Mizudori’s home

二次創作まとめ

夜は熱を帯びてゆく

【りんさく】

境界のRINNE

■原作時間軸

■短編

***

 

窓から垣間見える入道雲を、一機の飛行機が突っ切ってゆく。
真っ直ぐ伸びた飛行機雲は、青い空に浮かぶ入道雲を深く貫いた。
そんな空の真ん中に君臨している大きな太陽は、今日もアスファルトを焦がすように輝いている。
本格的な夏に突入して早くも2週間。
外の蝉が大合唱を続ける中、昼間のニュースは連日の猛暑を伝えていた。


「本日の最高気温は39度。この夏1番の暑さです。水分をしっかりとってくだい。また、夜になっても気温はなかなか下がらず、今夜も熱帯夜になりますので、無理せずエアコンをつけて眠るようにしてください」


液晶画面の向こうで微笑む女性キャスターが掲げているフリップには、大きく“熱中症に注意”と書かれている。
どうやら今日も嫌になるほど暑そうだ。
視線をテレビから熱気渦巻く窓の外へと移し、真宮桜は小さくため息をついた。


「桜?ニュース見たでしょ?ちゃんと飲み物持っていくのよ?」
「うん」


キッチンからひょっこり顔を出した母に適当な返事をすると、桜は食卓に置いてあったリモコンを手に取り、テレビの電源を消す。
再びリモコンを食卓の上に戻すと、今度は椅子の上に置いてあった学校鞄に手を伸ばし、肩にかけた。
時刻は午前10時。
夏休みに学校で行われる夏期講習の時間まで、あと僅かである。


「忘れ物ない?」
「大丈夫」


水仕事をしていたらしい母が、エプロンで手を拭いながらこちらへ近付いてきた。
忘れ物と言っても、今日は2、3時間授業を受けるだけ。
持ち物は教科書とスマホ、飲み物に、腐らないよう保冷剤を異常なほど詰め込んだお弁当くらいである。

夏休みに開催されるこの夏期講習は、希望者のみの参加で、桜のクラスからも他に5人ほど参加している。
日頃からいつも一緒に行動しているミホやリカは、夏休みまで勉強などしたくなかったらしく、今回は夏期講習に申し込んでいない。
何かと桜を気にしている十文字翼もまた、家業であるお祓い屋の仕事で忙しいようで、やはり受講希望者のリストにはいなかった。
そして、桜の隣の席であり、死神みたいな人間みたいなクラスメイト、六道りんねに関しても、死神業の忙しさからか受講の予定は無い。
特に予定もなく、それなりに真面目であった桜だけが、仲間内で唯一この夏期講習に参加するのである。

リビングを出る直前、壁にかけられたカレンダーに一瞬だけ目を向ける。
今日の日付の欄に書いてあった予定は2つ。
“パパ海外出張”と、“夏期講習最終日”
この講習に申し込む前は、まさか今年の夏がこれほどまでに酷暑になるとは思ってもいなかった。
こんなに暑いと知っていたら、ミホやリカのように希望していなかったのに。
夏休みだというのに、毎日猛暑のなか学校に行くのは非常に辛いものだったが、それも今日で終わる。
エアコンの効いたオアシスのような自宅から、外の猛暑に飛び込む覚悟を決めた桜は、パタパタとスリッパを鳴らしながら玄関へ向かった。


「お昼すぎくらいには帰ってくるのよね?」
「うーん…」


玄関まで見送ってくれるらしい母に後ろから質問され、桜はローファーに足を入れながら考える。
講習終わりに真っ直ぐ帰ってくれば、日中には自宅へ着くだろう。
しかし、最近の桜は学校に行くと真っ直ぐ帰ってくることの方が少なかった。
いつも立ち寄っているあの場所。
この暑さの中、彼はやはりあのエアコンのない埃部屋にいるのだろうか。
熱中症で亡くなった霊を最近よく見かける事実を思い出し、桜は講習終了後の予定を決めた。


「ちょっと寄るところあるから、少し遅くなるかも」
「あらそう?じゃあお夕飯作って待ってるわね」
「うん、ありがとうママ」


玄関の扉に手をかけ、ゆっくりと押し込むと、外熱気がむわりと家の中へと侵入してくる。
ニュースキャスターが言っていたことに嘘偽りは無さそうだ。
きっと今日も、すごく暑い。


「いってきます」


太陽の眩しさに目を細めながら、桜は最終日を迎えた夏期講習へと出かけて行った。


**********


うだるような暑さに覆われているのは、屋外だけとは限らない。
エアコンのない密閉された室内はもはやサウナでしかない。
扇風機すらない真夏のクラブ棟で、死神みたいな人間みたいな青年、六道りんねは、相棒の契約黒猫、六文と共に畳の上でへこたれていた。


りんね様……マズイですよこれは」
「………何がだ六文」
「今日の最高気温、39度らしいです」
「そうらしいな」
「しかも記録的な熱帯夜になるとか」
「あぁ……それがどうした」


畳に突っ伏して横たわっていた六文だったが、気の抜けるような返事しか返してこない主に軽い焦りを覚え、勢いよく頭を上げた。


「死にますって!!!!」


幼い黒猫の、悲痛な叫びであった。
真夏の午後2時。
最も気温が高くなるこの時間、今まで耐えてきた六文にも限界というものが訪れてしまったのだ。
普通ならば扇風機なりエアコンなりを駆使してこの暑さを乗り越えるのだろうが、りんねと六文にはそれが出来ない。
なぜならば、彼らにはお金が無いからだ。
その事実と、背景に潜む事情は六文も重々理解しているはず。
それでも限界を訴えてしまうのは、今日が今までにないほどの猛暑だからなのだろう。
ついに抗議されてしまったかと内心溜息をつきながら、彼の雇用主であるりんねは体を横たえたまま顔だけをゆっくりと六文の方へと向けた。


「仕方ないだろう。エアコンや扇風機を買う余裕があるわけもない」
「だからって、この暑さは異常です!何もせずこのサウナみたいな部屋にいるのは危険なのでは?」
「それはそうだが…」


六文の言うことは最もであった。
この暑さでは、例え外で運動をしていなくても熱中症になってしまう可能性は大いにある。
気晴らしに外へ出かけ、金稼ぎついでにその辺の悪霊でも退治しに行きたいのは山々だが、今のりんねにはその術がない。
除霊に使う死神の鎌を修理に出しているため、手元にないのだ。
鎌がなければ死神としての仕事もできず、ただただこの部屋の中で何もせずじっと暑さに耐えるしかない。


りんね様、とにかく今日1日暑さをしのげるような場所に避難しましょう!熱中症でダウンする前に!」
「避難って……どこに行くつもりだ?」
「そうですね、例えば………ショッピングモールとか!」


ひらめきを得たかのような表情を見せる六文であったが、残念ながら彼の提案はりんねの胸には響かない。
横たえていた体をぐっと起こし、畳の上で胡座をかくと、りんねは諭すような目で六文を見下ろした。


「冷静に考えろ六文。ショッピングモールは夜の10時には閉まってしまう。肝心の熱帯夜はどうせここで過ごすことなるぞ」
「あっ、そうでした……。なら、自然豊かな山や川に行ってはどうです?時間制限なく自然の涼しさを感じられますよきっと!」
「山や川に行く交通費があると思うか?」
「あっ……」


出した提案をことごとく却下され、六文は肩を落とす。
つくづく金というものは恐ろしいもので、これが無いと涼をとることすらままならない。
貧乏は罪である。
六文は窓の外に見えるギラギラと輝いている太陽を恨めしげに見つめ、深くため息をついた。


