Mizudori’s home

二次創作まとめ

君は僕の手を

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■ゲーム本編時間軸

■長編

 

act.1 瞳


遠くで爆音が鳴り響き、砂塵を含んだ硝煙が舞い上がる。
視界が悪くなっても立ち止まるわけにはいかない兵士たちは、ブレイドを片手に戦場を駆ける。
背後から聞こえるのは、誰のものかも分からない悲鳴と怒号。
あちらこちらで行われる命の奪い合いによって、あたりには赤く美しい命の粒子が漂っていた。
その中を走る女が1人。
ツインセイバーを手に駆ける彼女は息を乱し、退却路を目指し懸命に走る。
遠くに自軍の鉄巨神が見えてきたその時だった。敵軍のレウニスによって背後から放たれたエーテル弾が暴発した。
すぐ後ろを走っていた仲間の悲痛な声を聞き、女は足を止めて振り返る。


「おい!大丈夫か!?」
「止まるな!お前は走れ!」


地面に伏したまま、仲間の男は必死に叫ぶ。
倒れている彼の向こうに、走り寄ってくる敵兵たちが見える。
ブレイド片手に殺意を剝き出しにする彼らの接近に、女はたじろいだ。
この戦は、自軍であるケヴェス軍の敗北だ。
敵であるアグヌス擁するレウニスは、ケヴェスのそれより何世代も技術力が進んでいる。
機体の頑丈さも、エーテル弾の威力も格段に違うアグヌスのコロニーには敵わない。
早々に撤退を決め込んだケヴェス側の兵士たちは、背後を敵に突かれながらも自軍のコロニーへ帰還するため必死に撤退を続けている。
生きてさえいれば、また戦える。そう信じて。


「行け!お前は生きろ!」


声を枯らしながら、仲間は叫ぶ。
彼は訓練生時代からの幼馴染だった。
いつか共に成人の儀を迎えようと約束したあの日の光景が、女の頭にフラッシュバックする。
あの日の約束は、きっともう果たせない。
瞳に溜まる涙を堪えながら、女は仲間の言葉に従い再び走り始める。
背後から聞こえてくるのは、幼馴染の断末魔。
彼が絶命した瞬間を背中で感じながら、女は走る。

彼の死を無駄には出来ない。自分は生きなければ。
何としても生き残って、コロニーにいるおくりびとに彼を弔ってもらわなければ。
歯を食いしばる女だったが、4時の方向に敵の気配を感じ視線を向ける。
撤退する女の脇を突くように、一人のアグヌス兵がガンロットをこちらに向けていた。
銃口が光ったその瞬間、女に向かって真っすぐエーテルキャノンが飛んでくる。
反射神経には自信があったが、至近距離からのエーテル弾は避けきれそうにない。
体に命中することはなかったが、その爆風で後方へと吹き飛ばされてしまった。

小柄な女の体はいとも簡単に浮遊し、崖際に転がっていく。
地面に体を叩きつけられた拍子に、口の中に砂が入った。
腰に付けたパワーアシストが甲高い音を立てて小さく火花を散らしている。
今の衝撃で壊れてしまったらしい。
怪我をしていた体でも動けていたのは、このパワーアシストのお陰だった。
その恩恵を失い、忘れていたはずの痛みが体中を襲ってくる。
まずい。腕に力が入らない。
何とか上半身を起こそうとする女の視界に、ガンロットを両手に抱え駆け寄ってくるアグヌス兵の姿が見えた。


「っ!」


ガンロットを振り上げるその男を見上げ、女はとっさにツインセイバーを構え男の一撃を受け止める。
パワーアシストを失った女の力では、身体的に優れたアグヌスの男には到底敵わない。
ブレイド同士のつば競り合いによって、じりじりと女は追い詰められていく。
自分を見下ろす見知らぬ男は、確かな殺意を持って女を見下ろしている。
その鋭く冷たい瞳に、女は恐怖を覚えた。

男のガンロットが女の首に触れそうになったその瞬間だった。
遠くから、ケヴェス、アグヌス、どちらのものかも分からないエーテル弾がすぐ近くに着弾する。
砂塵が舞い上がり、強烈な爆風によって再び体が吹き飛ばされる。
崖際にいた二人の体は、崖の下へと真っ逆さまに落ちていく。
高所から落ちていく浮遊感は、女に多大な恐怖感を与えた。

だが、その体が地面に叩きつけられることはなく、崖下に流れる冷たい川へと飛び込んだ。
冷たい川の水が、兵士服の中に入り込む。
重くなった四肢を必死で動かし、水面に顔を出してなんとか川辺に這い出る。
荒くなった息が一向に整わない。
右腕の感覚が全くないのは、おそらく折れてしまっているからなのだろう。
ブレイドを出そうにも全く力が入らない。

崖の上では相変わらず戦闘が続いているようで、爆音が鳴り響いている。
その爆音に交じって、砂利を踏む音が聞こえてくる。
一緒に崖下に吹き飛ばされたあのアグヌスの男が、ガンロットを引きずりながらゆっくり近付いてくるのだ。
頭から血を流しながら、右足を引きずりつつ距離を詰める彼の姿に女は冷や汗をかき始める。
ブレイドも出せない今、抵抗する余地などない。殺される。
一歩、また一歩と近付いてくる男の姿に恐怖する。

成人の儀まであと半年だったのに、ここで終わりか。

覚悟を決めて瞳を閉じる。
だが、一向に痛みが体を貫くことはなく、代わりにどさりという何かが倒れる音が聞こえてきた。


「え…」


目を開けた女の視界に広がったのは、つい先ほどまで殺意を向けて近付いてきていた男が、砂利の上に倒れ込んでいる光景だった。
息が荒い。川に落ちた自分と違い、おそらく地面に叩きつけられたのだろう。
いくら屈強な体を持つアグヌス兵とはいえ、あの高さから落ちれば無事ではいられない。

殺される心配が無くなったことに安堵感を覚えた女は、懸命に体に力を入れ、立ち上がる。
どうやら足は辛うじて折れていないらしい。
使い物にならなくなった右腕を押えながら、倒れ込んでいる男の脇を通過する。
コロニーに帰らなければ。生きて帰って、死んでいった仲間たちを弔わなければ。
その考えが支配する頭の隅で、すぐ近くで今にも命を燃やそうとしている敵の男の顔が浮かんでくる。

振り返ると、やはり男は倒れたまま。
このまま放置すれば、いずれ彼は死ぬだろう。
出血による死か、痛みによる死か、はたまた誰にも気付かれることなく飢えて死ぬのかもしれない。
いずれにせよ、その死は悲惨なものだろう。
だが知ったことではない。この男は敵だ。
同情する理由もなければ、気に掛ける必要もない。
勝手に野垂れ死ねばいい。彼がどんな最期を迎えようとも、自分には関係ない。
なのに、死にゆく彼の体から目が離せないのは何故だろう。

こいつだって、何人もの同胞をその手で殺めてきただろうに。
恨むべきアグヌスの紋章を掲げて生きている人間なのに。
どうしても、無視することが出来なかった。


「くそっ…」


小さく悪態をつくと、女は折れていない左手で男の肩を掴む。
パワーアシストが働かない体では、一人の男を抱え上げるのは至難の業だった。
体中の痛みに耐えながら、女は男の腰の兵装に腕を回し、懸命に力を込めて立ち上がる。
流れる男の血が、真っ白なアグヌスの兵士服を赤く染めていた。
まずい。あまり乱暴に動かすと出血多量で危なくなるかもしれない。
慎重に運ばなければ。
男の泥で汚れた右腕を自分の肩に回させたとき、男はうつろな瞳で女を見つめた。


「なんの、真似だ…」
「ここにいたら上の戦闘に巻き込まれるだろ」
「ふざけるな。敵の情けは受けない」
「うるさい。今ここで殺されるのが嫌ならとっとと歩け」


男は唇を噛むと、諦めたように顔を逸らした。
どうやら彼は右足も折れているらしく、うまく歩けないようだ。
力の入らない男の体を庇うように、女は彼に肩を貸しながらゆっくり歩く。

何故、敵であるこの男を痛みを我慢してまで助けたのかと問われたら、正直分からない。
アグヌスは憎いし、彼らに殺された仲間は数えきれないほどいる。
けれど、この男個人に恨みはない。
ただ、胸につけている紋章が女はケヴェス、男はアグヌスのものだったというだけのこと。
産まれた場所が違う二人の兵士は、ただ生きたいという願望だけが共通している。
生きていたい。死にたくない。そんな単純な考えが、2人の足をゆっくり前へと進めていた。
男の腕をしっかり掴んだ女の手は、パワーアシストを失っているとは思えないほど力強いものだった。


***

アグヌスキャッスルは、アイオニオンで一番高い場所にあると言っても過言ではない。
それほど高所に位置しているにも関わらず、空気が薄くもなく過ごしやすい場所だった。
つい数時間前にエヌやエックスらによって激しい戦闘が繰り広げられていたとは思えないほど、この場所は美しい青空に見下ろされている。

広場に残された瓦礫撤去に追われているアグヌス兵たちを横目に、タイオンは一人瞳の機能を覗き込んでいた。
大剣のてっぺんから移動したシティーの場所を確認しているのだ。
シャナイアの手配によって発射された殲滅兵器により狙われたシティーだったが、モニカやゴンドウの機転によって場所を移動させたことで難を逃れた。
瞳のマップ上に確かに存在するシティーの鉄巨神を確認し、彼は静かに安堵する。
あの場所にも、たくさんの命がある。
失うわけにはいかなかった。

ティーの無事を確認し終えたタイオンは、自分も瓦礫撤去の手伝いをするため瞳の機能を閉じる。
すると、忙しなく後片付けに追われるアグヌスの兵たちに交じって見慣れた姿を見つけた。
白い翼を頭に生やした相方が、積み重なった鉄製の皿を両手で持ちながらゆっくりと歩いている。
かなり重たいらしく、その足取りは随分と遅い。
彼女の手の中で積み上げられている皿が今にも崩れ落ちそうなほど揺れている光景を見て、タイオンは急いで駆け寄った。


「ユーニ、手伝おう」
「おっ、気が利くなタイオン」


タイオンの申し出に、ユーニは素直に応じた。
彼女の腕の中にある皿を2/3ほど受け取ると、広場の脇に設置された簡易食堂へと並んで歩き出す。
そこは、朝早くから瓦礫撤去作業に追われていた兵士たちのために急遽作られた食堂である。
半分以上の皿がタイオンの腕の中に移ったことで、腕への負担が軽くなったユーニは、隣を並んで歩く相方へと視線を向けた。


「半分でよかったのに」
「君には重いだろう」
「人を非力みたいに言うなっつーの」
「ケヴェスの人間が僕たちアグヌスの人間に比べて非力なのは事実だと思うが?」


簡易食堂にようやく到着し、2人はゆっくりと皿をテーブルに置く。
組み立て式の簡易テーブルには既にナイフやらフォークが運び込まれており、あとは肝心の料理を待つのみである。


「いやいや。非力とかタイオンに言われたくねぇって。アタシとお前で力比べしたら絶対勝つ自信あるし」
「あり得ない。パワーアシストが無ければまともにやり合うことすら出来ないだろ」
「おうおうじゃあやってみるか?アタシが勝ったらどうするよ?」
「暫く君を“さん”付けで呼ぶ」
「よしきた腕相撲で勝負だ」


タイオンから“さん”付けで呼ばれるという報酬は、ユーニにとって大きな魅力と言えた。
その報酬のためなら惜しみなく全力を注げるだろう。
この生意気な眼鏡が悔しそうに拳を握り込みながら“ユーニさん”と呼んでくる姿を想像するだけで心が躍る。

袖を捲ってテーブルに肘をつくと、眼鏡を押し込んだタイオンもまた袖を捲り始める。
さていよいよ手を重ねようとしたその時、横から小さな笑い声が聞こえてきた。
その笑い声に気付いた二人は手を重ねる寸前にぴたりと固まり視線を向ける。
そこにいたのは、同じように皿を運んできたアグヌスの智将、シキだった。


「あ、すみません。仲がいいなと思って」


2人からの視線にハッとしたシキは、誤魔化すように苦笑いを浮かべながら腕の中に抱えた皿をテーブルに置いた。
出会った当初は言い争いばかりしていた2人は、他の仲間たちからも“仲がいい”などという評価を受けたことがない。
全くと言っていいほど馴染みのない言葉で自分たちの関係性を言い表された二人は、思わず互いに顔を見合わせてしまう。


「かつて敵味方だった事実が嘘のように思えます」


コロニー9,コロニーガンマの兵士として互いの命を削り合っていたのは、つい3か月前のこと。
すぐ隣でどちらの力の方が上かなどという平和極まりない会話を交わしている相方も、かつてはただの敵でしかなかった。
それは世界の道理であり、常識でしかなかったはずなのに、今となってはその過去のほうが虚構に思える。
インタリンクという不思議な力を通して記憶すらも共有したことで、もはや相手と命を奪い合うなど考えられなくなってしまった。


