Mizudori’s home

二次創作まとめ

犬の嫁取り

【殺りん】

犬夜叉

■未来捏造

■短編

 

 

「嫁に来い」


それは突然の出来事だった。
久しぶりに楓の村を訪ねてきた殺生丸の背を追い、たどり着いた小川のほとりで花を摘んでいたりんに、殺生丸が背後から声をかけた。
摘み取っていた色とりどりの花たちを思わず落としてしまうりん。
振り返れば、木陰の大岩に背を預けて腰を下ろしている殺生丸の姿が目に入る。
彼はいつもと変わらぬ無表情で、りんをじっと見つめていた。
聞き間違いだろうか。
長年、そんなことを言ってくれればいいのにと抱いていた願望が、幻聴となって聞こえてきてしまっただけだろうか。
りんは何度も自分の耳を疑った。


「ヨメ? りんに、言ってますか?」
「他に誰がいる」
「邪見様とか・・・」
「今はおらぬ」


殺生丸はいつも、従者の邪見を従えて楓の村を訪れていた。
森の中で待っている殺生丸に代わり、村までりんを迎えにいくのが邪見の仕事。
りんを連れ立って、森の奥で待つ殺生丸と引き合わせた後、邪見も交えて三人で過ごすのがいつもの決まりだったのだが、最近、邪見は村までりんを呼びに来ると、彼女とともに殺生丸の元には戻らず、村で待機するようになってしまった。
日が暮れ、りんが殺生丸の元から帰ってくると、入れ替わるように森の中へと入り、殺生丸とともに遠くへ去っていく。

年齢を重ね、大人になるにつれて周囲が気を遣いだしたことに、りんはきちんと気付いていた。
殺生丸とりんが会うときは決して邪魔をしないようにしてくれている邪見や、りんが殺生丸に会うたび、日が暮れるまでには帰るようにと毎回注意してくる楓。
あいつに何かされたら遠慮なく言えよ、と数日前に声をかけてくれた犬夜叉
そして、殺生丸と会う前に必ず髪に櫛を入れてくれるかごめ。
りんの周囲の者たちは、二人のことをもはや妖と連れ子ではなく、一組の男女として見ているのだ。
それは、本人たちも同じ。


「りんでいいの?」
「あぁ」


前振りもなく、突然言い放たれた求婚の言葉を、未だりんは信じていなかった。
けれど、もともと口数少ない殺生丸には、言葉を尽くして理解してもらおうという気概はないらしい。
だからこそ、りんは無口な想い人の真意を測るべく質問という攻撃を投げかけた。


「ほんとにほんと? りん、人間だよ?」
「知っている」


先ほどまで夢中になって積んでいた花を放り出し、りんは四つん這いの状態で殺生丸のそばに接近する。
そんなりんの様子を、殺生丸は相変わらず顔色ひとつ変えずに見つめていた。


「珊瑚様みたいに強くないし」
「だからなんだ」
「かごめ様みたいに霊力とかないし」
「必要ない」
「あと、胸もそんなにないし」
「・・・・・」
「それに・・・」
「もうよい」
「うわっ!」


不意に腕をつかまれ、引き寄せられたりんは、四つん這いだった体勢を崩し、殺生丸の腕の中へと納まってしまう。
一気に距離が近くなってしまった彼の美しい顔に、りんは顔に熱が籠っていくのを感じた。
りんの華奢な肩を抱き、緩い力で抱き寄せいる殺生丸は、遠くの青い空を見つめているため視線は交わらない。
木々から飛び立つ雀のつがいを見上げながら、殺生丸は小さく囁いた。


「黙って私の元へ来ればいい」


殺生丸という男は、戦国最強の異名を持つその実力のせいか、少々傲慢なところがある。
気に入らない者は殺し、欲しいものは力ずくで手に入れてきた彼だからこそ、りんに対する態度もまた、傲慢で、独善的で、それでいて我が儘だった。
それでも、りんは殺生丸に対して不満を抱いたことはない。
彼は口数も少ないし、何を考えているのかよく分からないところがあるけれど、その傲慢極まりない腕で何度もりんを救ってくれた。
独りよがりな心の真ん中にある強い優しさを、りんはよく知っている。
そんな優しい大妖怪に、りんはどうしようもなく惚れているのだ。


「じゃあ、りんが殺生丸様を幸せにしてあげるね」


彼の肩に頬をよせ、猫のように甘えながら呟かれた言葉に、殺生丸からの返事はなかった。
代わりに、りんの肩を抱く力が、ほんの少しだけ強まったような気がしたのは、きっとりんの気のせいなどではない。


********************


「なにそれ素敵! すっごいロマンチックじゃない!」


太陽が空の真上に鎮座している昼過ぎ頃。
楓の家に遊びに来ていた犬夜叉夫婦と七宝たちの雑談に混ざっていたりんは、殺生丸からの求婚の言葉を教えてほしいとかごめからせがまれ、三か月も前の記憶を掘り返して答えた。
あの日のことを詳しく教えた結果、かごめは目を輝かせながらよく分からないことを言っていたが、おそらく井戸の向こうにあるという彼女の故郷の言葉なのだろう。
なんとなく、感激しているのだということは分かった。


「けっ、あの殺生丸がそんな歯の浮くような台詞をなぁ・・・。気持ち悪ぃ」
「人も妖怪も変われるもんなのじゃなぁ。弥勒も、昔の浮気癖が嘘のように今は珊瑚一筋じゃしな」


相変わらず兄を毛嫌いしている様子の犬夜叉は、殺生丸がりんに求婚した時の様子を想像しているのか、ひとりでわざとらしくえずいている。
かごめと犬夜叉の真ん中で胡坐をかいている七宝は、小さな腕を組みながら感慨深そうに天井を見上げていた。

殺生丸とりんが夫婦の契りを結んでから早三か月。
以前から大妖怪と逢瀬を重ねていたあの娘がついに嫁にもらわれるらしい、という噂は村中に広がっている。
妖の妻となることで、好奇の目に晒されることは覚悟していたりんだったが、既に半妖の犬夜叉と結ばれているかごめの存在はかなり大きいものだった。
さらに、何度か村に足を運んでいる殺生丸は、村人にとって恐るべき大妖怪というよりも、他の妖怪たちをその威風で追っ払ってくれるありがたい守り神のような存在らしく、彼に嫁ぐりんを物好きだと笑うものは誰一人としていなかった。


「しかし、肝心の婿殿は何をしているのだ。あれから三月も経っているというのに、何の音沙汰もないとは」


楓が、つい先ほど出来たらしい笹団子を皿に盛りつけて運んできた。
高齢の彼女が腰を曲げて皿を床に置くや否や、犬夜叉と七宝が競うように笹団子を取り合い始める。
持ってきてくれた楓にお礼を言い、ゆっくり食べ始めたかごめは笹団子をもぐもぐと噛みしめ、ごくりと飲み込むとようやく口を開いた。