「あーあ。どこかにありませんかね。せめて今日1日無償で涼を取れる宿泊スポットが」
「そんなオアシスのような空間があるわけ……」
「じゃあ、うちに来る?」


聞きなれた綺麗な声に、りんねの鼓動は大きく高鳴った。
そこにいるはずの無い声の主に期待を寄せながら振り返ると、扉の前に立っている真宮桜の姿が視界に飛び込んでくる。
いつの間にか扉を開け、入ってきたらしい。
全くその気配に気が付かなかったのは、あまりの暑さに五感が鈍っていたからなのか。


「ま、真宮桜……」
「桜様!」


こめかみに少しだけ汗をかき、こちらに微笑みかける真宮桜の姿は、りんねの鼓動を次第に早くさせる。
そういえば今日は、夏期講習最終日だった気がする。
夏休みにも関わらず、真宮桜がひょっこりとこのクラブ棟に顔を出したのは夏期講習の帰り際だったからなのだろう。
講習のついででも顔を見せに来てくれたことがなんだか嬉しくて、りんねの顔に自然と熱が籠ってしまう。


「あの、桜様。うちって……」
「私の家。今日1日涼める場所を探してるんでしょ?だったら、うちに泊まったら?」
「えぇっ!?い、いいんですか!?」
「うん。今日は今年1番の暑さだし、このままここにいたら2人とも熱中症になっちゃうかもしれないから」


足元に駆け寄ってきた六文に目線を合わせるようにしゃがみ込む桜。
そんな彼女が口にした提案は、りんねと六文にとってまさに地獄に仏であった。
見下ろしていた六文から、視線をりんねに移した彼女は、少しだけ首をかしげながら“どうかな?”と聞いてくる。
殺人的な暑さに悩まされる中で、殺人的な可憐さを見せつけてくる彼女の提案を断る理由など、りんねに見つけられるはずもなかった。


「お世話になります」


今年1番の猛暑となったこの日、六道りんね真宮桜という天使のように優しい少女の好意に甘えることとなった。
体と顔が火照って仕方がないのは、きっとこの暑さのせいだけではない。

 

***

 

燃えるように輝いていた太陽が沈みかけ、空がオレンジ色に染まり始めた夕方頃。
りんねは肩に六文を乗せ、住宅街を歩いていた。
そんな彼の隣に並んで歩くのは、密かに想いを寄せている少女、真宮桜
向かう先は、彼女の自宅、別名オアシスである。
日頃から霊や悪霊の除霊に際し、真宮桜の金銭的助けを借りることが多かったりんねであったが、今日はいつものように弁当の差し入れや数百円の借金などではなく、宿を提供してくれるという。
どこまで優しいんだ真宮桜
相変わらず考えが読み取りにくい表情の彼女を横目で見ながら、りんねは口を開いた。


真宮桜、本当にいいのか?1晩の宿だけでなく、飯まで出してくれるなんて……」
「全然いいよ。ちょうどパパが海外出張中で部屋がひとつ空いてるし、さっきママに連絡したらあっさりOKしてくれたから」
「そうか、恩に着る」
「ホントに助かりますよ!この熱帯夜の中、干からびるところでした」


自分の肩の上で無邪気にはしゃぐ六文。
だが、そんな彼の主であるりんねの心中は複雑であった。
日頃から真宮桜には世話になっている。いや、なりすぎている。
度重なる借金に、頻繁に差し入れられる弁当という名の支援物資。
そして今回の真宮邸宿泊。
自分はあまりにも、彼女によりかかりすぎているのではないだろうか。
貧乏ながらも僅かに残った男としてのプライドや見栄から、真宮桜から伸ばされたありがたい支援を素直に受け取れない自分がいる。
かと言って、無理をして断れるのかと聞かれれば、そんなことは絶対にできない。
彼女の好意を断る程の金銭的余裕が無いのはもちろんだが、それ以上に、真宮桜の家に泊まるという行為に胸の高鳴りが抑えられなかった。

彼女の家に泊まるということはつまり、真宮桜と一日中一緒にいられるということ。
一時的とはいえ彼女と生活を共にできるということ。
これにはどんなお宝よりも価値がある。
こんなことを考えるのは立場上間違っていることは重々承知しているのだが、今、六道りんねは盛大にワクワクしているのだ。
自然に緩んでしまう口元を必死で隠しながらしばらく歩くと、見慣れた真宮邸が見えてくる。
いつもはこの家の前まで真宮桜を送っていたりんねだったが、今日は違う。
この家に彼女と共に入り、そして一夜を明かすのだ。


「ただいまー」
「お、お邪魔します」


玄関の扉が開かれ家の中に入ると、冷房から発生している心地よい風が頬を撫でる。
蒸し暑い外とは比べ物にならない居心地の良さを実感しながら、りんねは恐る恐る真宮邸の中へとお邪魔した。


「あらいらっしゃい」


キッチンからひょっこりと顔を出した真宮母は、娘と共に帰宅した赤髪の青年に微笑みかける。
どうやら夕飯の支度をしていたらしい。
こちらへ歩み寄ってきた真宮母の背後から、美味そうな匂いが漂ってきている。
いつもの姿から、ただの黒猫へと変化した六文が、りんねの肩の上でスンスンと鼻を鳴らした。


「お邪魔します。あの、今日は本当にありがとうございます」
「いいのよいいのよ。気にしないで。桜のお友達なら大歓迎よ」


娘と同様に、どこまでも優しい真宮母の歓迎ぶりに、りんねは思わず泣きそうになってしまう。
貧乏からくる不幸の嵐に身を晒してきた自分が、こんなにも暖かい温情を受けていいものだろうか。
明日にはバチが当たらないだろうか。
拳をぎゅっと握りしめ、心の奥底で真宮親子への感謝を叫ぶりんねの肩は震えていた。


「それより大変だったわね。こんなに暑い日にエアコンが壊れちゃうなんて」
「え?」
「ご両親が海外勤務で一人暮らしなんでしょ?頼れる人がいないのも無理ないわ。しかも生活費は自分のアルバイト代で賄ってるなんて偉いわよね」
「いや……あの……」


真宮母がつらつらと話し始めたりんねの境遇には、一部間違いがあった。
一人暮らしをしている点、生活費を自分で稼いでいる点は正解だが、そもそもりんねの家にエアコンなどという高級家電は設置されておらず、両親に至っては海外勤務などではなく、片や行方不明、片やあの世の犯罪者集団のボスである。
真宮母の間違った認識を正すべきか迷っていたりんねの肩を、隣にいた桜が人差し指でトントンと叩いた。
顔を向けてきたりんねに、桜はそっと近付くと、母に聞こえないように小さく耳打ちする。


「ごめんね六道くん。勝手に設定作っちゃった。嘘ついておいた方が手っ取り早いかなって」
「あぁ、なるほど……」


あ、はい。
親父が作った借金を不当に押し付けられているせいで明日生きるのもやっとなほどの貧乏で、学校のクラブ棟に勝手に住み着いています。
一応自分で生活費を稼いでいまして……え?仕事ですか?死神業を少々………。

こんな具合に、りんねの状況をバカ正直に開示すれば、信じて貰えないどころか頭の病院に連れていかれる可能性も高いだろう。
事実に少々のアレンジを加え、ちょっと貧乏で苦労人な苦学生として説明してくれたのは、真宮桜の気遣いでもあった。
おかげで怪しまれずに真宮邸へ宿泊することが出来る。
泊めてくれる張本人である真宮母に嘘をつく事は心苦しいが、それでも尚、この暑さから逃れるべく宿を確保することは最重要事項なのだ。


