【ノアミオ/タイユニ/ランセナ】
■ゼノブレイド3
■現パロ
■長編
act.11
「やっぱりスプリングマウンテンは欠かせないよねー!」
「ミオちゃん、私コスモマウンテン乗りたい!」
「いいね!あとペーさんのハニーハントも行きたいね」
「うん!行きたい行きたい!」
GWとはいえ、中日の早朝となれば道もそれなりに空いているものである。
隣の県に位置している国内最大級のテーマパーク、ディスティニーランドに向かう車内の一番後ろの後部座席にて、ミオとセナはスマホ片手にはしゃいでいた。
彼女たちが食い入るように見つめているのは、ディステニーランドがリリースしている公式アプリ。
アトラクションやレストランの詳細、さらにはパーク内の混雑状況などがリアルタイムでチェックできる代物である。
2人は昨日の晩、ユーニからこのアプリの存在を知らされてすぐに自分のスマホへインストールした。
現在まだパークは開園していないため混雑状況はチェックできないが、マップ情報だけはいつでも確認可能だ。
手のひらサイズに縮小された夢の国の地図を広げながら、2人は目を輝かせている。
そんな光景を、助手席に座っているユーニはバックミラー越しに微笑ましく眺めていた。
「はしゃぎまくりだな、あの2人」
「そりゃはしゃぐだろ、2人とも初めていくんだろ?」
ユーニの独り言に、運転席でハンドルを握っている隣のランツが反応した。
どうやらそのやり取りが一番後ろの2人にも聞こえていたらしい。ミオが身を乗り出して“私はあるもん!”と聞いてもいないのに自己主張してきた。
ミオやセナの地元はここから新幹線を使わなければならない距離にある田舎であり、今から一行が訪れる予定のディスティニーランドへ足を運んだ者は地元でもなかなかいない。
もし週明けの学校でディスティニーランドからのお土産を配ろうものなら、その者は一瞬にしてヒーローになれるのだ。
パーク内で購入できるお土産は多種多様で、キャラクターが描かれた缶に入ったクッキーは特に喜ばれる確率が高い。
かつて家族で旅行がてらディスティニーランドを訪れたことがあるミオも、休み明けの学校でクッキーが入った缶をドヤ顔で見せびらかしたという微笑ましい思い出がある。
どうせ田舎出身だし、夢の国にはいったことが無いだろう。と思われるのが嫌だったミオは、やはりドヤ顔で行ったことがある過去を披露した。
“どうだ凄いだろ”と言わんばかりに腕を組んでいるミオに、隣のセナは素直に拍手しながら“ミオちゃんすごーい!”と褒めたたえている。
だが、前の座席に座っているミオの彼氏、ノアは察していた。
あぁ、田舎者扱いされるのが嫌なんだな、と。
「ディスティニーのことなら私に何でも任せて!どのアトラクションにどの順で乗ればいいかシミュレーションはばっちりだから!」
「それは頼もしいな……」
ノアの隣、運転席のすぐ後ろに腰かけているタイオンは苦笑いを零しながらミオの発言を聞き流した。
そんなに胸を張って大丈夫なのか?
ノアやランツやユーニは君と違ってディスティニーランドからほど近い地域出身なんだぞ。
ボロが出て恥をかいても知らないぞ。
タイオンの杞憂は、案の定にやけながら後部座席を振り返ってきたユーニの言葉によって現実のものとなってしまう。
「じゃあさ、ミオ的に一番のおすすめのアトラクションは?」
「よく聞いてくれました!人気のアトラクションはたっくさんあるけど、ツウな私はそんな安直なチョイスはしないわ」
「ほうほう。ではミオ先生の一押しは?」
「私の一押しはずばり、ゴーカート!」
一瞬の静寂が訪れる、
まっすぐ前を見ながら運転に集中していたランツが“ぶはっ”と吹き出したことを皮切りに、ノアとユーニも腹を抱えて笑い出す。
何故笑われているのか分からないミオは、キョトンとした表情で彼らの爆笑を見つめていた。
そしてひとしきり笑ったあと、目じりに溜まった涙を拭きながらユーニが振り返ってくる。
「ミオ、ゴーカートはもうねぇぞ?」
「えっ、ない!?」
「確か、ゴーカートで使っていた場所が丸々新しいエリアになったんだよな?」
「あぁ。美女と珍獣のエリアになったな」
「び、美女と珍獣!?そんなエリア私が行ったときはなかったのに!」
「おいおいミオ、ディスティニーのことなら私に任せて!とか言ってなかったか?」
ミオがディスティニーランドに足を運んだのは、実を言うと10年以上前のことだった。
当時は新しいエリアなど出来ていなかったし、まだ小学校に入りたてだったミオには乗れるアトラクションも少ない。
結果、幼児向けのアトラクションにばかりお世話になっていたのだが、中でも広大な土地を走ることが出来るゴーカートはミオのハートを鷲掴みにした。
父が運転するゴーカートはミオの幼い体を右へ左へ激しく揺さぶり、さらに前を走る母の車を執拗に煽り続けることで、公道では味わえないスリリングなレースを楽しむことが出来た。
その時の思い出を語るミオに、一同は若干引いていた。
「ゴーカートで煽りって……」
「害悪ドライバーじゃないか……」
ノアとタイオンの小さなツッコミは、ミオの耳に届くことはない。
居心地が悪くなったミオの様子を苦々しく見ていたセナが、その小さな手でぱちぱちと拍手を贈りながら引きつった顔で言い放った。
「す、すごいよミオちゃん!今はない古のアトラクションを選ぶなんて、本当にツウだね!」
「褒めるポイントが苦しすぎるだろ」
前を見つめながらハンドルを握るランツがぼそっと呟いた。
走行しているうちに、一行の車はディスティニーランドの駐車場ゲートへと差し掛かる。
早めに到着したおかげで、ほとんど並ぶことなく空いているスペースに止めることが出来そうだ。
誘導している職員の指示に従いながら徐行を続ける車の中で、助手席に座っていたユーニは再度背後を振り返った。
「そういえば、タイオンも来るの初めてなんだよな?なんか楽しみなアトラクションある?」
ミオは一度訪れたことがあると言ってたが、セナとタイオンは間違いなく初めての来訪である。
どうせなら、始めて来た面々が心から楽しかったと思えるようにうまく回りたい。
そう考えていたユーニは、セナと同じくディスティニーランド初心者であるタイオンへとにこやかに意見を求めた。
だが、ユーニの顔を一瞥したタイオンは、いつも以上に不愛想な表情でそっぽを向くと、窓に頬杖をついて遠くの景色を眺め始めてしまう。
「別にない。君たちに合わせる」
「あぁ……そう?」
ぴしゃりと言い放たれたその一言に、ユーニは違和感を感じてしまう。
元々タイオンはこのディスティニーランドに来ること自体渋っていたし、あまり気乗りしていないのも分かる。
だが、いつもより数倍愛想がないその態度は、ユーニを戸惑わせてしまう。
そんなに来たくなかったのだろうか。
彼を半ば強引に誘ったのはユーニだった。
どうせなら好きな人も一緒に来て欲しいというユーニの我儘でしかないのだが、人混みが嫌いな人間にとっては苦痛を強いるイベントともいえる。
強引に誘ったのは間違いだったかな。そんな小さな後悔を胸に抱えながら、ユーニは前へと向き直った。
そんな彼女の背中を、逸らされていたタイオンの視線が再び捉える。
不貞腐れたような表情を浮かべながらユーニの後頭部をじっと見つめるタイオンの脳内には、先日大学の食堂で目にしてしまった一幕が何度も再生されていた。
***
入り口との距離が近くなるごとに、軽快なBGMが大きくなっていく。
一歩、また一歩と夢の国の入り口に近付くごとに、心臓が高鳴っていく。
夢と魔法の世界を前に、ミオとセナはとにかくはしゃいでいた。
一方のユーニは今まで何度もここに訪れたことがあるが、それでも毎回心躍ってしまうのは夢の国の魔法にかけられているせいなのだろう。
ミオやセナほどではないが、ユーニもまた、内心はしゃぎ散らしていた。
「入場券を買った方がいいのか?」
「いや、事前に買ってあるから必要ないよ。今LINEで共有する」
「オンラインでチケットのやり取りが出来るのか。便利だな」
「タイオン君よぉ、これくらい都会の人間なら常識だぜ?」
「うるさい」
前方を歩く男性陣3人の会話を見つめながら、ユーニは肩を落とした。
彼らと話している時はいつも通りに見える。だが、ユーニが声をかけるとタイオンは露骨に不機嫌な顔をするのだ。
そして察してしまう。これはディスティーランドに来たくなかったわけじゃない。自分が原因で彼は不機嫌になっているのだ、と。
だが、ユーニには心当たりが全くと言っていいほどなかった。
タイオンの気に障るようなことを言った覚えもした覚えもない。
ならば何故自分にだけあんなに冷たいのだろう。
眉間に皺を寄せて考えていたユーニだったが、背後から回ってきたセナの腕に肩を抱かれ、突然引き寄せられた。
隣を歩いてたミオも同じように引き寄せられ、2人はあっという間にセナに肩を抱かれてしまう。
「ミオちゃん、ユーニ。例の作戦、忘れてないよね?」
「さ、作戦?」
「“ノア攻略大作戦”と“タイオン陥落大作戦”のことだよ!あれっ、“ノア陥落大作戦”と“タイオン攻略大作戦”だっけ?まぁどっちでもいいや」
安直にネーミングされたその二つの作戦は、先日の女子会によって閣議決定された重要なプロジェクトである。
ノアに手を出されたいミオ。タイオンに告白されたいユーニ。
受け身な二人が選んだのは、“相手を誘惑してその気にさせる”というシンプルに願望を口に出した方が明らかに簡単なのではと疑ってしまうほど難しい道だった。
ほとんど忘れかけていたそのプロジェクトの存在を急に引っ張り出されたことで、ユーニは思わずぎょっとする。
「えっ!? それ今日実行するの?ここで?」
「当たり前だよ!ここは夢の国だよ?ノアとタイオンに魔法をかけるにはうってつけの空間だよ!」
「呪いの間違いだろそれ……」
「ここでは誰もがプリンセス。王子様に魔法をかけるなら今しかないよ!」
他人事であるにも関わらず鼻息を荒くしているセナの勢いに圧倒され、ユーニは言葉を失ってしまう。
ユーニとてタイオンを誘惑できるのであれば是非したいとは思っている。
だが今日ばかりはまずい。明らかにタイオンの機嫌が悪いのだ。
強引で相手を振り回しがちな性格だと誤解されることも多いユーニだが、意外にも彼女は空気を読むタイプである。
不機嫌な人間に必要以上に絡みに行って一層空気を悪くしたくない。
そんな考えがユーニの中にあった。
しかし、片やミオの方はというと既に夢の国の魔法にかけられてしまったらしい。
目を輝かせ、小さく両手で拳を作った彼女はセナを見つめ返してこう言った。
「わかったわセナ。私頑張ってみる。この夢の国で立派なプリンセスになってみせるわ!」
「おいなんか主旨ズレて来てないかー?」
「その調子だよミオちゃん!アンダーザシーから見上げる空を魔法の絨毯に乗ってホールニューワールドしながらありのままで空へ風に乗るんだよ!」
「何一つとして意味わかんねぇよ……」
肩を組みながらきゃいきゃいとはしゃいでいる2人の田舎者を見つめながら、ユーニは危機感を抱いていた。
これは間違いない。ディスティニーハイだ。
ディスティニーハイとは、夢の国の非現実的な空気にあてられ、普段はやらない恥ずかしいこともノリノリで出来てしまうんじゃないかと錯覚してしまう現象である。
いつもは堅物生真面目な眼鏡キャラが耳付きのカチューシャを着けてみたり、いつもは不愛想なツンデレ癖毛キャラがにこやかに手を振ってくるキャストに朗らかな笑みを見せながら手を振り返したり、いつもは不愛想で口数少ない褐色キャラが夜のきらめくパレードを目にして一筋の涙を流したり。
兎にも角にも、ディスティニーハイとはそういった“ガラにもない”ことを自然にやってしまう恐ろしい現象なのだ。
そんな厄介な症状に、ミオとセナは呑まれている。
これはまずい。今の2人は、きっと今は自由に空も飛べるはず。なんて馬鹿なことを思っているに違いない。
妙なノリとテンションで男性陣を困らせる前に自分が何とかしなくては。
女性陣で唯一ディスティニーに慣れているユーニは焦っていた。
しかし、そんな彼女の両脇をがっしり掴み、しっかり浮かれているミオとセナは前方を指さした。
「見てユーニ!ゲートが開いたよ!」
「ホントだ!あっ、見て!エントランスにリクとマナナがいる!」
「本当だ!リキにトラもいるよ!」
2人が指さしたのは、開け放たれたゲートの奥。
続々と人々が入園していく中央で、まんまるの着ぐるみがお出迎えしている。
このディスティニーランドの看板キャラクター、リクとマナナである。
もふもふでフワフワでまんまるなその愛らしいボディーを上下に揺らしながら、耳なのか手なのかよくわからない部位で、群がっている子供たちを手当たり次第に撫でている。
その光景を見た瞬間、ユーニは目を輝かせた。
ディスティーハイには耐性がある彼女だが、もふもふにはめっぽう弱いのだ。
「っしゃあ!行くぜお前ら!写真撮りまくるぞーーっ!」
「おーーーーっ!」
「いえーーーい!」
3人の女性陣は、エントランスの向こうにいる毛玉のバケモノめがけて全速力で走り出す。
途中、係員に“走らないでくださいねー”と注意されたことで3人揃って駆け足から速足へと瞬時に移行していた。
自分たちの脇を通り抜けて一直線にリクとマナナへ駆け出した女性陣の背を見つめながら、残された3人の男性陣はあっけに取られていた。
「ミオたち、なんか俺たちの存在忘れてないか……?」
「あぁ。女子のあのテンションには付いていけぇよ俺……」
「同感だな」
互いに苦笑いを浮かべながら、3人は先行していった女性陣を追ってゲート内へと足を踏み入れる。
かくして、特に夢も希望もない6人の夢の世界散策が幕を開けた。
***
エントランスを抜けた入場者が一番に足を踏み入れるには、土産物屋やレストランが軒を連ねているエリア、通称カントリーバザールである。
一行はディスティニーランド玄人を自称するミオの提案で、アトラクションによる前にこのカントリーバザールを散策していた。
6人が入った店は、主に雑貨を扱うショップ。開店直後問うこともあり人が少ない店内は、実に快適に商品を眺めることが出来る。
文房具の陳列棚を見ていたユーニは、ペン立てに大量に立てかけられている可愛らしいボールペンに目を奪われた。
伝説のカムカムが先端にあしらわれたそのボールペンは、髪にペン先を走らせるたび先端のカムカムがぴくぴくと揺れる。
なんだこれ可愛い。買おうかな、と迷っていると、棚の向こうにいるノアとミオの姿が視界に入ってきた。
「ねぇノア、これ可愛くない?」
そう言ってミオが指でつまみ上げたのは、ディスティニー映画に登場するモンスター、グロッグのキーホルダーだった。
その光景を見てユーニは絶句してしまう。
え、可愛くない。1ミリたりとも可愛くない。むしろグロイ。
大口を開けて長い舌を飛び出させている姿を捕らえたそのキーホルダーは、見た目のインパクトだけは抜群だ。
何故ディスティニーの運営はあの気色悪いモンスターをグッズ化したのだろう。
というか、ノアにはあんなグロイモンスターを“可愛い”と思える尖った感性などないはず——。
「ホントだ。可愛いな」
うそだろおい!
棚の陰から見守っていたユーニは、思わずそう叫びたくなってしまった。
どうやら冗談は行っていないらしく、ノアは朗らかな顔でミオが指でつまみあげているグロッグのキーホルダーを見つめている。
「でしょ?買っちゃおうかな」
「いいんじゃないか?キーホルダーなら小さいし、今買っても荷物にならないだろうから」
「ねぇノア」
「ん?」
「あのね、よかったらこれ、お揃いで買わない?」
はぁ?正気か?正気なのかミオ!
頬を赤らめながらもじもじしているミオの手には、やけに造詣がリアルなグロッグのキーホルダー。
それを差し出しながら、交際中のあいてにお揃いを強請る彼女の様子に、ユーニは驚きを隠せなかった。
だが、ノアは特に驚く様子もなくミオの申し出に微笑みをかえす。
「そうだな。せっかくだしお揃いで買おうか」
「本当?やった!」
そう言って、ノアは自分の分のグロッグキーホルダーを棚から撮ると、ミオと寄り添いながらレジへと向かってしまった。
この店には数百種類の可愛いグッズが並んでいる。
星の数ほどあるグッズの中から、何故よりによってあんな尖ったセンスのキーホルダーを選んでしまったのか。
お揃いにするにしてももっと可愛い奴にしろよ、絶対帰ってから“なんでこんなキモイの買ったんだっけ…”って後悔するやつだろ!
ユーニの心の叫びは、背景にお花畑を浮かべたノアとミオには届かない。
幸せそうな2人の様子を見つめていたユーニは、ここで初めて気が付いてしまった。
まさかあれはミオの策略か?と。
普段のミオなら、自分からノアにお揃いのグッズを買いたいだなんて積極的なことは言わないはずだ。
先ほどセナたちと話していた“ノア陥落大作戦”を実行するため、勇気を振り絞って積極的になっているのではないだろうか。
だとしたらグッズのチョイスだけは意味不明だが、こちらも負けていられない。
今のミオには、ディスティニーハイという名の大きなバフがかかっている。
このバフは恥を恥とも思わないという、作戦実行においては非常に役に立つバフである。
しかし、ディスティニーランドに慣れきっているユーニには耐性があり、そのバフに頼ることはできない。
であるならば、この巣の状態で何とか大胆になるよう心掛けなければならない。
一歩リードしているミオ相手に巻き返しを図るため、ユーニは店内を見渡し、自らの王子様を探し始めた。
一方、タイオンはショップの入り口付近に陳列されていたおもちゃコーナーを眺めていた。
そのうちの一つ、スティック状になっているおもちゃになんとなく興味を引かれ、手に取ってみる。
先端が三又に割れており、それぞれに可愛らしいミツバチの飾りがついている。
スティック状になっている柄の部分には何やらON、OFFと書かれたスイッチがついている。
そのスイッチを気まぐれでONに切れ替えたその時だった。
チャンチャラランランチャラチャラチャラチャラと非常に愉快な音楽と共にステックは光りだし、先端についていたミツバチたちヴイーンと機械音を上げながらがものすごい勢いで回転し始めたのだ。
色とりどりの光を放ち、愉快な音楽と共に回転するミツバチを無の表情で見つめている彼は知らなかった。
これは幼児向けに作られた者であるという事実を。
だが、何も知らずに回り続けるおもちゃを見つめているタイオンは心の中で叫んでいた。
“なんだこの洗練された間接照明は!ハイセンスすぎる!”と。
ディスティニーハイ。それは夢の国の雰囲気に宛てられてメルヘンかつハイテンションになってしまう現象のこと。
この症状に見舞われていたのは、ミオやセナだけではなかった。
そう、このタイオンという男も例外ではない。
一度もディスティニーランドを訪れたことが無かったタイオンにとって、今はまさに初体験の真っ最中。見るものすべてが新鮮さに溢れ、そのメルヘンチックかつロマンチックなパーク内の雰囲気に、彼のテンションは密かに上がりつつあった。
幼児向けの光るおもちゃに感動してしまうほどに、今のタイオンは非常にウキウキしているのである。
この色とりどりの光、枕元に設置すれば夜寝る前にベッドで寝転がりながら本を読むのに最適じゃないか。
しかもこの音楽、妙に警戒で愉快だからか聞いているといい気分になれる。
そしてこの高速回転するミツバチがまた愛らしい。
計算しつくされたこの間接照明を開発した人物はきっと現代のエジソンと呼ぶにふさわしい人間だろう。帰ったらすぐに開発者を調べてみるとしよう。きっと50年後には教科書に名前が載るほどの偉人になっているに違いない。
高速回転するミツバチを見つめながらそんなことを考えていたタイオンだったが、突然頭に何かが乗せられる感覚を覚え、咄嗟におもちゃの電源をOFFに切り替えた。
癖毛の頭を触ってみると、もじゃつく頭の上には耳のような何かが鎮座している。
それがカチューシャであるということに気付くまでそう時間はかからなかった。
背後を振り返ると、そこには少しだけ恥ずかしそうにしているユーニの姿。
その顔を見た瞬間、不本意に心臓が跳ねあがった。
「な、何の真似だ」
「せっかく来たんだしカチューシャくらい着けたほうがよくね?」
「僕はそういうのは着けない主義なんだ」
「いいじゃん。割と似合ってるぞ?」
「嬉しくない」
ユーニの手によって装着されたカチューシャを取り払おうと頭の上へ手を伸ばしたタイオン。
そんな彼の阻止するように、ユーニは次の一手を言い放つ。
「アタシもお揃いの着けるから。な?いいだろ?」
そう言って、彼女はもう一つのカチューシャを胸の位置で見せてきた。
ノポンの手をモチーフにしたモフモフのかちゅーで、色はピンク。
タイオンの頭に乗っているカチューシャは、同じタイプの青。つまりは色違いである。
お揃い。ユーニとお揃い。
その事実が、タイオンのディスティニーハイに拍車をかけていく。
普段は絶対にしないことでも、その場の空気でなんとなく出来てしまうというこのバフは、タイオンにも有効に働いた。
「し、仕方ないな……」
「よっしゃ!じゃあせっかくだし写真撮ろうぜ」
「え!?」
タイオンが何か言う前に、ユーニはカチューシャを装着し手早くカメラを構えた。
強引にタイオンの腕に自分の腕を絡め、狭い画角に収まるよう無理やり距離を詰める。
顔と顔が触れ合いそうになるほど接近したことで、タイオンはぐっと息を呑んでしまう。
相変わらずユーニは男との距離の取り方がおかしい。
強引に距離を詰めて、相手の懐に入るのが上手すぎるのだ。
その強引さで、いったい何人の男を夢中にしてきたのやら。
恐らく、大学の食堂で見た男もその一人なのだろう。
あんなに近い距離で会話して頭を撫でられるだなんてどうかしている。
僕は絶対に勘違いしたりしないぞ。君がどんなに近い距離で見つめて来ても、どんなにかわいい声で名前を呼んできても、心揺らいだりなんてしない。
僕たちはどこまで行っても友達で、この関係が変わることなんてない。だから期待するな。期待したところで馬鹿を見るのはこっちなのだから。
こんなモテる人のことなんて、好きになっちゃいけない。
好きなわけがない。
接近するユーニの気配に息を殺しながら、タイオンはカメラから顔を逸らすのだった。
act.12
カントリーバザールを抜けた一行は、マップを表示させたスマホを装備しているミオの先導に従い、パーク西側から回っていくことにした。
西方向に歩き出した一行の前に見えてきた一番最初のアトラクションは、“カルビの海賊船”である。
この世界のどこかにあるという伝説のカルビを探す海賊たちの物語を題材としているアトラクションで、20人ほどが乗れるボートに乗って海賊気分を味わうことが出来るのだ。
セナの“乗りたい!”の一言で、最初のアトラクションはこのカルビの海賊船に決定した。
GWの週末である今日は、通常なら非常に混雑するタイミングなのだが、今日だけは比較的空いていた。
というのも、3日前から天気予報上では豪雨になる予定だったからだ。
しかしその天気予報は外れ、雲を交えた青空が広がっている。
雨の予報を見て来園を避けた者も多かったのだろう。GWにしては人が少ないお陰で、カルビの海賊船の待ち時間は10分ほどだった。
「これはどういうアトラクションなんだ?」
ボートへの乗り場を目の前に、タイオンが問いかけて来る。
そんな彼の言葉にいち早く反応したのは、ノアだった。
「あの船に乗ってゆらゆらしてるだけだよ」
「まったくワクワクしない説明だな。急降下はないのか?」
「ねぇな。割と大人しめなアトラクションだぜ?」
「そうか」
「もしかしてタイオン、絶叫系苦手なのか?」
にやつきながら聞いてくる背後のユーニに、タイオンはぎくりと背筋を伸ばした。
正直、図星だった。
三半規管が弱いタイオンは、人よりも乗り物酔いしやすく、ジェットコースターなどの急降下を繰り返す乗り物が昔から苦手なのである。
しかし、プライドが高いタイオンがその事実を認めるわけがない。
腕を組みながら引きつった笑みを浮かべつつ、彼は反論する。
「そんなわけないだろ。ただちょっと確認しただけだ」
「ふぅん」
タイオンの言葉を信じていないらしく、ユーニはいまだにニヤついている。
彼女にだけは知られるわけにはいかない。
絶叫マシンが苦手だと知られたら、確実に馬鹿にされるだろう。
それだけは死んでも嫌だった。
やがて、自分たちが乗船する番が回って来た。
ボートは一列4人までしか座ることが出来ないため、係の人間によって4人と2人に分かれるよう指示を貰った。
交際しているノアとミオを一緒に乗船させるのは自然の流れだった。
前の列にいるカップルの隣にノアとミオが座り、
その一つ後ろの列にセナ、ランツ、ユーニ、タイオンの順で乗り込む。
「いってらっしゃ~い!」
にこやかに手を振るキャストに見送られ、ボートは発進する。
塩素の匂いが漂う中、ゆっくりと進むボートの上でセナが右手側を指差した。
「うわっ、レストランがある!」
ボートが進む進路の脇に、水面上に建てられたレストランが確認できた。
薄暗い中でテーブルの上に置かれた蝋燭の炎だけが揺らめている光景は、とても幻想的である。
さらにボートは進み、暗闇へと突入する。
どこからともなく聞こえてくる不気味な声が、この先に待っている危険を警告していた。
その声を聞きながら、タイオンは眉間にしわを寄せた。
“なんだこの不穏な空気は”と。
すると、隣に座っていたランツが不意に“あっ”と声を漏らした。
「悪いタイオン。さっき俺嘘ついたわ」
「え?」
「急降下、あるわ」
「なっ……」
ランツの一言は、死刑宣告にも思えた。
戸惑いを覚えたその瞬間、前方から凄まじい勢いの水音が聞こえてくる。
それは、この先急降下が待っていることを意味していた。
暗闇で先が見えないという事実が、恐怖感を煽っていく。
そして、とうとう訪れた急降下の瞬間、タイオンの“ワーーーーーー!!!!”という情けない声だけが暗闇に響くのだった。
やがて、伝説のカルビを探す5分ほどの遊覧は終わりを告げた。乗る前に比べてげっそりしているタイオンをユーニは指をさしながら笑っている。
ボートが停泊するとともに、乗っていた一同は次々に降りていく。
船の一番奥に乗っていたセナは、必然的に最後に降りることになる。
船の上は不安定で、甲板との繋ぎ目も高低差がある。小柄なセナには、その高低差をまたぐことは少々難しかった。
大きく足を上げて船から上がろうとした彼女だったが、目の前に差し出された手のひらに気付き、顔を上げる。
「ほら、つかまれよ」
「う、うん」
手を伸ばしてきたのはランツだった。
差し出された大きなその手を掴むと、力強く引き寄せられる。
よろけながらもようやく船から降りることが出来たセナに笑いかけると、ランツは先に行った仲間たちを追って歩き始めてしまった。
あれ、なんだろう。ランツが優しい。
胸に生まれた小さなときめきに気付いたセナは、少しだけ赤くなりながらランツの背を追った。
***
以降、6人は目に付いたアトラクションを片っ端から攻略していった。
ノリのいい船長の案内により密林を旅するジャングルブルース。
鉱山の間を縫うように高速移動するビッグワンダーマウンテン。
滝つぼへ真っ逆さまに落ちていくスプリングマウンテン。
端から順に攻略していった結果、午前中だけで5つほどのアトラクションを楽しむことが出来た。
そろそろ昼時になろうかというタイミングで、一行はこのディスティニーランド内で唯一のホラー系アトラクション、ホーンテッドアパートへと向かった。
999人もの亡霊が住みつくという不気味なアパートを散策するというアトラクションである。
外観からして不気味なその建物を見上げながら、ミオはユーニへと問いかける。
「ユーニ、このアトラクションは大丈夫なの?」
「へ?何が?」
「ユーニってホラー苦手じゃなかったっけ?」
ユーニは昔からホラーが苦手だった。
映画やゲームは勿論のこと、お化け屋敷などの体感型も当然苦手である。
それを知っていたミオは、ホラー要素があるこのアトラクションにユーニが問題なく乗れるのかどうか心配になったのだ。
「これは子供の頃から何回も乗ってるからな。まぁ初めて乗った時は泣きじゃくったけど」
「ほーう、君がか」
「その目ヤメロ」
目を細めるタイオンをユーニは睨み返した。
ホラーが苦手な事実を知られれば、タイオンから揶揄われる恐れがある。
妙な弱みを握られるのは御免だった。
そうこうしているうちに、一行はキャストに促される形でアパートの中へと足を踏み入れる。
複数の絵画が飾られている空間に通されると、目の錯覚を疑うような光景が広がり始めた。
部屋が伸びているのか、それとも床が下がっているのか、とにかく不思議な仕掛けを前に、初めて訪れたセナとタイオンは口をあんぐり開けたまま硬直していた。
そして、入って来た場所とは反対側の扉が開き、卵型の乗り物がとめどなく流れている空間へと促された。
ホーンテッドアパートは、ライド型のホラーアトラクションである。
二人掛けのこの乗り物に乗り込み、亡霊渦巻く建物の中を散策していくのだ。
乗り物に乗り込む列に並んでいる間、流れていく卵型の乗り物を目で追いながら、ノアは全員に問いかける。
「二人乗りだけど、組み合わせどうする?」
「さっきと同じ組み合わせでいいだろ」
ランツの言う“さっきの組み合わせ”とは、先ほど乗ったアトラクションで隣同士になった組み合わせのことである。
ディスティニーランドのアトラクションの多くは2人で乗り込むタイプであり、今まで乗って来たアトラクションもほとんどが2人1組の組み合わせを作らなくてはならなかった。
そのたび、ノアとミオ、ランツとセナ、タイオンとユーニの組み合わせに分かれて乗り込んでいる。
交際しているノアとミオの組み合わせは頷けるが、ランツとセナ、タイオンとユーニの組み合わせはその場の雰囲気で何となく決定されてた組み合わせでしかない。
有無を言わさずこの組み合わせで放り込まれることに、タイオンはムッとしながら口を開いた。
「またこの組み合わせか?」
「なんだよ、不満か?」
「別にそういうわけじゃないが……」
不満が無いと言えば嘘になる。
毎度毎度ユーニが隣に乗り込むと、距離が近くていやでも意識してしまうのだ。
今は正直、彼女となるべく距離を開けておきたい。
ユーニが接近するたび、あの学食で見た知らない男との光景が脳裏によぎってたまらなくなるのだ。
一方、タイオンが明らかに自分と一緒に乗りたがっていないことにユーニも気付いていた。
“不満じゃない”と言いつつ見るからに不満そうなその顔に、心がもやもやする。
先ほどから自分にだけやたらと冷たいタイオンの態度は、ユーニを苛立たせるのに十分な威力を発揮している。
なんでそんなに嫌そうなんだよ。アタシのこと好きなんじゃないのかよ。
タイオンの不満とユーニの不満が、見えないところでぶつかり合う。
互いの本音を見透かすことが出来ないまま、一行の乗り込む番が回って来た。
まず最初に乗り込んだのはノアとミオ。
次のゴンドラにはランツとセナ。
そして最後はタイオンとユーニが乗り込んだ。
1つずつ独立しているゴンドラは、これまでの連結していたアトラクションとは違い、すぐ横に他のゴンドラが並んでいるとはいえ二人きり感が強い。
いざゴンドラに乗り込み、ノアの横に座った瞬間、ミオはこの卵型のゴンドラが醸し出す“二人きり感”にようやく気付き、小さな焦りを感じ始めた。
あ、どうしよう。
思ったより緊張するかも。
すぐ隣にいる彼氏の存在に今更緊張を覚えつつも、今朝セナたちと交わした約束を思い出す。
ノア陥落大作戦。この重大任務を遂行中の今、2人きりになれたこの瞬間は絶好の機会と言えるのではないだろうか。
今こそノアを誘惑する時。そう意気込んでみたものの、何をすればいいか分からず尻込みしてしまう。
そもそも誘惑って、どうすればいいの?
