【タイユニ】
■ゼノブレイド3
■本編時間軸
■短編
だって君が眠りたいと言うから
モルクナ大森林は、高低差の激しい深い森林である。
下層から吹き上げる風は周囲の温度を下げ、このあたりの気温は常に肌寒い。
コロニータウを出立し、そんなモルクナ大森林を横断するため樹木の間を縫うように進んでいる一行の最後尾で、僕は前方を歩くユーニをじっと見つめていた。
ウロボロスの力を共有しているいわばパートナーのような存在だが、正直彼女とはいい関係性を築けているとは言い難い。
この旅を始めたばかりの頃に比べれば、衝突する機会は格段に減った。
とはいえ、ノアやミオ、ランツやセナのコンビと比べて僕たちは明らかに正反対だ。
どう考えても、僕たちの息が合う日が来るとは到底思えない。
問題は性格面だけではなかった。
ユーニはどうも、秘密主義のきらいがあるらしい。
カーナの古戦場を抜けたあたりから、彼女の様子がおかしいことには気付いていた。
どこか上の空というか、物思いに耽る時間が多くなっているように思える。
恐らく何か思うところでもあったのだろう。
だが、彼女はその心の内を一切周囲に明かすことなく、あえて隠す道を選んでいる。
僕だけでなく、付き合いの長いノアやランツにも吐露していないことを考えると、きっと今後も誰かに打ち明けるつもりなどないのだろう。
何もかも話せとは言わない。
誰しも他人に踏み込まれたくない領域はあるだろう。
だが、最近の彼女は熟睡出来ていないように見える。
シュラフに入った後も、何度も何度も寝返りを打っていたり寝苦しそうに唸っている光景を幾度となく目にしている。
眠れなくなるほど考え込んでしまうような悩みがあるのなら、素直に打ち明けて欲しい。
せめてパートナーである僕にくらいは、思いのたけをぶつけてほしかった。
ノアやミオは、本音でぶつかり合って口論するくらい心の奥底を晒し合っているというのに。
見えそうで見えないユーニの心は、僕を焦らす。
寝不足になってまで悩みを打ち明けられないほど、僕は君のパートナーとして頼りないというのだろうか。
一向に心の内を明かしてくれないユーニとの間に、わずかな亀裂が入っているような気がしてならない。
けれど、お世辞にも円滑な人間関係を築くことに長けているとは言えない僕には、そんなユーニとの距離を縮める方法が分からなかった。
モルクナ大森林にそびえ立つ高い鉄の塊は、森林に降り注ぐにわか雨から一行を守ってくれる。
雨によって足止めされた6人と2匹のノポン達は、これ以上の進行は厳しいと判断し、その場で野営を張ることとなった。
マナナによる夕食に舌鼓を打ち、各々筋トレや日記の記入、ブレイドの調整をし終わった後にシュラフへ入る。
少々肌寒い夜だった。地上から高い位置にいるせいか風が一層冷たく感じる。
シュラフに寝転がり、毛布に包まった僕はその寒さのせいで上手く寝付けずにいた。
隣のシュラフで眠っているミオにはもうすっかり夢の中へ旅立っているらしく、規則正しい寝息を立てている。
彼女は暑さには弱いが寒さにはめっぽう強い。
よくこんな寒い中ぐっすり眠っていられるな。
その強靭さに半ば呆れていると、少し離れた場所で衣擦れの音が聞こえてきた。
寝返りを打ち、毛布の隙間から顔を覗かせ音が聞こえてきた方へ目を向けると、そこにはシュラフから起き上がっているユーニの姿があった。
毛布に包まりながら背中を丸めている彼女は頭を片手で抱えている。
また眠れないのだろうか。
暫く観察していると、彼女は毛布を肩から被りながらシュラフから立ち上がり、既に火が消えている焚き木の前に腰掛けた。
そしてすぐに、カチッ、カチッ、と何かを押す音が聞こえて来る。
恐らくエーテル加熱式のライターの音だろう。
普段料理や焚火に使う火は、あのライターを使って灯している。
焚き木に火を着けようとしているのだろうが、この寒さのせいでなかなか着火出来ないのだろう。
暫く迷った挙句、12回目の“カチッ”という空振りの音を聞いた後、僕はシュラフから立ち上がりユーニの背に近付いた。
「貸してくれ」
「えっ……」
ユーニの隣に腰掛け、彼女の右手からエーテルライターをひったくる。
毛布を被りながらキョトンとしている彼女を横目に、ライターの中身を確認してみると、内蔵されているエーテルは十分に残っているようだった。
やはりライターのせいではなく寒さのせいで着火できなかったのだろう。
既に焦げ炭と化している薪を数本焚き木の山から抜き取り、風から火を守るように手を添えてライターのスイッチを押すと、火はすぐに焚き木へと燃え移った。
ぱちぱちと小気味よい音を鳴らしながらオレンジ色の炎は少しずつ大きくなっていく。
肌寒かったこの野営地が、炎の出現によってじんわりと暖かくなり始めた。
ライターをユーニに返すと、たった一発で着火に成功した僕の手腕に驚いているのか、彼女は目を丸くしていた。
「全く、火を着けるのに随分苦労していたな。意外に不器用なんだな君は」
「……うっせぇ。料理下手くそなタイオンに言われたくねぇよ」
「僕の料理を食べたこともない癖によく言う」
「あのマナナがやべぇって言うくらいなんだから相当なんだろ?」
「何度も言うがアレは既に改善されている。何なら試してみるか?多種多様なスパイスとキノコを使ったバニット肉のソテーを振舞ってやろう」
「絶対やだ。罰ゲームだろソレ」
失礼な。人の善意と厚意を罰ゲーム扱いとは何事か。
ムッとしながらも、それ以上反論はしないことにした。
いつもよりユーニの顔色が悪いような気がしたから。
口ではいつも通りの軽口を叩いているが、表情は口ほどにものを言う。
彼女の青くなった顔に気付けないほど、僕は鈍感な男ではなかった。
「眠れないのか?」
「この寒さで眠れる方がおかしくね?」
「まぁ確かに」
「ノア達よく寝れるよな。アタシは無理。毛布被ってても足先が冷えちまって全然眠れそうにねぇんだよ」
「そうか」
嘘だ。確かに上手く眠れない要因の一つはこの寒さなのだろうが、一番の理由はそこじゃない。
シュラフから起き上がり、頭を抱えていた彼女は寒さに震えるどころか首筋に冷や汗をかいていた。
おまけにその青い顔と、うまくエーテルライターを着火できないほど震えた指先。
間違いない。彼女はまた悪夢にうなされていたのだ。
だが、やはりその夢の内容や原因を相談してくれる気配はない。むしろ必死で隠そうとしている。
本人が話したがらないことを無理に聞き出すのはデリカシーに欠ける。
僕に出来る事と言えば、せいぜい彼女の心を落ち着かせるために協力してやることくらいなのだろう。
幸い、彼女の心をリラックスさせる最適な手法を僕はよく知っている。
「……なんだか喉が渇いたな。ハーブティーを淹れるが、君も飲むか?」
「あぁ……。うん、貰おうかな」
膝を抱え、小さな声で肯定する彼女の言葉に頷くと、僕は焚火の前から立ち上がった。
初めてユーニにハーブティーを振舞ったのは2週間ほど前のこと。
カーナの古戦場を後にした直後からユーニの様子が明らかにおかしくなり、その日の晩、彼女は夕食の席でも珍しく目に見えて口数が少なかった。
見かねて、何かのきっかけになればと思いハーブティーを差し出したのだ。
ちょうどいつもより多めに作ってしまっていたし、彼女の分までカップに注ぐのはそこまで手間じゃない。
たまたまチョイスしたセリオスアネモネの茶葉はユーニも気に入ってくれたようで、あれから僕がハーブティーを淹れようとするとついでに欲しがるようになった。
趣味にしているものを他人に求められるのは喜ばしい。
今日もいつも通りハーブティーを用意して二人分のカップに注ぎ、ユーニの隣に再び腰掛ける。
「熱いから気をつけてくれ」
「ん、ありがと」
セリオスティーが注がれたカップを両手で受け取り、彼女はそっと口をつける。
セリオスアネモネの香りには昂った心を落ち着かせる効果がある。
どうやら今回もその実益は得られたようで、小刻みに震えていたユーニの指は次第に落ち着いてゆく。
「今日のもセリオスティー?」
「あぁ。この前気に入っていたようだったから」
「美味かったからな、これ。この香りも味もなんか落ち着く」
ユーニの白い両手が、湯気が立つカップを包み込んでいる。
揺れるハーブティーの水面を見つめる彼女の表情は、先ほどまでに比べて随分穏やかな色をしていた。
良かった。少しは落ち着きを取り戻してくれらしい。
ちびちび少しずつ飲み進めている彼女を横目に見つめながら、僕も自分の分のカップに口をつける。
彼女の心を落ち着かせることは出来たらしいが、それでもやはりその内に宿る悩みを打ち明けてくれる気にはなれないらしい。
頑ななユーニに焦れてしまった僕は、とうとう最初の一歩を踏み出した。
「ユーニ、あの……」
「ん?」
「……最近、寝不足気味なんじゃないのか?」
「えっ」
「シュラフに入ってもずっとモゾモゾ寝返りを打っているし、隈を作っていることも多い。眠れないほど思い悩んでいることがあるのなら……」
「タイオンには関係ねぇだろ」
それまでの穏やかで柔らかい表情がまるで嘘のように、ユーニは冷たく言い放った。
まるで心のシャッターを即座に閉められたかのような言い草だ。気に入らない。
思わず目を丸くしていた僕だったが、すぐさま怒りに近い感情が湧いてくる。
「関係なくない!僕と君はウロボロスの力を共有しているパートナーだぞ!? 君が寝不足で体調を崩したら一緒に戦っている僕にも影響が出る。気にかけて当然だろ」
「気にかけてるのはアタシじゃなくて自分の身の安全だろ?要するにアタシを心配してるんじゃなくて自分の身が心配なだけじゃん」
違う。そうじゃない。
僕は君が心配だった。毎晩毎晩シュラフに入るたび憔悴している様子の君が。
朝起きたとき、青い顔をして頭を抱えている君が。
けれど、どうやら僕はこの気の合わないパートナーに素直に思いの丈を吐露できるほど可愛げのある人間ではなかったらしい。
天邪鬼な性格は自覚しているつもりだったが、こうも気の利いたセリフが出てこないとは。
言い方を間違えた。伝え方を誤った。
素直に言えばよかったんだ。君のことが心配だと。
けれど一度口から出た言葉はもう引っ込めることなど出来はしない。
既に不機嫌になっているユーニを前に、僕は後悔を禁じ得なかった。
「……すまない。言い方が悪かった。別に保身のために君を気にかけているわけじゃないんだ」
「じゃあ何のためだよ?」
「それはだから……。つまりその……」
「……」
「と、とにかく僕には君を気にかける義務があるんだ。詮索されたくないことも理解しているつもりだが、睡眠不足になるほど悩むくらいなら頼って欲しい。少しくらい力になれるかもしれないだろ」
こういう時、例えばノアのように気が利く性格ならもっと適切で心に響く言葉を贈れていたのかもしれない。
だが、僕はこういう人間だ。
ユーニの喜ぶような言葉は何一つ知らないし、気が利く言い回しも出来そうにない。
だからこうしてうまく言葉にならない精一杯の親切をぶっきらぼうに押し付けるしかないのだ。
こんな性格だから、周囲と衝突することも少なくなかった。
現にユーニとは出会ったばかりの頃から今に至るまで言い争いばかりしている気がする。
お世辞にも気が合わない相手にこんな言い方をされたら気分を害してしまうのも頷けるが、これ以上言葉の棘を取り払うことは難しい。
半ばやけくそ気味に言い放った直後、恐る恐る隣に腰掛けるユーニへ視線を向けてみると、彼女は黙ったまま両手に持ったハーブティーのカップを見つめていた。
暫く考え込んでいた彼女だったが、不意に頭の羽根を揺らしながら顔を上げ、こちらを見つめてきた。
「ならさ、話し相手になってくんない?」
「えっ、話し相手?」
「そう。今夜みたいに眠れない夜は、アタシのためにハーブティー淹れて、隣に座って話し相手になるんだよ。そんでもって、アタシが寝るまでタイオンは寝落ちするの禁止」
「なんで僕が」
「アタシが寝不足で体調不良になったら困るだろ?それに、力になりたいんじゃなかったのかよ?」
それはそうだが、僕はあくまで君の睡眠を妨げている原因を知りたかっただけで、睡眠そのものの改善に協力するとは言っていない。
話し相手になれと言われても何を話せばいいか分からないし、彼女が寝るまでこっちは寝れないのであれば2人とも寝不足になる確率が高くなる。
それじゃあ本末転倒じゃないか。とてもではないが効率的で効果的な提案とは言い難い。
だが、“力になりたい”という旨のことを口にしてしまった以上断りづらい。
少々癪ではあるが、ここはユーニの要望に応えるしかなさそうだ。
「はぁ、仕方ないな。とはいっても、君の退屈をしのげるほど愉快な話が出来る自信はないぞ?」
「いいって。そこには期待してねぇから」
余りに素直で失礼な一言だった。
むっとする僕を横目に、ユーニは目の前で揺れる焚火の炎を見つめながら目を細めている。
結局、今夜も彼女を苦しめる悪夢の詳細を聞き出すことは出来なかった。
だが、今自分が彼女の話し相手になることで少しでもその心の靄を晴らせるというのなら、付き合ってやる甲斐はあるのかもしれない。
さて、ユーニの気がまぎれるような話題を探さなくては。
頭の中の話題の引き出しを漁りながら、僕は再び自分のカップに口をつけた。
***
すっかり暗くなった空を仰いでみれば、目の前には高くそびえたつ大剣が見える。
あまりに高すぎててっぺんが見えないその大剣を見上げながら、僕は深くため息をついた。
明日、僕たち一行はあの大剣にあるという“シティー”とやらに到着することだろう。
“シティー”が一体どんな存在なのか、今の僕たちには到底想像もできない。
だが、僕たち6人と2匹のノポンが命の火時計から解放され、ウロボロスとしてこのアイオニオンを旅するきっかけとなった人物、ゲルニカは言っていた。
“生きたいならシティーを目指せ”と。
きっとあの大剣にたどり着いた先に、その言葉の答えが待っている。
楽しみでもあり、不安でもあった。
僕たちは今、知ってはいけない世界の真理に触れようとしているのかもしれない。
今まで正しいと信じてやってきたことが、すべて間違いだった可能性すらある。
その片鱗を、僕たちはケヴェスキャッスルで目撃した。
味方であるはずのケヴェスのコロニーに向けられた殲滅兵器。
その兵器を守るために現れたディーと名乗るメビウスと、ユーニたちの顔見知りであり死んだはずのヨラン。
1期の姿でゆりかごに眠っていたエセルそっくりの年少兵。
そして、機械仕掛けの女王。
目に映る全てが謎に包まれていて、考えれば考えるほどわからなくなった。
決死の想いで潜入したケヴェスキャッスルから脱することには成功したが、流石に今日は疲労困憊気味だ。
戦いに次ぐ戦いの連続で、身体が重い。
大剣にほど近いこの休息地に到着するなり、他の仲間たちは倒れ込むようにシュラフに潜りさっさと眠ってしまった。
僕も非常に疲れてはいたが、どうにも大人しく眠る気分にはなれない。
考えることが多すぎるのだ。
目を瞑り眠ろうとしても、今日ケヴェスキャッスルで目にした謎めいた光景が脳裏にフラッシュバックする。
身体は疲れているはずなのに頭が覚醒してしまっているこの状況に、僕は困り果てていた。
眠る気になれなかったのは、考え事に耽っていたせいだけではない。
休息地に到着して以降、ユーニが焚火のそばに腰掛けたまま動かず、眠るどころか横になる気配がなかったからだ。
ケヴェスキャッスルでの戦闘で一番疲弊していたのは、間違いなくユーニだろう。
彼女はあの“ディー”と名乗っていたメビウスにひどく怯えていた。
以前会ったことがあるような口ぶりだったが、彼女自身よく分かっていないのだろう。
あの怯えようから見て、きっと気のせいなんかじゃない。
ユーニとあのメビウスの間に、何かしらの縁が存在しているのは間違いない。
それもただの縁ではない。いつも強気な彼女が足を震わせ頭を真っ白にさせるほどの強力なものだ。
これまで彼女が夜うなされていたのも、きっとあのディーが関係していたに違いない。
あんなに分かりやすく動揺しているパートナーを放っておけそうにない。
ちょうど気を紛らわせたいと思っていたところだ。
例の“話し相手”になってやる時が来たのかもしれない。
シュラフから起き上がった僕は、枕元に折りたたんでおいた眼鏡をかけると、少し離れたユーニの元へ歩み寄った。
「また眠れないのか?」
立ったまま声をかけると、彼女は目を丸くしながらこちらを見上げてきた。
その目には力がない。
何処か遠い目をしているユーニは、未だ恐怖感から立ち直れていないのだろう。
すぐに僕から目を逸らした彼女は、膝を抱えて小さくなりながら呟く。
「んー、まぁな」
「例のアレ、付き合おうか?」
「例のアレ?何それ」
「眠れないときは話し相手になれと言っていただろ」
「あぁ、そんなこと言ったなそういえば」
「君から言ってきたくせに忘れてたのか。全く……」
ため息交じりに隣に腰掛けると、僅かに灯った焚火の熱が身体にあたる。
話し相手になるとは言ったものの、具体的にどんな話をするべきかは全く考えていなかった。
彼女を楽しい気分にさせるような話題を、僕は知らない。
けれど、とにかく口数が少ないユーニに何か話題を振らなくてはと力んだ結果、数時間前のケヴェスキャッスルでの出来事を引っ張り出す以外手が思いつかなかった。
「君がうなされていた原因、あのディーとかいうメビウスだったんだな」
「……そうらしいな」
「言ってくれればよかったのに。事前に相談してくれていればあの時もっと——」
“君を気遣えたのに”
喉元まで出かかった言葉を、僕は直前で飲み込んだ。
相談されていたとして信じていたか?
