【殺りん】
■犬夜叉
■未来捏造
■短編
村でのりんの役割は、主に病人や妊婦の看護と、薬草の管理である。
殺生丸によって楓の村に預けられて以来、楓から薬草の種類を教わり、たびたび村の外の森に出ては薬草を積んでいた。
楓やかごめと一緒に摘みに行くのが日常だったが、今日は二人とも所用があるとのことで、りんは初めて一人で村の外まで薬草を摘みに行くことになった。
村に預けられたばかりだった子供の頃なら怖がっていただろうが、あれから数年たって、りんはもう子供とは言えない年齢まで成長した。
近くの森まで薬草を採りに行くのに、もはや何の抵抗もない。
いつも薬草や山菜を採っている道をくまなく探すりんであったが、最近来た嵐のせいでなかなか目当ての薬草が見当たらず、いつもの場所よりも少し奥の道まで足を踏み込んだ。
そこにはあまり人が入っていないらしく、良く効く薬草が手つかずのままたくさん生えていた。
これは大量に採れるぞ、と意気揚々薬草を摘んでいくりん。
夢中になるあまり、這い寄ってくるムカデ妖怪に全く気付かなかった。
「っ!?」
りんがその存在に気付いた時、妖怪は既にりんの目の前まで迫っていた。
恐怖で動けなくなったりんは、思わず薬草を入れていた籠を落としてしまう。
このままでは食われる。
声も出せず、体をこわばらせて目をぎゅっと瞑ったりんだったが、一向に体に痛みがやってこない。
代わりに、ムカデ妖怪の断末魔がりんの耳に届いた。
「殺生丸様・・・」
恐る恐る目を開けた先にいたのは、他の誰でもない殺生丸であった。
傍らには、さきほどまでりんを食おうと襲い掛かってきていたムカデ妖怪の躯が転がっている。
どうやら殺生丸の爪によって瞬時に引き裂かれたようであった。
りんは、殺生丸と日を決めて定期的に会っているが、今日は彼が楓の村まで会いに来る日ではなかったはず。
いつも一緒にくっついて来る邪見を伴っていないところを見ると、ここに通りかかったのはただの偶然だったようだ。
その偶然に、りんは命を救われた。
「りん、こんなところで何をしている」
「楓様に薬草を採りに行くよう頼まれて」
「ひとりでか」
「うん。殺生丸様、助けてくれてありがとう」
落としてしまった籠と薬草を急いで拾い上げ、膝についた土を払いながら立ち上がったりんは、いつもの笑顔でお礼を言い、殺生丸に頭を下げた。
子供の頃から、殺生丸はりんが危機に陥るといつも助けに来てくれる。
それが偶然の出来事なのか故意でのことなのか、りんにはわからないが、結果的に自分の命を何度も救ってくれた殺生丸を、りんは心から慕っていた。
その気持ちは、大人になってからも変わらない。
この感情が、父や兄に向ける親愛の情ではなく、ひとりの異性に向ける恋慕の情であることを自覚したのは、数か月前のことだった。
それからというもの、りんは殺生丸に会うことがより一層楽しみになった。
彼が向ける小さな優しさのひとつひとつに胸が高鳴り、自分に向けられる視線には顔が熱くなる。
今もまた、りんが薄く顔を赤らめていることを、殺生丸は気付いているのだろうか。
「りん」
「はい」
「同道しよう」
殺生丸の提案は、りんにとって喜ばしいものだった。
十分薬草を摘み終わったため、あとは村に帰るだけだが、あんな妖怪に襲われたのでは一人で帰路につくのはおそろしい。
殺生丸が付いてきてくれるのならば、何も怖いものはない。
それに、今日は会えないと思っていたため、少しでも一緒にいられるのなら、こんなに嬉しいことはなかった。
「はい!」
満面の笑みで頷くと、殺生丸は楓の村に向かって歩き出した。
りんもまた、薬草が入った籠を抱えながら後ろをついてゆく。
歩くたび揺れる長い銀髪を見つめながら、りんは殺生丸のことを考えていた。
同道を提案してくれたのはもしかして、ひとりで村に帰ることになる自分の身を案じてくれたからなのではないだろうか。
もしそうだったら、とてもうれしい。
淡い期待を抱きながらも、それを口に出すことなく、りんは彼の後ろを歩き続けた。