「確かにな。初めてこいつに会ったとき、モンドにしつこく追い回されたのが随分昔に思えるな」
「“しつこく”とは人聞きが悪いな」
「しつこかっただろ実際」


敵を捉えたら殲滅するまで追い回すモンドの性質は、まさに粘り強く粘着質なタイオンの性格によく似ている。
飼い犬が主に似るように、自立型ブレイドであるモンドは主であるタイオンによく似ているのかもしれない。
不満げな表情を浮かべているタイオンを横目に見つめながら、ユーニはそんなことを思っていた。
憎まれ口を叩きながらもどこか心の距離が近いように思える2人のやり取りを聞いていたシキは、その翡翠色の瞳を細めながら柔く微笑む。


「ノアさんやミオさんにも言えることですが、あなた方を見ているとアグヌスに伝わる悲劇の伝承を思い出しますね」
「悲劇の伝承?」
「もしかして、ケヴェスの女兵士と戦場を離脱したという男の伝承か?」
「なんだよタイオン、知ってんのか」


ユーニからの問いに、タイオンは“あぁ”と頷いた。
コロニーラムダにいた頃、軍務長であるイスルギから聞いたことがあったのだ。
50年以上前、ケヴェスの女兵士と共に戦場を脱しコロニーから離反した男がいたという伝承を。
当時を知っている人間は当然ながら生きていない。
そのため、その伝承の詳細は不明なうえ、そんな男が本当にいたのかすら怪しいものだが、この伝承はアグヌス内に広く知られている。
敵と内通し情を交わしてしまった裏切りの男として。


「あの伝承の兵士は罪深い人間として伝わってきました。けれど貴方たちを見ていると、本当に悪だったのかと疑ってしまいます。何か理由があったのかもしれない。今となっては知りようがありませんが」


ケヴェスとアグヌスは、命の火時計の束縛下にいる以上どこまで辿っても敵同士でしかない。
アイオニオンの長い歴史において、その道が交わったことなど一度もないのだ。
そんな二国間の深く大きな溝を、ウロボロスとなった6人は修復しようとしている。
彼らによって命の火時計が割られた今だからこそ争う理由がなくなったものの、まだ多くのコロニーが争い合っていた頃に敵と手を取り逃げ出した兵がいたという事実には驚かされる。
何が彼らをそうさせたのか、彼らの行く末がどんな結末に終わったのか、2人には想像もできなかった。


「なぁ、その脱走した2人、最後はどうなったんだ?」
「さぁ…。結局それぞれのコロニーに帰ることはなかったと聞いています。ただ、あれからもう50年は経過していますからね。恐らくはどこかで寿命を迎えているでしょう」
「コロニーに帰らなかったということは、成人の儀も受けられなかったのだろう。最期は悲痛なものだったろうな」
「そっか……そうだよな」


コロニーから脱走したということは、旅を始めたばかりの頃の自分たちと同じようにケヴェス、アグヌスの両軍から追われる身となったはずだ。
どちらかの勢力と遭遇して殺された可能性もあれば、野に闊歩するモンスターに食い殺された可能性も否めない。
たとえ10期まで生き延びていたとしても、成人の儀を受けることは叶わなかったはずだ。
誰からも祝福されることなく、寂しく10年の短い生涯に幕を閉じたのだろう。
ミオの体を使ったエムの最期を見たばかりであるユーニとタイオンにとって、それは想像に易い痛みだった。


「伝承の2人も、今の時代に生まれていたら少しは運命が変わっていたのかもしれないですね」


そう言って微笑むと、シキは軽く頭を下げてその場を離れていった。
成人の儀を受けていないとなると、伝承の2人はまた再生されて新しい人生を送っているはずだ。
だが、本人たちに過去の記憶はない。
それが救いなのか絶望なのかは分からないが、新たな人生を歩み始めた二人が幸福な一生を送れていることを願わずにはいられなかった。

ユーニはふと、遠くで寄り添いながら立ち話をしているノアとミオに視線を移す。
あの二人を惹きつけたのはエムとエヌから続く深い因果と、悲しい記憶。
本人たちが知らないところで過去が繋がり、再び巡り合えたのだ。
ならば伝承の2人も、再生された新しい人生で巡り合っていた可能性もなくはないのかもしれない。


「なぁ、タイオン」
「なんだ?」
「ノアとミオは、再生される前に出会ってたんだよな?だからインタリンク出来た」
「あぁ。恐らくはそれが理由だろうな」
「じゃあさ、アタシたちはなんでインタリンク出来たんだろうな」


それは素朴な疑問だった。
ケヴェスとアグヌスが一つとなることがインタリンクの条件なら、タイオンとランツ、ユーニとセナの組み合わせでも良かったはずだ。
だが、実際にインタリンクしたのはタイオンとユーニだった。
それは果たして偶然なのか、それとも必然だったのか。
旅を始めた当初、タイオン自身もそのことについて何度も考えた。
ユーニとはお世辞にも気が合うとは言い難いし、性格も真逆。
そんな彼女がパートナーになったのは、何か特別な理由があるのではないかと。
だが、何度考えてもその答えが出ることはなく、結局“ただの偶然だった”という結論にたどり着いてしまうのだ。


「理由なんてない。あるとすれば、ゲルニカウロボロスストーンを発動した時たまたま近くにいたというだけの話だろうな」


眼鏡を押し込み、さらりと答えたタイオン。
そんな彼を、ユーニは呆れたような目でじっと見つめた。


「な、なんだその目は」
「いや。お前ってロマンがねぇなぁと思ってさ。もっと気が利くようなこと言えねぇの?ノアとミオみたいにきっと昔会っていたに違いない!これは運命なんだ!とかさ」
「会っていたかもしれないが、まともに言葉を交わす機会もなく戦場で戦っていた可能性の方が高いだろう。ノアやミオのように運命的な星の下にいたとは思えない」
「……」


突如として口を噤んだユーニの態度に、タイオンの心は一瞬で焦りに包まれた。
しまった。少し冷たいことを言い過ぎたかもしれない。
別にユーニと組んだことをネガティブに捉えているわけではない。今となってはむしろ逆だ。
彼女が相手で良かったと思えた場面が数えきれないほどある。
それをもう少し素直に口にすればよかった。
機嫌を損ねてしまっただろうか。なんとかこの空気を変えるため、タイオンは必死で言葉を脳の引き出しから引っ張り出す。


「い、いや…。もしかしかしたら過去に印象的な出会いを果たしていたかもしれないな。それこそ伝承にある例の男女のような一生を送っていたのかも…」


先ほどとは全く違うことを言い出したタイオンの分かりやす過ぎる気遣いに、ユーニはクスッと笑みを零した。
こちらの機嫌を直すために思ってもないことを言う彼は妙に優しくて、そのぶっきらぼうな態度がどうもむず痒く思えてしまう。
“ムリすんなよ”と微笑むと、タイオンはばつが悪そうに視線を逸らした。


「確かにお前の言う通り、アタシたちがインタリンク出来るようになったのは偶然だったのかもな。でもさ——」


腕を組み隣に立っているタイオンの顔を軽く覗き込みながら、得意げな表情で笑いかける。
青い瞳に見つめられ、少しだけ心臓が跳ねた瞬間、彼女は胸をつく高威力な言葉をぶつけてきた。


「偶然パートナーになったのにこんなに息が合うなんて、アタシら凄くね?」


素直すぎる彼女の言葉は、タイオンに多大な喜びを与えてしまう。
いつもは軽口ばかりのユーニだが、時折こうしてストレートな言葉をぶつけてくる。
そのたび戸惑って、密かに踊る心を抑え、“僕も同じ気持ちだ”という言葉を何故か飲み込んでしまうのだ。
彼女の素直さが羨ましい。
自分がもっと素直で、思ったことを何でも口にできるユーニのような性格だったなら、もう少し彼女との距離を早く縮められたのかもしれない。
そんなことを考えながら、タイオンは精いっぱいの言葉を絞り出した。


「そう…だな……」


なんとなく、目を合わせることができなかった。
今彼女の青く綺麗な瞳を見つめてしまったら、顔が赤くなるような気がして。


「おーいタイオン、ユーニ!ちょっとこっち手伝ってくれ!」


遠くの方でランツの大きな声が聞こえてくる。
ユーニと揃ってそちらに視線を向けると、ランツが巨大な瓦礫の前でこちらに手を振っているのが見えた。
そのすぐ近くでは、セナが自分の体よりも大きな瓦礫を持ち上げようと踏ん張っている。
力自慢なランツとセナでも、あの大きさの瓦礫を二人だけで片付けるのは無理があるだろう。
ランツに“すぐ行く”と手を挙げて応えたユーニは再び振り返ってタイオンの手を取った。


「ほら、行こうぜ」


タイオンの手を引き、ユーニは歩き始める。
彼女はいつも強引で、敵と戦っている時も草原を歩いている時もこうして強引に引っ張られている気がする。
だが、タイオンはそんな彼女の強引さや自由さが嫌いではなかった。
彼女が微笑み、“行こう”と手を引いてくると、不思議と嫌だとは言えなくなるのだ。
ユーニの後ろを歩きながら、繋がれた手に視線を落とす。
強く握られた彼女の小さく白い手を握り返す勇気は、タイオンにはまだなかった。

 

act.2 雨


僅かな光を感じて瞼を開ける。
視界がぼやけて、頭が完全に覚醒するまで少しの時間を要してしまった。
目の前には焚火。
薄暗く遮られたこの空間は、洞窟のようだった。

どこだここは。
身体を動かそうにも力が入らない。
働かない頭で記憶を辿ってみるが、覚えているのは爆音と広がる硝煙の匂い。
そうだ、戦場にいたんだ。
撤退するケヴェス兵を追い詰めたところで爆風に巻き込まれ、谷底に落下した後、力尽きた。
身体が痛い。恐らくあばらの骨が折れているのだろう。
足も動きそうにない。利き腕である右腕は何とか無事らしいが、左腕は感覚がなくなっている。
こんな状況で、自分一人の力でこの洞窟に避難して来れたとは思えない。
誰かが運んでくれたのだろうか。
曖昧な記憶を手繰り寄せようとしたその瞬間、洞窟の入り口から気配を感じた。


「気が付いたのか」


見知らぬ女の声。
身に纏っている黒い兵士服は、その人影が敵であるケヴェスの人間であることを示していた。
歩み寄ってくるその影を視界に入れた瞬間、失念していた記憶が蘇る。
そうだ。この女に助けられたのだ。息の根を止めるため追い詰めていたこの女に。
警戒し、思わず立ち上がろうと体に力を入れるが、その瞬間激痛が走る。


「まだ動かないほうがいいぜ?あばらと右足が折れてる。ついでに左腕も麻痺してるみたいだし」
「っ、」


一歩一歩近づいてくる女に焦り、唇を噛む。
たとえ体が動かなくとも、警戒を解くわけにはいかなかった。
辛うじて無事だった右腕で、感覚のない左腕を抑えながらじりじりと後ろに下がる。
軸足が折れているため、立ち上がることも難しいだろう。
自分はここで死ぬのか。
見下ろしてくる女の瞳に焦りと恐怖を抱きながら、男は睨む。


「……何故すぐに殺さなかった?」
「殺そうにも殺せねぇよ。この腕じゃな」


女は左腕に大量の果実を抱えていた。
恐らく洞窟の外で採ってきたものだろう。
右腕は力なく肩からぶら下がっており、おそらく動かないのであろうことが分かった。
利き腕を負傷した兵は、ブレイドを出すことが出来なくなる。
目の前の敵を殺そうにも、ブレイドが出ないのであれば仕方がない。
女を制圧して安全を確保する好機ではあったが、残念ながら軸足とあばらを負傷し動けない今の自分には無理だろう。
右腕はまだ生きているためブレイドは出せるが、体に力が入らないため回復アーツも発動できない。
互いに互いの命を奪うことが出来ないこの状況で、男はただただ女を睨むことしか出来なかった。

そんな男のそばに近寄り、女は膝を折る。
その拍子に、女の関節部分にハマったパワーアシストが視界に入ってきた。
複数装着しているそれらは、ほとんどヒビが入っていて故障している。
女は左腕に抱えた果実たちを地面にごろごろと置き、そのうち一つを取り上げる。
まだ熟しきっていない薄黄色の果実を、腕にこすって簡単に汚れを落とす。
そして、“ほら”と言いながら差し出してきた。


「……何の真似だ」
「腹減ってんだろ?食えよ」
「ふざけるな。敵から食べ物を貰う兵がどこにいる」


つい先ほどまで戦場で命を奪おうとしていた相手の腕に収まっていた食べ物を簡単に口に出来るわけがない。
毒が塗られているかもしれない。
もしそうじゃなかったとしても、これ以上敵から情けをかけられるわけにはいかない。
警戒の視線を向けてくる男の態度に、女は小さく舌打ちをした。
“めんどくせぇな”と呟いて、彼女は差し出していた果実に豪快にかぶりついた。
シャリ、と音がして、まだ少し硬い実を噛み砕く。
咀嚼しながら、噛み跡が付いた果実を再び差し出してくる。


