た?」


背後からユーニの囁き声が聞こえて来る。
その瞬間心臓が飛び出そうになるが、この無様な緊張を看破されないように必死に平静を装う。


「……いや、まだ」
「眠くねぇよな」
「あぁ……」


緊張で眠れないのはユーニも同じだった。
すぐ横で好きな男が眠っている。
相手が少し不真面目で軽い性格だったなら、好機とみて上に跨ってきてもおかしくはない。
だが、今横で寝ているのはあの堅物くそ真面目なタイオンである。
例え隣に無防備な女が寝ていたとしても必死で我慢するのがこの男。
どれだけ誘惑しようとも、付き合ってもいない女に強引に迫るような真似はしないだろう。

それに、タイオンの好きな人が自分であるという確証も今はもうない。
どうせなら、いっそ襲ってくれればいいのに。そうすれば少しはこの停滞した状況を打破できるのに。
けれど、そういうことを絶対にしない彼だからこそ好きになったのだ。
するわけない。こちらが歩み寄らない限り、タイオンはきっとこっちを見てはくれない。


「なんか話して」
「なんか、とは?」
「眠くなるような話して」
「無茶ぶりだな。そうだな、じゃあ……」


この静かな空間が続く中で眠れる気がしない。
緊張は高まるばかりで、どうにも落ち着かない。
せめて何か話題が欲しくて要求してみると、タイオンは暫く考え込んだ後に口を開いた。


「“胸キュン”という言葉があるだろ」
「え?お、おう。あるな」
「あれは実際にキュンとしているのは胸ではなく胃らしい」
「えっ」
「要するに胸キュンではなく胃キュンというわけだな、ハハハ」
「……」
「……」
「……タイオンってさぁ、空気読めないってよく言われない?」
「し、失敬な!君が何か話をしろと言うから……!」


ぷりぷりと怒っているタイオンだったが、そんな彼の背をユーニは布団から呆れ眼で見つめていた。
この男女二人きりで布団を並べて眠ろうという甘酸っぱい状況下で、胸キュンが実は胃キュンだったなど、よくそんなムードのないハナシを真顔で出来たものだ。
場の雰囲気に合ってなさすぎる。


「あのさ、普通この空気でそんな話しする?もう少し雰囲気に合ったハナシしろよ」
「なら君が手本を見せてくれ。雰囲気に合ったハナシとやらを」


話題のボールは、タイオンからユーニへと強引に渡される。
こうして男女で一緒にいるときにするハナシは、もっと艶っぽい話題がいい。
例えば、恋の話しとか。
タイオンにぶつけてやりたい恋愛関連の質問ならいくつもある。
その筆頭として先頭に鎮座しているのが、例の映画館の件である。

誰と行ったのか、何故行ったのか、そもそも一緒に行った女とはどんな関係なのか。
聞きたい。その答えが聞ければ、タイオンの自分への気持ちも少しは予想がつくかもしれない。
もしも一緒に映画に行った女が“彼女”や“好きな人”だったなら、こちらの片想いが確定する。
正直、聞くのは怖い。けれどこのまま何もわからない状態でうじうじ悩んでいる方が自分らしくない。
当たって砕けろの精神で特攻したほうがいっそ潔い。
聞いてしまえ。自分の気持ちにけりを着けるためにも。

タイオンに比べ、ユーニには勇気があった。
布団の中で丸くなりながら、彼女はごくりと生唾を飲み意を決した。


「じゃあそれっぽい話題だすけど、絶対ハナシ逸らすなよ?」
「あぁ。もちろん」
「タイオンって彼女いる?」
「……」
「……」
「……え?」
「いるの?」
「えっ、いや、えっ?なん……、えっ?」


突然投げかけられたユーニからの質問は、恐ろしい威力で心のど真ん中に投下された。
つい最近好きだと自覚した相手から、“彼女いる?”などと聞かれれば、動揺するのは当然だろう。
今までユーニとはそう言った色恋話をしたことがなかったのも大きな要因の一つだった。
何故そんなことを聞くのか、その背景が掴めないまま動揺し続けるタイオンに、ユーニは追撃を駆ける。


「で、いるわけ?」
「い、いや、いないけど……」
「ふぅん。じゃあ好きな人は?」
「え……」


背を向けているため、ユーニが今どんな顔をしているのかが分からない。
だが声色は驚くほどいつも通りだ。
揶揄うような声ではない。
冗談を言う空気でもなく、誤魔化せるような雰囲気でもない。
喉元にナイフを突きつけられるような感覚を覚えながら、タイオンは布団に顔を埋めつつ素直に答えることにした。


「……いる」
「そっか」


意を決して打ち明けたつもりだったが、ユーニからの返答は脱力してしまうほどいつも通りのモノだった。
随分とあっけらかんとしている彼女の反応と、心臓が破裂しそうなほど高鳴っている自分の温度差を感じて少しだけ寂しくなってしまう。
ただの興味で聞いたのだろうか。
その質問の背景が気になったタイオンは、今度は自分が質問を投げかけてみた。


「……な、なんで急にそんなこと聞くんだ?」
「この前さ、タイオンとランツの部屋のゴミ回収しようとしたらお前のゴミ箱から出てきたんだよ。映画のチケット」
「映画?」
「観に行ったんだろ?ローマの休日カップル割で」
「っ!」


ユーニからの言葉は、バラバラになったパズルのピースを一瞬で埋めてくれた。
課題をこなすため、ニイナとカップル割を使って映画を観に行った事実が露見してしまったらしい。
迂闊だった。部屋のゴミ箱の回収は当番制を採用している。
ユーニがゴミ箱の中から映画館のチケットを見つけ出してしまうことくらい簡単に予想がつくはずなのに。

焦ったタイオンは勢いよく布団をめくりあげ、上体を起こす。
まずい。ユーニは以前、異性と映画に行くことは浮気だと断言していた。
自分たちは別に付き合っているわけではないが、ユーニが異性との映画を浮気と位置付けるのであれば、ニイナとの仲を疑われても無理はない。
今、ユーニは勘違いをしているのだ。
ならば可及的速やかにその勘違いを取り払わねば。
ユーニには、ユーニだけには勘違いされたくない。


「ち、違うんだ!誤解だ!」
「何が?映画行ってねぇの?」
「いや、映画には確かに行ったけど……」
「行ったんじゃん。デートしてたんだ?その“好きな人”と」
「違う!ニイナとはそういうのじゃなくて……」
「ふぅん。ニイナって名前なんだ、その女。可愛い系?綺麗系?」
「ユーニ、僕の話をを聞いてくれ!」


上体を起こし、必死に説明しようとするタイオンとは対照的に、ユーニは背を向けて寝転がっていた。
顔が見れない。彼女がどんな表情をしているのか分からないせいか、とてつもなく恐ろしかった。
好きな子に他の女性との仲を疑われているこの状況は何としてでも解決しなければならない。
ハナシを聞き流そうとするユーニの背中を揺り動かし、タイオンは必死に説明を開始する。


「特別講習に参加してるのは知ってるだろ?そこで課題が出たんだ。クラシック映画を視聴して小論を書けと。ニイナも同じ講習に参加してて、駅前の映画館はカップル割を使えるから一緒に行こうと誘われた。ただそれだけの話だ!別にニイナのことが好きなわけじゃない!デートとかそういうつもりも一切ないんだ!だから……」
「ホントに?」
「え?」
「……ホントに、そいつのこと好きじゃねぇの?」


布団の中でもぞもぞと身体を動かし、ユーニは寝返りを打つ。
こちらへ身体を向けた彼女は、その青い瞳を揺り動かしながら不安げな表情で見上げてきた。
その表情があまりにも可愛らしくて、心臓が信じられない力で締め付けられた。

なんだその顔。なんだその声。可愛すぎるだろ。
というか、何故そんなことをいちいち気にするんだ?
僕がニイナに好意を抱いていたら困るみたいな、そんな態度だ。
いや、そんなわけない。都合よく勘違いするな。ユーニは僕のことなんてきっと気にしてない。
ただ単に同居人に浮いた話が出そうだったから興味をもっただけの話しに違いないんだ。

そう自分に言い聞かせながら、タイオンは答える。


「……親しくはしてるけど、彼女は違う」
「なら、タイオンの好きな人って誰なの?」
「そ、それは……」


言えるわけがなかった。
君が好きだなんて。
言ったらきっと、この曖昧で不安定な関係も終わる。
友達ですらいられなくなるかもしれない。
好きだと伝えてフラれるよりは、ずっと伝えずに一番近くで友人を演じている方がマシだ。
そんな臆病な考えを抱いているタイオンは、ユーニからの視線に逃げるように顔を逸らした。


「君こそどうなんだ。好きな人いるんだろ?」
「なんでアタシの話になるんだよ」
「質問するなら自分がまず答えたらどうだ」
「知りたい?」
「……ま、まぁ。友人として少しは興味が……」


“友人として”なんて嘘だった。
“君に好意を寄せる数多の男の一人として”興味がある。
ここで特定の誰かの名前を挙げられたところで、きっと応援なんてできない。
むしろ邪魔したくて仕方がなくなるだろう。
聞いたところでいい事なんて何一つないのに、聞かざるを得なかった。
恐る恐る問いかけるタイオンに、ユーニは暫く考え込むとかぶっていた布団から顔を覗かせ見つめて来る。


「教えてやるよ。タイオンがその“好きな人”に告白したらな」
「は、はぁ!? なんでそうなる」
「タイオンが告白出来たら、アタシも誰が好きなのか教えてやる。だから早く告れ」
「なんだそれ……。勝手な……」
「んじゃお休み。朝ちゃんと起こせよ?」


そう言って、ユーニはまた向こう側へ寝返りを打ってしまう。
背を向けてきた彼女の名前を何度か呼んでみたが、反応することはなかった。
何が“告白出来たら教えてやる”だ。
こっちが告白したらどうせ玉砕する未来が待っている。
そのうえ他にいる好きな人の名前を教えられるなんて最悪じゃないか。
彼女の好きな人とやらの正体を知るときは、すなわち自分が彼女に告白して玉砕する時だ。
なんて残酷な条件だろう。ひどすぎる。
ユーニの背中を恨めし気に見つめながら、タイオンはそれ以上何も言わず再び布団の中に潜り込んだ。

告白なんて出来るわけがない。フラれるのが分かっているのに特攻できるほど、僕は馬鹿じゃない。

一方、タイオンに背を向けて狸寝入りを始めたユーニは、緩む口元を抑えきれずにいた。
女と映画館に行ったのは、デートのつもりはなかった。
相手の女のことが好きなわけでも、付き合っているわけでもない。
それが分かっただけで十分だ。
彼の“好きな人”とやらが自分である確証は特にないが、希望はある。
たった今カマをかけてみたわけだが、反応は上々。
勘違いでなければ、彼が自分に好意を寄せてくれている可能性はやはり高い。
しかも、今までの彼なら“好きな人なんていない”と必死で否定していても可笑しくなかったのに、数分前のタイオンはハッキリと“いる”と肯定した。
これだけで大きな進歩と言えるだろう。

こうなったら意地でも告白させてやる。
布団の中で丸くなりながら、ユーニは決意を改めるのだった。


***

ピンポーン

遠くで鳴り響く音でノアは目を覚ました。
視界に広がるのは見知らぬ天井。
あれ、ここ何処だ?
右腕に重みを感じふと視線を向けると、ノアの腕を枕にしながらミオが寝息を立てていた。
眠っている彼女の着流しは乱れ、白い胸元が見え隠れしている。
寄り添う彼女の姿を見た瞬間、ここが旅館であることを思い出した。
そうだ。皆で旅行に来たんだった。

ピンポーン

再び例の音が部屋に響く。
宿泊しているこの部屋にはインターホンが設置されており、外から呼び出し音を鳴らすことが出来る。
どうやら外から誰かがインターホンを押しているらしい。
眠気眼を擦りながら、ノアはよろよろと布団から立ち上がった。
乱れた着流しを整えながら部屋の扉へ向かうも、その間インターホンはずっと連打されていた。そんなに何度も押さなくても聞こえているって。
うんざりしながら彼はドアに手をかけた。


「はいはい。そんなに何度も押さなくても……。あっ」


ドアを開けた先の廊下に立っていたのは、腰に手を当て険しい顔をしているユーニだった。
明らかに怒気を纏っている彼女の様子を視界に入れた瞬間、何もかも思い出してしまう。
そうだ。ここは確かミオとユーニの部屋だった。
にも関わらず、昨晩自分はミオとこの部屋で一緒に過ごしてしまった。
ユーニという存在をすっかり忘れていたのだ。
焦るノアを睨み上げながら、ユーニは恐ろしい笑みを浮かべつつ低い声で囁く。


「昨日はお楽しみでしたね」
「……ごめん。ホントにゴメン」
「とりあえず一発ぶん殴らせろ。話はそれからだ」
「ちょ、待っ!ごめん!なんでも奢るから!」
「問答無用だコラ!」


ノアの整った顔へと手を伸ばしたユーニは、彼の頬を両手でつねりあげる。
“痛い痛い”と嘆くノアの悲鳴に、部屋の奥で眠っていたミオはようやく目を覚ましたらしい。
重たい瞼を擦りながら布団から上体を起こしている様が入り口から確認できる。
着ていた着流しが乱れ、右肩が露出している様子から見ても、2人が甘い夜を過ごした事実が一瞬で考察できてしまう。
ノアの頬を両手でつねるユーニと、そんな彼女の攻撃を甘んじて受け入れながら謝罪を繰り返すノア。
そんな2人の耳に、数メートル先の部屋の前から男の叫び声が聞こえて来る。


「うわああっ!」


声の主はタイオンだった。
ランツとセナの部屋の前で立ち尽くしている彼は、まるでこの世の終わりを見たかのような青い顔をしている。
温泉旅館に響く悲鳴。ミステリーの世界で言えば、十中八九死体発見の場面である。
まさかランツとセナの身に何かあったのか。
組み合っていたノアとユーニは互いに顔を見合わせ、急いでタイオンの元へ駆け寄った。


「どうした、タイオン!」
「あ、あれを……」


開け放たれたドアの向こうを指差しながら、タイオンは目を見開いている。
まさか本当に死体でも見つけたのか。
恐る恐る部屋の中へ目を向けるノアとユーニ。
その瞬間、2人の表情は氷付く。


「んもーなぁに?朝から騒いで……」


目をこすりながら自室から出てきたミオは、乱れた着流しをきちんと整えながら歩み寄って来る。
仲間たちが騒いでいる様子が気になったのだろう。
ランツとセナの部屋の中を凝視しながら真っ青になっているノア、ユーニ、タイオンの様子に首を傾げ、ミオも視線を向ける。
すると、そこに広がっている信じがたい光景に、ミオは息を詰めた。

部屋に敷かれているのは一組の布団。
その中で、大柄なランツが小柄なセナを抱きしめながら眠っていた。
問題なのは、2人が下着姿だということである。
裸同然の恰好で抱き合っている男女から連想される行為は一つしかない。
現実離れしたこの光景を前に、ミオは顔を真っ赤にしながら叫ぶのだった。


「な、なにやってるのーーーっ!?!?」


***

この旅館の朝食は、周囲の旅館に比べて格段に豪華なことで有名だ。
大広間に用意された朝食の御膳に舌鼓を打ちながらも、一同は心から楽しむことが出来なかった。
恨めし気な視線を向けられているランツは、箸を片手に持ちながら居心地が悪そうに視線を外している。
その隣に座っているセナもまた、先ほどからずっと赤い顔をしながら俯き、食が進んでいる様子はない。
ランツへ突き刺さっているのは、ミオとユーニからの批判的な鋭い視線。
そんな恐ろしい視線に耐えきれなくなったランツは、箸を置いて背筋を伸ばすと、咳ばらいを一つ零し前を向き直る。


「……察してるとは思うけど、俺たち、付き合うことになった」
「だろうな。付き合ってもねぇのに手を出すような奴なら今ここでお前の鼻の穴を2つから1つに減らしてやってるところだわ」


いつもは全力で言い返しているランツだったが、今日ばかりはユーニの罵倒に何も言い返せていない。
今にも人を殺せそうな目で揃ってランツを睨むミオとユーニ。
そんな2人の隣に腰掛けているノアとタイオンは、みそ汁を啜りながらその怒気に少々引いていた。
ランツを庇ってやりたい気持ちもあるが、ここで出しゃばれば確実にミオとユーニからの高威力な集中砲火を受ける羽目になる。それは怖い。
心の中でランツに謝罪しながら、2人の男たちは口を噤む。


「セナから返事貰って舞い上がったのか?まさかその日のうちに手を出すなんてなァ……」
「ランツはそういうことしないと思ってたのになぁ。こんなに手が早いなんて意外だなぁ」
「うっ……」


ユーニとミオの言葉の矢が、ランツの背中に容赦なく突き刺さる。
柄にもなく言い返せず小さくなっている“彼氏”の様子に、隣で見ていたセナはあわあわと動揺し始めた。


「ち、違うよミオちゃん!ユーニ!私も同意の上だったから!私がくっついていたいってワガママ言っちゃって、ランツは“やめておこう”って言ったんだけど私が駄々こねて、なんかこういっぱいちゅーしてるうちに変な空気になってそれで……」


ノアとタイオンは、みそ汁を啜りながら心で呟いた。
全部言うじゃん……。と。
そういうことに至った経緯など、正直そこまで詳細に聞きたくはない。
ランツもまた同じ気持ちだったようで、丁寧に経緯を説明し始めたセナを慌てて止めた。