「そうねぇ。お義兄さん、あれから一度も村に来てないんでしょう?」
「はい。前までは、10日に一度は必ず来てくれてたのに・・・」


うつむくりんに、かごめと楓は顔を見合わせた。
殺生丸から求婚されたあの日を皮切りに、彼はぱったりと楓の村を訪れなくなってしまっている。
もともと人里近くに降りてくるような人物ではなかったのは確かだが、彼がりんをこの村に預けて以降は、定期的に着物や茶菓子などの手土産を持って村を訪れていた。
手紙の一つすら寄越さず、長い間放置されていては、あの求婚はやはり夢だったのではないかと今更になって不安になってしまう。

そもそも、嫁ぐとは一体どういうことなのだろう。
人間ならば、娘が嫁入り道具を持って夫となる男の家に入るのが常識なのだろうが、妖である殺生丸にとっての“嫁ぐ”とは、人間の文化とは別の形をとっているのかもしれない。
例えば通い婚とか。
りんを村に置いたまま、今まで通り殺生丸が通うという形で成立する結婚生活。
それならば彼がりんを迎えに来ないのも合点がいくが、それにしても三か月もの長い間放置されているのは妙な話である。
通い婚の形をとるにしても、三か月もあれば一回目の“通い”があってもよいのではないだろうか。
求婚した女をここまで長い間放置している殺生丸の行動は、人間から見ても妖怪から見ても不審であることは間違いなかった。


「さてはあの野郎、どっかに別の女作ってんじゃねぇのか? 人間の女じゃ物足りねぇってよ」
「別の、女・・・?」
犬夜叉、おすわり!」
「ふぎゃっ!!」


笹団子を味わいながら軽口を叩く犬夜叉だったが、彼の言葉はりんを少なからず動揺させた。
無論、何の根拠もない仮説ではあったが、りん自身その線を全く疑っていないわけではなかったのだ。
殺生丸は妖力も強く、眉目秀麗。
女妖怪たちからは引く手あまただろう。
何の力もない人間の少女であるりんが、大きすぎる存在である殺生丸を引き留めていられる術は何一つない。
そんなりんの不安を無遠慮に突いてしまった犬夜叉には、妻であるかごめからおすわりの刑が執行された。
虚しく床に叩きつけられた犬夜叉を横目に、七宝は“阿保じゃ”とつぶやく。


「もう犬夜叉!あんたってどうしてそうデリカシーがないわけ!?」
「いやいやかごめ、案外犬夜叉の考察は当たっとるかもしれんぞ。なにせ殺生丸は、この二股犬の兄貴なんじゃからな」
「てめぇ七宝この野郎!いらねぇこと言ってんじゃねぇ!」


三年以上昔の黒い過去を掘り起こされた犬夜叉は、顔を真っ赤にしながら拳を作り、七宝に詰め寄った。
怯えた七宝は即座にかごめの陰に隠れ、かごめもまた、大人げない犬夜叉にやめるよう抗議しているが、七宝への怒りが収まらない犬夜叉はやいやいと吠え散らかしている。
一方でりんは、先ほどの犬夜叉の言葉が気にかかるのか、暗い顔をしたまま俯き、何やら考え込んでいた。
一気に騒がしくなってしまったこの状況に、楓はため息をつく。


「これ、三人ともやめんか。それ以上騒ぐと子供らが起きるぞ」


楓の言葉に、やいやいと言い合っていた犬夜叉、かごめ、七宝の三人はぴたりと動きを止めた。
そしてゆっくりと背後を振り返り、家の奥に視線を向ければ、そこには寝床ですやすやと寝息を立てている双子の娘、金烏と玉兎。
そしてまだよちよち歩きが抜けない翡翠が、愛らしい表情で眠っていた。
起きる様子のない三人の幼子に、その場に居た全員が安堵する。

珊瑚から一日子守を頼むと預けられたこの三匹の厄災たちは、昼前までは元気に遊びまわっており、犬夜叉の耳を引っ張ったり七宝に馬乗りになったりとやりたい放題であった。
昼のおやつを食べ終え、ようやく落ち着いたばかりであったため、また騒がれてはかなり面倒である。
騒がしい大人たちをもろともせず眠り続ける三人の様子に微笑んだ楓は、再び悩めるりんへと視線を向け、語り掛けるように口を開いた。


「りんよ。そう気に病むでない。人間には人間の考え方があるように、妖怪たる殺生丸にも、何か深い考えがあってのことだろう。そのうち顔を見せに来る。その時までどっしり構えて待っておればよいのだ」
「はい、楓様・・・」


幼いころに親兄弟を亡くしたりんにとって、生活を共にしているこの楓という老婆は育ての親のような存在であった。
りんは彼女を全面的に信頼しており、殺生丸や邪見の次に慕う相手と言えば、迷いなく楓だと即答できるほど、りんは彼女に懐いている。
楓の言葉に頷くりんだったが、肩を落としている彼女はまだ不安が払拭出来ていないようであった。
そんな中、外から近づいてくる足音とともに、楓の家の戸が音を立てながらゆっくりと開く。


「ただいまー」
「おっ、これはこれは、美味しそうなものを食べていますな」


家に入ってきたのは、退治屋服に身を包んだ珊瑚と、その夫・弥勒であった。
朝から妖怪退治の依頼が入り、いつも通り犬夜叉弥勒で出かけようとしたところ、弥勒からとある提案がったのだ。
育児に追われている妻にちょっとした息抜きをさせたい、と。
幸い、依頼をしてきたのは隣村の庄屋で、距離も離れていないため犬夜叉の代わりに珊瑚が出向くことになった。
そういうことなら、と、喜んで子供たちの世話を買って出たかごめだったが、妖怪退治が息抜きになるという珊瑚の逞しさに、内心関心もしていた。


「珊瑚ちゃん、弥勒様、おかえり」
「二人とも早かったのう」
「まぁね」


かごめや七宝の言葉に相槌を打ちながら、珊瑚はそそくさと家に上がり、飛来骨と腰に差した刀を床に置くと、眠っている様子の子供たちの前に腰を下ろした。
先ほどまでは勇ましい退治屋の顔をしていた珊瑚だったが、子供のそばに来た途端に母の顔に変わってしまう。
安らかに眠っている三人の子供たちを見下ろす珊瑚の瞳は、なんとも慈悲深いものだった。


