Mizudori’s home

二次創作まとめ

【後編】サンドリヨンは逃げ出した

【ノアミオ/タイユニ】

ゼノブレイド3

■ED後時間軸

■長編

 

毒林檎に口付けを

 
巨神界、アルストの交流を目的とした会談期間は2日目に突入した。
アルストの次期女王たるミオに仕えているセナの朝は早い。
いつもは早朝起床し、ミオの支度を手伝って朝食の準備を始めるのだが、昨晩は夜遅くまでランツと2人で過ごしていたせいかこれまでにないほどベッドから起き上がるのが辛かった。
 
重たい身体を引きずりながらミオの私室を訪れると、彼女は窓に寄りかかりながら遠い目で外の景色を眺めていた。
その瞳はどこか寂し気で、悲しみの色が広がっているように見える。
無理もない。昨晩自分たちの身に起きたことを考えれば、彼女がこうして上の空になってしまうのは当然と言えるだろう。

ミオの支度を手伝っている間、セナは彼女にどんな言葉をかけるべきか分からず核心に触れることは出来なかった。
ランツとの再会は嬉しい。昨晩、2人きりになった途端ランツのまえでわんわん泣いてしまうほど、感極まる物があった。
けれど、今のこの世界で何の足枷もない自分たちとは違い、ミオたちには事情がある。
この再会を喜べない深い事情が。
 
次期女王という立場にあるからこそ、彼女はノアの胸に素直に飛び込めずにいるのだ。
そして彼女の婚約者であり次期王子の称号を手にしているタイオンもまた、同じ事情を抱えている。
この非情な運命の上に横たわっている2人は、今何を思っているのだろう。

ミオはいつも、母であるアルスト女王、ニアと共に朝食を楽しんでいる。
今朝もその習慣が変わることはなく、いつも通り朝食を採っているダイニングへと向かう。
ダイニングには既にニアの姿があり、入室してきた娘の姿を見るとすぐに苦々しい表情を浮かべた。

朝食を作った料理人や、セナをはじめとする使用人たちの手によって次々スープやサラダが運ばれてくる。
だが、並べられた美味な料理たちを前にしながらも、ミオの手は進まなかった。
スープは3口飲んだだけですぐにスプーンを置いてしまい、サラダに関しては1口食べただけで肩を落としていた。
料理人から“お口に合いませんか?”と問いかけられたミオは、申し訳なさそうに謝りながら呟く。
“食欲が無いの”と。


「ミオ、昨晩のことですが……」


明らかに気落ちしている娘に再び謝罪するために、ニアはナイフとフォークをテーブルの上に戻し、ナプキンで口元を拭いた。
どんな言葉で謝っても許されることではないだろう。
だが、彼女の人生を乱してしまったことは間違いない。
誠心誠意謝ろうと口を開いたニアの言葉を、正面の席に腰掛けていたミオは遮った。


「お母さまを責めるつもりはないわ。いつ世界が統合されるか分からない状況で、何も覚えていない私にノア達のことを話さなかったのも、タイオンと婚約させたのも、お母さまなりの優しさだって分かってるから」
「ミオ……」


最初は、何も話してくれなかった母や父に苛立ちを抱えていた。
最初からノアのことを話してくれていれば、もっと早く記憶を取り戻せていたかもしれない。
母や父がタイオンとの婚約を進めなければ、こうして再会したとき、何の迷いも抱かなかったかもしれない。
 
けれど、仮に世界が統合する可能性が見いだせなかったタイミングで記憶を取り戻したとして、その時の自分は何を思っただろう。
ノアが恋しい。会いたい。そう願いながらも、その希望が叶うことは一生ないかもしれない。
寂しさに身を震わせながら、孤独感で心が壊れてしまっていたかもしれない。
そう思えば、あえてノア達のことは話さず、孤独感を感じないようタイオンという婚約者を用意した母と父の選択は理解できる。
一晩じっくり考えた末、ミオは両親を責めることをやめたのだ。


「いろいろ考えたけど、アイオニオンでのことは過去として割り切ることにする。今の私には今の生き方がある。だから、次期女王として正しい道を往きます」
「そう、ですか……」


ニアは瞳を伏せ、弱々しく相槌を打った。
背後で控えていたセナもまた、ミオの言葉に戸惑いを感じずにはいられない。
アイオニオンでのミオとノアは、あんなにも強い絆で結ばれていた。
ミオの中で、ノアへの思いが消え去っているようには思えない。
きっと心を殺しながら“正しい道”へ踏み出そうとしているのだ。
その決断が、どれほど辛いものなのかは容易に想像できる。
もし自分がミオの立場だったとしたら、きっと正気ではいられない。

娘の決意を耳にしたニアは、伏せていた視線を上げてミオをまっすぐ見つめる。
そして、なるべく彼女の心の奥に響くように言葉を選び始めた。


「今回の一件は、私に責任があります。もはや貴女の未来に口出しできる権利はどこにもない。けれど……。貴方がどんな決断をしようと、母として、女王として、全力でその選択を支援します。どうか後悔のないように生きてください、ミオ」
「……はい。お母さま」


次期女王として、タイオンと共に生きていく。
そう心に決めたはずなのに、昨晩から今朝まで、脳裏に浮かぶのはノアの顔ばかり。
会いたい。話がしたい。心の奥底で叫ぶもう一人の自分を懸命に押し殺しながら、ミオは次期女王としてのふるまいを続けることにした。
以降、2人の間に会話は発生しなかった。
黙って食事を食べ進めるこの空間に、食器がぶつかる音だけが響く。
いつもより晴れ渡った爽やかな朝は、どんよりとした重たい空気の中始まるのだった。


***

会談期間中、このキャッスル内は多くの人々が出入りしている。
当然警備は強化されており、ミオの専属近衛騎士長であるタイオンもまた、進んで警備要員として名乗りを上げていた。
朝、いつもより早く起床したタイオンは忙しなく支度を整え、自室を出る。
少しでも暇な時間を作れば、余計なことを考えてしまうかもしれない。それを避けるため、あえて仕事に打ち込むことにした。

皇族が寝所を構えている私邸から渡り廊下を進み、客邸の1階へと降りる。
庭園を歩き回って不審な者や人影がないか見回っていたタイオンの前に、一人の男が現れた。


「よぉ、タイオン」
「……ランツ」


建物の柱に寄りかかり、腕を組んだランツがそこにいた。
アイオニオンにいた頃、何度も見たその微笑みはあの頃と何も変わらない。
不思議な安堵感を覚えたタイオンは、凝り固まっていた神経がゆっくりとほぐれていく感覚に陥った。
恐らく、あの頃と変わらない距離感で話せる数少ない仲間に遭遇したことで、心がようやく落ち着いたのだろう。
 
“ちょっと話さねぇか?”
そう言って歩き出すランツ。
少々迷いながらも、明確に断る理由を見つけられなかったタイオンは彼の背に着いて行くことにした。

たどり着いた先は、人通りの少ない庭園の端。
外とキャッスルの敷地を隔てるレンガ造りの壁に寄りかかりながら、ランツはかつての仲間であり今はミオの婚約者となったタイオンへと話を振った。


「お前さん、大丈夫か?」
「……何がだ?」
「色々とだよ。分かんだろ?」


あのランツにしては珍しく、言葉を濁していた。
きっとタイオンを気遣っているのだろう。
ケヴェスの兵装ではなく、巨神界の騎士服を身に包んでいる彼は、身につけている服装は違えど中身はあの頃のままのようだ。
あくまで中立の立場で問いかけて来る彼に、タイオンは答えた。
“大丈夫に見えるか?”と。

正直、“大丈夫”とは言い難かった。
昨晩ミオはノアと2人きりで過ごしていた。婚約者としては怒りをあらわにし、異を唱えるべきなのだろう。
怒りは感じた。だがそれはノアと2人で過ごしていたミオに対してではない。
ユーニという許嫁がありながら他の女性と2人きりになっていたノアに対してだった。

ユーニに許嫁がいた。その事実はタイオンの胸をひどく締め付けたが、相手がノアだと分かってほんの少し安堵したのだ。
彼ならば、きっとユーニを幸せにしてくれる。そう信じていたから。
だが実際はどうだ。ユーニが手引きしたとはいえ、ノアは明らかにミオに心を引っ張られている。
君にはユーニがいるだろ。君がミオに走ったら、ユーニはどうなる?たった一人になってしまうじゃないか。
そんなの看過できない。

ミオとのことよりも、ユーニのことを逐一気にしてしまっている自分自身にも、タイオンは苛立っていた。
怒りを向けるべきはそっちじゃない。
“自分という婚約者がいながら、ノアの元に行くのはやめろ”
そうミオに言葉をぶつけるべきなのに、視線が向くのはいつもユーニの方だった。


「これからどうすんだ?」
「どうするも何も、どうもしない」
「このままミオと結婚するつもりかよ?」
「当然だ。それが最善の道だからな」


ミオはアルストの民の希望たる次期女王だ。
統合直後のこの混乱した世界を正すのは、彼女の役目である。
自分との婚約は既に民の知るところであり、お祝いムードが世界を包んでいる。
婚姻が直前に迫ったこの状況で、花婿が急に別人に変わったら民はどう思うだろう。
二心を抱いた姫として民から誹られるに違いない。
そうなれば、ニアから続くアルスト皇族の地位も地に落ちる。
こればかりは、自分とミオだけの間で完結できる話ではないのだ。


「そりゃあお前らにとってはそれが一番かもしれねぇけどよ。ユーニのことはどう思ってんだ?気にならねぇのかよ?」
「……」
「ノアとミオは勿論だが、お前さんとユーニにも強い繋がりがあると思ってたんだがな。ユーニのこと、そんなに簡単に割り切れんのか?大切じゃないのか?」
「……大切に決まっているだろ」


壁に寄りかかるランツのすぐ隣に、タイオンも寄りかかった。
表情を隠すように眼鏡を押し上げた彼の声は、いつもより弱々しく聞こえる。


「大切だからこそ、彼女との道は選べない」
「……なんでだよ」
「考えてもみろ。僕が次期女王であるミオに背を向けユーニへと走ったら、アルストの人間はどう思うだろう。ユーニはきっとこう誹られる。“姫から男を奪った卑劣な女だ”と」


タイオンの口から淡々と語られる未来への仮説に、ランツは息を詰めた。
ユーニを思えばこそ、この地位を投げ出して彼女の元に走るだなんてできそうになかった。
自分がミオと離れれば、当然民はその背景を嗅ぎつけようとする。
結果、ユーニという巨神界の女性の存在に行きあたるだろう。
彼女が次期女王の婚約者を誘惑し、姫から奪い取ったに違いない。
そんな悪意に満ちた噂が蔓延する未来は容易に想像できる。
アルストの民たちから恨みがましい視線を向けられるユーニの姿を脳裏に思い浮かべるたび、タイオンは震える思いだった。


「僕はどう思われたって構わない。だが、ユーニが誹りを受けるのだけは、耐えられない……」
「タイオン……」
「今のままでいることが、4人にとっての最善なんだ」


すぐ隣で呟かれたタイオンの言葉に、ランツは深くため息を零した。
気持ちはよく分かる。
自分は幸運にもタイオンたちのようにこの身を縛る足枷とは無縁だったが、もし彼と同じ立場だったとしたら同じことを考えるだろう。
一緒にいることで相手を不幸にしてしまうなら、いっそ離れたほうがいい。
だがその選択は誰しもとれるわけではない。
相手を深く思っているからこそ、苦しみながら決断できたのだろう。


「ままならねぇな……。本当に大切な奴とは一緒にいられないなんて」


ランツの独り言に、タイオンは否定も肯定もしなかった。
黙りこくるタイオンの頭を支配しているのは、間違いなくユーニの顔。
彼女のことを考えるたびこの胸は締め付けられる。
だが、惑わされてはいけない。自分はミオの婚約者なのだ。
ユーニはきっと、ノアと一緒にいたほうが幸せになれる。
4人の心に巣食うこの大きな感情は、きっと時間が経過するごとに薄れていくことだろう。
それまでの辛抱だ。
そう、いつか自分もユーニのことを忘れる日が来る。そうに違いない。
何の根拠もない希望を何度も言い聞かせ、タイオンは目を伏せた。


***

日が暮れたアルストキャッスルは、2度目の舞踏会に向け沸き立っていた。
使用人や警備の騎士たちが忙しなく廊下を行き来する気配を感じながら、ユーニは宛がわれた自室で支度を進めていた。
 
昨日と同じ黒いドレスを身に纏い、小ぶりな耳飾りを着ける。
鏡に映る自分の表情はどこか暗く、頭に鎮座している真っ白な羽根は少ししなびていた。
昨晩はそれなりに楽しみだった舞踏会だが、今宵は流石に気が乗らない。
きっと会場の大広間に行けば、ミオの手を引くタイオンの姿を見る羽目になるだろう。
乗り気になるわけがなかった。

不意に、扉がコツコツとノックされる。
誰かが訪ねてきたらしい。
舞踏会直前のこのタイミングで訪ねて来る相手など、ただ一人しか思い浮かばなかった。
“どうぞ”と入室を促すと、予想通りの人物が中に入って来た。ノアである。

彼は少し気まずげな表情を浮かべながら、ユーニを見つめている。
中に入り、扉を閉めた瞬間、彼は“ユーニ……”と名前を囁きながら何かもぞもぞと言葉を紡ごうとしていた。
そんな彼の様子を鏡越しに見ていたユーニは、彼が何かを言う前に話を振った。


「昨日は悪かったな。無理矢理引き合わせたりして」
「……いや、ユーニなりに気遣ってくれてたんだろ?ありがとう」
「ミオとはちゃんと話せた?」
「あぁ。それなりに……。そっちは?タイオンとは話せたのか?」
「少しな」
「そうか……」


ドレッサーに座っていたユーニは、テーブルに置かれたネックレスを手に取って身につけようと首の後ろに手を回す。
昨日と同じように、彼女は後ろ手でネックレスを着けることに苦戦している。
そんな彼女に歩み寄ると、ノアはユーニの手からネックレスを受け取り身につけるのを手伝った。
 
髪に触れ、鏡を見ながら首元と髪形を整える。
優しい手つきで自分に触れて来るノアを、ユーニは鏡越しにじっと見つめていた。
昨日の柔らかな表情からは一変、今の彼はどこか寂し気な顔をしている。
その表情が物語っている。未だミオの影を振り切れていない事実を。


「ノア。正直に答えてほしいんだけど」
「うん?」
「ノアはアタシとミオ、どっちが好きなの?」


髪に触れていたノアの手がぴたりと止まる。
身体ごと振り返り、ドレッサーに座ったまま見上げると、彼は驚いたような表情を浮かべた後すぐにへにゃりと力なく笑った。


「随分ストレートに聞くんだな」
「ストレートに聞かないと、ストレートに答えてくれないだろ、お前は」
「……ユーニらしいな」


微笑むノアは、悲しみの色を浮かべながら俯いた。
暫く黙りこくっていた彼だったが、震える声で答えを絞り出す。
“どっちがなんて、言えるわけないだろ”と。
一見曖昧に誤魔化されたように思える回答だったが、ユーニには彼の心の奥に潜む本心が透けて見えていた。
ユーニを一番に想っているなら、許嫁である自分の前でミオに気を遣う意味などない。
素直に“ユーニが一番に決まってる”と答えるはずだ。
だが、彼はそうは言わなかった。
それはつまり、ノアの中でミオの存在が無視できないほど大きくなっているという証拠。
誤魔化そうとしても、幼い頃からノアと一緒に過ごしてきたユーニには分かってしまうのだ。


「ノアは優しいよな。こういう時でも、アタシに気を遣うんだから」
「気を遣ってるわけじゃ……」
「ノア、お前、アタシに責任感じてるだろ。一人にしちゃいけない。あの遺言を受け入れると決めたからには、裏切っちゃいけないって責任」


ユーニの言葉は、ノアにとって図星でしかなかった。
同じタイミングで親が亡くなって以降、ノアとユーニは二人一緒に艱難辛苦を乗り越えてきた。
ずっと一緒に生きてきたユーニという存在を、そう簡単に裏切れない。
自分が彼女の元から去った時、きっとユーニは孤独にさいなまれてしまう。
彼女の強がりな一面を知っているからこそ、放ってはおけなかった。
許嫁である以前に、一人の幼馴染として、ユーニには不幸になって欲しくない。だからこそ、彼女のそばを離れることなど出来なかった。


「アタシさ、ノアが思ってるほど弱い奴じゃねぇよ。ノアがいなくたってきっと生きていける。むしろ、アタシのせいでお前に我慢を強いる方が辛い」
「ユーニ……」
「だから、教えてくれよ。お前の本心を。責任とか体裁とか世間体とか関係ない、お前の本当の気持ちを」


揺れる心を、ユーニが勢いよく蹴り上げる。
彼女はいつもこうだった。自分のことなど二の次で、いつもノアの気持ちを優先しようとする。
そんな彼女に、ノアもまた救われていた。
本音を引き出すように問いかけて来るユーニの言葉に、言うまいと押し殺していた言葉が口から溢れ出てしまう。
やっぱりだめだ。自分に嘘をつき続けるのはもう無理だ。
身体から力が抜けていく感覚に陥り、ノアはそっとユーニの肩に額を寄せて寄りかかる。
そして、震える声で本音を口にした。


