【ノアミオ】
■ゼノブレイド3
■ゲーム本編時間軸
■短編
会敵した際、先陣を切って突っ込むのは決まってセナの役目だった。
ランツが敵の目を惹きつけ、セナが持ち前の怪力で敵の正面を叩いている間に、ノアとミオは背後や側面に回って隙を付く。
ユーニとタイオンはそんな4人の動きを後方で様子見しつつ支援に回る。
それが、3か月に及ぶ旅で6人が会得した“最適な立ち回り”だった。
数日間アグヌスの監獄に収監されて以降もその動きは変わらず、今日もウロボロスたちはモンスター相手にいつも通りの戦い方を展開していた。
相手はこの辺りで幅を利かせている巨大なフェリス。
強靭な足腰を持つそのフェリスは、巨体に見合わず俊敏だった。
並外れた洞察力と瞬発力で攻撃をかわし続けるその動きに、珍しく6人は苦戦していた。
この素早い相手に、正面からのごり押しでは勝てない。
そう判断したタイオンは、後方から大声で“転倒させよう”と提案した。
彼の声に一番最初に応じたのはノアである。
ランツが敵の目を引いている隙を狙い、フェリスの側面を狙ってブレイドを切り込む。
体勢をわずかに崩したフェリスを転倒させる好機を作り出した。
敵の足元を狙い、転倒させる役目はランツが担っている。
しかし、今のランツは大剣で必死にフェリスの猛攻を防いでいる状態で、あのままでは足元を狙うなど到底出来そうもない。
ランツが動くには、他の誰かがフェリスの目を惹きつける必要があった。
「ジェミニストライクっ!」
ランツから敵の目を逸らすために動き出したのはミオだった。
仲間内の誰よりも素早い彼女には、フェリスの神速とも言える攻撃をかわせる自信があったのだ。
投げつけられた円刀はフェリスの首元をかすり、見事その目を惹きつけることに成功する。
ランツから離れたフェリスは、自分を傷つけようとしたミオへと牙をむいた。
右、左、右と交互に飛びのきながらその攻撃をかわし続けるミオだったが、不意に足がもつれてしまう。
「っ!」
敵との戦いは、一瞬の油断が命取りとなる。
足がもつれて尻もちをついてしまったミオは、焦りの表情で顔を上げた。
これを好機と見たフェリスの鋭い爪が、ミオの眼前に迫る。
もうだめだ。目を瞑って痛みを耐えようとしたミオだったが、そんな彼女の敏感な耳に金属がぶつかるような甲高い音が聞こえてきた。
目を開けるとそこにいたのは赤い背中。
フェリスの爪をブレイドで防いでいるノアだった。
「ノアっ!」
「ミオ、立てるか?」
ノアが攻撃を防いでいる間に、タイオンが駆け足でミオのフォローに向かう。
腰が抜けていたミオに手を貸し、力強く立ち上がらせたと同時に横からランツの勇ましい声が聞こえてきた。
「ヘヴィチャージ!」
ようやく自由に動けるようになったランツの会心の一撃により、ノアへと牙を向けていたフェリスが転倒する。
だが、転倒させただけではすぐに起き上がってしまう。
ミオをモンドで回復させつつ、タイオンは後方でエーテル弾を放っていたユーニの名前を呼んだ。
その合図を耳にした瞬間、ユーニのブレイドは回転を始める。
「任せろっ!スプラッシュブラスト!」
放たれたエーテル弾によって、転倒していたフェリスは気絶する。
あれだけ俊敏だったフェリスも、気を失っていては動けるわけもない。
訪れた絶好の好機に、セナがその小さな体で大きなハンマーを振り下ろしつつ叫んだ。
「キャノンボール!」
脳天に叩き落されたブレイドは、渾身の力でフェリスの身体を砕いた。
骸となったフェリスは、赤い命の粒子をまき散らしながら天に昇っていく。
数分の激闘の末、6人のウロボロスたちはなんとか勝利をもぎ取ることが出来た。
久しぶりに長い戦闘をこなしたことで一行は疲労感を滲ませていたが、無事勝利できた喜びの方が大きい。
笑顔でお疲れとねぎらい合う仲間たちを横目に、ミオは力の抜けた足を気にしていた。
監獄での戦闘以来、ミオは10年近く使っていた身体を捨て、エムの身体で生きながらえている。
