【サトセレ】
■アニポケXY
■未来捏造
■長編
***
act.1
太陽から降り注ぐ殺人的な日差しは、マサラタウンのアスファルトを焦がし、今日も温度計の数字をグングン上げている。
遠くが歪んで見えるほど、あたりは熱気で満ちていた。
気温は32度。文句なしの猛暑日である。
そんなある夏の日のこと、この街を故郷とする13歳の少年、サトシは汗をかきながら坂道を登っていた。
うだるような暑さだというのに、何故だか不快感がないのは、夏が好きだからなのかもしれない。
熱視線を浴びせる太陽。
日を一身に浴びようと必死に上を向くキマワリたち。
生暖かい風に揺れる風鈴の音。
真っ青な空を遮るように浮かぶ入道雲。
その全てが好きで、サトシは今日も汗を拭いながら胸を躍らせていた。
相棒のピカチュウは、この暑さにやられたのか、肩の上でぐったりととろけている。
そんな彼の毛並みを撫でながら向かうのは、坂の上に鎮座するマサラの象徴、オーキド研究所。
かの建物の主人に呼び出され、サトシは少しだけ息を切らしながら猛暑の中を歩いている。
なにやら“頼みたいことがある”らしいのだが、こちらから研究所に出向かなくてはならないのは、博士が高齢を理由に冷房の下から動きたくないからだ。
高齢とは言っても、最近は研究者として売り出し中の孫と、元気にフィールドワークに勤しんでいるようだが。
「はぁ。やっとついたな」
「ピッカ」
坂を登りきったすぐそこにあるのは、オーキド研究所の門。
その門に手をついてため息をつくが、鉄製でできたその門はまるで熱せられた鉄板のように熱く、サトシは思わず小さな声を漏らしてすぐに手を離す。
首筋に垂れる汗が気になる。
家を出る前に声をかけてくれた母の言う通り、ハンカチを持って出ればよかった。
そんな後悔を抱きながら、サトシは門をくぐりオーキド研究所の敷地内へと足を踏み入れる。
どでかい扉の割に、設置されているインターホンは小さい。
そのボタンを押して呼び鈴を鳴らせば、数十秒後に懐かしい顔が出迎えてくれた。
「あぁ来たね、サトシ。いらっしゃい」
かつて共にオレンジ諸島を旅したこのケンジという男は、今は憧れていたオーキド博士の助手としてこの研究所で働いている。
そんな彼と挨拶を交わし、促されるままに玄関へと入る。
丁寧に用意されていたスリッパに履き替え、パタパタと音を立てながらフローリングを歩けば、次第にエアコンの涼しい風が肌に触れる。
おそらくその風はリビングから漏れ出ているのだろう。
前を歩くケンジによって、廊下突き当たりにあるそのリビングの扉が開かれる。
「おおサトシ。よく来たな」
中にいたオーキド博士は、ソファに腰かけ、優雅に紅茶を嗜んでいた。
ずっとこのエアコンの下にいたらしく、彼は汗ひとつかいていない。
そんな博士の向かい側に設置されていたソファに腰を下ろすと、暑さからくる疲れがどっと体に訪れる。
肩から降りたピカチュウは、即座にサトシの膝上へと移動し、丸くなった。
出会った当初は息が合わなかったという事実を疑ってしまうような光景に、博士は目元にしわを寄せながら小さく微笑む。
「それで博士。頼みたいことって何ですか?」
そう質問を投げかけると、サトシはケンジによって運ばれて来た紅茶のカップへと口をつける。
どうやら中身はレモンティーのようだ。
心地いい酸味と甘みが口の中に広がる。
一緒に出されたクッキーは、サトシよりも先に膝上でくつろいでいたピカチュウが手をつけていた。
出されたものに対して無遠慮に手を伸ばすようなところは、3年前にこの街を旅立ったあの頃から変わらない。
そんなサトシを小さい頃から見て来たオーキド博士にとって、それは悩ましくも微笑ましい事象であった。
「ケンジ、あれを」
そんなサトシの質問に応えるべく、博士は側に立っていたケンジへと目配せする。
すると彼は小さく返事を返し、リビングの隅にあった箪笥の引き出しを漁り出す。
そして取り出されたのは、宝石を入れるような小さくて白い小箱だった。
ケンジからそれを受け取ると、博士は机に箱をスッと置き、サトシに開けるよう促す。
イマイチ“頼みたいこと”の内容が見て来ないため、首をかしげるサトシ。
博士に促されるまま小箱を受け取り、その中身を確認した途端、サトシは目を見開く。
そこに存在していたのは、彼にとって宝石よりも魅力的で価値のある、小さな石であった。
「これって、メガストーン!?」
「うむ」
独特の模様と光を放つその小さな石は、サトシが3年前に旅をしていたカロス地方で何度か見たことがあった。
メガストーン。
カロスやホウエンで見られる“メガシンカ”に必要となってくるアイテムだ。
ここ、マサラタウンがあるカントーではメガシンカの報告はほとんどない。
従って、カントーでメガストーンを目にするのは非常に珍しい。
何故博士がこれを持っているのか、サトシには見当もつかなかった。
「お前さんに、そのメガストーンをカロスのプラターヌくんへと届けて欲しいのじゃ」
「プラターヌ博士に?」
博士の口から飛び出した懐かしい名前に、再びサトシは驚くことになる。
プラターヌ博士は、カロス地方のミアレシティに拠点を持つ有識者で、メガシンカについて研究している。
つまり、このメガストーンに詳しい人物なのだ。
依頼の本題は理解できたが、その背景が分からない。
肩に乗り、メガストーンを覗き込んでいるピカチュウと共にキョトンとした表情を見せているサトシに、オーキド博士は事情をゆっくりと語り出した。
カントー、セキエイ高原で偶然発見されたとある珍しい石は、恐らく進化の石の新種だろうという事でオーキド博士の元に持ち込まれた。
しかし、博士の独自の研究の結果、この石は進化の石ではなく、一部の地方で伝承が残るメガストーンだということが判明。
研究を進めていたオーキド博士だったが、そもそもメガシンカの研究に着手していなかった彼にとって、メガストーンの謎は解き辛いものである。
この石がメガストーンである事は分かったが、どのポケモンをメガシンカさせるものなのかは、オーキド博士の力ではどうしても分からなかった。
そこで、メガシンカについて詳しいプラターヌ博士に協力を仰ごうという事になり、彼と以前会ったことがあるサトシを使いとして立てようという結論に至ったのである。
「つまり、これを持ってカロス地方に行って、プラターヌ博士からどのポケモンをメガシンカさせることが出来るのか聞いてくればいいんですね?」
「その通りじゃ。お前さんはカロス地方にも行ったことがあるし、適任じゃろうと思ってな。行ってくれるか?」
「もちろんですよ!カロス地方かぁ……楽しみだな、ピカチュウ!」
いつの間にか肩の上に移動していたピカチュウに笑いかければ、彼は満面の笑みで頷いてくれる。
サトシがかの地方を旅していた頃の記憶は、もう3年前だというのに鮮明で、キラキラと輝きを帯びていた。
あの日見た街は、変わっていないだろうか。
あの日見た空は、今でも美しいだろうか。
あの日別れた仲間は、元気にしているだろうか。
遠いカロスの地を思い浮かべ、サトシはその口元に自然と笑みを浮かべていた。
胸が高鳴るのは、夏のせいだけではない。
きっと、懐かしいあの場所に帰れるからだ。
サトシは博士とケンジに小さく挨拶すると、メガストーンの入った小箱を握りしめ、ピカチュウと共に足早に研究所から出て行ってしまった。
**********
外はやっぱり笑ってしまうほどに暑くて、エアコンの傘下から抜け出したサトシの首筋からは再び汗が伝う。
研究所から飛び出し、広大な庭へと歩を進めれば、様々な種類のポケモンたちが、各々照りつける日差しの下でくつろいでいた。
このオーキド研究所には、マサラタウン出身のトレーナーたちがゲットしたポケモンたちが暮らしている。
もちろん、サトシのポケモンたちもこの庭で生活しているのだ。
数週間前、様々な地方を旅していたサトシが久しぶりにマサラタウンに帰って来て以来、彼はほとんど毎日この庭に通い詰め、自分のポケモンたちと特訓の日々を送っている。
ポケモンマスターを夢見てこの街を旅立った3年前に比べ、彼は大きく成長した。
ゲットしたポケモンたちは高レベルにまで成長し、数ヶ月前に開催されたカントーリーグでは、見事優勝を果たすほどの実力派となっている。
次に開催されるチャンピオンリーグ出場を目指しているサトシだったが、ここ数日はあまりの暑さのため特訓はお休みしていた。
そんな中、彼は久しぶりに庭を歩きながら目当てのポケモンを探す。
久しぶりにカロスに行くからには、あの地方を故郷とするポケモンたちを連れて行ってやりたい。
そんな気持ちから、サトシはカロスでゲットしたファイアロー、ルチャブル、オンバーンを迎えに来たのだ。
カロスへ行くことを知り、はしゃぎまくりの3匹をボールに戻すと、サトシは再びあたりをキョロキョロと見渡し始める。
彼には、もう一匹カロス地方に連れて行きたいポケモンがいるのだ。
「あ、いたいた!おーいリザードン!」
暫く庭を歩くと、木陰で横になっているオレンジ色の巨体を見つけることができた。
のんびりと眠っていたリザードンに声をかけると、彼はその目をそっと開いてサトシを見つめる。
イッシュを旅していた頃、リザフィックバレーから戻って来た彼は、暇な時はいつもこうして木陰で休んでいる。
そんな彼に近寄ると、リザードンは横たえていた巨体を起こし、自分の腹を撫でている主人を見下ろす。
サトシがカロスに連れて行きたかったもう一匹のポケモンとは、このリザードンであった。
「リザードン、俺と一緒にカロスに行こうぜ」
プラターヌ博士の元には、サトシのライバルの1人でもあるアランという青年がいるはずだ。
彼はメガリザードンの使い手であり、かつて自分のエースだったゲッコウガを倒すほどの実力を持っている。
そんなハイレベルなリザードンと会うことで、自分のリザードンも何か刺激を受けるのではないだろうか。
そんな考えから、サトシはリザードンに声をかけたのだ。
特に詳しい事情を聞いているわけではないが、サトシの提案を断る理由もないリザードンは、コクリと頷く。
そんな彼の首元を撫でてやれば、グルルと喉を鳴らしてみせた。
サトシの行動を真似るように、肩に乗っていたピカチュウもリザードンの鼻先をペチペチ撫でてみるが、やられている本人は嫌そうにしている。
「よし!じゃあ決まりだな!早速出発だ。行こうぜリザードン!」
そうと決まれば直ぐ行動。
衝動に任せて足を動かすのがサトシいう少年である。
母にはまた苦笑いされるだろうが、明日には出発しよう。
そう心に決めて、サトシは歩き出す。
そんな主人について行くため、背後にいるリザードンはのっそりと立ち上がる。
暫く寝転がっていたせいか、体が痛い。
伸びをするため翼を広げるリザードンだったが、その瞬間、彼は苦痛を訴えるような呻き声をあげた。
「どうした?リザードン」
いつもと違う鳴き声をあげたリザードンを不審に思い、サトシは振り返る。
しかし、背後にいたリザードンはけろっとした表情で首を横に振り、なんでもない事をサトシに伝えてくれる。
様子がおかしいリザードンに疑念を抱いたが、彼が“なんでもない”と言うのならそれ以上の心配は無用だろう。
サトシは“そうか”と微笑むと、再び前を向いて歩き出す。
リザードンは強い。
だからこそ、必要以上の心配を寄せる事はないサトシだったが、そんな彼の肩に乗るピカチュウは見逃さなかった。
リザードンが、自分の翼をいたわるように舌で舐めている光景を。
***
飛行機を利用しても丸一日かかってしまうほどに、カントーとカロスは遠い。
それ故に、3年前の旅が終わって以来、サトシは一度もカロスの地に足を踏み入れたことはない。
もちろん、かつての仲間たちや、旅の道中でお世話になった人たちとは頻繁に連絡を取っていたが、直接会う機会には恵まれなかった。
だからこそ、このお使いはサトシにとって胸踊るイベントであった。
自分と同じように3年の月日を過ごした仲間たちは、どんな変化を遂げているのだろう。
想像するだけで落ち着かない。
早くみんなに会いに行きたいが、事前にプラターヌ博士に連絡していたため、まずはお使いをやり遂げなくては。
そんな事を考えているうちに、サトシを乗せた飛行機は、カロスのミアレ空港に到着した。
久しぶりに降り立ったミアレの街は、あの頃と何も変わらない。
大きくて人の多い空港は、3年前はじめてこの地に降り立ったあの日と、この地を離れたあの日を思い出させる。
一階の搭乗口から、二階に上がるためエスカレーターに乗る。
ゆっくりと上昇するエスカレーターに乗りながら、サトシはハッと思い出す。
あぁ、この場所は確か…。
エスカレーターを登りきり、その場で振り返る。
彼女と別れたあの場所は、3年経った今でも変わらない。
彼女は今、どこで何をしているのだろう。
「ピカピ?」
ピカチュウは、エスカレーターに振り返って目を細めている主人の名前を呼んでみる。
どうしてそんなに感傷的な顔をしているのだろう?
長年彼の肩を独占してきたピカチュウでも、今のサトシの感情は読み取れなかった。
不思議そうに自分の顔を見つめてくる黄色い相棒の頭を撫で、サトシはクスッと笑みを浮かべる。
「なんでもない。さ、行くか!」
気を取り直し、サトシは歩き出す。
自動ドアをくぐり外に出れば、熱気が足元からじっとりと這ってくる。
空港の中は冷房が効いていたせいか、今が夏だと言う事をすっかり忘れていた。
カロスもカントーと変わらず猛暑日となっているようで、こちらの夏も気持ちいいほどに暑い。
上を見上げれば、燦々と照りつける太陽がそこにあり、真っ青な空を2つに裂くように、ミアレの象徴であるプリズムタワーが姿を見せている。
その大きな塔を目にし、サトシは改めて実感するのだった。
ようやく、カロスに来たのだな、と。
アスファルトの焦げ付く匂いを嗅ぎながら、暫く歩き続けると、街の小さな変化に気がついた。
ミアレシティ独特のお洒落な街並みに、まるで何かのイベントが催されるかのような装飾を施されている。
元々人の多い街だったが、3年前の記憶にある光景以上に活気で溢れていた。
なにかお祭りでもあるのだろうか。
色鮮やかに装飾された街並みを見上げながら、サトシは歩き慣れた道を行く。
そして、歩くこと10分。
立派な門構えのプラターヌ研究所に到着した。
何度も壊されて再建したというのに、この研究所ははじめて見た時となにも変わっていない。
懐かしさが胸に込み上げてくる。
この場所には輝くような思い出がたくさん詰まっていた。
ケロマツを貰ったのもこの場所。
リーグの表彰式をしたのもこの場所。
きらきら光る思い出が詰まった研究所の扉に、サトシはゆっくりと手をかけた。
「ごめんくだ
重たい扉を押し開き、中を伺うように恐る恐る足を踏み入れるサトシ。
しかし、そんな彼の挨拶を遮るように、パンッという大きな破裂音が鼓膜を刺激する。
イキナリの音に肩をビクつかせるサトシ、思わず頬から小さく放電するピカチュウ。
そんな彼らの目に飛び込んできたのは、色とりどりの紙吹雪と、クラッカー片手に駆け寄ってくる見知った顔の仲間たちであった。
「やぁ、いらっしゃい、サトシ君」
「サトシーっ!久しぶり!」
「お久しぶりですね!サトシ!」
クラッカーを持った手で拍手するプラターヌ博士と、その助手たち。
彼らの陰からひょこっと顔を出したのは、かつてこのカロスの地を共に旅した兄弟。
シトロンとユリーカだった。
驚いた顔で呆けているサトシとピカチュウにまず駆け寄ってきたのは、少しだけ背が伸びたユリーカ。
頭にデデンネを乗せた状態でサトシの手を掴んでくる彼女は、持ち前の明るさを前面に出した煌らかな表情で見上げてくる。
次に駆け寄ってきたシトロンは、相変わらず大きくて丸いメガネをかけているが、その分厚いレンズの先にある青い瞳は、明らかに青年の輝きへと成長していた。
「ユリーカ、シトロン……。なんでここに?」
「僕が知らせたんだよ。サトシ君が久しぶりにカロスに来るよってね」
呆然としているサトシの疑問に答えたのは、プラターヌ博士であった。
白衣を着崩した彼の風貌も、3年経っているとはいえまるで変わっていない。
事前に訪問することを連絡していたため、その連絡を受けた彼が、急いでプリズムタワーにいるミアレ兄弟へと報告したのだとか。
それを聞いた2人は大いに喜び、ミアレの雑貨店を回ってクラッカーを買いあさったそうだ。
それを聞いたサトシは、張り切って町中を走り回る2人の姿を想像し、クスッと吹き出してしまう。
「ありがとな、2人とも!ユリーカ、ちょっと背伸びたんじゃないか?」
「わかる?あのね、4センチ伸びたんだよ!」
誇らしげに胸を張っているユリーカは、背丈こそ成長しているが、中身はいい意味で変わっていないらしい。
天真爛漫なその笑顔は、いつでも変わらずサトシの心も明るくしてくれる。
主人の肩から飛び降り、ユリーカの頭から降りてきたデデンネとじゃれあっているピカチュウも、いつも以上に楽しそうな笑顔を見せていた。
「サトシ、どうですか?久しぶりのミアレシティは」
微笑みかけて来るシトロンは、少しだけ声が低くなっているようだった。
彼とは旅が終わってからも、テレビ電話で話す機会が多かったため、あまり懐かしさは感じないが、画面越しで会うのと直接会うのとではやはり違う。
一層爽やかになった彼は、3年前からずっとこのミアレシティのジムリーダーを務めていた。
そのため、故郷でもあるこの街への思い入れは誰よりも強いのだろう。
そんな彼の問いかけに、サトシは昔と変わらない太陽の様な笑顔を見せる。
「相変わらずいい街だよ。シトロンたちも変わってなくてよかったぜ!」
その言葉は、この街の人間であるシトロンらを喜ばすには十分な材料となった。
シトロンとユリーカは、嬉しそうに微笑みながら顔を見合わせる。
その2人が纏う柔らかな空気感は、相変わらずな仲の良さを感じさせてくれる。
この2人を見ていると、3年前に一緒に旅をしていた頃を思い出す。
楽しい会話に花を咲かせながら、時々野生のポケモンを見つけてはユリーカがはしゃぎ、シトロンの発明に胸をときめかせ、そして、ミルクティー色の髪をした彼女の作るお菓子に舌鼓を打った、あの日々を。
故郷のカントーからは遠く離れているというのに、何故だか彼らに囲まれていると、第二の故郷に帰ってきたかのような、そんな安らぎをサトシに与えてくれる。
「あっ」
そんな感傷に浸っていたサトシだったが、このカロスに来た本当の理由を思い出し、ハッとする。
オーキド博士からの大事なお使いを忘れるところだった。
サトシはズボンのポケットを漁り、そこに押し込めていた小さな小箱を取り出す。
預かっていたメガストーンの入った小箱である。
それを片手にプラターヌ博士へと駆け寄るサトシは、その小箱を彼に突き出した。
「これ、お願いします」
「はい、確かに。解析には暫く時間がかかるけど、平気かな?」
「大丈夫です!俺、数日はミアレに滞在する予定ですから」
サトシの言葉を聞いて、隣にいたユリーカは大いに喜ぶ。
元々チャンピオンリーグが始まるまで、特に急ぐ予定もなかったサトシは、マサラで暇を持て余していた。
そのため、数日間故郷を離れていても何の影響もない。
せっかくだからということで、カロスに数日間滞在することにしたのだ。
「やったー!じゃあ暫く一緒に居られるね!」
「楽しくなりそうですね!」
そいって笑いかけて来るシトロンとユリーカは、屈託のない喜びをぶつけてくる。
はしゃいでいる2人につられるように、サトシまでもが胸を躍らせてしまう。
彼らとまた、暫く一緒に居られる。
2人とやりたいこと、話したいことは山ほどある。
この夏の日々は、きっと輝かしいものになるだろう。
サトシはまだ見ぬこれからの数日間に期待を寄せていた。
「あっ、そうだ博士!アランはいますか?会わせたい奴がいて…」
腰元に連れて来ていたモンスターボールを思い出し、サトシはプラターヌ博士へと視線を向けた。
かつてカロスリーグで優勝を賭け争ったライバルであるアランは、この研究所に身を置いている。
彼のリザードンは非常にレベルが高く、常々自分のリザードンに会わせてやりたいと思っていた。
その小さな願望が、今日叶うかもしれない。
期待に瞳を輝かせて聞いて来たサトシだったが、そんな彼に申し訳なさそうに眉をひそめてプラターヌ博士は口を開く。
「アランか…。すまないね、サトシ君。アランは今、マノンと一緒に遠方の調査に出てもらってて不在なんだ」
「そうなんですか……」
明らかに肩を落とすサトシの様子に、プラターヌ博士は数日前アランに遠方調査を命じたことを悔やむのだった。
リザードン同士を会わせたかったのはもちろんのこと、サトシ自身も、ライバルであるアランに会いたがっていた。
彼はトレーナーとして尊敬できる存在である。
そんなアランとの語らいは、サトシの経験を豊かにしてくれる。
いつかまた、彼と本気のバトルがしたい。
そんな夢は、今回残念ながらお預けとなってしまったようだ。
「ねぇサトシ!アランはいないけど、あたしたちサトシにプレゼントを用意したんだよ!」
「プレゼント?」
アラン不在に落ち込むサトシの顔を覗き込んで来たユリーカは、なにやら楽しそうな表情を浮かべていた。
シトロンやユリーカがこの研究所に来てくれていたこと自体がサトシにとってはプレゼントの様なものなのだが、それ以上のプレゼントがあるというのだろうか。
シトロンの方を見つめると、彼も妹と同じ様に楽しげな笑みを見せている。
新しい発明を思いついた時の様な、ワクワクした顔だ。
「中庭にどうぞ。きっとビックリすると思いますよ」
顔を見合わせて笑い合うシトロンとユリーカは、そのまま中庭へと続く扉へ歩き出す。
彼らはなにを考えているのだろう。
2人の企みが見えないまま、サトシは肩の上に戻って来たピカチュウと共に、前を歩く兄妹の背に続く。
後ろからはプラターヌ博士も着いて来ていた。
促されるまま研究所のロビーを出て廊下を歩く。
中も昔と変わらない様で、何度かこの研究所に遊びに来た記憶が呼び起こされる。
そして暫く歩くと、前を歩くシトロンとユリーカは、とある扉の前で立ち止まる。
中庭に続く扉の前だ。
「さぁ、どうぞ」
閉じられた扉の前で、シトロンは促す様に振り返る。
“君が開けろ”
そう言いたいのだろう。
この向こうに、シトロンとユリーカの言う、プレゼントがあるらしい。
それが一体何なのか見当もつかないまま、サトシはドアノブに手をかけた。
ガチャっという音と共に、扉はゆっくりと開かれる。
ガラス張りの天井が張り巡らされている中庭は日当たりが良く、研究所のポケモンたちがのんびりと暮らしいているはずだ。
透明なガラスから反射した陽の光が降り注ぎ、扉を開けたサトシは一瞬だけ眩しさに目をそらす。
光に照らされ、きらきらと空気が光っている様だった。
中庭に生い茂る木々は、陽の光を浴びて優しい光景を生み出している。
そんな中に、彼女はいた。
降り注ぐ太陽光がまるでスポットライトのようにその姿を照らし、まるでこの世界には、自分と彼女の2人だけしかいないような、そんな不思議な感覚をサトシに与える。
向こう側を見つめているため、顔は見えないが、ミディアムにまで伸びたそのミルクティー色の髪を間違えるはずもない。
後ろ姿だけで胸を締め付けてくる彼女の正体は、鈍感なサトシでもほんの数秒で分かってしまった。
セレナ。
その名前を呟く前に、艶めく髪を揺らしながら、彼女はこちらに振り返る。
そして、輝かしい笑顔を見せるその姿は、一瞬でサトシを魅了する。
何かを考える隙を与えずに、彼女は跳ねるような声で叫ぶ。
「さぁいくよ!」
天井に向かって手を挙げるセレナ。
その合図とともに、木陰に隠れていたらしい3つの影が独特のステップと共に飛び出してくる。
赤い火の粉をまとったテールナー。
ピカピカに磨かれたサングラスをつけたヤンチャム。
ひらひらと美しいリボンを揺らすニンフィア。
慣れた調子で主人の周りを舞い踊る3匹のポケモンたちは、楽しげに跳ね回っている。
その光景は、3年前に何度も目にしていた、トライポカロンのパフォーマンスそのままであった。
セレナの指示を受け、枝に灯した炎を放出させるテールナー。
陽の光に照らされた小さな炎たちは、きらきらと反射してオレンジ色に輝いている。
中庭の中心でくるくると踊るセレナたちを彩るかのように降り注ぐ光の雨は、サトシの瞳に幻想的に映り込む。
煌めく炎の光に気を取られていると、セレナのそばでステップを披露していたヤンチャムとニンフィアは、いつの間にか彼女から離れ、セレナを三角形で囲むような位置に立っていた。
「ヤンチャム、あくのはどう!ニンフィア、ようせいのかぜ!テールナー、だいもんじ!」
