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二次創作まとめ

恋という名の奇病

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■ゲーム本編時間軸

■短編

 

前編


さらさらと草を撫でる風の音と、遠くで畑の土を耕す音だけが聞こえてくる。
アエティア地方の北端に位置しているこのコロニー9は、タイオンが以前所属していたコロニーラムダと比べて随分と静かな場所だった。
滝の裏側に鉄巨神を構えていたあのコロニーは、常に水が滝つぼに落ちる音が聞こえていたが、自然に囲まれたこの場所は、小さく穏やかな音しか聞こえてこない。
だからこそ、このコロニーは集中力を高める鍛錬にはもってこいの場所だった。

コロニーの外れに生えている木の前に座り込み、目を閉じる。
片手を木へと掲げ、緊張の糸をぴんと張るように背筋を伸ばせば、無数のモンドがはらはらと心地のよい音を立てて木の周りをぐるぐると飛び回り始めた。
これは、タイオンがナミからモンドの操り方を教わった時から続けている、いわば基礎訓練だ。
自然物を敵に見立て、目を閉じた状態でも対象をモンドで捉えられるよう、集中力を張り巡らせる練習。
モンドを十分に使いこなせるようになって以降も、ナミから教わったこの訓練だけは、欠かすことが無かった。

モンドに集中していたタイオンだったが、背後から一つの気配が近づいていることに気が付いた。
草と砂利を踏む音の感覚で、大体の歩幅と体格が分かる。
恐らくこの気配は、ユーニだ。


「タイオン、マナナが飯出来たってよ」


背後から自分を呼ぶ声は、予想通りユーニのものだった。
自分の推測が当たっていたことに小さくほくそ笑むと、目を閉じたまま“あぁ”と返事をする。
まだこの鍛錬を始めて5分と経っていない。
マナナには悪いが、せめてあと5分は続けていたかった。
だが、自分を呼びに来たユーニは生返事だけで一向に立ち上がる気配がしないタイオンを不思議に思ったらしく、立ち去るどころか一層近づいてきた。


「さっきから何してんだよ」
「集中力向上の鍛錬だ。こうして目を閉じて、見えない対象を中心にモンドを囲わせている」
「ふぅん。じゃあ今タイオンの邪魔しても、モンドの隊列が乱れることはないってことか?」
「当然だ」
「へぇ~」


目を閉じているためユーニの表情をうかがい知ることはできないが、声色からにやにやとした笑みを浮かべているのは容易に想像できた。
どうせなにかよからぬことを考えているのだろう。
おそらく、ちょっかいをかけてくるに違いない。
タイオンのそんな予想は的中し、首筋のあたりを柔らかな感触が撫で始める。
ユーニが頭の羽根でくすぐっているのだろう。
だが、集中しているタイオンには何の障壁にもならない。


「全然乱れねぇな、モンド」
「この程度で集中力を乱す僕ではない」
「ふぅん」


ユーニの妨害を受けても、木の周りを飛び回るモンドの隊列は一切乱れることがない。
感心した彼女の口ぶりに、タイオンは目を閉じたまま勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
モンドは集中力が命だ。少しくすぐられたくらいで乱すような柔い精神力では、モンド使いは名乗れない。
 
首筋を撫でていた羽根の感触が去っていく。きっと諦めたのだろう。
そう思ったその時だった。
不意にタイオンの右肩に手の感触が乗ってくる。
ユーニが両手をタイオンの肩に乗せてきたようだ。
なにをするつもりだ?と眉をひそめた瞬間、右の耳にふっと息が吹きかけられる。

ぞわり。

体の奥から湧き上がるむず痒さに、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
咄嗟に体をユーニから避けるように左側に傾け、吐息が触れた右耳を手で抑える。
目を開けると、眩しい陽の光と共にユーニのニヤついた笑みが視界に飛び込んできた。


「集中力、切れたな」


そう言いながら、彼女は木の周りを飛んでいたはずのモンドを指さしていた。
先ほどまで一糸乱れぬ動きで木の外周を飛んでいたモンドは、あちらこちらに飛び散り自由に浮遊してしまっている。
主の心の乱れを、モンドはありありと表していた。


「さ、さすがにそれはズルいだろ!」
「なにがズルいんだよ?こういうことしてくる敵がいるかもしれないだろ?」
「どこの世界に敵兵の耳に息を吹きかける奴がいる!?」
「そんな怒んなよ。お前が耳弱いってこと、ノアたちには黙っておいてやるからさ」
「だ、誰が耳が弱いなんて…!」
「あ、じゃあもう一回やってやろうか?ほら耳貸せよ」
「やめろ!二度とやるな!」


ユーニに腕を掴まれ、再び耳元に顔を寄せられる。
またあの感覚に襲われるのが嫌で必死に抵抗するが、彼女はなかなかにしつこかった。
“やめろ”“いいじゃん”の攻防が長引くほど、木の周りを飛んでいたモンドは乱れていく。
そして、タイオンの心も穏やかさからはどんどん遠のいていった。

最近、ユーニと話すときはいつもこうだ。
嵐のような彼女の勢いに巻き込まれ、自分のペースを乱される。
心穏やかでいたいと思っているのに、彼女が声をかけてくると心がざわつく。
彼女の吐息が耳に吹きかけられたあの瞬間も、心臓が大げさなほど飛び跳ねて死んでしまいそうになった。
数週間前から感じているこの胸の違和感はいったい何なのか、タイオンはユーニと目を合わせるたび疑問に思っていた。


「ここにいたのか」


四方八方に飛び回るモンドの前で攻防を繰り広げていたタイオンとユーニ。
そんな二人の背後から、コロニー9の軍務長ゼオンが声をかけてきた。
ユーニのそれよりも小ぶりな羽根を揺らしながら近づいてきた彼は、腕を組んで密着している二人の様子に一瞬だけ驚いたような表情を見せ、足を止める。


「二人に相談したいことがあったんだが、その……取り込み中か?」
「問題ない!何も問題ない!」


ユーニの両肩を掴み、半ば無理やり自分の体から引きはがしたタイオン。
せっかく相方を面白おかしく揶揄っていたところを邪魔されたユーニは、少々不満げな顔をしていた。


「なんだよ相談って。いつもみたいにノアたちもいる時じゃダメなのか?」
「駄目じゃないが、タイオンとユーニに聞いてほしかったんだ。タイオンは様々な分野で知見が深いし、ユーニは医療の知識が豊富だろう?」


落ち着いた声色で話すゼオンの言葉に、ユーニとタイオンは顔を見合わせる。
先ほどまでのふざけ合っていた表情から一変、真剣な顔つきに変わった二人は、おとなしくゼオンの“相談”とやらを受けることにした。
 
場所を変えるため、ゼオンの後について軍務長室へと向かう途中、タイオンはこの“相談”とやらの内容にある程度予想を立てていた。
自分だけでなくユーニにも話を聞いてもらいたいということなら、おそらくコロニー内で怪我人が大量に出たが、病気が蔓延しているかのどちらかだろう。
軍務長室に到着し、椅子に腰を下ろしたゼオンからもたらされた相談は、やはりタイオンの予想通りのものだった。


「実はな、今コロニー9内で謎の奇病が蔓延しているようなんだ」
「は?奇病?」


聞き返すユーニの声に、ゼオンはテーブルに肘をつき、至極真剣な表情を浮かべながら頷いた。


「胸が締め付けられるように痛くなったり、顔に熱が籠ったように赤くなったり、心臓がバクバクと高鳴ったり、しまいには食事も喉を通らなくなるらしい」
「胸の圧迫感、顔の赤らみ、激しい動悸に食欲不振か。症状としては風邪によくあるものだが…」
「熱はねぇのか?鼻水がでたり咳が出たり」
「それが一切ないらしい。発熱も鼻水も咳もない。念のため風邪に聞く薬品を医療班が処方したんだが、効き目が一切なくてな」


コロニーの医療班が保管している薬品は、キャッスルから支給されたものがほとんどである。
命の火時計から解放された今、食料はもちろん医療物資も不足しているこの現状で、原因が分からない病が蔓延するのは非常にまずい状況と言える。
この病が人から人へ感染するものなのかもわからないが、もしそうだとしたら混乱は避けられない。
だからこそ、ゼオンウロボロスであるノアたち6人全員にではなく、少しでも知識がありそうなユーニとタイオンだけに相談を持ち掛けたのだという。
だがタイオンには、一つだけ解せないことがあった。


「確かに薬が効かないというのは厄介だが、そんなに危機感を覚えるようなことか?」
「というと?」
「症状が出た者の中に、寝込むほど重症な者はいないんだろう?命の火時計から解放され、生活環境が変わったことによる一過性の体調不良なだけかもしれない」
「確かにな。ゼオンがそんなに心配するような重い病気には思えねぇし、“奇病”って言うほど珍しい症状でもなくね?」


動悸や食欲不振程度の体調不良なら、生きていくうえで誰しも経験がある程度の症状だろう。
その程度の患者が増えただけで、“奇病”という表現を用いるほどの事態に陥っているとは到底思えない。
大げさではないのかとすら思っていた。
だが、ゼオンは真剣な顔を崩さずに視線を落とした。


「俺も、ただそれだけの理由じゃここまで思い悩まなかっただろう。だが、この症状はただの体調不良とは明らかに違う側面がある」
「違う側面?」
「特定の誰かと話したり顔を合わせたりする時だけ、その症状が出るらしい。しかも、その相手も人によって違う」
「は?」


ゼオンの言葉が上手く理解できず、ユーニは眉をひそめた。
特定の誰かと話したり顔を合わせると、胸が締め付けられたり動悸がしたり顔が赤くなったりする、ということらしい。
ヒーラーとして様々な病気の知識を頭に入れているタイオンとユーニであったが、二人ともそのような症状は初耳だった。


「その相手が原因で症状が出ているということか?」
「おそらくは」
「普通そういう体調不良って、慢性的なもんだろ?特定の相手が絡んだ時に発症するなんて聞いたことねぇよ」
「俺が“奇病”と言った意味、分かっただろう?」


ゼオンの言葉に、タイオンとユーニは無言で頷いた。
どうやらこれは、ただの体調不良と断じるには無理がありそうだ。


「一応聞くけどさ、その症状が出てるやつって具体的に誰なんだ?」
「何人かいるが、お前たちも知っている人間で言うと、カイツやフォクスだ。カイツはユズリハ、フォクスはカミラと関わらると症状が出るらしい」
「カイツも疾患しているのか」
「しかも相手はユズリハかよ…」


コロニータウの軍務長ユズリハは、もちもちイモ栽培の一件以来頻繁にコロニー9に足を運び、畑の手入れを手伝っている。
かつて敵であったアグヌスのコロニーとの交流は、コロニー9に心の余裕と潤いを与えていた。
それが、まさかこんなことになるだなんて。
ユズリハのおかげでもちもちイモの栽培を成功させた過去があるゼオンにとってはまさに寝耳に水な出来事だった。


「確かにこのまま放置していい案件ではないな。旅をするうえでなにか分かったら連絡しよう」
「だな。とりあえず、カイツに話し聞きに行ってもいいか?一応体調を見ておきたいからな」
「あぁ。もちろんだ。よろしく頼む」


ゼオンの承諾を得た二人は、軍務長室を出てすぐにカイツが詰めている天幕へと向かった。
事情を説明し、診断させてほしいと話すと、カイツは少々苦い顔をしながら首を縦に振った。
治癒の知識や経験は、タイオンよりもユーニの方が豊富である。
ユーニは慣れた調子でカイツの兵士服に手をかけていき、手首を取って脈拍を図り始めた。
その様子をユーニの後ろで見ていたタイオンだったが、今のところカイツの体調に問題はなさそうだ。


「脈拍は正常だな。呼吸も乱れてねぇし…」
「だから俺は健康そのものなんだって。ゼオンのやつが心配しすぎなだけなんだよ」


カイツの手首に触れたまま、ユーニは難しい顔で考え始めた。
確かに本人の言う通り、今の時点でのカイツはいたって健康体だ。
何か異常を抱えているようには到底思えない。
特定の相手が関わると途端に症状が出るというのは本当なのだろうか。
考え込んでいたユーニの耳に、聞いたことのある穏やかな声が天幕の外から聞こえてきた。


「失礼します。カイツさん、いますか?」
「えっ、あっ!ゆ、ユズリハさん!?」


天幕越しに声をかけてきたのは、他の誰でもないユズリハだった。
どうやら今日もコロニータウから畑を手伝いに来ていたのだろう。
彼女の声に反応したカイツは、見るからに焦りを滲ませながら上ずった声で返事をした。


「そろそろ肥料を撒こうという話になっているのですが、どこに保管してあるかわかりますか?」
「え、えっと、確か北の倉庫に備蓄してあるはずですっ!」
「わかりました。ありがとうございます。確認してみますね」


そう言って、ユズリハは去っていった。
彼女の気配が遠ざかるのを確認した途端、ピンと伸びていたカイツの背筋がふにゃふにゃと丸くなる。
何故急にカイツの態度が変わったのだろう。
不思議に思っていると、カイツの手を握ったままだったユーニが突然大声を上げた。


「お、おいおい!なんか急に脈拍早くなってきたぞ!?」
「なに!? 本当かユーニ!」
「あぁ。なんか顔も赤ぇーし、やっぱり熱でもあるんじゃ…」


ユーニの手が、カイツの頬に添えられる。
その光景を見た瞬間、何故だか胸がチクリと痛んだ。
心の奥からむかむかとしか怒りのようなものが沸き上がる。
何だこの気持ちは。ユーニは今、カイツの熱を測るために触っているだけだというのに。
何故こんなにも胸が痛い?
カイツの頬に手を添えているユーニをこれ以上直視するのがつらくなって、タイオンは思わず顔をそらしてしまった。


