Mizudori’s home

二次創作まとめ

タイユニ小ネタ集 Vol.2

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■SS

 

オレンジシンドローム


髪を切ることで短くなることはあっても、急に伸びることはほとんないだろう。
肩までしかなかった髪が、急激に腰までのロングになった経験は、おそらくアイオニオン広しと言えどミオしかいない。
 
長くなった彼女の髪に櫛を入れながら、セナが“ミオちゃんの髪綺麗”と呟いたことで、一同の話題は髪のケアについて移り変わる。
ティーの寄宿舎で3人一緒の部屋になったミオ、セナ、そしてユーニは、3人とも各々が行っているケア方法を披露する。
しかし、どの方法も髪のキューティクルを保つためにはいささか不十分なように思えた。
 
ウロボロスの力を得た彼女たちの旅路は非常に険しいものである。
時には砂塵が舞い上がる砂漠を進むこともあれば、海を泳ぐこともある。
毎日風呂に入れるわけではない彼女たちの髪は、日々を重ねるごとに着実にダメージを負っていた。
女の身としては、髪の痛みは死活問題である。
なんとか美しさを保ちたいというのは、3人の共通認識であった。


「そういやぁ、ミオはその長い髪、どうやって手入れしてんだ?」
「最初の頃は大変そうにしてたけど、全然痛んでないよね」


ユーニとセナから投げかけられた質問に、ミオは少し照れたのか小さく笑みを零した。
エムから受け継いだミオの長い髪は、この髪型になってもうすぐ1か月が経とうとしている今も美しいままだった。
櫛を通しても引っ掛かることなく、艶めきも衰えていない。
自分たちと同じシャンプーを使っているとはどうも思えなかったのだ。


「実はね、シティーでいいもの貰ったの」


そう言って彼女が自分の荷物から取り出したのは、3色の小さな小瓶だった。
赤、青、オレンジ色の3本の小瓶は、赤の小瓶だけが少しだけ減っている。
可愛らしいデザインのその小瓶には、“ヘアオイル”と印字されていた。
ミオが取り出したその小瓶を見つめ、セナとユーニは身を乗り出す。


「なんだそれ」
「ヘアオイルっていうらしいの。お風呂の後、髪を乾かす前と後にこれを塗るとつやが出るの」
「へーすごい!そんなのあるんだ」


ケヴェス、アグヌスのコロニーには、ヘアオイルなるものは存在しない。
先日ミオが一人でシティーを歩いていたところ、雑貨屋の店員に“試供品です”と言われながら渡されたのだ。
無料でもらったヘアオイルは3色。それぞれ香りが違うらしい。
 
試しに赤をつけてみたところ、まるで花のような香りが髪から漂ってきた。
それだけじゃなく、ヘアオイルをつけた翌日は髪がしっとりまとまり、乾燥で広がってしまう悩みから一瞬で解放されたのだ。
なにこれすごい。
ミオは、一瞬で赤のヘアオイルの虜となっていた。


「二人も使ってみる?青とオレンジが余ってるからあげようか?」
「えっ、いいの?」
「流石ミオ!太っ腹だなおい」


喜びに表情を輝かせたセナとユーニは、ミオに感謝を伝えながら手を伸ばす。
セナが青の小瓶、ユーニがオレンジの小瓶を取ったその瞬間、ミオは“ぷっ”と小さく噴き出した。
突然肩を震わせながら笑い始めたミオを不思議に思い、ユーニとセナは首を傾げる。
“なんだよそんなに笑って”とユーニが小瓶片手に問いかけると、ミオは笑いを噛み殺しながら“だって…”と続けた。


「やっぱり二人ともその色選ぶんだなぁって」
「やっぱりって?」
「ランツの青と、タイオンのオレンジ」


自分たちの手の中にある小さな小瓶を見つめながら、セナとユーニは固まった。
セナの手中にあるヘアオイルは石鹸の香りで、ランツを彷彿とさせる深い青色の小瓶に入っている。
一方のユーニが手に取ったヘアオイルは柑橘系の香りで、タイオンがいつもしているマフラーと同じオレンジ色の小瓶に入ってた。
2人が迷わずこの色を取ったのは、無意識としか言いようがない。
なんとなく、こっちの色の方が魅力的に見えたのだ。


「ち、違うよミオちゃん!たまたま!うん、たまたまだって!ねぇユーニ?」
「お、おう。偶然だ偶然。つーかミオも赤選んでんじゃねーか。絶対ノア意識してんだろ」


あえて選んだわけではないからこそ、深層心理でパートナーのイメージカラーを選んでしまったような気がして、二人は急は急に恥ずかしくなった。
真っ赤な顔で否定しながらも、ユーニがミオをも巻き込もうと話題を振る。
赤い小瓶を大事そうに両手で持っているミオは、一瞬動揺したものの、すぐに柔らかな笑顔を浮かべる。


「意識したわけじゃなかったんだけど……。なんとなく選んじゃうよね、相手の色」


照れたように笑うミオの素直さにあてられ、セナとユーニは顔を見合わせてわずかに頬を紅潮させた。
手の中にそれぞれのパートナーを連想させる色のヘアオイルを見つめ、3人の少女たちは笑いあうのだった。


***


ミオから貰ったヘアオイルは、朝のパサついた毛先の強い味方となってくれた。
風呂上り直後に塗り込めば湿気で広がることもなく、朝一番に少量をつければ潤いが夜まで続く。
ティーで流通しているモノに対して驚くことは多々あるが、一番驚かされたのはこのヘアオイルかもしれない。
今日もユーニはオレンジ色の小瓶から少しだけヘアオイルを手のひらに出し、髪に馴染ませる。
髪を指に通した瞬間広がるの柑橘系の爽やかな香り。
このさっぱりした香りも、ユーニは大いに気に入っていた。

自分からいい香りが漂ってくると、不思議と気分も上がる。
今日も柑橘系の香りをまとってユーニは上機嫌だった。
足元が悪いモルクナ大森林を進む一行の最後尾で、ユーニは鼻歌を歌う。
そんな彼女を先ほどからじっと見つめていたのは、隣を歩いていたタイオンだった。
ユーニが髪につけたヘアオイルの小瓶と同じ色のマフラーをした彼は、額に皺をよせ難しい顔をしながらユーニを見つめている。
そんな視線に気付いたユーニは、隣に並んで歩くタイオンを見上げ、“なに?”と問いかけた。


「いや……。ユーニ、体に果物の果汁でも塗りたくっているのか?」
「は?」


“さっきから柑橘系の香りがするから”と呟いたタイオンの言葉にようやく合点がいったユーニは、途端に大声で笑いだす。
どうやらは彼は髪につけたヘアオイルの香りのことを言っているようだ。
だが、何をどう解釈すれば果物の果汁を体に塗っていると思い込んでしまうのか。
頭脳明晰な彼が時折見せるズレた発言は、今日もユーニを笑わせる。


「どこの世界に果物の果汁体に擦り付ける奴がいるんだよ。これだよこれ」


そう言ってユーニは懐から例の小瓶を取り出した。
ユーニの手中にあるオレンジ色の小瓶を見つめ、タイオンはまた額に皺を寄せる。


「なんだそれは」
「ヘアオイル。髪につけるやつだよ。柑橘系の香り」
「あぁ。だからか。さっきからやたらと君からいい匂いがしていたのは」


“いい匂い”という彼からの言葉に少しだけ驚き、ユーニはじっとタイオンを見上げた。
お堅い性格の彼のことだ。きっとこういったものは好まないうえ、興味もないだろうと思っていたのだ。
ユーニからの視線に気付いたタイオンは、途端に顔を逸らし、“いや、特に深い意味はないが”と焦ったように誤魔化す。
自らの発言に急に羞恥心を感じてしまったらしい。
だが、ユーニとしては“いい匂い”とタイオンから評されることに悪い気はしない。むしろ嬉しい。
沸き起こる嬉しさに顔をほころばせながら、彼女は再び手の中に納まっている小さな小瓶へと視線を落とした。


「やっぱいい匂いだよな、これ。他のやつも試しに匂い嗅いでみたけど、アタシはこれが一番好きだなぁ」
「他にも種類があるのか」
「あぁ。赤と青があるみたいだ」
「何故その色を選んだんだ?」
「え?うーん……」


答えを躊躇ったのは、少しだけ恥ずかしかったからだ。
タイオンの色だから咄嗟に選んでしまった、だなんて。
他に何かいい言い訳がないか探してみたけれど、ユーニの頭は思いのほか素直で、嘘をつく手段が見当たらない。
仕方なく、彼女は本当のことを言ってみることにした。


「なんか、タイオンっぽい色だなぁって思って」
「えっ」


跳ねるように上ずった声が隣から聞こえてくる。
ふと隣に目を向けると、眼鏡の向こうでタイオンの褐色の瞳が大きく見開かれていた。
やがてまた視線を泳がすと、“そ、そうか…”と小さく呟いてそっぽを向いてしまう。
腕を組み、眼鏡を押し込むその仕草は照れ隠しそのもの。
なんでお前がそんなに照れるんだよ。
自分以上に隣を歩くタイオンが赤くなっていたため、ユーニの羞恥心はすぐに塵と化してしまった。
やっぱりこの色を選んでよかった。
タイオンの赤く染まる横顔を眺めながら、ユーニはそんなことを思っていた。


***


ミオから貰ったヘアオイルは、1週間もしないうちに空になってしまった。
元々試供品だったということもあり量も少なかったうえ、香りを気に入っていたユーニはほぼ毎日のようにあのヘアオイルをつけていた。
使う頻度が高くなれば、減っていく速度が速まるのも無理はない。
最後の一滴を大切に髪へと塗り込みながら、ユーニはミオに問いかけた。
“あのヘアオイルどこで売ってるんだ?”と。

ミオが教えてくれた店は、シティーの大通りに面した雑貨店だった。
製品版は量も多く、種類ももっと豊富だという。
ヘアオイルを気に入っていたユーニは、シティーに立ち寄ったついでにミオから教わったその雑貨店へ行ってみることにした。
“ヘアオイルを買いに行く”と言って寄宿舎から出ようとしたユーニの背に、その日は珍しくタイオンもついてきた。
雑貨屋で買いたいものがあるのかと問いかけるユーニの言葉に、“いや別に”とかぶりを振る彼の行動は不可解だったが、それほど興味はなかったため、それ以上追及することはなかった。

やがて、例の雑貨店に到着する。
綺麗に陳列された商品棚の一角に、その小瓶は置かれていた。
ミオから貰った試供品よりも一回り大きいサイズのその小瓶は、この店の目玉商品のひとつらしい。
赤や青、オレンジだけでなく、緑や白、黄色といったたくさんの色が並んでいる。
すべて匂いが違うらしく、傍には匂いを試すための試供品も置いてある。
ユーニは色とりどりの小瓶たちが並ぶ商品棚を覗き込みながら腕を組み、迷い始めた。