それぞれの位置から、3匹は指示された技を繰り出してゆく。
ぶつかり合う3つの技はセレナの頭上でぶつかり合い、真っ白な光のカーテンを作り出す。
昔、煌めくスポットライトを浴びながら、ステージで披露していたパフォーマンスよりも、一層成長したといえるその動きに、サトシは言葉を失ってしまう。
顔も、姿も、声も、そこにいる彼女は自分のよく知るセレナであるはずなのに、光を一身に浴びて踊るそのパフォーマーはまるで別人のよう。
かつての仲間でもあるセレナという少女は、サトシの知らない間に大きくなっていた。
「フィニーッシュ!」
少しだけ息を切らし、決めポーズを見せるセレナの周りに、3匹のポケモンたちも集まっている。
パフォーマンスの終わりを告げるその一言を受け、サトシの背後で観覧していたシトロン、ユリーカ、プラターヌ博士は盛大な拍手を贈った。
プラターヌ博士に関しては、セレナのパフォーマンスを生で見たことが無かったらしく、“マーベラス!”と歓声をあげている。
肩の上のピカチュウも、黄色い手両手を叩きながら喜んでいる様子。
しかしながら、1番前で彼女の笑顔を見ていたサトシは、何も贈ることが出来ず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
「サトシ、これがユリーカとお兄ちゃんからのプレゼントだよ!」
「喜んでいただけましたか?」
両脇から微笑みかけてけるユリーカとシトロン。
惚けた様子でただセレナを見ていたサトシは、2人の言葉でようやく我に帰る。
てっきり、プレゼントは物だと思い込んでいた彼にとって、シトロンたちが用意してくれたこの光景には驚いた。
まさか、こんなに幻想的なサプライズが用意されていただなんて。
その光景を作り出していた張本人、セレナが、一目散にこちらへと駆け寄ってくる。
充実感を孕んだ笑顔を浮かべながら目の前にやってきた彼女は、目線が自分よりも少しだけ下になっていた。
一緒に旅をしていた頃は、自分の方が少しだけ見上げる形だったのに、いつの間にか逆転している。
それが分かった瞬間、サトシは3年という月日の長さを実感してしまう。
「サトシ、どうだった?私のパフォーマンス!」
こちらに向けられる瞳の青さは変わらない。
輝かしいばかりの笑顔も変わらない。
セレナの問いかけに対するサトシの答えは、たった1つしかなかった。
「すっげぇ綺麗だったよ!流石セレナだな!」
彼女の笑顔に負けないほど、満面の笑みを返すサトシ。
そんな彼の言葉に、セレナがどれほど大きな喜びを感じてしまうのか、サトシは知るはずもない。
ほんのりと頬を赤らめて“ありがとう”とつぶやくセレナの表情は、歓喜で溢れていた。
喜んだ時の表情も、変わらないんだな。
久しぶりに見た彼女のコロコロと変わる表情は、いつの間にやらサトシの胸を暖かくしてくれた。
セレナの横に立っていたテールナーたちも、サプライズ成功に喜び、きゃっきゃとはしゃいでいる。
「セレナもカロスに帰って来てたんだな!」
「うん!今朝帰って来たの!」
カロスを旅した後、カントーに帰ったサトシとほぼ同時に、セレナはホウエンへと旅立った。
ポケモンコンテストに出場するため、ホウエンだけでなく、ジョウトやシンオウにも足を伸ばしていたと聞くが、詳しい詳細はほとんど聞く機会がなかったサトシ。
自分がカロスに行くと決まった時も、まさかセレナに会えるとは思っていなかった。
彼女の話によると、3年かけてゆっくりと各地方のコンテストを回りきったため、本来の夢であったクイーンを目指すべく、カロスに戻ってトライポカロンに出場しようと考えたらしい。
今朝ミアレに舞い戻り、ジムに立ち寄ったセレナが、シトロンやユリーカから今日サトシがカロスにやって来ることを聞き、このサプライズが実現したのだとか。
「そうだったのか。じゃあ、暫くはミアレシティにいるのか?」
「うん。でも、ママにも会いたいし、明後日にはアサメタウンに帰らなくちゃいけないんだけどね」
長い間、実家の母に顔を見せていなかったため、少しくらいはアサメに寄りなさいという旨のお叱りを受けていたのだとか。
そのため、セレナがこのミアレシティに滞在できるのは、予約を取ったアサメ行きの列車が来るまでの、今日を入れて3日間ということになる。
彼女が懐から取り出した列車のチケットには、明後日の日付とともに、“17時30分発アサメ行き”と書かれていた。
「そっかぁ、セレナとは3日間しか一緒にいられないんだぁ…」
「けど、明日の夜にはお祭りもあるし、なかなかエンジョイ出来る3日間になるんじゃないかな?」
一緒に居られる期間に制限がつけば、やはり悲しいものである。
ユリーカはセレナが見せてくれたチケットに目をやりながら肩を落とした。
そんなユリーカを慰めるように、頭の上に乗ったデデンネはその小さな手でポンポンと主人の髪を撫でている。
その光景は実に愛らしく、サトシ、シトロン、セレナは顔を見合わせて微笑んだ。
落ち込むユリーカをフォローするかのように、後ろから声をかけてきたのはプラターヌ博士であった。
彼が口にした“お祭り”という単語は、少なからずサトシの興味をひくワードであり、詳しく聞こうと博士の方を振り返る。
「お祭り、ですか?」
「これね!ミアレシティ花火大会!」
サトシの疑問にいち早く答えたのは、セレナであった。
懐から見慣れたピンク色の二つ折り端末を取り出すと、少し指で操作してからサトシの前に突き出す。
その端末には、夜のプリズムタワーをバックに大きな花火が打ち上げられている画像が表示されていた。
その画像の左端には、“ミアレシティ花火大会”と書かれている。
どうやら、毎年夏にこのミアレシティで開催されている花火大会らしい。
その画像を目にし、サトシは先ほどこの研究所に向かう途中で見た、装飾された建物たちを思い出す。
なるほど、あれは明日の花火大会に向けた飾りつけだったのか。
心の中で納得するサトシは、表示された画像に映る美しい花火に心躍らせた。
「そっか。そんなお祭りがあるのか!いいタイミングで来れて良かったな、ピカチュウ!」
「ピッカピカ!」
肩の上の相棒も、件の花火大会に期待を寄せているらしい。
愛らしい笑顔でサトシの言葉に頷いて見せた。
そんなピカチュウが可愛くて、正面に立っていたセレナは思わず手を伸ばす。
真っ赤な頬袋を人差し指でクリクリと撫で回すと、ピカチュウは甲高く甘えたような鳴き声を漏らした。
久しぶりに触れる彼の毛並みは相変わらず柔らかくて、セレナを癒してくれる。
「2人とも、滞在中は是非うちに泊まりに来てください!歓迎しますよ!」
「そうそう!パパがね、2人が来るって聞いて歓迎パーティー開きたいって言ってるの!」
それはサトシとセレナにとって、有難いことこの上ない提案であった。
シトロンとユリーカの父、リモーネには、3年前に色々とお世話になっている。
そんな彼の好意を遠慮する理由などどこにもなかった。
歓迎パーティーとやらに胸を躍らさるサトシとセレナ。
ほんわかした空気が中庭を包んでいたが、そんな優しげな色を塗り替えるように、背後の研究所内からインターホンの音が聞こえてきた。
ハッとして耳を傾ける一同。
この研究所って、呼び鈴あったのか。
そんな初めての発見に面食らうサトシ。
今まで不躾にもその呼び鈴を使わずに、ズカズカと中にお邪魔してしまっていた自分の行動を、密かに恥じてしまう。
来客を告げる呼び鈴に反応し、1番最初に口を開いたのは、やはりこの研究所の主人であるプラターヌ博士であった。
「おっと、誰か来たみたいだね。ちょっと見てくるよ」
「あっ!ユリーカも行く!お兄ちゃんも行こ!」
「え?僕も?」
来客を出迎えるために、中庭と屋内をつなぐ扉へ向かうプラターヌ博士。
そんな彼の広い背中を追いかけるように、ユリーカも続く。
妹に引き摺られるようにして、ツナギの裾を引っ張られたシトロンも慌ただしく歩き出す。
扉が閉まるバタンッという音とともに、賑やかだった中庭は一瞬にして静けさを取り戻した。
残されたのはサトシとセレナ、そして彼らのポケモンたちのみである。
この状況も、厄介なほどに気が利くユリーカの強引な手腕のお陰だろう。
いきなり訪れたサトシと2人だけの時間は、セレナを急速に緊張させる。
「テールナーたちも久しぶりだな。元気してたか?」
しかし、当のサトシは悲しくなるほどに意識などしてはくれないらしい。
セレナの傍に立つテールナーたちに視線を合わせるようにしゃがみ込むと、ニッコリとした笑みを浮かべている。
まったく何年経っても鈍感な人だ。
けれど、そんなところを含めて、好きになってしまっているのも事実。
こうしてポケモンたちと楽しそうに接している彼を見つめることも、セレナにとっては愛しい時間なのだ。
彼女から熱視線を受けていることなど全く気付くことなく、サトシはテールナー達と戯れている。
「あっ、そうだ!みんなに会わせたい奴らがいるんだ!」
思い出したように明るい声を出すサトシは、いきなり立ち上がる。
自分の腰元をまさぐり、取り出したのは3つのモンスターボール。
“みんな出てこい!”という叫びとともに宙に投げられたボールは一斉に開き、眩しい光を浴びて3匹のポケモン達が飛び出してくる。
ファイアロー、ルチャブル、オンバーン。
懐かしい顔ぶれを見て、セレナたちは表情をパッと明るくさせた。
「みんな久しぶりね!」
かつて共に旅をした仲間であるのは、ここにいるポケモン達も同じである。
飛び出して来たファイアローたちに、テールナーらセレナの手持ち3匹は喜んで駆け寄った。
サトシの肩から飛び降りたピカチュウも含め、ポケモンたちによるプチ同窓会が始まっている。
あまりの懐かしさに目を潤ませているルチャブルや、大きな体を揺らしてはしゃいでいるオンバーンを見つめるサトシの瞳は、優しいものだった。
ゲッコウガやヌメルゴンは、元気にしているだろうか。
再会を喜びあうポケモンたちを見つめながら、サトシは思う。
そして気を取り直し、連れて来たもう一体のモンスターボールへと手を伸ばす。
「さ、お前も……出てこい!」
投げられた1つだけのボールから、眩しい光と共に飛び出した大きなポケモンの姿に、セレナは驚いた。
出て来たのは、今までサトシの手持ちとして見たことがなかった、体格のいいリザードンだったから。
出て来たリザードンは、周りをキョロキョロと見渡すと、眠そうに欠伸をしている。
普通よりも一回り大きい体をしたリザードンの登場に、セレナだけでなく、彼女のポケモンたちも興味津々な視線を向けていた。
「サトシ、リザードンも持ってたの?」
「あぁ。古い友達だよ。本当はアランに会わせようと思ってたんだけど、居なくて残念だったな」
自分の鼻先を鋭い爪でポリポリと掻くリザードンに近寄り、手を伸ばして首筋を撫でてやる。
するといつも通りグルルと喉を鳴らし、気持ち良さげに目を瞑っている。
初対面ではその強面とレベルの高さから怖がられることが多いリザードンだが、主人であるサトシにとっては非常に可愛らしいやつでしかない。
指先に触れるリザードンの体は、なんだか普段より熱い気がするが、これも炎タイプゆえの熱さだろうか。
いつも以上に大人しめなリザードン相手に、隣にいたセレナは少しだけ近付いて口を開く。
「初めまして。私、セレナよ。よろしくね」
顔を覗き込み、笑顔で自己紹介するセレナ。
しかし、そんな彼女に何か反応を示すことなく、リザードンは顔を背ける。
そしてその巨体を横たえ、まるで日曜日の父親のような体勢で寝転んでしまった。
“無愛想”とは、リザードンのためにある言葉なのかもしれない。
ぷいっとそっぽを向いてしまった彼に、セレナは“あら?”と首をかしげる。
そんなリザードンの様子に焦ったのは、サトシである。
自分のポケモンが友人に対して失礼な態度を取ってしまったことは、トレーナーとして慌てるべき事案であった。
「こらリザードン!ちゃんと挨拶しろ!……ごめんなセレナ。こいつ、ちょっと気難しくてさ」
「あ、いいのよ!気にしないで!」
ポケモンも個体によって性格は様々。
セレナの知っているリザードンは、アランが持つしっかり者や、トロバの持つバトル好きな子達だけだが、サトシのリザードンのように、少々気難しい個体もいるらしい。
カロスをはじめとする様々な地方を旅して来たセレナは、それをきちんと理解している。
そのため、リザードンにそのような態度を取られても、不快に思うことは無かった。
芝生の上に寝そべり、本格的に眠り始めてしまったリザードンと、水辺で遊んでいるピカチュウやテールナーたちを見守りながら、サトシとセレナは木陰に並んで腰掛ける。
ここは冷房が効いていないため、研究所内に比べれば蒸し暑いが、2人がいる木陰は幾分か涼しい。
木々の間から漏れ輝く太陽を、手をかざしながら見つめるセレナ。
夏の心地いい熱さを感じながら、彼女は胸をときめかせる。
すぐ横には、3年もの長い間会う事の無かった想い人がいる。
背が少しだけ伸び、声が少しだけ低くなり、雰囲気が少しだけ大人びた、サトシがいる。
その事実だけが、セレナの心臓を騒がせるのだ。
「久しぶだよな」
「久しぶりね」
「何年ぶりだ?」
「3年かな」
「ずっと連絡取らなかったよな」
「うん、そうだね」
「……」
「……」
「あのさ」
「ん?」
「元気だったか?」
「うん。元気だったよ。サトシは?」
「俺が元気じゃなかった時なんてあったか?」
「ないわね」
顔を見合わせ、ケタケタと笑い合う2人。
2人がお互いに思うことは同じだった。
“笑い方、変わってないな”
木々に囲まれているせいか、この中庭にいると優しい気分になれる。
しかし、2人の心が穏やかな理由は、ただそれだけではない。
きっと、お互いを取り巻く空気が昔と何1つ変わらないからだ。
3年も経てば、少しくらいは心の距離が開いているものだが、話してみれば、まるで昨日も会っていたかのように、ぎこちなさがまるで無い。
ほとんど連絡を取り合っていなかったにも関わらず、昔と変わらない距離感で話してくれるサトシに、セレナは密かに安堵していた。
それから、2人はいろいろな話をした。
サトシがカントーリーグを制し、次はチャンピオンリーグを目指すつもりだということ。
セレナが各地のコンテストを巡り、リボンを30個以上もゲットしたこと。
お互いに新しくゲットしたポケモンたちのこと。
この3年間、何をして過ごしていたかということ。
その話題1つ1つが興味深くて、パズルのピースのように離れていた時間を少しずつ埋めてくれる。
2人とも、お互い会わない間に少しずつだが成長を遂げているのだ。
「一緒に旅してたあの頃から、もう3年なのか」
「早いよね」
「あぁ。空港でみんなとサヨナラしたあの時も、なんだか昨日の事みたいだよな」
サトシのそんな言葉を最後に、セレナは黙り込んでしまった。
突然静かになってしまった彼女を不思議に思い、横に座っているセレナの方へと視線を向ける。
すると彼女は、何故だか儚げな表情を浮かべながら俯いている。
きっと、自分よりも察しのいい細目で年上の親友ならば、こんな表情を浮べる彼女の感情を読み取ることができるのだろう。
けれど、お世辞にも鋭いとは言えないサトシでは、彼女の考えている事が一体何なのか、皆目見当がつかない。
「セレナ…?」
自分は何か、彼女の気に障るような事を言ってしまっただろうか。
何となく不安になって、小さくその名前を呼んでみる。
すると隣で小さくなっているセレナは、“ふぅー”と深く息を吐くと、その瞳をこちらに向けてくる。
視線が混じり合う。
こちらを見つめてくる彼女の目は、不安と、遠慮と、そして小さな期待を含んだものだった。
「サトシ、覚えてる?あの日のこと……」
2人の会話は数秒間ピタリと止まり、静寂が訪れる。
遠くで遊ぶピカチュウやテールナーたちの声だけがわずかに聞こえ、あとはお互いの鼓動しか耳に入ってこない。
セレナの問いかけに、ドクンと心臓が高鳴る。
不安げに見つめてくる彼女に、どんな言葉をかけるのが正解なのかわからない。
何か言ってやりたいのに、喉がカラカラと乾いて言葉が出てこない。
胸がきゅうっと音を立てて締め付けられる。
どうしてこんなにも、心臓が煩くなるのだろう。
「セレナ、俺……」
サトシがそっと口を開いたその時だった。
ガチャっという音と共に、中庭の扉が開く。
その音に反応し、2人ともハッとその扉の方へと意識を向けた。
誰かが中庭に入って来たらしい。
扉を開けてその場に立っていたのは、サトシにとって見覚えのない少年の姿。
一体誰だろう。
キョトンとした表情でその少年を見つめるサトシとは対照的に、隣で座っていたセレナは、“あ…”声を漏らした。
素早く立ち上がったセレナの視線は、今までじっとサトシを捉えていたというのに、一瞬にしてその少年へと移ってしまう。
そして、そんなセレナの姿を見つめ、腕を組んでいたその少年は、不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「久しぶりね、お隣さん」
一歩一歩、ゆっくりとこちらに近づいてくる少年は、やはり見覚えがなくて、サトシは怪訝な顔を見せる。
しかしながら、横で呆然と立ち尽くし、彼を見つめているセレナには心当たりがあるらしく、小さく少年の名前らしき単語を呟いた。
「カルム…」
カルム、と呼ばれたその少年は、随分と整った顔立ちをしていた。
セレナの目の前で立ち止まり、微笑むその姿はやけに爽やかである。
突如として現れたその美少年に、セレナは随分と驚いているようで、未だ目を見開いていた。
何をそんなに驚いているのだろう?
彼女と少年は、一体どんな関係なのだろう?
そんな疑問を抱きながら、サトシもセレナと同じようにのっそりと立ち上がる。
おそらく、先ほどの来客の正体は彼だったのだろう。
「いつの間に髪切ったんだな、お隣さん」
「カルム、何でここに…?おばさんから、今はエイセツシティにいるって聞いてたけど…」
「ちょっとミアレに用があってね。ついでだから博士のところに寄ったんだよ」
「そうだったんだ。久しぶりね、元気そうで良かった!」
「そっちもね」
見知らぬ少年と、よく知るセレナの会話に入る隙がなく、サトシはキョトンとしてしまう。
そんな彼の肩に飛びついて来たのは、ピカチュウだった。
イキナリやって来た見慣れない人物に、興味を抱いたのだろう。
遠くで遊んでいたはずのテールナーたちも、ゾロゾロとサトシたちの元へと集まって来た。
みんなカルムという少年を、不思議そうにじーっと見つめている。
「セレナ、知り合いか?」
「あ、うん」
そろそろ状況を把握したくなったサトシの問いかけに、セレナは遠慮がちに頷いた。
「彼はカルム。同じアサメタウン出身のトレーナーで、家が隣同士なの」
あぁ、だから“お隣さん”と呼んでいたのか。
セレナの説明でようやく合点がいったサトシは、表情を明るくさせる。
サトシの出身地であるマサラタウンは、お世辞にも人口が多い町だとは言い難い。
そのため、隣の民家とは数十メートル離れており、“お隣さん”と呼べる存在がいないのだ。
幼馴染ともまた違う、お隣さんという存在に小さな憧れを抱きながら、サトシは初めてカルム相手に口を開く。
「俺、マサラタウンのサトシ。こっちは相棒のピカチュウだ。よろしくな!」
肩に乗る親友と一緒に自己紹介をしてみれば、カルムは何故か驚いたように目を見開いた。
“君が、サトシ…”
そう小さく呟いたカルムは、驚いた表情をすぐに不敵な笑みに変え、右手を差し出してくる。
その笑みは何だか挑発的で、自分の全てを見透かされているかのような、そんな不思議な感覚に陥る。
「俺はカルム。よろしく」
差し出された右手に応えると、ギュッと強い力で握り返された。
風貌に似合わず随分と力が強いらしい。
固く交わされた握手を見て、セレナは小さく微笑む。
自分の友人同士が知り合うというこの状況は、セレナにとって非常に楽しいものなのである。
カルムはサトシが想像していた以上に好青年であった。
ポケモンについての知識も豊富で、トレーナー歴が長いサトシにとって、彼の話は実りの多いものである。
あそこで出会ったトレーナーが強かっただとか、あそこで戦ったポケモンが強かっただとか、そんなことを話しているうちに、2人はいつの間にか意気投合していた。
それぞれの友人であるセレナを置いてけぼりにしてしまうほどに。
セレナの話によると、どうやらカルムはかなりの凄腕トレーナーらしい。
サトシのようにリーグ出場経験はないものの、多くのトレーナーから勝利を勝ち取り、バトルシャトーではグランデュークの爵位を賜ったのだとか。
まさに、無冠の帝王。
そんな事を話されては、強いトレーナーに目がないサトシが興味を抱かないはずもない。
カルムが実力者だとわかるや否や、サトシは勢いよく立ち上がり、ぐっと拳を握ってバトルを申し込むのだった。
「なぁカルム、俺とバトルしようぜ!」
目を輝かせてバトルを申し込んでくるサトシの誘いを、カルムは蔑ろにはしなかった。
先ほどと同じ不敵な笑みを浮かべて頷く彼は、サトシにつられるように立ち上がる。
真ん中に座っていたセレナは、そんな燃えたぎる闘志を宿している2人にため息をついく。
2人がバトル好きな事を誰よりも知っていた彼女は、何となくこの展開を予想していたのだ。
やっぱりそうなったかと苦笑いをこぼしながらも、2人のバトルに少なからずワクワクしていることは確かである。
「よし!リザードン、久しぶりのバトルだ!やるぞー!」
やる気になったサトシは、背後を振り返って叫ぶ。
彼の視線の先にいたのは、先程からずっと木陰の下で寝転んでいたリザードンである。
彼は主人の声を聞いて、閉じていた瞳を開き、ゆっくりとその上体を起こす。
マイペースな彼だが、サトシと同じくバトルを好む血気盛んな性格である。
そのため、主人からバトルを命じられれば迷わず応えるのだ。
先程の寝姿が嘘のようにやる気を示したリザードンは、大きな咆哮をその場に響かせる。
「随分レベルが高そうなリザードンだな」
「ああ!俺の自慢だぜ!」
「じゃあ、俺も最高のパートナーで受けて立つよ」
まだバトルは始まってもいないというのに、2人は既に火花を散らしている。
今にもバトルを始めてしまいそうな勢いの2人に困惑し、セレナはとりあえず移動しようと提案するのだった。
**********
プラターヌ研究所から少し離れたとある公園。
ここに設置されているバトルフィールドに、サトシとカルムは立っていた。
ここは、サトシにとって思い出の場所である。
3年前、カロスに初めて降り立った日にシトロンとバトルした場所であり、カロスを離れる直前、セレナとバトルした場所でもあった。
この思い出のバトルフィールドで、サトシは新しいバトルを始めようとしている。
サトシのフィールドには、既に臨戦態勢に入っているリザードンがおり、しっぽの炎が激しく燃え盛っている。
対するカルムのフィールドにポケモンの姿はなく、対戦相手の登場をサトシらは今か今かと待ち望んでいた。
そんなバトルをベンチで見守るのは、セレナとユリーカ。
そして、審判はシトロンが請け負っている。
セレナと同郷の友人ということもあり、研究所からここに移動してくる間に、カルムはシトロンやユリーカとも親しくなっていた。
そんなカルムの繰り出すポケモンに、ユリーカは興味津々なようで、ベンチに座りながらも若干前のめりでフィールドを見つめていたる。
「それではこれより、サトシ対カルムのポケモンバトルをはじめます!使用ポケモンは一体、どちらかのポケモンが戦闘不能になった時点で、バトル終了です!」
審判を務めるシトロンの言葉は、2人のバトルへの闘志をジワジワと高めてゆく。
カルムという未知なるトレーナーは、どれほどの強さを見せてくれるのか。
そして、リザードン相手に、どんなポケモンを繰り出してくるのか。
サトシは楽しみで仕方がなかった。
そんなワクワクとした感情をわかりやすく表に出している彼を、セレナは遠目で見つめ、目を細める。
バトルに対するあの充実した顔も、昔と何も変わらない。
そんな優しげな目でサトシを見つめるセレナに気付いたユリーカは、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら彼女を小突く。
「ねぇセレナ。サトシとカルム、どっちを応援するの?」
「え!?そ、そりゃあ、両方よ!」
「ホントに〜?」
「だって、2人とも友達だし…」
“友達”
その言葉を自ら口にして、セレナは1人で気落ちしてしまう。
そう、友達なのだ。
どれだけ積極的に距離を詰めようとも、何度声をかけようとも、相手が振り返ってくれなくては意味がない。
ずっと彼の背を見つめ続けて、もう何年になるだろう?
