Mizudori’s home

二次創作まとめ

それでも心は偽れない

【殺りん】

犬夜叉

■未来捏造

■短編

 

「もうすぐ桜の季節ですね、殺生丸さま」


根元に腰かけ、大木の木々を見上げるりんは、少し距離を置いて隣に腰かける殺生丸に語り掛ける。
彼からの返答は一切ないが、長年の付き合いから、全く聞いていないわけではないということは知っていた。


「桜は好きです。きれいだし、みていて胸がきゅうってなる」


まだ小さな蕾しか宿していない子の大木は、これから春に向けて色づく準備を始めている。
今年もまた、殺生丸や邪見と一緒に桜を見たい。
そんな気持ちを込めて言葉にしてみたが、やはり殺生丸からの返答はない。
かわりに、その琥珀色美しい瞳でりんをじっと見つめている。
そんな彼の視線に返事をするかのように、りんもまた殺生丸の瞳を見つめ返し、微笑みを浮かべるのであった。

自分を見つめる殺生丸の眼差しが、昔と比べてほんの少しずつ変わってきていることに、りんは気が付いていた。
冷たく鋭利だった瞳の奥には、今までなかった熱っぽさを感じる。
時折自分を見つめて目を細める彼は、全身を掻きむしるような情愛を瞳の奥に隠しているが、どうもうまく隠しきれていない。
だが、彼はいつもりんに手を伸ばしてはこない。
肩幅一つ分の隙間を空けて距離を保つ彼は、近いようで遠い。
手を伸ばせばすぐに届くような距離なのに、りんは殺生丸との間にいつも見えない壁を感じていた。

自分を見つめるりんの眼差しが、昔と比べてほんの少しずつ変わってきていることに、殺生丸は気付いていた。
今すぐ手を伸ばし、強引に肩を抱き寄せてしまえばそれまでなのかもしれないが、僅かに残った自尊心と理性だけが、りんとの間に壁を作っていた。
相手は人間だ。童だ。あのりんだ。
言い訳ならいくらでも思いつく。
心では、自身が何を望んでいるのかよく自覚しているつもりだった。
だが、二人を取り巻く環境が、殺生丸を躊躇させる。
果たして自分と一緒にいることが、この娘にとって本当に幸せなのだろうか。
考えても答えは出ない。
だが、一つだけ確かなことがある。
りんは今年、数えで16になる。
人間の尺度で言えば、彼女はもう童などではないのだ。


「りん、行くぞ」


不意に名前を呼ばれ、りんは野兎のように頭を上げた。
沈みゆく夕日を背に、木々の間から覗くように現れた犬夜叉の姿を見て、りんは肩を落とす。
もう、そんな時間か。

殺生丸と一緒に森に入ったりんを迎えに行くのは、犬夜叉の役目であった。
彼は犬妖怪の血を引いているだけあって、殺生丸と同じく鼻が利く。
殺生丸がりんを抱えて遠くに飛び去ろうと、すぐに居場所を特定できる犬夜叉を、りんの保護者である楓は頼っていた。
仲睦まじいとは言い難い兄に会いに行く人間の女の送迎など、正直言ってやりたくはなかったが、暇であったのもまた事実。
りんにとって犬夜叉の到来は、一日の終わりを、ひいては殺生丸との別れを意味している。


「今行きます」


りんは立ち上がる。
今日の犬夜叉は、その傍らに妻であるかごめを伴っていた。
どうやら山へ薬草を摘みに行った帰りらしい。
抱えている小さめの網篭には、青々としたよく分からない草花がぎっしりと詰まっている。
かごめや犬夜叉を待たせてはいけない。
りんは、未だ大木に背中を預けて腰を下ろしている殺生丸を見下ろした。


殺生丸様、またきてね」


殺生丸からの返事はない。
代わりに、琥珀色の瞳を静かに閉じた。
今も昔も無口な男だが、感情が全く読めないわけではない。
りんは殺生丸が心の奥で頷くのを確認すると、後ろ髪惹かれる思いで犬夜叉やかごめのもとに走り寄った。
既に背を向けているりんは知らない。
彼女が背を向けて走り出した瞬間、殺生丸の瞳がゆっくりと開かれて、その小さく華奢な背に焼き付くような視線を浴びせていたことを。
その光景を視界に入れていたのは、なんとなく彼に目を向けていたかごめだけだった。


「ねぇりんちゃん、殺生丸といつもどんな話してるの?」
「どんな? ・・・・・うーん」


楓の家に帰る道中のあぜ道でりんにそんな質問を投げかけたのは、かごめのただの興味本位だった。
ただ、あの無口な妖怪が純粋無垢なりん相手にどんな話をしているのか気になってしまった。
りんは顎に人差し指を添えて茜色の空を見上げ、出来る限り過去の会話をさかのぼって思い出してみるが、その断片的な記憶はどれもりんが一方的に話してばかりで、とても会話という会話をしていなかったことに気付いてしまう。


「なにも、話してないです」
「何も!? 無言ってこと?」
「あたしが一方的にしゃべっているだけで、殺生丸さまはあんまりお話してくれない、かな」


自分で言いつつ、なんだかりんは悲しくなってしまう。
今日あった出来事や、うれしかったこと、悲しかったことを何も考えずに伝え、時々花や木の実を贈る。
それはりんにとって輝かしい平和な日常であったが、殺生丸にとってはどうだろう。
退屈なのではないだろうか。
小石を蹴りながら、りんはいくら考えてもわからないはずの殺生丸の心を予想立ててみる。


「あんな無口な野郎と話しててもつまんねぇだろ」
「そんなことないです」


遠くの枯れ枝にとまる雀をぼーっと見つめながら口を開いた犬夜叉の言葉を、りんは反射的に否定していた。
その否定ぶりがあまりにも早かったために、かごめも犬夜叉も思わず驚いてりんに視線を向ける。
するとりんは、何故だか妙に悲しそうに視線を落としながら、消え入りそうな声でつぶやいた。


