Mizudori’s home

二次創作まとめ

忘れてしまえよ、そんな奴

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■ED後時間軸

■短編

 

前編


ユーニはタイオンのハーブティーをいたく気に入っていた。
気分が高揚した時、セリオスアネモネのさわやかな甘みは心を落ち着かせてくれる。
ユーニが“飲みたい”とねだると、タイオンはいつも“仕方ない”と小さな悪態をつきながらも用意してくれた。
“美味い”と褒めれば眼鏡を直しながら“当然だ”と得意げな表情を見せてくる。
そんな彼が、ハーブティーと同じくらい好きだった。
 
それがただの友愛だったのか、それともシティーの人間たちの言葉で言う“恋”だったのかは分からない。
けれど、別れ際彼が差し出してきたハーブティーのレシピを見ていると、無性に寂しくなってしまう。
もう、会えないのか。
 
すぐ横で幼馴染のノアは“いつかまた”と言って手を振っているが、現実主義なユーニにはその言葉を呑気に信じる気にはなれなかった。
きっと、“いつか”なんて一生来ない。
彼が淹れたハーブティーはもう飲めないし、あの得意げな表情とも、あの心に響くような声にも、二度会えない。
心の奥から湧き上がる深い悲しみは、今更ユーニに感情を自覚させた。
あの堅物な相方に、恋をしていたのだと。


*********************


硝煙が立ち上り、豊かな草原に兵士たちの歓声が響いている。
歓声の中心に倒れているのは、ゴンザレスの骸。
複数のコロニーをまたいで被害を出していたこの手強いモンスターは、ケヴェス、アグヌスの共同軍によってようやく駆逐された。
黒い兵装を纏ったケヴェス兵と、白い兵装を身に纏ったアグヌス兵がいたるところで握手を交わしている。
衛生兵としてこの戦闘に参加していたユーニもまた、近くの兵士たちとあいさつを交わし、互いの健闘をたたえ合っていた。

ユーニが生を受けた巨神界が、アルストと呼ばれる世界と統合を果たしたのは、彼女がまだ子供の頃のことだった。
当時のことはぼんやりとしか覚えていないが、天変地異が相次ぎ世界が大混乱に陥ったことだけは記憶に残っている。
あれから約10年。巨神界の先住をケヴェス、アルストの先住をアグヌスと呼称するようになって以降、二つの世界は互いに手を取り合いながら共存していた。
時折こうして強いモンスターと戦うことはあれど、日々の暮らしぶりはいたって平和的と言える。

衛生兵として負傷した兵士たちの治療を終えたユーニは、凝り固まった肩をほぐしながら簡易拠点の天幕を後にした。
空は既に茜色に染まっており、今日という日の終焉を彩っている。
ようやく仕事がひと段落し、背筋を伸ばして深呼吸するユーニの名前を背後から呼ぶ声があった。


「兵の治療は終わったのか」


褐色の肌にくせの強い髪。そして特徴的な眼鏡にあまりセンスがいいとは言えないマフラー。
その風貌は、何度か参戦会議で目にしたことがあるアグヌスの地形局兵士、タイオンだった。
今回のコロニー9とコロニーガンマ合同のゴンザレス討伐作戦において、作戦指揮にあたっていた人物でもある。
作戦会議の席で何度か話したことがあったが、理屈っぽい性格が少々鼻につくという印象で、正直に言えばユーニにとって苦手なタイプだった。


「あぁ。みんな軽傷だったからな」
「怪我人の総数は?」
「7人ってとこだな。全員前衛部隊」
「そうか」


眼鏡を直し、開いたままになっている養護天幕の中へ視線を向けるタイオン。
簡易ベッドに横になり、体のいたるところに包帯を巻いている負傷兵をじっと見つめている。
理屈っぽくて現実主義な彼のことだ。
どうせ、“怪我をしたのは慢心が生んだ結果だ”とでも思っているのだろう。
だが、小さくため息をついたタイオンが口にしたのは、意外な言葉だった。


「僕がもう少しマシな策を立てていれば、もっと被害を抑えられたかもしれないな」
「えっ」


タイオンの言葉に、ユーニは思わず驚いてしまった。
彼がそんな風に自分を責めるだなんて、なんだか意外だったから。
今回タイオンが打ち立てたゴンザレス討伐作戦の内容は、誰がどう見ても完ぺきなものだった。
出来る限り小さな被害で勝利をもぎ取れる最善の策。
結果的に怪我人は出てしまったが、その被害は想定の範囲内でしかない。


「7人も怪我人を出してしまった。これは反省すべき点だ」
「いやいや、“7人しか”だろ?ゴンザレス相手にたったそれだけの被害しか出さなかったんだから、むしろ賞賛されるべきだろ」
「それは怪我をした7人のうちに入っていないから言えることだ。無事だった者たちにとっては成功だったかもしれないが、負傷した者たちにとってこの作戦は失敗でしかない」


タイオンの視線を追うように、ユーニも養護天幕の中へと目を向ける。
つい先ほど手当てしたばかりの負傷兵が、簡易ベッドに寝頃在りながら包帯が巻かれた足を撫でている。
その負傷兵が浮かべているのは、痛みに歯を食いしばる苦痛の表情だった。


「策を考える者は、兵の命を預かっているのも同じ。であればこそ、怪我人が0にならない限り本当の意味で作成の成功とは言えないんだ」


拳を握り締めるタイオンの顔には、悔しさが滲んでいた。
周りでは戦闘の勝利を祝って兵たちが互いをたたえ合っているというのに、一番の功労者である彼が何故そんな顔をするのか。
そうか、この男はプライドが高いぶん、自分にも厳しいのか。
それが分かった途端、急に可笑しくなって、ユーニは小さく声を挙げて笑った。
急に笑われたことが気に食わなかったのだろう、タイオンは少しだけむっとした表情でこちらを睨んできた。


「何がおかしい?」
「いや、悪い。お前って意外にそういうやつだったんだなぁって思ってさ」
「そういうやつ?」
「理屈っぽくて一言多くて偏屈で頑固。そのうえプライドが高い」
「なっ…」
「けど、ちょっとだけ優しい」


眼鏡の奥で、タイオンの瞳が大きくなる。
褒められるとは思っていなかったのだろう。
たじろぐように視線を泳がせた後、“ちょっとは余計だ”とつぶやいた。
照れているのか、ふいっと視線を逸らすタイオンは案外わかりやすい男だったらしい。
その様子が面白くて肩をすくませて笑うと、タイオンも控えめに微笑み返してきた。


「お前の指揮下で戦えてよかったよ、ありがとな」


そう言って右手を差し出すと、タイオンは“あぁ”と小さく返事をしてその右手を握り返してきた。
これが、タイオンとユーニの出会いだった。
2度目の邂逅であるという事実を、二人はまだ知らない。


*********************


二軍間交流訓練。
そう命名されたプロジェクトは、ケヴェスとアグヌスの2人の女王が直々に考えたものだった。
両軍の兵士を二人一組で組ませ、特定の課題を与えるというもの。
課題の内容はモンスターの討伐であったり、素材の回収であったり、物資の運搬であったり多岐にわたる。
 
ユーニもまた、例に漏れず交流訓練参加者リストに名を連ねていた。
パートナーとなる相手は、あのタイオンである。
あてがわれた課題は物資の運搬。
医療キットが入った物資を、遠く離れたコロニーに運び入れるミッションである。
その道程は長く、目的地までは5日ほどかかる。
つまりは、タイオンと5日間の旅をしなければならないということでもあった。


「ようやく来たか」


交流訓練当日、医療物資を持ったユーニはタイオンとの待ち合わせ場所へと向かった。
時間を数分だけオーバーしてしまったが、たった数分の遅刻でもタイオンは煩い。
早速嫌味のようなことを言われたユーニの眉がピクリと反応する。


「別に数分くらい遅れたっていいだろ」
「数分の遅れが致命的になることもあるだろう」
「はいはい、悪かったな」


先日の戦闘で、少しだけ悪い印象が和らいだものの、やはりタイオンに対しての苦手意識は変わらずあった。
この常に一言多い男と、最後まで友好的な関係でいられるだろうか。
そんな不安を抱きながら、二人の旅は始まった。

草原を超え、川を越え、岩場を超え、ゆっくりと先へと進む二人。
途中で遭遇したモンスターを倒しながら進む旅は、それなりにハードだった。
物資の運搬という表面だけ見れば簡単そうに見える課題だが、その道のりは険しい。
ようやく休憩できそうな洞窟を発見できた頃、あたりは既に暗くなっていた。
薪を拾い集め焚火を起こし、タイオンが持ってきていた寝袋を広げる。
簡易的な調理器具しか持ってきていなかったユーニに、すかさずタイオンの“寝袋くらい持ってくるだろう普通”という嫌味が飛んできたが、無視をした。


