【サトセレ】
■アニポケXY
■アニメ本編時間軸
■短編
***
「せ、セレナ…?」
ベットの上に押し倒されたサトシの体の上には、馬乗りになったセレナがいる。
頬を赤く染め、瞳を潤わせ、サトシの顔をじっと見つめるセレナ。
何故こうなったのか、頭で考えるより先にセレナの手がサトシの頬に触れる。
「私、ようやくカロスクイーンになれたよ。夢を叶えたんだよ。だから……ご褒美が欲しい」
「ご、ご褒美?」
「そう。私ね、サトシことが好きなの。大好きなの。だから、他でもないサトシからご褒美が欲しい」
セレナの恍惚とした瞳はサトシを焦らせる。
縛られているわけでもないのに手足が動かない。
抵抗を許さない空気が、そこにはあった。
セレナの細く白い指が、ゆっくりと自分の胸元で結ばれている青いリボンを解く。
自らの手で衣服のボタンを次々外していくその姿はやけに妖艶で、余計にサトシの心臓を刺激する。
「お、おい!なにして……っ」
「わかるでしょ?お互いの気持ちを確かめ合うの。サトシのことが好きだから、私の全てを、サトシにあげたい」
「セレナ……」
セレナ自らの手ではだけられた服の間から、真っ白な下着が見える。
白く透明感のある肌を見て、サトシは無意識に生唾を飲んだ。
目を細めて微笑むと、セレナはベットに投げ出されていたサトシの手に、自分の指を絡ませる。
ゆっくりと近付く顔。
よく見知った整った顔がすぐ近くまでくると、サトシの胸は締め付けられる。
「受け入れて、くれるよね?」
セレナの柔らかな唇が、サトシのものと重なる。
啄ばむように重ねながら、舌が口内に伸び、サトシの舌と絡み合う。
離れては重なり、離れては重なりを繰り返すたびに、セレナは甘い吐息を漏らす。
無意識に息を止めてしまっていたためか、心臓がバクバクと鼓動を早めている。
唇を重ねている間、絡まれていたセレナの手に少しだけ力が入るのが分かった。
「んっ…くはっ」
「はぁっ……サトシぃ……」
唇を離すと、どちらのものか分からない唾液の糸が繋がる。
求めるような甘い声は、確実にサトシの理性を削っていく。
何故だろう。
先ほどまで鉛のように重かった手足がじわじわと軽くなっていくのがわかる。
「知ってるよ。サトシが私のこと、そういう風に見てないってことくらい。でも私……」
セレナは、体の重心を少しだけ後ろに反らす。
衣服の中で圧迫されたサトシの中心部が、セレナの柔らかな下半身と下着越しに擦れてしまう。
体感したことのない感覚がサトシを襲い、意識が下半身に集中する。
自分のものとセレナのものが擦れ合い、サトシはたまらなく声を漏らす。
まるで押し付けるような動きをするセレナに、サトシの体は嫌でも反応してしまっていた。
「あっ……うっく…」
「それでもいいから……そばにいさせて」
「セレナ……っ」
セレナの右目から、ツーッと涙が零れおちる。
この行動は、セレナの本意ではないのか。
こんなことをさせてしまっているのは、自分が原因なのか。
そう思うと、胸が痛くなる。
触れてやりたい。
手を伸ばそうと力を入れると、先ほどまでの重さが嘘のように手が軽くなる。
セレナの頬に触れ、零れおちる涙を拭いてやれば、彼女は一瞬だけ驚いたような表情を見せる。
そしてその手を取って、そっと指先に口付けた。
まるで飼い犬が飼い主の手を舐めるが如く。
「サトシ……好き、好きぃ……」
サトシの胸板に倒れこみ、頬をすり寄せるセレナ。
絞り出すかのような声は切なく、甘い。
こんな声を出されたら、拒絶なんて出来そうにない。
胸に頬を押し当てているセレナには、サトシの心臓の鼓動が聞こえてしまっているのかもしれない。
けれど、その音を隠すことなく、サトシはセレナの背に腕を回すのだった。
「セレナ、俺……」
「……トシ……サトシ。サトシ……!サトシってば!!!!」
**********
「うわああぁぁぁ!!!!」
