Mizudori’s home

二次創作まとめ

彼女が電子辞書を借りに来なくなった

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■学パロ

■短編

 


「タイオン、ユーニが来てるぞ」


購買で購入した菓子パンを頬張っていたタイオンに、ランツが声をかけていた。
背後を指さしているランツの肩越しに見えたのは、教室後方の扉に寄りかかって腕を組み、こちらを見つめているユーニの姿。
あぁまたか。
小さくため息をつきながら立ち上がると、机の中に忍ばせていた黒いケースを持ってユーニの元へと向かう。


「よっ、タイオン」
「またかユーニ」
「悪い悪い」


悪い、という割にはあまり反省していないように見えるユーニ。
差し出してきた手に黒いケースを渡すと、彼女はいつも通りの得意げな笑顔を見せてくる。


「ありがとな。放課後返すからさ」
「今月に入って何回目だ?忘れ過ぎだろ」
「仕方ねぇだろ?アタシに忘れられるくらい存在感が薄い電子辞書の方が悪い」
「どういう理屈だ…」


隣のクラスのユーニというこの女子生徒とは、正直あまり親しい仲ではなかった。
同じクラスで友人のノアやランツと同じ中学出身だという繋がりで多少話すようになったのだが、その性格はタイオンの真面目なそれとは正反対である。
なぜそんなに?と聞きたくなるほど短くしたスカートに、緩めたネクタイ。
口調は乱暴そのもので、おしとやかだとか清楚だとか、そういう言葉とは無縁だ。
その親しみやすさのお陰で男子からは人気があったが、タイオンの中では少々接しにくい相手として認識していた。
 
そんな彼女は、何故だか毎週のようにタイオンに電子辞書を借りに来る。
来るのは決まって月曜火曜木曜の3日間。電子辞書を唯一使用する英語の授業がある日である。


「たまには素直に忘れていったらどうだ」
「ヤだよ。イスルギに何言われるか分かったもんじゃねーし」
「イスルギ“先生”だろう」
「はいはい」


タイオンのクラスもユーニのクラスも、英語はイスルギが受け持っている。
彼は曲者ぞろいなこの学校の教師陣の中では特段優しい方ではあるが、一度怒るとなかなかに怖い。
そういう意味では、生徒たちの間でも“怒らせてはいけない人”という認識が広がっている人物でもある。
その認識はユーニも例外なく抱いているらしい。
そんなに怒られるのが嫌ならきちんと持ってくればいいのに。


「それに、アタシがちゃんと持ってくるようになったらタイオンが困るだろ?」
「困るとは?」
「アタシとしゃべる口実がなくなるじゃん」
「な、なにを馬鹿なことを…」


ユーニの軽口に、タイオンは動揺を隠せなかった。
その言い方ではまるで、自分がユーニと話す機会を渇望しているようじゃないか。
そんなことあるわけがないだろう。
動じながらも否定するタイオンの様子が可笑しかったのか、ユーニは相変わらず悪戯っぽい笑みを浮かべながら、受け取った電子辞書を小脇に抱えた。


「んじゃあこれ借りてくぜ。ありがとなー」


こちらに背を向け、ひらひらと手を振りながらユーニは去っていく。
彼女はいつもあぁだった。
会って言葉を交わすたび、どこか思わせぶりな態度で距離を詰めてくる。
最初は冗談なのか本気なのかよくわからなかったが、彼女の人となりをよく観察してみるとすぐに答えは見えてきた。
 
がさつで口が悪いが、誰とでも仲良くなれるのは、あぁして距離を一気に詰めるのが上手いからなのだ。
揶揄うようなあの言動は、相手と親しくなるための彼女なりの作戦に違いない。
まるで猫のように気まぐれで自由な彼女と言葉を交わたび、タイオンはいつも騙されまいと身構えてしまう。
だからこそ、彼はユーニが少し苦手だった。


「タイオン、ユーニと随分仲良くなったよな」


席に戻るなり、一緒に昼食を摂っていたノアが妙なことを言い出した。
急に何を、と問いかける前に、向かい側に座っていたランツが弁当に入っていた大きな唐揚げを頬張りながら“だよな”と賛同してくる。


「むしろ俺たちよりユーニとしゃべってねぇか?」
「ランツ、食べながら喋らないでくれ。米が飛ぶ」
「仲良くなれたみたいでよかったよ。正直二人は合わないんじゃないかと思ってたから」
「ちょっと待て。どうして僕とユーニが仲がいい前提で話している?」
「だって実際…」
「毎度毎度電子辞書を忘れるようなずぼらな人間と仲良くなれるわけがないだろう」


