【ノアミオ/タイユニ/ランセナ】
■ゼノブレイド3
■現パロ
■長編
act.31
「あなた意外に甘党なのね」
カフェで購入したキャラメルマキアートのカップに口をつけているタイオンに、ニイナはエスプレッソのカップを片手に言ってきた。
そんな彼女に、タイオンは“まぁな”と相槌を打つ。
ノア、ランツ、ユーニの3人が意気揚々と買い物に出ていた同じ日の昼過ぎ。
タイオンは大学の同期であるニイナと一緒に映画館を訪れていた。
持ち込みOKであるこの映画館のルールに従い、2人は昼食兼時間つぶしのために入ったカフェで購入した飲み物を片手に上映時間を待っていた。
券売機と売店が並んでいるレジの上には、最新の映画の予告が流れている。
少々早く到着してしまった2人は、その予告を見上げながら適当に世間話に花を咲かせていた。
鑑賞する予定の映画は、この映画館で行われているクラシカル特集のうちの一作、ローマの休日である。
ニイナの画策通り、クラシカル特集のキャンペーンとカップル割で破格の安さでチケットを購入できた。
もはや今手に持っているコーヒー代の方が高いほどである。
「楽しみね、ローマの休日」
「そうだな。名作だがこうしてちゃんと鑑賞するのは始めてだ」
「あらそうなの?名作と呼ばれるに相応しい作品よ?ラブロマンスの定番ね」
「ラブロマンスねぇ……」
そんな映画を、ニイナと観に来てしまってよかったのだろうか。
特別講義の課題とはいえ、流石にカップル割でローマの休日はちょっとやり過ぎなんじゃないだろうか。
手元のチケットを前に、タイオンは今更複雑な気持ちになっていた。
いやいや何を今さら。これは課題のための映画鑑賞であって別にやましいことなど何もない。
たとえあったとしても別に自分には彼女がいるわけでも何でもないのだから別にいいじゃないか。
いちいち気にするようなことじゃない。
やがて上演時間が迫り、2人は館内に入る。
大きなスクリーンと向かい合うように並べられている椅子には誰も腰掛けておらず、どうやらほとんど貸し切りの状態のようだった。
中央の席に並んで座ると、ニイナはスマホをマナーモードに設定しながら話しかけてきた。
「それにしても、貴方とこんな恋愛映画を見に来ることになるなんてね」
「誘ったのは側が今さら何を言う」
ニイナとタイオンは大学入学以来受講していた授業が何度かかぶっていたこともあり、友人としての付き合がかなり長かった。
聡明なニイナとは話しが合う。性格も自分とよく似ていることもあり、タイオンにとっては気を遣わず会話できる貴重な女友達と言える。
時折同じ学部の友人から“付き合ってるのか?”と聞かれることもあったが、正直彼女を異性として見たことは一度も無かった。
恐らくそれはニイナも同じなのだろう。
先ほどから楽しそうに薄く微笑んでいる彼女は、この状況を面白がっているように見える。
「でもよかったの?私と来て」
「どういう意味だ?」
「もし彼女がいるなら怒るんじゃない?」
「生憎そんな相手はいない」
「じゃあ、好きな人は?」
「……いない」
「いるのね」
「いないと言っただろ」
「間があったわ。誰かの顔を思い浮かべた証拠ね」
間があったのは確かだった。特定の一人の顔が思い浮かんだのも確かだ。
瞼の裏に浮かんだユーニの顔を一瞬で振り払ったものの、この間はニイナに不信感を抱かせてしまったらしい。
彼女の無駄に勘が鋭いところが苦手だった。
この洞察力の塊のような友人の前では隠し事など出来そうにない。
言葉を失っていると、都合よく映画館内の照明が暗くなっていく。
どうやら上映開始時刻がやってきたようだ。
都合の悪い話題を強制的にシャットダウンしてくれたこの状況に感謝しつつ、タイオンはスクリーンを見つめた。
ローマの休日は、かの有名なオードリーヘップバーン主演のロマンス映画である。
オードリーを一躍スターに押し上げるきっかけとなった作品であり、後世にまで語り継がれる名作と言える。
主人公は某国の王女アン。ヨーロッパ各国を訪問中だった彼女は、疲労を募らせた末、自由を求めて大使館を飛び出してしまう。
そこで出会った新聞記者ジョーは、王女である彼女のスクープを狙ってローマ観光に同行することになる。
ローマの名所を巡るうち心を通わせていく2人。
だが、2人は互いに想いを伝えることなく離別してしまう。
本来の立場に戻って再会した2人は、開かれた記者会見で「印象的だった訪問地はどこですか?」「ローマです」と、新聞記者と王女の立場で言葉をかわすのだった。
やがてエンドロールが流れ始め、館内が明るくなったタイミングで2人は映画館を後にした。
時刻は17時。
帰宅するには随分と微妙な時間だったため、どうせなら一杯飲んで帰るかという流れになり、2人はニイナの行きつけだというバーに入った。
薄暗い店内はカウンター席が並んでおり、女性のバーテンダーが出迎えてくれた。
ジントニックとホワイトレディで乾杯した2人の話題は、さっそく数十分前に鑑賞した映画の話題にシフトしていった。
あのシーンが良かった、このシーンの意図はきっとこうだった。
2人の語らいはアルコールが進めば進むほど盛り上がっていく。
やがて、ニイナが2杯目のホワイトレディを飲み干したタイミングで、彼女は頬を紅潮させながら物語の核心に疑問を投げかけた。
「ねぇ、どうしてあの新聞記者は王女に想いを伝えなかったんだと思う?」
「釣り合わないと思ったんだろう。なにせ相手は王女だからな。分不相応な相手だ」
「なるほどね。私は仮にも王女のスクープ目的で近づいたことへの罪悪感のせいだと思ってたけど」
「当然それもあるだろうがな」
空になっていたタイオンのグラスが下げられ、バーテンダーによって4杯目のジントニックが運ばれてくる。
氷をカラカラと鳴らしながらグラスを傾ける彼の横顔を見つめつつ、ニイナは頬杖をついた。
「タイオンって」
「ん?」
「恋愛において相手と自分の社会的地位とか人間的価値の釣りあいを気にするタイプ?」
「なんだ急に」
「さっき言ってたあなたの好きな人って、あなたにとって高嶺の花の様な存在なのかなって思って。あの映画の王女みたいに」
当てずっぽうなのか、それとも確信があるのか分からないが、すぐ隣に座っているニイナはタイオンの顔を覗き込みながらずっと不敵な笑みを浮かべている。
それなりに酔っているのだろう。
ただでさえ垂れている目尻が一層下がり、頬は僅かに紅潮している。
これは面倒な酔っぱらいに絡まれたものだ。
少々気怠さを感じながら、タイオンはまたグラスを煽った。
「好きな人がいるとは一言も言っていないだろ」
「じゃあいないの?」
「いない。いるわけない」
「なら質問を変えるわ。貴方の友人、知り合いの中で、一番魅力的だと思う人はだぁれ?」
“魅力的”という曖昧で定義のはっきりしない言葉に、タイオンは戸惑った。
やはり一番に浮かんだのはユーニの顔。
好きとは認められないが、彼女の人間的魅力は確かなものである。
好きじゃない。好きじゃないけれど、彼女は間違いなく魅力的だ。
否定しようのない事実に、タイオンは少しだけ赤らむ顔を隠すように頬杖を突く。
「君の知らない人だ」
「知らない人なら教えてよ。どういう人なの?どういうところに魅力を感じたの?」
「……すごく、優しい人なんだ」
「優しい?」
「友達思いで、強がっているくせに繊細なところがある。そんなところがすごく……」
「好きなのね」
「あぁ……。アァッ!?」
まるで誘導されるような質問の仕方に、タイオンはまんまと引っ掛かってしまった。
無意識に自分の口からこぼれ出たYESの回答に、タイオンは狼狽する。
そして、先ほどまでの冷静さが嘘のように騒ぎ立てながら否定し始めた。
「ち、違う!好きじゃない!魅力的だとは思うが別に好きなわけじゃない!」
「いまどきツンデレは流行らないわよ?」
「誰がツンデレだ!」
ユーニが魅力的であることは確かだ。
だが、別に恋愛的感情を抱いているわけではない。
危なかった。危うくユーニを好きだと易々と認めてしまうところだった。
そんな無様は是非とも避けたい。
先ほどまで一切酔った様子を見せていなかったタイオンだが、“好きな人”の話になった途端急に顔を赤くして狼狽し始めた。
そんな彼の様子に、ニイナは確信していた。
なるほど、手の届かない相手に恋をして、必死で違うと言い聞かせているのね、と。
2人が通っている大学は全国的に見てもレベル難く、さらに所属している法学部は大学内で最も偏差値が高い学部でもある。
そんな法学部の、さらに3年の首席であるタイオンは、頭脳だけで見れば間違いなくエリートである。
更に、随分前に世間話の一環で彼の実家について聞いたことがあった。
遠い田舎にあるという実家は温泉旅館の看板を掲げていて、地元ではかなり有名な名旅館なのだという。
江戸時代初期から続いているという歴史あるその旅館は、地元の有力議員や芸能人が泊まりに来るほどの宿であり、かつては皇室御用達として世間に知られていた。
そんな旅館の長男であるタイオンは、家柄も保証されている。
学力も高く、家柄もいい彼が引け目を感じる女性とはいったいどんな人なのだろう。
「もしかして、その人と自分を比べて卑屈になってるんじゃない?自分と相手は釣り合ってないとか思ってるんでしょ?」
「それは……」
図星だった。
男友達も多く、モテる彼女の隣に自分が相応しいとは思えない。
モテる人は選択肢が多い。星の数ほどある選択の中から自分が選ばれる保証などどこにもないのに、身の程を知らずに突撃し、無様に玉砕するなんて御免だ。
自己肯定感の低さとプライドの高さが、タイオンから素直さを奪っている。
彼をよく知るニイナには、タイオンのそんな心情が透けて見えるようだった。
「貴方、相手を神格化しすぎなんじゃない?」
「神格化?」
「手の届かない存在だと思い込んでるから卑屈になるのよ。案外相手も、自分の手の手が届くところにいるかもしれないわよ?」
そう言って、ニイナはバーテンダーによって運ばれてきた新しいホワイトレディのグラスに口をつけた。
ニイナの言葉に、タイオンは全くと言っていいほど共感出来なかった。
彼女はユーニを知らない。だからそんなことが言えるんだ。
彼女は人を勘違いさせる天才だぞ。
いつも僕を揶揄っているだけで、その気なんてないに決まってる。
負けると分かっている勝負を仕掛けるほど、僕は馬鹿じゃない。
その後もニイナはタイオンの“好きな人”が誰なのかしつこく聞き出そうとしていたが、結局が彼が口を滑らせることは無かった。
***
ニイナが本格的に酔っぱらってきたタイミングで、2人は解散した。
彼女をタクシーに乗せ、自分は電車で帰宅の途に就く。
ウロボロスハウスに到着したのは、23時ごろのことである。
鍵を差し込み玄関に上がると、どうやらルームメイトたちは全員家にはいるようだが各々の部屋に引っ込んでいるらしい。
自分もシャワーを浴びてとっとと寝ようと思いながら廊下を進むと、リビングの方からぼんやりと明かりが漏れていることに気が付いた。
恐らくキッチンの明かりだけがついているのだろう。
誰かが消し忘れたのかもしれない。
電気を消すためリビングに入ったタイオンだったが、薄暗い部屋の中で食卓に腰掛けている背を見つけて思わず肩を震わせた。
「うおっ、ゆ、ユーニ!? いたのか」
「……おかえり」
キッチンの明かりだけがついた薄暗い部屋の中で、ユーニだけが食卓に腰掛け背中を丸めていた。
まさか人がいるとは思わず驚きの声を漏らすタイオンに、ユーニはゆっくりと振り返る。
か細い声で囁いた彼女の目には、何故か涙が溜まっていた。
泣いているらしいユーニの様子にぎょっとしてよく見て見ると、食卓の上には空になった2本の缶チューハイと、鼻をかんだであろうティッシュの塊が散乱している。
「え?ど、どうした?」
「別に。なんでもねぇよ」
「いや、何でもないわけないだろ。嫌なことでもあったか?」
暗い部屋で何故か1人泣いているユーニを前に、放置など出来るはずがなかった。
今朝は普通に元気そうにしていたし、買い物に出かけた後なにか辛い出来事に遭遇したのだろう。
流石に心配になったタイオンは、食卓の椅子に腰かけているユーニのすぐ隣の席に腰掛けた。
キッチンの電気しかついていないリビングは未だ薄暗いままだが、部屋を明るくするとユーニの泣き顔を正面から見る事になる。
彼女の性格上、泣き顔を見られるのは抵抗があるだろう。
暗いままにしておいたのは、タイオンなりの気遣いだった。
「嫌なことって言うか……」
「うん」
「自分が嫌になったっていうか」
「うん?」
「タイオンさぁ、ランツとセナのこと知ってた?」
「というと?」
「ランツがセナのこと好きだったこと」
「あぁ……。察してはいたな」
「……やっぱ、アタシだけ知らなかったのかよ」
鼻声で囁かれたユーニの言葉に、タイオンは少しだけ驚いてしまった。
むしろ知らなかったのか、と。
タイオンがランツの気持ちを知ったのはディスティニーランドの帰りの車内でのこと。
その時ユーニは眠っていたが、彼女はランツの幼馴染である。
それなりに長い付き合いである彼女なら、ランツの気持ちにも気づいているとばかり思っていたのだ。
「ランツはさ、昔から恋愛の優先順位が低くて、彼女が出来ても放置してばっかりだったんだ。それで泣いてる子もたくさん見てきた。だから、セナもそうならないようにって思って、最悪なこと言った……」
「最悪なこと?」
「“ランツなんかやめとけ。付き合ったってどうせロクなことにならない”って」
「あぁ……。なるほど」
ユーニが何故こんなにも落ち込んでいるのか、ようやく察しがついた。
友達思いな彼女のことだ。おそらくセナに言い放ってしまった一言を悔い、罪悪感を感じているのだろう。
そんなタイオンの予想通り、ユーニはテーブルに突っ伏しながら本格的に泣き始めてしまった。
「アタシ最悪じゃね!? ランツの気持ちなんにも知らないくせに“やめとけ”なんて言うとかさァ!何様って感じじゃね?どの立場からもの言ってんだよ!セナのこと考えてるふりして、結局自分の意見押し付けてるだけだったんだよアタシは……!」
「ゆ、ユーニ……」
「ミオの時もそうだ。ミオがストーカーに遭ってたこと知ってたの、ノア以外だとアタシだけだったのに、あぁいう事態になるまで何も気づかなかった!気付いてやるべきだったのに……。ミオやセナの力になりたかったのに全然ダメじゃん。超自分勝手じゃん。最悪……」
もう既に解決しているミオの問題まで持ち出し、ユーニは自分を責め始めた。
彼女はいつもポジティブな性格ではあるが、繊細な部分も持ち合わせている。
泣いたり悩んだりすることも多い彼女だったが、こうして喚くように泣いている姿は初めて見た。
どんな言葉をかけるべきか悩みながら、タイオンはたどたどしくユーニの背中をさする。
「気持ちはわかる。でも君はセナのことを思って言ったんだろう?優しさからくる行動じゃないか。泣くほど悔いるようなことじゃない」
「けどさぁ……」
「ミオのことに関してもそうだ。知っていたとはいえ、君とミオは別の人間だ。何でもかんでも把握できるわけがない」
テーブルに突っ伏していたユーニが顔をあげる。
涙で濡れた目が赤く腫れている。
いつも元気で明るい彼女の表情が、後悔と自責の色に染まっている。
その表情を見つめながら、タイオンは彼女の背中を優しくさすり続けた。
「君は自分勝手だと言うが、そんなことない。そんな風に友達のことを思って泣ける人はなかなかいない。君のそういうところは、すごく、その……。す、」
タイオンはその先の言葉をいったん咀嚼し、飲み込んだ。
真っすぐ見つめて来るユーニの視線に貫かれながら、少し声を震わせ言葉を振り絞る。
「す、素敵、だと、思う」
「素敵?」
「そう。誰にもできる事じゃない。ミオもセナも、ユーニのそういう優しいところ、よく分かってると思うぞ」
タイオンを見上げるユーニの瞳は、涙で濡れながら熱を帯びていた。
彼の言葉を真っ向から受け取ったユーニは、泣き止むどころか一層瞳から涙をあふれさせる。
そして再びテーブルに突っ伏してしまう。
「もう最悪……。タイオンにまで気ぃ遣われた……」
「いやいやっ、本心で言ってるんだぞ?別に気を遣ったわけじゃ……」
「……ホントか?」
「本当だ」
また泣きだしてしまったユーニに焦り、早口でフォローするタイオン。
そんな彼の優しさに触れ、ユーニは再び突っ伏した顔を挙げてた。
自分を見下ろしている彼は、心配そうな優し気な目をしている。
タイオンの目をまっすぐ見つめながら、揺れる瞳で彼女は囁いた。
「ありがとな、タイオン。お前のそういう優しいところも素敵だと思う」
「そ、そうか……?」
「うん」
贈った言葉をそのまま返され、タイオンは顔を赤くした。
頭を掻きながら視線を逸らす彼に、ユーニは涙をぬぐいながらいつもの笑顔を見せる。
「ねぇ、優しいついでに頼んでいい?」
「ん?」
「ハーブティー飲みたい。淹れてくんない?」
甘えるような瞳と声に、“面倒だ”なんて言えるわけがない。
なんだその強請り方。可愛いにもほどがあるだろ。
“仕方ないな”とわざと悪態をつきながら、タイオンは食卓から立ち上がる。
「ありがとな!流石タイオン。優しくてイケメンだな」
「調子がいいな君は……」
キッチンに立ち、ハーブティーの用意をしながらタイオンはチラチラとユーニの様子をうかがっていた。
缶に残っている酒をちびちびと煽りながら、彼女は涙を拭いている。
危なかった。危うくユーニに言うべきではない言葉を言ってしまうところだった。
“そういうところがすごく好きだ”なんて、言えるわけがない。
今思えば、彼女を特別視し始めたのも、こうしてあの不器用な優しさに触れたことがきっかけだった。
タイオンとユーニは、大学入学直後からちょっとしたことがきっかけで顔見知り程度にはなっていたが、親しいとは言えない関係だった。
2人が親しくなったのは、2年に進学した後の学部間交流会という名の飲み会でのこと。
学部の垣根を越えて交流を深めようという前提のもと呼ばれた飲み会には、先輩学生の姿も数多くあった。
中にはあまりいい噂を聞かない先輩もいて、出会い目的で参加している下心丸出しの学生もいた。
そんな学生たちを中心に、大人しい女子学生に必要以上に酒を飲ませようとする流れが生まれ始めてしまう。
ターゲットにされていた女性は、外国語学部の大人しそうな女性だった。
しつこく彼女に酒を飲ませようとしていた男の先輩に、彼女は迷惑そうにしながらも何も言えず、仕方なさそうに苦笑いを浮かべながら酒を少しずつ飲んでいた。
だが流石に限界が近いようで、彼女は顔は勿論首元まで赤く染まっていた。
そろそろまずい。止めようかと思ったその時だった。
彼女の隣に座っていたユーニが、運ばれてきた彼女の酒のグラスをひったくったのだ。
“これ、飲まないならアタシが貰うからな?”と言って。
その後、ユーニは彼女に酒が押し付けられるたび密かにひったくり、代わりに飲んでやっていた。
厄介な男の先輩は、明らかにこの大人しい女性を酔いつぶそうとしている。
それを守るために、ユーニはわざと酒をさばいていたのだ。
きっと相当酒に強いのだろう。
そう思っていたのだが、30分後、トイレに立ったとき廊下で苦しそうにうずくまっているユーニを見て驚いてしまった。
どうやら彼女はそこまで酒に強いわけではなく、大人しいあの女性を守るために2倍の速さで酒を煽ったせいで完全に悪酔いしてしまったらしい。
どうしてそこまでして割り込むんだ?と聞くと、彼女は酔いが回った虚ろな目で呟いた。
“あのままじゃ絶対危ないだろ。放っておけるかよ”と。
後で知ったことなのだが、あの大人しい女性とユーニは同じ学部の友人だったらしい。
男に必要以上に酒を勧められている友人を守るため、自分も限界になりながら頑張っているその姿に、タイオンは心を鷲掴みにされた。
ユーニは“あの子を放っておけない”と言っているが、ダウン寸前のユーニの方が放っておけない。
タイオンは例の女性を無事家に帰すことを約束し、ユーニのためにタクシーを呼んで帰らせた。
その後、女性の方も適当な理由を着けてこっそりと連れ出し、同じようにタクシーを呼んで帰らせた。
あの日以来、タイオンとユーニは友人として頻繁に話すようになった。
キャンパス内ですれ違った時は必ずユーニの方から声をかけてくるようになり、2人で飲みに行こうと誘われることも多くなった。
今思えば、あの日ユーニの優しさを垣間見た瞬間から、彼女に惹かれていたのかもしれない。
口は悪いが友達思いで優しい彼女のことを、僕はずっと好ましく思っていた。
けれど、この気持ちが恋愛感情だと認めるわけにはいかなかった。だって、彼女は自分には到底手が届かない場所にいる人だから。
ようやくハーブティーを淹れ終わったタイオンは、カップを持って食卓へと置いた。
香り立つハーブティーを前に、ユーニは泣きはらした目を輝かせる。
そして“ありがとな”とお礼を口にすると、彼女は両手でカップを持ち上げ、フゥーフゥーと息を吹きかけ冷まし始める。
その仕草がやたら可愛らしくて、心がむずむずしてしまう。
恐る恐るカップを傾けてハーブティーを飲むと、ほっと安堵したように彼女は目を細めた。
「うまぁ」
吐息と共に呟くユーニ。
いつも明るくて前向きな彼女だったが、今日ばかりは少しだけ弱っているように見える。
珍しく人目を憚らず涙を流し、自責の念にかられている彼女はいつもより距離が近く感じた。
ユーニはいつも遠いところにいて、どんなに手を伸ばしても届かない場所にいると思っていた。
けれど今の彼女は、すぐ近くにいる。
“案外相手も、自分の手の手が届くところにいるかもしれないわよ?”
