Mizudori’s home

二次創作まとめ

逃れられない心

【殺りん】

犬夜叉

■未来捏造

■短編

 

この広い部屋の中心で正座をするよう命じられて、一体何時間経過しただろう。
何も考えずただ座っているだけのこの状況にもそろそろ飽きてきた。
ふと目の前で胡坐をかいている父に目をやると、鋭い爪をもっている大きな手でうなだれるように頭を抱えていた。
何をそんなに思い悩むことがあるのだろう、と、殺生丸は不思議で仕方がない。


殺生丸よ、もう一度聞く。何故人間を殺した」
「先ほどから申し上げている通り。退治だなどとほざきながら刃を向けてきたのはあちらの方です」
「お前なら、殺さず気絶にとどめておくことも出来ただろう」
「殺した方が楽です」
「・・・・・」


息子の回答に、天下の大妖怪、闘牙王は再び頭を抱えた。
まだ少年と呼んで差しさわりないほどの容姿であるこの殺生丸は。あどけない見た目に不相応な強さを持っている。
それは西国を支配するほどの妖力を誇る父の血を、誰より濃く受け継いでいるが故。
殺生丸の強さは、一族やそれに連なる従者たち、誰が見ても申し分のないものだった。
だが、その強さ故、殺生丸は弱き者に寄り添おうという情がない。
己よりもはるかに長大な父ばかりを敬愛し、他の者は虫けら以下という認識を崩さない。
そんな彼の態度に、長年闘牙王に仕えていた冥加をはじめとする臣下たちは怯え切っていた。


「そんなことでは、敵ばかりを作る羽目になるぞ」
「我が敵となるならば誰であろうと斬り捨てるのみ」
「孤独は辛いぞ」
「人間を斬ることが、孤独につながるというのですか」
「そうではない。力を誇示し、弱き者に寄り添わぬことが孤独を招くのだ」


殺生丸は、父の言うことが何一つ理解できなかった。
人間を斬り捨てたことで父の不興を買い、こうして説教をされたことは一度や二度に留まらない。
そのたび父からは何度も同じ話を聞かされてきたが、どうも心に響かないのだ。
人間など、羽虫に等しい。
何の力もなく、無駄に群れ、汚らわしく、さらには我ら妖怪に歯向かおうとすることもある。
そのような存在を、父は何故そこまで気にかけ、そして庇護しようとするのか。
闘牙王は足を組みなおし、姿勢を正すと、まっすぐ殺生丸の瞳を見つめて改まったように口を開いた。


殺生丸。この二振りの刀のこと、まだ話したことは無かったな」


すぐ横に並べて置いてあった二振りの刀を掴み、息子の前に並べる闘牙王。
一本は柄がボロボロで、見るからに使い物にならなそうな錆刀。
そしてもう一本は、あまり使い込まれてはいなそうな、比較的新しい刀。
殺生丸も、父の腰元に常にあるその二振りの刀の存在には気付いていた。
だが、未だ父がこの刀を振るっているところを見たことが無い。


「これは、鉄砕牙と天生牙という。鉄砕牙は一振りで百の敵を薙ぎ払う刀。天生牙は一振りで百の命を救う刀だ」
「命を救う・・・?」


刀とは本来、敵対する者の命を奪う武器である。
命を救う力があるなど、全くもって想像ができない。
怪訝な顔をしている殺生丸の視線は、二振りの刀にまっすぐ注がれていた。


「その力についてはまた後ほど話そう。私が死んだのち、お前にはこの鉄砕牙と天生牙、どちらかを譲ろうと思う」
「では鉄砕牙をいただきたい」
「何故だ」
「一振りで百の敵をなぎ倒す殺戮の刀こそ、この殺生丸が追い求める覇道になくてはならぬもの故」
「殺戮の刀、か」


闘牙王は小さく笑みをこぼすと、鉄砕牙を持って立ち上がる。
殺生丸の目の前には、天生牙のみが残された。
外に続く障子をあけ放つと、山々の間に沈みゆく夕日の赤い光とともに、肌寒さを感じる風が吹き込んできた。
鉄砕牙を己の腰元に差しなおすと、闘牙王は未だ正座をしている殺生丸に背を向けたまま、遠くを見つめつつ語り始める。