絶叫とともに、テントが少しだけ揺れたような気がした。
一瞬で飛び起きたサトシに、起こしに来たセレナの方が驚いてしまう。
横で見ていたピカチュウもビクッと体を震わせ、頬袋から少しだけ放電していた。
「だ、大丈夫?サトシ」
「あ、あぁ、夢か……ん?」
寝ぼけた瞳でセレナを捉えた瞬間、サトシの顔は真っ赤に染まっていく。
まるでいつだったか風邪をひいたあの時のように。
「セっ……いだっ!」
慌てて飛び退いたため、テントの骨組み部分に思いっきり頭をぶつけてしまうサトシ。
うずくまり、頭を抱えて悶えるサトシに、セレナは焦って身を寄せる。
「さ、サトシ!大丈夫⁉︎」
「あ、あぁ、大丈夫!大丈夫だからっ!ごめんっ!!」
手を伸ばすセレナをかわすように、サトシは寝間着のままテントの外へと飛び出して行ってしまった。
突然テントから走り出て来たサトシに驚き、朝食用の食器を運んでいたシトロンは食器をひっくり返しそうになる。
椅子に座って朝食を待っていたユリーカが“おはよう”と声をかけてくるが、それに答える余裕もなく、サトシは近くの湖の前で座り込む。
湖の水でバシャバシャと顔を豪快に洗えば、ようやく目が覚めてくる。
と同時に、凄まじい嫌悪感がサトシを襲う。
*1
髪から滴る水滴を拭う余裕もなく、サトシは項垂れる。
一緒に旅をしている大事な仲間と、あんなことをする夢を見てしまうだなんて、初めての経験だった。
この後どんな顔をしてセレナと一緒にいればいいのか。
胃が痛くなるのを感じた。
「サトシ、どうしたんですかね?」
「さぁ……」
様子がおかしいサトシの姿に、シトロンとセレナは首をかしげるのだった。
シトロンが用意してくれた朝食を平らげ、荷物をまとめていつも通り森を歩く。
けれども全てがいつも通りというわけではなく、サトシだけはいつもと違っていた。
後ろを歩くセレナとユリーカとは距離を取り、シトロンと2人で前を歩いている。
いつもなら時々振り返ってセレナたちにも話しを振ることが多いのだが、今日に限っては全く振り返ってはくれない。
そんなサトシの背中を、セレナは不満げな表情で見つめていた。
「絶対避けられてる……。私なんかしたかな……」
「喧嘩したんじゃないの?」
「してないと思うけど……」
人間関係に鋭いユリーカは、サトシのおかしな様子にも気づいているらしい。
だが、彼女の言うような喧嘩らしき出来事は2人の間には発生していない。
それとも無意識にサトシを怒らせるような事をしてしまったのだろうか。
考えても考えても答えは出ない。
当のサトシも、朝起きてからため息が異常に多い。
そんなサトシらしくない様子に、シトロンは事情を問う。
「なんかさ、変な夢見て……」
「変な夢、ですか?どんな?」
「いや、それは……うーん」
まさかセレナとあんなことをする夢だとは言えるわけがない。
なんと表現していいのかと考えてみるが、サトシの語彙力では表現できそうもない。
「なんていうかその……見ちゃいけないような、夢」
「はぁ…」
さすがのシトロンもよく分からないのか、首を傾げている。
どう表現すべきか考えているうちに、夢の内容を思い出してしまい、サトシは真っ赤な顔を隠すように口元を押さえる。
あぁ、説明なんてしなければよかった。
「まぁ、一応気をつけてくださいね。正夢なんてものもあるようですから」
「正夢?」
「夢で見たことが現実に起こってしまうという現象です」
「夢で見たことが、現実に……?」
恐る恐る、背後にいるであろうセレナの方を振り向いてみる。
すると、物の見事にキョトンとしたセレナと目があってしまう。
ドキリと心臓が高鳴り、即座に目を逸らす。
あの夢で感じた時と同じ、心臓が煩い。
*2
雑念を振り払うかのように頭を横に振る。
肩に乗っているピカチュウが心配げに顔を覗き込んできたが、気にしてやれるだけの余裕はない。
