Mizudori’s home

二次創作まとめ

廓に差し込む光

【殺神】

犬夜叉

■原作時間軸

■短編

 

奈落が根城にしている城は、神楽にとって非常に居心地が悪かった。
もともと嫉妬や憎悪の塊である奈落から生まれた身であるため、薄暗い場所は嫌いではなかったが、この城にいるといつも誰かに見張られているような感覚に陥る。
そよぐ風のように気ままな自由を愛する神楽にとって、奈落の監視下にあるこの閉鎖的な城は、ただの檻にしか見えなかった。
基本的に、神楽は奈落の許しがない限りはこの城から出ることは出来ない。
本当なら今すぐにでも飛び出して、どこまでも続く空の下を飛び続けたいところだが、奈落に心臓を握られている限り下手なことは出来ない。
そんな神楽に、ある時、奈落からお呼びがかかった。
彼がいつもいる謁見の間に入るなり、奈落は神楽にこう告げた。


「沙鉄という妖怪が持つ四魂のかけらを取ってこい。奴は楼雲郭に出入りしている。神楽、お前は楼雲郭に潜入して奴が来るのを待て」


楼雲郭。
その場所の名前は聞いたことがあった。
妖が通うという、遊郭だ。
もちろんそこで客を取る遊女も全員妖怪。
東の空に浮かんでいるというその楼雲郭に、四魂のかけらを持った砂鉄という妖怪が通っているという。
潜入しろということは、神楽にそこの遊女になれと言っているのだろう。
遊郭という場所が一体どんなところなのか理解できないほど、神楽は純粋無垢ではない。
奈落の言葉に、神楽は当然激しい嫌悪感を抱いた。


「なんであたしがそんなこと・・・。四魂のかけらが欲しいだけなら、その沙鉄ってやつをぶっ殺せばいいだけだろ? わざわざ楼雲郭に潜入する必要なんてあるのかい?」
「沙鉄は用心深い男だ。最猛勝にいくら根城を探させても見つからぬほどにな。かけらを奪う目的で近付けば、即座に逃げられるのがオチだ」
「だから、あたしを遊女として近付けさせるのか・・・?」


怪訝な顔で見つめてくる神楽に、奈落は薄く微笑む。
神楽は、奈落のこの余裕の笑みが大嫌いだった。
心の奥まで見透かしたような顔をして、相手を苦しませることばかり考えている。

そんな奈落の手には、ほとんどの四魂のかけらが揃いつつあった。
妖狼族の若頭が両足に仕込んだ2つのかけらと、琥珀の命をつないでいる1つのかけらを除けば、あとはもう片手で数えられる程度しか残っていないだろう。
そのうちの一つを、沙鉄という下級妖怪が手にしているという情報は、ずいぶん前から奈落の元に届いていた。
だが、それでも奈落がそのかけらを手にできなかったのは、身を隠すのが誰よりうまい沙鉄の振る舞いゆえ。
力のない妖怪とはいえ、人一倍臆病な性格のため、最猛勝がいくら行方を追っても居所がつかめず、ようやく尻尾をつかんだと思ったら煙のように消えてしまう。
逃げ回る沙鉄に苛立った奈落は、楼雲郭に頻繁に出入りしているらしいという情報に賭けてみることにしたのだ。


「神楽よ。遊女として、沙鉄の懐に潜り込め。抱こうとしている女相手に警戒などせんだろう。それに奴は色狂いだ。ひと月も楼雲郭に居ればいずれ巡り合うはず」
「・・・その間、あたしに遊女として働けってのかい?」
「不服か?」
「・・・・・」


遊女として沙鉄に近づき、隙をついて四魂のかけらを奪えという命令自体はそう難しいものではない。
だが、常連とはいえいつ来るかもわからない奴を待っている間、神楽は不特定多数と肌を重ねなければならなくなる事は火を見るより明らかだった。
神楽は妖怪だ。
それも、奈落というおぞましい存在から生まれた分身。
貞操観念などという人間らしい考え方など持ち合わせていないが、それでも女として、見知らぬ妖怪どもに身を任せなければならないという状況には屈辱を覚えた。
“ふざけるな”と一蹴し、今すぐ奈落の首を撥ねてやりたい。
だがそんなことをすれば、奈落の不興を買い心臓を握りつぶされてしまうだろう。
神楽に、拒否権など最初からなかった。