“殺された記憶がある”なんてことを。
夢でも見ていたんだろうと一蹴していたかもしれない。
気にするなと軽くあしらっていたかもしれない。
あの機械仕掛けの女王や、ディーの態度を見た後だからこうして受け入れられているが、何もかも分からないままだった頃の僕がユーニからそんな不確かで現実離れした話をされていても、到底信じられなかっただろう。
反省すべきは打ち明けてくれなかったユーニではない。
察することが出来なかった僕の方だ。
「……いや、すまない。今のは違うな」
「うん?」
「君自身確証が持てていなかったんだろ?そういう相談を躊躇うのは理解できる。僕が察するべきだった」
思えば、いつもユーニに対しては受け身の姿勢を貫いてきた。
戦いの場でも僕に合わせてほしい。
困りごとがあるなら相談してほしい。
心の内を吐露してほしい。
全てユーニから動くことを望んでいて、僕から彼女に対して動こうという思考回路には至っていない。
あの殲滅兵器を巡るディーとヨランとの戦いで晒した連携不足は、そんな僕の傲慢な態度と考えがそうさせたことなのだろう。
視線を落とし謝罪の言葉を口にする僕に、隣のユーニがふっと笑みを零す気配がした。
「なんでタイオンが謝るんだよ」
「言っただろ、僕には君を気に掛ける義務があると」
「それってパートナーだから?」
「あぁ。命と身体を共有している以上、僕たちはある意味運命共同体ともいえる。そういう相手のことは出来る限り理解しておきたい」
「んなこと言ったって、アタシとタイオンは別の人間なんだし、相手のこと100%理解するなんて無理だろ?アタシだってタイオンのこと全部理解できてるわけじゃねぇし」
「それはそうだが……」
そのあとに続く言葉を、なかなか口にすることが出来なかった。
だが、きっとちゃんと言葉にした方がいいのだろう。
足元に転がっている薪を焚火に軽く放り込むと、恥を懸命に心の奥に押しやって言葉を続けた。
「君の事情を理解していなかったせいで、さっきの戦闘では何度も怒鳴ってしまっただろ。あぁいうのは……、よくないだろ、やっぱり」
「……」
「だから、君のことは少しでも理解しておきたいんだ。君の力になるために」
ぱちぱちと炎が弾ける音だけがあたりに響いている。
背後にシュラフを敷いて眠っている仲間たちは静かに寝息を立てていて、物音ひとつ聞こえない。
隣に腰を下ろしているユーニは先ほどから黙ったままで、僕の恥を忍んだ言葉に何もリアクションを寄越さなかった。
いつもみたいに揶揄ってくれて構わないから、とにかく何か言って欲しい。
沈黙は羞恥心を一層煽る。
静かな空間に耐えきれなくなった僕は、赤くなる顔を隠すようにそっぽを向きながらユーニに声をかけた。
「無視はやめろ無視は。せめて何か言ってくれ」
「あぁ悪い。ちょっとビックリして。タイオンってさ、意外に優しいとこあるよな」
「そうか? というか“意外”というのは失礼だろ」
「いやだってさぁ、出会ったばっかりの頃は人の心無さそうなくらい冷たい奴だと思ってから。でも、ミオとかセナとかイスルギとか、近しい奴にはめちゃくちゃ優しいよな」
「まぁ、誰にでも優しくするわけじゃないが、大事に思っている身内にはなるべく親切にしたいとは思っている」
ラムダからガンマに転属したばかりの頃、ミオに何度か言葉のチョイスがキツすぎると怒られたことがあった。
僕は元来こういう性格だ。人に合わせて言葉を変えたり言い回しを工夫したりできるほど器用じゃない。
けれど、大事に思っている相手にはなるべく不快な思いをさせたくない。
それなりに気を遣うし、親切にしたいと努めている。
この心遣いがユーニにも伝わったのは喜ばしいが、そこまで驚かれるのは少々心外だった。
「じゃあさ——」
片膝を立てて座っていたユーニが、両膝を抱えて座り直す。
そして、ぼんやり揺れる焚火の炎に横顔を照らされながら、彼女はガラにもなくか細い声で問いかけてきた。
「その“大事に思ってる身内”の中に、アタシも入ってるってこと?」
「まぁ、そう、だな」
「そっか。嬉しいな、それは」
そうストレートに問いかけられると流石に羞恥心が勝ってしまう。
素直に肯定してみせると、彼女は目を細めながら柔らかく微笑んだ。
嬉しいのか。僕に身内認定されることが。
そもそも、こうやって一緒に旅をしている時点でとっくに身内でしかないのだ。
今さらそんなクダラナイ問いかけをされたところで、肯定以外の選択肢はない。
だが、薄く笑みを浮かべながら“嬉しい”と口にしたユーニの反応は、僕の心を僅かにくすぐった。
背中のあたりがむず痒い。この感覚は一体何だろう。
この未知の感覚から逃れるように、僕は強引に話題を逸らすことにした。
「それより、そろそろ眠ったらどうだ?色々あって君も疲れてるだろ」
「そんなに簡単に寝れるなら苦労しねぇって」
「目を瞑っていればいずれ眠くなるだろ」
「座ったまま寝ろってか?」
「じゃあシュラフに戻ればいいだろ」
「ヤだよ。焚火のそばで寝たい」
「シュラフをここまで引っ張って来ればいいんじゃないか?」
「めんどくせぇし」
「ワガママだな」
僕の提案を片っ端から否定するユーニはまるで駄々をこねているかのようだった。
ディーと戦い恐怖を感じた直後に大人しく眠りにつけと言うのは酷だろうが、明日の体調の為にもここは早めに休んでおくべきだ。
シティーがどんな場所なのか分からない以上、今日以上に苛烈な戦闘が起こってもおかしくはない。
その時、消耗している彼女を完璧に守り切れる自信はない。
精神面での回復が見込めない以上、せめてゆっくり眠って肉体面だけは回復しておいてほしかった。
そんな僕の想いを無下にする彼女の態度にため息をついていると、不意に右肩に重みを感じて視線を向けた。
肩にかかる重みの正体を視界に入れた瞬間、僕の心臓は跳ねあがる。
隣に腰掛けているユーニが、寄りかかるように僕の肩に頭を乗せてきていたのだ。
「……なにしてるんだ」
「座りながらじゃ寝にくいだろ?せめて何かにもたれかかりたい」
「だからって僕を使うな」
「んだよ。アタシの力になりたかったんじゃねぇの?」
ユーニは何かあるたびいつもあの発言を持ち出してくる。
確かに力になりたいとは思っているが、だからって君の我儘をなんでも聞くわけじゃない。
僕には僕の事情があるし、このままずっと寄りかかられていたら肩が凝ってしまう。
人の身体を座椅子扱いするようなユーニの行動に若干の不満を感じた僕は、身をよじって彼女を押し返そうとした。
だがその直前、ユーニは眠気を孕ませたふわふわとした口調で、僕の肩に寄りかかりながら呟き始める。
「なんかさ、こうして人の温もりが傍にあると、安心するよな」
「そうか?」
「守られてるみたいでさ」
寄りかかられているだけなのに、守っているつもりはさらさらなかった。
肩を提供しているだけのこの状況に、ユーニは抱擁感を得ているらしい。
なんて単純なんだと思う反面、こんな簡単なことで“守られている”と感じてしまうほどに孤独だったのかとも思ってしまう。
何と相槌を打ったものかと考えているうちに、ユーニは一層舌ったらずな柔らかい口調で言葉を続ける。
「いまなら、なにがおきても、タイオンがなんとかしてくれるって、そうおもうと、おちつく……」
目を閉じ、頭をもたげ、体重を僕に預けているユーニは吐息交じりに囁いた。
そりゃあ確かに、例えば今その辺の草むらからモンスターが飛び出してきたとして、僕はこの能天気に眠っているパートナーを意地でも守ろうとするだろう。
傷付かないように、また怖い思いをさせないように、懸命に庇うはず。
それは仲間として至極当たり前のことで、そこに特別感謝される理由はない。
当然のことなのに、ユーニはその“当然”に安堵して僕に身を預けている。
そういえば、こんな風に彼女が僕に気を許し、寄り添ってきたのは初めてのことだった。
僕の隣にいると、彼女は落ち着くらしい。安心するらしい。守られていると思えるらしい。
今僕は、この生意気で強がりなパートナーに頼られている。
そう思うと、心の奥からまたあのむず痒い感覚が襲ってきた。
その正体が、なんとなく分かった気がする。
優越感だ。他人から頼られることへの優越感。
心を開いてくれなかった相手が、ようやく気を許してくれた時に沸き起こる喜び。それが優越感となって、今僕の胸を支配しようとしている。そうに違いない。
頼ってくれているのなら、出来る限り応えてやりたい。
肩を貸すだけで安堵できるというのならいくらでも貸すし、隣にいるだけで落ち着くというのならいくらでもいてやろう。
それが君のパートナーである僕の義務なのだから。
「まぁ、その、なんだ。僕が隣にいるうちは守ってやれる。だから、安心して眠ってくれ」
「ん、ありがと、タイオン……」
その言葉を最後に、ユーニは完全に眠りに堕ちた。
長い睫毛が生えそろっている瞼を閉じ、規則正しい寝息を立てている。
先ほどまでの少し憔悴した表情とは打って変わって、今は随分と穏やかな寝顔を晒している。
今は大人しく眠っているが、またいずれ悪夢にうなされて飛び起きてしまうかもしれない。
彼女が悪夢を見ないように、もっとリラックスさせることは出来ないだろうか。
例えば頭を優しく撫でたりすれば、眠りながらも安堵感を与えられるかもしれない。
そう思い手を伸ばしたが、彼女の髪に触れる直前手を止めてしまった。
頭を撫でるなんて、馴れ馴れしすぎやしないか?
行き場を失った手は暫く迷った後、ユーニの背中に控えめに添えられた。
一定のリズムで優しく彼女の背を撫で、なるべく彼女の心が穏やかになるよう努めた。
これ以上、ユーニが悪夢を見ないように。辛い思いをしなくて済むように。
彼女が怯えるさまを見るのは、もう嫌だった。
だって君が寒いと言うから
“基礎医学全集”。
“子育て入門書”。
“受精と出産のメカニズム”。
“シティー史記”。
“ウロボロスストーン解体新書”。
“科学で解き明かす恋愛感情”。
机に積み上げられた書籍は、シティーに到着してから数日の間に僕が読破した参考文献の数々である。
今現在目を通しているのは、ゆりかごから生まれた僕たちとシティーの人間たちの相違点を事細かに綴った“ゆりかごと母体の秘密”という医学書。
内容はなかなかに理解しがたいものだったが、時間をかけて読み進めていくうちに少しずつ頭に入るようになった。
元々理解力には自信があった。それもこれも、コロニーに所属していた頃、座学の勉強を怠らなかった成果だろう。
命の火時計の束縛化にあった頃の生活環境に感謝する日が来るとは思わず、活字を追いながら僕はふっと笑みを零した。
シティーに到着したのは3日ほど前のこと。
それまで巡って来たどのコロニーよりも繁栄しているその街並みに、僕たちは言葉を失った。
そして、シティー内部で繰り広げられる“人間本来の営み”とやらは何もかもが衝撃的で、それまで積み上げられてきた世界の常識が一気に崩れ落ちてしまった。
僕たちは何も知らなかったのだ。この世界がどれほど理不尽で、どれほど不自然な形をしていたのか。
知らないことがあるなら、早急にそのすべてを理解したい。
モニカや医療施設のホレイス先生から、僕たちに欠けている“人としての常識的価値観”とやらは大まかに学ぶことが出来たが、もっと細かい知識はまだまだ足りていない。
例えば、子を成すための手順や出産の方法は学んだが、家族を形成するに至る“結婚”という儀式についてはまだまだ未知の領域だ。
モニカ曰く、愛する者と添い遂げることが結婚なのだと言うが、そもそも“愛する”とはどういう感覚なのだろう。
“大切な人を想い慕う気持ち”と説明は受けたものの、やけに曖昧で100%理解できたとは言い難い。
愛とは何か、恋とは何か。そこを突き詰めて考え、モニカやホレイスに質問をぶつけた結果、2人揃って苦笑いを浮かべながら言ったのだ。
“それはもう哲学の領域だ”と。
要するに、彼らシティーの人間もよく分かってはいないのだ。愛というものが何なのか。
そんな曖昧で霧のような感覚を追及したところで明確な答えを得られる日は来るのだろうか。
首を傾げながらも、探求をやめようとは思わなかった。
家族だの子供だの出産だの、シティーに住まう人々の価値観の根底にあるのは、“愛”という名の至極曖昧な概念であることは間違いない。
“愛”とやらの輪郭が少しでも掴めれば、自分もシティーの人間たちのように“人として自然な生き方”に近付けるかもしれない。
子供を抱き、幸せそうに微笑んでいる男女を医療施設で見かけたが、心の底から羨ましかった。
奪うだけの存在だった僕たちでも、あんな風に命を紡ぐことが出来る。
その事実を知った瞬間、僕のこの命にも大きな価値があるのだろうと思えた。
なれるものならなりたい。あのシティーの人間たちのように。
僕の知識欲を駆り立てたのは、シティーの人々に対する憧れだった。
「まーだ読んでるのかよ」
呆れたような声と共に、寄宿舎の談話室に誰かが入って来る気配がした。
ソファに腰掛け書籍を広げたまま顔を上げると、談話室の入り口に立っているユーニの姿が目に入る。
時刻は深夜1時半。モニカから間借りしているこのロストナンバーズの寄宿舎で、他の仲間たちは既に眠りについているはずだが、ユーニはまだ起きていたらしい。
2階の女子部屋から1階の談話室まで降りてきた彼女は、眠気眼を擦りながら僕を見つめてきた。
「君こそまだ起きていたのか。もう1時だぞ」
「なんか寝れなくて」
「考え事か?無理もない。シティーに到着して3日経つが、僕もこの独特の生活様式と環境に慣れる気がしない」
「いや、シティーの空気自体にはもう慣れたよ。ただ……」
言葉を濁すユーニへと視線を向けると、彼女は少しだけ暗い顔をしながら入り口の壁に寄りかかっていた。
眠くないわけではないのだろう。
またあの悪夢を見たに違いない。
彼女の影を感じる表情が、その事実を物語っていた。
となれば、ここは僕が骨を折るべき場面だ。
開いていた本を閉じると、僕は彼女へと顔を向けた。
「“話し相手”がいるようだな?」
「……いいのかよ?読書で忙しいんじゃねぇの?」
「本ならいつでも読める」
「そっか。じゃあ……。甘えとく」
歩み寄って来た彼女は、僕のすぐ隣に腰を下ろした。
ハーブティーを淹れた魔法瓶を持ってきておいてよかった。
テーブルの上に置いていた魔法瓶を持ち上げ、空の紙コップを用意しとぼとぼと注ぐ。
今日は残念ながらユーニが好きなセリオスティーではなく、別の茶葉を使って作っている。
あらかじめそれを伝えながらコップを手渡すと、彼女は力なく微笑みながら受け取った。
「タイオンが淹れたお茶ならハズレなしだろ」
そう言ってくれるのはありがたいが、少しプレッシャーだった。
初めてハーブティーを振舞って以来、彼女はことあるごとに僕に強請ってくるようになった。
相当気に入ったのだろう。
ハーブティーは前からよく淹れていたが、今思えば自分が淹れたお茶を誰かに振舞ったのはユーニが初めてだった。
初めてお茶を振舞った相手が元敵であるケヴェスの人間になるとは、人生とは分からないものである。
いつもとは違う茶葉で淹れたハーブティーを、彼女はいつも通り“美味い”と言って口をつけてくれている。
なるほど、今回使った茶葉も君の好みの味だったか。
もしセリオスアネモネを切らしてしまったら、代わりにこの茶葉を使うことにしよう。
「にしてもすげぇ数の本だな。全部読んだのかよ?」
「あぁ。分からないことが多すぎるからな」
「そうまでして知りたいなんてタイオンらしいな」
「シティーの人間たちこそが人間本来の姿だと言われたら知りたくもなるだろ。僕たちもあんな風になれる日が来るかもしれないんだぞ」
「あんな風って?」
「君も見ただろ。医療施設で生まれた“子供”とやらを。僕たちもいつか、命を紡ぐことが出来るかもしれない。興味を持たない方がおかしい」
「タイオンは、“子供”が欲しいわけ?」
「えっ」
ユーニからの質問は、実に素朴で直球なものだった。
僕はシティーの人間たちのように、“自然な姿”になれることに価値を感じていた。
今が不自然な生き方だというのなら、自然な姿に還りたい。
ただそれだけのことだったのだが、ユーニからの質問にはすぐ答えを出すことが出来なかった。
子供を作り命を繋げたシティーの男女を“羨ましい”と思った。
奪うのではなく、新しく命を創造できる素晴らしさに嫉妬した。
それはつまり、僕も“子供が欲しい”と思っているということなのだろう。
だが、子供は僕一人で作れるものではない。
モニカやホレイスの言葉を丸々信じるなら、“愛する相手”がいなければ作れない。
子供を作るということはすなわち、誰かを愛するということにも繋がる。
“愛”の何たるかを理解したかったのは、子供が欲しい、命を紡ぎたいという気持ちが根底にあるのかもしれない。
「そうかもな。作れるものなら作ってみたい。命を奪うのはなく、紡げるなんて素晴らしい事じゃないか」
「確かにな。医療施設で見た奴ら、なんかすげぇ幸せそうだったし」
「まぁ、子供を作るにしても“愛する相手”とやらが必要らしいが」
「“愛する相手”、ねぇ……」
紙コップのハーブティーを飲みほした彼女は、本が積まれている目の前のテーブルに空になったカップを置いた。
そして、何の断りもなく僕の肩にもたれかかって来る。
シティーに到着する前夜、眠れない彼女に肩を貸した時と同じような状況の到来に、僕は思わず息を詰めた。
こちらの動揺に全く構うことなく、ユーニは目を閉じ独り言のようにつぶやく。
「“愛”って何なんだろうな。アタシには分かんねぇ」
「おい、さりげなく僕を背もたれにするな」
「だってこうしてると落ち着くんだから仕方ねぇだろ?嫌なわけ?」
「長時間こうしていると肩が凝るんだ」
「しゃあねぇなぁ。じゃあ……」
僕のクレームに面倒くさそうな表情を浮かべたユーニは、ようやくもたれかかっていた僕の肩から頭をあげた。
どうやら肩を借りるのはやめたらしい。
と思ったら、もぞもぞと身体を動かしながら頭を落とし、ソファに腰掛けている僕の膝を枕に寝転がり始めた。
肩に感じていた重みがそのまま膝の上に落ちてきたことで、僕は思わず身体を固くさせる。
「な、何を……!」
「これなら肩凝らないだろ?枕にもなるし」
「だからってこれは……」
「いや?やめてほしい?」
その聞き方はズルいだろ。
嫌だなんて言えなくなる。
そもそも、別に嫌だとは思っていない。
ただ、ちょっと戸惑っただけで、別に迷惑でも何でもない。
君がこうして僕に頼ることで安心して眠れるなら、それでいい。
また心がむず痒くなる感覚に苛まれているが、君がそれを望むなら少しくらいは我慢できる。