“もう一人の自分”の身体とはいえ、新しい身体の感覚にはまだ慣れきっていない。
入れ替わった当初よりかはうまく動けるようになったが、まだ思い通りにならないことも多い。
先ほどのフェリスの攻撃をかわしきれなかったのも、エムの身体に慣れていないという要因が大きかった。
「ミオ、大丈夫だったか?」
「あ、うん。平気。ちょっとひねっちゃっただけだから」
転んだ拍子に右足首を捻ってしまったらしい。
タイオンの回復アーツのおかげで、無事歩けるようになるまでは回復したが、まだ完全に痛みが引いたわけではない。
負傷していない左足に重心を置きながら立っているミオを見つめ、ノアは不意に手を差し出してきた。
「えっ……」
「大丈夫じゃないだろ?ユーニに診てもらおう。手、掴まって」
「う、うん」
差し出されたノアの手に、ミオは右手を重ねる。
力強く握られた手の温もりは、ノアの優しさを表しているようだった。
柔らかく微笑み、ミオの手を取ってゆっくり歩き出すノア。
そんな彼を見つめながら、ミオの中で何かが騒ぎ出す。
この“何か”の正体を、ミオは知っている。
この身体と共に受け継いだエムの記憶によれば、これは“ときめき”というやつだ。
今まで抱かなかったその感覚は、エムの記憶を共有した途端急に現れた。
ノアに名前を呼ばれるとときめく。
ノアに微笑みかけられるとときめく。
ノアに触れられるとときめく。
このときめきのトリガーは、すべてノアが握っているのだ。
***
「はぁ?ときめきトリガー?」
なに言ってんだコイツ。
そんな目で見てくるユーニの反応に、ミオは密かに唇を尖らせた。
イモの皮を剝きながら、昼間ノアに感じた感覚を“ときめきトリガー”と命名したミオは、世間話の一環としてユーニに話していた。
アイオニオンに夜が訪れると同時に、焚火を集めて野宿の準備を始めた6人。
今夜もマナナが夕飯の準備をする予定だったのだが、今日はいつも以上に長く歩いたせいか、焚火に火をつけるなり“もう限界デスも…”と彼女はシュラフに倒れ込んでしまった。
毎晩夕飯はマナナに頼りきりだった状況を反省した6人は、たまには今夜くらい自分たちで作ろう、という話になったのだ。
意気揚々と調理班に名乗りを上げたのはタイオン。
その瞬間全員の顔が曇ったのだが、6人の中では比較的料理の才能があるミオと、タイオンのストッパー代わりになるユーニが一緒に厨房に立つことでなんとか話はまとまった。
マナナのレシピを参考にしているため、調理は順調である。
何度かタイオンがいらない独創性を発揮しようとしたが、その度ユーニが“やめろ”と制止したおかげで、何とかマトモなものが出来そうだ。
「ユーニはときめきを感じたことない?」
「ノアにか?危なっかしい奴だなとは思うけど別に……」
「違う違う。タイオンに」
「タイオンに?」
皮むきを担当しているミオと、肉の裁断を担当しているユーニの会話がすぐ横で聞こえてくる。
鍋で煮込んでいるスープをかき回しながら、タイオンは黙って聞いていた。
その会話、本人を目の前にするべき話じゃないだろ、と心で呟きながら。
「そもそもときめきって何だよ」
「心がどきどきすること」
「どきどき……。あぁ、だったらアタシもタイオンにときめいてるかも」
「本当?」
「あいつが炊事当番になった夜はマトモな飯が出てくるかいつもどきどきしてるからな」
「う、うん。そういうことじゃないんだけど……」
斜め上の回答をひねり出したユーニに、ミオは苦笑いを零した。
首をかしげているユーニの越しに、鍋をかき回しているタイオンの姿が見える。
心なしか、彼も少しだけがっかりしたような表情を浮かべているように見えた。
「で、ミオはノアにそのときめきを感じてるってこと?」
「うん。だから困ってるの」
「困るもんなの?」
「困るよ!だって、戦ってる時も歩いてる時もご飯食べてる時も、いちいちノアにときめいてどきどきしてるのよ?このままじゃ心臓が持たない……」