「さっきのバニットとの戦闘だが、もう少し僕の動きに合わせてくれないか?」


寝袋の上に腰を下ろしたタイオンが、また小言を言ってきた。
戦闘を重ねるたびに“あそこはあぁすべきだった”“こうすべきだった”とねちねち言ってくるタイオンの説教は既に聞き飽きている。
また始まったか、とうんざりしながら、ユーニはお茶を淹れようと手を動かし始めた。


「んだよ、お前がアタシに合わせるんだろ?」
「君に合わせていたら命がいくつあっても足りない。だいたい君はヒーラーだろ?僕の後ろに隠れて戦うべきだ。前に出過ぎる戦い方は危険極まりない。それに…」
「ん!」


話を阻むようにユーニから差し出されたのは、一杯のハーブティーだった。
たちのぼる湯気からは、甘い香りが漂ってくる。
ユーニが自分で持ってきた簡易調理器具で淹れたものだ。
急に差し出された一杯のマグカップに驚き目を丸くしながら受け取るタイオン。
ねちねちと言い連ねていた嫌味を止めて“なんだこれは”と聞くと、ユーニは“ハーブティー”とそっけなく返した。


「ケヴェス地域でしか採れないハーブで淹れた貴重なお茶だよ。落ち着きたいときにおすすめ」
「……僕に落ち着けと言っているのか?」
「さぁな」
「嫌味な奴だ」
「お前に言われたくない」


少々腹は立ったが、せっかく用意してくれたものを突っぱねるほど無礼な性格ではないタイオンは、渋々彼女のハーブティーを受け取った。
口をつけてみると、口内に上品な香りと風味が広がっていく。
クセのないその味は、タイオンの好みだった。
確かに彼女の言う通り、優しい温かさは心を穏やかにさせてくれそうだ。


「……美味い」
「だろ? 趣味なんだ、ハーブティー淹れるの」
「意外だな。そういう上品な趣味があったとは」
「お前ホント一言多いのな」


むっとした表情を見せるユーニを横目に、タイオンはかなりのハイペースでハーブティーをの飲み干していった。
悔しいが、“趣味”を自称するだけあって美味い。
タイオンは紅茶やハーブティーに精通しているわけではなかったが、これはそれなりに拘った淹れ方をしなければ出せない風味だろう。


「淹れ方は自分で学んだのか?」
「いや。こいつに教えてもらった」


そう言って彼女が懐から取り出したのは、一冊の薄い手帳だった。
中身を見せてもらうと、そこに書かれていたのはハーブティーの淹れ方と茶葉の特徴、植生など。
かなり細かいところまで書き込まれているその手帳は、書き手の几帳面な性格を表しているようだった。
その丁寧な字と書き方を見れば、この手帳に書き込んだのは持ち主であるユーニではないということがすぐにわかる。


ハーブティーのレシピか。誰が書いたものだ?」
「さぁ」
「さぁって…」
「書いた奴の名前、どこにも記載されてないんだよ」
「どこかで買ったものなのか?」
「いや。物心ついた時から持ってた」


ユーニの話によれば、この手帳をいつから持っていたのか、どのような経緯で手に入れたのか、詳細なことは何も覚えていないという。
そんなことがあるのだろうか。
だが、ユーニの大雑把な性格を考えれば、手帳に関する思い出をきれいさっぱり忘れてしまっていたとしても不思議ではない。
パラパラとページをめくって中身を流し見しているタイオンの横で、ユーニは彼の手元にある少し古くなった手帳に視線を落としていた。


「でもそれ、アタシに向けて書かれたのは間違いないんだよ」
「何故そう言い切れる?」
「最後のページ見てみ」


促されるままに最後のページを開いてみると、そこには細い筆圧でこう書かれていた。
“いつかまた会えたら、今度はユーニが淹れたハーブティーを飲みたい”
手帳の最期を締めくくるようなそのメッセージには、愛情が込められている。
びっしりと書き込まれたレシピの字とは打って変わって、そのメッセージは細く弱弱しい筆圧で書かれていた。
そこに入っている“ユーニ”という単語は、間違いなく彼女の名前だ。
確かに、この手帳は名前も顔も知らないどこかの誰かがユーニのために書いたものなのだろう。


「このレシピ、それぞれの効能がきちんと書いてあるんだよ。リラックスしたいときはこれ、眠気を覚ましたいときはこれ、緊張をほぐしたいときはこれ、って感じでさ。いろんなところに気が回る奴だったんだろうな。何度もこいつに助けられたよ」


タイオンの手元の手帳を見つめるユーニの目は、今までに見たことが無いほど優しいものだった。
まるで愛しいものを見つめるかのようなその瞳に、タイオンは驚かされた。
こんな顔もするのか、と。
そして同時に、なぜか小さな痛みが胸に走る。
始めて見る彼女の表情が、この手帳越しに見知らぬ誰かに向けられていることが少しだけ悔しかったのだ。


「このレシピを書いてくれた奴に会うのがアタシの夢なんだ。そんで、アタシのハーブティーを飲んでもらう」
「……名前も顔も知らないんだろう?会えるわけない」
「いや絶対会える。いつかきっと」


その自信がどこから来るのかは分からない。
だがきっと、このレシピを書いた相手のことを信頼しているのだろう。
会えるわけない。名前も知らない相手と再会するだなんて非現実的だ。
このレシピに載っている茶葉はすべてケヴェスで採れるものだったから、おそらく相手は彼女と同じケヴェス出身者だろう。
物心ついた時にはこの手帳が手元にあったというし、どうせ書いた相手はユーニよりもうんと年上に違いない。
下手をしたら親より上の可能性だってある。そんな人間と会ってどうするというのだ。

もやもやと渦巻く感情をうまく言語化できず、タイオンは黙ってその手帳をユーニに返した。
受け取った手帳を大事そうにまた懐にしまい込むユーニの行動に、再び胸が痛んだのはきっと気のせいなどではない。


********************


合同訓練の物資運搬ミッションは、5日間の旅路を経て無事ゴール地点であるコロニーに到着することでようやく終焉を見た。
ここからはコロニーに用意されたレウニスに乗って各コロニーに帰るだけ。
この共同訓練が終われば、またモンスターの共同討伐でもない限り会うことはないだろう。
言い合いを続けながらもなんとかミッションを成功させたタイオンとユーニの間には、少々歪ながらも友情に近い絆が生まれていた。


「とりあえず終わったな」
「あぁ。君が地図を読み違えたりしなければもう半日早く到着できたがな」
「ったく、無事終わったんだから“よかったな”でいいんだよ」
「反省点を挙げることは悪いことじゃないだろう」
「最後の最後まで一言多い奴だな」


自分たちを送迎してくれるレウニスが止まっている倉庫に向かう途中、二人はゆっくりとした足取りで横に並びながらいつも通り言い合いをしていた。
最初は煩わしかったこの言い合いも、いつの間にか少しだけ心地いと思えるほどになっている。
 
5日間彼女と寝食を共にして気付いたことは、意外にも彼女は“繊細なタイプ”だということ。
荒っぽい口調の裏には恐がりな一面が見え隠れしていて、がさつに見えるが本当はしっかり周りを気遣える女性だということも知った。
危なっかしい言動には手を焼いたが、不思議と放っておけない危うさがある。
いつの間にか、タイオンはそんなユーニとの別れをほんの少しだけ惜しむようになっていた。


「まぁでも、お前に助けられたこともあったよな。2、3回くらい」
「絶対もっとあっただろう」
「とにかく、案外いいコンビだったよな、アタシたち」
「否定はしない」
「素直じゃねーな」
「お互い様だ」


ようやくレウニスの格納庫に到着する二人。
倉庫内に広がる錆の匂いは、この旅の終わりを暗示していた。
横に並んでいる小型のレウニスは、片方がケヴェス、もう片方がアグヌスのもの。
今からユーニとタイオンを乗せて、各自のコロニーへと帰っていくのだ。
並ぶレウニスの前で、自然と立ち止まり向き合う二人。
根性の別れというわけでもないのに、ユーニの顔を見ていると何故だか切なくなった。


「じゃあ、元気でな」
「あぁ」
「また共同訓練があった時は挨拶くらいしてくれよ?」
「…あぁ」


じゃあ、と手を振って歩き出すユーニ。
これでもうお別れか。
胸がきゅうっと縮み上がる思いがした。
すると、3、4歩歩いたユーニが不意に立ち止まり、“そうだ”と言いながら振り返ってきた。
何か言い忘れていたことでもあるのだろうか。
思わず息をつめてその姿を見つめると、彼女はひどく残酷な事実を突きつけてきた。


