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二次創作まとめ

【前編】僕たちはまだ恋を知らない

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■ゲーム本編時間軸

■長編

心の檻


アグヌスの兵として生を受けたタイオンは、生まれながらにして頭の回転が速かった。
自分の頭脳が周囲よりも優れていると気付いたのは比較的早い段階である。
訓練生だった頃には既に自覚があったのかもしれない。
体力にはあまり自信がなかったが、出された課題を誰よりも早く解くことは出来た。
戦争は腕だけでは勝てない。敵を篭絡させ、手のひらで転がすほどの智謀も貴重な戦力となる。
だが、それほどの知将は一世代に多くは生まれない。
 
知は才能であり、ひらめきはセンスである。筋トレや模擬戦で努力を積み重ねれば、ブレイドを振るう腕は鍛えられるだろうが、愚直な努力だけでは知力は養われない。
そういう意味では、タイオンの人並み外れた知力とひらめき力はアグヌスにとって貴重と言えた。
2期を迎えた頃には、既にタイオンは“次世代の星”と称されるほどに期待を寄せられていた。
その期待が、アイオニオンを牛耳る執政官たちにとって都合のいい、“ただの駒”としての期待だったのだと知ったのは、これから数年の後のことである。

訓練を終えたタイオンが3期で配属されたのは、ペンテラス地方の大瀑布に鉄巨神を構えるコロニーラムダだった。
ランクは黒鉄。つい先日軍務長が成人の儀を迎えたため、新たな人材が軍務長の座に就いたばかりのコロニーだった。
配属部署は地形局作戦立案課。
なかなか希望の部隊への配属が叶うことが無い現状で、上から大いに期待されているタイオンは希望通りの配属結果となった。
 
上官に当たるのは“ナミ”という名の女性だった。
作戦立案課の仕事は、主に戦闘面での戦略を練り上げることにある。
前時代的な言い方をすれば“軍師”と称される者たちの集まりだ。
敵を惑わせ、策謀を巡らせ罠を仕掛ける軍師は、客観的に見て性格に難ありなものが多い。
所謂“いい人”では成り立たないポジションであるため当然と言えば当然ではあるが、このコロニーラムダの作戦立案課に所属する面々も例に漏れず癖が強い。
 
そんな部署を束ねる作戦立案課課長、ナミは、軍師を名乗るには随分と柔らかな雰囲気を纏っている。
穏やかな微笑みを絶やさず、一見謀略や策謀とは縁遠い見た目の彼女は、今まで出会ってきた誰よりも軍師として優秀だった。
そんな彼女にタイオンが強い憧れを抱くまでに、そう時間はかからなかった。

ナミは当時、随分と変わったブレイドを使っていた。
“モンド”と呼ばれるカタシロを自在に操り、敵の力を削いでいく自立型ブレイドである。
搦め手で敵の首を絞めるような戦い方はまさに策士の戦術。
元々使っていたブレイドを捨て、ナミと同じブレイドを使い始めたのも、彼女に憧れていたが故の選択だった。
当のナミも、自分がタイオンに大いに慕われている自覚があったのだろう。
後輩として、そして一人の部下として、彼女はタイオンに大きな期待を寄せていた。
当然、ナミを片腕として傍らに置いていた軍務長、イスルギも同じである。

まだ期を重ねていないタイオンは鉄巨神同士がぶつかり合う大規模な戦闘の指揮を執る機会には恵まれなかった。
しかし、出来るだけタイオンに多くの経験をさせたがっていたナミは、小規模な小競り合いの際は積極的にタイオンに指揮を任せていた。
彼の未だ青さの残る戦略によって味方が勝利するたび、ナミはまるで自分のことのように喜んでくれる。
その反応が嬉しくて、タイオンはとにかく研鑽を積んだ。
自分に期待を寄せてくれるナミのため。信頼してくれているイスルギのため。そしてコロニーの仲間たちのために。

黒鉄のランクを拝命していた当時のラムダは、近辺に鉄巨神を構えていたコロニー13と火花を散らしていた。
その日も、インヴィディア坑道にて潜伏しているコロニー13の尖兵たちを殲滅するため、ナミはタイオンに献策するよう指示を飛ばした。
慎重な性格であるタイオンは、やはりその性格と同じく慎重な策を好む。
大胆不敵とは程遠い策ではあるが、人死にを最小限に抑える安心安定の策。それがタイオンにとっての最善だった。
だが、そんな“慎重さの塊”のような策を是としない者も少なくはない。
ラムダの戦闘部隊で最も力のある隊長も、その一人だった。

当時のラムダは、長く続くコロニー13との戦闘で酷く疲弊していた。
火時計に溜まった命の残量も残り僅かとなり、兵たちに焦りの色が滲んでいる。
一刻も早く命を大量に刈り取らなければならない。そんな空気がコロニー内を支配していた状況で、タイオンの慎重過ぎるとも言える策は受け入れられなかった。

“臆病”と言い放った隊長に食って掛かったのは完全に失敗だった。
軍師はいついかなる時にも冷静沈着であるべし。そんなナミからの教えに背くように、タイオンは怒りを露わにした。
昔から激しやすい性格だという自覚はあった。感情をむき出しにしてもいいことはない。冷静さを失うだけだ。
だが、コロニーのためを思って懸命に考え抜いた策を“臆病”と一蹴されることだけは耐え難かった。
 
戦略の“せ”の字も知らないくせに。これだから頭を使わない連中は嫌いだ。考えて生きている人間の邪魔にしかならない。
だが、そんな相手でもラムダにとっては貴重な戦力であり、タイオンにとっても大事な仲間だ。
実際に前線で戦うのは戦闘部隊の者たちであって、彼らが否と言えばそれに従うしかない。
命の残量が少なくなったこの状況で、慎重さより攻撃性を重視したくなる気持ちも分からなくはない。
だから、タイオンは妥協した。
安全さより確実さ重視して、より多くの命を刈り取れる尖った策を採用したのだ。
その選択が最善だと信じて。


***

「君たちには未来がある。成人となるその日まで、どうか生き延びて」


あの日ナミから受け取った言葉は、タイオンの脳裏に張り付いて消えようとしない。
眠るたびあの日の光景が夢となって瞼の裏に蘇り、背中に汗が伝っていく。
イスルギは“お前のせいじゃない”と言ってくれたが、本心だとは思えなかった。

僕のせいじゃない?
僕のせいだろ。どう考えても。

敗因となったあの策を提示したのはタイオンだ。
もっとマトモな策を考えていれば、コロニー13の特殊戦法の餌食になることもなく、味方を大量に失うこともなかった。ナミを死なせることもなかった。
この頭で考えた策が、ナミを殺したのだ。
 
満身創痍でコロニーに戻った後、イスルギは血相を変えてナミの姿を探していた。
戦死した事実を知ると、この世の終わりのような表情を浮かべて力なくその場に座り込んでいた。
イスルギのあんな顔は今までに一度だって見たことがない。
暫くすると、彼は戦闘から帰還した兵たちを一人ひとりねぎらい“無事でよかった”と微笑んでいた。
あの人は優しい。ナミが死んで一番苦しい思いをしているはずなのに、軍務長としての務めを気丈に果たそうとしている。
タイオンのことも大いに気にかけてはくれていたが、その気遣いに素直に寄りかかれる精神状態ではなかった。
軍務長に恨まれているのかもしれない。そう思うと、イスルギの顔をまっすぐ見つめることが出来なかった。

相変わらず眠れぬ夜は続いた。
その日もナミが死ぬ悪夢を見て目が覚めたタイオンは、額に冷や汗をかきながら寝所を抜け出した。
顔を洗いたい。水場に向かおうと天幕の外に出た瞬間、天幕の影で話しているであろう何者かの声が聞こえてくる。
恐らくは見回りの兵たちだろう。


「まさかコロニー13があんな戦法を使ってくるとはな」
「あぁ。戦死者はツイてなかったな。作戦立案課のナミさんも死んだんだろ?」
「らしいぜ?今回の策もあの人が考えたのかな」
「いや、部下が考えたらしい。何て名前だったかな……」
「ナミさんが考えたんじゃねぇのか。可哀そうだな、無能な部下の的外れな策で死んじまうだなんて」
「だな。あんな死に方、ナミさんも浮かばれねぇよ」
「イスルギ軍務長、辛いだろうなぁ。優しいから俺らの前では気丈に振舞ってるけどさ」
「ナミさんのことすげぇ信頼してたもんな。ほんと、誰だか知らないけど策考えた奴腹立つよな」
「ナミさんが死ぬくらいなら、そいつが死ねばよかったのに」


ラムダの者たちは皆優しい。タイオンの事情をよく知る者たちは一様に同情のまなざしを向けてくれたが、さして親しくない者が抱く素直な感想としては至極当然のものだった。
同情の向こう側にある鋭い言葉の刃は、タイオンの胸を深くえぐる。
己のせいだという自覚があるからこそ、余計に心が死ぬ思いだった。
胃の裏側から吐き気がやってくる。真っ白になった頭のまま水場に急ぐと、到着したと同時に嘔吐した。


「うっ……おぇっ、ぐ……っ」


岩場から漏れ出る湧き水のすぐそばに手を突き、体の膿を出し切るかのように嗚咽する。
しかし、吐くものがなにも無くなっても嘔吐感は消えなかった。
この不調が精神的な不調からくるものだということは、タイオン自身よく分かっている。
息は乱れ、冷や汗が額を伝っていく。いつの間にか手足は震えていて、目じりには生理的な涙が溜まっていた。
 
何故ナミは死んでしまったのか。自分が失敗したからだ。
何故ナミが死ななければならなかったのか。自分が不甲斐なかったからだ。
天幕の裏手でコソコソ話していた兵士たちの言う通り、死ぬべきはナミではなく自分の方だった。
彼女は“未来がある”なんて言ってこの懐中時計を自分に託していったが、貴女を死なせてしまったこの僕にどんな未来があるというのか。
あんなに期待してくれていたのに。あんなに良くしてもらっていたのに。恩を仇で返すような死を贈ってしまった。
 
逃げ出したい。こんな辛く哀しい現実から逃げ出して、消えてしまいたい。
自分がこのアイオニオンから消え失せれば、ナミは、イスルギは、コロニーのみんなは許してくれるだろうか。
もう、疲れた。何も考えたくない。

腰元に刺した真剣の脇差は、狩ったモンスターの肉や薬草を裁断するときに使っていたものだ。
脇差に手を伸ばし、鞘から抜き取って手首に当てる。
人体の構造は、人の命を奪う上で最も重要な情報であるため何度も教本で読み返し覚えている。
この手首を切れば簡単に死ねるということもよく知っていた。
 
負の感情の渦の中で思考を繰り返した末にたどり着いた答えは、“自死”だった。
自分さえいなければきっと世界はうまく回るはず。自分が死ぬことで責任を取ればみんな許してくれるはず。
ナミという大きな命の代償を、自分という小さな命1つで払えるなら安いものだ。
喜んで死を受け入れてやる。
どうせ自分がこの世から居なくなったところで、泣いてくれる人なんてひとりもいないのだから。

だが、そんな心とは裏腹に手は震えていた。
この期に及んで自分はまだ死が怖いらしい。
生き続けることも辛い。死ぬのも怖い。ならどうしたらいい?
自分の弱さ、滑稽さ、身勝手さに失望しながら、タイオンは脇差を地面に落とした。


「くそ……っ、くそ……っ」


自分はもっと強い人間だと思っていた。
自分自身という存在に自信もあった。
だが、積み上がった自信という名の積み木は、ナミの命と一緒に崩れ落ちてしまった。
残ったのは、人が死ぬことへの恐怖と嫌悪だけ。
 
数日後、タイオンはイスルギに転属届を提出した。
止められはしたものの、残る気にはなれないかった。
もう、コロニーラムダにはいられない。
転属先として決まったコロニーガンマは、ラムダが鉄巨神を構えるペンテラス地方から遠く離れた場所に位置している。
もう二度と、ラムダに来ることもなければイスルギに会うこともないだろう。
遠く離れたコロニーへの転属は、イスルギとラムダに負い目を感じていたタイオンにとって都合がよかった。


***

コロニーガンマは、アエティア地方の北西に位置している比較的小規模なコロニーだった。
指揮を執っているのは、教導官と兼任している軍務長、シドウ。
彼はタイオンの事情をおおむねイスルギから伝え聞いてたらしく、妙な時期に転属してきた彼を黙って受け入れてくれた。
 
だが、転属時期でもないのに遠くのコロニーからやって来たタイオンに、ガンマの兵たちは首をかしげていた。
きっと先属のコロニーで問題を起こして飛ばされたに違いない。
遠巻きに噂してくる者たちは多かったが、タイオンに直接事情を尋ねて来るものは1人とていなかった。
タイオン自身がガンマの者たちとあえて距離を置いていたせいかもしれない。
誰かと関わりを持ったところで、戦場に生きている以上必ずどちらかが先に死ぬ。
行きつく先が死別なら、親しくなるだけ無駄だ。心を寄せるだけ無駄だ。
だから誰にも心を開かない。本心を見せない。感情を出さない。
たとえ嫌われたとしてもそれでいい。慕っている相手が死ぬ瞬間を見るのはもう嫌だった。

コロニーガンマが鉄巨神を構えているメルナス山道の付近には、味方であるアグヌスのコロニーシグマ以外にもコロニー9が展開している。
かのコロニーは現在コロニーシグマと膠着状態にあるが、斥候部隊と衝突することも間々ある。
その日、ガンマの採集班が平原まで薬草を採りに行った道中コロニー9の戦闘部隊と遭遇し、あえなく撤退に追い込まれた。
戦闘に特化している敵の部隊に対し、こちらは前線で戦う機会が少ない採集班。結果は誰の目にも明らかである。
 
負傷者5名。死者は2人。被害をたったこれだけで抑えられたのが奇跡とも言える。
息絶えた2名の骸は、生きて戻った採集班の同胞たちによって抱えられ、ガンマへと運び込まれた。
コロニーの中央に丁重に横たえられた2名の骸を、ガンマの兵たちが囲んでいる。
変わり果てた仲間たちの姿に、兵たちは皆一様に涙を流していた。
そんな中、すすり泣く兵たちの間をかき分けて骸へと近づく人物が1人。おくりびとのミオである。
 
横たわる2名の仲間に視線を落とし目を細めると、彼女は手に持っていた横笛に息を吹き込んだ。
優し気な旋律がコロニーガンマ内に響き渡り、同時に2名の骸から美しい命の粒子が舞い上がる。
その光景を目にしながら、ガンマの仲間たちは再び泣き出した。
特に同じ採集班だった者たちの悲しみようは尋常ではなく、互いに身を寄せ合いながら慟哭している。
そんな彼らの姿を横目に見ながら、タイオンはその場を去ろうと背を向け歩き出す。


「おい待てよ」


その場を去ろうとするタイオンの肩を掴んで止めたのは、戦闘班の男だった。名前は知らない。
真っすぐこちらを見つめる目は怒りを孕ませていた。


「お前、仲間が死んだってのに悼みもしないのか」


この男は随分と仲間思いらしい。
涙で目を赤くした彼は、やり場のない怒りを冷淡に背を向けようとしているタイオンに向けていた。
怒りを向けられることには慣れている。
だが、今更そんな軽蔑の目に怯むほど軟な生き方はしていられなかった。


「敵のレベルを見誤った彼らの自業自得だ」
「なんだとテメェ!」
「毎日のように死んでいく味方をいちいち悼んでいる暇はない。そういうのはおくりびとの仕事だ」


横笛の旋律を奏で続けるミオを一瞥すると、肩を掴んだ男の手を振り払いタイオンは再び背を向けた。
足早にその場を去っていくタイオンの背に、ガンマの兵たちは“冷たい人”、“酷い奴だ”と口々に言葉の矢を浴びせていく。
その言葉たちにいちいち反論する気にもなれず、彼は野外食堂の席に座って足を組んだ。
そんな光景を、ミオは旋律を奏でながら横目で観察していた。
 
自分とほぼ同時期にガンマへと転属してきた作戦立案課の兵、タイオン。
ガンマの兵全員に向けてシドウが彼を紹介したときから、その瞳の奥に宿る悲しみの存在にミオは気付いてた。
あれは、大切な誰かを目の前で失った人の目だ。自分自身もそうだからよく分かる。
思いを託され、命を託され、目の前で犠牲になっていく大切な命に悔い、懺悔し続けている目だ。
人を遠ざけようとしているその態度も引っ掛かる。
何もかも諦めたように周囲から一線を引き、傷つかないように壁を作っているようにしか見えないタイオンを、ミオは密かに案じていた。

2名の死者をおくり終えたミオは、散開する兵たちの間を抜けて野外食堂へと足を向ける。
席はいくつも空いているというのに、タイオンの周りだけは誰も座っていなかった。
誰も寄せ付けない雰囲気を纏う彼の見えない結界を踏み越えて、ミオは彼の正面の席に座る。
明るく人に優しい彼女は、ガンマに転属してきたばかりであるにも関わらず周囲の仲間たちに慕われている。
そんなミオが、はみ出し者のタイオンに接近している光景は異様に見えたらしく、周囲の仲間たちが様子を伺うようにチラチラと視線を向けてきた。
一方正面に腰掛けられたタイオンは、一瞬だけミオに視線を向けるとすぐに食事を再開してしまう。


「あんな言い方ないんじゃない?もう少し人の心に寄り添う言い方をしなくちゃ、嫌われるよ?」


それは親切心からくる忠告だった。
戦争はチームワークだ。天地人という言葉があるように、天の時、地の利、そして人の和がなければ戦に勝利することはできない。
人の和を重んじるのであれば、タイオンの態度は明らかに不適切だ。
不和を招くような態度のままでは、いいことなど何もない。
だが、当のタイオンはミオの忠告など聞く耳も持たないらしく、目を合わせることなく手元に広げた手帳へと視線を落としたまま口を開いた。


「だったらなんだ。別に誰に嫌われようと構わない。人に好かれるために生きているわけじゃない」


タイオンの言葉は冷たく、一見冷酷に聞こえる。
だが、ミオは知っている。その言葉の裏に隠れたタイオンの本心に。
彼が手元で開いている手帳は、ガンマに転属してきて以降ずっと彼が肌身離さず持っている代物だ。
仲間内の誰かが死ぬたび、彼は他の同胞が涙を流している横でずっとその手帳と睨み合っている。
仲間の死を悼みもしない冷酷な人間なのかとミオも最初は思ったが、その手帳の中をたった一度盗み見たことでその考えは変わった。
手帳に記されていたのは、今まで死んでいった仲間たちの名前と死因。
震える筆圧と、手帳に沁み込んだ涙の跡を見れば、タイオンの考えなど一発で分かってしまう。
今も彼が熱心に見つめている手帳へと視線を落とすと、ミオは柔らかく笑みを浮かべた。


「それ、ガンマに来た時からずっとつけてるよね」
「同じ轍を踏まないためにデータをつけているだけだ」
「それって、人の死を無駄にしないようにするためでしょ?二度と同じ犠牲を出さないために。仲間を守るために」


ミオの言葉に目を丸くしたタイオンが顔を上げる。
こうしてタイオンと真正面から目が合うのは初めてだった。
哀しみの深い色をしていると思ったが、意外にも彼の瞳は綺麗な褐色をしていた。
ミオの柔い微笑みが、タイオンの隠された本心を照らし出す。
ガンマに来て以降、線を引いているにも関わらず何度も声をかけてくるこのミオというおくりびとが苦手だった。
境界線を軽く踏み越えて、寄り添うように微笑む柔らかな顔が、ナミと重なってしまうのだ。
そんな目を向けられたら、期待に応えたくなってしまう。
だったら嫌われた方がましだった。
期待に応えられないと確信した瞬間の辛さは、もう二度と味わいたくなかったから。


「……いいように解釈しすぎだ。僕はそんなに優しい人間じゃない」


皿の上に盛られた料理を完食すると、タイオンはまるで逃げるようにその場を立ち去った。
残されたミオは、引き留めることなくタイオンの背中を見送る。
彼が過去にどんな痛みをその心に負ったのかはわからない。
けれど、人に好かれたくない、本心を隠していたいと思うほどに辛い出来事があったのだろうということは想像できる。
悲しみと痛みによって凝り固まってしまった彼の心は、どうすれば溶かせるのだろうか。
かつて自分に命の重さを教えてくれた、今は亡き親友なら、もっとうまく彼と距離を縮められたのかもしれない。
去っていくタイオンの背中を見つめながら、ミオは目を細めた。


***


アエティア地方最北端に位置している荒野。不二ヶ原。
樹木の一本も生えていないこの地は、古からいくつものコロニーがぶつかり合い、命の炎を燃やしてきた。
鉄巨神同士がぶつかり合う大規模な戦闘は、不意打ちで始まることの方が珍しい。
どちらかが宣戦布告をしたのち、互いに相応しい戦場へ鉄巨神を進撃させ、睨み合った状態で戦争の火蓋が切って落とされるのだ。
コロニーシグマとの膠着状態が長く続いたコロニー9は、来たる大規模戦闘に向けての準備を着々と進めていた。
ノアをはじめとする特務小隊がコロニーを離れ、この不二ヶ原に下見に来たのもその準備の一環である。

恐らくあと一カ月もしないうちに、この場所で自分たちはコロニーシグマと戦うことになる。
戦場をあらかじめ視察しておくことで、どの方向から敵を攻めるか、どのレウニスを動員させるかを決めるのだ。
相変わらず不二ヶ原は右も左も殺風景で、一面荒れ果てた大地が広がっているだけである。
シグマの兵たちと戦う遠くない未来を思い描きながら、歩みを進めるユーニは背筋を伸ばした。


「やっぱりなんもねぇな」


隣を歩くランツが呟く。
そんな彼の言葉に“あぁ”と賛同しつつ、前方へと視線を向ける。
前を歩くノアは、ひとつに結んだ黒髪をそよ風になびかせながら周囲を見渡していた。
彼の隣を並んで歩くのは、1期上のムンバ。彼の刻印に“赤”はほとんど残っておらず、約1か月後に成人の儀を迎える予定である。
シグマとの戦いを生き延びることが出来れば、彼は無事成人の儀を迎えることが出来るだろう。
特務小隊にヒーラーとして所属しているユーニの役割は、おくりびとであるノアを守ること。
コロニーに少数しかいないおくりびとは貴重な存在であり、何より守るべき相手である。
 
だが、同じく特務小隊の一員であるムンバの“最期の時”が迫った今、ユーニの中での優先事項がノアからムンバに移り変わり始めていた。
アイオニオンに生きる人間として、10期を迎え成人の儀を受けることは最大の名誉である。
命を削り、駆け抜けるように生きた10年間が、その瞬間報われるのだ。
成人の儀を迎えるその日まで、ムンバには生きていてほしい。そんな気持ちを持っていたのはユーニだけではない。
前を歩くノアも、隣を歩くランツも、その気持ちは同じである。
ムンバを守りたいという気持ちは3人の神経を研ぎ澄まし、かすかな違和感すらも見逃さない。
数十メテリ先の視界の端に動く人影をいち早く見つけたのはノアだった。


「危ないっ!」


踵を返したノアが、ユーニの身体に飛び込んできた。
突然押し倒されたと思った瞬間エーテル弾がノアの腕をかする。
ブレイドによる遠方からの射撃を受けを、即座にランツが大剣を構えノアとユーニを庇うように前に出る。
そんなランツの影から、ムンバはエーテル弾が飛んできた方向に向かって射撃を開始した。


「大丈夫か?ユーニ」
「ノアこそ」
「俺のはかすり傷だ。それより……」


エーテル弾が飛んできている方向とは別の角度から複数の兵が接近してくる。
白い兵装を見に纏っているその人影は、明らかにアグヌスの少数部隊だった。
倒れ込むユーニを片手で起き上がらせながら、ノアはブレイドを出現させる。
真っ赤な剣は突進して来ている兵の装甲を砕き、一瞬にして命を奪った。
前衛で剣を振るうノアの背後で、ガンロット構えたユーニがエーテル弾を発射する。
狙いすまされた一発は美しい弾道を描き、迫りくるもう一人のアグヌス兵を沈黙させた。


「くそっ、こんなところで会敵するなんて……!」


中越しにランツの苦い声が聞こえてくる。
敵との遭遇を想定していなかったわけではなかったが、できれば今はぶつかり合いたくはなかった。
だが、ケヴェスとアグヌスが出会えば、このアイオニオンではどんな状況であろうとも戦が始まる。
命の奪い合いをやめるという選択肢は、今の彼らにはない。
やがて、背中合わせで戦っていた4人の脇腹を突くように、遠方から白い影が空気を切り裂くように飛んできた。
エーテル弾でもない、ブレイドの刃でもないその白い塊は、まっすぐムンバに向かって突き進む。
寸前で気配を察知したムンバは身体をひねらせなんとか直撃は避けたものの、迫りくる“白”は彼の肩を容赦なく痛めつけた。


「ぐあっ!」
「ムンバ!」


ムンバの悲痛な叫びに焦ったランツは、彼の前へと躍り出て大剣を構える。
ランツの大剣に隠れながら、飛び回る“白”を操っている一人の兵士に向けてユーニはエーテル弾を放った。
だが、彼が自在に操る“白”は壁のようにユーニのエーテル弾を阻んでしまう。
自らが放ったエーテル弾が脆くもはじけ飛ぶさまを見つめ、ユーニは命の火時計が浮かんでいる青い瞳を見開いた。


「なんだあれ……紙?」


それは見たこともないブレイドだった。
剣でもない、槍でもない、銃でもないその“白”は、繰り手である兵士の周囲をぐるぐる回っている。
ヘッドアーマーをつけているため、兵士の顔は見えない。
岩場の上から4人を見下ろしているその兵は、近くに展開している味方のアグヌス兵に何やらハンドサインで指示を飛ばすと即座に後退を始めた。


「なっ……待ちやがれ!」


後を追おうとするランツの腕を掴んで引き留めたのはノアだった。
自分たちの目的は敵の殲滅ではない。
戦闘を想定した物資を持ってきていないこの状況で深追いするのは危険だ。
ノアの冷静な言葉に、熱くなり切っていたランツの頭は沈静化する。
 
周囲を見渡すと、先ほどノアが斬りつけた敵の骸が転がっていた。少し離れたところには、ユーニが討ち取った兵の骸も横たわっている。
反対側でムンバが撃ち抜いた敵兵の数も合わせると、実に3名分の命を獲得することが出来た。
軽傷は負ったものの、これだけ収穫があれば十分だろう。
肩を抑えて腰を下ろしているムンバに歩み寄ったユーニは、ガンロットを地面に突き刺して治癒アーツを展開した。
翡翠色のエーテル光が舞い上がり、ムンバの傷を癒していく。
傷口が塞がったムンバからの礼の言葉に微笑み返すと、ユーニはノアやランツと共に周囲を見渡し始めた。
どうやら、もう敵は完全に撤退したらしい。


「さっきの、シグマの兵かな?」
「いや。多分違うな」


ユーニの問いに答えたノアが、先ほど命を奪った骸に歩み寄り膝を折る。
すっかり黒く石化した骸が身に着けているアーマーの胸元には、名前と所属コロニーが刻まれている認識票がある。
認識票に刻まれていたのは“コロニーガンマ”の文字。
コロニー9のすぐ近くに鉄巨神を前ているアグヌスのコロニーである。


「ガンマの兵だ。目的は俺たちと一緒だろうな」
「戦場の見回りと投下物資の回収か」
「ガンマって、すぐそこのコロニーだよな?やっぱシグマと戦って勝った後はそことやることになんのかね」
「多分な」


コロニーシグマとの戦闘に重点を置いている今のコロニー9は、ガンマの情報をあまり持っていない。
一方でガンマは現在ケヴェスのどのコロニーとも戦闘状態に入っておらず、情報収集に力を入れている。
シグマと戦った後は確実にガンマとの戦闘になるのだろう。
それを分かっていて、ガンマは斥候を頻繁に出してコロニー9の出方を探っているのだ。
恐らく、先ほどの隊もコロニー9に対する諜報部隊だったのだろう。


「それまでには成人しているといいんだがな」


ムンバのそんな呟きは、その場にいた全員の耳に届いていた。
彼が成人の儀を迎えるためには、来たるシグマとの戦争で生き抜かなければならない。
生き残るよりも死ぬ方が容易なこの世界では、人はあっけないほどすぐに死んでいく。
例え生まれたばかりの1期兵であっても、数日後に成人の儀を迎えるはずの10期兵であっても、死は残酷なほど平等に訪れるのだ。
 
ノアもランツもユーニも、その事実をよく知っている。
たった数秒のうちに一つの命が消えゆくさまを目の前で見たことがある3人は、ムンバに対して同じ感情を抱いていた。
死んでほしくない。何が何でも生きてほしい、と。
その心情をいち早く口に出したのは、ランツだった。