「なんか、こうしてると、一緒に旅をしてた頃を思い出すね」
「・・・・・・・・・・」
りんの言葉に、殺生丸は何も返事をしなかった。
昔から、自分の言葉に対して殺生丸から返事が返ってくることはほとんどなかったため、これは慣れっこだった。
だが、返事をしないからと言って、不機嫌なわけではないことを、りんはよく知っている。
きっと、ただ面倒なだけなのだ。
横目で殺生丸を見上げると、あの頃と変わらない端正な顔立ちがそこにあった。
一緒に旅をしていたころは身長も小さかったため、見上げても少し遠いところに殺生丸の顔があったが、身長が伸びた今は、ほんの少しだけ近い距離でその顔を見つめることができる。
けれど、やはり背の高い殺生丸を見上げている状態には変わりなく、彼にとって自分はまだまだ子供なのだという事実を突きつけられた。
なんとなく殺生丸から視線を外し、右手側に顔を向けると、そこには小さな花畑が広がっていた。
色とりどりの花々が咲き乱れるその花畑は、かごめと薬草を採りに来るとき、帰りによく二人で花を摘んで帰っている場所である。
今日は一緒に来られなかったが、あの花たちをかごめや珊瑚に贈れば、きっと喜んでくれるに違いない。
そう思ったりんは、反射的に前を歩いている殺生丸の袖を引っ張った。
「殺生丸様、見て!」
袖を引かれた殺生丸は足を止め、りんが指さす花畑のほうへと顔を向けた。
草花など、妖怪である殺生丸には無縁だったが、年頃の娘であるりんには興味があるらしい。
「かごめ様たちに、お花積んでいっていい?」
「・・・・・好きにしろ」
許しが出たことを喜び、りんは殺生丸のそばを離れて花畑の真ん中へと腰を下ろした。
殺生丸もまた、りんから少し離れた岩場に腰をかける。
木々が開けたその花畑には、優し風が吹いていた。
花びらが風に乗り、辺りを彩るように舞い上がっている。
彩り豊かな花畑の真ん中で、風に黒髪を靡かせているりんを見つめ、殺生丸は昔のことを思い出していた。
楽しげに花を摘む表情は昔と変わらないが、彼女は確実に大人へと成長している。
妖怪に比べ、格段に成長が早い人間は、殺生丸の体感ではあっという間に大人になり、そして直ぐに老いてしまうだろう。
彼女の生が尽きる短い間に、自分は一体何ができるだろう。
殺生丸は、風に乗る花の香りを嗅ぎながら、目を伏せた。
「殺生丸様!」
あの頃から変わらない声に呼ばれ、目を開けると、離れた場所にいたはずのりんが目の前に来ていた。
そして、笑顔で一輪の赤い菊を差し出す。
「はい」
「なんだ」
「殺生丸様にあげる」
この菊は、花畑に生えていたものらしい。
長い爪が当たらないように、殺生丸はそっと菊を受け取った。
常に刀を握っている手とは思えないほどしなやかで細い指は美しく、花を持っている手はまるで女性のもののようだった。
菊を呆然と眺め、何も言ってこない彼は、どうやら何故この花を贈られたのかわかっていないようである。
「人間はね、気持ちを伝えるときにお花を贈るの。いつも守ってくれてありがとうの気持ちを込めて、殺生丸様にあげる」
「気持ちを伝える、か」
正直、妖怪の殺生丸にとって、花など貰ったところで何の役にも立たないし、何故気持ちを伝えるときに花を贈るのかも理解できない。
だが、当のりんは随分嬉しそうに笑っている。
拒絶する理由はなく、殺生丸はその菊を素直に受け取ることにした。
微笑みを向けてくるりんの無邪気さは、あの頃と何も変わらない。
まだ幼く、ただただ殺生丸の後をついてくる童だった頃と。
だが、それでも数年たてば嫌でも大人に成長するわけで。
りんは、女の子から大人の女性へと着実に成長している。
いつだったか、りんを訪ねて村を訪れたとき、寄ってきたかごめが一方的に話しかけてきたことがあった。
その時の話によれば、人間の女は今のりんくらいの年齢が最も華のある時期らしい。
初めて異性を知るのも、このくらいの年頃だとか。
だからさっさと覚悟を決めろだとか、いろいろと言われた気がするが、ほとんど聞いていなかったため覚えていない。
