Mizudori’s home

二次創作まとめ

恋は急に止まれない

【サトセレ】

■アニポケXY

■アニメ本編時間軸

■短編

***

 

ポケモン用のブラシを購入したのは生まれて初めてだった。
実家にいたサイホーンは毛並みを整えるブラシなんて必要なかったし、ヤヤコマは私にはブラッシングさせてくれなかった。
そもそも“自分のポケモン”と呼べる存在を手に入れたの初めてだし、お世話のためにグッズを取り揃えるのも当然初めて。
アサメタウンを出発し、フォッコを迎えて約1週間がたった今、私は改めて自分がポケモントレーナーになったとこを実感した。

各地に点在しているポケモンセンターは、ポケモンたちは勿論のこと、トレーナーたちの疲れを癒す役割も担っている。
次の街を目指して旅を続けていた私たちは、森の真ん中に見つけたこのウッドハウス風のポケモンセンターで一息ついていた。

膝の上には身体を丸くして喉を鳴らしているフォッコ
炎タイプだからか、彼女の身体はいつもほんのり温かくて膝の上に乗せているととても心地いい。
図鑑で何度か見たことはあったけれど、こうして実物に触れる機会は今まで一度も無かったため、フォッコの毛が意外にも固いという事実を知ったのも、旅に出てからのことだった。

少しだけ固い毛皮で覆われた尻尾にブラシを通しながら鼻歌を歌う。
野宿が続くこの旅は決して楽なものではないけれど、こうしてフォッコを愛でている時は心が癒される。
まだ物心ついたばかりの頃はポケモンを怖がってばかりでマトモに触ることすら出来なかった。
けれど、いつの間にか普通に触れるようになって、野生のポケモンでも抵抗感なく撫でられるようになっていた。
いつからだろう。ポケモンに恐怖感を抱かなくなったのは。
考え始めてすぐに答えにたどり着く。
そうだ。あの時だ。ママに半ば無理矢理参加させられたマサラタウンのサマーキャンプがきっかけだ。

ふと、少し離れたソファに腰掛けている青い服の少年へと視線が向く。
右手のひらに小さなポケモンフーズを乗せ、膝の上に乗せた黄色い相棒に優しく与えているサトシ。
そのポケモンフーズを愛らしい両手で掴むと、彼の相棒、ピカチュウは嬉しそうにポケモンフーズを堪能し始める。
その様子を微笑ましく見つめるサトシの左手は、ピカチュウの尻尾を柔く撫でている。
彼の手つきはポケモンを愛でることに慣れていて、どこを撫でれば喜ぶかよく分かっている接し方だ。
サトシはこのカロス以外にも、生まれ育ったカントーを始めたくさんの地方を旅してきたという。
トレーナーとして何倍も先輩である彼を見つめながら、私は彼と初めて会った時のことを思い出していた。

あの時、私は勿論サトシも幼かったけれど、あの日の彼はすごく頼りがいがあった。
怪我をした私の足を応急手当てしてくれて、手を取って森の中から助け出してくれた。
あの日のサトシはとてもカッコよくて、なんだかまるで、王子様みたいに——。


「なぁに見てるの?」
「うわぁっ!」


サトシへと縫い付けられていた視線を阻むように、ユリーカが顔を覗き込んでくる。
突然目の前に広がったユリーカのあどけない瞳に驚いた私は、思わず大声をあげてしまう。
その拍子に、膝で眠っていたフォッコが毛を逆立てて身体をビクつかせていた。
驚かせてしまったみたい。でも、私も負けないくらい吃驚してしまった。
バクバクと主張する胸を服の上から抑えながら荒くなった息を整える。


「あぁビックリした……。驚かせないでよユリーカ」
「ごめんごめん。だってセレナ、さっきからサトシのことじーーーっと見つめてたから」
「えっ」


“あんなに見つめたらサトシの背中に穴空いちゃうよ”と言って笑うユリーカに戸惑いを覚えてしまう。
そんなに、穴が空くほど見ていたのか。
ほんの少しチラ見した程度だと思っていたのに。
なんだか恥ずかしくなって、少し離れた場所でピカチュウと戯れているサトシに向けていた身体を無理やり逸らした。


