Mizudori’s home

二次創作まとめ

アイツを誘う黒魔術

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■ゲーム本編時間軸

■短編


アグヌスの監獄からゴンドウを救出して以来、6人のウロボロスはシティー内での評判をどんどん上げていった。
インタリンクすることによって並外れた戦闘力を発揮することが出来る6人を頼り、ロストナンバーズは何度も彼らに任務の同行を依頼している。
さらには、ケヴェス、アグヌス両陣営とも関りがある6人は、各コロニーとの調整役としても引っ張りだこだった。
 
今朝も、ゴンドウの依頼でランツとセナがコロニーミューとロストナンバーズの調停に同行するため早々に出ていった。
ミューの軍務長であるマシロは、6人の中でも特にランツとセナに懐いている。
ゴンドウはその縁を頼ったのだ。

残された4人は、ロストナンバーズの宿舎にて思い思いの時間を過ごしていた。
当初は男女別の大部屋を割り当てられていたのだが、最近は宿舎を管理している者が気を利かせて個人部屋を割り当ててくれている。
ティーのため、ひいてはアイオニオンのために粉骨砕身している6人へのちょっとした感謝の印のツモリだろう。
 
その日、ユーニは個別に割り当てられた部屋でゆっくりとくつろいでいた。
ティーを出発しようにも、6人全員揃わない限り足を進められない。
ランツとセナが戻るまで暇を持て余していたため、今日一日は久しぶりに一人で休息を取ろうと思っていた矢先のこと。
ユーニが滞在している部屋の扉が、何者かによってコツコツとノックされた。
出てみると、そこにには彼女の相方であるタイオンが立っていた。


ハーブティーの茶葉を取りに行きたい。付き合ってくれ」
「挨拶もなしにイキナリそれかよ」
「どうせ暇だろう」
「今日はダラダラすんのに忙しいんだよ」
「それは“忙しい”とは言わない」


“おはよう”も無しに急に本題へと突入するタイオンに、ユーニは少しだけうんざりしてしまった。
苛烈な旅の最中にあって、丸一日休息をとれる機会はなかなか巡ってくるものでない。
貴重な“暇な日”を満喫するため大忙しの予定だったのだが、どうやらタイオンはそれを許してはくれないらしい。


「エルティア海に生えている茶葉を取りに行きたいんだ」
「エルティア海ぃ~? 超広いじゃん」
「ここからすぐ近くだ。アーモリーを使わずとも行ける」
「一人で行けばよくね?」
「モンスターが闊歩する場所に僕一人で行けと?」
「タイオン君は強くて頼りになるから大丈夫だろ」
「それは自負しているが一人より二人の方が安全だろう」
「自負してんのかよ」


正直に言って、行きたくはなかった。理由は面倒くさいからである。
ティーはシャナイアの裏切りによって向けられた殲滅兵器の矛先から逃れるため、大剣の頂からカデンシア地方へと移動してきた。
以前あった場所よりはエルティア海に近い位置取りではあるものの、それでもそれなりに距離がある。
せっかくの休日を長い長い散歩で費やしたくはないのだ。
なんとか適当な理由をつけて断ろうとするユーニだったが、眼鏡を押し上げて飽きれた視線を寄越すタイオンの一言によって形勢は定まってしまう。


「そんなに嫌なら僕一人で行こう。その代わり、君は半月の間ハーブティー没収だ」
「はぁ?」


タイオンの言い渡した罰則に、ユーニは素っ頓狂の声を挙げた。
彼女にとってタイオンの淹れるハーブティーは心の支えとも言える大事な存在だった。
そんなハーブティーを半月も取り上げるだなんてひどすぎる。
だが、事実ハーブティーを淹れてくれているのはタイオンだし、彼が“用意してやらない”とそっぽを向けばそこまでなのだ。
ハーブティーを人質にとられたユーニは、もはや万策尽きたとしてタイオンに投降を申し出た。


「しゃーねぇなもう…。行けばいいんだろ?」
「では決まりだな」


眼鏡のレンズ越しに、タイオンのしたり顔が見えた。
いいように相手を誘導することに優越感を覚えているのだろう。
これだから参謀を気取る無駄に頭のいい輩は嫌いだ。
結局言い負かされてしまったユーニは、渋々部屋を出てタイオンの後に続く。
だが、“エルティア海まで茶葉を取りに行く”というこの実に面倒なミッションを、自分だけが被るのは少々癪に思えた。
部屋を出て廊下を歩いていたユーニは、前を行くタイオンに“なぁ”と声をかける。


「せっかくならノアとミオを誘って4人で行こうぜ」
「えっ」


彼ら2人も、このロストナンバーズの寄宿舎で暇を持て余しているに違いない。
どうせ暇ならあの2人も巻き込んでしまえ。
そんな考えからくる提案だった。
だが、何故かタイオンはそんなユーニの提案に戸惑った様子で聞き返してきた。
“モンスターも出るなら2人より4人の方が安全だろ?”と付け足すと、彼は少しだけ間を開けてようやく承諾する。


「そう、だな」


その返事は何故か歯切れが悪い。
ノアたちを誘うのは嫌だったのだろうか。
そうこう考えているうちに、ノアの部屋の前へとたどり着く。
ユーニが何度かノックをしてみたが、返事はなかった。どうやら留守らしい。
続いてミオの部屋もノックしてみたが、やはりこちらも留守。
二人そろって出かけているのだろうか。
 
どうせシティー内にはいるはずだから軽く探そうか、などと話しながら寄宿舎の談話室の前を通りがかったユーニとタイオン。
談話室の方に目をやって、最初にその光景を目にしたのはタイオンの方だった。
目を丸くさせて、談話室のソファーの方をじっと見つめている。


「なに見てんの?」


茫然としているタイオンを見上げながら聞いてみると、彼は何も言わず視線だけで“あっちを見てみろ”と伝えてくる。
そのアイコンタクトに答えるように談話室の方へと視線を向けると、そこにはソファーに並んで座っているノアとミオの姿があった。
だが、ただ並んで座っているわけではない。
寄り添い合う二人は、まるで縫い合わせたように唇を重ねていた。
 
それが、シティーの言葉で“キス”と呼ばれている行為だということはタイオンもユーニも知っている。
だが、その行為はシティーの人間同士の間で交わされるスキンシップのようなものだと思っていた。
そんな行為を、付き合いの長い幼馴染であるノアが数か月前まで殺し合っていたアグヌスの少女と交わしていた光景に、ユーニは言葉を失っていた。

やがて2人の唇は離れていったが、どうやら廊下の先で仲間に見られているとは気付いていないらしく、鼻先を触れ合わせながら幸せそうに笑い合っている。
そして、再び口づける。
二度目のキスを目の当たりにして、ユーニは“え、まだすんの?”と思ってしまったが口には出さなかった。

ノアとミオを取り巻く空気は明らかにいつもとは違って桃色が支配している。
胸やけしそうなほど甘い雰囲気は、他者の介入を一切許さない閉鎖的な空間を作り出していた。
まずい。声をかけられない。
あんな空気の中、“よお!突然だけど葉っぱ取りにいかね?”なんて言えるわけない。気まずすぎる。
その気持ちはタイオンも同じだったようで、隣に並んで立っていた彼が頭上で小さく咳払いする音が聞こえた。


「やっぱり、僕たちだけで行くべきだな、ユーニ」
「だな」


タイオンの方を見上げると、彼は少し顔を赤くしていた。
恐らくだが、自分も同じ顔をしているのだろう。
理由は分からないが、なんとなく恥ずかしい。
唇と唇を合わせているだけの話だ。手と手を合わせる握手や、体と体を密着させるハグと何ら変わりない。
 