「・・・・・わかったよ」


拳を握りながら怒りに震える神楽に、奈落は“それでいい”とつぶやいた。
望むらくは風のように自由な体。
この身に心臓を取り戻し、誰の目を気にするわけでもなく空を飛びまわれる気ままな存在。
だが、この小さな願いすらも、奈落の前では到底かなうはずもない大きい夢へと変わってしまう。
奈落さえいなければ、今すぐにでも自由になれるのに。
誰でもいい。早く奈落を殺してしまえ。
心の中で奈落を呪うたびに、神楽の頭の中であの男の言葉が木霊する。

自由になりたいのなら、そのかけらを使って自分で奈落を倒せばいい。

強い妖力を持っておきながら、神楽との取引を断った殺生丸
あの男の言ったことは間違いなく正論だった。
だが、それは強大な妖力を身に宿している殺生丸だからこそ言えたこと。
神楽一人の力では、奈落を倒すどころか小さな反抗すらもままならない。
こうして、奈落の理不尽に耐えながら身を削るしか、長生きする方法はないのだ。


********************


邪見はいつになく疲れていた。
強さを追い求める主に付き従って随分時間がたつが、最近の彼は奈落を追うことに夢中で危ない橋を渡る機会が格段に増えつつある。
しかも、りんという特に戦力になるわけでもない人間の娘を庇護下に置いてしまっているばかりに荷物が増え、戦うときはいつも命がけである。
先日までこの付近をのさばっていた七人隊とかいう人間の亡霊軍団との戦いでも、りんを人質に取られかなり苦戦を強いられた。
このまま奈落を追い続けるのも、りんを連れ歩くのもそろそろ限界なのではないかと感じていた邪見であったが、それを素直に殺生丸に伝えられるわけもない。
今日もまた、りんを背に乗せた阿吽の手綱を引きつつ、邪見は深いため息をこぼした。
そんな時だった。


「ごふっ!」


前を歩いていた殺生丸が突然ぴたりと止まり、邪見は彼の足に激突してしまった。
しりもちを着いてしまった邪見は即座に主に謝るが、殺生丸からの返答は当然のごとくない。
邪見が恐る恐る殺生丸を見上げると、彼は後ろを振り返り、空に浮かぶ大きな雲を見つめていた。
何かあるのかと疑問に思い、邪見やりんも殺生丸の視線の先へと目を向ける。
あるのは空に浮かぶ悠々とした雲だけだったが、しばらく見つめていると、その雲の切れ目から大きな建物がふわりふわりと顔を出した。


「あ、あれは楼雲郭!」


雲の間から現れた、その空に浮かぶ屋敷はなんとも面妖で、異様な空気感を放っていた。
その光景を目にし、邪見は一発であの建物の正体に気付いてしまう。
ずいぶん昔に噂で聞いた、空に浮かぶ妖の遊郭
そこで過ごすひと時は甘美で、通えば最後、楼雲郭のとりこになってしまうという。
東の空を気ままに浮いているという楼雲郭は、一部からは幻の遊郭とも呼ばれ、なかなかたどり着けないと噂になっていた。
そんな楼雲郭を偶然にも見つけてしまうとは、幸運の前触れか、それとも不吉の予兆か。
いずれにせよ、邪見は妖気猛々しい楼雲郭を見上げながら視線を離せずにいた。


「邪見様、あれはどんなお屋敷なの?」
「あれは楼雲郭。妖怪の遊郭みたいなもんじゃ」
遊郭遊郭ってなぁに?」
「なぁに?ってお前・・・それはじゃな・・・うーん・・・」


りんからの質問に、邪見は頭を悩ませた。
子供というのは好奇心の塊のようなもので、わからないことがあると納得するまで質問攻めにしてくる。
りんはまだ男を知らない年齢でもあるし、遊郭が何をするとことなのか馬鹿正直に答えてよいものだろうかと、邪見は腕を組んで考えていた。
そんなりんからの厄介な質問を遮ったのは、意外にも殺生丸だった。