「セレナ、最近よくサトシのことよく見てるよね」
「そ、そうかなぁ?そんなことないと思うけど……」


口では否定しつつも、心はぎくりと固くなっていた。
サトシとサマーキャンプ以来の再会を果たしたのは数日前のこと。
一緒に旅を始めてからというもの、確かに事あるごとに彼へ視線が向いている事実に気付いてはいた。
ご飯を食べている時も、森の中を歩いている時も、こうしてポケモンセンターで一休みしている時も、気付けばサトシに視線を向けている自分がいる。
なぜそこまで頻繁に目で追ってしまうのか。自分なりに仮説は立てていた。
けれど、それを認めるにはまだ少し抵抗がある。
だって、前に一度会っているとはいえきちんと話すようになったのはつい最近のこと。
出会ったばかりの人にそんな感情を抱くなんて、なんとなく信じられなかったから。
けれど、“いやいやまさか”と内心否定を続ける私の横で、ユリーカは残酷なまでにストレートに質問を投げかけてきた。


「もしかして、サトシのこと好きなの?」


ど真ん中に投げ込まれた剛速球は、私の心に大打撃を与える。
“もしかしてそうかも”程度に思っていた仮説を、こうして言葉で言い表されるのは初めてだった。
いやいや。いやいやいやいやいや。
流石にそれは……。それないでしょ。だってまだちゃんと知り合って1週間程度だし。
うん。ないない。ないってそれは。


「ち、違うわよ!そりゃあすごく頼りになってリーダーシップがあって強くて優しくてかっこいいとは思ってるけど、そういうのじゃないって言うか……」
「セレナ……」


早口でまくしたてる私を、ユリーカはなんだか呆れたような目で見つめてきていた。
彼女のポシェットの中から顔を出しているデデンネも、膝の上で丸くなっているフォッコでさえも、ジトッとした目で見て来る。
なに、その目は。“それ絶対好きじゃん”みたいな目は。
違うの。そういうのじゃないの。ほんとに。違うの。
サトシのことはすごいと思ってるけど、それは憧れの対象であって恋とかそういうのじゃ——。


「セレナっ」
「は、はいっ!!!!」


突然サトシの声で名前を呼ばれ、私は反射的に背筋を伸ばしてしまった。
瞬間的に心臓が跳ね上がる。
少し離れたソファに腰掛けていたサトシが、ピカチュウを肩に乗せた状態でゆっくり歩み寄って来た。
カロス地方では珍しい彼の褐色の瞳が、私をまっすぐ捉えている。
なになになに!? 驚いて固まっている私に歩み寄ると、サトシはユリーカの隣に立って口を開いた。


「あのさ、次の街までの距離ってどれくらいだっけ?」
「えっ、あっ、ちょ、ちょっと待ってね」


一行のマップ担当は私だった。
私の二つ折り端末にはカロス地方のマップアプリがインストールされていて、基本的にはそのアプリを見ながらこの先の旅路を決めている。
どの街に向かうのか、今後の指針を決めるのは一行のリーダーであるサトシの役目である。
そんな彼からこの先の道のりの詳細を問いかけられ、私は急いでポケットから端末を取り出して開いた。


「えーっと、次の街まではもうしばらくかかりそうね。このポケモンセンターに泊まれば、到着は明日の昼頃になっちゃうかも」
「泊まらなかったらどれくらいかかるの?」
「その場合、今夜には到着できるかな」
「そっか。じゃあ今日はここに泊まっていくか」
「えっ、でもいいの?なるべく先を急ぎたいんじゃ……」


一行の次の目的地は、2つ目のジムがあるショウヨウシティだ。
ここからでは少々距離があるし、サトシのことだから一刻も早く次のジムに挑むため先を急ぎたがっていると思っていた。
先を急ぐのなら、このポケモンセンターで宿泊することなくまっすぐ次の街を目指すのがベストなはず。
にも関わらず宿泊を提案してきたサトシに、私は二つ折り端末を両手に持ちながら彼を見上げ、首を傾げる。
するとサトシは、肩に乗せたピカチュウの背中を撫でながらにこやかに言い放った。


「セレナ、疲れてるだろ?」
「えっ……」
「旅慣れしてない身体に無理は禁物だからな。今日はゆっくり休もうぜ」


そう言って微笑むと、サトシは後ろ手を振りながら去って行ってしまった。
その背を呆然と見つめながら、私はただただ目を丸くしていた。
確かに、正直言って疲労感は溜まっていた。
旅なんて今まで一度もしたことがなかったし、1日中外を歩き回った経験もほとんどない。
休みたいのは山々だったけれど、私の我儘でみんなの、主にサトシの足を引っ張るのは申し訳なかった。
疲労感が溜まっても出来るだけ態度に出ないようにしていたのだけど、どうやら見抜かれてしまったらしい。
私の疲れを見抜いたうえで気遣い、このポケモンセンターへの宿泊を提案してくれた。