「安心しろムンバ。お前さんは俺が守ってやるから」
「あぁ。だからシグマでの戦闘ではあんまり無茶すんなよ?」
「おいおい。2人が守るべきはノアだろ?」
「そうだけど、ムンバも絶対守る。そんで、絶対に成人の儀受けさせてやる」


ランツとユーニから向けられるまっすぐな言葉に、ムンバは目を細めて“ありがとう”と呟いた。
ノアがコロニー9で正式におくりびとに任命されたその日から、4人は特務小隊の一員としてずっと一緒にやって来た。
多くの戦を経験し、幾度となく互いの背中を守り合ってきた。
まさに運命共同体と言っても過言ではない4人のうち、最も年長であるムンバがあと1カ月と少しでこの世からいなくなる。
その事実は喜ばしくもあり切なくもあった。
もうすぐ会えなくなるのか。そんな寂しさを感じつつも、ユーニは口に出すことがなかった。
めでたい成人の儀を前に、水を差すことを言いたくなかったのだ。

ムンバたちのやり取りを横目で見ていたノアは、穏やかな笑みを浮かべていた。
そして骸のそばから立ち上がると、懐から黒い横笛を取り出す。
おくりびとが笛を取り出してすることはただ一つ。
これから彼がしようとしていることを察したユーニとランツは、互いに顔を見合わせながら肩をすくませた。

やがて、ノアの優しい旋律が響き渡る。
その美しい旋律に呼応するように、アグヌス兵の骸から命の粒子が立ち上り始めた。
ノアととランツとは、訓練兵時代からの腐れ縁だった。
これほど長く一緒にいれば、知らないことの方が少ない。
辛苦を共にしてきた彼らだが、ノアに関してはどうしても理解しがたい部分がいくつかあった。
この行動もそのうちの一つだ。
 
味方は勿論のこと、敵であってもおくろうとする彼の姿勢は何度目にしても首をかしげたくなってしまう。
アグヌスは敵だ。命を奪うべき憎き相手だ。
なのに、死んだアグヌス兵たちまでも弔おうとするなんて。
“優しいからだ”と結論付ければそれまでだが、敵に向ける優しさなど不要なのではないかと思ってしまう。
アグヌスの紋章を掲げている兵たちに、今まで何度も仲間を殺されてきた。
ユーニにとって“3人目の友人”でもある“彼”も、元を辿ればアグヌスにコロニーが襲撃されたことで命を落としている。
こんな奴らをおくったこところで、分かり合えるわけがないのだ。

アグヌスの骸を前に美しい旋律を奏で続けるノア。
そんな彼の後ろ姿を見つめながら、ユーニは腕を組んだ。
止めたって無駄だ。ノアはこういう奴だ。
底知れぬ彼の優しさが、どうにも危うく見えるときがある。
だからこそ、自分やランツのような人間がすぐそばで見ていなくてはいけないのだ。
自分たち以上にノアを分かってやれる人間なんて、きっとこのアイオニオンにはいない。
そして同時に、自分のことを理解してくれる人間も彼らを置いて他にはいない。
当時のユーニは、そんなことを考えていた。


「ノアは優しいよな、相変わらず」
「お人好しって言うんだよ、あぁいうのは」


ムンバの言葉に、ユーニはぴしゃりと言い放った。
そんなやり取りを耳にしていながらも、ノアが旋律を止めることはなかった。


***


強力なエーテル源が検出されたという報告が上がったのは早朝のことだった。
軍務長であるシドウの招集にて、エーテル源の破壊が告げられる。
各隊配置を告げられる中、タイオンが任されたのはおくりびとの護衛だった。
彼が護衛する対象はミオ。共に彼女の護衛を任された面々は、同期であるセナとハクトの2人である。
作戦立案課に所属しているタイオンは、普段前線で戦うことは滅多にない。
だが、今回は特殊な任務ということもあり後衛の部隊にも出動要請が出たのだ。

ガンマに転属して以降、タイオンは相変わらず仲間と一線を引いていたのだが、あれから3年以上が経過し、コロニー内の面々も半分近くが入れ替わった。
後輩と呼べる存在も増え、叡智に優れたタイオンに尊敬のまなざしを向ける者も増えている。
転属したばかりの頃に比べて、タイオンを取り巻く人間関係は本人の意思とは関係なく好転していた。
その要因として挙げられるのはミオの存在である。

境界線を引いているタイオンにミオは何度も根気強く声をかけ続けた。
当初は迷惑がっていたタイオンだったが、彼女の優しさに絆され始めていたのもまた事実。
コロニーの後輩たちに慕われているミオの存在が潤滑油となり、タイオンはいつの間にかコロニーガンマに欠かせない戦術士として名を馳せていた。


「タイオン」


“瞳”の上で目的地へのルートを確認していた彼に、背後から歩み寄ってきたミオが声をかける。
振り返った先にいた彼女は、既におくりびとの装束に着替えていた。


「私、これが最後の実戦になると思うから、頼りにしてるね」


視線をわずかに下に向けると、彼女の首元に刻まれた刻印にはすでに“赤”薄くなっていた。
10期後半を迎えた彼女の残り時間は、既に4カ月を切っている。
夜を迎えるたび、ミオが日記を開き一日、また一日と印をつけていることをタイオンは知っていた。
日記に視線を落とす彼女の目が、どこか愁いを帯びていることも気付いている。
 
彼女に残された時間はあまりにも少ない。
首に刻まれた刻印を指先で撫でるミオの姿を視界に入れるたび、タイオンは彼女にナミの姿を重ねていた。
当時ナミも10期で、成人の儀を間近に控えていた。
志半ばで命を奪われた彼女の無念はいかほどのものだったのか、自分には想像することしか出来ない。
だが、ミオにはナミと同じ結末をたどって欲しくはなかった。
成人の儀を迎えるその日までミオを守り、死なせないことがナミへの贖罪になるような気がする。
自己満足でしかないことは分かっている。ミオを守ったところで、ナミやイスルギが自分を許してくれるとは思えない。
それでも、もう目の前で親しい誰かが死ぬ光景は見たくなかった。


「あぁ。君は僕は必ず生きてコロニーに帰す」


命に代えても。
口に出すことのない覚悟を胸に秘め、タイオンは微笑んだ。
きっとこの実戦が終われば、暫く大きな戦闘は起きないだろう。
今日を無事乗り越えることが出来れば、ミオは成人の儀まで安穏と生き延びることが出来る。
これから起きる壮絶な運命の行く末など知る由もないタイオンは、今日を生き延びる事だけを考えてコロニーガンマを後にするのだった。


***

戦い続けていれば、いつか報われると信じていた。
たった10年の命は、他人の命を消費しながら激しく燃え上がり、そしておくりびとの旋律と共に女王の元へと還っていく。
最期の日に名誉ある死を賜るため、人は生きる。
それはアイオニオンでは当然の理であり、ユーニもそんな常識の上に横たわっている人間の一人であった。
だがあの夜、彼女の世界は変わった。

ただの対象物破壊という簡単な任務だと思っていた。
けれど、たった一夜で自分たちは多くのものを失った。
仲間、立場、コロニー。そして命の火時計。
180度変わってしまった世界に一緒に立っているのはノアとランツ。そして敵であったアグヌスの兵士3人であった。
ゲルニカと名乗った謎の男によって与えられた力の名は“ウロボロス”。
その力の全容はまだ分からないが、ケヴェスとアグヌスの力を融合させる強力な力だということだけは分かった。
憎しみ合う他なかった相反する二つの生き様が混じり合うことで、強大な敵に立ち向かえるという。

命の灯が消える前に、ゲルニカは苦しみながら言っていた。
長く生きたいのであればシティーを目指せと。
お前たちはもう敵ではない。運命共同体なのだと。
にわかには信じられなかった。10年の生が最大だと思っていた命の長さが、5倍6倍にも伸びるということも。そして、長らく憎み続けてきたアグヌスの連中と運命共同体であるということも。

だが、もはやコロニー9には戻れない。
今まで通りの生き方など出来るわけもない自分たちは、目の前にいる3人のアグヌス兵と手を結び、このアイオニオンを駆け抜けるしかないのだ。
感情的なランツはともかく、ノアは相変わらず順応が早かった。
同じくおくりびとの役割を持っているミオと早々にインタリンクした彼は、既に彼女と親し気に話している。
 
共にシティーを目指すという目的が定まったその日の夜。一行は初めて一緒に野宿をすることになった。
焚火を囲み、各々好きな時間を過ごす中で、ノアとミオは隣同士に座りながら何やら話し込んでいる。
少し離れた場所で筋トレに勤しんでいるランツは一見いつも通りに見えるが、すぐ近くで同じように腕立てをしているセナの様子をちらちらと伺っていた。
簡易テーブルに腰掛けていたユーニは、そんな仲間たちから視線を外し、斜めの席に座っているタイオンへと目を向ける。

ミオやセナは敵ながらとっつきやすく、自己紹介の時点から印象はよかった。
元々敵とは言え、ケヴェス、アグヌスの称号を捨て去った今ならきっと親しくなれるだろう。
だが、問題はこの男だ。見るからに頭の硬そうな彼は、初めて会った時から鼻について仕方がなかった。
あの二人はともかく、彼と親しくなれるビジョンが思い描けない。
とはいえ、両国を敵に回してしまった今、6人で力を合わせなければ生き残ることはできない。
親しくなることは無理でも、せめて険悪な雰囲気は拭い去っておきたかった。

ぼうっとタイオンの様子を観察していたユーニは、彼の肩で小さく跳ねている白いカタシロの存在に気が付いた。
先ほどの戦闘で彼はこの“モンド”と呼ばれるカタシロを大量に召喚しユーニを追い詰めてきた。
敵とみなした者の気配をどこまでも追うことが出来るというこのモンドは、今まで一度も見たことがない変わったブレイドだった。
 
いわゆる自立型ブレイドという奴なのだろうが、まるで生きているかのように動いている姿に感心してしまう。
どうやって動かしているのだろう。あんなに大量の自立型ブレイドを自在に操るには、相当の修練が必要なはずだ。
練習すれば自分も使いこなせるようになるのだろうか。
タイオンの肩でじゃれているモンドを見つめながらそんなことを考えていたユーニだったが、そんな彼女の視線に気が付いたタイオンが、開いていた瞳の機能をシャットダウンさせながらため息を吐いた。


「なんだ」
「は?」
「さっきからなんだ。人のことをじろじろ見て」


纏わりつくようなユーニからの視線に居心地が悪くなったのだろう。
タイオンは至極迷惑そうな顔をしながらこちらを見つめ返してきた。


「それ、どういう原理で動いてんのかなって」
「別になんでもいいだろ」


彼の肩に乗っている小さなモンドを指差し、頭に浮かんだ小さな疑問をそのままぶつけてみる。
だが、タイオンが明確な答えをくれることはなく、代わりに冷たく突き放すような言葉が返って来た。
足を組み、視線だけ寄越してくる彼の態度はとてもではないが好意的とは言えない。
“教えてくれたっていいじゃん”と追撃してみるも、タイオンは何も言わず顔を逸らす。
つい数時間前までブレイドを交えていたとはいえ、自分たちはもう手を組むべき“同行者”だ。
にも関わらず、自分との間に線を引き続けるタイオンの態度にユーニは苛立っっていた。


「無視かよ。感じ悪いな」


ユーニは昔から、思ったことをすべて口にする素直な性格だった。
裏表のない性格はケヴェスの男たちからは好意的に受け取ってもらえていたが、タイオンは彼女の性格を“好ましい”とは思えなかった。
“言葉を選ぶことを知らない失礼な女”。それが、タイオンからユーニへの第一印象だった。
そんな彼女からの棘のある言葉は、今まで言うまいとしていた本心をタイオンの口から引き出してしまう。
逸らしていた顔をユーニへと向け、体ごと彼女に向き直ったタイオンの瞳は、怒りに満ちていた。


「この際だから言っておく。ミオたちはあぁ言っているが、僕は君たちを信用したわけじゃない。後ろから撃たれる可能性もあるからな」


投げつけられた言葉は、ユーニの怒りの琴線に触れてしまう。
信用してくれとは言えない。自分たちだってまだアグヌスの3人を真正面から信用しきれていないのだから。
だが、信じる努力は惜しまないつもりだった。
元々敵とはいえ、置かれている状況は同じ。この世界のすべてを敵に回しているこの状況でいがみ合うことは、すなわち死を意味している。
戸惑いながらも手を取ろうとしているユーニだったが、その手を振り払うようにタイオンは分厚い壁を建て始めてしまう。
こっちが信用しようと努力しているその横で、お前は未だに信じる努力すらしないつもりなのかよ。
つんとした態度を繰り返すタイオンに、ユーニは怒りを露わにした。


「はぁ?アタシがそんなことするように見えるのかよ」
「僕たちアグヌスは君たちケヴェスの兵に何度も卑怯な手を使われてきたからな」


この短い生涯の中で、味方の兵たちがケヴェスの人間に屠られる光景を何度も見てきた。
自分の失策のせいで命を落とすことになったナミも、元を正せばコロニー13の卑怯な戦法によって殺されたのだ。
ユーニたちがあの一件と何の関わりもないことはよく分かっている。
だが、同じケヴェスの紋章を掲げていた相手を容易に信用など出来るわけがなかった。
とはいえ、その心情はユーニとて同じ。
アグヌスの兵に何度も仲間を殺された過去を持つ彼女もまた、アグヌスの紋章を胸に掲げているタイオンを素直に受け入れるのは容易ではない。


「それはこっちだって同じだっつーの。お前こそ、寝首掻くような真似したら容赦しねぇぞ。アタシはノアと違ってお人好しじゃねぇからな」
「僕を君たちのような卑怯者と一緒にするな」


ぴしゃりと言い放たれた言葉に耐えきれなくなったユーニは、派手な音を立てながら席を立った。
これ以上彼といたら、また余計なことを言ってしまうかもしれない。
ただでさえ険悪な雰囲気なのに、これ以上関係を悪くしてノアたちの足を引っ張るのは嫌だった。
小さく舌打ちすると、ユーニは簡易テーブルに腰掛けるタイオンに背を向けてシュラフへと潜り込んだ。
胸がむかむかする。渦巻く怒りと苛立ちがユーニから眠気を奪ってしまう。

シュラフの中から外を覗き込むと、焚火の向こうで寄り添い会話するノアとミオの姿があった。
ゲルニカや、昨日戦場で会ったメビウスという名のバケモノ曰く、ケヴェスとアグヌスの人間がひとつになることでインタリンク出来るようになるという。
ノアとミオが出来たということは、自分のパートナーになるのはセナかタイオンのどちらかだ。

ふと、ランツの方へと視線を向ける。
つい先ほどまでは一定の距離を取っていたランツとセナは、いつの間にか筋トレを終えてたどたどしく会話を始めていた。
先ほどの自分とタイオンのように、言い合っている様子は一切ない。
根拠はないが、もし自分もインタリンク出来るようになるなら、相手はセナじゃなくタイオンのような気がする。
ランツとセナは趣味が同じ筋トレであるという共通点も多く、恐らく気も合うだろう。
となると、消去法で余るのは自分とタイオンだ。

あぁ、嫌だな。もし本当にアイツとインタリンクする羽目になったら、上手くやっていける自信がない。
どう考えても性格が真逆だし、相手は頑なに自分との間に線を引き続けている。
“嫌な奴”にしか見えない彼との距離の測り方が全く分からないのだ。
あんな嫌味ったらしくて頭の硬そうな奴と一緒に旅なんて出来るのだろうか。
不安な心を誤魔化すように、ユーニはきつく瞼を閉じた。


***


まだ見ぬ“シティー”を目指し、果てに見える大剣へと向かう旅は決して楽なものではなかった。
邂逅したケヴェス、アグヌスの兵は勿論、平原を歩くモンスターでさえも6人の敵として目の前に立ちはだかる。
命の火時計の束縛から解放されたにも関わらず戦いの日々からは解放されないのかと愚痴を言いたくなったが、不貞腐れていても仕方がない。
 
未だ結束出来ずにいる6人は、時折軽い口論を交えながら川沿いを行く。
グロッグの群れの襲撃を受けたのは、太陽が真上の空に昇った昼間のことだった。
いち早くグロッグの存在に気が付いたマナナの悲鳴を皮切りに、6人は一斉にブレイドを構える。
多少なりとも知恵が回る人間相手ならまだしも、相手は知能の欠片もないグロッグ。
食欲という本能のままに襲い来るモンスターを相手にする際は、下手に特攻せずカウンターを狙うのが得策だった。
作戦立案課に所属していた経歴を持つタイオンは、モンスターとの上手い立ち回り方をよく知っている。
攻撃はアタッカーやディフェンダーに任せ、ヒーラーである自分やユーニは後方支援に徹するべきだ。
 
教本に記されていた“正しい戦い方”を再現するため一歩後ずさったその時だった。敵の注意を惹きつけていたランツが、グロッグの長い舌に足を取られて転倒してしまったのだ。
グロッグはその隙を見逃さず、ランツへと距離を詰める。
その光景を見つめながら、タイオンはいたって冷静だった。
今自分が駆け寄ってランツを庇い、大きなダメージを受ければ他の仲間たちの回復が追いつかなくなる。
ランツのカバーは前線で戦っているノアやミオ、セナに任せるべきだ。
瞬時にそう判断したタイオンだったが、そんな彼のすぐ横をひゅんと素早く何かが駆け抜ける。
ユーニだった。頭から生やした羽根を乱しながら、ユーニはランツの腕をとる。
彼女に大柄なランツを立ち上がらせるほどの力があるようには到底思えない。
もたつくユーニを視界に捉え、タイオンは初めて焦りを感じた。

何をしているんだ。
今ランツを助けるべきは君じゃない。
君は後方支援に徹するべきヒーラーなのに、何故むやみに突っ込もうとする!?

すかさずカバーに動こうと一歩踏み出したタイオンだったが、そんな彼よりも早くノアがグロッグの一撃を防いだ。
怯んだ隙を狙い、セナが背後からとどめを刺す。
息絶えたグロッグは群れのリーダーだったのだろう。犠牲となったグロッグの亡骸を見て、他のグロッグたちは一斉に逃げ出した。


「ふぅー。危なかった。助かったぜ、ユーニ」
「ったく、相変わらず世話が焼けるなランツは」


ようやく立ち上がったランツは、身を挺して自分を支えようとしたユーニに惜しみなく礼を贈る。
軽口を叩きながら、ランツの太い腕に手を添えたユーニは快活に笑っている。
その笑顔を見た瞬間、タイオンの心に怒りが生まれた。

何が“世話が焼ける”だ。
一番無茶な戦い方をしているのは君じゃないか。
正攻法から大きく外れた戦い方は、あまりにも直感的で理解できない。
猪突猛進としか言いようのない彼女の行動に、タイオンは目つきを鋭くさせた。

やがて一行は互いの健闘を労いながら旅を再開させる。
先頭を歩くノアとミオ。その背に続くランツとセナ。後に続くリクとマナナ。そして最後尾を歩くタイオンとユーニ。
いつの間にか、この組み合わせで一緒に歩くことが多くなっていた。
隣を歩くユーニを一瞥したタイオンは、心に渦巻いた彼女への不満をため息とともに吐き出し始める。


「さっきの戦い方はなんだ」
「は?」
「何故敵と見るや様子見もせずに突っ込む?少しは俯瞰して状況を見ようとは思わないのか」


あぁまたか。
ぴりついた空気にユーニは呆れていた。
タイオンたちと旅を始めてわずか3日。
まだ出会って100時間も経っていないというのに、彼の小言の回数は実に2桁を越えていた。
モンスターとの戦闘が終われば必ず文句を言われる状況は、ユーニに多大なストレスを与えている。
かつて彼女が所属していたコロニー9では細かいことは気にしない男くさい兵ばかりだったため、タイオンのように細かいことにいちいち目くじらを立てる人間に慣れていないのだ。
ハッキリ言って面倒くさい。


「お前こそ、なんでそんなに慎重なんだよ。やる気ねぇのかよ」
「少しは頭を使って戦えと言っているんだ。それでもヒーラーか」
「なんだよその言い方。アタシが馬鹿だって言いてぇの?」
「頭を使っていないのは事実だろう。それとも、ケヴェスでは戦略という概念がないのか?」


眼鏡を押し上げ、こちらに視線を一向に向けようとしないタイオンの言葉は鋭利だった。
心の奥底からケヴェスの兵を馬鹿にしているようなその口ぶりに、ユーニの怒りはどんどん温度を上げていく。
自分よりも数十センチ身長が高いタイオンを睨み上げながら“なんだとテメェ”と威圧してみるが、彼は全く怯むことなく言葉の矢を放ち続ける。


「まぁ無理もないか、君やランツを見ていればすぐに分かる。そうやって勢いに任せる以外戦う術を知らないんだろう」


流石に黙っていられなかった。
自分以外の人間を全員バカだとでも思っているのだろうか。
つらつらと嫌味を言い続けるタイオンに耐えきれなくなったユーニは、あえてこちらも馬鹿にするかのように鼻で笑いながら言い放った。


「何が戦略だよ。お前のは戦略でも作戦でもなくただ臆病なだけだろ」


隣でタイオンが息を詰める気配がした。
どうやら少しは効いたらしい。
こういう頭脳働きを専門にしているいけ好かない奴は、腕っぷしの弱さや根性の無さを指摘すれば反論出来ないものだ。


「俯瞰しろとか言うけど、結局は切り込む勇気がないだけの臆病者の戦い方じゃねぇか。そんなのが戦略とか笑わせんな」


臆病者。
その一言はタイオンの心に重くのしかかる。
あの時もそうだった。ナミが死んだあの時も、“臆病者”と揶揄されて頭に血が上った。
軍略など何も知らないくせに、自分の腕を過信する連中の身勝手な言葉が一軍を地獄へと叩き落す。
あの時、“臆病者”という安い挑発に乗って策を変えなければ、ナミは死ななかったかもしれない。
あんなにも“臆病者”という言葉に過剰に反応したのは、おそらく自覚があったからなのだろう。
自分は慎重なわけではない。ただ臆病なだけなのだという自覚が。


「ふざけるな!」


半ば喚くようなタイオンの怒鳴り声は、前方を歩く仲間たちの耳にも届いていた。
平原に響いた怒鳴り声に戸惑い、足を止める一行。
振り返った先に見えたのは、ユーニに食って掛かっているタイオンの姿だった。


「僕が臆病者だと!? 戦いのイロハも知らない君に何が分かる!?」
「人の戦い方にケチつける前に自分の勇気の無さを顧みろよ!慎重って言えば聞こえはいいけど、要は自信がねぇだけじゃねぇか!」


怒りを露わにしていたのはタイオンだけではなかった。
隣を歩くユーニもまた、今にも噛みつきそうなほどの勢いでタイオンを睨み上げている。
これまで、タイオンとユーニが口論する光景は何度か見てきたが、あそこまでヒートアップしているのは稀だった。
同胞たちの言い合いに、ノアとミオは急いで止めに入る。
ユーニを止めようとするノアと、タイオンと止めようとするミオだったが、2人の制止はタイオンとユーニには届かない。
互いの価値観を無遠慮にぶつけあう泥沼な言い合いは、ユーニの感情的な言葉で締めくくられる。


「考えてる間に味方は次々死んでいくんだよ。お前みたいな冷徹な奴には分かんねぇだろうけどな。アタシはもう、何も出来ないまま仲間が死ぬのは嫌だ」


慎重さという殻にこもっているタイオンへの苛立ちは、かつて仲間の死を前に何も出来なかった自分への苛立ちによく似ていた。
降り注ぐ瓦礫に埋もれる体。流れる鮮血。ランツの悲痛な叫び。
纏わりつくようなあの日の記憶は、一度だって忘れたことはない。
あの時、もっと何か動きようがあったかもしれない。
思考を巡らせている間に仲間は死んでいく。
その事実を噛みしめてしまったユーニには、タイオンの慎重さがもどかしかったのだ。

感情を吐き出した後、ユーニは足早に再び歩き出す。
足元で心配そうに自分を見上げているリクとマナナをまたいで先を行くユーニ。
そんな彼女を止めるため“ユーニ!”と名前を呼んだノアだったが、すぐ隣にいたランツによって制される。
“やめとけ”の一言と共にノアの肩に手を乗せたランツは、ユーニと同じくらい怖い顔をしていた。


「ユーニが怒鳴るのも無理ねぇよ」


ランツの非難めいた視線が、タイオンへと注がれる。


「お前、俺たちのこと信用してねぇだろ。そんな態度の奴に背中なんて預けられねぇよ」


ノアの脇を抜け、ランツはユーニの背を追うように歩き出した。
タイオンが自分たちとの間に打ち立てた心の壁に不満を抱いていたのはランツも同じ。
命の火時計と共に戦意を手放した彼らとは違い、タイオンはいつまでもケヴェスの3人を警戒していた。
仲間に向ける態度とは程遠い鋭い視線に、不快感を抱かないわけがなかった。

揃って一行の輪から遠ざかるユーニとランツの背中を見つめながら、ノアは苦々しい表情を浮かべていた。
ふとタイオン達の方へと視線を戻すと、タイオンを止めようとしていたミオも、そんな彼女の隣に寄り添っていたセナも表情に不安感を滲ませている。
みんな、心では上手くやっていくべきだと分かっているのだ。だが、長く続いたケヴェス、アグヌス間の怨嗟は簡単に忘れられるものではない。
やはり、元敵同士だった6人が上手くやっていくなど不可能なのだろうか。


「ごめん、2人とも悪気はないんだ」


ノアが謝った先はミオでもセナでもなく、タイオンだった。
この言い合いは誰が悪いわけでもない。
だが、関係をなるべく円満なものにするためには謝罪も必要だ。
ユーニやランツと長い付き合いであるノアが2人に代わって謝罪の言葉を贈るが、タイオンは相変わらず不愛想だった。
“別に”と一言だけ呟くと、彼はミオの手を振り払いノアの脇を抜けて歩き始める。
仲間たちの視線を背に受けながら、タイオンは前を歩くユーニとランツの姿を恨めしく見つめていた。

“俺たちのこと信用してねぇだろ”
ランツから告げられた言葉はまさしく図星だった。
タイオンは信じていなかった。
ナミの命を奪った者たちと同じ紋章を掲げている3人のことを。
いや、信じていないのは彼らだけではない。
タイオンは自分自身のことも信じていなかった。
己のことも信じられないのに、敵だった人間のことなんて信じられるわけがない。
たとえこのままユーニたちから嫌悪感を向けられようとも、この“信用しない”スタンスを崩すことはないだろう。
信じた結果上手くいかなかった時の事を考えると、また心が死んでしまうような気がするから。


***

青空の真ん中に鎮座している太陽は、殺人的な熱を孕んで荒野へと日差しを降り注いでいる。
その日差しの下を歩きながら、6人は重たい足を引きずるように前へ前へと進んでいた。
瞳で観測した気温は34度。暑いの一言では片付かないほどに暑かった。
もはや命の危機すら感じさせるほどの暑さに、ユーニの首筋からは汗が流れ落ちる。
 
彼女が所属していたコロニー9は、上層に雪山を擁しているアエティア地方に位置している関係で、どちらかと言えば涼しい方だった。
寒いよりはましだが、流石にこの熱さは堪える。
だが、ユーニ以上に暑さにもだえ苦しんでいる人物がいた。ミオである。
上着を脱ぎ捨て、セナに肩を借りる形で一行の最後尾を歩くミオは明らかにバテている。
とはいえ、このあたりには休憩できそうな場所もなく、正午過ぎという時間帯の関係で日陰も少ない。
このイーグス荒野は熱さが尋常ではないと事前にタイオンから警告を受けてはいたが、ここまでとは知らなかった。
 
熱さにうだりながら隣を歩くタイオンへと視線を向けると、彼もまた暑苦しいマフラーを外し首元を開けながら辛そうな顔をしている。
こんなに暑いならもっと強く警告しといてくれよ、と文句を言いたくなったが、もしも言い返されたら反論する気力は出ないだろう。やめておこう。

しばらく荒野を歩くと、何度かタイオンが背後を振り返っている様子が視界の端で確認出来た。
どうやら一番後ろを歩くミオを気にしているらしい。
やがて歩くスピードを落とすと、ミオやセナに並行する形で隣に立ち、懐から長細い水筒を手渡した。


「ミオ、これを」
「え?いいよ。タイオンもきついでしょ?」
「君ほどじゃない。いいから飲んでくれ。脱水で倒れられたら困る」
「もう、素直じゃないなぁ」
「ありがと。いただくね」


ミオに水筒を手渡すと、歩くスピードをあげたタイオンがユーニの隣に追いついた。
とはいえ、2人の間に会話はない。
相変わらず黙ったままのタイオンへちらりと視線を送ると、彼も首筋に汗をかいていた。
心なしか、彼の隣を浮遊するモンドも元気がないように見える。

