Mizudori’s home

二次創作まとめ

amnesia

【サトセレ】

■アニポケXY

■アニメ本編時間軸

■長編

 

ポケモンのさえずりが聞こえる。
木々の間から差し込む光は、4人の足元を明るく照らしてくれていた。
様々な地方の森を渡り歩いてきたが、不思議なもので森の匂いはどの地方でも変わらない。
澄み切った緑の香りの中を進みながら、サトシたち4人はカロスリーグ出場に向け、旅を続けていた。
舗装されていない道を通るには、少々体力がいる。
特にこの道は足場が悪く、尖った岩たちがゴロゴロとあたりに転がっており非常に歩き辛かった。


「ちょっと危ない道ですね」


最後尾を歩くシトロンが、息を切らしながら呟いた。
ゼェハァと肩を揺らしている彼は4人の中でも一番体力がなく、ああして辛そうにしているのは日常茶飯事である。
しかし、確かに彼の言う通り、この道は険しい上に危険だ。
森のすぐ脇は崖になっており、先ほど見掛けた看板には“落石注意”と赤い字で書かれていた。
あまり長くこの場にとどまっていたくない、という気持ちは、サトシやセレナ、ユリーカ同じように抱いている。


「そうだな。暗くなる前に通り抜けよう」


この森の中で一晩野宿するのは避けたい。
落石が怖いのはもちろん、このような不安定な足場では、いくらテントを用意しているとはいえ寝にくいだろう。
そんな考えから、先頭を歩くサトシは足を早めた。
彼の斜め後ろを歩くのは、デデンネを頭に乗せたユリーカである。
この険しい道の中、ユリーカは全く疲労の色を見せていない。
前を歩くそんな妹の姿に、シトロンは“本当に同じ血が流れる兄妹なのか”と心で落胆する。
そんな時だった。
サトシの肩に乗っていたピカチュウが、長い耳をピクリと動かし、不意に上空を見上げる。
彼の視線の先にあるのは、そびえ立つ崖だった。


「どうしたんだ?ピカチュウ


突然じっと崖の上を見つめ出した相棒を不思議に思ったサトシは、同じように上を見上げる。
その先にあるのは何の変哲も無い崖であったが、その小さな変化を、サトシは見逃さなかった。
コロコロと音を立て、崖上から小石が落ちてくる。
岩肌が削られているその現象は、他でも無い落石の合図であった。


「あっ!」


後ろを歩いていたセレナが声を漏らす。
そびえ立つ崖の頂上から、激しい地鳴りと共に大きな岩が転がり落ちてきた。
岩雪崩のようにゴロゴロと落ちてくる岩たちは、まっすぐに下を歩くサトシたちへと向かってゆく。
前方を歩いていたサトシとユリーカは、ちょうどその岩の落下地点に立っていた。
このままでは、落ちてくる岩に直撃してしまう。
直感でそう判断したサトシは、咄嗟に横にいたユリーカを庇った。


「危ない!」


サトシの大きな叫び声が森に木霊する。
強靭的な反射神経によってユリーカを庇ったサトシは、砂利道へと体を叩きつけられてしまう。
サトシとユリーカ、後方を歩いていたセレナとシトロンを分断するように、巨大な岩が轟音とともに落ちてくる。
砂埃が舞う中、セレナとシトロンは突然目の前で展開された衝撃の光景に、ただ面食らうしかなかった。


「ユリーカ!!」
「サトシー!」


セレナとシトロンの叫びは、悲痛なものだった。
仲間が怪我を負ったかもしれない。
そんな心配を孕んだ表情を浮かべながら、2人は急いで落ちてきた岩の向こうへと駆け寄る。
お願いだから無事でいてくれ。
大岩を避け、駆け寄った先には、ユリーカを抱き込んだ状態で地面に横たわるサトシと、そんな彼ら体を心配そうに揺さぶっているピカチュウデデンネの姿があった。
サトシも、その腕の中にいるユリーカも、ピクリとも動かない。
まさか、そんな……。
絶望的な表情を浮かべながら、セレナはサトシの体を揺らす。


「サトシ!しっかりしてサトシ!」


想い人の名前を呼ぶセレナの声は、震えていた。
隣ではシトロンがサトシの腕からユリーカを抱き上げ、同じように名前を呼んでいる。
2人とも落石の影響で吹き飛ばされた時、体を強く打ち付けられたらしく、衣服に汚れや傷が目立つ。
目を覚まさない主人を心配してか、ピカチュウはサトシのズボンをその小さな手でギュッと掴んでいる。
何度となく名前を呼び、体を揺さぶるセレナ。
こんなことで、突然彼とお別れなんて、想像したくない。
そんなセレナの想いが届いたのか、固く閉ざされていたサトシの瞼が、ピクリと動きを見せた。


「んっ……」
「ピカピ!」
「サトシ!目が覚めたのね⁉︎」
ピカチュウ……セレナ……」


うわ言のように2人の名前を呼ぶサトシは、まだ意識がハッキリしていないのか、瞳の焦点が合っていなかった。
それでもサトシの無事を確認できたことが嬉しくて、セレナは安堵の溜息をこぼす。
いつの間にかサトシに膝枕をしていたわけだが、そんな事を照れている暇などセレナには無かった。


「良かった……大丈夫?怪我はない?」
「あぁ、俺はなんとか……。そうだ!ユリーカは⁉︎」


横たえていた上半身を勢いよく上げ、キョロキョロと辺りを見渡すサトシ。
どうやら大した怪我は負っていないらしい。
2人はすぐ横でユリーカを抱き上げているシトロンへと視線を向ける。
まだユリーカは目を覚ましていないらしく、シトロンは必死の形相で妹の名前を呼んでいた。
その足元には、不安げな表情で主人たちを見上げているデデンネの姿が。
サトシとセレナも急いでシトロンの横へと近付くと、その腕に抱かれたユリーカの顔を覗き込む。


「ユリーカ!お願いです、目を開けてください!ユリーカ!!」


気を失っているユリーカを、兄のシトロンは必死に起こそうと名前を繰り返し叫ぶ。
彼女の小さな体を囲う仲間たちは、口々に震える声でユリーカに声をかけていた。
相棒であるデデンネも、ユリーカの腹の上に乗り、小さな手で体を揺さぶっている。
サトシと違い、年齢が幼いゆえに体力面で劣るユリーカは、大きな衝撃に耐えられなかったのかもしれない。
そんな絶望的な予想を裏切るように、ユリーカは小さく吐息を漏らす。


「っ…」


規則正しい息遣いとともに目を覚ましたユリーカの目は、虚ろなものだった。
意識を取り戻したばかりで、状況がよく分かっていないらしい。
そんな彼女がようやく目をさましたことに歓喜し、サトシらは顔を見合わせて笑顔を浮かべた。
一番喜んでいたのは、デデンネである。
主人の目覚めがよほど嬉しかったのか、“デデーネ!”と彼女の名前を叫び、その胸に飛び込む。
しかし、当のユリーカはそんなデデンネに触れる事なく、ただ不思議そうに首を傾げていた。


「ユリーカ!よかった!怪我はありませんか?」


ホッと安心した様子で声をかける兄に、ユリーカはキョトンとした表情を向けている。
何も言わず、ただボーッと周囲を見渡す彼女の様子に異変を感じ、サトシとセレナは顔を見合わせた。
何かがおかしい。
そんな空気感を証明するかのような、ユリーカは力無い声でこう言った。


「……あなたたち、誰?」

 

***

 

重たい瞼を開き、一番に視界へと飛び込んできたのは金髪の男の子。
丸眼鏡の分厚いレンズ越しに心配そうな眼差しを向けてくる彼は、どこかで見たことがあるような、そんな懐かしさを与えてくれる。
けれど、その金髪の男の子が一体誰なのかは全く分からない。
自分がこんな森の中にいる理由も、3人の少年少女に心配気に見下ろされている理由も、そして、自分の名前すらも、分からない。
真っ白になった頭は、状況判断をしようとする思考回路を一気に停止させる。
そして、自然と口から出た言葉は、自分を見下ろす少年少女たちの顔色を青くさせてしまった。


「……あなたたち、誰?」
「誰って……。分からないんですか?」


金髪の少年が、激しく動揺した様子で聞いてくる。
黒髪で赤いキャップを被った少年と、ミルクティー色の髪をした少女も、驚いた表情を浮かべながらこちらを凝視していた。
わけがわからない。