もし、もしもあの夢が現実になったとしたら……。
そこまで考えて、やめた。
これ以上考えたら、セレナとまともに接することが出来なくなりそうだから。
けれど、この胸の高鳴りは、考えることをやめただけでは止まりそうもなかった。
***
陽が傾き、肌寒くなって来た頃合で、森の中に立つポケモンセンターを見つけることができた。
今晩も野宿かと覚悟していたサトシたちだったが、明かりがついているポケモンセンターを見つけて全員が安堵する。
夕食をとりながら和気藹々と会話する彼らだったが、やはりサトシの口数はどこか少ない。
全く喋らないわけではないが、セレナとのやりとりだけ妙に上の空なのだ。
微妙な空気が流れる中、机の真ん中でデデンネの寝息が聞こえてくる。
「デデンネもう寝てる」
「別名、眠り鼠ですからね」
規則正しい寝息を立てるデデンネを見て、シトロンとユリーカは微笑む。
「ポケモンも夢を見たりするのかしら?」
「見ると思いますよ。《ゆめくい》なんて技があるくらいですからね」
セレナの素朴な疑問に、シトロンが自らの見解を話す。
夢。
そのワードは確実にサトシをへこませる。
ようやく忘れられそうだったのに、穏やかな顔で眠っているデデンネのおかげで思い出してしまった。
あのモラルから外れた夢の内容を。
「どんな夢を見てるのかな?」
デデンネの小さな頬をつつきながら、ユリーカは言う。
サトシもデデンネに視線を向けながらも、正直会話の内容はあまり耳には入って来ていなかった。
何故あんな夢を見てしまったのか。
何故こんなにもあの夢を引きずっているのか。
どうもサトシには腑に落ちない。
そして落ち着かない。
チラリとセレナを盗み見れば、慈愛に満ちた表情でデデンネを見つめている。
その表情が目に入って来た瞬間、大きく胸が高鳴るのを感じた。
だってその表情は、夢の中でサトシの上に跨り見下ろしていたセレナのものと全く同じだったから。
「夢の内容は、デデンネ本人にしかわかりませんね。ただ、夢には深層心理が働くと昔から言われていますし、デデンネが望む夢を見ているのかもしれません」
「なんだ?深層心理って」
聞いたことがない言葉が耳に入り、サトシは質問して見る。
けれど、シトロンから得られた回答は、サトシにとって衝撃の事実を与えるものだった。
「心の奥にある、本人も気づかない願望、ですかね」
「えっ」
“夢には深層心理が働くと昔から言われていますし”
“心の奥にある本人も気づかない願望”
“望む夢を見ているのかも”
それって……。
「デデンネの願望かぁ。お腹いっぱいポフレを食べたい!とかかな?」
「ありえるわね、それ」
ユリーカと顔を見合わせながら笑い合うセレナに目を向ける。
その笑顔は何故かいつも以上に可愛らしく見えて、目を丸くしながら固まってしまう。
もしも、
もしも自分が見たあのインモラルな夢が、シトロンの言うような深層心理の中にある願望の現れなのだとしたら。
もしも自分が、セレナにあんなことをされたいと本当に思っているのなら。
もしも、その願望が本物ならば。
*3
笑っていたセレナが、不意にこちらにチラッと視線を向けて来た。
目と目があい、視線が合致する。
その瞬間、サトシはハッとしたように肩を震わせ、顔をそらしてその視線から逃げた。
膝の上に置いた拳に、自然と力が入る。
いま、セレナと目を合わせてしまったら、気付いてはいけない事に気付いてしまいそうだった。
それが怖かったのだ。
「………」
また、逸らされた。
何度か目があっても、今日はいつも即座に逸らされる。逃げられる。
けれど、どうしてなの?と聞くことはできなかった。
裾を掴んで顔を突き出し、何故避けるのか、何故逃げるのか問いただすこと自体は簡単だ。
けれど、問いただしたあとに聞けるであろうサトシの答えがこわい。
嫌われているという証拠の印を押されるのがつらかった。
だから、セレナはただ悲しげな顔をして俯くしかない。