脳裏でニイナの言葉が反響する。
なんとなく、無意識に、タイオンはユーニの方へ手を伸ばした。
そして彼の褐色の手が、ユーニのミルクティー色の髪に触れる。
優しく頭を撫でるその感触に驚き、ユーニは目を丸くしながら顔を挙げた。
視線と視線が混じり合う。
ユーニの瞳に、惚けた様子で見下ろしている自分の姿が映った瞬間、タイオンはハッと我に帰り即座に手を引っ込めた。
「す、すまないっ、馴れ馴れしくして」
「いいよ、別に」
「え?」
「知ってる?髪って人に触られると綺麗になるんだって。ちょっとやってみて?」
「い、いや、でも……」
「いいから」
促されるままに、タイオンはたどたどしく手を伸ばす。
彼の手が再びユーニの頭に触れ、優しく、繊細な手つきで撫で始めた。
カップを片手で持つと、ユーニは自分の頭を撫でているタイオンの手に自らの手を重ね、ゆっくりと下へ導く。
ユーニの手によって導かれたタイオンの右手は、彼女の頭から頬へと降りて行った。
白い頬に手を包むタイオンの手に、ユーニは甘えるように擦り寄った。
「なんか落ち着く。こういうの」
「っ、」
息を詰め、タイオンは手を引っ込める。
驚きながらこちらを見つめて来るユーニだったが、目の前で真っ赤になって顔を逸らしているタイオンの姿に何も言えなくなってしまう。
「そういうこと、す、好きでもない男にするなっ。勘違いされても知らないぞ……」
止める間もなく、タイオンは赤い顔のままそそくさとリビングから出て行ってしまった。
恐らくシャワーを浴びるために浴室に向かったのだろう。
残されたのは食卓に座っているユーニと湯気をたてているハーブティーのみ。
少しムッとしたように唇を尖らせた彼女は、タイオンが丹精込めて淹れてくれたハーブティーのカップを再び両手で持ち直すと、そっと口をつけてため息を零した。
「好きだからしてんだけどな……」
act.32
7月下旬、金曜日の夜。
ノアとランツがアルバイトに出かけていたその日、何も予定を入れていなかったミオ、ユーニ、タイオン、そしてセナの4人は、夕食を摂りながらリビングで談笑していた。
ちなみに、夕食の肉じゃがとサバの味噌煮は、今晩の夕食当番であるミオとユーニが作ったものである。
タイオンも手伝いを申し出たが、2人に割と強い言葉で拒絶され、肩を落としながら撤退したことは言うまでもない。
食卓につき、友人たちと一緒に食事を楽しんでいたセナだが、壁にかけられたカレンダーが目に入って思わず手を止めた。
明日からの土日はすぐ近くの河川敷で花火大会が開催される。
明後日の日曜日は、このウロボロスハウスの仲間たちと一緒に参加予定である。
浴衣は手に入れた。当日は夕方からミオとユーニに化粧をしてもらう約束もしている。
準備は万端だったはずなのに、今から緊張してしまう。
「セナ、どうしたの?」
箸を持ち、カレンダーを見つめたまま固まっているセナに、隣に腰掛けていたミオが声をかけた。
心配してくれているミオの方へ顔を向けると、彼女は苦笑いを浮かべつつその緊張感に包まれた心情を吐露し始める。
「明後日花火大会だと思うと、なんか緊張しちゃって……」
「緊張?なんで?」
「ランツに初めて浴衣姿見てもらうんだもの。緊張するよね?」
「それもあるけど、花火大会だなんてなんかデートみたいだなって」
「僕たちもいるのにデートとは言えないだろ」
さらりといらないことを口にしたタイオンの脇腹を、ユーニが肘で思い切り突く。
乙女チックな可愛らしい緊張感を抱いているセナを萎えさせること言うんじゃねぇ。
そんな気持ちを込めて繰り出された肘打ちに、タイオンは“ヴっ”と鈍い声を挙げた。
隣で脇腹を抑えながら小刻みに震えているタイオンを一切気にすることなく、ユーニは肉じゃがを頬張りながらセナに問いかける。
「まぁ確かにある意味花火大会デートだよな。けどさ、今までランツとデートらしいデートってしたことねぇの?」
「うーん、無いと思うけど……」
「でもセナ、この前ランツと2人で飲みに行ったって言ってたじゃない」
「マジで?それってデートじゃん」
「え?デートなの?」
先日、セナはバイトの終わり際に合流したランツと2人で飲みに行っっていた。
かつて自分をいじめていた男の登場によって水を差されてしまったのだが、ランツが自分のことのように怒ってくれたあの日のことは深く記憶に刻み込まれている。
その日の飲み会以外にも、2人はこのウロボロスハウスで生活を共にする前から何度か夜に食事をしている。
ほとんどがジム帰りに寄る程度の食事だったが、時にはわざわざ待ち合わせをして一緒に食事をすることもあった。
そのことを素直に話すと、ミオとユーニは少し驚いたように目を丸くしていた。
「めっちゃデートしてんじゃんお前ら」
「そ、そうかな……?」
「寄り道ならともかく、わざわざ待ち合わせして夜に食事に行くのはデートと呼んでいいんじゃないかな」
そっか。あれってデートだったんだ。
私、ランツと既に何度もデートしてたんだ。
その事実を咀嚼し、セナは箸をぱくりと咥えたまま真っ赤に顔を染め上げた。
赤い顔で黙りこくっているセナを見つめ、隣に腰掛けていたミオは彼女をぎゅっと抱きしめながら“セナってば可愛い!”とその頭を撫で繰り回している。
その光景を見つめ、ユーニはセナに想いを寄せているランツの気持ちが痛いほどわかってしまった。
なるほど、こういうところか。こういうとてつもなく可愛らしいところにランツは骨抜きにされたのか、と。
だが、セナはランツが自分に好意を寄せているとは全く知らない。
それどころか、自分はランツに相応しくないとすら思っている。
もどかしい二人の関係に、ユーニは密かに握ったこぶしを震わせていた。
あぁ言いたい。言ってしまいたい。
“ランツ、セナのこと好きだってよ”と言ってしまいたい。
けれど第三者であるユーニが言ったところで、自己肯定感が地下より低い彼女は信じないだろう。
それに、ランツの気持ちを勝手に暴露してしまうのは論外だ。
ここは見守らなければ。あぁでも言いたい。
そんな葛藤を繰り返していると、つけっぱなしにしていたテレビから音声が聞こえてきた。
《えー!それって浮気じゃないですかー?》
《彼氏が朝帰りばっかりって、それ確実に浮気ですよー!》
ふとテレビに視線を向けると、スタジオに集まった女性タレントたちが恋愛トークに花を咲かせている。
話題は“どこからが浮気か”というかなりありがちなテーマである。
白熱した議論が展開されている薄型テレビを横目に見ていたミオは、何故か箸を食卓に置いて深いため息をつき始めた。
そんな彼女の様子に、向かいの席に座っていたタイオンが“どうした?”と声をかける。
「ほら、この前までストーカーを捕まえるためにノアがずっと朝帰りしてたでしょ?」
「あぁ」
「あの時、ノアが浮気してるんじゃないかって疑っちゃって……。なんだか悪いことしたなぁって」
テレビから聞こえてきた議論が、眠っていたミオの罪悪感を呼び起こしてしまったらしい。
一瞬でもノアを疑ってしまった事実を恥じ、彼女は何度目かのため息を吐きながら目を伏せている。
しかし、テレビから流れて来る女性タレントたちの主張通り、彼氏に朝帰りを繰り返されていれば浮気を疑うのも無理はないだろう。
「いやいや、アタシがミオの立場でもあれは疑うって。ある程度は仕方ねぇだろ」
「正直、かくいう僕も疑っていたくらいだからな」
「え、そうなの?」
「あぁ。まさかストーカー行為の証拠を集めるために朝帰りを繰り返していたとは思わなかったが」
食事を完食したタイオンは、“ごちそうさま”と手を合わせると食卓から立ち上がり、食器をまとめながらシンクへと持っていく。
そして自分の食器をスポンジで洗い始めたタイオンを横目に、今度はセナが新しい話題を提供し始めた。
「ねぇねぇミオちゃん。今回は違かったけど、もしノアが浮気してたらどうするの?」
「え?どうってそれは……」
肉じゃがのジャガイモを箸で摘まみ、口内に運び入れて咀嚼すると、ミオは光の灯らない深く恐ろしい目をしながら言い放った。
「四肢をもぐよね」
皿を洗いながら、タイオンは身震いした。
脳内で不貞行為をしたノアがミオによって四肢をもぎとられる場面を想像し、自然と冷や汗が出る。
ミオは昔から、清楚そうに見えて恐ろしいことをさらりと口にすることがあった。
冗談だと思いたいが、冗談に聞こえないのが怖いトコロである。
だが、そんなミオの言葉に他の女性陣は全く恐怖感を抱いていないらしい。
むしろ至極当然かのような態度で“そうだよね~”と頷いていた。
「まぁそれぐらいはするよな。アタシももし彼氏がいたとして、浮気されたら指の爪全部剥ぐと思うし」
ユーニの言葉に、タイオンは皿を磨く手を一瞬だけ止めた。
指の爪を全部剥ぐ?
手口がマフィアの拷問と同じじゃないか。恐ろしすぎる。
「浮気って、されたらそんなに怒るモノなんだね」
「当然だよ。自分の好きな人が他の女の人とよろしくやってるってことなのよ?」
「許せねぇだろそんなの。セナだってランツと付き合ったとして、他の女と浮気してたらぶちギレるだろ?」
「うーん、どうだろう……。そもそも、浮気ってどこからが浮気なのかがあんまり想像つかないから……」
“どこからが浮気か”
テレビの中でも繰り広げられていたそのありがちな議論が、このウロボロスハウスのリビングでも始まろうとしている。
この人類不変の課題にまず最初に答えを示したのは、最年長のミオだった。
彼女は両手を食卓の上で組みながら前のめりになると、至極真剣な目で言い放つ。
「そりゃあ、1分以上2人きりで話したら浮気でしょ」
「えぇっ!?」
今までずっと黙って女性陣のやり取りを聞いていたタイオンは、ここで初めて声を挙げた。
食器を洗い終えた彼は、シンクの前に立ちながらフリーズしている。
そんな彼の反応に、ミオは“え、なに?”と首を傾げた。
なに?じゃないだろ。1分以上2人きりで話したら浮気?冗談じゃない。
そんな厳しすぎるルール誰も守れるわけがない。
第一、その理論で言えばノアは毎日1回以上は浮気をしている計算になる。
とんだヤリチンじゃないか。
「1分2人きりで話したら浮気というのは流石に厳しすぎないか?」
「冗談よ。そんな厳しいわけないでしょ?」
あぁ良かった。冗談だったらしい。
タイオンは安堵しながら食器洗いで濡れた手を拭いた。
だが、どうやらセナは本気にとらえていたらしく、“冗談だったんだ”と真顔で驚いている。
純粋無垢なセナがミオのせいで1分間他の女と喋っただけで怒り狂う面倒な女性になったらどうするつもりだ。
「実際は休日の夜に2人で出かけたら、とかじゃないかな」
「なんで夜限定なの?」
「だってほら……その……」
「夜出かけた帰りにそういう雰囲気になったらホテルに入りやすいだろ?」
言葉を濁すミオとは対照的に、ユーニは随分とあっけらかんと言葉を紡いだ。
ストレートなユーニの指摘に、セナが口をあんぐり開けて驚いている。
純粋な彼女には、“ホテル”という発想は無かったらしい。
その様子を見ていたタイオンは、キッチンから戻り食卓に腰を掛けながら口を開いた。
「その理論だと昼なら2人きりで出かけてもいいということになるな」
「夜よりは安心かなって」
「ラブホテルには昼にも入れる“休憩”というシステムもあるだろう」
タイオンの言葉に、今度はミオが口をあんぐり開けて驚きを滲ませていた。
セナよりは色々と経験しているミオだったが、それでもまだ恋愛初心者であることは変わりない。
先日初めてノアと“そういうこと”をした彼女も、未だラブホテルは利用したことがない。
そのシステムをきちんと理解していなかったのである。
「へぇ、よく知ってんじゃん、タイオン」
「いや普通に常識だろ」
「常識……」
揶揄いの笑みを向けて来るユーニに、タイオンは足を組みながら答えた。
車で大通りを走行していれば、ラブホテルらしききらびやかな建物の前を通りすがることもよくある。
その看板に目にしていれば、普通行ったことが無くても休憩と宿泊の2種類の料金システムが存在していることくらいは想像できるはずだ。
今までそういったことに全く関心を寄せていなかったミオとセナは、その点においてはあまりにも無知であった。
「じゃあ、昼に2人で会っててもホテルに雪崩れ込むパターンはあるんだね」
「でも2人で会ってるからって絶対に浮気とは限らないよね」
「じゃあ、一緒にランチするのは浮気?」
「それは流石に浮気とは言えなくね?」
セナの問いかけに、ユーニは即座に否定する。
なるほど、彼女の中でランチは浮気に含まれないのか。
頭の中でメモを取りながら、タイオンは黙って聞いていた。
すると今度はミオが問いかける。
「じゃあ、一緒にショッピングは?」
「それも流石に浮気とは言えねぇだろ」
どうやらショッピングもセーフらしい。
ユーニはミオやセナと比べ、恋愛経験は割と豊富な方だ。
2人よりは恋愛に関して現実的なのだろう。
恐らく、相当なことをしない限り彼女は浮気認定をしないはず。
先日ニイナと一緒に映画を観に行きバーへ酒を飲みに行ったことを少しだけ心配していたのだが、どうやら杞憂に終わったらしい。
安堵感を覚えながらコップの水に口をつけるタイオン。
そんな彼の正面に座ったミオが、再びユーニに問いかけた。
「じゃあ一緒に映画に行くのは?」
「それは浮気だろ」
「ゴフッ」
即答された“浮気認定”に、タイオンは思わず飲んでいた水を吹き出しそうになった。
突然隣で派手に咳き込みだした彼に、女性陣の視線が集中する。
自分の胸をドンドンと叩きながらようやく息を整えると、器官が詰まったせいで赤くなっている顔をユーニに向け、恐る恐る問いかける。
「え…?映画に行くのは浮気、なのか?」
「浮気だろ。映画なんて一人でも行けるのにわざわざ他の女誘ってる時点で下心満点じゃねぇか」
「あー!確かに」
ユーニの理論に、正面の席に並んで腰かけているミオとセナが腕を組みながら頷き始めた。
異性と一緒に映画に行くことが浮気だなんて冗談じゃない。
それじゃまるで、先日ニイナと2人で映画を観に行った自分が不貞行為を働いたみたいじゃないか。
あれは課題の一環であって別に下心があるから誘ったわけじゃない。
その辺を勘違いしてもらっては困る。
背筋に冷や汗をかきながら、タイオンは反論を開始する。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。映画だぞ?たまたま見たい映画が被って一緒に行くこともあるだろ。それに、映画が上映されている2時間少しの間は黙ってスクリーンに注視することになる。一緒に食事に行ったりショッピングに行くより会話は少なくなるはずなのに何故浮気になるんだ!?」
「問題は映画そのものじゃねぇ。そのあとが問題なんだよ」
「そのあと?」
ユーニが言わんとしていることの意味が分からず、タイオンは首を傾げた。
そんな彼に、ユーニは人差し指を立てながらつらつらと持論を展開し始める。
「いいか?映画を観始めたら2時間以上は拘束されることになるし、映画の途中で腹減ったら嫌だし飯時の上映時間は避けるよな?となると、明るいうちに誰かと一緒に観に行く場合大体14時から15時くらいの映画を観る事になる」
「まぁそうだな」
実際、タイオンがニイナと観に行ったローマの休日は14時からの上映スケジュールを選んでいた。
他にも11時半からと18時から上映の候補があったが、どちらも昼時と夕食時にかぶってしまうため避けたのだ。
“うんうん”と頷いているミオとセナの熱視線を浴びながら、ユーニは言葉を続ける。
「15時から上映の映画を観る場合、そんな中途半端な時間に待ち合わせるよりは“せっかくなら昼も一緒に食べようか”って流れになるのが自然だろ?上映時間が来るまで時間をつぶすためにカフェとかファストフード店に入る羽目になる」
「ま、まぁ、そうだな」
「そんで15時から映画を観始めたらあっという間に17時半。もう夕飯時だ。映画の感想語りながら酒でも飲もうぜって流れになってその辺の飲み屋に入る。ハイ、これでランチデートとディナーデートがいっぺんに経験出来ちまった。結果的に一日中一緒にいることになっただろ?これってただの友達との“お出かけ”って言えるのか?」
「浮気だね!完全に浮気だね!」
「浮気ね!卑劣だわ!」
盛り上がる女性陣を横目に、タイオンは気まずげに顔を逸らしながらコップの水をがぶがぶ飲んでいた。
まずい。反論できない。
何故ならユーニが口にした一日映画デートプランを、タイオンはそっくりそのままニイナとこなしてしまったからだ。
上映時間は14時半。そんな中途半端な時間に待ち合わせるのも変だし、どうせなら昼も一緒に食べようかと提案したのはタイオンの方である。
さらに、映画を観終わった後に飲みに行こうとニイナから誘われ、一緒にバーに行った。
ユーニの言う通り、タイオンは丸一日かけたまさに“デート”としか言いようのないプランをニイナと体験してしまっていたのだ。
「酒飲みに行くにしても、ただの居酒屋とかならまだマシだぜ?やたらとお洒落なバーとか行ってたらもう最悪だろ」
「それは最悪だね」
「うん。浮気する気満々だね」
女性陣3人の言葉の矢が、知らず知らずのうちにタイオンの背中に突き刺さる。
映画を観た後バーに行っていた男がこの中にいるという事実も知らず、彼女たちの議論は白熱していく。
「そういう奴はさ、どうせバーで女酔わせた後にホテル行くんだぜ?“なにもしないから”とか言って」
「うわ卑劣!」
「他の女の子と一緒に映画に行くような人は駄目だね!死刑だね!」
ドンドン飛躍していく議論に、タイオンは焦りを隠せずにいた。
ホテルなんて行ってないぞ僕は!
いや待て。ここで大袈裟に否定したら“もしかして女の子と映画行ったの?”と疑われかねない。
他の女性の映画に行くことを“浮気だ”と断言しているユーニのことだ。課題のためとはいえニイナと一緒に映画に行ったと知られてもいいことは何もない。
“別にニイナのことは何とも思ってないから!”と否定したとしても、“へぇ、タイオンって何とも思ってない女と丸1日デートできるような男なんだ。へぇ”と軽蔑された目で見られるかもしれない。
無理だ。そんなの絶対嫌だ。
下心丸出しの浮気男の烙印なんて押されたくない。
浮気なんてしていないぞ、決して!
……ん?ちょっと待て。浮気?
一旦冷静さを取り戻したタイオンは考える。
自分はユーニと付き合っているわけではない。
別にニイナと一緒に映画に行こうがバーに行こうが、最悪ホテルに行こうが別に浮気にはならないじゃないか。
交際相手がいない以上、何をしても自由なはず。
いいじゃないか、別に。
自分とユーニが交際していたなら罪悪感を抱えて当然の案件だとは思うが、付き合っていない以上文句のつけ処などないはずだ。
そう。これは浮気でも何でもない。ただ異性と映画を観て食事をしたという取り留めのない事実だけがそこにあるだけ。
何をビクつくことがある?堂々としていればいいじゃないか。
「でもさぁ、そう言うことする人に限って、“ただ映画観に行っただけじゃん、浮気じゃないよ”なんて言うのよね」
「そうそう。立場が逆でも同じこと言えんのかねぇ……」
立場が逆……?
脳内に浮かんできたのは、ユーニが他の男と映画に行っている情景。
上映時間前に一緒にカフェに入り、2人で並んで映画を鑑賞し、薄暗いバーでカクテルを煽りながら映画の感想を語り合う。
楽しそうにしている光景を思い浮かべたその瞬間、タイオンのこめかみに青筋がたった。
腹が立つ。
映画なんて一人でも見に行けるのに何故わざわざ異性を誘ってまで行くのか。
しかも夜になっても解散せず、あまつさえバーで酒を煽るだと?
絶対そのあとホテルに行く流れじゃないか。ふざけるな。
「な?タイオンもそう思うだろ?」
隣に腰掛けるユーニが同意を求めて来る。
そんな彼女に、タイオンは自分のことを盛大に棚に上げつつこう言い放つのだった。
「あぁ。映画なんて浮気だ。絶対に許さない」
act.33
梅雨が明け、夏の暑さが本格化し始めた7月下旬。
そろそろ陽が暮れる頃合いに、タイオンはウロボロスハウスに帰るため閑静な住宅街を歩いていた。
カフェでアルバイトをしている今日のシフトは夕方まで。
本当は夜まで働いていたかったが、人手は十分足りているからと帰されてしまった。
帰路につきながら、タイオンは肩を落とす。正直帰りたくなかった。
忙しなく仕事をしていれば、何も考えずにいられる。今日ばかりは、余計なことを考えていたくなかったのだ。何故なら——。
「……ん?」
ウロボロスハウスの玄関先に寄りかかる形で、見知らぬ男が立っている。
すらりと身長が高く、金髪が特徴的な男性である。
随分整った顔をしているが、恐らくは同年代だろう。
うちに何か用だろうか。
不思議に思い“あの——”と問いかけると、手元のスマホに落とされていた視線がこちらに向く。
「この家の者なんだが、うちになにか?」
「あぁ、すまない。人を待ってるんだ」
「待ってる?誰を——」
「悪いゼオン!お待たせ——。あっ」
「あっ」
玄関から跳ねるように出てきたのはユーニだった。
いつも通りのラフな私服姿で出てきた彼女は、すぐ近くで立ち尽くしているタイオンを見るなり驚いたように目を見開いた。
その光景を見た瞬間、聡いタイオンは勘づいてしまう。
なるほど、この男が“ゼオン”か、と。
今日、タイオンがどうしても仕事に打ち込んでいたかった理由はただ一つ。
今夜が花火大会初日だからだ。
ルームメイトであるユーニが、“ゼオン”という名の男と一緒にダブルデートに出かけるからだ。
偽のダブルデートだとは聞いているが、自分の知らない男と祭りを楽しむ事実は変わりない。
暇な時間を過ごしていると、余計なことを考えて無駄に落ち込んでしまうかもしれない。だからこそ家には帰りたくなかったのに。
まさかこうして、2人が出かける場面に遭遇してしまうとは。
「タイオン、今帰り?」
「あ、あぁ、まぁ。……彼が例の?」
「そう。ゼオン。アタシの高校の頃の同級生」
「どうも。よろしく」
「どうも」
軽く会釈したゼオンは、随分と綺麗な顔をしている。
誰がどう見ても、“イケメン”と評する容姿だろう。
誰がどう見ても“可愛い”と評する容姿を持つユーニと悲しいほどにお似合いだ。
この2人が並んで夏祭りを楽しんでいたら、傍目から見れば本物のカップルに見えるだろう。
自分と並んで歩くよりも、ユーニはきっとこの男と歩いた方がしっくりくるに違いない。
“じゃあ行ってくる”と手を振るユーニを送り出し、タイオンは重い足取りで家の中に入る。
玄関の中に入った瞬間、心がずしんと重くなる。
ほとんど無意識に深いため息が出た。
何を落ち込んでいるんだ。別にユーニが他の男と出かけていてもいいじゃないか。僕はユーニの彼氏なんかじゃないんだし。
気にするな。気にするな。
そう言い聞かせても、心の靄が晴れることはなかった。
***
「え?青?」
「うん。好きかな、ランツ」
夕食を終えたノアは、食卓に座り一息ついてた。
そんな彼にドタドタと駆け寄り、正面の席に腰かけたセナ。
彼女は興奮気味に身を乗り出すと、突然彼に質問を投げかけてきた。
“ランツって青好きかなぁ?”と。
質問の意図が分からず、一瞬キョトンとしてしまうノア。
戸惑いつつキッチンの方へ視線を向けると、食器を洗っている自分の彼女、ミオが少し困ったように笑っていた。
ランツの好みの色を真正面から質問したこともなければ、彼から教えてもらったこともない。
だが、思い返してみるとランツは子供の頃から青や黒の寒色系の服や小物を好んで使っていたように思う。
特別好んで使っているのかは分からないが、嫌いではないことは明らかだった。
「うん。好きじゃないかな、たぶん」
「ほんと?」
「あぁ」
「そっかそっか。よかった。ありがと!」
そう言って、セナはひまわりのような満面の笑みを浮かべると、勢いよく食卓から立ち上がる。
今にもスキップし始めそうな軽い足取りでリビングから出て行く彼女の背中は、誰がどう見ても上機嫌だった。
何故ランツの好みなんて聞いてきたのだろう。そして何故あんなに上機嫌なんだろう。
首を傾げているノアに、キッチンでの食器洗いを終えたミオが冷蔵庫にマグネットで取り付けられたハンドタオルで手を拭きながら答えを提示してくれた。
「セナね、青い浴衣買ってたの」
「浴衣?明日着ていく予定の?」
「そう。可愛いよね。好きな人の好きな色を着ていこうなんて」
「え?」
「あっ」
ノアに聞き返された瞬間、ミオは“しまった”と冷汗をかく。
セナがランツに恋心を抱いている事実は、女性陣しか知らないはず。
先日セナ本人から、“タイオンには打ち明けた”と教えてもらったため、セナの気持ちを知らないのはこのウロボロスハウスにおいては想い人であるランツ本人とノアだけである。
誰がどこまで知っているのか認識が甘かったミオは、勢い余ってセナの秘密を漏らしてしまった。
後悔しても後の祭り。奇跡的に聞こえていなかったことを期待したのだが、ノアはミオを凝視したまま固まっている。
「セナって、ランツのこと好きだったのか……?」
「ごめんノア、今の忘れて!記憶リセットして!」
「無茶言うなって……」
「頭の記憶リセットボタン連打して!」
「ミオ。悪いけど俺にリセットボタンは搭載されてない」
「あぁ~~~!ごめんセナぁ……」
冷たい冷蔵庫に寄りかかりながら、ミオは項垂れる。
親友兼妹分であるセナの好きな人をぽろっとばらしてしまったことに、途方もない罪悪感を感じてしまう。
ノアの口は決して軽くはないが、セナ本人が知り得ないところで好きな人が広まっていくのは本意ではないだろう。
“あぅ~~”と項垂れるミオの背中に苦笑いを向けながら、ノアはテーブルに置いたコーヒーのコップに口をつけた。
「でもそうか。セナも好きだったのか」
「え?“も”? “も”ってなに?」
「えっ、あっ……」
コーヒー片手に感想を口にした瞬間、ミオから過剰な反応を貰ったことでノアは焦り始める。
しまった。ランツがセナを好きだってこと、ミオは知らなかったんだっけ?と。
誰がどこまで知っているのか、認識が甘かったのはノアも同じだった。
ランツがセナへの気持ちを吐露した機会はたった2度。
ディスティニーランドの帰り道と、先日買い物に行った車内での会話の2回だけである。
1度目は女性陣は全員眠っており男性陣だけが聞いていた。2度目は自分とユーニ、そしてランツだけが聞いていた。
つまり、ミオはランツの気持ちを知らないはずだった。
頭の中で事実関係を整理した瞬間、ノアは“やってしまった……”と頭を抱え始めた。
そんな彼の近くに駆け寄り、ミオは隣の椅子に腰かけながら顔を輝かせる。
「えっ、なに?ランツってセナのこと好きだったの?そういうことだったの?」
「あー……。ミオ、頭の記憶リセットボタンを今すぐ連打だ」
「残念。私にもそんな便利な機能は搭載されていません」
「そうか、無理か。無理だよな。はぁ……。ランツ、ごめん……」
互いにランツとセナの気持ちを暴露してしまった2人は、互いの傷を舐め合うように苦笑いを浮かべつつ顔を見合わせた。
言ってしまったことはもう仕方がない。
ノアとミオには、それよりも深堀しておきたい事実があった。
「両想いなのね……」
「両想いだな……」
「そっかそっかぁ、両想いかぁ~!」
テーブルに両肘をつき、にやける口元を両手で隠しながら、ミオは足をばたつかせていた。
親友兼妹分の恋路が上手くいっている事実に、彼女は大いにわくわくしているのだ。
突然降って湧いたピンク色の事実を前にはしゃぐミオ。
そんな彼女の様子を眺めながら、ノアは穏やかに笑った。
「タイオンとユーニはあからさまだったけど、そっか、ランツとセナもか。面白いことになって来たな」
「ねっ。でもどうして誰も告白しないのかな。誰かが動けば確実に上手くいくのに」
「まぁ、色々あるんだろ。見ている側としては少しもどかしいけど」
「そうね。上手くいってほしいなぁ、2組とも」
ミオの手がスッと伸び、先ほどまでノアが飲んでいたコーヒーに口をつけた。
そんな彼女の行動を特に気にすることもなく、ノアは口元に笑みを浮かべながら“そうだな”と呟く。
そして、長くしなやかな指でミオの髪に触れると、視線をこちらに向けてきた彼女に問いかける。
「で、ミオは何色の浴衣を買ったんだ?」
「んー?気になる?」
「当たり前だろ?」
「ふふっ、教えない。明日のお楽しみね」
隣の椅子に腰かけているミオが、甘えるようにノアの肩口に頭をもたげる。
ゆっくりと体重をかけて寄りかかってきた彼女の肩を抱きながら、ノアはミオの額に優しく口付けるのだった。
***
祭りの会場は、ウロボロスハウスから徒歩10分ほどの距離にある河川敷である。
川の両岸には提灯の装飾が施され、多くの屋台が軒を連ねている。
あちらこちらから祭囃子が聞こえるにぎやかな会場で、ユーニはゼオンに案内されながらカイツたちと合流した。
「初めまして。農薬学部2年のユズリハと申します」
カイツの隣に立っていた彼女は、赤と橙色の浴衣が良く似合っていた。
1つ年下だという彼女、ユズリハこそが、カイツが一目惚れした張本人であり、彼女を誘うために“ダブルデートだ”と嘘までついたのだから笑うしかない。
確かに可愛らしくておしとやかな女性だ。ゼオンと同じく高校の頃からの同級生であるカイツの趣味はおおよそ把握しているが、彼女の見た目や雰囲気はまさにカイツの好みドンピシャと言えるだろう。
“ふぅんこいつがお前の好きな奴か”
内心ほくそ笑みながらカイツを見つめると、彼は少し照れたように顔を赤くしながら“なんだよ”と文句を垂れてきた。
「えっと、ユズリハさん、紹介します。俺の高校時代の同級生で、ゼオンとユーニ」
「よろしくな」
「よろしく」
「よろしくお願いします。お二人は高校の頃からお付き合いされているんですよね?」
「えっ?」
ユズリハの言葉に、ユーニは思わずカイツを睨んだ。
“付き合っている設定で”とは聞いていたが、“高校から付き合っている設定で”とは聞いていない。
話盛りやがったな。
睨んでくるユーニの目線に、カイツはユズリハに見られないよう密かに手を合わせてきた。
どうやら隣に立っているゼオンもこれは知らない設定だったらしく、2人で顔を見合わせながら2人は小さくため息を零す。
「そうなんだよー。結構付き合い長いんだよなー?」
「あ、あぁ。そうだな」
「お付き合いされてどれくらいなんですか?」
「えっと……」
「4年……くらい?」
「それは長いですね。通りでお似合いなわけです」
「あはは……」
互いに顔を見合わせながら恐る恐る嘘をつき続けるユーニとゼオン。
ユズリハが“お似合い”だの“仲睦まじい”だの誉め言葉を口にするたび、2人の心には罪悪感とカイツへの怒りが募っていく。
“あぁなんでこんな面倒なハナシ引き受けちまったんだろう”
後悔しはじめたユーニだったが、今更帰るわけにもいかない。
今宵は“ゼオンの彼女”として、ユーニは祭りを楽しむことにした。
***
「ゼオンって、どんな男だ?」
ランツと共用の自室の窓からぼうっと外を眺めていたタイオンは、独り言かと間違えるほどのか細い声量で問いかけてきた。
ベッドに腰かけダンベルを上げていたランツは、一瞬自分に聞かれているのか分からず無視をしてしまったが、“ランツ”と名前を呼ばれたことでようやく顔を上げる。
あぁ独り言じゃなかったのか。
というか、最近ゼオンについて聞かれること多いな。この前セナにも聞かれなかったか?
