【サトセレ】
■アニポケXY
■アニメ本編時間軸
■短編
***
それはある晴れた日のことだった。
カロスリーグが終わりを告げ、フレア団との一戦も全て決着がついた頃、サトシ一行はミアレにあるシトロンの家で日々を過ごしていた。
だんだんと復興が進んでいるとはいえ、未だミアレ空港は運行再開が出来ず、サトシはカントーに帰れずにいる。
そんな中でも、サトシは決して修行を怠ることがない。
リーグが終わった後ではあるが、トレーナーとして次のステップへ進むため、彼はピカチュウらとともに今日も修行に励む。
激しく鍛錬を行なった日は、ポケモンたちの消耗が激しい。
よく晴れた今日は、シトロンと練習バトルを行なった後、ポケモンたちを回復させるため、ミアレのポケモンセンターへと来ていた。
「ジョーイさん、よろしくお願いします」
「はい。お預かりします」
サトシとシトロンは、ピカチュウを含めた全てのポケモンたちをジョーイに預ける。
旅をしていた頃と違い、シトロンの家という拠点があるため、ポケモンセンターに留まる時間というものは明らかに少なくなった。
しかし、今日はいつも家で留守番しているセレナやユリーカも付いて来ている。
ポケモンセンターでこの4人がポケモンの回復待ちをしているというこの状況は、かなり久しぶりであった。
「悪い、俺ちょっとトイレ行ってくるな」
「はい。じゃあ僕たち、あっちのテーブルにいますね」
「おう」
ジョーイにポケモンを預けると、サトシはその足でトイレへと向かった。
そんなサトシと別れ、シトロン、セレナ、ユリーカは、ロビーの空いている席へと腰を落ち着かせる。
3人で他愛もない話をするこの時間は、セレナにとって大切な時間であった。
今までサトシのカロスリーグや、フレア団との一戦で疲れが出てしまっている。
そんな疲労感を吹き飛ばしてくれるのは、やはり仲間の存在。
昼下がりのこのひと時を、セレナは穏やかな気持ちで過ごしていた。
しかし、そんなセレナの気分を害す会話が、不意に聞こえて来てしまう。
「つーかさ、今回のカロスリーグ見応えなさすぎだよなぁ」
“カロスリーグ”というワードは、3人の興味を確実に引いて来る言葉だった。
会話が聞こえて来る方へと視線を向けると、少し離れた先にあるソファに座っている二人組の男が大声で話している。
ポケモンセンターにいるということは、トレーナーなのだろう。
意識せずとも自然に耳に入って来る彼らの会話を、3人は横目に聞いていた。
「あぁ分かるわぁ。なんつーかさ、レベル低すぎ、みたいな?」
「あいつらホントにカロスのバッチ集めてきたのかよ?もしそうならカロスジムのレベルもたかが知れてるよな」
リーグだけでなく、ジムについてまでも侮辱する彼らの言葉に、シトロンはぐっと拳を強く握りしめた。
ミアレジムのジムリーダーとして、彼らの発言には怒りを覚える。
そんな怒りを必死で抑えている様子の兄と同じように、ユリーカも表情を険しくさせた。
「なにあれ。感じ悪い」
「いいんだよ、ユリーカ。放っておこう」
「でも…」
妹をなだめるシトロンの声色は、柄にもなく怒気を帯びていた。
ジムリーダーであるシトロンが近くにいるにも関わらず、あの様な勝手が言えると言うことは、彼らはミアレジムを訪れたことがないのだろう。
シトロンとバトルした経験すらいないと言うのに、ミアレジムやリーグのことを馬鹿にされると言う事実は、屈辱的なものである。
しかし、ここで怒ってもどうしようもない。
冷静さを保とうとするシトロンだったが、まるで彼をあざ笑うかのようにトレーナーたちの侮辱は止まらない。
「リーグの決勝戦もパッとしなかったよなぁ。アランとかいうのと……なんだっけ?」
「サトシだろ?あの変なゲッコウガ使いの」
「あーそうソレソレ!よくわかんねぇ力使ってる割に弱かったよなぁ。ちゃんとリーグに向けて特訓してたのかよ」
「だよな。ピカチュウなんて雑魚使うくらいだし、中途半端な気持ちで参加してたんじゃねーの?」
「だな。努力とか何もしてなさそうだし」
彼らの話題はあっという間にリーグ決勝戦へと移っていく。
