Mizudori’s home

二次創作まとめ

【後編】僕たちはまだ恋を知らない

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■ゲーム本編時間軸

■長編

■R18


暗い過去に手を振って


シャナイアの裏切りによって危機にさらされたシティーは、モニカとゴンドウの策略によって殲滅兵器からの攻撃を何とか逃れることが出来た。
とはいえ、何も被害がなかったと言えばウソになる。
急に座標を動かしたことにより、シティー内では大きな揺れが発生した。
死者は出なかったものの、揺れが起きた際に軽傷を負ったものや、高度が急激に下がったことで気圧の変化が発生し、体調を崩す者も少なくない。

収容所の一件に方をつけた6人は、アグヌスの女王が眠っているという天空の砦へ向かう前に、モニカたちの様子を伺うためシティーを訪れた。
シャナイアの裏切りや、収容所から一部のロストナンバーズが帰還したことにより、モニカの抱えている仕事も目に見えて増えている。
モニカやトラビスの仕事を各々手伝うこととなった6人は、現在シティー内で別行動をとっていた。
ミオとタイオンは収容所から帰還したロストナンバーズたちの様子見に、ランツとセナは新天地としてシティーが鉄巨神を構えている場所付近のモンスター討伐に、そしてノアとユーニは、ホレイスの医療施設へと薬品を届ける任務に当たっている。

ホレイスの元に、段ボールいっぱいに詰まった薬品を届けた二人は、ロストナンバーズの寄宿舎に戻る途中、命刻碑が建っている憩いの公園へと立ち寄った。
命刻碑は、このシティーに生きた人間たちの死を悼む目的で設置されている代物である。
歴代の英雄たちも、ここに名前を刻まれることでその存在を後世に伝えている。
はるか昔に刻まれた名前たちを指でなぞりながら、ノアは目を細めた。

“ゴンドウ”

その名前を見つけた瞬間、僅かに息を詰める。
そんなノアの背中を見つめながら、ユーニは何と声をかけるべきか悩んでいた。
ノアのことはよく知っているつもりだった。
ゆりかごで生まれた頃からずっと一緒だったし、彼のことで知らないことなど無いと思っている。
けれど、再生される前の“ノア”のことは知る由もない。
どんな生き方をして、どんな死に方をしたのか、なにも知らない。
 
唯一知っていることと言えば、ノアとミオは再生されるたびにウロボロスとして戦い、何度もメビウスに抗してきた結果、永遠の今を望み自らがメビウスになる道を選択してしまったということだけ。
ノアにとって身に覚えのない記憶は、自分のものであって自分のものではない。
そのおぼろげな記憶の中に登場するミオとの子供。名前はゴンドウ。
モニカの娘の名前が、かつてシティーの英雄として崇められていた自分たちの息子からとったものだと知ったのは、つい最近のことだった。


「まさか、ゴンドウがお前とミオの子供の名前だったなんてな」


背後からかけられたユーニの言葉に、ノアは落ち着いた様子で“あぁ”と返事を返した。
“ゴンドウ”と過ごした記憶はあまりない。たった10年しか生きられなかったかつての自分にとって、ゴンドウと過ごせた時間はほんの一瞬だけだった。
自分であって自分でない人物の記憶を辿りながら、ノアは命刻碑に刻まれた名前を指でなぞる。


「“ゴンドウ”は、シティーを守るために戦った。そして俺に……」
「お前じゃなくて、エヌだろ」


その先の言葉は言わせたくなかった。
言葉にしたら、ノアは自分を責め続けるだろうから。
そんな幼馴染の優しさに気付いていたノアは、背後を振り返ることなく儚げな笑みを浮かべたまま答える。


「エヌと俺は別人であって同じだ。俺はエヌの一部みたいなものだから」
「そうかもだけど……」


何度か戦場で対峙したあのエヌという男は、顔こそノアにそっくりだったが、中身は同一人物にはとても思えなかった。
あんなに感情を露わにして、何もかもを諦めたように不気味に笑って、あの“ミオ”相手でさえ、どこまでも残酷になれる。
元は同じ存在と言えど、穏やかで優しいノアしか知らないユーニにとって、エヌを彼と同一の存在として認めるにはどうしても抵抗感があったのだ。
だが、エヌはノアであり、ノアはエヌである。その事実はどうあがいても変わらない。
となれば、この命刻碑に刻まれた“ゴンドウ”という名の男も、目の前にいる“ノア”の子供と言えなくもないのかもしれない。


「子供との記憶、あるのか?」
「いや。正直かなり朧気だ。ミオならちゃんと知ってるのかもしれないけど」


霧のように掴めない曖昧な記憶を脳裏に宿しているだけのノアは、エヌが築き上げた記憶の一部を共有されただけに過ぎない。
膨大な記憶がすべてクリアに見えているわけではない。
ゴンドウとの記憶はぼやけていてハッキリ感じ取ることは出来なかった。
伝わってきたのは、大きな悲しみと刺すように痛い後悔。
そもそも子供という概念を知らなかった自分たちには、実際に子供を作ったエヌの気持ちなど100%理解出来るわけがないのかもしれない。


「なんで二人は、子供を作ろうと思ったんだろうな」


背後に立っていたユーニが、ノアの真横に並ぶ。
命刻碑を見つめるユーニの視線の先には、“ゴンドウ”の名前が刻まれていた。


「なんでって?」
「だって、子供を産むのって結構大変なんだろ?それにアタシらはどう頑張っても10年しか生きられない。子供を作っても、少しの間しか一緒にいられないのに」


先日、医療施設にて出産の現場を見学したユーニは、子供を産むという行為がいかに苦痛を伴うものかよく知っている。
出産することで母体に少なからず死のリスクが発生することも分かっていた。
そんな大きなリスクを背負いながら、何故は人を命を紡ごうとするのか。
その理由がユーニには未だ理解できていなかった。


「だからかもしれないな」
「え?」
「少ししか一緒にいられないからこそ、一緒にいた証を持っていたかったのかもしれない。この子は、エヌとエムの想いの結晶だったんだ」
「想いの結晶…?」
「子供がいれば、自分たち二人の想いを乗せた命が脈々と受け継がれていくことになる。それだけで凄いことだと思わないか?」


“想いの結晶”
その曖昧な答えは、何故だか説得力があった。
死ぬために生きているようなこの世界で、生きている証を残すのは難しい。
結局再生されれば過去の自分は無かった存在として記憶の彼方へと消え失せる。
例えば明日メビウスに殺されたとしたら、ユーニは今日ノアと話したことも、ウロボロスとして旅をしたことも、そしてタイオンと命を預け合ったことも忘れて、“次のユーニ”を生きていく。
“今の自分”がここに生きた証を残せるなら、きっとどんな痛みも価値があると思える。

ふと、隣に立つノアへと視線を向ける。
“ゴンドウ”の名前を見つめる彼は、今まで見たことのないような深い表情を浮かべていた。
この顔、どこかで見たことがある。
そうだ。医療施設で見た、あの“父親”の顔だ。
ノアの奴、こんな顔も出来たのか。

幼馴染の知らない一面を垣間見ながら、ユーニは少しだけ羨ましさを覚えた。
自分の知らない気持ちを知っているノアに。
痛い思いをしてまで想いの結晶を紡いだミオに。
互いに生きた証を残そうと決め、同じ気持ちを抱えながら想いの結晶を作り上げた二人に。

もしもこの二人と同じことが出来るのなら、アタシは——。


***

地平線まで続く海はどこまでも青く美しい。
真っ青な空との境界線が分からなくなるほど、エルティア海の青は透き通っていた。
こんなにも晴れ晴れとした空の下にいるというのに、隣で海面を見つめるタイオンの表情は曇天のように暗い。
海を横断する船の甲板の上でその様子を見つめていたユーニは、相変わらず踏ん切りがつかない様子の相方に呆れていた。

コロニーラムダの軍務長、イスルギから“話がある”と呼び出されたのは数日前のこと。
愁いを帯びたイスルギから“忘却のコロニー”について情報を得た一行は、相談の末、執政官の魔の手からコロニーを救うべく当該の場所へ向かうことになった。
忘却のコロニーは、ただのコロニーではない。
かつてタイオンが師事していたアグヌスの兵士、ナミが生まれ育った場所である。
アイオニオンを取り巻く戦いの因果から外れた場所にあるそのコロニーは、外界から情報を遮断して生きているのだという。
ナミは、そんな特殊なコロニーからイスルギによって連れ出された。

あの賢明なイスルギが何故そのような道理に合わないことをしたのかは分からない。
だが、彼は後悔していた。ナミをあのコロニーから連れ出し、その生の先にあったはずの運命を歪めてしまったことを。
過去を思い返し、目を伏せるイスルギの表情は悲しみを帯びている。
そんなイスルギの姿を、タイオンは過去の自分と重ねていた。
 
どうにもならない過去を悔やみ、自分を責め続けるその姿は、まさに自分と同じ。
だからこそ分かってしまうのだ。イスルギが抱えている苦しみや悲しみがどれほど大きいものなのか。
きっと、自分があの時ヘマをしてナミを死なせていなければ、イスルギがそんな後悔を抱くこともなかった。
イスルギが己を攻め続けているのは、回り回って自分のせいなのだ。
ならばこそ、自分が解決しなくてはならない。
そう決意したはいいものの、未だタイオンの中で恐怖感が拭えずにいた。

きっとあのコロニーには、再生されたナミがいる。
自分が死なせてしまった大切な人が。
その事実だけが、タイオンの心をきつく締め付けていた。


「タイオン」


未だ迷っているタイオンの心を置き去りに、船は容赦なく忘却のコロニーに向かって突き進む。
きらめく海面をじっと見つめながら、タイオンは考えていた。
もし本当にナミが生きていたら、どんな顔で会えばいい?
再生されていたとすれば、きっと他の兵たちと同じで記憶もなくしているはずだ。
そんな彼女相手にどう接するべきなのだろう。
全てを正直に話して謝るべきか。それとも何も知らないふりをするべきか。
何が正解なのかわからない。
先ほどからずっと握りしめていた右手をゆっくりと開く。
かつてナミから手渡された懐中時計が、タイオンの手のひらで変わらず時を刻み続けていた。


「タイオンってば!」
「えっ、な、なんだ!?」


突然背中を思い切り平手で叩かれた。
驚き、思わず肩を震わせるタイオン。
振り返った先にいたユーニは、随分と不服そうな表情で彼を見上げていた。
先ほどから何度も呼んでいたにも関わらず全く反応を示さなかったタイオンに、ユーニは苛立ちを覚えている。


「そろそろ例の場所に着くってさ」
「そ、そうか…」
「いよいよ緊張してきたって感じか?タイオン」
「そんなことはないっ!……いつも通りだ」


それがただの強がりであることは火を見るよりも明らかだった。
忘却のコロニーに向かうと決めてからというもの、タイオンはずっとこの調子なのだ。
どこか上の空で、常に深刻そうな表情で考え事をしている。
イスルギの願いを聞くことが、いや、ナミに会うかもしれないということが、これほどまでにタイオンの心を搔き乱しているのだ。
 
インタリンクするたび頭に浮かぶ映像は、いつもナミの表情を映している。
穏やかに笑うあの女性の顔を脳内で見るたび、ユーニは実感していた。
タイオンにとって、ナミという人物は特別な存在なのだな、と。
褪せることのないナミとの記憶は、タイオンにとって宝物と言っても過言ではないのだろう。
そんな相手との再会が、今目の前に迫っている。
落ち着かない様子のタイオンを横目で盗み見るたび、ユーニの心も騒いだ。


「ま、あんまり肩肘張るなよ?例え再生されてたとして、あっちはお前のことなんて全然覚えてないだろうしさ」


慰めのつもりだった。
だが、ほんの少し棘のある言い方をチョイスしてしまったのは無意識のこと。
どうしてもっと優しい言葉をかけられないのだろう。
自分の天邪鬼さに苛立つユーニの横で、タイオンは遠い目をしながら“そうだな”と呟いた。
どこか哀し気なその横顔に、ほんの少しだけ胸が痛くなったのは気のせいだろうか。
 
きっと今、タイオンの頭の中はナミでいっぱいなのだろう。
無理もない。仕方ない。その気持ちは分かる。
頭でそう理解しているはずなのに、タイオンがナミという存在に心を揺さぶられている様子を見るたび、稚拙な苛立ちに見舞われるのは何故なのか。
単純だった自分の心に、様々な色の糸が生まれてこんがらがる。
心の糸を解こうにも、解き方を知らない。
その糸は、タイオンが自分に言葉を贈るたび、名前を呼ばれるたび、微笑みかけられるたび、一層複雑に絡み合っているような気がする。

アタシ、なんで急にこんな性格悪くなったんだろう。

胸に生まれた鈍い痛みに戸惑いながら、ユーニは隣のタイオンを見つめる。
相変わらず迷いの色がぬぐえない彼の瞳は、この海の先にいるであろうナミへとまっすぐ注がれていた。


***

忘却のコロニーは、話に聞いていた通り非常に美しいコロニーだった。
洞窟の先に広がる空間に住居と畑を構えているそのコロニーは、今まで見たことがないほどたくさんのサフロージュに囲まれている。
薄紅色の花が舞うその場所に、彼女はいた。
 
タイオンとインタリンクするたび何度も目にしていたあの気品あふれる清楚な女性。
脳内で見てた映像よりも幼い容姿を持つ彼女は、やはり他の兵士と同じように再生されたのだろう。
これまでのことはもちろん、タイオンのことすらも綺麗さっぱり忘れているようだった。
 
ナミはタイオンから聞いてた通り彼と同じ自立型ブレイドを使っていて、タイオンがいかにナミから影響を受けているかがよく分かってしまう。
自分より幾分か背の小さいナミを見下ろすタイオンの視線は、他に向けるものと違って明らかに柔らかい。
いつも不器用な彼が、気を遣い距離感を図りながらナミと言葉を交わしている。
その光景を見つめながら、ユーニはとにかく苛立った。
そして苛立ちが去ると、すぐに悲しみが襲ってくる。
悲しみが消え失せるとまた苛立ちが。そして次にまた悲しみが。
ふたつの感情が入れ替わり立ち代るようにユーニを責め立てる。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。

タイオンがナミを気遣えば気遣うほど、心が鋭い刃物で切り刻まれるような感覚に陥る。
別にタイオンは悪くない。ナミだって悪くない。
自分のせいで死なせてしまったと思い込んでいるナミに入れ込むのは当たり前のことだし、特別扱いするのだってなにも不思議なことじゃない。
なのに、どうしてこんなに心が辛くなるのだろう。
まるで自分の大事なものが他の誰かに横から掻っ攫われたような、そんな感覚だ。
バカみたいだ。タイオンはアタシのものじゃないのに。

痛む胸を押さえながら、ユーニは顔をしかめる。
この気持ちは一体なんだ?
誰でもいいから、この感情の正体を教えてほしい。
胸に巣食う不安定な感情の全容を、ユーニはまだ知らない。

柔らかい草の上を歩き、ユーニは崖になっている高台の上からまっすぐ前を見た。
視線の先には、湖の中に半身を沈めた鉄巨神。
壊れかけているこの鉄巨神が、アグヌスの軍勢を呼び寄せた原因であると突き止めたタイオンは、先ほどからずっと鉄巨神の火時計を調べている。
リクとともに真剣な表情で何やら作業に没頭しているその姿を見て、ユーニは肩を落とした。
あんなに一生懸命なのも、きっとナミのためなのだろう。

トレイを持っていた両手に力がこもる。
タイオンとリクが鉄巨神の調整をしている間に、他の面々はすぐ近くまで迫っているアグヌス軍の様子を見るためコロニーから離れている。
相方が鉄巨神いじりで忙しくしている今、インタリンクが出来ないユーニはここで留守番しているしかなかった。
 
手持無沙汰になってしまったユーニは、仕方なく残っていたコメヒカリを使っておにぎりを作ることにした。
具材になるような食材は何もなかったため、ただの塩むすびしか作ることが出来なかったが、少しは腹の足しになるだろう。
おにぎりを並べた皿をトレイに乗せ、タイオンやリクに差し入れようと近づいたユーニだったが、頬に煤をつけながら鉄巨神の調整にいそしむタイオンを前に足を止めてしまった。

一生懸命だよな、あいつ。
イスルギのため。そしてナミのため。
タイオンは優しい男だ。誰かのために命を捨てられるような、そんな健気な男だ。
その優しさを今、ナミは一身に浴びている。
あのタイオンから特別扱いされ、さらには惜しみない優しさを贈られているナミが羨ましい。
こんな浅ましいことを考えていると知られたら、きっとタイオンは自分を軽蔑するのだろう。

あぁ、今アタシ、きっとすごく嫌な顔してる。
こんな顔で、タイオンに声なんてかけられない。


「あの、ユーニさん」


背後から名前を呼ばれて振り返る。
そこにいたのは、ナミだった。
心の中で羨んでいた相手の登場に、ユーニは一瞬だけ気まずさを感じてしまう。
そんなユーニの心情など全く知る由もないナミは、その綺麗な目でまっすぐユーニを見つめた後深く頭を下げた。


「私たちのコロニーのために骨を折ってくださってありがとうございます。長はああ言っていましたが、どうか気を悪くしないでください。私たち、本当に感謝しているんです」
「そんなにかしこまらなくてもいいって。当然のことしてるだけなんだし」


ナミは“いい人”だ。
あの気難しいタイオンが素直に慕うのも分かる。
ナミの真っ直ぐさが垣間見えるたび、自分の歪みがありありと分かってしまうようで、居心地が悪くなる。
ナミがもっと意地の悪い人間だったなら、もっと気持ちよく羨めたのかもしれない。
惜しみなく感謝の意を伝えて来るナミに、ユーニは視線を逸らしながら答えた。
そんなユーニを前に、ナミは暫く何かを考えこんだ後、意を決したように口を開く。


「あの…。私も皆さんの旅に連れて行ってもらえませんか?」
「え?」
「外の世界を見てみたいんです。皆さんほど戦いは得意じゃありませんが、戦術を考えるのは割と得意なんです。きっと皆さんの役にたってみせます。だから……」


タイオンは言っていた。“再生されたナミさんはあの頃のままだった”と。
その言葉に嘘偽りはないのだろう。こうして外の世界へのあこがれを口にしているのがその証拠。
何度再生されたとしても、人の本質は変わることがない。
ナミも、そしてユーニ自身も、自分以外の人生を歩むことは出来ないのだろう。


「そういうのはアタシじゃなくて、あいつに頼んだ方がいいと思うぜ?」


そう言って、ユーニは背後へと視線を向けた。
視線の先にいるのは、鉄巨神に登って火時計をいじっているタイオンの姿。


「タイオンさん、ですか?」
「アンタの頼みなら、きっとなんだって聞いてくれると思うから」


両手に持っていたトレイを差し出すユーニ。
少々いびつな形をしているおにぎりがいくつか乗っている皿を受け取ったナミは、キョトンとした表情を浮かべながらユーニを見上げた。


「これは?」
「あいつらに差し入れ。アンタが持って行ったほうが喜ぶと思うから」
「でも、ユーニさんが作ったんじゃ…?」
「違う違う。これ作ったのはマナナだから。アタシは届けるのを頼まれただけ。だから気にすんな」
「そう、ですか。じゃあ、行ってきます」
「おう」


可憐に微笑み、ナミはトレイを両手に持ちながら駆け足でタイオンたちの元へ駆け寄っていく。
砂浜に降り立ったナミが、鉄巨神に登っているタイオンとリクに声をかけると、2人は軽い足取りで鉄巨神から降りて来る。
ナミのもとに歩み寄ったタイオンとリクは、彼女が持っているトレイの皿から一つずつおにぎりを受け取ると、にこやかに食べ始めた。
その光景を遠くから見つめながら、ユーニは自らの白い羽根をピンっと指ではじく。

ナミが“一緒に行きたい”と頼んだら、きっとタイオンは断れないのだろう。
タイオンにとってナミは特別な存在だし、彼女がいたほうがタイオンも嬉しいはず。
彼のためを思うなら、きっとナミに同行してもらった方がいいのだ。
だから、これでいい。
ナミの背中を押すことで、タイオンが笑顔になれるなら、それでいいはずなのだ。


「はぁ、何やってんだろ、アタシ」


肩を落とすユーニの寂しげな呟きは、誰に聞かれるわけでもなく、サフロージュの花が舞う美しい空間に溶けていった。


***

忘却のコロニーをめぐる戦いは、タイオンの活躍によりウロボロス側の勝利で幕を閉じた。
この美しいコロニーは、これからも誰にも知られることなくそこにあり続ける事だろう。
薄紅色のサフロージュの花が風にそよぎ、美しく葉を舞い上げる。
その美しい光景の真ん中に、タイオンはいた。
傍らにはナミの姿がある。
会話の内容は聞き取れないが、恐らく今後のことを話しているのだろう。
2人の空気を察したノアが、仲間たちに“行こう”と促した。
タイオンを残し、一行は先に洞窟の入り口に停泊させている船に向けて歩き出す。
ノア達の後に続きながら歩き出したユーニは、一瞬だけ背後を振り返る。
ナミと目線を合わせるように膝を折り、穏やかな表情で話すタイオンを視界に入れた瞬間、また胸が痛む。

きっと、ナミはタイオンに“自分も一緒に行きたい”と強請っているのだろう。
タイオンのことだ。おそらく彼女の頼みは断らないはず。
なにせ、ナミはタイオンの“特別”なのだから。

じゃあ、アタシは?

