【カミュセニャ】
■ゲーム本編時間軸
■短編
セーニャはこのソルティコの街が好きだった。
山育ちのセーニャにとっては見慣れない美しい海、白で統一された綺麗な建物。
そして料理処でいただけるおいしい海の幸。
そのすべてがセーニャにとっては魅力的で、この街に来るたびにはしゃいでしまう。
街の商店街の中心部にあるおしゃれな書店も、セーニャのお気に入りスポットのひとつである。
昨日の夕方ごろ、このソルティコに立ち寄った勇者一行は、シルビアの父、ジエーゴの気遣いで彼の屋敷に宿泊した。
翌日である今日、旅に必要な道具の買い出しついでに立ち寄ったこの書店で、セーニャは運命的な出会いを果たす。
彼女が昔から読んでいたおとぎ話の作者が書いた、恋愛小説の新作が店の棚に並んでいたのだ。
思わず手に取り、すぐさま購入してしまったセーニャは、店の外に出てその本の表紙をうっとりと眺めていた。
おとぎ話や昔話、ひいては恋の話を好んで読んでいるセーニャにとって、この作家が書く恋の話は大好物である。
今作はいったいどんなときめきを与えてくれるのだろうとワクワクしながら、セーニャは表紙の挿絵を優しくなでた。
「何してんだ?セーニャ」
耳なじみのある声に名前を呼ばれ、顔をあげると、そこには道具袋を片手に持ったカミュが立っていた。
薬草や毒消しなどを買いだしに行っていた帰りなのだろう。
書店の前で一冊の本を片手にうっとりしている仲間を見つけ、不審に思い声をかけたカミュだったが、対して声をかけられたセーニャは嬉しそうに手元の本を見せつけてくる。
「好きな作家の方の新作が出ていたので、買ってしまったんです!」
見せられた青い本の表紙には、“キスから始まる恋の詩”とタイトルが書かれている。
幼い頃からバイキングの一員として働いてきたカミュは、本を読む機会などほとんどなかったが、このような恋物語は一層縁がなかった。
もし自分が本マニアだったとしても、きっとこういった恋の話は興味を示さなかっただろう。
しかし、セーニャはカミュとは正反対などこか夢見がちな女性。
彼女が空想上の恋物語に胸を躍らせるのも自然なことなのだろう。
「恋愛小説か。好きだよなぁこういうの」
「はい。町一番の踊り子と、貧しい青年の恋を描いた物語だそうです。知り合ったばかりの2人が、不本意なハプニングで口づけを交わしてしまうことから始まる恋のお話ですわ」
「ふぅん」
ありがちだな。
そう口に出そうとして、直前でやめた。
ありがちでも現実離れしていても、そんな状況やシチュエーションにあこがれている目の前の少女の幻想を否定するのはよくないだろう。
「口づけで始まる恋だなんて、素敵ですわ」
「そういうもんか?」
「カミュさまは、どなたかと口づけを交わしたことはありますか?」
「まぁ、そりゃあこの歳になればな」
セーニャとは違い、初心という言葉とは縁遠い生活を送っていたカミュ。
キスはもちろんのこと、それ以上の行為も経験がないわけではない。
そういった行為に甘い幻想を抱くほど純粋ではないし、そこまで神聖な行いだとも思わない。
キスのひとつでいちいち恋に落ちるなんて、そんな可愛らしい性格もしていない。
しかし、今セーニャが手に持っている本を好んで読むような無垢な少女たちは、キスや恋というものに淡い幻想を抱いている者がほとんどなのかもしれない。
現に、目の前のセーニャは本の中にしか存在しない恋の話に胸躍らせている。
「私、口づけってしたことがないんです。だからこそ憧れてしまいますわ」
「そんな期待するようなもんじゃねぇけどな。その小説みたいにハプニングで好きでもない奴としちまったら実際最悪だろ?」
「そうでしょうか。素敵な方となら、むしろ心ときめいてしまうと思います」
本の表紙を見つめるセーニャの瞳は、あこがれと期待で輝いていた。
まだ見ぬ恋への幻想が、セーニャを夢見る少女へと変えてしまっているのだろう。
こうなってくると、恋に恋するあまり盲目になって、ろくでもない奴に惹かれてしまうことだけが心配である。
彼女の姉、ベロニカは少々妹セーニャに対して過保護気味であるが、今になってベロニカの気持ちがわかるような気がしてきた。
セーニャは無垢すぎて、見ていて不安になる。
「ま、キスやら色恋やらに期待しすぎて、変な奴にそそのかされないよう気を付け・・・」
「おっと失礼」
「うおっ」
書店が面している路地は細いうえ、人通りも意外に多い。
壁を背にして立っているセーニャと、その目の前で話し込んでいたカミュは、通行人の邪魔になっていたようだった。
漁師のような見た目の恰幅のいい男がカミュの背後を通ろうとしたのだが、まるでスイカでも入っているかのような大きな腹がカミュの背中に当たり、不意を突かれたカミュはバランスを崩してしまう。
よろけたカミュはセーニャの背後の壁に手を突き、二人の顔がぐっと近距離まで近づいた。
そして、二人の唇はわずかにふれあい、互いに思考が停止する。
「わ、悪いっ!」
「い、い、いえ・・・!」
とっさに離れ、距離をとったカミュだったが、もはや時遅し。
唇が重なり合ったことは二人の勘違いなどではない。
顔を真っ赤にしてうつむいているセーニャの表情がそれを物語っていた。
周囲はがやがやとにぎわっているにも関わらず、二人の間には気まずい沈黙が流れ始める。
今は何を言っても言い訳にしかならないような気がして、なんと言うべきか言葉が見つからない。
適切な言葉を探しているうちに、目の前のセーニャは顔を赤くしたまま本を胸に抱え、するりとカミュの腕の影から逃げ出してしまった。
「すみません、私、先にジエーゴ様のお屋敷に戻っていますね!」
「あ、あぁ・・・」
振り返りもせず、セーニャは逃げるようにその場を去っていった。
その足取りは、魔物から逃げているときよりも早い。
小さくなっていくその背を見つめながら、カミュは罪悪感で死にたくなる思いをしていた。
先ほど、セーニャは誰とも口づけを交わしたことがないと言っていた。
つまり、今のが彼女にとってファーストキスになる。
キスという行為そのものに強い憧れを抱いていた彼女が、こんな形でファーストキスを迎えることになるなど、不本意でしかないだろう。
何度か経験があるカミュは、今更誰とどんな形でキスをしようが気にするつもりもないが、セーニャはそうはいかない。
まるで子供の幻想を壊してしまったような、そんな罪悪感に襲われながら、カミュは深くため息を吐いた。
********************
夜。
久しぶりに屋敷に立ち寄った勇者たちをもてなすため、ジエーゴ邸ではささやかな宴が催されていた。
ジエーゴに仕える専属の料理人たちが腕を振るい、長く豪華な食卓には美味な料理の数々が並ぶ。
