Mizudori’s home

二次創作まとめ

【#1~10】ようこそウロボロスハウスへ

【ノアミオ/タイユニ/ランセナ】

ゼノブレイド3

■現パロ

■長編

 

act.1


「えぇっ!? 取り壊し、ですか?」


それは桜が芽吹き始めた春のことだった。今年から大学3年生になるミオは、上京して4年の間で一番の苦境に立たされている。
災厄は鉄骨の階段を昇ってくる音と共に訪れた。上京当初から住んでいるこの古びたアパートの管理人が突然訪ねてきたのだ。
齢75を迎えるこの管理人は既に腰も曲がっており、アパートの2階へ続く階段を登るだけで息が上がっている。
ぜぇはぁと息を乱しながら訪ねてきたこの老人は、ミオが玄関ドアを開けるなり押し付けるように1枚の紙を差し出してきた。
その紙にははっきりと“当アパート取り壊しのお知らせ”と記載されている。


「どういうことですか?」
「どうもこうも、その手紙のまんまじゃ。この建物も随分古くなったからのう。取り壊しが決まったんじゃ」
「急ですね……」
「そうでもないぞ。工事は1か月後だからな」


取り壊しとなれば、必然的に引っ越しが必要になってくる。
新しい物件を見つけ、引っ越し業者とスケジュールを合わせ、さらに荷物をまとめなければならないことを考えれば、1か月という期間はとてもではないが猶予があるとは言い難い。
管理人の老人は必要事項だけ簡潔に伝えると、“じゃあ”と手を軽く上げて階段を降りていく。
残されたミオは、手元に残った“取り壊しのお知らせ”に視線を落としたまま深いため息をついた。


「ミオちゃん、取り壊しって……?」


部屋の中から顔を覗かせたのは、同じ大学の1年後輩であるセナ。
彼女とは元々高校も同じで、セナが同じ大学に進学し上京したことをきっかけに、以前からミオが一人で住んでいたこのアパートの一室でルームシェアを始めたのだ。
だが、ここにきてまさかアパートが取り壊される羽目になるとは。
ミオだけでなく、一緒にこの部屋で暮らしていたセナまでもが路頭に迷う可能性が出てきてしまった。


「1か月以内に引っ越し先決めなくちゃね。はぁ、ここ家賃安かったし助かってたんだけどなぁ……」
「そうだね……。私も物件探すよ!一緒にがんばろ、ミオちゃん」


両手で小さく拳を作り気張るセナは気合十分なようだった。
“そうね”と頷きつつも、ミオの不安はぬぐえなかった。
何せこのアパートは築年数が相当経っていこともあり、相場の半額の家賃で暮らしていけていた。
アルバイトをしているとはいえ、一介の学生である彼女たちにとって突然の引っ越しは金銭的な負担が大きすぎる。
これから大丈夫だろうか。不安を胸に抱きつつ、ミオは手元の書類と睨み合うのだった。


***


その日、大学は新学期のレクリエーションのため午前中で帰宅することになった。
まっすぐ家に帰ろうかと思っていたところ、スマホが震えて電話がかかってくる。ノアからだった。
1年ほど前から交際している彼からの呼び出しに、思わず口元が緩んでしまう。
“昼飯一緒にどう?”という彼からの誘いを受け入れ、ミオはノアから勧められたカフェへと向かった。
昼時と言うこともありカフェはそれなりに混雑していたが、意外に並ばずすんなり入店することが出来た。
メニュー表を見ながらそれぞれ料理を注文し、店員の若い女性が“少々お待ちください”と言い残して去ったあと、ミオはすぐに例の話題を挙げた。
ここ数日悩みの種として脳裏に鎮座していた、引っ越し問題についてだ。


「取り壊し?」
「うん。1か月後だって」
「それはまた急だな……」
「でしょ!? 急でしょ?急だよね!?」


ノアから同意を引き出すため、ミオはテーブルに両手をつきながら身を乗り出した。
管理人の老人が至極当然かのような言い方で取り壊しの案内を手渡してきたため、ミオは少し不安になっていた。
もしかすると取り壊し1か月前に通知すること自体は世間的によくあることで、不満に思っているこちらの心情の方が非常識なのではないかと。
だが、ノアの“そんなことないよ”の一言は、ミオの心のもやもやを吹き飛ばしてくれた。


「正直困ってるんだよね。セナと一緒に住むとなったらそれなりに広い部屋の方がいいし、かと言って今までの低い家賃に慣れ過ぎたせいで、この辺の家賃相場と同じ額を払うのは結構きついし……」
「引っ越しにかかる費用もあるしな。大学の近くとなると家賃も高くなるし」
「そうなの。しかももう引っ越しシーズンは過ぎちゃってるから、空き物件自体少なくて……あと1か月で決めなくちゃいけないのに」


引っ越しシーズンは新年度の直前に訪れる。4月を迎えた今は既にシーズンを終えたばかりで一番空き部屋が出ないタイミングだった。
そんな中で、希望する条件にぴったり合致する物件と巡り合える可能性は極めて低い。しかも1か月以内という時間的制約がある以上、時間をかけて粘ることも出来ない。
困り果てている1歳年上の彼女を前に、ノアは組んでいた腕を解いてテーブルの上で前のめりになった。


「じゃあ、うち来るか?」
「えっ?」
「前に話しただろ?ルームシェアしてるって」


ノアは現在、大学近くにある一軒家に住んでいる。
彼の遠縁にあたる人物が建てた注文住宅だったのだが、本人は家を建てた1年後に長期の海外出張が決まり、家族ともども家を空けなければならなくなった。
折角大金をはたいて建てた家を使わずにおくのはあまりにも勿体ない。
そこで、当時大学進学が決まっていたノアに賃貸として貸すこととなったのだ。

とはいえ、ノア一人に3LDKの一軒家はあまりにも広すぎる。
同じ大学に進学予定だった2人の幼馴染を誘い、家賃を3人で折半することでルームシェアを始めたのだ。
その家にはミオも何度かお邪魔したことがある。
ルームメイトであるノアの幼馴染、ランツとユーニとは既に顔見知りで、大学ですれ違えば立ち話する程度の仲だった。
特にユーニとはプライベートでも仲が良く、そもそもノアとミオは彼女の紹介で知り合ったという経緯がある。
ミオからしてみれば、ノア以上に付き合いの深い間柄なのだ。


「で、でも、いいの?」
「もちろん。ただ、今は3つの部屋を3人で別々に使ってる状態だから誰かと相部屋になると思うけど、それでよければ」
「私は全然!セナとワンルームで暮らしてたくらいだし。私たちより、ユーニたちは大丈夫?」
「一応聞いてみる。まぁ、あの二人のことだから喜んで受け入れてくれると思うけど。そっちもセナは平気?」
「喜ぶとは思うけど、人見知りだから……後で聞いてみるね」


ルームメイトであるセナは基本的に明るい性格をしているが、人見知りであることは否めない。
ユーニとは学年が同じで何度か顔を合わせているらしいため、そこは問題ないだろう。
危惧すべきはランツの存在だ。
彼とも同学年のはずだが、セナとの間に交流があるとは聞いたことが無い。となれば初対面でイキナリ一つ屋根の下で一緒に住むという状況になってしまう。
それは流石に人見知りのセナでなくとも辛いものがあるだろう。
ミオとしては、他の住人もいるとはいえ彼氏であるノアと同じ家に住める未来は拒絶する理由がない。むしろ嬉しい。
だが、こればかりは自分一人では決められなかった。

ノアとの食事を終え、日が暮れる前にミオは例のアパートへと帰った。
既にセナは帰宅しており、玄関扉を開けて帰宅したミオを“おかえり!”とにこやかに出迎えた。
そんな彼女に、ミオはノアからの提案内容を恐る恐る提示し始める。
住める場所が見つかったと聞いた時は表情を明るくさせていたが、やはり“ルームシェア”という単語を聞いた途端眉尻が下がってしまう。


ルームシェア、かぁ…。誰がいるのかな?」
「まずはノア。会ったことあるよね?」
「うん。ミオちゃんの彼氏だよね?私と同い年の」
「そう。あとはユーニ。同じ授業受けてるって言ってたよね?」
「あっ、ユーニもいるんだ。西洋史学の授業で一緒だよ!ユーニなら安心かな」
「それから、あと一人なんだけどね。ランツっていう男の人。セナと同じ体育学部の3年生」


セナが唯一知らないであろうランツの名前を、ミオは恐る恐る口にした。
もし不安がったら何と言って説得しよう。そんなことを考えていたミオだったが、真正面に座っているセナは意外な反応を見せる。
“えっ、ランツ?”と目を輝かせながら聞き返してきたのだ。
まるで歓喜するかのようなその目に面食らい、ミオは一瞬言葉を詰まらせる。


「もしかして、ランツのこと知ってるの?」
「あ、うん。実は通ってるジムが一緒で。筋トレ仲間なんだ」
「そっか、そうだったんだ」


頭を掻きながら照れたように笑うセナ。
彼女が男性と親しくなるのはかなり稀だ。高校時代からの付き合いであるミオが知る限り、セナと親しいと言い切れる男性は、2人と同じ高校からこの大学に進学したタイオンという法学部の3年生くらいだ。
そんな彼女が、タイオン以外の男性と親しくなるなんて。
妹のように思っていたセナの小さな成長に、ミオは喜びを感じていた。


「ランツとユーニなら楽しくなりそう。私もそのルームシェア、参加していいかな?」
「もちろんだよ!なんかワクワクしちゃうね」
「うん!」


満面の笑みで頷くセナに安堵し、ミオは早速ノアに連絡するためスマホを取り出した。
電話をかけると、すぐに彼は応答する。
優しい声色が鼓膜を揺らしたと同時に、ミオは早口でルームシェア希望の旨を彼に伝えた。
ノアも既にユーニやランツに話を通していたらしく、彼らも快く了承してくれたとのこと。
こうして、無事5人のルームシェアは全員快諾の元、正式に決定が下された。
だが、話がまとまりつつあったところに、突然ノアが思いもよらないことを言いだした。


「実は、もう一人新しく一緒に住みたいって人がいるんだ」
「そうなの?その人も同じ大学の人?」
「あぁ。法学部のタイオンって奴なんだけど、知ってるかな?」
「えぇっ!? た、タイオン!?」


スピーカー越しに聞こえてきた名前に驚き、ミオは思わず隣にいたセナと顔を見合わせるのだった。


***


このキャンバスには食堂と呼べる施設が複数ある。
本館の1階に位置している一番大きな食堂と、西棟の2階に位置しているラウンジ。そして東棟の最上階である5階に設けられているテラスの計3つだ。
本館1階の食堂はファストフードをはじめ、商業施設のフードコートでよく見る有名チェーン店が店を出している。
西棟2階のラウンジにはコンビニや購買が設置されており、食堂と言うよりも学生にとっての憩いの場となっている。
中でもタイオンがよく足を運んでいたのは、東棟5階にあるテラスだった。
屋上を開放する形で設けられているこのテラスには、チェーンのカフェが2軒ほど出店している。
ここは他の食堂よりも騒音が少なく、コーヒーやハーブティー飲みながら空き時間を潰すのにうってつけの場所なのだ。
 
今日も次の授業までの暇つぶしをするため、タイオンはラウンジの一番奥の席に座り足を組む。
テーブルにはテイクアウト用に注文したホットコーヒー。昼食用に購入したBLTサンドが乗っている皿もテーブルの上に鎮座していたが、手を付けた様子は一切ない。
足を組み、腕を組み、右手で持ったスマホの画面を睨みながらタイオンは眉間にしわを寄せていた。

築年数10年以内。
家賃10万以内。
駅から徒歩10分以内。
風呂トイレ別。
インターネット環境完備。
プロパンガスではなく都市ガス。

この条件で検索をかけた途端、部屋探しサイトの検索結果は一気に減ってしまった。
これではだめだ。どこか妥協しなくては。
だがどこを妥協しろと言うのだ。
これから大学卒業まで、いやもしかすると就職して以降も澄むことになるかもしれない部屋なんだぞ。
もしハズレを引いたら最悪だ。今後の生活のためにもやはり妥協など出来ない。出来るわけがない。


「よっ!」
「うおっ」


スマホと睨み合っていたタイオンの背中を、同学年の友人が勢いよく叩いた。
国語学部のユーニである。
彼女とは大学入学当初、先輩に半ば強制的に参加させられた新歓で知り合った。
それ以降、学部は違うが顔を合わせれば挨拶を交わす程度の仲である。


「なに怖い顔でスマホ見てんの?彼女?」
「そんなのいない。知ってるだろ」
「じゃあセフ……」
「いるわけない!」
「あははっ、そうだよな」


笑いながら彼女はタイオンの正面の席に座った。
約束していたわけでもないのに勝手に相席を始めるユーニだったが、当のタイオンは特になにも言わなかった。
そして、苦い顔のままスマホの画面を見せる。


「え、なに?部屋探し?引っ越しすんの?」
「あぁ」
「なんで?結構いいとこ住んでるんだろ?」


タイオンの家は大学から歩いて10分圏内にある新築のアパートだった。
風呂トイレ別のワンルームマンションで、隣が墓地ということもあり家賃も相場よりかなり安い。
大学入学から1年以上住んできて、今まで不満らしい不満は一切なかったのだが、最近になってタイオンの頭を悩ませる大きな問題が発生したのだ。


「隣の住人に彼女が出来たらしくてな。毎晩連れ込んでいるようなんだ」
「ほお」
「夜中になると、ちょっとな……」
「あぁー、そういうことね」


隣の部屋に住んでいるのは同世代くらいの男だった。
入居してしばらくの間は静かなものだったが、最近彼が化粧の濃い女性と仲睦まじげに腕を組み部屋に入っていくところをタイオンは何度も目撃している。
そして、そんな夜は決まって壁の向こうから聞こえるのだ。“そういう声”が。
ハッキリ言って鬱陶しかった。


「それはなる早引っ越し案件だわ」
「だが、シーズンも終わったせいかいい条件の物件が見当たらなくてな」


タイオンが部屋探しの際に重要視するのはずばり、築年数と駅からの距離である。
そこだけは妥協できないのだが、どうやら同じ気持ちの人間は少なくないらしく、該当する物件は1か月以上前に終わった引っ越しシーズンで軒並み埋まってしまったらしい。
引っ越しを思い立つタイミングがもう少し早かったら、状況は違っていたのだろうが。
“これはしばらくあの声を我慢しながら生活するしかないな…”と呟き、スマホをスクロールするタイオン。
そんな彼の正面に座っていたユーニは、タイオンのホットコーヒーに手を伸ばして口を着けた。
タイオンが驚いて止める前に口を着けたユーニは、彼のコーヒーカップを大事そうに抱えながら微笑んだ。


「じゃあさ、うちに住む?」
「……は?」


彼女の言葉の意味が理解できず、思わず聞き返してしまう。
“うちに住む”とは一体どういうことだ?新手の告白か?
戸惑っていると、ユーニはようやくコーヒーカップをテーブルの上に戻し言葉を続けた。


「アタシさ、今友達の家に3人で住んでんだ。正確にはそいつの親戚の家だけど」
「つまり、ルームシェアということか」
「そういうこと。大学から徒歩で行ける距離だし築3年以内の一軒家。ちなみに3LDK。どう?」
「ど、どうと言われても……」


ユーニが友人と一緒に住んでいるとは知らなかった。
羅列された条件は確かにタイオンが求めていた物件のそれと合致する。
複数の住人とルームシェアするとなれば食費や光熱費、さらには家賃も相場より低くなるだろうし、彼女からの提案は実に魅力的に響いた。
しかし、生真面目な気質であるタイオンは、そんな甘美な提案に迷いなく頷けるほどの勇気はない。


「悪くない話だが、流石に女性の輪の中に男の僕が入るのは……」
「いや、一緒に住んでるのノアとランツだし」


ぴしゃりと言い放たれた言葉に、タイオンの思考が停止する。
“は?”と聞き返してしまったのは、理解が及ばなかったからだ。


「お前も知ってるだろ?経済学部のノアと体育学部のランツ」
「し、知ってはいるが……えっ?その2人と住んでいるのか?」
「うん」
「一つ屋根の下で?」
「うん」
「一緒に?」
「うん」


キョトンとした表情で頷き続けるユーニが、どんどん遠ざかっていくような気がした。
ノアとランツの2人は良く知っている。ユーニと同じく新歓の場で知り合って以来話すようになり、別の学部に所属していながらユーニも含め4人で飲みに行ったこともある。
3人は小学生のころからの幼馴染で、所謂腐れ縁なのだと聞いてたが、まさか同じ家に住んでいたとは思わなかった。
ユーニが男2人と同じ家に住んでいる。
その事実が、タイオンの頭の中をぐるぐると駆け巡り混乱を呼び寄せていた。


「だから別に男一人増えたところで気にしねぇって」
「そういう問題じゃないだろ……。第一、ノアやランツがなんて言うか……」
「タイオンならいいって言うだろ。普通に飲みに行く仲なんだし」
「それはそうだが……」
「それに——」


テーブルに頬杖を突くユーニ。
綺麗に手入れされた彼女の綺麗な爪が、木目調のテーブルをカツカツとつついている。
大きな青い目でまっすぐ見つめてきた彼女は、タイオンの迷いを打ち破る魔法の一言を言い放った。


「タイオンがいてくれた方が楽しそうだし」


挑発的な笑顔だった。まるでこっちの心を見透かされているようなその目が気に食わない。
こうでも言っておけばどうせ乗ってくるだろう、と高を括っている言い草に腹が立つ。
どうせこうやって笑いかければすぐにその気になるくせに、とでも言いたげな視線に苛立つ。
だが、彼女がぶら下げた“ルームシェア”というとびきり旨そうな餌を前に、タイオンは食らいつくほかなかった。


「わ、分かった。せっかくの申し出だし、断るのも気が引ける」
「おっ、じゃあ一緒に住むで決まり?」
「ノアやランツがいいと言ったらな」
「それは大丈夫。何としてでも説得してやるからさ」
「……そうか」
「で、入居いつにする?明日?」
「い、いや気が早すぎるだろ」
「だって楽しみじゃん。どうせならなる早で引っ越して来いよ?歓迎会してやるから」


嬉しそうに笑みを浮かべながら、ユーニはスマホを取り出した。
恐らく早速ノアやランツに許可を貰おうとしているのだろう。
そんなユーニの弾む態度に、タイオンの胸も密かに踊る。

ユーニの奔放な性格はよくわかっていた。タイオンのことを“揶揄い”の対象としか見ていないことも知っている。
彼女はそのさっぱりした性格上友人も多く、男女問わず親しくなった者との距離感は非常に近い。
かつてノアが飲み会の席で言っていた。“ユーニは男を勘違いさせる天才だ”と。
甘やかな優しさや態度を向けられるたび、タイオンは必死に自分に言い聞かせていた。
これは違う。そういうのじゃない。勘違いするな。惨めになるだけだ、と。
なのに、少し心をくすぐられただけですぐに擦り寄ってしまう単純な自分が恨めしい。

他の男と一緒に住んでいる状況をきちんとこの目で確かめたい。
ユーニと一緒に暮らしたい。

そんな二つの下心を抱いている事実に、ユーニは気付いているのだろうか。

 

act.2


セナがそのジムに通い始めたのは約3年前。大学入学後すぐのことだった。
入会金も更新費も周囲のジムより安く、立地的にも通いやすい。
本当は家で筋トレに勤しみたかったのだが、ミオという同居人がいる以上あまり自由に出来ない。
古いアパートだったためマシンを置こうにも下の階に響いてしまう。
ならば仕方ないと思い通い始めたのだが、セナにとって大きな問題が一つだけあった。
彼女は重度の人見知りなのだ。

トレーナーと二人きりで鍛えるパーソナルジムではなかったものの、このジムも他の利用者がたくさんいる。
もしも話しかけられたりしたらどうしよう。
そんな恐れは、ジム通い3日目にして早々に起こった。
声をかけられたのだ。それも、強面の男性に。


「よお、お前さんすげぇな」


ベンチプレス機に横になりながら一息ついてたところに声をかけられぎょっとする。
強面、高身長、そして鍛え上げられた筋肉。そのすべてが威圧的だった。
ひぇっ、どうしよう。話しかけられた。
何も言えずおどおどしているセナに、彼は構わずしゃべり続ける。


「女で60キロ持ち上げられる奴初めて見たぜ。しかもそんな小柄で」
「え、あっ、そ、そうかな」
「この前の土曜も来てたよな?もしかしてパワーリフティングやってるとか?」
「う、ううん。ただの趣味、かな」
「マジかよ!趣味でそこまで持ち上がるってやばくね?」
「えっと、あ、ありがとう」


目を輝かせながら矢継ぎ早に褒めてくる彼は、見た目ほど怖い人ではないらしい。
ジムに通っている人間は大まかに3種類に分類される。
スタイルを維持、もしくは痩せたい人。
運動不足を解消したい人。
そしてただ単に体を鍛えたいと思っている人。
身体つきを見るに、彼もセナと同じく3番目の目的でこのジムに通っているのだろう。
黒いタンクトップから露出している上腕二頭筋には見るからに固そうな筋肉が張り付いている。
どんなトレーニングをしたらこんなに綺麗に筋肉が付くんだろうと感心してしまうほどだ。


「もしかして、もっと重いの持ち上げられたりする?」
「あ、うん。最高記録は65だから……」
「65!? すっげぇなおい!ガチじゃねぇか」


取り柄の少ないセナにとって、力の強さは唯一自信を持てる長所だった。
レーニングすればするほど自分の身体が引き締まっていく感覚が楽しい。
趣味であり生き甲斐でもある筋トレの成果を褒めてもらったことで、セナの心はムズムズとかゆくなった。
一方声をかけてきた彼の方は、相変わらずキラキラした目をしたまま、隣のトレーニング器具に腰かける。


「お前さん名前は?俺、ランツ」
「えっと、セナ」
「セナか。よろしくな。俺周りに筋トレ趣味の同世代いなくてさ。仲良くしようぜ」


“仲良くしよう”。
そんなストレートな言葉をかけられたのは何年ぶりだろう。
大人になるにつれて友達と知人の境界線は薄くなり、胸を張って“友人”と言える存在は少なくなっていた。
控えめな性格であるセナは、昔から空気を読み過ぎてしまうきらいがある。
人の顔色を窺ってばかりで、様子を見ようと距離を取ると気付けば孤立している。
自分は円滑な人間関係の形成が苦手なのかもしれないと自覚したのは高校入学直後のことだった。
あれ以来、自分を“人見知りだ”と自認したことで人と距離を詰めることに余計慎重になってしまった。
そんな中で、ランツと名乗るこの青年の言葉はセナにとって非常に心地よかった。
様子見なんてする暇も与えず、大股で距離を詰めてくるランツ。
そんな彼の強引さが嬉しかったのだ。


「う、うんっ、よろしくね」


これが、ランツとの出会いである。
以降セナは、このジムで出会ったランツと“筋トレ仲間”としてうまくやっていた。
ジムで会えば立ち話に興じ、ランツおすすめのトレーニング飯が食べられる店に2人で立ち寄ったこともある。
男性と2人きりという状況はいつも緊張して胃が痛くなるのだが、不思議とランツと一緒にいると全く緊張せずにいられた。
むしろ、自然体でいられる。楽しいと思える。ミオ以外にこんなにも一緒にいて楽しいと思える存在は初めてだった。

もしかすると、これが親友というやつなのかもしれない。

そんなことを考え始めていた矢先の出来事だった。
ミオからルームシェアの話を持ち掛けられたのは。


***


午前11時。
待ち合わせの時刻ちょうどに、ミオとセナは駅の改札を通過した。
二人そろって目当ての人物を探すためきょろきょろしていると、先にセナが目的の人物を見つけて声を挙げた。
隣に立っているミオの袖を掴み、“いたよ!”と指をさすと、どうやら彼もこちらに気が付いたようでスマホを持っていた右手を軽く上げた。


