【タイユニ】
■ゼノブレイド3
■ED後時間軸
■短編
女王メリアはユーニにとって憧れの存在だった。
威厳もあって、荘厳で、それでいて美麗。
そんな彼女を始めて見たのは、生誕祭の夜だった。
幼馴染のノアやランツ、ヨランと並んで人込みの中から見上げた女王メリアは、この世のものとは思えないほど美しく、まだ子供だったユーニたちは、アカモートの裏手で挙がる花火と女王の姿に感動していた。
もう10年近く前のことなのに、あの日のことは昨日のことのように覚えている。
初めて女王を見た瞬間だったからという理由も大きいが、もっと印象に残ったのは花火の後に女王の口から語られた驚くべき世界の真実だった。
「皆は、“アイオニオン”という世界を覚えているだろうか」
聞き慣れない単語に、ユーニたちは顔を見合わせる。
周りの大人たちもまた、何のことだか分からないらしく首を傾げている者がほとんどである。
民や兵が浮かべている疑問符に答えるように、女王メリアはゆっくりと語り始めた。
「もともと一つだった世界は、因果の流れにより二つに裂けた。だが、二つの世界は互いに惹かれ合う運命にある。再び統合された世界は、永遠の時の流れに囚われた悲しき世界、アイオニオン。美しくも悲しいその世界を変えたのは、ウロボロスと呼ばれる6人の若者たちだった。彼らは未来を勝ち取り、この世界は再び互いの在るべき場所へと還ったのだ。人々の未来を乗せて」
女王の言葉は、未だ幼いノアやユーニたちに理解し得る内容ではない。
だが、この世界の他に、“もう一つの世界”とやらが存在していることだけは薄っすら飲み込むことができた。
隣で同じように女王を見上げていたランツが、ユーニとは反対側に立っているヨランへ“ウロボロスってなんだ?”と問いかけている。
だが、ヨランがその問いに答えられるわけもなく、“さぁ”と首をかしげていた。
ざわつく民衆を前に、女王メリアは響き渡る声で再び言葉を続ける。
「だが、世界は孤独を感じている。たとえ分かたれようとも、互いを求める性質が変わることはないのだ」
そう言って、女王は右手に持っていた荘厳な杖で前方を指す。
女王のその行動に釣られるように、見上げていた民衆は杖の先へ視線を追うように背後を振り返った。
その日、いつもなら美しい流星群が照らし出されているはずの夜空には、見たこともな巨大な星が迫っていた。
“なんだあれ!”“どうなってるの!?”と騒ぎ始める民衆。
その声はユーニたちの不安を煽ったが、不思議と迫りくるその星を恐ろしいとは思わなかった。
むしろ、何故だか懐かしさすら感じる。
「皆、どうか恐れないでほしい。我々は再び一つとなるだけだ。次こそは大丈夫。我々には未来がある。ウロボロスが勝ち取ってくれた未来が。そなたたちも、いずれこの言葉の意味が分かる時がきっと来る」
アカモートの展望台に立っている女王は、穏やかな笑みをたたえていた。
白い羽根を風に揺らしながら迫りくる星を見つめるその姿に、既視感を感じたのはユーニだけではなかったはずだ。
思わず顔を見合わせたノアも、目を丸くしながら驚きを隠せずにいる。
そして、女王は杖を空高く掲げながら最後の言葉を紡いだ。
「巨神界の者たちよ、今ここに、我らはアルストと再会する。これよりは、ケヴェスの女王メリアと、アグヌスの女王ニアが新たな世界を作るのだ。オリジンの名のもとに!」
その言葉を最後に、世界は一変した。
二つの光が交わり、離れていた大地が寄り添い合うように一つの世界が形成した。
女王メリアの生誕祭が行われたあの夜、世界は再び出会った。
********************
コロニー9衛生部隊員。それが、18歳になったユーニの肩書きだった。
先日軍務長に抜擢されたゼオン率いるコロニー9は、周囲を湖に囲まれているという恵まれた立地上、モンスターからの襲撃はあまり受けないが、それでもアルマやクライブ、バニットといった生物たちも周囲には多く生息している。
ユーニの衛生部隊は、そんなモンスターたちからコロニーを守るため戦闘する防衛部隊の治療が主な役割である。
とはいえ、最近はモンスターとの戦闘も少なくなり、彼女が武器を持つ機会はほとんどなくなった、
同じくコロニーの防衛隊に所属している幼馴染、ランツもまた然り。
そんな中通達されたキャッスルからの招集命令は、コロニー9中に久方ぶりの緊張感をもたらした。
それも、ただの招集命令ではない。女王メリアからの勅命である。
「で、なんの用だと思う?」
「さぁ…俺に聞かれてもな」
「ランツ、またなんかヘマでもしたんじゃねーの?」
「してねぇよ!少なくとも女王様に呼び出されるほどのことはしてねぇって!」
キャッスルの正門に向かう道中、ユーニは同じく招集命令が出ていたノアやランツと共に理由を議論し合っていた。
コロニー9で呼び出されたのは3名。
ユーニとランツ、そして同じく幼馴染で譜楽隊のノアである。
譜楽隊というのは、モンスターの討伐任務など大きな戦闘を要する際、味方を鼓舞する目的で楽器を演奏するいわば音楽隊のこと。
戦闘で命を落とした兵や住民が出ると、安らかな眠りを祈るために笛の音を贈ることもあるため、“おくりびと”とも呼称されている。
出身のコロニーは同じと言えど、所属の部隊はそれぞれ全く違うこの3人が呼び出されたことに、ノアは疑問を感じていた。
女王から褒章を賜るほどの活躍を挙げた覚えもないし、直接お叱りを受けるほどの問題行動を取った記憶もない。
女王とは、子供の頃に見た生誕祭以来直接会っていないし、あの日も大勢の群衆に紛れて見上げていただけで、女王がノアたちを視認していたはずもない。