命の火時計の束縛下にいた頃、アグヌスとの戦闘に勝利した時、嬉しさを爆発させながらノアと抱き合って無事を喜び合ったことがある。
ランツが差し出した手に自分の手を重ね、パンっと勢いよく音を鳴らして互いの健闘を称え合ったこともある。
そんな数多くのスキンシップと何ら変わりないというのに、何故かノアとミオの口付けだけは見ているだけで顔がカッカッしていく。
あの2人がやけにベタベタしていたせいだろうか。あまりの恥ずかしさに目を覆いたくなってしまった。


***


「あの2人、どう思う?」


突然投げかけられた質問に、ユーニは後ろを歩くタイオンを振り返りながら“どうって?”と聞き返した。
ティーを出て徒歩30分。
タイオンが事前に調べてたハーブの群生地帯に向かって二人は歩いていた。
 
その場所に向かうには、足場の悪い道を行かなくてはならない。
大木の周りを迂回するように進む二人は、太く大きな根を飛び越えるように進んでいた。
足元が悪いせいか、時折ふらついては互いに腕を支え合って転ばないように気を付けている。
後ろからふらふらと着いて来ているタイオンは、前を行くユーニの揺れる羽根を見つめながら口を開いた。


「収容所の一件以来、明らかに距離感がおかしくなっていないか?」
「そうか?」
「今まであんなことしていなかったじゃないか」


タイオンの言う“あんなこと”とは、つい先ほど寄宿舎の談話室で見たキスのことだろう。
確かに彼の言う通り、今までノアとミオが唇を重ねている光景など一度も見たことが無かった。
だが、収容所での一件は2人の距離をいつの間にか急激に進めてしまっていたらしい。
ノアとミオは、気が付けばいつも2人だけの世界に浸っている。
手を繋いでいたり、腕を組んでいたり、時にはああして口付けを交わしていたり。
いずれも他の仲間たちの目がある場所ですることはなかったが、共に旅をする中で2人が人目を忍びつつ何やらべたべたしている光景は何度も見たことがある。
その圧倒的な距離感の近さは、今までは考えられないほどだった。


「あんなことがあったんだし、一層絆が深まるのは自然の流れじゃね?」
「それはそうだが、絆が深まったからといって普通あんなことするか?」
「したいと思ったからしてただけだろ。てかそんなに変か?」
「変だろ。無駄に手を握ったり腕を組んだり、あまつさえ唇を合わせるなんて仲間同士ですることじゃない」
「ふぅん」


そうだろうか。とユーニは考える。
例えば気持ちが昂った時、相手に喜びを伝える手段としてスキンシップはかなり友好的な手法と言える。
手を繋ぐのも腕を組むのもキスをするのも、ノアやミオにとってはその一環に過ぎないのではないだろうか。
そんなに意識することではないような気がする。
 
それに、あの二人はインタリンクする“相方”なわけだし、他の仲間たちよりも心の繋がりが強いのは当たり前だ。
タイオンは、ノアとミオが“そういうこと”をするのは変だと言い切ったが、では自分とタイオンとで同じことをしてもやはり“変だ”と言いきれるのだろうか。
 
気になったユーニは、足を止めて後ろから着いて来ているタイオンへと振り返る。
太い根っこを飛び越えながら追いついてきたタイオンは、急に足を止めたユーニを不思議に思い無言で見つめてきた。
そんな彼の手に自らの手を重ね、指を絡めてみる。


「えっ」
「これ、変?」


ただ手を握っているだけの行為だが、ノアとミオがこうして指を絡ませている光景は何度か見てきた。
タイオンから見て、この取り留めのない行動も“変”と言えるのだろうか。
ユーニの問いかけに、タイオンはひどく動揺しているようだった。
視線を泳がせ、何度か瞬きを繰り返している。


「変、だろ……」
「そうかぁ?じゃあこれは?」


握っていた手を離し、今度は腕を組んでみる。
自然と体が密着しているこの体勢は、なんとなく落ち着く。
何かを抱きしめていると心が落ち着くようになると聞いたことがあるが、タイオンの腕に半ば抱き着いている形であるこの体勢は、ユーニにとって非常に心地よいものだった。
しかし、されている側のタイオンはどうやらそうでもないらしい。


「そ、それも変だ」
「居心地悪い?」
「というか、その……落ち着かない」
「ふぅん。アタシは結構落ち着くけどな」


腕に絡みつかれている今の状態は、タイオンにとってあまり“気持ちのいい体勢”とは言えないのかもしれない。
本当はもう少しこのままでいたかったが、彼が嫌がっているのなら仕方ない。
絡みついた腕を離そうとするユーニだったが、離れてい行く彼女の手首をタイオンが咄嗟に捕まえた。


「なんでやめるんだ」
「え、だって落ち着かねぇんだろ?」
「君が落ち着くならこのままでいい」
「いや別にいいよ無理しなくて」
「無理じゃない。このままでいい」
「嫌なんだろ?じゃあいいって」
「嫌じゃない」


“変”だの“落ち着かない”だの言っていたくせに、何故かタイオンは手を離すことを拒んだ。
無理矢理ユーニの腕を自分の腕に巻き付けると、彼女の言い分も聞かないままそそくさと歩き出してしまう。
引きずられるように一緒に歩き出したユーニだったが、タイオンが何を考えているのかさっぱり分からない。
 
彼は最近、今のようにひどく訳の分からない言動することがある。
近付いてきたユーニに対して動揺したように視線を泳がせて文句を垂れたかと思ったら、嫌がっていたにも拘らず急に引き留めてきたり。
まるで心と言葉が逆になってしまったかのようだ。

結局、二人はその後しばらく腕を組んで歩いていた。
足元が悪いこともあり、互いに支え合えるこの体勢は案外都合がいい。
どちらかが転びそうになった時、もう片方がとっさに支えられるからだ。
もしかすると、タイオンはこのことを見込んで腕を組んだままにしようと言ってきたのかもしれない。
そんなことを思い始めた頃、前方に見える茂みに向かってタイオンが指をさした。


「あった。あれが目当てのハーブだ」
「おっ、マジか。案外早く見つかったな」


茂みに隠れるように生えていたのは、シティーで美味いと評判になっていたハーブだった。
アグヌスでは食用には適さないとされてきたそのハーブだが、どうやらシティーではハーブティーとして広く好まれているらしいという事実をトラビスから聞き、興味を抱いたのだ。
目当てのハーブを見つけたことで、2人の意識は前方へと向けられる。
そのせいか、足元の根と根の間に多めの溝が開いていることに気付かなかった。
一歩踏み出したユーニが見事その溝に足を取られてふらついてしまう。


「うわっ」
「ユーニっ!」


よろけて後ろに倒れそうになるユーニを、タイオンは咄嗟に引き寄せた。
力強く抱き寄せた反動で、ユーニの体は勢いよくタイオンの胸の中に納まったが、今度はタイオンの足元がおぼつかなくなってしまう。
既にふらついていたユーニにタイオンを支え直すだけの力があるわけもなく、タイオンはユーニを引っ張りながら背中から後ろに倒れこんでしまった。
 
まるでユーニに押し倒されたような体勢で、地面に張り巡らされた太い根の上に倒れこむ2人。
2人とも石のように固まって動けずにいるのは、体を地面に打ち付けたからではない。
互いの唇と唇が、倒れこんだ拍子に重なってしまったせいである。


「わ、悪い」
「あ、あぁ……」


数秒間その体制を保ったのち、ユーニはようやく我に返ったように上体を起こした。
謝罪するユーニを見上げるタイオンは、寝ころんだまま未だ固まっている。
それは単なる事故だった。
転んだ拍子にぶつかっただけの、ただの事故。いわばハプニング。運命の悪戯。
だが、唇を合わせてしまったのもまた事実。
タイオンだけでなく、ユーニもまた珍しく動揺していた。


