Mizudori’s home

二次創作まとめ

殺りん没ネタ詰め合わせ

【殺りん】

犬夜叉

■没ネタ集

■短編

 

act.1「みんな見ている」

 

それは、ある暑い日の昼下がり。
りんは夕飯の材料調達のため、村近くの森へとやってきていた。
腹が大きく成長していた村の娘が、無事に男児を出産したのはつい昨日の夜のこと。
村の住人が一人増えたことを喜んだりんは、大々的に宴会を開こうと楓に提案した。
金銭的に最初は渋っていた楓だったが、りんの提案に魅力を感じていたかごめの“材料集め手伝うから”という一言に後押しされ、それならばと承諾を取り付けたのは今朝のこと。
今宵行われる予定の宴会に向けて、りんは楓やかごめ、そして犬夜叉と共にこの森に入った。

楓やかごめは山菜を、犬夜叉はイノシシ肉を調達するという役割を決め、いざ森に入った後は別行動をとり始めた4人。
この森は、手練れが集まる楓の村に隣接しているということもあって、大した妖怪は出没しない。
りんも、安心して己の役割を全うすべく川へと向かった。

森の奥に進んだ先にある川は、よく七宝と一緒に石で水切りをして遊んでいる場所でもある。
水が流れる音に導かれるように木々の間を進んでいくと、そこには見慣れた川が広がっていた。


「よし!」


りんは着ていた着物の裾を膝までまくり上げ、履いていた草履を脱ぎ捨てる。
この着物は、先日殺生丸から贈られた反物で作ったものである。
汚すわけにはいかない。

4人の中で、りんに与えられた役割は魚を捕ることだった。
昔、殺生丸たちの背について回っていた頃は、邪見と協力して川に入り魚を素手で取っていたこともある。
彼女にとって、慣れ親しんだこの川で魚を捕ることなど、容易でしかなかった。
露出させた白い足を水に浸せば、冷たさを感じて全身に鳥肌がたつ。
足に当たる水流が、今日は少しだけ強い。
どうやら前日雨が降ったためか、わずかに流れが速くなっているようだ。
しかし、この川の水深が浅いことを知っているりんは、ためらいもせずに川の中心へ足を進める。

川底に沈むぬるぬるとした石たちの上に立ちながら、水の中に両手を突っ込み、魚を探す。
やがて、激しめの水流に流されるように泳いでいる魚たちに手が当たった。
じゃばじゃばと音を立てながら両手で探りを入れるりんの両手の中に、ようやく一匹の魚が流れ込んでくる。
隙を見逃さなかったりんは、即座に魚の胴体を両手でつかみ、水面から引き揚げた。
体を激しくくねらせながら暴れる魚を強く握りしめ、さっそく大物を捕まえたことにりんは喜びを隠しきれなかった。
するとそこに、二人の巫女服が通りかかる。
山菜をあらかた採り終わり、りんの様子を見に来たかごめと楓であった。


「りんちゃーん、そっちはどう?」
「あっ、かごめ様、楓様!見てください、大物ですー!」
「あらほんと!すごいじゃない!」


両手で魚をつかみ上げ、満面の笑みを浮かべるりんに、かごめが拍手を贈る。
そんなかごめが脇に抱えている籠の中身は、今日村人たちに振る舞う予定の山菜たちで満たされていた。
大きな魚が捕れたことにはしゃぐりんとかごめだったが、横でその光景を見ていた楓は少々焦っていた。
川の流れが随分早い。
いくら浅瀬だからといっても、ひとたび足を滑らせれば小柄なりんは即座に流されてしまうだろう。
効率は落ちるが、川に入らず釣竿を使って魚を捕った方が安全だろう。
そう判断した楓は、水が流れる音にかき消されないよう大きな声でりんに呼びかけた。


「りん、川の流れが速くなっておる。今日はそれくらいにして上がりなさい」
「はぁい」


楓の言葉を受け、りんはゆっくりと岸へ向かって歩き出す。
魚を掴んでいるため両手が塞がっており、そのうえ足場も悪いため上半身をよたよたさせている。
危なっかしいりんの挙動にひやひやしていた楓とかごめだったが、二人の悪い予感は見事に的中してしまう。
流れが一層早くなっている場所に足を突っ込んだ瞬間、急流に足を取られ、りんは勢いよく転倒してしまったのだ。
掴んでいた魚は、りんの体とともに川の中へと帰っていく。


「りんちゃん!」


かごめの悲痛な叫びが、森の中で木霊した。
浅瀬とはいえ、あそこまで流れが速くなっている川で転倒すれば溺れてしまう。
りんは再び立ち上がることが出来ず。右手だけ川面から出してもがいていた。
このままでは危ない。
持っていた山菜籠を放り出し、川へと入ろうとしたかごめであったが、横で見ていた楓がそんな彼女の腕を力強くつかんだ。


「待てかごめ!今行ったらお前も流されてしまうぞ!」
「でも・・・!」
「どいてろかごめ!」


どんどん遠くに流されていくりんを見つめ、川辺で難儀していた二人の前に、赤い人影が飛び出してきた。
先ほどまでイノシシを追い回していた犬夜叉である。
どうやら、かごめの叫び声を聞いて駆けつけてくれたらしい。
人間には真似できない驚異的な飛躍力で、川の流れを一部せき止めている大岩から大岩へと飛び移り、流されていくりんに接近する。
そして、川面から力なく覗いていたりんの右腕を引っ張って水から引き揚げると、犬夜叉は小柄な彼女の体を小脇に抱えてかごめと楓の前に降り立った。


「ありがとう犬夜叉。りんちゃん、しっかりして!」
「りん!目を覚ませ!」


犬夜叉によって抱えられているりんはぐったりとしていて、意識を失っていた。
全身濡れているりんの黒髪からは、冷たい水滴がしたたり落ちている。
犬夜叉は、抱えていた体をゆっくりと川辺の小石たちのうえに横たえさせたが、やはりりんが目を開ける気配はない。
楓が急ぎりんの右腕を取って脈を測っているいる横で、かごめは巫女服の袖を勢いよく捲っていた。


「お、おい楓ばばぁ、大丈夫なのかよ?」
「脈はある。まだ生きておるぞ」
「とりあえず心臓マッサージしてみるわ!」


不安そうにりんの顔を覗き込む犬夜叉
いつもは桜色の頬をしているりんだったが、今は血色が悪くいかにも重体に見える。
人間の体のことなどよく分からない犬夜叉は、両脇で慌ただしく動いている女性二人にその場を任せるしかなかった。

かごめは、いつだったか学校の講習で習ったことがある心臓マッサージのやり方を思い出しながら、両手をりんの胸に当てて一定の間隔で体重をかけてみる。
本格的な医療知識などほとんどないため、このやり方が正解なのかは分からないが、とにかく今は目の前の人命を助けるため必死に心臓マッサージを続けるかごめ。
その横で、楓はひたすらにりんの名前を呼び続けていた。
冷たくなっていくりんを目の前に、緊迫する3人。
そんな中、犬夜叉の利きすぎる鼻が、厄介な人物の匂いを捉えた。
その人物は、暗い森の奥からゆっくりとこの河原に近づいてくる。


殺生丸・・・」


現れた兄は、いつもの小うるさい小妖怪を引き連れておらず、単身犬夜叉たちの前にやってきた。
殺生丸の到来に思わず驚く犬夜叉と楓。
しかしかごめはというと、殺生丸を横目でちらりと見ただけで何も言わず、そのまま心臓マッサージを続けていた。
殺生丸の瞳に映ったのは、濡れた体で川辺に横たわり、目を閉じているりん。
回りを囲む犬夜叉たちの必死な様子を見ていれば、何が起きたのかは一目瞭然だろう。


「川に落ちたか」


殺生丸の言葉に、犬夜叉はただ俯いて頷くしかなかった。
犬夜叉にとって殺生丸は、決して心許せる存在とは言い難い。
けれど、彼が連れていたりんが、自分と行動を共にした際にこのような事件が起きてしまったことに、犬夜叉は珍しく罪悪感を感じていた。
というのも、4人で森に入った後、りんと最後まで一緒にいたのは犬夜叉だったのだ。

山菜を摘み行くと楓、かごめと別れたあと、りんと協力して魚を捕ろうとしていた犬夜叉だったが、川での魚捕りは慣れているから一人で大丈夫だと言うりんに、犬夜叉は納得してその場を離れてしまった。
魚はりんに任せ、自分は一人イノシシを狩っていた方が効率もよく早く帰れると思ってしまったが故の出来事。
あの時、りんの身を案じて一緒に川に来ていれば、彼女が溺れることはなかったかもしれない。
後悔にさいなまれた犬夜叉は、目の前にいる殺生丸の顔を見れずにいた。


「ダメだわ。全然起きない!」
「かごめ、りんの息が止まっておる。口から空気を入れてやった方が良いのではないか?」
「人工呼吸ね!わかった。それなら私が・・・」


慣れない心臓マッサージに苦戦するかごめに、横から楓が助言をした。
そういえば、昔現代で見た映画で、海で溺れた人を人工呼吸で蘇生させるシーンを見たことがある。
りんの肺に空気が入り込めば、もしかすると意識を取り戻すかもしれない。
一抹の希望を胸に、りんへと顔を近づけたかごめだったが、すぐ隣に殺生丸が腰を下ろしてきたことに驚き、思わず手が止まる。
左手でりんの頭を持ち上げ、軌道を確保した殺生丸は、そのままためらうことなくりんの冷たい唇にかぶりついた。


「へっ?」
「なっ・・・」


当然のことのようにその光景を見つめている楓とは裏腹に、犬夜叉とかごめは突然目の前に広がった光景に驚愕し、声を漏らした。
殺生丸によって息を吹きかけられているりんの胸はゆっくりと膨らみ、殺生丸が口を離すと同時に再びしぼんでゆく。
それを何回か繰り返したその時だった。


「・・・っ、ゲッホ!ゲッホッ!・・・」
「あっ、りんちゃん!」
「おぉりん、気が付いたか!」


派手に咳き込みながら瞳を開けたりんに、犬夜叉たちは安堵する。
いまだ意識がはっきりしていないらしく、わずかに開かれた目には力がなく、呼吸もか細い。
ぼんやりとした意識を手繰り寄せ、自分の身に起きた惨状を思い出そうとするりん。
そうだ、足を滑らせて川に落ちたんだ。
流されそうになって、苦しくなって、意識が遠くなって、視界の隅で犬夜叉様が近付いてくるのが見えて・・・。
そこまで思い出したところで、ぼやけていた視界が徐々に鮮明になっていく。
目の前に広がるのは青々とした空と、自分を見下ろす殺生丸の顔だった。