サトシとセレナの間には、2人にしか見えない、薄く透明な壁があった。
**********
明日に備えて眠ろうと布団に入って2時間。
時計の秒針の音だけが寝室に響き、サトシはパッチリと目を開けながらそれを聞いていた。
枕元ではピカチュウが丸くなって眠っている。
「……眠れない」
バサっと上半身を起こし、辺りを見回してみる。
男女で寝室を分けているため、この部屋にはシトロンしかいないが、その彼も寝間着姿でスヤスヤ眠っている。
シトロンやピカチュウを起こさないようにこっそりと布団から抜け出すと、サトシは寝室の扉をゆっくり開けて外へ出る。
水でももらおうと、ポケモンセンターのキッチンへと向かう。
最近は気候が寒くなっているため、風邪をひかないように青い上着を持って来て正解だった。
それを羽織り、のそのそと廊下を歩く。
角を曲がったところで、ある一室から明かりが漏れているのが見えた。
キッチンからである。
ジョーイさんが何か作っているのだろうか。
そんなことを考えながら、キッチンを覗く。
そして、中にいた人物を見てサトシは固まってしまった。
「セレナ……」
「あ、サトシ」
キッチンにいたのは、他の誰でもない、セレナであった。
稼働しているオーブントースターを覗き込んでいるセレナは、人の気配がして振り返ったらしい。
サトシの姿を見て驚いている。
おそらくオーブントースターの中からであろうが、ケーキのようないい匂いが漂っている。
「どうしたの?サトシ。こんな夜中に」
「あ、いや…。ちょっと寝れなくて。セレナこそ何してんだ?」
エプロン姿のセレナを見ていると、何故だか落ち着かなくて、自然と目線が泳いでしまうサトシ。
オーブン用の手袋を外しながら、セレナは立ち上がる。
「ポフレ作ってるの。この前のトライポカロンで、テールナーたち頑張ってくれたから、そのご褒美にね」
「ごっ……」
ご褒美。
いま、サトシの脳内に響き渡るのは、甘えたようなセレナの声。
夢で見た恍惚としたセレナの顔。
“ご褒美が欲しい”
夢でそう言って来たセレナの姿がチラつき、息がつまる。
ああ、もう水なんてどうだっていい。
今すぐここから逃げなくちゃ、きっと、きっと、
“正夢なんてものもあるようですから”
頭に蘇る、シトロンの言葉がとどめを刺した。
「じゃ、じゃあ俺、そろそろ寝るから……」
「え!? ちょ、あの、サトシ!」
反射的に、セレナはサトシの青い袖を掴む。
そんな捕まえられ方をしては、逃げられるわけもない。
足を止めたサトシは、恐る恐るセレナの方を振り向いた。
突き刺さるセレナの瞳は、物悲しげである。
「どうして……っ」
そこまで言って、セレナは口を閉じた。
言葉を失ったというよりは、言うのをやめたと言う方が正しいだろう。
ぎゅっと握られていた袖からは段々と力が抜け、次第に手が解かれていく。
そして潤んだ瞳を隠すように、俯くのだった。
「なんでも、ない……」
「え…」
セレナが何かを言おうとしていたのは明らか。
けれど、何かに躊躇し、言葉を発することは無かった。
そんなセレナに拍子抜けし、思わず声を漏らすサトシ。
彼から手を引いたセレナは、くるりとサトシから背を向け、表情隠す。
直接見えはしないが、彼女の震える肩と目元を拭う仕草で、その表情は容易に想像できた。
「セレナ、泣いてるのか?」
「泣いてない」
「泣いてるじゃないか!」
「泣いてないってば!」
「セレナ!」
珍しく声を荒げるセレナ。
そんな彼女の手を取り、無理やり振り向かせてみれば、涙で濡れた表情がそこにはあった。
セレナは泣いている。
あの夢と同じように。
「ごめん、俺……泣かせるつもりじゃ…」
確か、あの夢でもセレナは辛そうに泣いていた。
目の前にいる彼女と夢で見た彼女。
2人のセレナの顔がリンクする。
自分は現実でも、セレナを泣かせてしまったのか。