殺生丸よ。お前には力がある。その力は人間も半妖も、同じ妖怪ですら望んでも手に入らぬ偉大なものだ。力あるものは弱き者に寄り添い、慈しみ、そして守らねばらぬという使命がある。私がこの鉄砕牙を刀々斎に打たせたのは、弱き者を襲い来る脅威から守るためだ」
「・・・だから、人間を殺すなと?」
「そうだ」


短く返した闘牙王は、ようやく殺生丸へと振り返る。
まぶしく輝く夕日を背にしているせいか、父の表情をうかがい知ることは出来なかった。


「今よりもっと強くなれ、殺生丸。己のためではなく、己以外の誰かのために」


父の言葉はほとんど腑に落ちなかった殺生丸だったが、たった一つだけわかったことがある。
きっと父は、あの鉄砕牙という刀を自分に譲る気は無いのだろう、ということ。
強くなれと言いつつ、明確な強さの証は何一つ寄越してくれない父に、殺生丸は苛立ちすら感じていた。
父はまるで矛盾している。
強さを追い求めることに、他者の介入など必要ない。
誰かのために強くなれとは言うが、その誰かが重荷になる可能性を、父は一切考えていないのだ。
強さとはすなわち、孤独になるということ。
孤独を恐ろしいと思ったこともなければ、友が欲しいと思ったこともない。


「話はそれだけだ。もう行っていいぞ」
「・・・・・」


殺生丸を納得させることが出来なかった己の不甲斐なさを心で嘆きながら、父は息子を解放した。
殺生丸は何も言わず部屋から出ようとしたが、そんな彼を、父は再び呼び止める。


「言い忘れていたが、鉄砕牙は殺戮の刀ではない。守りの刀だ」


父はどうやら、この期に及んでも殺生丸に守ることの大切さなどというくだらない講義をするつもりらしい。
もうたくさんだ、
殺生丸は特に返事をすることもなく、その場を去る。
その後、父からどんな言葉を投げかけられても、殺生丸の冷え切った価値観が変わることはなかった。


********************


怯える瞳、震える体、そして恐怖に歪む顔。
人間たちがひれ伏し、自分に命乞いをしてくるこの光景を何度見た事だろう。
今日もまた、たまたま森の中で遭遇した野盗くずれの侍たちが、妖怪退治だと喚きながら刀を振り下ろしてきた。
だが、相手はこの戦国最強との呼び声も高い大妖怪。
そう易々と傷をつけられるわけもなく、侍たちの錆刀は殺生丸の毒爪によって無残にも溶かされ、戦う術がなくなった侍たちは地面に手を突き許しを請うしか道が無くなってしまう。
三人の侍が頭を垂れている光景を見下ろしながら、殺生丸は指の関節を鳴らした。

今、この男たちの命は殺生丸が握っている。
たった一本、彼が指を振り下ろした瞬間、三人の命は露と消えるだろう。
昔の殺生丸は、こうして弱者の命の主導権を握ることがたまらなく好きだった。
相手が命乞いをするほど、血しぶきを上げて断末魔を響かせるほど、自分はいくつもの命を容易に握れるほど強大な存在なのだと実感できる。
だからこそ、殺生丸は多くの命を奪った。
己の刃を振り、力を追い求めることほど楽しいことはない。
けれど、何故だろう。
今は、この侍たちを斬り刻むことに、全く楽しさを見いだせない。
むしろ、退屈さすら感じてしまう。


「お、お願いでさぁ!」
「命だけは!命だけはお助けを・・・!」


泥にまみれ、額を地面に押し付ける三人の姿はなんとも哀れで、殺す気すら失せてしまう。
この男たちを殺したところで何になる。
命を奪ったところで、この殺生丸の糧になるわけでもない。
そう思うと、全身から力が抜けていく。


「散れ。貴様らの相手など、時間の無駄だ」


吐き捨てるように呟くと、侍たちは力の抜けた声を挙げてさっさと散っていった。
残されたのは立ちすくむ殺生丸と、彼の中に渦巻く嫌悪感のみ。


「あぁビックリした・・・殺生丸さま、追い払ってくれてありがとう!」


背後の木に身を隠していた少女が、ひょっこりと顔を覗かせてきた。
少女、りんは撥ねるように木陰から殺生丸のすぐ横に移動すると、屈託のない笑みをぶつけてくる。
殺生丸は、彼女のこの微笑みをどうも好きになれなかった。
その顔を見つめていると、心がざわめく。