自分は、いつまで彼の“友達”という枠の中にいなくてはいけないんだろう。
思いに耽るセレナは、儚げな目でじっとサトシを見つめていた。
両方を応援すると言っていたくせに、その視線の矛先は随分とわかりやすい。
相変わらず単純なセレナの様子に、ユリーカは密かに肩をすくめるのだった。
「俺のポケモンはこいつだ。いけっ!」
サトシと対峙するカルムは、取り出した1つのボールをフィールドへと投げる。
眩しい光とともに飛び出してきたのは、カロス地方の新人用ポケモン・ハリマロンの最終進化系、ブリガロンであった。
その巨体がフィールドに降り立った瞬間、ドゴンという鈍い音と共に砂埃が舞う。
小さく地面が揺れたのは、ブリガロンが重量級ポケモンである証拠。
見た所、非常によく育てられたポケモンではるが、リザードンを事前に繰り出していたサトシにとって、その選出は予想外であった。
「リザードンに対してブリガロンでくるのか。相性でいうと圧倒的に不利だぜ?」
「わかってる。けど、このブリガロンは俺にとって初めてのポケモンなんだ。こいつの強さは俺が1番よくわかってる。相性なんてひっくり返してやるさ!」
相性の枠に囚われないカルムの考え方に、サトシは好感を抱く。
サトシ自身、あまり相性の良し悪しで判断することが少ないため、カルムのやり方に親近感を覚えたのだ。
面白い。
相手が相性を無視してかかってくるのなら、こちらも全力で挑むだけだ。
相性もいい。
その上こちらの選出はリザードンだ。
こいつの強さなら、軽く勝ってくれるはず。
真っ直ぐに闘志をぶつけてくるカルムに、サトシは久しぶりに燃えていた。
「それではバトル、開始!」
手を挙げ叫ぶシトロンの声とともに、試合は始まる。
ピリリと張り詰めた緊張感がその場を包む。
最初に動いたのは、やはりサトシの方だった。
まずは小手調べ。
飛ばされた指示に反応したリザードンは、がっしりとした太い尻尾に緑色の光を宿す。
大きく咆哮すると、その巨体を揺らしながらドスドスとカルムのブリガロンへと駆けてゆく。
走るたび地響きが鳴り響くほどの迫力だが、対峙するカルムは怯むことはない。
それどころか、目の前のリザードンに違和感を感じて眉をひそめていた。
リザードンはひこうタイプで、どの個体にも立派な翼がある。
にも関わらず、何故目の前のリザードンはその翼を使うことなくわざわざ脚を使って接近してくるのか。
そんな疑問を抱きながら、カムルは技を防ぐべくブリガロンへと指示を飛ばす。
拳を突き合わせ、ブリガロンは防御態勢に入る。
身体中に生えた緩やかな棘が光を放ち、鋭く尖ってゆく。
そんなブリガロンへと勢いよくドラゴンテールを打ち付けるリザードンだったが、尻尾に棘が突き刺さり、マトモにダメージを与えることが出来なかった。
それだけではない。
尻尾に棘が突き刺さったことで、僅かながらダメージを受けたリザードンはバランスを崩し、倒れ込んでしまう。
ただ守るわけでもなく、ダメージさえも受けてしまった事に驚き、サトシは焦りを帯びた声色で“リザードン!”と叫ぶ。
「えぇっ!?なにあの技!」
「ニードルガード……技を防ぐとともに相手にダメージを与える技ですね。厄介です」
ベンチから思わず立ち上がり、驚嘆した声を出すユリーカ。
そんな妹の声を背中で聞き、シトロンは審判としてその場に立ちながら呟いた。
一手目は徒労に終わってしまったサトシには僅かに隙が生まれ、カルムに反撃の機を与えてしまう。
「ウッドハンマーだ!」
「かわせ!」
カルムが反撃として選んだ技は、ウッドハンマーだった。
屈強な腕に緑色の光を纏わせ、連続してリザードンに向けてゆく。
咄嗟に回避の命令をくだすサトシの言葉を聞き、リザードンは崩していた態勢を立て直し、構える。
一発目、二発目はギリギリでかわすことができたリザードンだったが、三発目は見切ることが出来ず、左頬に拳を受けてしまった。
効果はいまひとつとはいえ、真正面から攻撃を受けてしまった衝撃は大きく、リザードンは後方に吹き飛ばされてしまう。
「ピカーチュ!」
「大丈夫か!?リザードン!」
足元で一緒に試合を観ていたピカチュウが、長年の友の危機に悲痛な叫びをあげる。
舞い上がる砂埃の中で悔しそうにブリガロンを睨むリザードンの表情は、苦痛に歪んでいた。
おかしい。
いつものリザードンなら、あんな攻撃などスラリとかわしてしまえるというのに。
それに、体力の消費もいつも以上に大きく見える。
明らかに息が上がっているリザードンの様子に、サトシは違和感を感じ始めていた。
「ブリガロン、ころがる攻撃だ!」
カルムの反撃は続く。
ブリガロンは身体を固く丸めると、まるで車のように勢いよく転がり始める。
砂埃を舞い上げながら転がり迫るその威力は、見るからに絶大ものである。
ころがるは岩タイプの技。
ほのお、ひこうタイプのリザードンが受ければひとたまりもない。
なんとかして対処しなければ。
サトシは頬に一筋の汗を流しながら、上ずった声で指示を飛ばす。
「リザードン、飛び上がってかわすんだ!」
サトシの指示は冷静かつまっとうなものだった。
空へ逃げれば、ころがる攻撃を受けることもない。
翼を持つリザードン相手だからこそできる手法である。
いつも通り、飛び上がるため翼を大きく広げるリザードン。
しかし、その大きな足が宙に浮き上がる前に、彼は羽ばたきを止め、苦痛に顔を歪ませながら身体を震わせる。
翼に、激痛がはしったのだ。
当然のごとく出来ていた空を飛ぶという行為が出来ず、リザードンは転がり来るブリガロンの巨体とぶつかってしまう。
効果は抜群だ。
ころがるを一身に受けてしまったリザードンは、悲痛な唸り声をあげて地面に叩きつけられる。
やはり、様子がおかしい。
スピードも、パワーも、そして飛び上がる力すら出ていない。
一体どうしたというのか。
自分のポケモンの中でもトップクラスの強さを誇るリザードンの不調に、サトシは動揺を隠せない。
「リザードン、さっきからどうしたの…?」
「まさか、翼を……」
ユリーカが見てきたリザードンは、自由に空を飛ぶ迫力ある個体がほとんどだった。
しかし、目の前にいるサトシのリザードンは、空を飛ぶことすら出来ていない。
彼の調子がおかしいことは、ユリーカの目から見ても明らかだった。
そんな光景を見ていた審判のシトロンは、砂埃まみれになっているリザードンを見つめ、小さく呟く。
しかし、その呟きは的を得ていた。
翼を持つポケモンが空を飛べなくなるのは、ほとんどの場合、羽に異常があるからだ。
きっとサトシのリザードンも、その翼に何らかの異常をきたしているに違いない。
シトロンの言葉を聞き、セレナはサトシへと視線を向ける。
焦りを見せる彼の表情は、3年前にも見たことがあった。
雪が降る氷のジム、エイセツジムに最初に挑戦した時と、同じ顔である。
「リザードン、立て!立ってくれ!」
かすれるほどの大声でで名を呼んで来る主人の言葉は、リザードンを奮い立たせる。
しかし、体が動かない。
起き上がろうとすればするほど、背中から尻尾にかけて激痛が生じる。
翼に関してはもはや感覚などなかった。
それでも、戦わなくては。
自分はまだ戦える。負けたくない。
そんなプライドと意地が、リザードンを鼓舞し立ち上がらせる。
だが、無常にも転がり続けるブリガロンは、技の威力を上げながら再びこちらに迫って来ていた。
またあれを受けてしまえば、もう耐えられないだろう。
かといって、翼が使えない上にスピードが落ちている今の状況では、技をかわすことも困難。
ならば迎え撃つしかない。
サトシに選べる選択肢は、たった1つしかなかった。
「かえんほうしゃだ!」
この技に賭けるしかなかった。
リザードンの高威力を誇るかえんほうしゃなら、きっとブリガロンのころがるを止めることができる。
そんな一抹の希望を胸に、サトシは叫ぶ。
しかし、その希望も虚しく打ち砕かれることとなる。
大きな口を開け、炎を吐き出そうとするリザードンだったが、その口から灼熱の炎が飛び出ることは一向になかった。
出てくるのは黒い煙だけで、リザードンは苦痛に顔を歪ませる。
「そんな……」
めのまえがまっしろになった。
もう、取れる手段は残されていない。
ただ、ブリガロンのころがる攻撃を受けて倒れるリザードンを見つめているしかなかった。
声もなく、ドスンという鈍い音とともに、リザードンは倒れる。
一瞬の静寂がその場を包むが、ハッとしたシトロンが手を挙げてコールを唱えた。
「り、リザードン戦闘不能!ブリガロンの勝ち!よって勝者、カルム!」
己の負けを告げるシトロンの言葉で、サトシは我に帰る。
気づけば、目の前にはボロ雑巾のように倒れている最強の親友の姿が。
その姿はいつもより小さく見える。
真っ白な頭のまま、そのオレンジ色の巨体に駆け寄れば、隣にいたピカチュウも一緒に走り出す。
首元に触れると、その手に感じる彼の体温は異常とも言えるほどに熱い。
意識はあるようだが、息が上がっており、尻尾の炎は今にも消え入りそうなほど小さくなっていた。
必死でリザードンの名を呼ぶサトシの近くに、シトロンやセレナ、ユリーカも心配そうに駆け寄って来る。
ピカチュウも旧友の危機に焦り、その背に触れてみるが、あまりの熱さに驚いて思わず手を離してしまった。
「ねぇお兄ちゃん、リザードン、大丈夫なの?」
「わからない。けど、体温が異様に熱い。発熱しているようですね」
「リザードン、しっかりしてくれ!」
「その発熱、きっと翼の傷からくるものだな」
必死に呼びかけるサトシの耳に、カルムの声が届く。
顔をあげれば、そこにはブリガロンをボールに戻し、こちらに歩み寄ってくる彼の姿があった。
その表情は、少しだけ怒気を帯びている。
カルムはリザードンのそばで膝を折り、そっと優しい手つきで翼を持ち上げた。
大きな右翼の、ちょうど真ん中あたりに、その痛々しい傷はあった。
そして、その傷を見た瞬間、サトシは思い出す。
オーキド研究所でリザードンを迎えに行った時、彼は一瞬だけだが苦痛を我慢するような鳴き声をあげていた。
そして、プラターヌ研究所に到着した後も、すぐに眠ってしまって元気がなかったのだ。
後悔の念が、サトシをけたたましく責め立てる。
前兆はあったのに、何故気づけなかったのか。
「この傷、見た所ずいぶん前から負っていたようだけど、気付かなかったのか?」
「……っ」
「かえんほうしゃが出なかったのも、重度の発熱が原因だろうな……。傷を見逃すだけじゃなく、こんな状態でバトルに出すなんて、トレーナー失格じゃないか」
カルムの言葉に、その場は凍りつく。
リザードンの顔を見つめたまま言葉を失っているサトシは、膝に乗せた拳をぎゅっと握りしめる。
そんな主人の様子を、ピカチュウは心配そうに見上げていた。
「カルム!何もそこまで……っ」
「これはポケモンの命に関わることなんだ。下手をすれば、リザードンは死んでしまっていたかもしれない。ポケモンの事を第一に考えるのは、トレーナーとして当然のことだろう」
「でも…」
「いいんだ、セレナ」
なんとか反論しようとするセレナを止めたのは、サトシだった。
顔を上げることなく、俯いたまま、口を開く。
その声は、少しだけ震えていた。
「カルムの、言う通りだ」
反論なんて、出来るわけもなかった。
随分前からこんなに深い傷を負っていたにも関わらず、気付けなかったのは自分の責任。
体が熱いことには気付いていたのに、まるで気にすることが無かったのも自分の責任。
こんな状態のリザードンをバトルに出してしまったのも、自分の責任。
トレーナーとして、こんなにもずさんなことをしてしまうなんて、サトシは自分が許せなかった。
リザードンはプライドが高い。
自分がバトルをすると言い出したら、勝ちにこだわり、体調が悪くても出ようとするに違いない。
それを分かっていながら、傲慢からくる嫌な信頼をリザードンに寄せてしまった。
バトルフィールドに立ち、苦痛に悶えながら戦っていたリザードンの心境は、一体どんなものだったのだろう。
考えるだけで、胸が痛くなった。
「とにかく、急いで回復してもらったほうがいい。そのままじゃ危険だ」
「カルムの言う通りです!ここからだと、プラターヌ研究所の方が早いですから、急いでそちらに帰りましょう!」
「あ、あぁ……。そうだな」
「ピカピ……」
このままここで絶望していても、状況は良くならない。
そう諭したカルムの言葉に、サトシは急いでリザードンをモンスターボールに戻す。
ミアレシティにはポケモンセンターが複数あるが、この公園からは数あるポケモンセンターよりもプラターヌ研究所の方が近い。
彼の施設なら、リザードンを回復させることができる機能が備わっているはずだ。
ピカチュウが肩に乗ったことを確認すると、サトシは走り出す。
そのあとを、心配そうな顔をしたユリーカと、独特の走り方をするシトロンが続く。
セレナもあと追うように一歩踏み出すが、一瞬だけだが立ち止まり、背後のカルムへと振り返る。
そこにいたカルムは、サヨナラも言わず走り去って行ってしまったサトシの背を、厳しい目で見つめていた。
そんな彼に悲しげな視線を向け、セレナは再びサトシを負って走り出す。
一瞬で静かになってしまったバトルフィールド。
その場に残されたカルムは、1人で空を仰ぐ。
日が沈み出し、オレンジ色になっている空は哀しいほどに美しい。
日中よりもだいぶ涼しくなったとはいえ、まだまだ蒸し暑い夏は続く。
小さくため息をつき、カルムはその場を去るのだった。
act.2
冷房の効いた屋内に入っても、一向に涼しくならないのは何故だろう。
自分への怒りで、体温が上昇してしまっているせいかもしれない。
治療台に寝かされたリザードンの周りを、博士の助手たちが慌ただしく動き回っていた。
オレンジ色の体にはたくさんのチューブが繋がっており、口元には呼吸マスクが着けられている。
ピ、ピ、ピ、と定期的に鳴る機械音はリザードンの心音をあらわしているのだろう。
治療室が見えるガラスに手をつき、サトシはかじりつく様にその光景を見つめていた。
サトシの気持ちを落ち込ませているのは、バトルに負けた事実でなく、リザードンをこんな状態にまで追い込んでしまった自分の行為。
言い知れぬほどの後悔が、サトシの胸を締め付ける。
安らかに目を瞑っているリザードンを見つめ、心の奥底で何度も彼に謝っていた。
カルムとのバトルに負けたすぐ後、サトシはシトロンたちと共に急いでプラターヌ研究所に駆け込んだ。
瀕死の状態のリザードンを見た博士は、急いで彼を治療室に運び、自慢の回復装置で治療を開始する。
しかしながらリザードンの症状は重く、完全回復には時間がかかりそうだった。
傷は痛々しく、そこから入ったばい菌がリザードンの体を蝕み体温を急激に上昇させている。
そのせいで、体内にある炎技を作る器官が麻痺し、かえんほうしゃが撃てなくなってしまっていた。
「リザードン……」
消え入りそうな声で、サトシは呼ぶ。
肩に乗っているピカチュウも、心配そうにガラスの向こうのリザードンに目を向けている。
肩を落とし、悲しげな後ろ姿を見せているサトシを、シトロン、ユリーカ、そしてセレナは黙って見つめていた。
落ち込む彼に、どんな言葉をかけていいのか分からない。
ただ心配と同情を寄せることしか、3人には出来なかった。
しかし、この場の中で誰よりも大人であるプラターヌ博士は違う。
瞬きすらせずにリザードンを見つめているサトシの肩に手を置くと、優しく諭す様に口を開く。
「命に別状はないし、心配はいらないよ。今日一晩ゆっくり休めば、完全に回復するよ」
「………はい」
博士の言う通り、リザードンは確かに重篤だが、命に関わるほどではなかった。
翼の傷が治ることは暫くないかも知れないが、一晩大人しくしていれば、飛行する際に生じる痛みも引くことだろう。
体温も下がり、炎技を使うことも可能になるはずだ。
しかし、その事実を告げても、サトシが顔を上げることはない。
たとえリザードンが回復したとしても、自分が彼にしてしまった事実は拭えない。
頭の中で、カルムの言葉が響く。
トレーナー失格だ。
反論できないほどに、サトシには自覚があったのだ。
**********
日が完全に沈み、外は静寂な夜が訪れていた。
日中の暑さが嘘の様に涼しい気候へと移り、研究所内の冷房も数分前に切ってしまっている。
静かな研究所のリビングで、セレナ、シトロン、ユリーカ、プラターヌ博士は暗い顔をしながらソファに腰掛けていた。
この場に、サトシはいない。
彼は未だ治療室から出てこれないリザードンに付き添っている。
いつも太陽の様に明るい彼が、今日はまるで日食に逢ったように暗い。
その空気感は、周りのセレナのたちの表情までも暗くしてしまう。
「サトシ、大丈夫かな……」
「リザードンの方は、休めば良くなると思いますが、サトシは……」
ユリーカの呟きに、シトロンは眉をハの字に曲げながら口を開く。
博士の助手によって出された紅茶のカップを手に、セレナは俯いた。
カップに注がれているレモンティーには、鬱々とした自分の表情が映し出されている。
そういえば、昔もこんなことがあった。
あれは確か3年前、サトシと一緒にカロスを旅していた時のこと。
最後のジムであるエイセツジムで敗北した彼は、今日と同じような暗い表情で俯いていた。
あの時も、こうしてサトシを心配しながら胸をざわつかせていたような気がする。
冷たいレモンティーのカップを握りながら、セレナは胸が痛むのを感じていた。
「サトシ君とカルム君か……。とても気があう2人だと思っていたんだけどね」
そんなセレナの横に座っていたプラターヌ博士は言う。
少しだけ悲しげな笑みを浮かべている彼も、シトロンから事の一部始終を聞き、驚いていた。
そんな博士に、膝上のデデンネを撫でていたユリーカが問いかける。
「博士はカルムと知り合いだったんだよね?」
「ああ。彼にハリマロンを託したのは、僕だからね」
3年前、隣のセレナよりも一足早く旅に出たカルムは、ミアレに立ち寄り、博士からハリマロンを貰っていた。
そんな間柄、カルムは旅路にあっても頻繁にプラターヌ博士へと連絡を入れていたのだ。
博士は、カルムという少年の人柄というものをよく知っている。
そして、その隣にいるセレナもまた、幼い頃からの繋がりもあり、カルムについて知らない事はほとんど無いと言っても過言ではない。
だからこそ、きっと彼はサトシと意気投合すると思っていたのだ。
「カルムは、他人にも自分にも厳しいの。ポケモンへの接し方も、人一倍気を使う人だし…」
「ストイックなんですね」
シトロンの言葉に、セレナは小さく微笑んで頷く。
そう、ストイックなのだ。
子供の頃からやると決めた事は徹底的にやる、手は抜かない。
これがカルムの信条であった。
それはポケモントレーナーとなった今も変わらない。
きっと彼は、大きな愛情と信頼を持ってポケモンたちを育てていたに違いない。
だからこそ、リザードンの変化に気付かなかったサトシとぶつかってしまったのだ。
カルムの言いたい事はよくわかる。
ポケモンの体調管理もトレーナーの仕事だ。
それを怠り、糾弾される事態も仕方がない。
けれど、それでも、セレナはサトシを責める気にはなれなかった。
サトシがどれだけ頑張っているか、どれだけポケモンに愛情を注いでいるか、どれだけバトルに力を入れているか、その全てを知っているから。
しかし、そんなサトシに贈る言葉が見つからない。
どんな言葉を選んでも、薄っぺらくなってしまうような気がして。
カップの中身が空っぽになった頃、リビングの扉がゆっくりと開いた。
必然的に扉の方へ視線を向ける4人。
そこには、疲れた表情を見せるサトシの姿があった。
「サトシ……」
思わず立ち上がるセレナ。
そんな彼女に、サトシは小さな笑みを見せる。
けれど、その笑みが彼の心からの笑顔ではない事は、誰が見ても明らかだった。
「博士、今日、ここに泊まってもいいですか?一晩リザードンに付いていてやりたくて……」
「あぁ、もちろんだよ」
頷くプラターヌ博士に、サトシは安堵したように吐息を漏らし、“ありがとうございます”と頭を下げた。
今晩はここでリザードンの看病をするらしい。
疲れがにじみ出ている彼の表情は、その場にいる全員を心配させる。
「ごめんなシトロン、ユリーカ。今日のパーティーは行けそうにない。リモーネさんにも謝っておいてくれ」
「ええ、気にしないでください。また明日もありますしから」
「サトシ……大丈夫?」
楽しみにしていたパーティーが無くなってしまった。
それを惜しんでいるような状況でもない。
仕方がない、と心で言い聞かせながら、ユリーカは恐る恐るサトシに声をかけてみた。
すると彼は、やはり切なくなるような笑顔を浮かべ、頷く。
「ごめんな、心配かけて」
それだけ呟くと、彼はリビングから出て行ってしまった。
バタンという扉を閉める音だけが響き渡り、セレナは力が抜けたようにソファに腰掛ける。
サトシは今、きっと自分を責めているに違いない。
リザードンがあんなことになってしまったのは自分のせいだと。
自分が不甲斐ないせいだと。
セレナは知っていた。
サトシという少年は、誰よりもポケモンを愛し、大切にしているが故に、時折自分を責めてしまうことを。
このままでは、きっとあの時のように……。
そう思うと、セレナは居ても立っても居られなくなった。
「プラターヌ博士。今晩、私も泊まっていいですか?」
***
常駐している博士や助手たちが寝静まった夜。
研究所のキッチンで、セレナは鍋をかき混ぜていた。
静かな夜の空間には、沸騰した鍋のグツグツという音と、時計の秒針が動く音しか聞こえない。
カチカチと時を告げる時計に目を向ければ、もう日付が変わっていた。
まだ眠気には襲われていないが、今晩は長い。
数時間後には瞼が重くなってくるだろう。