「ほら、毒なんて塗ってねぇよ。それともアタシの食べかけなんて食いたくねぇってか?」
「……」
「まぁ、アタシとしてはお前がこのまま餓死でもしてくれた方が都合いいんだけどな。そうすればお前の命はアタシの糧になるし」
「貴様……っ」
「嫌ならとっとと食えよ。アタシの気が変わる前にな」


鋭い青い瞳と、揺れる褐色の瞳とが視線をぶつけあう。
迷いに迷った末、男はそっと手を伸ばし果実を受け取ると、恐る恐る齧った。
味に異常はない。確かに毒は塗られていないようだった。
小さく安堵した男の横で、女は地面に置いた果実を一つ拾い上げると、少し離れた場所に腰掛け自分もか齧りつく。

静かな洞窟内に、焚火の炎がはじける音と果実を咀嚼する音だけが響く。
ちらりと女の方へと視線を向けると、彼女は洞窟の外へと目を向けながら無言で果実を食べていた。
装備からしディフェンダーに違いない。
見た目から察するに自分と同じ10期だろうか。
胸元には赤が消えかかりつつある刻印が刻まれている。
あの薄くなった刻印はおそらく10期後半。残り半年ほどで成人の儀を迎えると言ったところか。

観察すればするほど分からなくなる。
自分を助けるなんて余計なことをせず、あのまま大人しく自軍のコロニーに帰っていれば、きっと平穏に成人の儀を迎えられただはず。
こうして自分と一緒にいることで、彼女は無駄なリスクを負っているのだ。


「何故、助けた?」


独り言のように呟くと、洞窟の入り口に目を向けていた女の視線がこちらに向く。
注がれる視線に気付きつつも、男は手元の果実を見つめながら瞳を伏せた。


「リスクを負ってまで、何故……?」
「お前は、目の前で死にそうになってる奴を見捨てるのか?」
「味方なら助けるだろうな。だが僕たちは敵同士だ」


ケヴェスの人間は憎い。
多くの仲間たちが、彼らの手にかかって死んでいった。
命乞いをしてもその身を貫き、逃げる背を撃ち抜かれ、助けを求める声を無視して首を切る。
そんな光景を何度も見てきた。
ケヴェスは敵だ。一人残らず命を奪ってやりたい。
命を長らえるため、仲間の仇を取るため、生きていくために。
目の前にいるこの女もケヴェスの人間だ。当然憎い。
胸元に鎮座しているケヴェスの紋章を視界に入れるたび、虫唾が走る。
だが、その紋章を胸に掲げた彼女はまっすぐこちらを見つめたまま、涼しい口調で言い放った。


「お前を殺す理由はいくらでもあった。でもだからって、助けない理由はなかった」


シャリ、と音を立てながら女は再び果実に口を付ける。
その小さな口から発せられた言葉に、男は驚きのあまり一瞬言葉を失った。
理由がないだと?何を言っているんだ。
常識から逸脱している。


「理由ならあるだろ。敵なんだぞ」
「じゃあお前はあの場で死にたかったのか?」
「そういうわけじゃないが……。憎くないのか、僕が」
「だってアタシ、お前の名前すら知らねぇし」


果実を食べつくした女は、残った芯を焚火の中へと投げ入れる。
瞬間、バチッと大きな音を立てて少しだけ火が大きく揺らめいた。
焚火の炎越しに見る女の顔は、感情があまり読み取れない。


「アタシが憎いのはアグヌスだ。お前じゃない」


淡々と言い放たれた言葉に、息が詰まった。
戦場でブレイドを手に迫りくる黒い兵士服の者たちを、今までずっと“ケヴェスの兵”としてしか見てこなかった。
だが彼女は、白い兵士服を着ている者たちを“アグヌスの兵”として見ていない。
1人の人間として見ている。

よく考えれば当然のことだった。
ケヴェスとアグヌスという大きな紋章を背負いながら戦っている兵士たちにも、一人ひとり別の人生があって、一人ひとり全く違う価値観の上で生きている。
産まれた場所と、胸に掲げている紋章の形が違うというだけで、自分も彼女も一人の人間なのだ。
なぜ今まで、そんな単純なことに気付けなかったのか。
“ケヴェスは敵。一人残らず殺すべし”
当然のように頭に存在していたその常識を少し別の角度から見た瞬間、それは一瞬にして常識とは言えなくなってしまう。
常識などと言う曖昧なものは、立つ場所、見る位置でいくらでも変わるのだ。


「君は、変わっているな」


熟れていない果実はまだ少し渋くて食べにくい。
だが、のどの渇きを潤すには十分だった。
刺すような体の痛みを、その時ばかりは不思議と忘れられた。

ケヴェスの人間とこうして一対一で話すのはこれが初めてだ。
焚火の向こう側こ腰かけている彼女の姿を見つめながら、自分の中でゆっくりと価値観が変わっていくのが分かる。
なんだ。彼女たちも自分と同じ、ただの人間なんじゃないか。
至極当然で当たり前な事実を、男は果実と一緒に咀嚼した。


***

あれから、何度かの昼と夜が過ぎていった。
女は毎日朝になるとふらっと出かけて、同じ果実を腕いっぱい拾ってくる。
差し出されたそれを黙って受け取り齧りつくのが男の日課だ。
もう何日もこの果実しか食べていなかったためとっくに飽きがきていたが、わざわざ自分の分まで採ってくる彼女にその不満をぶつける気にはなれなかった。
相変わらず右足はまだ動かないし、あばらの骨も治っていない。
彼女の右腕もまだよくなってはいないようだった。

コロニーに帰らないのかと問いかけたこともあったが、パワーアシストが故障している上に右腕が動かない状況で一人行動出来るわけがないと言い放ってきた。
こちらとしても、足と腕、そしてあばらを負傷しているこの状態ではコロニーには帰れない。
せめてあばらの骨さえ治ってくれれば、体に力が入って回復アーツを使えるのに。
試しに、問題なく動く右腕でブレイドを出してみる。
大きなガンロットの重みが右手にずしりと乗り、その反動で体に痛みが走る。
やはり、回復アーツを放つのはまだ難しいようだ。


「そういえばお前、ヒーラーなのか」


洞窟の入り口から、女の声がする。
果実を採りに行っていた彼女が戻ってきたようだ。
いつも通り左手に果実を抱えた彼女は男の目の前で膝を折り、地面に並べる。
女の髪は少しだけ濡れていて、雨の匂いがほんのり漂ってくる。
洞窟の入り口に視線を向けると、どうやらいつの間にか天気が雨に変わっていたらしく、わずかに雨音が聞こえてきた。
果実を集めている間に雨に降られ、急いで戻ってきたのだろう。
外に行く前に“瞳”で天気を確認してから行けばよかったものを。


「なんで自分で回復アーツ使わないんだよ」
「力が入らない。アーツを放つにはあばらを治す必要があるだろうな」
「ふうん。じゃあおまえのあばらが治った時が、アタシの最期ってわけだ」
「……どういう意味だ」
「アーツが撃てるようになったら、お前はアタシを殺すだろ?」


女の言葉に、男は何も言わなかった。
このあばらが治った時、ヒーラーである男は回復アーツで自らの怪我を治せるだろう。
そうなれば、ここで敵の女とまごまごしている必要もなくなる。
彼女の命を奪って自らの糧とし、自分のコロニーに帰るのが当然の流れだろう。
だが、それは“当然の行動”ではあるのだろうが、“正しい行動”との言えるだろうか。
分からない。
放っておけばいいのに、毎日毎日負傷した右腕を引きずりながら果実を採ってくる彼女の命を、このガンロットで奪えるのだろうか。
分からない。

女は自分の分の果実を一つ拾い上げ、少し離れたところに座って食べ始める。
地面に転がっている果実を自分も一つ拾ってみると、表面に水滴がついていた。
今日はいつもより冷える。
このインヴィディア山脈付近は標高が高く、気温も他の場所と違ってかなり低い。
きっと外は寒かっただろう。
雨の中、果実を拾い集めてきた女を視界の端に捉えながら、ほんの少しだけ胸が痛くなった。
何か、言ったほうがいいのだろうか。
例えば、“ご苦労だった”とか。いや、その言い方は礼を欠く。
けれど彼女は敵だ。礼なんてする必要があるのか。
でも、だけど。


「あの――」


迷った末に口を開いた瞬間、焚火の向こうに座っている女の顔が妙に火照っていることに気が付いた。
あれは焚火の熱によるものではない。
うつろな瞳に、少しだけ乱れている息。額には冷や汗をかいている。
明らかに様子がおかしい彼女の様子に戸惑った男は、“どうした?”と問いかけてみる。
すると女はちらっと男に視線を寄越すと、瞼をそっと閉じ震える声で言った。


「なんでも、ない……。ちょっと、頭がぼうっと……」
「お、おい!」


彼女の手から、果実が零れ落ちる。バタッと音を立てて、彼女は地面に力なく倒れた。
少し離れた場所にいるにも関わらず、彼女の荒くなった息がここまで聞こえてくる。
瞼を閉じたまま肩を上下させている様子を見るに、ほとんど気を失っているのだろう。
突然の出来事に戸惑う男だったが、暫く視線を泳がせた後もう一度“おい、大丈夫か”と声をかけてみる。
当然、返事はない。
身をよじり、手を伸ばして何とか彼女の元へと近づくと、その額に手を当ててみる。
熱い。すごい熱だ。寒い中雨に打たれて発熱したのだろう。
どうする?回復アーツを使おうにも、まだあばらが治っていない以上難しい。
かといって薬を持っているわけでもない。
辺りをきょろきょろと見回してみるが、視界に入るのは焚火と地面に転がった果実。そして洞窟の入り口に生えている雑草くらいだった。

なにか、何か使えるものはないだろうか。
目を凝らしてよく見てみると、洞窟の入り口の雑草に交じって白い花が何輪か咲いているのが見えた。
あれは確か、セリオスアネモネだ。
それを見た瞬間、昔聞きかじった知識を思い出す。
あの花の花弁は煎じると薬草の代わりになる。効果は解熱。
実際に薬草として使ったことはないが、噂程度に聞いたことがあるその知識を信じるしかない。
だが、あの花が生えている洞窟の入り口はここから少し距離がある。
立ち上がることが出来ない今、あの花を摘みに行くのは少々難儀だ。
だんだんと息が荒くなる彼女の気配を隣に感じながら、脳裏にあの言葉が浮かんでくる。

“だからって、助けない理由はなかった”

彼女は敵だ。
どこまでいってもその事実は変わらない。
だが、敵に恩を抱いたまま死なれるのは目覚めが悪い。
ひとつ覚悟を決めると、男は痛む体に鞭うつように力を入れた。


***

体がだるい。
目を開けると、薄暗い洞窟の景色が広がっていた。
記憶がぼんやりしているが、確か頭がぼうっとして瞼が重くなり、意識が暗転したのだ。
恐らく気を失っていたのだろうが、あの時の気怠さが嘘のように体が軽くなっている。
眠っている間に回復したのだろうか。


「起きたか」


上体を起こし、その声がした方へと視線を向けると、あの男が座った状態でこちらを見つめていた。


「アタシ、気絶してたのか?」
「あぁ。高熱でな。顔色を見るにもう大丈夫だろう。セリオスアネモネに感謝するんだな」
セリオスアネモネ…?」


背後に手を突くと、そこに白い花びらが落ちているのに気が付いた。
これは確か、洞窟の入り口にいくつか生えていた花だ。
彼の口ぶりから察するに、この花を使って薬草でも作ったのだろう。
男のそばには花びらを煎じるのに最適そうな鋭利な石と、細かく刻まれた花びらが落ちている。
ふと洞窟の入り口に目を向けると、そちらに向かって何かが引きずられたような跡が続いていた。
男の体には、先ほどまではなかった泥が付着している。
あぁ、動かない体を引きずってまであの花を摘んで、薬草を作ってくれたのか。


「なんで、助けたんだ?放っておいてもよかっただろ」
「……君がそれを言うか」


乾いた笑いがこみ上げる。
なんで、なんてわかり切った問いをしてしまった自分が馬鹿らしい。
自分だって、相手を助けた前科があるのだから。
焚火の向こう側にいるその男は、こちらに視線を向けることなくどこか遠くを見つめていた。
その褐色の瞳は、初めて会った時より少しだけ柔らく見える。
この男の名前すら知らないのに、その人となりを少しだけ理解できたような気がした。