自分だって辛いくせに、わざわざミオに水筒を渡すなんて。
ユーニは密かにタイオンの行動に驚いていた。
正直、血も涙もない冷酷な男だと思っていたのに。
旅を始めて数日経つが、相変わらず彼の態度は軟化しないままだったが、どうやら味方であるミオやセナに対しては優しさを持っているらしい。

セナにも共通して言えることだが、タイオンはミオを過度に気遣っている節がある。
モンスターとの戦闘時は積極的にミオを守ろうとするし、ルートを決める際もなるべく時間を消費しないルートを提案している。
おそらく、ミオに残されている時間がたった3か月しかないことが要因だろう。
そういえば、ムンバが生きていた頃は自分もランツも彼に気を遣っていた。
怪我をさせないように、なるべく辛い思いをさせないように、なんとかムンバを守って晴れやかな気持ちで成人の儀を迎えさせてやりたい。その一心だった。
ムンバを気にかけていた自分たちと同じで、タイオンがミオを守りたいと思うのは当然のことかもしれない。

残り時間の少ない仲間を気遣い、守ろうとするのはケヴェスであってもアグヌスであっても同じ。そこに国による別はない。
それが分かった瞬間、ユーニは初めてタイオンを近く感じた。
自分の手荷物の中から小さな水筒を取り出すと、一瞬だけ迷ったのちにタイオンへと差し出した。
当のタイオンは、突然差し出された小さな水筒に戸惑い、怪訝な表情を浮かべながら“なんだ?”と問いかける。


「人の心配するより自分の心配しろよ。お前も脱水になるぞ」


ユーニからの言葉に、タイオンは僅かに目を見開いた。
そしてすぐに視線を逸らすと、眼鏡を押し上げ歩くスピードを上げる。


「君に借りを作るのはごめんだ」


すたすたと先を歩き始めたタイオンの背を見つめながら、ユーニは怒りを滲ませる。
なんだあれ。感じ悪すぎるだろ。
ちょっとでも親近感を覚えた自分が馬鹿だった。
やっぱりアイツはいけ好かない
受け取られることのなかった水筒のキャップを外し、口をつけて一気にがぶ飲みする。
前を歩くタイオンを睨みつけながら、もう二度と親切にしてやるものかとユーニは心に誓うのだった。

***

日陰のオアシスを見つけることが出来たのは僥倖だった。
いの一番に水辺に飛び込んだミオは、数分前までバテていたのが嘘のようにはしゃいでいる。
早速上着を脱ぎ捨てて、ミオやセナの後を追うように飛び込んだユーニ。
そんな彼女のすぐ後に飛び込んだランツのせいで耳に水が入ったが、文句を言ってもランツは意に介さなかった。
日陰に位置しているせいか、こんなに猛暑だというのに水はひんやりと冷たい。
ノアが飛び込んだすぐ後、人一倍寒さに弱いユーニは早くも肌寒さを感じ始めていた。
これ以上水に浸かっていると体を冷やしてしまうかもしれない。
限界を突破する前に水から上がったユーニは、タオルで体を拭きながら一人だけ水浴びをしていないタイオンへと歩み寄った。

今後のルートを確認しているのか、瞳を起動させながら彼は遠くの方を見ている。
リクとマナナを含む仲間たちは全員水辺で楽しくはしゃいでいる。
地上に上がっているのはタイオンとユーニの2人だけである。
気まずい。これまでの会話でタイオンとは気が合わないことは明白だが、2人だけしかいないというのに何も話さないというのはどうなのだろう。

ふと、水辺で楽しそうにしている仲間たちへと視線を送る。
ノアとミオは足を水に浸しながら隣同士で座っており、一方でランツとセナはどちらが速く泳げるか競争を始めている。
この数日間で、旅の面々は少しずつ距離を縮めていた。
未だ確執があるのは自分とタイオンだけ。

自分もノアやミオのようにインタリンク出来るのなら、十中八九相手はこのタイオンだ。
相性は最悪だし、出来ればセナの方とパートナーになりたかったが、彼女はどう考えてもランツとお似合いである。
ノアとミオのようにケヴェスアグヌスの組み合わせでなおかつ男女でパートナーになるのなら、やはりタイオンしかいない。
あまり認めたくはないが、どう考えても自分のパートナーはこの男であるという結論に行きつくのだ。
となれば、今後のことも考えてやはり少しくらいは距離を縮めておいた方がいいはず。
ガラにもなくそんな義務感を抱いたユーニは、嫌味を言われる覚悟で彼に声をかけた。


「お前は水浴びしねぇの?」


ユーニを一瞥すると、タイオンはすぐに視線を逸らす。


「そういうのは僕の主義じゃない」


どこまでもとっつきにくい男だった。
いつも仏頂面で文句を言いたげな顔をしている。
こっちが距離を詰めようとしてもすぐに顔を逸らして扉を閉めようとする。
タイオンのそんな態度が嫌いだった。
未だ距離を取ろうとしているタイオンの冷めた返答にむっとしたユーニは、少し接し方を変えようと画策した。
真正面からぶつかって駄目なら、斜め上から攻めて見るのはどうだろう。
揶揄い、煽り、おちょくってみれば、案外彼の本質が見えてくるかもしれない。


「とか言って、ただ単に泳げないだけだったりして」
「なに?」


タイオンの視線がまたこちらに戻ってくる。
少しは気を引くことに成功したらしい。
上手くいきかけていることに業を煮やしたユーニは、このままのスタンスでタイオンに接してみることにした。


「ガンマの立地的に周りに水辺少ないもんな。水泳訓練もどうせなかったんだろ?カナヅチなら素直にそう言えばいいのに」
「馬鹿なことを言うな!そもそも僕の出身は水辺の……」


そこまで言ったところで、タイオンは急に言葉を飲み込んだ。
何かを言いかけたようだが、寸前で急ブレーキを踏んだ彼を不審に思い“なんだよ”と聞き返してみたが、タイオンはまた視線を逸らして“なんでもない”と吐き捨てるように言った。
ほんの1ミリだけ近付いた気がした心の距離が、また離れていく。
相変わらず心の内を見せようとしないタイオンに苛立ちを覚えたユーニは、それ以上話しかけることはなかった。
 
こんな調子だったら、一生インタリンクなんて出来ないんじゃないだろうか。
そもそもあの力はノアやミオにだけ宿っている力であって、ただ近くにいたという自分たちには扱えないのかもしれない。
少なくとも、体と心を一つにして戦うことになるあの力を、このタイオンと共有するのは難しい。
あぁ、せめてもう少しとっつきやすい奴が相手だったなら。
そんなことを考えながら、ユーニは濡れた頭をタオルでガシガシと拭いた。


***

ノアは言っていた。
ミオとインタリンクした時、彼女の抱えていた苦しみが見えたと。
それはただの比喩表現だと思っていたタイオンだったが、彼が言っていたことはまさにその通りだった。
不思議な浮遊感と共に視界一杯に広がったのは、知らない記憶と知らない顔。
四肢を通じて伝わるこの哀しみは、きっとインタリンクした相手であるユーニから直に伝わってくる感情なのだろう。
燃え盛るコロニーの真ん中で微笑む緑髪の年少兵。
次の瞬間瓦礫が落ちて来て、少年兵の笑顔は消える。
聞こえてくるのはランツの叫びと、ユーニの啜り泣く声。
断片的な記憶から伝わってくる悲しみが、ユーニたちの過去を教えてくれた。

そうか、彼女たちも自分と同じなのか。

インタリンクしたことで、ほんの少しだけユーニという少女の人となりが見えてきたような気がした。
だが、彼女とインタリンクしたからと言ってアイオニオンを取り巻くケヴェスアグヌスの戦争状態が終わるわけではない。
ノアによって命の火時計を破壊されたこのコロニー4でも同じで、戦う理由を失ってもアグヌスを恨む者は無数にいた。
気持ちは分からないでもない。自分だってそうだったから。
ケヴェスは敵。そう刷り込まれて生きてきた今までの軌跡は、数時間程度でなかったことになど出来ない。
アグヌスの紋章を掲げている自分たちが、このコロニー4で兵士たちの不興を買ったとしても、ある程度は仕方のないことだ。
だが、理不尽に因縁をつけてくるような相手に下手に出れるほど、タイオンは優しい性格ではない。


「お前、シグマの人間か?それともゼータか?」


声をかけられた瞬間、タイオンはまたかと眉をひそめた。
コロニー4に滞在して僅か3時間の間に、タイオンは似たような質問を5人の兵から投げかけられている。
その全員が声色に憎しみを込めていた。
そんな質問をしたところで何の意味もない。どのコロニーに所属していようが、彼らが恨む“アグヌス”の一員であることには変わりない。
恨みのこもった声色で問いかけてくるケヴェス兵相手に、タイオンは腕を組みながら対応した。


「だったらなんだ?」
「この前の小競り合いで仲間が死んだ。お前たちアグヌスは鬼畜外道の集まりだ。我が物顔でコロニーに入って来やがって。どういう神経してんだよ」


タイオンはこの兵士の名前を知らない。当然、小競り合いで死んだという彼の仲間のことも知るわけがない。
彼の恨みは個人的な恨みであって、タイオンには1ミリも関わりのないことだった。
彼がアグヌスを恨む気持ちは分かる。ユーニとインタリンクした今だからこそその感情にも僅かばかり理解を示せるだろう。
だが、最初から好戦的な連中となれば話は別だ。


「コロニー4は元白銀のコロニーだと聞いていたが、どうやら兵の質は土塊以下のようだな」
「なに?」
「軍務長のエセルは人格者のようだが、下に就いている兵がこのザマとは哀れだな」
「てめぇ、言わせておけば……!二度とその口きけねぇようにしてやろうか」
「やめろ!」


兵士の男は今にも飛びかかりそうな勢いだったが、その肩に手を置き制止する者がいた。
ユーニである。
同じくケヴェスの兵である彼女の登場に、男を取り巻く怒りの色が一瞬だけ薄くなった。


「エセルから聞いてなかったのか?こいつらはもう敵じゃねぇ。変な言いがかりつけんのはやめろ」
「敵じゃないだと?ふざけんなよ。こいつらアグヌスの兵士たちに何人の仲間が殺されたと思ってる!? なのに今更許せってのか?無理に決まってんだろ!」
「無駄だって言ってんだよ。もう命の火時計は破壊されたんだ。命のやり取りをする必要はなくなった。生き方を選べるようになったんだ。だったら、いつまでも恨んでたって仕方ねぇだろ!?」


タイオンと男の間に割って入るように体を差し込むと、ユーニは驚くほど筋の通った正論を男にぶつけ始めた。
意外だった。いつもは感情的な彼女がこんな正論を口にすることも、そして自分を庇おうとしてくれていることも。
 
ユーニには嫌われている自覚があった。相応の態度をとり続けたのだから当然だろう。
嫌われても構わなかったし、むしろ嫌ってくれていた方がやりやすいと思えた。
心の距離を深めれば深めるほど、失った時の悲しみは大きい。
だからこそ突き放した。元々敵である彼女とは一生分かり合えないと思っていたし、分かり合う必要などないと思っていたから。
だが、自分を嫌っているはずの彼女は非難の声から自分を庇うように前に立っている。
あんなに嫌悪感を剥き出しにしたような目で見てきたくせに。


「……分かんねぇよ、そんなの。戦わなくていいなんて言われても、どうしたらいいんだよ……」


震える声で呟きながら、男は去っていった。
ある意味で、本当の闘いはここから始まるのかもしれない。
今までは与えられていたことだけをしていれば生きていられた。
人の命を奪うことで生き長らえるという常識は今日をもって崩れ去り、“戦わなくていい”という新たな常識の元生きていかなくてはいけない。
その環境変化は大きく、全員が容易く受け入れられるものではないはずだ。
敵だった者たちへの恨みを簡単には忘れられない者も多いはず。
目の前にいるユーニというケヴェスの少女は、自身の言葉通りもうアグヌスへの恨みは残っていないというのだろうか。


「恨んでいたって仕方ない、か」


独り言のように呟かれたタイオンの言葉は、ユーニにも届いていた。
やがてタイオンの視線が、ユーニへと注がれる。


「それは君の本心か?」


その言葉に、ユーニはすぐには答えなかった。
言葉を選んでいるのかもしれない。
足元に視線を落とし、地面に転がっている小さな小石を蹴り上げた後、彼女はようやく口を開く。


「インタリンクしたとき、お前の記憶が見えた。断片的だったから全部理解出来たわけじゃねぇけど、アタシたちと同じだと思った。掲げてる旗が違うってだけで、抱えてるもんは同じだ。だったら、いがみ合ってても無意味じゃん」
「……」


暫く待ってみたが、タイオンから返答が来ることはなかった。
また口論になる前にもう立ち去ってしまおう。
せっかくインタリンク出来たのに、また無駄に言い合いになるのは嫌だった。
何も言わずその場を去ろうとしたユーニだったが、その背にタイオンが言葉を投げかけてきた。


「ヨランというのは、君たちの旧友か?」


その問いかけに、ユーニはぴたりと足を止める。
ヨランのことをタイオンに話した記憶はない。
となると、彼もまた見ていたのだ。ユーニの内にある最も悲惨な記憶を。
背を向けたまま、ユーニは俯いた。
思い起こすのはヨランの顔。あまりにも一瞬だったあの出来事は、今でもユーニの脳裏に焼き付いている。
あぁ、人ってこんなに一瞬で死ぬんだな。あっけないな。
そんなことを冷静に考えている一方で、当時は涙が止まらなかった。
いつだって人に弱いところを見せたがらなかったランツがあんなに泣いているところを見たのも、あの日が最初で最後だった。


「……うん。訓練生時代から一緒だったんだ」


8年と少し生きてきた中で、失われていく命はいくつも見てきた。
だが、まだ実戦に出ていなかったユーニたちは当時まだ“死”を一度も見たことが無くて、初めて目の前で見た“死”が、ヨランの死だった。
一緒に成人の儀を受けようと約束し合った友達が、一番最初に見た人死にだなんて皮肉なものだ。
もっと話したいことはたくさんあったのに。
声を震わせるユーニに、タイオンは小さく“そうか”と呟いた。
彼の足音がゆっくりと背後から近づいてくる。やがて気配はすぐ後ろで止まり、背を向け続けるユーニにタイオンがぽつりぽつりと語りかけ始める。


「僕たちは互いに本国へ反逆している状態だ。こんな状況で生き抜くには結束するしかない。特に、インタリンクした僕たちは信頼し合う必要があるだろう。ゲルニカの言葉を借りれば、僕たちは運命共同体らしいからな」


投げかけられた言葉に、ユーニは思わず息を詰めた。
ゆっくりと振り返ると、そこには少々居心地の悪そうなタイオンの顔がある。
照れているのだろうか。彼の視線は定まらず、瞬きも多い。
その時初めて気が付いた。
あぁこいつ、思ったより柔らかい顔つきしてるんだな、と。


運命共同体……?」
「あぁ、だから、その……」


こめかみのあたりを掻きながら、タイオンはユーニを見つめる。
そして、言葉を喉の奥から絞り出すかのように声を発した。


「これからもよろしく頼む、ユーニ」


自分よりも数十センチ高いタイオンの顔を見上げながら、ユーニは瞳の奥を輝かせた。
タイオンから好意的な言葉を受け取ったのは初めてだった。
そして、名前で呼ばれたのも初めてである。
いつもは冷たい目をしながら“おい”だとか“君”だとかばかりで、一向に名前を呼ぶ気配がなかったタイオン。
そんな彼の口から初めて自分の名前が飛び出たことで、ユーニは柄にもなく喜びを感じていた。


「名前」
「え?」
「初めて呼んだな、アタシの名前」
「あ、あぁ、そうだったか?」
「自己紹介したのに忘れられてるのかと思ってた」
「馬鹿なことを。僕ほど記憶力がある男はそうそういないぞ」


タイオンの言葉に、ユーニは声を挙げて笑った。
羽根を揺らしながら軽快に笑うユーニを前に、タイオンは謎のむず痒さを感じていた。
つい数日前まで命のやり取りをしていた相手が、目の前で笑っている。
人生とは何があるか分からないものだな。
そんなことをぼんやり考えている、ユーニが不意に手を差し伸べてきた。
突然のことに戸惑い“えっ”と声を漏らすと、ユーニは差し出した右手を軽く振りながら“握手だよ握手”と口にした。


「こういう時はするもんだろ?」
「僕はそういうことはしない主義で——」


確かに“よろしく”とは言ったが、そんなに早く距離を縮める気にはなっていない。
仲間として足並みを揃えていくという覚悟を口にしたつもりであって、やはり必要以上に慣れ合うつもりはないのだ。
だが、タイオンのそんな気持ちなどお構いなしにユーニは強引に手を取って来た。
突然握られた右手に驚き、思わず目を見張ると彼女は肩をすくませて笑顔を見せて来る。


「よろしくな、タイオン」


ユーニから真っ直ぐな笑顔を向けられたのは初めてだった。
いつも怒りを孕んだ表情ばかり向けられていたから、彼女がこんなにも朗らかに笑える人だとは知らなかった。
初めて向けられる笑顔に少しだけ照れくさくなったタイオンは、手を握られたまま視線を逸らし、表情を隠すように眼鏡を押し上げた。
この瞬間、離れていた2人の心の距離はほんの少しだけ縮まった。
数か月の後、いがみ合っていた当時が嘘のように思える未来が待ち受けていることを、2人はまだ知らない。


本当のアイツ


コロニー4を出発して間もなく、一行はようやく灼熱の荒野に別れを告げ、草原地帯へと突入していた。
アルマやアルドン、ヴォルフが闊歩するこの平原は、かつてコロニー9やコロニーガンマが位置していたアエティア地方の植生によく似ている。
とはいえ、ここはアエティアから遠く離れたフォーニスの南部。
気候も違ければ生息しているモンスターも違う。
このフォーニス地方に生息しているモンスターたちは、アエティア地方のモンスターに比べていささかレベルが高い。
攻撃方法も生体すらも異なるモンスターたちの中を旅することに、タイオンは一層慎重になっていた。
とはいえ、道中モンスターとの戦闘は避けようにも避けられない。
今日もまた、一行はモンスターの討伐に精を出していた。
相手はアルドン。この周辺を牛耳っている、所謂名を冠する者である。

コロニー4の一件で、ノアとミオだけでなく他の2組もインタリンクに成功したことで、6人のウロボロスたちの戦力は着実に増強されていた。
今まではどうにも逃げるしかなかった強靭な相手も、ウロボロスの力を持ってすれば敵ではない。
だが、新しく手にしたこの力の全容を把握したとはまだ言い難い。
インタリンクという切り札が存在する中での戦いに、未だ6人は慣れていなかった。

早々にインタリンクを開放し、ウロボロスの力に頼ったノアとミオは、戦闘開始数分で力を使い果たしインタリンクを解いた。
強靭な力で敵の目を惹きつけてしまったノアとミオは、敵であるアルドンの攻撃を正面から受けてしまい揃って膝をつく。
そんな彼らを守るように立ちはだかったのは、インタリンクしたランツとセナだった。
ランツの強固な守りの力によって、アルドンの突進からノアとミオの身は守られる。
 
つい数秒前にユーニとインタリンクしていたタイオンは、今が回復の時と見ていた。
インタリンクした2人の力は回復や補助に特化している。
ランツやセナがアルドンの目を惹きつけている間に、自分たちはダウンしているノアやミオの回復に回り、なるべくリスクを抑えて戦うべきだ。
そんな考えのタイオンに相反するように、インタリンクした体は前へと動き出す。
前進する意思を持って体を動かしていたのは、自分と体を共有しているユーニの方だった。


「っしゃ、今だ!とどめ刺してやる!」
「ま、待てユーニ!今はノアたちの回復を優先するべきだ!」


背を向けているアルドンに一撃を放つべく翼を広げるユーニ。
その行動を何とか止めようと声を張り上げると、ユーニの動きはぴたりと止まった。
だがタイオンの指示を聞く気などないらしく、彼女は未だ攻撃の構えを解くことなく自分の中に存在するパートナーへと反論する。


「はぁ?何言ってんだ。とどめ刺すなら今だろうが!」
「いや、ノアたちを回復すべきだ!無駄に勇んでパーティーを全壊させる気か!?」
「なんだと!?」


足を止めて言い合いを始めるタイオンとユーニ。
そんな2人の気配に気が付いたアルドンは、正面でランツとセナに突進しつつハンマーのような尻尾を大きく振りかぶってきた。
目の前にアルドンの尻尾が迫ってきて初めて気付いた二人だったが、もはやかわす余裕などない。
脇腹に尻尾の一撃を食らった2人は、後方へ飛ばされながら強制的にインタリンクを解除させられた。
まばゆい光と共に二つに裂けた体は、揃って草原へと叩きつけられる。


「タイオン!ユーニ!」
「くっそ、この野郎っ!」


タイオンとユーニが倒されたことで、ランツとセナは腕に力を込めた。
アルドンの角を両手で掴みあげると、雄たけびを上げながらその巨体を持ち上げ背中から地面に叩きつける。
そして、その固い拳をアルドン唯一の弱点ともいえる腹めがけて振り下ろすと、アルドンは悲痛な叫びと共に命の粒子となって消えていった。
舞い上がる青い光の粒子は、戦闘の終了を一向に告げている。
アルドンにとどめを刺しインタリンクを解除したランツとセナ。
柔らかい草の上に降り立った瞬間、セナは背後で膝をついているミオとノアへ駆け寄った。

どうやら2人とも大きな怪我はないらしく、セナとランツが伸ばした手によってゆっくりと立ち上がることが出来ていた。
一方、少し離れた場所で横たわっていたタイオンとユーニにも目立った外傷はなく、自力で立ち上がりながら服に着いた汚れをはたき落とし始める。


「はぁ……。ユーニ、何度言ったらわかるんだ」


隣から降ってきた溜め息交じりの言葉に、ユーニはむっとしながら睨み返す。
どうせいつもの嫌味が来るに違いない。そんなユーニの考えは当たっていた。


「あぁいう場面は攻撃より補助に回るべきだ。君の役割はヒーラーだろ」
「とどめ刺せるときに刺さなくてどうするんだよ!絶好のチャンスを見逃せってのか!?」
「どこが絶好のチャンスだ!実際攻撃を受けていたじゃないか!」
「あれはお前が後ろからごちゃごちゃ言うからだろ」


睨み合い、火花が散るような視線をぶつけあいながら言い合う2人。
戦闘が終わって早々に口喧嘩を始めるタイオンとユーニに、他の面々は困ったように顔を見合わせていた。
2人がこうして衝突し合うのは珍しいことではない。
旅を始めて以降こういった光景は何度も目にしてきた。
当初ほどの険悪感は薄れたものの、未だ二人の仲が良好になる兆しは見えてこない。
相変わらず心の距離が縮まる様子のない2人に、最年長のミオは困り果てていた。


「ちょっとちょっと。喧嘩する前に言うことがあるんじゃない?」
「ランツたちに守ってもらってただろ?礼は言うべきじゃないか?」


ミオとノアに促されたことで、ようやく終着点の見えない言い合いを終えた二人。
互いに顔を見合わせたあと、少々居心地が悪そうに軽く頭を下げた。


「……ありがとな」
「助かった」
「いいよいいよ」
「ったく世話かけんなよな」


ばつが悪そうに礼を口にするユーニとタイオンに、セナは遠慮がちに軽く両手を振っていた。
だがランツは遠慮する気などないらしく、頭の後ろで手を組みながら溜め息交じりに嫌味を飛ばす。
歩き出したランツの後に続く様に、一行はようやく旅を再開させる。
未だもやもやとした怒りが晴れないタイオンとユーニは、浮かない表情のまま一行の最後尾を歩き始めた。


「お前のせいでノアたちに怒られたじゃん」
「君が僕に合わせないからだろ」
「主導権を握ってるのはアタシなんだからお前が合わせるべきだろ?」
「逆だ。君が主導権を握っているからこそ俯瞰して状況を見ている僕の意見を聞くべきなんだ」


まるで噛み合わない意見に、ユーニは何度目かのため息をついた。
コロニー4の一件でインタリンクできるようになって以来、以前よりもタイオンという存在に近付けた自覚はあるが、それでも価値観や常識が正反対である事実は曲げられない。
前へ前へと勢いのまま突き進もうとするユーニとは対照的に、タイオンの足は常に重い。
それを“慎重”と評すればそれまでだが、ユーニにはどうもその慎重さが過敏に思えた。

彼が何故過剰なほど慎重な性格になったのかはなんとなく知っている。
彼とインタリンクする際に見える朧気な記憶。
殿として死を選んだ女性と、水に流されながら悲痛に叫ぶタイオン。
前後関係は分からずとも、彼がその女性の死に強い後悔の念を抱いていることは良く伝わってきた。
きっとあの“死”が、タイオンの慎重すぎる性格を形成するに至ったのだ。

気持ちは分かる。同胞の死は心を傷付け、戦意を削ぐ。
だがだからと言って、動かず安全策ばかり取っていても勝てない。
策略家なタイオンならそんなことわかっているはずなのに。

それに、タイオンの口から度々飛び出す心を感じられない言葉の数々も気に入らなかった。
こちらの神経を逆撫でするような正論は、聞いていて気持ちの良いものではない。
冷酷というか冷淡というか、タイオンには人を思いやり気遣うという心がないのだ。
仲間だとか同胞だとか、そういう熱を持った言葉たちをどこか見下しているかのように感じられる。
冷え切ったタイオンの人となりに、ユーニはどう接すべきか距離感を測りかねていた。


「何もかも合わねぇな、アタシたち」
「そこだけは同意見だな」


インタリンクして以降、ノアやミオはもちろんランツやセナの距離感もぐっと縮まっている。
未だに見えない火花を散らしているのは自分たち2人だけだった。
円滑な人間関係は戦闘の勝利に大きく貢献する。逆に言えば、不和は敗北と死を招く。
一緒に戦っているノアやランツたちのためにも、タイオンと上手くやっていかなければという気持ちはある。
だが、肝心の彼がどうにも心を開いてくれないのだ。
固く閉ざされた心の扉を何度叩いても、扉の向こうにいるはずのタイオンは沈黙を貫き、ユーニを中に入れるどころか扉を開けてさえくれない。
完全に線を引かれていた。

隣を歩くタイオンをそっと見上げると、何を考えているのか分からない瞳で彼はまっすぐ前を見つめていた。
インタリンクして、過去の一部始終を知ったとして、その人の全てを理解出来るわけではない。
優しさの欠片も感じられないこの男とのことを理解出来る日は果たして来るのだろうか。
いつ来るかも分からないその日のことを思いながら、ユーニは足元に視線を落とした。


***

ウロボロスの力を開放し、ユーニとインタリンクするたびタイオンの苛立ちは募っていった。
ユーニの戦い方はタイオンのそれとは対照的で、良く言えば勇猛果敢。悪く言えば愚直である。
ヒーラーてあるにも関わらず無遠慮に敵に一撃を見舞おうとする彼女のやり方を見つめながら、何度警告したかも分からない。
出来れば強引に止めてやりたいが、インタリンク中はユーニが主導権を握っているためタイオンは背後から意見を飛ばすことしか出来ない。
せめて自分が主導権を握ることが出来れば、協力して上手く立ち回れるだろうに。

旅を始めたばかりの頃に比べて、ユーニというパートナーのことを少しずつ理解してきたつもりだった。
ミオやセナに比べて男勝りなその性格は、思ったことを何でも口にする無神経なところがある。
その素直さが時に棘となってタイオンの胸に突き刺さり、そのたび悪態をつきたくなってしまう。
まっすぐ過ぎる彼女の性格は、タイオンの人と距離を取りたがる性格と相反する。
まるで磁石の対極のように反発し合う二人は、互いに歩み寄る機会を完全に失いかけていた。

この直情的すぎるパートナーと上手くやっていくにはどうしたらいいのだろうか。
もう彼女に歩み寄りを期待するのは無駄なのかもしれない。
そう思い始めていた頃、タイオンはユーニの小さな変化に気が付いた。
荒廃したカーナの古戦場を過ぎたあたりから、彼女様子がどうにもおかしいのだ。
いつもはよく喋る口を堅く閉じ、俯きながら黙って歩いている。
体調でも悪いのだろうか。
コロニー4を出発して随分と長距離を移動してきたため、疲労が蓄積していても無理はない。
ユーニの様子を伺いながら、タイオンは仲間たちに休息を提案した。
本調子でない人間が1人でもいる以上、戦闘になった際その悪影響はパーティー全員に及ぶ。
ユーニのためというよりは、全員のための休息だった。