まな板に擦られた生姜を鍋の中に放り込めば、食欲をそそるいい香りが漂ってくる。
おたまで中身のスープをすくい、お皿に注ぐ。
すでに用意されてあったポケモンフーズと一緒にトレイに乗せ、なるべく音を立てないように、キッチンを出た。
セレナのスリッパの音だけが、廊下に響く。
彼女が足を止めたのは、治療室の扉の前だった。
「サトシ、入るね」
扉をノックし、中にいるであろうサトシに声をかければ、少しだけ元気のない彼の“ああ”という返事が聞こえてくる。
ゆっくりと扉を開けると、そこには治療台に横たわっているリザードンと、それを見つめるピカチュウ。
そしてそのすぐ横で椅子に腰掛けているサトシの姿が。
リザードンの心音の音しか聞こえないその空間は、まるで誰もいないかのように静かだった。
部屋の隅に置かれたサイドテーブルにトレイを乗せると、セレナはスープの器を持ち上げ、サトシに差し出す。
「はい。これ、良かったらどうぞ」
「これは?」
「コンソメスープ。こっちに来てから、何も食べてないでしょ?一晩中看病するなら、何か食べて体力つけなきゃ」
「あぁ、そうだな。……サンキュ、セレナ」
木製の趣ある器に盛られたスープに口をつければ、生姜の温かみが体に入ってくる。
あたたかい。
心が落ち着く。
凝り固まった心と体が、じっくりと溶けてゆくような気がした。
セレナが用意したのは、スープだけではない。
ピカチュウには、先ほどシトロンからレシピを教えてもらった特製のポケモンフーズを持って来ていた。
“どうぞ”と白い器と一緒に差し出せば、ピカチュウは嬉しそうにそれを食べ始める。
ここに来てから何も食べていなかったのはピカチュウも同じである。
自分やリザードンのことばかり考えてしまい、ずっと隣にいてくれた相棒の事など気にしていなかった。
“ポケモンのことを第一に考えるのはトレーナーとして当然のことだろう”
カルムの言葉が、再び脳内でサトシを責め立てる。
嬉しそうにポケモンフーズを頬張るピカチュウから逃げるように視線を逸らし、サトシはコンソメスープを啜る。
「リザードンには、これ。オボンの実をミックスして作ったきのみスープよ」
セレナが次にトレイから降ろしたのは、冷たいきのみスープだった。
寝転がるリザードンのそばにスープの器を置いてみると、彼はその瞼をそっと開く。
確かに元気はないが、意識はしっかりしているらしい。
体力回復によく効くオボンの実と、状態異常回復に効くラムの実を混ぜ合わせたこのスープの香りに反応し、リザードンは鼻を鳴らす。
そして、ゆっくりと舌を伸ばしてスープを舐めとる。
爽やかな味わいが気に入ったのか、リザードンのスープを舐める舌は止まることがなかった。
「気に入ったみたいだな」
「ほんと?良かった!」
スープに夢中になっているリザードンの背に手を伸ばし、そっと触れてみるセレナ。
先程のような異様な熱さは感じない。
恐らく熱は下がったのだろう。
ずっと荒かった息も落ち着き、症状が少しだけ良くなった事が分かる。
その事実に安堵しながら、セレナはそっとサトシへと視線を向けた。
スープを飲んでいるリザードンを見つめるサトシの瞳は優しいが、少しの哀しみを帯びている。
その表情からは、夕方の出来事をまだ気にしている事がよくわかった。
「カルムに言われたこと、気にしてるの?」
「……ああ、まぁな」
サトシのすぐ横に椅子を置き、そこにそっと腰掛けるセレナ。
そんな彼女の問いかけに、サトシは小さく頷く。
バトルの直後、カルムから受けた言葉はサトシにとって耳が痛くなる内容であった。
トレーナー失格だという彼の言葉に反論できなかったのは、サトシに少なからず自覚があったから。
リザードンの変化に気付けなかった。
こんな状態のリザードンに無理をさせてしまった。
ポケモンたちに常日頃から愛情を注いでいるサトシは、そんな自分の行動が許せない。
「俺のリザードンはさ、すっげぇ強いんだ。俺にとっての誇りで、どんなバトルでも必ず勝ってくれるって信頼してる。けど、信頼と慢心は、違うんだ」
いつもつけているグローブを外し、その無骨な指でそっとリザードンの首筋に触れる。
その肌触りは、ずっと昔からよく知っている慣れ親しんだ感触だった。
この立派な体を持つ彼は、サトシの切り札的な存在である。
手強いジム戦でも、幼馴染とのリーグ戦でも、バトルフロンティアでのバトルでも、その大きく強い力に助けられてきた。
サトシは知っていたのだ。
リザードンの強さを。
サトシは信頼していたのだ。
リザードンという存在を。
だからこそ、その強さに慢心し、大き過ぎる信頼という重荷を背負わせてしまった。
サトシの1番の後悔は、そこにあった。
「俺、リザードンを信頼するあまり、こいつのことなにも気にしてやれなかった。ずっと前から翼を痛めていたはずなのに、気付けなかった。トレーナーの俺が、1番に気付いてやるべきだったのに……なのに……っ」
「ピカピ……」
震える声が、狭い治療室に響く。
リザードンの首をさすっていた手が、いつ間にか力のこもった拳へと変わっていた。
悔しそうに歯を食いしばり、俯くサトシを、ピカチュウは目を潤ませながら見上げている。
人の言葉を話せるポケモンは、この世にほとんどいない。
当然、伝説でも幻でもないサトシのピカチュウが、主人に対して自分の感情を明確に伝える事など出来なかった。
彼と言葉を交わせないことを、これほどまでに不便に思ったことはない。
もしも人の言葉を話せたのなら、彼に言いたいことを言えるのに。
元気を出せ、と背中を叩くことができるのに。
「俺、トレーナー失格だな」
その言葉を口にした途端、ピカチュウは驚いたように目を丸くする。
黙々とセレナのスープを飲んでいたリザードンも、顔を上げてサトシを見つめている。
そして、ピカチュウは“ピカピ!”と主人の名前を怒鳴るように呼び、その胸に飛び込んだ。
怒っているような、それでいて悲しんでいるような、そんな複雑な表情を浮かべるピカチュウは、必死に何かを訴えてくる。
そんな相棒の姿に、サトシは戸惑いの表情を浮かべていた。
そんな様子を隣で見ていたセレナは、優しく微笑みながら口を開く。
「ピカチュウ、そんな事ないって言ってるんじゃないかな」
「え?」
「ピッカチュウ!」
セレナの言葉に、ピカチュウは大きく頷いた。
サトシとピカチュウの付き合いは長い。
3年前にポケモンマスターを夢見て故郷を旅立ったあの日から、ずっと一緒に旅をしてきた。
2人の絆は固く、そして強い。
彼を信頼し、そして付いてきたピカチュウにとって、サトシのその言葉はとても看過できるものではなかった。
そしてそれは、リザードンも同じ事。
「ねぇ、サトシはさ、ピカチュウやリザードンのこと、好き?」
「そりゃ好きだよ!2人は俺にとっての最高の友達なんだから!」
それは愚問でしかなかった。
ピカチュウもリザードンも、サトシにとっては大切で、代わりのいない大好きな友達。
彼らと出会った頃から、その愛情は何1つ変わっていないのだ。
胸に顔を押し付けてくるピカチュウを撫でながら、こちらを見つめてくるリザードンに微笑む。
その瞳は、先ほどの悲しげなものではなく、暖かく優しげなものへと変わっていた。
そんな彼の表情に小さく安堵を覚え、セレナは言葉を続ける。
「きっと、ピカチュウやリザードンも、サトシと同じ気持ちなんじゃないのかな」
「同じ、気持ち?」
「そう。サトシのことが好きだから、一緒にいる。なのにトレーナー失格だなんて、そんなこと言ったら、サトシを認めて付いてきた2人が可哀想よ」
初めてのポケモンとしてピカチュウを選んだサトシ。
トレーナーに捨てられたヒトカゲを選んだサトシ。
けれど、本当の意味で一緒にいることを選んだのは、サトシではなくポケモンたちなのかもしれない。
ピカチュウもリザードンも、サトシが好きだから付いてきた。
サトシのポケモンでいたいから付いてきた。
君に決めた、とこの道を選んだのは、ピカチュウとリザードンも同じなのだ。
だからこそ、自分を否定するサトシの言葉は許せない。
サトシというトレーナーを否定することは、自分たちの判断と生き方を否定する事になるのだから。
リザードンはゆっくりと上体を起こし、そのざらついた舌でサトシの頬を舐め上げた。
驚き、視線を向けてみれば、そこには弱っているとは思えないほどに凛々しい表情をしたリザードンがいる。
胸元へと視線を落としてみれば、赤い頬袋を擦り付けているピカチュウがいる。
大事な友達の愛しげな仕草に、サトシは潤んだ目を細めた。
鼻の奥がつんとする。
視界がどんどん歪んでくる。
溢れ出る雫を隠すように俯くと、サトシはずずっと音を立てて鼻をすすった。
「それに、たった一度の負けで肩を落としちゃうなんて、サトシらしくないじゃない」
セレナの言葉は、サトシの心を包み込むように温もりを与える。
そうだ。
バトルで負けるなんて、今まで何度だってあったじゃないか。
どうしてたった一度の負けにこだわり、俯いていたのだろう。
負けたのならば、次勝てばいい。
悩んでいる暇などない。
次の勝利のため、特訓しなくてはならないのだから。
勝ちたい。
胸の奥からじわじわと沸き起こってくるその感情は、サトシの凍りついた心を炎のごとく溶かしてゆく。
顔を上げたサトシは、今までのことが嘘のように晴れやかな表情をしていた。
「俺らしくない、か……。そっか、そうだよな。こんな事で弱音吐くなんて、俺らしくないよな!」
涙を振り払ったサトシの表情は、まるで太陽のように明るく眩しいものだった。
考えるより動く。動けば何かわかる。
悩むなんて、俺らしくない。
下を向いているなんて、俺の在り方じゃない。
優しく微笑むセレナの言葉は、起爆剤となってサトシへと投げ込まれる。
記憶の中にいるサトシという少年は、いつでも前を向き、目を輝かせて先へ先へと走っていた。
そんな姿に、セレナはずっとずっと憧れていたのだ。
サトシは、こんなことで立ち止まるような人じゃない。
そのことを、セレナは誰よりも知っていた。
サトシは凛々しい瞳で見つめてくるリザードンと視線を合わせると、再びその首筋に手を触れる。
幾分か熱が下がったリザードンの顔色は少しずつ良くなっていた。
「リザードン。俺、悔しいよ。あんなに簡単に負けちゃうなんて。だから、もう一度カルムとバトルしたい。たくさん特訓して、バトルを申し込んで、そして勝つんだ!リザードン、もう一度、俺と戦ってくれるか?」
真剣な表情で語りかけるサトシの言葉は、真剣そのもの。
そんな彼の頼みを、リザードンが断るはずもなかった。
喉を鳴らし、唸り声をあげながら、リザードンは強く強く頷く。
いつの間にか、尻尾の先の炎は激しく燃え盛っていた。
「リザードン……よし!そうと決まったら早速特訓だ!」
勢いよく立ち上がるサトシ。
座っていた椅子が大きな音を立てて倒れ、胸に抱いていたピカチュウがビクリと体を震わせた。
別の部屋で寝ているであろうプラターヌ博士やその助手たちの安眠を妨害してしまうのではないだろうかという心配はもちろんだが、サトシのまさかの提案にセレナは面食らった。
今にも外に繰り出して特訓を始めるてしまう勢いの彼の袖口を慌てて掴むと、セレナは小声で制止する。
「ちょ、ちょっと待って!今晩はゆっくり休むようにって博士から言われてるでしょ?」
「あ、そうだった…」
「ピカピ…」
脱力したようにふにゃりと笑い、後頭部をポリポリと掻くサトシに、胸元のピカチュウは呆れたように笑う。
そのせっかちさは実にサトシらしい行動であり、その様子にセレナは胸をなでおろした。
サトシが、大好きなサトシが帰ってきた。
彼らしさを取り戻したその姿は、まるで夏の日差しのように熱い。
しかし、今はその熱さを抑えてリザードンの療養に努めなければならない。
くるしい中、特訓を始めてしまえば、それこそ先程の二の舞になってしまうから。
「博士から痛み止めの塗り薬貰ってきたの。これ塗って、今日はお休みしよう?」
セレナが取り出したのは、緑色の丸い入れ物。
アロエが塗り込まれた痛み止め薬である。
プラターヌ博士から特別に渡されたその薬は、この研究所が特注したものだ。
傷を負った翼にこれを塗り込み、一晩ゆっくり休めばきっと飛べるようになる。
そんな希望を込めて、セレナはその薬をサトシに手渡した。
「そんな薬があったのか!リザードン、これ塗ってやるから、ちょっと待ってろよ」
サトシは手早く入れ物の蓋を開けると、薄緑色のクリームをたっぷり手に取り、リザードンの右翼にそっと塗ってやる。
それを横で見ていたピカチュウも、主人の真似をすべくクリームをその小さな手に取り、同じようにリザードンの翼に触れる。
どうやらこの薬は少々傷にしみるらしく、リザードンは苦い顔で痛みに耐えていた。
自分も手伝おう。
そう思い、セレナもクリームを手に取り、空いている左翼に触れる。
すると、左翼の傷にクリームが触れた瞬間、リザードンは苦痛の声をあげた。
「あ、ごめんね。痛かった?」
少し手荒だっただろうか。
負傷している体に、申し訳ないことをしてしまったかもしれない。
焦ったように謝るセレナだったが、そんな彼女をフォローするかのように、リザードンは彼女の白い首筋を舐め上げた。
ざらついた舌が触れ、少しだけくすぐったい。
その光景を、サトシは驚いたような表情で見つめていた。
気難しいリザードンが、自分以外の人間に自ら触れるのは珍しい。
元々ポケモンに好かれやすい体質だったセレナだったが、自分のリザードンすらも早々に手懐けてしまうとは。
「へー、もう懐いたのか。そいつ結構気難しくてさ。俺以外にはあんまり心開かないんだよ」
「そう、なんだ……」
サトシの口から知らせられた事実は、セレナをどうしようもなく喜ばせてしまう。
主人である彼以外に懐かなかったリザードンが、自分には心を開いてくれている。
それはまるで、長年サトシに付き添ったリザードンに認められたようで、都合よく解釈しては胸を踊らせる。
こんなことを考えてしまうほどに、セレナは隣でリザードンの翼をいたわる彼のことが、すきなのだ。
我ながら単純だな。
そんことを考えながら翼を撫でるセレナに、意中の彼は声をかけてきた。
「ありがとな、セレナ」
「へっ?」
「セレナがいてくれて、よかったよ」
リザードンの翼を撫でる手が、ピタリと止まる。
別に、感謝されたかったわけではない。
その言葉を待ち望んでいたわけでもない。
けれど、嬉しくならないわけがなかった。
サトシの力になりたいと常日頃から思っているセレナにとって、彼からのその言葉は心を暖かくしてくれる。
ああ、良かった。
どうやら自分は、ほんの少しだけでも彼の力になれていたらしい。
優しい瞳で見つめてくる彼に、セレナは喜びが滲み出る笑顔を向けて、頷くのだった。
***
窓の外から鳥ポケモンたちの声が聞こえ、セレナは目を覚ました。
ゆっくりと目を開けると、予想以上に周囲が明るくて、その光に慣れるまで数秒かかってしまう。
眠気まなこを擦りながら周りを見てみると、そこは昨晩いた治療室だった。
どうやらリザードンの看病をしているうちに眠ってしまい、そのまま朝を迎えてしまったらしい。
椅子に座り、治療台に突っ伏して眠っていたため、体が痛い。
伸びをするため背筋と腕を伸ばせば、肩からパサッと毛布が落ちた。
床に落ちた毛布を見つめ、セレナはようやくサトシとピカチュウ、そしてリザードンがこの場にいないことに気付く。
恐らくこの毛布は、サトシが自分の肩に掛けてくれたものだろう。
自分が眠ってしまっている間に、一体彼らはどこに行ったのだろう。
壁にかけられている時計に目をやると、時刻は午前4時を指していた。
治療室を出て、セレナは研究所内を一通り歩いてみたが、やはりサトシたちの姿はない。
窓から外も見てみたが、やはり周囲でその姿は確認できなかった。
外にも中にもいないのなら、もしかして…。
そんな閃きに似た何かを感じ、セレナは階段を登る。
コツコツと音を立てて登りきった先にある屋上の扉に手をかけた。
ガチャっと小さな音を立て、扉を開けると、そこにサトシはいた。
研究所の屋上で、手摺を掴みながら何かを見上げている。
少しだけ彼に近づき、その視線の先を自分も見てみれば、そこには空を悠々と飛び回るリザードンの姿があった。
「リザードン……」
東の空から眩しい太陽が昇っている。
その朝日を背に、自由に空を飛び回るリザードンの姿は雄大だった。
どうやら、傷の痛みもすっかり消え、空を飛べるようになったらしい。
ピカチュウをその背に乗せ、リザードンは空を縦横無尽に飛んでゆく。
「セレナ、おはよう」
こちらに振り向き、声をかけてくるサトシの表情は、先ほどまでの鬱々としたものとは打って変わり、晴れ晴れとしていた。
セレナのよく知る、サトシの顔だ。
胸の中の黒いモヤを振り払ったように清々しいサトシに安堵し、セレナは小さく微笑みを返す。
そしてそんな彼に寄り添うように隣に並び、上空のリザードンを見つめる。
「リザードン、すっかり元気になったみたいね」
「ああ!いつものリザードンに戻ったな」
「サトシもね」
「え?」
聞こえてきた優しい声に視線を向けると、そこにいたセレナは空のリザードンを真っ直ぐ見つめたまま、慈しむような目をしていた。
朝日に照らされたその横顔は、いつもより艶めかしくて、何故だか目を反らせない。
「サトシ、ずっと暗い顔してたから」
「そうか…?」
「うん」
正直なところ、リザードンの事で頭が一杯だったサトシは、セレナたちに心配をかけまいとする考慮をすっかり忘れていた。
セレナも、シトロンも、そしてユリーカも、底抜けに優しい。
そんな彼らは、きっと鬱々とした表情を浮かべていた自分を心配してくれていたことだろう。
そう思うとなんだか申し訳なくて、サトシは昨夜の自分を思い返し後悔の念に苛まれた。
これは自分だけの問題だったというのに、セレナたちに心配をかけてしまうだなんて。
“ごめんな”
そう謝ろうと口を開きかけたその時である。
リザードンにずっと視線を向けていたセレナが、くるりと振り返り、こちらへ顔を向けてきた。
「良かった。私の知ってるサトシに戻ったね!」
微笑みを向けてくるセレナの顔を見ていると、突然心臓が煩くなる。
胸が締め付けられる。
身体中が火照ってくる。
この感覚はなんだろう。
視界に映る彼女以外のものが霞んで見える。
だめだ。このまま彼女を見つめ続けては、きっと気付いてはいけないものに気付いてしまう。
本能がそう告げていた。
けれど、どうしても目が逸らせない。
逸らしたくない。
心の奥から、何か温かいものがじんわり溢れてくるようなこの感覚は、3年にも何度か感じたことがある。
そう、あの時から彼女は、サトシが肩を落とすたびにその背をそっと支えてくれていた。
挫折した時に思い出すのは、会いたくなるのは、声を聞きたくなるのは、いつもセレナだった。
どうして?
何故?
心の奥に浮かび上がる彼女の表情は、いつも慈しみの笑顔を浮かべていた。
「なぁ、セレナ」
「ん?」
「どうして……」
手摺を握っていた手の力が強くなる。
どうしても、聞きたいことがあった。
3年前、バクダンジム攻略に苦戦していた自分に声をかけてくれたセレナ。
ゲッコウガの事で周りが見えなくなっていた自分に喝を入れてくれたセレナ。
そして、手痛く敗北した自分に、一晩ずっと寄り添ってくれたセレナ。
その行動ひとつひとつが、今となっては不思議でしかなかった。
どうしてセレナはこんなにも自分を……。
「どうして、そこまで俺のことを考えてくれるんだ?」
ただの興味や好奇心などではなかった。
彼女の奥底にある心の色が知りたくて、その答えが知りたくて、自然とそんな質問を投げかけていた。
どんな答えが返ってくるだろうかと想像してみれば、やはり“仲間だから”という回答が相応しいだろう。
答えはわかりきっているはずなのに、どうしてこうも期待してしまうのか。
サトシには分からないことだらけであった。
そんな彼の瞳はまっすぐセレナを射抜く。
そんな澄んだ瞳で見つめられれば、嘘などつけるはずもない。
他の誰かならともかく、サトシ相手にまっすぐ自分の心を聞かれれば、取り繕って逃げられるはずなど無いのだ。
何故なら、セレナは、
「それは……私が、サトシのことを……」
口から飛び出るはずだった言葉は、たった2文字。
けれど、その言葉がサトシに届くことは無かった。
視界の端で飛び回っていたリザードンが、大きな咆哮をあげ、必然的に2人は驚いて視線を外し、空を見上げる。
そこには昇りゆく太陽を背に、口から灼熱のかえんほうしゃを放つリザードンの姿があった。
どうやら発熱も完全に治り、きちんと炎技を繰り出せるようになったらしい。
そんなリザードンの力強い姿は、サトシを歓喜させる。
これでまた戦える。
リベンジができる。
まだ見ぬカルムとの再戦に、サトシは燃えていた。
「あ、悪いセレナ。今なんて…」
“言おうとしたんだ?”
そう言い終わる前に、サトシは驚くことになる。
すぐ横にいると思っていたセレナが、いつの間にか姿を消していたのだ。
どこへ行ったのだろう。
辺りを見渡してみても、彼女の姿は無い。
“私が、サトシのこと…”
その先にある答えは、一体何だったのだろう。
彼女は何を言おうとしていたのだろう。
今のサトシには、全く想像がつかなかった。
ただ、何かを言おうとしていた彼女の顔が、声が、サトシの頭に張り付いて離れない。
なぜだか高鳴る胸を押さえながら、サトシは立ち尽くしていた。
首をかしげたサトシがいる屋上から、階段を下ったその先に、セレナは座り込んでいた。
廊下の真ん中だと言うのにも関わらず、お構い無しにへたりこんでいる彼女の表情は、呆然としたものである。
心臓がバクバクと鳴っている。
顔が赤い。
胸が苦しい。
ボーッとする頭をフル回転させ、つい数分前の出来事を思い出す。
私、さっき何を言おうとした?