「……ゴメン、ユーニ」
「うん」
「俺……。俺、やっぱりミオのこと、忘れられない」
「うん」
「こんな気持ち、持ってちゃいけないことは分かってる。ユーニにもタイオンにも失礼だ。でも、どうしても俺は……。ミオを……」
「分かってた。お前とミオの絆は、そう簡単に断ち切れるわけねぇもんな」


寄りかかるノアの肩に手を添え、慰めるように優しく撫でる。
彼は幼い頃から同じ年代の子供たちに比べて随分大人びていた。
人と違う感性を持ち、思慮深い彼はいつも凛とした空気感を放っている。
弱いところを見せなかった彼が初めて見せたその弱々しい姿に、ユーニはどこか懐かしさを感じていた。
 
この表情、アイオニオンでミオが処刑される直前にも見たことがある。
彼女のことになると、ノアは途端に弱くなる。
きっとそれは、彼女のことを思うが故の弱さなのだろう。


「ごめんユーニ……。本当に、ゴメン……」


震える声で何度も謝罪するノアの肩に触れながら、ユーニは黙って彼に寄り添っていた。
ノアにはミオしかいない。
同じように、ミオにもきっとノアしかいないのだ。
じゃあ、アタシは?
アタシがいるべきなのは、誰の隣なんだろう。
あまりにも分かり切ったことを問いかけている自分自身の存在に気付き、ユーニは内心自らを嘲笑した。


***

長い髪に櫛を入れていたミオは、ようやく支度を終えて一息ついた。
そんな彼女の背後で椅子に座り、足を組んでいたタイオンはミオの支度が終わった気配を感じ取り立ち上がる。
 
舞踏会が始まるまであと数刻。
パートナーを迎えに来ていたタイオンは、彼女の自室でただただ黙って待機していた。
昨晩は色々あり過ぎた。
これ以上心の平穏を乱されたくはない。
互いに進むべき道を既に定めている2人は、余計なことを考えないよう必死だった。
 
これから参加する2回目の舞踏会で、再びノアやユーニの顔を見る事になる。
恐らくまた心は乱れてしまうだろう。だが、もはや迷っていられない。
次期女王として、そしてその婚約者として、共に手を取り合い生きていくことを決めた2人。
この決意を強固なものにするため、なんとかこの舞踏会を無事に切り抜ける必要があった。


「おまたせタイオン。準備、終わったよ」
「そうか。舞踏会に行く前に、ミオに渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの?」


身に纏っている白い騎士服のジャケットの内ポケットをまさぐり始めるタイオン。
ポケットから手を出した彼は、そっとミオの背後に回り取り出した何かを彼女の首につけた。
どうやらネックレスらしい。
巻き込んでしまった長く白い髪にそっと触れて整え直すと、彼はミオの首元に光る小ぶりな宝石を見つめながら優しく微笑んだ。


「似合ってる」
「これって……」
「式を挙げた後に渡そうと思っていたんだ。でも、今渡しておいた方がいいと思って」
「タイオン……」


そのネックレスは、記憶を取り戻す前に彼が用意していたものだった。
式では皇族に伝わる格式高い指輪を交換する予定であり、タイオンから正式にアクセサリーを贈る機会はない。
婚約者として、妻になる女性になにも贈らないのはどうかと思った彼は、自分の判断でミオが気に入りそうなこのネックレスを用意していたのだ。
 
挙式の後、初夜を迎えたタイミングで贈るつもりだったのだが、もはや勿体ぶってはいられない。
これは決意の証だった。
“君の婚約者として生きていく”という決意。
ミオの首元で鎮座している宝石は、“ミオはタイオンのモノである”と証明するかのように輝いていた。


「私もね、タイオンに渡そうと思っていたものがあるの」
「ん?」


部屋の隅に置かれたクローゼットを開けると、ミオはその奥から小さな箱を取り出した。
豪華な装飾が施されたその箱には、アルスト皇族の紋章が刻まれている。
箱を開けた彼女は、中に仕舞われていたものをそっと取り出し、タイオンの肩へと取り付け始めた。


「これは……」
「知ってるでしょ?男性皇族の証」


それは、金の飾緒だった。
片肩から胸元にかけて取り付けられるその飾りは、女王と契りを結んだ男性の証であり、王子の地位に立つ者だけが身につけることを許された格式高い装飾である。
当然、タイオンもこの飾緒の存在は知っていた。
式を挙げ、正式にミオの夫となった後に身につける予定だったその飾緒を前に、彼は目を丸くする。


「いいのか?まだ式は挙げてない。僕にこの飾緒を身につける資格はまだ……」
「気にしないで。だって私たち、どうせ結婚するんだから」


柔らかく微笑むミオ。
この飾緒は、彼女なりの決意なのだろう。
“タイオンは自分の夫である”という事実を、飾緒を身に着けさせることで証明しているのだ。
ネックレスと飾緒。2つの決意を渡し合った2人は、互いに微笑みながら見つめ合う。
互いだけを見つめているはずなのに、何故か2人の視線は寂しさを纏っている。
首輪をはめ合ったことで、タイオンとミオは自ら自由を手放した。
これでいい。これでいいはずなんだ。
何度そう自分に言い聞かせても、この心に空いた穴が一向埋まる気配はなかった。


***

1日目の夜に比べ、2日目の夜はほんの少し人々の温度感が上がったように思えた。
互いに距離感を図っていた昨日とは違い、二国間の距離が近づき始めている今夜の空気は活気づいている。
 
音楽隊による生演奏に合わせ、大広間に集まった舞踏会の参加者たちは互いのパートナーと共に踊っていた。
ひらめく数々のドレスや騎士服の中にノアとユーニの姿もある。
慣れた様子でユーニの腰に手を添えるノアは、昨日とは違い彼女の顔をまっすぐ見れずにいる。
罪悪感にまみれたこの心は、ユーニの身体に触れるたび悲鳴を上げていた。

一方のユーニもまた、本心を曝け出してくれたノアのエスコートを受けながら心を乱していた。
これからどうしていくべきなのだろう。
ノアはミオを忘れられずにいる。かといって、ミオもその特殊な立場上簡単にノアに靡くことは出来ない。
タイオンもきっと同じ状況だろう。
この気持ちを押し殺しながら、互いの立場を貫くしかないのだろうか。
迷うユーニの耳に、人々の歓声が聞こえてきた。

周囲で踊っていた人々は、2階のギャラリーに続く階段の方へと視線を向けている。
その視線たちを追うように自分も2階を見上げると、ゆっくりと階段から降りてきている2人の男女が視界に飛び込んできてしまう。
ミオとタイオン。互いに寄り添いながら階段を降りる2人は、純白のドレスと騎士服を身に纏っている。
随分とお似合いのその様相に、ユーニは自分の心がズタボロに傷付いてくのを実感してしまう。

駄目だ。見ていられない。
それなりに覚悟していたはずなのに、寄り添い合う2人の姿を見ていると心が死にそうになる。
1階の大広間に降り立った二人は、互いに視線を絡ませながら向き合い、慣れた様子で音楽に合わせ踊り始める。
 
タイオンのエスコートでドレスをひらめかせるミオは、同性のユーニから見てもため息が出るほど綺麗だった。
当然だ。彼女は次期女王。アルストの姫なのだ。
対して自分は、メリア女王の使用人。高貴な生まれでもなければ高官に抜擢されているわけでもない。
平凡な自分と、次期女王であるミオとを比べて傷付いていることに気付き、ユーニは嫌悪感を抱いた。
仲間に、友人に嫉妬するなんて。

ふと、目の前で自分の腰を抱いているノアへと視線を向けた。
彼は少し離れた場所で踊っているミオとタイオンをまっすぐ見つめている。
揺れる青い目には悲しみが宿り、絶望的な表情を浮かべていた。
その顔を見て、ユーニは察してしまう。
 
そうか。ノアも同じ気持ちなんだ。タイオンの隣にいるミオを見て、悔しさを滲ませているんだ。
もう限界だ。これ以上傷付くのは耐えられない。
例え自分勝手な行動だったとしても、溢れ出る気持ちを抑える事なんで、もう無理だ。


「ノア。ミオのことが好きなんだよな?」
「え?」
「タイオンから取り戻したい?」
「ユーニ……?」


その問いの意味が分からず、ノアは怪訝な表情を浮かべた。
だが、自分を見上げているユーニの表情はあまりにも真剣で、冗談で聞いているようには思えない。
タイオンと一緒に踊っているミオを横目で一瞥した瞬間、胸が痛む。
“取り戻したいか”と問われれば、間違いなく答えは“YES”だった。
何度生まれ変わっても運命を共にしたミオを、簡単には諦めきれない。


「……あぁ。取り戻したい」
「どんな手段を使っても?」
「ミオを取り戻せるなら、何だって出来るさ」
「そっか。じゃあ——」


一瞬だけ瞳を伏せたユーニ。
何かを決意したように再び顔を上げると、彼女は意志の強い目で言葉を続けた。


「アタシと一緒に、“アクヤク”になってくれる?」
「えっ……」


ユーニの両手が、ノアの胸に添えられる。
慣れないヒールを履いたユーニの足が、ゆっくりと背伸びをし始める。
目を丸くしているノアに顔を近付けながら、ユーニは目を閉じ心で呟いた。
“ミオ、ごめんな”と。

唇が重なり合った瞬間、ノアは息を詰めた。
突然口付けを交わし始めた2人に、周囲の視線がざわつきながら注がれる。
口付けているユーニの頭の向こうに、石のように固まってこちらを見つめているあの2人の姿がぼんやりと見えた。
その瞬間、突然唇を押し付けてきたユーニの企みがようやく分かってしまう。
 
なるほど。“アクヤク”ってそういうことか。
本当に悪いことをするな、ユーニは。
けれど、こうでもしないともうミオの心は取り戻せないのかもしれない。
迷っている暇は、もうない。

“タイオン、ごめん”
心で謝りながら、ノアはユーニの頬に手を添え、重ねられた唇をそっと受け入れるように押し返す。
心無い口付けは、2人の決意の表れだった。
何としてでも愛しい人を取り戻す。このゆるぎない決意が、ノアとユーニを“アクヤク”にする。
2人の口付けを視界に入れたミオとタイオンは、呆然とその光景を見つめていた。

 

ロミオはシンデレラの手を取って

 
過去なんて振り切ったつもりだった。
アイオニオンでの出来事は遥か遠い過去のことで、自分たちは今を生きている。
かつてどんなに強い縁を刻んだ相手でも、今の人生には介入する余地などない。
この心に残った僅かな迷いを振り切るようにネックレスを贈ると、彼女もまた、男性皇族の証である金の飾緒を手渡してくれた。
それは、彼女なりの決意であり答えでもある。
互いに想いを渡し合った自分たちなら、もう大丈夫。何があってももう迷いはしない。
そう、思っていたのに——。

目の前に広がった光景に、タイオンは言葉を失った。
かつてアイオニオンで深い縁を交わした相方が、別の男の腕に抱かれ、背伸びをしながら唇を押し付けている。
黒いドレスを纏ったユーニの腰を引き寄せ、頬手を添えてその口付けを受け入れているのは、黒い騎士服を纏ったノア。
互いに黒で統一された衣装を身に纏った2人の口付けはどこまでも美しく、そして嫌になるほどお似合いに見えた。

心が、身体が、頭が、うまく働かない。
呼吸の仕方さえ忘れるほどの衝撃を前に、タイオンはその場で足を止めてしまった。
彼の腕の中で踊っていたミオもまた、足を止めて少し離れた先にいる2人へ視線を送っている。
琥珀色の瞳を大きく見開いた彼女の表情には、驚きだけでなく哀しみの色も広がっていく。


「う、うそ……」
「何やってんだ、あいつら……」


給仕として大広間にいたセナと、巨神界の騎士として会場の警備に当たっていたランツは、たまたま同じ場所に立ってその光景を見つめていた。
目の前で繰り広げられるノアとユーニのキスを視界に入れたまま、2人は動揺を隠せない。
 
彼らの目から見れば違和感しかないその光景も、何も事情を知らない周囲の人間たちには“恋人同士のロマンチックな口づけ”に見えたのだろう。
“あら素敵ね”、“お似合いだわ”
注目を集めている2人の口付けに、周囲を取り囲んでいた参加者たちのあまりに素直すぎる感想が向けられる。

素敵。お似合い。
ノアとユーニ向けられるその声が、ミオの心を殺してゆく。
もう限界だった。見ていられない。
次期女王としての仮面は、たった一度のキスで剥がれ落ちてしまう。


「っ!」


タイオンの腕の中から抜け出し、ミオは走り出す。
人の合間をすり抜けて走り去っていく彼女の様子に、遠くで見ていたセナが“ミオちゃんっ”と思わず彼女の名前を呼んでしまった。
だが、ミオは立ち止まることはない。
 
一方のタイオンも、婚約者が走り去って行ってしまったというのに視線すら向けることなくその場に立ち尽くしている。
眼鏡のレンズ越しにノアとユーニを見つめ、次第に表情を険しくさせていく。
やがて、長く続いた2人の口付けはようやく幕を閉じる。
唇を離したノアは、そっとユーニの耳に口元を寄せて囁いた。


「随分賭けに出たな、ユーニ」
「こうでもしないと、取り戻せないだろ」
「そうだな。こうなったらとことんやろう」
「あぁ。あとはアタシに任せて、早くミオを」
「……分かった」


互いに抱きしめ合い、耳元で囁き合っている二人を前に、タイオンの怒りはふつふつと温度を上げていく。
駄目だ。激情に駆られるな。
ここで今自分が怒る意味なんてない。
涼しい顔をしなければ。ユーニのことなんてもう忘れたはず。
許嫁であるノアと抱き合おうがキスをしようが、自分には関係ない。
そうだ、関係ないんだ。落ち着け、落ち着け。

まじないのように何度も自分に言い聞かせていたタイオンだったが、ユーニの耳元に口を寄せているノアと目が合ってしまう。
彼が息を詰めたその瞬間、ノアは不敵な笑みを浮かべた。
まるでタイオンを挑発するような、そんな微笑みである。
その瞬間、タイオンの中で何かが決壊した。


「ユーニも頑張れよ」


そう囁き、ノアは抱きしめていたユーニの身体から離れ歩き出す。
ミオが去っていった後を追うために足を進めるノア。
歩を進めた先で立ち尽くしていたタイオンとすれ違ったその瞬間だった。


「ノア!」


怒気を孕んだタイオンの怒鳴り声が、大広間に響く。
それまで変わりなくダンスを楽しんでいた舞踏会参加者たちは、突然怒鳴り声を上げた次期女王の婚約者に戸惑っていた。
タイオンは生真面目で穏やかな性格だ。
いつも冷静沈着で淡々としている彼がこんなにも大きな声で怒鳴ること自体、アルストの民や騎士たちにとっては珍しいことである。
ざわめく会場の真ん中で、足を止めたノアとタイオンの視線が絡み合う。
怒りに満ちた表情を浮かべるタイオンとは対照的に、ノアは相変わらず挑発的な笑みを見せている。


「いいのか?タイオン」
「……なに?」
「一番大事な人のところに行かなくて」


ノアの言葉にハッとしたタイオンは、ミオが去って行った方向ではなく、ユーニが立っているはずの方向へと迷わず視線を向けた。
視線の先には、人込みに紛れ足早に去っていくユーニの後ろ姿が。
その背に手を伸ばし、タイオンは思わず叫んでしまった。


「ま、待てっ、ユーニ!」


ユーニが去っていく方へ一歩踏み出した瞬間、背後に立っていたノアが笑みを零した。
ふっと息を吐く気配を感じて振り返ると、案の定ノアは揶揄うように笑いながらタイオンを見つめてくる。


「やっぱりな。タイオンにとって一番大事なのはミオじゃない。ユーニなんだ」
「ち、違っ……」


咄嗟の行動は本心を表す。
“大事な人”と言われて即座にユーニの方へ視線を向けてしまったこの行動こそが、もはや答えだった。
ノアとユーニの口付けは、間違いなくタイオンの心を搔き乱し、冷静さを奪っている。
ユーニの作戦が上手くいった事実を噛みしめながら、ノアはタイオンに背を向けた。


「じゃあ俺も、一番大事な人のところに行かせてもらう」


足早に歩き出すノア。
彼の行く先は間違いなくミオの元だろう。
婚約者として止めなければならない。だが——。
振り返れば、そこにはもうユーニの姿はない。
彼女の姿が見えないことに、急に不安が高まってしまう。
ユーニがいない。見えない。どこに行ったんだ。


「ユーニ……?ユーニ、ユーニ!」


タイオンが幾度も口にしたのは、婚約者であるミオの名前ではなく、姿が見えなくなったかつてのパートナーの名前であった。
もはやミオのこともノアのことも考えられない。
いなくなってしまったユーニに背を追い、タイオンは人混みをかき分ける。

私邸の廊下を走り、自室に駆け込むミオ。
客邸の廊下を走り、自室に飛び込むユーニ。
私邸の廊下を速足で歩き、ミオを追うノア。
客邸の廊下を速足で歩き、ユーニを追うタイオン。
寄り道に寄り道を重ねた4人の旅路は、今初めて正しい道を歩み始めていた。