なにそれ。優しい。すごく優しい。
私が疲れてるって気付いてくれた上に、そんな気遣いまでしてくれてるなんて。
心がどきどきとして、なんだか惚けてしまう。
遠のいていくサトシの背中を見つめていた私の横顔を、ユリーカはニヤニヤと笑みを浮かべながら見つめてきた。


「サトシ優しいね~?」


揶揄うようなその言葉と笑顔に、またぎくりと心が固まる。
あぁもう違う。そういうのじゃないってば。
誤魔化すように顔をふいっと逸らし、膝の上で丸くなっているフォッコの毛波をブラシで再び撫でる。
焦っていたせいか少し力が入っていたようで、フォッコが痛そうにしているのを見て慌ててしまった。
なんだか最近、サトシが関わるといつも空回っている気がする。
これはただの気のせい?それとも——。


***

その日到着したのは比較的な大きな町で、有名なブティックやヘアサロン、スイーツ店が軒を連ねていた。
様々な誘惑が手招きしているこの町で一番の名物は、ずばりバタークッキーだった。
甘く香ばしいバターの風味が美味しいこの町のクッキーは、カロス全土で広く親しまれている。
私も子供の頃からこの町のクッキーがすごく好きで、ここを訪れたら是非焼きたてを食べてみたいと思っていた。

それを素直に話すと、サトシを始めとする旅の仲間たちは興味を持ってくれたらしい。
“食べてみたい。是非行こう”と言ってくれた仲間たちを引っ張り、私は町の中心にあるクッキー専門店を訪れた。
紙箱1つ分のクッキーを購入した私たちは、テラス席に座ってさっそくそのクッキーに手を伸ばす。
焼きたては初めて食べたけれど、こんなに美味しいなんて。


「んー!すっごく美味しい!」
「でしょー?私、昔からこのクッキー大好きなんだ」
「バターの風味がすごくおいしいですね。有名になるのも頷けます」


シトロンとユリーカは、購入したクッキーをいたく気に入ってくれたらしく、ニコニコ笑顔を浮かべながらクッキーの紙箱に手を伸ばしている。
けれど、正面の席に座っているサトシだけは、何故か静かにクッキーを頬張っていた。
食べ物を前にするといつも元気よくがっついているのに、どうしたんだろう。


「サトシ、もしかしてあんまり好きじゃなかった?」
「いや、全然そういうわけじゃないんだけどさ」


もしかしたら、カントー出身のサトシの口には合わない味だったのかもしれない。
そう思って声をかけた私に、サトシはやんわりと否定する。
両手でクッキーをつまんでいるピカチュウの頭を撫でている彼は、眉尻を下げながら笑顔を見せた。
少しだけ困ったような笑顔から繰り出される次の一言は、私を容易に喜ばせてしまう。


「なんか、この前セレナが作ってくれたクッキーの方が美味いなって思ってさ」


心臓がきゅうっと締め付けられる。
トクンと心が脈打って、その言葉を聞いただけで周囲の時の流れがスローモーションになったように思えた。
 
先日、サイホーンレースで活躍したサトシのために、私は手作りクッキーを用意して手渡していた。
彼はそれを“美味い美味い”と連呼しながらものすごいスピードで平らげていたけれど、まさか今あのクッキーを引き合いに出されるとは予想外でしかない。
だって、今目の前にあるクッキーはカロス中の人々が夢中になるくらい美味しいクッキーなのに。
私の手作りクッキーが、そんなものに勝っているわけがない。
でも、サトシはそんなお世辞を言うようなタイプじゃない。
それが分かっているからこそ、とてつもなく嬉しかった。


「う、嬉しいけど、私のクッキーの方が美味しいっていうのはちょっと褒めすぎじゃないかな」
「そんなことないって。あのクッキーめちゃくちゃ美味くてびっくりしたんだぜ?な、ピカチュウ


テーブルの上に愛らしく座っているピカチュウに同意を求めるサトシ。
そんな彼の相棒は、口元にクッキーの欠片をたくさんつけながら微笑み、頷いていた。


「分かるっ!セレナのクッキー美味しかったよね」
「ですね。お店で出しても通用するレベルの美味しさでしたよ」
「あ、ありがとう……。嬉しい」


サトシに釣られるように、ユリーカやシトロンまであのクッキーの味を褒めたたえてくれた。
多分今、すごく顔が赤くなっていると思う。
なんだか恥ずかしい。
“もちろんこっちも美味いけどな”
そう言って紙箱に納まっているクッキーを1枚手に取り口に運ぶサトシは、爽やかに笑っていた。

