Mizudori’s home

二次創作まとめ

愛を誓うその前に

カミュセニャ】

ドラクエ11

■ED後時間軸

■短編

 


鐘が鳴る。
おめでとうのコールと一緒に、ライスシャワーが頭から降りかけられた。
空は快晴。
結婚式を開くには絶好の天候に恵まれたこの日、カミュは新郎としてこのラムダの教会に立っていた。
隣に寄り添うのは、美しいウエディングドレスに身を纏った新婦。
端から見れば幸せこの上ない光景だが、カミュの心情は複雑なものだった。
何故ならこの結婚は、心が伴わないものだから。
それでも、遠慮がちにカミュの腕に手を添える新婦、セーニャは楽しそうに笑っていた。
本当にこれでよかったのか?
無邪気に笑うセーニャに視線で問いかけてみても、彼女は答えてはくれなかった。


********************


事の発端は僅か3か月ほど前のこと。
邪神討伐後、イシの村で幼馴染の少女と一緒に悠々自適な生活を送っていたイレブンが、デルカダール王に呼ばれてかの王国を久々に訪れたことがきっかけだった。
デルカダール王からの用事というのは特に大したものではなかったが、せっかく来たんだから久しぶりに集まろうというマルティナの提案で、カミュキメラのつばさを使いデルカダールへと足を運んだ。
指定された店にはイレブンとマルティナのほかにセーニャもいて、既に3人とも数杯呑んでいる様子だった。

グレイグも誘ったらしいのだが、王の警備を離れられないという理由で断られたというマルティナ少々機嫌が悪かったが、久しぶりに仲間たちと会えたイレブンの方はというと随分機嫌がいい。
グレイグと同じく、シルビアやロウも抜けられない用事があるため来られなかったようだが、ベロニカまでもこの空間に顔を出さないというのは意外だった。
セーニャ曰く、どうせ酒場で会うとなると子供だからと追い出されてしまうから遠慮しとく。と断られたそうな。
その時は“ふーん、まぁガキだもんなあいつは”程度にしか思っていなかったが、今思えばあの時ベロニカがいてくれればあんなことにはならなかったのかもしれない。

話が妙な咆哮に生き始めた最初の一歩は、セーニャの相談事だった。
なにやらラムダの長老から結婚を急かされているらしい。
年齢的にはまだ成人したばかりの十代後半だし、結婚なんて早いのではないかというのが酒場に集まった仲間たちの総意であったが、どうやらラムダの尺度で言えばそんなことはないらしい。
双賢の姉妹ほどの強い魔力を持った魔法使いは、ラムダにとって宝。
その遺伝子を確実に後世につなげなければならない。
脈々と続く力の遺伝を守ってきたからこそ、神話の時代からラムダの里は神語りの地として神聖さを保ってきたのだとか。

長老から告げられたのは、心に決めた相手がいないのなら里で有数の魔法使いと結ばれるといい、という助言風の命令だった。
本来であれば、双子の姉であるベロニカの方が先に結婚の話が来るものだが、あの姿になってしまった以上、十年以上は先の話になるだろう。
ならば妹のセーニャが先だということで、長老は声をかけてきた。

無論、産まれてからずっと双賢の片葉としての役割を煩わしいほど聞かされてきたセーニャは、いつかこういうときが来ることもわかってはいた。
しかし、姉の方が先だと思っていたからこそ、まだ心の準備が出来ていないのである。
恋愛のれの字すら経験したことがないセーニャは、恋だの愛だのすべてすっ飛ばしてイキナリ目の前に現れた結婚という名のハードルはあまりにも高い。
不安で不安で仕方が無かったのだ。


「結婚って、どういうものなんでしょうか」


不安の色を隠しきれていない顔のセーニャが、向かいの席に座るイレブンに問いかける。
先日幼馴染と結婚したばかりである勇者様は、左手の薬指にきらりと光るものをはめていた。
それは防御力を高めるわけでも力を高めるわけでもないが、つけているだけで幸せな気分に浸れる不思議な装備である。
3杯目の麦酒を飲み干したイレブンは、にやにやと口元に笑みを浮かべながら頬杖を突いた。
その顔は表情金が緩みまくっていて少し気持ち悪い。


「結婚はいいよー。好きな人とずっと一緒にいられる」
「相手を好きになれない場合はどうなんでしょうか」
「好きだから結婚するんでしょ?」
「好きじゃなくても結婚しなければいけない時もあるんです」
「そんなの結婚って言わないよー」
「でも結婚は結婚です」


3杯目の葡萄酒を途中まで飲んでいるセーニャも相当酔っているらしく、会話がふらふらしている。
イレブンとセーニャの場合は素面でも若干会話が成り立っていないことがあったが、今はより一層ふわふわとしていた。
途中から参加したカミュはまだ麦酒1杯目。
彼らほど気持ちよく酔えていない分、まだこのふわついた空間に馴染めずにいた。
だが、麦酒4敗目に突入したマルティナはイレブンやセーニャとは対照的にいつもと変わらない顔色と表情で足を組んでいる。
そんな彼女を盗み見てカミュは思う、
こんなに酒豪なお姫様がこの世にいていいのだろうか、と。


「私には結婚なんて暫く無理だわ。相手もいないし、いたとしても同じ人とずっと同じ空間にいるなんて、ちょっと考えられないわ」


恐らくマルティナと結婚する男は、グレイグ以上に屈強で、マルティナ以上に酒に強く、ロウ以上の包容力がある、かつ血筋のいい者に限られるだろう。
そんな男がこの世にいるのだろうか。
きっと父親のデルカダール王は娘の婿探しに苦戦すること間違いなしだろう。
カミュは密かにマルティナが男と一緒に生活を共にしている光景を思い浮かべてみる。
が、想像できなかった。
思い浮かぶのは、空想上の屈強な夫と一緒に鍛錬している姿のみ。
確かにマルティナにはしばらく結婚は無理そうだ。


「相手が好きな男性でも無理ですか?」
「無理ね。気心知れた仲でも時々けんかすることがあるのに、決められた相手とずっと一緒にいるなんて考えられないわ」


麦酒もう一杯。
空のグラスを店員に渡し、カミュは呼びつけた店員に注文を伝える。
店員は“はい”と言いながら手前の席に座っているマルティナチラッと見ていたが、当人は気付いていないようなので何も言わないでおく。
あの店員、巨乳好きだな。
エビ料理をつまみながら、去っていく店員の背をボーっと眺めるカミュをよそに、他3人の会話は続いていく。


「やっぱりやめた方がいいわよセーニャ。好きでもない人と結婚だなんて」
「僕もそう思うなー。やっぱり結婚は好きな人としないとさぁ」
「ほらイレブンもこう言ってる」
「でも、ラムダでは昔からの決まりなんです。力ある魔法使いは同等の魔法使いと結婚しなくてはならない。お姉さまの方が先に犠牲になると思っていましたのに」


犠牲ってお前。
隣に座るセーニャは、言葉遣いはいつもと変わらない様子ではあるがやはりそれなりに酔っているらしい。
お姉さまも同じように好きでもない男と結婚する羽目になるのですから私もそうなるのは仕方ないと思っていたのにお姉さまがあんな子供の姿になって結婚を回避なさるなんて卑怯ですわ。ということだろうか。
まぁ気持ちが分からないわけではない。
臨んだわけでもなく双賢の姉妹の片葉として生まれ、勇者を導くという危険極まりない旅に出され、あまつさえ結婚相手まで勝手に決められてしまうなど理不尽の極み。
同じ境遇の姉がいるからこそ耐えられたという心持は十分に共感できた。
しかし、今やその姉は幼児化し、力を後世に受け継ぐという役割はセーニャ一人の肩に重くのしかかっている。
やさぐれても仕方がないだろう。


「何とかならないのかしら」
「将来を誓い合った相手がいるのなら別だが、と長老様は仰っていましたが、私にはそんな相手はいませんし」
「じゃあ作ればいいんじゃない?」


えっ、と女性陣の視線がイレブンに集まる。
するめを噛み噛みしている彼は、至極当たり前な顔を見せながら言い放った。


「誰かと将来を誓い合えばいいじゃない」


暴論だった。
結婚を回避するために別の隙でもない相手と結婚するだなんて妙な話。
本末転倒。ミイラ取りがミイラ。
何を言っているんだこの天然勇者様は内心ため息をついたところで、カミュの2杯目の麦酒が運ばれてきた。
麦酒のジョッキがカミュのテーブルに置かれたと同時に、張り詰めた沈黙をマルティナが破った。


「ナイスアイディアね」


酔っていないだろうと思っていたが、どうやらこの強いお姫様も相当酔っぱらっていたらしい。
顎に手を添え、見た事が無いくらい真剣なまなざしでイレブンを見つめている。
そんな彼女に、イレブンもまた至極真剣な表情でテーブルに両肘をつけて顔の前で手を組むと、“でしょ?”と囁いていた。
バカだこいつらは。