「邪見」
「え、あ、はい」
「ここで待っていろ」
「あぁっ!殺生丸様!」


邪見が呼び止めるよりも早く、殺生丸は空の楼雲郭めがけて飛び去っていしまった。
待てと言われたからには待つしかない。
どんどん遠くなっている主の背を見送りながら、邪見は何度目かのため息を吐いた。


殺生丸様、何しに行ったんだろう?」
「そりゃあ、殺生丸様とて男だからな。そういう気分になるときもあるだろう」
「そういう気分・・・?」


りんの中にはまだ様々な疑問が漂っているようだが、邪見はあえてその疑問に回答してやるのは避けることにした。
遊郭とはどういった場所なのか、そして殺生丸が楼雲郭に何をしに行ったのか、正直に話せばりんはきっと混乱するだろう。
りんにとって殺生丸は父のような存在でもあり兄のような男でもある。
りんの中にある清廉潔白な殺生丸の虚像をむやみに壊してはいけない。
邪見は口を固く紡ぎ、深く頷くのだった。


********************


楼雲郭は、外から見るよりも大分古い屋敷だった。
細い廊下が格子状に走っており、その廊下の隙間に均等に配置された部屋で、遊女の妖怪たちは客と一夜を共にする。
襖一枚で遮られているため、隣の部屋での睦合いがよく聞こえてきてしまう。
こんな環境でよく楽しめるものだなと、神楽は呆れを超えて感心していた。
だが、10日もこの環境にいれば不思議と慣れてしまうもので、もはや隣の部屋から聞こえてくる艶めかしい声も気にならなくなってきた。
既に何度か客を取ったが、どうやら神楽は客たちからのウケがいいらしい。
整った容姿と勝気な性格は、飢えた妖怪たちの欲を満足に満たしてくれる。
どうして自分がこんなことをしなくてはいけないのかと考えながらも、神楽は今日も客を取る。


「しかし、お前さん絶好調だね。入ってまだ10日も経っとらんというのに、何人相手をした?」
「知るかよ。いちいち覚えてられるか」


前を歩く女狐は、ずいぶん昔にこの楼雲郭で遊女として活躍していたらしい。
老いた今は引退し、遊女たちの世話係をしている。
楼雲郭へやってきた客に、好みの遊女を宛がうのも、この女狐の仕事だった。
今日も指名を取った神楽を部屋まで案内する道中、彼女はいやらしい笑みを浮かべながら話を振ってくる。
何人相手をしたかなど、神楽はいちいち覚えてはいなかった。
受け入れた男の数を指折り数えるなど、趣味ではない。
人数が多くなっていくごとに、奈落からの呪縛がきつくなっていくような気がして、不愉快だった。


「今日のお客様は常連だ。くれぐれも失礼のないようにね」
「はいはい」


右手に持った扇子で自分の肩を叩きながら歩を進める神楽と女狐。
古い楼雲郭の床が、歩くたびにぎしぎしときしんでいた。
やがて前を歩いていた女狐はひとつの部屋の前で立ち止まる。
その部屋の襖は、金の稲穂が描かれたたいそう豪華なものだった。
今まで、こんなに豪華な部屋に通されたことはない。
それなりに人気が出てきたから、扱いが良くなったということだろうか。

女狐によって両開きの襖が開かれ、神楽は部屋の中へと一歩踏み出した。
中も随分としっかりした造りになっており、部屋の奥には金の屏風絵が飾られている。
外に面した小窓がひとつあるようだが、障子は閉められていた。
今までにないほどの広い部屋に見とれていた神楽だったが、部屋中に甘い香りが充満していることに気が付く。
見渡してみると、部屋の奥に香炉が一つおいてあり、白い煙が漂っていた。


「あれはこれから来るお客様が用意したものだ。あの匂いを嗅ぐと気分が高まるんだと」
「ふぅん」


これから来る客は、どうも妙なこだわりを持った客らしい。
特に興味はなかったが、おそらく不気味極まりない変態だろうと神楽は踏んでいた。


「お客様はすぐに来るから、支度して待ってな」


それだけ言い残し、女狐は襖を閉めてそそくさと出て行ってしまった。
残された神楽は、客が部屋に来るまで暇になる。
手に持っていた扇子を置き、部屋の真ん中に腰を下ろす。
天井を見上げた神楽は、この部屋が随分と静かであることに気が付いた。
いつもなら左右に面した部屋から情事の声が漏れ聞こえているが、この部屋では聞こえない。
おそらく、隣の部屋には誰も入っていないのだ。
いや、あえて入れていないのかもしれない。