「ごめんねタイオン。待った?」
「いや。今来たばかりだ」
「ならよかった」


すらりと伸びた身長に褐色の肌。眼鏡をかけたその出で立ちは見るからに“秀才”である。
同じ大学の法学部に所属している彼は、ミオやセナとは同じ高校出身の数少ない同郷である。
3人の地元はいわゆる“田舎”であり、出身高校も当然のごとくひと学年1クラスしか存在しなかった。
全校合わせて70人程度しかいなかった学校に3年間通っていれば、学年の垣根なく親しくなるのは当然の流れと言えるだろう。
人見知りのセナにとって、3年間ずっと同じクラスだったこのタイオンは、数少ない異性の友人なのだ。

立ち話もそこそこそに、3人は事前に共有されていた住所を頼りに駅を出発した。
数分歩けば周りの風景は歓楽街から静かな住宅街へと変わっていく。


「でも驚いちゃった。まさかタイオンも一緒に住むことになるなんて」
「僕も驚いた。君たちまで一緒に住む手筈になっていたとは」


地図アプリが表示されているスマホに視線を落としながら、タイオンは淡々と答える。
ミオからルームシェアの提案を聞いたのは2週間ほど前のこと。
とんとん拍子に話が進んでいく中で、タイオンも入居する話が出ていたことに2人は揃って驚く羽目になった。
住人が3人から6人に増えることで手狭になるのではないかと心配したミオだったが、ノア曰く“自分で言うのも変だけど結構大きな家だから大丈夫”とのことだった。
正式に入居が決まったことで、今日はその“結構大きな家”に3人そろって下見をしに行くところである。


「タイオンがルームシェア許容するなんて意外だなぁ」
「何故だ?」
「だって、他人と共同生活なんて絶対無理、考えられないってタイプでしょ?」


セナの指摘に、ミオはクスッと笑みを零した。
彼女の言葉の裏には、タイオンは神経質な男であるという認識が見え隠れしている。
その“裏”を察してしまったタイオンは、途端に不機嫌そうな表情を浮かべて眼鏡を押し上げた。


「別にそんなこともない。ただユーニから提示された条件面が求めていたものに合致しただけであって……」
「えっ、ユーニに誘われたの?」
「そうだが。それが何か?」
「てっきりノアかランツに誘われたんだと思ってたから……」


ミオにルームシェアの打診をしてきたのはノアだったが、彼はミオの恋人だ。
恋人関係以外の異性にルームシェアしないかと誘うのはそれなりにハードルが高いように思える。
タイオンを誘ったのはきっとノアとランツのどちらかなのだろうと勝手に解釈していたが、まさか異性であるユーニだったとは。
少し驚いたようにタイオンを見つめるミオだったが、彼はそんなミオの視線から逃れるように顔を逸らした。


「そういう君たちこそ大丈夫なのか?住人の3人と交流はあるのか?」
「私はそもそも何度かあの家にお邪魔させてもらってたから、その縁でね」
「私もミオちゃん経由でノアとは会ったことあるし、ユーニとは友達だよ!」
「ランツのことは知ってるのか?」
「うん。えっと……筋トレ仲間、かな」
「筋トレ仲間…?」


妙に恥ずかしそうに答えたセナに、タイオンは首を傾げた。
すると、突然ミオが前方を指さし“あれよ”と声を挙げる。
ミオの指が指し示す先に視線を合わせるタイオンとセナ。
そこには、路地の突き当りに堂々鎮座している一軒の白い家があった。
確かに、周囲の家と比べてそれなりに大きい。
ちょっとした庭があり、ガレージには車も止まっている。
ファミリーカーのように見えるが、恐らくはこの家を建てた後海外出張となったノアの親戚の持ち物だろう。


「ここがその家か」
「たしかに結構な豪邸だねー!」


見惚れているタイオンとユーニを横目に、ミオは慣れた様子でインターホンを押す。
今日は大学も休みだし、恐らくは3人とも家にいるのだろう。
中から住人が出てくるのを待つ間、舐めるように家の外観を観察していたセナだったが、玄関脇に設置されている蛇の石像に気付いて肩を震わせた。


「うわぁ!へ、蛇!?」
「痛っ!」


飛びのいた瞬間、タイオンの足を思い切り踏んづけてしまった。
悲痛な声を挙げるタイオンに咄嗟に謝るセナだったが、正直今はタイオンの足よりもこの蛇の方が気になる。


「落ち着いてセナ。ただの石像だよ」
「あぁ、なんだ。石像かぁ」
「随分とリアルだな。誰の趣味だ?」
「前の住人の趣味だよ」


不意に聞こえてきた声に、3人の視線が玄関へと集まった。
開かれた玄関に立っていたのはノア。その後に控える形で、ランツとユーニの姿もある。
ノアの遠縁にあたるこの家の家主は、昔から爬虫類が好きだった。
中でも蛇は特別好きだったらしく、この家でも数匹飼っていたのだとか。
当然、その蛇も家主の海外出張に同行しているためこの家にはいない。
代わりに家主の愛の象徴である蛇を模した石像やぬいぐるみなどがこの家に数多く残されていた。


「改めて、ようこそウロボロスハウスへ」
ウロボロスハウス?」


妙におどろおどろしい名前に、セナは眉間にしわを寄せた。
そんな彼女の反応に、ノアは苦笑いを零しつつ背後のランツに視線を向け、“ランツが命名したんだ”と口にする。
自分のネーミングセンスを疑われないようランツになすりつけたつもりらしい。
だが、命名責任を押し付けられたランツは満更でもなく、むしろ胸を張って答えた。


「蛇ハウスじゃ芸がねぇだろ?ウロボロスの方がセンス良くね?」
「破滅的なネーミングセンスだな」


ため息をつきつつ言い放ったタイオンの言葉に、ノアの隣で聞いてたユーニが“ぶはっ、言われてやんの”と吹き出した。
呆れるタイオンと笑うユーニの対応にランツはむっとしている。
どうやら彼はこの“ウロボロスハウス”という名前をいたく気に入っているらしい。


「さ、とにかく中に入って。案内するよ」


ノアによる促しによって、ミオ、タイオン、セナの3人は“お邪魔します”と声を揃えて玄関へと足を踏み入れた。
用意された来客用のスリッパに履き替え、広々とした玄関を上がる。
左手には2階に上がる階段。玄関からまっすぐ伸びる廊下の先には扉が見える。


「間取りは3LDKで、1階にはトイレと風呂場。あとはリビングとキッチンがある。他の3部屋はすべて2階だ。まずは1階のリビングからだな」


先行するノアの背に続き、3人は廊下を進む。
突き当りにある扉を開いた先には、開放的なリビングルームが広がっていた。


「うわぁ。広い!」
「意外に片付いているな」


タイオンのつぶやきに、すかさずユーニが“意外ってなんだよ”と軽く肘鉄を食らわせる。
ノアはともかく、大雑把なユーニやランツが暮らしている家というだけあってそれなりに乱雑としているイメージがあったのだ。
だが、実際に目の前に広がっているのは整理整頓された美しいリビングである。
部屋一面に設けられた大きな窓からは程よく日光が差し込み、白い壁紙で覆われたリビングを一層明るく演出している。
奥にはキッチンが設けられ、カウンターには回転式のバーカウンター椅子が2つほど並んでいる。
その横には4人掛けのダイニングテーブル。木目調のテーブルは温かみがある。

手前の壁には薄型テレビがラックと共に置かれており、ローテーブルをはさんで3人掛けのソファが置かれている。
テレビを見ながらくつろぐには十分なスペースが確保されていた。
確かにこれは広い。住人が3人から6人に増えたとしても、この広さならば手狭に感じることはないだろう。


「すごいすごい!お洒落なリビングだねミオちゃん!」
「そうね。私は何度か来たことあるけど、いつ来ても綺麗なお家だよね」
「キッチンを見ても?」
「あぁ、もちろん」


ノアの許可を得たタイオンが、キッチンへと足を踏み入れる。
冷蔵庫も炊飯器も電子レンジも、すべて高性能な家電で揃っている。
どうやらこの家を建てたノアの遠縁というのは、相当な金持ちだったらしい。


「広いキッチンだな。これなら料理もしやすいだろう」
「えっ、タイオンって自炊すんの?」
「いや、しないが」


ハッキリと言い放ったタイオンの一言に、ユーニが呆れた視線を向ける。
じゃあ料理できる奴みたいな雰囲気醸し出すのやめろよ。
ユーニが心でぼやいたとほぼ同時に、リビングを見ていたセナはテレビが置かれているラックを覗き込みながら“あっ!”と声を挙げた。


「ゲームがいっぱいある!」
「おう。色々揃ってるぜ?switchもPS5もやりたい放題だ」
「おぉ~!」


セナとランツに共通する趣味は2つあった。
1つは筋トレ。2つ目はゲームである。
これは2人が親しくなるにつれて判明した共通項なのだが、2人ともそれなりのゲーマーだった。
プレイするジャンルは幅広く、RPGからFPSまで様々だ。
ラックに納まっているゲームソフトたちはほぼすべてランツが買いそろえたものであり、コレクションが如くガラスケースに収まっている。
このコレクションの中からマリオパーティーや桃太郎電鉄等のソフトを起動させ、ノアやユーニも交えて夜通し遊ぶことも多々あった。


「私たちが引っ越して来たら、皆でゲームできるね!」
「そうね。皆でやったら楽しいかも」
「一軒家なら隣の部屋に気を遣わずに夜遅くまで起きていられるしな」
「うんうん!どれやろうかなぁ。今から楽しみ!」


目を輝かせるセナ。
そんな彼女を横目に、ノアは次の場所へ移ろうと促してきた。
向かった先は階段下に位置しているトイレと浴室である。
トイレは当然のようにウォシュレット付きで、白い壁には可愛い子犬のカレンダーが飾られていた。
もふもふの犬がじゃれ合っている様子が映っているそのカレンダーを見て、タイオンはすぐに“これはユーニが買ったものだな”と推理した。無論、その推理はあたりである。

トイレのすぐ横に位置しているのが浴室である。
扉を開けてすぐに広がるのが広めの脱衣所。ここにはドラム式洗濯機が置かれている。
向かって正面には大きなガラス戸が設置された洗面台が置かれている。
掃除はよく行き届いているようで、意外にも水垢などの汚れはない。
 
摺りガラスの扉の向こうには、明るい浴室が広がっている。
大き目のバスタブの正面には小さな浴室用テレビが設置されており、シャンプーとコンディショナーが二つ置かれている。
黒い容器が男性用シャンプーで、恐らくノアとランツが使用しているものだろう。
その隣のピンク色の可愛らしい容器が、ユーニ専用のシャンプーといったところだろう。
浴室のラックに置かれたシャンプーを目にしたミオとセナは、二人そろって“あっ!”と声を挙げた。


「あれってユーニのシャンプー?」
「まぁな」
「私たちも&Honey使ってるんだ!ねっ、ミオちゃん」
「うん。しかも同じピンク色のやつ」
「マジ?偶然じゃん。いいよなこれ」
「うん!すっごくいい!」


ミオとセナが共同で使用していたものと同じ銘柄のシャンプーを、ユーニも愛用していた。
当然、彼女たちが使用しているシャンプーの違いなどよく分からない男性陣3人は話についていけず互いに顔を見合わせている。
ふと、タイオンは風呂場の男性用シャンプーへと視線を向けた。流石に自分が使っているシャンプーとは別の銘柄だったが、正直そこまでこだわりはない。
ノアとランツが使っているあのシャンプーを使わせてもらうとしよう。

一方で女性陣の話題はシャンプーから基礎化粧品の話に移り変わっていた。
ユーニが洗面台ののガラス戸を開けると、化粧水やら乳液やらヘアオイルやら美容液やらがまるで雛人形のように並べられている。
ノアやランツにはそのコレクションの凄さがよくわかっていないようだったが、ミオやセナにはその価値が分かるようで、ガラス戸の向こうを見た瞬間“おぉ~”と歓声を挙げていた。


「あっ!これ前にコスメサイトで口コミ1位だったやつでしょ」
「そうそう!この化粧水やばくね?翌日赤ちゃんみたいに肌ぷるぷるになるよな」
「なるなる~!」
「そうなんだぁ。私も使ってみようかなぁ」
「じゃあアタシの貸してやるよ。3人一緒に使うならこれからは折半して買おうぜ」
「いいの?やったぁ!」
「あっ、待って。これも私使ってみたかった!話題になってるヘアクリーム」
「あぁこれ?これアタシ的にそんなに良くなかったんだよなぁ」
「そうなの?あんなにCMやってるのに?」
「よくなかったんだ。聞いといてよかった。買おうか迷ってたところなの」
「やめとけやめとけ。絶対値段に合ってねぇ」


マシンガントークとはまさにこのことか。
途切れることなく話し続ける女性陣3人の勢いに、ノアたち男性陣は圧倒されていた。
あぁ、これは放置すると長話になるぞ。
その場にいた誰もがそう感じ始めていた。
視線でけん制し合う3人。“次に行こうと言え。誰か早くこいつらを止めろ”
エンジンのついた女性陣の間に割って入り、会話を終了させるのは至難の業である。
タイオンもランツも、下手をすればヘイトを買いかねないそんな役に名乗りを上げるのはまっぴらごめんだった。
そんな空気の中、仕方なく意を決したのはノアだった。


「とりあえず、日用品の話はあとでするとして、2階を案内したいんだけどいいか?」
「あっ、そうだった」
「2階見たい!」
「行きましょ」


無事話題の路線が元に戻ったことで安堵する男性陣3人。
張り切る女性陣を先頭に、一行は2階へと続く階段を上がっていく。
2階には部屋が3つ。ノア、ユーニ、ランツがそれぞれ個別で使用している部屋だ。
今回入居が決まった3人も、今後はこの部屋のどこかで眠ることになる。
階段を上がってすぐのところに1部屋。その横にまた1部屋。
そして一番奥にまた1部屋ある。


「じゃあまずはアタシの部屋な」


階段を上がってすぐのところにある部屋はユーニの部屋らしい。
彼女が自分の部屋のドアノブを握った瞬間、後ろに立っていたタイオンは思わず息を呑んだ。
他の人がいるとはいえ、ユーニの部屋に入るのは初めてだ。
急に緊張し始めるタイオンを尻目に、ユーニは躊躇なく部屋の扉を開け放った。

奥に白いベッドがひとつ。右手側には白いチェスト。左手側には白いドレッサー。
白で統一されたその部屋は、ユーニの少々ガサツな性格に反してやけに落ち着いていた。


「ものが少ないね。なんだか意外」
「ごちゃついてると思った?」
「ちょっとだけね」
「おいおい」


ミオの言葉に苦笑いを零すユーニ。
実のところ、タイオンもミオに同意見だった。
傍から見れば片付けが得意な方に見えないユーニだが、どうやら人は見た目に寄らないらしい。
すると、ミオの陰から部屋の中を眺めていたセナが左手側にあるドレッサーに視線を向け声を挙げた。


「あぁっ!ドレッサーある!いいなぁ」
「共同で使うか?」
「いいの?」


ミオとセナが住んでいたアパートはそこまで広々としておらず、家具も多くは置けなかったため、2人ともドレッサーを使わずに立てかけ鏡だけで化粧をしていた。
数々の化粧品を使いこなし、“可愛い”を作り上げるこの工程は、ドレッサーがあるのとないのとではクオリティに雲泥の差が出る。
ユーニからのありがたい申し出に、ミオとセナは二人そろってはしゃいでいた。


「ドレッサーくらいでそんなにはしゃぐもんかねぇ。なぁタイオン」
「……」
「タイオン?」
「えっ、あ、あぁそうだな……」


突然ランツからかけられた声に、タイオンは鈍い反応を返した。
即座に返事が出来なかったのは、彼がユーニの部屋を見渡しながら緊張の沼にハマりかけていたからである。
正面に見えるあのベッドで、ユーニは眠っているのか。なんてまるで欲望丸出しの男子高生のような考えが頭をよぎり、打ち消すために首を振る。
これから一つ屋根の下で一緒に生活することになるのに、その程度のことで動揺してどうする。
なんとか自分を落ち着かせようとしているタイオンだったが、そんな彼の不審さにランツは気が付いていた。

“あぁなるほどな。こいつそういうことなのか”
様子の可笑しいタイオンを横目に、ランツは笑みを噛み殺した。
前々から堅物でとっつきにくい奴だと思っていたが、そんな弱点があったとは思わなかった。
これは面白いことになりそうだ。
ニヤ付きそうになる顔を引き締めつつ、ランツは声を張った。


「んじゃあ次は俺の部屋な」


ランツの呼びかけによって、一行はユーニの部屋を後にする。
隣に位置している部屋の扉を開くと、先ほどの白一面のユーニの部屋とは打って変わり、こちらは黒を基調としたシックな部屋が広がっていた。
正面には少し乱れたベッド。ラックの上には物が散乱しており、壁にはよくわからないアーティストのポスターが貼られている。
そしてなにより目を引いたのは、異様な雰囲気を放つトレーニング器具の存在だ。


「うわぁすごい!トレーニング器具置いてるの!?」
「まぁな」


一番に反応したのはやはりセナだった。
置かれていたのは懸垂などが出来る簡易的な鉄棒と、小さなベンチプレス機。
さらに床にはダンベルがいくつか置いてあった。
ジムに置いてあるような本格的なトレーニング器具には及ばないが、家で体を鍛えるには十分すぎる環境である。
筋トレに全くと言っていいほど興味がないミオとタイオンは、ランツの部屋に入った瞬間トレーニング器具が放つ威圧感に圧倒されてしまった。


「こんなの家に置いてるなんてすごい!いつでも筋トレできるね!」
「セナも使うか?特別に貸してやるよ」
「えっ、本当?やったぁ!」


小さな体で喜びを名一杯表現するセナ。
大はしゃぎとも言えるその反応は、ユーニのドレッサーを貸してやるとと言われた時以上のものだった。
いやいやドレッサーより筋トレ器具の方がテンション上がるのかよ。
セナらしい反応に、ユーニは呆れるしかなかった。


「じゃあ次はノアの部屋かな?」
「あぁ。こっちだ」


ランツの部屋を一通り見終え、一行はようやく最後の部屋へと向かう。
ノアの部屋は2階の一番奥にあり、他の2部屋よりも若干広い。
というのも、この家の前の家主は子供2人を含む4人家族で住んでおり、ユーニとランツが使っている部屋は元々子供部屋、ノアが使っている部屋は夫婦の部屋として使われたいたためだ。
ノアが部屋の扉を開けた瞬間、一番に目に飛び込んできたのは奥に置かれたダブルベッドの存在。
恐らく夫婦で使っていたベッドをそのままノアが引き継いだのだろう。


「あのダブルベッドで寝てるの?」
「あぁ。新しくベッドを買うのも面倒だったし」


この家の家具家電のほとんどは、前の住人から引き継いだものである。
そのため、ノアたちは引っ越しに際してほとんど費用を負担していない。
アルバイトで生計を立てている学生の身において、家具家電をそのまま使っていいという前住人の善意は非常にありがたかった。


「夫婦の部屋というだけあって、この部屋が一番日当たりもいいな」
「この家はノアの遠縁の家だしな。一番いい部屋はノアに宛がおうって話になったんだ」
「別に俺はどこでもよかったんだけどな」
「いやいや、そこはちゃんとしとかねぇとマズいだろ」


3人は気の置けない幼馴染ではあるが、そのあたりの気遣いはしっかりしているらしい。
友人とは言え他人との共同生活に不安がないわけではなかったタイオンだが、3人のやり取りを観察して少し安心した。
彼らとなら、適度な距離を保ちつつ快適なルームシェア生活を送れるかもしれない、と。

 

act.3


「第一回。ウロボロス会議~!」


ユーニの煽るような言葉に、ノアとランツが拍手を贈る。
突然始まったバラエティ番組のようなノリに、ミオ、タイオン、セナの3人は茫然としていた。
これから彼らが入居する予定の家、通称“ウロボロスハウス”の全容は、ノアたちの案内によって知ることが出来た。
全ての部屋や設備を見て回った一行は、一旦リビングに集結している。
4人掛けの食卓に座っているのは4人の女性陣とタイオン。
ノアとランツは少し離れた3人掛けのソファに腰かけながら背もたれを抱え、揃って食卓側を向いていた。


「……ウロボロス会議とは?」
「“ウロボロスハウスに住んでるアタシたちによる定例会議”。略してウロボロス会議」
「はぁ」


得意げに話すユーニを前に、タイオンは呆れながら間の抜けた相槌を返した。
何がウロボロス会議だ。そのままじゃないか。
そもそも僕が聞きたかったのは名前の由来ではない。
何のための会議なのかと聞いているんだ。
心に浮かんだそんな疑問を払拭してくれたのは、ソファに腰かけているノアだった。


「全員で決めなくちゃいけないことがあると定期的に集まって会議してるんだ。ほら、部屋割とか掃除や料理の当番とか色々決めなくちゃだろ?」
「なるほど、そういうことね」


ノアの分かりやすい解説に、ミオが微笑みを返す。
ルームシェアを始めるうえで最も重要なことはルール作りだ。
友人同士とはいえ全く違う環境で育った人間同士が一つ屋根の下で暮らせば、必ずと言っていいほどトラブルが発生する。
そのトラブルを事前に防ぐためにも、ルール作りは避けて通れない道なのだ。


「まず決めるべきは部屋割りだよな。どう分けるよ?ノア」
「そうだな……。やっぱりここは男女別で……」
「それでもいいけどさ、なんか勿体なくね?せっかく3部屋もあるのに、男女別で分けたら2部屋しか使わない計算になるじゃん」
「確かに」
「じゃあ、2人部屋にするの?」
「それだとどんな組み合わせにしても必ず男女の相部屋が一つ生まれるわね」
「それはノアとミオの部屋でいいんじゃね?」
「「えっ」」


さらりと告げられたユーニからの言葉に、ノアとミオの言葉が綺麗に重なった。
戸惑う二人とは対照的に、タイオンやランツ、セナは至極当然かのような表情を浮かべていた。


「ユーニに賛成だ。どうせ男女の相部屋が生まれるなら君たち以外にないだろう」
「だな。二人は付き合ってるわけだしな」
「もうすぐ付き合って1年なんだろ?じゃあ相部屋くらい別に問題ないよな?というかむしろ嬉しいくらいだろ」
「ミオちゃんと同じ部屋に慣れないのはちょっと寂しいけど、せっかくだし彼氏と一緒の部屋の方が
私もいいと思う!ねっ、ミオちゃん」
「えぇっ?あ、う、うーんと……」


自分たち以外が全員賛成しているこの状況で、異議を唱えるだけの勇気はミオにはない。
恐る恐るノアへと視線を向けると、彼もまた苦笑いしながら居心地が悪そうにしていた。


「俺はその……ミオがいいなら」
「私も、ノアがいいなら……」


遠慮がちな二人の同意によって、ノアとミオの相部屋が決定された。
場所は今現在ノアが使っている一番大きな部屋。
ダブルベッドが配置されているため、新しくベッドを買う必要もないだろう。
今まで別々の家に住んでいた二人が、いきなり一つ屋根の下、しかも相部屋で眠ることになる。
付き合っている二人にとっては手放しで喜んでいい状況だろうが、何故だかノアとミオはたどたどしかった。
そんな彼らの様子を見て、ユーニは密かに首を傾げた。
あいつら、付き合ってるんじゃなかったのか?なんであんなに遠慮がちなんだろう。
怪訝な表情を浮かべるユーニを尻目に、ランツが次の議題へと駒を進める。


「んじゃあノアとミオは相部屋にするとして、残るは他の2部屋だな。よし、とりあえずあみだくじで決めるか?」
「何故そうなる!? 普通に君と僕、ユーニとセナの組み合わせでいいだろ」
「えっ、お前そんなに俺と一緒の部屋がいいのかよ。俺にそういう趣味ねぇぞ?」
「首絞められたいのか」
「ぶはっ」


タイオンとランツの軽快なやり取りに、正面に座っていたユーニがたまらず吹き出した。
そんな彼女の隣で、セナは苦笑いを浮かべつつ“わ、私もユーニと相部屋がいいかな”と呟く。
こうして、他の2部屋の組み合わせも決定した。
ユーニが使用していた部屋にはセナが、ランツが使用していた部屋にはタイオンが加入することとなり、無事部屋割りをは確定する。