自室に逃げ帰ってきたミオは、閉まった扉を背に寄りかかりながら息を整えていた。
忘れよう、気にしまいと懸命に努力してきた。
けれど、この弱い心はノアがユーニとキスを交わしていただけでズタボロに傷付いてしまう。
辛い。悲しい。苦しい。
湧き上がる感情の波を堪えきれず、ミオはとうとうその大きな琥珀色の瞳からボロボロと涙をこぼし始めた。

吐息を漏らしながら頬を濡らす彼女は、よろよろとベッドへと歩み寄る。
ベッドのすぐ手前で床に腰を下ろした彼女は、柔らかなマットレスの上に突っ伏して、長い髪を乱しながら泣いていた。
涙がシーツを濡らしていく。
一粒一粒冷たい涙をこぼしていくごとに実感してしまう。
自分はまだ、ノアのことが好きで好きで仕方がないのだと。

アイオニオンにいた頃、彼の隣にいるのはいつだって自分だった。
ノアはいつも戦闘の後に一番に自分に駆け寄ってきて、“ミオ、怪我はないか?”と問いかけてくれていた。
彼の心を、視線を、気持ちを独占していたはずだった。なのに今は、あんなにも深い絆を結んだノアはただの他人に成り下がっている。
 
今やノアの隣はユーニのものだ。
ユーニならいい。友人であり仲間である彼女なら、きっと納得できる。
そう思っていたのに。
いざ目の前で2人の姿を見ると、どうしようもなく胸が張り裂けそうになってしまう。
情けない。何もかも忘れるって決めたのに。
タイオンと一緒に生きていくって決めたのに。

どうしても、ノアへの想いを捨てきることが出来ない。
ノアが好き。忘れられない。ずっと一緒にいたい。私だけを見て欲しい。
前みたいに想い合って、元の関係に戻りたい。

我儘な本心があふれ出す。
涙と一緒に流れ出る本音は、彼女を次期女王のミオから、アイオニオンにいた頃のミオに引き戻してしまう。
ベッドに寄りかかりながら涙を流すミオだったが、誰よりも優れている彼女の耳に、部屋の扉が開く音が聞こえてきた。
タイオンだろうか。ノックもしないなんて珍しい。
そう思いながら、濡れた瞳で背後の扉に目を向けた瞬間、ミオは息を詰めた。


「の、ノア……?」


扉を開き、中に入ってきたのは、今までこの心を支配していた張本人、ノアだった。
真剣な表情でこちらを見つめている彼の姿を見つめ、ミオの思考はあっけなく停止してしまう。


***

客邸の自室に戻ったユーニは、扉を閉めて一人きりになった瞬間深いため息をついた。
今頃、ノアはミオの元へ駆けつけていることだろう。
恐らくはタイオンの妨害が入るだろうが、上手くいくだろうか。
とにかく今はノアを信じるしかない。もしノアがミオの心を無事取り戻すことが出来たなら、何もかも万事解決する。
 
ノアは一番大切な人と添い遂げることが出来るし、ミオもノアと一生一緒にいることが出来る。
タイオンも次期女王の婚約者としての責任を感じる必要もなくなる。
そうなったら誰もがみんなハッピーだ。

そこまで考えて、なんだか虚しくなってしまった。
ノアとミオが結ばれた先に、自分の幸せはあるのだろうか。
彼らが心を重ねたところで、自分に理があるわけではない。
許嫁だったノアは傍から離れ、結局最後は一人になる。
タイオンとは、ノアやミオのように運命的な繋がりがあったわけではない。
所詮は“相方”。それ以上でも以下でもない。
先日会った時も、タイオンは全く自分に靡く気配はなかった。
例えノアとミオが添い遂げる結果に終わろうとも、自分とタイオンが寄り添い合うような結果には決してならない。


「はぁ……。何やってんだろ、アタシ」


ため息をつき、ユーニは首に着けていたネックレスへと手をかけた。
舞踏会が始まる前、ノアに着けてもらったネックレスである。
着けるのはあんなに難しかったのに、外すのはやけにスムーズだった。
取り払ったネックレスをドレッサーの上に置いた瞬間、ノックもせずにユーニの部屋の扉が背後で開いた。
一瞬ノアかと思ったが、そんなわけない。彼はミオの元に行っているはずだ。
じゃあ誰が?
振り返った先に佇んでいた男の顔に、ユーニは目を見開いた。


「た、タイオン……?」


煌びやかな金の職櫛がついた白くて立派な騎士服を身に纏ったタイオンが、乱れた息を整えながらそこに立っている。
かつてのパートナーの登場に、ユーニは激しく動揺した。
まさか追いかけてきたのか。ミオじゃなくアタシを?なんで?
 
ノアと交わしたあのキスは、ミオの心を揺り動かすためのものだった。
少しでも嫉妬して、悲しんでもらえれば、その心にノアが入り込める。そう思っての行動だったのに。どうやら効果があったのはミオだけではなかったらしい。
タイオンが自分を追ってくるなど1ミリも予想していなかったユーニは、視線を泳がせながら後ずさる。


「なんでここに……」
「“なんで”だと?それはこっちの台詞だ。どういうつもりだユーニ!」


感情を露わにしているタイオンは、今までに見たことが無いほど怒っていた。
その怒りの背景にあるものが未だ見えない。
戸惑うユーニを前にタイオンは荒い口調で言葉を続けた。


「あんな大勢の前で……。ミオもいたんだぞ?彼女がどんな気持ちであの光景を見ていたか分からないのか!?」


タイオンの口から飛び出した“ミオ”の名前に、ユーニもまた苛立ちを募らせた。
ここまで追いかけてきておいて、未だにミオの名前を持ち出すのか。
そんなにミオが大切なら、こっちじゃなくてミオの元に行けばいい。
説教をするために追いかけてきたというのなら、彼と話をする理由なんてこれ以上なかった。


「アタシがノアにキスしちゃ悪いかよ。アタシたちは許嫁なんだぞ。お前にとやかく言われる筋合いなんてねぇよ!」
「だからってなにもミオの前ですることはないだろ!彼女がどんなに傷付いたか……!」
「じゃあ傷付いてるミオのところに今すぐ行けばいいだろ!アタシじゃなくて!」


喚くように叫んだユーニの言葉に、タイオンはぐっと押し黙ってしまう。
今、タイオンが駆け付けるべきなのはユーニの元ではない。婚約者であるミオの元だ。
その事実を、タイオン自身が一番よく分かっている。
にも関わらずユーニの元に足が向いてしまった理由も、嫌になるほど分かっていた。
 
悔しかったのだ。ノアと、自分以外の男とユーニが口付けているあの光景が。
頭では分かっているはずなのに、ユーニを求める心は止まらない。
どうしても、ユーニへの想いを捨てきることが出来ない。
ユーニが好きだ。忘れられない。ずっと一緒にいたい。僕だけを見て欲しい。
以前のように寄り添い合って、元の関係に戻りたい。

言えるはずのない本心が胸の奥底から溢れ出し、喉を通って口に出してしまいそうになる。
ほんの少しだけ残った責任感が、その言葉を押しとどめている。
だが、もはや限界は近かった。
瞳を伏せ、白い羽根を力なくしおれさせたユーニは、最後の一言でタイオンにとどめを刺す。


「新しい世界での役割を全うしようって言ったのはお前だろ?今のアタシの役割は、ノアと結婚することなんだよ」


境界線が引かれたような気がした。
これ以上入って来るなと念を押されたことで、タイオンの心は限界を迎えた。
何かがぷつんと音を立てて切れる。
心のストッパーが破壊され、もう何も考えられなくなる。
身体の奥から沸き起こる熱がタイオンの背中を蹴り上げ、理性を奪い取った。

手を伸ばす。華奢な肩を掴んで強引に振り向かせた瞬間、こちらを向いた赤い唇に強引に口付けた。
ユーニの息が止まる。
驚いた彼女は身体を固くしているが、もう知ったことではない。
両肩を力強く掴んで押すと、ヒールを履いた彼女の足がもつれベッドの上に倒れ込む。


「ちょ、何……んんっ」


仰向けに倒れ込んだユーニの身体に覆いかぶさり、両手を掴んでシーツの上に押し付けながら無理矢理口付けた。
抗議の言葉なんて、拒絶の言葉なんて聞きたくない。
彼女から言葉を奪い取るように舌を絡めると、次第に抵抗していたユーニの腕から力が抜けていく。
 
思えば、こうしてユーニと口付けるのは初めてのことだった。
アイオニオンでは恋だの愛だの、曖昧な感情を理解することは出来なかった。
だが、新しい世界に生きる今ならよく分かる。
自分はあの頃からずっと、ユーニに恋い焦がれていたのだと。
 
記憶を取り戻す前から、うっすらとユーニに心惹かれていたのも、きっと運命だったのだ。
ウロボロスの力によって結ばれた強力な縁の糸が、この心を強引にユーニへと引き寄せていく。
逃げられない。ユーニという存在を知ってしまった今、例え心に決めた相手がいようとも、視線は必ずユーニへと吸い寄せられてしまうのだ。


「はぁっ——」


ようやく唇を開放すると、ユーニが酸素を求めて息を吸い込んだ。
頬をわずかに紅潮させながら睨み上げて来るユーニ。
そんな彼女を見下ろしながら、タイオンは金の飾緒が着いた騎士服の上着を脱ぎ、遠くに放り投げる。
ベスト姿になった彼は、息を荒くしながら自らの首元に手をかけネクタイを緩め始めた。


「君のそういうところ、昔から好きじゃなかった。近づいたり離れたり、いつも僕を翻弄して……!」
「タイオン……」
「だから離れられなくなる。嫌になるほど自分の気持ちを自覚してしまう。何度自分を律しても、君を前にするといつもいつも……っ」


しゅるりと音を立てながら、タイオンの首に巻き付いていたネクタイが解かれる。
前開きのシャツを乱し、閉塞されていた首元を露出させると、すっかり抵抗することを忘れてしまっているユーニの両手に自らの手を重ね、苦しい表情でその青い目を見下ろした。


「煽った罰だ。責任は取ってもらうぞ」


ユーニの返事を聞く前に、再びその唇に噛みついた。
どうせ口を開けば聞こえてくるのは拒絶の言葉だ。そんなものは聞きたくない。
ノアの許嫁である前に、君は僕の大切な人だ。
その事実を前に、社会的地位や世間の目なんて関係ない。
奪い取りたい。何もかも。

重ねられた手にユーニの指が絡む。その瞬間、心の奥底から途方もない喜びが湧き上がって来た。
一方的だった舌の動きが変わり、互いに求めあうように絡みつく。
好きだとか愛してるだとか、明確な言葉は贈れない。
だがそれでも、2人の気持ちは同じ方向を向いていた。
この行いは、世界にとって正しい事ではない。
どちらかと言えば罪に近いだろう。
だが、昂った2人の熱はそう簡単に冷めることはない。
許されないことだと分かっていながらも、タイオンとユーニは互いを求めあうことをやめようとはしなかった。


***

皇族の私邸は本来、そこで暮らしている皇族と特定の人間しか立ち入りを許されていない。
だが、舞踏会が開かれている今、警備の騎士たちはほとんど私邸から大広間の方へ移ってしまっている。
そのせいか、部外者であるノアが私邸に侵入するのは容易だった。


「んっ、ふ……っ」


壁を背中に、ミオは身動きを封じられていた。
利き腕の右手はノアの手によって壁に縫い付けられるように押し付けられ、左側には壁に突いたノアの腕が邪魔をして逃げられない。
左腕で懸命に彼の肩を押し返してみるけれど、ここはアグヌスの人間が身体的に優れていたアイオニオンではない。
男女の力の差が明確に表れ、ミオは深く口付けて来るノアの身体を押しのけることが出来ずにいた。

部屋に入ってくるなり、逃げるミオを追い詰め口付けて来るノア。
彼の身勝手な行動に、ミオは腹立たしさすら感じていた。
アイオニオンにいた頃の彼は優しかった。こちらが嫌がるようなことは絶対にしなかったし、こんなに強引に迫るなんてもってのほかだった。
なのにどうして——。
 
そこまで考えてようやく気が付いた。
そうだ。彼はかつて、自分と一緒に永遠の今を得るためメビウスになる決断をしたことがある。
厳密にいえばアレはもう一人のノアであり、目の前にいる彼自身の行いではない。
だが、ノアの中には確かにエヌに通じる激情家な一面がある。
優しさの奥深くに隠されていたノアの激しい感情を引き出してしまったのは、今日まで拒絶し続けた自分のせいなのかもしれない。
そう思うと、心からの拒絶が出来なかった。

唇が離れる。
互いに乱れた息がぶつかり合い、熱を孕んだ視線が絡みつく。
ついさっき、ユーニという許嫁と口付けていたはずのノアは、1時間もしないうちに自分とこうしてキスを交わしている。
こんなのおかしい。正しさなんて1ミリも感じないキスなのに、胸の奥がじわじわ熱くなってくるのは何故だろう。
分かりきった問いだった。目の前にいるノアのことが、どうしようもなく好きだから、許されないと分かっていても求めてしまう。心が高鳴ってしまうのだ。


「なんでよ……。どうしてこんなことするのよ……」
「ミオ……」
「言ったでしょ?ノアのところには行けないって。駄目なのに、こんなことされたら……」


身体から力が抜ける。
膝から崩れるようにその場に座り込むと、ノアの腕が脱力したミオの身体を抱き留めた。
ミオが床に座り込んだ瞬間、真っ白なスカートがふわりと広がる。
そして、自分を支えるノアの腕にしがみつきながら、ミオは涙声でついに本心を吐露してしまった。


「ノアのこと、また、忘れられなくなっちゃう……っ」


かすれ声で囁かれた本心を聞いた瞬間、ノアは彼女の華奢な体を抱きしめた。
もうどこにも行かせない。逃がさない。誰にも奪わせない。
そんな明確な意思を持った抱擁に、ミオは抵抗できなかった。
タイオンにこうして力強く抱きしめられたことはない。抱きしめてほしいと思ったこともない。
けれど、ノアを前にすると、どうしてもその胸板に頬を寄せたくなってしまう。
押し殺していた本心は、目の前で繰り広げられたノアとユーニの口付け1つであふれ出してしまう。
お願いだから、私以外にそんなことしないで。
私だけのノアでいて。
そんな独りよがりな心に支配されていた。


「ごめんミオ。迷惑なのは分かってる。困らせてることも重々承知の上だ。でも俺、やっぱり無理だ。ミオを諦めるなんて出来ない」
「……っ」
「好きなんだ。何が何でも一緒にいたい。どんな手を使っても奪いたい。ミオは俺の、俺だけのものだから……!」
「ノア……」


いつもどこか遠くを見つめていて、1期年下だったのに妙に大人びて見えた彼は、隣にいても掴めない空気感を纏っていた。
そんなノアが、自分の身体を掻き抱きながら激しく幼い感情をまき散らしている。
2人の間には壁がある。その壁はあまりに高く、乗り越えるなんて無理だと最初から決めつけていた。
けれど、ノアはその壁に登って手を差し伸べてくれている。
一緒にいたい。そう言って求めてくれている。
彼となら、この壁を乗り越えられるのだろうか。
禁断という名の境界線を飛び越えて、一緒にどこまでも堕ちて行ってくれるのだろうか。
かつて身体と命を共有していたあの頃のように、“運命共同体”になってくれるのだろうか。


「なら、私を攫って」


ノアの腕から抜け出し、彼の顔を覗き見る。
自分を見下ろすその青い目に、ミオはまっすぐ懇願する。


「女王の責任とか役目とか、そんなのもうどうだっていい。私をここから連れ出して、ノア」


見開かれた青い目は動揺していた。
けれど、すぐに決意の色に塗り替えられる。
あの頃とは違い刻印が失われたノアの右手が、ミオの頬に添えられる。
ゆっくりと顔が近づいて、唇と唇がそっと重なった。
先ほどまでの激しい口付けとは打って変わって丁寧なその手つきに、ミオの心は締め付けられる。
やがて唇が離れ、同時に目を開けると、決意に満ちた彼の瞳と視線が混じり合う。


「ついてきてくれるのか?俺に」
「えぇ。ノアと一緒なら、どこへだって行く」
「……分かった。行こう、ミオ」


ノアは立ち上がり、ミオの腕を引く。
彼に寄りかかりながら立ち上がったミオは、ノアの言葉に力強く頷いた。
責任と重圧で出来たこの城から逃げ出したいと思ったことは何度もある。
その度タイオンは外の庭に連れ出してくれたが、あの正門の向こう側に連れて行ってくれることはなかった。
ノアとなら、きっと行ける。

扉に近付き、僅かに開けて外の様子を覗き見るノア。
周囲に誰かいないか確認しているのだろう。
そんな彼に駆け寄ろうと一歩踏み出したその時だった。
首元に光っている小ぶりなネックレスに意識が向いた。
タイオンが先ほど贈ってくれたものである。
少し迷いながら手を添えると、ミオは意を決してネックレスを取り外した。
ドレッサーの上にネックレスを置くと、そのままベッド脇に置かれたサイドチェストへ手を伸ばす。
一番下の引き出しを開けた瞬間顔を出したのは、鞘に入った一本の脇差
皇族の人間は、もしもの時のために寝所のどこかにこうして脇差を隠している。
今まで使ったことがなかった脇差を手に取り鞘から抜くと、彼女は思い切って自らのドレスに刃を突き立てた。


