Mizudori’s home

二次創作まとめ

禁断の花園

【殺りん】

犬夜叉

■未来捏造

■短編

 

りんと話すとき、殺生丸はいつも視線を合わせるために膝を折っていた。
背が小さいりんは、背の高い殺生丸に声をかけるとき、首を目一杯上に向け、彼の白い袖の引っ張って下を向いてもらっていた。
しかし、小さなりんと、大きな殺生丸の間にあった身長差は、いつの間にかどんどんと縮まっていき、しまいには殺生丸が膝を折らなくても視線が合うほどに、りんの背は高くなっていた。
ともに旅をしていた頃は、自分の腰のあたりまでしかなかったりんの身長は、今や並ぶと胸のあたりに頭が来る程度に成長している。
殺生丸が彼女を手放してから、まだ10年も経っていないというのに、りんは着々と大人へと変化していた。
無邪気に野山を駆け回っていた足はすらりとした女性らしい美しい足へと変わり、天真爛漫で無鉄砲だった性格も、少しずつだが落ち着きを覚えてきた。
時折村を訪れる殺生丸を見つけては、満面の笑みで走り寄ってきていた彼女だったが、最近は小さく微笑んで小走りで駆け寄ってくるようになった。
体、性格、声、そして笑い方。
ここ数年で、変わったところは数多くあるが、彼女の殺生丸を呼ぶ声色だけは、あの頃と一切変わることはなかった。

今日もまた、殺生丸はりんに手を引かれ、楓の村から少し離れた森の中にある花園へと来ていた。
赤い花が咲き乱れるこの場所は、二人が会うときにいつも訪れている憩いの場所である。
花園の真ん中にある巨木の根元に、二人は並んで腰かけていた。
以前までは、殺生丸がりんに会いに来たときは邪見も一緒に過ごしていたのだが、最近は気を遣っているのか、すぐに二人のそばから離れてしまう。
楓の家までりんを迎えに行き、殺生丸の元へ向かうりんとは入れ違いで、二人の時間が終わるまで村で待機しているのだ。

殺生丸と二人きりの時間は、基本的にりんが一方的に話しているだけの時間でもあった。
最近村で流行っていることや、かごめや珊瑚と一緒に過ごした話。
時折弟である犬夜叉の名前も話題に上がることがある。
そのたびあまりいい顔をしない殺生丸だったが、りんの話を遮るようなことは一度もしなかった。
今もりんは、七宝と一緒に先日野鳥を観察しに行った時の話を楽しそうにしている。
適当に聞いていた殺生丸だったが、ふと、遠くの木々を見つめていた視線を隣のりんに移せば、ちょうど彼女が自分の髪を触っているところだった。

しなやかで細いりんの指が、彼女の美しい黒髪に触れ、顔にかかっていた髪が耳に掛けられた。
垂れ落ちていた髪が耳に掛けられたことで、りんの白い首筋が露になる。
少し暑いのか、首筋にかいていた汗が、りんの後れ毛を湿らせていた。
伏し目がちに話しながら髪をいじる彼女の姿から、殺生丸はなぜか目を離せなかった。
頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。
先ほどまで聞いていたりんのどうでもいい話も、一瞬で頭から抜き出てしまった。
今、殺生丸の頭の中を支配しているのは、目の前にいるりんの白い首筋のみ。
風で舞い上がる赤い花びらが、甘い香りを振りまて、殺生丸の思考を停止させる。
熱に浮かされているかのようなこの感覚を、殺生丸は初めて経験した。


殺生丸様?」


りんの自分を呼ぶ声によって、一気に現実へと引き戻される。
我に返ると、りんが心配そうに顔を覗き込んでいた。
少し顔を近づければ、鼻先が触れてしまいそうなほど近い距離にあるりんの瞳には、呆然としている殺生丸自身の姿が映っていた。