その事実が、サトシの胸を罪悪感で包む。
あの夢と同じように、セレナの涙を拭ってやるためにその頬へ触れてやれば、彼女は驚いたような表情を見せ、すぐに視線を逸らした。
「お願いだから、もう優しくしないでよ…」
「セレナ…?」
「私のこと嫌いなくせに、勘違いするような事しないでよ」
掠れた声で言い終わると、セレナの大きい瞳から再び大粒の涙が流れる。
セレナの言葉は、サトシにとって身に覚えのないものだった。
嫌いなものか。
むしろ、あんな夢を見てしまうほどに、サトシは彼女を特別視している。
何故セレナがそんな勘違いをしたのかは分からないが、とにかく誤解を解かなければと焦る。
「嫌いなくせにって……俺がセレナのこと嫌うわけないだろ!?」
「嘘よ…。だったらどうして避けるの?どうして逃げようとするの?どうして目を合わせてくれないの?」
「そ、それは……」
理由なんて、言えるわけもなかった。
“セレナが俺の上に跨って、泣いてよがりながら乱れる夢を見た”なんて、そんな常識から外れた理由は、何としても隠しておきたい。
言ってしまえば最後、きっとセレナは自分を軽蔑し、距離を置き、そして嫌われる。
それだけは嫌だった。
セレナにだけは、ずっと笑顔を向けて欲しかった。
「私は…」
なにも言わないサトシに、セレナはまた悲しげな表情を見せる。
俯き、耳を澄ませなければ聞こえないような声量で言った。
「私はすきだよ、サトシのこと」
ドクンと高鳴る心臓の音だけが聞こえる。
目の前の少女の告白は、サトシの頭を真っ白にさせた。
“サトシのことが好き”
夢の中での彼女も、確かにそう言っていた。
そして、本物の彼女も。
*4
今は寝ているであろう金髪眼鏡の少年を思い出し、つくづく感心する。
涙を流しながら、声を震わせながら、セレナは顔を上げ、しっかりとサトシの目を見ながら言葉を続ける。
「知ってるよ。サトシが私のこと、そういう風に見てないってことくらい。でも私……」
セレナはゆっくりとサトシの胸板に身体を預ける。
頬をサトシの身体にすり寄せ、密着させる。
彼女が自分に身を寄せた瞬間、花のようなあまい香りが、サトシの鼻腔をくすぐった。
「それでもいいから……そばにいさせて」
どこかで聞いたような言葉だ。
あの時は胸が痛くなったのに、どうしてだか今は心臓がうるさい。
頭がぼんやりする。
顔が熱い。
そして何より、自分に想いを告げながら泣いている健気な彼女が、たまらなく可愛い。
こんな感覚を抱いたのは初めてだった。
この感覚をなんと呼ぶのかはサトシには分からない。
分からないが、セレナを手放したくないのは確かであった。
自分の胸で泣いているセレナの背にそっと腕を回し、頭を撫でてやれば、彼女は驚いたように息を詰める。
「セレナ、俺…。セレナのこと嫌いだなんて思ったことない。どうしてかって聞かれると言う困るけどさ」
「うん」
「そういう難しいことはよく分からないんだ。だから、曖昧な気持ちのまま、セレナに返事をすることは出来ない」
「うん……」
「でも……。俺も、その…。セレナには、そばにいてほしいと思ってる。隣でずっと笑っていて欲しいんだ!」
「………うん」
自分で抱きしめているから、セレナの表情が分からない。
だから、彼女がなにを思っているのかも分からなかった。
暗中模索するように、サトシは乏しい表現力で懸命にセレナへの想いを伝えようとする。
セレナを抱きしめる力は、徐々に強くなっていた。
「今はなにも言えない。でもいつか、自分の気持ちをハッキリ理解できる日が来ると思うんだ。だから……!」
「うん。待ってるよ。サトシが答えをくれるまで。ずっと待ってる」
「セレナ……」
少しだけ身を離し、サトシと目を合わせるセレナ。
彼女の表情から悲しみは消え、晴れ晴れとした笑顔が浮かんでいた。
やっぱり彼女は笑顔が似合う。
再び頬を自分の身に寄せてきた彼女のアタマを撫でながら、サトシはそう思う。