殺生丸様と一緒にいるのは、楽しいです」


それは本心だった。
彼と一緒にいるのは楽しい。
自分が一方的に話しているだけでも、隣にいてくれさえすればそれでいいとすら思える。
けれど、自分と同じ感情を相手も抱いているとは思えない。
一緒にいることで胸に生まれるこの優しい気持ちも、胸が締め付けられるような苦しみも、もっと一緒に居たいという欲求も、彼は自分と同じ分量だけ感じているのだろうか。
殺生丸と自分の間にある見えない壁が、彼の心までも曇らせる。

下を向き、悲し気に眉を寄せるりんの様子を、犬夜叉は何も言わず見つめていた。
あの冷徹な兄の腹違いの弟として、この少女に何か言葉をかけてやろうかとも思ったが、相応しい言葉が見つからない。
こんな時、弥勒あたりなら相応しい言葉を知っているのだろうが、かごめから散々“でりかしー”なるものが欠けていると言われ続けた犬夜叉には、りんに何を言えば正解に当たるのか、皆目見当がつかなかった。

夕日によって照らされるあぜ道を歩き、三人は楓の家へと向かう。
やがてその軒先に到着したことで、犬夜叉とかごめはりんに一言別れを告げて自分たちの家へと引き返そうとするが、家の入口にかけられた簾を片手で払いながら顔を出した楓に呼び止められてしまった。
用件を言わず、とりあえず中へと促されるままりんと共に楓の家に上がり込む犬夜叉とかごめ。
囲炉裏を囲み、四人は向かい合った。
何やらかしこまった様子の楓に、犬夜叉とかごめの背筋は無意識に伸びてしまう。
楓がようやく口火を切ったのは、湯飲みに入った茶を一口飲み終わってからだった。


「そなたたちにも意見を請いたい。りんの今後について」


楓の口からもたらされた用件は、意外なものだった。
てっきり妖怪退治か何かの依頼だと思っていた犬夜叉とかごめは、一瞬だけ顔を見合わせた。
りんもまた、自分が話の中心人物になるとは思ってもみなかったようで、少し戸惑っている。


「りん、隣村の名主の息子は知っておるな?確か、清一という・・・」
「はい、知っています。よくこの村に米を届けてくれるから」
「話したことはあるな?」
「何度も」
「そうか」


楓の口から出た“清一”とは、りんよりもほんの少し年上の青年である。
妖怪が多く住み着いている山に隣接している隣村は、よく妖怪に襲われるため、たびたび犬夜叉弥勒が退治をしに出向いているが、その返礼として、時折大量の米をこの村に米を届けてくれる。
その米を牛車に乗せて運んでくるのは、隣村の名主の息子である清一の仕事であった。
歳が近い清一とりんは、必然的に会えば挨拶や軽い雑談を交わす友人のような仲になっていた。
なぜ今その清一の名前が挙がるのかわからないまま、素直に質問に答えるりん。
そんな彼女の返答を聞きながら、かごめはこれから楓によってもたらされる話の内容が何となくわかってしまった。


「実はな、隣村の名主から息子との縁談が来ている。是非、りんに来てほしいと」
「えっ」


驚いた様子で目を丸くするりんとは対照的に、かごめはやはりかと内心つぶやいた。
現代の感覚で言えばりんはまだまだ子供だが、ここは戦国時代。
十代半ばの女性は、まさに結婚適齢期ど真ん中なのだ。
りんにそのような縁談がもたらされたとしても、何ら不思議ではない。


「名主ってあの金持ちそうなオヤジだろ?よかったじゃねぇか。玉の輿ってやつだな」
犬夜叉!あんたねぇ・・・」
「なんだよ?」


妖怪退治のために弥勒と何度も隣村を訪れていた犬夜叉には、名主の家がどれほどの家であるかをよく知っていた。
この貧しい戦乱の世で、武蔵の国の田舎村にしては立派な家に住んでいる。
あの家からご指名で嫁に来てくれと言われている事実は、普通の村娘なら泣いて喜ぶだろう。
しかし、りんは普通の村娘などではない。
呑気な犬夜叉は、何故自分の発言が隣に座るかごめに咎められたのか分かっていないようだが、彼らの目の前に座っているりんの様子を見れば理由は明らかであった。
複雑そうな顔でうつむいているりんは、どこからどう見ても喜んでいるようには見えない。


「楓おばあちゃん、他の子じゃだめなの?りんちゃんと歳が近い子なんて、ほかにいくらでもいるじゃない」
「それがな、清一がりんをいたく気に入っているようで、この村の娘と結ばれるのならまずはりんと話がしたいと言って聞かんそうだ」
「そう・・・」
「惚れられたな」


他人ごとのように言い放った犬夜叉は、出された湯飲みに口をつける。
代えがきかないという状況は、余計にりんを追い詰めてしまったらしく、彼女の表情は一層暗くなる。


「我らとしては、経済的にも豊かな隣村と強いつながりができることは喜ばしい。犬夜叉の言う通り、名主殿はこのあたりでも有数の家柄だ。嫁げば苦労もせんだろう。だがこれはりん自身が決めること。我らのごとき外野がとやかく言うことではない。りん、お前の好きにせよ」
「・・・・・・・・・・」


りんは困ったようにうつむきながら言葉を探していた。
清一は悪い人ではない。
けれど、嫁ぐとなれば話は別だった。
今まで、誰かに嫁ぐことなど全く想像もしていなかったが、近年歳の近い娘たちが一斉に近隣の村々に嫁に行ってしまい、もしかすると自分にもそんな話が来てしまうのではないだろうかと危惧していたが、まさかこんなにも早くその時が来るとは。
混乱している様子のりんを不憫に思ったかごめは、なんとか彼女の立場を守ろうと口をはさむ。