「知らない相手との結婚が嫌なら、知ってる相手と結婚すればいいのよセーニャ」
「そうだよそうだよ。例えばカミュとか」
「はっ?」


突然飛んできた火の粉に驚いて顔を上げてみるが、戸惑うカミュに構うことなく会話は超特急で進んでいく。


「あらいいじゃないイレブン。ナイス人選よ」
「でしょ?」
カミュさま、ですか?」
「おいお前らちょっと待て」
「ほら、カミュってこう見えてすごく優しいし気遣いが出来るし面倒見もいいし、セーニャと相性ピッタリだと思うんだよね」
「待てってイレブン」
「そうね。それに、カミュなら一緒に旅をしてた仲間の一人だし、しばらく生活を共にしていたわけだから今更二人で暮らすことになっても気にすることなんてないでしょ?」
「おいマルティナ」
「なんでもそつなくこなせる僕の相棒は結婚相手にぴったりだと思うんだよね」
「気心知れた仲なわけだし、知らない男と暮らすよりはいいんじゃない?ね?」


怒涛のようにカミュという男をプレゼンし始めるイレブンとマルティナ。
途中から明らかに面白がっているようにしか見えないが、デルカダールの女王とユグノアの王子である彼らは自分たちの言葉の重みに気付いていない。
セーニャはそれなりに悩んで相談しているというのに、そんなふざけ半分でテキトーな提案をしたらいくら何でも可哀そうである。
それに、カミュとセーニャの間には恋愛感情など一切ない。
そんな相手とイキナリ結婚すればいいじゃん、などと言われても“いや無理です”としか言いようがないだろう。
これ以上イレブンとマルティナの興がのらないよう必死抑えようとするカミュだったが、意外にもそんな彼らに油を投下したのはセーニャ自身であった。


「確かに」


マジか。
真剣極まりない表情で頷くセーニャに、カミュは若干引いた。
何納得してるんだよ。
明らかにめちゃくちゃな理論だろうが。
キャッチセールスとかに引っかかる奴ってこういう思考回路なのか?
バカなのか?アホなのか?
呆れて黙り込んでしまったカミュだったが、セーニャの納得という強すぎる追い風を受けてしまったイレブンとマルティナは一層調子に乗り、畳みかける。


「そうよ!カミュという婚約者がいるってことにしちゃえば、長老さまも結婚をあきらめるはずだわ」
「結婚しちゃいなよ二人ともー!結婚はノリと勢いだよ。何なら僕がネルセンに頼んで結婚させてもらおうか?」
「馬鹿やめろ!つーかお前ら俺の意見は無視かよ」
カミュさま」


隣のセーニャが、不意にカミュの手を握る。
酒酔いにより赤くなったセーニャの顔が、ぐっとカミュに近付く。
初めて会ったときから思っていたが、この聖女さまはやたらと可愛い顔をしている。
異性の好みのタイプはとくにない方だが、顔の好みで言うとかなりドンピシャだった。
そんな彼女が、距離を測らず鼻先が触れ合るほど近づいている。


「私、カミュさまとの結婚に光明を見出しました」
「は、はぁ」
「私を助けると思って、結婚してくださいませんか?」


戸惑うカミュにとどめを刺すかのように、透き通った声で威力抜群の言葉を投げつけてきた。
19年生きて来て、異性と愛を囁かれたことがないと言ったらうそになる。
交際を申し込まれたことも、実を言うと結婚しようとたわむれに言われたこともあった。
けれど、助けを請うように求婚してきたのはセーニャが初めてだった。
世話焼きなカミュの本質を見抜いてその言い方を選んだのか、それとも素で一番効果的な言い方を編み出したのかは謎だが、とにかく彼女の言葉はカミュにとって会心の一撃と言えた。


「いや、ですか?」


遠慮がちに、かつ不安げに問いかけてくるセーニャの瞳が揺れる。
こいつ、計算でやってるのか?
何が聖女だ。
的確に相手の弱点を突いてくる悪魔じゃねぇか。
セーニャ。恐ろしい女。
見れば見るほどかわいく見えてくるセーニャを憎たらしく思いながらも、カミュは拒絶しきれず受け入れるしかなかった。
視界の端でイレブンとマルティナがくすくす笑っているのが見える。
お前ら後で見てろよ。
心で嫌味を言いながら、カミュは顔を赤くしながらセーニャの手を握り返した。
これは酔いからくる赤面などでは決してない。


*********************


ウエディングドレス姿のセーニャを見て、やはりこれは明らかにめちゃくちゃな話だなと改めて実感させられた。
何故断らなかったのかと聞かれれば、特に断る理由が無かったからとしか言いようがない。
自分は元盗賊だし、産まれの卑しさからマトモ女と結婚出来るだなんて思ってもいなかった。
誇れるものと言えば、妹の存在と、勇者とともに旅をしたという名誉のみ。
それ以外は何も持ち合わせていない自分の人生は実に詰まらないもので、このままのんべんだらりと生きていれば、結婚も出来ず子供にも恵まれず、いずれ人知れず野垂れ死ぬだろうと思っていた。
何も持たない自分だからこそ、このめちゃくちゃな提案にも身一つで乗れたのかもしれない。

突然結婚を決めても、反対するような親族はいない。
いたとしてもマヤくらいのものだが、あいつは反対なんてしないだろう。
案の定、“ようやく兄貴のお守りから解放されるぜー”なんて軽口をたたいていた。
結婚することで泣く女もいなければ、そういう相手を今後作る予定もない。
本当に自分と結婚することでセーニャが救われるというのなら、喜んでこの身を差し出してやろうという心持だった。
まさかフリにとどまらず、本気で結婚する流れになるとは思ってもいなかったわけだが。

私、結婚を考えている人がいるんです!
意気揚々と長老に双宣言したセーニャの自信に満ちた表情を、カミュは今も覚えている。
カミュの腕を強引にとり、ニコニコしながら“ねっ!”と同意を求めてくる彼女からは無言の圧を感じた。
と同時に、長老の背後でそのやり取りを見ていたベロニカが、親でも殺されたのかと問いたくなるような恐ろしい目でこちらを見ていたのも忘れられない。
セーニャの言葉を聞いた長老は大いに喜んだ。

おぉセーニャ。そうとは知らず申し訳ないことをした。ならばすぐに結婚式の準備を始めよう。
長老がそう言いだしたのは2か月前のこと。
あれよあれよと過ごしていくうちに、いつの間にやら結婚式を迎えてしまった。
抵抗などできなかった。
するつもりもなかったが。

セーニャと話し合った結果、あの提案風プロポーズの場に居合わせたイレブンとマルティナ以外には、結婚を避けるための結婚だということは伏せておこうということになった。
そもそも結婚を避けるための結婚ってなんだと聞き返したくなったが、辞めた。
聞いたところで混乱するだけだ。深く考えるのはやめよう。
2人は深く愛し合っていた。
愛するセーニャに結婚の話が出たことでカミュは焦り、イレブンやマルティナの前で情熱的に求婚した。
これがセーニャが用意したシナリオである。
文句はなかった。情熱的というところが少し引っかかったが文句は言わなかった。


「おめでとうセーニャちゃん、カミュちゃん!」


遠くでシルビアの声がする。
結婚式を終え、里の中央広場に出てきた二人の視界には、ラムダ中から集まったであろう人々が拍手を贈っていた。
その人波の向こうに、かつての仲間たちとマヤが立っている。
派手なセンスを振り回しながらアピールしているシルビアの横で、グレイグが何故か泣いている。
感動しているのかもしれないが、多分あれは場の雰囲気で何となく泣いてしまっているだけだろう。
大柄で髭面のおっさんが男泣きしている様はやけに不気味である。
彼らは知る由もない。
カミュとセーニャが、ノリと勢いだけで結婚してしまったということを。

集まってくれた人々に手を振ってこたえるセーニャに視線を落とすカミュ
セーニャはこうして楽しそうにしているが、自分に気持ちがないのは明らか。
好きでもない男と結婚したくないと言っていた彼女だったが、じゃあ自分はいいのだろうか。
知り合いだからか?それなりに気を許せる異性だからか?
よく分からない。
けれどまぁ、彼女が幸せそうならそれでいいのかもしれない。
これから始まる未知の新婚生活とやらは想像できないが、もうどうとでもなれ。
カミュは半ばやけくそ気味であった。

カミュとセーニャの新居はラムダの里に建てられた。
他のどこでもなく、問答無用でラムダの里に住むよう方向づけられたのは、長老の強引さとセーニャの両親の過保護さゆえである。
マヤは現在メダル女学園の生徒として寮生活を送っているし、住む場所にとりわけこだわりが無かったカミュは、特に反対することなく流れでこの里に住まうこととなった。
新居は小さいが、二人の夫婦が住まうには十分な広さであった。
家を建てる資金も、里ぐるみで長老が出してくれたため文句はない、
ただ、ベッドが一つしか置かれていないのは少々不満だった。
新婚夫婦の新居にベッドが一つしかないのはよく考えればそれほど不自然なことではない。
だがそれは普通の夫婦ならばこその話であって、仮面夫婦として結婚の道を選んだ二人には当てはまらない。
だが、そんなことを馬鹿正直に言えるはずもなく、カミュは長老の好意を受けることにした。