「どうだったんだ?隣村の妖怪ってのは」
「やはり、犬夜叉が出るまでもありませんでしたな。到着してすぐに片が付きましたし」


草鞋を脱ぎ、家に上がって腰を下ろした弥勒に、犬夜叉が問いかける。
依頼主の庄屋は、相手は厄介な妖怪で、それはそれは恐ろしい奴だと盛りに盛って話をしていたが、妖怪退治慣れしている弥勒や珊瑚にとっては造作もない敵であった。
いつもの通り三枚ほどのお札を使い、米をふんだくりつつ退治してきた。
庄屋には高すぎないかと泣きつかれたそうだが、そこは商売上手な弥勒である。
なんだかんだとそれらしい理由を並べ、言いくるめてきたに違いない。


「それよりごめんね。無理言って、三人を預かってもらっちゃって」
「いいのよ。三人ともすごくいい子にしてたわよ。ね、楓ばあちゃん」
「うむ。両親に似て、利口な子らだ」


珊瑚に気を遣わせないようにふるまうかごめと楓の会話に、犬夜叉は内心悪態をついた。
いい子?どこがだっつーの。
両側から思いっきり耳を引っ張りやがって。
子供は遠慮がないため、必然的に力も強くなってしまう。
まるで加減というものを覚える気のない双子の娘たちには、両親よりもむしろ犬夜叉が困っていたほどである。
だが、そんなことを馬鹿正直に口にすればまたかごめからおすわりを食らいかねない。
犬夜叉は自らの保身のためにも、黙っておくことを決めた。
そんな犬夜叉の視界を横切るように、今はもう風穴があいていない弥勒の右手が通過する。
皿へと伸ばされた弥勒の手は、残りひとつだった笹団子を華麗に搔っ攫っていった。


「あーっ!それはおらが狙っておった最後の一つ!」
「働かざる者食うべからずですよ、七宝」


狙っていた最後の一つを奪われ、途方に暮れる七宝を尻目に、弥勒は美味そうに笹団子を頬張った。
やがてすべてを飲み込むと、改まったように両手で膝を叩き、隣に座るりんを真剣な顔で見つめる。


「ところで、りん。最近殺生丸とは会っていますか?」
「へ?あ、いえ、全然・・・」


不意に投げかけられた弥勒からの質問に、りんは思わず言葉に詰まってしまう。
姉のような存在であり、話し好きなかごめや珊瑚、好奇心旺盛な七宝、そして殺生丸の弟である犬夜叉はまだしも、この中では一番精神的に大人である弥勒は、今まで自分から殺生丸とりんの関係性について首を突っ込んできたことはなかった。
興味がないわけではなかったが、他人が根掘り葉掘り聞いていい話だとも思っていなかったのである。
そんな弥勒から、殺生丸とのことを聞かれるのはなんとも意外だった。
それは、はたから聞いていた楓も同じだったらしく、戸惑うりんの代わりに口を開く。


「ちょうど皆でその話をしておったところだ。殺生丸がここ三か月一向に姿を見せぬとな」
「そうでしたか。それはむしろ好都合かもしれませんね」
「何が好都合なの?」


弥勒の言葉に、今度はかごめが問いかけた。
今まで不用意に殺生丸とりんの間柄を詮索してこなかった弥勒が、珍しくその話題に触れたということは、何かわけがあるのだろう。
そんなかごめの考えは当たっていた。


「さきほど退治した妖怪から聞き出したことなのですが、どうやら今、妖怪たちの間で共食いの風潮が出来てしまっているらしいのです」
「共食いだと!?」


驚いたように聞き返す犬夜叉に、弥勒は静かにうなずいた。
その妖怪曰く、四魂の玉が消滅した現在、妖怪たちが己が持って生まれた力以上に妖力を高める方法が限られてきているため、力を追い求める者たちは難儀しているのだとか。
結果、自分よりも強い妖怪を喰らい、その妖力を取り込む共食いという風潮が生まれつつあるという。
これは、かつて奈落が己の肉体を強化するために用いた方法と同じである。
強い妖怪を取り込めば、その妖怪の力を得ることが出来る。
四魂のかけらという反則的な道具が無くなってしまった以上、力を求めるには他者に食らいつくほか方法がないのだろう。


「強い奴を取り込めば、その分強くなれる。だから、最近はこの辺りを根城にしている強い妖怪たちは片っ端から狙わてるらしい。今日退治した妖怪も、殺生丸を狙ってたって言っていたしね」
殺生丸様を!?」


眠っている翡翠を抱き上げながら語る珊瑚の口調は、いつも以上に真剣なものだった。
強い妖怪たちが狙われているのなら、その筆頭として殺生丸の名前が挙がらないわけがない。
戦国最強とまで言われるほどの妖力を持つ彼もまた、“共食い”の標的にされてしまっているらしい。
もしや、長い間りんの元に来てくれなかったのは、狙われ続けている身のまま嫁に迎えればりんの身に危険が及ぶと考えてのことなのではないだろうか。
りんの頭に、そんなひとつの仮説が生まれつつあった。
だとしたら、殺生丸は大丈夫だろうか。
彼は誰よりも強い。
命を落とすようなことはないだろうが、大量の敵に狙われれば怪我くらいはするだろう。
無事でいてくれているだろうか。
そんなりんの心配を知ってか知らずか、殺生丸の弟である犬夜叉は腕を組みながら鼻を鳴らした。


殺生丸が雑魚妖怪なんぞにやられるタマかよ」
「えぇ。私も、殺生丸の方は何の心配もないと思っています。ただ、心配なのはりんの方ですね」
「あたし。ですか?」


弥勒から不意に視線を向けられたりんは戸惑い、自分で自分を指さした。
そんなりんに、弥勒は深く頷く。


「妖怪の中には、卑劣な手を使う者もいます。力では殺生丸に敵わぬと踏み。その力を削ごうと近しい者に手を出してくる可能性もなくはないでしょう」
「つまり、りんを人質に取るかもしれんということか?」
「えぇ。あくまで可能性の話ですが」


確認してくる七宝の言葉を、弥勒は肯定した。
かつて奈落との最終決戦の折にも、りんは殺生丸の爆砕牙を封じるために人質として囚われていた。
魑魅魍魎の中には、そういった悪知恵が働く者もいる。
殺生丸がこの楓の村に住まう人間の娘にたびたび会いに来ていることは、ほうぼうで噂になっているため、殺生丸を狙う妖怪たちがりんを襲いに来ても、何らおかしいことではないのだ。
不安に駆られるりんだったが、やはりそれ以上に殺生丸の行方が気になってしまう。
未だ何の連絡も寄越さない未来の夫。
彼の強さは確かなものだったが、何の音沙汰もないことに不安を感じずにはいられない。
りんは、自分の小さな手をきゅっと握りしめ、不安に身を縮めた。


