【タイユニ】
■ゼノブレイド3
■現パロ
■長編
- Act.01 98℃の恋
- Act.02 そばにいて
- Act.03 懐かしい顔
- Act.04 変わらない香り
- Act.05 青臭い価値観
- Act.06 こっち向いて
- Act.07 重なる顔
- Act.08 卑怯な大人
- Act.09 いかないで
- Act.10 ここでキスして
Act.01 98℃の恋
エルティア海の夜は冷える。
だからこそ、タイオンが淹れてくれたハーブティーはユーニにとって必需品だった。
休息地に到着するたびお茶を入れて欲しいと強請るものだから、きっと彼も大変だったに違いない。
けれど、いつも何だかんだと小言を言いつつユーニの要望を受け入れてくれるタイオンは優しかった。
あの夜も、いつも通り休息地に到着して早々ハーブティーを強請ったユーニに、彼は“はいはい”と適当に返事をしながら腰を上げた。
広大なエルティア海は船での移動が必須となる。
長い船旅は体力的に厳しいものがあり、こうして頻繁に近くの島に停泊しては休息をとっていた。
バウンダリーの操縦桿を握っているリクは、長い航海に疲れてしまったのか、休息地に到着するなりマナナと一緒にシュラフで眠り込んでしまっている。
その脇には、習慣である日記をしたためているミオ。
数メテリ離れた場所では、ブレイドを素振りしているノアや筋トレに勤しんでいるランツ、セナの姿が見える。
思い思いの時間を過ごしている仲間たちを横目に、ユーニは簡易テーブルについてタイオンがハーブティーを淹れてくれるのを待っていた。
6人の中で一番荷物が多かったのはタイオンだった。
当時はそんなに荷物が多くて何に使うのだろうと呆れていたが、あれは彼の慎重な性格がさせたことだったのだろう。
たくさんの荷物の中には、湯を沸かすための折り畳み式ポッドも入っていた。
エーテルをエネルギーにしているこのポッドは、ハーブティーを淹れる際に無くてはならない器具の一つ。
ろ過した水をポッドに注ぎ、電源を入れて沸騰するのを待つ。その間に茶葉を用意する。
一連の動作には無駄がなく、彼がこの短い生涯で数えきれないほどハーブティーを淹れてきた事実を物語っていた。
水が入っているポッドから、“シュー”という音が聞こえてくる。
この音が聞こえてきたら、もうすぐ沸騰する証拠。
水がぼこぼこと沸騰する直前に、タイオンはポッドの電源を落とす。
これもまた、彼のルーティーンの一つだった。
「なぁ、なんで沸騰する直前に止めるんだよ?」
「ハーブティーの香りが一番際立つのは98℃だ。沸騰直前のお湯を使う方が美味く仕上がる」
「ふぅん。めんどくせぇことしてるな」
「“こだわっている”と言ってくれ」
やがて数分の蒸らし時間を経たのち、カップに注がれたハーブティーが差し出された。
立ち上る湯気からはセリオスアネモネの心安らぐ香りが漂っている。
この香りに何度助けられたことだろう。
寝苦しい夜も、恐怖で身を固くした夜も、無性に寂しくなった夜も、いつもこの香りが傍にあった。
そっと口をつけると、いつもの爽やかな風味が口内に広がる。
穏やかで、冷え切った体と心をじんわり溶かしていくような、そんな温かさに抱かれているようだ。
ふっと息を吐き、タイオンを見上げる。
その場に立ったまま同じようにハーブティーのカップに口をつけている彼と目が合う。
なるべくこの暖かさがタイオンの心にも伝わるように、ユーニは目を細めていつも通りの言葉を贈る。
「美味い。ありがとな」
「あぁ」
98℃の沸騰寸前のお湯で淹れられたハーブティーの味は、今でも覚えている。
こうして夢に出てくるほどに、ユーニの中では特別な味だった。
アイオニオンにいた頃、胸に灯ったタイオンへの気持ちに答えが出ないまま、沸騰するときを迎えることなく別れてしまった。
けれど、今ならわかる。きっと自分は、あの仏頂面な相方のことが好きだった。
彼の淹れるハーブティーの味も、ユーニの名を呼ぶ声のトーンも、揶揄うたび見開かれる褐色の瞳も、何もかも嫌になるくらい覚えている。
知らないままだったなら、もう少し穏やかに過ごせていたのだろうか。
優しい夢を見ながら、ユーニの意識は白んでいった。
***
誕生日に彼の夢を見てしまったのは偶然だろうか。
目を開けた瞬間、目じりから涙が零れ落ちていることに気づき、右手の親指で拭った。
狭苦しいこの部屋で朝を迎えるたび、現実に引き戻されたことを実感して嫌になる。
陽が当たらないせいでやたらと湿気が多いこの部屋が嫌いだった。
けれど、自分一人の部屋が確保されているだけまだマシだろう。
身体を起こして部屋を出ると、ユーニは眠気眼のままキッチンで朝食の用意を始めた。
10枚切りの食パンから2切れ取り出し、油汚れがこびりついたままの古いトースターに入れる。
パンを焼いている間に卵を2つ冷蔵庫から取り出し、小さなフライパンの上で焼く。
半熟じゃないと怒られるため、塩と胡椒を振ってすぐに火を消した。
「朝食まだかい」
トースターがパンを焼き終えたことを知らせる“チンっ”という音とほぼ同時に、奥からよれよれのスウェットを着た中年の女性が狭いダイニングへと入ってきた。
白髪交じりでぼさぼさの髪を輪ゴムで一つに束ねたその女性は、古くなって塗装が剥げている食卓の椅子に腰かけ、大あくびをかいている。
焼けたパンを皿にのせ、その上に特売で買ったハムと目玉焼きを盛り付けて食卓に持っていくと、女性は“いただきます”も言わずに手を付け始めた。
「なんだいこれ。半熟じゃないか。あたしは固い卵焼きの方が好きなのに」
この前は“半熟の方が好きだから作り直せ”と喚いたくせに。
いつも通り繰り返されるわがままを聞きながら、ユーニは自らが作ったパンを前に無言で手を合わせると、静かに手を付けた。
パターも何もつけていないパンは少しだけパサパサしている。
せめてマーガリンくらいは塗るべきだったかもしれない。
今度買ってこようかな。でも高いんだよな。
そんなことを考えていると、早くも朝食を食べ終えた正面の女性、もとい母方の叔母は、後ろの壁に掛けられている黄ばんだカレンダーを見つめながらぼんやり呟いた。
「そういやぁあんた、今日誕生日じゃないか」
「……」
「今年18だな?」
「……」
「黙ってんじゃないよ。例の約束、忘れてないだろうね?」
「……忘れてねぇよ」
目も合わせず応えると、叔母は食卓の上に置かれた安い紙たばこを手に取り、黄色くなった歯をむき出しにしながら笑って見せた。
「これでお荷物ともおさらばできる。長かったなぁ、この生活も」
話しかけているつもりなのかもしれないが、叔母の言葉に応えてやる気力はなかった。
この生理的に受け付けない女は、ユーニにとって母の妹にあたる存在である。
美人で出来の良かった母に比べ、叔母は綺麗とは言い難く頭も悪かった。
この築50年の古いアパートで死んだ両親の遺産を貪るように暮らしていたこの女に引き取られてしまったのは、ユーニにとって人生最大の汚点ともいえるだろう。
だが、こんな生活ももうすぐ終わる。
そう思うと、ほんの少しだけ明るい気持ちになれた。
朝食を終え、2人分の食器を回収してシンクへ運ぶ。
食事を作ることはもちろん、食器洗いもユーニの仕事だった。
叔母曰く、“養ってやってるんだからお前が家事をやるのは当然のこと”らしいが、叔母の収入ではなく祖父母の遺産で生きていけているのは指摘してはいけない事実である。
余計なことを言ってこの家を追い出されれば、行く当てなどない。
いつか明ける夜を待ち望みながら、ユーニは叔母の理不尽に必死で耐えてきた。
そんな長く寒い夜も、もうすぐ終わりがやってくる。
制服に着替え、洗面所で髪型をチェックする。
亜麻色の髪を撫でながら自分の頭の上に視線を向けると、あるはずのない白い羽がぼんやりと見えた気がした。