「ときめきってそんなにやべぇ現象なのか。こわっ」
心臓にまで負担がかかるらしい“ときめき”という現象に、ユーニは震えあがる。
一方でミオは、少し離れた場所でランツやセナと談笑しているノアを見つめ、胸を抑えていた。
彼の姿を視界に入れるたびに心がきゅっとなる。
この感覚のせいで、最近はノアとの距離感をどう取るべきか迷い始めていた。
今までのように、ただの相方としての距離感は違和感がある。
エムからあんなに濃い記憶を共有されたのだ。今まで通りでいられるわけがない。
「なんというか、ノアとどう接していいか分からないの」
「今まで通りでいいんじゃないか?」
ミオの呟きに反応したのは、タイオンだった。
鍋の中のスープに視線を落としたまま、彼は淡々と言葉を続ける。
「僕らの中で君たちが一番打ち解けるのが早かった。今までの君たちは理想的な関係のように思えるが?」
「無理よ、今まで通りなんて。あんな記憶見せられたら……」
「なぁ、過去のお前らの記憶ってどんな内容なわけ?ノアに聞いても断片的なことしか教えてくんねぇし」
「そ、それは……」
かつての自分たちは、再生されるたびにウロボロスとなってメビウスに抗してきた。
ノアはその命運から逃げるようにメビウスとしての道を選び、エヌとなってこの世に生き続けることとなる。
その過去自体はタイオンやユーニも知るところだが、彼らが知りたいのはそこではないのだろう。
要するに、エヌとエム。つまりは過去のノアとミオが具体的にどんな関係性を築いていたかというところだ。
言えるわけがない。
まさか自分とノアが、シティーで見た若い夫婦のように子供を作っていただなんて。
言えばより深く追及されるだろう。
特に知識欲に貪欲なタイオンは、好奇心旺盛なユーニは、興味津々になって根掘り葉掘り聞いてくるだろう。
無理だ。言えない。恥ずかしすぎる。
子供を作ったという記憶のない記憶が、ノアを過剰に意識させてしまうのだ。
「と、とにかく、今の私たちとは少し違う関係性だったの!だからちょっと距離感を考えちゃうと言うか……」
「今までの君たち以上に距離が近い関係だったということか?」
タイオンの問いかけに、ミオは真っ赤になりながら頷いた。
流石に“子供がいるような関係”とは言いにくい。
言葉を濁しつつそれっぽく伝えることが出来たが、タイオンはまだあまり納得出来ていないらしく考え込んでいる。
そんな彼の隣で肉をさばいていたユーニは、タオルで手を拭きつつまさかの提案をしてきた。
「なら、お前らももっと距離縮めればいいんじゃね?」
「距離を縮めるって、どうやって?」
「さぁ?ハグでもすれば距離縮まるんじゃね?」
「は、ハグぅ!?」
ユーニから適当に投げられた提案は、ミオを大いに戸惑わせた。
真っ赤に顔を染めるミオとは対照的に、ユーニは随分と涼しい顔をしている。
自分がとんでもないことを言っている自覚が一ミリもないのだろう。
「そなに驚くことかよ」
「だ、だって……ハグだよ?そんなの簡単にできるわけ……」
「そうかぁ?別に難しい事じゃねぇと思うけど?なぁタイオン」
「あぁ。戦闘に勝利した後、仲間と喜び合って抱き合う光景はよく目にしていたしな。そう珍しい事じゃない」
確かに、コロニーガンマの一員としてケヴェスと戦っていた頃は、小競り合いで勝利した後は周囲の仲間と喜びを分かち合っていた。
その一環として、手を取り合ったり抱き合ったりすることも珍しくはない。
だが、相手はあのノアだ。名前を呼ばれたり声をかけられたりしただけでときめくような相手だ。
ハグなんてした暁には、心臓が大爆発してしまってもおかしくはない。
「じゃ、じゃあ、ふたりは出来るわけ?」
「えっ、ここで?」
「そう!私に提案するってことは、出来るってことでしょ?お手本見せてよ」
悪乗りなのか本気なのか、とにかく無理難題な提案をしてくる2人に少しだけ意地悪をしてみたくなってしまった。