自分はタイオンにとってどんな存在なのだろう。
ただの相方か、それとも——。


「ユーニ」


耳に届いたその声に、心臓が跳ねる。
振り返ると、タイオンが小走りでこちらに駆け寄ってきていた。
傍らにナミの姿はない。
横に並んで歩き始めるタイオンに、ユーニは問いかけた。


「あれ、ナミは?連れてかねぇの?」
「何の話だ?連れていくわけないだろ」


あまりにもあっさり言い放たれた否定の言葉に、ユーニは脱力した。
え?連れて行かないの?ナミに頼まれたんじゃないのか?断ったってこと?
ナミの“お願い”を却下したらしいタイオンの選択が信じられない。
不思議そうな表情で見上げて来るユーニんの視線に気が付いたタイオンは、怪訝な視線を彼女に送りながら“なんだ?”と問いかけた。
ナミを連れて行くものだと思ってた。という本音を隠しながら、ユーニは“別に”と答える。

そうか。連れて行かないのか。
ナミのお願い、断ったんだ。
黒く染まっていたユーニの心が、どんどん漂白されていく。


「それより、その……。ありがとう」
「うん?」


ただたどしく言葉を絞り出したタイオンは、気恥ずかしそうに視線を逸らしながら鼻先を人差し指で搔いていた。
照れ屋な彼は、素直に気持ちを伝えることが上手くはない。
慣れていない礼の言葉を口にしながら、彼は顔を逸らす。

 
「君のおかげでいろいろと踏ん切りがついた。君の言う通り、いつまでも振り返ってばかりでは何も変わらないからな」


忘却のコロニーを訪れる直前、葛藤していたタイオンの背を押したのはユーニだった。
“振り返ったって何も変わらない”
その言葉は、ユーニが自分自身に充てて言った言葉でもあった。
過去のおぞましい記憶に囚われ、恐怖にうずくまっていても何も変わらない。
未来へ進むには、何もかも振り切って前を向かなければならない。
後ろを振り返り哀しい顔をするよりは、一緒に同じ方向を見て笑っていたい。


「前、向く気になった?」


逸らされていた顔を覗き込んで微笑みかけると、ようやく彼はユーニへと視線を向けた。
視線が絡み合う。
褐色の瞳を柔らかく細めながら、タイオンは肯定した。


「あぁ。前を向けば君がいるからな」


舞い散るサフロージュの花が、タイオンの向こう側に見える。
薄紅色の景色を背景に微笑むタイオンの顔が、いつもよりきらめいて見えた。
胸の奥がトクンと優しく鼓動して、心がざわめく。
ユーニの蒼く美しい瞳に映るのは、この世界でタイオンただ一人。
穏やかに笑う彼を目の前に、ユーニは何故か急に恥ずかしくなって、赤くなりつつある頬を隠すように顔を逸らした。


「な、なんだよ、それ」


声が震える。
どうしようもなく心臓が高鳴って落ち着かない。
まるで羽が生えたように心が軽くなる。
タイオンの言葉一つでこんなにも心が浮き沈みしてしまうなんて、一体どうしたというのだろう。
戸惑うユーニを尻目に、タイオンは気にすることなく言葉を続けた。


「それとな、差し入れは嬉しいが、もう少し塩分は控えめに頼むぞ」
「は?塩分?」
「あのおにぎり、君が握ったんだろ?」
「え!?な、なんで…」


タイオンの指摘は図星としか言いようがなかった。
ナミにはマナナが作ったものだと言っておにぎりを渡したため、彼女が素直に話してしまったわけではないのだろう。
料理番であるマナナや、おにぎり作りが上手いセナではなでく、ピンポイントで自分だと言い当てられたことに、ユーニは驚きを隠せなかった。


「マナナやセナの作るおにぎりはもう少し薄味だからな。ミオはノアたちと一緒に敵情視察に行っていたはずだしリクは僕とずっと一緒にいた。ナミさんは“運ぶのを頼まれた”と言ってたから彼女が作ったわけじゃないことは明白だ。残るは君だけ。簡単な推理だ」
「んだよ、全部見透かしやがって……」
「このくらい当然だ。僕を誰だと思っている」


眼鏡を押し上げながら得意げに笑うタイオンを横目に見つめ、なんだか安心してしまう。
ナミを見つめていた時のタイオンは、自分の知らない顔をしていた
隣を歩く今のタイオンは、ユーニが知るいつものタイオンに戻っている。
やっぱり、彼はこのままがいい。
戸惑いや悲しみを表情に滲ませているよりも、腹が立つほど得意げな顔でこちらを見つめている方がタイオンらしい。

心に生まれた小さな喜びを胸に、ユーニはタイオンの手を取り走り出す。
“ユーニ!?”と戸惑いながら呼んでくる声がしたけれど、聞く耳なんて持ってやらない。
まるでタイオンを過去の世界から連れ去るように、ユーニは強引に走り続けるのだった。


***

 

アグヌスの女王を救うため、アエティア地方上層部へと赴いていた一行は、トラビスが寄越した迎えの飛行艇でシティーへと帰還した。
ロストナンバーズの寄宿舎に戻って来たと同時に、ノアやランツ、そしてユーニは各々に割り当てられた部屋へとすぐに引っ込んでしまう。
残されたアグヌス出身の3人は、互いに顔を見合わせながらその表情に心配の色を滲ませていた。

アエティア地方上層部に位置している天空の砦にて、一行はアグヌスの女王、ニアと対峙した。
初めて言葉を交わす“本物の女王”は威厳のある女性で、どこかミオに似た雰囲気を纏っている。
そんな彼女の口から語られた情報は、たった一度咀嚼した程度では理解できないほど複雑なものだった。
元々別たれていた世界がひとつになった話も、オリジンという名の巨大な装置の話も、何もかもが衝撃的ではあったが、それ以前に発生した戦闘の印象をかき消すには至らなかった。

眠りについているニアを前に、一行は再びメビウス・ディーと、ジェイの名を冠するヨラン相手にブレイドを交えることになった。
何度目かの激戦の末、ヨランはディーを巻き込む形で死を選んだのだ。
きっと、こんな世界でなければもっと別の生き方を選べただろう。
ゆりかごから生まれたその瞬間から一緒だった友人の死に、ケヴェス出身の3人は悲しみを隠せない様子だった。

寄宿舎の談話室にて、向かい合わせのソファに座りただただ時間が過ぎるのを待っていたタイオンとセナ。
沈黙が続く二人の元に、ノアの様子を見に行っていたミオが帰って来た。
決して明るいとは言えない表情で戻って来たミオは、小さなため息とともにセナの隣に腰掛ける。


「ミオちゃん、ノアどうだった?」
「大丈夫とは言ってたけど、やっぱり落ち込んでるみたい。ランツはどうだった?」
「すっごく落ち込んでた。今はそっとしておいた方がいいかなって」
「そっか……」


ノアもランツも、ヨランの死に心を痛めている。
ティーに到着するまでの間、彼らの口数は明らかに少なかった。
どこか遠くを見つめながら、頭の中で思い出を手繰り寄せている。
インタリンクするたびにヨランとの記憶を見ていたミオたち3人にも、ノア達の喪失感は大いに共感出来た。
互いのパートナーの状況を報告しあうミオとセナとは対照的に、タイオンは足と腕を組み、目の前のローテーブルに視線を落としたまま何も言葉を発する気配がない。
そんな彼に、ミオは“ユーニは大丈夫?”と問いかけた。


「いつも通りを装っているが、思うところはあるはずだ。ヨランのことは勿論、ディーのことも」
「そうよね。今回のことで、一番ダメージを負ってるのはユーニなのかも……」
「アタシがなんだって?」


横から聞こえてきた声にドキリとして、3人同時に振り返る。
そこには、いつの間にか部屋から出てきたらしいユーニの姿があった。
腰に手を当て談話室の入り口に立っているユーニは、一見いつも通りに見える。


「ユーニ……!」
「心配してたの。みんな大丈夫かなって」
「大丈夫って言ったら嘘になるけど、まぁ大丈夫だよ。こうなることはある程度覚悟してたから」


視線を落とすユーニの瞳に、ほんの僅かに悲しみの色が宿る。
その色を見た瞬間、3人は察してしまう。
いつも通りを装っているが、それはただの強がりだ。
今にもあふれ出てしまいそうな大きな悲しみを押さえ込むのに必死なのだ。


「アタシちょっと外の空気吸ってくる。出発の時間になったら呼んでくれ」


そう言って、ユーニはいつもの上着を羽織り、ロストナンバーズの寄宿舎から出て行ってしまった。
どこか寂し気なその背中を見送ったタイオンは、悲しみを胸に抱いているユーニを想いながら目を伏せる。
ヨランは彼女にとって、ノアやランツと同じくらい大切な相手だ。
そんな存在が目の前で死んだのだ。辛くないわけがない。
だが、大きな悲しみを抱く彼女に自分は何と声をかければいい?
自分ごときが何か声をかけたところで、ユーニの悲しみを拭うことなど出来るのだろうか。


「タイオン、ユーニのことお願いできる?」


ソファに座ったまま、ユーニが出て行った扉の方を重たい目で見つめているタイオンに、ミオは後を託した。
だが、まさか自分が指名されるとは思っていなかったのだろう。
タイオンは驚きに目を見開きながら、自らを指さした。


「僕がか?」
「他に誰がいるの?“運命共同体”でしょ?」


ミオの隣に腰掛けているセナが、何度も深く頷いている。
ユーニの友人という立場の人間は他にも多くいる。だが、運命共同体と言えるパートナーはアイオニオン広しといえどタイオンただ一人しかいない。
それを理由に背中を押されては、うかつに断れなくなってしまう。
正直、彼女の元へ行ったところでうまく励ませる自信はない。
けれど、やはりユーニが心配だ。
ほんの少しの間考えたのち、タイオンは重い腰をゆっくりと上げた。

外に出ると既にユーニの姿はなく、あたりを見回しても彼女の白い羽根は見当たらない。
何処へ行ったのだろうかと考えながら歩き始めると、その姿は案外容易に見つけることが出来た。
憩いの公園を見下ろすことが出来るセントル大通り脇のベンチ。そこに彼女はいた。
公園内で遊んでいる子供たちを見下ろしながら遠い目をしているユーニは、やはり“いつも通り”とは言い難い。
そんな彼女に歩み寄ると、接近するタイオンの気配に気付き顔を上げる。
ベンチに腰かけている自分の両腿に肘をつき、両手で頬杖をついている彼女は、タイオンの登場にほんの少しだけ表情を柔らかくさせた。


「なに?もう呼びに来たのかよ?」
「いや、慰めに来た」


素直すぎるタイオンの一言に一瞬だけ驚くと、ユーニは“ぶはっ”と吹き出してしまう。


「なんだよそれ。そんなストレートに言う奴いねぇだろ普通」


ごもっともだった。
慰めようとしている相手に、馬鹿正直に“慰めに来た”と伝えたところで気分が晴れるわけなどない。
だが、不器用で人の心の機微に疎いタイオンには、こういう時どんな言葉をかけてやればいいのか分からないのだ。
気にするなとか、辛かったなとか、相応しい言葉はたくさんあるだろう。
だが、頭に浮かんだその言葉たちは全て薄っぺらく感じてしまう。
今のユーニには、どんな言葉をかけてもただの気休めにしかならないような気がする。
実際、ナミの一件があった直後の自分は、誰にどんな慰めの言葉を貰おうと、上辺だけの言葉にしか聞こえなかったのだから。

優しい言葉の一つも見つけることが出来ないタイオンは、背中合わせで設置されているベンチへと腰かける。
隣に座ろうかとも思ったが、流石にそれは距離が近過ぎるような気がして憚られた。
中合わせに腰を下ろしたタイオンに、ユーニはぽつりぽつりと自分の心情を吐露し始める。


「ヨランはさ、ノアやランツと同じくらい大切な友達だったんだ。メビウスになっちまってもアイツはアイツだ。なにも変わらない。友達としてもっとやれることがあったのかもな、もっと分かってやれてたらな、とか考えると、悔しくてさ……」


ユーニの声は震えていた。
鼻をすする音と共に紡がれる言葉は、彼女の大きな悲しみが孕んでいる。
背中を向けている彼女の表情は伺い知れないが、恐らく泣いているのだろう。
僅かに息を詰めながら涙を噛み殺しているユーニを背中で感じながら、タイオンは口を開いた。


「最近は君の涙ばかり見ている気がする」
「うっせぇ。人を泣き虫みたいに言うなよ」


実際割と泣き虫じゃないか。
そう言おうとしてやめた。そんなことを言ったら、彼女は余計に泣きそうな気がしたから。
ユーニは他人への共感性が高い。
他人のことでもまるで自分のことのように悲しんで、涙を流せるような人だ。
自分以外の誰かの感情に共感したことなどないタイオンは、そんな彼女が不思議で仕方なかった。
と同時に、ミオやヨランのために涙を流しているユーニを見ていると、心がむず痒くなる。
その高い共感性が、自分に向くことはあるのだろうか、と。


「君が誰かのために泣いている光景を見るたび、少し不謹慎なことを考えてしまう」
「なに?」
「例えば……」


一旦言葉を飲み込んだ。
こんなこと、口にしていいのだろうか。そんな迷いが生じたからだ。
だが、背後からユーニの“なんだよ”と急かす声が聞こえてきたことで、タイオンは諦めて心に浮かんだ不謹慎な仮定を口にしてみることにした。


「……例えば僕が死んだとき、君はそうやって泣いてくれるのだろうか、とか」
「はぁ?」


怒りを乗せた声色で、ユーニは聞き返してきた。
あぁ、やっぱり怒ったか。そうなると思ったから言いたくなかったんだ。
後悔し始めるタイオンを尻目に、振り返ったユーニは目に涙を浮かべたまま怒鳴り散らした。


「泣くに決まってんだろ!涙枯れるくらい泣くっつーの!」
「え……」


即座に剛速球で打ち返されその言葉は、タイオンの胸を打つ。
思わず後ろを振り返ると、涙目でこちらを睨みつけているユーニと目が合ってしまった。
泣きながら怒るという実に器用なことをしているユーニは、あふれる感情を爆発させながらまた怒鳴る。


「てか、そういう縁起でもねぇ例えやめろよ。考えたくもねぇ!」
「ご、ごめん」


たどたどしく謝ると、ユーニは“ふんっ”と鼻を鳴らし、怒った様子で前に向き直ってしまった。
ベンチに座り直したタイオンは、背中越しにいるユーニの温もりを感じながら遠くを見つめている。
彼女から投げつけられた言葉によって、今、タイオンの心の温度がじわりじわりと上がっていく。
誰よりも素直で、自分の心を隠すことを知らないユーニからの言葉は、どうしようもないほどタイオンに喜びを与えてしまう。

かつて、タイオンは自分ほどこの世界に必要のない人間はいないと己に言い聞かせていた。
ナミを死なせてしまった自分には、イスルギからナミを奪ってしまった自分には、生きる権利などない。
自分がいなくなればこの世界は上手く回るだろうし、死んだところで涙を流しその死を惜しんでくれる者など何処にもいないはず。
タイオンにとっては孤独こそが正解であり、誰からも情を向けられていない状態にこそ居心地の良さを感じられた。
 
一人でいれば、誰かが死んでも悲しみはやってこない。
孤独でいれば、もう二度と誰かの期待を裏切るようなことはない。
孤高でいれば、自分のミスで誰かを死なせることもない、
いつか自分が死ぬときは、誰にも悲しまれることなく、おくりびとの旋律だけが自分の魂を癒してくれるものだと信じて疑わなかった。だが——。

君は泣いてくれるのか、こんな僕の死を。

ゆっくりと背後を振り返る。
元気を失っているユーニの白い羽根を見つめながら、タイオンは思った。
ユーニには泣いてほしくない。彼女が泣いていると、自分も悲しくなる。辛くなる。
こんな自分の死に彼女が泣くなんてあっちゃいけない。
あぁ全く困ったものだ。死ねない理由がまた一つ増えてしまったじゃないか。
旅を始めたばかりの頃は、この命は羽毛のように軽かったというのに。
いつの間にか、死ねない理由が積み重なってこの命の重石になっていく。
その中でも、“ユーニの涙”は一際重く感じた。


「……タイオンは?」
「え?」


不意に名前を呼ばれ、振り返ったままのタイオンはどきりとした。
まっすぐ前を見つめたまま、ユーニはいつものトーンで質問を続ける。


「タイオンは、アタシが死んだとして泣いてくれんの?」
「それは……」


その言葉に連動するかのように、タイオンの賢い頭は“その時”にむけて鮮明なシミュレーションを開始する。
戦いの最中、目の前で崩れ落ちていくユーニの身体。
舞い散る白い羽根。頬に飛び散る鮮血。
力の入らない彼女の体を抱きかかえながら、タイオンは滲み出る血を必死でせき止めようと傷を抑え込む。
けれど、ユーニの身体から赤い血はとめどなく溢れ出て、彼女の肌は次第に冷たくなっていく。
光を失いつつあるユーニの瞳を見つめなが、タイオンは思うのだ。

あぁどうか、どうか、この命だけは——。


「いや、やめやめ!」


そこまで考えたところで、タイオンの思考はユーニの明るい声によって遮られた。
ベンチから勢いよく立ち上がった彼女は腰に手を当てながらこちらを振り返る。
その目からは既に涙は消えていて、いつの間にか明るさを取り戻していた。


「こういう辛気臭い話してると余計に落ち込む。もっと明るい話しようぜ」
「明るい話?」
「例えば……」


なにか話題を探すために、ユーニはあたりを見回した。
眼下に見えるのは子供たちの笑い声が聞こえる憩いの公園。
左手に見えるのはミチバ食堂。
向かい側にはウェルウェルの骨董品屋。
そしてその向こうに見える店を視界にとらえた瞬間、ユーニは口元に笑みを浮かべた。


「バスティール食いたくね?とか」


さっきまであんなに泣いていたのに、こんな時でもバスティールなのか。
心でそう呟きつつ、タイオンは呆れてしまう。
けれど、あの美味なグルメを口にすることでユーニの気分が少しでも明るくなるのなら、それでいい。
小さく微笑んだタイオンは、眼鏡を押し込みながらベンチから立ち上がる。


「同感だな」
「よし、行くぞ」


軽い足取りで歩き出すユーニの背に、タイオンも続く。
前を歩くユーニの羽根はひょこひょこと可愛らしく上下し、もう彼女の心に悲しみが残っていないことを表していた。
そんな羽根の動きを見つめながら、タイオンは考える。
この羽根が赤く染まる時が来たとしたら、きっと正気ではいられないのだろうな、と。

彼女は、“自分が死んだら泣いてくれるのか?”と問いかけてきたが、答えはNOだ。
もしもユーニが死んだとしても、恐らく自分は泣かないだろう。
涙なんて忘れるくらい悲嘆にくれて、死ぬまでの間ずっと自分を責め続けるに違いない。
ユーニのいない日々は、虚しさと悲しさしか残らない。
彼女と一緒なら自然と感じられた喜びや楽しさも、二度と感じられなくなる。
そんな日々は死んでも嫌だ。
だからどうか、自分よりも先に死なないでくれ。
1分1秒でも長く生きて、悲しみの時を遠ざけてくれ。

心の奥がツンとする。
切ない胸の疼きに襲われているうちに、二人はあっという間にバスティール屋へと到着する。
メニューが書かれた看板を見つめながら何をトッピングしようか悩む二人だったが、後方が何やら騒がしいことに気が付いて同時に振り返る。
ミチバ食堂の目の前。セントル大通りの真ん中に人だかりが出来ている。
その野次馬の中心にいたのは、一組の若い男女だった。
男が女の前で跪き、花束を渡しながら何かを伝えている。
男からの言葉を聞き届けた女は、頬を紅潮させ、涙を流しながら頷いた。
その瞬間、野次馬から自然と拍手が沸き起こり、囲まれていた男女は幸せそうに笑顔を浮かべながら抱き合い始める。

その光景は、ゆりかごから産まれたタイオンとユーニには実に珍妙に見えた。
何かおめでたいことでもあったのだろうか。
数メテリ先での盛り上がりが何を意味しているのか知りたくなったユーニは、バスティール屋の店頭に立っていた恰幅のいい女性に“あれは?”と問いかけた。
すると彼女は、野次馬の方へと視線を上げながらにこやかに答えてくれる。


「ロストナンバーズの2人よ。とうとう結婚するのねぇ」
「知り合いなのか?」
「えぇ。うちの常連よ」


ケッコン。
その言葉の意味はなんとなく知っている。
このシティーで根付いた独自の文化であり、ケッコンした男女はフウフとなり、やがて子供をつくる。
かつてユーニとタイオンが出産の現場を見学した際、生まれてきた子供の親となったあの男女もまた、ケッコンしているフウフである。
 
モニカは、フウフのことを“生涯のパートナー”と称していた。
ティーの人間は、自分たちケヴェスやアグヌスの兵たちとは違い、何十年と続く年月を生き続ける。
フウフとなった男女は、その長い生涯を一緒に連れ添うこととなる。
共に年を取り、子を成し、カゾクになっていく。
オットにとってツマは唯一無二の存在であるように、ツマにとってのオットもまた、唯一無二。
互いに無くてはならい関係性は、まるでウロボロスとして命と体を共有している自分たちのようだ。
 
形は違えど、自分とタイオンもまた“生涯のパートナー”と言えるのかもしれない。
そんなことを考えていたユーニだったが、目の前に飛び込んできた光景に目を疑った。
例の男女が、目を閉じながら唇と唇を合わせていたのだ。


「あらあら。キスなんてしちゃって。ラブラブね」


唇と唇を合わせるその行為は、何度かシティー内で見たことがある。
ただのスキンシップには見えないほど親密なそのやり取りは、視界に入るたびなんだか照れてしまう。
例の男女が交わしている行為を見つめながら、バスティール屋の主人は微笑まし気にそう言った。
初めて聞く単語の意味を知りたくなって、今度はタイオンが問いかける。


「キス?」
「あぁ。貴方たちは外の人だから分からないのか。特別な相手としかしないスキンシップよ」


特別な相手とは、一体どういう相手のことを指すのだろう。
あの二人は、生涯を共に歩むと誓ったパートナーだ。
それなら、同じく互いに唯一無二であり運命共同体でもある自分とタイオンも、キスが出来る“特別な関係”と言えるのだろうか。
けれど、唇を合わせるだけのあの行為にどんな意味があるというのだろう。
ハグが喜びを分かち合う行為、握手が健闘を称え合う行為なら、キスは一体どんな時にするものなのか。
熱烈にキスを交わす例の男女を見つめながら首を傾げていたユーニだったが、不意に左隣から熱い視線を感じて振り返った。
すると、タイオンの褐色の瞳とレンズ越しに目が合ってしまう。

“え、なに?”
そう聞くよりも先に、目があった瞬間びくりと肩を震わせたタイオンによって視線が逸らされてしまう。
不自然に逸らされた目線を怪しみながらも、ユーニは特に追及することなくバスティール屋の看板に視線を戻した。
やっぱりいつものアルドン肉のトッピングにしようかな。たまにはトンガラシソースに挑戦してみるのもありかもしれない。
そんなことを考えていたユーニだったが、彼女は知らなかった。
急いで視線を逸らしたタイオンの顔が真っ赤に染まっていた事実を。


***

白銀ランクの名を冠するコロニー11は、他のコロニーに比べ物資が充実していた。
屈強な兵を多く抱えているため、食糧確保のための狩りも難なくこなすことが出来る。
この恵まれた環境下で鉄巨神を構えているおかげで、一行がコロニー11を訪れた際はいつもご馳走にありつけていた。
 