その後も会議は円滑に進み、様々な事項が採決された。
掃除場所の振り分け、食事当番の順番。そして家賃や光熱費の振り分けなどなど。
このウロボロスハウスの家賃は合計月額12万。今まではノア、ユーニ、ランツの3人で折半していたが、6人で折半することで家賃の負担額は一人2万となる。
そこに光熱費や食費、雑費を含めて一人3万の負担が確定した。
よって、1人が確実に負担する金額は、家賃光熱費食などの生活に欠かせないすべての支出を合わせて5万となる。
セナと暮らしていた頃に比べてかなり節約できる内訳に、ミオは内心安心していた。
どうやら、ノアたちとのルームシェアは思っていた以上に金銭的に都合がいいらしい。
これなら問題なくやっていけそうだ。


「おっしゃ。これで決めるべきことは全部だな」
「あぁ。じゃあ早速行くか」


顔を見合わせ立ち上がるノアとランツ。
ローテーブルの上に置かれた車のカギを手に取ったランツに、セナは“行くってどこに?”と問いかける。
そんな彼女からかの問いに、ランツはクマのマスコットが付いている車のキーを指でくるくると回しながら答えた。


「引っ越し前に行くところと言えば決まってるだろ?」


得意げに笑うランツだったが、セナやミオ、そしてタイオンは言っている意味が分からず首を傾げている。
ジャケットを羽織り、出かける準備を進めるノアは、自らのスマホに“Hey Riku”と話しかけ始めた。


ニトリまでのナビよろしく」


ノアのスマホから、“了解も”という可愛らしいシステムボイスが流れていた。
どうやらこれから行く場所というのは、かの有名な家具屋らしい。
いよいよ引っ越しが間近に迫ったて来たことにワクワクしながら、ミオとセナは顔を見合わせ食卓から立ち上がるのだった。


***


「せーのっ」
「「「「じゃんけんポン!」」」」


ユーニの掛け声と共に、ノア、ランツ、タイオンの4人は輪を作り片手で作った手札を披露する。
熾烈なじゃんけんで貧乏くじを引いたのはノアだった。
“パー”を出した自分の掌を恨めしく見つめながら、ノアは深いため息をつく。
そんな彼を煽るように、“チョキ”を出したユーニ、タイオン、ランツは得意げに笑っていた。


「んじゃあ今日の運転手はノアだな。ほれっ」


ランツから投げられた車のカギをキャッチすると、ノアはガレージに停められている8人乗りの車の運転席に乗り込んだ。
この車は元々この家に住んでいた彼の親戚の所有物だったのだが、家を貸し出したと同時に保険の名義はノアへと変わっていた。
出かけ盛りの大学生であるノアたちにとって、“車も自由に使っていい”という家主の厚意は非常にありがたかった。
6人の中で車の免許を持っているのは4人。ノア、ランツ、ユーニ、そしてタイオンである。
平等なじゃんけんの結果名誉ある運転手の称号を獲得したノアは、若干めんどくさそうにしながらフロントミラーを直した。

助手席に座るのは彼女であるミオ。
後ろの座席にはユーニとセナ。一番後ろの3列目にはランツとタイオンが腰かけている。
目指すはニトリ。新生活に向けての買い出しの始まりである。

車を走らせること約15分。
一行の車は最寄りのニトリへと無事到着した。
車を降り、広い店内へと入ると6人は一直線に寝具売り場へと足を進めた。
今回の目当てはずばりベッドである。
ミオもセナもタイオンも、それぞれが暮らしていた家では敷布団で眠っていた。
各自で持っていた布団をそのまま使っても問題ないが、敷布団を畳んでしまっておくための収納スペースが圧倒的に足りない。
となればやはり、新しいベッドを購入した方が収納スペースの有効活用になるだろう。

ミオは既にノアの部屋に設置されているダブルベッドで眠る予定であるため、購入する予定なのはセナとタイオンのベッドである。
様々なベッドが並んでいる寝具売り場に到着した6人は、めぼしいシングルベッドに目を向け始める。
だが、羅列された値札を視界に入れた瞬間、6人の口数はどんどん少なくなっていった。


「ろ、6万か……」
「高いね……」


値札と睨み合いながら、タイオンとセナは顔をひきつらせた。
シングルベッド1台につき約6万。2台合わせると合計12万にものぼる。
6人で割り勘するという約束ではあるが、流石に合計12万の出費は痛すぎる。
どうしたものかと頭を抱えていた二人だったが、そんな彼らを背後から見ていたユーニがとある提案を持ち掛けた。


「じゃあさ、いっそダブルベッド買っちまったら?」
「ダブルベッド?」
「シングルベッド2つ買うよりダブルベッド1つ買った方が安上がりだろ。アタシが今使ってるベッドタイオンに譲るから、セナはアタシとダブルベッドで寝る。これでどう?」


その提案を途中まで聞いていたミオが、少し離れたところに並んでいるダブルベッドの売り場へと向かう。
値札に記されていた金額は7万円。シングルベッドを2つ購入するよりも明らかに安上がりだった。


「確かにその方が安く済むな」
「私はそれでも大丈夫だよ!タイオンはどう?」
「あぁ、まぁ構わないが、ユーニはいいのか?」
「なにが?」
「君のベッドを僕が使うことに何の抵抗感もないのか?」
「え?べつにないけど?」

 

さらりと否定された事実に、タイオンは戸惑いつつ“そ、そうか”と返事を返した。
ユーニが眠っていたベッドを譲ってもらう。
それ自体はありがたいことだったが、何故だかタイオンは妙に罪悪感に包まれていた。

無事ベッドに目星をつけた一行は、シーツや枕、食器類も選んで回っていた。
一緒に暮らす人間が3人から一気に6人に増えるのだ。
コップやフォークの類も当然のことのように足りない。
生活に必要な雑貨を次々カゴに放り込んだ結果、ベッドの金額も合わせて合計10万にものぼった。
レジにて表示された金額を見た瞬間、6人の顔が同時に引きつったのは言うまでもない。


「10万……。6人で割っても1人1万5千円超か」
「ご、ごめんね。私たちが一緒に住みたいなんて言い出したから……」


車に戻り各々座席にくと、ノアは長いレシートを見つめながらため息を吐いた。
そんな彼のすぐ後ろの席に座っていたセナが、身を乗り出しながら謝罪する。
申し訳なさそうに眉尻を下げる彼女に、隣に座っていたランツが“いやいや”とかぶりを振った。


「お前らを誘ったのは俺たちだぜ?セナが謝ることねぇって」
「でも……」
「まぁ、引っ越しともなればこれくらいの出費は普通だろう。これから始まる快適な暮らしへの投資だと思えばいい」
「珍しくいいこと言うじゃんタイオン」
「珍しくとはなんだ失礼な」


行きはノアの運転だったが、帰りはじゃんけんの結果タイオンが運転することになっていた。
運転席でシートベルトを締めながらセナのフォローをしたタイオンに、助手席に腰掛けるユーニがニヤニヤとした笑みを向けてくる。
また揶揄われているような気がして、タイオンはふいっと視線を逸らして車を発進させた。
こうして、入居前の下見は無事終了した。
ミオたち3人が入居する直前、購入したベッドはウロボロスハウスへと到着し、新しい住人を迎え入れる準備はすべて整った。
入居日まであと1週間。6人は心を躍らせながらその日を待っていた。


***

おまけ

ちょっとした登場人物設定メモ

【ノア】
アイオニオン国際大学 経済学部 3年生。年齢20歳。
誕生日は11月。
とにかく絵にかいたような好青年で、趣味は楽器全般。
ユーニやランツとは幼稚園からの幼馴染であり、もはや友人を超えて家族。
駅前のフレンチレストランにてウェイターとしてバイトしている。
約1年前、ユーニから外国語学部でひとつ先輩のミオを紹介され、とある出来事がきっかけで交際に発展した。
整った容姿と優しい性格をしているため幼少期から異性にモテていた。
それは大学入学後も変わらず、入学一年目にして所謂“うちの大学で一番カッコいい人”のポジションを確立していた。
高校時代は吹奏楽部に所属しておりフルート担当だった。多くの楽器に精通しているが、とくにピアノの腕には自信がある。
6人の中で最も天然の気質があり、時折全員が絶句するような一言を発することがある。
6人がルームシェアすることになった家は彼の遠縁にあたる人物の所有物であり、ノアが近辺の大学に進学すると聞いた家主が、長期の海外出張のタイミングと重なったこともあり賃貸として家を貸し出そうと提案。
同じ大学への進学が決まっていた幼馴染のランツやユーニを誘ったことで3人のルームシェアが始まった。

 

act.4


4月下旬。
桜も既に散ってしまったこの時期に、6人の大学生はとある一軒家でルームシェアを始めた。
その名もウロボロスハウス。
通称のおどろおどろしさとは対照的に、白い外壁が美しいちょっとした邸宅である。
 
この日、ウロボロスハウス付近は実に賑やかだった。
ミオとセナ、そしてタイオンの荷物を運ぶ引っ越し業者がひっきりなしにこの家を訪れていたためである。
引っ越しのプロである業者に立ちによって、3人分の引っ越し作業は午前いっぱいで無事終了した。
 
どうやらランツは今回3人が依頼した業者とは別の引っ越し会社でバイトをしているらしく、作業が一通り終了した後“俺に言ってればもっと安く済んだのに”と呟いていた。
やけに高くついた見積に視線を落としつつ、タイオンが“そういうことはもっと早く言ってくれ”と心で呟いたのは言うまでもない。

段ボールに詰められた荷物の開封は、それぞれ相部屋となるパートナーが一緒に手伝うことで迅速に終了した。
特にタイオンは荷物が少なく、“お前ミニマリストか”とランツに突っ込まれていたほどである。
全ての作業が終了したのは午後6時。
既に外も暗くなり始めてきた頃だった。
作業がひと段落し、各々リビングで一息ついていたその時だった。
家のインターフォンが鳴る。ノアが対応しに玄関へと走った。
宅配だろうか。
やがて玄関から帰ってきたノアは、随分と香ばしい匂いを纏いながら両手に持った紙の箱を食卓の上に置いた。


「ピザ来たぞ!」
「うおーー!」
「ピザピザ!」


ノアの一言と同時に、ランツとユーニが興奮気味に食卓に駆け寄った。
ピザを頼んでいたとは知らなかった。
さらにその後、間髪入れずに次の来客がインターフォンを鳴らす。
対応したのはやはりノアだった。
玄関から帰ってきたノアは、再び香ばしい匂いと共に両手にぶら下げたビニール袋を食卓の上に置く。


「マック来たぞ!」
「うおーー!」
「マックマック!」


ノアの言葉に、ランツとユーニがまた沸き立つ。
ハンバーガーまで頼んでいたらしい。
連続で届けられた2種類のご馳走に茫然としていると、再びインターフォンが鳴り響く。
まだ何か頼んでいるのか。流石に頼み過ぎじゃないか?
そう思ったタイオンだったが、ノアは気にせず玄関へと小走りで去っていった。
やがてノアが少しスパイシーな香りを漂わせながら帰って来る。
ピザ、ハンバーガーと来たら次は何だろう。
チキンか、それとも寿司あたりだろうか。


トムヤムクン来たぞ!」
トムヤムクン!?」


タイオンのツッコミがリビングに響く。
まさかと思い自分も食卓に駆け寄って確認すると、袋の中身は本当にトムヤムクンだった。
なんでトムヤムクン
何なんだそのチョイスは。斜め上すぎるだろう。


「え、えっと、すごいご馳走だね、ミオちゃん」
「そ、そうね。こんなにたくさん頼んでくれてありがとう。いくらだった?」


ミオが財布を取り出しながら問いかけると、すぐそばでポテトをつまみ食いしていたランツが“んなのいいって”と制止した。


「こいつは俺らからの引っ越し祝いだから、金は要らねぇよ」
「え、でも……」
「今日はルームシェア開始の記念日だからな。歓迎会しようぜってアタシが提案したんだよ」
「は?提案したの俺じゃね?」
「いやアタシだから。お前は食いたいもん挙げてただけだろうが」


どうやらこの食事の謎ラインナップはランツのセンスだったらしい。
何故トムヤムクンをこのラインナップに追加したのかは知らないが、とにかく食卓は豪勢でかつジャンキーな料理で埋め尽くされていた。


「ちなみに酒も用意してあるからな。好きに飲んでくれ」
「しゃー!酒だ酒だぁ!」


キッチンに引っ込んだノアが、冷蔵庫から次々に缶チューハイを取り出していた。
すかさずミオが手伝いに駆け寄り、ノアから缶チューハイを受け取ると両手いっぱいに抱えて食卓に運んでくる。
アルコール度数9%のストロングゼロから、3%のほろよいまで種類は様々だ。

まず最初に酒へと手を伸ばしたのはランツだった。
迷わずストロングゼロを手に取った彼は、この中で一番アルコールに強い。
次に手を伸ばしたユーニが取ったのは梅酒だった。
アルコール度数はそこそこの女性向けラベルである。
 
続いてミオとタイオンが手を伸ばす。
ミオが手に取ったのはレモンサワー。アルコール度数は控えめである。
タイオンが手に取ったのは氷結で、ストロングゼロには及ばないもののそこそこアルコール度数の高いチューハイである。
このノリについていくにはあえて酔っ払った方がいいという判断からくる選択である。
 
最後に手を伸ばしたセナが手に取ったのはほろよいだった。
女子大生御用達のこの酒は、アルコール度数も低く酒が苦手な女性でも飲みやすい。
酒に弱いセナにとっては頼りになる味方と言える酒だった。

キッチンから戻ってきたノアが、余った酒の中から適当なラベルを選ぶ。
チョイスしたのはミオと同じレモンサワーだった。
“酒の趣味まで同じかよ。ラブラブだなおい”というユーニの揶揄いに、ミオがまだ飲酒していないにも関わらず少し赤い顔で“もう!”と怒っている。
そんなやり取りを横目に、このウロボロスハウスの代表者であるノアが咳ばらいをしつつ缶チューハイを顔の高さまで持ち上げた。


「えー、それじゃあ、ミオ、タイオン、そしてセナを歓迎して——」
「「「かんぱーい!」」」


ノアの乾杯の音頭によって、6人は缶チューハイで乾杯し合う。
ぐびぐびと酒を煽り、口を離した者から順に食卓の上の料理へと手を伸ばしていった。
食卓は4人掛けであり、どう頑張っても2人座れない者が出てくるため、自然と立食パーティーのように立って食事をし始める。
宴会が始まって1時間。酒が弱いセナ以外が1本目の缶チューハイを飲み終えた頃、ユーニがポテトをつまみながら新しい話題を提供した。


「マックのポテトってさ、絶対なんかやべぇもの使ってるよな」


ポテトを1本つまみ上げながら、ユーニは言う。
そんな彼女に怪訝な視線を向けながら、タイオンは“何の話だ?”と問いかけた。


「だってさ、1本食い出したら止まらなくなるんだぜ?絶対中毒性高いヤバめの白い粉的なもの振りかけてるだろ」
「まぁ塩は振りかけられていると思うが」


程よく塩味を感じるポテトは癖になる。
紙ナプキンの上に広げられたポテトの山へと手を伸ばし、タイオンもぱくりと口にした。
そんなタイオンとユーニの会話を横で聞いていたノアは、2本目の缶チューハイを飲みながら2人がつまみ続けるポテトへと視線を落とす。


「マックのポテトは美味いよな。中毒性のあるものが入ってても納得するくらいには美味いと思う」
「確かにね。私もポテトはマックのが一番好きかな」


ノアの言葉に作動するミオ。
彼女は少し酔いが回っているのか、頬がいつもより赤らんでいる。


「ポテトはマックのが一番うめぇけど、ハンバーガーなら俺はバーガーキング派だな」
「あっ、分かる。あそこのハンバーガー美味いよな。ちゃんと肉!って感じがして」


ポテトの話題で盛り上がる面々の話題に、ランツが一石を投じる。
ユーニが賛同したことに気を良くした彼は、“だろ?”と嬉しそうに笑いながらポテトをつまんだ。


「私はロッテリアが一番好きだなぁ。チーズバーガーが一番おいしいと思う」
「あー確かに。アタシもあそこのチーズバーガー好き。タイオンは?」


セナの意見に同調したユーニが、隣のタイオンへと話を振る。
すると彼は眼鏡を押し上げながら考え込み始めた。
あまりファーストフードの世話になる機会が少ないため、好き嫌いを語るほどのデータが彼の中に無いのだ。


「あまり考えたことはなかったが……強いて言うならモスバーガーだろうか」
「あぁやっぱりな。モスっぽい顔してるもんなお前」
「どういう顔だそれは」


呆れた顔で隣のユーニを見つめるタイオンだったが、ユーニはケラケラと笑うばかりで明確な答えは得られない。


「やっぱりハンバーガー屋はマック、ロッテリア、モス、バーガーキングのどれかだよなぁ」


残り少なくなったポテトをつまみながら、ランツがつぶやく。
すると、空になったレモンサワーの缶をテーブルに置き、ミオが隣に立つノアを見上げて“ノアは?”は問いかけた。


「俺は……ドムドムバーガーかな」


彼がにこやかに好みを披露した瞬間、5人は言葉を失った。
まさかのチョイスに苦笑いを零す仲間たちの端で、ユーニはかすかな声で“異端かよ…”と呟いていた。


***

テーブルに並べられたご馳走がほとんど片付いたころ、6人はほどよく酔いが回りきっていた。
特に酒に弱いミオとセナは明らかに素面とは程遠く、共に笑い上戸と化している二人はタイオンが食卓の角に足をぶつけただけで腹を抱えて笑っている。
2人のために水を用意してやろうと思ったノアは、キッチンに引っ込み冷蔵庫を開けた。
すると、冷蔵庫の中に見覚えのない紙箱が収納してあるのを発見する。
首を傾げながら箱を取り出してみると、どうやら中身はケーキのようだった。


「なぁ、これって……?」
「あっ、それ私が買ってきたの」


箱を持ち上げながら皆に問いかけるノア。
そんな彼の問いかけに手を挙げたのはミオだった。
どうやらこのケーキは彼女の手土産らしい。
食卓に持って行き中を改めると、そこには可愛らしくデコレーションされた6種類のケーキが綺麗に詰められていた。


「うっわ、美味そう」
「私、ここのケーキ屋さんでバイトしてるの。よかったら食後にどうぞ」
「そろそろ甘いモノが食べたかったんだよなぁ。ミオナイス!」


ミオがアルバイトとして働いているケーキ屋は、このあたりではかなり有名な店だった。
看板メニューは一番人気のレアチーズケーキ。
箱の中を覗き込んだ瞬間、ユーニは早速そのチーズケーキに目星を着けていた。
他のラインナップは、ショートケーキにチョコレートケーキ、モンブランにベリーのタルト、そしてベイクドチーズケーキである。
どれも非常に美味そうではあったが、今彼女が一番食べたいのはやはりレアチーズケーキだった。


「よっしゃ、じゃあじゃんけんで誰がどれ食うか決めるぞ」


ランツの言葉に従い、自然と6人が輪を描くように立ち上がる。
話し合いの結果、6人全員でじゃんけんした結果独り勝ちした者から時計回りに好きになケーキを取っていくという手法をとることとなった。
ユーニは気合を入れつつ右手を前に差し出す。
ノアの“じゃんけんポン”という掛け声と共に、6人が思い思いの手札を披露した。
何度かあいこを繰り返した後、一人勝ちしたのはユーニの左隣に立っていたタイオンだった。


「よし」
「うわ最悪。レアチーズケーキだけは盗るなよ?」


左隣のタイオンが勝利したということは、ユーニの番が回ってくるのは一番最後ということになる。
つまり、必然的にあまりものしか食べれないということだ。
だが、どうしてもチーズケーキが食べたかったユーニはあえて自分が食べたいものを口にすることで他の者が手を出しにくくするという姑息な手段を取ることにした。
空気の読めないランツはともかく、そのほかの面々はお人好しだ。
ユーニがレアチーズケーキを食べたがっていると知れば、遠慮して避けてくれるはず。
そう期待していたユーニだったが、そんな彼女のたくらみはタイオンによって砕かれることになる。


「じゃあ僕はレアチーズケーキで」
「はあぁぁぁっ!? お前アタシの話聞いてたか!? 盗るなって言ったじゃん!」
「勝ったのは僕だ。好きなケーキを確保する権利はあるはずだろ」
「くっそ、狙ってたのに……」


タイオンの言うことはもっともだった。
たとえユーニがどんなにレアチーズケーキを欲していたとはいえ、じゃんけんに負けてしまったのだから仕方がない。
むくれるユーニだったが、それ以上の文句は言わなかった。
 
やがてタイオンに続き、ミオ、ノア、ランツ、セナの順でターンが回ってくる。
ユーニの左隣に立っていたセナが、残り二つのケーキを指さしながら“ユーニはどっちがいい?”と聞いてきてくれたが、“アタシに遠慮せず好きなの食いな”と促すと、セナは遠慮しながらも片方のケーキを持っていった。
残されたのはスタンダードなショートケーキ。
嫌いなわけではなかったが、正直レアチーズよりは一段劣る。だがこうなっては仕方ない。
ケーキを買ってきてくれたミオに礼を言いながらショートケーキに手を着けようとしたユーニだったが、隣からのびてきたフォークによっていちごが掻っ攫われてしまった。


「は?ちょっ……」


ショートケーキの主役ともいえる大きなイチゴは、掻っ攫っていったタイオンの口内へあっという間に飲み込まれてしまう。
当然抗議の声を挙げようとしたユーニだったが、あまりの早業に言葉を失った。
なんだこいつ、レアチーズケーキだけでなく唯一の楽しみのイチゴまで奪うなんて。


「美味いな、いちご」
「てめ……っ、いきなり何すんだよ!」
「あぁすまない。あまりにも美味そうだったから」
「だからって盗るなよ!お前のモラルどうなってんだよ!」
「悪かった。お詫びにケーキ交換するか?」
「え?」


差し出されたのは全く手を着けていないレアチーズケーキ。
クランベリーソースがかかったそれは非常に可愛らしく美味そうだった。
喉から手が出るほど欲しかったレアチーズケーキを前に、ユーニの態度は一気にしおらしくなった。


「いいの?」
「いちごを食べたらショートケーキの口になったんだ。嫌なら別にかまわないが」
「するする!交換する!」
「はいはい。じゃあ交換だ」


差し出されたレアチーズケーキの皿を受け取り、ショートケーキが乗った皿を差し出す。
ずっと食べたかったレアチーズケーキを前に、ユーニは目を輝かせていた。
そんな彼女を見下ろしながら、タイオンは柔らかく微笑む。
天邪鬼な言葉とは裏腹な行動と表情を見せるタイオンの様子に、一連のやり取りを観察していたミオとセナは少し驚いた様子で目を丸くしていた。
高校時代からの付き合いである二人は、タイオンの性格をよく知っている。
あの優しげな表情は、誰彼構わず見せるものではない。


「ねぇミオちゃん、タイオンってもしかして……」
「うん。たぶんそういうことだよね」


隣に寄り添い、こそこそと小声で耳打ちし合うミオとセナ。
2人の視線の先には、軽口を叩き合いながら互いのケーキを分け合うタイオンとユーニの姿があった。


act.5


ルームシェア初日の宴会は、23時近くまで続いた。
流石に酔いが回ってきた頃合いで、ノアが“風呂に入る順番を決めよう”と口にした。
比較的広い家ではあるが、シャワールームは一つしかない。
同居人が6人もいる分、順番を決めてスムーズに入浴していかなくては、後ろが詰まってしまう。
再び行われたじゃんけん大会の結果、一番風呂はミオが獲得した。