今の状況を全く把握できない自分の腹に、僅かな重みを感じ、視線を向ける。
するとそこには、小さなデデンネがちょこんと乗っていた。
この見覚えのないデデンネも、自分に不安気な視線を向けている。
この子も誰なのだろう。
野生の個体なのか、それともここにいる少年少女の中の誰かのポケモンなのだろうか。
見知らぬデデンネに対して首をかしげると、頭上から“ユリーカ…”と声がする。
どうやら金髪の少年が呟いたらしい。
ユリーカ。
それは誰かの名前なのだろうか。


「ここ、どこですか?私は一体…」
「ユリーカ、もしかして、何も覚えてないの?」
「ユリーカ?それ、私のことですか……?」


信じられないとでも言いたげな顔で、3人の少年少女は顔を見合わせる。
横たわる自分の腹にいるデデンネは、何故だかその大きな瞳に涙を溜めていた。
どうしてこんな状態に陥ってしまったのか思い出そうとすると、頭が痛くなる。
ここは一体何処なのだろう。
この人たちは誰なのだろう。
そして、自分は一体何者なのだろう。
何1つとして、わからない。


「そんな……冗談よしてくださいよ!君はユリーカ、僕は兄のシトロンです!ここにいるサトシやセレナと一緒に旅をしていたんですよ!?」
「………分からない。何も思い出せない」


暗い表情で俯くユリーカは、まるで別人のようだった。
心の奥底に産まれた絶望感が、1秒1秒刻むごとに大きくなってゆく。
シトロンは、ユリーカを肩を抱く手がいつの間にか震えていることに気付いた。
認めたくなどない。
けれど、この状況下では認めざるを得ない。
ユリーカは、シトロンの大切な妹は、記憶を失ってしまったのだ。


**********


足場の悪い砂利道を数分歩けば、すぐに次の街へとたどり着いた。
いつもなら手持ちのポケモンたちを回復させるため、ポケモンセンターへ直行するのだが、今日ばかりは勝手が違う。
一行がすぐさま向かったのは、人間用の病院だった。
この街で一番大きいこの病院は、内科に外科、産婦人科や皮膚科、さらには精神科まで 入っている。

わずかに鼻に付く薬品の香りは、サトシたちの心を重くさせてしまう。
膝を擦りむいていたユリーカの手当てが済むと、事情を聞いた外科の医師は、すぐさま同じ棟の精神科へと案内してくれた。
用意されたのは仰々しい大きめなベッド。
そこに寝かされたユリーカだが、まだ体の小さい彼女には、この大人の用のベッドは少々大きすぎる。
そんな彼女を囲うように置かれた椅子に、サトシ、セレナ、そしてシトロンは腰掛けた。
横になりながら、覇気のない瞳で天井を眺めるユリーカの枕元には、心配そうに彼女を見つめるデデンネの姿がある。


「記憶、障害……?」
「ええ。その可能性が高いかと」


カルテを見ながら淡々と告げる医師の言葉は、鋭く、そして冷たい。
“頼むから違ってくれ”と願い続けた結果があっさりと告知されてしまい、3人は床へと視線を落とした。

恐らく落石からくる多大な恐怖心が、ユリーカの心に大きなダメージを与え、記憶喪失という形で影響を与えてしまったのだとか。
兄や仲間たちのことは愚か、自分の名前すら覚えていない彼女の表情は、暗く物悲しいものだった。
医師や看護師たちが出て行った後の病室は、嫌な静けさが支配していた。
悔しさに固く握った拳を震わせるサトシ。
今にも泣きそうなセレナ。
そして、俯いたまま表情の見えないシトロン。
病室の沈黙を破ったのは、そんな彼らに囲まれたユリーカだった。


「あの……。皆さんは、一体……」


戸惑った様子で周りに視線を向けるユリーカ。
彼女の口調や表情は、数十分前とはまるで別人である。
脳内にある記憶が消えてしまうだけで、こうも人が変わってしまうのか。
そんな驚きを覚えながらも、サトシはユリーカのベッドへと歩み寄る。
先ほどまでの悲しげな顔を優しく微笑ませ、横たわる彼女に視線を合わせるように膝を折るサトシ。
心配をかけまいと、悲しみを必死に隠そうとする彼は、なるべく明るい声色でユリーカに声をかけた。


「はじめまして、ユリーカ。俺はサトシ。こいつは相棒のピカチュウ。それと、仲間のセレナに、シトロンだ」
「サトシさん、セレナさん、シトロンさん……?」
「あぁ。全然覚えてないかもしれないけど、俺たち一緒にカロスを旅してた仲間なんだぜ?」
「仲間……」


記憶を失ったユリーカがこれ以上戸惑うことのないよう、サトシはゆっくりと穏やかに語りかける。
それでもやはり、彼女は記憶にない仲間たちの顔に首を傾げていた。
まるで他人行儀なその光景は、後ろで見ていたシトロンの胸を打つ。
しかし、この状況で一番辛いのは、他の誰でもないユリーカである。
イキナリ自分の名前も忘れてしまい、自分という存在すらも分からなくなってしまっている。

そんな悲痛な状態にあるユリーカの服を、枕元にいたデデンネは強く引っ張った。
まるで自分の存在を主人にアピールするかのように。
自分の服をグイグイと引っ張ってくるデデンネに視線を向け、ユリーカは不思議そうな表情を浮かべる。
デデンネのことすらも、記憶にはないらしい。


デデンネのことも、覚えてないか?ユリーカの友達だったんだよ」
「デデーネ!」


布団の上で小さい両手を挙げるデデンネ
ユリーカの名前を呼ぶその姿は、なんとも愛らしいものだった。
そんなデデンネの姿に、ユリーカは柔らかな微笑みを向ける。
それは、記憶を失って初めて見せる笑顔であった。


「かわいい」


小さな体を両手で持ち上げ、長い尻尾をスリスリ触ってやれば、デデンネは気持ちよさそうに声を挙げていた。
デデンネは以前から尻尾を触られることを気に入っていたが、今のユリーカがその事実を知っているはずもない。
それでも瞬時に尻尾へと手が伸びるのは、彼女の本能なのかもしれない。
しかし、それでも記憶を失っていることには変わりない。
デデンネや自分たちに対して初対面のように振る舞うユリーカの姿は、兄のシトロンにとって辛い光景であった。
デデンネと戯れる妹から目をそらし、シトロンは逃げるように病室から出て行ってしまう。


「シトロン!?」


突然扉を開けて去って行ってしまったシトロンに驚き、声を挙げたのはセレナだった。
動揺し、シトロンの後を追おうと一歩踏み出した彼女だったが、やはりユリーカが心配なのか、躊躇したかのようにベッドの方へと振り返る。
ベッドのすぐ脇で膝を折っていたサトシは、何も言わずに首を縦に振った。
“心配するな。ここは任せてくれ”
サトシの目はそう言っている。
彼に頷き返すと、セレナは再び走り出し、シトロンを追うため病室から出て行った。


「……すみません。私、皆さんのこと、全然思い出せなくて……」


デデンネの頭を撫でながら、肩を落とすユリーカ。
その表情からは一抹の不安と疲労感が感じられる。
本来は仲間だとはいえ、今のユリーカにとってサトシたちは見ず知らずの人間でしかない。
そんな人達に長時間囲まれては、疲れてしまうのも無理はないだろう。
そんなユリーカの心情を察し、サトシは彼女の小さな頭を撫でてやる。


「大丈夫。いつか絶対思い出せるから。今はゆっくり休んでくれ。な?」


愛らしいピカチュウを肩に乗せながら、やわらかく微笑みかけるサトシ。
未だ幼いユリーカの瞳に映るその姿は、言葉では言い表せないほどの魅力を放っていた。
自分の頭を撫でるその大きな手からは、暖かいぬくもりが伝わってくる。
疲労で凝り固まっていた心が、まるでお湯をかけられたかのように溶けてゆくのが分かる。
一瞬にしてサトシから与えられた安心感は、ユリーカの表情を柔らかくしてくれた。


「はい。ありがとうございます、サトシさん」


頷くユリーカの頬が、僅かに赤くなっていたことに、鈍感なサトシは全く気付かない。
そんな彼女に追い打ちをかけるかの如く、サトシは太陽のような笑顔をユリーカに向けるのだった。

 

***

 