食べかけだったパンに口をつけ、足を組む。
ユーニは確かに友人が多いが、だからと言って誰とでも親友になれるわけではない。
その例外ともいえる存在がタイオンだった。
 
彼女とタイオンの出会いは半年ほど前。
体育祭の実行委員として抜擢され、その最初の集まりで自己紹介をすることになった。
名前を言ったあと“趣味はない”と付け加えたら、同じく体育祭実行委員に選ばれていたユーニから“うわつまんねぇ”とヤジが飛んできたのだ。
初対面にもかかわらずなんて失礼な奴。それが彼女に対する第一印象だった。
 その後、同じクラスで友人だったノアやランツと幼馴染だという事実が判明し、彼らを介して少しずつ話すようになった、という経緯がある。
 
最初の頃よりはユーニに対する悪い印象も薄れたが、それでも“合わない”と感じる部分は多々あった。
きっと彼女と自分は生まれてきた星が違うのだろうと思ってしまうほどには、相性が悪かったのだ。
そんな相手と“仲がいい”だなんて、二人の目は節穴のようだ。


「向こうもどうせ仲がいいだなんて思ってないだろうしな」
「でも、いつもタイオンに辞書借りに来てるし、それなりに仲がいいと思ってるんじゃないか?」
「僕なら必ず持っているだろうというただの信頼だな。僕はランツと違って忘れ物はしない主義だから」
「忘れないってんならノアもそうだろ?」
「ミオに遠慮してるんだろ、どうせ」


ノアにはミオという1学年年上の彼女がいる。
吹奏楽部の部長、副部長を務めるこの二人の間柄は校内でも有名で、特にミオは後輩から慕われているため、二人が交際している事実を同学年で知らない者はいない。
ノアの幼馴染であるユーニもまた例にもれず、ミオとノアの交際を把握しているはずだ。
 
あれだけ有名な二人だ。余計なことをして波を立てたくないと考えるのは当然だろう。
特にこの学校は噂が広まりやすい。
妙な噂を立てられてノアとミオが喧嘩でもしてしまえば責任など取れるわけもない。


「ユーニってそんな遠慮深いやつだったか?」
「うーん…」


ランツの問いかけに、ノアは困ったように笑いながら首を傾げた。
どうやら目の前の二人はあまり腑に落ちていないようだが、きっとそうに決まっている。
食べていたパンを完食し、タイオンはふと教室の壁掛け時計に目をやった。
時刻は13時過ぎ。放課後まであと3時間半ほどである。


********************


HR終了のチャイムと同時に、ユーニは約束通りやってきた。
いつも通り後方の扉から大きな声で名前を呼ばれ、重い足取りで彼女の元へと向かう。


「そんな大きな声で呼ぶな。目立つだろう」
「なんだよ。照れてんの?」
「誰が」
「はい、電子辞書。今日も助かったよ」


こちらの弁明も聞かず、彼女は一方的に電子辞書を手渡してきた。
いつもこうしてわざわざ放課後に届けてくれるのはありがたいが、隣のクラスとはいえ何度も教室間を往復するのは面倒ではないのだろうか。
いちいち手渡しで渡さなくとも、下駄箱にでも入れておいてくれればきちんと受け取れるのに。


「別にわざわざ教室まで来て返してくれなくても…。下駄箱にでも入れておいてもらった方が楽じゃないか?」
「それじゃ意味ないだろ?」
「意味…?」
「あ、あのっ!タイオン先輩!」


不意に横から名前が呼ばれた。
切羽詰まった声色に驚き振り向くと、そこには見知った顔の後輩がもじもじしながら立っていた。
こちらを窺うように上目遣いで見つめてくる彼女は、どこか落ち着かない様子である。
隣にいたユーニから小声で“誰”と問いかけられ、素直に“生徒会の後輩だ”と回答した。
タイオンは生徒会に所属しており、今目の前にいる彼女は同じく生徒会のメンバーでもある。
時折話す間柄で、おとなしい部類に入るだろう。


「どうした?」
「あ、あの…タイオン先輩にちょっとお話が…」
「僕に?」


思わずユーニの方へと視線を向ける。
だが彼女は肩をすくませ、“アタシに振るな”とでも言いたげな顔でこちらに視線を返してきた。
それもそうだ。ユーニを頼ったって仕方がない。
頬を赤らめ、恥ずかしそうにしているこの後輩が、今から何を打ち明けようとしているのか、タイオンには何となく予想が着いていた。
さてどうしたものかと悩みながら、タイオンはユーニを置いて後輩と一緒にその場を離れた。