そんなことを考えながら、ランツは素直にゼオンの人となりを口にし始める。
「堅物。クソ真面目。頭でっかち。無口で口下手。時々腹立つほど天然」
「……全部悪口じゃないか」
「けど、分かりにくいだけでそれなりに優しい奴だとは思う。不器用なんだろうな」
「そうか……」
こうしてゼオンの人となりを言葉にして並べ立ててみると、先日セナに指摘された通り、タイオンとの共通点が多いように思う。
真面目で成績優秀なところや、口下手なところ、不器用な優しさを持っているところ。
だが、ユーニは高校の頃から親交があったゼオンではなく、目の前にいるこのタイオンに想いを寄せている。
似ている2人だが、ユーニの中では決定的な違いがあったのだろう。
ユーニがタイオンを好きになったきっかけってなんだろう。
そしてタイオンがユーニを好きになったきっかけってなんだろう。
ダンベルで腕を鍛えながら、ランツはそんなことを考えていた。
一方、遠くの空に打ち上がっている花火を窓から茫然と見つめながら、タイオンは相変わらず寂しそうな目をしている。
今日のタイオンは一日中こうして上の空だった。
原因は火を見るよりも明らかだ。十中八九、ゼオンたちと祭りに出かけているユーニが原因だ。
「なんだよ。そんなに落ち込むくらいなら“行くな”って言えばよかっただろ」
「落ち込んでない。僕には関係のないことだ」
「いやいや明らかに落ち込んでんだろうが。さっきからため息何回吐いたよ?」
「ため息じゃない。深呼吸だ!」
「お前さんの深呼吸は吐くだけか?酸欠になるわ!」
あまりにも不毛な言い合いだった。
馬鹿らしくなったタイオンは、開け放たれていた窓のカーテンを勢いよく閉め、空に打ち上がる花火を強制的に視界からログアウトさせる。
そしてまた深く息を吐くと、彼はベッドの上に腰かけたまま足を組みランツの方へ向き直る。
「大体、僕が落ち込む理由なんてどこにもないだろ」
「いやいやあるだろ。好きな女が他の男と出かけてるから落ち込んでんだろ?」
「馬鹿なことを。あるわけない」
「あっそ。じゃあユーニが今日帰ってきた時“ゼオンと付き合うことになったー”って報告してきたとしてお前さんは祝福できるんだな?」
ランツからの言葉は、タイオンの首に鋭利な刃物のように突き立てられる。
ぐっと言葉を詰まらせ、しばらく黙り込んだ後に彼はか細く呟く。
“出来るんじゃないか?”と。
嘘だ。“出来るわけない”と顔に書いてある。
あの苦々しい顔は、絶対に嫌だと主張している顔だ。
いざユーニに彼氏が出来たら、どうせ膝を抱えていじけるに違いない。
素直になればいいのに。
そう思って目を細めるランツだったが、“そういう君の方こそどうなんだ”と反撃を始めたタイオンの言葉によって、形勢は逆転する。
「君だってセナに気持ちがあるくせに何も行動を起こしていないじゃないか。告白もしていない君に言われたくはない」
「……俺は事情があるんだよ」
「事情?」
首を傾げるタイオン。
そんな彼を見つめながら、ランツは考える。
そう言えば、目の前のこいつはセナの高校時代の同級生だった。
セナがいじめに遭っていた中学時代のことをどこまで知っているのだろう。
気になったランツは、持ち上げていたダンベルをゆっくりと床に下ろすと、改まった様子でタイオンに質問を投げかける。
「なぁ、タイオンってセナとは高校から一緒だったよな?」
「ん?あぁ、そうだが……」
「当時から仲良かったか?」
「まぁ、同じ生徒会のメンバーだったからな、それなりに親しかったのは間違いない」
「そうか。じゃあ、お前さんはどこまで知ってるんだ?セナの……、昔の話」
「昔の話?」
ランツの言葉の裏を読み取ることが出来ず、タイオンは腕を組みながら怪訝な表情を浮かべていた。
ピンと来ていない様子の彼に、ランツはもう少し具体的に話を詰めるべく“中学時代のこととか”と補足をつけ足した。
するとタイオンは、“あぁ”と納得した様子で頷くと、頭の中で昔の回想をするように視線を上方向に向ける。
「そう言えば高校進学と同時に引っ越してきたんだったな」
「前の中学の友達の話とか、どういう学校生活送ってたとか、そういう話はしたか?」
「……いや、言われてみれば全くしてないな」
「全く?全然?」
「あぁ。聞いたこともあったとは思うが、セナはあまり自分の話をしたがらない性格だったから……。あのミオにさえ、そういう話はほとんどしていなかったな」
セナに中学時代の話を振った記憶は何度かあった。
元々どのあたりに住んでいたのか、中学の友人とは今も連絡を取り合っているのか、どんな部活に入っていたのか。
だが、投げかけた質問のほとんどは、セナ自身によって曖昧にかわされ、明確な答えを得られないままいつも会話は終了していた。
ミオと3人でそう言う話題になったこともあったが、姉のように慕っていた彼女の前でもやはり中学時代のことを積極的に話そうとはしなかった。
彼女の性格上、自分の話をするのが苦手なだけなのだろうと解釈していたタイオンは、それ以上無理に掘り下げるようなことはしていない。
だからこそ、高校時代の友人ではあるが、高校入学前のセナがどんな人物で、どんな人生を歩んできたのかは全く知らなかった。
「そっか。お前さんやミオにも話してねぇのか……」
「何の話だ?」
「いや、別に」
再びランツはダンベルを上げ始める。
上腕二頭筋を鍛え上げながら考えるのは、やはりセナのことだった。
彼女は先日、意を決した様子で自分で忌々し過去を話してくれた。
タイオンだけでなく、ミオにも話していないということは、例のいじめの事実は彼女にとって相当大きな心の傷なのだろう。
そんな過去を、自分だけには明かしてくれた。
この事実が指し示す背景に、期待を寄せずにはいられない。
自惚れで無ければ、恐らく自分はセナに好かれているはず。ランツはそう考えていた。
少なくとも、他の男たちに比べて“特別”に近い存在ではあるだろう。
彼女は人見知りが激しい。他の男に対する態度と自分に対する態度を比較して観察してみれば、その違いは一目瞭然。
自分にだけ大いに懐いてくれていることを、ランツは自覚していた。
だが、3年間セナという人物を一番近くで見てきたランツには、彼女の人となりがよく理解できてしまう。
セナは非常に自己肯定感が低い。何においても自分を卑下し、“私なんか”が口癖になっている。
その原因はまさに中学時代のいじめにあるのだろう。
今の彼女に告白したところで、帰ってくる答えは容易に想像できる。
“私なんかじゃランツに釣り合わないよ”
両手を控えめに振りながら、そんな残酷な断り方をするに違いない。
だからこそ、彼女が自分自身を認められるようになるまで待つと決めた。
そうして待ち続けて早3年。流石にそろそろ限界が訪れようとしていた。
セナはミオやユーニと一緒に暮らし始めたことで、今まで無頓着だった身だしなみに気を遣い始めている。
化粧を覚え、自分に似合う服を着て、好きな美容品の話で盛り上がっている彼女は明らかに女としてのレベルが上がりつつある。
背が低く童顔な彼女は、幼く見えるせいか去年まで異性に声をかけられることはほとんどなかった。
だが、今年に入って以降、街で声をかけられている光景を何度も見ている。
まだ人見知りな性格が治っていないお陰で、声をかけられても怯えるばかりでホイホイついて行ってしまうようなことはないが、傍から見ている身としては気が気ではなかった。
マズい。セナの魅力に世間の男どもが気付き始めている。
今までは自分だけが知るダイヤの原石のような存在だったのに、セナの価値が上がれば上がるほど倍率は高くなっていく。
セナには自分の価値に気付いてもらいたいと願う反面、そのまま何も気付かずずっと自分だけのものでいて欲しい。などと身勝手なことを考えてしまっている自分がいる。
このままの距離感でもたもたしていたら、確実に誰かに横から掻っ攫われてしまう。
そんな危機感が、ランツの背中を激しく押していた。
先ほどタイオンに、“ユーニに彼氏が出来たらどうするんだ”と詰め寄ったが、その問いかけはランツ自身の胸にも深く突き刺さっていた。
きっとセナに自分以外の彼氏が出来たとしたら、立ち直れないのだろう。
瞳を伏せ、何やら考え込み始めたランツに、タイオンは首を傾げた。
セナのことでそんなに深く考えることがあるというのか。
だが、彼は自分たちとは違い明らかに両想いだ。
誰がどう見てもお似合いなのだからとっとと告白してしまえばいいものを。
そんなことを考えながら、タイオンは部屋の壁にかかっている時計に目をやった。
そろそろ21時を過ぎる。花火はもう終わっているだろうし、ユーニはまだ帰ってこないのか。
締めたカーテンを僅かに開け、外に視線を落とした瞬間、タイオンの頭は真っ白になってしまう。
ウロボロスハウスの目の前。玄関先で、ユーニの手を握っているゼオンの姿が視界に飛び込んできたのだ。
なにやら真剣な表情でユーニに詰め寄っているゼオン。
ユーニはこちらに背を向けているため表情をうかがい知ることはできないが、タイオンの目にはただならぬ雰囲気を纏っているように見えた。
“じゃあユーニが今日帰ってきた時ゼオンと付き合うことになったーって報告してきたとしてお前さんは祝福できるんだな?”
先ほどランツに向けられた言葉が脳裏で反響する。
まさか、本当に——。
玄関先で見つめ合っている二人を見下ろしながら、タイオンは自らの心が傷ついていくのを実感した。
***
祭囃子を背に、ゼオンとユーニは夜道を歩いていた。
まだまだ祭りは終わりの時間とは言い難いが、カイツとユズリハを二人きりにするため、気を利かせてこっそり帰ってきたのだ。
元々ゼオンとユーニはただの付き添いでしかない。カイツとユズリハが仲睦まじくいい空気になったところで、2人を置いてその場を去った。
「今日はすまなかった。色々と面倒をかけて」
「いいって。まぁこんなに可愛いぬいぐるみも取ってもらったことだし、今日のことは許してやるよ」
ユーニの腕に抱えられているのは、少し大きめなクマのぬいぐるみ。
今夜付き合ってもらった例として、ゼオンが射的で獲得した景品である。
やたらと上手いゼオンの射撃テクニックによって、このクマは格安価格でユーニの手へと渡った。
男勝りだが、意外にも可愛いくてモフモフしたものが好きなユーニにとっては、これ以上ないほどのお礼である。
“喜んでもらえたならよかった”
そう言って頷くゼオンと談笑していると、あっという間にウロボロスハウスの前へと到着した。
玄関の前で立ち止まったユーニは、ここまでわざわざ送ってくれたゼオンに礼を言うべく彼と向かい合う。
「送ってくれてありがとう。今度カイツに飯でも奢ってもらうわ」
「あぁ。そうしてくれ」
「じゃあまたな」
クマのぬいぐるみを抱えたまま軽く手を振り、家に入ろうしたその瞬間だった。
目の前にいるゼオンが何かを思い出したように“あっ”と声を漏らすと、その場を去ろうとしているユーニの手を咄嗟に掴んで引き留める。
突然手を握られ引き留められたユーニは驚き、目を丸くしながらゼオンを見つめた。
「忘れてた。ユーニに聞こうと思ってたことがあったんだ」
「え、なに……?」
見つめてくるゼオンの表情はやけに真剣だった。
高校の頃から長年友人として付き合ってきた男の真剣な眼差しに、ユーニは一瞬たじろいだ。
今まで、友人だと思っていた相手に何度かこの表情で交際を申し込まれたことがある。
そのたび丁重に断ってきているのだが、告白してきた相手とその後も友人として付き合いを続けることが出来たためしはない。
告白とは、その瞬間友情が壊れてしまう行為でもある。
ゼオンはノアやランツと同じ、かけがえのない友人だ。
そんな彼との友情にヒビを入れたくはない。
え?やめろよ?まさか告白じゃねぇよな?冗談じゃねぇぞ?
何を言われるのかびくびくしていたユーニだったが、ゼオンから投げかけられた問いに再び目を丸くした。
「ノアって、確かバイオリン弾けたよな?」
「……へ?」
斜め上からの問いかけに、ユーニは脱力してしまう。
ノア?バイオリン?
目をぱちくりさせながら、“あ、あぁ、確か弾けたはずだけど…”とと答えると、ゼオンはやけに嬉しそうに笑いながら“そうか”と頷く。
何のことだか意味が分からない。
首を傾げるユーニに何度もお礼を言って、ゼオンはそのまま去っていった。
結局、何故ゼオンがそんなことを聞いてきたのか分からないまま、ユーニは家の前に取り残されてしまう。
「なんだったんだ?今の……」
訳が分からないまま、ユーニは家の中に入る。
彼女は知る由もなかった。自身の好きな人が、2階の自室からそのやり取りを見つめていたことを。
act.34
「はい出来たっ」
「目、開けてみ?」
ミオとユーニに促され、閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
目の前の鏡に映っていたのは、薄化粧を施した自分の姿だった。
いつもほとんどノーメイクに近い状態で過ごしている自分の変化具合に、セナは思わず言葉を失ってしまう。
ファンデーションを施し、アイラインを引いて薄くアイシャドウを乗せる。
マスカラを塗った睫毛は可愛らしく上を向き、控えめなリップグロスが口元を彩っている。
まるでイマドキの女の子だ。そんな当たり前なことを考えながら、セナの胸は躍動する。
「すごい……。私じゃないみたい」
「ちょっとお化粧するだけで結構変わるでしょ?」
「だな。セナは元の素材がいいから化粧すれば一層化けるんだよ」
「えっ?私、素材いいの?」
背後に立っているミオとユーニに振り返り、セナはきょとんとした表情を浮かべながら問いかける。
“自覚なしかよ……”と呆れるユーニの隣で、ミオもまた苦笑いを浮かべていた。
中学の頃、いじめに遭っていた時は“ブス”だの“地味”だのクラスの男子たちにさんざん言われてきた。
良くも悪くも素直すぎる彼女は、悪意にまみれたその言葉をそのまま飲み込み続けてしまっている。
だからこそ、容姿やスタイルを褒められてもお世辞だとしか思えなくなってしまうのだ。
“立ってみて”と促すミオの言葉に従い、腰掛けていたドレッサーからゆっくりと立ち上がる。
するりという心地よい衣擦れの音と共に立ち上がると、涼やかな青い浴衣を身に纏った自分が鏡の前に現れる。
少しだけ帯がきついけれど、いつもの自分よりはほんの少し、1ミリ程度は可愛らしく着飾れている気がする。
これも、着付けと化粧を手伝ってくれたミオとユーニのおかげだ。
「ミオちゃん、ユーニ、ありがとう!これ、ランツに見せてきてもいい?」
「いいよ。行ってらっしゃい」
「褒めてもらえるといいな」
「うんっ、行ってくる!」
サイドに結んだ髪の飾りを揺らしながら、セナは元気よく女子部屋から出て行った。
向かった先はおそらく隣の男子部屋だろう。
着付けの途中、“浴衣姿は一番に俺に見せろ”とランツから言われたのだとセナが話していた。
随分と楽しそうに、そして嬉しそうにしているセナの話を聞きながら、2人の女性陣はにやける顔を必死で抑えていた。
ランツ、セナのことめちゃくちゃ好きじゃん…!