何をすれば“可愛い”と思ってもらえるの?
今まで何もかも受け身だったミオには、ノアを誘惑する術が何一つとして思い浮かばなかった。
そうこうしているうちに、ゴンドラは不気味な建物を突き進んでいく。
やがて一列に並んだゴンドラが一方向を向き、後ろ向きに進み始めた。
正面に見えているのは前のゴンドラの背中部分。
横に見えている墓の仕掛けを眺めていたその時だった。
進み続けていたゴンドラがぴたりと止まり、急に動かなくなってしまった。
イタズラ好きの亡霊がまた邪魔をしたようだな。 諸君はそのまま座っていて欲しい。 すぐに動き始めるから。
そんなアナウンスがゴンドラの背もたれに設置されたスピーカーから流れ始める。
おそらく乗降口で手間取ったゲストがいるのだろう。
薄暗い中でぴたりと止まってしまったゴンドラの中、ミオアは気まずい思いをしていた。
こういう時、どんな話をすればいいのだろう。
そう思っていると、不意に安全バーに添えられたミオの手にノアの手が重なる。
反射的にノアの方へと視線を向けると、彼の整った顔が近づいてくる。
一瞬だけ唇が重なったことで、心臓がドキリと跳ね上がった。
「え……」
「なかなか二人きりになれなかったから、こういう時じゃないと出来ないかなって」
“嫌だった?”
そう言って微笑むノアに、ミオはふるふると首を横に振った。
嫌なわけがない。
ノアと交わす口付けはいつだって甘やかで、心を熱くさせてくれる。
いつもなら照れて微笑むことしか出来ないミオだったが、夢の国の魔法にかけられている今日の彼女は一味違う。
いつもの受け身な自分の殻を破り、大胆不敵にノアを誘惑するため、意を決して顔を上げた。
「ノア」
「ん?」
「もういっかい、して?」
重ねられた手に指を絡め、ほんの少し空いていた体の距離を詰めてみる。
肩と肩が触れ合うほど接近しているせいで、この暗がりの中でも琥珀色の美しい瞳が良く見える。
ほんの少しだけ頬を赤らめながら上目づかいで強請ってくるひとつ年上の彼女に、ノアは息を呑んだ。
ミオは可愛い。けれど、今日はいつも以上に可愛い。
彼女のガラにもない大胆さに、ノアは珍しく心を搔き乱されていた。
「な、なんだそれ。ちょっと……可愛すぎないか?」
「えっ、そ、そうかな?」
ストレートに褒められたことで、ミオは少しだけ照れてしまう。
こめかみを掻きながら苦笑いを零すミオの頬に、男性にしては細くしなやかなノアの手が伸びて来る。
頬に添えられた手によって横を向かされたミオの唇に、再びノアの口づけが降って来る。
一瞬だけ触れただけの先ほどとは違い、柔らかな唇を食むような口付けだった。
目を閉じたままノアの口付けを味わうミオの心は、緩やかに溶けていく。
これは作戦成功と言っていいのだろうか。
ここがアトラクションのゴンドラ内だということをすっかり忘れている2人は、動き出すまでの間ずっと口付けを交わしていた。
一方、そんな二人のゴンドラの後ろに乗っていたランツとセナは、ノアとミオが乗っているであろうゴン空の背中を見つめながら揃って腕を組んでいた。
2人の目は、何故かやたらと険しい。
「ランツ君問題です。こういう時相乗りしたカップルがすることといえばなんだと思う?」
「そりゃあアレだろ。キッスだろ」
「だよね。キッスだよね」
ノアとミオが腰掛けているであろうゴンドラを穴が開くほど見つめている2人。
見えているのはゴンドラの背中部分だけだが、まるで中にいる二人の行動が透けて見えているようだった。
ノアとミオは仲睦まじい恋人同士ではあったが、家の中では他の目もあるせいかあまり分かりやすくいちゃつくことはない。
ミオの話を聞く限り、彼女の方はそれなりにノアと身体的接触を図りたいという欲はあるらしい。
人目がある場所ではやらないだけで、2人きりになった時は信じられないほどイチャついているのかもしれない。
やはり他のカップルのように、あの二人もゴンドラの中で熱いキッスを交わしているのだろうか。
ミオとノアが身体をくっつけ合い、イチャイチャとハートを飛ばしながら仲良くしている光景を想像し、セナは複雑な気持ちになってしまった。
「けど、ノアもミオの常識的な奴だし、あの二人に関してはしないだろ」
「そ、そうだよね!仮にもここは公共の場だし、他の人も近くにいるのに恥ずかしげもなくキッスなんてするわけないよね!」
「当たり前だろ~?あのノアとミオだぜ?ありえねぇって~」
「だよね~」
「はははははっ」
「あははははっ」
「……」
「……」
感情のこもっていない台詞を吐きながらひとしきり笑った後、二人の間に沈黙が訪れる。
数秒間の静寂の後、安全バーに頬杖を突いたランツが死んだ目で前のゴンドラを見つめながら言い放った。
「いや、するだろ普通」
「えっ」
「こんな暗がりで二人きりだぞ。しかもここは夢の国。どんなに真面目な奴でもアホになるだろ。するだろキッスくらい」
「そう、なの?」
「少なくとも、俺なら好きな女とそういう状況になったら絶対にする。5回はする」
「ご、5回!?」
そんなにするんだ……。
ランツがまだ見ぬ彼女もどきと5回キスをしている光景を想像し、セナは頬を赤らめた。
ランツってちょっと強引そうだもんなぁ。彼女側が遠慮しても有無も言わさずぶちゅーってするんだろうなぁ。もし好きな人にそんな強引に迫られたら、きっとどきどきするんだろうなぁ。
そんなことを考えていると、隣から注がれる視線に気づいてしまう。
ふと顔を上げると、そこにはニヤ―ッと揶揄うような笑みを浮かべているランツの姿があった。
「お前さん、今やらしーこと考えてたろ?」
「えっ、な、考えてないよ!」
「嘘つけ。顔真っ赤にしやがって。どうせ“私だったらそんなことされたらどきどきしちゃうかもー”とか下らねぇこと考えてたんだろ」
「うっ……」
ほとんど図星だった。
考えていたことが丸々顔に出ていたらしい。
あまりの恥ずかしさにさらに顔に熱がこもってしまう。
不貞腐れながら体ごとそっぽを向けると、ランツは“怒んなよ~”と笑いながら頭を乱暴に撫でてきた。
ランツといると、なんだか心が落ち着かない。
この気持ちは何だろう。
とにかくもう、早くゴンドラが動き出してほしい。
そんなことを考えながら、セナは赤い顔のまま唇を尖らせた。
ランツとセナがじゃれ合っていたその頃。彼らのすぐ後ろに位置しているゴンドラの中で、タイオンとユーニは沈黙を貫いていた。
この世のすべての気まずさを詰め込んだような空間で、ユーニは隣に座るタイオンをちらちらと見つめている。
相変わらず彼は不機嫌なままで、その原因は未だに掴めない。
せめて理由だけでも知りたいと思っていたユーニだったが、2人きりになることが出来た今が好機なのかもしれない。
そう考えたユーニは、気まずい沈黙を破るため口を開いた。
「あのさ、さっきから何なんだよ」
「何がだ?」
「不機嫌じゃん」
「そんなことはない」
「誤魔化すなよ!明らかにムッとしてんじゃん。しかもアタシに対してだけ!」
タイオンは相変わらずそっぽを向いたままこちらを見ようとはしない。
誤魔化そうとしているが、彼が自分にだけ冷たい態度をとり続けていることは明らかだった。
「アタシ、なんかした……?」
元々タイオンは愛想がいい方ではなかった。
だが、今日のように明らかに自分にだけ冷たくされれば流石に不安を覚えてしまう。
もしかすると、自分でも気づいていないところでタイオンの琴線に触れるようなことをしてしまったのかもしれない。
もしそうなら謝りたかった。
肩を落とし、悲し気に目を伏せるユーニを前に、タイオンはようやく逸らしていた顔を向ける。
珍しくしゅんとしている彼女の姿を見た瞬間、罪悪感が生まれてしまう。
こんな態度をとり続けたせいで、ユーニを傷つけてしまったのかもしれない。
「い、いや別に……。君のせいじゃない。僕が個人的に思うところがあっただけで」
「だからそれが何なんだって聞いてるんだよ!理由も分からず突き放されたら腹立つに決まってるだろ?」
距離を取ろうとしても構わず詰め寄って来るユーニに、タイオンはもはや誤魔化す術を失ってしまう。
こんな情けない事、言いたくはなかった。
だが、もう隠し通せそうもない。
ほとんど自棄になったタイオンは、“じゃあ言わせてもらうがな”と前置きをしながら声を荒げ始めた。
「前々から思っていたが、君は男との距離感が近すぎる!」
「はぁ?」
急に言い放たれた素っ頓狂な文句に、ユーニは思わず間の抜けた聞き返し方をしてしまう。
そんな彼女の反応を横目に、タイオンはまくしたてるように彼女へのクレームを続ける。
「誰彼構わず距離を詰めるその性質どうにかならないのか!? 見ていてヒヤヒヤする!誰とでも親しくなれるのは君の美徳だが誰にでも近い距離感で接していたら勘違いする男が出てくるかもしれないだろ!哀れな勘違い男に付きまとわれでもしたらどうするんだ!?」
「え、いや……」
「この前のあの男もそうだ!簡単に頭を撫でられたりして……。隙が多すぎるんだ君は!」
「この前の男?」
「この前学食でイチャついてただろ!キャップをかぶった男!付き合っていないとしたら距離が近すぎるし、付き合ってたとしたら恋人の有無くらいルームメイトなんだから話してくれてもいいだろ!」
タイオンの言う、“学食でイチャついていた男”という存在に全く身に覚えがなかったユーニは首を傾げるが、“キャップをかぶった男”という追加情報を得たことでようやく合点がいった。
そして、一瞬のうちに笑いがこみ上げてくる。
クスクスと笑いを噛み殺すユーニに気付いたタイオンは、不機嫌丸出しの表情で彼女を睨みつける。
「何がおかしい?こっちの気も知らないで……」
「いや、悪い悪い。だってお前、めちゃくちゃ勘違いしてるんだもん」
「勘違い?」
「お前が見たそれ、男じゃねぇよ?」
「えっ……」
「女だよ!おーんーな!」
先日、ユーニが学食で会話した“キャップを被った人物”というのは、経済学部に所属している一つ上の先輩学生、アシェラである。
スレンダーで高身長、さらにメンズ服を好んで着ていることから、男性に間違われることが多いらしいが、彼女は立派な女性である。
学部交流を目的とした飲み会で知り合ったユーニとアシェラは、性格上の共通点も多く、大学内で会えば立ち話する程度の友人として付き合いがあった。
タイオンが姿を見たその日も、学食で空いている席を探していたユーニの視界にたまたまアシェラが映り、隣の席に座ってただの世間話に興じていただけのこと。
その日のアシェラは深めのキャップを被っており、長い黒髪を一つに束ねてキャップの中にしまっていたため、後ろ姿だけ見れば確かに男に見えても可笑しくはない。
そんなアシェラとユーニの姿を見て、タイオンは“ユーニが自分の知らない男といちゃついている”と勘違いしてしまったのだ。
「じょ、女性だったのか……」
「そ。男っぽい奴ではあるけど、間違いなく女だよ」
「そうか。そう、だったか……」
「そんなことよりさ——」
口元を手で覆いながら視線を泳がせるタイオン。
そんな彼の顔を覗き込みながら、安全バーに頬杖を突くユーニは悪戯な笑みを浮かべつつ問いかけた。
「もしかして嫉妬してた?」
「なっ、なんで僕が!」
「アタシが男とイチャついてたから怒ったんじゃねぇの?」
「そんなわけないだろ!どうして僕がそんなことでいちいち嫉妬しなくちゃいけない!? あり得ない!」
「ふぅん」
プライドが高い彼は、そう簡単に嫉妬の事実を認めようとはしない。
だがユーニにはお見通しだった。彼が嫉妬して結果あんなに冷たい態度をとり続けていたことを。
あまりにもわかりやすりタイオンの様子に、ユーニは含み笑いを浮かべつつ独り言のようにつぶやく。
「なぁんだ。ちょっと嬉しかったのに」
ユーニの一言は、タイオンを翻弄する。
また心にもないことを……。どうせ揶揄っているだけで、その言葉の裏に意味など何もない。
そう自分に言い聞かせていながらも、心のどこかで歓喜してしまっている自分がいた。
あぁもう違う。変に期待するのはヤメろ。
真っ赤な顔を隠すように眼鏡を押し上げるタイオン。
その横で、ユーニは密かに彼の様子をうかがっていた。
相変わらず拗らせているタイオンには、少し強引な手段をとって距離を詰める他ないのかもしれない。
未だ“タイオン攻略大作戦”を成功させていないユーニは、次の一手を思いつき、ほくそ笑むのだった。
***
おまけ
ちょっとした登場人物設定メモ
【タイオン】
アイオニオン国際大学 法学部3 年生。年齢20歳。
誕生日は12月。
生真面目な性格で、誠実な反面少々頭が固くプライドが高い一面を持つ。
地元は地方の片田舎であり、高校は1学年1クラス程度しか在籍していない小さな学校だった。
ミオやセナとは同じ高校出身であり、学年が違うものの全体の生徒数が少なかったため顔を合わせる機会も多かった。
大学近くのカフェでアルバイトをしている。
実母を幼い頃になくしており、父親に男手1つで育てられた。実家は地元で有名な温泉旅館。
高校まで弓道に打ち込んでおり、その実力は相当なものだったが大学進学を期に辞めている。
成績優秀で、大学でも主席候補と謳われるほどの学力を持っている。
ユーニとは学部間交流会の飲み会がきっかけで親しくなり、出会ったその日に好意を寄せるようになった。
しかし、異性にモテるユーニと自分とでは釣り合わないと考え、ユーニへの好意を否定し続けている。
料理が大の苦手で、どんなに簡単な料理も彼の手にかかれば劇物になってしまう。
act.13
イッツ・ア・スモウワールド。
身体の小さな少年が力士を目指し、世界各地を旅するという物語を描いたハートフルなアトラクションに6人は乗っていた。
腰縄を身に着けた小柄な少年は、ちゃんこ鍋ひとつだけを持って世界を旅し、そこで出会った子供たちと相撲を取って交流を深めていく。
その様子を船に乗りながら、あの有名な曲と共に体験していくのがこのアトラクションの醍醐味である。
世界中誰だって四股踏めば横綱さ
みんなそれぞれ張り手合う 小さな世界~
「なんていい曲なんだ……!」
「えぇ……」
斜め上すぎる世界観に茫然としていたタイオンだったが、隣の席に座っていたノアが突如一筋の涙を流したことでようやく我に返った。
このアトラクションに乗っている間延々と流れているこの相撲ソングにいたく感動を覚えたらしいノアは、顔を覆いながらボロボロと涙を流している。
ノアは両親や兄が音楽家で、所謂音楽一家の生まれである。
彼自身もフルートやクラリネット、サックスにトランペットなどと言った管楽器をはじめ、ギターやベース、ドラムなどの軽音楽器、さらにはピアノのような鍵盤楽器まで幅広く精通している。
そんな音楽の知識に明るいノアだからこそ、この頓珍漢な歌も素晴らしいと思えるのだろうか。
少なくともタイオンにはその感性はなかった。
「ノアお前、ここ来るといつも泣いてるよな」
「仕方ないだろ?こういうのに弱いんだ」
ユーニの言葉に、ノアは目尻に溜まった涙を拭きながら答えた。
そんなノアの隣では、ランツが眠そうにこくりこくりと首を揺らしている。
泣くのも寝るのもこのアトラクションの反応として決して正しくはないと思われる。
こんな状況をもろともせず、周りの景色を見つめながら目を輝かせるミオとセナを尻目に、タイオンは苦笑いを零した。
やがて、一行を乗せたボートは降り口へと到着する。
ボートの停止と共に乗船していたゲストたちは一斉に立ち上がり、船から降りていく。
このアトラクションもまた、カルビの海賊船とほとんど同じ構造のボートが使用されており、降り口と船の床には相当な落差があった。
セナが足を大きく上げて船から降りようとしたその時、先に降りていたランツがまたも“ほら”と手を伸ばしてきた。
まるでエスコートするかのようなその紳士的な行動は、普段のランツからは想像もできないくらい優しい。
少し照れながらその手を取ってお礼を言うと、ランツはさも当たり前のように“いいって”とはにかみながら去っていく。
その背を見つめながら、セナは妙な高揚感を覚えていた。
なんだろう。今日のランツ、なんか優しい。
いやいや、ランツは基本的にいつも優しいけれど、そういう優しさじゃないというか。
なんというかこう、かっこいい。
そう、かっこよく思えるのだ。あのランツが。出会って以降友人として付き合ってきたあのランツが。
今日に限ったことじゃない。
一緒に住み始めて以降、ランツとの物理的な距離が縮まったせいかやけにドキッとさせられることが増えたような気がする。
これはどうしたものか。ランツはセナにとって貴重な異性の友人だ。
折角仲良くなれた男友達を失いたくはない。
自分がランツに小さなときめきを覚えていると本人に知られたら、たぶんきっと妙な空気になる。
今の関係に居心地の良さを感じていた彼女にとって、それは避けるべき未来であった。
気のせいだ。たぶん気のせい。思い違いだ。
そう自分に言い聞かせ、セナはランツの背を追いかけた。
***
その後も一行は様々なアトラクションを巡った。
ピーターポン山の旅。黒雪姫と七人の大人。エノキオの冒険旅行。
そのほとんどが二人乗りのアトラクションだったのだが、いつもノアとミオ、ランツとタイオン、セナとユーニの組み合わせで乗っていた。
毎度毎度、組み合わせを決める際にユーニが猪の一番に手を挙げ、“セナと一緒に乗りたい”と主張するのだ。
当のセナも悪い気はしなかったが、“タイオン攻略大作戦”実行中であるこの状況に、自分ばかりがユーニの隣を独占してしまっていいのかという戸惑いもあった。
アトラクションを楽しんでいる間、小声で“タイオンはいいの?”と聞いてみたが、“いいんだよ気にすんな”とユーニはいたずらに笑っていた。
ユーニの考えが読めず難儀するセナだったが、一方のタイオンもまた同じ気持ちでいた。
先ほどまではなんとなくの雰囲気でノアとミオ、ランツとセナ、そしてユーニと自分の組み合わせで乗っていたというのに、急に“セナとがいい”と言い出すなんて。
まるで自分を避けているかのようなユーニの態度に、タイオンは不満を抱いていた。
そんな中、一行はこのディスティニーランド内でも屈指の人気を誇るアトラクション、ペーさんのハニーハントへ到着する。
待ち時間は90分。中々に長期戦になりそうだ。
時刻は既に14時半を回っており、ここまで何も食べずにひたすらアトラクションを巡っていた一行は流石に空腹を感じ始めていた。
「なぁ、流石に腹減らねぇ?」
「そうだね。もう昼過ぎだもんね」
ランツの呟きに、ミオが賛同する。
どこかに美味い店はないかと調べるため、全員がスマホを構えだす。
暫く黙ってスマホを見つめていた6人だったが、一番最初に食事処を見つけたのはノアだった。
「あ、すぐ近くにピザ売ってるみたいだ。しかもテイクアウト可」
「いいねぇ。私ピザ食べたい!」
ノアのスマホを覗き込みながら、セナが目を輝かせた。
反対側から同じように覗き込んだユーニは、表示されているマップを見た後すぐに遠くを指さし、“あっちの方だな”と呟いた。
「じゃあアタシ買ってくるからみんなはここで待っててよ。すぐに戻るから」
「いいの?ユーニ」
「任せとけって」
行列を仕切っている鎖を跨るユーニ。
店に向かって歩き出そうとする彼女を、今までずっと黙っていたタイオンが“待った”と引き留める。
「僕も行く」
「えっ、いいよ別に」
「6人分の食事を一人で運ぶのは流石にきついだろ」
「まぁ、そりゃそうか」
一旦は遠慮していたユーニだったが、タイオンの正論に押されて渋々納得する。
長い足で鎖を跨ぐと、タイオンもまた列から外れてユーニの隣に寄り添った。
そして、“じゃあ行ってくる”と軽く手を振りながら二人は店がある方面へと去っていく。
その背をにこやかに見守る他の4人の顔は、等しくニヤついていた。
***
昼時を過ぎたショップは比較的空いていてた。
5分足らずでショップに到着したタイオンとユーニは、レジの上部に表示されたメニュー表を見上げながら腕を組んでいる。
ピザの種類はマルゲリータとシーフード。
適当に3つずつ買っていけば喧嘩にはならないだろう。
飲み物は流石に各々が持ってきてるだろうから買わなくてもいいか。となると料金は……。
と、脳内で暗算を開始したユーニ。そんな彼女の思考を阻むように、隣で同じようにメニュー表を見上げていたタイオンが静かに口を開いた。
「僕のこと、避けてないか?」
「ん?」
「さっきまでずっと僕と君の組み合わせで乗っていたのに急にセナと一緒がいいと言い出しただろう。なんで急に……」
「なんだよ。アタシの隣をセナに取られていじけてんの?」
「だからなんで僕がいじけなくちゃならない?」
腕を組み、顔を逸らしているタイオンは明らかに拗ねているように見えた。
誰がどう見てもいじけているようにしか見えないタイオンの態度に、ユーニは内心ほくそ笑む。
ユーニが頑なにタイオンと一緒に乗りたがらなかったのは、彼女の策略だった。
押してもだめなら引いてみろ。恋愛における王道なこの戦略は、どうやら効果てきめんだったらしい。
チョロい奴め。ニヤつく口元を必死で耐えながら、ユーニはいたって冷静に演じる。
「男との距離感考えろって言ったのはタイオンじゃん」
「だから僕を避けていると?」
「避けてんのはタイオンだけじゃない。ランツやノアとだって乗ってねぇだろ?」
「それはそうだが……」
タイオンのトーンが下がる。
一向にこちらを見ようとしないタイオンの横顔を見つめながら、ユーニは彼の言葉を待つ。
この作戦は、タイオンから決定的な言葉を貰うことで初めて“成功した”と言える。
ここで言う“決定的な言葉”とはずばり、告白である。
“好きだ”でも“付き合ってくれ”でも何でもいい。とにかく今の関係性を劇的に変える一言が欲しい。
期待に胸を膨らませ、息を呑んで言葉を待っているユーニの心情など一切知る由もないタイオンは、そっぽを向いたまま愚痴を漏らすかのように呟いた。
「僕以外の男との距離感を考えろと言いたかったんだ。僕との距離感だけは……い、今のままでいい」
タイオンの言葉は、少々弱々しくもあるがユーニにとっては非常に高威力だった。
剛速球で投げつけられたその言葉には、稚拙な独占欲が見え隠れしている。
それに気付いた瞬間、ユーニの心臓はぎゅうっと握りこまれたように苦しくなった。
何だコイツ。可愛いかよ。
あぁもう撫でたい。一向に懐かないツンデレな猫みたいなこいつの癖毛を乱暴にわしゃわしゃと撫でまわしてやりたい。
でも駄目だ。耐えろアタシ。ここで飛びついたらこっちの負けだ。
熱を帯び始めた顔を隠すように逸らしながら拳を握り締めるユーニだったが、そんな彼女たちを呼ぶ声がする。
レジの前にいるスタッフが、手を挙げながら“お待ちのお客様どうぞー”と呼びこんでいる。
どうやら自分たちの順番が回って来たらしい。
「あ、はーい。ほら、行こうぜ」
「あ、あぁ……」
良いタイミングで呼びこまれた。
会話を強制終了させたユーニは、タイオンの腕を組みながら列を詰めた。
彼女に引っ張られている間、タイオンは不満げな顔を作ってはいたものの、内心密かに喜んでいた事実は言うまでもない。
***
「激論!朝まで生討論!」
タイオンとユーニがピザの購入に向かった同時刻。
アトラクションの列に並んでいた一行の視線は、突然手を挙げたミオへと集中する。
何の脈絡もなく投げ込まれたその一言に、ランツは“急だなおい”と苦笑いを零す。
「この番組は、一つの議題に関して朝まで討論する番組です」
「朝までか。長いな。仮眠の時間はもらえるのか?」
「だめですノアさん。絶対に起きててください」
「だめか。じゃあ仕方ないな」
最年長のミオと、その恋人であるノアのゆったりしたやり取りに、ランツは吹き出しそうになってしまう。
おそらく、あまりにも進まないアトラクションの列に流石に飽きてしまったのだろう。
妙なテンションで討論番組を始めようとするミオのノリに、仕方なくランツは乗ってみることにした。
「で、議題は?」
「はい。今回の話題はずばり、タイオンとユーニの関係性についてです」
「おぉ~」
ミオが発表した議題は、環境問題でも政治問題でも宗教問題でもなく、ただの恋バナだった。
議題が発表されたと同時にノアは小さく拍手を贈っていた。何の拍手だ。そうツッコもうとしてランツはやめた。
ツッコミのポジションは自分ではなくここにいないタイオンの方が似合っている。
すると、今まで黙って一行のやり取りを聞いていたセナが“はいっ!”と元気よく手を挙げた。
「ミオ議長!タイオンくんはユーニさんのことがすっごく好きだと思います!」
「うんうん。そうだよね。私もそう思う。男性陣のみなさんどう思いますか!?」