********************


屋上に上がったのは初めてだった。
学園物のドラマやアニメでは生徒たちの青春の場のように描かれている場所だが、まじめで堅物なタイオンにはあまり縁のない場所だったのだ。
だからこそ、こうして後輩の女子と二人でこの青春の聖地にいるという状況は居心地が悪い。
正直、早く立ち去ってしまいたかった。
だが、そんなタイオンの心情とは裏腹に、後輩はなかなか本題に入らずもじもじとしている。
らちが明かない。しびれを切らしたタイオンが“話とは?”と切り込むと、彼女はようやく重い口火を切った。


「じ、実はその……私、タイオン先輩のことが好きなんです」


やはりか、と思った。
これは自惚れではない。
 頬を赤らめた後輩の女子に“話がある”と言われて屋上に連れてこられれば、誰だって察するだろう。
推測が見事あたってしまったことに、タイオンは少し困惑していた。
この後輩のことが嫌いなわけではないし、恋人が欲しくないわけではない。
ミオと仲睦まじくしているノアを見ていると、やはり少しだけうらやましさを感じるというのは事実だ。
だが、こうして好意を吐露してもらった状況に嬉しさよりも困惑を抱いているということは、やはり自分は彼女をそういう目で見れないのだろう。
それが、タイオンの答えだった。


「すまない。気持ちは嬉しいんだが…」
「だめ、ですか」
「いや、その、嫌いなわけじゃないんだ。ただそういう風には見れないというか…」
「……」
「……」


気まずい沈黙が訪れる。
告白されることに慣れていないタイオンには、相手を傷付けずに断る上手い言い回しが思いつかなかった。
こんなことなら、ノアにいろいろ聞いておけばよかった。
彼はミオと付き合ってからも、後輩や同級生から好意を寄せられることが多々あった。
そのたび円満にお断りしているようだが、その方法とやらを事前に聞いておく必要があったかもしれない。
 
タイオンには、今目の前にいる彼女を優しく突き放すだけの技量がない。
やがて後輩はうつむいていた顔を上げ、スカートを両手で握りしめながら意を決した表情で一つの質問をぶつけてきた。


「あの、やっぱりユーニ先輩と付き合ってるんですか?」
「は、ユーニと?何故そんな…」
「だって、仲いいですし…」


後輩からの言葉に、タイオンは思わずため息をつきそうになった。
同級生からならまだしも、後輩からもそんな風に見えているのか、自分たちは。
ただ単に毎週電子辞書を強引にひったくられる側とひったくる側。それだけの関係だというのに。


「いや、付き合ってるわけがないだろう。別に仲がいいわけでもないし…」
「そっか、そうですよね!タイオン先輩があぁいう人と付き合うわけないですもんね」
「…あぁいう人、とは?」


後輩の言葉に若干の棘を感じ、思わず聞き返してしまった。
そして、すぐに深堀したことを後悔してしまう。
後輩は嘲笑のような笑みを薄く浮かべ、“だってあの人…”と低いトーンで続けた。


「なんか不良っぽいっていうか、口も悪いしガラも悪いし、いつも違う男の先輩と一緒にいるじゃないですか。ゼオン先輩とかカイツ先輩とかランツ先輩とか。彼女がいるノア先輩ともよく一緒にいるし。幼なじみとか言ってますけど、あんなにいつも一緒にいたらミオ先輩が可哀想じゃないすか。しかも最近はタイオン先輩にまでべたべたしてるし。絶対軽いじゃないですか、あの人。それに…」
「もういい」


湯水のようにあふれ出る嫌な言葉の数々に、タイオンの心をどんどん冷めていった。
傷付けないように、悲しまないようにと心掛けていた気遣いの気持ちが、次第に消え失せていく。
代わりに、怒りに似た感情が静かに心から湧き上がってきた。
目の前にいる彼女は、ユーニという人物のことを1ミリも理解していない。


「君がどういう人間なのか、今の一瞬でよくわかった」
「え…?」
「君はよく知りもしない人間を勝手なイメージで決めつけて悪く言うような人間だったんだな」
「い、いや、別に私は…」
「君はユーニと話したことがあるのか?」
「それは…ないですけど…」
「なら好き勝手に他人の人間性を品評するのはやめろ。ユーニを悪く言うのは、ユーニ本人にも、彼女の友人であるノアやランツにも失礼だ。それに僕も不愉快だ」
「…、」