意外にも浴室は綺麗に掃除されていて、居心地もいい。
ユーニから使用許可が下りたシャンプーを使用すると、フローラルな香りが浴室一面に広がった。
後ろが詰まっているため、いつもより急いで体を洗い脱衣所に出ると、すぐさま体を拭いて髪を乾かす。
髪が短い方でよかった。ほんの数分で髪を乾かし終えたミオは、肩からバスタオルを被りながら脱衣所を出た。


「おまたせ。ノア、次いいよ」
「あぁ、早かったな」


リビングに戻ると、他の面々はローテーブルを囲んで会話に花を咲かせていた。
ソファに座っているのはユーニとセナ。
男性陣は全員フローリングに直接腰を下ろしていた。
ミオの次に風呂に入る予定なのはノアだ。
促すように声をかけると、ノアは立ち上がりミオと入れ替わるように脱衣所へと入っていった。


「ミオ、アイス食う?」
「えっ、食べたい」
「冷凍庫にあるから勝手に取っていいぜ」
「ありがとうユーニ」


ユーニに教えてもらった通りキッチンの冷凍庫を開けると、アイスがたくさん収納されていた。
その中からチョコレートの棒アイスを取り出すと、袋から出しながらユーニらの元へと歩み寄る。
すると、ソファに座っていたセナが横にずれながら自分の隣をポンポンと叩いてきた。
“ここに座って”の合図である。
お礼を言いながらセナの隣に座ると、3人の女性陣が腰かけているソファは満員状態となった。
風呂上がりのアイスを堪能していたミオに、床に胡坐をかいていたランツが声をかける。


「風呂大丈夫だったか?シャンプーの場所とか」
「うん、問題なかったよ。ありがとう」
「もう23時半か。風呂に入ったらもうあとは寝るだけだな」


スマホの時刻を確認しながら、タイオンが呟く。
いつの間に淹れたのか、彼はブラックコーヒーをマグカップで飲んでいた。
恐らくは酔いを醒ますためだろう。


「一軒家とはいえ内壁はそれなりに薄いから夜は騒ぐなよ?特にノアとミオ」
「え?私たち?」


ランツの言葉をうまく理解できなかったミオが、アイスを片手に首を傾げた。
すぐ横に座っているセナも理解できていないらしく、同じように不思議そうな顔をしている。
そんな2人に、呆れたように目を細めながらユーニが言葉を選ばず補足をいれた。


「ヤるなら静かにヤれってことだよ」
「なっ……何言ってるの!?」


顔を真っ赤に染め上げながら、ミオは立ち上がる。
その拍子に彼女がもっていた棒アイスはボトリと床に落ち、セナが“あ…”と声を漏らした。
だが、ミオは落ちたアイスなどもはやどうでもいいらしく、相変わらず赤い顔をしながら必死にまくしたて始める。


「そういうのはプライバシーの侵害でしょ!? ていうか、そもそもやらないし!」
「「やらねぇの?」」
「えっ……」


ミオの口から飛び出した否定の言葉に、ランツとユーニが同時におうむ返しで聞き返してきた。
思わぬ反応に、今度はミオの方が戸惑ってしまう。
立ち上がったミオを不思議そうに見上げているのは、ユーニやランツだけではない。
古くからの友人であるセナやタイオンもまた、怪訝な表情を浮かべながらミオを見上げていた。


「同じ部屋で、しかもダブルベッドで寝るのに、しないのか?」
「普通するだろ、付き合ってるんだから」
「ミオちゃん、別に私たちに気を遣わなくていいんだよ?」
「そうそう。声を抑えてくれれば別に気にしねぇって」
「いや、あの。えっと……」


全員からの追及に、ミオはまるで空気が抜けたかのように脱力すると、力なくソファに座り直した。
そして、ローテーブルの上に置いてあるティッシュを何枚か引き抜くと、床に落としてしまったアイスを拭き取る。
ティッシュをゴミ箱に投げ入れたミオは、やがてなにかを決心したように深くため息をついた。


「まだ、してないの……」
「え?」
「私たち、まだそういうことしてないの」


俯き、もじもじしながら呟くミオの言葉に、数秒の沈黙が訪れる。
そして、間を開けて一斉に4人の“ええぇぇぇっ!?”という驚愕の声がリビングに響いた。


「し、してないって、1回もか?」
「ミオちゃんたち、もうすぐ付き合って1年だって言ってたよね?」
「1年も付き合っていて一度もそういう流れにならなかったのか?」
「ありえなくね?プラトニックにもほどがあるだろ」
「そう、だよね……」


4人からの言葉に、ミオは苦笑いを零しながら視線を逸らした。
ノアと交際を開始したのは1年ほど前。
人並みにデートもしてきたし、キスやハグだってきちんとしている。
だが、そういった空気になる前にノアはいつもさりげなく距離を取ってくるのだ。
奥手と言ってしまえばそれまでだが、手を出されていない期間があまりにも長すぎる。
3か月、半年、10か月と時間が経つごとに、ミオの不安は増長していった。


「ノアって、そこまでチャラいわけでもないけど、奥手ってわけでもないはずだよな?」
「あぁ。その辺は別に普通だと思うけどな」


幼馴染であるユーニやランツは、ノアの恋愛遍歴を良く知っている。
ミオと交際を開始する前、高校時代にも彼女はいたが、その時は何事もなく関係を進めていたはずだ。
異性のユーニには流石に話していないものの、同性であるランツはしっかり知っている。ノアが“未経験ではない”という事実を。
となれば、女性に免疫がないがために手を出すタイミングを失ってしまったという線は消える。
ならば原因は一体何なのか。考える一同に、タイオンが一石を投じた。


「もしや……不能なのでは?」
不能ってなぁに?」


タイオンの一言に、セナが純粋な瞳を向けてくる。
あまりにもまっすぐな視線に居心地が悪くなったタイオンは、眼鏡を押し込みながら言葉を選び始める。


不能というのは、その……。いざという時奮い立たないという意味で……」
「ノアは別にそういうのじゃないと思うぜ?俺、何度もあいつと“そういうビデオ”の貸し借りしてるし」
「えぇっ?」
「お前……そういうこと普通彼女の前で言うかぁ?」
「あ、悪い」
「いいよいいよ。男の子なら普通なんでしょ?」
「ふぅん。普通なのか?タイオン」
「ぼ、僕に振るな!」


ニヤニヤしながら自分に聞いてきたユーニの言葉に、タイオンは焦りながらコーヒーに口を着けた。
当然、タイオンにも“そういう欲”はある。
ノアのように、もしも自分に交際1年近くの彼女がいたとしたら、間違いなく我慢などせず手を出しているだろう。
タイオンだけでなく、男ならみんなそうなるはず。
にも関わらず、ノアは彼女であるミオに一切手を出していない。
不能でもないのなら一体なぜなのだろう。


「ノアの奴、悟りでも開いたのか?」


タイオンの言葉に一番最初に反応したのは、“ぶはっ”と吹き出したユーニだった。
肩を揺らして笑いだすユーニを横目に、ランツは腕を組みながら口を開いた。


「確かにアイツ、時々菩薩か?ってくらい優しいときあるもんな」
「雑念と一緒に性欲まで捨てたとか?」
「じゃあノアって菩薩様だったの?」
「もう……みんな真剣に考えてないでしょ」


むくれるミオ。
そんな彼女の反応に、ユーニやランツは“悪い悪い”と軽く謝罪を始めた。
そんな中、遠くで脱衣所の扉が開く音がした。
リビングでくつろいでいた5人が一斉に脱衣所の方へと視線を向ける。
そこには、いつも一つに束ねている長い黒髪を解き、頭からタオルを被っているノアの姿があった。


「ふぅ、いい湯だった」


艶やかな黒髪をタオルで拭きながら、ノアは爽やかな笑みを浮かべていた。
邪気をまったく感じさせないノアの表情には、何故か後光が指して見える。
そんなノアの様子を見つめながら、ランツは言った。


「なんか、割とマジでノアが菩薩に見えてきた」
「アタシも」
「現世の欲から解放されたのかもしれないな。羨ましいことだ」
「あやかりたいね。南無南無」


セナに続き、ランツ、ユーニ、タイオンはノアへと拝み始める。
急に自分に向かって手を合わせ始めた4人に動揺し、ノアは自分の髪を拭きながら“え、な、なんだ?”と目を丸くしていた。
そんな光景を見つめながら、未だ悩みの種が解決できていないミオは一人深いため息をつくのだった。


***

深夜2時。じゃんけんの結果最後に入浴することとなったタイオンが風呂から上がると、既にリビングに他の5人の姿はなかった。
もうこんな時間だし、きっとそれぞれの部屋に帰ったのだろう。
そう思い2階に上がってランツの部屋をノックすると、案の定彼は室内にいた。
ノック後に部屋に入ると、ランツは自分のベッドの上に寝転がり雑誌を読んでいる。
入ってきたタイオンに一瞬だけ視線を上げて“別にノックなんてしなくていいのに”と呟く。
そうはいかない。元々ここはランツの一人部屋だったわけで、後から加入した自分はそれなりに気を遣うべき立場だ。
友人同士とはいえ、親しき中にも礼儀ありというだろう。

ふと背後を見上げれば、ランツのベッドが配置されている対角線上の壁に沿う形で、タイオンのベッドが置いてある。
正確に言えば、今日からタイオンのものになった元ユーニのベッドだ。
遠慮がちに腰かけた瞬間、得体のしれない緊張感がタイオンを襲う。
つい先日までこのベッドでユーニが眠っていたのだと思うと、自然と心拍数が上がってしまうのだ。
今夜はちゃんと眠れるだろうか。

ベッドの縁に腰かけたまま枕を見つめるタイオンだったが、まとわりつくような視線を感じて顔を挙げた。
ランツが、雑誌から視線を上げて何故かこちらをじっと見つめている。
そんなにまっすぐ見られたら居心地が悪い。
“なんだ?”と声をかけると、ランツは真顔のまま“お前さんってさ……”と続けた。


「ユーニのこと好きなのか?」
「……は?」
「てか好きだろ、絶対」


まっすぐ言い放たれた言葉は、タイオンの心臓を貫く。
目を見開きながら言葉を失っているタイオンの態度は、人の感情に鈍感なランツでさえ“これは図星である”と判断で来た。
だが、あからさまな態度を取っておきながら、タイオンは必死で首を横に振り始める。


「違っ……な、なにを言ってるんだ急に」
「好きじゃねぇの?この前ここに下見に来た時からそうだと思ってたんだけど」
「何を根拠に!」
「だってお前、あからさまにユーニに対する態度だけなんか違くね?」


“たどたどしいというか緊張してるっぽいというか”と続けるランツ。
彼の言葉に、タイオンの羞恥心は次第に温度を上げていく。
隠しきれないほど顔を真っ赤にしながら、タイオンはなんとか誤魔化そうと平静を装った。


「べ、別に普通だ。君の勘違いだろ」
「隠すなって~。好きなんだろ?まぁ分かるぜ、アイツ人との距離の詰め方異常に上手いもんな。昔から結構モテてたし」
「だから好きじゃないと言ってるだろ」


否定を繰り返すタイオンだが、その顔は赤く染まり、視線は泳いでいる。
あまりにもわかりやすい彼の態度に気を良くしたランツは、自分のベッドから立ち上がりおもむろにタイオンの隣に腰かけると、そのよく鍛え上げられた腕をタイオンの肩に回した。


「なんだよタイオン。素直になれって。別に本人に言ったりしねぇよ」
「しつこいぞ。僕はユーニのことなんて別に」
「好きじゃねぇってか?お前がアイツのこと狙ってるってんなら、アイツの好きな男のタイプとか元カレのこととかいろいろ教えてやろうと思ったのに」


ランツからの甘い誘惑に、タイオンの喉が鳴る。
ユーニとはそれなりに親しくしているつもりだが、彼女から過去の恋愛の話を聞いたことは一切ない。
聞き出す機会はいくらでもあったが、なんとなく聞き出すのが恐ろしくて何も質問できなかったのだ。
ランツはユーニの幼馴染である。恐らく、彼女の恋愛遍歴はすべて知っていることだろう。
その情報が欲しくないと言えばウソになる。正直言って喉から手が出るほど欲しかった。
だが、そのためにユーニのことが好きだと認めてしまうのはプライドが許さない。
どうしたものかと悩んでいると、ユーニとセナの部屋に面している壁が“ドン!”と大きな音を立てて向こう側から叩かれた。


「うっせぇぞ男ども!静かに寝やがれ!」


ユーニである。
壁を蹴っているのか殴っているのか知らないが、とにかく大きな音を出しながら怒鳴るユーニの迫力は壁越しからでも伝わってくる。
壁の方を見つめながら“お前が一番うるせぇだろ…”と呟くランツは呆れた表情を浮かべていた。


「ほ、ほら見ろ。あんなに粗暴な性格、僕の好みじゃない」
「んじゃあどういうのがタイプなんだよ?」
「それは……年上で清楚で品があって、とにかくユーニとは真逆のタイプだ」
「ふぅん」


嘘は言っていなかった。
同い年や年下よりは年上の方が好みなのは事実だし、騒がしいタイプよりも大人しめの知性溢れる人が好きなのも事実だ。
だからこそ認めたくないのかもしれない。理想とは真逆のユーニに惹かれているこの状況を。
しかも、相手は明らかにこちらを異性として意識していない。
単なるからかいの対象としか見ていないだろう。
勝算のないこの想いを、“片想い”として認めてしまっては、自分が一層惨めになってしまう。
プライドの高いタイオンには、それが耐えられなかった。
違う。好きじゃない。ユーニなんて好きじゃない。
今日もそう自分に嘘をつきながら、タイオンは高鳴る鼓動を抑えるのだった。


***


「やっと静かになりやがった」


灯りが消えた部屋で、ダブルベッドに横になっていたユーニは壁を見つめながらため息を零す。
先ほどまでランツとタイオンの部屋に面した壁の向こうから、2人のぎゃいぎゃいとはしゃぐ声が聞こえて来てひどく耳障りだったのだ。
就寝するため部屋の照明を落とし、セナと揃って新しいダブルベッドにもぐりこんでいたユーニは、隣の部屋の騒がしさに腹を立て壁を渾身の力で殴りつけた。
結果、ようやく静かになったのだ。


ルームシェア初日だからはしゃいでるんじゃないかな」
「ガキかよ。修学旅行じゃねぇだから」
「でもはしゃぐ気持ちもちょっと分かるなぁ。友達と一緒に住むなんて初めてだもん。なんだかワクワクしちゃう」


布団に顔をうずめながら笑みを零すセナに、ユーニは少しだけ驚いた。
彼女の人見知りな性格はよく知っている。
大人数より少人数の方が心地よく感じるその性質も理解しているつもりだった。
そんな彼女が自分たちとのルームシェアに同意したこと自体驚いたが、ここまで楽しんでいるとは思わなかったのだ。
何より驚かされたのは、ランツとの関係性である。
幼馴染であるランツの口からセナの名前を聞いたことなどなかったし、大学の授業で毎週顔を合わせているセナの口からランツの名前を聞いたこともない。
まさか2人の間に交流があったとは思わなかったのだ。

筋トレという共通の趣味を持ってはいるものの、その性格はあまりにも真逆。
ランツはともかく、セナの方がランツを怖がり敬遠すると思っていた。
だが、実際にはセナはランツによく懐いている。
その事実が、2人を良く知るユーニには考えられないことだった。


「そういえばさぁ、セナとランツって駅前のジムで知り合ったんだよな?」
「うん、そうだよ」
「どうやって仲良くなったわけ?」
「一人で筋トレしてる私にランツが声かけてくれたの。それがきっかけかな」
「ふぅん。要するにナンパってことか」
「えっ……」


何気なく発せられたユーニの言葉に、セナは驚いた様子で布団から起き上がった。
ガバッと派手にめくれ上がる掛け布団に戸惑い、急に起き上がったセナへと視線を向けると、彼女はユーニ以上に戸惑った様子でこちらを見下ろしていた。


「ナンパ、だったのかな……?」
「ナンパだろどう考えても。普通イキナリ一人の奴に声かけるか?しかも異性に」
「で、でもでもっ、“同年代に筋トレ趣味の人いないから”って……」
「いやいや、アイツめちゃくちゃ筋トレ仲間いるぞ。大学にも高校の同級生にも」
「え……」


あの時、ランツは筋トレ仲間を作るために自分に声をかけたのだとばかり思っていた。
だが実際には彼を取り巻く環境に同じ趣味を持つ仲間はたくさんいて、仲間が欲しかったなどという言葉はただの建前でしかなかった。
ユーニから告げられた事実を前に、セナは戸惑いを隠せない。

ランツと親しくなったのは大学入学直後のこと。もう2年以上前だ。
知り合って以降、ランツとはいい友人関係を築いてきたし、そこに恋愛感情などない。つもりだった。
今更になって、自分たちの出会いのきっかけが相手からのナンパだったかもしれないという可能性に、真面目なセナは戸惑ってしまう。


「私、ランツにナンパされてたのかな」
「だとしても別にもうよくね?今は普通に友達なんだろ?」
「うん」
「じゃあ出会いのきっかけが何であれ別にどうだっていいだろ。今の関係がすべてなんだから」
「そう、だよね……」


起き上がっていた上体を横たえ、セナは再び布団にもぐった。
だが、どうしても気になってしまう。
ランツはあの時、本当にただ仲間が欲しくて声をかけただけなのか。それともユーニの言う通りナンパ目的だったのか。
 
ナンパという行為は、する側の下心が原動力になっているということをセナはきちんと知っている。
もしランツが自分をナンパしたつもりだったのなら、今はともかく当時はセナに対して下心を持っていたということになる。
セナが本当に気になっているのは、ランツがナンパ目的だったのかとう点ではない。
ランツが自分を“そういう対象”として見ていた過去があったのかという点である。
 
もしも下心があったとして、それは過去の話でしかない。
知ったところで“そうなんだ”以外の感想は出て来ないかもしれないが、それでも気になってしまう。
ランツの心の在り処が。自分が彼にどう思われているのか。

不意に、自分の心臓の鼓動が早まっていることに気付いたセナは、隣で寝ているユーニに気付かれないよう自らの胸を右手で抑えた。
なんだろう、この感覚は。
どうしてこんなにも心臓が跳ねるのだろう。
恋愛経験のないセナには、今自らの身に起ころうとしている心の変革が怖くて仕方がなかった。


act.6


一枚のドアを前に、ミオは心を研ぎ澄ませていた。
心臓が高鳴る。自然と顔が紅潮する。
このドアの向こうにノアがいると思うと、緊張して仕方がなかった。

ルームシェア開始の初日の夜。
事前に取り決めがあった通りミオはノアと共に同じ部屋で寝ることになる。しかも別々のベッドではなく同じダブルベッドで。
ノアとはもうすぐ交際1年になるが、所謂ラブホテル的な場所で一夜を明かしたことはなく、2人で一緒に眠るのは初めてだ。
当然、今まで一度も彼と“そういう流れ”になったことはない。
恐らく、奥手なのかあまり欲がないのかは分からないが、流石に恋人と並んで寝ることになれば手を出さないわけがないだろう。
きっと、今日が“記念すべき1回目”になるはず。
これから怒ることを予想し、ミオは大きく深呼吸した後ゆっくりと扉を開けた。

開け放たれた部屋の中は明るく、奥に配置されたダブルベッドに腰かけたノアがスマホをいじっている。
ミオが入室してきたことに気が付いた彼は、スマホを枕元に置いて柔く微笑んだ。


「もういいの?」
「う、うん。お待たせ」


つい先ほどまで、ミオはユーニの部屋でドレッサーを借り、スキンケアをしていた。
今夜、きっと自分はノアと“そういうこと”をする。
責めて準備は念入りにしたかった。
“おいで”と微笑みながらこちらへ誘おうとするノアに従い、ミオは身を固くしながらノアの隣に腰かける。
ごくりと生唾を飲むミオの隣で、1歳年下のノアは随分と落ち着いた様子で問いかけてきた。


「早速だけど、どっちがいい?」
「へ?な、なにが?」
「寝る場所。手前か奥か」
「あっ、あぁ!えっと、じゃあ……奥で」


“了解”と微笑むと、ノアは掛け布団をめくり上げた。
その流れで枕元に置いてあったリモコンを手にすると、明るかった室内の照明を常夜灯に切り替える。
周囲が暗くなったことで、ミオの緊張は最高潮に達していた。
とりあえず横になろう。落ち着かなくちゃ。
高鳴る心臓を必死で抑えながら布団に入ると、壁際の奥に寝転がる。
やがてノアも、すぐ隣に横になった。
ノアの腕が、頬が、吐息が、すぐそこにある。
右隣は壁。左隣はノア。この状況に陥って初めて、ミオは奥側を選択してしまったことを後悔し始めていた。
まずい。追い詰められている感が半端じゃない。
壁を横にしているせいで逃げ場がないこの状況は、ミオを一層焦らせた。
やがて、しばらく黙っていたノアがようやく口を開く。


「そういえば、こうして二人で寝るの、初めてだったな」
「う、うん。そうね」
「なんか、少し緊張するな」
「そ、そうね……」


天井をガン見しながら答えたミオは、ノアからの言葉に少しだけ安堵を覚えていた。
よかった。緊張していたのは私だけじゃなかったんだ、と。騒がしかった心臓がようやく落ち着きだしたかに見えたその時。
まっすぐ天井を見つめていたはずの視界に、ノアの整った顔が映り込む。
上体を起こし、覆いかぶさるように見つめてくる彼の顔は、あまりにも近かった。
いつもは一つに束ねている長い黒髪を解いた彼は、なんだかいつもより色気が増しているように見える。
やっぱり綺麗な顔してるなぁ、ノアって。
そんなことを吞気に考えていると、その綺麗な顔がゆっくりと迫ってくる。

ノアの唇が、ミオの唇と重なった。
キスなんて今まで何度もしていたはずなのに、今日はやけに甘く感じる。
1度目のキスは2秒ほどで離れ、そしてすぐに2回目が降ってくる。
今度は食むようなキスだった。
3回、4回と繰り貸すごとに、口づけは深くなっていく。
やがてノアの舌が唇を割って入ってきた頃、ミオは確信する。
あぁこれは、いよいよそのときなのか、と。

浮つく心を押さえつけるように、ノアの手が投げ出されたミオの手に絡みつき、ベッドの上に縫い付けられた。
ミオには交際経験がない。高校の頃はそれなりに異性にモテていたし、告白もされたことはある。
だが、“好きな人とじゃなきゃ付き合いたくない”という意外に古風な考え方をしていたために、今まで一度も彼氏を作ってこなかったのである。
そんな彼女の心を射止めたのが、一つ年下で、眉目秀麗なノアだった。
当然、見た目の良さで選んだわけではない。紆余曲折在ってその人柄に惹かれ、彼ならばと思い交際が始まったのだ。
そんな経緯をたどり現在に至るミオは、男女間における“常識”をあまり知らない。
長年の友人であるセナも今まで一度も異性と交際したことが無いし、経験がそれなりにありそうなユーニともそういった話をしたことはあまりない。
男女の営みがどんな流れで始まるのかも、何も知らない。
だからこそ、ノアに任せるしかなかった。
彼は年下だが、きっと自分よりは経験がある。
彼が起こす波に乗れば、きっと間違いはない。
だが、ノアがミオを巻き込むほどの波を起こすことはなかった。
何度目かもわからない口づけが終わった後、彼は揺れる青い瞳でミオを見下ろしながらいつもの調子で言い放つ。


「じゃあ、おやすみ」


え?

柔く微笑むと、覆いかぶさっていたノアはあっけないほどミオの上から退き、再び隣に横になった。
それどころか、何故かミオに背を向けて眠りだしてしまったのだ。

え?えっ?えぇぇぇっ!?