ローファーを履き、ボロアパートの玄関を出て学校に向かう。
ユーニが通っている高校は、何の変哲もない平凡な公立高校だった。
叔母は進学費を出すのを渋ったが、幸い中学の頃から成績が良かったユーニは、奨学金を借りることが出来たためなんとか高校には通えている。
あのじめじめした薄暗い家を留守にできる口実ができるから、学校は好きだった。
「あぁ、ユーニおはよう」
教室に入ると、見慣れた顔が手を振って挨拶してくれた。
黒髪を一つに束ね、朗らかに笑っている彼の名前はノア。
そのすぐ隣には、大柄で筋肉質な男、ランツも一緒にいる。
2人に“おはよう”を返しつつノアの隣の席に腰かけると、ノアもランツも笑顔で話を振ってくれる。
ユーニにとって学校が心の憩いになっているのは、あの家を空けられるからという理由だけではない。
ノアやランツをはじめとした、見知った顔に会えるからという理由も大きな要因だった。
左隣の席にはノア。後ろの席にはランツ。廊下側の席にはヨラン。隣のクラスにはセナ。一つ下の学年にはマシロとルディ。そして担任の先生はアシェラ。
この学校には、アイオニオンで縁を結んだ人たちが多く所属していた。
「はい、ユーニ」
不意に横から何かが差し出された。
視線を上げると、そこには同じクラスに所属しているヨランの姿が。
記憶の中にいる彼と全く同じ柔らかな笑みを浮かべた彼は、コンビニで売っている小さなカップケーキを差し出していた。
「えっ、なにこれ?」
「ユーニ今日誕生日でしょ?朝買ってきたんだ」
「あっ、やべっ、そういやそうじゃん」
「あー!ランツ忘れてたんだ?」
「い、いやいや覚えてたって!ただなんも用意してねぇなぁーって」
「ランツはそういうところあるからな。はいこれ。俺からのお祝いの気持ち」
「わ、プリン?」
「うーわノア!お前抜け駆けしやがって……!」
「用意しなかったランツが悪い」
ぎゃいぎゃいと盛り上がる彼らのやり取りを横で聞きながら、ユーニはノアとヨランから贈られたささやかな“プレゼント”を並べて眺めていた。
きっと自分は恵まれているのだろう。
あんなに湿っぽい家から一歩外に出れば、こんなにも暖かい友達が迎え入れてくれる。
ノアもランツも、そしてヨランも知らないのだろう。
その存在が、ユーニの心の支えになっていることを。そして、かつて“アイオニオン”という別世界で、一緒の時を過ごしていた事実を。
「ユーニ、後で昼飯おごってやるからそれで勘弁な?」
両手を合わせながら、ランツがその大きい身体を縮こませて謝ってくる。
優しい輪の中心にいることに幸福感を滲ませるユーニは、アイオニオンにいた頃と変わらない笑顔で言うのだった。
「しゃーねぇな」
***
ユーニには、“殺された記憶”が2つある。
一つはアイオニオンにいた頃の記憶。
血と硝煙にまみれた戦場で、不気味なメビウスに貫かれた忌々しい記憶である。
もう一つは、“この世界”で経験した記憶。
10年ほど前。当時小学生だったユーニは、その日もいつも通り弟と一緒に子供部屋で眠っていた。
深夜2時。ぐっすり眠っていたはずのユーニの意識は、部屋の外から聞こえてくる悲鳴と物音で覚醒した。
何かが走り回る音と、打ち付けるような音。
一緒に聞こえてきた母の金切り声と父の怒声が、尋常ではない事態を物語っていた。
弟も異変に気付き、布団の中で震えていた。
どうしよう。様子を見に行った方がいいのだろうか。
迷っているうちに部屋の外は静かになった。
あぁよかった。災いはどこか遠くへ行ったのだろう。
そんな根拠のない理屈が頭によぎったのは、自分自身を安心させようとする防衛本能が働いたからなのだろう。
やがてその静寂は、子供部屋の扉が勢いよく開け放たれたことで終わりを告げる。
扉の向こうに立っていた男の姿は、暗闇だったためよく見えなかったが、手に持っていた刃物だけはよく見えた。
きらりと反射して光る刃物には、赤い血がべっとりと付着している。
子供ながらになんとなく察してしまった。その血が両親のものであることを。
一瞬の静寂は、両親が息絶えたことで訪れたものだったということを。
そして、自分たちもこの男に殺されるのだということを。
刃物が反射して、男の目元だけが見えた。
狂気に満ちたその双眸はどこか見覚えがある。
その男が、かつて自分を殺したことがある“ディー”と同一人物だったと知ったのは、後のことである。
刃物が振り上げられたその瞬間を最後に、ユーニの意識は真っ暗な闇の中へと沈んでいった。
黒く暗い景色の中で、ぼんやりとした光景が浮かんでくる。
武器を持って戦っている自分の姿。
黒髪の青年と筋肉質な青年と一緒に笑い合っている自分の姿。
獣耳を持った少女と青く燃えるような髪を持った少女と一緒に談笑している自分の姿。
そして、褐色の肌をした眼鏡の青年の隣で、お茶を楽しんでいる自分の姿。
そのどれもが見覚えのない光景だったが、何故か懐かしく感じた。
そして、過ぎ去っていく朧げな光景を次々目にしながら、ユーニはついに真理へとたどり着く。
あれは自分だ。もう一人の自分だ。
別の世界で生きていた、もう一つの人生。
あぁ、どうして忘れていたのだろう。こんなにも大切な記憶だったはずなのに。
ユーニが次に目を覚ましたのは、見慣れない病院の一室だった。
夜中の騒々しさに隣の家の住人が様子を見に来てくれた結果、凄惨な現場を目撃してしまったらしい。
その隣人によって警察と救急車が迅速に手配され、ユーニは緊急搬送という形で病院に運び込まれた。
だが、無事一命をとりとめたのはユーニだけで、両親や弟はその場で死亡が確認されたという。
その事実を医者から告げられた瞬間、涙があふれ出た。
家族が死んだことを悲しむ涙でもあり、忘れ去っていた別世界での記憶を取り戻したことによる困惑の涙でもあった。
そして思い出す。あの日、家族を襲った男の顔を。
あれは間違いない。かつてアイオニオンで自分を殺したメビウス、ディーと同じ顔だ。
どうやらあの男は強盗目的だったらしく、家で保管されていた金目のものを片っ端から盗んでいったらしい。
逃亡中の男を捕まえるべく、警察側から似顔絵作成の依頼が来た。
記憶に深く刻みつけられているあの顔は、忘れられるはずがない。
顔の特徴を克明に伝えると、驚くほどに再現度が高い似顔絵が完成した。
この似顔絵が決め手となり、男は犯行から半年経った頃に逮捕された。
捜査官が見せてくれた犯人の顔写真は、まさしくディーそのもの。
何故ディーがこの世界にいるのだろう。
いや、そもそも何故自分もこんなアイオニオンとは縁遠い世界で生きているのだろう。
疑問は解決できないまま、時は過ぎていった。
やがて中学、高校へと進学していくと、新しく出会う顔に見覚えがある顔が混じることが多くなっていった。
中学の同級生の中には、かつてコロニー9で一緒の時を過ごしていた兵士たちが何人かいた。
高校に進学すると、年少兵の頃からの腐れ縁だったノアやランツ、ヨランとも出会えた。
だが、全員共通してアイオニオンでの記憶は持っていない。
恐らく、記憶を持っている自分がイレギュラーなのだろう。
ディーに殺されかけ、生死の淵をさまよったことで記憶が呼び起されたのかもしれない。
そして、アイオニオンと今自分がいる世界は、いわゆる“並行世界”という関係にあるのではないかという結論にも至った。
アイオニオンはゼットとの戦いの果てに二つに裂け、元の世界へと還っていったと記憶しているが、この世界はどう考えてもアイオニオンでも“元の世界”でもない。
あの頃のように自分の頭には羽が生えていないし、別れを告げたはずのミオやセナの姿が確認できた以上、元の世界でもないのだろう。
となれば答えは一つ。並行世界であると考えるのが自然だ。