殺生丸、様・・・?」


何故、彼がここにいるんだろう。
そんな疑問が頭に浮かんできたが、それよりもまず安堵感が胸いっぱいに広がった。
殺生丸の腕に抱かれ、その瞳に射抜かれていると、どうしてこうも安心するのだろう。
それはきっと、幼いころ何度も彼に救われてきたからだ。
あれから何年経とうとも、彼はりんの窮地には必ず駆けつけてくれる。


「大事ないか」


たった一言だけ発せられた殺生丸の言葉に、りんは小さく頷いた。
水にぬれ、額に張り付いたりんの前髪を、殺生丸は細く長い指で払う。
2人の視線は交わったまま動くことはない。
横で見ている犬夜叉やかごめからの好奇な眼差しなど気にすることなく、殺生丸とりんは互いに熱視線を送っていた。
顔についている雫を殺生丸に拭ってもらっているうちに、りんは体の芯から冷えるような感覚に襲われる。
気付けば自分は全身ずぶ濡れで、せっかくの殺生丸からもらった反物で作った着物も、無残に水気を吸っていた。


「ごめんなさい、殺生丸様。着物、汚しちゃった・・・」
「・・・気に病むな。また用意させる」


申し訳なさそうに眉をひそめて見つめてくるりんに、殺生丸は目を細めた。
殺生丸とりん、二人が纏う空気は妙に甘く、かごめは困ったように笑みをこぼす。
完全に二人の世界に入ってしまっている殺生丸とりんの背景が、きらきらと輝いて見えるのはかごめだけではないはずだ。
その証拠に、横で同じ光景を見ていた犬夜叉は、柄にもない優しさを滲ませる兄を、幽霊でも見つけたかのような青い顔で凝視している。


「なんか、あたしたちがいること忘れてない?あの二人」
「あぁ、殺生丸の野郎、気持ち悪いったらねぇな」
「お前たちも時折ああなるがな」
「えぇっ1?」
「ばっ・・・一緒にすんじゃねぇ!」


ひそひそと耳打ちしあう半妖と巫女の夫婦に呆れ、横から口を出した楓。
案の定若い二人は顔を真っ赤にしながら否定してきたが。真実なのだから仕方がない。
一方、殺生丸に抱えられているりんは、意識を取り戻すと同時に寒さに襲われているらしく、小さく体を震わせていた。
りんの体が冷え切っていることに気が付いた殺生丸は、彼女を抱えたまま、自身の鎧へと手を伸ばす。
鎧止めの紐を手早くほどくと、纏っていた重そうな鎧が殺生丸の体から離れ、ガタンと大きな音を立てて地面に落とされた。
さらに殺生丸は、自身の上衣をそそくさと脱ぎだしてしまう。


「あの、お義兄さん、なにして・・・」


突然鎧と上衣を脱ぎ、小袖姿になった殺生丸に戸惑い、思わず声をかけたかごめだったが、返事が返ってくることはない。
脱いだ上衣を広げた殺生丸は、そのまま小さくまるまるりんに羽織らせてやる。
小柄なりんにとっては少し大きい殺生丸の着物は、暖を捕るのに最適だった。
地面に落ちた鎧はそのままに、りんを横抱きにして立ち上がった殺生丸は、背後にいた犬夜叉をきっと睨みつける。
さきほどりんに向けられていた慈しみにあふれた瞳が嘘のような恐ろしい目つきに、犬夜叉は一瞬だけたじろいだ。


「何を呆けている、犬夜叉。さっさと村に戻るぞ」
「はぁ?」
「りんの体を温める。焚火がある場所へ案内しろ」


明らかに苛立っている殺生丸に反論してやりたくなる犬夜叉だが、震えているりんを放っておくわけにもいかない。
高圧的な兄の要求を、犬夜叉は飲まざるを得なかった。


「けっ、偉そうに。勘違いすんじゃねぇぞ、俺はお前のためじゃなくりんのために案内するんだからな!かごめ、楓ばばぁ、先行くぜ」
「あ、うん」


地面を勢いよく蹴り上げ、犬夜叉は木の枝を伝って風のように去っていく。
殺生丸もまた、胸の中で小さく震えるりんを抱えたまま、先行する弟の背を追い飛び立っていった。
嵐のように去っていった白と赤の兄弟を見上げながら、かごめはりんの命が助かったことに改めて安心感を覚えた。
そしてそれと同時に、殺生丸のりんへの愛情深さも思い知ってしまう。


「行ってしまったな」
「うん。なんかあたし、殺生丸があんな風に誰かに優しくしてるところ、初めて見たかも」


かごめが初めて殺生丸という男に会ったとき、彼は涼しい顔で他者の命を奪う冷酷な存在であった。
現に、かごめも彼の手によって何度か殺されそうになったこともある。
あれから暫くたって、ほんの少しだけ丸くなったとは思っていたが、それでもまだ冷たい側面がある妖怪だという印象は変わっていない。
そんな殺生丸が、一人の人間の少女を大事そうに抱えている。
その光景は、かごめにとって信じがたくもあり、そして心温まる思いでもあった。
彼にとってりんは、きっと特別な少女なのだろう。
そう思わずにはいられない。


「普段は威嚇ばかりでも、心開いた者にはとことん懐く。それが犬というものだ。兄弟そろって良く似ているものだな」


二匹の犬が去っていく空を見上げながら囁かれた楓の言葉に、かごめは思わず小さく声を挙げて笑った。
言われてみれば、犬夜叉も昔はそうだった。
どこまでも粗暴で、自己中心的で、それでいて傲慢。
けれど、かごめをはじめ、弥勒や珊瑚、七宝たちとつながりを持ったことで少しずつ変わっていった。
楓の言葉を借りるなら、つまり懐いたのであろう。
犬は、心開いた者には忠義を尽くす。
殺生丸犬夜叉も、根底は同じなのかもしれない。


「ほんと、どこまでも忠犬よね。犬夜叉も、殺生丸も」


こんなこと、犬夜叉はもちろん殺生丸の前では絶対に言えないだろうな。
そんなことを考えながら、かごめは小さくつぶやくのだった。

 

act.2「白と赤の投げ合い」

 

その日、珍しく殺生丸は寒さを感じた。
いつもは自らが纏っている着物や白い毛のおかげで、冷気から守られているが、その日ばかりは肌を刺すような冷たい空気に身を震わせてしまう。
この辺りでは珍しく、雪が降ったのだ。
それも大雪である。
雪原に足を踏み入れれば、脛のあたりまで埋もれてしまうほど降り積もった雪は、あたりの風景を銀世界に変えてしまう。
降りしきる雪を見ながら、殺生丸は一人の少女のことを思い出していた。
りん。
人里に預けている彼女は、これほどまでに積もった雪を見たことがあるのだろうか。
天真爛漫な彼女が雪にはしゃぐ様子が瞼の裏に浮かんでくる。
殺生丸は、気付けば邪見を従えて楓の村を訪れていた。


「な、なんじゃこれは」


村の入口に到着し、殺生丸と並んで村の様子を眺めていた邪見は独り言を漏らした。
大勢の村人たちが、田畑を耕すための鍬や鋤をもって雪の中を忙しなく動き回っている。
白い雪を籠で掻き出し、道の端に捨てる者。
屋根に上って農具を使い、雪を落とすもの。
タライに溜めた熱湯で家の近くの雪を溶かすもの。
老若男女問わず、ほとんどの村人たちが外に出てどんちゃん騒ぎながら作業をしている。
見慣れないその光景に驚いた邪見は、隣で立ちすくむ殺生丸とともにその場で戸惑っていた。


「あっ、殺生丸さまー!」


村の入口で佇んでいる殺生丸と邪見を見つけ、遠くから手を振りながらりんが駆け寄ってくる。
かんじきを履き、いつもより厚着をしているりんの口元からは、白い煙が絶えず立ち上っていた。
積もり積もった雪の上を走ることは、雪に慣れていない武蔵の国の子供には至難の業である。
案の定りんは殺生丸たちのもとに打擲する直前、雪に足を取られて前のめりに倒れそうになるが、間一髪殺生丸がその体を受け止めた。


「ありがとう、殺生丸様」
「走るな、転ぶぞ」


りんの手を取り、ゆっくりと立ち上がらせてやる殺生丸
彼に受け止められてとはいえ、下半身は雪に埋もれてしまったため、膝のあたりには大量の雪が付着していた。
それをパンパンと叩きながら払うりんの両手は、寒さからか赤くなっている。


「りん、これはいったい何の祭りじゃ?」


体の雪を払うりんに、邪見が耳打ちして聞いてみる。
普段この時間に訪れる楓の村は実に静かで、男たちは畑を耕し、女たちは家事に追われているものだ。
村人ほぼ全員が外に出てせわしなく動き回っているこのような光景を、邪見は見たことがなかった。
しかも、村の中央には焚火がいくつか置かれ、大きな鍋が煮えている。
楓が鍋のふたを開けながら中身をかき混ぜ、村の子供たちはその鍋の回りを囲んで歌を歌っていた。
このにぎやかさは、きっと祭りに違いない。
邪見はそう思い質問してみたのだが、りんからは全く別の回答を得ることになる。


「お祭り?違うよ邪見様。みんなで雪かきしてるの」
「雪かき?」
「うん!とっても楽しいんだよ!」


見てみると、村人たちはそれぞれの家の周りの雪をどけようとしているように見えた。
作業をしている者たちの中には、見知った顔もいくつかあった。
弥勒は、つい先日生まれたばかりの長男を背負いながら、鍬を手に楓の家近くの雪をどかしている。
珊瑚もまた、双子の様子を見ながら楓の隣で鍋をかき混ぜていた。
どうやら、村総出でこの作業に当たっているらしい。


「これから休憩なの。楓様がお鍋作ってくれてるんだけど、殺生丸様達も食べようよ!」


殺生丸の袖を引っ張り。無邪気に笑うりん。
そもそも殺生丸が人間の食べ物を口にしているところなど見たことがないが、それでも幸せのおすそ分けをしたいと考えるのがりんという少女であった。
しかし、そんな彼女の申し出に殺生丸が答える前に、聞き慣れた男の声が耳につく。


「ダメに決まってんだろ。働かざる者食うべからずだ。食いたきゃ手伝いえよ、殺生丸


近付いてきたのは、鉄砕牙ではなく大きめの鋤を持った犬夜叉だった。
寒さのせいか鼻を赤くさせ、火鼠の衣の上にもう一枚ぶ厚めな羽織を着ている彼は、明らかい不機嫌そうである。
冷たい風から耳を守るためにかごめから貰ったのか、頭には猫の絵が描かれた布がまかれていた。
犬夜叉も村の雪かき行事に無理矢理参加させられたのだろう。
不満満載な顔で殺生丸に絡んでいる。


「なぁんで殺生丸様が人間なんぞの手伝いをせにゃならんのじゃ」
「ふらっと来ておいて何もせずに飯だけ食うなんて不平等だろうが!」
「人間が食う貧相な食い物など、殺生丸様のお口に合うわけないわい!」
「なんだとこら!!」