結婚式を終えた夜。
2人は初めてこの小さな家で一夜を明かすことになる。
所謂新婚初夜だ。
普通はもっとこう、桃色の空気感で過ごすものなのだろうが、あいにくカミュとセーニャの間に桃色の空気感は一切ない。
互いにベッドの上に正座をし、真剣な表情で向かい合っている2人は、まるで今から討論会でも行うのかと問いたくなるような厳かな空気に包まれていた。


カミュさま、改めて、私の無茶なお願いを聞いてくださりありがとうございます」
「おう」
「形だけとはいえ、結婚したからには良き妻としてカミュさまを長さえしたいと思っています」
「そうか」
「そこで、まずは大切なことをひとつ聞いてもいいですか。夜に関することです」


きたか、とカミュは身構える。
夫婦として暮らしていくためには避けて通れない道。
それこそが夜の営みである。
結婚した以上は、その点についてきちんと話し合わなくてはなるまい。
ごくりと生唾を呑んだカミュは首を縦に振る。


「奥と手前、どちらがいいですか?」
「・・・・・ん?」
「ベッドで寝る位置です。億と手前、どっちがいいですか?」


肩からがくりと力が抜けてしまった。
大切なことってそれなのか?
もっと話し合うべきことがあるだろう。
どこまで能天気なんだこの聖女様は。
頭を抱えながら“どっちでもいい”と返したカミュに、セーニャは“では私は手前で”と全く邪気のない笑顔で言い放った。
いそいそとベッドにもぐりこむ二人。
他愛もない世間話を一つ二つしたところで、隣のセーニャから規則正しい寝息が聞こえてきた。

隣に異性が寝てる状況でよく呑気に眠れるな。
それだけ男として見られていないということか。
だが、そういう相手でなければ偽装結婚など提案できないだろう。
セーニャの選択は正しいともいえる。

暫くたったところで、セーニャはゆっくりとカミュの方に寝返りを打った。
彼女の吐息が耳のあたりをわずかにかすめる。
真っ暗な部屋の天井を見つめるカミュの目からは、ヒカリが消えていた。
平常心平常心。隣で寝てるのはセーニャじゃない。アリスだ。
変な気を起こすな。こいつはアリスだ。セーニャじゃない。

アリスの屈強な姿を想いうかべ、無の境地を目指すカミュ
そんな彼の思考を、隣にいるセーニャの悩まし気な吐息が邪魔をする。

こいつ、本当に天然でこういうことをしているのか。
俺が相手じゃなかったら今頃ぐちゃぐちゃに食われてるぞ。

心の中でセーニャへの忌みごとを繰り返しながら、眠れないカミュの夜は明けてゆくのだった。


*********************


朝。
窓から差し込む陽の光にたたき起こされ目を覚ますと、既に隣にセーニャはいなかった。
結局深夜まで寝付けなかったわけだが、なんとか朝を迎えることは出来た。
ベッドから抜け出して1階のリビングに降りると、キッチンでセーニャが何やら作業をしている。
どうやら朝食を作っているらしい。
言ってくれれば手伝ったというのに。


「あっ、カミュさまおはようございます」
「おう。朝飯作ってるのか?手伝うぞ」
「大丈夫ですわ。もう出来上がりますので」


共に旅をしていた頃から、セーニャは料理が苦手だった。
姉のベロニカもその才能がないことから、恐らく実家ではあまり料理を手伝ってこなかったのだろう。
1人で厨房に立つなんて大丈夫だろうかと心配しつつ食卓に着くと、意外に普通の見た目をした料理が運ばれてきた。
焼いたソーセージにスクランブルエッグ。
サラダにスープ。ヨーグルト、そしてパン。
ラインナップも至極普通である。

ここでいう“普通”とは誉め言葉でしかない。
料理が苦手な彼女のことだから、きっと黒く焼け焦げた謎の物体を笑顔で押し付けてくるものだと思っていた。
だが、食卓に並べられたのはごく一般的な見た目の朝食。
しかもちょっとだけ豪華な品目。
勇者一行の旅路に加わる前は、まともな食事にありつけた記憶がほとんどないカミュにとって、目の前に置かれた料理たちはごちそうにしか見えなかった。


「お口に合うか分かりませんが・・・」
「これ全部セーニャが作ったのか?」
「はい」
「すごいな。いただきます」


まずはスープを一口。
暖かいスープは朝の冷えた体を温めてくれる。
が、ひとつ問題があった。
味がないのだ。

あれ、おかしいなと思いながらもう一度口をつけてみたが、やはり味を感じない。
たまたま味付けを失敗したのだろう。
次にスクランブルエッグをいただいてみると、卵以外の味がしなかった。
まさかと思いつつソーセージにも口をつけたが、焼いただけで何の味付けもされていないようである。
なるほど、セーニャは必要な食材を入れで焼いたり煮たりすればもう料理として完成すると思っているらしい。
味を感じることが出来たのは、既製品のヨーグルトとパンのみ。
サラダもドレッシングが一切かかっていなかったた。


「どうでしょうか」


正面に腰かけているセーニャが恐る恐る聞いてくる。
その瞳には不安と期待が入り混じっていた。
カミュはなかなか噛み切れないソーセージをもぐもぐ口内でかみ砕きながら、最適な言葉を探す。


「んー、うん。まぁ、そうだな。俺は好きだぜ」


嘘ではなかった。
カミュは元々貧しさの中で生きてきた過去があるため、正直食べれれば何でもいいと思っている節がある。
調味料の分量だとか、火にかける時間だとかに拘るような繊細な性格でもないし、たとえ味が無くてもこれだけの量を提供してくれるのならば十分に満足できた。
残念ながら、美味しいとは言い難い出来であることには間違いないが。

カミュの肯定的な言葉に、セーニャは表情を明るくさせた。
まぁ、パンやヨーグルトがあれば十分に美味い食事と言えるだろう。
夕食はセーニャの分まで俺が作るか。
そんなことを考えながら、カミュは出された朝食をすべて平らげた。

顔を洗い、歯を磨き、寝癖を直して普段着に着替える。
小さな道具袋に収まる程度の荷物と、愛用の短剣を持ったら準備完了だ。
邪神討伐の旅が終わった後、カミュは盗賊からトレジャーハンターに転身し生計を立てていた。
幸い、お宝の情報をタダで提供してくれる情報やルパスや、手に入れたお宝を高く買ってくれる商売上手な元相棒、デクという便利な交友関係のお陰で、マヤの学費を払いつつ一人で生きていくにはそれなりに余裕がある生活を送れている。
だが、これからはセーニャという妻を養っていかなくてはならない。
いつまでこの仮面夫婦生活が続くか分からないが、彼女が自分の妻でいる限りは不自由な生活をさせたくはなかった。
これからは悠々自適にではなく、生活のためにしっかり本腰を入れてトレジャーハントに精を出さねばならないだろう。


「いってらっしゃい。お気をつけて」
「おう、行ってくるな」


可愛らしい若妻に手を振られながら、カミュは家を後にした。
いったらっしゃい、か。
思えば、マヤ以外にそんな言葉をかけられたことは無かった。
両親もいない、産まれも卑しい自分は、結婚して所帯を持つなど一生ないと思っていたが、何の奇跡かこうして嫁と家を手に入れてしまった。
愛し合って結婚したわけでもなく、自分で投資して立てた家でもないが、それでも感慨深いものがある。

朝起きたら嫁さんが朝食を作ってくれていて、出かけるときは“いってらっしゃい”と見送ってくれる。
これが結婚というものか。なるほど、確かにこれはいい。
自分の帰りを家で待っている存在がいるということが、こんなにイイものだとは思わなかった。
新婚生活2日目の朝、カミュは結婚を強引に後押ししたイレブンやマルティナに初めて感謝の念を抱いたのだった。


*********************


夜。
キメラのつばさを使ってラムダまで帰ってきたカミュの機嫌は上々だった。
先日ルパスから仕入れた宝の情報をもとに各地を捜索した結果、宝が眠っていそうな神殿を発見したのである。
恐らくあの場所の奥には、相当値の張る宝が眠っているはず。
奥に潜入して夜通し宝を探してやろうかと思ったカミュだったが、すぐにセーニャの顔が思い浮かんで踏みとどまった。
独り身の頃だったら、翌日の朝までかかろうが宝のためなら時間を惜しまなかっただろう。
だが、今は自分の帰りを待ってくれている女がいる。
彼女に何の連絡もなく朝帰りをするのはさすがにまずい気がしたのだ。


「ただいま」


家の扉を開けると、当然だが中は明かりがついていて暖かい。
奥のキッチンから顔を出したセーニャが、帰宅したカミュに向かって“お帰りなさい”と声をかけてきた。
彼女がいる方から、何やらいいにおいがする。
荷物を置き、ダイニングの方へ向かうと、既に食卓には彩り豊かな料理たちが並べられていた。