急に呼びだれたことの意味を見出せないノアたちは、戸惑いながらもようやくキャッスルの中へと入った。
「怒られるに一票」
「なんでだよ!」
「だって褒められる方が意味わかんねぇだろ?戦闘で活躍したわけでもねぇし」
「確かに、褒められるよりは何か注意される可能性の方が高いかもしれない」
「おいおいノアまで……。くっそー!ヨランのやつも無理矢理連れてくればよかったぜ」
同じく幼馴染で、彫刻家として活躍しているヨランは、今回の招集メンバーの中に名前を連ねていなかった。
“女王様に会えるのいいなぁ”と呑気に羨ましがってはいたが、呼び出されたノアたち3人からすれば大人しく留守番できるヨランの方が羨ましい。
謁見の間の目の前にたどり着くころには、3人の緊張は頂点に達していた。
「やべぇ。俺腹痛くなってきた」
「アタシも。帰るか?」
「駄目だって。ここで帰ったりしたらそれこそ怒られるじゃ済まないだろ?」
「はぁ…行くしかねぇか」
大きく息を吸い、3人は重い謁見の間の扉を開けた。
広く白いその部屋の天井は高く、どこか神聖な空気が流れているように思える。
張り詰めた空気が漂うその部屋の奥、荘厳な玉座の前に彼女はいた。
穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめている女王、メリア・エンシェントをこんなに近くで見たのは初めての経験だった。
「こ、コロニー9所属、譜楽隊員ノア」
「お、同じくコロニー9所属、防衛部隊員ランツ」
「えっと、衛生部隊員ユーニ」
「女王陛下の命に従い、ここにはせ参じ致しました」
背筋を伸ばし、敬礼しながらまっすぐ女王を見つめる3人の瞳には、緊張の色が滲んでいた。
女王の周りに立っている衛兵は、まるで飾られた甲冑のようにぴたりと固まって動かない。
のどかなコロニー9とは違い、少しの乱れも許されないこの空気は、3人を一層緊張へと陥れる。
しかし、そんな固い3人の態度とは裏腹に、目の前の女王は随分と穏やかな顔と口調で声をかけてきた。
「久しいな、ノア、ランツ、ユーニ」
女王からの言葉に、3人は目を丸くした。
彼女に“久しぶり”と声をかけられるほどの面識はない。
むしろ、女王が自分たちの存在を知っていたこと自体が驚きだ。
まるで数年ぶりに在った友人に声をかけるかの如く微笑みかけてくる女王の態度は、3人をただただ戸惑わせた。
「あの、恐れながら女王陛下。俺たちのことを、その…知ってくださっていたんですか?」
「……やはり、覚えていないか」
「覚えてない…?」
「それってどういう…」
俯く女王は、少しだけ寂しそうに笑っていた。
何故だろう、その表情には見覚えがあった。
どこで見たのかは分からない。覚えていない。
だが、過去を振り返る彼女の憂い顔は、確かに記憶の片隅に浮かんでいる。
女王の言葉の意味が上手く呑み込めない三人を前に、女王メリアは目を閉じ口元に手を添えながら“さてどこから話したものか”と考え始めた。
すると、玉座の間の向こう側に設置された扉が静かに開き、見慣れない姿をした女性が近づいてくる。
ノアたちの生活圏内ではめったに目にすることが無い獣の耳と、胸元に光るコアクリスタル。
そして、淑やかなその風貌は、ケヴェスの名のもとに生活しているノアたち3人でもよく知っている人物。
もう一人の女王、ニアだった。
「だから言ったでしょう、メリア。何も言わず呼び出しても、混乱させるだけだと」
「あぁ、そなたの言う通りであったな、ニア」
「お、おいあれって…」
「アグヌスの女王様!?」
「な、なんでここに!?」
驚きのあまり敬礼も忘れ、狼狽する3人に、ニアは穏やかな笑みを浮かべながら目を細めた。
女王メリアが収める世界と、女王ニアが収める世界が統合されたのは、あの生誕祭の夜のこと。
二つの世界が一つとなった以降、それぞれの領域は“ケヴェス”、“アグヌス”と呼称され、互いが互いを尊重するように助け合い生きてきた。
だが、別々の女王を頂く限り二つの領域が完全に交わることはない。
ケヴェスはケヴェスの領域で、アグヌスはアグヌスの領域で生きることとなった二つの勢力は、それぞれのキャッスルのひざ元にコロニーを作って社会を営んでいる。
ケヴェスのキャッスルであるこのアカモートに、アグヌスの女王であるニアがいるという光景は、およそ常識から逸脱した状況であった。
「私がなぜここにいるのか。そして、何故メリアが貴方たちを呼び立てたか。それを教えるには、膨大な時間と言葉が必要でしょう」
「ただ一つ言えることは、我々はずっとそなたたち探していたということだ。世界が統合されたあの夜から、そなたたち6人の存在を」
「6人…?」
ノア、ユーニ、ランツの三人は互いに顔を見合わせた。
このキャッスルに呼び立てられたのは自分たち3人だけ。
他にも3人、呼ばれた者がいるということだろうか。
何もわからないまま混乱を深めている3人に、メリアとニアは言葉を続けた。
「言葉を尽くして理解させるより、直接会った方が話は早いだろう」
「さぁ、こちらへ」
2人の女王は、ノアたちを奥の通路へと導いた。
戸惑いつつもその通路へと足を踏み入れると、奥の方に大きな扉が見える。
どうやら扉の向こうは部屋になっているらしく、二人の女王が会わせようとしている相手はあの扉の向こうにいるらしい。
荘厳な扉越しに、男女の話し声が聞こえてくる。
“ねぇどうしようミオちゃん。やっぱり怒られるのかな、私たち”
“セナ、落ち着いて。たぶん大丈夫よ。ね?タイオン”
“どうだろうな。何せ招集命令なんて初めてだ。根拠もなく断言はできない”
“もうタイオン!不安にさせるようなこと言わないで!”