嬉しい。サトシが私のクッキーを褒めてくれているという事実が、たまらなく嬉しい。
どうしてだろう。サトシに優しさを向けられるたび、微笑みを向けられるたび、この心は羽毛のように軽くなって舞い上がる。
これじゃまるで、本当にサトシのことが好きみたいじゃない。

不意に、正面の席に座っているサトシと視線が絡み合う。
戸惑っていると、サトシは不思議そうな表情を浮かべながら“ん?”と首を傾げて来る。
その目にまた心臓が高鳴って、“なんでもない”と首を振りながら私もクッキーへと手を伸ばした。


***

旅を始めて早くも2週間。
日々を重ねるごとに、私は今まで随分と恵まれた環境に身を置いていたことを実感していた。
アサメタウンの実家には何でも揃っていた。
怪我をしたらすぐにママが買ってきた絆創膏を貼ればいいし、髪が痛んだらドレッサーに収納してあるヘアオイルを塗ればいい。
朝寝坊しそうなら前日の夜にママに頼んで起こしてもらえばいいし、服が汚れたらママに頼んで洗ってもらえばいい。
でも、旅に出た今、頼れるママはどこにもいない。

怪我をすれば自分で絆創膏を調達しないといけないし、髪が痛んだ時に塗るヘアオイルも手が荒れた時に塗るハンドクリームも荷物になるからと全部置いてきた。
寝坊してもママが起こしてくれることはなく、服が汚れたら自分で洗濯しないといけない。
問題が起きたら何でも自分で解決しなくちゃいけないこの状況は新鮮だったけど、正直結構きつかった。

あーあ。アサメタウンに帰りたいなぁ、なんて思うことも時々あるけれど、一緒に旅を続けているサトシへふと視線を向けるたび、そんな気持ちは吹き飛んでしまう。
だって、今アサメタウンに帰ったら勿体ないじゃない。
せっかくサトシに会えたのに、傍を離れるなんて。
サトシというたった一つの存在が、いつも私を引き留めていた。

目指していたショウヨウシティは相変わらず遠く、歩いても歩いても町までの距離が縮む気配はない。
そんな状況下でも、サトシはいつも楽しそうだった。
野生のポケモンを見つけてはユリーカと一緒になって観察し、シトロンの発明品にいちいち興奮して、道すがら出会ったトレーナーにバトルを挑む。
この旅を全力で楽しんでいるサトシの姿を見ていると、旅っていいなと思える。

今夜もまた、森の端にひっそりと建っていたポケモンセンターで休息をとる。
昼間は3人ものトレーナーと戦い、そして3連勝したにも関わらず、サトシは疲れる様子など微塵も見せていない。
それどころか、夕食を食べ終わったらすぐに自分のポケモンたちと特訓のために外のバトルコートへ出て行ってしまった。

夕食を終え、フォッコの回復も終わったことを確認した私は、ユリーカと一緒にお風呂に入る。
旅の道中では、毎日お風呂に入れるわけではない。
だからこうしてポケモンセンターで入浴できるこの時間はとても貴重だった。
必然的に長風呂になってしまう私とは対照的に、まだ幼いユリーカはお風呂で長く浸かっているはどうも退屈さを感じてしまうらしい。
とっとと体を洗うと、早々に出て行ってしまった。

ユリーカに遅れること20分。
念入りに体を洗った私は、バスタオルで髪を乾かしながらポケモンセンターの廊下を歩いていた。
不意に窓の外へと視線を向けると、そこにはバトルコートでピカチュウヤヤコマを戦わせているサトシの姿が見えた。
あれ?特訓を始めてもう3時間以上も経っているのに、まだやってるんだ。
もしかして、時間経過も忘れて夢中になってしまっているんじゃないだろうか。
そう思った私は、ポケモンセンターの正面口に回って外に出ると、バトルコートへと向かった。


「サトシー!いつまでやってるのー?」


ピカチュウの10万ボルトとヤヤコマかまいたちがぶつかりあい、バトルコートには衝撃音が鳴り響いている。
その音に負けないよう大声を出してサトシの名前を呼ぶと、彼はこちらに気付き“セレナ…?”と目を丸くする。
そんな彼に歩み寄りながら、バトルコートに設置されている柱時計を指さす。


