Mizudori’s home

二次創作まとめ

Puppy love

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■現パロ/獣化パロ

■長編

 

ふしぎなわんちゃん

 

その日、僕はひどく疲れていた。
短期のバイトとして入ったレストランでのウエイターの仕事は意外にも重労働で、休憩を除く7時間の立ち仕事は、長時間の二足歩行に慣れていない足腰にはかなりの負担である。
そんなきつい仕事でも最終日まで頑張れたのは、賄いのあまりを店長から貰えるからだ。
今日も僕は、賄いのハンバーグが入った袋を右手からぶら下げ、帰路についていた。

あぁ、とにかく疲れた。
早く帰って“元の姿”に戻りたい。
夜の繁華街を抜け、いつもの路地に入る前に何度か電柱に頭をぶつけそうになった。
この姿ではあまり“鼻”が利かないため、障害物の位置が把握しずらい。
視力が弱い僕にとって、“この姿”で長時間街をうろつくのはハイリスクと言えるだろう。

裏路地に入ると、表の繁華街の明るさが嘘のように周囲は薄暗かった。
右折と左折を繰り返し、細い路地が入り組むスナック街の真ん中にある空地へとたどり着く。
そこで待ち構えていたのは、古い馴染みのミオとセナだった。
ドラム缶の上で揃って丸くなっていた二人は、僕の姿を見て起き上がる。


『おかえり、タイオン』
『お疲れ様』
「あぁ。待たせてすまない」


傍から見れば、大学生くらいの青年が空き地にたむろする野良猫と野良犬に話しかけている奇特な光景にしか見えないだろう。
だが、僕は彼女たちと“同類”だ。
無事に帰って来れた安堵感を噛みしめると同時に、全身から力が抜けていく。
やがて僕の体は徐々に小さくなっていき、視界が低くなる。
二足歩行を保っていられなくなった僕は、空き地の地面に前足をついた。
先ほどまで着ていた服がパサッと地面に落ちて、その中から這い出た僕は乱れた毛並みを整えるために体を激しく震わせる。

尖った両耳と濃いブラウンの毛並み。鋭い牙と目、そしてよく利く鼻を持った僕のことを、人々は“犬”と呼んでいる。
正確には、“シェパード”という犬種らしい。
だが、もっと正確に言うと僕はただの“犬”ではない。“半獣”だ。
“半獣”が一体どんな生き物なのか正確には説明できないが、僕たちを作り出した人間たちはそう呼称していた。
恐らくだが、人にも動物にもなれる生き物のことをそう呼ぶのだろう。
目の前にいる二匹。ラグドールのミオとポメラニアンのセナもまた、僕と同じ“半獣”であり、同じ人間たちによって作り出された存在だ。


『賄いのハンバーグだ。食べてくれ』
『えっ、いいの?』
『タイオンの分は?』
『僕は既に食べてきた。これは2人の分だ』


僕の言葉に、ミオとセナは顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
袋からハンバーグが入った容器を引っ張り出し、二人はガツガツと食べ始める。
相当腹が減っていたのだろう。
白い毛並みにデミグラスソースが付着するのも気にせず食べ進めている。

僕たち3匹は、とある研究所内で生まれた。
そこに常駐していた人間たちの実験によって“半獣”となった僕たちが、その研究所を逃げ出したのは1年ほど前のこと。
度重なる非道な実験に耐え切れなくなった結果、話し合ったうえでの脱走だった。

事情を知らない者が見れば野良犬や野良猫にしか見えない僕たちは、保健所の職員や悪戯半分で近付いてくる悪辣な人間たちの目をかいくぐりながら生きてきた。
当初は他の野良犬や野良猫の群れに合流しようとも考えたが、僕たちの秘密を知った彼らは軽蔑の眼差しを向けながら口々にこう言った。
“人間でも獣でもないバケモノ”と。
当然、僕たちを作り出した“人間”たちも信用できるわけがない。
結局、この3匹で明日をも知れぬ日々を助け合いながら生きていくしか道はなかった。

だが、この人間でもない獣でもない身体が健康に生きていくには、この社会は都合が悪すぎる。
腹を満たそうにも食べ物を簡単に手に入れられるわけもなく、まともに食事にありつけるのは二日に一度程度。
交代で人間の姿になっては、身分証明の必要がない短期の働き口を見つけて金を稼ぎ、そのわずかな金で食いつなぐ日々。
毎日が空腹だった。
このあまりにもひもじい日々に、果たして終わりは来るのだろうか。
日々を重ねるごとに、3匹の不安は次第に大きくなっていった。


***


夜になると僕たち3匹は体を寄せ合って眠る。
一番体が大きな僕が横になって、その腹のあたりに丸まるようにしてミオとセナが眠る。
いつ誰かから襲われるか分からない日常を送る中で、夜は一番警戒しないといけない時間帯だった。
その日もいつも通り空き地の端で眠っていた僕たちだったが、朝になって異常事態が起きていることに気が付いた。
ミオの姿が見当たらない。
空き地の中にも、入り組んだ路地の先にもその姿は見えなかった。

“どうしよう、どこに行ったんだろう”と焦るセナをなだめながら、僕は鼻を使った。
視力が弱い分、僕は同じ犬であるセナ以上に鼻が利く。
ミオの匂いを辿ってみると、途中で知らない人間の匂いが合流していることに気が付いた。
匂いから断定するに、複数の大人の男だ。
おそらくだが、水を飲みに行こうと空き地を出ていった先でこの人間たちに見つかり、追いかけられたのだろう。
風貌までは分からないが、保健所の職員である可能性は高い。
 
ミオの匂いは路地の向こう側まで続いていたが途中でぱったりと途切れていた。
何者かに抱き上げられたに違いない。
追いかけていた保健所の職員らしき匂いの持ち主によってなのか、それとも別の誰かなのか。
とにかく、ミオの行方を辿るための唯一の手掛かりである“匂い”はこれ以上辿れそうになかった。


『どうしようタイオン。ミオちゃん、保健所に連れて行かれちゃったの?』
『わからない。その可能性はあるが、断言はできないな』


“そんなことない。大丈夫だ”と言ってやればよかったのだろうが、そんな気休めを言えるほど僕は気を遣える性格ではない。
正直に伝えすぎてしまった僕の言葉に、セナの表情は一層不安の色が広がっていく。
保健所に連れていかれれば、引き取り手が見つからない限り、殺処分となってしまうだろう。
もしくは、この“半獣”という特殊過ぎる体のことが明るみになり、またあの地獄のような研究所に連れ戻されてしまう可能性もある。
どちらにせよ、保健所の職員に捕まるということは僕たちが一番避けたかった事態であった。

その日一日はミオの捜索に費やされたが、結局彼女の姿を見つけることは叶わなかった。
不安な夜を過ごし、翌日の朝になってもミオは帰って来ない。
昔からミオを姉のように慕っていたセナが“保健所に行って助け出そう”と非現実的な提案をしてきたが、そんな危険な橋を渡るわけにはいかない。
 
そもそも本当に保健所に連れて行かれたのかも分からないのに、近付くのは危険すぎる。
たとえ本当に連れて行かれたのだとしても、僕たちまで捕まってしまっては意味がない。
慎重になるべきだと主張する僕と、何としてでも助けるべきだと主張するセナの意見がぶつかり合い、口論に発展しそうになった時、路地の向こうから誰かが近付いてくる気配を感じて身構えた。

ミオを連れて行った保健所の職員が探しに来たのかもしれない。
セナをかばうために前に出た僕は、良く見えない目で路地の向こうからやってくる気配をじっと睨みつけた。
やがて、近付いてくるその気配の正体が匂いで分かってしまう。


『ミオ!』
『ミオちゃん!』
『タイオン、セナ!よかった、無事だったのね!』


路地の向こうからやって来たのは、他の誰でもないミオだった。
どうやら保健所に連れて行かれたわけではなかったらしい。
尻尾をぶんぶん振りながら喜んでいるセナと体を擦り合わせて喜んでいるミオを見つめ、僕は安堵のため息を零した。
すると、彼女の前足に何やら包帯が巻かれていることに気が付く。
怪我をしたのだろうか。しかも、包帯が巻かれているということは誰か人間に手当てをしてもらったということだ。
一体誰がそんなことを?


『ミオ、その包帯は―――』


疑問をぶつけようとした瞬間、ミオがやってきた方向から別の気配を感じた。
今度は間違いなく人間の気配だ。
走って近付いてくるその匂いから察するに、若い男だろう。
まずい。誰かがミオをつけてきたのかもしれない。
警戒を強めた僕は、ミオとセナの前に立って唸り、威嚇を始めた。
やがて、ぼやける視界に赤い人影が映る。


『はぁ…はぁ…。ミオ、やっと追いついた』


赤いジャケットに、頭の高い位置で一つにまとめ上げられた黒い長髪。
何故かミオの名前を知っていたその男は、僕やセナの姿を見て目を丸くしていた。
顔はぼんやりとしか見えなかったが、保健所の職員とは違うようだ。
だが、だからと言って危険ではないとは言いきれない。
唸りを上げて威嚇する僕だったが、そんな僕の横をすり抜けてミオがその男のそばへと歩み寄っていく。
“危ない。不用意に近付くな”と注意する僕の言葉に、ミオは“大丈夫”と口にして穏やかに笑った。


『二人に紹介するね。彼はノア。私の命の恩人なの』


その言葉に、僕とセナは驚き顔を見合わせる。
彼女が姿を消したこの丸一日の期間に一体何があったのか、全くと言っていいほど想像ができない。
不思議そうに首を傾げている“ノア”と呼ばれた青年を前に、ミオは事情をゆっくりと話し始めた。


3人と3匹

 

「ユーニってさ、猫飼ったことある?」


幼馴染から突然投げかけられた質問に、アタシは眉間に皺を寄せた。
大学の大教室。上階の入り口付近に席を陣取っていたアタシたちは、授業が始めるまで雑談をして過ごしていた。
“金がない”とぼやいていたランツの話を聞いていたのだが、反対側の隣に座っていたノアからの何の脈絡もない質問に思わず頭がフリーズしてしまう。
猫?今まで全然違う話してたのになんで急に猫の話になるんだ?


「犬はあるけど猫はねぇな。なんで?」
「昨日野良猫を保護したから、飼ったことあるならいろいろ聞いておきたいなと」
「野良猫ォ?なんでまた……」


反対側に座っていたランツが身を乗り出して聞いてくる。
ノア曰く、どうやら昨晩家に帰る途中で保健所の職員らしき男たちに追われている野良猫を助けたらしい。
逃げる最中に怪我を負ったらしく、放っておけなくなったため家に連れ帰ったのだという。
話しながら見せてきたスマホには、昨晩撮影したらしい猫の写真が表示されていた。
真っ白な可愛らしい猫である。


「へぇ、かわいい。飼うの?」
「どうだろう。どっかの施設から逃げ出した猫みたいだから、そこに返してやった方がいいかもしれない」
「施設?」
「首輪してたんだよ。“ミオ”って名前と一緒に“アイオニオン先端科学研究所”って印字されてた」


聞いたことのない施設名だった。
名前から察するに何かの研究所らしいが、何を研究しているのかも想像がつかない。
すると、隣の席に座っているランツがスマホをいじりながら“そんな研究所全然ヒットしねぇぞ”と呟いた。
スマホで施設名を検索してくれたらしい。
彼のスマホのディスプレイを覗き込むと、確かに“検索結果 0件”と表示されていた。


「そうなんだよ。俺も昨日調べてみたんだけど何もわからなくて。とにかく今日、動物病院に連れて行こうと思うんだ」
「じゃあおすすめの病院紹介してやるよ。実家の犬が生きてた頃に良く行ってた病院なんだけどさ」


スマホを取り出し、メッセージアプリを立ち上げてノアにURLを送る。
それは、かつて実家で犬を飼っていた頃に何度も足を運んだ動物病院のホームページのリンクだった。
グレイ動物病院というその病院は、病院名にもなっている“グレイ”という獣医が院長を務めている小規模な病院である。
グレイは愛想が悪いが腕は抜群で、実家の犬も何度も世話になっていた。
きっと力になってくれるだろう。


「グレイ動物病院か。ありがとう。この後行ってみるよ」


送られてきたURLをノアが開いたとほぼ同時に、大教室に教授が入室してきた。
席についていた学生たちは一斉に背筋を伸ばし、いじっていたスマホを机の上に置く。
ノアが拾ったという野良猫のことをもう少し詳しく聞きたかったけれど、授業中に私語をするのは憚られる。
猫かぁ。いいな。アタシもペット飼いたい。
早速授業を始める教授を上の席から見下ろしながら、アタシは心の中で呟くのだった。


***


“ユーニとランツに頼みたいことがあるんだ”

ノアからそんなメッセージを貰ったのはその日の夕方ごろ。大学からの帰り道でのことだった。
保護した猫を病院に連れて行くため午前中で大学を後にしたはずのノアだったが、紹介した病院にはちゃんと行ったのだろうか。
“頼みたいこと”の内容を聞こうと思ったのだが、珍しく随分急いでいるノアの様子に急かされ、詳しく質問するのは後にしてとりあえず指定された場所へ向かうことにした。
 
ノアから送られてきた集合場所は、駅前のスナック街がある裏路地の空き地。
カフェやファミレスなどの店ではなく、なぜこんな入り組んだ空き地に呼び出したのだろう。
不思議に思いながら向かうと、既にランツもその場に到着していた。


「え、なにこれ。どういう状況?」


その空き地には、1匹の猫と2匹の犬がいた。
猫は先ほどノアが保護したと言って見せてもらった白い個体で、確か“ミオ”というらしい。
犬は、ポメラニアンが1匹にシェパードが1匹。どちらも野良猫のようだった。
シェパードの方はひどく警戒しているらしく、ずっと唸って威嚇しており、ポメラニアンの方は怯えながらシェパードの後ろに隠れている。
その光景を困った表情で見つめているノアとランツを視界に入れた瞬間、ノアの“頼み”とやらの内容をなんとなく察してしまった。


「急に何かと思ったら、こういうことだったわけね。アタシらにこのワン公どもを引き取ってくれってことだろ?」
「まぁそうなるな」
「はぁ?まじかよノア」


アタシの予想は当たっていたらしい。
なんでも、病院からの帰り道で突然ミオが腕の中から逃げ出し、裏路地に迷い込んだ結果この2匹を発見したのだという。
明らかに野良犬であるこの2匹を見て情が湧いたのだろう。
ノアとしても引き取りたい気持ちはあるが、彼の家はペット可物件とはいえ犬や猫は1匹までしか許可されていない。
既にミオを保護している身であるため他の2匹を世話する余裕がないと判断し、幼馴染であるアタシとランツを頼ったということだった。


「この2匹、ミオの友達みたいでさ。何とかして世話してやりたいけど、流石にうちじゃ3匹は飼えないから」
「俺んちだって無理だぜ?ペット不可物件なんだから。ユーニは実家だし2匹ともいけんじゃね?」
「馬鹿言うなって。家の広さ的には問題ねぇけど2匹飼う金銭的な余裕なんてねぇよ」


独り暮らしをしている2人とは違って、アタシはこの近くにある実家の一軒家に暮らしている。
両親は数年前に交通事故で亡くなっているため、反対する人間は誰もいない。
昔犬を飼っていたため、リードや餌用の皿などはまだ残っていて飼う環境は十分整っていた。
とはいえ、犬二匹を同時に飼い始めるのは流石にハードルが高い。
バイト代と親が残したわずかな遺産で暮らしている学生にはなかなか難しいだろう。
かといって、ワンルームのアパート暮らしであるランツも2匹引き取るのは不可能だ。


「新しい飼い主を探すまでの間、一時的に世話してやってほしいんだ。見つけた以上このまま放置ってわけにはいかないだろ?」
「まぁ、そりゃそうだけど……」


腕を組みながら、ランツは複雑そうな目で犬たちを見つめていた。
心配そうな、それでいて困ったような目だ。
“放っておけない”と言い放つノアの言葉は、実に彼らしい。
3匹の犬猫たちは明らかに瘦せているし、体も少し汚れている。
野良として苦しい生き方をしているのは誰か見ても明らかだった。
保健所に連れて行くのも手だが、もし連れて行った先で新しい飼い主が見つからなかったら間違いなく殺処分となるだろう。
流石にそれは可哀そうだ。

“ミオ”と呼ばれている猫は、既にノアに懐いているらしくあまり怯えた様子は見せていないが、ポメラニアンの方は先ほどからブルブルと震えている。
恐らく人間に慣れていないのだろう。
そんなポメラニアンを庇うように前に立っているシェパードは、先ほどからずっとこちらを威嚇していた。
仲間を守っているつもりなのだろうか。
健気な姿を見て、少しだけ胸が痛んだ。
それはランツも同じだったようで、しばらく3匹を観察した後深い溜息を吐く。


「分かった分かった。可哀そうな犬猫を放置できるほど俺は薄情じゃねぇからな」
「よく言うぜ」


悪態をついてみたものの、アタシとしても異存はなかった。
2匹はさすがに無理だけど、1匹だけならなんとかなりそうだ。
ノアやランツと協力しつつ1匹ずつ引き取れば、それぞれの負担もきっと軽減できるだろう。


「その代わり、俺はこっちのちっこい犬をもらうぜ?うちはワンルームだしこんなどデカい犬は面倒見切れねぇからな。ユーニんとこなら一軒家だし大丈夫だろ?」
「まぁな。じゃあアタシはこっちのでっかい方の犬か」


ランツの狭いワンルームでは、このシェパード犬を隠れて飼うのは物理的に不可能だろう。
最初からそうなることを予想していたアタシは、未だ威嚇を続けているシェパードの前にしゃがみ込んだ。
牙を剥き出しにして警戒感を露わにしているこの犬は、目の前に座り込んだアタシに戸惑いつつも一層唸ってきた。
“それ以上近付いたら噛みつくぞ”とでも言いたげな表情でこちらを睨みつけている。


「そんなに怒んなよ。可愛い顔が台無しだっつーの」


右手で拳を作って犬の顔の前にゆっくりと差し出すと、戸惑ったように威嚇をやめてチラチラとこちらを見てきた。
危険がないか観察しているのだろう。
差し出された拳の匂いをくんくん嗅いだ後、恐る恐るといった様子で軽く舌で舐めてきた。
それは他でもない。“触ってよし”の合図である。
どうやらこの犬は警戒心が強いだけで、そこまで乱暴な性格ではないらしい。
敵意が無いことをしっかり示せば心を開いてくれそうだ。


「賢いな、お前。よしよし」


首の周りからそっと撫で始めると、シェパードは全く抵抗することなくアタシの手を受け入れてくれた。
やがて頭を撫でると少し迷惑そうな顔をしていたが、抵抗するほど嫌というわけではないらしい。
その証拠に、尻尾はわずかに揺れている。
不貞腐れたような迷惑そうな表情を浮かべているけれど、案外撫でられるのは嫌いじゃないのかもしれない。
もふもふな毛並みを優しく撫でつけていると、ポメラニアンを抱き上げていたランツが毛に覆われた犬の首元をかき分けながら“ん?”と首を傾げていた。


「こいつ、首輪してね?」
「あぁ、ミオもしてたんだ。名前が印字されてると思う」


気になって覗き込むと、確かに文字が印字されている。
ミオの首輪にもあったという“アイオニオン先端科学研究所”という施設名と、“Sena”という名前らしき単語。
その印字を見て、ランツは“お前セナっていうのか。いい名前だな”と言って小さなポメラニアンを抱き上げている。
あんなに引き取るのを渋っていたくせに、あっという間にセナの可愛さに絆されてしまったらしい。
一方のセナの方も、先ほどまであんなに怯えていたというのにランツの腕の中でブンブン尻尾を振っている。
臆病ではあるものの、どうやらそれなりに人懐っこい性格らしい。

セナやミオの首にあったのなら、このシェパードの首にも首輪がつけられているかもしれない。
そう思ったアタシは、首元の毛をかき分けながら探してみる。
やはり、首輪はつけられていた。
同じく“アイオニオン先端科学研究所”の文字と共に、“Taion”という印字が並んでいる。


「なんて読むんだこれ。“タイオン”? いや、“タイオーン”か?変な名前だなおい」


すると、首輪を覗き込まれていたシェパードが急に“バウバウ!”と激しく吠え始めた。
何かを伝えようとしているらしい。
もしかすると名前のことかもしれない。


「お前の名前、タイオーンで合ってる?」
「バウ!ワウ!」
「あ、吠えた。自分の名前が呼ばれてるって分かるんだな。賢いなタイオーン」
「クゥン……」


どうやらこのシェパードの名前はタイオーンで合っているらしい。
呼ばれるたびに吠えていたのだから間違いないだろう。
自分の名前をちゃんと認識できているなんて賢い奴だ。
シェパードは警察犬にも採用されている賢い犬種だし、上手く育てれば番犬としても相棒としても頼りになるかもしれない。
なによりカッコいいし可愛い。
ノアから半ば押し付けられるように世話を頼まれた時はどうしようかと思ったけれど、この名犬予備軍であるタイオーンとの生活にほんの少しだけワクワクしている自分がいた。

 

へこへこは笑えない

それは僕にとって“予期せぬ事態”としか言いようがなかった。
ミオの行方が分からなくなったその翌日。
僕たちが根城にしていたあの空き地に、ミオは見知らぬ人間を連れてきた。
“ノア”と紹介されたその人間は若い男で、毒気のない人畜無害そうな男だった。
 
“彼に助けられた”とミオは言っていたが、人間はどうも信用ならない。
無害そうな顔をして近付いてきたと思ったら、常識を疑うほど非道な行動に出る輩もいる。
他の動物に比べて知能が著しく発達しているがゆえに、本性を隠して“普通”のフリをするのがどの動物よりも上手いのだ。
 
奥底に隠れている異常な本性は、見た目や雰囲気だけでは分からない。
この男も、僕たちをこんな身体にしたあの研究員たちと同じように非人道出来な側面を持っているかもしれない。
そう思うと、セナのように“ミオちゃんの恩人なら信じる!”と気持ちよく迎え入れることはできなかった。

やがて“ノア”というこの青年は、スマホを使って誰かに連絡を取り始めた。
それから1時間も経たないうちにやってきたのは大柄な男。
見るからに逞しい腕を持つ男にセナは怯えていたが、“ランツ”と呼ばれたその男はノアと同様僕たちに妙な真似をすることはなかった。
 
その後しばらくしてからやってきたのは女だった。
ぼんやりとしか見えないため顔をしっかり視認することは叶わなかったが、髪の色が明るいことはなんとなく分かる。
“ユーニ”と呼ばれた彼女もまた、僕たちの方を興味深そうに見てはいたものの、やはり危害を加える気配はない。

集まった3人は僕たちを蚊帳の外に追いやり会議を始めたが、話し合いの結果、僕たち3人をそれぞれが引き取ることに決定してしまったらしい。
ミオはノア、セナはランツ、そして僕はユーニが引き取り手だという。
 
冗談じゃない。僕は一言もこの人間たちの世話になるなんて言ってない。
“そんなこと看過できるか”と渋っていた僕だったが、ミオの“じゃあずっとこの生活を続ける気?”という言葉に何も言えなくなってしまった。
野良犬として生きていく生活に限界を感じていたのは事実だった。
保健所による野良犬や野良猫の回収の手は日々苛烈さを増しているし、僕たち3匹のうちいずれ誰かが捕まることになるのは時間の問題と言える。
そうなるよりも、保護するという意思のある人間の元で暮らした方がいいというのがミオの考え方だった。

だが、僕たちはただの犬や猫じゃない。半獣だ。
正体がバレたらどうする?
あの野良犬や野良猫たちのように僕たちを“バケモノ”呼ばわりし、研究所に連れ戻されてしまうかもしれない。
そうなったら終わりだ。
 
ミオは“ノアたちの前で人間の姿にならないように気を付ければいい”だなんて呑気なことを言っていたが、そんな簡単な話じゃない。
何とか抵抗を試みたものの、ミオの意見に乗っかりがちなセナの賛成もあり、結局僕たちは人間たちの厄介になる羽目になってしまった。
結局のところ、僕がどれだけ拒絶の意を示しても人間たちには言葉が通じないのだ。
彼らが“引き取る”と決めた以上、犬である僕に決定権などない。
そうして僕は、新しい“飼い主”となったユーニに従い、彼女について行くこととなった。

空き地を後にし、3人はそれぞれの家に帰っていく。
身体の小さなミオやセナはそれぞれの“飼い主”に抱きかかえられていたが、大型犬である僕をこのユーニという女性が抱えられるわけもない。
彼女の体の横にぴたりと寄り添うようにして一緒に歩くと“リードも無いのにちゃんとついて来て偉いな、タイオーン”と頭を撫でられた。
彼女は僕の名前を正しく把握していない。タイオーンじゃなくタイオンだ。
だが訂正しようにも彼女に言葉が通じることはない。
人間の姿になればまともに会話も出来るのだろうが、流石に彼女の前であの姿を晒す気にはなれなかった。

ユーニの案内でたどり着いた家は、木造の一軒家だった。
古い家ではあるがそれなりに広く、庭や縁側もある。
窮屈な家だったらどうしようかと思っていたが、どうやら杞憂に終わったようだ。


「よーし、あがっていいそ」


スライド式の玄関が“ガラガラ”と派手な音を立てながら開かれる。
中は木の香りが充満していて、心地よく感じられた。
玄関にあがろうと一歩踏み出してみるが、思ったよりも段差が大きかったようで躓いてしまった。
こうして足元がおぼつかず転ぶ日常は、視力が弱い者の性といえるだろう。
ここに来るまでも、何度か電柱にぶつかりそうになってしまった。
この家にはしばらく厄介になるのだし、玄関の段差の高さを早く覚えて見えなくとも簡単に上り下りできるようにならなくては。

そんなことを考えながらひょいっと玄関の段差を上がると、ユーニがその段差に腰かけながら僕の顔をじっと見つめてきた。
何だ突然。僕の顔に何かついているのか?
すると彼女は、いきなりとんでもないことを言い始めた。


「もしかしてお前、結構おじいちゃんだったりする?」


憐れむような視線を送ってくるユーニに苛立った。
おそらく、視力が弱いがゆえに何度も障害物に躓いたりぶつかったりしそうになる僕を見て、“老犬だ”と勘違いしているのだろう。
失礼な、僕はまだ若い。
ただ他より視力が弱いだけの話だ。
しかし、どんなに目で抗議してもユーニに伝わることはない。
一方でユーニは、“この犬はもう老い先短い哀れな老犬なのだ”と結論付けて悲し気な顔をしている。


「タイオーン、その年で野良犬やってたんだな。可哀そうに。偉いぞ。ヨシヨシ」


泣きそうな目で見つめながら頭を撫でてくるユーニ。
そんな彼女に僕の苛立ちは募っていく。
誰がタイオーンだ。“タイオン”だ。
それに老犬でもない。そんな憐みの目を向けてくれるな。
抗議の目線を送ってみるが、ユーニは相変わらず目に涙を貯めながら頭をわしゃわしゃと撫でる。
あぁもう。名前は間違えられるわ老犬だと思われるわ最悪だ。
こんな“飼い主”と上手くやっていけるのだろうか。


***

ユーニの家は十分すぎるほど大きかった。
部屋はいくつもあるし、ふかふかのベッドもある。
広くて日当たりのいい居間は特に居心地が良さそうだ。
こんな広い家に若い女性が一人で住んでいるのだろうか。家族はどうしたのだろう。
そんな疑問を抱きながら、畳の部屋に迷い込んだ僕は奥に飾ってある仏壇を見つけだしてしまう。
なるほど、両親は既にこの世にいないのか、と。
だからこの家に一人で住んでいるのだろう。

この家にはかつて先住犬がいたらしい。
使い古されたリードや犬用の皿が置いてあった。
こびりついていた匂いからして僕よりも一回り小さなオス犬だろう。
ひとしきり家の中を巡って部屋の位置関係を把握し終わた頃、ユーニは“ちょっと出かけてくるな”と言って家を出ていった。

玄関を出る前、彼女は僕の頭をわしゃわしゃと撫でてきた。
乱暴な手つきのせいで毛並みが乱れてしまう。
まったく、撫でるのはいいがもう少し優しく撫でてほしいものだ。
家に一人きりになった僕は、特にやることもなかったためそのまま玄関の前で眠ることにした。
そういえば、短期間で人にこんなにたくさん撫でられたのは久しぶりだ。
猫であるミオや、自分より小さなセナは通行人から“可愛い”と黄色い声を向けられて、子供や女性から撫でられていることも多かったが、体が大きい僕は怖がられる方が多い。
ユーニのような“若い女性”に何度も撫でられるのは、あまりないことだった。

やがて、30分ほどでユーニは帰宅した。
帰ってきて早々、玄関で横になっていいる僕を見たユーニは表情を明るくさせる。
買い物袋をそっと床に置くと、彼女は急に両腕を広げ抱き着いてきた。
な、なんだ急に。
思わず起き上がって固まる僕を腕の中に仕舞い込み、ユーニは猫撫で声を出しながら背中を撫で始めた。