今から相手をする客は常連だと女狐が言っていた。
わざわざあのような香炉を用意するほどだし、もしかするとかなりの上客なのではないだろうか。
そんな神楽の思案を邪魔するかのように、香炉から漂う甘い香りが神楽の頭をぼうっとさせる。
鼻がつんとするほどの匂いに眉をひそめた神楽は、換気をしようと襖を開けた。
本当は香炉を消したいところだが、そんなことをしたら客から苦情が入るだろう。
開けた襖の隙間から、なんとなく外の廊下に目をやった神楽だったが、突き当りの廊下を横切った見覚えのある人影に、神楽は目を見開いた。


「なんで、あいつが・・・」


隙間から一瞬だけ見えた人影は、殺生丸だった。
あの目立つ格好を見間違えるわけもない。
遊郭など、一番縁がなさそうなあの男が何故こんなところに?
一瞬の出来事に、神楽の頭は混乱する。
やはりここに来る大多数の妖怪たちのように、欲を満たすため女を買いに来たのだろうか。
ここにいる理由など、それだけしか考えられない。
けれど、何故だろう。
あの男がこの楼雲郭で女を買い、そして狭く埃臭い部屋でその遊女を抱いているのだと思うと、妙に居心地が悪くなった。

女を侍らせ、その体に貪りつくなど、殺生丸の柄ではないからかもしれない。
もしかすると、ここの常連なのだろうか。
あの男が指名するような遊女とはいったいどんな女なのだろう。
気になることは山ほどあった神楽だったが、殺生丸が通った反対側の通路から、何者かが近付く気配を感じ、急いで部屋の中へと引っ込んだ。
やがてその気配は神楽の部屋の前で立ち止まる。
ゆっくりと開け放たれた襖から部屋の中に入ってきたのは、土気色の肌をした中年の妖怪だった。
人型をしているが、真っ赤な瞳からは妖気が感じられる。
間違いない。この男こそ、四魂のかけらを持っているという沙鉄だった。


「ほう、人気の新入りがいると聞いて指名してみたが、確かにこれは上玉だな」
「・・・・・くだらない挨拶なんていらないだろ? さっさと始めようぜ」


口元にいやらしい笑みを浮かべている沙鉄は、神楽の体を舐めるように眺めていた。
その視線に嫌悪感を感じながらも、受け入れるしかない神楽の心は揺らいでなどいない。
沙鉄がようやく現れたということは、この忌々しい遊郭とも今日でおさらばできるということ。
ただしここを去るには、奈落の命令通り沙鉄の隙をついて四魂のかけらを奪わなければならない。
睦合ってさえいれば、隙などいくらでも生まれるだろう。
さっさとことを済ませ、早くここから立ち去ってしまいたい。
偶然か必然か、今この遊郭を訪れている殺生丸に、遊女としてこの場にいる自分の姿を見られることだけは避けなければならない。
目撃されれば、きっと奈落に関して詮索される。
ついでに、神楽がここで体を売っている理由も。
殺生丸に知られることだけは、どうしても嫌だった。


「くくくっ、勝気な女は嫌いじゃない。そういうやつの顔を歪ませるのが一番興奮するからなぁ!」
「なっ・・・!」


畳の上に座っていた神楽の肩を、沙鉄は勢いよく押し倒す。
神楽の上半身は畳の上に激しく叩きつけられ、背骨のあたりに痛みが走る。
あまりに乱暴な手つきに苛立ち、上に覆いかぶさってくる沙鉄を押しのけてやろうかとした神楽だったが、畳の上に投げ出された腕が全く動かなくなっていることに気が付いた。
腕だけではない。
脚も、指の一本すらも鉛のように重い。
先ほどまでは不自由を感じてはいなかったというのに、何故?
焦り始める神楽の表情を見下ろし、沙鉄は恍惚とした笑みを浮かべていた。