「それじゃあ、ゆっくりしていってね
「はい。ありがとうございます」


右手を軽く振りながらキッチンへと戻っていく真宮母の後ろ姿に、りんねは深々と頭を下げる。
いつかあの菩薩のように優しい真宮母39歳に、自分ができる最高峰のお礼をしなくては。
りんねはそう決意し、頭の中で今自分が所持しているフルーツ缶の数を数え始めた。


「それじゃあ、部屋案内するね」


いつの間にか靴を脱いでいた桜に促され、りんねも慌てて靴を脱ぎ、廊下に上がる。
用意されたスリッパに足を入れ、よく掃除された綺麗な廊下を真っ直ぐ進み、2階に続く階段を昇ってゆく。
以前、家の中を往来する霊を退けて欲しいと桜から依頼された際もお邪魔したことがあったが、この家はやはり広く、そして綺麗だ。
真宮桜の家の中にいるという緊張感が拭えないまま2階に上がると、前をゆく桜はとある部屋の前で立ち止まった。


「ここがパパの部屋。今日はここを使ってね。隣が私の部屋だから、何かあれば呼んで」
「あぁ……」


りんねの視線は、これから自分が使わせてもらう真宮父の部屋ではなく、その隣の桜の部屋を捉えていた。
まさか隣の部屋だったとは。
改めて、好意を寄せる少女とひとつ屋根の下で過ごせる幸せを噛み締めた。


「どうぞ」


そんなりんねの想いなど一切勘づくことなく、真宮桜は父の部屋の扉を開けた。
その瞬間、りんねと六文は息を呑む。
桜から宿泊客が来るとの連絡を受け、母が事前に冷房を入れてくれていたらしい。
誰もいないにもかかわらず、真宮父の部屋は非常に過ごしやすい気温になっていた。
りんねの肩で大人しくしていた六文は、たまらず部屋の中へと駆け出す。
りんねもまた、呆然と部屋中を見渡しながら、先に中へと入った桜に続く。


「見てくださいりんね様!ベッドがあります!ふっかふかですよ!!」
「本当だ……!これ、使っていいのか?」
「うん、いいよ」


ベッドは愚か、敷布団ですら最近ご無沙汰なりんねにとって、シワひとつないシーツが敷かれたこのベッドの存在は、今すぐ飛び上がりたくなるほどの喜ばしい代物だった。
ベッドだけではない。
肌触りのいいカーペット、プライバシー保護を約束してくれる優しい色のカーテン、そして外の猛暑を忘れさせてくれるエアコン。
この部屋に置かれた全ての設備が、まるで五つ星ホテルのスイートルームかと錯覚させられるほど豪華に思える。
あまり喜びに、りんねは感激しつつ桜の顔をじっと見つめた。
特に何も表情を浮かべていない彼女の背後に後光が差して見えるのは、きっと気の所為では無い。


「すまん、真宮桜。いつも世話になっている上に、こんな豪華な部屋に泊まらせてもらえるとは……」
「全然いいよ。気にしないで」
「いや!助けられてばかりでは申し訳ない!やっぱり礼をさせてもらう」
「礼?」
りんね様、何かお礼できるものがあるんですか?」


六文が口にした素朴な疑問に、りんねは桜の目を真っ直ぐ見たまま言葉に詰まってしまう。
お礼できるものなど、常に金欠なりんねにあるはずがなかった。
数秒考えた後、絞り出すような声量でりんねは呟く。


「……こ、行動で奉公します」
「奉公?」
「あぁ。与えられた御恩に全力で奉公する、ご恩と奉公だ!」
「六道くんって武士だったの?」


お金のかからない方法で恩返しするには、やはり行動で奉公するのが1番である。
肉体労働をすることで、真宮親子から受けた大恩を返せるのであれば安いものだ。


「なにか手伝えることがあれば言ってくれ!何でも奉公させてもらう!」
「何でもかぁ……うーん」


真剣な眼差しで真っ直ぐ見つめてくるりんねに少々引き気味になりながらも、桜は人差し指を口元に押し当てて考える。
すぐに思い浮かばないところからすると、どうやら彼女はあまりりんねの奉公を必要としていない様子。
しかしながら、一宿一飯の恩は何としても返さなくてはならない。
桜が考えている間、りんねは一切口を挟まずに返答を待った。


「じゃあ……一緒に夕飯のお手伝いしようか」


**********


「え?夕飯作るの手伝ってくれるの?ありがとう、助かるわ」


1階に降りてきたりんねと桜は、真宮母がせっせと仕事をしているキッチンへと向かった。
エプロンをつけた後ろ姿が振り返り、娘たちの提案を喜んで受け入れる。
どうやらサラダを盛り付けていたようで、大皿に彩りよい野菜たちが並んでいた。


「はい。謹んで奉公させていただきます。まず何をすれば……?」
「そうねぇ、じゃあまずは……そこの玉ねぎを切ってもらえるかしら?」


真宮母が視線を向けた先には、既に皮が向かれている状態の玉ねぎが転がっていた。
りんねは小さく頷くと、そばに置いてあった包丁を手に取り、まな板の上で早速玉ねぎを切り始める。
慣れた手つきで次々にスライスされていく玉ねぎたち。
手際のいいりんねの姿に、両脇で眺めていた桜と真宮母は、感心したように息を吐く。


「あらあら、随分手際がいいわね」
「はい。刃物の扱いには慣れていますので」
「え?」


己の失言に、りんねは“しまった”と一瞬手を止めた。
確かに刃物の扱いになれていることは事実。
しかしそれは死神の鎌に限ったことであって、普通の男子高生はそんなものを握ったことがあるはずも無い。
捉えられ方によっては、真宮母に怪しまれてしまう。
りんねの焦りに気付いたらしい桜は、まるでフォローするかのように口を開いた。


「六道くん、一人暮らしで毎日自炊してるから、包丁使うの慣れてるんだよ。ね?六道くん」
「あ、あぁ……。まぁそんなところです」
「あらそうなの。男の子で自炊してるなんて偉いわねぇ」


感心する真宮母の様子に、りんねは安堵する。
桜のフォローによって疑われる危機を脱することが出来たらしい。
桜の気遣いに感謝しつつ、りんねは次々と野菜を切っていった。
肉を切り、具材を煮込み、調味料を追加して皿に盛り付ける。
りんねと桜がせっせと手伝いをしたことで、いつもの倍早く料理が完成した。

完成したカレーとサラダ、そして唐揚げが並べられた食卓を眺め、りんねは目を輝かせている。
たちこめる香ばしい香りは食欲を呼び起こさせた。
こんなにうまそうな食べ物を前にしたのは一体何日ぶりだろうか。
肩に乗る六文もまた、じゅるりと音を立てて唾を飲み込んだ。


「はい、猫ちゃんにはこれね。ネコまんま


間宮母によって床に置かれたのは、ご飯の上に鰹節としょうゆをトッピングした豪華ネコまんま
六文のためだけに真宮母が作ってくれたらしい。
ネコまんまはおろかキャットフードすらまともに口にしていなかった六文は、即座にりんねの肩から飛び降り、夕食へと食らいつく。
あまりに旨かったのか、六文は一心不乱にネコまんまをがっついている。
最近ろくなものを食べさせていなかったことに軽く後悔しつつ、自身の契約黒猫が幸せそうに食事する姿を見つめ、りんねは微笑んだ。
 