「お前、変わってるな」


いつだったか言われた言葉を、そのまま返す。
すると彼は視線を上げて、焚火越しにこちらを見つめてきた。


「そういえば、まだ聞いていなかった」
「ん?」
「君の名前」
「知ってどうすんだよ。どうせあと数日で殺す奴の名前なんてさ」
「……」
「ま、いっか」


男と一緒にこの洞窟にやってきてから、すでに数日が経過している。
だが、互いの名前を教え合ったことはなかった。
今更ながら、自分はこの男のことを何も知らなかったのだなと呆れてしまう。
アグヌスのヒーラーというだけで、名前も、何期なのかも、何も知らない。
こんなに長い時間、一人の人間と二人きりで過ごしたことなどなかったのに。
そして今日、初めて知りたいと思った。
きっと相手も同じ気持ちなのだろう。だからこそ、名前を聞いてきた。
聞いたところで二人の運命が変わることなどないというのに。


「アタシの名前は―――」


今更の自己紹介は、少し恥ずかしかった。
自分だけ名乗るのは気に入らなかったから、“お前も名乗れ”とせっつくと、彼は視線を外しながら名乗ってくれる。
変わった名前だった。でも、何故だか頭にすんなり入ってくる。
どうせあと数日で忘れる名前なのに、その4文字が頭から剥がれる気配はなかった。


***


リクが運転する船は、カデンシア地方に大きく広がるエルティア海を一直線に横断していく。
甲板に上がって右から左に流れていく景色を見つめながら、タイオンは自らの懐をまさぐった。
取り出したのは小さな懐中時計。
手の中で時を刻み続けるその時計を見ていると、色々な思い出が蘇ってくる。
それは主に、かつて師事したナミとの思い出だった。


「よかったな、あのコロニーを守れて」


背後から聞き慣れた声がする。
振り返ると、そこにいたのはやはりユーニだった。
美しい白い羽根を風に揺らしながら立っている彼女は、穏やかに微笑みかけてくる。
“あぁ”と短く返事をすると、彼女はタイオンの横に並んで同じ方向を見つめた。

イスルギからの依頼で、忘れ去られたコロニーをメビウスから救ったのはつい昨日のこと。
自然の成り行きに任せようとするコロニーの在り方に反し、強引に介入することに迷いがなかったわけではない。
だが、サフロージュの木々を背に微笑むナミの顔を思い浮かべると、やはり間違いではなかったのだと思える。
かつて自分のせいで失われた命を、今度は自分の手で守れた。
その事実が嬉しくて、この小さな懐中時計に視線を落とすたびに達成感を噛みしめていた。


「ミオのことも解決したし、もうお前が思い悩む必要もなくなるな」
「僕はそんなに思い悩んでいるように見えていたのか?」
「まぁな。ミオのこととかナミのこととかイスルギのこととか、気にすることが多すぎて忙しいやつだなって思ってた」
「……なんだその言い草は」


揶揄うようなユーニの言葉は少しだけ不満だった。
だが、実際ことあるごとに俯き、難しい顔をして物思いに耽っていたのも事実。
ミオの期限が迫るたび哀しみが募り、ナミの顔を思い浮かべるたび胸が痛み、イスルギの憂い顔を見るたび自分を責める。
心に抱いた黒い靄は、ミオの期限が無くなり、ナミのコロニーを救ったことで少しだけ薄くなっていた。
だが、完全に心が晴れ渡ったわけではない。
自分のせいでナミを死なせてしまった過去はどうあがいても揺るぎようがない。
乗り越えることはできても、過去を忘れることなどできないのだ。


「ナミさんへの償いがこの程度で済むとは思っていない。だが、ほんの少しでもあの人の未来を明るいものにできたのは事実だ。今はそれだけでも良しとしておこう」
「償い、ねぇ……」


風に乱れる髪を抑えながら、ユーニは遠くの雲を見上げていた。
タイオンはプライドが高い完璧主義者だ。
作戦を考えるときは一分の隙も生まれないよう神経を研ぎ澄まし、何か不備があれば必ず自分を責める。
そんな面倒この上ない性格は、かつて自分の策がきっかけでナミを死なせてしまったことが要因なのだろう。
彼はまだ、ナミの死を自分のせいだと思い続けている。
コロニー13との戦闘でナミが命を落とした時の詳細をユーニは知らない。
だが、生涯をかけて負い目を抱くほどタイオンに大きな責任があるとも思えない。
相方として、タイオンの人となりをよく理解していたユーニにとって、自分を責め続けるタイオンの心持ちは納得できないものだった。


「もう、僕のせいで誰かが死ぬのは見たくない」
「お前のせいだったことなんて一度もないと思うけどな」
「君は僕のすべてを知ってるわけじゃないだろ」
「そうだけどさ」


船の手すりに背を預け、ユーニは上空を見上げる。


「知りたいとは思ってるよ」


過ぎ去っていく雲を見つめながら思い出されるのは、コロニーラムダでイスルギの泥人形と邂逅したあの日の記憶。
目覚めた本物のイスルギから、“なにか酷いことをしてしまったのか”と問いかけられて、“なにも”と答えたあの時のタイオンの横顔を、ユーニはよく覚えていた。
嫌味な奴だと思っていたこの男の不器用な優しさに触れて、初めて思ったのだ。
こいつが相方でよかった。と。


「アタシが知ってるタイオンは、鬱陶しいくらい完璧主義者で、他人の気持ちを優先してばっかりの面倒くさい奴だ。そんな奴が、人の生死に関わるような失敗をするとは思えねぇんだよ」


タイオンはいつも慎重な男だった。
そんな彼を信頼していたし、頼りにもしている。
まっすぐその気持ちを伝えてみると、彼は目を丸くさせてすぐに顔を逸らした。
眼鏡を押し込んで咳払いするその仕草は、明らかに照れ隠しである。


「だ、“誰が鬱陶しくて面倒くさい”だ」


クスっと笑みを零すと、少し恨めしそうなタイオンの視線がこちらに向く。
不満そうな目をしているものの、その不器用な表情には小さな喜びが滲んでいる。
風に揺れるタイオンの癖毛の向こうに、ふと分厚い雲が見えた。
突き立つ大剣の向こうに広がっているその雲は暗く、今にも雨を降らしそうな空気を漂わせている。
恐らくあと数分もすれば、ここにも雨が広がるだろう。
指をさして雲の存在を教えると、タイオンは怪訝な顔をしてため息をつき、手に持った懐中時計をそそくさと懐にしまい込んだ。


「雨雲だな。そろそろ船の中に戻ろう」
「まだ大丈夫だろ。もう少し風に当たっていたい」
「ダメだ。雨に濡れて風邪でも引いたらどうする?」


そう言って、タイオンはユーニの手を取り歩き出す。
その手つきは強引なものだったが、どこか優しかった。


「ふうん。アタシの体を心配してくれてるわけか」
「違…っ、いや違くはないが。心配しているのはインタリンクの方だ。君が体調崩したらできなくなるだろ」
「はいはい。そういうことにしておいてやるよ」


素直じゃないタイオンの言動に、ユーニは笑いをこらえられなかった。
赤くなった顔を隠すように前を向く彼の手に視線を落とす。
大きな手だった。自分の華奢な手よりもずっと大きくて、それでいて温かい、男の手だ。
握りこまれたその手を診ていると、なんだかこっちまで気恥ずかしくなってしまう。
船内へと引っ張り込むタイオンの手を握り返す勇気は、ユーニにはまだなかった。

 

act.3 花


アグヌスの人間はケヴェスの人間に比べて屈強な体を持っている。
筋力も免疫力も回復力も、ケヴェスの者たちとは比べ物にならないほど優秀だ。
たとえ同じ日に怪我を負ったとしても、アグヌスの人間の方が完治が早い。
最初から分かっていた。
助けたところで得なことなど無い。
どうせ相手の方が先に完治し、立場は逆転する。
数日前まで動くことすら叶わなかった男が、今は一人で立ち上がり、自分を見下ろしている。
彼がかけている眼鏡越しに見える褐色の瞳を見つめながら、女は自分の短い生涯の終わりを感じた。

今度こそ、これで終わりだ。
まだ自分は怪我が完治していない。
右腕に力が入らない以上、まだブレイドが出せないため抵抗のしようがない。
今、この男にブレイドを突き立てられたら、無抵抗のまま骸を晒すことになる。
けれど、不思議と恐怖感は無かった。
名前も知らない敵に殺されるよりは、少しの間言葉を交わした彼に奪われるほうが、この命も無駄にはならない気がする。
どうせ、あの崖から落ちた時に失ったと言ってもいいほどの命だ。今更惜しくはない。


「良かったな、怪我が治って」
「君はまだ完治しないのか」
「あぁ。パワーアシストも壊れたままだし、まだここから出られないだろうな」
「……そうか」


暗い洞窟の中で過ごす数週間は、そこまで退屈ではなかった。
食い繋いでいた果実は日を重ねるごとに熟れていって、少しずつ美味くなっていたし、何より話し相手もいた。
ぶっきらぼうで口数少ない男だったが、心の根は悪い奴ではない。
数十時間の時を一緒に過ごしたこの男は、もはや元々敵同士だったとは思えない。
だが、相手はアグヌス。自分はケヴェスという世界の事実は揺るがない。
怪我が治れば二人は明日を生きるために殺すべき存在へと戻っていく。
今、目の前にいる男にとって自分は、命を奪うべき虫けらでしかないのだろう。
女は瞼を閉じ、長い睫毛を伏せながら俯いた。


「早くやれよ」
「抵抗しないのか」
ブレイドが出せないんだから仕方ないだろ。これがアタシの運命なんだ」
「命乞いする気も起きないと?」
「生かしてくれって言えば、お前はそうするのか?」
「……躊躇いはするかもしれない」
「優しいな、お前は」
「揶揄うな」
「いいんだよもう。お前に殺されるなら、それも本望だ」


頭上で、男が息を詰める気配がした。
彼が何を思っているのか、どんな表情をしているのかは分からない。
死を望んでいるわけではなかった。ただ、自分たちは死ねば命を奪った相手の糧となり、その命の期限を延ばす光となって消えてゆく。
どうせ死ぬなら、まともな人間の糧になりたい。
こいつの糧になるのなら、それもいいかと思えたのだ。
胸元に手を当て、自らの刻印に触れる。
あと半年だった。半年生きられれば、コロニーで成人の儀を受けて女王の元に還ることができた。
英雄になれるはずだった。でも、人生そう上手くはいかない。
肩から抜けるように息を吐くと、男がブレイドを振り上げる気配を感じた。

死の向こう側に待っている世界は、どんなところなのだろう。

女の体に、痛みがやって来ることはなかった。
代わりに男のブレイドがガツンという音を立てて地面に突き立てられる。
エーテルを含んだ翡翠色の粒子が舞い上がり、女の傷を、痛みを、ゆっくりと消し去っていく。
そういえばこいつ、ヒーラーだったな。
そんなことを考えながら顔を上げると、男は表情を隠すように眼鏡を押し込むふりをした。


「ラウンドヒーリング。周囲のエーテル流を利用して傷を治すアーツだ」
「……なんで」
「借りを作ったままなのは僕の主義に反する」
「自分が何してるか分かってんのか?」
「君に言われたくない」


動けない数日の間、男はいつ死んでも可笑しくはなかった。
自分も利き腕を負傷していたにも関わらず、毎日重い体を引きずって食料を届けてくれた女に何も感じないほど冷徹ではない。
助けたところで何の得もない。それは分かっていたけれど、放ってはおけなかった。
何故なら、殺す理由はあっても助けない理由などなかったから。
回復アーツをケヴェスの人間に向けて放ったのは初めてのことだった。
女は自分の右手に視線を落とし、拳を握り緩めを繰り返す。
問題なく動く体を確認すると、腰にハマっていた壊れたパワーアシストを強引に取り払い遠くに放り投げた。


「こんなことして、後悔しない?」
「するかもしれない。だが仕方ない」
「仕方ない?」
「今君を殺していた方がきっと後悔していただろうから」


未だ座り込んでいる女に向かって、男は手を差し伸べる。
傷が癒えた女は小さく笑みを浮かべながら四肢に力を入れ、男の手を取りながら立ち上がった。
それまで随分と重かった体が、嘘のように軽い。
握った男の手はやけに暖かくて、自分と同じように血が通っていることが分かる。
皮膚から伝わるこのぬくもりは、相手が自分たちと変わらず生きているのだという事実を教えてくれた。
洞窟の外からは光が漏れている。天候はいいようだ。
コロニーに帰るには都合が良すぎるこの天気は、今すぐここを出て行けという天からのお告げなのかもしれない。


「あれから何日経ったんだろうな」
「10日ほどだな」
「さっさとコロニーに帰らないとな」
「君のコロニーはここから近かったな」
「まぁ、たぶん」
「送っていこう」


男の言葉に、女は言葉を失い目を見開いた。
この天邪鬼な男が、そんな気遣いをしてくるとは思っていなかったのだ。
女が向けてくる驚きの表情が気に食わなかったのか、少しむっとした顔で男は睨む。
“何だその顔は”と呟く男の背中を見つめながら、女は“だって…”と口にする。