鋭くとがった言葉は、明確に後輩の心を傷付けただろう。
泣きそうな表情を浮かべ、彼女は踵を返して屋上から出ていった。
誰もいなくなった屋上は実に静かで、いつもならラウンドから聞こえてくるはずの野球部の掛け声すらも聞こえてこない。
 
あぁ、言ってしまった。これは明日から生徒会の輪を乱してしまうかもしれないな。
生徒会長に事前に謝っておいた方がいいかもしれない。
そう思った瞬間、頬に冷たい何かが落ちてきた。
ひとつふたつと降り注いだそれは、次第に音を立てて激しさを増していく。
雨が降るなんて聞いていない。天気予報は確か晴れだったはずだ。
まぁいい。確か鞄には折り畳み傘が入っていたはず。土砂降りになる前に早く帰ろう。
校舎の上に広がる曇天と同じくどんよりした気持ちのまま、タイオンも後輩の後を追うように屋上を後にした。


********************

翌日以降、タイオンは妙な噂の渦中にいた。
例の後輩と自分が付き合っていることになっているのだ。
もちろん、彼女からの告白を承諾した覚えはない。
ノアやランツから“彼女ができたのか”と聞かれ、否定すると期待外れだと言わんばかりの表情をされたが、こちらとしてはいい迷惑だった。
 
もしやあの後輩が直々に噂を流しているのかとも思ったが、後日生徒会の集まりで会った時に“あれは私の友達が悪ふざけで広めてしまった。違うと言って回っているから次第に皆忘れると思う。ごめんなさい”と謝罪された。
気まずそうに頭を下げてきたが、おそらくあの日タイオンから受けた言葉をそのまま友達に共有し、実に仲間意識の高いその“友達”とやらがわざとそんな噂を回したのだろう。
体のいい報復だ。
後輩本人がこのことを看過していたのかどうかは分からないが。

真実とは程遠い噂を広められたことは面倒だったが、気にしなければどうということも無い。
そんなことよりも気になってしまったことが一つだけある。
あの日以来、ユーニがタイオンに電子辞書を借りに来なくなったのだ。


「ノア、ユーニがお前に用だって」
「俺?」


ランツの声に振り返ると、ユーニがいつものように腕を組んでドア付近に寄りかかっていた。
だが、彼女が今日呼び出したのはタイオンではなくノア。
そこだけはいつもと違う点だった。
不思議そうにしながらユーニの元へ向かうノア。
一言二言話すと、ノアが自席に戻って机の中をあさり始めた。


「ユーニ、なんだって?」
「電子辞書貸してくれって」
「えっ」


思わず出た声が小さくてよかった。
ノアやランツには聞かれていないらしい。
ここ2週間ほど、ユーニは一度もタイオンに電子辞書を借りに来なかった。
不思議に思いつつも、習慣を改めたのだろうと自分を納得させていたタイオン。
しかし、今日ユーニはタイオンではなくノアに電子辞書を借りに来た。
これはつまり、意図的にタイオンを避けていることに他ならなかった。
教室後方の扉、ユーニがいる方向に目を向けてみると、彼女は腕を組んだまま遠くを見つめていて一切目が合わない。
まるでお前など眼中にないとでも言われているかのようだ。


「なんでノアに?いつもはタイオンだったのに」
「さぁ。俺も聞いたんだけど、“別に誰に借りたっていいだろ”だってさ」


机の中から電子辞書を掘り出したノアは、そのまままっすぐユーニの元へ向かう。
ノアの赤い電子辞書が、ユーニの手に渡った瞬間、何故だか息苦しくなった。
誰に借りたっていい。それはその通りだ。
むしろそこまで親しくなかったタイオンにばかり借りに来ていた状況がおかしいのであって、本来ならば幼馴染であるノアやランツに借りに来る方が自然だ。
だが、いざ本来あるべきやり取りを見ていると、心がざわつく。
“なぜノアなんだ”と問いただしたくなる。
それが無意味なことだとわかっていても。