「ストップ!1から10までご丁寧に言わなくていい!」
「あっ、ごめんね……。でも、ランツだけが悪いわけじゃないから……」
「いや、俺が無理させたせいだろ。悪かった。やっぱ初日にそういうのはナシだよな……」
「そんなことない!私嬉しかったよ?ランツが応えてくれて」
「セナ……」


隣り合う2人の視線は絡み合い、甘い空気が漂っている。
昨晩まではあんなにも気まず気だったのに、一夜明けて驚くほどに甘い関係に昇華している。
むせ返るほどの甘ったるい空気に、タイオンとユーニは少々苛ついていた。
付き合った途端イチャついてんじゃねーよ。
そんな2人の心の呟きは、視線ににじみ出ている。
だが一方で、ノアは2人の交際を快く思っているらしく、箸を片手に微笑みを浮かべていた。


「付き合えてよかったな。仲がよさそうで何より」
「ホントだな。人の部屋にも関わらず容赦なくイチャつくお前らも仲がよさそうで何より」


ユーニの嫌味な一言に、ノアとミオがほとんど同時にお茶を吹き出しそうになる。
咳き込み、動揺している2人の様子に、事情を知らないランツとセナは目を丸くしていた。
怒っているユーニの隣では、タイオンもまた不機嫌丸出しな表情でノアとミオを見つめている。


「まったくだ。ランツといいノアといい、据え膳にがっつき過ぎだ。もっと紳士的になれないものか」
「お前は紳士を越えてもはや仏の域なんだよ。少しは獣になれよ。悟りでも開くつもりか?」
「……放っておけ」


ランツからの一言はタイオンにとってかなり痛いものだった。
昨晩、両脇の部屋では甘い時間が訪れていたというのに、自分たちは暗い部屋でひたすら駆け引きをしていた。
他の二組に比べて何も進展がない自分の現状に情けなさを覚えてしまう。

タイオンも男だ。あわよくばユーニとの物理的な距離を縮めたいという邪な欲求もある。
手を出せないのは紳士的な態度を貫きたいからではない。ユーニに嫌われたくないという男らしさから実にかけ離れた女々しい気持ちからくるものだ。
その事実を指摘されたような気がして、タイオンはムッとしながら視線を外した。
そんなタイオンに、ユーニはただただ黙って視線を送るのだった。


***

“またお越しくださいませ”と深々と頭を下げる女将たちに見送られ、一行は車に乗り旅館を後にした。
滞在時間は半日程度だったが、実にいい旅館だった。口コミの良さも伊達ではない。
満足した一行が最後に向かったのは軽井沢駅にほど近い大きなアウトレットである。
湖に面したこのアウトレットには、様々なショップが軒を連ねている。
ブランドショップからお洒落なカフェまで、幅広い店が並んでいるこの場所が、一行の軽井沢旅行最後の観光場所となった。

アウトレットに到着するなり、3人の女性陣は大はしゃぎで先陣を切る。
あそこも見たいここも見たいと指さしながらアウトレット内を練り歩く彼女たちの様子を、ノアやランツは後ろからついていく形で観察していた。
買い物における女子の熱量にはなかなかついていけない。
これは長くなりそうだなと覚悟を決めながら、2人はブランドショップへと入って行った女性陣を店の前で待つことにした。


「何分かかると思う?」
「20分だな」
「じゃあ俺は30分で」


店の前に設置されているベンチに腰掛け、バッグや財布やらを覗き見る女性陣を観察する2人。
暫くはそれぞれの彼女を見つめていたノアとランツだったが、その視線は次第にあの2人へと集中することになる。
タイオンとユーニである。

ショーケースに並んでいる商品を熱心に見ているユーニと、そんな彼女の横に寄り添っているタイオン。
端から見ればまるでカップルのようではあるが、あの2人はまだそこまで進展していない。
この軽井沢旅行中、タイオンは明らかにユーニへの態度を改めていた。
以前まではユーニに接近されると顔を赤くしながら距離を取っていたはずなのに、今はむしろ積極的にユーニの元へ歩み寄っている。
ユーニが右へ歩けば一緒についていき、ユーニが左へ行けば同じ方向を見る。
まるで一生懸命飼い主の気を惹こうとしている飼い犬のようだった。


「タイオンのやつ、ユーニにべったりだな」
「あぁ。気持ちを認めたみたいだし、一生懸命アプローチしようとしてるんじゃないのか?」
「でも好きだってバレたくねぇんだろ?よく分かんねぇよな」
「そこはほら、今の関係を壊したくないんだろ。好きだとバレたら避けられるとでも思ってるんだろうな、きっと」
「告れば簡単に付き合える状況だってのに、何まごまごしてやがるんだか。とっとと告ればいいだろうに」


ユーニのすぐ隣をキープし、彼女に話しかけているタイオンをぼーっと見つめながらランツはぼやく。
つい数時間前に自分の恋を無事成就させた彼は、早くも高みの見物をしているつもりらしい。
自分だってこの前までまごまごしてたじゃないか。
そう思ったノアだったが、口に出すのはやめておいた。
代わりに“まぁタイオンの気持ちも分かるけど”とフォローを入れると、ランツは足を組みながら“そうか?”と眉を潜める。


「つか、好きバレしたくねぇ割りに分かりやすすぎるよな、アイツ」
「それは確かに。あんなに露骨だとな」
「タイオンって、頭は優秀なくせに自分の気持ち隠すの下手くそ過ぎじゃね?全部顔に出まくってる」
「まぁ分かりにくいよりは分かりやすい奴の方がうまくいくんじゃないか?ユーニもタイオンに好かれてるって自覚があるみたいだし」
「そこなんだよな。ユーニも結構分かりやすくOKサイン出してるんだからここは勢いに任せていっちまえばいいのに」


昨晩、甘い時間を過ごしたランツやノアとは対照的に、タイオンは実に理性的な夜を過ごしていたらしい。
すぐ横にユーニという片想い相手がいるにもかかわらず指一本触れなかったタイオン。
紳士的だと言えば聞こえはいいが、臆病だとも表現できる。
きっと嫌われたり拒絶されたりするのが怖くて日和ってしまったのだろう。
その時の光景を目にしてはいないが、ランツには容易に想像できてしまった。


「タイオンにも、付き合った初日に手を出すランツの大胆さがあればいいんだけどな」
「……俺の話はいいんだよ。それに……」


何かを言いかけて、ランツは言葉を飲み込んだ。
珍しくはっきりしない幼馴染の様子に、ノアは不信感を抱いた。
視線を落としているランツに“それに?”と言葉の先を促すと、彼は小さくため息をついたあと小さな声で囁いた。


「……シてねぇから」
「へ?」
「シてねぇんだよ。俺たちも」


随分と言いにくそうに口にしたランツの言葉に、ノアの頭はフリーズしてしまう。
今朝、ランツとセナが下着姿で抱き合いながら眠っていたあの光景は決して幻覚などではない。
あんな状況下にいながら、“シてない”とはどういうことか。
戸惑うノアに、ランツは昨晩の出来事をぽつりぽつりと打ち明け始めるのだった。

 

act.46


「はぁっ!? シてねぇ!? なんだよそれ!」
「シー!ユーニ声大きいよ……!」
「あぁ、悪い」


アウトレットの女子トイレ内に、ユーニの叫び声が木霊する。
幸いにもこのトイレには、鏡を前にメイクを直しているミオ、ユーニ、そしてセナの3人以外に人はいない。
ユーニの遠慮のない叫びは、他の観光客に聞かれずに済んだらしい。
トイレ内を見渡し、すべての個室が無人であることを確認して安堵するセナを横目に、ユーニとミオは未だ困惑していた。

3人が男性陣と別れてこのトイレに入ったのは3分ほど前のこと。
鏡の前で自前の化粧ポーチを広げ、いそいそとメイク直しを始めた3人の話題は、自然と昨晩の件へとシフトしていった。
男がいる場では話せないことも多い。
昨晩ランツとセナの身に何があったのかは状況証拠から何となく察しはつくが、詳細を事細かに聞き出してやろうと考えたミオが無遠慮にセナへ問いかけたのだ。
“昨日はお楽しみだったの?”と。

投げかけられた質問に、セナはビューラー片手に赤面する。
あぁこれはやっぱり間違いなく一線を越えたなと確信する2人だったが、次の瞬間セナから語られた真実に度肝を抜かされることとなる。
“本当はシてないの”
もじもじしながらそう打ち明けてきたセナの言葉に、冒頭のユーニの台詞が飛び出したという流れである。


「シてねぇってどういうこと?だってさっき……」
「二人一緒に寝てたよね?しかもほとんど下着姿で……」
「なのに何もシてないってことかよ?」
「いやその、正確には“何も”シてないってわけじゃなくて……」


相変わらずもじもじとしているセナは、褐色の肌を首まで赤くしながら言葉を選んでいるようだった。
彼女にとって、ランツは初めてできた彼氏だ。
今まで交際経験がなかったセナには、昨晩のうちに起きた出来事はあまりに怒涛であまりに密度の高い経験になったに違いない。
思い出すだけで恥ずかしいことこの上ないが、相談したいこともあったため彼女は羞恥心を懸命に押さえ込みながら昨晩の出来事を話すことにした。


***

「ふっ……、んっ」


無事、ランツからの告白に対する返事を成功させたその夜のこと。
互いに想いを渡し合い心を通わせた2人は、暫くバルコニーで過ごしたあと部屋の中に戻ることにした。

とはいえ、先ほどまで仲間たちと楽しく過ごしていたこの部屋には、自分たち以外の人間はもういない。
数分前に彼氏となったばかりのランツと2人きりであるこの状況を改めて思い出し、セナは一層緊張してしまう。

あぁどうしよう。付き合っちゃった。ランツと付き合っちゃった。
しかも今夜は朝まで2人きりなんて、心臓が持つ気がしない。
どうしよう。どうしよう。いっそミオちゃんやユーニのところに行って報告しに行こうかな。
そうすれば否応なしに皆集まって来るだろう。
付き合ったその日のうちに密室で朝まで2人きりで過ごさなきゃいけないなんていきなりハードルが高すぎる。

そんなことを思っていると突然背後から急に抱きすくめられた。
この部屋には自分とランツの2人だけしかいない。
自分を抱き寄せて来る腕の正体など考えなくても分かるが、だからこそ心臓が飛び出そうになった。
“ひゃあ”と悲鳴を上げそうになったセナの唇を、背後から抱きしめて来るランツが強引に奪う。

顎を掴まれ、上を向かされ、噛みつくように口付けられているこの状況に、セナは目を瞑ることさえ忘れて混乱していた。
ランツとのキスは初めてではない。
花火大会の時にも交わしているし、何なら数分前にバルコニーでも交わしている。
けれど、こんなに強引で力強いキスは初めてだった。

うわうわどうしよう。
こういうシーン、どっかの少女漫画でもあった気がする。
ヒロインとヒーローのキスシーンをドキドキしながら読んでいたあの頃、まさか自分も同じような状況に陥る日が来るとは思わなかった。
こういう時、どんな顔をすればいいんだろう。
どんな反応をすれば、ランツに可愛いと思ってもらえるんだろう。
何もわからないセナは、ただただランツのすること成すことに大人しく従うしかなかった。
やがて唇が離れると、いつもより真剣な表情をしたランツの顔が視界いっぱいに広がった。


「悪い、急に」
「う、ううん、全然……」
「嫌か?嫌なら言ってくれ。我慢するから」
「我慢……」


我慢が必要なほど、ランツは自分とこういうことがしたいということなのだろうか。
そう思うと、とてつもなく嬉しかった。
大好きで仕方なかった人が、自分を求めてくれている。
それだけで幸せだ。嫌だなんて思うわけがない。
ランツが相手なら、多分何をされたって受け入れられる。


「嫌、じゃ、ない……っ」


真っ赤な顔と震える声で絞り出されたセナの言葉に、ランツは目を細めた。
そして、再び顎を持ち上げセナの小ぶりな唇へ口付ける。
暫く唇を食み合っていた2人だが、不意に唇を割って来た柔らかい感触を察知しセナは肩をビクつかせた。

ランツの舌が、セナの口内に侵入しすべてを奪うように絡みついてくる。
初めての感覚に、全身から力が抜けていく。
気付けばセナは立っていられなくなり、ランツに抱き留められていた。

畳の上に敷かれている布団の上に座り込んだ後も、2人のキスは続く。
舌を絡ませ、激しく求められる感覚に戸惑うセナ。
何もかもが初めてだった彼女には、ランツの舌を受け入れるのに精いっぱいだった。


「ンン、はっ……、」
「セナ……」


乱れた着流しから露出した首筋に、ランツが唇を寄せた。
舌がゆっくり伝っていく感覚にぞわりと身体を震わせる。
くすぐったいような、気持ちいいような、不思議な感覚。
自然とか細い声を挙げてしまう。
その瞬間、再び唇を塞がれ、セナの華奢な体はゆっくりと布団の上に押し倒された。
部屋の天井を背に、自分を押し倒しているランツの顔が視界に入って来る。
その光景を見にしながら、セナは初めて自分が置かれているこの状況に危機感を覚えた。

あれ、もしかして今、“そういう”感じ?


「ら、ランツ、あの……っ」
「そういう声出されたら、抑えられなくなんだろ……」
「あっ……」


布団の上に投げ出された手が、ランツの大きな手によって重ねられる。
身動きが取れないことに、不思議と恐怖感は感じなかった。
襲い来るのは大きな羞恥心だけ。
何度目かの口付けを落とされながら、セナは覚悟を決めるのだった。


***

セナの口から語られた序章に、2人の乙女は口をあんぐり開けたまま呆然としていた。
あの脳まで筋肉に浸食されているようなランツが、まさかそんなにも甘やかな空気を纏いセナに迫っていたとは。
赤くなりながら一つ一つ丁寧に回想するセナを前に、ミオとユーニは驚きを禁じ得なかった。


「ら、ランツのやつ、そんな感じだったんだな……」
「なんか、あんまり想像つかないね……」
「てか、その流れからして普通に最後までするところだろ?なんでシなかったんだよ」
「それは……」


気まず気に視線を逸らすセナは、なにやら言葉に詰まっている様子だった。
聞いている限り、昨晩ランツとセナは非常に甘い空気の元布団に入っていったらしい。
セナ自身、羞恥心と緊張感を抱いていたものの拒絶する意思はなかったようだ。
ならば何故、最後まですることなく下着姿で一緒に眠るオチになったのか。
興味津々な様子で耳を傾ける2人の友人に、セナは再び事の顛末を語り始めた。


***

布団の上に押し倒された後、ランツは暫くセナを抱きしめ続けていた。
時折唇や額に口付けて、手を重ね、首筋に舌を這わせる。
すぐに脱がせようとしなかったのは、彼女の緊張を読み取って気遣ったからなのだろう。
やがて20分ほど愛でられた後、ランツはゆっくりとセナの着流しを固定していた帯に手をかけた。

“いいか?”と問いかけて来る彼に、真っ赤な顔で頷くセナ。
承諾を得たことで、ランツはようやく帯を緩めた。
肌が露出し、下着姿となったセナはあまりの羞恥心に自らの身体を両手で隠す。
彼女の気持ちを察し、ランツはここでようやく部屋の明かりを常夜灯に切り替えた。

薄暗い中でセナの身体が良く見えないのは少々残念だが、きちんとその綺麗な姿を目に焼き付けるのは何度か行為を重ね、セナが状況に慣れてきてからでいい。
なにせもう2人は付き合っているのだ。
チャンスは今夜だけじゃない。

恥ずかしがるセナの心を解きほぐすように、ランツはゆっくり時間をかけてセナを愛でた。
指先でほぐし、舌先で撫で、言葉で褒めたたえる。
そうしているうちにセナの緊張もほぐれ、初めての行為にようやく甘く喘ぐようになっていた。

1時間近く絡み合ったところで、流石にランツの我慢も限界に近づいていた。
そろそろいいだろう。
そう判断したランツは、手荷物を漁り1枚の小袋を取り出した。
夕食の席の後ノアから半ば強引に手渡された“秘密道具”である。

“何かあった時のために”と言われて渡された時は、あるわけがないと笑い飛ばしていた。
しかし、まさか本当に使う羽目になるとは。
小袋の封を切り、すでに準備が整っている己の分身に装着してやると、はやる気持ちを抑えながらセナのそこに宛がった。
だがここで、大きな問題が発生する。
丁寧に、慎重に、ゆっくりと押し入れようとしたランツだったが、張りつめたそこが一向にセナの奥へと到達しないのだ。
小柄なセナを屈強な腕で抱きしめながら、ランツは内心焦っていた。

マズい。これはマズい。セナの中が、死ぬほど狭い。
ランツとセナは40センチ近い身長差があり、体格差も歴然としている。
セナが誰のモノも受け入れたことがない事実はよく知っていたため、苦労するであろうことは事前に分かっていた。
だが、ここまで狭いとは。
平均よりも小柄で、なおかつ体を鍛えている彼女だからこそなのだろう。

挿入しにくい理由は他にもあった。
ランツはセナとは違い、それなりに経験がある。
数えきれないほど多くはないが、向こうが言い寄ってきたことで交際に発展した女性の数は平均よりもほんの少し多い。
当然、身体の関係を結んだ相手もいるわけだが、初めてベッドに入ると必ず言われることがある。

“えっ、おっきくない?”