殺生丸様、見逃してしまってよろしかったのですか?」


りんと同じように木陰に隠れていた邪見もまた、りんと並んで殺生丸を見上げてくる。
既に森の奥へと姿を消してしまった侍たちをわざわざ追おうとは思わないだろうが、以前の殺生丸であれば命乞いする暇もなく命を奪っていただろう。
だが、最近の殺生丸はどこか様子がおかしかった。
あのように、殺生丸の強大さを知らない人間たちから退治だなんだと絡まれることは少なくないが、そのたび戦意を喪失させて逃がすにとどめている。
邪見の目には、わざと殺生を避けているようにも映った。


「放っておけ。ゆくぞ」
「は、はい!」


歩き出した殺生丸の背を、邪見は急いで追う。
りんもまた、はたはたと軽やかに走りながら、邪見に並んで殺生丸の後をついていく。
今日も、殺生丸の背後には人間の少女が付いて回る。
殺生丸が彼女を追い払わないのは、決して情が移ったなどではなく、ただ単に面倒だからである。
半妖の弟に傷を負わされ、森の中で動けなくなっていたところに現れたこの少女。
甲斐甲斐しく口に合わぬ食料を運んできて、救護しているつもりだったのだろうが、助けがなくともあのままじっと休んでいれば自力で回復できる程度の傷だった。
あの時のことを恩として感じているわけではない。
狼に食い殺された彼女の命を呼び戻したのも、ただの気まぐれだ。
父が言っていた、“命を救う力”とやらを試してみたかっただけのこと。
そこに深い意味などない。
足手まといになるのなら、腹が減ったときにでも食ってしまえばいい。
殺生丸にとって、りんとは、その程度の存在だった。


「ねーねー邪見様、殺生丸さまってすごく強いね!」
「当たり前だろう!なんたって殺生丸様じゃぞ?関東、いや日ノ本一の強さに決まっておろうが」
「そうなんだぁ。じゃあ、日の本一強い殺生丸さまに守ってもらっているりんたちは安心だね!」


背後から聞こえてきたりんの言葉に、殺生丸は足を止めた。
“守ってもらっている”
その一言に、思考が奪われてしまったのだ。

自分はこの人間の少女を守っているのだろうか。
この殺生丸ともあろう男が。

“力ある者は弱き者を守る使命がある”

いつだったか父が言っていた世迷言を思い出す。
弱き者守る使命だと?馬鹿馬鹿しい。
何故力ある者が、わざわざ非力な者の助けにならねばならぬ。
力は己のために使ってこそ力となり得る。
自分以外の誰かのために使う力など、それは本当の意味での力などではない。


「あの、殺生丸様?如何なされました・・・?」
殺生丸さま?」


背後から己の名前を呼ぶ声がする。
邪見とりん。
この二人の命を、殺生丸は一度ずつ天生牙で救ったことがある。
奪うことしかしてこなかった殺生丸が、命を与えた数少ない存在。
そんな二人は、殺生丸を慕い、何の疑問も持たずに後ろをついてくる。
この二人の命もまた、命乞いをしてきたあの三人の侍と同じように殺生丸の手の中にある。
数多の人間たちのようにこの二人を殺す気にならないのは、己の手で守っているからなのか。

自己主張するかのようにカタカタと揺れ出す腰の天生牙を諫めるように右手で柄を握る殺生丸
父が、何故自分に鉄砕牙ではなくこの天生牙を分け与えたのか、未だにわからない。
だが、慈しみの心を知ってほしいだとか、弱者を守ることの美しさだとか、そんなくだらないことに違いない。
力を求めるこの身には、守る者など重荷でしかないのだ。
殺生丸は、後ろから注がれる視線に振り返ることなく、再び歩き始めた。


********************


顔を思い出すだけで怒りがこみあげてくる相手が、殺生丸には二人いる。
一人は腹違いの弟、犬夜叉
あの半妖が生まれる前から渇望していた鉄砕牙を父から受け継いだ忌むべき存在。
あれを見ていると、敬愛していた父が人間とつながりを持ったという忌まわしい事実が想起されて不愉快だった。
そしてもう一人が、同じく半妖の奈落。
あの男は殺生丸を利用して犬夜叉を殺そうとした。
できそこないの半妖の分際で、自分を陥れようとしたことに腹が立っていた。
それだけではない。何より許しがたかったのは、自信の持ち物にちょっかいを出されたことだった。
りんを傷つけられた怒りというよりも、人間の少女一人の命で自分をどうにかできると思っているその浅はかさが憎らしい。
一度受けた屈辱は、相手が絶命するまで忘れることはない。
りんのためではなく、自分自身のために殺生丸は奈落を追っていた。