だが、かごめの言う通り、今のりんが年頃であることは間違いない。
「りん」
「はい」
「いくつになった?」
「年ですか? えっと…数えで16かなぁ」
「そうか」
殺生丸の言葉に何の脈絡もないのはいつものことである。
だが、何故突然年齢を聞かれたのか、りんとしては不思議だった。
自分の年齢など、きっと興味はないと思っていたから。
「りん。村の暮らしは好きか」
「はい!みんな優しくしてくれるし、楽しいです」
「人間の村は、居心地がいいか」
「はい!とっても」
数年前、殺生丸がりんを楓の村に預けると決めたとき、りんは激しく抵抗した。
人里に預けられるなんて嫌だ。
殺生丸様に置いて行かれるなんて嫌だ。
泣きながら抵抗したが、結局は殺生丸に押し切られる形で村にとどまることになったのだ。
最初こそむくれていたりんだったが、楓や珊瑚、弥勒たちをはじめとする村の人々に優しく受け入れられ、だんだんと村になじむようになった。
以前暮らしていた村では、両親がいないためにマトモな暮らしが出来ず、人の村に良い印象は全くなかった。
けれど、楓の村は別である。
半妖である犬夜叉や、その仲間で妖怪の七宝、雲母などが村で暮らし、村人を妖怪たちから守ってもいるため、この村は殺生丸と旅をしていたりんにも理解がある。
村人たちは、人里の暮らしに慣れていないりんに対し、生活の手ほどきをしてくれた。
今では同年代の友人もでき、村人たちを家族のように慕っていた。
村での暮らしは楽しい。
殺生丸にその事実だけを伝えれば、“そうか”と一言頷いて、遠くの景色に視線を向けた。
「私がお前を村に預けたのは、いずれ訪れるその時に、お前がお前自身の考えで道を選択できるようにだ。そして、その時は近づいている」
「選択・・・?」
あの頃、殺生丸は強引にりんを自分の手元に置き続けることもできた。
たとえそうしていたとしても、周囲の者たちは誰も止めはしなかっただろう。
りん本人も、それを望んでいたのだから。
だが、殺生丸がそうしなかったのは、そんなりん自身の身を案じてのことだった。
幼いりんは視野が狭く、まだ世の中というものがわかってない。
人の里でしばらく暮らせば、己の幸せについて考え直す時が来るかもしれない。
りんの本来の幸せを思うのなら、彼女に人と暮らす経験を積ませたうえで選ばせるのが最善だと考えたのだ。
「村に預けた当初、私は道など一つしかないと思っていた。生きとし生けるものは、みな居場所がある。人間は人間の世界があり、妖怪には妖怪の世界がある。人間であるお前は、妖怪である私のそばにいるべきではない、と」
「そんな!」
殺生丸にとって、りんは守るべき存在だった。
そんな彼女だからこそ、人間としての暮らしが幸せだというのなら喜んで人里に預けたままにすべきだと思っていた。
そもそも、妖怪の自分と人間のりんとでは、流れる時間も生きる世界も違う。
最初から、ともに生きるなど無理があったのだ。
その事実は、頭ではわかっている。
わかっていたはずだった。
花畑に吹き込む風が花びらを舞い上げ、あたりに甘い香りを漂わせる。
じっとこちらに注がれるりんの視線から逃げるように、殺生丸はその金色の瞳を閉じた。
「だが今になって、迷いが出ている。お前を手放すことを、惜しく思っている」
目を閉じたまま話す殺生丸の言葉に、隣のりんが息を詰めるのが分かった。
いつからだろう。
りんを手放さなければならなくなる未来を思い、胸を痛めるようになったのは。
夕日を背に楓の村へ帰っていくりんの背を、引き留めたいと思うようになったのは。
この感情を何と呼ぶのか、とうの昔に答えは出ていた。
けれど、ずっと気付かないふりをして逃げていた。
強大な力、完璧な妖力をもってしても、人間の娘一人思うように出来ない事実がただ情けなく、目をそらしたかった。
しかし、今日ここにきて、もはやその感情からは逃げられないことを悟った。
殺生丸といえども、心に嘘はつけない。
「もはや私は、お前の幸せを心から願えなくなっている。己の願望のみが大きくなり、それをお前に押し付けようとまで考える始末だ」