「こんだけ種類あると迷うよなぁ」
「迷う?オレンジ色を買うんじゃないのか」
「こんなに種類があるなら他のも試してみたくね?」
「え…」


横から口を出してきたタイオンが、妙にがっかりした表情を見せる。
確かにオレンジ色のヘアオイルは匂いも気に入っていたが、だからとってこれだけを使い続ける気はなかった。
他の匂いも試してみれば、好みが変わるかもしれない。
商品棚を覗き込みながら、ユーニは赤と青の媚びを手に取った。


「ミオが使ってた赤もいいよなぁ。セナの青も気になるし……」
「いやいやちょっと待ってくれ。オレンジの匂いが一番好きだと言っていただろ?」
「赤や青に比べたらって話しな。緑とか黄色は試してねぇからわかんないだろ?使ってみたら気に入るかもしれないし」
「だからと言って他の色に浮気するつもりなのか」
「浮気ってお前……」


大げさな。そう思って笑みを零したユーニだったが、すぐにハッとさせられる。
なぜこんなにもタイオンがオレンジのヘアオイルに拘るのか。
それは、ユーニが数日前に話した“オレンジ色を選んだ理由”にある。
 
あの時の会話を思い出し、ユーニはほくそ笑む。
なるほど、自分とこのオレンジ色のヘアオイルを重ねているのか。
他の色が選ばれるのが嫌なのか、と。
そう思うと、なんだか目の前で必死になっているタイオンが随分と可愛らしく思えてきた。
自分の色のヘアオイルを片手に真剣な眼差しでこちらを見つめてくる彼に、ほんの少しの加虐心が芽生えてしまう。


「いやぁでもやっぱり赤かな。結構いい匂いだったし使ってるうちにオレンジより気に入るかも」
「は、はぁ?」
「青も一緒に買っとくかな。こっちの匂いもよかったし、赤と青両方使ってみるのもアリだよな~」


赤と青のヘアオイルを手ににやにやと笑みを浮かべながら迷うユーニ。
そんな彼女を見つめるタイオンの顔はどんどん血色が悪くなっていった。
軍師を目指していた割に感情が表に出やすい彼は、揶揄い甲斐がある。
だが、あまりやりすぎると流石に可哀そうだ。
そろそろ“はいはい。お前の色が一番気に入ってるよ”とでも言って納得させてやろう。
元々、オレンジのヘアオイルを目当てに来店したのだ。
他の色を買うつもりなど最初からなかった。
 
だが、さんざん他の色を褒められたタイオンは既に余裕などなくしてしまったらしい。
ユーニの手の中にある赤と青のヘアオイルを強引にひったくって棚に戻すと、代わりにオレンジ色の小瓶を彼女の手の中に押し付けた。


「君に相応しいのはこの色だけだ。分かったら大人しくこいつだけをつけていてくれ。毎日だ。毎日!」
「えぇ…」


“毎日”を強調するタイオンの言葉に、ユーニは少しげんなりしてしまった。
それはつまり、他のヘアオイルを試そうとするなということだろう。
気に入った香りでも、毎日嗅いでいれば流石に飽きてしまう。
他の匂いも試したいという気持ちがほんの少しあったユーニにとって、彼の言葉には落胆を禁じ得ない。
 
ヘアオイルを選んだ理由を素直に言ってしまったのは間違いだっただろうか。
“タイオンの色だから”なんて言わなければ、きっと彼はユーニが赤を選ぼうが青を選ぼうが“いいんじゃないか”の一言で終わらせていたはず。
過去の失態を悔やみながらも、ユーニはタイオンの必死な命令に逆らおうとは思えなかった。
この香りが一番好きなことは、純然たる事実だったから。


「独占欲強いよなぁホント」
「何か言ったか?」
「べっつにー?」


自らの幼い独占欲にすら気付いていないタイオンに呆れつつ、ユーニは店のレジへ向かう。
彼女の手にはオレンジ色のヘアオイルが握られていた。

 

危険なもふもふ

 

そのピピットに出会ったのは、休息所でテントを張り始めた頃だった。
近くに強力な敵がいないか見回りに行ったユーニが、腕に抱えながら戻ってきたのだ。
焦げ茶色の毛並みは汚れており、小さな耳は力なく垂れ下がっている。
どうやら他のモンスターに襲撃されてしまったらしいそのピピットは、怪我をしてぐったりとしていた。


「ユーニ、そのピピットは?」
「あっちの岩陰に倒れてたんだ」


ノアの問いかけにそう答えると、ユーニはピピットをそっと地面に寝かせ、ガンロットを出現させる。
彼女が愛用しているこのブレイドは、ラウンドリーリングを展開することで周囲の傷を癒すことができるスグレモノだ。
恐らくこのピピットを回復させるつもりなのだろう。
野良のモンスターに対して癒しの力を使おうとするユーニに、彼女の相方であるタイオンが即座に口を出した。


「ちょっと待てユーニ。このピピットを回復させるつもりか?」
「え?そうだけど?」
「モンスターだぞ?傷が癒えたら襲い掛かってくるかもしれない」
「そん時はそん時だろ」


タイオンが止める間もなく、ユーニはガンロットを地面に突き刺しラウンドヒーリングを発動する。
翡翠色の美しいエーテル光が周囲を満たし、ピピットの傷を癒していく。
やがて、ピピットの手がピクリと動き、ゆっくりゆっくりと立ち上がる。
どうやら動ける程度には回復できたらしい。
あたりをきょろきょろし始めたピピットを警戒し、タイオンは思わずモンドを構えた。
これほど小さなピピットといえど、モンスターであることには変わりない。
襲い掛かってくれば怪我も辞さないだろう。
だが、警戒するタイオンの横で、ユーニは地面に膝をつきピピットに向かって両手を広げた。


「おいで」


その声に耳をピクリと動かしたピピットは、ユーニの方をじっと見つめた後、駆け足でその腕の中に飛び込んでいった。
ふわふわもふもふの毛が、ユーニの腕の中でうごめく。
柔らかな毛並みを撫でながら“よしよし”と微笑むユーニの顔を見ながら、タイオンは肩透かしを食らったような感覚に陥っていた。
ピピットは喉を鳴らしながらユーニの白い腕に鼻先をうずめている。
この矮小なモンスターと戦ったことは何度かあったが、いつも殺気立った目で睨みながら毛を逆立たせていた。
ピピットのこんなに甘えた姿を見たのは初めてである。


「懐かれたみたいだね、ユーニ」
「ピピットってこんなに人に甘えるんだ。知らなかった」


ユーニの腕の中で丸くなっているピピットを覗き込み、セナとミオがつぶやく。
愛らしく甘えるピピットの様子に、二人の少女は顔をほころばせている。
ピピットはそれほど知能が高いモンスターではないが、流石に自らの命の恩人くらいは認識しているらしい。
ユーニの腕から離れようとしないのは、彼女のそばにいれば安心だと思い込んでいるからなのだろう。
腕に抱いたピピットを抱き上げ、近くに置いてあった折り畳みの椅子に座り直したユーニだったが、腕の中でピピットの腹が“ぐぅ”と値を上げたことに気が付いた。


「お前、腹減ってるのか?」
「傷は言えても空腹感はまぎれないからな」
「ピピットって何食うんだ?」


ランツの問いかけに、ノアは“さぁ”と肩をすくませながら首を傾げた。
そんな二人のやり取りに割って入るように、リクがもふもふの耳を挙げて答える。


「その辺の木の実なら何でも食うはずも」
「んじゃ、ちょっくら集めてくるか」
「そうだな」


“タイオンとユーニはここで待っていてくれ”と言い残し、ノアたちはピピットに与えるための木の実を探すため背を向けて歩いて行った。
空腹状態のピピットを抱えたままであるユーニはこの場から動かない方がいいだろう。
留守中に休息地が襲われる可能性も考え、ノアは留守番するユーニとインタリンクできる唯一のパートナー、タイオンにも留守番を依頼した。
その考えに異論はない。
木の実集めのために去っていくノアたちの背中を見つめながら、タイオンは小さくため息をついた。

ユーニはもちろんだが、ノアたちも人がよすぎる。
本来モンスターは人間の生活を脅かす存在であり、食用として飼育することはあってもわざわざ助けたりするような存在ではない。
こちらを視界に入れた瞬間襲い掛かってくるモンスターも多い中で、ピピット一匹をわざわざ助けたうえ食事まで用意するなんて。


「まったく……ピピット一匹に随分と親切な対応だな」
「こんなに可愛いんだから当たり前だろ?」
「可愛い、ねぇ……」


ピピットを膝の上に乗せ、その頭を撫でているユーニの隣に腰かけたタイオンは、眼鏡を押し込みながら足を組む。
ユーニの手の感触に気持ちよさそうに目を閉じているピピットは、随分とリラックスしたような様子である。
確かに危機感のかけらも感じられない矮小な見た目ではあるが、モンスターであることは間違いない。
本来なら、こんなにも無防備に腕に抱くことなどありえないというのに。


「あまりそいつを信頼しきらない方がいいぞ?寝首を掻かれるかもしれない」
「こんなに可愛いのに?」
「よく見てみろ。爪がこんなに鋭い。やろうと思えば君の喉も掻き切れるぞ」


そう言って、ピピットの小さな手を指さすタイオン。
彼の言う通り、ピピットの可愛らしい手には獲物を切り裂くための鋭い爪が生えている。
この爪から繰り出される攻撃に何度身の危険を感じたか分からない。
すると、自分に向けられているタイオンからの怪訝な視線が不快だったのか、ピピットはユーニの腕から身を乗り出してタイオンの指先をガブリと噛んだ。


「いっ…!」
「あっ!おいこら!」


急いでタイオンからピピットを離すように体をそむけたユーニ。
視線を合わせるようにピピットの体を抱き上げた彼女は、眉を吊り上げながら“噛んだって美味くないぞタイオンは”と斜め上の叱り方をしている。
指摘するところはもっとあるだろうと心の中でぼやきつつ、タイオンは噛みつかれたばかりの指先に視線を落とした。
くっきり歯形が残っているものの、どうやら本気で噛み付いたわけではなかったらしい。
被害は僅かに出血するだけに留まっていた。