「そんなすぐには決められないわよね」
「・・・・・・はい」


遠慮がちに頷くりん。
この縁談に彼女が戸惑い、答えを渋ることは楓にも予想がついていた。
幼いころ、人の子として育ってこなかった彼女が、つながりの薄い人間の集団に飛び込もうなど容易ではないはず。
だからこそ、名主からこの話を貰ったときに、楓は即答せずに答えを保留した。
りんはもう子供ではない。
けれど、大人でもない。
人生最大の決断を下すには、りんの心はまだ不安定すぎている。


「そうか。ならばゆっくり考えなさい。相手には待ってくれと伝えてある」


楓は再び、湯飲みに口をつける。
深く深く息を吐き、りんに視線を向けると、彼女の目をじっと見つめて再び口を開いた。


「りんよ。熟考せよ。己が身を置くにふさわしい場所がどこにあるのか。その答えは、己自身にしかわからぬことだ」


清一に嫁ぐか否か。
その選択次第で、りんの生き方も定まってしまう。
かつてりんは、妖怪とともに生きていた。
しかし今は、こうして人間の村で人の子として生きている。
りんに与えられたこの二つの選択肢は、両方とも選べるものではない。
いつかどちらかを斬り捨て、どちらかを選ばなくてはならなくなる日が必ず来ると、りん自身にもわかっていた。
落ち着かない心を抱え込んだまま、りんは小さな声で“はい”と返す。
まるで言い聞かせるかのような楓の目を、りんは怖くて見つめ返すことが出来なかった。


********************


楓の村は、決して豊かとはいえない。
京の都からは遠く離れているし、周囲を山々に囲まれているせいで栄えている町との交通の便も悪い。
強いて胸を張れることと言えば、半妖や手練れの退治屋、徳の高い法師や強力な霊力を持つ巫女がいるため、妖怪から襲撃される心配がほとんどないところくらだ。

嵐や洪水といった自然災害が起これば食料に困ることもあるし、近くで戦が起きれば金銭に困ることも多々ある。
そんな村に舞い込んできた縁談の話は、瞬く間に村中に広まった。
隣村はこのあたりでも有数の豊かな村だ。
そんな村の名主と太いつながりを持てることに、村の人間たちは強い希望を抱いている。
そこに、りんの気持ちなど関係はない。
彼女一人が隣村へ嫁げば、村全体が豊かになれる。
名主の家は裕福だし、当のりんも苦労はしないだろう。
並の女なら飛び上がって喜ぶような相手だし、嫌がりはしないはず。
りんのことをよく知らない村人たちの見解は、これで一致していた。

己に向けられた羨望と期待の眼差しを、りんは強く実感していた。
そして重荷に感じてもいた。
これが、貧乏で嫁に対する扱いも酷いようなハズレの家が相手だったのなら、生贄などまっぴらだと突っぱねられそうなものだが、誰もがうらやむ好条件をそろえた名主の家が相手なのだからたちが悪い。
りん自身、清一に嫁げばきっと幸せになれるだろうとも思っていた。
楓の村で暮らすようになって以降、人間に対する恐怖心や嫌悪感は昔に比べて薄らいできた。
清一はいい人だし気も合う。
嫁げばきっと大事にしてくれるだろう。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。

りんは考える。
清一に嫁ぐということは、与えられた選択肢の一つを斬り捨てるということだ。
殺生丸と共にあるということを。
嫁げば、今までのように頻繁に殺生丸や邪見たちとは会えなくなるだろう。
それでいいのだろうか。
せめて、嫁いでもいいか許可をもらった方がいいのではないだろうか。
もしかすると、ダメだと言われるかもしれないし。
そうだ、相談しよう。殺生丸様ならきっと、答えをくれる。
殺生丸様が望んだとおりにすればいい。
今までそうやって生きてきたように。
殺生丸様がやめておけと言えば、素直にお断りしよう。
村の皆には悪いけど、殺生丸様がそう言うなら仕方がないのだから。

そんな軽い気持ちで、りんは今日も殺生丸に会いに行った。


「好きにしろ」


殺生丸からの言葉によって、傷ついたり苦しくなったりしたことは今まで一度もなかった。
けれど今日は、その言葉を聞いた瞬間頭が真っ白になってしまう。
こちらの顔も見ずに、まるで矢のように言い放たれたその言葉は、りんの胸を貫いた。


「え、殺生丸様、よろしいので・・・?」


彼の足元に控えていた邪見が、恐る恐る遠慮しながら尋ねる。
だが殺生丸は、りんに背を向けたまま顔を見せようとはしない。
怒りもせず、悲しみもせず、そして動揺などするわけもなく、いつもの声色で言葉を続ける。


「嫁ぎたいのであれば嫁げばいい。この殺生丸の管下するところではない」


思えば当たり前のことだった。
殺生丸というこの妖怪は、もともと何かに固執するような性格ではない。
りんを人里に預けたのも、りん自身がいつか決断できるようにと後押ししただけのこと。
殺生丸はいつだって、りんを束縛したことはない。
りんは昔から殺生丸の背を勝手についてきただけの存在でしかなく、彼女は殺生丸のもとでは残酷なほど自由な存在であった。
だからこそ、殺生丸がりんを引き留める理由などどこにもない。
りんは最初から殺生丸のものなどではなかったのだから。


「そっか・・・じゃあ、りん、清一との縁談、受けるね」
「・・・・・・・・・・」
「えっと・・・たぶん、もう殺生丸様たちには会えなくなると思うから・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・いままで、ありがとうございました」


一向にこちらを見ようとしない殺生丸の背に向かって、りんは深々と頭を下げた。
膝に添えられた手のひらに、自然と力が入る。
2人の間に立つ邪見は困ったように互いを交互に見つめているが、何も口をはさめないらしくただ口を開けてオロオロとしている。