落ち着き始めたユーニとは対照的に、全く落ち着く気配のない心を必死で抑え込みながら、僕は膝の上から見上げてきているユーニの視線から逃げるように顔を逸らした。
「こうしていると落ち着くんだろ?なら、好きにしてくれ」
「ありがとな。足、痺れたら起こしてくれていいから」
「……分かった」
僕の足に頬を寄せながら、彼女は寝息を立て始めた。
“眠れない”と言う割に、こうして僕と一緒にいるときは随分入眠が早いじゃないか。
僕が隣にいると安心して落ち着くという彼女の話はきっとお世辞などではないのだろう。
そんなに落ち着くのか、僕の隣は。
穏やかな表情で眠りに落ちているユーニを見下ろしていると、次第に足がピリピリと痺れ始めた。
流石に人の頭をずっと膝に乗せていたら麻痺してしまうものだろう。
だが、だからと言ってユーニを起こす気にはなれない。
なかなか寝付けないことが多いユーニが、こんなに安らかに眠っているのだ。
起こしてしまうのは忍びない。
膝の上で眠っているユーニの背中と膝の裏に腕を差し込むと、起こさないようそっと抱き上げる。
どうやら完全に眠っているらしく、少しの揺れでは目を覚ましそうになかった。
力の抜けた彼女の頭が、僕の肩に寄りかかる。
ユーニの身体は身長の割に軽く、そこまで力に自信がない僕でも簡単に持ち上がってしまった。
横抱きにしたまま階段を上がり、女子部屋の扉をモンドに開けてもらう。
部屋の中は真っ暗で、並んだベッドにミオやセナ、マナナが横になり眠っている。
いちばん奥の空いているベッドにユーニの身体をそっと横たえると、彼女は“んんっ、”と吐息を漏らしながら寝返りを打った。
「ゆっくり休め、ユーニ」
乱れた彼女の髪を直しながら、僕はユーニの頭をそっと撫でつけた。
そして、暗くなった女子部屋を後にする。
部屋の外に出て扉を閉めた直後、ハッとしてしまう。
先日“馴れ馴れしいから”という理由で躊躇ったのに、あんなに呆気なく頭を撫でてしまった。
何という失態だ。僕らしくもない。
少し気落ちしながら、僕は談話室に広げた本を片付けるべく階段を降りるのだった。
***
旅を始めた頃、僕の心境はとてもではないが穏やかではなかった。
味方だったはずのアグヌスのコロニーが全て敵と化し、瞳に宿っていた命の火時計も失われ、戦う理由を失った僕たちはまさに指針をなくしていたからだ。
同道していたミオの残り時間の短さも、僕の焦りに拍車をかけていた。
彼女の残り時間が1日1日消費されていくたび、僕の脳裏にナミさんの顔が浮かぶ。
ミオをナミさんの二の舞にしてはいけない。
怨嗟と後悔にまみれながら死んでいく仲間を見るのはもう嫌だ。
僕がシティーを目指し旅をしていた理由の一つは、ミオの時間を1分1秒でも伸ばすため。
今思えばそれは、自分のせいで死んでいったナミさんへの罪滅ぼしのつもりだったのだろう。
似たような境遇にいるミオを救うことが出来れば、ナミさんも許してくれるんじゃないだろうかと。
そんな都合のいい解釈を並べながら、僕はナミさんのために、いや、僕自身への慰めのためにミオの命に責任を感じていた。
そんな筋違いな責任からようやく解放されたのは、つい数日前のこと。
モニカから託されたゴンドウ救出作戦は見事成功したが、代償に僕たち6人と2匹はアグヌスの監房に捕らえられてしまった。
独房の中で無駄に消費されていく日々は、ミオの時間を少しずつ削ってゆく。
やがて、光の灯らない目をした“もう一人のノア”の舵取りによって、ミオは成人の儀を迎えた。
かつてはあんなにも羨望の眼差しで見つめていたあの儀式も、世界の理を知った今となってはひどく残虐な儀式にしか見えない。
黄金の粒子が舞い上がる中、ミオは散った。
だが、目の前で儚くおくり出されたミオは僕たちの知る“ミオ”ではなかったと知った時、形勢は逆転。
いつの間にか入れ替わっていた2人のミオは、エヌの、いや、かつてノアだった男の目を覚まさせるため、一計を案じたのだ。
僕たちがよく知るミオは、メビウスの身体を手に入れ帰ってきた、
永遠の命を約束されたその身体に、限界時間はもうない。
迫りくる“最期の時”に怯えなくていいと判明した時、僕は途方もない安堵感を覚えた。
良かった。ミオは死なない、もう後悔に嘆き、死の恐怖に喘ぐ必要はないのだ。
肩の荷が下りた思いだった。これで少しは気を楽にして旅をすることが出来る。そう思っていた、
だが、不安事や心配事というものは、一つ解決するとまた別の形となって生まれてくるものである。
ミオのことが気にならなくなった僕が次に意識を向けたのは、他ならぬユーニだった。
彼女のことは前々から気にかけていた。
ユーニは僕のパートナーだ。ノアと組んでいるミオとはわけが違う。
ミオへの責任感は、その姿をナミさんと重ねていたせいで抱いていたものだが、ユーニへの責任感はもっと単純明快なものだった。
ユーニを守れるのは、きっと僕しかいない。だってパートナーなのだから。
ノアとミオの心の繋がりを目の当たりにした今、一層ユーニへの責任感は色味を増した。
ミオを懸命に守り抜こうとしたノアのように、僕もユーニを守らなくてはならない。
それがパートナーとしての義務であり、責任だ。なのに——。
「頼りになるやつが、傍にいるからね」
微笑みながら囁かれたその言葉に、激しく動揺している自分がいた。
それは僕のことを言っているのか?
もしそうならそれでいい。僕を頼ってくれて一向に構わない。
けど、別の誰かのことを言っていたとしたら……。
例えば年少兵の頃から一緒にいたノアやランツは、ユーニにとって信頼できる相手と言えるだろう。
同性のミオやセナとも、旅を始めたばかりの頃に比べて随分親しくなっている。
女性たちだけで過ごす時間も多いだろうし、間違いなく信頼しているはずだ。
ノアやミオたちだけじゃない。旅の道中ではたくさんの出会いがあった。
この3か月間の間に築いた人の輪の中に、特別信頼できる相手を見つけたのかもしれない。
ユーニの言う“頼りになる奴”が、僕じゃなかったら。
頭に浮かんだ仮説は、僕の心を締め付ける。
彼女には僕を頼ってもらいたい。他の誰かを信頼して肩を借りているユーニを想像すると、なんだか悔しくなる。
君は僕のパートナーだろ。だったら僕を、僕だけを頼ればいい。
そんな傲慢で独りよがりな考えが生まれていることに気付き、僕はハッとした。
ユーニへ向けているこの感情は、きっと清廉潔白な正義感などではない。薄汚い承認欲求だ。
彼女に求められることで、自分は他人から必要とされるだけの人間なのだと思い込みたいだけなんだ。
何て浅はかな。
自分の心を慰めるためだけにユーニを独占しようと考えるなんて。
彼女は僕の思い通りに動く人形じゃない。ユーニにも頼る相手を選ぶ権利がある。
例え彼女に選ばれなくとも、文句を言う資格など僕にはない。
そうだ。ユーニが誰を頼ったって別にいいじゃないか。
彼女がそいつを頼ることで恐怖や絶望から身を守れるというのなら、それで……。
優秀なはずの頭で何度も言い聞かせてみる。
だが、何故だか心には靄がかかったまま、自分自身を納得させるには至らなかった。
こんなにも聞き分けが悪い性格だったのか、と今更ながら自分自身に呆れてしまう。
こんな僕の葛藤は、誰に相談するわけでもなくずっと胸の内に隠していた。
自分でもどうと言うこともない些事をいちいち考え込み過ぎている自覚はある。
きっと誰かに打ち明けても、納得する答えなど得られないだろうから。
そうこうしている内に、僕たちは長い間滞在した天空の監獄を後にした。
アグヌスの飛行型レウニスに乗せてもらう形で向かったのは、アエティア地方上層部。
真白な雪が降り積もる寒冷地帯である。
雪原に降り立って早々、ユーニは自らの両肩を抱きながら寒さに震えていた。
どうやら彼女は寒さに弱いらしい。高いところが苦手だったりアングや虫の類が嫌いだったり、弱点が多くて苦労していそうだ。
雪原の先に到着したコロニーオメガでは、懐かしい顔と再会した。
目の前で死んでいったハズのカムナビとハクトである。
ランツたちがムンバと呼んでいたあのケヴェス兵は、ハクトと一緒にディーに殺された男だ。
彼らだけでなく、ミオやセナと顔見知りで数年前に命を落としたはずのおくりびと、ミヤビまでもがそこにはいた。
ワイと呼ばれるメビウスによって制御された4人を無事解放することが出来たのは僥倖である。
コロニーオメガは実質的な管理者を失い、無人状態となった。
シティーのロストナンバーズに連絡を入れ、カムナビやミヤビたちの身柄は一時シティーにて預かることが決定した。
カムナビらを乗せ、シティーへ戻っていくアーモリーを見届けた僕たちは、無人となったコロニーオメガで一時休息をとることとなる。
オメガはコロニーとしての機能をほとんど有しておらず、実験施設として使われいたのは間違いないようだ。
正直居心地は非常に悪かったが、雪が降り積もる外で夜を過ごすよりはマシなはず。
いつも通りマナナ主導の元食事の準備を始めようとした僕たちだったが、マナナが突如この世の終わりのような絶叫を挙げた。
「食料がすっからかんですもー!」
覗いてみると、確かに食料を保管しておいた麻袋は見事に空になっている。
長い間アグヌスの独房に収監され、食事は監獄で提供される質素な食事を食べ続けていたせいで、手持ちの食糧が無くなっていた事実をすっかり忘れてしまっていたのだ。
とはいえ、このコロニーオメガには先述した通りコロニーとしての機能は何も備わっていない。
食堂もなければキッチンもない有様なのだ。
当然貯蔵してある食料も見つかりはしなかった。
こうなっては仕方ない。何も食べないわけにはいかないし、現地調達するしかないだろう。
そう判断した僕たちは、寒さを我慢しながら手分けをして外へ食料を探しに行くこととなった。
敵に襲われた時のために、一緒に行動するのはウロボロスのパートナー同士。
つまり僕はユーニと一緒にこの雪山を練り歩いている。
来た道を引き返し、何かめぼしい食料がないか探してはみるが、木々はこの寒さで全て丸裸になっており、地面に落ちているであろう木の実を探そうにも雪が邪魔して見つかる気配がない。
この銀世界での食料探しに、僕たちは苦戦を強いられた。
「さっむ!さっさと食糧探して戻ろうぜ」
「とは言っても、木の実や果実が見つかるとも思えない。ここは狩りをする他ないかもな」
「えぇ~!? こんな寒い中戦えっての!?」
「仕方ないだろ、何も見つからないんだから」
そんな口論を繰り広げていると、背中からびゅびゅうと吹き荒れる風にあおられた。
どうやら風が出てきたらしい。
雪を舞い上げながら吹きすさぶ風のせいで、身を切るような寒さが一気に襲ってくる。
たまらず肩をすくませると、同じように背中を丸めたユーニが僕の腕に抱き着いてきた。
「何してる?」
「さみーんだもん」
「僕の体温で暖を取るな」
「ただでさえ寒いんだからくだらねぇダジャレ言うんじゃねぇよ」
「いや違う。ダジャレのつもりで言ったんじゃ……」
僕が否定しきる前に、再び冷たく激しい風が背中から吹き荒れる。
なんだかどんどん風が強くなっているような気がする。
空からはパラパラと雪まで降り出してきた。
これはマズい。吹雪の予兆かもしれない。
早いところ食料を確保して戻ったほうが良さそうだ。
そう思って周囲を見渡してみる僕だったが、そんな僕の腕に抱き着いていたユーニが服の袖をぐいぐいと引っ張ってくる。
「なあアレ!あそこならなんかあるんじゃね?」
ユーニが指さした先に見えたのは、岩場にぱっくりと空いた洞窟だった。
目を輝かせながらその洞窟を指さすユーニは、僕の腕を強くひきながら洞窟へと近づこうとする。
「もしかしたらキノコとか生えてるかもしんねぇぞ!」
「流石に洞窟には生えていないと思うが……。まぁ調べる価値はあるか」
ユーニに強引に引っ張られる形で、僕たちは洞窟の中に足を踏み入れた。
中は薄暗くひんやりしているが、足元に燃え尽きた焚き木が散らばっている。
恐らく誰かがここで休息をとっていたのだろう。
この極寒の雪山で、吹雪をしのげる洞窟は貴重だ。
だがやはり、ユーニが期待していたようなキノコはどこにも生えていそうにない。
「ヒッ!」
薄暗い洞窟の中を見渡していた僕たちだったが、数歩分奥へ進んでいたユーニが小さく悲鳴を挙げた。
何か見つけたらしい。
急いで駆け寄ると、固まる彼女の肩越しに2体の骸が見えた。
装備品から見てアグヌスの兵だろう。骸と化してから随分時間が経っているらしい。人としての原型はなく、半分以上が砂のように風化してしまっている。
「骸か。アグヌスの兵だな」
「なんでこんなところに……?」
「認識票を見るにオメガの兵らしい。恐らくだが、脱走兵の成れの果てだろう」
「……そっか」
オメガで行われたワイの実験に限界を覚えたのだろう。
脱走したものの行く当てはなく、雪をしのぐためにこの洞窟を訪れたが足止めを食らって息絶えたのかもしれない。
儚い末路を辿ったこの名も知らぬ兵士たちに、同情を覚えてしまう。
後でノアやミオにおくってもらうとしよう。
そんなことを考えていると、突然どこからともなくゴゴゴッと腹の奥底から響くような轟音が聞こえてきた。
レウニスや鉄巨神の駆動音かとも思ったが、どうにも違うらしい。
「何だこの音……」
「外からっぽいな。アタシちょっと見て来る!」
外から聞こえて来る轟音の正体を確かめるため、ユーニは駆け出そうとする。
だが、どうにもおかしい。
確かに音は外からするが、どちらかというと真上から聞こえて来る。
何かが勢いよく迫って来るかのような音だ。まさか——。
「待てユーニ!外に出るな!」
「えっ? うわっ」
外へ飛び出そうとするユーニの腕を掴んで引き寄せると、彼女の身体は簡単に僕の腕の中に納まった。
それとほぼ同時に、遠くに聞こえていた轟音があっという間に近くまで迫り、外へと繋がっていた洞窟の入り口が上から降って来た分厚い雪に覆われ塞がってしまう。
この洞窟の真上は崖になっており、岩肌に大量の雪が降り積もっていた。
恐らく、強くなりつつあった風と降り始めた雪によって雪崩が起きてしまったのだろう。
落ちてきた雪は洞窟の入り口を完全に塞ぎ、僕たちを洞窟の中に閉じ込めてしまった。
「ちょ、何今の……!」
「雪崩だろうな。あのまま外に出ていたら巻き込まれていたかもしれない」
「だな。ありがとな、タイオン」
「あぁ。それより困ったな。お陰でこの洞窟に閉じ込められた」
「た、確かに……。どうするよ?このままじゃあの骸たちの二の舞だぜ?」
「落ち着け。こういう時のための“瞳”だろ」
頼る相手もおらず、孤独に死んでいったこの2体の骸と僕たちは違う。
瞳の通信を使えば仲間に助けを求めることが出来る。
周囲には瞳の通信電波を遮断する黒い霧も出ていない。きちんと繋がるはずだ。
左目の“瞳”を起動させノアを呼び出すと、彼はすぐに応答した。
『こちらノア。タイオン、どうした?』
「すまない。たった今雪崩によって洞窟に閉じ込められてしまってな。救助を頼めないだろうか」
『雪崩!? 大丈夫か?怪我は?』
ノアからの質問を聞きながら、僕はユーニの方へと視線を向ける。
地面に転がっている古い木片を前に腰を下ろしている彼女は、エーテル式ライターで火を着けようとしていた。
湿り気を含んだ木片に火を着けるのはなかなか難しかったようだが、何とか着火できたらしい。
“火ぃ着いたぞ!”と嬉しそうに笑いかけて来るユーニの様子から見て、怪我はないらしい。
「僕もユーニも怪我はない。大丈夫だ」
『そうか、よかった。助けに行きたいのは山々なんだけど、この吹雪じゃな……』
「吹雪?外、吹雪いてるのか?」
『あぁ。視界不良で1メテリ先すら見えない状況だ。流石にこれ以上の探索は無理そうだから、俺たちもすぐオメガに戻ったんだ。ランツたちもさっき帰って来た』
分厚い雪に覆われているせいで外の様子が全く分からないが、ノア曰く外は酷い吹雪だそうだ。
吹雪いている中僕たちの救助のために外へ出れば、ノア達が二次災害に巻き込まれる可能性がある。
幸いユーニが焚き木に火を着けてくれたし、少しくらいならこの洞窟で過ごしていられるだろう。
ここは仕方がない。
「吹雪なら外に出る方が危ないな。分かった。暫くここで吹雪が止むのを待つとしよう」
『すまない。外に出れそうになったらすぐに助けに行く。それまで耐えてくれ』
「あぁ。そっちも気を着けろ。それじゃあ」
結局助けを得ることはなかったが、ノア宛に現在位置の座標を送っておいた。
いざとなったらすぐに来てくれるだろう。
通信を切って焚火のそばに腰掛けると、先に腰を下ろして暖を取っていたユーニが顔を上げた。
「ノア、なんだって?」
「外の吹雪がひどくて救助は暫く無理だそうだ。夜が明ければ吹雪も止むだろうし、それまではここにいるしかない」
「そっか。じゃあ明日までここで2人っきりってわけか」
「……まぁ、そうだな」
そこまで気にするようなことではない。
それは分かっていたが、いざ“2人きり”と強調されると少し気恥ずかしい。
今まで意識していなかったハズなのに、入り口を塞がれたこの洞窟でユーニと2人きりという事実が、また僕の心をむず痒くさせる。
何となく顔を逸らしていると、火を挟んで向かい合いように腰掛けていたはずのユーニがすぐ隣に移動してきた。
密着するように寄り添い、僕の腕に自分の腕をきつく絡めて来る。
急に接近してきた彼女の気配に、僕は思わず息を詰めた。
「急にどうした?」
「寒いんだって。くっついてれば暖かくなるだろ?」
「……仕方ないな」
彼女は相変わらず寒がりなようで、僕の腕に身体を密着さながら身体を縮こませていた。
人の体温で温もりを取ろうとしていることは気に食わないが、風邪ひかれても困る。
仕方なく密着することを許した僕だったが、なんだか落ち着かなかった。
ユーニに密着されている右半身がぽかぽかと熱を帯びている。
別に、他の誰かにこうして寄り添われること自体はそう珍しい状況ではなかった。
僕が所属していたコロニーガンマはこの雪原広がるアエティア地方上層のすぐ真下にある。
比較的寒い地形だったし、訓練中に寒さをしのぐため他の兵たちと身を寄せ合いながら休息を取ったことは何度もある。
教本にも、寒冷地域での戦闘時、野営をする際は必ず身を寄せ合い人肌で暖を取ることと記載されていた。
寒さに耐えるためこうして密着することは言わばセオリー通りの行動であり、そう意識するほどのことでもないはず。
なのに、心臓が高鳴って仕方ない。
相手がユーニだからか?パートナーである彼女が相手だから?