話の内容は、先ほどまで女王からの招集命令に怯えていたノアたち3人の会話とほぼ同じであった。
扉の向こうから聞こえてくるくぐもった声は聞き覚えがないが、どうしてだろう、何故だか懐かしい。
両開きの扉の取っ手にそれぞれ手をかけたメリアとニアは、不安げな表情を浮かべて立っているノアたち3人に振り返り、微笑みかける。
「ノア、ランツ、ユーニ。生誕祭で私が民衆に“アイオニオンを覚えているか”と問いかけたな」
「はい」
「そなたたちには今、こう問いかけよう“彼らのことを覚えているか?”」
そう言ってメリアは、ニアと共に扉を開け放った。
光が差し込み、3人は眩しさに目を伏せる。
やがてその光に慣れてきたころ、部屋の扉の向こうに立っている3人の人影が視界に飛び込んできた。
知らないはずなのに、知っている。
その姿を見た瞬間、あるはずの記憶が津波のように襲ってきた。
血と汗にまみれた戦場で出会った日のことを。
心と命を共有し、戦ったことを。
互いの想いに触れ、心を通じ合わせたことを。
そして、“また”と言って別れたことを。
あの時の“また”を実現させるのに、こんなに時間がかかるとは思わなかった。
長い時を経たせいで忘れてしまっていたようだ。
あの日々のことも、大切な仲間のことも。
「ノア…?」
「ミオ…ミオなのか…?」
瞳に涙をためたミオが、短い髪を揺らしながら駆け寄ってくる。
立ち止まることなくまっすぐ走り、ミオはノアの広い腕の中に納まった。
離れていた時間を埋めるように体を寄せ合う二人の頬には、とめどなく涙が流れ落ちている。
「ノア…会いたかった…」
「俺もだ、ミオ。本当に、あいたかった…」
抱き合うノアとミオの脇を、今度はセナが駆け抜けていく。
まるでアルマの突進のようにまっすぐ向かう先は、もちろんランツだった。
ケヴェスの三人の中では一番巨体であるランツも、セナの飛びつきを食らっては真っ直ぐ立っていられない。
セナの体を受け止めながら尻もちをついたランツは、床ぶつけた後頭部を撫でながら胸元に引っ付いている小柄なセナに視線を落とした。
「いってて…。相変わらず凄ぇ力だな、セナ」
「ランツ…、ランツぅ…!」
「ったく泣くなよなぁ!」
そう言いながらも、セナの頭を乱暴に撫でるランツの目には涙が溜まっていた。
弱いところを見せたがらないランツの性格上、セナが泣き止むまでは涙をこらえ続けることだろう。
互いのパートナーたちと感情をぶつけあいながら再会を果たす幼馴染の二人。
そんな彼らを横目に、ユーニもまた、たった一人の相方と向き合っていた。
一行の参謀役としていつも頭を働かせていた彼は、ミオやセナのように泣きながら駆け寄ってきたりはしなかった。
かといって、彼女たちほど“乙女”ではないユーニも、感情に任せて飛びつくような真似はできない。
高ぶる心を必死に隠しながら、二人はゆっくりと歩み寄る。
「…ユーニ」
「タイオン…」
「その…変わりないようだな」
「あぁ、まぁ…。そっちこそ、そのダッセぇ眼鏡とマフラー、相変わらずだな」
「なっ…それが再会早々言うことか!? もっと言うことがあるだろ!?」
「んなのねぇよ。なんも、ねぇよ…」
視線をそらし、ユーニは声を詰まらせた。
顔を隠しながら肩を震わせるその素振りは、彼女が涙を堪えているときによく見せる行動だった。
そういえば、割と涙もろいタイプだったな。
そんなことを考えているうちに、タイオンの目頭も熱くなってきた。
こういうのは柄じゃない。分かってはいるが、ユーニに寄り添わずにはいられなかった。
彼女の華奢な肩に触れ、そっと優しく引き寄せると、ユーニはゆっくりとタイオンの胸板に額を寄せる。
「これも私の言った通りでしたね、メリア。彼らなら、顔を見ただけで思い出してくれるはずだと」
「そのようだな。何から説明すれば思い出してくれるかずっと考えていたが、無駄だったようだな」
それぞれの再会を噛み締める3組の姿を見つめながら、二人の女王は微笑み合った。
世界が統合した後、面会が実現した2人の女王は形だけのあいさつを済ませた後、まずすべきこととして“ウロボロスの捜索”を挙げていただった。
世界の未来を勝ち取ってくれた彼らには、礼をしなければならない。
そう考えた二人は、6人の存在を探した。
そしてたどり着いた末、こうして引き合わせることに成功したのだ。
記憶を失っているであろうと予測された6人に、どう事実を伝えればいいか思い悩んでいたメリアであったが、どうやらその悩みも互いの顔を見た一瞬で解決されてしまったらしい。
2人の女王の目の前には、あの頃と寸分たがわぬ6人の姿があった。
*********************
再会を祝して振舞われた料理の数々は、頬が落ちるほど美味なものばかりだった。
新しい世界での生活のこと、そしてあの頃の懐かしい思い出のこと。
会えなかった時間を埋めるため話すべき話題は多い。
飲み物片手に会話に花を咲かせているノアやミオたちの輪から外れ、ユーニは城のテラスで一人夜空を見上げていた。
空に広がる光景は今までと何も変わらないはずなのに、記憶を取り戻した今となっては全く別の世界のように見えてしまう。
今まで何も知らず生きてきた自分が馬鹿みたいだ。
心の中で悪態をつくと同時に、背後からタイオンの声が聞こえてくる。
「何してるんだ?」
「タイオン…」
「こんなところでぼーっとしていたら、食べものも飲み物もなくなるぞ?」
ふと振り返ると、テーブルに盛り付けられた料理をランツとセナがそろって猛スピードで平らげている光景が目に入ってきた。
あの二人は相変わらずよく食べる。
呆れからくる笑いがふっと口からこぼれるが、テーブルに戻る気にはなれなかった。
「いいよアタシは。十分食ったし、飲み物も一番好きなやつじゃなかったから」
「一番好きなやつ?」
首をかしげるタイオンに、ユーニは懐から一冊の手帳を取り出した。
その手帳には見覚えがある。他の誰でもない、タイオンが彼女に贈ったものなのだから。
世界が二つに分かたれる直前、自分が淹れたハーブティーを気に入っていたユーニのために、わざわざケヴェスの紙やインクを使ってレシピを書き起こした。
自分がいなくても、彼女が一人でハーブティーを楽しめるように。
そして、自分という相方がいたという事実を、彼女の中に刻み付けるために。
「それ、持っていてくれたのか…」
「まぁな。物心ついた時から傍にあったんだ。ていうかさ、お前この手帳に自分の名前くらい書いとけよな?誰が書いたものかずーっとわかんなかったんだぜ?」
「あ、そういえば書いてなかったか…」
「“あ”じゃねーよまったく…。紙とかインクには気が回るくせに、こういう大事なところは抜けてんだよなぁ、タイオンって」
ハーブティーのレシピがずっしりと書いてあったあの手帳は、ユーニが子供のころから持っていた宝物だった。
温度や焙煎方法、ハーブの植生にいたるまで丁寧に書き込まれているにも関わらず、肝心なこれを書いた人物の名前がどこにも見当たらなかった。
レシピの頭に“ユーニへ”と記載があったことから、自分に充てて書かれたものであることは間違いなかったが、誰が何の目的でこれを書き記したのかは謎のまま。
それでも手放す気になれずずっと肌身離さず持ち歩いていたのは、ユーニの頭の奥底に眠るタイオンの記憶がさせたことなのかもしれない。
「まぁ、また会えたからいいけどさ」
少し古くなった手帳に視線を落としながら、ユーニは小さく微笑んだ。
その笑顔はあの頃とちっとも変っていない。