この仮説がどこまで合っているのかわからないが、自分以外にアイオニオンでの記憶を持っている人間がいないのだから答え合わせのしようがない。
ただ、かつての仲間や友人たちと再び縁を結べているこの状況は、ユーニにとって非常に心地よいものであることは間違いなかった。
あの家を出ることになっても、ノアやランツ、ヨランたちとはずっと友達でいたい。
アイオニオンでは、悲しい結末をたどってしまった分、この世界では強く繋がっていたいと思えるのだ。
ノアやランツたちだけではない。
ミオやセナ、その他アイオニオンで縁を結んだ多くの人々に囲まれながら今の人生はある。
思えば、ノアやランツたちと友人になれたのも、ミオやセナたちと知り合えたのも、ディーに家族を殺されたことさえも、因果によって定められたことなのかもしれない。
けれど、今を取り巻く人間関係は“完璧”とは言い難い。
たった一つだけ、足りないものがある。欠けているものがある。
欠如したその部分は、ユーニにとってあまりにも大きい。
ユーニの新しい人生には、タイオンだけがいなかった。
***
「えっ……」
誕生日と言えど世間では普通の平日に過ぎない。
いつも通りの放課後を迎え、ユーニは帰路についていた。
見慣れたボロアパートの敷地内に入り、2階へと続く階段を上がり終えた瞬間、妙な光景が視界に入る。
家の玄関の前に、スーツケースがひとつだけ置いてある。ユーニのものだった。
何故自分の荷物が外に出されているのか、察しのいいユーニはすぐに勘付いてしまう。
急いで鞄から家の鍵を取り出して玄関扉を開錠してみるが、扉がどうにも開かない。
内側から重たい何かで塞がっているようだ。
外からの侵入を拒むこの状況は、明らかに故意によるものだ。
「ちょ、なにこれ、開けろよ!」
「もうここはアンタの家じゃないよ」
「はぁ?何言って……」
ほんの少し開いた扉の隙間から、叔母の声が聞こえてきた。
相当重い何かで扉を塞いでいるらしく、いくら押しても扉はびくともしなかった。
部屋にあった荷物がまとめてトランクケースに詰め込まれ、外に出されているというということは、叔母は自分を追い出そうとしているのでは。
そんな予想を裏付けるかのように、中から再び叔母の残酷な声が聞こえて来る。
「アンタが18になったら家を出ていくって約束だったろ?ようやくその日になったんだ。とっとと出ていきな」
「ふざけんな!誕生日当日に出ていくなんて言ってねぇだろ!? まだ高校も卒業してねぇのに」
「そんなの知らないよ。小生意気な姪を10年間も世話してやっただけ感謝してほしいくらいだ」
強盗犯によって家族が殺され、身寄りを失ったユーニは、唯一の肉親である母方の叔母に引き取られた。
父方の親族は病死や事故死でほとんどいなかった。
一方母方の親族は、末期癌に侵された祖父と堕落した叔母だけが残っている。
病床に伏している祖父にユーニを引き取れるわけもなく、消去法で叔母が選ばれたのだが、叔母は当然のように引き取りを拒んだ。
かわいい孫を哀れに思った祖父は、叔母にユーニを18歳まで面倒を見ることを条件に自分の遺産を譲り渡すことを約束した。
万年金に困っていた叔母はその条件を承諾。
ユーニの居場所は確保されたが、以降彼女にとって地獄のような日々が始まるのだった。
「ほら!とっととどっか行っちまいな!もうあたしとアンタは他人同士だ!これ以上そこに居続けるなら警察呼ぶよ!」
突き放すような叔母の言葉に、もはや自分の居場所はどこにもないのだという事実を思い知らされる。
ここにいる意味は、もうないのだろう。
扉を開けようと押していた手が、ゆっくりと脱力していく。
開いたままの扉の隙間から、“餞別だよ”という一言共に白い封筒が投げられた。
中身を確認してみると、そこには5万円が入っていた。
住む場所も食事のあても突然失った女子高生が、たった5万で生きていけるわけがない。
だが、あの卑劣で独りよがりなあの叔母のことだ。
どうせ抗議したところでどうにもならないだろう。
この女がそうと決めたことは、二度と覆せない。
10年間一緒に暮らしてきたからこそわかる。これ以上足掻いたところで事態は好転しない。
深いため息とともに、ユーニはあきらめた。
投げ出された封筒と、自分の荷物が詰まったトランクケースを手に持ち、よたよたと歩き始めた。
このボロアパートに思い入れがあったわけではない。叔母との別れが辛いわけでもない。
ただ、あんな最低な叔母でも、失えば生活の基盤を脅かされることになる。
叔母の気まぐれと理不尽で左右されてしまうほど、自分という存在は弱くて非力なのだと思い知ってしまった。
どうしよう。一瞬にして住む場所を失ってしまった。
時刻は17時半。ともかく今夜一晩過ごせる場所を探さなくては。
スマホに視線を落とし、登録されている連絡先をスワイプする。
ノアやランツ、ヨランにセナ。そして1つ年上の大学生、ミオ。
この中にいる誰かを頼ってしまおうか。
事情を話せば、きっと一晩くらい泊めてくれるはずだ。
けれど、ずっと友達の家に泊り続けるわけにはいかない。
アイオニオンにいた頃とは違い、この世界ではそれぞれ皆家族がいる。
きっと迷惑をかけるだろう。友達を頼るのは最終手段だ。
出来る限り自分の力で何とか解決の糸口を見つけたい。
今ある資金は叔母から投げ捨てられたこの5万と、元々バイトで貯金していた10万の計15万。
一晩ホテルで過ごすくらいの余裕はあるはずだ。
いつまでも絶望していても仕方ない。行動しなくては。
崩れ落ちそうになる自分に鞭を打ち、ユーニは電車を乗り継いで最寄りの繁華街へと向かった。
18時を過ぎれば、昼まで平穏だった繁華街は夜の顔を見せ始める。
道端には見るからにガラの悪そうな男女がたむろし、ぎらぎらとしたネオンが街を彩っていた。
そんな中を、ユーニはあてどなく歩いている。
先ほどから目に付いたビジネスホテルに片っ端から入っているが、どこも門前払い同然の対応をされてしまった。
どう見ても高校生であるユーニを見て、受付の人間は全員マニュアル通りの台詞を吐くのだ。
“親御さんの同意はありますか?同意を証明できるものが無ければ宿泊は出来ません”
血のつながった親はもうこの世にいない。
今まで保護者の役割を担っていた叔母はつい数十分前に自分を追い出した。
自分の身元を証明してくれそうな大人などどこにもいなかった。
宿泊を断られ続け、今日の行く当てがなくなったユーニはついに疲れ果て、建物の影でしゃがみ込んでしまう。
流石に歩き疲れた。どこかで休もうにも、休めそうな場所は見当たらない。
金曜の夜ということもあり漫画喫茶やカラオケはどこも満室で入れそうにない。
これ以上あてもなく街を歩き回るのは流石に無理がある。
正直あまりやりたくなかったが、やはり友達を頼るしか道は残されていないのかもしれない。
充電が少なくなったスマホを懐から取り出し、画面に視線を落とす。
誰を頼ろう。一番最初に思い浮かんだのはノアやランツの顔だったが、ミオやセナの存在が頭をよぎる。
こういう時に異性を頼るのはあまり気が進まない。ならばミオやセナを頼ろうか。
あの2人なら力になってくれそうだが、確実に迷惑がかかる。
今夜は凌げても、明日以降の居場所がない事実は変わらない。
友達を頼れば一時凌ぎにはなるだろうが、抜本的な解決にはつながらないだろう。
どうせ友達の家をローテーションで泊まり歩くことになる。そうなれば相手の家族にも嫌な顔をされるだろうし、最悪友人関係に亀裂が入る可能性もある。
それだけは避けたかった。
ノア、ランツ、ヨラン、ミオ、セナ、ゼオン。
スマホに登録されている友達一覧をスワイプしながら、ユーニは肩を落とした。
こういう時、タイオンがいてくれたら。
ユーニのスマホには、タイオンの名前だけがない。
アイオニオンで縁を結んだ人たちのほとんどは何かしらの形で再会が叶ったが、タイオンとだけは未だ再会できていない。