「さぁ、私たちも食べちゃいましょう」
「うん。六道君、座ろっか」
「あぁ」


席に着いた三人は手を合わせ、“いただきます“と声を合わせると、出来立ての夕食を口に運んでいく。
口にしたカレーはピリリと辛く、それでいて美味い。
何週間、いや何か月ぶりかのカレーを味わったりんねは、あまりのうまさに自然と涙を流していた。
カレーって、こんなにうまかったのか。
すっかり貧乏舌になってしまったりんねの口内は久方ぶりのカレー到来に喜び沸いていた。


「旨い・・・。こんなに旨いもの、久しぶりに食べた・・・!」
「そんなに美味しそうに食べてくれるなら作り甲斐があるわね」


ものすごいスピードでカレーに食らいつくりんねを、正面の席でサラダを食べる真宮母は微笑ましく眺めていた。
早くも2杯目のおかわりに手をつけているりんねの手は、もはや止まらない。


「それにしても、男の子がいる食卓っていいものね。沢山食べてくれるし。貴方みたいな男の子が家族の一員だったら楽しいでしょうね」
「俺が……家族に……?」


頬杖をつきながらそう呟いた真宮母の言葉に、りんねは思わずカレーを食らう手を止めた。
真宮家の家族になるということはつまり、真宮桜とも家族になるということ。
それすなわち、この家の婿養子になるのということか?
婿養子、そう、隣に座って静かにカレーを食べている想い人、真宮桜の夫になるということ。
桜の夫としてこの家に帰ってくる自分と、それを優しく迎えてくれる真宮桜の姿を想像し、りんねの口元はだらしなく緩んでしまった。


「そういえば、貴方と桜ってなんだか………」


言いかけた真宮母の言葉の先を想像し、りんねは息を呑む。
恋人みたい?
もしや夫婦みたい?
どちらにせよ、どう返答すればいい?
というか、真宮母からお似合いだ的なことを言われたとして、当の真宮桜はどう思うのだろうか。
迷惑ではないだろうか。
カレースプーンを握る手に力が入る。
そして、言いかけていた真宮母は続きの言葉を紡ぎ出す。


「なんだか、兄妹みたいね」


ポロリと手からこぼれおちたスプーンは派手な音を立てて皿の上に落ちていく。
妙な期待をした自分が馬鹿だった。
りんねは遠い目をしながら天井の照明を見つめる。
そんな落胆したりんねの様子に気付いているのかいないのか、桜は首を傾げながらりんねへと視線を送った。


「その場合、身長的に六道くんがお兄ちゃんで、私が妹なのかな?」
「妹……?」


考え込むりんねの脳裏に浮かぶのは、こちらへほほ笑みかける真宮桜の幻。
彼女はりんねに近付くと、その腕をとって可憐に囁くのであった。
“お兄ちゃん”と。


「アリだな」
「ナシじゃない?」


鼻の下を伸ばしまくりなりんねの様子を無表情で見つめる桜は、冷静に彼の妄想を否定した。
夫婦の妄想は母に、兄妹の妄想は娘に破壊され、りんねはただただ肩を落としてため息を着くのだった。

 

***

 

カレーを3杯ほど平らげたりんねは、久しく感じたことがなかった満腹感に浸っていた。
足元でネコまんまを食べていた六文もまた、腹を膨らませて満足そうに寝そべっている。
なんて幸せな時間なんだ。
満腹感を感じながらりんねは感傷にひたっていた。


「さて、じゃあ洗い物しますか」
「あっ、俺も手伝います」


立ち上がり、食器を片付け出した真宮母の行動にハッとしたりんねは、急いで立ち上がる。
一宿一飯の恩がある以上、積極的に手助けしなくては。
瞬発的に手伝いを申し出たりんねに、真宮母は微笑みながら礼を言った。


「あらありがとう。じゃあ、お皿洗いお願いしようかしら」
「はい!喜んで!」
「桜はお風呂入ってきてね。後がつかえちゃうから」
「うん、わかった」


りんねはそそくさと自分や桜たちの食器をまとめ、シンクへと運んでいく。
一方で桜の方はというと、母に促され、風呂に入ろうと席を立っていた。
そのままリビングを出ようと身を翻した桜に気付き、りんねは慌てて呼び止める。


真宮桜!次は何をすればいい?」
「え?」
「言っただろう。ご恩と奉公だ」
「あ、それまだ続いてたんだ」


恩返しすべき相手である真宮桜は、どうやらこのご恩と奉公システムをすっかり忘れてしまっていたようだ。
しかしながら、ここでこのシステムを辞めるわけにはいかない。
常に生活が困窮しているりんねにとって、一宿一飯の恩は、夕飯作りの手伝いや皿洗い程度では返せないからだ。
次のご命令をじっと待っているりんねから困ったように視線を逸らした桜は、少しだけ考えをめぐらせ、小さく口を開く。


「じゃあ、夏休みの課題手伝ってくれる?やり掛けの数学テキストだからすぐ終わると思うけど……」
「課題だな?わかった。皿洗いが終わったらすぐに取り掛かる」
「ありがとう。テキストは私の部屋にあるから、勝手に入ってやってていいよ」


それだけ言い残すと、真宮桜はリビングから出ていってしまった。
次の指令は数学の課題らしい。
とっとと皿洗いを終わらせて課題を攻略なくては。
りんねは小さく“よし”と気合を入れると、ジャージの袖を捲りあげ、洗剤をつけたスポンジでカレー皿をゴシゴシと洗ってゆく。
普段から重たい鎌を振り回しているりんねは、腕力にはそれなりに自信があった。
頑固なカレー汚れも、りんねの丁寧かつ力強いスポンジ捌きの前では無力と化す。
普段の除霊も、この皿洗いくらい簡単ならいいのに。
そんなことを考えながら、りんねは皿を擦り続けた。


「六道くん、手伝ってくれてありがとうね。ほんとに助かるわ」
「いえ。泊めていただいた恩がありますので」


洗い終わった皿を布巾で拭き取りながら、真宮母は微笑みかける。
娘である桜は比較的家事をよく手伝ってくれる方ではあるが、実子でもないりんねにここまで熱心に家事を手伝って貰えた事実は、真宮母とって非常に喜ばしいことなのだ。
桜が結婚して旦那さんを家に連れて来ら、こんな感じなのだろうか?
心の奥底でそんなことを考えみた真宮母であったが、あえて口には出さないでおいた。
もしも目の前の少年に、娘とは別の彼女がいたとしたら、きっと返答に困るだろうから。

しかしながら、真宮母がりんねを気に入ってしまっているのもまた事実であった。
その歳で一人暮らしをしているだなんて健気だし、積極的に家のことを手伝ってくれているし、顔も悪くない。
何より、本当にいい子だ。
あぁ、婿に来てくれないかしら。
そんなことを思っていた真宮母であったが、その思いが不意に口をついて出てしまった。


「桜も、将来は貴方みたいな男の子と結婚して欲しいものだわ」
「え゛」


真宮母の口から飛び出したまさかの一言に、りんねは思わず皿を落としそうになってしまう。

今、真宮母はなんと言った?
真宮桜に、俺と結婚して欲しいと言っていたか?