よく磨かれた病院の廊下は、無機質で冷たい印象を与える。
そんな廊下にポツンと置かれた長椅子に、シトロンは背中を丸めて座っていた。
俯き、短く切られた自分の爪をじっと見つめるシトロン。
そんな彼の頬に、冷たい何かが押し当てられた。
何事かと顔をあげれば、そこにいたのは炭酸飲料の缶を持ったセレナ。
心配そうに見下ろしてくる彼女は、どうやら自分を追いかけてきてくれたらしい。
彼女が差し出してきたその缶を黙って受け取ると、“プシュッ”という音を立てて中身を開ける。


「シトロン、大丈夫?」
「………正直、大丈夫ではないですね」


力なく笑うシトロンは、そのまま缶に口をつけ、中身をぐっと流し込む。
炭酸が口の中に広がり、舌がピリピリと痺れる。
深く深くため息をつくと、ようやく肩の力が抜けていくような気がした。
そんな彼のすぐ横に、セレナはそっと腰掛ける。
兄弟がいないセレナには、妹が記憶喪失になるという辛さを完全には理解できない。
だからこそ、隣で背中を丸めているシトロンに対し、どんな言葉をかけるべきか迷っていた。
静かな沈黙が、2人を包む。
そんな冷たい沈黙を破ったのは、シトロンの方だった。


「ユリーカは、元に戻るでしょうか……?」
「もちろんよ。絶対に戻るに決まってるわ」


セレナの即答は、少なからずシトロンの心を軽くしてくれる。
彼女の言葉に、医学的根拠など何もない。
けれど、そんな根拠のない言葉にも縋りたいほど、シトロンは絶望の淵にいた。
妹が隣ではしゃいでいる光景は、シトロンにとってただの日常でしかなかった。
しかし、今この瞬間、その日常が崩れようとしている。
この状況にあって、シトロンの頭を次々よぎるのは、ユリーカと過ごした数多くの思い出たちだった。

ユリーカが生まれた日の事はよく覚えている。
はじめてその姿を見たとき、あまりににも小さくて、可愛くて、心の奥底から喜びを感じた。
触れる頬は柔らかくて、見つめると嬉しそうに笑ってくれていた。
その笑顔を見て、兄としてこの子だけは守らなくては。
そう思った。
毎日が大騒ぎでとても幸せな日々。
はじめてお兄ちゃんと呼んでくれた時のことは、未だに覚えている。

それからのユリーカは、いつも自分の後についていく日々だった。
何処に行くのも一緒で、兄の姿が見えなくなるとわんわん泣き出してしまう。
ユリーカは成長するたびに、可愛くなっていく。
けれど、可愛いだけじゃなく、彼女は段々と強くなっている。
デデンネとの出会いやサトシやセレナ、ポケモン達……。
様々な出会いを通じ、シトロンの想像を越えた行動力を発揮している妹に驚かされる日々だ。

ユリーカが自分のことを忘れてしまっては、いったい誰がお嫁さん探しをしてくれるというのか。
いったい誰が自分の発明を最初に見てくれるというのか。
頭をよぎる思い出たちは、シトロンの胸を締め付ける。
炭酸飲料の缶を握り締めながら、シトロンはかすれ声で呟いた。


「僕を、お兄ちゃんと呼んでほしい…」


溢れ出る涙でメガネを濡らしながら、シトロンは肩を震わせる。
そんな彼の背を、セレナは黙って摩るのだった。

 

**********

 

「おやすみ、ユリーカ」


日が暮れ、病院内の照明が一部消え出した頃、サトシはそれまでずっと滞在していたユリーカの病室を後にした。
中のベッドで横になっている彼女に声をかければ、ユリーカは小さく手を振る。
サトシと話すことで、僅かながら以前の明るさを取り戻したらしい。
けれど、記憶はまだ戻らないまま。
仲間であるユリーカとの間に見えない壁を感じながら、サトシは病室の扉を閉めた。
自然と深いため息が出る。
そんなサトシに、後ろから声をかける少女がいた。


「サトシ」


振り返った先にいたのは、不安そうな表情を向けてくるセレナであった。
見知った彼女の姿に小さな安心感を覚えながら、サトシは僅かに微笑んだ。


「ユリーカの調子、どうだった?」
「あぁ。先生の話じゃ、そう簡単に記憶は戻らないものらしい」
「そう……」


一度失ってしまったデータを修復することは難しい。
それはコンピューターであっても、人間の記憶であっても同じことである。
しかし、コンピューターと人間は根本的に違う。
人の体というのは神秘的なもので、何かのきっかけでふと記憶が呼び覚まされることも少なくはないという。
そのきっかけがない限り、ユリーカが元の状態に戻ることは難しいだろう。
サトシはため息をつきながら、先程自ら閉めたばかりの扉に背を預け、寄りかかる。


「デデーネ……」


サトシの肩にちょこんと乗ったデデンネが、小さく声を漏らす。
ユリーカから普段は片時も離れず、寝るときも一緒にいるデデンネだったが、彼女の体を気遣い、今夜はサトシの肩に居場所を定めたようだ。
だが、どうしてもユリーカのことが気になるのか、自分の長い尻尾を握り締めながら俯いている。
そんなデデンネの姿を、サトシの反対側の肩に乗っていたピカチュウは哀しげな表情で見つめていた。


「セレナ」
「ん?」
「明日も早く出る予定だから、今日は早めに休んだ方がいい」
「え?早く出るって……ユリーカはどうするの?」


サトシの言葉に、セレナは面食らってしまう。
記憶を失ったユリーカは安静にしていなくてはいけないため、暫くはこの病院に滞在することになるだろうと思っていたからである。
けれど、サトシはこのまま旅を続けるつもりらしい。
ユリーカはこの病院に置いていくのだろうか。
そんな疑問を解決してくれる回答が、サトシの口からもたらされる。


「もちろん一緒に連れていく。先生にも許可は取ったし、シトロンも是非そうしてくれって」
「そう……」


サトシは一人、ユリーカにとって最良の選択は何かと考え、主治医に旅の提案をしていた。
もちろん、今の精神状態では危険だと反対されたが、ユリーカ本人のたっての希望もあり、“何かあったらすぐに連絡する”という条件付きで渋々許可が下りたのだ。
シトロンも、最初は“自分たちを残して旅を続けてくれと”と頭を下げて来たものの、サトシにとって、それは納得のできる解決策とは言えない。
仲間と苦楽を共にしていきたい。
何とかして解決策を見つけてやりたい。
そんな思いから、シトロンにこの提案をし、旅を続けようという結論に至ったのだ。

それはサトシらしい決断でもある。
しかし、セレナには不安があった。
精神的に不安定な状態で旅に連れ回したら、ユリーカに悪い影響が出てしまうのではないだろうか。
そんな心配から、セレナの表情には一点の曇りが差していた。
彼女の憂い顔に感づいたらしく、サトシはセレナの華奢な肩にそっと触れる。
好きな人が自分に触れてくれているこの状況は、いつもなら心臓を煩くさせる要因となるのだが、今日ばかりはそれどころではない。


「心配すんな。何かあっても、俺がなんとかするからさ」


仲間が記憶喪失になるという前代未聞な状況の中でも、セレナが憧れ続ける彼は明るかった。
たとえ気休めでも、サトシの言葉には希望が満ち溢れている。
優しげな笑みを浮かべる彼の表情に安堵を覚えながら、セレナは小さく頷くのだった。

 

***

 

どれほど大きな事件が降りかかろうとも、皮肉なほどに朝は平等に訪れる。
今日もまたいつも通りに日が昇り、サトシたちはいつも通り旅支度を整えていた。
しかし、唯一いつも通りとは言い難い事柄がある。
昨日以前のユリーカの記憶が全て消えているという点だ。
ユリーカ本人は、右も左もわからないこの状況に少なからず戸惑っているはず。
けれどその戸惑いを感じさせないほどに、彼女は気丈に振る舞っていた。
歩きにくい山道を、先頭のサトシと並んでニコニコと足を進めている。
その笑顔は可愛らしいものだが、以前のユリーカの笑顔とは明らかに違っていた。


「サトシさんはカロスリーグ出場を目指しているんですか?」
「あぁ、まなぁ」
「そうなんですか!お強いんですね!」


心底楽しそうにサトシを見上げるユリーカの姿に、後ろからついて歩いていたセレナは違和感を覚えていた。
自分のよく知るユリーカは、いつも楽しそうにはしていたものの、あのように頬を染めてサトシを見つめることなど一切なかった。
煌めいた瞳で彼を見つめるユリーカは、まるで恋する乙女のよう。
まさか、そんなはずはない。
なんの根拠もない嫌な憶測が、セレナの頭をよぎる。
ユリーカに限って、そんな感情をサトシに抱くなどありえない。
けれど、今彼の隣に並んでいるユリーカは、セレナがよく知るユリーカではない。
100パーセント違うとは言い切れないのだ。