「ミオ!? 何して……」
「この格好だと動きづらいでしょ?」


真っ白なドレスは膝の位置で切り裂かれる。
短くなった純白のドレスを身に纏った彼女は、次にその刃を自らの長い白髪に宛がった。
驚いたノアが止める間もなく、彼女は長い髪をバッサリ斬り落とす。
暗い部屋でふわりふわりと舞い落ちる白い髪は、実に美しく夜の闇に映えた。
目の前に現れた髪の短いミオの姿に、ノアは目を見開き言葉を失ってしまう。
そこにいるのはまさに、アイオニオンで一緒の時間を過ごしたミオそのものでしかなかった。


「ミオ、その髪……」
「こっちの方が、“私”らしいでしょ?」


微笑むミオ。短い髪が揺れて、彼女の首筋に触れる。
懐かしいその微笑みを目にした瞬間、ノアは改めて思ってしまった。
やっぱり、誰にも渡したくない、と。

外に誰もいないことを確認し、ノアは扉を開けた。
ミオの細腕を掴み、狭い私室からあっという間に連れ出してしまう。
漆黒の騎士が、純白の姫を連れて走り出す。
許されざる2人の逃避行は、誰にも見られることなく遂行された。
罪を重ねる2人。一方、少し離れた客邸でも、罪深い行為が同時進行している。
シーツに滑り込む熱を持った身体は絡み合い、互いの心を渡し合うように愛を確かめ合う。
手を取り、籠の中から逃げ出した姫と騎士は、離れていた時間を埋めるように駆けながら見つめ合う。
2つの罪が交差する夜は、着々と更けていった。

 

ガラスの靴は置いていく

 
白く細いミオの手を取って、ノアは城を駆ける。
階段を降り、誰もいない庭園を突っ切って外へ出る。
客邸側の門へと向かう途中、ずらりと並んだ馬車の列が見えた。
全て巨神界側の馬車である。
一番正門に近い場所に停めてあった馬車に駆け寄りながら、ノアは着こんでいた騎士服の上着を脱いだ。
脱いだ上着をミオの頭に被せたのは、彼女が次期女王であるアルストの姫だと気付かせないためだった。
馬車の上で退屈そうにあくびをする御者に駆け寄ったノアは、彼の許可を取る前に馬車の扉を強引に開ける。


「え?ちょ、おい、なんだよアンタら!」
「すまない、乗せてくれ。急いでるんだ」
「はぁ?」


目を丸くする御者をよそに、ノアはミオの手を取り彼女を馬車の中に押し込んだ。
突然乗り込もうとした見知らぬ男女に抗議しようと身を乗り出す御者に、ノアはきつく結んだ拳を差し出す。


「金は払う。出来るだけ遠くに行ってくれ」


恐る恐る両手を差し出した御者に、握り込んだ金貨を渡す。
カランカランと音を立てて両手に落とされた金貨たちを見つめ、御者はごくりと生唾を飲んだ。
こんなに大金を積まれたら断れない。
“仕方ない”と吐き捨てると、御者は馬車を引く2頭のアルマたちの手綱を握った。
 
ノアが乗り込み、扉が閉められた直後、馬車は慌ただしく走り出す。
静かな夜の城を出て行く一台の馬車は、天井からぶら下げたランタンの明かりだけを光源に暗い森を進んでいく。
行く当てはなかった。“とにかく遠くへ”という指示通り、馬車は人気のない森の奥へと突き進む。

馬車の窓から夜の森を見つめていたノアの頭は、少しずつ冷静さを取り戻していた。
勢いに任せて飛び出してしまったが、もう五体満足であの城に戻ることは出来ないだろう。
なにせミオはアルストの女王であるニアの娘だ。巨神界の騎士である自分が手を引いて攫うには大物過ぎる。
もし誰かに見つかって連れ戻されでもしたら、きっと首を刎ねられるのだろう。
だが、不思議と恐怖感や後悔は一切抱かなかった。
これでいい。これしかないと思えたから。


「ごめんなさい、ノア」


向かい合って座っているミオに視線を向けると、彼女は膝丈で裂いた純白のドレスを握りしめながらうつむいていた。


「私のワガママに巻き込んじゃった。本当にごめんなさい」


彼女はこの選択に後悔しているのだろうか。
こんなに大それたことをしでかしているのだ。迷いも罪悪感も一切開示ない方が難しいはず。
狭い馬車の中で立ち上がったのは、正面に座っていたミオのすぐ隣に腰掛ける。
膝の上でぎゅっと握りしめられた彼女の白い手に自らの手を重ねると、その宝石のように美しい青い瞳でミオを見つめた。


「謝らないでくれ、ミオ。俺がこうしたかったんだ。ミオに責任はない」
「そんなことない。言い出したのは私だし……」
「それなら——」


重ねられた手の指が絡み合う。
視線と視線がぶつかり合ったその瞬間、ノアの瞳の奥に欲を孕んだ炎が灯った。


「俺たち、共犯者だな」
「共犯者……。えぇ、そうね」


吸い寄せられるように、2人の唇は重なる。
2人は揺れる馬車の中で、長い間互いの柔らかさを確かめ合うように唇を食んでいた。
アイオニオンで、こうして何度も口付けた記憶はほとんどない。
あの頃は、再会すれば心置きなく互いを求めあえると思っていた。
だが、現実はそう甘くはない。
元の世界で立場や肩書が邪魔になり、2人は心置きなく再会を楽しめずにいた。
今、ようやく心の再会を果たした2人は、明日をも知れぬ身であるにも関わらず夢中になって口付けを続けるのだった。


***

腕の中の温もりに視線を向ける。
コアクリスタルが輝いている自らの胸板に額を寄せているユーニは、規則正しい寝息を立てていた。
彼女の白い羽根が肌に当たって少しだけこそばゆい。
何も身に纏っていない生まれたままの姿で布団をかぶり、目を閉じている彼女はアイオニオンで一緒に過ごしてきたあの頃と変わらないまま、ほんの少しのあどけなさを残している。
ユーニの白い頬に指を這わせると、彼女は眠ったまま“んんっ…”と吐息を漏らした。

ユーニとこんな行為に及ぶのは初めてだった。
アイオニオンにいた頃は、身体の交わりは勿論、口付けすらも交わさなかった。
当時はユーニに対する自分の気持ちをハッキリ自覚していなかったせいだろう。
もしも今と違う立場で再会を果たせていたのなら、初めての行為はもっと甘い空気に包まれていたはずだ。

ユーニの身体を愛でながら、タイオンは猛烈な背徳感に見舞われていた。
自分にはミオという婚約者がいる。
彼女と式を挙げるその日まで、貞操を守り抜くと決めていたのに。
生涯守り抜くと決めた女性とは違う人と交わっている自分が許せなくて、なのに絡みつくユーニの身体を放すことなど出来なくて、背徳感と罪悪感を胸に抱きながら、タイオンは何度もユーニを抱いた。

未だ夜は明けない。
舞踏会はもう終わった頃合いだろう。
夜も更けたせいか、少しだけ寒い。
そう言えば、着ていた服を乱雑に脱ぎ捨てたままだ。
誇り高い騎士服をシワだらけにするわけにはいかない。せめて畳んでおくか。
そう思い、重い身体を起き上がらせたタイオンは、床に投げ捨てられている上着を取りに行こうとベッドから抜け出そうとした。
その瞬間、右手が強い力で引っ張られる。
驚いて振り向くと、そこにはとろけた目でこちらを見上げているユーニの姿があった。


「どこ、行くの?」
「ユーニ……」
「いかないで、タイオン。ここにいて。アタシを置いて行かないで……」


ユーニの震え声に、タイオンは思わず息を詰めた。
捕まえたタイオンの手に擦り寄り、彼の指先に口付ける。
ただ寝ぼけているだけなのかもしれない。だが、その行動はユーニの本心を表していた。
縋りつくようなユーニの手に引き留められ、タイオンは服を取りに行くことを諦めた。


「僕はここにいる。心配しなくていいから」
「ん、……」


安堵したのか、薄目を開けていた彼女の瞼はそっと閉じていく。
長く生えそろった睫毛を見つめながら、タイオンはユーニの隣に戻って横になる。
再び眠りに堕ちた彼女の寝顔を見つめ、頬を撫でる。
この安心しきった顔を見ていると、心が温かくなる。
アイオニオンにいた頃の彼女は、漠然とした死の予感にいつも怯えていた。
彼女の力になりたい。頼られたい。傍で守ってやりたい。そんな気持ちを抱きつつも素直に言葉にすることが出来なかった。
いつも一番に頼られる存在になりたいと思っていた。だが今は、ユーニが頼るべき相手は許嫁のノアだ。
自分は彼女の相方でもなければ恋人ですらない。
こうして同じベッドでまぐわうことも、罪深い行為なのだ。


「君は、ノアともこういうことをしていたんだろうか……」


夢の世界に堕ちているユーニは何も答えることはない。
たとえノアとユーニに体の関係があったとしても、文句は言えない。
2人は許嫁なのだから。


***

夜の森を駆け抜けた馬車は、暫く走行したあと森の中央で停止した。
“これ以上は森が深すぎて馬車では進めない”と言う御者に礼を言い、2人は馬車を降りる。
闇に包まれた森は実に静かで、あたりに漂うランプスが灯す明かりだけがあたりを照らしていた。
 
ランプスの光によって照らされる夜闇の森は、不気味でもあり幻想的でもある。
そんな森の中を、夜の闇と同じ色の騎士服を纏ったノアが純白のドレスを靡かせるミオの手を取り歩く。
行く当てなどない。とにかく追手の目が届かないところへ。
その気持ちだけを携え、2人は先へ進む。

木々の合間を抜けた先に、小さな湖を発見した2人は足を止めた。
空に浮かぶ三日月や星々が映るその湖は、水面がきらきらと輝いて見える。
今にも星が降りだそうな満天の空を鏡のごとく映しているその湖の美しさに、2人は自然と目を奪われていた。


「綺麗なところね」
「あぁ、そうだな」
「ランプスの光、見てると懐かしい気持ちになる」
「懐かしい気持ち?」
「えぇ。たぶん、命の粒子の光に似ているからだと思う」


天高く舞い上がるランプスの青白い光を見上げながら、ノアは納得した。
確かに似ている。アイオニオンで何度も目にしたあの命の粒子と。
 
あの頃の自分たちにとって、舞い上がる命の粒子は絶命の証でしかなく、視界に入れるたびに悲しみが襲ってきた。
夜空に舞い上がる光は美しい。
おくりびととして光を見送っていたあの頃は、一度もこの光景を美しいと思ったことはなかったのに。
新しい世界に生まれ、新しい人生を歩み、同じ“ノア”として生きながらも、価値観や考え方はアイオニオンにいた頃とはまるで違うのだ。
隣にいるミオも、あの頃のミオとはやはり違うのだろうか。変わっているのだろうか。
何となく彼女に視線を向けたとき、懐から一本の横笛を取り出しているのが見えた。


「それ……」
「肌身離さず持ってるの。お守りみたいなものだから」


取り出したのは、黒い横笛。
美しい模様が入ったその笛にそっと唇を押し当て、息と共に深い音色を奏で始めた。
かつて何度も隣で聴いたアグヌスの旋律。
骸を見つけるたびに瞳を伏せ、安らかな眠りを促すように二人揃っておくりの旋律を奏でたあの日々が、一瞬にしてノアの脳裏に蘇る。
 
変わってなどいない。ミオもこの旋律もあの頃のままだ。
そして自分自身も、アイオニオンにいた頃の“ノア”のままなのだ。
いっそお互いに180度変わってしまっていれば、こんな思いをせずに済んだのかもしれない。

ノアが懐から取り出したのは、一本の白い横笛。
ミオと同じく、お守りのように肌身離さず持ち歩いているものだった。
今までユーニから“どうしてそんなに笛を大切にしてるんだ”と聞かれても、明確な理由が提示できなかった。
だが今なら分かる。
いつかこんな日が来ることを本能的に分かっていたのだ。
ミオと再会し、寄り添いながら旋律を奏でる日をずっと待っていたんだ。
あの頃の記憶を全て失っても、ケヴェスの旋律だけは耳に残っていたのがその証。

白い笛に唇を寄せ、ノアは旋律を奏で始める。
ノアが奏でるケヴェスの旋律と、ミオが奏でるアグヌスの旋律が重なり合う。
アイオニオンで何度も奏でたこの旋律は、新しいこの世界では誰も知らない旋律だ。
2人だけしか知らない2つの旋律は、夜の静かな森を彩っていく。
隣で同じように旋律を奏で始めたノアの行動に、ミオは笛に息を吹きかけながら涙を流していた。
思い出したのだ。彼と初めて会った日のことを。

あの時、目の前で息絶えたゲルニカをおくった時も、ノアはミオの旋律に合わせるように一緒におくってくれた。
赤い森に命の粒子が舞い上がったあの瞬間、2人の運命は始まったのだろう。
改めて、自分たちを繋いでいる縁の強さを思い知る。
出会うべくして出会った自分たちは、別れるべくして別れ、そして再会した。
アイオニオンにはいなかった“神様”というものがこの世界にいるのなら、きっとこれは神の悪戯なのだろう。
だが、悪戯でも気まぐれでも構わない。再会できたのなら、また一緒に生きていきたい。
他の誰でもない、“私のノア”と。

旋律を奏で終えた2人は、笛から口を放す。
互いに両手に笛を持ったままゆっくりと向き合えば、あの頃と変わらない琥珀色と蒼色視線が絡み合う。


「ノア。私、ノアのことが好き。アイオニオンでは一度も言えなかったけど、好きなの。大好きなの。だから……」


ミオの手から、笛がこぼれ落ちる。
何も持たない彼女の手が自身の背中に回り、ドレスの留具を取り外した。
その瞬間、ノアは焦って“ミオ!?”と彼女の名前呼んだ。
彼女が纏っているドレスは、背中で固定された金具を取り外せば簡単に脱ぐことが出来る。
笛を落とし、緩むドレスを必死で抑えようとするノアだったが、そんな彼の手をミオの白い手が制止するように重ねられる。


「私、ノアのものになりたいの。心も身体も」


ノアの手がミオによって外された瞬間、ドレスがパサリと草の上に落ちる。
下着姿になったミオは、頬を僅かに紅潮させながら一歩近づき、背伸びをする。
立ちすくむノアの首に腕を回すと、その柔らかな唇を押し付けるように口付けた。
ユーニといいミオといい、こういう時大胆になれるのはいつだって女性の方なのかもしれない。
ミオの口付けを受け入れながら、ノアはそんなことをぼんやり考えていた。
やがて唇は離れ、切なげな表情で見上げてくるミオの顔が視界に入る。


「……迷惑、かな?」
「そんなことない。俺だって、ミオを独占したいと思ってるんだから」


互いに求めあうように視線を絡め、再び唇が重なる。
舌を絡ませ、唇を食み、吐息を漏らしながら深い口付けを続けるうちに、ミオの身体からは力が抜けて行った。
ゆっくりと脱力していくミオの身体を支えながら、ノアはその場に座り込む。
2本の笛が落ちている草の上に腰を下ろすと、ノアは口付けながら片手でミオの下着のホックを外した。
やがて、彼女の身体を柔らかな草の上に横たえる。
熱を孕んだ目で見下ろしてくる愛おしいノアの頬に手を添えながら、ミオは震える声で問いかけた。


「ねぇ、ちょっと嫌なこと聞いてもいい?」
「ん?」
「……ユーニとは、こういうことしたの?」


恐る恐る投げかけられた問いに、ノアはほんの少し目を丸くした。
そして、すぐに柔らかな微笑みを浮かべる。
嬉しかったのだ。ユーニとの関係性を気にしてくれているミオの嫉妬心が。


「してないよ。ユーニは許嫁だけど、お互いそういう気持ちはなかったし」
「本当?」
「あぁ。ミオこそ、タイオンとは……?」
「してない。タイオンは真面目な人だから、そういうのは結婚した後にしようって」
「そうか。タイオンらしいな」


ミオの身体に覆いかぶさったノアは、袖を通していた黒い騎士服の上着をするりと脱ぎ捨てる。
首元のネクタイを緩めながら顔を近付け、ミオの頬に口付けを落とす。
月夜に照らされたノアの顔はやけに妖艶で、女の身であるミオの目から見てもなんだか綺麗に見えた。
見惚れているミオを見下ろしながら、ノアは口元に笑みを浮かべつつ囁く。


「タイオンの理論で言うと、俺は真面目とは程遠いのかもな」


そんな彼の言葉に、ミオは何も言わずただただ微笑んだ。
彼女の白い首筋に顔を埋め、舌を這わせ始めるノア。
こそばゆさと一緒に、幸福感が胸を打つ。
初めての行為に不安はあった。けれど、相手がノアである以上、心配なことなど何もない。
タイオンに捧げるはずだったミオの全てが、ノアに吸い寄せられていく。
 