「ずっとここでアタシの帰りを待ってたのか~!偉いぞタイオーン」


いや、別に待っていたわけではない。
特にやることもなかったからたまたまここにいただけなのに。
嬉しそうにわしゃわしゃ体中を撫でくりまわしながら“可愛い”、“偉い”、“賢い”などと一方的に称賛の言葉をぶつけられ、流石に恥ずかしくなってきてしまう。
そんなに褒めちぎることじゃない。そんなに撫でないでくれ。やめてくれ。
ようやく撫でまわすことに飽きたらしく、ユーニは数秒後に僕を開放すると、床に置いていた買い物袋を持ち上げてにっこり微笑んだ。


「お前のごはん買ってきたぞ。あとで食べような」


“ごはん”という単語に、思わず耳が立ち上がる。
そういえば空腹だった。
自分で確保せずとも食事にありつけるとはなんと幸福なのだろう。
毛で覆われた尻尾が、自然とユーニを見つめながら右へ左へと激しく揺れ始めた。


「おっ、嬉しいか!よし、じゃあ用意するから待ってろよ?」


そう言って、ユーニは買い物袋を持ってキッチンへと入って行った。
ついでに自分の食事も用意するつもりらしい。
手を洗ったり何かを包丁で切ったり、色々と作業をしている。
食事が出来る間、僕は大人しく座って待つことにした。
床に座り、キッチンで作業しているユーニの姿をじっと見つめていたが、ほどなくして彼女は小さな平皿に何かを乗せて食卓へと運んだ。
いい匂いがする。
何を運んできたのか気になったため、食卓の椅子に飛び乗って机の上を覗いてみた。
平皿に置いてあったのは、恐らくどこかのスーパーか飲食店で買ってきたのであろう骨付きチキンである。

きつね色の衣と、ニンニク醤油が利いた香りを前にごくりと喉が鳴る。
なんて旨そうな…。
野良生活が長かったせいか、このような肉はご馳走と言っても過言ではない。
食べたい。食べていいのだろうか。とにかく食べたい。
チキンは合計5つある。一つくらいいただいても罰は当たらないだろう。
涎が垂れそうになる前に僕はチキンへと大きく口を開ける。
鋭い牙がチキンへと突き刺さろうとしたその時だった。


「こら!ストップ!」


どすの利いた声で怒鳴られる。思わず体を震わせ口を閉じると、キッチンから走ってきたユーニによってチキンの皿が遠ざけられた。
あぁ、やっぱりまずかったか。
横取りようとしたことを怒られるのだろう。だがユーニはそんな僕の予想に反した言葉をぶつけてくる。


「馬鹿!こんなのそのまま食べたら骨が喉に刺さって危ねえだろうが!」


僕の顔に両手を添え、まっすぐ目を見て叱ってくるユーニの言葉に驚いた。
自分の分を横取りされそうになったから怒っているんじゃないのか。
確かに、人間の姿になった時ならともかく、この犬としての姿のままあの骨付き肉を食べるのは至難の業だろう。
骨まで砕いてしまい、その破片が喉に刺されば大惨事だ。
彼女はそれを心配しているらしい。
そんな理由で叱られるとは思っていなかった僕は、思わず“え…”と声を漏らした。


「もう勝手に食べるなよ?怒って悪かったな」


優しく、そして甘い声だった。
食事を勝手に食べたことではなく、骨が喉に刺さる心配をして怒っているユーニの言動は、僕を大いに戸惑わせた。
胸が苦しい。何だこの感覚は。
突然襲ってきた初めの感情に戸惑っていると、不意に額に柔らかな感触が降ってきた。
驚き我に返ると、ユーニがそっと自分の頭に口付けていることに気が付く。
頭が真っ白になると同時に、心臓がバクバクと高鳴り始めた。


「じゃ、すぐ飯にするから待ってろよ?」


もう一度僕の頭をひと撫ですると、ユーニは軽い足取りでキッチンへと戻っていった。

な、なんだ今のは。
キスされたのか?な、なんてふしだらな。
まだ出会ってたった一日しか経っていないというのに、あのユーニとかいう女性は見知らぬ犬にも簡単にキスをするような人間だったなんて。
なんて軽い女なんだ。尻軽にもほどがある。
僕だったからよかったものの、他の馬鹿な犬だったら完璧に勘違いしているところだぞ。
あんな軽い女性がご主人だなんて納得がいかない。これから上手くやっていける気がしない。
 
不安を募らせる一方で、僕は全く気付いていなかった。
自分の尻尾が右へ左へ激しく揺らめていたことに。


***


翌日、ユーニはどうやら一日暇なようで、リビングのソファに座りながらずっとテレビを見ていた。
ハーブティーとケーキをお供に視聴しているのは、よくわからないバラエティ番組。
画面に映った人間が何かしゃべると、時折ユーニが“あははっ”と笑顔を零していた。
ソファから離れた場所で寝転がりながらテレビをちらちらと見ていた僕だったが、その番組の何が面白いのかイマイチ理解できない。
すると番組はスタジオからVTRに切り替わり、ペットを特集するコーナーが始まった。
画面に現れたのは、たくさんの犬たち。
その映像を見て、ユーニは離れたところで見ていた僕へと声をかけ始めた。


「おいでタイオーン、わんこ特集だってよ」


だからタイオーンじゃない。タイオンだと何度も言っているだろう。
いつまで経っても本当の名前を呼ぶ気配がないユーニに苛立ち、あえて無視をした。
だが、ユーニはそんな僕の態度を全く気にすることなく何度も何度も呼び続ける。


「タイオーン、おいでってほら」
『……』
「おいでタイオーン、一緒に観ようぜ」
『……』
「ほーら、ナデナデしてやっからおいでって」


あぁもうしつこい。
あまりに何度も呼ぶものだから、そろそろ面倒になってしまった。
渋々立ち上がり、ユーニが腰かけているソファにひょいっと飛び乗る。
するとユーニは、随分嬉しそうに猫なで声を上げながら僕の頭から背中のあたりを撫でまわし始めた。


「よしよーし!お前は可愛いなぁタイタイ」


タイタイ…?
聞き慣れない呼び方に思わず顔が歪む。
名前を間違えられるのも屈辱だが、そんな妙な呼び方で呼ばれるのも癪に障る。
二度とそんな呼び方で呼ばないでくれ。
そう言ってやりたいが、どうせ言葉は通じない。
心の中でため息をついていると、頬のあたりにまたあの柔らかな感触が押し付けられた。


『っ、』


またキスされた。今度は頬に。
あぁもういい加減にしてくれ。
誰にでもキスをするのは褒められた癖じゃないぞ。
もう少し恥じらいを持て。撫でるだけならまだしも、この二日という短い間に合計10回はキスされている。
そんなの異常だと思わないか?
それとも人間は誰しも犬に対してこんな接し方をするものなのか?
少なくとも幼少の頃を過ごした研究所の職員たちは僕に対してこんなことはしてこなかったが。

動揺に動揺を重ねる僕の背中に腕を回し、もふもふの体を抱き寄せていたユーニだったが、テレビに映った光景を見て“あ…”と声を漏らす。
その声が気になり、同じようにテレビへと視線を向けて絶句してしまう。
VTRの中で、集められていた犬たちの中にいたとある雄犬が、あろうことか隣にいた雌犬に後ろから抱き着きへこへこと腰を振り出したのだ。
このハプニングを面白おかしく伝えるナレーションに、右上のワイプに映っていたスタジオMCは大爆笑。さらには隣で見ていたユーニもケラケラと笑っていた。


「この犬アホだなぁ」


そう言いながら声を挙げて笑うユーニだったが、そんな彼女の腕の中で例の光景を見ていた僕からすればたまったものではない。
なんて光景を全国ネットで流しているんだ。
あんな、あんな無防備な交尾シーンを放送するなんてどうかしている。
 
たしかにあの雌犬は綺麗な顔と身体つきをしていたからそういう気持ちが沸き起こってしまうのは無理もないが、あんな公衆の面前で腰を振るだなんて。
しかも、何故テレビの中のタレントたちやそれを見ているユーニはこんなにも爆笑できるのだろう。
あんな淫靡な光景を見てなぜ笑っていられる?

あぁまずい。画面を直視できない。
半獣とはいえ犬は犬。他の雄犬が発情し雌犬に縋りついている光景を平然な顔で眺めていられるほど僕は変態じゃないんだ。
とにかく自分を落ち着かせるために目を閉じ、“落ち着け落ち着け”と何度も念を唱え始めた。
そんな念を邪魔するかのように、ユーニの手が僕の尻のあたりを撫で始める。


『そ、それやめろ!』
「ん?なに?いやなの?」


ぞわりとする感覚に思わず叫んでしまったが、ユーニの耳には“わふっ、わふっ”という鳴き声としてしか届かない。
だが、嫌がっているという旨は理解してくれたらしい。
身体を撫でまわす彼女の手がようやく離れたところで、僕はソファから飛び降りそそくさとその場を離れた。
とにかくあのテレビが視界に映らない場所に移動したい。
そんな僕の心情など知るわけもないユーニは、去っていく四つ足を見つめながら小さくため息を零した。


「あいつ、全然懐く気配ねぇじゃん……」


ちん。

実家に犬をあげたのは実に4年ぶりのことだった。
かつてこの家で飼っていた犬はオスの雑種で、両親が結婚と同時に飼い始めたためアタシが生まれる前からこの家で暮らしていた。
中学の頃、両親が事故で死んでからはその犬と二人でこの実家を守ってきた。
やがて高校2年の頃に犬も病気で亡くなって以降は、この家に一人で住んでいたアタシだったけれど、まさかこんな形で家族が増えるとは思わなかった。

タイオーンは老犬のようだったが、賢くてもふもふでとにかくかわいい。
あまり愛想がいい方ではないけれど、そこまた可愛く思えた。
無駄吠えはしないし、噛みついたりしないし、餌を前にちゃんと“待て”が出来るし、まるで人間の言葉を理解できているのかと疑いたくなるほど頭がいい。
ただ年齢のためか視力が弱いことはちゃんと注意してやらないといけない。
目を離したすきに車に惹かれたりしたら最悪だ。


「タイオーン、おいで」


夜。
風呂からあがったアタシはタイオーンと遊んでやろうと思い名前を呼んだ。
タイオーンは一瞬だけこちらをチラッと見たものの、床に寝ころんだまま動こうとしない。
アイツは可愛いけれど、名前を呼んでも一発では駆け寄って来てくれないという難点があった。
気難しい性格なのだろうか。とにかく無視とはいい度胸だ。


「おーいタイオーン」
「……」
「タイオーンってば」
「……」
「タイタイおいで」


それまで無視を決め込んでいたタイオーンが、“タイタイ”と呼んだ瞬間顔を上げてこちらを凝視してきた。
ぎょっとした顔で見つめてくるタイオーンは、しばらくこちらを睨みつけた後とぼとぼと遠くへ去っていってしまう。
おいでと言っているのになんで遠ざかるんだよ。
もしかして、“タイタイ”呼びが嫌なのか?仕方ねぇな。


「タイオーン、おやつだぞー」


背後に隠していたビーフジャーキーの袋を取り出すと、タイオーンは爆速でこちらに駆け寄ってきた。
このビーフジャーキーは、先ほど近所のスーパーで買った犬用のおやつである。
先ほどまでうんざりしたような顔をしていたくせに、“おやつ”と聞いた途端目を輝かせるなんて現金な奴。
少しだけ腹が立ったアタシは、この賢くも可愛げのない犬にちょっとした意地悪を仕掛けてみることにした。


「おすわり」


どこぞの研究所から脱走してきて長年野良犬をやっていたなら、いくら賢くてもそんな芸当出来るわけがない。
訳が分からず首を傾げるであろう姿を見て笑ってやる。
そう思っていたのだが、あろうことかタイオーンは目の前で即座に腰を下ろした。
えっ?あれ?こいつ、“おすわり”が出来るのか?
いやいやたまたまかもしれない。他の芸も試してみよう。


「お手!おかわり!伏せ!」


“おすわり”に引き続き、“お手”も“おかわり”も“伏せ”すらも迷うことなくやってのけたタイオーンに驚いてしまう。
研究所でしつけられたのか?
とはいえ、長く野良犬生活を送っていれば仕込まれた芸も忘れそうなものだが。


「ゴロン!回れ!ジャンプ!」


難易度の高いこれらの芸も、難なくやってのけた。
シェパードは警察系にも採用されるほどの賢い犬ではあるが、ここまで賢いとは。
芸をこなすたび、タイオンの表情がどや顔に見えてきてなんだか腹が立つ。
もはや賢すぎて、こいつが出来ないことを発掘したいという気持ちに駆られ始めていた。


「じゃあ……ちんちん!」


指示を出した途端、タイオーンの体がビクっと震えたと思ったらすぐに固まった。
さっきまではあんなに迷いなく機敏に芸をこなしていたのに、どうしたというのだろう。
まさか、伏せやジャンプは出来るのに“ちんちん”だけできないのか。
もう一度“ちんちん”と支持を出してみると、今度はばつが悪そうに顔を逸らした。
これは“出来ない”というよりも、“分かっていてしたくない”という表情に違いない。


「まさかお前、“ちんちん”するの恥ずかしいのか?」


顔を覗き込むと、タイオーンはちらちらと視線をこちらに寄越しつつやはり顔を逸らした。
あぁこれは間違いない。恥ずかしがっている。
犬がいっちょまえに“ちんちん”のポーズを恥ずかしがっている。
その事実に気が付き、腹の奥から笑いがこみあげてきた。


「ぶはっ!お、お前マジかよ、“ちんちん”ハズいの!? そんな犬見たことねえよ、あっはははは!」


あまりの可笑しさに笑いが止まらなくなってしまう。
胡坐をかいていた自分の膝をバシバシ叩きながら声を挙げて笑っていると、視界の端に明らかに不機嫌なタイオーンの顔が見えた。
自分が笑われている事実を理解しているのだろう。
するとタイオーンは、急に身を乗り出してアタシが手に持っていたビーフジャーキーを咥えて奪うと、逃げるように駆け出してしまった。


「あっ!こら馬鹿犬!待ちやがれ!」


まだ“よし”とは言っていない。
勝手にジャーキーを持ち去ってしまったタイオーンに怒って追いかけるも、すばしっこいシェパードの足に追いつけるわけもなかった。
結局、“ちんちん”以外のすべての芸をマスターしているタイオーンは、どや顔でジャーキーにありつくこととなった。


***


髪の手入れをしてスキンケアをする。
白湯を飲んでストレッチをして最後に歯を磨くのがアタシの夜のルーティーンだった。
そんな毎晩のルーティーンに、“タイオーンを撫でる”という新しい項目がつい最近追加された。
相変わらず名前を呼んでも反応してくれることは無かったけれど、頭を撫でた後に額にキスを落とすと長くしなやか尻尾をゆるゆると振ってくれる。
 
先ほども何度かキスをした後に尻尾を振っていた。
犬の感情は尻尾に出る。落ち込んでいるときは元気なく垂れ落ち、怒っているときは逆立てている。
尻尾を振っているときは、もっぱら喜んでいるときに見られる兆候である。
どうやらこの“タイオーン”という賢い犬は、キスされるのが好きらしい。
不貞腐れたような顔をしているけれど、尻尾は口ほどにものを言う。


「なぁタイオーン。お前、ただの野良犬なのか?」


頭を撫でながら問いかけるアタシの言葉に、タイオーンの耳がピクリを反応する。
けれど、相変わらず顔は逸らしたままだった。


「このアイオニオン研究所ってところに帰りたい?」


毛に隠れた革製の首輪に指を這わせてみる。
そこには、“Taion”の文字と並んで“アイオニオン研究所”と記されている。
この研究所が、具体的にどんなことを研究していた施設なのかは知らない。
だが、おそらくタイオーンはこの施設で生まれたのだろう。
どれくらい長い間この施設で過ごしたのかもわからない。
何故逃げ出したのか、その行動が故意だったのか事故だったのかもわからない。
人の言葉を話すことなど出来るはずもないタイオーンの心を知るすべは、よく観察して信頼関係を築くしかないのだ。


「この研究所とアタシの家、お前にとってどっちが居心地いいんだろうな」


もしもここにいるより研究所に戻ったほうがコイツのためになるというのなら、きっと返してやるのが筋なのだろう。
けれど、タイオーンは可愛い。
素直さには欠けるけど賢いし、もふもふだし。
この広い家にいると、不意に寂しさに駆られることがある。
けれど、コイツがいることでそういう寂しさも少しは紛れる気がする。
アタシにとってはタイオーンがいてくれた方がいいんだろうけど、コイツはどう思ってるんだろう。
あぁ、コイツが人の言葉を喋ってくれたらいいのにな。
なんて、あり得ないことを考えながら頭を撫でていると、それまでずっと顔を逸らしていたタイオーンがじっとアタシの顔を見つめてきた。


「どした?」


首をかしげて問いかけると、タイオーンは頭を撫でていたアタシの指をペロッと軽く舐め上げた。
アタシの言葉を理解しているとは思えない。
けれど、その行動はまるで問いかけに応えているかのようだった。
やっぱりこいつは賢い奴だ。それでいて、かつ優しい奴だ。
もしもこいつが人間だったなら、賢くて優しくて、それでいて少し不器用で照れやな男なんだろうな。
あ、そういえばコイツ、おじいちゃんなんだっけ。年寄りに“コイツ”呼ばわりは失礼だったかな。


「なぁタイオーン。一緒に寝よっか」


今夜はなんとなく、何かを抱きしめて眠りたい気分だった。
目の前にはいい感じのもふもふな体。こいつを抱き枕にしない手はなかった。
アタシの言葉に、タイオーンは首を上げてぎょっとした顔で見つめてくる。
寝室の電気を常夜灯に切り替え、室内が暗くなったと同時にベッドに腰掛けた。
低反発のマットレスがわずかに沈む。


「ほらおいで。床で寝るよりいいだろ?」


隣をポンポン叩いてベッドに上がるよう促してみたけれど、タイオーンは視線を泳がすばかりで一向に近づいて来ることはなかった。
しばらくそわそわした後、彼は背を向けて速足で遠ざかっていく。
器用に鼻先で扉を開けると、寝室からそそくさと出て行ってしまった。
 
なんだあれ。ツンデレな猫は聞いたことあるけど、ツンデレな犬なんて聞いたことねぇぞ。
可愛いと思ったけど、やっぱり可愛くねぇ。
犬なら犬らしく“おいで”と言ったら尻尾をぶんぶん降ってタックルしてくるくらいの愛嬌は見せろよな。
むっと口を尖らせながら、アタシは布団の中に潜り込んだ。

暗い寝室の天井を見つめながら、色々なことを考えていた。
例えば、タイオーンはどうしてあの研究所を脱走したのかな、とか。
脱走したあと、いろいろ苦労したんだろうな、とか。
それなりに年がいっているようだけど、何歳なのかな、とか。
視力が弱くなったのは年齢のせいなのかな、とか。
 
天井を一点に見つめているうちに、いつの間にか30分ほどが経過していた。
ようやくウトウトし始めた頃、寝室の扉がキィ…と音を立てて開かれる。
視線を向けると、タイオーンが扉の隙間からこちらを伺うように見つめていた。
どうやら戻って来たらしい。


「やっぱ一緒に寝るか?おいで」


布団をめくって招き入れようとするも、タイオーンはツンとした態度を崩さず、顔を逸らす。
ベッドの近くに歩み寄っては来たものの、上に上がることはなくそのまま床に寝転がった。
近くで寝る気はあっても、隣に寝転ぶ気にはならなかったらしい。


「ったく、やっぱ可愛くねぇなお前」


すぐ下で眠っているタイオーンの頭を乱暴に撫でまわすと、アタシは再び布団をかぶった。
タイオーンとの生活は、こうして静かに幕を開けた。
この時からコイツに特別感を感じていたアタシだけど、まさかあんなにも大きな秘密を抱えていただなんて、当初は全く考えていなかった。


***


土曜の朝は、大学がないため朝寝坊が出来る。
いつもはスマホのアラームで起床するけれど、その日の朝は10時近くまでベッドの中でぬくぬくと寝転んでいた。
まだ眠気が晴れないタイミングで、ベッドの掛布団が何者かによってぐいぐいと引っ張られる。
何事かと目を開けると、不機嫌な顔で布団を引っ張るタイオーンの姿があった。
“いい加減起きろ”と怒っているのだろう。
そうだ。アタシはもうこの家に独り暮らししているわけじゃない。タイオーンという家族がいる。
引き取ったからにはちゃんと世話をしてやらなくちゃ。

眠気眼を擦りながらベッドから這い出ると、キッチンに向かってタイオーンの餌と飲み水を用意し始める。
床において“よし”と合図すると、彼はようやく振舞われた食事に尻尾を振りながらがっつき始めた。
タイオーンが食事を楽しんでいる間に、アタシは歯磨きと洗顔を済ませる。
そして、寝巻のまま外に出て郵便受けを覗き込むと、チラシや公共料金の請求書と一緒に一枚の封筒が入っていた。

あぁ、またか。
うんざりしながら封筒を裏返すと、やはり差出人の名前はない。
切手もない、消印も押されていないその封筒は、この郵便受けに直接投函されたものだということが分かる。
封を切って中身を取り出すと、一枚の手紙と数枚の写真が入っていた。
手紙を取り出すと、そこには“今日も綺麗だったよ”の一言。
一緒に入っていた写真は、カーテンが半開きになった家の窓から隠し撮りされたアタシの写真だった。

歪んだ好意と悪意を孕んだこの封筒は、ここ3カ月の間、週に2回ほどのペースで郵便受けに投函されている。
いわゆるストーカーという奴だ。
当然、投函された不気味な手紙や写真を持って何度か警察に相談しに行ったのだが、“実害が出ていないのなら動きようがない”とやんわり断られてしまった。
念のため家の近くのパトロールを強化してくれると話していたが、あまりアテにはならない。
 
この家にアタシ以外の家族がいたらそこまで恐ろしくはなかったのだろうが、あいにく両親はこの世を去っている。
頼れる相手はノアやランツといった幼馴染くらいだが、あまり心配はかけたくなかった。
警察の言う通り、週に2回ほど不気味な手紙や隠し撮りが投函されるだけで危害を与えられたわけでもないし、過敏に心配させるのも申し訳ない。
それになにより、アタシはストーカーに怖がるようなガラじゃない。
無視をし続ければいずれ相手も飽きるだろう。
そう思い、アタシは今日も投函された手紙と写真をゴミ箱に叩き込むのだった。


名犬タイオーン

一緒に寝よう、だなんて馬鹿らしい。
ユーニは無邪気にニコニコ微笑みながら布団をめくり、“こっちへおいで”と誘った。
いくら犬と人間だからといって、オスとメスである事実は揺らがない。
性別の違う生き物である僕たちが同衾するなんて倫理的におかしいだろ。
悶々としながら朝を迎えた僕だったけれど、日が昇って何時間経ってもユーニが布団から起き上がることはなかった。
まったく世話のかかる人間だ。仕方ない。起こしてやろう。
布団の端を咥えてぐいぐい引っ張ると、ようやく起き上がったユーニが名前を呼んでくる。
相変わらず“タイオーン”と間違った名前で呼んできたが、優しく頭を撫でられたのでまぁ良しとしよう。

彼女は随分僕のことを気に入っているらしい。
頻繁に僕の顔を見つめては、“お前は本当に可愛いな”なんて言って頭を撫でて来るし、ことあるごとに名前を呼んで近くに呼び寄せようとする。
そのうえ、かなりの頻度で額や頬にキスをしてくる。もしかすると僕に惚れているのかもしれない。
何度も名前を呼んだり頭を撫でたりキスをしたりするのは好意の証か。
だが残念ながら、僕は犬で君は人間だ。
人間の女性を“異性”として見ることはできないし、彼女の好意に応えることはできないだろう。
君の気持ちは受け入れられない、と伝えるべきなのだろうが、人間の姿になって正体がバレるのは避けたい。
少々可哀そうではあるが、彼女好意をやんわり態度で拒絶するほか僕の気持ちを伝える術はないのだ。


「散歩行こうぜ、タイオーン」


陽が沈み、外が夜の闇に包まれ始めた頃、ユーニはリード片手に声をかけてきた。
散歩は好きだ。広い家に住まわせてもらっているとはいえ、やはり限られた場所しか歩けないという状況はストレスが溜まる。
散歩はストレス解消にうってつけな習慣であった。
 
首輪にリードをつけられ、ユーニによって外へ連れ出される。
閑静な住宅街の中は随分と静かで人の気配がない。
本当はもう少し早く歩きたかったが、ユーニの歩く速度はやたらと遅い。
構わず駆け出しても良かったが、そのせいでユーニがずっこけて足を怪我されたら散歩がお預けになってしまうかもしれない。
ここは彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩くことにしよう。


「お前、ちゃんとアタシのすぐ横を歩けて偉いな。前飼ってた犬は好き勝手にぐいぐい走ろうとする奴だったから散歩大変だったんだよなぁ」


先住犬は僕と違って本能で生きるタイプだったらしい。
同じ犬とはいえ、僕をその辺の犬と一緒にしないでほしい。
僕は飼い主を強引に引っ張って前へ前へと進んでしまうような不躾な犬ではない。


「あいつ、ちょっとおバカだったけど可愛い奴だったんだ。素直だしよく懐いてたし。なにより愛嬌たっぷりだったしな」


先住犬はそんなに可愛い奴だったのか。
というか、何故それを今の飼い犬である僕に話すんだ。
それにその言い方だと僕は素直じゃないし懐かないし愛嬌もないみたいじゃないか。
失礼な。僕が不愛想だとでもいうのか。それなりに愛嬌を振りまいているつもりだったのに。
君だって可愛い可愛いと連呼しながら頭を撫でていたじゃないか。
僕を好きなくせに他のオス犬の影をチラつかせるなんて。
僕より先住犬の方が可愛いとでもいうのか。


『?』


不意に背後から人の気配を感じた。
他の通行人だろうか。
振り返った先には誰もいない。
視力が悪いせいでよく見えないが、その分耳や鼻は他の犬よりも優れているという自覚がある。
息を殺し、舐めるような視線を感じる。
このいやらしい気配はただの通行人じゃない。
十中八九、僕たちをつけてきている誰かのモノだった。
まさか、例の研究所の職員に見つかったというのか。
僕を連れ戻すため、ひそかに後をつけているのかもしれない。
そうだとしたら、このまま家に帰るのはまずい。家の場所が特定されて、ユーニにも迷惑がかかる可能性が高くなる。
それだけは嫌だった。


『誰だ!?』


足を止め、背後を振り返り怒鳴り散らす。
静かな住宅街に、“バウっ”という僕の鳴き声が響き渡る。


「急にどうした?」


立ち止まり、背後に向かって吠え出した僕に視線を落としてユーニは問いかける。
その声を無視して何度も背後に吠え続けると、電柱の影からひとつの人影が飛び出した。
脱兎のごとく逃げ出したその人影に、ユーニは“うわっ”と声を挙げて怯む。
まずい。逃げられる。
リードと掴むユーニの手が緩んだすきを狙って、僕は逃げ出した人影を追って走り出す。


「ちょ、おい!タイオーン!」


男は住宅街の細い路地を走り続けるが、僕の足に敵うわけがない。
暫く走ったのち追いついた僕は、逃げ出した人影の腕に向かって思い切りかぶりついた。
牙を突き立てたことで激痛が走り、人影は悲鳴を上げながらようやく足を止める。
今まではよく見えなかったため人影の正体は分からなかったが、悲鳴を聞いて分かった。どうやらこいつは中年の男のようだ。
僕はともかく、保護してくれたユーニにまで危害を与えるのは許さない。
怒りを込めて牙を突き立てる僕の視界の端に、こちらへと駆け寄ってくるユーニの姿が見えた。


「お、お前……!」


僕に嚙みつかれている男の顔を見て、駆け寄ってきたユーニの表情は凍り付いた。


***

その後はまさに怒涛の展開だった。
ユーニがいつの間にか呼んでいた警察の手によって男は連行され、僕はユーニと一緒に警察署へと連れていかれた。
デスクでよくわからない書類に署名するユーニの横に座り、眠気をこらえながらじっと座り続けていたが、さすがに疲れがたまってくる。
だが、僕以上にユーニの方が疲れている様子だった。
いつもは明るい彼女だが、今日ばかりは気落ちしているように見える。
 
どうしてだろう。僕が余計なことをしたせいだろうか。
ユーニを守るため、後先考えずに走り出した僕だったが、彼女からしてみれば迷惑な行動だったのかもしれない。
結局、僕たちが警察署を後にしたのはすっかり夜も更けた深夜のことだった。
夜も遅いということでパトカーで送ってもらった僕たちは、疲労を滲ませながら家へと帰る。
リビングの電気をパチンとつけたユーニは、ため息をつきながら言った。


「風呂、はいるか」


最初はユーニが入浴するものかと思っていたが、どうやら違ったらしい。
部屋着に着替えたユーニは、ズボンの裾を捲り上げると僕に向かって“おいで”と手招きした。
どうやら、僕を風呂に入れるらしい。
野良犬生活が長かったせいか、自分でも嫌になるほど身体が汚れていた。
いつか風呂に入れてもらいたいと思ってはいたが、何故このタイミングで?
 