「あのさユリーカ。その敬語と“さん”付け、やめないか?なんかむず痒くてさ」


複雑そうな表情を浮かべ、サトシは言う。
相変わらず鈍感な彼らしく、やはりユリーカから送られてくる熱視線には全く気付いていないようである。
元々自分たちの仲間であったユリーカは、明るく活発な女の子だった。
そんな彼女が、自分に対して他人行儀な接し方をしている事が嫌だったのだろう。
サトシはせめて元の様に名前を呼んでもらいたいと、そんな提案を持ちかけたのだ。


「え、でも……年上の方を呼び捨てにするのは……」
「そんなの気にすんなって!俺たち仲間だろ?」


歯を見せて爽やかに笑ってみせるサトシに見下ろされ、ユリーカは一層頬を赤く染める。
目を合わせていられなくなったのか、彼の視線から逃げる様に俯くその姿は、同性であるセレナから見ても非常に可憐なものだった。
そして、ユリーカは恥じらう様に小さな口を開く。


「じゃあ……サトシ」
「そうそう!その方がユリーカらしいぜ」


サトシに頭を撫でられ、赤面しながら嬉しそうに微笑むユリーカの姿に、セレナは確信してしまった。
自分がよく知っている、サトシとの仲をからかっていたユリーカはもういない。
真っさらな状態になった彼女は、サトシに想いを寄せてしまっているのだと。
その事実はセレナの肩に重くのしかかり、胸をぎゅっと締め付ける。
きっと、相手が赤の他人なら、素直に嫉妬する事ができただろう。
けれど、相手はあのユリーカ。
嫉妬することも難しいこの立場は、確実にセレナの胸を押しつぶしてゆく。
ユリーカが記憶喪失になること自体が予期せぬ出来事であった上、まさか彼女がサトシに好意を向けるとは予想していなかったのだ。


「ユリーカ……」


真っ白になった頭で、呆然と前を歩く二人を見つめるセレナの耳に、聞きなれた声が飛び込んできた。
シトロンである。
セレナの隣を歩いていた彼も、悲しげな顔でユリーカを見つめている。
そんな彼の顔を見つめていると、一気に現実へと引き戻されてしまう。
そうか、複雑な想いを抱いているのは、自分だけではないのだ。
兄妹の絆を断たれたシトロンも、胸が引き裂かれるほどの痛みを感じているに違いない。
なのに、なのに……。


*1


透明だった心の湖に、一滴の墨が落ちた様に、黒い感情がゆらゆらと広がっていく。
自己嫌悪に苛まれながら、セレナは前を歩く二人から視線を逸らすのだった。

 


**********

 


一日中歩いた一行は、日が暮れる頃にようやく街へとたどり着いた。
さほど大きくはない街だったが、きちんとポケモンセンターが建っており、4人はそこに宿泊することに。
各々のポケモンたちをジョーイに預け、割り当てられた宿泊部屋へと足を進める。
いつもなら4人一緒の部屋で泊まるのだが、今日はユリーカの提案で男女別の部屋に別れることとなった。
彼女が何故そんな事を提案するのか分からないまま、セレナはユリーカと一緒の部屋に入る。
扉を開けた先の部屋は綺麗に整っており、申し分のない広さであった。
柔らかなベッドに腰掛け、セレナは自分の荷物を整理しながら、対面のベッドに座るユリーカへと声をかける。


「ユリーカ、疲れてない?」
「え?あぁ……大丈夫ですよ。体力はある方みたいなので。皆さんも優しくしてくれますし」


膝の上に座っているデデンネを撫でながら、ユリーカはふわりと笑う。
昼間の間に、彼女はデデンネと早くも仲良くなったらしい。
記憶があった頃に育んだ絆を、本能的に感じているのか、2人の間にもはや壁は無かった。
けれども、ユリーカのらしくない口調は変わらない。
まるで他人行儀な態度をとるユリーカに、セレナは複雑な思いを抱いていた。


「そっか。何か困ったことがあったら、なんでも言ってね。力になるから」
「セレナさん、ありがとうございます。……それじゃあ、折角なんで聞いてもいいですか?」
「ん?」


ユリーカが何故男女別の部屋を希望してきたのか、その理由をセレナは何となくだが察していた。
きっと彼女は、同性である自分に何か相談したいことがあるに違いない、と。
そして、その予想を裏切ることなく、ユリーカは神妙な面持ちでセレナに問いかけてきた。


「シトロンさんのことなんですけど……。あの方が私の兄って、本当なんですか?」


彼女の口から飛び出たのは、他の誰でもないシトロンの名前だった。
彼女はいつもならシトロンのことを“お兄ちゃん”と呼んでいるため、その声で彼の名前を聞くことは新鮮である。
彼と同じ深く青い目で見つめられながら、セレナ言葉を返す。


「えぇそうよ。信じられない?」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、思い出せないのが申し訳なくて……」


俯くユリーカは、悲しげな瞳を揺らしていた。
彼女が記憶を失ってからというもの、シトロンは抜け殻のように元気を失ってしまっている。
そんな彼を見ているのは、セレナも辛い。
しかし、ユリーカもこの重たい状況を察しているらしい。
居心地が悪いのか、それともシトロンへの罪悪感に押しつぶされそうになっているのか、幼い彼女は心を痛めているようだった。


「そんなに焦らなくてもいいわ。ゆっくり思い出していきましょう。それに、ユリーカとシトロンには深い絆があるんだもの。きっといつか思い出せるわ」
「………はい、ありがとうございます、セレナさん」


ユリーカには、早く記憶を取り戻して欲しい。
そんな思いはあったものの、焦らせることは彼女のためにはならない。
優しい声色で包んでくれるセレナに、ユリーカは嬉しさを感じながらそっと頷いた。
彼女の膝元では、いつの間にやらデデンネがすやすやと規則正しい寝息を立てている。
そういえば、そろそろ瞼が重くなってきた。
ふと壁に掛けられている時計に目をやると、すでに23時を回っていた。
明日のためにも、今日は早く寝なくては。
“そろそろ寝ようか”声をかけ、ベッドから立ち上がり、セレナは部屋の電気を消す。

枕元にあるオレンジ色のわずかな光だけが辺りを照らす中、セレナはゆっくりと布団に入る。
しかし、ユリーカは電気を消されてもなお、一向に布団に入ろうとはしない。
一体どうしたのだろうか?
声をかけようと口を開いたその時、ユリーカは何かを決心したかのように真剣な表情を向けて、セレナの名前を呼んだ。


「セレナさん」
「なに?」
「セレナさんは、その……サトシさんのことが、好きなんですか?」

「えぇっ!?」


暗い部屋に、セレナの驚いた声が響く。
夜遅くにもかかわらず、あまりにも大きな声を出してしまったことに自分で驚き、セレナは慌てて口を押さえる。
しかし、動揺からくる焦りは抑えることがでいない。
何故そんなことを聞いてくるのか。
昨日の光景を思い出し、その理由はすぐに察することができた。
ユリーカもまた、サトシに好意を抱いているからだ。


「ど、どうしてそう思ったの?」
「だってセレナさん、昼間は頻繁にサトシさんの事を見てたから……」
「そう、かな……?」
「まぁ、女の勘って奴ですね」


大真面目にそんな事を言ってくるユリーカは、根底ではあまり変わっていないらしい。
記憶がなくてもマセている所は一緒なのかとセレナは苦笑いをこぼした。
けれど、これはセレナにとって子供の戯言だと笑って流せるような話題ではなかった。
真実は隠しきれない。
布団から顔をを半分だけ出してユリーカを見つめると、彼女は真剣な表情でこちらを見つめていた。
逃げられそうもない。
小さく深呼吸をして、セレナは口を開いた。


「すきだよ」


自分の気持ちは自覚しているつもりだった。けれど、こうしてきちんと口にすることは初めてである。
たった2文字しかないのに、その言葉は口にするだけ心臓が破裂しそうなくらいに重みがある。
サトシの顔を思い浮かべるだけで体温が上がるような気がする。
部屋が暗いからそこユリーカには気付かれないが、今のセレナは頬を真っ赤に染めていた。