久方ぶりにこのコロニーを訪れたウロボロス一行は、毎度のことながら炊事班のヘクセンらに強引に狩りを手伝わされた。
その礼にと、見事狩り取ったアルマのサーロインステーキをご馳走してもらうことになったのだ。
炊事班の面々が肉を焼いている様子を、一行は文字通り固唾を飲んで見守っている。
香ばしい香りが食堂内に漂い、一行の食欲をもりもりと高めていく。
 
“そろそろ焼き上がりますよ”とヘクセンが言ったと同時にタイオンはあたりを見回し始めた。
先ほどから、ユーニの姿が見当たらないのだ。
アルマのステーキは彼女も好きだったはず。食べられると知っているにも関わらず遠慮するような性格ではないはずだし、一体どこに行ったのだろう。
ヘクセンが肉を焼き上げるよりも前にユーニを呼び戻すため、タイオンは食堂を離れた。

レウニスが等間隔で並んでいるコロニーの倉庫付近を歩きながら、タイオンはユーニの姿を探している。
自分たちのために用意された天幕にも、食堂内にもその姿はなかった。
全くどこで油を売っているのだろうかと考えながら歩いていたタイオンだったが、前方から歩いてきたアシェラの姿が目に入る。

今回アルマのサーロインなどというご馳走を囲むことになったのは、このコロニー11を執政官から完全に開放した祝いのためでもあった。
執政官に扮したメビウスとの戦いの中で、敵方に操られたアシェラとブレイドを交える場面があった。
何とか彼女を開放することには成功したが、自分とは別の意思に身体を操られることは身体に多大な負担がかかるらしい。
疲れた様子で首を回しているアシェラは、目の前から歩み寄って来たタイオンの姿に気付くと、“やぁ参謀君”と手を振って来た。


「どこに行っていたんだ?そろそろ食事の用意が出来る頃合いだぞ?」
「あぁすまない。ちょっとユーニと秘密の話をしていてね」
「秘密の話…?ユーニはどこに?」
「塔の上にいると思うよ」


背後にそびえたつ見張り用の塔は、長い梯子が設置されている。
アシェラはその上を指さした。
コロニー11の軍務長であるアシェラは、“死にたがりの戦闘狂”という物騒な異名を持っている。
その異名を裏付けるように命を捨てるような戦い方を繰り返すアシェラに、ユーニは都度反発していた。
 
死にたがりのアシェラと、死を恐れるユーニ。
相反する価値観を持つ2人の相性が破滅的に悪いことはタイオンも察していた。
会うたびにユーニはアシェラに突っかかっていたし、きっとこの二人が分かり合う日は来ないのだろう。
そう思っていたのだが、いつの間にそんなに親密になったんだ?
疑問に思っていたタイオンだったが、その場では特に追及することなくアシェラの脇を抜けて塔へと向かう。
ユーニを呼び戻すために自分の横をすり抜けていったタイオンを、アシェラはすれ違いざま声をかけた。


「君、ユーニの相棒なんだろ?」


今更わかり切ったことを聞くアシェラに違和感を感じながらも、タイオンは足を止めた。


「そうだな。ウロボロスとしてのという意味では相棒だな」
「なら、もう少しユーニのこと気を付けて見てやった方がいいと思うよ」
「どういう意味だ?」


アシェラの言っている意味がよく分からない。
振り返って問いかけると、彼女はらしくないほど悲し気な笑みを浮かべていた。
その笑顔は、かつて悪夢にうなされていたユーニが強がっているときの笑顔によく似ている。
アシェラの口から語られた“秘密の話”の内容に、タイオンの心には驚きと怒りの感情が生まれつつあった。


***

見張り台として使われていたその塔は、コロニー11で一番高い場所に位置していた。
一番上に登れば、ケヴェスキャッスルが良く見える。
あの大きく荘厳な建物の中枢、女王の間と呼ばれる場所には、無数のゆりかごが置かれている。
ケヴェスの兵は全てあそのゆりかごから生まれる。いや、生成されると表現したほうが適切だろう。
機械的に生成されたこの身体に、自然さは一切ない。
死と生をひたすらに繰り返しているこのアイオニオンで、自分は今一体何度目の“ユーニ”を経験したのだろう。
荘厳なケヴェスキャッスルを見つめながら、ユーニはそんな不毛なことを考えていた。

かつての自分には、大切な人はいたのだろうか。
たとえばノアやランツ、ヨランのように、友と呼べる相手はいたのだろうか。
きっといたに違いない。だが、今のユーニにその頃の記憶はない。
どんなに深く心通わせた相手であっても、死んでしまえばその瞬間積み上げていた記憶は無へと帰す。
それは哀しいことだと思っていたが、積み上げられた記憶が全て希望に溢れているとは限らない。
 
10年の生を積み上げれば積み上げるほど、それだけ死の記憶も蓄積されていく。
敵のブレイドに殺された記憶、レウニスに蹂躙された記憶、モンスターに噛み殺された記憶。
もしそのすべてを覚えていたとしたら、正気を保っていられるだろうか。

自らの手のひらへと視線を落とすと、わずかに指先が震えていた。
こんな恐怖感を、アシェラは今まで何度も経験してきたなんて。
きっと辛かったに違いない。怖かったに違いない。
迫りくる死の時に震えながら、いつ終わるかも分からない次の生へと突き進む。
死ぬために生きているようなこの世界では、“永遠”などという言葉は空々しい。
 
たった一度の死の記憶を持っているだけでこんなにも苦しいのに、何度も殺された記憶を保持しているアシェラのことが、どうにも放っておけなかった。
死にたがりの彼女の気持ちなど到底理解できないと思っていたが、きっとそれは間違いだ。
同じように死の記憶を持っている自分だからこそ、彼女に共感することが出来る。
“お前を殺してアタシも死んでやる”なんて馬鹿気たことを口にしてしまったのも、アシェラに共感してしまったからなのだろう。
アシェラを分かってやれるのは自分だけ。そして、自分を分かってくれるのもきっと、アシェラだけなのだ。


「ユーニ!」


急に背後から名前が呼ばれた。
振り返ると、梯子から登って来たらしいタイオンが、わずかに息を切らしながらこちらを見つめている。
その姿を視界に入れた瞬間、何故か罪悪感が襲ってくる。
“タイオン……”とユーニが呟いたと同時に、彼が大股で彼女に近づいて来る。
そして、塔の端に腰掛けているユーニのすぐ隣で膝を折ると、彼女の双肩を両手で掴み強引に身体を自分の方へと向かせた。


「アシェラと一緒に死ぬ約束をしたというのは本当か?」
「は?」
「答えてくれ!本当なのか?」


切羽詰まった様子で詰め寄って来るタイオンは明らかに怒っていた。
アシェラに聞いたのか。余計なこと言いやがって。
心の中でアシェラに悪態をついてもどうにもならない。
気まずさを覚えたユーニは、何も答えること無くタイオンから視線を逸らす。
目の前で繰り広げられる無言の肯定に、タイオンは一層怒りを滲ませながらわざとらしく深い溜息を吐いた。


「なんでそんなことを……」
「あいつ、アタシと同じだったんだよ。忘れられない記憶の中でもがき苦しんで、生きる意味が見い出せなくなってる。そういう苦しみ、アタシにもよくわかるから」
「だからって一緒に死のうだと!?馬鹿気たことを……」


タイオンが言い放ったその一言にカチンときてしまう。
馬鹿?なんだよそれ。
どんな思いでアシェラにそう言ったか知らないくせに、勝手なこと言うなよ。
どうせお前には分からない。
死の記憶を持たないお前なんかに、この気持ちが分かるわけない。


「お前に何が分かるんだよ!アタシのこと全部知ってるわけじゃねぇだろ!?」
「アシェラなら分かり合えるというのか?」
「あいつはアタシと同じ境遇だ。少なくとも、お前よりは分かってくれる」
「ふざけるな!」


喚くようなタイオンの怒鳴り声に、ユーニは肩を震わせた。
こうしてタイオンに本気で怒りを向けられたのは、出会ったばかりの頃以来だ。
ユーニの肩を掴んだまままっすぐこちらを見つめて来るタイオンの瞳は、わずかに揺れている。


「前に君が言っていたじゃないか。一人で背負うな、自分にも背負わせろと。君の重荷を背負えるのは、この世で僕一人だけだ。僕以上に君のことを分かってやれる人間なんていない!」


タイオンという男は、自信過剰に見えてその実、非常に自己肯定感が低い人間だった。
自信があるように見せているのは、弱い自分を隠す“強がりの仮面”を被っているから。
どう頑張っても自分を認められない彼が口にした、珍しい“言い切り”に、ユーニは目を丸くした。


「なにそれ。どっから来るんだよ、その自信……」
「自信ならここにある」


そう言って、タイオンは眼鏡を外す。
褐色の瞳に浮かび上がるのは、命の火時計ではなく、ウロボロスの輪。
左目に浮かび上がったその特殊な模様を見つめながら、ユーニは反論する気を失ってしまう。
やがて、タイオンの手がユーニの顔へと延びていく。
彼の大きな左手がユーニの白い頬に添えられて、親指が目の下の涙袋に触れる。
その瞬間、ユーニの蒼い瞳にもウロボロスの輪が浮かび上がった。
向かい合う2人の瞳には、同じ模様。
それは、2人が命と身体を共有している運命共同体であるという証でもあった。


「僕たちは運命共同体だ。戦うのも、生きるのも、そして死ぬのも一緒だ。僕の知らないところで勝手に死ぬ約束をするのはやめてくれ。君の命は君1人だけのモノじゃないんだぞ」


それは奇しくも、ユーニ自身がアシェラに伝えた言葉と同じであった。
この命はもう、自分一人だけのものではない。
命を捨てれば泣いてくれる誰かがいる。惜しんでくれる誰かがいる。
その“誰か”が目の前にいるタイオンなのだとしたら、きっと何が何でも死の道だけは選んじゃいけない。
生きるのも死ぬのも一緒だというのなら、ユーニが死の道を選んだ瞬間、タイオンも迷わず同じ道を選んでしまうだろうから。
それだけはだめだ。タイオンには死んでほしくない。

頬に添えられた彼の手は暖かく、孤独感に凍り付いたユーニの心を溶かしてくれる。
その体温にもっと触れていたくて、ユーニは自らの頬に触れている彼の手に、自分の右手を重ねた。


「じゃあ、タイオンの命もアタシのものなの?」


問いかけるユーニの言葉に、タイオンは自らの額を彼女の額に寄せながら答えた。

「当然だ」

 

臆病者の足掻き


若い兵士が多いせいか、コロニーミューはいつ訪れても明るく活気のあるコロニーだった。
エルティア海を航海していた一行は、久方ぶりにコロニーミューが鉄巨神を構えている島へと停泊した。
急遽立ち寄った彼らを、マシロをはじめとするコロニーの若い兵たちは大いに歓迎してくれる。
ミューで大人気のニニンパイを食堂でいただいた後、一行はアルマの飼育小屋を掃除するというマシロたちを手伝うため、コロニーの端に設置されているアルマの飼育エリアへと向かった。

執政官がいなくなってからというもの、ミューはコロニーとして体裁を保つため、様々な取り組みに力を入れてきた。
アルマの飼育もその一環である。
アルマの肉は豊潤で美味であり、ミルクや卵もよく料理に使われる。
さらにコロニー9から育て方を教わったもちもちイモの栽培も合わせて、コロニーミューは次第に豊かになっていった。

次々に問題を乗り越えていったコロニーミューの次なる問題は、アルマの繁殖である。
そもそも“繁殖”という文化を持たないアグヌスの兵であるコロニーミューの面々にとって、これは誰も想像がつかない大きな難題だった。
ウロボロス一行も、シティーから参考になる本を調達することでアルマの繁殖ミッションに協力していたのだが、先日めでたく2匹のアルマが誕生したという。

アルマの飼育小屋を覗いてみると、話に聞いていた通り2匹の小さなアルマが並んで大人のアルマの乳を吸っていた。
母体となるメスのアルマは、出産後に乳からミルクが出る。
そのミルクは人間たちの料理としても活用されているのだが、本来は幼体のアルマを育てるためのものだったらしい。
 
まだ小さい身体で母アルマの乳を吸っているその光景を遠目で眺めつつ、タイオンは考える。
アルマは2匹同時に生まれることもあるのか。つまりは人間も2人同時に生まれることがあるのだろうか。
人間の女性はアルマと違って胸からミルクが出ることはないが、シティーで出産した女性たちはどうなのだろう。目の前のアルマと同じように、乳を与えて子供を育てるのだろうか。
アルマの繁殖から飼育までのプロセスは、どこまで人間のそれに共通しているのだろう。

腕を組んで考えているうちに、アルマたちの授乳時間は終了した。
それを待っていた一行は、小屋の掃除を始めるためアルマたちをロープで繋ぎ、ゆっくりと小屋の外へと連れ出す。
全てのアルマを柵の外へ誘導すると、誰もいなくなった飼育小屋に掃除用具を持ったノアやランツたち、そしてコロニーミューの若い兵たちが雪崩れ込む。
タイオンとユーニは、柵の外に出したアルマたちが逃げ出さないよう見張る役目を任されていた。
とはいえ、アルマたちは地面に生えている雑草を食べることに夢中で、どの個体も脱走する気配など感じられない。
 
落ち着いた様子のアルマを少し離れた場所で見つめていたタイオンとユーニの元に、コロニーミューの軍務長であるマシロが挨拶にやって来た。
“お疲れ様ですっ”と元気よく挨拶してくる彼女に、ユーニは“おう”と片手を上げて答えた。
挨拶を返さない代わりに、タイオンは遠くのアルマを見つめながら世間話を振る。


「アルマの繁殖は順調のようだな」
「はい。でも、うまくいかない組み合わせもあるんです」


困った様子のマシロの言葉に、タイオンはどういうことかと聞き返してみる。
するとマシロは、遠くにいるアルマの群れの中から二匹のアルマを指さした。


「あの子とあの子、何度一緒の小屋に入れてもちっちゃいアルマが出来ないんです」
「うーん、相性が悪いんじゃねぇの?」
「相性、ですか?」
「あんまり好きじゃない奴と二人きりで狭い空間にぶち込まれたら気まずいだろ?」
「相性が良くないと、繁殖どころの騒ぎじゃないということだな」
「なぁるほどぉ……」


ふむふむと頷きながらアルマを見つめるマシロ。
繁殖という未知の領域に挑戦しようとしている彼女は気苦労も多いのだろう。
眉間にしわを寄せた彼女は、あまり高くない理解力をフルに活用しながら“つまり——”と口を開いた。


「ノアさんとユーニさん、ランランとユーニさんだと相性がそこまでよくないからインタリンクできないけど、タイオンさんとなら相性抜群だからインタリンクできる!みたいなことですよね?」


目を輝かせるマシロの一言に、タイオンとユーニは揃って黙り込んでしまった。
少し違う気がする。
何が違うのかと聞かれたらうまく説明できないが、とにかく何か違う気がする。
だが、隣で聞いていたユーニは訂正が面倒くさくなったのか、“あーうん、そういうこと”と適当に肯定してしまった。
それでいいのか。
ユーニに肯定されたことで気をよくしたマシロは、“いろんな組み合わせを試さないといけないのかァ”と呟きながら、アルマたちへと近づいていった。
去っていくマシロの背中は、初めて出会ったときよりも少しだけ逞しく見える。
たくさんの悲しみを経験した彼女なら、きっとこのコロニーミューを立派に導けることだろう。
軍務長らしくなったマシロの背中を見つめながら、ユーニはミューの繁栄を想像し笑みを零した。


「頑張ってるなぁ、マシロ。いつかミューがアルマ肉とアルマミルクの特産地になるかもな」
「そのためには問題がまだ山積しているがな」
「問題?」
「見ろ、あの雌のアルマを」


タイオンが向けている視線を追うように、ユーニは前方のアルマを見つめた。
すると、群れから少しだけ離れたところで一頭のアルマが鼻息を荒くしながら他のアルマを威嚇している。
それは、先ほど小さなアルマたちにミルクを与えていた母アルマであった。
明らかに気性が荒くなっているその様子を見つめ、ユーニは“あぁ……”と声を漏らす。


「子供を産んだばかりのアルマは皆一様にあぁして気性が荒くなる。その原因を探る必要があるだろうな」


野生のアルマに関しても、小さいアルマを連れている個体は気性が荒いことが多い。
今まで気づかなかっただけで、あれも子を成したばかりの母アルマだったのだろう。
気性が荒くなったアルマは、同種のアルマであったとしても見境なく威嚇し、子供や自分に近づくものは容赦なく襲う傾向がある。
あのまま放っておけば、飼育されている仲間同士で縄張り争いに発展してしまう可能性もあるだろう。
そうなれば、繁殖どころの騒ぎではない。
何故子を成した個体があのように気性が荒くなるのかまったく分からないタイオンとは対照的には、ユーニはその原因に心当たりがあった。


「もしかして、母性ってやつのせいじゃね?」
「母性?」
「前にモニカが言ってたんだ。母親になると、母性ってものに目覚めて子供をなんとしても守ろうとするって。あのアルマも自分の子供を守ろうとしてるんじゃねぇかな」
「つまり、防衛本望だと?」
「子供は想いの結晶なんだってノアも言ってた。そんなに大事なら、守ろうと必死になるのは当たり前だろ?」


ノアとミオは、仲間内の中で一番“繁殖”や“子育て”といったシティー独自の文化への理解が深い。
恐らくは、エヌとエムの記憶による影響なのだろう。
ノアがそう口にしていたのなら、確かに説得力はある。
“理にはかなっているな”と頷くと、ユーニは嬉しそうに笑顔を見せながら“だろ?”と得意げな顔を見せてきた。


「ゼットを斃したら、アタシたちも子供を作るのが普通になるのかな」
「そうだな、恐らくは」


アグヌスの女王であるニア曰く、ゼットという存在によってこのアイオニオンは作られ、この不自然な姿が形成されたのだという。
ゼットがこの世からいなくなれば、きっと人間は本来の生き方を取り戻すことが出来る。
10年という時間の縛りに囚われることもなく、生きるために命を奪わずともよくなり、シティーの人間たちのように“家族”を形成できるようになる。
ティーで展開されている文化、価値観が、当たり前のものとして広がっていくに違いない。

ふと飼育小屋の方へと視線を向けると、中から掃除係の面々が続々と外に出てきた。
どうやら無事小屋の掃除が終わったらしい。
中から出てきたのノアとミオは、互いに笑い合いながら仲睦まじげにしている。
その光景を遠目に見つめながら、ユーニは呟く。


「そうなったら、あの二人はきっと子供作るんだろうな」


ユーニの視線の先にノアとミオがいることにタイオンは気付いた。
あの二人の繋がりは深い。
エヌとエムから続く因果を紐解けば、2人が一緒になるのは必然だろう。
そう思ったタイオンは、軽い気持ちで肯定する。


「過去にもそういう関係だったのなら、そうなるだろうな」
「…アタシも誰かと子供作ったりするのかな」
「え……」


小屋から外に出てきた仲間たちに合流すべく、ユーニはゆっくりと歩く出す。
そんな彼女の背中を見つめながら、タイオンは呆然としていた。
よく考えれば当たり前のことだった。
家族を形成する人生が当たり前の世の中になれば、ユーニとて例外なく子を成すことになるだろう。
誰か気の合うパートナーを見つけて、生涯を共にする誓いを立て、あのアルマたちと同じように繁殖し、パートナーと共に子を育てる。
その人生は幸せに満ちていて、きっと笑顔が絶えないのだろう。
ユーニはあぁ見えて優しい人だ。パートナーに選ばれた男はきっと彼女に大事にされることだろう。
惜しみない愛情を向けられるその男は、きっと幸せに違いない。

遠ざかっていくユーニの背中に、知らない男が寄り添っている影が浮かんで見えた。
彼らの間には、小さな子供。揃って手を繋いでいる3人は、とても幸せそうだ。
パートナとその子供を見つめながら愛おし気に微笑むユーニの横顔を想像した瞬間、息が出来なくなった。

誰だ。誰なんだ、その男。
そんな男、僕は知らない。
そいつは君の隣に立つに相応しい男なのか?
なんでそいつを選んだんだ?
そいつは君を幸せにしてくれるのか?
命を預け合った僕よりも、信頼出来る存在なのか?
僕よりも、大切なのか?