タイオンとユーニは不仲というわけではないが、スキンシップが多いとも言い難い。
どうせ恥ずかしくなって断って来るに違いない。
そう思っていたのだが、2人はミオの予想に反して随分とあっけなく向き合った。
「仕方ねぇな。やるぞタイオン」
「あぁ」
「えっ、やるの?」
「なんだよ、ミオがやれって言ったんだろ?」
あまりの快諾ぶりに脱力してしまう。
タイオンは“よし”と一言気合を入れると、両手を広げ始める。
そんな彼を前に、ユーニは両手で拳を作るとぐっと構え始める。
「いくぜ、タイオン!」
「来い、ユーニ!」
「うおおおおっ!」
まるでモンスターに特攻するかのような雄たけびと共に、ユーニはタイオンの胸に飛び込んだ。
ハグというよりもタックルに近いそれを受け、タイオンもまたユーニの背中に力強く腕を回す。
気合十分な二人の密着具合は、ハグというよりもぶつかり稽古に近かった。
“出来た!”と組み合いながら同時に報告してくる2人に、ミオは思わず苦笑いを零した。
ハグって多分、そういうのじゃない。
不自然に組み合っているタイオンとユーニの姿は、少し離れた場所にいたノアたちも気付いていた。
互いのボトムスのベルト部分を掴みながらじりじりと押しあっているようにしか見えない2人を見つめながら、ノアは首を傾げた。
「何してるんだ?あれ」
「さぁな」
「相撲じゃないかな?ほら、シティーでお年寄りって人たちが好きなやつ」
「おおあれか!身体をぶつけあって押し合うやつ!面白そうだな。セナ、俺らもやるか!」
「うん!楽しそう!」
ランツの誘いに乗ったセナが、おもむろにランツの胸板に突進する。
小柄といえど怪力自慢なセナの身体を押さえ込むのは大変なようで、ランツはぐぬぬと踏ん張りながら懸命に押し返していた。
食事の用意もそこそこに組み合うタイオンとユーニ。
そしてその様子に感化されて同じく組み合うランツとセナ。
そんな二人を見てニコニコと笑っているノア。
2組の男女が別々の場所で組み合っている光景は実に混沌としていて、笑わずにはいられなかった。
やがて、パワーアシストの調整をしていたリクが“お前たち何してるも!?”とドン引きした様子で声をかけるまで、彼らの混沌といた相撲空間は続いた。
***
ミオたち3人が作った料理はなんとか形になった。
焚火を囲いながら食事をするウロボロスたちは、マナナが作った料理よりも少々味の濃い料理に舌鼓を打っていた。
一番最初に食事を完食したのはランツ。
“ごちそうさん”と手を合わせて食器を片付けると、すぐさま地面に両手をついて筋トレにいそしみ始めた。
次に食べ終わったのはセナ。ランツが完食した後急いで食べ終わると、彼女もランツの隣でそそくさと筋トレを始めた。
次に食事を終えたのはノアである。
丁寧に両手を合わせ、食事を用意してくれたミオたちに礼を述べると、腰掛けていた切り株から立ち上がる。
「ノア、どこ行くんだよ?」
「ちょっと夜風に当たって来る。すぐ戻るから」
そう言って、ノアは休息地から離れていった。
黒い髪を風に靡かせながら遠のくノアの背を、ミオは恋しむように見つめている。
そんな彼女の視線に気づいたのは、隣に腰掛けて淡々と食事を楽しんでいたタイオンだった。
「行ったらどうだ?」
「え?」
「ノアとの距離感に思うところがあるんだろ?二人で話すいい機会じゃないか」
一つ年下のこのタイオンという男は、気難しいながらも洞察力に優れた人物だった。
ミオの心情を理解して背中を押してくれる彼の言葉に、ミオは少し考えつつ頷いた。
6人で旅をしている今、特定の誰かと二人きりになる状況はなかなか巡ってこない。
不意に訪れたノアと話すチャンスを無下にするのはナンセンスだろう。
“うん。そうする”と返事をすると、ミオはまだ食べかけの皿を椅子に置き、そそくさとノアの後を追った。
駆け出したミオの背を見送ったタイオンは、すぐ隣から“ときめきトリガーねぇ…”と呟くユーニの声を聞き彼女の方へと目を向けた。