「告白とかしないんですか?」


ユリーカの質問は、何度となくセレナを困らせてしまう。
もちろん、告白するという選択肢は常に彼女の頭にあった。
しかしながら、その選択肢をセレクトする機会は一向に訪れる気配がない。
というのも、セレナ自身が、その選択肢を選ぶことは得策ではないと考えているからだ。
想いを伝えたところで、鈍感な彼は満面の笑みで的外れな回答をしてくるに違いない。
そんな諦めからくる理由もあったが、なにより彼女が告白に踏み出せないのは、サトシの夢のためでもあった。


「したい気持ちもあるけど、今はやめておく」
「どうしてです?」
「サトシの夢を、邪魔したくないから」


彼には大きな夢がある。
故郷を旅だった頃から抱いていたというその夢は、サトシにとってなによりも優先すべき事柄なのだ。
夢に向かうための道のりは、決して平坦なものではない。
だからこそ、障害になりたくないのだ。
どうせ彼に関わるのなら、立ちはだかる障害ではなく、背を支える存在になりたい。
そのためには、彼へ抱くこの大きな想いは胸にしまっておかなくてはならない。
たとえ、彼が自分のことを見てくれなくても、力になれるのならばそれでいい。


「本当にそれでいいんですか?」
「うん。サトシの近くにいられれば、それで……」
「ふーん」


セレナの回答に、何故だかユリーカは不満そうだ。
なにやら腑に落ちないような、そんな表情で自分の手元を見つめている。
確かに色恋沙汰を面白がって聞いているのなら、つまらない回答だったかもしれない。
嘘でも“告白したい”と言うべきだっただろうか。
そんなことを考えていたセレナだったが、その考えも、ユリーカの口から飛び出てくる言葉に打ち消されることとなる。


「セレナさん、本当にサトシさんのことが好きなんですね。手強い恋のライバルですね」
「え?それって……」
「おやすみなさい!」


何かを言いかけるセレナの言葉を遮るようにして、ユリーカは布団に潜る。
分厚い掛け布団から細い腕が伸び、枕元のわずかな明かりを“パチン”と消されてしまう。
部屋が真っ暗になり、もはや会話を続ける雰囲気ではなくなった。
ユリーカの言葉は、昼間に予感したセレナの予想を裏付けることとなる。
やはり、ユリーカは記憶を失うとともにサトシへと恋をしてしまったのだ。
彼女の口からもたらされた真実は、セレナは確実に動揺させる。
どうしよう。
これからどんな顔をしてサトシやユリーカと接すればいいのだろう。
今後の身の振り方が掴めぬまま、セレナは朝を迎えるのだった。


**********


悩みのタネを抱えながら、セレナは朝を迎えた。
青い空に昇る日は憎々しいほどに美しく、晴れ晴れとした晴天はセレナの胸中とは正反対に晴れ渡っている。

宿泊したポケモンセンターを出た一行は、森の中を進んでいた。
木々の合間から顔を出す小さなポケモンたちに反応しながら歩く4人。
いつもなら楽しげな光景だが、今のセレナに、この状況を楽しめるだけの余裕はない。
何故なら、並んで前を歩くサトシとユリーカの姿が視界に映ってしまうから。

以前から、2人が仲良く話している光景はよく見られた。
けれど、昨晩のあの出来事があった以上、セレナは2人に対して、いつも通りの態度は取れそうにない。
どれだけ足掻いても黒い嫉妬の念は湧き上がる。
仲間にそんな感情を抱いている自分が嫌になる。
そんなモヤモヤした心境の中、前方の2人から、“お腹すいた”という言葉が飛び出してきた。

朝食を食べてから数十分しか経っていないというのに、2人はもうエネルギー切れになってしまったらしい。
そんな彼らの言葉を聞いて、セレナはリュックに仕舞っていたポフレの存在を思い出す。
昨晩、すぐに寝付くことができなかったセレナは、1人ポケモンセンターのキッチンでポフレを焼いていた。
誰かに食べてもらう予定のないこのポフレを取り出し、“良かったら…”と差し出すと、2人は喜んでムシャムシャと食べ始める。
そんな光景に苦笑いを浮かべながら、セレナは余った最後のポフレを取り出し、隣を歩いていたシトロンに差し出す。


「はい、シトロンもどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」


噛り付いたポフレはふわふわと柔らかく、口の中にはまろやかな甘みが広がってゆく。
食べ慣れたセレナのポフレの風味に、シトロンは安心感を覚えていた。
隣を歩くメガネの彼の表情は、昨日に比べて少しだけ晴れているように見える。
何かあったのだろうかと、セレナはポフレを入れていた籠ポーチを仕舞ながら首をかしげた。


「シトロン、少し元気になったみたいね」
「えぇ、まぁ……。昨日の夜、サトシに怒られちゃいましたから。お前がそんな暗い顔してたら、ユリーカも不安になるだろって」


シトロンの口からもたらされたその言葉は、実にサトシらしいものだった。
昨晩、男女別れた部屋でそんな会話をしていたのか。
驚きはしたが、サトシがシトロンにそんな説教をしている光景が容易に浮かび、セレナはクスっと笑みをこぼしてしまう。
こんな状況でも冷静さを失わないなんて、彼らしい。
セレナがずっと憧れ続けたサトシという少年は、いつも明るくポジティブで、周りを引っ張ってくれるような、そんな太陽のような存在だった。
仲間たちが沈んでいるこの状況でも、明るさを失わないサトシは、セレナたちにとって希望とも言える存在なのだ。


「サトシの言う通りでした。僕が落ち込んでいても何も始まらない。いつも通り、兄としてユリーカを守る。それが、今の僕にできることなんです。そしていつか、僕たちのことを思い出してくれれば…」
「そうね。きっと大丈夫よ。ユリーカなら、きっと思い出してくれる。そう信じて、今は待ちましょう」


セレナの言葉に、シトロンは力強く頷いた。
レンズ越しに見えるその瞳は、前よりも強い煌めきを放っている。
そんな彼を見ていると、自然とセレナの心にも明るさが広がってゆく。
仲間の記憶が失われてしまうという一大事が起きてしまったが、だからと言っていつまでも下を向いているわけにはいかない。
考えるよりも、まずは動く。
サトシが常々口にしていた心情を、シトロンとセレナは心で唱えていた。


*2


ようやく明るさを取り戻しつつあるセレナは、前を歩くサトシとユリーカを見つめる。
サトシの言葉や行動に、今まで何度助けられてきた事だろう。
そして今日も、彼の明るさに助けられている。

やっぱり、サトシがすきだ。

その背に熱視線を浴びせられていることに全く気付かぬまま、サトシは隣のユリーカと談笑をしていた。
しかし、対するユリーカは記憶が失われていても鋭いことには変わらない。
サトシへとまっすぐ注がれている視線に気付き、少しだけ背後のセレナへと顔を向ける。
すると、やはり彼女は暖かな眼差しでサトシを見つめている。
その瞳があまりにも優しげで、ユリーカは彼女の想いの強さを改めて感じてしまった。


「どうだ?ユリーカ。ポフレ美味いだろ?」
「え!?あ、はい。そうですね。とても美味しいです」


昨晩、なかなか寝付けなかったセレナが静かに部屋を出て行ったことを、ユリーカは知っていた。
夜な夜なこのポフレを作っていたことを察し、複雑な気持ちになってしまう。
甘く、どこまでも美味なこのポフレは、セレナの女の子としてのレベルの高さを表している。
彼女と同じ人物を想っている身としては、心の底から誉め讃えることなど出来そうもなかった。
それでも隣を歩くサトシの口からは、残酷なまでにセレナの名前が湯水のように溢れている。
その事実は、ユリーカの小さな胸をきゅっと締め付けた。


「セレナはお菓子づくりが上手くてさ、いつも美味いもん食わせてもらってるんだ」
「そうなんですね…」
「あと裁縫とかも得意なんだぜ?ユリーカのそのポシェットもセレナが縫ったんだ」


視線を下に下ろせば、そのには自分の肩からぶら下げられている黄色いポシェットが。
全く覚えのないこの小物も、セレナが縫い合わせてくれたものらしい。
素人目から見ても良く出来ているそのポシェットと見つめていると、心の奥から黒いものが這い上がってくるような気がした。