「もう10時よ?」
「えぇっ!? もうそんな時間!?」


どうやら私の予想は大当たりだったらしく、サトシは案の定時間の感覚をすっかり失っていたらしい。
柱時計を見上げ、短針が10を指していることに随分と驚いていた。
そして、腰に取り付けたモンスターボールを一つ取り出すと、“ありがとな、ゆっくり休んでくれ”とヤヤコマを戻す。
残されたピカチュウは彼の肩の上に軽々と飛び乗り、その真っ赤な頬を摺り寄せていた。


「夢中になってて気付かなかったよ。声かけてくれてありがとな、セレナ」
「どういたしまして。それより早く行かなくていいの?」
「ん?どこに?」
「ジョーイさんのところ。ヤヤコマケロマツを回復させたいって言ってたじゃない」
「うわー!そ、そうだった!」


私からの指摘に、サトシの顔色は一気に悪くなった。
このポケモンセンターに到着したのは今日の日暮れ頃。
私とシトロンは到着早々ポケモンたちをジョーイさんに預けてしまったのだけれど、サトシは“後で特訓するから”と後回しにしていた。
ほとんどのポケモンセンターには“受付時間”というものがあり、その時間を過ぎれば急患のポケモン以外は預かってくれない。
確かこのポケモンセンターの受付時間は夜10時までだったはずだ。

柱時計に視線を向けると、既に時刻は10時5分を指している。
焦ったサトシは、さっき私がバトルコートを覗いていた窓に外側から張り付くと、中の受付カウンターを覗き込む。
そして、“あー……”と掠れた声を挙げながらズルズルと膝から崩れ落ちていった。
どうやら無残にも受け付けは終了してしまったらしい。
落ち込むようにその場にしゃがみ込むサトシの背中を、ピカチュウがその愛らしい手でポンポン叩きながら慰めている。


「最悪だ……。せっかく回復させてやれると思ったのになァー……」
「残念。また明日だね」
「だな」


今日中にポケモンたちを回復させてやれなかったことが相当ショックだったのだろう。
その場に力なく座り込んだサトシは、腰から取り出した2つのボールを見つめながら“ごめんな”と謝っていた。
恐らくあれば、ヤヤコマケロマツのボールだろう。

サトシは、ポケモンたちへの接し方が特別優しい。
いつも自分のことは二の次で、ポケモンたちのことばかり優先している。
それが自分のポケモンであろうと、他人のポケモンであろうと、はたまた野生のポケモンであろうと向ける優しさの質量は変わらない。
きっとそんなサトシのポケモンになれたピカチュウたちは、すごく幸せに違いない。
私は長い髪を耳にかけると、地面に座り込むサトシの隣に並ぶようにしゃがみ込んだ。


ポケモンたちはともかく、サトシは疲れないの?」
「え?俺?」
「うん。昼間あんなに歩いて、3回もバトルして、その上3時間もぶっ通しで特訓だなんて、普通は疲れるだろうなって」
「全然全然。そういうの慣れてるし」


“な?ピカチュウ
そう言って相棒に同意を求めると、彼の手元でじゃれていたピカチュウは笑顔で頷いていた。
この2人は、私が知らないところでたくさんの旅を経験してきたんだ。
きっとたくさん大変な思いをしてきたに違いない。
私にとってはハードな1日も、サトシとピカチュウにとってはなんてことのない旅の日常でしかないのだろう。
そう思うと、隣にいる同い年の男の子がものすごく大人に見えた。
心に浮かんだこの気持ちを、私は自分でも驚くほど素直に口にする。


「サトシって、大人っぽいよね」
「え˝?」
「へ?」


“怪訝な表情”とはまさに今のサトシが見せている表情のことなのだろう。
“何言ってるんだ”とでも言いたげな目で、彼は私を凝視している。
サトシの足の上に鎮座しているピカチュウでさえも、常識を疑うかのような目で私を見ていた。
褒めたつもりだったんだけど、何か変なことを言ってしまっただろうか。


「な、なに?私、変なこと言ったかな?」
「いや、なんていうか、“大人っぽい”なんて生まれて初めて言われたからさ」
「えっ、そうなの?」
「うん。むしろ今までは“子供ね~”って呆れられることの方が多かったからさ」