ミオとセナがそろってノアとランツに期待の眼差しを向ける。
やはりタイオンの分かりやす過ぎる好意は、女性陣にも筒抜けだったらしい。
ノアとランツは互いに顔を見合わせつつ、言葉を選ぶ。
「まぁ、好きだろうな。本人は否定してたけど」
「ただの照れ隠しだと思うけどな。つーか、ユーニの方も満更じゃねぇだろ」
「あ、やっぱりそう思う?」
幼馴染であるノアやランツは、ユーニの過去の恋愛遍歴もほぼすべて把握している。
彼女が気のある相手にはどんな態度で接する傾向にあるかも、彼らは知っていた。
元々他人からの距離感が近くなりがちなユーニだが、特別心を開いた相手にはまるで猫のように翻弄する態度を取る。
タイオンへの接し方は、まさにユーニが好きになった男にとる態度そのものだった。
「お互い好き同士なのにイマイチうまくいかないね」
「タイオンはプライドが高いからねぇ」
「ユーニもユーニで、意外に乙女チックなところがあるからな。向こうから切り出してほしいと思ってるんだろ」
「好きなら好きってハッキリ言えばいいのにな。中坊の恋愛見てるみてぇだ」
ランツの言葉に、その場にいた全員がうんうんと深く頷く。
2人の感情の矢印が互いに向かい合っている事実を知っている4人にとって、じりじりと距離を測るように見つめ合っているタイオンとユーニの関係性は非常にじれったいものであった。
いっそのこと思い切り背中を押して強引に距離を縮めてやりたいが、大人としてそのようなお節介な行動に出るわけにはいかない。
彼らに出来る事と言えば、タイオンとユーニが“いい感じ”の空気を醸し出せるよう、さりげなくアシストすることくらいである。
「お待たせ―」
やがて、ピザの箱を両手に抱えたタイオンとユーニが列に戻って来る。
Qラインの鎖を跨って合流した2人は、まだ熱を持っているピザの箱を適当に仲間たちへと配り始めた。
お礼を言いながら受け取る面々は、何故か全員にやけている。
察しがいいユーニはその妙な雰囲気にすぐ気が付き、怪訝な表情を浮かべた。
「なんでみんなそんなニヤついてるわけ?」
「何か面白い事でもあったのか?」
2人の問いかけに、4人はニコニコと満面の笑みを浮かべながら“別にー?”と白を切る。
明らかに何か隠している4人の様子に、タイオンとユーニは互いに顔を見合わせながら首をかしげるのだった。
***
90分後。ようやく一行はアトラクションの乗り場が見えるところまで進んでいた。
このアトラクションは4人乗りであり。前後で2人ずつ乗車する形である。
誰が誰と乗るのか決めたくてはならない。
アトラクションの乗り場が近づいてきた頃合いで、セナが全員に“今回の組み合わせはどうする?”と問いかけてきた。
ノアとミオは特に意義もなく一緒に組むこととなった。
残るはランツとセナ、そしてタイオンとユーニである。
ここに至って、ユーニは迷っていた。
先ほどまでのようにセナを選ぶべきか。それともあえてタイオンと一緒に乗るべきか。
どちらを選べばタイオンの心にクリティカルヒットするのだろう。
考え込むユーニだったが、思考を巡らせる彼女の考えを遮るように、ランツが口を開いた。
「じゃあ、今回は俺とセナな」
「え?」
戸惑うセナの華奢な肩に腕を回し、引き寄せる。
突然のことにセナの心臓は高鳴って、自然と瞬きが多くなってしまう。
有無も言わさずセナと組むことを決めたランツに抗議しようとしたユーニだったが、ランツがセナを離すことはなかった。
「ユーニにばっかりセナを独占されてたまるかよ」
「ら、ランツ……?」
ランツらしからぬ言葉にユーニだけでなくタイオンやノア、ミオまでも目を白黒させていた。
彼に肩を抱かれたセナは顔を真っ赤にしてランツを見上げている。
何だこの妙に甘い空気は。
戸惑う一向に、アトラクションのスタッフが“4番と5番のレーンへどうぞ~”と促してきた。
自然な流れでノアとミオ、タイオンとユーニの組み合わせで乗り込むこととなる。
ランツとセナは別のゴンドラに乗車することとなり、他のカップルと相乗りするするようだ。
指定されたレーンに並び、ゴンドラがやって来るのを待っているユーニは、タイオンとのことなどすっかり忘れて隣のゴンドラに乗る予定のランツとセナが気になって仕方なくなっていた。
ランツがあんなことを言うなんて信じられない。
脳まで筋肉で出来ているような彼が。
思わずランツとセナを凝視していたユーニだったが、ノアやミオ、さらにはタイオンまでが同じように例の2人を凝視していた。
「ランツの奴、なんだあれ……」
「一瞬少女漫画のような空気が流れたな」
「ちょっとびっくりしちゃった。ランツってもしかして、セナのこと……?」
「さ、さぁ…。ランツはあんまり恋愛とか興味ないタイプだったと思ってたから」
やがて並んでいる一行の前に、ハチミツのツボを模したゴンドラがやって来る。
ノアとミオが前、タイオンとユーニが後ろの席へと乗り込んだ。
後ろにはランツとセナが乗り込む予定のゴンドラが続いている。
腰を落ち着かせながら背後を振り返ってみるユーニの視界に、ランツがセナの手を取りながらゴンドラに乗り込んでいる光景が飛び込んでくる。
同じく後ろを振り返って観察しているタイオンに、ユーニはこそっと耳打ちする。
「どう思う?あれ」
「なくはないだろうな。相性は間違いなくいいだろう」
「同感。ランツが押せばいけんじゃね?」
「どうだろうな。セナはかなり恋愛に対して奥手だからな」
「ラブコメしてんなぁ、あの二人」
「いっそ付き合ってしまえばいいものを」
ランツとセナに視線を向けながらボソボソと持論を展開する2人の会話は、当然前列のノアとミオにも聞こえていた。
口には一切出さなかったが、まっすぐ前を見据えながら2人は揃って同じことを考えていた。
“君たちがそれを言うんだ……”と。
***
ペーさんのハニーハントは、終始可愛らしい雰囲気が続くアトラクションである。
熊のペーさんがハチミツを求めて右往左往する姿は実に愛らしく、女性陣のテンションはこれでもかというほどに上がっていた。
アトラクションが終了すると、降り口に直結する形で熊のペーさんのグッズを販売しているショップが設置されている。
6人は自然とそのショップへと赴き、黄色で埋め尽くされたペーさんグッズを眺めていた。
ぬいぐるみが並んでいる棚を眺めていたミオは、小さなペーさんのぬいぐるみを手に取った。
他のぬいぐるみと違い、少々固さを感じる。おそらく中に機械のような何かが入っているのだろう。
何か仕掛けがあるのかもしれない。
そう思いぬいぐるみをひっくり返してみると、ON、OFFを切り替えるスイッチがあった。
なんだろうこれ。OFFになっているスイッチをONに切り替えてみるが、特に何も変化はない。
「ん?何も起きない…」
《ン?何モ起キナイ》
「うわっ」
《ウワッ》
両手で抱えていたぬいぐるみが突然震えながらしゃべりだす。
どうやらこのぬいぐるみは、周囲の音を拾って再現する機能が備わっているらしい。
こちらが話しかければ、甲高い声でそれを真似する姿はやたらと可愛らしかった。
「ミオ、それなんだ?」
「あ、ノア。見て見て」
《ア、ノア。見テ見テ》
ぬいぐるみを手に目を輝かせている恋人に、ノアは歩み寄った。
ミオの言葉を再現するぬいぐるみに驚き、“なんだこれ”と彼は笑う。
上下に震えながら甲高い声でミオの真似をするそのぬいぐるみの姿が、ノアの目には滑稽に見えたのだ。
だが当のミオは、“かわいくない?”とそのぬいぐるみを気に入っているらしい。
正直あまり可愛いとは思えなかったが、ミオが“可愛い”と言うのなら可愛いのだろう。
同意すると、彼女は“でしょ?”と嬉しそうに笑った。
そして突然、自分の顔をぬいぐるみで隠すようにしながら小声で話し始める。
あまりに小さな声だったためよく聞こえなかったが、代わりに例のぬいぐるみが滑稽な動きと共にミオの言葉を再現してくれる。
《今日来テ良カッタネ》
ぬいぐるみを使って話しかけて来るミオの行動があまりにも可愛らしくて、ノアは自然と口元に笑みを浮かべた。
そして自分も棚から同じぬいぐるみを手に取ると、ミオを習ってぬいぐるみで顔を隠し、小声でしゃべる始める。
《ソウダナ》
《デモ、タマニハ2人デ出掛ケタイネ》
ミオはぬいぐるみで顔を隠しているが、目だけはまっすぐノアを見つめていた。
期待を孕んだその瞳は、“デートがしたい”と訴えている。
彼女なりの精いっぱいのお誘いなのだろう。
可愛いな、まったく。
表情を綻ばせながら、ノアは彼女の誘いに乗ることにした。
《ドコ行キタイ?》
《ドライブシタイナ》
《ジャア今度行コウカ。ミンナニハ内緒デ》
《ウン。約束ネ》
ドライブの約束を取り付けたところで、ぬいぐるみを介した2人の会話は終了する。
顔を隠していたぬいぐるみを同時に取り払う2人は、互いに視線を絡ませながら笑い合った。
「これ、買おうか」
「うん、欲しい」
ノアが手に持っていたぬいぐるみは棚に戻され、ミオが最初に手に取ったぬいぐるみは見事ウロボロスハウスの新しい住人として迎え入れることとなった。
“行こう”と手を伸ばしてくるノアの手を握ると、彼はミオの白くしなやかな手に指を絡めてきた。
手をつなぎながら、2人はショップのレジへと向かう。
以降、このしゃべるぬいぐるみは、ノアとミオのベッドの上で彼らの甘い生活を見守ることになるのだった。
act.14
かつてゴーカートが設置されていた広大な土地に“美女と珍獣”エリアがオープンしたのは2年ほど前のこと。
人気アトラクションも新設されているこのエリアは、パーク内に入った後エリア入場時間の予約をしなくてはならない。
一行が取得したエリア入場予約時間は16時から18時の間である。
現在の時刻は16時半。エリア入場時間を迎えたことで、6人は新エリアに足を踏み入れた。
エリア内を構成する可愛らしい建物を眺めながら向かう先は、このエリアのメインテーマにもなっている映画、“美女と珍獣”のアトラクションである。
パーク内で最も新しいアトラクションということもあり、待ち時間を示す看板には本日最長となる120分待ちとなっていた。
「2時間か……」
「すごいね。流石って感じ」
スタンバイエントランスの最後尾に立っている待ち時間表示看板を見つめながら、タイオンとミオは顔を見合わせる。
20代になって間もない彼らはまだまだ体力に自信はあるが、流石に2時間も並び続けるのはつらいものがある。
とはいえ、せっかく来たのだから是非乗りたい気持ちはある。
さてどうした者かと考えていたところで、ランツが一つ提案を出した。
「んじゃあ順番に並ぶか。30分ごとに交代でどうだ?」
「あ、いいねそれ。ランツナイスアイデア!」
「だろ?」
ランツの提案にセナが賛同したことで、他の面々も賛同の意思を示した。
交代で並べば疲労感も多少はマシになるはずである。
方針を固めた一行は、ノアの“じゃあ最初は俺たち男が並ぶか”という一言を最後に分かれることになった。
3人の女性陣は“小腹が減った”と言って来る途中に見かけたスイーツショップに向かい去っていく。
残された男性陣3人は、これから120分間並ぶことになる長蛇の列の最後尾に並び始める。
最初は適当に世間話をしていた3人だったが、5分もしないうちに話題はなくなってしまう。
無理もない。今日はアトラクションに乗っている時間よりも並んでいる時間の方が圧倒的に長く、その間ずっと話していれば話題も途切れるというものだ。
幸い、3人は沈黙を苦に感じるほど余所余所しい間柄ではないため、特に気まずさはなかったのだが、手持無沙汰感はやはり否めない。
あまりの暇さに一番最初に値を上げたのはランツだった。
「暇だなおい」
「まぁ仕方ないだろう。120分だからな……」
「なんかゲームでもやらね?」
「ゲーム?例えば?」
「じゃんけんとか?」
「絶対盛り上がらないだろ……」
ランツとタイオンのそんな会話を隣で聞いていたノアは、手元で見つめていたスマホをポケットにしまい、彼らしからぬ提案を始めた。
「じゃあアレやるか。“いやらしいしりとり”」
「は?」
「おっ、いいねぇ」
初めて聞く種類のしりとりに、タイオンは思わず素っ頓狂な声を挙げた。
意味の分からない提案をするノアに、ランツはツッコむどころか何故か乗り気でいる。
“なんだそれ”すら言わないランツもおかしいが、真顔でそんなしりとりを提案するノアも大分おかしい。
「なんだその“いやらしいしりとり”って」
「えっ、タイオン、お前の地元じゃやらねぇの?」
「聞いたことないぞそんな気色悪い遊び」
「俺たちの地元じゃ割とメジャーな遊びだぞ。な、ノア」
「あぁ。この遊びで育ったと言っても過言じゃないな」
「ロクな子供じゃないな……」
都会ってそうなのか?
そういう遊びがメジャーなのか?
真面目なタイオンは、2人の冗談を疑うことなく真に受けた。
彼の中で、都会の男への印象が一気に悪くなったのは言うまでもない。
ノアとランツ曰く、“いやらしいしりとり”とルールはずばり、本来はいやらしくないのに何故かいやらしく聞こえるワードだけでしりとりをするというものらしい。
露骨すぎるワードや、明らかに健全すぎるワードはNG。
あくまで“言われてみればなんかいやらしいよな”くらいのワードでなければならないらしい。
聞けば聞くほど馬鹿馬鹿しい遊びである。
「正直ピンとこないな……」
「じゃあ俺とノアがためしにやってみるから、タイオンはちょっと見てろよ」
「はぁ」
ありがたいことにノアとランツが手本を見せてくれるらしい。
目を細めながら了承すると、ノアが“じゃあ俺から——”と“いやらしいしりとり”開始の宣言をする。
「“いやらしい”の“い”からいこうか。えっとそれじゃあ……。イカ墨」
「え?」
「“み”かぁ。そうだなぁ……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て!」
ノアの回答に何のコメントもなく次にいこうとするランツを、タイオンは必死で引き留めた。
急に降って湧いてきた“イカ墨”に何のコメントもないのは流石におかしいだろう。
「ノア、イカ墨と言ったか?」
「言ったけど?」
「“けど?”じゃない!イカ墨のどこがいやらしいんだ?」
「いやいや、イカ墨はいやらしいだろ」
どうやらランツもイカ墨のいやらしさには共感しているらしい。
意味が分からない。本気で言っているのか?僕がおかしいのか?
頭を抱えてパニックになっているタイオンに構うことなく、ランツが次の回答を探し始める。
「“み”……。“み”な。じゃあ、ミルク!」
「うん。まぁ、うん」
タイオンはミルクのいやらしさがなんとなく分かってしまう自分が嫌だった。
苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべながら頷くと、今度もまたノアが斜め上の回答を繰り出した。
「よし、組体操」
「組体操!?」
まさかと思いながら聞き返してきたタイオンに、ノアはキョトンとした顔を見せている。
“なにかおかしいか?”とでも言いたげなその顔に、タイオンは自分が異端なのかと錯覚してしまう。
「組体操は流石に……」
「何言ってんだよタイオン。組体操はいやらしいだろ。むしろ露骨ワードギリギリのラインだ」
「基準が全く分からない……」
イカ墨にしろ組体操にしろ、明らかにいやらしいワードとは思えないその回答たちに、タイオンはただただ戸惑うばかりである。
そして、彼の中でノアが異常性癖者なのではないかという疑問がすくすくと育っていった。
「じゃあ次、タイオンいってみようか」
「え!?」
「組体操の“う”からな?」
とうとうタイオンのターンが回ってきてしまった。
未だこの遊びの正しいルールを理解していないタイオンは、急に自分の番が回ってきたことで頭を抱えそうになってしまう。
“う”から始まるいやらしい言葉……。
彼は6人の中で最も学力が高いが、そういった方面には決して強くない。
懸命に知っている卑猥なワードを頭の中で並べてみるが、“う”から始まるという条件に合致しているワードは一つもない。
何も浮かばず、窮地に立たされたタイオンは、失格覚悟で健全なワードをチョイスした。
「う、牛……?」
「おっいいなタイオン!ナイスいやらしい!」
「流石だなタイオン!初めてなのにそんなに絶妙なワードを選ぶなんて!」
どうやらタイオンが叩きだした“牛”というワードは、ノアとランツにとっては大正解だったらしい。
だが、全く嬉しくはない。
無駄に頭を使って疲れてしまったことで、タイオンは肩を落とした。
***
「はーい、撮るよー」
「いえーい!」
「いえーい!」
スマホを構えるミオの掛け声とともに、ユーニとセナは可愛らしいデザインのアイスを手に持ち笑顔を浮かべた。
“カシャッ”と小気味よい音をたててシャッターがきられ、3人の美女が映った写真は完成する。
アトラクションの列に並んでくれている男性陣と別行動をとっていたミオたち女性陣は、少し離れたショップに入り、アイスを堪能していた。
このディスティニーランドのメインキャラクターであるノポン達をモチーフにしているアイスは非常に人気の商品で、種類は全部で3つ。
ミオはリクモチーフのチョコミント味、セナはマナナモチーフのストロベリー味、そしてユーニはリキモチーフのマンゴー味をチョイスしていた。
写真撮影のため至近距離で寄り添い合っていた3人は、無事SNS用の写真を撮り終えたことで自分の席に戻る。
ようやくアイスにスプーンを刺し、冷ややかな甘みを堪能し始める。
疲労がたまり始めた体に冷たい甘味はよく沁みる。
「で、2人とも、例の作戦の進捗はどう?」
「作戦?」
「忘れちゃったの?ノア陥落大作戦とタイオン攻略大作戦だよ!」
身を乗り出しながら話題を振って来たセナに、ミオとユーニは揃って気まずげに目を逸らしながら“あ…ぁ…”と吐息交じりに声を漏らした。
相手を誘惑してノアからは夜のお誘いを、タイオンからは愛の告白を貰うこの作戦は、ミオとユーニにとって重大なミッションである。
このディスティニーハイという名のバフがかかっている今日がミッション実行の好機なのだが、2人とも作戦の進捗はあまり芳しくなかった。
「私の方は特に変わりないかなぁ。良くも悪くもいつも通りって感じ」
「そうかぁ?十分イチャイチャしてる方だと思うけど?」
「え?そう?」
「さっきペーさんのショップでぬいぐるみ片手に死ぬほどイチャイチャしてただろ」
「み、見てたの!?」
「あっ、それ私も見てた!」
「あんなショップのど真ん中でイチャついてたらそりゃあ見るだろ。どこのバカップルかと思ったぜ」
「ば、バカップルじゃない!」
ショップでのノアのとやり取りをまさか見られていたとは思わず、ミオは顔を真っ赤に染め上げながら抗議した。
ノアとミオはそろそろ交際1年になるが、家にいるときは他の友人たちの目もあるためなるべく過剰にいちゃつくようなことは避けている。
だが、やはりノアと触れ合いたいと思う気持ちはある。
夢の国がもたらすディスティニーハイにより、心の引き出しに仕舞い込んだはずのミオの欲求は、引き出しからはみ出てしまっていたらしい。
うかつだった。二人きりの空間ではないというのに、あんなに甘ったるいやり取りをしてしまうなんて。
「そういうユーニはどうなの?タイオンとうまくやってる?」
「アタシ?うーん、ぼちぼちってところかな。まぁ、アイツの場合考えてることが分かりやすすぎるから助かってるけど」
溶けかかったアイスを食べながら、ユーニは頬杖を突く。
最近避けられているように感じていた原因を掴み、誤解を解いたことで二人のわだかまりは解消した。
だが、だからと言って距離が急激に縮まったかと言われればそんなことはない。
相変わらずタイオンは奥手というかなんというか、あえて一線を引いているように見える。
明らかにユーニのことが好きなのに、“そんなことはあり得ない”と自分に言い聞かせているのだ。
恐らくは自尊心やプライドの高さからくる行動なのだろうが、彼自身が引いているその一線こそが、ユーニを苦戦させている。
進展を感じられない現状に苦い顔を浮かべる二人の友人をセナは交互に見比べていた。
セナには恋の経験がない。まだ幼い頃に憧れ程度の稚拙な恋心を抱いたことはあったが、思春期以降は異性に恋をした記憶が一切ないのだ。
そんな彼女にとって、恋するミオやユーニの話はどこか別の世界の神話のように感じられた。
「なぁんか恋愛って大変そうだね。私にはちょっとハードル高いかも」
カップに入ったアイスを完食したセナは、じめっとした視線を感じて顔を上げる。
両脇に座っていたユーニとミオが、琥珀と蒼穹の目を細めてじーっとこちらを見つめている。
絡みつくようなその視線に居心地の悪さを感じたセナは、“え、な、なに…?”と問いかけた。
「セナちゃんよォ、なぁんなか今日ランツといい感じだよなぁ?」
「そうそう。今日のランツ、やけにセナにだけ優しいし。いつもと違うよねぇ~?」
じりじりと距離を詰めながら言う2人はニヤニヤと口元を綻ばせている。
ランツから浴びせられる甘やかな優しさは、セナ本人も気付いていた。
だがそれは、察しのいいミオやユーニにも露見していたらしい。
たちまち居心地が悪くなってきたセナは、この場から逃げ出すために“ちょっとトイレ行ってくる…”と立ち上がったが、すぐさまミオやユーニに“逃がすかっ”と腕を掴まれ引き留められた。
強制的に再び椅子に座らされたセナは、右腕をミオに抱え込まれ、左側からユーニに肩を抱かれた状態で半ば拘束される。
これから始まる謎の拷問を想像し、彼女は“ヒェッ”と小さく声を漏らした。
「いつもと違うのは明白だよなぁ?なんかあっただろお前ら」
「私たちばっかり作戦がどうのとか言ってるけど、セナだってランツといい感じになってるんじゃないの?どうなの?」
「ち、違う違う!何もないの!確かにいつもよりなんか優しい気がしてちょっと戸惑ってはいるけど、ランツはただの友達だから!」
「本当に~?」
「本当に!」
一緒に暮らしているノアやタイオンに比べて、ランツは女性に対してそこまで紳士的とは言えなかった。
勿論優しくないわけではないのだが、女性をエスコートするようなタイプではない。
だからこそ、今日のランツの行動はセナの心を搔き乱すのだ。
ちょっとした段差があれば必ず振り返ってセナに気を付けるよう注意を促し、アトラクションの乗り降りの際は手を伸ばして支えようとする。
その優しさを向けられるたびセナは小さなときめきを覚えていたが、だからと言ってランツとの関係性が変わるわけではない。
セナにとってのランツは、相も変わらず“大事な友人”でしかないのだ。
“ただの友達”を強調したセナに、ミオは残念そうに肩を落としたが、対してユーニは安堵したようにため息を零していた。
「ならよかった。アイツと付き合ったりしたらセナが大変な思いをするだろうからな」
「え、どういうこと?」
ミオが不思議そうに首を傾けながら問いかける。
質問を投げかけられたユーニは、頬杖を突きながら答える。
「だってアイツ、1に筋肉、2に筋肉、3,4が無くて5に筋肉みたいな奴だぞ?要するに脳筋なんだよ。これまで何度アイツが筋トレを優先して彼女を蔑ろにしてるところを見たことか」
ノアほどではないが、ランツも昔から十分モテる方だった。
彼は子供の頃から運動神経が良く、小学生の頃から続けていた柔道では全国大会優勝の経験もある。
高校の引退試合で怪我をして以来、彼は柔道をやめてしまったようだが、高校時代はその輝かしい成績に惹かれ憧れを持つ女子生徒も少なくはなかった。
さらに身長が190センチ近くある長身であるうえ、たくましい筋肉がついたガタイの良さは一部の女性には根高い需要がある。
高校在学中の3年間、ランツは一度も彼女を途切れさせない程度に人気な男だった。
だが、モテるからと言って長続きするとは限らない。
筋トレを趣味にしている彼の生活には多くの制約があった。
食事制限している期間はササミやブロッコリーなどたんぱく質を多く含む食事を心がけていたため、外食デートは出来ない。
毎日2時間以上は筋トレをするという習慣があったため、彼女がどんなに出掛けたいと駄々をこねても突っぱねていた。
献身的な彼女が出来たとしても、筋トレを頑張っているランツに差し入れてくれたメニューを“カロリーが高いから”という理由で空気を読まず突き返したりしていた。
ランツの中では、恋人よりも筋トレの方が大事なのである。
そんなことを繰り返していれは、いずれ振られてしまうのは当然のことだ。
来るもの拒まず去る者追わずなランツは、交際人数だけはいっちょ前に色男だったが、3か月以上続いたことは一度も無い。