ノアやランツ、ミオやセナが同年代の学生として存在している以上、きっとタイオンもどこかの学校に通う学生なのだろうと踏んでいるが、中学にも高校にもその姿は見当たらなかった。
彼は頭脳派な参謀だったし、もしかすると他の進学校にいるのかもしれない。
そう思い、進学校に進んだ中学時代の友人たちに頼んで探してもらったが、はやり“タイオン”という名前の生徒はどこにもいなかった。
ノア達とは会えたのだから、きっといつか会える。
そう信じていたけれど、高校3年の5月になった今もその行方は分からない。
もし今、このスマホの中にタイオンの連絡先が入っていたのなら、迷わず助けを求めるだろう。
アイオニオンで命を預け合った彼なら、きっと何があろうと味方でいてくれる。隣に居てくれる。
けれど、この世界でユーニが築き上げた人間関係の中に、タイオンの姿はない。
タイオンに会いたい。会いたくてたまらない。
何処にいるんだよ。アタシを独りにするなよ。
孤独感にさいなまれたユーニは、トランクケースの前でしゃがみ込みながらうつむいた。
何処にいるかもわからない、そもそも存在しているかもわからない相手に助けを求めたって仕方ない。
そんなことは分かっているけれど、懇願せずにはいられなかった。
戦いの日々の中で、恐怖から自分を救い出してくれたのはいつだってタイオンの存在だった。
夢の中でしか会えない別世界の彼を、ユーニは恋しく思っていた。
「ねぇ君、大丈夫?」
トランクケースの前でしゃがみ込み、俯いている制服姿の女子高生は夜の繁華街で悪目立ちしてしまう。
案の定、見知らぬ若い男たち近づいてきた。
派手な髪色にピアスをじゃらじゃらつけたその男は、視線を上げたユーニの顔を確認した瞬間ニヤリと笑みを浮かべた。
「具合悪い?休憩できるとこ行く?俺出すよ。そこの路地裏にホテルあるからさぁ」
男が指さしたのは、薄暗い路地の先に見える煌びやかなラブホテル。
こちらの体調を心配する様子を見せてはいるが、男の下心は隠れていなかった。
この言葉に甘えた先に何が待っているのかは考えるまでもない。
そこまで墜ちたくはない。けれど、もはやこれしか道はないのかもしれない。
どのみち手元の15万では明日以降を生きていく当てがない。
生きるためには金が必要だ。
18歳になったばかりの自分が出来る手っ取り早い金稼ぎの方法は、まさにこれなのだろう。
友人に迷惑をかけるくらいなら、自分の身体を売ってでも生きていくしかない。
家族を失ったあの日から、自分の人生の末路は決まっていたのかもしれない。
腹をくくるときが来た。
ため息を1つ吐くと、ユーニはゆっくりと立ち上がる。
そんな彼女の行動を“OK”サインとみなした男は、またいやらしい笑みを浮かべなら腕を掴んできた。
「じゃあいこっか」
気持ち悪い。触るな。
そう怒鳴ってやりたかったが、明日を生きるためには仕方ない。
腕を引く男に従い、歩き出そうとするユーニ。
だが、俯く彼女の腕を掴んでいる男の浅黒い手首を、横から何者かが掴み上げた。
男は思わず“いてっ”と悲鳴を挙げながらユーニの腕を掴んでいた手を放してしまう。
視線を足元に落としていたユーニは、男の汚いスニーカーとは別に、綺麗な革靴がすぐ傍に立っていることに気が付いた。
別の男性のものだろう。
そしてその革靴の男性は、男の腕を掴んだまま口を開く。
「すまないが、人のツレに気安く声をかけないでもらえるか?」
その声を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。
記憶の奥底に眠るその声には聞き覚えがある。
けれど、そんなはずない。だって彼はいくら探してもいなかった。
あんなに必死で探して見つけられなかったのに、こんなところにいるはずない。
期待と不安に心を支配されながら恐る恐る顔を上げる。
目の前に立っていたその顔を確認し、ユーニの心がきゅうっと締め付けられた。
「待たせてすまない。大丈夫だったか?」
そう言って微笑みかけて来る彼の褐色の瞳は、あの頃と同じ色をしていた。
癖の強い髪、褐色の肌、すらりと高い背。眼鏡こそかけていないものの、それ以外は間違いなく“彼”の特徴と合致している。
そこに立っていたのは他でもない、あのタイオンだった。
Act.02 そばにいて
「待たせてすまない。大丈夫だったか?」
そう言ってこちらを見つめて来るその男性を前に、ユーニは言葉を失っていた。
アイオニオンの記憶を取り戻していなければ、親族のふりをしてこの状況から助けようとしてくれている親切な見知らぬサラリーマンにしか見えなかっただろう。
けれど、胸の奥に抱え込んでいるあの頃の記憶が告げている。
この男のことはよく知っている。初対面なんかじゃない。
だって、ずっとずっと会いたくてたまらなかった、たった一人の相方なのだから。
黒いスーツを身に纏い、この少しだけ汚い街に不似合いな綺麗な革靴を履き、機能性の高そうなスマートウォッチを腕にはめた“タイオン”の手が、先ほどまでユーニにまとわりついていた男の腕を強く掴んでいる。
そして、男に向かってつらつらと嘘を吐き始めた。
「すまないな。彼女は僕の妹なんだ。ちょっかいを出さないでもらえるか?」
「は?妹?」
「ここで待ち合わせていたんだ。悪いが他を当たってくれるか?それとも、僕とあそこで少し話でもするか?」
タイオンが指さしたのは、後方の駅前に建っている小さな交番。
引き戸になっている扉の前には、制服姿の警官が仁王立ちし街の治安を見守っている。
指さされたその光景にすべてを察した男は、タイオンから掴まれている腕を振り払い“チッ”と小さく舌打ちをすると、ズボンのポケットに手を突っ込みながら去っていく。
その背を呆れた目で見つめていたタイオンだったが、ため息を一つ吐いてこちらに目を向けてきた。
「君、未成年だろ?またあぁいうのに絡まれたくなければ早く帰りなさ……」
タイオンの気遣いに満ちたその言葉は、ユーニが突然胸板に飛び込んできたことで遮られてしまう。
出会ったばかりの女子高生が突然抱き着いてくれば、驚かない大人はいないだろう。
タイオンもまた例外ではなかった。
だが、ユーニにとって彼は“見知らぬ大人”などではない。
「ちょ、ちょっと、何を……」
「タイオン、会いたかった……っ」
ユーニの大きくて青い目から、ぽろぽろと涙が溢れ出る。
止めようにも止まらない。
目の前にいるタイオンは、あの頃のように眼鏡をかけていなかった。
けれど、どう見ても間違いなく彼はあのタイオンだ。
ずっと会いたかったその顔を見ていると、感情が波立って仕方ない。
だが、ラブホテルにほど近い夜の路地裏で制服姿の女子高生に抱き着かれているこの光景は、スーツを纏ったタイオンにとって非常に不都合なシチュエーションだった。
焦りを覚えた彼は、一歩後ずさりながら強引にユーニを身体から引きはがす。
「いきなり何なんだ!? というか、なんで僕の名前を……」
「知ってるに決まってる。アイオニオンでずっと一緒だったんだから」
「は?アイオニオン……?」
「ウロボロスとしてずっと一緒にやって来ただろ?何度もインタリンクしたじゃん!」
両腕を捕まえて詰め寄るユーニ。
彼女の言葉に一切のウソや妄想は入っていないが、タイオンには何も伝わっていないようだった。
恐らく、彼もノアやランツたちと同じようにアイオニオンでの記憶を持っていないのだろう。
そんな彼にとって、アイオニオンだのウロボロスだのと口にする目の前の女子高生は、妄想癖のある厄介な人物にしか見えていない。
これは面倒な子に関わってしまったな。
そんな考えを顔に滲ませながら、タイオンは困ったように眉をひそめた。
「……すまんが何を言っているのか分からない。とにかく帰りなさい。それじゃあ」