“子供ね~”の部分を肩をすくませながら言った彼は、どうやら誰かの物真似をしていたようだけど、たぶん私の知らない誰かなのだろう。
サトシが子供だなんてとんでもない。
トレーナーとしても人としてもこんなに頼りになるのに、そんなのありえない。
少なくとも、今まで旅なんてしてこなかった私から見れば十分過ぎるほどに大人だった。


「サトシは大人っぽいよ!旅慣れしててすごく頼りになるし、ポケモンのことよく知ってるし、いつも明るくて前向きだし、バトルだってとっても強いし、すごくかっ——」
「……か?」
「かっ……かっ……」


“かっこいい”の一言が、喉元で突っかかる。
どうしてだろう。“かっこいい”は誉め言葉なわけだし、素直に言ってしまえばいいのに。
いつもはするりと出てくる言葉が、なんだか急に恥ずかしくなって言えなくなってしまう。
あぁだめだ。言えない。言えそうにない。サトシに面と向かって“かっこいい”だなんて。


「かっ……かっ、活発、だよね」
「活発?」
「そう、活発!元気があって積極性もあって、すごくこう、羨ましいなぁって」
「なんだそれ。なんか照れるな」


軽やかに笑っているサトシは、少しだけ嬉しそうだった。
“照れるな”なんて言っていたサトシよりも、今は私の方が照れている気がする。
今、顔赤くなってないかな。
気になって自分の両頬に手を当てていると、すぐ隣に腰かけていたサトシが膝に乗せたピカチュウの喉をすりすりと撫でながら静かに口を開く。


「俺、セレナに羨ましいって思われるほど凄い奴じゃないよ。ただ夢を叶えるためにいっぱいもがいてるだけ」
「夢、か……」


目の前に敷かれているレールならよく見えている。
ママが敷いた、サイホーンレーサーというゴールへ続くレールだ。
けれど、既に敷かれたこのレールの上を歩くことに疑問を抱いている自分がいる。
別にサイホーンレーサーになるのが嫌というわけじゃない。
でも、心からなりたいかと問われれば、答えはNOだ。

かと言って、じゃあどんなレールの上を歩きたいのか、どんなゴールに向かって歩きたいのかは未だわからない。
いつか私も何かに心奪われ、これだと思える夢に出会える日が来るのだろうか。
夢のために大きな行動を起こす日が来るのだろうか。
例えば、“旅に出よう”と決めてアサメタウンを旅立ったあの日のように。
 
そう言えば、私が旅を始めたきっかけはサトシに会うためだった。
フォッコを貰ったのも、サトシと同じポケモントレーナーになるため。
旅を続けようと思えたのも、サトシに誘ってもらったから。
私の行動原理は、全部サトシを中心に構成されている。
全ての行動を起こす理由を他人に預けている私は、なんだかすごく子供っぽい。
でもサトシは、今隣にいる同い年の男の子は、自分の力で夢を見つけ、自分の意思で旅に出て、自分自身の夢を叶えるために努力し続けている。
かっこいいな、そういうの。
なりたいな、サトシみたいに。

夢を持てば、サトシみたいにかっこよくなれるのかな?

不意に隣から視線を感じた。
目を向けると、サトシが目を丸くしながら私を見つめていた。
え?なに?もしかして今——。


「待って。今私、口に出して言ってた?」
「うん。思いっきり口に出てた」
「えぇっ」


顔から火が出るんじゃないかと思うくらい恥ずかしかった。
ピカチュウと一緒にキョトンとした顔でこちらを見てくるサトシからの視線が痛い。
あんなに言えなかった“かっこいい”が、無意識に喉を通って口から飛び出してしまっていただなんて。
素直すぎる自分が恨めしい。
顔を逸らして頭を抱える私の横で、じっとこちらを見つめていたサトシが“クスッ”と笑みを漏らす気配がした。


「さっきからどうしたんだよセレナ。なんか、俺を喜ばそうとわざと褒めまくってないか?」
「ち、違っ、そういうつもりはないんだけど……!」
「ふぅん?」


こちらの様子を伺うような、揶揄うような、そんな不敵な笑みを浮かべながらサトシは私を見つめてきた。
何が恥ずかしいって、口にした言葉が全部冗談やお世辞などではなく本心だったこと。
するすると口から出てしまう言葉たちに一番戸惑っているのは私自身だった。


「けどさ、意外だよな。セレナが“かっこよくなりたい”なんて」
「どうして?」
「セレナってどちらかというと、“かっこいい”より“かわいい”を目指してるのかと思ってたから」