少々の聞き間違いはあるものの、ニュアンスはほとんど同じ。
真宮桜と結婚……。
想像しただけで鼻の下が伸びそうになる。
だらしなく緩む顔を必死で正し、りんねは首を振った。


「俺なんかに、真宮桜は勿体ないです。その……金もないですし」

皿を洗う手を再び動かしつつ、俯きながらりんねは言った。
真宮桜は、誰よりも優しく、誰よりも可憐だ。
彼女という高嶺の花の価値をよく知っているからこそ、手を伸ばすことなど出来ない。
死神の仕事も、貧乏に悩まされている生活面すらも、彼女に迷惑をかけているというのに、そんな彼女とどうこうなりたいなどと思っていいはずがない。
放課後時々会いに来てくれるだけで喜ばしいというのに、これ以上の贅沢は言えない。
今の距離感が、自分と真宮桜にとって絶好の距離なのだと、りんねは自分に強く言い聞かせていた。


**********


扉を開けた先に広がっていたのは、年頃の女の子の部屋にしては比較的物が少ないシンプルな部屋だった。
以前にも1度入ったことがあった真宮桜の部屋は、彼女のさっぱりした性格を表すかのように片付いている。
強く心惹かれている異性の部屋にいるという状況に、りんねは緊張からか自然と生唾を飲んだ。


「桜様が言っていた課題って、何処にあるんでしょうかね?」


部屋に着くなり、りんねの肩から飛び降りた六文は、部屋の真ん中でキョロキョロと辺りを見渡している。
この部屋の主である真宮桜がお風呂に入る直前、りんねに対して出てきた“課題をやっておいてくれ”という指令を達成するため、この部屋を訪れたりんね
あくまで桜に指示されたから来たのであって、私欲のためにこの部屋を訪れた訳では無い。
そうだ、別に真宮桜の部屋に入って感傷に浸るためとか、日々彼女はこの部屋で眠ったり勉強したり、はたまた着替えたりしている所を妄想するためとか、そんな目的で来た訳では無い。
断じてない。


「あの、りんね様?」
「な、なんだ?」
「何故そんなにベッドを凝視しているんです?」
「えっ」


呆れ顔の六文に指摘され、りんねはこの部屋に入ってから自分がずっと真宮桜のベッドを凝視していたことに気がついた。
隠し通したかった下心が、明らかに行動として現れてしまっていたらしい。
この場に真宮桜がいなくて良かった。
そう思いながらも、りんねは顔を赤くしながら首を振る。


りんね様、まさか何かいやらしい妄想を……」
「い、いや違う!断じて違う!誤解するな六文!」
「はぁ……。まぁとりあえず、早速恩返しを始めましょう。あの勉強机にある冊子、あれが桜様の言っていた課題じゃないですか?」
「あぁ、そうだな……」


六文の言う通り、勉強机の上には数学のテキストが置いてあった。
夏休み前に課題として配られたものであり、りんねも当然持ってはいるが、まだ1ページも手をつけていない。
ページをパラパラとめくってみると、桜の言う通り、この課題は途中まで終わっているらしく、手をつけていないのは数ページほどしか残っていなかった。
このぶんなら、真宮桜が風呂から上がるまでに終わるだろう。
りんねは勉強机の椅子に座ると、テキストの脇においてあった桜のペンケースからシャーペンを取りだし、早速課題に取り掛かった。


**********


「ふぅ、終了だ」
「お疲れ様です、りんね様」


ピンク色のシャーペンを机に起き、りんねは椅子の背もたれに雪崩るように寄りかかった。
全力で集中し、20分という見事な短時間で課題を終えることが出来た。
たとえ20分とはいえ、深く集中すれば疲れも出る。
凝ってしまった肩を回しながら壁掛けの時計に目をやれば、時刻は既に20時半を回っていた。


「あ、六道くん、課題のほうはどう?」


ドアが開く音と共に、真宮桜の声が聞こえてきた。
ちょうど風呂から上がって自分の部屋に帰ってきたのだろう。
りんねは机の上の課題から、背後からこちらに近づいてきているであろう桜へと振り向きながら口を開いた。


「あぁ。なんとか終わらせておい、た……ぞ……」


飛び込んできた光景に、りんねは思わず言葉を失った。
寝巻きに着替え、肩にバスタオルを羽織った彼女は、ほのかに頬が紅潮し、シャンプーのいい香りを漂わせている。
濡れた髪をバスタオルで拭きながらこちらを見つめてくるその姿は、言い知れぬ色気を纏っていた。
呆然とその姿を見つめるりんねの鼓動は、急速に高まってゆく。
しまいには顔が赤くなってゆくのを感じ、慌てて真宮桜から目を逸らした。


「本当だ、終わってる。ありがとう、助かるよ」
「あぁ……。そ、それで、次は何をすればいいんだ?」
「次かぁ……うーん」


このご恩と奉公とやらはいつまで続くのだろう。
そんなことを思いながら、桜は次の要求を練る。
対して椅子に座ったままのりんねは、桜の方に一切視線を向けようとせず、ずっと不自然に前だけを見つめていた。
そんな主の様子に、机の上に座っていた六道は首を傾げる。
何故そんなに顔が赤くなっているのだろう?と。


「その奉公って、何でもいいの?」
「金がかからないものなら何でも構わない」
「それじゃあ、髪乾かすの手伝ってもらえるかな?」
「か、髪!?」
「うん、長いからいつも時間かかっちゃって大変なんだ」


予期していなかった桜からの要望に、りんねは思わず振り返ってしまう。
桜の髪を乾かすということはつまり、桜の髪に触れるということ。
髪は女の命だと、いつだったか祖母である魂子が言っていた。
女性にとって、いや真宮桜にとってそんなにも大切な髪を自分なら触ってもいいということか。
触れたい、桜の髪に。
だが、今の桜は色気を振りまく風呂上がりだ。
そんな状態の彼女の髪に触れたとして、果たして自分の心臓は持つのだろうか。
顔が赤くなるのを抑えられるだろうか。


「だめ、かな?」


欲望との葛藤に苦しむりんねに、真宮桜がトドメを指した。
濡れた髪、紅潮した頬、そして柔らかく微笑みながら首を傾げるその姿。
拒絶など、出来るはずもなかった。


「わ、わかった…」


立ち上がったりんねと入れ替わるように、桜が椅子に座る。
勉強机の横にコードが巻かれた状態で引っ掛けられていたドライヤーを慣れない手つきでセットしていく。
スイッチを入れ、温風を当てながら、自分の指を彼女の黒髪にかき入れる。
髪が絡まって痛みが伴わないように、そっと優しく手を動かすと、桜は気持ちよさそうに目を閉じた。


「六道くん、上手だね」
「………そうか?」
「うん。美容師さんみたい」
「死神業が出来なくなったら、美容師に転向するか」
「ふふふっ」


りんねの冗談に、桜が優しく笑う。
彼女から漂ってくるシャンプーの香りに鼻腔を擽られながら、彼女の美しい黒髪に指を通す。
時々言葉を交わしては笑い合う。
なんて幸せな時間なのだろう。
これが永遠に続けばいいのに。
まるで心がふわふわと宙に浮くような幸せな感覚に、りんねは喜びを隠せなかった。


「桜様、すっごくいい香りがします!花の香り……みたいな………」
「うちで使ってるシャンプーが、バラの香りなんだ。髪乾かし終わったら、六道君と六文ちゃんもお風呂入ってきなね」
「え!?お風呂も貸していただけるんですか?」
「もちろん。お風呂、あんまり大きくないけどね」
「いや、無料で風呂にありつけるだけありがたい」


桜の髪が乾ききったことを確認し、りんねはドヤイヤーの電源を切った。
温風に吹かれて乱れた桜の髪を手ぐしど整えてやると、艶感のあるいつも通りの黒髪に戻ってゆく。
後にも先にも、真宮桜の髪にこんなにも長く触れていられるのはこれが最後だろう。
心なしかうっとりしながら、りんねは桜の後頭部を見つめていた。
背後から優しく髪を撫でるりんねに振り向いた桜は、薄く笑いながら小さく呟いた。