ほぼ毎日キャンプでシチューばかり食べていたイレブンたちにとって、目の前に差し出されたご馳走の山はたまらない褒美でしかない。
誰もが上機嫌で料理を頬張るなか、カミュとセーニャだけは少々居心地が悪そうだった。
無理もない。昼間にハプニングがあり、キスをしてしまったなど誰が言えるだろう。
「そういえばセーニャ、昼間買いに行ってた本は読んだの?」
「へっ?」
アツアツのグラタンに舌鼓を打っていたベロニカが、隣の席に座っているセーニャに話を振った。
食事の席だというのに珍しく会話に参加しようとしないセーニャを気遣っての声掛けである。
「ほら、確か好きでもない男と不本意にキスしちゃって恋が始まるってやつ!」
「ゴフッ!」
ベロニカの言葉にいち早く反応したのは、飲んでいた葡萄酒を噴出したカミュだった。
葡萄酒が器官に入ってしまったようで、盛大にむせ返っている。
隣の席のイレブンに背中をなでられ、落ち着きを取り戻したカミュだったが、ベロニカのせいで昼間の一件を鮮明に思い出してしまった。
向かい側に座っているセーニャもまた、カミュと同じ光景を思い浮かべてしまったらしく、顔を赤くしている。
「なによカミュ、きったないわねぇ。セーニャもどうしちゃったの?顔赤いわよ?」
「い、いえ・・・。あの本はまだ読んでいないんです」
「ふーん、そうなの」
落ち着かない様子のセーニャと、動揺している様子のカミュを不審に思いながらも、ベロニカ再び目の前のグラタンに口をつけた。
葡萄酒で汚れた口元をテーブルナプキンでぬぐいながらちらりとセーニャを盗み見たカミュだったが、彼女は相変わらずカミュと目を合わせようとはしない。
やはり昼間の一件は彼女にとって不愉快な出来事だったのだろうか。
それもそのはずだ。
期待していたファーストキスをあのような形で迎えてしまったのだから。
「キスがきっかけで恋に落ちるなんて素敵な話じゃない!あたしもいつかそんな素敵なキッスがしてみたいわぁ~」
先ほどまで父であるジエーゴと談笑しながら食事していたシルビアが、セーニャとベロニカの話題に口をはさむ。
どうやら恋だのキスだのという単語に興味を示したらしい。
セーニャも昼間は同じようなことを言っていたが、実際にハプニングで好きでもないような男とキスをしてしまったら不愉快以外の何物でもないと分かったはずだ。
「ゴリアテ。今は食事の席だぞ。そういう破廉恥な話はやめろ」
「どこが破廉恥なのよグレイグ。あんたにとってキスってそういう行為なわけ?」
「な、なにを言う!俺はただ・・・」
横やりを入れてきたグレイグに呆れたような視線を向けるシルビア。
堅物のグレイグにとって、キスの話題は食事の席にはふさわしくない破廉恥なものという認識だったのだろう。
むしろその認識を突かれ、顔を真っ赤にして弁明しようとしているグレイグの様子に、隣に座っていたマルティナは一人頭を抱えている。
グレイグとシルビアの間で繰り広げられている、“キスという行為は破廉恥か否か”という議論は、ロウまで巻き込んで白熱しつつある。
このままでキスの話題が延々続くことを恐れたカミュは、半ば強引に話題をそらすことを決意した。
「ベロニカ。ちょっとそこの塩とってくれ」
「うん?」
カミュに頼まれたベロニカは、自分の手元を見渡し塩を探してみるが、どこにもない。
ふと隣のセーニャの手元を見てみると、塩の瓶は彼女の目の前に置かれていた。
幼いベロニカの小さな腕では、あの塩瓶までは到底手が届かないだろう。
「なんであたしに言うのよ。セーニャのほうが近いじゃない。セーニャ、取ってあげて」
「あ、は、はい・・・」
姉に促され、セーニャは塩瓶を手に取りカミュに差し出した。
目を合わすことなく、控えめな声で“どうぞ”と差し出された塩瓶を、カミュもまた視線をそらしつつ受け取った。
瓶底に添えられている手に触れないよう、わざわざ瓶のふた部分を握って受け取ったカミュの行動を見ていたマルティナは、眉を潜めつつ首を傾げる。
カミュとセーニャを取り巻く空気が、なんとなくおかしい。
どこがおかしいのかと問われれば、自信を持ってここだとは断言できないが、マルティナの女としての勘が、“二人は何かおかしい”と告げていた。
********************
翌日、勇者一行は世話になったジエーゴに別れを告げ、ソルティコの街からシルビア号に乗って外海を旅していた。
久しぶりの船での旅は一行の心を躍らせたが、相変わらずカミュとセーニャは気まずいままだった。
2人は仲間内でも比較的よく言葉を交わす仲ではあったが、ソルティコでの一件以来二人の口数は減り、あからさまに互いを避けている。
もちろん、二人ともこのままでいいとは思っていない。
察しのいいマルティナやロウ、シルビアあたりは二人が纏う気まずい空気に気付き、気を遣っているようである。
この状態が続けば、仲間全体の雰囲気が悪くなってしまうかもしれない。
何とかしなくてはと考えてはいるものの、互いに歩み寄れずにいた。
そんなある日のこと。
外海の無人島に停泊したシルビア号のなかで、一行は夜を過ごしていた。
寝苦しさに目が覚めてしまったカミュは、隣のベッドで眠っているイレブンを起こさないよう部屋を抜け出した。
夜風に当たれば、きっと気分転換になるだろう。
船内から甲板にでたイレブンだったが、そこで見つけた人影に足を止めてしまった。
「あ・・・カミュさま」
甲板の上で星空を見上げていたのは、セーニャだった。
夜風に長い金髪を揺らめかせているその姿を見た途端、カミュの心臓は一瞬で鼓動を早くする。
セーニャもまた、船内からやってきたカミュの姿を目にし、気まずそうに視線を泳がせた。
まずい。来なければよかった。
後悔してももう遅い。
「あー、邪魔して悪かったな、セーニャ。風邪ひくなよ」
「あっ、ま、待ってくださいカミュさま!」
いつものセーニャからは想像できないほどの大声で引き留められ、カミュは思わず引き返す足を止めた。
走り寄ってくるセーニャは、夜の海を包む寒さのせいか、鼻が赤くなっている。
「あの・・・少し、お話しませんか?」
上目遣い気味に問いかけてくる彼女の言葉を拒絶などできるわけもない。
大きな気まずさを感じながらも、カミュは素直にうなずいた。
並んで夜の海を見下ろす二人を包む空気は、やはり気まずいまま。
そんな気まずい沈黙を最初に破ったのは、カミュの方だった。
「この前は悪かったな。その・・・あんなことになっちまって」
「いえ、そんな。カミュさまのせいではありません。お気になさらずに」
月に照らされた夜の海には、船から並んで水面を見下ろしているカミュとセーニャの姿が映っている。
2人の顔は、気まずさからかそろって暗いものだった。