「どうかしたの?」


揺れる瞳にまっすぐ見つめられている状況がどうも居心地が悪くて、殺生丸はすぐに目をそらした。
肩と肩が触れ合い、地面に置かれた互いの手は今にも触れ合いそうなほど近い位置にある。
そこで初めて、自分とりんの距離があまりにも近いとこに気が付いた。
今まで何も意識していなかったというのに、なぜ今になって距離感が気になってしまうのかは不明だが、気になってしまった以上、すぐには意識を逸らせない。
心臓を思い切り掴まれているような感覚を味わいながら、殺生丸は少しだけりんと距離を取った。


「どうもせぬ」
「そっか」


素っ気ない返事はいつものこと。
殺生丸の短い返答を特に気にする様子もなく、りんは話を続けた。
先ほどまでは七宝の話をしていたが、今度はいつの間にか琥珀の話題に切り替わっている。
琥珀が退治屋仲間の友人を紹介してくれたという内容であったが、殺生丸の耳にはほとんど入ってこなかった。

再びりんに視線を向ければ、やはりそこには白い首筋。
視界に入れるたびに心臓が締め付けれられるのは何故なのか。
どうにも居心地が悪くなった殺生丸は、またすぐにりんから視線をそらし、遠くに目をやった。
いつもなら陽が落ちるまで一緒にいる二人だったが、その日に限って、殺生丸は陽が落ちきる前にそそくさと帰ってしまったのだった。
まるで逃げ出すかのように。


********************


あれから数日。
殺生丸は自分自身の変化に気付いていた。
雑魚妖怪を相手にしている時も、悠々と空を旅している時も、邪見が一方的に話しかけている時も、何をしていても、あの日の光景が頭から離れない。
湿り気を帯びた後れ毛が汗で張り付く白い首筋。
まっすぐこちらを見つめてくる黒い瞳
触れ合いそうになる細い指。
思い起こすたびに、殺生丸は己の心臓が何者かによって握り込まれているような感覚に陥ってしまう。
戸惑いを胸に隠したまま、殺生丸は楓の村を見渡せる小高い丘の上に来ていた。
右手に抱えられているのは赤い帯。
りんのために手配したものだった。

楓の村を見下ろす殺生丸の心は曇っている。
りんに会いに行く足取りが、ここまで重くなったことはない。
以前会ったときに、この日にまた来ると約束してしまったがために、会いに行かないという選択を取ることが出来なかった。
殺生丸は意外にも、約束や義理には誠実な男なのである。
相手がりんであるのならば尚更だ。
いつもなら楓の村まではついてくる邪見も、今日は伴っていない。
やはり気を遣っているのか、“今日は先約がございます”などというあからさまな嘘をついてきたため一発殴ってみたが、それでも付いて来ようとはしなかった。

一人で会いに行くことに、言い知れぬ気だるさを覚えていた殺生丸は、肩から抜けるような息を吐き、ゆっくりと村に向かって丘を下りだした。
やがて、村に通る道を歩く人間たちの顔が目視で認識できるほど近づいたところで、殺生丸は足を止めた。
村の大通り、畑のすぐそばで佇むりんを見つけたのだ。
後ろ姿ではあるが、あの紫色の着物は以前殺生丸が贈った反物に間違いない、
匂いからしても、間違いなくりんであるその女性は、殺生丸の知らない人間と立ち話をしていた。
琥珀と似た鎧を着ているその人間は、りんと変わらないくらいの年齢の男だった。

男は笑顔でりんに何かを言い、りんもまた、口元に手を当てながら肩を揺らして笑っている。
りんと話している男はもちろん、彼らの周りを歩いている者、農作業している者、同じように道端で談笑している者。
よく見てみれば、ほとんどが殺生丸の知らない顔ばかりであった。
自分の知らない世界の真ん中で、りんは楽しそうに笑っている。
そんな光景を見た瞬間、殺生丸の心臓は余計に締め付けられ、同時に心の奥から熱い湯が沸きだすように怒りの感情があふれ出してきた。

りんと話しているあの男も、自分の知らない相手に笑顔を向けるりんも、何もかもが気に食わない。
目を細め、その光景を目に焼き付けるように見つめる殺生丸は、帯を抱えている右手に力を込めた。
殺生丸の鋭い爪が帯を貫き、指先から自然と漏れ出た猛毒が帯を溶かしてゆく。
殺生丸は、もはや帯には見えなくなってしまったその赤い布を乱暴に捨て去ると、踵を返して足早にその場を後にした。