「えっ、ちょっと待てよ!」
早々に立ち去ろうとするタイオンの背に焦り、ユーニは反射的に彼の腕にしがみついた。
渾身の力で掴まれた腕の力によって、タイオンの足は止まる。
何年も探し回って、ようやく会えたのだ。
こんなに呆気なく別れるなんて出来るわけない。
ここで離れれば、きっともう二度と会えない。
なら、どんなに無様を晒したって、この細い繋がりを手放すわけにはいかなかった。
「タイオンの家どこ?泊らせて!!」
「はぁ?何言ってるんだ。帰れと言ってるだろ」
「帰るところなんてない!行くとこないんだよアタシは!」
「家出少女か……。悪いがこれ以上関わる義理はない。本当に困っているなら交番に行ってくれ」
「やだ!タイオンのところがいい!」
「“やだ”って……。勘弁してくれ。なんで僕が……」
「ホテルはどこも門前払いだった。このままじゃ公園かどっかで野宿するしかないんだよ!JKが野宿なんてしたら危ないだろ?アタシが今みたいな奴に襲われてもいいのかよ!?」
「……見知らぬ女子高生をそこまで心配できるほど、僕は親切じゃない」
「頼むよ。お礼なら何だってするから!」
ここでタイオンに見捨てられたら、きっと本当に終わりだ。
なんとしても拾ってもらう必要がある。
懇願しながらタイオンの手を握ると、彼は少し驚いたような顔をした後、すぐに表情に嫌悪を滲ませた。
そして、握られているユーニの手をそっと引きはがしにかかる。
「最初からそれが目的か」
「え?」
「所謂“パパ活”というやつだろ?家出少女が金銭欲しさに男と過ごすなんてありがちな話だ」
「はぁ?違うって!アタシはただ……」
「金と居場所が欲しいなら他を当たってくれ。未成年に手を出すほど僕は落ちぶれちゃいない」
客観的に見れば至極まっとうな判断だった。
女子高生に“何でもお礼をする”という条件の元迫られれば、想像する返礼などただ一つ。
未成年が金欲しさに年上の男性を誑かし、両者ともに甘い汁を啜っている事象は世間的にも問題になっている。
犯罪でしかないそんな行為に足を踏み入れるほど、タイオンは愚かではなかった。
助けを求めるユーニに背を向け歩き出すタイオン。
そんな彼の背を見つめながら、ユーニは大いに焦っていた。
まずい。このまま行かせたら、また会える保証なんてない。
タイオンとの繋がりを保持するためには、手段なんて選んでいられないのかもしれない。
去っていくタイオンは、スーツのポケットからスマホを取り出し画面を確認し始めた。
やるしかない。意を決し、ユーニはタイオンめがけて走り出す。
油断している彼からスマホを奪い取るなど、実に簡単なことだった。
「ちょっ、何を……」
「泊めてくれるって言うまで返してやらない」
「何言ってる!? 返しなさい!」
「じゃあ今夜泊めてくれる?」
「だから無理だと言ってるだろ」
「なら返さない」
「いい加減にしろ。返すんだ」
「嫌!」
頑なにスマホを返そうとしないユーニに、タイオンはついに強引な手段に出た。
手を伸ばし、スマホを奪おうとする彼だったが、何としても返したくないユーニはスマホを両手で胸に抱えみ背を向ける。
奪われたそのスマホは、仕事用のスマホだった。
同僚や取引先の個人情報が山ほど入っているそのスマホを、女子高生に奪われたままでいいわけがない。
何としても奪い返したいタイオンは、背を向けるユーニに覆いかぶさるように手を伸ばすが、胸元に隠されたスマホには惜しくも手が届かない。
「頼むから返してくれ!そのスマホは仕事用の……」
そこまで言いかけたところで、タイオンは自分へと突き刺さる痛々しい視線の数々に気付いてしまった。
ふと周囲に意識を向けると、通行人がチラチラとこちらに目を向けている。
縮こまる女子高生に後ろから覆いかぶさり、胸元に手を伸ばしているサラリーマンの姿はどう見ても普通ではない。
まずい。これでは未成年を襲っている卑劣な男にしか見えないじゃないか。
少し離れたところには交番もある。こんな様子を見られては、職務質問は免れない。
健全な社会人として、それだけは避けたい。
だが、彼女はスマホを一切返す気がないようだし、強引に奪い返すのは悪手かもしれない。
長期戦になるが、もはや対話でしかこの状況は打開できないだろう。
そう考えたタイオンは、不本意ながら伸ばしていた手を引っ込め、ため息交じりに口を開いた。
「あぁもう……仕方ないな」
「え、泊めてくれんの?」
「それは駄目だ。だが話くらいは聞いてやる」
そう言ってタイオンが指さしたのは、すぐ近くにあるカフェだった。
いくら家出少女とはいえ未成年を家に泊めるわけにはいかない。
近所の目もあるし、なにより未成年淫行を疑われて通報されたくはない。
落ち着いて話しを聞いてやることで、彼女が家に帰る決断を後押し出来れば万事解決するはず。
そんな思惑のもと提案したタイオンだったが、そんな彼の言葉はユーニにとっても都合が良かった。
彼を少しでも足止めできれば、繋がりを保持し続けられるかもしれない。
納得したユーニは、タイオンのスマホを握りしめたまま頷いた。
***
「アイオニオン……?ウロボロス……?」
「そう。アタシたちは相方同士だったんだよ」
夜のカフェはそれなりに混雑していたが、何とか二人分の席を確保することができた。
ユーニの前にはアイスティーが、タイオンの前にはアメリカンコーヒーが置かれている。
奢ってくれるというタイオンの言葉に甘え、ユーニは飲み物以外にもサイドメニューのサンドイッチを注文することにした。
思えば夕食もまだ食べていなかった。
空腹だった舌には、生ハムとマスカルポーネのサンドイッチは絶品に感じた。
もぐもぐとサンドイッチを味わいながら、ユーニはタイオンの質問に素直に答え続けている。
“何故僕の名前を知っていたんだ?”と問いかけられたので、何も隠すことなくアイオニオンでの出来事を話した。
当然と言うべきか、タイオンは並べ立てられる聞きなれない単語やファンタジックな話に終始ぽかんと口を開けていた。
そして、ゼットとの戦いの末にお互いの世界へと還った結末までを話し終えると、彼は頭を抱え始める。
「それは……、なにかの漫画や映画の話か?」
「違う違う。現実の話」
「馬鹿なことを言わないでくれ。オニオンだかなんだか知らないが、そんな奇怪な話が現実にあるわけがない」
「まぁ今のアタシたちが生きてる“この世界”の話じゃねぇからな。あと“オニオン”じゃなくて“アイオニオン”な」
タイオンは昔から現実的な性格だった。
自分の目で見ていないことを容易に信じられないのは当然のことかもしれない。
だが、どんなに疑われたところでこれは現実の話だ。
嘘でも妄想でも何でもない。
「ちょっと待て。君の話では、その“アイオニオン”とやらは最後ふたつに裂け、“元の世界”とやらに戻っていったのだろう?なら、今僕たちが一緒にいること自体がおかしいじゃないか。矛盾が生じている」
「そんな細かい事知らねぇよ。アタシは世界の神様でも何でもねぇんだから」
「随分と適当な設定だな」
「“設定”じゃねぇし。アレだろ?並行世界ってやつだろ、きっと」
「余計信じられるかそんないい加減な話」
足を組みなおしたタイオンは、椅子の背もたれに寄りかかりコーヒーのカップに口を着ける。
その一連の動作は、あの頃のタイオンと重なって見えた。
スーツを纏い、それなりに高そうな腕時計をしている今のタイオンは、どう見ても自分と同じ学生には思えない。
“未成年を泊めるわけにはいかない”と口にしていたということは、彼は成人済みなのだろう。
ノアやランツは同い年としてこの世界に存在していたし、きっとタイオンも近い年齢だろうと予想していたのだがどうやら外れていたらしい。
大人であることは間違いないが、一体いくつなんだろうか。
新入社員というには初々しさが足りない気がするが……。