「うむ。確かに、無いとは断言できない話だな。りん、これからは一層警戒せよ。出かけるときは、必ず誰かを伴って出るのだぞ。よいな?」


目線を合わせ、言い聞かせるように語り掛けてくる楓の言葉に、りんはただ頷くしかない。
その日からだった。
夜、りんがなかなか寝付けなくなってしまったのは。


********************


あれから、5日が経った。
未だ殺生丸からの音沙汰はない。
きっと忙しいだけだ。
自分を狙う妖怪たちの相手でてんやわんやしているだけだ、
強い殺生丸のことだから、きっと大丈夫。
何度そう自分に言い聞かせても、りんは安息の眠りにつくことが出来ずにいた。

今夜もまた、とっくに日は沈んだというのに眠れぬまま天井を見つめ続けている。
すぐ横の布団では、楓が寝息を立てていた。
もう村中が寝静まっているであろう時間に、起きているのはりんただ一人。
殺生丸のことを考えれば考えるほど、目が冴えてしまって仕方がない。
りんは、とうとう布団から抜け出してしまった。
ゆっくり上体を起こし、楓を起こさないようにそっと家を出る。
外の空気を吸えば、気分転換になると思ったのだ。
深夜の闇に包まれた外はひんやりと冷たい空気が纏っていて、りんは肌寒さに肩を震わせた。


「あれっ」


自分で自分の肩を抱き、小さく震えていたりんだったが、遠くに見慣れた姿を見つけて目を奪われる。
村の入り口、森の方へと続く道に、邪見が立っている。
身の丈の倍ほどの長さがある人頭丈を持つその小妖怪の姿は、遠くにいるというのにはっきりと認識できた。
邪見は、楓の家の前で震えていたりんをじっと見つめ、何も言わずにただそこで佇んでいる。
邪見がここにいるということは、殺生丸も近くにいるのだろうか。
会いたい。
長いこと顔を見ていなかった彼に、求婚された日以来言葉を交わしていなかった彼に、今すぐ会いたい。

りんは、裸足のまま邪見めがけて走り出した。
すると邪見は、そのままゆっくりと森の方へと歩き出してしまう。
不思議なことに、小さな体で前を歩く邪見に、走っているはずのりんは一向に距離を詰めることが出来なかった。
まるで幻を追いかけているかのような感覚に陥る。
森の奥へと進むごとに前を歩く邪見との距離はだんだんと空いていく。
何度も呼び止めてみたが、邪見は一度たりとも振り返って立ち止まってくれることはなかった。
やがてりんは、森の中で邪見の姿を完全に見失ってしまう。


「邪見様・・・? 邪見様どこー?」


大声で名前を呼んでも、小妖怪が返事をすることはなかった。
回りを見渡せば、あたりは不気味な闇に包まれている。
そこでりんは、ようやく楓の言葉を思い出した。
“一人になってはいけない”
恋しい殺生丸の影を追い、夢中でこんな森の奥まで来てしまったが、この状況はあまりよろしくない。
回りには野生動物はもちろん妖怪も多くいる。
早く楓の村に戻らなくては。
そう思い立ち、来た道を戻ろうとしたりんだったが、木々の合間から漏れ出た月の光にはっとした。
先ほどまで月を隠していた雲が取り払われ、月光が森の中を照らし始めたのだ。
闇に覆われていた森は視界が開け、木々の向こう側まで見渡せるほど明るくなっている。
その光のおかげで、りんは木々の合間にいる愛しい人物を見つけ出すことが出来た。


殺生丸様っ!」


大木のそばで佇み、月を見上げるその後ろ姿は、間違いなく愛しい大妖怪その人だった。
名前を呼び、その背後に駆け寄れば、殺生丸はゆっくりとこちらを振り返ってくれる。
月明りに照らされた彼の姿は一層美しく、視線が交わった瞬間りんの心を満たしてくれる。


殺生丸様、来てくれたんだね」


長い間会っていなかったせいか、彼の表情がいつもよりも柔らかく見える。
自分を見下ろす殺生丸の視線は暖かく、外の冷たい空気を忘れさせてくれた、
口元に薄く笑みを浮かべた殺生丸は、自分に熱視線を送ってくるりんに、ようやく口を開いた。


「恋しかったのか? この殺生丸が」


低くささやかれたその声は、間違いなく殺生丸本人のもの。
それだけは疑いようがなかった。
けれど、何故だろう。
りんは彼の言葉を聞いた瞬間、妙な違和感を感じていた。
その違和感の正体がわからないまま頷けば、今度は殺生丸の右手がりんの頬に触れる。
しなやかで美しい殺生丸の指が、りんの頬を撫でる。
それと同時に、りんの頬にチクリとした小さな痛みが走った。
いくつもの命を引き裂いてきた殺生丸の鋭い爪が、りんの頬をかすめたのである。
一瞬だけびくりと体を震わせたりんだったが、そんな彼女の様子に気付いていないのか、殺生丸の端正な顔がゆっくりと近づいてきた。


「ならば、今すぐに、我がものとなれ」
「・・・っ、いやっ」


唇が今にも触れ合いそうになるその刹那、りんはとっさに顔を逸らし、殺生丸の胸を押し返した。
殺生丸の手を拒絶したのは、これが初めてであった。
一瞬の静寂が訪れ、りんは再び、ゆっくりと殺生丸の顔を見上げる。
拒絶されたことに気分を害したのか、彼は先ほどに比べて少々険しい顔をしていた。
しかし、そんな殺生丸の様子に恐れることなく、りんは口を開く、


「ねぇ殺生丸様、あたしの名前、呼んで?」
「なに?」
「お願い。今すぐ呼んで」


りんの懇願に、殺生丸が答えることはなかった。
ただ黙って、りんに視線を送っているだけ。
そんな彼の顔を見つめながら、りんは先ほど感じた違和感の正体に気が付いてしまった。


「やっぱり。あなた、殺生丸さまじゃない」
「何を言う」
「だって、殺生丸様はあたしと会うとき、いつも最初に言ってくれるもん。“りん、息災か?”って」


暖かい木漏れ日によって照らされる森の中で会う殺生丸は、いつもりんにそう言ってくれる。
殺生丸の問いかけに対し、りんが笑顔で“はい”と返事をする。
それが、二人の逢瀬のはじまりだった。

しかし、今日の殺生丸はその問いかけをしてこなかった上に、りんの名前を一度も呼んでくれていない。
その事実が、大きな疑念となってりんの心に留まってしまっているのだ。
りんは、自分を見下ろしてくる殺生丸から視線をそらさずに、己の頬に触れている彼の手に自分の手を重ねた。
そして、重ねられた二人の手を伝うように、一筋のしずくがしたたり落ちる。
これは涙ではない。
殺生丸が先ほど、りんの頬に触れた時にかすった傷から漏れ出た、りんの血である。


「それにね、殺生丸様はりんに触れるとき、絶対に爪を立てたりしない」


偽りの想い人を見つめるりんの瞳には、強い怒りが込められていた。
確信をもって、目の前の人物が殺生丸ではないと言い切っている。
誤魔化せそうもないこの状況に、殺生丸の姿を借りている者は、口角を上げた。