「そこまでする必要なくね?」
「パワーアシストを失った君が、モンスターが闊歩する平原を抜けてコロニーにたどり着けるとは思えない」
「そうかもしんねぇけど、お前が気にすることじゃないだろ」
「……嫌ならいい。一人で帰ってくれ」


視線を逸らしてそそくさと外へ出ようとする男の腕を、咄嗟に掴んで引き留める。
男の白かった兵士服はいつの間にか汚れて薄汚くなっていた。
このまま行かせるのはなんだか惜しいような気がして、捕まえる。
振り返りこちらに視線を向けてきた男の顔は、今まで見たどの瞬間よりも優しく見えた。


「せっかくだし、甘えとく」
「……そうか」


視線を前に戻し、再び眼鏡を押し込む。
空欄が多かった男に関する情報が、また一つ埋まったような気がした。
彼は照れると眼鏡を直す。
表情を隠すためなのか、はたまた誤魔化すためなのかは分からないが、とにかくそれがこの男の癖なのだ。
また少しこの男の心根に近付けたことに、女は笑みを零して自らの白い羽根を指先で撫でる。
それは、嬉しい時によくしてしまう女の癖だった。


***

インヴィディア山脈のふもとを迂回するようにして森林を避けると、カーナの平原にたどり着く。
草木が生い茂るこの平原は比較的気温が低く、吹き抜ける風がひんやりと冷たかった。
元々寒がりだった女は両腕をさすりながら摩擦熱で耐えようとしていたが、あまり効果はない。
前を歩く男は何度か背後を歩く女を振り返り、何か言おうとしてたが、結局何もせず足を進める。

あぁ寒い。寒すぎる。
肩をすくめながら地面に視線を落としたその時、視界の端に白い花が現れた。
見覚えのあるその花弁にはっとして思わず足を止めると、前を行く男もまた立ち止まって振り返る。
“どうした”と問いかけてくる男を横目に、女は花の方を指さし問いかけた。


「あれ、この前お前が煎じてくれたやつだよな」
「あぁ。セリオスアネモネだな」
「そうそれ。ここにも生えてたんだな」


岩陰に生えているその白い花は、つい先ほどまで身を寄せていた洞窟の入り口に生えていた花と同種のものだった。
あの花弁を使った薬草によって、女は高熱から救われた。
ここは自分のコロニーからも近い。熱を出した仲間がいたらあの花を摘みに来て薬草を煎じるのも悪くないかもしれない。
あの時男が自分にやってくれたように。


「解熱に使えるなら覚えておいた方がいいな」
「あの花より効果が高い薬草はいくらでもある。セリオスアネモネは薬草よりハーブティーにした方が真価を発揮するだろうな」
ハーブティー?」
「精神を安定させる効果がある。落ち着きたい時にはうってつけだ。味もいい」
「ふうん」


僅かに吹く優しい風に、セリオスアネモネは花弁を揺らしていた。
花を使ったハーブティーを飲んだことは一度も無かった。
戦の中に生きる身として、心落ち着く効果があるというのなら是非飲んでみたいものだ。
だが、ハーブティーの淹れ方など知るわけもない。
口ぶりから察するにこの男は知っているのだろうが、“淹れてくれ”と強請るにはまだ彼との距離が開きすぎているような気がした。
いつかまたどこかで会えたとして、その時頼んだら承諾してくれるのだろうか。
いや、ありえない。
次に会うときは、また命を奪い合う敵同士に戻っているはずだから。


「物知りなんだな、お前」
「……このくらい誰でも知っている」


また、眼鏡を押し込むあの仕草が見えた。
この男は思ったより分かりやすい性格かもしれない。
ふいっと視線を逸らし歩き出す男の背を、女は速足で追いかけた。

歩き続けて1時間。
そろそろ足が疲れてきた頃合いで、ようやく前を歩く男の足が止まった。
登り切った丘から見下ろす先に、鉄巨神が見える。
そこは、女が所属しているコロニーだった。
たった10日間帰らなかっただけで、妙に懐かしく思える。
あの威圧感溢れる鉄巨神を見ていると、ようやく安堵感を思えた。


「もうここでいいよ。あんまり近付き過ぎると危ねぇだろ」
「そうだな」
「お前も自分のコロニーに帰るんだろ?」
「あぁ」
「そっか。気をつけてな」
「……」
「なんだよ」
「いや。敵の人間にそういうことを言われるとは思わなかった」
「敵、か」


男からの言葉を租借して、女は瞳を伏せる。
たった二文字のその言葉に、少しだけ傷付いている自分がいた。
馬鹿らしい。当たり前の事実じゃないか。
そこに疑う余地などない。


「そうだな。次に会うときはまた敵同士だ」
「……あぁ」


視線が逸らされる。
男がかけている眼鏡の黒いフレームが邪魔で、その褐色の瞳が良く見えない。
互いのコロニーがまだ生きている以上、きっとまたぶつかり合う時が来るだろう。
この世界はケヴェスとアグヌスが潰し合うことで生きている。
永遠の拮抗など、ありえない。
“それじゃあ”と短く別れを告げると、男は踵を返し来た道を歩き始める。
そんな彼を、女は“なぁ”と声をかけて呼び止めた。

足が止まる。
振り返った先にいたのは、追い風を背に受けて髪を乱す彼女の姿。
乱れる髪を耳にかけてこちらを見つめている彼女の柔い微笑みを見て、男は呼吸を忘れた。
そんな穏やかな笑顔をは初めて見た。
そんな風に笑うのか、君は。


「ありがとな」


それが何に対する礼なのかは分からなかった。
解熱のためにセリオスアネモネを煎じたことか、怪我が治った後に殺さなかったことか、それともここまで送り届けたことか。
本当に自分の行動かと疑ってしまうほどに、心当たりが多すぎた。
けれど同時に、自分も彼女に礼を言うべきことが多すぎる気がした。
忘れよう。明日からは敵同士だ。礼なんて言い合ったところで無駄だ。
これ以上、甘い情を彼女に抱きたくはない。
男は何も言わず、視線を前に向けた。

なるべく速足でその場を去る。
まるで逃げるかのように。

しばらく足を進めてコロニーから離れた頃合いで、背後から怒声が聞こえてきた。
コロニーの連中に気付かれてしまったのかと一瞬慄き、瞬時に振り返る。
すると、先ほど別れたばかりである彼女がブレイドを構えているのが見えた。
その背中越しに見えるのは、同じケヴェスの兵士服を着た複数の男たち。
様子がおかしい彼らのやりとりが気になって、近くの岩陰に隠れながら耳を澄ますと、彼女とそれを囲む男たちの殺伐とした怒鳴り合いが聞こえてきた。


「アグヌスの人間と戦場を離脱したお前が何故今更戻った!?」
「敵と通じているのか!」
「違う!アタシは——」
「裏切り者の居場所などない!」
「殺せ!」


彼女を囲む数人の男たちは、続々とブレイドを出現させる。
やがて鋭い刃を振り上げ、命を奪おうと斬りかかる。
その光景を見た瞬間、岩陰から見守っていた男は息を呑んだ。
女は斬撃をなんとか自らのブレイドで防いだが、明らかに力負けしている。
パワーアシストを失っているうえ、怪我が治ったばかりの彼女に、あの人数からの攻撃をしのぐだけの力はない。
あのまま放置していれば、彼女は間違いなく殺されるだろう。
それも仕方ない。

先日の戦闘で、アグヌスの人間である自分を助けながら戦線を離脱した様子を誰かに見られていたのだろう。
敵と内通し、裏切ったと解釈されても可笑しくない行動を取ったのは事実。
軽率な行動を取ってしまった彼女自身の責任だ。
これが戦争。これが運命。これが常識だ。
彼女への借りはとっくに返しているし、これ以上介入する義理はない。
哀れとは思うが、ここで死ぬのも彼女の宿命なのだろう。
自分にはもう関係ない。
たとえ彼女が殺されようとも、裏切り者の名を被ろうとも、居場所を奪われようとも、無残な死を迎えようとも、知ったことではないのだ。

関係ない。関係ない。僕には関係ない。

握りこむ拳が震える。
前を見つめていたはずなのに、いつの間にか意識は背後に向いていた。
そして、ブレイド同士がぶつかり合う音と共に彼女の甲高い悲鳴が聞こえてきた瞬間、男は走り出していた。敵である彼女に向かって。
ケヴェスの男たちに囲まれている見慣れた白い羽根まっすぐ視界に捉え、手を伸ばす。


「ユーニっ!」


その名前を呼んだのは初めてだった。
上擦った声で叫べば、彼女は切羽詰まった瞳を向けてくる。
突然現れたアグヌスの兵に驚き、怯んだケヴェス兵たちの間を抜け、女の手を掴んだ。


「タイオン……っ」


彼女から初めて名前を呼ばれる。
その瞬間、男は自分が“アグヌスの一員”から、“ただのタイオン”になれた気がした。
強引に手を引き、ケヴェスの輪の中から彼女を連れ出す。
背後からケヴェス兵たちの怒声が聞こえてくる。

“裏切り者!”
“逃げるのか!”
“殺してやる!”

恨みつらみの籠った罵声を背中に受けながら、男は女の手を強く握る。
追いかけて来る兵士たちに追いつかれないよう、駆ける。
どこへ向かっているのかは分からない。どこへ行くべきなのかも分からない。
けれど、ここに彼女を置いていくわけにはいかなかった。
彼女が死ぬところなんて、見たくない。
ただその一心で、男は走る。

走る先に、沈みゆく陽が見える。
一層寒くなっていく風は2人の肌を痛めつけていく。
陽の光が次第に空から消え失せて、やがて夜が来る。
2人だけの、明けることのない長い長い夜が。


***

両手で自分の体を抱くように腕を擦ってみても、体を襲う寒さが和らぐことはなかった。
アエティア地方上層部は、このアイオニオンの中でユーニが一番嫌いな場所である。
一面の銀世界は確かに美しいが、どこまでも続く深い雪が体の芯まで冷やしていく。
さらに標高が高いせいか風も強く、当然のように気温が低い。
前を歩くノアやミオたちは随分と平気そうな顔をしているが、最後尾を歩くユーニはカタカタ身を震わせながら一歩一歩仲間たちの後をついて歩いていた。
何でこんなところを進まないといけないのか。
今更文句を言ったって、目的地であるコロニーオメガはこの寒冷地帯の真ん中にある。
どう進んでも雪道を避けられない場所にある以上、この寒さからは逃れられそうもない。

ふと、前を歩く相方が歩くスピードを落としながらこちらを振り返っているのが視界の端に見えた。
何か言いたげな顔でこちらを見ている。
すると、首元に巻いたあまりセンスのないマフラーをするりと取り払い、無言で差し出してきた。


「え、なに?」
「寒そうだ。使うといい」
「いいって。お前が寒いだろ」
「僕は寒さに弱い方じゃないから心配無用だ。いいからほら」


柄にもなく遠慮しようとするユーニの言葉にむっとした表情を浮かべ、彼女の背後に回ったタイオンは強引にマフラーをその首元に巻き付けた。
長いマフラーが彼女の首を守り、露出していた胸元から上を覆い隠してくれる。
先ほどまでタイオン自身が身に着けていたこともあり、彼のぬくもりがほんのり残っていた。
その温かさを素肌で感じながら、ユーニは首元のマフラーを優しく撫でる。


「やっぱちょっとダサいな。これ」
「文句を言うな。怒るぞ」
「うそうそ。ありがとな、タイオン」


肩をすくませて笑うユーニにちらりと視線を向けた後、タイオンはすぐに顔をそむけた。
遠くを見つめながら、彼は表情を隠すように眼鏡を押し込む。
腕を組みながら歩く彼の指先は、少しだけ赤くなっていた。
寒さに弱い方じゃない、とは言ってはいたが、寒くないわけではないらしい。
痩せ我慢が下手な奴。
心の中で笑みが零れたが、きっとそれを口にしたら彼は怒るのだろう。
だからこそ、あえて何も指摘することなく黙ってタイオンの右手を取った。

突然手を握られたことに驚き、レンズ越しにこちらを見つめるタイオンの目が見開かれる。
彼が何か文句を言い始める前に、ユーニは赤くなったタイオンの指先に向かって“ハァー”と息を吹きかけた。
白くなった息が指先にかかり、温かさが伝わってくる。
それは、マフラーを貸してくれた彼へのお礼のつもりだった。
びくりと肩を震わせたタイオンは、一瞬だけたじろいで手を引きかける。
様子を伺うように視線だけタイオンを見上げれば、彼は指先よりも赤い顔でこちらを見下ろしていた。


「急になんだ」
「少しくらい温まっただろ?」
「だ、だから僕は寒くないと言ってるだろう」
「はいはい悪かったな」


少しだけ温まった指先が、ユーニの手から解放される。
触れていた彼女の指が離れた途端、手が外気に晒され一気に寒くなる。
少しだけ、惜しいと思ってしまった自分の心に気付かないフリをしながら、タイオンは自分の右手のひらに視線を落とした。
手だけじゃなく、何故だか顔も熱い。
少しだけ手を握られて、息を吹きかけられただけだというのに何だこれは。