「アタシ、落ち着いたら旅に出ようと思うんだ」
「旅?」
「このレシピを書いた奴を探す旅」


呼吸することを忘れたのは、この時が初めてだった。
例のレシピを片手にうれしそうに笑うユーニが、急に遠くに感じてしまう。

旅、旅だと?
会えるかもわからない人物を探すためだけに、貴重な時間と体力を使うなんて馬鹿げている。
その人物の名前はおろか顔も知らないのに、どうやって探すというのか。
それほどまでに、そのレシピを書いた“誰か”のことが、好きなのか。
会えるわけない。見つかるわけない。
そう思っていても、何故だか不安はぬぐえなかった。

もしも奇跡が起きて、その“誰か”に会えてしまったら、彼女はその“誰か”のものになってしまうのだろうか。
最後のページにあったメッセージの通り、そいつのためにあの美味いハーブティーを淹れてやるのか。
あのレシピに向けていた優しいまなざしを、そいつにも向けるのか。
想像した瞬間、心が締め付けられる。
 
タイオンはいつの間にか、彼女と過ごす時間だけでなく、彼女自身のことも好きになっていた。
だが、今更気が付いたところでもう遅い。
旅は終わりをつげ、ユーニはタイオンの知らない誰かの腕の中を求めてどこかへ行こうとしている。
なんとそれを阻止してやりたくて、タイオンは去っていくユーニの腕を衝動的に捕まえた。
振り返り、不思議そうにタイオンを見上げるユーニ。
彼女の瞳が自分だけを捉えている今のうちに、その身を繋ぎとめる策を弄しておかなければ。


「コロニーガンマの場所は知っているな?」
「は?あぁ、お前のコロニーだろ?何度か行ったことあるし分かるけど…」
「なら一人でも来れるな?」
「……どういう意味?」
「1週間後来てくれないか?ハーブティーを、ごちそう、したい」
「えっ?」


最初の勢いが失速し、語気がどんどん弱弱しくなるタイオンの言葉に、ユーニは驚きを隠せなかった。
“お前が?”と聞き返すと、いつも以上に真剣な表情でタイオンは頷く。
 
この旅の最中、毎晩のようにユーニはハーブティーを淹れていたが、タイオンが淹れているところは見たことが無かった。
淹れ方は知っているのだろうか。何故急にそんなことを言いだしたのだろうか。
様々な疑問が浮かんでくるが、それよりも先に感じたのは喜びだった。
タイオンもハーブティーに興味を持ったのか、と。
やはり自分の趣味に他人が関心を寄せてくれるのは嬉しいもので、“ハーブティー仲間が増えるかもしれない”という単純明快な喜びだけが、ユーニの胸の中を支配していた。


「へー、タイオンもハーブティー興味あんのか?」
「…まぁ、あれだけ毎日君が淹れてくれたからな」
「そっかそっか!淹れ方分かんのか?何ならレシピ貸してやろうか?」
「いやいい。僕は僕のやり方で淹れる」
「失敗しても知らねーぞ?」
「僕を誰だと思っている?」
「はいはい。じゃあ1週間後な?楽しみにしてるよ」


そう言って、ユーニは上機嫌に去っていった。
ケヴェスのレウニスに乗りこむ彼女の背中を見つめながら、タイオンは小さく拳を握り締める。
分かっている。これはただの足掻きでしかない。
 
どうせ彼女はこちらが何を言っても“あいつ”の元へ行ってしまう。
なら少しでも、彼女の心に爪痕を残してやりたい。
どこの誰だか知らないが、ハーブティーを淹れることくらい僕にだってできる。
ちょっと茶葉やお茶の効能に詳しいからって、簡単に彼女をものにできると思ったら大間違いだ。
何としても引き留めてやる。
こちらの方がセンスのいいハーブティーを淹れて、もうそんな古いレシピの男なんて気にならなくなるくらい虜にさせてやる。
柄にもなく幼稚な作戦を立てたタイオンは、くるりと踵を返し大股でアグヌスのレウニスへと向かった。


********************

「うーん」


白いティーカップを片手に、ミオとセナは困ったように眉をひそめていた。
ケヴェスとの共同訓練が終了して数日。
帰ってくるなりずっと自室にこもっていたタイオンを不審に思っていた同僚の2人は、今朝彼から“用がある”と声をかけられ宿舎の談話室へと呼び出されていた。
そこで差し出されたのは、淹れたてのハーブティー
どうやら彼は、共同訓練から帰って以降ずっとハーブティーを淹れる練習をしていたらしい。
何故だかは分からないが、とにかく飲んでほしいという彼の要望を聞きティーカップに口をつけると、何とも言えない風味が口の中に広がり言葉を失った。


「どうだ?」
「どうだって聞かれても…」
「あんまり美味しくないかな」


恐る恐る聞いてくるタイオン。
この不毛な味をどう傷付けずに伝えるべきか考えていたミオだったが、隣に座っていたセナがばっさりと切り捨てたことでドキリと心臓が高鳴った。
そんなにストレートに言わなくても…。
急いで何かフォローしようとしたが、既にタイオンは肩を落としてうなだれていた。


「やっぱり不味いのか」
「ち、違うのよタイオン!不味くはないの!ただ美味しくないってだけ!不毛な味というかなんというか、一杯飲み干すのはちょっときついというか、なんか変な匂いがするというか…」
「ミオちゃん…」


“不味い”以外の言葉でなんとか懸命に遠回しな評価をしようと言葉を尽くしたミオだったが、その言葉の数々が矢となってタイオンの背中に突き刺さる。
ミオに悪気はないのだが、実際美味とは言えないのだから仕方がない。
この事実は、淹れた本人であるタイオンが一番よくわかっていることだった。


「でも、どうして急にハーブティーなんか…」
「タイオンって、こういうのに興味ある人だったっけ?」


タイオンは博識な男ではあるが、料理に関する腕はからきしで、一時的に炊事班へ手伝いに入った日は2時間で“外を掃除していてくれ”と追い出された、という逸話を持っている。
そのマイナスなスキルは紅茶やコーヒーを入れる際にも発揮され、こうして見事不毛なドリンクが出来上がってしまったのだ。
タイオンの料理下手をよく知っているミオとセナは、彼がハーブティーを淹れている背景が全く分からず不思議に思っていた。
なんとなく質問をぶつけてみると、彼は少し恥ずかしそうに視線を逸らしながら小さな声でつぶやく。


「……今度ユーニに会うからその時振舞おうと…」
「えぇっ!? ユーニって、この前共同訓練でタイオンとペア組んでたあの!?」
「確か、ノアたちの幼馴染なのよね?」


先日の共同訓練にて、ミオとセナはそれぞれノアとランツというケヴェスの人間たちとペアを組んでいた。
彼女たちもパートナーとは相性が良かったようで、2組とも好成績を残して訓練を終えている。
ノアやランツたちとは何度か言葉を交わした程度の仲だが、彼らがユーニの幼馴染だったという事実は共同訓練後にミオたちから聞かされていた。
何故ミオたちは知っていて自分は知らないのか、と教えてくれなかったユーニに対して小さな憤りを覚えたのは記憶に新しい。


「ユーニに会うって、訓練とか会議以外で個人的に会うってこと?」
「そうだが?」
「なんで?」
「なんでと言われても…」


ミオとセナには、タイオンがユーニと仕事や任務を介さず会う約束をしている理由が分からなかった。
タイオンという男の人となりをよく知っている二人には、ユーニと彼の相性が決して良くないであろうということも想像がつく。
むしろ険悪になるペアだろうと思っていた分、共同訓練後も会う約束をしている事実には驚きを隠せなかった。


「もしかして、ユーニのこと好きなの?」


セナが恐る恐る核心を突く質問をぶつける。
だがタイオンは何も言わず、眼鏡をかけ直してふいっと視線を逸らしてしまった。
違うなら違うと必死に否定するはず。
それは無言の肯定に他ならなかった。


「え、うそ。本当に?」
「なんだその反応は。僕がユーニを好きになったらおかしいのか?」
「う、ううん。そういうわけじゃないけど…」
「タイオンって人を好きになったりするんだぁって思って」
「し、失礼な!」


セナの失礼極まりない解釈は、タイオンを怒らせた。
確かに彼は今まで仕事一筋であり、浮いた話など一切なかった。
タイオン自身も色恋ごとにあまり興味を示さなかったため、そういった甘い感情からは縁遠い生活を送っている。
そんなタイオンが、正反対の性格であるユーニに恋をした。
これはミオやセナにとっては非常に面白く、興味深い事実であった。