「うわぁ、見て見て邪見さま!あそこにたくさん花が咲いてるよ」


殺生丸を先頭に、荒野を歩く一行。
この辺りは高低差が激しい土地らしく、崖のすぐそばを沿うように歩いていた。
最後尾についていたりんが、一歩先を歩く邪見にかけた声は、先頭を歩いていた殺生丸の耳にも届いている。
りんは崖下に花畑を見つけたようで、身を乗り出して下を覗き込んでいる、


「危ないぞ。あまり崖に近づくでない」
「はぁーい」


殺生丸一行が歩く崖はかなりの高さがあり、落ちれば確実に助からないだろう。
それほどの高さにも全く怯えないのは、りんの幼さからくる無邪気さゆえか。
はしゃぐりんに肝を冷やした邪見は、すかさず親のように注意を促した。
素直なりんはすぐに崖から離れようと後ずさったが、運が悪いというか間が悪いというか、りんが立っていた場所の岩肌が崩れ、足元が不安定になったことでりんはよろめき崖の下へ足を滑らせてしまった。


「きゃああぁぁっ!!」
「り、りん!」


まっすぐ前を向いて歩いていた殺生丸が事態に気付いたのは、邪見の焦りを帯びた叫び声を聞いてからのこと。
落ちたのだと一瞬で判断した殺生丸は、躊躇する一瞬の暇もなく、風のような速さで崖下に身を投げていた。
人ならざる存在である殺生丸にとって、崖から落ちようとも上に飛び上がる手段はいくらでもある。
体に光を纏わせ、救い上げるようにりんの体を抱き寄せると、そのままの勢いで邪見が待つ崖の上に降り立った。
落ちると思っていたらしいりんは、ぎゅっと強く瞑っていた瞼をゆっくりと開け、殺生丸の顔を見た瞬間に表情を明るくさせた。


「ありがとう、殺生丸さま」


りんの笑顔を見ていると、何故だか無性に憎らしいく思えてきた。
殺生丸はそそくさとりんを荒野の上におろすと、そのまま何事もなかったかのように歩き出す。
その背を急いで追いかける少女と小妖怪。
危険な目に合ったりんに対し、邪見はグチグチと口うるさく説教をしていた。
色々言っていたが、要するに殺生丸さまの手を焼かせるな、と言いたいのだろう。
りんはしゅんと肩を落としながら小さく謝っている。
後方で繰り広げられるそんなやり取りを聞き流しながら、殺生丸はつい先ほどの自分の行動にひとり密かに戸惑っていた。

何故、助けたのか。

そもそもあのりんという少女は、殺生丸が連れてきたのではない。
勝手についてきたのだ。
ならば、野党に斬り殺されようと、妖怪に食い荒らされようと、崖から落ちようと構わないはず。
しかし、殺生丸は彼女を助けた。
それも一瞬の迷いもなく。
何故だ何故だと自分に問いかけ続けても、答えは出ない。
ふと、自分のたった一本しかない腕が小さく震えていることに気が付いてしまう。
まさか、焦っていたというのか。
たかが人間の少女が命を落とすかもしれないという状況に、この殺生丸が危機感を抱くなど、あるはずがない。
あっていいはずがない。

憎たらしく震える自分の右腕を鎮めるように、殺生丸は力いっぱい拳を作る。
それでも、頭の中に渦巻く霧のような感情の正体は見えなかった。

そういえば、あの時も同じ感覚を抱いた。
邪見から、りんが奈落の元に連れ去られたと報告を受けたあの時。
殺生丸の心の大半を占めていたのは、自分の持ち物に手を出した奈落への怒り。
だがその怒りに隠れ、小さく焦りが生まれていたことを殺生丸は覚えていた。
りんが死ぬかもしれないという、憎らしい焦り。
殺生丸は今まで、自分以外の死に対して焦りなどという感情を抱いたことがなかった。
己の心の変化に気付けないほど、殺生丸という男は鈍感ではない。
けれど、どうしてもそれを受け入れることは出来なかった。
どうしても、敬愛していた父のようにはなりたくなかったのだ。