「りん、か。奴が入れ込んでいる女の名前くらい、事前に調べておくべきだったな」


殺生丸と同じ声で囁かれたその言葉は、邪悪な意思が感じ取れるような口調に代わってしまっていた。
鋭い爪をした持った左手で、思い切りりんの腕を鷲掴めば、りんは痛みに顔を歪ませる。
脆い人間にとって、妖怪の鋭い爪は十分な武器となる。
爪が食い込み、りんの小袖に血の染みが広がってゆく。
痛みに耐えながら、目の前の男の顔を見上げれば、美しい殺生丸の顔がみるみる歪み、鋭い目をした狐の姿に変わってゆく。
その変わりように驚いたりんは、思わず言葉を失ってしまった。
どうやら、この狐の妖怪が、殺生丸に化けていたらしい。


「こざかしい小娘め。私の変化を見破るとはな。だがまあいい。こうして餌も手に入った。あとは獲物を釣るだけだ」
「餌・・・?獲物・・・?」
「そうだ!小娘、貴様は餌だ。殺生丸という大魚を釣るためのな」


狐妖怪の言葉に、りんは数日前の弥勒の話を思い出していた。
殺生丸の妖力を喰らうため、りんに手を出してくる輩がいるかもしれないというあの話である。
まさに、あの話の通りの展開が、今目の前で起きてしまっている。
この妖怪の目的はりんではなく、あくまで殺生丸
りんは、殺生丸をおびき出すための餌として利用されるため、この妖怪に騙されていたのだ。


「や、やだ! 離して!」
「くくくっ・・・あの村に殺生丸が入れ込んでいる女がいることは知っていた。奴の姿に化け、この辺りをうろつけば引っかかると踏んでいたが、まさかこうも簡単に引っかかるとは」
「っ!」
「感謝するぞ。貴様のおかげで、私は殺生丸の妖力を喰らうことが出来るのだからな!」


この狐妖怪は、りんを捕らえて殺生丸をおびき出し、反撃できない殺生丸を喰らうつもりなのだろう。
このまま易々と捕まり、殺生丸に迷惑をかけてしまうことだけは嫌だった。
りんは一瞬の隙をつき、狐妖怪の腕に噛みつく。
突然のことに怯んだ狐妖怪はりんの腕を離してしまった。
そのすきに何とか逃げ出そうと走るりんだったが、妖怪の魔の手から逃げることはそう容易なことではない。


「逃げられると思うな!」


狐妖怪は、己の毛を一本だけ抜き取ると、りんめがけて投げつけた。
細く長い毛は、やがて一本の針のように変化し、まっすぐ飛んでりんの太ももをかすめる。
傷自体は浅かったが、突然足に走った鋭い痛みに驚いたりんは、そのまま草花の上に転んでしまう。
何とか上体を起こして逃げようとするりんだが、後ろから追いついてきた狐妖怪に足を踏まれ、立ち上がれなくなってしまった。


「面倒な娘だな。こちらとしては、貴様が生きてさえいれば足の一本など切り捨ててしまっても良いのだぞ」
「いや・・・っ、やめて・・・!」
「ふん、いっそ逃げられぬように、その足斬り落としてくれる!」


再び自らの毛を、今度は10本以上抜き取った狐妖怪は、赤い瞳を怪しく光らせる。
彼の持つ10本の毛が束となり、一本の太い刃に変化した。
月明りに反射して鈍く光る刃を見つめ、りんは途方もない恐怖感を覚えた。
殺される。
そう確信したその時だった。

目にもとまらぬ速さでりんの前を横切った光の鞭が、刃を握っていた狐妖怪の右腕を斬り落としたのだ。
刃とともに、“ボトッ”と音を立てながら草花の上に転がる己の腕を見て、狐妖怪は絶叫する。
一瞬の出来事に、何が起きたのか理解できなかったりんだったが、背後から何者かが近付いてくる足音に気づき、とっさに視線を向けた。
月明りに照らされながら、木々の合間を縫うように現れたその人影の正体に、りんは希望を取り戻す。


殺生丸様!」


痛みにもだえる狐妖怪をまっすぐ見据える彼の瞳は、怒りに満ちている。
彼が纏う妖気は間違いなく本物で、その姿を目にした瞬間、りんは無意識に涙を流していた。
突如として腕を斬り落とされてしまった狐妖怪は激しく動揺していたが、殺生丸の姿を見つけた途端、額に汗をかきながらも口元には笑みを浮かべている。
りんを使って殺生丸を釣りだそうとした狐妖怪の作戦は成功したらしい。
腕を失いつつも、殺生丸の登場で勢い付いた様子の狐妖怪は、残された左腕でりんの腕をつかみ、無理矢理に立ち上がらせると、腕を回して羽交い絞めの形をとった。


「やはり来たか殺生丸。この娘が貴様の泣き所であるという情報は正しかったようだな」


狐妖怪にとらわれ、身動きが取れなくなってしまったりんは、苦しさに歯を食いしばる。
その様子を、殺生丸は何も言わずただ冷たい視線を送るだけだった。


「さぁ!この娘をこれ以上傷付けたくなくば、大人しく我が血肉となれ、殺生丸!」
「愚かな。この殺生丸が見知らぬ人間の女などにこの身を差し出すと思うか?」
「な、なんだと!?」


殺生丸の言葉に驚いたのは、狐妖怪だけではなかった。
りんもまた、彼から冷たく言い放たれた言葉に、頭が真っ白になってしまう。
“見知らぬ人間の女”
殺生丸は、りんを見つめながら確かにそう言った。
数か月前に、自ら嫁に来いと言ったその口で。
何故、彼はそんなことを言うのだろう。
何故、そんなに冷たい目をしているのだろう。
自分を助けに来たわけではなかったのか。
数か月前のあの出来事は、やはりりんの願望が生んだ夢幻だったのか。
様々な感情が交じり合い、りんの心は爆発寸前だった。


「人間の女などを使って、この殺生丸の力を削ごうとしたようだが、無駄なことだ」
「デタラメを抜かすな!この女自身が、先ほど貴様の名を呼んでいたのだぞ!見知らぬ間柄とは到底思えぬわ!」


言い合う殺生丸と狐妖怪のやりとりを聞きながら、りんはあることに気が付いた。
殺生丸の右手が、爆砕牙の柄に触れている。
今すぐあの刀を抜いて、りんもろともこの狐妖怪を切り刻むことは簡単だが、殺生丸は刀を握ったまま動こうとはしていない。
抜刀の構えをしておいて、何故一思いに斬ってしまわないのだろう。
そんな疑問を抱いたりんが、ふと殺生丸の顔を見つめると、彼の冷たい視線がりんの視線と交わった。