「あれ? お義兄さん、りんちゃんに会いに来たの?」


村から離れ、森へ入る直前、殺生丸と入れ違いに村へ帰る途中なのであろうかごめとすれ違った。
薬草がたんまり入った籠を抱えながら声をかけてきた彼女に、言葉を返す気にはなれず、殺生丸はそのまま通り過ぎてしまう。
かけた言葉に対して返事がないこと自体はそう珍しくはないが、かごめは殺生丸から漂う途方もない殺気のようなものを感じていた。
もともと親しみやすい人物ではなかったが、最近はあそこまで殺気立っている殺生丸を見る事は無かったため、かごめは不思議に思っていた。

村で犬夜叉と喧嘩でもしたのかな?
そんなことを考えながら村へと向かっていたかごめだったが、草の上に落ちている溶け出した赤い布の残骸を見つけて足を止める。
よく見ると帯のようで、周囲の草花が枯れていることから、毒で溶かされたものだと判断できた。
何故こんな場所にこんな物があるのだろうかと周囲を見渡すと、遠くの方に道端で談笑しているりんの姿を見つけた。
話相手の青年は、琥珀の右腕のような存在で、最近よく村に出入りしている退治屋の青年だ。
楽し気に話し込むりんの姿と、無残に溶かされた帯を見て、かごめは合点がいった。
誰がこんな事をしたのか、何を思ってこんな行動を取ったのか。


殺生丸・・・」


かごめは、殺生丸が消えていった森の方向へと視線を向けた。
太陽に照らされている明るい村とは対照的に、森の中は暗く、陰鬱としている。
暗闇に消えていく殺生丸の姿を思い越し、かごめはなんだか悲しくなった。
以降、殺生丸が楓の村を訪れることはなくなった。


********************


誰も居ないその花園は、花びらを舞い上げる風だけが静かに吹いていた。
草花と風が触れ合う音だけが響くこの場所は、相変わらず美しく、静かで、そして寂しい場所だった。
殺生丸が楓の村に顔を出さなくなってから三か月。
最初のうちは忙しいのだと解釈していたりんだったが、会えない時間が一日一日と伸びていくごとに、不安は募っていった。
彼を見なくなって一か月が経ったころ、りんはとうとう待つだけの姿勢をやめ、自分から森へ入って殺生丸を探しに行くことにした。
決まって訪れるのは、殺生丸との時間を過ごしたあの赤い花園。
けれど、一度たりとも殺生丸がそこでりんを待っていることなど無かった。
花園はいつも静かで、誰もいない。
それでも、そこにいればいつか殺生丸が迎えに来てくれるような気がして、りんは毎日のように陽が沈むまで花園に通っていた。

 

「今日もあそこに行くのか?」


太陽が沈み始めたころ、村から出ていこうとするりんに声をかけたのは、佐吉だった。
佐吉は琥珀の元で修業をしている退治屋で、自分の次に腕がいいと琥珀から紹介されていた。
人当たりが良く、いつもニコニコしている彼は殺生丸とは全く逆の性質をもった人間だったが、りんにとって彼は大切な友人でもあった。
会うたびに色々な話をしてくれて、りんを決して飽きさせない。
一緒にいて楽しい男であることは間違いない。
そんな佐吉が、すれ違いざまに珍しく真剣な顔で声をかけてきた。
“あそこ”というのは。例の花園のことだろう。
足を止め、“そうだよ”と返せば、佐吉は足元に視線を落とし、何故だか寂しそうな顔をりんに見せてきた。


「あいつは、きっともう来ないよ」


ぽつりと呟かれた言葉は、りんの胸に刃となって突き刺さる。
殺生丸のことを佐吉に話す機会は何度かあった。
親代わりともいえる存在で、妖怪でありながら優しく気高い人なのだと。
彼に会いたいがために、りんが花園に通っていることも、佐吉は知っていた。
けれど、今までその行動を一度たりとも咎められたり意見されたことはなかったため、突然浴びせられた否定的な言葉に、りんは面食らった。