「ねぇ、ユーニのどういうところが好きなの?」
「どういう…?」
「ほら、あるでしょ?笑顔が好きだとか、話してて楽しいとか」
「……さぁ、よくわからない」


タイオンの煮え切らない答えに、ミオは至極残念そうに耳を伏せながら“えぇー…”とつぶやいた。
そんな顔をされても、分からないものは仕方がない。
見た目は整っているとは思うが、別に好みというわけでもない。
性格はがさつで大雑把だし、デリカシーというものがないうえに言いたいことをズバズバ言ってくる。
そういうところは正直言って好ましいとは思えない。
なのに、何故だか惹かれてしまう。
彼女の態度に振り回されるたび、目が離せなくなってしまったのだ。


「共同訓練が終わる時、別れるのが急につらくなった。何故かと聞かれると困るが…。今も、会いたくてたまらない」


ティーカップに映った自分の顔を見ながら、タイオンはユーニの顔を思い浮かべていた。
甘く切ない目をしている彼を前に、ミオとセナは思わず顔を見合わせる。
“そんな顔出来たんだ”
セナは思わずそう言ってしまいたくなったが、また怒られるきがして辞めた。
すると、ミオが再び小さく身を乗り出して質問を投げかけていく。


「気持ち、伝えないの?」
「僕は勝てない勝負はしない主義だからな」
「どうして勝てないなんてわかるの?」
「……敵いそうもない相手がいるからだ」


ユーニから嬉々として聞かされた、あのレシピにまつわる不思議な話を、タイオンは淡々とミオやセナに話し始めた。
物心ついた時から、自分あてに書かれたレシピをユーニが持っていたこと。
そのレシピを書いたであろう名前も知らない男に、おそらく彼女が思いを寄せているということ。
そして、ユーニがいずれその相手を探す旅に出ようとしていることを。
話し終わるころ、タイオンの機嫌は少しだけ悪くなっていた。
口に出すだけでイライラするのだが、話を聞いていたミオやセナには大層素敵なファンタジーに聞こえたらしい。
目を輝かせてタイオンの話に耳を傾けていた。


「なんだかロマンチックな話ね。自分に宛てられたレシピだなんて」
「どこがだ。不気味極まりないだろう。いつの間にか手元にあった呪いのレシピだなんて」
「呪いって…」
「大体、“いつかまた会えたらー”なんてメッセージを残すくらいならさっさと迎えに行けばいいだろう。いつまでも来ないということはロクな男じゃないという証拠だ。それに、普通なら自分の名前も手帳に書くだろう。あれだけ几帳面にハーブの特徴やらお茶の効能やらをぎっしり書き込んで知識をひけらかしているくせに、そういう肝心なところに気を回せない間抜けな奴なんだ。そんなのに会ったところで何を話すというのか…」


頬杖を突き、つまらなそうな顔で遠くを見ながら唇を尖らせているタイオン。
その姿はまるでいじけた子供のよう。
会ったこともない人物をそこまで貶せるというのも、ある意味では才能なのだろう。
彼の口からつらつらと流れていく悪口に、ミオとセナは突如としてけらけらと笑い始めた。


「…何がおかしいんだ」
「だって…ねぇミオちゃん?」
「うん。イオンってば、意外に可愛いところあるのね」
「可愛い?僕が?」
「その“レシピの彼”に対抗心燃やしてるんでしょ?」


そう言いながら、ミオは先ほどタイオンが淹れた“美味しくないハーブティー”を指さした。
違う。そうじゃない。
そう頭ごなしに否定してやりたかったが、正直なところ図星だった。
気に入らなかったのだ。ユーニが自分の知らない誰かに入れ込んでいるという事実が。
その顔も名前も知らない男について判明している情報と言えば、ハーブティーに詳しいということだけ。
ならばそのわずかなアイデンティティすら踏み越えて、自分の方が優れていると証明してやりたかった。
ただそれだけの、クダラナイ対抗意識なのだ。


「でもさ、どうしてそのレシピの人、自分の名前書かなかったのかな?そんなに細かく茶葉のこと書いてるような几帳面な人なら、名前書くの忘れたりしないと思うのに」


セナの疑問は最もだった。
先ほどは“間抜け”と一蹴したタイオンだったが、彼もそこが引っ掛かっている。
ユーニのレシピは流し見程度にしか見ていないが、それでも書き手の几帳面さが伝わる程度には丁寧にまとめられていた。
あそこまでしっかりとした書き方をしている人物が、自分の名前を書くという一番大事な行為をうっかり忘れたりするだろうか。


「多分、わざとじゃないかな」


冷め始めているハーブティーティーカップを両手で包み込みながら、ミオは言う。
その言葉の意味がよくわからず、“わざと?”と聞き返してみると、彼女は口元に笑みを浮かべながら頷いた。


「ユーニに期待してたんじゃないかな。名前なんて書かなくても、きっと見つけてくれるって」


“いつかまた会えたら”
レシピの最期のページに書かれていたあの忌々しいメッセージが脳裏に浮かぶ。
もしミオの言う通り、期待を込めて名前を書かなかったのだとしたら、あまりに傲慢で自信過剰な奴だ。
気に入らない。やっぱりそんな男にユーニを渡したくない。
タイオンは自らが淹れたあまりおいしくないハーブティーを怒りに任せ一気に飲み干した。


********************


コロニーガンマは、軍務長であるシドウのもと繁栄を続けている大規模なコロニーである。
そのコロニーの中心にあるのが、独身の兵たちが詰めている寄宿舎である。
その3階の角部屋が、タイオンの住処だった。
鍵を開けて中に入ると、見慣れた部屋の光景が目に飛び込んでくる。
ただ一点違和感を覚えることと言えば、この部屋にユーニがいるということだけだった。
きょろきょろと周りを見回すユーニが一歩一歩部屋の奥に足を踏み入れるたび、タイオンの緊張度は増していく。


「モノが少ないな」
「無駄にモノであふれているのが嫌いなんだ」
「お前らしいな」


小さく笑みを零し、ユーニはテーブルに着いた。
共同訓練から約一週間。ユーニは約束通りコロニーガンマまで会いに来てくれた。
相変わらず少し生意気で、なんでこんな奴をと思わされるほど口が悪い。
だが、心とは裏腹に心臓は高鳴っている。
彼女との時間が長くなればなるほど冷静さがそぎ落とされていくようなこの感覚は、間違いなく恋だった。


「一人で淹れられんのか?手伝ってやってもいいんだぜ?」
「無用だ。僕一人でやる」
「へいへい」


あれから、タイオンは何度も何度もハーブティーを淹れ続け、特訓を重ねた。
様々な茶葉を試してみることで、一番うまく淹れられるハーブを発見することができた。
セリオスアネモネ。白い花弁が特徴的な美しい花である。
他の茶葉はあまりうまくいかなかったのだが、なぜかこの花だけは美味く淹れることができる。
まるで体が淹れ方を覚えているような、そんな感覚だ。
慣れた調子で焙煎作業を始めると、やがてセリオスアネモネのさわやかで甘い香りがふわりと香ってくる。
ティーカップに注ぎ、ユーニの元へ運んでいけば彼女は待ってましたと言わんばかりに顔を挙げた。


「おっ、美味そう。何の茶葉使ったんだ?」
セリオスアネモネだ」
セリオスアネモネ?」
「知らないのも無理はない。アグヌスの地域にしか生えていない希少な花だからな。そのレシピにも載ってなかっただろう」


あのレシピに記載があったのは、ケヴェスに生えている茶葉ばかりだった。
アグヌス特有の花であるこのセリオスアネモネなら、きっとユーニも飲んだことが無いはず。
レシピにある彼女が飲み慣れたハーブティーならば勝ち目はないかもしれないが、飲んだことのないこの茶葉なら希望はあるはずだ。


「確かに飲んだことねぇな。でもなんでだろう。懐かしい香りがする」


そう言って、彼女はまだ湯気が立ち上っているハーブティーを覚ますように“ふーふー”と息を吹きかけ始めた。
伏せられた瞼からは、長いまつげが伸びている。
タイオンが淹れたハーブティーカップを大事そうに両手で抱えているその姿を見ていると、どうしようもなく胸が締め付けられた。

もし彼女が“レシピの男”と再会したら、そうやってそいつが淹れたハーブティーを飲むのか。
そいつの隣に座って、こうやって見つめられながらそっと口をつけて、そして“美味いな”と笑いかけるのか。
 
何がいいんだ、そんな顔も知らないような男。
例えば顔が好みじゃなかったらどうする?
ねちねちした面倒な性格だったら?
服のセンスが破滅的にダサい奴だったら?
それでも“会えてよかった”なんて言えるのか?
言えるわけがない、どうせいつか夢から覚めて、夢は夢のままでよかったんだと後悔する日が来るはずだ。
いずれそういう思いをするくらいなら、あきらめてしまえばいいのに。