********************


死は、誰にでも平等に訪れるものだということを、殺生丸はよく知っていた。
叩けばすぐに絶命してしまう小さな虫も、比較的長く生きる妖怪も、いつかは死ぬ時が来る。
強大な力を誇った父が、あっけなく死んでしまったように、いつか来る死を拒むことは出来ない。
けれど、その死を遠ざける唯一の力を持っているのが、殺生丸の天生牙である。
この刀は、死を追い払い生を呼び戻すことが出来る。
誰よりも優れた妖力を持っている殺生丸は、相手がいかに強大であろうとそれを凌駕する力で死を与えてしまう。
さらに天生牙もあれば、死だけでなく相手の生をも握ることが出来る、
気に入らぬのなら殺せばいい。惜しいのなら生かせばいい。
生と死、どちらもたった一本の腕に抱えている殺生丸は、心のどこかで自分は生も死も超越した存在であるという驕りを宿していたのかもしれない。


殺生丸、そなたは神にでもなったつもりだったのか?」


久方ぶりに会った母から投げかけられた言葉は、殺生丸の心に重く突き刺さる。
冷たくなっていくりんを前に、何もできない己が恨めしかった。
生ある者に死を与えることは簡単だ、
だが、生を失った者に再び命を宿すことは元々容易なことではない。
だからこそ、命は美しい。
そのような当たり前の事実を、数百年生きてきた殺生丸はこの時初めて知った。
奪うことしかしてこなかった殺生丸が、初めて命を与えた存在、それがりん。
小さく弱い彼女の存在は、不覚にも殺生丸の中で無視できないほど大きな存在へと成長していた。
りんが死の危機に瀕するたびに感じていた焦りは、今、二度と取り戻せない恐怖となって殺生丸の上にのしかかる。
もはや、ごまかしようもなかった。
りんは、他の何にも代えがきかないかけがえのないもの。
彼女が二度目に死んだあの時、殺生丸は初めて絶望を知ったのだった。


********************


「りんをこの村に預けたい」


殺生丸の申し出に、楓は驚きを隠せなかった。
たまたまその場に居合わせた犬夜叉は、意外にも顔色を全く変えていない。
奈落が倒されて数日。
暫くはこの村の近くにりんとともに滞在していた殺生丸が、わざわざ楓の家を訪ねてきて早々口にした申し出は、予想外のものだった。
楓は食べていた雑煮の碗を床に置き、姿勢を正して殺生丸に向き合う。


「それは構わんが、何故じゃ」
「理由などない。ただ邪魔になった。それだけのことだ」


殺生丸が出した答えに、楓は黙り込んでしまう。
この大妖怪のことを1から10まで知っているわけではない楓にも、その言葉に偽りが隠されていることは察することが出来る。
奈落を倒した今、散々連れまわしたりんを今更邪魔に思うなどあるはずもない。
そしてこの申し出は、ただ殺生丸が気まぐれに口にしているわけでもないのだろう。
それは、彼のまっすぐな目を見ていれば分かる。
さんざん悩み、迷った末に出した、決意の目をしている。


「りんは納得せんだろう」
「りんには私から話す」
「・・・それは、酷なことだ。一番受け入れてほしい相手に突き放されるなど」


この村に残れと伝えた時、りんがどんな顔をするのかは容易に想像できてしまう。
きっと泣くだろう。
意地でも殺生丸の背についていこうとするはずだ。
だが、殺生丸の決意はどうも揺らぎそうもない。
殺生丸は妖怪であって、人間のように穏やかな道は歩けない。
これからも長く続く殺生丸の生涯は、どこまでも戦いが続くことだろう。
あの時のように、再びりんの命が脅かされ、絶望に身を落とすのは御免だった。
それは、ただの逃げでしかない。
そう自覚していながらも、殺生丸はりんの背を突き放すほかない。
自分の元にいてまた傷付けられるくらいなら、手放した方がまだましだ。
そもそもりんは、殺生丸の物でも何でもないのだ。


「いいんじゃねぇか? 楓ばばぁ」


戸惑う楓と、それを見下ろす殺生丸の間に口をはさんだのは、今までずっと黙っていた犬夜叉だった。
鉄砕牙を抱え、胡坐をかいていた彼が、らしくないほど威勢のない声でつぶやく。


「りんは人間なんだ、この村で暮らしてた方があいつのためになるだろ」
「それはそうかもしれんが、りんにとって殺生丸は・・・」
「りんにとってこいつは必要なのかもしれねぇが、どう頑張ったって親兄弟やダチの代わりにはなれねぇんだ。当然だろ。生きる世界が違うんだから」