「……顔を赤いけど、熱があるってわけでもないさそうだな」
「はぁ…なんか情けないよな。ユズリハさんと話すだけで心がざわざわして、落ち着かないんだ。まともに目も合わせられないし」
「……他に何か妙な症状は出ていないか?」
「他に…?」


タイオンの問いかけに、カイツは口元を手で覆いながら考え込む。
やがて、瞳を伏せながら肩を落とし始めた。
視線を落としているカイツの目は、怒りや悲しみ、さまざまな感情が入り乱れた複雑な色をしている。


「…ゼオン
ゼオン?」
ユズリハさんが、ゼオンとか他のやつと楽しそうにしてるのを見ると、胸がこう、チクチクする」
「胸がチクチク?なんだそりゃ」
「知らないって。俺が知りたいくらいだ」


胸がチクチク。それは幼い表現ではあったが、この症状の全貌が分かっていないカイツにとっては精いっぱいの表現だった。
背中を丸めているカイツは、わずかに紅潮させた頬を隠すように口元を手で覆っている。
頼りなく、それでいて少し恥ずかしそうなその表情は、今まで見たことないものだった。
こんな顔をしているのも、例の奇病にかかったせいなのだろうか。

カイツが疾患した謎の奇病の正体を掴めぬまま、二人は天幕を出た。
畑の方へと目を向けると、ゼオンユズリハがもちもちイモの葉を見つめながら並んで談笑している。
あのような光景を見ると、カイツは胸が痛むという。
あんなに苦しそうな顔をしていたのだから、その痛みはそれなりのものなのだろう。
タイオンは、自分の胸に手を当て考えてみる。
つい先ほどユーニがカイツに触れた時に感じたこの胸の痛みとどう違うのだろうか、と。


*********************


「ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」


そう耳打ちされ、ニイナに腕を引っ張られて天幕の裏に連れていかれたのは、コロニーイオタに到着して早々の出来事だった。
きょろきょろと視線を泳がせながら周囲を警戒している彼女は、明らかに人目を気にしている。
いつものように野外食堂で相談するのではなく、こうして自分一人だけを連れ出してきたということは、きっと聞かれたくない話なのだろう。
案の定ニイナは、周りに人がいないと確認するや否や、言い出しにくそうに視線を落としながら口を開いた。


「タイオン。貴方ヒーラーよね?」
「旅に出てからは色々こなしてはいるが、得意なのはそうだな」
「じゃあ、割と医療に関する知識はある方よね?」
「そう自負してはいるが…。いったい何なんだ?何が言いたい?」


なかなか本題に入ろうとしないニイナに、タイオンはしびれを切らした。
こんなにもったいぶるだなんて、ニイナらしくもない。
いつもと様子の違う彼女に少し戸惑いつつ深堀してみると、ニイナは天幕の骨組みに寄りかかり、妙に赤い顔をしながら打ち明けた。


「私、最近変なのよ。ノアのことを考えると胸が痛くなったり心臓がうるさくなったりするの」
「き、君もか!?」
「え、貴方もノアのこと考えると胸が痛くなるの?」
「あ、いやそういうわけじゃなく…」


ニイナから打ち明けられた真実に、タイオンは思わず大きな声を挙げてしまった。
コロニー9で流行していた奇病に、まさかニイナまでかかってしまっていたとは。
だが、ニイナはコロニー9に赴いたことはなく、逆にコロニー9の者たちもこのイオタに訪れたことはないはず。
例の奇病が感染する病だったとしても、接点がないのだからうつりようもない。
ならば何故、ニイナにも同じ症状が出てしまったのか。
しかも相手はあのノア。まるで予想もしていなかった相手だった。


「コロニー9でもその奇病に悩まされている者がいるんだ。原因は不明だが」
「そう…。貴方にも分からないことってあるのね」
「買いかぶりすぎだ。むしろ分からないことだらけだ」


コロニー9から遠く離れたコロニーイオタにまでこの病の波が来ているということは、いよいよアイオニオン中にこの奇病が出回る日もそう遠くないかもしれない。
そうなったらまずいことになる。
メビウス相手だけでも手に余るというのに、地方をまたにかけた病の流行など、確実に世界は混乱するだろう。
そうなる前に、何とかしなくては。
まずはユーニにもこの事実を伝える必要があるだろう。
ユーニなら何かいいアイデアをくれるかもしれない。

頭の中でユーニの白い羽根を思い起こしたその時だった。
トクン、と心臓が鼓動を打ち、胸が締め付けられる。
なんだこれは。急にどうしたというのだ。
突然襲ってきた胸の痛みに驚き、思わず胸に手をあてがう。
心臓がバクバクと高鳴って、少しだけ息も苦しい。
まさか、いやまさか。そんなはずない。
小さな疑問が浮かんでは消えていく。
まさか自分もその奇病に疾患しているだなんて、思いたくなかった。


「それにしても困ったわ。よりにもよってノアが相手だなんて。戦ってる最中に目が合って症状が出たら困るわね」
「…そうだな。切羽詰まった状況で症状が出たら、いろいろと危ないかもしれない」
「仕方ないわね」


小さくため息をついたニイナは、突然タイオンの両頬を手で包み込み、無理やり引き寄せた。
急に顔の向きを変えられたことで、首からゴキッと嫌な音が鳴る。
目の前には赤いアイシャドウが施されたニイナのたれ目。
彼女のきれいな瞳には、眼鏡越しに戸惑いの色を浮かべているタイオンの顔が映し出されていた。


「何の真似だ」
「訓練よ。ノアの顔を見ても動揺しないように」
「僕はノアじゃないが?」
「練習台くらいにはなるでしょ?同じ男なんだから」
「君には男が全員同じ顔に見えているのか?」
「そんなわけないじゃない。ほら、もう少しノアっぽい顔してよ」
「無茶を言うな」


いくら同じ男でも、ノアとタイオンでは顔も性格も瞳の色も髪形すらも違う。
目を見る練習をしようにもさすがに無理があるのではないだろか。
自分より少しだけ背の低いニイナに合わせるように顔を固定させられているため、必然的に背中を少し丸めた状態で待機させられているのだが、この体勢も少し辛くなってきた。
そろそろ開放してもらいたくて、両頬を包むニイナの手にを剝がすため自分の手を重ねたその時。
天幕の陰から、あの綺麗な白い羽根がひょこっと顔を出した。


「タイオン、こんなところで何して——」


タイオンを探して天幕の陰から顔を出したユーニは、タイオンとニイナの姿を見つめたまま一瞬だけ硬直した。
タイオンの両頬に手を添えているニイナと、その手に自分の手を重ねているタイオン。
至近距離で見つめ合っているその光景を見れば、誰であれ気まずさを感じるだろう。
大雑把で豪快な性格をしているユーニもまた、例外ではなかった。


「あ…えっと、悪い。じゃあ」
「あっ!待っ…、ユーニ!」


踵を返し、さっさと去ろうとするユーニの背中を視界に入れた瞬間、タイオンの心に得体の知れない焦りが生まれる。
このまま行かせてはいけない気がする。
急いでニイナから離れ、その背を追おうと踏み出した瞬間、背後からニイナに呼び止められた。


「ちょ、ちょっとタイオン!?」
「すまないニイナ!話の続きは後で!」


“もう”という怒ったようなニイナの声が背後から聞こえてきたが今は構っていられない。
天幕の陰から出ると、遠くに去っていくユーニの背中が見えた。
急いで追いかけ、行く手を阻むように正面に回ると、ようやく彼女の足が止まる。
ユーニの華奢な肩を逃がさないよう両手で掴んだのは、ほとんど無意識の行動だった。


「待ってくれユーニ!勘違いしないでくれ!」
「勘違い?」
「さっきの……何か誤解してるだろ?」
「なんだよ誤解って」
「何って、だから、えっと…」


怪訝な表情でこちらを見つめてくるユーニ。
何、と言われてもうまく言葉にできそうにない。
ただ、ニイナと至近距離で見つめ合っていた光景をユーニに見られたと思ったら、いてもたってもいられなくなってしまった。
追いかけて、その背を捕まえて、“あれは違うんだ!”と大声で弁明したくなる。
理由は分からない。今も締め付けられているタイオンの胸が、ユーニを逃がしてはいけないと脳に告げているのだ。


「ていうかニイナは放っておいていいのかよ?あんな至近距離で見つめ合ってコソコソしてたってことは、それなりに重要な話だったんじゃねーの?」
「ユーニ、怒っているのか…?」
「なんでアタシが?」
「いや…」


元々愛想がいい方ではない彼女だが、今はいつも以上に不愛想だ。
言葉尻にも少し棘がある。
早くどこかへ行ってくれとでも言いたげなその態度に、タイオンは少し心が痛くなった。


「別に親密になんてしていない。ただ、練習をしてたんだ」
「練習?」
「目を見る練習。ノアの目をまっすぐ見れないと言っていたから」
「はぁ?なんでノアの目を見る練習をタイオンでするんだよ」
「知るか。ただ、こうやって至近距離で人の目を見ることで少しは慣れるかもしれないという——」


説明しながら実演してやろうと思い、顔を近づけてユーニの瞳を見つめるタイオン。
2つ並んだ青く綺麗な瞳をまっすぐ見つめた瞬間、なぜか思考がとろけていく。
ユーニの目を見つめていると、まるで吸い込まれそうな感覚に陥り、再び心臓がバクバクと自己主張を始める。
やがて顔に熱が篭っていって、まっすぐ彼女の目を見ていられなくなった。
即座に目をそらすと、急に顔をそむけたタイオンを不思議に思ったユーニが首を傾げる。


「なんだよ」
「べ、別にっ」


なんだこれは。
さっきニイナと至近距離で見つめ合った時は何も感じなかったのに、ユーニと目を合わせた途端心臓がうるさくなった。
顔が熱い。落ち着かない。冷静でいられない。
赤くなった顔を隠すように口元を手で覆ってみると、その仕草がかつて奇病の症状を訴えていたカイツと同じだということに気付いてしまう。
 
特定の誰かと関わると発症する、謎の奇病。
それに自分もかかっているというのか。それもユーニ相手に。
そんな馬鹿な。


「でもそれって、この前ゼオンが言ってた奇病の症状と同じだよな?ニイナもノア相手にかかったってことかよ」
「あ、あぁ…。そうらしい」
「マジかよ。こりゃあいよいよ対策考えなきゃな」


困ったように眉をひそめながら、自らの羽根を片手でいじるユーニ。
どうする。言うべきか?自分も奇病にかかっているらしい、と。
だが、言ったところで心配をかけるだけじゃないか?
しかも、相手が自分だと知れば、ユーニは気を遣って距離を取ってくるかもしれない。
それはどうしても嫌だった。
幸い、カイツやニイナと同じで、タイオンも寝込むほどの重症ではない。
この奇病の正体を明確に掴むまでは、内緒にしておいた方がいいのかもしれない。


「対策と言っても、この奇病が一体どういう病気なのか判明しないことには対策のしようがないと思うが」
「じゃあ知ってそうな奴に聞いてみりゃいいんじゃね?」


この奇病がアイオニオン中に広がる前に、何かしらの対策を打っておきたいが、敵である病の正体が明るみにならないことには動きようがない。
だが、どうやらユーニには、この奇病に関する知識がありそうな人間に心当たりがあるらしい。
首を傾げるタイオンに、ユーニはとある人物の名前を挙げた。


**********************


「それで、私の元へ来たというわけか」
「あぁ。あんたならいろいろ知識もあるだろし、なんか知ってるんじゃね?って思ってさ」


丸椅子に座り、白衣のポケットに片手を突っ込みながらホレイスはユーニとタイオンの話を聞いていた。
彼らがこの医療施設を訪れたのは20分ほど前。
聞くに、仲間たちを混乱させないためコロニーイオタから2人だけで遥々来たという。
“相談がある”と持ち掛けてきた二人の顔がやけに深刻で、ホレイスは嫌な予感すら覚えていた。
仲間にも打ち明けられない相談事とは一体何か。まさか、無垢ゆえに一夜の過ちを犯し、命を宿してしまったのではないか。

恐る恐る二人の相談事を聞いてみたホレイスだったが、内容のあまりの馬鹿馬鹿しさに何度も笑いそうになってしまった。
だが笑ってはいけない。彼らは真剣なのだ。
ゆりかごから生まれているがゆえに、人が本来抱くはずの感情を異常なものとみなし、病にカテゴライズしてしまっている。
何も知らない人間は、こういう考え方に行きつくのかと感心する一方で、やはり笑いが漏れてしまうほどに面白かった。


「なぁおい。さっきから何ちょっと笑ってんだよ」
「いやすまない。そうか、そうきたかと思ってな」
「はぁ?」


笑いを嚙み殺すホレイスに、ユーニは不満そうに目を細めた。
生まれたばかりの乳児を見て目を輝かせていた集団が、今まで経験したことが無い、形のない感情をうまく咀嚼できるはずもない。
よく考えれば、戸惑うのは当然のことだろう。
これはしっかり言葉を選びつつ教えていかなければならないな、とホレイスは決心し、ひとつ咳ばらいをした。


「確かにそれは病だな。だが病は病でも、恋の病というやつだ」
「コイの、病…?」
「なんだそれ」


聞いたことのない“コイ”という単語に、タイオンとユーニは眉間にしわを寄せた。
それは重い病なのだろうか。
自分もそれにかかっている疑惑があるがゆえに、隣に座っているユーニ以上にタイオンは前のめりに聞いている。


「恋というのは、相手のことを想い慕う気持ちだ。相手の唯一無二の存在になりたい、相手を独占したい。そういった欲のことでもある。恋に落ちると、人は冷静ではいられなくなる。心がざわつき、胸が痛くなり、頭が働かなくなり、そして相手のことばかり考えてしまう。恐らく君たちが話を聞いてきた患者は、皆恋をしているのだろうな」
「コイ…」
「人間ならば、本来誰しも経験する病だよ」