「なんでそんなこと言うの?」
「だって、もう三か月も来ないんだろう? お前はあいつの気まぐれに巻き込まれただけなんだよ」
「そんなことない!殺生丸様は・・・!」
「人間と妖怪じゃ、生きる世界が違うんだ!」


佐吉によって叩きつけられた事実に、りんは言葉を失ってしまう。
これまで、りんは何人もの人間に同じようなことを言われてきた。
そのたび反発し、自分のために足を止めてくれている殺生丸の背にしがみつくことで、聞こえないふりを続けていた。
けれど、今は、いつも前を歩いていた殺生丸がいない。
名前を呼べば足を止め振り返ってくれる殺生丸は、どこにもいない。
りんを置いて、どこかへ行ってしまった。
佐吉の言葉に耳を塞ぎたくても、目を逸らしたくても、重苦しい現実はりんを捉えて離さない。

いつの間にか、佐吉はりんを後ろから包み込むように抱きしめていた。
りんとそこまで年齢が離れていないにも関わらず背が高い佐吉は、小柄なりんを簡単に腕の中に閉じ込めてしまう。
異性に抱き留められているというのに、りんの頭の中を支配しているのは、数か月も姿を見せない犬妖怪の顔だった。


「りん、俺の嫁になってくれないか? 退治屋としての腕には自信がある。俺なら、お前を守ってやれる」


佐吉は誠実な男だった。
琥珀からりんを紹介されて以来、りんに想いを寄せていたのだが、彼女が殺生丸と親密な関係にあったため、その気持ちをひた隠しにしていた。
けれど今、彼女の心を支配していたその妖怪はいない。
りんが殺生丸の話をするたびに想いを募らせていた佐吉は、最大の敵が居なくなったこの好機を狙わずにはいられなかった。
卑怯であることは重々承知の上。
それでも、毎日飽きもせずにあの花園で待ち続けるりんを放ってはおけなかったのだ。


「佐吉、あたし・・・」
「答えは今じゃなくてもいい。ゆっくり考えてから、答えてくれ」


ゆっくりとりんを解放した佐吉は、逃げるようにその場から去っていった。
りんが何を言おうとしていたのか、想像が付いたのかもしれない。
だからこそ、答えを聞く前に逃げ出した。
りんは、去っていく佐吉の背中を眺めながら、胸を痛めた。

佐吉は、なにも自分と殺生丸の仲を引き裂こうとしているわけではない。
ただ、りんのことを想っているだけなのだ。
りん自身も、自分が置かれている状況の危うさは理解していた。
妖怪である殺生丸と一緒にいることは、人間であるりんにとって、決して正しい選択とはいいがたい。
ただでさえ、心の内をなかなか見せてくれない彼と一緒にいることで、胸が痛くなる時もあった。
けれど、どんなに心がささくれても、どんなに傷ついても構わない。
この先どれほどの痛みや悲しみ、苦しみが待ち受けていようとも、殺生丸の隣にいたい。
そう思えるほどに、りんは殺生丸に恋をしていた。

今日もまた、りんは花園へ向かう。
そこに殺生丸が現れる保証はないが、そこで待ち続けていれば、いつか会いに来てくれると信じたかった。

********************


陽が落ち、星々がきらめく夜。
殺生丸は夜空に堂々鎮座する満月を横切るように空を浮遊していた。
久しく会っていなかった母に用があり、遠出していたために、今夜は邪見を伴っていない、
邪見や阿吽を待たせている峡谷へ向かう途中、殺生丸はとある森の上空へと差し掛かっていた。
楓の村のすぐ近くにあるあの森である。
広大な森の中には、かつてりんとともに過ごした例の花園がある。
名前も知らない赤い花が一面に咲いているあの美しい光景を、殺生丸は長らく目にしていなかった。