今度侮辱の対象になったのは、サトシであった。
足を組みながら、この場にいない彼への侮辱を容赦なく吐き出す2人。
彼らの言葉は、シトロンを完全に怒らせるには十分な材料だった。
自分のことはいい。
けれど、大事な仲間が悪く言われる事は耐えられない。
今までなんとか怒りを抑えていたシトロンだったが、もう辛抱できそうにない。
彼らに一言文句を言うため、立ち上がろうとしたその時、隣でガタンと音を立てながら、シトロンにとってもう1人の大事な仲間が立ち上がる。
「セレナ……?」
無言で立ち上がったセレナは、無表情のままスタスタと悪態をつく2人組のトレーナーへと歩み寄っていく。
目の前にやってきたセレナに驚き、2人組は怪訝な顔で彼女を見上げた。
「な、なんすか?」
「今の言葉、取り消して」
「は?」
「中途半端な気持ちで参加してたって言ってたでしょ?努力してないって…。その言葉、全部取り消して!」
怒りに満ちた声で怒鳴るセレナに、2人のトレーナーは露骨に嫌な顔を見せる。
彼らに怒りをぶつけてしまったセレナに焦り、シトロンとユリーカは急いで彼女たちの元へと駆け寄った。
1人の少女が2人の男に怒鳴りつける様はかなり目立つ様で、ロビーにいる人々は、その様子を好奇の目で見つめている。
「取り消せって…。アンタなんなの?あのサトシとかいう奴の彼女とか?」
「へー。結構可愛いじゃん。あんなのでもこんな娘と付き合えるんだな」
「やめてって言ってるでしょ!?それ以上サトシのこと悪く言うなら……」
「せ、セレナ!落ち着いてください!」
ヒートアップするセレナの腕をつかみ、シトロンは言う。
しかし、そんな彼の制止に構うことなく、セレナは叫ぶ様に怒鳴りつける。
今にも2人組に掴み掛かりそうなほど怒りをあらわにする彼女の姿に、ユリーカは不安げな目を向けていた。
「落ち着いてられない!サトシだけじゃない。あのリーグを馬鹿にするって事は、参加してたトレーナーや、みんなにバッジを渡したジムリーダーたち全員を馬鹿にするって事なのよ!? そんなの許せない!みんな、あのリーグで優勝するために必死で戦ってたのに!」
目に涙を浮かべながらそう叫ぶセレナは、今までに見たことがないほどに怒りをあらわにしていた。
そんな彼女を、シトロンは本気で止めることができない。
セレナの言いたい事は、彼も痛いほど分かるからだ。
サトシとバッジをかけて戦ったあの日、2人はお互いを倒すために本気で戦った。
あの空間に、中途半端な妥協や遠慮などない。
本気で戦い、負け、そして彼にバッジを託したシトロンにとっても、このトレーナーたちの言葉には怒りを覚えるのだ。
「けどさ、負けは負けだろ?弱かったって事なんだよ」
「そうそう。今更何言ったって負け犬の遠吠えだよなぁ?」
「ふざけないで!サトシがこの大会のためにどれだけ頑張ってきたか、どれだけ努力してきたか…。何も知らないくせに、勝手なこと言わないでよ!!」
セレナの怒鳴り声はその場に響き渡り、それまでざわついていたロビーは一瞬にして静寂に包まれる。
忙しなく働いていたジョーイや、テレビ電話で誰かと話していたトレーナーたちまでもがその手を止め、こちらに視線を向けていた。
突き刺さるその視線たちは痛々しく、悪態をついていたトレーナーたちを戸惑わせる。
「な、何だよ。何ムキになってるワケ!?」
「……おい、もう行こうぜ」
「ああ…」
さすがに居心地が悪くなったらしいそのトレーナーたちは、腰掛けていたソファからしぶしぶ立ち上がる。
去り際にセレナをひと睨みすると、チッと舌打ちをしながら去って行った。
最後まで態度の悪い彼らの背を、ユリーカはじっと睨みつけるが、その怒りに満ちた表情が、やがて驚きへと変わって行く。
「サトシ……」
呆然としたユリーカの言葉にいち早く反応したのは、セレナだった。
急いで振り返ると、そこには少し前にトイレのため席を外したサトシが立っている。
彼の表情は少しだけ寂しげで、ほんの少しだけの悲しみを感じることができた。
きっと、先ほどのやりとりを聞いていたに違いない。