そっと、隣に座っているユーニに視線を向けてみる。
彼女はホレイスの言葉をあまり理解できていないようで、首を傾げたまま固まっている。
だが、不本意ながらタイオンにはホレイスの言葉の意味が少しだけ理解できてしまった。
相手を独占したい、相手の唯一無二になりたい。そんな気持ちに心当たりがあったのだ。
ユーニと話していると心がざわつくし、見つめられると冷静ではいられなくなる。
他の誰かと親しくしているところを見るとムカムカするし、名前を呼ばれて笑いかけられると心が浮つく。
これがホレイスの言う、“コイ”というものだろうか。


「その恋って奇病、特効薬とかはあるのか?」
「残念ながらない」
「じゃあどうやって治せばいいんだ?」
「治し方はない。楽になる方法はあるがね」


薬も直す方法もないという事実に、タイオンは人知れず肩を落としていた。
このままユーニへの病が治らなかったら困る。
戦っている最中、目が合ったり体の接触が起きることだって大いにある。
そのたびに心臓を高鳴らせていたらきりがない。
インタリンクだってまともにできなくなるだろう。
ノアたち他の仲間にも迷惑が掛かるかもしれない。
出来ることなら、一刻も早くこの奇病から解放されたかった。


「どうしたら楽になるんです?」


タイオンの問いかけに、ホレイスは淡々と答えはじめる。


「方法があるとすれば2つ。まず一つ目は相手のことをきれいさっぱり忘れること。関係を断ち、二度と関わらないことだ」
「……」


それは難しいだろう。
なにせ相手は相方であるユーニだ。
メビウスとの戦いが終わらない限り、関係を断つなど不可能だろう。
それに、ユーニと二度と会わないなんて選択、考えたくもない。


「もう一つは?」
「受け入れてもらうことだ。恋とはいわば満たされない感情の発露。相手に受け入れられることで心は満たされ、胸の痛みも和らぐだろう」
「あの、受け入れるとは具体的にどういう…?」


“あなたを受け入れます!”と宣言されて治るほど単純なものではないだろう。
恋をした相手に受け入れてもらえたと判断するには、何を指針にすればいいのだろうか。
タイオンの質問は、ホレイスには難しい問いかけだったらしく、しばらく考え込んだ末、彼は諦めたように微笑みながら言い放った。


「やはりスキンシップだろうか」
「すきんしっぷ?」
「例えばキスをするとか…」


瞬間、タイオンは振舞われていたコーヒーを盛大に噴き出した。
むせかえるタイオンと、隣で驚き立ちあがるユーニ。
“何やってんだよ”と言いながらハンカチを取り出し、タイオンの白い戦術士の服についたコーヒーの跡をぬぐい取っていく。
白にコーヒーのシミは非常に目立つ。
このシミはなかなか取れそうにないだろう。


「き、キスって、時々夜の公園で男女がしている、あの…?」
「あぁ、あの公園は夜になると盛った若者がイチャイチャべたべたする場所に変貌を遂げるからな」


ホレイスの言葉に、タイオンはやっぱりあれかと片手で頭を抱えた。
このシティーに初めて足を踏み入れたあの日、公園でキスを交わしていた男女を見たことがあった。
唇と唇を合わせるあの行為にどんな意味があるのか分からなかったが、今ならよくわかる。
あれは恋の病に罹ったもの同志、気持ちを確かめ合うために行う行為なのだ。
 
あんな行為を、ユーニとしなければならないのか。
ふと、隣にいるユーニ目を向ける。
突然狼狽え、コーヒーを噴出したタイオンを不思議そうに見つめるユーニの目を見ていると、また心臓がうるさく騒ぎ始めてしまう。
見つめただけでこんなに死にそうになるのに、キスなんて出来るわけがない。
医療施設の診察室で、タイオンは誰よりも顔を赤くしながらうなだれていた。


**********************


ティーという大きな都市は、ひとつの大きな鉄巨神の中に組み込まれているため、夜であろうと朝であろうと薄暗い。
公園に掲げてられている時計は既に夜の時刻をさしており、公園で数刻前まで遊んでいた子供たちの姿は既になかった。
 
ホレイスの医療施設を後にした二人は、今夜の宿をとるため寄宿舎に向かった。
部屋を確保するなり、すぐに風呂へ向かったユーニ。
残されたタイオンは談話室でソファに座り、つい先ほどシティーで購入した1冊の本を読んでいた。
“現代医療全集”と書かれたその分厚い本は、この世のありとあらゆる病について詳しく記載されている本だ。
アグヌスの教本にも載っていた馴染み深い病や症状もあれば、聞いたことのない難病まで、すべてがこの一冊に記載されている。
だが、どのページをめくっても、恋の病に関する記述は見つからなかった。

やはり心の問題なのだろうか。
病は気からと言うが、精神的な病の可能性もある。
ならば、ホレイスが言っていた通り特効薬がないというのも頷ける。
やはりこの症状を抱えたままユーニと接し続けなくてはならないのか。
ページをめくりながら次第に表情をこわばらせていくタイオン。
そんな彼の頬に、冷たい何かが突然ぴたりと寄せられた。


「っ、」


声を挙げることなく肩をすくませて驚くタイオン。
その反応を見て、いつの間にか背後に立っていたユーニがけらけらと笑った。


「ほら、アルマミルク。飲むだろ?」
「あ、あぁ…」


頬に寄せられた冷たい何かは、アルマミルクの瓶だったらしい。
水滴の汗をかいているその瓶はひんやりと冷えていて、風呂上りに飲むには最高なのだろう。
タイオンはまだ入浴を終えていない。
どうせなら風呂上りに飲みたかったな、と心の中でぼやいてみたが、口に出すと怒られそうなのでやめておいた。
 
タイオンがアルマミルクの瓶の蓋を開けたと同時に、ユーニが彼の隣に腰かけてきた。
ふかふかのソファが、ユーニの体重で少しだけ揺れる。
彼女が隣に腰を下ろした瞬間、ふわりと香ってきたのは、髪から香る心地いいシャンプーの香り。
その匂いが鼻腔をくすぐった瞬間、ユーニをすぐ近くに感じてしまいタイオンは体を硬直させた。

まただ。また心臓がうるさくなり始めている。
今までは二人きりで話しているときにだけ心がざわめく程度だったが、最近は隣に立っただけで落ち着かない。
恋の病とやらに疾患して以来、日に日にその症状は深刻さを増している。
このままで大丈夫なのだろうか。


「っくしゅん!」


手に持ったアルマミルクの瓶を眺めたまま考え込んでいたタイオンだったが、隣から聞こえてきた小さなくしゃみにはっと我に返った。
ふと横を見ると、濡れた頭にタオルを被っているユーニの髪はまだ湿り気を帯びていた。
きちんと乾かさないまま風呂を出てしまったらしい。
くしゃみが出たのはそのせいに違いない。


「乾かしてから風呂を出ればいいものを」
「んなことしてたら折角のアルマミルクがぬるくなるだろ?」
「風邪を引いたらどうする」
「おっ、心配してんのか?」
「君が体調を崩したら戦闘に影響が出るだろう。インタリンクだって出来なくなるかもしれない」
「なんだよそういう心配かよ」
「他にどんな心配がある?」
「もっとこう……まぁいいや」


何かを言おうとしていたようだったが、言葉を選ぶのが面倒になったのかユーニはすぐに諦めた。
すると、アルマミルクの瓶を手に持ったままくるりと座っている向きを変え、タイオンに背中を向けてしまう。
何の真似だろうか。
彼女の行動の意図が分からず首を傾げていると、視線だけこちらに向けてきたユーニが口を開いた。


「じゃあタイオンが乾かしてくれよ」
「は、はぁ?なんで僕が」
「アタシに風邪ひかれると困るんだろ?」
「自分でやればいいだろ」
「めんどくさい」
「はぁぁぁ……」
「何?いやなのかよ?」
「……仕方ない」


何故他人の髪をわざわざ乾かしてやらなければならないのか。
内心文句を垂れながらも、なぜか断るという選択肢はなかった。
ユーニが頼んできたことを無下に断る気にはなれない。
たとえそれが、タイオンにとって何のメリットもないことだったとしても。
 
彼女が頭から被っているバスタオルに触れ、水気を含んだ柔らかな髪をそっと撫でていく。
あまり乱暴にすると怒るだろうから、優しく丁寧に。
タオルで髪を撫でるたび広がるシャンプーの香りは、タイオンの鼓動を一層早くしていった。
やっぱり断ればよかった。ユーニの髪に触れながら、タイオンは今更後悔の念に苛まれてしまう。


「ふー、やっぱ人に髪乾かしてもらいながら飲むアルマミルクは最高だな」
「いつもこうやって誰かに乾かしてもらってるのか君は」
「あぁ。ミオかやってくれる。人の髪の毛いじるの好きなんだってさ」
「僕らと旅を始める前は自分でやっていたのか?」
「あぁ。時々ノアがやってくれてたけど」


ユーニの髪を撫でるタイオンの手が、一瞬だけ止まった。
“そうか”と短くそっけない返事をして、またすぐに手を動かし始める。
ノアはユーニの幼馴染だ。
年少兵の頃から気兼ねない関係だったなら、別に髪を乾かし合うのは不思議な光景ではない。
ノアも髪が長いし、ユーニがノアの髪を乾かすこともきっとあったのだろう。
別に不自然なことでもないはず。
なのになぜだろう。とてつもなく嫌な気分になった。
胸の中でよくない感情が渦巻いて、怒りに近いものが沸き上がってくる。
 
これは嫉妬か?いやまさか。
何故僕がノア相手に嫉妬しなくちゃいけない?


「なぁタイオン、昼間先生が言ってた話、どう思う?」
「例の奇病の件か?人間なら本来誰しもかかりうる病気だと言っていたな」
「なんか想像できねぇ感情だよな。相手の唯一無二になりたい、なんて」


手に持ったアルマミルクをごくりと飲み干したユーニ。
空になった瓶を爪でピンとはじくと、甲高い音が鳴る。
ガラス瓶に映り込む自分の瞳をぼうっと見つめながら、ユーニは独り言のように呟いた。


「いつかアタシも、恋の病にかかるときが来るのかな」


ユーニのそんな呟きを皮切りに、タイオンの手は完全に止まってしまった。
髪を乾かしていたタイオンの手が止まったことに気付いたユーニ振り返ろうとするが、すぐに頭にバスタオルをかけられ視界が塞がってしまう。
頭にかかったバスタオルを取って振り返った時にはもう、タイオンはソファーから立ち上がった後だった。


「あとは自分でやってくれ。僕は風呂に入る」
「えー!まだ全然乾いてねぇじゃん」
「知るか」


“なんだよー”というユーニの文句を背中に受けながら、タイオンは足早に談話室から遠ざかっていく。
廊下を曲がり、談話室のソファーが見えなくなったところで、ようやく足を止めた。
体に力が入らない。頭も働かない。
ユーニから見えないように、曲がり角を曲がったすぐそこで立ったまま壁に寄りかかってしまった。

ホレイスは言っていた。これは人間ならば誰しも経験する病だと。
いつかユーニも、誰かの唯一無二になりたいと思う日が来るのかもしれない。
今、タイオンがユーニに向けているような熱く切ない感情を、誰かに向ける日が来るかもしれない。
そう考えると、無性に心が荒んだ。
ユーニにとっての“唯一無二の座”が、他の誰かに奪われるかもしれない。
そんなのは嫌だ。看過できない。

“恋というのは、相手のことを想い慕う気持ちだ。相手の唯一無二な存在になりたい、相手を独占したい。そういった欲のことでもある。”

ホレイスの言葉が脳裏に反響する。
この無様な欲は、ユーニにコイをしているという証拠なのだろう。
“コイ”というのがこんなにも辛い病だとは知らなかった。
自分が自分じゃいられなくなる感覚が、恐い。
これが、誰かにコイをするということなのか。
胸の痛みを噛み締めながら、タイオンは深く息を吐くのだった。


********************

瞳の機能を使ってノアに“そろそろ帰る”と連絡をすると、彼は小さく微笑んで“もう少しゆっくりしてくればいいのに”などと呑気なことを言っていた。
だがその言葉に甘えるわけにはいかない。
タイオンたち6人はウロボロスであり、その両肩にはアイオニオン中の命がかかっている。
悠長に旅を満喫するわけにはいかないのだ。

タイオンとユーニが単独でシティーへ出発してから早くも1週間。
ニイナやカイツが抱えている事情をまさか易々と口外するわけにはいかないので、ミオやノアたちには“シティーでしか手に入らない薬品を買いに行ってくる”という適当な理由を話していた。
薬品入手のためのお使いだと信じ込んでいる他4人の仲間たちの現在位置は、フォーニス地方のコロニーイオタ。
ティーからイオタに向かうには、最短でも5日はかかる。
フォーニス地方へと向かう二人きりの旅路は、タイオンにとって少々辛いものだった。
 
ユーニと話すたび胸がざわめくし、名前を呼ばれるたび心臓が跳ねあがる。
もはや重症としか言えなかった。
カイツやニイナはよく今までこんなつらい症状を耐えてきたものだなと感心してしまうほどに。

2人きりの旅が始まって3日目の夜。二人はようやくモルクナ大森林付近に差しかかっていた。
自然溢れるこの森は、夜になると大層冷え込む。
焚火を囲っているとはいえ寒がりなユーニは、毛布にくるまり体を小さく丸めている。
少しでもその体が温まればいいと、タイオンはいつものハーブティーを彼女に差し出した。