ユーニと密室で2人きり、そして密着されているこの状況に、どこか緊張を覚えている自分がいる。
不思議だ。今更緊張する理由なんてどこにもないはずなのに。
ユーニを守らねばという責任感が、自然と身を固くさせているのだろうか。
僕がそんなに力んでどうする。
肝心の僕がこの状況に緊張していたら、ユーニが不安がるかもしれない。
ここは落ち着かなくては。何か気が紛れるような話をしてやろう。
明るい気分になれるような話題はないだろうか。
そんなことを考えていると、肩にポスンと重みが襲ってきた。
恐らく隣に腰掛けているユーニが僕の肩に寄りかかってきたのだろう。
また人の肩を借りるつもりか。それは肩が凝るからやめてほしいと言ったのに。
少しムッとしながら隣のユーニに目を向けた僕は、そこにいた彼女の様子に思わずフリーズしてしまった。
いつもは色白な彼女の顔は紅潮し、唇の血色は薄れ、眉間にしわを寄せながら瞼を閉じている。
明らかに発熱している人間の表情だった。
「ゆ、ユーニ!? どうした、大丈夫か!?」
「ん……。なんか、さみぃ……」
頬に手を添えてみると、彼女の顔は信じられないくらい熱くなっていた。
酷い熱だ。おそらくは寒さによるものだろう。
息は荒く、手足は小刻みに震えている。
身体の芯が冷え切って、体温を調節するために高熱に見舞われているのだ。
元々寒さに弱いことは知っていたが、ここまでとは。
「しっかりしろユーニっ」
とにかく身体を温めてやらなくては。
僕は急いで首に巻いていたマフラーを解くと、彼女の首になるべく隙間が出来ないように巻き付けた。
更に羽織っていた戦術士の白い上着も脱いで彼女の肩にかけようとする。
するとユーニは僕のそんな行動を見て、力の入らない手で上着を押し返してきた。
「いいって。それじゃタイオンが寒いだろ?」
「僕は君ほど寒がりじゃない。気にするな」
「けど——」
「いいから着てくれ!ほら……」
ようやく観念したらしく、ユーニは僕の上着を受け入れた。
これで少しは寒さも和らぐだろうが、まだユーニの手先は震えている。
心配になってその手を両手で握ってみると、顔に宿る熱とは裏腹に氷のように冷たかった。
このままではまずい。マフラーや上着だけでは効果が薄かったらしい。
もっとちゃんと温めないと。
とはいえ、湿り気を帯びた焚き木を燃やしている炎はこれ以上大きくなりそうもないし、貸してやれそうな服ももうない。
となれば、僕に出来ることはもう限られていた。
「ユーニ、まだ寒いか?」
「ん、ちょっと……」
「そうか。じゃあ、えっと、い、嫌だったら言ってくれ」
「え……?」
熱で赤い顔したユーニが、とろけた目で不思議そうに見つめて来る。
そんな彼女の小さく震えている肩を引き寄せ、広げた腕の中に仕舞い込む。
華奢な彼女の身体は簡単に僕の胸に収納され、彼女は大人しく僕の胸板に頬を寄せていた。
抱きしめられているこの状況に、ユーニは意外なほど反応が薄かった。
もっとこう、焦ったり戸惑ったりするかと思ったのに、すんなり僕の腕の中に納まっている。
そんな状況が逆に恥ずかしくなって、僕は誰に指摘されたわけでもないのに早口で言い訳をまくしたてていた。
「アグヌスの教本には寒冷地域で遭難した際は人の体温で暖を取るのが一番だと書かれていたんだっ。ケヴェスの教本にもそう書かれていたはず!それに君だって“くっついていたほうが暖かい”と言っていただろ?だから——」
「うん」
「だ、だから、こうやって、温め合おうと思って……」
「……」
「……嫌なら、やめるから」
熱で意識が朦朧としているのか、それとも何か別の理由があるのか知らないが、ユーニはいつもより口数が少なかった。
だからこそ不安になってしまう。
距離の縮め方を間違ったんじゃないか、と。
だが、そんな僕の不安を押しやるように、背中にそっとユーニの腕が回る。
抱きしめ返されているのだと頭で理解した瞬間、僕の体温が一気に上昇したような気がした。
「“タイオン”って名前、伊達じゃねぇな」
「え……?」
「あったけぇわ。身体も、心も」
弱々しい声色で囁かれたその言葉によって、僕の心臓は一層高鳴ることになる。
ユーニは相変わらず大人しく僕の胸板に頬を寄せていが、彼女らしからぬそのしおらしさが僕を動揺させた。
あぁまずい。今、ものすごく心臓がうるさく高鳴っている。
この音、ユーニに聞かれてしまっているかもしれない。
だが、彼女の身体を抱きしめている腕の力を緩める気にはなれなかった。
むしろもっと強く、もっときつく抱きしめたくなった。
出来るだけユーニとの身体に隙間が生まれないよう、まるでひとつになったかのように密着していたい。
心臓はバクバクと高鳴り悲鳴を挙げている。一方で腕はユーニを離すまいと力が込められている。
この二律背反に戸惑う僕に、再びユーニは囁いた。
「一緒にいるのが、タイオンでよかった」
「そうか?」
「ん。こうしてると、落ち着く」
「ユーニ……」
「落ち着いて、なんか、すげぇ、眠く……」
「えっ!?」
ふわふわと上擦るユーニの消え入りそうな声に、僕は驚いてその顔を覗き込んだ。
瞼を閉じている彼女は、震えこそ止まったものの今にも眠ってしまいそうだった。
極寒の中で襲ってくる眠気は最大の敵。
ここで眠らせるわけにはいかない。
眠りに落ちそうになっているユーニの頬に手を添えると、ふにふにしたその皮膚を思い切り引っ張った。
「いででででっ」
「こら、寝るなユーニ。死ぬぞ」
「んだよやめろよ……。ねむい」
「だから寝るな!意地でも起きろ!」
「いだだだだっ」
頬を引っ張るたび、ユーニは面白いくらい痛がっている。
目尻に涙を溜めながら“痛い痛い”と嘆いているが、やはりなかなか眠気は覚めないらしい。
彼女が本気で痛がらない程度に頬をつねったり、脇腹のあたりをくすぐったりしながら彼女が眠らないようちょっかいを出し続けた。
そうしているうちに、分厚い雪で覆われた入り口の向こうではいつの間にか朝日が昇り始める。
一行の足を止めていた吹雪も止み、朝日の到来とともにノア達が僕たちの救出にやって来た。
外からウロボロスの力で雪を吹き飛ばしてくれたおかげで、一晩閉じ込められていたこの洞窟からようやく出ることが出来た。
“大丈夫だった?”と心配そうに問いかけて来るミオに対し、ユーニが少し赤くなった右頬をさすりながら“タイオンに痛めつけられた”と言い放った時は流石に焦ってしまった。
君を寝かせないための行動だったというのに、人聞きが悪い。
少しムッとしていた僕に、ユーニは仲間たちの目を盗んで耳打ちしてきた。
“ありがと、おかげで助かった”と。
その一言であっさり許してしまう僕は、実に単純な男なのかもしれない。
だって君がしたいと言うから
ケヴェスやアグヌスのコロニーを象徴する鉄巨神は、人間の何百倍もの大きさを誇っている。
そんな鉄巨神同士がぶつかり合う二国間の戦は傍目にも迫力があった。
二国間の鉄巨神は遠くからでもハッキリ目視できるほどの大きさがあり、これ以上大きな造形物などキャッスル以外ないと思っていた。
だが、シティーを覆い隠している鉄巨神はケヴェス、アグヌスのそれよりも格段に大きい。
下手をすればキャッスルよりも大きさでは上回っているかもしれない。
それもそのはずだ。シティーにはコロニーの何倍、いや何十倍もの人間が居を構えている。
万を越える人数を抱え込むには、キャッスル以上の巨体を誇る鉄巨神でなければ対応できないのだろう。
他のコロニーと違い、鉄巨神の中で生活環境を広げているシティーでは、時間の感覚が掴みにくい。
常に屋内で過ごすことになるため、朝日や夕日、月光を浴びることはない。
そのため、シティー内では他の場所にいるときに比べて“瞳”の時刻を確認する頻度が必然的に高くなっていた。
だが、長年の癖というものはなかなか抜けることがなく、僕は“瞳”よりも手元の懐中時計で時間を確認することの方が多かった。
この懐中時計の元の持ち主は、“瞳の時刻表示よりよっぽど正確だ”と口にしていた。
まさにその通りで、黒い霧の影響を受けることなく時間を刻み続けるこの懐中時計に、僕は全幅の信頼を寄せている。
手元で刻まれている時刻は午後22時。
ミチバ食堂で食事を終えた一同は、各々思い思いの時間をすごしたのち、いつも寝床にしているロストナンバーズの寄宿舎に戻っていた。
僕が寄宿舎に帰還したのはつい10分ほど前のこと。
ハーブティー用の茶葉を買い求めて何軒か店をはしごしていたため、少々帰りが遅くなってしまった。
どうせ戻ってきたのは僕が一番最後なのだろうと思っていたが、未だ帰ってこないメンバーがいた。ユーニである。
彼女は奔放な性格だ。一人でふらっと出かけていつの間にか戻っているなんてこともよくある。
ランツのように時間にルーズな人間ではないし、明日の出発までにはきっと戻って来るだろう。
そう思いながらも、僕は頭のどこかで心配していた。
他の面々が眠気を訴えそれぞれの寝所に引っ込んだ後も、なんとなく眠る気になれずずっと談話室で本を読んでいた。
この寄宿舎に戻ってそれぞれの寝所に戻るには、必ずこの談話室の前を通る必要がある。
だが、暫く待ってもユーニがここを通る気配はなかった。
眠くなるどころかどんどん眼が冴えて来る。
本を読んでいても落ち着かない。
こうなっては仕方ない。探しに行こう。
どうやら今の僕はユーニの姿を見つけるまで落ち着いて休む気にはなれないらしい。
自分の心を納得させるためにも、ユーニを見つけて寄宿舎に引っ張り込まなければ。
ユーニの為というよりも、自分のために僕は彼女の捜索を開始した。
捜索といっても、彼女の姿は寄宿舎を出てものの5分程度ですぐに見つけることが出来た。
ロストナンバーズの寄宿舎のすぐ目の前。僕たちが休息所として使っているちょっとした広場に、彼女の姿はあった。
憩いの広場を見下ろせる高台から手すりに手をかけ、突っ伏するような体勢でどこか遠くを見ている。
その妙に寂し気な背中を見た瞬間、僕は後悔した。
あぁ、もっと早く探しに行けばよかった、と。
先日、僕たちはアエティア地方上層部にある天空の砦へ赴き、アグヌスの女王を開放することに成功した。
その場で僕たちを妨害するように現れたのは、ユーニにとって因縁の相手であるメビウス、ディーと、ユーニたちの友人でもあったメビウス、ジェイ。
死闘を繰り広げた末、ディーはジェイに巻き込まれる形で身を滅ぼしていった。
友人だった人間と、因縁を持っていた相手がいっぺんに目の前で死んだのだ。
心穏やかでいられるわけがない。
もっと近くで彼女の様子を見守っておくべきだった。
パートナーである僕には、彼女の心に寄り添う義務があるのだから。
「ユーニ」
背後から声をかけると、彼女はちらっと一瞬こちらに視線を寄越した後、すぐに前へと向き直った。
隣に寄り添い、同じように手すりを掴んで公園を見下ろすと、そこには誰の姿もない。
誰かや何かを観察していたわけではなく、ただ単に黄昏ていただけだったらしい。
さて、どんな言葉をかけてやるべきだろう。
出来るだけ優しい言葉を探していた僕に、ユーニの方から声がかかる。
「なに?」
「“なに?”じゃないだろ。こんな時間まで帰って来なかったら心配するのは当たり前だ」
「ふぅん。心配してくれてたんだ。らしくねぇな」
「ユーニ」
「冗談だよ。ありがとな心配してくれて。大丈夫だから」
「……そうは見えないが?」
「大丈夫だよアタシは。そんなに弱くない。大丈夫」
一定のトーンで“大丈夫”と呟き続ける彼女は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
本当に大丈夫な人間は、そんな風に自分を奮い立たせようとはしない。
大丈夫じゃないからこそ、こうして一人になりたがるのだろう。
確かにユーニは弱くはない。だが、強いとも言い切れない。
強くあろうと自分を律するあまり、追い込まれている光景を今まで何度も見てきた。
彼女が“大丈夫”と口にする時ほど、気にかけてやるべきなのだ。
横にいるユーニへと視線を向けると、彼女の横顔はやはり“大丈夫”なようには見えなかった。
だが残念ながら、僕は彼女の曇った心を晴らす気の利いた言葉を知らない。
こういう時、器用さに欠けた自分の性格が恨めしく思える。
言葉が見つからない以上、何かしらの行動で励ますほかない。
だが、僕に何が出来る?