「やっぱり、探しに行くのか?例の男を」
「うん?あぁ、まぁな」
「どうしても、行くのか」
「昔からの夢だったからな」
「どうしてそこまでそいつに拘る?」
「さぁな。ただ、探さなきゃいけないような気がするんだよ。使命感ていうのかな」


そう言って、ユーニはそっとタイオンのハーブティーに口をつけた。

何が使命感だ。
相手は薄いレシピ帳ひとつ押し付けるだけで、一向に会いに来てくれないような奴じゃないか。
そんな相手を探し回ったとしても、結局最後に辛い目に遭うのはユーニなんだ。
どうしてそれが分からない?
何故そんなにもそいつに固執する?
顔も名前も声も、何もかも知らないというのに。

ティーカップを両手に持ったまま固まっているユーニを横目で見ながら、タイオンは震える声でつぶやいた。


「忘れてしまえよ、そんな奴」


酷いことを言っている自覚はあった。
あのレシピに何度も支えられたというユーニの経験を踏みにじるような言い草だ。
だが、言わずにはいられない。
彼女がそうやってレシピの中の幻想を見つめ続けている限り、こちらにチャンスは訪れない。
少しでもいい。ほんの一瞬でいいから、こっちを見てほしい。
そう願いながらも、タイオンは隣にいるユーニへと視線を向ける。
 
彼女は先ほど口をつけたセリオスアネモネハーブティーが入ったカップに視線を落としながら、目を見開き固まっていた。
まるで、何かに驚いたような顔である。
僕の言葉に驚いたのだろうか。
そう思っていたタイオンだったが、次第にユーニの顔は優しく穏やかな顔へと変わっていく。


「そっか、そうだったんだ…」
「ユーニ…?」
「忘れられるわけないじゃん。だってあのレシピは、アタシの大事な大事な奴から貰ったんだ。そう簡単に諦められるわけないって」


それは予想通りの回答だった。
当然だ。そんなに簡単に手放せるくらいならとっくの昔に手放しているはず。
モノや思い出に拘らない性格の彼女が、それでもなおあのレシピを大事に抱え続けているのは、それが彼女にとって何にも代えがたい宝だからに違いない。
分かってはいるのに、心が追い付きそうにない。
 
ユーニの言葉に、タイオンの心に咲いた恋の花がひらりひらりと散っていく。
すっかり傷心したタイオンの横で、妙にすっきりした表情を浮かべているユーニは、タイオンが淹れたセリオスアネモネハーブティーを突如一気に飲み干した。


「はぁーっ、やっぱ美味いな、これ」
「…飲んだことがあったのか」
「あぁ、何回もな」


先ほどは“飲んだことない”と言いきっていたというのに、彼女はなぜか真逆なことを言いだした。
飲んでいるうちに、舌馴染みのある味を思い出したのだろうか。
そのレシピを書いたどこかの誰かに、遠い昔に淹れてもらったのかもしれない。
恋でもハーブティーでも敗北を期したタイオンは、いたたまれなくなって思わず視線を逸らした。
だが、そんな彼の横顔を見つめながら、ユーニは優しく囁く。


「お前に淹れてもらったんだよ」
「は…?」


思わずユーニに視線を戻すと、彼女からの温かな視線と交差する。
こちらを見つめている青い瞳は、目の前にいるタイオンただ一人をとらえていた。
揺れる瞳。今にも泣きだしそうな顔。
彼女のそんな表情は見たことが無いはずなのに、何故か見覚えがあった。
あれはたしか、沈みゆく夕陽を見つめながら、並んで会話をしていた時。
懐から取り出した何かを差し出して、受け取った彼女が微笑みながらページをめくっている。
あるはずのない断片的な記憶が、脳裏に浮かんでは消えていく。
これは僕の記憶か?それとも…。
戸惑っているタイオンにそっと近づき、顔を近づけたユーニは、聞き覚えのある声で再び囁いた。


「やっと会えたな、タイオン」


そこで初めて思い出した。
そういえば、今まで一度も彼女に名前で呼ばれたことが無かった。
どうして今なんだ。そう思った瞬間、彼女の顔が迫り唇に柔らかな感触が触れた。
何故、どうして。
浮かび上がる疑問が解消されるよりも先に、彼女の白い頬に一筋の涙が伝っているのが分かった。
あぁもう、理由なんてどうでもいい。
振り回されたってかまわない。
あのレシピを書いた忌々しい男から彼女を奪えるのなら、なんだっていい。

濡れたユーニの頬に手を添え、タイオンは自らも瞳を閉じるのだった。


END

おまけの後日譚→

********************


空は青く、どこまでも続く海は水平線まできらきらと美しく光っている。
柔らかな風が吹くこの丘は、かつて“希望の丘”と呼ばれていた場所だとユーニが言っていた。
彼女は、タイオンの知らないことをたくさん知っている。
それはとりわけ過去に関するものが多く、あの場所ではかつてあぁいうことがあった。この場所には昔こういう建物が建っていた、など。
今では忘れられた歴史としか言いようのない遥か昔のことを、まるで昨日のことのように語る。
そのたび、彼女が遠く感じてしまう。
本当のユーニは、実ははここにはいなくて、本来の居場所は自分の知る由のない過去にあるんじゃないかと、そう思ってしまうのだ。


「あった!」


丘に広がる草の絨毯に座り込み、目を凝らしていたユーニが声を挙げる。
近付いてみると、彼女は手につまんでいるもの嬉々として見せびらかしてきた。
フォーチュンクローバーである。
今日、この希望の丘と呼ばれた場所に来たのは、彼女からこのフォーチュンクローバーを探しに行こうと誘われたからだった。
 
彼女はフォーチュンクローバーを集めるのが趣味で、7枚集めるのが目標なのだという。
クローバー集めが趣味だったなど、今まで一度も聞いたことが無かった。
タイオンがユーニと心を通わせたあの日以来、ユーニの知らなかった一面が次々に明るみに出ている。
クローバー集めが趣味だったことも、アングが嫌いだったことも、高所が苦手だったことも、初めて知った。
自分が知らない一面を、彼女はまだまだ隠し持っているのだろう。
そう思うと、なんだか切なくなった。


「やっぱりこの世界にもちゃんとあるんだな」
「この世界?」
「アイオニオンにもあったんだよ。タイオンにも何度か探すの手伝ってもらったんだよなぁ」


手に持ったフォーチュンクローバーを見つめながら、彼女は言う。
その口から出た名前は紛れもなく自分のものだが、まるで別人の話をしているように聞こえた。
 
彼女には、世界が一つになる前の記憶がある。
正確には、“思い出した”と表現したほうが適切だろう。
例のレシピを渡されたのはその記憶の中にある遥か昔の話で、しかも書いたのはかつてのタイオンだったいう。
昔の自分に対抗意識を燃やしていたのかと項垂れたタイオンだったが、ユーニの言葉にイマイチぴんときていない自分もいた。

ウロボロスだのインタリンクだの、よくわからない単語を頻発させながら説明してくれたユーニだったが、記憶のないタイオンにとっては御伽話程度にしか聞こえない。
しかも、過去の話をするとき、とりわけ昔の自分との思い出を語るときは随分といい顔をするものだから複雑な心境だった。
自分だけど、自分じゃない。
そんな相手との思い出を語るユーニを見ているのはつらい。


「ユーニ、昔の僕はどんな奴だった?」
「どんな? このレシピ見りゃ分かるだろ。細かくてめんどくさくて、素直じゃない奴だったよ」


少しむっとした。
記憶がないとはいえ、自分のことを貶されると気に障るものだ。
だが、ユーニからレシピを始めて見せられた時、自分も同じ印象を抱いたのだからきっと彼女の言う通りの人物像だったのだろう。
そんな過去の自分が、やはりレシピに自分の名前を書き忘れるだなんて思えない。
十中八九わざとだろう。
遠いこの未来で、彼女が自分を探すよう仕向けるために。


「小賢しい奴だったんだろうな、過去の僕は」
「それは否定しない。今のお前とおんなじだな」
「失礼だな。僕のどこが小賢しいんだ」
セリオスアネモネでアタシを引き留めようとしたところとか」
「……」


何も言い返せなかった。
ユーニが飲んだことないであろうセリオスアネモネハーブティーで気を引こうとしたあの足掻きは、今思えば小賢しい以外の何物でもない。
しかも、結果的にユーニは飲んだことがあったという始末。
失敗した悪あがきほど哀れなものはなかった。


「今も昔も、タイオンはタイオンだよ。何度生まれ変わったってお前は変わらない」


草原に腰を下ろし、水平線を見つめるユーニ。
彼女の言葉はまさにその通りなのだろう。
変わらないからこそ、かつての自分と同じようにユーニに惹かれた。
性格も好みも生き方も正反対な彼女を好きになったのは、過去の自分の記憶が今もわずかに残っているからなのかもしれない。
けれど、だとすれば納得がいかなかった。
それでは、まるで惹かれ合った過去が無ければこうして引き寄せ合うことはなかったのだと認めているようではないか。
過去なんてなくても、きっと二人は惹かれ合う。
今のタイオンは、そう信じていたかった。