「ありがとう、六道くん」

 

 

***

 

湯気立ちのぼる真宮家の浴室はシャンプーの香りで充ちていた。
先程真宮桜から香ってきた、フローラルな香りと同じ。
服を脱ぎ、浴室にいっぽ足を踏み入れたりんねは、湯気と共に満たされる真宮桜の香りに抱かれ、深く深呼吸した。
そうか、ここで真宮桜も服を脱ぎ、湯船に漬かり、体を洗っていたのか。
りんねは暖かいお湯が貼ってある湯船をじっと見つめていた。


りんね様。まさかまた何かいやらしい妄想を……」
「い、いや違う!誤解するな六文!」


ピョコンと肩に乗ってきた六文から、再び不名誉な疑惑の目を向けられ、りんねは必死に否定する。
しかしながら、死神という特殊な立場にあるとはいえりんねも年頃の男子高生。
密かに想いを寄せる女の子と同じ湯船に浸かるこの状況に、胸の高鳴りを隠せるはずもない。
ゴクリと生唾を飲みつつ、桜が入ったであろう湯船に足をつけた。


「はぁーーー」
「極楽ですねぇ、りんね様」
「あぁ、そうだな」


お湯を肩まで浸かると、ずっしりと体に残っていた夏の疲れが次第にほぐれてゆく。
湯船に浸かるなんて、何ヶ月ぶりだろう。
埃まみれのクラブ棟を住まいにしているりんねにとって、シャワーはともかく湯船など縁遠い存在でしかない。

肩まで湯に浸かることが、こんなにも癒されることだったとは。
きちんとした家があって、帰れば暖かい飯が出てきて、毎日湯船に憑かれて、冷暖房がある部屋の中でベットに横わり眠りにつく。
今日1日しか体験できない、いわゆる“普通の生活”が、幸せで仕方がない。
いつか自分も、深い貧乏の沼から抜け出してこんな生活を送れるようになるのだろうか。
父親が不当に押し付けていった借金を完済し、マトモな家に住み、そして結婚でもすればきっと……。
いや、こんな不安定な自分と結婚してくれるような人はいるのだろうか。

ー 桜も、将来は貴方みたいな男の子と結婚して欲しいものだわ ー

頭に木霊する真宮母の言葉に、りんねは顔を赤くする。
こんな“普通の生活”に、プラスアルファで真宮桜という嫁が付いてくるのなら、これ以上の幸せはない。
夢のまた夢とも言える妄想に心奪われ、りんねは不自然に落ち着きをなくしていた。


(りんね様、やっぱり何かいやらしい事を考えているんですね……)


真っ赤な顔をしながら悶えている自分の主を見上げながら、六文は呆れたようにため息をついた。
このことは、桜には内緒にしておこう。
主の尊厳のため、六文は彼の想い人に告げ口することはやめようと誓うのだった。


**********


「あ、おかえり」


風呂から上がり、自分の部屋、もとい真宮父の部屋に戻ってきたりんね
扉を開けた先にいた真宮桜の姿に、一瞬だけたじろいでしまう。
自分の部屋ではなく、りんねが泊まる予定のこの部屋に彼女がいるとは思わなかった。
読書をしながら待っていたらしい彼女は、風呂上がりのりんねを見ると手に持っていた本を閉じ、床に置く。


「湯加減どうだった?」
「あぁ。最高だった」
「久しぶりの湯船でしたからね!まるで夢のようでしたよ」
「喜んでくれたなら良かった。六文ちゃん、髪乾かしてあげようか?」


そう言って桜は、床に置いてあったドライヤーを手に取った。
桜の思わぬ提案に、六文は目を輝かせて首を縦に振る。


「え、いいんですか?お願いします!」
「じゃあ、そこに座って」


桜の指示通り大人しく床に腰を落とした六文の背後に回り込み、桜はドライヤーのスイッチを入れた。
六文の濡れた黒い毛を優しく撫でながらドライヤーを宛てがう桜。
温風に晒され、六文は気持ちよさそうに目を閉じていた。
しっかり者とはいえ、六文はまだ子猫。
人に毛を乾かしてもらえるのが嬉しいのだろう。
黒いしっぽがしきりに揺れていた。


「はい、終わったよ」
「ありがとうございます、桜様」
「じゃあ次、六道くんね」
「えっ、俺もか?」


ベットに腰掛け、肩にかけたバスタオルで赤髪を拭いていたりんねは、桜の言葉に思わず手を止めた。
六文は、子供の特権で体を乾かしてもらっていた思っていたが、そうではないらしい。


「さっき乾かしてもらったから、お返しに」


あれは宿と食事を提供してもらっていることへの奉公にすぎない。
お返しをしてもらうようなことでは無いのだが。
それでも、目の前で天使の笑みを見せる真宮桜の甘美な誘いを断れるほど、りんねはまだ大人になりきれていなかった。


「………お願いします」
「うん」


真っ赤な顔を隠すように顔を背けるりんね
そんな彼の背後に回り込んだ桜は、ドライヤーのスイッチを入れた。
温風とともに、桜の細い指がりんねの赤い髪へと潜り込んでゆく。
桜の優しい手つきと、ドライヤーから発せられる温風は、なんとも言えない心地良さを与えてくれる。
飼い主に優しく撫でられている犬は、いつもこういう心地良さを感じているのだろうか。
幸せだ。こんな時間がいつまでも続けばいいのに。


「眠いの?六道くん」
「ん、」

心地良さに目を閉じれば、一気に睡魔が襲ってくる。
普段あの埃臭いクラブ棟で暮らしているりんねは、“くつろぐ”ということを知らない。
突然与えられた安らぎの空間と時間は、りんねを急速に夢の世界へと引っ張りこもうとしていた。
そんな彼の様子を見て、桜はドライヤーの電源を切る。
桜に比べて短いりんねの髪は、ものの数分で乾ききってしまう。
いつまでも続けばいいのに願ったりんねの思いとは裏腹に、心地よい時間はあっという間に終わりを告げてしまった。


「じゃあ、そろそろ寝ようか。私も眠くなってきちゃった」
「そうか……」


ふと足元を見ると、床に座っている六文もまた、うとうとと眠気眼を擦っていた。
そんな黒猫の愛らしい姿に笑みを浮かべると、桜はドライヤーを折りたたみ、ゆっくりと立ち上がる。
おそらく自分の部屋に戻るつもりなのだろう。
出入口に向かって歩き出した真宮桜を、りんねは思わず慌てて呼び止めた。


真宮桜!あの……今日は本当にすまない。色々と助かった」
「うん。喜んでくれたのなら良かったよ。それじゃあ、おやすみ」
「あぁ、おやすみ」


柔らかく微笑んだあと、桜は部屋から静かに出ていった。
真宮桜と“おやすみ”の挨拶を交わし合う日が来るとは……。
心にほっこりとした温かさが広がってゆく。
一人感傷にひたっていたりんねだったが、六文の床に倒れ込む音と共に我に返った。
どうやら睡魔に耐えかね、完全に眠ってしまったらしい。
六文の小さな体を抱き上げ、部屋の電気を消したりんねは、暖かなベッドの中へと潜り込む。