「タイオン?」


名前を呼ばれたことに反応し、顔を上げる。
先に歩き出したはずのユーニが、立ち止まってこちらを振り返っていた。


「何してんだよ?行こうぜ」
「あ、あぁ……」


小走りでユーニへと駆け寄り、2人は隣に並びながら歩き出す。
横目でユーニを盗み見ると、白い羽根を揺らしながらまっすぐ前を見つめる彼女の姿がそこにある。
 
今自分が立っているこの場所。ユーニの横顔を一番近くで見ることが出来るこの場所は、いつかユーニが自ら選んだパートナーのものになるのだろう。
タイオンとユーニは、ウロボロスストーンが発動した際たまたま近くにいただけであって、ノアやミオのように運命的な繋がりがあるわけではない。
偶然選ばれただけであって、自分たちで相手を選んだわけではない。
そう遠くない未来、ユーニは生涯のパートナーとなるべき男を選ぶだろう。
そして、今のタイオンの居場所は、彼女が選んだ“本当のパートナー”によって奪われる。
この綺麗な横顔も、きっとまだ見ぬその男だけのものになるのだろうな。

心臓が痛い。
そうなる未来のことを想うと、心が荒む。
この気持ちは一体なんだ?
誰でもいいから、この感情の正体を教えてほしい。
胸に巣食う不安定な感情の全容を、タイオンはまだ知らない。


***

“オンセン”
それはイスルギにとって非常に興味をそそられる存在だった。
誰も知らない未知の謎を前に、疲れ切っていたイスルギの心は踊る。
疲労回復の効果があるというその“オンセン”にイスルギをたどり着かせるため、タイオンをはじめとするウロボロス一行は粉骨砕身していた。
ティーでの収集した情報をもとにエルティア海を行く一行がたどり着いたのは、毒沼や不気味な洞窟が口を開けている孤島。
毒沼を抜け、洞窟を抜け、亜熱帯ような植物が生えている木々の間を縫って進んだ先に、“オンセン”は存在した。


「ユーニ、彼を蹴落としてやってくれ」
「よしきた」
「ちょ、ちょっと待ってくれユーに!僕はまだ入るとは——!」


文字通り、ユーニはタイオンを湯気沸き立つオンセンの中へと蹴落とした。
彼女の華麗な回し蹴りを尻に食らったタイオンはバランスを崩し、白濁したオンセンへと飛び込んでしまう。
水しぶきを上げて飛び込んでしまったタイオンに、ノアやミオは心配そうな表情を浮かべていたが、イスルギとユーニは楽し気に視線を合わせながら親指を立てあっていた。

やがて、温泉に飛び込んでしまったタイオンが“ぶはっ”と大きく息を吸いながら水面から顔を出す。
眼鏡を外し、顔を手で拭いた彼は、いつものもじゃついた癖毛を濡らしながらユーニに抗議する。


「ゆ、ユーニ!いきなり何を…!」
「湯加減どうだ?気持ちいい?」


タイオンからの抗議を無視しつつ、ユーニは膝を折ってタイオンに問いかける。
そこでようやく我に帰ったタイオンは、服の上から自らの両腕を見つめた。
先ほどこのオンセンを占拠していたモンスターたちとの戦闘で負った軽傷が、緩やかに癒されていく。
さらに、長旅で蓄積した疲労感が、熱い湯で溶かされていくような感覚すらあった。
確かにこれは噂に聞いていた通り、疲労回復にはもってこいの場所のようだ。


「あ、あぁ…。確かに体の疲労が溶けていくようだが」
「ふーん。間違いなく効果はあるみたいだな」
「そうね。でも、やっぱりここで脱ぐのは…」


ミオは自らの腕を抱きしめながら、居心地が悪そうに苦笑いを零している。
今までは何とも思わなかったが、ノアをはじめとする異性の目がある場所で服を脱ぐのは抵抗がある。
風呂は服を脱いで浸かるのが作法だし、出来る事なら自分たちも入りたかったのだが、流石にここで全裸になるのは憚られた。
 
そんな中、ユーニはすぐ近くに視界を妨げてくれそうな大きな岩場を発見する。
そこで服を脱ぎ、岩場に隠れてオンセンの奥まった場所に浸かれば、異性の目を気にせず済むのではないだろうか。
岩場を指さしながら提案してみると、ミオとセナは表情を明るくさせながら頷いた。
“さっそく行こう”と色めき立つ二人は、そそくさと岩場の影に引っ込んでしまう。
そんな二人の背を追いながら、ユーニはつい先ほど自分が蹴り落としたタイオンに悪戯な笑みを見せながら手を振った。


「じゃあまた後で。タイオン、ちゃんと服脱げよ?」
「服のまま入れたのは君だろまったく……」


ユーニが岩場に引っ込んだことを確認し、タイオンは一旦服を脱ぐためにオンセンから上がった。
濡れた服を絞って水気をとると、焚火を起こしたすぐそばに干す。ついでに、ユーニやランツによって服のまま突き落とされたイスルギの服も干すことにした。
濡れた服を干し終わったタイオンは、服を脱いだノアと一緒に再びオンセンへと浸かる。
熱い湯は身体だけでなく心もリラックスさせてくれる。
大きなため息を吐くながら肩まで浸かると、長年尊敬してやまなかったイスルギと目が合ってしまった。


「それにしても、やはりお前たちも男女で風呂に入るのは憚られるのだな」
「“お前たちも”というと?」
「最近、ラムダでも男女で入浴時間を分けてくれという声が多く挙がっていてな。着替えを見られたくないというんだ」


男女一緒に入浴することは、ケヴェス、アグヌス共に共通の常識だった。
男湯と女湯にスペースを分けるほどの広さを確保するのは大変だし、だからといって男女で入浴の時間を分ければ、いつ敵襲があるかも分からないのに悠長に風呂の時間など待っていられない。
男女ともに時間が空いた者から入浴するのが一番効率的なのだ。
だが、今は違う。
ウロボロスの手によって命の火時計から解放されたコロニーには、明らかに今までとは違う価値観が形成され始めている。
“異性と一緒に入浴しない”というのも、そのひとつである。


「そういやぁ俺たちも風呂は別々に入ってるよな」
「そうだな。出会った時から着替えも別だったし」


一緒に湯につかっているランツが、隣にいるノアへと同意を求めた。
一行が旅を始めた初日から、6人は自然と着替えも入浴も男女別で行っていた。
冷静に考えれば何故急に羞恥心が芽生えたのか不思議で仕方がないが、当時の自分たちはそこに何の疑問も抱かなかった。


「“出会った頃から”というより、“命の火時計から解放されてから”と言う方が適切ではないか?」


全員の視線が一斉にタイオンへと向く。
6人が異性の目を気にし始めたのは、ウロボロスの力を得てすぐのこと。
ウロボロスとなったその瞬間、6人は命の火時計の束縛化から解放されている。
他のコロニーの面々も、価値観が明らかに変わりだしたのは命の火時計が破壊されて以降のこと。
部下たちの価値観が次第に変わっていく様子を軍務長としてすぐ近くで見ていたイスルギは、タイオンの言葉に賛同した。


「確かに、お前たちに命の火時計を破壊してもらった日からそういう要望が増えたような気がするな」
「じゃあ、すべては命の火時計から解放されたのが原因だと?」


ノアの問いかけに、眼鏡を外しているタイオンは“あぁ”と頷いた。


「僕はそう見ている。同じく命の火時計の影響を受けていないシティーの人間たちは、ごく当たり前のように入浴も着替えもトイレすらも男女別だ。あれが人として自然な姿だというのなら、命の火時計から解放されたことで僕たちも自然な姿に近付いたという証拠なのではないか?」
「ふむ。自然な姿、か……」


腕を組み、背後の大岩に寄りかかりながら考え込むイスルギ。
ウロボロスの6人よりもシティーを訪問した回数が少ない彼には、なかなか理解しにくいだろう。
深く考え込んでいる彼の隣で、自らの後頭部に腕を回しながら空を見上げるランツは、ため息交じりに口を開いた。


「言われてみればそうだよなぁ。急に恥ずかしくなるなんておかしいもんな。今までは普通に男女一緒に風呂入ってたもんな」
「あぁ、そうだな。少なくともコロニー9ではそうだった」
「ユーニとも普通に風呂入ってたしな」


ランツの口から出た“ユーニ”という単語に、一瞬だけタイオンの瞼がぴくりと動いた。
だが、そんな彼のわずかな変化気付くことなくノアとランツは会話を続ける。


「あぁ。何ならウロボロスストーン奪還作戦の前日も一緒に入ってたし」
「ていうか、今考えれば俺たち男とユーニたち女って、身体つき全然違うよな。あれってなんでだ?」
「さぁ…。やっぱり、生殖のためなんじゃないのか?」


聞き覚えのない“生殖”という単語に、イスルギが反応する。
“生殖?”と首を傾げた彼に、ノアが“人間が人間をつくる方法だ”と簡素的に説明したのだが、あまり腑に落ちていないらしく、イスルギは一層首をかしげている。
そんなイスルギを横目に、大岩に寄りかかりながら空を見つめるランツはまた頭に浮かんだ疑問を口にする。


「ユーニは俺らと違って胸がこう膨らんでるよな。けど、あの大きさって個人差ねぇか?ミオやセナはユーニほどでかくないだろ」
「そうだな。俺たちの身体にも個人差があるように、ユーニたちの身体つきにも個人差があるのかもしれない」


ユーニの身体を引き合いに出し、他の女性陣との体つきを比較して考察するノアとランツの言葉を、タイオンは黙って聞いていた。
身体にライン上の模様があるランツ、胸にコアクリスタルを持っているタイオンといったように、同じ“男”といえど体つき個人差はある。
まだアグヌスの一員としてコロニーガンマに所属していた際、彼もミオやセナと一緒に入浴していたため、彼女たちの身体は何度も見たことがある。
それと同じで、ノアやランツもユーニと毎日のように一緒に入浴していたのだろう。
2人は、自分の知らないユーニのすべてを見たことがある。
そう思うと、何故だか胸がむかむかして仕方がなかった。
そんなタイオンの変化にいち早く気付いたのは、彼を昔からよく知っているイスルギだった。


「タイオン、どうかしたのか?先ほどから黙ったままだぞ」
「いえ、その…別に……」
「なんだよタイオン。こういう考察めいたこと話してると、いつもお前が一番口数多くなるのに」
「逆上せたのか?」
「なんでもない。もうこの話はやめよう。あまり深く考えたくない」


視線を逸らしたタイオンの表情は暗い。
最近、ユーニのこととなるといつもこうだった。
妙に落ち着かなくなって、感情の制御が聞かない。
これ以上ユーニの話題を聞き続けたら、ノアやランツに理不尽に当たってしまうような気がして嫌だった。
気まずげに俯いているタイオンの様子を不思議そうに見つめるランツとイスルギ。
だが、ノアだけは彼の心情を何となく察し、苦笑いを浮かべるのだった。


***

その日以降、タイオンの心情にわずかな変化が訪れていた。
荒野を歩いていると必ずユーニに視線が向き、シュラフで眠ろうとするときには必ずユーニの顔が頭に思い浮かぶ。
ユーニから名前を呼ばれると心臓が跳ね上がり、ユーニと目が合うと顔に熱がこもる。
ユーニと話しているとどうも落ち着かなくなり、距離が近くなると視線が泳ぐ。
 
今までこんなこと一度たりともなかったのに、ユーニが関わるたび自分が自分でなくなるような感覚に陥ってしまう。
筆舌に尽くしがたい違和感が胸を支配し、居心地が悪くなる。
心の安定を保つため、タイオンは防衛本能を働かせた。
必要な時以外はなるべくユーニと距離を取り、目が合わないよう、話さないよう、近づきすぎないよう努めた。
それでも彼女を目で追ってしまう頻度は変わらず、何をしていても頭の隅ではユーニのことばかり考えている。

経験したことがないこの思考不良に、タイオンは戸惑った。
ユーニはこの世でたった一人のパートナーであり、運命共同体だ。
彼女のことを考えること自体は悪い事ではない。
だが、他にも考えるべきことは山ほどあるはずだ。
他の事柄を押しのけて自分の頭を支配しようとするユーニの顔が、ほんの少しだけ疎ましい。
考えれば考えるほど落ち着きが無くなって、胸がざわつく。
心にかかるこの靄を抱えたまま、タイオンは日々を過ごしていた。
そんな彼の態度に、聡いユーニが気付かないはずもない。

大海の渦を突破するための船を建造するため、各地に散らばったオリジンの欠片を回収した一行は、船の建造に関わっているサモンへかけらを渡すためシティーを訪れていた。
欠片は船の装甲を強化するために利用される。
一行から欠片を受け取ったサモンは、その小さな体で欠片を抱えながら、“3日で終わるから待ってるも!”と奥へ引っ込んでいった。
大海の渦をも突破できる強靭な船が出来上がるまで、あと3日。
それまでの間、一行はシティーの寄宿舎で過ごすこととなった。

オリジンの欠片を回収する長期間の旅がようやく終了し、疲労感を体に蓄積させた一行は重い足取りで寄宿舎へと向かう。
ようやく寄宿舎の入り口に到着したところで、タイオンは突然ユーニによって腕を掴まれた。
突然のことに戸惑い、肩を震わせるタイオン。
そんな彼に構うことなく、ユーニはつかんだ腕を引っ張り寄宿舎の裏へと強引に連れ去った。


「な、なんだ急に」
「“なんだ”じゃねぇよ。お前、最近アタシのこと避けてるだろ」


寄宿舎の裏側は倉庫になっており、薄暗く人通りがほとんどない。
ユーニの手によって強引に腕を取られ、二人きりの空間に連れ込まれてしまった状況に、タイオンは焦っていた。
声をかけても反応が薄く、近づこうとすれば離れていこうとする。
ここ最近の彼のそんな態度に、ユーニはしびれを切らしていた。
真っすぐ目を見ながら問い詰めて来るユーニの視線に射抜かれ、タイオンの心はまた落ち着かなくなってしまう。


「別にそんなつもりは……」
「嘘だ。ならなんで一向に目を合わせようとしねぇんだよ」


気まずげに顔を逸らしたタイオンの行動は、ユーニの怒りを一層煽ってしまう。


「二人きりになるときょどりだすし、ちょっと距離が近付こうもんなら露骨に離れようとする。最近じゃ声かけてもすぐに話終わらせようとするじゃん」
「だ、だから気のせいだ。なにもないと言っているだろ」


表情を隠すように眼鏡を押し込んだタイオンは、ユーニの脇を抜けて寄宿舎に戻ろうとする。
これ以上彼女と二人でいられない。
心臓が跳ね上がって、顔に熱がこもって、視線が泳ぐ。
このままユーニの2人でいたら、無様な姿を晒してしまいそうで怖かった。
だが、その場を去ろうとするタイオンを許さず、ユーニは再び彼の手を握り引き留める。


「またそうやって逃げるのかよ!」


喚くように声を荒げながら迫って来るユーニ。
力を込めれば簡単に手を振りほどけそうだが、そんな乱暴なことは出来ない。
だからといって、ユーニに返す言葉も見つからない。
ただただ戸惑いながら顔を逸らすことしか出来ないタイオンに、ユーニは畳みかけるように疑問をぶつけ続ける。


「なぁ、アタシ何かした?気に障るようなことしたならハッキリ言えよ!そういう曖昧な態度、一番嫌いなんだよ!」


“嫌い”
ユーニから言い放たれたその言葉は、鋭い矢のようにタイオンの心に突き刺さる。
嫌悪や憎悪を向けられることには慣れていた。
そんな黒い感情、ナミを死なせてしまった時に嫌というほど向けられた。
いまさらそんな言葉一つで動揺なんてしないはず。そう思っていたのに、ユーニの口から滑り落ちたその一言は、いとも簡単にタイオンの心を切り裂いていく。

嫌い、嫌い、嫌い。
脳裏で言葉が反響する。
透明な水に1滴だけたらされた黒い液体が、ぶわりと透明な世界を塗り上げる。
透き通っていた心が、次第に黒く深く支配されていく。
やがて言葉を失っていたタイオンは、まっすぐ見つめて来るユーニから顔を逸らしながら鋭い言葉を吐き捨てる。


「嫌ってくれて結構だ」
「はぁ?」
「君といると落ち着かないんだ!心がざわめいて、冷静じゃいられなくなる。だから必要以上に関わらないでくれ!君のせいでおかしくなりそうなんだ!」


まるで雪崩のように言葉が口から流れ出て、止まらなくなってしまう。
想いをすべて吐き出し終わった瞬間、冷たい静寂が訪れる。
ほんの少しだけ息苦しく感じたのは、一息でまくしたててしまったからか、それとも居心地の悪さを感じているからだろうか。
数秒の沈黙の後、手首を強く握りしめていたユーニの手からゆっくりと力が抜けていく。
脱力しきった彼女の手は、タイオンの褐色の手からするりと離れていった。


「あ、そう…。分かった」


ユーニの声が震えている。
初めて聞く彼女のか細い声に、タイオンは初めて自分が口にしてしまった言葉の鋭さに気が付いた。
違う。こんなことを言いたかったんじゃない。
けれど、一度口から滑り落ちてしまった言葉は、元には戻せない。


「ゆ、ユーニ…?」
「悪かったな。無駄に絡んだりして。……もう、いいや」


数秒前までまっすぐタイオンの瞳を見つめていたはずのユーニの視線が逸らされる。
手や視線と一緒に、彼女の心まで離れていくような気がした。
俯いたままのユーニが、静かに歩き出す。
タイオンの隣をすり抜けて去っていく彼女の背中に手を伸ばすも、彼の手は空を切る。
 
言葉が出ない。こういう時、何を言えばいいのか分からない。
人と距離を取りながら生きてきたタイオンは、自分から離れていく人々の背中を何度も黙って見送って来た。
去っていくその背を引き留めた経験など一度も無い彼には、去っていくユーニにどんな言葉をかければいいのか分からなかった。
“待ってくれ”
ただその一言でいいはずなのに、臆病な彼は何も言えなかった。


***

 

船の建造に注力していたサモンから、“金属の加工に思ったより時間がかかるため3日以上かかってしまう”と報告を受けたのは、翌朝のことだった。
当初は3日で建造が終わると想定されていたのだが、どうやらその目算が外れていたらしい。
仕方ない。大会の渦は並みの船では突破できないし、ここは大人しくサモンの手腕に任せるしかない。
 
ティーへの滞在期間が延びたことで手持無沙汰になってしまった一行は、モニカやトラビスが抱えている仕事の一部を手伝うことになった。
彼らの仕事は素材や食料の運搬からモンスターの討伐まで様々だ。
ロストナンバーズの手伝いを始めた初日、一行は医療品の運搬業務を手伝うこととなった。
外から仕入れた薬品類をホレイスの医療施設に届けるだけの単純な仕事だったが、薬品がぎっしり詰まっている箱は一つ一つが非常に重い。
資材が積まれているコンテナから薬品の箱を持ち上げようとしているユーニの背中が視界に入り、タイオンは思わず足を止めた。

あの箱はかなり重い。
パワーアシストをつけているとはいえ、非力なケヴェス兵であるうえ女の身であるユーニにとっては相当重たい荷物だろう。
昨日の一件以来、ユーニとは一度も口をきいていない。
それどころか目も合わせていなかった。
あんなことを言ってしまった手前気まずいが、流石にあの状況は手伝ったほうがいいだろう。
怖気づきそうになる自分に鞭を打ち、ユーニの背中に歩み寄った。


「重いだろ。手伝うぞ」


振り返ったユーニの蒼い瞳と目が合う。
彼女の目が自分の姿を捉えていると実感した瞬間、タイオンは息を呑んだ。
けれど、そんな彼の姿を一瞥したユーニは、すぐに瞼を伏せて視線をそらしてしまう。


「いいよ別に」


冷え切った言葉と共に、ユーニは重い箱を勢いをつけて持ち上げると、ゆっくりとした足取りで運び始めた。
興味も関心も感じられないその一言に何も言えなくなる。
出会ったばかりの頃ですら、あんなに冷たくされたことはなかった。
“必要以上に関わるな”と言って先に突き放したのはタイオンの方だ。にも関わらず、突き放すような態度に傷ついている自分がいた。
期待を捨て、すべてを諦めたような彼女の目は、タイオンを焦らせる。
そしてついに、その日は来た。

ティー滞在3日目。ユーニは一行が身を寄せてたロストナンバーズの寄宿舎から姿を消した。
朝食を食べるために休息地に集まり、いつも通りマナナの手料理に舌鼓を打つ一行の輪の中に、ユーニはいない。
他の仲間たちも、彼女がいない光景をさも当然のことのように受け入れ、だれもユーニの名前を口に出さなかった。
何かおかしい。違和感を感じたタイオンは、何故ユーニがいないのかと仲間たちに問いかけたのだが、そんな彼にノアが不思議そうな顔をしながら言ったのだ。
“聞いてないのか?”と。

昨晩、ユーニの“瞳”にコロニー9の軍務長、ゼオンから通信があったらしい。
コロニー付近で落盤事故があり、怪我人が多数出ているため手を貸してほしい、と。
ユーニは元々ヒーラーで、コロニー9に所属していた時は医療班の手伝いをすることもあった。
高い治癒能力を持つユーニの力を、ゼオンは頼ったのだ。
ユーニはゼオンからの要請を受け入れ、昨日のうちにシティーの飛空艇に乗せてもらい一路アエティア地方へと向かった。
その事実は仲間全員が承知していて、タイオンだけが何も聞いていない状況だったのだ。

自分はユーニのパートナーなのに、何故そんな大事なことを事前に相談もなく決めてしまったのか。
どうして自分だけに何も言わず去って行ってしまったのか。
一言くらい報告してくれても良かっただろうに。何故自分だけ——。
頭の中で浮かんだ疑問の答えは、とっくの昔に出ていた。

“必要以上に関わらないでくれ!君のせいでおかしくなりそうなんだ!”