俯きながら言い切った犬夜叉の言葉に、楓は頷くしかなかった。
うつろな犬夜叉の目はどこか悲し気で、まるで自分に言い聞かせているようだった。
今の自分も、目の前の弟と同じ顔をしているのだろうか。
そう考えると、どこまでも女々しい自分の心が恨めしく感じられた。
体に流れている血が、りんとは全く違うということは、とうの昔から知っていた。
けれど、見ないふりをしていた。
相手の存在が大きくなればなるほど、自分と相手の違うところばかり見つけてしまう。
本当はいつでも自分の目の届く範囲に置いておきたいくせに、白い肌に傷がつくたびに離れるべきだともう一人の自分が叫ぶ。
結局、犬夜叉殺生丸も、自分の心から逃げ出して、惜しみながらも手を離してしまうのだ。
後悔することは、目に見えているというのに。


「そういうことだ。あとは貴様らの好きにしろ」
殺生丸


踵を返した殺生丸は。そのまま楓の家を出ていこうとする。
しかし、そんな兄の背を弟はとっさに呼び止めてしまった。


「親兄弟の代わりにはなれねぇが、りんにとってお前の代わりもこの世にはいねぇはずだ」
「・・・・・本当にそう思っているのか」


振り返ることなく問いかけてみる。
少しだけ間を置いたのち、躊躇するように犬夜叉から返答があった。


「そうだと思いたい」


かすれる声で囁かれた犬夜叉の言葉は、切実だった。
殺生丸は、犬夜叉が抱えている問題の全貌を知っているわけではない。
けれど、彼の言葉が自分ではなく彼自身に向けられた暗示でしかないことは薄々気が付いていた。
犬夜叉の言葉の奥には、奈落を倒したと同時に姿を消したあの女がいる。
そんな犬夜叉を女々しいと思いつつも、気持ちが全く分からないわけではない。
殺生丸は、犬夜叉や楓にそれ以上言葉をかけることなく去っていった。
りんが殺生丸に置いていかれたと声をあげて泣いたのは、その日の夜のことだった。


********************


夜は嫌いではなかった。
太陽の光があたりを支配する昼間と違って、夜は静かで穏やかだ。
だが、月が消える今宵だけはわけが違う。
今夜は、殺生丸がりんを楓の村に預けて最初の朔の日。
半妖の弟が妖力を失う日である。
人に弱みを見せたがらない弟は、朔の日に人間に戻ってしまうことを必死で隠していたようだったが、敏い殺生丸が気付いていないわけがない。
定期的に、犬夜叉の匂いがわずかに変わっていることを知っていた。
深い森の奥で、月の輝きがない暗黒の夜空を見上げ、殺生丸は息を吐く。

りんを村に預けて数日。
あの日以来、殺生丸は村に一度も顔を出していなかった。
特に理由はない。ただ、機を逸しただけである。
いや、心のどこかで、りんに連れて行ってとせがまれるのが怖かったのかもしれない。
一度固めた決意も、りんがせがめば脆くも崩れてしまうだろう。
りんという少女に出会って以来、殺生丸は己の心が妙に弱くなったような気がしてならなかった。

楓の村からほど近い森の中で休んでいた殺生丸だったが、複数の妖怪の匂いに気が付き立ち上がる。
大量の妖怪たちが、列をなしてどこかへ向かっている。
考えたくはなかったが、その妖怪たちの匂いが移動しているのは、楓の村の方角のような気がした。
頭の中で状況を把握し、殺生丸は久方ぶりの焦りを感じていた。

楓の村は、手練れの退治屋や法師が住んでいるために妖怪たちの間でも有名になっていた。
あの村を落とせば名をあげられると噂になるほどに。
この朔の日に妖怪たちが動き出したのは、きっと偶然などではない。
どこかで犬夜叉が妖力を失う日を聞き、その日を狙って押し寄せたのだ。
今、あの村には人間しかいない。
匂いの数を感じ取るに、妖怪退治屋や法師だけで対処するのは厳しいだろう。
そうなれば、りんは・・・。
嫌な焦りを胸に抱えたまま、殺生丸は地面を蹴り上げた。

夜空を切り裂くように空を往く殺生丸
ようやく楓の村が遠くに見えてきたところで、彼の鼻に、最も不快な匂いが届く。
りんの血の匂い。
その甘い香りを嗅いだ途端、殺生丸は思考は停止した。