りんと最後に会ってから、もう三か月。
何度か彼女に会いに行こうと試みたこともあったが、そのたびに、あの日の光景が脳裏に浮かんでは怒りがこみ上げる。
幼かったころのりんは、家族もいなければ友人も知り合いすらもいなかった。
あの頃のりんにとって、殺生丸が見せる世界がすべてであり、彼女の見ている世界は、すなわち殺生丸が見ている世界でもあった。

けれど、今のりんは、あの頃とは違う。
身長も高くなり、背伸びをしなくても、少し見上げるだけで殺生丸と視線が合うようになった。
体力もつき、殺生丸の腕が届かない範囲まで走って行けるようになった。
成長するとともに、りんは殺生丸の知らない世界へとどんどん足を踏み入れてゆく。
その知らない世界というものは、いわゆる人間の社会というものなのだろう。
陰鬱な暗闇が似合う妖怪とは違う、明るい光が当たる活気ある世界こそ、人間であるりんにふさわしい場所。
彼女と自分とでは、生きる世界が違う。
あの日の光景は、殺生丸の胸ににその事実を刻み付けてしまった。

眼下に城がる森を見つめ、鼻を鳴らす殺生丸
人間とはかけ離れた嗅覚を持つ彼の鼻腔を、花の香りがくすぐった。
間違いない。りんとともに過ごしていた時に嗅いだ、あの匂い。
赤い花園の香りである。
殺生丸は、ゆっくりとその匂いめがけて降下してゆく。
木々を抜けると、そこにはあの頃と変わらない、真っ赤に咲き誇る赤い花たちが並んでいた。
この花園に来るのは久しぶりである。
もっとも、いつもは陽が高い頃に来ていたため、夜に訪れるのは初めてであったが。

なびく風に導かれるように、殺生丸は一歩一歩踏みしめる。
あたりは甘い花の香りで包まれていたが、ほんのわずかに、嗅ぎ慣れた香りが混ざっていた。
りんの香りである。
まさか、ここにいるのか?
いや、こんな夜更けにいるわけがない。
そう思いながらあたりを見回してみると、いつも二人が腰かけていた巨木の根元に、一匹の妖怪がいることに気が付いた。
鋭い鎌をもった、虫のような妖怪である。
そんな妖怪のすぐそば、巨木の根を背にして眠っている人影を見て、殺生丸は戦慄した。
あれは、間違いなくりんである。
虫妖怪はりんを食おうとしているらしく、鋭く大きな鎌を振り上げている。
殺生丸は、花が広がっている地面を即座に蹴り上げ、妖怪との距離を詰めると、毒を含んだ自身の爪を妖怪の背に突き立てた。
妖怪は醜く悲鳴を上げると、血しぶきをあげながらその場で絶命する。

他愛もない雑魚妖怪は、殺生丸相手に一瞬で溶けて消えてしまった。
けれど、彼にとってどんなに力のない妖怪であろうとも、か弱いりんにとっては脅威でしかない。
つい先ほどまで妖怪に食われそうになっていたというのに、のんきに眠り続けているりんを見下ろす殺生丸
久しぶりに見た彼女の顔は相変わらず無垢で純粋だ。
規則正しい寝息が耳に届くたびに、殺生丸の心臓はやはり鷲掴みにされたように締め付けられる。
ふと、りんの左目のすぐ下に、血の跡があることに気が付いた。
先ほどの妖怪の返り血が付いてしまったのだろう。
白く美しいりんの肌に、汚らわしい妖怪の血は似合わない。
拭ってやろうと、殺生丸は自身の右手の親指でりんの肌に触れる。
しかし、血の跡は拭われるどころか、広がってしまった。
どうやら、殺生丸の右手にも、あの妖怪の返り血が付いていたようである。

殺生丸は、自身の右手の平に視線を落とした、
血でまみれたその手は、一本一本の指に長く鋭い爪が生えている。
りんの柔らかく、小さい手とは全く違うその手は、今までいくつもの命を奪ってきた。
妖怪はもちろん、人間の命すらも。
こんな手で、いつもりんに触れていたのか。
殺生丸は目を細め、血の付いたその手を握りこんだ。