先日彼女に向かって突き立てたあの言葉のせいだ。
あの時、ユーニの目からは期待や好感といった感情がゆっくりと消えていった。
口から滑り出たあの言葉のせいで、ユーニは自分と距離を取っているのだ。
それが分かった瞬間、心臓がぎゅっと無理矢理収縮されたように痛みが走る。

それから数日の間、ユーニはシティーに戻ってくることはなかった。
とはいえ、自分以外の仲間たちとはきちんと濃密に連絡を取り合っているらしく、誰もユーニの現状を気にするものはいない。
だが一方で、一度もユーニからの通信が来ないタイオンは、次第に不安を募らせていった。
いつまでコロニー9にいるつもりなのだろう。
ティーにはいつ帰ってくるつもりなのだろう。
やっぱり怒っているのだろうか。
聞きたいことは山ほどある。我慢の限界に達したタイオンは、ユーニがコロニー9へ発ってから5日目の夜、男子部屋でベッドを並べているノアとランツに質問をぶつけることにした。


「今日、誰かユーニと通信してないか?」
「俺したぜ。昼頃に」
「いつ頃帰ってくる予定だとか言っていたか?」


ベッドに腰掛けブレイドの調整をしているノアと、床で腕立て伏せをしているランツに問いかけると、ランツの方が反応を示した。
タイオンの質問に、腕立ての状態を保ったまま答える。


「さぁな。具体的には話してなかったぜ?まだ向こうもバタバタしてるんだろ」
「だがいつまでも別行動というわけにはいかないだろ。せめていつ頃帰るのかきちんと予定を立ててもらわなくては——」
「俺に言うなよ。そんなに気になるならお前さんがユーニに通信して聞けばいいだろ?」


ランツの指摘は至極正論で、ぴしゃりと言い放たれたその言葉にタイオンは押し黙ってしまう。
珍しく反論しないタイオンに、ブレイドを磨いていたノアは違和感を感じて顔を上げる。


「もしかして、ユーニと喧嘩でもしたのか?」


ほんの冗談のつもりだった。
“そんなんじゃない”と否定されるだろうと思っていたノアだったが、ベッドに腰掛け足を組んだまま黙り込むタイオンに驚いてしまう。
無言の肯定とはまさにこのこと。どうやら本当に喧嘩しているらしい。
その様子を横目で見ていたランツは、ようやく腕立てにひと区切るつけて床に座り込むと、タオルで汗を拭きながら“マジかよ”とぼやいた。


「今更何を喧嘩することがあるんだよ」
「……別に喧嘩というほど大袈裟なものじゃない。ちょっとした行き違いが発生しているだけで」


顔を見合わせるノアとランツを横目に、タイオンは腕を組んだまま俯いた。
別に喧嘩なんてしていないし、関係性に亀裂も入っていない。
そう思いたかった。
距離を取られている。避けられている。嫌われていると認めたら、心が傷だらけになってしまうような気がして。
現実から目を逸らすように俯くタイオン。
そんな彼に、真っ赤なブレイドを磨いていたノアは一行のリーダーとして言うべき言葉をかけ始める。


「タイオン。サモンさんの船が完成したら、すぐにオリジンに潜入することになる。そうなったら、きっと苛烈な戦いが待ってる。パートナーとの連携は必須だ。最終決戦の前にきちんと話しておいた方がいいかもな」
「……あぁ。分かってる」


遠回しに“早く仲直りしろ”と言われているのだ。
ノアの言うことはもっともである。
メビウスとの最終決戦を目前に控えたこのタイミングで仲違いするなどあってはならない。
勝利にためにも、皆の足を引っ張らないためにも、ユーニとの間に発生した心の距離を何とかして埋めなければならなかった。

しばらくして、ノアやランツはそれぞれ風呂や買い物に出かけるため部屋を出て行った。
一人きりになった屋への中で、タイオンは“瞳”を起動する。
通信機能を立ち上げ、数ある連絡先の中からユーニを見つけ出す。
操作一つで呼出しをかけられる一歩手前で、タイオンは躊躇ってしまう。

話さなければ。ユーニと話して、離れた心を取り戻さなければ。
だが、何を言えばユーニの心を取り戻せる?
離れていった相手を引き留めようとしたことも、振り向かせようとしたこともないタイオンには、その術が分からなかった。
ユーニに嫌われているかもしれない。その事実が、タイオンをひどく臆病にさせてしまう。

あぁもうだめだ。日を改めよう。
今はきっと、ものすごく暗い顔をしているに違いない。
こんな顔、ユーニに見せられるわけがない。
そう思った瞬間、タイオンの“瞳”に通信が入る。
驚き急いで相手を確認すると、そこには“ユーニ”の文字が表示されていた。
ついさっきまで通信をかけようか迷っていた相手からの呼び出しに動揺してしまう。
今まで自分にだけ頑なに通信を寄越さなかったユーニが、ようやく自分を呼び出してくれた。
むず痒い喜びがタイオンを支配して、彼から落ち着きを奪っていく。
咳ばらいをして背筋を伸ばすと、タイオンは恐る恐るユーニからの通信に応答した。


「こ、こちらタイオン」
≪あー、こんな時間に悪い。アタシ≫
「あぁ…。どうした?」


数日ぶりに聞くユーニの声は、拍子抜けするほどいつも通りだった。
動揺している事実を隠すためなんとか平静を装うタイオンに、ユーニは早速本題に入る。


≪タイオンってさ、植物の群生地に詳しかったよな?≫
「知見はあるつもりだが」
≪アエティア地方にナオシグサってどこに生えてるか分かる?≫


ナオシグサといえば、すり鉢状にして傷口に塗ることで傷を塞ぐ効果がある薬草である。
コロニーラムダが鉄巨神を構えている大瀑布付近によく見られる植物ではあるが、水辺であればこのアイオニオン全土どこでも生えているはず。
恐らく、コロニー9付近で起きた落盤事故で負傷した者たちへの薬が不足し、ナオシグサを頼ろうという方針になったのだろう。
コロニー9付近なら、天眼の大滝あたりあたりなら苦労せず採取できるだろう。
そう伝えると、“瞳”に映し出されたユーニは腕を組みながら“なるほどな”と頷いた。


≪了解。助かったよ。じゃあ≫
「えっ、ちょ、ちょっと待て!」


呆気なく通信を切ろうとするユーニを、タイオンは咄嗟に引き留めた。
用件はそれだけなのか?
流石に呆気なさすぎる。
“なに?”と問いかけてくるユーニを前に、タイオンは言葉に詰まってしまう。
急いで引き留めたのはいいが、言葉を引っ張り出すことが出来ず、本来言いたかった言葉とは全く別の要件を口にしてしまった。


「あ、いや……。な、ナオシグサは筋に毒素が含まれている場合がある。使用するときはくれぐれも気を付けるように」
≪そうなんだ。わかった。気を付ける≫
「あぁ…」
≪それだけ?≫
「それ、だけだ…」
≪そっか、ありがとな。じゃあお休み≫


たった1分ほどの通信は、ユーニによって切断されてしまう。
“瞳”の機能をシャットダウンさせながら、タイオンは今までにないほど深い溜息を吐いた。
聞きたいことだけ聞いて、用が済んだらさっさと遮断してしまう彼女の態度が辛い。
かつては“タイオンのことが知りたい”と言って、どんなにこちらが突き放そうと傍を離れなかったのに、今は背を向けてタイオンの元から去っていこうとしている。
 
自惚れていたのかもしれない。
彼女なら何があっても隣りにいてくれると。自分を拒絶なんて絶対にしないと。
そんな保証なんてどこにもないのに。
“いかないで”と手を伸ばそうにも、遠ざかるユーニの背を引き留める方法を知らない。

もっと話したい。もっと声が聞きたい。
以前までのように、クダラナイ言い合いでもいいから言葉を交わしていたいのに。
一人ぼっちの部屋の中で、タイオンは天井を見上げる。
伸ばしていた背筋はいつの間にか丸くなり、その背中には悲壮感が漂っていた。


「やっぱり、嫌われたんだろうか……」


なんとなく分かっていた。
けれど認めたくなかった。
たった一言で崩れてしまったこの関係は、どうしたら修復できるのだろう。
自分が傷つかないため、苦しい思いをしないため、人と距離を取って生きてきたタイオンには、いくら考えてもその答えが出なかった。
誰か教えてくれ。心の通わせ方を。この気持ちの正体を。この言葉の贈り方を。
このままじゃ、このままじゃ、どこかへ消えて行ってしまう。

***

ティー滞在6日目。
この日もやはりユーニが戻ってくる気配はない。
相変わらずサモンはオリジンの欠片の錬成作業に手間取っているらしく、船の完成にはまだまだ時間がかかりそうだ。
その日、モニカの手伝いもなく一日中暇を持て余していた一行は、珍しく各々が自由に一日を過ごしていた。
買い物に行く者、筋トレに勤しむ者、食べ歩きをする者。
様々いる中で、タイオンは寄宿舎から一歩も出ずずっと本を読んでいた。
 
ティーの書店で購入した、“ショウセツ”という本だ。
主人公は内気な少年で、親しかった少女とささいなことで仲違いをしてしまう。
そのまま少女は遠いところへ住居を移してしまい、少年とは二度と会えなくなってしまった。
10年後、成長した少年が少女との関係性を再構築するため、僅かな情報を頼りに少女に会いに行くという物語である。

本編は一貫して少年の目線で展開が進む。
幼いころは塞ぎがちで誰にも心開かなかった少年は、明るくて少々図々しい少女に声をかけられ続ける中で次第に心を開いていく。
だが、快活な少女に比べて陰鬱な人生を歩んできた少年は、人との距離の取り方が決して上手いとは言えない。
少女との距離を縮めようにも、いつも嫌われないよう石橋を叩いて渡るように慎重に相手の心を伺っている。
そんな少年の態度に少女はやきもきしているが、少年がそれを察して彼女に自ら近付くことはない。
結局近付いてくれるのはいつも少女の方。少年はただただ待つばかりで、小さな膝を抱えて少女が声をかけてくれるのを待つだけ。

つらつらと綴られる文章から垣間見える少年の臆病さに、読者は例外なく苛立つことだろう。
少女に笑いかけられるたび嬉しくて仕方がないくせに、自分主導では動きたくない。
そんな少年の心理描写に、タイオンも例外なく苛立っていた。
何故いつも受け身なのか。
拒絶されたり嫌われたりするのが怖い。だから動きたくない。
できれば相手に近付いてきて欲しい。そして永遠に傍にいて欲しい。
そんな気持ち、傲慢でしかない。
少年の回想録を目で追っていたタイオンは、物語を半分ほど読み進めたことでようやくハッとした。

受け身なのは自分も同じか、と。

ユーニはいつもタイオンのそばにいて、孤独を好む彼を見つめながら“タイオンを知りたい”と微笑んできた。
そんな彼女からの視線が、言葉が、微笑みが居心地よくて、甘えてしまったのだ。
それどころか、嫌われたくないあまり強がって、彼女の手を振りほどいてしまった。
違う。本当はあんなことするつもりなんてなかった。
“関わるな”なんて、そんなの本心じゃない。

本当はもっと近づきたい。
僕だって君を知りたい。
すぐ隣に留めておきたい。
なのに、いつも選択を間違えている気がする。
ユーニを前にするとどうも怖くなって、自分の身を守るために強がりの仮面を身に着けてしまうのだ。
いつからだろう。この仮面の取り方を忘れてしまったのは。

息が詰まる思いがして、タイオンは手元の本を置いて部屋を出た。
階段を降り、談話室へと顔を出すと、そこにはソファに腰かけているミオの姿がある。
どうやら彼女は“瞳”で誰かと通信しているらしく、こめかみに手を添えながら誰かと会話していた。


「わかった。じゃあもう少しコロニー9にいる予定なのね?了解。あ、ちょっと待って、タイオンが降りてきた。何か伝言ある?」


談話室へと入室してきたタイオンを視界に入れたミオは、“瞳”の向こう側にいる誰かへと問いかける。
そのやり取りを聞いて察してしまった。
通信の相手は恐らくユーニだ。
やがて伝言の有無を問いかけたミオは、“え、あぁそう?じゃあまた明日……”と呟き通信を切断する。
案の定、ユーニから自分への伝言などなかったのだろう。随分嫌われたものだ。
ミオの向かい側のソファに座り、通信を終えた彼女に“ユーニか?”と質問すると、ミオは素直に頷く。


「うん。もう少し向こうにいるって」
「そうか。他に何か言ってたか?」
「何かって?」
「体調を崩していないかとか、食事はきちんと摂っているのかとか」
「そういうことは自分で聞いた方がいいと思うよ?」


先日ランツに言われた言葉を、今度はミオによって投げつけられてしまった。
そんなことは分かってる。けれど、自分で言えないから聞いているんじゃないか。
黙りこくるタイオンをじっと見つめながら、ミオは困ったように眉をハの字に曲げている。


「ノアに聞いた。喧嘩してるんだって?」
「別に喧嘩と言うほどでは……」
「でもユーニ、タイオンの名前出すと露骨に声のトーンが下がるの。まるでその話はしたくないって言ってるみたい」


僕の話すらしたくないということか。
ミオの言葉から読み取れる事実に、タイオンの心はますます萎れてしまう。
自ら撒いた種だというのに、いざユーニから冷たくされると心が涙を流す。
そんなどうしようもなく女々しい自分が情けなくなる。

拗ねるように視線を逸らすタイオンは、彼にしては珍しく現実を見ていない。
時間が経てば自然と問題が消え失せるとでも思っているのだろうか。
煮え切らない彼の態度に、ミオは苛立ちを募らせていく。


「ねぇ、何が原因かは分からないけど、きちんと話した方がいいんじゃない?長引くとそれだけ仲直りしにくくなるよ?」
「わかってる。でも、話した結果これ以上関係が悪化したらどうする?また余計なことを言ってしまうかもしれない」


俯くタイオンの顔を覗き込むように語り掛けるミオ。
1期年上である彼女は、コロニーガンマにいた頃から後輩たちの相談役のような存在だった。
タイオンにとっての彼女は、シティーの言葉で言うところの“姉”のような立ち位置と言えるだろう。
それなりに長い付き合いである彼女になら、こんなに情けない心情もはっきり吐露できるような気がした。
深くため息をつき、肩を落とすタイオンは、これまで一度も口にしてこなかった本心を吐き出した。


「これ以上、ユーニに嫌われたくないんだ」


深刻な様子で呟くタイオン。
そんな彼の一言に、ミオは目を丸くしたあと口元に手を添えながら“あははっ”と声を挙げ笑い始めた。
無様を承知で懸命に吐露した本心を笑い飛ばされれたことに、タイオンはむっとした。
キッと目の前のミオを睨みつけながら、“笑うところじゃないだろ”とぼやくと、ミオは未だ笑顔を崩さないまま“ごめんごめん”と謝ってくる。


「だって、おかしくって」


何が可笑しいというのだ。
こっちは至極真剣に悩んでいるというのに。
組んだ足の上に頬杖を突いてむくれている彼を見つめながら、ミオは在りし日のことを思いだしていた。
彼がまだガンマに転属されて来たばかりのころ。
レンズ越しの褐色の瞳が、哀しみで塗りつぶされていたあの頃のことを。


「タイオン、ガンマに転属してきたばかりのころ、“そんな態度じゃみんなに嫌われるよ?”って言った時、なんて返してきたか覚えてる?」
「いや……」
「“嫌われたって構わない。好かれるために生きてない”」


眼鏡を押し込む仕草をしながら、いつもより低い声でしゃべるミオは、あの時のタイオンを再現しているつもりなのだろう。
大して似ていない物真似を披露してくれたところ申し訳ないが、タイオン本人には全くと言っていいほど覚えがなかった。
そんな小生意気なことを本当に自分が言ったというのか。


「言ったか?そんなこと」
「言ったよ!もうビックリしたんだから。あの時はあんなこと言ってたけど、好かれたいと思える相手に出会えたんだね」
「好かれたい?僕が、ユーニに?」
「だって、嫌われたくないと好かれたいはイコールでしょ?」


盲点だった。
誰かに嫌われようと構わず生きてきたタイオンが、初めて“嫌われたくない”と思った相手、ユーニ。
彼女のことは憎からず思っていた。
頼られたい。力になりたい、支えてやりたい。
ユーニという存在に付随する感情や欲求は多々ある。
だが、彼女へと向けている矢印の中に、一つだけ主張の強い色をした欲求が見えてきた。
“好かれたい”という欲求。
“嫌われたくない”という皮を被ったその真っ赤な感情は、他のどの欲求よりも大きく、重く、そして鋭くユーニへと向けられている。

僕はユーニに好かれたかったのか。
こんな灰色の世界では、誰かに好かれてもロクなことはないと思っていた。
どうせ皆いなくなる。どうせ皆死んでしまう。
好意の眼差しがそっぽを向く瞬間は想像したくもないし、相手の期待に応えられずもどかしい思いをするのももう嫌だ。
好かれたいなんて愚かなこと、思っちゃいけない。
自分は誰かに好かれるような立派な人間じゃない。
好かれた瞬間、またその期待に答えたくなってしまう。失うのが恐ろしくなってしまう。
自分のせいで誰かが死ぬのも、期待を裏切るのも、もうたくさんだ。
だから人と距離を取る。なるべく好かれないように、情を抱かないように。
それが正しい生き方だと思ってきたのに、9期も中頃に差し掛かってきた今、ユーニに好かれたいと思っている。
何と滑稽なことか。今までの生き方、価値観をひっくり返すような感情の発見に、タイオンは泣きたくなった。

好かれたい。ユーニに好かれたい。
少しでもよく思われたい。
彼女の特別になりたい。
そんな曖昧で得体のしれない感情を見つけてしまった以上、もはや誤魔化せはしないのだ。
頭を抱えるタイオンを前に、ミオは薄く微笑みを浮かべた。
人と距離を取り続けていた彼が、1人の少女を、それもケヴェスの少女に好かれたくてたまらず頭を抱えている。
そんな光景が、どうにも可愛らしく思えたのだ。


「でもね、タイオン。相手に好かれたいと思うなら、もう少し素直にならなくちゃ」


俯くタイオンを救い上げるように、ミオは彼の顔を覗き込みながら伝えた。


「気持ちに嘘をつかず、変なプライドは捨てて、相手に受け入れて欲しいって伝えるの。そうすれば少しは距離が縮まるんじゃないかな」
「拒絶されたらどうする?嫌がられたら?相手も同じ気持ちとは限らないだろ」


素直に生きられれば楽だということはタイオンもとっくに気付いていた。
だが、彼の人一倍慎重な性格が素直さを遠ざける。
何の迷いもなく自分の気持ちを口に出来たらどんなにいいか。
例えば、先ほどからこの心を支配しているユーニのように、素直であけすけな性格でいられたら、きっとこんなくだらない悩みを持つこともなかったのだろう。
この期に及んで未だ弱音を吐き続けるタイオンに、ミオは肩から力を抜きつつ息を吐いた。


「もう、臆病なんだから」
「なっ、誰が!」
「保身のために天邪鬼な態度取ってると嫌われるよ?それでもいいの?」


ミオの忠告は、タイオンから反論の言葉を奪っていく。
そんなことを言われたら何も言えなくなってしまう。
嫌われても構わないと過去の自分は言っていたようだが、今を生きるタイオンはとてもじゃないがそんな風には思えなかった。
嫌われたくない。もしもユーニに“タイオンなんて嫌いだ”と言われてしまった暁には、きっとこの弱い心は二度と立ち直れなくなるのだろう。
好かれたい。そう自覚した瞬間、タイオンの四肢は鎖で雁字搦めにされているのではと疑いたくなるほど、身動きが取れなくなってしまう。
慎重で奥手で臆病な彼には、目の前にちらついているユーニの心を捕まえる術が分からないのだ。


***

“瞳”を起動させ、数秒考えたのちにシャットダウン。
そしてまた起動させ、しばらくした後シャットダウン。
この動作を、先ほどからタイオンは20分ほど繰り返していた。
寄宿舎で割り当てられた部屋は男女で1部屋ずつ。
同じ部屋で寝泊まりしている面々は珍しく全員出払っていた。
ノアはミオやマナナと一緒に食材の買い出しに。ランツはセナと一緒に走り込みに、そしてリクは難航している船の建造を手伝うためサモンの元へ出かけている。
部屋で一人きりの今、ユーニと通信するには絶好の機会だった。

だが、未だに踏ん切りがつかずにいる。
ユーニがコロニー9に帰ってからすでに1週間以上が経過しているが、先日彼女からナオシグサの件で通信を貰って以降一度も連絡が来ていないかった。
相変わらずノアやミオたちとは毎日連絡を取り合っているようだが、自分だけには頑なに連絡を寄越さないユーニは明らかに自分を避けている。
 
“必要以上に関わらないでくれ”などと言ってしまったのだからそれは当然の結果ではあるのだが、いざ本当に距離を取られてしまっては辛くなる。
独りよがりなこの心情をユーニに知られたら、きっと幻滅されるのだろう。
自分から突き放したくせに今になって手を延ばそうとするなんて身勝手だ。無様すぎる。
けれど、もう限界だ。
身勝手だろうが無様だろうが、やっぱりユーニには手の届く範囲にいてほしい。
ふと視線を向ければすぐに顔が見える距離にいて、名前を呼べば即座に返事をしてくれて、微笑みを反してくれる。そんな距離感で並んでいたい。
けれど、きっとその距離をキープするのはすごく難しい事なのだろう。
何故ならタイオンは、ユーニを前にするとどうしようもなく心が躍って、自分らしくいられなくなってしまうのだから。

何度目かの起動音を聞きながら、タイオンは通信の設定を開始する。
あとは“ユーニ”の名前を選択するだけ。
何を躊躇うことがある。簡単なことだ。
通信をかけて、応答したユーニににこやかに言うのだ。
“やぁ元気だったか?コロニ9での仕事は順調か?いつ帰って来るんだ?そろそろ寂しくなってきた。君に会いたい。話したいことがたくさんあるんだ。この前は酷い事を言ってごめん。あんなの本心じゃないんだ。本当は君に近づきたい。隣にいてほしい。だから早く帰ってきてくれ”
 
そう言ったら、きっとユーニは文句を言いつつ“仕方ねぇな”と言って笑ってくれるはず。ユーニは優しいから、きっと謝れば許してくれるだろう。
でも、でもでもでも、もしも“嫌だ”と言われたら?
“無理だ”と言われたら?“嫌いだ”と言われたら?“会いたくない”と言われたら?
彼女から冷たく拒絶されたとき、どんな風に平静を装えばいいんだ?

恐れを抱きながら、タイオンは目を閉じる。
彼の目の前に広がっているのは、重たい鉄でできたユーニの心の扉。
固く閉じられているその扉の向こうに、ユーニはいる。
扉の前に立っているタイオンは、ただ黙って閉まりきっている扉の隙間を見つめていた。
この扉を叩くのが怖い。
本当はこの固い扉を開けて中に入れてほしい。受け入れてほしいけれど、自分の無防備な好意を曝け出すのが恐ろしくて仕方がない。
だが、タイオンが怖気付いている一方で、ユーニはタイオンの固く閉ざされた心の扉を何度も叩いてくれていた。

“アタシ、タイオンのことが知りたい”
“一人で背負ってないでアタシにも分けてよ、その重荷”
“あの夜のことは、二人だけの秘密だからな?”
“泣くに決まってんだろ!涙枯れるくらい泣くっつーの!”
“じゃあ、タイオンの命もアタシのものなの?”