「あーあ、どうするよタイオン。ユーニ取られちまったぞ?…タイオン?」
「えっ…」
「大丈夫か?なんかぼーっとしてたぞ」
「あ、あぁ…なんでもない。大丈夫だ」


浮遊しかけていた意識を取り戻すと、ランツが怪訝な顔でこちらを見つめていた。
なんだろう、この感覚は。
まるで自分にだけ懐いていた猫が、通りすがりの他人にすり寄っている光景を見てしまった時のような、モヤっとする気持ち。
扉の近くで、ノアとユーニはいまだ談笑している。
ついこの前まであの役割はノアではなく自分が担っていたのに、なんて不毛なことを考えてタイオンは目をそらした。

*********************


あれ以来、ユーニがタイオンに電子辞書を借りに来ることは一切なくなった。
最後に借りに来た日から1か月近く経つが、彼女とは会話どころか挨拶すら交わしていない。
電子辞書を借りに来る、という習慣がなくなると、こうも呆気なくただの他人に成り下がってしまうものなのかとタイオンは密かに落胆していた。
 
廊下で彼女とすれ違うたび、何か声をかけようするれけれど理由が見つからず、喉元まで出かかった言葉を直前で呑み込んでしまう毎日。
今までなら、話しかける理由なんて探す間もなくユーニの方からちょっかいをかけてきたというのに、今は近付いても素知らぬ顔。
いつかまた、“よっ、タイオン”と軽く肩を叩きながら笑いかけてくれるのではないかと期待したが、その望みが叶うことはなかった。
 
そんな日々を過ごすうちに、タイオンは自分の中に生まれつつあった感情にようやく気が付いた。
なんだかんだと言いながら、毎日のように起こる彼女との数分間の時間が、自分は好きだったのだと。
また話したい。どんな形でもいいから、彼女と二人だけで言葉を交わしたい。
そう思い始めたころにはもう手遅れだった。
すでに彼女との関係は“ただの知人”から“赤の他人”へと変わってしまっている。
今更距離を詰めるような勇気など、タイオンは持ち合わせていなかった。

生徒会の仕事を終え、帰宅しようと一人昇降口に向かう午後18時半。
すでにほとんどの部活が活動を終えていて、校内に残っている生徒はわずかである。
静まり返った校舎内には、30分ほど前から降り始めている雨の音だけが響いていた。
 
外へ出る前に立ちどまり、雨空を見上げる。
天気予報を見てきてよかった。鞄に入れた折り畳み傘を取り出そうとしたその時だった。
隣でバッとビニール傘が開く音がする。
なんとなく視線を向けると、隣に立っていたその傘の持ち主と目が合ってしまった。


「あっ」
「あ」


二人同時に声を挙げる。
すぐ隣で傘を広げていたのは、つい先ほどまでタイオンの頭の中を支配していた人物、ユーニだった。
1か月間、決して交わることのなかった二人の視線が交差する。
ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、まるで時が止まったかのように周囲の音が消えた気がした。
頭が真っ白になって思考が停止するタイオンとは対照的に、ユーニはふっといつも通りの悪戯な笑みを浮かべ始める。


「よっ、がり勉タイオン。こんな時間まで残って何してたんだ?まさか図書室で勉強とか?」


彼女の態度は拍子抜けするくらいいつも通りだった。
1か月間の空いた時間がまるで嘘のよう。
いつもの調子のユーニの言動は、逆にタイオンを空回りさせる。


「せ、生徒会の仕事だ。というか誰ががり勉だ失礼な」
「はいはい。さすが生徒会執行役員。多忙だねぇ」
「君こそこんな時間までなんでここにいる?部活には入っていないはずだろ」
「さぁなんでだろうな。教えてやんねー」


相変わらず飄々とした言動に、タイオンはやはり翻弄されていた。
この感覚を懐かしいと感じると同時に、少しだけ寂しくなった。
“久しぶり”の一言くらいあってもいいじゃないか、と。
恐らく彼女の中で、タイオンとの会話は久しぶりだと感じないほど、印象が薄かったのだろう。
ユーニがタイオンとの会話を望んでいたのなら、こんなにいつも通りなわけがない。
少しくらい喜ぶ素振りを見せてくれてもいいはずだ。
今、タイオンが喜びを感じているように。


「ていうかお前、傘忘れたのか?」
「え?」


雨空を見上げ、昇降口の屋根の下で立ち尽くしているタイオンの姿は、ユーニから見れば傘を忘れて茫然としているように見えたのだろう。
実際はただ立ち止まって雨の具合を見ていただけなのだが。
 