「あの、あ、頭とか打ってない?結構勢いよく倒れこんじまったけど……」
「だ、大丈夫だ。心配ない」
「そ、そっか。ほら」


未だ寝ころんだままのタイオンに手を差し伸べると、彼は戸惑いながらもその手を取って起き上がる。
ようやく根の上に立つことが出来た2人の距離は、あまりにも近かった。
 
あれ、さっきまでこんなに近い距離感で歩いていたのか。
急に恥ずかしくなって、ユーニは1歩後ろに下がったが、ほぼ同時にタイオンも後ずさる。
気まずさが心を支配して、まともに目を合わせられない。
おかしい。ただ唇が触れ合っただけなのに。
大した行為じゃないと思っていたくせに、いざしてしまうと急に意識してしまう。
目の前のタイオンという“異性”のことを。


「よ、よし。早速採集しよう。シティーに帰ったらこれを使ったお茶を淹れてやる」
「ま、マジかー!じゃあさっさと採ってさっさと帰ろうぜ」


2人とも、唇が触れ合ってしまったことはまるで暗黙の了解のように話題に出さなかった。
ハーブを採りながら、二人は大して面白くもない話を延々と続けている。
ランツがもちもちイモをのどに詰まらせて死にかけた話。
セナが勢い余ってコロニーガンマの天幕を破壊しそうになってしまった話。
ノアがおくりびととしてデビューする日、力み過ぎて笛から間抜けな音が出てしまった話。
ミオの耳に綿毛が入ってしまい、しばらく片耳が痒くて仕方がなくなってしまった話。
 
どれもこれも決して“面白い”とは言えない内容だったが、とにかく二人は話しまくった。
無理矢理テンションを高くして、なるべく話題が途切れないようにべらべらと喋続けながらハーブの収集作業にあたる。
会話が途切れたら終わりだ。また気まずくなる。
そんな共通の認識が、2人の間には存在していた。

やがてハーブの収集作業も終わりシティーへ帰還する頃には、もはや話題が底をつきてしまっていた。
話が途切れないように早口でしていたため、当然話題のストックが切れるのも早かった。
ティーへ戻り、約束通り採集したハーブでお茶を入れるという用事を済ませるために休息所へ向かっている二人だったが、その間に会話はない。
無理矢理とは言え、先ほどまであんなに盛り上がっていたというのに、一度会話が途切れれば次の話題を切り出すのも勇気がいる。
気まずさに息を呑みながら、二人はとぼとぼと休息所を目指していた。

あぁやばい。気まずすぎる。
なにか話題はないか?
昔、ゼオンが笑うのが苦手過ぎて、後輩に微笑みかけたら不気味すぎて泣かれた話はしただろうか。
カイツがカピーバに尻を噛まれて泣いていた話をすれば少しは気まずさがやら和らぐだろうか。
とにかくこの空気を変える話題を出さなくては。
でももう手持ちの話題カードがない。
どうしよう。

戸惑うユーニだったが、そんな彼女の隣でタイオンは“はぁ…”と分かりやすくため息をついた。


「ユーニ、さっきの件だが」


まるで観念したかのようにため息交じりでタイオンはついにその話題に切り込んできた。
思わずゴクリと生唾を飲む。
恐る恐るタイオンの方へと視線を向けると、少し気まずそうにしながらこちらを見つめていた。


「いわゆるキスと言うものをしてしまったという認識だが、合っているか?」
「うん」
「いいかユーニ。あんなものはただ唇と唇が触れ合っただけの行動にすぎない。手と手を重ねる握手とそう変わらない。つまりは大したことじゃない。わかるか?」
「うん」
「気にしないようにしよう。いつまでも意識していたら、チームワークを乱してしまうかもしれない。難しいかもしれないが、初めから無かったこととして考えよう。僕も忘れる」


曲げることのできない事実を無かったことにするのはほぼ不可能だ。
だが忘れることはできる。
タイオンが示した道は、まさに“忘れる”ことだった。
ほんの一瞬の出来事だった。おそらく3秒もかかっていないだろう。
10年生きている内の3秒だなんて、ほんの一瞬だ。忘れようと思えば忘れられるはず。
だが、その提案をしてきたタイオンの言葉を聞いた瞬間、わずかに胸がチクリと痛んだのは気のせいだろうか。


「……わかった。意識しないようにする」
「よし、それでいい。いつも通り接していこう」
「うん」


“いつも通り”と言われても、正直ピンとこなかった。
いつもタイオンとはどんな感じで接していただろうか。思い出せない。
話題なんて無理に探さなくても気楽に話せていたような気がするが、あのキスと同時に気楽さが消し飛んでしまったような気がする。
 
渋々頷いたユーニに、無理やり話題を終わらせにかかったタイオンは一人納得したように“よし”と呟くと、軽い足取りで休息所へと足を進める。
“忘れろ”と言っていたけれど、タイオンはそう簡単に忘れられるのだろうか。
少なくともユーニには無理そうだった。
意識しないように努めても、頭の片隅で先ほどの光景がフラッシュバックしてしまう。
忘れようと思って忘れられるほど。ユーニの頭は単純ではないのだ。

しばらく歩くと、寄宿舎の目にある前の休息所へとたどり着く。
設置された焚火を使って湯を沸かし、ハーブティーを淹れる準備を始めるタイオンの背中を見つめつつ、ユーニはベンチに腰かけていた。
 
確かに彼の言う通り、いつまでも意識していたら今後やりにくいかもしれない。
そんなことで仲間同士の輪を乱したくはない。
キスの話題をタブー視してわざと触れないように努めるよりは、軽い気持ちで話題に出せるようになった方が意識せずに済むのかもしれない。
そう思ったユーニは、ハーブティーの準備に取り掛かっているタイオンの背中に向かってあえて例の話題を出してみることにした。


「にしても、キスって意外に呆気ねぇのな。もっと特別感あるのかと思ってた」


ガシャン。
言い終わるや否や、急に大きな音が休息所内に響き渡った。
タイオンが、ポットが置かれた簡易テーブルを蹴飛ばしてしまったらしい。
どうやら偶然ぶつかってしまっただけらしく、つま先を押えながら痛みに耐えている。
“え、大丈夫かよ…?”と声をかけると、視線を泳がせながら“大丈夫だ”という返事が返ってきたので、特に気にせず話を続けることにした。


「なんでノアとミオはあんなに何回もキスしてるんだろうな。もう少し長くキスしてればその良さがわかるのかな」
「熱っ!」


今度はタイオンの悲痛な叫びが休息所に響き渡った。
どうやらポッドからカップに湯を注ぐタイミングで手元が狂ってしまったらしい。
慌てて立ち上がり、タイオンへと駆け寄るユーニ。
左手を抑えているタイオンに駆け寄って“大丈夫か?”と問いかけると、彼はやはり視線を泳がせながら距離を取ってきた。
“大丈夫だ”と答えるタイオンは、明らかに動揺している。
その様子を見て、ユーニはなんとなく察してしまった。

もしかしてコイツ、アタシ以上に意識してる?と。

そんなユーニの予想はおおよそ当たっていた。
“気にするな”、“忘れろ”と言った割に、高鳴る心臓が大人しくなる気配はない。
それどころか、ユーニが“キス”という単語を出すたびに動揺していた。
つい先ほどの光景が脳裏にこびりついて離れない。
偶然の事故でしかない。意識的に唇を寄せ合ったのならまだしも、たまたまそうなってしまっただけの事象をいちいち意識していたらきりがない。
気にするな、気にするなと言い聞かせるたび、唇に触れたユーニの感触を思い出して顔に熱が籠る。
何とかして忘れたかったというのに、そんなタイオンに追い打ちをかけるが如く、ユーニはとんでもないことを言いだした。