りんを見つめ、一瞬だけ目を細めた殺生丸
交わった彼からの視線は、りんに殺生丸の真意を伝えてくれる。
彼は斬らないのではなく、斬れないのだ。
近くにりんがいるから。
今爆砕牙を抜けば、間違いなくりんも傷付けてしまうだろう、
りんのことを、“知らぬ女”と突き放したのは、狐妖怪にりんは無関係だと判断させ、解放させるためなのではないだろうか。
りんの頭に、そんな仮説が成り立った。
これが、彼の真意なのかはわからない。
しかし、目の前で自分をまっすぐ見つめてくる愛しい男を、今は信じたい。


「ひどいよ殺生丸様!知らない女だなんて!」


声を震わせ、命一杯悲壮感を漂わせながら叫び散らすりんの声が、夜の森に木霊する。
突然騒ぎ出したりんに驚いた狐妖怪は、りんの腕をつかんでいる手の力を強めながらも彼女の言葉に耳を貸した。


「りんはずっと、草葉の陰から殺生丸様を見つめていたのに・・・!気づいてくれていると思っていたのに!」


りんが取った選択は、殺生丸に一方的な恋心を抱いている哀れな女を演じることだった。
こちらも殺生丸を知らない者として演じることも出来たが、それでは先ほど殺生丸に化けて出てきた狐妖怪の正体を見破った際の態度に説明がつかなくなる。
半狂乱になり、殺生丸に想われていると勘違いしているおかしな女を演じることこそが、この場を乗り切る唯一の方法だった。
だがこれは、きちんと殺生丸もりんの嘘に乗って来なければ意味がなくなってしまう。
殺生丸がりんの真意に気付き、嘘に話を合わせてくれるのか。
これはある種の賭けでもあった。
この嘘がバレれば、りんは狐妖怪に捕らわれたまま最悪の事態を招くだろう。
りんの額に汗が伝っていく。
切迫した様子のりんを見つめ、殺生丸は口元に薄く笑みを浮かべた。


「ほざけ。この殺生丸が貴様のような人間の女相手に心乱されると思うな」


殺生丸は、りんの思惑通り乗ってきた。
冷たく言い放たれた言葉は、まるで本当にりんに対して嫌悪感を抱いているようにしか聞こえない。
りんの体を捕えている狐妖怪は、一層動揺を隠せない様子であった。


「この女の一方的な恋慕だというのか!? だが殺生丸!貴様はこの女に会うため、あの村に通っていたのではなかったのか!」
「私が人間ごときに会うため時間を作るなど、馬鹿らしい」
殺生丸様が、弟の犬夜叉様に会うためにあの村に通っていたことは、りんも知っていました・・・」


りんが涙目になりながら犬夜叉の名前を出した途端、殺生丸は露骨に嫌そうな顔を見せる。
そんな顔をしては狐妖怪に嘘がバレてしまう。
一瞬だけ焦ったりんだったが、一度口に出した以上訂正は出来ない。
このまま殺生丸には、弟に会うためわざわざ人の村に通っている温情深い犬妖怪を演じてもらうことにした。


「でも、いつかりんの想いに気付いてくれると信じていたのに・・・!」
「半妖の弟に会うため・・・だと!? 殺生丸が人間の女に入れ込んでいるという情報はでまかせであったか!」


狐妖怪は、殺生丸とりんの嘘を完全に信じ切っている様子であった。
嫁とともに人里で暮らす弟に会い行くため、村に通っていた殺生丸に恋慕し、一方的に思いを寄せていた少女を、“殺生丸が入れ込んでいる相手”と勘違いをして釣り出してしまった。
あわよくば人質として盾となり、惚れた女に刃を向けられずにいる殺生丸を無抵抗のまま喰らってやろうとしていた狐妖怪の計画は、音を立てて崩れ出す。
人質とは、相手が大切に思う人物でなければ務まらない。
人間嫌いという噂もある殺生丸に、無関係である人間の少女を人質として見せつけたところで効果はなく、生かしておいてもただのお荷物になってしまう。
無駄なことをしてしまったということへの怒りが、狐妖怪の中で着々と大きくなっていった。


「おのれ小娘が!無関係な貴様では、ろくに人質の役割すら果たせぬわ!」
「きゃっ」


怒りにまかせ、狐妖怪はりんから手を離し、突き飛ばしてしまう。
体勢を崩したりんは草花の上にしりもちをつき、狐妖怪からの拘束から解放された。
先ほど殺生丸に右腕を斬り落とされているこの妖怪にとって、一本しか残っていない貴重な腕を、人質としての価値がない存在のために塞いでおくのは惜しいと考えたのだろう。
しかし、その判断が命取り。
殺生丸は、りんを手放してしまった狐妖怪の愚を、見逃さなかった。


「死ね小娘!」


片腕の狐妖怪が、目の前でしりもちをついているりんに激昂し、襲い掛かろうと怒号を放つ。
恐怖から目を瞑ってしまうりんだったが、そんな彼女の耳に、狐妖怪の悲痛な叫びが届いた。
ゆっくりと目を開けると、目の前にはりんをかばうように前に立つ殺生丸と、残り一本しかなかった腕を斬り落とされている狐妖怪の姿が。
一瞬の隙をついて距離を詰めた殺生丸が、光のごとき速さで抜刀し、爆砕牙で妖怪の腕を斬り落としたのだ。


「せ、殺生丸・・・貴様ぁっ!」
「頭の足りぬ雑魚妖怪が。私の領分に気安く触れておきながら、生きて帰れると思うな」
「やはりその娘、貴様の・・・!」


狐妖怪の恨み言など聞く耳を持たない殺生丸は、爆砕牙を握り直して構えると、渾身の力を込めて振りかぶった。


「爆砕牙!」


振り下ろされた刀身から溢れ出る激しい光に包まれながら、狐妖怪は悲痛な断末魔を発する。
爆砕牙で斬られた体は、二度と蘇ることはない。
奈落をも苦しめたその力を一身に浴び、狐妖怪はあっという間に消し飛んでしまった。
後に残るのは、焼け焦げた匂いと立ち上る煙だけ。
深い森に訪れた静寂はすべての終わりをりんに知らせてくれる。
窮地が去ったことに安堵し、りんは腰が抜けてしまったのかその場から動けずにいた。
恐怖で足が立たないりんに振り返り、殺生丸は握っていた爆砕牙を地面に突き刺し、膝を折ってりんへと視線を合わせる。


「あの、殺生丸様、ありが・・・」


自身を救出してくれた殺生丸に礼を言わなければと顔を上げた瞬間、りんは殺生丸によって顎をつかまれてしまう。
驚いて固まるりんだったが、そんな彼女にとどめを刺すかのように、殺生丸はその赤い舌でりんの頬をひと舐めした。
頬の傷から伝っている血が、殺生丸によって舐めとられる。
それは、犬が群れの仲間の傷を舐めて癒すあの行動によく似ていた。
殺生丸にとっては犬妖怪として本能的な行動だったのかもしれないが、そのような文化がない人間の少女であるりんは、突如として想い人に頬を舐められた事実に激しく動揺してしまう。