りんは、これまで生きてきた中で初めて“虚しさ”というものを感じていた。
自分は今日、何のために彼を訪ねてきたのだろ。
突き放されるためだけに来たようにしか思えない。
今まで築き上げてきた殺生丸との絆が、彼から放たれた“好きにしろ”の一言で一瞬のうちに崩れ去ってしまったような気がする。
いや、そもそも二人の間に絆があるなどと思っていたのはりんだけで、実のところ殺生丸はそんなものは微塵も感じていなかったのではないだろうか。
彼から向けられていたと思っていた熱っぽい視線も、優しい気遣いも、すべてはりんの一方的な気のせい。
そうだ、最初から彼はりんの手の届く相手ではなかった。
こんなちっぽけな自分が、彼のような存在の隣にいていいはずがなかったのだ。

りんはそのまま顔を上げると、踵を返してゆっくりと村の方へと引き返し始める。
今までにないほどゆっくりとしたその歩調は、まるで後ろ髪惹かれるかのよう。
しかし、それでもやはり殺生丸は、りんを引き留めることはない。
一向に声がかからない背後を気にしながら、彼のいた場所から徐々に遠ざかっていくのは、悲しい。

殺生丸がいた森を抜け、村がようやく見えてきたところで、りんの中で何かが堰を斬った。
感情が波のように押し寄せ、りんの理性を攫ってゆく。
瞳からこぼれる生暖かい涙を頬に感じながら、りんは実感した。

あぁそうか。あたしは殺生丸様に引き留めてほしかったんだ。
いくな。誰かのものになんてなるんじゃないと。
腕を引っ張って、道を示してほしかったんだ。
あたし、ほんとうは、殺生丸と生きていきたかったんだ。

それが分かった途端、止められない感情が涙となって押し寄せる。
森の入口には、まるで子供のように泣きわめくりんの声と、雀の鳴き声だけが響いていた。


********************


「荷が重いんじゃねぇのか?」


陽が沈み始めた頃、犬夜叉は一人楓の家を訪れていた。
家に上がり込むなり座りもせずに壁に寄りかかり、腕を組んで単刀直入に語り掛けてくる犬夜叉に少々面喰いはしたが、楓は干し草を並べる作業を続けながら応対することにする。


「何の話だ」
「りんのことだよ。名主の家は割かし名家なんだろ?教養もねぇりんに嫁がせれば向こうが困るんじゃねぇかって言ってんだよ」


らしくないことを言う犬夜叉に、楓は少し笑ってしまった。
彼はどうも言いたいことをまっすぐに言えないきらいがあるらしい。
教養を気にするような人格など持ち合わせていないというのに、わざわざそれらしいいちゃもんを見つけて来て楓にぶつけているのだろう。


犬夜叉、おぬしは随分と優しいことを言うな」
「あ?」
「りんを不憫に思っているのだろう。望んでもおらぬ家に嫁がせるのを哀れと思ってそのようなことを」
「馬鹿言え。俺はただ・・・」


何かを言いかけて、犬夜叉はそのまま口を閉じてしまう。
なにを言いかけたのかはわからないが、彼が思っていることは何となく想像がつく。
なにせ彼は、あの男の弟なのだ。
思うところがないわけもなかろう。
楓は干し草を並べ終わると一息つき、胡坐をかいて犬夜叉の方へと向き直る。


「わしはな、いわゆる女としての幸せというものを知らずに生きてきた」
「女としての幸せ?」
「誰かの妻となり、子を成すことだ。かごめ曰く、井戸の向こうの国では、女の幸せはそれだけではないと言うが、我らが生きるこの時勢は違う。巫女として長く神事に尽くしておるがゆえに、その幸せを知らずに生きてきた。これは、桔梗お姉さまも同じこと」
「・・・・・・・・・・」
「後悔はしておらぬ。それもまた人生だからな。だが、こうして年を取ると、巫女ではなく、女として生きる選択をしていたらどうなっていたのか、気になることもある。もっと別の生き方があったのではないかと思うこともな」


楓の言葉は、犬夜叉の古い記憶を呼び起こさせる。
元々体温など感じるはずもない死人の体が、自分の腕の中で再び冥界に帰ろうとしていたあの時、白い顔をした彼女は、“やっとただの女になれた”と笑っていた。
人として、女としての幸せを知らずに生きてきた彼女だからこその言葉だった。
ではりんは、今、女として幸せに生きていると言えるのだろうか。
分からない。
犬夜叉は腕を組んだまま無言を貫く、足元に視線を落としている。

手元にあるすべての干し草を並べ終わった楓は、両の手を正座した膝の上に乗せ、ふうと一息つく。
そして天井を見つめ、虚空に視線を投じながらつぶやくように言葉を続ける。


「平穏に生きることすらままならぬ戦国の世だ。せめてりんには、そのように生きてもらいたい」


人の世というものを、半妖の犬夜叉はよく知らない。
弱く脆い存在である人間が、戦の絶えないこの世を生き抜くことは難しいというが、爪も牙もある犬夜叉には到底理解できない情勢であろう。
おそらく、完全な妖怪であるあの兄も。
人間と妖怪は、心を通わすことは出来ても、同じ時を生きることはできない。
いつかは片方が取り残され、その後続く長大な孤独を生きなければならなくなる。
かごめがいなくなった後、自分はその孤独に耐えることが出来るのだろうか。
今まで考えないようにしていたが、楓の言葉で思い起こしてしまった。
りんと絆を結んでいるあの冷徹極まりなかった兄は、その辺のことをどう思っているのだろう。
致し方ないことだと受け入れるのか、それとも・・・。

見知った匂いが近付いてくることに気付き、犬夜叉はうつむいていた顔を上げた。
その匂いの正体、りんが家に入ってきたと同時に、楓は彼女に声をかける。


「おかえり、りん」


ただいま、といつものように返事が返ってくるものだと思っていた楓だったが、いつまで経っても何も言ってこないりんを不審に思い、再び彼女に視線を向ける。
すると彼女は、まるで世界の悲しみをすべて背負ったかのように暗い表情を浮かべ、目は真っ赤に晴れていた。
ほのかに香る涙の匂いに、犬夜叉はぎょっとりんを見つめ続ける。