ピカチュウの頭を撫でながら、サトシは言う。
どうやらもう眠たいらしく、ピカチュウは主人であり大親友でもあるサトシの膝の上で丸くなって眠り始めていた。
時にはかっこよく、そして時には可愛らしく振舞っている彼のピカチュウに視線を落としながら、私はサトシからの問いに答える。


「もちろん可愛くもなりたいけど、憧れるのはカッコイイ人かな。具体的な夢とかはまだないけど、私、とにかくカッコイイ人になりたいの」
「そっか。カッコイイ人か」


なんだか曖昧で抽象的すぎたかもしれない。
言葉で言い表せる具体的な夢なんてまだない私だけど、憧れはある。
かっこよくて、皆に影響を与えられるような人になりたい。
このふわふわとした頼りない憧れを、サトシは笑わずに聞いてくれた。
そして、相変わらず眠っているピカチュウの背中を優しく撫でながら彼はさらりと言う。


「まぁ、セレナはもう“可愛い人”を目指す必要ないもんな。今のままで充分だし」
「えっ——」


流れるように言い放たれた言葉が頭に引っ掛かって、思わずサトシの方を見つめてしまう。
なんだか含みのある言い方だ。
その言い方だと、“既にセレナは可愛い”と言ってくれているように聞こえる。
気のせいだよね?相手はサトシだもの。そんな深い意味、あるわけない。
けれど心臓はやけにうるさく主張を強め始め、私から呼吸を奪っていく。
戸惑う私を見つめ、サトシは胡坐をかいた膝の上に頬杖を突きながら目を細めて、顔を少しだけ近づけながら笑いかけてきた。


「じゃあ、お互い“カッコイイ人”になれるように頑張ろうな、セレナ」


大人に見えていたサトシのあどけない笑顔が、すぐそばにある。
近い。少し近づけば鼻先が触れ合ってしまうんじゃないかと思うほどに、近い。
 
あれ。おかしい。息が出来ない。心臓がバクバクしてる。思考がとろける。目頭が熱くなる。鼻の奥がつんとする。顔に熱がこもる。
駄目だよ私。気付いちゃダメ。その感情に気付いたら、もう戻れなくなる。
サトシのこと、ただの憧れの対象には見れなくなっちゃう。
だから駄目。今すぐ顔と心を逸らさなきゃ。
分かってはいたはずなのに、目を逸らすことが出来ない。
心を誤魔化すことも出来ない。
加速する心臓の鼓動が、恋心の到来を私に教えてくれていた。


「っ!」
「セレナ?」


衝動的に立ち上がる。
必然的にサトシの視線も立ち上がった私へと向けられ、彼の褐色の目が私の顔を見上げている。


「あのっ、えっと、そ、それじゃあ私、もう行くね。お、おやすみっ」


これ以上ここにいちゃいけない。
心がサトシによってぐちゃぐちゃに掻き回されて、破裂してしまうかもしれない。
逃げなくちゃ。一目散に逃げなくちゃ。
そう思い背を向けて歩き出そうとした私の手を、サトシは何故か引き留めるように掴んできた。
心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うくらい吃驚した。
突然何っ!?
驚いて振り返ると、私の手を掴んだサトシは口元に小さな笑みを浮かべながら私をまっすぐ見上げていた。


「あのさ、暇なときでいいから、またあのクッキー作ってくれよ」
「く、クッキー……?」
「そう。めちゃくちゃ好きなんだ、セレナのクッキー」


魔性、という言葉を知ったのはつい最近のことだった。
女の人にしか使わないと思っていたけれど、男の人にも使える言葉だったなんて知らなかった。
サトシって怖い。私が自覚した途端こういうこと言うんだもん。
いや、もしかしたらもっと前から言われ続けていて、ただ気付いていないだけだったのかもしれない。
どちらにせよ、サトシは怖い。
自覚した瞬間、私の心をぎゅっと掴んで放そうとしないんだもの。
やっぱり駄目だ。気付くべきじゃなかった。
この感情に気付いた以上、このカロス地方を巡る私の旅は、きっと波乱に満ちたものになる。
これは予感ではない。確信だった。


「わ、分かった。今度また作るね」
「サンキュー、楽しみにしてる」


私の手首を掴んでいたサトシの手が、ようやく離れる。
触れていた手が離れていったことを確認すると、私はゆっくりと歩き始めた。
ポケモンセンターの正面入り口に回って屋内に入ると、廊下を進んで2階の宿泊部屋を目指す。
 