不思議に思いながらも大人しく付いていくと、ユーニはシャワーの蛇口をひねった。
僕の背後に座り、弱めの水圧に設定した温かいシャワーを僕の背中に当てる。
犬も猫も風呂ギライな奴が多いが、僕は比較的好きな方だった。
やがて、犬用のシャンプーを取り出して僕の身体をごしごしと擦っていく。
おそらくこのシャンプーは先住犬に使っていたものだろう。
おさがりを使われていることは少々気に食わないが、この清潔な香りは割と好きだった。


「アタシさ、最近ずっと気持ち悪い嫌がらせされてたんだ」


突然、僕の背中を洗ってくれていたユーニが呟いた。
泡立った指で僕の背中を掻いてくれる彼女の手つきを楽しみながら、ユーニの独り言に耳を傾ける。


「盗撮されたり変な手紙投函されたり。いわゆるストーカーってやつだな。たぶん、さっきお前が捕まえてくれた奴が犯人だったんだと思う」


ストーカー。聞いたことがある。
確か歪んだ好意を向けて相手に迷惑をかける輩のことだ。
質が悪いと相手に危害を加えることもあるという。
今までそんな素振りを見せなかったため知らなかったが、どうらやユーニはストーカー被害に悩まされていたらしい。
なんだ。あいつは研究所の職員ではなかったのか。
少し肩透かしを食らった気分だった。


「ありがとな、タイオーン。お前のおかげで助かったよ」


背中を洗いながら、ユーニを言う。
当初は僕の後をつけていたのだと思っていたのだが、あの男の本来の目的はユーニだった。
僕があの場にいなかったら、もしかするとユーニはアイツに危害を加えられていたかもしれない。
そう考えると、確かに僕の行動はユーニを救ったと言えるだろう。
これを恩に思うなら、僕に対する待遇をもう少し良くしてもらいたいものだ。
例えば食事のグレードを上げるとか、ビーフジャーキーの頻度を高くするとか。


「お前、あんなに足速いんだな。嚙む力も強かったし。やっぱりシェパードは頼りになるな」


当然だ。僕を誰だと思っている。
足腰の強靭さは勿論、反射神経も犬の中ではトップクラスの能力を持っている。
目は悪いが鼻も耳もいい。こんな有能な犬を傍に置けているというだけで贅沢というものだ。


「可愛いし、賢いし、それでいてカッコいいなんて。完璧だなタイオーンは」


何だ急に。どうしてそんなに褒めるんだ。
全て自負していることではあるが、イキナリそんなに褒め殺しされると流石に戸惑うだろう。


「お前がうちに来てくれてよかったよ。ホントありがとな」


い、いや、別にそこまで感謝されるようなことはしていない。
後をつけてくる男を追いかけて噛みついただけのことだ。
それに、主人を守るのは犬として当然の役目というか、そんな何度もお礼を言わなくても…。
僕も、その、悪意のある人間よりはきちんと世話をしてくれる君のような人に保護されて僥倖だった。
君がいなければ、僕はいつか行き倒れていただろうし、感謝するのは僕の方だ。
だからそんなに何度もお礼を言ったり過剰に礼を言ったりしないでくれ。心がむず痒くなる。どうしていいかわからなくなる。


「本当はさ、あの研究所に返した方がいいのかなって思ってた。その方がお前にとって幸せなのかもしれないし」


えっ…。
思わず思考が停止する。
あんな研究所に戻るのは死んでも嫌だった。
ここにいたい。いさせてほしい。
あの地獄のような実験の日々に逆戻りするくらいなら、ユーニに延々と“可愛い”と頭を撫でられ無駄にキスをされる日々の方がよっぽどいい。


「けど、やめた。アタシ、お前と一緒にいたい」


自然と耳が動く。
風呂の中で響くユーニの言葉を一言一句聞き逃さないようまっすぐ立ち上がる耳に、彼女の綺麗な声と言葉が届いた。


「アタシが一生面倒見てやるからさ。アタシと一緒にいようぜ、タイオーン」


背後から浴びせられた言葉に、僕は頭が真っ白になった。
そんなことを言われたのは初めてだったから。
識別番号3257、個体名称、タイオン。
それが、あの研究所でつけられた僕の名前だった。
倉庫に山のように積まれた檻の中には、僕と同じ実験体である犬や猫、ウサギや鳥がいた。
 
過酷な実験の日々を重ねるごとに減っていく実験体。
毎日のように補充される新しい実験体。
あの研究所において動物の命など部屋の埃よりも軽く、死ねば補充すればいいという価値観の元職員は毎日僕たち実験体に接していた。
たとえ僕が実験末息絶えたとしても、明日には変わりの実験体がやってきて僕の存在など忘れ去られていただろう。
僕の代わりなんていくらでもいる。
なのに、ユーニは今僕と一緒にいたいと言った。
その事実が、胸に刺さる。

何故?そんなに優しくしてくれる?
どうしてそんなに僕を必要としてくれる?
そんなに僕が好きなのか?
名前を呼んで微笑まれるのも、柔らかい手つきで頭を撫でられるのも、甘い言葉で褒められるのも、初めてだった。
この胸をつく感情は一体なんだ?
心臓が熱い。目の奥がじんとする。
僕もユーニと一緒にいたい。もっと彼女に必要とされたい。褒められたい。頭を撫でられたい。“可愛い”と言ってもらいたい。頼りにされたい。
突然無数の感情が湧き上がってきて、頭を支配する。
僕はどうなってしまったんだ。

あれ?

違和感に気が付いた。視線の位置が先ほどよりも高い。
ふと視線を下に向けると、そこには見慣れた前足ではなく人間の褐色の手が視界に映っていた。
そういえば、先ほどから背中をごしごしと擦っていたユーニの手が止まっている。
あぁ、まさか。
 
目の前に設置されている風呂場の鏡を見つめると、そこには人間の姿をした自分自身が映っていた。
湯に濡れていたもふもふの毛はなくなり、褐色の肌が露出している。
素っ裸の人間の男が映っている鏡を見つめ、血の気が引いていく。
即座に後ろを振り返ると、そこにはプラスチックの椅子に座って目を丸くしたユーニの姿があった。
人間の姿になった僕を凝視したまま、彼女は固まっている。

終わった。
絶対にバレてはいけなかったハズなのに。

目が合ったまま固まる2人。
そしてようやく思考が回り始めた3秒後、深夜の風呂場にユーニの悲鳴が鳴り響くのだった。

 

意外に僕らは後ろ暗い

「はあぁぁ……」


右隣に座ったノアの口から海より深いため息が零れる。
正面の壁に貼られている狂犬病注射を促すポスターをじっと見つめながら肩を落としていた。


「はあぁぁ……」


左隣に座ったランツの口から谷底より深いため息が零れる。
床のタイルに視線を落とし、頭を抱えながら項垂れている。
辛気臭い2人の幼馴染に挟まれていたアタシはもう我慢の限界だった。


「あぁもうため息やめろ!こっちまで気分が落ち込むだろ!」


自分の両膝を叩きつけて怒鳴るアタシ。
動物病院という、普段なら静かにしなければならない場所にいるというのに躊躇いもなく大声を出せたのは、待合室にアタシたち以外の患者がいないからだろう。
閑散としたこの小さな動物病院、グレイ動物病院に来たのは、実家の犬を連れてきて以来、実に数年ぶりだった。

何故アタシたち3人が動物病院の待合室で揃って暗い顔をしているかと言うと、昨晩の出来事がきっかけである。
昨日、ストーカーの男を捕まえてくれたタイオーンにひとしきりお礼を伝え、風呂に入れることにした。
背中を流しながらほとんど独り言のように語り掛けていたのだけれど、目の前で大人しく“おすわり”していたタイオーンの体がいつの間にか変貌を遂げていた。
 
もふもふしていた毛並みは褐色の皮膚に変わり、可愛らしく揺れていた尻尾は消失し、凛々しかった目鼻立ちは人間のそれへと変わっていく。
“犬”だと思っていたその生き物は、ただの“犬”ではなかったのだ。

この変化は、ノアやランツが引き取ったミオとセナにもほぼ同時期に表れていた。
一緒に布団で眠っていたミオは白髪の少女に変わり、膝の上で撫でていたセナは青髪の少女へと変わったという。
犬や猫だと思っていた存在が、突然全裸の美少女に変わってしまったことにノアとランツは大いに戸惑っていた。
 
当然、戸惑ったのはユーニも同じである。 
突然現れた褐色の成人男性に驚き、深夜であるにも関わらず悲鳴を挙げてしまった。
お互いシャワーでびしょ濡れになりながら大暴れした2人だったが、30分ほどぎゃいぎゃい騒ぎ立てた末にようやく落ち着き、事態を飲み込むことが出来た。

“僕は半獣なんだ”
バスタオルを巻いて正座をしたタイオーンはそう言った。
犬と人間。二つのDNAを持つ存在であり、自在に姿を変えることが出来るのだという。
今まで犬の姿を保っていたのに突然人間の姿に戻ってしまったのは、油断してしまった結果だという。

“ちなみに名前もタイオーンじゃなくタイオンだ”
至極不機嫌な顔でそう主張する彼の言葉に、アタシは“お、おう…”としか言いようがなかった。
犬が人間になるという衝撃的すぎる光景を目にしてしまった今、もはや名前などどうでもいいと思えてしまう。
 
すぐにノアとランツに連絡を入れると、彼らも同じ体験をしたと聞かされ更に驚いた。
この3匹は一体何なんだろう。
不審に思ったアタシは、ノアやランツと一緒に動物病院に行くことにした。
タイオーン、あぁ違った。“タイオン”は猛烈に嫌がっていたけれど、半ば引きずるような形で診察室に押し込んだ。

今現在、ミオとセナ、そしてタイオンは診察室で獣医に診てもらっている。
半獣なんて聞いたこともない生物を、ただの獣医が診察できるのかは疑問だが、アタシたちよりは確実に知識があるだろう。
このグレイ動物病院は、規模が小さいせいかあまり繁盛していないようだ。
おかげで他の患者に怪しまれることなく、貸し切り状態でたっぷり時間をかけてもらっている。
診察が始まって約30分ほど経っているが、全く終わる気配のない状況にアタシたち3人は少々焦れ始めていた。


「そりゃため息くらい吐くだろ。犬だと思ってたのが人間になったんだぞ?しかも素っ裸」
「せめて服は着てて欲しかったよなぁ。アタシなんて風呂に入れてる最中だったんだぜ?アタシだけは服着ててよかったぁ……」


タイオンを風呂に入れる際、どうせ濡れることになるから自分も裸になってしまおうと一瞬思ったのだが、結局寝巻で入れることにした。
あの時の自分の判断を褒めてやりたい。
もしもアタシが裸になっていたら、お互い全裸の状態でぎゃいぎゃい騒ぎまくる地獄のような光景になっていただろう。


「俺、ミオに最悪なことしてるかもしれない…」


長椅子の右隣に座っていたノアは、この動物病院で合流した時から顔色が悪かった。
アタシやランツも相当げんなりしていたハズだけど、ノアの狼狽えぶりはその比じゃない。
“どうしたんだ?”と問いかけると、ノアは再びため息をつきつつ話し始めた。


「ミオを保護した初日、性別を確かめるために足を、その……」
「の、ノアお前、まさか……」
「ミオの足を…?」
「……こう、ガバッと」


足を掴んで広げるジェスチャーをするノアを見て、アタシとランツはほぼ同時に顔をしかめた。
ノアはミオをただの猫だと思ってそういった行動に出たのだろうが、実際中身は人間の少女。
もしも自分が男に両足を掴まれ思い切りガバッと開かれたら……。
死にたい。絶対に死にたい。


「セクハラだな」
「訴えられたら負けるやつだな」
「し、仕方ないだろ?猫だと思ってたんだから!」


顔を真っ赤に染め上げ、今度はノアが声を荒げた。
彼なりに後悔しているのだろう。
普段はそこまで感情を表に出すことが無いノアの狼狽えぶりは、彼がかなり切羽詰まっている事実を物語っていた。
やがて、3匹の半獣が診察室に連れて行かれてから35分ほどが経過した頃、ようやく診察室の扉が開かれた。


「もういいぞ」


診察室から出てきたのは、この病院の院長であるグレイ。
愛想はあまりよくないが、腕はいいと評判の獣医である。
彼に促され、アタシたち3人は診察室へと足を踏み入れた。
中にいたのは、検診衣を着て椅子に座っている3人の姿。
癖毛で褐色の肌を持つ男、タイオン。
白髪で頭に猫の耳を持つ少女、ミオ。
青い髪を持つ小柄な少女、セナ。
不安げな表情でこちらを見つめてくるミオやセナとは対照的に、タイオンは足と腕を組みやけに不機嫌そうな表情を浮かべていた。


「あの、なにか分かりましたか?」


互いに気まずく視線を逸らし合い、微妙な空気が流れる中で、ノアが率先してグレイに質問を投げかけた。
グレイはその質問にすぐ答えることはなく、“まぁ座れ”と言って空いている椅子を指さす。
3匹の半獣が座っている椅子から少し離れた場所に設置してある長椅子に、アタシたち3人はゆっくりと腰かける。
自分のデスクに腰かけたグレイは、バインダーに挟んであるカルテらしきものに視線を落としながらマグカップに口をつけた。
カップの中は恐らくコーヒーか何かだろう。


「いろいろ話す前に聞いておきたいことがある。この3匹とはどこで出会った?」


人の姿をしている3人に向かって“3匹”という表現を用いるグレイの言葉には多少違和感を感じたが、冷静に考えて何も間違ってはない。
このグレイの問いに答えたのは、アタシたちがタイオン達を保護するきっかけを作ったノアだった。
保健所の職員に追い回されていたミオを助けたこと。
ミオに導かれる形でタイオンとセナを見つけたこと。
彼らを保護するために、幼馴染であるアタシたちに頼ったこと。
ここに至るまでの背景を順序だてて話すノアの言葉を、グレイは黙って聞いていた。


「……それで、急に人間になってしまったので、どういうことなのかと」


ノアの言葉を聞きながら、ミオは気まずげに視線を落としていた。
その隣に座っているセナもまた、居心地が悪そうにしている。
タイオンは人間の姿に戻ってしまったのは不本意な出来事だと言っていたが、おそらくミオやセナにとっても今回のことは予期せぬハプニングでしかなかったのだろう。
ノアの言葉を最後まで聞き終えたグレイは、“そうか”とだけ返事をして椅子の背もたれに深く寄り掛かった。


「首輪に印字されている“アイオニオン先端科学研究所”。この3匹はそこで産まれた。正確に言うと、“産み出された”」
「産み出された?」


グレイの言葉に違和感を感じたアタシは、反復するようにおうむ返しした。
両脇に座っているノアやランツと顔を見合わせてみるが、彼らも理解出来ていないようだった。


「この研究所は、生き物の細胞を研究していた施設でな。細胞の成長や変化を利用して姿かたちを変える、所謂動物の“変態実験”を行っていた。多くの動物を実験台として、異なった動物のDNAを混ぜ合わせつつ特殊な生き物を生み出し、そして飼育する。その結果生み出されたのが、“半獣”だ」


グレイの視線の先には、タイオンたちの姿があった。
彼は真剣に解説をしてくれていたが、内容が複雑すぎるためアタシにはほとんど理解が出来なかった。
要するに、アイツらの首輪に印字されていた“アイオニオン先端科学研究所”では動物を使ったやばい実験が行われていて、タイオン達はその結果生み出されたということだろうか。
半獣なんて、自然の摂理で生まれてくるとはとても思えない。
人工的に遺伝子を操作されて生み出されたのだとしたら、この現実離れした状況にも説明がつく。


「“生み出された”って……本当なのか?」


先ほどから何も喋ろうとしないミオたちに、ノアが問いかける。
その問いかけに、ミオは遠慮がちに頷いていた。
どうやらグレイの言葉に嘘はないようだ。


「僕たちは幼いころからあの施設で実験を繰り返されていた。最初は数百匹いた被検体も、数年の間で数十匹にまで減った。この状況に嫌気がさして逃げ出したんだ。実験の末死んでいくよりは、野良犬や野良猫としてのたれ死んだほうがマシだからな」
「私たち、ずっと人間を避けて生きてきたの。こういう体にしたのは人間たちだから信用できないって。でも、ランツたちは親切にしてくれたから……」


タイオンやセナによって語られる真実は、どこまでも冷たく非道なものだった。
どんな実験だったのかは分からないが、被検体が半分以上減るということは、命を落とすほどの過酷なものだったのだろう。
人間を信用できなくなっても無理はない。


「あのよォ、なんで先生はその研究所のことそんなに知ってんだ?俺らも一応調べたけど、ネットには全然情報が無かったのに」


ノアがミオを保護した日、興味半分で研究所の名前を検索してみたが、全くと言っていいほど情報がなかった。
実在した研究所なら、ホームページくらいは残っていても可笑しくはないのに。
ランツの問いかけに、グレイはカルテに何やら書き込みながら淡々と答えた。


「この研究所は半年前に封鎖されたと聞いている。行っていた実験の内容が内容なだけに、徹底的な情報統制がなされたのだろう」
「ならなんでアンタは研究所のことを知って……」
「俺もあの研究所の研究員だったからな」
「なっ、なんだと!?」


グレイの言葉に誰よりも強く反応したのはタイオンだった。
立ち上がった反動で彼が腰かけていた椅子は転がり、診察室に派手な音が鳴り響く。
今にもグレイに噛みつきそうな勢いのタイオンを、両脇に座っていたミオとセナがなだめている。


「俺があの研究所にいたのは20年以上前。動物実験に踏み切るよりも前のことだ。半獣の噂は耳にしてたがまさか真実だったとはな」


グレイは見た目以上に年齢を重ねているらしい。
ネット上にも情報が無かった研究所のことを良く知っていたのは、20年以上前にそこで働いてたからだった。
タイオン達が被害を被った実験には関わっていないようだが、研究所の実態は大まかに把握していたのだろう。
 
思えば、診察の予約の連絡を入れた際、“飼っていたペットが人間の姿に変わった”と話しても驚くことなくすんなり受け入れていたのは、そういった事例を耳にしていたからだったに違いない。
やがてマグカップに入っていたコーヒーをすべて飲み干したグレイは、白衣のポケットに手を入れながら立ち上がる。


「それで、これからどうするつもりだ?このままそいつらを飼い続けるのか?」
「どうするって、アタシらが決めんのかよ?」
「当然だ。こいつらを保護すると決め家に連れ帰ったのはお前たちだ。どうするか決めるのもお前たちの責任だ」
「……ミオたちはどうしたい?」


答えに迷ったノアが、前のめりになりながらミオたちに問いかける。
けれど、ミオとセナも何と答えるべきか言葉を見つけられていないらしい。
互いに顔を見合わせながら、答えに渋っていた。


「私たちは……」
「僕たちに決定権はない。君たちに保護されたその瞬間から、僕たちの生殺与奪の権は君たちが握っている。君たちが一緒にいられないと判断するなら、黙って君たちの前からいなくなろう」
「いなくなるって……そのあとどうするつもりだよ?」


アタシの問いかけに、相変わらず人間になってなお可愛げが無くなったタイオンは足を組み替えながら言った。
“野良に戻るだけだ。どうということはない。今までずっとそうやって生きてきたのだから”と。
タイオン達がただの犬だったなら、迷いなく“一緒にいよう”と言えただろう。
だが、彼らはただの犬ではない。
かと言って人間でもない。
どっちつかずな存在を前に、アタシたちは迷っていた。


ご主人様とお呼び

人の姿になってしまったのは不本意な出来事だった。
今までは自分の意思で姿を変えていたのだが、あの時は何故か自然に人の姿へと身体を変えてしまっていた。
意思とは関係なく姿が変わるなんてこと、今までは一度も無かったのに。
動物病院で合流したミオとセナも、いつのまにか人の姿になってしまい、不本意な形で正体がバレてしまったのだと話していた。
幸い、犬の姿に戻れなくなったわけではない。
身体に大きな変化が訪れたというわけではないのだろう。

ユーニによって半ば無理矢理連れてこられた動物病院は、かつて例の研究所で働いていたという人間が院長を務めていた。
癪に障るが、半獣独特な身体的特徴を次々に言い当ててきた彼の腕は相当なものらしい。
このグレイという獣医の前では、今更正体を偽ることなど無駄な努力に過ぎないのかもしれない。

グレイの検診を終えた僕たちは、人の姿から犬や猫の姿に戻り、それぞれの“飼い主”に連れられる形で近くの公園へと向かった。
広々とした原っぱで子供や飼い犬たちが遊んでいる光景を遠目に見つめながら、ユーニたちはポツポツと会話を交わしている。
 
その会話を頭上で聞きながら、僕たち3匹は黙ってベンチの脇で寝転んでいた。
“飼い主”たち3人の話題は、専ら今後のことだ。
半獣であると判明した今、僕たちとどう接していくべきかという議題を延々繰り返している。
この議題においては、僕たちが口を出しても仕方がない。
僕たち3匹を飼い続けるべきか手放すべきか、その決定権は“飼い主”である3人にある。


『私たち、これからどうなるんだろう』
『さぁな。ユーニたちが決めることだ』
『飼えないって言われたらどうすればいいのかな』
『……また野良に戻るだけだ』


隣で大人しく座っていたセナの質問に言葉を飾らず答える。
すると、セナはノアの膝の上で丸くなっているミオの方へと視線を送った。
ノアに頭を撫でられながらも、ミオの瞳は不安げに揺れている。
その様子を見つめながら、セナはまるで独り言のように呟いた。


『私、ランツと一緒にいたいなぁ……』


かすれるような声色は、セナがどれほどランツに懐いているかが良く伝わってくる。
離れがたいと感じるほど、ランツに心を寄せているということか。
いつの間にそんな絆を育んでいたんだ。
ノアの腕の中で丸くなっているミオも、言葉には出さないものの彼の腕の中に居心地の良さを感じているらしい。
彼女もまた、本心ではノアの元から去りたくないのだろう。


『残念だが僕たちに決定権はない。彼らが“手放す”と決めたらそれに従うしかない』
『そうだけど…。タイオンはユーニと一緒にいたくないの?』
『僕は……』


脳裏によみがえるのは“可愛いな”、“賢いな”と微笑みながら頭を撫でてくるユーニの姿。
あの光景を思い出すたび、心が温かくなる。
ミオやセナ以外の誰かに、あんなふうに存在を肯定されたのは初めてだった。
それに、彼女は言っていた。“一生面倒を見てやる”と。
あの言葉に喜びを感じなかったと言えばウソになる。
 
人間でもない、獣でもない僕たちは、周囲に迫害されながら生きてきた。
ユーニのあの一言は、そんな僕でもここにいていいんだと思わせてくれた。
ユーニとの時間は心地いい。
だがそれを認めてしまうと、彼女たちが“手放す”という選択をしたときに辛くなる。
だから、認めない。
僕はどっちでもいい。ユーニの元から去ることになっても大して辛くはない。
そう自分で言い聞かせて、心を誤魔化すのだ。


「どうする?」
「どうするって……」
「こうなった以上、俺たちで決めるしかないんだ」


ベンチに並んで座っている3人の“飼い主”たちは、視線も合わせず遠くの景色に目を向けている。
膝の上で丸くなっているミオの頭を優しく撫でていたノアは、視線を落としてミオの白い身体を見つめた。


「俺は、このままミオを引き取ろうと思う」


ノアの言葉に、膝の上のミオが顔を上げる。


「元々俺がミオを保護したことがきっかけだったし、最後まで責任持たなくちゃ。それに、どんな姿をしていてもミオはミオだしな」


指先でミオの頬を撫でるノアの手つきは、優しく丁寧だった。
そんな彼の手つきに、ミオは喉を鳴らしている。
しっかりした性格のミオがあんなふうに誰かに甘えている光景は初めて見た。
その様子に目を向けていると、反対側に座っていたセナがランツの手によって抱き上げられた。


「確かにな。正直俺としても、人間でいてくれた方が都合いいんだよな。うちペット不可だし。管理人に疑われたりしたら人間の姿になって誤魔化してくれよな、セナ」


ランツの言葉は、“セナを受け入れる”という意思表示に他ならない。
高く抱き上げられたセナは、ランツの言葉の真意を飲み込み表情を明るくさせた。
彼に受け入れられたことが相当嬉しいのだろう。小さな体で勢いよく尻尾を振っている。


「ユーニはどうすんだ?」
「アタシは……」


ノアからの問いかけに、ユーニは足元に寝転がる僕を見下ろしてきた。
好きにすればいい。連れて帰りたいというのであれば従うし、関わりたくないと言うのであれば僕一人でそっと姿を消そう。
どんな結果になろうと、ユーニを恨む気はない。恨んではいけない。
そう思いつつ、僕はどこか身勝手な願望を抱いていた。
一緒にいよう。一緒に帰ろうと言ってくれたらいいのに、と。
僕の視線は、身勝手な願望を乗せてユーニへと注がれる。
そんな気持ちを知ってか知らずか、暫く僕を見つめていたユーニはふっと柔らかく微笑み、ベンチから立ち上がって僕の目の前にしゃがみこんだ。


「一生面倒見るって言ったもんな。アタシと帰ろうぜ、タイオーン」


ユーニの微笑みを前に、僕の思考は停止する。
心の奥底にずっと隠し持っていた願望をすくいあげてくれたユーニの言葉に嬉しくなってしまう。
けれど、その喜びを素直に表に出すのは少し癪だった。
何故なら、ユーニはまた僕の名前を間違えていたのだから。


『た、タイオーンじゃない。タイオンだ。まったく何度言ったら……』
「あ、やべっ、タイオンだったな。悪い悪い」


僕のボヤキはユーニに伝わっていないはずだが、どうやら表情で察してくれたらしい。
軽やかに笑いながら、僕の身体を抱きしめわしゃわしゃと撫でつける。
その乱暴な手つきは相変わらずで、少しムッとしてしまう。
あんなに念を押したのにまた間違えるだなんて失礼な。
綻びそうになる顔を必死に抑えながらムッとした表情を作る僕に、ノアの膝の上から見ていたミオは笑みを零した。


『タイオン、嬉しいんだね』
『別に…』
『尻尾、揺れてるよ』


隣で見ていたセナの指摘にハッとして、自分の尻尾を振り返る。
しなやかな尻尾は、僕の意思とは反対にブンブンと左右に揺れていた。
くそ、動くな。まるで喜んでいるみたいじゃないか。
揺れ続ける自分の尻尾を睨みながら、僕はわしゃわしゃと撫でてくるユーニの手を甘んじて受け入れていた。


***


自在に姿を変えられる力を持っている僕たちだが、服までも自在に変えられるわけではない。
犬から人間の姿になれば、当然ながら何も身に着けていない状態となる。
 
人間の姿でいるとき、衣服は必要不可欠だ。
まさか裸の状態で外を出歩くことはできない。
今までは、人間の姿で稼いだ金を使って安い衣服を購入し、コインランドリーで洗濯していたのだが、持っていた衣服は全てあの空き地に置いてきた。
そのことを知ったユーニは、僕を動物病院に連れ帰ってきたすぐ後、家のタンスを漁り始めた。
そして、少し古い衣服を数着取り出すと“着てみろよ”と押し付けてくる。
彼女曰く、亡くなった父の私服だという。
 
寝室で着替えてみると、どうやらユーニの父は小柄な人だったようで僕にはサイズが少々小さかった。
丈が少し足りないものの、着れないことはない。
着替え終わり、リビングで待っていたユーニの元へ戻ると、父親の私服に袖を通した僕を見つめてユーニはケタケタと笑い出した。


「似合ってねー」
「……悪かったな」


衣服など、機能的であればそれでいい。
似合っているとかいないとか、そんなことは正直どうでもよかったが、こうして面と向かって“似合ってない”と断言されると流石に腹が立つ。
 
グレーのニットと黒いチノパンはシンプルな組み合わせだったが、サイズが合っていないせいか姿見に映る自分の姿は確かに滑稽に見えた。
あぁ確かにこれは似合っていないかもしれない。
密かに眉を潜める僕のすぐ隣に立ったユーニは、一緒に姿見に映った僕の姿を覗き込んだ。
鏡越しにじっと見つめてくるユーニの視線に居心地の悪さを感じ、“なんだ?”と問いかけると、彼女は僕の足から頭の先まで舐めとるようにして視線を上げる。


「結構背高いよなぁって思って。何センチ?」
「さぁ」
「アタシとの身長差を考えると178くらいはありそうだよな。下手したら180センチあったりして。親父の服じゃそりゃ小さいよな」


“服買ってやらなきゃなぁ”と腕を組みながら彼女はスマホを操作し始めた。
何を見ているのか知らないが、恐らく僕の衣服に関する調べ物をしているのだろう。
そういえば、人間の姿をした自分の身長なんて気にしたことが無かった。
研究所で何度か身体測定をされていたが、そのデータは研究所内で保管されており僕たち本人に共有されることはない。
だが、町の人間たちを見る限りこの姿になった僕は比較的身長が高い方なのだろう。
ユーニの父親が着用していたという上着やボトムスの袖が足りていないのがその証拠だ。