「ユーニ」


彼女の隣にそっと腰を下ろし、振り向いた彼女に口づけを落とす。
ほんの少しだけ開かれたユーニの唇の隙間から舌を差し入れれば、“んっ”という艶めかしい嬌声が聞こえてくる。
かつての自分は、ユーニにこういうことが出来ていたのだろうか。
彼女のこういう表情を、声を、見聞きしたことはあったのだろうか。
ないに決まってる。“好きだ”の一言すらもあのレシピ帳に遺せなかった臆病な過去の自分に、こんな芸当出来るわけがない。
今のユーニは、今の自分だけのものだ。誰にも渡さない。

華奢な肩をそっと押せば、ユーニ体は草原の上へと簡単に沈んだ。
顔の横に手を突き彼女を見下ろせば、不思議そうな顔でこちらを見上げていた。


「…こんなところでするのか?お前らしくない」
「僕の何を知ってる?」
「大体のことは知ってる」
「いや違う。君が知っているのは、君の“相方”だったかつての僕だ。今の僕じゃない」


右手を重ね、指を絡ませる。
今、彼女の視界には自分しか映っていない。
空も、海も、過去すらも、その視界には入らない。入れてやらない。
そうやってこっちをまっすぐ見ていればいい。
どうか余所見なんてしないでくれ。
そんなことを心の中で懇願しながら、タイオンは掠れる声で問いかけた。


「君が好きなのは、今の僕か?それとも過去の僕か?」
「タイオン、お前…」
「頼むから、今の僕だと言ってくれ」


心が荒むような嫉妬心は、タイオンに酷な質問をぶつけさせてしまう。
最初からユーニは“過去”しか見ていなかった。
レシピに並んだ文字たちの向こう側にいる、“過去のタイオン”を。
他の誰かならともかく、そんな相手に勝てるわけないじゃないか。

僕はそいつと違って、君とインタンクすらできないのだから。

激しい感情を孕んだ瞳で見つめてくるタイオンを見上げながら、ユーニは“バカだな”と小さく微笑んだ。
そういう細かいことばかり考えてしまうところは何も変わらない。
昔の自分に対応意識を燃やして、悔しそうな目で訴えてこられるたびに思い知らされるのだ、“あぁ、彼はまぎれもなくあのタイオンなんだ”と。


「そんな顔すんなよ。アタシが好きなのは、今も昔も“タイオン”だけなんだから」


瞳を細めたタイオンが、再びキスを落としてくる。
身勝手に押し付けるように舌を絡ませ、確かめ合うように歯列をなぞる。
きっとこの光景も、過去の自分が描いた通りの未来なのだろう。
そう思うと癪だったが、もはやどうでもよかった。

今から僕は彼女と、かつての僕が出来なかったことをする。
その事実だけが、タイオンの心を軽くした。

 

後編

 


互いの感情を確かめ合った二人が一緒に住み始めたのは自然な流れだった。
巨神界領域に展開しているコロニー9出身であるユーニが、タイオンが住むコロニーガンマへ移住してきたことで、2人の共同生活は幕を開けることになる。
2人だけの生活は甘く優しい日々が続いた。
顔を見合わせればどちらからともなく口付け、夜になれば互いの愛を確かめ合うために素肌を晒す。
傍から見れば実に幸せな生活だろう。
だが、タイオンはユーニの身体を抱きながらどこか物足りなさを感じていた。
理由は明白。ユーニが熱視線を向けているのは自分ではなく、自分の中に存在する“過去のタイオン”だからだ。

ユーニには過去の記憶がある。
この世界に生まれる前の、ありし日々の記憶である。
その記憶の上で、“タイオン”はユーニと共に戦い、命を預け合い、ウロボロスとして世界を救ったという。
まさに運命共同体
ユーニは、斬っても斬れないほど強固な絆を過去の自分と築いていた。その事実に、タイオンはひどく嫉妬していた。
 
“相手は同じタイオンだ”とユーニは言っていたが、彼女と違いその頃の記憶がない以上たとえ過去の自分とはいえ赤の他人と変わらない。
ユーニが楽しそうに“過去のタイオン”との思い出を語るたび、彼の心は荒むのだ。
もしかすると彼女が好きなのはあくまで過去の自分であって、過去が無ければ今こうして一緒にいてくれることもなかったのではないか、と。

不毛な考えだということは分かっている。
だが、考えずにはいられなかった。
ユーニへの感情が高まれば高まるほど、“今の自分”を見てほしいという気持ちが強くなっていく。
過去なんて忘れてしまえ。ユーニにとっては酷く残酷なこの言葉が、いつも喉元でつっかえているのだ。


「やっぱりこれ綺麗だよな。コアクリスタル」


バスタブに浸かりながら、ユーニは正面に向き合ったタイオンに擦り寄る。
彼の胸板に頬を寄せ、胸元で光る美しいコアクリスタルに指を這わせながら口を開いた。
こうして一緒に入浴するのは久しぶりだった。
この関係になってから数カ月経過した今となっては、彼女の裸を見た程度では何とも思わなくなったが、それでもこうして素肌と素肌を寄せ合いながら密着する時間は特別である。


「そんなに気に入っているのか?見るたびに言っているような気がするが」
「昔から好きだったんだよ、これ。お前はいつも恥ずかしがってちゃんと見せてくれなかったけど」


その言葉には、“過去の自分”の影が見え隠れしている。
ユーニと“過去の自分”が紡いだ絆の一端を見せつけられたような気がして、タイオンには面白くなかった。
自分の胸板に寄りかかっているユーニの濡れた髪を撫でながら、彼は口を開く。


「過去の男の影をちらつかせるのはヤメてくれないか?」
「いやいや。タイオンのことじゃん」
「記憶もないのに同一人物と言えるのか?」
「アタシにとっては今も昔もタイオンはタイオンだよ。まぁ、確かにちょっと違うところはあるけど」
「……というと?」
「昔のタイオンは少し慎重過ぎるって言うか、こっちの様子を伺ってばっかりだったんだよ。何をするにもアタシが許可を出さない限り何もしてこない。そんな奴だった」
「……」
「ま、今思えばアタシに嫌われないよう必死だっただけなんだろうけど」


ユーニの言葉は、愛おし気に浴室に響き渡る。
“あの男”との思い出を語るときのユーニは、いつもこの声色だ。
思い出の輪郭を愛おし気に撫でつけるような声に、タイオンはいつも嫉妬していた。
これ以上聴きたくなくて、彼はユーニの顎に手を添え強引に上を向かせると、その口を塞いだ。
柔らかな唇がぶつかり、舌が侵入してくる。


「んっ、んん、」


絡みつく舌を受け入れながら、ユーニは呆然と考えていた。
昔のタイオンと今のタイオンに違いがあるとすれば、こういうところだ。
過去の彼は慎重さに慎重さを重ねたような性格だった。
恐る恐るこちらの様子を伺いながらゆっくりと距離を詰めて来る“過去のタイオン”に対して、“今のタイオン”は比較的積極的だ。
あの頃から変わらぬ不器用さと天邪鬼さを持ち合わせながらも、過去の彼とは違い自分の感情を隠そうとはしない。
抱きしめる腕にも、口付けのために添えられる手にも、身体を抱く手つきにも、一切の迷いがない。
好意が赴くままに愛情表現をしてくる“今のタイオン”を前に、ユーニは喜び半分寂しさ半分を抱えていた。


***

しとしとと降り注ぐ雨が身体を濡らす。
目を開けるとそこは見慣れない場所で、どこかの渓谷のようだった。
赤い葉が絨毯のように道を染め上げている。
ここはどこだ?
戸惑い、あたりを見渡してみると渓谷の中央にはコンテナが散乱していた。
その奥に、飛空艇らしき壊れた機体が転がっている。
そこに設置された大型コンテナの中に、その人影はあった。
頭に翼を生やした女が、褐色の男に組み敷かれている。
あれは間違いなく、ユーニと自分だった。

これは夢なのか?
そう思い始めたタイオンの目に映るのは、ユーニの身体を揺さぶる自分の姿。
目の前で繰り広げられる不思議な光景に呆然としていると、ユーニを組み敷いている自分と目が合った。
その瞬間、目の前の男は口元に不敵な笑みを浮かべる。
まるでこちらを嘲笑っているかのようなその笑顔に、タイオンは確信する。
アレは自分じゃない。過去の自分だ。
ユーニの心の中に居座り続ける忌々しい過去の幻影だ。