答えはたった1つだった。
サトシに、すきだと言おうとした。
未遂に終わったとはいえ無意識でしか無い自分の行動に、セレナはうなだれる。
何をしているのだろう。
サトシが鈍感だということも、自分に対して恋愛感情が無いことも分かりきっていたのに。
どうせいつものようにとぼけた返事が返ってくるのは容易に想像できるのに。
なのに、あんなまっすぐな目で見られたら、逃げられなくなる。
抵抗できなくなる。
嘘なんてつけなくなる。
言い逃れができなくなるほどに、すきなのだ。
「ああもう……!お互いすき同士ならよかったのに」
そんな理想でしかないセレナの一言は、誰にも伝わることなく溶けてゆく。
心の夜明けが訪れて、今日もまた、暑い夏の日が始まった。
act.3
苦悩に苦悩を重ねた長い夜は終わりを告げ、カロスの街並みに朝が訪れた。
日の出と共にじわじわと這うような暑さが身を包み、人々に夏を実感させる。
ホウエンでの武者修行を終え、久しぶりにカロスへと帰省したセレナは、かつての仲間から“サトシも来る”と聞き、意気揚々としていた。
再会した彼は少しだけ大人になっており、身長も自分を追い抜かすほどに伸びている。
自分の知らない時間を過ごしたであろうサトシの姿に、少しの寂しさを感じながらも、セレナは再開を大いに喜んでいた。
しかし、その桃色の再会も直ぐにくすんだ色へと変わってしまう。
偶然にもミアレに滞在していたセレナの友人・カルムとのバトルで、サトシのリザードンが酷く消耗してしまったのだ。
リザードンの消耗の原因は、数日前から負っていた翼の傷にある。
自責の念に苛まれていたサトシを、セレナはどうしても放っておくことが出来なかった。
夏の夜、一晩かけて、サトシと共にリザードンの看病に当たるセレナ。
2人の献身的な看病もあり、リザードンはたった一晩で自由に空を飛び回れるほどに回復した。
そして、サトシも……。
「え!?リザードン、元気になったの!?」
「うん!」
瞳をキラキラさせながら聞いてくるユリーカに、セレナは笑みを浮かべながら頷く。
夜が明け、日が昇ると同時に急いでプラターヌ研究所に駆けつけたシトロンとユリーカ。
彼ら兄妹も、サトシやリザードンを心配していたらしい。
走って来たため、額に汗をかいている2人は、セレナの言葉に安堵のため息をつく。
昨日、カルムとのバトルに負けた直後のサトシは鬱々としていて見ていられなかった。
いつもは明るいサトシが、傷ついたリザードンを見つめ、ずっと肩を落としている。
そんな状況に、シトロンもユリーカも戸惑っていたのだ。
「一時はどうなることかと思いましたが、回復してくれて何よりですね」
「ええ。博士がくれた塗り薬のおかげよ。博士、ありがとうございます!」
背後にいる博士へと振り返り、セレナはお礼を述べる。
着崩した白衣のポケットに手を突っ込んでいるプラターヌ博士は、笑顔を見せながらも少々眠そうであった。
早朝から訪ねて来たシトロンやユリーカに起こされ、寝不足なのだろう。
それでも不機嫌な様子を全く見せず、優しく微笑みながら“どういたしまして”と口にした。
昨晩、博士がセレナに託したのは、ほのおタイプ専用の痛み止め薬。
アランのリザードンが、昔同じような症状に悩まされた時に助けられた貴重な薬である。
その効果は劇的なもので、たった1日でリザードンを全回復させてしまった。
おそらくあの薬がなければ、リザードンはこれほどまでに早く回復はしなかっただろう。
「ねぇセレナ、サトシは今どこにいるの?」
「そういえば、姿が見えませんね」
「サトシなら……朝になったと同時に、リザードンと出かけちゃった。特訓するんだって」
セレナの言葉を聞いたシトロンとユリーカは、目を見開いて驚く。
やはり兄妹ということもあって、リアンクションもよく似ている。
しかし、驚くのも無理はないだろう。
昨日まで立ち上がることすら難しかったリザードンを連れ、意気揚々と特訓に向かうだなんて。
昨晩、サトシはリザードンの看病をしながら“カルムにリベンジをする”と誓っていた。
おそらくその誓いを果たすため、いつもよりも行動的になっているのだろう。
もちろん、そんなサトシを心配しないわけではない。
だが、こうと決めたら即行動を開始してしまう、そんないつものサトシが帰って来たような気がして、強い喜びも感じてもいた。
無茶をしながらも、まっすぐ前へ前へ向かっていく彼は、誰よりも魅力的で、そして大きく見える。
早朝にこの研究所を出て行ってしまったサトシの背中を思い出し、セレナは自分の胸がじんわりと暖かくなるのを感じた。
「それじゃあ、サトシが帰ってくるまでに時間がありますね。好都合です」
「好都合?」
「昨日、サトシとセレナの歓迎パーティーやり損ねちゃったでしょ? ちょうど花火大会もあるし、ついでなら今夜パーティやっちゃおうって話してたの!」
街中の絢爛豪華な装飾は、今夜催される花火大会に向けたものだったことを、セレナはすっかり忘れていた。
今夜開かれる花火大会に合わせ、昨晩出来なかった2人の歓迎パーティーを行おうという魂胆らしい。
自分たちのためにそんな計画を立ててくれていたシトロンとユリーカの話しを、セレナが断るはずもなかった。
久しぶりに4人で夜を過ごせる。
その事実は、セレナにとって最高の喜びを与えてくれた。
「歓迎パーティーか、いいね。セレナくんにとって、ミアレで過ごせる夜は今日が最後だし、花火を見ながら楽しむといいよ」
プラターヌ博士の言葉に、セレナは満面の笑みで頷いた。
彼女の実家があるアサメタウンに帰るのは、明日の夕方ごろ。
つまり、セレナがこのミアレでかつての仲間たちと過ごせる夜は、今夜が最後ということになる。
寂しさもあるが、最後の夜が花火大会の日で良かった。
そんなことを考えながら、セレナはシトロンたちの気遣いを受け入れていた。
「最後の夜ですから、僕が腕を振ってご馳走を作りますね!」
「ほんと!?シトロンの料理久しぶりだし楽しみ!」
カロスを4人で旅していたあの頃、セレナはシトロンの料理が大好きだった。
カロスを離れ、1人でホウエンへと旅に出た後も、自分で料理をしなくてはならない状況に苦戦し、シトロンに電話で助けを求めたことが何度もある。
料理本片手に困った様子で調理方法を聞いてくるセレナに、シトロンは数え切れないほど個人レッスンを開いていた。
その甲斐あって、今では一通りの料理を作れるまでに成長したセレナ。
そんな彼女でも、かつての師匠の料理がまだ恋しいらしい。
期待の眼差しでシトロンを見つめていた。
「あっ、そうだ!せっかくの花火大会だし、ちょっと特別にお洒落しちゃおうかなぁ」
「え!?オシャレって何!?何するの!?」
「ふふっ、ひみつー!」
3年前、有名なファッションデザイナーであるマーシュから衣装提供を受けて以来、セレナは彼女との交流を続けていた。
数日前にマーシュから貰った衣装をまだ一度も着ていないことに気付いたセレナは、あの衣装を活用するなら今しかないと思い立ったのだ。
気に入っていたあの衣装を着て現れたら、みんなは、そしてサトシはどう思うだろうか。
淡い期待を抱きながら、セレナの企みは膨らんでゆくのだった。
***
降り注ぐ陽の光は殺人的な暑さを連れて来て、サトシの体を熱気で包む。
額に浮かぶ汗を気にすることなくバトルフィールドに佇むサトシは、真っ直ぐ真上を見つめていた。
その視線の先にあるのは、入道雲がかかった真っ青な空と、その中を悠々と飛び回るリザードンの姿。
大きな翼をはためかせ、自由に空を旋回するその姿は、実に雄大なものである。
よく通る声で叫ばれた指示はリザードンの耳に届き、その口からは灼熱の炎が放出される。
真っ赤に燃え上がる炎は真っ直ぐ空へと放たれ、火の粉を撒き散らしながら消えてゆく。
その威力は病み上がりとは思えないほど強力で、見上げるサトシを大いに満足させてくれた。
これなら、きっとカルムに勝てる。
次こそは、勝ってみせる。
ポケモンセンターに特設されているバトルフィールドの真ん中で、サトシはそれを確信していた。
回復したリザードンを連れ、早朝にプラターヌ研究所を飛び出したサトシは、即座にこのポケモンセンターに駆けつけた。
通常、ポケモンセンターにはバトルフィールドが設置されており、そこはバトルだけでなく特訓にも適している。
この場でリザードンの特訓を初めて早2時間。
そろそろ彼も疲れて来たことだろう。
この猛暑の中では、自分も体調に気をつけなければならない。
サトシが右手を上げ、リザードンに合図すると、彼はすぐに地上へと降りて来た。
立ち込める煙にむせそうになりながらも、サトシは舞い降りたリザードンへと駆け寄り、その首筋を撫でてやる。
彼の顔色は良く、数時間前までダウンしていたとは思えないほどに好調であった。
「いい調子だな、リザードン。これならきっとカルムにも勝てるぜ!な?ピカチュウ」
己の肩に乗る相棒へと同意を求めると、黄色い彼は満面の笑みで首を縦に振ってくれた。
そんなピカチュウも、黄色い毛並みにじっとりと汗をかいている。
リザードンやピカチュウのためにも、そろそろ休憩を取ろう。
そんな事を考えていたサトシの耳に、バトルフィールドの砂を踏みしめる音が届く。
誰かが背後から近づいて来たらしい。
ふと振り向くと、そこには明るい日差しの中に意外な人物が立っていた。
「カルム」
そこにいたのは、まさにこれからサトシが挑もうとしている張本人、カルムであった。
その姿を見て、彼はしばらくこのミアレに滞在するつもりらしいとセレナから聞いていた事を思い出す。
とはいえ、カロス1の大都会であるミアレシティは広い。
あんなことがあった翌日にまた会えるとは、なんという偶然だろう。
そんな事実に少々驚きながら、サトシはカルムへと歩み寄る。
「リザードン、良くなったんだな」
「あぁ、まぁな」
「復活して早々特訓か。努力家だな」
サトシから視線を外し、少しだけその背後を見上げると、キリッとした表情のリザードンがこちらをじっと見つめていた。
その顔色は昨日のことが嘘のように健康的で、彼が完全に回復した事実を物語っている。
あれだけ重篤だったというのに、よく一晩で回復したものだ。
素直に感心しながらも、カルムは再びサトシへと目を向ける。
そんな彼に対し、サトシは何やら決意したかのような顔で口を開いた。
「カルム。頼みがあるんだ」
「なんだ?」
「もう一度、俺とバトルしてくれ!」
真剣な眼差しをぶつけてくるサトシの言葉に、カルムは大いに驚くことになる。
昨日の対戦は、誰がどう見てもサトシの惨敗に終わった。
リザードンは傷付き、サトシ自身のプライドもボロボロになったと言っても過言ではない。
しばらくは傷心して元気を失うだろうと予想していたカルムだったが、その予想はどうやら大きく外れていたらしい。
傷心するどころか、燃え上がるほどの闘志を感じさせる瞳で、再戦を挑んできた。
その強い意志は、どこまでもカルムを感心させてしまう。
思わずクスリと笑ってしまったカルムに、サトシは真剣だった表情を崩し、キョトンと首をかしげる。
自分は何かおかしな事を言っただろうか。
肩を震わせて笑みを耐えるカルムに、“なんだよ”と問いかければ、彼は微笑みながら“ごめん”と謝罪の言葉を返してきた。
「キミ、本当に負けず嫌いだね。セレナから聞いた通りだ」
カルムの口から飛び出たその名前は、急速にサトシの心臓をうるさくさせる。
一瞬のうちに脳内でフラッシュバックするのは、つい数時間前、明け方の出来事。
プラターヌ研究所の屋上で、眩しい朝日を浴びながら悩ましげな瞳でこちらを見つめてくるセレナの顔。
その姿を思い返すたび、何故だか落ち着かなくなる。
ただ、カルムから彼女の名前を聞いただけなのに、こんなにもよく分からない感情に包まれるのは、一体どうしてなのだろう。
その理由を、サトシは一向に掴めずにいた。
「セレナ、俺のこと、なんて……?」
「いつも明るくて、前向きで、すごく頼りになるって。憧れの人だってさ」
「………そっか」
なんとなく照れ臭くて、無意識に鼻の下を人差し指で掻いていた。
“憧れ”
彼女から贈られるその言葉は、サトシを喜びで優しく包んでくれる。
3年前、カロスでの旅を終えた別れ際にも、セレナは自分にその言葉を贈ってくれた。
誰かから強い憧れの眼差しを向けられることがあまり無かったサトシには、その事実が嬉しくて、不思議な感覚に陥った事を今でも覚えている。
自分への憧れを、彼女は今でも変わらず持ち続けている。
まるで体がふわふわと宙に浮いてしまうような、そんな感覚を再び味わっていた。
「キミ、もしかしてセレナのこと……」
照れたような表情に、優しい瞳。
セレナの名前を出した途端、くるりと雰囲気を変えたサトシに、カルムは確信に似た疑問を投げかける。
けれど、その先の言葉を口にすることは無かった。
答えを聞いたところで、きっと事実も状況も変わらない。
目の前の少年が、別の意味でのライバルになるだけなのだから。
「なんだ?」
「いや、なんでもない。バトルの話だけど、喜んで受けることにするよ」
喉元まで出かかっていた言葉を飲み込み、いつも通りの笑顔で応えるカルム。
そんな彼の様子に少しも疑問を抱くことなく、サトシは喜びに満ちた表情を見せる。
「ホントか!?」
「あぁ。君にだけは、負けられないみたいだから」
先程まで余裕綽々な空気を醸し出していたカルムであったが、ほんの一瞬だけキリッとした表情を見せた。
鈍感なサトシでも、流石にそんな彼の変化には付いたらしい。
首をかしげるサトシを横目に、カルムは“じゃあ”と短く別れを告げ、踵を返す。
無駄口を叩くことなく帰ろうとするカルムはやけにスマートで、サトシは慌てて呼び止めた。
まだ、バトルの約束をきちんと交わしていない。
「カルム!明日の昼過ぎ、ミアレ公園で待ってるからな!」
その場から去ろうとどんどん遠ざかっていくカルムの背に、サトシは少し早口気味に叫ぶ。
その声はカルムの耳に届いたようで、彼は振り返ることなく右手を上げて去って行った。
彼と再び顔を合わせる時は、再戦の時である。
カルムは“負けられない”と言っていたが、それはサトシも同じであった。
リザードンのため、そして自分のためにも、同じ相手に2度屈辱を味わうわけにはいかない。
絶対に勝つ。
サトシの中で、この夏の日差しよりも熱い闘志が、メラメラと燃え上がっていた。
「よし!リザードン、特訓続けるぞ!ピカチュウも手伝ってくれ!」
休憩しようと決めていた事実をすっかり忘れ去っているサトシは、特訓の再開を宣言する。
そんな主人にげんなりすることなく、リザードンもピカチュウも力強く頷いた。
対戦相手の顔を見てしまった今、燃え上がった闘志は止められない。
再戦の時を待っているだけだなんて、自分らしくないのだ。
“私の知ってるサトシに戻ったね!”
嬉しそうにそう語るセレナの顔が脳裏に浮かぶ。
そう、前へ前へ進むこの活力と根性こそが、自分らしさというものだ。
もう、自分を見失ったりしない。
そう固く誓い、サトシは特訓を再開するのだった。
***
猛暑日が続く外に比べ、冷房が効いた屋内は大分過ごしやすい。
プラターヌ研究所から歩いて数分の距離にある電気屋に、セレナたちはいた。
シトロンとユリーカの実家でもあるこの家は、セレナにとっても馴染み深い家である。
この家の家主であるリモーネの姿はなく、今日は留守のようだ。
今夜のミアレ花火大会に合わせ、パーティーをしようと企んでいるセレナたちは、この家を拠点として準備を進めていた。
家に帰ってきて早々、シトロンは汗を拭う暇もなく料理本を探しに家中の捜索を開始した。
その間、手持ち無沙汰になってしまったセレナとユリーカは、キッチンの椅子を取り出し、向かい合っておしゃべりを展開している。
世に言う、女子会というやつである。
「ねぇセレナ。昨日の夜、サトシと2人っきりだったんだよね?」
「えぇ、そうよ」
「何にもなかったの?」
「何にもって?」
「キスしたとか」
「ぶっっ!!」
興味津々な様子で聞いてくるユリーカの言葉に、セレナは飲んでいた緑茶を盛大に吹き出してしまう。
この家に着くまでに自販機で買った緑茶が台無しである。
この場にサトシがいなくて良かったと安心するセレナ。
そんな彼女の意外な動揺っぷりに、ユリーカは膝上に乗せたデデンネと一緒にケタケタと腹を抱えて笑っている。
「そ、そんなコトするわけないじゃない!」
ポケットから取り出したハンカチを使い、こぼれた緑茶を拭き取る。
ユリーカは妙な期待を寄せているようだが、残念ながら昨夜はそんなコトをしている余裕などなかった。
リザードンは重篤であったうえ、サトシもひどく傷心していたため、セレナは彼らをどうすれば元気付けられるか必死に考えていたのだ。
その結果が身を結び、見事サトシもリザードンも復活したわけである。
しかし、その事実はユリーカにとってあまり望ましい展開ではなかったらしい。
両頬を膨らませ、“つまんない”とぼやいている。
「ホントに何にも無かったの?」
「うーん」
一切何も無かったかと問われれば、きっと答えはNOである。
物理的に接近したわけではないが、セレナにとって、心に訴えかけるような出来事が確かに起きていた。
“どうして、そこまで俺のことを考えてくれるんだ?”
ずっとずっと前から想い続けてきた彼からの純粋な質問に、つい真実を打ち明けてしまいそうになってしまった。
すきだと、言いそうになってしまった。
無意識に気持ちを紡ごうとする己の口に動揺し、逃げ出した自分を、サトシはどう思っただろう。
気持ちを隠しておきたいわけではない。
けれど、暴露したところで今の関係が崩れてしまうのなら、言わないほうがいい。
日を重ねるごとに大きくなっていく彼への想いは、セレナの理性では抑えられないほどに肥大していた。
自分の中での“すき”が、もはやコントロール不能になってしまっている。
きっと、もう逃げられはしないのだ。
少しだけ思いつめたような顔で俯くセレナに、ユリーカは首をかしげる。
“どうしたの?”
そう声をかける前に、階段をドタドタ降りる音と共に、聞き慣れた兄の叫び声が飛び込んできた。
「ありましたよ!見つけました!料理本です!」
キッチンに慌ただしく入ってきたシトロンは、抱えていた数冊の料理本をキッチン台の上に置く。
ずいぶん長い間開かれていなかった本らしい。
ボンッと派手な音を立てて置かれた途端、埃が舞い上がる。
そんな状況にケホケホと咳き込みながら、セレナは目を輝かせた。
カロスを旅していたその道中、食事を作ってくれていたシトロンの技術が、この本たちの中に詰まっている。
今夜振舞われるであろう料理を想像しながら、セレナは胸を高鳴らせるのであった。
たくさん積まれた本の中から、1番年季の入った本を取り出し、パラパラとめくるシトロン。
心地よい紙の音と共に、彼の“うーん”という思い悩んだような唸り声が聞こえる。
「さて、何を作りましょうか……」
「ねぇシトロン!コロッケにしない?」
「コロッケ?」
セレナの思いがけない提案に、シトロンは首をかしげる。
3年前、たった一度だけサトシから料理の好みを聞いた事を、セレナはしっかりと覚えていた。
その記憶によれば、彼は確か“コロッケが好きだ”と言っていたはず。
好きな食べ物がたった3年で変動するとも思えない。
きっとコロッケを作れば、彼は喜んでくれるだろうと考えての提案だった。
「ユリーカもコロッケ食べたーい!」
勢いよく手を挙げ、自己主張するユリーカ。
そんな彼女の頭の上では、相棒のデデンネも真似をするかのように挙手をしている。
どうやらユリーカもコロッケが好きらしい。
これは好都合だ。
シトロンにとって、コロッケは作り慣れた料理であり、それほど苦戦せずに作ることが出来るレシピでもある。
女性陣からのリクエストを受け、シトロンは料理本をぱたりと閉じた。
「じゃあユリーカ。料理手伝ってくれるかい?」
にっこり微笑んで質問してくる兄に、ユリーカは苦い顔を見せる。
あれから3年経ったとはいえ、まだまだ子供なユリーカは、未だ“お手伝い”という単語がどうも嫌いらしい。
誤魔化すような引きつった笑顔を見せながらいそいそとキッチンの出口へと向かう。
「ゆ、ユリーカちょっと用事思い出しちゃった!じゃ、じゃーねー!」
「あ、ちょ、ユリーカ!?」
シトロンが止める隙もなく、ユリーカは自慢の俊敏さでとっととキッチンから出て行ってしまった。
遠くから玄関が閉まる派手な音が聞こえる。
どうやら彼女は猛暑日が続く外へと飛び出して行ったらしい。
逃げられた事実に落胆するシトロンのため息が、キッチンに虚しく溶けていく。
そんな苦労人な友人の姿に苦笑いを零しながら、セレナを口を開いた。
「元気出して、シトロン。私も手伝うわ」
「ありがとうございます、セレナ」
ポフレやケーキ、ドーナツなど、お菓子づくりには自信があったセレナ。
しかし、コロッケをはじめとする料理はあまり作った経験がなく、上手く作り上げる自信は無かった。
だからこそ、こうしてシトロンの料理を手伝える機会は貴重になってくる。
しかも今回のレシピは、セレナの想い人の好物。
シトロンの手伝いをすることで、きっと彼が喜ぶコロッケのレシピをものにしてみせる。
そんな決意を固めながら、セレナはシトロンの横に立ち、料理本を覗き込むのだった。
**********
太陽が空の真ん中に差し掛かった頃。
降り注ぐ陽の光は一層強くなり、サトシに気持ちの良い暑さを与える。
青空にかかる入道雲は、まさに夏を感じさせる景色を広げていた。
そんな空を切り裂くように放たれるのは、リザードンの“かえんほうしゃ”。
真っ赤に燃える炎の筋を見上げるが、太陽が眩しくて顔をしかめる。
地上で臨戦態勢を取っているピカチュウめがけて放たれるその炎の威力は申し分なく、サトシを満足させた。
主人である彼自身、リザードンがたった一晩で完全に回復するとは思っていなかった。
これも、サトシの期待に応えてくれたリザードン本人と、一晩中看病に付き合ってくれたセレナのお陰であろう。
帰ったらまたセレナにお礼を言わなくては。
そんな事を考えながらピカチュウとリザードンの攻防を見ていたサトシの脳裏に、あの時の言葉がよぎる。
“それは……私が、サトシのことを……”
昇る朝日に横顔を照らされながら、悩ましげな瞳で呟いた彼女の表情が、先程から頭に張り付いて離れない。
何かの拍子でセレナを連想させる出来事が起こるたび、あの時の事を思い出す。
彼女はあの時、一体何を言いかけたのだろう。
あんなに切なげな顔で、一体何を自分に伝えようとしたのだろう。
わからない。
知りたい。
けれど、どうして自分がこれほどまでにセレナを気にしているのかも、よく分かっていなかった。
決して鋭いとは言い難いサトシには、セレナの言わんとしていた事も、そして自分の心すらもわからない事だらけである。
考える事を嫌うサトシが、考える事をやめられない。
セレナの存在が、言葉が、正体不明の謎としてサトシの心に負荷をかけていた。
「ピカピ?」
足元で、相棒の声が聞こえる。
ハッとして我に帰ったサトシが急いで足元に視線を落とすと、ピカチュウがサトシのズボンを引っ張りながら心配そうにこちらを見上げていた。
目の前には、先程まで空を自由に飛び回っていたリザードンの姿もある。
いつの間にか地上に降り立っていた彼も、思いつめたようにボーッとしていたサトシを不思議そうに見つめていた。
どうやら特訓がひと段落し、サトシの様子を伺いに来たらしい。
2人の攻防が終わっていたことに全く気付かなかったサトシは、苦笑いを零しながら“ごめん”と2人に謝罪する。
「なんかボーッとしてたみたいだ。もう大丈夫だから」
「ピーカ?」
「大丈夫だって」
やはり心配そうに聞き返してくるピカチュウを抱き上げ、肩に乗せてやれば、スリスリと頬擦りを返してくる。
サトシは首筋に汗をかいているというのに、それを気にせず接近してくるのは信頼の証なのかもしれない。
リザードンにも労いの言葉をかけてやろうとその体に触れる。
すると、彼の体はほのおタイプ独特の高体温に見舞われていた。
激しく運動したお陰で、少し暑くなったらしい。
リザードンの向こう側に見える時計塔に目を向ければ、もう短針は昼筋を指していた。
特訓を始めてもう5時間近く経ってしまっていたらしく、サトシは思わず驚く。
この炎天下の中、長時間の激しい特訓は危険極まる。
この辺りで休憩を取らなくては。
「よし、一旦切り上げるか」
明日のカルムとのバトルに備え、無理は禁物。
今日はシトロンの家に泊まる予定だった事を思い出したサトシは、一旦彼の家に帰って休憩を取ろうと考えた。
特訓は夕方にでもできる。
今はまだ焦る必要はないだろう。
サトシの言葉に頷いたリザードンをモンスターボールに戻し、休ませてやる。
ピカチュウを肩に乗せたまま、炎天下の中、サトシはシトロンの家へと向かうのだった。
**********
特訓中は集中していたため、全くと言っていいほど感じなかった暑さが、街を歩いている今は嫌という程身にまとわりつく。
アスファルトの照り返しは体感温度をぐっと上げ、うな垂れるような暑さを町全体に与えていた。
遠くがぼんやり歪んで見えるミアレの街並みを数分歩くと、リモーネが営む電気屋が見えて来た。
シトロンとユリーカの実家である。
汗を垂らしながら家の扉を開けると、冷房の涼しい風が首筋に当たる。
まるで生き返るような快感を得ながら、サトシはゆっくりと靴を脱ぎ、玄関に上がった。
「ただいまー」
声をあげ、帰ってきた事を知らせても、返事が一向に帰ってこない。
誰もいないのだろうか?
肩に乗る黄色い相棒とともに首をかしげるサトシだったが、少し廊下を進んだところで人の話し声が聞こえてきた。
かすかに聞こえるその声は、キッチンの方から聞こえてくる。
2人で話しているようだが、その2つの声には聞き覚えがあった。
何故だか嫌な予感を覚えながら、キッチンの扉へと手をかける。
この扉を開けた時、きっと後悔してしまうだろう。
サトシは脳は、本能的にそう告げていた。
けれど、開けずにはいられない。
何故なら、聞こえてきた2つの声のうち、一方の声は、明らかにセレナのものだったから。
ガチャリと音を立て、扉はゆっくり開かれる。
開放的なキッチンには、カーテンのない小窓が設置しており、その窓から入ってくる太陽の光が周りを明るくさせてくれていた。
そんな光景の真ん中に、寄り添うように座っていたのは、2人の仲間。
セレナとシトロンであった。
キッチン台の下に椅子を置き、並んで座っている2人は、何やら大きめの本を覗き込んでいる。
そんな2人の距離は、妙に近く見えた。
「あっ!サトシおかえり!」
入ってきたサトシの姿にようやく気が付いたセレナは、顔を上げて微笑みを浮かべる。
その隣で、シトロンも同じように朗らかな表情でこちらを見つめていた。
玄関の扉が開けば、それなりに派手な音が鳴ることをサトシは知っている。
その音が聞こえないほどに、2人は会話に夢中になっていたのだろう。
楽しい雰囲気が、自分の乱入によって小さく穴が空いたかのような空気感が存在しているようで、なんとなく、居心地が悪かった。
「特訓お疲れ様!疲れてない?」
「………あぁ」
いつもと変わらない笑顔を向けてくるセレナを見ていると、心の奥から深くて黒い靄が這い上がってくるような気がして、マトモに彼女を見ることができなかった。
ぶっきらぼうに視線を外したサトシの様子は、何だかいつもとは少し違う。
その事実を察したセレナとシトロンは、顔を見合わせて不思議そうな表情を浮かべた。
今、視線をセレナに向ければ、必然的にシトロンと並んでいる光景が視界に飛び込んでくるだろう。
そう考えると、妙に体に力が入ってしまい、いつも通りではいられない。
「じゃあ俺、ちょっと休憩するから」
「あっ、サトシ!」
そそくさとキッチンから出て行こうとするサトシの背を、慌てたようにセレナが呼び止める。
様子がおかしいサトシを、このまま行かせてはいけないような気がしたのだ。
しかし、呼び止めたものの、何を話そうか事前に決めていたわけではないため、振り返ったサトシに焦るセレナ。
必死に声を絞り出し、動揺しながら紡ぎ出す言葉は、苦し紛れでしかなかった。
「えっと、あのね、夜はパーティーするから、家にいてね」
「………あぁ」
短く返事をしたサトシは、そのままキッチンから出て行ってしまった。
キッチンの扉が閉まる“バタン”という音だけが乱暴に響く。
その音に肩をビクつかせたセレナは、不安げな表情で閉まった扉を見つめるのだった。
***
寝室として貸された部屋は、シトロンの部屋であり、彼のベッドの横には、サトシ用に敷布団が敷かれていた。
おそらくシトロンが敷いてくれたのだろう。
部屋には既に冷房がかかっていて、シトロンの気遣いを感じさせる。
しかし、それを実感するたびに罪悪感を感じてしまうのは何故なのだろう。
わからないまま、サトシは倒れこむように布団へと身を沈めた。
「ピカピ、ピーカーチュ?」
「んー……。休憩」
死んだように倒れこんだ主人を心配したのか、ピカチュウがツンツンと頭を突いてくる。
けれど、今のサトシには、そんな相棒に構っていられるほどの余裕がなかった。
頭の中で、先ほどの光景がグルグルと巡る。
セレナとシトロンが、近い距離感で楽しそうに笑っていたあの光景は、サトシの胸を締めつける。
楽しげな2人を見れば見るほど胸がムカムカして、落ち着かない。
これじゃあまるで、嫉妬しているみたいだ。
2人が接近するような状況など、旅をしていた頃は何度もあったというのに、どうして今更こんな感覚に陥るのだろう。
今朝から、サトシはずっと自分ではコントロールできない感情の波に襲われていた。
その波の中心にいるのが、いつもセレナだという事も、薄々気付いている。
サトシが胸を高鳴らせる時も、肩を落とす時も、頭を悩ませる時も、全てにセレナが関わっていた。
一体なぜ?
明け方見せたセレナの悩ましげな顔が、頭から離れようとしない。
一体なぜ?
そして、気づけばいつもセレナの事を考えてしまっている。
一体なぜ?