「ほら見ただろユーニ。狂暴な奴だ。今すぐ野に放った方がいい」
「大げさな奴だなお前も。ちょっと甘噛みしただけだろ?」
「そういう問題じゃ——」


些事に喚くタイオンに苛立ったユーニは、ピピットを膝に抱え直すとタイオンの手首を掴んで引き寄せた。
そして、噛みつかれたその人差し指をぱくりと咥えてしまう。
その瞬間、直前までよく回っていたタイオンの口は沈黙し、代わりに肩がびくりと震える。
血を拭うように軽く舌で舐めると、彼はわずかに指を引こうとしたが離してはやらなかった。
やがて指から口を離してタイオンの方を見上げると、即座に逸らされた彼の赤い顔が視界に飛び込んでくる。


「な、なんだイキナリ……」
「こういう軽い傷は唾つけときゃ治るだろ」
「だからって本当に舐める奴があるか。回復アーツを使えばいいだろう」
「こんな軽い噛み傷にわざわざアーツ使うやつがどこにいるんだよ」


眼鏡の位置を直しながら、タイオンは言葉を詰まらせる。
顔を背け口を噤んでいる様子から察するに、言い負かされたことが気に食わないのだろう。
未だに顔が赤い理由は、よくわからないままだった。
 
何にせよ、湯水のように口から垂れ流していたタイオンの文句は止まった。
ようやく大人しくなってくれた彼に満足したユーニは、再び膝の上のピピットを抱き上げて“もう噛むなよ”と微笑みかける。
するとピピットは、その言葉を理解しているのか否か、耳をぺたんと寝かせながらユーニの白い首筋を舐め始めた。
それはピピットやバニットなどの体が小さなモンスターたちがよく見せる愛情表現である。


「うわやめろってくすぐったい」


ざらついた舌に舐められ、こそばゆさを感じながらもユーニはまんざらではなかった。
愛らしい毛並みをしたピピットは、完全にユーニに懐いてしまっている。
もふもふとした毛並みと丸い瞳は確かに可愛らしいが、その爪は鋭く、肉をかみ砕く牙も生えている。
いくら可愛くてもそいつはケダモノだぞ。何をそんなに顔を綻ばせることがある。
組んだ足に頬杖を突きながら、タイオンは再びため息をついた。


「さっきから何だよ?やけに機嫌悪くないか?」
「……別に」


ピピットに撫でられながら問いかけてくるユーニに、タイオンは驚くほど素っ気なく返した。
苛立ちもするだろう。
愛らしい見た目をしているとはいえピピットは立派なモンスター。
群れを成せば土塊のコロニー程度なら簡単に蹂躙してしまうほどの力がある。
そんな生物のために餌を探してやろうというノアたちも、アーツまで使って助けてやったユーニも、人が好過ぎる。
 
特にユーニに関しては、わざわざ怪我を治すだけでは飽き足らず膝の上に乗せて撫で繰り回し、挙句の果てに首や顔を舐められている。
もっと警戒したらどうなんだ。
これがアング相手なら絶対助けたり膝の上に乗せたりしないだろうに。
だいたいこのピピットも何なんだ。モンスターのくせにユーニの膝の上でくつろぐだなんて贅沢な奴だ。
ユーニが毛むくじゃらのモフモフ生物が好きだということをまるで知っているかのように甘え散らしているその態度も気に入らない。
頭を撫でられて気持ちよさそうな顔をするな、腹が立つ。


「そんなに睨むなよ」
「えっ」


タイオンは、ユーニに優しく撫でられているピピットを殺気に満ちた目つきで睨んでいた。
どうやら無意識だったらしく、ユーニに指摘されて初めてその目つきが和らぐ。
恐ろしく不機嫌な顔をしていたタイオンを横目で見ながら、なおもピピットを撫で続けるユーニは、相方から放たれる不機嫌オーラに少々居心地が悪くなっていた。
 
男勝りで気が強い彼女だが、それでも不機嫌な人間が近くにいるとやはり気になってしまうものである。
何とか彼をいつも通りのタイオンに戻すため、苦肉の策として賭けに出てみることにした。
いつものように揶揄うのだ。
そうすればきっとタイオンは呆れような顔で“何を言っているんだ君は”と呟いて眼鏡を直し、いつもの調子に戻るはず。
そう思いながら、ユーニはピピットを抱き上げてその胸に強く抱きしめた。


「タイオン、アタシがずっとこいつに構ってるからってそんなに嫉妬するなよな」
「は、はぁ!? 何を言って……!」


揶揄った瞬間、ユーニは“あれ?”と首を傾げた。
呆れた顔をするどころかむしろヒートアップしている。
真っ赤な顔は怒っている証拠だろう。
そんなに気に入らないのだろうか、ピピットを保護しているこの状況が。
確かにタイオンの言う通りピピットはモンスターの端くれだし、警戒しないに越したことはないが、回復したとはいえまだ手負いの状態。
攻撃してきたとしても大打撃を与えるほどの力がないということは誰が見ても明らかなのに。


「悪かったって。そんな顔真っ赤にして怒るなよな……」
「ち、違う!赤くなんてなってないし怒ってもいない!」
「怒ってんだろ明らかに」
「怒ってない!」


言葉とは裏腹に、タイオンの語気はどんどん荒くなっていく。
これを“怒っていない”と言い張るには無理があった。
そんなにムキにならなくたっていいじゃないか。
言い返したいところだが、今は二人の言い争いを止めてくれそうなノアもミオもいない。
ここで自分まで強い態度でぶつかったら本格的に喧嘩に発展してしまうかもしれない。
 
旅を始めたばかりの頃、何度もタイオンと言い合いを繰り広げたユーニは、あの頃よりも少しだけ大人になっていた。
この場を収めるため、ひいてはタイオンの機嫌を直すため、何とかしなければと思考を巡らせたユーニはそっと彼の癖毛頭に手を伸ばす。


「はいはいアタシが悪かったって」


あちらこちらに跳ねているタイオンの髪を撫でながら、出来る限り優しい声色でなだめるユーニ。
頭を撫でられているタイオンは、一瞬眼鏡越しに目を見開いて固まったが、すぐに顔を隠すように俯いてしまった。
 
どうしたのだろう。心配になってよく観察してみると、彼の耳が真っ赤に染まっている。
それを見た瞬間、ユーニは“しまった”とすぐに自分の行動を後悔し始めた。
タイオンはプライドが高い男だ。ピピットをなだめる要領で頭を撫でたところで神経を逆なでしてしまうに違いない。
現に今、彼の耳は赤く染まっている。きっと顔も真っ赤にして怒りをあらわにしているに違いない。
 
そのうち手を振り払って、“馬鹿にするのはやめろ”とまた怒られるのだろう。
そう言われたらなんと言い訳したものか。
彼の頭を撫でたまま次の一手を考えていたユーニだったが、不思議とタイオンは一向に彼女の手を振り払ってはこなかった。

あれ?嫌なんじゃないのか?
耳を赤くしたまま俯き、全くと言っていいほど拒絶の意を示してこないタイオンを不思議に思い、ユーニは彼の頭に手を添えたまま恐る恐る顔を覗き込む。


「タイオン?どうした?」
「……い、いや、なんでもない」
「あ、そう…。とにかくノアたちが拾ってきた木の実を食わせたら安全そうな場所で放つから、それまでは面倒見させてくれよ。いいだろ?」
「……仕方ない。君がそこまで言うなら」


か細い声ではあったが、ようやく承諾を得ることができた。
渋々、といった様子で頷いてくれたタイオンに嬉しくなって、ユーニは満面の笑みで“ありがとな、タイオン”と礼を贈る。
するとタイオンは、真っ赤な顔のまま即座に視線を逸らす。
やはりまだ少し怒っているのかもしれない。

すると、それまで膝の上でおとなしくしていたピピットが、突然“シャーッ”と声を挙げながら威嚇を開始した。
歯をむき出しにして怒りを向けている先は、ユーニに頭を撫でられているタイオン。
今度はピピットの方が不機嫌になってしまった。突然どうしたというのだろう。
 
急に毛を逆立たせて威嚇し始めたピピットに首を傾げたユーニだったが、隣でタイオンが“ふふんっ”と小さく鼻を鳴らしたことに気が付いた。
ふと彼を見ると、やけに勝ち誇った顔をしてピピットを見下ろしている。
何だその顔。
指摘してやりたかったが、また顔を赤くさせて不機嫌になられたら面倒だった。
結局ピピットのタイオンに対する威嚇は、木の実を拾っていたノアたちが返ってくるまで続いたのだった。

 

Gossip!


ゼノブレイド3への出演が決まりました”
 
マネージャーからそう通達された際、ユーニはあまりの嬉しさに先輩後輩関係なく同じ事務所の親しい仲間たちに報告という名の自慢をした。
“初めてドラマのレギュラーが決まった”と。
 
ゼノブレイドシリーズは、世界的な動画配信サイトでトップの人気を誇る連続ドラマである。
これまで1,2と制作され、その人気はナンバリングを重ねるごとに大きくなっている。
先日製作開始が発表された3も当然ネットでは注目を集め、1や2の物語を引き継ぐ正当な続編として期待を寄せられていた。
 
そんなゼノブレイド3のキャストオーディションに挑んだのは半月ほど前のこと。
子供の頃からモデルとしてそれなりの活躍をしていたユーニは、“今後は演技もした方がいい”という事務所の方針に従い、自分に出来そうな役のオーディションを片っ端から受け続けていた。
無論、そう簡単に役にありつけるわけもなく苦戦を強いられたのだが、この度見事あの人気ドラマ、ゼノブレイドシリーズの続編のキャストに選ばれたのだ。

ゼノブレイドシリーズはかなり特徴的なドラマで、役者が自分と同じ名前の役で出演することがほとんどだ。
その性質上、このドラマに出演した役者は広く名前と顔を視聴者に覚えてもらうことができる。
1や2に出演したことがきっかけで人気に火が付いた役者を、ユーニは何人も知っていた。
もしかしたら、自分もこのドラマをきっかけに人気女優の仲間入りをするかもしれない。
そう思うと胸が躍った。

その後続々と決まっていくキャストの中には、同じ事務所のノアやランツの名前もあった。
ノアは最近デビューした男性アイドルグループのリーダーで、そのハイレベルなダンスには定評がある。
ランツは元々俳優志望で、これまでCMやネット広告の出演などで頑張ってきたのだが、ユーニと同じくドラマのレギュラー出演は初めてだった。
メインキャストである6名のうち半分の3名が同じ事務所という事実は、ユーニにとって大きな安心材料となる。
3人で組んだグループチャットに“これから頑張ろう”と送ってきたノアに前向きな返信を送り、ユーニは撮影開始日を今か今かと楽しみに待っていた。


***


メインキャスト全員と初めて顔を合わせたのは、台本合わせ初日のことだった。
ノア、ランツ、そしてユーニ以外の3人のキャストは、誰もが知っている大手芸能事務所から抜擢されていた。
最近朝ドラの主演を務めた注目の若手女優、ミオ。
昨年ヒットした映画でヒロインの友人役を務め、その演技力からネットで注目を集めている新人女優、セナ。
今をときめくこの2人と共演できることも衝撃だったが、何よりも驚かされたのは最後の一人。