彼に聞かれていたとは思わず、セレナとシトロンは言葉を失ってしまった。
「さ、サトシ、あの…」
「ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけどさ」
そう言って少しだけ微笑んでみせるサトシ。
しかし、その笑顔は本当の笑顔ではない。
力のない彼の表情は、セレナを不安にさせる。
違う、そんな顔をさせたかったんじゃない。
自分はただ、サトシを…。
どんな言葉をかけるべきなのか、セレナには正解がわからない。
何を言っても薄っぺらい慰めになってしまうようで、嫌だった。
「……ちょっと、出てくる」
「え?」
「ピカチュウたちの回復が終わる頃には、戻るから」
「サトシ!」
終始悲しげな笑みを浮かべながら、サトシはセレナたちに背を向け、去って行く。
ロビーの自動ドアをくぐり、ポケモンセンターから出て行く彼の名を、セレナは呼んでみた。
けれど、やはりと言うべきかサトシは立ち止まることなく行ってしまう。
今、彼を黙って行かせてしまってはいけないような気がして、セレナはその背を追って走り出した。
「あっ、セレナ!」
「待ってユリーカ!」
急いでセレナを追いかけようとするユリーカだったが、後ろにいた兄によって肩を掴まれ、制止させられてしまう。
「そっとしておこう」
シトロンは言う。
普段から兄の言うことに絶対服従しているわけではないが、今日ばかりは素直に言うことを聞くべきだ。
そう無意識に判断したユリーカは、肩を落として“うん”と頷く。
サトシがどんなことを考えているのかは分からない。
けれど、彼がどんな感情を抱いているのかはよく分かる。
だからこそ、2人は何も言えないのだ。
***
外は思ったよりも暖かい。
雲ひとつない晴天が広がり、太陽の光が温かく周囲を照らしてくれている。
これほど気持ちの良い陽気にも関わらず、セレナの心は曇天であった。
皮肉なほど晴れた空に顔をしかめながら、セレナはサトシを探す。
しばらく周りを見渡すと、ポケモンセンターのすぐそばにある小さな公園に、彼はいた。
2人がけのベンチに座っていた彼は肩を落とし、ボーッと砂場で遊んでいる子供達を眺めている。
「サトシ…」
その背に向かって小さく呟く。
しかし、彼の返答は無し。
背後から声をかけているため、サトシがどんな顔をしているのかは分からない。
悲しみを感じさせるその背中にいたたまれなさを感じかながら、セレナは恐る恐る言葉を続けた。
「ごめんね。私、余計なこと言っちゃったかな…?」
震える声で聞いてみる。
サトシの仲間として、憧れを抱いている者の一人として、あのトレーナーたちに抗議したつもりだった。
けれど、あの言葉が彼の傷を抉る事になってしまったのかもしれない。
同情はやめろ。
安い言葉ならいらない。
そんな言葉を向けられてしまえば、きっとセレナは何も言えなくなってしまう。
そんな彼女の心を知ってか知らずか、サトシは黙って自分が座るベンチの横をポンポンと叩く。
“隣に座れ”の合図である。
何も言わないサトシの様子に不安を覚えながら、セレナは彼の指示に黙って従う。
そっとサトシの隣に腰掛ける彼女だったが、サトシの顔を覗き見る事はしなかった。
いや、出来なかった。
「…ありがとな、セレナ。セレナの言葉、嬉しかったよ」
「私はただ、思ったことを言っただけで…」
意外にも、サトシの声色は明るいものだった。
いつも通りに話すサトシに少しだけ安心したセレナは、その表情に僅かな笑みを浮かべる。
よかった。
自分の言葉はサトシを傷つけてはいなかった。
セレナは膝に置いた自分の手元に視線を落としながら、胸をなでおろす。
何か気の利いた言葉をかけようと、そこで初めて隣のサトシへと視線を向けた。
しかしその瞬間、セレナの顔から安堵の笑みは消えることになる。
何故なら、視界に入ってきたサトシの表情が、セレナの予想に反したものだったから。
「俺さ、アランとのバトルには本当に満足してるんだ。お互い全力で戦ったから、負けても不思議と悔しくないんだ。アランになら、負けても納得できる。だから気にしてないぜ」
