Mizudori’s home

二次創作まとめ

同棲サトセレ

【サトセレ】

■アニポケXY

■未来捏造

■長編

 

***

 


act.1「扉を開ければすぐそこに」

 


サトシがポケモンマスターの称号を得たのは、数日前のことだった。
何年か前にポケモン協会の会長に就任したオーキド博士により、賞状と一緒に小さなブロンズ像が手渡されたのだ。
子供の頃からの夢だったというのに、実際に手にして見れば何の実感もわかない。
初代ポケモンマスターの誕生を祝い、全国で大々的に報道されてようやくその重みを実感する。
ポケモンマスターの夢を叶えたサトシは、いつの間にか20歳になっていた。


『お爺さんから聞いたよ。おめでとう』


電話越しに聞こえるシゲルの声は、拍子抜けするほど落ち着いているものだった。
今や祖父であるオーキド博士を凌ぐ勢いで研究員としての功績をあげている彼は、最近大きな研究に没頭していて忙しいらしい。
マスターの称号を授与されたその日に連絡を取ろうと思ったのだが、全く時間が合わず、数日経った今、ようやく報告するに至った。


「なんだよ、やけに冷静だな。もっと驚いてくれても良いんじゃないのか?」
『君は知らなかったろうけど、学会やポケモン協会では一年以上前から君がマスターになるんじゃないかって噂されてたんだ。今更驚かないよ』
「つまんねーの」


手すりに寄りかかり、端末を耳に押し当てるサトシはケタケタと笑う。
彼こそマスターの座に相応しい。
そう推したのは、オーキド博士を始めとする各地方の著名な博士たちであった。
子供の頃から何度もポケモンが関わる世界的な危機に介入していたサトシは、大人になった今でも、何度となくそんな危機を救ってきた。
伝説や幻と呼ばれる数々のポケモンたちと協力し、事を収める彼の姿は、人々には英雄に見えた事だろう。
彼が初代マスターの座に就く事で不満を訴える人間は誰1人としていなかった。


「へっきし!!」


サトシの大きなくしゃみは、スピーカー越しに爆音でシゲルの耳へと届く。
電話の向こうで、シゲルが“うわっ”と小さく驚きの声をあげた。
足元でリンゴを頬張っていたピカチュウも、そんなサトシのくしゃみに驚き、体をビクつかせている。


「あ、わりぃ。寒くてさ」
『なに?外にいるの?』
「ああ。屋上」
『屋上?どこの?』
「えーっとミアレシティの…」
『は?ミアレ⁉︎ 何でそんなところに?』


シンオウカントーを拠点としているシゲルでも、ミアレシティがどこにある街なのかはよく知っている。
何故サトシが遠く離れたカロスにいるのだろうか。
相変わらず行動派な幼馴染みの腹は見えない。


「んー、ちょっと大事な人に大事な話をしなくちゃいけなくてな」
『取材記者にギャラ交渉とか?』
「んなわけ……あ」


軽口で会話していた2人だったが、サトシの“あ…”という呟きで途切れてしまう。
彼が待っていた屋上に、待ち合わせをしていた人物が現れたのだ。
ヒールをコツコツと鳴らし、サトシの姿を確認して小さく手を振ってくる彼女は、セレナ。
金色の髪を風になびかせながら走り寄ってくる様は、まさに彼女の持つカロスクイーンの称号に相応しいほど可憐であった。


「悪りぃシゲル。また掛け直す」
『え⁉︎ ちょ、サトーー』


シゲルの話を最後まで聞かずに通話終了ボタンを押すサトシ。
後で掛け直した際にネチネチと嫌味を言われそうだが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。
目の前にいる彼女、セレナへと意識が集中する。
足元にいたピカチュウが、食べていたリンゴの芯を放ってセレナへと駆けていく。
彼女の肩に飛び乗ると、その愛らしい頬をふんだんに擦り寄せてみせた。
そんなピカチュウの頭を嬉しそうに撫でながら、セレナはサトシを見つめる。


「セレナ」
「おめでとうサトシ。夢、叶ったね」
「ああ」


ポケモンマスターの称号を得てから、セレナに会うのは初めてのことだった。
メールでは何度かやり取りをしていたが、ここにきて初めて、セレナの声で祝辞を言われ、サトシは照れを隠せず鼻先をかく。
緩んでいた口元をなんとかキリッと戻し、ピカチュウに視線を向ける。
すると主人の考えを読み取ったのか、ピカチュウはすぐ様セレナの肩から飛び降りると、再びサトシの足元へと戻る。


「ピカピ、ピーカ」
「わかってるって」


そんなピカチュウにグイグイと足を押される。
“早く言え”と言っているらしい。
しかしそう簡単に言えるものではない。
何せサトシが今からセレナ相手に言おうとしていることは、一世一代の告白なのだから。
胸の鼓動がうるさい。
首を傾げているセレナを見ていると、緊張でどうにかなってしまいそうだ。
ポケモンバトルとはまた違った、今まで味わったことのない緊張感がサトシを襲う。
言わなければ。
サトシは深呼吸をした後で、ゆっくり口を開いた。


「セレナ」
「ん?」
「俺さ、夢を叶えたらセレナに言おうと思っていた事があるんだ。すごく大事な話なんだけど、聞いてくれるか?」
「うん、なに?」
「10年前、カロスを一緒に旅した時から、俺にとってのセレナは大切な存在で、かけがえのない人だった。でも俺は、昔からそういうコトに疎かったし、自分の感情が何なのかもよく分からなかったんだ。けど、最近になってようやく気付いた。俺がセレナに抱いている感情は、きっと他の誰にも抱くことはない、特別な感情なんだって」
「……うん」
「だからさ、セレナ」
「はい」


セレナも、サトシがこれから言わんとしている事が何なのか察したらしい。
目を潤ませている。
だからといって、それに甘えて曖昧なやり取りはしたくない。
きっちりと言葉を与えるべきだろう。
北風を体に受けながら、サトシは言った。


「俺の彼女になってくれないか? セレナの事がすきなんだ」


細められたセレナの瞳から、一筋の涙が溢れる。
彼に思いを寄せ始めた10年前は、まさかこんな言葉をかけて貰える日が来るとは思わなかった。
これは夢なのだろうか。
いや、違う。
体に当たる風は確かに冷たく、頬は赤く染まって熱を帯びている。
これは、セレナが待ち望んだ現実なのだ。


「私でよければ、喜んで」


涙をぬぐい、満面の笑みでそう返事をすると、真剣だったサトシの表情はどんどん喜びに染まっていく。


「ホントに?」
「ホントに」
「…っ」


聞き直したいのはこちらの方だ。
長い間彼に片思いをしていた彼女にとって、サトシの言葉はあまりにも現実離れしすぎている。
けれど、喜びを感じているのはサトシも同じ。
彼は先ほどの真剣な雰囲気とは打って変わって喜びを爆発させていた。


「ぃよっしゃあああ!聞いたかピカチュウ!オッケーだって!」
「ピッカァ!」
「セレナゲットだぜーッ!!」
「ピッピカチュウ!」


拳を高くあげて喜ぶサトシ。
そんな彼の動作を真似し、ピカチュウもその小さな手をあげて喜んでいる。
すっかり大人になってしまったサトシだが、ピカチュウとのやり取りはいくつになっても変わらない。
そんな彼らの行動に、セレナは笑みをこぼす。
と、その時だった。
今までピカチュウと喜び合っていたサトシが、セレナに向かって走り寄ってきたのだ。
そして彼は豪快にセレナを抱きしめる。


「ちょ、ちょっと、サトシ?」
「セレナ……。すっげぇすきだよ」


かすれるような、そんな切ない声で囁かれれば、たまらなくなる。
体には冷たい風が当たっているというのに、頬は熱い。
セレナは、昔よりも格段に広くなったサトシの背にそっと腕を回した。


「わ、私も、その……す、すきよ」


照れてうまく言葉を紡げない。
しかし、これが10年溜め込んだ想いを初めて本人に明かした瞬間であった。
ああ、この時をどんなに待ちわびたことだろう。
愛しい温もりに包まれながら、セレナは幸せを噛み締めていた。

すると不意に、視界に黄色いものが飛び込んでくる。
先ほどまで主人と喜びを爆発させていたピカチュウだ。
彼は困ったように笑いながらこちらを見つめている。
あのいたたまれないような視線を感じ、セレナは焦る。
急いでサトシから離れようと僅かにもがくが、彼の力が強すぎて離れられそうもない。
ピカチュウ見てるから!
ピカチュウめっちゃくちゃ見てるから!
そう心の中で叫ぼうにも、恍惚とセレナを抱きしめるサトシには届きそうもない。
半ば諦めかけていたセレナだったが、やがてサトシの力が徐々に緩み、彼女の体を解放していく。
ようやく体が離れ、2人は顔を向き合わせる。


「セレナ」
「ん?」
「俺、セレナにOK貰ったら、頼もうと思ってたことがあるんだ。聞いてくれるか?」
「……?なに?」


サトシの言う、“頼み”とやらを聞いた時、セレナは驚きで腰を抜かすことになる。
そんなセレナに、サトシは照れたように笑った。
告白だけでも驚いたと言うのに、彼がそんなことを言いだすとは思わなかったのだ。
まさか、カロスで同棲しようだなんて。
これは、サトシとセレナ、ポケモンマスターとカロスクイーンが、1つ屋根の下で暮らす様を描いた物語である。


**********


『ど、同棲!?』


端末越しに聞こえてくるミルフィの声は、驚きのあまりひっくり返っていた。
予想通りの反応に、セレナは荷物をダンボールに詰めながら苦笑いをこぼす。

今、セレナはアサメタウンの実家で荷造りの真っ最中である。
というのも、つい先日、随分長い間想いを寄せていた男性から愛の告白と同棲の提案をされてしまったからだ。
例の彼、マサラタウンのサトシという男は、憎らしいほどに行動力のある男である。
セレナに同棲の提案をしたその日には、もうミアレシティにある高層マンションの一室を買っていたというのだから驚きだ。
告白だけでも驚いたというのに、まさか同棲まで進展してしまうとは思わなかった。
しかしそれは電話越しのミルフィも同じらしい。


『なんか、展開早すぎてついていけないんだけど…。えっと、サトシから告白されたのよね?』
「うん。ついこの前にね」
『それが何でイキナリ同棲って話になっちゃうワケ⁉︎』
「さぁ…なんでだろ」
『なんでだろって……はぁ、サトシの思考回路が全く分からないわ』


その点に関しては、セレナも大いに納得である。
男女としての交際が始まったのはつい最近からだが、付き合い自体は10年以上前からある。
2人の歴史はかなり長いわけだが、それでもセレナには、サトシという人物の突拍子も無い行動力が不思議で仕方がなかった。
しかし、そんな彼に振り回されるのも嫌いでは無い。
現にこうして、彼の提案に戸惑いながらも頷き、急いで荷造りを開始しているのだから。


『にしても、そんな突然の提案よくオッケーしたわよね』
「確かにちょっと戸惑ったけど、サトシとの同棲なんて夢みたいで…』


ダンボールに服を詰めていた手を止め、妄想に耽るセレナ。
きっとサトシと生活を共にする部屋は夢のような空間になるに違いない。
そう考えると、頬が緩む。

これがカントーでの同棲ともなれば、きっとセレナも簡単には首を縦に振らなかっただろう。
しかし、サトシが提案したのはこのカロスの、しかも中心都市ミアレシティ
カロスクイーンとして、この地方を簡単には離れられないセレナにとっては、なんとも都合のいい提案だった。
しかもミアレには、シトロンとユリーカをはじめとする馴染み深い人たちが数多く住んでいる。
きっと退屈しないだろう。


『甘い、甘いわよセレナ!』


そんな考えのセレナを打ち砕くように、妙に真剣な声でミルフィは言った。


『同棲ってね、楽しいことばかりじゃ無いの。生活を共にするってことは、プライベートを共有するって事なのよ?相手の嫌なところも散々見るハメになるかもしれないのよ?』
「うーん。でも私、サトシ相手なら何でも受け入れられる自信があるわ。それに、昔も一緒に旅してたわけだし、生活を共にした経験はあるから心配いらないんじゃ…」


確かに同棲する事になれば、同じスペースで同じ時を過ごし、さらにはお互いに全てを曝け出すことになるだろう。
しかし、2人は既に“旅”という形で10年前に生活を共にしている。
シトロンやユリーカも一緒であったが、今更お互いの嫌なところなど気にならないのでは無いだろうか。
そんな考えのセレナに、ミルフィは盛大にため息を漏らした。


『その旅って10年前のことでしょ?10年前は気にしなくても今は気にするような事とかあるでしょ』
「例えば?」
『化粧。サトシの前でスッピン晒せる?」
「!」


ミルフィの言葉を聞き、セレナは思わず手に持っていた服を床に落としてしまう。
10年前、セレナがサトシと旅を共にしていた頃は、化粧など全くしていなかった。
けれど大人になり、身だしなみとして化粧を始めた頃から、人に会う時は化粧をする事が当たり前となっていた。
そのため、サトシと会う時も当然きちんと化粧を施している。
しかし、同じ部屋で生活するという事は、必ずスッピンを見られてしまうという事である。
その事実は、セレナにとって大問題であった。


「それは確かに……まずいかも」
『でしょ?同棲って、案外楽しいだけじゃ無いのよ!』


ミルフィは言い聞かせるように言った。
どうやら過去に何かあったらしい。
詳しく聞く事はあえて避けるが、“経験者は語る”とはまさにこの事なのかもしれない。
安直にOKしてしまったが、もう少し考えるべきだったのかもしれない。
もう少し男女の仲を深めてから同棲した方が良かったのではないか?
そんな僅かな後悔が、セレナの心を徐々に染めていく。
そんな一抹の不安を抱えながら数日が経過した。
ついにサトシとの同棲生活が幕を開ける。

 


***

 


サトシが購入したミアレシティの高層マンションは、セレナが想像していた以上に豪華な場所だった。
ミアレではプリズムタワーの次に高い建物だと言われており、1つ1つの部屋も大きい。
カロスの著名人やお金持ちたちがこぞって買いたがるほどのマンションであるそうだ。

そんなマンションで、2人が一緒に住むことになった部屋は48階の角部屋。
なんと最上階である。
カロスクイーンであるセレナも、“カロスの著名人”というカテゴリに入ってはいるものの、どうやら全国的に名の知られたポケモンマスターは格が違うらしい。
サトシに部屋代を半分出させて欲しいと頼んだが、丁寧に断られてしまった。
総額がいくらだったのか気になるところだが、恐ろしくて聞く事は出来なかった。

4LDKのその部屋は、2人で暮らすには大きすぎるほどの場所である。
もう少し小さい部屋でも良かったのではないかと言ってみたが、サトシは“内2部屋をポケモン用の部屋にするつもりだ”と笑っていた。
その時サトシの手持ちにいたポケモンたちと、セレナのポケモンたちをその部屋で放すつもりらしい。
ポケモンのために部屋を割くなどあまり聞いたことがないが、そこは流石のポケモンマスター。
ポケモンたちの為ならば妥協は出来ないようだ。
規格外なサトシに振り回されながら、広すぎる部屋で、ようやく2人の共同生活が始まった。
………のだが。


「これじゃあただの一人暮らしだよぉ…」


情けない声をあげ、机に突っ伏したセレナの姿に、シトロンとユリーカは苦笑いをこぼす。
場所はミアレシティのとあるカフェ。
ここでセレナは、今や四天王の一角となったシトロンと、ミアレジムのジムリーダーを務めているユリーカと共にお茶を楽しんでいた。
新しい住居がミアレというだけあって、この街に住んでいるかつての仲間たちとは格段に会いやすくなった。
しかし、サトシを含めて4人全員が集まる事はなかなか無い。
何故なら…。


「サトシって忙しいんだねぇ」
「まぁ、ポケモンマスターですからね」


すっかり大人の女性へと成長を遂げたユリーカは、膝の上でタルトのクッキー生地をかじっているデデンネを撫でながら呟く。
彼女の言う通り、サトシは忙しい。
それはセレナもよく知っていた事だが、その多忙さは彼女の想像の範疇を遥かに超えていた。
同棲生活始まって1ヶ月が経過したが、あの広い部屋で一緒に過ごす事が出来た日は片手で数えられる程度。
後はほとんど仕事のために他所の地方に滞在しているのだ。

全国どこを探してみても、ポケモン協会から正式に“ポケモンマスター”の地位を与えられたのはサトシ1人だけ。
その分、彼が請け負う仕事の量も半端なものではない。
今日も朝からシンオウで講演とイベントのエキシビジョンマッチに参加する予定だとメールに書いてあった。
そんな多忙な彼に溜息をつきながら、セレナは気丈に“頑張ってね”と返信する。
しかし、不満が無いわけではない。
せっかく長年想い続けてきたサトシと結ばれたのだ。
もう少し恋人らしい距離感を保ちたいではないか。
そんなセレナの願望を打ち砕くように、サトシは今日も忙しなく働いている。
もはや彼が2人のために買ったあの部屋は、ほとんどセレナだけの物と言っていいほどに、家主である彼が帰ってこないのだ。


「セレナも言っちゃえばいいのに。“寂しいからたまには帰ってきてー”って」
「言えないよ、そんなこと」


ユリーカの言葉に、セレナは首を振る。
サトシが遊びに行くために家を空けているのならまだしも、彼は仕事のために出掛けているのだ。
“帰ってきて欲しい”という言葉は、当然言外に“私のために”という言葉が入る。
自分のために仕事を控えるよう頼むなど、セレナには出来るわけがない。
だからと言ってこのまま会えず仕舞いなのは寂しい。
そんな不毛な日々が続いていた。


「しかし、そこまで多忙だと色々と心配ですね…」
「心配って何が?」
「忙しすぎて、体を壊していないかという事です」
「あ…」


シトロンの言葉を聞いて、セレナはハッとした。
そう言えばそうだ。
今まで自分は、サトシに会えないことを嘆くだけで、彼の事などほとんど考えてはいなかった。
忙しさが増す事で本当に大変な思いをするのはセレナではない。
サトシの方である。
各地方を頻繁に行き来する機会が多いのなら、シトロンの言う通り、体を壊してしまう可能性も大いにある。
自分のことしか考えていなかったことへの自己嫌悪と、サトシの心配で、セレナの表情が曇る。


「まぁでも、サトシは昔から体が丈夫でしたからね!大丈夫だとは思いますけど」
「そうそう!気にすることないって」


鬱々とした表情を見せるセレナに焦り、シトロンとユリーカはフォローを入れる。
サトシの体力は底なしだ。
それはセレナもよく知っている。
きっと彼ならいつも元気でいてくれるはずだ。
そう心に言い聞かせても、なんとなくセレナの心が晴れる事はなかった。
会えない時間が長ければ長いほど、セレナを不安にさせる。
今、サトシはどこにいて、誰といるのか、彼女は知る由もないのだ