いがみ合う犬夜叉と邪見の代理戦争が勃発する。
そもそも殺生丸は鍋を食うとも、手伝わぬとも言っていないため、二人が言い争う理由などどこにもないのだが、頑固な二人は殺生丸とりんを置いてけぼりにしてにらみ合っている。
そんな光景をどこからか見ていたのか、今度はやはり厚着をしたかごめが近寄ってきた。


「まぁまぁいいじゃない犬夜叉。お鍋は皆で食べる方が楽しいし。ね、りんちゃん」
「はい!かごめ様!」


かごめも男たちに交じって雪かきの手伝いをしていたらしく、その細見に似合わぬ大き目な鋤を持っていた。
賛同を得られたことがうれしいのか、りんは満面の笑みで姉代わりをつとめている年上の巫女を見上げている。
一方夫である犬夜叉は、妻が自分の意に反して不仲である兄の味方をしたことが気に食わないらしく、ぷいっと顔をそむけてしまった。


殺生丸なんざと一緒に鍋囲って楽しいわけねぇだろ」


腕を組んだ犬夜叉が吐き捨てるように言ったとほぼ同時に、彼のごわついた銀髪に遠くから雪玉が投げつけられる。
ぶつけられた雪玉は形を崩し、大きな雪の塊となって犬夜叉の肩に落ちてくる。
突然のことに犬夜叉は思わず“冷てぇっ!”と悲鳴を挙げ、近くでその様子を見ていたかごめやりんたちも目を丸くした。
雪玉が飛んできた方向へ目を向ければ、そこには不敵な笑みを浮かべてこちらを見ている子狐妖怪の姿が。


「てめぇ七宝!いきなり何しやがんだ!」
「やーい!犬夜叉油断したな!この雪合戦、おらの勝ちじゃー!」
「一方的に仕掛けといて何言ってやがる! 待ちやがれ!」
「あぁもう!待ちなさいよ犬夜叉!」


かごめの引き留めもむなしく、犬夜叉は周囲の雪を両手いっぱいにかき集めて七宝を追って行ってしまった。
やがて七宝と犬夜叉の雪玉が村中に飛び散ることになる。
子供である七宝にむきになる犬夜叉の大人げなさにため息をこぼしながら、かごめはその場で肩を落としていた。
そんな光景をほほえましく見ていたりんだったが、かごめの姿をみて、ふと殺生丸に言おうと思っていたある事を思い出す。


「そうだ、殺生丸さまこれ見て!」


促されるまま、殺生丸はりんへと視線を落とした。
彼女は自らの首元を指さし、見やすいようにわざわざ背伸びをしている。
りんの華奢な首元には、橙色の着物生地で作られた襟巻のようなものがまかれていた。
その生地と柄に見覚えがあった殺生丸は、襟巻にそっと触れてみる。


「お前が昔着ていた着物か」
「そう!着られなくなった着物で、かごめ様が作ってくれたの!」


人間の子供の成長速度は、殺生丸には理解できないほど速いものだった。
つい先日贈ったと記憶していた着物が、もう丈が足りなくて着れなくなってしまったとりんから聞かされる度、人間と妖怪の時の流れの違いを思い知らされてきた殺生丸
りんが己と一緒に旅をしていた頃に纏っていたあの橙色の着物も、とっくの昔に小さくなってしまい、袖を通せなくなったと聞いていた。
しかし、りんはどうやらあの着物を未だ大事に持っていたらしい。
殺生丸の手によって、もっと上等な着物が何着も贈られているというのに。


「これ、まふらーって言うんだって。かごめ様すごいんだよ!りんの古着で手袋とか帽子とか、いろんなもの作ってくれるの!」
「ほう、これをかごめがなぁ・・・器用なもんじゃな」


りんの首に巻かれたかごめお手製のマフラーを、様々な角度から観察しながら邪見がつぶやいた。
もともと楓が持っていた裁縫道具を借り、着物の生地を利用する形で作ったというそのマフラーは、りんが着物として来ていた頃のかわいらしい柄をそのままに、使い勝手のいい防寒具として活躍している。
不意に褒められたことがうれしかったのか、かごめは照れたように笑いながら赤くなった鼻先を掻いた。


「せっかくお義兄さんからいい着物もらっても、すぐ着れなくなっちゃうのってなんかもったいないなぁって思ってたのよ。あ、そうだ!よかったらお義兄さんにも作ってあげよっか? りんちゃんとペアルックで!」
「ぺあるっく?」


聞き慣れない異国の言葉に、りんはマフラーを両手でくしゃっとつかみながら首を傾げた。


「ペアルックっていうの葉ね、仲がいい二人がお揃いの物を身に着けることよ」
「そうなんだぁ。ねぇ殺生丸様、ぺあるっくやろうよ!きっと可愛いよ!」


“仲がいい二人”
かごめが口にした言葉は、まだ幼さが残る無垢なりんにとって非常に魅惑的なものだった。
殺生丸に飼い猫のように懐いてるりんは、自分と彼の仲を近いものとして証明する行動を常々取りたがっている。
一緒に昼の森を散歩従ったり、同じ卓について食事を摂りたがったり。
お揃いの物を身に着けるなど、仲良しそのものではないか。
袖を引っ張って強請るりんを横目に見ながら、殺生丸はかごめの言うペアルックについて真剣に考えてみる。
まだ少女の域を脱していないりんと、大妖怪たる殺生丸が並んで橙色のマフラーとやらを巻いている光景は、妙におぞましく、鳥肌が立ちそうになってしまう。
ないな。
そう判断した殺生丸は、即座に首を横に振った。


「いらぬ」
「えーどうして?きっと可愛いよ?」
「馬鹿もん、殺生丸様に可愛さなど必要ないわ。我が儘を言うのはよせ!」
「じゃあ邪見様がお揃い着てくれる?」
「はぁぁ?なんでわしが」
「だってお揃い着たいんだもん」


いじけたように頬を膨らませるりんは、まだまだ幼い。
子供らしく拗ねて見せたりんの言葉に、邪見は首を横に振り続けている。
殺生丸だけでなく邪見もまた、自身がりんと揃いの装飾を身に着けて並んでいる姿は受け入れがたいのだろう。
“やろう”“いやだ”の攻防を繰り返すりんと邪見を黙って見降ろす殺生丸と、ケタケタと笑いながら見守るかごめ。
せわしなく雪かきの作業が進む村の端で繰り広げられる彼らのやり取りは何とも呑気なもので、通りかかる村人たちも微笑みながらその様子を見つめていた。
と、そんな時。


「そんなへなちょこな玉、おらには当たらんぞ犬夜叉ーっ!」
「ちょこまかしやがって・・・!待ちやがれ七宝!」


犬夜叉が繰り出す雪玉を器用に避けていた七宝が、村を一周回ってかごめの足元に逃げ込んできた。
相変わらず犬夜叉は両手に雪玉を持ち、鬼の形相で七宝を追い回している様子。
相手は子供だというのに、なんとも大人げないことか。
かごめはむきになっている自分の夫に視線を送りつつため息をこぼした。
やがて七宝はかごめの肩に登り、犬夜叉に向かって舌を出しながら煽り始める。


「悔しかった当ててみろ犬夜叉~!」
「言いやがったな? 喰らえっ!」
「うわちょっ、危なっ!」


かごめの肩に乗る七宝めがけ、犬夜叉は右手に持っていた小さな雪玉を投げた。
妻に当たらないよう、手加減をしつつしっかり七宝を狙ったつもりではあったが、当のかごめにしてみれば、急に自分の方へ雪玉を投げられたら驚くのは当然だろう。
とっさにしゃがみ込み、犬夜叉が放った雪玉を避けてしまう。
その結果、かごめのすぐ後ろに立っていた人物の顔面に、雪玉が直撃してしまったのだ。


「あ」
「うわ」
「やべっ」


かごめ、七宝、犬夜叉がほぼ同時に声を漏らした。
横で見ていた邪見の顔色が、みるみるうちに緑色から青く変わってゆく。
体中から冷汗が止まらない邪見は確信してしまった。
今日、この村は火の海になるぞ、と。

顔面にぶつけられた雪玉がゆっくりと落ち、雪原に無残に散らばった。
雪まみれになってしまった殺生丸の顔は、明らかに殺意で満ちており、今なら視線で人を殺せるのではないかと思わせるような鋭い目つきで犬夜叉を睨みつけている。
恐れ知らずな犬夜叉でも、さすがにここまで怒っている兄を前にするのは少々恐ろしかった。

殺生丸はその禍々しい視線をそのままに、口元に薄く笑みを浮かべ始める。
笑顔を見せる殺生丸ほど、恐ろしいものはない。
ゆっくりと雪原に手を伸ばした殺生丸は、白い雪を両手ですくいあげると、握り飯を作る要領で固く丸めだした。
見るからに力が込められている手の中には、カッチカチに固くなった雪玉がひとつ。
もしもあれを投げられ、ぶつけられたら骨の2、3本はあっさり折れるだろう。


「いやあの、待て殺生丸。わざとじゃねぇって・・・」
「黙れ半妖。今すぐ死ね!」
「うおっ!」


殺生丸が容赦なく投げつけた雪玉は、豪速で犬夜叉めがけて飛んでいく。
人間離れした反射神経でなんとか雪玉をかわした犬夜叉だったが、投げられた雪玉はまるで隕石のような威力で村の奥の納屋にぶつかってしまう。
頑丈にできていた納屋であったが、その雪玉一つで大きな音を立てながら崩壊してしまった。
突然の出来事に、村の住人たちは一人残らず雪かきの手を止め、呆然と壊れゆく納屋を眺めていた。
狙われた犬夜叉本人も、その光景を見て焦らずにはいられない。
ひきつった顔で、額には汗をかいている。


「て、てめぇ・・・!殺す気か!」
「無論だ」
「ふざけんな!」


焦る犬夜叉など構うことなく、殺生丸は再び雪原に手を伸ばし新しい球を補充しようとする。
どうやら犬夜叉に当てるまで辞めるつもりはないらしい。
このままでは骨どころか命すら折られてしまう。
殺生丸に背を向けて逃げ出そうとする犬夜叉だったが、2発目の玉が脇腹のあたりをかすめる。
その雪玉はまっすぐ向かった先は村の中心の焚火。
子供たちが囲む鍋に直撃してしまい、中身の具材ごと盛大にひっくり返ってしまった。