「はじめまして、タイオンです。最近はモデル業ばかりで演技の仕事をするのはかなり久しぶりですが、精いっぱいやらせていただきます。よろしくお願いします」


キャストが一人ひとり自己紹介する中で、彼は人一倍異彩を放っていた。
タイオン。彼は元々子役で、そのすらりと伸びた長身を活かしてモデルに転向。
大きなファッションショーがあれば必ず呼ばれる超人気モデルだ。
同じくモデルとしてこの業界に身を置いているユーニにとっては、雲の上のような存在でもある。

事前に手元に届けられた台本にざっと目を通していたユーニは、この作品が男女一組となって絆を育み、強大な敵に挑んでいく物語であるとよく知っていた。
彼女のパートナーになる人物こそ、まさにあの人気モデル、タイオンなのだ。
 
正直荷が重い。彼は女性人気が高い人物で、映画やドラマで共演した女優やアイドルは軒並み週刊誌にあらぬ熱愛記事を書かれて炎上させられている。
タイオンが出演することでこのドラマの話題性はばっちりつかめるだろうが、相手役ともいえるポジションにいるユーニにとっては少々不安だった。
ドラマが注目されるのは嬉しいし、自分の名前が売れるかもしれないのも喜ばしいが、飛び火で名前が知られるようなことにはなりたくない。

台本合わせを始める直前、ユーニはタイオンに直接挨拶をしに行った。
ミオやセナにも軽く挨拶をしたが、パートナーとなる彼とはしっかり意思疎通しておいた方がいいはず。
そう思い、緊張の面持ちでタイオンに声をかけたのだが、彼から意外な言葉を貰う羽目になった。


「“さん”はつけなくていい。敬語もいらない」
「えっ、でも」
「確か同い年だろう?芸歴もそんなに変わらないだろうし」
「なんでアタシの年齢知って…」
「共演者の情報は事前に調べておくのが僕のポリシーだからな」


そう言って、彼はかけてもいないはずの眼鏡を上げるフリをした。
それは、何度も台本に記載があった、“タイオン、眼鏡を直す所作”という指示書きを体現化した仕草である。
役柄上では眼鏡をかけているが、普段のタイオンはコンタクトを愛用しているため今日は眼鏡をかけていない。
にも拘らず、眼鏡をくいっと直す動作が何とも様になっているのは、彼が既に役に入っている証拠なのだろう。
その素振りを見て、ユーニは思わず笑みを零した。


「なんか、ホントに“タイオン”みたい」
「当然だ。名前まで同じなんだからな」
「確かにな」


目を合わせて、二人は笑う。
人気絶頂のモデル、タイオンという人物は、もっと話しにくい相手だとばかり思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
意外に気さくで優しい。
そういうところが、多くのファンを引き付ける要因になっているのかもしれない。


「じゃあアタシも“ユーニ”っぽくいかせてもらうわ。よろしくな、タイオン」
「あぁ、よろしく」


握手を交わしたその日が、2人の出会いだった。
その数日後、満を持してドラマの撮影は開始された。
激しい戦闘シーンも多く、CGを使ったインタリンクのシーンはかなり苦労させられた。
そもそも演技自体が初めてだったユーニは何度もNGを重ねてしまっていたが、そのたびタイオンは場を明るくさせる一言で周囲を和ませ、安心させてくれる。
そんな彼の立ち振る舞いに、ユーニはいつの間にか自分の役である“ユーニ”に入り込んでいた。
“タイオン”を陰で信頼している“ユーニ”のように、自分もどんどんタイオンに対して心を開いていく。
撮影スケジュールの昇華と共に、タイオンとユーニの心の距離も近付いていった。

撮影スタジオの脇で誰かと電話をしているタイオンを見かけたのは、撮影期間も折り返しに差し掛かったある日のことだった。
今、スタジオではノアとミオ改めエヌとエムの回想シーンの撮影が進んでいる。
しばらく待ちの状態となったため、この後のシーンについて話しておこうと思いタイオンを探していた矢先の出来事だった。
 
スタジオの壁に寄りかかり、深刻そうな顔をして電話の相手と話しているタイオン。
通話を切った後も、深いため息をついて浮かない顔をしている。
余計なお世話と知りつつも、なんとなく放っておけなくなったユーニは声をかけることにした。
“どうかしたのか?”と。
すると彼は、小道具である眼鏡のレンズ越しにこちらをちらりと見た後、小さく笑う。


「大したことじゃない。今後の方針についてマネージャーと話していただけだ」
「今後の方針?」
「……やめようと思うんだ。俳優業を」
「えっ」


思わず大きな声で聞き返してしまう。
誰かに聞かれていないだろうかと焦ってあたりを見回したが、幸い周囲に人はない。
撮影しているシーンがかなり重要なシーンなだけに、スタッフはほとんどそちらに駆り出されているのだろう。
タイオンの口から語られた衝撃の言葉に、ユーニは驚きを隠せず追及してしまう。


「なんで辞めるだなんて……。あんなに人気なのに」
「だからこそだ」


腕を組み、壁に寄りかかる彼は少し寂しそうに笑っていた。
モデルとして子供の頃からファッションショーに駆り出されていたタイオンの人気が爆発したのは、彼が中学生の頃だった。
長いシリーズとして続いていた学園物のメインキャストに抜擢されたのがきっかけである。
以降、彼はモデルとしてではなく俳優として世間的な人気を博していった。
出演作は軒並み大ヒットを記録し、行くところには女性ファンが押し寄せ、共演した女優には熱愛の噂が立ち上る。
そんな生活に疲れたのだとタイオンは本音を零した。


「ファンのことを考えて恋愛禁止だのプライベートでも気を抜くなだの、色々疲れてしまったんだ」
「てことは、恋愛がしたかったってこと?」
「いや、そういうわけじゃないが……。共演した相手が理不尽に炎上しているのを見れば、誰だっておかしいと思うだろう?」


火のないところに煙は立たないという言葉があるが、全く火種のない場所にあたかも煙が発生しているかのように騒ぐ連中もいる。
話題を煽るため、タイオンと共演した女優やアイドルに片っ端から張りこみ、半ば言いがかりに近いような根拠を並べ立てて熱愛報道を垂れ流している週刊誌の記者たちがそうだ。
 
週刊誌のターゲットにされた女性タレントの中には、その情報を信じたファンによってSNSが炎上し、活動休止に追い込まれた者もいる。
その光景を見て責任を感じたタイオンは、半年の間演技の仕事を自主的に制限していた。
このゼノブレイド3はその復帰作でもあるのだ。


「僕が映画やドラマに出るたび共演者に迷惑がかかるくらいなら辞めた方がマシだ」
「そうかな」
「君も、僕の相手役を務めたことで妙な言いがかりをつけられるかもしれない。その時は……」
「やめろよ、そういうの」


頭を下げようとしてきたタイオンの言葉を遮りながら、ユーニは彼の隣に立ち壁に寄りかかる。
このドラマの撮影が始まる前、ユーニはタイオンのパートナー役を務めることで自身に火の粉が飛んでくるのではないかと危惧していた。
それを思い出し、ユーニの胸の中に小さな罪悪感が生まれつつあった。
タイオン本人も、それを気にしていただなんて。
 
共演者の炎上騒ぎは、タイオンのせいではない。
なのにどうしてそんなに申し訳なさそうな顔をするのか。
なるべく彼の心に傷をつけないよう、明るい気持ちのままでいられるよう、ユーニはいつも通りの笑顔を作りつつ言葉を続けた。


「そんなこといちいち気にしてたら仕事に集中できなくね?こんなに楽しいことやってんのに勿体ねぇじゃん」
「ユーニ……」
「アタシのことなら気にすんなよ。炎上とか気にしねぇタイプだから」
「そうなのか?君は劇中の“ユーニ”と同じ、繊細なタイプだと思っていたんだが」
「そうでもねぇって。なんせ、“頼りになる奴が傍にいるからね”」


ユーニの言葉に、タイオンは一瞬だけ驚いた顔を見せた後にくすっと笑みを零した。
その言葉は、この後撮影する予定の台本にあるユーニの台詞である。
あえてその言葉を選んで背中を押してくる彼女に、タイオンの心は軽くなる。
まるで劇中の“ユーニ”が鼓舞してくれているようで。


「君が“ユーニ”に選ばれた理由が分かった気がしたよ」
「今更かよ」


再び笑いあった直後、廊下を覗き込んできたスタッフによって2人の名前が呼ばれる。
どうやらもう出番のようだ。
“行こうか”と微笑んでくる彼は既に“タイオン”の顔になっている。
そんな彼に頷き、ユーニは“ユーニ”を演じるため相方と共にスタジオに戻るのだった。

***


ゼノブレイド3は好調に初回を迎え、以降視聴率は右肩上がりに上昇していった。
そのシーズンのドラマの中では最高視聴率を記録し、前評判を裏切らない傑作として視聴者の称賛を浴びている。
そんな中、撮影は最終日を迎えていた。
 
最後のシーンも無事撮り終わり、ウロボロスを演じた6人は無事クランクアップ。
年齢が近いということもあり、6人はこの撮影期間中何度も飲みに行っていた。
親睦を深めていただけに、劇中の6人同様別れはつらい。
打ち上げの場に移動してもなお、このドラマに向けた熱が冷めやらぬままキャストやスタッフたちは酒を片手に盛り上がっていた。
当然、ユーニやタイオンも同じである。
隣同士の席に座りながら、二人は予感していた。
きっともう、しばらく会えないのだろうなと。


「ユーニ、その……よかったら、連絡先を教えてもらえない、か?」


テーブルに二人きりになったタイミングで、照れくさそうに聞いてくるタイオン。
そんな彼の言葉に、ユーニは少しだけ驚いた。
彼は前々から、共演者をなるべく炎上させないために一定の距離をとるようにしていると言っていた。
2人きりで食事に行くことはもちろん、なるべく連絡先も交換しないようにしている、と。
そんな彼が、自ら連絡先を聞いてくるなんて意外としか言いようがない。


「いいのか?共演者とは連絡先交換しないんじゃなかったのかよ」
「……迷惑か?」
「迷惑ってわけじゃねぇけどさ。事務所に怒られるんじゃね?」


笑ってごまかしながら、テーブルの上の酒を煽る。
タイオンは人気者だし、むやみやたらと連絡先を交換するのはまずいのではないか。
そんな杞憂を抱いていた。
彼とは気が合うし、出来れば交流を続けたい。けれど、立場上それが難しいのなら、一定以上近付くべきではないのかもしれない。
やんわりと誤魔化されたことにタイオンは気付いていた。だが、彼はユーニが引いた薄い境界線を固い決意をもって踏み越える。