怒りが込み上がる。
触るな。ユーニに触るな。
押しのけてやろうと近づいたその瞬間、見えない壁に阻まれる。
これ以上はお前の入っていい領域ではない、と世界から隔絶されているかのようだった。
 
手が出せない状況に拳を握るタイオン。
彼を一瞥した後、目の前で愛しい人を組み敷いている憎き“過去の幻影”は、ユーニへと顔を近づける。
二人の唇は重なり、吐息が漏れる。
それだけでも胸が張り裂けそうに痛かったというのに、ユーニが例の男の首に腕を回し、嬉しそうに受け入れている光景が拍車をかけた。
想い合っているのだ、あの二人は。
これが、アイオニオンとやらで二人が築き上げた思い出の一端なら、やはりユーニが見ているのは“今のタイオン”ではない。“過去のタイオン”である。
この事実を突きつけられた“今を生き続けるタイオン”には、“過去のタイオン”に太刀打ちできる術など何もないのだ。


***

「っ!」


悪夢に苦しみ、タイオンは勢いよく起き上がった。
息が乱れ、背中には冷や汗が伝っている。
真っ暗な部屋は見慣れた自分の寝室で、あれが夢だったのだと安堵させてくれる。
息を整えながら頭を抱えたタイオンに、隣から声がかかる。


「どうした?」


横で眠っていたユーニが、眠気でとろけた目でこちらを見つめている。
どうやら起こしてしまったらしい。
彼女は夢で見た姿と寸分変わらぬ姿をしている。
やはりあれは、間違いなくユーニ本人だったのだろう。


「すまない。起こしてしまったな。少し嫌な夢を見て……」
ハーブティーでも淹れてやろうか?そういう時に飲むと落ち着くだろうから」


ハーブティーがユーニにとってどれほど特別な意味を孕んでいるのか、タイオンはよく知っていた。
“過去の自分”がその存在を刻み付けるために贈った遺物、それこそが例のハーブティーのレシピである。
あのレシピのせいで、ユーニは幼い頃から卑怯で臆病な“タイオン”を探し続けていた。
ハーブティーは“過去の自分”とユーニを繋ぐ鎖のような存在だ。
そんな忌々しい存在に頼りたくなくて、タイオンはベッドから抜け出そうとしたユーニの手を掴んで引き留める。


「そんなものいらない。それより——」


眼鏡を外したままのタイオンが、ユーニの青い目をまっすぐ見つめる。
彼の瞳を見ていれば、何を望んでいるのか一瞬で分かってしまう。
ベッドから立ち上がろうとしていたユーニは、再びマットレスの上に腰を落ち着け、タイオンへとそっと口付ける。
食むような短い口付けの後、彼女は熱っぽい視線を向けてくるタイオンに向かって分かり切った質問を投げかけた。


「したいの?」
「嫌か?」
「さっきもしたのに」


ユーニの言葉を無視して、タイオンは彼女の身体をそっと押し倒す。
嫌なわけではなかったが、少々強引なタイオンに苦笑いが漏れてしまった。
タイオンはタイオンだ。根っこの部分は何も変わらないのだろうが、時たま思ってしまう。
“あの頃のアイツなら、こんな強引なことはしないのだろうな”と。
 
今と昔を比較して優劣をつけるつもりなど一切ない。
だが、タイオンの彼らしからぬ行動を前にするたび小さな寂しさが胸をつく。
この気持ちを馬鹿正直に打ち明けたりしたら、“今のタイオン”はきっと傷つくのだろう。
だから、何も言わない。

首筋に吸い付きながら部屋着に手を忍ばせ、下着を身に着けていない胸を優しく揉みこむタイオンの手つきに甘く鳴きながら、ユーニは彼を慰めるように背中を撫でた。
愛撫に慣れている彼の指は、ユーニの悦いところを確実についてくる。
こういうところも、あの頃とは違うのだ。


***

“遠出しよう”
ユーニからそう提案されたタイオンは、特に深く考えずに承諾した。
だが、出発して数時間後、彼はひどく後悔することになる。
たどり着いた場所が、あの夢で見た赤い葉の絨毯が広がる渓谷だったからだ。
夢で見た通り渓谷の真ん中にはコンテナと飛空艇が転がっている。
違うところがあるとすれば、転がっているコンテナや飛空艇があの夢で見た光景よりもだいぶ古びていることだろうか。
雨風に浸食されたコンテナは錆びつき、飛空艇やその横で口を開けている大型コンテナには無数のツタが絡まっている。
時の流れを感じさせる光景は、“過去の自分”とユーニの繋がらりが遥か昔から続いている事実を突きつけてきた。


「すげぇ、アルフェド渓谷だ!昔のまんまじゃん!」


目を輝かせ、ユーニはコンテナが転がっている渓谷中央へと走り出す。
この世界には、かつて“アイオニオン”と呼ばれていた世界の遺物が数多く残っている。
その頃の記憶がある者は極めて少ないが、記憶を持っているユーニから言わせてみれば、あの頃を想起させる建造物や地形は各地に点在しているのだという。
この渓谷も、アイオニオン時代に存在していた場所なのだろう。
口を開けている大型コンテナの中を覗き込む彼女の横に並び、同じように中を覗き込む。
人が手入れをした形跡が一切なく、そこは埃にまみれていた。


「思い出の場所なのか?」
「あぁ。タイオン達とはここで出会ったんだ。いわば旅の始まりの場所だな」
「……そうか」


本当にそれだけか?
そう聞きたかったが、やめておいた。
聞き出した結果傷つくのは目に見えている。
あの夢で見たのは間違いなくこの場所だ。
この渓谷、この大型コンテナの中で、ユーニは自分と同じ顔をした“過去の幻影”に組み敷かれていた。
あの夢が、自分の中にわずかに存在する過去の記憶の残滓が見せたものだとしたら、ユーニはここで——。


「ユーニ、一つだけ聞いてもいいか?」
「うん?」
「僕のこと、どう思ってる……?」


答えを聞くのが怖かった。
だが、聞かずにはいられない。
“過去の自分”との思い出の地を前に、彼女は“今の自分”のことをどう思っているのか。
理想的な答えは、“誰よりも好きな人”だった。
今も過去も関係なく、現在進行形で生きているタイオンが好きなのだと言ってくれればそれでよかった。
だが、ユーニは少しだけ驚いたように目を見開くと、すぐに穏やかな笑みを浮かべながら即答した。


「フォーチュンクローバーかな」
「え?」
「正確に言うと、フォーチュンクローバーの4枚目の葉ってところだな」


正直よく分からなかった。
それはつまりどういうことだ?
即答した答えにしては遠回しすぎるというか、まるですでに答えを用意していたかのように思える。
ユーニの言いたいことがイマイチ理解できなかったタイオンは、微妙な表情を浮かべながら首を傾げた。


「僕は葉っぱと同等ということか?」
「ぷっ……あははっ」


突然声を挙げて笑い始めたユーニに、タイオンはますます意味が分からなくなって眉間に皺を寄せる。
そんなに大声で笑われるようなことを言っただろうか。
すると、快活に笑っていたユーニがタイオンの顔を覗き込むように正面に立った。


「やっぱりタイオンはタイオンだよ」
「何の話だ?」
「何度生まれ変わっても、どれだけ時間が経っても根っこは変わらない。記憶があるとかないとか、アタシには正直どっちだっていいんだ。タイオンっていう存在そのものが好きなんだから」
「ユーニ……?」
「好きだよ、タイオン。今までもこれからも、永遠に」


踵を浮かせて背伸びをするユーニによって、身長差がゆっくりと縮まっていく。
唇が重なった瞬間、覚えのない記憶が瞼の裏で明滅し始める。
硝煙の匂い、遠くで聞こえる爆発音、優しい笛の旋律、舞い上がる命の光、セリオスアネモネの香り、そして、目の前で風に揺れる白い羽根。
脳裏に浮かんでは消えてゆくそのすべての光景が、タイオンの記憶を呼び覚ます。
そしてユーニの口付けを受け入れて目を閉じた瞬間、目の前が白く染まっていった。


***

目の前に広がるのは茜色の空。
夕陽ではなく朝日だろう。
昇りゆく太陽を背に、眼前には遠ざかる大地が見えていた。
見慣れない2人の男とノポンの隣で手を振っているのは、間違いなくユーニだった。
ふと視線を落とすと、目の前で地面に膝をつき、崩れ落ちる男の背中が見える。
自分だ。もう一人の自分がそこにいる。
哀しみの色に染まり切った声色で“ユーニ…”と彼女の名前を呼びながら地面の草を握り締めているのは、恐らく“過去のタイオン”。
今まで嫉妬していた相手が目の前で無様に泣いている光景に、タイオンは察してしまう。
そうか、こうして彼らは別れたのか。