何度生まれ変わろうと、どれほどの時間を費やそうと、ユーニはユーニで、彼女の本質が変わることはない。
けれど、もう自分たちは昔のままではいられない。
メビウスとの戦いに勝利した6人の功績により、止まっていた時間は動き出し、人々は新たな人生を歩み始めている。
たった10年しか生きられなかった人生は終わりを告げ、人として本来の在り方や考え方を手に入れた彼らは、いずれ昔とは違う生き方を選択することになるだろう。
それは、目の前にいるユーニも同じ。
いつかは知らない町で、知らない誰かと寄り添いあい、そして家族を作り、老いて死んでいくのだ。
これから続く彼女の長い人生に、自分は関わっていけるのだろうか。
そう思うと、タイオンはいてもたってもいられなくなってしまう。
「ユーニ」
「ん?」
「君は今、どこで何をしているんだ?」
「どこでって?」
「所属と仕事だ。ノアやランツと同じコロニーにいるのだろう?」
「あぁそういうことか。コロニー9で衛生部隊にいる。ゼオン覚えてるだろ?あいつのコロニーだよ」
「そうか、ゼオンの…」
ユーニの隣に並び、タイオンも星空を見上げる。
所属や役割は、アイオニオンにいた頃とそう変わらないらしい。
その事実に、タイオンは少しだけ安堵した。
今隣にいるユーニは、まだ自分の知らない道を歩き始めてはいないのだ。
「そっちは?」
「僕はコロニーラムダで作戦立案課に所属している。イスルギ軍務長直属の組織だ」
「へぇー、ガンマじゃなくてイスルギのコロニーなのかぁ。懐かしいな。じゃあもしかして、ナミもいたり…?」
「あぁ。先日、イスルギ軍務長と結婚した」
「はぁ!? マジかよ!結婚式は?」
「まだ挙げてない」
「そっか。じゃあ今度顔見せに行かなきゃな」
コロニーラムダの軍務長イスルギと、作戦立案課に所属するタイオンの上司ナミは、かねてより交際していた。
そんな二人が結婚を公にしたのは数日前のこと。
まだ正式な挙式の日取りが決まっていないと言っていたから、きっと話せばノアやユーニ、ランツたちも出席できるだろう。
その前に、イスルギとナミにも3人のことを思い出してもらう必要がありそうだが。
「ラムダは君がいるコロニー9からもそう遠くない。転移装置やレウニスを使えば1時間もかからず来れるだろう。だから、その…」
「ん?」
「こ、今度飲みに来ないか?セリオスアネモネのハーブティー、好きだっただろう?」
思わず隣のタイオンに視線を向けると、夜空を見上げる彼の顔は赤く染まっていた。
恐る恐る、石橋をたたいて渡るような誘い方をしてきたタイオンの慎重さがなんだか可愛らしくて、ユーニは声を挙げて笑った。
「あっははは!」
「わ、笑うところじゃないだろ!」
「悪い悪い。だってなんかその言い方、デートに誘ってるみたいじゃね?」
「えっ、や、あの、違っ。僕はそういうつもりじゃ…!」
言われてみれば、お茶を飲みに来ないか?などと、随分甘い言い方をしてしまった。
デート誘っていると思われても仕方がない。
ユーニと一緒にいた頃は、恋愛だのなんだのを理解できていなかったが、今は違う。
誰かに恋をすること、誰かを愛することの意味はよく知っている。
言葉を選ばなければいけなかったというのに、軽率な言い方をしてしまった自分にタイオンは焦った。
「冗談だって。そんなに焦んなよ。まぁ、確かにお前の入れてくれたお茶は美味かったし、ラムダまで飲みに行くのも悪くないよな」
にこやかに笑うユーニの言葉に、タイオンは言い知れぬ喜びを感じた。
口実なんて何でもよかった。
ただ、彼女とまた何かしらの繋がりを持てるならそれでいい。
既に二人の間にはインタリンクという強烈に太い絆は消え失せている。
自分たちはノアやミオのように、運命的な星の元にいる訳でもない。
ランツやセナのように、元々趣味や性格が合う訳でもない。
だからこそ、新しい人生を歩むうえで、新しい繋がりを持たなければならない。
戦友でもなく、相方でもなく、他の何かになりたい。
その“何か”になるためには、もっとユーニに近付かなくてはいけなかった。
「待っているからな。必ず来てくれ」
「はいはい。わかったよ」
再会したその日、タイオンはユーニに決定的な言葉を何も言えなかった。
ウロボロスという肩書きを失った自分たちの関係は、いったいどこへ向かうのだろう。
戦友か、相方か、仲間か、友達か、それとも。
頭によぎったすべての言葉を打ち消して、タイオンは首を振る。
違う。僕がなりたいのはそんなんじゃない。
ちらりと隣で星を見上げるユーニへと視線を向ける。
相変わらず綺麗な羽根と青い瞳を見つめていると、胸の奥が熱くなっていく。
叶うなら、彼女の心の中に入ってその色を見てみたい。
今誰と親しくしているのか、どんな生き方をしているのか、そして、自分をどう思っているのか。
アイオニオンで生きていた頃は、持てなかった感覚だ。
これがきっと、恋というものなのだろう。
タイオンはまだ、正しい恋の始め方を知らない。
*********************
「以上、コゴール討伐における作戦会議を終了します」
“お疲れさまでした”というタイオンの言葉と同時に、作戦立案課に所属する仲間たちが一斉に椅子から立ち上がった。
あの夜から早くも2週間。
キャッスルから帰還したタイオンはその日、すぐにラムダの仲間たちから“女王様は何の用だったのか”と問い詰められたが、うまく説明できる自信もなく、適当に誤魔化していた。
記憶を取り戻したとはいえ、タイオンはこの世界で既に築き上げた立場や人間関係の中にいる。
あの日から劇的に生活が変わるかと言われればそんなこともなかった。
変わったことと言えば、職務の合間にユーニのことを思い出すようになったことくらいだろうか。
彼女は今、何をしているだろう。
誰と一緒にいるのだろう。
顔が見たい。声が聴きたい。少しでいいから話したい。
そんな幼稚な感情がタイオンの心を支配し始めている。
記憶を消失していたとはいえ、ユーニとは今まで随分長い間会っていなかった。
にも関わらず、たった2週間顔を見ていないだけでこんなに心がざわつくものなのか。
彼女はラムダに来てくれると言っていたが、具体的にいつ来るかは明言していなかった。
行くとは言っていたが、ただ社交辞令だった可能性もある。
こうなったら、コロニー9にこちらから赴いた方がいいのかもしれない。
いやだが、がっついていると思われたくはない。
だからと言ってこのまま受け身でいるのはどうなのだろう。
ユーニが来てくれなかったら、今後一生会えなくなるのではないか。それは嫌だ。
やはり自分から行くべきかもしれない。
よし、イスルギ軍務長に外出許可を申請しに行こう。
そう思い立ち上がった瞬間、会議室に使われていた天幕がひらりと開き、同じ作戦立案課の後輩が声をかけてきた。
「タイオンさん、お客さんです」
「ん?誰だ?」
「よっ!」
天幕の陰からひょっこり顔を出したユーニの姿に、心臓が止まりかけた。
今まさに彼女のことを考えていたタイミングで顔が見られるなんて。
動揺を隠せないタイオンは、ユーニをここまで案内した後輩がまだ近くにいるにも関わらず、みっともない動揺を隠せずにいた。
「な、なんで君がここに」
「お前が言ったんだろ?会いに来いって」
ユーニの声は思いのほか大きく、周囲に丸聞こえであった。
会議を終えたばかりの天幕周辺には、同じ作戦立案課の仲間たちがまだいる。
真面目で固い性格のタイオンが、ケヴェスの人間であるユーニと一緒にいる光景はかなり異質で、周囲からの注目を集めてしまっていた。
“あれ誰?ケヴェスの人だよね?”