おかしいおかしい。
いまそういう流れだったのに。
絶対今“そういうこと”する流れだったはずなのに。

反対側を向いているノアの背中を見つめながら、ミオは瞬きを繰り返す。
こういう時、どういう対応を取るのが適切なのか分からない。
“え、終わり?”と言うのもなんだか求めているみたいではしたないし、かといってこのまま大人しく寝るのも違う気がする。
煽るだけ煽って急に引っ込んでしまった彼氏の熱に、ミオは戸惑いを隠せなかった。

どうして手を出してくれないのだろう。
交際開始からもうすぐ1年。出会ってから数えるとすでに2年近くが経過している。
なのに、どうして——
ノアが行動を起こしてくれないかぎり、2人の中は進展しない。
ノアもそれはきっと分かっているはずだ。
欲を孕んだ波を起こしてくれさえすれば、あとはこっちはその波に乗るだけなのに。
底が見えないノアの行動は、ミオの不安を煽る。
向けられている背にそっと手を伸ばし、触れる直前にミオはその手を引っ込めた。
触れたところで、今のミオにはどうしていいのか分からなかったから。

やがてミオもまた、ノアに背を向けて瞼を閉じる。
彼女は知らなかった。反対側で眠るノアが、熱のこもった瞳を揺らしながら必死に自分を抑え込んでいる事実を。


***


「ふんっ」
「ンいっ」
「ふぉっ」
「はっ」


妙な息遣いが耳に届き、タイオンは薄目を開けた。
広がるのは見慣れない天井。
一瞬ここはどこだと戸惑ったが、すぐに“あぁそういえば引っ越したのか”と脳内で理解し安堵した。
ふと、人の気配がする右側へと視線を向けると、そこにはトレーニング器具にぶら下がりながら懸垂をしているセナの姿があった。


「うおっ」
「あ、タイオンおはよう」
「お、おはよう……」


小さい体で鉄棒にぶら下がっているセナは、目を覚ましたタイオンににこやかに挨拶をした。
おかしい。ここはランツと自分の部屋のはずだが、何故セナがここにいるのか。
その疑問は、セナの後ろでもう一つのトレーニング器具を使っていたランツが解消してくれた。


「よう、やっと起きたか」
「朝っぱらから何をしているんだ?」
「見て分かんねぇか?筋トレ。セナがうちの器具使いてぇって言うから貸してるんだよ」
「やっぱりお家に筋トレ器具あるって最高だねー!」
「だろー?」


にこやかに自らの筋肉をいじめ続けるランツとセナの様子に、タイオンはため息をつくしかなかった。
折角爽やかな朝を迎えられたと思ったのに、目を覚ました瞬間ムキムキマッチョ空間のど真ん中にいたとは。
サイドチェストに置いてあった自分の眼鏡を手に取ると、タイオンは眠気眼を擦りながら部屋を出た。
まだ頭が覚醒しきっていないのか、頭がぼーっとする。
あくびを零しながら階段を降り、一直線に向かったのは洗面所である。
歯を磨くために洗面所の扉を開けると、そこには先客がいた。ユーニである。
洗面所に入ってきたタイオンに振り向いた彼女は、歯ブラシを咥えながらきょとんとしている。
どうやら歯磨きの真っ最中だったようだ。


「っはよ」
「あ、あぁ、おはよう」


部屋着を身に纏い、ノーメイクで寝癖を着けた髪を1つに束ねているユーニは完全にオフモードである。
彼女のこんあにも無防備な姿は見たことが無い。
これもルームメイトの特権という奴だろうか。
歯を磨いているユーニが少し横にずれたことで、タイオンはたどたどしく彼女の隣に立って自分の歯ブラシへと手を伸ばす。
共用の歯磨き粉を新品の歯ブラシに着けたと同時に、歯ブラシを咥えながらユーニが話しかけてきた。


「ちゃんとねれた?」
「うん?」
「ちゃんと寝れた?」
「あぁ、まぁ、そこそこ」
「ならよかった」


タイオンが歯ブラシを咥えこむと、隣のユーニがコップで口を濯ぎ歯磨きを終えた。
すると一つにまとめていたミルクティー色の髪をするりと解き、手櫛で寝癖を整え始める。
彼女の髪が解かれたことで、シャンプーの匂いがふわりと香ってくる。
隣同士、並んで洗面台に立つ光景を鏡で見つめながら、タイオンは柄にもないことを考えてしまっていた。
“なんだか同棲してるみたいだ”と。


「昨日ランツと随分盛り上がってなかった?」
「そうか?」
「ギャーギャーうるさかったぞマジで。何話してたわけ?」
「……別に何でもいいだろ」


流石に言えるわけがなかった。
ランツに“ユーニが好きなんだろ”と詰められていた、だなんて。
結局答えを濁したまま朝を迎えたが、ランツは十中八九自分がユーニに片想いしていると思っているだろう。
どうしたものかと一人悩むタイオンの心情などお構いなしに、ユーニはタイオンへと手を伸ばしてきた。
彼女の白い手が、タイオンの後頭部を触る。
突然何かと思いぎょっとしながらユーニを見つめると、彼女はニヤニヤしながらタイオンの後頭部の髪を触り続けた。


「寝癖すごっ。もじゃもじゃ」
「……そんなにか?」
「いろんな方向にハネてる。猫っ毛だよなぁタイオンって」


わしゃわしゃと頭を撫でながら寝癖を直そうとしているユーニの手つきに、タイオンの心臓は高鳴ってしまう。
そういうこと、他の男にもやっているのか?なんて女々しい疑問符が浮かんでくる。
昨晩、ランツは言っていた。“ユーニは人と距離を詰めるのが異様に上手い”と。
そう言われる所以はこういうところなのだろう。
距離感を感じさせないスキンシップは、馬鹿な男をあっという間に勘違いさせてしまう。
かく言う、タイオン自身もそんな“馬鹿な男”の一人だった。


「よし、ちょっとマシになった」
「それはどうも」


タイオンの頭から手を離したユーニは、するりと洗面所から出て行ってしまった。
全くこっちの気も知らないでべたべた触って来るなんて。
もう少し異性との距離感を考えたらどうだ。
歯磨きと洗顔を終えたタイオンは、遠くの方から漂ってくる卵の香ばしい匂いに気が付く。
リビングに入ると、部屋着を腕まくりしたユーニがキッチンで何かを妬いていた。
どうやら目玉焼きを妬いているらしい。
ベーコンとっしょに焼いているおかげか、キッチンには食欲をそそる匂いが充満していた。


「何してるんだ」
「朝飯作ってんだよ」
「まさか全員分か?」
「当たり前だろ?今日の朝食当番アタシだし」


そう言えばそうだった。
この家に下見に来た際、6人はウロボロス会議と称して様々なルール決めをした。
食事当番の順番も、新しく決めたルールのうちの一つである。
2日目の今日の朝食当番はユーニだ。
誰よりも早く起きてリビングに降りてきていたのは、全員分の朝食を作るためだったのかと合点がいき、タイオンは“なるほど”と小さく頷いた。


「料理なんて出来るのか?」
「朝食なんてベーコンと卵焼いてパンでも焼けば十分だろ。それを料理とは言わなくね?」
「火を使うか包丁を使う作業はすべて等しく“料理”と言っていいと思うがな」
「そうかな」
「そうだろ」
「ふぅん。じゃあちゃんと感謝して食えよ?アタシが腕を奮って作って“手料理”なんだから」
「手料理……」


そう思うと、今目の前で焼かれている卵焼きとベーコンが格段に旨そうに見えてしまう。
たとえ素人でも簡単に出来るような料理でも、“ユーニの手料理”という付加価値を着けるだけでなんでも豪勢に思えてしまうのだから重症だ。
初めて食べるユーニの“手料理”を前に、タイオンはゴクリと生唾を飲み込んだ。


「何か手伝うことは?」
「ない」
「そうか」


ぴしゃりと言い放たれた言葉はやけに悲しく聞こえた。
しゅんとしながらその場を離れると、タイオンは少し離れたキッチンテーブルの上にセットされたポッドに水を溜め、スイッチを入れた。
そして足元の引き出しを開けて取り出したのは、以前住んでいた家から持ち込んだハーブティーの茶葉。
先日買ったばかりのマグカップに茶葉をセットし、湧いた湯を注ぐと綺麗なハーブティーカップの中で完成する。
その爽やかな香りに気が付いたのか、ユーニはフライパンを柄を握りながらこちらに振り返ってきた。


「なんかいい匂い。何作ってんの?」
ハーブティーだ」
ハーブティー!? お前そんなの飲んでるの?」
「あぁ。趣味だからな。毎朝の習慣だ」
「マジかよ。女優みたいだな」


どの辺が“女優みたい”なのかは分からないが、なんとなく馬鹿にされているような気がしてタイオンはむっとした。
そんな彼に、ユーニはとんでもないおねだりを開始する。


「アタシも飲みたい。一口ちょうだい」
「まぁ構わないが……ほら」
「今手が離せないから直接飲ませてよ」
「えっ」


ユーニからの言葉に、タイオンは目を丸くした。
飲ませろと言うことはつまり、カップを口元に持っていてその名の通り飲ませろということか。
“ほら早く”と見上げてくるユーニ、心が跳ねる。
あぁもうどうにでもなれ。
半ば自棄になったタイオンは、ハーブティーが注がれたカップをユーニの口元に持って行く。
そしてゆっくり慎重に傾けると、透き通った色をしたタイオンのハーブティーが彼女の小ぶりな唇に触れる。


「あちっ」
「あぁごめん!まだ熱かったか。ちょっと待ってくれ今冷ますから」


そう言って、タイオンはカップを両手で抱え込み“フゥーフゥー”と息を吹きかけ始めた。
自分が用意したハーブティーのせいでユーニが舌を火傷したら最悪だ。
焦ってハーブティーを覚まそうとしているタイオンの様子に、ユーニはフライパンの火を消しながら笑いかける。


「いいって。ほらちょうだい」


フライパンの火を消したことで、ようやく手が離せるようになったらしい。
両手で催促してくる彼女は可愛らしいが、せっかくユーニに接近できる機会を失い、タイオンは密かに肩を落としていた。
未だ熱いままのカップを彼女に差し出すと、両手で大事そうに抱えこみながらゆっくりと口を着ける。
その仕草は、彼女の男勝りな性格からは想像できないくらい愛嬌があった。


「うん、めっちゃ美味い」
「当然だ。それなりに高い茶葉だからな」
「ふぅん。じゃあ明日からアタシにも淹れてくんない?半分払うからさ」
「えっ……」
「それは流石にめんどい?」


ユーニからのおねだりは続く。
ハーブティーはタイオンにとって唯一の趣味であり、それなりに拘って茶葉を選んでいる。
それを美味いと言って微笑むユーニに、心が浮ついてしまう。
それどころか、毎朝自分にも淹れてくれだなんて。まるで毎朝飲みたくなるほど美味いと言われているみたいで、喜びを感じずにはいられなかった。


「そんなに気に入ったのか」
「だって美味かったし」
「……なら仕方ない」
「よっしゃ。流石タイオン。太っ腹。じゃあお礼にタイオンの目玉焼きは一番美味くしてやる」
「どれも同じ味付けだろ」
「半熟と固め、どっちがいい?」
「じゃあ半熟で……」
「はいよ」


先ほどまで焼いていたベーコンと目玉焼きを皿に異動させると、冷蔵庫から新しい卵を取り出しフライパンの上に落とした。
すぐ隣にぺーこんを敷くと、ぱちぱちという音と共にまた香ばしい匂いが漂ってくる。


「アタシが作る目玉焼きは世界一旨いから」
「大きく出たな。その根拠は?」
「アタシの舌に一番合う」
「主観評価じゃないか。随分信憑性のない“世界一”だな」
「あははっ、確かに」


フライパンの上でゆっくりと火が通っていく目玉焼きを見下ろしながら、ユーニは声を挙げて笑った。
楽しそうにしている彼女の様子を横目で見つめながら、タイオンはハーブティーに口を着ける。
全く。なにが“一番美味くしてやる”だ。
なにが“アタシの目玉焼きは世界一美味い”だ。
腹が立つほど可愛いな。
これから先、ユーニとこうしてキッチンに並ぶことが増えるのか。
そう思うと、心の奥がむずがゆくなってしまうタイオンなのであった。


***

おまけ

ちょっとした登場人物設定メモ

【ミオ】

アイオニオン国際大学国語学部4 年生。年齢21歳。
誕生日は6月。
性格は優しく、自分のことを犠牲にしてでも相手を優先しがち。
地元は地方の片田舎であり、高校は1学年1クラス程度しか在籍していない小さな学校だった。
タイオンやセナとは同じ高校出身であり、学年が違うものの全体の生徒数が少なかったため顔を合わせる機会も多かった。
駅前に出展している有名ケーキ店にてアルバイトしている。
約1年前、同じ外国語学部で1学年年下のユーニから幼馴染のノアを紹介され、とある出来事がきっかけで交際に発展した。
面倒意味がいい性格のため男女問わず後輩からの人気が高い。
異性からもかなりモテていたが、“好きな人以外とは付き合えない”という古風な価値観を持っているため、告白されても断り続けていた。
高校時代は吹奏楽部に所属しておりフルート担当だった。多くの楽器に精通しているノアとは対照的で、幼いころからフルートの身を極めてきた。
そのため、フルートの演奏に関してはノアよりも実力が上である。
6人の中で最も年長であるため、メンバーのまとめ役に回ることが多い。
ノアとは交際して約1年になるが、未だキス以上のことをしておらず、全く手を出してくる気配のないノアに不安を感じている。

 

act.7


とある平日の昼頃。
午前中で大学の授業を終えたセナは、1人でいつものジムに滞在していた。
腹筋背筋にベンチプレス。
ルーティーンのようにいつもの筋トレをこなし汗を流していると、いつの間にか時間が過ぎ去っていく。
13時半を過ぎた頃合いでお腹が空いてきた。
さてそろそろ切り上げてどこかでお昼でも食べようかと思い始めたその時だった。


「あ、セナ。お前さんも来てたんだな」


声をかけてきたのはランツだった。
首筋に汗をかいている彼も、どうやらこのジムで汗を流しに来たのだろう。
見知った顔の登場に気を良くしたセナは、疲労を滲ませていた顔をパァッと明るくさせながらランツを見上げた。


「ランツも来てたんだね!」
「あぁ。俺はもう帰るところだけどな」
「私も。お腹すいちゃって……」
「おっ、じゃあついでだし一緒に飯いくか?」
「うん!行く行く!」


ジムの帰りに2人で食事をすることはそう珍しいことではなかった。
今日も気楽に誘ってきたランツの言葉に、特に迷うことなくセナは頷く。
キリがいいところで筋トレを切り上げた二人は、それぞれの更衣室へと向かった。
シャワーを浴びるから少し遅くなると告げてきたランツの言葉に返事をして、セナは足早に女子更衣室へと引っ込んだ。
私服に着替えて更衣室を出ると、まだランツの姿は見当たらない。
ジムのロビーに並んでいるソファに腰かけ、彼がやってくるのを待っていたセナだったが、そんな彼女に一人の男が声をかけてきた。


「ねぇねぇ、君一人?」


顔を上げると、明るい髪のチャラチャラした大学生くらいの男がセナを見下ろすように立っていた。
知らない男に突然話しかけられたことで、セナは驚き体を石のように固くしてしまう。
彼女は人見知りであり、初対面の人、とりわけ異性には異様なほど緊張してしまうきらいがある。
だが、目の前の男はそんなセナの性格など知るわけもなく、無遠慮に声をかけ続ける。


「もしかしてこのジム通ってる人?」
「えっ、あ、は、はい……」
「俺さ、実はここ来たの初めてなんだよね。どこに何があるのか分かんないから、良かったら案内してくんない?」
「わ、私が、ですか?」
「そ。常連さんなんでしょ?案内してくれたらごはん奢るからさ」
「いや、でも……」
「だめ?じゃあ連絡先だけでも……」


ぐいぐいと距離を詰めてくる知らない男に、セナは戸惑いを隠せなかった。
ハッキリ無理ですと断れるほどの勇気はないし、だからといって男の誘いに乗るのも嫌だ。
ただただ困った表情を浮かべるしかないセナに業を煮やした男は、とうとう服のポケットからスマホを取り出した。
連絡先を交換しようと迫る男の勢いに圧倒され、思わず腰かけていたソファの上で後ずさりし始めたその時だった。


「おい、人の女にちょっかい出してんじゃねぇよ」


腹の底に響くような低い声と共に、男の肩が掴まれる。
恐る恐る男が振り返った先にいたのは、怒りを表情に滲ませたランツだった。
待ち人の到着に安堵するとともに、セナは驚いてしまう。
“人の女”とはどういう意味だろう。もしかして、私のこと言ってる?と。
一方、ランツに肩を掴まれた見知らぬ男は大いに怯えていた。
身長190センチ近い筋肉隆々な強面の大男に凄まれれば、怯えるのも無理はない。


「な、な、なんすか!?」
「そいつ、俺の彼女なんだけど?用があるなら俺が聞いてやる」
「い、いえいえっ、用なんてないっす!す、すんませんした!」


ランツの圧にあえなく敗北した男は、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
その背に視線を送り、呆れたようにため息をついたランツが、今度はセナへと目を向ける。
ランツの目を見た瞬間、セナは確信してしまう。あ、これは怒られるやつだ。と。
その予想は見事に的中した。


「ったく、変なのに絡まれてんなよな」
「ご、ごめん……」
「あぁいうときは、テキトーに“彼氏いるから”とか言って切り抜けるもんだろ?」
「えっ、でも私、彼氏なんていないし……」
「いなくてもいるって言うんだよ。嘘も方便って言うだろ?」
「嘘……」


そこでセナはようやく気付いた。
そうか。今さっきランツが男に言い放った“俺の彼女”という言葉も、自分を窮地から救うための嘘か。
なるほど、嘘か。
そっか、嘘か。
なぁんだ、嘘か。
何故だか、ほんの少しだけ心が沈んでしまった。


「とにかく、次ナンパされたら嘘ついて切り抜けろよ?変なのに着いて行ってホテルにでも連れ込まれたら最悪だぞ」
「えぇっ?ちょっと待って。今私、ナンパされてたの?」
「は?」


ランツの太い二の腕を掴み、焦ったように問いかけてくるセナに、ランツは言葉を失った。
何を言っているんだこの小さな女は。あんなのナンパ以外の何物でもないだろ。


「いや、ナンパだろ、普通に」
「そう、なの?」
「めちゃくちゃ連絡先聞かれてただろ」
「友達になりたいのかなって……」
「お前なぁ……」


思わず頭を抱えるランツ。
元々セナのことは少し抜けている奴だとは思っていたが、ここまでとは流石に思わなかった。
あんなにチャラチャラと連絡先を聞いてくる男をナンパだと思わないなんて、流石に警戒心がなさすぎやしないか?
目の前の小動物のような少女に、ランツは危機感を覚えていた。
もしかしたら、いつか悪い男に騙されてとんでもないことをさせられるんじゃないか、と。


「いいか?初対面の男がいきなりぐいぐい声かけてきたらそれは大抵ナンパなんだよ。友達になりたいとかそういう気持ちは一切ないわけ。むしろ下心の塊なんだよ。ガキじゃねぇんだから少しは警戒しろっての」
「だ、だって、地元にはそういう人いなかったし」
「そりゃあお前の地元のド田舎と違ってここは都会だからな。いろんな奴がいるんだよ」
「ド田舎じゃないもん!ちゃんとコンビニあったもん!夜9時に閉店するけど」
「田舎じゃねぇか!」


セナたちの地元は、自然豊かな山村だった。
若者の数は少なかったが、きちんとコンビニやスーパー、薬局も点在していた。
当然カフェもあり、御年82歳になる名物老婆が運営する喫茶店『喫茶星野屋』を、地元の人間は憧れをこめて“スターバックス”と呼んでいた。
その事実を数か月前ランツに話したところ、抱腹絶倒しながら笑われたことは記憶に新しい。
また田舎呼ばわりされるのが嫌で意地を張ってみたが、やはり都会出身のランツの目は誤魔化せなかったらしい。
結局、セナたちの地元が田舎か田舎じゃないかを議論しているうちに、時刻はあっという間に14時を回っていた。


***


「うっしゃぁ。いただきまーす」


ジムからルームシェアしている家までの間にあるファミレスで、ランツとセナは遅めの昼食をとることにした。
ランツが頼んだステーキが運ばれてきた数分後に、セナが注文したグラタンが店員の手によって運ばれてくる。
律儀にセナの料理が運ばれてくるまで待っていたランツは、グラタンがテーブルに運ばれて来るや否や即座にナイフとスプーンを手に取った。
 
湯気が立ち込める鉄板の上に盛られた肉にナイフを入れ、彼は美味そうに白米と一緒に食べ進めている。
ファミレスの安い肉を美味そうに食べているランツを見つめながら、セナは彼にある質問をぶつけようかぶつけまいか迷っていた。
それは、つい先日ユーニに言われたあの言葉が発端だった。

要するにナンパってことか。

ランツと親しくなった経緯を離した際、一通り聞き終わったユーニがそう言ったのだ。
ナンパなど、セナは一度もされたことが無かったためどんなものなのか判断がつかない。
だが、今日初めてナンパというものを経験したことで、あの時のユーニの言葉を検証すべき時が来たのかもしれない。
 
先ほど、ランツは言っていた。“初対面の男がいきなりぐいぐい声かけてきたらそれは大抵ナンパなんだよ”と。
その言葉が正しければ、あの時初対面であるにもかかわらず積極的に話しかけてきたランツの行為も“ナンパ”に該当してしまう。
流石にそれはありえない気がした。
 
ランツ曰く、ナンパは下心が絡む行為。彼が下心を持って自分をナンパしたのなら、こんなに親しい友人にはなれていないはずだ。
あれはきっとナンパじゃない。他の男の人はナンパに分類されるのかもしれないが、ランツだけは違う。
セナはそんな根拠のない言い分を自分の中で確立させていた。
 
だが、これはあくまで仮説にすぎない。仮説が仮説である限り、永遠にセナの心はモヤモヤしたままだ。
ランツは自分をナンパしたつもりだった。そのありえない可能性をきちんとつぶさなければ、彼と気の置ける友人関係を継続するのは難しい気がする。
あり得ないと分かってはいるが、念のため確認しなければ。
意を決したセナは、グラタンを食べ進めていたスプーンをテーブルの上に置き、正面の席に座るランツを見つめた。


「あ、あのさ、ランツ」
「ん?なんだよ」
「さっき言ってたよね。“初対面の男の人がいきなりぐいぐい声かけてきたらそれはナンパだ”って」
「言ったなぁ」
「でもそれって、ジムでランツが私に初めて話しかけてくれた状況も当てはまっちゃうよね」


ステーキをナイフで切るランツの手が止まった。
それを視界の端に捉えながら、セナは恐る恐る質問を続ける。


「さっきの言い方だと、あの時のランツは私にナンパしてたってことにならない?」


一瞬の沈黙が、永遠に感じられた。
止まっていたランツの手が再び動き出し、ステーキの切り身をぱくりと口の中に放り込み、何度か咀嚼した後に飲み込む。
そしてコップに注がれている水を少しだけ飲むと、コップをテーブルに置いたと同時にとんでもないことを言いだした。


「まぁ、ナンパのツモリだったしな」
「え……」


言葉を失うセナとは対照的に、ランツは“美味い美味い”と呟きながらステーキを頬張っている。
そんな彼の言葉を、セナは聞き逃すことが出来なかった。
テーブルを両手で叩きながら立ち上がり、“えええぇぇぇぇぇぇっ!?”と声を挙げると、店内で食事を楽しんでいた他の客たちの視線が一斉にセナへと集まる。
だが、当のセナは他人の視線など気にしている余裕などないらしく、正面に座るランツだけを一点に見つめながら問い詰め始めた。


「な、ナンパ!? えっ!? 私、ナンパされてたの!? ランツにナンパされてたの!?」
「お、落ち着けよ。皆見てるぞ?」
「あ……」


ようやく自分たちへと注がれている他人からの視線に気付いたセナは、急に恥ずかしくなってゆっくりと席に着いた。
だが、落ち着きを取り戻したとてセナの心に巣食う疑問が晴れることはない。
未だ涼しい顔でステーキを食べ続けているランツを盗み見ながら、セナは小声で質問を再開した。