視線を下に落とし、目を見開きながらほぼ全員の女性がそう言ってきた。
自覚はなかったが、どうやら自分は身体だけでなく分身すらもそれなりのサイズだったらしい。
小柄で未経験なセナに、ただでさえ質量のあるランツのそこを受け入れるのは至難の業だった。

当然、先端を埋め込んだところでセナは苦しそうにうめき声を上げ始める。
“痛い”とは言わなかったが、苦悶の表情を浮かべていた。
セナは頑張り屋だ。このまま続ければ、襲い来る痛みに何も言わずに耐えることになるだろう。
嫌とは言わないはず。だが、言わないからと言ってこのまま強引に事を進めてよいものか。

熱に浮かされた頭で、ランツは懸命に自分を説得した。
駄目だ。やめろ。勢いに任せて抱くのは違うだろ、と。
目に涙をためながら身体を固くしているセナに、ランツは大きな罪悪感を抱いた。

思えば、告白も勢い任せだった。本当はもっとセナのペースに合わせて、ゆっくり事を進める予定だったのに。
返事をしてくれたのも、きっと自分に気を遣って懸命に勇気を振り絞った結果なのだろう。
そして今、付き合えた嬉しさに浮かれた勢いで、不慣れなセナの足を強引に割ろうとしている。 

控えめで怖がりなセナ相手に、悪手ばかり打っている気がする。
このままずっと強引に自分のペースで歩き続けたら、いつかセナは疲れて立ち止まってしまうかもしれない。
“やっぱり考え直したい”
そう言われる日が来るかもしれない。
せっかく付き合えたのに、それだけは嫌だった。

半分近く埋めていたそこを、ランツはセナのナカから引き抜いた。
未だ熱を持っているソコはセナのナカに還りたいと騒いでいるが、懸命に理性を働かせることで黙らせた。
上に覆いかぶさっていたランツが離れたことで、セナは涙で潤んだ瞳を丸くさせながら不思議そうに見つめて来る。


「……悪かった。強引に迫ったりして。今回はここまでにしておこうぜ」
「えっ、でも……」
「痛いんだろ?無理すんな。無理矢理シたら、これから同じことするたび怖い思いする羽目になるだろうし」


布団の上に仰向けで横たわるセナの身体を、ランツは抱き起す形で腕の中に仕舞い込む。
上昇した体温が素肌越しに伝わって来る。
まだ疼いている身体を必死で抑え込む彼に、セナは申し訳なさを感じていた。

確かに尋常ではない痛みを感じていた。
きっとランツが止めていなければ、遅かれ早かれセナ自身が音を上げていただろう。
心の準備も出来ていないこの状況で、勢いに任せてランツの高ぶりを受け入れられるほど、セナは柔軟で経験豊富な女ではない。
“そんなことない。続きしよう?”
そう言ってしまいたかったが。未だ下半身を支配する鈍痛がその言葉を飲み込ませてしまう。


「ごめんね、ランツ……」
「謝んな。悪いのは俺だ。俺が早まったから」
「でも私、嬉しかったよ?こんなに好きなの、私だけじゃないんだって思えた」
「当たり前だろ」


顔を上げたセナの唇に、本日何度目かの口づけが施される。
余裕をなくしたランツが、切羽詰まった表情で自分を見下ろしているこの状況に、セナは心ときめかせていた。
いつもカッコいいランツが、今日はなんだか可愛く見える。
見とれていると、彼はまた強く抱きしめながら耳元で言葉を続けてきた。


「今夜はシない。お前さんの気持ちが落ち着いたころに、またしよう」
「う、うん。わかった」
「……そのかわり」


背中に回っているランツの腕の力がぎゅっと強まった。
まるで束縛するかのような抱擁に戸惑っていると、ランツらしからぬ甘い声で甘い提案が囁かれた。


「今夜はこうやって抱き合って寝る。いいな?」


胸が、心臓が、きゅうんと締め付けられる。
言われなくても、そうしたいと思っていたところだった。
断る理由なんてどこにもない。
赤い顔のまま控えめに頷けば、ランツはその大きな手で頭を撫でて来る。

薄暗いへの中で、2人は下着姿のまま暫く抱き合い、語らい、そして眠りに落ちた。
結局、宣言通りランツがセナを放すことはなかったが、理性を手放すこともなかった。
いつの間にか眠ってしまっていた2人が次に目を覚ました時、揃って驚いたような表情を浮かべている仲間たちの姿を見て大いに焦ることになったのだった。


***

甘酸っぱい夜のエピソードを語ったランツに、横で聞いていたノアとタイオンは開口したまま言葉を失っていた。
アウトレットの大規模駐車場。
停めた車の外で、車体に寄りかかりながら3人はトイレに向かった女性陣の帰還を待っていた。

暇な時間、ノアはランツから聞いた“シていない”という言葉を深堀することにした。
語ること自体に渋っていたランツだったが、タイオンと一緒にしつこく質問攻めした結果、昨晩起きた甘酸っぱくもありほろ苦くもあるエピソードが引っ張り出されたのである。

運転席のドアに寄りかかるランツへ、反対側のボンネットに頬杖を突いたノアとタイオンが視線を送る。
信じがたいとでも言いたげな、ある意味で尊敬の眼差しであった。


「なるほど、そんなことがあったのか……」
「状況から見て確実に手を出していると思っていたが、まさか寸止めを食らっていたとは……」


揃って感心している様子のノアとタイオンからの眼差しに、ランツはほんの少しの居心地の悪さを感じていた。
据え膳食わぬは男の恥という言葉の通り、男にとって好きな女性との一夜を寸前で逃してしまう状況はあまりにも辛い。
2人の友人は寸前でブレーキをかけたことに感心しているようだが、恐らくセナが泣きださなければあのまま続けていたことだろう。
それほどまでに、ランツはセナとの一夜を渇望していた。


「というか、そのあとどうしたんだ?寸前までして色々準備万端な状況だったんだろ?」
「トイレ行って一人で処理したっつーの。言わせんな」
「「偉い……」」


腕を組み、顔を逸らしながら吐き捨てるランツに、ノアとタイオンは同情の眼差しを向ける。
同じ男として、寸止めを食らった辛さはよく分かる。
長年片想いしていた相手と同じ布団で眠りながら最後まで致すことなく手を引いたランツの判断は、誰にでもできる事ではない。
付き合ったばかりの彼女を気遣い、男らしく身を引いたランツの男気に、ノアは彼の肩に手を添え賞賛の言葉を贈る。


「すごいなランツ。その状況下で我慢できるなんて。俺には無理だ」


素直に賞賛しているノアの姿を見ながら、タイオンは呆れ眼を見せていた。
同じベッドで寝ながら1年も据え膳に手を出さなかった君が言うのか?
とはいえ、確かにランツの覚悟は賞賛に値するべきものだ。
もし自分だったら我慢出来ていただろうか。
例えばユーニが自分に告白してきたとして、付き合った直後同じ部屋で一夜を過ごすことになったとして、途中までその体を愛でていたとして、最後の最後で我慢するという選択が取れるだろうか。
十中八九無理だ。ランツだからこそ出来たことだろう。


「おまたせー!」


遠くからこちらに手を振りながら歩み寄ってくる女性たちの姿が見える。
ミオ、ユーニ、そしてセナの3人である。
トイレに行ってから20分以上が経過しているが、ようやく戻って来たらしい。
“遅かったな”とタイオンが口にすると、ユーニが“メイク直してたんだよ”とむっとした表情を浮かべながら答えた。

ようやく戻って来た3人の女性陣と合流すると、一行は続々と車に乗り込んでいく。
帰りの運転手もランツが担うことになったのは、宿を出る前に行った熾烈なジャンケン合戦の結果である。
行きではノアとミオに促される形で助手席に乗ったセナだったが、帰りである今は自らの意思でランツの隣に乗り込んだ。
2列目にはノアとミオが。3列目にはタイオンとユーニが腰を落ち着かせた。
ランツがエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだことで、6人を乗せた車は走りだす。

ウロボロスハウスがある都内郊外までの道のりは、約2時間ほど。
高速道路に乗って暫くすると、後部座席に座っていた4人は揃って寝息を立てていた。
車内で起きているのは、運転手であるランツと助手席のセナだけ。
全員目を閉じ眠っていることをセンターミラーで確認したセナは、すぐ隣でハンドルを握っているランツの横顔を覗き見る。
まっすぐ前を見据えている“彼氏”の姿は、付き合う前よりもなんだかかっこよく見えた。

この人が、私の彼氏……。
そんな今更なことを噛みしめるように内心呟いていると、ハンドルを握っていたランツがちらっとこちらに視線を向けてきた。


「なんだよ、そんなにガン見して」
「えっ、あ、ごめんっ。なんか未だに実感なくて。あのランツと付き合えるなんて夢にも思ってなかったから……」
「バーカ。そいつはお互い様だっての」


そう言って、ランツはハンドルから放した左手をスッと差し出してきた。
それは“手を繋ごう”という無言の合図。
だが、そんな彼の甘やかな提案にセナはすぐさま乗ることが出来ず顔を赤らめた。
ランツは今運転中だ。右手はきちんとハンドルを握っているとはいえ、片手で運転するのは流石に危ないのではないだろうか。


「い、今!? 運転中だし……」
「暫くまっすぐだしハンドルほぼ動かさねぇから大丈夫だよ」
「でもみんなもいるし……」
「全員寝てるだろ。それに、家帰ったら常に他の皆の目があるからなかなかこういうこと出来ねぇぞ。今イチャついとかねぇと勿体ないだろ」


ランツの言葉に、セナは大きな説得力を感じていた。
ウロボロスハウスと呼称しているあの一軒家はかなり広い家ではあるが、同居人が他に4人もいればなかなか2人きりになれる機会には恵まれない。
ただでさえ2人の寝室は別々だ。同じ部屋で眠っているノアやミオのように、気兼ねなく2人きりの時間を過ごせる機会は少ないだろう。
こうして恋人らしいことが出来る貴重な機会を逃す手はない。
ランツの言葉に絆されてしまったセナは、顔を真っ赤に染め上げながらランツの手を握り返した。

絡み合う手と手。
余りの恥ずかしさに顔を逸らすセナと、何処か満足そうに口元に笑みを浮かべながら前を見据えるランツ。
甘やかな空気の中にいる2人は全く気付かなかった。
後部座席に座っている4人が、実は全員狸寝入り状態だったということに。

それぞれ起きたタイミングは別々だが、運転席と助手席を繋いでいる手と手を視界に入れた瞬間、全員が再び目を閉じ寝たふりを決め込んだのだ。
そんなことも気付かず、2人は相変わらず甘酸っぱい空気を醸し出している。
懸命に寝たふりを続ける4人は、ほぼ同時に脳内で嘆いた。
“早く家についてくれ……”と。

 

act.47

 

今年の夏休みは色々なことがあった。
黒い閃光が家に出現し大騒ぎしたり、花火大会で女性陣の浴衣に見とれたり、軽井沢の温泉で癒されたり。
特にこの夏大きな動きがあったのは、ランツとセナの2人だろう。
花火大会でのランツの告白から始まり、軽井沢旅行にてセナが返事をしたことで2人の交際は晴れてスタートした。

セナにとってランツは人生で初めてできた恋人であり、ランツにとってもセナは大学入学直後から長年片想いをしていた相手である。
互いに想いを募らせた末に実った恋であるためか、2人のラブラブぶりは目に余るほどだった。
朝は2人仲良くランツの部屋で筋トレに励み、昼になれば2人仲良くキッチンで筋トレ飯の生成に精を出す。
夜になればソファーを占領し2人並んで仲良くゲームをしている。
とにかく幸せそうな2人をノアは微笑ましく見ていたが、どうやらタイオンにとっては顔をしかめたくなる現状だったらしい。

朝起きるといつの間にか部屋にセナが遊びに来ていて、タイオンの存在も構わずイチャつきながら筋トレに励んでいるらしい。
前々から朝早くに部屋に突撃してきて筋トレを始めるセナの行動に少々困惑していたようだが、彼女がランツと付き合いだしたことでその遠慮のなさに拍車がかかったようだ。
朝目が覚めて2人の筋トレカップルがイチャついている光景を視界に入れるのはなかなかにキツイものがある。
毎朝げんなりしながら自室を出ているタイオンに、ノアは密かな同情心を寄せていた。

そんなノアも、この夏休みで自分の人生観を揺るがしかねない課題が発生していた。
ゼオンからのバンドの臨時メンバーとして依頼を受けたのだ。
担当を依頼された楽器はヴァイオリン。
ノアが幼い頃から遠ざけてきた楽器である。
自分と同じく音楽の道に身を置くミオからの後押しもあり、彼はゼオンからの依頼を受けることに決めていた。
とはいえ、ヴァイオリンを再び手にするには相当な決意とエネルギーがいる。
依頼を受けると決めた後も、彼の心は嵐のように大きく波立っていた。


「ふぅ……」


夏休みが明け、大学が新しい学期に突入した初日。
ノアは大学内にある音響室を訪れていた。
ここは主に軽音サークルやバンドを組んでいる学生向けに貸し出されている部屋であり、ゼオン率いるバンドもいつもここを借りて練習している。
音響室の扉に手をかけながら、ノアは珍しく緊張していた。
ヴァイオリンを再び弾くということも、ゼオンのバンドに一時的に参加するということも、ノアにとっては大きな決断である。
到底心穏やかではいられない。

大きく深呼吸し、意を決して音響室に入ると、そこには楽器を手にそれぞれ練習している4人の男たちの姿があった。
カイツにフォクス、イスト。そしてゼオン
全員ノアやランツ、ユーニとは同じ高校出身の面々であり、彼らのバンドは高校2年の文化祭で結成されたものである。

本来ならカミラという紅一点もこの中に所属しているはずだが、彼女は数週間前に事故に遭い怪我を負ってしまった。
11月の大学祭までには完治できるが、練習に参加できない以上当日の参加は難しい。
話し合いの元、代役を立てるべきだというバンド内での結論に従い、カミラが担当していたヴァイオリンを唯一弾ける知り合い、ノアへとたどり着いたというわけである。

ゼオンはノアに依頼をする直前、ユーニから大まかな事情を聞いていた。
無理強いは出来ない。この依頼を受けてくれるかどうか、夏休み明けに答えを聞かせてくれ。
ノアにはそう伝えていた。
音響室に訪れたノアの姿を見て、ゼオンはすぐさま察しがついた。
わざわざここに来てくれたということは、この依頼を受けてくれる気になったのだろう、と。


「ノア。来てくれたということは、例の話、受けてくれる気になったのか?」
「あぁ。俺なんかでよかったら、協力させてもらうよ」


そう伝えた瞬間、4人のバンドメンバーたちは笑顔を零しながら互いの顔を見合わせた。
どうやらノアの答えに安堵しているらしい。
朗らかな笑顔を浮かべながら、今度はカイツがこちらに歩み寄って来た。


「助かるぜノア。ヴァイオリン弾ける奴なんて他にアテがなくてさ」
「弾けると言っても、もう10年近く演奏してないんだ。期待以上の演奏は多分出来ないと思うけど……」
「それでも未経験の素人よりマシだって!それに、昔はコンクールとかに出るほど上手かったんだろ?」
「それは……まぁ……」


笑顔で誤魔化しつつ、ノアは顔を逸らす。
ヴァイオリンに精を出していた頃の話は、あまり思い出したくはない。
確かにコンクールには何度も出ていたが、上手かったかと問われればきっとそんなことはないのだろう。
事実、自分はいつも天才だった兄と比べられては落胆されていた。
勝手に期待して勝手に落胆してきたかつての大人たちのことを思い出してしまいそうになる。

気まず気に視線を逸らすノアの心の機微を、事情を知るゼオンはいち早く察していた。
そして、小脇に抱えていたクリアファイルから楽譜を取り出しノアへと手渡す。


「ちょうど今、当日演奏する予定の曲を共有していたところだ。楽譜を渡しておく」
「ありがとう」


手渡された楽譜に軽く目を通してみると、そう難しい曲ではなさそうで安心した。
練習期間は2カ月ほどしかない。あまりにも難易度の高い曲だったらどうしようかという不安もあったのだ。
だが、楽譜上に一つだけ不安な個所を見つけてしまう。
2番の直後に訪れる間奏部分に、ヴァイオリンのソロパートが挿入されているのだ。
この部分においては、何よりもノアのヴァイオリンが目立ってしまうだろう。
間奏の十数秒間の間、観客の目が自分へと一点集中する。
その状況を想像し、楽譜を掴む手に力が入った。


「やれそうか?」
「……あぁ。やり切ってみせるよ」


決意を秘めた表情で力強く頷いたノアに、ゼオンは柔く微笑みを返した。
怖くないと言ったら嘘になる。正直、ものすごく怖い。
コンクールで壇上に立つたび味わったあの恐怖感に再び苛まれるのではないかという不安が、この胸を覆っている。
だが、もう逃げないと決めた。
過去のトラウマを払拭しなければ、自分は一生ヴァイオリンという生涯の友を遠ざけ続ける羽目になる。
それだけは嫌だった。
もう一度バイオリンと向き合いたい。またこの楽器を心から楽しいと思えるようになりたい。
その気持ちが、ノアに大きな勇気を与えていた。