ランツが次々に歴代の恋人たちに怒鳴られ、フラれている様を間近で見ていたユーニは思ったのだ。“こいつは付き合ったらダメな奴だ”と。
「ふぅん。ランツってそういう感じなんだ。確かにあんまり恋愛とか興味なさそうだもんね」
「そうそう。だからあいつと付き合う女は馬鹿を見るんだって。絶対好きになったらダメなタイプだな」
ユーニの話は、セナにとって初耳だった。
ランツとは大学入学当初からの仲だが、彼と恋愛の話をしたことは一度も無かった。
今思えば、ランツの中で“恋愛”というものの優先順位が極めて下位に位置しているからこそ、話そうという気にもならなかったのだろう。
確かに普通の女性ならば、ランツの恋人への対応は不満を抱いておかしくないものなのだろう。
だが、恋愛経験もなく、ランツと同じく筋トレを趣味にしているセナにとっては、あまり大きな問題には思えなかった。
「で、でもでもっ、筋トレって本気でやれば食事制限とかも自然ときつくなるし、デートできる時間が制約されちゃうのも無理ないと思う!」
「うーん。まぁそれはそうだけど……」
「それに、ランツはいい人だよ!優しいし頼りになるし、モテるのも分かるって言うか……!」
両手で小さなこぶしを握りながら熱弁するセナ。
ランツを必死でフォローしている彼女を前に、ユーニとミオは顔を見合わせた。
まるで、彼氏を庇っている彼女のようなその振る舞いは、2人にとある疑問を抱かせてしまう。
「もしかしてセナ、本当にランツのこと……」
「あ゛ーーーっ!」
ユーニの言葉を遮るように、セナが大声をあげながら席を立つ。
スマホ片手に青い顔をしているセナに、ミオとユーニは面食らった。
「ど、どうした?」
「時間!もう30分過ぎてる!」
「えっ!嘘!?」
スマホのホーム画面を見せつけながらセナは焦っている。
そこに表示されている時刻は、約束の30分から大幅にオーバーしている。
まずい。いつの間にか時間も忘れて話し込んでしまっていたらしい。
早く戻らなくては。
焦りの色を滲ませた3人は、急いでアイスを完食し席を立つと、慌ただしく男性陣が待っているであろうアトラクション方面へと走り去っていった。
***
「ごめんみんな!遅くなっちゃった!」
約束の時間をオーバーしている事実に焦り、走ってアトラクションの列へと向かった女性陣3人は、ようやく男性陣と合流した。
当初の予定よりも20分ほどオーバーしてしまったが、息を切らしながら走って来た女性陣の謝罪を前に、ノア達男性陣は一切怒ることなど無かった。
「おー気にすんなって。てかもうそんな時間だったか」
「話してたら意外にあっという間だな」
「あぁ。あまりあまり長くは感じなかったな」
20分の遅刻に目くじらを立てられても可笑しくはなかったというのに、誰も嫌味を言うことなく受け入れてくれる3人の優しさに、女性陣はほっと息をついた。
彼らは優しい。数十分の遅刻で苛立つほど器は小さくないのだ。
「いやマジごめん。すっかり時間忘れててさ」
「交代しよ?50分も並んで疲れたでしょ?」
「そこまで疲れてはいないけど、じゃあお言葉に甘えて休憩させてもらおうかな」
男性陣の頑張りで50分ほど時間を稼ぐことが出来たものの、まだあと70分ほどが残っている。
先はまだ長いため、休息は必要だ。
女性陣の言葉に甘え、休憩するため列から離れようとするノア達だったが、列を仕切る鎖を跨りながら不意にランツの動きが止まる。
そして、何かを思いついたようにニヤリといやらしい笑みを浮かべると、突然ユーニにこそこそと耳打ちを始めた。
「なぁユーニ、ちょっとタイオンに向かって言ってほしいことがあるんだけどよォ」
「は?なに?」
ユーニの耳に口元を寄せ、ランツは何かを囁き始める。
意中の相手に他の男が接近している様子を見て気にならない男はいない。
ユーニの耳元でボソボソ呟くランツの行動を、タイオンは眉を寄せながら見つめていた。
「なにそれ。なんでそんなこと言わなきゃなんねぇの?」
「いいからいいから」
ランツからの指示は意味の分からない内容だった。
何故そんな意味不明なことをタイオンに言わなくてはならないのだろう。
首をかしげるユーニに対し、ランツは相変わらずニヤついていている。
そんなランツの態度を不審に思いながらも、彼女はタイオンに近づき、自分より数十センチ身長が高いタイオンを見上げながら指示通りの言葉を囁いた。
「タイオン、今夜アタシと組体操しよ?」
「っ、」
ユーニの放った言葉に、眼鏡のレンズ越しにタイオンの目が大きく見開かれる。
そして、隣に立っているノアの肩に肘を乗せて寄りかかると、彼は頭を抱えながら至極悔しそうにつぶやいた。
「すまないノア。僕の間違いだった。“組体操”は、あのしりとりに相応しいワードだった……!」
「やっと気付いたかタイオン!これでお前も同志だ!」
ぐっと固い握手を交わしているノアとタイオン。
そんな彼らを見つめながら、ランツは満足げに微笑んでいる。
謎の結託をしている2人の姿に、ユーニは勿論背後で聞いていたミオやセナも首をかしげていた。
「え、なに?何が起こってるの?」
「さ、さぁ……」
女性陣は知る由もなかった。
男性陣が50分もの長い間なにも苦痛を感じず待っていられたのは、ひそかに行われていた“いやらしいしりとり”が大いに盛り上がったおかげであるという事実を。
act.15
120分もの長い間行列に並び続けた甲斐あって、パーク内屈指の人気アトラクション“美女と珍獣”は素晴らしい時間を6人にもたらしてくれた。
有名な楽曲と共に映画の名シーンが目の前で再現される様は壮観である。
感受性豊かな女性陣は勿論、最初はあまり興味が無かった男性陣でさえも感嘆の声を漏らしていた。
アトラクションの施設から出ると、外は既に暗くなっており、夜の帳が降りていた。
“美女と珍獣”で得た余韻をそのままに、一行はメインストリートに面したカフェに入店しテラス席に腰掛けている。
時刻は18時半。あと30分ほどで夜のパレードが開始する予定だ。
その時刻を待ちながら、一行は丸テーブルを囲んで一息ついている。
「美女と珍獣のアトラクション、すごく良かったね」
「そうね、感動しちゃった」
「パレードでもあの美女と珍獣、出てくると思うぜ?」
「ほんと?楽しみ!」
夜のパレードは、光と音の演出が素晴らしい通称エレクトロニクスパレードと呼ばれる、夢の国では恒例のパレードである。
せっかく夢の国に来た以上、パレードを見ずには帰れない。
恒例のパレードということもあり、開始時刻30分前にも関わらずメインストリートには場所取りをしている人々が集結しつつあった。
「いやぁそれにしても流石に疲れたよな」
「そうだな。小腹も減って来たし」
「じゃあ俺、買ってくるよ」
暫くアトラクションに並んでいたせいもあり、一行は暫く食べ物を口にしていなかった。
そろそろ夕飯時でもあるため、ランツとタイオンは空腹感を抱いてしまう。
そんな二人の意を汲むように、ノアはお使いを申し出た。
そっと立ち上がる彼に、一行の視線が集中する。
「いいのか?」
「あぁ。俺も小腹減ったしな。ミオ、一緒に来てもらえるか?」
「え、私?」
突然名前を呼ばれたことに、ミオは背筋を伸ばした。
戸惑う彼女に、ノアは微笑みなが右手を差し出す。
その微笑みは、有無を言わさぬ雰囲気を纏っている。
ほんの少しのときめきを覚えたミオは、彼氏であるノアの手を握り返し、立ち上がった。
「じゃあ行ってくる。すぐ戻るから」
手をしっかり握りながら、2人は去っていく。
ミオの顔が真っ赤になっていたのは目の錯覚なのではないだろう。
人混みをかき分けながら去っていく二人の背を見送る4人の心は同じだった。
“あの二人、絶対戻ってこないぞ”
そんな彼らの予想は当然のごとく当たっていた。
20分以上経過しても戻ってくる気配がない。
一行が席を確保していたカフェには簡単な軽食しか販売されておらず、しっかりとした食事を買うには隣の店まで歩いていかなくてはいけないのだが、どんなに混雑していても10分あれば戻ってこれるだろう。
流石に20分以上帰ってこないのはわざととしか言いようがない。
時刻は18時50分。パレード開始まで残り10分を切ろうとしている。
バッグからスマホを取り出し時刻を確認したセナは、刻一刻と過ぎていく時間に焦れていた。
もうすぐパレードが始まってしまう。ミオたちが間に合わなくなってしまうのではないか、と。
「ミオちゃんたち、遅いね」
「だな」
「そろそろパレード始まっちゃうのに……」
「まぁ仕方ねぇだろ」
「私、ちょっと電話してみる」
スマホを操作し、連絡先から“ミオ”の名前を探し出し“Call”ボタンを押そうとしたセナの手を、突然隣に座っていたランツが掴む。
制止されたことへの驚きで肩を震わせ、ランツへと視線を向ける。
セナの手を掴むランツは、何故か不敵な笑みを浮かべながら人差し指を口に押し当てていた。
“しーっ”と息を吐きながら笑みを浮かべるその顔を見た瞬間、セナの心は何故か高鳴ってしまう。
そしてランツは、セナの手を掴んだままゆっくりと席を立つ。
「あいつら流石におせぇし、探しに行ってくるわ。俺とセナで」
「「え?」」
ランツからの突然の申し出に、タイオンとユーニが同時に声を挙げる。
だが、驚いていたのは二人だけではなかった。
ランツに手を掴まれているセナもまた、キョトンとした表情で彼を見上げていた。
わざわざ迎えに行かずとも、電話をした方が明らかに話が早いはず。
何故わざわざ二人で探しに行かなくてはならないのか。
疑問を抱くセナだったが、そんな彼女にランツがこっそりと親指でタイオンとユーニを指さした。
その行動で、セナは何となく事情を察してしまう。
ランツは、タイオンとユーニを二人きりにしようとしているのだ。
なるほど、タイオン攻略大作戦をアシストしてくれるらしい。
一瞬にして目を輝かせたセナは、勢いよく席から立ち上がった。
「行く!行こう!今すぐ行こう!」
「え、ちょ、今から行くのかよ!?」
「パレードまであと5分だぞ?」
「大丈夫だって。それまでには帰って来るからよ!」
そう言って、ランツとセナは仲良く手を繋ぎながら軽い足取りで去っていく。
席から立ち上がり、手を伸ばしながら引き留めようとしたタイオンとユーニだったが、時すでに遅し。
ランツとセナは人混みに紛れながら遠のいていってしまった。
残された二人の間に沈黙が走る。
聡い二人は気付いていた。ランツとセナが、妙な気を遣って二人きりにさせているという事実に。
なんだこれ、気まずい。
何でこうなった、気まずい。
2人の脳裏に、同じ言葉がよぎっていた。
一方、ノリと勢いでタイオンとユーニの元から離れたセナは、人混みの中を歩きながら戸惑いを滲ませていた。
前を歩くのは自分よりも数十センチ背の高いランツ。
左手はランツにしっかり握られたまま。
がっしりとしたランツの手に包まれている自分の手を見下ろしつつ、セナは思う。
これ、いつまで繋いでいるんだろう、と。
「あ、あの、ランツ?」
「うん?」
「手、そろそろいいんじゃないかな?」
思えば、異性と手を繋ぐなど幼稚園の頃以来だった。
昼間ユーニから聞いた彼の経歴から察するに、ランツは異性と手をつなぐどころかハグやキスも慣れているのだろう。
彼にとっては、たかが手をつなぐだけの行為に過ぎない。
だが、恋愛経験皆無なセナにとっては“たかが”の一言では片付かない。
ランツに手を握られている時間が長くなればなるほど、心臓の鼓動がどんどん大きくなっていくのだ。
だが、ランツはセナのそんな心情など露知らず、手を離すどころか握りる手の力を強めてしまった。
「馬鹿言え。こんな人混みで手離したら絶対はぐれるだろ。お前ちっこいし」
「ち、ちっこいって……!私これでも大人だよ!? ハタチ過ぎてるんだよ!?」
「見た目年齢は中三だろ」
「ひどいっ!せめて高校生にしてよ!」
子供のように喚くセナに、ランツは快活に笑った。
だが、その手は未だに離されることはない。
若干子ども扱いされていることによって不満を抱くセナだったが、かといって強引に振り払うほど嫌なわけではない。
落ち着かないけどまぁいいか。そんな諦めが心を支配し始めたと同時に、ランツがどこに行こうとしているのか気になってしまった。
「というか、どこ行くの?」
「しばらくは戻れないからな。せっかくだしいいトコロ連れて行ってやるよ」
いいトコロ。
ランツの口からもたらされたその言葉の意味が分からず、セナは首を傾げた。
タイオンとユーニを二人きりにするという任務の性質上、このまますぐに戻るわけにはいかない。
どこかで時間を潰す必要があるのだが、ランツには宛てがあるという。
“いいトコロ”って?と問いかけてみるが、ランツは不敵に笑みを浮かべるだけで何も答えはしなかった。
***
夜のパレードは時間通りに開始した。
いたるところに設置されたスピーカーから賑やかな音楽が流れ始め、暗い夜に明るい光を灯す。
結局、予想通りのノアとミオ、ランツとセナが戻ってくることはなかった。
電話をしようかとも思ったが、明らかにこちらに気を遣って離れていったランツとセナや、2人きりになりたくて離れていたであろうノアとミオにわざわざ電話をかけてまで戻ってもらうのも気が引ける。
仕方なく二人は大人しくテラス席で待っていたのだが、ここにきて予想外なハプニングに見舞われた。
メインストリートを巡回するように流れるパレードを見るため、観客たちが野次馬のごとく集まって来たのだ。
テラス席とメインストリートの間はちょっとしたスペースが開いているのだが、そこに集まった人々によって視界が阻まれてしまう。
この席から見えるのは、パレードを眺めるために集まった人々の後頭部のみ。
音楽だけは楽しめるが、それではパレードを楽しんでいるとは言い難い。
この予想外の惨状に、ユーニは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「見えねぇな……」
「まぁ仕方ないだろ。これだけ人がいればな」
「あーあ。誤算だったなぁ。ここならちゃんと見えると思ったのに」
「そんなにパレードが見たかったのか」
「アタシじゃなくてお前がな」
「ん?」
先ほどこのカフェで購入したコーヒーを飲みながら、タイオンは首を傾げる。
そんな彼に、ユーニはさらりと言い放った。
「タイオン、ここ来たの始めてだろ?せっかくなら楽しんでもらいたいじゃん?」
夜風に髪を揺らしながら微笑むユーニ。
そんな彼女の優しさと気遣いに、タイオンはあっけなく心を奪われてしまう。
不意打ちのごとく言い放たれた宝石のような言葉に、タイオンはほんの少し赤くなった顔を隠すように眼鏡を押し込み視線を逸らす。
「別に、そんな気を遣ってもらわなくても——」
「あー駄目だ全然見えねぇ!仕方ない。場所移動しようぜ。どうせノア達も帰ってこないだろうし」
「え、いや、ちょっと待った!」
席から立ち上がり、荷物をまとめ始めたユーニの手を、タイオンはとっさに掴んで引き留めた。
驚いたユーニの視線が、タイオンに注がれる。
視線が絡み合ったことにぐっと息を呑みながら、彼は掴んでしまったユーニの手を即座に離してもごもごと言葉を紡ぐ。
「こ、この人混みの中を移動するのは迷惑だろ。僕はそこまでパレードに興味があるわけじゃないし、ここでいい」
「そう?けど、全然見れないのは流石につまんなくね?」
「いや、君といるだけで楽しいから別に——」
自然と滑り出た本音に、タイオンは“あっ”と声を漏らした。
だが、今更気付いても後の祭り。
余りにも素直すぎるその言葉は、すでにユーニの耳に届いてしまっている。
キョトンとした顔でこちらを見つめているユーニの顔に、タイオンの焦りは高まっていく。
「あ、いやっ、違っ、今のは深い意味はなくて——」
「ふぅん。アタシといると楽しいんだァ。ふぅん」
得意げに笑うユーニ。この瞬間、彼女に“上”を取られた事実を察してしまう。
まずい。あの顔はまずい。絶対揶揄ってくる顔だ。
聡いタイオンの予想通り、ユーニはにやにやと笑みを浮かべながら再び椅子に着席し、両手で頬杖を突きながら顔を覗き込んでくる。
「アタシとおんなじだな」
楽し気なユーニの笑顔が、タイオンの心を貫く。
あぁもうこれだから嫌だったんだ。少しでも本音を零せばユーニに容赦なく揶揄われる。
思ってもいなくせに、こっちの心を搔き乱すため魔性の言葉を的確に選んで言い放つのだ。
今までこの魔性に何人の男が騙されてきたのだろう。
絶対に僕は騙されないぞ。あっけなく心を奪われてなるものか。
この心臓の高鳴りも、熱を持つ顔もきっと気のせいだ。そうに違いない。
「また、そうやって君は……」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
誤魔化すように、タイオンはコーヒーを口にした。
既にカップは空だというのに、動揺からくる行動だと勘付かれたくない彼は必死で取り繕う。
相変わらずパレードは見えなかったが、タイオンの心はパレード以上に賑やかに騒ぎ立てていた。
***
遠くの方でにぎやかなBGMが聞こえてくる。
ポケットに入れたスマホを片手で取り出し時間を確認すると、既にパレード開始時刻から5分以上が経過していた。
どうやら始まっているらしい。
ノアやミオはどこにいるのだろう。タイオンとユーニは今頃上手くやっているかな。
先ほどまではそんなことを考えていたセナだったが、今はそれどころではなかった。
行き先を告げずにひたすら前進するランツに手を握られ、彼女はただただ引きずられるように歩き続ける。
タイオンやユーニがいるカフェから移動した2人は、隣のエリアへと到着した。
サイハテタウンと呼ばれているこのエリアは、ディスティニーランドのメインキャラクターであるノポン達が暮らしている村というコンセプトである。
可愛らしい建物や不思議な形をした植物が乱立しているこの場所にもパレードが通過する予定らしく、僅かだが人だかりができていた。
「よっしゃ、ついたぞ、ここだ」
手を繋いだまま前を歩いていたランツが、ぴたりと足を止めた。
パレードを見るために集まっていた人々の後ろに立ち、ランツは前方を指さす。
ここがランツの言う“いいトコロ”なのだろうか。
パレードの通過ポイントであることは間違いないが、他の場所に比べて特に変わった様子はない。
特別感も何もないこの場所に連れてこられた意味が分からず、セナは首を傾げていた。
「ここが“いいトコロ”なの?」
「まぁな」
そうこうしているうちに、遠かったBGMがだんだん近くなってくる。
向こうからやって来るパレードが距離を詰めてきているのだ。
周囲の人々が、子供を中心に色めき立ち始める。
心躍り始めているのは、セナもまた同じだった。
初めてこのディスティニーランドを訪れたセナだったが、当然このエレクトロニクスパレードの存在はよく知っていた。
だが、この目で見るのは今日が初めてである。
かの有名なパレードをやっと見ることが出来る。その事実に、セナの内心子供のようにはしゃいでいた。
だが、先ほどから自分をお子様扱いしているランツの前で“パレード楽しみキャッキャ!”などとはしゃいだら、またきっと揶揄われる。
それは流石に避けたかった。
次第に近づいてくるBGMのパレードの気配にワクワクし始めるセナ。
そんな彼女の隣で、ランツは遠くにぼんやりと見える光のパレードを見つめながら口を開いた。
「ここな、知る人ぞ知る絶好のパレードポイントなんだよ」
「そうなの?」
「ほら、向こう側見てみろ」
ランツが指さしたのは、人混みの向こう側。
背が低いセナは、ぴょんぴょんと飛び跳ねながらランツの指さす方へと目を向ける。
人混みの向こうにはパレードが通過する予定のメインストリート。さらにその反対側は垣根になっており、木々が生い茂っている。
当然、あちら側にはパレード見物の観客は誰一人としていない。
「パレードが進むメインストリートはどこも両脇に人がいるだろ?けど、ここだけは片側からしか見れないんだよ。つまり——」
「つまり?」
「キャラクターが全員こっちを見てくれる」
ランツの口から語られる理屈に、セナは瞳を大きく見開いた。
パレードを演出しているキャラクターたちは、フロートと呼ばれる車に乗って高所から観客たちに手を振っている。
だが、観客はメインストリートの両脇からパレードを眺めているため、キャラクターたちは必然的に右側も左側も平等に愛想を振りまかなくてはならない。
見たかったキャラクターが運悪く反対側を向いてしまい、シャッターチャンスを逃してしまう、という事態に陥るのはよくあることだった。
だが、片側からしか観覧できないこの場所なら、キャラクターたちは否応なしに確実にこちらを向いてくれる。
つまりここは、キャラクターたちの視線を独占できる絶好の閲覧ポイントということだ。
「す、すごいねランツ。なんでそんなこと知ってるの?」
「ん?あぁ、まぁ。前に一緒に来た奴に教えてもらってな」
「そう、なんだ」
ランツの口ぶりに、一瞬で察してしまった。
あぁ、前の彼女か。
その事実を察した瞬間、何故かセナの心に痛みが走る。
あれ?なんだろう、この気持ち。
胸がチクッとして、ほんの少し苦しい。
なんで私、こんな——。
「おっ、来たぞ、セナ」
ランツに促され前を向くと、人混みの向こうにパレードの一団がやってきているのが見えた。
いよいよだ。目を凝らして見てみるが、平均身長よりもかなり低いセナの背では、フロートに乗っているキャラクターの頭しか視界に入って来ない。
前方で見ている観客たちは手を振り、スマホのカメラを構えているため、その手に阻まれて余計に見にくい状態になっていた。
あぁ、せっかくランツがこんなにいい場所を教えてくれたのに、背が小さいばかりに何も見えないなんて。
眉を潜め、懸命に背伸びをしながら前を見ようとするセナだったが、一向にキャラクターは見えてこない。
そんなセナの様子を横目で見ていたランツは、ふと背後へと視線を向ける。
パレードを見ている人々の列は自分たちが最後尾のようで、後ろには誰もいない。
誰にも迷惑がかかることはないと判断した彼は、突然ひざを折ってその場にしゃがみ込んだ。
そして、セナの足を抱えると、彼女の小さな体を軽々と抱きあげた。
「えっ、うわっ、なに!? 高っ!怖っ!」
「うわ、軽いなお前。もっと飯食ったほうがいいぞ」
「ちょっ!何してんのランツ!降ろして!恥ずかしい!」
「暴れんなって!ほら、これならよく見えるだろ?」
身長190センチ近くあるランツに抱き上げられたことで、セナの視界は一気に高くなる。
見慣れない視線の高さに怯え、とっさにランツの頭につかまってしまう。
まるで父親に抱っこされている子供のようなこの状況に、セナは顔を真っ赤にしながら抵抗する。
さすがにこの体制は恥ずかしすぎる。皆パレードを見るのに夢中になっているため目立ってはいないが、ハタチを超えたこの歳で男性に抱え上げられるのは想定外だ。
抗議していたセナだったが、ランツに促されたことでようやくパレードの方へと視線を向ける。
ちかちかと明るい光があたりを照らし、愉快なBGMと共にフロートに乗ったキャラクターたちが愛らしく手を振っている。
ランツの言う通り、彼らは全員揃ってこちらを向いていた。
夢のようなその光景に、セナの視線は奪われる。
すごい。本当に全員こっちを向いている。綺麗。可愛い。楽しい。
明るくて暖かな感情が、じわりじわりとセナの中に広がっていく。
リクやマナナ、リキやトラといった可愛らしいキャラクターたちが手を振っている光景に目を奪われながら、セナは言葉も失っていた。
「どうだ?すげぇだろ」
「うん、すごい……!すごいよランツ——!」
自分を抱き上げているランツを満面の笑みで見下ろすと、自分を見上げているランツと視線が絡み合う。
彼のその目は、今までにないくらい優しくて、柔らかいものだった。
そんなランツの目を見た瞬間、セナは再び目を奪われてしまう。
パレードを視界に入れた時とはまた違う、不思議な高揚感が胸を支配する。
なんだろう、これは。
初めての感覚に戸惑っていると、ランツはセナをまっすぐ見上げたまま囁いた。
「な?俺に付いてきて正解だっただろ?」
「う、うん……」
ランツの柔らかな微笑みが、無邪気な笑顔に変わっていく。
歯を見せて笑うその屈託のない笑顔に、セナの心は搔き乱される。
どうしよう、なんだかおかしい。
ランツを見ていると、心がざわざわして仕方ない。
胸がきゅんとして、心臓が高鳴って、顔が赤くなる。
どうしよう、どうしよう。気付いちゃいけないことに気付いちゃったかもしれない。
ひょっとして、もしかして、私———。
ランツのこと、好きになっちゃった?
