Mizudori’s home

二次創作まとめ

かごめ

【犬かご】

犬夜叉

■未来捏造

■短編

 

これほどまでに人里近くまでやってきたのは初めてだった。
といっても、この深い森の中に足を踏み入れる人間はなかなかいないらしく、長年手入れされていないらしい獣道を、殺生丸はひとり歩いていた。
枝を踏み、草木を避け、しばらく歩くと開けた場所に出る。
大きな時代樹がそびえたつその場所は、木々に覆われた森の中だというのに妙に明るかった。
時代樹は太い蔓が巻き付いており、誰もこの木の手入れをしていないことがわかる。
木の幹には一本の矢が突き刺さり、蔓に縛られているかの如く、赤い着物の少年が封じられていた。
世にも珍しい犬耳を持つその少年を見上げ、殺生丸は目を細めた。

封じられているにも関わらず。彼はずいぶんと穏やかな顔で眠りについている。
まだほんの少し幼さが残るその顔は、はるか昔、彼がまだ子供のころに初めて会ったときのものとあまり変わっていないように見えた。
四魂の玉を狙っていたが人間の女に心奪われて封印された半妖がいると風のうわさで耳にしたのは数年前。
あまり興味はなかったが、件の場所のすぐ近くまでやってきていたため、従者の小妖怪を遠くで待たせて寄り道してみれば、案の定であった。
大妖怪である父から同じ血を受け継いだ腹違いの弟の姿が、そこにはあった。

殺生丸も、四魂の玉という面妖な宝玉の存在は知っていた。
妖怪が持てば力を得ることが出来るというその玉を狙う者は多かったと聞くが、もともと力を持っている殺生丸にとっては必要のないものだったため、関わろうとすらしなかった。
しかし、半妖の弟は違うらしい。
四魂の玉を狙っていたというが、おそらく狙いは完全な妖怪になること。
中途半端な半妖が考えそうなことだと、殺生丸は内心嘲笑した。
自分以外の力を借りて強くなろうなど、愚か者のすること。
ましてや、妖怪になりたいと願っていたにも関わらず人間の女に心奪われて封印されるなど、愚の骨頂。
この半妖が、同じ父の血を引いているとは思いたくなかった。
人間が放ったたった一本の矢で縛られてしまうような矮小な存在など、この殺生丸の弟ではない。


「人間ごときに心動かされるなど、愚かしい」


眠りに落ちている犬夜叉の顔を見ていると、父のことを思い出す。
人間の女などに心惹かれ、散っていった父を。
殺生丸は人間が嫌いだった。
それ以上に、人間などという小さな存在に生き方を乱されている父や弟が嫌いだった。
自分たちの体の中には、大妖怪としての強く、気高い血が流れている。
その血は、人間という弱き存在と交じり合うべきものではない。
途方もない力を手にしていた父は、なぜ人間などに目を向けてしまうのか、なぜそのような愚かな存在のために死を選べるのか、理解ができなかった。
そして、人間の女に封印されているにも関わらず、安らかな顔で眠っている犬夜叉のことも、理解できない。
自分よりも弱い存在に封じられておいて、なぜそんな顔をしていられる。

心の奥から湧き上がってくる怒りを感じながら、殺生丸は踵を返し、時代樹から去っていくのだった。


*******************


時代樹の大きく育った根は、腰かけるのに最適だった。
心地よい木漏れ日を浴びながら、殺生丸は時代樹の根に腰かけ、空を見上げている。
そんな彼に、同じように根の上に座っている少女、りんは、矢継ぎ早に話をしていた。
相槌や返事をすることはなかたが、りんの話を聞いていないわけではなかった殺生丸は、彼女の口から飛び出た半妖の名前に小さく反応した。


犬夜叉様、今日も井戸にいるんだよ」


空を見上げていた殺生丸の視線は、りんの方へと向けられる。
りんは木々が生い茂る遠くの方へと目を向けていた。
ここからは見えないが、その視線の先には骨喰いの井戸がある。