**********


2人と別れ、セレナは家路についていた。
空はすっかり夕焼けで、街の街灯がそろそろつく頃合いである。
大通りから裏路地に入り、閑静な住宅街へとたどり着いた。
その真ん中に立っているのが、セレナとサトシが住む高層マンションである。
エントランスをくぐり、エレベーターで上がっている間、セレナは今日の夕飯について考えていた。
じゃがいもが余っていたし、今日はビーフシチューにしようかな。
どうせ今日も1人で食べることになる。
少量だけ作ればいいかとため息をつくと、ようやく目的の階に辿り着く。


「ただいまー…」


鍵を開け、部屋に入るセレナ。
呟いても誰も返事をしないわけだが、いつもの誰もいない部屋には妙な違和感があった。
リビングの方から明かりが漏れている。
どうやら電気がついているらしい。
それだけではない。
玄関に男物の靴が転がっている。
これは間違いなくサトシのものだ。
まさか……。
急いで靴を脱ぎ、玄関に上がってリビングへと駆ける。
勢いよくリビングの扉を開けると、そこにはやはり、サトシがいた。
真ん中に置かれたソファに仰向けで寝転がり、呑気に寝息を立てている。
そんな彼のお腹の上には、相棒であるピカチュウも一緒に寝ていた。


「サトシ……」


まさか帰ってきているとは知らず、思わず言葉を失うセレナ。
久しぶりに見たサトシの顔は、疲れ切った表情で眠りについている。
その顔を見ていると、やはりシトロンの言う事は本当だったのかもしれないと感じた。
きっと度重なる遠征で疲労がたまっているのだろう。
部屋着に着替える事なく、青い私服と帽子をかぶったまま寝ている。
その姿がやけに愛おしくて、セレナは彼が眠っているソファの横に座り、その寝顔を覗き込む。


「もう…。帰って来るなら連絡くらい入れてくれればいいのに」


そんな言葉とは裏腹に、セレナの声色は優しく穏やかなものだった。
規則正しい寝息を立てているサトシの頬に、そっと手を触れてみる。
セレナの細く白い指に撫でられ、サトシは“ん…”とわずかに声を漏らす。
その反応が面白くて、セレナはその頬を人差し指でツンツンとつついてみる。


「お疲れ様、サトシ」


そう呟くと、頬の上で遊んでいたセレナの指を、サトシの手が掴む。
うっすらと目を開けてこちらを見つめてくるサトシと目が合い、セレナは狼狽えた。
どうやら起こしてしまったらしい。


「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「んー。セレナ…?」
「おかえり」
「……ただいま」


眠気がまだ取れないらしく、とろけた瞳でこちらを見つめてくる。
掴んだセレナの右手を離すことなく、サトシはそのままその手に口付けた。
いきなりの事に驚き、思わず顔を赤くするセレナ。
そんな彼女に構う事なく、サトシは寝ぼけた顔で言葉を続けた。


「やっぱ、ここが1番落ち着くな」


微笑みながらそう言うサトシの声は、甘いものだった。
そんなサトシの言葉を聞いていると、なんだか胸がきゅんと締め付けられて、体の奥が熱くなっていく。
先ほどまで帰って来なかった彼氏に抱いていた不満は一瞬にして消え去ってしまった。
サトシはずるい。
何を言えばセレナが喜ぶのか、そのツボを心得ている。
けれど、そんなずるいサトシに振り回されるのも、嫌いではない。
今日もこうして、サトシの言葉に素直に喜んでしまうのだ。


「お腹空いてる?」
「ああ」
「何が食べたい?」
「んー…ビーフシチュー」


テレパシーでも使っているのかと疑ってしまうような回答に、セレナは思わず笑みをこぼした。
それにつられるように笑い、“なんだよ”と問いかけるサトシ。


「なんでもない。すぐ作るから、それまで寝てていいよ」
「ん、サンキュー」


サトシは大食いだから、きっとお腹を空かせているに違いない。
当初は一人分だけ作る予定だったが、どうも予定が狂ってしまった。
しかし、不思議とそんな予定の変更も幸せだと思えてしまう。
再び深い眠りに落ちたサトシの寝顔を見ていると、安らかな気持ちになれた。
さて、早くお待ちかねのビーフシチューを作らなければ。
眠ってもなお掴まれたままの右手をそっと離し、セレナは立ち上がる。
被ったままであったサトシの帽子を取ってやり、テーブルに置くと、サトシに背を向けてそのままキッチンへ歩き出す。
と、その時だった。


「ピッ!」


背後から随分と痛々しい声が聞こえてきた。
振り返ると、そこには仰向けから体勢を横に変えたサトシと、ソファの下に転がっているピカチュウの姿が。
サトシが寝返りを打ったせいで、お腹に乗っていたピカチュウが落ちてしまったようだ。
すっかり目を覚ましたピカチュウは、ブルブルと頭を振っている。


ピカチュウ、大丈夫?」
「ピーカ!」


優しく声をかけると、ようやくこちらの存在に気づいたらしい。
満面の笑みで飛びついてきた。
そんなピカチュウを抱きとめると、彼は甘えた鳴き声をあげながらセレナに頬をすり寄せる。
そんな愛らしいピカチュウの背中を撫でてやれば、毛並みが妙にパサついていた。

どうやら疲れていたのはサトシだけではないらしい。
サトシの仕事に付き合うために各地を巡っていたピカチュウも、疲労困憊なようだ。
毛並みがそれを物語っている。
これは後できちんとブラッシングしてやらなければ。
そんなことを考えながら、セレナは再びキッチンへと歩き出す。


「待っててねピカチュウ。今ほっぺが落ちるような美味しいポケモンフーズ作ってあげるからね!」
「ピーカ?ピッカチュウ!」


サトシは忙しい人だ。
この世界には、ポケモンマスターとなった彼を必要としている人がたくさんいる。
だからこそサトシはその声ひとつひとつに耳を傾け、足を運ぶ。
そんな彼が心休まる場所を作ってあげたい。
いつ帰ってきてもいいように、いつでも暖かい場所を提供してあげたい。
この日から、セレナはそう思うようになっていた。
サトシにとって、いつでも帰って来れる安心できる場所。
自分がそんな存在になれたら、どんなに幸せだろう。
そんなセレナの思いは、今もソファで眠っているサトシに届いているはずだ。
彼がビーフシチューのいい匂いに反応し、目を覚ますまであと30分。

 


act.2「体の距離=心の距離」

 


「以上で終わります。ご静聴ありがとうございました」


丁寧に一礼するサトシ。
演台の上に乗っているピカチュウもまた、主人の真似をするように頭を下げる。
そんな2人には惜しみない拍手が注がれ中には席を立ってまで拍手を送る者もいる。
ここはタマムシ大学
この場所を研究拠点としているシゲルからの依頼で、公演を頼まれたのだ。
慣れないスピーチに戸惑い、セレナに協力を煽りながら2人で内容を考えたあの時間は記憶に新しい。
その甲斐あってか、スピーチを聞いた学生たちからはこうして大きな拍手を貰っている。
一緒に内容を考えてくれたセレナに感謝しなければと考えながら、サトシは降段した。

ピカチュウを肩に乗せ、講堂を出ると、そこには多くの学生たちが待ち構えていた。
握手をお願いします、サインください、写真いいですか?
彼らの様々な要望にいちいち答えていると、随分時間が経ってしまった。
お昼前にはスピーチが終わっていたはずなのに、いつの間にか時間は13時を回っている。
群がっていた大量の学生たちが掃け、人もまばらになった頃、サトシはようやく昼食の心配をし始めた。
タマムシにはあまり来る機会がなく、知っている店も少ない。
さてどこで食べようかと考えていると、横から聞きなれた声に呼び止められた。


「サトシ」


視線を向けると、そこには子供の頃からよく知る男であり、サトシにこの仕事の依頼をした張本人であるシゲルが立っていた。
横にはブラッキーも連れている。
片手を上げてこちらに歩み寄って来る彼は、少しよれた白衣を身にまとっている。
彼の研究チームがこのタマムシ大学を拠点としており、彼自身、ここにはよく訪れるそうだ。
肩に乗っていたピカチュウはすぐさま飛び降り、ブラッキーにじゃれついている。


「お疲れ。なかなかいい演説だったよ。サートシ君にしてはね」
「どう言う意味だっつーの」


会って早々軽口を叩く幼馴染をじっと睨みつければ、彼は余裕の笑みを浮かべてくる。
整った顔立ちをしているだけに、その姿はやけに憎たらしい。


「君、これから何か用事ある?」
「いや特に……。カロスに帰る便は明日だし、強いて言うなら昼メシ何処でとろうか迷ってたトコだな」


今日の分の仕事は、先ほどのスピーチで全て終了した。
さっさとカロスに戻り、セレナの元へ帰りたいところだが、今飛行機に乗ればカロスに到着するのは深夜になる。
そんな時間に帰っては、きっとセレナを起こしてしまうことになるだろう。
それならばと、帰りの便を翌日の朝にずらしたのだ。
そのおかげで、今日はこれから半日暇になってしまったわけである。


「じゃあ、僕がとびきり美味い店を紹介してあげようか」
「おっ!ホントか!? 頼むよ!」


シゲルは子供の頃から妙にお洒落に凝った男だった。
大人になった今でもそれは変わらないようで、グルメな一面を持っている。
そんなシゲルのことだ。
きっとお洒落で美味い店を紹介してくれるに違いない。
そう考え、一瞬だけ期待したサトシだったが、シゲルがニヤリと笑みを浮かべた様子を見て、嫌な予感がしてしまう。
そんなサトシを引きずるように、シゲルは大学構内一階の食堂へと連れ込んだ。
所謂“学食”である。


「ここのどこがいい店だって?」
「いい店じゃないか。早い、安い、美味い。三拍子揃ってる」
「シゲルのことだから、もっとこう……小洒落たレストラン的な場所かと」
「小洒落たレストラン的な場所はサートシ君には似合わないだろう?」
「お前なぁ……」


世界にたった1人しかいないポケモンマスターと、最近イケメン研究員だと話題のシゲルが顔を付き合わせて学食で食事をしている。
そんな珍妙な光景は、学生たちにとっても物珍しいようで、あちらこちらから視線を感じる。
居心地の悪さを感じながら、サトシは音を立てて割り箸を割る。
学食のおばちゃんがよそいでくれた牛丼を掻っ込むと、サトシは“おっ”と声を漏らす。


「結構美味い」
「だろ?学食だからってなめないほうがいいよ」


向かい側に座るシゲルはカレーを食べている。
学生向けに作られたメニューなだけあって、値段もボリュームも申し分ない。
しかもポケモンフーズまで売っているらしく、テーブルの下ではピカチュウブラッキーが並んでそれを頬張っていた。
濃いめの味付けがなかなか気に入り、サトシは箸を置くことなく食べ進めている。
昔から食べることが好きだった幼馴染を眺めながら、シゲルはふと思い出したかのように口を開いた。


「そういえば君さ、彼女出来たんだって?」
「ぐふっっ!!」


唐突すぎる話題の展開に、サトシは思わず口に含んでいた牛丼を吹き出してしまう。
米が気管に入り、息ができない。
ゲホゲホと咳き込みながら急いで水を飲むサトシの様子に、シゲルは思わず苦笑いをこぼした。
昔から隠し事が苦手な奴だったが、ここまで分かりやすいとは……。
当のサトシは、ようやく詰まっていた米たちを飲み込めたらしく、ため息をついた後“誰から聞いた?”と聞いてきた。
真剣な表情とは裏腹に、その頬には米粒が付いている。
しかも二粒。


「んー、風の噂」
「タケシか?」
「風の噂」
「それともカスミか?」
「風の噂」
「いや、ケンジか?」
「……さぁ」
「ケンジか!ケンジから聞いたんだな!?」


オーキド博士の助手を務めるケンジは、孫であるシゲルとも近しい人物。
つい最近打ち明けた秘密を、うっかりシゲルに漏らしてしまうことなど、容易に想像できた。
厄介な奴に知られてしまった。
後でケンジにクレームの電話を入れなければなと、サトシは項垂れる。
そんな彼に、シゲルはスプーンを咥えたまま“ん”と右手を差し出した。
まるで何かを催促するような仕草だが、その真意が分からず、サトシは首をかしげる


「写真だよ。見せて」
「絶対嫌だ」
「なんで?」
「お前って手早いだろ」


サトシの言葉に、一瞬ポカンとした表情を見せたシゲルだったが、直ぐに腹を抱えて高らかに笑い出した。
愉快そうにケラケラと笑うシゲルを、サトシはムッとした表情で見つめている。

シゲルは昔から異性によくモテた。
10年前、カントーを旅していた頃に女の子の応援団を引き連れていた事は今となっては笑い事だが、基本的に異性にモテる事実は今も変わっていない。
事あるごとに彼女を変え、アプローチされる相手も数え切れないほどいる。
手が早く、さらに手数が多いシゲルであるが、決して不誠実なわけではない。
それなりに相手を愛し、向かい合った上での行動なのだ。
しかし、あまり恋愛というものに触れてこなかったサトシにとっては、シゲルのそんな行動は不可解極まりない。
どうも自分の大事な人を紹介するのには気が引けた。


「あのねぇサートシ君。僕は幼馴染の彼女に手を出すほど女性に困っちゃいないよ。それ以前に、人のものに手を出すような悪趣味はない」
「ふーん」


いちいち癪に触る言い方をするシゲルであるが、こんな軽口を叩けるのも、相手がサトシだからである。
“教養溢れる優しきイケメン研究員”も、気を許した相手の前ではただの若者というわけだ。
まだまだ若いシゲルにとって、昔からあまり浮いた話を聞かなかった幼馴染のハートを射止めた相手にはやはり興味がある。
是非その顔を拝んできたいと、シゲルは再度右手を差し出す。


「で、写真は?」
「だから見せないって」
「あーもしかして、見せられないほどアレなのかな?」
「はぁ?んなわけないだろ!? セレナはすげぇ綺麗だよ!………あ」


そこまで言ったところで、サトシは固まってしまう。
テーブルの下で会話を聞いていたピカチュウは、ポケモンフーズを両手に持ちながら“ピカピ…”と呆れたように呟いた。


「へー。彼女セレナって言うんだー。へー。ふーん。へー」
「くそっ」


頬杖をつきながら、シゲルはニヤついている。
子供の頃から、サトシはシゲルに口で勝てた事は一度もない。
こうして自爆してしまうことも少なくないのだ。
まさか自分から情報を漏洩する事になるとは思わず、サトシは再び項垂れる。


「で、その“セレナちゃん”とはどこまでいったわけ?」
「え?どこまでって……。あぁそういやぁ付き会ってから2人で出掛けてないな」
「……いやそう言う意味じゃなくてさ」


斜め上の発想を見せつけるサトシの鈍感さは流石だが、大人になった今では笑えない。
カレーを完食したシゲルは、口の中に残る辛味を消し去るように水を飲むと、スプーンを置いて再び問いかけた。


「何をどこまでしたかって話だよ。ハグとかキスとかその先とか、色々あるだろ?」
「あぁ、そう言う事な。この前手を繋いだな」
「……で?」
「以上」
「は?」


眉をひそめながら素っ頓狂な声を上げるシゲル。
そんな彼の様子に、サトシは驚いたように目を丸くする。


「付き合ってもうしばらく経つんだろ?なのにキスのひとつもしてないのか?」
「うーん、まぁ……」
「はぁ。君さ、トレーナーとしては一流だけど、男としては信じられないくらい未熟だね」

 

シゲルの言葉は、サトシの胸に鋭く突き刺さる。
反論しようにも、図星すぎて言葉が見つからないのだ。
長年女性になど見向きもせずに、ポケモンのことばかり考えてきたサトシ。
おかげで“ポケモンマスター”などという立派な肩書きを手に入れることが出来たが、いつの間にか男として当然経験しているであろう通過点を無視してしまっていた。
振り返って後悔してももう遅い。
同年代の男性たちがほとんど経験しているであろう“恋愛”というもののやり方が、サトシにはどうも掴めないのである。
拗ねた表情で残りの牛丼を全て飲み込むと、パシンと箸を置き、神妙な面持ちでサトシは口を開く。


「俺だってキスくらいしたいよ。けどさ、タイミングが分からなくて」
「そんなの気にすることないんじゃない?強引に行けばいいんだよ。案外女の人ってそういうのに弱い人多いんだから」
「うーん…」


セレナとキスをした経験ならあった。
しかしそれは10年も前の話である。
手慣れたシゲルならば、彼の言う“強引なやり方”も様になるのだろう。
だが、サトシはどうも自分がそんなやり方が出来るとはと思えなかった。
もし強引にキスしたとして、セレナはどう思うだろうか?
迷惑に思うかもしれない、最悪の場合嫌われてしまう可能性もある。
それだけは嫌だった。
ぐっと黙り込んでしまうサトシの表情は、随分と情けないものである。
彼と長い付き合いのシゲルは、その表情を見て、彼が何を思っているのかをなんとなく察してしまう。


「臆病だなぁ」
「…うっせー」
「バトルではあんなに大胆不敵なのに、どうして恋愛ではそんなに臆病になるかなぁ。そんなんじゃ、その“セレナちゃん”が可哀想だよ」
「セレナの事はもちろん好きだ。手も繋ぎたいしキスもしたいし、それ以上の事だって…。けどさ」
「それだよ」
「え?」


テーブルの上に置かれたおしぼりを片手でワサワサと弄るサトシ。
そんな彼の言葉を、シゲルは真剣な声色で遮った。


「そう思ってるなら言葉に出すなり行動で示さなくちゃ。何もしないままじゃ分からないだろ? 君はただでさえも忙しくて家を空けがちなんだから、そんな状態じゃたとえ同棲してても不安になるだろ」
「え?ちょ、ちょっと待てよ!なんで俺がセレナと同棲してるって知ってんだよ!?」


先ほどシゲルに彼女が出来たと伝えたサトシだが、同棲しているとまでは話していないはずだ。
ならばやはりケンジから聞いたのだろうか。
いや、ケンジにも彼女が出来たとは言っていたが、同棲しているとまでは話していないはず。
ならば何故……?