だが、そんな感傷に浸っていたサトシの視界に、とんでもないものが飛び込んできた。
「うわっ!せ、セレナあれ!」
「え?ああっ!ウソーッ!」
なんとキッチン奥にあったオーブントースターから真っ黒な煙が出ているのだ。
先ほどまで気付かなかったが、あたりには焦げ臭い匂いが充満している。
あのオーブンの中には、セレナ渾身のポフレが入っているはず。
サトシから離れ、急いでオーブン用の手袋をはめると、セレナは煙たちこめるるオーブンの扉を座りながら開いた。
その瞬間、見るも無残な真っ黒ポフレが姿を現し、座っていたセレナも、すぐ後ろに立っていたサトシも“アチャー”と顔を歪ませる。
「そんなぁ……」
「やっちゃったな」
こんな黒焦げのポフレをテールナーたちに食べさせるわけにはいかない。
“作り直しかぁ”と残念そうに呟くセレナに視線を向けると、再び衝撃の視界が広がってしまう。
屈んでいるセレナを、立っている状態で斜め上から見ているため、エプロンと中に着ているであろうピンクのノースリーブワンピースの間から、ちらりと胸元が見えてしまっていたのだ。
やばい!と急いで視線を逸らすが、健全な男子の脳内に浮かぶのはあの夢。そしてあの男のあの言葉。
“正夢なんてものもありますから……”
やめろ!
せっかく忘れそうだったのに!
よく見ればセレナは、あの赤い上着を脱いだ上にエプロンを着ていて、妙に露出が高く見える。
セレナのエプロン姿など何度も見ているはずなのに、そう思うとまともに見れなくなってしまう。
勝手にいたたまれなさを感じてしまったサトシは、そそくさと自分の青い上着を脱ぎ、セレナの肩にかけてやる。
不思議そうに顔を上げたセレナの目には、何故だか顔を赤く染めながら視線を明後日の方向に向けているサトシの姿が。
「サトシ?」
「そ、それ着てろよ。そんな格好じゃ寒いだろ?」
「ありがとう。でも、いいの?」
「俺は体が丈夫なの知ってるだろ?」
先日風邪をひいたばかりの人間が言うセリフではないが、ここはサトシの優しさに甘えると決め、セレナは頷いた。
いつも彼が着ているこの上着からは、サトシの匂いがする。
爽やかなお日様の香りだ。
この香りが大好きで、セレナは肩にかけられた上着を手でなぞりながら言った。
「なんか、サトシに包まれてるみたいで、あったかいね」
セレナが笑顔で言い放ったその言葉は、サトシにとってとどめの一撃になってしまった。
やっぱり、はやいとこ逃げておけばよかった。
そうすれば、こんなにも心臓がバクバクとうるさく鳴ることはなかっただろう。
「じゃ、じゃあ俺、寝るから!おやすみっ」
「え?ちょ、サトシ?」
赤くなった顔を隠すように口元を覆いながら、敵前逃亡を決め込むサトシ。
さっさとキッチンからいなくなってしまったサトシの様子に、セレナは首をかしげる。
「結局、なんで避けてたのか聞けなかったな」
しかし、サトシの気持ちをなんとなく察してしまったセレナにとっては、そんなことはもうどうでもよかった。
自分を腕に抱き、“そばにいてほしい”と囁いてくれただけで、セレナにとってはとろけてしまうほどに喜ばしい。
そんな彼女が今一番気にかけなくてはならないのは、赤くなったサトシではなく黒くなったこのポフレである。
夜が明ける前に作らなくては。
テールナーたちが喜ぶ姿を想像し、セレナは二度目のポフレ作りを開始するのだった。
一方、廊下を早足で突き進んでいたサトシは、熱がこもった顔とうるさすぎる心臓の音にイラつきながら、まるで呪文のように呟いていた。
「寝れるかな俺……。落ち着け俺……。忘れろ俺……」
2人の甘い夜は更けていく。
今夜のことは、当事者である2人しか知らず、2人の間にあった見えない薄い壁は、いつの間にか無くなっていた。
余談だが、サトシが前夜の続きを夢でまた見てしまったことは言うまでもない。
END