「飲むか?」
「おっ、ありがてぇ」


両手でカップを受け取ったユーニは、冷えた指先を温めるようにカップを両掌で包み込んだ。
湯気が立ち上るカップに口をつけると、甘やかなセリオスアネモネハーブティーが体中を温めてくれる。
ハーブのさわやかな甘みに舌鼓を打ったユーニは、随分と幸せそうな顔で“はー”と息を吐いた。
焚火を挟んで対面に座っていたタイオンは、そんな彼女の顔を見つめ、思わず笑みを零した。


「君は本当にハーブティーが好きだな」
「というより、タイオンが淹れてくれたハーブティーが好きなんだろうな、アタシは」


カップの中で穏やかに揺れるハーブティーの波紋に視線を落とすユーニ。
彼女の目は、ひどく優しく、そして可愛らしく見えた。

まただ。またそういうことを言う。
彼女は分かっていない。そういう言動が、どれだけタイオンを期待させてしまっているか。
ユーニの言葉、表情、視線。そのすべてに一喜一憂してしまう無様な自分が嫌だった。
これ以上彼女に翻弄されたくなくて、思わず目をそらす。
誤魔化すように自分のハーブティーを啜れば、何故だかいつもより甘く感じた。


「なぁ、タイオンは寒くねーの?」


不意にユーニが問いかけてくる。
鼻先まで赤かった彼女の顔色は、ハーブティーのおかげか血色を取り戻していた。
寒くないと言えば嘘になる。
だが毛布はユーニが被っている1枚しかないし、耐え難いほどの寒さとは言えなかった。


「肌寒くはあるが大丈夫だ」
「ふぅん」


聞いたくせに随分と興味がなさそうな返事だった。
するとユーニは毛布を体に巻き付けたまますくっと立ち上がり、焚火を迂回してタイオンのすぐ隣に腰かけてくる。
そして腕を伸ばし、自分がくるまっていた毛布の中にタイオンも巻き込んでしまった。
毛布の中はほんのりユーニの体温で温かくなっている。
肩と肩が触れ、自然と体が密着する。
ユーニの急な行動にぎょっとするタイオンだったが、彼女は涼しい顔でハーブティーを飲み続けていた。


「な、なにをして…!」
「寒いんだろ?」
「大丈夫だと言ったじゃないか」
「そうはいかねーよ。お前に風邪引かれたらインタリンクできなくなるしな」


数日前、タイオンがユーニに向けて言い放った言葉をそのまま返され、反論する術がなくなってしまった。
すぐ隣に感じるユーニのぬくもりは、タイオンの熱を急速に上昇させていく。
1秒経過するごとに速度を上げていく心臓の鼓動。
鷲掴みにされたように締め付けられる胸。
紅潮していく頬。冷静さを失っていく頭。泳ぐ視線。
ユーニに近付いただけで、こんなにも症状が出てしまっている。
もうだめかもしれない。そう思った時、ユーニがとどめの一言を浴びせてきた。


「なに顔赤くしてんだよ」
「へ?」
「寒くて熱でも出たか?あ、もしかしてカイツやニイナと同じ“恋の病”に罹ってたりして」


“まさかな”
そう言って笑い飛ばすユーニに、無性に腹が立った。
こっちの気も知らないで、何を呑気なことを言っている?
君の言動一つ一つに胸が張り裂けそうになるほど重症なんだぞこっちは。
少しは自覚を持ってくれ、頼むから。
小さな怒りからくる衝動を止められるほどの理性は、既にタイオンから失われていた。


「……何が奇病だ。人の気も知らないで」
「ん?」
「そうやって気まぐれに近付いてきて、呑気なものだな。こっちは君のせいでこんなに苦しい思いをしているというのに」
「タイオン…?」


丸くなったユーニの瞳が、まっすぐタイオンをとらえる。
彼の気持ちなど微塵も知らない無垢な視線に射抜かれて、またタイオンの胸に痛みが走る。
だがもう、走り出した衝動は止められそうにない。


「頼むから、僕を喜ばせる言動はやめてくれ。これ以上は心臓が持たない…」


それは切実な頼みだった。
不用意に近付かれたり、宝石のような言葉を贈られるのももうたくさんだ。
動揺に動揺が積み重なって、自分が自分じゃいられなくなる。
無駄に期待して、そのあと沈んで、ユーニ一人に振り回されている自分が情けない。
治すことができない病なら、せめて症状が出ないよう振舞いたかった。
だが、ユーニ本人が邪魔をしてくる。
離れたいのに近づいて、目をそらしたいのに視界に入ってくる。
これじゃあ一向にコイが冷めることはないじゃないか、どうしてくれる。
心の中で責め立てるタイオンに見つめられ、今度はユーニが困ったように視線を外した。


「お前、もしかしてアタシのこと…」
「言うな。言わないでくれ。情けなくなる」
「は、はぁ?なんだよ情けないって」
「“唯一無二になりたい”なんて、そんな傲慢なことを考えているってことだぞ僕は。そんなの情けないだろ。なれるわけもないのにっ」
「なんでなれないなんて決めつけんだよ!」


ユーニの甲高い怒鳴り声が、高低差のある大森林に響き渡る。
空洞になったタイオンの心にも、その声は響いていた。
はっとして彼女に視線を移すと、相変わらずあの綺麗な青い瞳でこちらをじっと見つめてきていた。


「アタシはうれしいよ、タイオン」
「だ、だからそういう言動をやめろと…!」


まっすぐ向けられた好意的な言葉と視線は、タイオンの心を踊らせる。
だが、真に受けてはいけない。そうやって無駄に期待すればするほど、症状は悪化するのだから。

ユーニの唯一無二になるなんて無理に決まっている。
自分は彼女の相方ではあるが、ノアやランツほど付き合いは長くない。
彼女にとっての“一番”になり得る候補は、自分以外にも沢山いるのだ。

咄嗟に視線を逸らすタイオンだったが、次の瞬間、ユーニが両腕を広げてタイオンの胸に飛び込んできた。
ほとんどタックルのようなその動作に、思わず“うっ”と鈍い声が出る。
彼女に抱き付かれていると理解できたのは、数秒たった後だった。


「ゆ、ユーニ…?何をして…」
「あの先生が言ってたじゃん。相手に受け入れられれば楽になるって」
「……受け入れているつもりなのか?」
「楽になったか?」


タイオンの背中に腕を回したまま、ユーニは彼の顔を見上げた。
その頬がほんのり紅潮しているように見えたのは、焚火のせいだろうか。
楽になるどころか、恐ろしく心臓の鼓動が加速している。
今にも死んでしまいそうなほどだ。


「いや…。むしろ悪化したんだが…」
「えっ、しゃーねぇな」


“ん!”と言って目を瞑るユーニ。
一瞬彼女が何をしているのか分からず黙って見ていると、いつまでも何もしてこないタイオンに怒り、再び目を開けて大声を上げた。


「キスだよキス!早くしろよ」
「は、はぁ?突然なんだ」
「くっついても楽にならねぇなら仕方ないだろ?」
「だからって…」
「…したくねーならいいよもう」
「待て!し、したくないなんて一言も言ってないだろう!」


呆れた様子で離れていこうとするユーニ。
そんな彼女を引き留めるように、タイオンはその華奢な肩を両手でつかんだ。
近付かれると落ち着かないくせに、離れていかれると途端に引き留めたくなる。
この理不尽で独りよがりな感情は、タイオンの思考力を奪っていく。
交わる視線はやがて、ユーニが目を閉じたことで途切れた。
自分を受け入れるために目を閉じ、待ってくれているユーニの顔を見ていると、不思議と満たされた気持ちになる。
ゆっくりと顔を近づけて、唇を重ね合わせる。

これが、キスなのか。

唇が触れ合って数秒たった段階で、タイオンの頭に一つの疑問が浮かび上がった。
キスとは、いったい何秒くらい唇を合わせていればいいのだろう。
10秒? 20秒? もっとか?
そろそろ離れた方がいいのだろか。いやでも、もう少しだけしていたい。
考えているうちに、ユーニがタイオンの胸板を軽く押し、初めてのキスは終わりを告げた。


「なげぇよ」
「す、すまない」


反射的に謝ると、ユーニはくすっと笑ってみせる。
呆れたような笑顔は何度も見てきたはずなのに、今日はいっそう可愛く見える。
離れたばかりだというのに、またしたい。
もっと彼女に触れて、見つめて、名前を呼んで欲しい。
けれど、こんなわがままで無様な気持ち、口にするなど出来るわけがなかった。
ただ黙って見つめるタイオンだったが、そんな彼の熱っぽい視線に耐えかねたユーニが瞳を伏せながら口を開いた。
 

「あの、さ。コイの病って伝染するのかな」
「伝染?」
「なんか、アタシも心臓バクバクしてきた。顔も熱いし、胸もぎゅってなった」
「え…」
「タイオンのがうつったのかもな」


羽根をいじりながら視線を逸らすユーニ。
赤い顔をして、しおらしく視線を落とす彼女の姿を見ていると、やはり胸が締め付けられる。
なんだその顔は。いつもは勝気な言葉と表情でこちらを翻弄する癖に、ここぞという時にそういう顔をするのは卑怯だろう。
もっともっと、彼女の心に近付きたくなる。


「ユーニ、もう一回だけしてもいいか?」
「…一回だけでいいのかよ」
「何回もしてもいいのか⁉」
「受け入れるって言ったろ?」
「ユーニ…」


彼女の両頬に手を添えて、再び口づける。
触れるだけではもったいない気がして、角度を変えながら食むように重ねると、吐息を漏らしながらユーニも応えてくれた。
やがて舌を絡ませるようになった頃、タイオンは自分の胸に大きな幸福感が生まれていることに気が付いた。
心臓の鼓動が落ち着くことはない。相変わらず顔は赤いままだし、思考力は一層とろけている。
だが、先ほどまで抱いていた胸を刺すような切なさはいつの間にか消えていた。
あぁ、ホレイスの言った通りだ。
そんなことを思いながら、コイという名の奇病に侵されたタイオンは、一心不乱にユーニの唇を貪るのだった。

 

後編

 


“シティーでしか手に入らない薬品を買いに行ってくる”
そう言ってタイオンとユーニが揃って離脱し、別行動をとったのは1週間と少し前のこと。
6人のウロボスと2匹のノポンがコロニーイオタに到着してすぐのことであった。
素材の収集のためちょうどイオタに長期滞在しようという話が出ていた頃だったため、メビウス打倒を目指す一行の旅の妨げにはならなかったが、それでも戦力が2人分減るとなると少々不安に駆られてしまう。
そろそろイオタでの生活も飽きが訪れていた時、ようやくタイオンとユーニは帰還した。

ノアが“薬品は手に入ったのか?”と問いかけたが、少し目線を逸らして“あぁ”とユーニは頷く。
その微妙な反応を傍で見ていたミオは、きっと本命の薬品が手に入らなかったから落ち込んでいるのだろうと推測した。
だが、その後のタイオンとユーニを観察していると、妙な違和感を覚えてしまう。
2人の距離感がやけに近いのだ。特にタイオンの様子がおかしい。
 
食事の際、先に席についていたユーニの隣をいの一番に陣取り、彼女が口を開くたびに眼鏡のレンズ越しで目を細め優し気な視線を向けている。
さらには、時折手を伸ばしユーニの髪を指先で撫でていた。まるで愛でているかとように。
あの堅物で真面目なタイオンらしからぬ行動にぎょっとしていたのは、ミオだけではない。
対面に座っていたセナもまた、“信じられない”とでも言いたげな目でタイオンを見つめていた。

タイオンから向けられる感情の矢印が、とめどなくユーニへと降り注がれている。
矢印を向けられているユーニもまた、特に気にすることもなくその様子を受けて入れているものだから驚かされる。
いつものユーニなら、“なにじっと見てんだよ”とか、“なんで急に触るんだよ”とか、きっと睨みつけながら抗議するところだろう。
にも関わらず、嫌がるそぶりを全く見せないのだ。
ティーに行っていたたった1週間ちょっとの間に2人の間に何が起きたのか。
ミオには全く想像もつかなかった。


「ねぇユーニ、タイオンと何かあった?」


今日の食事の後片付けは女性陣の仕事だった。
イオタのキッチンを借り、並んで食器を洗っているミオは隣で同じように食器を擦っているユーニに疑問をぶつける。
突拍子もない質問に、ユーニは皿の汚れをスポンジで落としながら首を傾げた。


「何かって?」
「だって、なんかタイオン変じゃなかった?ずっとユーニのそばを離れようとしないし」
「それ私も思った!ユーニにだけ特別優しくしてる感じがする」


近くで皿を拭いていたセナもまた、ミオの言葉に賛同するように頷いていた。
タイオンがユーニと一緒に帰還して以降、彼のユーニに対する態度は明らかに甘くなっている。
ノアやランツは全く気付いていないようだったが、常にユーニへ注意を向けていると言っても過言ではないタイオンの様子に、聡い女性陣二人は気付いていた。
 
そもそも、ミオとセナはユーニたちと比べてタイオンと過ごした時間が長い。
コロニーガンマで仲間として過ごしていた頃の彼は、優しさが全く無い事もなかったがいつもどこか言葉尻に棘を感じるような人間だった。
だが今は、ユーニに対してだけその棘は鳴りを潜め、代わりに甘やかな視線と態度を向けている。
そんな彼の様子に、疑問を抱かずにはいられなかった。


「そ、そうかなぁ~~~」


“ユーニにだけ優しい”
そんなセナの言葉を受け、ユーニは口元を綻ばせながら皿を擦る手を強めた。
明らかに喜びを隠しきれていない表情と、照れ隠しをしようとしているその態度を前に、ミオとセナの疑問は確信に変わる。
あぁこれは絶対に何かあったな、と。


「そうだよ。なんていうか、あんなに人にべたべたしてるタイオン初めて見た気がする。ね?セナ」
「うん。なんか違和感あるよね。ユーニにべたべたしてるタイオンを見てるとこう……首筋が痒くなるっていうか」
「なんかちょっと胃がむかむかするっていうか」
「目を逸らしたくなるというか」
「……お前ら言いたい放題だな」