2人が同時に脳内で呟いた感想は、セナに届くことはない。
彼女は自分が片想いだと信じて疑っていないが、どうやらランツから向けられている感情の大きさも相当なものらしい。
なにせ、3年も片想いしているうえ、セナが自分に自信をつけられるまで待つ、とまで断言しているのだ。
相当大切にしているのだろう。
両思いなのは間違いないが、ランツの信念を聞くに交際に発展するにはまだ当分かかりそうなところが少し残念なところである。
「さて、じゃあ次、ユーニの着付けしちゃおっか」
「アタシが先でいいのかよ?」
「うん。自分のはちゃちゃっと出来ちゃうしね。それに、ユーニだって浴衣姿見せたい相手いるでしょ?」
むっと唇を尖らせながら、ユーニは“うっせ”と視線を逸らした。
こういうちょっと素直さに欠ける照れやなところは、タイオンとよく似ている。
天邪鬼で照れや同士なこの二人も、ランツやセナに負けず劣らず発展はまだ先になりそうだ。
そんな予感を抱えながら、ミオはユーニの着付けを開始した。
***
ランツ以外いませんように。
心の中でそう願いながら、セナは男子部屋をノックした。
浴衣を着たら一番にランツに見せるという約束を、セナはしっかり覚えていた。
彼女本人としても、一番最初は好きな人に見てほしい。
この部屋はランツだけでなくタイオンも一緒に使っているが、どうかランツしかいませんように。
そんな願いを心で復唱していると、目の前の男子部屋の扉が開かれる。
出てきた人物に恐る恐る目を向けると、そこにいたのは驚いたような表情を浮かべているランツだった。
あぁ良かった。ランツだ。
安堵した瞬間、セナの表情はパッと明るくなる。
セナは知るよりもなかった。自分を見て嬉しそうに笑っているその表情が、どれほどランツの心に突き刺さっているのかを。
「ランツ、見て見て!浴衣!ミオちゃんに着付けてもらったの!」
「お、おう」
「お化粧も少しやってもらったんだよ。こっちはユーニに!」
「そ、そっか」
はしゃぐセナだったが、ランツとの温度差を感じて少し戸惑ってしまう。
“一番最初に見せに来い”と言っていたわりに、彼は妙にたどたどしい。
もう少し明るく褒めてくれると思っていたのだが、口元を手で覆い隠しながら視線を逸らしている。
何となく不安になって、“変かな?”と問いかけると、彼は焦ったように目を大きく開いた。
「い、いや変じゃねぇって!むしろ似合ってる!すげぇ似合ってる」
「ホントに?」
「おう。てか、予想以上だったからびっくりしたってか……。なんか、その恰好でこれから外出歩かせんの勿体ねぇっつーか……」
「ん?どういう、意味……?」
「あ゛ー!何でもねぇ!なんかうまく言えねぇ」
色素の薄い短髪をガシガシと乱暴に搔き乱しながら、彼はまた視線を逸らす。
今日は、というか浴衣を着てから、何故かランツとちゃんと目が合わないような気がする。
なんとなく違和感を感じてしまうけれど、嫌な態度ではない。
たどたどしくも褒めてくれたことが、今のセナにとっては十分にうれしかった。
***
「へぇ、いい感じだなセナ」
「あぁ。とてもよく似合ってる」
「えへへ、ありがと、2人とも」
ランツと一緒に1階のリビングに降りると、食卓に腰掛け談笑しているノアとタイオンに遭遇した。
浴衣に着飾り頬を僅からに赤らめているセナに、2人は素直に賞賛を送る。
飾り気のない誉め言葉は、彼らがセナとは別の女性に想いを寄せているからこそだろう。
とはいえ、素直に褒められたことで喜びを感じたセナは、照れながらもお礼を伝えた。
「そろそろミオちゃんとユーニも降りて来ると思うから……。あっ、来た」
背後を振り返ったセナは、2階から降りてきた2人の女性陣に笑顔を向けた。
セナに遅れて着付けと化粧を終えたミオとユーニが、“おまたせ”と微笑みながらリビングに入室してくる。
その瞬間、気楽にセナを褒めていたノアとタイオンの2人が、ほぼ同時にごくりと喉を鳴らした。
緊張感を纏う2人とは対照的に、ランツは入室してきたミオとユーニに対し、先ほどセナを褒めた際のたどたどしさが嘘のように気楽に口を開き始める。
「おぉ、結構いいんじゃね?ミオ、似合ってるぞ」
「ありがと、ランツ」
「おいこら。なんでミオだけなんだっつーの」
「へいへい。ユーニもまぁまぁ似合ってるぜ」
「まぁまぁかよ」
不満そうに目を細めているユーニは、黒地に白い麻理模様が入った色気のある大人びた柄を。
そんなユーニを微笑ましく見つめているミオは、白地に赤い金魚模様が入った清楚な柄の浴衣を着用している。
夏らしく可憐な恰好をしている3人の女性陣が出そろったところで、一同はウロボロスハウスを後にした。
外は既に空が茜色に染まっており、夜の到来が直前に迫っている事実を教えてくれる。
いつもは人通りの少ない閑静な住宅街だが、今日ばかりは祭りに向かう家族連れやカップルがちらほらと見える。
祭りの会場に向かう6人は、ノアとミオを先頭に、ランツとセナ、そして最後尾はタイオンとユーニに分かれて歩き始めていた。
「あ、お囃子が聴こえてきた。結構離れてるのに、ここからでも聞こえるのね」
「そうだな。割と大規模な祭りだしな」
会場となっている河川敷はまだ見えてこないが、かすかに祭り囃子が聴こえてくる。
人よりも音を拾いやすい耳を澄ませつつ、ミオは次第に大きくなる祭り囃子に胸を高鳴らせていた。
そんな彼女の隣を歩く恋人、ノアは、ちらちらとミオの方へ視線を向けては前を向き直るという行動を繰り返している。
そんな彼の行動に、ミオが気付かないわけがない。
首を傾げ“なに?”と問いかけると、ノアは少し焦って視線を逸らすと、照れたように鼻先を掻きながら口を開く。
「いや、その。浴衣姿初めて見たからさ」
「あ、そっか。去年は一緒に夏祭り行ってなかったもんね」
「あぁ。すごく似合ってる。なんか、隣を歩くの緊張するな」
「ふふっ、大袈裟だなぁノアは」
口元を抑えながら楽しそうに笑うミオ。
そんな彼女の笑顔に、ノアは見とれていた。
可愛い。こんなに可愛い人の隣を彼氏として歩けることに、ひどく優越感を覚えてしまう。
あぁもう、手をつなぎたい。
けれどすぐ後ろにはランツたちもいる。
流石に友人たちの前で堂々とイチャつくのは憚られた。
こんなことなら、全員で夏祭りに行こうと提案されたとき、自分たちは2人きりで行きたいからと断ればよかった。
今さらそんなこと言えるわけないけど。
一番前を歩くノアがそんなことを考えていた一方、最後尾をユーニと一緒に歩いていたタイオンは先ほどからずっと不自然に視線を泳がせていた。
まずい。ユーニの方を見れない。
視界に入れた瞬間たぶん顔が赤くなに決まってる。
もっとちゃんとユーニの浴衣姿をこの目に焼き付けたい。けれど見れない。
というか、浴衣を着ていくなんて聞いてない。
知っていたらもっと早くから覚悟を決めていたのに。
昨晩ゼオンたちと夏祭りに出かけたときは私服だったのに、何故今夜はわざわざ浴衣を着たのだろう。
いや、恐らくそれはミオやセナに合わせてのことだろう。
この場合、“何故今夜着たのか”ではなく、“何故昨晩着なかったのか”が正しい疑問点だ。
ただ単に面倒だっただけなのか、それとも——。
隣を歩くユーニへと密かに視線を送る。
前を見据える彼女の横顔はいつもより綺麗に見えて、心臓が鷲掴みにされてしまう。
やっぱりこの子、すごく可愛い。
そう思った瞬間、視線に気付いたのかユーニがこちらに顔を向けてきた。
まずい。焦ったタイオンはすぐに眼鏡を押し上げながら誤魔化すように視線を逸らす。
駄目だ。やっぱりまともに顔が見れない。
さっきからお互い黙ったままだし、何か話題を振らなくちゃ。
でも何を話せばいい?どんな話を振っても力み過ぎて空回りしてしまう気がする。
前を歩いているノアとミオ、ランツとセナは楽しそうに会話をしている一方で、最後尾を歩く自分たち二人は沈黙を保ったまま。
もしかしたら、つまらない奴だと思われているかもしれない。
ゼオンとは昨日、どんな会話をしたのだろう。
少なくとも、今のこの空気よりは楽しい時間だったに違いない。
出来る限り楽しませたいのに、いつも顔を出すのはつまらない陰気な自分。
自分がもっと素直で明るい男だったなら、ユーニとの距離をもう少し縮めることが出来たのかもしれない。
ゆっくりと近づく祭囃子の音を聞きながら、タイオンの心はまた卑屈さの海に沈んでいくのだった。
***
会場となっている河川敷は、多くの人で埋め尽くされていた。
多くの屋台が河原の対岸に軒を連ね、浴衣や甚平を着た人々であふれかえっている。
更に土手になっている草原には既にたくさんの見物客が腰を下ろし、花火が打ち上がるその瞬間を今か今かと待ち構えていた。
昨晩もそれなりに混雑していたが、ここまでではなかった。
やはり日曜の方が混雑が発生しやすいのは自明の理だったらしい。
そんなことを考えながらスマホの画面を見つめると、花火が打ち上がる予定の時刻まであと20分ほどとなっていた。
スマホで時間を確認したユーニは、“やべっ”と声を漏らしながら顔を挙げた。
「なぁ、そろそろ花火観る場所確保しておいた方がいいんじゃね?」
「確かにな。でも俺腹減ったぞ」
「じゃあ、二手に分かれようか。場所確保班と、屋台でご飯確保班」
「賛成っ!」
話し合いの結果、花火を見るための場所を確保するのはノアとミオに任せ、残りの4人は屋台をめぐって食事を確保することになった。
早速ノアとミオは、花火を見学しやすい場所を求めて土手の方へと向かった。
その背を見送り、残された4人は人混みの中を突き進む。
右も左も人人人。
これほどたくさんの人に囲まれていたら、気を抜けば簡単にはぐれてしまうだろう。
スマホがあるとはいえ、人が多い場所では繋がりにくくなる。
はぐれたら面倒なことになりそうだ。
前を歩くランツとセナの背を追いながら、タイオンは背後のユーニを気にしていた。
一番後ろを歩いている彼女がはぐれてしまわないか不安だ。
はぐれないようにするには、しっかりと手を繋いだ方がいいのだろう。
どうしよう。言うか?はぐれないように手を繋いでおこう、と。
でも下心があると思われたらいやだしな。
いやいや。そもそも手をつなぐごときで狼狽えてどうする。高校生じゃあるまいし。
これははぐれないようにという気遣いからくる行動であって、別にユーニと手をつなぎたいという下心からくる行動ではない。断じて違う。
なればこそ、堂々と提案するべきだ。
彼女のことだから“そんなにアタシと手繋ぎたいんだー?”などと揶揄ってくるかもしれないが、その時はハッキリと否定すればいい。
違う。そんなんじゃない。人混みではぐれたら面倒だから仕方なく、そう、仕方なくつなぐのだ、と。
よし言おう。後ろに手を伸ばし、あくまで自然にそして紳士的に。
そう決意した瞬間、背後から突然手を握られた。
え?
思わず肩を震わせて振り返ると、そこには自分の手を握ってじっとこちらを見つめているユーニの姿があった。
なんだ、どういうことだ。
何で君から手をつなぎに来てるんだ?
戸惑うタイオンの手を、ユーニは強く握りしめながら引き寄せる。
「ちょ、えっ、なっ……」
言葉にならない動揺が頭を支配する。
されるがまま、タイオンは手を引っ張って来るユーニに引きずられる形でその場を離れた。
人混みの流れに逆らいながら道を横断するユーニは、人目につきにくい屋台と屋台の間にタイオンを引っ張り込む。
突然のことに驚き、赤い顔で抗議しようとするタイオンに、彼女は人差し指を唇に押し当て“しーっ”と黙るように促してきた。
そして、屋台の影から人波に乗るように前へ進むランツとセナの方を覗き込む。
「せっかくの機会だし、あいつら2人きりにしてやろうぜ」
「えっ」
「出来る限り応援してやりたいんだよ。だからタイオンも協力してくんない?」
“な?頼むよ”
そう言って両手を合わせ、上目遣いで懇願してくるユーニを前に、タイオンは息を呑む。
分かっているのか?この状況でランツとセナを2人きりにするということはつまり、自分たちも2人きりになるということなんだぞ。
この状況が今の僕にとってどれほど危険なものか1ミリも理解できていないくせに、よくそんな気軽にお願い出来たものだな。
ぐっと言葉を飲み込むタイオン。
だが、どれだけ心で文句を言ったところで、彼女から“お願い”と頼まれたら断れない。
しかも今の彼女は浴衣を着て、いつも以上に可憐な様相で目の前にいる。
こんなの、断れと言う方が無理だった。
「し、仕方ないな……」
「さっすがタイオン。じゃあとりあえず、ここから離れようぜ」
「あぁ……」
ユーニの手がタイオンの手を掴んで歩き出す。
その瞬間、心臓が痛いほどに跳ね上がった。
そんな、手を握る必要あったか?
屋台の裏からこの場を離れようとしている2人の行く先にほとんど人はおらず、はぐれないよう気を付ける必要もない。
手をつなぐ理由なんて、探すまでもなくないはずなのに、ユーニは自然な流れで手を取って来た。
心臓が痛い。心が締め付けられる。身体が熱くなる。
しっかり握られた手を振り払うなんて選択肢は当然なく、タイオンは呆然とする頭で繋がれた手と手に視線を落とすのだった。
***
花火の閲覧場所となっている土手には、多くの見物客が集まっていた。
その中に見つけたわずかな空きスペースを見つけたノアとミオは、草の上に腰掛け空を見上げながら友人たちを待っている。
何度かアプリでメッセージを送っているものの、4人とも返事はない、
その状況にノアは首を傾げ心配そうにしていたが、傍らでミオは微笑みを浮かべていた。
「皆全然連絡つかないな。もうすぐ花火打ち上がる時間なのに……」
「たぶんわざと戻って来るつもりないんじゃないかな」
「え?どうして?」
隣に腰掛けるノアが問いかけたその瞬間、星が浮かぶ夜空に大輪の花火が打ち上がる。
腹の奥底に響くような大きな音と共に咲いたその花火たちに、周囲からは歓声が上がった。
思わず目を奪われるノア。こんなに近くで花火を見たのは子供の頃以来だった。
同じように空に打ち上がる花火を見つめていたミオは、白い浴衣を纏った自分の膝を抱える。
「せっかくの夏祭りだもん。好きな人と2人で過ごしたいでしょ?」
「なるほどな。確かに」
ミオの華奢な肩に、ノアの腕が回る。
肩を抱き寄せられた彼女は、ほんのわずかに頬を赤らめながらノアの肩口に寄りかかった。
空にとめどなく打ち上がる花火が、2人の肌を照らす。
大小さまざまな花火を見上げながら、ノアとミオはつかの間の談笑を楽しんでいた。
一緒の家に住んでいるとはいえ、他の住人もいる以上なかなか2人きりの時間を確保することは難しい。
こうして自分たちだけの空間を楽しめる機会は意外に貴重なのだ。
花火を見ながら暫く甘い時間を過ごしていた2人だったが、突然ノアのスマホが鳴り響いたことで2人の意識が花火から離れた。
もしかすると、先ほどまで連絡を取り合っていたランツやタイオンかもしれない。
そう思い画面を確認してみると、表示されていたのは意外過ぎる名前だった。
「ゼオン……?」
予想だにしていなかった人物からの着信に、ノアとミオは顔を見合わせた。
“出たほうがいいんじゃない?”と促すミオの言葉に甘え、ノアは一言謝りながらその場から立ち上がる。
ゼオンは高校時代からの友人ではあり、大学進学後は半年に一回ほどのペースで飲みに行く仲である。
昨晩彼はユーニと夏祭りに出かけたばかりであるが、もしかしてそれ関係で何か話があるのだろうか。
だとしても一体何の用だろう。
ミオから少し距離を取り、画面の応答ボタンをタップする。
スマホを耳に押し当てると、ゼオンの落ち着いた声が聞こえてきた。
「もしもしノア。今大丈夫か?」
「あぁ、少しだけなら。どうかしたのか?」
「忙しい時にすまない。突然で悪いんだが——」
“ノア、ヴァイオリンが弾けるというのは本当か?”
スピーカーから聞こえてきたその言葉に、思考が真っ白に塗りつぶされた。
空に打ち上がる花火の音だけが聞こえる。
ドン、ドン、と一定間隔で鳴り響く大きな音が、心臓の鼓動とリンクする。
“ヴァイオリン”という単語を聞いただけで、彼の鼓動は大きく高鳴り、そして胸を圧迫してしまうのだ。
一方、ゼオンと電話をするために少し離れたノアの背をぼうっと見つめていたミオは、自分の膝に両手で頬杖を突きながら花火を眺めていた。
ゼオンって、ユーニと一緒に花火大会に行った人だよね?
ノアに何の用だろう。
打ち上がる花火を見つめていると、今度はミオのスマホが震えた。
どうやらメッセージを受信したらしい。
反射的に画面を見ると、どうやらユーニやセナと組んでいるグループトークでメッセージが投げられたらしい。
発信者はセナ。
送りつけられてきた短い一文に、ミオは目を見開いた。
「え……?う、うそ……」
***
遠くで打ち上がっている花火を見上げながら、タイオンは隣でりんご飴を食べているユーニに意識を向けていた。
2人がいるのは、祭りの会場となっている河川敷から少し離れた公園のベンチ。
もしランツとセナがはぐれた自分たちを探しはじめても、絶対にバッティングしないようあえて少し離れたこの場所までやって来たのだ。
会場から離れているとはいえ、ここからでも花火はよく見える。
近所に住んでいるらしい家族連れが、他にも何組か公園内に集まり花火を見上げている。
不本意に2人きりになってしまったこの状況に、タイオンは密かに緊張していた。
「うわぁ、りんご飴うまっ。タイオンも食う?」
「いや遠慮しておく。それよりせっかく花火が打ち上がっているんだからちゃんと見たらどうだ?」
「だって昨日もちらっと見たし」
先ほどからユーニは、河川敷の屋台で購入したりんご飴に夢中で空に打ち上がる花火を一切見上げていない。
言われてみれば彼女は昨晩もこの祭りに別の男と繰り出していた。
二日連続で見て感動できるほど、彼女は乙女チック性根の持ち主ではないのだろう。
不意に昨晩のことを思い出し、心が沈む。
ゼオンと一緒に家を出た彼女は浴衣姿ではなく私服を着ていた。
このあまりにも可憐な恰好をあのゼオンという男に見られなかったのは幸いだが、タイオンの頭には大きな疑問が残っていた。
セナから聞いたのだが、今日3人の女性陣が身に纏っていた浴衣は今回のために購入したものだという。
折角かった浴衣を、何故昨日も着なかったのだろうか。
「ユーニ、一つ聞いてもいいか?」
「ん?なに?」
「昨日、ゼオンたちと夏祭りに出かけたときは私服だっただろ。何故浴衣を着たなかったんだ?」
「え、何故って……」
食べかけのりんご飴を片手に、ユーニは少しだけ考え込んだ。
そして、こちらの様子を横目で見つめながら、少し小さな声で答えを提示してくれる。
「だって、好きでもねぇ奴に浴衣見せても仕方なくね?」
その回答に、タイオンは小さな喜びを覚えた。
それはつまり、ユーニににとってゼオンは恋愛対象などではなく、意識するような間柄ではないということ。
密かに2人の関係性を疑っていたタイオンにとって、その回答はまさに望み通りの色をしていた。
思わずにやける口元を隠すように眼鏡を押し込むと、腕を組み何度も頷く。
「なるほどそうか。そういうことか」
「……え、アタシの言ってる意味、ちゃんと分かってる?」
「あぁ。要するに、ゼオンには全く気がないということだろ?」
「うーん、それはそうなんだけど……。まぁいいか」
ユーニの思惑とは別の場所に着地し、満足げに頷いているタイオン。
そんな彼を前に戸惑うユーニだったが、訂正することはなかった。
好きでもない奴に浴衣姿を見せたところで意味はない。
けれど、好きな人には浴衣姿を見てもらいたい。
そんなガラにもない乙女チックな理論、口にしたところで恥ずかしくなるだけだ。
気を紛らわせるようにりんご飴を一口齧ると、甘酸っぱい味を口の中で咀嚼しながらユーニは話題を変えた。
「セナとランツ、うまいことやってるかな?浴衣効果がちゃんと発揮されればいいけど」
「浴衣効果?」
「ほらよく言うじゃん。女が浴衣着ると2割増しで可愛くなるって」
そんなジンクスがあるとは知らなかった。
だが、確かにそれは正しい説と言えるだろう。
実際、隣に腰掛けているユーニはいつも以上に可愛く見える。
隣で歩いているだけで緊張してしまうほど、妙な特別感が醸し出されているのだ。
「でもまぁ、男なら全員浴衣効果が適応されるってわけでもねぇみたいだけど」
「そうなのか?」
「だって、現にタイオンは浴衣に対して無反応だったじゃん」
「えっ」
浴衣を身に纏ったユーニを見た瞬間、タイオンの心臓は無様に高鳴っていた。
その姿をまっすぐ見ることが出来ず、まるで中高生のように狼狽えてしまう。
そんな自分がかっこ悪くて、何とか平静を保とうとノーコメントを貫いてしまったのが仇となったらしい。
“似合ってる”だの“綺麗”だの、褒める言葉を一つもかけられなかった事実を思い出し、今さら後悔の念に襲われた。
これはマズい。浴衣は着付けにそれなりに時間がかかるだろうし、値段も高価だったはずだ。
ちゃんと時間と労力をかけて支度をしてきてくれた相手に対して何も褒めないのは流石に失礼だろう。
焦りを感じたタイオンは、ぐっと息を呑み言葉を絞り出す。
「い、いや、別に無反応だったわけじゃない!浴衣は特別感のある装いだと思うし、い、いいと思う。すごく似合ってる」
「ホントに?」
「あぁ」
「そっか。じゃああとでセナに言っとくわ。タイオンも褒めてたって」
「えっ」
「セナはいつも“自分なんか”って自分を下げて話すけど、そんな卑下することないって思うんだよ。今日だってあの浴衣めちゃくちゃ似合ってたしな」
どうやらユーニとしては、セナの話をしていたつもりだったらしい。
当然、先ほど意を決して振り絞ったタイオンの誉め言葉は、全てセナへ向けられたものだと解釈されてしまう。
違う。違うんだ。確かにセナもミオも似合っていたけれど、僕が褒めたかったのは君なんだ。
その浴衣似合ってる。綺麗だ。可愛い。
思い浮かんだ甘い台詞は、何一つ口から出てこない。
何故だろう。ミオやセナ、他の女性たちのことは素直に褒められるのに、ユーニを前にすると途端に恥ずかしくなる。
嫌われたら、気持ち悪いと思われたら、嫌がられたら、なんて余計なことばかり考えて、一歩踏み出せなくなる。
情けない。カッコ悪い。そしてひどく無様だ。
ユーニには、ユーニにだけは、こんな姿見せたくないのに。
心臓が痛い。
他の男を見ないで欲しい。
もっと僕を見てほしい。
2人きりのこの空間が一生続いてほしい。
僕は一体どうなってしまったのだろう。
こんな気持ちになるなんて。
あぁそうか。そうなんだ。もう誤魔化しがきかない。
逃げの一手が通じない。
ユーニという大敵はじりじりとこの心を追い詰めて、真実を僕の喉元に突き付けてしまう。
きっともう、これ以上目を逸らすのは無理なんだ。
僕はユーニが好きなんだ。好きで好きでたまらないんだ。
思い知った真実は、タイオンの心臓を高鳴らせる。
顔が真っ赤に染まり、泣きそうになる。
好き。ユーニが好き。
何度も否定し続けた事実が、もはや拒絶しきれないほどの質量でこの胸を圧迫し始める。
気付きたくなかったのに。どうせ釣りあわないのに。
甘ったるくてむせ返りそうな感情自覚したタイオンは、花火を見上げる余裕すらなくなっていた。
「あれ、セナからLINE?」
手持ちの巾着に入れていたスマホが震えていることに気付き、ユーニは画面を確認した。
どうやらメッセージの送り主はセナらしく、ミオやセナと組んでいるグループトークに届いている。
勝手にいなくなった自分たちを心配してメッセージを送って来たのかもしれない。
そう思ってトーク画面を開いた瞬間、ユーニの思考は停止した。
「はぁっ!?」
突然隣で挙がった大声に、感傷に浸っていたタイオンは肩を震わせた。
何事だと視線を向けると、先ほど好きになったばかりの相手である彼女はスマホを凝視しながら石のように固まっている。
恐る恐る何があったのか問いかけてみると、彼女は心ここにあらずな表情を浮かべながら、黙ってスマホの画面をこちらに向けてきた。
眉を潜めながら画面を覗き込むと、そこには短い文面で信じられないメッセージが表示されていた。
“ランツに告白された”
「はぁっ!?」
数秒前のユーニと同じように大声を挙げ、タイオンは口をあんぐり開けたまま思考停止してしまう。
どういうことだ。一体何があった。
訳も分からぬまま、タイオンとユーニは互いに戸惑いながら顔を見合わせるのだった。
act.35
朝とはいえ、真夏に突入した今は十分暑い。
ベッドから起き上がりクーラーが効いた部屋を出て階段を降りたタイオンは、まっすぐ洗面所へと向かう。
閉まっているスライド式の扉の向こうには、歯を磨いているらしい誰かの気配があった。
中にいるのが誰なのか、聡明で勘のいいタイオンはすぐに気付いてしまう。
ユーニだ。中にいるのはユーニで間違いない。
扉に手をかけ深呼吸する。
痛いくらいに心臓が高鳴っている。とにかく落ち着け。冷静に、冷静に接するんだ。
そう言い聞かせ、タイオンは扉を開けた。
「あ、おはよ、タイオン」
「お、おはよう」
鏡越しにユーニが笑顔を向けて来る。
歯磨きを終えたばかりの彼女の隣に並びながらたどたどしく返事をする。
落ち着かない。心が高ぶって仕方ない。
すぐ横にユーニがいるというだけのことなのに、まるで中学生かのように意識してしまう。
だから嫌だったんだ。この気持ちを自覚してしまうのは。
ルームシェア仲間6人で花火大会に出かけたのは昨晩のこと。
夜空に打ち上がる色とりどりな花火を見上げながら、あの夜タイオンの心には大きな変革が訪れていた。
長い間ずっと否定し続けてきた恋心が理性を押しのけ、とうとう胸の中を支配してしまった。
この気持ちは、もう隠せない。
誤魔化しようもないほど肥大化した恋心を、タイオンはようやく受け入れた。
ユーニのことが好き。
その事実を咀嚼して飲み込んだ瞬間、彼は平常心を手放した。
今までどんな距離感でユーニと接していたのか分からなくなるほど、彼女と一緒にいると緊張してしまう。
今もこうして、ユーニの隣に立っているだけで心臓が暴れ出している。
この厄介な恋心を自覚した瞬間、どうせこうなってしまうことは予想がついていた。
もっと余裕ある態度で接したいのに、どうにも平常心を削がれてしまう。
「今日も寝ぐせすごいな」
「そうか?」
「ほら、ここ跳ねてる」
ユーニの手が、タイオンの頭へと延びて来る。
癖毛をわさわさと撫でて来る彼女の手つきに、また心臓が締め付けられる。
今までもこうして寝ぐせを治してもらっていたが、今まで以上に緊張してしまう。
マズい。多分今、ものすごく顔が赤くなっている。
好きな子に触れられているというこの甘い状況に、恋するタイオンはあっけなく心躍らせていた。
「なぁタイオン」
「……なんだ?」
「今朝、そっちの部屋にセナ行ってないよな?」
「あぁ。来てないなそういえば」
突然投げかけられたセナに話題に、タイオンは戸惑いつつ頷いた。
セナは毎朝のようにランツとタイオンの部屋を訪れ、室内のトレーニング器具を借りてランツと共に筋トレを楽しんでいる。
だが、言われてみれば今朝は珍しく部屋に来ていなかった。
いつも早起きのランツもベッドの中で丸くなったまま起きていなかったようだ。
その状況を話すと、ユーニは“そっかー…”と気落ちしたようなトーンで呟く。
「やっぱランツのやつ、本当に告ったのかな」
「かもしれないな」
昨晩の花火大会で、打ち上がる花火を前にユーニは驚くべきメッセージを受信していた。
送って来たのはセナ。ミオとユーニの3人で組まれているグループメッセージに表示された短いメッセージは、ウロボロスハウスの空気を一変させるものだった。
“ランツに告白された”
横にいたタイオンと共にそのメッセージを確認したユーニだったが、どうやらノアやミオもそのメッセージを確認したらしい。
いち早くメッセージの詳細をセナに本人に確認したかったユーニは、急いでみんなと合流した。
だが、いそいそと合流してきたランツとセナの空気感は明らかに違和感があった。
どこかたどたどしく、甘酸っぱく、それでいて気まずさを孕んでいる。
並んで歩いていながらも2人の間に会話はないが、互いに互いを意識し合っている。
そんな雰囲気に、ユーニもミオも例のメッセージの詳細を聞き出せずにいた。
告白ってどういうこと?
なにがあったわけ?
返事はしたの?