「楓さま、あたし、清一に嫁ぎます」


りんの口から発せられたかすれた声が、すべてを物語っていた。
楓は、驚いて何も言えなくなっている犬夜叉を尻目に、特に理由を聞くこともなく静かに頷くのだった。


********************


季節の移ろいとともに、村を取り巻く草花の色も明るく華やいでいった。
枯れ枝が目立った森の木々は青々とした葉をつけ、道には小さな花たちが顔を出す。
森の方から風に乗って流れてくる桜の花びらが、人間たちに春の到来を告げていた。
りんは春が好きだった。
寒さに震える冬が過ぎ去り、暖かさを連れてくる春が好きだった。
けれども、今年は春の到来を心から喜べずにいる。
春が来たら正式に顔合わせをする、と清一の父親と楓が約束していたからだ。

りん自身の決断により、彼女と清一の縁談は思いのほか早く進んだ。
村中にもその事実は周知され、りんは話したこともない村民たちから祝いの言葉をかけられる始末。
かごめや珊瑚といった姉替わりの女たちからも、遠慮がちに‘おめでとう’の言葉を貰ったが、その言葉を投げつけられるたび、りんの心は重く沈んでいった。

あれからというもの、殺生丸には会っていない。
森へ入り、彼の姿を探そうかとも考えたが、すぐに惨めな気持ちになって辞めてしまう。
彼に会ったところでどうする。
なにも話すことなどない。
ただ、また心に傷が増えるだけ。
りんは毎日のように、春が来なければいいのにと心で愚痴を零しながら、うつむく日々を送っていた。
しかし、時の流れはあっという間に過ぎ去るもので、いつの間にやら村には春が訪れていた。


「その格好で行くのか」


身支度を終えたりんの姿を見て、楓は思わず問いかけた。
彼女が身に纏っている小袖は、一年ほど前に楓が川沿いの町に出た時に適当に見繕って来たもの。
あまり上等なものとは言えなかった。
地味な紺色に白い菊の花があしらわれた小袖は、気持ち沈むりんの顔色を一層暗く演出している。


「これでいいんです」
「しかしなぁ、もっと上等なものが他にあるだろう。ほら、あれはどうだ? 数か月前にもらった桃色に蝶の柄の・・・」


数か月前、りんが嬉しそうに反物を抱えて帰ってきた日のことを、楓はよく覚えていた。
上等な生地で作られたその反物は、殺生丸からの贈り物である。
すぐさま着物に仕立てると、りんはそのお気に入りを毎日のように着ていた。
あれならば色も明るいし、もっと映えるのではないかと提案した楓だったが、りんはすぐさま顔を横に振る。
殺生丸から贈られた着物を着ていくなど、絶対に嫌だった。


「今日はただの顔合わせなんだろ?別に祝言挙げるわけでもねぇんだから何でもいいだろ。早くしろよ」


玄関口に寄りかかり、腕を組んでいた犬夜叉に急かされる形で、りんと楓の問答に決着がついた。
楓は少量の荷物がくるんである風呂敷を抱え、残りの荷物は犬夜叉が持つ形で家を出発する。
隣村まではそう遠くないが、道中妖怪に襲われるとも限らない。
楓は犬夜叉に護衛を依頼し、かごめに尻を叩けれたことでしぶしぶ了承した彼が付いてくることとなった。
先頭を歩く楓の背についていくように、犬夜叉とりんが並んで歩く。
普段は道端の花や動物を見つけては楽しそうに話しかけてくるりんだったが、今日は足元に視線を落としたまま口を閉ざしている。
そんなりんの様子を珍しく思っていた犬夜叉だったが、元気づけようだとか雰囲気を明るくしようだとか、そのような優しさは持ち合わせていない彼は、そのまま何も言わずりんの横を歩いていた。


犬夜叉さま」


だが、そんな沈黙を破ったのはりんのほうだった。
突然話しかけられた犬夜叉は、適当に返事をしてみる。


「あ?」
「私が嫁ぐことで、村は裕福になりますよね」
「・・・は?」
「隣村と近しくなれば、きっと私たちの村も豊かになりますよね。村の人たちも、きっとそれを望んでいますよね」


りんは、まだ迷っていた。
この期に及んで胸を支配する葛藤が鬱陶しくて、藁にもすがる気持ちで犬夜叉に問いかけたのだ。
これはある種の暗示である。
自分が嫁げば万事うまくいくのだという事実を隣の半妖に問いかけることで、自分自身にも最良の道だと言い聞かせているに過ぎない。
犬夜叉に期待する返答はただ一つ。
‘あぁそうだ。お前が嫁げば村の者たちは幸せになれる’
ただこれだけだった。


「お前、村のために清一とかいうガキに嫁ごうとしてるのか」


頷くりん。
しおらしい彼女の様子に、犬夜叉は酷く苛立ったように舌打ちをした。


「俺はてっきり、自分の意志で縁談を受け入れたもんだと思ってたんだが、違うのか」
「あたしは、どっちでもいいです。村がそれで豊かになるのなら・・・」
「つまらねぇ嘘ついてんじゃねぇ。嫁ぎたくなんかねぇって顔してるぞ」


りんの白い肌に浮かぶ不安の色は、どんなに着飾ったとしてもごまかすことは出来ない。
図星を突かれたりんは、そのまま瞳を潤ませて押し黙ってしまう。


「結局、自分で決めきれねぇから嫁ぐ理由を村の奴らに押し付けてるだけだろ。そうやって人のせいにしてれば言い訳にもなるしな」
「あたし、そんなつもりじゃ・・・」
「言っとくけどな、お前ひとりが嫁いだだけで村の奴ら全員の生活が劇的に変わると思ってんならただの自惚れだ。世の中そんなに単純じゃねぇんだよ」
「・・・・・」
「てめぇの生き方くらいてめぇで決めろ。他人に決めてもらおうなんて甘いこと考えてんじゃねぇ」