「やっぱり、さびしいのかな」


心配そうにつぶやくりんの言葉に、殺生丸は何も返事をしなかった。
奈落を討伐してから一年。
りんが楓の村で生活をするようになって一年。
そして、かごめという少女が故郷へ帰ってから、一年が経過していた。
封印されていたはずが、いつの間にか目覚めていた犬夜叉の傍らにいつもいたのが、そのかごめという少女であった。
殺生丸は、かごめのことをよく知らない。
りんが言うには、井戸の向こうにつながる世界に住んでいて、奈落の死をきっかけにその井戸が閉じてしまったのだと。
犬夜叉がかごめとどのような関係にあったのかなど興味もなかったが、殺生丸がりんに会うため、楓の村を訪れるたびに井戸の前で座り込んでいる犬夜叉の姿を見れば、彼がかごめに対してどのような感情を持っていたのかくらいはわかる。
りん曰く、犬夜叉は1年前にかごめと会えなくなってからずっと、毎日のように井戸を覗いているのだという。
それを聞いた時、殺生丸は50年前のことを思い出した。
たった一人の人間の女に心奪われ、時代樹に封印されていた犬夜叉
あれから50年経った今、彼はやはり人間の女に心惹かれ、縛られるように井戸の前から動けずにいる。
懲りない奴だ。
殺生丸はそんな感情しか抱かなかった。


「りん、犬夜叉さまのきもち、すこしだけわかるなぁ」


独り言のようにつぶやかれたりんの言葉は、殺生丸の興味を引いた。
井戸がある方角をじっと見つめていたはずのりんは、いつの間にか視線を落とし、自分の足元を見つめている。


殺生丸さまが、りんを村においていくって言ったとき、すっごくこわかったの。もう会えないんじゃないかって」
「何故そう思った」
「だって、りんと殺生丸さまは、ちがうから」


そう言ったりんは、小さく笑っていた。
殺生丸は今まで、自分とりんの違いというものをあまり深くは考えたことがなかった。
ただ、自分は妖怪で、りんは人間。
種族が違うだけ。
それだけなのに、何をそんなに気にすることがある。
たとえ同じ妖怪であったとしても、生き方や考え方がそれぞれ違うことは当たり前である。
以前からりんは、自分と殺生丸の相違点を見つけ出しては悲し気にうつむくということを繰り返していた。
そんな彼女の心情を、殺生丸はただ不思議に思っていただけであったが、次に続くりんの言葉が、殺生丸にひとつの答えをもたらしてくれた。


「りんは、殺生丸さまとちがってすぐに死んじゃうから」


ほんの少しだけ寂しそうに眼を伏せたりん。
未だ幼い彼女を、殺生丸は金色の瞳で見つめていた。
二人の間に吹くそよ風によって、時代樹の葉が揺れ、さらさらという心地よい音が耳に響いてきた。


「りんが死んだあとも、殺生丸さまは生き続けるでしょう?りんなんかよりもずっと長く。その中で、いつかりんのこと、忘れちゃうんじゃないかって思うと、すごくこわいの。きっと犬夜叉さまも、こわいんじゃないかな。会えないうちに、かごめさまに忘れられちゃうのがこわいんだよ」


膝を抱えて座るりんは、いつもよりも小さく見えた。
いつだったか、似たようなことをりんに問われたことがある。
“りんが死んでも、忘れないでいてくれる?”
あの時は、馬鹿らしいとさえ思った、
人間でありながら、ここまで自分の心の中に入ってきたただ一人の少女を、忘れるわけがない、と。
しかし、長い時をゆっくり生きていく殺生丸が、刹那の時を足早に生きているりんを忘れない保証など、どこにもなかった。
殺生丸でさえ、いつかは老い、過去の記憶が薄れるときは必ずやって来る。
長い時を生きる殺生丸にとって、りんとともに過ごせる時間はほんの一瞬でしかない。
若かりし頃に出会い、一瞬の時を生きたりんとの記憶は、果たして殺生丸の心に永遠に生き続けることが出来るのだろうか。
今まで考えたこともなかったような未来の話に、殺生丸は思わず目をそらした。
それと同時に、隣のりんは自分の懐を漁りだす。
そして取り出したのは、小さく赤い櫛であった。