「もうすぐできますので、座って待っていてください」
「これもセーニャが作ったのか」
「はい!」


美味そうな肉料理に、付け合わせのグラッセ、シチュー、そしてパン。
朝食と同じように、見た目に関しては100点の料理たちである。
これだけの量を作るのは相当時間がかかっただろう。
感心しながら席に着くと、セーニャが最後の一品であるサラダを運んできた。
全ての料理が食卓にそろったことで、セーニャもようやくカミュの正面の席に腰かける。


「あの、カミュさま。今朝はすみませんでした」
「ん?」
「ごはん、美味しくなかったですよね」


肩を落としながら謝罪してくるセーニャに、カミュは言葉を詰まらせた。
どうやらカミュが家を出た後、自分で作った料理を食べたらしい。
料理下手でも味音痴ではなかったセーニャは。己が出した料理の不出来具合に絶望していた。
こんなものをカミュに食べさせてしまったのか、と。


「味が薄かっただけで別に不味くはなかったぜ?」
「いいえ。イレブンさまのシチューや、デルカダールのお城で振舞われた料理に比べたら、とても食べれるようなものではありませんでした」
「比べる対象のハードルが高すぎないか?」


イレブンのシチューは、仲間内でも絶賛されるほど美味いものだった。
元をたどれば、彼の育ての親であるぺルラのシチューを再現したものらしいが、あれはたしかに今まで食べた料理の中で5本の指に入るほど美味い。
魔王討伐の折り、デルカダールで祝勝会を行った際にふるまわれた料理もまた、カミュの記憶に残るほど美味いものだった。
しかしあれは一流のプロが作っているものなのだから美味いのは当然であり。素人でありなおかつ料理が苦手なセーニャが目指すべきレベルではない。
そこと比べてしまえば、きっと何を作っても不味く感じてしまうのは当然だろう。


「今回はきちんとレシピを見て、試行錯誤しながら作ってみたんです。お口に合うかは分かりませんが、どうぞ」
「そうか。いただきます」


とはいえ、やはりセーニャの作る料理にそこまで期待はしていなかった。
朝出された無味無臭の料理はもはや芸術の域ともいえる出来栄えだったわけだし、きっとこれは才能の問題だ。
見た目は上手そうでも、また味のない不毛な食感に見舞われるだけだろう。
そう思って肉をぱくり。
すると何ということか。
口内一杯にじわりと甘辛い味が広がった。


「マジか、うめぇ」
「えっ」


うわごとのようにつぶやいたカミュの声はあまりにも小さくて、セーニャには聞き取れなかった。
まさか、味が付いているだなんて。たまたまだろうか。
付け合わせのグラッセに口をつけてみると、甘い風味が口いっぱいに広がった。
シチューは濃厚で、野菜が溶けてほどよいコクが生まれている。
サラダにもきちんとドレッシングがかかっており、しかもそのドレッシングというのが信じられないくらい美味い。
あんなにも味がない料理を作っていたというのに、たった一日で一体何が起こったというのか。


「うまい。全部うまいぞこれ」
「ほ、本当ですか?また気を遣っていらっしゃるのでは・・・?」
「いや嘘じゃねぇって!どれもこれも美味いんだって!こんなに美味いもん食ったの久々だぞ」


その言葉に嘘偽りはなかった。
朝はなんとなく言葉を選んでわざと肯定的な感想を述べたのだが、今日は文句のつけようがないくらい美味い。
たった一日でこれほどまでに腕をあげるだなんて、一体どんな魔法を使ったというのか。
朝とは違い、ガツガツと勢いよく食べ始めたカミュの姿に、セーニャは気を遣われているわけではないことを察し胸をなでおろした。


「はぁ、よかった・・・。5時間かけて作った甲斐がありましたわ」
「ご、5時間!?」


思わず手に持ったパンを落としそうになるカミュ
セーニャはどうやらこの豪華な夕食を作るために5時間もの時間を費やしたらしい。
確かにそれだけの時間をかければ、試行錯誤を重ねてこれだけのものを作り出せたのもうなずける。
カミュはそっと体を横にずらし、正面に座っているセーニャの向こうに広がるキッチンへと目を向けた。
キッチンのシンクには鍋やフライパン、ボウルや食器などの洗い物が大量に置かれており、調味料も散乱している。
厨房は女の戦場とだとシルビアから聞いたことがあったが、セーニャは今日、まさにあの厨房で戦っていたのだろう。
そして、5時間もの長期戦の末この美味い料理を作り上げた。
全てはカミュのためだけに。


「なぁセーニャ。気持ちは嬉しいけど、そんなに無理しなくていいんだぜ?俺は別にパン1つとかでも満足だし」
「いけません!せっかく私の我が儘でカミュさまに結婚していただいたんですから、せめて形だけでもいい妻でいたいんです!」


そう、二人は本当の意味での夫婦ではない。
いうなればこれはただのままごとに過ぎない。
ただ、セーニャの望まない結婚を回避するという名目で始まったこの奇妙な生活は、カミュの人生の犠牲の上で成り立っている。
セーニャ自身、それを重々理解していた。
結婚なんて無縁だったから何も犠牲になんてしていないと彼は笑っていたけれど、やはり感情が伴わない相手との共同生活は多少なりともストレスが生まれるはず。
少しでもそのストレスをなくしてもらうため、せめて普通以上の妻を演じてカミュを支えることが、セーニャに出来る精いっぱいの恩返しであった。

まっすぐこちらを見つめてくる妻に頷き、カミュは微笑みかける。
その笑顔は、元盗賊の肩書を持つ彼に相応しくないほどに穏やかなものだった。


「ありがとな、セーニャ」


彼の言葉に、セーニャは心臓がきゅうっと締め付けられるような感覚を覚えた。
カミュがそんな風に穏やかに笑っているところなど、見たことが無かったから。
一行の誰よりもしっかりしていたカミュは、常に仲間たちを鼓舞し、引っ張っていく頼りがいのある存在だった。
そんな彼の見た事が無い穏やかな瞳に、セーニャは引き込まれてしまいそうになる。
彼に対してこんな感覚を覚えたのは、初めてのことだった。


*********************


妹以外の誰かと一緒に暮らす日々というものは実に新鮮で、いつの間にかこの奇妙な生活を始めて一週間ほどが経過していた。
相変わらずセーニャは毎晩の料理に数時間もの時間をかけているが、最近は当初の5時間から3時間ほどに所要時間が減っている。
料理以外の家事は割と得意な方らしく、洗濯も掃除もてきぱきとこなしていた。
手伝いを申し出ても、これは私がやるべきことなのでと言って聞かない。
やはり心のどこかで、この生活にカミュを巻き込んでしまったことへの負い目を感じているのか、時折遠慮を感じてしまう。
しかし、それ以外は特に不満もなく、端から見れば幸せそうな新婚夫婦にしか見えないだろう。
何日かけても、隣で眠るセーニャの吐息に慣れることは無いが、疑似とはいえ家庭をモテているという事実は、カミュの心に安らぎを与えてくれていた。


カミュさまカミュさま」
「んー?」


時刻は23時過ぎ。
眠る準備を終えたカミュは、ベッドに腰かけ手元の古地図に視線を落としていた。
この古地図は、情報屋ルパスから手に入れたもので、先日発見した神殿の中を描いたものである。
神殿の奥にお宝が隠されていることは確かなのだが、この一週間ずっと探しているにもかかわらず未だ宝にはたどり着けていない。
恐らくこの古地図には記載がない隠し通路のようなものがあるに違いないのだが、何度眺めても不自然な点はない。
横から話しかけてくるセーニャの言葉に片耳を向けながら、カミュの意識は手元の古地図に集中していた。


「お昼頃、里の女性たちと話していたのですが、それぞれの旦那様のお話になったんです」
「おー」
「せっかく作ったお料理を旦那様が美味しくないと言って食べてくれなかったり、家事を全く手伝ってくれなかったり、皆さん色々と不満があるようなんです」
「ふぅん」
「確かに、せっかく作ったお料理を食べてくれないのは悲しいですよね。家事に関しても、一言でも手伝おうか?と聞いてくれるだけで充分だというのに」
「そうだなぁ」


寝巻に着替えたセーニャが、隣に腰かける。
その反動でベッドが少しだけ揺れたが、気にせず古地図へと視線を向けているカミュ
話を続けるセーニャに適当な返事をしつつ頭を回転させてみるが、やはり何度見ても隠し通路のありかは分からなかった。
もしかすると、入り口からして違うのか?
だとしたらこの古地図上に記載がないのも頷ける。


「でもカミュさまは、私の料理をおいしいと言っていつも完食してくれますよね」
「あぁ」
「家事のことも、私が掃除や洗濯をしていると必ず手伝おうとしてくれます」
「うん」