「セレナさんって、何でも出来るんですね」
「あぁ。セレナがいてくれて良かったと思うことは何度もあるよ」


サトシの言葉は、まるで矢のようにユリーカの心を貫く。
今、後ろでシトロンと談笑しているセレナが羨ましい。
これほどまでに、1人の人に必要とされているなんて。
自分の名前すらも忘れてしまったユリーカにとって、誰かから必要とされることは願っても叶わない事実。
自分はセレナのように、誰かにとって必要な存在なのだろうか。
誰かにとって、大切な存在なのだろうか。
わからない。
無性な孤独感に陥ったユリーカは、まるですがるように、サトシの腕を掴んで立ち止まった。


「ユリーカ……?」


いきなり腕を掴まれたサトシは驚き、ユリーカの方へと視線を向ける。
そこには、何故だか泣きそうな顔でこちらを見上げている彼女がいた。
いつも明るいユリーカが、こんな顔をするなんて。
心配そうに彼女の名前を呼ぶサトシの顔を見つめ、ユリーカは口を開いた。


「サトシさんは、セレナさんのことが好きなんですか?」

 

何かを決心したかのような表情で聞いてくるユリーカの言葉に、サトシは面食らってしまう。
自分の腕を掴む彼女の手は力強く、逃すまいとまるで捕まえられているかのようだ。
イキナリ何故そんなことを聞いてくるのか分からないまま、サトシは肩の上のピカチュウと顔を見合わせる。


「そりゃあ好きだよ。だってセレナは仲間だし……」
「違います!そういう“好き”じゃありません!」


詰め寄ってくるユリーカの言葉に隠された真意が読み取れず、サトシはただただ戸惑う。
セレナが好きなのかと聞かれれば、迷うことなく首を縦に振るだろう。
セレナだけではない。
シトロンもユリーカもピカチュウも、手持ちのポケモンたち1人残らず全員好きなのだ。
けれど、ユリーカはその回答を望んでいたわけではないらしい。
彼女の問い詰めるような視線が、自分でも気づいていない心の奥の本心を見透かされているようで、痛かった。


「セレナさんをお嫁さんにしたいと思いますか?」
「お、お嫁さん!? セレナをか!?」
「はい」


ユリーカから視線を外し、後ろへと目を向ければ、そこにはシトロンと談笑しているセレナの姿が。
何故だろう。
今までセレナを視界に入れたことなど何度もあったはずなのに、今日ばかりは落ち着かない。
“セレナをお嫁さんに”というユリーカの言葉が、頭の中をぐるぐると回っている。
“お嫁さん”の意味がわからないほど、サトシは幼くはない。
けれど、彼女をそんな目で見たことなど今まで一度たりともなかった。
ユリーカの口から放たれた一言は、サトシを激しく動揺させる。


「ユリーカ、俺は……」
「ピカピ!」


サトシがそっと口を開こうとしたその時だった。
肩に乗っていた黄色い相棒が、大声で主人の名前を叫ぶ。
その声に驚き、ビクリと肩を震わせながら振り向くと、目の前には七色に光る激しい光の光線が。
その光線の正体を、サトシは一瞬で“サイケこうせん”だと判断することができた。
不規則な軌道を描きながらこちらへと向かってくるその光線は、サトシとユリーカの足元へとぶつかる。
その反動で、2人の体は大きく後方へと吹き飛ばされてしまった。


「うわぁっ!」
「きゃあぁ!」
「サトシ!」
「ユリーカ!」


吹き飛ばされ、地面に体を叩きつけられるサトシとユリーカ。
シトロンとユリーカは、そんな2人に急いで駆け寄る。
大きく飛ばされた衝撃は、小さな子供の体には強いダメージとなったのだろう。
サトシは何とか顔をしかめながら起き上がる事が出来たが、ユリーカは目を閉じたまま一向に起き上がる気配がない。
そんな妹の様子に、彼女を抱きかかえたシトロンは焦りの表情を浮かべる。


「ユリーカ!しっかりしてくださいユリーカ!」


小さな体を揺さぶり、名前を繰り返し呼ぶシトロンだが、ユリーカは気絶したまま目を覚まさない。
主人の危機に、デデンネも急ぎ駆け寄るが、やはりユリーカからの反応は見られない。
一体何が起こっているのか、サトシ達には分からなかった。
混乱しながらも、歯を食いしばり周囲を見渡すサトシ。


「一体何なんだ!?」


怒気を帯びた声色で、サトシは叫ぶ。
あの“サイケこうせん”は自然現象などではなく、明らかに他者から故意に発せられたものである。
仲間に危害を与えられたことは、サトシの逆鱗に触れた。
砂埃舞う中、彼の言葉に応えるような高笑いが響く。
その笑い声は、サトシ達にとって聴き覚えのあるものだった。
現れたのは、ニャース型の気球に乗った2人の男女。
Rの文字が描かれた衣装を着た彼らは、不敵な笑みを浮かべながら気球を砂利道に着陸させる。


ロケット団!」
「またあなた達なの!?」


旅の道中、何度も行く手を塞いできた彼らの登場に、サトシとセレナは怒りをあらわにする。
ユリーカが記憶を失っているこの状況で、厄介な奴らに会ってしまった。
怒りの表情を浮かべる中で、サトシは内心焦りを感じていた。
記憶を失っているユリーカに、余計な精神的負担をかけたくはない。
しかも、今ユリーカはロケット団の攻撃を受けて気絶してしまっている。
その事実が、サトシの焦りを加速させていくのだ。


「ジャリボーイ、今日こそはピカチュウをいただくわよ」
「そうはいくか!ピカチュウ、いくぞ!」


尻餅をついたいた体を起こし、立ち上がったサトシは仲間を守るように前へ出た。
そんな主人の言葉を受け、ピカチュウも赤い頬からピリピリと放電しながら臨戦態勢を取っている。
この状況に余裕はない。
早く片付けなくては。
首筋に一筋の汗を流しながら、サトシはピカチュウに指示を出した。
繰り出された10まんボルトは、黄色い光を放ちながらまっすぐにロケット団へと向かっていく。
しかしながら、その必殺技はムサシの指示を受けたソーナンスによって阻まれてしまった。


ソーナンス!頼んだわよ!」


意気揚々と前へ飛び出してきたソーナンスミラーコートを発動し、10まんボルトをいとも容易く跳ね返してしまう。
反射された電撃は、ピカチュウの小さな体にぶつかり吹き飛ばされてしまった。


ピカチュウ!大丈夫か!?」
「無駄よ無駄!ソーナンスの力で跳ね返してあげるわ」


自信満々な笑みを浮かべているムサシに、サトシは悔しさを滲ませる。
ロケット団とは長い付き合いであるがゆえに、あのソーナンスの強さはよく知っている。
強力なミラーコートを持っているあのポケモンに道を阻まれれば、攻略は難しい。
後ろにいるユリーカらを守ろうとする心からくる焦りが、サトシを苛立たせていた。

 

「ユリーカ!お願いだから目を覚まして!」


シトロンの腕に抱かれたユリーカは、未だ目覚めることはない。
そんな彼女の名前を呼び続けるセレナだったが、その声がユリーカの瞼を動かすことはなかった。
目を覚ますことのない妹の姿に、シトロンは絶望的な表情を浮かべている。
あの時のがけ崩れの時といい、また守れなかった。
サトシたちの旅に出る前、ユリーカだけは自分が守らなくてはと心に誓ったはずなのに。
記憶を失い、その上怪我までさせてしまった。
その事実は、シトロンに自責の念と怒りを抱かせる。
ユリーカの体を抱く手に、自然と力が入っていた。


「ユリーカ、ごめんね。不甲斐ないお兄ちゃんで」
「シトロン……?」


小さくそう呟いたシトロンの表情は、レンズが反射したメガネのおかげでよく見えない。
しかし、彼が怒りに震えていることは、その声色から容易に想像できた。
抱きかかえていたユリーカの身体を、優しくセレナに預けるシトロン。
何も言葉を発さず、怒気を放つシトロンに、セレナは声をかけることが出来なかった。
ゆっくり立ち上がったシトロンは、目の前のロケット団を強い眼差しで睨みながら駆け出す。
そしてサトシの横に並ぶと、腰元から1つのモンスターボールを取り出した。