「ちょっと何すんのさ!」
「うわーん!お鍋がぁぁ」


鍋の用意をしていた珊瑚の怒鳴り声と、子供のわめき声が聞こえるが、犬夜叉としてはそれどころではない。
逃げるか反撃しなければ殺される。
逃亡など性に合わない犬夜叉は、反撃するべくとっさに雪を取って丸めると、後ろの殺生丸に向かって勢いよく投げつけた。
しかし、寸でのところでかわした殺生丸が、じりじりと後退する犬夜叉と距離を詰める。
犬夜叉によって投げられた雪玉は、殺生丸のすぐ横に立っていた巨木にぶち当たり、根元から折れてしまう。
怒りに任せて容赦なく雪玉を投げる殺生丸と、迎え撃つ犬夜叉
両者の攻防は周囲の住人を巻き込み、建物を壊し木々をなぎ倒す大事件にまで発展してしまった。


「ちょっとやめなさいよ犬夜叉!」
「無駄じゃかごめ。こうなってはあの犬どもは止められん」


声を張り上げ、せめて犬夜叉の方だけでも止めようとするかごめだったが、妙に達観した七宝が首を横に振った。
犬兄弟の喧嘩に巻き込まれまいと避難を始める村人たちの間をかき分けて近寄ってきた弥勒もまた、泣き出してしまった幼い翡翠をあやしながら大きなため息をついている。


「まぁ、いいんじゃないですか?二人とも刀は使っていませんし。平和的な喧嘩じゃないですか」


喧嘩となれば、いつも刀を抜きあって斬りあいの大事になってしまう犬夜叉殺生丸だが、今日の武器は刀ではなくただの雪玉だ。
少々一般的な雪合戦よりは激しめだが、兄弟の愛らしいじゃれあいだと思えば大事ではない。
まぁそれもそうか、と納得してしまうかごめだったが、そんなやり取りを横目で見ていた邪見は、心の中で大きく突っ込みを入れた。
これのどこが平和的な喧嘩なんじゃ。
犬夜叉殺生丸が雪玉片手に暴れまわった結果、村のいたるところから黒煙が立ち上っている。
もはや雪かきどころではない。
未だ相手を殺す勢いで雪玉を投げ合っている2人の兄弟を見上げながら、りんはのんきにつぶやくのだった。


殺生丸さまも犬夜叉さまも、寒いのに元気だねー」

 

act.3「義兄のたくらみ」

 

「え・・・なにこれ」


森に薬草を採りに行った帰り、楓の家に立ち寄った時の出来事だった。
かごめは、目の前に広がる光景に唖然とし、持っていた薬草入れを落としそうになってしまう。
決して広いとは言い難い楓の家に所狭しと積まれた数えきれないほどの長持ちからは、色とりどりの反物がはみ出ている。
天井まで積み上げられている長持ちを見上げながら、家主である楓は肩を落としていた。


「ねぇ楓おばあちゃん、これってまさか・・・」
「あぁ、また持ってきおったわ」


ため息交じりに頷く楓はほとほと困っている様子で、長持ちをぺしぺしと手のひらで叩いていた。
この家には、楓以外に年頃の娘であるりんも暮らしている。
そのりんに、まるで月から来た姫君に貢物をする貴族のように物を贈り続けている妖がいた。
その名を殺生丸

戦国一とも称される妖力を持つ気高い犬妖怪だが、並外れた強さを持つが故なのか、人の世の常識というものからも大きく外れていた。
月に何度かりんに会いにやって来る彼は、阿吽という二頭を持つ妖が引く牛車一杯に反物を贈ってくる。
楓いわく、かごめがこの戦国に帰ってくる前、りんが村に預けられたばかりの頃は、まだ常識の範疇といえる量しか持ってこなかった殺生丸だったが、りんが反物を手に喜びを表現するごとに、日に日に量が増えていったのだとか。
おかげでとうとう家が反物が入った長持ちで埋まってしまっている。


「お義兄さんのプレゼント攻撃、容赦ないわね。これじゃ寝る場所もないじゃない」


ためしに一番手前に積まれていた長持ちを空けてみると、そこには見るからに高そうな反物が丁寧に畳まれた状態で収納されていた。
このあたりでは、たとえ大きな町でもこのように豪華な反物は手に入らないだろう。
おそらく京あたりから取り寄せたものに違いない。
義兄の気前の良さに少々うらやましさを感じながらも、かごめは楓とともに頭を抱えた。
いくらりんがまだ子供で、成長期ゆえに着物の移り変わりが激しいとはいえ、一度にこれほどの量を贈られては迷惑というもの。
反物を着物にする作業も追いついておらず、これでは宝の持ち腐れとしか言いようがなかった。


「りんはりんで、もらえること自体は心から喜んでおる。あまり無下にも出来んのだ」
「うーん、まぁ、好きな人からこんないいもの貰ったら、そりゃあうれしいわよねぇ。でもこのままじゃ、生活に支障が出るんじゃない?」
「うむ。そこでかごめ、お前から殺生丸に釘を刺しておいてはもらえぬか?」
「えぇっ!? あたしが?」


楓からのまさかの依頼に、かごめは自分自身を指さしながら素っ頓狂な声を挙げる。
要するに、かごめから殺生丸に“贈り物の量が多すぎるから自重しろ”と伝えてほしいということなのだろう。
どうして私がそんなことを?
抗議の意味を込めて聞き返してみたが、楓は冗談だったとは言ってくれない様子。


「うむ。わしから言ってもよいが、かごめからの言葉の方が効く耳を持つだろう。なにせ弟嫁だからな」
「余計に聞く耳持たないと思うけど・・・」
殺生丸に真っ向から意見できるのは、犬夜叉かりん、それにお前くらいなものだ。犬夜叉は喧嘩になるじゃろうし、りんからそのようなことを言われたらさすがの殺生丸も酷であろう」
「それはまぁ・・・そうだけど・・・」


現代から戦国時代に来て早々、殺生丸に“お義兄さん”と言い放ったかごめに、楓は内心関心を寄せていた。
昔ほどの冷酷さはなくなったとはいえ、やはり殺生丸がりんに会いに来るたび犬夜叉や村の者たちは警戒していた。
しかし、かごめが常に殺気を帯びている大妖怪を親し気に呼んでしまったあの日を境に、村人たちは殺生丸に対する敵対心をすっかり忘れ去ってしまったのだ。
桔梗様の生まれ変わりであるあのかごめ様が、親し気に兄と呼んでおられる。
見た目は面妖だが、犬夜叉様同様きっと良い妖であるに違いない。
曲がりに曲がった解釈の元、村人たちはりんに会いに来る殺生丸を見るたび軽く会釈をするようになった。
そのような光景を間近で見ていた楓は、改めてかごめの度胸を高く評価していた。
殺生丸相手に、最も穏便に意見が出来るのはかごめしかいない。
この時代での母ともいえる楓に頼まれ、嫌とは言えなかった。


********************


その数時間後、村の入口付近でこちらに向かってくる殺生丸とばったり出くわしてしまったことは、かごめにとって喜ばしいとは言えない偶然だった。
楓から、限度を超えている貢物について抗議すると安請け合いしてしまったはいいものの、何と言ったらよいか悩んでいる最中にこうして顔を合わせてしまった。
出会ってしまった以上、もはや言わずにはいられない。
かごめは珍しく緊張した面持ちで、村へと入って行こうする殺生丸を呼び止めた。


「あの、お義兄さん」


最初はこの呼ばれ方を嫌がっていた殺生丸だったが、最近は観念したのか、兄と呼ばれてもきちんと反応してくれるようになった。
まだ返事をしてくれるほど気安い中にはなっていなかったが、彼の過去を鑑みると大きな進歩と言える。
義弟の妻に呼び止められた殺生丸はその場で足を止め、視線だけをかごめに向けた。


「りんちゃんに会いに来たの?」
「・・・・・」
「また何か贈り物を持ってきたの?」
「いつも何か持ってくるわけではない」
「そっか、それもそうよね・・・あはは・・・」


今日の殺生丸は、従者の邪見も、いつも牛車を引かせている阿吽も連れていなかった。
見たところ手ぶらである。
語り掛けても必要最低限な言葉しか返そうとしない殺生丸は、彼の弟でもある犬夜叉とは大違いだった。
無口で不愛想、それでいてちょこっと怖い。
気難しい大妖怪を前に、かごめは気まずさを感じていた。
人と接することが好きなかごめであったが、殺生丸ばかりは何年経っても仲良くなれそうもない。
夫の犬夜叉と未だに威嚇しあっているからなのかもしれないが、それ以前に彼の氷のような冷たい瞳と口下手すぎる性格が壁を作っていた。

今更だけど、りんちゃんよくこの人と二人きりで過ごせるわよねぇ・・・。
そんなことを考えていたかごめだったが、“要件を早く言え”とでも言いたげな殺生丸からの痛々しい視線に気づき、口を開いた。


「そのぉ・・・お義兄さん、いつもりんちゃんに反物あげてるでしょ?あれなんだけど、もう少し頻度落とした方がいいんじゃないかなって。あっ、別にりんちゃんが嫌がってるとかそういうことじゃないのよ? ただほら、楓おばあちゃんの家、あんまり大きくないから・・・プレゼントされた反物が入りきらないというか、なんというか・・・」
「・・・・・」


懸命に言葉を選びつつ、半ばまくしたてるように口走るかごめ。
しかし、殺生丸は冷汗をかきながら語り掛けてくるかごめをじっとまっすぐ見つめたまま何も言ってはこない。
降り注がれる殺生丸の視線が痛い。
もしかすると怒ってる?気分を害しちゃった?
お願いだから何か言ってよ。
じゃなきゃ話が進まないじゃない。
心の中で訴えてみるかごめだったが、殺生丸の様子は変わらなかった。


「あのぉ・・・」


恐る恐る声をかけてみるかごめだったが、やはり殺生丸はなにも言ってはくれない。
代わりに、彼はかごめから視線を外し、赤く染まりだしてきた夕焼け空を見上げはじめた。
なにかを考えこんでいるように見えるそのしぐさに、かごめはしばらく彼からの返答を待ってみることにした。
すると数秒後、殺生丸は再びかごめに視線を向け、ようやく口を開いた。


「何畳あればよい?」
「・・・は?」
「改築させればいい。もしくは蔵を建てるか」
「いやいや・・・はっ!?」


規格外なことを言い出した殺生丸に、かごめは面食らってしまう。
反物が入らないというのなら、家を大きくしてしまえばいい。
もしくは蔵を建てればいい。
斜め上の発想を展開する殺生丸だが、彼の性格上冗談とは思えない。
邪見に似たよく分からない緑色の小妖怪たちを大量に引き連れて、せっせと楓の家を増築させている光景がすぐに頭に浮かんでしまう。
家が広く鳴れば楓は確かに喜ぶだろうが、問題解決になっているかと問われればそんなことはない。
かごめは焦りを感じながら、大袈裟なほど首を横に振った。


「いいわけないじゃない!なんでそういう発想になるの!?」
「反物が入りきらぬなら相応の家を建てればいい」
「あなたが贈り物の頻度を落とせばいいだけなのよ!」
「何故この殺生丸が遠慮する必要がある」
「あのねぇ・・・!」