自問自答した結果、先日彼女が“落ち着く”と口にしてくれた時のことを思い出した。
あの時と同じことをすれば、少しくらいは慰められるのだろうか。
躊躇いながらも、僕はぐっと息を詰めた。
遠くを見つめる彼女の背後に回り、背中から腕を回して包み込む。
雪山の洞窟で寒さをしのぐためこうして抱きしめた時、彼女は穏やかに笑っていた。
今回も同じ結果になることを期待してユーニの身体を腕の中に閉じ込めてみる。
すると彼女は、一瞬だけ肩をビクつかせて目を白黒させていた。
「なに、急に」
「前言ってただろ。人肌の温もりを感じていると落ち着くと。だから……」
「慰めてくれてるの?」
「気の利いた事は言えないタチなんだ。だからこうするしかない。妥協案だ」
「妥協案、か」
言葉で慰められるなら苦労はしない。
だが僕は、ノアのように素直で優しい人間ではない。
彼がいつもミオにしているような、言葉で支えるような真似は出来そうもない。
以前彼女が喜んでくれたことを、なぞるように再現するしかいい方法が思いつかなかった。
僕がこうして彼女に寄り添うことで、その心に巣食う雲が少しでも薄くなれば。
そう思いながら温もりを渡すように抱きしめる。
すると彼女は、背中から前に回っている僕の手に自分の手を重ねてきた。
「下手な慰めの言葉もらうより、こっちのほうがいい」
「そうか?」
「うん。だから、もっとぎゅーってして?」
嫌がられるかと思った。
“アタシは慰めてもらうほど弱くねぇよ”とか言って、軽く笑いながら振りほどかれるものかとばかり。
だが、ユーニは拒絶するどころかもっと強く抱きしめるよう求めて来る。
求められていることが、頼られていることが嬉しくて、心が跳ね上がる。
僕が彼女の身体を強く抱きしめ直すよりも前に、胸が苦しくなるほど締め付けられるような感覚に襲われた。
苦しいのに、心地いい。こんな感覚、初めてだった。
ユーニの身体を抱きしめる腕に力を籠めると、胸の締め付けも一層強くなる。
もっともっと近付きたくなる。離れがたくなる。
何だろう、この気持ちは。
「あっ」
暫くユーニの身体を抱きしめていると、背後から声が聞こえてきた。
何かと思い振り返ると、そこには呆然とこちらを見つめているゴンドウの姿があった。
彼女は暫くアグヌスキャッスルに駐屯すると聞いていたが、どうやらシティーに帰ってきていたらしい。
久しぶりに見たゴンドウの姿に驚き、僕はユーニの身体をそっと放し体ごと振り返った。
「ゴンドウ。シティーに帰っていたんだな」
「えっ、あぁ、まぁ……。てかお前ら、そういう間柄だったんだな」
「“そういう間柄”?」
「ノアやミオといい、ゆりかごから生まれたお前たちでもそういう感じなるもんなんだな。命の火時計から解放されたせいか?」
“そういう間柄”
“そういう感じ”
ゴンドウの口から言い放たれる言葉は全てが曖昧で、その意味がよく理解できなかった。
こうしてシティーの人間の言葉が理解できないことはよくある。
僕たちの知らない価値観で生きてきた彼らだからこその事象だろう。
意味が分からず首を傾げながらユーニと顔を見合わせていると、ゴンドウはこちらに背を向け歩き出した。
「まぁいいや。人目もあるしほどほどにしとけよ?」
そう言って後ろ手に手を振りながら、彼女は去って行った。
大方、モニカのところにでも行くつもりなのだろう。
去っていくゴンドウの背を見つめながら、僕たちはその場に立ち尽くしていた。
「どういう意味だ?」
「知らね」
ゴンドウの言っていた言葉はほとんど理解できなかったが、軽く注意されたような気がする。
とりあえず今度言っていた意味をゴンドウ本人に聞いてみることにしよう。
そんなことを考えながら、僕は前を向き直ったユーニの隣に再び寄り添った。
そんな僕の顔を、ユーニは何故か不思議そうに覗き込んでくる。
「なんだ?」
「もう終わり?」
「気は済んだだろ」
「えー。ケチ」
「誰が……っ。全く仕方ないな」
不満げなユーニに応えるように、僕は渋々彼女の背後に回り再びその体を包み込む。
するとユーニは嬉しそうに微笑みながら顔だけ振り返って来た。
顔が近い。彼女の青く綺麗な瞳に映り込んでいる僕の顔が目視できるほど、2人の距離は接近していた。
「なんだかんだ優しいよなタイオンは。アタシが満足するまでそのままでいろよ?」
「随分都合よく人を使うものだな」
「パートナーだもんな?アタシの元気が無かったら気に掛けるのがタイオンの義務だもんな?だったら元気もりもりになるまでそうやって慰め続けろよ」
「既に元気になったように見えるが?」
「なってないなってない。だから大人しくぎゅーってしとけ」
「はいはい」
ため息交じりに抱きしめる腕に力を籠めると、ユーニは僕の腕に頬を摺り寄せてきた。
そんなに嬉しいのか、僕に抱きしめられているのが。
いや、“僕に抱きしめられている”のが嬉しいというよりは、他人に温もりを分け与えられているこの状況が嬉しいのだろう。
彼女は人肌の温もりに包まれていると落ち着くと言っていた。
多分、僕じゃなくても同じ状況下になれば喜ぶはず。
なんて単純なんだ。こんなことで元気を取り戻すなんて。
別に誰がやっても元気になれるなら、僕じゃなくてもいいんじゃないだろうか。
そんな考えが頭によぎって、すぐに搔き消した。
駄目だ。ユーニのパートナーはこの僕なのだ。責任と義務は僕にある。
他の誰かがやっても結果は同じなのかもしれないが、だとしてもこの役割は僕が、僕だけが担うべきだ。
仕方ない。だって彼女がそれを望んでる。
ユーニが僕の温もりを望む以上、答えてやらなくては。それが僕の義務であり役割であり、責任なのだから。
高鳴る心臓の違和感に目を瞑りながら、僕はユーニを抱きしめ続けるのだった。
***
コロニーイオタは荒野の端に鉄巨神を構えている立地上、鉄巨神自体も所有しているレウニスも何もかも砂埃でまみれていた。
そのせいか、駆動輪やエンジンに不具合が生じることも多々ある。
僕たち一行がイオタに立ち寄った日の夜も、モンスター討伐に出払ったレウニスが砂ぼこりのせいで関節部分がショートし、ボロボロの状態で帰って来ていた。
イオタは軍務長ニイナの辣腕によって瞬く間に白銀ランク上がった非常に優秀なコロニーではあるが、そんなコロニーでも不得意な分野はある。
ニイナの聡明な頭脳によって作戦立案による謀略の観点は非常に優れているものの、残念ながらレウニスの運用に関しては二流の評価を与えざるを得なかった。
砂塵吹きすさぶ荒野に鉄巨神を構えているという環境的要因も大きいが、秀でているメカニックが所属していないという人材面の問題もある。
これに関しては、ニイナ一人ではどうしようもない問題だった。
命の火時計から解放され、キャッスルの統治下から外れた今、他のコロニーに所属している優秀なメカニックを引っ張り込んでくることも出来ない。
かといって、自陣の人材ではこれ以上優秀なレウニスの開発は見込めない。
こうなれば取れる手段は限られていた。
「嫌よ」
「ワガママを言うな」
「嫌ったら嫌なのよ」
イオタの野外食堂の一席で、足と腕を組んだニイナは膨れ面を晒していた。
そんな彼女に向き合っていた僕とノアは、思わず顔を見合わせる。
この聡明で有能な軍務長ニイナは、どうも意地っ張りなきらいがある。
まだ6期だと初めて聞いたときはその見た目にそぐわぬ実年齢に驚かされたが、こういう一面に触れるたび“口にしていた年齢は嘘ではなかったか”と思い知らされる。
シティーの言葉を借りるなら、ニイナは時折“子供っぽい”一面が垣間見えるのだ。
その一面が顔を出すのは、コロニー30が関わっている時と相場は決まっていた。
今回もまた、コロニー30が関わる提案をした瞬間彼女は詳細も聞かずに拒否したわけである。
「レウニスの開発がうまくいかずに困っているのだろう?だったらコロニー30に相談するのが一番だ。あそこには優秀なメカニックやノポンが多く所属している」
「ここから距離も近いしな。きっと力になってくれるさ」
「絶対に嫌。コロニー30だけは嫌」
“嫌”の一言を繰り返す目の前の軍務長殿に思わず舌打ちしたくなった。
このイオタに到着した僕たちは、いちばんにニイナの顔を見に天幕へと向かった。
彼女とは顔見知りであり、ウロボロスに協力している数少ない味方でもある。
ニイナに挨拶をするため、代表して天下幕を訪れたのは僕とノアの2人。
揃って声をかけた瞬間、彼女の妙に憂いを帯びた表情を見て一瞬で分かってしまった。何か困りごとがあるのだろう、と。
プライドが高い彼女は、自らの部下に弱みを晒すような真似はしない。
その心情を察し、場所を変えてこの野外食堂で話を聞くことにした僕とノアに、ニイナは躊躇いながら相談を持ち掛ける。
砂ぼこりと人材不足のせいでレウニス開発が進まない。ケヴェスだけでなく火時計から解放されていないアグヌスのコロニーとも敵対した今、レウニスなしでは流石に厳しい。何とかならないだろうか。
深刻な表情でそう打ち明けてきたニイナに、僕たちは迷わずルディの名前を出した。
彼はケヴェスが有する優秀なメカニックであり、その腕は確かだ。
彼とニイナは既に顔見知りであり、恐らくルディもコロニーイオタの為なら協力してくれるだろう。
そう考えて提案したのだが、肝心のニイナには受け入れがたい内容だったらしい。
頑なに拒否を決め込んでいる。
「いいかニイナ。君の憂い通りイオタは白銀ランクとはいえレウニス製造技術においては遅れを取っている。敵対する勢力とかち合った時、レウニス無しでは明らかに苦戦するだろう。優秀なメカニックを駐屯させて修理と開発に重点を置く必要がある。コロニー30はケヴェスの中でもレウニス製造技術において群を抜いている。軍務長のルディも協力的だし声をかければ惜しみなく手を貸してくれるだろう。ここで拒否する理由は……」
「理由ならあるわ。あそこのいけ好かないコロニーとお人よしの軍務長に借りを作るのが気に入らない。これだけで十分な理由になるでしょ?」
「どこがだ!全部君の感情論じゃないか!」
「他にも協力してくれるコロニーはあるじゃない。コロニーラムダとかコロニー4とか!そこの橋渡しになってくれればあとは私が交渉するから」
「ラムダはここからかなり距離があるしメカニックを派遣するのはかなり難しい。コロニー4も軍務長不在で別のコロニーに人を割けるほどの余裕はないんだ。コロニー30を頼るのが一番手っ取り早くて効率的だ!」
「だったら貴方たちが連れてるノポンを貸して頂戴よ。あの子メカニックでしょ?彼の知恵を拝借することにするわ」
「期間は?」
「ざっと半年ってところかしら」
「あのな……」
リクは僕たちの旅に欠かせない人材だ。
彼がいなければノア達ケヴェス勢のパワーアシストの調整やジェムクラフトは誰がやる?
暫くイオタに滞在するにしても半年間は流石に長すぎる。
ニイナの提案に乗るわけにはいかなかった。
こちらがどれだけ理論的にコロニー30と協力することの理を解いても、彼女は感情論での反論を繰り返す。
かつてコロニー30に惜敗した事実が相当悔しくて忘れられないのだろう。
いつも冷静な彼女が感情論に支配されている様は困ったものである。
このままでは埒が明かない。さてどうしたものか。
頭を抱える僕だったが、隣に座っていたノアが見かねて口を開いた。
「ニイナの気持ち、わかるよ。一度戦った相手だし、思うところがあるのは当然だ。けど、ニイナはコロニーの現状より過去の感情を優先するような人じゃないだろ?コロニーの皆の為にも、ここは協力を求めてみるべきだと思うんだ。借りを作るんじゃなく、“助け合い”ってやつだ。きっとルディも分かってくれる」
「……」
「どうかな?ニイナ」
囁きかけるように諭すノアの言葉は、理を解く現実的な提案ではなく感情に寄り添った理論だった。
無駄だ。あんなに正論をぶつけても検討すらしなかったニイナが、そんな柔らかい言葉で納得するわけがない。
どうせまた“嫌よ無理よ反対よ”の繰り返しに違いない。
だが、そんな僕の予想とは裏腹に、先ほどまで膨れ面を晒していたニイナは組んでいた足と腕を解き、随分としおらしい表情で視線を逸らし始めた。
「……まぁ、ノアがそう言うなら」
「はぁ?」
なんだそれは。なんだそのしおらしさは。
僕があんなにも懸命に言い聞かせた理論は全て聞く耳を持たず突っぱねた癖に、ノアの言葉はあっけなく、そして実に素直に受け入れたニイナに不満が止まらない。
可笑しいだろ流石に。今そんなに納得するようなこと言っていたか?
絶句している僕を尻目に、隣に腰掛けていたノアは満足そうに微笑み席を立った。
「よし。じゃあ早速ルディに連絡を取って来る。詳しい話はまたあとで」
「えぇ。その、ありがとう、ノア」
「いいって。ニイナこそ考え直してくれてありがとう。それじゃあ」
瞳の機能を開きつつ、ノアは背を向けて去って行った。
その背を見送りながら、ニイナはサイドの後れ毛を指先でくるくると弄りながら視線を外している。
妙に恥ずかしそうにしているその表情を横目に見ながら、僕は呆れを禁じ得なかった。
露骨だ。その聡明さで広く名が知られているニイナがこんなにもチョロくていいのだろうか。
呆れた目でじっと見つめていると、僕の視線に気が付いたのかニイナはムッとした表情を向けてきた。
「な、なによその顔。何か言いたげね」
「あぁ。色々言いたいことはあるが、とりあえずいい。君がやけにノアに甘くて特別視していることはよーくわかった」
「べ、別にそんなんじゃないわよ。変な言い方やめてもらえるかしら。ノアの言うことに納得したから承諾しただけで」
あんな感情論のどこに納得する要素がある?