「よし。じゃあ暫くは自主練だ。1週間後にまた集まって音合わせしてみよう。その時はよろしく頼む」
「わかった」
「よし!期待してるぜノア!一時的とはいえ、お前は今日からうちのメンバーだ。当日まで一緒に頑張ろうぜ」
「あぁ。カミラのためにも、足を引っ張らないよう努力するよ」


4人のバンドメンバーはノアの到来を心から歓迎してくれた。
カイツの言う通り、一時的とはいえこれからノアはこのバンドの一員としてやっていかなければならない。
大学祭までの時間は限られている。出来る限りバンドの集まりには顔を出しておこう。
そんなことを考えながら再び楽譜に視線を落とすノアだったが、不意に肩に重みを感じて顔を上げる。
カイツが突然ノアの肩に腕を回してきていたのだ。
彼は他の面々に聞こえないよう、何故か小声でノアへと耳打ちを始めた。


「それでさ、実は俺からもちょっとしたお願いがあるんだけど……」
「お願い?」


言い出しにくそうなカイツの態度に、ノアは首を傾げた。
そんな彼に、カイツは言葉を選びつつ“お願い”の詳細を伝え始める。
高校の頃からノアと交流があったカイツは、彼の人の良さをよく知っていた。
どんな言葉で頼めば彼が承諾してくれるかも、経験上手に取るようにわかる。
“頼む!”と両手を合わせて懇願するように頼み込むと、ノアは案の定困ったように眉を寄せながら言うのだった。
“仕方ないな”、と。


***

キャンパスの正面口に立ち、タイオンは仏頂面でスマホの画面を睨みつけていた。
画面に表示されているのは、今年の大学祭で発表される予定のミス&ミスターコンの途中結果。
ミスコンの結果表示に羅列されているのはほとんど知らない名前だが、1位に君臨している名前だけはよく知っている。

ユーニ。
彼女の名前はこの投票が始まった当初から常に1位の座に居座っており、見ている限り1度も2位以下に転落したことがない。
相変わらずの人気ぶりだ。それだけ彼女を“可愛い”と思っている人間がこの大学内に多いということか。
これでもし本当に優勝してしまったら、元々彼女のことを知らなかった層までユーニという存在を知ることになり、ただでさえ人気だった彼女がさらに人気になってしまうかもしれない。
そうなったらいよいよ手が届かなくなる。


「はぁ……」


好きな人がモテるというのもなかなかに考えものだ。
例えば彼女がもっと平凡な顔をしていて、愛嬌も無くて、スタイルも悪くて、性格も悪かったならこんな劣等感に苛まれずに済んだだろう。
だが、彼女がもしそんな人間だったなら、そもそもこんなにも好きにはならなかった。
惚れた弱みという奴か。


「あれ、タイオン?」


不意に横から声をかけられた。
スマホから視線を上げると、そこにいたのは同居人の一人、ノアだった。
どうやら彼もキャンパスに顔を出していたらしい。
背中に背負っているのはただのリュックじゃなさそうだ。
楽器ケースのようだが、ギターやベースにしては小さい。
中身は何だろうかと気になったタイオンは、素直に疑問をぶつけることにした。


「君も来てたのか。背中のそれは?」
「あぁ、ヴァイオリンだよ。ちょっと使う用事があって」
「ほう……?」
「それよりタイオン、次の土曜って暇か?」


突然の問いかけに、タイオンは少し驚きながらスマホを確認した。
立ち上げたのはスケジュールアプリ。
土曜には特に何も予定は入っていない。
“空いてる”と伝えると、彼は少し安堵したように微笑んだ。


「それじゃあ、ちょっと付き合って欲しいんだけど——」


***

ノアとタイオンが大学の正面口で遭遇していた同時刻。
ウロボロスハウスでは、3人の女性陣が食卓を囲い、昼食を摂りながら世間話に花を咲かせていた。
旅行から帰って以降、こうして女性陣だけで話すのは初めてのことである。
この機会にセナはミオとユーニに相談したいことがあった。
言わずもがな、ランツとのことである。


「恋愛経験豊富な先輩方に相談があります!」
「何だよ急に」
「私は別に豊富ってわけじゃないけど……」
「でも、ノアと1年以上付き合ってるでしょ?私よりは確実に経験豊富だよ!」


ランツとの交際が始まって約1週間。
交際したてのカップルらしく2人は甘い日々を過ごしていた。
目が合えば互いに微笑み合い、時折触れ合って、同居人たちがいない場面では軽いキスを交わすこともある。
初めて恋人という存在を作ったセナは、好きな人と付き合えたこの現実に何の不満も抱いていない。
だが、時折不安になるのだ。自分に不満はなくとも、ランツはどうだろう、と。

セナには、ランツが不満を覚える心当たりがあった。
軽井沢旅行の夜。2人が想いを伝えあったその日、ランツの甘い誘いに乗ることが出来ず行為が未遂に終わってしまったのだ。

この事実は男にとっては非常に辛く悶々とするに違いない。
恐らくはランツも例外ではないだろう。
だが、だからと言ってこのままリトライしたとしても、きちんと成功するビジョンが見えない。
とはいえ、経験がないセナには何をどう意識して対策を講じればいいのか全く想像がつかなかった。
分からないことは経験者に聞けばいい。
そんな単純明快な思考回路の元、彼女は自分よりも経験があるはずのミオとユーニを頼ることにしたのだ。


「そんなに無理してリトライしようとしなくてもいいんじゃね?」
「私もそう思う。焦って頑張ろうとしても、セナが怖い思いするだけなんじゃないかな?」
「……でも、ランツを待たせるのは嫌なんだ。今までずっと私のペースに合わせてくれてたみたいだし。それに……」
「それに?」


言いよどむセナに、ユーニが首を傾げながら続きを促した。
すると彼女は、頬を赤く染めながら視線を逸らし、か細い声で呟く。


「わ、私もしてみたいから……」
「お、おう。なるほど」
「まぁ、気持ちはわかる。やっぱり好きな人となら経験してみたいよね?」
「うん……」


寸前で我慢を強いてしまったランツに申し訳ないという気持ちはあった。
けれどそれ以前に、セナ自身ランツともっと触れ合いたいという欲もある。
ランツのためだけに克服したいわけではなかった。
とはいえ、気持ちだけで解決できる問題でもない。
何かしらの工夫を凝らさなければ、2人は次のステップに進むことは難しいだろう。
セナの本心を聞き届けたユーニは、腕を組みながら“うーん”と唸り始める。


「要するに、小柄なセナにはランツのバカでかいイチモツを受け入れるのは難しいって話しだろ?」
「ユーニ、言い方……」
「今更カマトトぶってても仕方ねぇだろ。いちいち言葉選んでたら満足に話し合えねぇって」
「まあ、それはそうね……」


ユーニにとって、ランツは友人でもあり幼馴染でもある。
幼稚園に通っていた年のころは、ノアと3人で一緒に風呂に入ったりもしていたが、流石にそれなりの年齢になってからは2人の身体をちゃんと見る機会はなかった。
とはいえ、小学校にあがってから柔道を始めたおかげでランツの身体はめきめきと大きくなっていった。
身長が伸びると同時にガタイも良くなり、手や足のサイズも他の男たちに比べて格段に大きくなっている。
他の身体のパーツが大きいのだから、その部分が平均サイズだったらむしろ違和感がある。
ある意味、人より大きくて当然なのかもしれない。


「あ、あのさ。2人は経験あるんだよね……?初めての時、どんな感じだったの?」


恐る恐る問いかけて来るセナの質問に、ミオとユーニは顔を見合わせた。
確かに経験はある。
だが、その時のことを事細かに他人に話す機会など無かった。
ミオは勿論のこと、流石のユーニも話しにくそうに視線を逸らしながら鼻先を掻いた。


「どんなって言われても……」
「ユーニはいつ、だれが相手だったの?」
「高2の頃、当時付き合ってた1つ上の先輩と。けどもう4年近く前の話だし、あんまり詳細には覚えてねぇな」


ユーニが異性にモテるのは言わずもがな。
高校の頃から彼氏を途切れさせたことがなかった彼女は、高校在学中に大人としての階段を先んじて登っていた。
とはいえ、あれから4年も経過した今、あの頃のことを詳細に思い出せと言われてもなかなか難しい。
ぼんやりとした過去を回想することなく、ユーニはすぐさまミオへと話題をふった。


「ミオの方は?そっちの方が最近のことだし思い出しやすいだろ」
「えっ、わ、私!? えっと……」


ミオは夏前にノア相手に経験を積んだばかりである。
初体験時の思い出は、ユーニよりもミオの方が記憶に新しいだろう。
だが、相手が知り合いである時点で妙な生々しさが生まれてしまう。
ここにいないノアの為にも、下手なことは言えない。
そう判断した彼女は、顔を赤らめつつ実に曖昧な言葉で濁すことにした。


「すごくその……。し、幸せだったよ」
「いや、そういう惚気を聞いてるんじゃなくてな……」
「やっぱり幸せな気持ちになれるんだ……!」


隙あらば甘やかな空気感を醸し出そうとするミオに呆れるユーニだったが、そんなミオの回答もセナの背を押す要因になり得たらしい。
未だ経験のないセナは、両手を小さく握りしめながらミオの回答に目をきらめかせていた。
痛みの有無や具体的な緩和法を共有し合おうとしていたのに、心情的な感想を述べてどうする。
求めていたものとは全く違う回答にため息をついたユーニは、“痛かったのかどうかを聞きたかったんだけど?”と軌道修正のために再び質問を投げかける。


「あ、あぁそっか!痛みね。えっと、うん、それなりに痛かったかな。血も出たし」
「そっかぁ。やっぱり痛いのが普通なんだね……」
「まぁ体の中に異物突っ込むようなもんだしな。痛くないわけねぇって」


ユーニの言葉はもっともだった。
実際、軽井沢旅行の夜にランツと一線を越えそうになった時、彼のそこが押し込まれる感覚は今までに味わったことのない種類の痛みだった。
生理的な涙を抑えることが出来ず、全身に力が入ってしまう。
普段の筋トレのおかげで忍耐力にはそれなりに自信があったが、あれは筋トレで何とかなる問題ではない。
俯き、難しい表情で口元をきつく噤んでいるセナに、ミオとユーニは同情の眼差しを向けていた。


「セナとランツは結構体格差あるものね。普通の人より難しいのかも」
「だな。聞いてる感じ、普通にトライしても無理そうだ。何かしらの工夫を凝らした方がいいのかも」
「例えばどんな?」
「滑りをよくするためにローション的なものを使うとか」
「ローション……。テレビで芸人さんがやってるヌルヌル相撲のあれ!?」
「お、おう……。まぁそうだな」


セナが思い浮かべたのはバラエティー番組での一幕。
ぬるぬるとした妙な液体にまみれた小太りの芸人たちが、互いに足を滑らせながら一生懸命に相撲を取るあの滑稽な規格である。

なんとも色気のない連想をしてきたものだが、純粋なセナならではだろう。
ローションを使用すれば滑りは良くなるだろうが、それだけで解決できるとはあまり思えない。
これくらいの対策なら、ランツでも思い浮かんでいるに違いない。
もっと他に工夫できることはないだろうか。
再び考え込むユーニだったが、とある疑問が頭をよぎりハッとした。


「そういえば、軽井沢旅行の夜はどの体位でやったんだ?」
「体位?」
「どういう体勢だったかってこと」
「えっとね、確か私がお布団に寝っ転がって、その上にランツが覆いかぶさる感じだったよ」
「なるほどな」


セナからの言葉に、ユーニは納得したように腕を組みなおした。
彼女たちがトライした体位は、いわゆる“正常位”と呼ばれるものだろう。
女が下になり、男が上に乗る、実にスタンダードな性行為の体位である。

この体勢を取る場合、必然的に挿入は上に乗る男性側が主体となって行うことになる。
女性は押し入って来る異物をただただ黙って受け入れるしかないわけだが、この体勢に工夫の余地があるのではないかとユーニは考えていた。
相手に任せるから余計な痛みが生じるのだ。
自分自身で挿入すれば、加減も調節出来て痛みも緩和されるのではないだろうか。
そう判断し、ユーニは意を決して提案してみることにした、


「じゃあさ、体勢入れ替えるってのはどう?」
「入れ替えるって……?」
「ランツが下、セナが上になるってこと」
「えぇっ!?」
「そっか!セナが上になって自分で挿入すればいいのね!」
「そういうこと」


経験済みであるミオにも、ユーニの考えは伝わったらしい。
セナがランツの上に乗ることで自ら腰を落とし、挿入する。
初めてでこの体勢を選ぶ者は珍しいが、挿入さえ成功してしまえばあとはこっちのもの。
あとはランツが上手くリードすることだろう。
だが、“自分で挿入する”ということにセナは激しい抵抗感があるらしい。
真っ赤な顔で“いやいや”と両手を振って来た。


「そ、そんなの無理だよ!恥ずかしいって!それに、自分で挿れる自信ないよ……」
「よく考えてみな?どうせ痛い思いをするなら自分のペースで進めていった方が怖くねぇだろ?」
「そうよセナ。確かに最初は恥ずかしいかもしれないけど、このままずっと前に進めないよりはマシなんじゃない?」
「それはそうだけど……」


ランツの前で服を脱ぎ裸になること自体、顔から火が出るほど恥ずかしい行為だった。
にも関わらず、その上自分から彼の上に跨り挿入するだなんて出来るわけがない。
そもそも、自分が下になる体勢すらまともに経験していないのに、自分が上に跨る体勢になるなんてあまり想像が出来ない。
手はどこに置けばいいのか、重心はどこに寄せればいいのか、頭で想像しても全くビジョンが浮かばなかった。


「うーん……。私が上になるって、具体的にどういう体勢なの?」
「簡単だって。横たわってるランツの上に跨って、手の位置は……」
「口で説明されても分かんないよぉ……。ミオちゃんとユーニでちょっとやってみてくれない?」
「えっ」
「えっ」


まさかの依頼に、ミオとユーニの思考がほぼ同時に停止する。
やってみるって、ここで?
ミオが問いかけると、セナは無情なほどに力強く頷いた。

確かに、口で説明するにも限界がある。取るべき体勢をこの場で再現してやれば容易にイメージが付くだろう。
とはいえ、これから再現するのは単なるストレッチや組手の類とはまるで違う。
性行為における体位の再現である。
いくら女同士といえと多少気まずいものがある。

しかし、目の前にいる純真無垢なセナは、経験がある2人から少しでもヒントを得ようと至極真剣な眼差しをこちらに向けている。
ランツの想いに応え、受け入れたいという気持ちは本物らしい。
その無垢ゆえのまっすぐな目を2人の経験者は無下にすることなど出来なかった。


「しゃーねぇな……。ミオ、やるぞ」
「う、うん……」


重い足取りで2人は立ち上がる。
2人が迷うことなく向かった先は、リビングの中央に置かれた3人掛けのソファだった。
床で再現するよりはこちらの方がやりやすいだろう。
目をきらめかせるセナを横目に、ソファの目の前で立ち止まった2人は互いに顔を見合わせる。


「……ユーニ、どっちがいい?」
「どっちでもいいって」
「じゃあ私が下で」
「ならアタシが上か」


覚悟を決めたように2人はソファへ足をかける。
まずはミオがソファの上にあおむけで寝ころんだ。
その上に覆いかぶさるようにユーニが続く。
ベッドではなくソファで再現しているため少々狭くはあるが、2人とも細身の女性であるためそこまで狭さは気にならなかった。
横たわるミオの下腹部に跨り腰を浮かせたユーニが、少し赤い顔をしながらセナへと視線を向ける。


「はぁ……。い、いいか?アタシがセナ役で、ミオがランツ役だからな?」
「うん!」
「奴のそこを挿れるとき、ちゃんと手で押さえたほうがいいと思う。んで、ゆっくり腰を落とす」
「ほうほう」
「バランスとるのムズイと思うから手を……。ミオ、手出してくんねぇ?」
「あ、うん」


ユーニの言葉に素直に従い、ミオは両手を前に出した。
セナ役を演じるユーニは、彼女から差し出された両手に手のひらを合わせるように両手を重ね、指を絡ませ合う。
両手を繋がれたことにより、上に跨っているユーニの重心がぶれることはなくなり体勢が安定する。


「ランツにこうやって手繋いでもらえ。そしたらふらつかないと思うから」
「な、なるほどぉ……!」
「んで、全部入り切ったら……」
「ちょっと待って!なんか忘れちゃいそう。一応写真撮っていい?」
「はぁっ!?」
「駄目駄目!それは流石にやめて!」
「えーでも……」


いくらなんでもこの体勢を写真という名の形に残されるのは嫌すぎる。
たとえそれがセナの教材として役に立つのであっても、流石に羞恥心には抗えない。
スマホを構え始めたセナを、体勢もそのままに真っ赤な顔で必死に止めようとするミオとユーニ。
しかし、セナがスマホを下ろすよりも先に、リビングの扉がガチャリと開く音がして全員身を固くした。

嫌な予感が頭をよぎる。
羞恥心で赤くなっていたミオとユーニの顔色は一気に白く染まり、焦りの色が瞳を支配する。
リビングの扉を開けたのは、揃って大学から帰ってきたノアとタイオンだった。
ソファーの上に組み敷かれているミオと組み敷いているユーニをまっすぐ見つめ、2人とも目をこれでもかというほど見開いている。