聞きたいことは色々あるが、ランツとセナが揃っている状況ではなかなか聞きにくい。
モヤモヤとした疑問を抱えたまま、事情を聞き出せなかった他の4人は布団に入ったのだった。
「なんとかして何があったのか聞き出してぇけど……」
「流石にあの二人が揃っている場では聞きにくいな」
「だよなぁ。せめてどっちかを連れ出すことが出来れば……」
「なら、連れ出してみるか」
背後から聞こえてきた声に、タイオンとユーニは即座に振り返った。
洗面所の入り口に立っていたのは、少しだけ眠そうにしているノアとミオ。
恐らくセナとランツのことが気になってあまり眠れなかったのだろう。
眠気眼のままそこに立っている2人は、何か考えがあるようだった。
***
その日の夜、ウロボロスハウスに住む6人は珍しく誰も外出していなかった。
昼間のうちはそれぞれ大学やアルバイトにいそしんでいたが、19時を回った今は全員がリビングでくつろいでいる。
いつも通りの団欒風景のように見えるが、セナとランツを中心にどこか居心地の悪い空気が漂っている。
ソファに腰掛け、黙ってテレビを見ているランツ。
食卓に腰掛け、窓の外をぼーっとみて考え事をしているセナ。
そんな2人を見比べたノアは、意を決したように食卓から立ち上がり口を開いた。
「ランツ、タイオン。今から3人で飲みに行かないか?」
「え?今からか?」
親友からの突然の提案に、ランツは驚いていた。
この家でルームシェアを始めて以降、男3人だけで飲みに行くなど一度も無かった。
女性陣も同じ空間にいるというのにあえて男だけで飲みに行こうと提案してきたノアの言葉に、ランツは違和感を抱いたのだろう。
だが、今度はランツの隣でソファに腰掛けていたタイオンが助け舟を出すように立ち上がった。
「たまにはいいかもな。男3人だけというのも。なぁ?ランツ」
「えっ、お、おう。まぁいいけどよ……」
「よし、じゃあ行こう!早速行こう」
まだソファに腰掛けたままのランツの腕を、ノアとタイオンが強引に引っ張っていく。
男二人に促され、ランツは戸惑いつつも渋々立ち上がった。
家から連れ出す直前、ノアとタイオンはリビングに残されたミオとユーニにちらちら目配せしていたが、違和感ありまくりな連れ出しを実行した男連中に2人の女性陣は苦笑いするしかなかった。
もっと自然な流れで連れ出せなかったのか。
とはいえ、ランツを家から連れ出すことには成功した。
玄関の扉が“バタン”と閉まった音を確認すると、ミオとユーニは互いに目を合わせて頷き合う。
そして、食卓に座ったままぼーっとしているセナの正面の席に並んで腰かけると、2人は前のめり気味に本題に入った。
「で、セナ!どういうことなの!?」
「1から10まで説明してもらうぜ?」
まるで取り調べを開始する刑事かのごとく、ミオとユーニはセナに詰め寄った。
好奇心に満ち溢れた2人の目を見た瞬間、セナは勘付いてしまう。
あぁなるほど、さっきノアとタイオンが強引にランツを連れ出したのはこの話をするためだったのか、と。
元々隠すつもりはなかった。
事情を打ち明けるタイミングが無かったせいで口を噤んでいたが、本当は友達であるこの二人にも相談したかったのだ。
このまま黙っておく道理はない。
未だどきどきと高鳴る胸を抑えつつ、セナは昨晩の出来事をゆっくり丁寧に語り始めた。
***
「あれ?タイオンとユーニがいないよ?」
花火が打ち上がる直前、人混みをかき分けながら進んでいたセナは、後ろからついて来ていたはずのタイオンとユーニの姿が見当たらないことに気が付いた。
前を歩くランツの腕を掴み、彼らの姿が見当たらないことを告げると、ランツは振り返りながら怪訝な表情を浮かべた。
「もしかしてアイツら、2人きりになりたくてわざとどっか行ったのかもな」
「えぇっ!? そうなの?」
「今頃どっかでラブコメしてんじゃねーの?」
「そっかぁ。ありえるね。どうする?ミオちゃんたちのところに合流する?」
「いや。あっちもあっちでよろしくやってるだろ。少し時間置いてから合流しようぜ」
「うん、そうだね。おわっ」
人混みの中心を歩いていた2人だったが、突然人の波に押されてセナはバランスを崩してしまった。
体幹には自信があったが、普段着なれない浴衣と履きなれない下駄を纏っているせいで、人並みに押されればすぐに転びそうになる。
「おっと、平気か?」
「あっ、う、うん」
よろけたセナの身体を支えたランツが、顔を覗き込んでくる。
心配そうに見つめて来る彼の顔をまっすぐ見つめた瞬間、急激に恥ずかしくなって顔を逸らしてしまった。
“転ぶといけねぇから掴まってろ”
そう言って差し出された彼の大きな手を恐る恐る握る。
重ねられた手をぎゅっと握り返され、ランツはいつも通りの笑みを見せながら歩き出す。
「行こうぜ、セナ」
手を取り合い、2人は浮かれた人混みの中を往く。
右を見ればカップル。左を見ればカップル。
前も後ろも、幸せそうに腕を組んだり手を繋いで歩く男女ばかり。
この幸せな空間の中で手をつなぎ、ゆっくり歩いている自分たちも、端から見ればカップルに見えるのだろうか。
いや、きっとそんなことはない。
ランツと自分はきっと釣り合っていない。
恋人同士に見えるかも、なんて。そんなのきっとありえない。
未だ自分に自信が持てないセナは、ただでさえ小柄な体をさらに小さく縮こませ、黙ってランツに着いて行った。
いくつか屋台をめぐり、焼きそばやたこ焼きをつつきながら2人は時間を潰した。
屋台で売っている食事がやけに美味しく感じるのは、祭りの空気が醸し出す特別感のせいだろう。
好きな人と一緒に並んで食べているというこの状況も、特別感に拍車をかけている。
どうせ釣りあわないと自覚しているというのにこんなにも心がときめくのは、それほどランツに対する気持ちが大きくなっているからなのかもしれない。
ランツへの好意は、日を追うごとに増している。
底なしの好意は危機感を覚えるくらいセナの心を圧迫している。
このままじゃ、いつか諦められなくなるかもしれない。
もしもランツに彼女が出来たとしたら、今隣に立てている自分のポジションも、その“彼女”に奪われてしまうのだろう。
もしその時が来たとして、平然としていられるだろうか。
憧れに近いこの好意が、いつか醜い独占欲に変わってしまうかも。
そんな心配を胸に抱いていたセナだったが、突然響いた“どんっ”という大きな音に肩を震わせた。
「おっ、はじまったな」
屋台の影で立ち止まっていた2人は、夜空に咲いた大輪の花火を見上げる。
次々打ち上がる色とりどりの花火を見上げながら、セナは目を輝かせていた。
思えば、こうして誰かと花火を見上げたのは久しぶりだったような気がする。
花火って、こんなにきれいだったっけ。
ランツが隣にいるというだけで、夜空を彩る花火が一層美しく見えた。
「花火、こんなに近くで見たの久しぶりかも」
「俺も花火大会なんてかなり久しぶりだな。たまにはいいよな、こういうのも」
「うん。なんか、子供の頃に見た花火よりも綺麗に見える」
「そうか?近くで見てるからじゃね?」
「ううん、違う。多分、ランツと一緒に見てるからだと思う」
「えっ」
つい先ほど購入したばかりのかき氷のカップを両手に持ちながら、セナは空を見上げている。
青い浴衣を身に纏い、髪をまとめ上げ、薄く化粧を施した彼女の顔は空の花火に照らされていた。
儚げで美しい彼女の横顔に目を向けたランツは、思わず言葉を詰まらせてしまう。
そんなランツの様子に気付くことなく、セナは花火をまっすぐ見上げながら言葉を続けた。
「ランツといると、どんな景色も綺麗に見えるね」
赤、白、青。
様々な色の花火が空に打ち上がる。
腹の底に響くような音を鳴らしながら、花火は夏を彩っている。
美しい夏の風物詩を見つめながら、セナは自身の気持ちを改めて実感していた。
きっと今夜の花火も、ランツ以外の誰かと観ていたらもっと別の景色が見えていたに違いない。
ランツの隣にいるというだけで、目に映る全ての景色が輝いて見える。
鬱屈していたあの頃はすべてが歪んで見えていたというのに、今は違う。
ランツといると、心が軽くなる。空気が美味しい。いつもより明るくなれる。
やっぱり私、ランツがすきだ。
心に芽生えたほのかな恋心が蕾をつける。
この恋心はきっと、一生花を咲かせることなくいずれ虚しく摘み取られるだろう。
けれど、それでもいい。
ランツに恋をしている今の自分は、ほんの少しだけ前向きになれる。
たとえこの恋が実らなくとも、ランツに恋をしている間だけでも、自分自身を好きになれる。
それだけでいい。それだけで十分だった。
そんなセナの欲のない心へ、ランツは無遠慮に手を伸ばす。
突然肩を掴まれ、花火を見上げていたセナは反射的に隣にいるランツへと顔を向ける。
花火から視線を逸らしたセナの視界に、真剣な表情を浮かべたランツの顔が飛び込んできた。
“どうかした?”
そう問いかけようとした瞬間、ランツの顔がぐっと近づき唇が塞がれた。
息が止まる。言葉が出ない。
華奢な両肩を強く掴まれ、逃げ場を失ったセナは大きく目を見開いた。
なんで?どうして?
こんなのおかしい。
ランツに、大好きなあのランツに、キスされてるなんて。
高鳴る心臓の鼓動にリンクするかのように、空にひときわ大きな花火が打ち上がった。
***
「き、キスしたぁ!?」
半個室の居酒屋に、タイオンの素っ頓狂な声が響く。
隣に座っているノアもまた、ぎょっとした様子で言葉を失っている。
そんな2人の正面に腰掛けているのは、ほんの少し顔を赤くしながら頬杖を突き顔を逸らしているランツ。
彼の口からぶっきらぼうに語られた夏祭りの背景に、2人は驚きを隠せない。
脳が筋肉で出来ていると言っても過言ではないあのランツが、打ち上がる花火を背景にセナに口付けたという話は、妙に現実味がない。
だが、居心地が悪そうに語っているランツの言葉が嘘を言っているようにも思えなかった。
「ランツ、そんなことしたのか」
「セナが挙動不審になる理由もよく分かるな」
「し、仕方ねぇだろ!お前らだって浴衣姿の好きな女に同じようなこと言われてみろ。なんかもう、とにかく抑えられなくなっちまったんだよ!」
半ばやけくそ気味に叫ぶランツ。
彼はグラスに半分ほど残ったビールを勢いよく飲み干した。
ノアとタイオンは、珍しく照れている様子のランツを見つめつつ頭の中で想像する。
浴衣姿の想い人の姿を。
“ノアといるとどんな景色も特別に思えるね”と顔を赤らめるミオ。
“こんなに楽しいのはタイオンが隣にいるからだろうな”と微笑むユーニ。
それぞれの脳裏に浮かんだ想い人の言葉と姿に、2人の心はむず痒くなる。
確かにそんなことを言われて喜びを感じない男はいないだろう。
あの無垢なセナのことだ。きっとランツを喜ばせるために計算していったわけでもないのだろう。
本心だと分かっているからこそ、喜びは一層大きくなる。
「勢い余って行動してしまったということか。気持ちは分からないでもないが……」
「で、気持ち伝えたのか?」
ノアの質問に、ランツは視線を落としながら遠慮がちに頷いた。
どうやらセナのメッセージ通り、ランツは自らの好意を伝えたらしい。
にも関わらず微妙な顔をしているのは何故だろう。
「返事はもらったのか?」
「いや。“返事はいい”って言っといた」
「それでいいのか?ちゃんと返事をもらったほうがすっきりするだろ」
「そりゃそうだけどよォ……。あいつ、めちゃくちゃ戸惑ってたんだ。困らせたかったわけじゃねぇ。だから……」
「返事はもらわなかったと?」
「あぁ」
ランツは気持ちを伝えるだけ伝えて、返事を貰わなかったのだという。
2人が必要以上に気まずいそうな空気を醸し出しているのはそのせいだったのかもしれない。
だが、気持ちを伝えたというのにランツは少し気落ちしているように見える。
その原因に、親友であるノアは心当たりがあった。
「けどランツ、この前言ってなかったか?“セナが自分に自信を持てるまでは気持ちを伝えない”って」
「あぁ。正直言うつもりなんてなかったんだ。でも、セナは日に日に可愛くなるし、いつか俺以外の誰かがアイツに言い寄る日が来るんじゃないかって思うと、いてもたっていられなくなって」
本当に気持ちを伝えるつもりなどなく、勢いに任せて行ってしまったのだろう。
予定にない告白に一番困惑しているのは、口にした張本人であるランツ自身なのかもしれない。
そんな彼の様子に、ノアは穏やかに微笑みながら“ランツらしいな”と呟いていた。
勢い任せだったとはいえ、まさかランツがセナに想いを伝えるだけでなく、口付けまでかわしてしまうとは。
複雑な心境を抱えながら、タイオンは手元のレモンサワーのグラスを傾けた。
自分はユーニに気持ちを伝えるどころか、気持ちを受け入れたばかりの段階だ。
一歩も二歩も後れを取っている。
タイオンが足踏みしている間に、ノアも、ランツも、心に決めた相手の手を取りどんどん前へ進んしまう。
この現状に、タイオンは少々寂しさと焦りを感じていた。
act.36
胸を打つような花火の音を聞きながら、セナは息を止めていた。
一瞬のことが永遠に思えた。
重なっていた唇がゆっくり離れていく。
視界に広がったのは、セナの肩に両手を添え、真っ赤な顔でこちらを見つめて来るランツの顔。
体は大きい癖にいつも少年のような無邪気さ纏っているランツが、珍しく余裕のない目で見て来る。
その目に、表情に、セナの胸は一層大きく高鳴っていく。
ぶつけたい言葉はたくさんあった。
けれど何一つ口から出てこない。
ただただ戸惑いながら、目の前にいる大好きな人の名前を呟くことしか出来なかった。
「ら、ランツ……?」
「悪い。もう無理だ」
「え?」
「そういうこと言われたら、抑えが効かなくなるだろ……」
赤い顔のままぶつけられるその言葉に、セナはなんとなく数十秒前のキスの理由に察しがついた。
そうか、ただの気まぐれか。
ランツはこういうのに慣れてるだろうから、きっとしたくなったから勢いに任せてしてしまったんだ。
たぶんきっと、さっきのキスに深い意味はない。
そう心で決めつけたセナは、噛みそうになりながらたどたどしく諭そうとした。
「だ、だめだよ。こういうのはほら、す、好きな人としなくちゃ」
恋愛経験皆無なセナにとって、今のキスは正真正銘人生で初めてのキスだった。
モテる上に女性慣れしているであろうランツとは違い、セナにとってはたった一度のキスでも大きな価値が生まれて来る。
下手をすれば都合のいい勘違いをしてしまう。
呆気なくその気になって、後々傷付く羽目になるのは嫌だった。
保身のために顔を逸らし、高鳴る胸を誤魔化そうとするセナだったが、そんな彼女の言葉にランツはムッとする。
そして、今まで聞いたことのない切な気な掠れた声で囁いた。
「んだよそれ。好きだからしたんだろうが」
信じ難い言葉に、また息が止まりそうになる。
好きだからした?
そんなこと、あるわけない。
自分に都合が良すぎる甘い台詞が、こんなにドラマチックな状況で飛んでくるわけがない。
ゆっくりと顔を上げると、真剣な表情で見つめて来るランツと視線が絡み合った。
「う、うそ……」
「嘘じゃねぇよ」
「じゃあ冗談?」
「こんな状況で冗談なんて言うかよ」
「だったらドッキリ?このあとミオちゃんやユーニたちが看板持って“テッテレー”って……」
「セナ」
「だ、だって……!ランツが私のこと好きなんてありえないよ!私、ランツに好かれるような人じゃないもん。ミオちゃんやユーニみたいに、特別可愛いわけでもないし……」
中学の頃、セナは同級生の男子生徒たちから数々の酷い言葉をぶつけられていた。
チビだの根暗だのブスだの、積み重ねられた悪口の数々が、いじめから解放された後もセナの心を縛り付けている。
自信を奪われ、自尊心を踏みにじられ、自分自身を低く見積もり過ぎてしまっている。
その自覚はセナ自身にもあった。だが、どうしてもこの自尊感情の低い檻から抜け出すことは出来ない。
自分自身を認めることが出来ず俯くセナ。
ランツは苦い表情を浮かべながら、そんな彼女の頬に手を添えた。
垂れ落ちるサイドの髪が可憐に揺れて、恐る恐る顔を上げてくるセナ。
不安げに瞳を揺らすセナの表情は、ランツの胸を締め付ける。
「お前さん、今めちゃくちゃ可愛い顔してる自覚ねぇだろ」
「えっ……」
「セナが自分に自信を持てないのはよく分かる。けどな、俺に好かれるような人間じゃねぇって認識は改めろ。それ、間違ってるから」
「ラン、ツ……」
「困らせたかったわけじゃねぇんだ。返事は考えなくていい。けど、俺に好かれてるって自覚だけはしといてくれ。それだけでいいから」
真っすぐ見つめて来るランツの瞳を見つめ返しながら、セナは確信した。
これは嘘でも冗談でもない。
ランツは本気で言っている。
心からの好意をぶつけてくれている。
夢のような言葉を贈られ、セナはただただ戸惑うしかなかった。
打ち上がり続ける花火は相変わらず見物客を魅了しているが、2人にはすでには花火を見つめる余裕などなくなっていた。
***
「——と、言う流れだったんだけど……」
頬を紅潮させながらたどたどしく語るセナ。
そんな彼女の回想に、正面の席に座って聞いていたミオとユーニは言葉を失っていた。
他人事だというのに、脳内でその光景を想像していると顔が熱くなってしまう。
呆然と黙り込んでいる2人の友人の様子に不安を覚えたのか、セナは瞬きを多くしながら見つめて来る。
「ど、どうしたの……?」
「いや、なんかちょっとビックリして……。告白されたって言うから言葉だけなのかなと思ったら、まさかキスなんて……」
「あのランツがそんなことするなんてな。少女漫画かよ」
2人の率直な感想に、セナはまた羞恥心を煽られたのか真っ赤な顔で視線を落とす。
そんなことをされたら、2人を取り巻く空気が甘酸っぱくなるのも頷ける。
まさか昨晩花火を見上げていた同時刻、セナとランツがそんなラブロマンスを繰り広げていたとは。
未だ驚きを隠せないが、2人の態度を見るに嘘でも冗談でもないのだろう。
「で、返事はしたのか?」
「ううん。してない。“考えなくていい”って言ってたから……」
「じゃあ、今後も返事しないつもりなの?」
「うん、たぶん……」
「えぇっ?いやいや、セナもランツのこと好きなんだろ?付き合っちまえばいいじゃん」
「無理だよ、そんなよ……」
「どうして?」
「……釣り合わないよ、私なんて」
正面に座るセナは、いつもの遠慮がちな笑みを浮かべている。
その笑顔が、本当の笑顔ではないことに2人は気付いていた。
どこか哀し気な言葉と表情の裏に、セナの本心が隠れている。
隣に腰掛けるユーニと顔を見合わせたあと、ミオはセナに問いかけ始める。
「それでいいの?付き合いたいと思わないの?」
「……思えないよ。ランツに似合うのはもっと可愛くて、もっと明るくて、もっと……」
「セナ」
諭すように彼女の名前を呟くミオ。
ほんの少し怒っているように聞こえる彼女の声に、セナはようやく顔を上げた。
目の前には真剣な表情で見つめて来るミオの姿。
初めて見るミオの怒った顔に、セナは驚き息を詰めた。
「セナはいつも“私なんか”って言うけど、それって、セナのことを好きだって言ってくれたランツの気持ちを否定してることになるんだよ?」
「え……?」
「ランツだけじゃない。私やユーニだってセナのことが大好きなの。自分を卑下し続けることは、自分に好意を寄せてくれている人のことまで否定するってことなのよ?」
諭すミオの言葉に、セナは反論が出来なかった。
ランツの気持ちを否定する気などさらさらない。
ましてユーニやミオからの好意まで否定するなんて、そんなのありえない。
だが、ミオの言う通り自分を否定するということは間接的に自分と親しくしている人を否定することにも繋がってしまう。
その事実に初めて気が付いたセナは、視線を泳がせ自分の手元に視線を落とした。
「セナは釣り合ってねぇって言うけど、ランツはそう思ってないから告って来たんじゃねぇの?“返事は考えなくていい”って言ったのも、変に急かして困らせたくなかったからだと思う。アイツのことだから、本心では返事が欲しくてたまらないんじゃねぇかな」
「そう、なのかな……?」
「カッコつけたんだよ。本当は付き合いたいくせに」
昨晩、花火の光に照らされたランツの顔が脳裏に浮かぶ。
いつになく真剣で、それでいて少し照れくさそうなあの顔は、ランツから余裕を削り取っていた。
自分を前に、あのランツがこんなにも切羽詰まった表情を見せている。
そう思うだけで心が湧きたつ。
ランツの緊張が掴まれている両肩から伝わり、隠されていた彼の本心が見えて来る。
向けられているこの好意は、明らかに友情ではない。淡い恋心だった。
恋心の裏にある“付き合いたい”という欲を、ランツは懸命に押しとどめながら気持ちを吐露していた。
それはセナを困らせまいとする彼の気遣いであり、優しさだ。
“返事は考えなくていい”という言葉に甘え、ただ好意を受け取るだけに留めるのは果たして正しい行いと言えるのだろうか。
ユーニの言葉に迷いが出始めるセナ。
そんな彼女に、再びミオが問いかける。
「ねぇセナ。セナはどうなの?」
「え?」
「釣り合ってるとか釣り合ってないとか、周りの評価はとりあえず置いといて、ランツのことどう思ってるの?」
首筋にナイフを押し付けられるように、ミオの問いかけはセナを追い詰める。
もはや迷ってはいられない。
誤魔化しようもないほど肥大化した好意が、言葉となってセナの口から溢れ出す。
「好きだよ。すごく好き。だいすき」
セナの褐色の瞳からは、いつの間にかぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
胸に渦巻く好意は、これ以上抑えきれないほど質量を大きくさせている。
肩を震わせながら気持ちを吐露するセナを、2人の友人たちは優しく見つめていた。
きっと彼女なりに大いに悩んでいたのだろう。
ランツを好きな気持ちと、自分を認められないもどかしい気持ちの板挟みになって、心がぐちゃぐちゃになっている。
泣いているセナの様子を目を細めながら見つめつつ、ユーニは頬杖を突きながら口を開いた。
「ランツもセナのことが好き。セナもランツのことが好き。簡単な話しじゃん」
「そうね。セナ、ランツはあなたのことが好きって言ってるのよ?大好きなランツに好かれてる自分をもっと評価してあげてもいいんじゃない?」
「ユーニ……。ミオちゃん……」
2人からの言葉は、セナの迷いに満ちた心をあっという間に軽くしてしまう。
いいのだろうか。ランツの隣に自分なんかが立っていても。
いや、そんな風に自分を卑下するのはもうやめよう。
ランツは自分を好きだと言ってくれた。
あんなに真剣な顔で。真剣なまなざしで。
ランツに好きだと言ってもらった自分自身を信じてみてもいいのかもしれない。
今まで一度たりとも自分自身を好きになったことなど無かった。
けれど、自分はランツに好かれている。
その事実が目の前にあるだけで、ほんの少しだけ自分に自信が持てる。
今の自分なら、ランツの隣に立っても少しはましに見えるような気がした。
頬を伝う涙を拭うと、セナは顔を挙げ、力強く拳を握った。
「決めたよ2人とも。私、ランツに返事する!“付き合いたい”って伝えてみる!」
「おぉ!いいぞセナ、その意気だ!んじゃあ早速……」
意気込むセナに目を輝かせながらエールを贈るユーニ。
行動力の塊である彼女は、セナの意気込みを聞き届けるとすぐに懐からスマホを取り出した。
アクセスしたのはウロボロスハウスの住人たちで組んでいるチャットルーム。
スマホを取り出したユーニの姿に嫌な予感を覚えたセナは、咄嗟にスマホを持っているユーニの手を掴んで引き留めた。
「ちょ、ユーニ何するつもり?」
「ランツたちに帰ってきてもらうんだよ。今から返事するんだろ?」
「えぇっ!? 今から!? い、今からはちょっと……。まだ心の準備が出来てないというか……
」
「えー、なんだよぉ、せっかく盛り上がって来たのに」
セナは勢いに任せて行動するユーニとは違う。
返事をすると心に決めたものの、まだ覚悟は固まっていない。
心の準備をするだけの時間が必要だった。
焦りつつそう伝えるセナにユーニはがっかりしているようだったが、横でその様子を見ていたミオは随分と冷静に構えている。
「そうね。せっかくお返事するならもっと特別感のある場面でした方がいいと思う」
「特別感のある場面って?」
「例えば……、この日とか!」
食卓の上に置かれていた卓上カレンダーに手を伸ばし、ミオは嬉々として約1週間後の日付を指さした。
そこには赤い文字で、“軽井沢旅行”の文字が書かれている。
夏休みに入る前、皆で決めた旅行計画の日である。
「おっ、旅行中に返事するってことか!いいじゃん。特別感ありまくりだし」
「1週間後だし、十分心の準備はできるでしょ?」
「そ、それはそうだけど……。大丈夫かなぁ……」
「平気だって!アタシたちも協力するから。な?ミオ」
「えぇ。任せて。題して、ランツ撃墜大作戦よ!」
「撃墜……大作戦……!」
かつて、セナの主導で2つの作戦が実行された。
その名も、ノア陥落大作戦とタイオン攻略大作戦である。
ここにきて始動した3つ目の作戦、ランツ撃墜大作戦の発表に、セナは生唾を飲む。
撃墜できるだろうか。あのランツを。
作戦実行日は約1週間後の軽井沢旅行。
卓上カレンダーに記された運命の日を見つめながら、セナは小さく武者震いを始めるのだった。
***
「は?ランツ撃退大作戦?」
「“撃墜大作戦”な。そこ重要だから」
男性陣が3人そろって飲みに出かけた翌朝。
朝食係を務めるユーニは、先に起床していたタイオンとキッチンで立ち話に興じていた。
彼が淹れたハーブティーを楽しみつつ、ユーニは昨晩女性陣3人の間で正式決定された作戦を披露する。
聞き慣れない作戦名に、タイオンはハーブティーのカップを片手に首を傾げた。
「なんだそのセンス皆無な作戦名は」
「ひっど。命名はミオだぞ?チクッとこ」
「やめてくれ。ミオに睨まれたくない」
「1週間後、軽井沢旅行があるだろ?旅行期間中にセナとランツをくっつけるんだよ」
「どうして女性という生き物はそう他人の恋路に介入したがるんだろうな」
「うっせ。いいからタイオンもちゃんと協力しろよ?ランツ迎撃大作戦」
「撃墜大作戦じゃなかったか?」
「あっ……」
ぴしゃりと訂正したはずのユーニ自身が間違えたことで、2人の間に笑いが起こる。
どうやらユーニとしても、作戦名はあまり重要視していないらしい。
“協力しろ”と言われても、あまり他人の色恋ごとに介入する気にはならない。
惚れた腫れたの話は、本人同士で解決するべきだ。
そもそも、タイオンにはランツとセナに協力するほどの余裕などない。
すぐ隣で自分のハーブティーを啜っているユーニへの恋心を自覚したばかりなのだから。
好きだと認めてしまった以上、はやりユーニと付き合いたいという気持ちはある。
だが、その願望を叶えるには今まで通りの距離感では無理だ。
きちんと行動をして、アプローチして、アピールして、彼女を振り向かせなければならない。
ユーニはモテる。ライバルもきっと多いだろう。
同じようにユーニとのロマンスを望む他の男たちを押しのけて自分の腕の中に彼女をいざなうにはどうしたらいいだろう。
奥手で慎重なタイオンは考える。
だが、考えれば考えるほど頭がパンクしそうになって、たどたどしい態度をとってしまうのだ。
「ランツとセナ、付き合えればいいな」
「……そうだな」
他人の恋の行方を気にするユーニと、そんな彼女との恋を望むタイオン。
それぞれの思惑が密かに交差する中、2人は1週間後に迫った旅行の日を思い描くのだった。
act.37
花火大会から数日。
相変わらずウロボロスハウス内は甘酸っぱい空気が漂っていた。
発信源は勿論セナとランツの2人。
朝も昼も夜も、2人が揃えば問答無用で空気感が浮つくのだ。