タイオンは大雑把なユーニとは違う。
家を出る前に天気予報を確認し、きちんと折り畳み傘を鞄の中に忍ばせてきた。
“忘れるわけないだろう”と真実を言ってしまうのは簡単だ。
だが、タイオンは咄嗟に嘘をつくことにした。
彼女との時間を作る理由を求めて。


「…悪いか」
「ふぅん。タイオンでも忘れることってあるんだな。アタシにはいつも電子辞書忘れんなって口うるさいくせに」
「人間誰しもミスはあるだろう」
「それもそっか。じゃあ今度アタシが電子辞書忘れても“仕方ない”で済ませてくれよなー」


そう言って、ユーニは傘を差しながら歩き始める。
その腕を掴んで引き留めたのは、咄嗟の行動だった。
突然腕を捕まえられたユーニは、驚いたような表情でタイオンの方へと振り返る。
眼鏡越しに見える彼の表情は、いつになく真剣なものだった。


「傘、入れてくれ」
「え?けど…」
「駅まで行くんだろ?日頃電子辞書を貸してやっている恩返しをさせてやる」
「そういうの、自分で言うか?普通」
「…嫌なのか」


柄にもなく、相手の反応が怖くて仕方がなかった。
拒絶されたら、二度とユーニに声をかける勇気が出ないかもしれない。
自尊心の高いタイオンにとって、嘘をついてまで彼女との時間を引き延そうとしているこの行為は、柄にもない行動と言えた。
 
そんなタイオンの心情を知ってか知らずか、ユーニは傘をタイオンの頭上に差し、“しゃーねーな”と微笑みかけた。
その言葉にどれだけ安堵感を覚えたかは計り知れない。
少し狭いユーニのビニール傘の下、タイオンは彼女の隣を歩き始めた。

駅に向かう道中、しばらく二人の間に会話はなかった。
最初にタイオンが口火を切ったのは、学校を出て5分後。
ほんの少し雨脚が弱まりだした頃だった。


「…電子辞書、借りに来なくなったな」
「ん?あー、うん。そうだな」
「何故だ」
「何故って……忘れずちゃんと持ってくるようになったからだろ」
「ウソだ。毎週のように忘れていた君が、急に持ってくるようになるのはおかしい」
「随分な言い草だな。信用なさすぎじゃね?アタシ」
「それに……。この前、ノアに借りてただろ」
「そうだっけ」
「なんで僕じゃなくて、ノアなんだ」


すぐ横で、ユーニが目を丸くした。
無理もない。いつも冷静に努めようとしているタイオンが、こんな風に弱弱しい声を出したら、ユーニが相手でなくとも驚くだろう。
まるでいじけている子供のように視線をそらし、肩を落としているタイオン。
柄にもないタイオンの姿を目に、ユーニのいつもの飄々した態度は次第に鳴りを潜めていく。


「だって、彼女に悪いだろ?」
「は?彼女?」
「付き合ってんだろ?この前“話がある”って声かけてきたあの後輩と」
「なっ…!違う!付き合ってない!」


ユーニからの言葉を聞いて最初に沸き上がってきた感情は、焦りだった。
誤解されている。彼女からあの後輩と付き合っていると勘違いされている。
そう思うと、冷静ではいられなかった。


「けど噂で…」
「あれは後輩の友達が腹いせに流したデマだ!実際には付き合ってない」
「腹いせ…?」
「その…すこしいざこざがあって」


“いざこざ”の詳細は話さなかった。いや、話せなかった。
ユーニを悪く言われて腹が立ち、思わず言い過ぎてしまっただなんて、格好がつかない。
ユーニは後輩に悪く言われていたという事実だけで傷つくようなタイプではないだろうが、それでも彼女の耳にはあまり入れたくない。
そんなタイオンの空気を察したのか、ユーニも深く追求することなく“そうなんだ”と納得した様子だった。


「なんだ、付き合ってないのか、そっか」


これは思い上がりだろうか。
事実をかみしめるようにつぶやいたユーニの表情は、どことなく安堵しているように見えた。
だがそんな表情もすぐにいつもの顔に戻ってしまう。


「けどさ、噂がデマならなんで否定して回らなかったんだ?迷惑だろ」
「迷惑だが、いちいち火消しに回る労力をかける方が面倒だった。噂なんて数日もあれば消えると思っていたからな」
「全然消えてる気配ないけどな」
「…あぁ。そこに関しては誤算だった」