考えても考えても、その答えは出なかった。
「ん……」
上体を起こし、辺りを見渡してみると、いつの間にか隣にいたピカチュウはスヤスヤと寝息を立てていた。
激しい特訓に疲れたのだろう。
無理をさせてしまったことに申し訳なさを感じながら、サトシは立ち上がる。
なんとなく、ここでじっとしているのはいけない気がして、気分転換に出かけようと思い立ったのだ。
しかし、寝ているピカチュウをわざわざ起こしてまで猛暑の中を散歩するのは気がひける。
いつも一緒のピカチュウを寝室に残し、サトシは重たい体を動かしながら寝室を出た。
階段を降り、一階の廊下に出ると、その突き当たりにはキッチンがある。
無用心にもキッチンの扉は半開きになっており、中の様子が少しだけ伺える。
こちらから見える限り、シトロンの姿しか確認することが出来ず、サトシは首を傾げた。
そっとキッチンに近づき、扉に手をかけて中に入ると、やはりそこにはシトロンの姿しかなかった。
「サトシ、どうしたんですか?」
「いや、ちょっと散歩に行こうと思ってさ。………その、セレナは?」
「あぁ、彼女なら買い出しに出かけましたよ。食材を買いに」
「食材?」
ふとキッチン台に視線を落とすと、そこには数冊の料理本が置かれていた。
先程はそんな余裕がなく、しっかり見ることが出来なかったが、どうやらシトロンとセレナはあの料理本を覗き込んでいたらしい。
今、シトロンが1人で眺めている料理本のページには、コロッケの調理方法が掲載されている。
そんなサトシの視線に気付いたのか、シトロンもそのページへと目を向けながら口を開いた。
「今夜はコロッケにしようと思うんです。セレナのリクエストで」
「セレナが?」
「はい。サトシの好物だから、作ろうって」
突然、心の奥がきゅうっと縮こまるような感覚に陥った。
自分の好物だからという理由で、コロッケを選んだセレナ。
彼女が何を思って、どんな表情で、どんな言葉でその希望を口にしたのか。
それを想像するだけで、たまらなかった。
心臓の鼓動が速くなる。
いつも以上に落ち着かなくなる。
さっきまで落ち込んでいた気持ちが、一瞬にして晴れ渡っていくのが分かった。
「………シトロン、さっきはごめんな。きつく当たって」
心の重石が砕け散り、先程まで重かった体が嘘のように軽くなった。
すると、つい数分前の不貞腐れていた自分が妙に恥ずかしくなって、サトシは衝動的に謝罪する。
そんなサトシの言葉に少しだけ驚きを覚えながらも、シトロンは首を横に振る。
「気にしていませんよ。なにか、あったんですよね?」
「……自分でもよくわからないんだ」
俯くサトシは、今までに見たことがないような表情を浮かべていた。
シトロンもサトシと同じく鋭いとは言い難いが、彼の纏う雰囲気から、その悩みのタネが今までにない大きさだということが想像できる。
そして、きっとそれにセレナが関係している事も、なんとなく察しがついていた。
具体的にどんな悩みなのかは分からないが、彼が困っているなら仲間として助けになりたい。
そんな考えから、口を開こうとしたシトロンだったが、それはサトシの言葉によって阻まれてしまう。
「けど、考えるよりまず動いてみるよ。それが俺のやり方だからさ!」
さらりと言ってのけたサトシの表情は、先ほどに比べて明るいものだった。
次のシトロンの言葉を待つ事なくバタンとキッチンの扉を閉め、足早に玄関へと歩いていくサトシは相変わらず強引である。
けれど、そんなサトシのあり方に、シトロンは憧れの念を抱いていた。
それはきっと、あのセレナも同じだろう。
「サトシらしいですね」
誰に聞かせるわけでもなく、シトロンはそんな独り言を呟く。
悩んでいる彼など、彼らしくない。
その事実を、シトロンも痛いほど分かっているのだ。
さて、パーティー開始まであと半日。
時間はたっぷりあるが、かと言ってのんびりもしていられない。
セレナが買い出しから帰ってくる前に、下ごしらえを始めようと、シトロンは行動を開始したのだった。
***
30度を超える猛暑日の日差しは、容赦なく町の人々へと降り注ぎ、体感温度をグングンと上げている。
滴る汗を拭いながら数分歩けば、少し大きめのスーパーマーケットが見えて来た。
自動ドアに導かれるように中に入れば、冷房の風が肌に当たって心地よい。
メモに書き起こした買い物リストを片手に、セレナは夕飯の買い出しへと来ていた。
パン粉や調味料、野菜類を順番に見て回りながら考えることはただ1つ。
先程のサトシの態度である。
キッチンでシトロンと夕飯のことについて話していた時、突然入って来たサトシは、自分たち2人を見るなり顔色を変えた。
急激に険しい表情になり、言葉尻もややキツくなったように思える。
何故、突然不機嫌になってしまったのか、セレナには見当もつかなかった。
嫌われてしまったのだろうか?
何か気に障るようなことを言ってしまっただろうか?
それとも、やはりリザードンの看病を一晩中付き添った事を疎ましく感じたのだろうか?
分からない。
想い人からの冷たい態度に、セレナは動揺を隠せずにいた。
「はぁ……」
「ずいぶん深いため息だな」
野菜コーナーにて、じゃがいも片手にため息をつくセレナ。
そんな彼女のすぐ横で、聞き慣れた声がした。
驚いて振り返るセレナの視界に入って来たのは、彼女にとって馴染み深い隣人・カルムであった。
セレナの横に立ち、同じようにジャガイモを眺めている彼は、口元に不敵な笑みを浮かべている。
「え、なんでここに?」
「ポケモンフーズを買いに」
ふとカルムの手元へと視線を落とせば、彼は買い物かごに何種類かのポケモンフーズ入れていた。
それは一般的なものではなく、タイプ別に調合された少々高めのものである。
昔からカルムはマメな性格で、一度やり始めたものは極めるまで辞めない頑固な部分があった。
ポケモンに対してもそのストイックさは変わらない。
自分のパートナーたちのためなら、努力と奉仕を怠らないのがカルムのやり方なのだ。
そんな彼の性格に、セレナはサトシ相手とはまた別の尊敬心を抱いていた。
バトルでの強さも、他者に対する言葉の強さも、彼の裏での努力を知っているからこそ納得できる。
彼がサトシに勝ったという事実も、彼が相手ならば仕方がないと思ってしまえるほど、カルムという少年は実力と努力の人間なのだ。
「そういうお隣さんは何買いにいたの?」
「夕飯の材料。コロッケ作ろうと思って」
「コロッケ?」
「そう。サトシの好物なの」
サトシ。
その名前だ出た瞬間、カルムの表情から不敵な笑みが消えた。
低いトーンで“ふーん”と返す彼だったが、当のセレナは手に持ったジャガイモを一点に見つめ、カルムの小さな変化には気付かない。
セレナの瞳がいつも以上に優しげで、慈しみに溢れるものに見えたのは、きっとカルムの勘違いではないだろう。
「さっき、サトシからバトルを申し込まれたよ」
「えっ!?サトシに会ったの?」
驚いたようにこちらへと視線を向けるセレナ。
ようやく目が合った彼女の表情は、自分のその先にいるサトシの影を見つめているようで、カルムは素直に喜べなかった。
そして、1つの事実を悟ってしまう。
彼女の感情を揺り動かせるのは、自分ではないのだと。
「明日の昼過ぎ、ミアレ公園で約束してる。セレナも来てくれるだろ?」
「もちろん!」
満面の笑みで頷く彼女は、本当に楽しそうで、カルムの心を小さくくすぐる。
けれど、彼女の心のありかを探れば探るほど、その笑顔の真意が見えて来てしまう。
引き寄せたところで、恐らく彼女は微笑みながら自分の手をゆっくり振りほどく。
そしてそのまま向かう先は、きっと……。
「……そっちより、こっちの種類のジャガイモの方が甘味があって美味いよ」
カルムが差し出したのは、セレナが見ていたジャガイモの隣に特設されている別種類のものだった。
少々値段は高いが、甘味が強いと評判のジャガイモである。
もちろん、セレナもそちらの方がブランド価値があることは知っていた。
けれど、自分の手の中にあるイビツな形のジャガイモに視線を落とし、そっと微笑む。
「私、こっちの方が好きだから」
そう言い放つと、セレナは手に持ったジャガイモを買い物かごに入れ、“じゃあね”と手を振り、颯爽とその場から去って行ってしまった。
どんどん小さくなっていくその背を見つめていたカルムは、寂しげな表情を一瞬だけ見せ、自分の手にある形のいいジャガイモへと視線を落とす。
ほとんど汚れのないソレは、明らかにセレナが持って行ったものよりも売れている。
だが、肝心の彼女には、選ばれなかった。
その事実を噛み締めながら、カルムは小さくこう呟くのだった。
「やっぱり、負けられないな」
**********
歩くたびにカサカサと音がなる買い物袋を片手にぶら下げながら、セレナは夏の街を行く。
なるべく日差しを避けようと、少しだけ遠回りだがミアレの森林公園を歩いていた。
セレナの予想通り、街の真ん中を歩くよりも、この森林の中を歩いていた方が幾分か涼しい。
木々の間から差し込む木漏れ日が、日陰を点々と明るくしてくれている。
遠くから聞こえる子供の声に目を向けてみれば、少し離れたところで子供達がボール遊びをしていた。
そんな平和な光景に微笑みを浮かべながら、セレナは歩を進めていた。
しばらく歩くと、暑さからくる疲れが足から這うように体へと染み込んでくる。
少しだけ休憩したいと思い始めていたセレナの気持ちに答えるかのように、道の端に木製のベンチを発見した。
現在の時刻は15時半。
夕飯までにはまだ時間がある。
幸いにも生物を買っていないし、シトロンの家に行く前に少しだけ休憩してもバチは当たらないだろう。
買い物袋をベンチに乗せ、セレナもそのまま腰掛ける。
「ふぅ」
ため息をつけば、少しだけリラックスできるような気がした。
上を見上げれば、陽の光によってキラキラと輝く木々の姿がある。
その美しい光景を見ながら、セレナは自然と意中の少年の顔を思い浮かべていた。
特に意識しなくても、彼の笑顔、憂い顔、困り顔、怒り顔、泣き顔、色々な顔が浮かんでくる。
つい先ほど見た彼の顔は、怒りと憂いが混同したかのような複雑なものだった。
あの時の彼は、一体何を考えていたのだろうか。
もしも自分がサトシに対し、気に障るようなことをしてしまったのなら、後で謝らなくては。
彼に嫌われることだけは、どうしても耐えられそうにない。
汗をかかない程度の暖かさと、森林の美味しい空気の中、深く考え事をしているうちに、なんだかどんどん眠くなっていく。
昨晩一睡もしなかったツケが、回って来たらしい。
鳥ポケモンのさえずりを聞きながら、涼しげな日陰の中、セレナはそっと瞼を閉じるのだった。
**********
ほとんど衝動的に家を出たサトシは、珍しく肩にピカチュウを乗せていない状態で道を歩いていた。
たまたま見かけて入った森林公園は、外の街よりもずっと涼しくて、居心地がいい。
考え事にはうってつけの場所である。
一歩一歩歩くたび、サトシの思考は深くなっていく。
思い浮かぶのはセレナの顔ばかりで、振り払おうと思っても簡単にはいかない。
何故、こんなにも彼女のことを考えているのか。
何故、彼女がシトロンと一緒にいただけで胸が痛くなったのか。
何故、一晩看病に付き合ってくれるほど、彼女は自分に尽くしてくれるのか。
“それは、私がサトシのことを…”
あの時彼女が言いかけた言葉の先には、一体どんな答えが待っていたのだろう。
分からないなら動く。考えるより動く。
そんなことを日々口にしているサトシだったが、今回ばかりは動いていても考えることをやめられない。
いつもとは違う感覚に陥りながら、サトシは戸惑いを隠せずにいた。
求めるべき答えが分からないまま歩くサトシ。
やがてそんな彼の視界に、驚くべきものが飛び込んでくる。
「……セレナ」
名前を呟くだけで、どうしてこれほどまでに心臓がうるさくなるのだろう。
その顔を見るだけで、どうしてこれほどまでに胸が踊るのだろう。
道の端に設置されていたベンチに座るセレナの姿から、サトシは目が反らせなくなっていた。
木陰の気持ちよさから眠ってしまったのだろう。
瞼を閉じ、幸せそうな表情で座ったまま寝息を立てている。
木々の合間から差し込む光の筋が、セレナの白い肌を所々明るく照らしていた。
ふとセレナの横に置いてある買い物袋を見れば、中から数個のジャガイモが顔を出している。
コロッケに必要な材料を買って来た帰りなのだろう。
“サトシの好物だから”という理由でコロッケを勧め、さらに自らの足で猛暑の中食材を買いに行ったセレナ。
彼女がスーパーで食材を集めている時の様子を想像してみると、胸がきゅうっと締め付けられた。
彼女を見ていると、まるで脳内がとろけるような感覚に陥ってしまう。
こんなことを考えてしまうのは、夏の暑さのせいだろうか?
いや、違う。
ゆっくりと、セレナが座るベンチの背もたれに片手をつくサトシ。
その拍子に、木製のベンチからはミシミシと軋むような音がするが、セレナは全く起きる気配がない。
まるで吸い寄せられるかのように、その白く端正な顔に近づけば、バクバクと心臓が騒ぎ出す。
この心臓の音を聞いて、彼女が起きてしまわないだろうか。
もし今起きたとしたら、彼女はいったい何を思うだろうか。
頭の中で鳴るサイレンを気にも留めず、そっと、ゆっくりと、セレナの唇へと自分のものを押し付ける。
触れるその唇はあまりにも柔らかくて、彼女が異性であることを思い知らされる。
その感触から思い出すのは、3年前のあの日、あの時の出来事。
“もっと魅力的な女性になる”
そう宣言した彼女は、まさにその言葉の通りの姿でサトシの前に現れた。
そして、その存在と言葉、行動がサトシを一喜一憂させる。
ここまで心を揺り動かされては、自分の心に気付いてしまうではないか。
ああ、おれはセレナのことが、すきなんだ。
ある夏の日、13歳の少年は初めて恋をした。
上がり続ける気温は少年の心を溶かし、盲目にさせてゆく。
自分の唇に想い人が口付けていることなど露知らず、少女は眠り続けるのだった。
そして、暑い夏はまだまだ続く。
act.4
沈みゆく夕日は真っ赤に燃え上がり、ミアレにそびえ立つビルとビルの合間から哀しげな光を放っている。
外で元気に遊びまわっていた子供達は手を振りながら家路につき、“今日”という日の終わりを人々に実感させた。
空を飛ぶヤミカラスたちの声を聞きながら、サトシはポケモンセンターのバトルフィールドに立っている。
炎天下の散歩を終え、シトロンの家に着いたサトシは、まるで何かに追われるように特訓を再開した。
頭に巡るのは、今朝会ったカルムの顔。
その顔を思い出すたび、メラメラと闘志の炎が燃え上がる。
負けられない。
思い悩んでいる1分1秒すらも惜しい。
でんこうせっかで撹乱するピカチュウめがけ、かえんほうしゃを放つリザードンは、昨晩のことが嘘のように快調である。
宙を舞うリザードンを見つめ、サトシは力強く頷いた。
「よし!一旦休憩!」
パチンと両手を鳴らせば、リザードンはその大きな翼をはためかせながら舞い降りてくる。
そんな彼にピカチュウは駆け寄り、体をねぎらうように声をかけていた。
ピカチュウとリザードンの付き合いは長い。
特訓となれば容赦無く電撃と炎を浴びせる2人だが、それが終われば気を許せる友人へと戻ってしまう。
この2匹の信頼しあった姿に微笑みを浮かべながら、サトシは背後にあったベンチへと腰掛ける。
ベンチに体重をかけた瞬間、ギジリという音とともに、大きな疲労感がサトシの体を襲う。
今日は朝から殆ど特訓に費やしてしまった。
時折休憩は挟んだものの、体を休めている間も考える事は止められなかった。
頭をよぎるのはカルムのことやリザードンのこと。
そして、サトシを悩ませる問題がもう1つ。
その問題は大きすぎる壁となってサトシの前に立ちはだかり、彼の胸を締め付ける。
思い出してしまった瞬間、悩ましげなため息がサトシの口からこぼれ出た。
「はぁ…」
「お疲れ様!」
「うわっ!」
ため息と一緒に肩を落としたその瞬間、背後からサトシの頬に冷たい何かが押し当てられる。
同時に耳へ届いた声は聞き覚えのある可憐なものであった。
二重の意味で驚いたサトシは肩をビクつかせ、急いで背後を振り返る。
するとそこには、炭酸飲料の缶を片手に持った少女の姿が。
その少女こそが、サトシの頭の真ん中に鎮座する“大きな壁”であった。
「セレナ」
「はい、コレ差し入れ」
炭酸飲料の缶を差し出すセレナの笑顔は、夕日に照らされて美しく彩られていた。
すぐそばにある彼女の存在は、サトシの心臓を騒がしくさせる。
絞り出すように呟いた“ありがとう”の声は、少しだけ上ずっていた。
なんだか情けない。
今までは、真っ直ぐ目を合わせて自然に笑い合うことができたのに、自分の心を自覚してしまった途端に、そんな簡単なことすらもできなくなってしまった。
手にした缶は冷たく冷えており、周りが結露している。
滴る雫に手を濡らしながら、サトシは自分の不甲斐なさを責めていた。
「あのね、さっきポフレ作ったの。ピカチュウたちにもあげてきていいかな?」
「えっ、あ、あぁ……サンキュ。あいつらも喜ぶよ」
「ありがとう!じゃあ、ちょっと行ってくるね!」
ポフレが入った籠を大事そうに抱えながら、セレナは少し離れた場所にいるピカチュウとリザードンの元へと走り出す。
足を進めるたびに揺れるミルクティー色の髪を眺めていると、なんだか喉の奥あたりが痒くなる。
目と目は合わせられないくせに、その姿からは目をそらしたくはない。
離れていくセレナの後ろ姿を、サトシはただただボーッと眺めていた。
「セレナって可愛いよね」
「あぁ、そうだな」
「………」
「………」
「………」
「………えっ!?」
不意に背後から聞こえた声に、反射的に反応してしまうサトシ。
けれど、咄嗟に出てしまった言葉を無かったことになど出来るわけもない。
ドキリと胸が高鳴るのを感じながら、焦って声がした方を振り返ると、そこにはベンチの背もたれに頬杖をつくユリーカが立っていた。
正直、セレナに気を取られていたせいでユリーカも居たことに全く気づけなかった。
彼女の存在に面食らうサトシを他所に、遠くでピカチュウらにポフレを与えているセレナを見つめながら、ユリーカは再び口を開く。
「セレナ、ついさっき家に帰ってきたんだけどね、サトシが特訓を再開したって聞いて慌ててあのポフレ作ってたんだよ。サトシのために」
昼過ぎ頃買い物に出かけていたセレナは、公園のベンチでしばらくうたた寝をしてしまったせいで帰りが遅くなってしまっていた。
彼女がシトロンの家に帰ってきた時、既にサトシの姿は無く、リザードンらと共に特訓へと出かけてしまっていたのだ。
夕飯の準備を進めるシトロンの横で慌ててポフレを作り始めたセレナは、“サトシに差し入れしなくちゃ”とつぶやきながら急いで生地をこねていたという。
そんなことを聞かされては、平常心でいられるわけもない。
心の奥底から温かいものが溢れ出し、自然とサトシの表情は優しげなものへと変わる。
そんな彼の僅かな変化を、鋭いユリーカは見逃すはずもなかった。
「サトシ、どうかした?」
「いや、別に? それより、シトロンはどうした?」
「夕飯の準備してる。あと少しで出来るって」
「そっか」
ユリーカから視線を外したサトシは、まっすぐ前を向いている。
その優しげで愛おしげな視線の先にいるのは、リザードンにポフレを手渡しているセレナの姿。
どうして彼がそんな暖かな瞳で彼女を見つめているのか、ユリーカには心当たりがあった。
何故なら……。
「サトシさ、さっきセレナにキスしたでしょ」
「グフッ!!」
ユリーカの口から投下された爆弾は、サトシにとって効果抜群だったらしい。
ようやく口をつけた炭酸飲料を吹き出してしまうほどに動揺している彼に、ユリーカは苦笑いをこぼした。
今朝、セレナも自分の発言で同じような驚き方を見せていたが、どうやらこの2人は意外にも1つ1つの行動が似ているらしい。
これはからかい甲斐のある事実を知ってしまったようだ。
冷静な分析をするユリーカに対し、目の前にいる少年は咳き込みながら動揺を隠せない様子である。
「な……、なんでそれを……!?」
「さっき散歩中にたまたま見ちゃったんだよね。ベンチで寝てるセレナにサトシがそーっとキスしてたの」
しれっと話すユリーカの言葉を聞き、サトシは頭を抱える。
あの時は頭が真っ白になって、セレナしか見えていなかった。
吸い寄せられるかのように彼女へと唇を押し当ててしまい、まさか誰かに目撃されているなどとは夢にも思っていなかったのだ。
うなだれるサトシ相手に、ユリーカは畳み掛けるような追撃を始める。
「ねぇ、なんでキスしたの?」
「なんでって……」
「好きなの?セレナのこと」
目をキラキラさせながら聞いてくるユリーカの質問は、サトシを確実に追い込んでいく。
心の奥底で自覚した事実を喉元に突きつけられ、戸惑うサトシはただただ小さく頷くしかなかった。
セレナへの好意を肯定した彼に、ユリーカは胸の奥から湧き上がってくる興味関心を抑えられない。
幼いながらもきちんと“女の子”である彼女にとって、仲間内の恋愛事情は無視できないイベントなのだ。
「告白しないの?」
「………しない」
「なんで!?」
「もしそんなことして、今の関係が崩れたら嫌だろ? それに、俺は好きでも、セレナはそうじゃないかもしれない」
サトシの口から飛び出した言葉に、ユリーカは目を丸くした。
まさか、ここまで鈍感だったとは。
3年前に空港でセレナからキスを贈られてから、サトシはきっと彼女の想いに気付いているのだとばかり思っていた。
けれど、サトシという少年はユリーカが想像していた以上に手強いらしい。
自分の気持ちを自覚するのもやっとだったが、今度は相手の気持ちが分からず迷走している。
どこまでも不毛で、終わりの見えない2人の関係に、ユリーカは小さな苛立ちを感じていた。
「なんか、勿体無くない?」
「え?」
先程までのからかうような表情はどこへ行ったのか。
視線を向けたユリーカの表情は、真剣そのものだった。
夕日に照らされた彼女の顔は、3年前に比べて格段に大人っぽくなっている。
その事実に、サトシは改めて時の流れというものを感じてしまう。
「だって、明日にはセレナ帰っちゃうんだよ?これを逃したら、もう暫く会えないかもしれないんだよ?サトシはそれでいいの?」
「それは………」
まっすぐ前へと視線を向けると、ピカチュウやリザードンと楽しそうに戯れるセレナの姿が視界に入る。
彼女を視界に入れるだけで、胸が締め付けられるのはきっと気のせいではない。
自分の心に居座り続けている彼女は、明日、この街からいなくなる。
彼女を近くに感じられるタイムリミットは、もう長く残されていないのだ。
このままサヨナラなんて、そんなこと、いいわけがない。
「モタモタしてると、夏が終わっちゃうよ」
ユリーカの小さなつぶやきは、夏の夕日の暑さに溶けてゆく。
その言葉を耳にしてから、サトシはセレナから目を離せなくなってしまった。
***
すっかりと日が暮れ、太陽が地平線の彼方へと沈んだ頃。
サトシたちは特訓を切り上げ、夕飯のためにシトロンの家へと帰宅した。
夜になっても、カロス1の都会であるミアレは明るい。
さらに今夜は花火大会ということもあり、外はいつも以上の賑わいを見せていた。
玄関の扉を開け、靴を脱いだ瞬間から、食欲をそそる匂いがサトシの鼻腔をくすぐる。
特訓で疲れた体に、この香ばしい匂いはよく効く。
じわじわとやってくる空腹感に苦しみながらダイニングへと足を踏み入れると、そこには夢のような光景が広がっていた。
「おかえりなさい!」
そう言って笑顔で出迎えてくれたシトロン。
彼のすぐそばには、食卓に綺麗に置かれた数々の料理たち。
まさに“ご馳走”と言う表現がふさわしいその料理たちに、サトシだけでなく、隣のユリーカまでもが目を輝かせていた。
「うまそー!これ全部シトロンが作ったのか!?」
「いえ。セレナも手伝ってくれたんですよ」
“ね?”と目配せするシトロンに、セレナは少しだけ頬を染めながら頷く。
それは、サトシにとってこの料理にさらなる価値がついた瞬間であった。
“ありがとう”の一言を言えば、きっとセレナと会話するきっかけができるのだろうが、何故だかサトシは何も言えずに鼻の下を搔く。
溢れる喜びを抑えられない表情を浮かべているが、その喜びを口にすることはない。
どうしてだろう。
セレナが相手だと、うまく感情を言葉にできない。
やがて4人は席に着き、手を合わせて食事を始める。
シトロンとセレナが時間をかけて作った料理たちは想像以上に美味で、サトシを驚かせた。
特に食卓の真ん中に置かれたコロッケは、衣がサクサクとしており、一瞬でサトシを夢中にさせる。
元々コロッケは好物であったが、こんなにも美味しいコロッケを食べたのは初めてであった。
思わず“美味い”と呟こうとしたその時。
隣に座っていたセレナが、コロッケを頬張るサトシに声をかけてきた。
「サトシ、そのコロッケ、私が作ったの。どうかな?美味しい?」
その鈴を転がしたような声を聞いた途端、心が跳ねるような、不思議な感覚を味わった。
そして、喉元まで出ていた本心をぐっと飲み込んでしまう。
動揺し、一瞬だけ言葉を失うサトシ。
喜びと、緊張と、焦りが混じり合う頭は何も機能せず、何の変哲も無い言葉を口にしてしまう。
「あぁ、えっと……いいと思うぜ」
中途半端なその感想は、真正面の席で聞いていたユリーカを驚かせる。
いつものサトシなら、もっと気の利いた言葉を言えるはずなのに。
そんな微妙な反応では、セレナが勘違いしてしまうかもしれないではないか。
そんなユリーカの杞憂を打ち砕くかのように、セレナは頬を染めながら“そっか、よかった”と微笑む。
どうやら、今の微妙な返答で喜んでいるらしい。
恋は盲目とはよく言ったものだが、その現象はセレナにも現れている。
どんなに微妙な答えでも、それが少しでも肯定的なものなら何でも嬉しいのだ。
恋する乙女の単純さに、ユリーカは年下ながら呆れていた。
豪勢な食事というものは、食べることに夢中になりすぎて時間を忘れてしまうもの。
いつ間にか1時間近く経っており、長時間かけて作られたご馳走はあっという間に完食された。
食後のまったりした時間を楽しみたいのは山々だが、残念ながら4人には時間がない。
19時から花火大会が始まってしまうのだ。