まっすぐ前を見つめながら淡々とした口調で説き伏せる犬夜叉
彼の口から発せられる何の配慮も遠慮もない言葉は、りんの胸に深く突き刺さる。
かごめや珊瑚、弥勒たちは、りんの心情をなんとなく察してはいたが、彼女に遠慮して核心的なことは何も言えずにいた。
だが、犬夜叉には彼らのように人の心を解し、寄り添って柔い言葉をかけてやるような優しさはない。
なんの飾り気もなく容赦なく突き立てられた言葉だからこそ、りんの胸に深く響いた。
やがてりんは、流れに引き寄せられるように村へと向けていた足をぴたりと止める。
立ち止まり、やはりうつむいたままのりんに振り返りながら、少し先で立ち止まった犬夜叉は、再びりんに言葉を向けた。


「あの野郎に、なんか言われたのか」


彼の言う“あの野郎”が一体誰のことを指示しているのかすぐに分かった。
犬夜叉と同じ銀色の髪に琥珀色の瞳を持つ、あの男。
その顔を思い出すだけで、胸が焼け付くように熱くなる。


「好きにしろって」
「なら好きにすりゃあいいじゃねぇか。こんなところで辛気臭ぇ顔してねぇで、行きたい奴のところに行ききゃあいいだろ」


犬夜叉からもたらされた答えは、りんが期待していた答えとは正反対だった。
お前が嫁げは万事うまくいく。深く考えるな。
そう言ってもらえれば、余計なことを考えずに済んだ。
いらぬ迷いを躊躇なく捨てられた。

りんは犬夜叉に期待していた。
彼の弟という、ある意味では彼に一番近しい存在である彼から斬り捨てられることで、己の迷いも消えるのではないだろうかと。
しかし、犬夜叉は残酷にも、りんにいらぬ希望を与えてしまった。
誰の言葉にも耳を貸すな。己の生きたいように生きろ。
力強いその言葉は、りんの中に渦巻く迷いを打ち消し、大きな決意となって心を支配する。
殺生丸から突き放されたあの日から、心の奥の奥に無理矢理閉じ込めた大きな感情が、さらに肥大化してりんの中から飛び出そうとする。
何が最良なのかはわかっている。けれど、
それでも心は偽れない。
瞳一杯に涙を貯め、りんははじめて顔を上げた。


「どうした犬夜叉。・・・りん?」


背後で歩みを止めたりんと犬夜叉を不思議に思い、道の先で楓が立ち止まってこちらを振り向いていた。
両手を体の脇でぎゅっと握り込み、涙目でこちらをじっと見つめているりん、
人生経験の長い老婆、楓は、りんのその表情が何かしらの決意を秘めているものだと気が付いていた。
そして、その決意とはいったい何なのかも、大方の察しはつく。
春の風を一身に背中に受け、乱れる髪を気にすることもなく、りんは口を開いた。


「楓様、あたし・・・」


********************


比較的村からほど近い小川を、かごめはひとり歩いていた。
薬草を摘んだついでに、その辺を散歩をしようとうろうろ歩き回っていたのだ。
この辺りは妖怪も少なく、女一人歩いていてもさほど危険ではない。
小川に目をやると、上流の方に生えている桜の木から零れ落ちたのであろう桃色の花びらがぱらぱらと流れている。
風情あるその光景をぼんやり見つめながら歩を進めるかごめだったが、とある木陰に珍しい人物が腰かけていることに気が付いた。
その白い人影は、たった一人で寂し気に小川を流れる桜の花びらを見つめていた。


「奇遇ね、お義兄さん」


かごめが声をかけると、殺生丸は視線だけ一瞬こちらに向けるも、すぐさま何も言わず目をそらしてしまう。


「ここ、座っていい?」


少し離れたところを指さして聞いてみるかごめだったが、やはり殺生丸からの返事はない。
元々双方向の会話ができるような気やすい相手ではないのは重々理解しているため、今更不愛想だとは感じない。
拒絶の言葉が飛んでこないということは、きっと良いという意味だろう。
いいように解釈したかごめは、薬草が入った籠を隣に置き、殺生丸から少しだけ距離を置く形で草の上に尻をついた。


「りんちゃんに会いに来たの? それなら今日はいないわよ。隣村に犬夜叉たちと一緒に顔合わせに行っちゃったから。縁談の話はりんちゃんから聞いてるわよね?」


まくしたてるように語り掛けるかごめだったが、それでもやはり殺生丸は小川の花びらを見つめたまま無反応である。
それでもいい。
かごめは、隣に座る男の本音が知りたくて、言葉による攻めをやめようとはしなかった。


「なんか意外だった。りんちゃんが縁談を受け入れるなんて。楓ばあちゃんから初めてその話を聞いた時も乗り気なようには見えなかったし、なにより・・・」


なんとなく言いにくそうにちらちと殺生丸の顔を盗み見た後、膝を抱えるように小さく体を丸めたかごめは、囁くほどの小さな声でつぶやいた。


「あなたが止めると思ってた」
「・・・・・・・・・・何故だ」


ほんの少しの沈黙の後、殺生丸から初めての反応が返ってきた。
返事が来るとは思っていなかったかごめは一瞬だけ驚いた様子だったが、すぐに視線を小川の方へと向け、淡々と言葉を続ける。


「だってそうでしょ? りんちゃんはずっとあなたと一緒にいたんだから。あたはきっと、りんちゃんを手放さないと思ったの」


今度は少し長めの沈黙が訪れた。
小川が水を運ぶちょろちょろという音と、雀のかわいらしい鳴き声だけが響いている。
次に何を言おうかと迷い始めるかごめに対し、殺生丸は小さく息を吐きながら再び口を開いた。