明らかに彼女がノアを特別視している証拠だ。
じゃなきゃあの頭の固いニイナがただの感情論に流されるわけがない。
呆れる僕だったが、ニイナはこの事実を頑なに認めようとはしない。
それどころか、反抗的な態度で僕に反撃をしてきた。
「なによ。貴方だってユーニには甘いし特別視してるじゃない」
「何故ここで僕の話になる?君じゃあるまいし特定の人間を特別扱いなんてしない。僕は平等主義だからな」
「どこがよ。知ってるわよ?ユーニの我儘だったらなんでも聞いてあげてるくせに」
「人聞きが悪いぞ。出来るだけ寄り添ってやっているだけであって、何でもかんでも聞き入れてやっているわけじゃ……」
「あ、いた。タイオン!」
不意に、背後から名前を呼ばれた。
その声には聞き覚えがある。ユーニだ。
振り返ると、そこにはやはり彼女の姿があった。
駆け寄って来たユーニは、正面にニイナが腰掛けていることに気が付くと急ブレーキをかけて立ち止まる。
恐らく僕に何か用があったのだろう。
「あっ、話し中悪い。邪魔した?」
「いや。気にすることない。どうした?何かあったか?」
「あ、うん。さっきコロニー9の連中から連絡があってさ。パワーアシストの補強に必要な素材が見つからないって困ってたんだ。確かタイオンが持ってなかったかなって思って」
「なんて素材だ?」
「ラビットダイオード」
ラビットダイオードはそう珍しい素材ではないが、確かにコロニー9付近ではなかなか見られない代物である。
確かにコレペディアにコロニー9の人間から譲渡依頼が来ていたが、残念ながら僕の懐に当該の素材はない。
協力したいのは山々だが、持っていないものは仕方がない。
素直に“持っていない”と口にすると、彼女はがっかりしたように肩を落とした。
「そっかぁ。なら仕方ねぇか……」
ユーニ恐らく、僕に期待していたのだろう。
僕ならば依頼に応えられるはずだと。
その期待に応えられなかったおかげで、ユーニは残念そうに肩を落としている。
がっかりしているユーニの様子を見ていると、どうにも落ち着かない。
せっかく頼ってくれたのに期待に応えられないなんて、僕のプライドが許さなかった。
ラビットダイオードはこの辺りの荒野なら探せばすぐに見つかるだろう。
今持っていなくとも、旅をしている間にすぐ見つかるかもしれない。
残念そうに去って行こうとするユーニを、僕は咄嗟に引き留めた。
「ちょっと待った!ラビットダイオードならすぐに見つかるはずだ。今度探しに行ってみる」
「えっ、ホントに?」
「あぁ。見つかったらすぐに君に渡すから」
「マジか!流石タイオン。頼りになるな」
「それくらい当然だ。なるべく早く見つけるから、それまで待っててくれ」
「分かった。アタシも一緒に探すから、行くときは声かけろよ?じゃあニイナ、邪魔して悪かったな」
「いいのよ、気にしないで」
ニイナに一言謝罪をすると、ユーニはにこやかに去っていく。
まったく、こんなことで“頼りになるな”なんて、大袈裟だ。
まぁいい。すぐに見つけて依頼を解決してやろう。そうすればきっとユーニも喜ぶだろうから。
去っていくユーニの背中を微笑ましく見つめていると、すぐ横からジトッとした視線を感じてしまう。
反応して視線の先へと目を向けると、そこには何故か呆れたような目をしているニイナの姿があった。
「な、何だその顔」
「別に?ただ、やっぱり特別扱いしてるなと思って」
「してない」
「してるじゃない。しかもわざわざ探しに行ってまで力になろうとするなんて」
別に苦とは思っていなかった。
僕が骨を折ることでユーニが助かるなら、別にそれでいい。
だが、ニイナの目にはそんな僕の様子が珍しく映ったのだろう。
面白がるかのように口元に笑みを浮かべながら、彼女はテーブルに頬杖を突き言い放つ。
「今の貴方、面白い顔してるわよ?」
「面白い顔?」
「いい意味で言うと“優しい顔”。悪い意味で言うと“腑抜けた顔”」
「なっ……。失礼な」
あまりにも失礼すぎる言葉に、僕はむっとニイナを睨みつけた。
だが、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべたまま全く怯むことはない。
何が腑抜けた顔だ。ノアに対する君じゃあるまいしそんな顔をしているわけがないだろ。
心の中で文句を繰り返しながら、僕は手元に置いてあったお茶のカップの煽るのだった。
***
ユーニに頼まれた素材を探すため、2人揃ってイオタを出たのは翌日のこと。
どうせ半日程度で戻って来れると踏んでいた僕たちは、ノア達をコロニーイオタに残し2人きりで荒野へと繰り出した。
だが、予想に反しラビットダイオードはなかなか見つけられず、気が付けば夕方になっていた。
一番星が空に浮かび始めた頃、ようやくすべての素材を見つけ出すことが出来たのだが、時間を鑑みるに今日中にイオタに戻るのは困難である。
仕方なく、僕たちは荒野の岩場に野営を敷いて夜を過ごし、明日イオタに戻ることとなった。
焚火の用意をしながらユーニを盗み見る。
彼女は手に入れた素材を早速コレペディアに登録し、依頼してきたコロニー9の知己に報告している最中のようだった。
そういえば、彼女とこうして2人きりで夜を過ごすのは初めてだ。
旅を始めて3か月以上になるが、なんだかんだ6人と2匹はいつも一緒に行動しているため、パートナーといえど2人きりで過ごすことは滅多にない。
今夜は僕以外の仲間はいない。何かあったとき、僕が彼女を守ってやらなくては。
守ってもらうなど彼女のガラではないのだろうが、パートナーとしてそんな責任感が僕の胸に生まれつつあった。
太陽が地平線の向こう側に完全に隠れたと同時に、荒野に夜が訪れる。
この辺り一帯は比較的暖かいため、日の光がなくとも過ごしやすい気候を保っていた。
食事はイオタを出る前にマナナから手渡されていた携行食糧で済ませた。
飲み水もまだ十分に残っている。
シュラフを広げ、あとは寝るだけの状態だったが、どうも眠気は襲ってこなかった。
それはユーニも同じらしく、シュラフの上に腰掛け膝を抱えたまま空を見上げている。
「寝ないのか?」
「あんま眠くない」
「……そうか」
彼女はずっと悪夢に悩まされてきた。
その悪夢の元凶となっていたディーは既にこの世にはいないが、だからと言って彼女の恐怖感が完全に拭えたわけではないのだろう。
ディーが死んでもなお、ユーニはまだ悪夢に怯えていた。
そんな彼女を落ち着かせる名目で、僕も時折彼女に寄り添っては話し相手になっている。
どうやら今夜も僕の出番らしい。
持っていた焚き木を半分に折って火の中に放り込むと、ゆっくりと立ち上がってユーニのそばに腰を下ろした。
「え、なに?」
「眠れないんだろ?話し相手になってやろうかと」
「あぁ、いつものやつな?でも今日はいいよ」
「えっ」
にこやかに遠慮してくるユーニの言葉に、僕は思わず言葉を詰まらせた。
彼女に求められることはあっても、こうして遠慮されることは初めてだった。
いつも“ハーブティーが飲みたい”だの、“話し相手になれ”だの、我儘を聞かされているこちらとしては、そうしおらしくされたら逆に気になってしまう。
遠慮するわけを聞いてみると、彼女は星空を見上げたまま答えた。
「今日一日、素材集めに付き合ってくれただろ?」
「それがどうした」
「疲れてるだろうし、これ以上頼るのもなんか悪いじゃん」
今さら過ぎる遠慮だった。
確かに素材を求めて一日中荒野を歩き回ることにはなったが、その程度で疲れるほど僕は軟弱じゃない。
今まで遠慮なんてせず、むしろ強引に話しに付き合わせようとして来たくせに、何を今さら気にすることがある。
「君にそんな遠慮するほどの奥ゆかしさがあるとは知らなかったな」
「失礼な奴だな。アタシほど遠慮深くて聞き分けのいい女いねぇぞ?」
「遠慮だの聞き分けだの、君とは縁遠い言葉だな」
「いいから寝ろよ。アタシは暫く天体観測でもしてっから」
何が天体観測だ。
どうせ星の形なんて興味もない癖に。
珍しくこっちが話し相手になろうと提案してやっているというのに遠慮するなんて可愛げがない。
いつもみたいに喜んで、“タイオンがいると落ち着く”とかなんとか言ってくれれば、いくらでも傍にいてやるのに。
どうして遠慮するんだ。気に障ることでも言ったか?
“寝ろ”と言われても、いつもと違うユーニの様子が気になってそれどころではなかった。
「君は寝ないのか?」
「だから眠くないって」
「眠くなるまで付き合ってやるから」
「いいって言ってんじゃん」
「何故遠慮する?」
「だーかーらー!疲れてるだろうし悪いからいいって」
「疲れてもいないし迷惑だとも思っていない!眠れないなら意地を張っていないでいつもみたいに僕を頼ればいいだろ」
次第に語気が荒くなる。
突き放されればされるほど、この場に留まりたくなるのは天邪鬼なこの性格のせいだろうか。
どうせまた君は悪夢に苛まれる。
寝苦しい夜を解消する方法はただ一つ。僕の隣に寄り添うことだ。
これはすでに実証済みの結果であり、今さら疑いようのない事実だ。
僕に遠慮なんかしてまた悪夢にうなされるくらいなら、安眠を得るため僕に寄りかかってくればいいじゃないか。
優しさのつもりで言った僕だったが、暫くユーニは反論することなく黙っていた。
そして数秒後、眉間にしわを深く寄せながら至極不思議そうな様子で問いかけて来る。
「なんでそこまでして付き合おうとすんだよ」
「は?」
「アタシが頼んだならともかく、頼んでもいないのに自分まで夜更かしする理由は何だよ。アタシに付き合ったところでタイオンにメリットねぇじゃん」
投げかけられた質問に、僕は答えることが出来なかった。
確かにそうだ。ユーニに求められていたのなら応える理由になる。
けれど、彼女が遠慮しているのにそこまで付き合うメリットは一体なんだ?
ユーニが寝不足気味になるのが放っておけないから?
悪夢にうなされているのが心配だから?
理由としては頷けるが、少し違和感がある。
ユーニに付き合うメリット。そんなもの、ひとつたりとも浮かばない。
僕はメリットもなしにユーニに一晩付き合おうとしていたのか。何故?
わからない。ただ、ユーニが僕を頼ってくることなく遠慮しようとしているのが気に食わなかった。
「……メリットなんてない。悪いか」
「なんで逆切れ?」
「いいから!眠くなるまで付き合うからとにかく遠慮しないでくれっ」
「……まぁ、そんなに言うなら甘えとくけど」
怪訝な表情を浮かべながら、ユーニはようやく遠慮するのはやめた。
ようやくわかってくれたか。それでいい。君が僕に遠慮するなんてガラにもない事、するべきじゃない。
議論は終わりを迎え、ユーニはその後反論することなく僕を突き放すのをやめた。
沈黙があたりを包み、焚火の弾ける音だけが聞こえて来る。
ぱちぱちと音が弾けるごとに、黙ったまま星空を見上げいる隣のユーニへと意識が持っていかれる。
何故か、すぐ近くにいるはずの彼女のことが気になって仕方がなくなってしまった。
こうして夜を一緒に過ごす時、ユーニはいつも身体を密着させてくる。
肩に寄りかかったり膝の上に頭を乗せてきたり、はたまた抱き着いてきたり。
人肌を感じていると落ち着くらしいが、今夜は寄り添ってくる気配がない。
いつもと違う彼女のポイントをまた見つけてしまった僕は、気になるあまり恐る恐る理由を聞いてみることにした。
「……今日はくっついてこないのか」
「今日はそんなに寒くないしな」
「気温の問題なのか?人肌に触れていると落ち着くと言っていたじゃないか」
「まぁそうだけど、たまにはくっつかない日があってもよくね?」
よくない。
君が頻繁に身体を密着させてきたせいで、夜君に付き合う時は密着されていないと落ち着かなくなってしまった。
ルーティーンという奴だ。君が隣にいるのに、しかも2人きりであるにも関わらず、全く触れ合うことなく夜明けを待つなんて違和感がある。
この筆舌に尽くしがたい違和感を埋めるため、僕は横に座っているユーニへと手を伸ばした。
肩を抱き寄せ、胸の中にユーニの華奢な体を閉じ込める。
驚いた様子で僕を見上げて来るユーニの視線を感じながらも、彼女の顔を直視することは出来なかった。
「……こうしていたほうが落ち着くんだろ?だったらいいじゃないか、別に」
「うん。まぁ。つーか今日のタイオンなんか変じゃね?」
「変なのは君の方だろ。変に遠慮なんてして……」
「遠慮くらいするだろ。お前、アタシが甘えるたびちょっと迷惑そうにしてたし」
「そ、そんなことない!君の言うことなら僕はなんだって……」
“なんだって応えられる”
そう言いかけて、言葉が喉の奥につっかえた。
脳裏で反響し始めたのは、昨日ニイナに言われた言葉。
“貴方だってユーニには甘いし特別視してるじゃない”
“今の貴方、面白い顔してるわよ?悪い意味で言うと腑抜けた顔”
そんなわけないと否定してきた言葉が、真実を裏付けるように反響する。
今の僕はきっと、すごく滑稽な顔をしているに違いない。
ニイナがノアに向けていたような、力の抜けた甘い顔を。
途端に恥ずかしくなって顔を逸らしてみたが、ユーニからの不思議そうな視線は僕へと注がれ続けている。
見るな。そんな顔で見ないでくれ。
間抜けな事実に気付いてしまうじゃないか。
今まで僕は、ユーニに求められてきたからそれに渋々答えてきたつもりだった。
彼女がそれを望むから、願っているから。それを大義名分にして言い訳を繰り返していた。
でも多分、本当は違う。ユーニの意思なんて関係なかった。
僕がしたいからしていたんだ。僕自身がそれを望んでいたから、拒絶もせず黙って受け入れていたんだ。
その証拠に、ユーニから遠慮された途端に惜しくなって、彼女の心を引き留めようとした。
ユーニに頼りにされている事実は、僕にとって非常に甘美で心地よかった。
もっと頼られたい。求められたい。その無様な本心を隠すように自分を取り繕っていたに違いない。
こんな間抜けでカッコ悪い本心、気付きたくはなかった。
「今なに言いかけた?」
「いや。なんでも……」
「やっぱ今日のタイオンは変だな」
「……そうかもな」
腕の中で、ユーニがふっと笑みを零す気配がした。
確かに彼女の言う通り、今日の僕は変だ。
心がざわめいて仕方ない。ユーニとこうして密着していると、落ち着かないのにどうも離れがたく感じてしまう。
僕の腕の中で大人しくしている彼女も、同じ気持ちでいるのだろうか。
この妙に甘やかで浮ついた気持ちを、彼女も抱いてくれているだろうか。
もし同じ想いでくれたなら、それはとても幸せなことのように思えた。
「ん……っ」
不意に、ユーニが僕の腕に抱かれながら手を伸ばした。
視線を向けると、僕が座っている側に置いてあるハーブティーのカップを取ろうとしているらしい。
恐らくは喉が渇いたのだろう。
だが、どう考えても今のユーニの体勢ではあのカップに手が届くわけがない。
仕方ない。取ってやろう。
身体をくねらせカップを手に取ると、腕の中にいる彼女へと差し出すため視線を落とした。
「ほら、これ——」
カップを差し出そうとした瞬間、僕の鼻先とユーニの鼻先が触れ合いそうになった。
こんなに近い距離で寄り添い合っていたのか。
ユーニの青い瞳と、僕の褐色の瞳が視線を絡ませ合う。
命の火時計が失われた彼女の瞳は、吸い込まれそうになるほど美しかった。
途端に息が出来なくなって、緊張感が走る。
もっと、もっとユーニに近付きたい。そう思った瞬間、ユーニの顔がゆっくりと近づいてきた。
自然と僕も目を細め、ゆっくりと距離を詰める。
互いの柔らかな唇が重なり合うと、僕たちは瞼を閉じた。
このスキンシップは、シティーでキスと呼ばれているものだ。
当然、ケヴェスやアグヌスの兵には縁のない行為である。
僕も、もちろんユーニも初めてだった。初めてなのに、見つめ合った瞬間引き寄せられるかのように唇を寄せ合っていた。
これは本能的な行動なのかもしれない。
そんなことを冷静に考えながらも、僕の心臓は今にも飛び出そうなほど跳ね上がっていた。
やがて2人の唇が離れると、揺れるユーニの瞳と再び視線が絡み合う。
「今のってさ、なんて言うんだっけ」
「“キス”だろ。確か“口付け”とも言うとか……」
「なんで今したんだよ?」
「な、なんでって……。君から近付いてきたんだろ」
「タイオンからだった気がするけど」
「そんなことない!絶対君からだった」
不毛な言い争いだった。
どっちからのアクションだったとか、そんなことはこの際どうだっていいはず。
本当に重要なのは、何故したのかということ。
先ほどのキスの理由や背景を自分自身に問いただしてみたが、得られた答えはただ一つ。
“したかったから”だ。
けれどそんな単純で非論理的な理由、口にするのは流石に恥ずかしい。
僕ばかり求めているような気がするのも、なんだか気に食わなかった。
気まずさと気恥ずかしさに口を閉ざしていると、僕の背中に腕を回していたユーニがきゅっと柔い力で服を掴んできた。まるで縋るように。
「あのさ、キスって、シティーの人間がやるスキンシップなんだよな」
「あぁ」
「じゃあさ、いっぱいキスしたら、アタシらもシティーの奴らみたいになれるのかな?」
ユーニは、いや、恐らく僕たち全員が、シティーの人間の在り方に憧れていた。
彼らの生き方が人間本来のあり様なのだと知った今、自然な姿で生きていけている彼らがうらやましい。
近付けるのなら近付きたい。人として自然な営みがおくれるのなら、真似事でもいいから同じことがしてみたい。
正直に言って、シティーの人間の真似をすれば彼らのようになれるとは思えない。
けれど、もう一度ユーニとキスをする理由になるのなら、それでもいいと思った。
ユーニの白い頬に手を添える。
真っ直ぐこちらを見上げて来るユーニの目を見ていると、体中の熱が温度を上げていった。
心が騒ぐ。もっとユーニに触れていたい。近付きたい。重なりたい、と。
その衝動に逆らえるほど、僕の心は理性的ではなかった。