「僕は別にこのままで構わない。服なんて着られればなんだっていいからな」
「馬鹿言えよ。それアタシの親父が着てたやつだぜ?流石に爺臭いだろ」
「えっ?」


爺臭い?
僕はまだ若いが、所謂加齢臭のような匂いが出ているというのだろうか。
自分の腕をクンクン嗅いでみるが、特に妙な匂いはしない。
焦りながら鼻を鳴らしていた僕だったが、そんな様子を呆れたような目で見つめながらユーニは“爺臭いってそういう意味じゃねぇよ”とと呟いた。
ならどういう意味だ。
そんな僕の問いに答えることなく、ユーニは話しを進める。


「爺臭いといえば、タイオンって意外に若かったんだな。アタシてっきりもっと老犬かと思ってた」
「失礼な。見ての通り僕は若い。ただ視力が悪いだけだ」
「あ、やっぱり目悪いんだ。視力いくつ?アタシの顔見えてる?」
「ぼんやりとしか」
「じゃあ結構悪いんだな」


ユーニはぐっと顔を近づけているようだが、残念ながら彼女の顔を詳細に視認することはできない。
髪色が明るいことは分かるが、目鼻立ちや瞳の色はぼんやりとしていて一切分からなかった。
この視力の悪さには既に慣れている。
代わりに鼻が利くためそこまで不便な思いはしていないが、ユーニはそんな僕の現状を知って“眼鏡も買った方がいいか”と腕を組みながら呟いていた。
衣食住だけでなく、眼鏡まで用意してくれるつもりらしい。
その優しさは非常にありがたいが、同時に大きな罪悪感も胸の奥に渦巻き始めていた。


「何から何まですまない。この礼は必ずする」
「礼?例えば何してくれんの?」
「それは……」


何、と追及されて思わず言葉が詰まってしまった。
半獣である僕には、受けた恩に報いる術など持ち合わせていない。
出来ることと言えば、ユーニを毎朝起こしたり、出かける彼女を見送ったり、帰ってきた彼女を出迎えたり、そういう些細な事ばかりだ。
だが、そんなことは僕じゃなくても出来る。おやすみ、おはよう、いってらっしゃい、おかえり。この言葉をかけるだけの存在にどんな価値があるだろう。
もっとユーニにとって有益なことで恩返ししてやりたいが、何も思い浮かばず眉間にしわが寄る。


「じゃあさ、ペットとしてアタシに尽くすってのは?」
「尽くす?」
「そう。犬ってのは昔から主人に忠義を尽くす動物ってイメージがあるだろ?だからお前は、アタシを主人だと思って忠義を尽くすこと」


忠義。
イマドキ時代劇でしか聞かないような要求をしてくるユーニに、クエスチョンマークが浮かぶ。
忠義を尽くすと言っても、ユーニは武家の大名でもなければどこぞの剣豪でもない。
具体的にどう尽くせばいいのだろ。
 
浮かんだ疑問をありのままぶつけると、“それは自分で考えろよ”という投げやりな答えが返ってきた。
忠義の定義が曖昧過ぎてイマイチ腹落ちしていないが、ユーニが僕にペットとしての価値を見出してくれたのであればそれで良しとしよう。
僕がペットとして振る舞うことで、彼女から与えられた大恩を返すことが出来るのなら、僕は喜んでユーニの“飼い犬”になってやる。


「わかった。出来る限る君に尽くそう」
「よっしゃ、じゃあ期待してるぜ?忠犬タイオーン」
「あぁ。………はっ?」


嬉しそうに微笑みながら僕の肩を軽く叩いたユーニ。
その場から去ろうとしている彼女の言葉に引っかかるものを発見し、ハッとした。
今、さりげなくタイオーンと呼んだな?
何度も言っているはずだ。僕はタイオーンじゃなくタイオンだと。


「いい加減覚えてくれ!僕はタイオーンじゃなくタイオンだ!」
「あ、そうだ。明日出かけるからちゃんと準備しとけよ?」
「おい聞け!僕の話を聞け!」


指摘しても全く意に介さないユーニに苛立ち声を荒げてみるも、彼女は軽くあしらうだけで全く聞き入れようとしなかった。
あぁ、こんなに適当な人をご主人と崇めなければならないなんて。
これからやっていけるのだろうか。


朝から生討論


休みの日は遅くまで寝ていたい。
そんな願望を持っているのはアタシだけじゃないはずだ。
今日は大学も無ければバイトも休み。絶好の寝坊日和だ。
だが、それは独り暮らしであればこその話。
同居人。いや、同居犬と言った方がいいのだろうか。
アイツがいる今となっては、休みの日でも朝寝坊は出来そうもない。

何かの気配を間近で感じたアタシは、眠気眼を擦りながらゆっくりと目を開けた。
ぼやける視界一杯に広がったのは、毛むくじゃならな顔と褐色のつぶらな瞳。
濡れた鼻先をアタシの鼻に近付けながらクンクン匂いを嗅いでくるこいつは、忠犬タイオーン、もとい青年タイオンだ。
ベッドに横たわるアタシの体の上にのしかかり、顔を限界まで近づけている四つ足動物の姿に、アタシは頭が真っ白になった。
そして、3秒後には悲鳴と共に上体を起こすことになる。


「うおあ!」


急に起き上がったアタシに素早く反応し、タイオンは後ろに飛びのく。
抗議めいた瞳は“やっと起きたか”と呆れているようだった。
どうやらわざわざ起こしに来たらしい。
昨日の夜までは人間の姿をしていた彼だが、夜が明けた今は犬の姿に戻っている。
可愛らしい肉球とふわふわな体は魅力的だが、あれの中身は身長180センチ前後の成人男性である。
そう思うと、素直に可愛いとは思えなくなってしまった。


「お、お前なぁ…。起こすのはいいけど普通上に乗るか?」


上にのしかかりながら起こしてくれたのが純粋な“犬”であれば“可愛い”で済む話なのだが、相手は半獣だ。
犬の姿をしているとはいえ、実質自分と同い年くらいの青年がベッドで眠っている自分の上に素っ裸の状態でのしかかっているようなものである。
想像して“こわっ”と思ってしまった。
 
だが、注意するアタシの言葉など聞く気もないようで、タイオンはさっさと部屋から出ていってしまう。
まったく、元々可愛げがないと思っていたけれど、半獣だと知ってからは一層可愛げを感じなくなってしまった。
犬なら犬らしく腕の中に飛び込んできて顔をぺろぺろ舐めたりして甘えてくれればいいのに。
あ、ダメだ。あいつ中身成人男性だった。犬ならともかく成人男性に顔をぺろぺろされるのは流石にキツイ。

深くため息をつきながらベッドから立ち上がり、部屋着から私服に着替えて自室を出る。
リビングに入ると、先ほどまで犬の姿をしていたタイオンが人間の姿で食卓に腰かけていた。
当然、裸ではなく昨日アタシが数着与えた父親の服を身に纏っている。
 
二十歳そこそこのスタイルのいい男が、当時50代だった父親の“おっさん感”あふれる服を着ている光景は少し面白かった。
父親は男性にしては小柄で、身長も170センチないくらいの高さだったのだが、見るからに180センチ前後の身長を持つタイオンにはサイズがまるで合っていない。
小さいサイズを気にせず着ているさまも、滑稽さに拍車をかけていた。


「あのさ、なんでわざわざ起こしに来るわけ?」


キッチンで朝食の用意をし始めたアタシの言葉に、タイオンは腕を組みながらチラッと視線を寄越した。
けれどすぐに顔を逸らし、朝の情報番組が映っているテレビへと目を向けながら返事をする。


「“尽くせ”と言ったのは君の方だ」
「別に起こしに来なくたっていいのに」
「君が起きてこなければ僕は朝食にありつけないだろ」


なるほど本音はそこか。
“尽くす”とか言いつつ結局は自分のためじゃねぇか。
苛つきに身を任せ、卵をボウルに割る力が少し強くなる。
牛乳と砂糖を混ぜ合わせ、半分に切った食パンをじっくり浸す。
バターを切り、熱したフライパンの上に落とすとキッチンにいい香りが漂ってくる。
その匂いに反応したのか、タイオンは目を閉じながらクンクンと鼻を鳴らしている。
人間の姿かたちをしていながらも、習性は犬そのもののようだ。


「これからは休日でもちゃんと起きるようにするから、アタシの部屋に勝手に入るんじゃねぇぞ?」
「何故?」
「何故って……」
「この前起こしに行ったときは何も言っていなかったじゃないか」


そりゃあ、あの時はお前が純粋な犬だと思ってたから何も言わなかったんだ。
半獣だと知ってたら最初から部屋に入れる許可なんて出さなかった。
理由を求めるタイオンの質問に答えることなく、アタシはフライパンの上に卵をしみこませた食パンを乗せた。
パンが焼けるぱちぱちという心地よい音を聞きながら、コーヒーの用意を始める。
タイオンの分も用意してやろうかと思ったが、マグカップを二つ取り出しところでぴたりと手を止めた。
犬ってコーヒー飲めるのかな?


「なぁ、コーヒー飲める?」
「あぁ」
「あ、飲めるんだ。犬ってカフェイン駄目じゃなかったっけ?」
「僕は半獣だ。犬が食べられないものでも問題なく食べられる」
「じゃあチョコとか玉ねぎとかも?」
「当然だ。チョコレートに関しては好物だしな」
「ほえー」


人間には問題なくとも、犬にとっては毒になる食べ物はいくつかある。
チョコレートや玉ねぎがその代表だろう。
けれど、半獣として人間の要素も兼ね備えているタイオンにはどちらも無害だという。
便利なものだ。
ドックフードよりもアタシが食べる用の骨付きチキンに興味津々だったのも頷ける。

焼き終わったパンを皿に盛り付け、最後に軽く粉砂糖を振りかければフレンチトーストの出来上がりだ。
まずは2人分のコーヒーを出して、そのあとにフレンチトーストの皿を食卓に持って行く。
運ばれてきたフレンチトーストを視界に入れるなり、タイオンは分かりやすく生唾を飲んでいた。


「いただきま――」


ナイフとフォークを両手に、早速運ばれてきたフレンチトーストを食べようとするタイオン。
そんな彼の手元から、フレンチトーストの皿を引き寄せて遠ざけた。
当然、タイオンからは抗議するような視線が向けられる。
こっちの要望も聞かずタダで飯にありつこうだなんて考えが甘い。


「今後はアタシの部屋に勝手に入るの禁止な?」
「だから何故だ。理由も聞かず承諾は出来ない」
「なんで承諾するのを渋るんだよ?まさか積極的に入りたいのか?」
「そうじゃない。緊急の用事があった時にやむを得ず入らなくてはいけないタイミングが来るかもしれないだろ?そういう時のことを考えれば約束は出来ないと言っているんだ」
「緊急の用事って?」
「例えば君が急に心臓発作を起こしたとする。助けたいが僕は君の部屋に入ることは禁じられている。僕は苦しむ君を前に扉の外で何もすることが出来ず、あえなく君は死ぬ。こうなった時悪いのは誰だ?僕に進入禁止令を強いた君だ」
「はぁ……」


どうしよう。タイオンが死ぬほど可愛くない。
可愛いどころかめちゃくちゃ生意気だ。
こんな頭カチカチな理系男みたいな理論攻撃をかましてくる奴だとは思わなかった。
四つ足で歩いていた頃の名犬タイオーンは、素直さに欠けてはいたもののもふもふで可愛かったのに。
コイツの辞書には柔軟さという言葉は載っていないのか。
アタシが心臓発作を起こすなんて極端な例を出されても“そこは臨機応変に”としか言いようがないじゃないか。


「じゃあ緊急時以外は勝手に入らないってことで」
「緊急時の定義は?」
「は?」
「“緊急”の程度は人によって変わるだろう。例えばゴキブリが出た程度のことを緊急と言う者もいれば、火の手が上がるほどのことを緊急と言う者もいる。その辺の定義を詳しく設定してくれないと約束は出来ないな」


うぜぇ。
ちょっとした約束事を交わすだけでも、そんなに詳細に定義づけをしなくちゃいけないのか。
めんどくせぇ。企業間の契約書かよ。
タイオンの堅すぎる頭と融通の利かない態度に頭を抱えつつ、もはや諦めが先行していた。


「あぁもう。じゃあ何があっても絶対進入禁止!火事になろうがアタシが心臓発作を起こそうが、絶対部屋には入るな!以上!」


何もかもが面倒くさくなってしまい、一番わかりやすい終着点に無理やり着地させることにした。
半ば自棄になり、少し乱暴な手つきでフレンチトーストの皿をタイオンの前に戻した。
ようやく返ってきたフレンチトーストに一瞬だけ視線を落としたタイオンだったが、まだしっかり納得できていないらしい。
せっかく取り返したフレンチトーストに手を付けることなく、再び彼は質問という名の攻撃を仕掛けてきた。


「何故そこまで頑なに部屋への侵入を禁止するんだ?今までは何も気にしなかったくせに」
「お前がただの犬じゃないと分かった以上ちゃんと境界線引いた方がいいだろ」
「境界線、ね……」


ようやくナイフとフォークを手に取ったタイオンは、フレンチトーストを一口食べて小さく頷いた。どうやら口に合ったらしい。
そしてコーヒーで流し込むと、二口目に移行するためナイフを入れなが嫌なことを言ってきた。


「まさか、僕が君の寝込みを襲うとでも?」


フレンチトーストを楽しむ手を止めて顔を上げると、そこにはアタシと同い年くらいの男の姿をした愛犬の姿がある。
褐色の肌と癖毛の黒髪。そして高い身長によく響く声。
事情を知らない者が見ればどこからどう見ても二十歳前後の青年だろう。
コイツの中身は犬だと分かっていても、姿かたちが人間の異性なのだから警戒してしまうのは仕方ない。
アタシからの視線に気が付いたのか、タイオンも顔を上げてこちらを見つめてくる。
無言の肯定を続けるアタシに、タイオンは呆れたように笑ってナイフとフォークをテーブルに置いた。


「なんだよその馬鹿にしたような笑いは。ありえねぇってのかよ」
「あぁ。申し訳ないがありえない」
「んだとこの…!」


アタシだって犬を“異性”だとは思えない。
けれど、面と向かって可能性を否定されるのは流石に腹が立つ。
これでも結構モテる方なんだぞアタシは。犬のお前にはアタシの魅力なんて分かんねぇだろうけどさ。
怒りを隠すことなく睨みつけるアタシに、タイオンは“いいかユーニ”と前置きをしながら語り始めた。


「僕の好みのタイプは君のような“人間”じゃない。シェルティーだ」
「……は?」


シェルティーって誰だ?
首を傾げているアタシをまた馬鹿にしたように笑ったタイオンは、“シェットランドシープドックだ”と言った。
どうやら犬種のことらしい。
そんなことも知らないのかとでも言いたげな顔のタイオンにますます腹が立ってしまう。


「あの美しい毛並み、凛々しい顔立ち、そして品性の高さを伺える所作。何もかもが素晴らしい。とくにあのしなやかな腰つきは実に……」


そこまで語ったところで、タイオンは言葉に急ブレーキをかけた。
急に言葉に詰まり、誤魔化すように咳払いをして腕を組む。
“実に…”の後に何を言いかけたのだろう。
なんとなく気になって、テーブルの上に置いていたスマホで“シェルティー”を検索してみることにした。


「と、とにかく僕が好きなのはシェルティーのメスだ。人間のメスに劣情を覚えるなんてありえない」
「メスってお前……」


特に間違ったことは言っていないのだが、人間に対してオスだのメスだのという言葉を使われるのは若干の違和感があった。
スマホで画像検索した結果、出てきたのは中型犬の長毛種だった。
どうやら牧羊犬として活躍している犬種らしく、タイオンの言う通り賢いことで有名なのだという。
 
なるほど確かにかわいい。
アタシたち人間も、“背の高い人が好き”だの“胸が大きい人が好き”だの好みのタイプが人によって違うように、犬や猫にもそれぞれ好みのタイプがあるのかもしれない。
人間としての要素も持っているとはいえ、人間を恋愛対象として見れるかどうかは別の話。
コイツにとっての恋愛対象は“犬”ということだろう。


「なら、こういうの見てもなんとも思わないわけ?」


そう言って見せたのは、スマホに表示させたグラビアアイドルの画像。
巨乳で有名なこの女性は、確かランツが好きだと言っていた人だ。
豊満な胸を申し訳程度に隠している水着姿で、これでもかというほど寄せた胸を強調しているその画像は、男なら誰しも鼻の下を伸ばすことだろう。
だが目の前にいる半獣、タイオンは、スマホに表示されたグラビアイドルの画像を凝視しながら首をかしげていた。


「誰だこれは」
「グラビアアイドル。名前は忘れた」
「この女性が何だというんだ?」
「胸デカいだろ?Gカップだって」
「はぁ」
「なんも感じない?」
「なんも、とは?」
「ムラムラしたり、興奮したり」


眉を潜めながら、タイオンは一層首をかしげている。
アタシが何を言っているのか理解できていないようだ。
性的興奮を覚えている気配は全くない。
もしかして巨乳より貧乳派なのか?
今度はもう少し胸の小さいグラビアアイドルの画像を見せてみたがやはり反応は変わらない。
それどころか、“こいつはさっきから何が言いたいんだ?”とでも言いたげな視線を寄越してきた。


「じゃあ……これは?」


次に表示させたのはSNSで検索して見つけ出した動画だった。
シェルティー 可愛い”で検索した結果一番上に出てきた動画を適当に再生したのだ。
メスのシェルティーが芝生の上で仰向けに寝転がり、飼い主らしき女性によってお腹を撫でられている動画である。
 
わしゃわしゃとお腹を撫でられているメスのシェルティーは嬉しそうに尻尾を振っていて、非常に可愛らしい動画だった。
普通の人間ならニコニコしながら“可愛いね”と呟くような内容だが、タイオンの反応は一味違った。
表示された動画を視界に入れるなり顔を真っ赤にして視線を逸らし、随分と恥ずかしそうにしながら焦りだす。


「そ、そんないやらしい動画を堂々と見せつけないでくれっ!」
「あ、これいやらしいんだ」
「いやらしいだろどう考えても!そんな足を広げてあられもない……!」
「お、おう……」


犬がお腹を撫でられている光景を“いやらしい”と思ったことはなかった。
だが、中身はオス犬であるタイオンにとってはひどく淫靡に見えたのだろう。
人間の女性のセクシーな姿には何も反応を見せず、メス犬の可愛らしい姿には顔を真っ赤にしている彼は、どうやら本当に人間の女性に興味はないようだ。
 
人間の男の姿をしているにも関わらず、恋愛対象はしっかり犬というのはなかなかに面白い。
コイツを同年代の異性だと思うのはやめておいた方がいいらしい。
人間の姿をしていても中身は犬である彼は、外見は男であっても中身は女であるニューハーフと同じような存在なのかもしれない。
なるほどニューハーフか。実際半獣だし、新しい意味でのハーフと考えれば間違いではない。

タイオンはニューハーフ。

そう思っておけば、同じ屋根の下で暮らしていても別に危機感を覚えることはない。
なにも意識せずに暮らしていけるというものだ。
よし、こいつをニューハーフだと思うことにしよう。
密かにそう決意を固めたアタシは、ようやくフレンチトーストに手を付け始めるのだった。

 

始めて見るその蒼は

昨晩宣言していた通り、ユーニは朝食を食べ終わるなり“出かけるぞ”と促してきた。
どこに出かけるつもりなのかは分からないが、犬の姿ではなく、人間の姿になって一緒に着いて来てほしいと言っていた。
とりえずユーニから譲ってもらった彼女の父親の服を適当に選んで身に纏う。
ユーニの後に続いて家を出ると、ガレージに停められている車に乗るよう指示された。
彼女曰く、これは父親が乗っていたお古の車らしい。
助手席に腰かけると、ユーニは慣れた様子で隣の運転席に乗り込んだ。


「どこに行くつもりなんだ?」
「買い物だよ買い物。ほら、シートベルトつけろよ?」
「シートベルト?」


今思えば、車に乗るのは初めてだった。
街中で走っている光景は見たことがあるが、実際に中に入って移動した経験はない。
当然、ユーニの言う“シートベルト”というものが何なのか分からずキョロキョロしていると、察したユーニが身を乗り出して接近してきた。


「これだよこれ」


僕の膝にユーニの手が触れる。
急に近付いてきた彼女の顔に驚き身を固くしてしまう。
ユーニの明るい髪から香る花のような匂いが鼻腔をくすぐり、大きく心臓が跳ねた。
戸惑う僕を横目に、ユーニは僕の席の左手側に設置されていた装置へと手を伸ばし、先端についていた金具を反対側にあった装置にカチッとはめ込む。
身体が座席に固定するようなこの装置を、“シートベルト”と言うらしい。

自分も同じようにシートベルトを締めると、“じゃあ行くぞ”と呟き、ユーニは車を発進させた。
窓の外の景色が素早く流れてゆく。
自分の足で走るより何倍も速そうだ。
野良猫が車に轢かれて死ぬという事故の話をよく聞くが、このスピードでぶつかったら確かに無事では済まないだろう。

ふと、車に設置されたテレビ画面へと視線を向ける。
カーナビというらしいこの画面の右下に、現時刻が表示されていた。
時刻は昼過ぎ。
ユーニは“買い物だ”と言っていたけれど、どこへ何を買いに行く予定なのかはまだ聞いていない。
せめて何時に家に帰れるかは把握しておきたかった僕は、隣でハンドルを握るユーニに質問を投げかける。


「ところで、何時ごろ家に帰る予定なんだ?」
「特に決めてねぇけど、なんで?」
「この姿で活動するにも限界があるんだ」
「えっ、そうなの?」


交差点に差し掛かった車は、赤信号を前に停止した。
目の前の横断歩道を渡る歩行者の中に、犬を連れた家族を見つけ、思わず視線を向けてしまう。
犬種はマルチーズ
リードに繋がれながらも上機嫌に歩いている様子は少し滑稽に見えた。
今、ユーニに飼われている僕もあんな風に見えているのだろうか。


「人間の姿を保つのってそんなに体力いるのかよ」
「あぁ。特に僕はな」
「どういう意味?」
「ミオやセナは元々も人間の体に動物のDNAを混入されているが、僕は違う。元々犬の体に人間のDNAを入れられているんだ。だから犬の姿でいたほうが気楽でいられる」
「そうなんだ」


あの2人と違って、僕はただの犬でしかなかった。
人間の要素を無理やり入れられたお陰で知能は発達したが、そのせいで失ったものも多い。視力もその一つだ。
元々犬は人間よりも目が悪いが、半ば無理やり別の生き物のDNAを混入させられたせいで体が拒否反応を起こし、視力が極端に悪くなってしまったのだ。
 
その弱点を補うように、鼻は他の個体よりも若干利くようにはなったが、それでも視力が弱いというハンデを埋めるには至らない。
こんなに近くに座っているが、ユーニの顔すらぼんやりとしか見えないのだから。


「じゃあ、犬と人間、どっちになりたいかって聞かれたらやっぱり犬なのか?」
「当然だ。僕は元々犬なんだから」
「ふぅん」


ただの犬として生きられたら、もう少し幸せに生きていけたはずだ。
たとえ滑稽であろうとも、自分を可愛がって世話してくれる飼い主に出会って、散歩したり食事を貰ったり遊んでもらったり。
そういう“普通の幸せ”を甘受できたはずなのに、半獣となってしまったせいで、記憶の半分は過酷だった実験の日々で埋め尽くされている。
人間になんて、なりたくなかったのに。


「じゃあ、いつか完全な犬に戻っちまう前に、人間としての楽しみをたくさん教えてやらなくちゃな」
「……人間としての楽しみ?」
「ご主人様のアタシが色々教えてやるよ、名犬タイオーン」


顔は前を向いたまま、ユーニは視線だけをこちらに向けて微笑んだ。
そうだ。今の僕は彼女の飼い犬だった。
ユーニは犬の姿をした僕をそれなりに可愛がってくれている。
世話もきちんとしてくれるし、時々遊ぼうともしてくれる。
犬としての幸せは、今まさに甘受している最中なのではないだろうか。
ずっと欲しかった幸せを、僕はいつの間にか手に入れていたのかもしれない。
そう思った瞬間、心の奥がざわついて妙に落ち着かなくなった。
なんだかむず痒くて仕方ない。
味わったことのない“幸せ”の味に戸惑いつつ、それを美味だと素直に認めるのがなんだか恥ずかしくて、僕は誤魔化すように顔を逸らした。


「だ、だからタイオーンじゃなくタイオンだ」
「はいはい」


***


右を見れば人。
左を見れば人、
前も後ろも人、人、人。
こんなにたくさんの人を一度に観たのは初めてだった。
周囲のどの建物よりも大きなこの施設は、“ショッピングモール”と呼ばれる商業施設らしい。
根城にしていた駅前の路地周辺以外の世界を知らなかった僕には縁のない場所である。
駐車場に停めた車から降りて屋内に入った途端、施設内を歩く人の多さに驚かされてしまう。
ずらりと並んだ店の前を、人々が吟味するかのようにゆっくり見比べながら歩いている。


「あんまりキョロキョロしてると悪目立ちするぞ?」


その様をきょろきょろしながら見渡していると、隣を歩いてたユーニから指摘されてしまう。
前を歩くユーニについていくと、彼女は眼鏡店の前で足を止めた。
どうやら僕の眼鏡を購入する腹づもりらしい。
店員からの質問に淡々と答えていくユーニを、僕は隣で見ていることしかできなかった。
促されるままに視力検査とやらを受け、今度はフレームの種類を選んでくれと頼まれる。
色や太さや素材の種類が様々あるらしいが、正直どう違うのか僕にはよくわからなかった。


「で、どれにする?」
「“どれにする”と言われても違いが分からん。君が選んでくれ」
「別にいいけど、アタシの趣味全開になってもいいわけ?」
「かまわない」
「そっか。じゃあ……」


ユーニが持ってきたいくつかのフレームを試着してみる。
重さに若干の違いはあったが、やはり大きな違いは見つけられそうにない。
4つ目のフレームを試着してみると、ユーニは眼鏡をかけた僕の顔をじっと見つめながら“よし”と頷いた。


「これにしようぜ。一番似合ってる」
「そうか?」


売り場に設置してある鏡を覗き込んでみるが、展示用の眼鏡であり度が入っていないためよく見えなかった。
ユーニが“似合っている”というのだから似合っているのだろう。
人間の美的感性はよくわからない。だからこそ、人間の姿をしている時の外見は同じく人間であるユーニに任せた方がいいのだろう。

フレームを選び終わると、僕たち二人はいったん店を後にした。
眼鏡が出来るまで時間がかかるため、どこかで時間を潰す必要があるという。
時刻は14時半。“この姿”でいられる限界時間までは、経験上あと5時間ほどといったところだろうか。
時間はまだまだ十分に残っていた。


「で、これからどうするんだ?眼鏡が出来上がるまでボーっと待ってるのか?」
「まさか。他の買い物行くに決まってんだろ?」


そう言って、ユーニは僕の腕を掴んで強引に引っ張った。
思わずよろける僕に構うことなく歩き出すユーニ。
そんなに引っ張らなくても別に逃げたりしないのに。
エスカレーターに乗って1階のフロアに降りてからも、彼女は僕の腕を掴んだまま放そうとしなかった。
 
前から思っていたのだが、彼女はボディタッチが多い気がする。
事あるごとに撫で繰り回したり、キスをしてきたり。
あまつさえ、人間の姿をしている今もこうして僕の腕を掴んで離そうとしない。
好かれている自覚はあったが、少しは人目を気にしてほしいものだ。
別に嫌というわけじゃないが、犬である僕と人間である君とではやはり不自然な関係だろう。
少しは線引きをしなくてはいけない。だが、だからと言ってこの腕を振り払えばユーニは傷付くだろう。
それは可哀そうだし、暫くはこのままでいさせてやろう。


「ほらここ!ここでお前の服買おうぜ」


ユーニが足を止めたのは、とある洋服店だった。
眼鏡の次は服を買ってくれるらしい。
ありがたい申し出ではあったが、既に彼女の父親の服を何着か譲ってもらっているため早急に必要なわけではない。
家や食だけでなく、衣服の提供まで受けるのは流石に申し訳なかった。


「服はほかにもあるし、別に買ってくれなくても……」
「ださいオヤジファッションばっかりだろ?年相応の服装をしなくちゃな」
「そうは言ってもな……」
「遠慮すんなよ。ペットの世話すんのは飼い主の義務だからな」


そう言って、ユーニは僕の腕を掴む手を離し軽い足取りで店内へと入っていった。
えっ、離すのか?
せっかく振り払わずに大人しく掴まれていたというのに。
どうせならずっと腕を組んでいればいいものを。

簡単に離れていったユーニの淡白さに少しむっとしながら、僕も彼女に続き店内へと足を踏み入れる。
先に入店したユーニは、男の店員に声をかけられていた。
いくつか服を広げて見ては、あぁでもないこうでもないと話している。


「タイオン、これ着てみて!」


歩み寄ってきた僕に気付きたユーニは、服を一式僕へと押し付けてくる。
有無も言わさず試着室へと押し込まれ、着替えるようにと指示が飛ぶ。
飼い犬としては、主人の命令には逆らいにくい。
渋々渡された服に着替えて試着室のカーテンを開けると、売り場を見ていたユーニが速足で近付いてくる。