「んっ・・・」

先ほどの一戦が騒がしかったのか、りんは声を漏らしながら身をよじった。
やがて、固く閉ざされた瞼はゆっくりと開き、潤んだ黒い瞳が顔を出す。
ぼやける視界を探るように瞳のピントを合わせれば、目の前に立っていた白い人物にりんは面食らう。


「せっ・・・しょうまる、さま」


信じがたいとでも言いたげな彼女の瞳は見開かれ、その表情は驚きに満ちていた。
三か月ぶりに聞いた彼女の声は、あの頃と何も変わりない。


「りん」


その名を口に出したのも、久しぶりだった。
邪見には気遣いによって、あの日以来りんの名前が話題に上がることは一度もなかったから。
いざ口に出してみると、その名前は何かの呪文のように響き渡り、殺生丸の心を震わせてしまう。
情けない。
たった一人の人間の少女の名前を呼ぶだけで、こうも心が高ぶってしまうのか。
自分自身にあきれ返る殺生丸の心情など知る由もないりんは、目に涙をいっぱいに貯めながら、殺生丸に笑いかけてきた。


「夢、なのかな・・・? ずっと会いたかった殺生丸様が、目の前にいる」


その言葉が、どれだけ殺生丸の心を乱してしまうのか、未だ無垢なりんには到底想像もできないだろう。
冷たく凍り付いている殺生丸の心に、りんの言葉は熱湯のように注がれる。
このままこの場にとどまり続けたらまずい。
きっと、りんという透明な存在を自分の色で強引に染めてしまう。
自分自身が、人間の色に浸ってしまう。
それは、殺生丸の大妖怪としての本能が告げる、危険信号であった。


「こんな夜更けに何をしている。早く村へ戻れ」
「え、あ、待って!殺生丸様!」


踵を返し、りんに背を向けて歩き出す殺生丸
そんな彼を追うため立ち上がろうとするりんだったが、長い間この体勢で眠ってしまっていたらしいく、足がひどく痺れていて動かない。
そうこうしている間にも、殺生丸は先へ行ってしまう。
遠くへ行ってしまう愛しい背中に、りんはただ言葉で引き留めるしか術を知らなかった。


殺生丸様!なんで会いに来てくれなかったの!? りん、ずっと待ってたのに!」


叫ぶりんの声は届いていたが、殺生丸が足を止めることはなかった。
赤い花を踏みつけながら歩く彼の足を何とか止めたいりんは、さらに大きな声で彼の名前を呼ぶ。


殺生丸様!待って!行かないで!」


愛しい男の名前を呼ぶ声が、涙声に代わったとき、殺生丸はようやくその足を止めた。
けれど、振り返ることはない。
今振り返ってりんの顔を見てしまったら、きっと決心が揺らいでしまう。


「りん、いつか自らの道を選べるようにと言ったことを、覚えているか」
「・・・は、はい」
「今がその時だ」


殺生丸が、嫌がるりんを半ば強制的に楓の村に預けたあの日、彼はりんに対してある言葉をかけていた。
いつか、道を選べるように。
その言葉の意味を、幼いながらもりんはよく理解していた。
人間であるりんが、妖怪である殺生丸たちとともに生きることは容易ではない。
だからこそ殺生丸は、その優しさから、人里で暮らすという選択肢をりんに与えたのだ。
しかし、そんなことをされても、りんの心は一度たりとも変わることはなかった。
何があっても、誰と一緒にいても、りんの心が殺生丸から離れることはない。
これまでも、きっとこれからも。
りんの中で、その答えはすでに出ているものだった。
けれど殺生丸は、その答えを聞く前に、自らりんを拒絶してしまう。


「そんな・・・突然すぎるよ。それにりんは殺生丸様達と一緒に・・・」
「私は妖怪、お前は人間。ともに生きる道は、いばらの道だ」
「でも・・・」
「くどい。われらは生きる世界が違うのだ」


殺生丸から投げつけられた言葉に、りんは胸を締め付けられる。
まさか、その言葉を今日で2回も聞くとは思わなかったのだ。
佐吉からはともかく、殺生丸本人からそんなことを言われてしまったことも、衝撃的だった。
背を向けたままの殺生丸は、花園に吹く風を一身に受けて美しい銀髪を揺らめかせている。
静かな花園に響く彼の辛辣極まりない言葉は、りんをただただ傷付けた。