「なれるんじゃないかな、たぶん」
「そっか、じゃあ……。いっぱいしよ?」
甘える声色に胸が締め付けられる。
ユーニもそれを望んでいる。しない理由はどこにもなかった。
鼻先がぶつからないように顔少しだけ傾け、再び唇を重ねる。
離れた唇は角度を変えながらまた引き寄せ合い、啄むように互いの柔らかさを味わっていく。
やがて2人の唇が重なり、離れるたびにちゅ、ちゅうと可愛らしい音が響き始める。
その音を聞きながら、僕はユーニの背中を掻き抱きさらに強く抱きしめる。
もっと、もっと、もっとだ。
まだまだ足りない。たくさん口付けて、出来るだけ長く繋がっていきたい。
ユーニと触れ合うたび、彼女が吐息を漏らすたび、大きく温かな幸福感が胸を包む。
この感覚は駄目だ。頭がおかしくなる。思考がとろける。体が熱くなる。
欲望はどんどん加速して、僕の心に火を着ける。
その夜、僕は結局一睡もできなかった。
ユーニは眠気を訴えて最後には眠ってしまったのだが、腕の中で寝息を立てるユーニを放してやる気にはなれなかった。
抱きしめながら、眠っている彼女の頬や額に口付ける。
こんなのおかしいと思いながらも、彼女へ触れることをやめられなかった。
僕はきっと、とっくの昔におかしくなっていたに違いない。
ユーニという存在に魅入られて、自我まで手放してしまっている。
でももうどうだっていい。ユーニが僕を受け入れてくれている間は、求めてくれている間は、この幸福感に埋もれていたかった。
だって僕がそうしたいから
腕を引く。顎を支えて上を向かせる。
彼女が目を丸くさせたと同時に唇を押し当てる。
一瞬だけ強張った彼女の身体から力が抜けたことを確認すると、腰を引き寄せた。
暫く唇を重ねた後、僕たちはどちらからともなくゆっくりと離れていく。
目の前にいるのはほんの少し顔を赤らめながら不満げに唇を尖らせているユーニ。
朝焼けの眩しさを背景に、彼女は僕の目をじっと見つめながら文句を垂れてきた。
「いきなりはやめろよ」
「すまない」
「まぁいいけど」
視線を外したユーニは僕の腕の中から離れ、朝食の用意のため簡易テーブルの準備をし始める。
戦術士の白い上着を羽織りながら、僕はそんなユーニの背を横目に見つめていた。
彼女と初めて“キス”とやらを交わして約1週間。あれから僕たちは、仲間たちの目を盗んで時折こうして唇を合わせていた。
まだ他の仲間たちが起床していない朝方は、僕たちにとって、いや僕にとって絶好の機会でしかない。
彼女の腕を捕まえて引き寄せて唇を押し付けると、ユーニは今朝も甘んじて受け入れてくれた。
この行為は、シティーにおいては特別感のあるスキンシップだと聞き及んでいる。
そんな行為をユーニと頻繁に交わして良いものなのかという疑問はあるが、それを無視してしまえるほど、キスをしたことによって得られる幸福感には価値があった。
彼女と唇を重ねるたび、心が雲のように浮き上がる。
胸の奥が温かくなって、思考がとろけていく。こんな感覚は初めてだった。
例えば甘いバスティールを食べたときのように、ひとたびこの味を覚えしまえばまた味わいたくなってしまう。
もう一度。さらにまたもう一度と求める心は加速して、僕から“タイオンらしさ”を奪っていく。
口付けるのはいつも僕の方からだった。
唇を寄せるたびユーニは少し戸惑うように身体を固くしているが、一度も拒絶されたことはない。
このキスに麻薬的な魅力を見出しているのは僕だけなのだろうか。
ユーニも同じように思っていてほしいが、きっと僕ほどこの行為にのめり込んではいないのだろう。
“そこまでしたいわけじゃないが嫌でもない”。
どうせそのくらいの熱量に違いない。
唇を離した後、すぐさま“もう一度したい”と願ってしまっているのは、きっと僕の方だけ。
そう思うと、ほんの少し寂しさを感じてしまった。
僕ばかり求めているのは癪だ。ユーニにも同じくらいの熱量を持っていてほしい。
けれど、明らかに偏りが生じている気持ちの天秤は、どう頑張っても釣り合いが取れそうにない。
このもどかしさの正体も、解消する方法も、僕の中にある知識では解明できそうになかった。
僕たちの日常は、“キス”という行為を覚えて以降明らかに変わった。
ユーニが眠れない夜。いつもなら僕の話を肴にハーブティーを飲んで眠気を待っていたが、最近はそれに加えてキスのおまけがつくようになった。
ユーニが求めてくることはあまりない。
彼女がじっとこちらを見つめて微笑みかけるから、なんとなくしたくなった僕がその頬に手を添えて唇を寄せるのだ。
キスがユーニの眠気促進に役立っているとは思えない。特に必要のない行為だった。
けれど、したくてたまらないんだ。
そして唇を押し付けた瞬間後悔する。また求められてもいないのにしてしまった、と。
悪夢にうなされるユーニを寝かしつけるこの時間は、元々ユーニの方から求めてきたもの。
僕は求められるがままに応えていただけだ。
ハーブティーを淹れてくれと言われたから淹れてやった。
話し相手になって欲しいと頼まれたから付き合ってやった。
人肌を感じていると落ち着けるというから抱きしめてやった。
求められたことだけをしていたつもりだったのに、いつの間にかキスという求められていない行為を始めてしまっている。
らしくない。ユーニの要望に、“キスしてほしい”などという項目はなかったはずなのに。
こんなことするべきじゃない。分かってはいたはずなのに、ユーニと目が合うだけで、名前を呼ばれるだけで、微笑みかけられるだけで、ストッパーはすぐに外れてしまうのだ。
いい加減やめよう。キスはもう程々にしよう。
そう思い始めたと同時に、僕はひとつの違和感に気付いてしまった。
ここ最近、ユーニから夜のお供にと声がかかることが極端に減っている気がする。
以前まではほぼ毎晩眠れずに僕を頼って来たというのに。
悪夢を見なくなったのだろうか。
気になって本人に指摘してみると、彼女は懐から1つの小さな小瓶を取り出し訳を話してくれた。
「これ、シティーのホレイス先生に貰ったんだよ」
「なんだ?これは」
「睡眠薬。寝る前に飲めば朝までぐっすりなんだ。悪夢も全然見なくなったし」
「そうなのか。随分効果がある薬なんだな」
「まぁな。これがあればタイオンに頼らなくても一人で眠れるようになるってわけだ」
「えっ……」
睡眠薬の小瓶を大事そうに懐に仕舞い直しながら、ユーニは屈託なく微笑んだ。
“いつまでもタイオンに頼るわけにはいかないしな”と。
彼女のそんな宣言通り、これ以降ユーニが夜に僕を頼ってくることはなくなった。
どうやらシティーの医者から処方された睡眠薬が相当効いたらしい。
毎晩シュラフに入るとすぐに寝入ってしまうユーニは、朝まで起きることなく幸せそうに眠っている。
数日前まで悪夢を見て飛び起きていたのが嘘のようだ。
ユーニに付き合う必要がなくなった僕も、それまで彼女のために使っていた夜の時間を有効的に活用することが出来るようになった。
本を読んだり、コレペディアを確認したり、ブレイドの調整をしてみたり。
ユーニから頼られなくなることは、僕にとっても都合がいいはずだった。
なのに、一人で過ごす夜の時間はなんだか物足りなくて、既にシュラフに入っているユーニの背中をチラチラ目で追ってしまう。
彼女が僕の服の袖を引っ張り、仲間に心配かけまいとこそっと耳打ちしてくる瞬間が好きだった。
“今夜も付き合って”。
そう言われるたびに、僕はいつも面倒そうに振舞っていたけれど、本当は少し、いや、結構嬉しかったんだ。
君が僕を頼ってくれていることが。僕を信頼してくれていることが。
君にハーブティー振舞い、つまらない話をして、肩や胸を貸したのは、全部君からの要望だ。僕が望んだことじゃない。
なのに、いつの間にかあの時間を恋しくなっている。
君に頼られないことが、君に触れられないことが、すごく寂しい。
こんな情けない気持ち、ユーニには死んでも言えそうにないが。
ユーニが安眠を手に入れて、僕が喪失感と戦い始めてから1週間。
僕たちウロボロス一行はシティーに到着していた。
モニカに挨拶をと地下の指令室を訪れたが、そこにいたのは副官のトラビスだけ。
彼曰く、モニカはカデンシアの辺境にあるアグヌスの拠点を潰すため、大勢のロストナンバーズを率い大規模行軍の真っ最中なのだという。
どうやら訪問するタイミングが悪かったらしい。
いつも通りロストナンバーズの寄宿舎で宿を取ろうとする僕たちだったが、受付を担当している兵が珍しく人数分の部屋を用意してくれた。
いつもなら男子部屋と女子部屋の2つしか使わせてもらえないのだが、今は多くのロストナンバーズがモニカの侵攻軍に従軍して出払っているため、空き部屋が多いのだとか。
ありがたくはあったが、いつもコロニーの天幕や休息所で野営をする際は必ず他の仲間がすぐ近くにいる環境で眠っていたため、密室に1人きりというのは逆に落ち着かない。
なかなか眠ることが出来ず暫く自室のベッドで横になり天井を見上げていた僕だったが、喉の渇きを覚えて起き上がった。
人が少ない寄宿舎は静まり返っており、廊下に出ても物音ひとつ聞こえてこない。
階段を降り、談話室を抜けて共用のキッチンに向かう。
コップを取り出し水を飲もうとしたその瞬間、キッチン台の上に小さな小瓶が置いてあることに気が付いた。
ユーニの睡眠薬である。
なぜこんなところに?そんな疑問を抱いた瞬間、背後に誰かの気配を感じて急いで振り返る。
そこにいたのはやはり、この睡眠薬の持ち主、ユーニだった。
「タイオン、まだ起きてたのか」
「君こそどうかしたのか?」
「睡眠薬探してんだよ。さっきから見当たらなくてさ。見てない?」
僕は、自分自身がどれほど姑息で卑怯な人間かよく知っている。
こういう時、例えばノアのように優しくて素直で性格がいい男なら、手に持ったこの睡眠薬の小瓶を迷うことなく差し出すのだろう。
けれど、僕は彼のように褒められた性格ではない。
姑息で卑怯な僕という人間は、すぐさま黒い考えが浮かんでしまう。
この睡眠薬さえなければ、ユーニはまた眠れなくなる。そうすれば、きっとまた僕を頼ってくれる。
独りよがりな考えが浮かんだ瞬間、僕は手に持った睡眠薬の小瓶をユーニに見えないようにポケットに仕舞い込んだ。
「さぁ、見てないな」
「そっか。困ったなぁ、アレが無いとまだちゃんと寝れねぇんだけど……」
腕を組み、眉を寄せながら足元に視線を落とすユーニは明らかに困っていた。
まだ薬なしでは満足に眠れないらしい。
好都合だった。ユーニが困れば困るほど、悪夢に苦しめば苦しむほど、僕が入り込む余地が大きくなる。
「じゃあ、前みたいに僕が話し相手になろうか?」
「え?でも……」
「ちょうど僕も眠れなかったしな。それに、部屋が完全に分けられているからノア達の目を気にする必要もない」
2人きりで過ごす条件は全て揃っていた。
僕の提案に暫く腕を組んで考え込んでいたユーニだったが、ようやく心を決めたらしく顔を上げる。
“そうしようかな”と賛同する言葉を確認した瞬間、僕の心は分かりやすく舞い上がった。
ユーニから頼られたのは1週間ぶりだ。久しぶり彼女に触れられる。
綻びそうになる顔を隠すように眼鏡を押し込むと、僕はユーニの背中を押した。
「よし、じゃあ行こう。どっちの部屋がいい?」
「どっちでもいい」
「じゃあ僕の部屋にしよう。ハーブティーも欲しいだろ?今夜は少し寒いからくっついていよう。いっそ自分の部屋から枕を持ってくるといい。せっかくシュラフじゃなくベッドで眠れるんだから横になりながら話そう」
早口でまくし立てるように促すと、彼女は少し戸惑ったように瞬きしながら“うん”と頷いた。
いつもなら僕を強引に巻き込むように腕を引いてくるのはユーニの方なのに、今夜は少しユーニのテンションが低いように見えた。
単純に睡眠薬を無くしたことに落ち込んでいるのか、それとも本当は僕と一緒に過ごすのを躊躇っているのか。
いやいやそんなはずない。だって断られなかったし。
ユーニの性格上、嫌なことは嫌だとハッキリ言ってくれるはずだ。
でも、やはりそこまで気乗りしていないように思えてしまう。気のせいだろうか。
久しぶりに触れ合える事実に喜んでいるのは、僕だけなのかもしれない。
もしかして今の僕は、ものすごく鬱陶しくて面倒くさくて、気持ち悪いほどがっついているんじゃなかろうか。
ユーニの態度がほんの少し変わっただけで、気になって仕方なくなってしまう。
どう思われているのか、どんな思いでいるのか知りたい。
嫌なら嫌だと言って欲しい。一人で暴走したくない。
でも拒絶はしないで欲しい。嫌がられたらきっと立ち直れない。
そんな臆病な二律背反が、僕をおかしくする。
所詮他人であるユーニの心なんて見えるはずもないのに、余すことなく全て覗き込み、何もかも知りたいと思ってしまう僕は、ワガママなんだろうか。
「んっ……、」
ベッドに腰かけた僕たちは、薄暗い部屋でキスを交わしていた。
僕の右手は膝の上に置かれたユーニの左手を握っている。
いや、捕まえていると表現したほうが適切だったかもしれない。
彼女が逃げ出さないように、鎖で繋ぐような束縛だった。
これはユーニを落ち着かせるための行為。それ以外の理由なんてない。
ユーニだって初めてキスをした日は“たくさんしよう”と言っていたし。
そう言い聞かせながら彼女の唇を食み続けるが、心に渦巻いた罪悪感が消えることはなかった。
ホレイス先生から処方された睡眠薬を頼れば、こんなことをしなくても彼女は安眠を得られたはず。
その睡眠薬は僕が奪い取った。彼女に頼られる理由を無理やりにでも作るために。
最低だ。自分の承認欲求を満たすために嘘を吐くなんて。
僕がこんなにも姑息な人間だと知ったら、きっとユーニは軽蔑するに違いない。
でも、懐に忍ばせたこの薬を返してやろうとは思わなかった。
これを返してしまったら、ユーニは悪夢に怯えなくなる。僕を頼らなくなる。
それが嫌だった。
どんな手段を使っても、ユーニに頼られる自分を維持し続けていたかった。
ユーニのためと口では言いながら、本当はただ自分が満たされたいだけ。
ユーニの幸福を願うふりをしながら、本当は彼女が苦しみ僕を頼って来ることを願っている。
あまりにも汚い心を自覚して、自分が嫌になる。
罪悪感が目に入らないよう心の奥底に仕舞いながら、僕はひたすらにユーニと触れ合い続けた。
「眠れそうか?」
「わかんねぇ。心臓がバクバクしてる。あんまり眠れそうにないかも」
「動悸か。横になるといい。少しは落ち着くだろうから」
控えめに頷くユーニの身体を支えながら、先ほど僕が横になっていたベッドの上へそっと横たえる。
白い枕にミルクティー色のユーニの髪が広がって、顔の半分が枕に埋まる。
ベッドの縁に腰かけている僕を見上げている彼女の瞳は、どこか不安げに揺れていた。
何故そんな顔をするのだろう。
以前までは満足げに微笑んでいたのに。
僕といると落ち着かないのか。それとも——。
「……あのさ、タイオン」
「もう寝てしまえ。目を閉じて深呼吸するんだ」
「……うん」
僕の言葉に従い、彼女は瞼をゆっくりと閉じていく。
ユーニは何か言おうとしていた。
けれど、都合の悪いことを言われそうな気がして遮ってしまった。
“こういうのはもういいから”とか、“これ以上やめておこう”とか、繋がりを断ち切るような言葉を言われるような気がして怖かった。
最初の頃、君は確かに僕を必要としてくれていた。
けれど今となっては、僕の方が君を必要としている。君に縋っている。
ユーニに頼られている自分に価値を見出して、この甘やかな現状を手放したくないと思っている。
まったくもって情けない。
必要としてほしいという心の裏側にへばりつく、ユーニの憔悴を望む浅ましい気持ちが、僕を一層卑屈にした。
***
“サフロージュの木の根元に埋めてきてくれ”
イスルギ軍務長はそう言って僕にナミさんの懐中時計を手渡していた。
けれど、結局僕がその命令を実行することはなく、この懐中時計は今も僕の手元で時間を刻んでいる。
僕らのよく知るナミさんは死んでしまったが、新しい命を得てまた新しい人生を歩み始めている。
手向けのために懐中時計を手放すのは、少し違うような気がした。
ナミさんが託した思いは、懐中時計という形を成して僕の手の中にある。
なら、彼女の想いを受け継ぎ後世に繋いでいくのが僕の役目なのではないだろうか。
僕たちはシティーの人間と違って、命を紡ぐことはできない。
だがこうして、形として想いを誰かに渡すことはできる。
ナミさんから渡されたこの想いを、手放したくはなかったのだ。
「そうか。やはり生きていたか」
「はい。年少兵の姿でしたが、あれは間違いなくナミさんでした」
コロニーラムダに立ち寄ったのは、カデンシア地方に位置する忘却のコロニーを防衛した数日後のことである。
あのコロニーに赴くよう依頼してきたのはイスルギ軍務長だ。
僕たちには、いや、僕にはあのコロニーで見た光景や、その後の顛末を軍務長に報告する義務がある。
ラムダに到着し、1人で軍務長天幕へ赴いた僕は、いつも通り忙しなく机に向かっているイスルギ軍務長に事の次第を全て説明した。
すると彼は目を伏せ、低く震える声で“そうか、そうか”と何度も呟いていた。
「すまないタイオン。お前にとっても思うところがあるだろうに、大変な役目を任せてしまったな」
「いえ……」
「ナミは……。幸せそうにしていたか?」
「はい。少なくとも、戦いの脅威にさらされてはいません」
「そうか。よかった」
あのコロニーは外界との接触を完全に遮断している。
命の火時計からも解放されている今、あのコロニーを脅かす火種はもうないだろう。
安堵の言葉を口にする軍務長は、その言葉とは裏腹にどこか寂しげだった。
この人の憂い顔を、今まで何度見てきたことだろう。
最近は明るい表情を浮かべることも多くはなったが、やはりナミさんが近くに寄り添っていた時に比べると明るさを失っているように思える。