「な、なんで、ナンパなんて……」
「はぁ?なんでって、そりゃあ可愛いと思ったからだろうが」
「かっ、可愛い!? 私が?そういう冗談は……」
「いやいやいや、可愛いだろ、普通に」


“自覚なかったのかよ”
呆れたように笑うランツの言葉に、セナの思考はフリーズした。
“可愛い”なんて、今まで一度も言われたことが無かった。
いや、まったくないと言ったら嘘になる。付き合いの長いミオは会話の中でさらりと言ってくれたことがあったが、それは子供や動物に対する愛玩的な“可愛い”だ。
一人の女性として、異性から面と向かって“可愛い”と言われたのは初めてだった。
しかも、相手はあのランツ。誰よりも“お世辞”からは遠い存在である。
そんな彼からの“可愛い”は、威力が高い。


「じゃあランツはあの時、私に下心があったってこと……?」


恐る恐ると問いかけると、ランツは肉を食べ進める手を止めた。
ナイフとフォークを置き、テーブルに頬杖を突くと、不安と戸惑いに満ちたセナの目をまっすぐ見つめながら微笑む。


「さぁ、どうだろうな?」


その笑みはどこか楽し気で、こちらの反応を楽しんでいるようだった。
否定も肯定もしないランツの言葉は、セナの小さな心を搔き乱す。
揶揄うような笑みと視線にどんな言葉を返していいか分からず、瞳を揺らしながら黙っていると、ランツは“ふっ”と息を漏らした後再びステーキを食べ始めた。

なんだろう、この雰囲気は。
ふわふわして、むずむずするこの空気は一体…?
少なくとも、ランツとの間にこんな空気が流れたことは今まで一度もない。
桃色がかったこの浮つく雰囲気は、ランツという“友人”との間に流れていていいものなのだろうか。
戸惑いを隠せないまま、セナは手元のグラタンにようやく手を着け始めた。


***


遅めの昼食を終えたランツとセナが家に帰宅したのは、15時過ぎ頃のことだった。
玄関を開けて中に入ると、他の4人の靴が綺麗に並べられてあった。
どうやら全員既に帰宅しているらしい。
二人揃ってリビングに入り、“ただいまー”と声を合わせると、食卓に腰かけていたタイオンとユーニが同時にこちらへ振り向き、人差し指を口元に当てながら“しーっ”と注意してきた。
何事かと首を傾げながら、ランツとセナはそれぞれタイオンとユーニの隣に腰かける。

少し離れた窓際には、スマホを耳に押し当てながら誰かと電話をしているミオがいる。
さらに、その近くのソファにはノアが緊張した面持ちで電話中のミオを見上げていた。
どうやら一同の空気が張り詰めている原因は、ミオの電話にあるらしい。
電話の相手を知るため、セナは隣に腰かけるユーニへと小声で質問した。


「ユーニ、ミオちゃん誰と電話しているの?」
「選考受けてた企業の採用担当だって」
「そういやぁミオの奴、大学4年んだもんな。就活中だったか」
「あぁ。あの様子だと恐らく、合否の連絡だろうな」


電話を受けているミオ以上に、様子を見ていた他の面々の方が緊張していた。
ミオがスマホの向こうにいるであろう採用担当の言葉に相槌を打つたび、全員が息を呑む。


「はい……はい……分かりました。では、失礼します」


スマホを耳に押し当てたまま、ミオは軽く頭を下げた。
そして、長く続いた通話を切る。
ミオが電話を切った瞬間、ソファに座っていたノアはゆっくりと立ち上がり、不安げな声色で“ミオ…”と彼女の名前を呟いた。
交際相手として、一つ年上である彼女の進路を気にしているのだろう。
そんなノアに振り返ったミオの表情は、これまでにないほど明るかった。


「内定だって!」
「マジ!?」


一番最初に声を挙げたのはユーニだった。
続いて立ち上がったランツが、まるでゴールを決めたサッカー選手のごとく両手のこぶしを掲げながら“うおおぉぉぉ!”と雄たけびを上げ始める。
タイオンとセナは、顔を見合わせながら立ち上がり、揃って拍手を贈り始めた。
そんな友人たちの反応に笑顔を零すミオだったが、目の前で優しく両腕を広げるノアに気付き、少しだけ顔を赤くした。
そして、その腕の中にそっと入りこむと、背中に手を回したノアが“おめでとう、ミオ”と耳元でささやいた。

やがてノアがミオを開放すると同時に、セナとユーニがミオへと腕を広げて抱き着いてくる。
女子3人で抱き合いながらぴょんぴょんと跳ねている光景を微笑ましく見ていたタイオンだったが、突然ランツの太い腕に肩を抱かれてぎょっとする。
反対側の腕でノアの肩を抱いているランツは満足げに笑みを浮かべながら、目の前で抱き合っている女子3人に“おい円陣しようぜ”と声をかける。
やがて抱き合っていた女子3人は、それぞれ肩を組み、ユーニはタイオンと、ミオはノアと肩を組むことで円陣が完成した。

スポーツの試合前ならともかく、何故このタイミングで円陣なんだ?
そんな疑問を脳裏に浮かべたタイオンだったが、内定が出たミオを中心に全員が喜びはしゃいでいるため、余計なことは黙っておくことにした。
やがて、6人で円陣を組みながらしばらくぴょんぴょん跳ねながらぐるぐる回っていたが、ユーニの“ちょ、目回るわ”という一言によってようやく謎の円陣時間は終了する。


「とにかくやったなミオ。内定おめでとう」
「ありがとうノア。すっごく嬉しい」
「ミオちゃん、これでもう就活はおしまいなの?」
「うん。この会社、第一志望だったから」
「ちなみに、どんな会社なんだ?」
「化粧品の会社。ユーニが使ってる化粧水の会社だよ」
「えぇっ!? マジかよ!めちゃくちゃ大企業じゃん!すげぇなミオ」


ミオは昔から、化粧品メーカーに就職することを夢見ていた。
上京し、都心の大学に進学したのもそのためだ。
内定をもらった企業は、ミオが高校生のころから憧れていた会社で、長い間若い女性たちに圧倒的な支持を受けている有名企業である。
見事内定を勝ち取った事実は、ミオにとって今にも飛び上がりそうなほど喜ばしいものだった。
お祝いムードがリビングに漂う中、“おめでとう”と口々に賞賛の声を挙げる仲間たちの言葉を遮るように、ランツが手をパチンと叩いた。


「っしゃあ!ミオの内定も無事決まったことだし、パァッと遠出でもするか!」
「遠出?ミオの内定にかこつけて君が行きたいだけだろ」
「バレたか」


タイオンの指摘に、ランツは悪びれもなく笑顔を見せた。
だが、ランツの口から飛び出した“遠出”という言葉に、一同は目を輝かせている。


「いいんじゃないか?せっかくルームシェア始めたんだし、この6人で出かけるのも悪くないだろ」
「うん。私も賛成。楽しそうだし」
「はいはーい!じゃあ私、ディスティニーランド行きたい!」


セナが手を挙げつつ提案したのは、隣の県にある巨大なテーマパークだった。
そんなセナの言葉に、女性陣2人は色めき立ち“行きたい行きたい”と騒ぎ始める。
だが、人も多くテーマ性の強いその場所は、ランツやタイオンにとって魅力的な場所とは思えなかった。


「ディスティニーランドなぁ……。俺は普通に温泉とかがいいんだけど」
「僕も気乗りはしないな。人も多いだろうし」
「えー、じゃあランツたちはお留守番してる?」
「はぁ?なんでそうなるんだよ。行くっつの!」


流石に留守番は嫌だったらしい。セナの言葉に、ランツは渋々ディスティニーランド行きを決定した。
ノアは行き先に何の不満もないらしく、早くもミオと二人でどのアトラクションが好きかという理由で盛り上がっている。
残るはタイオン一人。気乗りしない彼は腕を組みながら行くべきか悩んでいたが、そんな彼の顔を覗き込んできたユーニの一言でころりと気が変わってしまった。


「タイオンも行くだろ?」
「いや、僕は……」
「行こうぜ。タイオンがいなとつまんないだろ?」


それは何よりも甘い誘い文句だった。
ユーニからそんな誘われ方をして、断れる自信などあるわけがない。
情けないと分かっていながらも、ユーニの愛らしい言葉にタイオンはあっけなく意見を変えた。


「し、仕方ないな」
「よっしゃ。じゃあ決まりな!」


楽し気に笑うユーニの顔を横目に、タイオンは表情を隠すように眼鏡を押し込んだ。
その後の話し合いの結果、一行がディスティニーランドに行く日取りが決定する。
来月の頭。GW真っ只中である。

 

act.8


枕元に置いてあったスマホのアラームがうっすらと聞こえてくる。
意識がだんだんと覚醒していって反射的にスマホへと手を伸ばす。
アラームを止め、重たい瞼をこじ開けると、ベッドの端に腰かけて長い黒髪を1つに束ねているノアの後ろ姿が視界に入った。
隣で眠っていたミオが起床したことに気が付いたノアは、束ね終えた黒髪を揺らしながら振り返ってくる。


「おはよう、ミオ」
「ん、おはよ……」


窓から差し込む朝日を背に微笑むノアを見て、ミオは本日最初のときめきを覚えた。
朝からカッコいいなぁこの人。
なんてことを思っていると、ベッドに手を突きながらノアの端正な顔が近付いてくる。
朝のまどろみにぼんやりしていたミオの小さな額に、ノアの口付けがひとつ降ってきた。
 
さらりと甘いことをするノアは、自分の彼氏ながら非常に恐ろしい。
甘いセリフも、甘いスキンシップも軽々とこなしてしまう彼は、少女漫画に出てくる“憧れのイケメン”がそのまま現実に飛び出てきたような存在だ。
交際して1年近く経つが、ノアの余裕ある甘やかさに何度心臓がやられそうになったか分からない。

この通称“ウロボロスハウス”でルームシェアを始めて、そろそろ1週間が経とうとしている。
人間の適応力というものはなかなかに優れているもので、1週間も同じ生活を送れば大抵のことは慣れてしまう。
ノアと一緒のベッドで寝るというこのシチュエーションにも、いちいち緊張しなくなった。
こんなに早く慣れてしまったのは、1週間経ってもノアが手を出して来る気配が感じられなくなったせいかもしれない。


「俺、今日朝食当番だから、先に起きるな」
「うん。ねぇノア」
「ん?」
「もういっかいして?」


ミオの我儘に、ノアはその青い瞳を細めながら柔らかく微笑んだ。
そして、再びベッドに手を突き顔を近づけてくる。
また額に口付けられると思ったが、今度は唇に軽く触れてきた。
小さなリップ音と共に重ねられる唇の感触は、ミオを幸福感で包んでくれる。
やがて顔が離れると、ミオの頭を軽く撫でた後、ノアはベッドから立ち上がり部屋から出て行った。

一人きりになった部屋で、ミオは考える。
キスやハグは強請れるのに、夜の営みだけは強請れそうにない。
キスもハグも、とうの昔にノアと経験しているが、そっちだけはまだ一度も経験していないのだから。
交際開始から約1年。同じベッドで寝始めてから1週間。
その間も、ノアは一度も一線を越えようとはしなかった。

同じベッドで寝ていても手を出してこないのなら、もしかすると一生する気がないのかもしれない。
経験がないから分からないけれど、男性は女性より“そういう欲”が強いはず。
男は1分に1回はエッチなことを考えていると聞いたことがあるし、そういう欲がない人は限りなく少ないのだろう。
ノアだって例外じゃないはず。
きちんととそういう欲求はあるはずなのに、どうして手を出してこないのだろう。


「ふぁ…」


あくびを一つ零して、スマホのホーム画面を見る。
時刻は8時ちょうど。大学が休みの休日にしては早く起きてしまった。
それから10分ほどベッドの中でスマホをいじり時間を潰したミオは、完全に頭が覚醒した頃合いを見計らって部屋を出た。

階段を降り、一直線に洗面所に向かうと鏡の前にタイオンが立っていた。
専用のクリーナーで眼鏡のレンズを拭いている彼と鏡越しに目が合う。


「おはよ、タイオン」
「あぁ、おはよう」


眼鏡を外している彼の褐色の瞳は、まだ少しだけ眠そうだった。
ミオが洗面所に現れたことで、先に鏡の前を陣取っていたタイオンは横にずれてスペースを空ける。
軽くお礼を言って隣に立ち、鏡の裏の棚から歯ブラシを取り出して歯磨きの用意をし始めた。
ふと鏡を見ると、隣に立っているタイオンの髪に寝癖がついていることに気が付いた。
元々癖毛である彼の髪が、いつも以上に四方八方に跳ねている。
その姿がなんだか面白くて、ミオは歯ブラシを口に入れる直前“クスッ”と笑みを零した。


「ねぇ、寝癖すごいよ?」
「癖毛だからな」
「直してあげようか?」
「あー……。いや、いい。自分でやる」
「そう?」


数秒考えた後、タイオンはミオの申し出を断ってきた。
だが、自分でやると言った割に一向に寝癖を直そうとしない。
そうしているうちに、タイオンは眼鏡のレンズを拭き終わり洗面所から出て行こうとする。
あれっ、結局寝癖直さないの?
そう聞こうとして振り返ったと同時に、ユーニの姿が見えた。
出て行こうとするタイオンと鉢合わせる形で洗面所に入ってきたユーニは、眠そうに眼を擦っていた。


「あー、おはよ」
「おはよう」
「おはよ、ユーニ」


挨拶を交わし、ミオは歯ブラシを口に入れた。
洗面台に向かいながらら歯を磨く彼女の視界に、鏡に映った背後のタイオンとユーニの姿が入る。
未だ寝癖をつけたままのタイオンの頭を見上げながら、ユーニは“ぷっ”と吹き出していた。


「まーた寝癖つけてんの?」
「仕方ないだろ、自分じゃ直せないんだ」


え?
タイオンの言葉に、ミオは思わず鏡に映ったタイオンを凝視した。
先ほど寝癖を直してやろうかと打診した際、“自分でやるからいい”と言って断ってきたじゃないか。
どうして“自分じゃ直せない”なんて嘘を……?
頭に疑問を浮かべ、歯を磨きながら怪訝な表情を浮かべるミオだったが、その疑問の答えはすぐに目の前で判明した。


「ほら、直してやるから頭下げて」
「……ん、」


え?
先ほどミオの打診を突っぱねたタイオンが、ユーニの手を素直に受け入れている。
なにあれ。さっき私には断ってきたくせに。


「なんかルームシェア始めてから毎朝お前の寝癖直してね?アタシ」
「君が勝手にやってるんだろ」
「あーそういうこと言う?明日からもうやってやんねーぞ?」
「……別に困らない」
「うわぁ可愛くねぇなお前」


ユーニに髪をわしゃわしゃと触られているタイオンは、文句を言いつつも素直に頭を下げ続けている。
下を向いている彼の顔は、ほんの少し赤らんでいるように見えた。
鏡に映るタイオンとユーニのやり取りを見て、ミオは確信してしまう。
なるほど、タイオンが寝癖を直さなかったのはわざとなのか。
あぁしてユーニに寝癖を直してもらいたかったから、私の打診も断ったんだ。
なにそれ可愛い。
好きな人に世話を焼かれて本当は嬉しいくせに、強がってわざと迷惑がるようなことを言っている。
素直じゃないけれど、タイオンは誰よりも分かりやすい。

観察するだけその心情が透けて見えてしまうほど分かりやすいタイオンが、なんとなく羨ましい。
ミオの恋人であるノアは、いつだって余裕綽々で、涼しい顔をして甘い雰囲気を作ってくる。
そこに必死さや戸惑いは一切感じられない。
“余裕のある男だ”と言えば聞こえはいいけれど、少しくらい隙を見せて欲しい。
タイオンのように、ことあるごとに真っ赤になって視線を泳がせるような分かりやすさがノアにもあれば、何故手を出してくれないのか、その謎もすぐに察することが出来たのかもしれない。

ノアは私といる時、あんなふうに照れたり恥ずかしがったりしてくれてるのかな。
私は、ずっと心臓が破裂しそうなくらいドキドキしているのに。
ノアばっかり余裕があって、なんだかズルい。

歯磨きを終えたミオは、コップに水を溜めて口をゆすぎ始めた。
背後では相変わらずユーニによるタイオンの寝癖直しが実施されている。
そんな中、洗面所に新しい仲間がやってきた。ランツである。
朝の洗面所は混みあう。彼もまた、洗顔と歯磨きのためにやって来たのだろう。
洗面台で口をゆすいでいるミオの背後で頭を下げるタイオンと、彼の髪を触っているユーニ。
そんな2人の様子を見たランツは、大あくびを零しながら言った。


「なんだお前ら毛づくろいしてんのか。猿みてぇだな」
「ブフッ!ゴッホゴホ……!」


ランツの言葉に、岩山で猿の全身タイツを身に着けたユーニとタイオンが毛づくろいしている光景がミオの脳裏に浮かんだ。
その瞬間、口に含んでいた水を勢いよく吹き出してしまう。
あぁ、ここが洗面台でよかった。
水が気管に入ってしまったことでむせ返るミオ。そんな彼女の背後で、顔を真っ赤にしたタイオンとユーニが“誰が猿だ!”と声を合わせてランツに抗議していた。


***

何も予定がない休みの日ほど体感時間が早く感じるのは気のせいだろうか。
ノアとの甘いひと時から始まった今日という一日は、早くも終わりを告げようとしていた。
夜も更けた23時ごろ。
入浴を終えたミオはノアとの自室ではなく、ユーニやセナの部屋を訪れていた。
フローリングにはアルコール度数の低い3本の缶チューハイ
昼間のうちに、ミオから“女子会がしたい”と提案したのだ。
少し薄暗くした部屋で缶チューハイをちびちび飲みつつ、3人は特に実のない話に花を咲かせている。


「ねぇねぇ、みんなは口紅なに使ってるの?」
「アタシが使ってるのはこちら~。マキシマムライザー!」


背後に自らの手のひらを添えながら一本のリップグロスを見せびらかして来るユーニに、ほろ酔い気味のミオとセナは爆笑する。
まるで美容品を紹介する動画の投稿主のようなユーニの仕草がツボにはまったのだ。


「あっ、美容系ユーチューバーのユニユニさんだ!握手してください!」
「いつも見てます!この前のデパコスのファンデ全部混ぜて最強のファンデ作る動画面白かったです!」
「なんだよその動画っ、誰が見るんだよ~」
「きゃははっ」


ユーニのツッコミに、ミオとセナが声を揃えながら軽快に笑った。
女子会が始めって既に1時間が経過しているが、ずっとこの調子である。
誰かが何かを言って、他の2人が腹を抱えて笑う。
異性が一人もいないこの場では、誰に遠慮することもなくリラックスして素を出せる。
ノアとの時間も愛しいが、こうして同性の友人と騒ぐのもやはり楽しい。
そろそろ空になりそうなレモンサワーのチューハイを口にしながら、ミオは笑い過ぎて目に溜まった涙を指でふき取った。


「なんか、たまにはこうして女の子3人だけで朝までおしゃべりするのもいいね」
「朝までミオ借りてたらノアからクレーム来るっつーの」
「そうだよミオちゃん、ノアが寂しがっちゃうよ」


ユーニもセナも、悪気があって言ったわけではなかった。
照れながら“そうかな”という反応が返ってくると予想していた二人だったのだが、ミオの表情が少しずつ暗くなっていくことに気が付いてしまう。
やがてミオは、手に持った缶チューハイを床に置き、自らの膝を抱えながら“そんなことないと思う”と暗い声色で呟いた。
その瞬間、ユーニとセナは顔を見合わせる。
あぁこれはノアと何かあったな、と。


「ノアとなんかあった?」
「ううん。むしろ何もない」
「もしかして、まだ何もしてないの?」
「うん。この1週間なんにも進展なし」
「あちゃあ……」


フローリングの模様を指でなぞりながら視線を落とすミオを見つめ、ユーニはいたたまれなくなった。
そんな予感はしていた。
毎晩右側の男子部屋からは話し声が時々漏れていたが、ノアとミオの部屋からは全くと言っていいほど物音が聞こえてこなかったから。
不自然なほど静かな空間は、2人が何もしていないことの証明でもある。


「ノアの奴、何考えてるんだろうな。そういうことしたくないワケないと思うんだけど……」
「ミオちゃんのこと大切にしたいんじゃない?だからなかな手を出せないとか」
「もうすぐ付き合って1年なんだろ?大切にするにも限度があるだろ」
「それもそっか……」


ユーニは、ノアやランツとは幼いころから親しくしていた所謂“幼馴染”である。
小学校から高校までずっと一緒の学校に通ってきたため、ノアの過去の恋愛遍歴もほとんど把握している。
確かミオは彼にとって人生で3人目の彼女だったはず。
 
1人目は中学2年のころに1年だけ付き合った同級生で、高校で離ればなれになったことで破局していた。
2人目は高校2年のころから1年半ほど付き合っていた後輩で、この2番目の彼女は少々厄介な存在だった。
幼馴染であるユーニの存在を激しく警戒し、ノアに“ユーニとは口を聞くな”と裏で言い聞かせていたらしい。
お陰でしばらくユーニはノアと一緒に出掛けることすらままならなくなり、一時疎遠になってしまったという苦い過去がある。
 
彼氏の周りをウロチョロする異性の幼馴染の存在が目障りなのは分かるが、ユーニもノアも互いに恋愛感情など一切ない。
友人の域を出ないノアの彼女から激しく嫌悪感を向けられていたあの頃を思い出すと、未だに少し腹が立つ。

そういう経緯があって、疎遠になっていた頃のノアのことは良く知らないが、口の軽いランツから逐一情報は入ってきていた。
例の彼女と付き合って3か月で“そういうこと”をしたという事実も知っている。
流石にそこまで生々しい過去の話を、現在の彼女であるミオに伝える気にはならないが、何にせよノアには交際3か月で手を出したという経歴がしっかり残っている。
ミオ相手に1年近くも“待て”を続けている現状は、明らかに異常なのだ。


「同じベッドで寝てるのに全然手を出してこないなんて、やっぱり私、そういう魅力ないのかな」


いや、それはありえないだろ。
ユーニとセナの心の声がリンクする。
ミオは同性の2人から見ても明らかに顔が良かった。
特に同じ学部に所属しているユーニは、彼女の人気ぶりを良く知っている。
“うちの大学で一番かわいい子といえば外国語学部のミオだよな”と当時の先輩たちが噂している光景は何度も見ている。
しかも面倒見のいい性格で後輩からは慕われている。
見た目も性格もいいミオを魅力的に思わない男は流石にいないだろう。
頓珍漢なことを口にするミオを前に、ユーニは胡坐をかいた膝に頬杖を突き問いかけた。


「ミオはさぁ、ノアとそういうことしたい?」
「最初のうちは怖かったし、正直そんなにしたいと思わなかったけど、1年近く経った今は流石に……」
「したい気持ちの方が強くなった?」


ユーニの問いかけに、ミオは目を伏せながら遠慮がちに頷く。
未だ経験のないミオにとって、性行為は恐怖の対象だった。
だが、流石にここまで引っ張られたら不安の方が勝ってしまう。
怖くないと言えばウソになるが、だからと言ってこのまま何もされないのは嫌だった。


「そうだよねぇ。私もミオちゃんだったら不安になっちゃうかも。なんで誘ってくれないのー?って」
「でしょー?誘ってくれないってことは、向こうはしたくないのかなぁとか、私って色気ないのかなぁとか色々考えちゃって……」


ミオの言葉に、セナは経験もないというのに“うんうん”と大いに頷いていた。
一方で、話を聞いていたユーニは頬杖を突きながら微妙な顔をしている。
そして、ミオの不安を暫く聞いていた彼女は、ようやく重い口を開いた。