匂いによる手招きに応じるまま、殺生丸は村の中央へと降り立つ。
村を囲うように妖怪たちが跋扈し、村人らは村の中央に集められている。
それを守るように退治屋や法師らが武器を振るっていた。
その中には、錆刀と化した鉄砕牙を振り回す犬夜叉の姿もある。
戦いの真っ最中である犬夜叉らは、殺生丸の来訪に気付いてはいるものの、声をかけるほどの余裕はない。
次々襲い来る大量の妖怪たちの体を粉砕することに注力している犬夜叉らに背を向けながら、殺生丸は楓に肩を抱かれて守られているりんの目の前で立ち尽くしていた。


殺生丸さま・・・!」


殺生丸の顔を見て安心したらしいりんは、小さく笑みを浮かべていた。
橙色の市松模様の着物が、血で滲んでいる。
どうやら右腕を軽く斬ったらしい。
左手で負傷した右腕を抑えているその手には、りん自身の血が付着していた。
この村を襲っているあの大量の雑魚妖怪たちの手によって、りんが傷付けられた。
その事実は、殺生丸の心を怒りで満たしてゆく。
りんの血の匂いを嗅ぐたび、我を忘れていくような気がしていた。


「うおっ!」


背後で戦っていた犬夜叉が、妖怪たちに押しのけられて後方に飛ばされてしまう。
いつもの犬耳が消え、黒髪姿の犬夜叉はただの人間でしかない。
体に流れる偉大な父の血と妖力に頼り切った戦い方をしている犬夜叉は、その力を失えば非力な存在でしかない。
あっけなく吹き飛ばされてしまった犬夜叉は、勢い余って右手に握っていた鉄砕牙を手放してしまう。
今はただの錆刀でしかない鉄砕牙が、殺生丸の足元に転がってくる。
その鉄砕牙を拾い上げたのは、衝動的な行動だった。
長年追い求め続けた鉄砕牙への執着は、とうの昔に捨て去ったはず。
それでもなお、怒りに身を任せこの刀を拾い上げたのは力が欲しいからではない。
傷付いた己の宝を守るためだった。

結界という手段でいつもは阻んでくる鉄砕牙だが、何故だかこの時は素直に殺生丸の右手を受け入れていた。


「なっ・・・!」


殺生丸が易々と鉄砕牙に触れている光景に、地面に伏したままの犬夜叉は驚いた。
持ち主の怒りに満ちた瞳に応えるように、鉄砕牙は錆刀から鋭利な牙へと姿を変える。
刀身に刃のような風をまとった鉄砕牙を、大きく横に薙ぎ払う殺生丸
金切声のような爆音とともに、強力な風の傷が空を貫くように飛んで行く。
大量にうごめいていた妖怪たちは次々と殺生丸の風に消し飛び、あたりを渦巻いていた邪悪な妖気たちも塵と化してゆく。
たった一振りで、殺生丸はすべての妖怪を薙ぎ払ってしまったのだ。


「すごい・・・一瞬であの数を・・・」


遠くで見ていた珊瑚のそんな呟きが響く。
ようやくやってきた平穏に、村人たちは各々歓喜の声をあげた。
妖怪たちが消え去った空を呆然と見上げている殺生丸に、りんがはたはたと駆け寄り、鉄砕牙を握っている右手に自分の手を重ねる。


「ありがとう、殺生丸さま!」


屈託のない笑みを浮かべてくるりんは、どこまでも無垢である。
自分がどれほどこの殺生丸の心を乱しているかも知らずに、呑気なものだ、
りんの笑顔は、やはり何度見ても憎らしい。


殺生丸さまは、いつもりんを守ってくれるね」


りんの言葉は、殺生丸の中にある古い記憶を呼び起こした。

“鉄砕牙は殺戮の刀ではない。守りの刀だ”

父の言葉が、頭の中で反響する。
今右手に握られている鉄砕牙がめずらしく大人しいのは、りんを、ひいては人間たちを守るために振るったからなのだろうか。
父が呪詛のように繰り返し言っていた、弱き者を守るために力を奮ったからこそ、受け入れられた、と。
そう思うと、今右手に収まっている鉄砕牙が生意気で仕方がなく思えてくる。
天生牙は最初から素直だったというのに、鉄砕牙は随分とひねくれている。
父からどんな暗示をかけられたのやら。
過去の幻想でしかない父と、天邪鬼な鉄砕牙にあきれ果てた殺生丸は、りんに気付かれぬようにため息をついた。