今夜もまた、6人はリビングで思い思いの時間を過ごしている。
食卓に腰掛けているノア、ランツ、ミオ。
ソファに腰掛けテレビのクイズ番組を見ているタイオンとユーニ。
そして、キッチンで何やら作業をしているセナ。
いつも通りの夜に思えるが、やはりランツとセナを取り巻く空気はどこかたどたどしい。
テレビに映し出されているクイズ番組が最終問題を読み上げ始めた頃。
キッチンで作業していたセナが、棚の高い位置にある何かを取ろうと背伸びをしながらうめき声をあげき始めた。
「ううーん、ねぇ、タイオン、ちょっとこれ取ってくれない……?」
セナが取ろうとしているのは、棚の一番上に収納してあるミキサーらしい。
この家で一番小柄なセナでは、全力で背伸びをしても棚の一番上には届かない。
懸命に腕を伸ばし、ミキサーを取ろうとしているセナはタイオンに助けを求めた。
ランツの影に隠れてはいるが、タイオンもそれなりに長身の男である。
助けを求められたタイオンはテレビから視線を逸らし、キッチンにいるセナへと視線を向ける。
「ん?どれ……、うおっ」
セナの呼びかけに応じ、立ち上がろうとしたタイオンだったが、突然隣に座っていたユーニによって腕を掴まれる。
掴まれた腕が引き寄せられ、立ち上がろうとしていたタイオンの身体は再びソファの上に沈んだ。
急にユーニに引き留められたことに戸惑い、タイオンは少し赤くなりながらユーニへと振り返る。
「な、なんだ急に」
「空気読め空気」
「は?」
タイオンの左腕を抱きしめたまま放そうとしないユーニ。
彼女は横目で食卓に腰掛けているランツへ視線を向けた。
同じように食卓に腰掛けているノアとミオも揃ってランツへと目を向ける。
注目されている理由が分かっていないのか、ランツはきょとんとしていた。
そんな彼に、ノアとミオが小声で指示を飛ばす。
「行けランツ。出番だ」
「へ?俺?」
「セナが困ってるよ。助けてあげて」
ノアとミオに促されたことで、ランツは少し気恥ずかしそうに鼻先を掻いた後ゆっくりと立ち上がる。
呼ばれたタイオンの代わりにキッチンに向かうと、未だミキサーに手を伸ばし懸命に背伸びをしているセナの背後に立った。
ランツの身長は180センチを悠に超えている。
大柄な彼の手にかかれば、背伸びなどしなくとも棚の一番上に手が届いてしまう。
セナのすぐ後ろから手を伸ばしミキサーを取ってやるランツ。
手渡されたミキサーを受け取ったセナは、恐らく背後に立っているのがタイオンだと思い込んでいるのだろう。
満面の笑みを浮かべながら振り返ったセナは、すぐ後ろに立っているランツの姿にようやく気付き目を見開いた。
「ありがとうタイオ——、あっ、ら、ランツ!?」
「ミキサーなんて何に使うんだよ?」
「えっ、あ、えっと、す、スムージー作ろうかなって」
「スムージー?」
「黒ゴマとヨーグルトのスムージー……」
「美味そうだな」
「ら、ランツも食べる?」
「……いいのか?」
「うん。二人分作るのも変わらないから」
「そうか。じゃあ手伝う」
「あ、うん。ありがと」
たどたどしい空気を醸し出しながら、2人は並んでキッチンで作業を開始した。
キッチンから漂う甘酸っぱい空気に、リビングからその様子を盗み見ていた面々はニヤニヤと笑みを浮かべている。
気まずさを感じつつも、2人の関係性が悪くなっているわけではないらしい。
あの感じなら、間近に迫った旅行できちんと告白の返事も出来そうだ。
がんばれセナ。少しでもランツとの距離を縮めて、返事をする覚悟を固めなくちゃ。
心の中でガッツポーズをしながらセナを応援しているミオ。
そんな彼女の視界の端に、ソファに腰掛けているユーニとタイオンの姿が映った。
未だタイオンの腕をがっしり掴んだままセナとランツのやり取りをニヤニヤと見つめているユーニ。
そんな彼女に半ば抱き着かれるように腕を取られているタイオンは、真っ赤になった顔を逸らしている。
今までのタイオンなら、あんな風にユーニに密着されたら激しく動揺し、すぐに腕を振り払っていたはず。
なのに今のタイオンは、顔を真っ赤にしながらも腕を振り払うそぶりなど見せず、ユーニに密着されている状況をまるで甘受しているかのように見えた。
おかしい。
ユーニへの好意をあんなに必死で否定してきたタイオンが、今は大人しくユーニを受け入れている。
ランツやセナの間に起こった大きな確変に隠れて目立っていないが、もしかするとタイオンとユーニの間にもわずかながら変化があったのかもしれない。
まさかタイオンもユーニに告白したとか?
いや、もしそうならユーニが打ち明けてくれるはずだ。
じゃあ逆にユーニがタイオンに告白したとか?
いやいや、ユーニは“タイオンからの告白を待つ”とハッキリ宣言していたしその線は薄いだろう。
だとしたら何が起きたのだろう。
タイオンの心に変化をもたらしたような出来事とは一体……。
考え込むミオだったが、いくら2人を観察してもその答えは出なかった。
***
“返事は急がない。面倒な頼みをしている自覚はあるから、あまり気負わずゆっくり考えてくれ”
ゼオンからのメッセージに視線を落としながら、ノアは深いため息をつく。
リビングでの団欒に一区切りつけ、彼は自室のベッドに腰掛け1人物思いにふけっていた。
数日前の花火大会の日、ノアのスマホにはゼオンからのメッセージが届いていた。
あれ以来、ノアは頻繁にゼオンと連絡を取り合っている。
彼からの突然の依頼に面食らいつつ、ノアは返事を渋っていた。
ゼオンは大切な友人だし、困っているようなら手を貸したい。
だが、依頼の内容が内容なだけに足踏みしてしまう。
簡単に承諾できるわけがない。
“ヴァイオリンを弾いて欲しい”だなんて、今のノアには受け入れがたい依頼だった。
ゼオンは友人であるカイツらと一緒に趣味でバンドを結成している。
秋に予定されている大学祭のステージでオリジナル曲を披露する予定だったらしいのだが、メンバーの一人が先日事故で骨折してしまったのだという。
大学祭当日までには完治する予定だが、流石に練習する時間が足りない。
完治してから練習を始めても間に合わないだろう。
ならば代理を立てたほうがいい。
だが、ここで大きな問題が発生した。
ゼオンたちが組んでいるバンドには、珍しくヴァイオリンが参加している。
骨折してしまったのは、ずばりそのヴァイオリンを担当していたメンバーであるカミラという女性だった。
キーボードやギターをこなせる人間はそれなりにいるが、ヴァイオリンを弾ける人間はなかなかいない。
代理探しにゼオンはかなり苦戦していた。
そんな中、彼はユーニからノアの話を聞くに至った。
幼い頃ヴァイオリンに触れていた過去を、ユーニはよく知っている。
その過去を知ったゼオンは、半ば縋るようにノアに代理を頼んできたのだ。
スマホを手放し、ノアは部屋のクローゼットへと歩み寄る。
引き戸式のクローゼットを開けると、詰まれた荷物の一番奥にヴァイオリンのケースが鎮座している。
子供の頃、ノアは毎日のようにこのヴァイオリンを弾いていた。
だが、大人になるにつれて同じくヴァイオリンを嗜んでいた兄との差を思い知り、逃げるようにヴァイオリンから背を向けたのだ。
あれ以来、このヴァイオリンには触れていない。
どこか恐怖心があるのだ。ヴァイオリンに触れた途端、あの頃感じた劣等感やプレッシャーにまた苛まれるのではないかという恐怖心が。
出来る事なら助けになりたい。
だが、自分はまたこのヴァイオリンに向き合えるのだろうか。
一度は逃げ出したこの楽器と、また心を通わすことなど出来るのだろうか。
不安だけがノアの胸を支配していた。
クローゼットを開け、奥に仕舞い込んでいたヴァイオリンのケースをじっと見つめていたノアだったが、部屋の扉が開く気配を感じ取り急いで引き戸を閉める。
室内に入って来たのは、風呂から上がったミオだった。
「あ、ノア。まだ寝てなかったのね」
「あぁ、まぁ」
まだ湿り気を含んだ髪をタオルで拭きつつ、ミオはベッドに腰かけた。
彼女は自分が幼いころヴァイオリンを嗜んでいた過去を知っている。
苦悩の末挫折したことも、軽く話している。
ゼオンからの依頼のこと、ミオに相談してみるべきだろうか。
同じように音楽を嗜んでいた彼女なら、この心の靄を晴らすヒントをくれるかもしれない。
だが、相談するにしてもどう切り出すべきだろう。
そんなことを考えていると、ベッドに腰かけたミオがタオルを頭にかぶせながら口を開いた。
「旅行まであと少しだね」
「旅行?あぁ、軽井沢のことか。なんだかあっという間だな」
ふと、壁に掛けてあるカレンダーへと視線を向ける。
ミオの字で“軽井沢旅行♡”と書かれている日付まで、残りあと3日と迫っていた。
お出かけ奉行であるユーニやミオの活躍により、宿泊予定の旅館は既に予約済み。
現地での観光場所も既にリサーチしてある。
計画が綿密になればなるほど、当日が楽しみで仕方がなくなってくる。
6人で行く始めての旅行に、ミオは明らかに心躍らせていた。
「この旅行は、セナにとって物凄く重要な日になると思うの。だから、ノアも協力してくれないかな?」
「協力?なにを?」
「ずばり、ランツ撃墜大作戦!」
鼻高々に謎の作戦名を宣言するミオ。
そんな彼女の様子に苦笑いしつつ、ノアは隣にそっと腰かけた。
ミオ曰く、ランツから告白されたセナは軽井沢旅行中にその告白の返事をする予定なのだとか。
恐らくうまくいけば2人は付き合うことになるだろう。
ランツとセナの恋の行方は、旅行中実行される“ランツ撃墜大作戦”にかかっている。
この作戦を成功させるべく、セナがランツに返事をしやすい空気作りを手伝ってほしいのだとか。
計画のざっくりした全容を聞きつつ、まるで友達の恋を強引に応援している女子中学生みたいだな、と思ってしまったノアだったが、口にすると怒られそうなのでやめておいた。
ランツと長年親友として付き合ってきたノアとしても、彼がセナに好意を寄せているのであれば是非応援したい。
強引にくっつけるようなことは憚られるが、さりげなく二人きりにする程度なら協力してもいいかもしれない。
微笑みながら協力要請に承諾すると、ミオは“やった、ありがとう!”と嬉しそうに笑顔を向けてきた。
「あとね、もうひとつ協力して欲しい作戦があって……」
「なに?」
「タイオン攻略大作戦」
「えっ」
今度はそっちか。
全方向にお節介を妬こうとしているミオに、ノアは思わず吹き出してしまいそうになった。
「花火大会以来、なんだかタイオンの様子がおかしい気がするの。やけにユーニを意識してるっていうか……」
「それは結構前からじゃないか?」
「そうなんだけど、前はほら、ユーニが何かしても慌てて距離を取ってたけど、今は受け入れつつある感じがして」
ミオの言葉を受け、ノアは脳内でタイオンの態度を回想してみる。
花火大会から今日まで数日間、彼にそこまの変化があっただろうか。
以前からタイオンはユーニが近付くたび必要以上に意識しているように思えたが、今もそれは変わらない。
だが、タイオンとは高校の頃から付き合いがあるミオがそう言うのだから間違いはないのだろう。
「これは私の勘なんだけど、タイオン、ユーニへの気持ちを受け入れ始めたんじゃないのかなって」
「えぇっ?あのタイオンが?あんなに否定し続けてたタイオンが?」
「うん。たぶんね。私たちの知らないところで、花火大会中に何かあったんだと思う」
どうやらミオは人の恋路に興味津々らしい。
独自の解釈を交えつつタイオンの心情を推理するその姿は、まさに恋愛探偵と言えるだろう。
なんで女子ってこんなに他人のコイバナが好きなんだろうな。
そんなことを想いつつ、ノアは相槌をうっていた。
「だからね、ランツとセナは勿論だけど、私としてはタイオンとユーニも応援したいの!だからノアにも協力して欲しくて」
「うーん……」
ランツとセナの仲を取り持つことに異論はなかった。
ランツは既にセナに想いを伝えているし、話しに聞く限りセナもまたランツに返事をしたいと思っているらしい。
互いに相手と距離を縮めたいと明確に主張している2人の背中を後押しすることに何の抵抗感もないが、タイオンとユーニに関しては話は別だ。
ユーニもタイオンのことを想っているのだろうが、彼女はタイオンからの行動を待つとハッキリ明言している。
一方のタイオンに関しても、本心はともかく口ではユーニへの好意を否定し続けている。
互いに告白したいという意思がない二人を、こちらの独断で強引にくっつけようとするのはいかがなものか。
タイオンにはタイオンの、ユーニにはユーニのペースがある。
そのペースを乱し、2人の気持ちを無視しているとも言えるのではないだろうか。
思慮深いノアの心には、そんな気持ちが生まれつつあった。
「ミオの気持ちはよく分かるけど、タイオンとユーニに関してはもう少し慎重になった方がいいんじゃないかな」
「えっ、どうして?」
「ランツとセナみたいに、互いに相手を好きだってハッキリ口に出しているならともかく、あの二人は違うだろ?」
「それはそうだけど……」
「確かにタイオンは傍から見る限り間違いなくユーニに気があるんだろうけど、何度聞いても否定し続けてるってことは、アイツなりに何か思うところあある証拠だ。本人でさえ自分の心を決めかねてるのに、第三者が勝手に決めつけて強引にくっつけようとするのはどうなのかな」
優しく諭すようなノアの言葉に、ミオは腕を組みながら俯いた。
暫く考え込んだ末、彼女は顔を上げ、少しだけ申し訳なさそうに目じりを下げている。
「確かにノアの言う通りかも。タイオンにとっては余計なお世話でしかないわよね……」
「そんなことはないと思うよ。でも、こういうのは気持ちの問題だし、少なくともタイオンがユーニを好きだってハッキリ口で認めるようになったらでいいんじゃないかな」
「今の状態のまま行動しても、むしろタイオンを困らせるだけってこと?」
「そういうこと」
タイオンの性格を鑑みるに、こちらが一方的に“ユーニのことが好きなはず”と決めつけて強引にその背中を押そうとすれば、きっと激しく反発する。
否定を繰り返し、本心をさらに心の奥の奥に仕舞い込んでしまう可能性も高い。
そうなれば、2人の距離は一生縮まることなどないのだろう。
ならばこそ、タイオンの心が定まるのを待ってから手を差し伸べるのが最も効果的である。
そんなノアの持論を嚙み砕いたミオは、深くため息をつきながら隣に腰かけているノアの肩に寄りかった。
「私、タイオンの気持ちなんて全然考えてなかった。自分勝手だなぁ」
「けど、タイオンやユーニに幸せになってほしいと思ってるからそんなこと言ったんだろ?自分勝手なんかじゃない。すごく優しいと思うよ」
「優しいのはノアの方じゃない。2人の気持ちに本当の意味で寄り添ってる。そういうところ、すごく好き」
甘い声色で囁くミオ。
年上なのに二人きりの時はたくさん甘えてくる彼女が愛おしくて、気付けばノアはミオの肩を抱き寄せ、その小さな額にそっとキスを落としていた。
ふと、視線がクローゼットの方へと向く。
あの中には、長年封印し続けてきたヴァイオリンが眠っている。
相談すべきか迷っていたが、少なくとも今はその時ではない。
今は過去のことも忘れ、ミオと甘い時を過ごしていたい。
悩みの種を頭の端に追いやりながら、ノアはミオの頬に手を添え、その柔らかな唇に優しく口付けるのだった。
act.38
セミの声が鳴り響く真夏の昼。
タイオンは大学構内にいた。
本来ならば今は夏季休暇の時期だが、真面目な学生である彼は夏季の間開講される特別講座を受講している。
有名な教授が登壇するこの機会を逃すまいと申し込んだ彼だったが、イマイチこの講座に集中できずにいた。
開講直前、ざわめく大教室の窓際の席に腰掛けたタイオンは、ぼーっと外を眺めながら物思いにふけっている。
頭に浮かぶのユーニの顔。
あの花火大会以来、こうして一人でいると嫌でも彼女のことを考えてしまう。
ユーニへの思いを自覚した途端、ガラスの瓶に封じ込めていた好意がどんどん質量を増している気がした。
これはいけない。好意が暴走して、何も考えられなくなる。
何とかしなければ。
「あら、隣いいかしら?」
背後から声をかけられた。
振り返った先にいたのは、同じくこの特別講義を受講しているニイナだった。
“あぁ”と頷き左に寄ると、彼女はお礼を言いながら隣に腰掛けて来る。
ニイナとは、先日この講義の課題で一緒に映画を観に行って以来である。
席に腰掛け荷物を広げ始めた彼女は、片手間にタイオンに話を振って来た。
「この前はありがとう。お陰でいいレポートが書けたわ」
「お互い様だ。あの後ちゃんと帰れたか?かなり酔っていたようだが」
「大丈夫よ。だらしなく酔いつぶれるほど弱くないもの。それより——」
含み笑いを浮かべながら、ニイナは頬杖を突き顔を覗き込んでくる。
まるで揶揄うかのようなその笑みに嫌な予感を覚えていると、案の定彼女は嫌な話題を投げかけてきた。
「例の“好きな人”との進捗は?」
「はぁ……」
やっぱりその話か。
何故女という生き物はこうも恋愛話が好きなのか。
たった今考えないように努めようとしていたというのに、容赦なくその話題を投げかけて来るニイナに、タイオンは深くため息をついた。
「別に何もない」
「あら?この前は“好きな人なんていない!”って意地張ってたのに、今日は否定しないのね」
「……放っておけ」
タイオンはもはやユーニへの気持ちを否定する気にはなれなかった。
誤魔化しようもないくらい、彼女への気持ちは大きくなっている。
これ以上否定し続けても、逆に無様だと悟ったのだ。
やがて大教室に教授が入って来ると、学生たちはいっせいに席につく。
淡々と始まった講義に耳を傾けながら、やはり意識は遠くに向いている。
数日後の軽井沢旅行で、セナはランツに告白の返事をするつもりだとユーニから聞いた。
あの2人は両想いだ。セナが無事気持ちを伝えることさえ出来れば何の障害もなく交際が開始することだろう。
ゴール間近な2人を前に、羨ましさすら感じてしまう。
もしも自分が告白したとして、ユーニは何と言うだろう。
物思いにふけっている間に、1時間半の講義はいつの間にか終了していた。
今日はもう何も予定がない。
席から立ち上がったタイオンは、ニイナと共に大教室を後にした。
夏季休暇中の大学構内は、いつもより人が少ない。
寂しい廊下を歩いていた2人だったが、メインホールの掲示板前に差し掛かったタイミングで隣を歩いていたニイナが足を止めた。
「中間結果、もう出てるのね」
ニイナに釣られるように足を止めたタイオンは、彼女の視線の先にある掲示物へと目を向ける。
そこには、“ミスター&ミスアイオニオンコンテスト中間結果”と題したランキングが張り出されていた。
タイオンたちが通っているこの大学では、毎年秋の大学祭でミスター&ミスコンが開催されている。
夏ごろから公式HPが立ち上がり、そこで好みの学生に投票を行うことが出来る。
投票期日は大学祭前日。ここに張り出されているのは、投票開始から現在までの中間結果のようだった。
男性部門で1位に輝いているのは、経済学部のゼオン。
先日ユーニと共に花火大会に出かけた男だ。
言えの前でばったり会ったあの日が初対面だったが、確かに顔が整っていたのは覚えている。
まだ中間結果とはいえ、在籍している学生全員が対象であるこのコンテストで1位の座に輝くとは、彼は相当モテる分類らしい。
では女性分門は誰が1位になっているのだろう。
目を凝らしよく見て見ると、女性部門1位の欄にはよく知った名前が記載されていた。
「あら?去年とは違う人が1位になってるのね」
女性部門に関しては、2年ほど前から同じ人物が1位の座に輝いていた。
他の誰でもない、あのミオである。
ミオは入学当初から美人として有名で、学部、学年関係なく人気だった。
入学以来ミスアイオニオンの座は2年連続でミオのモノだったのだが、今年は別の名前が1位に輝いている。
記載されている名前は、“ユーニ”。
その名前を見た瞬間、タイオンは驚きのあまり言葉を失ってしまった。
「なんでユーニが……」
「知り合いなの?」
「あぁ、まぁ……」
「去年まで1位だったミオって人、彼氏が出来たらしいじゃない?そのせいで首位陥落したのかもしれないわね」
ミオにはノアという彼氏がいる。
その噂は大学内に広く浸透しており、今年のミスコンの票集めにも影響を及ぼしているのだろう。
確かに、去年までもユーニは2位以下に名前を連ねていたが、それでもミオを抜かすことは叶わなかった。
だがミオに彼氏が出来たことで、繰り上がり式に彼女が1位になったのだろう。
記載されている得票数は3桁を越えている。
これはつまり、100人以上の男たちが彼女を魅力的に思っているという証拠だ。
目の前に鎮座するその事実に、タイオンの胸はきつく締め付けられる。
やっぱり、ユーニはモテる。
今までぼんやりとしか見えていなかったその事実が、数字となって表れている。
ユーニに恋をするには、ライバルが多すぎる。
星の数ほどいるライバルたちを蹴落としてユーニをものに出来る可能性など、塵に等しい。
やはりユーニは、手を伸ばしたところで簡単に手に入るような人ではないのだ。
「ニイナ」
「ん?」
「君はこの前言っていたな。“相手は案外手を延ばせば届く距離にいるかもしれない”と。やっぱり無理だ。どんなに手を伸ばしても簡単に届くわけがない」
「え……?」
「どこまでいっても彼女は、僕にとって高嶺の花なんだ」
ユーニに恋い焦がれている男はきっと自分だけじゃない。
それほどまでに彼女は人から好かれるような魅力的な女性だ。
沢山の選択肢の中から彼女が自分を選んでくれる保証などどこにもない。
今目の前で掲示されている残酷なランキング結果が、自分とユーニの間にある格差を物語っていた。
ミスコンの中間結果をじっと見上げながら後ろ向きなことを言うタイオンに、ニイナは察してしまう。
彼の“好きな人”とやらの正体を。
「タイオン、貴方の好きな人ってまさか——」
「……どう考えても脈がない。そんな相手を追い続けるのは、やっぱり馬鹿なことなんだろうか」
掲示されている“ユーニ”の名前を見つめるタイオンの瞳は、切なげに揺れていた。
ニイナは彼の視線を独占している“ユーニ”という人物をよく知らない。
だが、堅物真面目なタイオンをここまで骨抜きにするということは相当魅力的な女性なのだろう。
いつか会ってみたいものね。
そんなことを考えながら、ニイナ薄く笑みを浮かべた。
「確かに馬鹿なことかもね。でも、そもそも恋愛なんて馬鹿にならないとやってられないんじゃない?」
「……なるほどな」
恋愛感情なんて、ある意味で脳のバグのようなもの。
いちいち無様だとか不格好だとか、そんな細かいことを気にしていても意味はない。
ユーニに恋をしてしまった時点で十分愚かなのに、何もかも今更だ。
誤魔化しようもないほど大きな感情を自覚してしまったのなら、もうその感情と向き合ってぶつかっていくしかない。
ニイナの言葉に天啓を得たタイオンは、“よし”と気合を入れながら顔を挙げた。
「やってやるか。高嶺の花だろうが何だろうが、僕が摘み取ってやる」
1人でそう呟くと、タイオンは掲示板に背を向け速足で歩きだした。
その背中を見送りつつ、ニイナは苦笑いを零す。
言ってる台詞がクサくて少し痛い。
調子に乗って暴走しなければいいけど。
そんな懸念を抱きつつも、他人に深く干渉することを是としない彼女は何も言わなかった。
***
昼のバイトを終えたユーニは、炎天下の中帰路についていた。
気温は33度。真夏日と言って差し支えない気温である。
あまりの暑さに項垂れながら、彼女はようやくウロボロスハウスに到着する。
鍵を開けて中に入ると、つけっぱなしにしていた冷房の冷気がふわりと広がった。
あぁ、生き返る。
余りの暑さに死ぬかと思った。
靴を脱ぎ玄関に上がろうとしたユーニだったが、靴箱の上に置いてあった花瓶に目がいった。
細い花瓶にはミオが購入したアネモネが生けてあったが、猛暑ということもあり随分しなびてしまっている。
力なく俯いている数本のアネモネの花弁に触れながら、ユーニはため息をついた。
「うわ。いつの間に枯れちまったんだ?今度新しいの買ってこないとな……」
萎れたアネモネを花瓶から引き抜くと、ユーニはまっすぐキッチンへと向かった。
冷蔵庫の横に置いてある蓋つきのゴミ箱に、萎れたアネモネを捨てる。
高価な生花を捨ててしまうのは忍びないが、枯れてしまった以上仕方ない。
アネモネを捨てたと同時に、キッチンのゴミ箱が満杯になっていることに気が付いた。
そう言えば明日は燃えるゴミの日だったはず。
ついでに家中のごみをまとめて回収してしまおう。
荷物を置き、部屋着に着替えたユーニは早速作業に取り掛かる。
キッチン、リビング、洗面所のゴミを回収し、2階の個人部屋へと向かう。
自分とセナの部屋、ノアとミオの部屋をめぐりゴミを回収して回る。
最後にタイオンとランツの部屋を訪れたユーニは、それぞれのベッドの脇に置いてあるゴミ箱へと手をかけた。
ランツ側のごみを回収し、最後にタイオン側のゴミを回収しようとしたその時。
袋を縛り上げる際、手を滑らせゴミがいくつか外に散らばってしまった。
袋の外に零れたのはレシートなどの紙屑ばかり。
膝を折り床に零れた紙屑たちを拾い上げていたユーニだったが、こぼれたゴミの中に紛れていた一枚の紙きれが目に入った。
使用済みの映画のチケットである。
題目は“ローマの休日”。
日付は2週間ほど前だった。
ふぅん、タイオンのやつ、ローマの休日なんて観に行ってたんだ。
そんなことを考えていたユーニだったが、チケットに小さく印字されている余計な一文に気付き、目を見開いた。
“カップル割引適応”
不穏なその一文に、ユーニの思考は停止する。
このチケットはタイオンが使っているベッドの脇に置かれたゴミ箱の中から出てきた。
シンプルに考えれば、タイオンが捨てたゴミである可能性が高い。
そもそもランツはあまり映画に関心がないし、ローマの休日などというクラシカルな映画は余計に興味を抱かないだろう。
十中八九これはタイオンが観に行った映画のチケットだ。
カップル割というからには、きっと異性と行ったのだろう。
少なくとも、自分はタイオンと映画になど行っていない。
自分以外の女と行ったのだ。その証拠となるチケットを握りしめながら、ユーニの目つきはどんどん鋭くなる。
ふーん。映画行ったんだ。女と。
ローマの休日観に行ったんだ。女と。
アタシ以外の女と。
しかも日付を見るに、観に行ったのはユーニが夜な夜な一人で泣いていたあの日である。
つまりタイオンは、他の女と映画デートに出かけた帰り際、泣いている自分を慰め、あまつさえ頭を撫でるなどという行為に及んだのだ。
「あの野郎……」
ユーニの中で怒りの感情がふつふつと沸き立っていく。
なんだあいつ。アタシのことが好きだったんじゃねぇのかよ。
なのに他の女と映画行くとか信じらんねぇ。浮気だろ浮気。
ふざけんなよ。アタシのことが好きなら他の女じゃなくてアタシを誘えば——。
「……あれ?そもそもタイオンって、アタシのことホントに好きなの?」
くしゃくしゃになった映画のチケットを手に、ユーニは自問自答する。
タイオンから“好きだ”と言われたことはない。
それらしい言葉を貰ったこともない。
ただ、なんとなく彼の言動に自分への好意が含まれているような気がする。それだけのことだ。
思い返してみれば、タイオンが自分に好意を寄せている確固たる証拠など一つもない。
勝手に“タイオンに好かれている”と思い込んでいたが、そもそも確証もないのにどうしてそんな風に決めつけていたのだろう。
最初からタイオンは自分のことなど眼中になくて、別に好きな人がいた可能性もある。
このローマの休日を一緒に観に行った女こそ、タイオンの本命。
そう考えるのが自然だ。
本当は両想いなんかじゃなく、アタシの一方的な片想いだったのかも……?