「ノアと喋ったり目が会ったりするだけで心臓が破裂しそうになるんだろ?ミオも大変だな」
「あぁ。ノアがミオの“ときめきトリガー”を握っているということは、ミオの心臓はノアのさじ加減によってどうとでもなるということだな」
「こっわ。アタシも誰かの“ときめきトリガー”握ってたりするのかな?例えばセナとか――」
そう言って、ユーニは指で銃の形を作る。
銃口に見立てた人差し指は、少し離れた場所で筋トレしているセナへと向けられる。
「ランツとか――」
人差し指の銃口は、すぐ隣で腕立てしているランツへと移動した。
そして今度はゆっくりと、隣に座って食事をしているタイオンへと向ける。
「タイオンとか――」
スプーンを咥えたまま怪訝な顔をしているタイオンと目が合った。
誰かのときめきトリガーを握っているとしたら、ユーニの言動一つ一つでその相手の心臓をハチの巣に出来るということである。
トリガーを引いた瞬間、誰かにときめきを与えられるなら、少しだけ優越感に浸れるかもしれない。
ためしにこのタイオンで試してみよう。彼は相方だし、揶揄っても許してくれるだろう。
そんな安直で軽率な考えを抱いたユーニは片目を瞑って人差し指の銃口をタイオンの心臓に向けると、狙いを定めて囁いた。
「バァンっ」
「ンン˝ッ」
「え?」
銃を撃つ真似で指をはじくと、タイオンは何故か胸を抑えながらむせ始めた。
“ゴッホ!グッフ!”と苦しそうに咳き込みむタイオンに、ユーニは焦って立ち上がる。
「ちょ、大丈夫かよ!? 水みずミズ!」
咳き込むタイオンの背中を撫でながら、自らの水筒を差し出す。
どうやら器官に入ってしまったらしく、真っ赤な顔をしているタイオンは苦しそうに胸を叩いていた。
狼狽える二人の姿を筋トレしつつ見ていたランツとセナは、互いに顔を見合わせながら囁き合う。
「今、撃たれたよな」
「うん。撃たれてた」
***
夜の草原を歩く2人の間に、会話はない。
さらさらと流れる風の音だけがわずかに聞こえるだけで、静かな空間が流れていた。
遠くには夜の闇を照らす大きな満月が見える。
暗闇の光源は月光と、あたりを漂うように飛んでいるランプスが放つ光だけ。
幻想的な夜だったが、その美しさを楽しむだけの余裕はミオにはなかった。
少しだけ前を歩くノアの背中を見つめていると、どうしていいか分からなくなる。
今までノアと二人でいた時、どんな話をしていたっけ?
どんな顔をして話していたっけ?
エヌとエムの過去を知って以降、ノアとの距離感が分からなくなってしまう。
「綺麗だな」
「へっ?」
「ランプス。こんなにたくさん飛んでるの、始めて見た」
「うん……。そうね」
“綺麗”という言葉が自分に向けられたのかと思い、一瞬だけ心臓が跳ねた。
確かに、こんなにたくさんのランプスが光を灯して飛んでいるのは初めて見た。
月を背景に無数のランプスが漂う光景は、まるで異世界に迷い込んだと錯覚してしまうかのように美しい。
暫く歩くと、草原の真ん中を突っ切るように流れる小さな小川が見えてきた。
穏やかに流れる小川を、先を歩くノアは軽々と飛び越える。
一人で飛び越えられないほど大きな小川ではなかったが、先に飛び越えたノアが手を差し伸べてきた。
ノアは優しい。
道に障害があれば、必ず振り返って気にかけてくれる。
きっと、あのエヌという男も、かつてはこんな風に優しかったに違いない。
「ねぇノア。エヌの記憶、見たのよね?」
「ん?あぁ、見た……けど?」
伸ばされた手を取ることなく問いかけると、ノアは不思議そうに首を傾げた。
「どこまで見たの?その、全部見たのかなって」
「どうだろう。全部ではないと思う。結構断片的だった。何度も死んで、生まれ変わって――」
「そこは別にいいの」
「えっ?」
いいのか?とノアは思わず口に出しそうになってしまった。
あの記憶上で最も衝撃的だった事実を“別にいい”の一言で片付けられたことに肩から力が抜けてしまう。