焚火を囲いながら、一行はいつも通りマナナの作った食事に舌鼓を打つ。
その間も、ユーニの口数は明らかに少なかった。
懸命に“いつも通り”を演じようとしているようだが、本調子でないのは一目瞭然である。
腹痛か、頭痛か、それとも発熱か。
どんな症状かは知らないが、調子が悪いならそう言えばいいのに。
何故隠そうとするのか。言いにくいならせめてノアやランツにくらい打ち明けてもよさそうなものを。
強がりなのか、それともプライドが高いのか、自らの状態を頑なに隠そうとするユーニを密かに見つめながら、タイオンは小さな苛立ちを感じていた。

体調不良を隠してもいいことはない。むしろ隠すことで仲間に迷惑がかかることもあるんだぞ。
それを君は分かっているのか?
口に出さない代わりに、タイオンは心でユーニに問いかける。
だが、当然その眼差しに含ませる想いが伝わることなどなく、ユーニは相変わらず瞼を伏せるのだった。

食事を終えた一行は、思い思いの時間を過ごしていた。
筋トレに勤しむセナとランツ、早くもシュラフに入っているミオ、リク、マナナ。
そして焚火の前を陣取り揺らめく炎を見つめているユーニ。
その丸い背中を見つめながら、タイオンは食器洗いに精を出していた。
食事の後片付けの当番は順番で回ってくる。
今夜はタイオンとノアがその当番の日だった。
隣で食器を拭くノアは、ユーニの幼馴染であり彼女のことをよく理解している。
恐らくは彼もユーニの様子がおかしいことに気付いているだろう。
彼は今のユーニの状態をどう見ているのだろうか。彼女のことを深く理解しているであろうノアなら、ユーニが何を考えているのか分かるのかもしれない。


「ノア。ユーニのこと、気付いてるか?」


数メートル先にいるユーニに聞こえないよう小声で話しかけると、ノアはちらりとタイオンの方へと視線を向けたのち、ユーニの背中を見つめながら“あぁ”と呟いた。


「古戦場の雰囲気にあてられたのかもな。骸も多かったし、少し怖がってるのかも」
「怖がってる?彼女が?」


皿を拭く手を止めず淡々と話すノアに、タイオンは思わず聞き返してしまう。
てっきり体調が悪いだけだと思っていたが、その実恐怖におびえていただけだというのか。
にわかには信じられなかった。
ユーニはいつだって猪突猛進で、骸の山を見ただけで怯えるような繊細タイプには到底見えなかったから。
だが、驚くタイオンとは対照的にノアは穏やかな笑みを浮かべながらユーニの背を見つめていた。


「あぁいう性格だからあんまり表に出さないけど、意外に怖がりなんだよ。強がってるだけで」


改めてユーニの背を見つめると、彼女の白い羽根がいつもよりしなびて見えた。
アイオニオンは“古戦場”と呼ばれる場所がいくつもある。
無数の骸が山積している光景も決して珍しいものではない。
戦場に生きる兵士なら、荒廃した古戦場や無数の骸にいちいち怯えている暇などないはずだ。
 
ユーニのような性格なら何も気に留めないと思っていた。
だが、意外にも彼女は繊細なタイプだったのかもしれない。
いつもの男勝りな性格は、繊細で弱々しい自分の本質を隠すための鎧であり、ただの強がりでしかない。
弱い自分を外気に晒さないために、強い自分を演じる。
傷付かないために、強がりという名の鎧をまとう。
そんな彼女の姿に、タイオンは初めて共感した。

かつての自分も、ナミを失い心に傷を負ったことで慎重さという名の鎧を身に着けた。
これ以上傷つかないように、失敗しないように、一歩前に踏み出すにもひとつひとつ決意を固めなければ前進しようとしない。
それが、タイオンにとっての“強がり”だった。

思えば、死を前に体が震えることも、恐れを抱くことも至極当然のことだ。
命を失うこと、奪われることに怯えない者はいない。
タイオンとて例外ではなかった。死ぬのは怖い。
ユーニは自分とは正反対だからそんな弱々しい怯えなどには縁がないと思い込んでいた。
だが正反対どころか、彼女の心は自分と同じくらい恐怖と怯えに支配されているのかもしれない。
初めて見つけたユーニとの共通項は、タイオンの心をほんの少しだけほぐしてくれた。
ユーニという人物の心の一部が見えたような気がする。

食事の後片付けを終え、ノアは離れた場所でブレイドの素振りを始めた。
まだ眠るには時間が早い。ふとユーニの背に視線を向けると、彼女は焚火の前で座り込んだまま頭をもたげていた。
居眠りをしているのかもしれない。
あんな体制でうとうとしていると、体が痛くなってしまうだろうに。

ポッドの湯が沸いたことを確認すると、タイオンはハーブティーを用意し始める。
毎晩寝る前にハーブティーを一杯飲むことが彼のちょっとしたルーティーンである。
いつもは自分の分だけに湯を注いでいた彼だったが、今日はテーブルにカップが2つ並んでいる。
今日のハーブはセリオスアネモネだ。この花の香りは昂った心を落ち着かせてくれる効果がある。
恐怖感を必死に抑えている彼女の心に、このセリオスティーがどれだけ染み渡ってくれるかは分からないが、少しくらいはマシになるかもしれない。
 
ハーブティーを淹れ終わったタイオンは、2つのカップを持ちながら振り返る。
すると、焚火の前で座り込んでいるユーニが自らの膝を両腕で抱え込んでいる光景が視界に入ってきた。
膝を抱えているユーニの指が、明らかに震えている。
どうやらノアの考察は当たっていたようだ。ユーニは恐怖感と戦っている。
具体的に何に怯えているのかは知る由もないが、このハーブティーが少しでも彼女の心を癒してくれることを信じ、タイオンはカップを差し出した。

もしかすると、余計なお世話だと突っぱねられるかもしれない。
ガラにもないことをするなと顔を背けられるかもしれない。
冷たい態度を取られることは多少覚悟をしていたが、振り返ったユーニの顔を見てタイオンは驚いてしまった。
揺れる青い瞳は悲し気な色をしていて、肌の血色も悪い。
不安や恐怖を滲ませた彼女の表情を見たの初めてだった。

なんて顔をしているんだ。
そんな顔になるまで、ずっと一人で耐えていたのか。

“ありがとう”と消え入りそうな声で呟き、カップを両手で受け取るユーニ。
カップの中のセリオスティーはユーニの小刻みな震えのせいで水面が揺れている。
随分と素直にタイオンの厚意を受け取ったユーニの行動から、相当参っていることが見て取れる。
 
いつもより小さく感じるユーニの隣に腰かけると、タイオンは自らの手の中にあるカップへと視線を落とす。
そう言えば、自分で淹れたハーブティーを誰かに振る舞うなんて初めてだ。
なるべく癖が出ないように丁寧に淹れたつもりだが、口に合うだろうか。
温度も少しだけ低く設定して火傷しないように気を付けたつもりだが、熱過ぎたりしないだろうか。
ガラにもなく心配しながら横目にユーニを盗み見ると、カップに口を着けた彼女が穏やかに笑ったことを確認し、ほんの少しだけ安堵した。
ハーブティーの温かさが、ユーニの恐怖を溶かし震えを止めた。
望んだ実益を発揮してくれたハーブティーに感謝しながら、タイオンは口元に笑みを浮かべる。


「実益になったようだな。なによりだ」


その言葉に、ユーニが目を丸くしながらこちらを見つめてきた。
その瞬間、2人の心が初めて同じ形に重なったような気がした。


***


翌日、休息地を後にした一行は、タイオンの案内によってインヴィディア坑道を進むこととなった。
どうやらこのあたりには、かつてタイオンが所属していたコロニーが展開しているらしい。
てっきりタイオンはミオやセナと一緒にずっとにあのコロニーガンマに籍を置いていたのだとばかり思っていたが、元々は転属してやって来たのだという。
 
これは勝手な想像だが、インタリンクする際見えるあの悲壮な光景は、ガンマに来る前の記憶なのだろう。
タイオンの身に一体何があったのか、これまではあまり興味が持てなかった。
彼は冷淡で、その人柄や過去に興味を引かれるほど“理解したい”と思えなかったから。
だが、昨晩の彼との短い会話が、ユーニの心をほんの僅かだけ揺り動かしていた。

温かなハーブティーを差し出し、恐怖に震える心に寄り添おうとしてくれたタイオンは、間違いなく優しかった。
今まで向けられたことが無かった温い優しさに、ユーニは戸惑ってしまう。
現実主義で、人と距離を置きたがる冷淡なタイオン。
“僕も同じだ”と言って隣に寄り添ってくれた柔いタイオン。
どちらが本当の彼なのだろう、と。


「大丈夫か?」


不意に、隣を歩くノアから声をかけられる。
彼の問いかけには主語がなかったが、何のことを言っているのかすぐに理解できた。
だが、分からないふりをして“何がだよ”と返すと、ノアはいつもと変わらない穏やかな表情のまま言葉を続けた。


「疲れてたみたいだから」


ノアは察しがいい。
心に影を落としたユーニに一番最初に声をかけてくるのは、いつもノアの役目だった。
過度に気遣わず、さらりと声をかけてくるノアの気遣いは心地よかったが、今回ばかりはあまり深堀してほしくなかった。
自分の精神状態は自分自身でコントロールしていたい。常々そう思っていたが、最近は心の震えが抑えられないのだ。
カーナの古戦場で見た、自分と同じ名前の骸が頭をよぎる。
覚えのない記憶が、やけに鮮明に瞼の裏に再生され、体の芯を凍らせるような恐怖が沸き上がってくる。
迫りくる爪も、駆ける戦場も、手に持っているブレイドも覚えがないのに、まるで昨日体験したことのような現実感がそこにある。
一体何なんだあの記憶は。自分でも分からないこの恐怖を、無闇に人に話したくはなかった。


「大丈夫だよ。つか別に疲れてねぇって」
「そうか?まぁ、何か思うところがあったら、せめてタイオンには言った方がいいかもな」
「はぁ?お前やランツならともかく、なんでタイオン?」
「昨日、ユーニのこと凄く心配してたみたいだから」
「え……」


ふと、背後を振り返るとランツと並んで歩いているタイオンの姿があった。
一瞬だけ目が合った気がして、すぐに逸らしてしまう。
あのタイオンが、アタシを心配していた?
正直、あまり信じられなかった。
けれど、実際彼は昨晩自分にハーブティーを振舞って隣に寄り添ってくれていた。
あの行動が優しさからくるものなのか、それとも打算的な行動だったのかは分からないが、少なくなくもユーニは彼の行動に救われた。
垣間見えたタイオンの“もう一つの一面”が、ユーニの心を搔き乱す。
タイオンという男は、一体どんな奴なのだろう。
ここにきて、ユーニは初めてたった一人のパートナーに興味を抱いていた。


「タイオンってハーブティー淹れるのも上手だったんだね」


不意に背後からセナの甲高い声が聞こえてくる。
どうやら彼女がタイオンに声をかけたようだ。
正直、その話題にはあまり触れてほしくなかった。
昨晩のハーブティーの件が話題に上がれば、何故ユーニだけに振舞っていたのかという質問が飛んできてもおかしくない。
問いかけられたタイオンは素直に答えてしまうだろう。
“ユーニが何かに怯えているようだったから”と。
弱いところを人に見せるのは嫌だった。
繊細な部分は、ガサツな性格を演じる仮面で覆い隠しておきたい。
“強いユーニ”のままでいたかったのだ。

あぁ、嫌だな、その話。
アタシがビビってたってバレるじゃん。

背後で展開される会話に聞き耳をたてながら、ユーニは自らの足元に視線を落とした。
だが、そんな彼女の耳に届いたのはタイオンの意外な返答だった。


「今度セナにも淹れてあげるさ……。さて、この話はおしまいにしよう」


不自然なほど強引に話を切り上げたタイオンは、歩くスピードを上げて前方のノアとユーニを追い抜かした。
一人、足早に前を歩くタイオンの背中を見つめながら、ユーニは息を呑む。
どうしてそんな強引に話を切り上げたのだろう。
もしかして、昨日のやり取りを他の面々に知られないため?
アタシに気を遣ったのか?
いやまさか。タイオンはそんなヤツじゃない。
現実主義で冷淡なあいつが、そんな繊細な気遣いをするわけがない。
きっとたまたまだ。そうに違いない。
未だ霧に包まれているタイオンという唯一のパートナーを前にユーニの心は迷っていた。


***

 

インヴィディア坑道はコロニーラムダに所属していた頃から何度か訪れたことがあったが、その頃に比べて中の構造が若干変わっていた。
恐らく、タイオンがラムダを離れた後に勃発した幾度かの戦闘によって、新しく道が出来たり塞がったりしたのだろう。
外よりも若干冷たい空気が肌寒さを呼び起こす。
坑道を進むと決まった時からテンションが上がっていたリクを先頭に、一行は鉱石を探しつつ前進していた。
荒れた道を進んだ先に、比較的広い空間へとたどり着く。
“この辺なら貴重な鉱石が埋まってるかもしれないも”と言うリクの言葉を信じ、6人と2匹は散り散りになって鉱石を探し始めた。

タイオンは植物の種類には明るい自覚があるが、鉱石に関してはあまり詳しくない。
それらしい石を見つけたところで、それが本当に貴重な鉱石かどうかは判別できない。
周囲を見渡しながら、どれもこれも同じ石にしか見えないなと心で呟いていたタイオン。
そんな彼の耳に、ユーニの耳をつんざくような甲高い声が聞こえてきた。


「あったーーー!」


喜びに満ちたユーニの声に驚いたタイオンは、すぐ近くで地面にうずくまっているユーニへと駆け寄った。
貴重な鉱石を見つけたのか。
期待して彼女の手元を覗き込むと、その手の中にあったのはごつごつした鉱石などではなく、新緑のクローバーだった。


「まさか坑道に生えてるなんてなぁ」
「なんだそれは。クローバーか?」
「ただのクローバーじゃねぇよ。フォーチュンクローバー」


彼女が見せびらかすように差し出してきたのは、葉が4枚ついたフォーチュンクローバーだった。
4枚の葉を嬉しそうに見つめるユーニは、確か初めて会った時にこの希少なクローバーを集めるのが趣味だと口にしていた。
フォーチュンクローバーにはちょっとした迷信がある。
7枚集めたら死なないというものだ。
実際に7枚集めて死ななかった人間がいるとは聞いたことが無い。
明らかにただの都市伝説というやつだろう。
現実主義なタイオンは、そういった曖昧な噂を信じる気にはなれない。
だがユーニはこの迷信を信じているのか縋っているのか、この4枚の葉を持つクローバーを着々と集めていた。


「幸運の象徴のような言われ方をしているが、自然の突然変異で葉が一枚多くなっただけだろう。特に何の特別感もないと思うが?」
「けど、4枚目の葉を持つクローバーは実際珍しいわけじゃん?突然変異だろうが何だろうが、特別な4枚目の葉を持ってるってだけで、奇跡的で運命的な存在だと思うけどな」


茎の部分を指先でつまみ、くるくると回しながらユーニは言う。
確かに、このクローバーにとって4枚目の葉は特別なのだろう。
この4枚目があるおかげで、その辺に生えている“ただのクローバー”から、希少性の高い“フォーチュンクローバー”に価値が上がっているのだから。
だが、やはりタイオンはそこに運命的な理由を見つけられそうにない。
ユーニにとっては“幸運のクローバー”でも、現実主義なタイオンにとっては“葉が他より多いただのクローバー”でしかないのだ。


「分からんな、その感性」
「ははっ、やっぱりお前とは気が合わなそうだな」


その言葉はユーニから何度も言われていた。
だが、こんなにもにこやかに言い放たれたのは初めてだった。
嫌味や忌み事が一切含まれない彼女の態度に、タイオンは少しだけ戸惑ってしまう。
そして、眼鏡を押し上げ視線を外しながら、彼も呟く。
“そうかもな”と。


***

「いい加減しぶといぞ!」


憎しみを滲ませたイスルギの声が、ラムダの鉄巨神を介して耳に届く。
無数に取り付けられた砲台から一斉に放たれるエーテル弾が、まっすぐな軌道を描いてあたりを貫いていく。
敵も味方もお構いなく残滅しようとしているその戦い方に、見境はない。
水源の水に足元を濡らしながら、タイオンは叫んだ。


「イスルギ軍務長!もう、もうやめてくださいっ!」


インヴィデア坑道を抜けた先で待っていたのは、見慣れた景色と見慣れた鉄巨神。
そして、初めて見るイスルギの怒り狂った顔だった。
イスルギに恨まれていることは何となく察していた。
けれど、誰よりも優しい彼は隠した恨みを一切表に出さなかった。
あれから数年。久方ぶりに会うイスルギは、鋭い恨みをタイオンに向けている。

恨みつらみは時間が経てば解決する。そんな考えは、10年しか生きられないこの世界では通用しない。
鋭く尖れた恨みの刃は、タイオンだけでなく他の仲間たちをも巻き込んで傷をつけようとしていた。
イスルギが放ったエーテル弾は、味方の兵であろうとも容赦なく貫いている。
こんな戦い方、イスルギ軍務長の戦い方じゃない。
あんなに優しかった彼が、恨みに支配されて手を汚してしまうところを、これ以上見ていられない。
足がすくむ。どうしていいか分からず立ち止まったままの彼を、この世でたった一人のパートナーが呼ぶ。


「タイオンっ!」


上擦った声と共に、ユーニは走り出す。
悲痛な表情で固まったまま動かないタイオンを守るため、無意識に足は回る。
そして、彼の身体に飛び込んだ瞬間、ラムダの鉄巨神から発射されたエーテル弾はユーニの羽根をかすめた。
青空を背景に、ユーニの白い羽根が舞い上がる。
その光景を見つめながら、タイオンは思い出してた。
あの日、大切な人を失った時の光景を。

このままじゃ、みんな死んでしまう。
自分のせいで、また人は死ぬ。そんなこと看過できるわけがない。
決意の炎が宿った時、舞い上がる羽根はタイオンの褐色の手の中に納まった。

浮遊感と共に視界に広がるのは、見覚えのない記憶たち。
すべて、ユーニから流れてきているものだ。
はじめてインタリンクした時とは違う。見ていただけのあの時とは違う。
四肢に力を籠めれば体が動く。心の思うままに翔べる。
これが、ウロボロスの力なのか。

水柱と共に現れた白い影に、イスルギは容赦なくエーテル弾を発射する。
モンドを操るように幻影を出現させ、舞うように光の束をかわしていく。
するりするりと翻弄するかのような戦い方に、イスルギの怒りは温度を上げていく。
もう、彼の怒りが収まることはないのだろう。
これ以上の犠牲を出さず、この場を静める方法はただ一つ。
イスルギを殺す以外にない。

浮遊感に包まれたウロボロスの“体の中”で、タイオンは右腕を上げる。
その動きにリンクして、白い影も同じように右腕を上げた。
複数のモンドが一斉に集まり、巨大な岩を作り出す。
ラムダの鉄巨神の弱点はよく知っている。
バランス感覚に優れたこの鉄巨神の防壁は堅く、真横や正面からの攻撃はびくともしない。
だが、真上の円盤部分は比較的脆い。
真上から衝撃を与えれば、中の操縦スペースも潰れる。鉄巨神は、繰り手と共に沈黙するだろう。

すみません、軍務長。僕のせいで。
僕がもっとしっかりしていれば、貴方の大切な人が死ぬことはなかった。
貴方にあんな恨みのこもった顔をさせることもなかった。
その怒りが、命と引き換えに鎮まるというのなら、こんな命いくらでも差し出します。
この手に抱えた大罪は、この僕の命をもって償ってみせる。
すぐに後を追うから、だから、だから今は——。


「やめろーっ!」


上げられた右手が掴まれる。
忘れていた。この空間にいるのは自分だけじゃない。ユーニも一緒なんだ。
今にも大岩をラムダの鉄巨神に振り落とそうとしているタイオンの手が、ユーニの華奢な手によって固定される。
どこにこんな力を隠していたんだと疑いたくなるほどの怪力だ。


「ユーニっ、なにを……っ」
「そんなことしたらっ、お前一生後悔するだろ!絶対ヤメロ!」
「後悔なんてない!僕の一生は今日ここで終わらせる!」
「っざっけんな!!!!」


喚かれその一言に、ユーニの怒りが頂点に達した。
タイオンの手首を両手で掴んだまま、ユーニは怒鳴り散らす。


「自惚れてんじゃねぇ!! 自分の命ひとつで全部解決できると思うなよ!!」
「っ、」
「テメェが死んだところで何も変わらねぇ!! 世界からテメェがいなくなるだけなんだよ!!」


2人だけの世界に、ユーニの怒鳴り声が響く。
死を選んだことで、状況が何も変わらないことはタイオン自身よく分かっていた。
自分ごときの命では、ナミを死なせてしまった罪も、イスルギを悲しませてしまった罪も、贖うことは出来ない。
この命を差し出したところで、誰も救われないのだ。

腕に込めていた力が抜ける。
脱力と同時に右腕を下ろし、拳を握りしめた。
その瞬間、ラムダの鉄巨神に向かって落ちようとしていた大岩は弾け、白い羽根のようにモンドが舞い落ちる。
全身から力が抜けて、タイオンは膝を突きそうになってしまう。
そんな彼を、ユーニはとっさに抱き留めた。


「すごいな、君は」
「え?」
「今ウロボロスの主導権を握っているのは僕だ。なのに、そんな風に自由に動けるなんて」


今までユーニが主導権を握っていたとき、タイオンは離れた場所でただ見ているだけだった。
そっちじゃないだの、今は違うだの指示を出すばかりで、強引に前に出るなんて出来なかったのに。
ユーニはいとも簡単に前に出て、タイオンの手を止めた。
そんな彼女の行動に、タイオンは驚きを隠せなかった。


「馬鹿。一緒に戦ってんだから、当たり前じゃん」


至極当然のことを言い放ったユーニは、薄く笑っていた。
そうか。そうだったんだ。
今まではユーニに“戦ってもらっていた”だけで、“一緒に戦っていた”わけではなかった。
主導権は関係ない。
共に戦うという意思が、タイオンには決定的に欠けていたのだ。

ユーニと僕は運命共同体だ。
生きるも死ぬも戦うも、もう1人ではいられない。
バラバラだった二人の心が、1つに重なり合う。
弾け飛んだ大岩の幻影は、ひらひらと舞うモンドへと姿を変える。
鉄巨神の上に降り注ぐ白いモンドには、いつもとは違う凛々しく美しいツバサが生えていた。

ユーニの眩しすぎるほどの信念を隣で感じながら、タイオンは再び立ち上がる。
イスルギを殺すのではなく、救うために。


***

コロニーラムダは、大瀑布の中心に鉄巨神を構えている立地上、今まで巡ってきた土地に比べて湿度が異様に高い。
湿気でうねる髪を鬱陶しく思いながら、ユーニは命の火時計から解放されたばかりのコロニー内を歩いていた。

ラムダの火時計がノアの手によって破壊されたのはつい2時間ほど前のこと。
大滝の前で繰り広げられた派手な戦闘によってラムダの鉄巨神は見事にひっくり返り、気を失っていたラムダの兵たちは突如訪れた急激な変化に驚きを隠せないようだった。
それは、軍務長であるイスルギも同じである。
医療班のパイプ式ベッドで目を覚ました“本物のイスルギ”は、少し前に自分たちに牙をむいていた泥人形とは打って変わって穏やかな人だった。
凛とした立ち居振る舞いと、知性を感じさせる口調、そしてどこか寂し気な瞳。
どことなく、タイオンに似ているような気がした。

タイオンはイスルギを、“誰よりも優しい人”と称していたが、彼と同じ顔と声をした泥人形は明らかに優しさから対極の位置に存在していた。
敵として自分たちの前に立ちはだかったあのイスルギは、怒りと憎しみに満ちた表情を浮かべ、タイオンへの恨みを隠そうともせず言葉の矢を放っていた。
その言葉の数々に、タイオンが瞳の奥で傷を負っていることをユーニは知っている。
インタリンクすれば、相手の感情がダイレクトに自分の中に流れ込んでくる。
あの時タイオンから感じたのは、深い悲しみと自責の念だった。

イスルギの恨み節を聞いたことで、断片的にしか見えていなかったタイオンの過去がユーニの頭の中でなんとなく形を整え始める。
タイオンに懐中時計を託し優しく微笑むあの女性が、タイオンにとってどんな存在だったのか。
期待を背負っていた彼が何故ラムダからガンマに転属となったのか。
そして、何故そこまで人と距離を取ろうとするのか。
現在のタイオンを形成するに至った背景を想像し、ユーニは複雑な心境になった。

言ってくれればよかったのに。
そうすればもっと早く彼を理解できた。
冷たい態度を取り続ける理由や背景が分かれば、腹を立てずに済んだかもしれない。
そこまで考えて、ユーニはかぶりを振った。
いや違う。タイオンが悪いんじゃない。アタシが悪いんだ、と。
今まで、タイオンのことを知ろうともしなかった。どうせ現実主義の冷たい奴だと決めつけて、その背景にどんな過去が隠されているのかなんて想像もしなかった。
理解する努力もしなかったくせに、今更“言ってくれればよかった”なんて虫が良すぎる。
もっときちんとタイオンのことを知っていれば、無駄な言い争いをすることもなかった。溝を感じることもなかったはずだ。


僕の何を知ってるっていうの?