ユリーカが18時40分を指している時計を見て騒ぎ出したのをきっかけに、サトシたちは外出の準備を始める。
準備といっても、サトシやシトロン、ユリーカは貴重品をポケットに押し込めるだけなので数分とかからなかった。
しかし、問題はセレナである。
“支度する”と言って二階に上がったきり、10分近く音沙汰がない。
何をしているのだろう。
時間に追われるサトシやシトロンが心配し始めたその時だった。
階段を慌ただしく降りるドタドタという音が聞こえてくる。
玄関で待機していたサトシたちは、ようやくセレナの支度が終わったのだろうと予想し、音がする方へと視線を向ける。
そんな彼らの視界に飛び込んできたのは、いつもとは雰囲気の違うセレナの姿だった。
「ジャジャーン!どう!?」
駆け込んできた彼女が纏っていたのは、白ベースに桃色の桜模様があしらわれた浴衣であった。
振袖スタイルになっているその独特な浴衣は、おそらくセレナと懇意にしているデザイナー・マーシュが作ったものだろう。
サトシたちの前でくるりと一回転してみせるセレナの姿はまるで天女のようで、不意を突かれたサトシはそのまま視線を外すことが出来なくなってしまった。
イキナリそんな格好で現れるなんて卑怯だ。
心の準備もまだ出来ていなかったのに。
楽しそうに振袖をヒラヒラと振りまくセレナの周りが、何故かぼやけて見える。
心がぎゅっと掴まれたような気がしたのは、きっと綺麗すぎる彼女のせいだ。
「うわぁ!セレナ、それどうしたの?」
「マーシュさんに頂いたの!折角だから着てみようと思って」
「よく似合ってますよ!花火大会にはうってつけですね!」
「うんうん!セレナ綺麗!ねぇ、サトシもそう思うでしょ?」
突然話を振られたサトシは、ユリーカの言葉で強制的に現実へと引き戻される。
頭と心では、何を言うべきかよく分かっていた。
どんな言葉を選べばセレナが喜ぶのか、自分の中できちんとしたフォーマットはあるのに、それをうまく言葉にできない。
まるで、言葉の通り道がイキナリ狭くなってしまったかのようだ。
“褒め言葉”という大きな存在は、サトシの狭くなった通り道を通過することができない。
だからこそ、また中途半端な言葉を贈ってしまうのだ。
「えっと、いいんじゃないか?」
やってしまった。
もっと気の利いたことが言えたはずなのに。
“似合っている”だとか、“綺麗”だとか、相手が喜びそうな言葉はいくらでもある。
けれど、星の数ほどある褒め言葉を1つも表に出すことが出来なかった。
肩に乗る黄色い相棒も、少々呆れたようにため息をついている。
心の奥底で気落ちするサトシ。
しかし、そんな彼の心中をしってか知らずか、当のセレナは嬉しそうに“ありがとう”と頷いた。
その微笑みがまた、サトシを罪悪感で包む。
もっと優しい言葉をかけていたら、彼女の微笑みは満面の笑顔に変わっていたかもしれないのに。
彼女への想いを自覚した途端、今まで出来ていた当たり前のことが出来なくなってしまった。
目を見て微笑みかけることも、素直に褒めることも、その名前を呼ぶことすらも、今のサトシには難しい。
これが、人を好きになるというものなのか。
初めて知った恋の味は苦く、サトシを困惑させるのだった。
***
夏祭りを迎えたミアレシティは、今が夜だということを忘れるほど明るく、そして賑やかであった。
すれ違う人々は浮き足立ち、いつも以上に街は活気にあふれている。
花火はまだ打ちあがっていないようだが、始まるまであと10分を切っていた。
家を出るなり、“花火を見る絶好の穴場がある”と言ってきたシトロンの後を追い、サトシたちは屋台の中を歩く。
やがてその“穴場”にたどり着き、サトシとセレナは大いに驚くことになった。
何故ならそこは、このミアレシティのシンボル、プリズムタワーだったのだから。
ミアレジムも入っているこのタワーを貸しきることは、ジムリーダーであるシトロンにとって非常に簡単なことである。
サトシとセレナがミアレに帰ってくると聞いたその場で、すぐに花火大会のためにこの場所を貸し切れるよう、このタワーの所有者に交渉したのだとか。
展望台へ登るエレベーターに乗りながら、自分たちのために努力してくれたシトロンに感謝するサトシ。
エレベーター扉の上部に表示された数字の最上階数が点灯したと同時に、扉が開く。
ゆっくりと開かれた扉の向こうに見える光景は、サトシたちを驚嘆させた。
「うわぁ!綺麗!!」
目を輝かせ、ユリーカが展望台の窓際へと走り出す。
展望台を一周するように張られた窓ガラスの向こうには、宝石のように輝くミアレの夜景と、それに彩りを添える大きな花火が打ちあがっていた。
黒く広がる夜空に広がる花火は実に美しく、サトシは言葉を失ってしまった。
展望台は貸し切られているため、彼ら4人以外の観覧客は1人もいない。
静かなこの空間には、花火が打ち上がる音だけが響く。
展望台の手すりにつかまりながら身を乗り出すユリーカと、その隣で静かに鑑賞しているシトロンと少しだけ離れ、サトシとセレナは並んで花火を見上げていた。
その間に、会話はない。
ただただ、雄大に打ち上がる花火をその瞳に映し、心躍らせていた。
1つ1つ、光を放って打ち上がる花火を見るたび、心臓の鼓動が大きくなっていくような気がする。
この感覚を、サトシは前にも感じたことがあった。
あれはそう、ライトに照らされるステージの上でパフォーマンスするセレナを見つめていた時と同じ。
花火のように美しく、見る人間すべての心を掴んでしまうような存在が、すぐ隣にいる。
その事実は、サトシの心を踊らせる。
「すごく綺麗…」
「あぁ」
呟かれたセレナの声に、サトシは頷く。
手すりを握るサトシの右手とセレナの左手が、少しだけ近付く。
花火を真っ直ぐ見つめている2人だが、隣にいるお互いのぬくもりを感じていた。
同じ時間に同じものを見、そして同じように感動している。
それはサトシにとってとても貴重で、宝のような経験だった。
あぁ、この時間が永遠に続けばいいのに。
そうすれば、セレナはずっと隣にいてくれるのに。
今、手を握ったら彼女は何を感じるだろう。
今、名前を呼んだら彼女はどんな顔をするだろう。
今、想いを伝えたら顔は何を思うだろう。
まだ大人とは言い難いサトシの感情は、まるで震えるかのように揺れ動いていた。
彼女は隣にいるはずなのに、その心がどれだけ近い場所にあるのかはわからない。
だからこそ気になってしまうのだ、セレナの心の在り処が。
ふと、隣にいるセレナへと視線を向ければ、彼女もまた、ゆっくりとこちらに目を向ける。
彼女の横顔は花火の光によって明るく照らされ、いつも以上に美しく見えた。
交わる視線と視線。
先程まで目を合わせられなかったはずなのに、何故か今は視線をそらさない。
そらせたくない。
“モタモタしてると、夏が終わっちゃうよ”
頭の中で、ユリーカの言葉がサイレンのように鳴り響く。
セレナがこちらを見ているうちに、心を打ち明ける必要があるのではないだろうか。
サトシを急かすように、打ち上がる花火のスピードが速くなる。
熱にうなされたサトシは、自然と口を開いていた。
「セレナ。俺、俺さ………」
「ん?」
「俺………セレナのこと……」
次に出てくるはずだった2文字の言葉は、窓の外に広がる激しい光と音によって阻まれる。
驚いて窓の外へと視線を戻すと、そのには今までよりも大きく美しい花火が派手な音を立てて打ちあがっていた。
少し遠くでそれを見ていたシトロンが、“この花火が最後ですね”と呟く。
その隣で、ユリーカは大きな喜びの声を上げる。
最後の花火が上がって、立ち込める煙と歓声。
2人は言葉を失くしながら立ち尽くしていた。
明るい余韻を残しながら、最後の光は夜空の黒に溶けてゆく。
連続的に打ちあがっていた花火は終了し、街は再びいつも通りの夜へと戻る。
なんだかそれが惜しくて、サトシは夜空を見上げたままその場から動けなかった。
「サトシ、さっき、何を言いかけたの?」
花火とともに、そろそろ夏も終わる。
この季節が終わっても、自分はセレナのそばに居られるのだろうか。
一抹の不安を感じながら、サトシはセレナの言葉に応えるのだった。
「ごめん。なんでもない」
**********
騒がしい夜が終わり、ミアレにはいつも通りの朝がやってくる。
太陽が昇って数時間後に出て行ったサトシは、再び特訓に勤しむ。
その熱の入れ具合は、昨日に比べて強いものであった。
絶対に負けたくない。
そんな想いを抱きながら進める特訓は、この夏の暑さよりも熱を帯びていた。
数時間の特訓の末、いつの間にかお昼近くになっていたことに気付いたサトシは、特訓を切り上げ、見学に来ていたシトロンやユリーカ、そしてセレナを連れてある場所へと向かう。
カルムとの約束の場所からほど近い、プラターヌ研究所である。
「そうか。ついにリベンジか」
研究所を訪ね、迎え入れてくれたプラターヌ博士は、サトシらの話を聞いて感慨深そうに頷く。
少々よれた白衣のポケットに手を入れたまま、サトシの背後にいるリザードンへと視線を向けた博士の瞳は、どこまでも優しげである。
世話になった博士に挨拶するため、ボールから出していたリザードンは、2日前の体調不良が嘘のように健康的な顔色をしていた。
尻尾の炎もきちんと燃え盛っており、彼が健康体であることを表している。
「博士、本当にお世話になりました!」
「いいんだよ、お礼なんて。カルム君は手強い。頑張るんだよ」
「はい!」
晴れ晴れとした表情で頷くサトシからは、自身が満ち溢れていた。
これからサトシが挑みに行くカルムという少年は、プラターヌにとって教え子ともいうべき存在である。
彼にハリマロンを託した日から、少しずつ成長して行く様を、誰よりも近くで見て来たのだ。
リーグ出場経験すら無いものの、彼の強さはよく理解している。
だからこそプラターヌは、サトシにある提案をしてみせた。
「サトシくん。君から預かったこのメガストーンのことなんだが、ついさっき、解析が終了したよ」
博士が白衣のポケットから取り出した小さな宝玉は、サトシがこのカロスへとやって来るきっかけとなったメガストーンだった。
カルムとのバトルに気を取られ、すっかり忘れていたが、このメガストーンがどのポケモンを進化させるものなのか調べてもらうのが、今回の旅の目的である。
このメガストーンを持ち込んだサトシだけでなく、背後で聞いていたセレナやシトロン、ユリーカまでもが、興味深げにプラターヌの言葉を待つ。
「どうやらこれは、リザードナイトらしい」
「リザードナイト?ってことは……」
「あぁ。リザードンをメガ進化させることができる」
このタイミングでもたらされたその情報は、サトシは驚かせる。
博士の手の中にあるメガストーンは、まるでサトシを誘うかのような光を放っていた。
「キーストンは僕のを貸そう。このメガストーンを使えば、カルム君にも勝てるかもしれない」
プラターヌ博士は、自分のガブリアスをメガ進化させるキーストーンを持っていた。
2つの石と、ポケモンとの絆さえあれば、メガ進化させることは難しいことではない。
強大な力を得ることができるメガ進化をモノにできれば、博士のいう通り、カルムとのバトルに希望が持てるだろう。
この小さな石には、ポケモンバトルの勝敗が決まるほどの力が秘められているのだ。
しかし、その提案に対するサトシの答えは既に決まっていた。
すぐ後ろにいるリザードンへと振り返ると、彼は凛々しい瞳を真っ直ぐサトシに向け、力強く頷く。
そんな彼に応えるように、サトシも頷き返すと、再び博士へと視線を戻した。
「博士、そのメガストーンとキーストーンは、受け取れません」
「え!?」
「サトシ、いいの?」
首を横に振って断るサトシの言葉に、背後のシトロンとユリーカは驚愕の声を漏らす。
いわば勝利へのキーアイテムといっても過言ではない2つの石を受け取らない理由がわからない。
これさえあれば、きっと勝てるというのに。
けれど、驚いた様子の仲間たちを一蹴するかのように、サトシは涼しい顔で言い放つ。
「メガ進化なんかしなくても、俺のリザードンは強い。俺たちならきっと今のままでも勝てるって、信じてるから」
サトシの言葉は、メガ進化を切り捨てる理由として十分なものだった。
トレーナーであるサトシと、そんな彼に寄り添うリザードンの間には、見えないけれど太く強い絆の糸がある。
その糸が見えたような気がして、セレナは胸の奥がじんわりと暖かくなる感覚を覚えた。
100パーセント勝てる確信なんてないのに、ポケモンへの信頼と熱意だけで、真っ直ぐ前へ前へと進もうとする。
諦めることを知らず、困難を前にしても臆することなく立ち向かう。
それが、セレナのよく知るサトシなのだ。
おかえり、私の憧れの人。
そんなセレナの心のつぶやきは、サトシに伝わることなどない。
けれど、慈しみを帯びた優しい瞳は、しっかりとサトシの背中を捉えていた。
「そうか、わかった。それじゃあ、もう少し研究したいこともあるし、このメガストーンは僕が預かるよ」
「はい、お願いします。プラターヌ博士」
今までカロスとホウエンでのみ確認されていたメガストーンがカントーで発見された理由については、まだ解析が完了していない。
メガ進化の研究者として、この研究を中途半端に終わらせることは出来なかった。
プラターヌ博士はリザードナイトを白衣のポケットへ仕舞う。
そんな博士の背後の壁にかかっている時計に目をやると、いつの間にやらカルムとの待ち合わせ時間が差し迫っていた。
どうやら長い間話し込んでしまっていたらしい。
そろそろここを出なければ、約束に遅れてしまう。
「それじゃあ博士、俺たちそろそろ行きます」
「あぁ。健闘を祈るよ!」
手を振る博士に背を向け、4人とリザードンは研究所を後にする。
研究所の重たい扉を開け外に出ると、夏独特の熱気が肌をかすめる。
降り注ぐ日差しはミアレの気温をぐんぐん上げ、アスファルトを焦がすほどの熱視線を浴びせていた。
ああ、今日も暑い。
絶好のバトル日和である。
“ふぅ”と深呼吸したサトシは、肩に乗る黄色い相棒と、背後にいる最強の友達へと目を向け、意気込むのだった。
主人の意気込みに呼応するように、2匹は元気よく雄叫びをあげる。
気合十分なサトシたちの背を見ながら、シトロン、ユリーカ、そしてセレナは微笑み合う。
この猛暑日の中、ミアレで過ごす最後の夏の日が始まった。
act.5
雲ひとつない青空の一番高い場所で輝いている太陽は、今日も変わらずミアレの街を焦がしている。
昨晩行なわれた祭りの後片付けが行われている街の中を進み、目的の広場へと急ぐサトシたち。
その肩には、黄色い相棒が鎮座している。
いつもは愛らしい彼だが、今日は心なしか瞳に闘志を燃やしていた。
待ち合わせの時間まで、残りあと5分。
サトシの足取りは、自然と早くなる。
その後に続くセレナ、シトロン、ユリーカも、彼を追うようにその足を早めた。
向かう先は、かつてサトシが初めてこのミアレシティに降り立った日にシトロンとバトルをしたあの場所。
サトシたちにとって思い出深いその場所に、彼はいた。
「来たな、サトシ」
バトルフィールドの真ん中に佇み、サトシたちを待ち構えていた青年、カルムは、腰に手を当てながら真っ直ぐこちらを見つめていた。
その堂々たる出で立ちからは、絶対的な自信が溢れ出ている。
彼に初めて会った2日前、全力でバトルを挑み、そして破れた。
プライドも自信も、全てひねり潰され、目の前が真っ白になった。
しかし、立ち止まってはいられない。
がむしゃらに修練を積み、再び彼に挑もうとしている。
目の前に立ちはだかるカルムという大きな壁を前に、サトシは右手の拳を握りしめ、息を呑んだ。
「待たせて悪かったな、カルム」
「準備は出来たのか?サトシ」
「あぁ。あの時は負けたけど、今度は負けない」
カルムに負けを期し、絶望に顔色を染めていたサトシはもういない。
目の前の好敵手をまっすぐ見据え、むせ返るような闘志を向けている。
彼がここまで闘志を燃え上がらせる要因は、リザードンのリベンジだけでは無いのだろう。
だが、相手に並々ならぬ闘志を向けているのはカルムも同じであった。
照りつける陽の光が、2人の闘志をさらに焦がしてゆく。
「ああ。けど俺もそう簡単に負けるわけにはいかないんだ」
カルムの視線がサトシから外れ、その背後へと移る。
その視線の先にいるのは、他の誰でもないセレナであった。
夏の生暖かい風にミルクティー色の髪を揺らし、心配そうに2人を遠目から見つめている彼女の姿に、カルムは目を細める。
その瞳は、慈しみが込められた優しいものであった。
しかし、直ぐにまた闘志を宿した眼に戻り、再びサトシを見つめ返す。
バトルの勝利も、そして大切な人の心も、そう簡単に渡す訳には行かない。
見えない火花が、二人の間でバチバチと音を立てている。
カルムは懐に手を入れた己のモンスターボールを一つだけ取り出した。
そしてサトシの前に突き出し、不敵に笑みを浮かべる。
「良きバトルを」
それは、カロスに存在するバトルシャトーで行われているバトル開始の挨拶である。
対戦相手に敬意を払う意味を持つこの挨拶は、バトルシャトーでの爵位を持つカルムらしいものであった。
カロスを旅していた頃、1度だけ立ち寄ったことがあるバトルシャトーで見た挨拶を思い出し、サトシもまた、腰に付けられたモンスターボールを取り出す。
そして、カルムのボールと突き合わせるように掲げ、決意と闘志を込めた声色で呟いた。
「良きバトルを」
踵を返し、走り出す2人。
バトルフィールドの端と端に立った2人は、臨戦態勢をとっていた。
空の真ん中で輝く太陽は、まるで2人のバトルを悠々と眺めるようにその熱い視線を向けている。
やがてシトロンが審判の定位置に立つと、小さく咳払いをして右手を上げた。
「これより、サトシ対カルムのポケモンバトルを開始します!使用ポケモンは一体、どちらかのポケモンが戦闘不能になった時点で、バトルは終了です!では両者、ポケモンを!」
シトロンの言葉に合わせ、カルムは握っていたモンスターボールを見つめる。
その瞳は優しく、信頼に溢れるものだった。
その目を見て、サトシは確信する。
彼が繰り出そうとしているのは、他の誰でもない、あのポケモンだと。
「今回のバトルも、俺の最高のパートナーで挑ませてもらう。頼むぞ!ブリガロン!」
カルムによって高く投げられたモンスターボールは、太陽の逆光によって鈍く輝く。
そして、激しい光とともに中に封じられていたポケモンを解放した。
太く、がっしりとした両足がバトルフィールドに着地し、その巨体は“ドスン”と大きな音を立て、その大きな存在をサトシたちに痛感させる。
ブリガロンの雄叫びは大地を揺らし、砂塵を舞い上げた。
カルムの最初のポケモンであり、最高のパートナーでもあるブリガロン。
その強さは、サトシもよく知るところであった。
ブリガロンの登場に、サトシの右手に握られていたモンスターボールがじんわりと熱を放ち始める。
この中で眠っているサトシの相棒が、宿敵の登場に昂っているのだろう。
だが、胸の高鳴りが抑えられないのは、サトシも同じ。
ずっと待っていた。
カルムとブリガロンに再び挑み、そして倒すこの時を。
「やっぱりブリガロンできたか。さぁいくぜ!リベンジマッチだ!リザードン、君に決めた!」
鋭く回転するモンスターボールは、バトルフィールドに叩きつけられ、激しい光を放って開かれる。
白い光を纏い、その大きな翼が雄々しく広がる。
その瞳には、尻尾の炎と同じように赤い闘志が揺らめいている。
リザードンの咆哮は空を焦がし、熱風を巻き起こす。
睨み合うリザードンとブリガロンは、互いのトレーナーたちと同じように、暑く激しい火花をぶつけ合っていた。
「サトシ…カルム…」
陽の当たらない木陰で観戦しているセレナは、不安そうに2人の名前を呟いた。
胸元で組まれている両手に、自然と力が入る。
サトシとカルムが初めてバトルをしたあの時に向けていたものとは明らかに違うその瞳は、不安や動揺、緊張といった感情が混じり合っている。
それもそのはず。
セレナにとって、サトシもカルムもかけがえのない存在。
その2人が、闘志をぶつけ合い全力で戦うのだ。
2人の努力や性格を知っているからこそ、この張りつめた緊張感に飲み込まれそうになってしまう。
今にもへたり込んでしまいそうなセレナの様子に、隣で眺めていたユリーカが質問を投げかけた。
「ねぇセレナ。セレナはどっちを応援するの?」
「えっ?」
その質問は、サトシたちが初めてバトルした時もユリーカに投げかけられたものだった。
あの時は、迷った挙句“両方”と答えた。
だが今は……。
セレナは、ポケモンを介して対峙するサトシとカルムを交互に見つめる。
カルムは、旅に出る前から交流がある大切な友人。
彼のポケモンに対する優しさや愛情の深さは、誰よりも知っている。
だからそこ、負けて欲しくはない。
彼が負けて落ち込む姿など、見たくはない。
しかし……。
セレナは再び、かつて一緒にカロスを旅した仲間、サトシに視線を移す。
サトシは3年前、長く短い旅の中で、自分に夢を教えてくれた。
努力することの大切さや、やりたいことをひたすらに追い続ける楽しさを実感させてくれた。
サトシがいなければ、一緒に旅をしようと誘ってくれなければ、きっと今の自分はない。
サトシ夢は、ポケモンマスターになること。
到底、簡単に叶えられる夢ではない。
けれど、サトシが夢を実現するために、少しでも力を貸してあげたい。
バトルではいつもフィールドの外にいるセレナに出来ることは限られている。
だが、そばに居ることで力になれるというのなら、いつまでも近くにいたい。
応援することで頑張れるというのなら、声が枯れるまで声援を送り続けたい。
人のために、これほどまでに尽くし、心から幸福になって欲しいと願えるなんて。
離れていた3年という期間は、彼への大きすぎる感情を嫌という程実感させられた。
ほかの誰とも、比べられるわけが無い。
だってサトシはいつだって特別で、絶対的な存在で、そして、道を示してくれる光のような存在だったから。
あぁそうか、こんなにも
「私は………」
サトシのことが、すきなんだ。
***
「バトル、開始!!」
シトロンの言葉と共に、サトシとカルムの2度目のポケモンバトルが幕を開けた。
灼熱の太陽の下、まず最初に相棒へと指示を飛ばしたのは、サトシの方だった。
主の支持に従い、リザードンは尻尾の炎を激しく燃え上がらせ、口から灼熱の炎を飛ばす。
オレンジ色の炎はまっすぐブリガロンを捉え、熱を放ちながら向かってゆく。
草タイプを持つブリガロンにとって、この炎はまさに身を焦がす天敵でしかない。
「ブリガロン、ころがる攻撃!」
全てを焼き尽くすほどの炎にも、カルムは動じない。
即座に出された指示に、ブリガロンは身を丸くし、フィールドを転がり始めた。
その反射神経は、巨体に見合わずとてつもない素早さを誇っている。
砂塵と、リザードンが放った炎を巻き上げながら、轟音を立ててリザードンへ向かい転がるブリガロン。
弱点をももろともしないそのころがる攻撃の威力に驚きながらも、サトシは次の指示を飛ばす。
「飛び上がってかわせ!」
翼を大きく広げたリザードンは、周囲の砂を巻き上げ、空へと飛び立つ。
炎、飛行タイプのリザードンにとって、ころがる攻撃は恐るべき岩タイプの技である。
空へと逃げ込ませたサトシの判断は正しかったと言える。
「ころがるで炎を打ち消すなんてな……」
「へぇ。リザードン、飛べるほど回復したんだな。けど、逃がさない!ブリガロン、ハードプラント!」
転がり続けていたブリガロンは即座に体勢を正し、その大きな腕をフィールドに叩きつける。
フィールドは地割れを起こし、ヒビの間から無数の太いツルが飛び出した。
空を飛ぶリザードンを打ち落とそうと、無数のツルが空高くまで伸びてゆく。
軌道を阻むように襲いかかるツルに、リザードンは旋回や急降下、急上昇を繰り返しかわし続けるが、思うように飛び回れず、自由な動きを封じられてしまう。
「なにあのハードプラント!」
「あれじゃ、リザードンが空を飛べるからって有利にならないわ!」
ツルの間を縫うように飛び続けるリザードンを見上げながら、ユリーカとセレナは叫ぶ。
セレナの言葉の通り、無数のツル達によって翻弄されるリザードンは、空での自由を奪われているも同じ。
上空から攻撃を繰り出すことは、難しい状況であった。
やがて、1本のツルがリザードンの尻尾に巻き付き、信じられない力でその体をフィールドに叩きつけてしまう。
「しまった!」
「今だ!ころがる攻撃!」
カルムは、勝機を見逃さない。
ブリガロンは恐るべき速さでころがるの体勢をとり、再び轟音を立ててリザードンへと迫る。
地面に伏したリザードンには、対抗すべき手段はなかった。
ブリガロンのころがる攻撃は、リザードンの体に直撃、はね飛ばされる。
効果は抜群だ。
「リザードン!」
サトシの悲痛な叫びが木霊する。
隣で見ていたピカチュウも、その小さな身体を震わせてリザードンの名前を叫ぶ。
そんな主人の声を聞き、リザードンは自らの体を奮い立たせてなんとか立ち上がった。
主人たちとの努力を、ここで水泡に帰すわけにはいかない。
そんな思いだけが、リザードンの体を支えていた。
リザードンが無事に立ち上がり、口から気合いの炎を吹き出したことに安堵するサトシ。
状況はあまりにも悪かった。
炎の攻撃はころがる攻撃で防がれ、空へ逃げればハードプラントの餌食となる。
ころがる攻撃をまともに食らったリザードンへのダメージを考えれば、長期戦も難しいだろう。
まさに相性を跳ね返すようなブリガロンとカルムの戦いぶりに、サトシは必死に頭を働かせた。
ころがる攻撃は、その回転が止まらない限りは終わることがなく、さらにどんどん威力が増していく厄介な技である。
せめて、あの技をなんとかしなくては。
速度がさらに早め、転がり続けるブリガロンは再びリザードンへと迫る。
そんなブリガロンの巨体が、一瞬だけ地面から小さく浮いたのを、サトシは見逃さなかった。
先程ブリガロンが自ら繰り出したハードプラントによって起きた地割れのヒビにバランスを崩し、少しだけ転がる速度が落ちたのだ。
それを見た瞬間、サトシは瞬時に頭の中で戦略を組み立てる。
そうだ、この手ならブリガロンを止められるかもしれない。
降りてきたアイデアが消えぬうちに、サトシはリザードンへと指示を飛ばす。
何故そんな指示を?