「おっ!似合うじゃん。やっぱアタシの見立ては正解だったな」
「似合う、のか?」
「似合う似合う!やっぱスタイルいいからシンプルな服でもかっこよく着こなせるのが強いよな」


“スタイルがいい”。
“カッコイイ”
まっすぐすぎるこの二つの誉め言葉に、心の奥がむずがゆくなる。
今まで人間の姿の容姿を褒められたことはなかった。
そもそもこの姿でミオやセナ以外の誰かと関わることが少なかったため当然と言えば当然だが、滅多にない誉め言葉は不用意に喜びを煽ってしまう。


「いや、それほどでもないが……」
「あ、あっちの服もいい感じじゃね?」
「あ、おいユーニ!」


遠くの棚に魅力的な服を見つけたらしく、ユーニは僕に背を向けたまま小走りで離れていく。
まったく、払うのは君だが着るのは僕なんだぞ?
少しは僕の意見も聞いたらどうなんだ。
呆れて貯めイイを突いていた僕に、傍から見ていた男性の店員がクスッと笑みを零しながら声をかけてきた。


「彼女さん、可愛らしいですね」
「彼女?」
「あ、違いました?てっきり彼女さんかと……」


人間の恋愛はよくわからない。
だが、この店員の言う“彼女”という存在がどんなものを指すのかくらいは分かる。
僕とユーニが交際している勘違いしたのだろう。
仮にも僕たちは犬と飼い主という関係だ。
交際などありえない。そもそも生きる世界が違うのだから。
だが、何知らない人間たちからしてみると、僕たちが並んで歩いていると恋人同士に見えるらしい。
そんなにお似合いなのか、僕たちは。


「タイオン!次これな!」


そう言って服を両手で一生懸命広げているユーニを視界にとらえた瞬間、何故だが顔に熱が灯った。


***


ユーニによる服選びは約1時間ほど続いた。
彼女が持ってくる服を片っ端から試着させられたためかなり疲れたが、結果として厳選した数着の服を購入するに至った。
無論、ユーニが選び、ユーニが支払ったものである。
罪悪感はあるが、当のユーニは僕の服選びがそれなりに楽しかったらしく、ホクホク顔で戦利品の服が入った紙袋を両手に抱いている。
まぁ、ユーニが満足したのなら別にいいか。

その後、カフェでしばらく時間を潰すと、眼鏡が出来上がる時間がやってきた。
再び眼鏡店へと戻って予約番号を伝えると、店員は慣れた様子で眼鏡の箱を手渡してくる。
ユーニによって会計が済まされ、眼鏡店を後にした僕たちはフロアの端に置かれたベンチに揃って腰かけた。


「服と眼鏡、ありがとう。恩に着る」
「いいって。それより早く眼鏡かけてみろよ」


促されるままに、先ほど受った小箱を開封してみる。
中に入っていたのは、ユーニが選んだ黒縁眼鏡。
長年弱い視力を受け入れてきたが、こうして眼鏡をかけてみるのは初めてだった。
そっと装着してみると、ぼんやりとしていた視界に急激にクリアになっていく。
ぼやけたピントが合わさるように、近くを歩く親子の顔も、遠くに見えるカップルの顔もよく見える。
あぁ、これが僕が今まで見逃していた世界か。


「どうどう?ちゃんと見える?」
「あぁ……。すごい。本当にありが――」


購入してくれたユーニに礼を言うべく、隣に座っている彼女に顔を向ける。
その瞬間、心配そうにこちらを見つめているユーニの顔が視界に飛び込んでくる。
今まではぼんやりとしか見えなかったユーニの青い目が、白い肌が、小さな唇が、サラサラの髪が、良く見える。
あぁ、彼女はこんな顔をしていたのか。
こんなに、綺麗な顔だったのか。


「大丈夫?アタシの顔ちゃんと見えてる?」
「えっ、あ、あぁ。み、見えてる」
「そっか。よかった。ちゃんと度は合ってるみたいだな」
「あ、あぁ」


笑いかけてくるユーニの顔を、まっすぐ見つめられない。
心臓が暴れて、落ち着かなくなる。
動揺を必死に隠しながら顔を逸らすと、ユーニはベンチから立ち上がった。


「用事も終わったし、そろそろ帰るか」


時刻は16時。
思ったよりも早く終わった。
返ろうと立ち上がるユーニに続いて立ち上がろうとした僕だったが、その瞬間猛烈なめまいと吐き気に襲われた。


「うっ…」
「タイオン?」


頭を抱え、ベンチにもたれかかるように再び腰を下ろすと、ユーニが心配そうに声をかけてきた。
頭が痛い。冷汗が止まらない。
これは、長時間人間の姿でい続けたときによく出る症状である。
だが、まだ限界時間には程遠いはず。いつも以上に活動的に動き回ったせいで、必要以上に疲れてしまったのだろうか。
どちらにせよ、このままではまずい。


「大丈夫か?気持ち悪いのか?」
「ゆ、ユーニ……」
「ん?どうした?」
「す、すまない。もう限界だ。はやく、車に……」
「わ、分かった。急ごう!」


このまま放置していれば、いずれ僕の体は犬の姿になってしまう。
こんなに大勢の人間の前で姿が変われば、半獣だということがバレてしまうだろう。
その前にはやく車に戻らなければ。
切羽詰まった様子の僕に察しがついたのか、ユーニはすぐに頷いて僕の腕を自分の肩に回した。
女性が自分よりも新調の高い男に肩を貸している様子をそれなりに目立ってしまうが、ここで犬の姿に戻るよりはいいだろう。
ユーニの腕に抱えられながら、僕は必死で体の不調を耐え忍ぶのだった。


ときめきは禁物

突然頭を抱えて苦しみだしたタイオンの様子に危機感を煽られる。
彼が車の中で話していた“限界時間”とやら来てしまったのだろう。
6時間くらいなら大丈夫だと言っていたが、スマホに表示された時刻はまだ6時間も経過していないはず。
いつもより早い限界時間の訪れに、タイオン自身も困惑しているようだった。
 
タイオンの腕を自分の肩に回させ、体を支えるようにしてショッピングモールを出る。
駐車場に到着し、車の後部座席のドアを開け、息も絶え絶えになっているタイオンを押し込んだ。
急いで運転席に回って乗り込み、バックミラーで後ろの席を確認すると、つい数秒前まで人間の姿をしていたタイオンはいつの間にかシェパードの姿に戻っていた。
着用していた服の中で息を荒げている彼のすぐ横には、先ほど購入したばかりの眼鏡が落ちている。
相当体力を消費したのだろう。とにかく急いで帰らなくては。
シートベルトを締め、アタシは車のエンジンをかけた。

ショッピングモールから家までは車で約20分。
その間に後部座席から聞こえていた荒い息も少しだけ大人しくなっていた。
だが、まだ起き上がるほどの体力はないらしい。
家のガレージに車を停め、後部座席のドアを開ける。
シートに横たわっているタイオンの腹が、未だ激しく上下に動いていた。

この状態では歩くのも困難だろう。抱きかかえて家に入るしかない。
タイオンの周りに散乱する服をかき集め、購入した服と一緒に紙袋へと押し込む。
シートに落ちていた眼鏡を拾い上げてポケットにしまうと、液体のように横たわったタイオンへと手を伸ばす。
昔飼っていた犬はそこまで大きくなかったため頻繁に抱っこしていたけれど、シェパードほど大きな犬を抱き上げたことはない。
その辺の犬を抱き上げる感覚で持ち上げるのは不可能だろう。


「うっ、重……っ」


ぐったりしているタイオンを俵のように持ち上げると、足で車のドアを勢いよく閉める。
人間の子供一人分ほどの体重があるシェパードを抱き上げるのは至難の業だった。
急いで家の中へと入り、まっすぐ父親の寝室へと向かう。
両親が亡くなって以来空室となっていたこの部屋は、タイオンが半獣と判明した後は彼の部屋として割り当てている。
ベッドの上にそっと寝かせて掛け布団を上からかけてやると、薄っすら瞼を開いたタイオンと目が合った。


「疲れさせたみたいだな。無理させて悪かった。ごめん、タイオン」


こっちを見つめながら、タイオンは“クゥン…”と鳴いていた。
何かを伝えようとしているようだが、今の彼の言葉はアタシには理解できそうもない。
今はゆっくり休んで体力を回復させるべきだろう。
“じゃあな”と声をかけて立ち上がると、“クゥンクゥン”と鳴くタイオンの声が一層大きくなった。
もしかして引き留めてるのか?
けど今は独りで眠っていた方がこいつのためになるだろう。


「おやすみ、タイオン」


未だ鳴き続けるタイオンを背に、アタシは部屋から出ていった。


***

早めに帰ってきたことで暇になってしまった。
やることもないし、まだ日が高いけれど風呂に入ってしまおう。
そう思ったアタシは、服を脱ぎ捨てて浴室へと足を踏み入れた。
蛇口をひねって熱いシャワーを頭から浴びていると、数時間前のタイオンの言葉が脳裏によみがえってくる。

“僕たちは幼いころからあの施設で実験を繰り返されていた。この状況に嫌気がさして逃げ出したんだ”

彼の言う“実験”というものが具体的にどんなものだったのかは知らない。
だが、実験を受ける毎日よりも野良犬として野垂れ死んだほうがマシだというあの言葉から察するに、相当苛烈な実験だったのだろう。
ただの犬を、人間としての要素を持ち合わせた半獣に変化させるほどのものだ。
穏やかな実験とは思えない。
彼は言っていた。犬か人間、どちらかを選べるなら犬に戻りたいと。
実験によって無理やり全く別の生物になってしまったタイオンたちは、人間のエゴによる被害者と言えるだろう。

多分、人間を恨んでるんだろうな。

初めて会った時、アイツはアタシたちを随分警戒していた。
人間に恨みを抱いているからこそ、信用できなかったのだろう。
アイツは犬としての生き方を望んでいるようだし、人間の姿でい続けることであんなにも体力を消費している。
“人間としての楽しみを教えてやる”だんて、無神経だったかもしれない。
 
服も眼鏡も、人間社会にとっては必要不可欠なものだけど、犬にとってはガラクタ同然。
それを買い与えることで、“お前は人間でもあるんだぞ”という忌々しい価値観を押し付けていたも同然だ。
アイツが犬としての生き方を望んでいる以上、人間の男としてではなく、きちんと犬として扱ってやった方がいいのかもしれない。
 
人間の姿になることであんなにも辛い思いをさせるくらいなら、ずっと犬の姿で、ただの犬として生きていてくれた方がきっと幸せだ。
だからもう、アイツを人間だと思うのはやめよう。タイオンはアタシの飼い犬なのだから。

蛇口をひねってシャワーを止め、脱衣所に出て体をバスタオルで拭いていく。
下着を身に着け、バスタオルを肩にかけると、服を着る前に髪を乾かすためドライヤーを用意し始めた。
ドライヤーのスイッチを入れ温風を当てながら髪を手櫛でとかしていく。
ボーっと鏡を見つめながら髪を乾かしていたアタシだったが、鏡に映った脱衣所の入り口から一人の男が顔を覗かせた瞬間肩を震わせた。


「ユーニ?」
「えっ?」


下着姿のまま振り返ると、そこにいたのは人間の姿になったタイオンだった。
アタシのことを見つめながら、目を見開き驚いている。


「あぁっ、す、すまない!」


途端に顔を赤くしたタイオンは、すぐさま脱衣所から廊下へと引っ込んだ。
何を動揺しているのだろう。
朝、“人間の女には興味がない”という旨の話をどや顔でしていたくせに。
別にアタシの裸なんてタイオンにとっては気にもならないはず。
にも関わらず、タイオンはやけに焦りながら廊下の陰に隠れた。


「ふ、風呂に入っていたならせめて脱衣所の扉は閉めておいてくれ!」
「あぁ、開けっ放しだったか。てかなに動揺してんの?人間の女には反応しねぇんじゃなかったのかよ」
「それは、そう、だが……」


ここからタイオンの顔を伺うことはできないが、やけにもごもごと言葉を濁している。
家に帰って来てから1時間ほどが経過しているが、もう体調は大丈夫なのだろうか。


「体は?もう平気?」
「あぁ。世話をかけてすまなかった」
「お前が謝ることじゃないだろ。アタシが無理に連れ出したのが悪い」
「いや。せっかく連れ出してくれたのに、水を差してしまったのは僕の方だ。悪かった」


タイオンは悪くない。
限界時間の存在を知っていたにも関わらずはしゃぎ過ぎたアタシのせいだ。
とはいえ、これ以上お互いに謝り続けても仕方ない。
この謝罪合戦は一旦休戦することにした。
ドライヤーを止めて、部屋着を身に纏う。
脱衣所を出ると、すぐ脇の壁に寄りかかるようにタイオンは床に座っていた。
膝を抱えて丸くなっている彼は、まるで母親に怒られた子供のよう。


「服と眼鏡、大切にする」


脱衣所から出てきたアタシと目が合うなり、すぐさま顔を逸らして呟いた。
気難しい性格をしているが、タイオンは本当に優しい奴だ。
人間が使うものなんて貰っても嬉しくないだろうに、素直にお礼を言ってくれる。
犬にしておくには勿体ないくらい、優しい男だ。
コイツが本物の人間だったなら、今の台詞もきゅんとしていたのかもしれない。

タイオンの言葉に微笑みながら頷き、アタシはキッチンへと向かった。
冷蔵庫から取り出したのは缶チューハイ
風呂上がりに飲むのが毎晩のルーティーンだった。
冷え切った缶チューハイを手にリビングのソファに座ると、何故だかタイオンも隣に腰かけてきた。
しかも、人間の姿のまま。


「犬の姿に戻らねぇの?」
「この姿だと気に食わないのか?」
「犬の姿の方が気楽だって言ってたじゃん」
「もう体調も回復したから大丈夫だ。この姿じゃないと君と話せないだろ。さっきも引き留めたのに伝わらなかったし」


タイオンはどこか落ち着かないようで、足を何度も組み直している。
ソファのひじ掛けに頬杖をつき、そっぽを向いている彼は少しすねたような口ぶりだった。
なんだかその言い方だと、アタシと話したいみたいだ。
前までは名前を呼んでも寄ってこないくらい懐かなかったのに。


「今はアタシと話したい気分ってこと?」
「……」
「タイオン?」
「……嫌なのか?」


むっとした表情で聞いてくるタイオンは、少しだけ頬を赤らめていた。
あれ、なんだか可愛い。
犬の姿をしたタイオンは何度も可愛いと思ったが、人間のタイオンに対してこんな感情を抱いたのは初めてだった。
アタシと話したいがためにわざわざ人間の姿になって隣に来てくれたタイオンに、犬としてではなく、人間の男としての可愛らしさを感じてしまう。
 
あぁだめだ。ついさっきタイオンを人間として見ないと決めたばかりなのに。
タイオンは犬。タイオンは犬。
そう自分に言い聞かせながら、アタシは頭を抱えつつため息をついた。


「はぁぁぁ……」
「何のため息だ?」
「いや、今の台詞、人間の男相手だったら確実にときめいてたなぁって」
「えっ」
「愛犬にときめき始めたらもう終わりだよなぁ。しばらく彼氏できなくなりそう」


独身の一人暮らしが犬や猫を飼い始めたら恋人が出来なくなる。なんて良く言うけれど、正直迷信だと思っていた。
けれど、どうやら本当らしい。
ペットが自分を必要としてくれる以上、恋人との甘い時間はそこまで魅力的に感じなくなってしまう。
それに、アタシが飼っているのはただの犬ではなくオスの半獣だ。
傍から見れば人間の男にしか見えないこいつを彼氏に紹介したところで、トラブルのもとにしかならないだろう。
暫く彼氏は作れそうにないな。


「彼氏が欲しいのか?」
「うーん、まぁ、出来るもんなら」
「君に彼氏が出来たら僕はどうなるんだ?」
「別にどうにもならないと思うけど。まぁ、今より構ってやれる時間は少なくなるとは思うけど」
「……それは、困るな」
「……困るんだ」
「困るだろ、そりゃあ」
「……そっか」
「………」


何故だろう。少しだけ気まずい。
まるで付き合って間もない彼氏が家に遊びに来た時のような微妙な空気感が、アタシとタイオンの間に流れている。
少なくともこの空気は、愛犬との間に流れていい空気じゃない。
早くこの微妙な沈黙を破ってしまいたくて、目の前のローテーブルに置かれたリモコンを手に取りテレビの電源をつけた。
夕方のニュース番組が流れている。
どうやら愛犬と過ごせる娯楽施設を特集しているらしい。
映っていたのはドッグランのようだ。
様々な犬種が楽しそうに走り回っているそのドッグランは、どうやら近所にあるらしい。


「ドッグランかぁ……」


今日は人間の姿で出かけたから、今度は犬の姿で名一杯遊ばせるのもいいかもしれない。
そう思いつつ、アタシはスマホでドッグランの情報を検索し始めた。


その餅の名は

眼鏡のある生活というのは想像以上に豊かなものだった。
今までは嗅覚に頼って生きてきたことが嘘のように便利で、もっと早く手に入れておけばよかったと後悔を覚えるほどだ。
中でも特に良いと思った点は、人の顔がはっきり視認できることである。
ぼんやりとしか見えなかった人々の顔の輪郭がはっきりしたことで、相手の表情を上手く読み取れるようになった。
やはりコミュニケーションをとるうえでは、相手の表情を伺うことは何より重要となってくる。
飼い主であるユーニの顔も、出会って数日たった今ようやくきちんと視認できるようになった。

どんな顔をしているのか気にならなかったわけではないが、予想以上に綺麗な顔で驚かされた。
目の青は美しく澄んでいて、白い肌はすべすべしていて綺麗だった。
髪もさらさらしていて、鼻筋も綺麗に通っている。
ハッキリ言って、かわいいと思った。
そんなことを思ってしまったからだろうか、ユーニの顔をまっすぐ見つめることが出来ない。
目が合うと心臓が跳ねて、心がざわめいてしまう。
人間相手に照れたとて意味などないというのに。


「タイオン、ドッグラン行こうか」


ユーニからのそんな唐突な提案に付き合うことになり、僕はリードを着けられ彼女の横を歩いていた。
どうやら先日テレビで特集されていたドッグランに興味を持ったらしい。
散歩がてら行ける距離だから行ってみようという彼女の言葉を断る理由は特になかった。
ドッグラン程度ではしゃぐほど僕は子供ではないが、ユーニが行きたいというのであれば付き合ってやろう。

ドッグランを目指し歩く僕たちは、大通りを歩いていた。
ふと、隣を歩くユーニへと目を向ける。
犬の姿でである今は眼鏡をしていないため視界がぼやけているが、きっと今ユーニは上機嫌なのだろう。
僕のリードを握っている彼女は終始鼻歌交じりに歩いていた。
だが、機嫌がいい彼女とは違い僕は鼻歌を歌う気分には慣れそうにない。

最近、ユーニが僕にキスをしなくなった。
キスどころか、撫でることも全くと言っていいほどしないのだ。
以前まではうんざりするほど体を撫でまわされ、ことあるごとに額や鼻先にキスをされていたのに。
半獣だと知られて以降は何故かスキンシップを避けるるようになった。
別に求めているわけではないが、前まで頻繁に行われていたことが急に鳴りを潜めると少し気になってしまう。

何か気に障るようなことでもしただろうか。
やっぱり半獣相手だと、スキンシップを躊躇してしまうものなのだろうか。
別に気にすることないのに。
撫でたいときに撫でればいいのに。
迷惑に感じていたことでも、急にやられなくなると少しだけ寂しい。


「おお!結構広いんだな」


到着したのは市民公園だった、
その一角に設けられているのが、目的地のドッグランである。
既にたくさんの犬が中で無邪気に走り回っており、その周りを飼い主たちが見守っている。
ドッグランに着くなりユーニは僕の首輪からリードを外し、自由の身にさせた。


「よっしゃ、たまには犬らしく遊ぼうぜタイオン」


そう言って彼女がバッグから取り出したのは、蛍光色の小さなボールだった。
あぁ、嫌な予感する。
案の定ユーニはそのボールを遠くに投げつけ、“取ってこーい”と支持を出す。
だが、その指示に従うことなくその場に座ると、ユーニはむっとした。


「んだよ、取って来いって」


いや、なんで僕が行かなくちゃいけないんだ。
君が投げたんだから君が取ってくればいいじゃないか。
投げられたボールを取ってきてまた投げられての繰り返しに楽しさを見出せるほど、僕は子供じゃないんだ。
せめてフリスビーだったらまだ楽しめるのに。

一向に取りに行こうとしない僕に、ユーニは腰に両手を当てながら“ったく可愛くねぇな…”とぼやいた。
僕が可愛くないだと?
この前まではあんなに何度も“可愛い”と連呼して撫で繰り回してきたくせに。
知ってるんだぞ。君は僕のことが好きなんだろ?今更隠そうとしたってもう遅い。
押してもだめなら引いてみろ作戦のツモリだろうが残念だったな。僕には効かないぞ。


「あ…」


仕方なく自分でボールを取りに行こうとしていたユーニが、ぴたりと足を止めた。
ふと視線を向けると、見知らぬオスのフレンチブルドッグがユーニの投げたボールを咥えてこちらに駆け寄ってきていた。
短い足を懸命に動かしながら、彼はユーニにボールを差し出す。


「おぉっ、取ってきてくれたのか?ありがとな」


フレンチブルドックからボールを受け取ると、ユーニは笑顔でそのしわくちゃな顔を撫で始めた。
な、なんで僕のことは頑なに撫でない癖に見知らぬ犬は躊躇なく撫でるんだ君は。
ユーニに頭を撫でられながら、フレンチブルドックは嬉しそうに“へっへっ”と舌を出しながら息をしていた。
すると、遠くからこのフレンチブルドックの飼い主らしき若い男が“こらこら!”と言いながら駆け寄ってくる。
それなり若い男で、恐らくはユーニと同年代だろう。


「まったく、勝手に走っていったらダメだろ。すみません。迷惑かけちゃったみたいで」
「いやいや全然。アタシが投げたボール取ってきてくれただけだよなー?」


犬の言葉など分からない癖に、ユーニはまるで小さな子供に語り掛けているかのような口調でフレンチブルドッグに微笑みかけていた。
相変わらず“へっへっ”と舌を出していた彼は、目線を合わせるようにしゃがみ込んできたユーニの膝に前足を突いて顔を近付かせる。
そして、あろうことかユーニの頬をその分厚い舌でペロペロと舐め始めたのだ。


『お、おい!なにしてる!?』


思わず抗議してみるが、当然ユーニには通じない。
フレンチブルドッグの彼には聞こえているはずだが、うちの飼い主の顔をしつこく舐めまわすことを辞めようとしない。
人の飼い主に何をしている!?
舐めたりすり寄ったりするならまず飼い犬の僕に許可を取るのがマナーだろ。


「お前、賢いうえに可愛いなぁ。よしよし」
『は?』


ユーニは嫌がるどころか、嬉しそうにフレンチブルドッグのペロペロ攻撃を受け入れていた。
この馴れ馴れしいフレンチブルドッグのどこが賢いというんだ?
丸いボールを単細胞な頭で追いかけている脳カラじゃないか!
しかもこのしわくちゃあ顔と短い足が可愛いだと?
どう考えても鼻筋の通った顔をしている上にすらりと長い足と尻尾を持つ僕の方が可愛いだろうが。
僕には最近“可愛い”も“賢い”も言ってこない癖に、そいつには言うのか?
可愛さと賢さでフレンチブルドッグに負けるなんて納得がいかない。


「君、よくこの公園来るの?」
「時々な。家、近いから」
「大学生?」
「まぁな」
「どこの大学?俺、隣の駅の大学の3年なんだけど」
「あ、同じだ。アタシもその大学の3年」
「えっ、マジで?学科は!?」


フレンチブルドッグの飼い主である男が、興奮気味にユーニに質問攻めしている。
どうやら互いの共通点を見つけて喜んでいるようだが、あれは所謂ナンパというものだろうか。
この馴れ馴れしい犬は、馴れ馴れしい飼い主に似てしまったようだ。
ぐいぐい距離を詰めようとする飼い主も、無遠慮に甘えている飼い犬も気に入らない。


『ユーニ、もう帰ろう』
「えっ、ちょ、なにタイオン」


ユーニの服の袖を軽く噛み、ぐいぐいと引っ張ってその場から去ろうとする。
しかし、ユーニは戸惑うばかりでなかなか立ち上がってはくれなかった。
とにかく早く行こうと促してみるが、そんな僕をユーニの腕の中で眺めていたフレンチブルドッグは“フンッ”と鼻を鳴らして嘲笑してきた。


『生きにくそうだなぁお前』
『……僕のことを言っているのか?』
『お前以外にだれがいるよ』


呆れたように笑うフレンチブルドッグは、意外にもそれなりに歳がいっているようで、話し方から貫禄が伝わってくる。
だが、そんな彼の言葉はユーニたちには通じていない。
このフレンチブルドッグが見た目に反してそれなりにおっさんだという事実も、“可愛い”を連呼しながら撫でまわしているユーニには知り得ない情報である。


『いっちょ前に俺やうちのご主人にヤキモチか?そんなことしたって飼い主の愛情はお前には向かねぇよ』
『なっ、だ、誰がヤキモチなんて……』
『違うのか?俺には構ってもらえなくて駄々こねてるようにしか見えねぇけどな』


ヤキモチだなんて幼稚なこと、僕がするわけないだろ。
ただ、僕には最近“可愛い”だの“賢い”だの言わない癖に、見知らぬ犬には惜しみなく称賛の言葉を贈るユーニに少し腹が立っただけだ。
嫉妬なんかじゃない。断じて違う。
未だ飼い主の男に質問攻めされているユーニを睨みつけてみるが、彼女はこちらの視線には一切気付く気配がなかった。


『愛情を自分に向けたいなら、上手く甘えないとな』
『甘える?僕がか?』
『当然だ。人間は犬に癒しを求める。癒されたいという欲求を満たしてやれば、簡単にご褒美を貰えるってもんだ。特にお前の飼い主みたいな若い女は一番簡単だ。見てな』


得意げな顔で舌なめずりをすると、彼は突然甘えたように“クゥン”と甲高い声で鳴き始めた。
そして、ユーニの手に鼻先を押し付けて頬を摺り寄せる。
“ん?どうした?”とユーニが意識を向けたその瞬間、彼はおもむろに芝生の上に寝転がり腹を見せつけた。
その姿は実に滑稽かつ情けない。
 
腹を見せるこの格好は相手への服従を示すポーズであり、むやみやたらと他人にするべきポーズではないのだ。
しかし、人間にとってはその滑稽なポーズも甘えているように見えるのだろう。
現に、彼のそんな恰好を見た瞬間ユーニは顔を綻ばせ始めた。


「おぉどうした?撫でてほしいのか?よしよし可愛いなぁお前は」
『なっ……』


フレンチブルドッグの姑息な策略通り、ユーニはまた“可愛い”を惜しみなく連呼して彼の腹を撫で繰り回し始めた。
彼の飼い主も、“気持ちよさそうだな”なんて呑気なことを言いながら微笑んでいる。
確かに、ユーニに腹を撫でてもらっている彼は相当気持ちいいのか体をくねくねさせながらまた“へっへっ”と舌を出している。
そんな。あんなに上手くナデナデを誘導するだなんて。
僕だってユーニに腹を撫でられたことはないのに。
あぁもう嫌だ。ユーニが僕以外の犬を可愛がっている姿なんて、これ以上見ていられない。


『ほら見ろ。可愛がられたいなら素直に甘えろ。ナデナデは気持ちいいぜ?』


フレンチブルドッグの煽るような言葉は、僕の苛立ちを上長させる。
早く帰りたい。今すぐこの場から立ち去ってしまいたい。
未だ見知らぬ犬を撫でまわすユーニを恨めし気に睨みつけるが、僕も気持ちは彼女に伝わることはなかった。


***

ドッグランを後にしてからも僕の機嫌が直ることはなかった。
ユーニが他の犬を撫でまわしていた光景を思い出すだけでムカムカしてくる。
だが、それの何が気に入らないのかと聞かれても明確な答えにたどり着けなかった。
あのフレンチブルドッグは“ヤキモチだ”なんてクダラナイことを言っていたが、そんなはずはない。
普通の犬ならともかく、人間としての知能を持ったこの僕がそんな幼稚な気持ちを抱くなんて。
ないない。ありえない。気のせいだ。
何度そう言い聞かせても、心が落ち着くことはなかった。

ドッグランで遊び疲れたせいか、ユーニは帰ってくるなりソファに横になり眠ってしまった。
あそこは犬を遊ばせる施設だというのに、飼い主の君が疲れてどうする?
どっちが飼い犬なのか分からないじゃないか。
ソファのクッションを枕にして眠っているユーニのそばに四つ足で歩み寄り、その顔を覗き込む。
人間の姿をしている時と違って眼鏡をしていないからハッキリとは見えないが、近くで見つめればぼんやりと彼女の顔が見えてくる。

ソファで寝息をたてている今のユーニは、そのあたりのやんちゃな犬と変わらない。
もしも彼女が犬だったなら犬種はなんだろう。
パピヨンなんてどうだろうか。
明るくて活発だし、人懐っこい性格はまるでパピヨンそのものだ。
あの長く優雅な耳もユーニによく似合うだろう。
彼女が犬だったなら、もっと親しくなれていただろうか。
飼い犬と飼い主という関係ではなく、もっと別の何かになれていたのだろうか。