***
おまけ
ちょっとした登場人物設定メモ
【ランツ】
アイオニオン国際大学 体育学部3 年生。年齢20歳。
誕生日は10月。
大雑把な性格で、細かいことは気にしない豪快な性格。
ノアやユーニとは幼稚園からの幼馴染であり、もはや友人を超えて家族。
大手引っ越し業者でアルバイトをしている。
大学進学と同時にノアに誘われ、彼の親戚の家にてユーニを加えた3人でルームシェアを開始した。
高校までは柔道に打ち込んでおり、全国大会優勝の実績を持っているが、試合中に足を怪我したことが原因で引退した。
柔道以外のスポーツにも精通しており、運動能力は非常に高い。
筋トレが趣味であり、日々ジムに通っては自分を鍛えている。
その身長の高さとガタイの良さは一部の女性に高い需要があるため、ノアほどではないがかなりモテる。
しかし趣味を優先しがちな性格のせいであまり長続きすることがなく、彼がフラれる形でいつも交際が幕を閉じている。
セナとは筋トレのために通っているジムで出会い、ランツのナンパがきっかけで親しくなった。
同じ趣味を持つセナのことを好ましく思っている節があるが、それが恋愛感情なのかどうかは計り知れない。
act.16
エレクトロニクスパレードは、キャラクターを乗せたフロートがディスティニーランド内を一周するイベントである。
そのルートの中心には、ノポンキャッスルと呼ばれる大きな城がある。
この城はディスティニーランドの象徴ともいえるランドマークで、当然ゲストも中に入ることが出来る。
ノポンキャッスルの展望テラス。パーク内を一望できるこの場所に、ノアとミオはいた。
遠くに見えるのは光の隊列。キャラクターたちを乗せたフロートの列である。
その光景を眼下に眺めながら、ミオは目を輝かせていた。
「すごい…!綺麗!近くで見るのもいいけど、こうして遠くから眺めるのもいいね」
「だろ?」
テラスの欄干に手をかけ、身を乗り出してパレードの列を見つめるミオの表情はいきいきとしている。
まだ彼女が少女だった頃、家族と一緒にこのディスティニーランドを訪れた際は、父に肩車された状態でパレードを見つめていた。
あの頃に比べて背が伸びたミオなら、父に頼らずともパレードを見ることが出来る。
だが、こうして高所からの眺めの良さを教えてくれたのは他の誰でもないノアだ。
ノアと一緒にいなければ、この素晴らしい景色に出会うことはなかっただろう。
そう思うと目の前に広がるきらびやかな光景が宝石よりも価値がある物のように思えた。
「でもよかったのかな?みんなに内緒で来ちゃって……」
「大丈夫だよ。あとで謝ればいい。それに——」
欄干に両肘をついたノアは、夜風に長い黒髪をなびかせながら微笑んだ。
「こうでもしないと、ミオと二人きりになれないから」
ノアの一言に、ミオはほんの少し驚いたように瞳を大きくさせると、すぐに穏やかに微笑みを返し、白く美しい髪を耳にかけた。
そして、隣に立つノアとの距離を詰め、彼の肩に頭をもたげるように寄りかかった。
ふわりと香るミオの香りは、一緒に住んでいる家で使っているシャンプーの香りである。
この香りを嗅いでいると、心が湧きたつ。押さえ込んでいた想いがあふれ出しそうになってしまう。
「ねぇ、ノア」
真っすぐパレードの光を見つめていたミオが、ノアの名前を呼ぶ。
“ん?”と返事をすると、彼女の大きな琥珀色の瞳がノアを捉えた。
「私のこと、どう思ってる……?」
「え?」
ミオからの問いかけは非常に突拍子もないものだった。
戸惑い、何も言葉を反せずにいると、彼女は不安げに瞳を揺らしつつ言葉を続ける。
「ほら私たち、始まりがちょっと特殊だったでしょ?だから、その……。義務感で付き合ってくれてるんじゃないかなって」
「ミオ……」
2人の始まりは、ミオの言う通り特殊なものだった。
当時ストーカー被害に悩まされていた彼女を守る目的で始まったこの交際は、名目上“形だけの交際”でしかなかった。
だが、時間が経つごとに2人の距離は次第に縮まっていき、今では普通のカップルと変わりない関係を築けている。
だが、“形だけ”の延長線上にある交際は、“真実の交際”と言えるのだろうか。
年月を重ねたことで情が生まれ、それを愛情だと思い込んでいるだけなのではないだろうか。
ミオの中に、そんな不安が生まれつつあった。
自分はノアが好きだ。この気持ちに間違いはない。
けれど、ノアの気持ちが100%自分に向いているとは言い切れない。
彼が強引に押し倒して、思いを押し付けながら抱きしめてくれさえすれば、こんな不安な気持ちにはならなかったのかもしれない。
「——ごめん」
ノアの言葉が、謝罪の言葉を紡ぐ。
あぁやっぱり。
どこか期待をしてしまっていた自分がいた。
相手も同じ気持ちでいてくれていると。
けれど、現実はそう上手くいかない。
交際1年以上たった今でもキス以上のことをして来ないのがその証拠だ。
同じ気持ちなら、きっととっくの昔に自分はノアのものになれていただろうから。
「ごめんな、ミオ。俺、誤解させたみたいだな」
「……誤解?」
てっきり、自分に対して恋愛感情がないことを謝罪しているのかと思っていたが、そうではないらしい。
謝罪の理由がイマイチ見えてこない。
首を傾げるミオの頭を、ノアのしなやかな手が撫でる。
「ミオ」
「うん?」
「“ストーカーから守るため”なんて、ただの口実だって言ったら、怒る?」
「どういう、意味……?」
目を丸くするミオを前に、ノアは柔らかく微笑んだ。
遠くに聞こえる愉快なBGMを聞きながら、彼はミオの肩を抱き、ポツポツと身の上話を始める。
それは、彼が一度も他人に話したことのない“裏の一面”であった。
ノアは、音楽家業界では有名な音楽一家の次男として生を受けた。
天才ピアニストの母、世界的指揮者の父の間に産まれた彼は、小さい頃から様々な楽器に触れながら成長してきた。
都内郊外にある実家には多くの楽器が眠っており、管楽器、軽音楽器、民族楽器までその幅は広い。
多くの楽器に触れてきたノアだったが、そんな彼が特別打ち込んでいたのはヴァイオリンである。
幼稚園児の頃から子供用のヴァイオリンで遊んできた彼にとって、市販のおもちゃ以上にヴァイオリンは馴染み深いものであった。
様々なコンクールに出場し、その度優秀賞を獲得してきた彼だったが、中学校に進学したと同時にヴァイオリン奏者の道を断念した。
原因は5つ年上の兄、クリスにある。
ノアは彼を深く尊敬していた。いつも優しく、そして穏やかな兄はノアの憧れであり、目指すべき相手だった。
しかし、幼い頃から神童と謳われていた彼の存在は、そのすぐ後ろを歩いていたノアにとって次第に重荷となっていった。
コンクールに出場すれば、審査員は必ずノアを“クリスの弟”として見る。
そして比較するのだ。神童であるあの兄と。
ノアのヴァイオリンの腕は決して悪くない。むしろその年の子供たちの中ではトップクラスに優秀だった。
だが、血の繋がりがあるがゆえに5つ年上のクリスと必ず比較されてしまう。
クリスがこの歳の頃にはこんなことが出来た。こんなスキルがあった。
彼は神童だ。だが、弟はやはり一段落ちる。優秀ではあるが、彼は神童ではない。
そんな言葉を大人たちから浴びせ続けられれば、嫌でも実感してしまう。
ヴァイオリン奏者の道を歩き続ける限り、自分は一生、兄という名の重荷を背負い続けなければならないのだと。
それが分かったある日、ノアはヴァイオリンをやめた。
中学進学後、彼が手を伸ばしたのはフルートだった。
理由は簡単。兄が唯一苦手とする楽器だったからだ。
この楽器なら、兄と比べられることもない。
勝ちもなければ負けもない。
案の定、様々な楽器に精通していたノアの右に出る者はいなかった。高校に進学するまでは。
高校進学後、初めて参加した全国規模のコンクール。そこでノアは運命の出会いを果たす。
壇上に上がり、穏やかな表情で美しい旋律を奏でる一つ年上の少女。
彼女を視界に入れた瞬間、衝撃が走った。
深く、美しく、心にしみわたるような旋律は、聴く者の心を癒す。
音楽に精通している者はもちろん、素人でも素晴らしいと賞賛するほどのその腕は、ノアを驚愕させた。
ノアが出場したコンクールで優秀賞を逃したのは、それが初めてだった。
以降、ノアは彼女と同じコンクールに出場する時だけ優秀賞を逃し続けた。
彼女に負け続ける日々は、クリスに比較され続けたあの日々を想起させる。
何がいけないのか。結局自分は道を変えても2番手にしかなれないのか。
中途半端な自分に苛立ち、音楽の道からも身を引こうとさえ考え始めていた。
そんなある日、ノアが高校2年の冬ごろに開催されたコンクールに出場した時のこと。
一つ年上である彼女は、高校生の部として開催されていたそのコンクールに出場するのはこれで最後。
実質引退試合となったそのコンクールでも、彼女は当然のことのように優勝賞を掻っ攫って行った。
そして、見事有終の美を飾った彼女は、壇上で向けられたマイクに向かって言い放ったのだ。
“楽しかったです”と。
その言葉を聞いたとき、ノアはずっと昔に忘れ去ってしまった大切なものを思い出したような気がした。
そうだ。子供の頃、おもちゃ代わりにヴァイオリンをいじっていた時は、大きな充実感を得られていた。
ただ演奏をしているだけで楽しかった。楽譜に並んでいる音符を再現するだけで心が躍った。
なのに今は、まったく楽しくない。いや、楽しめていない。
1番になることだけを考えて、兄やあの彼女と比較することだけを考えて音を奏でている。
そもそも音楽とは音を楽しむと書いて音楽と読む。
演奏者が楽しみ、聴くものが楽しいと感じなければ、それは“音楽”とは言えない。
こんな簡単なことに、今までどうして気付けなかったのだろう。
壇上に上がり、フルートを演奏していた彼女は常に音楽を楽しんでいた。
“優秀賞”という褒美は、その結果に過ぎない。
その日から、ノアは今まで1番を目指すための道具として付き合ってきたフルートと初めて向き合うことにした。
子供の頃のように、楽しむための道具としてフルートとの付き合いを開始した。
すると不思議と、今まで感じていた肩の重荷が軽くなる。
一音一音旋律を奏でることが、楽しくて仕方なくなっていた。
そうだ。これだ。これが俺の奏でたかった旋律だ。
充実感に溢れたこの旋律こそが、俺の理想だ。
その日以降、ノアはコンクールの優秀賞から遠ざかった。
神童の弟は堕ちたと揶揄されたこともあったが、悔しくはなかった。
一音一音奏でるごとに魂を削っていたあの頃とは違って、今は楽しくて仕方ないのだ。
音楽の楽しさを教えてくれた一つ年上のあの少女に、ノアは感謝した。
そして同時に、憧れを抱き始めた。
彼女のように、聴く者の心を呼び覚ますような旋律を奏でられるようになりたい。
そんな強い憧れは、次第に淡く変化していった。
ノアは、いつの間にか恋心を抱いていたのだ。
コンクールで一方的に見つめていた一つ年上の少女、ミオに。
「え……、なに、それ……」
呆然自失とはまさにそれ。
語られたノアの事情に、ミオは頬を紅潮させながら目を大きく見開いていた。
穏やかに微笑むノアの眼差しに、嘘偽りは感じられない。
言葉を失っているミオの頭を撫でながら、ノアは言葉を続ける。
「進学した大学にミオがいたのは偶然だった。まさか同じ大学に進んでいたなんて思わなかったから、ガラにもなく浮かれたよ」
「じゃ、じゃあもしかして、ユーニが急に私にノアを紹介してきたのって……」
「あぁ。ユーニがミオと親しくなったって聞いて、俺が頼んだんだ。どうにか紹介してほしいって」
ミオがユーニと親しくなったのは、彼女が2年生の頃。
入学してきたばかりのユーニがキャンパス内で迷っていたところに声をかけたことで友人となったのだ。
それから約半年後、ユーニから“紹介したい奴がいる”と言われ引き合わされたのがノアだった。
当時は何故急に紹介されたのか分からなかったが、あれはノアが強引にセッティングした場であったのだ。
ある日ユーニから“大学で一番モテそうな女の先輩と友達になったぜ”と自慢され、当初は興味が無かったのだが、掘り下げていった結果その相手がミオだと分かり、途端に目の色を変えて“紹介してくれ”と縋った。
それほどまでに、ノアはミオと繋がりを持ちたかったのである。
見事ミオと薄い繋がりを得ることが出来たノアだったが、暫くは上手く距離を縮めることが出来なかった。
気持ちが大きいがゆえに、一歩が踏み出せずにいたのだ。
どうにかして近付きたい。そう思っていた彼に、予期せぬ事件が巻き起こる。
雨が降りしきる梅雨のある日、見知らぬ男に押し倒されているミオを目撃したのだ。
それは、ミオにとって不幸な事件。
だが、ノアにとってはきっかけとなる事件でもあった。
ミオとの距離を強引に進める口実を得ることが出来たのだから。
卑怯な自覚はあった。
恐ろしい思いをしたミオの心につけこむようなやり方だ。
けれど、ミオを守り、そして自分の恋心を叶えるためには、このやり方が最も確実である。
だからノアは、卑怯と知りつつ彼女に提案した。
“ストーカーから守るため、付き合おう”と。
「ごめん。ミオが怖い思いをしていた裏で、俺はそれを利用してた。どうしてもミオに近づきたかったから」
「ノア……」
「本当にごめん。幻滅、したよな」
視線を外しながら呟くノアの表情は、罪悪感に溢れていた。
ストーカーに悩まされていたミオの心を利用し、その弱さにつけ込んだ。
それはノアの心に重圧としてのしかかり、ミオへの思いにブレーキをかけてしまっていたのだ。
彼は元々、ミオに手を出さないつもりでいた。
手をつなぐことも、抱きしめることも、キスでさえ、一切するつもりはなかった。
ストーカー被害が収まれば大人しく身を引いて別れを切り出す。その予定だったというのに、ノアのブレーキは存外甘かった。
彼がブレーキを踏む力よりも、ミオに寄せる想いの強さの方が強くなってしまった結果、ストーカー被害が収まった今も彼女を手放すことが出来ず、あまつさえ本当の恋人のように抱き寄せ、手をつなぎ、口付けまでかわしてしまった。
彼女の身体を抱かなかったのは、ノアにとって最後の砦だったから。
そこさえも許してしまえば、最低の人間に成り下がってしまうような気がした。
ミオは見ず知らずの男に押し倒され、怖い思いをした。そんな彼女の心につけ込んだ上に、あの男と同じことをするなんて許されない。
だからこそ、ノアは我慢に我慢を重ねていた。これ以上ミオに相応しくない男に成り下がらないために。
「そんなことない」
呟かれたミオの言葉に、ノアは顔を上げた。
そんな彼へと両手を伸ばし、首へと腕を回す。
そして、自分よりも少しだけ背の高い愛しい人へ背伸びをし、口付ける。
柔らかな唇が押し当てられた瞬間、ノアは息を詰めた。
そして、ゆっくりとミオの唇は離れていく。
至近距離で見つめる彼女の顔はほんのり頬が染まり、瞳には涙が溜まっていた。
「幻滅なんてするわけない。だって、ノアと付き合って以降、実際ストーカー被害は収まったし、ノアはずっと私を守ってくれてたじゃない」
「当たり前だ。ミオのことが、好きだから」
「私にはそれだけで十分。ノアが好きだって言ってくれるだけで十分なの。私も、ノアのことが好きだから」
「ミオ……」
大きな琥珀色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
そんな彼女の涙を指でぬぐい、彼女の頬に手を添える。
真っすぐ見上げて来る愛しい“彼女”を見下ろしながら、ノアは震える声を絞り出す。
「今まで何も言えなくてごめん。今更だけど、俺と付き合ってほしい。口実なんていらない。ちゃんとミオの彼氏でいたい」
「ほんと、今更だね」
肩をすくませ、ミオは笑う。
大粒の涙を流しながら、彼女は初めてノアに素直でまっすぐな気持ちを伝えることにした。
「私も、ノアの彼女でいたい」
「っ、」
頬に手を添えられたまま、ノアの口づけが降って来る。
唇が押し当てられて、深く深く舌が混じり合う。
1年近く交際を続けてきて、こんなに強引なキスをされたのは初めてだった。
何度も角度を変えながら、舌が絡み合う。
ほんの少しだけ苦しくなって吐息を漏らすミオだったが、腰に回ったノアの手が彼女の身体を引き寄せる。
逃げることを許さないノアのキスは、ミオの心臓を激しく高鳴らせていった。
遠くでパレードの音が聞こえる。
けれど、目を閉じたまま口付けを続ける二人には、美しい光の演出も、自分たちをチラチラ見ている他のゲストたちの視線も、全く見えていなかった。
***
「はあぁぁぁ……」
夜の車内に、タイオンの深くわざとらしいため息が響く。
運転席のすぐ後ろの席で窓に頬杖を突き、流れていく夜景を遠い目で見つめていたタイオンに、助手席に座っていたランツが振り返り苦笑いを見せてきた。
「そんないじけんなって~。こっちは気を利かせて二人きりにさせてやったんだぜ?」
「頼んでない」
ぴしゃりと言い放ったタイオンをミラー越しに見つめながら、運転席でハンドルを握るノアは乾いた笑みを浮かべた。
タイオンの隣にはユーニが腰掛けているが、彼女は反対側の窓に寄りかかりながらぐっすりと眠っている。
さらにその背後、一番後ろの席にはミオとセナが座っており、彼女たちもまた疲労感からかすやすやと寝息を立てていた。
起きているのは、運転手であるノアと助手席に座っているランツ。そして運転席のすぐ後ろに座っているタイオンの3人だけである。
「大体、そういう算段なら最初から言ってくれ。食事を買いに行ったはずのノア達は一向に帰ってこないから腹が減って仕方がなかったし、ランツたちは探しに行ったままそのまま連絡もなしに消えるから迂闊にあの場を離れられないし、僕たちはいつ戻るかもわからない君たちをただ待っているしかなかったんだぞ?せめていつ戻るのかどこに行っているのかきちんと連絡を寄越すべきだったんじゃないか?んん?」
「「す、スミマセン……」」
連絡もなしに置き去りにされたタイオンとユーニは、小さな苛立ちを隠さなかった。
この状況を主導した男性陣に2人そろってくどくどと説教を垂れ、お詫びに帰りの車はきっかけを作ったノアが運転することでその場は収まった。
ユーニは早々にノアやランツを許し、車に乗り込んだ途端疲れて眠ってしまったが、タイオンはというと未だにぷりぷりと怒っている。
「いやでもよォ、俺がセナと一緒にあの場を離れたおかげでお前はユーニと二人きりになれただろ?そこは感謝してほしいよなぁ」
「そうやって無駄に気を遣うのはやめてくれ。あまり嬉しくない」
「その様子だと、もしかして喧嘩でもしたのか?険悪な空気になったとか……」
ミラー越しにタイオンをチラ見しながら、ノアが問いかける。
そんな彼からの質問に、タイオンは窓の外を眺めたまま“いや——”と呟く。
「その逆だから困ってるんじゃないか……」
ノアやランツたちがいなくなって、1時間近くタイオンはユーニと一緒にいた。
相変わらずパレードを見ることは出来なかったが、最後に打ち上がった花火だけはしっかりと見ることが出来た。
夜空に連続で打ち上がる花火を見つめながら、タイオンはユーニと取り留めのない会話をしていた。
そのほとんどが中身のない話題であったが、彼にとっては十分楽しい時間と言える。
並んで空を見上げる二人の空気は、険悪とは正反対に、わずかな甘さを孕んでいた。
別に手を繋いだとか、甘い台詞を囁き合ったわけではない。
二人きりで過ごせたという事実が、タイオンにとっては大きな価値がある。
このわずかな甘やかさにすら、期待をしてしまうのだ。
今、なんだか付き合ってるみたいじゃないか?と。
馬鹿馬鹿しい。ただ二人で同じテラス席に座り、花火を見ていただけなのに、まるで恋人同士になったみたいだ、なんて。
都合のいい妄想でしかない。ユーニはどうせ何も感じていないというのに。
複雑な心境のまま、隣で眠っているユーニへと視線を向けるタイオン。
そんな彼の様子を見ながら、運転席と助手席に座っているノアとランツはにやけながら“ふーーーん”と声を合わせていた。
揶揄うような二人の視線に気づいたタイオンは、恥ずかしそうに頬を紅潮させながらむっとする。
「何だその反応は。君たちだってどうせ二人きりでよろしくやっていたんだろ?特にノア!」
「えっ、俺?」
「ミオを連れ出して何をしていた?まさか人目もはばからずイチャついていたなんてこと無いよな?」
「いやぁそれは……」
言えるわけがなかった。
ノポンキャッスルのテラスで、人目もはばからず熱いキスを交わしていただなんて。
数分もの間唇を合わせていた2人がようやく目を開けた瞬間、周囲にいた多くの目がじろじろとこちらを見つめていることに気が付き、一瞬にして羞恥心に襲われる。
そして、逃げるようにその場を離れたのだ。
真面目な2人らしからぬ失態である。
そんなことをしていたと知られれば、きっとタイオンやランツに根掘り葉掘り事情を聞かれる。
羞恥心の上塗りをするようなことは避けたかった。
「ら、ランツこそどうなんだ?セナと二人きりだったんだろ?」
「あぁ、まぁな」
「確かに、あの後で何をしていたんだ?パレードを見ながら強引にキスでも迫っていたのか?」
タイオンのそれはほんの冗談のつもりだった。
仄かな恋心を抱き合っているタイオンとユーニや、恋人同士であるノアとミオと違って、この2人は純粋な友人関係だ。
キスどころか抱き合ったり手を繋いだりすることすらありえないだろう。
“んなわけねぇだろアホか”
そう笑い飛ばされると思っていたのだが、ランツからもたらされた反応は意外なものだった。
「ばーか。キスなんてまだするわけねぇだろ?」
「「まだ!?!?」」
ノアとタイオンの声が重なる。
眠っている女性陣を起こしてしまうのではないかと思うほどの大声に、ランツは思わず肩を震わせた。
驚くランツの様子などお構いなしに、後部座席から身を乗り出したタイオンと隣の運転席でハンドルを握るノアの追及が始まる。
「ま、まだってどういうことだ!?」
「ランツ、まさかセナのこと……!」
必死の形相で質問してくる2人に、ランツは不敵な笑みを浮かべながら呟いた。
“さぁ、どうだろうな”と。
否とも応ともとれるその反応に、ノアとタイオンは顔を見合わせた。
ランツという存在は、色恋ごととはあまり結びつかない。
筋トレにうつつを抜かしている彼は、女だ恋だなどと騒いでいるところを一切見たことがないのだ。
そんな彼が匂わせたわずかな恋の香りに、ノアとタイオンは湧き上がる興味を抑えられなかった。
彼らはまだ知らない。一番後ろの席で眠っているセナの胸で、恋の花が蕾を付け始めている事実を。
act.17
GWが明け、5月半ばに突入したことで気温は一気に上昇。
先日まで春の陽気だったはずが、いつの間にか夏の顔が遠くに見えている。
週明けに久々に行った大学は正直やる気が出ず、教授の授業を聞きながらユーニは“あぁこれが5月病か”と実感した。
今日の授業は2限で終了だ。
真昼の太陽に照らされながら、ユーニは帰宅途中に寄ったコンビニの袋をぶら下げながら家へと向かっていた。
鍵をカバンから取り出し、玄関を開ける。
そこにはミオとセナの靴が揃えて並べてあった。
リビングに入ると、先ほど見た靴の持ち主、ミオとセナが食卓に腰掛け、コーヒー片手にガールズトークを展開している。
帰って来たユーニに姿に気付くと、2人はにこやかに“おかえり”と出迎えてくれる。
“ただいま”と返事をしてミオの隣に腰掛けると、コンビニの袋から購入した昼食用のサラダパスタを取り出した。
「あ、おいしそう」
「だろ?新発売だって。サーモンとレモンソースのパスタ」
近所のコンビニで“新発売”のポップを見つけて思わず手に取ってしまったこのパスタは、さっぱりしていて今日のように暑い日にはもってこいだ。
付属のソースをかけて割り箸を割り、パスタを混ぜながらユーニはミオとセナを交互に見つめる。
「で?何の話してたの?」
「ミオちゃんの作戦の進捗を聞いてたんだよ。ねっ?」
「そんな大した話じゃないんだけど……」
隣に腰掛けるミオは、妙に恥ずかしそうにしながらこめかみのあたりを掻いていた。
例の“ノア陥落大作戦”が実行されたのは5日ほど前。ディスティニーランドを訪れた日のことである。
あれ以来、ノアとミオの関係性はほんの少しだけ変化していた。
ノアの本心を聞けたことで、ミオの心に居座っていた大きな不安感は次第に小さくなっていく。
2人の間に立ちふさがっていた薄い壁が全て壊されたような感覚だ。
ノアとミオを隔てる壁はもうない。
心の内を吐露しあった二人を取り巻く空気は、ルームメイトであるユーニから見ても今までとは違っていた。
「ミオちゃんね、パレード見ながらキャッスルでノアと熱烈にキスしてたんだって」
「ちょ、セナ!?」
「ほーう、2人で何処にしけこんでるのかと思ったら、そんなことしてたわけ?やらしー」
「うっ……」
顔を真っ赤に染め上げながら、ミオは顔を逸らしている。
どうやらセナのはったりなどではなく、本当にノアとキスしていたらしい。
キャッスルでキスなんてベタだなぁなどと思いつつ、少しロマンチックじゃないかと羨んでいる自分がいた。
「そんなにいちゃついてたなら、作戦成功も間近かもな」
「あぁそれなんだけどね、なんかもう……いっかなって」
「え?」
「ど、どういうこと?ミオちゃん」
ミオにとっての“作戦成功”とはずばり、ノアに夜のお誘いをしてもらうためである。
その終着点を目指してノアをたどたどしく誘惑していたはずなのだが、ミオは肩をすくませ笑顔を見せながら諦めの宣言を始めてしまった。
あんなに悩んでいたというのに、どういう心境の変化なのだろう。
「ノアの気持ちもちゃんと知れたし、無理に焦らなくてもいいのかなって」
ミオがノアのと“事”を急いたのは、どこかで不安があったからなのだろう。
“守るため”という大義名分で交際がスタートした2人の間に、本当の恋心は芽生えているのだろうか。
ノアは、ちゃんと自分のことを好いていてくれているのだろうか。
曖昧な不安は日々を重ねるごとに大きくなり、ノアが一切手を出してくれないという事実がその不安に拍車をかける。
思えば、ミオが不安だったのは手を出してくれなかったことではない。
ノアの気持ちがイマイチ見えてこなかったことこそが、彼女の本当の不安要素だったのだ。
彼の気持ちは、点滅する光の名の中で交わしたキスですべて伝わった。
言葉でも行動でも愛を示してくれたノアに、もはや不安はない。
たとえこのまま手を出されない日々が続いたとしても、ノアの気持ちを疑うことはないだろう。
焦ることはない。気持ちが通じ合った今なら、きっと焦らずとも“その時”がやってくる。
焦らず騒がず待っていればいいのだ。
「だから、私の“作戦”はある意味成功なのかな」
「そっか。よかったねミオちゃん。ノアとちゃんと話せて」
「うん!」
ミオの笑顔に屈託はなかった。
どうやら本当にノアとの壁を取り払えたらしい。
いずれ本来の目的であった“夜の営み”を送れる日もやって来るだろう。
心の重荷を脱ぎ捨てたミオに安堵しつつ、ユーニは彼女の正面に座っているセナへと視線を移した。
ユーニには、ディスティニーランドに行った日以降気になっていることがあった。
セナとランツの関係性である。
ノアとミオと同じく、この二人の関係性もほんの少しの変化が訪れているように見えた。
特にセナの態度は明らかに以前までとは違っており、ランツに声を掛けられるたびいつも身体を固くしている。
分かりやすい言葉で言えば、“緊張している”ように見えるのだ。
まさかそんなはず——。
嫌な予感を覚えながらも、ユーニはセナに問いかける。
「それで?セナの方はどうなんだよ?」
「へ?私?」
「お前らも2人そろって暫く帰ってこなかっただろ?」
「そう言えばタイオンもそんなこと言ってたね。何してたの?」
「な、何って……」
「まさかお前らもキスしてたとかじゃないよな?」
「ち、違っ!してないよぉ!ただ……」
セナの脳裏に浮かぶのは、あの夜の光景。
光の点滅を前に抱き上げられ、至近距離でランツを見下ろしたあの日のこと。
ランツの笑顔を視界に入れたあの瞬間、セナの心には大きな変革が起きていた。
帰って以降も、ランツに声をかけられると心臓が高鳴り、距離を詰められると顔が赤くなってしまう。
今までそんなことは一切なかったのに、突然訪れた心の変革は、セナに戸惑いを与える。
“ただ?”と促してくるミオとユーニを前に、セナはもじもじと俯きながら言葉を続けた。
「私、あの日からなんかちょっと変なの。ランツがね、すごくかっこよく見えるの」
「え?」
「ランツに会うと胸がきゅっとなるし、心臓がどきどきする。時々顔も赤くなっちゃうし……」
「セナ、それって——」
“ランツのこと、好きってこと?”