“タイオン先輩に女のお客さん?”
“もしかして彼女とか?”
“えっ、嘘”
遠巻きにこちらを見つめる興味津々な視線たち。
その視線に気が付いたタイオンは急にいたたまれなくなって、ユーニの腕を引っ張り天幕の陰へと連れていった。
「来てくれとは言ったが、なんでまた急に…」
「いきなり来た方が驚くかなってさ。あぁそれとも、やっぱ迷惑だったか?」
肩をすくませ、小さく笑いながら聞いてくるユーニ。
その表情とは裏腹に、頭の羽根はしゅんとしおれている。
アンマッチしている表情と羽根の動きがどうも可愛らしく見えて、心がきゅうんと締め付けられた。
迷惑なわけがない。むしろずっと会いたかった。
だが、元来天邪鬼な性格であるタイオンがその喜びを上手く表現できるはずもなく、赤くなった顔を隠すように視線をそらし、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「い、いや…。そんなことは、ないが…」
違う。本当はもう少し気が利いたことを言いたかった。
“会いに来てくれてうれしい”とか、“僕も会いたかった”とか、そういうことを言いたかったのに。
口から出るのはいつもの憎まれ口。
せっかく再会できたのに、今までのような接し方ではユーニの“特別”にはなれない。距離は縮まらない。
分かってはいるのに、高鳴る鼓動がタイオンを不愛想にさせていく。
「タイオン、どうした?早くしないと次の会議始まっちゃうぞ?」
「あ、あぁ!すぐに行く!」
天幕の陰に隠れて会話していたタイオンたちに気付き、同じ作戦立案課の同僚が声をかけてきた。
最近、ラムダの周囲に大量のコゴールが巣を作ってしまい、コロニーの住人が襲われる事象が相次いでいる。
イスルギの一声により、コゴール討伐作戦の実行が決定したのだが、その実行日が迫る中、作戦立案課は策の練度を上げるため連日会議を繰り返していた。
今日もまた、あと2つほど会議が控えている。
すぐにユーニと過ごす時間は取れそうになかった。
「忙しいみたいだな」
「討伐作戦実行の日が近いからな。会議の連続だ」
「ふぅん。忙しいなら今日はもう帰ろうかな」
「それはダメだ!」
多忙なタイオンの都合も考えず来てしまったことに反省しつつ、ユーニはぽつりと呟いた。
しかし、タイオンがその呟きにいち早く反応する。
帰るなんて駄目だ。
せっかく会えたのに、今彼女が帰ったら次いつ会えるか分からないじゃないか。
急に声を荒げ、腕を掴んできたタイオンの行動に、ユーニは驚き目を丸くする。
そんな彼女の反応を見たタイオンはようやくはっと我に返り、掴んでいた腕を離した。
「1時間だ。1時間待ってくれないか?すぐに終わらせて迎えに来るから!」
「待つのは全然いいけど、そっちこそいいのか?忙しいんだろ?」
「問題ない!だから絶対帰るなよ?」
「お、おう…」
戸惑うユーニを残し、タイオンは“すぐ戻るから!”と叫びながら足早に同僚たちの輪に混ざっていった。
何であんなに必死なんだ?
自らの羽根をいじりながら、ユーニは考える。
疑問符を頭の上に浮かべながら、食堂へと向かうことにした。
記憶が正しければ、ラムダの食事はなかなか美味かったはずだ。
この世界でもあの味は変わっていないのだろうか。
ほんの少しウキウキしながら、ユーニはその場を後にするのだった。
********************
「ここにいたのか」
顔を上げると、目の前には少しくたびれた様子のタイオンが立っていた。
小走りで来たのだろう、わずかに息が乱れている、
そんなに急いで来なくてもいいのに。
食堂に掲げられた柱時計を見ると、あれからきっかり1時間が経過している。
タイオンのきっちりした性格は相変わらずなようだ。
「お疲れ。もう終わったのか?」
「あぁ。待たせてすまない」
「いいって。そんで?どうする?」
「どうする、とは?」
「ハーブティー飲ませてくれるんだろ?」
立ち上がり、脱いでいた上着を羽織るユーニ。
澄んだ青い瞳でタイオンを見上げながら、澄ました顔で言い放つ。
「お前ん家、行くんじゃねーの?」
ユーニの言葉に、タイオンは思わず言葉を失った。
セリオスアネモネの葉も、ポッドもティーカップも、すべてタイオンの自宅にある。
ハーブティーを御馳走する、ということはつまり、自宅に招くも同義。
何故あんなことを言ってしまったのだろう。再会早々家に招くだなんて。
自宅までの道中、タイオンは2週間前の自分の言動を激しく公開していた。
ユーニたちと旅をしたいた頃は、恋愛だの結婚だのという概念は持っていなかった。
だからこそ気安い関係でいられたし、言葉の裏に愛憎が孕んでいることもなかった。
けれど、人間として本来の生き方を手に入れた今は違う、
“下心”という言葉の意味を、ユーニも理解できているはずだ。
幸い、男の家に入ることを大して気にしていない様子。
それはそれで少々心配になるが、今は彼女のけろっとした態度がありがたくもあった。
「へー、結構綺麗にしてるんだな」
「当然だ」
家に一歩足を踏み入れ、周りを見渡しながら感心するユーニ。
普段から掃除をまめにしておいてよかった。
無駄を嫌うタイオンの部屋には、必要なものしか置かれていない。
この簡素で面白みのない部屋こそが、タイオンの人となりをよく表しているようだ。
戦うために生きていたアイオニオンの時代は、住居と言えば簡易的に建てられた天幕がほとんどだったが、人としての営みを取り戻した今は、きちんと鉄骨や煉瓦で作られた家に住んでいる。
仲間の兵士たちとパイプ式のベッドを並べて眠っていたあの頃が嘘のようだ。
「タイオンってさ、彼女とかいねーの?」
手からポッドがするりと落ちそうになる。
急に投下された爆弾のような質問にタイオンは激しく動揺するが、その動揺を悟られぬよう指で眼鏡を挙げながら必死に平然を装った。
「突然なんだ」
「部屋の感じ明らかに独り身っぽいから」
「そういう相手がいたら異性を家に上げたりしないだろう」