「それでもっ、教えてもらえないか?」
「え……」
「仕事上での連絡先でもいい。何ならマネージャーの連絡先でも……!」


珍しく食い下がるタイオンに、ユーニはただただ驚いていた。
ランウェイを歩けば女性ファンの黄色い声援を浴びている彼が、自分相手に顔を少し赤らめて必死に連絡先を聞こうとしている。
明日は槍でも降るのだろうか。
どうしようかと悩んでいたユーニだったが、それでもタイオンの勢いと懇願ぶりを跳ね返すことはできず、戸惑いながら仕事用の連絡先を教えた。
連絡先にアクセスできるQRコードを提示した瞬間、彼が随分と嬉しそうな顔をしていたのは気のせいだろうか。

そうして、ゼノブレイド3の撮影は無事幕を閉じた。
その後1か月後に最終回の放送を迎え、感動の締めくくりをしたこの作品は今年の最高瞬間視聴率を記録することとなる。
主演であるノアの名前だけでなく、ユーニやランツも世間から脚光を浴びることとなり、雑誌の取材やラジオのゲスト出演。
さらにはテレビの仕事も着々と増えていった。
それもこれもすべて、ゼノブレイド3という作品に携われたおかげだろう。
充実した日々を過ごす中で、ユーニには一つの気がかりがあった。
あれから1か月が経過したが、タイオンからの連絡が一向にないのだ。
あんなに必死に連絡先を聞いてきたのだから何かしら連絡があると思っていたが、どうやら自意識過剰だったらしい。

そりゃそうだ。相手はアタシなんかじゃ比べ物にならないほどの人気モデルだもんな。

自分にそう言い聞かせつつも、ユーニはほんの少しだけ気落ちしていた。
期待していても仕方がないというのに。

撮影を終えてから1か月半が経った頃。
ユーニの耳に不穏なニュースが入ってきた。
“熱愛報道が出た”という内容である。
まさかと思ったが、どうやらその“まさか”が本当に怒ってしまったらしい。
マネージャーが持ってきた明日発売予定の週刊誌には、“ゼノブレイド3出演のタイオン、相方役のユーニに熱烈アタック中!”という安い煽り文句が大きく記載されていた。
要約すると、タイオンがユーニに連絡先をしつこく聞き、なんとか食事の席を設けようと手を回している、という内容だった。

確かに連絡先は聞かれたが、食事の約束なんてしていない。
根も葉もない嘘だった。
マネージャーや事務所のスタッフからの聞き取りに“一切身に覚えがない”と断言すると、彼らは“やっぱりか”と呟きながら苦笑いを浮かべていた。
この事務所にも、タイオンとの根も葉もない噂を週刊誌に書きたてられたタレントが何人か所属している。
スタッフたちも、この手の話が嘘であることはよく理解しているのだ。

翌日。この記事が載った週刊誌が発売されると、各局のワイドショーは一斉に報じ、ネットニュースも同じような内容の記事が次々投稿されていった。
事務所側からは“仲のいい友人の一人”というありがちな否定文言を公開したが、ネットの声がその言葉を信じるわけもない。
 
ユーニのSNSには、タイオンのファンであろう多くの女性ユーザーたちからの声が届いていた。
その半数が報道を嘆く声だったが、もう半数は意外にも“応援してます”“お似合いだと思ってました”の声だった。
ゼノブレイド3が放送されていた間、ユーニやタイオンは、主演であるノアたちほどではないが、さまざまな媒体に宣伝のため顔を出していた。
二人並んでポスター写真を撮ったり、インタビューを受けたり、さらには番組にそろってゲスト出演したり。
露出する機会も増えたため、二人の関係に肯定的なファンも少なからず生まれていたらしい。

応援してると言われても、ホントに付き合ってなんだけど…。

SNSに寄せられた斜め上の応援コメントを見つめながらユーニはため息を零す。
“付き合ってないって言ってんだろ”とコメントを出したかったが、事務所側が既に否定している以上余計なことは言えない。
 
いつかこのゴシップも鎮火するだろうと思っていたのだが、3日、1週間と経過してもSNSに寄せられるコメントがなくなることはなかった。
その要因は、タイオンが所属している事務所にある。
ハッキリと否定のコメントを出したユーニの事務所と違い、タイオンが所属している事務所は未だ否定も肯定もしていないのだ。
せめて何かしらのアクションを起こしてくれないと、噂に尾ひれがついてしまう。
現につい昨日も、“タイオンはユーニと交際するために俳優業を辞めてモデル一本に絞ろうとしている”などという嘘八百な記事も出ていた。
これ以上放置すれば、また話が多くなりかねないのだ。

そんな中、ユーニはふとテレビをつけた。 
今日は仕事がオフの日で、家でくつろごうとソファに腰かけていたところに、スマホにマネージャーからメッセージが入ったのだ。
“例の報道、ホントだったの!?”と。
何の話か分からず聞き返すと、間髪入れずに“今すぐテレビつけろ!”という切羽詰まったメッセージが飛んでくる。
一体何なのかと苛立ちならがテレビのチャンネルを回すと、ちょうどお昼のワイドショーが生放送されている時間だった。
右上のテロップには、“人気モデルタイオン、ユーニとの関係認める”と記載されている。


「は…?」


意味が分からずしばらく茫然と見ていると、画面がスタジオからVTRに切り替わる。
どうやら何かのブランドの新作発表会にタイオンが出演したらしい。
そこでの囲み取材の映像である。
“ユーニさんの連絡先を聞いていたとのことですが本当ですか?”
“彼女に気があるということでしょうか?”
“食事に誘おうとしていたということは事実でしょうか?”
矢継ぎ早に飛んでくる質問に、タイオンは涼しい顔で答えていた。


『すべて事実です』
『ユーニさんの所属事務所は否定のコメントを出していますが』
『当然です。僕が一方的に好きなだけなので』


涼しい顔で言い放った画面越しのタイオンの言葉に、ユーニの手からテレビのリモコンが落ちた。
何を言っているんだ、アイツは。
折角うちの事務所が否定したのに、これじゃまた火に油を注いでしまうではないか。
歯っと我に返ったユーニは、テーブルに置いてあった仕事用のスマホに手を伸ばす。
そこに登録されているタイオンの連絡先にアクセスし、迷わず電話をかけた。
幸い仕事中ではなかったらしいタイオンは、わずか2コールで電話に出る。


『はい、もしも——』
「どういううつもりだタイオン!あんなテキトーなこと言いやがって!」


応答した瞬間大声で怒鳴り散らしたため、スピーカーの向こうでタイオンの“うっ”という声が聞こえてくる。
いまだテレビに映っているワイドショーでは、スタジオに映像が切り替わり名前も知らないコメンテーターと司会者が“いやぁお似合いですねぇ”と薄いやり取りを交わしていた。


『テキトーなこと?』
「ワイドショー見たぞ!記事は全部事実ですなんて嘘言いやがって!」
『僕がいつ嘘を言った?』
「嘘だろ!お前がアタシを好きだなんて…!」
『嘘じゃない』
「え…?」


いつも以上に真剣な声色が、スピーカーを伝って鼓膜を揺らす。
まさか、そんなはずない。
そう言い聞かせていても、タイオンから伝えられる事実が歪められることはない。
彼は電話の向こう側で大きく深呼吸すると、聞き慣れたあの声で想いをぶつけてきた。


『ユーニが好きだ。付き合ってほしい』


ドラマの上では無かった台詞だ。
その言葉を聞きながら、ユーニは自らの未来が大きく動き出すを感じた。

 

そして雨は降り続く

 

機材格納庫にエーテルシリンダーを取りに行ってほしい。
コロニーガンマの軍務長、シドウからそう頼まれたのは今日の午前中のことだった。
ノアとミオが若手たちの教導に、ランツとセナが付近のモンスターの討伐に出かけている中、たまたま手が空いていたタイオンとユーニを呼び出したシドウは、“心苦しいのですが”と前置きをしつつ依頼する。
 
レウニスに充填するためのエーテルシリンダーをいくつかコロニーに備蓄してあるのだが、そろそろ底を尽きそうだという。
ガンマはウロボロスストーンをめぐる戦闘で多くの人手を失ったこともあり、常に人材不足にあえいでいる。
機材の運搬は元々採集部隊の仕事だったのだが、彼らもコロニーの守備に回っているため手が足りないのだという。
かつてこのコロニーガンマに所属していたタイオンなら、格納庫の場所を把握しているはず。
ウロボロスの力を持つ彼であれば、単独で遠方の格納庫に向かわせても問題ないと判断した結果であった。

シドウに大きな恩を抱えているタイオンにとって、その依頼を断る理由などない。
同じく手が空いていたユーニもまた、口では“面倒くさい”と零しながらも共に付いてくることを選んだ。
“ではよろしくお願いします”と軽く会釈したシドウに見送られながら、タイオンとユーニはコロニーガンマを後にした。

目的地である格納庫は、ガンマからそれなりに離れた場所に存在する。
敵であるケヴェス兵に悟られないようにという理由もあるが、機材を取りに行く道中も鍛錬になるからと、シドウがわざと遠方に設けたのだ。
そのせいもあって、ガンマの人間は格納庫への資材運搬業務を嫌っている。
かく言うタイオンもその一人であった。
 
格納庫に向かう道中は険しく、坂も多ければ足場が悪い泥道も通らなければならない。
そのうえ徒歩で3時間もかかるというはなかなか厳しい。
ユーニと並んで険しい道を歩きながら、シドウの依頼を反射的に了承してしまったことをタイオンは早くも後悔し始めていた。


「お前体力ねーなぁ…」


前を歩くユーニがこちらを振り返りつつ呆れたような眼差しを向けてきた。
その視線にタイオンはむっとして眉尻を上げる。
ケヴェスの人間に比べ、アグヌスの人間は身体能力が圧倒的に高い。
それはタイオンも例に漏れず、素手で腕相撲でもすればあのランツでさえ敵わないだろう。
その差を埋めるためにパワーアシストという便利な装置をケヴェスの人間たちは体に装着しているわけだが、筋力の活性化を促すそのパワーアシストを膝やら腰やらに装備しているユーニに呆れられ、タイオンは苛立ちを隠せなかった。
そんな便利なものをつけているから楽に感じるだけであって、それが無ければどうせ君もバテていたくせに。