きっとこれは間違った選択だ。けれど、それでいい。
世界にとって間違った選択でも、彼女にとってはこれが正しい選択。
アルストの姫としてでも、次期女王としてでも、女王の娘としてでもなく、“ミオ”個人として正しい道を往く。
そう決めた時、ミオは既に覚悟をしていた。ノアと一緒に堕ちることを。


***

ベルトをつけ、ネクタイを締め、上着を羽織る。
床に放っておいたせいで少々しわになってはいるが、この程度なら気にならないだろう。
いつの間にか外れてしまっていた金の飾緒を取り付けると、あっという間に“ミオ専属近衛騎士長兼婚約者、タイオン”の完成である。
 
昨晩はどうかしていた。ノアとユーニのキスシーンを目撃し、勢い余って理性を失い、ユーニと一夜を共にしてしまった。
馬鹿なことを。これは大罪だ。次期女王であるミオを裏切る行為。ひいてはこのアルストを裏切る行為でもある。
許されることではない。周囲に露見すれば必ず重い罰が下されるだろう。
自分が罰せられる分にはまだいい。だが、共犯であるユーニまで罪に問われるのは駄目だ。そんなの耐えられない。
昨晩のことは何が何でも隠し通さなければ。ユーニのためにも。


「もう行くのかよ」


背後からの声に振り向くと、そこには裸のままベッドに横たわり、シーツを握りしめているユーニがいる。
見つめて来る彼女の瞳はどこか寂し気で、聞かずとも言いたいことが分かってしまう。
“行かないで。ここにいて”
そんな気持ちを含ませた視線に貫かれ、タイオンの胸は締め付けられた。
そんな縋るような目で見たいでくれ。決意が揺らぐ。


「ユーニ、昨日のことは……」


“忘れてくれ”
“なかったことにしてくれ”
喉元まで出かかった言葉は、口から飛び出る前にストップしてしまった。
こんなことを言ったら、きっとユーニは傷付く。
“酷い奴だ”と罵って、嫌われるかもしれない。
ここまで来て、今さら彼女に嫌われるのが怖かった。
それにタイオン自身、昨晩のことをなかったことになんてできそうにない。
あんなに心を渡し合ったのに、そう簡単に忘れられるわけがない。


「なに?」
「……いや、なんでもない。じゃあ、僕はもう行く」


ベッドから立ち上がった瞬間、タイオンの右手がユーニによって掴まれる。
そして力強く引き寄せられ、立ち上がったはずがベッドに手を突き体勢を崩してしまった。
近付くユーニの唇が、タイオンの唇に重なる。
そっと触れる柔らかな感触は、昨晩何度も味わったというのに今になってもなお尊く感じてしまう。
離れた唇にそっと目を開けると、泣きそうな顔をしているユーニと目が合った。
男勝りで気が強かった彼女にこんな顔をさせているのかと思うと、心が痛い。


「悪い。勝手なことして」


瞳を伏せて謝罪するユーニに、タイオンは何も言えなかった。
何を言っても安い言葉にしかならないような気がする。
後ろ髪惹かれながら、彼はゆっくりとベッドから立ち上がる。
ミオの専属近衛騎士長として、そして婚約者として背筋を伸ばしながら、彼はユーニの部屋から静かに去って行った。

1人きりになった部屋で、ユーニは深い深いため息を吐く。
そして“よし”と気合を入れると、ベッドから抜け出した。
舞踏会が始まるまでは、メリアの専属使用人としての仕事がある。
使用人用の服に着替え、髪を整え軽くメイクを施すと、彼女はしっかりとした足取りで自室を出た。
向かう先はノアの部屋。彼と話をするためである。

昨晩、他の男とあんなことをした以上、もはやノアの許嫁を名乗る資格はない。
タイオンがミオとのことをどうするつもりなのかは分からないが、何にせよ、4人は今のままの関係ではいられないだろう。
1から10まで事情を話すつもりはないが、とにかく今の気持ちをノアにぶつけて話し合わなければ。
昨日の舞踏会で、ミオを追って大広間から出て行ったあと2人がどうなったのかも気になる。
その辺の結果も含めて、ちゃんと話そう。

かつかつと足音を鳴らし、ようやくノアに宛がわれた私室の前に到着する。
固く閉ざされた扉をノックして外から名前を呼んでみるが、ノアからの返答はない。
おかしい。もう着替えて出て行ってしまったのだろうか。
 
ドアノブを掴み、“入るぞ”と一声かけて扉を開いて中を覗き込むと、カーテンが閉まったままの暗い部屋が視界に飛び込んでくる。
中にノアの姿はない。それどころか、ベッドのシーツにはしわひとつなく、昨晩からノアがこの部屋に戻っていない事実を表していた。

何処に行ったのだろう。まさか、まだミオの部屋にいるのか?
自分たちと同じように、ミオの部屋で一夜を共にしたんじゃ……。


「あ、いたっ、ユーニ!」


突然廊下の方から名前を呼ばれ、肩が震えた。
視線を向けた先にいたのは、幼馴染であるランツ。
息を乱しながらこちらに駆け寄って来る彼は、何故か随分と焦っている様子だった。
ユーニの元に駆け寄った彼は、乱れた息を整えながら両膝に手を突き、うなだれている。


「な、なんだよランツ。朝っぱらからそんな慌てて……」
「ユーニ、お前さん……、ノアを見なかったか?」
「え?」


今しがた自分も探していた人物の名前を聞き、ユーニは目を丸くした。
ノアはこの自室にいない。となると考えられるのはミオの部屋だが、それを素直にランツに伝えてよいものだろうか。
もしノアがアルストの次期女王であるミオと一夜を共にしていたと知られればただでは済まないだろう。
迷いながら“さぁ、見てないけど”と伝えると、ランツは“やっぱりか”と息を吐きながら肩を落としていた。
何やら様子がおかしい。緊急事態かのごとく蒼い顔をしているランツに事情を問うと、彼はとんでもないことを口にした。


「ミオがいなくなったんだよ!」
「は……?」
「朝セナが起こしに行ったら部屋がもぬけの殻だったらしい。だから、もしかしたらノアなら知ってるんじゃないかと思って……」


ランツの言葉に、ユーニは状況を瞬時に把握した。
そして、急いで廊下を駆けだした。
背後から自分の名前を呼びながらランツが追いかけて来る。
走っている間、巨神界の他の使用人や騎士たちに何度かぶつかりそうになったが、構わず駆け抜けた。

自室に戻った様子のないノア。
朝になり部屋から忽然と姿を消したミオ。
昨晩、舞踏会でミオの後を追ったノア。
この羅列された事実を前に、浮かび上がる仮説はただ一つだった。

ノアがミオを連れ去った。
それしかない。

渡り廊下を渡って皇族の私邸に足を踏み入れる。
ミオの私室に向かうと、開け放たれた扉の前は分かりやすく野次馬が集っていた。
集まっているのはほとんどがアルストの使用人や騎士たち。
人混みをかき分けながら部屋に入ったユーニとランツの視界には、ミオの私室の中央で膝を折っているタイオンとセナの姿が見えた。


「なに、これ……」


床に視線を落としている2人に駆け寄ると、その異様な光景にユーニは顔をひきつらせた。
引き裂かれた布と、切り落とされた白い髪が散乱している。
布はミオが昨日着用していた純白のドレスだろう。
髪も色からして間違いなくミオのモノだ。
だが、どうしてこんなものが床に散乱しているのか。
駆け寄って来たユーニとランツに気が付いたタイオンとセナが、2人に視線を向ける。


「ユーニ、ランツ。ミオちゃんが……」
「なんでこんなもんが散乱してんだよ」
「誘拐された可能性も捨てきれないな」
「まさか、ノアの奴……」


ランツの口からこぼれ落ちたその名前にいち早く反応したのはタイオンだった。
しゃがみ込んでいた彼は立ち上がり、少々険しい顔で“ノア?”と問いかける。
いらないことを言ってしまったことに焦り、“やべっ”と自らの口元を片手で覆い隠すランツ。
だが、タイオンは追及をやめようとしはなかった。
今度は隣に立っているユーニに視線を向け、“どういうことだ?”と問いかける。
もはや誤魔化しは効きそうになかった。


「ノアもいなくなったんだ。朝部屋に行ったらいなくて……」


タイオンの目が大きく見開かれる。
そして瞳を伏せ、足元に散乱するドレスの布地と白い髪に視線を落とした。
ミオだけじゃなくノアまで消えたという情報と、この部屋の状況を見ればどんなに鈍感な人間でも察しが付くだろう。
ミオはノアによって連れ去られたのだ、と。


「え?じゃあノアがミオちゃんを……?」
「さぁな。けど、“ありえねぇ”とは断言できないだろ」
「でもでも、あのノアが無理矢理ミオちゃんを連れ去ったりするかな?」
「いや、無理矢理連れ去ったとは限らない」


一同の視線が、異議を唱えたタイオンへと向かう。
部屋の端に置かれたドレッサーのそばに立っていた彼は、そこに置かれていた控えめなネックレスを手に取っていた。
これは昨晩、自分がミオに贈ったものである。
これがここに置かれているということは、ミオが自らの意思で置いていったということ。
もし本当に彼女を連れ去った相手がノアなら、強引に連れ去られた可能性は低い。
むしろ、同意のうえで着いて行った可能性の方が高いだろう。
となるとこれは、連れ去りなどではない。計画的逃亡だ。


「セナ。女王陛下にミオがいなくなったことを報告してくれ」
「う、うん。わかった」
「ランツ。すまないがノアの姿も消えている事実は何とか隠蔽してくれ」
「おう。けど、舞踏会が始まる時間になったら否が応でもバレるぞ?」
「あぁ。だからそれまでに何としても連れ戻す」


手に持ったネックレスをジャケットの内ポケットに仕舞うと、タイオンは速足で歩きだす。
“おいタイオン!?”と制止しようとするランツの声も聞かず、部屋の入り口に溜まっている野次馬をかき分けて出て行ってしまった。
そんな彼の後を、ユーニは急いで追った。
放ってはおけない。ノアのことも、ミオのことも、そしてタイオンのことも。
 
私邸の階段を3段飛ばしで駆け上るタイオン。最上階に到達すると、一番手前の部屋にノックもせずに入って行った。
どうやらこの部屋は誰も使っていない空き部屋らしい。
タイオンの後を追って同じくその部屋に飛び込んだユーニは、バルコニーに出て外を眺めている彼の姿を見つけた。
駆け足でその背に近付くと、彼は右手のひらに乗せた白いカタシロをひらめかせていた。


「それ、モンド?」
「あぁ。最近は使っていなかったが、こういう時は役に立つ」


腕をはためかせると、手に乗っていた1枚のモンドは一瞬にして数百枚に数を増やした。
パチンと指を打ち鳴らした瞬間、無数のモンドたちはひらひらと舞いながら四方八方に散っていく。
人の気配を追うことに長けているモンドを使い、2人の足取りを追おうという算段だろう。
遠ざかるモンドをまっすぐ見つめるタイオンに歩み寄ると、ユーニは彼の右手にその白い手を重ねた。


「なぁ、もし本当にノアがミオを連れ去ってたら、どうすんだ?」
「……ミオはアルストの次期女王だ。そんな彼女を外部の人間が連れ去ったと知れれば、命はないだろうな」


予想通りの回答に、ユーニは下唇を噛んだ。
ノアの気持ちは分かる。この檻のような城からミオを連れ出し、自分のモノにしてしまいたかったのだろう。
だが、やることが極端であまりにも大胆過ぎる。
捨て身なこの逃避行のきっかけになったのは、自分とノアが交わしたあのキスだったのかもしれない。
あのキスのせいで、ノアとミオの運命が狂ってしまったのだとしたら、間違いなく自分の責任だ。
どうしよう。自分のせいでノアが殺されてしまうかもしれない。
自責するユーニの頭上から、タイオンの問いかけが降って来る。


「……そんなにノアが心配か」
「当たり前だろ?だってあいつはアタシの——」


訴えながら視線を上げる。その瞬間、目の前いるタイオンの顔を見てユーニは言葉を詰まらせてしまった。
褐色の瞳が、悲しみと嫉妬に染まって揺れている。
そんな苦々しく、そして弱々しい目で見つめられたのは初めてだった。
まるで、“それ以上聞きたくない”とでも言いたげな目だった。
違う。そんな目をさせるつもりはなかった。傷つけるようなことを言うつもりもなかった。
アタシが言いたかったのは——。

口を開きかけた瞬間、遠くから1枚のモンドがひらめきながら戻って来た。
2人の視線は舞い戻ったモンドへ注がれる。
手のひらを広げて迎え入れたタイオンは、モンドからもたらされた報告に頷いた。


「真新しい馬車の跡が見つかった。おそらくノア達が乗って行ったものだろう。その痕跡をたどればきっと追いつける」
「アタシも行く」


テラスから屋内に戻ろうとするタイオンの背に向かい、ユーニは言い放つ。
思わず足を止めたタイオンは、少し驚いた様子で振り返っていた。
ノア達の追跡は1人で行くつもりだった。ユーニを連れて行けば、辛い場面に遭遇してしまうかもしれない。
だが、そんな彼の気遣いを、ユーニは跳ねのける。


「アタシだって当事者だ。知る権利くらいはあるだろ?」
「だが……」
「それに、ノアが心配なんだよ。アイツはアタシの……幼馴染だから」


バルコニーにふわりと風が吹く。
ミルクティー色の髪をなびかせる彼女の目は、決意に満ちていた。
ノアを“許嫁”ではなく“幼馴染”と言いきったユーニの言葉に、喜びを感じてしまう。
ノアとユーニの関係に嫉妬する権利も、悲しむ権利も今のタイオンにはない。
だが、嫌でもこの胸を覆ってしまう負の感情は、ユーニのことを諦めきれない無様な心のせいだろう。
一緒に行くと言って真っすぐこちらを見つめているユーニを止められそうになかった。


「分かった。行こう」


頷くユーニを隣に携え、タイオンは歩き出す。
停泊している馬車を2台手配し、片方に2人は乗り込む。
ノアとミオが乗って行ったと思われる馬車の跡を、2台の馬車は追っていく。
馬車に揺られながら向き合った席に腰掛けているタイオンとユーニの間に、会話はない。
流れゆく窓の外の景色を見つめながら、ユーニは正面に座るタイオンを一瞥した。
白い手袋をはめている彼の左腰には、細いレイピア。
グリップにアルストの紋章が刻印されているそれは、アルストの騎士が持つ白銀のレイピアである。
馬車に乗る前、タイオンは武器庫に立ち寄りあのレイピアを携えてきた。
ということは、ノアと刃を交えるつもりなのだろうか。
タイオンの心が読めないまま、ユーニは一抹の不安を抱えていた。

 

ロミオは王子に牙を剥く


朝焼けが瞼を貫き、眩しさに目を開ける。
目の前に広がる湖が朝日を反射させ、水面を光らせていた。
キラキラ光る水面を呆然と見つめながら、ノアはすぐ隣にあるい温もりを抱き寄せる。
あの後、結局二人は静かな森で夜を過ごした。
睦み合い、愛し合い、ふれあい、囁き合い、そしていつの間にかこの大木に寄りかかりながら眠っていたらしい。
頭をもたげて来るミオの短くなった髪を撫でながら、ノアは遠くの空を見上げた。

今頃、アルストキャッスルは大騒ぎになっているだろう。
皆ミオを探しているに違いない。
当然だ。ミオはアルストを導くべき次期女王なのだから。
 
2つの世界が融合したばかりのこの新しい地平は未だ混乱している。
その混乱をどう治めるかを決めるのが、今回3日間に渡って開催される2人の女王の会談だ。
世界の行く末は、女王たちの判断と、次代に続く未来の統治者にゆだねられている。
アルストの民たちのミオへの期待感は相当なものだろう。
ミオだけじゃない。幼少からその隣に寄り添ってきたタイオンもまた、次期女王の婚約者として多大な責任をその双肩に背負ってきたはず。
子供の頃から押し込められてきた責任という名の檻からミオを連れ出したこの行為は、同時に世界を混乱させかねない行為でもある。
 
ミオのことは好きだ。離れがたいし、これからも一生想い続ける事だろう。
だが、この想い1つでアルストの民たちの期待を蔑ろにしていいのだろうか。
この行為は逃げに等しく、ミオを責任から背を向けた裏切りの姫に堕としてしまう行為でもある。
世界のためにも、ミオのためにもならない罪を犯しているのではなかろうか。
けれど、この温もりを手放したくはない。
未だ幼い独りよがりな心を捨てられないノアは、抱え込んだ愛しい温もりを手放せずにいた。


「っ、」


不意に、視界に飛び込んできた白い影に息を詰めた。
ひらめきながら目の前を飛んでいる白いカタシロには見覚えがある。
タイオンのモンドだ。
人の気配を追うこのブレイドは、アイオニオンにいた頃彼が愛用していたもの。
これが飛んできたということは、間違いない。タイオンがすぐ近くにいる。
すぐ隣に横たえてあった剣を手に取り、ノアは立ち上がる。
そんな彼に寄りかかっていたミオは支えを失い、びくりと肩を震わせながら重たい瞼を開けた。