「サトシ、僕も戦います」
「シトロン?」
「妹を傷つけられて、黙っていられません!」


前をしっかり見据えた彼の表情は、昨晩の不安に満ちたものとは打って変わっていた。
シトロンのそんな表情を横から垣間見たサトシは、口元に笑みを浮かべ、小さく頷く。


レントラー!お願いします!」


シトロンの手から投げられたボールからは、激しい光とともに雄々しいレントラーが飛び出してきた。
主人の怒りを代弁するかのように、レントラーは唸りながらロケット団を威嚇する。
凄まじい気迫のレントラーに一瞬ひるむムサシらだったが、すぐに先ほどの余裕を取り戻し、鼻で笑ってみせた。
何匹増えようとも、ソーナンスがいる限り技が届くことはない。
また跳ね返してやる。
そんな慢心が、3人のロケット団を取り巻いていた。
しかし、そんなことはシトロンも分かりきっている。
思慮深い彼が、何も考えずに前へ飛び出したわけではなかった。


レントラーエレキフィールドです!」


シトロンの指示とともに、レントラーは大きく咆哮する。
腹の底に響くようなその咆哮に誘われ、辺り一面がぼんやりとした電磁空間に包まれる。
この強力なエレキフィールドは、以前サトシも身をもって体感している。
電気タイプの技を強力にするこの技は、いわばシトロンのフィールドを作り出す必殺技とも言えるだろう。
バチバチと小さな電流が轟くエレキフィールドに立つシトロンの姿は、電気タイプの使い手として申し分ない威厳を放っていた。


「んっ……」
「ユリーカ!?」


そんなシトロンのすぐ背後で、彼の妹はそっと目を覚ます。
自分の腕の中で小さく身体を動かした彼女に驚き、セレナはその名を呼んでみるが、ユリーカは焦点の合わない目でシトロンらのいる方向を見やる。
ぼんやりとぼやける視界に映るのは、独特な空気感を醸し出すエレキフィールドと、その真ん中に立つ青年の後ろ姿。
レントラーを従えたあの金髪の青年を、ユリーカは知っていた。
頼りなくて、体力がなくて、それでいてちょっと情けない。
けれど、優しくて、強くて、そしてかっこいい。
たった1人の兄、シトロンである。


「お兄、ちゃん………」


絞り出すような声で呟かれたその言葉は、セレナをひどく驚かせる。
だが、当のシトロンは妹のそんな状況など露知らず、真剣な表情でバトルに臨んでいた。
サトシとシトロンは顔を見合わせ、何も言わずに頷きあう。
エレキフィールドが展開されたこの場での戦い方は、たった1つしかない。
ピカチュウを繰り出しているサトシには、これからシトロンが行おうとしている戦い方をすぐに察する事が出来た。


「行きますよ!レントラーワイルドボルト!」
ピカチュウ10まんボルトレントラーに電気を分けてやるんだ!」


激しい電気を見に纏い、まるで戦車のように走り出すレントラー
そんなレントラーに向かい、ピカチュウは迷わず10まんボルトを発する。
真っ直ぐに降り注がれる黄色い電流は、レントラーの力を増幅させ、より一層強力なワイルドボルトへと変化させる。


ソーナンス!頼んだわよ!」


ムサシの指示を受け、ソーナンスは身構える。
真っ直ぐにこちらへ走ってくるレントラーの技を、再び跳ね返す魂胆らしい。
正面突破を狙うレントラーは、エレキフィールドピカチュウの電撃の力を借りながら直進する。
しかし、ソーナンスのカウンターは非常に強力であり、簡単に突破できるものではない。
いくら電気技が強化されているとはいえ、あの強靭な壁を突破できるのだろうか。
そんな一抹の不安を抱いたシトロンだったが、隣に駆け寄ってきた1人の少女の存在が、その不安を一瞬にしてかき消してしまった。


デデンネレントラーにでんきショック!」


突如として現れたその少女は、その幼さからは想像できないほど勇ましく指示を飛ばす。
そしてその指示を耳にした相棒のデデンネは、小さな体から強力な電撃を繰り出し、レントラーへとぶつける。
まるで一人前のトレーナーのようにポケモンへと指示をするその姿には見覚えがあった。
困ってしまうほどに天真爛漫で、好奇心旺盛な妹、ユリーカである。
彼女が指示をした電撃はレントラーに力を与え、更に強く、そして速くソーナンスへと走る。
カウンターを繰り出すソーナンスだったが、強い力でぶつかってくるレントラーの身体を受け止める事が出来ず、あっけなく後方へ吹き飛ばされてしまった。
もはや力を得たレントラーは止まらない。
そのままの勢いでムサシ、コジロウ、ニャースへと突進していく。
壮絶な力で向かってきたレントラーに太刀打ちすることなど出来るわけもなく、3人はいつも通りあの掛け声とともに空へと打ち上げられるのだった。


「やな感じ〜!!!!」


ロケット団が去っていったとほぼ同時に、エレキフィールドの効果が切れ、何の変哲も無い森林の光景へと戻っていく。
彼らがいなくなった森はひどく静かであり、なんとも平和なものであった。
しかし、その静けさとは対照的に、シトロンの心はざわざわと騒がしい。
何故なら、先ほどまで記憶を失っていた妹が、以前のように勇ましい振る舞いをしているからだ。
隣に立つユリーカは、バトルを終え駆け寄ってきたデデンネを抱き留め、“よく頑張ったね”とその頭を撫でている。
そんな彼女の姿に、シトロンは驚きの表情を浮かべていた。
今のユリーカの立ち居振る舞いは、シトロンがよく知る彼女そのものだったから。
まるで、記憶が戻ったかのようだった。
いや、彼女の記憶は……。


「ユリーカ」


大切な妹の名前を、そっと呼んでみる。
すると彼女は、デデンネを抱いたまま、いつも通り太陽のような笑顔を向け、こう言った。


「お兄ちゃん」


その言葉こそ、シトロンが待ち望んでいた答えであった。
いつも何気無く呼ばれていたその言葉を、こんなにも渇望したことはない。
目頭にこみ上げる熱いものをこらえる事が出来ず、シトロンの頬に雫が落ちる。
何もかも取り戻した妹の身体を抱きしめずにはいられなかった。
“痛いよ”と小さく文句を垂れるユリーカだったが、その表情は満更でもない。
力強く抱きしめ合う兄妹の姿を、サトシとセレナは優しい眼差しで見つめていたのだった。

 

***

 

「はい、これでオッケー」
「ありがとう、セレナ」


ロケット団からの襲撃を撃退した後、一行は休める場所を探して移動を開始した。
足に怪我を負ったユリーカを手当てするため、シトロンが彼女を背負いながら歩く。
普段は体力のないシトロンだが、妹のためとなると本領を発揮するらしい。
息を切らしながら歩いた先には、見晴らしのいい花畑が広がっていた。
ここなら凶暴そうなポケモンもいないようだし、休憩にはもってこいだろう。
腰掛けるにはちょうどいい岩を発見し、その上にユリーカを下ろすと、早速セレナが持ち合わせていた救急箱で手当てを開始した。
あれだけ派手に吹き飛ばされていたというのに、足の擦り傷だけで済んだ幸運に感心しながら、そっと絆創膏を貼ってやる。
手当てはすぐに終わり、それを告げると、ユリーカはケロっとした表情ですぐに立ち上がった。


「ユリーカ、本当に全部思い出したのか?」
「私たちのことも、ちゃんと分かる?」


小さなユリーカに目線を合わせるように膝を折るサトシとセレナ。
問いかけてくる2人の表情は不安げなものだった。
シトロンの事だけ思い出して、自分たちの事は忘れたままという可能性もある。
そんな不安要素を潰すため、2人は恐る恐る確認に至ったのだ。


「もちろん分かるよ!サトシとセレナ。ユリーカの大切な仲間!」


何の迷いもなくそう言い切ったユリーカの言葉は、サトシとセレナに大きな安心感を与えてくれる。
力んでいた体から一気に空気が抜けるように、2人は深い安堵のため息をついた。
2人がよく知るユリーカは、数分前のことが嘘のように晴れやかに笑っている。
何ともないこの小さな事実が、これほどまでに大きな幸せに感じる事は今までなかった。


「ユリーカ。2人にも色々心配をかけたんだ。ちゃんと謝るんだよ」
「うん……。サトシ、セレナ。心配かけてごめんね」


シトロンに促され、申し訳なさそうに謝るユリーカ。
心配した事は事実だが、彼女に謝られる理由は何1つない。
2人は顔を見合わせてふふっと微笑むと、その優しげな笑みをユリーカへと向ける。