「そんなことよりも、問題はこの状況にあると思うのです」
「・・・状況?」
「私、カミュさまを見るとどうしてもこの前のことを思い出して、意識してしまうんです。このまま気まずさを引きずっていれば、お姉さまやイレブン様たちにも迷惑が掛かってしまうと思うのです」
「まぁ、確かにな」
セーニャの言う通り、二人の間に流れる気まずい空気感が、一行全体にも伝染しつつあるということはカミュも気が付いていた。
セーニャと気まずいままの関係を保っていては、この先の旅に支障が出てもおかしくはない。
勇者一行の旅は、仲間たちと気まずいまま続けられるほど容易いものではないのだ。
周囲に迷惑をかけないよう、何とかセーニャとの間にあるわだかまりを解消しなくてはならない。
だが、人の心とはそう簡単に割り切れるものではない。
セーニャがカミュを視界の端に入れるたび、先日の唇の感触を思い出しては顔に熱がこもってしまうのだ。
「おそらく、初めてのキスだったからこそ意識してしまったのでしょう。カミュさまのように初めてでなければ・・・キスという行為自体に慣れていれば、こんなにも意識しなくて済むと思うのです」
「・・・・・つまり?」
セーニャというこの女性は、どこか抜けている。
そしてどこかずれている。
彼女が今から何を言おうとしているのか、なんとなく想像がついてしまい、カミュは嫌な予感がしていた。
「カミュさま、今日から毎日、私とキスを交わす習慣をつけましょう!」
「は、はぁぁあ!?」
慣れてさえいれば意識せずにいられただろうという理論は確かにその通りだった。
カミュも、相手が手慣れた女だったならばここまで気にかけなかっただろう。
純粋無垢で経験もない、そのうえ夢見がちなセーニャだからこそここまで罪悪感を感じ、気まずさを抱いているのだ。
だからといって、毎日キスをする習慣をつけるというのは随分ぶっとんだ考えではないだろうか。
あまりに筋道から反れている提案に、カミュは素っ頓狂な声をあげてしまった。
「あいさつ代わりにキスをする習慣がある地域もあると言いますし、慣れるまで毎日キスをすれば、いつか気まずさは消えると思います。だから・・・」
「い、いやちょっと待て。だからって毎日キスってお前・・・」
「このまま気まずさを引きずって、イレブンさまたちに気を遣われるよりは、自分たちで解決すべきだと思うんです。キスに慣れることさえできれば、きっと今まで通りの仲間として、カミュさまと接することが出来るはずです!だから・・・!」
めちゃくちゃな言い分ではあった。
しかし、慣れさえすれば意識しなくなるだろうという理論は分からなくもない。
カミュの中でキスという行為がそこまで神聖なものではないからこそ、その提案はある程度現実的ではあるのだが、セーニャが相手となると話は別である。
ファーストキスだけでなく、2回目3回目も好きでもない自分と口づけを交わすなど、耐えられるのだろうか。
「俺は別に構わねぇけど、お前は・・・」
「これも、勇者様を導く使命のためです。ここは気合を入れなければ!」
「は、はぁ・・・」
彼女は謎の方向に真面目であった。
たった一回のキスで気まずいまま旅をするよりも、何度もキスを交わして強制的に慣れさせ、気まずさを吹き飛ばす方が効率的だと考えているらしいが、その手段が強引すぎる。
なんとか論理的に説明して止めさせようとするカミュだったが、本気で辞めようと言い出せないのはどこかまんざらでもなかったからなのかもしれない。
「・・・いいんだな?ほんとにいいんだな?後悔はするなよ?」
「はい。もちろんです。カミュさま」
「わかった。じゃあいくぞ?」
「はいっ、いざ!」
向き合う二人はこれからキスをしようとしている男女にはとても見えそうにない。
両手をぎゅっと握り込み覚悟を決めた面持ちのセーニャは、まるでこれから魔物の攻撃を受けるかのよう。
全くもって色気のないキス待ち顔を見たカミュは、逆に安心してしまった。
この流れなら、妙に照れたり恥ずかしがったりしなくて済むかもしれない。
カミュがセーニャの両肩を優しくつかむと、彼女は面白いくらい体を固くした。
唇への衝撃を今か今かと待っているセーニャに、カミュはそっと口づけを落とす。
唇が触れ合ったのはほんの一瞬だけだったが、それでもキスはキス。
唇が離れた瞬間、カミュの視界に飛び込んできたのは、ゆでだこのように顔を真っ赤にしたセーニャの姿であった。
「・・・慣れそうか」
「ぜ、善処します」
顔から湯気が出そうになっているセーニャは、先ほどまでの威勢が嘘のようにおとなしくなっている。
自分からキスの習慣をつけようと言い出した手前、やっぱり恥ずかしすぎるからやめましょうとは言えないセーニャ。
2度目のキスで明らかに心乱されている様子のセーニャを見下ろし、カミュは密かにため息をついた。
慣れるまで続けるとは言っていたが、これは時間がかかりそうである。
*********************
以降、セーニャの提案で始まった“毎日キス計画”は、宣言通り毎日欠かさず行われた。
時間は夜。
イレブンやベロニカをはじめとする仲間たちが寝静まった頃、こっそりとかわされている。
無論、この習慣について知っているものは当人たち以外一人もいない。
セーニャがキスという行為に慣れ、互いに気まずい思いをしなくて済むようにと始めたこの習慣であったが、何日経っても何度唇をかわしても、セーニャが慣れることは無かった。
今日もまた、二人は仲間たちが寝静まるその時を待ってキャンプ地を離れた。
木々の間に隠れるように寄り添う二人はまるで密かな逢瀬を楽しんでいる恋人同士のようだが、残念ながらこれから行われることは愛あるキスではなく、習慣によるキス。
彼らの間に、愛や恋といった淡く可愛らしい感情はないのだ。
「痛まないか?」
「大丈夫です。さきほどロウさまにホイミをかけていただいたので」
「そうか」
セーニャの細く白い右手を取り、カミュはその甲に視線を落としていた。
昼間、魔物に襲われた勇者一行はいつも通り戦闘を繰り広げたのだが、その途中でセーニャが魔物からの攻撃を受け、手を負傷してしまったのだ。
幸いかすり傷程度で済んだため、ロウのホイミで傷は塞がったものの、彼女が攻撃を受ける瞬間を間近で見ていたカミュはその容体が気になって仕方が無かった。
「悪かったな。俺が一番近くにいたのに守ってやれなくて」
「いえ、気にしないでください。私がかわしきれなかっただけなので」
「・・・次からは俺の後ろに控えててくれ。お前には怪我されたくないからな」
手の甲を撫でるカミュの手つきはあまりにも優しくて、勘違いしてしまいそうになる。