「なんだそれは」
「これね、かごめさまからもらったの」


りんが両の掌で大事そうに包んでいるその櫛からは、ほんのわずかにかごめの匂いがしていた。
奈落との最終決戦の直前に、何の気まぐれかかごめから贈られたというその櫛を、りんはずっと大切に持っていた、
家族を早くに亡くし、身を寄せた村でも人間的な生活をまるでしていなかったりんは、年頃の女の子たちが使う櫛など、手にしたことが一度もなかったのだ。
だからこそ、かごめからそれをもらったときは、心から喜んだ。
かごめが井戸の向こうに帰ってからも、もったいなくてその櫛を一度も使っていなかったりん。
その櫛を見下ろす彼女の表情は、物憂げだった。


「これ、犬夜叉さまにあげようかな」
「何故だ」
「かごめさまのものがあれば、犬夜叉さまも、きっとさびしくないでしょう?」


腰かけていた時代樹の幹から勢いよく立ち上がったりん。
彼女は思い立ったかのように顔をきらめかせ、赤い櫛を右手に握ると、再び井戸のある方角へと視線を向けた。


犬夜叉さまに渡してくる!」


りんがその櫛をどれだけ大切にしていたのか、殺生丸はよく知っていた。
肌身離さず持っていたその櫛を、あっさりと犬夜叉に渡してしまおうというその思考が理解できず、殺生丸は立ち去ろうとするりんの腕をつかみ、引き留める。
引き留められたりんはその場で足を止め、不思議そうな顔をしながら殺生丸の方を振り返る。
彼女の右手に握られている櫛に視線を落とした殺生丸は、その櫛の色と同じ着物を着た弟の顔を思い出していた。

犬夜叉
女に魅了され、50年物長い間封じられていた愚弟。
会えずじまいの女に恋焦がれ、未練たらしく待ち続けている愚弟。
人間の女などに生き方を左右されている愚弟。

半妖である彼の考えは実に人間的で、きっと、一生理解できるものではないと、殺生丸は思っていた。
けれど今、りんの腕を握っている彼には、犬夜叉の考えや感じていることが少しだけわかってしまう。
失うことへの悲しみ、恐れ。
そして、相手を愛おしいと思える心。
殺生丸にとっては一瞬でしかなかった1年という間に、彼はたったひとりの人間の少女によってそのすべてを教えられた。
もしかすると犬夜叉は、自分よりもほんの少しだけその心を手に入れるのが早かっただけなのかもしれない。
りんがもし、かごめと同じように自分の前から去ることになったとしたら、きっと・・・。

風に揺れる時代樹の葉は、さらさらと心地よい音を立てている。
その音を聞きながら、殺生丸は小さくささやいた。


「りん、櫛を寄越せ」


*********************


骨喰いの井戸の前に座り込んで、早くも一刻が過ぎた。
どれだけ待ってもかごめが現れないことはわかっているが、ここから動くことは出来なかった。
この場所にいると、頭の奥で彼女が声が聞こえてくるような気がしていたから。
犬夜叉
自分の名前を呼んで笑いかける彼女の声は頭に反響する。
けれどその声は、時が経つにつれてどんどん小さくなっていく。
彼女の声を、忘れかけているのだ。
泣きながら呼ぶ声も、楽しそうな声も、怒りながら言霊を叫ぶあの声も、今はもう薄くなってしまって、思い出すのに時間がかかる。
たった一年会えなかっただけなのに、こんなにも忘れてしまうものなのか。

犬夜叉は、木で出来た骨悔いの井戸の淵に爪を立てる。
中を覗き込めば、相変わらず真っ暗で、ここが通れなくなった一年前と全く様子が変わっていない。


「かごめ」


名前を呼ぶだけで胸が締め付けられる。
いつだったかかごめは、犬夜叉が窮地に陥ったときに涙を流していた。
自分が心配だったからと言った彼女は、あれからずっと、犬夜叉のそばにいた。
半妖の自分が好きだと言ってくれた彼女のそばにいると、心が安らいだ。
常に孤独だった自分を認めてもらったような気がしていた。