殺生丸の涼しい顔を見るに、どうやら大真面目らしい。
人間的な常識が欠如しているのは彼が大妖怪だからだろうか。
それとも西国を収めていたような高貴な妖の出だからだろうか。
どちらにせよ、殺生丸ならば明日にでも増築の準備に取り掛かりかねない。
頭を抱えつつ、かごめは何とか思い直してもらうべく言葉を尽くしてみるが、当の殺生丸はまるで聞く耳を持つ気配がない。


「じゃあせめてもっと場所を取らない小さなものを贈ったら?ほら、かんざしとかクシとか・・・」
「簪も櫛も髪飾りも既に与えている。先日は紅を贈った」
「贈りすぎよ!どんだけ頻繁に物あげてるのよ!?」
「りんは満足そうだったが」
「そりゃあ好きな人から貰ったものはなんだて嬉しいわよ!それより一緒に住んる楓ばあちゃんの迷惑も考えてって言ってるのよ!」
「私の知ったことではない」
「なんですって!?」


2人の言い争い、もとにかごめの抗議は徐々に熱くなってゆく。
最初こそは恐る恐る意見していたかごめだったが、いつの間にやら殺生丸への畏怖の念は綺麗に消え去ってしまっていた。
この村では、かごめの怒鳴り声が聞こえてくること自体そう珍しいことではない。
彼女は三日に一度は夫の犬夜叉と可愛らしい言い争いをしているからだ。
しかし、今回ばかりは村の者たちも遠巻きにかごめたちの様子を物珍し気に見つめている。
言い争いの相手が、夫の犬夜叉ではなくその兄の殺生丸なのだから当然だろう。
村の守り神ともいえる巫女と、時折ひょっこり現れる犬妖怪のやりとりに、村人たちは好奇の目を向けていた。
その中には、かごめの夫でもあり殺生丸の弟でもある犬夜叉や、あの言い争いの原因ともいえるりんの姿もある。


殺生丸様とかごめ様、何を話しているんでしょうか?」
「さぁな。どうせくだらねぇことだろ? 放っとけりん」


社の陰から二人の言い争いを覗き見ていたりんと犬夜叉
他の村人たちと同じように、好奇心たっぷりの目で二人を見つめているりんとは対照的に、犬夜叉はというと少々機嫌が悪かった。
いつもは自分と並んで仲良く言い争いをしている妻が、兄と近い距離で何やら話し込んでいる。
もともと嫉妬深い性格だった犬夜叉にとって、それは面白くない光景ともいえた。
妻と兄の言い争いに聞き耳を立て立てながら背を向けた犬夜叉だったが、その後響き渡った妻の大声に打ちのめされることになる。


「あぁもう!いい加減にしてよ!おすわり!」
「ふぎゃっ!」


殺生丸に向けて言い放たれたかごめの怒号は、離れた場所で見ていた犬夜叉の体を地面に叩きつけてしまう。
遠くで鳴り響いた犬夜叉の悲鳴と、体を思い切り地面に叩きつける音に驚いたかごめは、肩を震わせて背後を振り返った。
視界に飛び込んできたのは、社の陰で地面にめり込んでいる犬夜叉と、その様子を心配そうに見つめるりんの姿。
犬夜叉以外の者と白熱した言い争いを繰り広げること自体が珍しかったため、いつもの癖で礼の言葉を口走ってしまったらしい。
目の前に立っている義兄にお見舞いしてやろうと思った言霊は、無残にも離れた場所にいた無関係な犬夜叉を巻き込んでしまった。
案の定、被害を被った犬夜叉は泥だらけになった顔を上げてかごめを睨みつける。


「くぉらかごめ!何しやがんだ!」
「ご、ごめん!つい、いつもの癖で・・・」
「つい、じゃねぇだろ!」


未だ地面に伏している犬夜叉に駆け寄るかごめ。
そんな彼女と入れ違いに、犬夜叉のそばにいたりんが殺生丸の元へ駆け寄ってくる。
犬夜叉の膝に付着した砂を優しく叩き落としながら謝るかごめと、文句を言い続ける犬夜叉
喧嘩しつつも仲睦まじいい二人の姿にほほえましく視線を送りながら。りんは殺生丸の横に並んだ。
背の高い彼の横に立つと、もともと小柄なりんとの身長差が際立ってしまう。
2人が並ぶ姿はまるで親子のようだが、間に流れる空気感は恋人同士のようにも見える。


「かごめ様たち、仲良しだね」


未だあどけなさの残る笑顔を向けられた殺生丸は、りんを見下ろす瞳をゆっくりと細めた。
彼女が纏う藍色の着物は、先日殺生丸が贈ったものに間違いない。
殺生丸がこの村に訪れるたび、りんはいつも彼から贈られた着物を身にまとって出迎える。
満面の笑みで無邪気に笑うりんには、殺生丸が選ぶ色気のある色はまだ似合わない。
それでもなお、大人びた色の反物や帯を贈り続けるのは、その色が似合うようになるその日まで、殺生丸が与え続けた色以外に染まる事が無いよう、いわば呪いのようなものだった。
少し遠慮しろと忠告してきたかごめも、反物が増えるたびに苦笑いを零している楓も、そしてりん本人も、殺生丸のたくらみを知らない。
無垢に笑うりんを前に、殺生丸は優しく問いかけた。


「りん、次は何が欲しい?」

 

act.4「きっとこの命も、あなたのもの」

 

生まれ育った村で過ごした最後の夜のことを、りんは今でも覚えている。
燃えるように赤い太陽が山々の間に隠れて数刻後。
囲炉裏を囲み、母が用意してくれた夕食の麦飯と鮭を家族そろって口にしていた時だった。
外が突然騒がしくなったと思ったら、大勢の男たちの怒号と駆ける馬の蹄の音が聞こえてくる。
御膳をひっくり返して立ち上がった父が、まだ幼かったりんに“隠れていろ”と怒鳴り、外へ飛び出して行ってしまった。
母や兄に促され、箪笥の陰に身を寄せてから数秒後、ボロボロの鎧を着た中年の侍が家に押し入ってきて、右手に握っていた刀であっという間に母と兄を斬り殺してしまう。
さっきまで一緒に談笑していた二人の体が一瞬のうちに亡骸へと変わり、りんは叫び声をあげることすら忘れてただ茫然と隠れていた。

中年の侍は血が付いた刀を慣れた様子で払い、鞘に納めると、りんが隠れているすぐそばの箪笥を漁り、母が必死にため込んでいた金子の袋を懐にしまい、不気味にほくそ笑む。
侍が家を出て行った後も、りんはしばらくその場から動けなかった。
外から聞こえていた女子供の悲鳴も、男たちの怒号も、馬の蹄の音も何も聞こえなくなった明け方頃、ようやくりんは家の外に出てみることにした。
道端には子供の死骸が転がり、家々の壁には矢が打ち込まれ、土の上には何かを引きずったような血の跡が残されている。

家に戻ろうにも、優しかった母や兄はもう何も答えてはくれないし、どうせ死んでしまっているに違いない父を探す気にもなれなかった。
血と煙の匂いだけが、りんの脳裏にこびりつく。
ほんの一瞬、たった一晩で、りんの生活は奪われた。
家族も、金も、生きるすべも。
そして、大声で泣こうとして口を開いたその瞬間に気付いてしまった。
声までも、奪われたのだと。


********************


「余計なことをするな。人間の食い物は口に合わぬ」


最初に彼から駆けられた言葉は、拒絶の言葉だった。
森を散歩していた時に偶然見つけた白い影。
銀色の髪と琥珀色の瞳、そして白い尻尾のような毛を持つその姿は、およそ自分と同じ人間には見えなかった。
あれは妖怪に違いない。
野盗にすべてを奪われた後、自分を拾ってくれた者たちが近くの村で住まわせてくれたのだが、親切とは言い難かった彼らが妖怪は恐ろしい生き物だと口にしていたが、血まみれで弱っているその白い影を放っておくのは忍びない。
どんな治療を施せば傷が塞がるのか、何を与えれば喜ぶのか、全く想像できなかったため、取り合えず自分の好物である鮭を与えてみたのだが、嫌がられてしまった。

今思えば、あの頃から彼は自分が差し出すものを受け取ろうとはしなかった。
幼かったあの頃の自分は、ただ与えられるばかりで、その背中について回ることしかできていない。

すべてを奪われたりんが唯一持っていたもの、それは命だった。
家族もいない、生きるすべもない、そして声すら出ない。
そんなりんだったが、とある狼たちによって、たった一つ抱えた己の命すらも奪われてしまった。
なにもかも失ったりんに、白い影が初めて贈ったのは命だった。
与えられた二度目の生を、りんは彼にその白い影に捧げることにした。


殺生丸様、あの小娘、まだついてきますな」
「・・・・・」
「追っ払いますか?」
「放っておけ」


蛙のような小さな妖怪との会話を聞き、その白い影が“殺生丸様”という名前だということが分かった。
殺生丸は歩くのが速い。
必死でその背についていこうとするりんだったが、狼たちから受けた傷がすべて塞がったわけではないために、足がもつれ、転んでしまった。
急いで立ち上がって後を追わなければ、置いていかれてしまう。
焦って顔を上げたりん。
しかし殺生丸は意外にも、足を止めて転んだままなかなか起き上がらないりんを振り返り見つめていた。


「あの・・・殺生丸様? いかがなされたので?」
「・・・・・邪見、ここにいろ」
「えっ、あ!殺生丸様!?」


邪見と呼ばれた小妖怪を残し、殺生丸はふわりと空に向かって飛び立ってしまった。
あっという間に見えなくなってしまった殺生丸を見合あげながら、邪見は“置いてかないでー!”と叫んでいるが、その叫びは森の中で虚しく響いている。
そのあと、焚火を用意した邪見と寄り添いながら殺生丸を待つことにしたりん。
隣で火を見つめる邪見は、一見不気味な見た目をしているが、そう悪い妖怪ではないらしい。
色々と質問をしてきたが、声が出ないために首を振るしかないりんの様子に察しがついたようで、“なんじゃ喋れんのか”とつぶやくと、それ以上何かを聞いてくることは無かった。

それからしばらく時間が経ち、陽が沈み始めたころ、殺生丸は再び現れた。
そして、右手に持っていた布切れをりんに向けて投げる。
ふわっと広がりながら地面に落ちたのは、白と橙色の市松模様がかわいらしい着物だった。


「血の匂いが鼻につく。それを着ていろ」


りんが殺生丸から二つ目に贈られたものは、着物だった。
それは、ついてきてもいいという殺生丸からの意思表示。
隣でその光景を見ていた邪見は、主の行いが不思議で仕方がなかった。
人間嫌いだった彼が、何故この娘の命を救うだけでなく、追い払いもせず着物なんぞ与えてしまうのか。
これは一体どういう心境の変化なのだろう、と。