噂が出回り始めた当初、タイオンはそこまで深刻な事態として捉えていなかった。
真実ではない噂など、時間がたてばいつか忘れ去られるものだと信じて疑わなかったから。
 
しかし、意外にも噂の賞味期限は長かったようだ。
1か月たった今も、タイオンと後輩の女子生徒が交際していると信じ込んでいる者は多い。
特にタイオンとはさほど親しくない生徒たちほど信じている傾向が高かった。
それでもなお噂を否定して回らなかったのは、こんな噂を流されて迷惑をかけてしまう相手がいなかったから。

例えば他に交際相手がいたとしたら必死に火消し作業をしていただろうが、あいにくタイオンに彼女はいない。
この噂を聞いて傷つくような相手がいない以上、必死に否定する方が疲れるだろう。
だがタイオンは、今日初めて今までの自分の判断を後悔した。
噂を聞いて傷付くような相手はいないが、信じ込んでほしくない相手はいた。
すぐ隣にいる彼女、ユーニである。

ユーニは例のデマを聞いてタイオンに彼女が出来たと勘違いし、存在しない彼女に遠慮してタイオンと距離を取っていたのだ。
彼女が急に電子辞書を借りに来なくなったり、タイオンではなくノアを頼るようになったのもそのため。
もっと早くこの噂を消し去っていれば、1か月もの間ユーニと話さなくなることもなかっただろうに。


「こんなことになるなら、きちんと否定しておくんだった」
「こんなことって?」
「……君にだけは、誤解されたくなかった」
「タイオン、お前…」


ユーニの大きな青い瞳がまん丸になってこちらを見つめてくる。
だが、なんだか気恥ずかしくて見つめ返すことが出来なかった。
コンクリートに跳ね返る雨に制服の裾を濡らしながら、まっすぐ駅へと向かう二人。
その足取りは、次第に遅くなっていく。
しばらく黙っていたユーニだったが、不意にふっと小さく笑みを零し始めた。
そしていつもの悪戯っぽい笑顔でタイオンの顔をのぞき込む。


「なぁ、噂をすぐにかき消す方法、教えてやろうか?」
「ん?」
「アタシと付き合えばいいんだよ」


思いもよらない案に、タイオンは思わず“はっ!?”と素っ頓狂な声を挙げてしまった。
またからかっているのだろうか。いつのも冗談なのか。
ただ、前のように軽くあしらうことなどできそうもないくらい、タイオンは動揺していた。
当然だろう。好きだと気付かされた相手からそんなことを言われたら、困惑しないわけがない。
言葉を失い、眼鏡越しに焦りをにじませているタイオンをあざ笑うかのように、ユーニは追撃を開始する。


「お前、アタシのこと好きだろ?」
「はっ!? な、なにを…!僕は…!」


その指摘は事実そのものだった。
無様なほど狼狽してしまう自分が情けないが、冷静さを保てそうにない。
するとユーニは、タイオンが肩にかけていた鞄に手を伸ばし、チャックが空いていた隙間から何かを取り出した。
それは黒い折り畳み傘。どうやら鞄の隙間から見えてしまっていたらしい。
そして聡い彼女に勘付かれてしまったのだ。傘を忘れたと嘘をついたこと。そして、そんなウソの口実を作ってまで彼女と二人きりになりたいと思っていたことを。


「傘、持ってんじゃん」
「それは…」
「こんな嘘までついてアタシと一緒にいたいかねぇ」
「ぐっ…」


後々になって冷静に考えてみれば、“持ってきていたことを忘れていた”とか、“その傘は壊れているんだ”とか、うまい切り返しはいくらでも思いつく。
だが、事実を羅列され恥ずかしさに思考停止を余儀なくされたタイオンには、言い返す言葉が何一つ思い浮かばなかった。
無言の肯定とはまさにこのことである。


「わかりやすいやつ」
「う、煩い。君にはどうせわからないだろ、僕の気持ちなんて」


彼女はどうせからかっているだけだ。
本気だったことなんて今まで一度もない。
いつも近づいてくるのは単なる気まぐれで、そこに深い意味などない。
そんな彼女の時間を少しでも繋ぎとめようとする自分の姑息な考えなど、きっとユーニにはわからない。
こんなことをしないと、まともに話しかけることもできない臆病な自分を、きっと彼女は笑うに違いないのだ。