ただでさえ怪しげな体勢の2人を、脇でスマホを構えながら見守っているセナの存在が、妖しさに拍車をかけている。
まずい。これはマズいところを見られた。
2人が言い訳をするよりも前に、ノアとタイオンは気まずげに視線を逸らしながら背中を向けた。


「……すまない。邪魔をしたな」
「悪い。知らなかったんだ。そういうことになってたなんて……」
「ちょ、待て!ちげぇから!マジでそれだけはちげぇから!」
「やめてやめて!変な勘違いしないでお願いだから!」


そそくさとリビングを出て行こうとする2人の男性陣を、ソファから飛びのいたミオとユーニが慌てて追いかける。
2人の腕に縋りつきながら言い訳を繰り返す友人たちの様子を、セナは圧倒されながら見つめていた。
ノアとタイオンの誤解を解くのに約1時間ほどの時間を擁してしまったのは、3人の女性陣取って計算外の出来事だった。

 

act.48


「交流会?」
「あぁ」


その日、就寝前のスキンケアを行っていたミオは、ベッドに腰かけていた彼氏、ノアの言葉に顔を上げた。
鏡越しに映るノアの顔をじっと見つめるミオは、化粧水を肌に染み込ませるように頬に手を添えたままフリーズしている。


「元々はカイツとその友達が誘われてた集まりだったらしいんだけど、行けなくなったらしくてさ。人数の関係もあるから、代わりに行って来てくれないかって」
「そう……。誰が来るの?」
「さぁ。カイツ曰く、いろんな大学の人たちが集まって親睦を深めるための会らしいから、他の大学の学生もたくさん来るらしい」
「場所は?」
「駅前のカラオケ。多分女の子も来るだろうし、一応ミオにも言っておこうと思って」
「そっかぁ」


化粧水を塗るためにピンで留めていた前髪を解き、整える。
数秒間黙りこくったミオだったが、すぐに振り向きベッドに腰かけたままのノアへと笑顔を作った。


「うん。いいんじゃない?新しい友達出来るといいね」
「あぁ。他の大学の人と交流する機会なんてあんまりないから、楽しみだよ」


ノアが浮かべていたのは、純粋な笑顔だった。
“楽しみ”と口にいたその言葉に嘘偽りはないのだろう。
交流会という名の清廉潔白な名目の裏にある真実に、人のいいノアは全く気付いていない。
そしてそんなノアの性格を理解しているからこそ、ミオも指摘することが出来なかった。
本当は烈火のごとく言ってやりたかったのだ。
交流会なんてそれっぽい言い方してるけどそれって要するに——。


***

「合コンだよね~~~~~~????」


満面の笑顔を浮かべながら怒気を孕むミオに、ユーニは何も言えずにいた。
ノアから“交流会”に行くと告げられたその翌日。
ミオはリビングで昼食をとりながらやり場のない怒りを笑顔と共に振りまいていた。
その時、たまたまリビングにいたユーニは運悪く巻き込まれてしまったわけである。

話を聞くに、ノアはカイツから交流会に自分の代わりに顔を出してほしいと頼まれたらしい。
他の大学の学生が集まり親睦を深める目的だというが、会場がカラオケであることから察するに間違いなく合コンだ。
交流会というのは、恐らくだがカイツがノアを引き込みやすくするために言い換えたワードなのだろう。
馬鹿正直に“合コン”と呼称すれば、ミオという彼女がいるノアは参加を断るだろう。
そんな姑息な考えの元、“交流会”などという曖昧な名称を用いたに違いない

思い返せば、ユーニがゼオンたちと花火大会に行くことになったのももとはといえばカイツが原因だった。
自分に引き続き今度はノアを巻き込むとは、少しは反省して欲しいものだ。

心の中でカイツに文句を言っても始まらない。
今回一番の被害者は、ユーニでもなければ交流会に参加することになったノアでもない。
ノアの彼女であるミオだろう。
麦茶が注がれているガラスのコップを両手で持ちながら食卓に腰かけているミオだが、その笑顔は引きつり、両手に持ったコップを今にも粉砕してしまいそうなほど手には力が入っている。
これは、相当怒っているに違いない。
怒りを纏うミオを前に、ユーニは珍しく怯えていた。


「交流会ってなに~~~??それっぽいこと言ってるけど普通に合コンだよね~~~?出会いの場だよね~~~?王様ゲームとかやるやつだよね~~~?お持ち帰りしたりされたりする場だよね~~~?お猿さんの社交場だよね~~~?」
「まぁ、うん……。そういうこともする、かもな……」
「行くんだ~~~?ふぅん、行っちゃうんだ~~~?私という彼女がいながら合コン行くんだ~~~?お持ち帰りするんだ~~~?」
「そ、そこまではしねぇだろ、たぶん……!」


マズい。ノアの尊厳が危うい。
幼馴染に浮気疑惑が出ていることに、ユーニは大いに焦っていた。
恐らくだが、ノアはこの“交流会”が合コンに相当する会だとは思っていないのだろう。
純粋に大学間の交流深める場だと勘違いしている。そうに違いない。

もし本当に合コンと承知のうえで行くのだとしたら、事前にミオに打ち明けたのは流石におかしい。
普通なら秘密にしておくはずだ。
それを馬鹿正直に話したということは、合コンだという認識が一切ないという確固たる証拠である。
ミオもそれはなんとなく察しているはず。
だが、だからと言って交流会、もとい猿の社交場に顔を出す決断を擁護できるはずもない。
両手に持っていた麦茶のコップを叩きつけるように勢いよくテーブルに置いた瞬間、正面に座っていたユーニはそのあまりの恐ろしさにビクリと肩を震わせた。

やばい、やばいぞノア。
お前の彼女めっちゃ怒ってる。
最悪お前殺されるかもしれないぞ。
この場にいないノアへと緊急信号を送っていたユーニだったが、不意にミオはへなへなと脱力し、テーブルの上に突っ伏し始めた。
そして、先ほどの怒りのオーラが嘘のように、今度は彼女の周囲を哀しみのオーラが支配し始める。


「ノアが他の女の子といい感じになったらどうしよう……」
「み、ミオ……」
「すんごい巨乳の女の子に誘惑されたらどうしよう……」
「まぁ、ありえなくはねぇけど……」
「知らない子を急に連れてきて“この子との子供が出来たから結婚することになった”とか言われたらどうしよう……」
「飛躍しすぎだろそれは」
「ノアが浮気相手に感化されて、“これからはラップで生きていく”とか言い出したらどうしよう……」
「それはもはや別問題だろ」


先ほどまで怒りモードだったミオだが、突然ネガティブモードに切り替わってしまったらしい。
机に突っ伏したミオは、下向きな妄想ばかり繰り返している。
しまいには全く現実味のない仮説を口にしながら泣きそうになっている始末。
このままでは“寿命残り3か月とかになったらどうしよう……”などと全く関係のない心配まで口に出しかねない。


「そんなに嫌なら言えばよかったじゃねぇか。それ合コンだから行くなって」
「言えないよォ……。ただの交流会だって思ってる人に対してそんなこと言ったら、重い女だって思われるかもしれないし……」
「そんなことはねぇと思うけど……」
「あ~~~ヤだな~~~。ノアが他の女の子に靡いたりしたらどうしよう……」


ミオは同性のユーニから見ても相当な美人だ。
ノア自身かなり前から片想いしてやっとの思いで付き合えたとのことだが、そんな存在を放置して浮気に走るほどノアは愚かではないはず。

ミオの懸念は誰がどう見ても杞憂にすぎないが、当の本人からしてみれば相当不安なのだろう。
確かに、自分の彼の彼氏が知らない女もたくさん参加する合コンに顔を出すと知ったら、誰しも不安になるだろう。
ノア本人にその気はなくとも、同じ場にいる女たちがその気になるかもしれない。
何といってもノアはミスターコンの候補に名前が上がる程度には顔が整っている。
顔がいい男がモテるのは自然の摂理だ。

どこの馬の骨化も分からない女がノアの両脇を陣取り、豊満な胸を押し付けながら色仕掛けをしてくる可能性は大いにある。
あのノアがそんな色仕掛けにハマるとは思えないが、そもそも自分以外の見知らぬ女に言い寄られている状況だけで腹立たしい。
阻止できるものなら何としても阻止したかった。


「んじゃあいっそミオもその交流会ってのに参加しちまえば?」
「ダメダメ!そんなことしたら心配してついてきちゃった重い彼女みたいになるじゃない!」


間違っちゃいないと思うけど……。
ユーニの心の中の呟きは、ミオに届くことなく溶けて行った。
出来る事ならノアを見張りたい。同じ場に行って悪い虫が寄り付かないように牽制していたい。
けれど、ミオ自身が行けばノアに怪しまれるだろう。
交流会だと言ってあったのに必要以上に心配してついて来てしまったのか。なんて心配症で重い彼女なんだ。
そんな風に思われるのは死んでも嫌だった。
けれどきちんとノアを見守っていたい。
せめて信頼できる誰かが協力してくれれば——。


「あっ」


ミオの頭に、天啓が舞い降りる。
いるじゃないか。信頼出来て、協力的で、それでいてノアのことをよく知っている頼もしい相手が。
ミオの琥珀色の瞳が、正面に腰掛けているユーニへとゆっくり視線を向ける。
見つめられた瞬間、ユーニは背筋に冷や汗をかき始めた。
嫌な予感がする。ものすごく面倒なことに巻き込まれる予感がひしひしと身体を襲っている。
そしてユーニのその予感は見事に的中することになるのだった。


***

カイツから懇願されるように依頼された交流会への代理出席は、ノアにとってそこまで億劫な頼みではなかった。
賑やかな場は嫌いじゃないし、他の大学の学生も来るなら友人を増やせるいい機会ともいえる。
特に深く考えることなく、ノアは“交流会”への出席を承諾した。
会場は駅前のカラオケ。幹事によって既に予約されていたらしく、予約名を伝えるとパーティー用の大部屋へと案内された。

扉を開け、薄暗い室内へと足を踏み入れた途端、ノアは確信した。
どうやらカイツに騙されたらしい。
これは“交流会”の皮を被ったただの“合コン”だ。
ノリのよさそうな学生たちが“うぇーい!”と奇声を発しながら既に盛り上がっている室内は、当然ながら見知らぬ女性たちも多く座っている。
男女比は半々。誰がどう見てもこれは健全な出会いの場ではなく、下心渦巻く出会いの場でしかない。
既に中で盛り上がっていた幹事らしき男に促されるまま席に着いたノアは、早くも後悔していた。

マズい。まさか“交流会”がこういう場だったとは思わなかった。
ミオには一応出かけることを伝えてあるし、恐らく女性も参加しているであろうことも伝えている。
知らなかったとはいえ、自分がこんな合コンまがいの場に参加したとなれば優しいミオとてそれなりに傷つくだろう。

とはいえ、幹事の取り仕切りで自己紹介が始まっているこの場を今抜け出すのは流石に忍びない。
1時間くらい適当に過ごして、こっそり抜け出そう。
そして帰ったらミオに状況を素直に打ち明け、ちゃんと謝ろう。
正直に打ち明けて謝ればきっと許してくれるはずだ。

そう決意したと同時に、幹事から声がかかる。
どうやら自己紹介の順番が回って来たらしい。
この場にいる全員の視線がいつの間にかノアへと集中していた。
促されるままにゆっくりと立ち上がり、20人以上いる参加者の前で非常に簡素な自己紹介を口にする。


「アイオニオン大学経済学部3年のノアです。よろしく」


軽く頭を下げると、拍手と共に数人の見知らぬ女性たちが“カッコいい”と口にしながら熱視線を向けて来る。
ほんの少し居心地が悪かった。
彼女がいる身としては、出来るだけ目立ちたくはない。
ソファへと再び腰を下ろすと、幹事は次にノアの隣に腰掛けている女性へと自己紹介を促した。
腰を下ろしたノアと入れ替わるように、隣の女性は跳ねるように立ち上がり、キャピキャピとした声色で自己紹介を始めた。


「こんばんは!同じくアイオニオン大学外国語学部4年のユーリですっ!よろしくおねがいしまぁす!」


元気な声と共に愛想よく笑顔を振り撒く彼女は、どうやら同じ大学の先輩らしい。
国語学部の4年というと、ミオと同級生ということか。
腰まである長いミルクティー色の髪に、青い瞳の大きな目。
白を基調とした清楚な服に身を包んだ彼女は、何故だか既視感があった。

何故だろう。どこかで会ったことがあるような気がする。
いや、それも当然か。同じ大学の学生なら、キャンパス内のどこかですれ違っている可能性が高い。
既視感があるのも当然だろう。

男性陣から“可愛いねぇ!”とはやし立てられ、照れたように笑いながらソファに座り直したユーリというその女性のことを、ノアは特に気に掛けなかった。
だが、彼のユーリに対する既視感は当然のモノと言える。
何故ならこのユーリと名乗る女性の正体は、ノアにとって20年来の付き合いである幼馴染だったのだから。

ニコニコと人の良い笑顔を浮かべながらノアの隣に腰掛けなおしたユーリは、笑顔の裏で非常に重い疲労感を感じていた。
くそっ。なんでアタシがこんなことしなくちゃいけないんだよ。
ユーリ、もといアイオニオン大学外国語学部3年でありノアの幼馴染でもあるユーニは、心の中で悪態をついていた。

彼女は口は悪いが友人思いの心優しい女性である。
ミオから必死で懇願された無理難題を、ユーニは突っぱねることが出来なかった。
その“無理難題”とはずばり、“自分の代わりに交流会とやらに参加し、ノアに悪い虫がつかないようブロックしてくれ”というもの。
当然、最初はそんなの出来るわけがないと断った。
自分とノアは顔見知りどころか幼馴染だ。
自分が行ったところで、どうせミオの差し金だとバレるに違いない。
そう伝えると、ミオはニッコリ笑顔を浮かべながらトンデモナイことを言いだした。

バレないように変装すればいいんだよ、と。

ユーニの普段着は、レザー系の素材や黒を基調とした、いわゆる“カッコいい系”で統一されている。
だが、なるべく普段のユーニからかけ離れたイメージを与えるためにミオは自分自身の私服を貸し出した。

白を基調とした清楚な服装に身を包み、メイクもかなりナチュラルな色味を選択。
更にウィッグで髪をロングに伸ばし、しゃべり方や性格も180度変え、清楚で可愛らしい女を演じる。
見た目も性格も変えれば、例え付き合いの長いノアでも気づくことはないだろう。
そんなミオの予想は当たり、ノアは“ユーリ”を名乗る幼馴染の正体に気付くことはなかった。
しかし、だからと言ってユーニの憂いが消えることはない。
ノアとは別に、予想外な人物がこの場に出席していたからだ。

やがて、ユーニの隣に腰掛けている男性へと幹事は自己紹介を促した。
彼は促されるままソファから立ち上がると、かけていた眼鏡を押し上げつつ淡々と口を開く。


「同じくアイオニオン大学法学部3年のタイオンだ。どうも」


不愛想に自分の名前を口にした彼は、早々にユーリ、もといユーニの隣に座り直した。
隣に感じる見知った気配に、ユーニは膝の上で作った拳を強く握りしめる。
ノアしかいないと思っていたのに、なんで、なんで。
なんでタイオンがいるんだよ!