「りんが誰に嫁ごうが、私には関係のないことだ」
「関係ない?」


その時、かごめの中でぴきっと何かが音を立てた。
まるで突き放すかのような冷たい言葉。
興味がないとでも言い出しかねない声色、
そのすべてが気に入らなかった。
かごめは身を乗りだすようにして殺生丸の側に手を突き、食って掛かるような勢いで声を張り上げた。


「関係ないわけないわ!りんちゃんは、言葉にこそ出さなかったけど、あんたのことが好きだったのよ? あんたにだってわかってたはずでしょ?」


かごめは人の感情に敏い女性である。
一度たりともりんから本音を聞いたことはないが、彼女の態度は明らかに殺生丸への好意がにじみ出ていた。
楓からもたらされた縁談を、消極的にとらえていたのもりんの心を思えばこそだった。
しかし、結果的にりんは縁談を受け入れると決意した。
その決断の裏には、かごめが介入できないりんと殺生丸のやりとりがあったのかもしれないが、そこを発掘してやろうという無粋な考えはかごめにはない。
お互いに納得した上での別れだったのだろうと解釈していたが、今の殺生丸の一言で、見えていなかった二人のやり取りが透けて見えるようだった。

おそらく殺生丸はりんに、先ほどと同じ言葉を投げつけたに違いない。
そしてりんは傷つき、寄る辺を失った。
唯一無二の存在だった殺生丸から背を向けられたりんは、伸ばされた縁談という手を選ぶしかなくなる。
選択肢を与えておいて、道を遮断したのはりんではなく、殺生丸の方だったのだ。


「どちらかがそういう感情を抱いたその瞬間に、関係ないなんて言い訳は通用しなくなるのよ」


殺生丸は、りんの心に気付いていた。
どれだけ目を逸らそうと、そばにいる時間が長ければ長いほど気持ちは大きくなってゆく、
それは殺生丸も同じであった。
けれども、その心に正直に飛び込めるほど、殺生丸は身軽ではない。
りんを想えば想うほど、二人を隔てる溝の深さをどうしても実感してしまう。


「りんの人生に、私が介入する余地などない」
「えっ」


突如として殺生丸の口から零れ落ちた言葉に、かごめは驚きを隠せなかった。
まるで己を卑下するかのような口ぶり。
小川の流れに身を任せる桜の花びらたちを見つめる殺生丸の目は、いつになく寂しげであった。
りんはよく、殺生丸様は手の届かない存在だと言っていた。
しかし、殺生丸も同じようなことを思っていたということに、りんは果たして気付いているのだろうか。
戸惑うかごめを尻目に、殺生丸はたたみかけるように言葉を続ける。


「妖怪と人間の間にある溝は、どうあがいても埋まるものではない。その溝を飛び越え、片方の領域に足を踏み入れるのは、危険すぎる。要らぬ危険を冒すよりも、溝の向こうの世界など忘れて人間の社会で生き続けた方が、りんも幸福だろう」
「・・・じゃあ、あんたのしあわせってなに?」


低く囁かれたかごめの言葉に、殺生丸は初めて視線を寄越した。
痛々しいものを見るかのように悲し気な瞳をしたかごめは、愛しい男と同じ色の瞳を見つめながらまくしたてる。


「りんちゃんはそれでいいとしても、あんたはそれでいいの?それで満足なの? 私、殺生丸はもっと傲慢で、自分勝手で、強引な人だと思ってた。どうしてそんなもの分かりよく身を引いちゃうわけ? その優しさが、りんちゃんを傷つけてるのよ!?」


なおもなにも言わずこちらに目を向けてくる殺生丸
何も反論しない潔さが、尚更かごめの神経を逆撫でさせる。
まるでそんなことは最初から分かっているとでも言いたげで、癪に障ったのだ。
押し寄せる怒りに身を任せ、かごめは立ち上がる。
傍に置いてあった薬草を入れてある籠が横倒しになってしまったが、構うことはない。


「あんたにはないわけ? 周りや環境がどうであろうと関係ない、どうしても諦められない、そういう自分勝手な感情が」


見下ろす殺生丸は、自分よりもはるかに強いくせに、なんだか妙に小さく見える。
彼はかごめから視線を外すと、再び小川を流れる桜の花びらたちに視線を移す。


「お前にはあるのか」
「あるわ。だから井戸を通って、ここにいるんじゃない」


かごめがあの村に戻ってきた背景は、りんを介してなんとなく知ってはいた。
故郷と家族を捨て、犬夜叉の元にいることを選んだと。
その決断の背景にある彼女の葛藤は、殺生丸にはわからない。
けれども、今胸を張って殺生丸に啖呵を切っているかごめの様子を見れば、そう簡単に決断したものではないことがうかがい知れる。
体裁だの、世間体だの、常識だの、そんなものをすべて無視して井戸に飛び込んだ彼女は、一体どういう気持ちであの村に帰って来たのだろう。
何にせよ、その行動には勇気が伴ったはずだ。
殺生丸がりんに対して示すことが出来なかったたった一つの勇気を、かごめは持っていた。


「そうか」


短く返事をすると、殺生丸はゆっくりと瞳を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、背を向けて自分の見知らぬ場所へ旅立ってゆくりんの姿。
彼女と殺生丸の間には、深く大きな溝がある。
けれど、飛び越えられないほどの溝ではない。
ほんの少し踏み込めば、簡単に対岸へと渡ってゆけるだろう。
何故、今の今まで飛び越えようとしなかったのろうか。
溝を飛び越え、そしてりんの体を攫い奪ってゆく。
思えばそれは、大妖怪たる殺生丸には至極簡単なことであったのだ。

突如として風が吹き荒れる。
桜の花びらが入り混じった枯草たちが舞い上がり、かごめは思わず小さな異名をあげて片手で顔を覆った。
遮られる視界。風の音でかき消される周囲の気配。
風がやみ、気が付くとそこには、殺生丸の姿はなかった。
どこへ行ったのかは想像がつく。
彼は血を分けた弟と同じく、存外素直なところがあることをかごめは知っていた。