脳裏に響くかつての友の声に、ユーニは足を止める。
ヨラン。いや、今となってはメビウスの初号を持つ彼は、かつての“ヨラン”という名を捨て“ジェイ”と名乗っていた。
自らの素性を明かす時も、ラムダ兵を型取った泥人形を次々壊していった時も、彼は嬉々とした表情浮かべていた。
かつて一緒に訓練兵時代を過ごしていた時は一度も見せなかったその汚れ切った顔に、ユーニは呼吸すら忘れてしまう。

あいつはそんな奴じゃなかった。
誰よりも気が弱くて、でもすごく優しくて、自分を犠牲にしてでも人を助けるような奴だった。
なのにどうして?
その答えは、彼自身の冷え切った言葉で投げ返された。
これが本当の僕なんだよ、と。

見えていなかったのだ。ヨランの心の裏を。
表面ばかり見つめて、“アイツはそういう奴だ”と決めつけて、人のことを分かったふりをする。
本当は何も知らない癖に、理解出来ていない癖に。
誰よりも傲慢で、自分が思っている以上に他人に無関心だった自分が嫌になる。
冷たい奴だったのは、タイオンじゃなくて自分の方じゃないか。
自らを嘲笑しつつ、ユーニは歩き始めた。

タイオンの姿が見当たらない。
そろそろミオとセナが外で作っている夕食の準備が整う頃合いだ。
おそらく食事を楽しむ気分ではないだろうが、それでも何も食べないよりはマシだろう。
そう思い、ユーニは冷たい洞窟で囲われたラムダの中を、あの橙色を目印に捜し歩いていた。
 
やがて目立つ色が視界に飛び込んでくる。
積み上げられたコンテナの裏。そこからはみ出るようにマフラーが見えていた。
恐らくあのコンテナの裏に座り込んでいるのだろう。
ようやく見つけた彼の背に、ユーニはゆっくりと歩み寄る。
そして、彼の名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、異変に気付いてしまう。

コンテナから見え隠れしている肩は震え、癖の強い頭はこれでもかというほど下を向き、そして僅かに鼻を擦るる音がする。
左手で目元を抑え、右手には先ほどイスルギから渡された懐中時計が収まっていた。
その光景を見て、ユーニは一瞬で察してしまう。タイオンが涙を流していることを。

咄嗟に近くのコンテナの陰に隠れ、そっとタイオンを見守る。
肩を揺らしながら涙を流す彼は、堪えきれない感情の波を必死に抑え込んでいるように見えた。
コロニー内を流れる水音に交じって響くタイオンの啜り泣く声を聞きながら、ユーニはその場に座り込む。
そして、自分の膝を抱え込み心で呟いた。
あいつ、泣いたりするんだ……。

目を覚ましたばかりの“本物のイスルギ”に、タイオンは気を遣っていた。
ヨランが作った泥人形は、偽物とはいえ本人の深層心理を形にした存在である。
偽物であって偽物でないその言葉は、イスルギの奥深くに眠る本音に他ならない。
慕っているイスルギの本音を全身に浴びてしまったにも関わらず、タイオンはイスルギに献身的だった。
“いつもの優しい軍務長でした”。
そう言って微笑むタイオンを見つめながら、ユーニは思ったのだ。
“優しいのはお前の方だろ”と。

“何を知ってるっていうの?”
そう言って冷たい視線を寄越して来るヨランを脳裏に思い描きながら、ユーニは彼に心の中で語り掛けた。

そうだなヨラン。お前の言う通りだ。
アタシは何も見えてなかった。ヨランのことも、タイオンのことも。
アイツは冷酷な奴なんかじゃない。
限界が迫ったミオを常に気にかけ、気遣ってやれる奴だ。
慕っていた人間に恨み節を吐かれても、微笑んで許してしまうような奴だ。
相手の恨みを晴らさせるためなら、自分の命すら差し出す覚悟が出来るやつだ。
恐怖に震えているアタシに、ハーブティーを差し出しながら遠回しに慰めようとしてくれるような奴だ。
そんな奴が、冷酷なわけないじゃないか。

ヨランだって同じだ。
アタシの知らないところで、きっとたくさん悩んで、悲しんで、辛い思いをしたうえでメビウスになる選択をしてしまったに違いない。
トモダチだったのに、9期に差し掛かった今になって気付くなんて本当に馬鹿だ。

アタシ、タイオンやヨランの何を見てたんだろう。

俯く視界に、涙が零れ落ちる。
いつの間にか泣いていたらしい。
頬を流れる涙に驚き目元を手で拭き始めるユーニ。そんな彼女の視界の端に、白い靴が見えた。
その靴の正体をユーニは知っている。顔を挙げた先にいたのは、案の定タイオンだった。
彼は銀色の水筒を差し出しながらこちらを見下ろしている。
その水筒を恐る恐る受け取ると、表面がほんのり温かかった。


「なに、これ」
ハーブティーだ」
「水筒に入れてるの?」
「その方が便利だろう。“こういう時”にいつでも差し出せる」


水筒を抱え、地面に座り込んだまま視線を上げると、顔を逸らしながら眼鏡を押し上げている“いつものタイオン”がいた。
けれど、彼の褐色の瞳はわずかに赤らんでいる。
泣いていたという事実を隠しきれないほど腫れている目をしたまま、タイオンはなんとか平静を装うとしいた。

 
「ヨランのこと、気にするなとは気安く言えないが、その、あまり落ち込むな」
「……」
「人の心はそう簡単に理解出来るものじゃない。親しい相手だったとしても、相手の本質をすべて理解しようなど無理な話だ。そうだろ?」


相変わらずぶっきらぼうな慰め方だった。
慰めるべきはきっとこっちの方なのに、人のことばかり気にして手を差し伸べようとしているタイオンが恨めしく思えてしまう。
彼の優しさはこんなにも分かりやすかったのに、何故今まで気付けなかったのだろう、と。

鼻をすすりながら、手渡された水筒のふたを開けてみる。
セリオスアネモネのいい香りが鼻腔をくすぐり、ざわついた心を落ち着けてくれた。
ゆっくりと口を着けると、あの時初めてタイオンから振舞ってもらったハーブティーと同じ風味が舌の上に広がる。
優しい味だ。冷たくなった心を溶かし、ゆっくりと包み込んでくれるような、落ち着く香りがする。


「やっぱうめぇわ、これ」
「……気に入ったなら何よりだ」


水筒を両手で抱えながら微笑むと、タイオンは少しだけ視線を逸らしてそう言った。
タイオンという男のことはまだ半分も理解していないけれど、一つだけ分かったことがある。
彼は意外にも、まっすぐな誉め言葉に弱い。
軽口交じりに褒めると鼻高々にしたり顔を浮かべるくせに、柔らかく素直に褒めると、彼はいつも決まって視線を逸らす。
もしかすると彼は、プライドが高い割に自己肯定感が低いのかもしれない。
始めて見えたタイオンの“柔い部分”に、ユーニは少しだけ嬉しくなってしまった。
もうすっかり涙は引っ込んでいて、ようやく上手く笑えるようになったユーニは水筒をタイオンに返しつつその場から立ち上がる。


「なぁ、今度レシピ教えてくんない?自分で淹れてみたい」
「気が向いたらな」
「それ絶対教えてくれないやつじゃん」
「こだわり抜いて淹れているんだ。他人に易々と共有するのは気が引ける」
「んだよケチ」
「誰がケチだ失礼な」
「くくっ……あっはははは!」


あまりにも早いタイオンのツッコミに、ユーニは思わず声を挙げて笑った。
タイオンの新しい一面がまた見つかった。
こういう軽快な会話もちゃんとノッてくれる奴なんだ。
白い羽根を揺らしながら愉快に笑うユーニの横で、タイオンもまた僅かに口元を緩ませている。
思えば、こうして彼と笑い合うのはこれが初めてだった。

 

知りたい心

コロニーラムダでの一件は、タイオンの心に明確な変革を起こしていた。
自分もインタリンク出来るようになったことも要因の一つだが、イスルギとのわだかまりが消えたことが何よりも大きかった。
いや、正確には完全に消えたわけではないのだが、泥人形を通して本音をぶつけてもらえたことで、タイオンの心に残った粘つくヘドロが一部洗い流されたように思えたのだ。
 
イスルギは優しい。ナミの一件があってからも、彼はタイオンに対する態度を一切変えなかった。
だがそんな彼の優しさが辛くもあった。
いっそ恨みをぶつけられていた方が楽だと思える。
だからこそ、鋭い言葉で自分を罵倒してきたあの泥人形の言葉は、ある意味効いた。
恨みをぶつけられた事で、あの一件に一つの区切りをつけられたような気がしたのだ。

それともうひとつ、タイオンの心を軽くする出来事があった。
ユーニが一人で密かに涙を流す光景を見たのである。
ラムダを襲ったメビウスの正体は、ノアやランツ、そしてユーニにとっての旧友であるヨランだった。
その事実は、あの3人の心に明確な混乱を呼び起こしている。
当然だろう。死んだと思っていた友人が実は生きていて、しかも敵として目の前に現れたのだから。
泣きたくなる気持ちもよくわかる。
 
だが、あのユーニが一人で隠れるように涙を流すタイプだとは思わなかった。
感受性豊かな方だし、自分と違って彼女は明るく素直な人である。
昂った感情を喚き散らしながら派手に泣き、周囲に慰められるような、そんな人だと思っていた。
だからこそ、コンテナの裏に座り込み一人で啜り泣く彼女には驚かされた。
ユーニは、弱っているところを誰かに見られるのが嫌らしい。
強がりの仮面を被っているその生き方は、タイオンのそれと共通しているところがあった。

その気持ちは分かる。
だがだからといって放置するわけにはいかない。
少しでも足しになればと思い、タイオンはハーブティーが入った水筒を差し出した。
“美味い”と言ってくれた彼女の表情はいつも以上に柔らかくて、その顔を見た瞬間タイオンは安堵してしまう。
まだ彼女とは付き合いも浅いし、彼女の人となりを100%理解したわけでもない。
だがこれだけは言える。彼女は決して強い人間ではない。だが、強くあろうとしているのだ。
恐怖や涙を必死に隠そうとするユーニを横目に、タイオンは心の中で呟いていた。
“無理に隠す必要なんてないのに”と。

コロニーラムダを後にした一行は、数日歩き続けた先でモルクナ大森林に突入した。
太古の建物が乱立し、そこに植物たちが根を張っているこの深い森は、上層と下層に構造が分かれている。
下層には毒素の強い植物が多く生えており、黒い霧も充満している非常に危険な場所だ。
一行が進路として歩いている上層は比較的安全ではあるものの、高低差があるため下を見れば震えるような高さが恐怖を煽る。
足場の悪い道を進みながら、一行は森を抜けるため休まず進み続けた。
大木の幹の上を伝いながらゆっくり進む6人と2匹のノポン。そんな彼らの最後尾を歩くのは、いつもより口数が少ないユーニだった。

彼女が高所を苦手としていることは、インヴィディア坑道を通りがかった時の様子で気付いていた。
強がりな彼女は“高いところが苦手”とは一言も口にしていなかったが、わずかに震える足としなびた頭の羽根を見れば一目瞭然である。
滑りやすい道を歩きながら、ユーニは足元に視線を落とす。
そのたび顔色を悪くしながら視線を上に戻し、しばらくするとまた不安になって足元を見る。その繰り返しであった。
そんなことをしているせいで、ユーニは一人だけ一行の列から遅れつつある。
彼女のことを密かに気にかけていたタイオンは、ゆっくりゆっくり最後尾を歩くユーニを振り返りながら足を止めた。


「高いところが苦手なら目を瞑っていたらどうだ?」


足元を見つめていたユーニが、数メテリ前で立ち止まっているタイオンを一瞥しすぐに視線を戻す。


「それじゃ足を踏み外すかもしれないだろ」
「なら僕に——」


“掴まっていればいいじゃないか”
そう言おうとして手を差し伸べたタイオンだったが、その言葉はユーニによって遮られた。


「つか別に怖くねぇし」


恐怖の色を滲ませながら睨みつけてくるその目に、迫力はない。
だが、タイオンをむっとさせるには十分な威力を発揮した。
差し出された手を無視して横を通り抜けるユーニの身体は震えている。
怖くないなんて嘘だ。コロニータウを抜けたあたりから明らかに様子がおかしいじゃないか。
 
自分を追い抜いたユーニに苛立ちながら、前を向き直るタイオン。
そんな彼の視界に、前を歩くユーニの肩越しにノアとミオの姿が見えた。
大きな木の根を踏み越えようとするミオに、ノアが反対側から手を差し伸べている。
差し出された手を素直に握り返したミオは、ノアの手に頼りながら軽々と根を踏み越える。
その光景を見つめながら、タイオンは余計に腹立たしくなった。
ミオはあんなにも素直にノアの手を受け入れているというのに、何故彼女はこうも強がってばかりなのか。
弱いところを見せたくない気持ちは分かるが、もう少し頼ってくれてもいいのに。

ノアとミオは、出会ったばかりの頃から息が合っていたが、最近はその絆が一層硬くなったように思える。
互いに互いを信頼し合い、必要とし合っている。
戦場を共に駆けるパートナーとしては、実に理想的な関係と言えた。
ユーニとの確執はほとんどなくなっている。
だが、だからと言って彼女との距離が縮まったわけではない。
いつになったらノアとミオのように信頼し合える関係になれるのだろうか。

そこまで考えたところで、タイオンはハッとした。
ほんの少し前まで、ユーニと距離を縮めようだなんて1ミリも思っていなかった。
それどころか、自分が引いた境界線から1歩たりとも近付いて欲しくないとまで思っていたのに。
いつの間にか、ユーニとの距離が縮むことを望んでいる。
 
あぁまったく。こんなの自分らしくない。
ユーニとは以前のように戦い方のことで喧嘩になることも少なくなった。
メビウスや野生のモンスターとの戦闘で支障が出ないほどには既に息が合っている。
これ以上距離を縮めても得になるようなことは何にもないじゃないか。
必要以上に距離を縮めてしまったら、またあの時のように辛い思いをする羽目になるかもしれない。
それだけは嫌だった。


***

モルクナ大森林の夜は、他の場所に比べて異様なほど静かだった。
風に揺れる葉の音だけが周囲に響く空間で、ミオの怒鳴り声は良く響く。


「分かってない!全然!」


喚くミオは、戸惑うノアを置いて走り去ってしまう。
前後の会話の内容が分からないため原因は計り知れないが、とにかくノアとミオは喧嘩をしたらしい。
いつも互いに支え合っているように見えるあの2人も、ぶつかり合うことがあるのか。
そんなことを思いながら眺めていると、今度はセナがノアに歩み寄っていた。
何を話しいるのかはやはり分らないが、ノアの表情から見ておそらく説教でもされているのだろう。
ミオによく懐いているセナのことだ。大方、“あとでちゃんとミオちゃんに謝るんだよ?”とでも言っているのだろう。

ミオが走り去った方向に視線を向けてみるが、上から垂れ落ちている蔓や木の根に阻まれてよく見えない。
そういえば、ミオがあんなふうに喚いているのは初めて見た。
ガンマで初めて会った時からミオは何があっても常に気丈に振舞っていて、誰かの心の支えになれるような人だった。
後輩は彼女をよく慕い、同期たちや軍務長からの信頼も厚い。
おくりびとの役目を担っている割に身体能力が高く、実践訓練の成績は誰よりも高かった。
それでいて周囲を気遣う心を忘れず、孤立している仲間がいれば率先して声をかける。
 
タイオンもかつて、彼女の“お節介”に何度も巻き込まれた。
弱味を見せず、涙も流さず、愚痴も吐かないミオは、一見完璧な女性に見える。
だが、そんな彼女がノアだけに見せた激しい一面は、今までの“ミオ”がまるで虚像だったのではないかと思えるほど弱弱しかった。
きっとあれが、本当のミオなのだ。

死ぬのが怖いか?という問いに、彼女は“分からない”と答えていた。
あれはきっと彼女の本音ではない。
死ぬのが怖くない人間などいない。きっと恐怖なり寂しさなり、負の色を持った感情が生まれているはずだ。
それを誤魔化し、“分からない”の一言で片付けていた“強いミオ”が、ノアの前でだけその姿を崩した。
ミオとの関りは、同じコロニーで数年過ごしてきたタイオンやセナの方が深いはずなのに、彼女は他の誰でもないノアの前でだけ、“強がりの仮面”取り払ったのだ。
それは、ミオがノアに心を寄せている証とも言える。
心置きなく弱音や愚痴を喚き散らせるほど、ミオはノアに寄りかかれているということか。

セナとノアのやり取りを見つめながら、正面に座っているランツが“面倒くさそうだな”と評した。
確かに、あぁいうぶつかり合いは正直面倒だ。
男に比べて女という生き物は心の移り変わりが激しく、所謂“女心”というものは雲のように掴みづらい。
ノアとミオのぶつかり合いも、きっと大それた背景などないのだ。
単純な感情のぶつかり合い。理性や論理の世界で生きているタイオンにとって、ロジカルとは決して言い難い感情同士のぶつかり合いは面倒の種でしかない。


「だが、少し……」


本音が零れ落ちそうになって、タイオンは急いで口を閉じた。
ランツは“少し、何よ?”と続きを言うよう催促してきたが、絶対に言えそうになかった。
少しだけ羨ましいだなんて言ったら、きっと笑われる。

自分やセナでは決して剥がすことが出来なかったミオの“強がりの仮面”を、出会って1か月足らずのノアはいとも容易く引き剥がしてしまった。
きっとミオは、ノアだからこそ言えたのだろう。
自分やセナ、それ以外の同胞では、ミオの愚痴や本音を引き出すことは決して叶わなかったに違いない。
それほどミオに信頼されているノアが羨ましい。
 
そしてもう一つ。
“パートナー”であるミオに、あんなにも弱音や愚痴を吐いてもらえるノアが羨ましかった。
タイオンのパートナーもまた、ミオと同じで“強がりの仮面”を身に着けている。
ノアはミオの仮面を簡単に引き剥がせるほど彼女に信頼されているのに、自分はユーニの仮面を引き剥がすどころか触れることも許されていない気がする。
 
ユーニが人一倍繊細な人間であることは既に知っていた。
カーナの古戦場を抜けたあたりから、毎晩のようにうなされていることも把握している。
古戦場の雰囲気にのまれて恐怖を感じたにしては、彼女の恐怖感はあまりにも長引いていた。
恐らく、彼女の心を脅かす何かしらの要因が他にあるのだろう。
だが、彼女が一体何を考えているのか、何に怯えているのか、タイオンにはただ想像することしか出来ない。
彼女が自らの口でその胸の内を吐露してくれない限り、タイオンがユーニの心に内側に触れることなど出来ないのだ。

ミオはノアを信頼しているが故に“弱さ”を見せた。
だが自分はどうだ。
パートナーであるユーニは、ミオのように“強がりの仮面”を取り払う気配すら見せない。
それは、彼女がタイオンをそこまで信頼していないという確固たる証拠だった。
パートナーにそこまで信頼されているノアが羨ましい。
心に浮かんだそんな本音を隠し、タイオンはランツから逃げるように席を立った。

瞳で時刻を確認すると、既に日付が変わる頃合いだった。
明日も早い時間にこの地を発つ予定だ。夜更かししては翌日の旅に支障が出るだろう。
ランツの元から離れたタイオンは、まっすぐにシュラフへと向かった。
そこでは既にリクとマナナが眠っており、その奥でユーニが小さく丸まりながら寝息を立てていた。
上着を脱ぎ、肩を出した薄着のまま眠っている彼女は、寒いのか自分の膝を抱えるように小さくなっている。
モルクナ大森林は他の場所に比べて幾分か気温が低い。
そんな恰好で眠っていては風邪をひいてしまうだろう。
明らかに寒がっている様子だし、もう少し厚着をして眠ればいいものを。


「まったく世話が焼ける……」


タイオンは自らの瞳を起動させ、戦術士のブレイドを選択する。
その瞬間、彼の身体は白い戦術士の服とマフラーによって包まれた。
ウロボロスの力とは便利なもので、ブレイドの選択はもちろん服の着脱までこの瞳で瞬時に出来てしまう。
とはいえ、他人の“瞳”を起動させて服を着せることは出来ない。
自分が身に纏っている戦術士の白い服をそっと脱ぐと、タイオンはユーニの肩にその服をかけてやるため歩み寄った。
 
何も羽織っていないよりは肌寒さもマシになるだろう。
そんな気遣いからくる行動だった。
だが、服を彼女の肩に掛けようとしたその瞬間、こちらに背を向けて眠っていたはずのユーニが急にガバッと上体を起こし、勢いよく飛び起きたのだ。
突然のことに驚いたタイオンは“うおっ”と小さく声を漏らしてしまったが、当のユーニは背後に控えるタイオンの姿に全く気付いていないらしい。
自分の胸を片手で抑えながら、彼女は荒くなった息を懸命に整えようとしている。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
「ゆ、ユーニ?」


名前を呼ぶと、彼女はびくりと肩を震わせながらこちらを振り返った。
勢いよく振り返るユーニの顔を見た瞬間、タイオンは息が詰まりそうになってしまう。
彼女の顔色が悪すぎる。首筋には大量の汗をかき、いつもは芯がある白い羽根も今はしなびている。
どう考えても、うなされて起きたようにしか見えなかった。


「大丈夫か?悪夢でも見たのか?」
「い、いや。別に」
「本当か?もし体調が悪いようなら……」
「なんでもねぇって!」


震えた声でユーニは声を張り上げる。
ぴしゃりと言い放たれた拒絶の言葉に、タイオンはもはや何も言えなくなってしまう。
語気を荒げたことに若干の罪悪感を覚えたのだろう。
ユーニは“ごめん”と呟きながら、寝転がっていたシュラフから立ち上がる。


「ほんと、なんでもねぇから。ちょっと顔洗ってくる」
「あぁ……」


頭を抱えながら、ユーニはおぼつかない足取りで離れていく。
“なんでもない”と言い張るには、明らかに彼女の様子はおかしかった。
あんなに辛そうな顔をしているのに、どうして何も言わないんだ。
自分は彼女のパートナーなのに。
そんなに信じられないのか。頼りにならないのか。

彼女が何を思い、何に怯えているのか分からない。
強くあろうとすることと、弱さを見せないことは全く違うはずだ。
なのにユーニは、頑なに“強がりの仮面”を取ろうとしない。
いつかその仮面に触れられる時は来るのだろうか。
素顔を見せてくれる時は来るのだろうか。
無意識にユーニの心根に触れようとしている自分がいることに、この時のタイオンは気付いていなかった。


***

つい数時間前まで激しい戦闘の最中にいたことがまるで嘘のように、その日の夜は静まり返っていた。
ケヴェスキャッスルを命からがら離脱した一行は、その足で当初の目的地であった大剣へと向かうためカデンシア地方へと向かう。
岩礁地帯を越え、カデンシア地方に突入したところで日暮れを迎えた一行は、数キロ先に見える大剣を見上げながら野宿することに決定した。

明日を迎えれば、いよいよ大剣へと到着することになるだろう。
そもそもの旅の始まりは、あの顔中皺だらけだった“ゲルニカ”という兵士一言だった。
“大剣の突き立つ大地、シティーを目指せ”
そこにたどり着けば、10年の命を長らえることが出来る。
そんなゲルニカの妄言を心から信じているわけではなかったが、当時明日への指針を見失っていた6人にとっては、その言葉に希望を見出すしか道はなかった。
そして今、大剣を目の前にタイオンの心情はあの頃から少しだけ変化していた。

ウロボロスの力を得て、メビウスという名の敵の存在を知り、この世の理不尽さを実感した。
因果の外から見たこの“アイオニオン”という世界は、自分が思っていた以上に恐ろしい世界であり、今となっては言語化できない“歪さ”を感じてしまう。
生きるために戦うしか道がなかったあの頃は、これ以外に道はないのだと思い込んでいた。
だが、僅かながら選択の余地があることを知った。
きっとこの世界には、もっと自分たちの知らない“常識”がある。
あの大剣にたどり着けば、きっとこのアイオニオンという世界の全容が掴めるはずだ。
そして、当初の目的だった2つの願いも叶うかもしれない。
手元の小さな懐中時計を見つめながら、タイオンは目を細めた。

既に仲間たちは明日の出発に向けて眠りに落ちており、目を開けているのは少し離れた場所で見張りをしているユーニと、見張りの順番が次に控えているタイオンだけである。
焚火の火にあたりながら、彼は離れた場所に腰を下ろしているユーニへと視線を向けた。
その背を見つめながら脳裏に浮かぶのは、殲滅兵器を前に戦闘を繰り広げたあの時の光景。
 
あの時、ヨランと一緒に現れたメビウスは、6人が初めて対峙したメビウスでもあった。
その名は“ディー”。おぞましい目つきの彼を視界に捉えながら、ユーニは全身を石のように固くしていた。
彼女とインタリンクした瞬間流れ込んできたのは、膨大な恐怖感。
いつもは猪突猛進気味に敵に突っ込みがちなユーニが思考を停止させ、動きを鈍らせている現状に、タイオンは焦った。

目の前には今にも火を噴きそうな殲滅兵器。
あれが発射されれば、照準を向けられているコロニー4はあっという間に吹き飛んでしまう。
一刻も早くディーやヨランを退け、殲滅兵器を破壊しなくてはいけないこのタイミングで、全く動こうとしないどころか激しく取り乱しているユーニに、タイオンは何度も声を荒げた。
 
何故急に動きが鈍くなったのかも、何故そんなに恐怖感を抱いているのかも分からないまま、ユーニはただただ立ち尽くす。
このままじゃだめだ。殲滅兵器を破壊するどころか、一緒に戦っているミオたちの足も引っ張ってしまう。
こうなったらユーニを押しのけて自分が前に出て戦うしかない。
そう判断しかけたタイオンに、ユーニは囁いた。
“アタシが囮になるから”と。

一歩間違えればユーニが犠牲になってもおかしくなかった。
だが彼女は、こちらが反対意見を出す隙など与えず、恐怖心を押し堪えながら言葉を続けたのだ。
“アタシが突っ込むからお前がとどめを刺せ。頃合いを見計らって幻影と入れ替わるから”。
 
震える声で告げられたのは、驚くほど冷静に戦況を見極めた策だった。
恐怖に震え、何も考えられていないと思っていたのに、そんな策を提示してくるとは。
“お前を信じる”。そう最後に告げられた言葉で、タイオンの不安は吹き飛んだ。
今思えば、それはユーニから一番貰いたかった言葉だった。
そんなことを言われて、“駄目だ、危険すぎる”だなんて言えるわけがない。
恐怖を抱えながらも奮い立ち、この場を乗り切ろうとするユーニの勇気に応えるべく、タイオンは彼女の策に乗ったのだ。


「ユーニ、代わろう」


見張りをしているユーニに歩み寄り、声をかけてみる。
すると彼女はこちらを一瞬だけ見上げた後、すぐに顔を逸らして首を横に振った。


「まだ時間じゃねぇだろ?」
「疲れているだろ。君は休んでくれ」
「いいよ。なんか、今はまだ寝たくない」


遠慮し続けるユーニの隣に腰かけるタイオン。
目の前にそびえ建っている巨大な大剣を見上げつつ、横にいるユーニに問いかける。


「悪夢を見るのが怖いのか?」


ユーニは何も答えなかった。
その代わりに、抱え込んだ膝に顔を埋めてしまう。
カーナの古戦場を通過して以来、ユーニはずっと何かに怯えていた。
その“何か”が一体何なのか、彼女は頑なに教えてくれなかったのだが、ケヴェスキャッスルでのやり取りでようやく合点がいった。
 
彼女は、ディーに一度会っている。
しかもディーの口ぶりから察するに、ユーニは彼に“殺された”記憶があるのだろう。
ユーニ本人もその記憶に明確な覚えがないらしく、はっきりとは分からないと言っていた。
何故ユーニ自身が認知していない記憶が存在しているのか。
殺された記憶が残っているというのに、何故ユーニは今ここに生きているのか。
分からないことは山のようにあった。

不明瞭な事実は不安を呼び起こし、不安は恐怖を煽る。
不明点の多さに一番恐怖を抱いているのは、間違いなくユーニのはずだ。
きっと今までも、得体の知れない恐怖感と一人で戦ってきたのだろう。
その時の心境を思うと、胸が痛んだ。


「悪かったな。足引っ張って」


少しだけ震えた声で、ユーニは呟いた。
ふと目を向けると、両膝を抱えている彼女の指先はわずかに震えていた。


「いつ君が足を引っ張った?」
「とぼけんなよ。キャッスルで危なかったろ?アタシが何も出来なかったせいで」


足を引っ張られたという感覚はなかった。
確かにあの時は焦ったが、のちにユーニの恐怖感の原因が分かったことで、むしろ罪悪感に似た感情が沸き起こっている。
パートナーとして一番近くで見てきたはずなのに、彼女の恐怖の正体を察してやることが出来なかった。
自分が一番最初に気付くべきだったのに。
己を責めながら、タイオンはユーニに何も言葉を贈れなかった。
黙りこくるタイオンの横で、ユーニはか細く言葉を続ける。


「いつだったかお前のこと臆病者だって言ったけど、本当はアタシのほうがずっと臆病だ。怯えてる自分が嫌で、虚勢張って誤魔化してる。情けねぇな、アタシ」
「臆病でもいいんじゃないか?戦うことに慣れるよりはずっといい。それに、臆病者は死にたくないがために慎重になれる。そういう意味では僕も君と同じ臆病者ということだ」


膝を抱えて俯いていたユーニが、ゆっくりと顔を上げる。
こちらを見つめて来る彼女の青い目は、今まで見たことがないくらい哀し気に揺れていた。
そんな彼女の心をなんとかして温めたくて、ガラにもない優しい言葉を脳内の引き出しから懸命に探し出す。


「正反対な性格だと思っていたが、共通項がひとつ見つかったな」


ユーニの大きな瞳が一層揺れる。
この1カ月と少しの間彼女を見てきて分かったことがいくつかある。
そのうちの一つに、“意外にも涙もろい”という点が挙げられる。
共感性が高いのだろう。
優しさと繊細さが共存する彼女の本質は実に不安定で、誰かが支えなければすぐに倒れてしまいそうだ。
その“支え”に自分がなれるのかは分からない。
だが、少しでも彼女の恐怖感や不安感を拭ってやりたいとは思っている。
きっとそれが、彼女と命を共有している自分の役割だと思うから。

タイオンの言葉に、ユーニは薄く微笑んだ。
焚火に照らされるその横顔は少し儚気で、いつもは隠れている彼女の一面が垣間見えたような気がした。
そんな綺麗な微笑みにつられるように、タイオンもわずかに微笑みを返す。
するとユーニは、抱えていた膝を開放し、胡坐をかいて座り直した。
怯えるように体を縮こませているよりは、そうやってどかっとガサツに座っている方がユーニらしい。


「あのさ、ずっと前から聞きたかったんだけど」
「なんだ?」
「ナミって、どんな人だったの?」


投げかけられた問いかけに、タイオンは一瞬戸惑った。
今思えば、第三者からナミについて問われたことはなかった。
そもそも彼女のことを誰かに話したことがなかったから、口にする機会すら巡ってこなかったのだが。
“どんな”と聞かれても、ナミという人物の人となりをこの口で評したことはない。
どんな言葉を使って彼女のことを表現すればいいのか分からず、タイオンは暫く考え込んでしまう。
数秒の沈黙の後、彼は飾り立てるような言葉をすべて切り捨て、素直な言葉でナミのことを表現することにした。


「優しい人だった。清楚で品があって、知的な人だ。ラムダにいた兵たちはみんなナミさんを慕っていた」
「タイオンも?」
「当然だ」
「タイオンが“臆病”になったのは、ナミとの一件が原因?」
「……あぁ。ナミさんは僕のせいで死んだ。成人を前に、志半ばで死んだんだ」


ガンマに転属してきたばかりの頃、タイオンは例の一件を思い出すだけで吐き気を催していた。
頭の奥にいるもう一人の自分が、ナミの微笑みを思い返すたびに囁くのだ。
“お前のせいだ。お前のせいでナミさんは死んだんだ”と。
自分を責め続ける己自身の声は一向に小さくなることはなく、それ以上責められないよう、人の死に関わることがないよう、慎重な性格にならざるを得なかったのだ。