ユーニの顔をもっと近くで見たくて顔を近づける。
すると、彼女や手や首筋、そして頬のあたりから例のフレンチブルドッグの匂いがした。
不快だ。他の犬の匂いをつけたままに家に帰ってくるなんて。
こびりついた匂いを掻き消すために、僕はソファから力なく垂れているユーニの指先をペロリと舐めた。

この手が、あの犬を撫でていた。
僕のことはまともに撫でてくれない癖に、あの犬の体は惜しみなく撫でまわしていた。
気に入らない。馴れ馴れしいあの犬も、あの飼い主も、勝手に他の犬に触れたユーニも、匂いがこびりついたこの指先も。

頬からも匂いがする。
飼い犬の僕だって彼女の顔を舐めたことなんてないのに。
腹が立つ。上書きしてしまえ。
眠ったままのユーニの頬を、そっと舐めあげる。
なんだか妙な味がした。
人間の女性が顔に塗る、ファンデーションというものの味だろう。
別に美味しくなんてないのに、胸が高鳴った。
もっとたくさん舐めて、僕の匂いだけをつけてやりたい。
他の誰かの匂いが付かないよう、ユーニは僕のものだと主張でしてやりたい。

再びユーニの指を舐める。
次に僕を撫でる時、あのフレンチブルドッグの匂いが鼻につかないよう、念入りに舐めていく。
こんな匂い、忘れてしまえ。
そんなことを念じながら舐め続けていると、体に訪れたとある変化に気が付いてしまった。
視界の端に映っていた自分の手が、いつの間にか人間の手に変わっている。
まさか。
ユーニの指に這わせていた舌の動きを止め、自分の両手に視線を落とす。
間違いない。人間の姿になっている。


「ん、…」


ソファの上で横になっていたユーニが身をよじり、吐息を漏らす。
まずい。起こしてしまったかもしれない。
今の僕は、人間の姿で服を着ていない。
見られるわけにはいかなかった。
ユーニが目を覚ます前に、急いで自分の部屋に入ってベッドにもぐりこむ。
毛布を頭からかぶり、“戻れ戻れ”と念じてみるがなかなか犬の姿には戻る気配がない。

初めてユーニの前で人間の姿になった時と同じだ。
あの時も風呂場で体を洗ってもらっていた最中にいつの間にか人間の姿になっていた。
自分の意思とは関係なく、いつの間にかこの姿になってしまうのだ。
今までは自分の意思がなければ、勝手に姿が変わることはなかったのに。
発作的に訪れる体の変化に、僕は恐怖すら抱いていた。

やがて5分ほど時間が経った頃、ようやく僕の体は犬の姿に戻った。
見慣れた自分の肉球を見てほっとする。
何故勝手に姿が変わったのか。
何故すぐに犬の姿に戻れなかったのか。
その答えを見つけるよりも前に、僕は疲れて眠ってしまっていた。

 

なでなでもふもふ

狂犬病予防?」


突如かかってきたランツからの電話に、アタシは首を傾げた。
なんでも、つい最近グレイ動物病院でセナの狂犬病の予防接種をしたという。
半獣とはいえ犬は犬。本来普通の犬が受けるべき予防治療を受けさせなければならない。
狂犬病の予防接種もその一環である。

“タイオンはもう受けさせたのか?”と聞いてくるランツに、アタシは“いや”とかぶりを振った。
ランツ曰く、グレイの厚意で予防接種を無料で受けさせてくれるという。
わざわざそのチャンスを知らせてくれたランツに礼を言いつつ、アタシは電話を切った。

注射か。子供のころはアタシも嫌いだったな。
自分から腕に針をぶっ刺されに行くなんてどうかしてる。なんて思っていたが、健康のためならちょっとした痛みも仕方ない。
タイオンは注射を受けたことがあるのだろうか。
研究所にいた頃はいろいろな実験を受けていたと言っていたし、注射くらいは経験があるかもしれない。
とにかく、タイオンを動物病院に連れて行かなくては。

2階の自室から出て階段を降り、今はタイオンの部屋となっている父の部屋へと向かう。
扉をノックすると、中から“どうぞ”という声が聞こえてきた。
そっと中に入ると、人間の姿をしているタイオンがそこにいた。
タイオンはベッドに腰かけた状態で足を組み、文庫本を読んでいる。
最近、彼はこうして父親の部屋に遺された本を読んでいることが多い。
今までは目が悪かったためできなかった読書が、眼鏡を手に入れたことで出来るようになった事実が嬉しいらしい。

今も、部屋に入ってきたアタシには目もくれず手元の本から視線を逸らそうとしない。
そんなタイオンの隣に腰かけ、顔を覗き込む。


「何読んでんの?」
「本だ」
「見りゃ分かるっつーの。どんな本読んでるんだって聞いてんだよ」
「縦書きの本だ。フォントは明朝体
「はぁ……」


アタシは本の装丁を聞いたんじゃなくジャンルを聞いたつもりだった。
恋愛ものとかミステリだとか、いろいろあるだろ?
だが、読書に集中しているタイオンはアタシと会話するつもりなどないらしい。
そんな素っ気ない彼の態度に、心がささくれる。

最近のタイオンは何故かいつもご機嫌斜めだった。
先日ドッグランに出かけたあの日からだろうか。
声をかけても短い返事しかせず、まともに顔を見てくれない。
その態度は人間の姿をしていても犬の姿をしていても変わらなかった。

言葉を離すことが出来ない普通の犬相手ならそこまで気にならなかったのかもしれないが、タイオンは半獣だ。
言葉でコミュニケーションをとることが出来る存在だからこそ、沈黙を気まずいと思ってしまうのかもしれない。
コイツを犬として扱おうと思ってはいるものの、沈黙を気にしてしまう時点で人間として見てしまっている証拠なのだろう。

何故機嫌が悪いのか、何に怒っているのか聞いてみても“別に”の一点張りだった。
これじゃあまるで彼氏と喧嘩しているみたいだ。
タイオンはアタシの愛犬なのに。
だが、気まずいからと言って放っておくわけにはいかない。


「なぁ、ちょっと出かけない?」
「どこに?」
「病院」
「何故?」
狂犬病の予防接種」


アタシの言葉を聞いた瞬間、あんなに集中していた呼んでいた文庫本をパタンと閉じてしまうタイオン。
そして、まるで逃げるかのように勢いよく立ち上がった。


「用事を思い出した。ちょっと出かけてくる」
「ちょ、待て待て待て!」


そそくさとこの場を去ろうとするタイオンの手首を掴んで引き留めるも、タイオンは足を止めようとしない。
どうやら“予防接種”というものがどんなものなのかきちんと理解しているらしい。
無駄だというのに必死に逃げようとしている。
タイオンの右手首を両手で掴みながら踏ん張ると、構わず歩こうとするタイオンによってズルズルと廊下を引きずられてしまう。


「逃げるなって!」
「逃げてない!言っただろ、用事を思い出したと」
「後にしろ!どんな用事より予防接種の方が重要だ!」
「嫌だ断る!」
「ガキかお前は!」


子供であれば注射を怖がるのも頷けるが。どうやらこのタイオンという名の大型犬も等しく注射は嫌いらしい。
気持ちは分かる。アタシだって大人になった今も注射は好きになれない。
でも逃げるほどのことじゃねぇだろ。
このまま適当な理由をつけて逃げられても、タイオンのためにならない。
首に縄付けてでも病院に連れて行かなくては。


「よし分かったタイオン。ちゃんと注射受けられたらご褒美やるから!」
「ご褒美……?」
「なにがいい?ビーフジャーキー?それとも骨っこガムとかがいい?」
「そんなのいらん」
「えー。人間のごはんの方がいい?ステーキとか」
「食べ物で釣ろうとしても無駄だ。絶対に行かない」
「なんだよもう……」


ステーキなんて高いものなかなか買わないんだぞ?
飯で釣られないなら何で釣られるって言うんだよ。
頑なに拒み続けるタイオンの態度に困り果てたアタシは、ダメもとで別角度からご褒美の案を提示してみることにした。


「うーんじゃあ、帰ってきたら名一杯ナデナデしてやる!これでどう?」
「えっ……」


抵抗するタイオンの腕が、一瞬だけ脱力した。
視線を泳がせながら戸惑っている様子の彼は、アタシが提示した“ご褒美”に喜んでいるようには見えない。
やっぱナデナデごときじゃ心揺るがないか。
そもそもこいつはただの犬じゃない。
何度も“乱暴に撫でるな”と迷惑がられているし、そう言ったスキンシップはご褒美にならないだろう。


「やっぱナデナデじゃご褒美にはならないか。じゃあこういうのはどう?帰りに本屋寄ってやるから新しい本を――」


言いかけた瞬間、タイオンは瞬時に人間から犬へと姿を変えた。
脱げ落ちた衣服の中から出てきたシェパードは、毛並みを整えるためにブルブルと体を震わせる。
そして、背後にいるアタシのことを振り返ると、不満げな目で見つめてくる。
もしかしてこれは、観念したということだろうか。
どうやら本を買ってやるというご褒美作戦が効いたのだろう。
嫌々ながらも行く気にはなってくれたらしい。


「よしよし、偉いぞタイオン!気が変わらねぇうちに行こうぜ!」


リードを手に取り、急いで身支度を整えると、タイオンの首輪にリードを取り付ける。
相変わらずタイオンは嫌そうにしていたが、抵抗する素振りはない。
そんなに本にハマったのか。
趣味を持つことはいいことだ。
これからもタイオンに何か頼みごとをするときは、新しい本を買ってやることを条件に出せば動いてくれるかもしれない。
なんとか病院に行く気になってくれたタイオンを車に乗せ、アタシはエンジンをかけた。


***


グレイ動物病院に到着するなり、タイオンの尻尾は分かりやすく垂れていた。
いつもはピンと立ち上がっている耳もしおれたように折りたたまれ、明らかに怯えている。
そんなタイオンを引きずるようにして病院内に入ると、ちょうど待合室に出て着ていたグレイが気を利かせてアタシたちを優先的に診察私室に入れてくれた。
だが、すぐに診察室に連れて行かれたことでタイオンは覚悟を決める時間を奪われてしまったらしい。
一層怯えたように腰が引けていた。


「そう怯えなくともすぐ済む」


そう言ってグレイが取り出したのは一本の注射針。
それを見た瞬間、タイオンは“クゥン”と甲高く泣きながら後ずさりし始める。
今更抵抗しようとしている様子に少し呆れていると、タイオンの目の前で膝を折ったグレイがアタシを見上げてきた。


「押さえておいてくれ」
「はいよ」


今にも暴れ出しそうなタイオンを正面から抱きしめると、彼はびくりと体を震わせて石のように固まった。
暴れればその分余計に痛くなるだろう。
じっとしている隙を見て、グレイは即座にタイオンの尻めがけて注射針をあてがった。
目にもとまらぬ速さに注射針を差し込むと、注射は一瞬のうちに終了した。


「終了だ」
「ふぅ、お疲れさん。タイオン」


きつく抱きしめていたタイオンの体を開放すると、彼は妙に複雑そうな顔をしていた。
その顔を見て思い出してしまう。
あぁ、そういえばコイツ、半獣だった。
中身はあの褐色の青年だというのに、何のためらいもなく抱きしめてしまった。
タイオンの微妙な顔は、抱きしめられたことの気まずさからきているのだろう。
あぁ失敗したなと後悔しつつ、“押さえておけ”と言われたのだからアァするしかなかったと諦めている自分もいる。
仕方なかったのだ。うん。

未だ元気を失っているタイオンを連れて車に乗せ、帰路に就く。
家に到着するとタイオンはそそくさと自分の部屋に入っていった。
注射を強制したせいで、一層機嫌を損ねてしまったのかもしれない。
気難しいあの半獣の機嫌を取るには何をすればいいのだろうかと考えながらソファでくつろいでいると、しばらくしてタイオンが部屋から出てきた。
人間の姿になっていた彼は、先日買った服を身に纏っている。
ソファに腰かけていたアタシの隣に黙って座ると、足を組みながらひじ掛けに頬杖をついた。

出かける前は熱心に本を読んでいたが、部屋で続きを読まないのだろうか。
わざわざリビングに出てきたということは、話したいことでもあるのかもしれない。
けれど彼はさっきから黙ったまま。
これは、アタシから話を振ってやるべきだろうか。


「あー、えっと、注射大変だったな。痛かった?」
「それなりに」
「犬は人間と違って尻にぶっ刺されるんだもんな。見えないところに打たれる分怖く感じるのは分かるわ」
「別に怖がっていないが」
「いやいや絶対怖がってただろ。腰引けてたし」
「……」
「まぁアタシも子供のころは注射怖かったし、ある程度は仕方ないよな。偉かったと思うぜ?」


まるで子供を褒めるかのような言い草に、タイオンは少しむっとした表情でこちらを見つめてきた。
まずい。流石に馬鹿にしたような言い方に聞こえただろうか。
どうせまた理屈っぽい口調で文句を言ってくるのだろうと身構えたのだが、タイオンは意外なことを口にしてきた。


「……で、“ご褒美”とやらはいつくれるんだ?」
「へ?」


じとっとした瞳で見つめてくるタイオンの目を見ながら、アタシは思わず素っ頓狂な声を挙げてしまった。
一瞬何のことかと思ったが、そういえば家を出る前に“注射が終わったらご褒美をあげる”と約束をしていたことを思いだす。
同でも良さそうな反応だったように見えたが、案外“ご褒美”を楽しみにしていたらしい。
物欲しげな顔で見つめてくるタイオンの褒章欲に応えるべくアタシはソファに座り直した。


「あ、ごめん。すっかり忘れてた。本屋行くんだっけ?じゃあこれから……」
「本は別にいい。今読んでいる本を読み終わってからで」
「そう?じゃあビーフジャーキー?それともステーキ?何でもいいけど高すぎるのは買ってやれねぇからな?」
「食べ物では釣られないと言っただろ。ジャーキーもステーキもいらない」


先ほどご褒美の候補として挙げたものを、タイオンは次々と切り捨てていく。
本も食べ物もいらないというのなら何が欲しいというのか。
タイオンの欲している“ご褒美”の正体が分からず首を傾げていると、ずっと不機嫌な表情を浮かべていた彼は視線を逸らしながら重い口を開いた。


「……名一杯撫でると言っていただろ」


拗ねたような口調と表情に、アタシは言葉を失った。
そういえば言った。確かに言った。
けれどあれは、どうせタイオンはそんなことでは喜ばないだろうと高を括りながら言ったことで合って、正直本気ではなかった。
まさか、アタシに撫でられることがコイツにとっての“ご褒美”だってのか?
顔を逸らしているためタイオンの横顔を見つめながら、心臓がドクンと高鳴ったのを感じた。


「あ、い、言ったな、確かに。えっと……。じゃあ犬の姿になってくんね?」
「何故だ」
「何故って」


もふもふのシェパード相手なら、中身がタイオンだと分かっていてもまだ抵抗感なく頭を撫でられるだろう。
だが、同年代の青年の姿をしている今のタイオンの頭を撫で繰り回すのはどうも躊躇いが生まれてしまう。
家族や彼氏でもない同年代の異性の頭を撫でるなんて状況、普通はなかなか巡ってこない。
人間の姿のままよりは、犬の姿になってくれた方がすんなり撫でられるような気がした。
だが、当のタイオンは犬の姿に戻る気は一切ないらしい。


「どんな姿でいようと“僕”であることは変わらないだろ」
「まぁ、そうだけど……」
「嫌なら無理にとは言わないが」


殺気からタイオンはアタシの顔を一切見ようとしない。
ここで断れば、また機嫌を損ねられるかもしれない。
それは少々面倒だった。
撫でるのが嫌なわけではない。ただ少し、ほんの少しだけ恥ずかしいのだ。
でも、こいつはアタシの愛犬だ。愛犬を撫でることは至極普通のこと。
今更意識するようなことではないはずだ。
こいつは犬。こいつは犬。
そう自分に言い聞かせながら、アタシは未だそっぽを向き続けるタイオンの頭へと手を伸ばした。


「っ、」


彼の癖毛をそっと撫でた瞬間、逸らされていたタイオンの顔が勢いよくこちらに振り向いてきた。
シェパードの姿をしている時の彼の姿を思い浮かべながら、なるべく優しく優しくその頭を撫でていく。


「偉いぞ、タイオン」


今のタイオンには、あのもふもふな毛も形のいい耳もかわいらしい尻尾もない。
どこからどう見ても人間の青年でしかない彼は、飼い主であるアタシに頭を撫でられながら目を見開いた。
そして、褐色の彼の肌がだんだんと赤く染まっていく。
“撫でろ”と要求してきたのはタイオンの方なのに、今更耳まで真っ赤になっている彼を、不覚にも“可愛い”と思ってしまった。
口をきゅっと閉じ、きょろきょろと視線を泳がせ始めたタイオンを見つめていると、こっちまで恥ずかしくなってくる。

この空気はおかしい。絶対におかしい。
愛犬との間に流れていい空気感ではない。
これじゃまるで、彼氏といちゃついているみたいだ。
こいつは犬。こいつは犬。
何度自分に言い聞かせても、この心臓の高鳴りが鎮まる気配は一切なかった。


人間的感情

掛け布団を羽織り、僕は四つ足の姿で丸くなって眠っていた。
家の中という、ほぼ絶対的に安全な空間で眠っているというのに、未だ腹を出してゆっくり眠れないのは野良生活が長かったせいだろう。
残飯をあさり、他の野良生物や悪意ある人間たちの悪戯を警戒しながら生きていたあの日々は、強い警戒心を形成するに至った。
ある意味“いい経験だった”と言えなくもないが、あの日々に戻りたいかと聞かれれば答えは“NO”だ。
これはきっと、ノアやランツに引き取られていったミオやセナも同じだろう。

今の僕たちには家があり、強請れば食事を貰え、ふかふかなベッドの上で眠ることが出来る。
そして、時には飼い主に愛情をたっぷり含ませた猫なで声で“可愛い”と言われ、頭を撫でてもらえることだってできる。
ナデナデはいい。実にいい。
荒んだ心を癒してくれるというか、辛い記憶を忘れさせてくれるというか。
ユーニのあの柔らかい手で頭を撫でられた瞬間、それまでどんなに不快な気持ちになっていたとしても即座に忘れられる気がする。
飼い主からのナデナデとはかくも悦いものだったのか。
あぁ、また撫でられたい。頭と背中を撫でられて、“可愛い”と言われながら頭の上にキスを落とされたい。
ユーニからそんなことをされたらきっと、天にも昇るような――


「って!何を考えているんだ僕は!」


ベッドから上体を起こしたタイオンの言葉は、深夜の部屋に響く。
掛け布団を頭からかぶり、丸くなって入眠しようとしていた矢先、昼間のナデナデを思い出して妙なことを考えてしまった。
何がナデナデだ。あんなもの全く嬉しくなんてない。
そもそも僕は、彼女の度重なるナデナデ&キス攻撃に嫌気すらさしていたじゃないか。
 
最近はことあるごとに撫でまわされることもなく快適に過ごせていたが、彼女が注射の褒美に撫でてやるなんてことを言うから、久しぶりに撫でさせてやったのが昼間の出来事。
僕を撫でまわすのが好きな彼女は、僕が半獣であるという事実を知った途端触れてこなくなった、
おそらく遠慮していたのだろう。
柄にもないが、一応彼女にも人の迷惑を考えるという思考回路は存在していたらしい。
 
だが、長らく僕を撫でるという褒美を取り上げては可哀そうだ。
彼女が注射の褒美にかこつけて“ナデナデ”を提案してきたから、あえてそれに乗ってやった。ただそれだけのことだ。
僕が彼女に撫でられたかったとか、あわよくばキスもしてほしかったとか、もっと長く撫でて欲しかったとか、そんなことは思ってない。断じて思ってない。


「ん、あれ?」


不意に、自分の体の変化に気が付いた。
まただ。また人間の姿になっている。
いったいこれで何回目だ?
最近、僕の体は少しおかしかった。
今までは限界時間が来ない限り自分の意志で自由に姿を変えることが出来ていたが、ここ数日は意志に反して勝手に姿が変わってしまう。
 
それも、勝手に犬になることはなく、人間に変わる時だけに限る。
この体の変化には少し、いや、かなり悩まされていた。
この急な変化が外で起こってしまったら、素っ裸の人間が急に現れることになり最悪通報されかねない。
今のところこの症状は家の中でのみ発症しているものの、いつ外で発症してしまうか分かったものではない。
早急に対応が必要だった。

だが、今はとにかく寝てしまおう。
対処方法を考えるのは明日でもいい。
とっとと犬の姿に戻って朝を迎えよう。
そう思い布団をかぶってみるが、やはりすぐには戻れない。
仕方がない。しばらく時間が経てばきっと犬の姿に戻るはずだ。

なんとか眠りにつくために瞼を閉じて体を丸めると、脳裏に昼間の光景が浮かんできた。
“偉いぞ、タイオン”
そう言って優しく僕の頭を撫でるユーニの表情が、脳裏にこびりついて離れない。
あの時、彼女は前みたいに乱暴にわしゃわしゃと撫で繰り回すのではなく、優しく、遠慮がちに撫でていた。
まるでこちらの様子を伺うかのようなその手つきは、ほんの少しだけ距離を感じてしまう。

なんであんなに遠慮がちに撫でてきたんだ?
僕が人間の姿をしていたからか?
ドッグランで会ったあのフレンチブルドッグにはあんなに愛情深くわしゃわしゃと撫でていたというのに。
犬なら誰でもいいのか彼女は。
 
そういえば、この家にはオスの先住犬がいたはず。
もしかして、先住犬にも同じようなことをしていたのだろうか。
両手で撫でまわして、“可愛い可愛い”と連呼しながらキスしまくっていたりしたのだろうか。
僕がこの家にやってきた初日の扱いを思い出してみれば、おのずと答えが見えてくる。
絶対していた。確実にしていた。
ナデナデもわしゃわしゃもキスも、絶対何もかもしていた。
やっぱり犬なら誰でもいいんじゃないか。
四つ足で肉球があって尻尾が生えていたら君は誰でもそういうことをするのか?
今の君の飼い犬はこの僕なのに。


「ああぁぁぁぁもう……」


頭を両手で抱えながら右へ左へ激しく寝返りを打ってみるが、心の靄は一向に貼れる気配がなかった。
何なんだこの感情は。なんでこんなにモヤモヤするんだ。
あのフレンチブルドッグは“ヤキモチだ”と言っていたが絶対に違う。
この僕がそんな幼稚な感情を、しかも人間の女性に対して抱くわけがない。
忘れろ。忘れるんだなにもかも。

布団の中で丸くなりながら、僕はぎゅっと目をつぶる。
あれから10分以上が経過しているが、未だ犬の姿に戻る気配はない。


***


朝の陽ざしで目を覚ますと、予想通り体は犬に戻っていた。
肉球と茶色の毛並みを視界に入れた瞬間安堵する。
自分が犬だという事実を噛みしめながら起き上がると、部屋の外で物音がした。
何かと思い外へ出てみると、私服に着替えたユーニがバッグをもって玄関で靴を履いていた。


「あぁタイオン。珍しく起きるの遅かったな。朝飯食卓に置いておいたから食えよ?じゃあ大学行ってくるな」


朝の挨拶をする間もなく、ユーニはそそくさと出ていってしまう。
あぁもう行ってしまうのか。
胸に広がった一抹の寂しさを誤魔化しながらリビングへ向かと、確かにそこには簡単な朝食が用意されていた。
人間に姿を変えて私服に着替え、その朝食を食べ終わると、僕も身支度をして家を出た。
こうしてユーニの付き添いがなく外出するのは久しぶりだ。
向かう先は既に決まっている。
グレイ動物病院。例の研究所の元職員だという男がやっている動物病院である。


***


グレイ動物病院は相変わらず閑散としていて、入り口を開けた先にある待合室には誰もいなかった。
イマドキ“病院”を名乗っている施設でここまで閑古鳥がないている場所も少ないだろう。
僕が入り口から入ったと同時に、診察室から白衣の男がコーヒーを飲みながら出てきた。グレイである。
そして僕を見つけると、何かを察したように鋭い目を細める。


「入れ」


不愛想に呟かれたその一言に従い、僕はグレイの後に続くようにして診察室へと入室した。
薬品の匂いが漂う中、促されるままに丸椅子へと腰かけると、デスクに腰かけたグレイがまっすぐに見つめてくる。


「今日は一人なのか」
「ちょっと、貴方に聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」


未だ原因の分からないこの症状について、僕はありのまま語った。
今までは自分の意志で姿を選べていたはずが、意志とは関係なく人間の姿になってしまうこと。
一度人間の姿になってしまうと、しばらく犬の姿に戻れなくなってしまうこと。
しばらく無言で僕の話を聞いていたグレイは、区切りのいいところでコーヒーカップに口を着けると、深く息を吐いた。


「その症状が出るときに共通することは何かないか?」
「共通すること?」
「例えば、いつも何かをしている時にだけなるとか」


共通すること――。何かあるだろうか。
共通点を探るために記憶を辿ってみる。
一番最初はユーニに体を洗ってもらっている時だった。
ストーカーを追っ払ったことを感謝されて、背中越しにいろいろな言葉をかけられている内にいつの間にか人間になっていた。
その次はドッグランに行った日だった。
他の犬を撫でまわしていたユーニに腹が立って、匂いを掻き消してしまえと指先や頬を舐めていたらまた人間になっていた。
最後は昨日の深夜。
ユーニに撫でられた時のことを思いだして心がざわつき、どうしようにもあの時の光景が脳から離れず、再び人間になっていた。
3つの事例に共通してい言えるのはただ一つ。


「ユーニのことを考えている時、いつの間にかそうなってる気がする……」


そうだ。1回目も2回目もこの前も、思えば全部ユーニのことで頭がいっぱいになった時、あの症状が現れた。
今までの症状すべてに共通することを強いてあげるとしたら、間違いなくユーニの存在だろう。
それが何を意味するのかは分からないが、この症状を発症した原因に何か関係があるのだろうか。
僕の言葉を聞いたグレイは、“そうか”と呟き、再び深く息を吐いた。


「先日、あの二人の少女も同じ理由でここを訪れた。意思とは関係なく人の姿になってしまうと」
「ミオとセナが?」
「元々人間であるあの2人にその兆候が表れるのは理解できるが、元来犬であるお前にもその症状が出るとはな」


どうやら、ミオとセナも先んじてここに来ていたらしい。
確か彼女たちも、同時期に飼い主たちの前で人間の姿になってしまい困っていた。
あの後も、僕と同じように勝手に人間の姿になってしまう日々が続いたのだろう。
何か知ったような口ぶりであるグレイの言葉に、僕は身を乗り出した。


「お前たち半獣は、文字通り人間と獣、二つの要素を兼ね備えている。人間と獣の明確な違いはいくつかあるが、代表的なものとして挙げられる特徴が“理性と本能”だ」
「理性と、本能……?」
「獣は本能で生きている。餌を獲るのも水を飲むのも交尾をするのも本能だ。だが人間は違う。本能で沸き上がる欲求を理性によってコントロールしている。何か食べたいが太るから今はやめておこう。異性とセックスしたいが誰とでもしたいわけじゃない。そういう感情もすべて理性が成すものだ。こういう気持ちは、人間しか抱かない」


正直言って、あまりピンとはこなかった。
僕は物心つく前から人間のDNAを少しずつ混ぜられていたため、気が付けば“普通”じゃなくなっていた。
獣と人間の違いに共感するには、僕という存在は曖昧過ぎるのかもしれない。


「お前たちが自分の意志で姿を自在に変えられていたのは、獣と犬の中間的な存在だったからだ。それがいつの間にか意思とは関係なく人間の姿になるようになってしまった。裏を返せば獣の姿を保っていられなくなった。その答えは一つ。人間に近付いているからだ」
「え…?」
「先ほど理性によって人は欲をコントロール出来ると言ったな。それが如実に表れるのは異性を前にした時だ。発情期を迎えたオスとメスがかちあえば獣は問答無用で交尾に発展する。だが人間は“性”と関連して必ず“感情”が動き出す。その“感情”が“理性”を動かし、“理性”が“欲”を押さえつける。“嫌われたくない”、“好かれたい”というこの感情は、実に人間らしいと言える。この一連の心の動きを、人は“恋”と呼称する」


ものすごい勢いでアップデートされていく情報量に、僕は頭がパンクしそうだった。
理性だの欲だの感情だの、曖昧に定義された言葉のオンパレードは、僕を混乱させる。
こんがらがった色とりどりの糸を解いて綺麗な束に戻すのは一苦労だったが、なんとか整理することが出来た。
だが、その先に見えた結果は、僕にとって実に現実味のない答えだった。


「そ、それじゃあまるで、僕がユーニに恋をしているみたいじゃないか」
「違うのか?俺にはそうにしか見えんが」


恋。こい。コイ。
ユーニに、恋。
それはつまり、ユーニをメスとして見ているということ。
ユーニを性の対象として見ているということ。
ユーニと交尾したいと思っているということ。
犬である僕が、人間であるユーニに、惹かれているということ。
そんな、まさか。ありえない。そんなことがあってたまるか。