「そりゃそうか」
彼女の有無だなんて、あの頃なら絶対に飛んでこなかった質問だ。
リビングにいるユーニに背を向けているため、彼女がどんな表情をしているのかは分からない。
だが、納得した様子ではあるようだ。
ユーニたちと再会して記憶を取り戻すまで、タイオンはまさに“仕事一筋”な人生を送っていた。
信頼を置いてくれているイスルギや、慕っているナミのためならば、自分の人生など犠牲にしてでもコロニーのために尽くしたい。
だが、舞い戻った記憶はタイオンのそんな生き方に革新を与えた。
ひとりでも構わないと思っていたのに、いつの間にかユーニと一緒にいたいと思っている。
この気持ちを吐露したら、彼女は笑うだろうか。
紅茶を煎れ終わり、2つのティーカップを持って振り返ると、彼女はタイオンのベッドの上に腰かけていた。
一瞬だけ、タイオンの思考が停止する。
座れるところはもっと他にあっただろう。床とかその辺の椅子とか。
なんでよりにもよってベッドの上に座るんだ。
小さく咳払いして、絡みついた思考を再び働かせるタイオン。
何でもないようなフリをして、ベッド前に置かれたローテーブルの上にカップを置いた。
「おっ、美味そう」
「茶菓子がないのは勘弁してくれ」
「全然いいって」
早速カップに手を付けたユーニは、ハーブティの豊潤な香りに鼻腔をくすぐらせる。
懐かしい香りだった。旅の道中、嫌な夢を見た時にいつもタイオンが差し出してくれた、あの香り。
この香りをかぐと自然と落ち着くのは、タイオンの言う通りセリオスアネモネの効能によるものだろう。
だが、今ユーニが感じている懐かしさは、きっと効能によるものではない。
タイオンの隣に帰ってきたという実感を得たからだ。
「ずっと飲みたかったんだ。このハーブティを。お前のレシピを見て自分で淹れたやつじゃなく、タイオンが淹れてくれたやつをさ」
「ユーニ…」
「アタシ、ようやく帰れたんだな、タイオンの隣に」
カップを両手で持ちながら、ハーブティーの水面を見つめるユーニの目は暖かかった。
まるで過去を懐かしんでいるような、愛おしんでいるような、そんな目だ。
そんな顔をされたら、また心が締め付けられてしまう。
もっと近づきたくなってしまう。
決定的な言葉を贈るなら、今が好機なのかもしれない。
そう判断したタイオンは、ごくりと唾を飲み込み、意を決したように口を開いた。
「ユーニ、僕は…」
「あ、そういえばさ、ノアとミオの話聞いたか?」
「え?」
「あの二人結婚するらしいぜ?」
「は、はぁぁぁ!?」
言葉を遮られた末にユーニから聞かされた言葉は衝撃的なものだった。
いや、いつかはそうなるだろうと予想はしていた。
だが、再会してまだ2週間しか経っていないというのにさすがに早すぎやしないだろうか。
ノアからはもちろんのこと、ミオからもそんな話はまだ聞いていない。
「て、展開が早すぎないか?会ってまだ2週間だぞ…?」
「そうかぁ?アタシら2週間どころか3か月以上一緒に旅した仲じゃん」
「それは前の世界での話だろう?今のこの世界とあのアイオニオンとでは常識も生き方も違い過ぎる」
「だからなのかもな、結婚するの」
カップに口をつけ、目を伏せながらハーブティーに舌鼓を打つユーニ。
そんな彼女の目には、すでに“瞳”の機能はない。
“だから”の意味がイマイチ理解できなかったタイオンは、ユーニを見つめながら首をかしげた。
「この世界は、アタシたちがいたあの世界とは違う。人間は10年ぽっきりじゃ死なねーし、結婚もできれば子供を作ることだってできる。新しい生き方を選べるようになったからこそ、あいつらは一緒にいることを選んだんだ。途方もなく長い一生を一緒に生きていくために」
「一緒に、生きていく…?」
アイオニオンでの生き方は限られていた。
女王の元に生まれ、生きるために戦うか、戦って死ぬか。
限られた選択はどれも悲痛なものばかりで、それ以外の生き方を知らない人間たちは、たった10年の命を削るように生きていた。
だが、新しく生まれ変わったこの世界は違う。
生き方は無限大で、どんな選択も許される。
だからこそ、ノアとミオは一緒にいることを選んだのだ。
アイオニオンでは選択できなかった、“共に生きていく”という選択を。
それはタイオンにとっても実に甘美で、魅力的な選択だった。
素直に羨ましいとさえ思える。
ノアやミオが選んだ道を、ユーニと一緒に歩けるなら、それはどんなに幸せなことだろう。
「ごちそーさん。相変わらず美味かったぜ、お前のハーブティー」
「当然だ。いろいろと拘っているからな」
「だろうな。よし、じゃあそろそろ帰るかな」
「えっ」
空になったカップをテーブルに置くと、ユーニはにっこり笑って立ち上がる。
まだ家に来て1時間も経っていない。
別れを告げるにはあまりにも早すぎる。
しかし、タイオンの戸惑いなど気付くこともなく、ユーニは帰り支度を進めてしまう。
「もう帰るのか…?」
「お前忙しいみたいだしな。急に来て迷惑だったろ?」
「いやそんなことは…」
「それに元々長居するつもりなかったしな。コロニー9の連中にすぐ戻るって言って来ちまったんだ」
彼女はおそらく、ハーブティーを呑んだらすぐに帰る算段だったのだろう。
だが、タイオンの仕事の都合で1時間も待たせてしまった。
これはユーニにとって時間的誤算だったに違いない。
あの無駄な1時間がなければ、もっと一緒にいられたのか。
今更ながら、タイオンは少し前の自分の行動を悔やみ始めていた。
「じゃあまたな」
上着を羽織り、ユーニは笑う。
その憎らしいほどに晴れやかな笑顔に、タイオンは焦りを感じていた。
“また”っていつだ? 明日か?それとも1ヶ月後か?
再会してから再び会いに来てくれるまで、2週間もかかっている。
その間にノアとミオは結婚を決意するまで話が進んでいるんだぞ。
君の“また”を待っていたら、いつになってもことが進まない。
知らない間に、君の前に魅力的な男が現れたらどうする?