戸惑うタイオンだったが、前方を歩いているノアやランツたちが足を止め、遠くの方を指さしていることに気が付き意識がそちらに向いた。
何か見つけたのだろうか。
4人の元に追いついたタイオンが“どうかしたのか”と問いかけると、一番近くに立っていたミオが“あれ見て”と一点を指さした。

地層がむき出しになった岸壁に、鉄製の扉が見える。
それは明らかに人工物であり、何者かの手によって作られた扉であった。
初めてこの辺りを訪れた時はその存在に気が付かなかったが、見つけてしまった以上調べずにはいられない。
ノアを先頭に、扉に近付く一行。
鍵がかかっていると思われたが、意外にもその扉は簡単に一行を中に招いてくれた。
重い鉄製の扉はところどころ錆び付いており、長年誰も訪れていない事実が読み取れる。
ランツとノアが両脇から手をかけ、ゆっくり扉は開かれる。
暗闇に包まれた不気味な室内が、外からの光によって照らされていく。
一番最初に室内に足を踏み入れたミオとセナが、光に照らされた室内を見渡して息を詰めた。
足元で覗き込んでいたリクやマナナもまた、言葉を失っている。


「なに、これ」


ミオの震える声が、圧迫感のある室内に響く。
室内を覗き込んだノアやランツ、タイオンもまた、暗い中に並ぶ光景を視界に入れた途端言葉を失った。
一番後ろで見ていたユーニは、高いランツの背に阻まれて全く室内が見えていない。
皆何にそこまで驚いているのか分からず、眉をひそめていた。


「なんだよ、何があるんだよ」
「っ、だめだユーニ」
「え?」


ランツの陰から中を覗こうとしたユーニを、ノアは咄嗟に言葉で制止しようとした。
中に広がる光景は、ユーニにだけは見せてはいけない。
そう判断したノアの反射的な行動よりも先に、タイオンが動く。
強引にユーニの肩を抱くと、即座に彼女の大きな青い瞳を手で塞ぎ、強引にその場から連れ出した。
此処にいてはいけない。
ノア達をその場に残し、タイオンはユーニを連れだした。
有無も言わさぬタイオンの行動に抗議する前に、ユーニの視界に一瞬だけ映ってしまう。
棚に並んだ数えきれないほどのガラス壺。その中に眠る顔。
見知らぬ顔が無数に並んだその光景は、ユーニの脳裏におぞましい記憶を呼び起こさせる。
殺意と愉悦に歪んだ眼光。鋭い爪。迫る刃。えぐるような痛み。
振り切ったはずの恐怖が、ユーニを再び包み込んだ。


「ユーニ」


タイオンの深い声が耳元で彼女の名前を呼ぶ。
その声を聴いて、ざわめく心が少しだけ穏やかになったが、それでも体の震えが治まることはない。
例の不気味な場所が視界から消えるほど離れたところで、とうとうユーニは足を止めた。
下半身に力が入らない。タイオンに手を握られたまま、力なく雪の上に座り込む。
足に冷たい雪の感触が触れ、体を冷やしていく。
そんなユーニの視線に合わせるように目の前で膝を折ったタイオンは、眼鏡の奥に心配そうな瞳を抱えながら見つめてきた。


「大丈夫だ。もうディーはいない。死んだんだ」
「……うん」
「君の命を脅かすような存在はもういない」
「……うん」


冷え切った手を握り、震える彼女に事実だけを並べ立てる。
か細い声で頷くユーニは、呼吸を自分で制御することが出来ず肩を震わせていた。
勝気で男勝りないつもの彼女からは程遠い、死に怯えた瞳。
その色を見つめながら、タイオンは彼女の手を強く握りしめた。


「寒いだろう?ノアたちと合流して休息地に向かおう。焚火にあたって体を温めたほうがいい。そうだ、ハーブティーも淹れよう。きっと落ち着く。最近新しい茶葉を手に入れたんだ。是非君に味見を——」
「タイオン」


ユーニが嫌な記憶を思い出す隙を与えないよう、間髪入れずにまくしたてるタイオン。
そんな彼の大きな手を握り返しながら、彼の名前を呼ぶ。
繋がれた手から伝わる震えは、寒さからくるものではない。
手を繋いでいるからといって、先ほど見た光景を忘れられるわけではない。
だが、タイオンのぬくもりを傍で感じているだけで、ほんの少し安心できるような気がした。


「アタシ、今まで何回の“アタシ”の経験したんだろう?」
「それは、どういう…?」
「何度も死んで、そのたび再生されてさ、10年しかない一生を何回繰り返したんだろうって」


タイオンは、先ほど自分が強引に彼女の首に巻いたマフラーへと視線を落とす。
彼女が“ダサい”と一蹴したその橙色の下には、刻印が刻まれている。
彼女に遺された時間は、1年と少し。
自分よりも数か月分早いその限界を超えたら、彼女はこの世から消えてなくなってしまう。
そして、また新しい“ユーニ”としての一生を始めるのだ。
何もかもまっさらな状態で。


「きっと楽しい記憶だってあったはずなんだ。大切な奴だっていたと思う。なのに、なのにさ、なんで思い出すのはいつも、あの時の記憶なんだろうな」
「ユーニ……」
「いい記憶が、悪い記憶に塗りつぶされていくのが……怖い」
「……」
「忘れたくない。ノアのことも、ランツのことも、ヨランのことも……。タイオンのことも」


吐息交じりの声に、胸が締め付けられる。
握った手の甲に彼女の冷たい涙が1つ、2つと零れ落ちた。
その言葉を聞いた途端、たまらなくなる。
彼女のすべてを搔き集めるように、タイオンはその華奢な体を抱きしめる。
隙間が生まれれば、そこから彼女の心が零れ落ちてしまうような気がして、なるべく強く腕の中にしまい込む。
タイオンの腕の中で、ユーニは声を震わせ静かに泣いていた。

忘れるわけないだとか、きっと思い出せるだとか、そんな都合のいい言葉を並べるようなことはできなかった。
タイオンは現実主義的な人間だ。最初から不可能な希望は口にしたくない。
どれだけ足掻いたところで、死んでしまえばそこで終わり。
どんな記憶も人間関係も、すべて真っ白な状態でゆりかごに戻っていく。
そこに例外などない。
ゼットに敗北すれば、こうして6人で旅をしたことも、メビウスと戦っていたことも、お互いに命を預け合ってインタリンクしたことも、何もかも忘れてしまうのだ。
こうしてユーニを抱きしめ、胸に生まれた熱く切ない感情までも、塵と化すのだろう。

嫌だ。
それは嫌だ。

口から漏れ出そうになる本音を懸命に飲み込みながら、タイオンはユーニの頭に手を添える。
今ここで自分が彼女に同調してしまったら、彼女が寄りかかる場所がなくなってしまう。
ユーニが怖いとき、辛い時、泣きたいときは、自分を頼ればいい。
そうすれば、少しは役に立てる。
腕の中に閉じ込めて、“大丈夫、大丈夫だ”と何の根拠もない甘言を吐くのだ。
今の自分には、これくらいの気休めしかしてやれない。


「ユーニ、大丈夫だ。きっと、大丈夫だから……」


声を震えを悟られないように、タイオンは小さな小さな声で囁いた。

 

act.4 星


遠く彼方に見える地平線まで、この白い雪の海は続いている。
既に陽は落ち切っていて、星々がきらめき始めていた。
夜の雪原ほど寒い場所はない。
背中に抱える彼女は僅かにぬくもりを発しているが、肩に置かれた指先は細かく震えていた。
雪原に入る前に、彼女は“寒いのが苦手だ”と笑っていたが、やっぱりここに来るべきではなかったのかもしれない。
一歩、また一歩と足を進めるたび、二人は今まで生きてきたコロニーから離れてゆく。
この雪原を越えた先に何があるのか、コロニーの一員としてケヴェスと戦うことだけを考えてきた男には想像もつかなかった。
漠然とした不安が心を包む。
けれど、弱音を吐いてはいられなかった。
今、背中に背負っている命を守れるのは自分だけなのだ。
勝手に抱いた責任感だけが、男の足を動かしている。


「寒くないか?」
「大丈夫」
「腹は減ってないか?」
「平気」
「疲れてないか?」
「うん」
「もうすぐ雪原を抜けるはずだ。それまでの辛抱だ」
「……うん」


背負った彼女の体がだんだんと落ちてきたため、いったん立ち止まり背負い直す。
雪原での時間が長くなればなるほど、彼女の元気が少しずつ失われていく。
その様子が痛々しくて、現実から目を逸らすように男は何度も女に声をかけていた。

味方に殺されかけていた彼女の手を取り、強引に連れ出してから早くも4か月が経過した。
日々少なくなる命の残り火を気にしながら、そのあたりのバニットやヴォルフを狩る生活は早くも限界が見えている。
一度に大量の命を刈り取れる戦争というシステムがいかに効率が良かったのか、今になって実感させられる。
ディフェンダーとヒーラーである二人には、強力なモンスターを刈り取るだけの力はない。
小さなモンスターをちまちまと狩り、少しずつ命の残量を稼いでいく生き方は、多大なストレスとなって心に襲い掛かる。
食料もない、命の残量も少ない、装備もガタがきている。
この状況で、安定して明日を生きられるとは限らない。

女が足を負傷してしまったのは、つい先日のことだった。
襲い掛かってきたアルマから逃げている拍子に傷を負ったのだ。
パワーアシストを失ったケヴェス兵はこうも脆いのかと驚いた半面、男は焦りを感じた。
回復アーツを放っても、彼女の足は直らない。
10期後半を迎えていた彼女の体が、限界を迎えているのだ。
すぐ近くまで迫る彼女の最期を意識しながら、男はその体を背負って歩き続ける。
死んでほしくはなかった。失いたくなかった。
自分以外の誰かに、それもケヴェスの人間にそんな感情を抱いたのは初めてだ。


「コロニー、オメガ」
「え…?」
「この先にあるって聞いたことある。アグヌスのコロニーだ。お前ひとりなら、受け入れてもらえるかも」


耳元に寄せられた彼女の声は、ひどく弱弱しいものだった。
この雪原の先に、コロニーオメガはある。
最近新設されたばかりのコロニーで、まだ軍務長も執政官も就任していないと聞いていた。
そのコロニーの名前を挙げた彼女が何を言わんとしているのか、男にはなんとなく分かってしまう。


「何度も言っただろう?君を置いていけない」
「もういいって。十分だって」
「よくない!」


男の怒鳴り声が、静かな雪原に響く。
それはもはやただの意地だった。
自分が勝手に抱え込んだ責任感を、中途半端なところで投げ出すことはできないという意地。
その意地に彼女を付き合わせてしまっていることも分かっている。
だが、だからといってこの真っ白な世界に彼女を置いて自分だけ逃げ出すなんて出来るわけがなかった。
巻き込んだのは自分だ。
彼女を連れ出したのは自分だ。
彼女を助けてしまったのは自分だ。
最後まで、抱え込んだこの責任は手放せない。
ではその“最後”とはいつだ?何をもってして“最後”と言える?
自問自答したところで、答えは分かり切っていた。
“最後”とはつまり、彼女の死だ。
彼女の死をもってして、この責任は果たされる。
それを心で咀嚼した瞬間、心臓が握り潰されたような痛みが襲ってきた。


「なんでだよ。お前とアタシ、そんな関係じゃないじゃん。なのに、なんで……」
「知るか、そんなの」


“何故”なんて、そんなのこっちが聞きたい。
あの日、どこにでもいるケヴェスとアグヌスの男女の運命は一瞬で変わった。
平凡な生き方など、もはや出来そうもない。
ただ、心に沸き起こった衝動的な感情の炎が、まるで枷を解き放ったように暴れだし体を勝手に突き動かしたのだ。
彼女を守れ、と。


「もうなにも考えるな。僕がついてる。心配するようなことは何も起きない」
「……うん」


僅かに聞こえてきた返事に安堵し、それ以上はもう何も声をかけなかった。
背中にかかる彼女の重みが、今は何故か心地よい。
両腕に彼女の体重が乗っているこの状況が、少しだけ幸せに感じる。
もう少し、彼女に寄りかかられていたい。


***


どこを目指しているのか、と聞かれたら、“どこも目指していない”と答えるだろう。
目的地などない。ただ、明日を生きるために前へと進み、命を狙う輩の目から逃れるために足を動かす。
その先に待っているものは、ただの死。
何も得られない虚無を目指し、二人はエルティア海の島々を往く。
山岳地帯だったインヴィディアやアエティアに比べ、ここは空が広い。
一面に広がる夜空はどこまでも美しく、どこまでも澄んでいた。
大岩に背を預け、草原に腰を掛ける二人はただ黙って空を見上げていた。