もしくは、もう一枚別の古地図があって、隠し通路のありかはそこに記載されているのか?
あり得る。こういう古い神殿は、外部からの侵入を阻むためにあえて偽の地図を作ることがあると聞いたことがあった。
もしその話が本当なら、ルパスから譲り受けたこの古地図は偽物ということになる。
くそっ、あのエセ情報屋め。
信憑性のない地図寄越しやがって。
裏付けくらいちゃんとしとけよな。


「こうして私のとりとめのない話にもきちんと付き合ってくださいますし、朝帰りも一度もしたことがありません」
「んー・・・」
「私、里の女性方とお話しして改めて実感できたんです。カミュさまは、本当にいい旦那さまだなと」
「・・・・・えっ?」


隣の嫁から、なんだかとんでもない発言をされたような気がして、一気に意識が古地図から浮上する。
やばい。全然聞いてなかった。
何の話してたっけ?
セーニャの方へと顔を向けると、彼女はニコニコと微笑みながらこちらを見つめていた。


「私、カミュさまと一緒になれて幸せです」


屈託のない彼女の笑顔は、カミュから言葉を奪う。
まさか突然そんなことを言われるとは思っていなかったカミュの頭は真っ白になり、セーニャの笑顔以外の景色がぼやけて見えた。
互いが自負している通り、二人は仮面夫婦
2人の間に愛や恋などという可愛らしい感情はない。はず。
ならば彼女のその言葉の真意はなんだ。
偽りの夫婦を演じる相手にしては良く出来た奴だという意味の誉め言葉なのか、それとも・・・。


「私、先に寝ますね。おやすみなさい」


何も言えずに固まっているカミュの言葉を待たずに、セーニャはベッドの中に潜り込み、壁際に寄って横たわってしまった。
え、もう寝るのか?
まだ俺何も言ってねぇぞ。
そういうの、言い逃げって言うんじゃないのか?
一緒になれて幸せだなんて、まるで愛し合ってる夫婦が言うような台詞じゃないか。
何でそんなこと言うんだよ。
そんなこと言われたら、こっちはなんて返せばいいのか分からなくなるだろ。

きっと彼女はまだ眠りに堕ちてはいない。
声をかければきっと返事をしてくれるだろうが、この状況で再び話しかける勇気はカミュにはなかった。


********************


「はい、これで全部だよー」
「おう、いつもありがとな、デク」


カウンター越しにいるデクから、ゴールドがぎっしり詰まった麻袋をカミュは受取った。
流石にあんなに分かりにくい隠し通路の先に眠っていたお宝なだけあって、今まで一番の売値が付いた。
一週間もじかんをかけて探し当てた甲斐があったというものでる。
ゴールドがたんまり入った麻袋は随分重いが、努力した結果の重みなのだと思うと我慢できた。

カミュがデルカダールに訪れたのは、約三か月ぶり。
イレブンやマルティナも交えて飲んだ、あの夜以来のことだった。
普段、お宝を手に入れたら真っ先にイシの村で店を開き始めたデクのもとで売りさばいていたが、今日は彼がこのデルカダールの店にいると聞き、久しぶりに訪れたというわけである。
家を出る前、デルカダールに行く旨をセーニャに伝えると、彼女も行きたいと言い出したため、今回は珍しく二人一緒にこの街を訪れていた。


「ねぇカミュのアニキ。今日は奥さん一緒じゃないの?」
「あぁ、セーニャなら城に行ってるはずだ。マルティナに挨拶しに行くんだとよ」
「そうなんだね。せっかくなら一緒にいるとこ見たかったよー」
「また今度二人で顔出すって。まだまだ稼がなきゃならないし、お前の店には世話になるだろうからな」


今回の収入は非常にありがたいものだった。
予想の3倍以上の値をつけてくれたデクには感謝しかない。
お陰でセーニャにはいい報告が出来そうだ。
あいつのことだから、きっとお祝いに甘いものが食べたいです!なんていうのだろうが、たまにはいいだろう。
今日くらい、うんと美味いスイーツを買ってやる。


カミュのアニキ、結婚してすっごく変わったよねー」
「ん?そうか?」
「なんかこう、幸せそうだよー」


元盗賊には相応しくもない無垢な笑みで、デクはカミュを見つめる。
このふくよかな元相棒は、昔から邪気のない男であったが、結婚して以降よりいっそう明るくなったような気がする。
こういうのを、幸せオーラと呼ぶのだろうか。
デクの体に纏うこの桃色のオーラが、自分にもまとわりついているのかと思うとなんだかぞっとする。
そんなオーラ、絶対に自分には似合わないだろうから。


「そりゃあ不幸ではないな」
「昔に比べて笑顔が増えたし、顔が綻んでるよー。セーニャさんとの生活がよほど楽しいんだねー!」


確かにデクの言う通り、セーニャとの生活は当初想像していたよりも充実していた。
家に帰れば出迎えてくれる人がいるということ、自分のためだけに料理を作ってくれる存在がいるということ、そして、おやすみとおはようを言い合える存在がいるということがこんなにも幸せなことだということに初めて気付いた。
形だけの夫婦でしかないことは分かっているが、不意に手に入れたこの生活は、カミュにひと時の幸福をもたらしてくれる。


「まぁ、俺の日常があいつを中心に回りだしてるのは間違いないかもな」
「そういうのを、愛って言うんだろうね、アニキ」
「何クサイこと言ってんだよ」


愛だの恋だの、甘い言葉とは無縁な生活を送ってきたカミュ
今更そんなおとぎ話でし聞かないような感情を誰かに抱くだなんて、考えられなかった。
そもそも、セーニャのと間に愛なんて言葉は存在しない。
彼女が見ず知らずのヤツと結婚することを避けるためにかわされた、いわゆる契約結婚なのだ。
彼女との生活にハリを感じることはあっても、彼女自体に執着することはきっとない。
カミュはデクの軽口を笑い飛ばすと、ゴールドが入った麻袋を背負い、店の扉へと歩き出す。
背後からかけられた“また来てよー”というデクの言葉に片手を挙げて応えると、カミュは店を後にした。

外に出てみると、いつの間にか陽が傾き出していて、空はほんのり茜色に染まっていた。
そろそろセーニャも、マルティナへの挨拶を切り上げ城から戻ってくる頃合いだろう。
待ち合わせ場所に設定していた大噴水の前に向かうカミュだったが、そこに妻の姿は見当たらない。
まだ城にいるのだろうかと考えながらきょろきょろ見渡してみると、噴水から少し離れたとある店の前に、彼女を見つけた。
店のショーウィンドウを背を預け、複数人の男たちに囲まれている。
困り果てた彼女の表情を見るに、どうやら男たちとは知り合いというわけでもないらしい。


「チッ」


舌打ちは無意識に出たものだった。
顔を近づけて彼女を追い詰める男たちは、獲物を囲む狼のよう。
囲まれている獲物が別の誰かなら、きっと気にも留めないのだろうが、それが自分と待ち合わせているセーニャなのだと分かった途端、沸騰した湯のように怒りが湧き上がってきた。
大きな歩幅で男たちの背に迫ると、カミュは一番大柄な男の肩を掴んで押しのける。


「おいなんだよ」


押しのけられた男は苛立ち、声を荒げた。
そんな彼ら隙間から手を差し込みセーニャの腕を取ると、強引に引き寄せて狼の群れの中から救い上げる。


「人の嫁にちょっかい出してんじゃねぇよ」
「はぁ?人妻かよ」
「先にそう言えよな」


セーニャの腰を引き寄せ睨みをきかせたカミュの言葉に、男たちは明らかに落胆している様子だった。
やはりナンパだったわけか。
あんなに大勢で囲んだら怯えるのも無理ないだろう。
口説くならもう少し紳士的にふるまえよな。
そもそも誘う相手を間違えてやがる。
もっと遊んでそうで、そういう誘いにホイホイついていきそうな軽い女を狙えっての。
セーニャはそういうことに慣れてないし、ガードが堅いのは見た目で分かるだろ。
だいたい、独身か人妻かの区別もつかないならナンパなんて辞めちまえ。
グチグチと野次りながら去っていく男たちの背を恨めし気に見つめながら、カミュはため息をついた。


「あの、カミュさま」


横から名前を呼ばれ、ふと我に返る。
そういえば、セーニャの腰を抱いたままだった。
“あ、悪い”と一言謝り彼女の体を解放する。
そっと自分から離れていくセーニャの顔がほんのり赤く染まっていたのは気のせいだろうか。


「ありがとうございました。おかげで助かりました」
「いや、俺も遅くなって悪かった。ああいう時は、旦那がいるとか言ってさっさと断っとけよ?」
「一応言ったのですが、指輪をしていなかったので信じてもらえなくて」
「指輪か・・・」