ゆっくり歩いていた足は速足に変わり、そして駆け足に変わる。
ドタドタと派手な音を立てて階段を上がり、4人で一緒に泊る予定の部屋の中へと飛び込んだ。
中にいたのはユリーカだけで、シトロンの姿はない。
恐らくどこかで発明品の調整をしているか、お風呂にでも行っているのだろう。
部屋に飛び込み、勢いよくドアを閉めた瞬間、私は力なくドアに寄りかかった。
そして、赤くなった顔を隠すように口元を覆い、乱れた息を懸命に整える。


「――っ、」
「セレナ……?」

 
戻ってきて早々様子がおかしい私を不審に思ったのか、デデンネと戯れていたユリーカが不思議そうに首を傾げながら“どうしたの?”と問いかけてくる。
言えるわけがなかった。“サトシのことをたった今好きになりました”なんて。

“なんでもないっ”と半ば叫ぶように言い放つと、自分のベッドに飛び込んで頭から毛布をかぶる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
心臓が信じられないくらいバクバクいってる。体の奥がムズムズして仕方ない。
“もしかしてそうかも”程度にしか思っていなかった仮説が、物凄いスピードで“現実”に変わった。
好きなんだ。私、サトシのことが好きなんだ。

あれっ、ちょっと待って。私さっきすごく恥ずかしいこと言わなかった?
カッコイイとか頼りになるとか……。
あぁもう最悪。恥ずかしい。死にそう。
強引に帰ってきちゃったけど、変に思われてないかな?
挙動不審な奴だって思われてないかな?
だって仕方ないじゃない。あのまま一緒にいたら顔が真っ赤になってただろうから。

そう言えば私、こうやって誰かを好きになるのは初めてかもしれない。
誰かを好きになるって、こんなにドキドキするものなんだ。
 
サトシは好きな人っているのかな。
色んな地方を旅してきたらしいし、きっと色んな女の子と出会ってきたんだろうな。
私より可愛い子もきっといただろうな。
サトシはどんな子が好みなんだろう。
可愛い子?明るい子?クールな子?お洒落な子?分からない。
でも、少なくとも今の私はきっと彼の好みじゃない。
だって私、サトシに比べて子供過ぎるもの。
 
まだまだ旅には慣れてないし、ポケモンバトルもまともに出来ないし、それに夢も目標もない。
せめて何かしら具体的な夢が見つかれば、サトシと二人で夢を語り合ったり、そういう素敵なことも出来るかもしれない。
夢に向かって全力で頑張る“かっこいいサトシ”に相応しくなれるかもしれない。
でも、夢なんて見つけようと思って見つけられるものじゃない。
夢見る乙女になるためには、いったいどうしたらいいんだろう。


「私も早く夢見る大人になりたい……」
「夢なら寝ればいいと思うよ」


“眠りネズミ”の通称を持つデデンネを両手に抱えながら、隣のベッドに腰かけていたユリーカは私の独り言に反応した。
違う。そうじゃない。私の言う“夢”はその“夢”じゃない。

あぁもう、なんだかさっきから空回りしてばかりだ。
もっとちゃんとしたいのに。
当面の目標は、“かっこいい人”になるためにちゃんと夢を見つけることね。
夢を見つけることが出来れば、きっと憧れのサトシにも1歩近づける。
とはいえ、夢を見つけるなんて簡単にできることじゃない。
まずはやれることから始めなきゃ。
今の私にやれることといえば、ただ一つ。


「クッキーだ!クッキー作ろう!」
「えっ、急だね……」
「でも今日は眠いからもう寝る!」
「そ、そっか。おやすみ」


毛布をきちんとかぶり、枕に頭を乗せた私に、ユリーカが“おやすみ”を言ってくれる。
返事を返して目を瞑るも、一向に眠れる気配がしなかった。
何故なら、瞼の裏に張り付いたサトシの笑顔が邪魔をするからだ。
 
あぁもう。今は寝たいのに。
人を好きになると、どうやら寝不足に苛まれるらしい。
明日目の下にクマが出来てたらどうしよう。
そんな顔をサトシに見られるなんて死んでも嫌。
意地でも寝なきゃ。
でも頭の中に浮かぶサトシの顔がめちゃくちゃ安眠を妨害してくる。もう嫌。
私の知らぬ間に走り出してしまったこの感情は、ブレーキなんかとっくにきかなくなっている。
今さら急ブレーキをかけたところで、恋は急に止まれない。
波乱の幕開けを予感しながら、私は布団の中でぎゅっと目を瞑った。

 


END