きっと彼は、一行の回復薬であるセーニャが倒れた際に戦闘が不利になることを危惧し、セーニャを優先的に守ろうとしているのだろうが、こんな風に優しくされたら、普通の女性は大きな期待をしてしまうだろう。
彼と正式に付き合う女性がいつか現れたとしたら、こんな風に優しくしてもらえるのだろうな。
そう考えた瞬間、セーニャの胸に小さな痛みが走る。
その痛みに気付かないふりをしながら、セーニャは頷いた。
「じゃあ、いいか?」
「はい。お願いします」
いつも通り、セーニャはキスを待つため目を瞑る。
やはり何度唇をかわしても、胸のときめきは一向に収まる気配がない。
カミュの右手がセーニャの頬に触れたその瞬間、彼女はびくりと肩を震わせた。
いつもはセーニャの両肩を支えて唇を押し当ててくるカミュだったが、今日は何故か片手をセーニャの頬に預けている。
まるで愛でるかのように優しく頬を包まれ、カァッと一瞬にして顔中に熱がこもっていく。
そして、その手で後頭部を引き寄せられ、セーニャの唇はカミュのものと重なった。
触れていた時間は3秒ほど。
いつもより、ほんの少しだけ長かった。
「じゃあ、また明日」
「・・・はい。また、あした」
唇が離れると、彼はすぐにテントの方へと戻って行ってしまう。
何故、今日に限っていつもと違うキスをしたのだろう。
激しい動揺がセーニャの頭の中をぐちゃぐちゃにかき回す。
どうしようもなく胸が高鳴って痛い。
今までは、キスをするたび恥ずかしくて恥ずかしくて仕方が無かったのに、今日だけは違った。
始めて、もう一度してほしいと思ってしまった。
*******************
セーニャとカミュの間に流れる微妙な空気には、マルティナも勘づいていた。
2人は仲間内でも比較的よく話す方で、森を歩いている時も海を船で渡っている時も、気付けば二人並んで談笑しているような仲であった。
けれど、いつの間にやら二人は互いを避けるようになり、目も合わさなくなってしまう始末。
シルビアやロウあたりはマルティナと同じようにそんな二人に気が付いていたが、あえて首を突っ込むようなことはしなかった。
しばらく気まずい空気は続いたが、最近になってまた小さな変化が訪れている。
以前までは全く言葉を交わすことも視線を合わせることもしなかったカミュとセーニャが、時折随分近い距離でこそこそと話をするようになったのだ。
それも、以前のような楽し気な談笑ではなく、男女間で醸し出される独特な雰囲気を纏っている。
最初は気のせいだろうと思っていたのだが、注視すればするほど“それっぽく”見えて来てならない。
まさかそんなはずは。
マルティナは不確かな仮説をもとに、カミュとセーニャの観察を開始した。
「おお、帰ってきたかイレブン、カミュよ。食事は出来ておるぞ」
焚火の真ん中に置かれた鍋をかき混ぜながら、ロウが笑いかける。
キャンプ地から離れた場所で鍛錬していたイレブンとカミュが、互いに武器を腰元にしまいながら帰ってきた。
食器類などの準備もすべて完了し、それぞれ定位置でシチューの完成を待っていた一行の視線は、鍛錬から帰ってきたイレブンとカミュに集中する。
彼らから見て一番手前にいるのは、大きな丸太に腰かけたマルティナであった。
イレブンかカミュ、どちらか一方がマルティナの横に座るのは自然な流れである。
しかし、先をいくカミュはわざわざ火を囲んでいる仲間たちの真ん中を突っ切って、対角線上にいたセーニャの隣に腰かけた。
あれ?どうしてわざわざセーニャの横に?
私の隣以外にも、シルビアやグレイグの横が空いていたというのに。
やがてイレブンが、マルティナの隣に腰かけてくる。
そう。普通に考えて、一番近い位置にある空いている席に座るのが自然だと言うのに、彼はわざわざ遠くにいるセーニャの隣に座った。
にもかかわらず、特に二人は会話することなく食事を楽しんでいる。
同じ丸太に腰かけているカミュとセーニャの距離が、必要以上に近い気がするのは気のせいでしかないのだろうか。
少し離れた場所で寄り添うように座っている男女の姿を見つめながら、マルティナの疑惑は次第に深まっていった。
*********************
メダル女学園。
名家の子女が集うこの花の学園は、勇者の星が堕ちようとしているこの時勢でも平和そのものだった。
各地で小さなメダルを集めた勇者一行は、その恩恵を受けるためにこの女学園へと立ち寄った。
褒美をもらうため、スタンプカード片手に校長室へ向かったイレブンを待つ一行は、中庭で思い思いの時間を過ごしている。
やがて校長との話が終わり、部屋から出てきたイレブンの回りに散り散りになっていた仲間たちが再集合したのだが、一人合流していない仲間に気付きイレブンは首を傾げた。
「あれ、カミュは?」
仲間たちが周囲を見回しても、青髪の彼はどこにも見当たらなかった。
若い女生徒しかいないこの学園で、男のカミュがうろうろしていたら相当目立つはずだというのに、一体どこへ行ってしまったのだろう。
姉のベロニカがカミュに対して小言を言い出す前に、セーニャはカミュを探すために小走りで廊下を走り出した。
「私、探してきますっ」
この学園はそれなりに広いが、学園の部外者であるイレブンたちが立ち入りを許されている場所はそう広くはない。
モダンな造りの校舎を走り回っていれば、カミュの姿などすぐに見つかってしまう。
2階のとある教室。
夕日に照らされているこのノスタルジーな場所で、カミュは一人の女子生徒と二人で話をしていた。
中にいるカミュに声をかけず、教室の扉に隠れるようにして様子をうかがってしまっているのは、彼と女子生徒を取り巻く空気が普通ではなかったから。
カミュと向き合う女子生徒はもじもじしながら顔を赤らめているが、きっとこれは夕日のせいなどではない。
女子生徒は遠慮がちにカミュへと一通の手紙を指しだした。
戸惑いながらもそれを受け取るカミュの姿に、セーニャの心に剣で貫かれたような痛みが走る。
何冊も恋愛小説やおとぎ話を呼んできたセーニャに分かる。
あれは、告白の現場だ。
「ありがとな」
優しく微笑むカミュを、これ以上見ていられなかった。
セーニャは勢いよく教室の扉をあけ放ち、カミュと女子生徒にその存在を知らしめる。
突然現れたセーニャに驚いたカミュだったが、特段慌てる様子もない。
こんな状況をセーニャに見られてもとくに気にならないということか。
そんなカミュの態度が、セーニャを余計に傷付ける。
「お取込み中申し訳ありません。もう出発するそうです」
「そうか、わかった。じゃあな」
「は、はい!次お会いできることを楽しみしています!」
弾んだ声色で、カミュの背中に向かって好意を飛ばす女子生徒。
そんな彼女に、カミュは軽く手を挙げる形で答え、セーニャと共に教室を出た。