「ノア……?」
「ごめんミオ。ここにいてくれ」
「え……?」


上着は持たず、ベスト姿のままノアは飛び出した。
木々の合間を抜けると、ほんの少し開けた草原に出た。
花々が咲き乱れるその草原は美しく、草花の香りが風によって流れて来る。
その風の中に、彼はいた。
数枚のモンドを舞躍らせながら、白い騎士服を風に靡かせている彼こそは、ミオの“正しい相手”、タイオン。
彼の背後には、停車している2台の馬車。どうやらミオを迎えに来たのだろう。
さながら、盗賊に連れ去らわれた姫を救出に来た王子様と言ったところか。
立ち尽くすノアを見つけたタイオンは、眼鏡を押し上げ真剣な表情でこちらをまっすぐ見つめている。


「ノア。やはり君だったか。ミオは一緒だな?」
「あぁ。一緒だ」
「彼女を連れ出したのも、君か?」
「……あぁ。そうだ」


ノアのまっすぐすぎる返答に、タイオンは瞳を伏せた。
ここで否定してくれればまだよかったのに。
その言葉を信じたふりをして、ノアは盗賊からミオを守ったのだと上に報告できたのに。
彼はアイオニオンにいた頃から正直な男だった。
策謀を張り巡らす策士の役割を担っていた自分とは違い、人を信じ、誰に対しても真の心で接することが出来る。
そんな男に、嘘を吐くことを期待する方が無駄だったのだ。


「ミオを渡せ。今ならまだ間に合う」
「断る。と言ったら?」


目を細めたタイオンは、右手で左腰のレイピアに手をかける。
鞘から細い刃を抜くと、顔の前で構えた。
それはまさに、敵意の表れ。
ミオを渡さなければ戦いも辞さないというタイオンの意思だった。

戦いたくはない。タイオンは仲間だ。友だ。
刃を交える意味はない。
だが、ここで退けばミオを失うことになる。
タイオンの手によって城に連れ戻されたミオは、再び自分の手の届かない場所に幽閉されることになる。
それはどうしても嫌だった。
ミオを渡したくない。ずっとこの腕の中に抱いていたい。
ミオとの永遠を諦めたくない。

剣を持ち、刃を鞘から引き抜いた。
鞘を捨てたのは、もはやこの刃を中途半端に鞘に納めるつもりがないからだ。
どちらかが勝つまで、この争いは終わらない。
ノアは剣を両手で構え、まっすぐにタイオンを見据える。
風に舞う葉がノアの刃をかすれ、新緑の葉を真っ2つにしたその瞬間、2人の騎士は地面を蹴り上げ駆け出した。
急激に距離を詰めた2人の剣とレイピアが火花を散らしながらぶつかり合う。
じりじりと互いの刃を押し合いながら、ノアとタイオンはぐっと顔を近付けにらみ合った。


「タイオン。剣の腕で俺に勝てると思ってるのか?」
「僕が戦術士だったのはアイオニオンでの話だ。今の僕はれっきとした騎士だ」


タイオンの力によってノアの刃は押し返され、彼の剣撃が身を貫く前にノアは背後に飛びのいた。
アイオニオンで一緒に戦っていた頃のタイオンは、様々なブレイドを使ってはいたものの後方支援を最も得意としていたはず。
戦術を立てることにおいて右に出る者はいないが、剣技においてはノアの方が数段上だった。
 
だが新しい世界に生きている今の彼は、そんなノアと互角に渡り合うほどの剣技を身につけている。
恐らく幼い頃から相当の努力を積み重ねてきたのだろう。
ミオの専属近衛騎士になるために。そして、婚約者として一番近くで彼女を守るために。
ミオを連れ去るということは、そんなタイオンの努力もろとも否定する行為に等しい。
それは分かっている。分かってはいるが、それでも容易に退けそうにない。


「僕はミオの専属近衛騎士長だ。彼女の身を脅かす者は誰であれ見過ごせない。ノア、例え君でもな」
「俺もそう簡単には退けない。ミオは俺の大事な人なんだっ!」


駆け出すノア。振り下ろされる刃にもはや容赦はなかった。
かつて終の剣を振るっていたノアの素早い剣技がタイオンを襲う。
神速の剣をレイピアでしのいでいくタイオンの額には汗が伝っていた。
流石に強い。剣が早すぎて見えない。かわし、弾き、防ぐのが精一杯だ。
かつての自分ならあっという間にやられていたことだろう。


「この場は凌げても、ずっと逃げられる保証はないぞ!? 今戻ればまだ……!」
「戻ったところで何も変わらない!ミオと一緒に生きられないなら意味がない!」
「だからといって全てに背を向けるつもりか!? そんなことをしたって誰も幸せにはなれないぞ!」
「ならタイオンはこのままでいいのか!? お前だって思うところがあるんじゃないのか?ユーニのことが好きなんじゃないのか!?」
「っ、」


一番突かれたくない場所を言葉で突かれたことで、タイオンは動揺を示した。
そのわずかな隙を、ノアが見逃すはずがない。
渾身の力でタイオンの刃を弾くと、レイピアは彼の手から離れ数メテリ先の草の上に突き刺さる。
もはや武器を失ったタイオンは、その場に力なく膝をついた。
勝負は決まった。反撃の手がないタイオンは、唇を噛みしめながらノアを見上げるしかない。


「……僕を斬って、ミオをまた連れ去るつもりか?」


見上げてくるタイオンに、ノアは剣を構える。
だが、すぐに肩から力を抜くと、手に持っていた剣を遠くに投げ捨てた。
金属音を立てながら転がっていく剣を視線で追ったタイオンは、驚いたように目を見開き再びノアを見上げる。


「ミオのことは大切だ。でも、タイオンだって大事な仲間だ。斬れるわけない」
「ノア……」
「責任とか立場とか、それぞれに事情があるのは分かる。でも、自分の心に嘘をつき続けながら生きるのは限界があるだろ」
「……」
「俺は戦いたい。ミオと一緒に生きる道を見つけるために」


ノアの蒼い目は決意を秘めていた。
もはやその決意を揺るがすことは出来ないらしい。
最初から説得する気などさらさらなかったが、これほどの決意を秘めているのなら心配はないだろう。
口元に薄く笑みを浮かべたタイオンは、眼鏡を押し上げゆっくりと立ち上がる。
白い騎士服を風にはためかせる彼は、背筋を凛と伸ばして言い放つ。


「今君たちがしていることは現実からの逃避だ。戦いたいのであれば、城に戻って真正面から戦え。君とミオなら、きっと何があっても乗り越えられるはずだ」
「タイオン。それって……」


ノアが言葉を続けようとしたその時、背後から草を踏む足音が聞こえてきた。
ゆっくりと踏みしめるように近づいてくるその気配に、2人の男の視線は集中する。
膝丈になった短いドレスに身を包んだその人影を見た瞬間、タイオンは“ミオ…”と彼女の名前を呟いた。
琥珀色の瞳を揺らし、罪悪感と悲しみを孕ませた表情を見せている。
 
そんなミオの登場後まもなくして、タイオンの背後に停まっていた2台の馬車のうち先頭の1台の扉が開いた。
白い羽根を風に揺らめかせながら馬車から降りてきたその女性を見つめ、ノアは目を見開き呟いた。
“ユーニ…”と。
互いの許嫁と婚約者の登場により、一連の役者は出揃った。
4人を包んでいた痛い沈黙を一番最初に破ったのは、ミオだった。


「……タイオン。私が連れ出してほしいってノアに我が儘を言ったの。ノアは私の要望を聞いてくれただけ」
「……そうか」
「ノア、私の我が儘を聞いてくれてありがとう。もういいの。これ以上あなたを巻き込めない」
「けど、ミオ……!」


言葉を続けようとするノアに、ミオは制止するように静かに首を横に振った。
“もう何も言わないで”
そんな空気が、ミオから漂ってきていた。


「もう潮時だと思う。戻りましょう。タイオンともちゃんと話したいから」


ミオのことを信じていないわけではなかった。
だが、やはり婚約者であるタイオンの元に行かせるのは気が進まない。
けれど、彼女の言う通り今はきちんと互いの相手と話をする必要があるのだろう。
割り切るしかない。腹をくくったノアは、視線を逸らしながら“あぁ”と頷いた。
一方、そんな2人のやり取りを見つめていたタイオンの背後に歩み寄ったユーニは、彼に言葉をかける。


「タイオン。アタシ、帰りはノアと一緒に行くから」
「えっ……」
「今はミオと話せ」


眼鏡の奥で、タイオンの瞳が揺れる。
不安に駆られた目だった。
だが、すぐに表情を隠すように眼鏡を上げると、“わかった”と口にしつつ目を逸らす。
承諾したタイオンに礼を言うと、ユーニはノアに向かって歩き出す。
その背を見つめるタイオンの目は、引き留めたくて仕方がないと嘆いているようだった。
やがて、ノアのそばにいたミオもタイオンに向かって歩き出す。
ミオとユーニ。咲き乱れる花々の真ん中で、2人の女性がすれ違う。
正しい相手の傍へと歩み寄った2人は、互いに寂しげな目をしていた。

タイオンの隣に歩み寄ったミオは、彼を見上げながら頭を下げた。


「ごめんなさいタイオン。迷惑かけて」
「もういいんだ。戻ろう」


タイオンはいつも、ミオの隣を歩くとき彼女の腰を引いていた。
それが女王をエスコートする騎士の正しい礼儀作法だったからだ。
いつものように彼女の腰に手を伸ばそうとしたタイオンだったが、触れる前にぴたりと止まる。
視線を逸らし、腰を引くことなくタイオンは歩き出す。
躊躇したその手を視界に入れ、ミオは考える。
彼がいつも通り腰を抱かなかったのは、誰に遠慮したのだろう。
自分なのか、ノアなのか、それとも——。

残された2人は、馬車に乗り込むタイオンとミオを見送った。
そして、風に髪を乱したユーニはノアを見上げながら寂しげに微笑む。


「姫を連れ去るなんて、随分大胆なことしたな、ノア」
「……ユーニ、ごめん」
「なんで謝るんだよ、馬鹿」


“帰ろう”
そう言って微笑むユーニに笑みを返し、2人はミオやタイオンたちとは別の馬車に乗り込んだ。
手綱を引く御者が馬車に繋がれたアルマに指示を出す。
ゆっくりと走り出す馬車は、沈みゆく太陽を背にアルストの城に向け進む。
森の悪路を進む馬車に揺られる4人の間に、会話はほとんどなかった。


***

城に到着する頃には、既に太陽は西端の地平線に沈み始めており、空は茜色に染まっていた。
ミオの帰還に、ニアやレックスはもちろん、アルストの騎士や使用人たちは歓喜する。
連れ出した張本人であるノアが何のお咎めもなかったのは、城に残ったランツやセナが必死に隠蔽工作を行ったからだろう。
誰からも責められず、罰を受ける気配もない状況に、ノアは罪悪感を抱えていた。
ミオが無事帰還したことにより、舞踏会は予定通り滞りなく開かれることとなる。
会談期間3日目の今夜は、最後の舞踏会である。

自室で舞踏会のための支度をしていたユーニは、ドレッサーに腰掛けながら鏡越しに映るノアを見つめていた。
ベッドに腰掛け、頭を抱えながら俯くノア。
その胸を支配するのは罪悪感か後悔か。幼馴染とはいえ所詮他人であるユーニではわかりようもない。
だが、彼がとてもではないが舞踏会に参加する気分ではないことくらいは分かる。
鏡を見ながら髪形を整えるユーニは、鏡の向こうにいるノアへとようやく声をかけた。


「正直びっくりした。連れ去るなんてさ」
「……俺も、自分でびっくりしてる。どうかしてたんだ。あんな後先考えずに……」
「後悔してる?」


その問いにノアが答えることはなかった。
ハッキリ言わないのは、後悔の念がないからだろう。
間違ったことをしたという自覚はあれど、あれでよかったと思っている自分が心のどこかに存在しているからに違いない。


「ごめん。ユーニに対しても無神経だった。本当にごめん」


ノアのその言葉に、ユーニは驚いてしまった。
今さら自分に罪悪感を感じるなんて、どこまでこの男は誠実さを引っ張るつもりなんだ、と。
彼は昔から、自分ではなく他人のために生きるきらいがある。
親を亡くしたユーニに寄り添って、孤独にならないようずっと一緒にいてくれた。
自分だって同じ日に親を亡くしたくせに、ユーニのためだけに生きようと努めてくれている。
そんなノアを近くで見ていたユーニは、いつもどこか痛々しさを感じていた。
いい加減、自分のために生きたらいいのに。

ドレッサーの上に置いていたネックレスを手に取り、首につけるために腕を後ろに回す。
相変わらず後ろ手でネックレスを着けるのは苦手で、苦戦してしまう。
そんなユーニの様子に気付いたノアは、ベッドから立ち上がりいつものように手伝おうと手を伸ばしてくる。


「いい。自分でやる」
「けど——」
「そういうのはアタシにやることじゃないだろ」


ぴしゃりと放たれた拒絶の言葉に、ノアは延ばしていた手を引っ込める。
今までノアの気遣いに遠慮することなく甘えていたユーニの壁を作るような言動に、彼は戸惑いを覚えていた。
ユーニにはよく分かっていた。このノアという優しい男は、自分が手を振り払わなければ気持ちよく決意できないのだという事実を。


「アタシ、ノアに謝られるような権利ないよ。アタシだって、自分勝手に動いたわけだし」
「あのキスのことか?それだったら、別に俺も同意してたし気にすることじゃ——」


言いかけた瞬間、ネックレスを着けようと苦戦しているユーニの首筋に目を向けノアは言葉を失った。
肩にかかるミルクティー色の髪に隠れるように、ユーニの首の裏あたりに、赤いしるしが咲いている。
こんなに無防備に首元を晒しているということは、おそらくユーニ本人は気付いていないのだろう。
当然、自分はこんな跡つけていない。この白い首筋に吸い付いたのは一体誰なのか。
答えは考える間もなく頭に浮かんできた。タイオンしかいない。
“自分勝手に動いた”というのは、こういうことか。


「ユーニは、タイオンが好きなんだな」
「あいつはミオにご執心みたいだけどな」
「……それはどうかな」


彼が執着している相手はミオじゃない。間違いなくユーニだ。
ユーニに気付かれないよう、こんなところに痕跡を残すくらいなのだから。
だが、彼の気持ちはよく分かる。
ノアもまた、ランプスの光が漂うあの森でミオの身体を掻き抱きながら、激しい嫉妬心にかられていた。
タイオンの元に返したくない。ずっとこの腕の中にいてほしい、と。

やがて、ユーニはようやくネックレスを着けることに成功したらしい。
金具を無事取り付けた彼女は、髪を整えながら振り返り、得意げな表情を浮かべながら言った。


「ほら見ろ。ネックレスくらい一人でつけられるだろ?」
「そうだな」
「ネックレスだけじゃない。他にも出来ることはたくさんある。アタシ、割と一人でも生きていけるタイプなんだぜ?」
「みたいだな」
「むしろ一人の方が好き、みたいな?ノアが一緒にいてくれなくても、きっとアタシなら楽しく生きていけると思う。だから……」


整えられたミルクティー色の髪を耳にかけながら、彼女は振り返る。
その表情は、何の憂いも悲しみも感じさせない、“幼馴染”の顔だった。


「許嫁とか、もうやめにしようぜ」


何となく予想はしていた。
そして期待もしていた。
彼女からそんな提案を持ち掛けられることを。
だが、実際に目の前に提示されると流石に驚いてしまうもので、ノアは一瞬言葉を喉につっかえてしまった。


「ノアのことは好きだけど、やっぱり恋愛云々ってより親友として一緒にいる方がいいと思うんだ」
「ユーニ……」
「それに、ノアとのキス、1ミリもドキドキしなかったし」


正直すぎるユーニの一言に、ノアはシリアスな雰囲気にも関わらず“ぷっ”と吹き出してしまった。
アレは互いの大事な人を取り戻すための狡猾なキスだった。
そこにときめきや愛情は一切ない。
ある意味当然の感想とは言えるが、一切の遠慮がないその物言いは、ノアの心を軽くしてくれる。


「ハッキリ言うんだな」
「だってそうじゃん。ノアだって全然だったろ?」
「そうだな。親友とキスしてもただのスキンシップにしかならないな」
「だろ?やっぱ、あぁいうのは本当に好きな人とするべきなんだよ。ノアの場合はミオと」
「なるほど。じゃあ、ユーニの場合はタイオンか」


揶揄うように笑いかけると、ユーニは一瞬驚いた様子を見せた後むっと唇を尖らせた。
“揶揄うな馬鹿”と腹を小突いてくる彼女は、照れくさいのか僅かに頬を紅潮させている。
そんな彼女の様子に笑って見せると、向こうも笑みを零す。
こうして2人で笑い合うのは久しぶりだった。


「お互いの両親、許してくれるかな」
「アタシらで決めた道なんだ。きっと大丈夫だよ。それよりさ——」


ドレッサーに腰掛けていたユーニは立ち上がる。
纏っていた漆黒のドレスがふわりと広がり、妖艶で可憐な空気を纏っている。
ドレスと同じ黒い手袋を着けている彼女の手が、ノアへと延ばされる。