「気にすんなよ」
「そうそう。記憶が戻ったのなら、それでいいわ」


笑って許容してくれる2人の仲間は、どこまでも優しかった。
サトシの肩に乗っていたピカチュウが、不意にユリーカの胸へと飛び込んでくる。
彼もまた、ユリーカのことを心配していたのだろう。
その赤い頬をユリーカへとすり寄せ、甘えている。
そんなピカチュウをぎゅっと抱きしめながらはしゃぐユリーカは、いつもの天真爛漫さを取り戻していた。


「セレナ」


そんな光景をニコニコと眺めていたセレナの足元に、ピカチュウを抱えたままのユリーカが駆け寄ってきた。
自分より背の高いセレナをしゃがませるため、彼女の白い手を掴むユリーカ。
どうしたのだろうと不思議そうな表情を浮かべながら腰を折るセレナの耳に、ユリーカはそっと口元を寄せ、小声で話し出した。

 

「サトシのこともごめんね。今は全然何とも思ってないから」
「えっ!?」
「たぶん、何もかも分からない事が不安で、誰かに甘えたかったんだと思う」


何も事情を知らないピカチュウが、ユリーカの腕の中で首を傾げている。
耳元でヒソヒソと話していたため、周囲で見ているサトシやシトロンには話の内容が全く分からず、2人とも同じように首を傾げているが、セレナは違う。
昨晩、記憶を失った状態のユリーカから衝撃的な告白を受け、ずっと混乱していた。
自分の想い人を好きだと言ったユリーカの言葉は、セレナの心に異物としてずっと引っかかっている。
その異物が、ユリーカの言葉によって、少しずつ取り除かれようとしていた。

記憶を失い、仲間のことはおろか自分の名前すら分からなくなってしまったユリーカは、きっとセレナが想像を絶するほどの不安感に襲われたに違いない。
真っ暗な不安の中、記憶という一筋の光を求めて彷徨い歩くことが、どれほど恐ろしいことか。
そんな状況で必死にもがいた挙句、ようやく触れられたものは、優しく伸ばされたサトシの手だったのだろう。
不安しか感じていなかったユリーカにとって、その手は大きな温もりと安心感を与えてくれるものだった。
それを恋だと勘違いし、甘えようとしていたと、ユリーカは語る。
しかし、失っていた記憶を取り戻すことができた今、彼女はサトシの手に甘えずとも1人で立つことができる。
それに、サトシに頼らずとも、ずっと手を差し伸べてくれていた存在がもっと近くにいると、ようやく気付けたのだ。
もう、サトシに甘える必要などない。


「でもね、もう大丈だよ。本当に甘えるべき人が誰か、ようやく分かったから」
「ユリーカ……」


再びニカッと満面の笑みを浮かべるユリーカ。
そして彼女は、ピカチュウを腕に抱いたまま、兄のシトロンの方へと駆け出す。
その足取りには、何の迷いもない。


「ねぇお兄ちゃん、ポケモン探しに行こう!」
「え!?ちょ、ユリーカ?」
「ほら早く!」


右手にピカチュウを抱き、左手でシトロンの袖口をぎゅっと掴んで引っ張るユリーカ。
その強引さは相変わらずで、シトロンは困ったように笑う。
いつもはこの強引さに振り回されていた彼だが、今はこの感覚が心地いい。
半ば引きずられるように遠くに去っていく2人の兄妹の後ろ姿を、サトシとセレナはただただ見つめていた。


「ユリーカ、元に戻って良かったよな」
「えぇ、そうね」


暖かい風が、2人の間に吹き込んでくる。
その風に乗って花びらが舞い上がり、甘い香りを放っていた。
遠くの方でフラベベを発見し、はしゃいでいるシトロンとユリーカの姿を眺め、セレナは目を細める。
あの2人の絆は硬く、そして強い。
例え一方がもう一方の存在を忘れたとしても、決して離れることなくすぐそばにいた。
不安と、迷いと、そして戸惑いを抱きながらも寄り添い合う2人の姿に、セレナはいつの間にか強い憧れを抱いていた。

もし、自分がユリーカと同じ状況に陥ったとして、シトロンのように悲しんでくれる人はいるのだろうか。
不安がってくれる人はいるのだろうか。
支えてくれる人はいるのだろうか。
甘えさせてくれる人はいるのだろうか。
ふと、すぐ隣にいるサトシの方へと視線を向ければ、ほとんど同時に彼もセレナの方へと視線を向けてきた。
交わる目と目。
普段なら恥ずかしさですぐに目を逸らしてしまうセレナであったが、その時ばかりはじっとサトシを見つめて離さなかった。


「ねぇ、サトシ」
「ん?」
「もしも私が記憶喪失になったとしたら、それでもそばにいてくれる……?」


不安そうな瞳でそう問いかけてくるセレナに、サトシは一瞬面食らってしまった。
何故、そんなことを言うのだろう。
そんな質問をされては、彼女が自分を忘れてしまう光景を嫌でも想像してしまう。
自分の顔を真っ直ぐ見つめ、“貴方は誰?”と首をかしげるセレナの姿は儚くて、悲しくて、それでいて恐ろしい。
まるで液晶画面にヒビが入ったかのように、サトシの想像はその時点で崩れ落ちてしまう。
それ以上は想像したくない。考えたくない。あって欲しくない。
そんな思いから、彼女に投げ返す答えはたった1つしかなかった。


「当たり前だろ?だってセレナは俺の……」


そこまで言って、何故だか言葉に詰まってしまう。
彼女との関係性を、どんな言葉で言い表して良いのか分からなかったからだ。
“友達”と言うにはやけに薄い気がするし、“仲間”と表現するのも、何故か違和感がある。
彼女のことが大切であることも、かけがえのない存在であることも全部わかっている。
けれど、それをたった一言で表現する言葉が、未だ幼いサトシには見つからなかった。
自分にとって、彼女は一体どんな存在なのだろう?
考えを巡らせた結果、つい先ほど問いかけられたユリーカの言葉が浮かんでくる。


“セレナさんをお嫁さんにしたいと思いますか?”


甘い香りに誘われて脳裏に浮かんできた想像は、サトシの胸中を騒がしくさせる。
ああ、何故このタイミングであの質問を思い出してしまうのだろう。
セレナのことを変に意識してしまうではないか。
あの質問の意味がわからなかったわけではない。
けれど、その意味を深く考えて想像すればするほど、おかしくなる。
心臓がドクドクと騒ぎ、落ち着かなくなってしまう。
こんな感覚は、初めてだった。

“将来サトシのお嫁さんになってくれる人はいるの?”

まるでトドメを刺すかのように、いつだったか問いかけられた言葉を思い出してしまう。
“お嫁さん”
今、この状況でそのワードをサトシの脳内検索エンジンにかけてみれば、出てくる名前はたった1つしかない。
それは……


「セレナーーっ!!」


彼女の名前が呼ばれ、驚いて声がした方へと視線を向ける。
そこには、遠くの方でいつの間にか多くのポケモンたちに囲まれたシトロンとユリーカの姿があった。
どうやらセレナを呼んだのはユリーカだったらしい。
大きくこちらに手を振り、笑顔を見せていた。


「2人とも早くおいでよーっ!!」


大きく振っていた手を、今度は手招きに変えてアピールするユリーカ。
2人の空気感に乱入してきた彼女の声は、サトシにとってある意味救いでもあった。
あのままの空気では、きっとセレナを困らせるような事を言ってしまっていた。
居心地のいい彼女とのこの関係性、この距離感を、不意の一言で壊したくはない。
きっと、彼女にあの言葉をかけるのは、まだ早いのだ。
喉元まで出かかっていた甘い言葉をぐっと飲み込み、サトシはセレナの細い手を掴む。


「2人が呼んでる。行こうぜ、セレナ!」
「え!?ちょっと待って!さっき何を言いかけたの?」
「内緒!」


抗議の声を無視し、サトシは彼女の手を掴んだまま走り出す。
花の甘い香りに包まれながら、心が踊るような気がしていた。
飲み込んだ言葉を吐き出せる日がいつ来るのかは、サトシにも分からない。
けれど、きっと今日よりももっと綺麗な景色の中で言ってやる。
そんなことを胸に誓い、サトシはセレナの手を引き走る。
この大きな誓いは、例えサトシの記憶が失われたとしても、消えることはないだろう。
セレナがサトシの言葉を聞ける未来は、きっと遠くない。


END

 

 

 

*1:私、自分のことばっかりだ……

*2:また、救われちゃったな…