「ああ。だって、さっき“カロスに帰る”って言ってただろ?君が帰るべき故郷はマサラタウンだ。一人暮らしを始めたなんてママさんからもお祖父さんも聞かされてなかったし、彼女が出来たってタイミングでそんなこと言うなら、同棲でもしてるんだろうなって思って」


大したことではないとでも言いたげな表情で、シゲルは淡々と語った。
物の見事に正解であった。
ポケモンを研究する上で観察力が必要とされる研究員であり、なおかつ幼馴染であるシゲルには、どうやら下手な隠し事は出来ないらしい。
名前だけでなく同棲の事実すらバレてしまい、サトシはまたまた項垂れる。


「それにしても、同じ屋根の下で暮らしているにも関わらず、キスすらしてもらえない彼女の心境ってどんなものなんだろうねぇ。僕だったらこう思うな。“私、女としての魅力がないのかも?”って」
「なっ……!そんなわけないだろ!」


シゲルが不意に言った言葉にサトシが噛みつき、その反動でテーブルがガタガタと揺れる。
その揺れに驚いていたのは、シゲルではなく下にいたピカチュウブラッキーである。
ピカチュウは突然声を荒げた主人を心配し、“ピカピ…?”と名前を呼んでみる。
その心配そうな様子に気づき、サトシは少し熱くなりすぎてしまったかと反省した。


「君らしくないよサトシ。悩んでる暇があるのならまず動いてみなくちゃ。したいと思った時にする、言いたいと思った時に言う。そうしないと勿体無いよ」
「勿体無い、か…」


ポケモンバトルに関しては、マスターの称号を手に入れることによって“プロフェッショナルだ”という自覚があった。
けれど、恋愛においてはほんの初心者である。
そんなサトシに、シゲルの言葉は重く響いた。
自分の都合でなかなか会えないからこそ、会える時に愛情表現をするべきなのではないだろうか。
セレナも、それを望んでいるのか?
もしそうなら、迷う必要などないのかもしれない。
下を向いて考え込むサトシの姿に、少しだけ笑みをこぼすと、シゲルは空いた皿が乗ったトレイを持ち、立ち上がった。


「そろそろ行くよ。“セレナちゃん”によろしくね」
「……ああ」
「行くよ、ブラッキー


声をかけられたブラッキーは、のそっと立ち上がり、隣にいたピカチュウに何やら挨拶をしている。
ピカチュウもそれに答え、右手を振る。
“それじゃあ”と一言添えて、シゲルはトレイ返却口へと歩いていく。
これからまた仕事があるのだろう。
そんな彼の背を、サトシは思わず呼び止めた。


「シゲル!」


呼び止められたシゲルはその足を止め、背後のサトシへと振り返る。
視界に入ってきた彼の表情は、先ほどとは打って変わって随分と穏やかなものだった。


「ありがとな」


昔と何も変わらず、軽口を叩いていたシゲルであったが、その内容はきちんとサトシを想っているからこそ出るものだった。
サトシ自身も、そのことをよく分かっている。
シゲルらしい遠回しな優しさに、サトシは素直に礼を言う。
しかし、当のシゲルはまさか礼を言われると思っていなかったらしく、少しだけ驚いた表情を見せる。
しかし、すぐにいつもの含んだ笑みに戻り、再び歩き出す。
右手を上げて振りながら去っていくシゲルの背は颯爽としていた。

 

 

***

 


『今日の夜には帰るよ』


そう書かれていたメールの文面に、セレナは思わず口元が緩む。
サトシがこの家に帰ってくるのは、実に1週間ぶりとなる。
今度はどのくらいこっちにいられるのだろうか。
数日は一緒に居られるといいな。
そんなことを考えながら、『待ってるね』と返信する。
キッチンの棚から紅茶の茶葉を取り出し、ティーカップに注いでいく。
昨日焼いたクッキーと一緒にトレイに乗せ、リビングの食卓へと運べば、待っていた彼らが“待ってました”と喜びの声をあげた。


「お待たせ。どうぞ」
「うっわー!このクッキーってセレナが焼いたの?」
「うん、味は保証できないけど…」
「オーライ!流石セレナ!お菓子作りも得意なんてますます素敵だね!」
「美味しそうですね。いただきます!」


セレナが運んできたクッキーや紅茶たちに、サナ、ティエルノ、トロバは目を輝かせていた。
ミアレシティのとある高層マンション。
この一室にサトシと共に住んでいるセレナは、珍しくこの3人を部屋に招いたのだ。
時刻は3時。
ちょうどおやつにはもってこいの時間だったため、余っていたクッキーと、貰い物の紅茶を出したのだが、どうやらかなり好評だったようだ。
皆“おいしいおいしい”口々に褒め、クッキーはあっという間にほとんど無くなってしまった。


「セレナって昔からお菓子作り上手だったもんねー!」
「このクッキーも凄く美味しかったです」
「はーあ、こんなに美味しいお菓子を毎日食べられるなんて、サトシは羨ましいなぁ」


10年前はセレナに憧れに似た好意を寄せていたティエルノだったが、今は友人として彼女に好意を向けているらしい。
今はこの場にいないサトシの顔を思い浮かべているのだろうか。
視線が上を向いている。
しかし、残念ながら当のサトシも毎日セレナの手作りお菓子が食べられるわけではない。
なにせ彼は多忙のため、1ヶ月に数回しかこの家に顔を出さないのだから。


「それにしても、本当に広いですね、この家。二人暮らしとはいえ、大きすぎるような…」


トロバはリビングを見渡しながら小さく呟く。
彼の言う通り、この部屋は2人で暮らすにしても大きすぎる部屋だ。
引っ越して数ヶ月経った今はもう慣れてしまったものの、最初の数日は本当に落ち着かなかった。


「サトシ、なかなか帰ってこれないんでしょ?大変ね。寂しくない?」


正面に座っているサナが、心配そうな顔で聞いてきた。
サトシがなかなか帰ってこないと言うことを彼女に話した覚えはないが、おそらくミルフィあたりに聞いたのだろう。
同棲が始まったというのに全く一緒に過ごせていないセレナへ、同情の眼差しを向けている。


「うん。確かに少し寂しいけど……。でも、その分会えた時はすごく幸せなの。前よりも、一緒に居られる時間を大切にできてるって感じかな」


この部屋は、独りで過ごすには広すぎる。
時々どうしようもなく寂しくなり、サトシの声が聞きたくなる時もあった。
けれど、こうして離れ離れになることで分かることもある。
自分にとってサトシがどれほど大きな存在か、自分が彼にどれほど大きな想いを寄せているのか、それを再確認できるのだ。
だからこそサトシと会えた時はいつも以上に胸が高鳴り、この時間を大切にしたいと思える。
幸せに慣れてしまうよりはよっぽど良いことなのではないだろうか。
最近ではそんな考えも生まれ始めていた。


「前向きだなぁーセレナ」
「ホントね。これもサトシの影響だったり?」
「う、うん。そうかも」


照れたように笑いながら頷くセレナの頬は、ほんのり赤く染まっていた。
あぁやっぱり可愛いな。
サトシはずるいな、と心の中で悪態をつきながら、ティエルノは溜息をつく。
一方でそんな幸せそうなセレナに、サナとトロバは満足そうに頷いている。
彼ら3人にとって、セレナは10年前から付き合いのある大切な友人だ。
そんな彼女の幸せは、やはり喜ばしいことなのである。


「じゃあ、サトシとは上手くやってるのね?」
「うん、まぁ……」


歯切れの悪い返答をするセレナ。
そんな彼女を不審に思い、3人は顔を見合わせる。
セレナは何か思うところがあるらしい。
詳しく聞いて良いことなのか判断が付きにくいが、どうしても気になってしまったトロバが口を開く。


「なにかあったんですか?」


恐る恐る聞いてくるトロバに、セレナは“いや…”と苦笑いを浮かべた。
話しにくい内容なのだろう。
何かを決心したかのように、手元にあったカップの紅茶を飲み干す。


「むしろ何もないっていうか…。付き合ってしばらく経つけど、何も進展がないのよね…」
「えっ、それって、何も手を出されてないってコト!?」


驚いた様子で問いかけてくるサナの言葉に頷けば、3人は一瞬だけ言葉を失った。
それもそうだろう。
サトシとセレナは付き合いも長い上に同棲をしている。
そんな2人が“何もしていない”ということは、かなりの衝撃だ。
しかも、カロスクイーンというこの地方の女性全ての憧れの的であるセレナ相手に、だ。
特に昔彼女に想いを寄せていたティエルノは随分と驚いている。


「意外だなぁ。サトシの事だから、どちらかというと押せ押せなタイプかと思ってたのに」
「意外に硬派という事でしょうか?」


確かにサトシは、昔から勢いに任せて前に突き進む事を良しとするタイプだ。
もし恋愛においてもそうならば、交際して数ヶ月が経った今も手を出していないのは不可解極まりない。
意外にも硬派だということは、決して悪いことではない。
しかし、この長い間何もされていないという事実は、セレナを不安にさせる。


「私、もしかしたら魅力ないのかな……」


セレナのそんな小さなつぶやきは、3人を大いに驚かせる。


「えぇ!? 何でそうなるの?絶対それはないって!」
「そうそう。きっとサトシは、タイミングを伺ってるんじゃないかな?」


同じ男として、ティエルノはサトシの気持ちが何となくわかってしまう。
大事だからこそ手が出せない。
嫌われたくないからこそ上手く行動できない。
けれど、触れたくてたまらない。
そんな複雑な矛盾が、きっと彼の中に渦巻いているのではないだろうか。
その臆病さが、結果的にセレナを戸惑わせてしまっているわけだが。


「まぁ、いつかきっと近付いてくれるとは思うから、気長に待ってようかなって…」
「だめよそれじゃあ!」


半ば諦めのようなことを呟いたセレナだったが、身を乗り出してまで声を荒げたサナに驚き、肩を震わせる。
机を叩き、思わず立ち上がってしまったサナのせいで、並べられた食器たちが小さく音を立てた。
彼女の隣にいたティエルノも、セレナの隣に座っていたトロバも、自分の幼馴染が突然大声をあげたことに驚いているようである。


「セレナはそれでいいの!? 待ってるだけの受け身のままじゃ、いつまで経っても状況が変わらないかもしれないでしょ?」
「それは…」


正論過ぎるサナの言い分に、セレナは言葉を失う。
確かに、受け身だったという自覚はある。
待ってさえいれば、きっといつかサトシは自分の望むことをしてくれる。
そんな傲慢な考えがあったのは事実だ。
自分から動くのは怖い。
相手に嫌われたくない。
だから何も言わず、安全なところから相手が近づいてくるのを待っている。
そんな受け身なやり方は、卑怯なのではないか。
けれど、セレナはそれ以外に方法を知らなかった。
自ら近付く勇気はない。
かといってサトシを焚き付けられるだけの力量もない。
そんなセレナの小さくなった背を、サナは言葉で叩く。


「向こうが攻めてこないなら、こっちから攻める!会える時くらい、少しはワガママになったっていいじゃん。当たって砕けろだよ、セレナ!」
「当たって、砕けろ…?」


拳を握って力説するサナ。
そんな彼女の言葉には、昔からの聞き覚えがある。
カロスクイーンを目指していた頃、自分の実力に自信がなくなり、不安になったことが何度もあった。
そんなとき、その言葉には何度も救ってもらったのだ。
サナは、セレナが生涯の座右の銘としているその言葉をあえて使うことで、彼女を鼓舞しようとしているのだろう。
サナらしい励まし方にセレナは小さな喜びを感じ、“ありがとう”と力なく笑う。


「そうだ、これ、渡すの忘れてました」


随分と軽い口調で、横からトロバが口を開いた。
彼は懐から白い封筒を取り出すと、机にスッと滑らせながら、隣のセレナへと渡す。
何かと思い、その封筒を受け取って中身を見てみれば、入っていたのは2枚のチケット。
表には『ミアレ美術館写真展』と書いてある。
まさかと思ってトロバに視線を向けてみれば、彼は照れたように笑いながら頬を掻いていた。


「じ、実は僕、ミアレ美術館で写真展を開くことになったんです。良かったらセレナにも、サトシと一緒に来てもらいたいなって」
「写真展!? 凄いじゃないトロバ!」


子供の頃からポケモンたちの写真を撮ることが好きだったトロバは、近年写真家として活動していた。
そんな彼が、なんと個人の写真展を開くのだという。
しかも、場所はあの有名なミアレ美術館。
誰にでもできることではない。
友人の報告に、セレナは喜びと驚きを抱いていた。


「僕もこの前覗いてみたけど、なかなかいい展示会だったよ!デートにはうってつけだね!」


ティエルノの言葉を聞き、セレナは再びチケットへと視線を移す。
よく見てみると、開催期間は1ヶ月間とある。
1ヶ月も期間があれば、流石にサトシもお休みが取れるだろう。
考えてみれば、2人は付き合ってからというものの、サトシの多忙さのためあまり遠出をしてこなかった。
つまり、デートすら全く行っていないのである。
これは、サトシをデートに誘うきっかけになるのではないだろうか。
手元に舞い込んで来たチャンスに、セレナは心の中で意気込んだ。
“当たって砕けろ”と。


「うん。私、サトシを誘ってみる!」
「オーライ!その意気だ!」
「がんばってねセレナ!応援してるから!」
「楽しみに待ってますね!」


友人たちがくれたせっかくのチャンスを逃すわけにはいかない。
セレナはチケットを封筒に戻すと、椅子にかけてあった自分のバッグへと大切に仕舞い込んだ。

いつの間にやら全員のカップとクッキーの入ったお皿は空になり、窓から見える景色も、青空から夕空へと変わっていた。
あまり長居してはセレナに迷惑がかかってしまうからと、3人は話しのキリがいいタイミングで帰ると席を立つ。
久しぶりに語らう旧友たちとの時間は実に楽しくて、寂しさを忘れさせてくれる。
玄関まで見送る際、サナに“頑張れ”と念を押され、笑いながらピースサインを送ると、3人は手を振りながらセレナのマンションを後にした。

時間はすっかり夕方。
もうすぐ夜になる。
そろそろサトシが、このミアレに到着する頃合いである。
飛行機で帰ってくるはずだから、きっと空港に行けば会えるだろう。
セレナは熱した勇気が冷めぬうちに、愛しい彼を迎えに行くことにした。
椅子にかけられたバッグを手に持ち、広い部屋を後にする。
空港に向かう彼女の足取りは、やけに軽いものだった。

 

 

***

 


ミアレ空港は非常に広い。
人も多いこの場所で、目的の人物を探し出すのは至難の技だ。
ロビーでキョロキョロと彼を探すセレナ。
そんな彼女に近付く、1つの影があった。
その影はそっとセレナの肩を叩く。
驚いて振り返ったセレナだったが、肩に置かれた手の人差し指が自分の頬にぷにっと触れる。


「あ…」
「ただいま、セレナ」


戸惑いながらその手の主人へと視線を向けると、そこにいたのは待ち焦がれた愛しい人、サトシだった。
ニヒッと歯を見せて笑う彼の表情は屈託がなく、まるでイタズラが成功した子供のよう。
10年以上前から変わらないその笑顔の帰還に、セレナは安堵を隠せない。


「サトシ!おかえり!」
「ピーカ!」


サトシの肩に乗っていたピカチュウが、彼の腕を伝いセレナの胸に飛び込んできた。
ピカチュウの短い毛並みの感覚を楽しみながら、その背を撫でてやる。
甲高い声で甘えるように鳴くピカチュウも驚くほどにいつも通りで、セレナを安心させる。


「んもう!新手のナンパかと思ってビックリしちゃったじゃない」
「悪い悪い!…ん」


何も言わず、右手を差し出してきたサトシ。
それは“手を繋ごう”の合図であった。
そんな彼の感情信号に、セレナは頬を赤らめる。
サトシの大きな手を握れば、彼は一層強い力で握り返してくれた。


「帰るか」
「うん!」


指を絡ませ合い、手を繋いだまま歩き出す。
珍しくサトシではなくセレナの肩に乗っているピカチュウは、そんな甘い雰囲気に小さくため息をついたのだった。

陽も落ち、周囲が暗くなったミアレシティは、趣のある街灯たちによって照らされていた。
レンガで出来た道を2人で歩けば、静かな街にコツコツと足音だけが響く。
2人が住むマンションへは大通りを抜ければすぐに着くのだが、あえて遠回りな人通りの少ない裏路地を歩いているのは、なるべく2人きりになりたいからだった。
おかげでポケモンマスターとカロスクイーンである2人は、こうして注目されずに静かな帰路につけている。


「そっかぁ、講演成功したんだね。よかった」
「セレナが一緒に考えてくれたおかげだよ。ありがとな」
「どういたしまして」


数日前、サトシから深刻な顔で“スピーチの内容を一緒に考えて欲しい”と相談された時は驚いた。
ポケモンマスターは、バトルだけでなくそんな仕事も入ってくるものなのかと。
かねてからポケモンバトル一筋だったサトシは、当然のことながらスピーチ内容を考えるなど、得意なはずもない。
悩みに悩んだ末、セレナに相談したのだ。
お陰で依頼された講演は大成功。
不本意ながら、“また次回も”と声を掛けられるほどの出来であった。


「セレナがいてくれて良かったよ」


率直なサトシの言葉は、セレナの胸を高鳴らせる。
彼から視線を外し、赤い顔を隠すようにして小さく頷く。
恥じらいを持った彼女の表情は、どうしようもなく可愛くて…。
サトシまでもが顔を赤くしてしまう。
あぁ、今、無性にキスがしたい。
彼女の小さく赤い唇に、自分のものを押し付けてしまいたい。
けれど、そんなことをしたら彼女はどう思うだろうか。
嫌がるかもしれない。
もしもセレナに拒絶されたとしたら…。


「あのね、サトシ。実は今日、サナたちが遊びにきてくれて…。これ、貰ったんだけど…」


バッグに仕舞ってある、トロバからもらったチケットを探しながら言うセレナ。
しかし、隣を歩くサトシをチラッと見上げた途端、言葉を詰まらせてしまう。
見上げたサトシの顔は、何かを考えているような真剣なものだった。
その顔を見ていると、何故だか決心が揺らいでしまう。
何を考えているのだろう?
自分の知らない地方へ足を運び、自分の知らない誰かと会っているサトシは、セレナのよく知るサトシではないような気がして。
体の距離だけでなく、心の距離すらも離れていくような気がして。
訪れる沈黙は居心地が悪い。
そんな空気を破ってくれたのは、セレナの肩に乗っていたピカチュウであった。


「ピカ!ピカピカッチュ!」


それはちょうど小さな橋の上に差し掛かった時だった。
黄色い彼は北の方向を指差している。
その声に反応して2人とも同時に視線を向けてみれば、そこにあったのはミアレの象徴建造物、プリズムタワーであった。
2人にとっても思い出の場所であるあの建物は、いつも以上に煌びやかな装飾が施され、美しくライトアップされている。
そんな光景に目を奪われ、2人は吸い寄せられるように橋の手すりへと歩み寄り、タワーを見上げた。
セレナの肩から橋の手すりへと降り立ったピカチュウも、目を輝かせながらプリズムタワーへと視線を送っている。


「うわぁ、綺麗ね…」
「あぁ。けど、プリズムタワーってあんなライトアップされてたっけ?」
「最近始めたらしいわよ。シトロンの発明でやってるんだって」
「へー、流石シトロン!科学の力ってスゲー!」


シトロンの話題を出すことによって、サトシの雰囲気が元に戻った。
もしかしたら、今なら言えるかもしれない。
バッグの中に忍ばせておいたチケットに視線を向けるセレナ。
その白い封筒を見て、昼過ぎに言われたサナの言葉を思い出す。

“会える時くらい、少しはワガママになったっていいじゃん”