僕のことなんて忘れて、さっさとついて行ってしまうかもしれない。
僕以外の誰かと生涯を共にする道を、君が選択してしまうかもしれない。
そんなのは嫌だ。
いつ来るかもわからない“また”なんて、待っていられない。
去り行くユーニの手首を掴んだのは咄嗟の行動だった。
突然引き留められ、振り返ったユーニの顔は少しだけ驚いていた
その青い目で真っ直ぐ見つめられると、どうも首筋のあたりがむず痒くなってくる。
誰かに気持ちをぶつけることがこんなにも恐ろしいことだったなんて、知らなかった。
拒絶されたらどうしよう。嫌がられたらどうしよう。などと柄にもなく下向きなことばかり考えてしまうようになったのは、タイオンが間違いなくユーニに恋をしているからなのだろう。
彼女を捕まえて手に力が入る。
「次は、いつ会える…?」
いつもは自信に満ち溢れているタイオンの口から発せられた声は、酷く弱々しいものだった。
********************
コロニー9衛生部隊員宿舎。
コロニーから自分に割り当てられたこの部屋で、ユーニは鏡台に向かい自らの羽根に櫛を入れていた。
朝起きた時からぴょこんと一か所乱れた羽根が気になって仕方がない。
去年の誕生日にノアからもらった櫛で何度も梳かしているいるが、思うようにまとまらないのだ。
早くしなければ、時間になってしまう。
内心焦りながら鏡の中のもう一人の自分と睨み合っていたユーニに、開けっ放しにしてあった部屋の扉から顔を覗かせたノアが声をかけてきた。
「ユーニ、タイオン来てるぞ?」
「え!? もうそんな時間かよ!」
壁にかかっている時計に目をやると、時刻は約束の時間きっかりを指していた。
慌てて上着を羽織り、もう一度鏡を覗き込みながら今度は前髪を手櫛で整える。
髪がはねていないだろうか。
時間に追われながらも自らの身だしなみを気にするユーニを横から見ていたノアは、普段の彼女らしくない行動に小さく笑みを零した。
「デート、頑張れよ」
「は!? デート!?」
「違うのか?めかしこんでるからてっきりそうなのかと思ってた」
「そんなんじゃねーよ。……たぶん」
断言できなかったのは、今日の約束を取り付けたあの時のタイオンの曖昧な態度のせいだった。
まるで縋るように手首を捕まえて、“次はいつ会える?”なんて、そんな言葉、ただの相方に言うだろうか。
タイオンと自分は、かつて共に戦った仲間であり、インタリンクできるただ一人の相方。それだけの関係だった。
だが、ウロボロスの力が失われた今の世界においては、もはや相方でも何でもない。
なら、自分にとってタイオンとはどういう男なのだろうか。
ノアやランツ、ヨランのような幼馴染とは違う。ミオやセナのような気の置ける友人とも違う。
その答えが一向に見つからないまま、ユーニはタイオンと次に会う約束を取り付けた。
それが今日である。
喉元に骨を詰まらせたような微妙な顔をするユーニの肩に手を置いたノアは、そのまま穏やかに微笑んで部屋から出ていった。
デート、というものがどういうものなのかはよく知っている。
ゆりかごから生を受けていたあの頃ならまだしも、今の世界のユーニは恋も愛も理解できる。
タイオンに対して、そういった感情がないわけではない。むしろ好きだった。
一緒にいると安心するし、再会できた時は夢のようにうれしかった。
だが、タイオンの方はどうだろう。彼も自分との間に可能性を感じてくれているのだろか。
恋も愛も知らなかった頃に育んだこの絆を、恋愛関係に発展させる気はあるのだろうか。
いっそ言葉にしてほしい。友達だとか仲間だとか、明確な関係性を表す言葉を彼から貰えれば、きっと割り切れるのに。
宿舎を出て、コロニーの入り口に向かうと、正面口の方で立っている二人の人影が見えた。
タイオンとランツである。
大柄なランツが、タイオンの肩に腕を回して何やらこそこそ話していた。
「いいか?くれぐれもがっつくなよ?ユーニのやつ、あぁ見えて結構繊細だからな。ぐいぐい行き過ぎると引かれるだろうからな」
「君に言われなくてもわかっている。こっちだって色々と考えてだなぁ——」
「何してんだよ」
「うっお!」
背後から声をかけたユーニに、ランツが大げさなほど驚きの声を挙げた。
すぐ横でタイオンも目を丸くさせており、すぐに気まずそうに視線を逸らす。
ユーニの話をしていたことは間違いないだろう。
「なんだよユーニ。コソコソ話に聞き耳立てるなんて趣味わりぃなおい」
「お前のコソコソ話は声でかすぎて普通の会話でしかねぇんだよ」
「なんだよそれ!人がせっかくお前らの恋路を——」
「ランツ!!」
タイオンが大声でランツの言葉を遮った。
その顔は羞恥心からか赤く染まっている。
ランツという男は面倒見がいい性格ではあるが、どうもお節介な節がある。
そのスキルはタイオン相手にもいかんなく発揮されており、彼がユーニと会うためにコロニー9を訪れた瞬間、ランツは言葉通り瞬時に飛んできてあれこれと助言をしていたのだ。
「あ、悪い。まぁあれだ。とにかくしっかりやれよ、お二人さん」
そう言って、ランツはユーニの頭をわしゃっと乱暴に撫でて去っていった。
せっかく整えた髪がまた乱れてしまった。
ふざけんなこいつ!と心の奥で罵倒しつつ、ユーニは悠々と去っていくランツの大きな背中を睨む。
さんざん空気を乱され、少々気まずい雰囲気を纏ってしまったが、ようやく二人の時間がやってきた。
「じゃあ行くか、ユーニ」
「あ、あぁ…」
2人は視線を泳がせながら、たどたどしく歩き出す。
こうして二人で並んで歩くのは初めてではないが、ノアやランツにあんなことを言われた手前なんだか気恥ずかしい。
ぽつぽつと会話をしながらたどり着いた先は、旧インヴィディア領に設立されている美術館だった。
数々の名画や彫刻が展示されているこの美術館は、ケヴェス人、アグヌス人どちらからも人気の施設である。
人であふれているにも関わらず静かなこの美術館の空間は、二人にとって居心地のいいものだった。
「ユーニがこんなところに行きたがるとはな」
「なんだよ。タイオンは好きじゃねーの?こういうところ」
「いや、むしろ好きな方だ。ただ君が行きたがるのは意外だったということだ」
複雑怪奇な絵画を横目に眺めながら、二人はゆっくりと館内を歩いている。
また会うにあたって、どこに行くかという話になった時、この美術館を希望したのは意外にもユーニの方だった。
知的好奇心をくすぐられる場所を好むタイオンにとって、彼女の提案は嬉しいものだったが、ユーニはあまり美術館という場所を好むタイプではない。
何故あえてここを指定したのか、タイオンはずっと気になっていた。
「だってさ、こういう“ゲージュツ”って、前の世界ではなかったものだろ?」
「まぁそうだな」
「せっかくあの頃の記憶が蘇ったんだ。“ゲージュツ”のすばらしさってのが少しは理解できるんじゃないかなって思って」