タイオンのゴミ箱から発掘してしまった映画のチケットに視線を落としながら、ユーニは恐ろしい仮説にたどり着いてしまった。
もしそうだとしたらなんて滑稽なのだろう。
タイオンに好かれていると勘違いして、告白させるために散々気を持たせるようなことをしてしまった。
あれもすべて自分の独り相撲だったかもしれない。
そう思うと死にたくなった。
「最悪じゃん……」
タイオンに彼女がいようが他に好きな人がいようが、自分には怒る権利などどこにもなかった。
見落としていた根本的な事実を咀嚼し、ユーニは肩を落とす。
聞きたい。この映画を誰と観に行ったのか。相手とはどんな関係なのか。
けれど、聞いたら本格的に馬鹿を見る羽目になるかもしれない。
怖い。タイオンが他の誰かに惹かれているかもしれない事実を聞くのがたまらなく怖い。
柄にもなく泣きそうになりながら、ユーニはチケットのごみを他のごみと一緒にゴミ袋に投げ入れた。
まとめたゴミを片手に、ゆっくりと階段を降りる。
すると、玄関の扉が開く音がした。
嫌な予感がする。こういう時の予感ほどよく当たるものだ。
案の定ユーニの予感は的中し、帰宅したばかりのタイオンと目が合ってしまう。
このタイミングで鉢合わせるなんて、なんて不運なのだろう。
「……おかえり」
「あ、あぁ。ただいま」
声をかけた瞬間、タイオンはやけに赤い顔でたどたどしく答えた。
前までなら“照れているんだな”と解釈していたが、もはやそんな能天気で都合のいい解釈は出来そうにない。
どうせ外が熱かったから顔が火照っているのだろう。
変に期待するな、アタシ。
そう自分に言い聞かせつつ、ユーニは努めていつも通りに振舞うことにした。
「お前さぁ、ゴミ溜めすぎだっつーの。ゴミ箱パンパンすぎて回収する時ちょっと零れちまっただろ」
「あっ、すまない。わざわざ回収してくれたのか」
「まぁな。アタシの家事力の高さに感謝しろよ?」
そう言ってキッチンに向かうと、タイオンはお礼を言いながら後ろからついてきた。
聞きたいことは山ほどあるけれど、今はこの関係性を壊したくはない。
今まで通り何も知らないふりをしていれば、少なくともルームメイトとして傍にいることは出来る。
両片想いが片想いに変わっただけじゃないか。大したことじゃない。
「ユーニ、これを」
キッチンに戻ったユーニに、タイオンがコンビニの袋を手渡してきた。
袋の中に入っていたのは非常に美味しそうなプリンアラモード。
現在ネットで盛大に拡散されている話題のコンビニスイーツである。
「え、なにこれ。アタシに?」
「この前食べたいと言っていただろ?」
「わざわざ買ってきてくれたの?」
「あ、あぁ。まぁ」
また赤い顔。
その顔を見ていると、また都合のいい解釈をしてしまいたくなる。
今はもう、タイオンの気持ちが全く分からない。
期待するな。もう馬鹿を見るのは御免だ。
そう心で唱えながら、ユーニはなるべくいつも通りの笑顔を見せた。
「ありがとな、嬉しい」
「ん、」
真っ赤な顔でタイオンが差し出してきたプリンは、ただの友人への優しさでしかない。
そう思うことにしたユーニだったが、彼女は知るよしもなかった。
タイオンが僅か360円程度のこのコンビニスイーツを購入し、彼女に手渡すだけでどれほど緊張していたか。
このプリンには、好きな人の気を惹きたい。喜ばせたいというタイオンの下心が隠れている。
淡い恋心を込めてプリンを贈るタイオンと、友人としての何気ない優しさの産物として受け取るユーニ。
ほんのわずかな綻びをきっかけに、2人の心はすれ違い始めていた。
act.39
「んじゃあいくぞ?せーのっ」
「「「じゃんけんポンっ!」」」
ランツの掛け声に合わせるように、ノア、ユーニ、タイオンを合わせた4人が一斉に手札を出した。
結果はグーが3人にチョキが1人。
ランツの一人負けだった。
あっという間に負けてしまったことに肩を落としながら、ランツはチョキを出した自分の右手を恨めし気に見つめていた。
「うわマジかよ……」
「ドンマイランツ。行きの運転、よろしくな」
にこやかに肩に手を添えるユーニの言葉に不満そうに唇を尖らせながら、ランツはウロボロスハウスにて管理している共通の車へと乗り込んだ。
遠出する際、免許を取得している4人でジャンケンし、運転手を決める争いが発生するのはもはや恒例行事である。
今回の犠牲者はランツ。
よりによってこの軽井沢旅行当日に負けてしまうなんて。
運転手を担うことになってしまい気落ちするランツをよそに、ルームメイトたちは車のトランクに次々荷物を積んでいく。
1泊2日しか滞在しないため一人一人の荷物はそこまで多くはないが、6人分となると量はそれなりに膨れ上がる。
荷物を積み込む仲間たちに、運転席からランツが声をかけた。
「なぁおい、誰か助手席でナビしてくれよ?」
エンジンをかけながら車の準備を始めるランツ。
そんな彼の要望を耳にしたミオとノアは、即座にセナへと視線を向けた。
「セナ、出番だよ」
「へ?私?」
「助手席座ってやってくれ。ナビ任せた」
「えっ、いやでも……」
軽井沢までは約2時間。
その間ずっとランツの隣に座っていなければならないなんて流石に緊張してしまう。
躊躇するセナだったが、両脇をニコニコ笑顔のノアとミオに固められ、もはや逃げられなくなってしまった。
強引に背中を押され、仕方なくセナは助手席に乗り込む。
赤い顔で隣に乗って来たセナに、運転席に腰掛けているランツも一瞬驚いたような表情を見せる。
「えっと、ナビ役、私でも大丈夫かな……?」
「お、おう。じゃあ、頼むわ」
運転席と助手席が、一瞬にして甘酸っぱい空気に包まれる。
視線を泳がせ、たどたどしく寄り添う2人を、後部座席に乗り込んだノアとミオはニヤニヤと笑みを浮かべながら見つめていた。
事前に取り決めていた“ランツ撃墜大作戦”は既に始まっている。
この旅行でのノアとミオの役割は、ランツとセナの距離を縮める手伝いをすることだった。
早速2人を運転席と助手席に押し込むことに成功し、顔を見合わせてほくそ笑む2人。
その後ろ、3列目の一番後ろの席に並んで腰かけているタイオンとユーニもまた、甘酸っぱい空気を醸し出している最前列の2人を見つめながら妙な照れくささを感じていた。
「あいつら、ラブコメしてんなぁ‥…」
「あぁ。うまくいけばいいがな」
同意しつつ、タイオンは隣に腰掛けるユーニへと視線を向ける。
ランツのように告白とまではいかずとも、この旅行で少しでもユーニとの距離を縮めたい。
ランツやセナのことを気にかけるふりをしながら、タイオンの意識は常にユーニへと向いていた。
好きだと自覚した以上、もう逃げも隠れもしない。
真正面からぶつかってやる。
そんな決意を胸に秘めながら、タイオンはシートベルトを締めた。
やがて、ランツの運転によって車は発進する。
長くて短い軽井沢旅行がこうして幕を開けた。
***
6人を乗せたファミリーカーは、ランツの運転によって高速道路を走行していた。
お盆シーズンも既に終了したことで、夏休み期間にも関わらず道はそこまで混雑していない。
とはいえ、都内にある家から目的地である軽井沢温泉への道のりは長い。
車に揺られながら、最後部に腰掛けているタイオンは呆れた表情で窓の外を眺めていた。
彼が不満そうにそうしている理由、それは——。
「Ah~!真夏のJamboree~!」
「「レゲェ砂浜Big Wave!!」」
「Ah~!悪ノリのHeartbeat~!」
「「めっちゃゴリゴリWelcome Weekend!!」」
ノアの美声に合わせ、運転席にのランツと隣に座っているユーニがノリノリで合いの手を入れている。
ミオとセナも適当なタイミングで“イエーイ”だの“Foo!”だの楽しそうに歓声を上げていた。
タイオンが呆れた顔をしていた理由、それはずばり、車内が死ぬほどやかましいからである。
先ほどまでの甘酸っぱい空気はどこへやら。
旅行というワクワク行事を迎えた5人のテンションは今までにないほど高潮し、謎の盛り上がりを見せている。
酒でも飲んでいるのかと疑いたくなるほどのハイテンションぶりだった。
元来真面目な性格であるタイオンは、車中でライブを始めるような人種のノリには着いて行けない。
しかも、先ほどからノアのスマホを通して車のスピーカーから流れているこの曲の歌詞は8割方意味不明である。
レゲェ砂浜Big Waveとはどういう意味だ。
眉間にしわを寄せながら考え込むタイオンの様子にまず気付いたのは、隣に腰掛けていたユーニだった。
「どうしたよタイオン。車酔い?ゲロ袋使うか?」
「小学生か僕は。酔ってない」
「じゃあ何だよ。さっきからテンション低くね?」
「いや、歌詞の意味を考えていたんだ。レゲェ砂浜Big Waveとはどういう意味だ?」
「えっ、知らねぇけど……」
「じゃあ真夏のJamboreeとは?」
「知らねぇって。考えたことねぇし」
「歌詞の意味も知らずにそんなノリノリで歌っていたのか」
「そういうもんだろ音楽ってのは」
「理解できない……」
「あーもー!タイオンが萎えること言うー!」
大真面目な顔でこの曲の歌詞を解析しようとするタイオンに、ユーニは呆れていた。
レゲェの歌詞などノリとフィーリングで出来ている。
それにいちいち意味を見出そうとするタイオンを横目で見つめながら、ユーニは唇を尖らせた。
「じゃあ他の曲にしてみるか。これとかどうだ?」
後ろの席で繰り広げられるそんなやり取りを聞いてたノアは、スマホを操作し別の曲を流し始める。
車のスピーカーから流れてきた曲は、先ほど流れていた曲と同じグループが歌っている別のバラードだった。
《目を閉じれば億千の星 いちばん光るお前がいる~》
流れてきた曲にいち早く反応したのはランツだった。
車のハンドルを握りながら“うわ懐かしっ”と呟く彼はこの曲を知っているようだった。
先ほどの曲よりは歌詞に意味があるらしい。
ふむふむと聞いていると、車内に流れるバラードはAメロへと突入する。
《大親友の彼女のツレ 美味しいパスタ作ったお前 家庭的な女がタイプの俺一目惚れ》
随分と限定的な状況を語っている歌詞に、再びタイオンのアンテナが光る。
“ん?”と首を傾げている隣の眼鏡男の姿に、“うわ絶対また面倒くさいこと言いだす顔だよ”とユーニは内心予想していた。
そんな彼女の予想は的中し、タイオンは腕を組んだままAメロの感想を口にする。
「パスタを作っただけで家庭的な女認定なのか。少し判定が甘くないか?」
「まともなカレー作ってから言おうな」
前を見据えながら言い放たれたランツの一言に、タイオンは“なっ…!”と表情を険しくした。
タイオンの料理の腕前はこの場にいるほとんどの人間が知るところである。
彼が愛情を込めて作ったカレーで死にかけた経験があるミオとセナは、ランツの言葉に同意はしないものの俯きながら肩を震わせていた。
必死に笑うのを我慢していたのである。
唯一タイオンの地獄カレー事件に巻き込まれなかったノアだけが、1人スマホ片手にキョトンとしていた。
「カレー?何の話だ?」
「ノアは知らなくていいの……」
不思議そうに首を傾げるノアだったが、ミオの制止によってそれ以上追及することはしなかった。
やがて車内に流れていたバラードは終了し、次はどんな曲をかけようか迷い始めるノア。
そんな彼の後ろの席で、すっかり歌を楽しむ気分を削がれてしまったユーニは窓の外を眺めながらため息をついた。
「なーんか歌うのも飽きてきたなぁ。なんか面白いことねぇかな」
「あ、じゃあ、心理テストでもやる?」
ミオの提案に、助手席に座っていたセナがセンターミラー越しに後ろの席を見つめながら“心理テスト?”と聞き返してきた。
頷くミオのスマホ画面には、たくさんの心理テストがまとめられているサイトが表示されている。
心理テストとは、簡単な質問で相手の本心や人間性を開示させる占いに近いコンテンツである。
こういった曖昧で不明確なコンテンツには女性の方が興味を示しやすいものだが、この車内でもやはり女性陣の方が心理テストへの食いつきは良かった。
ユーニやセナはミオの提案に乗り気だったが、男性陣3人はそこまで乗り気とは言い難い。
心理学に基づいているとはいえ、ほとんど占いに近い信憑性のない設問がほとんどだ。当たるはずないだろ。
そう思いながらも、やる気満々な女性陣を前にそんな現実的なことなど口にできるわけもなく、心理テストの幕が明けた。
「じゃあまずは私から出題するね。男性陣に答えてもらおうかな」
「男だけか?」
「うん。答えるだけだから運転中のランツもちゃんと考えてね!」
「しゃあねぇな」
最初の出題者として手を挙げたのはミオだった。
スマホをスライドさせながら適当な問題を探し始める。
やがて“これにしよっ”と決め、スマホに表示された問題を読み上げ始めた。
「“手を洗った貴方は、ハンカチを忘れていることに気が付き、隣にいる異性に借りることにしました。相手が差し出してきたハンカチはどんな色でしょう”だって。はいっ、まずノア」
「えっ、俺?うーん……」
ミオから急かすように指名されたノアは、読み上げられた状況を頭の中で想像する。
異性に差し出されたハンカチの色。
パッと思いついた色を、ノアは深く考えることなく口にした。
「じゃあ白かな」
「えっ、ふ、ふぅん。そうなんだ。ふぅん」
何故かミオは僅かに頬を紅潮させながら動揺している。
その様子を見ながら、ノアは不穏な空気を感じていた。
何だその反応は。変な答えを口にしてしまったのだろうか。
ミオの謎めいた反応に、ノアの不安は一気に募っていく。
「それじゃあ次、ランツは?」
「そうだなぁ……。俺は青かな」
「タイオンは?」
「じゃあ黒で」
「即答なのね」
「深く考えるようなものじゃないだろこういうのは。で?結果は何なんだ?」
さらりと答えたランツとタイオンは、やはり心理テストなどあまりあてにしていない様子。
あまり興味なさげな態度の2人の回答を聞き届けると、ミオは再びスマホに視線を落とし結果を開示する。
「“差し出されたハンカチの色は、貴方が異性に着けてほしい下着の色です”」
「し、下着!?」
「はえー」
赤い顔で動揺するセナ。ニヤつきながら3人の男性陣の顔を見つめるユーニ。
盛り上がる女性陣を横目に、3人の男性陣は黙ったまま。
沈黙を貫く3人の男たちの心情は全く同じものだった。
“めちゃくちゃ当たってるんですけど……!”