「ち、違う。僕は犬だ。人間は好みじゃない。僕の好みは気品あふれるシェルティーのメスだ。人間のメスになんて僕は――」
「実際、飼い主であるあのユーニという女のことを考えていると人間化するのだろう?それはつまり、彼女に対して人間的な感情を抱いているという確固たる事実だ」
「人間的感情……。それが恋だと?」


このグレイという男は獣医だ。
人間の精神科医でもないこの男に、恋だの人間的感情だの、そんなものの何が分かるのというのだ。
そう思った瞬間、コーヒーカップを持つグレイの左手薬指にきらりと光る指輪が見えた。
あぁそうか。この男は獣医としてではなく経験則でモノを言っているのか。

ユーニのことを考えると無性に胸の奥が締め付けられるのも、心臓が跳ねあがるのも、どうしようもなく顔に熱が籠るのも、すべて“恋”という名の人間的感情からくるものなのだろうか。
恋をしたせいで人間に近付いているというのか、この僕が。

視線を落とせば、褐色の肌をした人間の両手がそこにある。
いつもはぷっくりとした肉球が付いているはずのその手は、しなやかな5本の指が生えた人間の男の手だ。
ユーニと同じ形をしたその手は、彼女と同じ存在になりたいと主張しているように見える。
彼女を恋しいと思うこの心が、彼女に近付きたいというこの感情が、体を揺り動かしてあっという間に形を変えてしまう。
“犬”というアイデンティティごとひっくり返して、“人間”という名の新しい生き方を押し付けてくる。
生き方考え方すべての根底を揺るがすこの感情が、恋。

僕は、ユーニのことが好きなのか。
あぁ、なんて災難な。


未知なる化学反応


犬、猫、ウサギ、ハムスター、フェレット、インコ。
ペットとして飼える動物はだいたい好きだった。
もふもふの毛が生えていればなおのこと可愛い。
そういう意味では、タイオンという愛犬は本当にかわいい存在だった。
呼んでもすぐには来ないちょっとツンデレなところがまたいい。
撫でると嫌そうな顔をするくせに、尻尾をブンブン振っている彼はどこまでも天邪鬼で愛おしくなる。
 
茶色い毛並みとしなやかな尻尾。可愛らしい肉球にピンと立った耳。
犬の姿をしているタイオンはもう目に入れても痛くないくらい可愛い。
ただ、困ったことが一つだけあった。
人間としてのアイツに対しても、“可愛い”という感情を持っている自分がいることだ。


「はぁぁぁ……」
「随分深いため息だな」


午後16時。
本日最後の授業は4階の大教室で行われる。
真ん中の席に座り、一人で授業の開始を待っていると、どこからともなくやってきたゼオンに声をかけられた。
同じ学科の同期であるこいつとは、この授業をいつも一緒に受けていた。
自然な流れで声をかけてきたゼオンのために机の上の荷物を軽くどけると、彼はすぐ隣の席に腰かけてくる。
どうやらさっきのため息を聞かれていたらしい。


「何か悩み事か?」
「悩みっていうか、うーん。まぁ悩みだな……」
「ユーニでも何かに悩みことがあるんだな」
「失礼な奴」


ゼオンは真面目な奴で、あまり冗談を言うタイプではない。
良く言えば誠実。悪く言えば堅物な性格は、タイオンに共通するところがある。
だからだろうか、このゼオンと気が合うのは。


「なんつーかさぁ。犬が可愛いんだよ」
「……は?」
「だから、うちの犬が可愛いんだよ」


頬杖を突きながら呟いたアタシに、ゼオンはキョトンとした表情を向けてきた。
自分でも訳の分からないことを言っているのはよくわかっている。
けれど、それ以外に言いようがないのだ。
まさか半獣を飼っているなんて嘘のような本当の話、言えるわけもないし。


「最近野良犬を保護したんだけどさ、そいつが可愛いんだよ」
「そ、そうか。それはなにより」
「全然“なにより”じゃねぇんだよ。まずいだろ。可愛いなんて」
「まずい、のか?」


あぁまずい。大いにまずい。
相手は半獣とはいえ犬だぞ。
四つ足の、シェパードだぞ。
頭を撫でられてちょっと赤くなってる顔が可愛いとか、アタシと話したいがためにわざわざ人間の姿になって隣に座ってくるのが可愛いとか、注射を嫌がって必死に抵抗している姿が可愛いとか、そういう感情を抱いちゃいけないんだよ。
しかも四つ足の姿ならともかく、二足で歩いている人間の姿の時にそんなことを思い始めたらもう末期だろ。


「あいつツンデレなんだよ。ちょっと撫でたら表面上は嫌な顔する癖になんか照れてるし。やたらと賢くて感心するし、健気というかもうとにかく……可愛いんだよ!」
「はぁ」


ゼオンはピンと来ていないらしい。
当然だ。犬を可愛いなんて思うのは飼い主として当然の感情。
それを“まずい”と言うなんて不審がられるに決まってる。
でも本当にまずいんだ。
タダの犬相手なら何とも思わなかっただろうけど、相手は半獣。
可愛いだの愛おしいだの思っちゃいけない気がする。
なんというか、禁断の香りがする。
開いてはいけない扉が開きかけている気がする。

冷静になれアタシ。
タイオンは犬。タイオンは犬。タイオンは犬。
変にときめくな。あいつは四つ足の犬だ。
トイレするときはきっと片足を上げてするだろうし、顔がかゆい時はきっと後ろの足でポリポリ掻いたりする犬なんだ。
人間であって人間じゃない。
そういう存在なんだあいつは。

必死に自分に言い聞かせても、昨日の光景が頭から離れない。
アタシに撫でられて、顔を真っ赤にしながら俯いていたあの表情。
恥じらいと喜びが混ざり合ったあの表情を見た瞬間、アタシの胸はぎゅうっと締め付けられた。
あんなのまるで――


「なんだか、ペットのことを話しているように聞こえないな」
「え?」
「彼氏の惚気を聞かされているみたいだ」


ゼオンの言葉に、アタシの思考は回転を辞めてしまう。
真っ白になった頭でぼうっとしていると、教室の入り口から担当の教授が入室してきた。
授業の始まりを悟った学生たちが一斉にノートを開き、前方の黒板へと視線を向ける。
アタシも周囲と同じように前へと向き直ったけれど、一向に集中できなかった。

彼氏、か。
半獣の彼氏とか特殊過ぎるだろ。
いや待て。そうだ。アイツは半獣だった。
さっきまでタイオンは犬だと自分に言い聞かせていたけれど、犬と人間の要素をどちらも持っているアイツは、そもそも犬でもあり人間でもあるんだ。
人間と同じように感情もあれば、理性もある。欲求だってあるはず。
 
犬と違って言葉でコミュニケーションを図ることが出来るし、服も自分で着られるし食べ物だって人間と変わりない。
その辺の人間と変わらず二足で歩けるし、シートベルトだって締められる。
本だって読めるし、ソファにも座れる。
用を足すときだって普通に人間用のトイレを使っているし、風呂だって人間の姿で毎日入ってる。

あれ?あいつって、そんなに犬っぽくなくね?
むしろ人間に近くね?

犬である生き方を望んでいる本人が聞けば烈火のごとく怒りそうだが、事実、最近のタイオンは人間の姿でいることの方が多い。
人間の姿を保つのは少々体力を使うと言っていたが、家の中で会うタイオンはいつも人の姿でいる気がする。
気のせいか?いや絶対違う。
人間の姿でいる時間が明らかに長くなっているのだ。

アタシはずっとアイツを犬として扱ってきたつもりだ。
でも、あんなに人間らしい姿を何度も見せられたら、流石に迷ってしまう。
人間として接するべきか、犬として接するべきか。
犬としての扱いを続けるなら、きっとアタシとタイオンの関係性は永遠に変わらないだろう。
どちらかが死ぬまで、飼い主とペットのまま。リードを着けられる者と持つ者のまま。
けれど、人間として接するなら話は変わってくる。
確信はないけれど、きっといつかこの主従関係は崩れる気がする。
そうなったとき、アタシはどんな顔をすればいいんだろう。
生き方が違うからと拒絶するべきか、それとも――。


***


1時間半の講義は1分たりとも集中できなかった。
ずっとタイオンのことを考えていたせいだ。
ノートは1文字も書き写せておらず、驚くほどまっさらだ。
“今日はここまで”とという教授の一言をきっかけに思考の世界から意識を取り戻したアタシは、何も書いていないノートを前に頭を抱えた。


「悪いゼオン。ノート、コピー取らせてくんねぇ?」


授業の終わりと共にがやがやしだす教室。
それぞれ次の授業へと向かうために席を立ちあがり始める学生たちを横目で見送りながら、アタシは隣の席で荷物をまとめていたゼオンに手を合わせた。


「書き写してなかったのか?」
「ちょっと考え事しててさ」
「らしくないな。飲み物1本で手を打ってやる」
「よっしゃ、サンキュー」


大学のコピーは1階のラウンジに設置してある。
その近くには自動販売機もあるし、ついでにそこでゼオンにコーラでも奢ってやろう。
笑顔でお礼を言いつつ立ち上がり、ゼオンの後に続いて教室の段差を降り始めた。

ふと、壁に掛けてある時計が視界に入ってくる。
もうすぐ18時だ。タイオンは今頃何をしているだろう。
一人で大人しく留守番出来ているだろうか。退屈していないだろうか。
そんなことを考えていると、足元への注意が逸れてしまう。
段差を降りていた足がもつれ、一瞬のうちにバランスを崩してしてしまった。


「うわっ」
「ユーニ!」


前を歩いていたゼオンが、アタシが段差から転びかけていることに気付いてくれたのは幸いだった。
倒れこみそうになったアタシを、間一髪のところで抱き留めてくれた。
危なかった。ゼオンが受け止めてくれなければ、今頃転がり落ちていただろう。


「危なかったな」
「あぁごめん。なんかぼーっとしてた」
「さっきから変だぞ。大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。平気だって」


抱き留めてくれていたゼオンの腕から離れ、アタシは再び歩き出す。
正直、全然大丈夫じゃなかった。
頭の中はタイオンでいっぱいだし、気を抜けばすぐに物思いに耽ってしまう。
この感覚を、アタシは21年の人生で何度か味わったことがある。
でもまさか、他の誰でもないタイオンにこの感情を抱く日が来るなんて。
あぁ、アタシ、本当に大丈夫かな。
自分で自分の心配をしながら、アタシは背後のゼオンに気付かれないように頭を抱えた。


***


陽が落ち始めた夕刻ごろ。アタシは実家の玄関の前で深く息を吐いていた。
この実家にはいろいろな思い出がある。長く住んでいる分、この玄関に染み付いた思い出は星の数ほどあるけれど、帰宅するだけでこんなにも緊張したのは生まれて初めてである。
引き戸式の扉に手を添え、ごくりと生唾を飲みながら勢いよく開け放つ。


「た、ただいま」


靴を脱ぎ、玄関にあがりこむと奥の方から気配がした。
愛犬であるはずのアイツが家にいない方がおかしい。それは分かっているのに、廊下の奥からひょっこり顔を出したその姿に、“あ、やっぱりいたんだ”と馬鹿なことを考えてしまう。


「お、おかえり」


眼鏡姿を視界に入れた瞬間、案の定心臓が跳ねた。
あぁ、せめて犬の姿で出迎えて欲しかった。
この不安定な精神状態で人間の姿をしたタイオンを見たら、余計に意識してしまうじゃないか。

二本足で立っているタイオンは相変わらず身長が高くてすらっとしている。
こうしてみると、顔も悪くない。
癖毛がやけにかわいい。
あぁもう。そういうことは考えないと心に決めたのに。


「と、とりあえず飯にするか。飯っ!」


動揺する心を隠すように顔を逸らし、タイオンの横をすり抜けようとしたその時だった。
不意に腕を掴まれ引き留められる。
ビクリと肩を震わせながら振り返ると、やけに怖い顔をしたタイオンと視線が交わった。


「どこへ行っていたんだ?」
「えっ、だから大学だって」
「本当か?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「だって匂いが――」


そこまで言って、タイオンは言葉を詰まらせた。
匂い?匂いがどうしたというのだろう。
“なに?”と聞き返してみるも、タイオンはばつがわるそうな顔で視線を逸らし、“別に”と吐き捨てた。
捕まえていたアタシの腕を離し、自分の部屋に戻ろうとするタイオン。
けれど、部屋の扉を閉める直前アタシの方を見つめながら妙なことを言ってきた。


「夕食は別に後でいい。それより先に風呂に入ってくれ」
「風呂?」
「すぐに入るんだ。いいな?」


それだけ言い残すと、ガチャっと派手な音を立てて扉を閉めてしまった。
なんだあれ。
まさか、アタシ匂うのか?だからさっき匂いがどうとか言ってたのか?
今日はさほど熱くなかったし汗もかいてない気がするが。犬の要素を半分持つアイツのことだ。
人間よりも利く鼻でアタシの体臭をかぎ取ったのかもしれない。
あぁ最悪。さっさと風呂に入ってほしいと思うくらい今日のアタシは臭いのか。

落ち込みながら着替えを持って浴室に入る。
シャワーを浴びながらも、結局はタイオンのことを考えてしまっていた。
このままじゃだめだ。
今のアタシは、タイオンに曖昧な感情を抱いてしまっている。
アイツどう接するべきか決める前に、まずは自分の気持ちを確かめた方がいいかもしれない。

恋なのか、そうじゃないのか。

普通の人間相手なら、“多分これは恋だ”と躊躇なく断言できるだろう。
けれどアイツは半獣だ。
ペットとしての庇護欲からくる親愛なのか、それともレンアイ感情からくる恋心なのか、きちんと自分の中で蹴りを着ける必要があるだろう。
色々考えるのはそれからだ。

でもどうやって確かめる?
自分の気持ちの確かめ方なんてよくわからない。
人間との恋の始まりは、得てして単純なものだ。
ときめくかときめかないか。ただそれだけ。
そうだ。ならば人間的なことをして、タイオンにときめくかどうか実験すればいい。
なんとも馬鹿らしくて単純な発想だけど、この方法こそが答えにたどり着くための一番の近道な気がする。
多少強引な手だが、やるしかない。

決意を秘めながら、アタシは浴室を出た。
体を拭き、ドライヤーで髪を乾かしいつものようにスキンケアをする。
脱衣所を後にすると、リビングにのソファにタイオンの姿があった。
当然のごとく、人間の姿をしている。


「タイオン」
「……ん?」


ソファに座るタイオンの隣に腰かけ名前を呼ぶ。
タイオンはこちらに視線を寄越すことなくまっすぐ前を見ていた。
正面に置かれているテレビには何も映っていないのに、何をそんなに見つめることがあるのだろう。
まるでアタシの視線から逃げているかのような雰囲気に、少しだけ胸が痛くなる。
けれど怯みはしない。胸に生まれたこの感情の正体を確かめるまでは。


「今夜、一緒に寝ようか。アタシの部屋で」


避けるようにそらされていたタイオンの視線が、瞬時にアタシへと向く。
ぎょっとした様子で見開かれるタイオンの目には、不安げなアタシの顔が映し出されていた。
とんでもないことを言っている自覚はある。
けれど、これはただの実験だ。
アタシがタイオンをどう思っているのか。そして、タイオンがアタシをどう思っているのかを確かめる実験。
ただのペットと飼い主なら、一緒のベッドで眠ろうが何も起こるはずがない。
でも、お互い“そういう気持ち”があったとしたらきっと、何も起こらないわけがない。

人間であるアタシと、半獣であるタイオン。
この二つの物質を同じベッドで混ぜ合わせたらどんな化学反応が起きるのか。
それはきっと、どんな科学者ですら答えを出せない未知の実験なのだ。
目の前で、愛犬がごくりと生唾を飲む音がした。

 

本能の波

恋。
それは犬にはない感情の発露。
その言葉の意味は薄っすら理解できていたが、実際に口で説明してみろと言われれば難しい。
グレイ動物病院からの帰りに寄った図書館でそれらしい書籍を読み漁ってみたものの、どれもこれも哲学的な言葉を並べ立てるばかりで明確な答えを提供してはくれなかった。

僕はユーニに恋をしている。
グレイから突き付けられた真実は正直認めがたいものだった。
だって僕は半獣だ。確かに人間の要素も半分持ってはいるものの元はと言えば犬。
好みはシェルティーのメスであって人間のメスなんて1ミリも興味がなかった。なのに、なのに。

ユーニの声で“ただいま”と聞こえてきただけで心臓が裏返りそうなほど飛び跳ねてしまう。
廊下から顔を覗かせて、彼女の姿を視界に入れただけで心がざわめいてしまう。
これが恋だというのか。バカな。そんなはずない。
どれだけ否定しても、その事実を立証するかの如く心は踊る。
そして、戸惑う僕にっとてとどめの一撃となったのは、彼女の体からほんのり香ってきた第三者の匂いだった。

明らかに人間の男と思しき匂いが、ユーニの全身から香ってくる。
手だけに付着しているならまだわかる。だが全身から匂ってくるとはどういうことだ。
どう考えても、体を密着させたとしか思えない。
例えば抱き合ったとか。

どうにもこうにも腹が立つ。
この前のドッグランでもそうだったが、ユーニは隙がありすぎる。
見知らぬ犬を撫で繰り回して手にべったり雄犬の匂いを着けてきたと思ったら、今度は全身から人間のオスの匂いだと?
ふざけるな。軽すぎるだろ。
何をしたらそんな全身に匂いが付くんだ。
抱き合ったのか。なんでそんなことをするんだ。
君は僕のものなのに。

思考が狂う。
息が出来ないほど締め付けられた胸を抑えながら、僕は理解してしまった。
そうか。これは嫉妬か。
単純に飼い主を取られたから嫉妬しているんじゃない。
オスとして、男として、自分の女を取られたから嫉妬しているのだ。

僕はユーニを、“女”として見ている。

そこに横たわっている事実を噛みしめ、一層辛くなった。
馬鹿なことを。何を考えているんだ僕は。
相手は人間なんだぞ。半分犬である僕なんて、受け入れてもらえるわけがない。
半分犬の人間なんて、隣に立てるわけがない。
いつかユーニはちゃんとした“人間”と結ばれる運命が待っているはずだ。その相手は僕じゃない。
ユーニに彼氏ができたとして、結婚したとして、子供が生まれたとして、僕は一生ユーニの“飼い犬”でしかない。
所詮はペット。恋の相手になんて、なれるわけがないのに。


「今夜、一緒に寝ようか。アタシの部屋で」


僕の葛藤なんて知るわけもないユーニは、また突拍子もないことを言ってくる。
一緒に寝るなんてありえない。何を馬鹿なことを言っているんだと驚いたが、よく考えれば何もおかしいことはなかった。
ユーニからして僕はただのペット。
ペットと一緒に寝るなんて、普通に考えたらよくある話だ。
ただ癒しが欲しいだけなんだろう、どうせ。
もふもふの体を撫でて、“可愛いな”と愛でながら安心して眠りたい。ただそれだけ。
そこにときめきや恋心など発生しうるはずない。
ただ、僕だけが一方的に意識しているだけの空間が待っているのだ。


「……前に、何があっても部屋に入るなと言ってきただろ」
「言ったっけ?じゃあそれナシ。今日から無効」
「は、はぁ?なんでそんなに簡単に……」
「いいじゃん。お前だってあの時理屈こねながら散々反対してたじゃん。」
「それは……その、」


無駄な抵抗を繰り返す僕に、ユーニはどんどん距離を詰めていく。
不味いと思っていても、彼女からぐいぐい詰められれば僕の決意は簡単に揺らいでしまう。
これはだめだ。何としても逃げなくては。


「今、ちょっと調子が悪くて犬の姿になれないんだ。一緒に寝るとなると、こ、この姿で寝ることに……」
「別にいい」
「え?」
「人間の姿のタイオンと一緒に寝たい」


犬としてではなく、人間としての僕と一緒に寝たいということか。
それは一体どういう気持ちの変化なんだ?
この前まで部屋に入るなと頑なに拒んできたくせに。
どうして急に懐を開こうとするんだ。意味が分からない。
まっすぐ目を見れなくなって、急いで視線を逸らした僕に、ユーニからの追撃がくる。


「だめ?」


首を傾げながら不安げに聞いてくるユーニ。
その声色と目に、息が苦しくなる。
なんだそれ。可愛い。可愛すぎるだろ。
そんな空気で迫られたら、拒めなくなってしまう。


「だめ、じゃ、ない」


誘惑に負けてしまった。
たどたどしく受け入れた僕に、ユーニは嬉しそうに笑う。
その微笑みさえも可愛いと思えるようになってしまったのは末期だろうか。

食事を済ませ、風呂に入って歯を磨き、息を呑みながらユーニの部屋をノックすると中から“どうぞ”と聞こえてくる。
恐る恐るドアノブを握り中に入ると、間接照明だけが付いている薄暗い部屋の中で、ユーニはベッドに腰かけていた。
生唾を飲む。心臓が信じられない速さで脈を打っている。
一歩中に足を踏み入れたと同時に、ユーニはベッドの上の布団をめくり上げて“こっち来て”と誘ってきた。
いざなわれるようにゆっくりと布団の中に入ると、ユーニの香りがぶわっと押し寄せてくる。

向き合うように横になると、あまりにも近い距離にユーニの顔があった。
眼鏡を外しているにも関わらず、ユーニの輪郭がはっきりと見える。
それほどまでに、距離が近いのだ。

あぁまずい。息が苦しい。
そこら中からユーニのいい香りがして、心臓が痛い。
こんなに近くに彼女がいると思うと、脳髄がとろけそうになる。
呼吸すら慎重になって、自然と体が強張っていた。


「こうやって一緒に寝るの、初めてだな」
「そう、だな」
「昔飼ってた犬とはよく添い寝してたんだけどな」
「そうなのか」
「うん。アタシが寝てるといつの間にかそばに寄ってくるんだ。あったかくて、可愛かった」


僕が散歩のときに使っているリードは、先住犬の物だった。
リードだけじゃなく、そのほか多くの物に先住犬の匂いがこびりついている。
この家で天寿を全うしたらしいその犬は、確実に僕よりも長い時間ユーニと一緒に過ごしている。
過ごした時間の長さが絆の強さに繋がるとは思っていないが、時間的尺度で言えば確実に僕は先住犬に勝てていない。
きっと彼は、今まで僕がユーニにされてきたように、たくさん撫でられて、たくさんキスをされてきたのだろう。
そう思うと、どうしようもなく悔しくなった。


「君は、誰とでもそういうことをするのか」
「うん?そういうこと?」
「撫でたり、抱きしめたり、キスをしたり」
「あぁ……。動物は好きだから、犬や猫にはするかもな」
「じゃあ、人間相手だと?」
「しないだろ流石に」
「嘘だ。ならどうして今日、全身に男の匂いを着けて帰って来たんだ?」
「えっ、男の匂い?」
「腕からも背中からも首からも匂ってきた。僕の知らない男の匂いだ」


飼い主の匂いをいちいち気にするなんてみっともない。
それは分かってた。
でも、問いたださずにはいられない。
あの匂いは誰のものなのか。何故全身に匂いを着けてきたのか。
納得する答えを得られるまで、きっとこの心に巣食った靄が晴れることはないのだ。
もしも、“彼氏と抱き合ってた”なんて言われたら、僕は、僕は――


「あぁ……。大学で段差に転びそうになったんだ。前を歩いてた男友達がとっさに受け止めてくれただけ」
「……それだけか?」
「それだけ。べつに故意に抱き合ったとかじゃないから」
「本当に?」
「本当に」


ユーニの言葉を信じることにした。
相手は男とは言えただの友達。そして故意ではなかった。その事実だけで十分だ。
彼女口から語られた真実に、ひどく安堵している自分がいる。
僅かにため息を漏らした僕をまっすぐ見つめ、ユーニは瞳を揺らした。


「もしかして、嫉妬してたのか?」


違う。そんなんじゃない。
ありえない。そんなわけない。
僕が嫉妬なんて、するわけがない。


「……うん」


心に反して、言葉は嫌になるほど素直だった。
肯定の言葉が無意識に吐き出されてしまう。
そんな僕の頭をユーニはゆっくり右手で撫で始める。


「だから早く風呂入れって言ったの?知らない匂いがついてると、嫉妬するから」


違うんだ。そんな幼稚なこと思ってない。
僕がそんな、そんな馬鹿な事考えるわけないだろ。


「うん」


だめだ。意思とは関係なく言葉が出てしまう。
ユーニの甘い問いかけを前に、思考がとろけて嘘がつけなくなってしまう。
無様なほど本心がさらけ出される。
隠し通せそうにない。
まるで、催眠術にでもかかったみたいだ。


「まだ、匂いする?」
「……いや。君の匂いしかしない」
「アタシの匂いってどんなの?」
「甘くて、いい匂いだ。嗅いでいると、舐めたくなる」


言ってしまった瞬間、後悔の念が襲ってくる。
まずい。気持ち悪いことを言ってしまった。
人間はそう簡単に舌を使わない。愛情表現で舌を使うのは犬や猫だけだ。
人間であるユーニに“舐めたくなる”なんて言うべきじゃなかった。
だが、後悔から視線を泳がせる僕を見つめながら、ユーニは薄く笑みを浮かべ始める。


「舐めていいよ」
「え……」
「いいよ、舐めて」


囁かれた声に、僕は言葉を失った。
いいのか?そんなことをして。
気持ち悪くないのか?嫌じゃないのか?
無防備に受け入れられたことに動揺しつつも、心の奥底から喜びがあふれてくる。
もっとユーニの匂いを嗅いでいたい。その白い肌を舐めたい。
その欲求の波に、少しずつ吞まれていく。

横になりながらユーニの首元に顔を近づけ、深く息を吸い込む。
石鹸の香りと、ユーニの体から香る甘い香りが鼻腔をくすぐり、まるで麻薬のように思考を溶かしていく。
この匂い、おかしくなりそうだ。
小波程度だった欲求の波が、どんどん荒くなっていく。

すんすんと鼻を鳴らして匂いを吸い込むたび、息が荒くなる。
だめだ。もう耐えられない。
白い首筋に恐る恐る舌を這わせて舐めあげると、匂いと同じく甘い味が舌に残った。
もう一度舐めたい。
その欲求を止めるだけの理性は既になく、いつの間にかもう一度、二度、三度と舌を這わせていた。
ユーニの香りの上に、僕の匂いが重なっていく。
その事実を鼻腔で感じ取るたび、心が躍る。心臓が跳ねる。体の中心が疼く。


「はっ、」


首筋を舐めあげる舌の動きがどんどん早まるうちに、ユーニが熱い吐息を漏らした。
体を強張らせ、時折肩をびくりと震わせるユーニが艶めかしい反応を示した瞬間、僕の思考はとろとろに溶けだしてしまう。
もはや理性など、熱いの欲求に溶かされて形を失ってしまっている。
鈍くなった脳が発する危険信号を無視して、腹の奥から湧き上がる欲望に身を任せる。

横たわっているユーニの上に馬乗りになって見下ろすと、彼女は不安そうに僕の目を見つめてきた。
その目が、僕の思考を一層狂わせる。
可愛い。食べてしまいたいくらいに可愛い。
目の前の彼女を、ユーニを、僕だけのものにしてしまいたい。


「あっ…」


ユーニの手首を握って押さえつけ、首元に顔をうずめる。
ここが、彼女の匂いが一番強い場所だ。
舐めて、嗅いで、ユーニのすべてを体内に取り込んでしまいたい。
体が熱い。全身の血が沸騰したみたいにぐつぐつと熱が昇ってくる。
熱による疼きは、体の中心部をドクンドクンと脈打たせながら硬くさせていく。
甘く誘うようなユーニの匂いが、僕の獣としての本能を呼び覚ましながら理性を削ってしまう。


「ふッ……は、」


舌でユーニの首筋に縋りながら、吐息が漏れる。
足と足が擦れ合って、ユーニの温もりが伝わってきた。
息が苦しい。でももっと続けていたい。
もっと、もっと、もっと、きもちよくなりたい。
熱を持った下半身が、ユーニの太ももに触れる。
その感覚が異様に快感を煽り、一層強く押し付けた。


「ちょ、タイオン……っ」


いい匂いだ。
この匂いに抱かれていたい。
この匂いのナカに入ったら、どんなに幸せだろう。
中に解き放って、僕の匂いをユーニの体に擦り付けてしまいたい。
永遠に消えない匂いをユーニに植え付けて、他の犬や人間のオス共に彼女は僕だけの物なんだと知らしめてやりたい。
腰が揺れる。
部屋着の上からユーニの足と足の間に押し付けて、やわやわと擦り付ける。
本能によるその行動は、強烈な快感と興奮を呼び起こす。


「フッ、…んんっ」
「おい、待っ……」


気持ちいい。体が疼いて仕方ない。
息が荒くなって、脳裏で光が明滅する。
ユーニの四肢を押さえつけながら匂いを擦り付ける動作は、まさに獣。
このとき、僕はすっかり忘れていた。
自分が所詮半獣でしかないということを。
半分は獣なのだということを。
普通の人間よりも、欲を抑え込む理性が弱いことを。
他の獣と同じくらい、本能に忠実だということを。