「なるほど。確かにな。それが存在しない世界を知っているからこそ、存在している今の世界にありがたみを感じるということだな」
「そういうこと」
あの世界での芸術と言えば、音楽くらいしか存在していなかった。
音楽と言っても、鑑賞目的のものではなく、ノアやミオといったおくりびとが奏でる旋律しか知らない。
芸術という分野一つをとっても、あの世界には存在しなかったものが、今の世界には山ほどある。
その事実を実感するたび、ウロボロスとして戦い未来を勝ち取ったあの選択は正しいものだったと思える。
「存在しなかった概念と言えば、これもそうだな」
「うん?」
そう言って、タイオンは一枚の絵画の前で立ち止まった。
他の絵よりも小さな額に入れられているその油絵の表題は、“家族”。
女が生まれたばかりの子供を抱き、横から男がその小さな子供の頬に手を添えている。
男女の顔は幸福に満ちており、見ているこちらも幸せな気分になるような、そんな絵だった。
「思い出すよな。シティーで初めて赤ちゃんを見た時のこと」
「あぁ、そうだな」
「あの時のタイオン傑作だったよな。“うわぁぁ…”って素っ頓狂な声出してさ」
「言うな。思い出さないでくれそんなこと」
「あははっ」
眼鏡をかけ直すタイオンは少しだけ恥ずかしそうに顔をそらしていた。
初めてシティーに足を踏み入れた時、ユーニやタイオンたちはまさに未知との遭遇を果たした。
ゆりかごからではなく、母の腹から生まれた小さな命。
何十年も生きているしわしわな人間。
自分以外の誰かと愛し合い、将来を誓い合っている者たち。
そのすべてが新鮮で刺激的で、そして羨ましかった。
自分たちもあんな生き方が出来たなら。その願いは、苛烈な戦闘の末ようやく叶うことになる。
今、タイオンとユーニが立っているこの新しい世界は、人間本来の営みを選択できる世界。
誰かと愛し合うことも、子供をもうけることも、何もかも自由なのだ。
「新しい世界に生きている僕たちの一生は、もはや10年どころでは終わらない。この先50年、60年も続いていくだろう。その人生は、戦うことしか知らなかった10年の生に比べれば、あまりにも長い」
「…あぁ」
「今後続いていく長い人生を、たった一人で歩いていくのは寂しすぎる。この絵画の人間たちのように、誰かと“家族”になって、一緒に年を取っていきたい」
「そう、だな…」
「ユーニ」
名前が呼ばれ、視線を向ける。
眼鏡越しにこちらを見つめているタイオンの視線とぶつかった。
“瞳”の機能も、ウロボロスの力も失った彼の目はいつも以上に真剣で、茶化すような言葉すら出てこなくなってしまう。
「もしも、その“誰か”を選べるのだとしたら……相手はユーニ、君がいい」
すっと息が止まる。
胸が締め付けられて、目の前にいるタイオンしか視界に入らなくなってしまう。
ゆっくりと、慎重に慎重に贈られたタイオンの言葉は、ユーニの心を少しずつ軽くしていく。
「前の世界では君の“相方”だったが、この世界では“伴侶”でありたい。もちろん4番目じゃなく、1番目の、な」
「タイオン…」
少しだけ笑みがこぼれてしまう。
そういえばそんなことを言った気がする。
まだ覚えていたのか。というより根に持っていた、の方が正しいのかもしれない。
そういう小さなことをねちねちと覚えているところが、タイオンらしい。
くすっと笑うユーニの顔から再び目をそらし、視線を泳がせ始めるタイオン。
頭を掻き、気恥ずかしそうにする彼には、まだ言いたいことがあるらしい。
黙ってその目を見つめていると、彼は“スゥッ”と息を吸い込み意を決したように口を開いた。
「僕と、結婚してくれないか。いや、してくれ。僕ほど君にふさわしい男はいないだろう?」
弱弱しい声から告げられる言葉は妙に自信たっぷりで、見え隠れする矛盾におかしくなってしまう。
またクスりと笑うと、肩の力を抜いたタイオンが怪訝な顔で“なぜ笑う”と睨んできた。
不安げな顔が一瞬で不機嫌な顔になった光景がまた面白くて、ユーニは再びクスクスと笑いをこらえ始める。
「いやだってお前…。自信あんのかねぇのか分かんねぇ奴だなって思って」
「し、仕方ないだろう。こういうことを誰かに言うのは初めてなんだ、緊張くらいするだろう」
「そりゃそうだよな」
恐らく、タイオンは事前に決意していたのだろう。
今日、ユーニに求婚しようと。
どんな言葉でユーニを篭絡させようかと考えを巡らせていたに違いない。
そう考えると、目の前の理屈っぽくて頭の固い男が妙にかわいく思えてきた。
「確かに、アタシほどタイオンにふさわしい女もいないだろうしな」
「それじゃあ…」
「しよーぜ、結婚」
ユーニの言葉を聞いたタイオンは、息をつめ目を潤ませる。
かつてユーニは、彼のこんな顔を見たことがあった。
シティーで初めて生まれたばかりの子供を見た時のあの顔だ。
感情の高ぶりを抑えられない、感極まった顔、
すると、突如として強引に腕を引かれ、ユーニの体はタイオンの腕の中に納まった。
「え、お、おい…!」
急に抱きしめられたことに驚き、小さく抗議してみるが、タイオンは抱きしめる力を強めるばかりで聞く耳を持たない。
ふと視線を横に逸らしてみると、周囲の人々の目は絵画ではなく明らかに自分たちに向いていた。
展示物よりも目立っているこの事態に、さすがのユーニも焦りを感じてしまう。
「た、タイオン!ちょ、いったん離れろって!」
「あっ、すまない。感極まって…」
「ったく、衝動的すぎるだろ…」
ようやくユーニの体を開放したタイオン。
だが今度は、ユーニの白い頬に手を添えてきた。
まるで壊れ物を扱うようなその手つきに、愛情を感じる。
愛おし気にこちらを見下ろしてくるタイオンの瞳は、今にも涙の粒を落としそうなほど揺れていた。
「本当にいいのか?僕で」
「今更かよ。むしろお前しかいねーだろ?」
「ユーニ…」
タイオンの目が細められる。
少しずつ近づく顔を見つめながら、ユーニはこれからタイオンがしようとしていることに察しがついた。
受け入れるように目を閉じると、唇ではなく額に柔らかな感触が当たる。
“は?”と心の中で一言発し目を開けると、口元を手の甲で抑え、真っ赤な顔をしているタイオンの姿がそこにはあった。
「いやいやそこは口にするだろフツー!」
「なっ…!馬鹿を言うな!できるわけないだろ人目もあるし…」
急に抱きしめられたせいで既に十分すぎるほど注目を浴びているというのに何を今更恥ずかしがることがあるのだろう。
妙なところで尻込みしてしまう性格は、あの頃と変わっていないらしい。
仕方のない奴。
心で悪態をつくと、タイオンの無駄に長いマフラーを掴んで引っ張り、強引に彼の唇へと口づけた。
「っ!?」
息を詰めるタイオン。
だが離してなんかなんかやらない。
少しの間戸惑っていた様子のタイオンだったが、すぐにユーニの口付けを受け入れ、彼女の頬に再び手を添えるのだった。