「わかるよ。アタシもお前とおんなじだから」
「え…?」
「なんでアタシが毎回忘れたフリまでしてタイオンに電子辞書借りてたか分かるか?」
「忘れた、フリ…?」


何故その可能性に気付けなかったのか。
ユーニは口は悪いが根はまじめな人物だ。
自分に課せられた役割は決して投げ出さないし、成績も優秀。
そんな彼女が、電子辞書だけ毎回忘れるだなんておかしな話じゃないか。
それは、彼女が意図的に忘れているという事実に他ならなかった。
 
自然と足が止まる。
ユーニの方へと視線を落とすと、彼女はミルクティー色の柔らかい髪を指先でいじりながら、こちらを見上げていた。
頬を淡く染め、柄にもなく恥ずかしそうにしている表情を見た瞬間、タイオンは確信した。
これは冗談なんかじゃない、本気だと。


「ただの口実だよ、ばーーか」


彼女が笑った瞬間、心がぎゅうっと鷲掴まれた気がした。
いつも彼女は何枚も上手で、翻弄されてばかりだった。
だが、彼女もまた、自分と同じように卑怯な臆病者だったらしい。


「なら、もう借りに来る必要はないな」
「…なんでだよ」
「付き合えば、わざわざ顔を見に行く口実なんて必要ないだろ」


流石に恥ずかしくて、まっすぐ目を見ていうことはできなかった。
だが、うれしそうに笑って小さく頷くユーニの姿は、視界の端にとらえることができていた。
雨が上がり、曇天の間から光が差す。
一つの傘を共有する必要がなくなった二人は、ゆっくりとした足取りで再び歩き出す。
肩を並べて駅に向かう二人の距離は、傘をさしていた時よりもほんの少し近づいていた。


********************


おまけ


視線が痛い。
こちらを見てこそこそと話している同級生たちの声が耳に入り、目を瞑ってしまいたくなる。
だが、前を歩くユーニは歩調を早めることもなく、楽しそうに口角を挙げながら廊下を闊歩していた。
こんなにも注目されているのに、どうしてそうも堂々としていられるのか不思議でならない。
彼女の手を握りながら、タイオンはそんなことを考えていた。


「お、おいユーニ、そろそろ戻らないか?」
「んだよ、タイオンが言ったんだろ?デマを搔き消したいって」
「だからって手を繋いでまで校舎を練り歩くことはないだろ!?」


昨日、見事タイオンの彼女という立場に収まったユーニの行動は早かった。
登校時、校門でタイオンを待ち伏せした彼女は、強引にその手を取って“見せびらかしに行くぞ”と校舎に乗り込んでしまったのだ。
 
3年生の教室が並んでいる1階から始まって、今は1年生の教室が並んでいる3階の廊下を練り歩いている。
1年の後輩と交際しているという噂がたっていたタイオンが、同級生の先輩、しかも不良少女として目立つ存在だったユーニと手を繋いで歩いている様に、1年生たちは驚きの視線を向けている。
 
つい先ほど、その噂の渦中にあり先日告白してきた例の後輩や、その友人で噂を流した張本人ともすれ違ったが、どちらも睨みに近い視線をぶつけてきていた。
ハッキリ言って居心地が悪い。
噂を消し去りたいとは言ったが、そこまでして消したいとは思っていなかった。
元々目立つことに慣れていなかったタイオンにとって、この手繋ぎ校内闊歩はかなりハードルが高いのだ。


「アタシと付き合ってることが分かれば、くだらねぇ噂もそのうち無くなるだろ。アピールだよアピール」
「それはそうかもしれないが、そこまで強引にしなくても…」
「鈍感な奴だなお前も」
「は?」


前を歩いていたユーニの足がぴたりと止まる。
そして、顔だけこちらに振り返ったユーニの表情は、少し怒ったようにむくれていた。


「自慢したいってアタシの気持ち、少しは察しろよな」


また、心臓が締め付けられる。
息をすることすら忘れてしまいそうなほど、ユーニの一言には破壊力がある。
彼女のことだ。きっと計算の上でやっているに違いない。からかうためだけに。
だが、そんなわかりやすい作戦にも屈してしまうのがタイオンという男である。


「し、仕方ない。君がそこまで言うのならもう少し付き合ってやっても…」
「おっしゃ。じゃあこのまま職員室にでも行くか?」
「ちょ、ちょっと待て!それは流石にやめてくれ!」


いつもの笑顔を浮かべながら、ユーニはタイオンの指に自分の白い指を絡ませた。
この日の行動が功を奏したのか、以降タイオンと後輩が交際しているという噂は聞かなくなった。
と同時に、ユーニがタイオンに電子辞書を借りに来ることもなくなったという。