「タイオン!待てって!」
「っ、」


ユーニの悲鳴交じりの声で、混濁しつつあった僕の意識が返ってきた。
ハッとして我に返ると、僕はいつの間にか押さえ込むようにユーニの上に跨り、首筋に噛みつくように舌を這わせていた。
硬くなった下半身をユーニの足の間に擦り付け、無意識に腰を揺らしては吐息を漏らす。
こんなの、正気じゃない。
いつもの僕なら絶対にしないことだった。
我を忘れていた。あふれる欲求を理性で抑え込むことが出来ず、波にのまれるように体を揺らしていた。
それはまさに、獣としての本能に揺り動かされての行動だった。

目の前の光景がだんだん歪んでいく。
なんてことをしていたんだ僕は。
こんな、こんな身勝手に欲望を押し付けて、聞き分けのない獣のように腰を振っていたなんて。

僕の下で、驚いたような表情で見上げてくるユーニと目が合った。
その困惑した目を見ていると、怖くなってしまう。
彼女の目に映る僕は、卑怯な人間と聞き分けのない獣。どちらに見えているのだろう。
どちらにせよ、きっと醜くて気持ち悪いに違いない。


「す、すまない……っ」
「お、おいタイオン!」


崩れ落ちるようにユーニの上から降りると、バタバタと派手な音を鳴らしながら脱兎のごとく逃げ出した。
ユーニの部屋から飛び出して、階段を降りる。
廊下の先にある自分の部屋へと飛び込むと、途端に嫌悪感に襲われた。

抑えられなかった。
ユーニの匂いを嗅いでいると心が浮ついて、体の奥が熱くなって、衝動が背中を蹴り上げる。
グレイは言っていた。獣は本能で生き、人間は理性で生きるのだと。
あの時の僕はまさに本能に支配されていた。姿かたちは人間を保っていても、中身は獣でしかない。
あんなの、嫌われるに決まってる。
きっと気持ち悪いと思われた。まるで雌犬に発情する雄犬のように腰を振って、吐息を漏らして。
 
いや、“まるで”も何も僕は元々犬じゃないか。
そうだ。最初から僕は犬で、彼女は人間。釣り合うはずなんてなかったんだ。
こんな本能のまま生きる僕なんて、ユーニには相応しくない。

あぁ、もしも僕が人間として生まれていたのなら、もっと簡単だったのだろうか。

そこまで考えてようやく気付いてしまった。
犬に戻りたいと思っていたはずなのに、いつの間にか人間になりたがっている事実に。


2人の夜明け

タイオンが上に跨ってきた瞬間、アタシは数十分前の浅はかな決断を早速後悔した。
自分の気持ちを確かめようなんて馬鹿な事しなければよかった。
そんなことしなくたって、この心に生まれた靄の正体はとっくにわかっていたはず。
アタシは、タイオンのことが好き。
犬だからとか人間だからとか半獣だからとか、そんなことは関係ない。
タイオンという存在そのものに恋をしているんだ。

だから、熱っぽい瞳で見下ろされた時、心が疼いた。
きっともう、こいつをただの“愛犬”とは思えない。
それはきっとタイオンも同じ。
アタシの太ももに当たっている熱く硬いそれが、タイオンの心を物語っていた。
境界線はとっくの昔に飛び越えていたのだろう。
アタシたちは、今までのままではいられない。

アタシの首筋に舌を這わせ、荒い吐息を耳元でたててタイオンは、アタシの声でようやく我に返った。
焦りを滲ませた表情で目を見開き、泣きそうになりながら部屋から逃げ出してしまう。
どう考えても、本能に飲まれた行動としか思えなかった。
乱れた服を整えながらタイオンの後を追うと、彼は自分の部屋に入って扉を閉めてしまった。
“バタン”と派手な音を立てて、部屋の扉だけでなく心の扉も一緒に閉められてしまった気がする。
恐る恐る扉に手を這わせて“タイオン?”と声をかけてみるも、中から返事は聞こえてこなかった。


「入るぞ」


ゆっくりと扉を開くと、予想通り部屋は暗いままだった。
奥に置かれたベッドの上で、タイオンが毛布にくるまりながら壁の方を向いている。
その背中からは哀しみと後悔の色が滲んでいた。
ベッドに胡坐をかいているタイオンのすぐ隣に腰かけてみるも、どんな言葉を投げかけるべきなのか分からない。


「あ、あのさ、タイオン。アタシ――」
「すまなかった」
「えっ?」
「止められなかった。頭が真っ白になって、なにも考えられなくなった。本当にすまない」
「いや、別に……」


謝るのはアタシの方だった。
分かり切っていたはずなのに、タイオンを試すようなことをしてしまった。
アタシが“一緒に寝よう”なんて余計なことを言わなければ、きっとこんな風にはならなかったはず。
ずっと、飼い主と飼い犬の関係でいられただろう。


「明日、出ていくつもりだ」
「えっ、出ていくって……?」
「あんなことした奴を家に置いておけないだろ?あんな、気持ち悪いことをするような犬なんて……」


タイオンの言う“気持ち悪いこと”とは、さっき上に跨ってきたことだろうか。
犬が人間相手にマウンティング行為の一環として腰を振るのはよくあることだし、タイオンを“犬”として捉えたとして異常とは言い切れない。
人間だって、異性と一緒のベッドで寝ればムラムラするのは普通のことだ。男なら特に。
 
犬であっても人間であっても、タイオンは何も気持ち悪いことはしていない。
ただ、一つだけ違和感を挙げるとすれば、太ももに当たっていたあの硬い感触だけ。
元々は犬であるタイオンが、人間であるアタシ相手に性的な反応を示していた。
それは紛れもない事実で、そこに関してだけは、“普通”とは言い難い。


「別に出て行く必要なんてないだろ。ただ、一つだけ聞きたいことがあるんだけど」
「……なんだ」
「人間相手には反応しないんじゃなかったのか?」


投げかけた質問を受け取ったタイオンが、両手で頭を抱えだす。
返答に困っているようだった。
暫く沈黙が続いたが、黙って返答を待っているとようやく彼は口を開き始めた。


「そう、思ってたんだが……。変わった」
「変わった?」
「君を前にすると自分を見失いそうになる。胸が痛いんだ。もっと近づきたくなる。独占したくなる」


ぽつぽつと囁かれる言葉一つ一つが、アタシの喜びを呼び寄せてゆく。
胸が痛い?近付きたくなる?独占したくなる?なんだよそれ。
こいつ、アタシのことめちゃくちゃ好きじゃん。
やばい。凄まじく嬉しい。
自然と緩んでしまう口元を引き締めるため自分の両頬を“パンっ”と勢いよく叩くと、突如鳴り響いた乾いた音を不審に思ったらしいタイオンがこちらを振り返ってくる。


「どうした?」
「いや、なんでもない。えっと、タイオンはさ、その……アタシとどうなりたいわけ?」
「どう、というと?」
「今まで通り飼い犬と飼い主の関係でいいわけ?それとも、別の何かになりたいとか……」


“それってアタシのこと好きってこと?”
そんな風に聞いたとして、半獣であるタイオンが人間の恋愛感情を理解しているとは思えなかった。
だから、卑怯だけどこいつの言葉で、こいつの価値観でどうしたいのか聞いてみたい。
“普通”とは言い難いアタシたちだからこそ、慎重に距離を詰めていかなくちゃいけないだろうから。
暫く黙って考え込んでいたタイオンは、不安げな眼差しをアタシに向けつつ震える声で言葉を紡ぎ始める。


「……つ、」
「つ?」
「……番に、なりたい」
「え?つ、ツガイ?」
「番」


誰かに“番になりたい”と言われたのは当然ながら初めてだった。
番。つがい。ツガイ。
頭の中でその一言を検索してみるも、絶対に人間に対して使う言葉ではないことだけは明らかである。
てっきり“付き合いたい”と言われるものだと思っていたため、斜め上からそっと投げられた変化球に戸惑ってしまう。


「つ、番かぁ……番、かぁ……」


不安そうにしてはいるものの、タイオンは至極本気のようだ。
ふざけているようには見えない。
どうしよう。交際を申し込むテンションで番になることを所望されたのは初めてだったから、この変化球をどう打ち返していいか全くわからない。
一つだけ言えることは、人間であるアタシには犬や猫のような付き合い方は出来ないということだけだ。


「番はちょっと、ムリ、かなぁ……」
「やっぱり僕が嫌いなのか……」
「や、ち、違うって!そういうんじゃなくてさ!」


“番”なんて、人間の男女には使わない言葉なんだよ。
まるで子供をつくるためだけの関係性を言い表してるみたいで正直いやだった。
なるなら“番”じゃなくて、もっと別の何かがいい。


「番は無理だけど、付き合うことはできるってこと!」
「付き合う?」
「そう。恋人ってやつ」
「恋人になると、何が出来る?」
「アタシを独占できる」


タイオンが、期待を込めた目を向けてくる。
喜びを隠しきれない顔だ。
コイツは素直じゃないけれど、感情が表情に出やすタイプだった。
犬の姿をしている時は尻尾の動きで感情が読み取れるけれど、人間の姿をしている時は表情の変化で大体わかってしまう。
そんな分かりやすくて可愛いタイオンが、アタシは好きなんだ。


「君の恋人になりたい」
「じゃあ、決まりだな」


嬉しくなって微笑むと、タイオンはそっとアタシの頬に手を添えてきた。
目が細められて、甘い空気が漂い始める。
あぁこれは。
 
彼が何をしようとしているのかすぐに察したアタシは目を閉じる。
唇にやってくるであろうあの感触を待っていると、一向にその柔らかな感触が重ねられることはなく、代わりに彼の舌がアタシの唇をペロッと舐めた。
驚いて目を開けると、タイオンが真っ赤な顔で視線を逸らし、背中を丸めて小さくなっていた。
その光景を見た瞬間、愛おしさと可笑しさが入り混じって思わず吹き出してしまった。


「な、なんで笑うんだ」
「いやだってさ、まぁそうなるよなぁって思って」


犬による愛情表現は基本的に舌で舐める攻撃だ。
たとえ人間の姿をしていても、元々犬だったタイオンにっとて、舌で舐めてくるのは精いっぱいの愛情表現なのだろう。
けれどアタシは人間だ。
唇は舌で舐められるよりも重ねられた方が嬉しい。


「人間の愛情表現はこうするんだよ」


未だ赤い顔をしているタイオンへと近づき、彼の唇に口付ける。
タイオンの唇は、緊張からか少しだけ震えていた。
ゆっくりと離れると、先ほどまで赤面してたタイオンはもうそこにはいなかった。
代わりに、熱を孕んだ視線がアタシを貫く。
 
もう一度頬に手を添えてきたタイオンは、今度は舌で舐めるのではなく、アタシの真似をするように唇に口付けてきた。
食むような口付けは不慣れさが伝わってきたけれど、それも可愛い。
自分で思うよりもずっと、アタシはタイオンのことが好きになっていたらしい。

やがて口づけは唇を食むようなものから貪るような動きに変わっていく。
タイオンの本能が、理性を蝕んで支配していく。
獣と化したタイオンは少し暴走気味になるけれど、もう拒む理由はない。
力の強いタイオンに押し倒されながら、アタシは彼の癖毛を撫でた。
太もものあたりに、また硬い何かが押し付けられる。
飼い犬と飼い主の関係性がゆっくりと壊れていくのを感じながら、アタシはタイオンの舌を受け入れた。


***


「彼氏ができた?」


いつも通りの大教室。
授業が始まるまでの空き時間に、アタシは隣の席に座っているゼオンと談笑していた。
話のきっかけは、鼻歌を歌いながらスマホをいじっていたアタシにゼオンが“何かいことでもあったのか?”と問いかけてきたことだった。
 
いいことは確かにあった。
つい3日ほど前。久しぶりに彼氏ができたのだ。
恋愛に関してはどちらかというとドライな方だけど、流石に新しく彼氏が出来たとなるとこんなアタシでも浮かれてしまう。
あの夜以来、何もかもが楽しくて仕方がないのだ。


「いい男なのか?」
「好き嫌いが別れる顔だとは思うけど、アタシは好きかな。身長も高いし」
「写真はないのか?」
「写真?あぁ…。つ、付き合ったばっかだからまだない、かな」


写真はあるものの、全部犬の姿をしている時に勝手に盗撮した写真だった。
シェパードの写真を見せながらどや顔で“これ彼氏”なんて言ったらきっと頭がおかしくなったと思われるだろう。
今度他の誰かに写真をせがまれた時のために、人間の姿をしているタイオンの写真を撮っておく必要がありそうだ。


「どんな奴なんだ?性格は?」
「うーん。意地っ張りに見えて意外に甘ったれ。撫でられるのが好きで、アタシの匂いが好きなんだって」
「はぁ。よくわからないが、“犬系彼氏”とかいうやつか?」


犬系というか犬なんだが。とは流石に言えなかった。
付き合って以降、タイオンはほんの少しだけ素直になった気がする。
前までは名前を呼んでもすぐには近付いてこなかったけど、今は赤い顔をしながらすり寄ってくる。
犬の姿をしている時の方が甘えやすいのか、四つ足の姿の時は存分に体を擦りつけてナデナデを要求してくる。
無駄に鼻が利くせいでちょっと男と触れ合うだけで不機嫌になるのは困るけど、やたらヤキモチ焼きなところも正直可愛らしい。
こんなことを言ったら、きっとまた拗ねてしまうと思うけど。


「そういえば、ノアやランツにも彼女が出来たらしい」
「えっ、そうなの?初耳」


ゼオンからもたらされた情報に、アタシは思わず大きな声を挙げてしまった。
そういえば、最近はあの2人と会っていなかった。
とはいえ、幼馴染のアタシに彼女が出来た報告をしないなんて水臭いじゃないか。
どんなのと付き合っているんだろう。


「ユーニと似たようなことを言っていたな。ノアの彼女はことあるごとにすり寄ってくる猫みたいな彼女で、ランツの彼女は小さくてかわいい犬みたいな彼女だと」
「え……」


猫みたいなノアの彼女に、犬みたいなランツの彼女…?
頭に思い浮かぶのは、他の誰でもないミオとセナの顔。
い、いやいや。ないない。
アタシとタイオンじゃないんだから、まさか半獣と付き合うなんてあるわけない。
アイツらまでそういう関係になるなんて流石に……。


「まさか、な……」


小さな独り言は、教室内の喧騒に溶けていく。
この時、アタシはまだ知らなかった。
半獣と“特別な関係”になったのは、アタシだけじゃないという事実を。


きけんなわんちゃん

僕の毎日のルーティーンはおおよそ決まっていた。
朝起きてたらすぐに毛づくろい。体をぶるぶるふるわせて毛並みを整えてから部屋を出る。
四つ足で階段を上がり、器用に前足を使ってユーニの部屋の扉を開ける。
僕の主人は毎朝起きるのが遅い。
ユーニの起床が遅くなればなるほど僕の朝食の時間も後ろ倒しになってしまうのだからいい加減早く起きて欲しい。
ジャンプでベッドに上がると、布団から覗く安らかな寝顔が視界に入る。

もう少し早く起きて欲しいのは事実だが、こうして寝顔を見つめている時間も嫌いじゃない。
ユーニが僕の“主人”から“彼女”にステップアップしたのは数日前のこと。
本当は番になりたかったのだが、ユーニ曰く人間は番を持たないらしいため“恋人”という関係になることとなった。
少々不満ではあったが、恋人になって以来ユーニは前以上に惜しみなく愛情を注いでくれているためまぁよしとする。

流石にそろそろ起きて欲しいため顔を舐めてたたき起こすと、ユーニは鬱陶しそうに腕で振り払ってきた。
何だその態度は。せっかくこの僕が起こしに来てやっているというのに。
それが“彼氏”に対する態度か。

ようやく起床したユーニが顔を洗い歯を磨き朝食を作っている間に、僕は部屋に戻って人間の姿へと変化する。
以前ユーニが贈ってくれた服を着てリビングに出ると、既に朝食の用意が出来ていた。
手を合わせて二人一緒に朝食を食べるこの時間が、僕はたまらなく好きだった。 
“犬”として生きていた時は叶わなかった、ユーニと向かい合って会話しながら食事するという行為が楽しくて仕方がないのだ。
 
朝食を終え、私服に着替えたユーニが大学へ向かうのを見送るまでが、僕の朝のルーティーンだ。
ユーニが帰ってくるまでは暇を持て余している。
基本的に犬の姿で日の当たる暖かい場所を見つけ、そこで寝そべりながら日向ぼっこをして過ごしている。
最近は読書という娯楽も増えたが、ずっと読んでいると目が疲れるため今日は一日中眠ることにした。

やがて時計が半回転した頃、ユーニが帰宅した。
今日は比較的早い帰宅である。
四つ足のまま駆け出して玄関で迎えると、妙な違和感に気が付いた。
匂いがする。オス犬の匂いだ。
さては帰ってくるまでの道で見知らぬ犬を撫でたな?

くんくん鼻を鳴らしながらユーニの周りを回り、付着した匂いを確かめてみると、彼女は“はいはい、さっき柴犬を撫でました”と白状してきた。
柴犬だと?しかもこの匂いは割と若い柴犬だ。
両手の平に匂いがべったりとついていることから察するに、おそらく両手でわしゃわしゃと撫でたのだろう。いつも僕にやっているように。


『白昼堂々浮気とは随分度胸があるなユーニ』


四つ足のまま文句を言ってみるが、恐らくユーニにには伝わっていない。
だが怒っていることだけは伝わったようで、“悪かったな”と軽く謝るにとどまった。
ユーニは、オス犬を撫でることを随分軽く考えているきらいがあった。
君にとってはただの犬でしかないのかもしれないが、僕にとってはされど犬。
同じ“犬”の遺伝子を持つ者として、自分の彼女が他のオス犬の体を撫でまわしている事実を許すわけにはいかない。
人間であろうと犬であろうと、相手がオスである限り浮気は浮気だ。


「あぁもうそんなに怒るなよ。ちょっと撫でただけじゃん」
『ちょっと!? オスの体に触れただけで浮気だ浮気』
「わかったわかった。よし、じゃあデートしよう。なっ?」
『デート……?』


ユーニは僕の頭を撫でながら困ったように見つめてくる。
なにがデートだ。そんなことで許すと思うのかこの僕が。
どうせ君が行きたいだけだろう。
だが、どうしてもと言うなら仕方ない。付き合ってやらないこともない。

人間へと姿を変え、服を身に纏った僕はユーニと一緒に家を出た。
徒歩で向かう先は近所の公園。
陽が沈みかけているこの時間帯は、子供よりもカップルの割合が高かった。
二人そろってベンチに腰掛けると、噴水を挟んで向こう側に座っているカップルの姿が視界に飛び込んできた。
手を繋いでいる。
その隣のカップルは鼻先が触れ合いそうなほどの距離に顔を近づけて会話をしている。
さらにその向こうのベンチに座っているカップルは男の方が女の方の肩を抱いている。


「この公園、夕方から夜にかけての時間帯はカップルのイチャイチャタイムになってるよなぁ」
「あれが、イチャイチャ……」


人目も憚らず体を密着させたり肩を抱いたりキスをしたり。
人間の“恋人”は日が暮れるとあんなことをし始めるのか。
ということは、同じく恋人同士である僕とユーニも、しようと思えばイチャイチャが出来るということだろうか。
 
隣に座っているユーニへと自然に視線が吸い込まれる。
いつもは“飼い犬”として彼女に頭を撫でられている僕だが、たまには“彼氏”としてユーニの頭撫でてみたい。
僕に撫でられたら、ユーニはどんな反応をするだろう。
ベンチの背もたれから、ゆっくちと手を伸ばしてみる。
背後に回した手がユーニの頭にもう少しで触れそうになった瞬間、僕からの視線に気が付いた彼女がこちらを見つめ返してきた。


「アタシは人前であんなふうにうイチャつくのって好きじゃねぇんだよなぁ」
「えっ」
「ほら、目にやり場に困るじゃん?」
「そ、そう、だな……」


慌てて手を引っ込める。
良かった。もうすこしでいちゃついている他のカップルのように頭を撫でるところだった。
あのまま触っていたら、きっと嫌な顔をされたに違いない。
いや待て。外でイチャイチャするのは嫌いなくせに、どうして他のオス犬の体は撫でまわせるんだ?
彼氏である僕とは嫌なくせに、他のオス犬の体は外で撫でてもいいなんて理不尽じゃないか?
犬を撫でる行為は“イチャイチャ”にはあたらないとでも言うのか?


「あ……」


不意にユーニが遠くの方へと目を向けた。
視線の先に広がっているのは先日訪れたドッグランである。
何を見つけたのだろう。
彼女の視線を後追いするようにドッグランの方へと目を向けると、何やら人だかりが出来ていた。
 
“行ってみよう”と腕を引っ張ってくるユーニに引きずられ近くに寄ってみると、ドッグランの中で小さな大会のようなものが開かれているようだった。
人混みをかき分けて会場を覗き込んでみると、柵で囲われた中に白い石灰で50メートルほどの一直線が引かれている。
その白線の上を、一匹のドーベルマンが立っていた。


「なぁ、あれってドーベルマン?」
「ん?あぁそうだな」
「へぇー。シュッとしててカッコいいな」


はぁぁっ⁉
思わず隣に立っているユーニを睨む。
彼氏とのデート中に他のオス犬をカッコイイと発言するなんてどうかしている。
確かにあのドーベルマンは目鼻立ちがすっとしていて整ってはいるが、それが何だと言うのだ。
君が好きな“もふもふ”とは程遠い体をしているじゃないか。
もふもふ度で言えば圧倒的に僕の方が勝っているはずだ。
なのにあれがカッコイイだと?ふざけるな。

柵の中にいるドーベルマンに熱視線を送っているユーニを睨みつけてはみるものの、彼女は一向にこちらに視線を寄越そうとしない。
そうこうしているうちに、会場に“ビーっ”という機械音が鳴り響く。
それと同時に、ドーベルマンが白線の上を猛ダッシュで駆け出した。
中々のスピードである。
会場に設置されたタイマーがドーベルマンのゴールと共にぴたりとカウントを止める。
表示されていた数字は、なんと6.52秒。
恐ろしい速さに、会場はどよめいていた。


「な、なんと6.52!今大会新記録が出ましたーっ!」


司会と思しき男性がマイクで叫ぶと、会場からは大きな拍手が沸き起こる。
どうやらこれは、犬の走る速さを競う大会らしい。
新記録ということは、あのドーベルマンが今のところ1位なのだろう。
 
ふと、司会の男が立っている舞台上に視線を向けると、“優勝賞品、わんちゃんといく1泊2日温泉旅行”と書かれた看板が掲げられている。
温泉旅行か。悪くはないが、そこまで興味はそそられない。
だが、隣でドーベルマンの走りっぷりを見ていたユーニの一言が、僕の心に火をつけてしまった。


「すっげー。やっぱかっこいいな、ドーベルマン


かちん。
僕の中で何かのスイッチが入る音がした。
会場に設置された看板には、“飛び入り参加OK!”という文字も踊っている。
ドーベルマンがカッコイイだと?
シェパードの彼氏を持つ君がそれを言うのか。
それならいいだろう。分からせてやる。どちらが犬として優れているのかを。


***


「なぁホントに出るのかよ」
「当然だ。犬に二言はない」
「そんなことわざ初めて聞いたぞおい……」


会場から少し離れた林の中で、僕たちは身を隠すように立っていた。
ドッグランの方ではまだ大会が続いている。
戸惑った様子を見せるユーニに、かけていた眼鏡を手渡しながら僕は頷いた。


「安心してくれ。あんな記録すぐに抜いてやる」
「しかも優勝する気かよ。そんなに温泉行きたいわけ?」
「そういうことにしておいてくれ」


首を傾げるユーニの目の前で、僕は全身の力を抜いた。
身体が見る見るうちに小さくなってく。
やがて四つ足の姿になると、ブカブカになった服の中から這い出てブルブルと体を震わせた。


『よし、行くぞユーニ』
「はぁ……。ったくもう」


雑草の上に落ちた僕の服を拾い上げたユーニは、僕の首輪にリードを着けると、深いため息をつきながら歩き出す。
会場では既に最後の犬が走り終わっており、飛び入り参加枠の競技時間となっていた。
ユーニが参加の意を司会に伝えると、早速僕の出番が訪れる。
柵の中に入るよう促され、白線の上に立つ。
チラッと柵の外へと視線を向けると、“頑張れよ、タイオン”と声を張り上げているユーニの姿が視界に入ってきた。
彼女の前で、無様な姿は見せられない。


「今大会最後のわんちゃん!ジャーマンシェパードのタイオン君です!いい走りっぷりを期待していますよぉー!」


3.2.1のカウントダウンの直後、“ビーっ”というあの機械音が鳴り響く。
その音が鳴りやまぬうちにスタートダッシュを決めるとまっすぐ前を向きながら流星のように駆ける。
たった数秒の出来事だった。
ゴールの白線を過ぎ去ったあとに急ブレーキをかけると、四本の脚から砂埃が舞い上がる。
正確に計測されたタイムは、“6.31”と表示されていた。


「ろ、6秒31!飛び入り参加のタイオン君が新記録を叩きだしましたーっ!」


会場から歓声と拍手が沸き起こる。
どうやらギリギリで勝ったらしい。
こんなに全力で走ったのはかなり久しぶりだったため、流石に息が上がっていた。
どうだユーニ。思い知ったか。
ドーベルマンなんかよりシェパードの僕の方が――


「すっげぇ!流石アタシのタイオン!超かっけー!」
『うおっ』


柵を華麗に飛び越えたユーニが、両手を広げながら僕に抱き着いてきた。
“かっこいい、流石、見直した”
様々な誉め言葉を連呼しながら抱きしめ、わしゃわしゃと僕の体を撫でくりまわすユーニに、思わず圧倒されてしまう。
人前でいちゃつくのは嫌じゃなかったのか?
会場に来ている人間も犬も全員見ているぞ。
離れろ、離れてくれ頼むから!
 
そう心で念じても伝わるわけもなく、それどころかユーニは僕の額に吸い付くようにキスをして生きた。
あぁ、今人間の姿をしていなくてよかった。
きっと人間の姿で同じことをされていたら、顔が赤くなっているのがバレていただろうから。


***


「いやぁまさかホントに優勝しちまうとはなぁ」


手元の封筒から取り出した旅行券を見つめながら、ユーニは微笑んだ。
結局あの後も僕が打ち立てた記録を破る犬は現れず、結果は優勝となった。
賞品である温泉旅行券はユーニの手元に渡り、家に帰ってきた今もずっと嬉しそうに眺めている。
そんなに嬉しいのか。僕と行く温泉旅行が。
ソファに座り、スマホで宿について調べ始めたユーニ。
その隣に腰かけた僕は、彼女の手から旅行券をひったくった。


「僕に感謝してくれよ?僕があのドーベルマンに勝ったからこそ優勝できたんだ」
「分かってるって。感謝してる。ありがとな、タイオン」


その感謝の言葉は、やけに軽く思えた。
本当に感謝しているのか?
僕の走りがあのドーベルマンよりも早かったお陰で、君は彼氏である僕と一緒にその豪華な温泉宿に無料で泊れるんだ。
その賞品に釣り合った褒美を要求しても文句は言われないだろう。


「だったら、ご褒美くらい用意したらどうなんだ?」
「ご褒美?わっ、ちょっと……!」


並んで隣に座っていたユーニの首筋に顔をうずめる。
彼女の手首を掴んで押し倒すと、ユーニの体は簡単にソファの上に沈んだ。
首筋に舌を這わせながら彼女の肌を味わうと、耳元で小さく“んっ”と艶めかしい嬌声が聞こえてくる。
外ではむやみにいちゃつきたくないと言っていたが、ここは家の中。
僕たち以外の目はない。したいことを存分にできる。


「あぁもう!こんなところで盛るな馬鹿!発情期かよ!」


小型犬のようにキャンキャン喚きながら、ユーニは僕の胸板を押し返してきた。
言葉では嫌がっておきながらも、顔は真っ赤になっている。
いじらしいその表情がたまらなく可愛く見えて、一層引けなくなってしまう。


「発情期か。ユーニ、イイことを教えてやろう。オス犬に発情期はない」
「は?」
「発情期を迎えたメス犬のフェロモンを嗅ぎ取ることで初めてスイッチが入るんだ。これがどういうことか分かるか?」


既に赤かったユーニの顔が、一層赤く染まっていく。
そうだ。その顔が見たかった。
眼鏡をかけていない犬の姿ではきちんと目にすることが出来なかったユーニの愛らしい顔が、今この目にはっきり映っている。
獣としての支配欲が、人間としての理性を容赦なく削っていく感覚を覚えながら、僕はユーニの耳に口元を寄せて囁いた。


「発情しているのは君の方だ、ユーニ」


その小ぶりな耳を舌で撫でると、面白いくらいに甘い声が聞こえてくる。
たまらない。こんな褒美がもらえるなら、たまには競争も悪くないな。
湧き上がる欲求に身を任せ、僕は獣のように褒美に貪りつくのだった。


END