綺麗にシーツが敷かれたベッドは寝心地満点である。
うまい飯、暖かい風呂、そして柔らかなベッド。
真宮桜がもたらしてくれた幸せは極上のものだ。
彼女には感謝してもしきれない。
朝起きたら、再び真宮桜に力いっぱい奉公しなければ。
六文の規則正しい寝息を枕元で聞きながら、りんねは目を閉じた。


**********


鈍い音がする。
頭の奥で鐘が鳴るような、重い音が。
鬱陶しいその音で目が覚めたりんねは、布団からのっそりと上体を起こした。
枕元を見れば、六文が気持ちよさそうに熟睡している。
やはり鈍い音は小さく響いていて、気のせいではないことを知らせてくれた。
辺りを見渡すと、暗闇に目が慣れてくる。
どうやらこの鈍い音は、窓の外からするらしい。

一体なんの音だろうか。
ベッドから起き上がったりんねは、六文を起こさないようにそっと窓へと近づいた。
光を通さないためにしっかりと閉められたカーテンを勢いよく開けると、そこに広がっていた光景に思わず息を詰める。
大量の悪霊たちが窓の外におしかけ、ガラスをしきりに叩いていたのだ。


「ど、どうなってるんだ……」


何故こんなにも大量の悪霊がいるのか。
見たところ、この家の中に入ろうとしているらしいが、ドンドンと窓を叩くだけで一向に侵入してくる気配がない。
目を血走らせて殺気立っている悪霊たちは、見るからに危険極まりない。


「そうだ、真宮桜……!」


この真宮父の部屋の窓に悪霊が群がっているということは、隣の真宮桜の部屋にも押し入っている可能性が高い。
彼女は霊が見える特異体質とはいえ、タチの悪い悪霊に対抗出来るだけの力はない。
悪霊に襲われていたらひとたまりもないだろう。
真宮桜が危ない。
りんねは六文を残して飛び出し、隣の真宮桜の部屋を開けた。


真宮桜!無事か!?」


勢いよく入った真宮桜の部屋は、ひどく静かなものであった。
ベッドの中で真宮桜はスヤスヤと静かに寝息を立てている。
自分が寝ていた部屋と同じように、窓の外には恨めしそうに群がっている悪霊たちがいるが、やはり一切この部屋には入ってきていない。
一体何がどうなっているのだろう。
これほどまでに強い邪気を放っている悪霊たちが、窓1枚破れず外で指を咥えているとは。

もっと近くで様子を見ようと窓に近づいたりんねの視界の端に、キラリと光るものが飛び込んでくる。
月の光に照らされて輝いたらしいそれは、真宮桜の勉強机に置いてあった。
綺麗な光を放っているそれは、見覚えのある砂時計。
かつて自分が詰め替え用を用意した、霊を寄せつけない砂時計である。


「そうか、奴らが入って来れないのはこいつのおかげか」


10年間有効なこの砂時計の効果は絶大である。
これが真宮家を悪霊から守っていることは確かであるが、そもそも何故こんなにも悪霊が群がっているのだろうか。
普通、一般家庭であれば霊が日常的に家の中を通行する事はよくある事だが、そもそも存在自体が珍しい悪霊が、こんなにも大量に真宮家に殺到するのはどうもおかしい。

出ていって一気に除霊したいのは山々だが、今りんねが愛用している死神の鎌は修理に出していて手元にない。
火車を初めとする死神道具を使ってもいいが、まさかこんなことになるとは思わなかったため、全てクラブ棟の金庫に置いてきた。
あの世まで購入しに行ってもいいが、その間この場を離れ、悪霊がすぐそこまで殺到しているこの部屋に真宮桜を一人残していくことになる。
六文を行かせればいいのかもしれないが、気持ちよく寝ているところを叩き起すのも可哀想だ。
よりによって死神の鎌がないこの日にたまたま悪霊がやって来るとは。


「……いや、あえてこの日を狙ったわけか」


りんねは1つの結論に達し、深くため息をついた。
死神とは、迷える霊を輪廻の輪に導く存在であり、時には悪霊や厄介な動物霊などを強制的に除霊することもある。
悪霊たちからは恨まれることも多く、不意打ちや奇襲を仕掛けられるのは珍しいことではない。
恐らく、どこからかりんねが死神の鎌を修理に出したと聞いた悪霊たちが、今こそ好機と押し寄せたのだろう。
しかし、偶然にもりんねは今日、霊を寄せつけない砂時計に守られている真宮家にお邪魔しているため、悪霊たちは窓の外で難儀をしているといったところか。

不本意ながら、自分がこの真宮家に来たばかりに真宮桜を巻き込んでしまった。
これほどまでに幸せな一日を提供してくれた彼女に恩返しをしなければと思っていたが、まさかこんな災いを呼び寄せてしまうとは。
りんねは振り返り、ベッドで静かに眠っている真宮桜を見つめた。
悪霊がすぐそこまで迫っていることも知らず、彼女は可愛らしい寝顔を見せている。
やはり真宮桜を残してこの部屋を出るわけにはいかない。
いくら砂時計の力があるとはいえ、これほど多くの悪霊が殺到しているのであれば、決壊が耐えきれず破壊される可能性も拭いきれない。
そうなれば真宮桜は……。


「一宿一飯の恩がある。何としても、真宮桜を守らねば」


拳を握りしめ、覚悟を決めたりんねは、悪霊が殺到する窓のカーテンを閉めると、眠っている桜に寄り添うようにベットの脇に腰掛けた。
あぐらを描き、腕を組んだりんねは、窓の外で蠢いている悪霊たちを睨みつけている。
死神の鎌がなければ除霊も不可能。
かと言って真宮桜1人を残してあの世へ向かい、鎌を引き取ったり死神道具を買いに行くのは不安が残る。
ならば仕方ない。
砂時計の結界が壊れることを危惧し、一晩真宮桜の傍でその身を守るのが最善だ。
夢にまで見たふかふかベッドで眠れなくなってしまうのは残念だが、彼女の命には変えられない。
夕飯と風呂の恩を返すために、責任をもって真宮桜を守らなくては。
いや、決して真宮桜と夜を共にしたいとか、寝顔を1秒でも長く見ていたいとかそんな理由ではない。
断じて違う。
大きな覚悟と小さな下心をもって、りんねは見張りの役を密かに買って出たのだ。

静かに寝息を立てる桜の気配に、りんねはゆっくり背後を振り返る。
そこには、瞼を閉じて安らかに眠る桜の可愛らしい寝顔があった。
長いまつ毛、少しだけ開かれた赤い唇、艷めく黒髪。
彼女を構成する全てのパーツが、りんねを魅了する。


(こんなに近くで、真宮桜の顔を見つめたのははじめてだ………)


いつもは直視できない彼女の顔は、やはり美しく整っていて、見つめる度に胸が高鳴ってゆく。
いつも冷静で隙のない真宮桜が、無防備な寝顔を晒している。
こんなにも綺麗な寝顔を見つめ事が出来るなんて、自分は本当に恵まれているのだろう。
彼女に長年思いを寄せている十文字でさえも、きっとこんな寝顔は見たことがないはずだ。
湧き上がる優越感は、りんねをほんの少しだけ大胆にする。
まるで吸い込まれるかのように、彼女の唇めがけ、顔を近づけて行く。
30センチ、20センチ、10センチ。
近付くほどに胸の高鳴りは大きくなる。
そして……。


「んっ……」
「っ!?」


息を詰め、小さく身をよじった真宮桜に驚き、りんねは思わず飛び退いた。
バクバクと高鳴る心臓は、トキメキよりも怯えによって騒いでいるようである。
起きたかと思った。
だが、どうやらただ少し動いただけだったらしい。
安堵したりんねは溜息をつき、再びベッドの脇へと腰を下ろした。