「さっきから動揺しすぎじゃね?」
「えっ」
「意識するなとか言っといてお前が意識してんじゃん」


意識しないように、気にしないようにと言ってきたのはタイオンの方だった。
その言葉には賛同するが、言ってきた本人が盛大に動揺するのはいかがなものか。
腰に手を当て少し呆れながら切り込むと、予想通りタイオンは真っ赤な顔で反論してきた。


「してない!……と言ったら嘘になるが、忘れるよう努力している最中だ。変に指摘して思い出させないでくれ」


ようやくお茶の用意が出来たらしく、タイオンの手によってハーブティーカップが注がれる。
いつも彼が使っているハーブとは違う甘い香りが鼻腔をくすぐった。
その甘やかな香りを楽しみながら、ユーニは考える。
 
タイオンも自分も、“キス”という行為に慣れていないからこんなに動揺するのではないだろうか、と。
その行為自体が二人にとって何も珍しいことはない、例えば目を合わす程度の軽いスキンシップだったなら、きっとここまで気にすることはなかっただろう。
時間と回数を重ねることで訪れる“慣れ”こそが、この気まずさを吹き飛ばす唯一の方法かもしれない。
カップハーブティーを一口飲み、甘い風味を味わったユーニは、一か八かタイオンに考えを吐露してみることにした。


「じゃあさ、もっかいしてみる?」
「……は?」
「忘れるより慣れる方が意識しなくて済むんじゃね?だからもう一回して慣れてみようぜ」
「何を言って……。正気か?」
「たった一回事故でしちまったから変な感じになるんだよ。今度は自発的にしてみて“なんか大したことねぇな”って思っちまえばきっとすぐ慣れてどうでもよくなるって」
「一理あるが、もう一度したところで慣れなかったらどうする?」
「2回目すればよくね?」
「そんな馬鹿な」
「挨拶感覚ですりゃあいいんだよ。“おやすみ”のあとにチュッってして、“おはよう”のあとにもチュッってする。そうしてれば慣れるだろ。多分」
「ノアとミオじゃあるまいしそんなこと出来るか!」
「じゃあどうすんだよ。このまま気まずい雰囲気引きずりながら旅するわけ?んなダリィことしてられっか。もう一回してみて“はいキスってこんなもんなんですねー、大したことないですねー、終わり”でいいだろ」
「そんなに簡単にいくわけがない。大体、あんなことむやみやたらとするものじゃ……」
「あ゛ーーもう!」


うじうじと言い訳を並べ立てるタイオンに、ユーニはとうとう苛立ち声を荒らげてしまった。
タイオンの右手に納まっていたカップを取り上げ、自分が持っていたカップと一緒に簡易テーブルに勢いよく置くと、その勢いのままタイオンの両腕を押さえつけるように掴む。
ユーニの突然の行動に、レンズ越しのタイオンの目は大きく見開かれていた。


「“キスなんて唇と唇が触れ合っただけ”って言ったのはお前の方だろ?その程度のことなのに今更恥ずかしがんなよ!」
「は、恥ずかしがっているわけじゃない!ただ、理由もなく唇を合わせるのは変だと言っているだけで…」
「理由ならある!慣れるためだ。もう“キスごとき”で気まずくならないためだっ!」


まっすぐ目を見て説得してくるユーニの言葉に、ようやくタイオンは折れた。
こうして2人の意見がぶつかり合った時、折れるのは必ずと言っていいほどタイオンの方である。
タイオンが優しいというよりは、ユーニが強情であるが故の事象だ。
今回もまた、ユーニの意見を曲げることが出来なかったタイオンは、ため息を吐きつつ渋々ユーニに従う流れになってしまう。


「……わかった。あとで文句を言おうと、聞き入れないからな」
「女に二言はねぇよ」


覚悟を決めた顔で、タイオンはユーニの両肩に手を置いた。
まっすぐこちらを見つめてくる褐色の瞳と目が合う。
その瞳には、ユーニ自身の姿が映っている。
迫りくる鼻先を見つめながら、ユーニは今更なことを考えていた。
そういえば、こんなに近くでタイオンの顔を見たのは初めてかもしれない。
そして、こんなに近くでタイオンに見つめられたのも初めてかもしれない。
自分の顔が映るタイオンの目がピクリと細められた瞬間、心臓がドキリと高鳴った。

あれ、なんかおかしい。

そう思ったと同時に、唇に柔らかな感触が触れる。
タイオンの気配が0センチにまで接近したことに今更焦り、ユーニは息を止めた。
 
あぁ、今、タイオンとキスをしている。
そういえば、さっきノアとミオがキスをしていた時、二人とも目を閉じていた。
真似をするように瞼を閉じれば、暗がりの世界で自分の鼓動だけが聞こえてくる。
過剰ともいえるほどバクバクと高鳴っている心音は、明らかに緊張していた。
肩に触れているタイオンの両手が、少しだけ力を強めた気がする。
何故強く掴んだのかは分からない。普段なら特段気にしない変化でも、この特殊な状況下では意味を見出したくなってしまう。
例えば、タイオンも緊張して強張っているのかな、とか。

やがて、2人の唇は離れていく。
時間にして3秒ほどのキスだったはずだが、ユーニには10分ほどに思えた。
唇から柔らかな感触が遠ざかるのを感じて目を開けると、瞳を揺らし、真っ赤な顔で視線を逸らすタイオンの姿がそこにはあった。
その顔を見て、今度は胸が尋常ではない力で締め付けられる。

あれ、やっぱりおかしい。

キスはすでに終わったというのに、心臓はうるさく高鳴っているし顔が火照って仕方ない。
目の前にいるタイオン以外の景色がただの背景と化して、じんわりとぼやけていく。
まるで夢の中にいるかのように、ふわふわと意識が混濁していく感覚は、ユーニを戸惑わせた。

なんだこれ、こんな感覚知らない。
キスなんて、ただ唇と唇を合わせるだけの行為。そこに意味なんてない。価値なんてない。
やっぱりキスって大したことなかったな、そんなもんだよな、気にして損したな。なんて言って笑い飛ばしてやるつもりだったのに、全然そんな気分になれそうにない。
恥じらうように、そして動揺を隠すように瞬きを繰り返す眼前のタイオンを見ていると、心がムズムズして可笑しくなりそうだった。


「こ、これでいいだろ?もう、勘弁してくれ……」
「あ……うん」


タイオンの手が、ユーニの両肩から離れていく。
熱を持った手が離れると同時に、急に肌寒さを感じたのは気のせいだろうか。
簡易テーブルの上に置かれた飲みかけのカップを手に取ると、タイオンは中のハーブティーを飲みながら去って行こうとしてしまう。
その背中を前に、急激に寂しさが襲ってきた。
まるで引き留めるかのように彼の袖口を掴んでしまったのは、咄嗟の行動だった。


「な、なんだ?」
「い、いや、なんでも」


足を止めて振り返るタイオンに、ユーニは何も言えなかった。何を言えばいいのか分からなかった。
今ここで何を言っても、タイオンを戸惑わせるだけのような気がしてしまう。
突然心に渦巻き始めたこの感情を、タイオンを困らせないよう分かりやすく言語化する術を今のユーニは持っていない。