「せ、殺生丸さま・・・くすぐったいっ」
「じっとしていろ。傷が塞がらん」
「やっ。そ、そんなことしなくても、塞がるからっ! かごめ様に手当してもらうからっ!」


真っ赤に染まった顔を両手で隠し、やめてほしいと懇願するりん。
ただ治療のために舐めようとしていた殺生丸にとって、何故照れるのか理解が出来なかったが、彼女がここまで嫌がっているのなら続ける理由もない。
ゆっくりと立ち上がった殺生丸は、地面に突き刺したままの爆砕牙を引き抜き、鞘に納めた。
一方のりんは、ようやく離れてくれた殺生丸にホッとしつつも、未だ心臓はバクバクとうるさく騒いでいた。
今まで数日に一度は必ず彼と会っていたが、ここ三か月の間は一切顔を見ていなかったため、殺生丸に対する耐性が薄くなってしまっているのだろう。
本物の殺生丸がすぐ近くにいるというだけで、胸が高鳴って仕方ない。


「りん」
「は、はい」
「何故このような夜更けに、森にいる」


そう問いかけてきた殺生丸の声色は、少々不機嫌なものだった。
明らかに怒っている。
たった一人で夜更けに森に入り、結果妖怪に捕まり危険な目に遭ってしまったことを怒っているのだろう。
普段から殺生丸は、自分に会う目的以外で独りで森に入ることを禁じている。
今回はたまたまりんの血の匂いを嗅ぎつけた殺生丸が駆け付けたからよかったものの、あと一歩遅ければりんの命はなかった。
責めるような殺生丸の言葉に肩を落としつつ、りんはあったことを包み隠さず話すことにした。


「ごめんなさい。あの妖怪、殺生丸様の姿をしてたから・・・てっきり、殺生丸様が会いに来てくれたんだと思って・・・」
「私が手招きすれば、お前は夜の森にも入るというのか」
「当り前だよ!」


迷いのないりんの一言に、殺生丸は思わず振り返る。
未だ地面に座ったままのりんは、先ほど赤面してた顔とは打って変わって、今にも泣きそうな目つきでこちらを見上げていた。


「朝でも夜でも、いつでも殺生丸様に会いたいから。それに、三か月も会いに来てくれなくて、すごく寂しかったんだもん」


りんの訴えるような視線が、殺生丸を射抜く。
彼女はどこまでも素直で、心で思ったことを惜しげもなく殺生丸にぶつけてしまう性格は、子供のころから変わっていない。
まっすぐな好意も、痛いほどの寂しさも、りんの言葉と視線によって嫌というほど伝わってくる。
彼女がぶつけてくる屈託のない感情は、殺生丸が感じていた苛立ちや怒りを瞬時に沈めてくれる。
惚れた弱みというのは、まさにこのことを言うのかもしれない。

殺生丸はゆっくりと、りんに右手を差し出した。
りんがその右手を握り返してきたと同時に、優しく引き寄せ、腰が抜けていた彼女を立ち上がらせる。
もはや子供とは言い難い、大人の女性へと成長したりんの顔をまっすぐ見つめながら、殺生丸は独り言のようにつぶやいた。


「考えていたことは、同じということか」
「えっ」


殺生丸の言葉に、りんはほんの少しだけ淡い期待を抱いてしまった。
その言い方はまるで、自分も寂しかったのだと言っているかのようで、喜ばずにはいられない。
孤独を愛する殺生丸が、人のぬくもりに寄りかかるこを知らない殺生丸が、りんというたった一人の少女に会えず寂しい思いをしていた。
そんな身勝手で、独りよがりな解釈が頭をよぎり、りんは胸が熱くなってゆく。
そんな時だった。
明るくなりつつある夜空の向こうから、聞き慣れた嗄れ声が聞こえてきたのは。


殺生丸様~~!」


それは、阿吽に乗ってこちらへと飛んでくる邪見の声であった。
特徴的なその声に反応し、殺生丸とりんは空を見上げる。
やがて阿吽の巨体が草花の上に降り立った。
その背に乗っていた邪見がひょこひょこと降り立ち、殺生丸の足元に駆け寄っていく。


殺生丸様。ようやく追いつきました。突然飛び立ってしまわれたから驚きましたぞ。きっとりんの元へ行かれたのだろうと思っておりましたが、やはりでしたか!いやぁ相変わらず殺生丸様はりんのこととなると行動がお早い!まるで神速の如く・・・ぐぇっ!」


ぺらぺらとよくしゃべる口を塞ぐため、殺生丸は邪見を殴り飛ばした。
どうやら、殺生丸は狐妖怪に傷付けられたりんの血の匂いを嗅ぎつけ、言葉と通り飛んできたらしい。
相変わらず冷たいを顔をしている殺生丸のあたたかい優しさに、りんは思わず微笑んだ、
だが、そんな朗らかな空気もつかの間。
殺生丸は、りんの膝裏に腕を差し入れ、彼女を軽々と横抱きにしてしまう。
突然足が宙に浮いたことでりんは驚き、焦って殺生丸の首に両手を回して掴まった。


「うわっ、殺生丸様!?」
「邪見、村へ行くぞ」
「へ? い、今からですか?」
「早くしろ」
「は、はいっ、ただいま!」


主に急かされ、邪見は急いで阿吽の背に乗った。
横抱きにされていたりんもまた、殺生丸によって阿吽の背に乗せられる。
久しぶりに跨る阿吽の背は、子供の頃よく乗っていた時より、だいぶ狭く感じられた。
四つ足で立っている阿吽の背に乗せられたりんの目線は、目の前に立っている殺生丸よりも高い位置にある。
殺生丸は阿吽の鞍に腰かけてきょとんとしているりんを見上げ、口を開いた。


「りん、村に着いたらすぐに荷物をまとめろ。あの老婆には、私からことの次第を伝える」
「荷物・・・? 伝えるって、なにを?」


“あの老婆”とは、恐らくりんの保護者でもある楓のことだろう。
その口ぶりから、りんだけでなく殺生丸も村を訪れるつもりであることが分かる。
りんを預けている村とはいえ、殺生丸はわざわざ人里に足を運ぶことを好まない。
いつも村に用があるときは、邪見を使いとして寄越しているのがその証拠。
しかし今日は、殺生丸自らりんを村に送り届けるつもりらしい。
しかも、荷造りをせよとはいったいどういうことだろうか。
首をかしげるりんの白い頬に、殺生丸は右手で優しく触れる。