待つだけはもう飽きた。
相手から近づいて来ないなら、こちらから距離を詰めればいい。
このまま少しずつ心の距離が離れていくのは嫌だ。
当たって砕けろだ。
封筒を両手に持ち、セレナは大きく深呼吸をする。


「あ、あのね、サト…
「セレナ、好きだよ」
「うん……え!?」


イキナリの告白に、セレナは面食らう。
サトシの真剣な表情から見て、からかっているわけではないと分かる。
プリズムタワーの光に照らされながら、橋の上で並ぶ2人の視線は合致する。


「ど、どうしたの……?いきなり」
「いや、言いたくなってさ。昨日会った奴に言われたんだよ。“言いたいと思った時に言わなくちゃ、勿体無い”ってさ。だから、言いたことを言ってみた」
「サトシ…」


やっぱり赤い顔で言うサトシは、さっぱりした笑顔を浮かべていた。
この笑顔に、何度勇気をもらったことだろう。
そして今も…。
今日、サナはこうも言っていた。
“向こうが攻めて来ないなら、こっちから攻める”と。
かと言って、攻められてばかりも嫌だった。
たまにはこちらから一歩踏み出して、距離を縮めてやりたい。
そんな気持ちが、セレナの背中を押していく。


「ねぇサトシ。私も勇気出して、言いたいこと言ってもいいかな?」
「ん?」
「これ、トロバから貰ったの。一緒に行かない?」


胸元に差し出された白い封筒を受け取り、中身を見てみると、入っていたのは2枚のチケットだった。
そのチケットには、“ミアレ美術館写真展”と書かれている。
内容からして、写真家として活動しているトロバの写真展であるようだ。
期間は1ヶ月。場所はミアレ美術館。
この条件なら、割とすぐに行けるだろう。


「私、サトシと一緒に行きたい」


まっすぐ好意を向けてくれるセレナ。
彼女の誘いは嬉しくて、断る理由などどこにも無かった。


「そうだな。今思えば、2人で出かけた事なんて無かったもんな。行こうか」
「うん!」


頬を赤らめながら首を少し傾け、頷くセレナは、破滅的に可愛らしい。
喜びあふれるその表情は、遠くで輝くプリズムタワー以上に綺麗だった。
彼女の言葉、表情、存在までもが、サトシの理性を削り取っていく。
見惚れるほど可愛らしいセレナに、サトシは自然と顔を近づけていく。
そんなサトシに、セレナは目を丸くしつつ固まってしまう。
衝動的な体の動きに身を任せながら、サトシは自らの唇をセレナのものに押し当てた。


「……っ」


触れる唇はやけに柔らかくて、現実感がない。
けれど、騒ぎ立てる自分の心臓は煩く現実を知らせている。

いま、サトシにキスをされている。

そんな夢のような現実は、セレナの心を浮つかせてしまうのだ。
橋の上からプリズムタワーを眺めていたピカチュウだったが、突然静かになった背後が気になり、振り返る。
主人とその彼女が唇を合わせているその光景は刺激的で、思わずピカチュウは自分の耳で目を塞いでしまう。
柔らかな唇がゆっくりと離れていく。
目を丸くさせたセレナの瞳には、赤い顔をしながら真剣な眼差しで見つめてくるサトシが映っている。
突然のことで頭がついて来ない。
なのに心臓だけは煩くて、その音だけがセレナの耳に届く。


「サト、シ…」
「したかったら、した。嫌だったか?」


そんなはずは無い。
むしろ、今すぐ跳ね回ってしまいそうなほど嬉しかった。
その証拠に、未だ心臓が煩く高鳴っている。
火照った頬のまま、俯きながら首を横に降る。
まだ、足りない。
もっと近づきたい。
サトシの服の裾を掴み、セレナは顔を上げて言った。


「もう一回、して」


ねだるように呟くセレナの言葉に、サトシは驚く。
しかし、彼女の誘いを断れるほどの理性は、サトシには無い。
目を細め、セレナの首筋に手を添えると、口を開く。


「喜んで」


再び近付くサトシの顔に、セレナは瞼を閉じる。
ゆっくりと触れ合う唇の感覚は、2人を夢中にさせていく。
輝くプリズムタワーを背景に、2人は先ほどよりも長く唇を重ねていた。
そんなサトシとセレナの姿に、近くで見ていたピカチュウは困ったように笑っていた。

全く我らが主人はどうもこの手のことが苦手らしい。
きっとこんな調子では、普通の女の子なら早々に愛想をつかされていたことだろう。
だからこそ、相手がセレナでよかった。
こんなにも遅いキスに、彼女は幸せそうに応えている。
甘い空気の真ん中にいるのは少々アレだが、少しは応援してやろう。
2人のキスシーンから目を逸らし、プリズムタワーへと視線を戻したピカチュウは、苦笑いを浮かべたままそんな事を考えるのだった。

 


act.3「黄色い休日」

 


セレナにとって、それは大きなチャンスであった。
“ミアレ美術館で写真展をやるから来て欲しい”とトロバから渡されたチケットは、サトシをデートに誘う絶好のきっかけ。
勇気を出して誘ってみれば、サトシは笑ってOKしてくれた。
あれから数日。
やはりサトシ多忙の日々は続いていたが、たまたまカロスにサトシが帰って来ていた今日、2人は約束していたデートに行くことになった。
ミアレシティはカロス最大の都市。
一日中歩き回っていてもお釣りがくるほどに楽しみが尽きない街だ。
そんな街をサトシと散策することに、セレナは胸の高鳴りを隠せずにいる。


「セレナー、まだかー?」
「もうちょっと待ってー!」


玄関の方でサトシが呼んでいる。
急いで髪を整え、鏡をチェックしてみれば、そこにはバッチリメイクをきめた自分の顔が映る。
“よし、問題ナシ!”
心の中で頷くと、コートを着てバッグを肩にかける。
駆け足で玄関の方へ向かうと、壁に寄りかかって腕を組んでいるサトシの姿が視界に入ってきた。


「ごめん遅くなって」
「随分準備にかかったな」
「サトシに褒めてもらうために頑張ってたの。どう?似合ってる?」
「100点」
「ホントに?何点中?」
「500点」
「えっ」


サトシの返答に絶望的な表情を見せるセレナ。
そんな彼女が可愛くて、サトシは思わず吹き出してしまう。


「冗談だよ。スゲー似合ってる。な?ピカチュウ
「ピッカ!」
「んもー!脅かさないでよ!」


いたずらっぽく笑うサトシ。
そんな彼にむっとしたように頬を膨らませ、セレナはサトシの腕を軽く小突く。
2人がこうして、軽い冗談を言い合えるようになったのは、つい最近のことだった。
お互い大きな好意を相手に向けていたために、“嫌われたらどうしよう”という妙な遠慮があったのだ。
しかし、過ごす日々は少ないながらも、2人は同じ屋根の下で暮らしている。
心も体も距離がグンと縮まったサトシとセレナは、お互いに丁度いい遠慮と少しの軽口を混ぜた関係性を築けていた。


「じゃあ行くぞ。鍵持ったか?」
「うん、持った」
「カイロは?」
「持ってない」
「持ってけよ。セレナ冷え性だろ?せめて手袋…」
「いいの!」

サトシの手を取って、指を絡めるセレナ。
そのまま彼のコートのポケットに手を突っ込めば、寒さなど全く感じない。
セレナの突然の行動に驚き、サトシは目を丸くする。


「こうやって歩くから」


寒いせいか、それとも照れているせいか、どちらなのか分からないが、見つめてくるセレナの頬は赤らんでいた。
どうやら彼女はサトシと手を繋ぎ、ポケットに手を入れたまま歩こうという算段らしい。
セレナらしくない大胆な発想に、サトシは狼狽える。

前の彼女は、何をするにも遠慮があって、自分から行動するようなタイプではなかった。
一歩後ろから様子を伺う性格の彼女は、よく言えば空気が読める、悪く言えば消極的。
そんな彼女だったが、最近はやけに積極的だ。
普段は以前のように一歩引いたような態度を取っているが、唐突にこうして可愛らしいことをしてくる。
毎度不意打ちを食らってしまうサトシは、少なからず悔しさを感じていた。

赤い顔を隠せないサトシを、肩に乗るピカチュウはニヤニヤと見つめ、その頬を小突いてくる。
そんな黄色い相棒をムッとした表情で睨み付けると、サトシはドアノブへと手を伸ばす。


「と、とにかく行くぞ」
「うん」


視線を逸らしたサトシ。
そんな彼に構わず、屈託のない笑みを浮かべてくるセレナは“カロスクイーン”の称号に相応しいほど可憐だ。
扉を開け、部屋の外に出た途端、冬独特の凍りつくような外気に晒され、2人は殆ど同時に肩をすくめる。
ある意味、セレナの手を繋ぎながらポケットに手を入れるという行為は正解だったようだ。
繋がれたサトシの左手と、セレナの右手は不思議なほど暖かい。

他愛もないことを喋りながら、部屋を施錠し、エレベーターに乗り込む2人。
流石に住居が最上階となれば、一階まで降りるのも時間がかかる。
珍しく他の階で止まることなく一階まで真っ直ぐ降りてくれたエレベーターから出ると、厄介な人物に出会った。
このマンションの管理人をしているマダムである。


「あら?お二人でお出掛け?」


マンションの前で掃除をしていた管理人は、手を繋ぎながら出てくる2人を見て驚いた。
彼女はこの2人がポケモンマスターとカロスクイーンである事を知っているが、その2人が自分のマンションに住んでいる事をきちんと黙ってくれている。
そんな理解あるマダムには感謝しているが、この人はいかんせん話が長い。
面倒な人に捕まってしまったと顔をひきつらせるセレナ。
そんな彼女をよそに、サトシは嬉しそうに口を開いた。


「デートです」
「ちょっ、サトシ!」
「あら〜いいわねぇ、若いって!仲が良さそうで羨ましいわぁ」
「ありがとうございます」
「ど、どうも…」
「私と主人もね、若い頃はこのミアレの街をプラプラ散策したものよ〜。プリズムタワーが出来る前だったんだけど、あそこの土地は前に…」


こんな調子でBGMのように流れる管理人の話を聞いていると、いつの間にか15分も経っていた。
ようやく解放された頃には、セレナはぐったりと疲れ、大きなため息をついてしまう。
しかしながらサトシは全く疲れなど見せず、肩のピカチュウと一緒に澄まし顔である。
“話長かったな”と笑ってはいるものの、その笑顔は面白いほどにいつも通りである。


「よく疲れないわね」
「年配の人の長い話には慣れてるからな」


色々な地方で様々な“お偉方”と会う機会の多いサトシは、その分あの様な長い話に付き合い慣れているのだろう。
自分の隣にいてくれる時間が短い分、彼は遠くで頑張っている。
そんな当たり前な事を再認識し、セレナはポケットの中で繋がれているサトシの手をぎゅっと握りしめた。


「いつもお疲れ様」
「おう」
ピカチュウもね」
「ピッカ!」


セレナに労いの言葉をかけられた事が嬉しかったのだろうか。
肩に乗っていたはずのピカチュウは、サトシの頭に飛び移り、笑顔を向けてくる。
そのおかげで、サトシの被っていた赤い帽子が前にズレてしまった。
イキナリ前が見えなくなったことに対し、サトシは頭上の彼に“おいこら”と抗議するが、当のピカチュウは知らん顔だ。
そんなやりとりが可愛らしくて、セレナは口に手を当ててケタケタと笑う。

やっぱり、サトシと一緒にいるのは楽しい。
何年も付き合いがあるはずなのに、未だに2人きりになるとドキドキする。
言葉を交わすたびに胸が温かくなり、冬だというのに頬が火照って仕方ない。
緊張するのに、どこか安らぐ。
恥ずかしいのに、もっと側にいたい。
サトシと一緒にいると、嫌というほど思い知らされてしまうのだ。
自分は彼に恋をしているということを。

2人が住む高層マンションからミアレ美術館までは、徒歩で向かうには少々距離がある。
ミアレシティプリズムタワーを中心として東西南北に丸く広がっている。
マンションから反対側に位置しているミアレ美術館だが、2人で話しながら歩いていれば不思議とすぐに到着してしまった。
ポケモン写真展開催中』と描かれたポスガーが貼ってあるその美術館は、思った以上に観覧客で溢れている。


「ここだな」
「結構混んでるわね」
「それだけトロバが注目されてるってことだな」


受付でトロバから貰ったチケットを差し出し、美術館の中へと入っていく2人。
出入り口に立っていた係員に、“トロバは来ているか”と聞いてみれば、“残念ながら”と首を横に振られてしまった。
一言挨拶を交わしておきたかったが、居ないのであれば仕方がない。
後で感想のメールでも送ってやろうかと2人で決め、写真展ブースへと足を進めた。

写真展ブースには数え切れないほど多くの写真が飾られている。
全てポケモンが被写体であるその写真たちは、タイプ別に並んでいた。
写真に写っていた全てのポケモンたちが生き生きとしており、トロバの愛情と情熱が伝わってくる様である。
そんな写真たちを眺めるサトシとセレナの表情は、まるで子供の頃の様に輝いていた。


「どの写真も凄いわね…」
「ああ、流石トロバだな」
「ピカピ!ピカッチュ!」
「ん?」


ピカチュウに耳を軽く引っ張られるサトシ。
“あれを見て!”と指をさし、ピカチュウがアピールする方へと視線を向ければ、そこには額縁に入った一枚の写真が展示されていた。
タイトルは“黄色い休日”。
ピカチュウが写った写真である。


「見てみろよセレナ!ピカチュウの写真だぜ!」
「あっ、ホントだ。可愛いわねぇ」


その写真は、3匹のピカチュウが草原でお互いをくすぐり合っている、なんとも愛らしいものだった。
ピカチュウ好きにはたまらない一枚だろう。
数ある写真たちの中でも、この写真は1番大きく拡大されて展示されている。
恐らくこの展示会での目玉なのだろう。
“サトシも一緒に”と誘ってくれたトロバの意図は、この写真を彼に見せたかったからなのかもしれない。
どうやらそんなトロバの計らいは功を奏したようで、サトシはその写真を愛しげに見つめている。
その瞳がやけに優しくて、セレナは小さな嫉妬を覚えてしまう。


ピカチュウのこと、好き?」
「もちろん!けど、やっぱり1番可愛いのは俺のピカチュウだよ。なー?ピカチュウ
「ピッカァ!」


肩に乗っていたピカチュウを抱き上げ、頬をスリスリと擦り寄せるサトシ。
そんな主人の愛情表現に、ピカチュウも満更ではない様子。
四六時中一緒にいるこの2人は、時々喧嘩もするが、いつも心が繋がっている“パートナー”とも言える関係だ。
そんな2人の関係に、セレナは嫉妬と憧れを抱いていた。
ピカチュウが羨ましい。
けれど、彼の隣にいるピカチュウが疎ましいと思ったことは一度も無かった。
セレナは、ピカチュウを信頼し、可愛がっているサトシが好きなのだ。
サトシにとって、かけがえの無い存在であるピカチュウは、セレナにとっても大事な存在である。
小さな嫉妬は抱くものの、すぐに“サトシらしい”と微笑んでしまうのだ。


「親バカね」
「セレナのことも好きだぜ?」
「えっ」


突然降下されたサトシの爆弾に、セレナは戸惑う。
今そんな話してたっけ?
ピカチュウを抱きながら微笑みかけてくるサトシを見つめ、目線を反らせなくなってしまった。
落ち着いていたはずの心臓が、再びうるさく鼓動する。


「わ、私も…す、
「なぁアレってサトシじゃね?ポケモンマスターの…」
「ホントだ!ていうか、隣にいるのって、カロスクイーンのセレナじゃない?」
「なんであの2人が一緒に?」
「もしかして付き合ってるとか!?」
「まさかー」


“好きだよ”
そう返事をしようとしたセレナだが、周りの観覧客のひそひそ声が耳に入り、言葉を詰まらせてしまう。
カロスでは2人とも有名人であるため、人が集まる場所へ出かければやはり目立ってしまう。
今回もまた、2人に気付いた観覧客が、チラチラと視線を向けてきていた。


「……そろそろ出た方がいいな」
「そうね。行きましょ」


あまり目立っては、展示会の方にも迷惑をかけてしまう。
せっかく誘ってくれたトロバにも申し訳がないし、2人は騒ぎになる前に美術館をあとにした。

 

 

***

 


その後のことは、いたって普通のデートであった。
レストランで食事をとり、街を散策しながらウィンドーショッピング。
たまにベンチで座りながら世間話をして、通りかかるポケモンたちを眺めては“可愛いね”と笑い合う。
そんな他愛ない1日だが、セレナにとっては宝石のように輝きを放っており、心から幸せだと思える空間であった。
しばらく座っていたベンチから立ちあがり、再び街を歩き回る2人だが、通りかかったプリズムタワーの前で、一軒の屋台を発見した。
鯛焼きの屋台である。
このカロスでは珍しい鯛焼きに興味を示したセレナは、サトシの上着の裾を引っ張り“食べてみたい”とせがんだのだ。
“いらっしゃい”と声をかけてくる屋台のオヤジに会釈し、お品書きへと視線を向ける。


「うーん、迷うなぁ」


真剣な顔でどの味にしよか悩んでいるセレナ。
あまり種類豊富とはいえないラインナップだが、初めて鯛焼きを食べるセレナにはどれも魅力的に見えるらしい。


「どれとどれで悩んでるんだ?」
「餡子とクリーム。どっちも美味しそうだけど2つも食べるのは太っちゃうし……」


カロスクイーンとして人気を博しているセレナは、美容に関して全くと言っていいほど妥協がない。
スタイルを維持するために、極力甘いものを控えているのだ。
そんな彼女にとって、スイーツに分類される鯛焼きを2つも注文することは自殺行為。
かと言ってどちらかを切り捨てることは出来ない。
悩むセレナを横目に、サトシは財布から小銭を取り出し、屋台のオヤジに渡す。


「クリームと餡子、1つずつお願いします」
「はいよー!」
「え、サトシ?」
「俺が餡子食べるから、半分ずつ分けようぜ」


そう言って微笑むサトシは、いつも以上にカッコ良く見えた。
そんな優しさの使い方、どこで学んできたのだろう。
そんなことをされたら、ますます好きになってしまう。
きゅうっと締め付けられる胸を押さえながら、セレナは小さく頷いた。

オヤジから渡された鯛焼きは、焼きたてであるため持っているだけで暖かい。
鯛焼きを受け取り、2人はプリズムタワー近くの橋へと向かった。
細い水路にかけられたその橋は、煉瓦造りの小洒落たものである。
その橋に寄りかかり、下の水路を眺めながら鯛焼きにかぶりつく。
焼きたての鯛焼きは、冷えた体をじんわりと温めてくれた。