そんなことを考えていると、コーヒーのカップをテーブルに戻したタイオンが再び口を開く。
「で、いつになったらスマホを返してくれるんだ?」
「泊めてくれるなら返すってば」
「だから何度も言ってるだろ。泊めるわけにはいかない。大人しく家に帰ったらどうだ?」
「やだ。帰るところなんてないし」
「家出状態を続けていてもいいことはないぞ?親御さんも心配しているはずだ」
「親なんていない。どっちも殺された」
「は?」
「10年前に強盗に入られて死んだ。だから心配してくれる親なんていない」
事実だけを口にすると、タイオンは気まずそうに目を伏せた。
“すまない”と謝りながら俯くタイオンに何も答えることなく、ユーニは食べていたサンドイッチを完食する。
親がいないことを秘密にしているつもりはない。
現に友人たちはみんな知っているし、あの理不尽な叔母と一緒に暮らしていることも知っている。
自分の現状を知っている人しか周りにいなかったから、今更こうして分かりやすく同情されるのは久しぶりだった。
「……なら、他に頼れる親族はいないのか?」
「母方の叔母がいるけど、今日突然追い出された」
「追い出された!?」
「元々18歳になったら出ていくって約束だったんだよ。まさか誕生日当日に追い出されるとは思ってなかったけど」
「今日誕生日なのか。それは災難だったな」
「そうでもねぇよ。ずっと会いたかった奴に会えたから」
そう言って微笑むと、怪訝な表情をしたタイオンと目が合った。
どう答えればいいか分からない。そんな顔だ。
「要するに、今タイオンから見捨てられたら、アタシはその辺の見知らぬ男を頼るしかないってわけ」
「だから僕に泊めろと?僕だってその“見知らぬ男”の一人だろ」
「タイオンはタイオンだろ。よく知ってる相手だよ」
「悪いがその妄言を信じる気はない。僕にとって君は“見知らぬ女子高生”だ。他人同然の未成年を家に泊めるなんてリスクしかない」
ぴしゃりと言い放たれた拒絶の言葉に、ガラにもなく傷ついてしまった。
タイオンは優しい男だった。けれどそれは打ち解けてからの話で、仲間になったばかりの頃は必要以上に尖っていたことを思い出してしまう。
警戒心が残る相手には、とことん自分の領域を冒されたくないタイプなのだろう。
今はそんな“彼らしさ”が切なかった。
受け入れてほしい相手に他人扱いされるなんて、傷付くに決まってる。
「ひでーなぁもう……」
「ご両親や親族がいないにしても、本当に身を寄せられる場所は一つもないのか?例えば、生前ご両親と一緒に暮らしていた家とか」
「まぁ、家はまだ残ってるけど……」
「誰も住んでいないのか?」
「一応な」
両親と一緒に暮らしていたあの家は、一括で購入した持ち家だった。
取り壊すにも高額な金がかかるため、今も事件があった当時のままそこに建っている。
片付ける人なんて誰もいなかったため、家具もそのままに残されているはずだ。
だが、叔母に引き取られて以来、あの家には帰っていない。
事件があった当時のまま時が止まったように変わらぬあの家に帰ってしまえば、あの夜のことを思い出してしまうような気がして。
「家の場所は?住所は覚えてるか?」
「覚えてるけど……。結構遠いし」
「そうか。なら車で行こう。すぐそこの駐車場に停めてあるから」
コーヒーを飲み干したタイオンは、家の存在を知るや否やすぐに立ち上がる。
まさかあの家に行く流れになるとは思わず、ユーニは驚いて顔を上げた。
「えっ、今から行くのかよ!?」
「当然だ。もう21時だぞ?もたもたしているとあっという間に深夜になってしまう」
「いやでも……」
正直、気は進まなかった。
あの家には誰も住んでいないし、ローンも残っていないため金銭的負担を負うことなく住むことが出来る。
けれど、あの家に帰ることは精神衛生上よくないような気がした。
俯き、迷っているユーニだったが、そんな彼女の油断を突きタイオンの手が伸びて来る。
無防備にテーブルに置かれた黒いタイオンのスマホが、持ち主によって奪い返されてしまう。
焦って手を伸ばしてももう遅い。
彼を繋ぎ留めるための保険として奪い取っていたスマホを失ったことで、ユーニは劣勢に立たされてしまった。
「君の事情は分かった。首を突っ込んでしまった以上責任は持つつもりだ。だが、うちに泊めてやることがその“責任”だとは思わない。一晩僕のもとに身を寄せたとして、それからどうするつもりだ?ずっとそのままでいるわけにはいかないだろ」
「それはそうだけど……」
「君に必要なのは一時の居場所じゃない。定住できる環境だ。出会ったばかりの男を頼ろうなんて思うな。月並みな言葉だが、もっと自分を大切にしてくれ」
その言葉は本心からくるものなのだろう。
だからこそ、これ以上突っぱねることは出来なかった。
こうしていつまでも纏わりついているのは迷惑なのだろう。
足掻いたところで、タイオンの心は変わらない。
それを察してしまったユーニは、青い瞳を伏せ頷くしかなかった。
***
かつて両親と一緒に暮らしていた家は、タイオンと出会った繁華街から車で20分ほどの距離にある。
駐車場に停めてあったタイオンの車に乗り込み、2人は一路その家へと向かった。
車の種類などよく知らないユーニだが、セダンタイプのその車はどこか高級感がある。
きっとそれなりの車なのだろう。
当然ながら、タイオンの運転する車の助手席に座るのは初めてである。
彼は数カ月間毎日寝食を共にした相方だ。彼の見たことない姿などないと思っていたが、流石に車を運転する姿を見たのは初めてだった。
例の家に到着したのは21時半。
住宅街の真ん中にあるその場所は、夜が訪れれば不気味なほど静かになる。
人通りも少なく、街灯の数も少ない。
子供の頃は何とも思わなかったけれど、今思えばこの異様なまでの静けさが強盗を呼び込んでしまったのかもしれない。
実家は事件があったあの日と何も変わっていなかった。
庭の雑草が無造作に生い茂っているところ以外はあの頃のまま。
まるでタイムスリップしたかのような感覚に陥り、ユーニは少しだけ足をすくませた。
「鍵は持っているのか?」
「えっ、あ、あぁ、一応……」
この家の鍵は、叔母の家の鍵と一緒に肌見放さず持ち歩いている。
2本しかない鍵束を手渡すと、タイオンは躊躇いなく車から降りた。
重くなる心を実感しながら、タイオンを追うように車から降りるユーニ。
庭先の門をくぐり、少しだけ古くなった扉にタイオンは鍵を突き刺した。
扉が開けられる。埃っぽさと一緒に眼前に広がったのは、10年前毎日目にしていた懐かしい玄関の間取り。
呆然とその光景を目にしていたユーニを置いて、タイオンはさっさと靴を脱ぎ中へと上がり込む。
「家具はそのままなんだな。好都合じゃないか。少し掃除すれば今すぐにでも住めるんじゃないか?」
廊下を進みリビングへと入ったタイオンは照明のスイッチを押してみたが、部屋が明るくなることはなかった。
どうやら電気は止められているらしい。10年間誰も住んでいなかったのだから無理もないだろう。
とはいえ、近くのコンビニでロウソクでも買えば一晩は過ごせるだろう。
電気の再開通はまた後日すればいい。
そんな現実的なことを考えながらリビングを見渡すタイオン。
だが、さっきから彼女が黙り続けていることに気が付いた。
ちゃんと話しを聞いているのだろうか。
怪訝に思い振り向くと、そこには真っ青な顔で廊下に立ち尽くす彼女の姿があった。
焦点の合わない目でリビングを呆然と見つめながら、切羽詰まった表情で小刻みに震えている。
その異様な様子に驚き、“どうした…?”と問いかけてみるが返事はない。
だが代わりに、彼女の息遣いがどんどん荒くなっていった。
首筋に汗をかき、胸元を押さえながらどんどん呼吸を乱していく。
やがて立っていられなくなったのか、彼女は真っ白な顔をしながらその場に座り込んでしまった。