「これが最後の舞踏会だ。“幼馴染”として、エスコート頼むぜ?」
「あぁ。俺でよかったら喜んで」


ユーニの手を取り軽く頭を下げたノアは、その手を導き、自らの腕に絡ませた。
互いに目を合わせ、微笑み合う2人。
2人の間に、愛だの恋だの艶めかしい感情の色はない。
あるのは長年の友としての青い友情。辛い幼少期を共に生きてきた2人は、今夜ようやく“許嫁”の称号を捨てた。
漆黒の装いを身に纏い、寄り添いながら部屋を出た2人は、幼い頃のように笑い合いながら舞踏会の大広間に向かう。
笑い合うノアとユーニは、屋根裏で語り合っていたあの頃の面影をまだ残していた。


***

両耳に小ぶりのピアス。
頭にはアルストの皇族の証であるティアラ。
そして身に纏うのは純白のドレス。
鏡に映る自分を見つめながら、ミオは深くため息をついた。
今こうして着飾っている自分は、誰がどう見ても“次期女王のミオ”である。
その称号は生まれたときからついて回っていたため、今さら煩わしくは思わない。
けれど、この称号に伴う責任や重圧が足枷となり、自分だけでなく多くの人の自由を奪っているのは確かだった。

ノアは自分に気兼ねなく手を伸ばすことが出来ず、タイオンは幼い頃から定められた“次期女王の婚約者”という枷に責任を感じている。そしてユーニも、そんなタイオンとノアの間でもがき苦しんでいる。
恐らく、この四角関係をややこしくしているのは、自分が背負っているこの次期女王という大きすぎる称号のせいなのだろう。
全ての決定権は自分にある。ならばこそ、全てを正しい道に導けるのも、自分だけなのかもしれない。

ふと、ドレッサーの上に置かれたままになっていたネックレスへと視線を向ける。
手を伸ばしかけたミオだったが、すぐに引っ込めた。
今夜はきっと、これを着けるべきではない。
そう思った瞬間、ミオの部屋が外からノックされる。
訪ねてきたのがいったい誰なのかすぐに分かった。
“どうぞ”と促すと、やはり想定通りの人物が扉を開けて中に入って来た。タイオンである。


「支度は出来たか?」
「うん。もう大丈夫」
「そうか……」


眼鏡を押し上げ、タイオンは視線を外す。
正直言って、かなり気まずかった。
当然だろう。婚約者である彼を差し置いて、ノアと2人で逃げ出してしまったのだから。
きちんと謝罪しなくては。
そして言わなくちゃ。自分の本当の気持ちを。
次期女王とその婚約者としてではなく、“ミオ”と“タイオン”として、正しい道を歩もうと。
タイオンを、幼い頃から続く枷から解放するために。


「あのね、タイオン。話があるの」
「話?」
「えぇ。あの……、あのね、私……」


どう切り出せばいいのか分からない。
溢れ出る罪悪感のせいで、手が震える。
ドレッサーに座ったまま、膝の上で震えているミオの手に、タイオンがそっと褐色の手を重ねてきた。
驚き顔を上げると、そこには穏やかに微笑むタイオンの顔があった。


「それ以上言うな、ミオ」
「でも……」
「それを言ったら君が悪者になる。その役割は、僕が担うべきだ」
「え……?」


タイオンは自らの胸元から肩にかけて取り付けられている金の飾緒に手をかける。
丁寧にそれを取り外すと、ドレッサーに腰掛けているミオの目の前で膝を突いた。
両手で飾緒を彼女に差し出すと、頭を深々と下げながら彼は言い放つ。


「申し訳ありません、ミオ様。僕には心に決めた相手がいます。この飾緒を持つに相応しくありません。謹んでお返し申し上げます」


この関係を破棄するということは、大きな責任が伴う。
次期女王であるミオに、そんな罰を負わせるわけにはいかない。
彼女を子供の頃から守ってきた騎士として、最後まで行動には責任を。
そんなタイオンの心遣いを感じ取ったミオは、思わず泣きそうになってしまう。
こんな時でも、私を守ろうとしてくれるだなんて。
涙をこらえながら、ミオは差し出された飾緒にそっと手を伸ばし、受け取った。


「私も同じことを考えていました。今日をもって、婚姻関係を破棄しましょう、タイオン」
「……感謝いたします」


膝を突き、床に拳を突いて頭を下げるタイオン。
そんな彼の視界に、床に落ちる小さな雫が見えた。
顔を上げてミオを見つめると、彼女はその大きな琥珀色の瞳から大粒の涙をこぼしていた。
婚約の破棄が悲しいのではない。幼い頃から自分の隣に寄り添ってくれたタイオンへの感謝と、申し訳なさからくる涙である。
感極まったミオの姿に戸惑い、タイオンは咄嗟にその涙を拭おうと手を伸ばす。
しかし、彼女の頬に触れる直前に、ミオの手によってそっと阻まれた。


「いいの。そういうのは、ユーニにしてあげて」
「ミオ……」
「とはいっても、ユーニはこんな風に弱々しく泣いたりしないか」


涙で頬を濡らしながら無理矢理笑顔を作るミオ。
今の彼女は、慰めるよりも微笑みかけたほうがいいのかもしれない。
跪いていたタイオンは立ち上がり、眼鏡を押し上げる。


「それはどうかな。彼女は意外に繊細な部分があるから」
「ふふっ、流石、よく知ってるのね」


口元を上品に抑えながら笑うミオに揶揄われたような気がして、なんだか気恥ずかしくなってしまう。
“別に……”と誤魔化しながら視線を逸らすと、一層ミオは笑った。
 
タイオンという男は、自分の前では常に紳士的で優しい人だった。
けれど、ユーニを前にするとまるで思春期の子供のように素直さに欠ける態度を示してしまう。
自分の前では決して見せる事のない彼の天邪鬼な一面は、本当に好いているユーニ相手だからこそ引き出せるものなのだろう。
自分もノアと一緒にいるときは、誰にも見せない顔をしているのだろうか。
そんなことを考えながら、ミオはゆっくりとドレッサーから立ち上がった。


「でも、流石にアルストの次期女王が最後の舞踏会で一人ぼっちなのは恰好がつかないし、最後のエスコート、お願いできるかな?」
「あぁ、もちろんだ。そもそも僕は君の専属騎士なわけだしな」


延ばされるタイオンの手に、ミオは自らの手を重ねる。
そしてそのまま腕を組むと、互いに微笑み合い歩き出す。
部屋を出て大広間へ向かうと、すれ違うアルストの騎士や使用人たちが深々と頭を下げて来る。
いつもは次期女王とその婚約者としてこの廊下を歩いていた2人だが、今夜ばかりは違う。
初めて、次期女王と専属近衛騎士として寄り添っている。
だがきっと、こうしてミオの隣を歩くのも最後なのだろう。
感慨深さを感じながら、タイオンはミオと共に大広間の扉をくぐるのだった。

 

そしてキスで目が覚める

 

3日間にわたる女王たちの会談は無事終了した。
新しく生まれ変わった世界の統治は、メリア、ニアの2人の女王を頂点とする統治が行われ、実質的な支配は互いの懐刀であるシュルク、レックスが担うこととなる。
元々巨神界だった地域を巨神界領域、アルストだった地域をアルスト領域と定め、二国間は同盟の形をとることで均衡を保つこととなる。
アイオニオンでケヴェス、アグヌスに分かれて命を削り合っていた歴史をよく知っている2人の女王の目が黒うちは、二国間で争いごとが起きることもないだろう。

更に、会談後の夜に連日行われた舞踏会によって、巨神界、アルストの民たち間で交流も生まれた。
平和への第一歩は、互いの世界への理解と親しみを深めることにある。
その意味では、此度の舞踏会は重要な役割を果たしたと言えるだろう。

とはいえ、この3日間なにもかもが順調だったとは言い難い。
かつてアイオニオンを残酷な因果から解放した6人のウロボロスの再会。
呼び起こされた記憶。交差する関係。
互いの感情が入り乱れる4人の苦悩は計り知れない。
結果、愛娘であるミオが夜のうちに忽然と姿を消したと報告が上がった。
朝になってその報告を聞いたニアは、ミオが何を思いこの城を出て行ったのかなんとなく察しがついてしまった。
当然、誰が手引きしたのかも。

ミオの使用人であるセナと、巨神界の騎士であるランツは、目を泳がせながら“盗賊によって連れ去られた”と報告してきた。
明らかに誰かを庇っている様子だったが、あえてニアはその言葉を信じることにした。
ミオを連れ去った相手が本当に“彼”ならば、いずれきっと帰還する。
今の“彼”は全ての責任を投げ捨てて逃げるような人物ではない。
そんなニアの予想通り、ミオは無事帰還した。
心配はしたが、誰が連れ出したのかはあえて聞かなかった。
犯人探しをする気もなければ、その罪を咎める気もなかったからだ。
そもそも、こうなった原因の一端は娘に真実を伝えずタイオンと婚約を結ばせた自分にもある。
今さら“彼”を責める権利など、自分には残っていないのだ。

やがて、日は暮れ最後の舞踏会が始まった。
音楽隊による演奏が響く中、ニアは2階のギャラリーに用意された女王用の椅子に腰かける。
すぐ隣の席には巨神界の女王、メリア。
2人の女王の脇に控えるように立っているのは、今宵のダンスパートナーでもあるシュルクとレックスだった。
前日、前々日に引き続き、音楽に合わせてダンスを楽しむ面々を見下ろすニア。
見渡す人々の中に、漆黒のドレスと騎士服に身を纏った男女の姿を見つけた。
ノアとユーニである。
腕を組みながら楽しそうに談笑する2人は、他の者たちと違い踊り始める気配がない。


「来たぞ、ニア」


脇に控えていたレックスが、ニアの耳元で囁く。
その言葉に反応して顔を上げると、開け放たれた2階の入り口から純白のドレスと騎士服に身を包んだ一組の男女が大広間に足を踏み入れていた。
ミオとタイオンである。
 
階段の上に立ち一礼する2人に、舞踏会に参加していた面々はダンスの足を止め一様に拍手を贈る。
次期女王とその婚約者の登場に湧く会場だが、拍手を受けている2人の表情は昨日までの曇った表情からは一変、随分と晴れやかな顔をしていた。
その顔を見た瞬間、ニアは何となく察してしまう。2人が本当の意味で覚悟を決めているのだということを。

階段の上から見下ろすミオは、大広間の中央でこちらを見上げている2人の男女を見つけた。
そして隣に寄り添っているタイオンを見上げる。
彼も例の2人を見つけたらしくすぐにミオに顔向けてきた。
互いに穏やかな微笑みを浮かべて頷き合うと、ミオはタイオンの腕に絡めていた手を放す。
その瞬間、タイオンは“次期女王の婚約者”という肩書から解放される。
いままでありがとう。
どうか元気で。
互いに目線で心を伝えあった後、タイオンの長い足がゆっくりと階段を降り始めた。

一方、大広間の1階で純白の男女を見上げていたノアとユーニ。
彼らを見つけたユーニは、すぐにノアの腕から手を引くと、彼の背中をポンと軽く叩き微笑みを向けた。
こちらを見下ろしてくるノアは、見慣れたあの穏やかな笑みを浮かべている。
その微笑みに迷いはなかった。
早く行ってやれ。
ありがとう、ユーニ。
視線で心を伝えあうと、ノアはユーニのそばを離れゆっくりと歩き出す。

階段を登るノアと、降りるタイオン。
2人の男は階段の途中ですれ違い、足を止めた。
目が合った瞬間、タイオンはノアを軽く手招きする。
首を傾げて距離を縮めるノアの耳元に口元を寄せ、タイオンは誰にも聞こえないよう小声で囁き始めた。


「アルストの女性皇族をエスコートする時は、必ず腰を抱き寄せるんだ。それが礼儀だから、忘れるなよ?」


公の場で女性皇族の隣を歩く際のマナーは数多く存在する。
中でも重要なのは、歩く際は必ずその腰に腕を回し引き寄せるということ。
何かあった時にすぐ庇えるようにするためである。
そのマナーをタイオンから聞いたノアは、ふっと笑みを零しながら“覚えておくよ”と頷く。
そして同じように軽く手招きすると、身を寄せてきたタイオンの耳元に口元を寄せ、今度はノアが囁く。


「首元のあれ。ユーニは気付いてないみたいだけど、たぶんあぁいうの嫌がるタイプだろうから程々にな」


その言葉を聞いた瞬間、タイオンの目が大きく見開かれ、みるみるうちに顔が赤く染まっていく。
やはりあの“痕跡”を残したのはタイオンだったらしい。
自分たちが城を抜け出していた夜、彼らも一緒に夜を過ごしていたということか。
なんだ、ちゃっかりしてるじゃないか。
そんなことを考えながら笑っていると、タイオンはまだ赤らんでいる顔で眼鏡を押し上げた。


「……わ、分かった。肝に銘じておく」


視線を逸らしているタイオンに、そっと右手を差し伸べるノア。
その手を、タイオンは迷うことなく握り返した。
固く結ばれた握手は、亀裂が入りかけていた2人の友情を修復してくれる。
手を放すと、ノアとタイオンは互いに往くべき道を歩き始めた。

階段を登り切ったノアのすぐ傍には、ミオの姿。
だが、彼はミオの背後を素通りすると、その奥のギャラリーに腰掛けているニアやメリアの席へと向かう。
彼が膝を突き跪いたのは、ミオの母でありアルストの現女王、ニアの前だった。


「女王陛下。お詫びしたいことがあります。昨晩、ミオを連れ去ったのは——」
「ランツとセナから話は聞き及んでいます。盗賊に連れ去られたミオを、貴方が連れ戻してくださったのですね」
「えっ……?」


ニアの言葉は事実とはあまりに異なっていた。
驚きを隠せないまま、ノアは背後を振り返る。
大広間の端に立ち、こちらをにこやかに見つめているランツとセナが見える。
自分を庇うため、2人が嘘をついてくれたのだろう。
だが、ここでその嘘に縋り自らの罪を隠す気はもうない。
ミオと一緒にいると決めた今、潔白な身で彼女の隣に立っていたかった。


「いえ。それは誤りです。ミオを連れ去ったのは、この俺です」
「あら。つまりそれは、あの2人が嘘をついていると?この私に偽りの報告をしてきたと、そういうことですか?」
「い、いえ、それは……」
「もし貴方の言が真実なら、同時にあの2人も罰しなければいけませんね。女王を謀るのは大罪ですから」
「そんな……」


まさかその切り口で罪の告白を遮断されるとは思っていなかった。
ランツやセナは自分を庇おうとしてくれていただけで、何の罪もない。
確かに嘘の報告をしていたのは事実だったが、ノアが正直に罪を吐露すればあの2人も女王に嘘を吐いた罪で罰を受けることになるだろう。
自分のせいでランツやセナを罪人にするわけにはいかない。
迷うノアに、ニアの穏やかな微笑みが降って来る。
彼女はミオによく似た琥珀色の瞳を細めながら、口元に人差し指を押し当て小声で言った。


「正直なのはいい事ですが、時には嘘をついていたほうが都合がいいこともあります」
「そういうことだ。まぁ、悪いと思ってるなら、今後うちの娘を泣かせないよう努めることだな」


ニアに賛同するように、傍らに立つレックスが腕を組みながら見下ろしてくる。
ミオの父親でもあり、アルストにとって英雄と呼ぶべき彼の言葉に、ノアの胸は熱くなる。
完璧に認めてもらったとは思っていない。
だが、2人の言葉はこれからいばらの道を歩むことになるノアの後押しとなる。
深々と頭を下げ、“必ず幸せにします”と力強く言い切った彼に、レックスとニアは顔を見合わせながら微笑んだ。

立ち上がったノアは、女王とレックスに再び軽く会釈すると、背を向けて歩き出す。
足を止めた先は、ミオの真横だった。
真っ白なドレスに着飾り、頭に美しくきらめくティアラを乗せている彼女は、アイオニオンにいたあの頃と変わらぬ空気を纏っている。
揺れる琥珀色の瞳を見つめながら、ノアは口を開いた。


「ミオ」
「ノア……」
「アイオニオンでの別れ際、心で思ってたんだ。いつか絶対再会する日が来る。その時は必ず、俺が迎えに行くって」
「うん」
「今、ようやくその決意を果たせる時が来たんだと思う」


向き合うミオの目の前で、ノアは膝を突く。
そして、手を差し伸べながら彼は言った。


「この先、辛いことも大変なこともたくさんあると思う。けど、俺がミオを幸せにしたい。これからは俺と一緒に生きてもらえないか?」


ミオの大きな目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
この3日間、ミオの涙は何度も目にしてきたが、そのすべてが悲しみの涙だった。
けれど、今夜の涙は明らかに感極まった喜びの涙である。
こんなにも綺麗に泣くんだな。
その涙に見とれていると、彼女はノアの手を取り花がぱっと咲くような柔らかな笑みを浮かべてきた。