「ん!美味しい!」
「だろ?餡子食べるか?」
「食べる!クリームもあげるね」


初めて食べる鯛焼きは甘くて夢中になる。
サトシの手から差し出された餡子入り鯛焼きに小さく噛み付くと、こし餡の濃厚な甘さが口内に広がって行く。
こちらも美味しい。
お返しにサトシへとクリーム入り鯛焼きを差し出せば、彼もまた大きな口でガブリと噛み付いた。
随分大きな一口に苦笑いをこぼすセレナだったが、“食べすぎだ”と抗議するようなことはしなかった。


「んー!クリームも美味い!」
「ピカピ、ピカピカチュ」
「へ?」


あまりに大口でかぶりついたせいか、サトシの口元に黄色いカスタードクリームが付着している。
それを指摘したのは、橋の手摺の上に座り、餡子入り鯛焼きの尻尾を食べていたピカチュウだった。
ものを食べるたび、子供のように口元に何かを付けてしまうサトシは相変わらずそそっかしい。
クリームをつけたままキョトンとしているサトシに微笑むと、セレナはそのクリームを指で拭ってやる。
そしてそのクリームがついた指を、そのまま自分の指で舐め取ってしまったのだ。


「甘いね」


微笑みを向けてくるセレナは、憎らしいほど魅力的である。
そんな彼女の姿に頬が赤く染まる感覚を覚えながら、サトシは逃げるように視線を外し、ため息をついた。


「流石カロスクイーン。人を魅了するプロだよな、いろんな意味で」
「え?どういうこと?」
「セレナさ、さっきみたいなこと、まさかシトロンとかにもやったりしてないよな?」


彼が感じたことを何となく理解して、セレナは笑みをこぼす。
謂れのない嫉妬は非常に可愛らしくて、サトシが急に幼く見えてしまう。
ここで“やったことがある”と嘘をつけば、彼はどんな反応を見せるだろう?
少しだけ意地悪をしてみたくなったセレナだが、今回はやめておいた。
意外にもサトシは嫉妬深い。
小さな意地悪は、大きな意地悪になって自分の身に帰ってくる可能性があるのだ。
だからこそ、言葉を選んで真実を伝える。


「好きな人にしかしないよ」
「へー。セレナって好きな人いたんだなぁー。へー。誰だ誰だ?俺の知ってる人かー?」
「もう!からかわないでよー!」


相手が誰なのかなんて、よく知っているくせに、わざと知らないふりをするサトシ。
そんな彼に、セレナは突っかかる。
口調こそは怒った風だが、その表情は柔らかいものだった。


「ピーカ!」


そんなセレナを、手摺の上で餡子入り鯛焼きを食べていたピカチュウはツンツンと指でつつく。
ふと彼に視線を向けてみれば、ピカチュウは先ほどのサトシのように、赤いほっぺに餡子をつけていた。
“取って!取って!”とアピールするピカチュウに思わず笑ってしまうセレナ。
彼女は先ほどサトシにしたように、ピカチュウの餡子付きの頬をぬぐい、その指を舐めとった。
嬉しそうに笑うピカチュウとは裏腹に、そんなやりとりを見ていたサトシはご立腹気味である。


「あー!セレナ!好きな人にしかしないって言ってただろ!?」
ピカチュウはセーフでしょ!?」
「アウトだよ!」


くだらない口論を始めるサトシとセレナ。
そんな彼らを、ピカチュウは指をさしながら爆笑している。
セレナにとってはピカチュウにするくらい別にいいではないかと思ってしまう事案だが、どうやらサトシにとっては非常に重要なことらしい。
ムッとした不満顔でセレナを見つめていたかと思えば、何かを思いついたらしく、すぐに不敵な笑みへと表情を変えた。
そんなサトシを見て、セレナは嫌な予感を覚えてしまう。


「ふーん。セレナ、そんなこと言うならこっちにも考えがあるぞ?」
「か、考え?」
「行くぞピカチュウ!くすぐる攻撃だ!」
「ピカピッカ!」
「え、ちょ、待っ!ひゃあぁっ!! やめ…っ!」


悪戯な笑みを浮かべながら、サトシはセレナの両脇腹あたりに手を突っ込み、盛大にくすぐり始めた。
正面から攻め立てるサトシに対し、ピカチュウも手摺に寄りかかったセレナの肩に飛び乗ってその首筋を尻尾でくすぐり始める。
まさに“黄色い休日”。
2人の猛攻にセレナは縮こまり、涙目で悶えている。
そんな彼女の反応は、サトシの加虐心を掻き立てた。


「ホラホラ言ってみろー?セレナは誰が好きなんだ?」
「ひぅっ!さ、サトシぃ!サトシが好きですゥ!ふあぁっ……!」
「よし合格」


半ば悲鳴のようにあげられたセレナの本心に、サトシとピカチュウはようやく手を止める。
満足そうに笑うサトシは意地が悪い。
息を整えながら睨んでみるが、効果はいまひとつのようだった。


「もう…」


こちらの気持ちなんて、言葉にしなくても分かるはず。
ほんの数ヶ月前は、サトシとこうして同じ町に住むことはおろか、好きだと言い合う関係になるなんて全く想像していなかった。
今、目の前で笑っているサトシを見ていると、まるで自分が夢の中にいるかのような感覚に陥る。
ずっと前から好きだった彼。
そして、きっとこれからも、セレナはサトシに恋をする。


「俺さ、よく考えたら、ミアレ美術館って初めて行ったんだよな」
「実は私も」


ピカチュウの頭を撫で、セレナから下の水路へと視線を逸らし、サトシは言う。
世界的にも有名であるミアレ美術館だったが、10年前にカロスを旅していた時も、大人になってからも足を運んだことが無かった2人。
初めて足を踏み入れたミアレ美術館は、想像以上に素敵な場所で、セレナは気に入っていた。
きっとそれはサトシも同じなのだろう。
なにせ、帰り際にわざわざ美術館の無料パンフレットを持ち帰ったほどなのだから。


「この街は広すぎて、知らない場所も沢山あるわね」
「だな。知っていくたびに、きっと思い出も増える」
「うん」


セレナよりも頭一つ分背が高いサトシ。
2人が並ぶと、セレナの頭の横にちょうどサトシの肩が来る。
寄りかかるの最適だった。
コロンと自分の肩に寄りかかってきたセレナの方を見やれば、彼女の髪からシャンプーの香りが漂って来る。
そんな香りに胸を高鳴らせる暇もなく、彼女は小さな声でサトシにとどめを刺した。


「サトシ一緒なら、何処にいても最高の思い出になるよ」


そう言ったきり、サトシからの返答が無い。
聞こえなかっただろうかと顔を上げ、サトシを見上げれば、先ほどとは打って変わって真剣な表情をこちらに向けていた。
熱を孕んだその視線に射抜かれ、セレナは動けなくなってしまう。
そして悟る。
あぁ、自分は今、サトシのスイッチを入れてしまったのだな、と。


「セレナ…」


案の定サトシは、僅かに赤く染まったセレナの頬に指を這わせてきた。
触れる指は冷え切っているため冷たい。
けれど、サトシから注がれる熱視線と、自然と熱くなっていく顔のおかげで寒さは感じない。
この空気、雰囲気、彼が何をしようとしているのか、すぐに察してしまう。
ゆっくりと近づいて来るサトシの顔に覚悟を決め、セレナは瞼を閉じた。
30センチ、15センチ、5センチ。
唇同士が触れようとするその時だった。
サトシの胸ポケットに入っていた端末が、阻むように爆音で着信を知らせてきた。
ビクリと体を震わせるサトシとセレナ。
閉じていた瞼は着信音のおかげで開かれ、顔が近付いたまま見つめ合う。
固まる2人。
呆れたようにため息をつくピカチュウ
嫌な沈黙を、サトシの着信音だけが防いでいた。


「………悪い」
「い、いいのよ!出て」
「お、おう」


チャンスを逃したサトシは、不満そうに上着の内ポケットを弄り、端末を取り出す。
あまりの恥ずかしさに、セレナは視線を外し、赤い顔を隠すように口元を押さえている。
着信が鳴り続ける端末に表示された名前を見て、サトシは表情を曇らせた。
小さくため息をついて“通話”ボタンを押す。


「はい。サトシです。……はい。……はい。あぁ、今ですか?すいません今はちょっと……。え?……はい、はい。……そうですか、わかりました」


通話相手の声は全く聞こえてこないが、どんな内容を話しているのかは、セレナにも容易に想像できた。
そして、サトシがこの後どんな行動をとるのかさえも…。
大人になれば、嫌でも断れない用事というものが必ず生まれて来る。
サトシと同じように大人になっていったセレナにも、その仕方がない事情はよく知っていた。
だからこそ、我儘は言いたく無かった。
サトシの重荷になりたくない。
本心を隠して、いつも笑顔で送り出す“聞き分けのいい彼女”でいたかった。
その方が賢いということも分かっている。
けれど、それでも、心は嘘をつけない。


「はい、それじゃあ今すぐそちらに向かい……」


そこまで言って、サトシは言葉を失う。
通話中のサトシの背中から、セレナが腕を回して抱きついてきたのだ。
何も言わずに、彼の背に顔を押し付けるセレナ。
そんな彼女の言いたいことは、強く締められている腕からよく伝わって来る。
けれど、簡単に彼女の願いを叶えてやれるほど、サトシの責任というものは軽くないのだ。


「あ、いえ、すいません。何でもないんです。すぐ、行きますから……」


サトシの言葉は、セレナの胸にナイフのように突き刺さる。
止めることなど出来ない。
それはセレナ自身よく分かっていた。
しかし、心には決して抗えない。
通話終了ボタンを押し、端末をポケットに押し込んだサトシは、自分の腹に回ったセレナの手に触れる。
何も言わないセレナに、様子を見ていたピカチュウは心配そうに“ピーカ…”と呟いた。


「ごめん、セレナ」
「………」
「すぐに戻って来る」
「………」


何してるのよ私。
早く離しなよ。
そんな駄々こねたって、仕方がないことなのは分かってるでしょ?
ほら、サトシが困ってるじゃない。
わがまま言っちゃダメ。
サトシはポケモンマスターなのよ?
彼を必要としてるのは私だけじゃない。
わかってる。
わかってるのに………。


「私を置いていくのなら、1つ我儘を聞いて」
「ん?」
「………」
「セレナ?」
「……キス、して」
「え?」
「キス!」


振り返った先にいたセレナは、恥じるように真っ赤な顔で、なおかつ怒ったように睨みながら、そして悲しげに涙を浮かべた瞳で言ってきた。
その我儘とやらを絞り出すために、きっと様々な葛藤があったのだろう。
普段はそんな事をねだりはしないセレナ。
そんな彼女がどれほどの勇気を持ってその言葉を吐き出したのだろう。
そう考えると、たまらなく愛しくなる。

行きたくねーなぁ。

言葉に出してしまったら、きっと本当に行かなくなってしまう。
だからこそ、心でそれを呟くのだ。
サトシは大人になった。
責任がある。
投げ出すことは出来ない。

愛しげに目を細め、微笑むサトシ。
自分が被っていた赤い帽子を取り、こちらを見つめていたピカチュウに無理矢理かぶせる。
帽子によって視界が遮られ、驚いたピカチュウは“ピカピ!?”と戸惑いの声をあげた。
しかし、そんな相棒に構うことなく、サトシはセレナの顎を掴んで軽く持ち上げると、その柔らかな唇に自分のものを押し付けた。


「んっ……ぅ、ん」


突然口内に入り込んできたサトシの舌に、セレナは戸惑う。
舌を入れるなんて聞いてない!
逃げ惑うセレナの舌を逃すまいと、サトシは自分の舌を激しく絡ませる。
おかげで息ができない。
サトシの舌が自分の舌に絡むたび、セレナはビクリと体を震わせた。
後ろに下がって逃げようとすれば、サトシに腰を支えられて逃げることが出来ない。
キスして欲しいと頼んできたのはそっちだ。
覚悟は出来てるんだろう?
そんな意地の悪いサトシ感情が、舌を伝って感じられる。


「んあっ……はぁ、はぁ…」


唇が離れてようやく解放され、セレナ急いで空気を吸い込む。
息を切らしている自分に対し、全く息が切れていないサトシを恨めしく思ってしまったことは内緒にしておこう。


「おかわりいるか?」
「いっ!いいです!」
「遠慮すんなよ」
「もう!早く行って!」


真っ赤な顔をしながらサトシの背を押すセレナ。
恥ずかしさが極限にまで達し、もうサトシを直視できそうにない。
そんなセレナに、サトシはまたいつもの調子で“つれないなぁ”と呟く。
無理矢理帽子を被らされ、視界を奪われていたピカチュウが彼の肩に飛び乗り、帽子を乱暴にその頭に被せた。
さて、そろそろ行かなくては。
帽子を被り直すと、背中をグイグイ押してくるセレナに振り返り、サトシは口を開く。


「じゃあ、行ってくるな」
「……うん」
「帰ったらご馳走よろしくな」


手を振りながら歩き出すサトシ。
ピカチュウを肩に乗せ、空港に向かって歩き出すサトシの背はどんどん小さくなっていく。
もう少し、もう少しだけ彼のそばにいたくて、けれど引き止められなくて、セレナはどうしようもなく彼の名前を叫んだ。


「サトシ!」


振り返るサトシ。
そこには、赤い顔をしたセレナが立っている。


「おかわりは、帰ってからお願いします……!」


その言葉を聞きながら、少し離れたセレナの顔を真顔でじっと見つめるサトシ。
真顔すぎて、彼が何を考えているのか分からないピカチュウは首をかしげた。
するとサトシは、ピカチュウの予想をはるかに超える言葉を小さく呟くのだった。


「なぁピカチュウ。今日は行かなくていいかな」
「ピ!?」


いいわけないだろう!という気持ちを込めて、ピカチュウはサトシの頭を尻尾でパシンと叩く。
プリズムタワーをバックにこちらへと手を振ってくるセレナは可憐で、可愛くて、愛しくて。
もう仕事なんて投げ出してやりたいくらいだ。
しかし、世間はそれを許してはくれない。
まったくあんな事を言って……。
本当に帰ったら覚悟しとけよ?
そんな事を思いながら、サトシは背中を丸めてトボトボと空港に向かうのだった。

 

 

act.4「寝台事変」

 


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act.5「寄り添う影のように」

 


それほど高くないヒールでも、閑静な住宅街では歩くたびコツコツと音が鳴る。
昼間でも人通りが少ないこの路地は、夜である今の時間帯になると殆ど誰も通らなくなる。
等間隔に置かれた街灯だけが辺りを照らしているが、それほど治安に貢献しているとは思えない。
現に今も、セレナの背後からは不気味な足音が聞こえている。
セレナのヒールの音に紛れて、革靴のような足音が追ってきていた。
こちらが足を止めれば背後の足音も止まり、小走りになれば向こうも走る。
こんなやり取りが毎晩続けば、どんなに鈍感な女性でも気付くだろう。

自分はストーカーされているのだと。

早歩きで住宅街の中を進み、目的地である自宅のマンションへと入る。
オートロック式のマンションであるため、ここの住人以外は入れないはず。
しかし、エントランスの扉をくぐってからも、安心は出来なかった。
自分の部屋にたどり着き、震える手でバッグから鍵を取り出し慌てて鍵穴に差し込む。
暗い部屋の中に入って扉を閉めれば、一気に安心して力が抜けた。
扉に背を預け、ヘナヘナとその場に座り込むセレナ。
と同時に、涙が溢れてきた。

どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのかと。
外に出れば後をつけられ、部屋にいても誰かから見られているような気がする。
見知らぬ誰かからの視線はストレスになり、セレナの体に負担をかける。
最近はパフォーマンスのレッスン中に、疲れてへたり込んでしまう事が多くなった。
それもきっとストレスのせいだろう。
セレナの体力とメンタルはもう限界だった。

ー ガチャッ

玄関先で座り込んでいたセレナの背後から、物音がした。
体をビクつくかせて振り向けば、ドアノブがゆっくりと動いていた。
そういえば、まだ鍵をかけていなかった。
頭が真っ白になるセレナ。
恐怖で体が動かない。
冷や汗がセレナの首筋を伝う。
ドアノブがゆっくりと回りきり、扉が開いた。


「ただいまー。あれ?セレナ、何やってんだ?」
「さ、サトシ…」


真っ暗な部屋で、しかも玄関でへたり込んでいるセレナの様子を見て、肩に乗るピカチュウと共に不思議そうな顔をしている。
この部屋のもう1人の主人であり、そして自分の恋人の帰還に、セレナの瞳に安堵の涙が浮かんだ。


「セレナ?」
「ご、ごめん!なんでもないの!お帰りなさいサトシ」
「あぁ…」


突然彼女の瞳が潤い、驚くサトシだったが、セレナは彼に心配させまいとすぐに目元を拭う。
へたり込んでいた足に無理やり力を込めて立ち上がると、部屋の電気をつける。


「私も今帰って来たところだから、すぐご飯の支度するね!お風呂の準備は出来てると思うから、先に入っちゃってね」


サトシの肩から飛び降りたピカチュウは、そそくさとリビングの方へと走っていく。
しかしサトシの方はというと、クローゼットの前でコートを脱いでいるセレナから全く離れようとしない。
それどころか、部屋着に着替えようとトップスのポタンに手をかけたセレナの腕を掴んでしまう。
驚いたセレナは手を止め、自分より背が高いサトシを見上げる。


「なにがあった?」
「え?」
「とぼけるなよ。昔じゃあるまいし、俺はそんなに鈍感じゃないんだぜ? セレナのことくらい、目を見ればわかる」
「……」


2人がカロスを旅していたあの頃から10年。
大人になったサトシからは鈍さが消え、セレナのちょっとした変化にもきちんと気が付くようになっていた。
それはセレナにとって非常に喜ばしいことだが、今回のことについては厄介な性質でもあった。
これは自分1人の問題。
サトシに心配はかけたくない。
こんなことで精神的に参ってしまうような、そんな弱い女だとは思われたくなかった。


「言いたくないなら、無理にとは言わない。けど、打ち明けることで楽になることもあるだろ? 少しでもセレナの力になりたいんだ」


黙ったまま俯くセレナ。
そんな彼女の頬に触れながら、サトシは言った。
温かい手が触れ、その温もりに心が抱かれているような気分になる。
そういえば昔、こんな事があった。
サトシがエイセツジムで敗れたとき、雪の中サトシを追って、心を打ち明けてほしいと言った事が。
あの時のセレナは、何も話してくれないサトシに大きなもどかしさを感じていた。
あの時の感覚を、今のサトシも抱いているのだろうか。
“サトシに何がわかるのよ!?私の問題なの!放っといてよ!”
そう拒絶するのは簡単だ。
しかしそれは、セレナだけでなくサトシにとっても良いことだとは言えない。
真実を話すことで深まる絆があるのなら、遠慮など忘れて曝け出すべきなのかもしれない。