かごめはきっと、無条件でそばにいてくれる。
何があっても自分を好きでいてくれる。
かごめは決して、自分の前からいなくなったりしない。

そんな根拠のない自信が、犬夜叉を支配し始めたのは一体いつからだろう。
突然かごめが消えたあの日。犬夜叉は言い知れぬ恐怖を覚えた。
彼女と出会う前の、孤独だった自分に戻ってしまうのではないかと。
そんな不安を抱くほどに、かごめからもらったものが多すぎた。
かごめと旅をするようになってから、弥勒や珊瑚、七宝や雲母と出会えた。
桔梗との過去を懺悔し、死を見つめていた自分に、かごめは生きてほしいと言った。
過去にとらわれてばかりだった自分を、解放してくれた。
かごめという一人の少女が、犬夜叉を変えた。

彼女がいなくなっても、犬夜叉の周りから仲間たちが消えることはなかった。
弥勒とは今も一緒に妖怪退治をしているし、子供の世話に追われる珊瑚の手伝いをすることもある。
七宝とは相変わらず喧嘩ばかりだが、兄弟のような関係は続いている。
高齢の楓からはよく仕事を手伝ってくれと声がかかるし、りんとも、最近はよく話すようになった。

かごめと出会う前に比べて、犬夜叉の周りは格段ににぎやかになっている。
けれど今は、かごめだけがいない。
仲間に恵まれ、幸せなはずなのに、かごめがいない世界はやけに静かで、犬夜叉は常に孤独を感じていた。


「かごめ」


彼女の名前を、再びぽつりと呼んでみる。
“なに? 犬夜叉
そんな彼女の返事が返ってくるはずもなく、犬夜叉はただただ黙って井戸の中を覗いていた。
そんな時、犬夜叉はひとつの匂いが近づいていることに気が付いた。
その匂いは背後からゆっくりと近づき、犬夜叉の背後で立ち止まる。
わざわざ振り返って、その匂いの正体を確かめるようなことはしなかった。
鼻が利く犬夜叉には、そこに立っているのがいったい誰たのかすぐにわかってしまうから。


「なにしに来やがった、殺生丸


奈落を倒して以来、二人はまともに会話を交わしていなかった。
もともと大きな確執を抱えていた二人は、兄弟とはいえ奈落という共通の敵を失えば会話を交わす理由がない。
殺生丸が骨悔いの井戸に現れたということは、常日頃からこの井戸の前でたむろする犬夜叉に会いに来たのだろうが、当の犬夜叉は不仲であるこの兄に声をかけられる覚えなど一切なかった。


犬夜叉、あれからずっとここにいるそうだな」
「だったらなんだよ」
「思い出していたのだ。50年近く前、封印されている貴様を見たあの日を」


殺生丸から言い放たれた言葉に驚き、犬夜叉は思わず後ろを振り返る。
思ったよりも近い距離に立っていた殺生丸は、相変わらず感情が読めない無表情だった。


「貴様はあの時、人間の女に心惹かれ、たった一本の矢でその身を封じられていた。そして今も、人間の女一人を待ち続け、この井戸から動けずにいる」
「・・・・・」
「人間の女のために心を、生き方を乱されるなど、愚かだ」
殺生丸、てめぇ、わざわざ嫌味言うために来たのかよ」


淡々と言葉の刃を犬夜叉に突き立てる殺生丸
そんな兄の仕打ちに、犬夜叉は当然気分を害された。
この男が人間を嫌っていることはよく知っている。
だからといって、わざわざそんなことを言いに来るとは悪趣味にもほどがある。
こちらの心情を理解しろとまでは言わないが、せめて放っておいてほしかったのだ。
犬夜叉は立ち上がり、殺生丸を睨みつける。
しかし、そんな弟の威嚇行為をあざ笑うかのように、殺生丸は言葉を続けた。


「人間の女を愛した代償に50年封じられ、今もまた、人間の女を愛したがためにその枯れ井戸の前でひたすら時を過ごすか。貴様はどれほど時間を無駄にすれば気が済むのだ。貴様が求めた女は、二人とももういないというのに」
「っ‼」