「格納庫、まだつかないのか?」
「もう少しだ。あの崖を超えた先」
「はぁ?」


タイオンが指さしたのは、まさに断崖絶壁の上だった。
こんな崖を上れというのか。
他に道がないか瞳の機能を開いて確認してみるが、どうやら抜け道もないようだ。
ここを通らなければ、どうあっても目的の格納庫にはたどり着けないらしい。


「お前ら、いつもこんな絶壁登ってシリンダー運んでたのかよ……」
「当然だ。あのシドウ軍務長の指示でな」
「うへぇ……」


崖の上を見つめながら、ユーニは露骨に肩を落とした。
シドウは、柔らかな微笑みを浮かべながら無理難題ともいえる鍛錬を指示するというなかなかに恐ろしい特徴を持っていた。
体力的にも精神的にも厳しいその鍛錬を涼しい顔でこなせる者はセナくらいで、ミオもタイオンも日々飛んでくる指示に怯える生活を送っていたのだ。
コロニーを抜けた今となっては笑い話だが、ウロボロスになって一番救われたことと言えば、ある意味シドウの厳しい教導から逃れられたことかもしれない。


「はぁ……しゃーねぇ、登るか」


諦めたユーニが崖に手をかけたその時だった。
ぽつりと冷たい水滴がタイオンの頬に触れる。
まさかと思い上を見上げると、いつの間にか空は分厚い雲に覆われ曇天と化していた。
ユーニの鼻先にも、冷たい雫が落ちてくる。
ポタ、ポタ、と雫が落ちてくる頻度が高くなり、次第に本格的な雨に変わっていく。
崖にかけていた手を離し、ユーニは慌てて自らの美しい羽根を守るために頭を抱え始めた。


「うわ、降ってきやがった」
「この雨の中崖登りは危険だな。止むまで待った方がいい」
「待つってどこでだよ?」


このあたりには雨をしのげそうな洞窟や、雨粒から守ってくれるほど立派な枝を持った大木もない。
だからと言ってこの場で雨が上がるのを待っていれば、確実に風邪をひいてしまうだろう。
そうこうしている間に雨足は強くなってくる。
“仕方ない”と呟いて、タイオンは崖沿いに続いている獣道を指さした。


「この先に使われていない家屋があったはずだ。狭いが雨はしのげるだろう」
「そっか。じゃあさっさと行こうぜ。雨宿りだ」


雨に体を濡らしながら、タイオンとユーニは獣道を行く。
昔は舗装された道だったようだが、今はほとんど人の通行もなく草木が生い茂っている。
腰の高さまである草をかき分けながら進んだ先に、その家屋はあった。
木造で建てられているその家は決して大きいとは言えず、古くなっているためかところどころ板張りに穴が開いている。
生い茂る草木の真ん中にひっそりと建っているその家屋はどこか不気味で、タイオンの肩越しに見つめながら、ユーニは顔をひきつらせた。


「え、家屋ってアレか?」
「アレだ」
「誰か住んでるのか?」
「さぁな。存在は前から知っていたが、入ったことはなかったから」


ユーニからの問いかけに簡潔に答えると、タイオンは駆け足で家屋へと近づいた。
突然走り出したタイオンの背を、ユーニも慌てて追いかける。
段差を上がり入り口となる扉を叩くが、中から応答はない。
見た目の古めかしさから察するに、やはりここに住んでいる人間などいないのだろう。
扉に手をかけゆっくり押し込むと、ギギギと不気味な音を立てながら開いていく。
中は真っ暗で、少しだけ埃臭い、
草が生い茂った獣道といい中の荒れ具合といい、この家屋に長い間人の出入りがなかったのは明らかだった。


「誰もいないようだ。ちょうどいい、ここで時間を潰すとしよう」
「えっ!? こ、ここで?」
「何か不満なのか?」
「い、いや、別に……」


妙に乗り気ではないユーニの態度に、タイオンは首を傾げた、
“近くに家屋がある”と口にした時、雨宿りしようとユーニも言っていたはず。
なぜ今になってそんなに複雑そうな顔をしているのか。
真意がわからないまま家屋の中に足を踏み入れ、入ってきた入り口の扉を閉めると、周囲が闇に閉ざされる。


「ちょ、なんで閉めるんだよ!」
「雨が吹き込んできて寒いだろう」
「真っ暗になっちまっただろうが!」
「問題ない。出てこいモンド」


タイオンが手を広げたと同時にふわりと現れたのは、彼のブレイドである1枚のモンド、
主の手の中でふわふわと浮遊するモンドは、紙でできたその体からわずかな光を放ち始めた。
乳白色の優しい光は、真っ暗だった周囲をぼんやりと照らし始める。
モンドにそんな使い方があったのかと感心しながら、ユーニは安堵のため息を零した。


「はぁ、なんだ。そういうことが出来るならもっと早くやれよな」
「……」


胸に手を当て、羽根をパタンと折り畳みながら肩を落とすユーニに、タイオンはじっと視線を送っていた。
絡みつくようなその視線に気付いたユーニは、“なんだよ”と唇を尖らせながら抗議めいた表情で問いかける。
するとタイオンは、手のひらで発光するモンドを遊ばせながら屈辱的な質問を投げかけてきた、


「もしかして、怖いのか?」
「は!? んなわけ——」


引きつった笑顔で否定しようとしたその時、ガラスが割られた窓の外が激しく光り、轟音を立て始める。
その瞬間、ユーニは“ぎゃあ!”と色気のない悲鳴を上げながら肩をびくつかせ、タイオンの背中に隠れてしまった。
どうやら雨だけでなく雷まで発生してしまったらしい。
これはしばらく止みそうにないなと内心ため息をつきながら、震える手で背中にしがみつくユーニに視線を送る。


「図星か。暗がりが苦手なのか?それとも怖いのは雷の方か?」
「……うっせ」
「震えているところ悪いが、ここでの雨宿りは避けられそうにないな」


この雨の中、あの断崖絶壁を上るのは無理があるだろう。
かといってガンマに引き返すには距離がありすぎる。
進むことも戻ることもできない以上、雨が止むまでこの不気味な家屋で時間を潰すほか方法はないのだ。
無論、ユーニもその状況は理解していた。
渋々といった様子で“わかってるよ…”と呟く彼女はいつも様子からは想像できないほどおとなしい。
ガンマに帰ったらノアやランツに土産話として今日のことを話してやろう。
きっと面白がるに違いない。

そんなことを考えていると、暗闇の向こうで“キィ…”という音が聞こえてくる。
肩を震わせたユーニは、咄嗟にタイオンのマフラーを両手でつかむ。
音の正体を確かめるため、モンド片手にゆっくり音がした方へと歩みを進めると、そこには半開きになった扉がひとつ設置されていた。
どうやら奥にもう一つ部屋があるらしい。
 
古くなって隙間だらけのこの家は、隙間風の音が絶えず聞こえている。
その風にあおられ、扉が空いたのだろう。
部屋がもう一つあるとなると、調べないわけにはいかない。
ここでしばらく留まることになるのなら、出来る限り安全を確保しておきたかった。


「奥の部屋を見てくる。君はここにいてくれ」
「えっ、ちょ、待った!」


半開きになったドアの向こうを調べに行こうとするタイオン。
そんな彼を引き留めるため、ユーニは掴んでいた彼の長いマフラーをグイっと引いた。
その拍子で首が絞まり、タイオンの口から“ぐぇっ”という彼らしくない間抜けな声が漏れる。
乱暴なその引き留め方に腹を立てながら振り返ると、そこにはマフラーを両手で握りしめ不安そうに瞳を揺らしながらこちらを見上げているユーニの姿があった。


「こんな暗いところにアタシを独り置いていくつもりかよ」
「置いていくって……。隣の部屋をざっと見に行くだけだ。すぐ戻る」
「いやだ!」
「モンスターが潜んでいたらどうする!?」
「知るかそんなの!」
「ユーニ、あのなぁ…」


マフラーから手を離したかと思ったら、今度はタイオンの腕に自らの腕を絡め始めたユーニ。
彼の右腕をしっかり両腕で抱きしめるユーニは、絶対に行かせたくないという強い意志を持ってタイオンを引き留めていた。
珍しく少女のように駄々をこねるユーニの行動に呆気にとられるタイオン。
そんな彼の目をじっと見つめながら、恐怖に瞳を揺らしつつユーニは懇願する。


「一人にすんなよ、ばか」


ユーニの掠れた弱弱しい声が、タイオンの胸を締め付ける。
安全確保は兵としての基礎。
ましてやノアたちと別行動をしている今、敵に襲われればそれなりの被害を被る羽目になるだろう。
なるべく危険の目は潰しておくに越したことはない。
彼女の腕を振りほどき、強引に隣の部屋を調べに行くのは簡単だ。
だが、まっすぐ見つめてくる彼女の青い瞳が、タイオンからその気を奪っていく。
 
今は怖がるユーニをここに置いて一人で家の中を調べまわるのがベストな選択だとわかっているのに、彼女に腕を絡まされ“いやだ”と言われた瞬間、その選択肢が取れなくなってしまった。
あぁもう、なんなんだ。
意志の弱い自分に苛立ちつつも、タイオンはユーニという逆らえそうもない強大な敵を前に諦め、深いため息を零した。


「仕方ない」


ようやく意見を曲げたタイオンに、ユーニは安堵の色を見せた。
そんなに心細かったのか。彼女らしくもない。
いつもより大人しく、かつ我儘になったユーニに背を向け、タイオンは壁に寄りかかりながら床に腰を下ろした。
椅子や机があればよかったのだが、そう言った家具の類はこの家には一切残されていない。
仕方なく埃にまみれた床に座るしかなかった。

そんなタイオンの後に続き、ユーニもまた一人分の距離を開けて隣に腰を下ろす。
いつも胡坐ではなく、自らの膝を抱えた状態で座る彼女は、背中を丸め体を縮こませている。
外から雷の音や風の音が聞こえてくるたび、彼女の頭の羽根がどんどん元気をなくしているような気がする。
いつもはタイオンを揶揄い、生意気な態度をとり続けるユーニのこんなしおらしい姿は珍品だ。
少し揶揄ってやっても罰は当たらないかもしれない。
ほんの少しの加虐心が働いたタイオンは、横目でユーニを見つめながら口を開く。


「君は怖いものがたくさんあって大変だな。高いところにアング、それに暗がりも苦手とは」
「……別に暗がりが苦手なわけじゃねぇよ。ただちょっと不気味なのが嫌いってだけで」
「なるほど、確かにこの建物は不気味だ。妙なものが眠っていても不思議じゃないな」
「妙なもの?」
「たとえば、軒下に大量の骸とか」
「ば、馬鹿!そういうこと言うなって——」


それはただの冗談のつもりだった。
確かに不気味な家屋ではあるが、この場所にそんないわくが存在するという話は聞いたことが無い。
とはいえ怖がりなユーニ相手にはそれなりの効果を発揮したらしい。
 