恐らくは、イスルギ軍務長の心を照らせる存在など、この世にナミさんしかいないのだろう。
「軍務長。余計なお世話だということは重々承知しています。でも——」
「なんだ?」
「件のコロニーに足を運んでみては?ナミさんにあの頃の記憶はありませんが、今からでも新しい関係を築いていけるかもしれない」
「タイオン……」
「ナミさんに、会いたくはないですか?」
僕の問いかけに、軍務長は押し黙った。
暫く考え込んだのち、机に肘をつきながら前のめり気味に俯くと、寂しげな笑みを浮かべながら本音を口にする。
「会いたいさ。決まってるだろ」
「だったら——」
「だが、それはナミのためにならない」
僕の言葉を遮るように、軍務長は力強く言い放つ。
俯いていた顔を上げた軍務長は、先ほどまでの弱々しい寂しげな表情とは打って変わって、決意に満ち溢れた顔をしていた。
「私は以前、自分の感情に流されるまま彼女をあのコロニーから連れ出した。連れ出せば苛烈な戦いに巻き込むことになると知っていながらな。本当は分かっていた。ナミが死んでしまったのは、他の誰でもない私自身のせいなのだと」
「軍務長……」
「ナミは今、新しい人生を歩み始めようとしている。そこに私の介入する余地も、資格もない」
薄く微笑みを浮かべ、イスルギ軍務長は椅子の背もたれに寄りかかる。
どこか寂しそうなその目は、儚げに揺れながら僕をまっすぐ見つめていた。
そして、か細い声で力強い決意を発する。
「ナミの幸せを想うなら、会わない方がいい。私のことなど忘れたまま、平穏に生きて欲しい」
それが本心だとはとても思えなかった。
会いたくて仕方がない。今すぐ迎えに行きたい。そんな心が見え隠れしている。
けれど、イスルギ軍務長はその衝動を懸命に抑え込み、自分を律している。
ナミさんの幸せだけを願って、自分の欲を押し殺そうとしているのだ。
やはりこの人は強い。僕はきっと、こんな風にはなれない。
軍務長に挨拶して天幕を出た僕は、仲間たちが待つ天幕ではなくコロニーの外へと向かった。
洞窟の中に居住区を置いているラムダは防備に厚いという利点があるが、四方八方岩に囲まれているとどうも息が詰まりそうになる。
今は少し、外の空気を吸っていたかった。
滝を超えて外に出ると、空は既に一番星が輝き始めている。
太陽は沈んだばかりのようで、西の空はほんの少し明るいものの、今にも夜の闇が空を支配しようとしている。
滝をくぐった先には、これからコロニー内に運び入れるのであろう物資のコンテナが山ほど積まれていた。
そのうちの一つに腰かけ、1人空を仰ぎ見る。
大瀑布に漂う湿った空気が、僕の心まで湿らせていくような気がした。
軍務長はナミさんを誰よりも大切に思っていた。
彼女が傍らにいない今の軍務長は、誰がどう見ても辛そうだ。
“会いたい”とこぼしたあの一言は、きっと本音だったのだろう。
けれど、その本音を押し殺して会いに行かない選択を取れる軍務長が、僕は羨ましくて仕方なかった。
あの人は強い。僕なんかとは全然違う。
もし僕が軍務長の立場なら、きっと辛抱なんてできなかっただろう。
相手が生きていると知るや、迷わず会いに行ったに違いない。
相手の幸せだとか平穏だとか、今の僕はきっと考えられない。
だって、実際に僕はユーニの心の平穏を奪い取っているのだから。
彼女から奪った睡眠薬は、今も僕の懐の中で眠っている。
あれ以降ユーニはホレイス先生から追加の薬を貰うこともなく、思惑通り僕を頼り続ける生活を送っている。
この状況にほくそ笑んでいる自分自身が恐ろしくて仕方ない。
ユーニの平穏を願いながら、頼られるよう仕向けるなんて。
ナミさんの幸せを願って身を引いたイスルギ軍務長とは大違いじゃないか。
自分の未熟さが嫌になる。
それでも、ユーニを求めることをやめられそうになかった。
「なーに黄昏てんだよ」
不意に、頭上から声がした。
コンテナの上に腰かけ空を見上げていた僕に後ろから声をかけてきたのは、先ほどまで心を支配していた張本人、ユーニだった。
噂をすれば何とやら。なんとなく気まずさを感じた僕は即座に目を逸らし、“黄昏てない”とかぶりを振る。
「ナミのこと、イスルギに報告できたのか?」
「あぁ」
「どうだった?」
「どうと言われても。別に普通だ」
「本当か?」
「何故疑う?」
「“なんかありました”って顔してるから」
酷く曖昧な考察ではあるが、ほとんど正解に近かった。
別に特別共有するような出来事があったわけじゃない。
ただ、イスルギ軍務長と自分の“器の大きさの違い”に少し落ち込んでいるだけの話だ。
こんな情けない話、ユーニに出来るわけもない。
何も口にすることなく黙っていると、ユーニは僕の隣に並ぶように腰かけてきた。
同じように空を見上げる彼女は、僕を放っておく気はないらしい。
「タイオンってさ、あんまり人に弱味見せたりしないよな」
「そうか?」
「なんかあっても絶対言わないじゃん。他の誰かを頼ろうとしないって言うか」
「……」
「……頼るのは、いつもアタシの方だよな」
「え?」
戸惑い、すぐ横のユーニへ視線を向ける。
僕と同じようにコンテナに腰掛けている彼女は、いつものように足をかけ片膝を抱え込んでいる。
その座り方は実にガサツで女性らしさなど微塵も感じられないが、視線を下に落としている今の彼女はいつもほよりほんの少ししおらしく見えた。
「アタシが眠れないとき、いつも話し相手になってくれてるじゃん?あれ、結構助かってるんだよ。タイオンがいてくれると、嫌な夢見ずに済むし」
「……役に立てたなら何よりだ」
「けどさ、タイオンはアタシを頼ろうとしないよな」
「そんなこと……」
「そうだろ。現に今も何も話してくれねぇし」
言われてみれば確かに、ユーニに自分の心の内を全て曝け出したことは一度も無かった。
彼女が僕にしてきたように、不安を表に出して人の温もりに頼るなんて、僕にはできそうにない。
他の誰かならともかく、ユーニ相手には猶更無理だ。
そんな情けない姿、見せられるわけないじゃないか。
だが、そんな僕の取り繕ったプライドなどユーニにとっては関係ないらしい。
僕の顔を覗き込みながら、彼女は無遠慮に問いかけて来る。
「なぁ、アタシってそんなに頼りない?」
「いや、そういうわけじゃないっ!僕の性格は知ってるだろ?君のように素直に人を頼れるタイプじゃないんだ僕は」
「んだよそれ。アタシの片想いみたいじゃん」
「は?片想い……?」
僕の方へ向いていたユーニの視線が再び外れ、足元へと落ちる。
抱えていた片足を下ろすと、コンテナに足をぶらつかせながら唇を尖らせていた。
僕の気のせいだろうか。ユーニが少し、いじけているように見える。
「アタシばっかタイオンを頼って、縋って、必要としてる。でもタイオンはそうじゃないんだろ?片想いだろ、こんなの」
「ゆ、ユーニ……」
「嫌なんだよ一方的なのは。ちゃんとお互い必要とする関係でありたいのに」
柄にもなくか細い声だった。
悪夢に怯え、恐怖を抱いていた時とは違う弱々しさが、そこにはある。
白く美しい羽根は芯を無くし、いつも力強い瞳は目尻が下がり、不安げな表情を浮かべながらユーニは僕を見つめている。
「タイオンにとって、アタシってどういう存在なんだろうな?」
期待と不安と、そして恐怖感が入り混じった弱々しい瞳。
その瞳はきっと、これまでの僕と同じ色をしている。
僕も君と似たようなことを考えていた。
必要とされることに価値を見出して、頼られることに優越感を抱いていた。
この不安定な気持ちはどんどん大きくなって、“頼られたい”が“頼らせたい”に変わる。
真っ赤な色をしたこの得体のしれない気持ちをユーニと交換し合いたいが、僕ばかりたくさん抱え込んでしまっているようで嫌だった。
気持ちの天秤が釣り合っていない。求めているのは僕の方だけなんじゃないかと思ってしまう。
そんなうだつの上がらない悩みを、目の前の彼女も抱いていたと知った瞬間、この心から靄は一瞬にして消え去った。
代わりに、彼女の身体を心ごとぎゅっと抱きしめたくなってしまう。
この得体のしれない気持ちを命一杯ユーニに押し付けて、全部余すことなく受け取って欲しい。
そんな欲求に従って、僕はガラにもないことを自覚しながらも、ユーニの身体を勢い任せに抱き寄せる。
急に引き寄せたせいか、彼女は僕の胸板に顔をぶつけながら“ぶっ”と小さな声を漏らしていた。
ちょっとだけ痛かったかもしれない。
けれど、今の僕にユーニの小さな痛みを気にかける余裕などどこにもなかった。
「馬鹿なこと言わないでくれ!僕だって、情けなくなるくらい君を必要としてる。一方的なんかじゃない」
ユーニの身体が腕の中から溢れないよう、両腕に力を込めてその華奢な身体を抱きしめる。
頬に当たる彼女の髪と羽根が少しだけくすぐったい。
鼻腔をくすぐる可憐なシャンプーの香りが心を搔き乱す。
心臓の鼓動が聞こえてしまうかもとか、耳まで赤くなっているのがバレるかもとか、もうそんな小さなことはどうでもよかった。
とにかく今は、この曖昧で輪郭のはっきりしないぼんやりとした感情を、どうにか言葉にしてユーニに届けなくちゃいけない。
ただそれだけのために、僕はあまり働かない頭で懸命に考え、この情けない心のありようをそのまま曝け出すことにした。
「君が思うよりずっと、僕は君を大事に思ってる。思ってるつもりなんだ。なのに、君が辛い思いをして頼ってくるたび歓喜している自分がいる。そんな浅ましい自分が嫌で、知られたくなくて……」
僕の胸板に顔を埋めたまま、ユーニは黙って聞いていた。
背中に腕を回すでもなく、こちらを見上げてくるわけでもなく、ずっと口を噤んでいる。
その無反応ぶりがなんだか怖くなって、沈黙が訪れないように僕は一層早口で言葉を紡ぎ続けた。
「君の幸福を願う反面、もっと縋って欲しいと思ってしまう。弱った様子で君が頼ってくれるのが嬉しくて、放したくなくて……。今も、う、嬉しくて、たまらない……」
「……」
「どうしていいか分からないんだ。こんな気持ち初めてだからっ。僕にとっての君は、他の誰かとは比べられないくらい大切で、特別で、尊くて、誰よりも幸せになって欲しい人で、それでいて、誰にも奪われたくない人で、ずっと放したくない人で、それから、えっと……」
僕にとってのユーニとは?
この問いに明確に答えられる適切な言葉を僕は知らない。
もしかするとシティーの人間なら答えを知っているのかもしれないが、ゆりかごから生まれた僕には知り得ない言葉なのだろう。
だから僕は、今知っている言葉、価値観の範囲内で出来るだけ素敵な言葉を選んで伝えようとした。
可能な限りユーニの心に響くような、そんな言葉を。
だが、答えがまとまり切らず言いたいことが散らかってしまった。
キラーワードを決め切ることが出来ず困惑していると、不意に腕の中で俯いていたユーニが顔を上げた。
彼女の顔がぐっと近づいてきた瞬間、その青い目は閉じられ、唇に柔らかい感触が触れる。
キスなんて今まで何度も交わしてきたのに今更胸が高鳴ったのは、初めてユーニからしてきてくれたから。
触れていた唇はほんの2秒ほどで離れていった。
僕が目を閉じる間もなく終了した口付けに驚いていると、ユーニは元々白い頬を僅かに紅潮させながら僕を上目遣いで見つめてくる。
「ユーニ……?」
「したくなった。だめだった?」
「い、いや、そんなことない!そんなわけない!」
「そっか。ならよかった」
「うん」
「……」
「……」
「……もう一回してもいい?」
「あ、あぁ、もちろん」
目を細め、ユーニは笑う。
そしてまたゆっくりと顔が近付き、鼻先が触れ合って唇が重なる。
さっきよりも長く口付けていたと思う。5秒くらいか。
柔らかい感触を味わっている間は、心が雲のように浮き上がってしまう。
たった5秒じゃたりない。たった2回じゃ足りない。
もっと長く、もっとたくさんしたい。
はじめてユーニからキスされたことで、僕のブレーキは早くも壊れつつあった。
「こういうの、シティーでは“いちゃいちゃ”って言うらしいぜ」
「いちゃいちゃ……?なにかの擬音だろうか」
「さぁな。でも、深い仲の相手とたくさん触れ合う時にするもんなんだって」
深い仲という曖昧な表現に、僕たちは該当するのだろうか。
インタリンクして命と身体を共有しているという意味では深い仲と言えるだろう。
だが、僕たちの考える“深い仲”と、シティーでの価値観で言う“深い仲”に相違があるかもしれない。
物事を深く、多面的に考えられるのは僕の長所だが、同時に短所でもある。
こんな時、単純明快な思考回路をしていたら何も考えずにユーニを抱きしめられていたのだろうか。
だが、考え過ぎてしまう僕の背中を蹴り上げるのは、いつだってユーニの役目だった。
今回も、余計なことを考え始めてしまった僕の首に腕に巻き付け、彼女は実に素直に強請って来た。
「タイオン。今アタシ、タイオンといちゃいちゃしたい」
「へ……」
「いっぱいぎゅってして、ちゅってして、いちゃいちゃしたい」
「……擬音ばっかりだな」
「嫌ならちゃんと言えよ?ワガママ言わないからさ……」
目を伏せる彼女は、どこか寂しそうにしていた。
今まで僕が君の望みを無視したことがあっただろうか。
ユーニは分かっていない。君がしたいと言えば、何だって叶えてやりたくなる僕のこの性分を。
彼女の白い頬に手を添えて上を向かせると、そのくりくりとした青い目をまっすぐ見つめて言い放つ。
「僕もしたい」
どちらからともなく目を閉じて、3度目の口付けが交わされる。
今度は食むようなキスだった。
互いの温もりを渡し合いながら、心に抱え込んだ感情を押し付け合う。
重なっては離れ、離れてはまた重なるを繰り返しながら、互いの体温はどんどん上昇していく。
痛いくらい心臓が高鳴っていた。
心がこれでもかというほど浮き上がっているというのに、まだどこか物足りなさを感じてしまう。
それはユーニも同じだったようで、暫く唇を食み合っていた彼女はゆっくりと顔を離し、熱っぽい目で僕を見つめてきた。
「なんか、タイオンとひとつになりたい」
「ひとつに?インタリンクしたいということか?」
「いやそうじゃなくて。何て言えばいいんだろう。タイオンの温もりを肌で感じていたいって言うか……。体の内側から繋がっていたいって言うか」
酷く曖昧な表現ではあったが、なんとなく言いたいことは伝わった。
そして、その気持ちに大いに共感してしまう。
こうして抱き合っていても、手を繋いでいても、口付けを交わしていても、身体の奥深くではまだ繋がりきれていないような気がする。
“ひとつになりたい”
彼女はそう表現していたが、この気持ちを的確に言い表す最適な言葉だったかもしれない。
そして、その要望に応えるため僕は頭をひねる。
身体の内側から繋がる方法を模索し、一番に思いついた方法は、今までやって来たことの応用のような行為だった。
「ちょっとやってみるから、口を少し開けてくれ」
「えっ、なん——、」
“なんで?”
ユーニがそう問いかけて来るよりも先に、僕は彼女の顎を優しく掴んで上を向かせた。
そして半開きになっている唇に噛みつくようにキスをする。
驚いているユーニの隙を突き、唇の隙間から舌を押し込んでみた。
「んんっ」
突然の出来事にユーニは戸惑っていたようだったが、彼女の舌と僕の舌が絡み始めた瞬間、彼女の抵抗は終わる。
僕が何をしようとしているのか察しがついたのだろう。
全身から力を抜くと、大人しく僕の舌に抱き着くように舌を絡めてきた。
食むようなキスから、奪うようなキスへ。
ユーニの言う、“体の内側から繋がりたい”という要望を叶える方法はイマイチ分からないが、今の僕たちにとってはこれが最適解に最も近いような気がした。
やがて舌と共に唇を離すと、頬を高潮させ惚けたようなユーニの表情が視界いっぱいに広がった。
彼女のこんな力の抜けた顔、今まで一度も見たことがない。
得体のしれない背徳感に襲われて、僕は思わず生唾を飲んだ。
「なに、いまの」
「つ、繋がりたいと言ってたから……」
「舌で繋がってみたってこと?」
「あぁ。やっぱり嫌か?嫌ならもうしない」
「ヤじゃない。むしろ……」
言い終わる前に、ユーニは今度は自分から唇を重ねてきた。
あまりに勢いよく迫ってきたせいで、鼻先が少しぶつかった。
すぐさま舌が侵入してきて、僕の舌と絡み合う。
妙な気分だ。ただのキスとは比べ物にならないくらいの幸福感がある。
それだけじゃない。頭の奥がぴりぴりして、何もかもがどろどろに溶かされていくような感覚に陥ってしまう。
これはなんだ。僕はおかしくなってしまったのか。
ユーニと舌を絡めせていると、身体が熱くて仕方ない。
「ふぁっ、タイオン……」
「ユーニ……」
「なんかこれ、やばいかも」
「ん?」
「心臓バクバクする。あたまおかしくなる。へんな気分になる」
「……そうか。でもすまない。もうやめられそうにない」
「んっ、ふぁっ」
唇を押し付けると、今度はどちらからともなく、互いを求めあうように舌が絡み合う。
羽根の生えたユーニの小さな頭を両手で掴み、髪に指を指し入れる。
彼女は少し苦しそうに吐息を漏らしていたけれど、もうやめられない。
もっと深く。もっと激しく。もっと甘く。ユーニと絡み合っていたい。
舌を絡ませ、抱き合い、囁き合い、求めあいながらも、結局僕はユーニから投げかけられた“タイオンにとってユーニとは?”の問いに上手く答えられなかった。
偽りの世界であるこのアイオニオンでは、今僕の胸の中にあるユーニへの曖昧な気持ちを正確に表現する言葉はきっと存在しないのだろう。
ならば、世界が正しい方向に向かった時、その先で待つ人々はこの気持ちを何と呼ぶのだろう。
答えは分からない。
けれど、明確な答えなど求めずともユーニの気持ちはもう分かっている。
舌を通じて流れ込んでくる彼女の気持ちは、僕を歓喜させる。
互いの気持ちを表す天秤が傾いてしまわないよう、僕も負けじとユーニに感情を押し付けるように舌を絡ませるのだった。
END