「………」
淡々と話すサトシは、近くの砂場へと視線を向けたまま動かない。
セレナは、そんな彼から視線をそらすことができない。
彼女の悲しげな視線に射抜かれながらも、サトシは彼女の方を決して見ようとはしなかった。
「……ほんとうに、そう思ってるの?」
「ああ」
「嘘よ」
「嘘じゃない」
「だったらどうして…っ、どうしてそんな顔してるの!?」
サトシの腕を掴み、セレナは言う。
明るい声色で話していたサトシだったが、砂場をボーッと眺める彼の表情は、悲しみに歪んでいた。
今にも泣き出しそうなその目は、サトシの本心を語っている。
満足だとか、悔しくないだとか、そんな言葉を語るような目ではないのだ。
「満足してるなんて嘘。悔しくないなんて嘘よ。本当は悔しくて悔しくてたまらないくせに!」
「そんなことない」
「本気で戦ったからこそ負けたことが悔しいのよ。けどそれを認めたくないから満足してるだなんて言って本心を隠してるんでしょ?」
「違う……」
「負けたことが悔しいから、辛いから。そうやって満足したふりして逃げてるのよ!悔しがってることを認めたら、今すぐ崩れてしまいそうだから……っ!」
「っ、セレナに何が……!」
「分かるよ!」
半ば叫ぶように言うセレナ。
サトシはそんな彼女に、このタイミングで初めて視線を送った。
怒りと悲しみに満ちた表情で一瞬だけ声を荒げたサトシだったが、セレナの顔見て言葉を失ってしまう。
彼女は目に涙をいっぱい溜めていた。
泣かないように必死でそれを抑えながら、サトシをじっと見つめている。
「私だって、負けを知ってる」
絞り出すような声で言われたその言葉に、サトシは反論する気を失ってしまう。
旅の中で夢を見つけたセレナは、初めて立った夢の舞台で敗北し、涙を飲んだ。
あの時の彼女の悲しみと悔しさはどれほどのものだったのだろう。
サトシは、そこではじめてセレナの気持ちを察することができた。
辛い思いをした経験があるのは、自分だけじゃない。
「負けるのは悔しいよね。辛いよね。もっと努力すればとか、もっと頑張ればとか、色々後悔するの。負けた言い訳だって考えちゃう。そんな自分が情けなくて、負けた自分を認めたくなくて…。でも、負けて改めて思うんだよね。ああ、私ってホントにパフォーマンスが……。ううん、バトルが好きなんだなって……!」
「……っ」
セレナの白い頬に、涙が伝う。
言葉を詰まらせながら懸命に言葉を繋げる彼女の姿は切なくて、まるで鏡に映った自分を見ているようで辛くなる。
抑えても抑えても溢れてくる涙を隠すように、サトシはセレナの肩に頭を寄りかからせた。
ベンチに置かれていたセレナの手に自分の手を重ね、ぎゅっと力を込めて握ってくる。
突然寄りかかってきたサトシの表情は見えないが、僅かに震えている肩と、自分の手に重ねられたサトシの手に、ポタポタと水滴が垂れている光景から見て、その表情は容易に想像できた。
「サトシ…」
「……悔しいよ。悔しいに決まってる」
「うん」
「たくさん努力してきたつもりだった…相手が誰だろうと関係ない!勝ちたかったんだ…。勝って、ピカチュウや、みんなと、喜びあいたかった。なのに、俺……っ」
「……うん」
「もっと、努力してればとか、もっと、頑張ってればとか、色々考えるけど、今更結果は変えられない…負けは負けだ……っ。考えれば考えるほど悔しくて、認めたくなくて………」
「……うん」
「俺、努力が足りなかったのかな。あいつらの言う通り、中途半端だったのかな……」
「そんなことない」
先程までの淡々とした口調から一変して、サトシの声は震えていた。
虚勢を張っていたものの、それが崩れてしまったのだ。
涙声で、途切れ途切れに本心を語るサトシの頭に触れ、優しく撫でるセレナ。
まるで子供をあやすかのようなその仕草は、きっと普段のサトシならば嫌う行為だろう。
けれど、今日ばかりは、そんなセレナの行動に心癒されている。
「私、知ってるよ。リーグで優勝するため、サトシがどんなに努力してきたか。私だけじゃない。シトロンやユリーカも、みんな知ってる。サトシは頑張ったよ。すごく頑張った」