そんなふうに優しくしたら、相手はきっと勘違いしてしまう。
もともとカミュは優しいのだから、少しくらい突き放したって罰は当たらないのに。
そんなことを思っている自分に気が付いて、セーニャは泣きたくなった。
どうしてこんなひどいことを考えているのだろう。
心に渦巻くこの黒い感情は、きっと俗にいう嫉妬というやつなのだろう。
カミュと自分は、付き合っているわけではない。
にも関わらずこんな感情を抱いてしまうなんて、自分はなんて愚かな女だろう。
肩を落とすセーニャの様子を知ってか知らずか、後ろを歩くカミュは貰った手紙を片手にペラペラと話し出した。
「呑気だよな、ラブレターなんて。ま、それだけこの学園が平和だってことか」
やっぱり、貰っていたものはラブレターだったんだ。
背後からカミュにとどめを刺されたような気がして、セーニャはその場で立ち止まる。
「どうした?」
前を歩いていたセーニャが突然立ち止まったことで、カミュも足を止める。
体調でも悪いのかと顔を覗き込もうとしたカミュだったが、勢いよく振り返ったセーニャに驚いて後ずさった。
そんなカミュを逃さぬよう、彼の腕をぎゅっと捕まえたセーニャは、彼に詰め寄り大声でこういった。
「カミュさま、今すぐキスしてください」
「はっ?」
相変わらず言動が読めないセーニャの言葉に、カミュは戸惑いを隠せなかった。
習慣化しているキスの時間はまだ先のハズ。
しかも、ここは学園の廊下であって人通りもそれなりにある。
どう考えても例の習慣を発動するような場所ではないはずなのだが、セーニャは聞き分けようとはしなかった。
「えっと、ここでか・・・?」
「今すぐ、ここでしてほしいです」
カミュの袖を強く握るセーニャ。
彼女らしくもない強引さは、カミュの心を大いに惑わした。
“お願いします”だなんて小さな声で囁かれたら、断れるわけもない。
彼女の腕を取って強引に階段の影に引き込むと、あっという間に壁際に追い込んでしまう。
小さな顎を優しくつかんで顔を上げさせ、小ぶりな唇に自分のものを重ね合わせた。
いつもはそっと優しく触れる程度で済ませるが、今回は勢い余って随分と強めに唇を押し当ててしまった。
口付けている最中、彼女の口から艶めかしい吐息が漏れ聞こえてきたせいで、カミュの心臓は大きく脈打ってしまう。
彼女が口づけに慣れる気配は一向にないが、こうして唇を重ね続けているうちに、最初よりも心臓がうるさく鼓動するようになったのはカミュだけだろうか。
彼女からキスを習慣化しようと最初に提案を受けた時から、こうなる予感がしていた。
元々憎からず思っていた相手と毎日キスなんてしていたら、余計に好きになってしまうに違いない。
意識しあわないようにと始めたこの習慣化だったが、まるで意味をなさなくなっていることに、カミュはとっくの昔から気付いていた。
にも関わらず辞めようと提案しなかったのは、彼女に口づけを求められなくなるのが嫌だったからに他ならない。
「セーニャ、あの・・・」
「ありがとうございます。すみませんでした、無理を言ってしまって」
引き留める間もなく、セーニャはするりと猫のようにカミュと壁の間からすり抜けてしまった。
背けられた顔が見えない。
どんな表情をしているのか分からないから、彼女が何を思って今ここでキスをせがんできたのかも読みとれない。
まさか、今右手に収まっているたった一通のラブレターに嫉妬でもしてくれたというのだろうか。
まさか、ありえない。
だって自分たちは、キスをするだけの間柄なのだから。
*********************
「これは、私の友人のお話なのですが・・・」
セーニャから切り出された話に、マルティナは苦笑いを零した。
これ、十中八九セーニャ本人の話ね。と。
ある晴れた昼。
プチャラオ村に到着した一行は、情報収集もかねてバラバラに行動していた。
自分も買い出しに行こうかと宿屋を出たところで、赤い顔をしたセーニャに引き留められたのだ。
相談したいことがあるから話を聞いてほしい、と。
何故、姉のベロニカではなく自分なのだろうと疑問に思いながらも承諾したマルティナは、この村で唯一の甘味処に入り、スイーツをつまみながらセーニャの話を聞くことにした。
「友人には、よく話す間柄の男性がいたのですが・・・」
カミュのことね。
マルティナは先ほど店員によって運ばれてきた杏仁豆腐を口にしながら心でつぶやいた。
「その男性と、ちょっとしたことがきっかけでキスをしてしまったのです」
「キっ、えぇ!?」
セーニャの口からもたらされた突然の告白は、マルティナを大いに混乱させる。
確かに、彼女とカミュの間に何か起きたのだろうとは想像していたが、まさかそんなことが起きていたとは。
取り乱してしまった自分に恥じらい、コホンと一つ咳ばらいをしたマルティナは、とにかく冷静を装って“続けて”とセーニャに促した。
「そのキスが原因で、友人は男性と気まずい関係になってしまったんです。しかし、このまま気まずさを引きずっていては、周りの方々にも迷惑をかけてしまうかもしれません。なので、なんとか気まずさを解消しようと友人は考えました」
突然カミュとセーニャの関係がぎくしゃくし出したのはそういう事情があったからなのか。
話を聞きながら納得するマルティナ。
確かに、不本意とはいえ仲間とキスしてしまったとしたら気まずくなるのは当然だ。
周囲への影響を考え、なんとか気まずさを解消しようという考えに至るのも当然だろう。
うんうん、と聞いていたマルティナだったが、次のセーニャからの言葉に衝撃を受けることになる。
「だから、男性と毎日キスをしようという話になったんです!」
「え!?」
どうしてそうなる。
突如として何段階も飛ばした話をされたマルティナは頭を抱えたくなってしまった。
どこをどういう考えをすれば、カミュとセーニャが毎日キスをする流れになると言うのか。
「キスに慣れてしまえば、いつか気まずさは消えると思ったんです。だから習慣化しようと・・・」
「ちょ、ちょっと待って。それ提案したのって・・・」
「わた・・・友人のほうです」
「やっぱりね」
一行の中で一番と言ってもいい常識人のカミュに限って、そんなぶっとんだ提案をするわけはない、
やはりマルティナの読み通りキス習慣の提案をしたのはセーニャの方だった。
“毎日キスをしましょう!”などと仲間から突然提案されたカミュの心境はどんなものだっただろう。
あまり想像はしたくない。
「男性はその提案を受け入れてくださり、毎晩キスをする生活が始まったのですが・・・」
「えっ。待って。受け入れたの?」
「あ、はい」
なんでよ。
なんで受け入れるのよ。
普通そんなアホみたいな提案却下するでしょ?