それが今、問われるがままにナミとのことをすらすらと口に出来ている。
あの頃より気楽にナミの顔を思い浮かべられるのは、経過した時間が解決してくれたからなのか、それとも相手がユーニだからなのか。
彼女の前では、自分の心や過去の傷を隠しておけないような気がした。
今夜、出会ってから初めて弱いところを見せてくれた彼女に見返りを渡すかの如く、タイオンは素直に思いを口にする。


「もう二度と自分のせいで誰かが死ぬのは御免だ」
「もしかして、ミオに気を遣ってたのもナミの影響?」
「そうだな。ミオもガンマの後輩たちにはいたく慕われていた。そういうところがナミさんとよく似ている。ミオをナミさんと同じにするわけにはいかないんだ」


振り返れば、シュラフで穏やかに寝息を立てているミオの姿がある。
彼女の首元に刻まれている刻印には、もはや“赤”がほとんど残っていなかった。
人に慕われやすいミオに、ナミの影を見ていたのは間違いない。
彼女の死期が迫るごとに、ナミを死なせてしまったあの日の記憶が脳裏を横切る。
サフロージュの花が咲き乱れる“あの場所”にいつか帰りたいと言っていたナミの想いは、結局叶うことなく儚く散ることとなった。
きっとミオにも、叶えたい想いがあるのだろう。
志半ばで散ったナミのためにも、ミオの力になりたい。
その思いは、ウロボロスとなって旅を始めた頃から変わらないタイオンの“目的”だった。


「そっか。アタシもミオには死んでほしくない」


透き通るような声で呟くと、ユーニは目の前にそびえたつ大剣を見上げた。
コロニー9からでもよく見えるあの大剣に、ゲルニカが示した“シティー”とやらがある。
旅のゴール地点は目の前だ。
そのゴールに待ち構えているのが何なのかは分からないが、小さな希望が落ちていることをユーニは期待していた。


「あそこに行けば、ミオの時間を延ばせるのかな」
「分からない。確証はないが、希望はあると思っている。今はその細い希望の糸にもすがりたい」
「同感だな。もしかしたらミオだけじゃなくて、アイオニオンに生きる命すべての時間を伸ばせるかもしれねぇしな」
「あぁ。そうなれば君も——」


自然に口からこぼれ落ちそうになった言葉に、タイオンは急ブレーキをかけた。
何かを言いかけた彼を不思議に思い“ん?”と首を傾げるユーニだったが、“なんでもない”と言い放ったタイオンが視線を逸らす。
命の時間が延びれば、君も“曖昧な死”に怯えずに済むかもしれない。
そんなガラにもないこと、真顔で言えそうになかったのだ。
気恥ずかしくなって口を閉じてしまったタイオンに、ユーニは納得することなく顔を覗き込んでくる。


「なんだよ。気になるじゃん」
「いいからもう寝てくれ。うなされていたら叩き起こしてやるから」
「叩くのはやめろよ。せめて肩揺らす程度にしてくれ」
「分かった分かった」


タイオンの面倒そうな言葉を聞きながら、ユーニはゆっくりと立ち上がる。
離れたところに並んでいるシュラフに足を向けた彼女だったが、地面に腰を下ろしているタイオンのすぐ後ろで立ち止まった。
そして、彼に背を向けたまま口を開く。


「さっきの、ちょっと嬉しかった」
「さっきの、とは?」
「ナミのこと教えてくれたろ?お前、なかなか自分の話しないから」
「自分の境遇をペラペラ話す趣味はないんだ」
「じゃあなんでアタシには話してくれたんだよ?」
「それは……」


ユーニからの問いかけに、タイオンは何も答えられなかった。
こんなにたくさん自分のことを他人に話したのは初めてだ。
固く口を閉ざしていたはずなのに、ユーニに問いかけられるままに自然と口から真実が漏れ出て行く。
自分でも不思議なくらい、簡単に。
黙ったままであるタイオンの答えを待たず、ユーニは穏やかな口調で呟いた。


「アタシ、タイオンのことが知りたい」
「え?」


背後から聞こえてきたユーニの言葉に驚き、思わず、振り返る。
そこには、真円を描く月を見上げながら夜風に白い羽根を揺らしているユーニの背中があった。


「どんな生き方をしてきたのかとか、今何を思ってるのかとか。タイオンの人となりを理解したいんだよ。お前の相方として」
「相方……?」


おうむ返しに聞き返すと、彼女は振り返りながら言った。“ミオの受け売りだ”と。
目を細めて笑う彼女の青い瞳からは、先ほどまでの恐怖感や不安感は一切消え失せていた。
その代わりに、煌めくような輝きを持った目が、まっすぐタイオンを見つめている。
屈託のない笑顔を向けられながら、彼はその目に見とれていた。
風の音も、葉が擦れる音も、焚火の火がはじける音も、どこか遠くに感じる。
まるでこの世界に自分とユーニしか存在していないかのように錯覚してしまった。
なんだろう、この感覚は。
タイオンがその答えを得るよりも前に、ユーニは彼から視線を逸らしつつ大きなあくびを零した。


「ふぁ、さすがに眠くなってきたし寝るわ。おやすみ、タイオン」
「あ、あぁ。おやすみ、ユーニ」


ユーニの背が遠ざかっていく。
彼女がセナの隣のシュラフに寝転んだことを確認し、再び前を向き直る。
ユーニから贈られた言葉が、心の中に染み渡るようにタイオンの中に入って来る。
彼女から向けられた笑顔が、思考を溶かすようにタイオンの脳裏に張り付いて剥がれない。


「“僕のことが知りたい”、か……」


誰かにそんなことを言われたのは初めてだった。
知ったところで何にもならないだろうに、どうしてそんな風に思うのだろう。
自分は彼女が期待しているほど面白い人間ではない。
ただ、慎重で堅物なだけの臆病者だ。
ユーニだってそれは十分に知っているはずなのに、今更自分の何を知りたいというのだろう。
こんな自分を知りたいなんて、変わってるな。
変わっているとは思うけれど、正直、少しだけ嬉しかった。
 
知りたい。理解したい。その言葉の裏にあるのは、寄り添おうとしてくれているユーニの優しさだ。
薄っぺらい同情や気遣いとはまた違う、純粋な優しさが嬉しい。
真っすぐ向けられる彼女からの“興味”が、何故だか心地よかった。

目の前にそびえたつ、高く大きな大剣を見上げ、タイオンは背筋を伸ばす。
明日、自分たちはこの旅の終着点へとたどり着く。
その先に待ち構えるものが何であろうと、タイオンの心がぶれることはないだろう。
大剣を見つめながら、彼は心の中でユーニの顔を思い描いた。

きっと何とかしてみせるさ。ミオのことも、君のことも。


***


ようやく到着した“シティー”は、思い描いていた想像とは随分とかけ離れていた。
見たこともないほど発展した都市に、1期の年少兵よりも小さな人間や、ゲルニカと同じように顔中皺だらけの人間が暮らしている。
目に入るそのすべての光景が始めて見るものばかりだ。
今まで自分たちが身を置いてきた環境とはまるで違うこの場所は、違和感だらけの世界。
 
だが、本当の意味で世界の理から外れていたのは自分たちの方だったと気付くのに、そう時間はかからなかった。
このシティーで繰り返される命の営みは、ゆりかごから産まれ落ちる自分たちの常識からは大きく逸脱している。
 
人はたった10年では死なないし、生まれるときは人工的なゆりかごではなく母となる人間の腹から生まれる。
人が胎内に子供を宿す方法は、ホレイスというあの医者から教わったものの、半分も理解できなかった。
自分たちが今まで築き上げてきた常識が、大きなハンマーで一気に崩れ落とされたような感覚に苛まれながら、新しい常識を上から塗り潰していく。
脳内で行われるその作業は、タイオンの心を搔き乱す。
 
自分たちが生きるために必死で戦っていた裏で、こんな生き方をしている人々もいたのか、と衝撃だった。
そして思った。この理不尽な世界を変えることが出来るのなら、いつか自分もシティーの人間たちと同じ生き方が出来るのだろうか、と。
今よりも5倍、6倍も長く生きて、一緒に生きていく“誰か”を見つけて、“子供”を作ることで自分の血を脈々と後世に繋げていく。
そんな生き方が出来たなら、もっと違う自分になれたかもしれない。
その可能性を模索するたび、心が躍った。

ティー中枢。医療施設。
六氏族による派閥争いの中心に位置しているこの場所は、シティーに住まう人々の様々な不調を治療している。
そのすべてを医師であるホレイスが一人で指揮をして診ていた。
助産もそのうちの一環である。
初めてシティーを訪れた時、6人のウロボロスは生まれたての子供を見た。
あまりにも小さく、そして可愛らしいその生き物は、タイオンの興味を大いに引いた。
“子供”が生まれるプロセスや、胎内で子供を育むメカニズムが知りたい。
そう強く感じたタイオンは、シティーに到着して以来頻繁に医療施設を訪れていた。


「命を宿してから出産までに10カ月も時間を要するのか…。随分かかるんですね」


手元に用意した手帳に手早くメモしつつ、タイオンはホレイスの言葉に頷いた。
初めて“人間の本来あるべき姿”を目の当たりにして以来、何度も訪ねてきているタイオンを、ホレイスは毎度穏やかに出迎えてくれている。
診察の合間を縫ってはタイオンを診察室に招き入れ、時間が許す限り彼の質問に答えてやっている。
そのおかげで、タイオンは少しずつ“人間”という生き物のことを知っていった。
自分も同じ“人間”なのに、どうしてこうも自分たちとシティーの人間たちは違うのか。
タイオンの追及心は、その一点を軸に動いていた。


「命を宿せるのは女性だけなんですか?」
「あぁ。こと命の生産においては、我々男というものは見守ることしか出来ない。だからこそ、子育てには男親のサポートが必須というわけだな」
「なるほど……」


穏やかな笑みをたたえるホレイスの言葉を飲み込み、タイオンは再びメモを取る。
“子を成せるのは女性のみ。男性は不可能”
さらりと書き終えたすぐ後に、長年の疑問が腑に落ちる。
昔から、何故同じ人間なのに身体つきが違うのかと疑問に思っていた。
自分たち男に女性のような胸の膨らみはないし、女性の足の間には男にあるような突起はない。
その違いは何故生まれてくるのだろうかと不思議で仕方なかったが、ここに来て初めて納得できた。
 
この身体つきの違いは、子を成すために存在していた。
となれば、やろうと思えば、自分たちも子を成すことが出来るのだろうか。
相手となる女性さえいれば、今すぐにでもあの“赤ちゃん”という可愛い生き物を生成できるのかもしれない。
なんとなく、小さな希望が見えた気がした。
 
作れるものなら作ってみたい。子を成すという未知の展開に、タイオンは純粋な興味と好奇心を抱いていた。
だが話を聞く限り、出産まで間女性はかなり苦労を強いられるうえ、子を産んだあとも育てるのに相当な労力がいるらしい。
実験感覚で子を成すにはハードルが高いようだ。


「先生、いるか?」


3度のノック音の後に、聞き覚えのある声が診察室の外から聞こえてきた。
モニカの声である。
タイオンへの講義をいったん中断させると、ホレイスは外にいるモニカに向かって“どうぞ”と入室を促した。
スライド式の扉を開けた先にいたのはやはりモニカで、ホレイスと向かい合うように診察室の丸椅子に座っているタイオンを見た瞬間、少し驚いていた。


「すまない。取り込み中だったか?」
「いや構わん。若人に“命の授業”をしていたところだよ」
「なるほど。じゃあ、その“若人”をもう一人追加してもらっても構わないか?」


モニカに手招きされ、廊下からもう一人の若人が入ってくる。
ユーニだった。白い羽根を揺らしながら診察室を覗き込んできた彼女は、先客としてそこにいたタイオンを見た瞬間、“あれっ”と声を挙げていた。


「なんでタイオンがいんだよ」
「君こそ」


ユーニは一行の中で最もヒーラーに秀でた能力を持っている。
当然、医療への知識も豊富で、人体における新しい常識に興味を持つのも頷ける。
ユーニがこの医療施設に足を運んだのは、恐らくタイオンと同じ理由なのだろう。
互いに顔を見合わせるタイオンとユーニ。
診察室の穏やかな空気は、必死の形相で駆け込んできた一人の看護師によって緊迫した色に塗り替えられる。


「先生!ターニャさんが産気づいたようです!」


看護師が口にした“産気づいた”という言葉の意味はよく分からなかったが、切迫した様子から緊急事態であることはよく伝わった。
まさか、“ターニャ”という患者の命が危ないのだろうか。
揃って不安そうな表情を向けてくるタイオンとユーニに見つめられながら、ホレイスは羽織っていた白衣の襟元を正しつつ立ち上がった。


「耳で聞くより実際に自分の目で見たほうが学びになるだろう。ついておいで」


小走りで診察室を出て行くホレイスの背に、タイオンとユーニは戸惑いながらついていく。
一緒に背後から着いて来ていたモニカは、“貴重な場面が見られるかもしれないな”と微笑んでいた。
貴重な場面とはなんだろう。
そんなタイオンの疑問符はすぐに解消されることになる。
案内されたのは、分娩室と呼ばれる部屋の前だった。
 
ガラス張りになっている壁からは中の様子が見えるが、どうやらこのガラスはマジックミラーになっており、中からは外の様子が見えないようになっているらしい。
部屋の中にはたくさんの看護師が慌ただしく作業をしており、部屋の真ん中にはお腹を大きくした女性が分娩台に横になっている。
おそらくあれがターニャという女性だろう。
分娩室の中に入ったホレイスは、足早にターニャへと駆け寄り声をかけ始めている。
その様子をマジックミラー越しに見ていたタイオンとユーニは、今からこの部屋で何が行われようとしているのか一瞬で分かってしまった。


「もう産まれるの……?」
「あぁ。陣痛が来ているようだし、もう間もなくだろうな」


分娩台に横になっているターニャは、額に脂汗をかき、呼吸も荒々しくなっている。
必死で痛みに耐えている様子の彼女の声は、ガラス越しのタイオンやユーニの耳にも届いていた。
悲痛なその叫びは、彼女の身に襲い掛かっている痛みがどれほど壮絶なものなのかをありありと物語っている。
苦しみ悶えるターニャの様子をまっすぐ見つめながら、タイオンとユーニは顔をしかめていた。


「なんか、すっげぇ辛そう」
「出産には痛みが伴うと聞いたが、あんなに悶絶するほどなのか」
「当然だ。腹から別の生き物を捻りだす行為だからな」


モニカの言葉には説得力があった。
確かに、あんなに小さいとはいえ体内から別の生き物を生み出す行為が、何のリスクも伴わないわけがない。
痛くて当然だ。きっとその痛みがあるからこそ、人は自らの子を大事に大事に育てるのだろう。
だが、ユーニには理解できないことが一つだけあった。
壮絶な痛みが伴うことは分かっているはずなのに、何故そこまでして子を成そうと考えるのだろうか。
悶え苦しむほど辛いのに、そこまでして作りたいと思えるほど、“子供”という生き物には価値があるということなのだろうか。


「あんなに痛そうなのに、なんで産むんだろう」
「そうだな…。それを理解するには、まず人を愛するということを理解する必要があるだろうな」


モニカの言葉にいち早く反応したのはタイオンの方だった。
“人を愛する…?”とオウム返しに聞き返した彼の隣で、ユーニも同じようにキョトンとした表情を浮かべている。
人間なら誰しも持つ“愛”を知らない二人は、目の前で展開される命の誕生に目を丸くしている。
全く同じ顔をした二人を見比べながら、モニカは柔らかく微笑んだ。


「前にも言ったように、お前たちならきっといつか分かる」


モニカから明確な答えを与えられることはなかった。
相変わらず“愛”とやらの正体が分からない二人は、互いに顔を見合わせ首を傾げる。
身体は成人に近い状態でも、彼らは生まれて8年と少ししか経っていない。
無垢で無知な彼らは、“愛”とは何か、“恋”とは何か、知る由もないだろう。
だが、分からなくても誰かを愛することは出来る。誰かに恋心を抱くことは出来る。
いつか彼らがメビウスを倒し、本来の生き方を取り戻した暁には、“あぁあれが恋だったのか”と気が付く日が来るのだろう。

そんな予感を胸に抱いていたモニカだったが分娩室から聞こえてくるターニャの声が一層大きくなったことに気が付いた。
どうやら陣痛がピークに達しているらしい。
中で作業していたホレイスや看護師たちの動きも忙しなくなっている。


「そろそろ産まれそうだな」


モニカの言葉に、タイオンは息を呑む。
まるで拷問を受けているかのような苦悶の表情を浮かべるターニャの姿は痛々しくて、見ていて辛くなった。
あぁだめだ。こっちまで辛くなる。もう見ていられない。
そう思った瞬間、右手を掴まれた。
驚いて視線を落とすと、自らの褐色の手をユーニの白い手が掴んでいた。
彼女はマジックミラー越しの分娩室を見つめながら不安そうな顔を浮かべている。
タイオンの手を掴んだのは、ほとんど無意識の行動だったに違いない。
 
彼女は仲間内でも人一倍共感性が高いタイプで、人の悲しみや痛みを自分事のように捉えてしまう節がある。
痛みに悶えるターニャを見て、不安になったのだろう。
その不安感を少しでも和らげる目的で、タイオンはユーニの手を握り返した。

やがて、分娩室に甲高い子供の泣き声が聞こえてくる。
一人の看護師が腕の中に小さな命を抱え、足早にその場を離れていく。
やがて痛みに悶えていたターニャの悲痛なうめき声も止み、分娩室には彼女をねぎらう声で溢れていた。
ホレイスの声かけに応じていたターニャは、反対側から近づいてきた看護師の腕の中で泣き声を上げている自らの分身を見つめ、優しく微笑む。
疲れ切った表情で、それでもなお安堵したように微笑む彼女の表情は、何故かとてつもなく輝いて見えた。
数分前まで必死な形相で悶えていた女性と同一人物とは思えないほど穏やかな表情である。
あれが、“母親”の表情か。


「これが、出産……」


タイオンの手を握ったまま、ユーニがうわごとのように呟いた。
その呟きに、腕を組み同じように分娩室の様子を覗いていたモニカが反応する。


「あぁ。今日から彼女は“母親”になるわけだな」
「母親…」


ユーニが噛みしめるように呟いた直後、遠くの方からこちらに駆け寄ってくる派手な足音が聞こえてきた。
ふと視線を向けると、ロストナンバーズの隊服を身に纏った一人の男が必死の形相で駆けているのが見えた。
分娩室から出てきた看護師が彼を手招きして、室内に招き入れる。
その様子を横目に見つめながら、タイオンはモニカに“彼は…?”と問いかけた。


「ターニャの夫のユーリだ。この場では、あの子供の“父親”と言ったほうが適切だな」


疲弊しているターニャの元に駆け寄ったユーリは、安堵したように微笑みながら泣いていた。
母親の顔をしたターニャの隣で、父親の顔をしたユーリが彼女の体を抱きしめている。
その光景を見つめながら、タイオンは何故か心がざわめていた。
子供を授かるというのは、泣くほど喜ばしいものなのか。
もしも自分が父親になったとしたら、やっぱり涙を流すものなのだろうか。

出産するその日になって医療施設に駆け込むと看護師が手招きしていて、それに応じて入室したら、大きな腹を抱えながら苦しんでいる“彼女”いる。
汗ばむその手を取って、名前を呼んで、応援するしかできない。
やがて甲高い赤子の声が聞こえて来て、取り上げられた小さな命を見つめながら安堵するのだ。
よくやってくれた。よく頑張ってくれたと涙を流しながら感謝する。
首筋に汗を流し、青い瞳を疲労感染め、羽根をしおれさせた彼女は、荒くなった息を整えながら笑いかけてくるのだ。
その笑顔を見つめながら、タイオンは実感する。これが父親になるということか、と。

あれっ。おかしい。
何故ユーニが相手である前提で考えてるんだ?

ふと、隣にいるユーニへと視線を落とす。
彼女はマジックミラー越しの若い男女を見つめながら、白い頬に一筋の涙を流していた。
相変わらず共感性の高いユーニは、目の前で繰り広げられる命の誕生に感情を昂らせている。
まっすぐ前を向いて瞳を揺らすユーニを見つめていると、正体の分からない感情の波が押し寄せてくる。
何だこの気持ちは。心がざわついて仕方がない。
そして気が付いた。未だユーニと手を繋いだままだという事実に。

急いで手を離すと、ユーニの手はあっけなく離れていく。
急に手を放してきたタイオンへと視線を向けてくるユーニだが、そんな彼女の顔をまっすぐ見つめられなくなっていた。
誤魔化すように視線を外し、目の前の分娩室へと目を向けると、例の若い男女が自らの子供を抱きながら柔く微笑んでいる光景がそこに広がっていた。
そんな眩しい光景を見つめながら、タイオンは思う。
これが“人間本来の幸せ”というものなのか、と。


***

出産を見届けた後の医療施設はかなり忙しなく、半ば追い出されるように二人は外に出されてしまった。
気付けば時刻は夕食時。
2人の足は自然とミチバ食堂へと向かっていた。
席に着き、注文を終えると互いに虚空を見上げてため息をつく。
つい数十分前に見た出産の光景が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
積み上げられた常識が一気に崩されたことで、心の糸がこんがらがる。
テーブルに両肘をついて頬杖を突くユーニは、食堂の天井を見上げながら呟きはじめた。


「なんか圧巻だったな。出産ってあんなに大変なんだ」
「あぁ。ゆりかごで人工的につくられる僕たちとは大違いだな」


不意に、タイオンとユーニが腰かけているテーブルの脇を小さな子供が横切った。
キャッキャとはしゃぎながら走る子供は、遠くのテーブルについている母親らしき女性の腕の中に飛び込み、そして抱き上げられる。
彼らもまた親子であり、あの母親は先ほど見た女性のように苦しい思いをしてあの小さな命を産み落としたのだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、同じように母子のやり取りを見つめていたユーニがこちらへ向き直った。


「なぁ。ゆりかごから生まれたアタシたちも、子供作れるのかな」


投げかけられた質問に、タイオンは少しだけぎょっとした。
つい先ほど、自分も同じようなことを考えていたからだ。


「シティーの人間たちはウロボロスとなった者たちのシソンだとモニカが言っていた。ということはつまり、僕らのようなゆりかごの兵でも子供は作れるということなのだろう。当然、男女で決まった手順を踏まなければならないだろうが」
「セーコーイってやつだろ?男と女が揃えば、どんな組み合わせでもちゃんと子供出来るのかな?」


頬杖をついたまま視線を右上に移し、なんとなく呟かれたユーニの言葉の意図が分からず、タイオンは首を傾げながら“どういう意味だ?”と尋ねた。
するとユーニは、その青い瞳でまっすぐタイオンの顔を見つめながらとんでもないことを言いだした。


「例えば、アタシとタイオンでもセーコーイすれば子供が出来るのかってハナシ」


さらりと投げかけられた言葉に、タイオンは思わず飲んでいた水を吹き出しそうになった。
冷たい水が器官に入り、盛大に咳き込んでしまう。
“ゴホゴホ”と咳き込みながら自らの胸を叩く彼の姿に、ユーニは少々戸惑いながら目を丸くさせていた。


「なんだよその反応」
「い、いや…。それは例え話、だよな?」
「当たり前だろ」


半笑いで肯定するユーニに安堵した。
そうだ。例え話以外の何物でもない。
動揺を隠せず視線を逸らすタイオンは、ようやく落ち着きを取り戻し深呼吸する。
と同時に、食堂の主人であるミチバの手によって注文した料理が運ばれてきた。
2人とも同じ、ツルギパッツァである。
ジューシートマトの真っ赤なソースがかかった切り身からは香り立つ湯気が立ち込めていた。
さっそく手を付け始めたユーニを前に、タイオンはナイフとフォークを手に取りながら先ほど投げかけられた質問への返答を開始する。


「……まぁ、正しくセーコーイすれば出来るだろうな」


“セーコーイ”の詳細はホレイスから詳細に聞いていた。
一般的な手順から、避妊の方法までしっかりと説明を受けたわけだが、正直覚えることが多すぎて実際に自分が挑戦するとなると上手くこなせる自信はない。
教わった手順を遵守し、上手く出来れば相手が誰であっても子供を成すことは可能なのだろう。
目の前にいるユーニとも例外ではない。
ホレイスから教わった“セーコーイ”の手順を、ユーニと一緒にこなしていくことを想像すると、妙に落ち着かない。
なんとなく彼女の目をまっすぐ見れなくなって、視線を逸らしながら魚の切り身にナイフを入れると、正面に座るユーニは再び素朴な疑問をぶつけてきた。


「子供って、親になる男女に似るらしいよな。てことは、アタシとタイオンで子供作ったらやっぱり羽が生えてて頭もじゃもじゃな子供が出来るのかな」
「もじゃ……。どうだろうな。瞳の色や肌の色は比較的似やすいとホレイス先生は言っていたが」
「ふぅん。じゃあ、例えばアタシとノアが子供作ったら同じように青い瞳の赤ちゃんが生まれるのかな」


彼女の口から出てきたその名前に、タイオンの手が止まる。
つい先ほどまで、脳裏で思い描いていた赤子を抱くユーニの隣に立っていたのは自分だったはず。
なのに、彼女がノアの名前を出した途端、そのポジションは一瞬で奪われてしまった。
ユーニの腕の中で穏やかに眠っている赤子を、彼女に寄り添いながら覗き込んでいるノアの姿を想像して、胸に小さな痛みが走る。
沈んだ心のまま“さぁ…”と返事をするタイオンだったが、そんな彼を横目にユーニは言葉を続けた。


「ランツとの子供だったら、あの肌の模様とかが似てくるのかな」


次に彼女の口から出てきたのはランツの名前だった。
また別の男の名前が聞こえてきたことに、タイオンの心はますます沈む。


「ランツとの子供だったら丈夫な子供になりそうだな。でも落ち着きのない奴になりそう。どちらかというとノアとの子供の方が優秀になりそうだよな」
「……知らん」


聞いてもいないのにペラペラとノアやランツとの子供の想像を話すユーニ。
そんな彼女に、タイオンは冷たく対応する。
足を組み、視線を伏せながら黙々と切り身を口に運ぶ。
明らかにムッとした様子のタイオンにようやく気付いたユーニは、首を傾げながらタイオンを真っ直ぐ見つめた。


「え、なに?なんか怒ってる?」
「……別に。この話題はやめよう。どうせ子供なんて作らないだろ。僕たちには関係のない話だ」
「まぁ、それもそうだな」


タイオンの機嫌は明らかに急降下していた。
経験上、こうなった時は必要以上に不機嫌な理由を深堀りすると必ず空気が悪くなる。
タイオンが何故苛立っているのか分からないまま、ユーニは仕方なく彼の提案通りこの話題を強制終了させた。
当のタイオンも、黙々と食事を進めながら自分の苛立った心に戸惑いを隠せなかった。
ユーニがノアやランツと子供を作っている光景を想像するだけで、胃がむかむかする。
この感覚は一体なんだ。
心を覆う負の感情の正体が分からないまま、タイオンはツルギパッツァを完食するのだった。


かっこつけ


ティーに到着して以降、6人のウロボロスたちを取り巻く環境は、海面の渦のように目まぐるしく変化していった。
新しい常識を目の当たりに茫然としている時間はない。
すでに成人の時を間近に控えたミオの“限界”が近付いているのだ。
 
ティーに到着し、このアイオニオンを構成している理不尽な理の全容を掴めた今、一行の目指すべき目的は定まっている。
メビウスを討伐し、この世界をあるべき姿に戻すこと。
この目的を達成すれば、アイオニオンに生きる全ての命が自然のままの姿へと還れる。
当然、10年という短い人生の縛りもなくなり、あと1か月と少しに迫ったミオの限界時間も伸ばすことが出来る。
ようやく見るべき方向が決まった一行は、モニカから与えられた任務を果たすため、船でエルティア海を走行していた。

モニカからの指令は、本物のアグヌスの女王の居場所を知っているシティーの人間、ゴンドウを収容所から救出すること。
ウロボロス候補生であるシャナイアたちと共に、エルティア海の北端に位置するアグヌスの収容所へと向かう。
南端に位置しているシティーの港からはかなり距離が離れているため、この船旅は中継地点である入り江に到着するまで予定では5日もかかる計算だ。
右へ左へ舵を取るリクの操縦のお陰で、海上を漂うモンスターや岩礁に船が激突することはなかったが、その豪快な舵捌きによってタイオンは船酔いしていた。

作戦会議を行ったコルヌ島を出立して2日目の午後18時。
暗くなってからの走行は大きなリスクを伴うため、ノアの提案で一路船は近くの無人島に停泊することになった。
既に収容所の建物は遠くに見えてはいるものの、まだまだ距離はある。
恐らくあの収容所に到着するのは、明日の夜以降になるだろう。
ふらつきながら船を降りたタイオンは、遠くに見える収容所を見つめつつそんなことを考えていた。