全ての食器を洗い終えたユーニは、水道をきゅっと閉めて水を止め、近くにあったタオルで手を拭き始めた。
ミオやセナは懸命に言葉を選んでいるようだったが、心の中に浮かんだ筆舌に尽くしがたい不快感を隠しきれていない。
 
そんなに変だろうかとユーニは考え込む。
もし自分がミオやセナの立場だったとして、目の前でノアやランツがミオやセナにべたべたしていたとしたら。
ノアがミオの髪を撫でたり、ランツがセナの肩を抱いたりしている光景を思い浮かべた瞬間、ユーニは“おえっ”と心の中で嗚咽した。

確かに首筋が痒くなるし胃がむかむかするし目を逸らしたくなる。
知り合いのそういう場面は見ていて居心地のいいものでは無い。
タイオンが自分に接している光景が、ミオやセナたちに同じような居心地の悪さを与えていたとしたら、あまり好ましい状況とは言えないのではないだろうか。


「後片付けは終わったか」


すると、キッチンの入り口から誰かが入ってきた。
振り返った先にいたのは、話題の渦中にあったタイオンである。
口元に穏やかな笑みを浮かべた彼は、マフラーを靡かせながらゆっくりと歩み寄ってくる。


「マナナがデザートを用意したと言っていたぞ」
「デザート!?」
「あぁ、早く行った方がいい。ランツに食いつくされるぞ」
「うわぁ大変!行こっ、ミオちゃん、ユーニ!」
「あ、う、うん」


一瞬にして表情を明るくさせたセナは、ミオの手を握り、その体を引き摺るようにして駆け出した。
キッチンに残されたユーニは、勢いよく出て行ったセナの後ろ姿を見つめながら呆れた笑みを零す。
普段はストイックなのに、食べ物のこととなるとあんなに目の色が変わるなんて。
 
さて、ランツやセナたちに食べられる前にアタシも行こう。
そう思い一歩踏み出したユーニだったが、そんな彼女の腕をタイオンが掴み引き留める。
突然引き留められたことに少しだけ驚き振り返ると、タイオンは眼鏡の奥で優しく目を細めながら熱っぽい視線を向けてきた。


「ユーニ、疲れていないか?」
「えっ?なんで?」
「シティーからここまで急いで帰って来ただろ?なかなか休息がとれなかったからな」
「平気だって。タイオンこそ疲れてんじゃねぇの?」
「僕の心配は無用だ。君の方が疲れているように見える」


タイオンのしなやかな指が、ユーニの白い頬を撫でる。
親指が優しく彼女の頬を擦り、その手から温もりが伝わってきた。
そして、いつもぶっきらぼうなタイオンからは考えられないほど甘い声と微笑みをユーニに向けてきた。


「マナナのデザートを食べたらゆっくり休んでくれ。いいな?」


その深く優しい声に、ユーニの胸がぎゅっと締め付けられた。
ティーでホレイスから聞いた恋の病。
タイオンから感染する形で疾患したその奇病は、今もユーニの心をざわめかせている。
 
タイオンに見つめられれば途端に落ち着かなくなるし、名前を呼ばれると心が躍る。
落ち着きを失ったこの心を静める唯一の方法は、体の接触
タイオンから触れられ、甘い言葉を囁かれることで心は満たされ、幸福感を得ることが出来る。
彼に頬を撫でられている今もまた、胸の奥から湧き上がる喜びを抑えられそうにない。
 
だが、頻繁に行われているこの体の接触が、はたから見ているミオやセナに居心地の悪さを与えているのは間違いない。
となると、このままタイオンの手を甘んじて受け入れるべきではないのかもしれない。
そう判断したユーニは、自分の頬を優しく撫でる彼の手を握り、そっと頬から離した。


「あのさタイオン。こういうの、人前ではやめようぜ?」
「こういうの、とは?」
「触ったり近づいたりするの」


ユーニの頬を撫でていた手がぴたりと止まる。
そして、一瞬だけ瞳に驚きの色を滲ませたタイオンは、すぐにしゅんとした表情で見つめてきた。
もしも彼にミオのような獣の耳があったとしたら、ぺたんと折り畳まれていたことだろう。
そして、頬に触れていた彼の手から力が抜け、ユーニの肩に降りて来る。


「何故、そんなことを……?」


まるで石橋を叩いて渡るかのように慎重に、こちらの様子を伺いながらタイオンは問いかけてくる。
距離を置くことを提案したユーニの言葉に、少なからずショックを受けているようだった。
そんな彼に、ユーニは感じたままをなるべく言葉を選びつつ伝えた。
 
触れられることは嫌いじゃないが、それを見た周囲にの仲間たちに気まずい思いをさせるかもしれないということを。
闘いの日々に生きている自分たちにとって、仲間との連携は軽視できない。
少しでも6人の空気感を良いものに保たなければならなかった。
そのためにも、ノアたちに気を遣わせる要素は少しでも削っておかなければならないだろう。
そんなユーニの気持ちは、タイオンにも痛いほどよく理解できた。


「――だから、みんなに気を遣わせないためにも人前では控えるべきなんじゃねぇかなって」
「……」


黙ったままこちらを見つめるタイオン。
その瞳の奥に抱える感情がいまいち読み取りにくく、ユーニの心に次第に不安が広がっていく。
拒絶したと思われただろうか。肌の接触を嫌がっていると受け取られてしまったかもしれない。
いつもは思ったことをすぐに口に出すことが多いユーニにしては珍しく、相手を決して傷つけないように言葉を選び抜いていた。
そんな彼女の言葉に暫く沈黙していたタイオンだったが、肩から抜けるようなため息をひとつ零すと、ユーニの肩に触れていた手をそっと引く。


「わかった。君の言う通りだ。周囲に誰かがいるときは指一本触れないようにしよう」
「えっ」


“指一本”と強調されたタイオンの言葉がひっかかる。
そんな風に言われたら、なんだか逆に惜しくなってしまう。
触れない選択を迫ったのは自分だというのに、離れていくタイオンの指が今度は恋しくなって、心の糸が絡み合ってしまう。
だが、今更“やっぱり…”なんて言えそうにない。
視線を泳がせながら、ユーニは羞恥心を押し殺しつつ口を開いた。


「い、いや、別に指一本くらいは触っても……」
「あっ」


すると突然、キッチンの外へと視線を向けたタイオンが小さく声を漏らした。
その視線を追ってみると、そこには部下と立ち話をするニイナの姿。
彼女の背中を見つけた途端、タイオンはユーニに背を向けながら歩き出してしまった。


「すまないユーニ。話はまたあとで」
「えっ、あ、おい!」


ユーニの制止も聞かず、タイオンは速足でニイナの元へと向かってしまった。
そしてその背に声をかけると、彼女の腕を取ってどこかへ連れて行ってしまう。
ニイナを連れて遠ざかっていくタイオンの姿に、胸がちくりと痛む。
 
なんだあいつ、アタシとの話よりもニイナを優先するのかよ。
腕を組み、吐き捨てるようにため息を零したユーニは、心に渦巻く怒りに似た感情に戸惑いながら視線を逸らした。


***


「急になんなのよ」


突然現れたタイオンによって腕を掴まれ、“ちょっと来てくれ”と耳元で囁かれたのはつい3分ほど前。
連れてこられた場所は、軍務長室だった。
副官とそれなりに大事な話をしていたというのに、強引に連れ出されたことにニイナは少々立腹している。
何の用かと何度も問いかけたがタイオンは答えず、この軍務長室に到着して周囲を見回し、周りに人がいないことを確認すると彼はようやく口を開いた。


「前に言っていただろう?ノアを前にすると心臓が高鳴ったり落ち着かなくなると。その奇病の正体が分かったぞ」
「本当に?」


その言葉で、ニイナはようやく彼が人気のない場所に自分を連れてきた理由を察することが出来た。
軍務長であるニイナが謎の奇病に悩まされていると周囲に知られたら、コロニーイオタの同胞はきっと混乱するだろう。
この事実を知っているのは、ニイナ本人が直接相談を持ち掛けたタイオンと、彼と協力して解決方法を探しているユーニだけ。
彼ら以外にニイナの現状を知られるわけにはいかなかった。
“なんだったの?”と追及するニイナに、タイオンは眼鏡を押し込み得意げな表情で言い放った。


「それはな、“恋の病”だ」
「コイ……?」


聞き覚えのない単語に、ニイナは眉間にしわを寄せた。
知識量には自信がある方だが、同じく博識なこのタイオンの口から飛び出した二文字の単語の意味はどうにもわからない。
前後の文脈からどうも病の名前のようだが、それがどんな病なのか、何が原因で疾患する病なのかもまるで想像できなかった。


「聞いたことないわね。どうすれば治るのかしら?」
「明確な治療法はないが、症状を和らげる手段ならある」
「どうすればいいの?」
「スキンシップをすればいい。一番効果的なのはキスだ」
「きす……?」


またもや飛び出した意味の分からない単語に、ニイナの眉間に寄せられた皺はより深くなる。
スキンシップといえば、手を握ったり肩を組んだり抱き合ったりするのが主流だろう。
例えばケヴェスとの戦闘に勝利した時、喜びを分かち合うため近くの仲間たちと手を結び握手をしたり、感情を爆発させて抱き合ったりすることはよくある。
 
だが、“キス”とは一体何だろうか。
少なくともニイナの頭の中には誰かと“キス”という言葉に該当するスキンシップをした記憶はない。
そもそもどういうスキンシップなのかも分からなかった。


「なによそれ」
「君はキスも知らないのか」
「貴方は知ってるって言うの?」
「当然だ。僕を誰だと思っている?」


得意げな表情で眼鏡の位置を直すタイオンに、ニイナは密かな苛立ちを感じていた。
知識をひけらかすこの男のしたり顔がやたらとむかつく。
腕を組み、得意げな笑みを浮かべながら軍務長席のテーブルによりかかる彼はいつも以上に偉そうである。


「ふぅん。じゃあ誰かとしたことあるのね?その“キス”とかいうのを」
「ま、まぁ……ある、な」


経験の有無を質問してみると、今度はなぜか少し照れたように視線を泳がせながら肯定してきた。
先ほどまで得意げだったのに、何故今はそんなに恥ずかしそうなのか。
その表情の移り変わりはいつもの堅苦しく真面目なタイオンらしくないように見えて少々気持ち悪い。
 
だが、彼が“恋の病”をやわらげる“キス”とやらをしたことがあるというのなら好都合だ。
どういったスキンシップか判断できない以上、経験者に教わるのが一番である。
ニイナは小さく頷き意を決すると、テーブルに寄りかかって腕を組んでいるタイオンの目の前に立ち顔を覗き込んだ。


「経験があるならありがたいわ。ちょっと私にやってみてくれない?」
「は?」


ニイナからの突然の提案に、タイオンの思考は停止する。
至近距離で見つめてくるニイナの目は至極まじめで、冗談など言っていないようだ。
だが、その真っ直ぐ過ぎる目がタイオンを余計に混乱させる。


「してみるって、なにを…?」
「キスに決まってるじゃない」
「僕が、君にか?」
「当たり前でしょ?他に誰がいるのよ」
「な、なんで僕が!?」
「したことあるんでしょ?どういうスキンシップなのか分からない以上やりようがないじゃない」
「別にわざわざ実践する必要はないんじゃないか?キスというのは口と口を合わせるだけの簡単なスキンシップだし……」
「貴方は新しいブレイドの扱い方を口で説明されただけで使いこなせるの?実践してみないとできないでしょ?」
「そ、それは、そうだが……」
「簡単なスキンシップなら今ここで出来る程度のものなんでしょ?それとも何?私とキスするのはマズいの?」
「い、いや、まずい……のか……?」


知らないことは実践して知るべし。
それは知識会得への第一歩である。
恐らくタイオンもニイナと同じ状況に置かれたら“知りたいから実践してほしい”と頼むだろう。
その行動に何ら違和感はない。
だが、頼み込まれている側に立っているタイオンの頭は今混乱に満ちていた。


「口と口を合わせるんでしょ?ほら、早くしなさいよ」
「そう言われても……」
「顔見るのが気まずいなら目を閉じててあげるから。ほら」


そう言って、ニイナ瞳を閉じる。口付けを待つその表情を見て、タイオンはごくりと生唾を飲んだ。
ニイナは今、ノア相手に発症した“恋”という名の奇病に悩まされている。
同じ症状を抱えている同志として力になりたい。
恋とは何か、キスとは何かと聞かれたら親身になって教えてやるべきなのだろうが、実践ともなると話は別だ。
 
キスとは唇と唇を合わせるスキンシップの一種だが、経験があるとはいえタイオンはユーニ相手としかしたことが無い。
恐らくユーニもタイオン以外とはしたことが無いだろう。
自分たちに知識を与えてくれたモニカもホレイスも、“キスは特定の1人としかしてはいけない”などとは一言も口にしていなかった。
ただのスキンシップなのだから、別に誰とどこでしようが個人の自由なのだろう。
だが、本当にそれでいいのだろうか。

ユーニと初めて唇を合わせたあの瞬間に感じたのは、大きな幸福感と甘い特別感。
あの感覚は、きっとユーニ相手だから得ることが出来た感覚だ。
それを他の誰か、ニイナとも共有していいものなのだろうか。
思い浮かぶのユーニの顔。もしも彼女が他の誰かとキスを交わしていたとしたら?
例えばノアやランツとか。同じコロニー9の仲間であるゼオンやカイツとか。
もしくは自分の知らない誰かと唇を合わせていたとしたら?