「お、おい、大丈夫か?どうしたんだ!?」
「っ、っ、」
どうやら声が出せないらしい。
どんどん息は荒くなり、目を見開きながら苦しそうに胸元を押さえうずくまっている。
その症状を目の当たりにし、タイオンはハッとした。
まさか、過呼吸というというやつだろうか。
創作物等で触れたことはあったが、流石に目の前で発症の瞬間を目にするのは初めてだ。
どうしていいか分からず、“落ち着け”と声をかけながらうずくまる小さな背中を擦るしかなかった。
1分もしないうちに症状はどんどん悪化。
やがてユーニはまともに呼吸することが出来なくなり、酸素不足に陥った頭は次第に白んでいった。
「しっかりしろ!」
必死で声掛けを続けるタイオンの声にこたえることも出来ず、視界が暗くなっていく。
ユーニがその日最後に見た光景は、自分を見下ろしながら必死になっているタイオンの姿だった。
***
彼女が意識を失ってすぐ、タイオンは迅速に救急車を呼んだ。
夜間診察を行っている病院に緊急搬送され、診察に当たってくれていた中年の医者にタイオンは呼び出された。
彼女が過呼吸になった経緯と状況を話すと、医者は“恐らくですが”と前置きをしてから持論を語ってくれた。
タイオンも薄っすらそうじゃないかと予想していたが、医者から言われたことで予想が現実のものとなる。
あの家は彼女にとって実家でもあるが、家族が殺された現場でもある。
そんな場所に安易に連れて行ってしまったのが間違いだった。
何故もう少し配慮できなかったのか。
自分がこれ以上未成年に関わりたくないがために、強引に事を片付けようとしたせいだ。
両親を殺され、自分も殺されかけた経験は彼女の心に癒えない傷を作ってしまったに違いない。
それを慮ることなく、無遠慮に実家へ押し込めようとしてしまった自分に責任がある。
病院のベッドで眠ったまま目を覚まさまない彼女を前に、タイオンは自責の念にかられていた。
一時的に気を失っただけだからすぐに目を覚ますだろうと医者は言っていたが、大事を取って今日は一日入院したほうがいいとのこと。
“ご家族の方ですか?”と問いかけられたので否定すると、保護者に連絡を取って入院する旨を伝えてほしいと頼まれた。
と言っても彼女の保護者の連絡先は勿論、彼女自身の名前もまだ聞いていない。
何か情報はないだろうかと彼女の荷物を漁ってみた結果、学校の生徒手帳が見つかった。
そこには彼女の顔写真と個人情報が簡素に載っている。
「名前、“ユーニ”というのか……」
向こうはこちらの名前を知っているようだったが、当然タイオンの方は彼女の名前など知るわけもない。
アイオニオンがどうとかウロボロスがどうとか意味の分からないことを言っていたが、女子高生のそんな世迷言を信じられるほど、タイオンは浮世離れしていない。
彼女は何故、名乗ってもいない自分の名前を知っていたのだろう。
眠ったままのユーニに視線で問いかけてみるも、彼女は何も答えてはくれない。
幸いにも生徒手帳には保護者の連絡先が記載されていた。
恐らく、両親を失って以降身を寄せていたという叔母の番号だろう。
ユーニの病室を出て病棟の外へ出ると、タイオンは早速記載された番号へ電話をかけてみることにした。
時刻は22時過ぎ。知らない番号にかけるには遅い時間だが、事情が事情なだけに仕方ない。
もしかすると、叔母が迎えに来てユーニを引き取ってくれるかもしれない。
そんな期待もあった。
『……もしもし?』
「夜分遅くにすみません。ユーニさんの保護者の方の番号でしょうか?」
『はぁ』
「実は先ほど、ユーニさんが救急車で搬送されまして……。どうやら過呼吸を発症したようで」
『あぁそう』
電話に出たのはしゃがれ声の女性だった。
姪が救急車で搬送されたと聞いても一切驚くことなく、冷淡な返事を繰り返すばかりのその反応に少し違和感を感じてしまう。
普通少しは驚いたり心配するものじゃないのか。
まるで興味がないと言った風な女性の対応に嫌な予感を覚えつつ、タイオンは言葉を続けた。
「症状自体は軽いものだったようですが、大事を取って今夜は入院することになるようです。シティー中央病院なんですが、明日お迎えに来ていただけないでしょうか」
『はぁ?なんであたしが?』
「えっ。いや、ユーニさんのご家族なんですよね?」
『知りませんよあんな子。第一、18歳になったらうちを出ていくって約束だったんだ。あたしはもう保護者でも何でもないよ』
「本人が言っていましたが、血の繋がった叔母だと聞きました。帰る場所がないとも言っていましたし、せめて自立するまで気にかけてやってもらえませんか?」
『あんた何?あの子の彼氏か何か?』
「いえ、つい先ほど知り合ったばかりの人間ですが」
『だったら他人がとやかく言わないどくれ。あの子が倒れようが野垂れ死のうがあたしには関係ないね』
何を言おうが“関係ない”を貫くその冷酷な対応に、タイオンは眉をひそめた。
なるほど、彼女が“帰るところがない”と言っていた理由がよく分かった。
こんな冷たい人のところには帰りたくないだろう。追い出されたとも言っていたが、この人ならやりかねない。
「彼女は18歳とは言えまだ学生です。大人の助けなしでは生きられない年齢なんですよ?」
『そう思うならあんたが助けてやればいいじゃないか。18歳の女子高生を好き勝手出来るいい機会じゃないか』
「は?本気で言ってるんですか?」
『迷惑なら風俗でも紹介してやればいい。女なんだからいくらでも稼ぐ手段はあるだろ』
仮にも保護者だった人間の言い草とは思えなかった。
まだ18歳の女の子に、それも血の繋がった姪にそこまで冷酷になれるものなのか。
このまま理で説き伏せたり、警察や児童相談所への通報をほのめかせれば強引に納得させられる可能性はある。
だが、例えこの瞬間だけ首を縦に振らせても、きっとこの女はずっとこの冷酷な態度でユーニに接し続けることだろう。
こんな身勝手な大人に、ユーニを任せるわけにはいかない。
耳に押し当てられたスマホを強く握りしめながら、タイオンは怒りを滲ませた。
「もういい。貴方のような人に彼女は任せられない。今後一切ユーニに関わるな!」
こんなにも声を荒げたのは久しぶりだった。
乱暴に通話を切ると、余計に怒りがこみあげて来る。
自分はユーニの家族でも友人でもない。彼女の叔母に“関わるな”と啖呵を切れる立場ではないはずだが、それでも言わずにはいられなかった。
むかむかと怒りを抱えながら病棟の廊下を歩き、階段を上がって病室へと戻る。
扉を開けると、先ほどまで眠っていたはずのユーニの目が開いていた。
どうやら目を覚ましたらしい。
「置いて行かれたのかと思った」
病室に戻って来たタイオンを見るなり、彼女はかすれた声で言った。
不安に満ちた彼女の表情を見ていると、心が締め付けられる。
「君の叔母さんに電話していた。迎えに来れないかと」
「ふぅん。断っただろ、あいつ」
「……あぁ」
「だと思った」
特に驚くこともなく、傷付いたそぶりすら見せないユーニの反応は慣れきっていた。
きっと日常的に叔母からあんな扱いを受けていたのだろう。
あんな人しか頼れる人がいないという事実に、同情せざるを得なかった。
「すまなかった。君の気持ちも考えず、安易に家に連れ帰ったりして」
「いいって。タイオンのせいじゃない。アタシも事件以来あの家には帰ってなかったから、こんな風になると思ってなかったし」
「……」
「けど、分かっただろ?帰るところなんてないって言った意味が」
寂しげな笑みを浮かべるユーニに、なんと答えていいのか分からなかった。
両親を目の前で殺され、唯一の肉親である叔母からも邪険にされ、18歳の誕生日に突然住む場所を失った目の前の少女は、誰も頼れる大人がおらず夜の街を彷徨うしか生きる術がない。