なら彼女は一体何を気にしているというのか。
見つめるノアの視線を浴びながら、ミオは白く美しい髪を耳にかけた。
その頬はわずかに紅潮しており、何故か恥じらっているように見える。
「エヌとエム……。昔の私たちがどんな関係性を築いていたのか、とか」
「あぁ、そういうことか。うん、たぶん全部見たよ。色々驚いた」
自分たち二人は、生まれ変わるたびに出会ってはウロボロスとなり、そのたびにメビウスに抗ってきた。
これが初めての邂逅ではなかったという事実は、記憶のないノアに大きな衝撃を与えた。
何度もミオの死を目にしてきたエヌの心痛は計り知れない。
メビウスになる道を選んでしまった彼の気持ちも、ほんの少しだけ理解できてしまうのは、彼と自分が同じ魂で繋がっているからなのだろう。
あの悲しい記憶を、ミオもエムを通じて見たに違いない。
彼女もまた、心を痛めているのだろう。
そう思い視線を上げると、彼女はまたもや何故か真っ赤な顔で髪をいじっていた。
「そ、そうよね。驚くよね。私たちにまさか……子供が、いただなんて」
「あぁ。本当におどろ……。えっ?」
そこ?そこなのか?
確かに子供がいたことには驚かされたが、正直言ってそれ以上に驚かされる事実の方がたくさんあった。
子供の存在は衝撃的事実の一端でしかなくて、それ自体にはそこまで動揺していなかったのだ。
だが、一方のミオは違う。
子供がいたという事実に盛大に狼狽え、赤くなった顔を隠すように両頬に手を添えている。
「子供だよ?子供!子供がいたのよ!? シティーで子供の作り方は教わったでしょ?要するにあぁいうことを過去の私たちはしてたってことでしょ?信じられる?いや、嫌ってわけじゃないんだけどね。ただちょっと意外というか心の準備が出来てないというか現実を受け入れられないというかあまりにも恥ずかしいというか――」
「み、ミオ。とりあえず落ち着こう。深呼吸だ」
「深呼吸?う、うん分かった。ヒーヒーフーッ、あっこれ出産のときの呼吸だった!」
「ミオ……」
小川を挟んだ向こう側にいるミオは、見るからに動揺していた。
早口でまくし立てる彼女は真っ赤な顔でキョロキョロとあたりを見渡している。
あまりの羞恥心で溶けてしまいそうだった。
ノアには、目の前で赤面しているミオと“そういう行為”をした記憶はない。
恐らくミオにもないだろう。
だが、実際に子供がいたという過去は、まさに“そういうことなのだ”と言い切られているようなものである。
あまり意識はしていなかったが、言われてみれば確かにそうか。
シティーで初めて学んだはずの知識は、知らぬうちに過去の自分たちが上手く活用していたのだと思うとなんだかいたたまれなくなった。
「気にしないようにしようと思ってたけど無理なの!なんかこう、ノアの顔を見るたび心がきゅっとなって仕方ないの。ときめきトリガーが勝手に作動するの!」
「と、ときめきトリガー?」
「今まで通りでいようと思えば思うほど距離感が分からなくなって落ち着かなくなるの。私たぶん、もうノアを今まで通り“相方”として見れない気がして……」
胸元で組んだ指をいじりながら、ミオはうつむいた。
いつもはピンと張っている耳が、気落ちしたようにしなびている。
小川を挟んで正面にいるノアを、どんな顔をして見つめていいか分からない。
彼はついこの前まで“相方”だった。
インタリンクできる唯一のパートナー。
けれど、エムからもたらされた記憶は、ノアがただそれだけの存在ではなかったという事実を教えてくれた。
正直、嬉しかった。
哀しい過去は星の数ほど見たけれど、過去のノアとの記憶はどれもこれも暖かくて、絶望で塗りつぶされた過去に希望の色を灯してくれた。
この心にほんのり灯ったノアへの気持ちは、過去から続くものなのだと分かった途端、急に腑に落ちてしまう。
そうか、だから私はこんなにもノアを――。
けれど、ノアも同じ気持ちでいてくれている保証はない。