ミオがそう言いかけたその時だった。
セナの華奢な肩を、食卓から立ち上がったユーニががしっと掴む。
そして、まさに顔面蒼白取った様子でまくしたて始める。
「セナ、ランツはやめろ!ランツだけはやめろ!」
「ゆ、ユーニ!?」
「言っただろ?あいつと付き合ったらロクな結果にならないって!アイツだけはだめだ!好きになるな」
「べ、別に好きだとは言ってないよ!ただ、ちょっと顔を見たらどきどきするっていうだけで……」
「それを好きって言うんだろうが!」
セナの肩から手を離し、脱力しながらユーニは再び食卓の椅子に腰かける。
そして椅子の上に足を置き、立てた膝の上に額を乗せてうなだれると、“最悪だ……”と弱々しく呟いた。
ランツの恋愛遍歴は1から10までは把握しきれていない。というのも、あまりにも数が多すぎるからだ。
彼が女たらしというわけではない。
モテる人間が来るもの拒まず去る者追わずな精神を貫けば、恋愛に関する経験値は勝手にどしどし積まれていく。
特に好きでもない女から交際を申し込まれ、断る理由が見つからないからという理由で受け入れる。
そもそもそこまで好きではないから、彼女を大切にしようという精神に欠けている。
筋トレをはじめとする数々の趣味を優先するあまり、ランツは何度か自分に彼女がいる事すら忘れることもあった。
その度、彼の恋人というポジションに納まっていた女性たちは怒り、傷つくのだ。
その光景を何度も見てきたユーニは、ランツに怒り、涙しているあのポジションに友人であるセナを当て込みたくないと思っていた。
だが、ランツの恋人への対応をその目で見たことがないミオは、いまいちユーニの考えが読めないらしい。
少し困った表情を浮かべながら、隣に腰掛けているユーニに問いかける。
「ユーニ、気持ちは分かるけど、恋愛は本人たちの自由じゃない?」
「アタシだって、相手がランツじゃなきゃなんにも言わねぇよ。けど、セナの場合もしも付き合ったらランツが人生初彼氏ってことになるわけだろ?」
「う、うん」
「恋愛経験豊富な女ならともかく、まっさらなセナは駄目だ。初めての相手にランツはハードルが高すぎるって」
「ハードル、かぁ……」
両ひざに手を置きながら、セナはうつむく。
落ち込んでいる様子の彼女を見つめ、ユーニは罪悪感を求めた。
少し言葉を選ばな過ぎたかもしれない。
ミオの言う通り、確かに恋愛は個人の自由だ。だが、友人が傷付くと分かっている恋なら、放っておけない。
たとえ嫌われることになろうとも、止めずにはいられないのだ。
「……ごめん。アタシもさ、意地悪でこんなこと言ってるわけじゃないんだ。ただ、セナには傷付いてほしくなくて」
「わかるよ。ユーニは優しいもん。でも、でもね——」
セナが何かを言いかけたその時だった。
遠くの方で、ガチャっと玄関扉が開く気配がする。
誰かが帰って来たらしい。気配と共にリビングに入ってきたのは、大学から帰って来たランツとタイオンだった。
話題の中心人物が帰って来たことで、リビングの空気は一瞬で緊張感が増す。
「あ、お、お帰り2人とも」
「おう、ただいま」
ミオの声掛けに、ランツが反応する。
ユーニがふとセナへと目を向けると、彼女は頬を染めながらあからさまに動揺している。
分かりやすすぎるだろ……。
苦笑いするユーニの横で、ミオは飲み終わったコーヒーカップを持って席を立った。
ミオが起立したことでユーニの隣の席が空いたわけだが、コンビニのビニール袋を手にぶら下げたランツはユーニの隣ではなく、奥側のセナの隣の席へと腰掛けた。
そんなランツの行動を見つめつつ、ユーニは眉を潜める。
なんで手前にあるアタシの隣じゃなくあえて奥のセナの席に座ったんだ?
わざとか?わざとなのか?
「セナ、ほらこれ。やるよ」
「うん?」
「この期間限定のチョコ、どこにも売ってないって探してたろ?見かけたから買っておいてやったぜ」
「えっ、ホントに?ありがとうランツ!」
ランツがコンビニの袋から取り出したのは、有名お菓子メーカーから最近発売された新商品である。
SNSを中心にかなり大きな評判を呼び、コンビニやスーパーでは早くも売り切れが続出していた。
人並みに流行に敏感なセナが巷で人気のチョコレートを無視できるはずもなく、売り切れが続いているその商品をずっと探していた。
そんな希少価値の高いチョコレートを、ランツはセナのために見つけ出し、颯爽と彼女へと渡す。
心底嬉しそうにそのチョコレートを受け取るセナの笑顔は、誰がどう見ても“恋する乙女”の顔である。
たらし込まれるの早すぎだろ。
“好きだとは言ってない”なんて口にしていたが、あの顔はどう見ても“好きな顔”だ。
ランツの奴、セナまでその沼に引きずり込む気か。
どうせ付き合ったところで蔑ろにするくせに、気のあるそぶりを見せるのは間違っている。
あの筋肉だるま、セナのことどう思ってるんだ。
あいつも気があるとか?いやいやまさか。今までランツは自分から女に積極的にアプローチすることなど無かった。
いつだって筋トレが一番で、それ以外に興味などない脳筋男。それがユーニの知るランツという男だ。
セナを前にしてもその性質は崩れないはず。
だったらやっぱり、2人が接近するという事態は看過できない。セナの友人として、ランツの幼馴染として、なんとしても止めなくては。
隣同士に座り、楽し気に会話をするランツとセナにねばりつくような視線を向けるユーニ。
そんな彼女の様子に、タイオンは複雑な表情を浮かべていた。
空いているユーニの隣に座りながら、明らかに機嫌が悪そうな彼女の横顔を見つめ、肩を落とす。
何故そんな目でランツとセナを見ているんだ君は。
まるで仲睦まじく話しているランツとセナに嫉妬しているみたいじゃないか。
まさかランツのことが好きなんじゃないだろうな。
いやいやそれは流石に……。随分前に彼女本人の口から“ノアとランツは男として見れない”と聞いたことがあるし。
だが、人間誰しも気が変わることはあるだろう。
友達だと思っていた相手が急にカッコよく見えて異性として意識してしまうことだってあり得なくはない。
現にセナがランツに対してそのような感情を抱いてしまった事実など露知らず、タイオンは複雑な心境を抱えていた。
ランツに熱視線を送るセナ。そんなセナに掴めない優しさを振りまくランツ。そのランツを恨めしい目で見つめるユーニ。そしてユーニに何か言いたげな視線を向けているタイオン。
自分が飲んだコーヒーのカップをキッチンのシンクで洗いつつ、ミオにはこの綺麗な四角形を描く視線と思惑の矢印が透けて見えるようだった。
なんだか複雑になって来た。空気がぴりついている。ここは和む話で少しでも空気を和らげた方がいいかもしれない。
コップを洗い終えたミオは、タオルで手を拭きつつキッチンのカウンター越しに一つの話題を投げかける。
「えっと、GWも終わっちゃったし、次の楽しみは夏休みよね。せっかくだし、今度は皆で旅行とか行きたくない?」
「旅行かぁ……」
「うん、流石ミオちゃん!行きたい行きたい!」
「でしょ?行くならどこに行きたい?」
ミオの問いかけに、ユーニとセナは揃って腕を組む。
そんな2人の隣に腰掛けているタイオンとランツは、互いにコンビニで購入した麦茶と紅茶のペットボトルに口をつけると、自信満々な様子でほとんど同時に口を開く。
「夏、旅行と言ったら……」
「ここはやっぱり……」
「海だろ」「山だろ」
互いに正反対の回答をたたき出したランツとタイオンは、数秒の沈黙の後に“えっ”と同時に声を漏らした。
海の旗を掲げるランツと山の旗を掲げるタイオン。
全く別の色をした旗を掲げた瞬間、この食卓は戦場と化す。
海派のランツと山派のタイオン。夏休みの旅行先を賭け、2人の男の激闘が静かに幕を開けようとしていた。
「へぇ~タイオンは山に行きてぇの~?へぇ~ふぅ~ん」
「ランツは海派だったか。これはまた面倒なことになったな」
腕を組み、悪辣な笑みを浮かべるランツと、眼鏡を押し上げ含みのある笑みを浮かべるタイオン。
静かに火花を散らす二人の男の隣に座るユーニとセナは、困ったように汗をかきながら耳打ちしあう。
“お、おい、何だよこの空気”
“さ、さぁ……”
戸惑いを隠せずぼそぼそと言葉をかわす2人だったが、タイオンとランツが同時に食卓を勢いよく叩いたことで二人は“ヒィッ”と肩を震わせた。
「ユーニ、君は山に行きたいだろ?そうなんだろ?」
「へ?あ、アタシ……? うーんまぁ、海よりは確かに山の方がいい、かな……?」
「セナさんよォ、お前さんは海に行きたいよなァ?海以外ありえないよなァ?」
「えっ、う、うん……。海の方がいい、かなぁ……」
タイオンとランツの手によって、それぞれ隣に座っている女性陣を強引に自陣に引き込んだ。
無理矢理肩を抱くように引き込まれたユーニとセナは、これから始まる海軍と山軍の大戦を予感して胃痛に苛まれる。
一方、この話題を投下してしまった本人であるミオは、嫌な予感を感じていた。
タイオンとユーニ、ランツとセナが腰掛けている食卓は、中心からひびが入っているように錯覚して見える。
これは、トンデモナイ戦いの火蓋を切って落としてしまったような気がする。
「山なんて一年中いけるだろ。海は夏の風物詩だぜ?海開きがあるのも夏だけ。夏にしか楽しめねぇモノよりいつでも楽しめるものを優先する意味なんてないだろ。なぁ?セナ」
「う、うん……。ソダネ」
「山はいつでも行ける?馬鹿も休み休み言ってくれ。山は気温の寒暖差が激しく、夏以外の季節はむしろ入山には適さない。対して海は泳げすらしないものの、砂浜に降り立つくらいなら1年中楽しめる。夏にしか楽しめないものを優先すべきという君の理論で言えば、海より山の方が適していると思うが?そうだろユーニ」
「あぁ、う、うん……。ドウカンダナー」
「海の方が楽しめるのは明白だろ。サーフィンにバナナボートにビーチバレー。スイカ割りだってできる。海の家の焼きそばやビールはうめぇぞ?暑い日差しを浴びながら冷たい海水で泳ぐのはめちゃくちゃ気持ちいに決まってる。やっぱり海だ!」
「山にだって娯楽は多い。海のように直射日光はないし、わざわざ海水に入らずとも山の気温は低く涼しい。昼はBBQで肉を焼き、夕方になれば炭火で焼きマシュマロをつつく。そして夜は空に輝く星々を眺める。テントで全員一緒に眠れば深い話もできるだろう。やっぱり山だ!」
食卓に向かい合うランツとタイオンの火花が散る。
海の旗を掲げるランツはひたすらに海の魅力を語っているが、対するタイオンはカウンター式に海の魅力を反論しつつ山の良さをアピールしている。
元来学力が高いタイオンは、このようなディベートはすこぶる強い。
現に今もランツは少々押され気味だ。
今まで海の良さをひたすらアピールする方法を貫いていたが、タイオン相手に真っ向勝負はいささか分が悪い。
戦い方を変えるべきかもしれない。
そう悟ったランツは、タイオンという強敵を言い負かすために攻め方を変え始める。
「山は楽しいよなぁ。けど、いろいろと大変なこともあるだろ」
「大変なこと?」
「虫が山ほど出るぜ?」
「っ、」
ランツはタイオンを相手にするのをやめた。
代わりに、彼の横に控えているユーニを狙い撃ちする。
彼女の幼馴染であるランツはよく知っていた。ユーニが大の虫嫌いであるという事実を。
案の定、ランツの一言はユーニの心を鋭く貫き、彼女は椅子を持ち上げながら立ち上がる。
“え?ユーニ?”と戸惑うタイオンの声に応えず、彼女は静かにランツの隣に椅子ごと移動した。
そして、何事もなかったかのように言い放つ。
「山なんてクソだ。時代は海だ、海」
「はぁぁ!?」
食卓を勢いよく両手で叩きながら、タイオンは血相を変えて立ち上がる。
味方を失った山軍総大将、タイオンはこの瞬間劣勢に立たされた。
そしてその怒りは、謀反を起こしたユーニへと向けられる。
「寝返る気かユーニ!最低だぞ!」
「うるせぇ!虫だけは絶対嫌なんだよアタシは!」
「3対1だ。勝敗は明らかだなタイオン」
「ぐっ……」
タイオンはすこぶるディベートに強い。
だが、それは1対1での話である。
物事の是非を判断するためには、数による決定が最も確実である。
タイオン1人がどれだけ上手く口を回しても、所詮は多勢に無勢。
大多数派の意見には敵わないのだ。
ユーニとセナ、両手に花を侍らせたランツを前に、タイオンは拳を握る。
セナはともかくユーニまで奪われるとは。こうなったらもう一輪の花を味方に付けるしかない。
そう決意したタイオンは、キッチンに立ち黙って様子を見ていたミオを指さした。
「ミオ!ミオはどっちに行きたい!?」
「えっ、わ、私?」
「山だろ?山に行きたいだろ?山しかありえないだろ?」
「う、うーん……。私はどっちでもいいかなぁ」
「何ッ!?」
海か山か。
その二択は人類が未だに答えを出せない深淵の問いである。
だが、ミオにとっては正直どうでもいい質問だった。
海に行くくらいならプールの方が好きだし、山に行くくらいならその辺の河原でBBQをする程度でいい。
何のこだわりもないミオは常に中立を保っており、タイオンの強引な誘い出しにも一切靡くことはなかった。
ユーニにフラれ、ミオにもフラれたタイオンに、ランツはケラケラと腹を抱えて笑いだす。
「まぁまぁそう必死になりなさんな。負けを認めるなら今だぜ?タイオン」
「くっ、誰が!」
「お前さんだって本心じゃ山より海の方がいいって思ってるはずだぜ?」
「どういうことだ?」
ニヤリと口元に笑みを浮かべたランツは、食卓に頬杖を突きながら真っ直ぐタイオンを見据える。
そして、会心の一撃となる一言をたたき込んだ。
「海と言えば、水着、だろ?」
息を呑み、目を見開くタイオン。
水着。たったその一言で、賢いタイオンは一手二手先を読み進めてしまう。
水着。それは公共の場で着用できる最も布地面積の少ない着衣。
水着。それは身体の必要最低限な部分だけを隠すに留めた機能的かつ煽情的な着衣。
水着。それは男の心を大いにワクワクさせる最強の着衣。
例えばユーニという最強の戦士がこの最強の着衣を装備したら、その攻撃力は絶大。
その破壊力は核弾頭並みの威力を持つだろう(※タイオン調べ)。
見たい。ユーニの水着姿が見たい。
絶対に可愛いに違いない。だって普通の服を着ているだけであんなに可愛いのだから、水着を着てはしゃいでいる姿は“可愛い”なんて言葉に収まらないくらい可愛いに決まっている。
水着を着用するシチュエーションに巡り合える場所は数少ない。その代表格が海である。
ユーニの水着姿は山では見ることが出来ない。つまり、海だけが持つ“絶対的な強み”なのだ。
「海に行けばバインバインでナイスバディな女がわんさかいるぜ?男ならこの好機を無視できねぇだろ。そうだろ、タイオン」
「バインバイン……」
ランツの隣で、セナは復唱しながら自分の胸に視線を落とした。
なだらかな胸は視線を遮らず、椅子に腰かけている自分の足が良く見える。
ふと、ランツを挟んだ2つ隣のユーニへと視線を向ける。
絶壁ともいえる自分の胸とは違い、彼女の胸部にはヒマラヤ山脈級の山が2つついている。
バインバイン。要するにあれば、バインバインという奴だ。
光のない目でユーニの胸をガン見するセナの一方で、タイオンは視線を泳がせながら迷っていた。
自分に味方はいない。ここで白旗を上げれば、この場にいないノアが反対しない限り一行の行く先は海になるだろう。
くだらないプライドは捨てて、ここは素直に負けを認め海軍への加入を決めたほうが円満に話が進むのではないだろうか。
ユーニの水着も見たいし……。
いや待て違う!決してユーニの水着に釣られているわけではない。ランツたちは海に行きたがっているし、ここで意地を張っても空気が悪くなるだけ。
そう、空気を。空気を読んでいるのだ。
下心などでは決してない。
この不毛な戦を集結させるべく、手を挙げて白旗を挙げようとしたその瞬間だった。
「そんなに海がいいなら——」
「うっわぁ……。ランツお前女の水着目当てかよ。キッショ」
蔑むようなユーニの視線と言葉がランツに向けられる。
その瞬間、タイオンは挙げかけていた手を光の速さで下ろした。
キッショ。その短く鋭い言葉は、ランツではなくタイオンの胸に突き刺さる。
キショい!? やっぱりキショいのか!?
危なかった。危うく水着に釣られて海を選ぶキショい性欲の権化だとユーニに思われるところだった。
い、いや、別に水着が見たいから海に寝返ろうとしたわけじゃなかったんだが……。
この一瞬の間で行われたタイオンの心変わりに、キッチンから第三者目線で見ていたミオは気付いていた。
あの堅物なタイオンですら動かす力が、“水着”という装備には備わっているらしい。
やっぱりノアも水着に魅力を感じるのだろうか。
頭の中で、水着を着た状態でノアと向き合う様子を思い描く。
程よく鍛え上げられた上半身を晒しながら、ノアはこちらに笑顔を向ける。
彼の視線の先には、白い肌を晒した水着姿の自分。
ボディラインには自信がある。けれど、そこまで凹凸がはっきりしていない自分の身体は魅力的に見えるのだろうか。
未だキスまでしかしていないノアの前に、この肌を晒すと考えた瞬間、顔から火が出そうになった。
あぁどうしよう。水着、すっごく恥ずかしい。
「はいっ!私、山軍に寝返ります!」
ミオが頭の中で羞恥心と戦っていたその時。突然セナが手を挙げた。
彼女の口から飛び出した急な寝返り宣言に、ランツやユーニだけでなくタイオンすらも驚きの声を挙げた。
中でもランツの焦り様は激しく、椅子ごとタイオンの横に移動し始めたセナを呼び止める。
「ちょ、ちょっと待てセナ!なんで急に……!」
「だ、だって……」
言えるわけがなかった。
“バインバイン”を望んでいるランツに、つるんとした自分の胸部を見せたくない、だなんて。
黙りこくったままタイオンの隣に座ったセナに続くように、キッチンで様子を見ていたミオも手を挙げ始めた。
「あの、やっぱり私も山がいいかなぁ」
「はぁっ!?」
「ミオまで!?」
未だすべてを晒していないノア相手に肌を晒すことに大きな羞恥心を抱いたミオもまた、遠慮がちに手を挙げ山軍への加入を申し出た。
セナの寝返り、そして中立を保っていたミオのまさかの主張によって、劣勢に立たされていたタイオンは勢いを取り戻す。
両手に花の状態となった彼は、先ほどまでの暗い顔が嘘のように生き生きとし始める。
得意げな笑みを浮かべ眼鏡を押し上げる彼は、足を組みふんぞり返りながらランツとユーニを挑発するような目で見つめていた。
「3対2だ。勝敗は明らかだな、ランツ」
悪辣な笑みを浮かべるタイオンに、ランツは“ぐぬぬ”と苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
そんな彼の隣で、ユーニもまたむくれていた。
両脇にセナとミオを侍らせて得意げになっているタイオンが気に入らないのだ。
女侍らせて何いい気になってやがるんだコイツ。死ね。
そんな気持ちを含ませた冷たい視線で見つめられているとは知らず、タイオンの自尊心メーターは上昇していく。
彼には策があった。山とは言え水辺がないわけではない。
川がある。河原で水遊びをすれば必然的に水着という名の装備アイテムが必要となる。
海でなくともユーニの水着姿が見れる。完璧だ。完璧すぎるこの策に死角はない。
どうだユーニ。これで山に行こうとも君の水着姿を見逃さずに済む。
あ、いや。別に水着なんてどうでもいいんだが。ただの副産物に過ぎないのだが。
得意げな笑みを崩し目を開けた瞬間、ユーニのゴミを見るような視線に気が付いた。
何だその目は。まるで“死ね”とでも言いたげなその目は。
そんな軽蔑されるような目で見られる覚えはないぞ。
心の中で何度もユーニの水着姿を想像していたタイオンは、自分の妄想を棚に上げつつ焦る。
そんな時だった。
玄関の方で、ガチャっと扉が開く音がした。
どうやら6人目の住人がようやく帰って来たらしい。
「ただいま。あれ?なにしてるんだ?」
他の面々と同じようにコンビニの袋をぶら下げながら帰って来たノアにミオがいち早く“おかえり”と声をかける。
食卓を挟んで向かい合っているルームメイトの光景が、ノアには異様に見えたのだろう。
状況が読めずキョトンとしている彼に、劣勢に立たされている海軍総大将ランツは詰め寄った。
「ノアは海がいいよな!? な!? 水着好きだろ!?」
「え?水着?」
「ちょ、ちょっとランツ!」
出してほしくなかった水着の話題を容赦なく出したランツに、ミオは焦った。
ノアだって男性だ。興味がないと言ったら嘘になるだろう。
もし彼がランツのスケベ理論に賛同し、海軍への加入を決めてしまったら、3対3のイーブンになってしまう。
海への訪問を何としても避けたくなっていたミオにとって、それは回避しなくてはならない結末だった。
相変わらず訳が分からないと言った様子のノアに、ユーニが事情を説明し始める。
海か山。夏休みの旅行先はどちらがいいかで揉めていたのだと把握すると、ノアはようやく合点が言ったように“なるほどな”と微笑んだ。
凄くどうでもいいことで揉めてたんだな、とは思ったが、5人に悪いので口には出さないことにした。
「だったら、間を取ってここはどうかな」
「ん?」
ノアが見せてきたスマホの画面を、5人は一斉に覗き込む。
彼のスマホに表示されていたのは旅行サイト。
軽井沢の温泉施設だった。
画面を見つめながら“温泉……?”と呟くセナに、ノアが“そうそう”と頷いた。
「温泉って冬のイメージがあるから、夏に行くと空いてるし料金も安くなるんだ。それに、軽井沢は避暑地としても有名だからすごく涼しいしな」
「おおいいじゃん軽井沢!」
「私賛成!温泉入りたい!」
「私もっ!軽井沢と言えば有名なアウトレットもあるし、たくさんお買い物でいそうだしね」
ノアの提案は、一瞬で女性陣の心を掻っ攫った。
新たに参戦した温泉軍の勢いはすさまじく、一斉に女性陣が寝返ってしまったことで海軍のランツ、山軍のタイオンは孤軍奮闘状態となってしまう。
この2人は、ノアが提案した温泉という選択肢にあまり魅力を感じていなかった。
何故か。理由は簡単。水着になる機会が巡ってこないからである。
どうせ男女別の露天風呂に入るわけだし、色気のあるイベントは期待できそうにない。
それなら、海水浴ができる海か、川遊びができる山の方がいい。
そんなよこしまな男心を持つランツとタイオンは、互いに顔を見合わせながら“温泉か…”、“温泉なぁ…”と歯切れの悪い反応をし始める。
2人の心情を知ってか知らずか、ノアは彼ら男性陣をこっそり手招きすると、不思議そうに顔を寄せてきた彼らの耳元で甘言を囁いた。
「温泉の醍醐味といえばなんだと思う?」
「は?醍醐味?」
「ゆで卵とかフルーツ牛乳とかか?」
「違う違う。浴衣だよ、ゆ・か・た」
その3文字の響きに、2人の健全な男子は息を詰める。
彼らの脳内で再生されたのは、女性陣3人の麗しい浴衣姿。
温泉で火照った体を薄い浴衣の生地で隠し、髪を1つにまとめ上げている首筋からはおくれ毛が流れている。
浴衣のつなぎ目から覗く白く美しい足。見えそうで見えないたおやかな胸元。
水着がダイレクトにエロを感じさせる装備だとすれば、浴衣は奥ゆかしい色気を醸し出す淫靡な装備なのだ(※ランツ調べ)。
高校生という思春期を過ぎ、二十歳を超えて大人の領域へと足を踏み入れている彼らにとっては、ダイレクトなエロさより奥ゆかしい色気の方が数倍魅力的に思えるのである。
「よし行こう!温泉だ!温泉に決まりだ!」
「流石ノア。実に現実的で理想的な提案だ。尊敬に値する」
「だろ?」
3人の男たちは、互いに堅く握手を交わし始める。
まるで首脳会議の一席のようだ。
先ほどまで難色を示していたにも関わらずノアのささやきによって頃っと態度を変えた2人の男たちに、女性陣は怪訝な表情を浮かべていた。
嫌な予感を抱きつつ、6人の夏休みの行き先がついに決定した。
避暑地、軽井沢。
予定日は8月下旬に設定された。
act.18
午後19時。
辺りがすっかり夜の闇に包まれたこの時間に、タイオンはバイトから帰宅した。
彼は駅前のカフェでバイトをしており、大学が休みである今日は昼からずっと働いていた。
ようやくシフトを終え、空腹状態で帰って来たタイオンは玄関に入った瞬間漂ってきた香りに食欲をそそられた。
一気に空腹感が増していく。
靴を脱いでリビングへと向かうと、ソファに並んで座りながらテレビを見ていたユーニとランツが“おかえりー”と声をかけてきた。
その声に反応しつつキッチンを見ると、ノアとミオが隣に並んで料理をしている。
セナは配膳を手伝っているらしく、食卓に食器を並べていた。
「ちょうどいいところに返ってきた。もうご飯できるよ、タイオン」
「あぁ。それはどうも」
ふと、壁に掛けられたホワイトボードへ視線を移す。
これはルームシェア開始と共に設置されたもので、今週の食事当番や掃除当番の割り振りが記載されている。
今晩の食事当番はノアだ。恐らくミオは手伝っているだけなのだろう。
二人そろってキッチンに立つ姿はやけにお似合いで、まるで新婚の若夫婦のようだ。
お似合いだな。
そんなことを考えながら、タイオンは洗面所で手を洗い、食卓に着いた。
暫くすると、ノアとミオの手によって出来上がった料理が運ばれてくる。
今夜のメニューは肉じゃがとアジの開きだった。
非常に旨そうな和食の登場に、食卓を囲む一同の表情は明るくなる。
「うわっ、超美味そう!二人で作ったのかよ?」
「私は食材切るのを手伝っただけ。ほとんどノアがやってくれたよ」
「いや、ミオが手伝ってくれて本当に助かったよ。セナも配膳ありがとう」
「えへへ、どういたしまして」
照れるセナの隣で、もう待ちきれないと言った様子のランツが“じゃあ食うか”と促した。
その一言と同時に、一同は行儀よく手を合わせ、“いただきます”と声を合わせる。
まるで小学校の給食のような光景に苦笑いが出そうになったタイオンだったが、何も言わずまずは肉じゃがに手を付けた。
ジャガイモを箸でつまみ口内に入れると、染み込んだ出汁の味が口いっぱいに広がる。
甘やかな味付けは非常に美味で、いくらでも食べたくなってしまう味だった。
この感想は他の面々も同じように抱いたらしく、同じく肉じゃがを口にしたセナが箸を咥えたまま目を輝かせた。
「ん~~~っ!この肉じゃがすっごく美味しい!」
「あぁ。具材に中までしっかり味がしみこんでいる。絶妙な煮込み具合だな」
「アジの開きもうめぇぞ。米が進む」
「流石ノア。相変わらずの料理上手だな」
このウロボロスハウスにノアとユーニ、そしてランツの3人しか住んでいなかった頃、彼らはほとんど毎日外で食事を済ますか、買ってきたものを各々食べていた。
しかし、1か月に1回程度は気まぐれに自炊することもあった。
その際キッチンに立つのはいつもノアの役目で、ユーニやランツは“今日は自炊にする”というノアの言葉をいつも心待ちにしていた。
ノアの料理は美味い。妙なこだわりがないせいか味付けも実にシンプルで、まさに万人受けする味と言っていいだろう。
「レシピ通りにやってるだけだからな。俺の腕がいいというより、レシピが優秀なだけだと思う」
「でも、具材をカットするときの大きさとか、火加減とか、調味料を入れるタイミングとかはその人の判断でしょ?いくらレシピ通りとはいっても失敗しちゃう人はたくさんいるし、美味しく作れるのは才能だと思うよ」
ミオの屈託のない誉め言葉に、ノアは箸を持ちながら照れ笑いを零していた。
近年、便利なレシピ提供サービスは多々ある。
一般人が写真と一緒にレシピを投稿することが出来るサイトや、動画で作り方を教えてくれるものまで、その種類は多岐にわたる。
だが、どれだけ分かりやすく作り方を解説されたところで、実際に料理をするのは画面の向こうにいる作り手自身。
レシピや動画だけでは伝わらない細かなポイントは、その場にいる本人でなければ判断も対応もできない。
つまり、どれほど便利なサービスが生まれようとも、“褒められるほど美味い料理を作る”スキルは当人の才能と経験によるところが大きいのだ。
この見方で判断すれば、ノアは間違いなく“料理上手”と判断できるだろう。
「ま、料理が出来る男ってのはそれだけで得点高いよなァ」
アジの開きをつまみつつ呟いたユーニに反応したのはタイオンだった。
口に運ぼうとしていた肉じゃを一旦停止し、“そうなのか?”と問いかける。
すると彼女は、“だってほら——”と言いながらテレビの方へと視線を向けた。
先ほどまで彼女がランツと一緒に視聴していたテレビには、地上波の番組が映し出されている。
どうやら料理番組らしく、イケメン俳優の肩書きを持つ男が華麗な手さばきでフライパンを振っていた。
その様子に、観覧に来ていた一般の女性客は“キャーキャー”と黄色い歓声を挙げている。
「あ、この人知ってる。最近よく料理番組出てるよね」
「料理が趣味なんでしょ?料理男子ってやつだね」
「料理男子……」
確かに最近はメディアなどで料理を趣味にしている男性の特集が組まれている場面をよく見るようになった。
それはつまり、それだけ“料理をする男”という生き物に魅力があるからだろう。
流れているテレビの様子を興味なさ気に見つめていたランツは、“ふぅん”と呟きセナやユーニに視線を送る。
「お前らもあぁいうのがいいわけか?」
「そりゃあ、料理できない人より出来る人の方がカッコいいよ。ねっ、ユーニ」
「まぁな。“料理は女の仕事”ってのももう古い価値観だし、男も料理できた方がかっこよく見えるだろ」
「実際、料理してる今日のノアはカッコ良かったもんね」