りんはもう、子供ではない。
子供ではいられない。
彼女に恋心を抱き、求婚してくる人間の男もいつか現れるかもしれない。
そうなったとき、殺生丸には素直にりんを譲れるだけの余裕はありそうになかった。
宝のように手元に置き、傷がつかないように、誰の目にもふれないように優しく愛でていたい。
そして、りんにもまた、己の手中で抵抗もせず輝き続けてほしい。
そんな身勝手で邪なことさえ考えてしまっていた。
「りん」
「はい」
目を閉じたままりんの名前を呼ぶと、不安げな声での返答があった。
「お前自身の幸せのために、これ以上私の名を呼ぶな。でなければ、私はお前を連れ去ってしまう」
それは、精いっぱいの忠告だった。
これ以上一緒にいれば、後戻りができなくなるのは目に見えている。
健気に笑いながら殺生丸の名前を呼び、その背についてくるりんを突き放さなければ、いつの日か間違いが起こってしまう。
その結果、りんの幸せを奪うことになるのは、殺生丸の本意ではなかった。
穏やかな表情で拒絶の言葉を吐く殺生丸の心中は、決して穏やかではない。
「・・・・・嫌です」
だが、殺生丸の意を決した拒絶を一蹴するかのように、りんは首を横に振った。
閉じていた瞳を開け、りんを見やれば、膝の上で作った拳をふるふる震わせながらうつむいていた。
やがて震えた声で、胸の内を語りだす。
「殺生丸様は、選択の余地を与えてくれたつもりかもしれないけど、りんは最初から、ひとつの道しか見えてなかったよ。りんの幸せは、殺生丸様と一緒にいること」
りんには、人間の村に身を寄せたことで分かったことが2つあった。
ひとつは、人間がみんな薄情な生き物とは限らないということ。
そしてもうひとつは、やはり殺生丸の隣にいる時が一番好きだということ。
長く美しい銀髪を見れば胸がときめき、その低い声で名前を呼ばれれば心が躍る。
それは、りんが間違いなく殺生丸に恋い焦がれている証拠だった。
好いた相手と一緒にいることがい幸せだと感じない者はいない。
例え相手が人間だろうと妖怪だろうと、りんにとっては関係がないのだ。
好きなものは好き。だから一緒にいたい。
思考回路は単純明快だ。
いつまでも無垢に、殺生丸の後ろをついて歩いていくことが、りんの幸せなのである。
瞳に溜めた涙を隠すように微笑みながら、りんは顔をあげる。
そして、殺生丸の左手をそっと握ると、自分の右頬に押し当てた。
彼の大きな手は、りんの小さな顔を簡単に包んでしまう。
「だから、そんな悲しい事、言わないで。りんを、置いていかないで」
その微笑みは、殺生丸の心を瞬時に満たしてくれる。
初めて守りたいと思った存在。
初めて失うのが恐ろしいと思った存在。
そして、はじめて愛おしさを感じた存在。
それが今、穏やかに微笑みながら殺生丸を受け入れようとしている。
殺生丸の心の中にあったわずかな自制心が、じわりじわりと消えていくのが分かった。
心を寄せた相手が、己を受け入れてくれることに、こんなにも喜びを感じてしまうとは。
「自分が何を言っているのか、わかっているのか」
殺生丸の問いかけに、りんは小さくうなずく。
心に巣食う迷いは、すでになくなっていた。
もしかすると、この選択をしたことで、いつかりんが後悔してしまうかもしれない。
けれど今は、この心が示すままに動いていたい。
殺生丸の金色の瞳が細められ、その端正な顔に、珍しく微笑みが浮かんだ。
「愚かだな、私も、お前も」
引き寄せられるままにりんは目を閉じた。
触れた唇は思ったよりも冷たい。
けれど、胸にじんわりと広がる暖かい何かが、りんの心を温めてくれる。
それから、陽が暮れるまで二人は一緒にいた。
何度か触れるだけの口づけを交わし、たまに髪をなでてもらったり。
りんにとっては幸せな時間だった。
夜になってから村に帰り、たまたますれ違った犬夜叉から、“全身からあいつの匂いがする”と鼻を鳴らされたことに、頬を染める羽目になってしまったのは、また別の話。
END