何欲望に負けて承諾してるのよ。
つまりカミュとセーニャは、自分たちが知らないところで毎晩隠れるようにちゅっちゅしていたわけだ。
全員が寝静まった後にテントから抜け出し、恭しくキスを交わす二人の姿を想像すると、マルティナはなんだか自分が情けなくなってしまった。
そんな生活を二人は送っていたというのに、なぜ自分は一切気付かなかったのだろう。
そして、この相談内容をかみ砕き、ようやくセーニャが姉のベロニカではなく自分に相談を持ち掛けたのか分かったような気がした。
カミュと毎晩キスしているだなんて、あのベロニカに言えるはずが無かったのだ。
「こうしてキスをする日々が始まったのですが、ここで初めて問題が起こりました」
「割と最初から問題しかなかったと思うけど」
「毎晩キスをしているうちに、その・・・カミュさ、いえ、男性のことが好きになってしまったのです」
「でしょうね」
最終的にそうなることは何となく予想がついていたし、最近のカミュとセーニャを見ていれば頷ける。
たとえ最初は何の感情がない相手だったとしても、毎日キスを繰り返すような日常を送っていれば、特別な感情を抱いてしまっても無理はない。
「別に、好きなら好きって言えばいいんじゃない?キスまでしてる仲なんだし」
「それが・・・この習慣を始める前にその男性が言っていたんです。“好きでもない人とキスするなんて最悪だ”と」
「あぁ・・・」
「お互いに特別な感情がないにもかかわらず、私は彼にキスをしようだなんて・・・。きっと迷惑に思われているに違いありませんわ」
友人の話だと言っていたにもかかわらず、無意識に“私”と言ってしまっていることにセーニャは気付いていないようである。
今更ごまかしても意味はないのだが、それほど彼女が動揺しているということなのかもしれない。
確かに、カミュが言ったとされる言葉には共感できる。
好きでもない相手とキスを交わすなど、マルティナもお断りだ。
しかし、だからこそカミュはセーニャからの提案を受け入れ、毎日キスをするなどと言う妙な生活を良しとしているのではないだろうか。
セーニャに対して何の感情もなかったのであれば、最初から断っていたはずなのだから。
「そうかしら?もし本当に迷惑だと思っているのなら、最初からそんな提案受け入れなかったんじゃないかしら」
「そうでしょうか・・・」
「そうよ。受け入れたってことは、少なからずカミュは貴方を憎からず思ってるって証拠よ」
「えぇっ!? マルティナさま、どうして私とカミュさまの話だと分かったのですか!?」
「それでごまかしてるつもりだったのね・・・」
カミュとの関係性を暴かれてしまい、真っ赤になって焦るセーニャの様子に、マルティナは苦笑いを零した。
おそらくカミュのことだから、この関係は他の仲間には内緒にしておこうとセーニャに約束していたに違いない。
嘘がつけない素直なセーニャに苦労しているであろうカミュに心で謝りつつ、マルティナはコホンと居直った。
「とにかく、あんまり臆病になっちゃだめよ?セーニャ。想いを伝えるのも、一つの勇気よ」
「・・・はい、マルティナさま」
セーニャにとってカミュは、心許せる貴重な異性であった。
何か困りごとがあれば、必ず力になってくれる頼れる兄のような存在。
そんな彼に想いを告げて、もし断られてしまったら、セーニャは大切な友人を一人失うことになる。
彼のことは好きだ。けれど、今の関係が壊れるのは怖い。
こんなことになるくらいなら、最初からキスをしようだなんて馬鹿げたこと、言わなければよかった。
マルティナの言う、想いを告げる勇気というものを、セーニャは持てずにいた。
*******************
砂漠地帯に広がる王国、サマディーの夜は寒い。
昼間は灼熱の太陽によって焦がされているこの王国だが、月が昇る夜になれば気温は急激に冷え込んでしまう。
そんなこの王国に一行が到着したのは今日の午前中のこと。
サマディー国王夫妻や王子にあいさつした後、宿屋を取り、情報収集にいそしんでいるといつの間にかこんな時間になってしまった。
道具屋で薬草類を買い込んでいたセーニャは、夜の冷え込んだ空気に腕を摩りながら、一人夜のサマディー城下を歩いている。
デルカダールやクレイモランと肩を並べるほどの大国であるこのサマディーは、夜であろうと人通りは多い。
活気あふれる大通りを歩いていたセーニャだったが、宿屋への近道をするために薄暗い路地へと入っていった。
早く帰らなければ、カミュと約束している例の“習慣”の時間に遅れてしまう。
好きな人を、極力待たせたくはなかったのだ。
「ねぇねぇお嬢さぁん、今ヒマ~?」
路地を進んだ先で、見知らぬ男に声をかけられた。
セーニャよりも大分年上に見えるその男は、顔を赤く染め上げながらわずかにふらついている。
見るからに酒に酔っているようであった。
「えっと、なにか御用でしょうか」
「俺さぁ、困ってるんだよぉ。命の大樹に祈りをささげたいってのに教会の場所が分かんなくってさぁ~、お嬢さん、案内してくんない?」
男は酔っぱらいながらも困っている様子だった。
大樹に祈りをささげようというその立派な信仰心は尊敬に値する。
カミュとの約束も大事だが、教会を見つけられずに困っているというこの目の前の男の力にはなってやりたい。
真面目で優しい性格のセーニャは、たとえ相手が厄介そうな酔っ払いであったとしても、冷たくあしらうことはどうしてもできなかった。
「教会でしたら、ここを左に曲がって、まっすぐ行った先に・・・」
「口で説明されてもわかんねぇよ!一緒に行って案内してくれってぇ~」
「えっ、すみません、それはちょっと・・・少し急いでいるもので・・・」
「別にいいだろぉ~?こっちは困ってんだからさぁ」
男はアルコールの匂いをまき散らしながらセーニャに詰め寄った。
距離感が全くつかめていないのか、彼は必要以上にセーニャに顔を寄せてくる。
少し離れようと後ずさったセーニャだったが、そんな彼女の細い手首は、男の浅黒い手によって掴まれてしまった。
強い力で掴まれ、身動きが取れなくなってしまったこの状況に、セーニャは言い知れぬ恐怖感を覚えてしまう。
「いやっ!」
男の手を振り払ったのは、とっさの行動だった。
誰も居ない路地で、酒に酔った見知らぬ男に詰め寄られれば、恐怖を覚えるのは当然のこと。
しかし振り払われた側の男は、セーニャの拒絶反応ともいえる反応が気に食わなかったらしい。
上機嫌だった顔はみるみるうちに怒りの色が広がる。
「なんだよ。生意気な女だな。道案内しろって言ってるだけだろうがよ!」
「っ!」
逆上した男は、セーニャの両手首を掴み、勢いよく壁に追いやった。
背後には壁。
目の前には男の顔。
振り払おうにも両手は塞がれていて、今は武器も携えていない。
名前も知らない男相手に、セーニャは身の危険を感じ瞳に涙を貯めた。
「ちょっとかわいいからって調子乗ってんじゃねぇぞ!」
「や、やめ・・・っ!」
セーニャの手首を握り込む男の手に力が入る。
魔物と戦っている時とはまた違う恐怖感が、セーニャの表情を歪ませる。
男は身動きの取れないセーニャをいいことに、彼女の白い首筋に噛みついた。
男の八重歯があたり、チクリとした痛みが走る。
それと同時に、首筋をスーッと伝う男の舌の感触に、全身にぞわっと鳥肌が立ってしまう。
怖い。気持ち悪い。お願い、離して!