怒るユーニだったが、そんな彼女の言葉を遮るように外から再び雷の音が鳴り響く。
激しい光に肩をびくつかせたユーニは、今度は叫ぶことも忘れて隣に座っているタイオンに体当たりする勢いで距離を詰めてきた。
肩と肩がぶつかり、思わず“痛っ”と声が漏れる。
だが、当のユーニはタイオンを気にしている余裕などないようで、彼の肩に顔をうずめて小さく震えていた。


「ゆ、ユーニ…?」


タイオンの体にしがみつき、まるで追い詰められたバニットのように体を震わせているユーニ。
あまりの距離の近さに、タイオンは息を呑む。
その怯えぶりは、かつてケヴェスキャッスルでディーとまみえた時以来だ。
いつもは虚勢を張っている彼女だが、本当は誰よりも繊細だということをタイオンは知っていた。
面白半分で揶揄うべきじゃなかったか。
密かに反省しながら、タイオンは恐る恐る腕を回しユーニの後頭部に手を添えた。


「すまない。そんなに怯えるとは思わなかった。ただの冗談だ。何も出やしない」
「……」
「……ユーニ?」
「……言うなよ?」
「え?」
「アタシがこんなにビビってたこと、ノアやランツには言うなよ?こういうの苦手だってことアイツらは知らねぇんだから」
「そ、そうなのか!?」


意外だった。
ノアやランツはユーニとの付き合いが長い。
彼女のことなら二人は何でも知っていると思っていた、
だが、案外あの二人にも知らないことはあるらしい。
不思議そうに見つめてくるタイオンを見上げながら、ユーニは頬をわずかに赤らめ、恥ずかしそうにつぶやいた。


「こんな情けねぇとこ、お前以外に見せられるかよ…」


その言葉に喜びを感じてしまったと打ち明ければ、きっとユーニは怒るだろう。
だが、嬉しさを押し殺すのは無理だった。
頑なに自分の柔らかい部分を晒そうとしなかった彼女が、今、自分の腕の中で恐怖を口にし体を震わせている。
縋るように服の袖を掴んで、強請るように引き寄せて、全身全霊で頼ってくれている。
その事実が、タイオンにはうれしくて仕方がなかった。

情けないだなんてとんでもない。
可愛らしいの間違いだろう。

口に出そうになってしまったが、何とか堪えた。
代わりに、タイオンは腕の中で震えるユーニの柔らかな髪に自らの指を掻き入れ、ゆっくりと撫でおろすのだった。

 

心を捕らえて離さない

 

コロニーラムダ地形局作戦立案課。
訓練期間を経て俺が配属されたのは、主に戦闘時後方で指揮を執る部署だった。
元々他の同期たちよりも身体能力が低くかった俺にとっては好都合の配属先だ。
願わくば女王のため、前線で勇ましく戦い功を立てる部署に就きたかったが、人には向き不向きがある。
戦闘面で力になれない俺が、作戦立案課に回されるのは仕方のないことだろう。

ラムダに配属されたのは今から3年ほど前。
俺がまだ3期に入ったばかりの頃だった。
当時、ラムダの作戦立案課長がコロニー13との戦闘で亡くなったばかりで、課内はかなりごたごたしていた。
俺がこのポジションに配属されたのは、元々いた作戦立案課の人間がコロニーガンマに異動になった埋め合わせも兼ねているという。
俺がラムダに来た頃には、既にその兵はガンマに異動した後で、そいつがどんな人間なのか先輩たちに聞いてみたが、皆あまりそいつの話をしたがらない。
イスルギ軍務長も、“優しい奴だった”と言っていたが、妙に寂しそうな顔で笑っていたのが印象に残った。

あれから3年たったある日のこと。
ラムダの命の火時計が、突如現れた6人の男女によって割られたのだ。
ウロボロスという特殊な力を持っているというその6人は、ケヴェスとアグヌス、両陣営に所属していた者の集まりだった。
“もう戦わなくていい”
彼らから伝えられたその事実に戸惑いを覚えなかったといえば嘘になるが、どちらかというと安堵感の方が強かった。
もう命の危機に晒されることもなければ、名前も知らない誰かの命を奪わずに済む。
闘いの日々から解放された俺たちは、手探りながらも新しい人生を歩み始めていた。

命の火時計から解放されて以降、ラムダの状況はなかなか好転しなかった。
鉄巨神を構えている場所の土地柄、エーテルに困ることはなかったが、それでもキャッスルからの支給品が軒並み止まってしまったため食料は少ない。
コメヒカリはイスルギ軍務長の指示で常備してあったが、それも何日もつか分からない。
戦闘に割いていた人員を食料確保にあてがう指示が飛んできたのは、当然の流れとも言えた。
作戦立案課に所属している俺も例外ではなく、他の仲間たちと共に山菜の採集にあたることとなった。
モルクナ大森林の手前まで足を延ばしたある時、仲間と別れてキノコ集めをしていた俺は、背後から襲い掛かってくるヴォルフに全く気付かなかった。
気配を感じて振り返った頃には、既にヴォルフの群れに囲まれていて、思わず体が固まってしまう。
戦闘に慣れてない俺が、こんな大量のモンスター相手に勝てるわけがない。
もうだめだ。そう思った瞬間、遠くから聞こえた発砲音と共に俺を囲んでいたヴォルフの一匹が倒れこむ。


「伏せろ!」


どこからか聞こえたその声に従い、俺は咄嗟にその場に頭を抱えてしゃがみ込んだ。
すると、発砲音が連続して8回ほど聞こえる。
ぎゅっと閉じた瞼の向こう側がぴかっと光っているのが分かった。あれは恐らくエーテルキャノンだ。
自分を囲んでいたヴォルフの気配がなくなりそっと目を開けると、大きなガンロットを抱えてこちらに走り寄ってくる一人の女の姿が視界に飛び込んできた。
頭に美しい羽根を生やした彼女は、青い目でまっすぐ俺を見つめ、切羽詰まった様子で駆け寄ると肩に手を置いてくる。


「おいっ、大丈夫か?」
「えっ、あ、はい」
「怪我は!?」
「あ、ありません」
「そっか。はぁ…危なかったな」


安堵したように肩を落とした彼女は、柔らかな笑みを見せた。
その笑顔を見た瞬間、何故だか鼓動が早くなる。
見慣れない服装をしているが、あの頭の羽根は間違いなくケヴェスの人間だ。
元々は敵であるというのに、迷わず自分を助けてくれた目の前の彼女に、胸の高鳴りが抑えきれない。
何だこれは。何かの病気なのか。顔が赤くなる。
今まで生きてきた中で、こんな感覚に陥ったのは初めてだった。


「ユーニ、何してる?」


すると、彼女がやってきた方向から今度は別の人影が近づいてくる。
こちらもやはり見慣れない服装に身を纏っているが、どうやらアグヌスの人間らしい。
彼女を“ユーニ”と呼んだその眼鏡の男は、俺の姿を見つけて怪訝な顔をする。
“誰だ?”とでも言いたげな顔である。


「おせーよタイオン。全部アタシが片付けちまったぞ」
「片付けた?何をだ」
「こいつがヴォルフの群れに囲まれてたんだよ」


“な?”とこちらを振り向いた彼女の視線にドキリとして、俺は咄嗟に“はい”と返事をした。
そう言えば、まだ礼を言っていなかった。
急いで頭を下げ、“ありがとうございます”と口にすると、ユーニと呼ばれた彼女は“気にすんな”と快活に笑う。
その明るさとさっぱりした物言いは好印象だった。
だが彼女に隣に立っている眼鏡の男は、仏頂面を崩すことなく腕を組み俺をじっと見つめている。


「君の名前は?どこのコロニー所属だ?」
「あ、はい。コロニーラムダ地形局作戦立案課のアッシュです」
「えっ、ラムダの作戦立案課って……」


男の問いかけに素直に答えると、何故だかユーニさんが驚いたような表情を浮かべた。
そして、隣にいるタイオンさんに視線を送る。
なんだろう。ラムダの作戦立案課に知り合いでもいるのだろうか。
けれど、ユーニさんからの視線に応えることなく、タイオンさんは苦虫を噛み潰したような表情で顔を背けていた。


「今のラムダの作戦立案課は、ヴォルフ相手にも苦戦するほどヤワなのか?」


棘のあるその言葉に、俺は小さな苛立ちを覚えた。
確かに俺は弱い。まともに戦場でブレイドを構えたことはないし、モンスターの討伐任務にも参加したことが無い。
けれど、俺一人が不甲斐ないせいでラムダの仲間たちが下に見られるのは嫌だった。
何か言い返してやろうと口を開きかけたが、そんな俺の言葉を遮るように、ユーニさんが腰に手を当てながら呆れたように言い放つ。


「あのなぁ。人には向き不向きってのがあるだろ?戦いが苦手な奴がいたっていいだろ」


ユーニさんの言葉は、俺の心を軽くした。
ずっと戦えない自分に劣等感を持っていた。
もしももっと腕っぷしの強い人間として生まれていたら、もっとコロニーの役に立てたかもしれない。
皆は優しいから、後方支援も立派な戦力だと言ってくれるが、正直言ってそうは思えなかった。
前線で戦う人間こそ戦場の華であり、戦えない人間に価値はない。
そんな本質から目を逸らす日々は辛くて、自分が自分じゃなかったらと無駄な“もしも”を想像してしまう。
そんな劣等感の塊だった俺を、ユーニさんは何気ない一言で救い上げてくれた。
この人は、きっと俺をわかってくれる。
何の根拠もないけれど、そう思った。

ユーニさんが、コロニーラムダの命の火時計を割ったウロボロスの一員だということを知ったのは、それからすぐのことだった。
イスルギ軍務長を訪ねていた彼女たちを見かけ、声をかけた俺をユーニさんは覚えてくれていたのだ。
以降、ユーニさんはアイオニオン中をめぐる旅の道中でこのラムダに立ち寄った時、必ず俺に声をかけてくれるようになった。
“元気か?”とか、“久しぶりだな”とか、話す内容は本当に些細なことばかりだったけれど、それでも幸せを感じずにはいられない。
もっと話したい。もっと親密になりたい。
彼女の顔を見るたび、俺はそんな得体のしれない大きな感情を募らせていった。