何も言わないユーニを一瞥したあと、タイオンは耳まで赤くしたまま去って行ってしまう。
休息所に一人残されたユーニは、自分の心臓に手を当てその音を確かめていた。
未だ高鳴っている。収まりそうにない。
もう一度すれば慣れると思ったのに、慣れるどころか余計に意識してしまっている。
それだけじゃない。唇が離れた瞬間、“惜しい”と思ってしまった。
もう終わりか、と。
もう少ししていたい、と。
価値も意味も無かったはずの“ただ唇を合わせるだけの行為”を、より求めてしまっている自分に戸惑う。
ノアとミオも、キスをするとこんな感情に見舞われているのだろうか。
何も分からないまま、ユーニは独りとぼとぼと寄宿舎へ戻るのだった。


***


翌日になっても、ランツとセナはコロニーミューに滞在したまま帰って来なかった。
ノアの“瞳”に、“もう少しかかりそうだ”という旨の連絡がランツから入ったらしいが、具体的にいつ帰るかの共有はなかったという。
暫くはこのシティーに足止めとなるのは自明の理である。
 
だが、そんな状況は今のユーニにとって非常に都合が良かった。
旅の最中にあっては、いつメビウスとの戦闘になるか分からないため、体調は万全に整えておかなければならないのだが、今のユーニの体調は万全とは言い難い。
ここ数日、あまり深く眠れていないのだ。
原因はただ一つ。先日のタイオンとのキスである。
 
夜、ベッドの中で眠りに就こうと思うとあの日の光景が脳裏によみがえる。
心臓が暴れ出し、顔が火照り、心がきゅうっと締め付けられるのだ。
当初の目的だった“慣れる”というミッションも失敗に終わり、あまつさえ何故か“またしたいな”なんて呑気なことまで考え始める始末。
まさか“キス”という行為には中毒性があるのだろうか。だからノアとミオも人目を忍んであんなにチュッチュッしているのか。
そんなクダラナイことまで考え始めてしまっていた。

今朝もまた、例に漏れず寝不足な朝を迎えていたユーニは大あくびを零しながら寄宿舎のキッチンに立っていた。
小腹が空いたため、適当にパンにジャムでも塗って食べようと思ったのだ。
マナナはランツやセナの食事を用意するため、リクと一緒にミューへと出かけていて不在。
残された4人は、主にミチバ食堂で食事を済ませているのだが、まだ朝早いこの時間帯は食堂も空いていないだろう。
“あーめんどくさっ”などと心の中で悪態をつきながらパンにジャムを塗りたくりつつ、再びあくびが出た。


「随分眠そうだな」


急に背後からかけられた声にドキッとして肩が震える。
いつの間にかキッチンに入ってきたのは、やはりタイオンだった。
数日間、ユーニの頭を支配することで見事安眠を妨害してくれた本人の登場にたじろぐユーニだったが、それを悟られたくなくてすぐに視線を逸らす。


「最近眠りが浅いんだよ」
「体調管理はしっかりしておいた方がいいぞ。いつ何があるか分からん」


隣に立ったタイオンは、慣れた調子でポッドに手を伸ばし湯を沸かし始める。
恐らくハーブティーを淹れるつもりだろう。
ついでに自分のも淹れてもらうよう頼もうかな。
そう思いタイオンの顔を見上げると、眼鏡をかけた彼の目の下に小さなクマが出来ていた。


「そのクマは?」
「えっ」


指摘されたことに驚いたタイオンは、急いで眼鏡を外して目元をなぞる。
窓に映った自分の表情をよく見ようと身を乗り出して、キッチンの小窓を見つめるタイオンは、映り込んだ顔を見て至極嫌な顔をした。
指摘されるまで、クマの存在に気付かなかったらしい。
もしかしてタイオンも、例のキスのことが頭を支配しているせいで眠れていないのではないだろうか。


「……遅くまで教本を読んでいたせいだな」
「教本?何の?」
「えっと……いろいろだ」
「ふぅん」


ユーニには様々な特技があるが、最近彼女の特技リストに追加されたものの一つに“タイオンの嘘を見破る”というものがある。
彼は参謀を気取る割に分かりやすい。
苛立ちも悲しみも喜びも、何もかもが顔や視線に出やすいタイプである彼の嘘を見抜くのは、バニットを斃すよりも簡単だった。
 
瞬きが多くなっている今、タイオンは嘘をついた。
教本なんて絶対読んでない。他の理由で眠れなかったに違いない。
けれど、指摘したら機嫌を損ねるかもしれない。黙っておいてやろう。
口角を上げながら、ユーニはジャムを塗りたくったパンを立ったままかぶりつく。


「それは?」
「ラブラズベリーのジャム。タイオンも食う?」
「じゃあ一口」


要望に応え、真っ赤なジャムが塗られたパンを差し出すと、タイオンは何故かぎょっとしたように開いた。
かじりつきやすいように顔の目の前まで持っていってやってるんだから早く食え。
そんなユーニの圧を前に、タイオンは少し戸惑いつつも、彼女が手に持っているパンへと控えめにかじりつく。
もぐもぐと咀嚼している彼に“美味い?”と聞くと、まだ口の中にパンが入っている状態で“んぅ”と言葉にならない返事が返ってきた。
恐らく、“うん”と言ったつもりなのだろう。
 
再びタイオンの方を見上げると、パンを咀嚼する口元にわずかに赤いジャムが付着していた。
もぐもぐと口を動かしているタイオンは、どうやら口元の不注意に気付いていないらしい。
手を伸ばし、人差し指でタイオンの口元を拭うと、そのまま指を咥えてジャムを舐めとった。
 
甘い。コロニータウで作っているというこのラブラズベリーのジャムは、ユーニにとってお気に入りの“パンのお供”だった。
口元を指で拭われたタイオンは、咀嚼するのも忘れて目を見開きながらこちらを見つめている。
少し大胆過ぎたかもしれない。嫌だっただろうか。不快だっただろうか。
驚いた様子のタイオンに少し不安になったユーニは、目を伏せる。


「あ、ありがとう……」
「ん、」


頭上から落とされたのは控えめなお礼の言葉。
少し上ずった声だったが、どうやら不快には思われていないらしい。
その礼の言葉を最後に、2人の間に気まずい沈黙が流れ始めた。
ポットが湯を沸かすコトコトという音だけが、静かなキッチンに響いている。
まずい。この前事故でキスをしてしまった時に比べて遥かに気まずい。
心臓はやたらと煩いし、なんだか落ち着かない。
タイオンの口元のジャムを拭って舐めとった直後から、また心がムズムズとしてきた。

指で触れるだけじゃ足りない。
どうしよう、またキスがしたい。
またあの柔らかな感触を味わいたい。
でも、“またしたい”なんて真っ向から頼んだところでタイオンは“よし”とは言ってくれないだろう。
 
なにせ、この前はあんなに2度目のキスを渋っていたのだ。
3度目ともなれば、きっと前回以上に猛烈に反対するはずだ。
“なし崩し的にするような行為じゃない”
“僕たちはそういう関係じゃない”
そう言って、きっと後ずさりされるに違いない。
でもしたい。たまらなくしたい。
この衝動は、タイオンの堅い頭で考えられた論理的な拒絶理由など簡単に破壊してしまうほどの勢いを持つ。
もう止められそうもない。変に思われたって構わない。ええいやってしまえ。

衝動に身を任せ、ユーニは隣に立っているタイオンの横顔めがけて接近した。
つま先立ちで背伸びをして、数十センチ高いタイオンの身長に合わせるように唇を寄せる。
だが、背伸びをしきったところで気付いてしまった。
あれ、背が足りない。届かない、と。