心で叫びながら必死に抵抗してみても、男の力にはかなわない。
やがて男はセーニャの首筋から口を離し、欲にまみれた顔でじっと目を見つめてきた。
経験の少ないセーニャでさえ、今からこの男が自分に何をしようとしているのかは本能的に分かってしまう。
キスされる。
「いやっ!やめて、くださ・・・っ」
唇を奪われることだけは嫌だ。
未だカミュしか触れることを許していないこの唇に、見ず知らずの男が触れるなど耐えられない。
パニックで頭が真っ白になりながらも、セーニャは必死で助けを求めていた。
たすけて、カミュさま。と。
「てめぇ何してやがる!」
刹那、愛しい声が聞こえた。
セーニャに密着していた男の体が一瞬にして離れ、目を開けた時にはその男は地面にひれ伏していた。
傍らには肩で息をしているカミュ。
どうやら急いで駆けつけてきた彼が、セーニャから男を引きはがして殴り飛ばしたらしい。
体のどこを殴られたのかは知らないが、男は咳き込みながらうずくまり、起き上がれない様子だった。
カミュは呆然としているセーニャの手を取り、走り出す。
路地を何回か曲がり、宿屋の近くまで来たところで、二人は足を止めた。
「ここまで来れば大丈夫だろう」
全速力で走ったせいか、珍しく息が上がってしまうカミュ。
後ろにいるセーニャに振り返ったが、彼女は力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
砂まみれの地面など気にする余裕もない彼女の瞳には恐怖の色がにじんでいる。
「セーニャ」
座り込む彼女の前で膝を折ったカミュは、その広い腕でセーニャを包む。
小さく震えている彼女の金髪に指を掻き入れ、優しく撫でてやると、彼女は小さな声で泣き始めた。
肩を震わせ、カミュの肩によりかかるセーニャは、まるですがるようにその背に腕を回している。
「カミュ、さま・・・っ、怖かっ・・・」
「ごめんな、遅くなって。もう大丈夫だ、安心しろ」
カミュの腕に包まれたおかげか、色濃く広がっていたはずの恐怖心は次第に薄れていった。
先ほどの男とはまるで違う、優しい手つき。
同じ“男”に触れられているというのに、彼が相手だと恐怖どころか安心感すら抱いてしまう。
「首、跡がついてる」
セーニャの首筋に指を這わせたカミュが、眉をひそめながら言う。
男に噛みつかれたその白い首筋には、痛々しい歯型がついてしまっていた。
相当強い力で噛まれたのだろう。
もしかすると、しばらくこの跡は消えないかもしれない。
「先ほどの方に、噛みつかれてしまって・・・」
こんなにも汚い跡を、カミュには見られたくない。
自分の手で隠そうとするセーニャだったが、そんな彼女の手をカミュは優しく除ける。
そして、赤く腫れている首筋に、そっとキスを落とした。
「あっ・・・」
「悪い。あんなことがあったのに、嫌だったか」
驚いたようにびくりと肩を震わせたセーニャに、カミュははっとして体を離す。
自分以外の人間が彼女の清らかな体に口を寄せた事実が憎らしくて、上書きするつもりで思わず口づけてしまった。
しかし、男にあんなことをされた後にすることではなかった。
また怖い思いをさせてしまっただろうか。
恐る恐る顔を覗き見るカミュだったが、セーニャはそんな彼の目を見つめ、小さく首を横に振った。
「不思議ですね。あの男性に触れられたときは怖くてたまらなかったのに、カミュさまが相手だと、心臓がどきどきしてしまいます」
目を細めて微笑むセーニャの顔から恐怖の色は消え失せていた。
頬をわずかに赤らめ、瞳一杯に涙を貯めている彼女は儚げで、それでいて美しい。
胸の奥から湯水のように溢れ出る愛しさに背を押され、気付けばカミュはセーニャの頬に手を添え、己の唇を彼女の押し当てていた。
彼女から提案を受けた“習慣”ではなく、衝動的な口づけはこれが初めてであった。
自分のすべてを押し付けるように、彼女の狭い口内に舌を押し入れかき乱す。
戸惑っているセーニャに構うこともなく、彼女の舌に自分の舌を絡ませる。
蛇のように絡みつく舌を感じながら、セーニャの思考は停止してしまった。
今までの唇が触れ合うだけのキスとは違う、まるで味わうようなキス。
これはいったい何?