優しくも力強いサトシの目に見つめられ、セレナは、小さく頷いた。
自分の頬に触れているサトシの手に、自分の手を重ねると、か細い声で口を開く。


「私……私、ストーカーされてるみたいなの」
「ストーカー⁉︎」


優しかったサトシの目は一瞬にして怒りに変わる。
あまりに大声を出されたもので驚いたセレナだったが、自分よりもサトシの驚きの方が大きかったことだろう。
“どういうことだ?”と聞いてくるサトシに、セレナは話を続ける。


「レッスンの帰りに誰かに後をつけられたり、端末に無言電話が何回もかかってきたり、最近では、こんなものも……」


クローゼットのすぐ横、小物タンスの引き出しを開けるセレナ。
その奥の奥に隠すように仕舞われた封筒の束をサトシに渡す。
差出人の名前はなく、切手も貼られていないことから、マンションの郵便受けに直接投函された事が分かる。
中身を取り出してみれば、それは恐ろしい執念の塊だった。

どこで撮られたのかも分からない大量のセレナの隠し撮り写真、そして添えられた紙には“いつも君を見てるよ”の文字が。
この封筒を初めて手に取り、中身を見たときのセレナはどんな気持ちだったのだろう。
きっと恐怖に言葉を失っていたに違いない。
その時のセレナの感情を想像してみれば、サトシの頭に怒りで血が上っていく。
写真をくしゃくしゃに握りつぶすと、ゴミ箱へと叩きつけるように捨てる。


「相手に心当たりは?」
「わからないの。後をつけられてる時も、怖くて振り返れなかったし…」
「いつからやられてたんだ?」
「1ヶ月くらい前から…」


明らかに怒っているようなサトシの様子に、セレナは少しだけ肩をすぼませ、視線を逸らしながら話す。
そんなセレナの返答に、サトシは大きくため息をこぼす。


「なんで言ってくれなかったんだ」
「ごめんなさい…。サトシには迷惑かけたくなくて。なんとか自分の力で解決しようと思ってたんだけど……」


数年前にポケモン協会から正式にポケモンマスターの称号を与えられたサトシは、様々な式典やバトルに参加していた為、多忙な日々を送っていた。
サトシは優しい。
交際相手であるセレナがストーカーに遭っていると聞けば、確実に心配してくれるだろう。
けれど、忙しいサトシの心配事を増やす事だけは嫌だった。
自分の心配事は自分でなんとかしなければと気負うセレナだったが、サトシはそれを許してはくれないようである。


「セレナが強いのは知ってる。けど、1人じゃどうにもならない時だってあるだろ?」
「うん…」
「もっと俺を頼れよ。セレナは俺の彼女なんだからさ」
「サトシ……」


自分の両肩を掴み、諭すように話すサトシに、セレナは目を潤ませる。
子供の頃からサトシは、セレナにとって王子様のような存在だった。
ピンチの時には必ず駆けつけてくれて、辛い時にはそっと背中を支えてくれる。
昔以上に頼もしい背中になったサトシは、あの時と変わらずセレナに手を差し伸べてくれている。
その手を取れば、温かいぬくもりがセレナを包んでくれるのだ。


「ごめんな、気付いてやれなくて。怖かっただろ?」


低い声で囁くサトシの顔を見ていると、自然とセレナの瞳から涙が溢れてくる。
ああ、もう耐えられそうにない。
小さく頷くと、セレナはサトシの胸へと飛び込んだ。
そんなセレナの背中に腕を回し、頭をポンポンと撫でてやれば、腕の中でセレナが泣き出してしまった。


「俺がなんとかしてやるから。な?」


肩を震わせてすすり泣くセレナをなだめると、彼女は何度もコクコクと頷いた。
セレナの金色の髪に指を絡ませると、薔薇のようなシャンプーの香りがする。
その匂いを抱きながら、サトシは胸にふつふつと湧き上がる怒りをまだ見ぬストーカー相手に向けていた。

 


***

 


翌日。
セレナはいつも通りパフォーマーレッスンへと向かった。
数年前にカロスクイーンの座に輝いたセレナだったが、そのパフォーマンス技術は努力を重ねる事で維持されている。
こうして日々レッスンへと赴き、己を鍛えているのだ。
いつもは楽しいレッスンだが、帰り道にいつも何者かにつけられるため、最近では憂鬱になってしまっていた。

ポケモンマスターとしの仕事へ向かうサトシを見送り、1時間後にセレナも自宅を後にした。
スタジオで半日レッスンをこなすが、終了時刻の夕方にはもうヘトヘトになっている。
肉体的に疲れているのではない。
精神的に疲れているのだ。

昨晩サトシに心のつっかえを打ち明けたため、肩に乗った重荷を下ろせたのは確かだが、それでも問題が解決したわけではない。
これから自宅に向かうまでの道のりで、きっとまた誰かも分からない人間に後をつけられる。
そんな事実に頭を抱えながら、セレナはスタジオから外へ出た。
すると、スタジオの外の柱に寄りかかるようにして立っている人影が目に入る。
まさかと肝を冷やしたが、よく見るとその人影は、セレナにとって最も近しく、さらに最も頼れる彼のものだった。


「よおセレナ。お疲れ様」
「サトシ? どうしてここに?」
「無理言って早めに帰らせてもらったんだよ。一緒に帰ろうぜ」


屈託無く笑うサトシの姿に、セレナの疲れは一気に飛んで行く。
今日、サトシは本来仕事で夜まで帰ってこないはずだった。
しかし、昨日のセレナの告白を聞き、気を利かせてくれたらしい。
サトシの肩に乗っていたピカチュウはピョンと軽快にセレナの肩に飛び乗り、その頬をすり寄せてくる。
そんな彼らに“ありがとう”と礼を言うと、セレナはサトシと肩を並べ、自宅へと歩き出した。


「ねぇサトシ、手繋いでいい?」
「ん?けど、いいのか?」
「いいの。こういう時くらい、恋人らしくいたいじゃない?」


サトシはともかく、カロスクイーンというアイドル的立ち位置にいるセレナにとって、恋人がいることは仕事の都合上良いコトとは言えない。
サトシもそのことを理解し、なるべく外では恋人らしい振る舞いをしないよう心がけている。
しかし、どうやら今日のセレナはそんな都合さえも放り出してしまうほどに、サトシを必要としているらしい。
そんなセレナの姿に微笑み、サトシは無言で左手を差し出した。
大きな彼の左手に、セレナは自らの右手を重ねる。
ぬくもりは伝わってくるが、どうも物足りない。
一度繋がれた手を離し、セレナはサトシの左腕に両腕を絡ませた。


「やっぱりこっちの方がいい」


腕を組み、頬をわずかに染めながら見上げてくるセレナは、非常に愛らしい。
確かに腕を組む方が互いの体を密着させることが出来るが、彼女は気付いているのだろうか?
その柔らかな胸が、サトシの腕に当たっていることに。
頼むからこんなことは自分以外の男にしないでくれよと心から願いながら、サトシは口を開く。


「なんだよセレナ。そんなに甘えるなんて珍しいな」
「だめ?」
「いや。なんか買って欲しいのか?」
「もう!なによそれ」
「冗談だよ」


元々セレナは恥ずかしがり屋で、サトシも過度な接触をするようなタイプではない。
そのため、2人はあまり頻繁に甘い空気を漂わせるようなことはしなかった。
セレナが自らサトシに甘えてくることは、かなりレアケースとも言えるのだ。
からかってみれば、彼女は頬を膨らませて怒るような表情を見せてくるが、全く怖くない上にむしろ可愛らしい。


「ねぇサトシ。帰る前にスーパー寄ってもいい? 夕飯の食材買わなくちゃ」
「おっ。じゃあ夕飯はコロッケがいいな」
「はいはい。じゃあジャガイモ買わなくちゃね」


途中、スーパーメガやすを見かけたセレナは、自宅の冷蔵庫に食材がほとんど無いことを思い出す。
せっかくサトシが自分のために迎えに来てくれたことだし、お礼の意味を込めてご馳走を作ってあげよう。
そんなことを考え、セレナはサトシの腕を引いて店内へと入っていく。

店員たちによる売り込みの声が響く中、夕方の店内は買い物客であふれていた。
その中をカゴを片手に2人は歩く。
やがて野菜コーナーのじゃがいも売り場にたどり着くと、山盛りに積まれたじゃがいもたちを両手に取り、セレナは品定めを始めた。


「どっちでもいいんじゃないか?」
「だめよ。せっかく作るんだから、少しでもいい食材で美味しく作りたいでしょ?」


サトシにとっては、どのジャガイモも全て同じに見えるが、食材を見慣れたセレナにしてみれば、少々の違いがきちんと判別できるらしい。
“うーん”と唸りながらジャガイモを見比べるセレナの姿は、まさに主婦そのもの。
きっと彼女はいい奥さんになるだろう。
その時、自分は彼女の隣に立っていられるのだろうか。
そんなことを考えていると、肩に乗っていたピカチュウが不意に耳をぱたつかせ、勢いよく背後を振り返る。
何か後ろにいるのだろうかと振り返ってみるが、そこには何もいない。


「どうしたんだ?ピカチュウ
「ピカピ、ピカピカッチュウ」


サトシには、長い間相棒として一緒に過ごして来たピカチュウの言葉がなんとなくわかる。
彼曰く、背後からこちらをじっと見つめてくる男がいたらしい。
セレナはジャガイモの選別に夢中で気付いていないようだが、どうやらその男こそが、セレナのストーカーであるようだ。
自分といる時でさえも後をつけてくるだなんて…。
サトシは密かに握った拳に力を入れる。


ピカチュウ、ちょっと協力してくれるか?」


セレナに気づかれないよう、そっと耳打ちする。
コソコソ話してきた内容に、ピカチュウは一瞬だけ驚きの表情を見せるが、すぐに頷いて承諾してくれた。
この作戦が上手くいくかどうかはわからない。
しかし、ストーカーなどという常軌を逸した輩を成敗するには、大胆な行動に出るしかないのだ。
きっとセレナは反対するだろうが、仕方がない。
ようやく数個のジャガイモをカゴに入れたセレナの手を引き、サトシは歩き出した。


**********


食材がたっぷり詰まった袋を手にぶら下げ、2人は店を出る。
重い方の袋をサトシが、軽い方の袋をセレナが1つずつ持っているため、手を繋いだり腕を組んだりはしていない。
少々寂しい気がするセレナだったが、こうして買い物袋を手に2人並んで様はまるで夫婦のようで、自然と口元が緩んでしまう。

一方のサトシは、先程から楽しそうに世間話を振ってくるセレナに安堵していた。
どうやら自分と一緒にいることで、夜道を歩くことへの恐怖感は忘れてしまっているようだ。
ストーカーがセレナに危害を加えるかもしれないことも心配だったが、サトシにとっては、今回のことでセレナが精神的に参ってしまうことも心配だった。
セレナは強い。
けれど、見ず知らずの人間にずっと付きまとわれて平気でいられるほど鈍くはない。
なんとかセレナの心を溶かしてやろうと、サトシになりに気を遣ったつもりだったのだ。


「でね、ユリーカったらさ…」
「あいつらしいな」


談笑をしていくうちに、2人は大通りから住宅街へと入っていく。
いつもはここでストーカーから後をつけられるのだという。
どうやらそれは今夜も例外ではないらしい。
背後からコツコツと革靴の音が聞こえる。
セレナは気付いていないようだが、サトシとピカチュウはその気配にしっかりと勘付いていた。


「ピカピ」
「ああ。頼む」


コクリと頷き、ピカチュウはセレナにも気付かれぬようサトシの肩から飛び降りると、垣根を伝って来た方向を引き返していく。
それをそっと見届け、サトシはセレナへと視線を戻す。


「それでね……って、ちょっとサトシ聞いてる?」
「……悪いセレナ。ちょっと大人しくしててくれ」
「え?きゃっ…!」


角を曲がったところで、サトシはいきなりセレナの肩を掴み、壁へと押し付けた。
いきなりどうしたのかと戸惑い、サトシを見上げてみれば、何故だか彼は不敵な笑みを浮かべている。
その表情がなんだかかっこよく見えて、思わず言葉を失ってしまう。
そんなセレナに追い打ちをかけるように、サトシは自分の唇をセレナのものに重ねる。


「……っ⁉︎」


あまりに突然のことで頭がついていかない。
相手は交際相手のサトシであるとはいえ、ここは屋外。
誰に見られているかもわからないこの状況では、キスも恥じ入ってしまう。
なんとか抵抗しようとサトシの体を押してみるが、男性の、しかもそれなりに体格差のある彼を押しのけるだけの力はセレナにはなかった。


「はっ……ぅんっ」


一瞬だけ唇が離されるうちに息を吸い、抗議の声をあげる暇もなく再び重なり合う。
屋外であるこの状況、そしていつも以上に激しい口付けに、セレナの心臓は高鳴っていく。
明らかに驚いている様子のセレナを安心させるように、サトシは肩を掴んでいた手をセレナの頬に移動させる。
優しいその手つきに、セレナは安心したように肩の力を抜くと、抵抗をやめた。
と、ちょうどその時だった。

背後を歩いていた何者かが、角を曲がって姿を現した。
まさか角を曲がってすぐの場所で、自分がつけていた男女が口付けを交わしているとは思わず、一瞬だけ足を止める。
セレナは目を瞑っていて全く気付いていないが、目を開けていたサトシには、横目でその人物の顔がはっきりと見えている。
サトシと目が合ってしまったその人物は、焦ったように顔を歪ませ、一目散に来た道を走って引き返して行った。
どうやら作戦は成功らしい。
長かった口付けも、サトシが体を離したことでようやく終わりを迎えた。


「ぷはっ……もう、なんなのよサトシ」
「ごめん。急にしたくなってさ」
「もう…」


いきなりのことに頬を膨らませながら抗議するセレナだが、どうやら満更でもないらしい。
その証拠に、頬がほんのり赤く染まっている。
可愛らしいセレナにもう少し触れていたいところだが、まだ作戦の真っ最中だ。
あまり時間がない。


「セレナ、悪いんだけど先に帰っててもらえるか?」
「え?どうして?」
「買い忘れたものがあるんだよ」
「それなら私も一緒に…」
「いや、付き合わせるのもアレだし俺1人で行くよ。家はすぐそこだし、1人で帰れるだろ?」
「う、うん…」


我ながら苦しい言い訳だと内心呆れるが、これ以外にセレナから離れる口実が思いつかなかったのだ。
作戦の内容を知れば、きっとセレナは反対する。
彼女の知らないところで、全てに片を付けたいのだ。
幸い、この場所から自宅までは5分とかからない距離にある。
夜道とはいえ、セレナ1人でも問題ないだろう。
サトシは持っていた買い物袋をセレナに手渡すと、来た道を引き返して行く。
しかし、何かを思い出したかのように足を止めると、笑顔を浮かべながらセレナに振り返った。


「コロッケ、期待してるからな!」


ニカッと歯を見せて笑うサトシ。
去って行く彼は妙に強引で自由すぎるけれど、振り回されれば振り回されるだけ好きになっていく。
こんな感情を抱いてしまうあたり、どうやら自分は相当サトシに入れ込んでしまっているらしい。
何をされてもときめいてしまう自分の単純さに呆れながら、セレナは先ほど受け取った買い物袋に視線を向ける。
その中にはスーパーで必死に選別したジャガイモたちが。


「よしっ。待っててよサトシ!世界一美味しいコロッケ作って唸らせてあげるんだから」


自分が作ったコロッケを口にして感激するサトシを想像し、セレナは気分を高揚させる。
意気揚々と自宅へ向かうセレナの足取りは軽いものだった。

 

 

***

 


「はぁ…っ、はぁ…っ」


夜の住宅街を走る影が1つ。
息を切らして走るその男は、怒りに燃えていた。
なんで…。なんであの娘にあんな奴が…!
脳裏に浮かぶのは、住宅街の角で口付けを交わす男女の姿。
思い起こすだけで憎悪が湯水のように溢れ出てくる。
自分でもどこに向かっているのか分からない足は、走り続けて止まることがない。
しかし、ちょうど角を曲がったところで、男の足はピタリと止まる。
目の前に道を塞ぐ黄色い影があったのだ。


「ピッカァ!」


頬袋からピリピリと小さく放電しているその影は、どうやらピカチュウのようだ。
威嚇してくるその様子にたじろぎ、男は思わず後ずさる。


「な、なんだよお前…そこをどけ!」


怒鳴ってはみたものの、ピカチュウは少しも怯えた様子がなく、むしろ表情を険しくして威嚇を続けている。
目の前で臨戦態勢を取っているこのピカチュウを退かさなければ、先へは進めない。
男は舌打ちをすると、ベルトにつけたボールへと手を伸ばす。
実力行使で突破してやろうと行動を起こしたその時だった。
背後から足音が聞こえる。
人の気配に振り向けば、そこには意外な人物が立っていた。


「お前か。セレナに付きまとってたストーカーは」


そこに立っていたのは紛れもなく、先ほどセレナと口付けを交わしていた男、サトシだった。
意外な人物の登場にたじろぐが、男の表情は見る見るうちに怒りへと変わっていく。


「お、お前…さっきセレナちゃんと…!」
「セレナちゃん?」
「よくも俺のセレナちゃんにあんなことを……!」


拳を握りしめ、怒りに体を震わせている男は、先ほどまで走っていたためか鼻息が荒い。
肥えた体でサトシを睨みつけてくるその姿には、全く迫力がない。
セレナの周りに、こんな友人はいなかったはずだ。
“俺の”発言には怒りを通り越して呆れてくる。


「俺のセレナちゃん、ねぇ……。お前、セレナの何なんだよ?」
「ファンだよ!もう何年も前から応援してたんだ!お前こそセレナちゃんの何なんだ⁉︎」
「答える義理はないな。お前とセレナは赤の他人みたいだし」
「なっ…なんだと⁉︎」


ギリッと歯を食いしばり、悔しさを滲み出す男は、体からとめどなく汗を流している。
サトシはそんな男に全く臆することなく言葉を続ける。


「だいたい、夜道で後をつけたり隠し撮りしたり変な手紙を送りつけるのがファンのすることか?お前がしてることはファンの域を超えてる。ただのストーカーだ」
「違う!!俺はストーカーなんかじゃない!俺はただ、セレナちゃんに少しでも近づきたくて…っ」
「セレナが怖がってるんだ!頼む。もうセレナに近付くのはやめてくれ。この通りだ」


怒りに身を任せるのではなく、あくまで冷静に説得を試みる。
深く頭を下げて頼んでみるが、どうやらそんな余裕あるサトシの態度は男の神経を逆撫でする要因になってしまったようだ。
頭を下げたサトシに、男は“ふざけるな”と怒鳴り声を浴びせる。


「なんでお前にンなこと言われなきゃならねぇんだ!」
「……聞き入れてもらえないか」
「あの娘にいくらかけたと思ってんだ⁉︎ それを…お前なんかに奪われてたまるかよォ!」