そんなる日のこと。
数日ぶりににラムダを訪れたユーニさんに勇気を振り絞って声をかけた俺は、数日前にノポンの行商から購入した小箱を彼女に手渡した。


「あ、あのっ、よかったら、これ……」
「ん?なにこれ」


小箱を開けた彼女は、瞳を丸くさせて驚いていた。
中身は小さな石が付いたイヤリング。
この石はとある珍しい鉱石から採れる貴重なもので、身につけた者の筋力を増強させる効果がある。
自分たちアグヌス人と違って、ユーニさんのようなケヴェス人はパワーアシストが無ければ満足に戦えないと聞いたことがあった。
このアイオニオンのため戦いに明け暮れているユーニさんのため、少しでも力になればと思い、大枚をはたいてノポン行商から手に入れたのだ。
キラキラと光るそのイヤリングは、装備品としてもアクセサリーとしても人気が高い。
あわよくば、それを常々身に着けてもらえたらという、小さな願望もその小箱には詰まっていた。


「綺麗なイヤリングだな。これ、アタシに?」
「はい!力を高める効果があるみたいなんです。少しでもユーニさんの助けになればと思って」
「ありがとな。デザインも気に入ったし、使わせてもらうよ」
「本当ですか!?」


“おう”と笑うユーニさんに、ほっと胸を撫で下ろす。
本当は趣味じゃないんじゃないかと不安だった。
こんなの必要ないと突き返されたらどうしようかと思っていたが、どうやら気に入ってくれたらしい。
小箱からイヤリングを取り出し、早速耳に着けた彼女は髪を耳にかけて“似合う?”と聞いてくる。
似合わないわけがない。自分が贈ったアクセサリーをつけて微笑んでくれている彼女の姿に胸が締め付けられた。
“もちろんです”と断言すると、彼女はまた微笑みながらお礼を言ってきた。
これで少しは彼女との距離が近くなっただろうか。
激しい戦いの徒にあっても、ユーニさんはあのイヤリングをつけてくれている。
そう思うだけで、たまらなかった。


***


「そのイヤリングは自分で手に入れたのか?」


そんな声が聞こえてきたのは、俺が倉庫で探し物をしている時だった。
作戦立案課の先輩から古地図をもってくるよう指示され、奥の棚にしまい込んだそれを探しているのだが一向に見当たらない。
そろそろ諦めてしまおうかと思い始めた頃、倉庫に誰かが入ってきた。
その声には聞き覚えがある。ウロボロスの一人であるタイオンさんだ。
あの人はユーニさんの仲間の一人らしいが、初めて会った時からあまりいい印象がない。
頭は固そうだし、言葉にも棘がある。
イスルギ軍務長とは旧知の仲らしいが、具体的にどんな関係なのかはよく分からない。

タイオンさんの声がした方向から察するに、おそらく彼がいるのは倉庫の入り口付近だろう。
まずい。今倉庫を出ようとすればあの人と鉢合わせてしまう。
タイオンさんに苦手意識を持っていた俺は、なるべくあの人との接触を避けたかった。
早く出て行ってくれないかな。そう思っていた矢先、タイオンさんと話していたらしい相手の声も聞こえてくる。


「いや?貰いもんだよ。つけてると筋力が上がるんだってさ」


その綺麗な声を聞き間違えるわけがない。ユーニさんの声だった。
タイオンさんと会話している相手がユーニさんだと分かり、俺は思わず息を詰めた。
ユーニさんとタイオンさんは、同じウロボロスとして背中を預け合う相棒だと聞いている。
初めて会った時も一緒にいた二人は、他のウロボロスたちよりも随分距離感が近いような気がして、2人の姿を見かけるたびに俺の胸はチクリとした痛みを感じていた。
悪いとは思いつつ、罪悪感より好奇心の方が勝ってしまう。
棚の陰に隠れながら、俺はこっそり2人の様子を伺うことにした。


「誰から貰ったんだ?」
「アッシュ」
「はぁ……やっぱりか」
「なんだよ、やっぱりって」
「ラムダに来るたび毎回彼を気にかけているだろう。随分仲良くなったものだな」
「まぁな。アッシュはお前と違って素直だし?」


ユーニさんの口から自分の名前が出たことに、嬉しさを抑えられなかった。
それなりに話す仲だとは自負していたが、“仲がいい”と言われて否定しない彼女の態度はどうしようもなく嬉しい。
俺が覗き込んでいる場所からはユーニさんの背中しか見えないため、どんな表情をしているのか伺い知ることはできない。
しかし、彼女の両耳には俺が贈ったイヤリングが身につけられていた。
あぁ、今も着けてくれているのか。
余計に嬉しくなって、思わず口元を抑える。
喜びにニヤつく俺とは対照的に、背中越しに見えているタイオンさんの表情は随分と不機嫌そうだった。


「悪かったな、素直じゃなくて」


そう言ってタイオンさんは、むすっとした表情のまま懐から何かを取り出してユーニさんに差し出した。
ここからでは何を差し出しているのか目視出来ないが、どうやら手のひらの上に収まるほど小さな何からしい。
その“何か”に視線を落とし、ユーニさんは“これ…”と驚いたような声を漏らした。


「シティーで手に入れたイヤリングだ。着けるならこっちにしてくれ」
「なんで?」
「今の君はヒーラーだ。筋力増強のアクセサリーを着けていても意味ないだろう。このイヤリングはエーテルの力を最大限にまで引き出してくれる効果がある。ヒーラーにはもってこいの代物だ」
「ふうん」
「それに——」


タイオンさんの右手が、ユーニさんの左耳に伸びていく。
彼女の耳にぶら下がっている俺のイヤリングをそっと取り外すと、自分が持っていた控えめなデザインのイヤリングを代わりに着けはじめる。
そして彼女の頬を撫でながら、満足そうに微笑みを浮かべて言い放った。


「君はこっちの方が似合う」


あまりにも傲慢なその言い草は、俺を苛立たせるに十分な威力を発揮した。
まるでユーニさんのことを知り尽くしているかのような言い方が気に食わない。
相棒だかなんだか知らないが、せっかく俺が贈ったものを無理やり取り上げる権利なんてあの人にはないだろう。
腹が立ち、思わず棚の陰から飛び出しそうになってしまった俺だが、次のユーニさんの言葉にぴたりと足を止めしまった。


「……まぁ、タイオンがそう言うなら」


無様に外された俺のイヤリングは、ユーニさんの手の中に納まっていた。
その小さな輝きを見つめ、ユーニさんはつぶやく。“アッシュには悪いけど”と。
そんな。心が急激に冷え込んでいく。
さっきまで彼女の耳に輝いていたのは、俺が贈ったイヤリングだったというのに、いつの間にかタイオンさんが贈った地味で控えめなイヤリングがその場所を独占してしまっていた。
ユーニさんの頬に添えられていたタイオンさんの手が、ゆっくりと彼女の顎へと移動してくる。
少し持ち上げるように彼女の顔を上に向かせたタイオンさんは、眼鏡の奥で褐色の瞳を細めながらなおも囁く。


「そのイヤリング、なかなか手に入れるのが大変だったんだ。値段もそこそこ張った」
「なんだよ。お礼言えってのか?はいはい、ありがとな」
「随分と適当だな。もっと誠意を見せるべきだと思うが?」
「なんだよ誠意って」
「そこは自分で考えてくれ。今僕は君に何を求めていると思う?」


タイオンさんの言っている意味がよくわからなかった。
何かを要求しているようだが、言い方があまりにも曖昧で要点を得ない。
俺のイヤリングを取り払っておいてこの上まだユーニさんに自分の要求を通すつもりなのか。
むっとして再び棚の陰から2人の姿を覗き見たその時だった。
こちらに背を向けているユーニさんが、そっと背伸びをして自らの顔をタイオンさんに近付ける。
それを受け入れるように、タイオンさんは左手をユーニさんの腰に回し、右手は彼女の後頭部に回していた。
 
2人の唇と唇が重なり合う。
その行為が何を意味するものなのかは分からないが、視界にその光景をとらえた瞬間頭が真っ白になった。
唇を合わせている2人を取り巻く空気は、ただの相棒と呼ぶには似つかわしくない妖艶な雰囲気になり果てている。
目をそらすこともできず茫然とその光景を見つめていると、不意にユーニさんの頭越しにタイオンさんと目が合った。
視線と視線がぶつかり合う。
まずい。覗き見ていることがバレた。
息を詰める俺とは対照的に、タイオンさんは焦るどころか少しだけ目を細めてこちらを見つめている。
その目はまるで俺をあざ笑うかのようだった。

気付いていたんだ、最初から。
俺がこの倉庫にいるということを。
気付いていて、あんなことを。

やがて2人の顔は離れ、背伸びをしていたユーニさんのかかとが床につく。
彼女の髪を耳にかけながら満足げに微笑むタイオンさんの表情が、やけに憎らしく見えた。


「なんか、今日のお前変じゃね?やけに素直というか……」
「素直じゃないと揶揄してきたのは君の方じゃないか」
「それはそうだけど……」


腰に回していた腕を引き寄せ、今度はユーニさんの華奢な体をタイオンさんが抱きしめる。
彼女の体を腕に閉じ込めながら、視線は俺の方を向いていた。
再び交わる視線には、つい先ほどユーニさんに向けていた柔らかさが一切感じられない。
まるで近付く者を警戒するような、静かな闘争心が宿った目だった。
“それ以上近付くな。関わるな”
彼の目はまるでそう言っているようで、俺は思わず一歩、二歩と後ずさってしまう。


「それより場所を変えようか。ここではいつ“邪魔”が入るか分からない」
「え?もうお礼はしただろ?まだ足りないのかよ」
「当然だ。言っただろう、値が張ったと」
「がめつい奴…」
「それだけじゃない。今僕は機嫌が悪い。君には責任をもって僕の機嫌を取ってもらわなくては」
「はぁ?それこそアタシ関係ねーじゃん。自分の機嫌くらい自分でとれよ」
「断る」
「お前なぁ…」


呆れたような言葉とは裏腹に、ユーニさんはどこか嬉しそうだった。
その反応が、一層俺を卑屈にさせる。
2人の間に、俺が入り込む隙はわずかにも残されていないのだと知り、今すぐここから逃げ出したくなった。
ユーニさんとどうなりたいとか、どう思われたいとか、具体的な展望があったわけじゃない。
ただもっと近づきたくて、少しでも親密になりたくて、時折言葉を交わす程度の仲でいられればそれで満足だった。
なのに、タイオンさんの腕の中にいる彼女の背中を見つめているだけで心が痛い。
胸を刃物で突き刺されたような大きな痛みが、俺の心を抉る。
タイオンさんがユーニさんの手を引いて倉庫から出て行った後も、俺はしばらくそこから動けなかった。
俺を見るタイオンさんのあの敵意むき出しの目。あの目を見て確信した。
きっと、あの人は、俺以上にユーニさんのことを——。

勝てるはずのない相手を前に、俺は何度目かの敵前逃亡を図ることにした。
きっとユーニさんの心に、俺の居場所なんてどこにもない。


END