脳裏に反響する彼女の言葉はどれも真っ直ぐタイオンに向けられていて、屈託した自分との違いを思い知らされる。
日陰で孤独と戯れるタイオンとは違い、彼女はいつも陽の当たる場所にいた。
暗い場所で座り込む彼の背中に、"こっちに来いよ"と声をかけ続けてくれていた。
けれどタイオンがその声に応えることはなくて、伸ばされた彼女の手振り払ってしまった。
悲嘆し、幻滅して背を向ける彼女に、彼は今更後悔している。

違う。あんなの本心じゃない。本当は嬉しかったんだ。
こんな僕を知りたいと言ってくれた君の言葉が、理解したいと微笑んでくれた君の存在が。
ただ、こんな歪な僕じゃ、君に相応しくないような気がして。
僕が一人で閉じこもっていた間も、君はずっと僕の心の扉を叩き続けていた。
君もこんな風に怖い思いをしていたのだろうか。
それなのに、僕は——。

自らを奮い立たせ、タイオンはユーニの心の扉をノックするように通信を開始した。
君の心の中に入りたい。
僕だって君のことが知りたい。近づきたい。
そう伝えるために。


《…はい?》
「あっ、ぼ、僕だ。タイオン」
《あー…なに?なんか用?》


瞳の網膜を通じて通信しているユーニは、明らかに居心地が悪そうだった。
いつもより低いテンションと声が、タイオンを焦らせる。
けれど、逃げ出してはいけない。
いま彼女の前から逃げれば、きっともう心の距離を縮めることなど出来なくなってしまう。


「その…。な、ナオシグサ、どうなった?」
《あぁ、ちゃんと収集できたよ。教えてくれたおかげで毒素に苦しむこともなかった。ありがとな》
「そうか。それはなによりだ」
《用ってそれだけ?》
「あ、いや…」
《ないならもう切るぞ?》
「いや!ある!あるから!」


ほんの少しだけ開かれたはずの心の扉が、また閉じられようとしている。
だめだ。何とか引き留めなくては。
閉まろうとしている扉に足を挟ませて強引に引き留める。
しつこいと思われようと、鬱陶しいと思われようと、もはや手段を選んではいられなかった。
扉の向こうで、ユーニは眉間にしわを寄せ、怪訝な顔でこちらを見ている。
何か、何か言わなくちゃ。
賢明に絞り出すように、タイオンは声を振り絞る。


「……げ、元気か?」


か細くつぶやかれた問いかけは、あまりにも唐突なものだった。
急に投げかけられた“How are you?”に、ユーニは反射的に“I'm fine. Thank you!”とは流石に返せなかった。


《はぁ?》
「ここ暫く君の声を聞いていないような気がしたから」
《いや、この前通信したじゃん》
「ほんの一瞬だろ。それにもう5日も前だ。ノアやミオたちとは毎日連絡を取っているくせに」
《関わるなって言ったのはお前じゃん》
「あ、あれは……」


そのクレームは至極当然と言える。
最初に突き放してきたのはそっちの方なのに、と言われれば何も反論できなくなってしまう。
自分勝手なことを言っている自覚があるからこそ、そこを指摘されると弱いのだ。
“瞳”の上で繋がっている2人の間に、沈黙が訪れる。
まずい。うまくいかない。
焦る気持ちがタイオンから適切な言葉を奪っていく。
素直に、とにかく素直にならなくちゃ。
ミオからの忠告を思い出したタイオンは、先日の発言を謝ろうと口を開いた。
だが、彼が“ごめん”を発する前に、ユーニの方が先に声を紡ぎだす。


《もちもちイモがさぁ》
「えっ?」
《もちもちイモ。ほら、コロニー9で栽培してるだろ?》
「あ、あぁ」


何の脈絡もなく無関係な話題を投下してくるユーニに、タイオンは一瞬訳が分からなくなって首をかしげてしまう。
だが、そんな彼などお構いなしにユーニは淡々と世間話を続けた。


《あれが余りまくって大変なんだよ。それでもう少し長期保存出来る調理方法ないかなっていろいろ検討してたんだけど、薄く切って油で揚げたらどうだってカイツが言い出してさ》
「油で揚げる…?」
《そう。それがけっこう美味くてさ。ぱりぱりしてて病みつきになるんだよ。これなら長期保存もできるし保存食としても最適だなって。ちなみに名前はもちもちイモチップス》
「はぁ……もちもちイモチップス……」
《アタシじゃなくてゼオン命名したんだからな?多分タイオンも好きな味だと思う。塩味が効いててめちゃくちゃ美味いんだ》
「そんなに美味いなら食べてみたいな、もちもちイモチップス」
《だろ?あまりに美味すぎて毎日のようにつまんでる》
「なるほど。今度会う時のユーニは身体が丸みを帯びているかもしれないな」
《うっせぇわ。お前も一度食べたら絶対ハマるから!保証する!》
「“絶対”とは大きく出たな。なら僕はハマらないに一票賭けよう」
《言ったな?帰る時土産に持って帰ってやるから楽しみしとけよ?じゃあ勝った方はバスティール奢りな!》
「“負けたほうが奢り”の間違いじゃないか?」
《あ、やべっ、間違えた》


間の抜けたユーニの言葉に、タイオンは小さく声を挙げて笑った。
“瞳”の向こうにいる彼女もまた、ケタケタと笑っている。
互いの笑い声が収まったと同時に、タイオンは気付いてしまう。
あぁ、いつの間にか普通に話せてる。
ユーニが会話を先導してくれたおかげで、気まずさも居心地の悪さも吹き飛んでしまう。
 
彼女といるといつもこうだ。
話していると楽しくて、気付けば軽口を言いながら笑い合っている。
これはきっと、ユーニがいつも自分を引っ張ってくれているお陰なのだろう。
いつも自分の手を取って先導してくれる彼女に着いて行っているだけで、いつも受け身な自分がそこにいる。

このままではだめだ。僕だって、君を引っ張りたい。
君が近付いて来るのを待っているだけの自分とは、もうおさらばだ。


「ところで、ユーニ、シティーにはいつ……」


言いかけた瞬間、“瞳”に映るユーニの背後でノックオンが聞こえてきた。
彼女の部屋に誰かが訪ねてきたらしい。
“はい”とユーニが返事をしたと同時に、端正な顔が部屋の扉から顔をのぞかせた。
コロニー9の軍務長、ゼオンである。


《ユーニ、そろそろ時間だぞ》
《あぁ、すぐ行く。悪い、定例の会議だ。もう行くわ》
「そ、そうか…」


コロニー9では、毎日夜になると定例会議が開かれ、その日の報告をしあう習慣があった。
久方ぶりにコロニー9に帰って来たユーニもまた、この習慣に参加している。
時刻を確認してみると、既に夜19時を回っていた。
まだ5分ほどしか通信していないが、用事があるのなら仕方ない。そう思いつつも、惜しまずにはいられない。
“じゃあ”と通信を切ろうとするユーニを、タイオンはとっさに引き留めた。


「ユーニっ!」
《ん?なに?》


息を呑む。
“素直になる”という行為が、こんなにも怖いことだとは思わなかった。
けれど、今なら言える。
ユーニのおかげで少しだけ勇気が出た今なら、きっと——。


「また明日、通信しても……?」


精いっぱいの言葉だった。
もっと言いたいことはたくさんあったが、走り始めたばかりである今のタイオンに飛び越えられるハードルはこの程度。
緊張しながら投げかけられた言葉を受け取ったユーニは、顔を綻ばせた。


《そっちは暇なんだな》
「……まぁ、否定はしない」
《ははっ、しゃーねぇな。相手してやるよ。また明日な》

 
そう言って、ユーニは通信を切った。
自らも“瞳”の機能をシャットダウンさせると、タイオンは腰掛けていた自分のベッドに脱力しながら横たわる。
寄宿舎の天井を見上げる彼の口元は緩み切っている。
誰が見ているわけでもないが、何となく一人でにやけている現状が恥ずかしくなって片手で口元を隠してみるが、一向ににやけが収まることはなかった。

ユーニと“普通”に話せたことが、たまらなく嬉しい。
“また明日”と言ってくれたことが、一緒に笑い合えたことが、嬉しくて嬉しくて仕方ない。
未だ心臓がバクバクと高鳴っていて、顔は火照っている。
つい数十秒前まで話していたというのに、また話したくなってしまう。
何だこの気持ちは。ブレーキが壊れたレウニスのように、前へ前へ進んだまま心が止まる気配がない。
ユーニへと真っすぐ向けたこの感情は、秒針が進むごとにどんどん大きくなっていく。
そして、大きな感情はタイオンの賢い頭を真っ白に塗り替えてしまう。
複雑に絡み合った思考が全て燃え尽きて、最後に残るのは、“会いたい”という単純明快な気持ちだけ。

会いたい。ユーニに会いたい。
彼女と出会ってこんなに長い間離れ離れになったのは初めてだ。
これ以上会えない日々が続くのは耐え難い。
あぁもう、僕は一体どうしてしまったんだ?
思考が全部彼女に支配されて、それ以外のことが考えられなくなる。
この大きすぎる気持ちは、どんな言葉を使えば彼女に伝わるのだろう。
宝石のように美しくきらめく感情を見つけたばかりの彼には、まだ分からないことだらけだ。

 


止まない鼓動

細かいことは気にしない。
小さなことでいちいち悩まない。
どんなときだって強くいる。
そういう自分が理想だった。
泣くのも悩むのも怯えるのも、自分らしくない。
だから空々しくても、自分を保つために強がりの仮面を被っていた。
けれど、時には仮面に納まりきらない傷を負うこともある。
滲みだした悲しみが仮面の裏からはみ出てしまうこともある。
使い込まれた“強がりの仮面”は、いつの間にかヒビだらけになっていたらしい。
この得体の知れない感情を前に、もはや“強がりの仮面”は通用しない。

ゼオンから救援要請の通信が入ったのは、ユーニによって非常に都合のいい出来事だった。
少しの間で構わないから、考える時間が欲しかった。
コロニー9に帰還したい旨をノアに話すと、“なら皆で行こう”と提案されたが、丁重に断った。
タイオンにも報告した方がいいかとも思ったけれど、どうしても話す気になれない。
結局タイオンとは一言も話すことなく、ユーニはロストナンバーズの飛空艇に乗せてもらう形でコロニー9へと向かった。

タイオンに避けられていると感じ始めたのは、1週間ほど前からだった。
話しかけても反応が薄く、会話も必要最低限な言葉しか交わしてくれない。
中々目も合わないし、あえて二人きりにならないよう距離を取っているようにしか見えないその態度は、出会ったばかりの頃を想起させる。
 
一歩近づけば二歩後ずさるタイオンに、ユーニは苛立ちを感じていた。
いい加減腹が立ち、彼の手を取って強引に話をしようとして言われたのだ。“関わるな”と。
そう言われた瞬間、タイオンとの間に高く厚いがそびえ建ったように思えた。
強い拒絶感は、ユーニの心を簡単に傷付けてしまう。
タイオンは決して愛想がいい性格ではない。
素直さに欠ける天邪鬼な性格だということも重々理解しているつもりだった。
なのに、言葉一つで傷付くほど、この心はいつの間にか軟くなっていた。

タイオンとはいい関係性を築けていると思っていた。
互いに命を預け合い、信頼し合っている。
この世でたった一人のパートナーである彼はユーニにとって唯一無二の存在で、きっと彼にとっての自分もそうなのだろうと思っていたのに。
“関わるな”の一言は、ユーニの身体を他人よりも遠いところに突き飛ばしてしまう。
これ以上傷付きたくなかったユーニは、逃げるようにコロニー9へと帰還した。

落盤事故で多くの怪我人が出ているコロニー9は思っていたよりも切迫していて、到着して早々重症者の手当てを手伝うようゼオンに命じられる。
最初の数日間は思った以上に忙しくて、タイオンから受けた心の傷を忘れられるほど仕事に没頭出来た。
けれど、5日も過ぎれば重症者の容態も安定してきて、忙しさも落ち着いてくる。
 
“忙しいところわざわざすまなかった。もうユーニの手を借りずとも何とかなるだろう”とゼオンは言っていたが、シティーに帰る気にはなれなかった。
ミオやセナから通信で“いつ帰ってくるの?”と聞かれても、“まだバタバタしてるから——”と適当に誤魔化す日々。
サモンは相変わらず船の建造に苦戦しているらしく、今のままコロニー9に滞在し続けても迷惑は掛からないだろう。
出来るだけ長く、ここにいたい。
タイオンの顔を見たくない。会いたくない。
そう思う反面、夜になると決まってあの顔を思い出してしまう。
そして思い出すたび、心がざわめくのだ。

悩める夜が続く中、ある日突然タイオンから通信がかかってきた。
たどたどしく“元気か?”と問いかけてくるその声はやけに上ずっている。
特に用があるわけでもないようで、適当に世間話をした後2人の会話はすぐに途切れてしまう。
 
なんだよこいつ。“関わるな”とか言ってきたくせに自分から通信してくるなんて。
かけて来たなら来たでそっちから会話を先導すべきだろ。
仕方なくあまり中身のない話を振ってみると、意外にもタイオンは嬉しそうにその話題を聞いてくれた。
ユーニが話題を投げるたび、タイオンは何故か嬉しそうにする。
自分からは投げようとしない癖に、こちらが投げるボールは絶対に取りこぼさないよう食らいつく。
通信の最後は、“明日も話したい”と締めくくって終わるのだ。

突然の通信を貰って以降、ユーニの元には毎晩タイオンから通信がきた。
決まった用事は特にない。
かけてくるくせに、自分から話題のボールを投げて来ないタイオンとの通信内容は、傍から見れば非常につまらないだろう。
だが、タイオンから通信がかかってくるたび何故か小さな喜びを感じている自分がいた。
その日の夜も、いつも通りの時間にタイオンからの通信が入る。
相変わらず何も話題を振ってこない彼に、今日はコロニー9の野外食堂の話をしてみることにした。
もちもちイモが大量に余っているため、炊事班によって新たなメニューが追加されたのだ。
その話をすると、タイオンがシティーのミチバ食堂を引き合いに出して話題に乗ってくる。
どうやらミチバ食堂のメニューも種類が増える予定らしい。


「へー、ミチバ食堂に新メニューがねぇ」
≪ミヤビ監修で例の魚料理を提供し始めるらしい。ミヤビは随分頑張っているぞ≫


少し前、シティーでは料理コンテストが行われていた。
身内ではマナナとミヤビが参加したのだが、その際振舞われた料理が非常に評判が良く、審査員以外の住人から是非食べてみたいという要望を多くもらったのだという。
その要望に答える形で、ミチバがミヤビやマナナにレシピを聞き、新メニューとして件の料理を店頭に並べることとなったのだ。
ミヤビの魚料理も、マナナの豪華絢爛な丼モノも非常に美味だった。
ミチバ食堂でメニュー化されるとしたら、もう一度と言わず何度でも食べられるようになる。
それはユーニにとっても魅力的な事実であった。


「そっか。じゃあ近々あの馬鹿美味い料理をシティーでいつでも食べられるようになるってわけだ。楽しみだな」
≪マナナも最近新しいメニューを考案し始めていてな。新メニューは君が好きそうな味付けだったぞ≫
「マジか。それは帰ったらすぐ作ってもらわなくちゃな」
≪あぁ。だから……≫


突然タイオンの言葉が詰まる。
喉につっかえているように途中で黙り込んだ彼を不思議に思い、“ん?”とその先を促してみる。
すると“瞳”の向こうに映るタイオンは、視線を外しながらたどたどしく言葉を絞り出した。


≪は、早く、帰ってきてくれないか?≫
「え?」
≪君がシティーを出てもう2週間近く経っている。これ以上の別行動はまずいだろ≫
「いやでも、もうオリジンの欠片は集まったし、あとは船の完成を待つだけだろ?それまでどうせやることねぇんだしアタシがいなくても困ることなくね?」
≪い、いや、困る!≫
「なんで?」


タイオンの言葉がまた途切れる。
さっきから何なんだ。何が言いたいのか見えてこない。
ハッキリ言えばいいのに。
少し呆れながら待っていると、タイオンは相変わらずか細い声で言葉を発する。


≪……会いたいんだ。君に≫


その言葉が耳に届いた瞬間、世界から音が消えたかのように辺りがしんとなった。
“会いたい”
短く投げつけられたその言葉は恐るべき威力でユーニの心にぶつかってくる。
“瞳”越しに見るタイオンは、真っ赤な顔で羞恥に耐えていた。


「なに、それ……」
≪と、とにかく、暇を持て余しているくらいならさっさと帰って来てくれ!それじゃ!≫
「えっ、お、おい!」


止める間もなく、タイオンは一方的に通信を切断した。
本当の意味で静かになった部屋の中、沈黙のせいで自分の心臓が脈打つ音がやけに目立ってしまう。
ドッドッドッとまるで心の中で大きな太鼓を鳴らされているが如く、騒ぐ鼓動が心を叩く。
タイオンから投げつけられたたった一言であんなに傷付いていたくせに、数日後贈られた別の一言でその傷はあっという間に塞がってしまう。
自分の単純さに気付きつつも、もはや誤魔化しようがない。
この未熟で稚拙な心は、“タイオン”という存在によって如何様にも色を変えてしまう。
情けないな、アタシらしくない。
そんなことを考えながら、ユーニは未だ高鳴っている心臓を服の上から抑えた。

何が“会いたい”だ。
あんなふうに突き放したくせに、ちょっと時間が経ったら今度は引き寄せようとするなんて勝手すぎる。
賢いはずなのに、言われた側がどんな気持ちになるか考えてないんだ。
そんなこと言われたら、こっちだって会いたくなるだろ。
心を搔き乱されると分かっていても、一時的な歓喜を手に入れたいがために衝動的に走ってしまう。

アタシ、馬鹿じゃん。


「ユーニ、いるか?」


ノック音と共に部屋の外から名前が呼ばれた。
声の主はゼオンである。
返事をすると、ゼオンは扉を開けてこちらを覗き込んでくる。
ベッドの上に胡坐をかきながら俯いているユーニを不審に思いながら、彼は本来の要件を彼女に告げようと口を開く。

 

「ユーニ、明日のことなんだが…」
「悪いゼオン。アタシ帰るわ」


顔を挙げたユーニは、苦笑いを浮かべながら肩をすくませた。
コロニー9に帰って来たばかりの頃は萎びれて見えた白く美しい羽根が芯を取り戻している。
ベッドから立ち上がり、荷物をまとめ始めるユーニに、ゼオンは目を白黒させていた。


「え?今からか?」
「流石に長く滞在しすぎちまったしな。それに、相方が寂しがってるみたいだから」


靴を履き、上着を羽織ったユーニは、ここ数日間で見たことが無いほど眩しい笑顔を見せている。
コロニー9に帰還したばかりの頃のユーニの表情は、明らかに暗かった。
何か問題を抱えていることは察していたが、あえて聞き出すようなことはしていない。
どんな問題なのかは想像もつかなかったのだが、今初めて気が付いた。
問題の原因を作ったのがタイオンで、そしてその問題とやらはタイオン本人による何かしらのアクションによって解決したのだろう、と。
ユーニの治癒能力はコロニー9にとってなくてはならないものだが、彼女を必要としている人間は他にもたくさんいる。その筆頭が、タイオンなのだろう。
帰る決断をしたユーニを前に、ゼオンは小さな笑みを零した。


「そういうことなら仕方ない。飛行型レウニスを一機出すから、それで帰るといい」
「おっ、流石ゼオン。太っ腹だな」


満面の笑みを浮かべながら、ユーニはゼオンの肩口を小突く。
ひらひらと手を振りながら部屋を後にするユーニの足取りは、来た時とは比べ物にならないほど軽やかだった。


***

組んだ足が無意識に揺れる。
先日ウェルウェルの店で購入したショウセツを開いてはいるものの、先ほどから1ページも進んではいなかった。
3分前に見たばかりであるにも関わらず、再度“瞳”の時刻を確認する。
そろそろ時間だ。
座っていたベンチから見える距離にあるシティーアステル港へ視線を向けてみるが、未だ飛空艇はやってこない。
嫌気がさすほど静かな港を横目に見つめながら、タイオンはため息をついた。

ユーニから“帰る”と連絡を受けた時、彼は沸き上がる喜びを隠しきれなかった。
2週間以上離れていたユーニに会える。その事実が、タイオンの胸を躍らせる。
コロニー9の飛行型レウニスによってアエティア地方からエルティア海へと渡ったのち、定期運航しているシティーの飛空艇に乗り換えるルートで帰って来る予定らしい。
事前に聞いていた到着時間よりも1時間以上前からアステル港近くのベンチで待っているタイオンのこの行動も、再びユーニに会える喜びからくるものだった。

まだか。飛空艇はまだ来ないのか。
まるで焦らされているかのようだ。
自然と組んだ足の揺れが早くなる。
すると、到着時間から5分ほど経過したところで、飛空艇のエンジン音が聞こえてきた。
即座に顔を上げると、ロストナンバーズの紋章が印字されている飛空艇がゆっくりと着陸し始めていた。
あぁ、やっと来た。
ショウセツを閉じてアステル港へと速足で向かうと、無事着陸した飛行艇のハッチが開き中から続々と人が出てくる。
その中に、彼女はいた。


「ユーニっ!」


思ったよりも大きな声が出てしまい、呼んだ本人であるタイオンは思わず口をきつく噤んだ。
アステル港に響き渡ったタイオンの声はユーニ本人にもしっかり聞こえており、彼女はすぐにタイオンの姿を見つけて駆け寄ってくる。
白い羽根を揺らしながら、明るい表情で駆け寄ってくるその姿に、静かだった心臓がどんどんうるさくなっていく。
1メテリずつ近くなっていく彼女との距離を目で測りながら、タイオンは息を呑んだ。


「よっ、タイオン。久しぶり」
「あぁ。うん、久しぶり」
「なになに?わざわざ迎えに来てくれたわけ?」
「いや、まぁ……。うん」
「珍しく気が利くな」
「“珍しく”は余計だ」
「あははっ」


軽快に笑うユーニの笑顔に、タイオンは安堵した。
よかった。いつも通り変わりなく話せている。
“瞳”を介さず直接話す彼女は、2週間前と同じ温度感でタイオンに接してくれていた。
だが、だからと言ってあの発言を無かったことには出来ない。
ずっとずっと言わねばと思っていた言葉を、彼はようやくユーニへ贈ることにした。


「ユーニ。あの、この前はごめん。あんなこと、言うべきじゃなかった」
「あぁ…。もういって。忘れることにする」


タイオンの肩を軽く叩いたユーニは、笑顔を見せながら彼の横を通り抜ける。
その背を追って、タイオンもユーニの隣を歩く。
向かう先はロストナンバーズの寄宿舎。ノアたちもそこでユーニの帰りを待っている。
並んで歩く2人の間には、ノポン1匹分の距離が開いている。
すぐに届く距離にはいるが、きちんと意志を持って相手に手を伸ばさなければ触れることはできない距離だ。
ゆっくりと歩きながら、タイオンは隣を歩くユーニの姿を何度か盗み見る。
前を向いている彼女の青い瞳は相変わらず綺麗で、見るたび心が締め付けられてしまう。

足を動かしながらも一切会話がない時間が1秒、また1秒と伸びるごとに、タイオンの焦りも加速する。
何か話した方がいいのだろう。けれど、何を話せばいい?
言いたいこと、伝えたいことは山ほどあったはずなのに、いざユーニを前にすると焦って何も言えなくなってしまう。
どんどん喉が渇いて、言葉が奪われていく。
どうしてユーニの前でだけ、こんなにたどたどしくなってしまうのだろう。未だにその答えは出ていなかった。


***

約2週間ぶりに帰還したユーニは、一向に熱く歓迎され出迎えられた。
久しぶりに6人全員が揃ったことで、夕食の席はいつも以上に盛り上がる。
寄宿舎近くの休息所にて鍋を囲み、マナナの作った料理に舌鼓を打つ。
コロニー9滞在中、もちもちイモばかり口にしていたユーニにとって、久方ぶりに食べるマナナの料理はいつも以上に美味に感じた。

幸福そうにマナナの料理を頬張るユーニとは対照的に、対角線上の席に座っているタイオンは不満げな表情を浮かべていた。
先ほどからユーニは他の仲間たちと喋ってばかりで、この食事の場が幕を開けてから自分は一度も彼女と会話できていないのだ。
せめて隣の席に座りたかったが、彼女の隣はミオやセナに奪われてしまっている。
久しぶりに直接会うユーニと話したいと思っているのは自分だけではない。
他の仲間たちも、彼女と話したい気持ちは大きいのだろう。
自分が入り込む隙もなく他の仲間たちとしゃべり続けるユーニを、タイオンはちらちらと視線を向けながら観察していた。