「行くぞ、邪見」
「あ、は、はい!」


与えられた着物をぼうっと見つめていたりんを横目に、殺生丸は従者に声をかけた。
りんを気にすることなくその場を離れようと踵を返す殺生丸
その背を見つめ、りんは焦る。
彼は自分に命をくれた。そして、着物だけでなく、同行を許してくれた。
御礼を言わなくちゃ、感謝の気持ちを伝えなきゃ。
次第に遠くなっていく殺生丸の背中を引き留めるため、りんは立ち上がり勇気をもって声帯を震わせた。


「せ、せっしょぅ、まるさま・・・っ」


必死に絞り出した声は不自然に上ずってしまう。
しかし、前を歩く殺生丸を引き留めるには十分な声量だった。
ぴたりと足を止めた殺生丸は視線だけをりんに向け、その横でこちらを見つめている邪見は驚いた様子で口をあんぐりと開けている。


「あ、ぁりがとう、ござぃ、ます・・・」


震える声で伝える言葉は、大きすぎる感謝の気持ち。
久しぶりに出した自分の声は弱弱しくて情けなくなるが、ようやく声を取り戻せたことに喜びすら覚えていた。
りんから贈られた言葉を聞き届けた殺生丸は、特に表情を変えることなく視線を外し、何も言わずに再び歩き出す。
突然歩き出した主に焦った邪見も急いで後を追い、りんもまた、彼から贈られた真新しい着物を抱えながら走り出した。
この優しい白い影についていけば、きっと大丈夫。
何の根拠もないそんな自信が、りんの中にあった。
殺生丸がりんに三つ目に贈ったのは、声だった。


********************


落ち武者たちの死骸を見つけたのは、偶然だった。
森で食べ物を探していたところに、山賊にでも襲われたのであろう落ち武者たちの無残な遺体と遭遇してしまったりん。
幼いころから壮絶な目に遭って来たがゆえに、人間の死体を見るのは慣れている。
少々驚きはしたが、興味の方が勝っていた。
三体の遺体に近づいてみると、全員腰に刀を差しているのが分かった。
刀自体は大した代物ではないのだろうが、その刀を納めている鞘に目が行く。
先日、殺生丸はいつのまにか新しい刀を手に入れたらしく、剝き身のまま腰に差している。
鞘にも入れていないその得物が歩くたびに揺れて、殺生丸の足を傷つけないか見ていて心配だったのだ。
この鞘を贈れば、殺生丸も喜んでくれるかもしれない。
りんは息絶えている落ち武者に手を合わせ、心の中で謝ると、その腰元から鞘を抜き、その場を離れた。

落ち武者の鞘を抱えながら、殺生丸と邪見が待つ場所へと走る。
木々の間を抜けると、阿吽の巨体がようやく見えてきた。


「やっと帰ってきたか。りん、食い物は見つかったのか」
「ううん、でもね、いいもの拾ったの!」


邪見からの問いに首を横に振る。
木の根元に腰を下ろし、瞳を閉じている殺生丸の元に駆け寄ったりんは、満面の笑みでかけていた鞘を差し出した。
りんが近付いてきた気配に気づいた殺生丸が目を開け、差し出された鞘とりんの顔を交互に見ながら口を開く。


「なんだ」
「これ、殺生丸様にあげるね。その刀、裸のままだと危ないだろうし」


りんの視線は、殺生丸の腰に納めてある闘鬼神に注がれていた。
彼女がこのように物を差し出してきたのは初めてのことだった。
ニコニコと微笑みを絶やさないりんの顔をじっと見つめながら、殺生丸はその鞘を受け取る。
どうやら鞘は、妖刀用に作られたものではなく、人間の刀を納めるために作られたもののようだった。
鞘からはべったりと血の匂いがこびりついている。


「りん、この鞘をどこで手に入れた」
「えっとね、この先で死んじゃってたお侍様から」


遺体を見ても怖がらず、そのうえ持ち物を拝借すらできてしまうほどに神経が図太くなっているのは、殺生丸が彼女を戦いの場に連れまわしていることも要因の一つとしてあるのだろう。
幼い人間の子供にしてはたくましいりんを見つめ、殺生丸は小さくため息をついた。


「鞘など必要ない」
「でも・・・危なくない?」
「この刀は妖刀だ。人間の作った鞘に収まるはずもない」
「そうなんだ・・・」


せっかく殺生丸様に喜んでもらえると思ったのに。
りんは肩を落とし、視線を足元に移した。
殺生丸が先日手に入れた闘鬼神は、鬼の牙から作り出した邪悪な刀。
殺生丸以外が手にすればたちまち取りつかれてしまうほどの強い負の邪念が取り巻いているこの刀が、人間ごときが使うような鞘には収まらない。
りんの気遣いはただの徒労となってしまった。


「りん」
「はい」


気落ちしているりんの名を、殺生丸が穏やかに呼ぶ。
顔を上げてみれば、感情が読み取れない殺生丸の整った顔がそこにはある。
首をかしげるりんに、殺生丸は懐から取り出した小さな瓜を差し出した。


「あ、瓜だ!」
「腹が減っていたのだろう?」
「りんにくれるの?ありがとう、殺生丸様!」


殺生丸が取り出した瓜を、りんは飛びつくように受け取った。
みずみずしい瓜は、空腹感だけでなく喉の渇きも癒してくれる。
瓜はそのあたりの畑でよく拝借して食べてはいるが、殺生丸から貰ったこの瓜は特別美味に感じた。
まだ家族と一緒に暮らしていた頃、瓜はあまり好きではなかったが、殺生丸たちと一緒に旅をする中でいつの間にか好きになっていた。
時折こうして殺生丸が土産の如く持ってきてくれるからかもしれない。
瓜を貪っていたりんだったが、不意に一つの疑念が浮かんできた。
自分は殺生丸に与えられてばかりで、何もお返しが出来ていない。
彼に何か恩返しをするとして、一体何を贈れば喜んでもらえるのだろう。
その疑問を口にする前に、殺生丸は立ち上がり歩き出してしまった。
急いで瓜を完食したりんは、邪見が手綱を引く阿吽に飛び乗る。

りんが落ち武者から拝借した鞘は、結局その森の中に置いていくことにした。
草花の上に虚しく置き去られた鞘に視線を送りながら、殺生丸が喜びそうな贈り物を考えてみるが、最後まで答えは出なかった。


********************


藍色の生地に百合の刺繡が施された上品な反物が、殺生丸の手から届けられたのは数日前のこと。
その反物を着物にしたばかりだった今日、再び楓の村を訪れた殺生丸は、楓の村で織物をしていたりんを呼びつけた。
りんが楓の村に預けられて早数年。
定期的に殺生丸から贈られる反物もそろそろ箪笥を埋め尽くしそうになっていた。
彼や邪見とともにほうぼうを旅していた子供の頃から、りんは多くの物を殺生丸から与えられてきた。
初めて彼から貰った白と橙色の着物は、りんの体が女性らしく成長するにつれて着られなくなり、箪笥の奥に仕舞い込まれているが、一度も捨てようと思ったことはない。
今日もまた、殺生丸から貰ったばかりの藍色の着物を着て、近くの森へと彼に会いに行く。
木漏れ日がきらめく森の中で、彼は木の根元に腰を下ろしながら休んでいた。
強大な妖力を持つ殺生丸の美しい容姿は、何年たっても変わらない。
彼の姿を見ると、まだ裸足で野山を駆け回っていた幼いあの頃に戻ったように無邪気になってしまう。

彼の名前を叫び、近くに駆け寄ると、やはり感情が見えない涼し気な表情で見下ろしてくる。
一言二言、特にとりとめのない話をした後、殺生丸は懐から小さな簪を取り出した。
赤い飾りがついたかわいらしいもので、りんは思わず言葉を失ってしまう。


「これ、りんにくれるの?」
「あぁ」


簪には、いくつか小さなガラス玉が付いている。
そのガラス玉を太陽にかざし、覗き込んでみると、陽の光が反射してきらきらと輝いていた。
簪はもちろん、髪留めや紅、おしろいなど、りんは昔から女性らしい装飾品を手に取ったことが一度もなかった。
幼いころに人間としての生き方を半ば捨ててしまっていたからかもしれない。
りんが自ら捨てた人としての道を、殺生丸は楓の村に預けるという形で再びりんに与えようとしている。
着物や帯など、年頃の女が欲しがりそうなものを次々送って来るのがその証拠だ。
そして今日、彼はついに目を奪われるような美しい簪を貰ってしまった。

欲しくないと言えばうそになる。
心から嬉しいし、満面の笑みでお礼を言って殺生丸に飛びつきたいほどに喜んでいる。
しかし、それと同時に罪悪感すら抱いてもいた。
昔から、殺生丸はりんに多くのものを与えてきた。
着物や帯、簪。居場所も、声も、喜びも悲しみも、そして命すら、彼から与えられている。
自分は多くのものを殺生丸の手から貰っているというのに、自分は彼のために何をしただろう。
ただ黙ってその背をついていくだけで、何も力になっていない。
貰うだけ、与えられるだけで、殺生丸へ何かを贈ったこともない。
一方的な愛情は、りんの肩身を狭くする。


「うれしくないのか」
「ううん、違うよ。とっても嬉しい。でも・・・」


思った通りの反応が帰って来なかったことを不審に思った殺生丸に問いかけられたが、りんは言いよどむ。
彼から贈られた小さくも美しい簪を胸に抱き、ひとつ小さく頷いて再び口を開いた。


「りん、殺生丸様から貰ってばっかりで、なんか、申し訳ないなって」
「ねぇ殺生丸様、何か欲しいものない? りんも殺生丸様になにか贈り物がしたいの」


身を乗り出し、懇願するように見つめてくるりん。
何故今更そんなことを気にするのか、殺生丸には理解が出来なかった。


「なにもいらぬ」
「何でもいいから」
「必要ない」
「そこをなんとか」
「くどい」
「だって・・・」


いつだったか、鞘を贈ろうとした時もぴしゃりと拒否されてしまった。
歳付きが経っても、彼はりんの手から好意を受け取ろうとはしない。
いつまでも彼の庇護下かから脱することが出来ず、対等な関係を未だ築けていないのだと思い知らされているようで悲しかった。


「りん、殺生丸様になにもしてあげられない・・・」


俯くりんの表情は、彼女の前髪が邪魔をしてうかがい知ることは出来ない。
しかし、声を震わせていることから涙をこらえているのだということが分かる。
まだ少女の域を脱していない彼女は、小さな手を握りしめて言葉を振り絞る。
いつもいつも貰ってばかりでいては、いつかきっと殺生丸様にいらないものとして捨てられてしまう。
そんな気がしてならなかった。
けれど、りんの幼い恐怖心など知る由もない殺生丸は、彼女の健気な訴えをただただ無表情で聞いていた。