あぁ無理だ。辛すぎる。

理由は分からないが、ユーニが他の誰かとキスをしている光景を思い浮かべるだけで嫌悪感が襲ってきた。
人にされて嫌なことは自分もすべきではない。
ニイナの力になってやりたいが、こればかりは協力できそうにない。
誠心誠意言葉を尽くして説明し、なんとかわかってもらおうとしたタイオンは、目の前に立っているニイナの両肩に手を置き口を開いた。


「ニイナ、すまないが——」
「なにしてるの?」


軍務長室の入り口から聞こえてきた不信感を滲ませたその声色に、タイオンは思わずびくりと体を震わせた。
ニイナの肩越しに見えたその人影は、驚きと軽蔑と戸惑いの表情を浮かべたミオだった。
そういえば、前にもこんなようなことがあった。
ニイナと二人でいるところをユーニに見られてしまい、あの時は大いに焦った記憶がある。
そこにいたのがミオで良かったと本能的に安堵したタイオンだったが、当のミオは怪訝な表情を浮かべたままゆっくりとこちらに近付いてきた。


「こんな誰もいないところで2人してコソコソ……。なにしてたの?」
「ミオ、妙な誤解はするな。僕たちはただ——」
「そうよ。別に変なことはしてないわ。ただ“キス”とかいうのをしようとしてただけで」
「き、キス!?」
「お、おいニイナ!」


呆気なく暴露してしまったニイナの言葉に、タイオンは盛大に焦る。
嘘は言っていない。キスをしかけたことは事実であるが、もっと言い方があるだろう。
タイオンがニイナの言葉を訂正するよりも前に、口をあんぐり開けて驚いていたミオが怒りの表情を浮かべながらタイオンの肩を突き飛ばした。


「ちょっとタイオン!ユーニにはあんな態度取ってたくせにニイナにも手を出そうとしてたの!?信じられない!」
「いや、違う!誤解なんだ!」
「何が誤解よ!キスしようとしてたんでしょ!?」


かつてエムとの記憶を共有していたミオは、“キス”という行為がどんな意味を孕むのかよく理解している。
ティーの価値観に照らし合わせてみれば、それは誰彼構わずしていい行為ではないのだ。
 
ユーニと一緒にこのイオタに帰還して以降、タイオンはユーニに特別甘い態度を取ってきた。
まるでシティーの言葉で言う“恋人”のような態度で。
そんな彼が今、目の前で他の女性相手にキスをしようとしていた。
ユーニの友人として、そして同じ女性として、タイオンの行動は許しがたいものなのである。
今にもタイオンに噛みつきそうな勢いで怒鳴っているミオを横目に、状況がイマイチ理解できていないニイナはタイオンをかばうために口を開いた。


「ちょっとちょっと。何をそんなに怒ってるの?私はただタイオンに見本を見せてもらおうとしてただけよ」
「見本?」
「タイオンが、私はノア相手に恋の奇病にかかっているからキスして症状を和らげた方がいいって言うから」
「え?」
「キスがどんなスキンシップかも分からないし、タイオンはしたことあるって言うから実践してもらおうとしただけよ」


ニイナが口にしたのはすべて事実だが、伝え方の重要性が分かってしまうような文脈だった。
そんなことを真っ向から言われたら、ミオは誤解するに違いない。
案の定、ニイナの言葉を聞いたミオは拳を震わせ、その背に見えない炎が揺らめいているように感じた。
怒っている。これは間違いなく怒っている。
それなりに付き合いの長いミオの感情の変化に、聡いタイオンが気付かないわけがなかった。


「……タイオン、説明あるよね?」
「い、いやその……」
「なんで今ここでノアの名前が出てくるの?恋の病って何?どうしてそんなデタラメ言うの?」
「待ってくれ、デタラメなんかじゃ……」
「タイオン」


低い声と共に、ミオの手がタイオンの両肩を掴む。
信じられない握力で肩を掴まれ、脅すような痛みが肩を襲ってくる。
そして、背筋に冷汗をかくタイオンをじっと見つめながら、ミオは囁いた。


「つまり、ニイナがノアとキスするよう仕向けようとしてたってことよね?ついでに自分を練習台にするよう促すなんて……」


あぁまずい。一番悪い方向に勘違いをしている。
タイオンがノアを理由にデタラメをニイナに吹き込み、自分を練習台に使うよう差し向けた、と。
とんでもない勘違いだったが、うわべだけの説明を聞いただけの第三者がそう解釈するのも無理はないだろう。
 
実際、ホレイスから“恋の病”とやらとその対処法を聞いた時はタイオンも“そんな馬鹿な”と鼻を鳴らしたものだ。
事実とは言え信じないのも無理はないだろう。
だがここは何とかして信じてもらうしかない。共に旅をする仲間に“人でなし”の印象を持たれたままなのはいただけない。


「ニイナ、タイオンの言ってることは信じなくていいから。貴方はノアに恋なんてしてないしキスもしなくていいの!」
「そう…なの?」
「そうなの!」


まくしたてるようにニイナに意見を言い放つと、ミオは踵を返し軍務長室から出ていってしまった。
部屋から出る瞬間、一瞬だけ振り返ったミオは視線だけで人を殺せそうなほど恐ろしい目をタイオンに向けていった。
嫌な予感がする。勘違いしたままのミオを放置していたらまずいことになるのではないか。
例えばユーニに勘違いしたままの事実を話してしまうとか。


「すまないニイナ!話はまた後で!」
「えっ、ちょっと!」


制止するニイナの声を背に、タイオンはミオの背を追いかけて走り出した。
彼女を放ってはおけない。
ユーニに妙なことを吹き込まれたらたまったものではない。
ミオの背を追うタイオンの表情は、焦りに満ちていた。


***


マナナの用意したデザートとは、マシュマロだった。
コロニーイオタの真ん中に設置された焚火を囲い、串の先端に刺したマシュマロを火で溶かしながら食べる。
シンプルではあるが、とろけるような甘みは口に入れた瞬間幸福感を与えてくれた。
先にデザートにありついていたランツとセナは既にたらふく食べ尽くし、焚火を挟んだ向こう側で揃って筋トレに勤しんでいる。
そんな暑苦しい光景を見つめながら、ユーニはノアと並んでマシュマロの味を楽しんでいた。


「ノアってさ、ミオとキスしたことあんのか?」


串に刺さったマシュマロを焚火に近付けながら、炎の揺らめきをぼうっと見つめていたユーニの言葉に、ノアは一瞬だけ驚いた。
ユーニは時々急に突拍子もないことを言いだすことがある。
訓練生時代からの付き合いであるノアには、ユーニのそんな性格をよく理解していた。
だからこそ今回も、“なんで急にそんなことを?”などと野暮なことは聞かず、素直にその問いかけに応えてやることにする。


「あるといえばある。ないと言えばないかな」
「なんだそれ」
「エヌの記憶の中ではしてるハズなんだ。ただ、あれは“俺”の記憶ではないから」
「あぁそういうことか」


かつて共有されたエヌの記憶。
覚えのないその記憶の中では、のちにエヌと名乗ることとなるミオと子供をもうけていた。
きっと今の自分たち以上に特別な関係性だったに違いない。
だが、その記憶はあくまで“エヌ”のものであり“ノア”のものではない。
しているはずの口づけに覚えがないのも無理はなかった。


「ミオとしねぇの?キス」
「ンン゛っ」


突然降り注がれた爆弾のような質問に驚き、ノアは喉にマシュマロを詰まらせた。
焦りながら胸を拳で叩くノアの様子に呆れ笑いを零し、ユーニは“大丈夫かよ”と呟きながら背中を擦る。
そして、ようやく詰まらせたマシュマロをごくりと飲み込んだノアは、少しだけ息を乱しながらこちらに視線を向けてきた。


「そ、そりゃあしたい気持ちはあるけど……」
「あるんだ」
「でもしようと思って出来るものじゃないだろ?」
「じゃあ簡単に出来るようになったらいつでもしたいと思う?」
「そりゃあまぁ……というかどうしたんだ?なんで急にそんな話……」


いつも以上に突拍子もない質問の連続に流石に違和感を抱き始めたノア。
何かあったのかと問いかけようとしたその時だった。
遠くの方からこちらへ近づいてくる足音が聞こえたのだ。
ふとその音がする方へと視線を向けると、大股でこちらへ向かってくるミオと、背後から彼女の名前を呼んで追いかけているタイオンの姿があった。
 
こちら、というよりは隣のノアをまっすぐ見つめるミオの顔は、何故だか妙に怖い。
きっとノアに急用でもあるのだろうと思っていたが、ミオは意外にもユーニの目の前で止まった。
そして、背後から駆け寄ってくるタイオンの“待てミオ!”という制止の声を無視して驚くべきことを口にする。


「ユーニ、タイオンがニイナとキスしようとしてた」
「えっ?」
「なっ……、ミオ!」


ミオの口から突如として投下された爆弾に、ユーニは思わずフリーズしてしまう。
ミオの肩越しにタイオンへと視線を向けると、彼はぴたりと足を止めて言葉を飲み込み、気まずげに視線を逸らした。
その態度が物語っている。ミオが言っていたことが事実であるということを。


「ちゃんとタイオンと話した方がいいと思う。それとノア、ちょっと来て」
「え、み、ミオ?」


言いたいことをストレートにぶつけると、ミオは隣に座っていたノアの腕を掴んで無理やり立ち上がらせると、引きずるようにしながら焚火の傍から去っていった。
戸惑いながらついていくしかないノアと、そんな彼を引っ張るミオの背を見送った後、残されたユーニは再びタイオンへと視線を送る。
彼はユーニからの視線に気付きながらも目を泳がせるばかりで、戸惑っているように見えた。
見え隠れする彼の焦りが、ユーニを苛立たせる。
 
この居心地の悪さに耐えられなくなったユーニは、吐き捨てるようにため息を零すと勢いよく立ち上がった。
そして、タイオンの脇を抜けてその場から逃げるように立ち去る。


「ま、待ってくれユーニ!」


何も言わずに去っていくユーニの態度に焦り、タイオンは急いでその背を追いかける。
一瞬のうちにいなくなってしまったノアとミオ、そしてタイオンとユーニ。
その場に残されたランツとセナは、腕立て伏せをしていた体を起こし、周囲を見渡し始める。
急に静かなになった焚火の周りに戸惑いながら、二人は目を見合わせた。


「どうしたんだろう、みんな」
「さぁな」


***


かつてないほどの速足で前へ前へと進むユーニと、それを追うタイオン。
何度名前を呼んでも立ち止まる気配のない彼女にしびれを切らし、タイオンはとうとう駆け足でユーニの前に立ちはだかりその足を強引に止めた。
必然的に止まる足。見上げてくるユーニの瞳は、不満と怒りと悲しみ、さまざまな感情が織り交ざっている。


「頼むユーニ、僕の話を聞いてくれないか」
「……」
「ユーニ?」


黙っているままのユーニに不安が募り、恐る恐るその名前を呼んでみると、彼女は顔を逸らしながら頭の羽根をいじりはじめる。
何か言いたいことがあるのだろう。
自分の言い訳はいったん懐にしまい込み、ユーニの言葉を優先するために黙って待ってみると、ようやく彼女は控えめに口を開き始めた。


「アタシさ、やっぱり恋の病ってのにかかってると思うんだ。お前相手に」


ユーニの青く美しい瞳に射抜かれる。
真っ直ぐすぎる彼女からの言葉は、タイオンの心をひどく締め付ける。
この症状は、間違いなく“恋の病”のせいだろう。
息を呑むタイオンの様子など構うことなく、ユーニは相変わらず心を貫く甘い言葉を続けた。


「タイオンに名前を呼ばれたら心臓が高鳴るし、見つめられたら落ち着かなくなる。もっと触れて欲しいとも思う。でも、アタシと同じこの気持ちをタイオンが別の誰かに向けていたら嫌なんだ」
「ユーニ……」
「こういう我儘な感情も、“恋の病”のせいなのかな」


勝気で、弱い部分を見せたがらないユーニが今、複雑な心境を滲ませながら瞳を揺らしている。
縋るような目と、不安げな顔を見ていると、今すぐにその腰を抱き寄せて胸にしまい込みたくなる。
だが、人前ではそういうことはしないという彼女との約束がある。
その約束を反故にするわけにはいかなかった。


「我儘なんかじゃない」


そう言ってタイオンはユーニの手を取り歩き出す。
“指一本触れない”という約束だったが、どうやら守れそうにない。
“なんだよ”と抗議めいた言葉をぶつけてくるユーニを無視して連れ込んだ先は、コロニーイオタの資料庫だった。
中に入って早々、内側からしっかりと鍵をかける。
これで、外からは誰も入ってこられないだろう。


「タイオン……?」
「これで誰もここには来ない」


資料庫はあまり人の出入りがないせいか、やけに埃っぽかった。
既に外は陽が沈み切っていて、密室である資料庫は暗く視界があまりきかない。
僅かに頼れる光源は、天窓から覗く月明かりのみ。
雲に隠れた月が顔を出すと同時に、妖艶な月明かりが資料庫の中を照らす。
月光に照らされたユーニの羽根は、白く輝いていた。
その美しい姿をじっと見つめながら、タイオンは彼女の両肩に手を添えた。


「君にだけは誤解されたくない。いいかユーニ、今から1から10まで事情を話すから、しっかり聞いてくれ」


邪魔が入らないように、そしてユーニがどこにも逃げないよう状況を作り出したタイオン。
戸惑いつつも頷いてくれたユーニの様子に安堵し、彼は賢い頭で複雑に絡み合った事情を丁寧にほどきながら、ひとつひとつ偽りなく彼女に伝えていく。
 