殺生丸様も、そんなこと言うんだ・・・」


脱力したようなりんの声は、風の音にかき消されそうなほど小さいものだった。


「わかってるよ、そんなこと。殺生丸様は手の届かないところにいる人だってことも、一緒にいたら傷付くかもしれないってことも・・・。でも、それでもいいの。りんは、殺生丸様と一緒にいたいの!」


投げやりに叫ばれた言葉は、静かな花園に反響する。
どうしても分かろうとしないりんに、殺生丸は唇を噛んだ。
このままでは、りんの心に遺恨が残るかもしれない。
それだけは避けたかった。
己の心を削りながらでも、何とか説得しなくてはならない。
殺生丸が、りんのいる背後へと振り返ろうと身をひるがえしたその時だった。
自分の左腕に、小さな衝撃が走る。
何かがぶつかってきたのと同時に、愛しい香りが、花の香りに交じって殺生丸の鼻腔をくすぐった。
りんが、殺生丸の左腕に己の腕を回し、肩に顔をうずめているのだ。
突然の出来事に、殺生丸は柄にもなく戸惑ってしまう。
そんな彼の心を知らないりんは、痺れて動かしにくい足を震わせながら、絞り出すような声で言った。


「だからお願い・・・りんを、おいていかないで」


りんが、これほどまでに力が強かったことを、殺生丸はここで初めて知った。
かつて殺生丸の後ろを黙って付いて来ていたりんは今、彼を逃がすまいと強い力でその腕を捕まえている。
行かないでとすがるりんはもはや、物言わぬ童などではなく、一人の女であった。
そんな彼女から漂ってくる香りに、ひとつだけ気に食わないものが纏っていることに殺生丸は気が付いてしまった。
人間の男の香りが、りんの全身を包んでいる。
その匂いを、殺生丸は一度だけ嗅いだことがあった。
三か月前、りんと一緒に楽しそうに笑っていた退治屋の男。


「りん、なぜ男の匂いをさせている」
「えっ?」


自分よりも背の高い殺生丸から投げかけられた言葉に、りんは驚いて首を上げる、
先ほどまで泣いていたのだろう。
目に涙を浮かべながら面食らうりんの瞳には、怒りを孕んだ殺生丸の顔が映し出されていた。


犬夜叉でも、法師でも、琥珀でもない、私の知らない匂いだ」
「それは、さっき佐吉が・・・」
「名前などどうでもいい。私の知らぬくだらぬ男に、気安く触れさせたのか」


りんが纏う匂いは、彼女に近付かなければ気付けないほど微々たるものだった。
触れられたといっても、短時間だったのだろうが、それでも殺生丸の乱れた心が収まることはない。
りんから、自分の知らない匂いがする。
その事実だけで、殺生丸は湧き上がる敵意と殺意を抑えることができなかった。
彼が、りんに対してここまで怒りを露にするのは初めてのことである。
怒気を纏う殺生丸に怯んだりんは、彼の左腕に触れていた手を離し、ゆっくりと後ずさる。


「違うの、殺生丸様。佐吉とは何も・・・」
「その名を口にするな!」
「きゃっ」


珍しく声を荒らげた殺生丸に驚き、花の蔓に足を取られたりんは、その場で転倒し、尻餅をついてしまう。
その一瞬の隙を見逃さなかった殺生丸は、転倒したりんの肩を押し、花々が咲き誇る地面へと押し倒してしまった。
りんの目の間に広がるのは、夜空に輝く月と、そんな月よりも妖艶で美しい殺生丸の顔。
逃れられないよう、右手で肩を抑えられ、左手はりんの顔のすぐ横に置かれている。
殺生丸との付き合いは長いはずのりんだったが、彼とこんな体勢になるのは初めてのことだった。


「お前が共にありたいと言ったこの殺生丸は、お前が思うほどぬるい男ではない」
「せっしょうま・・・」
「これから村へ行き、りんに触れたその男をこの爪で引き裂くことも出来るのだぞ」