そういえば買っていなかった。
普通、結婚した夫婦はその証として左手の薬指に指輪をつけるものなのだろうが、形だけの関係にそのような証はいらないだろうという判断のもと、指輪は買い求めていなかった。
これは二人で話し合った末に決めた事であって、むしろ遠慮したのはセーニャの方である。
あの時は、飼わなくていいのはありがたいと呑気なことを考えていたが、もしかすると今からでも買った方がいいのかもしれない。
指輪があれば偽造夫婦だとは思われにくくなるだろうし、あのようにナンパをしてくる輩を追い払う虫よけ程度にはなる。
少々値は張るだろうが、先ほどデクに監禁してもらったこの金があれば何とか賄えるだろう。
では一体どこで買うべきか。
頭の中で知っている宝石店を羅列していたカミュだったが、そんな彼の考えなど知る由もないセーニャは、何故だか突然楽しそうに小さく笑い出した。


「どうした?」
「いえ、すみません。ちょっとうれしくて」
「何がだ?」
「初めて、“嫁”と言ってくださいましたね」


目を細めて笑う彼女は本当にうれしそうで、まばゆいばかりのその顔と言葉は、カミュの心臓をぎゅっと鷲掴みにした。
そんな小さなことが嬉しいのか。
2人が結婚しているというのは周知の事実であり、今更この関係性を表す言葉に照れるほどカミュは純粋ではない。
けれどセーニャは、嫁だと第三者に宣言されただけでこんなにも喜んでいる。
余りにも無邪気な彼女の反応に、カミュは初めて自分の言動に羞恥心を抱いてしまった。
照れを隠すように鼻のてっぺんを掻きながら、カミュは視線を外す。


「何をいまさら・・・事実、だろ」
「そうですね。私はカミュさまのお嫁さんです」


さぁ帰りましょう、とカミュの手を取り歩き出すセーニャの足取りは羽のように軽い。
今にもスキップし出しそうな彼女は見るからに上機嫌で、心が弾んでいる。
あれ、こいつ、こんなに可愛かったっけ?
綺麗な金色の髪を揺らしながら前を歩くセーニャが、なんだかものすごく可愛く見える。
いや、もともと見た目は好みに近かったが、最近は特にこう思うことが多くなった。
世界にたった一人しかいない妻という立場にある彼女に、フィルターのようなものをかけてしまっているのだろうか。
どちらにせよ、結婚という甘い魔法にかけられてしまっていることは間違いないだろう。
結婚とは、その気もない相手を可愛いだとか、大切だとか、大事にしたいだとか、そういう錯覚を抱かせてしまう厄介なものらしい。
めちゃくちゃ怖いな、結婚って。
カミュはセーニャに気付かれないように自嘲気味に笑うのだった。


********************


「えっ、指輪?」


アポもなく訪れたカミュを迎え入れたイレブンは、彼から開口一番発せられた質問に面食らった。


「セーニャに指輪を買ってやろうと思ってるんだけど、お前はどこで買ったんだ?」


食卓の向かい側に座るカミュは、至極真面目な表情で質問してくるが、イレブンには彼の質問の意図がよく分からなかった。
彼がこのイシの村を訪ねてきたのはつい数分前のこと。
彼らしくもない突然の来訪に驚きつつ家の中に招き入れた途端、指輪を買うならどこがいいかなどと聞いてきたのだ。
しかも相手はあのセーニャらしい。


「え、指輪買うの?なんで?」
「なんでって、結婚してんだから普通買うだろ。むしろ買わずにいた今までおかしかっただけで」


何をいまさら当然のことを、とでも言いたげなカミュに、イレブンは首を傾げた。
おかしい。
確かに結婚をしている普通の夫婦なら、揃いの指輪を買うのは当たり前の行為だが、カミュとセーニャはいわゆる普通の夫婦とは違う。
彼らがノリと勢いで結婚を決めたあの夜も同席していたイレブンには、今更彼らが揃いの指輪を求める意味が分からないのだ。


「うーんと、それはセーニャと話し合って決めた事なの?指輪を買おうって」
「いや別に。俺が買ってやりたくなったから」
「なんでまた?」
「せっかく結婚したんだし、それっぽいこと一つくらいしても罰は当たらないだろ?」


イレブンの記憶が正しければ、カミュもセーニャも指輪を買わない事や結婚式を挙げないことに特にもめる気配なく同意していた。
むしろ、形だけの結婚なわけだし余計な出費は抑えた方がいいとまで言っていたはず。
にもかかわらず、今になって結婚した証が欲しいとはいったい何事か。
想いあっている夫婦ならば、気が変わってもおかしくはないのだろうが、そもそもこの二人の間に愛はないのだ。
戸惑いを隠せないイレブンだったが、そんな彼の混乱にとどめを刺すがごとく、カミュは再び口を開いた。


「それに、指輪してれば変な虫が寄り付かなくて済むだろ?」


彼はその発言の真意を、自分自身できちんと理解できているのだろうか。
平然とした顔で言っているのが、その言葉は嫉妬心や執着心を隠しきれていない。
数か月前、勢いで結婚を決めたあの時はそんな空気など微塵も感じさせなかったというのぬに。
頭の中に浮かび上がった一つの仮説を検証すべく、イレブンはひとつ咳ばらいをしてたたずまいを直した。


「ねぇカミュ。僕の勘違いだったら申し訳ないんだけど」
「うん?」
「セーニャのこと、好きなの?」
「・・・は?」
「というか、好きになったの?」


沈黙が訪れる、
イレブンから投げかけれらた言葉を頭で咀嚼できず、カミュはフリーズしていた。
やがて、まっすぐ自分に注がれるイレブンの問いただすかのような視線に居心地の悪さを感じ、働こうとしない頭を必死で回転させて誤魔化し方を検索する。


「な、なに言ってんだよ。俺たちが結婚した目的、お前もわかってるだろ?好きになるとかありえねぇって」


笑い飛ばしているつもりなのだろうが、明らかに笑えていなかった。
カミュは仲間内でも比較的クールな方で、ベロニカやシルビアほど喜怒哀楽をはっきり態度に表すタイプではなかった。
けれど今は、動揺しているのがはっきりとわかる。
図星を指摘されて焦っているのか、それとも自覚していない本心を暴かれ混乱しているのか、
どちらにせよ、カミュがセーニャに特別な感情を抱き始めていることは明白だった。

嘘から出た実、なんて言葉もあるが、もしかすると今、その言葉が実現する瞬間に立ち会ってしまっているのではないだろうか。
動揺を隠そうともせず、未だ言い訳じみた言葉を並べているカミュに適当な相槌をうちながら、イレブンは密かに心躍らせていた。


********************


キメラのつばさを使ってイシの村からラムダへと帰ったカミュは、寄り道せずにまっすぐセーニャが待つ家へと帰った。
玄関を開けると小走りで彼女が駆け寄ってきて、“お帰りなさい”と微笑む。
その笑顔を見るたびじんわりと心に広がる暖かい感情の存在には気が付いていたが、これはイレブンの言うところの“恋心”などでは決してない。
あるわけがない。
2人は望まぬ相手との結婚を避けるためだけに結成された偽夫婦であって、そこに本物の感情が発生するはずがない。
夫婦のまねごとをしていて本当に好きになるだなんて子供じみたこと、起こるわけがない。

セーニャが沸かしてくれた風呂につかりながら、カミュは考える。
確かにセーニャは可愛い。
初めて会ったときから綺麗な女だとは思っていたが、最近は一層綺麗になっている気がする。
気立てもいいし、明るいし、ちょっと天然なところはあるが芯が強いし、なにより努力家だ。
こんなにできた嫁を貰えるなんて奇跡に近いことではあるが、だからと言って彼女を好きになるかと言われれば別問題だ。
セーニャは辛苦を共にしてきた仲間の一人。
そこに強い絆はあっても、激しい愛はない。
そう、これはいわゆる友愛というやつだ。
仲間と共にゆっくりとした時間を過ごせることに感傷的になっているだけのこと。
愛とか恋とか、そんな面倒くさい感情ではない。

頭を洗いながら、体を洗いながら、顔を洗いながら、カミュは常にセーニャへの想いを否定する。
違う、そんなことない、と心で言い続けていないと、平常心を保っていられなかったから。
やがて風呂から上がり、髪をバスタオルでガシガシと拭きながら寝室に上がると、ドレッサーの前で髪を梳かしているセーニャが視界に入ってきた。

こちらを見てにこりと笑うセーニャ。
その顔を見た瞬間、心臓の鼓動が速く大きくなる。

違う、これは違う。
風呂から上がったばかりで、脈が速くなっているだけだ。
決してドキリとしたとか、胸が高鳴ったとか、そんな甘い理由などではない。

ベッドにどかりと座ったカミュは、いくつも浮かんでは消えてゆく雑念を取り払うかのように髪を乱暴にバスタオルで吹き始める。
いつも以上に豪快に髪を拭き始めたカミュに視線を向けたセーニャは、自分もベッドに上がり彼の背後に回った。


「そんなに乱暴に拭いては髪が痛んでしまいますわ」


ガシガシと力強く髪を掻き上げていたカミュの手を制止すると、セーニャはそっとバスタオルに手を添えて優しく彼の髪を拭き始めた。
その手つきはまるで壊れ物を撫でるかのようで、くすぐったい。
頭皮から伝わる彼女の細い指の感覚が、カミュの心を大いに乱していく。
彼女が自分の髪をなでるたび、心臓がドクリと高鳴る。
その鼓動はだんだんと早くなって、自分では抑えきれないほど加速し始めてしまった。