月の周りを輝く星々が、ひとつ、またひとつと落ちていく。
流星群というものを目にしたのは初めてだった。
何故こんな日に限って、世界は美しい光景を見せるのだろう。
落ちていく星を見上げながら、男は隣に座っている女の方へと視線を移した。
彼女の胸元に刻まれた刻印には、もはや“赤”がない。
きっとこれが、最後の夜だ。

現実から目を逸らすように彼女から視線を外し、再び空を見上げる。
自分の刻印が刻まれている左の掌は、彼女の右手を強く握っていた。
重なり合った手が握り返されることはない。
力なくそこに置かれた彼女の手を、男が勝手に握っているだけなのだ。


「星が堕ちることって、ホントにあるんだ」
「空に漂う塵が大気に触れて光を放っているらしい。滅多に見られない光景なんだとか」
「そっか。アタシたち、ついてるんだな」


穏やかな口調とは裏腹に、隣から聞こえてくる声はか細く、弱弱しかった。
喉の奥から絞り出す声に、胸が痛む。


「空って、こんなに奇麗だったんだな。知らなかった」
「そうだな」
「戦ってる間は、地面に転がる骸しか見てなかったからかな。戦いから離れたからこそ気付けた気がする」


タイオンのお陰だな。

小さく呟かれたその言葉に、男は言葉を詰まらせた。
彼女は知っているのだ。コロニーを連れ出したあの日から、男は自分を責め続けているという事実を。
それを知っていて、彼女は優しさを向けてきたのだ。

僕のせいだ。
僕があの時、コロニーから彼女を強引に連れ出したせいで、彼女は居場所を失った。
まだ弁明の余地はあったかもしれないのに、アグヌスの人間である僕が彼女の手を取って逃げたことで、彼女は完全に裏切り者になってしまった。
それに、あのままコロニーに残っていれば、今頃彼女は成人の儀を受けられた。
女王の元に還ることが出来た。
こんな寒空の下で最期を迎えることもなかったのに。
僕のせいだ。僕が余計なことをしたせいで、彼女は道を外してしまった。
残された半年の間、もっといい思い出を作れたかもしれない。
幸せな時間を過ごせたかもしれない。
僕の、僕のせいで。


「タイオン」


吐息交じりに名前が呼ばれる。
視界の端に、黄金の光の粒子が見えた。
ひとつ、またひとつと昇っていく光を隣で感じながら、男は頑なに空を見上げたまま視線を寄越さなかった。
消えゆく彼女を、見たくない。
やがて遠くの空が徐々に白んできた。夜の終わりは、命の終わりを意味している。
繋いだ左手に力が入った。
あと少し、あと1分1秒でもいい。彼女との時間を伸ばしたい。
どうか逝かないで。どうか僕を置いて逝かないで。
たとえ夜が明けたとしても、僕たち二人に明日はない。

命の炎が残った男の瞳に、涙が溜まる。
こんなにも美しい夜空を見つめているというのに、視界がぼやけていく、
そんな男の耳に、彼女の最期の言葉が届いた。


「出会えてよかった。ありがとな」
「——っ」


呼吸が止まる。息が詰まる。言葉が出てこない。
なにか、何か言わなくちゃ。
伝えたい言葉は星の数ほどあったのに、何も出てこない。
鼻の奥がツンと痛くなって、頭が真っ白になる。
繋いでいたはずの手の感触がゆっくりと消えていく。
ぬくもりも、気配も、何もかもが光になって空に昇る。
最期の最期まで、男は女の姿を見つめることはできなかった。
ようやく隣に視線を向けたのは、命の光が完全に消え失せた後、
彼女が身にまとっていたケヴェスの服と、抜け落ちた白い羽根。
それをかき集めて、きつく抱きしめた。


「ユーニ…っ、ユーニっ……」


何度名前を呼んでも、返事は返ってこない。
何が“ありがとう”だ。それを言うべきなのは、こっちの方だったのに。
戦場で手を差し伸べてきたこと。
負傷した体を引きずってまで洞窟で自分を匿ってくれたこと。
胸を打つこのあたたかい感情を抱かせてくれたこと。
ずっと言いたかったことを、結局何一つ言えないまま彼女は死んだ。
こんなにも美しい光になって、空へと昇る。
もう一度、あと一度きりでいい。その綺麗な声で名前を呼んでほしかった。
“タイオン”と囁いて、あの悪戯な笑みを向けてほしかった。

東の空から登った眩しい太陽は、星を照らしながら夜を押しのけてゆく。
遺されてしまった男がたった一人で迎える朝は、彼自身のすすり泣く声で始まった。

***

クロザクラ、ストピィー、ポポンタンポポ
そしてセリオスアネモネ
頭の中にあるハーブティーに適した草花を思い浮かべ、一つ一つ手帳に書き記していく。
ケヴェスの女王、メリアに確認を取りながら選出したこのラインナップなら、きっと世界が別たれた後も手に入るだろう。
念のため焙煎時の温度や時間なども事細かく記載しているが、きっと大雑把な彼女のことだ。どうせ記載した注意事項を守らず適当に淹れるのだろう。
彼女が自分で淹れたハーブティーは、一体どんな味だろうか。
結局、この世界にいる間に彼女が淹れたハーブティーを飲むという、ちょっとした願望が叶うことはなかった。
それは少し残念だったが、別れた後も彼女がこの手帳を頼りにハーブティーを淹れる日が来るのなら、それでいい。

つらつらと茶葉の植生について書き連ねたタイオンは、ようやく作業を終えたことで一息つく。
随分長い間、この手帳と向き合っていたらしい。
先ほどまで近くにいたはずのランツとセナの姿はなく、ノアとミオは少し離れたところで寄り添いながら話している。
同じテーブルについているリクとマナナは、キャッスルの人間が作った最後のご馳走に舌鼓を打っていた。

ケヴェスキャッスル、晩餐の間。
女王であるメリアに招待された一行は、ここで最期の晩餐を楽しんでいた。
ゼットを倒したのは数時間前のこと。
既に陽は落ち、バルコニーから見える景色は完全に夜へと移り変わっている。
このアイオニオンで過ごせるのも、きっと今日で最後だ。
ノアと有意義な世間話をするのも、ランツとくだらない口喧嘩をするのも、リクからメカニックの知識を教授するのも、すべて最後だ。

手元の小さな手帳に視線を落とし、紙を撫でる。
これを贈った時、彼女はどんな反応を見せるだろう。
喜んでくれるだろうか。
彼女のことだから、“用意周到だな”と揶揄うように笑うかもしれない。
それでもいい。少しでもこの手帳が、彼女の“美しい記憶”として少しでも頭に残ってくれれば。
この手帳の存在が、彼女の“悪い記憶”を掻き消してくれる存在になってくれれば、それでよかった。

でも、本当は少しくらい覚えていてほしい。
この手帳を贈った人間が誰なのか、その人間が彼女にとってどんな存在だったのか。
顔や名前を覚えていてくれとは言わない。ただ、そういう奴もいたな、程度に覚えていてくれれば十分だ。

“タイオンからユーニへ心を込めて”

最後のページに追記したその一言は、タイオンなりの足掻きだった。
この一文を見て、いつか自分のことを思い出してほしい。
そんな思いを込めて。


「心、か」


書いた後で、その一言に妙な違和感を覚えてしまった。
もう少し適切な言葉が他にあるんじゃないか。
彼女の心に残る、もっと素敵でいい言葉が。
“心”をインクで塗りつぶし、試しに別の一文字を書いてみる。
いや、これはまずい。さすがに羞恥心が勝ってしまう。
渡したときにこの一言を見られた瞬間、きっとニタニタ笑みを浮かべながら揶揄われることだろう。
やめよう。別の言葉を探そう。
そう思い、書き直した一言を再び塗りつぶそうとした瞬間、背後から声をかけられた。


「さっきから何書いてんだよ」
「うおっ!」


いつの間にか戻ってきていたランツが、背後からタイオンの手元を覗き込んでいた。
突然の声掛けに驚き、激しく動揺したタイオンは手帳を隠すように机に突っ伏した。
隠されると見たくなるというのが人間の性である。
“なんだよ見せろよ”と文句を言ってくるランツに、タイオンは必死の抵抗を試みた。
首筋にうっすら汗をかいているランツは、セナと一緒にどこかで筋トレをしていたらしい。
最後の最後までやることはそればっかりかと呆れてしまいそうになるが、あえていつも通りのルーティーンをこなすことが二人なりの時間の使い方なのかもしれない。


「ねぇ、ユーニは?」


ランツの後ろからひょっこり顔を出したセナが問いかけてくる。
彼女もまた、首にかけたタオルで顔にかいた汗を拭きとっていた。


「女王と話をしに行った」
「メリアと?最後なのに一緒に過ごさなくていいのかよ」
「いいんじゃないか?ユーニがそれを望むなら」


足を組みなおし、ため息をつきながらタイオンは言う。
ケヴェスキャッスルに到着し、たらふく晩餐を腹に入れた後、ユーニはこちらが呼び止めるよりも前にメリアの私室へ駆け出してしまった。
メリアに随分と懐いていた彼女のことだから、きっと聞きたいこと話したいことが山ほどあるのだろう。
だが、女王は世界が別たれた後も同じ場所で生きていける存在だ。
最後の時が迫っているこの状況で、他の面々を放置してまで会いに行くのはどうなのだろう。
この後も話す時間はたっぷりあるというのに。
どうせ話すなら、ミオやセナ、マナナと話せばいい。彼女たちとはもう会えなくなるんだぞ。
この僕とだって……。


「もしかしてタイオン、いじけてる?」
「え?」
「あー!ユーニをメリアに取られてしょげてんのか」
「な、ばっ、何を馬鹿な!」


豪快に視線を泳がせながら、タイオンは眼鏡を押し込む。
“そんなことはない”と言いきれなかったのは、ほんの少し図星であるという自覚があったから。
話したいことがあったのはこちらも同じ。
少し離れたところで寄り添い話しているノアとミオのように、適当な思い出話に花を咲かせて、“また会えたら”なんて希望の詰まった話をしたかった。
なのに彼女は、命を預け合った自分になど目もくれずメリアの元へ走って行った。
これが腹を立てずにいられるか。

あぁ、なんで僕はあんな薄情なパートナーのためにこんなに手の込んだものを贈ろうとしていたんだ。
馬鹿らしい。やっていられるか。
手元の手帳を睨んだタイオンの耳に、対面の椅子に腰かけていたリクが球体型の端末を見つめながら“ももっ!”と声を挙げた。


「これから流星群の予報が出てるも!」
「流星群?」


現在、ゼットとの決戦時に鉄巨神へと形を変えたケヴェスキャッスルは、エルティア海に場所を移動している。
このエルティア海では数十年の周期で星が降る。
今夜はその周期ではなかったはずだが、世界の離別を前にアイオニオンは大きな変化を迎えているのかもしれない。
世界が二つに裂ける予兆なのか、アイオニオンは最後に特別な景色を見せようとしている。
リクの一言に、少し離れた場所で寄り添っていたノアとミオが振り返った。


「いつ頃見れるの?」
「もうすぐ始まるはずだも」
「せっかくだしバルコニーで見るか」
「私流星群って見るの初めて!」
「マナナも初めて見ますも。楽しみですも!」


色めき立つ仲間たちを横目に、タイオンは勢いよく席から立ち上がった。
“どうしたの?”と問いかけてくるミオに、“ユーニを呼んでくる”と短く返し、駆け足で晩餐の間を出た。
重い扉を開き、長い廊下を走って昇降機を目指す。
ユーニがいるであろうメリアの私室は、キャッスルの一番上にある。
無駄に広く長いキャッスルの廊下に、タイオンは初めて苛立ちを覚えた。

ユーニの性格から考えて、きっと流星群を見逃したとなると本気で悔しがるだろう。
誰かが呼びに行かなくてはならない。
その役目を担うのは、きっと自分以外いないのだ。

昇降機に乗って、メリアの私室の前にたどり着く。
女王の部屋に入る時の儀礼は存在するのだろうが、そんなものを気にしている時間はなかった。
早くしなければ、流星群が始まってしまう。
慎重さの塊のような性格をしているタイオンにしては珍しく、無遠慮に部屋の扉をノックした。
中からの返事を待たず“失礼します”と扉を開くと、そこには丸テーブルの席に着き対面で会話をしているメリアとユーニの姿があった。


「タイオン?」


突然入ってきた相方に目を丸くするユーニ。
隣に座っている女王メリアもまた、少し驚いたように瞬きをしている。
無礼は承知の上。いつものタイオンなら、礼儀を重んじ非礼を働くなどありえないだろう。
だが、今日ばかりは礼儀よりも優先したいものが他にあった。


「女王陛下、無礼を承知で申し上げます。彼女を……ユーニを少し借りてもよろしいでしょうか?」


ずかずかと私室に入り、椅子に腰かけるメリアの前で跪づくタイオン。
そんな彼の口から自分の名前が飛び出したことに、ユーニは再び驚いた。
だが、一方のメリアはタイオンの礼を欠いた行動に怒ることもなく、穏やかに微笑みながら背もたれに寄りかかる。