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「楓様、あたし・・・」


言いかけたりんの背後に、突風が吹き荒れる。
どこからともなく飛んできた桜の花びらを纏いながら吹き荒れる風に、犬夜叉と楓は思わず顔を覆う。
そして、風がやんだと同時に視界が晴れ、りんのすぐ後ろに白い人影が立っていることに犬夜叉がいち早く気が付いた。


殺生丸


犬夜叉によって叫ばれた名前に驚き、振り向くりん。
彼女がその名前を口にする前に、殺生丸はりんの華奢な腕を引いて後ろから抱き留めてしまう。
即座に膝の裏へと腕を滑り込ませ、りんはあっという間に横抱きにされてしまう。
戸惑い、何も言えなくなるりんを全く構うことなく、殺生丸は地面を蹴り上げゆっくりと空へ飛び去って行ってしまった。


「お、おいこら殺生丸! どこ行きやがる!」


犬夜叉の必死の叫びもむなしく、殺生丸は振り返ることなくついには見えなくなってしまった。
突如として現れ、あっという間にりんを攫ってしまったその手口にあっけにとられる犬夜叉だったが、対して楓はさほど驚いてはいないようで、犬夜叉の隣に歩み寄ると、呆れたように深いため息をついた。


「ふぅ、やはりこうなったか。犬夜叉よ、川にでも寄って、上等な魚を一匹仕留めてくれんか」
「はぁ?なんでだよ」
「顔合わせは中止だ。その魚を手土産に謝りに行くぞ」


結局このような結果になることを、楓はどこか予感していたらしい。
取り乱すこともなく、冷静に犬夜叉に告げると、彼女は踵を返してゆっくりと歩き出してしまった。
妙に冷静な老婆の後ろ姿を見つめながら、犬夜叉は苛立ちを抑えられず舌打ちを放つ。


殺生丸の野郎、覚えてやがれ」


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あっという間に殺生丸に連れ去られてしまったりん。
空高く飛んでいる最中、彼の腕の中でりんが感じていたのは、喜びよりも戸惑いだった。
一時は冷たく突き放した彼が、なぜ今こんなことを?
考えてもわからない。
もともと何を考えているのかよく分からないところがあったが、今日は一層わからない。
何か声をかけようにも、なにを言うべきなのかわからず、りんはただ黙って殺生丸に捕らえられているしかなかった。

やがてりんを抱えた殺生丸は、森の中心で高度を下げた。
ゆっくりと降り立ったその先にあったのは、美しい桜の花を揺らめかせている一本の大木の前だった。
風に揺られながら、桃色の花びらを飛ばすその光景はこの世のものとは思えないほどに美しい。
ここにきて初めて、りんは今年まだ桜を見ていなかったことに気が付いた。


「すごくきれい」


桜の木を見上げ、思わず声を漏らすりん。
横で同じく桜を見上げる殺生丸は、その言葉を受けてちらりとりんの横顔に目をやった。


「今年も見たいと言っていただろう」


そのためにわざわざ攫ってきたというのだろうか。
あえてこの日を選んで。
まさか、殺生丸が突然の気まぐれでそんなことをするはずがないことはりんもわかっていた。
目の前の桜は、ただの大義名分に過ぎない。
本当の目的は、別のところにある。


「嫁ぐのか、人間ごときに」


隣の殺生丸が問いかける。
今更な質問に、りんは嘘偽りなく答えた。


「だって、殺生丸様が好きにしろって」
「嫁いでいいとは言っていない」
「屁理屈です、そんなの」
「そうかもしれぬ」
「なにが言いたいんです? もう訳がわからない」


泣きそうになってきたりんのこめかみを、殺生丸の細長い指がそっと撫でる。
前髪を分けるように触れると、彼はその美しい顔をりんの鼻先に近づけ、瞳を揺らめかせながら見つめてきた。
まるで、懇願するかのような眼差し。
らしくないその表情は、何も語らずとも殺生丸の心情を察するに余りある。


「お前は私なしでは生きられぬ」
「・・・大した自身ですね。どうしてそう言い切れるんですか?」
「私がそうだからだ」


ぴしゃりと言い放たれた言葉に、りんは口から心臓が飛び出そうなほど鼓動が大きく高鳴った。
何故今更、そんなことを言うのだろう。
あの時はあんなに冷たかったのに。
何度かそんな戸惑いが頭を渦巻いたが、もはや殺生丸の瞳を前にしてそんなことはどうでもいい。
2人を隔てる大きくぶ厚い壁に、ほころびが広がり始めていた。


「りん」
「は、はい」
「此度の縁談は、お前が望んだことなのか」


問いかけながら、こめかみに触れていた殺生丸の手が、りんの腕へと下がってきた。
軽くつかまれている腕を見やりながら、りんはほんの少しだけ意地悪を言ってみたくなってしまう。


「そうだと言ったら?」


瞬間、りんの腕をつかんでいた殺生丸の手に力が入り、小さな痛みが走る。
まるで逃がすまいとでも言いたげなその手は、まるで縋り付くかのよう。
腕に伝わる切ない痛みを感じながら、りんは自分の瞳に涙がたまっていくのが分かった。


「わたし・・・わたしは、殺生丸さまと一緒にいたいです。私が死ぬまで、ずっとこうして桜を見ていたい」

 

空いているもう一方の殺生丸の手を両手で握り、りんは訴えた。
ぬるい涙が頬を伝う。
けれどこれは、悲しい涙などではなかった。
‘感極まった’という表現は、きっとこういう時に使うのだろう。
りんの薄い手を、殺生丸が強く握り返す。
その瞬間、二人の間にそびえたっていた壁は、脆くも崩れ去ってしまった。


「ならば、好きにしろ」


いつもの調子でつぶやく殺生丸
言葉とは裏腹に、決して気が住まいとりんの手を握り、彼はそっとりんの小ぶりな唇に己のものを押し当てるのだった。

 

 

END