砂浜に降り立った面々は、各々薪を集めて野宿の準備を始めている。
手伝いたいところだが、未だ目眩が収まらないタイオンにはもはや歩き回るほどの気力はない。
近くの木に寄りかかり座り込むと、茜色に染まった空が水平線の向こうに見えた。
いつもなら美しく感じる夕日が、今は何故か不気味に見える。
夕焼けというのは、いつもあんなに真っ赤だっただろうか。
まるで血の色のようだ。


「タイオン、大丈夫?」


木に寄りかかり、ボーっと空を眺めていたタイオンの顔を覗き込んできたのはミオだった。
タイオンの視界から夕陽を遮るように、彼女の整った顔が視界一杯に入ってくる。
一行の中で最年長のミオは、仲間の誰かに小さな異変が起きればいち早く気付いて声をかけられる人だ。
優しいと言えば聞こえはいいが、タイオンにとっては少々お節介が過ぎると感じる行動でもある。


「あぁ、問題ない」
「本当に?目が虚ろだけど」
「いつものことだ」
「もう、ふざけてないで。ユーニに診てもらおうか」


ミオの口から飛び出た“ユーニ”の言葉に、心臓が跳ねる。
額に手の甲を当てていたタイオンは目を見開き、立ち上がってユーニを呼ぼうとしているミオの手首を素早く掴んだ。


「いい!呼ぶな!」
「どうして?疲れたんでしょ?ユーニなら回復させてくれると思うよ?」
「じっとしていればすぐ治る!それに、こんなことでへばっているのかとまた揶揄われるだろ!」
「別にいいじゃない。そんなこと」
「よくない。頼りないと思われるだろ」


ユーニを呼ぶため立ち上がったミオと、それを座ったまま引き留めるタイオンの間に沈黙が訪れる。
なぜ黙ったままなのか不思議に思い視線を上げると、そこには何故かキョトンとした表情でこちらを見下ろすミオの顔があった。
何だその顔は。そんな顔をされるほど素っ頓狂なことを言った覚えはない。
するとミオは、タイオンのすぐそばで膝を折り、未だ虚ろな彼の目を真っ直ぐ見つめながら疑問を投げかけてきた。


「頼りになると思われたいの?」
「……そりゃぁ、頼りないよりは頼りになる方が格段にいいだろ」


また沈黙が訪れる。
まるで観察しているかのような目でタイオンを見つめるミオは、ニマニマと笑みを浮かべながら“ふぅん”と口角を挙げた。
なんだか馬鹿にされているような気がする。というより揶揄われているような気がする。
だが、何故揶揄われているのかイマイチ分からず、タイオンはただただむっとした表情を浮かべるしかなかった。


「なんだその反応は」
「別に~?ただ、タイオン変わったなぁって思って」
「そうか?」


タイオン自身に変わった自覚などなかった。
どれだけ時を重ねても自分の本質は何一つ変わらないし、相変わらず臆病な人間であることは間違いないと思っている。
だが、ミオは知っていた。コロニーガンマに転属してきたばかりの頃、味方と言えど他人との間に境界線を引き、まるで“ここから先は入るな”とでも言いたげな態度で人と距離を取っていた当時のタイオンを。
 
他人からの評価や評判など一切気にせず、むしろわざと嫌われるような態度ばかり取り続けていたのは、今思えばラムダでの一件を繰り返したくなかったからなのだろう。
心を寄せた相手の死は辛い。慕ってくれている者の期待を裏切るのも辛い。
そんな暗い過去から自分を守るように、タイオンは心の扉を固く閉じ誰も中へ招き入れようとしなかった。当然、ミオでさえも。
だがそんな彼が、他人からの評価を気にして“頼りないと思われたくない”と口にした。
これはタイオンの心に訪れた明確な変化を表している。
タイオンの中に萌した小さな変化を見つけたミオは、なんだか嬉しくなってニコニコと笑みを浮かべてしまう。


「よかった。タイオンにもそういう気持ちあったんだ」
「“そういう気持ち”とは?」
「仲間の前でかっこつけたい気持ち」
「なっ……」


悪かったタイオンの顔色が、見る見るうちに赤く染まっていく。
“違う、そんなんじゃない”と喚くタイオンは、すっかりいつもの天邪鬼なタイオンに戻っていた。
そんな彼の言葉を聞き流していたミオだったが、背後から自分たちの名前を呼ぶ声がして振り返る。


「おーい、タイオン、ミオ。何してんだー?」


呼んでいたのはユーニだった。
大きく手を振りこちらを見つめているユーニを視界に捉え、タイオンは身を固くする。


「マナナが飯出来たってよ」
「うん、今行く。ちょっとタイオンが船酔———むぐっ」


呆気なく体調不良をばらそうとするミオに焦り、タイオンは後ろから彼女の口を塞いだ。
バランスを崩したミオは尻もちを搗きながらタイオンの上半身に背中から倒れこんでしまう。
自分の胸板に倒れこんできたミオを抱えながら、彼女の口を塞いだ手を離さないタイオン。
そんな2人のやり取りを遠巻きに見つめながら、ユーニは眉をひそめた。


「え、何してんの?」
「い、いや、なんでもない!何でもないんだ!すぐに行く!」


腕の中で口を塞がれたままもがいているミオをそのままに、タイオンは焦りながら早口でそう告げた。
2人の様子のおかしさには気付いていたが、特に追及することなくユーニは頷き、踵を返してノアたちがいる焚火の方へと戻っていく。
ユーニが離れたことを確認し、ミオの口を塞いでいた手を離すと、彼女はようやく安堵したようにため息をついた。


「いいか?僕が船に酔ったことは絶対言うなよ?特にユーニには」
「そんなにカッコつけたいの?」
「だからカッコつけてない。頼りないと思われたくないだけだ」


それを“カッコつけてる”って言うんじゃない。
心の中の呟きを口にすることなく、ミオは“はいはい”と軽く受け流した。
ようやく木の根元から立ち上がったタイオンは、少しふらつきながら焚火の方へと歩き出す。
明らかに本調子ではないにも関わらず強がろうとするタイオンの意地らしさに、ミオは笑みを零した。
知らなかった。タイオンがあんな風にムキになることがあるだなんて。
掴みどころのない仲間の新たな一面を垣間見れたことに、喜びを隠しきれない。

白い指を首元に押し当てると、刻まれた刻印がそこにはある。
極めて薄い“赤”は、ミオの限界が近いことを生々しく物語っている。
“最期”の時が迫ったこの瞬間に、タイオンが変わってくれたことを実感できてよかった。
またひとつ、この世に執着する理由がなくなった。
遠ざかるタイオンの背中を見つめながら、ミオは一人、寂し気に微笑むのだった。


***

カデンシア地方最北端、リ・ガート収容所。
数日にわたる航海の後、一行は目的地であるこの収容所へとたどり着いた。
捕らえた反逆者を収容しておく施設の存在は以前から知っていたが、それがこんなカデンシアの辺境にあったとは知らなかった。
鍾乳洞から通気口を伝って簡単に侵入できたうえ、新顔である自分たちを看守たちが全く疑っていないことから察するに、脱獄への対策は厳重のようだが、外からの侵入者に対しての警備は驚くほどに薄いようである。

目的だったゴンドウとも呆気なく会うことが出来た。
ゴンドウの正体が屈強な男ではなく少女であり、しかもモニカの娘だったという事実にはさすがに驚いた。
とはいえ、見た目はともかく中身は“少女”と呼称していいのか迷うほどに粗暴ではあったが。
 
ゴンドウと会えたことで、モニカから託された任務の進捗は30%ほどにまで進んだ。
あとはゴンドウをはじめとする収容されているロストナンバーズたちをここから逃がし、ゴンドウが持つアグヌスの女王への手がかりを確保するだけ。
任務の中で最もウエイトの高い“脱獄”という問題がまだ残っている。
無事収容所の中に侵入できたからと言って、油断は出来なかった。

脱獄実行の日として定められたのは、侵入した日の3日後だった。
その日を迎えるまで、一行は他の罪人たちと同じように刑務作業に当たることとなる。
食材の大量収集、モンスターの間引きなどの地味な刑務作業は疲労感を蓄積させる。
収容所に等間隔に置かれた硬いパイプ式のベッドも、この疲労蓄積に拍車をかけていた。

流石に快適とは言い難いこの収容所生活がようやく3日目に突入した夜。
脱獄がいよいよ明日に迫ったことで、一行の中では緊張感が増していた。
明日に向けてなるべく早めに休んでおこうということで、一行は日付が変わる前に硬いパイプ式ベッドに横たわった。
あれから約1時間。消灯時間が過ぎたことで、広い収容所の監獄は漆黒の闇に包まれる。
周囲のベッドから仲間たちの規則正しい寝息が聞こえ始めた頃合いで、タイオンはゆっくりとベッドから上体を起こした。

“瞳”を起動する。時刻を確認すると、表示された数字は深夜1時半を示していた。
1時を過ぎれば、廊下を見回る看守の巡回時間が30分おきから1時間おきに変わることは、この3日間で検証済みである。
抜け出すならこのタイミングしかない。
 
薄い掛布団の中から抜け出し、“瞳”で戦術士のクラスを選択すると同時に、着なれた服とマフラーが出現する。
大量に並べられたベッドの間を縫うように進み、広く仕切られた監獄部屋の鉄格子へと歩み寄った。
この鉄格子は看守が持つ2つの鍵によって施錠されている。
鍵穴と錠前の2種類からなるこの鉄格子扉は、昼間になると刑務作業のため解放される。
その際、鍵穴と錠前の仕掛けをよく観察し、その構造を把握していたおかげで開錠自体は苦労しないだろう。
手のひらから2枚のモンドを出現させ、鉄格子の間から抜け出させて2つの鍵へと飛ばす。
モンドの白くしなやか身体がそれぞれの鍵穴に侵入し、開錠させるためにカチャカチャと金属を鳴らし始めた。

昼間の喧騒の中ではあまり気にならなかったが、夜の静寂の中ではこの小さな金属音も良く響く。
まずいな。あまり時間をかけてはこの音で看守に気付かれるかもしれない。
少し急いでくれ、モンド。
タイオンがそう念じたとほぼ同時に、錠前の方を攻略していたモンドが見事解錠に成功し、ガチャリと小気味よい音が鳴る。
よし。あとは鍵穴だけだ。あと少し、あと少し。


「何してんの?」


突然背後からかけられた声に、心臓が飛び出そうになった。
肩を震わせ振り返った先にいた人物に、焦りと驚きで心臓をうるさく騒がせていたタイオンはほっと安堵する。


「な、なんだユーニか。驚かせるな」
「脱獄の予定は明日だろ?一人で逃げようって算段?」
「人聞きの悪いことを言うな。僕がそんな卑怯な人間に見えるか?」
「冗談だよ冗談」


他の面々を起こさないよう、小声で話す2人。
夜の闇に2人の話し声とモンドがたてる金属音だけが響く中、ようやくもう一つの鍵穴がモンドによって回った。
ガチャリ。再び鳴り響いた小気味よい金属音と共に、堅く施錠されていた鉄格子の扉がゆっくりと開く。
ユーニに気付かれてしまったこと以外は計画通りだ。


「これから外に出る。明日の作戦決行に向けて下見に行く」
「下見?」
「脱出は外の大手門からという手筈だっただろ。あそこがちゃんとウロボロスの力で壊せる程度のものなのか確かめておきたい」


ゴンドウがたてた脱獄のための作戦は、作戦と呼称できるのか怪しいほどに単純なものだった。
収容所にいる他のロストナンバーズたちが昼間の刑務作業中に騒ぎを起こし、その隙に一行はゴンドウたちと共に収容所の外に設置されている大手門から脱出する。
ただそれだけの流れである。
 
覚えるほどでもない策だが、この策の一番大きな不安点は脱出地点である大手門だ。
門自体はかなり大きく、そして重そうだ。
破壊するのは一行の中で最も腕力に優れたランツとセナが担当している。
インタリンクした彼の力を持ってすれば壊せないものなど殆ど無いだろうが、万が一ということもある。
いざ脱獄するタイミングで門が破壊できず、作戦が失敗したら最悪の結果に陥るだろう。
自分たちがウロボロスだということが露見した瞬間、看守のさらに上でこの施設を管理しているであろう執政官は十中八九処刑を言い渡してくるはず。
そうなれば、もはや抵抗のしようがない。

昼間の刑務作業では看守たちの目があったため、大手門に近づき詳しく調べる時間もなかった。
だが監視の目が薄れる深夜ならきっと調べられるはず。
そう思い、この時間にわざわざ行動を起こしたのだが、ユーニに見つかってしまったのはかなりの誤算だった。
彼女にはここで留守番していて欲しいのだが、鉄格子の扉をくぐり廊下に出たタイオンの手を握り、ユーニは彼を引き留めた。
嫌な予感がする。彼女はこっちの思い通りに動いてくれた試しがないし、きっと今回も厄介なことを言い出すぞ。
タイオンのそんな予感は見事に的中した。


「アタシも行く」
「言うと思った。駄目だ」
「なんで」
「1人で行くより2人で行った方が見つかるリスクが高まるだろ」
「見つかった時アタシがいた方が切り抜けやすいだろうが」
「はぁ」


ユーニの肩越しに、監獄部屋の中へと視線を向ける。
等間隔に並べられたベッドの上では、他の囚人や仲間たちが寝息を立てている。
これ以上ここで問答を続けていては、そのうち誰かが起きてしまうかもしれない。
早いところこの場を去りたいが、だからといってユーニを連れ出すわけにはいかなかった。


「もし見つかった時、1人なら殺されるのも僕だけで済む。2人で行って無駄に被害を広げたくない」


タイオンの言葉を聞いた瞬間、ユーニはその青い瞳をこれでもかというほど見開いた。
そして、そのあとすぐに眉を潜め、みるみるうちに不機嫌な色を滲ませていく。
何だその顔は。そう突っ込もうとしたタイオンが口を開く前に、ユーニは片手で握っていた彼の手首を両手で握りなおした。


「なら、余計にアタシも行かないわけにはいかないな」
「えっ、おい……」
運命共同体だろ?」


タイオンの手を取り、ユーニは彼の言葉を聞くことなく鉄格子の扉をくぐって外に出た。
どうやら意地でもついて来るつもりらしい。
こうなったら強引にでも監獄部屋に押し戻してモンドで包囲させ、自分が戻るまで一歩も外へ出られないようにしてやろうかと思ったタイオンだったが、白い羽根を揺らしながら振り返ったユーニによってその考えも芯から折られてしまう。

運命共同体。 
その言葉を持ち出されたら、何も言えなくなってしまう。
手を引いたまま前を歩くユーニの後頭部を見つめながら、タイオンは深くため息を吐いた。
あぁもう、これで何が何でも見つからないよう努めなければならなくなった。

暗い廊下には点々と薄い光を放つエーテル灯が設置されている。
その光を頼りに、タイオンとユーニは壁沿いを歩きながら倉庫へ向かっていた。
備品が多く置かれているあの倉庫には、外へ通じる通気口があったはずだ。
通気口は格子状の蓋によって塞がれていたが、昼間の間にその蓋を固定していたボルトを緩めておいた。
倉庫に到着し、まっすぐ通気口へと向かってモンドを飛ばす。
天井付近の高い位置に設置された通気口の蓋は、数枚のモンドで簡単に外れた。


「うわ、随分簡単に外れんのな」
「事前にボルトを緩めておいたからな」
「ほえー、鍵のことと言い、お前ウロボロスより怪盗とかの方が似合ってんじゃね?」
「嬉しくない」


乱雑に置かれた備品たちの中から空のコンテナを引っ張り出すと、通気口の下に設置する。
コンテナに上り、タイオンは先に通気口へと潜り込む。
人一人がようやく匍匐状態で進める程度の空間は、真っ暗で1メテリ先すらも見えない。
ポケットに忍ばせていた小型の懐中電灯を取り出し、明かりを灯す。
一筋の光が通気口の先を照らし、ほこりが反射してきらきらと光っていた。


「うっわ。狭っ」
「この通気口は昼間刑務作業をした外に繋がっているはずだ。行くぞ」


タイオンに続き、ユーニもコンテナを足掛かりに通気口へと侵入する。
彼女がきちんと通気口内に登って来たことを確認したタイオンは、手に持っていたライトを口に咥え、匍匐前進で通気口を進み始めた。
ライトで前方を照らしながら前を進む相方に続き、ユーニは狭い通気口を匍匐前進で進む。


「ライトまで持ってきてたのか。用意がいいな」
「当然だ。この作戦が失敗したらすべてが水泡に帰す。ミオのためにも失敗はできない」


後ろから匍匐で着いていくユーニには、前を行くタイオンの顔を見ることが出来ない。
ライトを咥えながら話す彼の言葉は、少々聞き取りにくかった。
引きずられている彼のマフラーを見つめながら、ユーニは前のタイオンへと再び話しかける。


「出会った頃からミオのこと気にしてるよな。まぁ10期だし当然だと思うけど」
「志半ばで死んでいく人をもう見たくないからな」
「ナミみたいに?」


タイオンからの返事はなかった。
気を悪くさせただろうか。
そう思い一瞬怯んだユーニだったが、数秒の間を置いて“そうかもな”と返事が返ってきたことで安堵した。


「もしかしたらナミも再生されてて、どこかで生きてるのかもしれないな。アタシみたいに」


この世界に存在する残酷な命の流れを知ったのは、つい先日のことだった。
ケヴェスキャッスルで見たゆりかごの中に、目の前で命の炎を燃やし尽くしていたエセルの姿があった。
それはまさに、人の命がこの世界で循環していることを物語っている。
ユーニの脳裏にへばりついた忌まわしいあの戦場での記憶も、命の循環によるものだとようやく説明がついた。
殺されて、そして再生され、死ぬために生きて、また死んで、そして再生される。
この虚しいルーティーンは、永遠を意味するこのアイオニオンという世界に良く似合っているシステムだ。

このシステムに照らし合わせれば、かつて死んでいった者たちもどこかで再生されている可能性が高い。
例えば成人の儀を間近に控えていたタイミングでディーにより殺されたムンバも、別のコロニー配属されてすぐに戦死したと聞いたゲッセルも、エセルと刺し違える形で死んでいったカムナビも、ミオの親友だったおくりびとであるミヤビも、そして、タイオンの目の前で死んでいったナミも。
どこかで生きているのなら、いずれ会うこともあるだろう。
そうなったとき、タイオンはどんな顔をするのだろう。


「もしもナミと再会したらどうする?」
「どうって……。その時にならないと分からないだろ」


返って来たのは当たり障りのない返答だった。
別に特定の回答を求めていたわけではないのだが、少しくらいは真剣に考えて欲しかった。
そう思っていると、前を進むタイオンが“でも”と囁くように続けた。


「叶うことなら償いたい。僕のせいでナミさんを死なせてしまった。あの時の罪滅ぼしがしたい」


タイオンの顔は相変わらず見えない。
暗闇の中で一本のライトが映し出す光だけを頼りに進む彼の言葉は、この狭い空間に哀し気に響く。
タイオンの言葉を聞き、ユーニは僅かに視線を落とした。
予想はしていたが、やっぱりタイオンは未だにナミの一件を吹っ切れていない。
“過去は変えようがないからいい加減踏ん切りをつけろ”と言うのは簡単だが、当の本人にとってはそこまで簡単なことではないのだろう。
ユーニ自身、思い当たる節があるからこそ言えなかった。“もう気にするな”なんて。
いつまでも自分のせいだと言葉で自傷を繰り返すこの気難しい男に、自分はどんな言葉を贈るべきなのだろう。
“過去”という名の重い荷物を一人で背負い込むタイオンを前に、ユーニは何も言えなかった。


「よし、ついたぞ」


ようやく通気口の突き当りに辿り着いたらしい。
前にいるタイオンが通気口の格子蓋に肘を思い切りぶつけたことで、蓋は真っ逆さまに外へと落ちた。
やがてタイオンもまた、狭い通気口から外世界へと飛び降りる。
彼に続いて外へと飛び降りるため匍匐で出口へと身体を進めるユーニだったが、外へと顔を覗かせた瞬間彼女の顔色は青く染まった。


「た、高っ!お前よく怪我しなかったな」
「この程度なら平気だろ。僕はこれでもアグヌスの兵だぞ?」


通気口の出口から雑草がが生えている外の地面までは、目測で3メテリ近くある。建物の2階分の高さに相当する。
控えめに言って高かった。
ケヴェスの兵に比べて身体が屈強であるアグヌスの人間にとって、こんな高さは大したことがないのだろう。
現に、先に地上へ降り立ったタイオンは随分と涼しい顔でこちらを見上げている。
足を挫いた様子はない。


「ほらどうした?早く降りてくれ」
「……」
「ユーニ?」


地面を見下ろしながら苦い顔をしているユーニを見つめ、タイオンは思い出した。
そういえば、高いところが苦手だったな。
この程度の高さも厳しいのか、まったく困ったものだ。
踏ん切りがつくまで待ってやりたいが、ここにもいつ看守の見回りが来るかもわからない。
あまり時間をかけてはいられなかった。


「ほら、受け止めてやるから早く」


両手を掲げて受け止める体制を作ったタイオンだったが、相変わらずユーニは苦い顔で踏ん切りがつかない様子。
この両手が信用ならないというのだろうか。
心に生まれた小さな不満は、苛立ちを呼び寄せる。
これ以上こんなところで時間を使いたくはない。
仕方なく、タイオンは右手の指をパチンと打ち鳴らした。
 
どこからともなく舞い上がった複数のモンドが、通気口の入り口に腰掛けたまままごついているユーニの背中を押す。
不意に背後から押し出されたことで、ユーニは“ヒッ”と小さな悲鳴を上げながら文字通り通気口から落ちてきた。
そんな彼女の身体を、両手を広げたタイオンが抱き留める。
思ったより勢いよく落ちてきたユーニの身体を抱きしめながら、タイオンはよろけて尻もちをついた。
地面に生えている草花がクッションになり、背中から倒れ込みそうになったタイオンの身体を支えてくれる。
幸い、胸に飛び込んできたユーニが痛い思いをすることはなかったが、急に背中から押し出された事実はユーニに多大な恐怖感を与えてしまったらしい。
タイオンの首に腕を巻き付けたまま、彼女は真っ赤な顔でぷりぷりと怒り始めた。


「突き落としやがったなこの野郎!」
「受け止めてやっただろ」
「そういう問題じゃねぇ!死ぬかと思っただろ!」
「たった3メテリで人は死なない」
「だからって強引すぎるだろ」
「受け止めてやると言ったのにモタモタしている君が悪い。もう少し僕を信用してくれ」
「別に信用してなかったわけじゃ……。あーもういいや!やめやめ。もう行こうぜ。ちんたらしてる時間ない」


ちんたらしていたのは君の方だろ。
そう言ってやりたかったが、これ以上彼女の怒りを煽ってもいいことはない気がしたのでやめておいた。
タイオンの腕の中から抜け出したユーニは、膝のあたりに付着した泥を払った後、尻もちをついたままのタイオンへと手を差し伸べてくる。
その小ぶりな白い手を握り返して立ち上がると、手に持っていたライトを消灯してポケットに戻し、大手門に向かって歩き出す。

食料が多く手に入るこの場所は希望の丘と呼ばれており、モンスターも数多く生息している。
だが、太陽が沈んだ今はここを闊歩しているモンスターたちもほとんどが巣に帰って眠っている。
聞こえるのは虫の囁きと風に揺れる木々の音だけで、実に静かなものだった。
周囲に看守の姿はなく、大手門まではあっけなく到着することが出来た。
大型のレウニスでも余裕で通り抜けられる巨大な門を前に、タイオンはさっそく調査を開始する。

門は外側から閂で固定されている。
単純な作りではあるが、これほど大きな門を固定している閂なのだからそれなりに巨大なのだろう。
監獄部屋の鍵と違って、モンドを使い小細工でこじ開けることは不可能だ。
門に手を触れてみたところ、全体的に古くなっている印象を受ける。
僅かに力を込めて押してみると、“ギギギ”と扉全体が軋む音が聞こえた。
かなり老朽化しているらしい。この分なら、ランツとセナの怪力でどうにかなりそうだ。


「どんな感じ?」
「門自体はかなりガタがきている。この分ならランツとセナの力で強引にこじ開けられそうだが、念のため別プランも用意しておこう」
「別プラン?」


門の目の前に立ち、地面の硬さを確認するように右足を踏みしめてみる。
ここの土は比較的柔らかい。これならいけそうだ。
人差し指と中指で門の前の地面を指さすと、複数のモンドが勢いよく地面に向かって突進していく。
その様子を、タイオンの隣に歩み寄りつつユーニは不思議そうに見つめていた。
やがて、モンドたちによって門前の土が掘り起こされていく。
1メテリない程度の幅の穴が開き、門の外へと貫通した。
その場で膝を折り、突貫した穴を覗き込みながらユーニは“おぉ”と感嘆の声を挙げる。


「やっぱ便利だな、モンドって。この穴が“別プラン”ってやつ?」
「あぁ。この大きさの穴ならリクやマナナは通り抜けられるだろう。最悪、ゴンドウから受け取った例の鍵を持たせて彼らだけでも脱出させる。一番の目的はそこにあるからな」
「ふぅん。もっとデカい穴掘ればアタシらでも通り抜けられるんじゃね?」
「これ以上穴を大きくしたら目立つだろ。作戦実行は明日の刑務時間内だ。朝の時点で見回りに来る看守が穴に気付けば、脱獄の計画まで露見する可能性がある。この大きさが許容できるギリギリの範囲と言ったところだな」
「なるほど」


召還したモンドたちの仕事はまだ終わらない。
開けたばかりのこの穴を、そのあたりに落ちている枯れ木や枝を使ってカムフラージュする必要があった。
葉を搔き集めて穴を軽く塞ぎ始めるモンドを眺めていたタイオンだったが、空から舞い降りてきた1枚のモンドが肩に止まってきたことに気付き、ハッとする。
そのモンドは、昼間の刑務作業時間から外を見回りさせていた個体である。
夜、外に出て下見をしている間に看守が近づいたら知らせろと指示を出してあった。


「ユーニ、こっちへ」
「えっ、なに?」


穴をふさぐ作業に従事していたモンドたちを瞬時に消滅させると、タイオンはユーニの腕を引いて門の前から離れた。
彼女を引きずりながら、近くに建っている櫓の影に身を隠し、座り込む。


「おい何だよ急に——。んぐっ」


大きく開いた自分の足の間に座らせたユーニを後ろから抱え込み、強引に口をふさぐ。
これ以上騒がれないように、彼女の口を塞いでいる手とは反対側の手で“しっ”と人差し指を口元に立てると、ようやくユーニは事態を理解したのか大人しくなった。
身を隠している櫓の柱の影から、先ほどまで自分たちがいた大手門の方を覗き込む。
そこには、白い兵装を見に纏ったアグヌスの看守の姿があった。
見回りに来たのだろう。あと一歩あの場を離れるのが遅かったら、きっと見つかっていたに違いない。

だが、問題は先ほどタイオンが空けたあの穴にある。
まだ穴をふさぐ作業は完了しておらず、門の反対側に貫通させた穴は一部露出したままだ。
あの穴に気付かれれば一巻の終わりだ。どうか気付いてくれるなよ。
遠くであたりをきょろきょろと見渡す見回りの看守を見つめながら、タイオンは緊張で身を固くしていた。
ユーニを庇うように抱き寄せている腕に自然と力が入り、腕の中で口を塞がれている彼女が息を詰める。
やがて、大手門の前に陣取っていた看守は背中を向け、ようやくその場から立ち去った。
どうやら例の穴には気付かれなかったらしい。

安堵したタイオンは、ようやく肩の力を抜いて深く息を吐いた。
よかった。とりあえず眼前の危機は去ったようだ。
あとはあの穴を完全に塞いでこの場を去れば、下見は完璧に終わる。
安心しきったタイオンの腕の中で、ユーニが“んー!”と声にならない呻き声を上げながら身をよじり始めた。
しまった。少し強く押さえ込み過ぎたらしい。
急いで彼女の口を塞いでいた手を離し、謝るために口を開いた。


「あぁすまん、少し強引すぎ、た、か……」


言葉尻がふわふわと宙に浮く。
腕の中で抱き寄せていたユーニがこちらを振り向いた瞬間、その青く大きな瞳を見て意識が浮ついた。
彼女の瞳に自分の姿が反射している。それが目視できてしまうほど、2人の距離はあまりにも近い。
鼻先が触れ合いそうなほど接近した彼女の顔を見つめたまま、タイオンは言葉で言い表せない“マズさ”を感じていた。
この距離感はだめだ。他の誰かとならともかく、ユーニとこんなにも近い距離で見つめ合うのは、なんだか、すごく、とっても———。