「動けんだろう? それはあの香炉の力だ」
「香炉・・・?」
「あの香炉は女にしか効かん珍しい代物でな。あの匂いを嗅いだ者はじわりじわりと体の自由を奪われるんだ」


部屋の奥に置かれた香炉に視線だけ向けると、未だ甘い煙を噴出していた。
あの香炉は、沙鉄が用意させたものだと女狐が言っていた。
最初から、自分についた遊女の動きを封じる目的で持ち込んだのだろう。
あの香炉の香りを嗅いだ時、何故最初に気付けなかったのだろうと、神楽は唇を嚙みしめた。


「俺はよぉ、女が苦痛にもがく顔を見るのが好きなんだよ。特にお前みたいな勝気な女が苦しみ喘ぐ姿は最高だ」
「この・・・悪趣味がっ!」
「その勝気な態度、いつまで続くか見ものだなぁ」


いくら手足に力を籠めようとも、体が動く気配はない。
それをいいことに、沙鉄は神楽の首に両手を回してじわじわと締め始めた。
呼吸が困難になった神楽は、苦痛に顔を歪ませるが、それを見た沙鉄は余計に鼻息を荒げている。
武器となる扇子は、先ほど沙鉄に押し倒されたときに遠くへ転がって行ってしまった。
身動きの取れない神楽は、無抵抗なまま意識が遠のいていく感覚を待つしかない。
このままでは、四魂のかけらを奪うどころか命を奪われかねない。
こんなところで、死にたくない。死んでたまるか。
誰か、だれか助けて・・・!

神楽が心の中でか細い声を挙げたその瞬間、部屋の襖が派手な爆発音とともに吹き飛んだ。
部屋の中に吹き飛んできた襖と、楼閣の中に響き渡る音に驚いた沙鉄は、焦った様子で部屋の入口に顔を向ける。
神楽もまた、かすむ目を必死に開き、音がした方へと視線を注ぐ。
そして、そこに立っていた白い人影に、神楽の目は大きく見開かれるのであった。


「せっしょう、まる・・・」


部屋の入口にたたずむ殺生丸は、愛刀、闘鬼神を片手に沙鉄をまっすぐ見つめていた。
どうやら、この部屋の襖を破ったのは彼らしい。
襖が破壊され、密閉された部屋に隙間ができたことで、沙鉄の香炉から漂っていた煙が廊下の外へと逃げ出してゆく。
殺生丸の登場に驚く神楽だったが、そんな彼女を組み敷いていた沙鉄は楽しみを邪魔されたことで怒りを感じていた。


「なんだてめぇは! この女の客か!?」
「客、だと?」
「今この女は俺が可愛がってんだ。邪魔してんじゃねぇ!!」


激高し、殺生丸に襲い掛かる沙鉄。
煙が薄くなりつつあるとはいえ、未だ身動きの取れない神楽は、自分から離れていく沙鉄を止めることが出来なかった。
無謀にも自分に向かってくる沙鉄を睨みながら、殺生丸は闘鬼神を握りなおす。


「この殺生丸を、貴様らと同列に語るな!」


たった一本の腕で刀を構え、そのまま渾身の力で横に薙ぎ払う殺生丸
刀身から繰り出された禍々しい剣圧は、あっという間に沙鉄の体を砕いてしまう。
沙鉄は悲痛な断末魔を上げながら、塵となって消え失せた。
その間、わずか数秒。
仮にも四魂のかけらを持っている相手を、こうも簡単に倒してしまう殺生丸の強さに、神楽は改めて息をのんだ。

おそらく沙鉄の体に埋め込まれていたのであろう小さな四魂のかけらが、畳の上に落ちてきた。
ようやく香炉の効果が消え始めていた神楽は何とか上体を起こし、そのかけらを拾う。
美しいかけらの断面には、憔悴しきった自分の顔が映し出されていた。
解放されたことへの安堵と、かけらを無事手に入れることが出来た達成感から、神楽は深いため息をこぼす。
長い時間を要したが、何とかかけらを手にすることが出来た。
これでもう、遊女としてこの楼雲郭に出入りする必要もなくなった。
四魂のかけらを握りしめた神楽は、次に殺生丸へと視線を向ける。
突然この部屋に乱入し、あっという間に沙鉄を蹴散らしてしまった殺生丸は。相変わらず冷徹な目つきのまま闘鬼神を腰に収めていた。