右隣にノア。左隣にタイオン。
清楚な武装で別人になり切っているミオは、知り合いに囲まれ四面楚歌に陥っていた。


***

「ただいまー」


セナがアルバイトからウロボロスハウスへ帰宅したのは、21時過ぎのことだった。
いつもなら誰かしら家にいるはずだが、リビングは電気が消えており真っ暗の状態である。
2階にも人の気配はなく、玄関には靴が1足もない。
靴箱の上に設置してあるボードには、ランツ以外帰宅が遅くなる旨が記載されていた。

ノアもタイオンも、ミオもユーニまで遅くなるなんて珍しい。
バイトでもないようだし、一体何をしているんだろう。
ボードを眺めつつ首を傾げていると、不意に玄関が勢いよく開いた。


「ただいまー……、って、あれ?セナ?」
「あ、ランツ……」


帰宅したのは、バイトを終えたランツだった。
帰って来た彼氏の姿を見た瞬間、セナは察してしまう。
他の住人たちは帰りが遅いらしい。
つまり、この広いウロボロスハウスに、今夜はランツと2人きりということだ。
こんな機会はなかなか巡ってこない。
もしかすると、あの軽井沢行で未遂に終わった“アレ”にリベンジする好機なのではないだろうか。
突然降って湧いたチャンスに、セナの胸は途端に緊張感を増してゆく。
ごくりと生唾を飲むセナは、先日ミオやユーニから伝授された技を頭の中で復習するのだった。

 

act.49


「ごめんタイオン。まさかこんな感じの集まりだとは思わなかった」
「気にするな。こうなったら、1次会が終わった時点でさっさと帰ろう」


あてがわれたカラオケの大部屋からそっと抜け出したノアとタイオンは、廊下の壁に寄りかかりながら軽く話し合いを開始した。
当初カイツに交流会の参加を依頼されたのはノアだけだったのだが、参加人数が足りないから誰か知り合いも連れて行ってやれと促され、タイオンを誘ったのだ。

最近セナと付き合いだしたランツよりは、交際相手がいないタイオンの方がついて来てくれると踏んでの判断である。
しかし、どうやら面倒ごとに巻き込んでしまったらしい。
扉を開けた先に広がる“合コンオーラ”に、ノアは大いに戸惑った。

ミオという彼女がいながらこんな場に来るのは忍びない。
ある程度女性も参加するとは聞いていたいたが、流石にこんな空気感だとは想像していなかった。
タイオンに関しても、彼女はいないがユーニという好きな人がいる。
自分の認識齟齬でこんな場所に呼び込んでしまったことを、ノアは申し訳なく感じていた。

とはいえ、来てしまったものは仕方ない。
空気を壊さない程度に参加して、暫くしたら隙をついて抜け出そう。
そう約束した2人は、重い足取りで大部屋へと戻っていく。
それぞれの席に着くと、早速ノアの隣を陣取る女性がいた。
同じ大学の4年生を自称する女性、ユーリである。


「ノア君、ちゃんと飲んでる?」
「えっ?あ、あぁ飲んでるよ」


ユーリ、もとい、変装したユーニは正体がバレないように懸命に声色を変えながらノアにまとわりついた。
こうしてノアの横を陣取っているのは、彼の隣をキープし続けることで他の女が近づく余地を与えないためである。

本日のメインミッションは、ノアに悪い虫が寄り付かないよう結界の役目を果たすこと。
ウィッグを着けた長い髪に隠すようにつけられている耳のイヤホンは、ユーニのスマホへと無線で繋がっている。
懐に仕舞ってあるスマホはミオと通話状態にあり、ユーニの声は電波の向こうにいるミオへと届くようになっている。

全く、何が悲しくて幼馴染相手に媚びを売らなくてはならないのか。
うんざりしそうになっているユーニの空気に気付いたのか、イヤホンからミオの鼓舞する声が聞こえてきた。


《頑張ってユーニ!そのままノアの隣キープし続けるのよ!》


はいはい……。
心の中でミオに返事を返すと、ユーニは“ユーリ”として笑顔を作り、ノアに声をかけ続ける。


「えっと、ノア君って私と同じ大学なんだよね?」
「あぁ。先輩、だよな……?敬語の方がいいかな」
「ううん全然いいよぉー。私、先輩感ないってよく言われるし」
「そうかな?まぁ確かに年上って感じはしないな。むしろ同い年くらいに見えるような……」


当たり前だ。実際同い年なのだから。
一つ年上を語ったのは、なるべく自分がユーニであるとノアに勘付かれないためだった。
そして、口調や性格をガラリと変えたのも同じ理由である。
普段の自分からかけ離れた“可愛くて清楚な女性”を演じながら会話を進めるユーニだったが、イヤホンからミオのクスクス笑う声が聞こえてきた。
どうやら柄にもないキャラ変が面白かったらしい。
他人事のように笑っているミオの声を聞きながら、こめかみに青筋が浮かぶ。

何笑ってやがる。誰のためにこんなぶりっ子演じてると思ってんだ。
帰ったら絶対何か奢ってもらうからなミオ。
心で悪態をつきながらも、演技中のユーニはニコニコ笑顔を崩すことはなかった。


「ノア君ってイケメンだよねぇー。モテるでしょー?」
「そんなことないって。ユーリこそモテるんじゃないか?綺麗だし」
「えーそんなことないって—」
《ノアが私以外の女の子を褒めてる……》


イヤホンから聞こえて来るミオの嘆きに、胃が痛くなってきた。
ユーニとしては、幼馴染として付き合いの長いノアに褒められても全くときめきはしないのだが、ミオにとってはヤキモチの対象となってしまうらしい。

そもそも彼氏であるノアがこんな合コンの場に顔を出している時点で気落ちしているのだから、ここはミオのノアへの不信感を払拭するため、一肌脱ぐ必要があるかもしれない。
質問で誘導し、ミオを安心させるような言葉をノアの口から引っ張り出してやろう。
そう決意したユーニは、思い切って踏み込んだ質問を投げかけてみた。


「ノア君、彼女いないの?そんなにイケメンなのに」
「あぁ、えっと……」


ユーニからの思い切った質問に、ノアは気まず気に視線の逸らした。
そして、数秒考え込んだ後、手に持ったドリンクのグラスをテーブルに置くと、申し訳なさそうに眉をハの字に曲げながら打ち明ける。


「実は、いるんだ」
「えー、ホントに?なんで彼女いるのに合コンなんて来ちゃったの?」
「友達の代理で来たんだ。“交流会”って名目で呼ばれてて、まさかこういう場だとは知らなくてさ」


“折を見て帰ろうと思う”
そう言って微笑んでいる彼は、驚くほどに素直だった。
ここでミオという彼女がいることを隠すようなら、下心アリとしてミオの不安を煽っていただろうが、ノアは一切隠すことなく彼女の存在を口している。
これはつまり、この合コンで出会いを求める気は一切ないという証拠である。
この回答をユーニとの通話越しに盗み聞いていたミオは、“ノア……”と震える声で小さく呟いている。
どうやらこの完璧な回答のおかげで、ミオの不安は無事払拭できたらしい。
安堵するユーニだったが、右隣から聞こえてきた男女の会話にびくりと背筋を伸ばした。


「ねぇねぇ、タイオン君ってアイオニオン大の法学部なんだよね?」
「あぁ、そうだが……」
「あそこって頭いいんだよね?もしかして弁護士志望とか?」
「いや、検事志望だ」
「そうなんだぁ!かっこいいーっ!」


成績優秀なタイオンに露骨に媚びを売っている女性の声を横で聞きながら、ユーニは苛立ちを募らせていった。
何仲良さげに話してんだこのクソ眼鏡。
恐らくはノアに付き合ってこの場に顔を出しているのだろうが、それでもこんな場所にいる事実が気に食わない。

知らない女とデレデレ話しやがって、しね。
ミオのことを笑えないほどに、ユーニもまた合コンに繰り出したタイオンに対して大きな苛立ちを隠せずにいた。
ここにいたら、タイオンと知らない女の会話が聞こえてきて不快だ。
ノアへの不安事も無事払拭できたことだし、気分転換に外の空気でも吸って頭を冷やそう。


「ノア君ごめんね、私ちょっと外の空気吸ってくる」
「あぁ。またあとで」


ノアに一言断りを入れ、ユーニはソファから立ち上がる。
カラオケの部屋は防音設備が整っている反面、密室で空気が悪くなりがちだ。
圧迫感のある部屋の扉を開けて廊下に出ると、幾分か開放的な気分になれた。
周りに誰もいないことを確認して壁に寄りかかると、ユーニは耳に着けたイヤホンを抑えながら電波の向こうにいるミオへと話しかける。


「ミオ、聞いた通りだ。やっぱりノアは合コンだとは知らずに来たみたいだな」
《そうみたいね》
「あの様子だと、他の女に言い寄られてもきちんと断れるだろ。ミオが心配するようなことは起きねぇんじゃね?」
《うん。私、ノアのことを疑い過ぎてたみたい。なんだか自分が恥ずかしい》
「まぁ、不安になる気持ちはわかるけどな」


彼氏が合コンに行くと知ったら、不安に思わない女などいないだろう。
その彼氏が、毎年ミスターコンの候補になるほどの容姿を持っていればなおのこと。
だがノアという男の誠実さは、幼馴染であるユーニにはよく知るところであった。
ずっと片想いしていた彼女を裏切って浮気できるような男ではないのだ。


《ユーニもゴメンね、迷惑かけて……。今度ホントに何か奢るから》
「おっ、じゃあ焼き肉でも奢ってもらおっかな」
《ふふっ、ハイハイ、了解》


耳元でミオが微笑みながら了承したその時だった。
背後で大部屋の扉が開き、誰かが外に出てきた。
ふと反射的に視線を向けると、そこに立っていた人物に心臓が止まりそうになってしまう。
大部屋から出てきたのは、他の誰でもないタイオンだった。
彼は壁に寄りかかっているユーニの姿をジーっと見つめている。
その目はまるでこちらの様子をじっくり観察されているかのようでなんだか居心地が悪かった。

なんだ。なんでそんなに黙ってこっちを見てるんだ。
何か言いたいことがあるなら言ってくれ。
ガン見されている状況に耐えられなくなったユーニは、清楚を演じた笑みを浮かべながら口を開いた。


「えっと、た、タイオン君だよね?どうしたのかな?」


普段は絶対に君付けなどしないが、正体が露見しないようにとにかく演じるしかない。
ニコニコと笑顔を浮かべるユーニ、もといユーリの顔をじっと見つめながら、タイオンは驚くべき質問を投げかけて来る。


「君、ユーニじゃないのか?」
「……は?」
「ユーリと名乗っていたが、本当はユーニじゃないのか?」
「……」
「……」
「……聞いてるか?」


こちらを至近距離で覗き込んでくるタイオンに焦り、ユーニは慌てて顔をそむけた。
突如として投げかけられた質問に動揺を禁じ得ない。

マズいマズいマズい!
何でバレた?ノアは全然気づいていなかったのに。
一連の会話を聞いていたミオもまた、イヤホン越しに“えっ、なんで!?”と焦っている。
動揺し言葉を失っているユーニに追い打ちをかけるかの如く、タイオンは距離を詰めつつジーっと顔を見つめてきた。

まるで正体を見透かそうとしているかのようなその目に恐れを感じ、ユーニはゆっくりと後ずさる。
やがて壁を背に追い込まれた彼女は逃げ場を失ってしまった。
そんな彼女を、明らかに不審がっているタイオンの視線が迫る。
近い。あまりにも近い。
このまま正体がバレるのはマズい。何とか誤魔化さなければ。


「ゆ、ユーニって誰のコトー?私はユーリだよー?」
「本当か?知り合いの女性にそっくりなんだが」
「ひ、人違いじゃないかなぁ?」


相変わらずタイオンの疑いの目は緩むことがない。
髪型も化粧も服装も変えているのに、こんなに簡単に看破されるなんて。
普段は鈍感なくせに、どうしてこんな時だけ妙に鋭いんだ。
目を細め、じっと見つめてくるタイオンの視線からいち早く逃げなければ。
なんとかタイオンの疑いの目をかいくぐることを出来ないだろうか。
必死で頭を働かせた結果、ユーニの脳裏にひとつの案が思い浮かぶ。


「と、とにかく人違いだから!それじゃっ」


疑いの目から逃げるように、ユーリを名乗るユーニはそそくさと廊下を走り去って行った。
その背を見送りつつ、タイオンはやはり疑いを隠せずにいる。
髪型やメイク、服装はらしくないが、あれはどう見てもユーニだ。
見間違えるわけがない。この世で一番好きな人なのだから。

だが、本当にユーニだとして一体何故こんなところにいるのだろう。
まさか、出会いを求めているのか。
彼氏を作るために男を漁りに来たのか。
けれど彼女は好きな人がいると言っていた。
そんな相手を放り出して合コンなんて行くような性格だろうか。
こんなところに来る理由も、わざわざ変装している理由も分からない。

廊下で一人考え込んでいると、不意に懐に仕舞い込んでいたスマホが震え始めた。
誰かから電話が来ているらしい。
確認してみると、ディスプレイにはミオの文字が表示されていた。
何の用だろう。不思議に思い着信に応答すると、スピーカーの向こうで少し上擦ったミオの声が聞こえて来る。


『あっ、た、タイオン?今どこにいる?』
「え?どこって……」


流石に正直に言うわけにはいかなかった。
ノアに誘われて合コンに来ているだなんて。
ミオに言ったが最後、ノアの四肢が全てもがれてしまうかもしれない。
そんなスプラッタな状況にノアを突き落とすわけにはいかない。
だが、タイオンがどう答えるべきか最適解を探している間に、ミオが矢継ぎ早に言葉を続けて来る。


『あのね、帰りに卵買ってきてくれないかな?』
「うん?卵?」
『今家にいるんだけどね、ユーニと一緒にホットケーキ作ろうかって話ししてたんだけど、卵が無くて……』
「えっ、今ユーニと一緒なのか?」
『うん。隣にいるよ?電話代わろうか?』
「あ、あぁ……」


家にいるというミオだが、すぐ隣にユーニがいるらしい。
そんなまさか。ユーニは、いやユーニによく似た彼女はついさっき自分の前から立ち去ったばかりだ。
家にいるはずはない。
代わってもらうよう促すと、スマホから聞き慣れた声が聞こえてきた。


『あ、もしもしタイオン?』
「ユーニ?今家にいるのか?」
『うん。ミオと一緒にな』
「そうか……。そう、だよな」


家にいるはずのミオと一緒だということは、今さっき目の前にいた彼女は、やはりユーニとは別人だということか。
確かに、あんなに清楚であざとい態度の人がユーニなわけがない。
変装までしてここに来る意味も理由も分からない以上、別人だと考えるのが普通だろう。
勘違いだったか。さっきのユーリという女性には失礼なことをしてしまった。
後で謝らなければ。

一方、タイオンとの通話を切ったユーニは、すぐ隣にいるミオへとスマホを返した。
どうやらミオから電話をかけたことでタイオンからの疑いは晴れたらしい。
それにしても、幼馴染のノアですら看破できなかった自分の正体を、一目見ただけで見破るとは。
タイオンを見くびっていたらしい。
ウィッグを着けた長い髪を耳にかけながら、ユーニは深いため息をついた。


「マジで焦った。ミオが隣の個室で待機してくれててよかったわ」
「そうね。間一髪だった」


ユーニが急いで駆け込んだ先は、カラオケ館内の女子トイレだった。
合コンに潜入していたユーニをサポートするため、ミオもまたマスクと伊達眼鏡でちょっとした変装をしつつカラオケの別室にて待機していたのだ。
そんな彼女と女子トイレで合流し、ミオのスマホからタイオンに電話をかけた。
自分は家にいる事、すぐ横にユーニがいることを話したことで、タイオンは容易に信用した。


「それにしても、こんなに簡単にバレかけるなんて、タイオン凄いね」
「あぁ。ちょっと甘く見てたな。これ以上ここにいるとボロが出るかも」
「そうね。そろそろ引き時かも。帰ろっか。ゴメンねユーニ、迷惑かけて」
「いいって。気にすんな。ノア達もすぐ帰る予定って言ってたから、もう心配いらないだろ」


本来の目的は、ノアに悪い虫がつかないよう見張ることだった。
ノア本人がすぐに帰ると口にしていた以上、信用して問題ないだろう。
これ以上この場に留まれば、またタイオンに疑われる余地を与えてしまうかもしれない。
そうなるよりも前にいち早く退散したかった。

ミオと一緒にいるところをタイオンに見られたら今度こそバレてしまう。
まずはミオが女子トイレから出て先にカラオケから出ると、数分後にユーニもトイレから出て大部屋へと戻った。
本当は即座に帰りたかったが、荷物は全て部屋に置いてある。
部屋に戻らざるを得なかった。

部屋では大音量で男女が楽しそうに歌に興じている最中だった。
ソファに並んで腰かけている学生たちの間を縫ってノアの隣に到着すると、ソファの上に置いてあったバッグを掴み上げる。
すると、帰り支度を始めているユーニに気付いたノアが声をかけて来た。


「もう帰るのか?」
「うん。ちょっと用事を思い出したから」
「そうか。一人で平気か?」
「へーきへーき!君も彼女いるなら早く帰りなよ?じゃあ」


ノアに軽く手を振り、ユーニは手荷物を手にそそくさと部屋を出た。
部屋の中に比べ、廊下は比較的涼しい。
ようやく脱出できたことに安堵しつつ歩き始めるユーニだったが、背後から声をかけられ足を止めた。
振り返った先にいたのは、大部屋から自分を追うように出てきたタイオンだった。

あぁ、またか。
先ほど疑いを晴らしたつもりだったが、まだ何か用があるらしい。
この期に及んで何を言われるのだろう。


「な、何かな?もしかして、まだ私のこと疑ってる……?」
「いや、その件はもういいんだ。疑ってすまない。それとは別に聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」


ほんの少し視線を泳がせたタイオンは、眼鏡を片手で押し上げる。
その仕草は、彼が動揺している時に決まって行う仕草だった。
何を言われるのかびくびくしていたユーニだったが、タイオンから投げかけられた質問は意外な内容だった。


「もしかして、ノアに気があるのか?」
「……へ?」
「ずっと彼の横をキープしていたようだったから……。悪いことは言わない。ノアはやめておけ。彼女がいるんだ。今回は勘違いで参加してしまっただけで、出会いを求めている気はないと思うんだ」
「……」
「その“彼女”というのも、僕の知り合いなんだ。だから、妙な疑惑を持たせたくなくて……」


申し訳なさそうに眉を潜めるタイオンに、ほんの少し驚いてしまう。
どうやら彼は、ノアとミオのことを心配しているらしい。
ユーリの正体がユーニである事実を知らない彼の目には、見知らぬ女がノアに言い寄っているようにしか見えなかったのだろう。
この場にいないミオに気を遣い、釘を刺しに来たということか。
友人思いなタイオンの言動に、心がくすぐったくなる。
と同時に、ほんの少し意地悪をしてみたくなった。
今彼は、自分をユーニだとは認識していない。
初対面の女を演じているからこそ、聞き出せることがあるのではないだろうか。


「ノア君と仲いいんだね?一緒に参加したの?」
「あぁ、まぁ」
「ふぅん。じゃあもしかして、タイオン君も彼女持ち?」
「いや、僕はいないが……」
「そっか。じゃあ……」