「ごめんっ」


早口で謝ると、座ったままのユーニを置き去りにタイオンは即座に立ち上がった。
何に謝っているのか、自分でもよく分からなかった。
だが、なんだかすごくいけないことをしてしまったようで、心が落ち着かない。
表情を隠すように眼鏡を押し込むと、ユーニのそばから逃げるように歩き出す。


「さっきから強引な奴だなもう……」


背後からユーニの愚痴が聞こえてくる。
この声に反応することなく、タイオンは大手門の前へと戻る。
そして再びモンドを出現させると、穴をふさぐ作業を再開させる。
その様子を横目で見つめながら、タイオンは自分の右手に視線を落とす。
先ほどまでユーニの口を塞いでいた手だ。
彼女の唇に触れた自らの手を見つめていると、心臓が急激に握り込まれた感覚を覚えてしまう。

なんだ?この感覚は。


***

大手門の下見は無事終了した。
別プランのために用意した例の穴を塞ぎ終え、2人は来た道を戻る。
通気口を通って収容所内に戻ると、相変わらず廊下は物静かで薄暗い。
なるべく足音を立てずに歩く二人の間に、会話はなかった。
先ほどから何故かだんまりを決め込んでいるタイオンに、ユーニは少しだけ気まずさを感じている。
自分より幾分か背の高い彼をこっそり見上げながら、その顔色を伺う。
考え事でもしているのだろうか。
とにかくこの冷え切った沈黙に居心地の悪さを感じたユーニは、頭の引き出しから無理矢理話題を引っ張り出した。


「なぁ、なんで看守が近づいてるって分かったんだ?」


先ほど、間一髪のところで看守の接近に気が付いたタイオンの功績を引き合いに出したのは、その方が彼が話しやすいと思ったからだ。
正直、理由など聞かずとも分かる。どうせモンドのおかげだろう。
その予想はまさに的中していた。


「モンドに見張りをさせていたんだ。兵士の気配を察知して僕に知らせてくれた」
「気配か。そういえば最初にお前と戦った時もアタシの気配をしつこく追ってきたよな」
「モンドはそういう武器だからな。一度敵と認識したら相手が息絶えるまで追い続ける」
「こっわ。粘着質ブレイドだな。タイオンにぴったり」
「失礼な」


ユーニの言葉に、タイオンは眼鏡越しに睨みつけてきた。
あまり迫力のないその睨みに、ユーニは安堵する。
よかった。盛り上がったとは言い難いが、それなりに会話のラリーは続いている。
意識的に話さないようにしているのかとも思ったが、どうやら違うらしい。
密かに安心しているユーニの横で、タイオンは言葉を続けた。


「追尾型のブレイドとしてはこれほど優秀なものはないぞ。それにこれはナミさんから教わったもので——」


あ。
タイオンの口から滑り落ちた“ナミ”という名前に、ユーニは反応する。
自分の地雷を自分で踏みつけたタイオンは、案の定また褐色の瞳を曇らせて言葉を失っていた。
今の流石にアタシのせいじゃねぇぞ。とユーニ心で釘をさす。
自分自身の言葉で元気を失いつつあるタイオンに、ユーニはとりあえずこれ以上空気が重くならないよう言葉を投げかけ続けた。


「ナミって、お前の人生に大きな影響を与えてたんだな」
「……あぁ。ナミさんは僕に多くのことを教えてくれた。お茶の入れ方も、戦術も、ブレイドも、すべて彼女に教わった。なのに、僕は……」


出た出た。またそれか。
レンズ越しのタイオンの視線が、ゆっくりと足元へと落ちていく。
それと同時に、タイオンの気持ちもどんどん降下していくのが見て取れた。
ナミの名前を出した後、こういう顔になったタイオンを見たのは一体何度目だろうか。
この流れ、流石にもう面倒くさくなってきた。
すぐ隣で暗い空気を醸し出す相方に呆れたユーニは、今までにないほど深いため息をつき、彼の広い背中をこれでもかというほど強い力で引っ叩いた。
服越しに叩かれたことで、タイオンの背中に痛みが走る。
ユーニの平手がタイオンの背中を叩く“バフっ”という音と、タイオンの“いっ…”という小さな悲鳴が、暗く静かな収容所の廊下に響いた。


「そういうの聞き飽きたんだけど」
「は、はぁ?」


突然渾身の力で背中を引っ叩いてきたユーニに抗議の目線をおくるタイオンだったが、その視線に負けないほど鋭い目をしたユーニの気迫に押し負けてしまった。


「ナミが死んだのも僕のせい、イスルギがあぁなったのも僕のせい。この世で起きる悪いことは全部自分のせいだとか思ってるわけ?」
「い、いや、そんなことは……」
「タイオンの慎重さはよく知ってる。お前のことだから、きっと慢心して策を見誤ったわけじゃねぇんだろ?ナミのこともイスルギのことも、お前のせいじゃねぇよ」


歩みを進めていたタイオンの足が止まる。
目を見開いた先にいるのは、ほんの少し前を歩くユーニの姿。
こちらを振り返りつつ不満げな顔をしているユーニを前に、沈み切った心が一瞬だけ宙に浮いたような気がした。
心と体にのしかかった重い“何か”が、ふわりと軽くなる感覚に襲われる。
けれど、すぐにその感覚は薄れ、胸に渦巻いた罪悪感に吐き気が込み上がる。
そして、逃げるようにユーニから視線を逸らした。


「君に何が分かる。何も知らないくせに」


その台詞を吐き捨てた瞬間、心がまた締め付けられた。
あぁ、今のは少し言い過ぎたかもしれない。
彼女は自分を励まそうとしてくれているだけなのに、冷たく突き放すような言葉で心の扉を閉めてしまう。
鍵をかけて、誰も入ってこないように施錠する。
こうして壁を作ることで、これ以上傷付かないように自分を守り通してきた。
この生き方に疑問を感じたことはない。当然間違っているかもと疑問を抱いたことも、後悔したこともない。 
なのに、今初めて、他人を突き放したことに小さな後悔を覚えていた。
 
不快な思いをさせたかもしれない。彼女のことだ。きっとまた怒るに違いない。
“せっかく励ましてやってんのになんだよその言い方!”と。
そう思い、恐る恐るユーニへと視線を向けると、彼女の予想外な表情に“え…”と声が漏れそうになった。

何故、どうして。
そんな寂しそうな顔をしているのだろう。


「そりゃ全部が全部分かるわけじゃねぇけど、分かりたいとは思ってるよ」


足を止めたユーニは、体ごと振り返りタイオンと向き合った。
そして右手で自らの白い羽根の先端に触れながら、その澄んだ青い瞳でタイオンを見上げる。


「言っただろ?お前のこと知りたいって。タイオンが何を抱えてるかなんてアタシには想像することしか出来ないけど、それでも知りたいんだよ」
「ユーニ……」
「アタシたちは運命共同体なんだろ?だったら、1人で背負ってないでアタシにも分けてよ、その重荷。2人で分かち合えば少しくらい気持ちも心も軽くなるかもしれねぇだろ?」


そう言って、ユーニはこちらに背を向け歩き出した。
揺れる彼女の白い羽根を見つめながら、タイオンはその背にかけるべき言葉を探していた。
何言わなくちゃ。宝石のようにきらきら輝く言葉をくれた彼女に、同等の価値がある言葉を返さなくては。
けれど、他人を喜ばせるような言葉を、タイオンはひとつも知らない。
心が浮ついて、体が軽くなるような不思議な感覚に苛まれた彼は、遠ざかっていくユーニの背中に何も言えなかった。

何が“重荷を分けろ”だ。
それを君が言うのか。
つい最近まで一人で恐怖感を抱えていた君が。
こちらがどんなに手を伸ばしても抱え込んだ正体不明の恐怖感を打ち明けてはくれなかったくせに、自分はこちらの重荷を分かち合いたいなんて都合がよすぎるじゃないか。
そこまで考えて、タイオンは気が付いてしまった。
ユーニに頼られたいと思っている自分に。
頼られたいと思う一方で、自分は全くユーニに頼れていなかったという事実に。

監獄部屋に戻った2人は、モンドによって開けられた2つの鍵の元通り施錠しなおし、互いのベッドに戻った。
看守に見つかるかもしれないというリスクを孕んだ下見はなんとか無事終了し、2人揃ってこの固いパイプ式ベッドに戻ってくることが出来た。
ベッドの中に潜り込んだタイオンは、なんとなくユーニの方へと視線を向ける。
セナやランツを挟んだ向こう側のベッドに横になろうとしていたユーニと目が合ってしまう。
焦って固まるタイオンに、ユーニは小さく微笑みながら口パクで“おやすみ”と言ってきた。
こちらが“おやすみ”を返す前に、彼女は背中を向けて眠ってしまった。
その様子を見届けた後、タイオンも眼鏡を外し自分のベッドに横たわる。

あの様子だと、怒ってもいないし不快な気持ちにもなっていないようだ。
よかった。

目を瞑ると、自然と先ほどのユーニの言葉が脳裏で再生される。
“タイオンのことが知りたい”
“重荷を分けてほしい”
運命共同体
その言葉1つ1つがタイオンの冷え切った心に熱を与える。
かつて敵だった彼女のことは、旅を始めた当初何度も突き放してきた。
にも関わらず彼女は、知りたいだの何だの言って距離を詰めて来る。
人と距離を取りたがるタイオンにとっては忌むべき状況だというのに、何故だか心が躍る。
ユーニに言葉を貰うたび、嬉しいと思ってしまっている自分がいるのだ。
彼女の白い手によって心の扉がノックされると、ずっと昔に固く閉じたはずの扉を久しぶりに開きたくなってしまう。

扉の向こうに、ユーニがいる。
“お前のことが知りたい。だから中に入れて”と呼びかけながら、すぐそばに立っている。
この扉を開けて彼女を心の中に招き入れたら、自分はどうなってしまうのだろう。
姑息で弱い一面を持った心の全容を彼女に見られたら、きっと幻滅されるに違いない。
“なんだ。こいつはこんなに弱い人間なのか”と呆れられて、背を向けられるかもしれない。
それは嫌だな。ユーニには、そんな風に思われたくない。

“そんなにカッコつけたいの?”

いつだったかミオに言われた言葉が脳裏によみがえる。
確かにカッコつけているのかもしれない。
弱い自分を見せないように、強く見せかけた仮面を被って平気なふりをする。
このどうしようもない一面を誰かに見られて、幻滅されるのが怖いから。期待を裏切るのが怖いから。
その一面を“見たい、知りたい”と言われても、今のタイオンにそんな勇気はなかった。


***

 

かつて、こんなにも朝が来てほしくないと思った夜があっただろうか。
厚い壁と鉄格子で仕切られた監獄という名の冷たい空間で、5人のウロボロスは会話もなくただただ時間を浪費していた。
天井近くに設置された天窓から、綺麗な夜空が見える。
瞳の時計上では、日の出まであと5時間ほど。
ケヴェスキャッスルよりも標高が高い場所に位置しているこの天空の処刑場は、夜になるとひどく冷える。
床も冷たいが、椅子やベッドがない以上この冷たい床に直接腰を下ろすしかなかった。 
そんな冷たい床の上で、タイオンは一心不乱にモンドを折っている。何かに集中していないとおかしくなりそうだったから。
 
右手奥の壁に並んで腰かけているランツとセナは、互いに寄り添うように体重を預け合って目を瞑っている。
その近くにいるリクとマナナもまた、豊満な体を寄せ合って眠っていた。
正面の壁に寄りかかり、力なく座っているノアは、俯いているせいで眠っているのか起きているのかすら分らない。
すぐ隣に座っているユーニは、自分の膝を抱えている腕に顔を埋めている。
時折鼻をすする音が聞こえているし、おそらく起きているのだろう。
いや、“眠れない”の間違いか。


「寝たらどうだ。起きていても何も変わらないぞ」


モンドを1枚折り終えたタイオンは、手元に視線を落としたまま隣のユーニへと語り掛けた。
そんな彼の言葉に、ユーニもまた顔を埋めたまま答える。


「そっちこそ寝たら?」
「……寝たくても眠れない」


完成したモンドをまた開く。そして折る。
現実逃避のためのこの不毛な作業を、今まで何度繰り返しただろう。
折り目がたくさんついたモンドのカタシロは、今にも破れそうなほど柔くなっていた。

明日は蝕の日。成人の儀が執り行われる日。ミオが死ぬ日。
この日が来ることは知っていた。
10年生きたら死ぬという逃れられない運命の名のもとに生きている自分たちは、どうあがいても死へと一直線に伸びているレールから降りることはできない。
 
ウロボロスという因果の流れの外にある特別な力を手に入れたことで、妙な希望を持ってしまったのがそもそもの間違いだった。
命の限界が延ばせるかもしれないという中途半端な希望を持たなければ、きっと今頃この日の到来を歓喜していたことだろう。
無事にミオが成人の儀を迎えることが出来た。
志半ばで死に突き落とされることなく、限界まで生きることが出来た。
たくさんのおくりびとに見送られ、仲間たちに祝福されながら女王の元へ還る。
それはとても素晴らしいことで、誇るべきことで、喜ぶべきことだった。
何も知らないままなら、こんなに哀しい気持ちにはならなかった。
 
だから嫌なんだ。誰かと親しくなるのは。
その人が死んだとき、どうしようもなく悲しくなってしまう。
どうせ死は避けられない。確定された運命を誰もが迎えるのなら、誰の死にも心動かされないように人を遠ざけてしまえばいい。
そう思って壁を作ってきたが、どうも限界があったようだ。

ミオはお節介な人だった。
いつも一人で嫌われ役を買って出ていたタイオンを気にかけ、しつこく笑いかけてきた。
誰にでも優しく、後輩から慕われ、いつも穏やかに笑っていたミオに、“あの人”の影を重ねていたのは間違いない。
守りたかった。失いたくなかった。
旅を始めた目的のうち1つはそれだった。
この目的を果たせば、少しは自分を好きになれると思っていた。
かつての失敗を、ミオを救うことで己を慰めて、“僕は大丈夫。弱くなんてない”と言い聞かせたかった。
明日の到来と共に、この旅は終わる。
結局“何もできない弱いタイオン”のままで、この一生がまた終わるのだ。


「ミオは———」


正面の壁をまっすぐ見つめながら、タイオンは呟く。
独り言のように、誰に聞かせるわけでもなく、心の内を一方的に吐露する。


「ミオは、弱いところを決して見せない人だった。いつだって人の心に寄り添い、誰かの支えになれるような人だ。僕も、彼女には何度も支えられた。守りたいだなんておこがましいにもほどがあるが、それでも、生きていてほしかった。1分1秒でも長く……」
「多分、あいつも同じ気持ちなんだろうな」


すぐ隣でユーニの声がする。
ふと隣に視線を向けると、抱えた膝に突っ伏していた彼女はいつの間にか顔を上げていた。
その視線は、正面で座り込んでいるノアへと真っ直ぐ注がれている。
この監獄へ追いやられた初日から、何度も鉄格子を殴りつけていた彼の手は真っ赤に晴れ上がり、痛々しくて見ていられない。
ミオの“限界”が近づくごとにノアは憔悴し、次第にその瞳から力が失われていく。
あの顔には見覚えがあった。よく似ている。ナミが死んだときの自分の顔にそっくりだ。

ノアはどこか浮世離れした価値観を持っていて、情には熱いが物事を俯瞰して考えられる現実主義な男に見えていた。
だが、ミオの死を前に彼は今まで見たことがないほど取り乱した。
ミオという存在が、ノアの中でそれほど大きな存在感を放っていたのだろう。
ウロボロスとしてのパートナーだからという単純な理由とは別に、複雑な心情が絡んでいるような気がした。
初めて会った時、相手の命を本気で奪うためにブレイドを交えていたというのに、今となってはあの夜の戦いが遠い昔のように思える。

すぐ隣で、膝を抱えたユーニが鼻をすすった。
そして、ノアを見つめたままぽつぽつと言葉を紡ぎ始める。


「不思議だよな、ミオもセナもタイオンも、ちょっと前まで殺し合うのが普通の敵同士だったのに。今は……悔しくて仕方ない」


ユーニがまた鼻をすすった。
彼女の声は弱弱しく震えている。
視線を向けると、彼女は俯いたまま肩を震わせていた。


「……泣いているのか?」
「泣くだろ、そりゃ」


左手で涙を拭くユーニ。
彼女の白い羽根は、力なくしなびている。
拭いても拭いても滲み出てくる涙をこらえながら、ユーニは言葉を絞り出す。


「だってミオは、友達、だから……っ」


途切れ途切れに発せられたユーニの言葉に、目頭が熱くなっていく。
駄目だ。泣くわけにはいかない。
ユーニから即座に顔を逸らし、上を向く。
ケヴェスとアグヌス。戦い続ける運命の元に旗を振り続ける両国に生まれた6人は、3か月の間に“敵”から“仲間”になっていた。
相手を迷わず“友達”と呼べてしまうほどに、もはや敵味方の境界線はなくなってしまったのだろう。
恐らく、自分とユーニの間にもその境界線はない。
“仲間”の死が辛いのは、当然のことだ。


「なぁ、アタシらも殺されるのかな」
「そうだな。おそらくは」


高い天井を見上げながら涙をこらえていたタイオンの耳に、ユーニの問いかけが届く。
上を向いていた顔を戻し、タイオンは遠い目をしながら答えた。
死を目の前に、今更気休めを言っても仕方ない。
残酷な真実を肯定すれば、途端に死が近くなったような気がした。


「やっぱ、怖い?」
「当たり前だ。死ぬのが怖くない人間なんていない。まぁ、再生されることが分かった今、昔ほど怖くはなくなったが」
「…アタシも怖い」


再びユーニへと視線を向ける。
泣きはらした青い目を細めるユーニは、目尻に涙をためていた。


「死んで、また再生されて、戦いの日々の繰り返し。今までの旅のこととか、出会った人たちのことも全部忘れて、何もなかったように殺し合うんだ。もしかしたら、知り合いだったアグヌスの奴らとまた戦うことになるかもしれない。戦場で対峙して、知らず知らずのうちに殺意を向けるかもしれない。アタシ嫌だよ、そんなの」


ユーニの顔が、タイオンへと向く。
涙をこぼすユーニの目と、涙をこらえるタイオンの目が合った。
そして、かすれた声で彼女は言う。


「仲間と……タイオンと殺し合うなんて」


視界がゆがむ。
ユーニの顔が良く見えない。
そして初めて気が付いた。こらえきれず涙が溢れ出てしまっていることに。


「せっかく、少しずつ分かり合えたのにさ。こんなのってないだろ……っ」


しゃくりあげながら、ユーニは泣きじゃくる。
津波のように押し寄せる感情の波に、心の防波堤が機能しない。
彼女が今恐れているのは“死”ではない。“死”の先にある残酷な運命だ。
心を通わせ、共に過ごした朝の会話も、夜のハーブティーの味も、ゆりかごで再生されればすべて忘れてしまう。
そしてまた戦うだけの駒として生き、どこかのコロニーへ配属されて戦い続けるのだ。
 
何も覚えていない新しい人生は、前の一生で心通わせた者が目の前に現れたとしても容赦なくブレイドで命を奪おうとするだろう。
それが正しいと思い込みながら生きていくしかないのだから。
たとえまたユーニが目の前に現れたとしても、きっと、迷わず殺そうとする。
そんな未来の自分が、恐ろしくて仕方ない。

もはや涙を拭く余裕もなく、ユーニはボロボロと涙をこぼしながら泣き続ける。
彼女は意外にも泣き虫だ。
口が悪く男勝りな性格をしているくせに、一度涙を流すと堰を切ったように止まらなくなるのだ。
そうやってなりふり構わず泣かれると、こっちが困る。
その涙に誘われて、こっちまで取り繕えなくなってしまう。
カッコつける余裕もなくなってしまうのだ。

隣のユーニへとそっと手を伸ばす。
床に置かれた彼女の左手を握り、指を絡めながら彼は言う。


「僕も、いやだ」


もはや堪えきれなくなっていた。
眼鏡が邪魔に思えるほど、タイオンは派手に泣いた。
きっと無様だっただろう。だが、弱く脆いところを見せてくれたユーニを前に、自分だけ我慢など出来るわけがない。
この夜、タイオンはユーニの前で初めて“強がりの仮面”を取り払ったのだった。


***

天空の処刑場から見上げる空は、やたらと綺麗に見えた。
空との距離が物理的に近いせいかもしれないが、これは精神的な理由の方が大きいだろう。
雲一つない今朝の空は、晴れ渡ったタイオンの心と同じくらい明るかった。

一昨日の夜。
監獄の中で彼は明日が永遠に来ないことを望んでいた。
明日が最後の日になるであろうという絶望的な状況で、眠れない夜は残酷に明けた。
昨日が最後の一日になるはずだった。まさか“今日”を迎えられようとは。
人生というのは、本当に分からないものだな。

心で呟きながら、タイオンは空を見上げる。
昨日はまさに怒涛の一日と言えた。
これまで生きてた短い生涯の中で、悲しみと喜びの間をあんなに行ったり来たりしたのは初めてだった。
奇跡というものがこの世に存在する事実を初めて知った。
昨日の出来事を他人に分かりやすく説明しろと言われたら、どんなに言葉を尽くしても理解されないだろう。
それくらい、昨日の出来事は衝撃的だったのだ。


「あれっ」


天空の処刑場の隅に急遽設置された休息地のテーブルでハーブティーを飲んでいたタイオンの耳に、聞き慣れた声が届く。
カップに口をつけながら顔を上げると、そこにはやりユーニの姿があった。
時刻は早朝5時過ぎ。彼女が起きて来るにはまだ早過ぎる時間である。


「君が早起きとは珍しいな。感激のあまり眠れなかったか?」


笑みを食みながらそう問いかけると、ユーニは少しムッとしながらタイオンの正面に座った。
特に強請られたわけではないが、きっと欲しがるだろうと思い、事前に水筒に淹れていたハーブティーを空のカップに注ぎ、ユーニに差し出す。
彼女は腫れぼったい目でそれを受け取ると、お礼も言わず仏頂面でカップに口をつけた。
いつもなら“礼くらい言ったらどうだ”と嫌味を飛ばすところだが、機嫌がいい今日のタイオンは何も言わないことにした。
そんな彼の心遣いなど露知らず、ユーニは正面に座るタイオンを湿っぽい視線で見つめながら反論を開始する。


「そっちこそ、どうせ夜通しヒソヒソ泣いてたんだろ?」
「な、そんなわけ……」
「目、赤くなってる」
「え!?」


思わぬ指摘に、タイオンは盛大に焦った。
ここに来る前、トイレの鏡で顔をチェックし目元が腫れていないかきちんと確認したはず。
テーブルの端に重ねておかれていた鉄製の皿を一枚手に取り、反射した顔を覗き込む。
鏡のように綺麗に映るわけではないためよく見えないが、確認した限り目元が赤らんでいたり腫れていたりしている様子はない。
全然赤くなっていないじゃないか、と心の中で文句を言ったと同時に、ユーニが“嘘だよ、うーそー”と笑った。
どうやら揶揄われただけらしい。
今度はタイオンの方がムッとして手元の皿を元の場所に戻した。


「タイオンって、意外に涙脆かったんだ。出会った頃は血も涙もない冷徹野郎かと思ってた」


カップ片手に頬杖を突くユーニは、楽しそうに笑顔を見せながら言ってくる。
ニヤニヤしながら面白がっているようにしか見えない彼女の態度に、タイオンは軽い羞恥心を覚えていた。
監獄の中でユーニに涙を見せてしまったのは一生の不覚だ。
あの時はどうかしていたんだ。盛大に泣いた上に手まで握って。
彼女のことだから、このことでしばらく揶揄ってくるに違いない。
だが、涙を見せたのはタイオンだけではなかった。ユーニも肩を震わせながら涙を流していたし、弱いところを晒したのは彼女も同じ。
痛み分けと言ったところだ。


「君こそ、あんなに情に厚い人だとは思わなかった。牢屋の中とはいえあんなに派手に泣くとは」
「それ、ミオには言うなよ?絶対揶揄われるから」
「なら君も言うなよ?当然ランツやセナたちにもだ」
「言わねぇよ。タイオンの涙は希少だからな。言いふらしたら価値が落ちる」


ニヤつくユーニの一言に居心地が悪くなったタイオンは、足を組み変え眼鏡を押し込んだ。
何が価値だ。人の涙を天然記念物のように言うな。
肩を落とし、ユーニと同じように頬杖を突くと、タイオンはふっ、と息を吐いた。


「はぁ、君の前で泣くんじゃなかった」
「お互い様だろ?あの夜のことは、二人だけの秘密だからな?」


両腕をテーブルに乗せ、それを枕にするように頬を寄せた彼女は、頬杖をついているタイオンの顔を覗き込みながら口元に人差し指を立てた。
テーブルに突っ伏しながら悪戯に笑う彼女の顔を見た瞬間、何故か顔に熱がこもっていく。
なんとなくユーニの顔をまっすぐ見れなくなって、誤魔化すようにカップに口をつけながら顔を逸らした。


「秘密だなんて大袈裟だ。泣き顔くらいで……」
「そう?運命共同体なんだから、秘密の共有くらいいいじゃん」


秘密の共有。
ユーニの口から語られるその言葉は、何故だか妙な魅力があった。
大袈裟だとは思うが、少し、ほんの少し、本当に本当に少しだけ、そういうのもいいかなと思える。
インタリンクしている2人は、命を共有しているも同義である。まさに運命共同体
そんな相手なのだから、秘密の一つや二つや共有していてもおかしくはない。
ユーニが誰にも言えない何かを抱えていたとして、その“何か”を見せられる唯一の存在はパートナーである自分であるべきだ。
自分ではない他の誰かに心を許し、秘密を披露するなどもっての他である。


「そういえば」


秘密の共有だのパートナーだの運命共同体だの、それらしい言葉が頭に廻ったことで思い出してしまった。
昨日、この天空の古戦場で戦闘の後処理をしていた際にユーニから言われたあの忌々しい一言。
“頼りになる奴が傍にいるからね”
あの“頼りになる奴”がいったい誰を指しているのか、タイオンはまだユーニから答えを引き出せていなかった。


「昨日言っていたあのこと、まだ教えてもらってないぞ?」
「あのこと?」
「“頼りになる奴”とは誰のことだ?」
「は?」
「ノアのことか?ランツのことか?それとも他の誰かか?運命共同体だというのなら教えてくれてもいいだろ」
「お前、それ本気で言ってる?」


腕を組み、まるで尋問官のように問いかけて来るタイオンに、ユーニは思わず脱力してしまう。
“教えてもらっていない”と彼は言うが、ユーニとしては答えをぼかしたつもりはなかった。
確かにあの時、誰のことかと深堀しようとするタイオンに“教えない”と言って突っぱねたが、前後の文脈で誰を指しているのかくらい想像できるはず。
目の前に頭の切れる相方がいるというのに、他の誰かを褒めるわけがない。
聡いタイオンのことだから、口では戸惑いつつも内心察しているものだと思っていた。
だが、彼は本気で分かっていないらしい。
すぐに答えを教えようとしないユーニに苛立ち、不満げな表情を浮かべていた。


「なんだ、教える気にならないと言うのか?まさか僕の知らない男なんじゃ…」
「ぶふっ」
「な、なんだ?」
「なんで男前提なんだよ?」
「えっ」


吹き出したユーニの言葉に、タイオンは言葉を失った。
戦場では誰よりも聡く、敵を陥れるために鋭利な策を繰り出すこの男が、自分が言い放った“頼りになる奴”が誰なのか分からずやきもきしている。
その事実は、ユーニを上機嫌にさせた。


「タイオンって、普段は頭いい癖にこういう時は鈍くなるのな」
「どういう意味だ?」
「言葉のまんまの意味だよ」


訳が分からないとでも言いたげなタイオンは、眉間にしわを寄せて首を傾げている。
そんな彼の滑稽さに笑いが堪えられない。
クスクスと笑いながら席を立ち、その場を離れようと歩き出すユーニの後を追い、タイオンも急いで立ち上がる。
ユーニを背中から追いかけ、まとわりつくように彼女に声をかけ続ける。


「ちょ、ちょっと待ってくれユーニ!い、今のはどういうことだ!?頼りになる奴というのはまさか……」
「さぁな。自分で考えろよ、参謀だろ?」
「いや、そういうのはハッキリ言ってくれ!気になって仕方ないだろ!」
「じゃあずっと気にしてろよ。アタシは別に困らないけど?」
「ユーニ!」


喚くように名前を呼んでくるタイオンがあまりにも必死で、余裕など一切感じられない彼の態度にユーニは思わず声を挙げて笑った。
タイオンを翻弄するのは楽しい。
こっちの心情を暴こうと必死になっている様を見ていると、心が躍るのだ。
もっと自分のことを考えていてほしい。そんな淡い欲求が、ユーニの心に生まれつつあった。


続く