殺生丸、あんたなんでここに?」
「貴様の匂いを追って来た。奈落の手がかりを掴めるかと思っていたが・・・」


そう言いながら、殺生丸は神楽の横を通り、部屋の奥へと歩を進める。
そして、未だ甘い香りを振りまく香炉に右手の指から繰り出した光の鞭をぶつけた。
香炉は勢いよく割れ、派手な音を立ててあたりに破片が散らばる。
まるで怒りを物にぶつけているかのような殺生丸の行動に、神楽は思わず肩を震わせた。


「このような場面に遭遇するとはな」


横目で神楽に視線を落とす殺生丸の瞳は、いつになく冷たいものだった。
もしかして、怒っている・・・?
もともと感情の起伏があまりない男だということは知っていたが、ここまで露骨に怒りを露わにしているところは見たことがなかった。
神楽の匂いを追ってここまで来たにもかかわらず、奈落の情報を得られなかったことに怒りを感じているのか、それとも・・・。
その先を一瞬だけ考えて、心の中でありえないと一蹴した。
強さを求めることにしか興味を向けていない殺生丸が、組み敷かれている自分を見て沙鉄に怒りを覚えたなど、そんなことがあるわけもない。


「奈落の命令か」
「・・・あぁ、ここの常連だったさっきの奴から、この四魂のかけらを奪えとさ」
「そのために、貴様は体を売っていたのか」
「まぁな。どうせ奈落からできた傀儡の身だ。今更抵抗はないよ」


目を逸らす神楽は、乱れた己の着物を片手で整えた。
抵抗がない、という言葉に嘘はなかった。
怨念や嫉妬の塊である奈落から生まれたこの身は、最初から美しいものでも何でもない。
誰に体を触れられようと、汚らわしいと感じることは一切なかった。
最初から、汚れているのだから。
だが、今のこの姿を、殺生丸に見られてしまったことだけは悔やまれる。
自分へとまっすぐ降り注がれる視線が矢のように鋭く尖り、神楽の心に傷をつけていく。
まるで自分を責めているかのような殺生丸からの視線が痛い。


「神楽、貴様奈落から解放されたいのではなかったのか」
「・・・は?」
「奈落の命に従い、どこの馬の骨ともわからぬ雑魚妖怪どもに体を明け渡すとは、それが貴様の望んだ自由なのか?」


殺生丸から突き付けられた刃物のような言葉に、神楽は力強く拳を握りしめた。
そんなことは、殺生丸に言われなくても神楽が一番わかっていたことだった。
奈落の命令に反抗するだけの力もない自分が情けない。
これほどまでに屈辱的なことをやらされても、それでも反旗を翻せない自分がもどかしい。
今の神楽は、自由な風どころか籠の中の鳥でしかないのだ。


「なんだよそれ!あたしの申し出を断っておいて、今更口出しするんじゃねぇよ!あんたには関係のないことだろ!?」


手に入れた四魂のかけらを持って、殺生丸の元を訪れたあの日。
彼は神楽の申し出をきっぱりと断ってきた。
お前に協力する義理はない、と。
力を持たない神楽は、力ある殺生丸にもたれかかろうとしていたが、それを彼は許さなかった。
あの時のことを、神楽は今も忘れてはいない。
突き放しておいて、何故今更奈落との関係性についてとやかく言われなくてはならないのか。
殺生丸の言う通り、二人の間には、お互いに手を取り合うほどの絆や義理はない。
もう、放っておいてほしい。
噛みつくような神楽の怒鳴りにも全く表情を変えない殺生丸の様子に、神楽は余計にいら立ちを増幅させた。

 