やめろ、とまれ、騒ぐんじゃない。
これじゃまるで、緊張してるみたいじゃないか。

セーニャと一緒に暮らし始めて数か月。
既に何度も同じような夜を過ごしているが、今更こんな風に緊張したのは初めてだった。
すぐ後ろに、風呂からがったばかりのセーニャがいる。
そしてそんな彼女が、自分の髪を優しく乾かしてくれている。
それだけでもう、心臓が破裂しそうなほどだった。

もはや、ごまかしきれそうにない。
イレブンやデクに指摘された言葉たちは、どうやら本当だったらしい。
俺は、セーニャが好きなんだ。

そう自覚した瞬間、カミュはすぐ後ろにいる彼女の気持ちが気になってしまった。
妻という、この世で最も近い位置に存在しながら、最も遠いところにいる彼女。
きっと彼女は、自分がこうしてカミュに想われている事すら気付いていないだろう。
そもそもお互いに感情がないことを前提としたこの結婚は、どちらかが特別な感情を抱き出した時点で崩壊する。
もしも、彼女に好きだと伝えてしまったら、この結婚生活はどうなってしまうのだろう。
カミュはそれ以上の想像を巡らせることをやめた。
どうせ、残酷な未来しか待っていないのだから。


********************


あれから、何度も同じ朝と夜を繰り返したが、時間ばかりが無駄に過ぎていくだけで、セーニャへの想いは消える気配がない。
それどころか、一緒にいる時間が長く鳴ればなるほど、心の奥に押し込めた気持ちがどんどん高ぶっていくような気がした。
そんなカミュの気持ちなど一切気付く様子のないセーニャは、毎日早起きして朝食を作っては、家を出ていくカミュを笑顔で見送り、帰ってくる頃には何時間もかけて作った料理を食卓に並べて出迎えてくれている。
疑似夫婦を演じているだけとは思えない良妻ぶりに、カミュは日々惹き込まれていく。
それと同時に、彼女が自分以外と愛し合って、そいつと本当の夫婦になったとき、この両手に余るような愛情はすべてそいつに向くのかと思うと気がおかしくなりそうだった。
いっそ夫婦でも恋人でもない、ただの友人関係のままだったなら、もっと無責任に好きだの愛してるだの言えたのかもしれない。

そんな生活を送る中で、季節はいつの間にか冬になった。
山奥に構えるこのラムダでも、冬になれば雪が降る。
真っ白な銀世界はかつて生活の拠点を置いていたクレイモランによく似ていて、バイキングの一員だった頃の日々を想起させた。
貧困と孤独に喘いでいたあの頃からは、考えられない生活を送っている。
この生活を始めたばかりの頃は、迷わず今の方が幸せだと即答できたのかもしれないが、セーニャに心奪われてからは、屈託なく幸せだとは言えない自分がいた。
気持ちを隠しながら好きな女と生活するのは、結構つらい。

今日もまた、宝の情報を集めるため家を出たカミュ
陽が落ち、空に星が浮かび出した頃合いで、キメラのつばさを使ってラムダに戻ってきた。
この辺りは雪が深々と降り続いていて、薄い銀世界が広がっている。
ラムダの里の入口に降り立ったカミュは、はじめて自分が傘を忘れてきたことに気が付いた。
しかし、ここから家まではそこまで遠くはないし、振っているのは雨ではなく雪。
多少は我慢できるだろう。
寒さに肩を震わせ、コートのポケットに両手を突っ込みながらカミュは歩き出す。
里へと続く階段を一段一段登るたび、カミュの心は重くなる。

帰りたくない。

家に帰ればあいつがいて、いつも通り笑顔でお帰りなさいと言ってくる。
あいつの顔を見るたびに、これが本当の夫婦だったらなんて馬鹿なことを考えている自分が女々しくて嫌だった。
疑似結婚をしようと言い出したのはいあつだ。
あいつが満足したらこの生活はあっけなく終わりを告げて、俺たちはいつも通りただの仲間に戻る。
そして何年か後にあいつは本当に好きな男を見つけて結婚し、今よりももっと幸せになるのだろう。

あいつは酷い女だ。
疑似結婚なら、わざわざ朝早く飯を作ったり、笑顔で見送ったり、家事を完ぺきにこなしたり、“一緒に慣れて幸せ”だなんて言ったりしないで、テキトーに過ごしていれば良かったのに。
あいつが俺のために努力すればするほど、手放したくなくなる。
疑似結婚のくせに本物の妻のように振舞うなんて、あいつは酷い女だ。
気付くのが速いか遅いかの違いがあるだけで、きっとどうやったって、俺はあいつを好きになっていたんだと思う。


カミュさま」


階段を上り切った先に、傘を差したセーニャがいた。
厚手のコートを着て、マフラーを巻き、手袋して微笑む彼女の鼻は赤くなっている。
傘を持たずに出ていったカミュを心配し、帰る頃を見計らってここで待っていたのだろう。
それも、きっと随分長い間。
ほら、そういうところだ。
そういうことを繰り返すから、俺みたいな奴に好かれちまうんじゃないのか。


「おかえりなさい」
「ずっと待ってたのか」
「数分です。傘、もって行かなかったでしょう?」
「だからって、こんなところで待つな。風邪ひくだろ」
「すみません。だって」


さしていた黒い傘を持ち上げ、セーニャはカミュを中に入れる。
頭上が傘の黒に覆われ、骨組みに積もっていた白い雪がカミュの肩にぼとっと落ちてきた。
その雪を優しく取り払いながら、セーニャはいつも通りの笑顔で言い放った。


カミュさまが風邪を引かれたら嫌ですもの」


邪気を感じさせない彼女の笑顔は、カミュをどこまでも卑屈にさせる。
こっちの気も知らないで、そんな顔するなよ。
ますます好きになるだろうが。
カミュはゆっくりとうつむき、雪で湿り気を帯びた青い髪が顔にかかる。
突然何も言わずに下を向いてしまったカミュに困惑し、セーニャが首を傾げたその時だった。
カミュが、震える声で言葉を紡ぎ始める。


「なぁ、もう、やめにしねぇか?」


普段の男らしいカミュからは想像もできないほど、その声は細く弱弱しかった。
彼を取り巻く空気が次第に冷たいものへと変わっていく感覚を覚えながら、セーニャは思わずその言葉を聞き返す。


「え・・・?」
「もう無理だ。限界なんだよ。お前の偽旦那を演じ続けるのは」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・それは、離婚したいと、いうことでしょうか」


まるで流氷の上を歩くがごとく、セーニャは恐る恐る聞いてくる。
か細い声は、カミュと同様震えていた。
彼女からの問いに、一拍置いてそっと頷くと、目の前で傘を握るセーニャの手にぐっと力が入ったのが分かった。


「ど、どうしてです!? 何か嫌なところがあるなら直します!だから・・・!」
「そういうところだよ!」


怒鳴りながら顔を上げると、セーニャは驚いたように息を詰める。
彼女の大きな瞳は潤み、涙の膜が張っていた。
だが、そんな彼女の態度、表情さえ、今は恨めしい。
辛酸をなめる覚悟で刻み込んだ決意が、その顔を見た瞬間揺らぎそうになってしまうから。


「お前はいつもいつも完ぺきな嫁であろうとする!俺たちは仮面夫婦だろ!? 朝早く起きて飯作ったり、傘持って寒い中待ってたり、んなことする必要ねぇんだよ!あまつさえ結婚出来て良かったなんて言われたら・・・」


ポケットの中でこぶしを握り込む。
こんなこと、本当は言うはずじゃなかった。
もっと冷たく突き放して、こいつは最低の夫だったと嫌われた方が分かれwお告げやすいのに、言わずにはいられない。


「死ぬほど好きになっちまうだろうが・・・」


立ち尽くすセーニャの瞳がより一層大きく見開かれ、一筋の涙が伝っていく。
泣きたいのはこっちの方だ。
こんな無様な告白、かっこ悪すぎる。


「よく知らねぇ相手との結婚を避けるための疑似結婚なら、相手は何の感情も抱いてないヤツの方が適任だろ。ならもう俺は無理だ。これ以上一緒にいたら、お前が本当に結婚したい相手が出来たとしても、きっと手放せなくなる。だから・・・」


もう終わりにしよう。
そう言いかけた言葉は、カミュの口から出てくることは無く、代わりに“うおっ”という驚愕した声が漏れだした。
指していた傘を雪の上に投げ出し、セーニャが両腕を広げてカミュの胸に飛び込んできたからである。
手袋をつけた彼女の手が、カミュの背中に回って離れようとしない。
突然の出来事に、カミュはただ驚いて固まるしかなかった。