ゆっくりとタイオンに歩み寄る。
清楚なメイクと服装で着飾ったユーニは、いつもよりほんの少し大胆だった。
タイオンの顔を覗き込みながら深い笑みを浮かべると、彼にしか聞こえない声量で囁いた。


「独りで帰るのも寂しいし、今夜はタイオン君に付き合ってもらおうかな」


これはある種の試し行為だった。
彼は過去、異性と2人で映画を観に行ったことがある。
軽井沢旅行の夜に、タイオンがその相手に恋愛感情を抱いていないことは確認できたが、未だ微妙な距離感であることには変わりなかった。
タイオンの態度や視線を鑑みるに、自分に好意がある可能性は高い。
けれど、未だその好意をハッキリ明言されたことはない。
仮説の域を出ないタイオンの好意の行方を、いい加減白黒つけたかった。

“ユーリ”の仮面をかぶっている今のユーニは、清楚で可愛らしい年上の女性を演じている。
出会ったばかりの頃、タイオンはポロっと好みの女のタイプを口にしていた。
それこそがまさに、“清楚で知的な年上の女性”だったのだ。
今のユーニは、タイオンの好みに丸被りの見た目とスペックを演じている。
この状態で擦り寄った結果、彼がどんな反応を見せるか知りたかったのだ。

清楚で可愛らしい年上の女性である“ユーリ”に、あからさまな誘いをかけられたタイオンは、眼鏡のレンズ越しにその瞳を大きく見開いた。
そして、表情を隠すように再び眼鏡を押し込むと、一歩後ずさって距離を取りながら言い放つ。


「……すまない。彼女はいないが、好きな人がいるんだ。その人に誤解されたくないから」
「へぇ、好きな人かぁ。それってもしかして、さっき私と間違えた“ユーニ”って人だったりして」


“好きな人がいる”と素直に白状したタイオンに気を良くしたユーニは、さらに踏み込んだ質問を投げかける。
天邪鬼な彼のことだ。“違う、そんなんじゃない”と顔を真っ赤にしながら否定するハズ。
例え口で否定してきたとしても、赤面し動揺していれば確定だと考えていいだろう。
タイオンが視線を泳がせ動揺した瞬間、“ユーニが好きです”と認めるようなものなのだ。

さぁいつも通り否定してみろ。そして無様に赤面するがいい。家に帰ったら“ユーニ”として盛大に揶揄ってやる。
内心にやけながらタイオンの照れ隠しを待っていたユーニの前で、タイオンは予想通り少し照れた様子で顔を逸らす。
おっ、これは。
期待に満ちた眼で見つめるユーニに、タイオンは予想外の一言を言い放った。


「……そうだ」
「……え?」
「友人たちとシェアハウスをしていてな。そのうちの一人なんだ」
「……」
「この前も、友人の女性と映画に行ったことを知られてしまって……。これ以上誤解されたくないんだ。だから、申し訳ない」


あまりにあっさりと肯定されたことで、ユーニの頭は真っ白になってしまった。
どうせいつも通り“NO”と言われるものかとばかり思っていた。

ユーニのことなんて好きじゃない。あんなの僕の好みじゃない。言いがかりはよしてくれ。ただの勘違いだ。恋愛感情も下心も一切ない。好きじゃない。絶対違う。

そう言って固く否定しながら顔を赤く染め、分かりやすく好意を醸し出すのがいつののタイオンだったはずなのに。
仕草や態度、表情や視線だけじゃない。言葉でも好意を滲み出している。
“ユーニのことが好きなのか?”という問いに対し、はっきりと“Yes”と回答したタイオンに、ユーニは言葉を失い茫然としていた。


「ユーリさん?どうした?大丈夫か?」
「えっ、あっ、いや、悪いっ、じゃなくてごめんなさいっ、なんでもないよ!あはは……」
「そうか、ならいいが」


心臓がバクバクと高鳴っている。
これまで否定されてばかりで、曖昧な仮説上でしかタイオンの気持ちに触れてこなかったユーニにとって、彼の口からダイレクトに言い放たれた好意を表す言葉は、とんでもない威力で胸に突き刺さった。
これは恐らく、初対面の女相手だから吐露してくれたのだろう。
聞きたい。もっと聞きたい。タイオンの胸の内を。
これ以上は危険だと自覚しながらも、ユーニは両手の人差し指をくにくにすり合わせながら恐る恐る質問を続けた。


「あ、あのぉ……。い、いつから好きなのかなぁ?そのユーニさんのこと」
「いつからだったか……。2年の夏ごろ、親しくなり始めた頃だった気がする」
「そ、そうなんだぁ。じゃあじゃあ、ユーニさんのどんなところが好きなの?」
「どんな?そうだな……。友達思いで優しいところだろうか」
「ほうほう。あとはあとは?」
「さっぱりしてそうに見えて意外に繊細なところとか……」
「うんうん。それで?」
「甘え上手なところがあって放っておけないところとか……」
「あとはあとは?」
「顔も可愛いし、声も綺麗だ。あとはスタイルも……」


全てを言い終わる前に、タイオンは言葉を飲み込んだ。
そして、ほんの少し恨めし気な目でこちらをジーっと見つめてくる。
あ、やばい。流石に踏み込み過ぎたか。
焦るユーニに、タイオンは深くため息をついた。


「なんで初対面の君にそんなこといちいち教えなくちゃならない?」
「それはその、興味本位?」
「人の恋愛事情を野次馬感覚で掘り出そうとしないでくれ」


眼鏡を押し上げ、タイオンはそのまま回答をやめてしまった。
チッ、もう少し聞き出したかったのに。
不貞腐れるユーニの一方で、自身の用事は既に済んでいるタイオンが“それじゃあ気を付けて”と軽く手を挙げてきた。
部屋に戻るつもりなのだろう。
踵を返して歩き出すタイオンの腕を、ユーニは咄嗟に掴んで引き留めた。
まだあと一つ、一番大事なことを聞けていない。


「告白は?しないの?」


最後の問いかけに、タイオンは眼鏡越しに目を丸くした。
そして視線を逸らすと、ユーニに腕を掴まれたまま肩を落とす。


「……しない。いつかはするかもしれないが、少なくとも今じゃない」
「なんで?」
「脈がないんだ。彼女はモテる人だし、どうせ僕のことなんて眼中にない。フラれると分かっている相手に告白するなんて無駄でしかないだろ」


眼中にない?はあぁぁぁ~~~?
めちゃくちゃあるわ!むしろお前しか見えてねぇわ!
そう言ってやりたかったが、今のユーニは清楚で可愛い“ユーリ”を演じている。
タイオン相手に自分の気持ちを吐露しながら怒鳴りつけるような真似は出来なかった。


「フラれて気まずくなるくらいなら、このまま友達として近くにい続けたほうがよっぽど……」
「タイオン君、なんにも分かってないんだね」
「え?」


今のユーニには、自分の気持ちをありのまままっすぐ伝えることはできない。
下手に口を出せば怪しまれるかもしれない。
それは分かっていたけれど、御託を並べて足踏みしている“大好きなタイオン”を前に、何も言わず去ることなんてできなかった。
その背中を押すため、というよりも蹴飛ばしてやるため、ユーニは“ユーリ”を演じつつタイオンに啖呵を切り始める。


「その子モテるんでしょ?じゃあいつか他の誰かに告白されて付き合っちゃうかもしれないじゃん。それでもいいの?」
「……たとえユーニに彼氏が出来ても、友人であり続ける限りは繋がっていられるだろ」
「はぁ、甘いなぁ」


友達という凡庸な席に甘んじようとしているタイオンに腹が立つ。
もっと貪欲になれ。独占欲を剥き出しにして手を伸ばしてほしい。
そういう聞き分けのいい言葉が欲しいんじゃない。
強引に手を取って“付き合ってくれ”とさえ言ってくれれば、他の繋がりなんて全部無視してその腕に飛び込んでやるのに。
逆を言えば、“友達”なんて“彼氏”に比べたら何の特別感もない関係だ。
そんな席に座り続けたって、一生欲しいものは手に入らない。
それをわからせるために、ユーニは作り笑顔を浮かべるのをやめた。


「女友達ならともかく、男友達なんてその子の彼氏になった人にとっては邪魔な存在でしかないじゃん。いくらでも作れる友達と違って、恋人は普通たった一人しかいない。たくさんいる“友達”と、たった一人しかいない“彼氏”。どっちの方が優先順位高いと思う?」
「そ、それは……」
「その子、“優しい子”なんだよね?じゃあ、もし彼氏さんが“自分以外の男と仲良くしないで”って言ったら、タイオン君は真っ先に切られるよ?だって友達ならほかにもいる。女の子の友達と仲良くすればいいんだから。タイオン君が居座ろうとしてるのは、そういう何の特別感もない不安定な椅子なんだよ」


眼鏡越しに見える褐色の瞳が、どんどんくすんだ色に染まっていく。
焦りと絶望と動揺にまみれた色だった。
実際、タイオン以外の男とは付き合うつもりなどない。
もし付き合ったとして、彼氏に“男友達を全部切れ”と言われても、自分はそんな傲慢な命令には従わないだろう。
けれど、頷いて素直に異性の友人と距離を取る女性は少なくない。

彼氏のことを心から大事に思っていて、自主的に距離を取る人だっているだろう。
要は、異性の友達ほど薄い繫がりはないということだ。
互いの恋人有無で疎遠になってしまう可能性は十分にあり得る。
その可能性を、タイオンは全く考えていなかったのだろう。
言葉を失い、茫然としている彼の手を離すと、ユーニはその場から立ち去るため背を向けた。


「眼中にない相手でも、好きって言われたら気になっちゃうもんだよ。告白は無駄なんかじゃないと思うけどな」
「そう、だろうか……」
「戦略的特攻ってやつだよ。アクセル全開で突っ込めば、案外簡単に撃沈するかもよ?」


“頑張ってね”
そう微笑むと、ユーニはカラオケの狭い階段をゆっくりと降りてゆく。
タイオンが後ろから追ってくることはなかった。
やがて建物の外に出た瞬間、張り詰めていた空気を開放するかのように“ぶはっ”と息を吐くと、未だバクバクと高鳴っている心臓を撫でおろす。

少し言い過ぎただろうか。
でも我慢できなかった。鼓舞せずにはいられなかった。
告白できずにいるのは自分だって同じハズなのに、あんなに偉そうなことを言う権利なんできっとどこにもない。
いっそもうこちらから告白してしまおうか。
そんな男らしい考えを、“やだやだタイオンから告白して欲しい”という乙女チックな心が掻き消してしまう。
男勝りな性格だと自負していたつもりだが、どうやら自分にも乙女な心がしっかり残っていたらしい。

戦略的特攻をかけるほどの勇気と潔さが、アタシにもあれば……。
そんなことを考えながら、ユーニは夜空を見上げた。

 

act.49.5

※R18注意

 

privatter.net

act.50


「……とうわけで、“交流会”っていうのは実質合コンだったみたいなんだ。本当にごめん、ミオ」


交流会という名の合コンに参加した翌日、ノアは早速交際相手であるミオに真実を打ち明けて謝罪した。
故意に参加したわけではないため秘密にしても何の問題もなかったが、後々知られて不信感を抱かれるよりは事前に打ち明けたほうがいい。
そう判断したノアは、翌朝の朝食の席で隣に腰掛けるミオにすべての事情を話した。

一方、打ち明けられた方のミオは全くと言っていいほど動揺していない。
当然だろう。彼女はノアが合コンに参加していた事実を知っている。
ミオに内心罪悪感を感じ、1時間程度で帰った事実も承知しているのだ。
故意ではなかったと知っている以上、彼を怒る理由は何もない。


「いいのよ。すぐに帰ってくれたみたいだし、何もなかったんだから」
「怒らないのか?」
「怒るわけないよ。ノアのこと信じてるから」
「ミオ……」


リビングの食卓で甘い空気を振り撒いている2人だが、その正面に腰掛けるユーニは随分と呆れた目を向けていた。
何が“怒るわけないよ”だ。めちゃくちゃ怒ってたくせに。

ノアが“交流会”に参加することを聞き、取り乱した末自分に合コン潜入命令を下したのは他でもないミオである。
そんな彼女が、昨晩の取り乱しようをすっかり忘れてノアと見つめ合っている状況に、ユーニは顔を引きつらせていた。
人にあんな無茶ぶりさせておいて“信じてるから”なんてよく言うぜ。
そう言ってやりたかったが、ユーニにとっても昨晩の出来事は面倒なことばかりではなかった。
偶然とはいえ、タイオンの気持ちを直接聞くことが出来たのだ。収穫としては上々だろう。
かくいうタイオンは、まさかユーニ本人に気持ちを伝えてしまっているとは全く思っていないのだろうが。


「ユーニ」


すると、すぐ隣の席から声がかかる。
同じ食卓についていたタイオンからだった。
彼とは昨日、変装した“ユーリ”の姿で話して以降、会話していない。
昨晩“ユーニが好きだ”とハッキリ宣言してきたタイオンから不意に声をかけられたことで、ユーニは珍しく動揺を見せた。


「な、何?」
「実はその……。僕も例の“交流会”に参加していたんだ。けど、ノアと同じくすぐに帰って来た。何もなかったから!」


知ってるよ。とは流石に言えなかった。
だが、律義にそんな報告をしてくるタイオンの行動が少しだけ嬉しい。
ノアやミオとは違い、自分たちは交際には至っていない。
いわばただの友達でしかないのに、勘違いされないよう細心の注意を払っている様子のタイオンが、なんだか可愛らしく見えたのだ。
そして同時に、ちょっとした意地悪をしたくなってしまう?


「なんでアタシにわざわざそんなこと報告するんだよ?」
「そ、それは……。ホラ、この前の映画の件で妙な誤解をしてきただろ。同じようなことで勘違いされて揶揄われるのは御免だからだ!」
「ふぅん」


まぁそう言うことにしてやろう。
心の中でほくそ笑むと、ユーニはそれ以上追及することなく食べかけのトーストにかぶりついた。
タイオンが例の“交流会”でどんな動きをしていたのかは、“ユーリ”として見張っていたからよく知っている。
だからこそ深く追求しなかったのだが、そのあっさりとした態度が仇となっている事実に、ユーニは気付いていなかった。

彼女の隣に腰掛けハーブティーに口をつけているタイオンは、ユーニの薄い反応に少しだけ落ち込んでいた。
どんな子と話したのかとか、どうして参加することになってしまったのかとか、そういう具体的な質問が何も飛んでこない。
自分が合コンに行ったとしても、興味なんてないのか。
やっぱり、ユーニにとって自分は眼中にないのかもしれない。
そんな疑念さえ抱き始めていた。


「ふあぁ……。おぉ、お前さんたち起きるの早ぇな」


するとそこに、眠気眼を擦りながらランツがやって来た。
既に食卓に着き朝食を食べている4人の同居人に挨拶しながら、彼は大あくびをかいている。

彼はいつも6人の中では比較的早起きな方で、朝一番に部屋のトレーニング器具で筋トレをしている。
だが、今朝は何故か同部屋のタイオンよりも随分と遅く起床した。
“珍しく遅かったな”と声をかけるノアに、ランツは“まぁな”と曖昧に返し、キッチンへと入る。
恐らく自分も朝食の準備をするつもりなのだろう。
食パンを1枚取り出したランツは、トースターに食パンをセットしながら口を開く。


「なぁユーニ。セナはどうした?まだ寝てんのか?」
「いや。起きてはいるけど体調悪そうだから寝かしといた」
「えっ、もしかして風邪とか」
「なんか腰が痛いんだと」
「腰?」
「あっちぃ!」


突然キッチンからランツの叫び声が聞こえて来る。
一斉にキッチンへと視線を向ける4人の視界には、トースターから焼き上がったパンを取り出そうとしているランツの姿が映る。
どうやらトースターの熱を帯びている部分に触ってしまい、軽く火傷を負ったらしい。
耳たぶを触りながら慌てているランツに、ユーニは冗談交じりに言い放つ。


「何慌ててんだよ。まさか昨日セナと……」
「うっせぇ!放っとけ!なんもシてねぇよ!」


ユーニの言葉を遮るように叫ぶと、ランツは焼き上がったトースターを咥えながらどしどし派手な足音を立てリビングから出て行ってしまった。
まるでばつが悪くて逃げ出したようにしか見えないランツの姿に、4人は呆然とする。
“まだなんも言ってねぇし…”というユーニの呟きだけがリビングに響き、数秒間の沈黙が訪れた。
その沈黙を最初に破ったのは、神妙な面持ちをしたミオだった。


「……ねぇノア。あれって」
「あぁ。間違いない。クロだな」


幼馴染として十数年ランツと友人付き合いがあるノアには分かる。
アレは図星を隠して焦っている態度だ。間違いない。
ランツとセナが一線を越えた事実を察し、4人はほぼ同時に深いため息をついた。


「セナのやつ、ついにやりやがったんだな」
「えぇ。ミッションコンプリートね」


そう言って、何故か2人の女性陣は親指を立て合っている。
そんな2人の様子を横目に見つめながら、タイオンは思うのだった。
片やこんなにも驚くべきスピードで発展しているにも関わらず、自分は何も進展していないではないか、と。


***

アイオニオン大学8番音楽スタジオ。
ゼオンをはじめとするバンドメンバーは、いつもこのスタジオで練習を重ねていた。
今日は学祭に向けて楽曲を決めて以降初めての全体練習である。
そのため、臨時メンバーであるノアもまた、この8番スタジオにヴァイオリンを携えてやってきた。
楽譜を貰ってから今日まで、家の自室で何度か自主練習を積んできた。
その成果を披露するため、ノアは緊張感をもって音合わせに参加した。