「奈落を捨て置くとは一言も言っていない。奴は私が殺す。だがそれは、お前のためではない」
「じゃあ、何のためだよ」


そう問いかけた瞬間、殺生丸は神楽を見つめながら目を細めた。
その瞳の奥には、奈落によって自由を奪われ、遊女の格好をさせられた神楽の姿が映っている。
彼女を瞳に映しながら、殺生丸は未だに怒りを抑えられない様子だった。
何故、彼がそこまで怒っているのかも、自分を助けてくれたのかもわからない。
けれど、彼の怒りを感じれば感じるほど、神楽の心が羽のように軽くなっていく。
自分の中で微かに起きているその変化に、神楽はまだ戸惑っていた。


「奈落は私の神経を逆撫でするのが好きらしい。毒虫をけしかけてきことも、りんを攫ったことも、そして今日のことも、腹立たしくて仕方がない」


殺生丸の美しい顔を見つめながら、神楽は言葉を失った。
彼からもたらされた一言は、神楽の心を惑わせる。
殺生丸が、奈落に命じられてこの場で体を売っていた神楽の境遇に怒りを感じている。
疑いようのない真実に、神楽はうろたえるしかなかった。
この体には、心臓がない。
なのに。何故か胸が苦しい。
体の奥が熱を発しているみたいに、体温が上がっていく。
今日のあたしは変だ、
いや、最近殺生丸に会うといつも心が乱される。
もっと冷静でいたいのに、心がざわめいて、落ち着かなくなる。


「なんだよ。それじゃまるで・・・」


その先の言葉を、声に出すことはなかった。
きっと口にしたところで否定される。
自分と殺生丸の間には、何の縁もない、ただの敵同士なのだから。

神楽の戸惑いなど知る由もなく、部屋の出口に向かって歩き出した殺生丸は、呆然と見つめてくる神楽に背を向ける。
美しい銀色の髪をなびかせながら歩く殺生丸を呼び止める言葉を、神楽は知らない。
吹き飛ばされ、襖としての役割を果たしていない木片を踏みつけながら、殺生丸は一瞬だけ立ち止まった。


「さっさとここから出て、湯浴みでもすることだな」
「湯浴み?」
「お前から複数の妖怪どもの匂いがする。不愉快だ」


背を向けている殺生丸が、今どんな顔をしているのかはわからない。
けれど、彼のいつも以上に低く囁かれた声色は怒気を帯びていた。
ふわりふわりと銀髪を揺らしながら、殺生丸は煌びやかな部屋を静かに出て行ってしまう。
静かになった部屋の真ん中には、畳の上で腰砕けになっている神楽が一人。
顔のあたりに熱が集中していく感覚を覚えながら、神楽は殺生丸が去っていった部屋の入口から視線を逸らせずにいた。

違う。あいつは、きっとそんなつもりで言ったんじゃない。
あいつは敵だ。そんな感情を、自分相手に抱くわけがない。

言い聞かせれば言い聞かせるほど、神楽は落ち着かなくなってしまう。
自分の申し出は断っておいて、どうしてわざわざ助けてくれたのか。
何故、敵である自分を見逃すのか。
何を思って、あんなことを言ったのか。
殺生丸の言動に、神楽は戸惑ってばかりであった。

ふと、神楽は右手で握りしめていた四魂のかけらに視線を落とした。
怪しい光を放つそのかけらは、人や妖怪に力を与える代物。
普通なら、喉から手が出る小戸欲しがるだろうが、殺生丸はこのかけらに目もくれなかった。
それは、殺生丸が力ある妖怪であることの証。
強大な力を持つ殺生丸の力を、奈落すらも狙っている。
そして殺生丸もまた、奈落を憎み、倒すべしと追い続けている。
そんな奈落の分身として産み落とされた神楽は、本来殺生丸とは相容れぬ存在。
次に会ったときは、敵として刃を交える可能性もあるだろう。


「次、か・・・」


四魂のかけらに反射して映っていた自分の顔は、柄にもなく泣きそうな顔をしていた。
奈落に心臓を握られている、明日をも知れぬわが身。
一体いつまで生きていられるのかもわからないまま、神楽は“次”に期待を寄せた。
せめて死ぬ前に、もう一度だけ会えたら、どんなに幸せだろう。
四魂のかけらを握ったまま、神楽は自分の胸に手を当ててみる。
やはり、そこに鼓動は感じられなかった。

 

 

END