「うわっ」
「いった!」


重心をタイオンに寄りかかるように斜めに置いていたことで、背伸びをしていたユーニはバランスを崩した。
倒れこまないように片足を一歩前に出そうとしたユーニだったが、そのせいでタイオン片足を思い切り踏んづけてしまった。
足の指先をほぼ全体重かけて踏みつけられれば、たとえ身体能力に優れたアグヌスの人間でも非常に痛い。
靴越しに足を抱えながらよたよたと離れていったタイオンは、キッチンの冷蔵庫に寄りかかり“くっ…”と悶絶しはじめた。

あぁなんということか。
キスをしようなんて無駄なことを考えてしまったせいでタイオンの指先を粉砕してしまった。
流石に申し訳なくなって“ごめんごめんっ”と必死に謝ると、タイオンは足を抱えつつもう片方の手を挙げて“大丈夫だ”の意を示してきた。


「なにしてるの…?」


キッチンでぎゃいぎゃいと騒いでいた2人に、背後から声がかけられた。
振り返った先にいたのはミオ。
足を抱えて悶絶しているタイオンと、そんなタイオンに謝っているユーニを見つめながら不思議そうな顔をしている。
まずい。見られた。もしかして、キスしようとしていた瞬間も見られていたのでは?
そんなユーニの予想は大当たりだった。
ミオをその大きな瞳でばっちりと見ていた。ユーニが懸命に背伸びをしてタイオンに口付けようとしていた光景を。


***


その後、ユーニは半ば引きずられるようにミオの部屋へと引っ張り込まれた。
部屋に入り、ベッドの上に座らされるなり“キスしようとしてたよね?”と単刀直入に聞いてくるミオの視線からは逃れられそうにない。
適当に誤魔化すことも考えたが、あえて全てを話すことにした。
ミオは“キス”に関しては自分よりも知識がある。
ノアと何度か交わしている光景を見ていたし、自分やタイオンにはない曖昧な知識をたくさん持っているような気がしたから。

先日、事故のような形でタイオンとキスを交わしてしまったこと。
慣れるためにもう一度してみた結果、慣れるどころか一層意識してしまっていること。
そして、何故かまたしたいと思ってしまっていること。
口にするのは中々に勇気がいる事実ではあったが、ユーニが持てる最大限の語彙力でなるべく現状をわかりやすく説明した。
その間ミオはユーニの目をじっと見つめ“うん、うん”と一定のリズムで相槌を打ちながら聞いてくれていたのだが、ユーニが話し終わると腕を組んで考え込み始めた。


「タイオンとキスはしたいけど、理由はよく分からないんだ?」
「なんか、2回目した時にふわっとなったんだ。頭がくらっとして、周りがぼやけて見えて、それがなんか心地よくて」


ユーニの説明はひどく抽象的だった。
自分でもあまりに分かりにくい表現だったと自覚があったのか、ユーニは頭の羽根を乱しながら頭を振った。


「あー、悪い。なんか曖昧だよな、今の説明」
「ううん、その感覚わかるよ。なんかこう、幸せーって感じになるんだよね?体がふわふわ宙に浮きそうになるっていうか」
「そうそれ!それだよ!流石キスの先輩!」


自分が体験した感覚を似たような言葉で表現してくれたミオに、ユーニは目を輝かせた。
ノアと何度も口付けを交わしているということもあって、ミオはやはりキスがもたらす不思議な感覚を把握しきっているらしい。
興奮気味に喜ぶユーニの言葉に、ミオは“先輩って…”と苦笑いしながら肩をすくませていた。


「なぁ、ミオは何度もノアとキスしたことあんだよな?ノアとのキスってどんな感じなんだ?」
「おんなじだよ。ふわぁっとして、頭の中がとろっとして、幸せな気持ちになれる。お花畑の中にいるみたいな感じ」
「お花畑……」
「でも、例えばノア以外の誰かとキスをしたとしても、こんな気持ちにはならないんじゃないかなって」


ノアとのキスを語るミオの表情は、幸福に満ちていた。
僅かに頬を紅潮させ、“その時”のことを思いだして恥じらい小さく笑ってる。
ミオとは3か月以上一緒に旅をしている仲だが、彼女のこんな表情は始めて見たような気がする。

ノア以外の誰かとミオが口づけを交わしている場面を想像してみようとしたが、何故だかイメージが湧かない。
ミオといえばノア、ノアといえばミオ、という組み合わせが当たり前に思えて、それ以外の光景がどう頑張っても思い浮かばないのだ。
 
では自分はどうだろう。ミオやセナの目から見て、ユーニといえばタイオン。タイオンといえばユーニの関係性になれているのだろうか。
試しに、自分がタイオン以外の誰かとキスをしている光景を思い浮かべてみる。
ノアとしたとしたら、ランツとしたとしたら。
思い浮かぶ感情は“無”だ。タイオンとした時のような、ふわふわした雲に乗っているような感覚にはなりそうもない。
 
ミオにとってのノアは、自分にとってのタイオンということだろうか。
だが自分とタイオンは、ノアとミオのように特別な関係とは言い難い。
彼らのように運命的な繋がりがあるわけでもないし、劇的な背景があるわけでもない。
そんな自分たちが“ノアとミオのように”キスをするのは、はやりおかしいことなのかもしれない。


「けど、なんか変だよな。タイオンとキスしたいだなんて」
「どうして?」
「だってアタシら、ノアとミオみたいな関係じゃねぇし。やっぱ変だって」
「ユーニは、タイオンとキスしたいって気持ちがあるんだよね?」
「うん、まぁ……」
「じゃあなにも問題ないよ。私もノアも、相応しいからしたんじゃない。“したい”と思ったからしたの。ユーニだって同じでしょ?」


思えば、してはいけないと思い込んではいたものの、何故してはいけないのか明確な理由はなにも掴めていなかった。
“今までしてこなかったから”
“多分そういうことをする関係じゃないから”
“する理由が特にないから”
そんな曖昧な理由で片づけていたけれど、何故ダメなのかと聞かれれば理論的な答えは出ない。
ロジカルな頭を持つタイオンは、論理的に説明できるのだろうか。自分たちがキスをするのが変だと言い切れるそのわけを。


「じゃあアタシ、タイオンにキスしてもいいの…?」
「もちろん。だって、しちゃいけない理由がないもん」


端的でわかりやすり理論だった。
ダメな理由がない。だからいい。
実に単純だが、単純明快な理論ほど強いものはない。
ミオの言葉は、今まで正体がわからなかったユーニの心の靄をあっという間に晴らしてくれた。
 
そっか、していいんだ。したいと思ったらしていいんだ。そっかそっか。
ミオがくれた“理由”をゆっくり咀嚼したユーニ。
その事実を噛みしめるごとに、一層欲が高まっていく。

変だと思われるかもしれない。
困らせるかもしれない。
驚かれるかもしれない。
それでもアタシはキスがしたい。
タイオンともう一度。いや、もう一度だなんてケチ臭いことは言わない。何度だってしたい。
これはきっと本能だ。
命の火時計から解放された反動で訪れた数々の変化のうちのひとつ。
この不思議な欲求を解消できるのは、きっとこの世でただ一人、タイオンだけなのだ。

自分自身の気持ちに向き合い、本音を自覚できたユーニ。
そんな彼女の顔を覗き込みながら、ミオは念を押すようにもう一度聞いてきた。


「ユーニ、もう一回聞くけど、タイオンとキスがしたいんだよね?」
「うん。したい」
「そっか。わかった。その考えはとっても素敵だと思う。でもね、絶対にユーニからしたらダメだよ?」
「えっ?」


あんなに気持ちを肯定してくれていたのに、何故今更“ダメ”なんて言うのだろう。
意見を変えたように思えたミオの言葉に、ユーニは首を傾げた。
そんな彼女の耳に顔を寄せ、ミオは小さな声で囁く。
“相手にさせるの”、と。