頭から最後まで、ボーカルであるカイツも含めた全員で演奏を開始する。
少々ずれている部分もあったが、初めての音合わせにしては随分と上々な仕上がりだった。
やがて最後の一音を奏で終わった瞬間、自然と仲間たちから拍手が起こる。


「一発目にしては上々なんじゃないか?」
「だな、ノアもすげぇな!めちゃくちゃ上手いじゃん!」


スタンドマイクの前から離れたカイツは、ヴァイオリンを下ろしたノアの肩に手を添え笑いかけた。
このバンドを構成するメンバーはノアを入れて5人。
ボーカルのカイツ、ベースのゼオン、ギターのフォクス、ドラムのイスト、そしてヴァイオリンのノア。
元々ヴァイオリンを担当していたカミラを含め、全員同じ高校の出身である。

高校から一緒の学び舎で過ごしてきた彼らは、ノアが元ヴァイオリン奏者である事実を知っていた。
しかし、実際にその腕を目の前で見たことはない。
初めて聴いたノアの演奏に、一同は全員等しく感心していた。

だが、ノアとしてはまだまだ仕上がりに納得がいっていない。
ヴァイオリンを構えるたび、まだ少しだけ手が震えるのだ。
演奏は問題なく出来るが、それは観客が1人もいない状態だからだ。
これが学祭当日のように人が大勢見ている状態だったなら、きっと手の震えも一層ひどくなり演奏どころではないだろう。
演奏を人に聴かせることへの恐怖感が未だ拭えないのだ。


「いや、まだまだだ。まだ少し不安が拭えない」


まだほんの少し震えている手のひらに視線を落としながら呟くノア。
そんな彼に、ベースを肩からぶら下げたままのゼオンは心配そうに声をかけた。


「ノア、お前の事情は大方理解してる。無理はするな」
「ありがとう。でも大丈夫。頼まれたからには、期待に応えてみせるよ」
「頼もしいな」


微笑むゼオンの向こう側に壁にかけられた時計が見えた。
時刻は17時半。思ったよりも長くこのスタジオに滞在してしまった。
今夜はノアが夕食当番の日である。
これからスーパーに行って食材を買い、全員分の夕食を作る必要がある。
そろそろ帰らなくては。


「悪い。俺、そろそろ抜ける」
「え、もう帰んのかよ?」
「あぁ。夕食当番なんだ。これから買い出しにもいかないと」
「そうか。ユーニたちとルームシェアしてるんだったな。色々大変だな」


カイツの言葉に相槌を打ちながら、手に持ったヴァイオリンを丁寧にケースへ戻し始めるノア。
全てを収納しきったその時、着ていたジャケットの内ポケットに入れていたスマホが震えた。
どうやらメッセージが届いたらしい。

スマホを取り出しチェックしてみると、メッセージの送り主は同居人の一人であるタイオンだった。
ウロボロスハウスに住む6人で組まれているトークルームに投げられている彼からのメッセージは、“飲みに行くことになったので自分の夕飯は用意しなくて大丈夫だ”という旨の内容だった。
そのメッセージに“了解”と返信し、ノアはヴァイオリンケースを背負い立ち上がる。
“じゃあな”とバンドメンバーに軽く手を挙げると、仲間たちも笑顔で見送ってくれた。


***

その日、タイオンのスケジュールアプリには珍しい予定が入り込んでいた。
“飲み会”と記載されたそのイベントは、彼のアルバイト先であるカフェの仲間たちに誘われたものである。
半年に一度あるかないかのバイト仲間との飲み会に、タイオンは迷うことなく参加の意を示した。
彼は元来真面目な性格でにぎやかな場に慣れているわけではないが、人嫌いというわけでもない。
バイト仲間はほとんど自分と同年代の学生たちであり、とっつきやすい性格の連中ばかりだったため、断る理由はなかった。

会場として指定されたのは駅前の個室居酒屋。
予約されていた大部屋には、見慣れたバイト仲間10人ほどが集まっていた。
タイオンが注文したのはビール。周りに合わせての注文だった。
早速運ばれてきたアルコールで乾杯すると、和気あいあいとした飲み会が始まった。

最近は同居人であるノアやランツたちとばかりつるんでいたせいか、それ以外の誰かとこうして気兼ねなく飲みに行くのは久しぶりだ。
先日の“交流会”はノア以外初対面ばかりであまり楽しめなかった。たまにはこういうのもアリだろう。
そんなことを考えながら酒を煽っていると、中央に腰掛けていた年長者のバイトリーダーが、“ハイちゅうーく!”と手を挙げた。


「店長から“いつも頑張ってくれてる皆にプレゼント”ってテイでこれ預かって来ましたー!はい、回して回して」


バイトリーダーである女性の手によって、白く薄い封筒が回って来た。
封筒は人数分用意されているらしい。
許可を経て中を確認してみると、そこに入っていたのはミュージカルのチケットだった。
どうやら、この場には不参加である店の店長が、バイトたちのために用意してくれたものらしい。
とはいえ、ミュージカルのチケットを人数分、しかもペアチケットを用意するとなればそれなりに額も膨らむはず。
どういうことかと尋ねると、バイトリーダーはハイボールのグラスを片手に事情を話してくれた。


「そのミュージカルの劇団、運営がうちのお店の親会社なんだって。社員の福利厚生で安くチケット手配できたらしいよ」


なるほど、いわゆる社員割りという奴だろう。
ミュージカルの題目はオペラ座の怪人。ミュージカルと言えばな王道のタイトルである。
封筒を受け取った女性陣は、本来なら高額なミュージカルのチケットを貰ったことで浮かれている。
だが、当のタイオンはそこまで喜びを感じていなかった。

彼は子供の頃からミュージカルというジャンルが苦手であり、正直言って全く興味が無かったのだ。
内容はともかく、急に歌いだすあの展開がどうも理解できない。
例え無料でチケットを貰えたとはいえあまり行く気にはなれなかった。
わざわざ手配してくれた店長には悪いが、誰かに譲ってしまおうか。
そんなことを考えながら、タイオンは封筒を懐に仕舞った。


「よっ、タイオン。飲んでるか?」
「ん?あぁ、そこそこな」


隣の席に移動し声をかけてきたのは、よくシフトが被る同い年の男だった。
彼は別の大学に所属しているが、時折2人で出かける程度には親しい間柄だ。
ビールのグラスを差し出してくる彼と軽く乾杯し、静かに煽る。
まだ1杯目を飲み干していないタイオンと比較して、彼の方は2杯目に突入しているらしくそれなりに酔っているらしい。
いつもより少し上機嫌な様子で、彼はタイオンの方に腕を回した。


「そういえば俺さぁ、彼女出来たんだよ」
「えっ、そうなのか?」
「おー。前話してた高校同じだった奴な。この前告ったらOK貰っちまった」
「そうか。前々から気になっていたと言っていたしな。おめでとう」


ほろ酔いの彼は、タイオンからの言葉に上機嫌に礼を言った。
彼には随分前から片想いしている相手がいた。
相手は同じ高校の同級生だったらしく、卒業以来ずっと友人として付き合い続けていたのだとか。
そんな相手と晴れて交際に発展したことで、彼は随分と上機嫌になっている。
片想いを見事成就させた彼をおめでたいと思う一方、羨ましさすら覚えてしまう。
ランツやセナ然り、目の前の彼然り、勇気ある人たちは思いを寄せる人と幸せな結末にたどり着いている。
何も進展していない自分の現状と比較し、タイオンは密かに肩を落としていた。


「で?お前の方はどうなん?」
「何の話だ?」
「とぼけんなよ。好きな子いるって言ってただろ?なんか進展あったか?」
「……残念ながら何も」
「えー。告白とかしないわけ?」
「しない。……つもりだったが、正直迷ってる」


先日の“交流会”で、ユーリと名乗る女性から言い放たれた言葉がずっと胸に突っかかっていた。
友達としてずっと隣にいることを望むタイオンに、彼女はバッサリと言い放った。
“友達なんて何の特別感もない椅子だ”と。

その事実は何となくわかっていた。
友達なんて、その他大勢の有象無象と同じ存在でしかない。
ユーニに特別相手が出来たとき、同じ友達といえど異性である自分はきっと距離を置かれる羽目になる。
ユーニは、彼氏がいるのに他の男と2人きりで飲みに行ったり旅行に行ったりするような人じゃない。
“ただの男友達”という椅子は、ユーニに彼氏が出来たその瞬間無価値になる。
そんな椅子に縋ったところで、何になるというのか。

なら告白してしまおうか。
好きだと伝えて、“友達ではいられない”と素直に言えば、少しは関係性が変わるかもしれない。
だが、この気持ちを打ち明けて2人の関係性が好転する保証はどこにもない。
無残にフラれ、友達ですらいられなくなるかもしれない。
そう思うと、怖くて仕方がなかった。

結局、そうやって思考をこねくり回した結果、“何もせず現状に甘んじる”という臆病な選択しか取れなくなる。
そうやってタイオンは、いつか来るかもしれない“疎遠になる瞬間”に怯えながら、ユーニの隣の席を必死でキープしようとしているのだ。
それがどんなに不毛な行為であるか自覚しながら。


「告っちまえよ。案外うまくいくかもしねぇぞ?」
「どうだろうな。向こうには“好きな人”がいるらしいし」
「え、まじ?」


ユーニに好きな人がいることは確実。本人がそう言っていたのだから間違いないだろう。
彼女はモテる。その気になって接近すれば、きっと大抵の相手はすぐにその気になってしまう。
ユーニの“好きな人”も例外ではないだろう。
ユーニが本気になれば、どうせすぐに両想いになってしまう。
彼女の気持ちが他人に向いている時点で、自分に勝ち目などないのだ。
視線を落とし、1杯の目のビールを飲み干すタイオンだったが、その横でバイト仲間の彼は“けどさ”と身を乗り出しながら口を開く。


「その“好きな人”が、お前の可能性はないわけ?」
「えっ……」


予想だにしなかった一言に、タイオンの思考はフリーズする。
その可能性は全く考えていなかった。
あんなにモテるユーニが好きになる人なら、きっとすごくいい男に違いない。
優しくて頼りになって知性があって男らしくて、そんな人物であるはず。
凡庸な自分が、そんな条件に当てはまっているとは到底思えなかった。


「いや、ないだろ。それは流石に……」
「なんで?」
「彼女が……。ユーニが僕のことを好きになるわけがない。彼女が好きになる男はもっとこう、完璧に近い男なんだ、多分」
「そうかぁ?俺はそのユーニちゃんって子をよく知らねぇけど、そんなに可愛いのかよ」
「……当たり前だ」


ユーニは可愛い。
見た目だけじゃなく、中身もすごく可愛い人だ。
そんな彼女だからこそ、好きになった。
けれど可愛い彼女に自分は釣り合わないような気がして、ずっと自分の気持ちを否定し続けていた。
ただの友達だと思い込めば、何も考えずにユーニの隣にい続けることが出来る。

けれど、あの家に越して来て、ユーニとの物理的な距離を縮めてしまったことで、どうしても誤魔化しがきかなくなってしまった。
自分の気持ちに嘘を吐くことに限界を感じてしまった。
好きだと自覚して以降、この心は毎日のように右往左往している。
何も言わずにずっと友達として付き合い続けるべきだと結論付けたその翌日には、やっぱり告白してしまった方がいいのではと思っている自分がいる。
この二律背反に、タイオンは未だ答えを出せずにいた。

“もし彼氏さんが“俺以外の男と仲良くしないで”って言ったら、タイオン君は真っ先に切られるよ。だって友達ならほかにもいる”

ユーニによく似たあの女性に言われた言葉が、脳裏に蘇る。
アレはまさに真理だ。容赦のない現実だ。
いつかユーニは例の“好きな人”と結ばれて、自分は“ただの男友達B”になる。
自分以外の誰かと幸せそうに腕を組んでいるユーニを見つめながら、何もできず悔しい思いをするだけ。
そんなのは嫌だな。
都合のいい奇跡でも起きて、ユーニが自分を好きになってくれればいいのに。
そうなれば、万事解決なのに。
ユーニが想いを寄せている男のようになれば、彼女は振り向いてくれるのだろうか。

ユーニが好き。
付き合って欲しい。
相手にして欲しい。
僕だけを見てほしい。
そんな本心ごと、タイオンは運ばれてきた2杯目のビールを飲み干す。
その日の夜、タイオンにしては随分と酒を煽るペースが早かった。
そのせいかもしれない。飲み会が終わるころには、彼は完全に酩酊状態に陥ってしまっていた。


***

日付が変わった30分後の深夜。
イマイチ眠りにつけなかったユーニは、同じベットですやすや寝息を立てているセナを起こさないよう、そっと部屋を抜け出した。
少しのどが渇いている。水でも飲もう。そう思って1階に降りようとした時だった。
玄関の方からガチャっと扉が開閉する音がする。
誰かが帰って来たのだろうか。

1階に降りてみると、リビングは暗いままだった。
電気をつけると、ソファに横になっている男の姿が目に留まる。タイオンである。
彼は今夜、バイト仲間たちと飲み会に出かけていたため夕食の席にいなかった。
こんな時間まで飲みに行っていたのか。

ソファに横になっているタイオンは、誰がどう見ても酔っぱらっている。
きっとフラフラになりながらようやく家に帰って来たばかりといったところだろう。
彼がこんなに酩酊するまで酒を飲むのは珍しい。
随分と楽しい集まりだったのだろうが、流石にこのソファで寝るのはまずい。

秋に突入しようとしているこの気候で布団もかぶらず寝れば、風邪を引く可能性が高いだろう。
とにかく起こして自室のベットで寝るよう促さなければ。
そう思い、ユーニはソファで寝転ぶタイオンの身体を揺さぶり始めた。


「タイオン、起きろって」
「んん……。ユーニ……?」
「ここで寝んなよ。寝るなら部屋で寝ろって」


焦点の合っていない目を擦り始めるタイオン。
無遠慮に目元を擦ったせいで、眼鏡がソファの上にころっと落ちてしまった。
酔いが回っているせいで眠くて仕方がないのだろう。
上体をゆっくりと起こしたタイオンは、心配そうにこちらを覗き込んできたユーニの顔をぼうっと見つめていた。
目を覚ましてはいるようだが、意識がまだぼんやりしているのだろう。
いつもしっかりしている彼の酩酊状態に少しだけ驚きながらも、ユーニはソファに転がっている眼鏡を拾い上げローテーブルに置いた。


「しっかりしろよ。平気か?」
「……」
「おーい、聞いてる?」
「ユーニ」
「ん?」
「きみの好きな人って、どんな奴だ?」
「は?」


何の脈絡もなく投げつけられたその質問に、ユーニは戸惑った。
だが、そんな彼女をぼうっと見つめながら、タイオンは舌ったらずな口調で質問を続ける。


「顔はいいのか?性格は?身長は?学力は?趣味は?どういう価値観で、どういうところが好きなんだ?」
「どんなって……」
「あー!いい!やっぱり好きなところは言わなくていい!どういう男なのかだけ教えてほしい」


酔っぱらいとは、得てして脈絡なく妙なことを言いだす生き物である。
今のタイオンもまた、酩酊状態に陥っているせいで正常な判断が出来ず、いつもの彼ならしないような質問を投げかけてしまっている。

この質問に、“好きな奴はお前だよ”と返答するのは簡単だ。
けれど、このあまりにも酔い過ぎている状態で告白まがいな返答をしても、きっと忘れられているに違いない。
それに、気持ちを伝えるならもっと雰囲気のあるシチュエーションがいい。
こんな盛大に酔っぱらっている状態のタイオンに、甘い言葉を贈る気にはなれなかった。


「……相当酔ってるな。とりあえず水用意してやるから、それ飲んでさっさと寝ろよ」


水を用意するためキッチンへと向かおうとするユーニ。
立ち上がろうとしたその時、ソファに腰掛けていたタイオンの手によって腕が掴まれ引き留められる。
無遠慮に強い力で腕を掴まれバランスを崩しそうになったユーニは、ムッとしながらタイオンへと視線を向ける。
すると、彼は随分と切羽詰まった様子でこちらを見上げていた。


「たのむ、おしえてくれ。なるべく近付けるよう努力する。だから……」
「いや、さっきから何言って……」


まるで縋るようなタイオンの言葉に戸惑うユーニ。
そんな彼女の腕を、タイオンは再び強く引き寄せた。
やけに力強いその腕に、ユーニは逆らうことが出来なかった。
眼鏡を外したタイオンの顔がゆっくりと接近する。

えっ、まさか。

彼女が抵抗する間もなく、引き寄せられたユーニの唇はタイオンによって塞がれる。
唇と唇が重なり合った瞬間、一体何が起こったのか理解できずユーニは目を見開いた。

なんで。どうして。
疑問を投げかける事すら、唇が塞がれている今は許されない。
ユーニ口付けながら、まるで逃がさないとでも言いたげな強い力でタイオンはユーニの腕をずっと捕まえていた。
その腕を強引に振りほどけなかったのは、相手が好きで好きでたまらないタイオンだったからなのかもしれない。
このキスはタイオンにとって功績か、それとも失態か。答えが出ないまま、タイオンは微睡みの中に意識を手放していった。


続く