こんなキス、知らない。
「か、カミュさ・・・んっ」
頬に触れていたカミュの手が後頭部に回り、セーニャを逃がさないよう捕まえる。
一瞬唇が離れた瞬間に彼の名前を呼んでみたが、すぐにまた塞がれてしまう。
上手く息が出来ない。
だんだん苦しくなっているのに、どうしてだろう。
甘くて切なくて、頭がぼーっとする。
カミュの舌が絡めば絡むほど、心が満たされていく感覚に陥る。
恥ずかしくてたまらないのに、もっとしていたい。
やがて、カミュの唇は離れていく。
2人の舌を、唾液の糸が離れるのを惜しむように薄く繋がってはすぐに途切れてしまった。
「そんなこと言うなよ。勘違いしそうになる」
額をこつんと合わせながら、カミュは絞り出すような小さな声でつぶやいた。
その声色は、セーニャの耳に切なく響く。
「勘違い・・・?」
「期待しちまうんだよ。好かれてるんじゃねぇかって」
いつもは凛々しいカミュが、今は瞳を不安げに揺らしながら上目遣いでこちらを見つめてくる。
こんな彼の表情を見るのは、初めてだった。
そして確信する。
彼もまた、自分と同じ不安を抱いていたのだということを。
彼の頬に両手を添え、セーニャはそっと彼に唇を落とす。
すぐに離れたセーニャの顔を、カミュは驚いた様子で見つめていた。
「勘違いなどではありませんわ。私・・・私・・・っ」
セーニャの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
日に日に大きくなっていったカミュへの想いが、ついに堰を切ってあふれ出してしまう。
心が乱れて、うまく言葉を紡げない。
涙を流すセーニャを、カミュは衝動的に強い力で抱き寄せた。
もはや、愛しさは隠せない。
自分の胸の中にいる彼女を、誰にも触れられないよう永遠にこの腕の中に閉じ込めておきたい。
そう思ってしまうほどに、カミュはセーニャに恋焦がれていた。
「セーニャ、俺の女になれ」
抱き締められたまま、耳元で笹かれた低い言葉に、セーニャは胸打たれた。
心臓が破裂しそうなくらい強く脈打っている。
顔から火が出そうなほど熱が昇ってきてしまう。
胸がきゅんと高鳴って、切ないほど苦しいというのに、心には喜びの色が広がっていく。
セーニャは溢れる涙を隠すようにカミュの肩に顔をうずめると、そっと頷くのだった。
********************
その日、一行は突然降りだした雨に足止めされていた。
サマディーを今日出発する予定だったにもかかわらず、砂漠地帯には珍しい恵みの雨が降り注いだせいで、一日長くこの街の宿屋に世話になることが決定してしまう。
ゲリラ豪雨のように派手な音を立てて降り続く雨を窓から眺めながら、マルティナは優雅に紅茶をすすった。
シルビアは久しぶりにサーカスに顔を出すため出かけており、ロウとグレイグは昼過ぎ頃に何やらこそこそ二人で出かけた切り戻ってこない。
どこに行っているのかは想像したくない。
取り残されたイレブン、カミュ、ベロニカ、セーニャ、そしてマルティナは、宿屋のロビーに集まり思い思いの時間を過ごしていた。
普段はお互いの部屋でお互いがしたいことをしている一行だが、こうしてロビーにわざわざ集まっているのは暇だから以外のなにものでもない。
「うっわー・・・」
一人掛けのソファーに深く腰掛け、本を読んでいたベロニカが怪訝な顔をしながら声を漏らした。
彼女が読んでいるのは、数日前にセーニャが購入した“キスから始まる恋の詩”という小説。
読み終えた妹から借りたものだった。
「どうしました?お姉さま」
「セーニャ、あんた本当にこの小説面白いと思ってる?」
2日ほど前に全ページ読み終えたセーニャから、“素敵な話だった”という感想を添えて貸してもらったこの小説。
ベロニカは何故か随分不愉快そうに眉をひそめながら読んでいた。
何故そんなことを聞くのだろうと不思議に思ったセーニャが首をかしげると、ベロニカそんな妹にとあるページを開いて見せながら喚き散らす。
「だってこの相手役の盗賊男、告白のセリフが“俺の女になれ”なのよ!? 気障すぎるでしょ!」
「グフッ!」
机を挟んで正面に座っていたカミュが、飲んでいた紅茶を吹き出してしまう。
器官に入り込んでしまったらしくゲホゲホと咳き込んでいる相棒の背を、隣に座っていたイレブンが心配そうに顔を覗き込みながら摩っている。
「なによカミュ。あんた最近よく噴き出すわね」
ベロニカの言葉に反論したくても、器官に紅茶が入り込んでうまくしゃべれない。
何をそんなに動揺しているのだろうと不思議に思っていたマルティナだったが、彼を見つめながら顔を赤くしているセーニャの様子を見て何となく察してしまう。
もしや彼はセーニャに・・・。
「あら、俺の女になれ、だなんて男らしくていいじゃない? ねっ、セーニャ」
「へっ!?」
突然話を振られたことに驚き、明らかに挙動不審になるセーニャ。
真っ赤な顔をしながら視線を上下左右に泳がせる彼女はかわいらしくて、からかい甲斐がある。
「あ、あの・・・はい、私はその・・・素敵だと、思います」
もじもじと両手をすり合わせながら視線を落とすセーニャは、必死で恥じらいを隠している様子。
そして、いつの間にやら咳き込みが落ち着いたカミュもまた、そんな彼女の言葉に赤面を禁じ得ないらしい。
片手で自分の顔を覆っているが、耳まで真っ赤に染まっている。
セーニャからカミュに関する相談を持ち掛けられていたことはあったが、その後のことは何も聞いていない。
恐らく何かしら進展はあったのだろうが、二人の様子を見るに“仲間たちには内緒にしておこう”という結論に至ったようだ。
だが、全くもって隠せていない二人の態度が無性に面白くて、マルティナは必死で笑いをこらえている。
「そっか。セーニャはおとぎ話とかが好きだから、こういう気障なセリフも素敵だって思えるのかもね。確かにベロニカの言う通り、“俺の女になれ”は普通だったら言わないよね。ちょっと痒くなるというか」
「でしょー?こんなこと面と向かって言うやつがいたとしたら正気の沙汰じゃないわよ」
何も知らないイレブンとベロニカは、小説の中に登場する相手役の男を斬って斬って斬りまくる。
その言葉が、すべて横に座っている仲間に突き刺さっていることなど知るわけもなく。
先ほどまで赤い顔を隠していたカミュだったが、今度はひどく傷ついた表情で自分の胸のあたりを抑えていた。
悪気のない仲間たちからの言葉の矢に、彼なりに傷ついているらしい。
「そ、そんなことありません!私はちゃんとドキドキしましたわ!」
「え?」
「あ・・・」
傷付いているカミュをフォローしようと必死に出た言葉で、セーニャは墓穴を掘ってしまった。
やはり彼女は、どうしても嘘がつけない正確らしい。
マルティナに相談した時と同じように口を滑らせてしまった彼女は、“しまった”と口元に手を当てていた。
「セーニャ・・・それじゃまるで、実際に言われたことがあるみたいな口ぶりじゃない?」
「い、いえ・・・それは・・・」
姉のベロニカは、意外にも敏感な少女である。
妹の咄嗟に口を突いて出た失言を決して漏らさず聞いている。
まるで誰かに件の言葉を言われた経験があるかのような口ぶりに、ベロニカの疑惑の目は一気に鋭くなってしまう。
誤魔化しきれそうにないセーニャはあわあわと動揺し、対するカミュは苦笑いしながら頭を抱えている。
なんとなく状況を察しているマルティナにとって、目の前で繰り広げられる光景がおかしくて仕方が無かった。
イレブンやベロニカの言葉で密かに傷ついている気障男、カミュと、必死にフォローしようとしつつもボロを出しまくるセーニャ。
コミカルに繰り広げられる会話劇は、すべてを知っているマルティナの笑いのツボを確実についていた。
「ふふふ・・・っ、くくくっ」
「マルティナ、どうしたの?なんかさっきからずっと笑いこらえてるけど」
「だって・・・くくっ、おもしろ、くて・・・っ」
突如として飲み物を吹き出したカミュ。
突如として焦りだしたセーニャ。
そして、突如として笑い出したマルティナ。
三人の仲間たちのよく分からない言動に、何も知らないイレブンはただただ困惑し、首をかしげるのだった。