「ユーニを借りていたのは私の方だ。タイオン、そなたに返そう」
「はっ、感謝いたします」


メリアの言葉を受け、タイオンは立ち上がる。
そして、未だ戸惑いの表情を浮かべているユーニの手を取った。

 

「行くぞ、ユーニ」
「えっ?ちょ、おい!」


彼女の手を引くと、半ば強引に立ち上がらせ引きずるように歩き出す。
タイオンらしくもない強引さにただただ戸惑いながら、手を引く彼の力に逆らうことが出来ない。
“失礼します”と一言挨拶したタイオンに、メリアが柔らかく微笑むのが見えた。
足をもつらせながらタイオンについていくと、彼は足早に女王の私室を出て廊下をずいずい突き進む。
途中、ケヴェスの兵士たちと何度かすれ違ったが、キャッスルの中でアグヌスの人間であるタイオンに連れ出されているのは随分異様な光景だったようで、どの兵士たちも怪訝な視線を向けてきていた。


「どこ行くんだよ?」
「いいから」


タイオンが適当に誤魔化しながら、ユーニの手を引く。
廊下を進み、たどり着いた先は大きなバルコニーだった。
“間に合ったか”と呟くタイオンのすぐ隣に立つユーニは、肌寒さに小さく身を震わせながら空を見上げた。
広がる漆黒の空から、星が堕ちている。
ひとつ、またひとつと、煌めきながら空を横切るように流れる星々は、今まで見たこのがないほどの絶景だった。
目の前に広がる美しい光景に、ユーニは口を小さく開けたまま茫然と見とれていた。


「流星群だ。君はこういうの好きだったろ」
「うん……」
「見られなかったと知ったら機嫌を損ねるだろうと思って」
「だからわざわざ呼びに来てくれたのか?」
「あぁ」
「そっか。優しいな」


命の火時計が失われた瞳を細めながら、ユーニは呟く。
“優しい”だなんて、ユーニに言われるとは思っていなかった。
彼女とはいつも言い争いばかりだったし、息が合わないことの方が多い。
意見を述べればいつもぶつかり合うし、お互い頑固だからこそ譲らない。
衝突してばかりだった彼女からの“優しい”は、他のどんな言葉よりも甘く響いた。

ふと、左手に意識が向いた。
そういえば、繋いだままだった。
少しだけ冷たい彼女の手が、刻印が消えてなくなった自分の左手に納まっている。
大したことではないはずなのに、その事実が今更大事のように思えて落ち着かなくなる。
離した方がいいのだろうか。けれど、それは惜しい。
タイオンは彼女の肌の感触を少しでも長く欲していた。
すると、今まで力が入っていなかったユーニの右手が、ゆっくりとタイオンの左手を握り返してくる。
指が絡まって、触れる面積が広くなる。
その瞬間、彼女との距離が急速に縮まったような気がして、タイオンは息を呑んだ。


「流星群か。始めて見た」
「僕もだ」
「アイオニオンの空ってさ、こんなに奇麗だったんだな。知らなかった」
「あぁ。そうだな」
ウロボロスになれたからこそ、こんなに奇麗な空を見られたのかもしれないな」
「あぁ……」
「タイオン」


名前が呼ばれる。
ゆっくりとユーニに視線を向ければ、青い瞳でこちらをまっすぐ見つめながら微笑んでいた。
その表情は、今まで見た彼女のどんな表情よりも綺麗だった。
こういう時、彼女はこんな顔をするんだな。
見つめる視線の先で、ユーニは心地よい声色で囁いた。


「みんなに……お前に出会えてよかったよ。ありがとう」


呼吸が止まる。息が詰まる。言葉が出てこない。
なにか、何か言わなくちゃ。
天邪鬼な性格が、タイオンの口を重くする。
けれど、ここで何か言わなくちゃ一生後悔するような気がした。
だから、押し寄せる臆病な気恥ずかしさを心の奥に押し込めて、タイオンは言葉を無理やり引き出した。


「礼を言うのは僕の方だ。君がパートナーじゃなければ、きっとここまで来られなかった。その……あ、ありがとう」


顔に熱が籠る。
今、きっとものすごく赤い顔をしているのだろう。
表情を隠すように視線を逸らして眼鏡を押し込むと、手を繋いだままの彼女がクスクスと笑い声を零し始めた。
笑われていることに少しむっとしたタイオンは、目を細めて不満げな色を浮かべながらユーニを睨む。


「なんだ」
「いや、悪い悪い。初めて会った時と比べて随分素直になったなぁと思ってさ」
「……それはお互い様だろう」
「クスッ……そうかもな」


肩をすくませた彼女は、白く美しい羽根を揺らしながら歯を見せて笑う。
タイオンは、そんなユーニの笑顔が好きだった。
見えない記憶に怯え、手を震わせていた彼女を近くで見ていたせいだろうか。
その悪戯な笑顔を見ていると、無性にほっとする。
世界が別たれた後もこの笑顔を絶やさないでほしい。
こんならしくないこと、口が裂けても言えそうにないが。


「ユーニ、前に聞いてきただろう? “自分たちがインタリンク出来たことに理由はあるのか”と」
「うん?あぁ、そんなこともあったかな」
「理由があるのか、あったとしたら一体どんな理由なのか、今も僕には分からない。運命だとか宿命だとか、そんな曖昧なことを口にするのはガラじゃないが——」


繋がれた手に、視線を落とす。
指先が冷え切っていた彼女の手はいつの間にか暖かくなっていた。


「君との運命なら、信じていたい」


本心だった。
ノアやミオを繋いでいた運命の糸は、想像も出来ないくらい固く太い鋼のような繋がりだ。
自分たちにも同じような強い糸があるのかは分からない。
だが、きっとこの出会いは偶然などではないのだ。
出会いにはきっと意味がある。そう思いたかった。

真っすぐこちらを見つめていたユーニが、顔を逸らして鼻をすする。
俯き、肩を揺らし始めた彼女を見て、最初はまた笑っているのかと思ったが、そうじゃなかった。
こみあげる涙を耐え、小さく震えている。
その様子を見て、タイオンは小さな焦りを覚えた。


「す、すまないっ、泣かせるつもりで言ったわけじゃ…」
「嘘つけバカ。泣かせようとしてわざとそんなこと言ってるだろ……」
「ちがっ…、本心だ、ほんとに」
「そういうこと、今このタイミングで言うなよ。余計に泣きたくなるじゃん」


彼女の大きな瞳には、涙が溜まっていた。
“ごめん”と呟いたタイオンの言葉と同時に、彼女の瞳から一筋の涙が零れ落ち、頬を濡らす。
手を伸ばして彼女の白い頬に触れる。親指で涙を拭い取れば、ユーニは少し驚いたように視線を泳がせた。

 

「僕たちには明日がある。互いの世界で明日を生き続ける限り、きっといつか会えるさ」


自分の口から飛び出た言葉と声があまりにも甘く感じて、タイオンは自分自身に驚いた。
頬に添えられた手に、ユーニは自らの手を重ねる。
そして、目を閉じた彼女はタイオンの大きな手に自ら頬を寄せる。
まるで甘えるかのようなその行動に、タイオンの心臓は大きく跳ねた。


「あ、あぁそうだ!君に渡したいものが……あれっ」


先ほどまで書いていた例の手帳の存在を思い出したタイオンは、誤魔化すようにそれを探し始めた。
だが、どのポケットにもあの手帳は見当たらない。
どうやら晩餐の間に置いてきてしまったらしい。
しまった。あんなに大事なものを忘れてきてしまうだなんて。


「どうした?」
「君に渡そうと思っていたものがあったんだが、下に忘れてきたらしい。すぐに取ってくる!」


急いで手帳を取りに行こうと繋いでいた手を離したタイオン。
だが、そんな彼を引き留めるようにユーニが彼の長いマフラーを掴んだ。
引き留められた拍子に首が絞まり、“うぐっ”と鈍いうめき声が口から洩れる。
振り返ると、未だ涙を瞳に溜めているユーニが睨むようにこちらを見つめていた。


「まだ時間あるんだから後にしろよ」
「だが……」
「アタシを置いていくなよ」


涙目で睨んでくる彼女はガラにもなく甘えているようだった。
いや、ガラにもないのは僕も同じか、とタイオンは心の中で笑う。
最後なんだ。らしくなくてもいいじゃないか。
今日くらいは素直でいたい。
ユーニの隣に戻って再び左手を差し出すと、彼女は迷うことなくその手を握り返してきた。
再び指が絡んで、強く握りしめる。
空を見上げると、遠くの方が朝日に照らされて僅かに白んでいた。
アイオニオンに、最後の朝が訪れる。
別れの朝だというのに、不思議と怖くはなかった。
いつかまた、彼女を迎えに行ける夜が来るのだろうか。
分からない。けれど、きっとまた会える。
疑いもなくそう信じられたのは、相手が他の誰でもない、ユーニだったからなのかもしれない。


***


それは、ひどく現実味のある夢だった。
切なくて、哀しくて、それでいてとても孤独な夢。
目が覚めた瞬間、僕の胸で様々な色をした感情の糸が絡み合う。
見上げればいつもの天井。体に触れているのはいつものシーツ。
今まで見ていた光景が、日常の延長線上にあるただの夢だったという事実に、僕は安堵した。

ふと、背中にぬくもりが伝わってくる。
振り返ると、反対側で眠っていた彼女が僕の腹に腕を回し、後ろから抱きしめるようにしてくっついていた。
額を僕の背中に押し付けているため表情は見えないが、どうやら彼女も起きてしまったらしい。
“起きたのか”と声をかけると、彼女は寝起きの声で“んー”と芯のない返事をしてきた。


「……変な夢見た」
「変な夢?」
「お前と二人で星を見てる夢」


女の口から語られた夢の内容に、僕は驚いた。
まさか、自分と同じ夢だろうか。
いやまさか。おとぎ話じゃあるまいし、いくら隣同士で眠っていたとはいえ同じ夢を見るなんてありえない。
身をよじり彼女の方へと寝返りを打つと、まだ眠気眼の彼女の目と視線がかちあった。


「怖い夢だったのか?」
「いや。そうでもない。どっちかっていうといい夢……かな?」
「そうか」


それならやっぱり違う夢を見ていたのだろう。
僕が見ていたのは、そんな幸福な夢ではない。
心が切り刻まれるような、痛くて辛い夢だったから。
ふと枕元に置かれた時計に目をやると、デジタル式の時計はAM04:10と表示していた。
外はまだ暗い。ベッドから出るにはまだ早い時間帯だった。


「微妙な時間に起きてしまったな」
「また寝るか」
「今寝たら起きられなくなるぞ?寝坊したらまずい」


僕の言葉に、彼女は腕の中で“んー…”と適当な唸りを上げている。
一度寝たらなかなか起きない彼女を、このまま寝かせるわけにはいかなかった。
今日ばかりは絶対に寝坊できない。
何か月も前から待ちに待っていた特別な日なのだから。
何度か彼女の名前を呼ぶと、少し鬱陶しそうに目を擦るながら“分かった起きるよ”と言いながら小さく体を伸ばし始めた。
瞬間、彼女の手がベッドの横に置かれたサイドチェストにぶつかる。
その拍子に、サイドチェストに置かれていた一冊の手帳が床に落ちてしまった。


「あーもう…」


床に落ちた手帳に気付き、手を伸ばそうとする彼女の指先に視線を向け、僕は気付いてしまった。
先日贈ったはずのアレが、彼女の指に鎮座していない。
彼女の手が床に落ちた手帳に届く前に、僕はその手を取って引き寄せた。
眼鏡をかけていないためぼんやりとしか見えないが、近くで見ればやっぱり着けていない。


「指輪、してないのか」
「あれ高かったんだろ?そんな日常的につけられるかよ」
「せっかく贈ったのに」
「今日が終わったら別の指輪着けられるんだからいいだろ?」


膝をつき、彼女に指輪を贈ったのは数か月前のこと。
指輪も、あの時贈った言葉も、ただの約束にすぎない。
紙に互いの名前を書いて初めて交わされる契約を、二人はまだ済ませていなかった。
今日、夜が明けたら二人は多くの視線に祝福される。
それまで別々に歩んできた人生という名の道が、あと数時間でひとつに交わるのだ。

僕は再び枕元の時計に目をやる。
あれからまだ5分と経っていない。
楽しみなことがある時に限って、時間というものはゆっくり過ぎていくものだ。
早く明日がくればいいのに。
そんなことを思いながら、僕は彼女の手を握る。


「楽しみだな」
「あぁ、そうだな」


青い瞳をゆっくりと閉じながら、君は僕の手を強く握り返した。
ふと、床に落ちた手帳に視線を向ける。
最後のページが開かれた状態で落ちていたその手帳には、小さな文字で一言だけ書かれていた。

“タイオンからユーニへ愛を込めて”