ポーカーフェイスを保ちながらも、3人は非常に動揺していた。
白を挙げたノア。青を挙げたランツ。黒を挙げたタイオン。
まさか自分の好みの下着がこうも簡単に暴かれてしまったことに、3人は気まずさを覚えていた。
どうやら心理テストも馬鹿にならないらしい。
1問目で見事に心理を当てられてしまった3人は、心理テストへの認識を改めるのだった。
「じゃあ、次はアタシな?えーっと……」
「君も出すのか?」
「当たり前だろ。面白そうだし」
次に出題するためスマホを構えたのはユーニだった。
スマホを眺める彼女は、ニヤリと口も笑みを浮かべ始める。
その表情を見て、タイオンの脳裏に嫌な予感がよぎる。
彼女のこのにやけ顔は、よくないことを企んでいる顔だ。
「“赤と白の薔薇を使って100本の花束を作ってください。赤一色、白一色でも構いません。それぞれ何本ずつ使いますか?”はいっ、ノア!」
「え?また俺から?そうだなぁ……」
100本の花束など作ったことは勿論見たこともない。
だが、どうせ二色使えるのなら、コントラストを考えて配色したい。
見た目の美しさを重視したノアは、脳内で均衡のとれた紅白の花束を想像した。
「白50本、赤50本だな。半々で作ったほうが綺麗だろうし」
「ふーん」
中間をとったノアの回答に、出題者のユーニは何故かつまらなそうな反応だった。
そんなに退屈な答えだっただろうか。
不思議に思うノアを尻目に、ユーニは次にランツとタイオンに回答を促した。
「ランツとタイオンは?」
「俺は白100本。一色の方が統一感あってなんかいいだろ」
「僕も同じ理屈で赤一色で」
「2人とも対照的だね」
白一色と答えたランツ。
赤一色と答えたタイオン。
そんな2人の返答に、ユーニは“ふぅんへぇー”と頷きながらニヤついていた。
そして、そんなユーニから満を持して答えが開示される。
「“白はS度。赤はM度を表しています”」
「えっ」
「うわっ」
開示されたまさかの結果に、タイオンとランツは声を漏らす。
白と赤、半々と答えたノアはノーダメージで済んだようだが、振り切って一色に寄ってしまったこの二人は盛大に性癖を晒してしまったということになる。
出題したユーニは相変わらずニヤついた笑みを見せながら、ドM疑惑が向けられているタイオンに詰め寄った。
「赤一色のタイオン君は要するにドМってわけかぁ。ふぅん」
「だ、誰がドМだ!失礼なっ!」
「照れんなってぇ~。で?合ってんの?Мなの?どうなんだよタイオン~」
「や、やめろこら!」
悪戯な笑みを浮かべながらタイオンの腕をつんつん突き始めるユーニ。
顔を赤く染め上げながら嫌がるそぶりを見せているものの、タイオンはまんざらでもない様子だった。
早くもSとMの力関係が出来上がっている2人の様子に、ノアとミオは苦笑いを浮かべている。
そんなやり取りを横目に、セナは運転席のランツの様子を盗み見る。
Sなんだ。ランツ、Sなんだ。
心の中でそう呟いていると、ちらっとこちらに視線を向けたランツと目が合ってしまう。
絡み合う視線に焦るセナに、ランツは口を開く。
「なんだよ」
「べ、別にっ。じゃあ次、私が出すね!えっと……」
少し照れながら誤魔化し、セナは急いでポケットからスマホを取り出した。
急いで盛り上がりそうな心理テストを探し始める。
そして見つけ出した。今の状況に一番合った質問を。
「じゃあ、“あなたは怪我をしました。どこで怪我をしましたか?”。はいっ、ノア!」
「やっぱり俺からなのか。えー、怪我かぁ……」
腕を組み考え込むノア。
怪我なんて、どこであろうが負う可能性がある。
目を閉じ想像した光景は、自宅のキッチンで指を切っている光景だった。
「うーん、家かな」
「家かぁ。じゃあタイオンは?」
「そうだな……じゃあ僕は玄関先で」
「……ランツは?」
恐る恐る、運転席に腰掛けるランツに回答を求める。
セナが一番聞きたかったのは、ランツからの答え。
これから彼に告白の返事をしなくてはならないセナにとって、ランツからの回答は何より気になるものだった。
熱心に見つめて来るセナの視線を浴びつつ、ハンドルを握るランツは軽い気持ちでこたえる。
「うーん……。ベランダ、とかか?」
「ベランダ?」
「どっかのバルコニーとか?」
「バルコニーかぁ……」
ランツの回答を聞き、腕を組んで考え込むセナ。
彼女が出した質問の結果を、この場にいる誰も予想することが出来なかった。
流石に不思議に思ったタイオンが、助手席のセナに“で、結果は?”と問いかける。
すると彼女は、答えを開示することをすっかり忘れていたらしく、慌ただしくスマホの画面を読み上げた。
「えっとね、“あなたが告白されたい場所”だって」
何処でランツに気持ちを伝えるべきか迷っていたセナにとって、その質問内容はまさに知りたくて仕方のない情報だった。
ランツはどこで告白されたがっているのだろう。
質問をぶつけた結果、彼の口から飛び出た答えは“ベランダ”という微妙な回答。
ベランダで告白されたいの?でも旅行中ベランダやバルコニーがある場所なんて行く機会があるのだろうか。
「そう言えば私たち、付き合った場所はあのウロボロスハウスだったよね。そういう意味では合ってるのかな、この心理テスト」
「そうだな。まぁ家で告白したのは俺の方なんだけど……」
「てかタイオン、玄関先で告られたいってどういう状況だよ」
「知らん。思ったことないぞそんなこと」
後ろの席で繰り広げられるルームメイトたちのやり取りを聞いていると、どうやらこの心理テストに関してはあまり当たっていないらしい。
ベランダやバルコニーで告白できるシチュエーションが旅行中巡って来るとは思えないし、あまり参考にはしないようにしよう。
そんなことを思いながらセナはスマホをポケットに仕舞い込んだ。
act.40
車に揺られること約2時間。
一行を乗せた車はようやく軽井沢に到着した。
避暑地として有名なこの場所は、都心に比べて体感気温が低い。
真夏だというのにあまり暑さを感じないのは、周囲を美しい自然が取り囲んでいるからなのだろう。
天気にも恵まれ、空は雲一つない。
のどかで涼やかな空気に胸を躍らせながら、一行は軽井沢の地をめぐる。
最初に訪れたのは、旧軽井沢銀座と呼ばれるエリア。
お洒落な古民家カフェや雑貨屋が建ち並ぶ人気の観光地である。
窯焼きピザで有名な店で昼食を摂り、雑貨屋をめぐってショッピングを楽しむ。
更に旧軽井沢銀座の奥には、自然の中にひっそりと教会が建っている。
自由に見学もできるその教会で写真を撮り、散策し、実に楽しい時を過ごした。
旧軽井沢銀座を離れた一行が次に訪れたのは、白糸の滝と呼ばれている屈指の観光スポットである。
横に広がる滝は実に壮観で、見るものを癒してくれる。
自然一杯のこの辺りは、軽井沢エリアの中では特に涼しく感じた。
白糸の滝を見学したついでに森の中を散策してみようというノアの提案に従い、一行は簡素に舗装された森林の道を歩くことになった。
その道中のことである。
「ねぇ、あれ見て」
ミオが前方を指さした。
彼女が指さした先に建っているの小さな山小屋。
その看板には、“川釣り体験”と書かれている。
どうやらこの辺りの渓流で川釣りが楽しめるらしい。
山小屋では観光客向けに、釣り竿と川釣り用の餌を貸し出しているようだった。
「私川釣りやってみたい!」
「楽しそうね。私も興味ある」
「おっしゃ、んじゃあやるか!」
強い興味を示したミオとセナの言葉をきっかけに、一行は川釣りに挑戦することとなった。
山小屋の店主に一声かけて、人数分の釣り竿と餌をレンタルする。
釣りが出来るポイントはしっかりと決まっているようで、この先の流れが穏やかな渓流が釣り場となっているらしい。
釣り竿と餌箱を片手に6人は件の渓流へと向かう。
釣り人は自分たち以外にもぴつぽつといるようで、ほとんどが家族連れだった。
「せっかくやるんだし、誰が一番多く釣れるか勝負でもするか」
「あっ、面白そう!やるやる!」
ランツの提案に一番に食いついたのはセナだった。
体験したことがない川釣りというアクティビティを前に、2人は気まずさも忘れて楽しんでいるようだ。
そんな2人の様子を見つめていたミオは、今が好機とみていた。
ここでランツとセナを2人きりにすれば、いい空気が作り出せるかもしれない。
そう判断したミオは、ランツ撃墜大作戦の実行に移った。
「じゃあ別れて釣ろうか!ランツとセナはここにいて。私たち、もっと上流で釣ってみるから」
「賛成。固まってても意味ないしな。じゃあ別行動ということで」
「えっ、ちょ……」
ミオの提案に、ユーニは即座に思惑を察して賛同する。
そして、戸惑うセナを置き去りに、2人はノアとタイオンを引っ張りながら上流へと歩き出す。
この場所で釣りを開始しようとしていたランツとセナを不自然に置いてけぼりにしたミオとユーニの行動に、セナはようやく置かれた状況のまずさに気が付いた。
勝手に一人でウキウキしてたけど、ランツに告白の返事しなくちゃいけないんだった。
普通に忘れてた。
ミオたちの背を呆然と見送るセナの一方で、ランツは岩場に腰掛けながら深くため息を吐く。
察してしまったのだ。ノアたち4人に気を遣われていることに。
彼らは自分がセナに告白をした事実を知っている。
2人きりにしようとしてくれているのだろうが、その手段があまりに強引なせいでむしろ変な空気になってしまっていた。
ランツとしては正直そっとしてほしかったのだが、こうなってしまってはもう仕方がない。
「気ぃ遣われたな」
「う、うん……」
「……」
「……」
「もし俺と2人っきりなのが嫌なら、今からでもノア達の方に——」
「い、嫌じゃないよ!嫌なわけない!」
このまま二人でいても、セナに気まずい思いをさせるかもしれない。
その提案はランツなりの気遣いのつもりだった。
だが、セナはそんな彼の言葉を一蹴し、岩場に腰掛けるランツへと急激に距離を詰める。
赤い顔で否定した彼女は、瞳を伏せながらか細い声を絞り出す。
「むしろ、その……。ちゃんと2人で話したかったし……」
恥ずかしさを懸命に耐えるように小さく震えながら囁くセナ。
そんな彼女の健気さに、ランツまでも釣られるように紅潮してしまう。
駄目だ。その恥ずかしがってる顔、真正面から見れそうにない。
あまりにも可愛すぎる。
「……と、とにかく、釣るか」
「う、うん。そだね」
たどたどしい空気のまま、2人は釣りの準備を開始した。
一方、上流に向かったノア、ミオ、タイオン、そしてユーニの4人は、ランツやセナを遠目から観察できる距離で立ち止まった。
4人の目的は釣りにあらず。ランツとセナを応援することにある。
釣りをするふりをして2人の様子を覗き見ようという魂胆だった。
「あの2人、大丈夫かな」
「まだちょっと気まずそうにしてるよな。これをきっかけにいい雰囲気になればいいけど」
下流で釣り糸を垂らしているランツとセナを見下ろしながら、ミオとノアは心配そうにつぶやく。
そんな2人の横で、ユーニもまた同じ気持ちでランツとセナを見つめていた。
花火大会以来、あの2人は同じ空間にいるとどうしても気まずそうに視線を逸らし合っている。
荒療治ではあるが、気まずさを解消するには2人きりで話すのが一番だ。
この時間が二人にとって有意義なものになればいいが。
そう思っていたユーニだったが、突然隣に立っていたタイオンに腕を掴まれ顔を挙げた。
「ユーニ、僕たちは対岸に行こう」
「えっ、なんで?ここでよくね?」
「……4人で固まっていたら魚も警戒するだろ。離れて釣ったほうがいい」
「そういうもんなの?」
「そういうもんだ」
「ふぅん。わかった。じゃあ行く」
ユーニは川釣りなどしたことがない。
専門的な知識もないため、どうしたら釣れるのか全く分からないが、物知りなタイオンがそう言うのだからきっと離れて釣ったほうがいいのだろう。
素直に頷いたユーニを引き連れ、タイオンはノアとミオに“じゃあ僕たちはあっちに行くので”と一声かけると軽やかに石を伝い対岸へ渡っていく。
先に石を渡って対岸に到着したタイオンが、後に続くユーニに手を貸している。
まるでエスコートするかのようなその光景に、残されたノアとミオは目を丸くしていた。
「ねぇノア。なんかタイオン……」
「あぁ。やけに積極的だな」
「何かあったのかしら?」
「さぁ……」
怪訝な視線を向けられていることを承知で、タイオンはユーニを対岸へと連れ出した。
離れたほうが釣れる、というのは真っ赤な嘘。
本当はユーニと2人になるための都合のいい口実だった。
見事ユーニを連れ出すことに成功したタイオンは、高鳴る心臓を必死に抑えながら平静を装っていた。
手ごろな岩場を見つけ、並んで腰かけつつ先ほどレンタルした餌箱の蓋を開ける。
その瞬間、隣に腰掛けていたユーニが“ヒィッ”と小さく悲鳴を挙げた。
「虫じゃねぇか!気持ち悪っ!」
「まぁ川釣りだからな。餌は基本的に虫だ」
「え?もしかしてそれ使うの?」
「当たり前だ」
「うわ無理無理!そんなの着けらんねぇって!」
川釣り用にレンタルされた餌箱の中には、小さなミミズのような虫たちが入っていた。
なかなかにショッキングな光景に、ユーニの顔色は一気に悪くなる。
この気色悪い虫を釣り針に引っ掛けないことには釣りは始まらない。
そのためには、虫に触らなければならない。
大の虫嫌いであるユーニには、魚を釣り上げる事よりもそっちの方が難関と言えた。
「そんなに嫌いか、虫」
「無理無理!ホントに無理!タイオンやって?」
「まったく仕方ないな。ほら貸してくれ」
タイオンの出身地である田舎は自然豊かな山に囲まれている。
こんな小さな虫は外を歩けば山ほど目にしていたため慣れている。
涼しい顔で虫を釣り針に取り付けたタイオンは、虫が括りつけられた釣り竿をユーニへと差し出した。
目の前でぶらぶらと左右に揺れている虫を前に、ユーニはもはや半泣き状態である。
「ひ、ひえ~~~~」
「ほら頑張れ。あっちの岩場に向かって投げてみるんだ」
「む、無理ぃ……」
「じゃあほら、一緒に支えてやるから。せーのっ」
「うえぇぇっ」
隣に寄り添いつつ一緒に釣り竿を握るタイオン。
彼の掛け声とともに、ユーニは意を決して虫が括りつけられている釣り針を投げ入れた。
岩場の影に着水した様子を見て、ようやく安堵するユーニ。
そんな彼女の肩に手を添えながら、タイオンは微笑みかける。
「よくやったぞユーニ。次からは自分でつけられるな?」
「えぇっ!? 無理!絶対無理なんだけど!」
「じゃあ僕は向こうに行くから」
「ちょっ!行くな!ここにいろって!タイオンがいないと無理!」
釣り竿を持って何処かへ行こうとするタイオンの袖を捕まえ、必死で引き留めるユーニ。
そんな彼女の様子に、タイオンの口元は思わず緩んでしまう。
本当はどこかに行くつもりなんてなかった。
ただ、一人にするそぶりを見せて引き留めてもらいたかったのだ。
頼られていることを実感し、小さな喜びが胸の中で芽吹く。
ニヤつきそうになる顔を必死に引き締めながら、タイオンはその場にとどまった。
「そんなにいてほしいのか。仕方ないな、うん」
満足げに微笑むタイオン。
楽しい。楽しすぎる。
好きな子に頼られているこの状況に、タイオンの自尊心は急上昇していた。
その横では、未だ餌箱の虫に怯えながら釣り竿を構えているユーニの姿がある。
対岸に見えるそんな2人の様子を見つめながら、ノアは目を丸くしていた。
タイオンの様子が明らかにおかしい。
前まではユーニにあんなに積極的に関わろうとはしていなかった。
むしろ一定の距離で線を引き、必要以上に近付こうとしなかったハズなのに。
ミオの言う通り心境の変化でもあったのだろうか。
釣り竿を握りながらそんなことを考えていたノアは、何気なく隣のミオへと視線を向けた。
ミオは、両手で釣り竿を握りながら下流にいるランツとセナをガン見している。
穴が開くほど見つめているその光景に若干の怖さを感じながらも、ノアは苦笑いを浮かべていた。
「えっと、ミオ?ランツとセナ、どんな感じだ?」
「川の音がうるさくて全然会話が聞こえない……。何話してるんだろう」
川の音に阻まれ、数十メートル下流で釣り糸を垂らしているランツとセナの会話は聞こえてこない。
だが、見ている限り2人は同じ岩場に腰掛けてはいるもののほとんど動きがないようだ。
むしろ会話なんてしてないんじゃ……。
そんなノアの予想は当たっていた。
釣りを始めて約15分。並んで岩場に腰掛けているランツとセナの間には、重い沈黙が流れていた。
川のせせらぎと鳥のさえずりだけが響く渓流を見つめながら、2人は会話の糸口を探している。
だが、見つかるのは話題よりも気まずさや居心地の悪さばかり。
以前までは気兼ねなく喋れていたというのに、こんなにも気まずい空気が流れるようになってしまったのは間違いなく先日の花火大会での告白のせいだろう。
こんなことになるのなら告白なんてしなければよかった。
勢いに任せてあんなことを言わなければ、以前のように気兼ねなく二人だけの時間を楽しむことが出来ていたかもしれない。
ランツがガラにもなく自分の行いを後悔し始めたその時だった。
長く続いた沈黙が、隣に腰掛けているセナによって破られる。
「……」
「……」
「ね、ねぇ、ランツ?」
「……ん?」
「……わ、」
「わ?」
「わ、わたしの、どこが好きなの?」
「は、はぁ!?」
突然空爆のように落とされた質問に、ランツは手に持った竿を思わず落としてしまいそうになった。
遠慮がちに見つめて来るセナは冗談で聞いているわけではないようだ。
顔を赤らめながらじっと見つめて来る彼女から視線を逸らし、ランツは頭を抱えた。
「お前なぁ……。普通聞くかぁ?そういうこと」
「だって、どうしてもわからないんだもん。どうしてランツが私を好きになってくれたのか。花火大会での言葉が嘘だったとは思えないし……」
どこまでも自分に自信を持てないセナは、やはりランツからの言葉を素直に受け入れるのは難しかったらしい。
自分のような人間が、ランツに好かれている事実が信じられない。
返事をする前に、彼から明確な理由を聞いておきたかったのだ。
当然、問いかけているセナの心は穏やかとは言い難かった。
好きな人に自分のどこが好きなのか質問するのはあまりにも恥ずかしい。
恥じらいながら問いかけるセナの質問に、ランツはため息を零しながら答える。
「……顔」
「えっ。顔?」
自らの膝に頬杖を突き、呆れた顔を向けながら答えたランツ。
まさかの回答に、セナは目を大きく見開いた。
「な、なんで顔……?ミオちゃんやユーニみたいなかわいい子ならともかく……」
「なんで自分が可愛くねぇ前提で話してんだよ」
「いや、だって……」
「可愛いんだよお前さんは。可愛いから惚れたんだよ。文句あんのかコラ」
「え、な、ないです……」
頬杖を突きつつどこか呆れた表情で睨みつけて来るランツに、セナは引きつった愛想笑いを返した。
なんで喧嘩腰なんだろう。
でもそうか。顔か。顔が好みだったのか。
あまり納得できないが、シンプルで分かりやすい理由だ。
好みの顔は人それぞれだが、こんなに平平凡凡な顔面を気に入るなんてランツは相当な変わり者らしい。
奇跡的にランツの好みにハマった顔をしていてよかった。
一人で安堵していると、ランツは頬杖を突いたまま言葉を続ける。
「あとはスタイル」
「えっ」
まだ続くんだ。
そう言おうとしたが、若干機嫌が悪そうに見えるランツに口を挟むのは得策ではない気がした。
「スタイル……?私、ミオちゃんみたいにすらっとしてないし、ユーニみたいにおっぱい大きくないよ?」
「小柄な女が好きなんだよ。それに、女でそこまで綺麗に筋肉ツイてる奴なかなかいねぇだろ」
「それはまぁ、確かに……」
「あとちょっとアホなところ」
「あ、アホ!?」
「ちょっと抜けてるところあるだろ。見てて放っておけねぇんだよ。あとやたらネガティブなところ」
「うっ……」
「自分で自分を卑下しやがって、見ててひやひやする。あとは——」
「ちょ、ちょっと待って!なんか途中から悪口になってない?」
「なってねぇよ」
「好きなところ聞いてるんだよ?」
「だからさっきから挙げてるだろ、セナの好きなところ」
「だって悪いトコロばっかりだし……」
「あのなぁ」
川の向こうをぼーっと眺めていたランツの顔が、隣に腰掛けるセナへと向けられる。
先ほどと変わらず呆れたような表情を浮かべているが、どこか照れたように僅かに赤い顔をしているように見えた。
「お前さんが“悪いトコロ”って認識してるところも、俺は全部好きなんだよ」
きっとランツは、思ったことをただ素直に口に出したのだろう。
その言葉の裏に、打算的な考えなど何もない。
ありのままの本音だと分かるからこそ、その言葉は重みを増す。
真っすぐ矢のようにセナの心に突き刺さり、鉛のように硬くなった彼女の心をほぐしていく。
ランツの言葉は、いつだってこの乾いた心に潤いを与えてくれた。
彼が褒めてくれると、一瞬にして自分のことを肯定できるようになる。
こんな自分でも、ここにいていいんだと思える。
自分自身を好きになれる。
そして、もっともっとランツに相応しい存在になりたくなる。
今までしたばかり見ていた自分が、ランツと関わることでようやく上を向けるようになった。
きっと彼は、自分の人生において救世主のような存在なのだろう。
やっぱり私、ランツのことが好き。
心に秘めたささやかな恋心が、明確に形を表していく。
輪郭がはっきり浮き出てきたこの気持ちを、もはや押し留めておく理由はどこにもなかった。
言わなくちゃ。私も好きだって。
伝えなきゃ。貴方の彼女になりたいって。
今にも飛び出そうなほどバクバクと暴れている心臓を服の上から抑えながら、セナは意を決して口を開いた。
「ランツ、あの、あのね、私——」
「うおっ、やばっ、引いてる!」
「へっ?」
岩場に腰掛けていたランツが、釣り竿を強く握りながら立ち上がる。
切羽詰まった様子の彼は、懸命に釣り竿を引き寄せながら額に汗をかいていた。
釣り竿から延びる糸はピンと力強く張り、川面へと延びている。
どうやらランツの釣り竿に魚が食いついたらしい。
引く力を見るに相当な大物だ。
こんなタイミングで引っ掛かるなんて、なんて間の悪い魚だろう。
恨めし気に川面を睨むセナに、ランツは助けを求め始める。
「セナ!手伝え!ばかデカ鮎だぜコレェ!」
「ばかデカ鮎……!」
「塩焼きにして食べたら絶対美味いぞ!」
どでかい鮎を丸々一匹焚火で焼き上げ、塩を振り撒き、丸々と太った香ばしい身にかぶりつく。
その味と光景を頭で想像し、セナはじゅるりと生唾を飲んだ。
これは逃せない。
“ほら早く!”と促してくるランツに従い、セナは彼が握っている釣り竿に飛びついた。
2人で1本の竿を握りながら引いてみるが、川面に潜むばかデカ鮎は信じられない力で抵抗している。
もしかするとこの川の主かもしれない。
相手にとって不足はない。
2人の筋肉自慢は、まだ見ぬ得物を前に不敵な笑みを零した。
「この鮎やりやがる……!」
「ランツ、筋トレの成果を見せる時だよ!」
「おう!いくぞセナ」
「せぇーのっ!」
息を合わせて釣り竿を引いたその瞬間、川面から弾けるように巨大な鮎が飛び出してきた。
鮎を引き上げたことでランツとセナは2人揃って後ろに尻もちを搗きながら倒れこむ。
引き上げられた鮎は岩場にたたきつけられ、ビチビチと元気良く跳ねていた。
鮎にしてはあまりに大きすぎるその体を呆然と見つめていた2人だが、ようやく喜びが湧き上がって来る。
やがて2人の釣り人は、釣り上げた大物を前に揃って歓声を挙げた。
「うおおおっ、やべぇなんだこれ!デカすぎんだろ!」
「すごいよランツ!こんなおっきい鮎釣り上げるなんて!」
「いや、マジで俺だけだったら釣り上げられなかった。セナのおかげだな」
「日頃の筋トレのおかげだね。筋肉は世界を救うっ」
「んだよソレ。大袈裟だなァ」
岩場にへたりこんだまま、2人は少々息を乱しながら笑い合った。
未だ元気良く跳ねている鮎を何とか掴み上げ、網に入れるランツ。
市販の鮎よりも1.5倍近くありそうなその大きな鮎を見下ろしながら、セナはこの大物を釣り上げた張本人であるランツに擦り寄った。
「ねぇランツ?この鮎、私とランツの2人で釣ったんだよね?」
「ん?おぉ、そうだな」
「じゃあさ、私にも一口……」
「仕方ねぇな。分けてやるよ。俺に感謝しろよ?」
「やったー!ありがとう!よっ、釣り名人!」
「よしよしもっと言え」
鼻高々にしたり顔を浮かべるランツ。
そんな彼を褒めたたえるセナ。
数分前まで彼らを包んでいた気まずい空気は、いつの間にかどこか遠くへ消え失せていた。
***
「なんじゃそりゃ。でかっ」
川釣りを終えたタイオンとユーニが小屋へと戻ると、ランツとセナが先に戻っていた。
釣り具を貸し出している小屋の脇には、釣った魚を塩焼きできる焚火場が隣接されている。
そこのベンチに座り、焚火のそばに突き立てられた大きな鮎を見てユーニは目を見開く。
あまりにも大きなこの鮎は、ランツとセナの戦利品なのだろう。
ユーニがこの大物を前に驚いていると、釣り上げた2人は分かりやすくどや顔を浮かべていた。
「すげぇだろ。明日から釣り名人と呼んでいいぜ」
「うわぁ、死ぬほど調子乗ってやがる……」
「ユーニとタイオンは釣れたの?」
「まぁまぁだな。ほら」
タイオンが持っていたクーラーボックスには、数匹の鮎が収納されていた。
数はそれなりだが、大きさはどれも平均以下。
小さな魚がひしめいているクーラーボックスの中身を覗き見たランツは、勝ち誇った顔でタイオンを見つめた。
「どれもこれも大したことねぇな」
「数は君たちより上をいっているだろ」
「数より質だろ?見ろよこの鮎の巨体をよォ」
「……焦げてしまえ」
「んだとコラァ!」
ランツとタイオンは互いの戦利品を見せびらかしながらマウントを取り合っている。
男たちのそんなやり取りを苦笑い気味に見つめていたユーニとセナだったが、そんな彼女たちの視界にノアとミオの姿が飛び込んできた。
こちらに歩み寄って来る彼らもまた、釣りを終えて戻って来たらしい。
2人に元気よく手を振るセナだったが、ノアとミオが纏っている妙な空気に気付いてしまった。
なんだかやけに2人の雰囲気が暗い。
まさか——。
「お、おう。2人とも。どうだった?」
恐る恐る問いかけるランツからの質問に、ノアとミオは何も答えなかった。
その代わりに、乾いた笑みを浮かべながら2人は視線を逸らす。
その顔が物語っていた。“1匹も釣れませんでした”と。
「マジかよお前ら」
「釣れなかったの!?」
「割と入れ食い状態だったのに収穫ゼロとは。ある意味才能だな」
仲間たちの言葉が容赦なくノアとミオの心に刺さる。
言えるわけがなかった。
タイオンとユーニ。そしてランツとセナを観察することに夢中になってしまい、釣りを疎かにしてしまったなんて。
1匹も釣り上げることが出来なかったノアとミオは、他の4人に必死に頼み込むことでようやく鮎にありつけたのだった。
続く