泣き崩れる背中が語っている。
離れたくない。彼女が愛おしいと。
まだ恋を知らないはずの“過去の自分”は、本能的にユーニへの感情を理解していたのかもしれない。
これは、ただの仲間に向けるような感情ではない。特別な相手に向けられるべき感情なのだ、と。
途端に哀れになって、思わず手を伸ばそうとする。
すると“過去の自分”は、膝から崩れ落ちた状態のまま大声で“触るな!”と怒鳴り散らした。


「“僕”からユーニを奪い取った奴に、同情なんてされる筋合いはない!」
「奪い取った……?」
「ユーニの心も身体も命も、全部僕のモノだったはずなのに!僕の…、僕だけの……っ」


泣いている自分と同じ顔を見た瞬間、タイオンはようやく分かった。
“過去の自分”もまた、同じように嫉妬していたのだ。
記憶をすべて失い、のうのうとユーニを愛そうとしている“未来の自分”に。
ユーニとの人生を誰にも引き裂かれることなく歩んで行ける“未来の自分”に。
そうか、所詮は同じ“タイオン”だ。
狡猾で嫉妬深い性格は、今も過去も変わらない。
ユーニはそれをよく分かっていたのだ。だからあんなことを——。


「違う。ユーニは君だけのものじゃない」
「なに……?」
「ユーニは“タイオン”のものになりたがっていた。“過去”でも“未来”でもなく、“タイオン”という存在のものになりたがっていたんだ。ユーニは、“僕たち”のものだ」
「“僕たち”?」
「あぁ。だってそうだろ。僕たちは同じ存在、同じ“タイオン”なんだから」


手を差し伸べる。
膝をついていた“過去のタイオン”は、伸ばされた手を一瞥すると、ゆっくりと“未来のタイオン”を見上げた。
泣いていたせいか、褐色瞳が赤くなっている。
ユーニは“彼”のことを、慎重で臆病な奴だと称していたが、どうやらその通りだったらしい。


「行こう。もうアイオニオンに君の居場所はない。君が向かうべきは、新しい世界での未来だ」
「“僕”を受け入れるのか?あんなに邪険にしていたのに」
「あぁ。君は僕で、僕は君だからな。さあ、未来へ還ろう。ユーニが待ってるぞ」


柔らかく微笑むと、“過去のタイオン”は“未来のタイオン”の手を取った。
影と影が重なり合い、アイオニオンを消し去る光と共に溶けていく。
過去と未来が混ざり合い、今日初めてタイオンは、長く続いた嫉妬と劣等感の渦から解放された。


***

数秒間の口付けが終わり、ユーニは背伸びをしていた踵を元に戻した。
目を開き、彼を見上げる。
するとそこには、褐色の瞳から一筋の涙を流すタイオンの姿があった。
キスしただけで泣くなんて大げさな奴だな。
なんてことを考えていると、彼はユーニの頬に手を添えながら震える声で囁いた。


「初めてだな、君からしてくれたのは」
「え、そう?割としてたと思うけど……わっ、」


今までキスなんて何度も交わしてきたし、その中にはユーニから仕掛けたことも何度もあった。
随分おかしなことを言ってくるタイオンに首を傾げるユーニだったが、次の瞬間、彼に引き寄せられ腕の中へと閉じ込められた。
突然抱きしめられたことに驚き、思わず体を固くするユーニ。
そんな彼女の耳元で、タイオンは今にも泣きだしそうなほど弱弱しい声で言い放った。


「ユーニ、やっと会えた……」
「タイオン、まさか記憶が……!」


彼からの答えは得られなかったが、代わりに背中に回された腕の力が強くなる。
加減を知らないその抱きしめ方は、忘れもしない“あの頃のタイオン”のものである。
懐かしさを胸に滲ませながら、ユーニもまたタイオンの広い背中に手を回す。


「おかえり、タイオン」


抱きしめていた力がようやく緩くなる。
顔を覗き込むと、彼は褐色の瞳を揺らしてユーニをまっすぐ見つめていた。
懐かしいあの優しい瞳を前に、ユーニまで泣きそうになってしまう。
すると、タイオンの手が再びユーニの頬に添えられる。
そして、乞い強請るような目で問いかけた。


「もう一度、いいか?」


相変わらず許可を取る癖は治っていないらしい。
まぁいいか。この慎重さこそがタイオンだ。
こういうところもひっくるめて好きだった。今思えば、アイオニオンにいた頃から、自分はタイオンに恋をしていたのだろう。
そんな今更なことを考えながら、ユーニは“いいよ”と頷いた。
嬉しそうに顔を綻ばせながら、タイオンはゆっくり優しく唇を重ねてくる。

長い旅路の末にたどり着いた新たなる未来で、2人はようやく再会した。


***

「なんで目逸らすんだよ」


バスタブに浸かりながら、ユーニは正面にいるタイオンへと湿った視線を向けていた。
抗議がましいユーニの視線を浴びながら、タイオンはバスタブに肘をつき、赤くなった顔を隠すように口元を手で覆って。
まっすぐ前を見ればユーニの白く妖艶な裸が待ち構えているというのに、彼はずっと視線を逸らしたまま。
そんな彼の今更な反応に、ユーニは面白半分呆れ半分な心持だった。


「し、仕方ないだろ。直視出来ないんだ」
「一緒に風呂入るなんて習慣みたいなもんだろ?つかこの前まで普通にしてたくせに」
「それは記憶を取り戻す前の話だろ?今の僕は違うんだ。アイオニオンでは一緒に入浴するなんてしてなかったし……」
「それ以上のことはしたのに?」


ユーニの無遠慮な言葉に、タイオンはぎょっとする。
そして、反論するすべもなく押し黙ってしまった。
何も言い返してこない彼に気を良くしたユーニは、にやりと笑みを浮かべながら追撃を開始する。


「あの時のことは今でも覚えてるわ。確か二人で散歩してたら雨が降ってきて、あの大型コンテナに入ったんだよな。そんでお前がアタシと手繋ぎたいとか言ってきて、いろいろしてるうちにお前のがたっ——」
「あーーー!もうやめろ!それ以上言うな!人の恥をほじくり返すな!」


真っ赤な顔で抗議してくるタイオンの必死さに、ユーニは思わず笑ってしまう。
あれはアイオニオンにいた頃、オリジンに出立する前日のことだった。
ガンマに立ち寄った足で散歩中、雨に降られたことがきっかけだった。
しんしんと降り続く雨は世界から二人を隠すよう周囲を静寂で包む。
雨音と虫の声を聞きながら、2人は初めての行為に踏み切った。
 
あの頃のタイオンは、今では考えられないほどたどたどしく、実に不慣れだった。
当時は自分も初めてだったから何とも思わなかったが、あの時のタイオンはやけに素直で頼りなくて、それでいて可愛らしかったように思う。
こんな風に思うのは、“恋”というものが一体何なのか深く理解できるようになったからなのかもしれない。
途端に目の前の赤面男が愛おしく思えて、ユーニはそっと彼の胸板に体を預けた。


「タイオン」
「なんだ?」
「しよっか」
「えっ、い、今、ここでか?」
「なに?嫌なの?」
「い、いやだって、せ、狭いし、その、えっと」


もごもごと言い訳を並べ立てている彼だが、下半身がしっかりと反応しているのは随分前から気付いていた。
本当は我慢しているくせに、慎重で臆病な彼はユーニに嫌われまいと必死に取り繕おうとしている。
そんな彼の不器用さに触れるたび実感できるのだ。タイオンが自分のことをどれだけ好いてくれているのかを。


「あーあ。ちょっと前の強引なタイオンは男らしくてカッコよかったのになぁー」


タイオンは煽り耐性が極端に低い。
それはアイオニオンにいた頃から変わらない彼の特徴だ。
どう煽れば彼がその気になるのかよく理解しているユーニの前では、本心を隠そうとしているタイオンの小細工など児戯に等しい
案の定、“もう一人の自分”と比べられたことに腹を立てた彼は、ユーニの肩を掴むとようやく彼女を直視した。


「あぁもうわかった!そんなに抱かれたいなら抱いてやる!その代わり逆上せても知らないからな!?」
「ふぅん。逆上せるまでシてくれるんだ?」
「君はホントに……っ」


挑発するような言葉と視線に、タイオンはたまらなくなってしまう。
どこでそんな挑発の仕方覚えたんだ。まさか“もう一人の僕”相手に練習していたんじゃないだろうな。
相も変わらず嫉妬深い彼は、“もう一人の自分”に負けじとユーニの首筋に吸い付いた。
嫉妬心を向けられていることを知りながら、ユーニはタイオンの癖毛をそっと撫でるのだった。