「あのさ、こういうこと言ったらアレかもだけど……」
「ん?」
「なんで誘ってもらう前提なんだ?」
「へ?」
「誘われないなら誘えばいいじゃん」


さらりと告げられたユーニからの一言に、ミオとセナは石のように固まった。
一瞬の沈黙の後、顔を真っ赤に染め上げたミオが勢いよく首を横に振りはじめる。


「む、無理!絶対無理!そんなの出来ないって!」
「なんで?ノアとやりたいんだろ?向こうが誘ってこないならこっちからいくしかないじゃん」
「で、でもっ、私したことないし、こっちから誘うなんて恥ずかし過ぎて……」
「ミオさぁ、誘うのは男の役目だとか思ってない?」
「えっ……」
「付き合ってる以上2人は対等な関係なんだ。男とか女とか関係ないんだから受け身はやめろ。したいこと言いたいことがあるなら自分から言わなくちゃなんにも進展しねぇぞ?」
「ユーニ……」


ユーニの言葉は、ミオの耳に痛く突き刺さる。
自分が消極的である自覚はあったのだ。
思えば交際を申し込んできたのはノアからだったし、キスもハグも手を繋ぐことさえ、すべてノアからのアクションで始まる。
今まで自分から彼にキスをしたことがあっただろうか。
もしかすると、消極的すぎる自分のこの性質こそが、ノアの手を遠ざけているのかもしれない。


「誘うのは無理でも、向こうが誘いたくなるようにすることはできるだろ?」
「誘いたくなるように……?」
「誘惑するんだよ、ノアを」


不敵な笑みを見せながら言い放たれたユーニの言葉に、セナが“おお…!”と感嘆の声を漏らした。
誘う。ノアを誘う。
そんなことが自分に出来るだろうか。
キスも自分からできないというのに、いきなりそれはハードルが高いんじゃないだろうか。


「出来るかな、そんなこと」
「出来るよ。ミオがべたべた甘えてくるようになったら、あのスカしたノアもメロメロになるだろ」
「そうだよミオちゃん!ミオちゃんなら絶対できるよ!ノア陥落大作戦、がんばろ!」


セナによって、このプロジェクトの名前は“ノア陥落大作戦”と銘打たれた。
ノアを誘惑し、その気にさせるという秘密の作戦。
女性陣3人による首脳会議によって閣議決定されたその作戦の実行は、ユーニ大臣とセナ大臣の協力の元遂行されることとなった。
自信はない。けれど、このままノアの行動を待つよりはずっと進展の希望がありそうだ。
やらなくちゃ。私ならきっとできる。
そう自分に言い聞かせ、ミオは自らを奮い立たせた。


「ありがとう、ユーニ。なんかやる気になってきた。やっぱりモテる人が言うと説得力があるね」
「モテるとかミオが言うのかよそれ」
「確かにユーニもモテるよね。男友達多いし」
「ユーニ。今は彼氏とかいないんだよね?イイ感じの人もいないの?」
「うーん、どうだろうなぁ」
「じゃあさ、タイオンは!?」


最初に核心に触れたのはセナだった。
突然挙げられたタイオンの名前に、ユーニは“ン?”と首を傾げていたが、横で聞いてたミオもセナと同じように目を輝かせている。


「確かにタイオンとユーニって仲いいよね!なんか付き合ってるみたい」
「ていうか付き合っちゃえばいいのに。絶対うまくいくよ。ね?ミオちゃん」
「うんうん、同感!」


急にエンジンが付いたようにタイオンをごり押しし始める。ミオとセナ。
2人は気付いていた。タイオンがユーニにほのかな恋心を抱いている事実に。
 
人口が少なかった片田舎で育った彼女たちは、学年は違くとも子供のころから話すことは多かった。
昔から堅物で、色恋ごととはあまり縁のない人物だと思ってたのだが、ルームシェアを始めてその認識が崩れつつある。
ユーニを前にしたタイオンは、まるで思春期の男子中学生のようにたどたどしい態度を繰り返している。
可愛げのない言葉と態度で突き放しつつ、ずっと横目でユーニをちらちらと気にしているのだ。
その分かりやすさに、付き合いの長いミオやセナが気付かないわけもない。
色恋とは縁遠かったタイオンに春が来た。その事実は、2人の心を十分わくわくさせてくれる。


「ねぇユーニ、タイオンのことどう思ってるの?」
「どうって、まぁいい奴なんじゃね?あいつ、アタシのこと好きみたいし」
「え?」
「え?」


ユーニの言葉に、ミオとセナの間の抜けた声が重なった。
今、ものすごく重要な一言があまりにも簡単に言い流されたような気がする。
未だ脳の処理が追い付かない二人は、互いに顔を見合わせながらユーニに詰め寄り始める。


「えっ、えぇっ!? ユーニ、気付いてたの?タイオンに好かれてるって……」
「あいつ分かりやすいからな。あれで気付かないのは相当鈍感な奴だけだろ」


半ば呆れたように笑っているユーニに、セナは“だよね…”と同意した。
そう、ユーニはのとっくに気付いていたのだ。タイオンからの熱を孕んだ視線に。
引っ越し先を探していたタイオンをこの家に誘ったのも、彼が自分に好意を持っていると知ったうえでの行動である。


「じゃ、じゃあ、ユーニはタイオンのこと……」
「好きだよ?もちろん友達としてじゃなく男としてな」
「ひゃ~~~~~!」
「ひゅ~~~~~!」


ユーニの一言で、深夜の女子会は一番の盛り上がりを見せた。
互いの両手を繋ぎ、ミオとセナはリズミカルに“イエーイ!!両想い!両想い!”とコールし続けている。
だが、恐らく当のタイオンはユーニに好かれていることに気付いていないだろう。
互いに気持ちがあると確信しているというのに、何故ユーニはタイオンに気持ちを告げないのか。
ひとしきりセナと盛り上がった後、ミオは浮かんだ疑問を素直にユーニへとぶつけた。


「でも、両想いだってわかってるならなんで告白しないの?」
「そうだよね。ユーニが“付き合って”って言えばすぐにでも付き合えるのに」
「まぁな。確かにタイオンはアタシが気持ちを伝えれば断らないと思う。けどさ……」


その先の言葉を言い渋るユーニ。
“けど?”と催促してくる2人の友人から視線を外し、少し赤らんだ顔を隠すように頬杖を突く。


「こっちから告るとか、恥ずかしいじゃん……」
「「ええぇぇぇぇっ!?!?」」


ガラにもなく恥じらっているユーニの一言に、ミオとセナの声が再び重なる。
ほとんど空になったチューハイの缶を握りつぶしながら、2人はユーニに詰め寄り彼女の両肩を掴む。


「ちょっと何それ!さっき私に“受け身はやめろ”とか言ってたくせに!」
「ユーニだってめちゃくちゃ受け身じゃん!」
「う、うっせぇ!告白は男からするもんだろうが!」
「男も女も関係ないって言ってたよね!? 」
「すごいよユーニ!こんな一瞬のうちに矛盾できるなんて才能だよ!」
「あーーー!もう聞こえねぇ聞こえねぇ!」


両耳を塞ぎながら必死で逃れようとするユーニ。
どうやら“恥ずかしい”という彼女の言い分に嘘偽りはないらしく、彼女の顔は先ほどから真っ赤に染まっている。
ユーニがタイオンを気になりだしたのは、彼からの好意を感じ取ったその瞬間からだった。
 
ドラマや漫画のように、何か劇的なきっかけがあったわけではない。
世間で良く言う、“自分に好意を向けてくれている人を好きになってしまう”という現象に苛まれただけのことである。
元々そこまで意識していたわけではなかった。
だが、タイオンからの好意に気付いて以降、彼のぶっきらぼうな優しさや照れた表情、仕草が可愛いく見えてきてしまったのだ。

好意を自覚した瞬間から両想いになれたのは僥倖だったが、その状況がユーニから告白する気力を奪っていった。
先に好きなったのはアイツの方なんだし、向こうから告ってくるのがセオリーじゃね?
という、特に根拠のない言い分が彼女の頭を支配し始めたのだ。
さらに、自尊心とプライドの塊であるタイオンの性格が、ユーニから告白する気をじりじりと奪っている。


「タイオンって、ハッキリ言ってめちゃくちゃプライド高いタイプだろ?そういう奴に告ったら最後、絶対面倒なことになるぜ?」
「面倒なこと?」
「付き合えたとしても、ことあるごとに“付き合ってくれと頼んできたのは君の方だ”とか言ってマウント取ってきそう」
「それは……確かに」


ユーニよりもタイオンとの付き合いが長いミオとセナは、その言葉になんとなく共感してしまう。
タイオンは優しい男ではあるが、同時にプライドがヒマラヤ山脈並みに高い。
ひとはプライドが高くなればなるほど保身に走る生き物だ。
プライドの頂点に胡坐をかいているタイオンに“好きです、付き合ってください”と言おうものなら、その瞬間暗黙の上下関係が完成してしまう。
 
そして、そびえ立つプライドの山から見下ろしながら、不敵な笑みを浮かべたタイオンはこう言うに違いない。
“ほほう僕のことが好きなのかユーニ。それそれは。ふぅんそんなに好きなのか。意地らしいことだな。まぁ君がどうしてもというのなら付き合ってやらないこともない。どうする?んん?”と。
黒縁の眼鏡を押し込みながらドヤ顔全開で上からものを言ってくるタイオンを想像し、ユーニは舌打ちしたくなった。
 
“好きになった方が負け”と言う言葉もあるように、出来るなら恋愛においては受け身でありたい。
相手が自分のことを好きだと確信できる状況なら尚更だった。


「じゃあ、ユーニもタイオンに告白させたいんだ?」
「まぁ、するよりはさせたいかな」
「ミオちゃんは“ノア陥落大作戦”で、ユーニは“タイオン攻略大作戦”かぁ。なんか楽しくなってきた!」


目を輝かせながら興奮しているセナの姿に、ユーニとミオは苦笑いを零す。
まったく他人事だと思って……。
そんな2人の心の声がリンクする。


「で?そう言うセナはどうなんだよ?」
「へ?私?」
「私とユーニのターンは終わったよ?次はセナの番じゃない?」
「えぇっ……」


人の恋愛模様を聞いてひたすら面白がっていたセナだが、今度は自分が詰め寄られる側に回ったことで戸惑いを露わにしていた。
“セナの番”と言われても、自分にはミオのように彼氏もいないし、ユーニのように好きな人もいない。
話すネタが何もないのだ。
困っている様子のセナに、ミオが距離を詰めながら再び追及する。


「いいなぁって思う人いないの?」
「気にやるやつとか、カッコいいなって思う奴とか」
「えー、そんなの……」


“いないよ”と続けようとしたセナだったが、言葉を喉の奥に詰まらせてしまう。
不意に、脳裏にランツの顔が浮かんだのだ。
えっ、なんでランツの顔が浮かぶの?ランツは友達なのに。
ランツをそういう対象として見たことは一度もない。なのに、どうしてこの話題でランツの顔が一番に浮かんだのだろう。
黙って考え込むセナの頭に、先日ランツから告げられた言葉が反響する。

“まぁ、ナンパのツモリだったしな”

その言葉を思い出した瞬間、顔の表面温度が一気に上昇し始める。
まずい。これ以上はまずい。
このままだと、変なことを考えてしまいそうだ。


「い、いない!そんなのいない!誰一人としていない!絶対いない!100%いない!」
「お、おう……」
「そんなに否定しなくても……」


思考が妙な方向に走り出す前に、セナは話題を強制的にシャットダウンさせた。
ランツは違う。彼は気の合う友達であって、そういう対象ではない。
ランツをひとたび異性として意識してしまえば、今まで築き上げた友情が壊れてしまうようで怖った。
だからこそ、セナは必死で否定する。
自分がどうしようもなく真っ赤な顔をしているとも気付かずに。

 

act.9


今夜最後に入浴したのはタイオンだった。
脱衣所に上がり、髪を乾かし終えた段階で既に時刻は23時を過ぎている。
頭からバスタオルを被った状態で風呂場から上がった瞬間、2階からうっすらと笑い声が聞こえてきた。
そういえば風呂に入る前、ユーニが冷蔵庫から缶チューハイを取り出し軽い足取りで2階に上がっていく光景を見た。
恐らくは2階の部屋で女子会でもしているのだろう。

リビングに入ると、ノアとランツがソファに並んで座りながら何やら真剣な表情であぁでもないこうでもないと議論している。
2階で女子会をしている一方、1階のリビングでは男子会が催されているらしい。
あの真剣な様子から察するに、人生相談か恋愛相談のどちらかだろう。

キッチンに入り、コップに麦茶を注ぎながらタイオンは2人の様子を盗み見る。
ノアの話を腕を組みながら“うんうん”と頷き聞いているランツを見て、なんとなく話しの内容に察しがついてしまった。
 
この家でのルームシェア生活が始まった初日の夜、ミオは未だにノアと夜の営みをしたことが無いと打ち明けていた。
今目の前で展開されている真剣な話題は、恐らくそれだ。
ノアがランツにミオとのことを相談しているに違いない。
だとしたら自分が聞いてしまっていいものだろうか。
少々迷いはあったが、好奇心の方が勝ってしまう。
コップの麦茶を飲みながら、ローテーブルの脇に置かれたスツールソファに腰かけると、数十センチ先の3名掛け用ソファに並んで座っている2人の会話が聞こえてくる。


「だからさ、俺は笑っておくり出してもらいたいんだよ」
「わかるぜ。泣かれるよりはそっちの方がいいよな」
「あぁ。じゃなきゃ死んでも死にきれない」


ん?
ノアの言葉に違和感を感じ、タイオンは眉間にしわを寄せる。
死んでも死にきれない?一体何の話だ?


「やっぱしんみりするよりハッピーな感じでやってほしいよな、葬式は」
「そうだな」
「……は?」


思ってもみなかった“葬式”という単語に、タイオンは素っ頓狂な声を挙げてしまう。
葬式?今葬式と言ったか?
ミオとのことを相談しているんじゃなかったのか?
あまりにも意味が分からなかったタイオンは、悪いと思いつつ2人の会話に割って入ることにした。


「す、すまない二人とも。何の話をしてるんだ?」
「何って、理想の葬式の話だよ」
「はぁ?」
「自分が死んだときどんな葬式を挙げて欲しいか話してたんだよ」


さも当然のことのように答えるノアに、開いた口が塞がらない。
何だその数次元先の話題は。20代が真剣な顔でする話じゃないだろ。ここは老人ホームか。
てっきりミオと一線を越えられない悲しみを吐露しているものだとばかり思っていたが、彼らの話題にミオは一切登場していないらしい。


「葬式って……。その話題、あと50年早くないか?」
「そんなこともないさ。俺たちだって明日急に車に轢かれて死ぬかもしれないし」
「そうそう。明日急にテロ組織に拉致されて醤油1リットル飲まされる拷問を受けて死ぬかもしれねぇし」
「なんだその特殊な死に方」


話題のファンキーさはさておき、葬式の話題には流石に興味をそそられなかったタイオンは、この場に座ってしまったことを早くも後悔し始めていた。
座った以上、すぐに席を立つのもなんだか礼を欠く気がするし、かと言ってこのまま葬式の話が展開されたら面倒だ。
そんなことをぼんやりと考えていたタイオンだったが、案の定ノアがにこやかに問いかけてきた。


「タイオンにも理想の葬式像とかあるだろ?」
「ないが」


“理想の女性のタイプは?”みたいなテンションで聞くことじゃないだろ。
まだ20歳になったばかりのタイオンは、当然自分の死後開催される葬式の理想など考えたこともない。
即答した彼に反応したのは、問いかけてきたノアではなく隣に座っていたランツだった。


「えー、ないのかよ。珍しいな」
「珍しいか?」
「じゃあ俺たちがタイオンの葬式をプロデュースしてやろうか」
「おっ、いいなそれ」
「いや別にいい。なんだ葬式をプロデュースって。聞いたことないぞ」
「まぁ遠慮すんなって。親切心で考えてやってんだぞ」
「親切の方向性が斜め上すぎる」


タイオンの丁重な遠慮を全力で無視しつつ、ノアとランツによるタイオンの葬式プロデュースが幕を開けた。
というか何故この年で死んだ後のことを考えなければならないのか。
苦い顔を浮かべるタイオンに、ノアが人差し指をたてながら“タイオン、想像してみてくれ”と口にする。


「今タイオンは死んでいます」
「物凄くさらっと人を死んだことにしたな」
「目の前には貴方の一番大事な人がいます」
「はぁ」
「その人にはどんな反応をしてほしいですか?1,泣きながら別れを惜しんでほしい。2,微笑みながら穏やかに送り出してほしい」


突然始まった心理テストのような質問に、タイオンは“えぇ…”としか言いようがなかった。
大前提としてすでに死んでいるという状況が虚しすぎる。
頭に浮かんだのは、喪服を着て右手に数珠を持ったユーニの姿だった。
遺影に合掌している彼女の反応としてすぐに思い浮かんだのは、泣いている顔よりも微笑んでいる顔である。
そりゃ笑うよな、急にノアによって死んだことにされているのだから。
心の中で嘲笑しつつ、タイオンは渋々答えた。


「まぁ、泣かれるよりは笑って送り出してもらいたい気がするな」
「おっ、タイオンは“しんみり派”じゃなくて“盛り上がり派”だったか」


“俺と同じだな”と言いながらノアは笑顔を向けてくる。
どうやら葬式には宗教以外にも派閥があるらしい。
彼はノアによって勝手に“盛り上がり派”という訳の分からない宗派にカテゴライズされてしまった。


「なんだ“盛り上がり派”って」
「葬式は参列者に盛り上がってほしいと思ってる奴のことだよ。ちなみに俺も盛り上がり派だな」
「いや別に僕は盛り上がってほしいとは思ってないが……」


その言い方だと、まるで自分が死んだことで参列者が喜びお祝いしているようじゃないか。
流石にそれは傷付く気がする。
というか葬式に“盛り上がり”などという概念はあるのだろうか。
この世で最も盛り上がってはいけない式典だと思うのだが。


「ちなみにBGMは何がいいんだよ?」
「BGM?」
「葬式の間流れてるBGMが坊主の読経だけじゃつまんねぇだろ」
「読経をBGM呼ばわりしているのは世界で君だけだと思うぞランツ」


坊主が木魚片手に唱えているあのお経を、ランツは葬式のBGMだと思っていたらしい。
だとしたらなんとも不気味で味気ない。
“盛り上げ派”としてはもう少しバイブスがぶち上がるような曲調がいい。ランツはそう思っていた。


「紅とかどうよ?」
「おぉ、いいな」
「はぁっ!?」


ランツの提案に、タイオンは今日一番の声量で聞き返した。
どこの世界に葬式であんなパンクでファンキーでクレイジーな曲を流す奴がいるというのだ。
ありえないだろ。紅だけはあり得ないだろ。
だが、隣で聞いていたノアは何故か気に入っているらしく、目を輝かせながらランツの意見を肯定していた。


「紅が流れ始めれば間違いなく盛り上がるな!焼香を待つ間にアリーナもきっと総立ちになってるだろうし」
「おい葬式にアリーナなんてないぞ!」
「だろ?坊主も木魚をちょっと激しめに叩いてもらってYOSHIKI再現したらもっと盛り上がるだろ」
「木魚をドラムだと思っているのか君は!」
「タイオンの遺影もビジュアル系っぽく加工したほうがいいかもな。そのままだと地味だし」
「おいやめろ死者への冒涜だぞ!」


あぁしようこうしようと次々に超次元な案を繰り出すノアとランツに、タイオンはもはや思考が追い付いていなかった。
どこまでが本気でどこまでが冗談なのかよくわからない。
冗談だと思いたい。もし本気なら、彼らだけは絶対に喪主にしてはいけない。
大音量の紅が流れ始め、生前親交があった人たちが一斉にキョトンとする光景を思い浮かべると背筋が凍る。


「紅はやめてくれ!というか葬儀中にそういうBGMをかけること自体おかしいだろ!」
「えー、なんだよ我儘だなぁ」
「絶対我儘じゃないと思う」


何が我儘だ。
むしろ葬式に紅を流されて喜ぶ人間なんていないだろう。
流された瞬間成仏できないことが確定するじゃないか。
喪主は呪われてもおかしくないほどの大罪だぞ。

葬式の主役であるタイオン本人から紅は嫌だと申し出があったため、ノアとランツプロデューサーの仕事は振出しに戻った。
葬儀中ににBGMをかけること自体嫌だというのなら、いかにして盛り上げればいいのか。考える二人だったが、突然ノアに妙案が浮かんでくる。


「あ、じゃあ出棺の時に紅を流すっていうのはどうだ?」
「は?」
「“紅だああぁぁ!”のところを“出棺だああぁぁ!”に替えれば盛り上がるだろ」


タイオンの脳裏で、棺に納められた自分が霊柩車に乗せられる場面が浮かぶ。
そのバックに流れているのは、激しいビート。
手を合わせる参列者の真ん中を、霊柩車は走り去る。紅をバックに。
死後のタイオンはその様子を空から見守っている。
不本意な葬式を挙げられたことで悲しみに染まった彼を慰める奴はもういない。


「いいなそれ」
「いいわけないだろ!」


目を輝かせるランツに、タイオンの鋭いツッコミが入る。
思わず立ち上がってしまったタイオンは、怒りに眼鏡を曇らせながら2人のプロデューサーに抗議した。


「人の葬式を何だと思ってる!?そんなことをされたら死んでも死にきれない!僕はただ安らかに死にたいだけなのに!」
「えっ……」


不意に、背後から声が聞こえた。
嫌な予感がして振り返った瞬間、冷汗が出る。
そこには、こちらを見つめながら茫然としているセナの姿があった。
恐らく今の話を聞いていたのだろう。真っ青な顔をしてその場に立ち尽くしている。
あぁこれはまずい。絶対あらぬ方向に勘違いしている。
そんなタイオンの予想は的中した。


「タイオン……死ぬの?」
「い、いや、違っ」
「み、ミオちゃーーーん!ユーニーーー!! た、タイオンが!タイオンが死んじゃうぅぅ!」
「ちょ、セナっ!待て待て待て違うから!」


引き留めようとしたタイオンだったが、誰よりも小柄ですばっしこいセナを引き留めることはできなかった。
光の速さで2階に上がってしまったセナを取り逃がし、タイオンは絶望する。
あの反応、間違いなく勘違いしている。
しかもきな臭い方向で。
死んだ目でセナが去って行った方向を見つめるタイオンの肩を、ノアがそっと叩いた。


「心配するな。俺たちがきっといい葬式にしてみせる」


爽やかに笑い親指を立てるノアに、タイオンは何も言えなかった。
いい葬式って、結局それ紅エンドじゃないか。
そう突っ込む前に、2階からドタドタと派手な足音が聞こえてくる。
やがて暴れ牛のごとくミオとユーニ、そしてセナがリビングに入ってくると、タイオンの両脇を固めて来る。
さらに切羽詰まった様子で二人は問いかけてきた。


「タイオン!早まったちゃだめ!生きていればいいこともあるよきっと!」
「悩みならアタシらが聞くから!だから練炭とかロープを買うのはやめろ!」
「やだぁ!タイオン死なないでぇ!借りてた700円ちゃんと返すからぁ!」


3人の女性陣に泣きつかれ、タイオンは顔をひきつらせた。
こんな風に心配してくれるなんてみんな優しいなとか、そういえばセナに700円貸してたなとか、いろいろと思うところはあったが、もはや突っ込みたいことが多すぎて脳の処理が追い付かない。
既に日付が変わった深夜、ウロボロスハウスではタイオンの悩みを聞く会が開催されようとしていた。


***

アイオニオン大学本館1F、学生食堂。
昼休憩になれば混雑するこの場所も、14時を過ぎれば人もまばらになる。
この日、タイオンは遅めの昼食を摂っていた。
メニューは日替わりランチのカレー。
右手でスプーンを握りつつ、左手はスマホで電子辞書の推理小説を読む。
そして耳では音楽を。
 
一度に3つのことをこなすマルチタスクは、器用なタイオンだからこそ出来る芸当だろう。
左手で開かれた推理小説の世界では、孤島の洋館に集められた登場人物たちの中から早くも1人目の犠牲者が出てきたところだ。
さて犯行時刻にアリバイがないのは誰と誰だっただろうかと思いながらページをめくったその時、視界の端に見慣れた人影を見つけて顔を上げた。
ユーニだ。
食堂の入り口にユーニがいる。
席を探しているのか、それとも誰かと待ち合わせているのか、彼女は広い食堂の中をきょろきょろと見回している。