「私でよければ、喜んで」


その瞬間、ノアによって結ばれていた手は引き寄せられ、あっという間に抱きしめられた。
ミオの軽い身体は、程よく鍛えられたノアの腕によって抱き上げられる。
観衆の前で急に抱き上げられたことでミオの顔は赤く染まっていくが、嬉しそうに笑っているノアの顔を見ているとどうでもよくなってしまう。
宝石のようにきらめいているノアの青い目をまっすぐ見下ろしていると、どうしようもないほどに幸福感が胸に湧き上がって来た。

あぁ、やっぱり私、この人じゃないとダメなんだ。


「ノア……」
「ミオ。好きだ」
「えぇ、私も……っ」


2人の唇がそっと重なった。
漆黒の騎士服に抱かれている純白のドレスがシャンデリアの下で唇を重ねるさまは、異様なほどロマンチックだった。
その光景を、1階に降りたタイオンは後ろ手に覗き見ながら焦っていた。
 
何だあれは。情熱的過ぎるだろ。あんなことを先にやられたら、こっちまでしなくちゃいけない流れになるじゃないか。
恐る恐る目の前のユーニに視線を向けると、案の定彼女はニヤニヤと笑みを浮かべながらこちらを見つめていた。


「ほえー。ノアの奴やるなぁ」
「あ、あぁ」
「………」
「………な、何だその目は。やらないからな?」
「えー。仮にも王子様だろ?」
「“えー”じゃない。言っただろ。僕は王子なんてガラじゃない」


不貞腐れるタイオンに、ユーニは“知ってる”と失礼な一言と共に笑いかけた。
ミオの隣にいた頃のタイオンは、王子然とした態度を常に心がけていた。
背筋を伸ばし、凛とした面持ちで、何事にも動じず堂々としている。
そんな冷静沈着な人間を演じていたが、ユーニの前ではどうもその仮面が簡単に外れてしまう。
 
アイオニオンで一緒に旅をしていた頃の、感情が表に出やすい“稚拙なタイオン”に戻ってしまう。
だが、本来の彼はまさにそういう性格だった。
ユーニと一緒にいるからこそ、タイオンはタイオンらしくいられる。肩肘張ることなく、ありのままでいられるのだ。
見慣れた相方の顔を覗き込み、ユーニはいつもの揶揄うような笑みを浮かべながら言い放つ。


「けどさ、アタシの王子様にはなってくれるんだろ?」


相変わらず照れ屋なところは変わらないようで、彼は少し頬を赤らめながら眼鏡を押し上げる。
そしてユーニの前に跪くと、手を伸ばし緊張した面持ちで口を開いた。


「これからは君と共にありたい。だから、その……。よ、よかったら、僕と踊ってもらえないだろうか」


いつの間にかタイオンの顔は真っ赤に染まっている。
ミオと一緒にいるときはあんなに余裕そうな顔をしていたくせに、今になってそんなに赤くなるなんて。
ほんの少しの呆れと、大きな喜びがユーニの胸を打つ。
そして、そんなタイオンの手を取ると、跪く彼を強引に引っ張りながら彼女は笑った。


「当たり前だろ?ほら、さっさと踊ろうぜ!」
「えっ、ちょ、ユーニ!?」


焦るタイオンを無視し、ユーニは強引に走り出す。
大広間の中央に移動した2人は、互いに向き合い手を取り合う。
注目を浴びていることが恥ずかしいのか、それともユーニと向き合っているのが照れくさいのかは分からないが、タイオンは相変わらず赤い顔をしていた。
そんな彼は、羞恥心を誤魔化すように“全く……”とため息交じりにぼやきながらユーニの腰に腕を回す。
 
音楽に合わせて踊り始める2人を2階から目にしていたノアとミオは、どちらからともなく顔を見合わせながら頷き合う。
そしてノアのエスコートによって1階に降りると、2人もまた楽器の旋律に合わせて踊り始める。
純白のドレスをひらめかせているミオを漆黒の騎士服を纏っているノアが。
漆黒のドレスをひらめかせているユーニを純白の騎士服を纏っているタイオンがエスコートしている状況に、端から見ていた何も知らない参加者は動揺を隠せない。

“どうしてミオ様が巨神界の騎士と踊っているの?”
“タイオン様と踊っているあの女性は誰だ?”
どよめく会場を見渡しながら、メリアは腰掛けていた椅子の肘置きに頬杖を突いた。


「収まるところに収まったはいいが、これからが大変そうだな、ニア殿」
「えぇ。民から疑念と不信の目を向けられることは避けられないでしょう」


いずれ、4人が出した結論の背景を民は知ることになる。
そうなれば、ミオを“他の男を選んだ狡猾な姫”と揶揄する声も多くなるだろう。
タイオンを“姫を裏切った卑怯な男”と非難する声も上がるはず。
当然、ノアやユーニに恨みがましい視線を向ける者も出てくるだろう。
アイオニオンでの記憶を持たない者がほとんどであるこの世界では、4人が持つ複雑な背景など理解されようもない。
これから彼らが歩む道のりは、決して平坦とは言い難いいばらの道だ。
彼らの行く末を案ずる2人の女王とは反対に、その傍らに立つシュルクやレックスは随分と涼しい顔をしていた。


「あいつらなら大丈夫だろ。きっと乗り越えられる」
「同感だ。自分で選び取った道なんだ。彼らなら大丈夫だよ」
「まったく、そなたたちは呑気なものだな」
「アンタらのその呑気さがうらやましいよ」


ニアのその一言を最後に、彼らは軽やかに笑い合った。
ウロボロスたちには、アイオニオンを永延の呪縛から解き放ってくれたという大恩がある。
その恩に報いるため、今度は自分たちが彼らの生きる道を整えてやるべきなのかもしれない。
例え非難の声に溢れたとしても、自分たち大人が彼らを守り、そして支えて行こう。
2人の女王は、大広間の真ん中で楽しそうに踊っている二組の男女に柔らかな視線を向けながらそんなことを考えていた。

ドレスをひらめかせながら踊る彼らを暖かく見守っていたのは、女王たちだけではない。
大広間の端で控えていた騎士のランツと、使用人のセナもまた、二組の選択を喜ばしく見つめていた。
 
ミオがノアと共に城を出たときから、彼ら4人の気持ちは何となく察しがついていた。
肩書に囚われ、苦しんでいることも知っている。
だからこそ、互いに想いを向けている相手を迎えに行った光景を目にした瞬間、自分のことのように喜びが襲ってきたのだ。
 
終わり良ければ総て良し。まさにその言葉が似合うような結末に、セナはほっと胸をなでおろす。
そんな彼女の手を、隣に立っていたランツが突然握り込む。
驚き顔を見上げるセナに、彼は爽やかな笑顔を向けながら驚くべきことを口にした。


「俺たちも踊るか」
「えぇっ!? で、でも……!」
「いいからほら、行くぞ!」


ランツの強引さに負け、セナは引きずられるように前に出る。
ノアとミオ、タイオンとユーニと同じ大広間中央に立った彼らは、音楽に合わせて慣れないステップを踏み始める。
騎士であるランツは勿論、長年ミオ専属の使用人としてその横に控えてきたセナには、ダンスの心得などない。
 
互いにガタガタのステップで乱入し始めた2人に、怪訝な視線を向けていた観衆は大いに笑い始めた。
“ランツ足踏まないでよ!”
“ほらもっと堂々と踊れよセナ!”
ぎゃいぎゃいと騒ぎながら個性的なダンスを披露する2人。
突然現れてその場の空気を明るく塗り替えてしまったランツとセナに、先に踊っていた2組は“ぷっ”と吹き出してしまった。
笑いに包まれる会場は、温かな温度を二国間にもたらせてくれる。
短いようで長い夜は更けていき、舞踏会は笑顔が絶えないまま終了の鐘を打ち鳴らすのだった。


***

夜。夜空に広がる星々の下で、ノアとミオは寄り添いながらベンチに腰掛けていた。
セリオスアネモネが咲き乱れる城の庭園。
幼い頃からお気に入りだったこの場所で、ミオは世界で一番好きな人の肩に寄りかかりながら瞼を閉じていた。
眠っているわけではない。幸せに浸っているのだ。
そんな彼女の肩を抱きながら、ノアは優しい声色でミオに囁く。


「俺、いったんアカモートに帰るよ。いろいろと手続きを踏んでから、また来る」
「うん。大変だろうけど、ごめんね」
「いいんだよ。俺が自分で決めた道だから」


目を開け、顔を上げるミオ。
庭園に吹く柔らかなそよ風に乗って、セリオスアネモネの甘い香りが漂ってくる。
頭の奥がとろけるようなその香りを嗅ぎながらノアの名前を呼ぶと、彼はミオの白い頬に手を添えながらその青い目を細めた。


「もうミオを放さない。何があっても、俺が傍にいる」
「えぇ。私も、ノアから離れたくない。絶対に」


目を閉じた2人は、どちらからともなく唇を合わせる。
甘く、脳の裏がピリピリするような感覚がミオを襲う。
柔らかな感触を楽しんでいると、やがてノアの赤い舌が唇の合間から侵入してくる。
ミオの舌を絡めとりながら口内を蹂躙していくその様に、自然と吐息が漏れてしまう。
暫く舌を絡ませながら互いを求めあっていると、急にノアが前のめり気味に唇を押し付けて来る。
バランスを崩したミオは、そのままベンチの上に押し倒されてしまった。


「んんっ」


口を塞がれた状態で抗議しても、ノアが力を緩めることはない。
押し付けるような口付けに心臓が高鳴って、死んでしまうのではないかと不安になる。
どうしよう。甘くて気持ちいい。
けれどここは外。誰に見られているかもわからないこの状況で、これ以上ノアに好き勝手されるわけにはいかない。
少し力を込めてノアの肩を押すと、彼はまるで子犬のような切ない表情でこちらを見下ろしてきた。
そこで初めて思い出す。いつも大人びていて忘れがちだが、彼は1つ年下の男の子だった。


「ここ外だから……。誰に見られてるか分からないでしょ?」
「あぁそうか」


どうやら納得してくれたらしい。
ハッとしてミオの上から退いたノアに安堵していると、今度は背中と膝裏に腕が差し込まれた。
“えっ”と心の中で声を漏らした瞬間、彼女の身体に一瞬の浮遊感が襲ってくる。
ノアの腕によって、ミオの身体は横抱きにして抱き上げられてしまう。
突然のことに戸惑うミオは、落ちないよう咄嗟にノアの首に腕を回した。


「ちょ、ちょっと!? 急に何するの?」
「どっちがいい?俺の部屋か、ミオの部屋」
「へ?」
「外だと嫌なんだろ?2人きりになれば、気兼ねなくミオに触れられる」
「な、なにそれ……」

 

“で、どっちがいい?”と選択を迫るように問いかけて来るノアに、ミオは顔を真っ赤にしながら自分の部屋を選択した。
ミオを横抱きにしたまま、ノアは歩き出す。
横目に見る彼の顔は随分と楽しそうに緩み切っている。
ユーニと一緒にいたときはあんなに落ち着いている様子だったのに、2人きりになった途端こんなにがっついてくるなんて。
これから起こるであろう甘い時間の到来を予感しながら、ミオは赤くなった顔を隠すようにノアの胸板に頬を寄せるのだった。


***

同時刻。
舞踏会が終わったと同時に大広間を出たタイオンとユーニは、静かな客邸の廊下を歩いていた。
自室に戻って休みたいと言うユーニを送るため、タイオンが後をついてきたのだ。
廊下をゆっくりと歩く2人は、時折軽い口論を交えながら互いの思い出を語っている。
再会するまでどのような人生を歩み、誰と一緒にどのような時間を過ごしてきたのか。
会えない時間を埋めるように情報を交換しあうこの時間が、ユーニにはとても愛しく思えた。


「そうか。幼い頃に両親を……。それは辛かったろうな」
「まぁな。でもノアがいてくれたから平気だった。アイツには感謝してるよ」
「……そう、なのか」


歩きながら視線を逸らすタイオン。
今のユーニには、隣を歩く彼の心が手に取るようにわかってしまう。
彼は嫉妬しているのだ。幼い頃からずっと一緒にいたノアに。
少し余計なことを言ってしまったかなと後悔していると、数メテリ先に自分の部屋が見えてきた。
扉の前で立ち止まった彼女は、タイオンを見上げながら微笑みかける。


「わざわざ送ってくれてありがとな。じゃあ、おやすみ」


軽く手を挙げ自室の扉に手を駆けると、不意に背後からタイオンの手が伸びて来る。
開けようとする扉に手を突き押さえつけているタイオンは、やけに赤い顔で何か言いたげな表情を浮かべている。
口をきゅっと噤んでいる彼は、きっと離れがたくて駄々をこねているのだろう。
そんな心を察していながらも、ユーニはあえて“なんだよ?”と問いかける。
すると彼は、レンズ越しに瞳を揺らしながらかすれた声を振り絞る。


「いや、その。もう少しだけ、話したくて……」
「ふぅん?」
「な、何をニヤついてる?嫌なのか?」
「べっつにー?じゃあ部屋の中で話す?」


ユーニのその提案に、タイオンは一瞬露骨に嬉しそうな顔をした。
だがすぐに誤魔化すように眼鏡を押し込むと、“そうだな。そうしよう。その方が合理的だ”と早口でまくし立てる。
 
先刻までの紳士的な振る舞いが嘘のような素直さに欠ける態度に、ユーニは笑いをこらえきれなかった。
扉を押さえつけていたタイオンの手が離れ、ようやく部屋に入れるようになった。
2人同時に部屋に足を踏み入れた瞬間、タイオンの手がユーニの後頭部に回る。
扉が閉まるよりも前に唇に食らいついてきた彼に、ユーニは少しだけ呆れてしまう。
 
話したいんじゃなかったのかよ。
花より団子。話より口付けを優先するタイオンを内心笑いながらも拒絶しなかったのは、ユーニもまた彼との交わりを期待していたからなのだろう。
ユーニがタイオンの首に腕を回したその瞬間、2人のキスはより一層深いものへと変わっていった。

こうして、波乱を呼んだ3日間の会談と舞踏会は無事終了した。
これより1週間後、ミオとタイオンの婚姻関係は正式に破棄され、タイオンは同時にミオ専属近衛騎士長の座を辞することになる。
一方のノアもまた、ユーニと共に故郷のコロニー9を訪れ両親の墓前で婚約の破棄を報告。その後アカモートに戻ったノアはメリアの近衛騎士の座を辞した。

ノアとタイオン。2人は入れ替わるように互いの居場所へと腰を据えた。
アルストに到着したノアは、ミオの新しい専属近衛騎士長に任命された。
とはいえ、アルストの民たちの非難の声を危惧したニアの計らいによって、2人の正式な婚約は見送られる形となる。
3年後に式を挙げるという約束で落ち着いた2人の関係は、仮婚約という曖昧な関係に収まった。
 
かつて幼少のタイオンが受けた王子に必要な学や礼節を、ノアは挙式が予定されている3年後までに身につけなければならない。
この辛い状況に手を差し伸べたのは、他の誰でもないタイオンだった。
時折アルストキャッスルを訪れては、過去自分が学んだスキルを親身になってノアに教えこんでくれた。
そんな彼の心遣いにノアは大いに感謝し、2人の友情は深いものへと変わっていく。

当のタイオンもまた、アカモートで苦労を強いられていた。
ノアの後釜として名誉ある近衛騎士に任命された事実に、周囲の騎士たちの悪意を孕んだ羨望の眼差しが降り注ぐ。
かつてアルストの姫であるミオの婚約者であったという彼の肩書が、“姫を裏切り別の女に走った裏切り者”という不名誉なものへと変わっていた。
好奇の視線にさらされるタイオンを支えたのは、彼の新しい妻となったユーニである。
ノアとの婚約を破棄した直後、彼女はすぐにタイオンの求婚を受け入れ夫婦となった。
苦労を強いられるのは覚悟の上。繊細ではあるが誰よりも芯がしっかりしている妻に毎朝背中を叩かれることで、タイオンは今日も心の平穏を保てている。

とはいえ、やはり2人が歩む道が険しい事実は変わりない。
そんな状況を鑑みて立ち上がった一組の男女がいた。
ランツとセナである。
 
彼らは互いにメリアの近衛騎士とミオの専属使用人の座を辞すると、2人きりで新しい世界を巡る旅を始めた。
各コロニーに到着するたび、彼らはそこに住まう者たちを集めて紙芝居を披露している。
物語の題名は、“アイオニオン物語”。
 
誰も知らない神話という語り口で2人が披露したのは6人のウロボロスがアイオニオンと呼ばれる残酷な世界を救う物語である。
紙芝居の最後に、“これは嘘偽りのない真実である”と付け加えると、大人たちは馬鹿馬鹿しいと首を振っていたが、純粋な子供たちは目を輝かせて信じていた。
この子供たちが大人になったら、きっとこのアイオニオン物語は世の中の常識として広まることだろう。
そして気付くのだ。あの物語に出て来る“ノアとミオ”、“タイオンとユーニ”の正体に。

未だ、パートナーを入れ替えた4人への世間的な風当たりは強い。
だがいつか真実を受け入れ、4人が理解されることを信じランツとセナは語り部を続けた。
これが生涯をかけるべき使命だと信じて。


END