「ユーニの役割はね、タイオンに“キスしたい”と思わせることなの。こっちばっかり一方的に“したい”って思ってるのは嫌でしょ?」
「たしかに嫌かも。あいつにも同じように思ってほしい」
「じゃあ余計に自分からしちゃダメ。タイオンのほうから来させるの」
「どうやって?」
「タイオンがいつでもキスできるような距離感を作ってあげるんだよ」


キスがしたいという気持ちは十分ある。
けれど、一方的な感情は寂しい。相手にも同じように思って、求めあうようにキスがしたい。
きっとその方が心も満たされて、幸せな気分になれるから。
けれど、ミオの言う“距離感”と言うものがいまいちよく分からない。
首を傾げていると、ミオは目の前にいるユーニの手を両手で優しく包み込んできた。


「まずは手を握る。優しくね。指でゆっくりすりすり撫でるの」
「すりすり撫でる……」
「そう。そして、ちょっと近付く」


ミオの体が、隣に座っているユーニへとぐっと近づいた。
ふわりと香る花のような香りは、ミオが使っているシャンプーの香りだろう。


「それでね、手を握ったまま、下から見上げるように見つめるの。“キスしたい。今すぐキスして”って心の中で念じながら」


鼻先がぶつかりそうになるほどの距離感で見つめられ、琥珀色のミオの瞳にユーニ自身の姿が映る。
何かを乞い強請るような視線と表情に、ユーニは同じ女だというのにドキッとしてしまった。
なるほど、ノアを夢中にさせている要因はこの技にあったか。
確かにミオにこんな瞳で見つめられたら、吸い込まれるようにキスしてしまうかもしれない。


「最後に、小さな声で相手の名前を呼ぶの。祈る感じで、なるべく切なく」
「“タイオン…”って?」
「そうそう。そしたらタイオンは多分、“ユーニ…”って名前を呼び返して来るか、照れたように微笑むと思う。そしたらもう自動的にしてくれるから」
「マジで?」
「うん」


ミオから指南された手順は簡単だった。
手を握り、近付いて目を見つめ、名前を呼ぶだけ。
それだけでタイオンは口付けてくれるという。
本当だろうか。そんな魔法のようなことが実現可能だというのか。
にわかには信じられなかった。


「けどこれ、ミオだから効くんじゃね?アタシがやっても有効なのかな?」
「むしろ、私がタイオンにやっても絶対効かないと思う。ユーニじゃないと効かないよ」


手を離し、ようやくユーニから距離を取ったミオはにっこり微笑んだ。
その言葉はやけに自信に満ち溢れている。
そう上手くいくだろうか。
疑問を持ちつつも、ユーニはいずれやってくるであろう“その時”のために、ミオから伝授された“タイオンを虜にする魔法”をしっかりと頭の中にメモするのだった。


***


“その時”は意外にも早く訪れた。
ティーの時計が夕方16時を指した頃、ユーニは休息所の広場にて一人、下に見える憩いの広場を眺めていた。
休息所はロストナンバーズの寄宿舎から徒歩数分の距離にあり、そこからは普段子供たちが遊んでいる公園を見下ろすことが出来る。
 
手すりに身を預け、下の景色を見つめるユーニの視界には、いつもの子供たちの笑顔ではなく一組の男女が映っていた。
白いドレスに身を纏った女性が、同じく白いタキシードに身を包んだ男と腕を組んで立っている。
その男女の知り合いだろうか。二人をたくさんの住人たちが取り囲み、笑顔で拍手を贈っている。
時折花びらを舞い上げながら“おめでとう”と声がかかっているその光景を、ユーニは飽きずにずっと見つめていた。


「ゆ、ユーニ」


上ずった声で名前が呼ばれる。
振り返らなくても声の主が誰かは分かった。タイオンである。
恐らく寄宿舎から出てきたのであろう彼は、下の広場で繰り広げられている光景をじっと見ているユーニに後ろから声をかけた。
その声は聞こえていたが、広場の光景を見るのに夢中になっていたユーニは振り返ることすらしない。


「なに見てるんだ?」


名前を呼んでも振り返ろうとしないユーニに少しむっとしたのか、タイオンが先ほどよりも低いトーンで問いかけてきた。
隣に並んだ彼は、ユーニの視線を追うように下の広場を見下ろす。
そこで繰り広げられていた幸せいっぱいの光景に、“あれは…”と声を漏らしていた。


「この前モニカが言ってた。結婚式って言うんだって」
「ケッコンシキ?」
「あの2人、これから“夫婦”になるんだよ。グレイとロザーナみたいに。それをみんなに祝ってもらう儀式なんだって」


ユーニの説明に、タイオンは“なるほど”と短く返した。
“夫婦”という形態は、アイオニオン広しと言えどこのシティーでしか存在しない概念だろう。
これからあの二人は、病める時も健やかなる時も“夫”と“妻”として共に生き、いずれは子供を作って“家族”になっていくのだ。
それはとても尊いことで、祝うべきことなのだとモニカは言っていた。
 
きっと今、あの二人は幸せの絶頂にいるに違いない。
あんなにたくさんの人たちに“おめでとう”と微笑みかけられ、拍手を贈られ、パートナーと共に人生を歩むと誓えたのだから。
ユーニにも、“パートナー”と呼べる相手がいる。
今まさに隣にいるタイオンだ。
だが、彼との関係性は下の広場で結婚式を挙げている男女とは少し異なる。
彼らに近いのは、自分たちよりもむしろノアとミオの方だろう。
 
きっとケヴェスやアグヌスに“結婚”という文化があったなら、あの二人は間違いなく結婚していただろう。
互いを求めあうように見つめ合い、手を繋ぎ、キスを交わしているのだから。
なら自分たちはどうだろう。結婚の文化があったなら、タイオンと自分はしていたのだろうか。


「タイオンはさ、結婚ってしたいと思う?」
「え?きゅ、急な質問だな。どうだろう。考えたことも無かった」
「……」
「……君は、どうなんだ」
「さぁな」
「さぁなって…」
「だってアタシらにはそういう文化がなかったんだから想像できねぇだろ」
「君から聞いてきたのにそういうことを言うのか」


眼下の広場では、新婦が両手に持っていたブーケを後ろ向きで放り投げ、それを参列者がキャッチするという謎の儀式が執り行われていた。
あれにどんな意味があるのかは分からないが、とにかく楽しそうである。
新婦も、新郎も、そして参列者も、みんな笑顔を浮かべている。
“結婚”というのは、それほどまでに幸せなものらしい。


「あの2人、なんで結婚するんだと思う?」
「なんで、とは?」
「だって、シティーには他にもたくさん人がいるだろ?別に他の奴でもいいわけじゃん。なんで今隣に立ってる奴を選んだんだろうな」
「知らん。本人に聞けばいい」
「じゃあこっから大声で聞くか。“なんでそいつにしたんだー!?”って」
「絶対やめてくれ。恥ずかしい。想像でしかないが、特別だと思える相手だったからじゃないか?」
「特別?」
「そういう相手じゃないと、結婚しようだなんて思わないだろ、普通」
「じゃあ特別って何?」
「他の誰かとは違うということだ」
「何が違うの?」
「……他の誰かには抱かない感情を抱いたり」
「どんな感情?」
「そ、それは……」


ユーニからの質問攻めに、タイオンは困っているようだった。
隣に立っているユーニへとチラッと視線を向けて、すぐに逸らす。
高台の手すりに掴まっている手が、少しだけ震えていた。
しばらく考え込んだ後に、タイオンは喉の奥から絞り出すように声を発した。