「すきです」
「へっ?」


張り詰めた空気感に似合わず、カミュはひどく素っ頓狂な声を出してしまった。
今、絶対に彼女の口から出るはずのない単語が聞こえたような気がして。


「好きなんです。カミュさまのことが」
「なに、言って・・・」
「ずっと言わずにいようと思っていました。カミュさまは形だけの夫婦だと思っているだろうから、と・・・。でも、私の気持ちは本物です」


能の処理が追い付かない。
セーニャの言葉一つ一つが甘く響いて、カミュの脳内をこの雪に覆われたラムダと同じように白く染め上げてしまう。
背中に回ったセーニャの腕に込められた力が、だんだんと強くなっていく。
その力に比例するかのように、肌越しで感じる彼女の鼓動も早くなっているように思えた。


「早起きも、苦手なお料理も、相手がカミュさまだから、好きな人だから出来た事です。結婚出来て良かったと言ったのも、紛れもない本心なんです・・・」
「マジ、か・・・」


まさか、信じられなかった。
あのデルカダールで呑みふけった夜。
ノリと勢いで結婚してしまった相手が、まさか自分と同じ感情を抱いていたなんて。
だが、彼女がカミュの胸に顔をうずめながら囁く言葉はどれも嘘をついているようには思えない。
つまり、自分たちはお互いに感情があるにもかかわらず、律儀に仮面夫婦を続けていたというわけだ。
なんだそれは。
じゃああの夜も、あの朝も、ずっと両思いだったということか。
最悪だ。もっと早く気付いていれば、一層幸せな時間をより長く堪能できただろうに。
カミュは今までの鈍感な自分を呪いたくなった。
もう迷うまい。
目の前で可愛らしく抱き着いているこの妻を、思い切り抱き締め返そうと腕を伸ばしたその時だった。


「だから、手放そうだなん、て・・・言わないで、くだ、さ・・・」
「セーニャ!?」


カミュの背中に回っていたセーニャの腕から力が抜け、彼女はずるりとカミュの体から滑り落ちてしまった。
突如として脱力した彼女に驚いたカミュは、その華奢な体が地面の雪に触れる前に抱き留める。
立膝をついてその場に座り込み。膝の上に彼女の頭を乗せてよく観察してみると、この指すような寒さには似合わず額にびっしょりと汗をかいていた。
顔も赤く、握った手は異常なほど熱い、
そして息も激しく乱している。
その症状は、明らかに風邪からくる発熱だった。


「しっかりしろセーニャ!セーニャ!」


朦朧とする意識の中、自分を呼ぶカミュの声だけが聞こえる。
青い髪に雪をたくさんつけた彼が、必死の形相でこちらを覗き込んでいる光景を最後に、セーニャは意識を手放した。


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カミュから差し出されたのは、暖かい生姜湯だった。
マヤが風邪をこじらせたとき、必ずこれを飲ませてやっていたのだという。
マグカップに口をつけると、生姜の優しい味が口内に広がった。


「だから言ったんだ。風邪ひくぞって」
「すみません。冬の雪を少し甘く見ていましたね」


暖炉の熱で温められた家の中。
二階の寝室のベッドに腰かけながら、セーニャは笑う。
彼女が意識を手放していたのはほんの数分の間だった。
カミュがこの家に抱え込み、ベッドに寝かせた数分後に目が覚めたセーニャは、少しの気だるさを感じながらも、そこまで笑顔を浮かべるだけの体力は残っている。
生姜湯を手渡したカミュは、小脇に抱えていた毛布をセーニャの肩にかけてやると、自分もそっと彼女の隣に腰かけた。


「さっきの、本気にしていいんだな?」
「さっきの、ですか?」
「言ってただろ。俺のことが好きだって。熱に浮かされて覚えてませんなんて言うなよな」


ジトっとした目で見つめてくるカミュの顔は、照れているのかほんの少しだけ赤くなっている。
言いたいこと、聞きたいことは山ほどあったというのに、セーニャが意識を失ってしまったおかげですべて聞き逃してしまった。
もう、すれ違うのは御免だ。
カミュはいち早く彼女の気持ちを確認して起きた方。


「もちろん、覚えておりますわ」


すぐにこの話題を振られることは、セーニャも覚悟していた。
ドギマギと落ち着かない自分をごまかすように生姜湯をもう一口飲むと、マグカップを再度チェストに置き、心を落ち着かせるために深く息を吐く。


「ずっと好きでした。旅をしていた時から」
「えっ」


まさかの回答に、カミュは隣のセーニャをじっと見つめてしまう。
てっきり自分と同じで、結婚生活を送るうちに好きになったのだとばかり思っていた。
だが、どうやら彼女が感情を抱いたタイミングはそれよりもはるか昔、邪神討伐のために旅をしていたあの頃からだったという。
人の感情にはそれなりに敏い方だと自負していたカミュだったが、今回ばかりは全く気付いていなかった。
それどころか、彼女はむしろイレブンの方に気があるのかとすら思っていたのだ。


「マジか、そんな前から? いやちょっと待て。じゃあ、あの結婚することになった夜も・・・」
「はい。当然好きでした。いくら形だけとはいえ、好きでもない人と結婚なんて出来ませんわ」
「あぁ・・・そう・・・」


なんでそんな大事なことをもっと早く言わなかったんだ。
もしかして、あの日セーニャの気持ちを知らなかったのはカミュだけで、イレブンやマルティナは知っててわざと結婚するようにけしかけたのか?
だとしたら、ものすごく悔しい。
自分だけ何も知らずにモヤモヤしながら疑似結婚生活に身を置いていただなんて。
カミュはなんだか自分が無性に不甲斐なく思えて、うなだれるように頭を抱えてしまう。


「でも、嬉しいです。まさかカミュさまも同じ気持ちでいてくださったなんて、夢のようです」


手を合わせ、ふふふっと笑みをこぼすセーニャからは、隠し切れない喜びが見え隠れしている。
自分だけでなく、隣の彼女も心が通じ合ったことに喜びを感じているという事実が、カミュにたまらない幸福感を与えてくれる。
デクは結婚したカミュを幸せそうだと言っていたが、たぶん、あの時よりも今の方が何倍も幸せだ。
なにせ、近くて遠かったセーニャというたった一人の妻を、本当の意味で自分のものにできたのだから。

カミュはセーニャの華奢な肩に腕を回し、自分の元へと引き寄せる。
彼女は真っ赤になりながらも抵抗することなく金髪の頭をカミュの肩に乗せた。
そういえば、結婚してからこうして触れ合ったのは今日が初めてだ。


「セーニャ」
「は、はい」
「お前は俺が好きで、俺もお前が好き。つまり俺たちは形だけの夫婦じゃなく、本当の夫婦になったも同じってことだよな」
「そ、そうですわね」
「・・・・・なら」


肩に寄り添うセーニャを抱く手に力が入る。
彼女の金色の髪に優しく口付けながら、カミュは低く囁いた。


「ちゃんと抱かせろよな」
「だっ・・・え、えぇっ!?」


突然笹かれた言葉に激しく動揺したセーニャは、ゆでだこのように顔を赤くしながら凄まじい勢いでカミュから距離を取る。
そこまで避けなくてもいいだろ、と心でぼやきながら、カミュは苦笑いを零した。


「当たり前だろ?俺がどんだけ我慢してきたと思ってんだ。毎晩毎晩無防備に寝顔晒しやがって」


元々寝つきが良く、いつもカミュより先に眠ってしまうセーニャは知る由もなかった。
毎晩すぐ隣で寝息を立てる無防備なセーニャを前に、カミュが必死に理性を保っていたことを。
隣で眠っているのはあのアリスだと言い聞かせて何とか平静を保ってきたが、こうして好き合っていると判明した以上、そのような努力はもはや無用ということになる。


「風邪もひいてるし、今日は見逃してやるけどな、回復したら覚悟しとけよ? 今まで我慢させられた分、抱き潰してやるからな」


まるで捨て台詞のように言い捨てると、カミュは腰かけていたベッドから勢いよく立ち上がった。
なんだか柄にもない甘いセリフを言ってしまった気がするが、そこはもういちいち気にしていられない。
とりあえず風呂に入ってさっさと寝よう。そうしよう。
そして明日、セーニャが回復することを祈って夜には晴れて一緒に・・・。


カミュさま」


邪な計画を頭の中で立てていたカミュを、セーニャが引き留める。
振り返ると彼女はベッドうえでカミュがかけてやった毛布を握り込み、真っ赤な顔でこちらを見つめていた。


「優しく、してくださいね・・・」


控えめに囁かれた言葉に、カミュの心は砕かれる。
この聖女様は、やっぱり悪魔に違いない。
男の心を貫いて貫いて貫きまくるその手練手管は一体どこで身に着けたのやら。
もしやベロニカ仕込みか?いやいやあのおチビちゃんがそんなスキルを身に着けているはずがない。
ならマルティナか?ありえる。
どちらにせよ、好きで好きでたまらない相手にそんなかわいらしい顔でお願いされたら、こういう他ないだろう。


「悪い。無理だ」

 

END