声をかけようか。
いや、もし誰かと待ち合わせているのなら声をかけたところで挨拶くらいしかできない。
向こうがこちらに気付かない限り声をかけるのはやめておこう。
そう思った矢先、ユーニは表情を明るくさせて足早に食堂の中央へ向かって歩き出した。
どうやら探していた相手が見つかったらしい。
誰と待ち合わせていたのだろう。
気になって彼女を目で追ってみると、ユーニはこちらに背を向けて座っている1人の学生の前で立ち止まった。


「え……」


思わず声が漏れる。
ユーニが歩み寄ったのは、キャップを被った男子学生だった。
黒い服を着たその男の背中を軽く叩いた彼女は、迷うことなく男の隣の席に座る。
肩が触れ合うほど近い距離に腰掛けた二人は、何かを覗き込むように身体を接近させている。
恐らく、男がスマホで動画でも見せているのだろう。
見知らぬ男とユーニの肩が触れ合う様を見つめながら、タイオンは顔をしかめた。

何だあれは。あの男は誰だ?どこの学部の学生だ?何年生だ?なんであんなに近いんだ。ちょっと馴れ馴れしすぎやしないか?男友達との距離感じゃないだろあれは。まさか彼氏じゃないだろうな。聞いてないぞ。いるならいると言ってくれればいいのに。いや、別にユーニに彼氏がいたところで僕にとっては別にどうでもいい事なのだが、ほら、一緒の家に住んでいる以上恋人がいる異性との距離感は考えなければいけない。もし彼氏がいるというのなら家にでも呼んで皆に紹介すればいい。ちゃんとした男なのかまともな奴なのかこの目でジャッジしてやる。いや待て。あのユーニのことだからあれが彼氏とは限らない。僕相手にだってあれくらい接近してくることもあるし、そもそもユーニは人との距離感が近い。ちょっと仲がいいだけの友人なだけかもしれないじゃないか。そうだ。そうに違いない。むしろ僕の方がユーニと距離感が近いと言っても過言では——。


「なっ……」


男の手が、ユーニの頭を突然撫で始めた。
撫でられたユーニも一切抵抗することなく、ごく自然なことのようにその手を受け入れている。
おかしい。明らかに距離感がおかしい。
あんなの、付き合っている男女しかやらない行為じゃないか。
まさか本当にあれが彼氏なのか?付き合っているのか?まさかそんな……。

やがて男は席から立ち上がり、ユーニに手を振りながら食堂から去っていく。
残されたユーニは、男を見送ると何事もなかったかのように自分のスマホをいじりはじめた。
1人になったユーニの背中をタイオンは恨めし気な目で見つめている。
さっきの男は誰だ?君とはどんな関係なんだ?まさか彼氏じゃないだろうな?
聞きたいことは山ほどあったが、ユーニの元へ歩み寄ってわざわざ聞く勇気はない。
ただ、湿り気を帯びた視線を向けながら無言の圧をかけるしかないのだ。


***

おまけ

ちょっとした登場人物設定メモ

【ユーニ】

アイオニオン国際大学国語学部3 年生。年齢20歳。
誕生日は9月。
男勝りで大雑把な性格をしており、細かいことは基本的に気にしない。
ユーニやランツとは幼稚園からの幼馴染であり、もはや友人を超えて家族。
駅前の居酒屋でアルバイトをしている。
大学進学と同時にノアに誘われ、彼の親戚の家にてランツを咥えた3人でルームシェアを開始した。
同じ学部で親しくなったミオをノアに紹介した功績を持つ。
性別問わず人との距離を詰めることに長けており、どんなに人見知りな相手とでも親しくなれるという特技を持っている。
誰とでも仲良くなれるその性質上男友達も多く、気があるものとして勘違いされ好かれることも少なくない。
タイオンとは学部間交流会の飲み会がきっかけで親しくなった。
以降彼からの好意に気付いており、自分自身憎からず想っているため彼からの告白を今か今かと待っている。
昔から高いところが苦手で、高所恐怖症に悩まされている。


act.10


「え?ユーニに彼氏?」


夕食を摂り終え食器を洗っていたノアは、キッチンでハーブティーを飲んでいたタイオンに質問を投げかけられた。
“ユーニに彼氏はいるのか?”と。
ランツやミオ、セナは既に自分の部屋に入っており、ユーニは今現在風呂に入っている。
広いリビングには、今夜の食器洗い当番であるノアと、そんな彼の横に立ってハーブティーを味わっているタイオンしかいない。
石橋を叩いて渡るように恐る恐る問いかけてきたタイオン相手に、ノアは泡が付いたスポンジを握りながら首をかしげる


「なんで急に?」
「いや、そういえば聞いたことがないなと思って」
「うーん。彼氏が出来たって話は俺も聞いたことないな」
「じゃあいないということか?」
「どうだろう。ユーニって、結構秘密主義なところがあるから、言わないだけでいる可能性もあるな」
「君たちは幼馴染だろ?言わないなんてことがあるのか?」
「幼馴染だからって何でも話すわけじゃないよ。実際、高校の頃俺が知らないだけでいつの間にか1つ上の先輩と付き合ってたこともあったしな」
「な、なるほど……」


ノアからの回答は、タイオンが期待していたものとは大きく違っていた。
ユーニと幼馴染である彼ならば、恋人の有無くらい把握しているだろう。
はっきりと“いない”と言い切ってくれることを、心のどこかで期待していたのだが、ノアからの反応は非常に曖昧なものだった。
ユーニとは友人として1年以上の付き合いがあるが、今まで一度も彼女と恋愛の話をしたことは無い。
むしろ避けていたと言っても過言ではなかった。
ユーニがモテることはよく知っていたし、下手に踏み込んで傷付くのは恐ろしい。
彼氏がいるとかいないとか、そういう話は一度も聞いたことがないが、話さないだけで実はいるのかもしれない。
その彼氏というのが、昼間見たあのキャップを被った男だったとしたら——。


「でも、なんでいまさらそんなこと気になったんだ?」
「それは……。ほら、仮にも一つ屋根の下で一緒に暮らしているわけだから、彼氏がいたりしたら距離感を考えないといけないだろ」
「相手はユーニだし、そんなこと気にしなくてもいいと思うけどな」
「いや、僕は別に気にしているつもりはないが、何かの拍子にトラブルになったら面倒だろ?」
「そうかな。そんなに気になるならユーニ本人に聞いた方が確実じゃないか?」
「まぁ、それはそうなんだが……」


残念ながら、その事実をユーニ本人に直接確かめるほどの勇気はない。
もしも“いる”などと言われてしまった暁には、その後どんな顔をして彼女に接していくべきか分からなくなってしまう。
知りたい。けれど知りたくない。そんな二律背反が、タイオンの心を支配していた。
言い淀むタイオンの横顔を一瞥したノアは、コップについた泡を水道の水で洗い落しながら薄く微笑む。


「前から聞こうと思ってたんだけど、タイオンって——」
「ん?」
「やっぱり、ユーニのこと好きなのか?」


2人の間に沈黙が訪れる。
目を合わせたまま石のように固まっているタイオンは、誰がどう見ても図星を突かれた男の顔をしていた。
だが、天邪鬼な性格のタイオンは、ノアからまっすぐ突きつけられた指摘を決して認めようとはしない。
空になったハーブティーカップをキッチンの台に置くと、わざとらしく深いため息をつく。


「はあぁぁ……。ランツにも同じことを聞かれたんだが、僕はそんなにユーニに気があるように見えるのか」
「違うのか?」
「違う。そんなわけない。ありえない。そもそもユーニは僕の好みとは正反対なタイプだ。好きになるわけがない」
「タイオンの好きなタイプって?」
「清楚で気品がある年上の女性だ」
「ははっ、確かに正反対だな」


快活に笑ったノアは、タイオンが置いた空のカップを取り上げ、他の食器たちと一緒に洗い始めた。
そんなノアの行動に軽く礼を言うと、タイオンはキッチン台に寄りかかりながら腕を組み、言い訳のようにペラペラと言葉を続ける。


「大体、あんな口が悪くてガサツな性格で何故あそこまでモテるのかが分からん。黙っていれば可愛いものを、あぁいうタイプに僕が惹かれるわけ——」
「悪かったな、口が悪くてガサツな女で」


背後から聞こえた声にドキリと心臓が高鳴って振り返る。
そこにいたのは、風呂から上がったばかりのユーニだった。
湿り気を帯びたミルクティー色の髪をタオルで拭きながら、彼女はタイオンを恨めし気に睨んでいる。
話題の主役といえる自分に話を聞かれたことで、タイオンは気まずさと気恥ずかしさを覚えていた。


「悪口ならアタシのいないところで言えよな」
「い、いや、すまない。別に悪口のつもりで言ったわけじゃ……」
「ほら、次の風呂タイオンだろ?あがったからとっとと入って来いよ」
「あ、あぁ……」


背中を押されたことで、タイオンは渋々風呂場へと向かった。
キッチンから去っていくタイオンが、何か言いたげな表情で一瞬だけユーニを振り返っていたことに、ノアは気付いていた。
だが、結局彼は何も言わず去ってしまう。
キッチンに残ったのはノアとユーニの2人。
ノアが全ての食器を洗い終わり、手を拭き始めたところで、冷蔵庫から2本の缶チューハイを取り出したユーニが名前を呼んできた。


「ノア、たまには付き合えよ」


彼女が手渡してきたのは、アルコール度数3%のハイボールだった。
晩酌に付き合えということだろう。
特に断る理由もなかったノアは、“いいよ”と微笑み差し出されたチューハイを受け取る。
食卓に向かい合うように腰掛けた二人は、つまみも用意せず2本の缶チューハイだけで乾杯した。
 
タイオンらがこの家で暮らすようになる前は、ランツがジムに行っている間に2人だけで晩酌をすることも珍しくはなかった。
だが、今は同じ家にノアの彼女であるミオがいる。
彼女に遠慮してノアを誘うこと自体避けていたユーニだったが、今夜は明確な理由があった。


「最近どうよ?」
「うん?何がだ?」
「ミオとうまくいってる?」


交際して1年近く経つミオに一度も手を出していないというノア。
そんな彼に探りを入れるというのが、今夜ユーニが自らに課した使命だった。
いつまでたってもノアに手を出されず、ミオがもどかしい思いをしていることは知っている。
ミオの友人として、そしてノアにミオを紹介した張本人として、放っておくことは出来なかった。


「まぁ、ぼちぼちかな。少なくとも喧嘩とかはしてない」
「もうすぐ付き合って1年だっけ?そんだけ長く付き合ってたら悩みの一つくらい出て来るだろ」
「うーん、そうでもないな。大きなトラブルもないし……」


いやあるだろ!
缶チューハイを握りしめながらユーニは心の中でそう叫んだ。
鈍感なのか見て見ぬふりをしているだけなのか、ノアは現状に何も問題を抱えていないと思い込んでいるらしい。
だが、実際には交際相手であるミオは彼とのことで大きな悩みを胸に抱いている。
ここはハッキリ指摘してやったほうがいいのだろうか。
いやでも、あまりやり過ぎても余計なお世話になってしまうかもしれない。
ここはハッキリ聞き出すよりも、ノアの言葉の裏を読んでなんとなく理由を探ったほうがいいだろう。
そう判断したユーニは、目の前の呑気な幼馴染に質問をつづけた。


「そういえばさ、2人っていつの間にか付き合ってたよな」
「そうだっけ?」
「アタシがミオを紹介した後、しばらくは普通にただの友達同士だったじゃん?それがいつの間にか付き合っててさ。何がきっかけだったわけ?」


ユーニがノアにミオを紹介したのは、大学1年の終わり頃のこと。
それから半年ほどは友人としての付き合いを続けていた2人だったが、2年生に進学した6月ごろ、ミオから急に告げられたのだ。ノアと付き合うことになった、と。
ノアはあまり自分語りをするタイプではない。
彼女が出来た事実を言ってこないこと自体はよくあることだったが、紹介した本人であるユーニに一言もないのは流石に驚いた。
その時はそこまで深く考えなかったが、そういえばこの二人は何がきっかけで交際に発展したのだろう。
今まで一度も聞いたことがなかったその疑問を、ユーニは初めてノアへとぶつけた。

ユーニからの質問を受け、ノアは珍しく答えを渋った。
“きっかけか……”と呟きながら腕を組んでいるノアは、ユーニに話すべきか悩んでいるようだった。
交際のきっかけを話すだけなのに、なぜそんなに言い渋るのだろう。
そう思っていると、缶チューハイに口をつけたノアが肩をすくめながら言った。


「まぁ、ユーニならいいのかな」
「どういう意味?」
「あんまり人に言わないようにしてたんだ。ミオのために」


言葉の意味がよく分からず、ユーニは首を傾げた。
そんな彼女に、ノアは落ち着いた様子で語り始める。

ユーニからミオを紹介されてから半年の間、2人は1カ月に一度連絡を取る程度の“知人”でしかなかった。
大学のキャンパス内で出会えば軽く挨拶を交わしはするが、休日に2人で出かけたりすることはない。
あの頃の2人は、まさか付き合うことになるとは互いに全く思っていなかったはずだ。
だが、そんな2人が交際するきっかけとなった事件が、梅雨真っただ中だった6月の中旬に発生した。

ある雨の日の夜、バイトを終えたノアは傘をさしながら帰宅の途に就いていた。
コンビニに寄るため、いつもの道とは違う方向から帰宅していた彼は、ショートカットするため小さな児童公園を通り抜けようとしていた。
ベンチとシーソーしか設置されていないこの公園には、雨の夜ということもあり誰もいない。
 
時刻は23時半。予定よりも少し帰宅が遅くなってしまったことにため息をつきながら歩いていたノアは、雨音に紛れて不審な物音が木々の影からしていることに気が付いた。
人の息遣いと、衣擦れの音。太い木の裏から聞こえてくるその音を不思議に思ったノアは、傘をさしながら木の裏を覗き込む。
その瞬間、目の前に広がった信じがたい光景に目を疑った。
 
自分よりも少し年上に見える男が、女性の上に馬乗りになっている。
女性が身に着けているトップスとミモレ丈のスカートはめくり上がり、下着が露になっていた。
男の左手は女性の口を塞ぎ、雨の中地面に押し倒されていた女性の身体は泥で汚れている。
そんな光景を見れば、誰だって一瞬で分かってしまう。
この男に無理やり襲われているのだ、と。

事態を把握した瞬間、ノアは自分の頭に熱い怒りがこみあげてくる感覚に襲われた。
パーカーを羽織っていた男のフードを掴み上げて無理矢理振り返らせ、傘を手放した手でその顔を渾身の力で殴りつける。
すると男はよろけ、反撃してくることなく呆気なく逃げ去ってしまった、
一瞬後を追おうか迷ったノアだったが、この場に女性1人を残しておくわけにはいかない。
男を追うのを諦めて、未だ泥の上に座り込んでいる女性に傘を差し出しながら目の前で膝を折った。


「大丈夫ですか!? 怪我は……。み、ミオ!?」


顔に泥をつけ、震える手で自らの両肩を抱いているその女性は、他の誰でもないミオだった。
被害に遭っていた女性が自分の知人であったことに大きな戸惑いを覚えたノアだったが、当のミオはノアの顔を一瞥した瞬間ボロボロと泣き出してしまう。
 
それが恐怖からくる涙なのか、それとも安堵からくる涙なのかは分からなかったが、とにかくミオの精神状態が正常ではないことは明らかだった。
このまま放っておくことは出来ない。身体を震わせながら泣きじゃくるミオの肩に羽織っていたジャケットを着せると、ノアは彼女の肩を抱いて足早にその場を去った。

向かったのは、その公園から徒歩5分圏内にある自分の家。後にミオも住まうことになる、通称ウロボロスハウスである。
あんな目に逢ったミオを自分の家に連れ込むのはどうかと思ったが、服も体も泥で汚れ、雨で全身ずぶ濡れ状態のミオを休ませるためには仕方がなかった。
それに、あの家にはミオの友人でもあるユーニがいる。同性であるユーニに事情を話せば、きっとミオも落ち着くだろう。
 
そう思い家へと向かったのだが、その日、ユーニは他の友人と飲みに出かけていたため不在だった。
ランツもバイトに出かけており、家にはノアとミオの2人しかいない。
誤算だった。この状態のミオと二人きりになるのはまずい。
そう思いながらも、今から帰すわけにもいかず、ノアはミオに着替えを渡してシャワーを浴びるよう指示をした。

やがてミオは、ノアが手渡したユーニの部屋着を着た状態で脱衣所から出てきた。
既に彼女の涙は枯れていたが、それでもはやり表情は暗いまま。
彼女がシャワーを浴びている間に用意した熱いコーヒーを手渡すと、ミオはここに来て初めて言葉を発した。“ありがとう”と。


「大丈夫か?怪我とか、痛いトコロとかないか?」
「うん、平気。少し擦りむいただけだから」
「そっか」
「あの……助けてくれてありがとう」


コーヒーのマグカップを両手に抱えるミオは薄く笑顔を浮かべている。
無理矢理作った笑顔は痛々しかった。
何故あんなことになったのか事情を聞いてもいいのだろうかと迷っていたノアだったが、そんな彼の迷いを察したのか、ミオはたどたどしく経緯を話してくれた。
 
3か月ほど前から、彼女はストーカー被害に遭っていたという。
ストーカーと言っても直接危害を加えられたことはなく、大学やバイトの帰りに後をつけられる程度の被害だった。
とはいえ、毎晩のように後をつけられれば恐怖を感じないわけもない。
当時高校からの友人であるセナと同居していたミオは、自分の身よりもセナのことを心配していた。
 
もしも家を特定されれば、セナにも被害が及ぶかもしれない。
自分以上に怖がりな彼女に心配をかけまいと、ミオはストーカー被害に遭っていることはセナに告げず、帰宅する時は必ず遠回りしたうえで大通りを通り、タクシーで帰宅する日々を送っていた。
今夜の出来事は、そんな日常を送る中での事件だったらしい。


「警察には相談してたのか?」
「うん。でもどこの誰だかわからない限り動きようがないって。さっきも暗くて顔はよく見えなかったし」
「そうか……」


ストーカー被害に遭い始めて数日たったころ、ミオは最寄りの警察署に相談に行っていた。
しかし、現状ストーカーに対する規制は難しいものがあり、どこの誰が犯人か判明していない限りパトロールを強化する以外の対策ができないのだ。
だが、こうして直接実害が出た以上今のままではいられない。
これまで以上に自衛意識を高める必要があるが、まだ学生の身であるミオに毎日のようにタクシーを使うほどの財力はない。
かといって警察はあまり頼りにならない。
どうしたものか思い悩んでいたミオに、ノアはとある提案をした。


「なら、俺がミオを送るよ」
「え?」
「連絡くれればいつでも迎えに行くし、バイトや大学の帰りも毎日家まで送る。男と一緒にいればあいつもそう簡単に手は出せないだろ」
「で、でも……。それはすごくありがたいけど、流石に彼氏でもない人にそこまでしてもらうのは申し訳ないし——」
「なら付き合えばいい」


その言葉に、ミオは息を詰めた。


「付き合えば遠慮する理由もなくなるだろ?彼氏が彼女を守るのは当然のことだし」
「ノア……」
「あぁ、もちろん迷惑なら——」
「迷惑なんかじゃないっ!むしろ、いいの?私なんかで……」


恐る恐る聞いていくるミオに、ノアは迷わず答えた。
“もちろん”と。
こうして二人の交際は始まった。当初はミオの身を守るための口実として付き合っていた2人だが、この関係が1カ月、3か月、半年と続いたことで、2人いつの間にか“普通のカップル”となっていた。
約束通りノアは毎晩ミオを家まで送り、ストーカーの視線から守り続けた。
結果的に、あれからミオは一度も件のストーカーから危害を与えられたことはない。
そしてノアと同じ引っ越してきた今、ストーカーの影はミオの周りから気配を消した。

約1年前に起きた事件を振り返るノアの言葉を最後まで聞き終えたユーニは、まだ半分ほど残っているチューハイの缶を握りしめた。
まさかノアとミオが交際を始めた背景にそんな壮絶な出来事があったとは思わなかった。
ノアからは勿論、ミオからもストーカー被害に遭っていたことなど一度も聞いたことがなかったユーニは、驚きが隠せずにいる。


「そっか。そんなことがあったなんて知らなかった」
「こういう背景があるから、今まで誰にも言わなかったんだ」
「そりゃあ言わないよな。アタシに話してよかったわけ?」
「ユーニはミオを紹介してくれた張本人だし、話したとしてもミオはたぶん怒らないだろうから」


ノアはどうやら自分を信頼して話してくれたらしい。
なるほど、確かにこれは他人にホイホイ話していい内容ではない。
ノアが今までミオと交際に至った経緯を曖昧に誤魔化し続けてきた理由がようやくわかり、ユーニは目を伏せた。
ミオにそんな過去があったのか。きっと怖かっただろう。自分が同じ目に逢ったとしたら、きっと暫く男が怖くなるだろう。
そこまで考えて、ユーニは察してしまった。
ノアがミオに手を出し続けないその理由を。

そうか。ノアはミオに遠慮しているんだ。
男に無理やり組み敷かれた過去があるミオは、きっと男に対して恐怖感を抱いたに違いない。
そんな彼女の心情を慮り、あえて手を出さずにいるのだ。
これはノアの優しさだ。ミオを気遣おうとする彼の優しさが、皮肉にもミオの不安を煽る結果となっている。
指摘したほうがいいのだろうか。
いや、ことは想像以上に複雑で、第三者である自分が余計なことを口にすればさらに拗れる可能性もある。
ここは本人たちの望むままに任せたほうがいいのかもしれない。

やがて、缶チューハイを空にしたノアが席から立ち上がる。
それと同時に、風呂から上がったタイオンが濡れた癖毛をタオルで拭きながらリビングに帰って来た。
タイオンという第三者の登場に、自然と二人の会話は終了する。


「ノア、風呂いいぞ」
「あぁ、ありがとう。じゃあユーニ、さっきの話は……」
「分かってる。アタシの口の固さ舐めんなよ?」


ノアに言われずとも、他の面々にこのことを話す気は一切なかった。
ミオの尊厳に関わることだし、自分がミオの立場だったとしたらやはり聞かれたくはないだろうから。
得意げな笑顔を見せる幼馴染の少女にノアは穏やかな微笑みを返し、リビングから去って行った。

テーブルに残された2本の缶チューハイを見つめ、タイオンは密かに胸を痛めた。
自分が入浴していた間に、2人きりで晩酌していたいたのか、と。


「何の話をしていたんだ?」
「幼馴染の秘密の話し」


人差し指を口元に宛がいながら笑うユーニ。
そんな彼女の言葉は、タイオンの心を揺さぶるに十分な威力を発揮した。
何が秘密の話だ。幼馴染とはいえノアは異性だぞ。距離感が近すぎないか?
昼間の一件だってそうだ。あの男が彼氏じゃなかったとして、身体を寄せて接近したり頭を撫でられたり、男相手に何でもかんでも受け入れすぎだろ。
そんな風に無遠慮に距離を詰めまくるから、勘違いする男が出て来るんじゃないか。


「楽しそうで何よりだな」


タイオンの口から言い放たれた言葉は、いつもより冷たいトーンだった。
妙にツンけんした態度に違和感を覚え、なんとなくタイオンの方へと振り返ったユーニだったが、彼は既にリビングを出た後だった。
なんだあれ。アタシ、なんか気に障るようなこと言ったか?
 
いつも以上に冷え切った態度を向けられたことを不思議に思いながらも、ユーニはそれ以上追求しなかった。
残り少ない缶チューハイを煽りながら、手元のスマホに視線を落とす。
スケジュールアプリを立ち上げると、明日の欄に心躍る予定が表示されていた。
“ディスティニーランド”
その文字の並びを見つめながら、ユーニは口元を綻ばせるのだった。