まるで悲鳴のように叫び散らしながら、男はベルトにつけた1つのモンスターボールを投げた。
サトシに向かって真っ直ぐ飛んできたボールから、激しい光に包まれクイタランが飛び出してくる。
巨体でサトシの前に立ちはだかるクイタランは、随分高いレベルにまで育て上げられているらしい。
常識はずれなこの男が、これほどハイレベルなポケモンを繰り出すとは思わず、サトシは目を丸くする。


「セレナちゃんは俺のものだ!!俺の……俺だけの……!!」
「さっきから聞いてればセレナちゃんセレナちゃんって……」


錯乱したまま話を聞く様子もない男に、サトシのイライラは高まっていく。
“セレナちゃんは俺のもの”
そんな男の一言が、サトシが必死に抑えていた怒りの導火線に火をつけた。


「気安く呼ぶな!」


ドスの効いた声で怒鳴りあげれば、男はたじろぎ、体をびくつかせる。
正直、手を出すつもりはなかった。
しかし、相手がやる気ならば仕方がない。
サトシはクイタランと男を挟んだ向こう側にいるピカチュウへと指示を飛ばした。


ピカチュウ、《でんこうせっか》!」


凄まじいスピードで走り出したピカチュウは、男のすぐ脇を抜け、一直線にクイタランへと突っ込んだ。
でんこうせっか》をモロに受けたクイタランはよろめき、地面に手をついてしまう。


クイタラン!」
「続いて《アイアンテール》だ!」


隙ができたクイタランに、上空から《アイアンテール》を打ち込もうとするピカチュウ
光を帯びたギザギザの尻尾は、クイタランへと真っ直ぐ落下していく。


「させるかよ!《ほのおのパンチ》!」


男の指示は予想以上に早かった。
アイアンテール》が決まる前に、クイタランピカチュウへと《ほのおのパンチ》を打ち込む。
どうやらこのクイタラン、相当鍛えられているらしい。
ピカチュウに引けを取らないほどに素早い動きを見せている。


「大丈夫かピカチュウ!」


相手の技を受けたピカチュウは後方へと吹き飛ばされるが、なんとか空中で体勢を立て直し、コンクリートの道路へと着地する。
ポケモンマスターとしてトレーナー界に君臨するサトシのピカチュウは、そう簡単には倒せない。


「とどめだ!《かえんほうしゃ》!」
「《エレキボール》‼︎」


かえんほうしゃ》と《エレキボール》がぶつかり合い、激しい噴煙が沸き起こる。
砂埃で前が見えない中、男とクイタランは怯んでしまう。
その一瞬の隙を、サトシは見逃しはしなかった。


「《10万ボルト》‼︎」


サトシの指示とともに、全身に力を込めて放電するピカチュウ
黄色い稲妻はクイタランに直撃し、その巨体を痺れさせる。
音を立てて倒れ込んだクイタランの身を案じ、男は急いで駆け寄るが、彼はもう目を回してしまっていた。


「く、クイタラン…」


もう後がない。
男の顔が絶望へと染まっていく。
バトルが終わり、こちらへ近づいてくるサトシの足音に、男はビクついていた。


「今ここで約束してくれ。もう二度とセレナに妙な真似はしないって。穏便に済まそうと思ってたけど、約束出来ないなら俺にも考えがある」
「ひっ…!や、約束する!もうあの娘には近付かない!約束するから……!」


どれだけ鈍い人間でも、自分が育て上げた自慢のポケモンを、ピカチュウなどという小さな電気ネズミ1匹で倒してしまったこの男が只者ではない事くらいは分かるだろう。
逆らってもロクなことがない。
男はそう判断し、即座に頭を下げた。


「そうか。分かってくれればいいんだ。けど、また同じことしでかしたら、こうは行かないからな」
「っ……」


頭を下げながら、男は歯をくいしばる。
少なからずプライドというものがあったためか、悔しさを紛らわす事は出来そうもない。
一方的とはいえ夢中になった女性から引き離され、さらにはそれなりに自信があったポケモンバトルでも破れてしまった。
地べたに頭を擦り付ける惨めな自分の姿に、男は内心逃げ出したい気分であった。


「……それとさ」


ピカチュウを肩に乗せ、その場から去ろうと歩き出したサトシだったが、何かを思い出したかのようにピタリと足を止める。
どうしたのかと疑問に思い、男は顔を上げてみたが、そこにいたのは先ほどの怒りの表情とは打って変わって随分穏やかな表情をしたサトシだった。


「お前のクイタラン、よく育てられてるな」
「え…?」


サトシの口から出た言葉は男にとって予想外なものだった。
驚いたように目を丸くさせる男に、サトシは続ける。


「他人に夢中になるのはいいことだけどさ、少しはその関心を自分に向けてみたらどうだ?ポケモンをきちんと育て上げる才能はあるみたいだし、きっとお前ならいいトレーナーになれるよ」


仮にもポケモンマスターの称号を得ているサトシは、今まで何匹ものポケモンを目にしている。
そのため、トレーナーの手によってきちんと育てられているポケモンはすぐに分かるのだ。
男の脇で倒れているクイタランは、たしかにレベルも高く、丁寧に育てられいるのは一目瞭然だった。
ポケモンを育てる才能は確かにあるらしいこの男を見ていると、なんだか勿体無く感じてしまう。

サトシの言葉に、男は再び俯いて黙り込む。
下を向いているため、彼がどんな表情で、何を思っているのかは分からない。
けれど、自分の言葉を聞いて何かを感じ取ってくれたのならそれでいい。
“じゃあな”と最後に右手を挙げ、帰るために踵を返す。
満足げなサトシに対し、肩に乗るピカチュウは不満げである。


「ピカピ、ピーカーチュ?」
「いいんだよ。なんか、あいつも俺と同じようにただセレナのことが好きなだけなんだって思ったら、強く出る気になれなくてさ」


確かにあの男は、常識から外れた愛情表現を行なっていた。
しかし、その奥にある単純な感情は“恋慕”でしかない。
片や交際相手のサトシ、片や相手に認識すらされていないストーカー。
立場は違えど、同じ女性を好きになったことには違いない。
好意の対象が同じだけあって、サトシはほんの少しだけ男に共感もしていた。
もちろん、ストーカー行為を正当化するわけではない。
しかし、好きな相手に近づきたい、親しくなりたいという気持ちは分かる。
なにせ相手はあのセレナだ。
そこまで熱狂的になってしまうのも無理のないことなのだ。


「ピーカッチュウ……」
「甘くて悪かったな」


“甘いんだから…”とぼやく黄色い相棒に、サトシは悪態を吐く。
甘いのは百も承知。
それでも、サトシはあの男に対してどうしても冷酷にはなれなかった。

夜道をしばらく歩けば、セレナと共に住んでいるマンションが見えてくる。
2人が買った一室は最上階の9階。
見上げればその部屋には明かりがついている。
あの部屋には、自分を待ってくれている愛しい人がいる。
自然とこみ上げている笑みを抑えながら部屋に向かうサトシ。
懐から鍵を取り出し、扉を開けると、奥からいい匂いが漂ってくる。
サトシが1番好きな、コロッケの匂いだ。


「あ、おかえりサトシ!」
「ただいま。遅くなって悪いな」


玄関まで迎えてくれたセレナは、ピンク色のエプロンに身を包み、ミディアムまで伸びた金髪を1つに結んでいる。
彼女が料理をするときにいつもこのスタイルであり、サトシはそんなセレナの格好を密かに気に入っていた。
肩に乗っていたピカチュウは、キッチンから漂ういい匂いに釣られるように飛び降り、奥へと走り去っていく。


「あれ?手ぶらなの?何か買い直しに行ったんじゃ…」
「あ、いや、なんか勘違いだったみたいでさ。何も買わずに帰ってきた」
「そう….」


買い物袋をぶら下げていないサトシに、セレナは首をかしげる
随分苦しい嘘だったが、どうやら彼女は不思議がりながらも信じてくれたようだ。
セレナと一緒にいるところをわざと男に見せた上で、影で牽制する。
そんなことをサトシがしていたと聞けば、セレナはいい顔をしないだろう。
それを分かっているからこそ、サトシは真実を隠す。


「じゃじゃーん!チーズコロッケよ!サトシ好きでしょ?」
「お!流石セレナ。美味そうだな」


奥に上がり込んだサトシは、コートを脱ぎながらキッチンを覗き込む。
そんな彼に、セレナは皿に乗ったコロッケを嬉しそうに見せてきた。
揚げたてのコロッケは香ばしい匂いを辺りに振りまいている。
2人が同棲を始めた数年前、サトシの好物がコロッケだということを知ったセレナは、様々料理本やレシピを見て必死に勉強した。
その甲斐あってか、今やコロッケはセレナの1番得意な料理となったのだ。


「もうすぐ全部出来上がるから、ちょっと待っててね」


お腹を空かせたサトシに微笑み、セレナは包丁を手にとって野菜を切り始めた。
どうやらもう一品は野菜炒めらしい。
慣れた手つきでコンコンと野菜を切っているセレナの姿は、サトシの心を暖かくさせる。
彼女の後ろへとまわり、サトシは背後からセレナを抱きしめた。
自分のお腹に回ってきたサトシの腕を見て、セレナは苦笑いをこぼす。
彼女があまり照れた様子を見せないのは、サトシがこうして料理中にちょっかいを出してくることが珍しく無いからである。


「包丁持ってるから危ないよ?」
「んー」
「どうしたの?お腹すいた?」
「ん」
「サトシ?」
「…なんかさ、俺は幸せ者なんだなーって思って」


野菜を切っていたセレナの手が、一瞬だけ止まる。
自分の肩にサトシの顎が乗っており、ちょっとだけ重い。
もしかすると、これが幸せの重みなのかもしれない。
サトシの言葉に“ふふっ”と笑みをこぼすと、その小さな口を開く。


「私も幸せだよ。サトシと一緒だから」


弾むような声色で言うセレナがやけに愛おしくて、サトシは彼女を抱く腕を強める。
お腹に回った彼の腕が苦しいが、全く不快感は無かった。
それどころか喜びすら感じる。
自分よりも背が低いセレナの首元にそっと口付けてやれば、彼女はくすぐったそうに肩をすくめる。


「けどさ、俺はもっと幸せになりたいんだ。セレナと一緒に」
「え…?」


サトシの言いたいことがよく分からず、セレナは首をかしげる
セレナは誰よりも魅力的だ。
そんな彼女にささやかな好意を寄せている者はこの世に数え切れないほどいるだろう。
そんな中、サトシは彼女の好意を独占し、さらに生活を共にできている。
好意を向けた人物から、それと同等の好意が返ってくる事は奇跡に近い。
これほどの幸せがあるのだろうか。
先ほどの男のように、セレナに大きな好意を抱いている彼らのためにも、彼女のことは幸せにしてやりたい。
それが彼女から奇跡的に好意を向けてもらえた自分の義務なのだろうから。
愛しいセレナの耳元に口元を当てながら、サトシは穏やかに言うのだった。


「結婚、しようか」


セレナの手が止まる。
一瞬の静寂はセレナの思考を完全に停止させた。
理解するのに数秒かかったが、振り返った先にいたサトシの真剣な表情を見て、夢では無いことを知る。
嘘のような現実だが、それはセレナの心を喜びで満たすには十分な言葉であった。
自然と溢れてくる涙を隠すように、セレナはサトシの胸に飛び込む。


「すき。……だいすき」


絞り出すように言葉を発するセレナ。
そんな彼女を、サトシは再び抱きしめた。


act.6「虜」

 


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act.7「疑惑の眼差し」

 


右から聞こえてくるのはシャワーの音。
帰ってきてすぐに“疲れているから”と言ってすぐに浴室へと向かったサトシが浴びている音だ。
生活する中でよく耳にする機会が多いそのシャワー音を右耳で聞きながら、セレナは脱衣所で石のように固まっている。
シャワーを浴び始めたサトシの着替えを運びに脱衣所までやってきたセレナは、彼が脱ぎ捨てた上着のポケットからポトリと何かが落ちたことに気が付いた。
どうやらそれは名刺入れのようで、中に入っていた名刺が何枚か外に出てしまっている。
革製のその名刺入れを拾い上げ、外に出てしまった名刺たちをかき集めようと手を伸ばしたその時だった。
他の白くシンプルな名刺たちに紛れ、黒い紙に白い文字で書かれた派手な名刺を見つけてしまった。
なんだろう。そう思い拾い上げてしまったが運の尽き。
そこに書いてある名前に、セレナの頭は真っ白になってしまった。

Club Pocket♡Girl ミミ

きらきら光る上質な紙に書かれたその文字は、明らかにビジネスシーンで交換した名刺ではなかった。
ミミって誰?Club Pocket♡Girlってなに?
疑問が頭の中を錯綜する。
サトシと一緒にカロスを旅してた頃のセレナならいざ知らず、20歳を過ぎた今の彼女ならば、この名刺がどんな場所でどんな人から渡されるものなのか容易に想像できる。
セレナの頭の中に浮かぶのは、夜の街を代表する女の子のお店、いわゆるキャバクラだった。

え、なに?
もしかして行った?サトシ、キャバクラ行った?
いやいや。もしかするとそういう店が並んでいるところを歩いていて、勧誘の女の人から渡されたものかもしれないし。
名刺を持っていたからと言ってキャバクラに行ったとは断言できないだろう。
そうだ。きっとそうだ。サトシは行ってない。うん。きっと行ってない。

なんとなく名刺を裏返すと、赤い色ペンで一言添えられていた。
“今日は来店ありがとうございます! また来てくださいね!”

名刺を握る指に力が入る。
あぁ、そう。行ったんだ。行ったのね。ふーん。そう。
セレナの冷たく痛い視線が、名刺の上につづられた“ミミ”という文字に浴びせられていた。


********************


まだ生乾きの髪のまま、サトシは食卓にてセレナが作った夕食を食べていた。
サトシから事前に帰ることを知らされていたため、セレナは張り切ってサトシの出身地であるカントーの料理を作って待っていた。
狙い通り、サトシは美味い美味いと幸せそうに箸を勧めているが、セレナの心は一行に晴れる気配がない。
脳裏を支配するのは先ほどの名刺のこと。
はっきり“キャバクラ”と記載されていたわけではないが、あの名刺は明らかにそっち系のお店の名刺である。
しかもご丁寧に裏面に添えられた文字を見るに、サトシが当該の店に行ったことは明白。

サトシ本人に聞いてしまおうか。
この名刺はなに?どんなお店なの?と。
けれど、本当にキャバクラだったとして、それを聞いてどうなるのだろう。
以前テレビで、キャバクラは付き合いで行くこともあるから浮気とは言えないとタレントが言っているのを聞いたことがあった。
それが世間一般的な意見であるならば、いちいち“行ったの?”と問い詰めたら面倒くさい女だと思われるのではないだろうか。
流石にそれは嫌だ。

手元に視線を落とせば、左手の薬指にはめている指輪が証明に反射してきらりと光った。
サトシからプロポーズされてから数か月たった先日。
様々な手続きを終えた末、ようやく二人は入籍することが出来た。
晴れて夫婦となったわけだが、また一か月も絶たないうちにこんな疑惑が出てきてしまうだなんて。
小さくため息を零すと、正面に座っていたサトシが即座に気付き首をかしげてくる。


「どうしたセレナ。なんか悩みでもあるのか?」


貴方のことよ!とはさすがに言えなかった。
ポケモンマスターとして各地を旅しているサトシが、このカロスにあるマンションに帰って来るのは3週間ぶりである。
久しぶりに会えたというのに、険悪な空気になりたくない。
モヤモヤとした心を抱えたまま、セレナは無理矢理笑顔を作ることにした。


「ううん。なんでもないの」

 


***

 

 

 

翌朝、早めにベッドを出たサトシは、早々に家を出る支度をしていた。
今日はミアレシティのオフィスで朝一番から打ち合わせがあるらしい。
簡単に朝食を済ませ、いつも通り肩の上にピカチュウを乗せて玄関に向かう。
彼の外出に合わせて起床したセレナも、エプロンを着たまま玄関まで見送りに来ていた。


「じゃあ行ってくるな。夜には帰ってくると思うから」
「うん。行ってらっしゃい」


サトシの手が、セレナの頬に伸びる。
そっと顔を近づけ、サトシはセレナの唇に軽く口づけた。
彼が外出する際、こうしてキスを落としていくことはもはや珍しいことではない。
ドアノブに手をかけ、“じゃあな”と出ていくサトシ。
彼が出ていった後の部屋は、やけに静かで冷たく感じられた。
不意のキスも、去り際の笑顔も、いつもならもっと嬉しいはずなのに。
心にのこったモヤモヤは、喜びの感情をも曇らせる。

気にしない方がいいと分かっている事でも、一度発生したモヤモヤはなかなか晴れるものではなく、セレナの思考をいちいち狂わせてくる。
なんとかこのモヤモヤを解消するため、例の名刺に記載されていた“Club Pocket♡Girl”という名前の店をネット上で検索してみたが、何もヒットしなかった。
普通なら店のHPくらい出て来てもおかしくないのだが、出てこないというのはどういうことだろうか。
セレナのモヤモヤは晴れるどころか根を深くするばかりであった。

このままではいけない。
気分転換のため、セレナは着替えてミアレの街を散策することにした。
今日は仕事もパフォーマンスのレッスンもなく、珍しく完全OFFの日。
貴重な休日を思い悩みながら過ごしたくはなかった。
けれど、ブティックのショーウィンドウを眺めている間も、あの名刺の存在がセレナの頭をかき乱す。
あの見せはいったいどういう店なのか、名刺にあったミミというのはどんな女性なのか、どのような経緯でサトシはあの店に行ったのか。
湧き出てくる疑問は尽きない。
店のショーウィンドウに映る自分の顔は、笑ってしまうくらい暗いものだった。


「あれ?セレナ?セレナだよね?」


不意に聞こえた声に、セレナは振り返る。
すぐ後ろにいたのは一組の男女。
過去、何度かあったことがあるサトシの友人、ゴウとコハルだった。
声をかけてきたのはコハルの方で、ショーウィンドウに映るセレナの顔を見てもしやと思い声をかけたのだ。


「うそ!コハルにゴウ!? どうしてここに?」
「仕事できたんだよ。ビビヨンの帖佐のために」
「私は、ゴウについて来ただけなの。せっかくだからミアレシティのブティックでお買い物したかったから」
「そうなんだ!すごい偶然だね!」


コハルとは、かつて一緒にコンテストライブに出場した経験がある。
その縁で、今までも何度か連絡を取り合い、プライベートでご飯に行くほどの仲になっていた。
隣にいるゴウとはあまり深く話したことは無いが、友人の多いサトシからは“親友だ”と紹介されたことがある。
サトシがクチバシティのサクラギ研究所でリサーチフェローをしていたころの相棒なのだとか。
まさかミアレシティでこの二人に合えるとは思わず、暗く曇っていたセレナの心はほんの少しだけ晴れた。
だが、やはり先ほどまでの暗い顔はコハルに見られてしまっていたらしい。