「褒め過ぎじゃないか?そんなこと言って、これから俺にずっと食事当番してもらおうって腹だろ?」
「あ、バレちゃった?」
「こらこら」
冗談を言うミオの頭を、ノアは人差し指で軽く押した。
じゃれ合う2人のやり取りを横目に見ながら、タイオンは考えていた。
確かに料理が出来るというのはそれだけで美徳だ。
包丁を握る姿やフライパンを振るう様子を見て将来性のある男だと判断し、女性は魅力的に思うのかもしれない。
ユーニもまた、料理男子に魅力を感じている女性のうちの一人だ。
料理が出来る男が好きなのか。
新たに知ることが出来た事実に、タイオンは密かに肩を落とす。
ルームシェアを始めるまでずっと一人暮らしをしていた彼だが、今まで一度たりとも自炊というものをしてこなかった。
彼の実家は温泉旅館であり、実家にいた頃は料理人がお客様に向けて作った料理を夕食として食べていた。
黙ってでも食事が出てくる環境に身を置いていた彼は、これまで一度も包丁を握ったことが無ければフライパンを持ったこともない。
仕事も家事も男女で分担する今の時代、料理が全くできないというのはかなりのマイナスポイントなのではないだろうか。
ここにきて、タイオンは危機感を覚えていた。
ふと、壁に設置されたホワイトボードを視界に入れる。
明日の夕食当番の欄には、タイオンの名前が記載されている。
人には向き不向きがある。料理が出来ないメンバーのために、たとえ夕食当番が回ってきても絶対に自炊しなくてはならないという決まりはなく、出前を取ってもOKというルールが適用されている。
今まで何度か食事当番が回ってきたが、そのたびタイオンは適当に出前を取って全員に振舞っていた。
だが、たまには自炊に挑戦してみるのもいいかもしれない。
もしかしたら自分にも料理の才能があるかもしれない。その才能を発掘するためにも、未知なる料理の道を開拓してみようじゃないか。
“料理が出来る男はカッコイイ”というユーニの何気ない一言が、タイオンのやる気スイッチを連打してしまう。
一同はまだ知らなかった。
このタイオンという男に、恐ろしい才能が秘められているという事実を。
***
青年、タイオンの朝は早い。
授業の有無にかかわらず、ランツとセナが体を鍛える息遣いによって目を覚ます。時刻は7時。休日にしては早すぎる目覚めである。
“おはよう”とにこやかに挨拶してくるセナは、もうすっかりノックもなしにこの部屋に遊びに来るようになってしまった。
用件はただ一つ。ランツのトレーニング器具を借りるためである。
セナのことは心許せる友人だと思ってはいるが、流石に異性が毎朝部屋に押し掛けてくるのは居心地が悪い。
もういっそランツとセナで一緒の部屋になればいいのに。
いやいや、それでは消去法で自分とユーニが相部屋になってしまう。それはだめだ。
セナに“おはよう”を返し、タイオンはベッドから抜け出した。
部屋を出て階段を降り、洗面所に向かう。
どうやら今朝は誰も起きてはいないらしく、1階は実に静かな空間が広がっていた。
歯を磨き、眼鏡を外して顔を洗う。
タオルで顔を拭きながら鏡に目をやると、いつもより寝癖が少ない自分が映っていた。
今日は珍しく寝相が良かったらしい。
いつもは四方八方に跳ねている癖毛が、今日は大人しい。
毎朝のようにユーニに癖毛を笑われ、頭を撫でられながら強引に寝癖を直されるわけだが、この様子なら今朝は揶揄われずに済みそうだ。
毎朝毎朝髪に手を伸ばしてわしゃわしゃと撫でられるのにはうんざりしていた。
これを機にユーニの世話焼きも終わりにしてほしいものだ。
顔を拭き終わり、タオルをもとの位置に戻そうとしたその瞬間、遠くの方で誰かが階段を降りてくる音がした。
一瞬でその足音の主を推理する。
ランツとセナは今筋トレの真っ最中だし、ノアとミオは起きるなら二人一緒に起きるはずだがあの足音はどう考えてもひとり分だ。
となると、残りは一人しかいない。答えはユーニだ。
足音の正体が分かったと同時に、タイオンは正面の鏡を見る。
そこには映っているのは、寝癖がついていない自分の顔。
ユーニが手を伸ばし、優しく撫でながら直す必要のない自分の頭。
その姿を視界に入れたタイオンは、咄嗟に自分の頭を豪快にわしゃわしゃとかき回し始めた。
途端に乱れる髪。四方八方へ跳ねる毛先。
ユーニの手が洗面所の扉に掛けられた瞬間、タイオンは既に拭き終わっているはずの顔を再びごしごしと大げさに拭き始めた。
動揺している自分を誤魔化すために。
「ふあぁ、タイオンおはよ」
「お、おはよう」
洗面所に入ってきたのはやはりユーニだった。
大きなあくびを零しながら朝の挨拶をしてくる彼女だったが、大いに乱れ切ったタイオンの頭を見て“ぷっ”と吹き出してしまう。
「何その頭。今日は一段と寝癖酷いな」
「……うるさい」
「ほら、直してやるからこっち向けって」
ユーニの言葉に、タイオンはタオルを戻してゆっくりと振り返る。
自分よりも幾分か背の低い彼女が触れやすいように頭を下げて、足元に視線を落とす。
彼女の足が自分の足に近付いて、頭にユーニの柔らかい指の感触が降ってくる。
その瞬間、情けないほど心臓が高鳴った。
あぁまったく、何をしているんだ僕は。
うんざりしていたはずなのに、わざとこんなことをするなんて。
まるで構ってほしくて仕方のない子供じゃないか。
馬鹿らしい。今すぐ振りほどいて“やっぱりやめてくれ”と言ってやろう。
視線を上げると、楽しそうに笑みを浮かべながら手を伸ばしているユーニと目が合った。
「ん?なに?」
「い、いや、別に……」
すぐに視線を足元に戻すと、顔にどんどん熱が溜まっていくのが分かった。
羞恥で死にそうだ。というか死んでしまいたい。
多分ユーニにこんなことをしてもらっている男は一緒の家に住んでいる自分だけなのだろうな。なんてことを考えて、心が舞い上がってしまう。
落ち着け。もっと状況を俯瞰してみるんだ。
ユーニはモテる。それは男女問わず誰とでも近い距離感で接することが出来るからだ。
別に自分が特別だとか、そういうことでではない。
彼女は誰が相手だってこういうことをするし、それが原因で勘違いする男が大量にいる。
そんな哀れな男の一人になるつもりは毛頭ない。
よし、落ち着いてきた。もう大丈夫だ。いたって正常だ。
「はい、終わったぞ」
ユーニの言葉を受け、タイオンは顔を上げた。
その瞬間、外していたはずの眼鏡がユーニの手によってかけられる。
少しだけ驚いて戸惑っていると、ユーニは可憐な微笑みを容赦なく見せてきた。
「よし、いつもより少しイケメン」
心臓が止まるかと思った。
けれど、このみっともない動揺を気取られてはいけない。
“それはどうも”とぶっきらぼうに返すと、タイオンは洗面所を後にした。
洗面所のドアを閉め、その扉に寄りかかる。
口元を抑えながら俯く彼の顔は、真っ赤に染まっていた。
何がイケメンだくそっ。また思ってもないことを言って……。
そういう思わせぶりな態度が迷惑なんだといつになったらわかるんだ。
他のチョロい男たちと違って僕は理性的だ。
自分の立場をしっかりわきまえている僕は、君のそんな魔性の言葉にいちいち振り回されたりしない。
そう簡単に人をたらし込めると思ったら大間違いだ。
好きじゃない。絶対好きじゃない。絶対好きになんてなってやるものか。
「あれ、タイオン?」
不意に名前が呼ばれて肩を震わせる。
そこにいたのは、いつもは一つに結んでいる髪を解いているノアだった。
トイレの方で扉が閉まった音がするということは、ミオと一緒に起きてきたのだろう。
「あ、あぁノアか。おはよう」
「おはよう、どうした?なんか顔赤くないか?」
「いや、なんでもない!何でもないんだ!」
必死に誤魔化してはいるものの、タイオンは明らかに赤面していた。
リビングへと逃げるように去っていく彼を不審に思いながら、ノアは洗面所のドアを開けた。
中で歯磨きをしているユーニが振り返り、歯ブラシを咥えたまま“おはよう”と言って来る。
その様子を視界にとらえた瞬間、ノアは察してしまった。
何かあったな、と。
“おはよう”と返事をしながらユーニの隣に立つノア。
鏡を見つめながら、彼は自分の長い黒髪に手櫛を入れ始めた。
サイドの髪が寝癖で少々跳ねている。
その髪を指でつまみながら、彼はわざとらしく言った。
「あ、寝癖だ。寝癖がついてる」
「ドンマイ」
“ドンマイ”の一言で片付けたユーニのあまりの塩対応ぶりに、ノアは思わず吹き出してしまう。
直そうとするどころか、気にもかけてくれない彼女の様子はあまりにも露骨で、少々ツボに入ってしまったのだ。
突然笑い始めた幼馴染の様子に、ユーニは歯ブラシを咥えながら怪訝な表情でノアを見上げた。
「え、なに?」
「いや、俺の寝癖は直してくれないんだなぁって」
「はぁ?」
「あぁそうか。ユーニが寝癖を直してやるのはタイオンだけか」
揶揄うように笑うと、ユーニの歯磨きをしている手がぴたりと止まる。
そしてみるみる内に顔を赤くさせると、隣に並んで髪を束ねだしているノアの尻めがけて軽く蹴りをお見舞いした。
「お前はミオに直してもらえ馬鹿っ」
「いたっ」
パンッ、という小気味よい音が狭い洗面所の中に響き渡る。
昔から、ユーニは照れると口調が一層荒くなる癖があった。
分かりやす過ぎる癖が発揮されたことで、ノアは確信してしまう。
やっぱりユーニはタイオンに気があるのだな、と。
ノアにとってユーニは幼馴染であり“弟”のような存在でもあった。
“妹”ではなく“弟”と表現したのは、彼女が男勝りな性格のせいだろう。
ユーニを異性として意識したことはないし、互いにほとんど家族だとすら思っている。
彼女の恋愛遍歴はすぐそばで見守ってきたが、誰にでもフレンドリーに接するその性格と整った容姿のお陰で、男から好かれることも多い。
時折、一方的に勘違いした男からストーカーまがいの好意を寄せられることもある。
だからこそ彼女は、一見距離近いように見えてノアやランツ以外の男には見えない線を引いていることが多かった。
相手がその線を踏み越えようものなら即座に後ずさり、“その気がない”ことをアピールして希望を抱かれないようにする。
それがユーニなりに編み出した危機回避法なのだろう。
ノアの目から見て、タイオンは明らかにユーニに気がある。
人一倍好意に敏感なユーニのことだ。恐らくタイオンからの好意にも気付いているのだろう。
なのに彼女は一線を引くどころか自分から積極的に近付き、あまつさえこのウロボロスハウスにルームメイトとして引き込んでしまった。
タイオンの手を取り、自らの領域に引っ張り込もうとするユーニもまた、タイオンに恋愛感情を抱いているのは間違いない。
誰がどう見ても両想いなのに互いに一歩踏み出さないのは、きっと彼らなりの事情があるのだろう。
見ていてやきもきするが、正直面白くもあった。
幼馴染とはいえ所詮は他人。他人の恋愛ほど見ていて面白いものはない。
きっと自分とミオの関係も、ユーニやランツは面白がっているのだろう。
ユーニと入れ替わる形で、今度はミオが洗面所にやって来た。
ノアの隣に並び、自分の歯ブラシを手に取って準備を進める。
その様子をじっと見ていると、ノアからの視線に気が付いたミオが歯ブラシを咥えながら不思議そうな表情でこちらを見上げてきた。
「なぁに?」
「いや、可愛いなって」
「なに急に」
ノアの素直すぎる一言に、ミオが照れ笑いを零す。
彼女の頭をそっと撫でると、ミオは幸せそうに微笑みながら見つめてきた。
ミオは可愛い。ずっと片想いし続けたせいもあるだろうが、付き合った今でも彼女を想い慕う気持ちが薄れる気配がない。
先日訪れたディスティニーランドにて、互いの気持ちをぶつけあって以降、2人の関係は良好だった。
前までは少々遠慮がちだったミオの態度が一層甘くなり、素直に擦り寄ってくることも多くなった。
だが、幸せそうな表情を浮かべるミオの一方で、ノアの心には迷いが生じている。
そろそろ、我慢の限界なのだ。
ストーカー被害に遭ったことで男に恐怖心を抱いているかもしれないミオに気を遣い続け、そろそろ1年になる。
例のストーカーもすっかり鳴りを潜め、ここ半年は一切それらしい被害は確認できていない。
彼女は何も言ってこないが、そろそろ頃合いなのではないだろうか。
例えば今夜、急にミオを押し倒してその体に触れたとしても、彼女は受け入れてくれるだろうか。心に傷を与えたりしないだろうか。
そんな不安がノアを支配していた。
だが、このまま我慢を続け、限界を突破した結果乱暴にミオに襲い掛かったりしたら元も子もない。
好きな女の子が隣で寝ている環境は、ノアの理性を日々削り取っている。
いずれ爆発するくらいなら、その前に済ましてしまった方がいいのかもしれない。
よし、誘おう。今夜だ。
今夜ミオを誘って、彼女を本当の意味で自分のものにする。
ストーカーのことを思いださないよう、うんと優しく抱いてやる。
決めた。やってやろう。
「よし」
「なんの“よし”?」
「えっ、あぁいや、気にしないでくれ」
そう言って誤魔化すと、ミオは不思議そうに首を傾げていた。
歯を磨き、顔を洗って朝食を食べる。
私服に着替えて荷物をまとめると、ノアは午前中のうちにリビングを出た。
今日は昼からバイトが入っている。夕方には帰るだろう。
ふと、玄関にかかっているホワイトボードに視線を移す。
リビングにかかっているホワイトボードは料理担当や掃除担当を記載するボードだが、この玄関に掛けられているボードは、このウロボロスハウスの住人が今日一日どこに出かけているか、何時に帰って来るかを記載するためのボードである。
どうやらユーニは先に家を出たらしい。
ユーニの欄に、“バイト。22時帰宅”と記載がある。
その上の自分の欄に、同じように“バイト。19時帰宅”と記載する。
靴を履いて家を出ると、外は曇り空だった。
そう言えば最近、郵便ポストをチェックしていないような気がする。
なんと郵便受けをチェックしてみると、そのほとんどが広告だった。
ピザの広告、マンション販売の広告、保育園の広告。
ほとんど目を通す必要のないものだったが、そんな広告たちに混ざって白い封筒が入っていた。
なんだろう、これ。
宛名はない。宛先も書いていない。切手の添付もないことから察するに、この家に直接投かんされたものだろう。
封を開け、中身を確認してみる。
封筒の中を覗き込んだ瞬間、ノアは“えっ”と声を漏らした。
固まる彼の頬に、冷たい何かが降ってくる。
雨だ。曇天の空から、冷たい雨が降って来た。
そういえば今日は雨の予報が出ていたな。そんなことを考えながら、ノアは手に持った封筒を自分の鞄に入れた。
一旦玄関に戻り、傘立てに刺さっているビニール傘を1本取り出す。
そして、先ほど記載したホワイトボードの文字を消し、新しく書き直した。
“バイト。帰宅時間不明。夕食いりません”と。
***
おまけ
ちょっとした登場人物設定メモ
【セナ】
アイオニオン国際大学 体育部3 年生。年齢20歳。
誕生日は1月。
重度の人見知りであり、必要以上に他人に気を遣ってしまいがちな性格。
地元は地方の片田舎であり、高校は1学年1クラス程度しか在籍していない小さな学校だった。
ミオやタイオンとは同じ高校出身であり、学年が違うものの全体の生徒数が少なかったため顔を合わせる機会も多かった。
駅前のコンビニでアルバイトをしている。
元々ミオやタイオンが住んでいた地域とは別の地域に住んでいたが、とある出来事をきっかけに引っ越しをした。
転校先の高校でミオに出会い、生徒会に参加。そこで当時会長を務めていたタイオンとも親しくなった。
ランツとは筋トレのために通っているジムで出会い、ランツのナンパがきっかけで親しくなった。
初対面の相手には緊張してしまい上手く話せず、特に男性が相手だと途端に離せなくなってしまうのが悩み。
act.19
雨の中、タイオンは傘を片手に家を出た。
右手には車の鍵。ルームメンバーで共有して使っているファミリーカーの鍵である。
運転席に乗り込み、キーを回す。
遠出するときは必ずじゃんけんで運転手を決めるのだが、じゃんけん運がいいらしいタイオンはこの車を運転するのは今日が初めてだった。
元々の所有者はノアの親戚らしいし、ぶつけないようにしなくては。
細心の注意を払いつつ、タイオンはハンドルを握りゆっくりと車庫から出て行った。
向かう先は近所のスーパー。
今夜の食事当番を担当している彼は、夕飯の材料を買いに車を走らせていた。
数分もしないうちに彼の運転する車はスーパーへと到着する。
店内に入り、真っ先に向かった先は野菜売り場だった。
何を作ろうか小一時間悩んだが、ここは無難にカレーを作ることにした。
カレーなら初心者でも作りやすいし、中学の頃飯盒炊飯で作ったこともある。
担当したのは米炊きだけで、ほとんど同じ班だった女子に任せていたような気がするが、他の料理よりは美味く作れるだろう。
カレーならレシピなど見ずとも作れる。野菜と肉をカレー粉と一緒に煮込めば完成だ。
イメージトレーニングはばっちりである。
玉ねぎ、にんじん、ジャガイモ。
オーソドックスな食材を次々カゴに投入していく。
だが、普通の具材だけでは面白味がない。オリジナリティを出した方が一層美味くなるのではないだろうか。
カレーなんて失敗するわけがないのだから、少しくらい冒険してみても罰は当たらないだろう。
そう言えば、カレー専門のチェーン店では野菜カレーとやらが人気だと聞いている。
具だくさんの方が美味いだろうし、他にも色々入れてみよう。
選んだのは、カボチャ、ナス、トマト、きゅうり、ブロッコリー。
夏野菜はカレーによく合うというし、カボチャやナスは妥当な選択だろう。
そもそもトマトカレーというジャンルのカレーがあるのだからトマトがカレーに合うのは言うまでもない。
ブロッコリーはシチューにもよく入っている食材だ。シチューなんて具材も同じだしほとんどカレーみたいなものだからこれも妥当だろう。
きゅうりはほとんど水分で出来ている野菜だ。ほとんど水みたいなものだし、入れても大きく失敗することはないはずだ。
これだけ野菜がごろごろ入っていれば、きっと女性陣も喜ぶはず。
だが、男性陣は肉がないとやはり納得がいかないだろう。
そう考えたタイオンは、次に精肉コーナーへと向かった。
鶏肉、豚肉、牛肉、挽肉。
様々な種類の肉がある中で、タイオンは腕を組み悩んでいた。
チキンカレー、ポークカレー、ビーフカレー。どれにすればいいのだろう。
あれだけ野菜を大量に入れたのだから、バランスを取って肉も大量に入れたほうがいいだろう。
だが、肉は高い。野菜と同じ分量だけ入れるとなるとかなり財布に負担がかかる。
自分のポケットマネーならともかく、ルームメイト全員で出し合っている共通の財布から支払うのだからそれなりに節約もしなくてはいけない。
安くてボリュームのある肉はないものか。
そう思っていたタイオンの視界に、とある肉が飛び込んでくる。
合いびき肉。他の肉たちに比べて安価なこの肉なら、家計に優しく大量の肉を摂取することが出来る。
そういえば、キーマカレーは確か挽肉を使ったカレーだったはず。
つまり挽肉はカレーに合うということだ。
自分の発想力に感心しつつ、タイオンは挽肉特大パックを手に取った。
その後も彼の買い物は続いた。
前にテレビでコーヒーを淹れるとコクが出ると聞いたことがあったためインスタントコーヒーをカゴに投入。
CMでリンゴやはちみつを入れると甘みが出て美味しいと言っていたためリンゴと、はちみつは売り切れだったためメープルシロップを籠に投入。
やはりカレーと言えば辛いのが醍醐味だろうということで、辛さを出すために七味と唐辛子、さらに鷹の爪も籠に投入。
魚介の旨味を出せば食欲がそそられるのではないかと考え、シーフードカレー風にするため増えるわかめを投入。
水っぽいカレーよりとろみのあるカレーの方が美味いだろうということで、とろみをつけるために片栗粉を投入。
様々な食材や調味料を次々籠に投入していくタイオンのテンションは徐々に上がりつつあった。
そして最後に、肝心のカレー粉を手に入れるためカレー粉売り場へと向かった。
ずらりと並ぶカレーの箱を見つめながら、タイオンは悩む。
どれがいいのだろうか。
1つ箱を手に取り裏返してみると、そこには手のひらサイズほどのキューブ上の茶色い固形物のイラストが描かれていた。
どうやらこの箱にはこの固形物が入っているらしい。
おかしい。“カレー粉”と言うからには粉のはずだ。こんな固形物なわけがない。
あたりをキョロキョロと見渡すと、ようやくそれらしいものを発見できた。
カレーパウダー。
本来は料理を“カレー風味”に仕上げるために使用されるその粉を、タイオンは“カレー粉”だと疑わなかった。
無事買い物を終えたタイオンは、満足げな表情でウロボロスハウスへと帰還した。
ふと玄関のホワイトボードを見るとランツとセナは駅前のジムに出かけているらしく、帰宅時間は18時となっている。
ミオも友人とランチに出かけているらしく、同じく帰宅は18時。
ユーニはバイトで遅くなるらしく、帰宅は22時となっているが夕飯を外で食べる旨のメッセージは残されていない。
ノアは帰宅時間不明となっており、夕飯もいらないとメッセージが残されていることから、帰宅が遅くなることが予想される。
今夜タイオンの作るカレーをありがたく口にできるのは、ランツ、セナ、ミオ、そしてユーニの4名。
この4人のためだけに、一流料理人タイオンは早速キッチンに立った。
包丁を握り、食材を切る手はたどたどしい。
何度か指を切ってしまったが、その度絆創膏を貼ってカバーした。
そういえば、オリーブオイルを使えばどんな料理もお洒落になると聞いたことがある。
さらに言えばごま油は体にいいとも聞いたことがある。
どちらも入れれば最強のカレーになるのではないだろうか。
そう思ったタイオンは、ごま油とオリーブオイルをドボドボと鍋に投入し、切った野菜や肉を投入した。
そして水を入れ、しばらく煮込む。
これで具材に火が通ったら、買ってきた調味料と一緒にカレー粉を入れれば終了だ。
なんだ、料理なんて簡単じゃないか。
タイオンはますます上機嫌になっていた。
人参とジャガイモは皮を剥く必要があると知ったのは、具材が十分に煮立った後のことである。
まぁ大丈夫だろ。そんな軽い心持で、タイオンは次の工程をこなす。
カレーパウダーを投入。次いでにすりおろしたリンゴとメープルシロップ、わかめ、七味などの調味料、そしてインスタントコーヒーも一緒に入れる。
そこまでは順調だったのだが、一つ問題が発生した。
全くとろみがつかないのだ。
仕方なく片栗粉を水で溶かさずそのまま投入。
するとようやくどろっとした感触が生まれ始める。
よかった。やはり片栗粉を買っておいて正解だったな。
色が少々邪悪ではあるが、これはいろいろな食材を放り込んだせいだろう。味に問題はないはず。
気付けば料理開始から4時間が経過している。
これだけ時間をかけたのだから美味いに決まっている。
鍋を覗き込みほくそ笑むタイオンの耳に、玄関が開く音が届く。
誰か帰ってきたらしい。
その音の主は、ジムへ揃って出かけていたランツとセナだった。
靴を脱ぎ、玄関へと上がったランツは妙な違和感に眉をひそめた。
隣にいるセナもその違和感に気付き、ランツを見上げている。
顔を見合わせた二人は、恐る恐るリビングへと向かった。
扉を開けた瞬間、妙な匂いが鼻を突く。くさいような臭くないような、何とも表現しにくい匂いだ。
とにかく、心地よい香りではない。
荒れ果てたキッチンの奥では、火にかかっている鍋をゆっくりとかき混ぜているタイオンの姿があった。
2人はすぐに察してしまう。この匂いの原因は、あの鍋からだと。
「二人ともやっと帰ったか。もう夕飯出来てるぞ」
「お、おう、悪いなタイオン。ところで、それ、なんだ?」
「見て分からないか?カレーだ」
「え?か、カレー!?」
どう考えてもこれはカレーの匂いではない。
何かの間違いだろうかと疑う二人だったが、タイオンは冗談を言うような性格ではない。
若干引き気味の2人だったが、そんな彼らに援軍がやって来る。
ミオだ。友人とランチに出かけていたミオがタイミングよく、いや、運悪く帰宅してしまったのだ。
「え、なに?この匂い……」
「み、ミオちゃん。帰ってきちゃったんだね……?」
「そのまま友達と夕飯も一緒に食ってれば、命までは助かったかもしれねぇのに」
「え、ど、どういうこと?」
こっそり耳打ちしてくるランツとセナに、ミオは戸惑いを隠せなかった。
明らかに空気が淀んでいる。
タイオンが一心不乱に描きまわしているあの鍋から、瘴気のようなものが出ている。
禍々しい鍋のオーラをもろともせず、この激物を生成した張本人であるタイオンは、お玉から泥のような液体を救い上げ、彼らしからぬ満面の笑みを浮かべて言い放った。
「さぁ、食べようか」
セナとミオが、ランツの両腕にしがみつきながら小声で“ヒィッ”と声を漏らす。
2人の少女に抱き着かれているランツもまた、脂汗が止まらなかった。
***
白く美しい白米の上に、禍々しい邪気を放つ“カレー”が乗せられる。
タイオンが笑顔でカレーだと言い放つそれは、何故か真っ黒だった。
食卓に着いたランツ、セナ、ミオの3人は、親が死んだときのような絶望的な顔をしながら手元に配膳されたカレーに視線を落としていた。
一人一人の皿に丁寧に盛り付けていったタイオンは、眼鏡を押し上げながら満足げに微笑んでいる。
「さぁ食べてくれ。4時間かけて作った特製カレーだ。期待してもらって構わない」
「よ、4時間1?」
まさかの所要時間の長さに、ランツは驚きの声を挙げた。
彼も料理はからきしだが、カレーは4時間もかけるような料理ではないことくらいは分かる。
まずい。見ているだけで吐きそうだが、料理に不慣れなタイオンが4時間もかけて作ったと聞けば邪険には出来ない。
食べるしかないのか、この泥みたいなカレーを。
ふと顔を上げると、ミオとセナは覚悟を決めたようにスプーンを手に持っている。
こういう時、女の方が度胸あるよなぁ。
そんなことを考えながら、ランツは震える手でスプーンを手に取った。
そして、3人同時に泥のようなカレーを掬い上げ、口に運ぶ。
「……どうだ?」
沈黙が5秒ほど続いた。
何も言ってくれないルームメイトたちに不安になったタイオンは、恐る恐る問いかける。
その問いかけに答える者はなく、耐え切れなくなったセナが椅子を蹴りながら勢いよく立ち上がった。
「ご、ごめんっ、私ちょっと……!」
「え?せ、セナ?」
真っ青な顔をしながら、セナは口元を抑えつつ小走りでトイレへと駆け込んだ。
明らかに吐き気を催しているセナの様子に、タイオンは驚いてしまう。
残されたランツとミオも、血の気の引いた白い顔で食卓に項垂れている。
「み、みんなどうした?美味くないのか?」
「タイオン、お前さん、一体どんな作り方したらこんなの作れるんだよ」
「ごめんねタイオン。不味くても美味しいって言ってあげたいんだけど、これは無理。流石に無理。今にも吐きそう……」
「そ、そんな……」
すると、背後でトイレの水を流す音が聞こえてきた。
やがてふらつきながらセナがリビングに戻ってくる。
小麦色の彼女の肌は白く染まり、光の灯らない目で言い放たれる。
「なんか、遠くに一瞬川が見えた……」
「それ三途の川だぞセナ!死にかけてるじゃねぇか!」
「そ、そんな……。僕のカレーはそんなに不味かったのか……!?」
「悪いけどな、不味いなんて次元じゃねぇ。多分死刑囚でももっとマシなもん食ってるぞ」
「うん。一口食べただけで冷汗が止まらない。体が明確に拒絶しているのが分かるわ」
「ぐっ……」
審査員からの酷評に、料理人タイオンは項垂れる。
食卓に両手をつき絶望する彼を哀れに思ったセナは、未だ血色が戻らない顔で彼の背中をさすり、懸命に笑顔を作った。
「で、でもすごいよタイオン!一瞬で人に死を覚悟させるほどの激物を作れるなんて!そのうちCIAとかからスカウトされちゃうんじゃない?」
「うっ……」
「せ、セナ、これ以上はやめてあげて!もうタイオンのメンタルは崩壊寸前よ!」
「あっ、ごめん」
泣きたくなった。
イメージトレーニング上ではうまくいっていたというのに、何故こんなことになってしまったのか。
タイオンはすぐにカレーを下げようとしたが、3人は“せっかく4時間もかけて作ってくれたんだから”と言って結局一皿完食してくれた。
その優しさが、タイオンの心にしみわたる。
完食後、耐え切れなくなったのか3人とも青い顔をしながらそれぞれの部屋に閉じこもってしまった。
一人きりになったキッチンで試しに自分も一口例のカレーを食べてみると、確かに壮絶な味がした。
舌先が痺れ、筆舌に尽くしがたい嘔吐感が沸き上がってくる。
あの3人はよく完食出来たなと感心してしまうほどの酷い出来だった。
ある意味、先にランツたちに食べてもらえてよかった。
この不味いカレーをユーニが食べたりしたら、きっと幻滅されるだろう。
こいつはカレーも満足に作れないのか、と。
すると、手元でスマホが震えた。
誰かからメッセージが届いたらしい。
画面を確認した瞬間、心臓が飛び出しそうになってしまう。
届いたメッセージはユーニからだった。“バイト終わったからそろそろ帰るわ。今日タイオンが夕食当番だったよな?タイオンの料理楽しみにしてる”
まずい、まずい、まずい。
鍋の中にはユーニのために残しておいた一人分のカレーが残っているが、まさかこれを出すわけにはいかない。
かと言ってこれから作ろうにも具材がない。
正直に失敗したから今日は夕飯ナシだと言ってしまうか?