頭で考えるよりも、衝動的に体が動いていた。
容赦なく浴びせられた事実は、犬夜叉の怒りを加熱させる。
左手で殺生丸の胸倉をつかむと、右手でこぶしを作り、力いっぱい振り上げた。


「てめぇに何が・・・!」


振り下ろされた拳は、殺生丸の左手一本で防がれてしまう。
そして、犬夜叉の右手首をつかみ捻りあげると、そのまま流れるように犬夜叉の体を転倒させていしまう。
赤子の手をひねるほど、とはまさにこのことだった。
今の弱弱しい犬夜叉の拳では、殺生丸にあざの一つすら作ることは出来ない。


「相変わらず、貴様は弱い。1年前と何も変わっておらぬ」


見下ろす殺生丸の視線は、冷たく犬夜叉を貫いている。
派手に転ばされた犬夜叉は、ゆっくりと上体を起こし、殺生丸に背を向けて胡坐をかいた。
目の前には骨悔いの井戸。
呑気に小鳥たちが井戸の淵にとまり、鳴いている。


「てめぇに何がわかる」
「わかろうとも思わぬ」
「そうだろうな。血も涙もねぇ殺生丸にはわかんねぇよ、俺の気持ちなんて」


犬夜叉の声は、震えていた。
泣いているのだろうか。
後ろを向いているため、表情はわからないが、殺生丸犬夜叉の涙を一度も見たことがなかったことを思い出す。

 

「井戸の向こうには、あいつの家族がいる。あいつを必要としている奴がたくさんいて、かごめも、そいつらと一緒にいる方が幸せに決まってるんだ」
「・・・・・」
「けど、 残された俺はどうしたらいい? 俺にとってかごめは、生きる理由だったんだ。そんなあいつがいない世界で、俺は何を糧に生きていけばいい?」


犬夜叉の嘆きは、ほとんど独り言でしかなかった。
爆発したかのように次々あふれ出る本音たちに、犬夜叉は声を震わせた、
かごめに惹かれていく中で、犬夜叉はいつかこんな日が来ることを心のどこかで覚悟していた。
自分と彼女は生きる世界が違う。
いつか必ず、別れの時が来る。
けれど、犬夜叉の想像以上に、“その時”は唐突に訪れてしまった。
別れの言葉を交わす暇もなく突然引き裂かれた関係性は、悲しみだけを残してしまう。
きちんと別れを言えていれば、こんなにも恋焦がれることはなかったかもしれない。
彼女がこの井戸を通ってここに現れる可能性が低いということは、犬夜叉が一番よく知っていた。
だが、諦められない。
もう一度、かごめに会いたい。
声が聴きたい。
そんな思いが、犬夜叉をこの井戸の前に縛りつけてしまっていた。


殺生丸、てめぇには一生理解出来だろうよ。失うのが怖いと思える存在なんて、お前にはいねぇだろうから」
「失いたくないもの、か」


何か一つに固執するなど下らない。
ましてや己の命より大事なものなど、あるわけがない。
封印されていた犬夜叉を見つめていたあの時は、そう思っていた。
しかし、時が経ち、慈しみという言葉の意味を知った殺生丸には、一度だけ、一つの命が失われた瞬間に恐怖を味わった記憶が残っている。
自分よりも小さく、弱く、儚い命が、自分の腕の中で冷たくなっていく。
天生牙の力をもってしても救えないとわかったとき、恐怖は絶望に変わった。
もう二度と、取り戻すことは出来ない。
襲い来る悲しみと恐れは、失われたその小さい命が、殺生丸にとってかけがえのない存在だったのだと教えてくれた。
あの時の感覚を、犬夜叉はもう一年以上も味わっているのか。

殺生丸はその琥珀色の瞳を細めると、袖口からあるものを取り出し、背を向けている犬夜叉に向けて軽く投げつけた。
犬夜叉の肩にあたり、ポロリと草の上に落ちたその赤い櫛は、陽の光に反射してきれいに輝いている。
この櫛は一体何なのか、何故殺生丸はこのような女ものの櫛を持っているのだろうか。
犬夜叉の疑問は、殺生丸の言葉によって解決されることになる。