「見返りなど求めてはいない」
「え・・・?」


瞳を伏せ、殺生丸はりんの前で片膝をつく。
必然的に彼の整った顔が近くなる。
琥珀色の瞳と銀色の髪を持つ彼は、見れば見るほど人間離れしていて、ちっぽけな自分とは生きる世界が違うのだという事実を痛感してしまうりん。
人は彼の姿を邪な妖怪だとか、恐ろしい化け犬だとか、敵意を持って怯えるけれど、りんの瞳には殺生丸という男が誰よりも美しく映っている。
そんな彼が、鋭い爪をもった指でりんの髪に触れる。
黒くしなやかなりんの髪を両手で一つに束ね上げ、先ほど彼女に手渡した簪を神の中へと突き刺した。
長い髪を頭の上で束ねたりんは、実年齢よりも少々大人びて見える。
殺生丸から貰った着物を着て、殺生丸から貰った簪をつけているりんは、大きな瞳を揺らしながら殺生丸をまっすぐ見つめていた。


「着物も、簪も、櫛も、鏡も、この殺生丸が繕ってやる。他のものは使うな」
「どうして?」
「わからぬのか」
「うん」
「ならば、意味が分かるようになったら・・・」


そこまで言って、殺生丸は口を閉じた。
彼にしては珍しく、思考よりも口が先に出てしまったらしい。
思いがけず口から飛び出した言葉に、自分自身が驚いている様子だった。


「忘れろ」
「えっ!? 教えてくれないの!?」


ほんの少しだけ早口になった殺生丸は、まるで逃げるかのようにそそくさと立ち上がり、そのままりんとは反対方向に歩き出す。
銀色の髪を翻す姿はいつも通り冷淡そのものだが、彼の焦りが染み出る胸の内を読みとれる者は誰一人いない。
まだ幼さが抜けきっていないりんは、殺生丸から投げかけられた言葉の真意など推測できるわけもなく。父替わりでもあり兄替わりでもある大妖怪の言動に首をかしげるしかない。
急いで後を追ってくるりんを振り返る余裕すらない殺生丸は、心の中で己を呪っていた。
何を馬鹿なことを。
着物や装飾品を押し付けて自分の色に染め上げてしまおうなど。
純粋無垢なりんは知らなかった。
優しい大妖怪によって、着々と彼の色に染まり始めていることを。

 

act.5「今日もまた雪が降る」

 

「浅草の方で犬の妖怪が出るそうよ」


にわかには信じがたいおとぎ話のような噂を学友から聞いた時、凛は興味があるふりをしながらも心では信じていなかった。
近代化が進む昨今、妖怪などまだ生きているはずもない。
数年前に脚気が原因で亡くなった祖父曰く、米国から黒船がやって来るまでは森の外れや山の中にひっそりと身を隠している妖怪がいると聞いたことはあった。
だが、新政府による近代化計画によって山は削られ、海は港と化し、妖怪たちは次第に数を減らしていったのだという。
今では妖怪を目にしたことがあるものすら少ないが、過去そのような存在がいたという事実は確かであり、あそこで見たそこで見たという不確かな噂だけが世間には流れていた。
祖父も昔、赤い衣を着て犬耳を生やした老いた妖怪もどきを見たと言っていたが、それも今では本当の話なのか確かめるすべはない。
とにもかくにも、凛はそういったおとぎ話のような不確かな話があまり好きではなかった。

帰り際、学友にカフェーに寄らないかと誘われたが、凛は両の手を合わせながら断った。
今日はどうしても外せない用がある。
本当なら学友たちと一緒に珈琲を飲みながら長々と話していたいが、約束をすっぽかせばきっと母から大目玉を喰らう。
気乗りしない心のまま、凜は家路についた。


「あぁ、やっと帰ってきましたね、ほら早くいくわよ」


家に帰るなり、よそ行きの高価な着物を纏った母が出迎える。
家の前には馬車が止まっており、御者が暇そうに立っている。
どうやら思ったより時間が無いらしい。
凛は母に促され、袴姿のまま馬車に飛び乗った。


「浅草6区のほうまでお願いね」
「はいよっ」


母の言葉を聞き、御者は馬に鞭を打つ。
ふと外を見ると、空は今にも振り出しそうな曇天であった。
ゆっくりと進み始めた馬車に揺られる凛の心も、あの空のように曇っている。
対して隣に座る母は機嫌がいいのか鼻歌を奏でていた。
これから娘が見合いの席に着こうというのに、緊張感のない母の様子は凜を苛立たせる。

昨晩まで、凜は見合いをすることに酷く抵抗していた。
相手はいいところの軍人らしく、母曰く嫁げば将来安泰らしいが、顔も知らないような相手に嫁ぐなどまっぴらである。
だが、これも“令嬢”と呼ばれる立場として生まれてしまったゆえの運命か、女学校を卒業した後は家柄の良い紳士に嫁ぐべしという風潮が、母の中にも存在していたらしい。
貴方のためにもいくべきなのよと喚く母を説き伏せることは、凜にとって非常に難しいことだった。
結局、顔見せ程度ならと承諾したわけだが、やはり当日になると嫌なものは嫌なわけで。
顔見世の場となる浅草の料亭に近づくにつれ、海老茶色の袴を握りしめる拳に力が入ってしまう。
やがて、浅草6区の歓楽街が見えてきた。
左右の建物に括られた旗がひしめき合うように乱立し、風に揺れている。
人込みを分けるように進む馬車は大衆の目を引いていた。

ふと、浅草の象徴でもある浅草十二階が視界に入ってくる。
モダンな外観であるその建物を見ていると、今日学友から来たあの馬鹿馬鹿しい噂話を思い出す。
この浅草6区には、犬の妖怪がいるらしい。
実に現実離れした話だが、もしいるのなら今すぐこの大衆の中で暴れて自分を連れ去ってほしい。
そうすれば、見ず知らずの軍人に嫁がなくても済むのに。
自分らしくもない空想じみた願望を頭の中から打ち消しながら、凜は母に気付かれないように小さくため息をついた。


「さぁ、ついたわよ」


やがて馬車は、とある料亭の前で止まった。
浅草でも指折りの高級料亭であるこの場所は、帝国軍人御用達の店らしい。
既に先方は到着しているらしく、彼らが載ってきたのであろう馬車が近くに停めてあった。
そそくさと馬車を降り、料亭から出てきた給仕と話し出す母。
彼女の後を追うために立ち上がろうとした凛だったが、ふと、母が下りた方とは反対側の道に視線を向けた。
人がごった返す大通りの向こう側に、公園が見える。
あそこには、人があまりいないようだった。
母は今、給仕と話していて自分から目を離している。
行くなら今しかない。
そう思った刹那、凜は駆けだしていた。
幸い来ているのが着流しではなく袴だったため、いつもよりは走りやすい。
革靴を鳴らしながら駆けだした凛に気が付いた母は、青い顔をして慌てふためいた。


「凛!どこへいくの凛!誰かっ、誰かあの子を追ってちょうだい!」


背後から凜を呼ぶ母の声がする。
しかし、決して立ち止まろうとはしなかった。
行く宛などない。
ただ、この檻に押し込まれた小鳥のような環境から逃げ出せればそれでよかった。
いつの間にか。曇天だった空からは雨ではなく雪が降っていた。


********************


それは雪の降る静かな夜のことだった。
蠟の明かりだけが怪しく照らす寝所は薄暗く、襖の外ですすり泣いている邪見の涙声だけが聞こえている。
外に降り積もる雪のように白く、ぬくもりの感じられない肌をしたりんが、寝所の中心で布団にくるまっていた。
そのすぐ隣に腰かけている殺生丸は、いつもと変わらぬ冷淡な表情でりんを見下ろしている。
未だ、実感がわかないのだ、
嫁として迎えたこの人間の女が、死にゆく事実に。

少女だったりんが、想像を絶する速さで大人の女性に成長していく過程をすぐ横で見ていた殺生丸は、いつか彼女も年老いて死ぬ陽が来ることを覚悟していた。
けれど、その時は殺生丸の予想よりもずっと早く訪れてしまう。
幼いころに家族を亡くし、殺生丸のあとをついて回っていた彼女は、年齢相当の生活が出来ていなかったがゆえに、同年代の女性よりも体を壊す頻度が高かった。
結果、加齢によって肌が荒れだすよりも前に、大病を患ってしまったのだ。
暫く言葉を交わしていない半妖の弟の嫁の話によれば、今の医学ではどうにもできないらしい。
強大な力を手にしている殺生丸であっても、人の命はどうにもできなかった。


殺生丸様」


消え入りそうな声で、夫の名を呼ぶりん。
そんな彼女の呼びかけに応じるように、殺生丸は小さく身をかがめた。


殺生丸様は、あとどれくらい生きるのかな?」
「知らん。考えたこともない」
「100年くらい?もっとかな」


りんが投げかけてきたこの話題は、殺生丸にとってあまり気分のいいものではなかった。
彼女がいなくなった世界を、あと何年生きねばならないのかと考えると、心が重くなる。
けれど、りんはいつになく穏やかに、語りかけるように言葉を続けた。


「前にね、かごめ様から聞いたの。かごめ様は、桔梗様の生まれ変わりなんだって」
「・・・・・」
「桔梗様は、死んだ後も、かごめ様になって、犬夜叉様に会いに来たんだね」
「りん」


彼女が何を言わんとしているのか悟ってしまった殺生丸は、その言葉をふさぐように彼女の名前を呼んだ。
けれど、りんの口が閉じられることはない。
まるで最期に力を振り絞るかのように、限られた言葉を紡ぎ出す。


「いつかきっとりんも、桔梗様みたいに生まれ変わるから」


やめろ。


「かごめ様みたいに、会いに行くから」


そのような話、聞きたくない。


「だからね」


りんの細く華奢な手が、殺生丸の手に重なる。
彼女が少女だった頃は、もっと肉付きがよくぬくもりも感じられたが、今はただ冷たく弱弱しい。


「そんな顔、しないで」


まっすぐこちらを見つめてくるりんの瞳には、もはや光が消えかかっていた。
命が無くなってゆくその瞬間を目の当たりにし、殺生丸はただ瞳を揺らすことしかできずにいる。
りんという一人の女の前では、自分はどこまでも無力である。
押し寄せる敵のすべてをなぎ倒す力を持っていても、迫りくる死を薙ぎ払う力は持ち合わせていない。
命を呼び戻す天生牙も、りん相手にはもはや錆刀に過ぎない。
やがて、重ねられたりんの手から力が抜けていくのを感じ、殺生丸琥珀色の瞳をゆっくりと閉じた。