再度真宮桜へと目を向けると、彼女が何やらぬいぐるみを抱きしめている事に気がついた。
その青いイルカには見覚えがある。
以前除霊目的で行った遊園地で、彼女のためにUFOキャッチャーで取った景品だ。
どうやら今でもきちんと大切にしてくれているらしい。
しかも、抱きしめて寝ている。
りんねが取ったからという訳では無いのかもしれないが、それでも自分にゆかりのある物を大切にしてくれているのは嬉しい。


(手ぐらい握っても、バチは当たらないだろうか……)


イルカのぬいぐるみを抱く彼女の白い手に、自分の手を重ねてみる。
彼女の手は少し小さくて、そしてひんやりと冷たい。
この手を通じて、彼女に自分の想いが伝わればいいのに。
この部屋は冷房が聞いているというのに、りんねの体はどんどん熱を上げてゆく。
もっと彼女の心に近付きたい。
その身に寄り添いたい。
そんな純粋で無垢な欲望に包まれながら、りんねは瞳を閉じる。
襲い来る眠気に身を任せ、桜の手を握ったままゆっくりと夢へと落ちていった。
砂時計の結界に守られる中、真夏の夜は熱を帯びてゆく。

 

***

 

「………どう……くん…………ろくど……ん!……六道くん!」
「っ!」


体を揺さぶられる感覚と、自分を呼ぶ声に意識を引き戻され、りんねは目を覚ました。
目を開けた途端、眩しい光が視界いっぱいに広がり、自然と涙が溢れ出る。
窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえていて、いつの間にか朝を迎えていたことに気付かされた。
どうやら、真宮桜の部屋でそのまま眠ってしまったらしい。
寝ずに見張りをしようとしていたのに、情けない。
しかし、真宮桜のいつも通りな寝巻き姿を見るに、どうやらあれから悪霊たちが侵入してくる事はなかったらしい。


「あぁ………おはよう、真宮桜
「おはよう、六道くん。ところで、どうして私の部屋にいるの?」
「えっ」


そう聞いてきた真宮桜の視線が、ゆっくりと下に落ちてゆく。
その視線の先を追ってみると、桜の白い手をしっかりと握りしめたりんねの手があった。
そうだ。昨日の夜、確か真宮桜の手を握ったまま眠ってしまったんだ。
真宮桜の側から考えてみると、朝起きてふと見ると、隣の部屋で眠っていたはずの異性が自分の手を握ったまますやすやと眠っていたというこの状況。
少し……いや相当怖いのではないだろうか。


「ご、誤解だ真宮桜!これはその……別に寝顔をこっそり見に来たとか、寝込みを襲いに来たとかそういうのではなく……!」


握っていた手を急いで離し、慌てて弁解するりんね
しかし、言い訳すればするほど怪しさが増してゆくことに、彼は気づけていない。
残念なことに、証人になってくれそうな昨日の悪霊たちも、潔く諦めてしまったのかキレイさっぱり居なくなっていた。
りんねの無実を証明してくれる存在など、もはやどこにもいない。


「六道くん……そんなことしようとしてたの?」
「違う!悪霊から真宮桜を見貼ろうと部屋に入っただけで、やましいことは何も考えていない!」


ほんの少しだけ嘘をついた。
本当は、彼女の寝顔に魅せられ、吸い付くように顔を近づけようとしたくせに。
けれど、本当の事を馬鹿正直に白状して彼女に軽蔑される事だけは避けたかった。
額に冷や汗を流しながら必死に誤解を解こうとするりんねとは対照的に、真宮桜は普段と全く変わらない落ち着き払った表情で小さく呟く。


「なんだ、違うんだ」


彼女の呟きに、りんねは一瞬だけ言葉を失った。
なんだ?その、“なんだ”とは。
まるでガッカリしたようなその口ぶりは。
寝顔を盗み見られることを期待していたのか?
それとも、寝込みを襲われたとして受け入れる準備があったというのか?
いやありえない。そんなわけない。
そう思っていても、都合のいい妄想や期待は高まってゆく。
彼女の冷静な表情から飛び出した思わせぶりな言葉に、りんねは翻弄されていた。


「さくらー。朝ごはん出来てるわよー」
「あ、はーい」


1階からかけられた真宮母の声が、りんねの戸惑いをかき消し、現実へと引き戻した。
返事をした桜は、薄い毛布から足を出し、のそのそと布団から出ると、ストレッチをしながら立ち上がる。


「六道くん、朝ごはん食べていくでしょ?」
「あ、あぁ……」


直ぐに話題がそらされたところから察するに、りんねがどうして自分の部屋で眠っていたのかは桜にとってあまり興味のない事だったようだ。
自身と桜との間にある確かな温度差に肩を落としながら、りんねも立ち上がる。


「あ、そうだ。昨日のご恩と奉公ってやつ、まだ有効なのかな?」


1階に降りるため、ドアノブに手をかけた桜だったが、扉を開ける前にそんなことを聞いてきた。
一晩中起きて彼女のことを守れていたのなら、一宿一飯の恩を返すことが出来たと堂々宣言できるのだろうが、残念ながらりんねは睡魔に敗北し寝入ってしまった。
これでは受けたご恩に対して奉公がまだ足りない。
朝も食器洗いなどで奉公を続けようと考えていたりんねは、迷わず頷いた。


「そのつもりだが……?」
「じゃあ、最後に一つだけお願いしていい?」


振り返った桜は、珍しく少しだけ頬を赤く染めていた。
何故こんな顔をするのだろう。
先程の“なんだ”発言といい、真宮桜の本心は、やはり掴めない。


「また、遊びに来てね」


穏やかに微笑む彼女の口から飛び出してきた“最後の願い”とは、りんねにとって、どんな甘味よりも甘いものだった。
もう二度と体験することは無いだろうと思っていた今日一日の夢空間を、真宮桜本人が再びもたらしてくれるという。


「いいのか!?」
「うん。楽しかったから」


普段から彼女に借金を重ね、さらには食べ物を恵んでもらったことも数え切れないほどある。
今回に至っては寝床すら提供してもらった。
こんなにも世話になってしまい、迷惑に思ってはいないだろうか。
そんな危機感が、りんねの頭の隅にはいつもあった。
もう関わりたくない。だって六道くん図々しいんだもん。
そんなことを言われながらそっぽを向かれても文句は言えない状況まで追い込まれていたが、彼女はそんな憂慮を優しいほほ笑みで打ち消してくれた。

また、頼ってもいいのか?
迷惑じゃないのか?
本心は分からない。
けれど、彼女のほほ笑みが嘘ではないのなら、こんなにも嬉しいことは無い。


「さ、早く行こう。朝ごはん冷めちゃう」
「あぁ、そうだな」


自室の扉を開けた桜は、りんねの手を取って歩き出す。
やはり真宮桜は、天使のように優しい。
彼女から受けた数多くの優しさは、りんねに淡い期待をもたらしてくれる。
真宮桜が自分と同じ気持ちを抱いているなんて、そんな夢のようなこと、あるはずがない。
頭ではわかっていても、まだまだ大人になりきれない死神は、彼女の言動一つ一つに、どうしようもなく一喜一憂してしまうのだ。
今日もまた、六道りんね真宮桜の優しさによりかかる。
彼女の微笑みに心震わせながら、りんねはその手を握り返した。

なお、朝食を寝過ごして食べ損ねてしまった六文に“なんで起こしてくれなかったんですか!”と喚かれるのは、また別の話である。


END