「た、例えば―――」
「例えば?」
「もっと近づきたいとか、思ったり」
「……」
「もっと話したいとか、傍にいたいとか、笑い合いたいとか、そういうことだと思う」
「他には?」
「え?」
「もっと具体例出して。タイオンが特別だと思う相手とは、何がしたいの?」


タイオンは言葉を詰まらせていた。
何を言うべきか迷っているのだろう。
彼を困らせている自覚はあったが、それでも聞きたかった。
タイオンの“特別”がどんな形をしているのか。何を望んでいるのか。

眼下の結婚式は佳境を迎え、白いドレスとタキシードに身を纏っている一組の男女は向かい合って互いの目を見つめていた。
周りを取り囲む参列者はたくさんいるというのに、まるで二人だけの世界に入っているかのよう。
あれが“特別”ということなのだろうか。
2人は互いに両手を握り、鼻先を擦り合うように顔を近づけ、微笑み合っている。
その光景を見つめながら、タイオンは再び言葉を続けた。


「て、手を握ってほしいとか、見つめてほしいとか、名前を呼んでほしいとか、あとは―――」


眼下の新郎新婦のシルエットがゆっくりと繋がった。
唇を合わせている二人のキスは、ため息が出るほど美しい。
あんなふうに“特別”な相手とキスが出来たら、どんなに幸せだろう。
そんなことを考えていたユーニの耳に、タイオンの最後の願望が届く。


「き、キスが、したいとか……」


眼下の男女から、すぐ横にいるタイオンへと視線を移すと、同じようにこちら見つめていた彼の褐色の瞳と視線が絡み合う。
キスがしたい。タイオンと、今すぐキスがしたい。
黙って見つめ合う2人の体の距離は、ノポン1匹分。
けれど、心の距離は小指一本分にまで接近しているような気がした。

もしかすると、今が“その時”なのかもしれない。

意を決し、ユーニは手を伸ばした。
手すりの上を滑らせた手は、同じく手すりの上にあったタイオンの褐色の手に重ねられる。
重ねた瞬間、彼の手がぴくっと震えた。
手を握っただけなのに、羞恥で今にも死ねるんじゃないかというくらい心がざわついた。
心の中に、朝聞いたばかりのミオの言葉が反響する。

“まずは手を握る。優しくね。指でゆっくりすりすり撫でるの”

片手で握っただけでは気持ちが伝わらない気がして、両手で優しく包んでみる。
タイオンの手はユーニの手よりも少しだけ大きくて、ランツやノアの手よりはしなやかだった。
眼下の広場を見下ろしていたタイオンの体が、自然とユーニの方を向く。
身体ごと向き合ったことで、心は一層ざわめきを増す。
ミオの指南の通りに、両手で包んだタイオンの手の甲を親指でゆっくり優しく撫でると、彼の指先がまたぴくりと震えた。
嫌がっているのだろうか。けれど、手を引っ込める気配はない。
タイオンはただ黙ってユーニの手のぬくもりに包まれていた。

“そして、ちょっと近付く”

脳裏に響くミオの言葉に従って一歩近づくと、タイオンの右足が一瞬だけ後ずさって元の位置に戻った。
握ったままの手は、互いに少しだけ震えている。

“手を握ったまま、下から見上げるように見つめるの。“キスしたい。今すぎキスして”って心の中で念じながら”

ゆっくりと見上げると、タイオンの揺れる瞳と目が合った。
戸惑いと羞恥が混ざり合うその褐色の瞳を見つめながら、ユーニは心の中で訴える。
“キスがしたい”と。
身長が高いタイオン相手に、自ら唇を押し付けることは難しい。
彼から来させるしかしないのだ。
こんなに至近距離からまっすぐ見つめたら、照れやな彼はすぐ目を逸らすだろうと思っていたが、意外にもその視線が逸らされることはなかった。
それどころか、タイオンの視線はまるで吸い込まれるかのようにユーニの青い瞳に注がれている。

“最後に、小さな声で相手の名前を呼ぶの。祈る感じで、なるべく切なく”


「タイオン……」


こんなにか細く弱弱しい声を出したのは初めてかもしれない。
“キスがしたい”という欲を孕ませた声色は、タイオンの名前を甘く囁く。
祈るように、求めるように、強請るように、誘うように。
最後のフローチャートをこなしたユーニは、あとはもうタイオンからの行動を待つのみだった。
早く。早くキスして。
心の奥で我儘に強請るユーニの耳に、タイオンの囁き声が届く。


「ユーニ……っ」


切羽詰まった彼の声は、ユーニの名前を呼んできた。
それは、ミオの言った通りの反応だった。
 
すげぇよミオ。本当にお前の言った通りの反応が返ってきた。
ただ手を握って近づいて名前を呼んだだけなのに。
 
感心していると、タイオンの目が細められゆっくりと顔が近づいてくる。
あぁ、やっときた。
迎え入れるように目を閉じると、唇に柔らかな感触が触れた。
願い続けた欲望が叶った瞬間、ユーニの心は歓喜する。
本当にキスが降って来るなんて。
ミオの言う通りにしただけなのに、まるで魔法みたいだ。
タイオンを誘い、虜にしてしまう秘密の魔法。
ミオは“ユーニがじゃないと効果がない”と言ってたけれど、本当だろうか。
他の誰かに同じことをされたとして、タイオンはこんな風にキスをしてしまわないだろうか。

触れ合った唇の下で、繋いだままの手が強く握り返される。
まるで愛しむかのように指で撫でられ、何も言葉をもらっていないのにタイオンが何を考えているのか手に取るように分かってしまう。
熱く切ない感情が、タイオンの手と唇から強く伝わってくる。
心臓が飛び跳ねそうだ。唇を伝って、緊張がタイオンに伝わってしまうかもしれない。

やがて、触れ合っていた唇はゆっくりと離れていった。
目を開けると、再びタイオンと視線が絡み合う。
先ほどよりも紅潮した彼の顔を見ていると、自分から誘ったくせに急激に恥ずかしくなってしまう。
しまった。キスした後にどうすればいいか、ミオに聞き忘れていた。
どうしよう。何をすればいいんだろう。
名前を呼ぶ?微笑む?何が正解なんだ?
迷っていると、タイオンが熱い瞳を向けたまま右手をユーニの頬に添えてきた。


「えっ…」


予期していないタイオンの行動に戸惑い、自然と声が出る。
それとほぼ同時のタイミングで、彼は再びユーニに口付けてきた。
“触れる”というよりは“押し付ける”と表現したほうが正しいその口付けに、ユーニは戸惑い思わず後ずさる。


「んんっ」


反射的に口付けから逃げようとするユーニの行動をタイオンは許さない。
腕を掴み、頬に手を添え、逃げるユーニへと迫った。
やがてユーニの身体は手すりを背に追い詰められ、これ以上後ろに下がれない状況に陥ってしまう。
逃げ場がない。避けようもない。
そんな状況で、ユーニはただただタイオンからのキスを受け入れるしかなかった。

ついばむようなキスはやがて食むような動きに変わり、やがて舌が入り込んでくる。
違う。アタシがしたかったのはこんなキスじゃない。
もっと軽くて、一瞬だけ触れるような可愛らしいキスがしたかったんだ。
こんなキス、知らない。

ミオから教わった魔法は、どうやらタイオン相手に効き過ぎてしまったらしい。
かけた当人であるユーニが戸惑うほど、彼はこの行為の虜となっていた。
“キスなんて、唇と唇が触れ合うだけの行為”
そう吐き捨てたドライなタイオンが、自分とのキスに夢中になっている。
その事実は、ユーニの心と脳をとろとろに溶かしてしまう。

もうどうにでもなれ。
甘い口づけに思考力を奪われたユーニは、舌を絡ませ始めたタイオンの首に自分の腕を回すのだった。


END