「私を置いて逝くのか」


彼か知苦もない弱弱しい言葉に、りんが答えることはことはなかった。
雪が降りしきる寒い夜、りんは死んだ。

それから、何千、何万もの昼と夜を過ごし、時代が少しずつ変化していった。
西の地で起きた大きな戦を機に乱世は終息を迎え、江戸の地に幕府なるものが成立。
暫くは穏やかな時代が続いたが、大陸から艦隊が来た日を境に人の世はがらりと変わった。
近代化によって人間たちは殺傷能力の高い兵器を開発し、人間を食う側だった妖怪たちは、いつの間にやら人間のよって駆逐される時代に突入してしまう。
殺生丸も何度か火器を持った人間たちに銃口を突き付けられたことはあったが、高い妖力を持った彼が、他の妖怪たちのように駆逐されることは無かった。

時代が進み、人間の何倍も生きる妖怪たちにも、寿命というものが訪れる。
殺生丸よりも年を食っている邪見は、りんの死後150年後に息を引き取った。
弟の犬夜叉は、殺生丸よりも数百年若いはずだったが、半妖であるために殺生丸よりは長く生きられず、つい先日大往生したと風の噂に聞いた。
殺生丸当人はというと、高い妖力のおかげか、りんが死んだあの時とあまり変わらぬ容姿を保っている。
もちろん、幾分か老けはしたが、それでも美しい背年の容姿から脱してはいない。
回りの環境は着々と変化しているにも関わらず、自分だけは変わらない。
妻や、長年連れ添った従者を失い、たった一人になった殺生丸は、人目を避けながら孤独に生きていた。

今日もまた、人が来ない林の中に憩いを求めてやってきた。
とある木の根元に腰を掛け、曇天を見上げると、ほんのりと雪の匂いがした。
こうしていると、遠い昔に死んだりんのことが思い出される。
彼女と初めて会ったのも、こうして気に寄りかかり体を休めていた時のことだった。

会いに行く。
彼女は最後にそう言った。
けれど、殺生丸はりんの言葉を信じてはいなかった。
現実離れしている。
人も妖怪も、死ねばそれまでだ。
生まれ変わり、目の前に再び会わられるなど、あるはずがない。
りんに再び会えるのは、きっとこの殺生丸が死んだあとだ。
さて、一体何年後になるのだろう。

心で嘲笑っていた殺生丸の耳に、草がかき分けられるさらさらという音が届く。
反射的に瞳を空けた瞬間視界に飛び込んできたのは、袴を着た一人の女学生。
ひどく急いでいる様子の彼女の顔を見て、殺生丸は目を見開いた。

りん。

その時、殺生丸はあの時のりんの言葉を初めて信じることが出来た。


********************


飛び込んだ先は、小さな林がある公園だった。
背後から役人たちが追ってきているのが分かり、焦る凛。
何とか藪の中に入って撒いてやろうと思たのだが、なかなか抜け出せなくなってしまう。
前へ前へ体を動かし、何とか抜け出せたが、同時に足をひねって倒れ込んでしまった。
早く逃げなければと焦って顔を上げたその瞬間、目の前にある木の根元に、白い人影が腰かけていることに気が付いた。
銀色の長い髪に、古い形の鎧。
そして今時珍しい二振りの刀。
人間離れしたその容姿を見た途端、凜の頭の中で学友の言葉がよみがえる。

犬の妖怪が出るらしい。

あの言葉は、どうやら嘘ではなかったようだ。
妖怪とは恐ろしく、邪な存在だと幼いころから教え込まれていた凛だったが、不思議と目の前の彼に恐怖心を抱くことは無かった。
一番最初に感じたのは、なつかしさ。
遠い昔、彼と会ったことがあるような気がする。
それも、今と同じような林、いや、森で。
あの時も彼は、こうして木の根に寄りかかり体を休めていた。
見た事が無い光景のはずなのに、どうしてだろう。
まるで思い出のように脳裏に浮かび上がる。
呆然と彼を見つめていた凛だったが、相手もこちらから目を逸らすことなく見つめられ、そして小さく口を開いた。


「りん」
「えっ」


どうして、自分の名前を知っているのだろう。
そんな疑問をぶつける前に、背後から役人たちが押し寄せてきた。
りんを連れ戻すためにやってきたのだろうその役人たちは、りんの目の前にいる男を目にして顔をこわばらせる。


「よ、妖怪か!」
「おのれ、この女性をを化かしたのか!」


役人たちは、その男の姿を見るなり剣を抜いた。
犬妖怪が出るという噂が、女学生の間で流行しているということは、役人たちの耳にもその噂が不確かな形で伝わっていたのだろう。
驚いた風ではあったが、慄いてはいなかった。
凜を化かしたものと勘違いした役人たちは、腰から抜いた刀剣よりも鋭い殺意を音に来向けている。
だが、男はそんな殺意をもろともしなかった。
木の根から腰を上げることもせず、ただ冷淡な眼差しで人間たちを見つめている。
何故だろうか、その冷え切った瞳でさえ、どこかで見たような気がしてならない。


「退治せよ!」
「かかれーっ!」


数名の役人たちが、刀剣を構えて走り出す。
多勢に無勢とはまさにこのこと。
妖怪など、人間に害を成す悪しき存在だと昔から教えられてきたが、目の前の美しい犬妖怪の顔が血に濡れてしまうのだけは嫌だった。
このままでは、自分がたまたまこの男の元に駆け込んだせいで、彼が殺されてしまう。
役人たちを止めなければ。
顔も名前も知らないというのに、その男をかばおうと心がざわめいた。
腰を抜かしている自分の横を通り過ぎ、まっすぐ妖怪の元へ走っていく役人たちの背に手を伸ばしながら、凜は無心で叫び声を挙げる。


殺生丸様っ!」


聞き覚えのない名前が、突然自分の口から飛び出した瞬間、凜は戸惑った。
セッショウマル。
聞いたことのない名前だ。けれど、何故だか胸が暖かくなる。
頭の中がざわざわと騒ぎ出して、脳が自分になにかを伝えようとしている。
この妙な感覚は一体何だろう。
何か、大切なことを忘れているような、そんな感覚。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」


頭の中が真っ白になっていた凛だったが、役人たちの断末魔を耳にして我に返る。
開けた視界の先には、無残に倒れている役人たちと、その亡骸を琥珀色の瞳で見下ろす犬妖怪の姿が。
あの一瞬で、すべて片づけたというのか。
凜は言葉を失った。


「何故」


ぽつりと呟かれた一言に肩を震わせた凛。
その場で立ち上がった犬妖怪は、凜をまっすぐ見つめていた。
その瞳に、敵意はない。


「何故、この殺生丸の名を知っている?」


彼の疑問は最もだった。
何故自分は、この犬妖怪の名前を知っているのだろう。
あの時は、本能的に、というよりも反射的に叫んでしまったから、忘れていた記憶を呼び起こしたわけでも、勘を頼りに呼んでみたわけでもない。
確信をもって呼んでいた。この男の名前は「殺生丸」なのだ、と。
けれど、そこに論理的な理由など存在はしない。


「あ、貴方も、私の名前を知っていたじゃない」


恐る恐る指摘してみると、殺生丸は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、すぐに凛から目を逸らす。


「お前も、“りん”というのか」


お前も。
そうつぶやいた殺生丸は、視線を足元に向けながらもどこか遠くを見ているようだった。
まるで、手の届かない存在を渇望するかのようなそんな顔。


「昔、お前によく似た女がいた。顔も、においも、声すらも。その女の名前も“りん”だった」
「その人は、今どこに?」
「死んだ。数百年も前に」


凛の予想は当たっていた。
彼は、殺生丸は、もうこの世にはない影を見つめている。
昔、死んだ祖父から妖怪は数百年生きるのだと聞かされた。
長い時を生きる中で、はるか昔に別れを告げた相手を忘れられずにいるのかもしれない。
その相手こそ、“りん”なのだろう。
その事実を知った途端、凜の胸はぎゅっと締め付けられる。
胸を突くこの切ない鼓動は一体何だろう。
殺生丸とは初めて会ったはずなのに、もうずっと昔から知っているような気がする。
運命だとか、奇跡だとか、そういった可愛げのある言葉を信じるたちではなかったが、今凜の体の中を駆け巡る暖かい感覚は、目の前の犬妖怪を確かに求めている。
まるで、自分が自分じゃないみたいだ。


「不思議。私も、遠い昔に貴方と会ったような気がする。そんなはずないのに」


殺生丸は、何も言わなかった。
役人たちを一瞬のうちに亡き者にしてしまう恐るべき存在だというのに、凜は一切恐怖という感情を抱いていない。
むしろ彼の顔を見ていると心地よくて、安心できる。
こんな気持ちになるのは初めてだった。


「これって、巡りあわせってやつなのかな」


琥珀色の瞳を見つめながら問いかけてみるが、殺生丸はまるで逃げるかのようにすぐに目をそらしてしまった。
そして踵を返し、凛とは反対の方向に歩き出してしまう。


「お前と私は赤の他人でしかない。巡りあわせなど、馬鹿馬鹿しい」
「あっ、待って!」


去っていく殺生丸の背に焦った凜は、必死で彼を引き留めた。
意外にもすんなり足を止めてくれた彼は、凛を振り返り黙って見つめている。


「私も連れて行って」
「なに?」
「帰るところが無いの。親のところにも、もう戻れない」


今母の元に戻る気にはなれなかった。
戻ればきっと、見合いを強要される。
今日逃げたとしても、明日また新しい見合い相手がやって来る。
生き方や死に方まですべて定められた檻の中で生きるのは、もうまっぴらだった。


「妖怪である私とともにあろうというのか」


妖怪と人間は、本来ともにあるべきではない。
それはこの世の常識であった。
けれど、そのような常識を超越した何かが、きっと自分たちの間にはある。
それを絆と呼ぶのかもしれないが、おそらく殺生丸はそんな生暖かい言葉は嫌うだろう。
凜は深く頷き、ゆっくりとその場から立ち上がる。


「お願い、殺生丸様」


目の前にいる少女が、かつて自分が愛した女とは全くの別人であるということを、殺生丸はよく分かっていた。
けれど、彼女とよく似た声で、よく似た顔で、よく似た仕草で名前を呼ばれては、逆らうことなどできるわけがない。
殺生丸は見つめてくる凜から顔を逸らし、ぶっきらぼうにつぶやいた。


「好きにしろ」


数百年前、雪が降りしきるあの夜に、りんは言った。
いつか会いに行くから、と。
その言葉の通り会いに来たというのだろうか。
あまりにも信じがたかった。
けれど、彼女の存在は、嫌でも殺生丸の心をかき乱してしまう。
はるか昔に味わった暖かな感覚を胸で感じながら、殺生丸はりんを受け入れるのだった。
今日もまた、あの日と同じように、白い雪が降っていた。