「セレナ……っ」
「たまには泣いたっていいじゃない。明日には、笑って過ごせばいいんだからさ」
「……っ、うっ、ひっく……」
声を詰まらせサトシは本格的に泣き出してしまった。
背中を震わせる彼に、セレナは黙ってその頭を撫でる。
声を殺して泣くサトシは、いつもよりも小さく見えた。
あのリーグから数日が経つが、その間、彼はずっと泣きたい本心を押し殺して平静を装っていたに違いない。
どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのだろう。
日頃からサトシの力になりたいと思っているセレナだったが、きちんと彼の心を理解していないのならば意味がない。
サトシの涙声を聞きながら、セレナは小さく後悔していた。
セレナの肩を借り、涙を流して数分。
ようやく落ち着きを取り戻したサトシは、セレナから離れ、泣き疲れた目をこすっていた。
彼の瞳は赤く腫れ、それを擦る手も涙でびっしょり濡れている。
そんな彼の姿はセレナにとって物珍しく、子供っぽいそんな様子に思わず笑みをこぼしてしまった。
「悪いな、セレナ。なんか、情けないところ見せちまって…」
「そんなことないよ。むしろ嬉しかっよ。サトシの新しい一面を見れて」
「……シトロン達には言うなよ?」
「うーん、どうしよっかな」
「セーレーナー!」
イタズラな笑みを浮かべるセレナに、サトシは抗議の声を上げる。
その様子は二人ともいつも通りで、先ほどまで泣いていたとは思えない。
サトシとしては、あのように盛大に泣いてしまった事実はなるべく周りに知られたくはない。
それなのに、彼は今回の旅でセレナにたくさんの弱味を見せてしまっていた。
それは不本意なことではあったが、そのお陰で前進できたこともある。
セレナ相手なら、弱い姿を見せてもきっと大丈夫。
目の前でクスクスと笑っている彼女に、サトシは知らぬ間に大きな信頼を寄せていた。
「ありがとな、セレナ」
「いーえ」
満面の笑みを向けて来るセレナを見ていると、何故だか心が温かくなる。
落ち着く。
気が休まる。
彼女といると、曇っていた心もあっという間に晴れてゆく。
この気持ちはなんだろう。
先ほどまで鬱々としていた気分が嘘のように晴れ、サトシの心は軽くなっていた。
「さ、そろそろ戻ろう。ピカチュウたちの回復ももう終わってるんじゃないかな」
セレナの言葉に、サトシは自分がピカチュウたちをポケモンセンターに預けていたことをようやく思い出す。
取り乱してしまい、すっかり忘れていたのだ。
シトロンたちも、きっとポケモンセンターで自分たちの帰りを待っていることだろう。
帰らなければ。
そう思う気持ちと裏腹に、サトシの腰はずっしりと重くなっていた。
ポケモンセンター帰るため、ベンチから立ち上がるセレナ。
そんな彼女の手を、サトシは反射的に掴んでしまっていた。
驚き、座ったままのサトシを振り返るセレナ。
彼は手を離すどころか、彼女の手を掴む力を強めている。
「サトシ……?」
「ごめん。もう少し、ここにいてくれ」
あと1分だけでもいい。
もう少し、もう少しだけ、セレナと一緒にいたい。
言葉では言い表せないこの気持ちは、サトシを衝動的な行動に移らせる。
彼の、まるで懇願するような瞳に見つめられ、セレナは戸惑う。
そんな目で見られたら、断れるわけがない。
小さく頷くと、セレナはもう一度、サトシの横に腰掛ける。
掴まれた手は離されることなく、2人をぎゅっと繋いでいる。
指が絡み合い、サトシは強い力で握っている。
彼の力が少しだけ痛いが、不思議と不快には思わなかった。
2人の間に、会話はない。
けれど、2人にしか感じ取れない優しい空気が、そこにはあった。
長い沈黙の中でも感じられる幸せは、2人の心を穏やかにさせていく。
サトシとセレナは、心で何度も同じことを呟いていた。
この時間か永遠に続けばいいのに。
青天の下で、2人はシトロンが様子を見に来るまでの間、ずっとそのベンチに座っていることになる。
その間、繋がれた手は一度も離れることはなかった。
END