ニイナがノア相手に自分たちと同じ恋の病に疾患しているであろうこと。
助言のつもりでキスをすれば症状が和らぐと伝えたこと。
経験がないニイナには“キス”がどんな行為なのか理解できず、実践してくれと頼まれたこと。
断ろうとしていたところにミオがやってきて、ニイナが馬鹿正直に状況を説明してしまったこと。
ニイナの言葉を鵜吞みにしたミオが勘違いをしてしまったこと。
 
順序良く説明していたつもりだったが、勘違いに勘違いを重ねた背景は、その場にいなかったユーニにはどうも伝わりにくかったらしい。
話が終わったあとも、彼女は怪訝な顔で首を傾げたままだった。


「——と、言うことなんだが、分かるか?」
「いや、全然。でもまぁ、お前に非はないってことだけ分かった」
「よし。それだけ分かっていれば十分だ」


どうやら、一番重要な事実だけは伝わったらしい。
ようやく安堵したタイオンに見つめられながら、ユーニは瞳を伏せた。
“なんだ、勘違いだったのか”と呟く彼女の声色は、自分以上に安堵しているように思えた。


「ユーニ、僕とニイナの関係を疑って、不安になったのか?」
「まぁ、ちょっとな」
「それはつまり……嫉妬していた、と?」
「……悪いかよ」


腰に手を当て、ふてくされたように顔を逸らすユーニ。
不機嫌丸出しの表情ではあったが、その仕草と表情がどうにも可愛く見えて、心臓の奥が再び暴れ出す。
一定のリズムで鼓動していたはずの心音は急激に早くなっていき、呼吸が苦しくなる。
だが、その息苦しさや胸の高鳴りに反して心は喜びを感じていた。
ユーニを怒らせている事実に焦るべきなのに、何故か嬉しい。
自分が他の誰かと距離を詰めている事実に怒ってくれている彼女の態度が、可愛くて仕方がないのだ。


「不思議だな。君を怒らせているというのに、もっと怒ってほしくなる。これも“恋の病”の症状なのか?」
「お前の性格が悪いだけじゃね?」
「随分な物言いだな」
「だって——」
「ユーニ、この資料庫には人の出入りがない。その意味が分かるか?」


天窓から漏れる月の光が、タイオンの顔を妖しく照らしている。
見下ろしてくるその瞳の奥に見え隠れしているのは、小さな欲望の炎。
そのわずかな揺らめきに気付かないふりをしながら、ユーニは“どういう意味?”と問いかけた。
意味なんて分かり切っているはずなのに。


「ここでなら、君に触れられるということだ」


タイオンの手が伸びてきて、頬に添えられる。
夜の資料庫は少しだけ冷える。
ひんやり冷めきったユーニの肌が、タイオンのぬくもりによって温められていく。
そして、ユーニが瞳を閉じるよりも前に彼はその柔らかな唇に自分のものを押し当てた。
 
2人きりでシティーからイオタに向かっていた道中、揃って“恋の病”にかかっていると判明してからは飽きるほど口付けを交わしてきた。
そのたび症状は悪化したが、唇から伝わる幸福感を忘れることが出来ずに何度も何度も求めあった。
 
イオタに到着してからは人目を気にして一度もしていなかったが、それでも2日ぶりの口付けである。
“久しぶり”と呼ぶにはあまりに短い期間だったが、何故だか数百年ぶりに交わしたような錯覚に陥てしまう。
ただ唇を合わせるだけの“キス”というこの行為が、こんなにも中毒性を孕んでいたとは思わなかった。
 
一度してしまったら、二度、三度としたくなってしまう。
そんなユーニの願望に応えるように、タイオンは彼女の腰を引き寄せ角度を変えながら何度も唇を啄ばんできた。


「ぅんっ」


妖艶な吐息が漏れる。
そろそろ息が苦しくなって離れようと一歩後ろに下がったが、それを許すまいとするタイオンが腰を抱く力を強めた。
やがて、ほんの少しだけ開いた唇から舌が侵入してくる。
タイオンの舌がユーニの舌を絡めとって、赤い舌同士がまるで再会を喜ぶかのように抱き合った。
 
唇が離れては触れる、淫靡なリップ音と水音だけが資料庫に響く。
後ずさりするユーニと逃がすまいと密着してくるタイオンの攻防は数分に及び、ついにユーニの背は壁際に追いやられてしまった。
身体が縫い付けられるように壁に押し付けられる。
もはや逃げ場はない。今はただ、タイオンの舌から流れ込む甘い好意をひたすら甘受するしかないのだ。


「ふ、…んぁっ」


唇が離れた一瞬の隙を狙って息を吸おうとした瞬間、妙に色気のある声を出してしまった。
その声を聴いて戸惑ったのか、タイオンは一瞬だけ舌の動きを緩めたがすぐにまた動き出す。
ゆっくりとユーニの舌の根を撫で、歯列をなぞり、口内を愛でていく。
 
息苦しさから出る吐息が荒くなってきた頃、タイオンの様子にも変化が訪れていた。
頬に寄せられていた右手がユーニの後頭部に回ったのだ。
撫でるというよりは掴むと表現したほうが正しいその手つきは、実にタイオンらしくなかった。
自分が必死になっているのと同じように、タイオンもまた余裕がなくなっているのかもしれない。
そう思うと、ユーニの心と体は驚くほど震えた。
腰のあたりが疼いて、まっすぐ立っていられなくなる。

おかしい。
アタシ、どうしたんだろう。

体の変化に気が付いたと同時に、腰を抱き寄せていたタイオンの左手がするりと移動してくびれに回る。
瞬間、くすぐったいような気持ちいいような感覚に襲われて、体がびくりと跳ねた。


「あッ…、」


今まで聞いたことが無いほど甘く甲高い声が口から洩れる。
全身から力が抜けて、立っていられない。
ようやく唇が解放されたユーニは脱力し、壁に寄りかかりながらその場にへたり込んだ。
肺が酸素を求めている。
唇の端から漏れる唾液など気にする余裕すらなくなって、ユーニは乱れた息を必死に整えようとしていた。


「大丈夫か?ユーニ」
「ん、」


急に座り込んでしまったユーニに焦り、タイオンもその場に膝を折って目線を合わせた。
真っ赤な顔で息を乱し、肩を上下させている彼女の様子は、まるで発熱した時のようにとろけた目をしている。
その瞳と表情がやけに扇情的で、視界に入れた途端タイオンはぐっと息を呑んだ。


「す、すまない。少し強引だった。もうやめるから……」


“もうやめる”
その言葉を聞いた瞬間、ユーニの心に悲しみが広がった。
あんなに苦しかったはずなのに、心臓がバクバク高鳴って辛かったはずなのに、やめてほしくない。
もっと続けてほしい。
何も考えられなくなるまで、この心臓が限界を迎えるまで、やめないでほしい。
熱に浮かされとろけた表情のまま、ユーニは誘うようにタイオンの首に両手を回した。


「嫌だ」
「え…?」
「続けて? もっと、したい」


いつもの男勝りな口調とは違う、甘えるような言葉と態度。
2人きりの時にしか見せることのない彼女のもう一つの顔が、タイオンから余裕と理性を奪っていく。
そして、加速する欲望は“症状”となってタイオンの体を蝕むのだ。


「ぐっ……」
「え、どうした?」
「胸が尋常じゃない力で締め付けられた。なんというかこう……きゅううんという感じに」
「きゅううん……?」


顔を赤くしながら、タイオンは自分の胸を押えて固まっている。
動悸、息切れ、胸の痛みは例の奇病の3大症状だ。
今、タイオンの体はその症状のピークを迎えているのかもしれない。
途端に心配になったユーニは体を密着させ、タイオンの胸板に自分の耳を押し当ててみる。
すると彼の言う通り、服越しに伝わる心音は異常なほど早く、そして大きなものだった。


「お、おいおい。なんかめちゃくちゃバクバクいって……んんっ」


顎を優しく捕まれ、強引に上を向かされたその刹那、何度目かの口付けが降ってくる。
強引さに少し驚きつつも、続けてほしいという要望を叶えてくれたタイオンの行動に、喜びを感じてしまう。
 
舌が絡み合うと同時に、今度はユーニの手がタイオンの頬に添えられる。
触れた瞬間、タイオンの舌の動きが一層激しくなったように思えたのは気のせいではないだろう。
再び体が壁に押し当てられ、感情を押し付けるようなキスは続く。
 
ティーで恋の病にかかった若者たちは、みんなこんな風に相手と慰め合っているのだろうか。
誰にも見られない場所で、こんな背徳感しかないような行為に耽っているのだろうか。
タイオンの甘い舌を受け入れながら、ユーニはそんなことを考えていた。


「ふぁっ」
「ユーニ……」
「はっ、苦しい。舌、疲れた……」


長い口付けの末、とうとうユーニは根を上げた。
既に二人は10分以上も唇を合わせている。
苦しさや疲れを感じて当然だろう。
だが、心を蝕む恋の病はまだまだ軽くなりそうもない。
心と体は、互いの肌を求めていた。


「なら、別のところに口付ければいい」
「え?あっ、ちょっ……」


ユーニの髪に指を入れ、片耳にかけさせたタイオンは、露出した白い首筋にかぶりついた。
口付けというよりは甘噛みと呼ぶに相応しいその行為は、ユーニを大いに戸惑わせる。
鎖骨のあたりに歯があたり、タイオンの赤い舌が撫でるように首筋を走っていく。
ぞわりと体を震わせながら、襲い来るむず痒さに体を縮こませた。


「~~~っ、アッ、んん、」


くすぐったいはずなのに、首筋に伝わる感覚はそれだけではなかった。
腹の下あたりがきゅんとなって、むずむずする。
やめてほしいのに、もっとしてほしい。
未知の感覚に恐怖したユーニは、無意識に足をすり合わせていた。
まるで、何かに耐えるように。
 
口付けている反対側の首筋にタイオンが手を添えて、ゆっくりとその手が腕に降りてくる。
その拍子に、羽織っていたメディックガンナーの上着がするりと肩から抜けた。
露出した肩は白く、ユーニの体温が上がっているせいかほんりと桃色がさしている。
その肩を視界にとらえたタイオンはごくりと生唾を飲み込み、今度はその白い肩に舌を這わせた。
 
ユーニの肩などいつも見ているはずなのに、今この状況下においてはやけに魅力的に見える。
彼女の白い肌を見ていると、衝動が抑えられない。
叶うことなら、この白い柔肌を食べてしまいたい。
彼女の身体すべてに唇を寄せて、何処がいちばん彼女の心に響くのか試してみたい。
頭上から漏れ出ているユーニの甘い声も、この大きすぎる衝動に拍車をかけていた。


「そんな声を出すんだな、君は」
「っ、」
「抑えないでくれ。もっと聞いていたい」


そう囁いて、タイオンはユーニの耳に軽くキスをした。
びくりと体が跳ねるその反応は、きっと喜んでいる証拠なのだろう。
気を良くした彼は、ユーニの耳たぶを舌先で撫で始めた。
ぞわぞわとした感覚とわずかな水音がユーニを追い詰めていく。
左手はいつの間にかユーニの足に添えられており、縮こまった足の内腿をそっと撫で愛でていた。

なんだこれ、こんなの知らない。
熱くて甘くて、ボーッとする。
何も考えられない。頭と身体が変になる。

もはやむず痒さなど消え失せていて、癖になる不思議な感覚がユーニの体中を支配していた。
おかしくなりそうな甘さの連続は、もはや拷問に近い。
抜けきった力を振り絞り、タイオンの服をぎゅっとつかんだユーニは、甘い吐息が漏れる声でようやく彼の名前を呼んだ。


「タイ、オン……っ、もう、むり……、」


限界を訴えるユーニの声に連動するように、タイオンの心臓ももはや限界を迎えていた。
まるで爆発寸前の爆弾のように鼓動する胸が痛い。
このまま放置したら死んでしまうのではないかと思うほどに、締め付けられて、高鳴って、鼓動して、タイオンから平静さを奪い取っていく。
 
ホレイスは、“恋の病は相手とスキンシップを図ることで和らぐ”と言っていたが、冗談じゃない。
ユーニに触れるたび、見つめるたび、近づくたび、症状はどんどん悪化していく。
それでも触れたいと思ってしまうのは、もはや中毒になるほど症状が進行しているからなのだろうか。
きっともう、この病が治ることは一生ないのだろう。けれど構わない。
ユーニも同じ病に犯されていると思うと、不思議と心が踊る。


「こ、これ、いつまで続けるつもりだよ」
「嫌なのか?続けて欲しいと言ったのは君だ」
「だって……。なんか、顔熱いし胸が苦しい。タイオンがキスするたびどんどん悪化してる気がすんだけど」
「そうかもしれないな。でもだめだ。僕が満足するまで付き合ってくれ」


胸元に刻まれた刻印が不意に視界に入り、タイオンはまるで吸い寄せられるかのようにそこに口付けた。
彼女の残り時間を明確に表している僅かな赤が恨めしい。
この白い肌から刻印など消えてしまえばいい。
そう思いちゅうっと音を立てて強く吸い付くと、ユーニが頭上で小さく声を漏らした。
まずい。少し痛かったかもしれない。


「すまない。痛かったか?」
「少し。でも別にいい」


暗がりでよく見えないが、彼女は視線を逸らして顔を背けていた。まるで照れているかのように。
その仕草がたまらなくて、顔をこちらに向けさせようと左手を伸ばしたタイオンだったが、頬に添えられた手はユーニの右手によって剥がされてしまった。
タイオンの左手を捕まえた彼女は、先程彼がしたように手のひらに刻まれている刻印へと口付ける。

タイオンのように強く吸い付くことは無かったが、褐色の手のひらに何度も唇を寄せて愛でるようにキスを落とす。
僕の真似をしているのか。可愛いことをする。
その様子を微笑ましく眼鏡のレンズ越しから見つめていたタイオンだったが、ユーニが指に舌を這わせ始めたことで初めて焦りを感じた。
 