「ねぇセレナ。何かあったの?なんか元気ないみたいだったけど…」


コハルからの問いかけに、セレナの頭に再び例の名刺が思い浮かぶ。
やはり、友達の目はごまかせない。
悩みと言えるほど大事ではないけれど、常に考えてしまう程度には思考力を奪われてしまっている。
サトシのことをよく知るこの二人なら、相談に乗ってくれるかもしれない。
僅かな希望を胸に、セレナはゴウとコハルを近くのカフェに誘った。


********************


「えぇーっ!? キャバクラ!?」


セレナからもたらされた衝撃的な事実に、コハルは思わず大声を上げた。
近くの席に座っていた他の客たちは、そんなコハルの大声に驚き、一斉に視線をこちらに向けている。
注目を浴びていることに危機感を覚えたセレナは、口元に人差し指を当て“静かに”と促した。


「こ、コハル声大きい!」
「あ、ごめん…。ちょっとびっくりしちゃって。だってあのサトシがそんなところに行くなんて…」
「あんまり…というか、全然想像できないよなぁ」
「ゴウもそう思う?」
「だってサトシって、1にポケモン、2にバトル、3にポケモン、4と5もポケモン!みたい奴だろ?そういうところに行くイメージが無いっていうか…」
「そうよね…」


あの名刺を見ても、実は行っていないのではないかと少し思ってしまっている理由は、ゴウの言う通りサトシの性格を考えてのことだった。
彼の人生は全てポケモンにささげられていると言っても過言ではなく、お金や女、酒やたばこ、ギャンブルには一切の興味を持っていない。
今は妻の座に収まっているセレナでさえ、サトシに振り向いてもらうまでに10年もの歳月を要している。
そんな彼が、自らの意思で女の子のお店に行くものだろうか。


「セレナは、どうしてサトシがキャバクラに行ったと思ってるの?」
「サトシが着てた上着のポケットからこんなのが出てきたの」


そう言って、セレナは一枚の紙をテーブルの上に滑らせる。
例の黒い名刺である。
昨晩この名刺を見た時、気付かれないようサトシの名刺入れからこれを抜き取り、そっと自分の懐にしまい込んだのだ。
差し出された名刺を手に取り、裏も表もしっかり目を通したゴウは口を開く。


「うん。キャバクラだな。間違いない」
「はぁ~~~やっぱり…?」
「ちょ、ちょっとゴウ!そんなに断言することなくない?」
「だってこんな黒くて派手な名刺、その辺のビジネスマンが差し出してくるわけないだろ?店の名前もはっきり書いてあるし、裏面には来店ありがとうの添え書き。間違いないって」


やはり、男性であるゴウの目から見ても、この名刺がそういう店のそういう人から貰ったものであることは間違いないらしい。
とどめを刺されたような気がして、セレナの口からは深海よりも深いため息が出た。


「あぁっ!で、でも!そういう店って付き合いで連れて行かされることだってあるし、サトシも行きたく行ったわけじゃないんじゃないかなー!」
「付き合いって…?」
「ほら、目上の人の接待とかでさ!おじさん世代の人たちって、そういう店好きだったりするだろ?それにキャバクラって、女の人が思ってるほどいかがわしくないって。ただ女の人がお酒継いでくれて、話し相手になってくれるだけ」
「ふーん、ゴウ、やけに詳しいね。もしかして行ったこと…」
「いやない!俺はないから!」


コハルから向けられる疑惑の視線に、ゴウは必死になって否定していた。
キャバクラには行った事が無いが、流石にそこがどんなお店なのかはうっすら知っている。
着飾った綺麗な女の人たちが、お客さんの男性にお酒を注いだり話し相手になったりするお店で、大きく括れば飲食店に分類される。
ゴウの言う通り、目上の人への接待で利用されることが多いことも知っている。
サトシはこの世でたった一人しかいないポケモンマスターだし、もしかすると接待を受けてこのキャバクラに行ったのかもしれない。
そういう背景があるのなら、断りにくい雰囲気だろうし半ば仕方がないのかもしれない。
そう思い始めた時、ゴウから再び不安になる一言が発せられる。


「ただ、問題はこれが本当にキャバクラの名刺なのかってことだよな」
「えっ、どういうこと?」
「はっきりキャバクラって書いてあるわけじゃないし、夜のお店ならどういうジャンルのお店でもこういう名刺出すもんだろうしさ。もしかしたら…その…なんていうか‥風俗的なところかもしれないし」
「風俗!?」


再び、コハルが大声を上げる。
周囲の客の視線がこちらに集まるが、もはやそんなことはどうでもよかった。
風俗。その言葉の意味を知らないほど、セレナはもう子供ではない。
ただお酒を出して会話をするだけのキャバクラと違って、店の女の子に政敵サービスを施してもらうお店。
その内容は多岐にわたり、ただ客の欲望を満たすだけの店もあれば、最後まで致す店も当然ある。

言われてみれば、この名刺を見た瞬間から、セレナはこの店をキャバクラだと思い込んできたが、今思えばそういった店である可能性も十分にあったのだ。
どうして気付かなかったのだろう。
そういう世界に無縁だったせいか、どうも発想力が足りなかったようだ。
もし、もしもサトシが風俗に言っていたら…。

自分以外の女性を抱くサトシを一瞬想像し、鳥肌が立つ。
不快感というのは、こういうものを指すのだろう。
そして心が鷲づかみされたように痛む。
もし本当にそうだったとしたら、立ち直れる気がしない。


「あっ、いや、これはあくまで可能性の話でさ!ホントにサトシが風俗に行ってる保証はどこにもないし…」
「でも行ってない保証もない…」
「あ…。いやいや!もしかするとキャッチの人に無理矢理渡されただけかもしれないし…」
「裏面に来店ありがとうって書いてあるし…」
「…そうだった」
「んもーっゴウ!セレナをこれ以上傷付けないで!」


しゅんとしながら肩を落とし、ごめんとつぶやくゴウだったが、その言葉はセレナには届かない。
もしもゴウの言う通り、この名刺の店が風俗店だったら。
もしもその店に、サトシが本当に行っていたら。
考えれば考えるほど深みにはまってしまう。
もういつものように彼に接する自信がない。
頭の中にあるモヤモヤを振り払えないままセレナはゴウやコハルに別れを告げ、カフェを出た。

 


***

 


陽が落ち、自宅に帰った後も名刺のことで頭がいっぱいだった。
頭は全く働かないのに、夕飯のために作ったコロッケはいつも通りうまく出来た。
頭を空っぽにしても美味く作れたのは、コロッケがセレナの得意料理だから。
思えば、カントーの家庭料理で一番最初に覚えた料理はコロッケだった。
理由は単純。サトシの好物だったから。

食卓にコロッケが載った大皿を並べながら、コロッケを作る練習を重ねていた同棲したての頃を思い出す。
あの頃はサトシと一つ屋根の下一緒に暮らせることが嬉しくて、ただただサトシのためにできることを探していた。
サトシは多忙で、家に帰ってくることは少なかったけれど、それでも彼の帰る場所に自分がいられるだけで満足できた。
もしかすると、仕事で家に帰って来なかった間、あの名刺にあったようないかがわしいお店に行っていたんじゃないだろうか。
それも、日常的に。


「おっ、今日はコロッケか。美味そうだな」


風呂からあがったばかりのサトシが、濡れた黒髪をバスタオルで拭きながら声をかけてきた。
肩の上にピカチュウはいない。
浴室で体を乾かしているのだろう。
好物が食卓に並んだことがうれしかったのか、彼の声は跳ねていた。
けれど、その声を背に聞いていたセレナの気分は一層落ち込んでしまう。


「俺がいるからコロッケにしてくれたのか?」
「…うん」
「そっか。サンキューな。いつも俺の好物ばっかり作ってくれるな、セレナは」
「…」
「セレナ?」
「…さ、早く食べちゃお」


食卓に着くため、椅子を引こうとしたその時、サトシの無骨な手がセレナの手首をつかみ上げる。
不意に動きを封じられ、驚き振り返ったさきにいたサトシの顔は、先ほどまでとは打って変わって随分と真剣なものだった。
まるですべてを見透かすような瞳。
時折見せる彼のその瞳が、今日ばかりは恐ろしかった。


「セレナ、なんかあったのか?」
「えっ、そんなこと…」
「嘘つくなよ。何か悩みがあるとき、セレナはいつも口数が少なくなる。結婚相手の俺に分からないわけないだろ?」


昔から、恋愛ごとには疎い癖に人の感情の機微には随分と敏感だった。
悩んでいたり思いつめている仲間がいればすぐに勘づくその鼻の鋭さは、セレナの心の曇りすら察知してしまう。


「………」
「何があったんだ?仕事の悩みか?まさか、またストーカーに遭ってるんじゃ…」
「…いいの。私が我慢すればいいだけのことだから」
「我慢すればいいって…いいわけないだろ!? また危ない目に遭ったりしたら…」
「いいんだってば!」


捕まれていた手首を振り払い、声を荒げるセレナに、サトシは一瞬だけたじろいだ。
元々温厚な性格であるセレナがこんなに感情的になるのは珍しい。
何をそんなに怒ることがあるのだろう。
怪訝に思い顔を覗き込んでみれば、悲しみに顔をゆがませるセレナの表情が視界に飛び込んでくる。


「セレナ…?」
「…サトシはこの世界にたった一人のポケモンマスター。忙しいからこそ、そういうところに行かざるを得ないことだってちゃんとわかってる。サトシだって、男の人だもん。そういう欲があることもわかってるつもり…」
「お、おい、いったい何の話を…」
「けど!けど酷いよ…。私たちまだ新婚なのに、あんなお店行くなんて…」
「み、店!?」
「このお店!」


懐から取り出し、サトシの前に掲げたのは、あの黒い名刺。
Club Pocket♡Girlと印字されたその名刺を目にし、サトシは目を見開いた。
名刺入れの中に封印していた秘密がセレナの手の中にある事実は、サトシの心を焦らせる。


「そ、その名刺どこで!?」
「昨日サトシの名刺入れから見つけたの。お風呂入ってる間に、脱ぎ捨てた上着のポケットから…」
「あぁ…そっか。セレナ、あのな、その店は…」
ガールズバー?キャバクラ?それとも風俗?なんでもいいわ。どんな経緯で行ったのか知らないけど、なんで行っちゃうのよ!?」
「いやあの、セレナ、俺の話を…」
「男の人がそういうお店に行くのは浮気じゃないとかいうけど、知っちゃった以上傷付くのは当たり前じゃない!このミミって人と何話したんだろうとか、なにしたんだろうとか、そればっかり考えちゃって今日一日全然楽しくなかった!なんで私ばっかりこんな気持ちにならなくちゃ…っ」


負の言葉が湯水のようにあふれてくる。
ストッパーを失い回り続ける口をふさぐように、サトシはセレナの唇にかみついた。
頬に手を添え、赤い舌を彼女の小さな口内に押し込めば、透明な唾液と一緒に小さな声が漏れだしてきた。


「んんっ…」


唇だけでなく体も密着させてきたせいで、セレナはバランスを崩し背後の食卓に手を付いてしまう。
何故キスをされているのだろう。
襲ってきたそんな疑問に頭を支配されていく。
そのおかげで、先ほどまで沸き起こっていた激しい怒りが次第に沈静化していくのを感じた。
やがて怒りの形が明確に小さくなり始めた頃合いで、サトシはそっと唇を離す。


「落ち着いたか?」
「…ううん」
「そうだよな。うん、わかるけど、とにかく俺の話を聞いてくれ」


冷静にはなったけれど、怒りが収まったわけではない。
そんなセレナの心を察知したのか、サトシは語り掛けるように慎重に言葉を選ぶ。
“どこから話せばいいかな…”とサトシはこめかみを掻き始める。


「えっと…その店なんだけど、キャバクラでも風俗でもなくて、ただのバーなんだ」
「えぇ!?」


言いにくそうに口を開いたサトシの言葉は、あまりにも信じがたいものだった。
ただのレストランが名刺を用意するだろうか。
それも、こんなに派手な名刺を。


「レストラン!?こんな名刺を渡してくるようなお店が?」
「あぁ。正確に言うと、ポケモンが接客してくれるレストランなんだ。カントーで初めてそういう店がオープンするらしくて、オーナーにオープン記念イベントに招待してもらったんだよ」
「じゃ、じゃあこのミミって…?」
「接客してくれたポケモンの名前だよ。ミミロップのミミ」
ミミロップ…」


名刺をよく見れば、“ミミ”の名前のそばにミミロップのシルエットが薄く描かれている。
言われてみれば、数日前のワイドショーで全国的にも珍しいスタッフがポケモンしかいないバーがオープンすると大々的に取り上げられていた。
まさか、このClub Pocket♡Girlがそうだというのか。


「じゃ、じゃあ名刺裏に書いてあるこのメッセージは?ポケモンに文字なんて書けないでしょ?」
「オーナーが気を利かせて書いてくれたんだよ。その店、オーナーと店長だけは人間だから」
「で、でも!ネットでこのお店の名前検索したら引っかからなかったし…」
「まだ関係者だけが入れるプレオープンの状態だしな。ホームページは今作ってる最中なんだって言ってたぞ」
「……」


掘れば掘るほど、この店がいかがわしい店などではないという事実が見つかってゆく。
確かにこの黒い名刺は派手で、いかがわしいお店のものと判断しやすいデザインだが、繁華街にある普通のバーやスナックでもこういった名刺を配る店もある。
ミミという明らかに若い女の子を連想させる名前に、キャバクラや風俗を意識させられてしまったが、その名前もスタッフであるミミロップのニックネームであったという。
さらに、名刺の裏に記されていたメッセージは、店の女の子ではなくサトシを店に招待した人間のオーナーからの感謝のしるしであるらしい。
暴かれていく数々の事実は、サトシの身の潔白を証明する確固たる証拠にしかならなかった。
やましいことなど全くないサトシの真っ白な説明に、セレナの肩身はどんどん狭くなっていく。


「あ、あの…サトシ、わたし…。ごめんなさい!こんな名刺一枚でサトシのこと疑ったりして…」
「いやそれは全然いいんだけどさ。それよりセレナ、俺の勘違いだったら悪いんだけど…」
「な、なに…?」
「もしかして、嫉妬してくれてたのか?」


突き付けられた事実に、セレナの体温はどんどん上昇していく。
顔がどうしようもなく赤くなっていくのが分かる。
体の内側から沸き起こる羞恥心は、セレナから冷静さを奪ってしまう。
まっすぐ見つめられるサトシの視線から逃げるように、セレナは両手で自分の顔を隠した。


「や、やだもう!見ないで…!」
「照れんなって。俺がキャバクラ行ってると思ってやきもち焼いてくれてたんだろ?」
「ち、ちがうもん!疑ってただけで…!」
「ふーん、じゃあ何でこんなに顔赤いんだ~?」
「だ、だって…!」


顔を覆い隠すセレナの細い腕をつかみ、赤い顔を暴こうとするサトシと、必死に抵抗するセレナ。
もうどうしようもなく恥ずかしくて、サトシに顔向けできそうになかったのだ。
たった一枚の名刺でサトシの浮気を疑い、一喜一憂してしまった自分がみっともない。
嫉妬したのか?という彼からの問いの答えは、ごまかしようもなく、はいとしか言いようがなかった。


「サトシが私の知らない女の人と楽しく過ごしるのかと思うと、他に何も考えられなくなるんだもん…。当然でしょ?私、サトシは…サトシは私の旦那さんなんだから!」


入籍してからそこまで時間が経っていないからか、それともまだ結婚式を挙げていないからか、セレナは未だにサトシと結婚した実感を持てずにいた。
婚姻届けという薄い紙ペラに名前と印鑑を押しただけで、生活に何も変化はない。
相変わらずサトシは忙しくてなかなか帰って来ないし、まだ結婚を世間に公表していないため周りからお祝いの言葉を貰うこともない。
だからこそ、不安になっていたのだ。
本当に自分は、サトシにとって唯一無二の存在になれているのか。
だが、そんなセレナの心情を溶かすように、サトシは大きな手のひらをセレナの頬に添えた。


「セレナがそういうこと言うから、家から出たくなくなるんだよなぁ」
「え…、んっ」


再び、セレナの柔らかな唇に口づける。
舌を絡ませ、自らの肥大した愛情を押し付けるかのような口づけは、サトシが感情を高ぶらせている証拠だった。
逃がさないよう、頬に手を添え、腰に腕を回して捕まえている。
やがて唇を話すと、頬を紅潮させながら瞳を潤ませたセレナがこちらを見上げてきた。
扇情的その表情にたまらなくなって、今度は彼女の体を腕の中に閉じ込めるように抱きしめた。


「キャバクラとか風俗とか、そんな店俺が行くわけないだろ?家に帰ればこんなに可愛い奥さんがいるんだから、行く必要ないよ」
「サトシ…」


サトシはいつも、欲しい言葉をくれる。
枯渇していた胸に、彼の言葉は一滴の潤いを与えてくれた。
ついさっきまで不安や怒り、悲しみでいっぱいだったセレナの心は、いつの間にか幸福に満たされていた。
自分の体を包み込むサトシの広い背に、自分の腕を回す。
サトシのぬくもりに目を細めていたセレナだったが、そんな彼女の耳に、サトシは低く甘い声で囁き始めた。


「セレナ、俺、しばらくカロスでの仕事が続くから、1週間は家にいられるんだ」
「え、ほんとに?」
「あぁ。だから今夜は…」


“抱かせてくれよ?”
特徴的なハスキーボイスでそう囁かれた瞬間、セレナは目を見開いた。
サトシの肩越しに、風呂から上がったばかりのピカチュウが立っていることに気が付いたのだ。
口を開け、ぽかんとした顔でこちらを見つめている。
2人が何を話しているのか理解していないようではあったが、流石に夫の相棒にあんな会話を聞かれたくはない。
焦ったセレナは、サトシの広い背中をバシバシと叩き始めた。


「さ、サトシ!その話はあとで!」
「なんだよ嫌なのか?俺、無実なのに疑われてたんだぜ?少しはご奉仕してくれてもいいだろ?」
「それについては謝るから!今ご奉仕とか言わないで!」
「今日が嫌なら別にシなくてもいいけど、その代わり明日から毎晩相手してくれよ?」
「だ、だから!それ以上は言わないで!み、見てるから…!」
「え?見られながらしたいのか?大胆だなセレナ…」
「そうじゃなくて!!」


ピカチュウに背を向けているサトシは、彼の存在に気付かずどんどん話を進めてしまう。
サトシの口を塞ごうにも抱き締められているせいで両手が使えない。
彼の肩越しにピカチュウとばっちり目が合ってしまっているため、死ぬほど居心地が悪い。
やめてピカチュウ。そんな疑惑の眼差しで見ないで。
いかがわしい話をしている私たちを見ないで、お願いだから。
そんなセレナの願いもむなしく、サトシがピカチュウの存在に気付いて焦りだす2分後まで、セレナは本日何度目かの羞恥心に襲われることになったのだった。

 

 

 

END