低い声でささやかれた脅しを受けて、りんは自分の肩を抑え込んでいる殺生丸の右手に目をやった。
彼の手には鋭い爪が生えているが、その爪がりんの体を傷つけぬよう、殺生丸は指の腹で肩を抑え込んでいる。
これが怒りに任せた衝動的な行為なら、とっさに爪を立ててしまっていてもおかしくはない。
けれど、彼は優しい。
りんが望まないことは絶対にすることはない。
殺生丸という冷徹な大妖怪をりんは心から信じていた。


殺生丸様は、そんなことしないよ。だって、優しいから」
「知ったような口を聞くな」


殺生丸は、りんの肩を抑え込んでいた手に力を籠め、彼女の白い首筋に向かって噛みついた。
甘噛み程度の弱い噛みつきだったが、彼の鋭い牙が、りんの肌にチクリと触れる。
彼女の首筋に歯を当てながら、殺生丸はそもそもこの白い首筋がことの発端だったことを想いだす。
三か月前のあの日、自分がりんに妙な劣情を覚えなければ、こんなことにはならなかった。
顔を見るたび心乱されることも、声を聴くたび心臓が締め付けられることも、漂う香りに一喜一憂することも無かったはずだ。
今も殺生丸の心はざわめいていて、収まりそうもない。
柄にもなく震える心が、揺らぐ理性が、乱される感情が、殺生丸に嫌でも事実を教えてくれる。
自分は、どうしようもなく、りんに恋をしているのだと。

貪るようにりんの首筋に食らいつく殺生丸の牙は、ほんのわずかな痛みを与えるだけで、りんに恐怖をもたらすことはなかった。
ただ、思い知らせるように噛みついてくる殺生丸がかわいらしく思えて、りんは彼の美しい銀髪を左手で撫でる。
それはまるで、自分に対して威嚇してくる大きな犬をなだめているかのようだった。


「なぜ拒まぬ」


口を離し、顔を覗き込んでくる殺生丸の表情は、柄にもなく、こちらの機嫌を伺うもの。
さっきまで怖い顔で威嚇していたというのに、変わり身の早い殺生丸の様子に笑みをこぼしながら、りんは答えた。


「だって、殺生丸様のことが好きだから」


長い間、大妖怪として生きてきた殺生丸には、人間の言う好きだとか、愛しているなどという感情はわからない。
けれど今、すべてを包み込むような瞳で殺生丸を見つめているりんの姿を見て、心からこみあげる生暖かい感情がそれだというのなら、きっと間違いないのだろう。
誰か一人に執着するなどくだらない。
ましてやその相手が、弱く儚く、そして脆い人間の少女だとは、なんとも馬鹿けている。
心の奥ではそう思っていても、殺生丸の本能は止められそうもなかった。
たとえ間違った選択だったとしても、彼女をかき抱いていたい。
その心から自分の存在が無くならないよう、永遠に見つめ続けていたい。
笑ってしまうような可笑しい感情が、殺生丸の心を支配していた。


「ならば、私の知らぬ匂いなどつけるな」


それは、大妖怪にふさわしくない小さな嫉妬心だった。
誰よりも強い力を持っているくせに、かわいらしい独占欲を発揮する殺生丸がなんだかおかしくて、りんは小さく笑いながらうなずいた。


「じゃあ殺生丸様も、りんの知らないところに行っちゃだめだからね」


りんの言葉に対する返答が、殺生丸の口からなされることはなかった。
かわりに、先ほど食らいつかれた首筋を、冷たい舌で舐め上げる。
それは殺生丸にとって、肯定の意であった。
優しい風が吹き、赤い花びらが舞い上がる。
美しい花と月の光で彩られたその花園には、殺生丸とりんの二人しかいない。
妖艶な空気を身にまといながら、二人は朝までともに寄り添い過ごすこととなった。
翌日、帰りが遅いりんを心配していた楓に叱られ、殺生丸犬夜叉夫婦に責められることになったのは、言うまでもない。

 

 

END