いやでも、“楽しみ”と言ってくれている相手の期待を裏切るようなことはしたくない。
どうする?どうすればいい?
賢い頭をフル回転させながら、タイオンは窮地脱却のための策を練る。
限られた時間の中でユーニを幻滅させない方法は、ただ一つしか思い浮かばなかった。
その策を実行するため、タイオンは急いで車の鍵を手に取った。
***
居酒屋でのバイトを終えたユーニは、早歩きで家へと向かっていた。
今夜はタイオンが夕食を作る予定である。
好きな人の手作り料理に期待しない人間はいないだろう。
ようやく家に帰って来たユーニは、勢いよく玄関の扉を開けた。
家に入った瞬間、美味しそうな匂いが漂ってくる。
これは恐らくカレーだろう。
リビングを開けて中に入ると、キッチンに立っていたタイオンと目が合った。
「ただいまっ」
「あ、あぁ、おかえり」
「腹減ったぁー。飯余ってる?」
「あぁ。作りたてではないが、温め直したカレーがある」
「おっ、やっぱカレーか。匂いで分かった」
食卓に着くと、タイオンの手によって美味しそうなカレーが運ばれてきた。
具材がいい具合に溶けだした、何とも美味しそうなカレーである。
“いただきまーす”と手を合わせて一口食べると、コクのある美味しいカレーの味が口内に広がった。
美味い。すごく美味かった。
タイオンは一同の中でも一番賢い男である。
頭がいい人間というのはやはり何をやらせても上手くいくものなのだろう。
素直に感心したユーニは、キッチンで様子を伺っているタイオンに微笑みかけた。
「うん、めちゃくちゃ美味い!」
「そうか……。ならよかった」
「タイオンって料理上手かったんだな。流石じゃん」
「あぁ……まぁ……そうでも、ない」
タイオンからの返答は、何故だか歯切れが悪かった。
こんなに美味いカレーを作れるのだから、彼の性格上得意げな顔で誇っていてもおかしくはない。
なのに、やけに自信なさげな彼の態度が気になった。
「じゃあ、僕は風呂に入ってくる。食器は水につけてシンクに置いておいてくれ」
「あ、うん。分かった」
暗い表情のまま、タイオンは背を向けてバスルームへと消えていった。
タイオンのカレーは非常に美味く一皿ペロリと食べ終えてしまった。
カレーが少しピリ辛だったせいか、何だか喉が渇いた。
飲み物を飲もうと冷蔵庫を開けたその時、妙な匂いが鼻につく。
何だこの匂いは。
ぎょっとして冷蔵庫の中を見渡すと、下段に大きな鍋が入っていることに気が付いた。
鍋を引っ張り出して蓋を開けてみると、そこには泥のような物体が入っていた。
何だこれは。グロイ。気持ち悪い。まさかこれは、カレーか?
いやでも、さっきタイオンから振舞われたカレーはこんな色も匂いもしていなかった。
あぁまさか——。
キッチンの脇に置かれた蓋つきのごみ箱の中を覗くと、そこには封が開いた状態のレトルトカレーの箱が入っていた。
都内の有名ホテルのシェフが監修したというそのレトルトカレーは、コンビニやスーパーで何度か見たことがある。
確か、レトルトにしてはかなり高価なものだったはず。
その箱を見た瞬間、ユーニはなんとなく事態を察してしまった。
なるほど、カレーを作ろうとしたら失敗して、急いでレトルトを買いに行ったのか。
鍋のカレーもどきが1人前程度しか残っていないことを考えると、きっとランツたちに先に食べさせた結果不味いという評価を貰い、自分にこんなものを食べさせるわけにはいかないとでも考えたのだろう。
「馬鹿だなぁ、まったく……」
冷蔵庫に入っていた鍋をコンロに置き、火をかけ始める。
ぐつぐつと煮立ち始めるカレーらしきものを見つめながら、ユーニはため息交じりに呟いた。
「あーあ。こんな時間にもう一杯カレー食ったら太るよなぁ……」
***
風呂から上がりリビングに戻ると、既にユーニの姿はなかった。
恐らくカレーを食べ終えて自室に戻ったのだろう。
誰もいなくなったリビングで、タイオンは深いため息をつく。
咄嗟にレトルトカレーを購入して誤魔化してしまった。
料理下手を悟られたくなくて、一番カッコ悪い選択をしてしまった。
ユーニに幻滅されることはなかったが、ある意味で嘘をついているのも同じだ。
これでよかったのだろうか。
項垂れながら食卓に腰かけようとしたその時だった。
ユーニが座っていた席に、小さなメモ書きが置かれている。
その紙には、ユーニの字でこう書かれていた。
“カレー、2杯とも美味かったよ。ありがとな”
2杯とも。
その言葉にひやりとした。
急いで冷蔵庫を開けると、例の失敗したカレーが入っていたはずの鍋がなかった。
いつも鍋を収納している棚を開けると、そこには例の鍋が綺麗に洗った状態で収納されている。
それを見て、タイオンは状況を把握してしまう。
食べたのか、あの不味いカレーを。
「あぁ……。もう……」
か細く声を漏らし、キッチンに両手をついた。
小細工は通じなかった。あっけなく看破された上に、“美味かった”なんて明らかなお世辞を言わせてしまった。
こんなはずじゃなかったのに。
項垂れるタイオンは、ユーニが書き残したメモ書きを握り締める。
彼女は優しい。いつもは口も悪く、揶揄ってばかりのくせに、こういう時は特別な優しさを向けてくれるのだ。
その優しさを浴びるたび、ガラスの瓶に詰めて封じていたはずの感情があふれ出してしまいそうになる。
もうやめてくれ。そんなことをされたら、もう誤魔化しがきかなくなるじゃないか。
認めたところで、どうせ釣り合わないのに、うまくいかないのに。
ユーニのせいで、自分の心に嘘が付けなくなる。
やっぱり僕は、ユーニのことがたまらなく好きなんだ。
でも駄目だ。
ユーニは男友達も多くてモテる。自分への甘やかな態度も、不特定多数へと向けられた優しさの一つであり、そこに深い意味は存在しない。
勘違いするな。期待するな。舞い上がるな。
ユーニを好きだと認めてしまったら、どうせ叶わない恋に苦悩するのは目に見えている。
認めちゃいけない。この感情は押し殺すんだ。
僕はユーニなんて好きじゃない。
先程とは真逆の言葉を心に刻みながら、タイオンは膨張しきった彼女への感情を再びガラスの瓶への押し込めた。
これ以上隠し続けることへの限界を密かに感じながら。
act.20
午前0時30分。
日付が変わったばかりの深夜、ミオは気分の悪さを感じながら寝付けずにいた。
胃がむかむかする。理由は明白。夕飯に食べたカレーが原因である。
死ぬほどマズかったが、何時間もかけて作ってくれたタイオンに悪い気がして無理をしながら完食してしまった。
結果、食べてから随分時間が経っているにも関わらず未だに気分が優れない。
ベッドに寝転がりながら、ミオはずっと“うーーーー”と低い声で唸り続けていた。
ふと、誰もいない隣のスペースに目を向ける。
当初ノアはバイトで夕方ごろ帰ると言っていたが、玄関のホワイトボードには帰宅時間不明と記載されていた。
急に用事でも出来たのだろうか。
けれど、日付が変わっても帰って来られない用事とはいったい何だろう。
残業?いや、ノアがアルバイトをしているレストランの営業時間は22時までで、どんなに遅くとも23時には帰宅できるはず。
では飲み会か?いや、そうならそうだとホワイトボードに記載するはずだし、なによりLINEでミオに知らせてくれるはず。
残業でも飲み会でもなく、彼女である自分に知らせようと思えない用事とは何か。
そこまで考えて、ミオは勢いよく上体を起こした。
まさか、浮気?
いやいやいや、それは流石にない。
この前ディスティニーランドで想いを伝えあったばかりじゃないか。
ノアは誠実な人だ。浮気なんてするはずない。
きっと連絡を忘れているだけで、バイト仲間と飲みに行っているだけだ。疑うほどのことじゃない。
自分にそう言い聞かせ、ミオは再び布団に潜り込んだ。
それから数十分後、彼女はようやく眠りについた。
しかし、すぐ隣に感じた人の気配に意識が覚醒する。
重たい瞼を少しだ開き隣を見ると、ちょうど髪を解いたノアがベットに潜り込んできたところだった。
どうやらようやく帰って来たらしい。
枕元に置いてあるスマホへと手を伸ばし時刻を確認してみると、午前4時と表示されていた。
もはや早朝と言って差し支えない時間帯である。
こんな時間まで何をしていたのだろう。
ミオがすっかり眠り込んでいると思っているらしく、ノアは隣にいる彼女に声をかけることなく、背を向けて眠り始めた。
そんなノアに、ミオもまた背を向けて瞼を閉じる。
なんだか嫌な予感がした。
“どこに行ってたの?”
そう聞きたい気持ちはあるが、何故か怖くて質問できなかった。
次に目を覚ましたのは午前8時半。
もうすっかり朝になっている時間だった。
既にノアは起床していて、ベッドに腰かけながら長い黒髪を一つに束ね挙げていた。
ベッドの中で身をよじるミオに気付いた彼は振り返り、いつもの柔らかな笑みを見せる。
「おはよ、ミオ」
「おはよう。昨日遅かったのね」
「あぁ、ちょっとな。ごめん、起こしちゃったかな?」
「平気」
ノアの手が伸びて来る。
様々な楽器を嗜んでいる彼の指は男性にしてはしなやかで綺麗だ。
そんな指がミオの頭を撫でる。
その手つきは相変わらず優しくて甘かった。
「じゃあ俺、今日授業あるから先起きるな」
「うん……」
ベッドから立ち上がったノアは、結局何も言わず部屋を出て行ってしまった。
昨日遅くなった理由はわからないままである。
この日1日だけの出来事だったならそこまで気にしなかったのかもしれない。
だが、早朝の帰宅が連続で2週間近くも続けば流石に心配にもなる。
勿論毎日その時間に帰ってくるわけではない。
時には夕方ごろに帰って来ることもあったが、ほとんどは早朝4時頃にベッドに入っている。
遅くなった理由をやんわり聞いてみたこともあったが、“ちょっと忙しくて”と具体的な理由を話さないままはぐらかされてしまった。
ノアの態度は変わらず優しかったが、彼の心情が掴めずやきもきする。
そしてそんな日々が続けば、否定し続けていた疑惑もどんどどん大きくなってしまう。
自分の彼氏は、本当に浮気をしているのではないか、と。
「人は何故浮気をするんだと思う?」
ミオの問いかけに、ケーキをショーケースに並べていたミヤビは呆然としながらその言葉を聞いていた。
カウンターでケーキの在庫をメモしていたミオの目はなんだか怖い。
駅前に看板を構えているケーキ屋、“ベルフェーム”。
ミオはそこでアルバイトをしていた。
隣に並んで仕事をしているのは、1つ年下のミヤビ。
彼女は元々セナやタイオンと同じ高校出身で、都心の音楽大学に通うため上京した。
ミヤビはフルート奏者であり、何度か一緒に協奏曲をコンサートで演奏したこともある。
高校卒業と同時にフルートを引退したが、ミオにとってはいわば“元相方”だ。
親友ともいえる彼女は、ミオの恋人であるノアとも何度か会ったことがある。
彼氏がいるミオが“浮気”という言葉を持ち出してきたということは、きっとノアと何かあったのだろう。
言葉を表面上だけで理解するとすれば、ノアに浮気されたのだと予想できる。
しかし、ミヤビの目に映ったノアは、どうも浮気をするような男には思えなかった。
「ミオ、すごく哲学的なことを聞くね」
「哲学的かな?」
「哲学的だよ。だって人間だって所詮は動物だよ?獣だよ?より魅力的な異性がいたら子孫繁栄のために靡いちゃうのは生き物としての本能だもん」
「本能……。じゃあ、私よりも魅力的なメスが目の前にいたらノアもオスの本能を剥き出しにして浮気に走っても不思議じゃないってこと?」
「オスである以上ある程度は仕方ないんじゃないかなぁ」
「そっかぁ、じゃあ……」
ケーキの梱包用に使っているリボンをハサミで勢いよく切りながら、ミオは闇の深い瞳でぼそっと呟いた。
「メスにすればいいのかな」
「ミオ、やめな?」
どす黒い空気を背景に纏いながらハサミを見つめるミオに、ミヤビはニコニコと笑顔を浮かべながら制止した。
付き合いの長いミヤビには、ミオという親友がどんな性格をしているのかよくわかっている。
元々恋愛にはあまり関心がなかった彼女が、ノアという彼氏を作ったことには驚かされたが、交際して1年が経とうとしている今現在まで、ミオがノアとのことで愚痴をこぼしたり悲しい顔をすることはほとんどなかった。
それが、今は悲しい顔どころか闇を孕んだ表情を浮かべている。
これはちょっとした事件かもしれない。
ミオをここまで悩ませるようなことをした相手がいるとすれば、十中八九ノアだろう。
誰がどう見ても“優しい彼氏”である彼が、一体を何をしたというのか。
気になったミヤビは、ショートケーキをショーケースに並べながら純粋な疑問を投げかけることにした。
「ノア君に浮気されちゃったの?」
「わかんない。でも、最近朝帰りが続いているの。理由を聞いてもなんとなくはぐらかされるし……」
「あぁ……」
「ねぇ、これってやっぱり、浮気だと思う?」
大人しい性格であるミヤビには男性経験がない。
想いを寄せられたことが無いわけではないが、未だ彼氏を作ったことが無い彼女にとっての恋愛の教科書は、少女漫画と恋愛ドラマだった。
朝帰りが続いているうえ、理由もはぐらかされる。しかもミオは随分前から“ノアに手を出されない”と不安がっていた。これらの事実を踏まえ、恋愛経験皆無なミヤビは推理する。
そして、しばらく考え込んだのち、彼女はハッキリと言い放った。
「浮気だね」
「や、やっぱり!?」
「うん。間違いないよ。NANAでも同じような展開あったし」
「NANAでも!? じゃあ浮気確定じゃない!」
ノアという彼氏がいる分、ミオの恋愛経験値はミヤビのそれよりも幾分か上である。
しかし、彼女にとっての恋愛の教科書もまた、少女漫画か恋愛ドラマの二択である。
とりわけ男女のどろどろとした愛憎劇を好む二人の頭には、特に根拠のない方程式が出来上がっていた。
きな臭い展開の裏側には“浮気”あり。
数々の少女漫画、およびレディースコミックを読破してきた彼女たちに疑いはなかった。
そしてミオは、再びハサミを片手に手元の赤いリボンを切り刻み始める。
「やっぱりメスにするしか……」
「ノア君、次会ったらノアちゃんになってるのかな」
しゃきしゃきとハサミを動かすミオ。
その横で斜め上な考え事を始めるミヤビ
駅前に看板を構える小さなケーキ屋は、混沌とした空気を醸し出していた。
そんな時。店内の自動ドアが開き、誰かが入ってきた。
お客様だと思った2人は、すぐさま顔を上げ、“いらっしゃいませ”と声を合わせる。
店内に入ってきたその“お客様”を視界に入れた瞬間、2人の温度が一気に氷点下まで下がった。
「ミオ、お疲れ」
そう言って爽やかに微笑みかけてきた“お客様”はノアだった。
隣に立っているミヤビにも“久しぶり”と声をかけてくる彼は相変わらず好青年で、ミヤビの目には彼が浮気をしているようにはどうしても見えない。
だが、実際に朝帰りを繰り返しているということはそうなのだろう。
渦中の“浮気男”を前に、ミヤビは密かに胸を昂らせていた。
もしかしてこれって、修羅場って奴じゃないのかな?
当事者は親友だというのに、彼女はワクワクしていた。
「……なに?なんでいるの?」
ノアの突然の登場に、ミオは分かりやすく機嫌を損ねた。
彼が浮気をしていると仮確定した今、どんな顔をして話すべきか迷っているのだろう。
不貞腐れたように視線を外す彼女を横目に見ながら、ミヤビの心はさらにエキサイトする。
あぁミオ。すごく怒ってる。ノア君はどうするんだろう。
「そろそろシフト上がる時間だろ?近くまで来たから迎えに来たんだ」
「別にいいよ。一人で帰るから」
「もう遅いし、暗い夜道を独りで歩くのは危ないだろ?それに、久しぶりに2人で散歩したかったから」
優しく微笑みながら、ノアは甘やかな攻撃を繰り出す。
けれど、浮気をした相手の甘いセリフなど残念ながら攻撃力は0に等しい。
ノアの端正な顔立ちと爽やかな声から吐き出される甘いセリフは見事なものだが、流石に今のミオには効果などないだろう。
そう思い隣にいるミオへと視線を向けてみると、彼女は頬をほんのり紅潮させながらむっと唇を結び、もじもじと体をくねらせていた。
「ま、まぁ、別にいいけど……」
えぇぇ……。
ミオの満更でもなさそうな横顔を見つめながらミヤビは心の中で脱力した。
いいの?今浮気されてるんじゃないかって話をしていたばかりなのに、いいの?
彼女の両肩を掴んで問いただしたくなったが、流石にノア本人の前でそんなことが出来るわけがない。
店内の時計は21時を回っている。
店の営業時間は22時までであり、ミヤビのシフトは閉店まで。一方ミオは21時までの予定である。
退勤時間を迎えたミオは、そそくさとバックヤードに戻り店の制服から私服へと着替えた。
店内に戻ってきたのは3分後。
あまりにも早い着替えに、ミヤビは若干引いていた。
「それじゃあミヤビ、お先にね!」
「あ、う、うん。お疲れ様……」
にこやかに手を振り、ノアと寄り添いながら出て行くミオを見送ると、店内に静寂が訪れる。
浮気されたんじゃないの?なんでそんなにこやかななの?
ちょっと甘い台詞を贈られただけで機嫌がよくなるなんて、流石にちょっとチョロすぎじゃないのかな。
人のことを言えた義理ではないが、ミヤビはミオのあまりの単純さに少し心配になってしまう。
将来うさん臭いツボとか買わされたりしないでね、ミオ。
心で呟きながら、ミヤビは早めの閉店作業を開始した。
***
ミオのバイト先であるケーキ屋から、ウロボロスハウスまでは徒歩15分ほど。
途中、閑静な旧宅街に差し掛かったところでミオは早くも後悔を抱き始めていた。
あんなに浮気を疑っていたというのに、お店に来て“迎えに来た”と微笑まれただけであっけなく言うことを聞いてしまった。
怒ってたはずなのに、“まぁいいか”なんて思ってしまった。
全然よくない。いいわけがない。
朝帰りを繰り返している彼氏なんて怪しいことこの上ないし、浮気を疑われても無理はないだろう。
せめて理由を話してくれない限りは、このモヤモヤとした心のつっかえが外れることはない。
客観的に見て、ノアは顔がいい。性格もいい。
一見完璧にしか見えない彼は、誰がどう見てもモテる部類だろう。
本人が望まなくとも、勝手に女性が群がってくるに違いない。
モテる相手には選択肢が複数あり、選択肢が増えれば増えるほど選ばれる可能性も低くなってくる。
そういう意味では、ミオはノアに“選ばれた”と言えるのだろうが、彼に“選ばれ続ける保証があるか”と問われれば答えはNOである。
ノアの彼女と言えど、所詮は口約束。
法律で縛られているわけでもないし、合わないと判断されれば簡単に切られてしまうだろう。
交際を続けるも、別れるも、個人の自由。
もしもノアが浮気をしているのだとしたら、やはりいつかは別れを告げられてしまうのだろうか。
その日が来るのだとしたら、私は——。
暗い住宅街に響くのは2人の足音だけ。
コツコツと重なる足音が、不意に片方だけ音を止める。
ノアが足を止めたのだ。
どうしたのだろうと気になって振り返った瞬間、後頭部に彼の手が回る。
優しい力で引き寄せられたと思ったら、あっという間に唇が重なった。
「——っ!?」
突然のことに驚いてノアの胸板を押すが、彼は逃がさないとでも言いたげな様子で腰を引き寄せてくる。
やがて柔らかな唇の間から舌が入り込み、ミオの真っ赤な舌と絡み合う。
相変わらずノアは引き寄せる手を緩めてはくれなくて、ミオはされるがままに彼の口付けを受け入れていた。
「ん、ふぁっ」
一瞬だけ離れた唇から思わず吐息が漏れる。
ノアがこんなにも強引に口づけてくるのは珍しいことだった。
いつもはミオの嫌がることはしないよう、慎重に距離を詰めてくる彼が、今はまるで獣のように迫って来る。
何がどうなっているのだろう。頭に浮かんだ疑問を払拭するかのように、先ほどのミヤビの言葉を思い出す。
“人間だって所詮は動物だよ?獣だよ?”
ミヤビの言葉を裏付けるかのようなノアの行動は、ミオを大いに焦らせる。
やがて、そろそろ息が苦しくなってきたタイミングでノアはようやくミオの唇を解放した。
離れていく彼の顔をまっすぐ見つめることが出来ない。
あんなふうに突然、何の前触れもなく唇を押し付けられたのは初めてだったため、あまりの恥ずかしさに顔が赤くなってしまう。
「な、なに?突然……」
「ごめん、なんか急にしたくなって」
「急すぎるでしょ、もう……」
「ごめんごめん。苦しかった?」
「ちょっとね」
これ以上の文句を言えなかったのは、ミオもまたノアからのキスに喜びを感じてしまったせいだ。
ノアが何を考えているのかは分からない。
不安なことはたくさんあるはずなのに、キスの一つで全て吹き飛んでしまうのは、自分が単純だからだろうか。それとも、ノアのことが好きで好きでたまらないからだろうか。
どちらにせよ、なんだか情けない。
いつもいつもノアのペースに巻き込まれて、結局聞きたいことを聞けずに“まぁいいか”で終わってしまう。
聞くのが怖くて、今の関係が続くのならそれでもいいかと思ってしまう。
そんなの、本当は望んでいないはずなのに。
人のいない夜の住宅街の真ん中でキスを交わしていた二人だったが、ノアがミオの肩を抱き歩き始めたことでようやく終焉を見た。
ノアは今、何を考えているのだろう。
ふと彼氏の顔を見上げてみる。
するとノアは、ミオの肩を抱いて歩きながら背後をじっと見つめていた。
気になって自分も振り返ってみるミオだったが、夜の路地には自分たち以外の人影はない。
猫でもいたのだろうか。
“どうかした?”と問いかけると、彼は一瞬だけ焦ったように苦笑いを零しながら、“なんでもない”と呟いた。
だが、家に着くまでの間、ノアは何度も後ろを振り返っていた。
その不審さに気付きつつも、ミオはそれ以上言及できなかった。