「りん、早く手当をしてもらえ。お前の血の匂いは鼻につく」
「はぁーい」


殺生丸の言葉にはどこまでも素直に従う傾向があるりんは、やはり彼の言葉の裏側にある感情など一切気付きもせず、無邪気に楓のもとへ走り去っていった。
何の異変もなく駆けていくりんの背に安堵してしまったのは、殺生丸にとって不覚ともいえた。
人間の少女一人に傷が付くことを恐れ、無事であることに安心してしまう。
ちっぽけな存在に感情を左右されてしまう愚を知っておきながら、りんに向けられる己の淡く幼い感情からを無視できそうにない。
波のように勢いよく襲い来る感情からは、決して逃げられない。
もしかすると、父も遠い昔に同じ感情をあの人間の女に抱いたのだろうか。
呆然と思い起こしていた殺生丸に近づいてきたのは、頭に浮かんでいた十六夜とかいうあの女と同じ黒髪をなびかせている、今は人間の姿をした弟だった。


殺生丸、お前、なんで鉄砕牙を・・・」
「貴様のその姿を見ていると腹が立つ」
「はぁ!?」


いつもは結界に阻まれるというのに、何故今は握れているのか。
そんな疑問を兄にぶつけようとした犬夜叉は、突然投げつけられた刃物のごとく鋭い言葉に戸惑った。
先ほどの怒りに満ちた瞳から一変、活力を失った様子の殺生丸は、錆刀に戻った鉄砕牙を犬夜叉に軽く投げ返す。
投げられた鉄砕牙を慌てて受け取った犬夜叉は、かつてあれほど鉄砕牙に執着を見せた兄がこうもあっさり返却してくるとは思わず肩透かしを食らわされた気分だった。


「瞳も髪も黒く、爪も牙もない。戦う力すらない。無力な人間そのものだ」
「なんだよ。りんを怪我させた嫌味のつもりか?」
「・・・貴様という存在は、父上が人間の女に惹かれ心を繋いだ確固たる証明だ。貴様を見るたびに思い知らされる―――」


殺生丸の視線は、遠くで楓や珊瑚らに手当てをしてもらっているりんのほうへと向けられる。
その視線を追って、犬夜叉もりんたちへと目を向けていた。


「どれだけ否定しようと、私もまた父上と同じ生き方をしているのだ、と」


どこか儚げな表情でりんを見つめる兄の姿は、いつになく小さく、そして近しく見えて、犬夜叉は戸惑ってしまう。
かつて冷え切った目で自分や人間を卑下していた兄の言葉だとは思えない。
氷のように冷たい彼の心を、あのりんという幼い少女が溶かしてしまったのか。
一生相いれないだろうと思っていた相手だったが、犬夜叉はその一瞬だけ殺生丸に親しみに近い感情を抱いていた。
屈折していた自分を桔梗とかごめの2人が変えてくれたように、殺生丸もまた人間の女によって生き方や価値観を根底から変えられてしまったのだろう。
今の殺生丸は、昔よりも柔らかく、それでいて初めて兄らしいと思えた。

星が瞬く夜空が東の方から白んできた。
山々の間から陽の光が顔を出し、朝の到来を告げている。
夜明けを待っていたかのように、殺生丸は銀色の髪を揺らしながら犬夜叉に背を向け歩き出した。
そんな彼の背中を、犬夜叉はまたとっさに呼び止める。


殺生丸!」


ぴたりと足を止める殺生丸
特に何も考えなく呼び止めてしまった犬夜叉は、まさか兄が素直に立ち止まるとは思ってもいなかったため戸惑ってしまう。
何か言わなければと言葉を絞り出そうとする犬夜叉の頭浮かんだのは、やはりりんの顔だった。


「その・・・また来い。りんがいつも会いたがってるし」
「・・・・・・・・・・」
「いつ来るかも分からねぇ相手をひたすら待つのは、案外辛いもんだぞ」


そっと振り返ると、犬夜叉の髪はいつの間にやら銀色に染まり、瞳は己と同じ琥珀色に戻っていた。
その瞳は何かを訴えかけているようで、あまり好きにはなれそうにない。
犬夜叉からの言葉に返答することはなく、殺生丸は再び前を向いて歩き出す。
彼がいくつかの反物を抱えて再び楓の村を訪れたのは、それから三日後のことだった。

 

 

END]