同じ記憶を見たとしても、“今のノア”があの頃のように気持ちを寄せてくれているかと問えば、答えは分からない。
今のノアは、かつてのエヌとは違うのだから。
「無理に今まで通りでいる必要はないんじゃないか?」
「え?」
顔を上げるとそこにいたのは、月光に横顔を照らされたノアの姿。
漂うランプスの光が、彼の青く美しい瞳に光をさしていた。
綺麗な目だ。エヌのくすんだ瞳とは違う、光を孕んだ美しい瞳だった。
「今まで通りでいられないのなら、新しい関係を築けばいい。今までの“相方”としてでもなく、エヌやエムとも違う、“新しい俺たち”になるんだ」
「新しい、私たち……?」
「少なくとも俺は、ミオにもっと近づきたい。“相方”の境界線を飛び越えて、もっともっと近くなりたい」
もっと近く。
距離感を測りかねていたミオにとって、その言葉は至言だった。
距離感を掴めずにいたのは、離れたかったからではない。もと近付きたかったからだ。
けれど、“相方”という境界線が邪魔をする。
その境界線を飛び越える勇気も大儀名分も、ミオ一人では見つけられずにいた。
けれど、ノアの言葉はたった一瞬でミオの心を奮い立たせてくれる。
近付きたいなら近付けばいい。それが許される2人なのだから、と。
意を決したミオは、ゆっくりと両手を広げた。
「じゃあ、飛び越えて来てくれる?私のために」
なんて恥ずかしいことを言っているんだろう、と今更になって後悔してしまう。
けれど、一度吐き出した言葉を戻すことなど出来るわけもない。
可愛らしく両手を広げて誘うミオに、ノアは一瞬だけ目を見開いたのち、いつも通り柔らかい笑みを浮かべた。
「もちろん。いくらでも飛び越えてみせるよ」
2人の間を隔てる小川を、ノアは再び飛び越えた。
境界線を迷うことなく容易に飛び越えてしまったノアを前に、ミオは緊張して目をぎゅっと瞑った。
きっと抱きしめられる。背中に腕が回ってきて、優しく包み込まれるに違いない。
そう思って覚悟していたミオだったが、彼女を襲ったのは身体を包まれる感触などではなく、後頭部に回される手の感触だった。
驚いて目を開ける。
甲に刻印が刻まれたノアの手がミオの後頭部に触れ、引き寄せられた。
そして、あっという間に口付けられる。
えっ―――。
戸惑ってノアの名前を呼ぶ前に、唇を塞がれてしまった。
違う。そうじゃない。抱きしめられると思ったのに。期待していたのはこんなのじゃない。
こんな、こんな、こんな心臓がハチの巣にされるような行為じゃない。
ノアによって力強く引かれたときめきトリガーは、容赦なくミオの心臓を貫いた。
やがて、3秒ほど経ってようやくノアから唇が解放される。
優しく細められる青い目に、真っ赤な自分の顔が映り込んでいた。
あまりにも顔が近い。ハチの巣にされた心臓が、鼓動を速めながら限界を訴えている。
「な、え、きゅ、急に――」
「あれ?そのつもりで両腕を広げたんじゃ……」
「ち、違う!抱きしめてもらいたくて」
「あっ、そういうことだったのか。ごめん」
腑に落ちたように目を丸くさせると、ノアは今更ミオの背中に腕を回し、その華奢な体を胸の中に仕舞い込んできた。
追い打ちをかけるかのように抱きしめられた瞬間、あまりの羞恥に“ひぅっ”と妙な声が出てしまう。
抱きしめられている身体が石のように固まって、心臓だけが暴れ出す。
そして、真っ赤に染まったミオの耳元で、ノアが深い声で囁き始めた。
「満足した?」
「う、うん」
「そうか。でも俺はまだだから、もう少しこのまま――」
「……うん」
無数のランプスの光が、2人を包む。
風に揺らめくノアの黒髪を見つめながら、ミオは彼の背にそっと腕を回した。
エヌとエムを名乗ったかつての自分たちも、こんな風に抱きしめ合ったりしたのだろうか。
けれど、今はそんなことどうでもいい。
過去なんて関係ない。今日から二人は、新しい“ノア”と“ミオ”になるのだから。
何千年も変わらずそこにある大きな月だけが、2人を見つめていた。