そんなことを考えるよりも前に、リザードンは渾身の力で光り輝く尻尾をフィールドに叩きつける。
地面は大きく割れ、ブリガロンが作った地割れ以上に大きな凹凸を作り出す。
その凹凸の向こうにいるリザードン目掛けて、ブリガロンは転がり続ける。
そして、へこんだ地面を通過した瞬間、ブリガロンの巨体はまるでゴムのボールのようにはね飛び、バランス崩したブリガロンは体制を崩した。
まさに、サトシの思惑通りである。
転がる体制を崩したブリガロンに、かえんほうしゃを防ぐ手立てはない。
灼熱の炎がブリガロンに襲いかかり、その身はあっという間に炎に包まれた。
効果抜群のかえんほうしゃは、ブリガロンの体力を大きく削ると共に、カルムを激しく動揺させた。
「ブリガロン!」
「まだだ!リザードン、とどめのドラゴンテール!」
炎の勢いとともに後方へと吹き飛ぶブリガロンを追うように、リザードンは低空飛行で迫る。
絶体絶命のブリガロンに狙いを定め、緑色の光がリザードンの尻尾を包む。
これが決まれば、勝負はつく。
だが、カルムの指示がそれを阻んだ。
鋭く響く主人の指示は、ブリガロンの闘志を再び燃え上がらせる
不安定な体勢を立て直すため、なんとか両足を地面につけたブリガロンは、両足で踏ん張りながらニードルガードを繰り出した。
トドメを指すために猛スピードで突っ込んだリザードンは、寸前で繰り出されたニードルガードを避ける事が出来ない。
鋭いトゲが全身に突き刺さり、リザードンはバランスを崩し膝をついた。
対してブリガロンも、かえんほうしゃのダメージが大きかったらしく、息が上がっている。
満身創痍の2体は、肩で息をしながらも、その瞳から戦意が失われてはいない。
そして互いもトレーナーもまた、相手の善戦に口角を上げる。
やはり、強い。
強者とのバトルは、トレーナーもポケモンも熱くさせる。
アスファルトの照り返しにも負けないほどの熱気が、このバトルフィールドを包んでいた。
「嬉しいよサトシ。本気のお前と戦えて。これが、サトシとリザードンの本当の力なんだな」
「俺も嬉しいよ。カルム、お前はやっぱり強い。だからこそ、負けられないんだ!さぁいくぜ!勝つのは、この俺だ!」
サトシの叫びに応えるように、リザードンは大きく咆哮し、砂塵を舞い上げながら大きく翼を広げ、空へと飛び立った。
上空からの再び攻撃を仕掛けるつもりなのだろう。
だが、そうはなせない。
「俺だって負けられない。勝たせてもらうぜ、サトシ!ハードプラント!」
空に逃がしはしない。
カルムの指示と共に、ブリガロンは再び地割れを起こしながらツルを呼び出す。
先程よりも太いツルが、先程よりも早い速度でリザードンへと迫る。
ブリガロンの意志によって、飛び回るリザードンを執拗に追い回すツル。
リザードンの上空での動きは、やはり封じられてしまっていた。
「あぁ……またハードプラントが!」
「あのハードプラントが自在に動いている限り、リザードンは自由に動けませんね」
苦戦するリザードンを見つめ、嘆くユリーカ。
審判位置にいながらも、シトロンは額に汗をかきながら上空の空戦を見上げていた。
予測不能な動きでリザードンを追い詰めていくブリガロンのハードプラント。
目にも止まらぬ早さで旋回し、ツルを避けていくリザードン。
空を舞台にした戦いは、ある意味膠着状態にあった。
空から地上のサトシに視線を移動させたセレナは、歯を食いしばり焦りの色を見せるサトシを見つめ、息を呑む。
ころがる攻撃は攻略できた。
だが、あのハードプラントを破らない限り、地上でも上空でも苦戦を強いられることだろう。
あの不規則な動きを繰り返すツルを操っているのは、地上のブリガロン。
なんとかその気をそらせればいいのだが、攻撃しようにもツルが邪魔をする。
このまま上空で戦い続けても、リザードンの体力が減るばかりである。
どうするばいい?どうすれば……。
上空のリザードンを見上げたサトシ。
素早くツルを避け続けるリザードンの姿が太陽と重なり、眩しさに目をそらした。
そしてその時、サトシに2度目のひらめきが訪れる。
ふと地上のブリガロンを見ると、彼もまた、ツルの狙いを定めるために上空のリザードンを見上げている。
そうだ。空で戦っているからこそ出来ることがある。
簡単ではないが、上手くいけばやれるかもしれない。
ゴクリと生唾を飲むと、サトシは2度目の賭けに出た。
「リザードン、旋回だ!ブリガロンの真上へ!」
「真上から攻撃する気か?させない!ブリガロン!」
サトシの指示通り、旋回しブリガロンの真上を目指すリザードン。
それを阻もうと、ブリガロンはハードプラントの速度を上げて襲いかかる。
大きな翼にハードプラントのツルが叩きつけられ、バランスを崩すリザードンだが、それでも飛ぶことをやめない。
もっと早く、もっと高く。
やがてリザードンは、ブリガロンの真上をとった。
見上げるブリガロン。
だが、真上にいるはずのリザードンの姿は太陽と重なり、眩しさに目を閉じる。
逆光に怯んだブリガロンによって操られていたツルたちの動きが止まり、リザードンへの苛烈な攻撃の手が緩むこととなる。
それこそが、サトシが待ちに待った好機であった。
太陽を背に、リザードンは目にも止まらぬ早さで急降下する。
そして、ブリガロンの目が慣れる前に、リザードンは目の前に降り立った。
ブリガロンの巨体を包み込むように腕を差し入れ、動きを封じる。
体を密着させたこの状態では、もはやころがる攻撃も、ニードルガードも繰り出すことは出来ない。
「しまった!」
「飛べえぇぇ!リザードン!!ちきゅうなげだ!!」
貫くようなサトシの叫びに呼応し、リザードンは大きな咆哮と共に翼を広げ飛び立った。
ブリガロンの巨体を軽々持ち上げたリザードンは、風を切り太陽を目指して飛び上がっていく。
このまま技を決められては勝機はない。
ブリガロンはなんとかリザードンの腕の中から抜け出そうと、ウッドハンマーを繰り出し、リザードンの脇腹へと打ち込む。
苦痛に顔をゆがめるリザードンのブリガロンを抱える手が緩む。
「まずいよ!リザードンが!」
「効果は今ひとつとはいえ、あんな至近距離でウッドハンマーを食らったら……!」
ウッドハンマーは威力が高い技である。
それを至近距離で受けては、いくら効果が薄いとはいえ辛いものがあるだろう。
見上げるシトロンの顔は、不安で溢れていた。
同じように空を見上げていたユリーカは、隣で木陰から飛び出し、太陽の光の下へ走り出す気配に気付いた。
セレナである。
彼女は必死な形相で空を見上げ、太陽の眩しさに目を細めながら大声で叫んだ。
「リザードン、サトシ!!負けないで!」
その瞬間、空を見上げていたカルムの視線が、一瞬だけ地上のセレナへと向けられた。
彼女の叫びは、カルムの戦意を削り始める。
「いっけええぇぇぇぇ!」
だが当のサトシは、そんなセレナの叫びには気付いていない。
そして、リザードンは旋回を開始する。
完全にちきゅうなげの体制に入った。
太陽の周りを回るように旋回し、そして地面めがけて急降下する。
抱えていブリガロンの体は地面に叩きつけられ、舞い上がる砂塵と埃によって視界が遮られた。
やがて砂埃が落ち着き、視界が晴れていくと、2体のポケモンたちの姿が確認できた。
尻尾の炎を燃え滾らせ、しっかりと2本の足で立っているリザードン。
そして、地面に伏し、目を回しているブリガロン。
勝敗は、今ここに決した。
「ブリガロン、戦闘不能!リザードンの勝ち!よって勝者、サトシ!!」
審判を務めるシトロンの言葉で、このバトルは終焉となる。
「ぃよっしゃああああ!!やったぜリザードン!」
喜びを爆発させたサトシは、肩に飛び乗ってきたピカチュウと共にバトルフィールドへと飛び出した。
満身創痍でその場に座り込んだリザードンに飛びつくと、その背を撫でてやる。
よくやった。お前はすごいよ。
矢次早に口から出る賞賛の言葉に、リザードンはその大きな尻尾を振りながら喉を鳴らす。
ピカチュウもまた、長年一緒に戦ってきた仲間の勝利を称え、リザードンの鼻先を小さな手で撫でていた。
プライドをへし折られ、自信を失っていたサトシたちは、この勝利で失ったものを全て取り戻すことが出来た。
その喜びは大きく、隠しきれるものでは無い。
しかし、勝者の裏には、必ず敗者がいるもの。
バトルに敗れたカルムは、脱力したように肩を落とし、ブリガロンをボールに戻す。
「ブリガロン、よくやってくれたな。ゆっくり休んでくれ」
善戦した相棒をボール越しに褒めてやるカルムの表情は、穏やかなものだった。
そして、フィールドの真ん中でリザードンを撫でているサトシに歩み寄る。
「サトシ、いいバトルをありがとう。こんなに熱くなったのは久しぶりだ」
そう言って、右手を差し出すカルム。
負けを飲み込み、勝者を称える彼の器は、まさしく立派といえるだろう。
バトルが終われば、その戦いぶりを称え合う。
トレーナーとして理想的なカルムの態度に、サトシは深く頷き、その右手を握り返した。
「いやぁ、俺の方こそ。カルムとのバトルで、大切な事をたくさん学んだよ。ありがとう。またいつか、バトルしてくれよな」
「ああ。もちろんだ」
固く結ばれた握手は、2人の友情を育んでゆく。
サトシとカルム。
2人の若きトレーナーは、これからもポケモンバトルの世界で活躍し続けることだろう。
称え合い、笑い合う2人のもとに、シトロンとユリーカ、そしてセレナが駆け寄る。
「サトシおめでと!リザードンもすっごくすっごくかっこよかったよ!」
「まさか太陽を利用して戦うなんて、ほんと、サトシにはいつも驚かされますよ」
リザードンの腹を撫でながら、興奮気味に褒め称えるユリーカ。
そしてサトシの戦略を賞賛するシトロン。
2人とも気分が昂っているのか、声が少々上ずっていた。
ブリガロンのハードプラントを破るため、太陽を利用したことは、シトロンにも察することが出来ていたらしい。
ジムリーダーとしての洞察力は、あれから3年経った今も衰えてはいないらしい。
「サトシ……」
か細い声で名前を呼んできたのは、セレナであった。
瞳に涙をため、少しだけ頬を赤く染める彼女の表情からは、喜びと安堵が感じられた。
彼女のその顔には、既視感があった。
3年前、1度敗北を期したエイセツジムに勝利した際、寒さに鼻を赤くして歩み寄ってきた時と同じ表情である。
彼女は今も昔も、自分の傍らにあり、辛い時も苦しい時も支えてくれた。
そんな彼女の慈しみに、なぜ今まで気づくことが出来なかったのか。
彼女から注がれる柔らかな視線を浴び、サトシは改めて己の感情を知る。
心の奥からじんわりと溢れ出る彼女への感情は、ただの友情などではない。
「ありがとな、セレナ。セレナいなかったら俺は、きっと今ごろ大切なものを見失ってた。そばに居てくれて、本当にありがとう」
リザードンが瀕死の状態に陥ったあの夜、セレナが夜通し隣で看病に付き合っていた。
その時交わした言葉は、サトシにとって忘れることの出来ないものである。
あの夜、セレナと話していなければ、きっとカルムにリベンジしようなどとも思わなかっただろう。
そして今、そのカルムに勝ち、自信と希望に溢れたいつもの自分を取り戻すことが出来た。
リザードンの努力、そしてセレナの言葉が、サトシを勝利へと導いたのだ。
「私なんて、なにも……。でも、本当に良かった。それでこそサトシだよね」
セレナの満面の笑顔は、その場を明るくさせた。
サトシへの慈しみと想いが溢れるその表情を見て、カルムは小さな笑みをこぼした。
少しの哀愁が混じったような、そんな顔である。
「ほんと、完敗だよ。まったく」
カルムのそんな呟きは、誰の耳にも届くことは無かった。
セレナという女性は、どこまでも一途な女性である。
その性格をよくわかっているからこそ、どう足掻いてもその心は曲げられないと悟った。
だが、不思議とカルムの中に悔いは残っていなかった。
サトシが、トレーナーとしても男としても申し分ない人物だということを知り得たから。
彼が相手ならば、負けたとしてもキッパリと諦めがつく。
カルムは肩を落としながらも、暗い表情は一切見せていなかった。
「あれ、そういえばセレナ、今日帰っちゃうんだよね?時間は大丈夫?」
「平気よ。ほら、あと1時間ちょっとあるし」
サトシのバトルに気を取られていたが、今日はセレナが故郷のアサメタウンに帰る日でもあった。
列車の時間を心配するユリーカに、セレナは公園の時計塔を指さす。
セレナがチケットを取っている列車の時間は17時30分。
時計塔の時刻は16時25分を指していた。
あと1時間も余裕がある。
この後ポケモンセンターにでも寄って、ゆっくり駅に迎えば、充分間に合う時間だ。
だが、時計塔を指さすセレナの言葉に、カルムは驚いた表情で口を開く。
「あと1時間?あの時計塔、1時間遅れてるんだぞ!」
「えっ!?じゃあ……」
カルムの言葉に、セレナは慌てて懐からピンク色の端末を取り出した。
ディスプレイ表示された正しい時間は、17時22分。
列車の発車まで、あと10分を切っていた。
みるみるうちに青くなるセレナの顔。
さらに追い打ちをかけるように、シトロンが焦り混じりの声色で言う。
「ま、まずいですよ!ここからミアレ駅まで、歩いて10分はかかります!」
「う、うそ……」
ミアレの地形に詳しくないセレナは、この街のジムリーダーであるシトロンの言葉に絶望する。
もはや、右手に握られているこの乗車券は、なんの意味も持たなくなってしまうのか。
母親にも、今日の夜には帰ると連絡を入れてしまっている。
帰れないとなると、酷く落胆させてしまうだろう。
手元の乗車券を悔しそうに見つめるセレナ。
そんな彼女の右手を、何者かががしっと掴んだ。
セレナの細い手よりも大きなそれからは、暖かな温もりを感じさせる。
「走るぞ、セレナ」
「えっ?」
手を握ってきたのは、サトシだった。
肩にピカチュウを乗せ、太陽のような笑顔を見せる彼は、セレナに有無を言わせない。
戸惑うセレナを他所に、サトシはその手を強引に引いて走り出す。
「ちょ、ちょっとサトシ!?」
「シトロン悪い!リザードンをよろしく頼む!」
「え、あ、はい!」
「セレナーー!バイバーイ!また会おうねー!」
リザードンをボールにしまいもせず、全力で駆け出してしまうサトシ。
そんな彼に腕を引かれるセレナに手を振るユリーカだったが、当のセレナはサトシについて行くのがやっとらしく、手だけ振りながら必死に走る。
あまりに忙しない2人の退場に、カルムは思わず声を上げて笑い出した。
「忙しないな」
「ですね」
笑い合うカルムとシトロン。
その後ろで、主にあっという間に置いていかれてしまったリザードンは、呆れたようにため息をつくのだった。
アサメタウン行きの列車が発車するまで、あと5分。
夏の日差しが降り注ぐ中、サトシはセレナの手を引き、ミアレの街を走る。
アスファルトの照り返しで、街は熱を持っている。
向かう先はミアレ駅。
そこにたどり着けば、2人の夏は終わる。
商店街を抜け右に曲がり、まっすぐ進めば駅にたどり着く。はずだった。
「お、おいおい……」
「うそ……」
右折した先に広がるのは、あまりにも急な上り坂だった。
この暑い日差しの中、この急勾配を走り抜けるのは、いくら十代の子供とはいえ辛いものがある。
走るスピードも落ちることだろう。
戸惑うセレナだったが、サトシはそんな彼女の手を強くにぎりしめる。
「よし、行くぞセレナ!」
「う、うん!」
上り坂へと一歩踏み出せば、熱さと急勾配が二人の体を襲う。
一歩、また一歩と踏み出す度に、ミアレ駅へと距離が、縮まってゆく。
この急な上り坂を昇った先に待つのは、一時の別れ。
ここで別れを拒み、立ち止まるのは簡単だ。
けれど、セレナの手を引くサトシの足は止まらない。
離れたくはない。一分一秒でも長く隣にいたい。
心ではそう叫んでいるのに、足は動き続けている。
ここで止まれば、セレナは落胆することだろう。
彼女のそんな顔は見たくない。
追い風がサトシの背中を押してくれていた。
やがて、夏めく坂道を登りきった2人は、目の前に見えるミアレ駅の駅舎へと飛び込む。
エスカレーターに乗り、ホームへ上がると、そこにはアサメタウン行きと電光掲示板に表示された列車が止まっていた。
発車時刻まで、残り1分。
ぎりぎり間に合ったのだ。
安堵し、顔を見合わせる2人。
開いている扉から列車内へと足を踏み入れたセレナは、ホーム上に立っているサトシと向き合う。
先程まで安堵の表情を浮かべていたサトシであったが、こうしてセレナと向き合うと急に寂しさが込み上げてきた。
あと1分足らずで、この列車の扉は閉まり、セレナはアサメタウンに帰ってしまう。
あまりにも急いで走ったため、次に会う約束すらたてられていない。
もしかすると、もう会えないかもしれない。
そんな予感と、限られた時間が、サトシを焦らせる。
「セレナ、俺……俺さ……」
「うん?」
「セレナのおかげで本当に助かったよ。俺、いつもセレナに助けられてばっかりで、3年前も今も……大変な時はいつもセレナがいてくれて、すごく感謝してるって言うか……あーーもう!こんなことが言いたかったんじゃなくて!」
珍しく混乱し、焦っている主人に、ピカチュウは首を傾げる。
この夏、ようやく自分の気持ちを自覚できたサトシには、伝えたい事が多すぎる。
感謝、そして恋慕。
混じり合う全ての感情が、サトシの頭の中で絡み合う。
伝えたい言葉たちが我先にと喉元まで押し寄せて、本当に言いたかった事が口から出てこない。
あぁ、せっかく彼女へと想いに気付けたというのに、たった2文字の気持ちすら伝えられないのか。
もどかしく歯を食いしばるサトシに、セレナは微笑みかけた。
「サトシ。私の方こそありがとう。ほんの少しの間だったけど、サトシと過ごせてよかった」
寂しさと、愛しさが垣間見得る瞳。
まっすぐサトシを見つめる彼女は、今にも泣き出しそうだった。
「またね」
アサメタウン行き列車ドアが閉まります。
ご注意ください。
車掌のアナウンスが、まるで終焉の鐘のように鳴り響く。
行ってしまう、セレナが。
本当に大切な人が。
だめだ。まだ何も言えていない。
トレーナーとして大切な事を気付かせてくれたお礼も、あの夜ずっとそばにいてくれたことに対する感謝の念も、そして、ずっと気付けなかった、すきだという気持ちも。
だが、まだ13歳という少年であるサトシは、彼女への大きすぎる感情を明確に伝えられる言葉を知らない。
サトシの幼い本能は、言葉よりも行動に出ろと脳に告げている。
自然足が前に出る。
無意識に顔を近づける。
本能的に目を閉じる。
何も考えることなく、息を止める。
周りの喧騒が、ほんの一瞬だけ聞こえなくなっていた。
触れた唇の感触に、セレナは思い出していた。
3年前の別れの日のことを。
そう、あの時も心臓が高鳴って、何も考えられなくて、周りの音が消えて、全ての動きがスローモーションになっていた。
この柔らかな感触を味わったのは、2度目。
いや、何故だろう。
夢の中で、もう一度だけ味わったような気もする。
あれは、暑い夏の白昼夢だったのだろうか。
名残惜しそうに離れていったサトシの唇は、周りの喧騒にかき消され、ギリギリ聞こえるくらいの小さな声で、暖かい言葉を紡いだ。
「 」
耳元で囁かれた言葉に、セレナは息を呑んだ。
やがて2人を引き裂くように列車の扉が閉まってゆく。
大きな音を立ててゆっくり走り出す列車。
離れてゆく2人の距離。
サトシは、ドラマや映画のようにホームの端まで走り寄ってくるような事はなかった。
ただただ、離れていく列車に目を細め、愛おしげに見つめるだけだった。
固く閉ざされた扉に体を預け、脱力し、その場に座り込むセレナ。
触れた唇の感触は、ありありの焼き付いている。
そして、囁かれたあの言葉も。
セレナは自分の赤い唇に指先で触れ、ゆっくりとなぞる。
「ずるいよ。別れ際に、なんて……」
また、すぐに会いたくなってしまう。
愛おしさと切なさに押しつぶされそうになる胸を抱えながら、セレナは1人、一筋の涙を流した。
列車が出ていった後のミアレ駅ホームは、静かなものである。
次の列車到着のアナウンスが流れる中、サトシはホーム上に座り込んでしまう。
脱力したように肩を落とすサトシに駆け寄り、ピカチュウはその顔を覗き込む。
ボーッと空を仰ぐサトシの表情は、ピカチュウの位置からは確認できない。
だが、彼が遠い先を見つめていることは確かであった。
「なぁ、ピカチュウ」
「ピカ?」
空を見上げたまま、虚ろな声で名前を呼ばれ、ピカチュウは首を傾げた。
上空に広がるのは、日が陰り出した夏の空。
太陽は相変わらず熱く煌めいていて、ミアレの街並みをオレンジ色に染めている。
2人の別れを嘲笑うかのように照らしている太陽を見つめ、サトシは息を吐く。
「今日も熱いな」
呟くサトシの言葉は、夏の空に溶けてゆく。
短くも暑い夏は終わりを告げた。
だが、2人の季節はまだ続く。
沈みゆく太陽に向かって、サトシはゆっくりと手を伸ばすのだった。
END