自分だって彼女と話したい。
ミオやセナたちはユーニがシティーを離れてからも毎日のように通信していたのだから別に今は話さなくたっていいだろ。少しはこっちに譲ってくれ。
自分から話しかけようにも、いい話題が見つからない。
話したいのに、話せない。
振り絞ろうにも勇気は一滴すら出てこない。
せっかくユーニが目の前にいるのに、一歩前に踏み出すことすら出来ずタイオンはずっとその場で足踏みをしていた。

夕食を終えた後、一同は自由に時間を過ごしていた。
ノアやランツは寄宿舎の談話室で雑談しており、部屋にはいない。
風呂から上がったばかりのタイオンは、濡れた頭をタオルで拭きながら自室である男子部屋へと向かっていた。
ぼうっとしながら廊下を歩いていた彼だったが、不意に床に落ちている小さな櫛を見つけて立ち止まる。
その櫛には見覚えがあった。ミオが普段使いしているものである。
恐らく落としたのだろう。女子部屋へ届けてやった方がいいかもしれない。
櫛を拾い上げたタイオンは、いったん誰もいない男子部屋に戻って髪を乾かし終えた後、櫛を持って女子部屋へと向かった。

女子部屋は男子部屋の正面に位置している。
閉ざされている扉をノックしてみると、中から小さな声で“はいはーい”と返事が聞こえてきた。
まもなくして扉が勢いよく開き、中にいた人物が顔を出す。
出てきたのはユーニだった。視界に映った白い羽根を見た瞬間、タイオンの心臓がこれでもかというほど跳ね上がる。
油断していた。ここはミオだけでなくユーニやセナ、マナナも共同で使っている部屋だ。
ユーニが出てくることくらいよく考えれば予想できることだったというのに。


「タイオン、どうした?」
「あっ、えっと、み、ミオの櫛が落ちてたから、届けに」


突然視界に飛び込んできたユーニに動揺し、タイオンの心拍数は上がっていく。
何とか平常心を取り戻そうとしても、必死で落ち着かせようとすればするほど落ち着きが失われてしまう。
もっと余裕ある態度で接したいのに、何故か彼女を前にするとどうにも自分が自分でいられなくなる。


「さっきセナと出かけちまったからアタシが届けとく」
「そうか。すまない」


差し出されたユーニの右手にミオの櫛を手渡した。
彼の用事はもう済んだ。
これ以上ここに滞在する意味はないのだが、このままユーニの前を立ち去るのはどうも惜しかった。


「セナもいないということは、一人なのか?」
「あぁ。まぁな」
「ふ、ふぅん」


だから何だと自分でも突っ込みたくなってしまうほど無意味な質問をしてしまった。
どうにも会話が続かない。
前までは普通に話せていたはずなのに、過去の自分がどんな空気感で彼女に接していたのか思い出せない。
ゆっくりと訪れた沈黙に、タイオンの焦りは高まっていく。
何でもいい。彼女と少しでも長くいられる口実はないものか。
賢い頭をフル回転させるタイオンだったが、いつもより頭が働かない。
黙ったまま視線を逸らし、何か話すわけでも立ち去るわけでもなくただただ突っ立っているタイオンの手を、ユーニは突然握って来た。
急に触れられた感触に肩が跳ね、元々早かったタイオンの鼓動はさらに早くなる。


「立ち話もなんだし、入れよ」
「えっ、いや、でもっ」
「何遠慮してんだよ。ほら」


女子部屋の扉を大きく開き、掴んでいるタイオンの手を引き寄せるユーニ。
自分のテリトリー内に招き入れようとしている彼女の行動に、タイオンが喜びを感じないわけがない。
遠慮と緊張感に支配されながらも、タイオンは生唾を飲みつつ頷いた。
“入れ”と言ったのはユーニの方だ。なら、断る方が失礼だろう。
別にこちらとしてはどっちでもいい。彼女が是非にと言っているから入るのであって、別にこっちが入れてほしいの懇願したわけではないのだ。仕方ない仕方ない。
そう心で呟きながらも、口元の綻びが隠せていなかった。

女子部屋の構造は基本的に男子部屋とほとんど同じである。
4つ並んだベッドのうち、一番手前のベッドを指さしながらユーニは座るよう促す。
促されるまま柔らかなベッドの上に遠慮がちに腰掛けるタイオン。
首に巻いているマフラーをほどき、ベッドの上に置く。
そんな彼のすぐ隣に、ユーニは全く遠慮せずに腰を下ろしてきた。
彼女が座ったことで僅かに沈むベッド。
すぐ隣に感じるユーニの気配に驚いて、タイオンはぎょっとする。
あまりにも距離が近く感じたのだ。


「な、なんで隣に座るんだ」
「なんでってここアタシのベッドだし」
「えっ」


ここがユーニのベッドだとは思っていなかったタイオンは盛大に動揺する。
彼女が眠っている場所に腰掛けているという事実にタイオンの体温は急激に上昇していく。
まずい、このままここに座っているのは精神衛生上非常にマズい。
急いで立ち上がろうとするタイオンだったが、再びユーニに手首をつかまれたことで引き留められる。


「いいよ別に。アタシ、ベッドの上座られても気にしないタイプだから」


いや僕が気にするんだが……。
心に浮かんだその一言は口には出せなかった。
渋々ユーニの隣に座り直すと、彼女はベッドの下に置いてあった彼女自身の荷物を漁りだす。
そして、その荷物の中から紙袋を取り出しにこやかに差し出してきた。


「はいこれ」
「なんだ、これは」
「持って帰るって約束しただろ?もちもちイモチップス」


紙袋を受け取り確認してみると、確かに中身はイモを薄くスライスして揚げた代物だった。
なるほど、これがユーニが通信で言っていたもちもちイモチップスか。
確かに美味そうだ。
紙袋に手を突っ込み試しに1枚食べてみると、パリッという小気味良い音が鳴り響く。
程よい塩味とイモの風味が口内に広がり、もう1枚、2枚と次々食べたくなってしまう。
確かにこれは噂通り癖になる味だ。
ユーニが絶賛するのも無理はない。


「うん、美味いな」
「だろ?アタシも食べよっと」


2人の手が、ほぼ同時に袋へと向かう。
紙袋の狭い入り口へと殺到した二つの手は、同時に入り込もうとしたことで触れ合ってしまう。
指先と指先がぶつかり合ったことで先に反応したのはタイオンの方だった。
無意識に、そして反射的に身体を固くして手を引っ込めてしまう。
焦って手を引いた瞬間、タイオンはハッとした。
思い出してしまったのだ。つい先日ユーニとの間に起きたいざこざは、タイオンが後ずさり距離を取ってしまったからこそ起きてしまったのだ。
その現象が、たった今再現されている。
 
しまった。また拒絶するようなことをしてしまった。
焦ってユーニへと視線を向けると、彼女は案の定驚いたような、それでいて戸惑ったような表情を浮かべていた。
その表情を見て、タイオンの焦りは一層強くなる。


「あっ、いや、すまない!今のは避けたわけじゃ…!」


冷や汗をかきながら必死で弁面するタイオン。
だが、過去に彼から“関わるな”とハッキリ言われてしまったことがあるユーニからしてみれば、ただの言い訳にしか聞こえない。
焦りを滲ませるタイオンの隣で、ユーニは海より深いため息を零しながら顔を逸らす。
そして、拳一つ分しか距離が空いていなかったタイオンからそっと離れる。
物理的に距離を取られたことに気付いたタイオンの胸に、焦りとはまた違う悲しみの感情が芽生えだす。


「なんかアタシ、タイオンのことがよく分かんねぇわ」
「え…?」
「“関わるな”とか言ってきたくせにガンガン通信してきて“会いたい”なんて言ってくるし、かと思ったらまた距離とろうとするし。アタシのこと揶揄ってんの?」
「ち、違う!前にも言ったが、君といると落ち着かなくなるだけで、別に揶揄ってるつもりなんて……」
「そもそも落ち着かないってなんだよ。それってアタシと一緒にいたくないってことじゃねぇの?」
「そんなわけ…」
「そうだろ!」


上擦った声でユーニが叫ぶ。
2人きりの広い女子部屋に、ユーニの声が響き渡り何も言えなくなってしまう。
言葉を失ってしまうタイオンに、隣に座ったままのユーニは身体ごと背中を向けてしまった。
まるで心も体も視線もそらされてしまっているかのよう。
戸惑うタイオンにとどめを刺すように、ユーニはかすれた声で呟いた。


「……アタシは、タイオンと一緒にいるとすごく安心するのに」


振り絞られたユーニの本音は、タイオンの心に突き刺さる。
彼女はいつだって素直で、こちらが喜ぶような言葉をいとも簡単に差し出してくれる。
臆病で卑屈な自分とは違う。
そんな彼女との間に最初に壁を作ったのは自分だ。
なら、その壁を壊すのも自分の役目なのだろう。
もう彼女から逃げ回るのも、目を逸らすのもやめだ。
無様でもかっこ悪くても、やってやる。

ユーニから広げられた物理的な距離を詰めるためぐっと近づくと、タイオンは突然彼女の手を取った。
突然のことに驚くユーニ。
見開かれた彼女の目を見つめながら、タイオンは握り込んだユーニの白い手を自らの胸に押し当てた。


「な、何!?」
「分かるか!? 僕の心臓の鼓動!」
「へ……?」


手のひらから伝わってくるタイオンの心臓は、服の上からでも分かるほどバクバクと高鳴っている。
視線を上げてみると、こちらをまっすぐ見つめているタイオンの顔は今までどの瞬間よりも真っ赤に染まっていた。


「君といるといつもこうなる。胸が締め付けられて心臓がうるさくなってどうにも落ち着かない!君と一緒にいたくないわけじゃない。むしろ逆だ。近付きたくて、話したくて……」
「タイ、オン…?」


ユーニの手を握っているタイオンの手から、どんどん力が抜けていく。
けれど相変わらず心臓はうるさく高鳴っていて、その鼓動の動きを皮膚から感じ取るたび、リンクするようにユーニの心臓も煩くなっていく。
耳まで赤くなっているタイオンは、ゆっくり俯き瞳を揺らしながら、声を絞り出すように囁いた。


「ユーニの前だと、緊張、するんだ……」


何を話しても、どんな行動をとっても、ユーニの前だとすべてがかっこつかないような気がする。
ユーニの言動にいちいち一喜一憂して、彼女に嫌われないよう一挙手一投足に気を遣う。
彼女の視線が、言葉が、表情が、すべてが気になって仕方ない。
ユーニに好かれたくて、少しでも良く思われたくて、体も心も固くなってしまうのだ。


「だ、だから、勘違いしないで欲しい。僕は、君が——」


ユーニの蒼く美しい瞳と視線がかち合った。
その瞬間、後に控えていたはずの言葉が喉につかえてしまい、何も言えなくなってしまう。
押し寄せる羞恥が、タイオンから思考力を奪う。
何も考えられなくなってしまったタイオンは、握り込んでいたユーニの手を離して立ち上がる。
そして、逃げるように女子部屋の出口へと駆け出した。


「えっ、ちょっ、タイオン!?」


ユーニの制止を聞き入れることなく、タイオンは逃げ出した。
一人きりになった部屋の中で、ユーニは脱力したように再びベッドに腰掛ける。


「なんで逃げんだよ、もう……」


羞恥に襲われていたのはタイオンだけではない。ユーニも同じくらい恥ずかしくて仕方がなかった。
タイオンに負けないくらい心臓がバクバクと騒いでいたし、きっと顔も嫌気がさすほど赤く染まっていただろう。
今の2人の心は、同じ形、同じ色をしているに違いない。
その事実を伝える言葉を知らないだけで、気持ちは同じなのだ。
その夜、ユーニはタイオンの心に触れられたような気がした。

くつろぐために後ろへ手を突くと、ベッドのシーツとは違う柔らかな感触が右手に触れる。
なんだろうと思い振り返ると、ベッドの上には橙色のマフラーが置かれていた。
おそらくタイオンが忘れていったものだろう。
届けた方がいいのだろうか。
迷いながらマフラーを抱え込んだユーニは、つい数分前までタイオンが身に着けていたそのマフラーに彼の温もりを感じてしまう。
なんとなく、特に深い考えもなくマフラーを抱きしめてみると、タイオンの柔らかい匂いがほんのり香って来た。
彼がいつも肌身離さず持っているハーブの香りが入り混じったこの匂いは、ユーニの昂った気分を落ち着かせてくれる。

あぁやばい。
アタシ、この匂いすごく好きだ。
めちゃくちゃ落ち着く。

マフラーを抱きしめながら、ユーニは自分のベッドに横たわる。
枕に頬を寄せながらマフラーをぎゅっと抱きしめると、なんとなくタイオンの匂いに包まれているような感覚に陥った。
まるで、彼に抱きしめられているようだ。
落ち着くのに、落ち着かない。
安心するのに、胸がドキドキする。
胸に渦巻くこの不思議な二律背反に戸惑いながら、ユーニはそっと目を閉じた。
長旅の疲れが溜まっていたのだろうか。なんだかすごく眠くなってきた。
重くなった瞼が再び開かれることはなく、ユーニはそのまま眠りの世界に堕ちていくのだった。


***

逃げるように駆け込んだ男子部屋には、未だランツとノアは戻っておらず、誰もいなかった。
真っ暗な部屋の中で扉に寄りかかるタイオンは、1人乱れた息を整えている。
まだ心臓が高鳴っている。息が苦しい。
ただユーニの手を握って自分の胸に押し当てただけなのに、何故かとんでもないことをしでかしてしまったように思える。
恥ずかしくて、嬉しくて、不思議な気持ちがタイオンの心を浮つかせる。
なんだかもう、小さくなって今すぐはじけ消えてしまいたい気分だ。

自分の胸に手を当てた瞬間、違和感に気が付いた。
マフラーがない。しまった。女子部屋に忘れてきてしまったらしい。
どうしよう。明日取りに行くか?いや、もしかするとユーニが忘れて言ったマフラーに気付いて届けに来るかもしれない。
突然来られてまた心臓が飛び出そうになったらたまったものではない。
だったら、いっそ自分のタイミングで取りに行った方がいいだろう。
逃げ出してしまった手前少々気まずいが、仕方ない。
意を決して男子部屋を出ると、タイオンは再び正面に位置している女子部屋へとノックした。


「……ユーニ、いるか?」


返事はない。
あれから数分しか経っていないはずだが、どこかへ出かけてしまったのだろうか。
一応“入るぞ?”と断りゆっくりと扉を開けると、ベッドの上で寝転んでいるユーニの姿が視界に入って来た。
近づいてよく見て見ると、彼女の腕の中にはタイオンのマフラーが収まっている。
自分のマフラーを抱きしめながら穏やかな表情で眠っているユーニを目に、タイオンは息を詰めた。

何故僕のマフラーをそんなに大事そうに抱えながら眠っているんだ?
彼女の行動の裏に潜む甘やかな感情を予感し、タイオンの心は歓喜する。
このまま放っておこうかとも思ったが、やはりマフラーは取り戻しておきたい。
ユーニに心の中で“すまない”と謝りつつ、彼女の腕の中に納まっているマフラーを引っ張ってみる。
だが、思ったよりも固く抱きしめているらしく、何度引っ張ってもユーニの腕からマフラーを引き抜くことは出来なかった。
あぁまずい。ユーニの腕をどかさない限り引っ張り出せそうにない。

タイオンは仕方なくユーニの腕を優しくつかむと、ゆっくり、起こさないよう持ち上げる。
その隙にマフラーを引っ張り出すことに成功した。
抱え込んでいたマフラーが無くなったことで、ユーニの胸元が露になる。
横向きに眠っていた彼女の豊満な胸は重力に従い、右側に寄っている。
そのせいで、いつもよりも谷間が強調されてしまっていた。
薄手のインナーから覗くその妖艶な谷間を目にした瞬間、タイオンはまずいものを見てしまったような気がして即座に目を逸らす。

異性の胸元など、今まで数えきれないほど目にしてきた。
だが、相手がユーニであるというだけで特別感を感じてしまう。
自然と目が行ってしまいそうになるところを懸命に抑え、蹴り飛ばされていた薄手の掛布団をユーニの身体にそっとかける。
そして、ようやく取り戻したマフラーを手にタイオンは静かに部屋を出た。

再び一人きりの男子部屋に戻ると、タイオンはマフラーを手に自分のベッドに力なく腰掛けた。
なんだか今日は疲れた。
ユーニが帰って来たその瞬間から、感情が津波のように激しく寄せては返すを繰り返している。
距離がうまく詰められず悔しい思いをしたすぐ後には、彼女の言葉に喜びを感じて舞い上がっている。
心の色が目まぐるしく変わっていくことに疲労感を覚えつつも、どこか充実感も得ていた。

今日はもう寝てしまおう。
そう思い、手元で丸くなっているマフラーを畳むため膝の上で広げた瞬間、嗅ぎ慣れない匂いがふわりと香って来た。
何だこの匂いは。
不思議に思いマフラーに顔を近づけてみると、どうやらその匂いはこのマフラーからしているらしい。
それに気づいた瞬間、大人しくなりかけていた心臓がまた自己主張を始める。
この匂いはきっと、ユーニの匂いだ。

このマフラーを抱きしめて眠っていたせいで、彼女の匂いがこのマフラーに僅かに移ったのだろう。
胸がぎゅうっと締め付けられる。
息が苦しくなって、顔に熱がこもる。
マフラーに顔を埋めてみると、ほんの僅かしか香ってこなかったユーニの香りがダイレクトに鼻腔をくすぐった。
シャンプーや石鹸のような、清潔感を感じるいい匂いだ。嗅いでいると、心がふわふわと浮き上がっていく。
ずっとこの匂いを抱いていたい。まるで、ユーニの身体を抱きしめているようだ。


「——っ、はぁ……」


この匂い、たまらない。
体の芯が熱くなって、奥から何かがじわじわとせり上がってくる感覚に襲われる。
命一杯息を吸い込んでユーニの香りを体内に取り込んだ後、タイオンは思わず自分が取っている行動の異常さに気付き思わず嘲笑した。
こんなことをしているとユーニに知られたら、きっと気持ち悪がられるだろうな。
絶対に知られたくない。けれど、ユーニの匂いを抱いていたいという気持ち悪い欲求は弱まることを知らなかった。
結局その夜、タイオンはノア達が部屋に帰って来るまでずっと自分のマフラーを抱いていた。
そのマフラーに沁み込んだユーニの気配を抱きしめるかのように。


***

 

“ドルークの調整が最終フェーズに突入したので手伝ってほしい”
コロニー30軍務長、ルディからそう通信を貰ったのは2日ほど前のこと。
サモンが建造している“究極の船”とやらの完成が間近に迫ったこの状況で、やり残しがないか仲間たちと最終確認していた際の出来事だった。
ルディが開発を進めていた“戦わないレウニス”は、6人のウロボロスたちが目指すべき世界を体現したかのような存在である。
その完成に力を貸さない理由はなかった。

コロニー30に到着して早々、一行はルディや副官のユゼットににこやかな笑みを向けられながら馬車馬のように働かされた。
主に資材の運搬やエーテルシリンダーの確保、そして素材の収集などが彼らに与えられた任務である。
ルディの言う“手伝い”がこんなにきついものだと知っていたら、きっと適当な理由をつけてコロニー30訪問を断っていたことだろう。
集めたエーテルシリンダーをテーブルに並べながら、タイオンはそんなことを考えていた。

コロニーに到着して4時間ほどが経過し、外を照らしている太陽が傾き始めた頃。
タイオンはルディにとある仕事を頼まれた。
コロニー30が所有している倉庫から、空のエーテルシリンダーを数本取りに行ってほしいという内容である。
倉庫はコロニーから徒歩30分ほどの距離にあり、かつてルディが作った自立式小型レウニス、メカトモのパーツを取りに行ったこともある場所だった。
倉庫から調達してきて欲しいエーテルシリンダーは10本。
一人で持って帰るには難し本数である。
 
ノアとランツは資材運搬を手伝っており、ミオとセナは素材調達のために出かけている。
リクはコロニーのノポンたちと一緒にドルークの溶接作業を担当しているし、マナナは野外食堂の方へと駆り出されている。
となると一緒に行ってくれそうなのは、つい先ほどパーツの納品作業を終えたばかりで手が空いているユーニだけだった。

正直、彼女と二人で仕事に当たるのは避けたかった。
理由は簡単。ユーニと一緒にいると緊張して仕方がないからである。
理由はいまだ不明だが、ユーニを前にすると無条件で心臓が跳ねあがり、視線が泳ぎ、顔に熱が籠ってしまう。
タイオンのそんな症状を本人から聞いたばかりであるユーニは、たどたどしく“付き合ってくれ”と誘ってくるタイオンに口元を綻ばせた。
 
明らかに面白がっている。
ニヤつきながら“アタシでいいわけ?”と聞いてくるユーニに、タイオンは真っ赤になりながら半ばやけくそ気味に“君しかいないだろ”と言い放つ。
かくして、タイオンとユーニのお使いが始まった。
空のエーテルシリンダーを回収するだけの、片道30分、往復1時間だけの旅になるはずだった。
だが、予期せぬハプニングは突然訪れてしまう。

倉庫に向かうまでの30分間、タイオンは一度もユーニと目を合わせられなかった。
彼女は楽しそうにずっと話を振ってくれていたが、隣を歩くタイオンは平静を装うことに神経を集中しすぎて返事が上の空になってしまう。
ユーニが何を言っても“あぁ”か“そうだな”しか返せない自分自身に、彼は苛立っていた。
もっと優しくにこやかに振舞うことはできないのか。
ユーニに好かれたいという気持ちが大きくなればなるほど、彼は緊張で態度を固くしてしまう。

だが、当のユーニはタイオンのそんな不器用な態度をまったく気にしていなかった。
以前は彼が何を考えているか分からず不安に駆られたこともあったが、先日勢いに任せて本心を吐露してくれたおかげで、ある程度タイオンの心境を読み取ることが出来ている。
ぶっきらぼうなのは緊張しているから。
言葉数が少ないのは話したい本心の裏返し。
誰よりも賢く優秀なくせに、誰よりも不器用なタイオンの本質を、ユーニはきちんと理解しているのだ。
歩み寄るユーニと、顔を逸らしながらも喜んでいるタイオン。
2人の歯車は、少しずつ互いのリズムを理解しながら嚙み合いつつあった。

30分間の散歩ののち、2人は目的地である倉庫に到着した。
イグーナが根城にしている洞窟の入り口付近に設置されている倉庫はシャッター式の扉が設置してある。
古くなって少々錆びついているそのシャッターを、2人は声を合わせて下から上へと持ち上げた。
開け放たれたシャッターをくぐり、倉庫内に入って目的のものを探す。
 