「りんが貴様にと」
「俺に?」
「あのかごめとかいう小娘から贈られたものだ」


背を向けている犬夜叉が、息を詰める。
視界にとらえた赤い櫛は、確かに一年前、かごめが良く使っていたものを似ていた。
彼女がこの櫛をりんに贈っていたとを一切知らなかった犬夜叉は、自分の足元に転がっている櫛から目が離せなくなってしまう。


「それほどの存在だというのなら、せいぜいその櫛を後生大事に持っていろ」


犬夜叉の背後に立っていた殺生丸は踵を返し、そのまま森の奥へと歩みを進める。
足元の櫛を拾い上げた犬夜叉は急いで立ち上がり、去り行く殺生丸を大声で引き留めた。


「待てよ!こいつはもうりんの物なんだろ? なんで俺に・・・」
「そのような使い古しは不要。りんには私から新しいものを贈る」


足を止めることなく森の奥へと去っていった殺生丸
その背が見えなくなるまで視線を送っていた犬夜叉だったが、兄の姿が森の奥に消えたと同時に手元の櫛に視線を落とす。
赤い塗装に白い桔梗模様があしらわれたその櫛は、たしかにかごめが普段使いしていたものであった。
色褪せたその櫛からは、わずかに懐かしい香りがする。
久方ぶりに嗅いだ、かごめのにおい。
優しくも甘い香りを体内に入れた瞬間、犬夜叉の胸の奥からは感情の波があふれ出してきた。


「かごめ」


返事が返ってくることのない名前を呼びながら、犬夜叉は櫛を両手で握り、その場に膝をつく。
赤く美しい櫛の上には、一粒の雫がしたたり落ちていた。


********************


骨悔いの井戸から少し歩いた先にある時代樹の根元で、りんは殺生丸の帰りを待っていた。
かごめから贈られた櫛を犬夜叉に譲ってこようと思い立った彼女だったが、殺生丸がそれを制止し、櫛をひったくって井戸の方へと行ってしまったのだ。
おそらく、りんの代わりに櫛を渡しに行ったのだろう。
何故りんを置いて一人で行ってしまったのだろうという疑問が残ったが、彼の考えをすべて理解しようなど無理な話でしかない。
りんは去っていく殺生丸の背に何も声をかけず、ただ黙って待っていることにした。

あれから半刻。
そろそろ一人で歌をうたうのも飽きてきた頃合いである。
骨悔いの井戸の方から、殺生丸が帰ってきた。


「あ!殺生丸さまおかえりなさい!」


腰かけていた時代樹の根から飛び降りたりんは、駆け足で殺生丸のもとへ走り寄る。
出会ってから一年経ったとはいえ、りんはまだ背の高い殺生丸と並ぶと小さな童でしかない。
首を曲げて殺生丸を見上げると、彼も足元に寄って来たりんを見下ろし、視線が交わる。
そこで、りんははっとした。
何故だろう。殺生丸さまがこころなしか悲しそうな顔をしている。
犬夜叉と言い合いでもしたのだろうか。


「ねぇ殺生丸さま、クシは?」
「渡してきた」
「そっか。犬夜叉さま、よろこんでくれた?」


殺生丸はりんから視線を外し、すぐそばにそびえたつ時代樹に目をやった。
さわやかに吹く風に枝を揺らし、木の葉を舞い上げているこの木は、きっと殺生丸よりも長く生きている。
そして、彼が死んだ後もこの森に立ち続けることになるだろう。
この森での出来事をなんでも見てきたこの時代樹は、きっと犬夜叉とあの桔梗という巫女の愛憎劇も、そしてかごめとの出会い別れも見ていたはず。
さざめく木の葉の音が悲し気に聞こえるのは、今もまだかごめを待ち続ける犬夜叉に同情して泣いているからなのだろうか。

殺生丸は、時代樹をゆっくりと見上げて、りんの問いに静かに答えた。


「泣いていた」

 

 

END