「嫁に来るのだろう?」


殺生丸の言葉に、りんの瞳は輝いた。
その言葉を、不安の中ずっと待ち望んでいた。
愛しい殺生丸が、自分を迎えに来てくれるその時を。
三か月もの長い時を要してしまったが、彼はようやくりんの手をとり攫いに来てくれた。
殺生丸の口からもたらされたその事実がうれしくて、りんは頬を赤く染める。


「はい、殺生丸様」


はじけるようなりんの笑みを見つめる殺生丸の瞳は、柄にもなく慈愛に満ちている。
そんな主の様子を肩越しに眺めながら、邪見は感慨深さを感じていた。
力を追い求め、他者を慈しむような男ではなかった彼が今、脆くも儚い人間の少女に触れている。
傷をつけぬよう、まるで宝を愛でるかのように。
りんの笑顔に釣られるように、殺生丸が薄く笑んだように見えた。


「行くぞ、邪見」
「はいっ!」


やがて頬から手が離れ、殺生丸は明けつつある夜空へと飛び立った。
そのあとを追うように、邪見に手綱を握られている阿吽が飛び立つ。
先行する殺生丸を追う阿吽と、そんな阿吽に乗る邪見とりん、
昔、殺生丸たちとほうぼうを旅していたあの頃を思い出して、りんの胸は懐かしさでいっぱいになった。
殺生丸から村に残れの言われたあの日。
りんは、もう二度とこの輪の中には入っていけないのではないかと怖かった、
自分は人間で、彼らは妖怪。
流れる時間も生きる世界も違う自分たちは、きっと一緒には生きてけない。
共にありたいと願うたび、人間と妖怪の違いばかりが目につき、涙を流した日もあった。
しかし、殺生丸はこうして迎えに来てくれた。
人間であるりんを選び、手を差し伸べてくれた。
これほど嬉しい事があるだろうか。
喜びを抑えきれないりんは、幼かったあの頃のように阿吽の上で足をバタバタと揺らしていた。


「これりん!暴れるな。落ちても知らんぞ」
「ねぇ邪見様。あれってやっぱり、りんをお嫁さんにしてくれるってことだよね?」
「阿呆か。それ以外なにがある」
「そうだよね!? 夢じゃないんだよね!?」
「ぐえぇっ!やめろ、首を絞めるな馬鹿もん!」


頬を赤く染めながら喜びを爆発させるりんは、邪見の首元をつかんで左右に激しく揺さぶった。
人間の力とはいえ首を思い切り掴まれれば、妖怪の邪見でもさすがに苦しい。
蛙のようなうめき声をあげてりんの手を叩く邪見は、白目をむいていた。
邪見の必死な抵抗に、りんはようやく謝りながら手を離す。

首元が解放された邪見は、ゲホゲホとわざとらしいほど咳き込んだが、対するりんは未だ溢れ出る喜びを消費できないのか、ニコニコしながら前を飛ぶ殺生丸の背を見つめていた。
この娘は子供のころから変わらない。
どんな時でものんきに笑い、殺生丸の背にひっついて離れようとはしなかった。
それがまさか、とうとう妻になってしまうとは、長年殺生丸に仕えた邪見ですら想像ができないことであった。


「まったく相変わらず呑気な娘じゃな。お前を娶ると決まってから、殺生丸様とわしがどんだけ苦労したかも知らずに」
「へ? どういうこと?」


邪見がほろっと零した愚痴は、りんにとって興味深いものだった。
殺生丸からの求婚を受けた後、まったく音沙汰がなかった三か月の間、彼らは一体何をしていたのだろう。
全容を知っているような邪見の口ぶりに、りんは身を乗り出して聞いたみた。


「わしはわしで殺生丸様からお前を迎え入れるための館の手配でてんてこ舞いじゃったし、殺生丸様は殺生丸様で、りんを嫁に取ることを御母堂様をはじめとする一族の方々に報告をして回られていた」
「えっ!殺生丸様そんなことしてたの?」


りんが幼いころから見てきた殺生丸という大妖怪は、誰かが定めたしきたりや掟に素直に従うような男ではなかった。
実母との仲も、さほど良いとは思えなかったというに、まさか妻を娶ることを律儀に親戚たちに報告していたとは意外だったのだ。
彼の性格上、母にすら何も言わずりんを娶っていてもおかしくはなかったというのに。


「あぁ。後々知られると面倒だとお考えだったのだろう。御母堂様はともかく、遠縁の方々からはやはり酷く反対されたらしい」
「やっぱり、そうなんだ・・・」


妖と人間がつがいになるということは、一般的に褒められるようなことではないという事実は、りんもよく知っていた。
殺生丸の一族に連なる者たちも、高貴な妖の家系に人間の女が混ざることに嫌悪感を感じたのだろう。
殺生丸が当初予想していた以上に、一族の、特に重鎮たちからの反対はひどいものだったという。


「紆余曲折の末、御母堂様のお力添えもあってなんとか納得していただけたが、戦い以外の場であんなに疲れた顔をしている殺生丸様は見たことがなかったぞ。しかも何故か巷の妖怪たちが殺生丸様の妖気を取り込もうと度々狙ってくるし、とにかく苦労の連続じゃったわ」


ため息交じりに話す邪見は、多忙だった日々を思い出したのかげんなりとした顔をしていた。
そんな邪見から目を逸らし、前方の殺生丸を見つめるりん。
彼は何も言わなかったが、りんが村で遅い遅いと愚痴をこぼしていた三か月の間、殺生丸はりんを迎え入れるために奔走していたらしい。
柄にもなく親戚周りなどをして、そのうえ共食いの風潮により雑魚妖怪たちから命を狙われる日々。
そうこうしている間に、求婚から三か月もの時間がたってしまっていたのだとか。
りんのため、目に見えないところで苦労をしていた殺生丸を想うと、胸が熱くなる。


「りん、殺生丸様に感謝せぇよ? なにせお前を迎え入れるため、わしも殺生丸様もいろいろと骨を折って・・・ぐおっ!」
「ありがとう!殺生丸様も邪見様もだいすき!」


ぶつぶつと説教を垂れていた邪見の口は、後ろから渾身の力で抱き着いてきたりんによって塞がれてしまった。
邪見の小さな体は、りんの腕の中にすっぽりと納まってしまう。
力強く抱き締められている邪見は苦しいのか、離せ離せとわめいているが、感情を爆発させているりんには届かない。
自分のため、三か月もの長い間苦労を重ねて環境を整えてくれた二人に、りんは最大級の感謝を述べた。
当の邪見は圧迫されている苦しさからほとんど聞いていないようだったが。後方のやり取りを盗み聞いていた殺生丸は、邪見を抱えて涙ぐんでいるりんにちらりと視線を向けつつ。楓の村に急ぐのだった。

 

 

END