倉庫は予想よりもずっと狭く、物もそう多くは収納されていなかったため、空のエーテルシリンダーはいとも容易く見つかった。
さてコロニー30へ戻ろうと立ち上がった瞬間、2人の背後で“ガラガラガラっ”と派手な音が鳴り響く。
振り返ると、先ほど開けたままにしておいたはずのシャッターが閉まりきっていた。
固定しておいたはずなのに閉まってしまったのは、恐らくこのシャッターが古くなっているせいだろう。
 
仕方ない。もう一度開けようとタイオンがしゃがみ込んでシャッターと地面の隙間に指を差し込んでみたが、何故か持ち上がらない。
先ほどは簡単に開けることが出来たシャッターが、固くてびくともしないのだ。
そんなはずはない。今度は2人で同時に声を合わせながら持ち上げてみるが、やはり先ほどとは比べ物にならないくらいシャッターは重く閉ざされてしまっていた。

嫌な予感が2人の脳裏によぎる。
焦りを滲ませながらタイオンはシャッター上部を覗き込んでみる。
どうやらこの倉庫は何十年もメンテナンスされていないらしく、シャッター上部が錆びつきどうしようもないほど劣化していた。
持ち上がらなかったのは、恐らくこの錆が原因である。


「もしかしてアタシたち、閉じ込められた?」


認めたくはなかったが、ユーニの言う通りだった。
倉庫内を見渡してみても、出入りできそうなのはこのシャッターだけ。
壁に小さな格子窓はついているものの、格子を外したとしても、あの隙間を通り抜けられるのはノポンくらいだろう。
このシャッターをどうにかしない限りは、ここからの脱出は不可能と言えた。


「全くルディの奴、軍務長なら倉庫のメンテナンスくらいしておいてくれ……」
「文句言っても仕方ねぇだろ。こうなったらこのシャッターぶっ壊して脱出するしかねぇな」
「あぁ。ルディには悪いが破壊するしか方法は——」


腕を組み考え込んでいたタイオンの視界に、とんでもない物が飛び込んできた。
棚に並んだ複数のエーテルシリンダー。
こちらは2人が回収する予定だったものとは違い、しっかり中身が入っている。
まずい。こんなところでブレイドを使ったら、何かの拍子にシリンダー内のエーテルが発火して爆発するかもしれない。
一瞬で危機感を覚えたタイオンは、ガンロットを構え今にもエーテル弾を発射させようとしているユーニの手を抑えた。


「ユーニ、待った!中身が入ったエーテルシリンダーが大量に積んである。あれが発火したらお陀仏だぞ」
「うえっ、マジかよ……」


タイオンからの警告に肝を冷やしたユーニは、すぐに手に持ったガンロットを納めた。
どうやら力技でシャッターを破壊するのは悪手だったようだ。
かと言って、2人の腕力ではこのシャッターはどう頑張っても空きそうにない。
インタリンクして殴るという方法もあるが、この狭さではインタリンクしたところで身動きが取れなくなるだろう。
2人が取れる手段はただ一つ。
外部に連絡を入れて、外側から開けてもらうことだけだった。

“瞳”を起動させたタイオンは、2人に空のエーテルシリンダーの回収を命じた張本人であるルディへ通信をかけた。
ルディがすぐに反応してくれたのは2人にとって僥倖である。
“はいはーい?”と明るく応答したルディの声に安堵すると、タイオンは速やかに状況を説明した。


≪あららぁ、それは大変だねぇ≫
「“大変だねぇ”じゃねぇよ全く!軍務長なら倉庫のメンテくらい定期的にしとけっての!」
≪ごめんごめん!待ってて、すぐにレウニスで迎えに行くよ≫


そう言って、ルディは通信を切った。倉庫内に再び静寂が訪れる。
レウニスで迎えに来るということは、遅くとも20分ほどで到着するだろう。
それまでは、この狭い空間でユーニと二人きりということになる。
あぁ、とんでもないことになった。
頭を抱えるタイオンを視界に入れながら、ユーニは倉庫の壁に寄りかかった。


「まさか閉じ込められるとはな」
「あぁ。大人しく待つしかないだろう」
「だな。けど大丈夫かよ、お前」
「何がだ」
「アタシといると緊張するんだろ?」


ユーニからの一撃に、タイオンはぐっと息を詰めた。
顔を真っ赤にしながらユーニを見つめると、彼女は案の定悪戯な笑みを浮かべながらこちらを見つめている。
揶揄われていることに羞恥心を感じながらも、タイオンは平静を装うために眼鏡を押し上げ、腕を組みつつ顔を逸らした。


「し、仕方ないだろ。ルディたちが迎えに来てくれるまでは我慢するしかない」
「とか言って、ホントはアタシと二人きりなの嬉しいんだろ~?」
「な、何を言って…!」
「なぁなぁ、今も緊張してる?どうなんだよタイオン」
「や、やめろ、揶揄うな」


顔を覗き込みながらニヤニヤと笑みを向けてくるユーニの態度に、タイオンの焦りは加速する。
やっぱり馬鹿正直に“君といると緊張する”なんて言わなければよかった。
こんな風に揶揄われることは目に見えていたというのに。
人差し指でツンツンと腕をつつきながら問いかけてくるユーニ。
そんな彼女の揶揄うような視線から逃れるように、タイオンはそっぽを向いた。

倉庫の奥に揃って腰掛け、ルディが寄越す予定の迎えを待っていた2人だったが、20分、30分と経過しても一向にやって来る気配がない。
コロニー30からこの倉庫まではそれなりに距離があるが、レウニスで迎えに来ると言っていたわけだし、そこまで時間がかかるとも思えない。
何かあったのだろうか。少々心配になってきた頃合いで、コロニー30の兵士からタイオンへと“瞳”に通信が入った。


「……そうか、分かった」


通信してきたのは、ルディから迎えを頼まれたコロニー30のレウニス操縦士だった。
2名でレウニスに乗り込み、この倉庫へと向かっていたのだが、途中でヴォルフの群れと遭遇してしまったという。
レウニスに乗っていたとはいえ、運搬用のもので戦闘に特化しているモデルではないため、数十頭のヴォルフ相手に相当苦戦したらしい。
 
なんとかヴォルフたちを退ける事には成功したが、2名中1名が戦闘で足を負傷。さらにレウニスのエンジン部分が破損するという二次災害が発生してしまった。
このままではタイオンやユーニが待つ倉庫に迎えに行くことなど出来ないと判断した操縦士は、いったんコロニー30へと引き返すこととなった。
連絡をしてきたのは、操縦士がようやくコロニー30に到着したタイミングでのことである。

これからレウニスを修理し、負傷兵を手当てしてから新しい人員と一緒に迎えに行くことになるため、あと1時間はかかるだろう。
そう報告を受け、タイオンは肩を落とした。
事情が事情だ。仕方ない。
そもそもシャッターの劣化に気付かず無防備に中へ入ってしまった自分たちにも責任はある。
“色々とすまない。よろしく頼む”と最後に告げ、タイオンは通信を切った。

隣に座っているユーニが、通信を切ったと同時にこちらを見上げて来る。
通信の内容を気にしているのだろう。それを察して“1時間ほどかかるそうだ”と伝えると、彼女は微妙そうな顔をして“そっか”と呟いた。
胡坐をかいていた彼女が、両膝を抱えるようにして座り直す。
自らの膝を抱くユーニは、自分の腕をすりすりと擦りながら摩擦熱に頼り始めていた。
外は既に陽が沈み、夜が訪れようとしている。
洞窟の入り口に位置しているこの倉庫は、夜になると気温が大幅に下がってしまう。
身体を縮こませて丸くなるユーニを横目に見つめながら、タイオンは問いかける。


「……寒いのか?」
「ちょっとな」


ユーニの手は、指先が少しだけ赤らんでいた。
寒がりな彼女のことだ。きっと“ちょっと”どころではないのだろう。
だが、薪や発火装置は近くにない。
一番手っ取り早く暖を取れる方法は、肌と肌でぬくもりを渡しあうことだ。
ほんの少しでもユーニの寒さを和らげるため、タイオンは恐る恐るユーニの赤らんだ手に自らの褐色の手を重ねた。
自分のものに比べて温かいタイオンの手が触れた瞬間、ユーニは驚いて視線を上げる。
そこには、真っ赤な顔を逸らして視線を泳がせるタイオンの姿があった。


「体は末端から冷えていくという。手を温めておけば体が冷えることはないだろう」


逸らされる顔、泳ぐ視線。
羞恥心を押し殺している彼の表情とは裏腹に、タイオンの指は細くしなやかなユーニの指に絡む。
手のひらと手のひらが重なり合い、なるべく広い面積で触れ合っていたいというタイオンの気持ちが伝わってくる。
力強く握られている手に視線を落とし、ユーニは口元を綻ばせた。


「素直に手繋ぎたいって言えばよくね?」
「べ、別にそんなこと思ってない!僕は君のためを思って親切心からしているだけだ!」
「顔、赤いけど?」


にやつくユーニの指摘に、タイオンの顔は一層赤く染まる。
少しでも寒さを和らげるためとは言ったが、確かにユーニの言う通り下心はあった。
触れたい、近づきたい。タイオンの心を支配しているそんな欲求は、時を重ねるごとにどんどん強くなっていく。
指の一本でも構わない。ユーニの肌や髪、羽根に触れられるなら、理由なんて何だってよかった。
ユーニの前では、“親切で優しいタイオン”でいたい。
この愚かな下心に気付かれたら、きっと嫌がられてしまう。
だから、なるべくこの下心は表に晒したくはなかった。
どうやら隠しきれてはいないようだが。


「い、いちいち揶揄わないでくれ。こっちも一杯いっぱいなんだ…」
「ごめんごめん。でも、おかげでちょっとあったかい」


ユーニのかすれた声は、狭い倉庫内に穏やかに響いた。
彼女の指が、きゅっとタイオンの手を握り返す。
そんな些細な反応でさえ、受け入れてもらえたようで心が躍る。
心が、心臓が、まるでユーニの手によって掴まれているかのようだった。
彼女の行動、言葉一つでこの心は如何様にもなってしまう。
心がユーニに人質に取られているみたいだ。

暫く沈黙を貫いていると、隣で手を握っていたユーニが囁くように“たいおん”と名前を呼んでくる。
目線だけ隣に向けながら“なんだ?”と問いかけると、彼女は繋がれていない反対側の手で口元を押さえながら大きなあくびを零した。


「なんか、眠くなってきた」
「なら寝ればいい」
「寒い中寝ると、死ぬって教導で……」
「それは極寒の地での話だろ。ここは大丈夫だ。それに、僕が起きているから、安心してくれ」


隣で、ふっとユーニが笑う気配がした。
そして、ふわふわとした口調で彼女は言う。“優しいな”と。

優しい、か。
出会ったばかりの頃は、ユーニそんなことを言われる未来が来るとは夢にも思っていなかった。
あの頃の2人はぶつかり合ってばかりで、磁石の対極のように反発していた。
価値観も生き方も違う2人は、背中合わせで全く別の方向を向いている。
だが、あれから約3か月の時が経った今、ユーニとタイオンは同じ方向を向いているどころか、互いに向き合えるようになった。
ユーニから向けられる視線が、言葉が、行動が、タイオンにとっては何よりも温かく感じられる。
いつの間にか、こんなに距離を詰めていたのか。

引いていた線を簡単に飛び越え、閉ざしていた心の扉も容易に空けてしまったユーニ。
そんな彼女を、タイオンはいつのからか隣に留めておきたいと思うようになってしまった。
いつかこんな気持ちを抱くことになるのではないかと不安だった。
誰かに固執すれば、別れがつらくなる。
遠ざかるユーニという存在に胸を痛める未来が予測できないほど、タイオンは愚かではない。

アグヌスの女王、ニアは言っていた。
元々このアイオニオンは二つの別の世界だったと。
それがあるべき姿であり、互いの未来が還る場所なのだと。
彼女の説明はひどく曖昧で抽象的だった。
だが、人よりも理解力があるタイオンには何となく察しがついてしまう。
ゼットを斃し、世界をあるべき姿に戻すというこの目的の先には、避けられない別れが待っているのだと。
 
仲間たちは誰もそのことについて触れようとしない。
もしかしたら気付いていないだけなのかもしれないが、少なくともタイオンはその瞬間が来るまで別れの話はしないつもりだった。
口にすれば、固い決意が揺らいでしまうかもしれない。
永遠の今を求めたエヌに共感してしまうかもしれない。
ウロボロスの力を持つ者として、それだけは絶対に避けなければならなかった。

今までは1人としていなかったケヴェスの知り合いが、この3か月間の旅で数えきれないほど増えてしまった。
コロニー9や30、4や11の兵士たち。
各コロニーの軍務長や副官、そしてノアにランツ、ユーニ。
彼らと会えなくなる。考えただけで、心が痛かった。
誰とも親しくなろうとしなかったかつての自分なら、何も思わなかったかもしれない。
けれど、今のタイオンは違う。
彼らと友情を育んでしまった。別れを惜いと思ってしまうほど、親しくなってしまった。
今更後悔してももう遅いのだろう。道は決まっている。あとは突き進むしかない。

ノアはタイオンにとって、価値観を共有できる初めての友人だった。
長くおくりびととして多くの命を見送って来た彼は、他の兵たちよりもこの世界についてより深く考えている。
彼との哲学的な議論の時間は有意義だし、楽しい。
ノアの言葉には共感を抱くことも多い。こんなに広い世界で、ここまで似通った価値観を持つ相手がいたのかと驚かせれた。
彼との別れを想像すると、寂しくなる。

ランツはタイオンにとって、笑いながら軽口を叩ける唯一の友人だった。
短絡的で物事を深く考えないことが多い彼は、タイオンとは真逆の性格をしている。
だが、それでも仲間としてやっていけたのは、彼のさっぱりとしたあの性格のおかげなのだろう。
ランツの言葉や行動に、思わず声を挙げて笑ってしまったことも多い。
下手な距離の測り合いなどせず、軽口を言い合えるランツとの時間は充実していた。
彼との別れを想像すると、やはり寂しくなる。

そしてユーニはタイオンにとって——。

……僕にとってのユーニは……。

視界の端で、ユーニの白い羽根がこくりと動いた。
反射的に目を向けると、そこにはいつの間にか眠りに落ち頭をこくりこくりと揺らしているユーニの姿が視界に入って来る。
何度か頭を揺らした後、ユーニはタイオンとは反対側へ頭をもたげようとしていた。
そっちには固いコンテナが積み上げられている。
寄りかかったら頭をぶつけて痛い思いをするだろう。
 
繋いでいた手を離し、とっさに彼女の頭を支えて引き寄せた。
ユーニの重心が、ゆっくりとタイオンに寄りかかって来る。
固いコンテナに寄りかかるよりは、自分の肩に寄りかかったほうが居心地がいいだろう。
そう判断し、タイオンはユーニの頭を抱き寄せた。

彼女の白い羽根が首筋に当たって、少しだけくすぐったい。
タイオンの肩に乗るユーニの頭が少しだけ重い。この重みを感じるだけで、小さな喜びを感じてしまう。
もっと、もっと寄りかかって欲しい。
自分がいなければ立っていられないほど、体重をかけて縋ってくれても構わない。
 
ユーニの頭に添えた手で、優しくその頭を撫でた。
滑るように髪を撫で、そして愛でる。
彼女の蒼く美しい瞳に見つめられるとどうにも落ち着かなくなるが、こうして目を閉じている間なら惜しみなく見つめることが出来る。
瞼を閉じている彼女の睫毛は長く生えそろっていて、ユーニが規則正しく寝息を立てるたびに僅かに震えている。
口は小さく開いていて、柔らかな唇がユーニの白い肌に彩りを添えていた。

綺麗な顔だ。端正で、美しくて、そして可愛い。
顔だけじゃない。彼女は心だって美しい。
彼女に笑いかけられ、名前を呼ばれ、見つめられたら、誰だってみんな心を奪われてしまう。
ユーニはきっと、この手の中に留めておけるほどの存在ではないのだろう。
掴もうとすればするりと指の間からすり抜けて、遠くへ行ってしまう。
せめて眠っている間くらい、この手の中に捕まえておきたい。

頭を撫でていたタイオンの手が、するすると下へ降りて来る。
ユーニの白い頬に手を添え、優しく撫でる。
すべすべとした感触を手のひらで味わいながら、タイオンは親指でユーニの唇に触れた。
 
以前、シティーで聞いたことがある。
唇を合わせるスキンシップは、特別な関係を築いた相手としかしないのだと。
この可憐な唇に、自分の唇を重ね合わせたら、一体どうなるのだろう。
好奇心と欲望が、タイオンの背中を蹴り上げる。
ゆっくり慎重に、息を殺しながらユーニの顔に自らの顔を近づける。
心臓が今までにないほどうるさく高鳴っている。口を通してこの鼓動がユーニに聞こえてしまうのではないかと心配になってしまう。
 
やがて、2人の唇がそっと重なる。眠っているユーニに対して、一方的で卑怯なキスだった。
はじめて人と唇を合わせるタイオンには、これが正しいやり方なのかも分からない。
だがそんなキスでも、タイオンの心は簡単に舞い上がってしまう。
互いの息が混ざり合って、まるで彼女と一つになれたかのようだ。
インタリンクする時とは違う高揚感が今、タイオンを支配している。

キスって、こんなに気持ちいいのか。

そっと唇を離す。相変わらずユーニは眠ったままで、瞼は堅く閉じ、規則正しい寝息は一切乱れていなかった。
唇を離したばかりだというのに、またすぐに一つになりたくなる。
離れたくない。もう少しだけ繋がっていたい。
ユーニの頬に添えられた手とは反対側の手で、投げ出された彼女の手を握り直す。
指を絡めながら再び唇を重ねると、また心が躍る。


「ユーニ……」


恐らく、彼女の柔らかなこの唇に触れた男はこの世界で自分一人だけなのだろう。
そう思うと、嬉しくて仕方なかった。
もっと欲しい。ユーニが欲しい。
もう少しだけ、本当にあと少しでいいから、ユーニという存在を味わっていたい。
唇を重ね、離し、押し付け、離し、絡め、離し。その繰り返しだった。
何度その柔らかさを味わっても満足できない。
脳裏で赤いサイレンが鳴り響いているにも関わらず、欲望は加速するばかりでブレーキがきかない。

ユーニ、ユーニ、ユーニ。
心で彼女の名前を呼ぶたび、身体を支配する熱がどんどん温度を上げて、なにも考えられなくなる。
思考がとろける。体が熱くてたまらない。
もっと近づきたくて、隣に座っているユーニとの物理的距離感を詰めたその時だった。
身体の中心が熱を孕んで、いつもは柔らかな急所が芯を持ち始めていることに気が付いた。
自らの身体に突然訪れたその変化に、タイオンは戸惑う。
そして思い出してしまった。シティーの医師から教えられたこの変化の正体を。

人には2つの欲求がある。食欲と睡眠欲だ。
だが、シティーの者に言わせれば人間は3つ目の欲求を持っているという。
それが、性欲。
子を成すための行為は快感が伴う。本来は生きとし生ける生物が本能的に行う行為であって、性欲という欲があるからこそ人は子を成すことが出来るのだ。
空腹を感じれば腹が鳴り、眠くなればあくびが出るように、性欲も高まれば体に何かしらの変化が起きる。
まさにその変化こそが、今タイオンの身に起きている症状なのだ。
ユーニが欲しいという強い欲求は、性欲に直結していた。
自分の身体に起きた異様な変化を冷静に脳内で分析し、そして答えにたどり着く。

僕は今、ユーニに欲情している。


「っ、」


咄嗟に手を離し、ユーニから距離を取る。
今までにない速度でユーニから遠ざかったことで、重心をかけて寄りかかっていた彼女の身体は倉庫の冷たい床に虚しくぶつかった。


「いったァ……」


床に倒れ込んだことで、ユーニは頭を床にぶつけてしまう。
激痛に顔を歪めながら、今まで眠っていた彼女は目を覚ます。
ぶつけた頭を抑えながらゆっくり起き上がると、ぼやける視界にタイオンの姿が映る。
すぐ近くで寄り添いながら座っていた彼が、何故か2メテリほど離れた場所に腰掛けている。
なぜそんなに急に遠ざかったのだろう。
眠気眼を擦りながら、ユーニはあくびを零しつつ問いかける。


「ふあぁ……。なに?なんでそんな遠くにいんの?」
「い、いや、別に……」
「つーか寒っ。迎えまだかよー……」


呑気にストレッチを始めているユーニは、少し離れた場所に座っているタイオンの変化に気付いていない。
当然、眠っていた間に自分が何をされていたのかも知るわけがない。
何も知らないユーニの様子を横目で伺いながら、タイオンは首元のマフラーをほどき乱暴に丸めて自分の膝の上にかけた。
そのうえで、揃えた膝を両手で抱え込む。
未だ熱が冷めないその場所を隠すための行為だったが、こんなに寒いのにわざわざマフラーを外したタイオンの行動はユーニの目には不審に映った。


「なんでマフラー外すの?寒くね?」
「いや、う、うん。ちょっと、あ、暑くなって」
「ふぅん」


特に追及することなく、ユーニはタイオンから目を離す。
ユーニに劣情を抱いた事実に、タイオンは罪悪感にも似た感情を抱いていた。
この欲求を抱いたということはつまり、ユーニと子供を作りたいと、“そういうこと”をしたいと思ってしまったということだ。 
そんなつもりなかったのに。そんなこと、少しも考えていなかったのに。
 
いや、本当にそうか?
そんな邪な考え、一切なかったと言い切れるか?
触れたい、近付きたいと願い、実際夢中になって唇を貪っていた。
一見遠慮がちなこの欲求の終着点は、きっと“そこ”だ。
それが生物としての本能だというのなら、自分は今、ユーニという異性を激しく求めている。
きわめて野性的で、理性のかけらもない欲求が自分の中に生まれつつあるという事実に、タイオンは恐ろしくなった。

何をしているんだ僕は。
眠っているユーニに一方的に唇を押し付けて、あまつさえこんな浅ましく汚らしい欲を抱くなんて。
なんて卑怯なんだ。卑劣だ。狡猾だ。滑稽だ。
ユーニを前にすると途端に馬鹿になる自分自身が嫌で仕方ない。

こんな欲求を抱いているとユーニに知られたら、どう思われるだろう。
気持ち悪いと思われるだろうか。きっとそうに違いない。
だめだ。絶対に表に出しちゃいけない。
嫌われたくない。もう二度と距離を取られたくない。
自分を律そうと必死になる一方で、走り出し始めた欲望がどんどんスピードを上げている事実に、タイオンは気付きつつあった。
きっともう、今更気付いても手遅れなのだろう。

 

雨はふたりを隠すように

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