指先に口付け、付け根に舌を這わせ、遂にはぱくりと人差し指を咥えこんでしまう。
なんだそれは。そんなこと僕はしなかったぞ。
驚きつつユーニを凝視すると、様子を伺うようにこちらを見上げてくる上目遣いの彼女と目が合ってしまった。
指を咥えながらとろけた顔をしているユーニの表情を見た瞬間、今まで以上に心臓が激しく鼓動する。
体の奥が熱くなって、息が苦しくなった。


「ゆ、ユーニ……」


彼女を呼ぶタイオンの声は震えていた。
息苦しさから逃れるようにマフラーをするりと首から解いて投げ捨てる。
とにかく体が熱い。
 
戦術士の白い服を脱ぎ捨て、中に着込んだ服の首元まで上げられていたジッパーを胸元まで下げた。
これで少しは涼しくなるはずだ。息苦しさも解消されればいいが。
胸元のコアクリスタルが見えてしまっているが、仕方がない。
だが、ユーニは露出したタイオンの美しいコアクリスタルを放っておいてはくれなかった。
その輝きに手を伸ばし、唇を寄せる。


「あっ、待ってくれ。そこは……」
「だめだった?」
「っ、」


不安そうな顔で見上げてくるユーニの姿に、嫌だとは言えなくなってしまった。
そんな目で見てくれるな。何でも許してしまいたくなる。


「い、嫌じゃない」
「そっか。よかった」


安堵したユーニは、何も遠慮することなくコアクリスタルに口付け始める。
やっぱり嫌がるふりをしておけばよかった。
彼女の唇がコアクリスタルに触れた瞬間、ぞわりとした感覚が身体中を襲い、妙な声が出そうになる。
跳ねそうになる身体を誤魔化すためにユーニの細身を抱き寄せて強く胸にしまい込むと、彼女の豊満な2つの膨らみが胸板に押し付けられた。
あぁ、もう駄目かもしれない。
頭の中の信号はとっくに赤を示していたはずなのに、もう止まれそうもない。


「うわっ」


ユーニの体を床に押し倒してしまったのは衝動的な行動だった。
彼女の髪が床に散らばり、不安げな瞳がこちらを見上げくる。
その瞳に射抜かれながら、タイオンはどんどん自分の呼吸が荒くなっていくのに気がついた。
心臓の奥から中毒性を孕んだ快感に襲われる。
 
自分が立てた策が上手くハマり、相手を翻弄するかのように敵陣を掻き乱している時に感じたあの快感が、脳の奥をピリピリと刺激する。
今目の前にいるユーニという大切な存在を、自分だけのものしてしまいたい。
もっとその不安げな目で見て欲しい。
熱に浮かされた表情で、許しを乞うように名前を呼んで、そして全てを受け入れて欲しい。

いつも気まぐれで、こちらを振り回してばかりのユーニがこんな目で自分を見ている。
それだけで心がぞわぞわして、気分が良くなってしまう。
きっとこれも恋の病のせいだ。そうに違いない。
ならばもっと口付けなければ。
触れて、時には舐めて、この心臓を蝕む症状を和らげなければ。

もっともらしい口実を見つけ、タイオンは口元に笑みを浮かべた。


「ユーニ、まだ胸が苦しいか?」
「だいぶ」
「体、熱くないか?」
「少し熱い」
「そうか。僕もだ」
「治らねぇのかな、この病」
「治って欲しいのか?」
「……正直、治って欲しくない」
「奇遇だな。僕も同じことを考えていた」
 

赤く潤ったユーニの唇に再び口づけると、やはり言い知れぬ幸福感が訪れる。
唇の端から彼女の艶かしい吐息が漏れて、腰が揺れる。
先程から何かに耐えるように擦り合わせている彼女の足が、時折自分の足と足の間に当たって妙な気分になる。
快感と幸福感に襲われながらタイオンはユーニの腰元を指先で撫でた。
その瞬間、絡み合った舌の奥でユーニが甲高い嬌声を挙げる。
 
可愛い。本当に可愛い。どうしようもなく可愛い。
ずっと見ていると、頭がおかしくなりそうだ。
こんなに幸せな気分になれるなら、奇病にかかるのも悪くない。
そんな馬鹿気たことを考えながら、タイオンはユーニの舌を味わうのだった。


***


コロニーイオタの資料庫は、古いわりに人の出入りが極端に少ないようで、内鍵はひどく錆付いていた。
閉まる時はえらく簡単だったくせに、開けるときは渾身の力を込めなければ解錠できない。
アグヌスの兵にしては非力であるタイオンだったが、ケヴェス兵であるユーニよりは力に自信がある。
彼が何度も力を込めた結果、10分ほどの時間がかかった末ようやく解錠に成功した。
力強く鍵の金具を握っていたせいで、褐色の掌は真っ赤になっている。
そんなことを気にする暇もなく、タイオンは資料庫の扉から顔だけ出して周囲を見渡した。


「よし、誰もいない」


周囲に人影がないことを確認すると、タイオンは扉を押えながらユーニを先に外へと出した。
あれから何時間が経っただろう。
既に空は白んでいて、夜と呼ぶにはあまりにも明るかった。
朝のイオタはひどく冷え込む。
資料庫に忍び込んだ時は外よりも中の方が寒く感じたが、いつの間にか体感気温が外と中とで逆転してしまっていた。


「もう朝だな。随分長く中にいたらしい」
「結局全然寝れなかった。ったく、“ゆっくり休め”とか言ってたくせに休ませる気ゼロじゃねぇか」
「終わらそうとするたび君が悲し気な顔で見てくるから」
「見てねぇよ!それはお前の願望だろうが!」


結局、あの夜はタイオンの言う通り資料庫に他の誰かが入ってくることはなかった。
誰かが様子を見に来てくれれば、それを理由に逢瀬を中断できたかもしれないが、幸か不幸か、今夜は2人きりの世界を邪魔する者は誰一人として現れなかったのだ。
そのせいで、延々と続く口づけに二人は揃って疲れて切っている。
 
ようやく舌の絡み合いに飽きてきた頃には、天窓から注ぐ光はいつの間にか月光から朝日に変わっていた。
予定では今日イオタを出発するはずなのだが、寝不足のまま旅を再開しなければならない事実に二人は早くも後悔している。
 
もっとよく考えてことに及ぶべきだった、と。
だが、考える余裕など全くなかったのは事実。
もしも時が巻き戻ったとしても、二人はやはりだらだらと資料庫で甘い時間を過ごしていたことだろう。


「今日からまた旅が始まる。君に触れられる時間が限られてくると思うと、離すのが惜しくなったんだ」


6人のウロボロスは、メビウスを打倒する旅路の徒にある。
このイオタを出発して再び旅が始まれば、以前のように二人きりになれる機会も限られてくるだろう。
人前では指一本触れないという約束がある限り、二人は今日のように甘い時間を過ごすことが出来ないのだ。
次に彼女に口付けられるのはいつになるだろう。
3日後、1週間後。1か月後。
下手をすればゼットを倒すまでお預けになるかもしれない。
惜しんでしまうのは当然の感情だった。

次の機会を夢見ながらため息をつくタイオンの手に、ユーニがそっと自分の手を重ねてきた。
早朝とはいえ、ここはコロニーイオタのど真ん中だ。
人通りがないわけではない。
周囲に人がいないか確認するためきょろきょろとあたりを見回し始めたタイオンの手を握り締めながら、ユーニは小さな声で囁き始めた。


「あのさ、指一本くらいはいいんじゃねぇかな」
「うん?」
「全く触らないのもそれはそれで変だろ?それに、その……。ちょっと寂しいし」
「ユーニ……」


握っていない方の手で羽根をいじるユーニ。
照れ隠しでしかないその仕草と表情に、タイオンの胸は温かくなった。
あぁ、しまった。また口付けたくなってしまう。
指一本だけの許可はおりだが、流石に唇を押し付けたら機嫌を損ねるだろう。
だがしたい。どうしようもなくしたい。
怒られても構わない。これを最後の一回にしよう。
 
そう決意し、ユーニに顔を近づけようとしたその時だった。
彼女が自分の胸元に視線を落とし、“うわっ”と声を挙げたのだ。
その声に怖気づき、タイオンは近付けていた顔をぴたりと止める。


「ど、どうした?」
「これ。なんか痕ついてる。虫刺されとかじゃないよな?」


彼女が指さしたのは、胸元の刻印のすぐ右隣についている赤い痣のような痕だった。
白い肌に散らされた赤色は、刻印のそばということもありよく目立つ。
虫刺されとはまた違って見えるその痕を目を凝らして見つめてみると、熱に浮かされた昨日の情景が脳裏に浮かんでくる。
 
そう言えば、彼女の刻印の周りに何度か強く口付けたような気がする。
彼女に残された時間を示しているその刻印をなんとか消し去ってしまいたくて、出来るわけもないのに唇で拭おうとした。
もしかすると、そのとき無意識に痕をつけてしまったのではないだろうか。
浮かんできた心当たりに気まずくなって、タイオンの視線はきょろきょろと泳ぐ。


「僕が付けた痕かもしれない。さっきそこに強く口付けたから」
「えぇ!? 何してんだよもう。ミオとかセナに見つかったら絶対聞かれるじゃねぇか!」
「す、すまない」


虫刺されでも吹き出ものでも肌荒れでもないそれを見られれば、きっと“それどうしたの?”と質問が飛んでくるだろう。
まさかタイオンに吸われたなどと言えるわけもない。
かといって、この痕が数分で消えるとは思えなかった。
何とかして隠せないだろうかと少し考えたユーニの視界に入ってきたのは、タイオンの首に巻かれたマフラー。
ふっと柔らかな笑みを零すと、彼女はタイオンの長いマフラーを強引に奪い、自分の首に巻き付けた。


「しばらくこれ借りるからな。隠すのにちょうどいいや」
「構わないが……。ダサいと馬鹿にしてなかったか?」
「ダサいっちゃダサいけど、嫌いじゃない」
「なんだそれは」


素直に好きだと言えばいいのに。
そんなことを言ったら、きっと彼女は“うっせぇ”と顔を赤くしてマフラーを投げ返してくることだろう。
彼女の機嫌を損ねたくはない。
自分のマフラーで胸元から口元まで隠して肩をすくませるユーニの可愛らしい姿に、タイオンは何も言わずに微笑んだ。


「じゃ、アタシ他の皆を起こして来るから。タイオンは朝食の準備よろしくな」
「了解した」
ハーブティー用意しておいてくれよ?セリオスアネモネな!」
「はいはい」


首に巻き付けた橙色のマフラーをなびかせながら、ユーニは仲間たちが眠っている天幕の方へと去っていった。
その背が見えなくなるまで見送った後、タイオンは自分の頬が完全に緩み切っていることに気が付いてしまう。
これはまずい。こんなにやけた顔を晒していたら、きっとランツあたりに気味悪がられてしまう。
柄にもないにやけ顔を直すために咳払いをして眼鏡を直す。
表情筋が緩まないように気合を入れると、踵を返して食堂の方へと歩き出した。

すると、この時間いつもは誰もいないはずの食堂に、見慣れた仲間が一人腰かけているのが見えた。
ミオである。
その姿を見つけて、タイオンは思わず足を止める。
昨晩、タイオンは彼女をひどく怒らせてしまった。
ミオの勘違いだったとはいえ、こちらの伝え方にも非はある。
 
いい機会だから謝って誤解を解こう。
そう思い背後から近づきミオの名前を呼んでみたが、彼女は遠くを見つめるばかりで全く反応を示さない。
耳がいい彼女が背後から人が近づいてくる音に気付かないはずがないのだが、意識を明後日方角に向けてしまっているらしく、ぼうっと遠くを見たまま微動だにしなかった。
流石に心配になって一層大きな声で“ミオ!”と呼んでみると、ようやく彼女はびくりと肩を震わせてこちらに視線を送ってきた。


「あっ……なんだタイオンか。びっくりさせないでよもう」
「さっきから何度も呼んでいたんだが?」
「そうなの?気付かなかった」


こちらに気が付いた後も、ミオの意識はどこかふわふわとしていた。
一行の年長者でありしっかり者のミオにしては珍しいその様子に、タイオンは不信感を募らせていった。
何かあったのだろうか。もしかしたら、昨晩のことをまだ怒っているのかもしれない。
だとしたら早く謝らなければ。
はやる心を押えながら“ミオ、昨日のことだが…”と話し始めるタイオンだったが、そんな彼の言葉を遮るようにミオが“あのさ”と話し始めた。


「タイオンって、物知りだよね」
「急になんだ?まぁ、知識量には自信があるが」
「じゃあ、教えてほしいんだけど……」
「なにをだ?」
「ノア」
「ん?」
「ノアのことを考えると、心がぎゅうってなるの」
「えっ」
「これって何かの病気なの?それとも私、やっぱりノアのこと……」


それは今更な質問だった。
ミオやノアは、自分たちよりも関係性が数段先に進んでいると思っていた。
きっと心に巣食う“恋”という名の病原体の正体など、とっくに理解しているのだろう、と。
だが意外にもミオは、ノアに向けられた自分の感情に明確な名前をまだ着けていなかったらしい。
 
自分たちよりもすっと前から兆候が表れていたというのに。
キスの意味はきちんと理解できているというのに。
エヌとエムの記憶を色濃く受け継いでいるというのに。
蝕の日を前に、お互いを守るためあんなにも必死になっていたのというのに。
ここに来てもなお、彼女はこんなにも鈍感なのか。

タイオンが呆れている様子に気が付いたのか、ミオは“何その顔”とどこか不満げな目で見つめてきた。
さて、この呆れるほど鈍感な仲間に真実を伝えてやるとするか。
自分とユーニがようやくたどり着いたこの厄介な病の正体を。


「ミオ、それはな———」


恋という名の奇病。


END