ここで自分が見捨てれば、彼女はどうなってしまうのだろう。
行く当てのない少女が行きつく先など、容易に想像がついてしまう。
黙って視線を落としていると、背後にある病室の扉が静かに開いた。
廊下からこちらを覗き込んでいるのは、この病院の看護師である女性。
“そろそろお時間です”と促してくる彼女に返事をすると、タイオンは持っていたスマホをスーツのポケットに仕舞った。
この病院の面会時間はとっくの昔に過ぎている。
救急車で搬送されたユーニの付き添いだからここに居られたが、本来であればすぐに帰らなくてはならない。
「もういくの?」
「あぁ。入院費は置いていく。怖い思いをさせた詫びだ」
「別にいいのに。でも、ありがと」
本当は引き留めたかった。
せめて連絡先だけでも聞きたかった。
けれど、これ以上タイオンに頼るのはいけないような気がして、ユーニはそれ以上引き留めようとはしなかった。
ただでさえも強引に付き纏い、迷惑がられた末に過呼吸で倒れるという無様を晒したのだ。
これ以上付き纏って、タイオンに厄介者扱いされたくはない。
ここでタイオンを見送れば、きっと彼には一生会えないのだろう。
けれど、もういい。この世界に彼も存在しているのだと分かっただけで、今は満足だ。
縁があればきっといつか会える。そう信じて生きていくしかない。
瞳を揺らして天井を見つめるユーニの横顔を見ながら、タイオンは静かに息を吐いた。
18歳の見知らぬ女子高生に関わるなんて、デメリットしかない。
一歩間違えれば周囲に妙な勘違いをされて、たちまち不名誉な烙印をされるだろう。
どうせ相手は赤の他人。例え家族がいない子だろうが、頼れる相手がいない子だろうが、放っておけばいい。
けれど、どうにもその気になれないのは何故だろう。
他人の人生を易々と保証できるほど、自分は親切な人間じゃなかったハズなのに。
ここまで気にかけてしまうのは、ただの同情心のせいか、それとも——。
「生徒手帳から察するに、君が通っているのは公立の西高だな?」
「え?あぁ、そうだけど……」
「今まで通学時間はどれくらいだった?」
「徒歩15分くらい」
「そうか。電車通学になるが、それでもいいか?」
「へ?」
ベッドの脇に置かれた丸椅子に座ったまま、タイオンは足を組む。
キョトンとした表情で見つめてくるユーニは、彼は淡々と言葉を続けた。
「僕の家は西高からそれなりに離れているんだ。そこから通うとなると電車通学になると思うがそれでもいいか?」
「そ、それって……」
「で、いいのか?恐らく毎朝40分ほどかけて学校に通うことになるが」
「いい!全然いい!それくらい平気!てかいいの?あんなに嫌がってたのに……」
「今更遠慮か?行くあてがあるなら止めないが」
「そんなのない!タイオンのところがいい!」
「そうか。なら決まりだな」
タイオンのまさかの心変わりに、ユーニは驚きを隠せなかった。
何が彼の気を変えさせたのか分からないが、タイオンは自分を受け入れてくれるらしい。
こんなに嬉しいことはない。
もっと一緒にいてこれからのことを話したいけれど、面会時間をとっくに過ぎている今、これ以上彼はここにいてくれない。
帰り支度をして丸椅子から立ち上がったタイオンを、ユーニは思わず腕を掴んで引き留めてしまった。
「明日、ちゃんと迎えに来てくれる?」
不安げに揺れる瞳で見つめて来るユーニの視線に射抜かれながら、タイオンは一瞬言葉を詰まらせた。
この泣き出しそうな不安定な青い目を、遠い昔にも見たことがあるような気がしたのだ。
だが、きっと気のせいだろう。彼女とは今夜会ったばかりなのだから。
引き留める手をそっと引きはがすと、彼は囁くように呟いた。
「あぁ。約束する」
微笑むタイオンの言葉に不思議と心の不安が消え去っていく。
今夜初めて出会った男の言葉なんて普通は信じられないだろう。
けれど、相手がタイオンだからというだけで、無条件に信じてしまう。
彼は嘘を吐くような人間じゃない。それをよく知っているから、今は安心できた。
そっと手を放すと、タイオンは“それじゃあまた明日”とだけ告げて去っていく。
タイオンが出て行った後の病室はやけに静かだった。
けれど、この心臓はどうにも高鳴って騒がしい。
今日は最悪の誕生日だった。家を追い出されるわ、妙な男にホテルに連れ込まれそうになるわ、過呼吸で倒れるわ。
けれど、タイオンとの出会いが最悪な誕生日を最高の誕生日に変えてくれた。
このまま一生会えないと思っていたが、まさかこんな形で出会えるなんて。
それに、一緒に住むことになるなんて。
明日が楽しみでたまらない。
こんな気持ちになるのは、生まれてはじめてだった。
Act.03 懐かしい顔
タイオンの眼鏡のレンズにひびが入ったのは、コロニーミューに滞在していた時のことだった。
ミューで飼育されていたアルマたちの世話に駆り出された男性陣が、装備を泥だらけにしながら夕方ごろ帰って来た。
どうやらアルマたちが大暴れして、抑え込むのに随分と苦労したらしい。
とりわけタイオンの被害は大きく、戦術士の白い装備が真っ黒になっていたうえ、かけていた眼鏡が無残に壊れていた。
仕方なく同行していたノポン、リクに眼鏡の修理を依頼したのだが、治るのに5日はかかるという。
眼鏡が無ければまともに戦闘にも出られない。
参謀であるタイオンを欠いた状態で動き回るわけにもいかず、一行は暫くミューへの滞在を余儀なくされた。
その間、タイオンは裸眼で生活していたのだが、何をするにも苦戦していたあの時の彼の様子は、今も鮮明に思い出せる。
「眼鏡が無いと大変そうだな」
野外食堂にてしかめっ面で昼食をとっているタイオンの隣に腰掛けそう呟くと、彼は不満そうに眉間にしわを寄せていた。
「他人事だと思って……」
「他人事だし」
「何をするにもぼやけた視界のせいで上手くいかないこのジレンマが君に分かるか」
「分かんない」
「はぁ……」
わざとらしいため息を一つ零し、ミュー名物であるニニンパイをナイフとフォークで食べ進めようとするタイオン。
しかし、よく見えないせいなのか、皿の上に鎮座しているパイにフォークを突き刺してもぽろぽろと簡単に崩れ、中身が零れてしまっている。
先ほどから険しい顔をしていたのは、この繰り返しでイライラしていたからなのだろう。
ただでさえ視界がぼやけているのに、比較的食べにくいニニンパイが名物であるこのミューの食事は今のタイオンにとって絶望的に相性が悪い。
少々哀れに思ったユーニは、タイオンからナイフとフォークを奪い取ると、器用にパイを突き刺し彼の口元に差し出した。
「はい」
「え?」
「食わせてやるよ。食べにくかったんだろ?」
「い、いや、そこまで困ってない!介助みたいな真似はやめてくれ」
「なんだよ。せっかくこのアタシが気を利かせて助けてやろうってのに。大人しく甘えとけよ。ほら、あーん」
「んぐっ」
有無を言わさず、タイオンの口にパイを押し付ける。
観念した彼はようやく口を開いてパイを咀嚼し始めたが、まだどこか不満げだ。
「うまい?」
「……まぁ、うん」
味に対しては随分素直な感想を口にしているくせに、顔は素直とは言い難かった。
目を逸らし、不満げな顔をしている割に耳が赤くなっている。
照れ屋な彼の赤面した姿は、旅を始めて以降何度も見てきた。
この顔を見るたび、もっと揶揄ってやりたくなってしまう。
指先でつんつんしながら冗談を言うたび、面白いほどいい反応をしてくれるタイオンを揶揄うのが好きだった。
眼鏡をかけていなかったあの時のタイオンは、見慣れていないせいかどこか他人に見えた。
けれど、この赤面した顔を見るたび、あぁやっぱり間違いなくタイオンなのだと思い知る。
そして安心してしまうのだ。手を延ばせば届く距離に、彼がいてくれる事実に。
***
タイオンは約束通り翌朝迎えに来てくれた。
昨晩と違ってスーツじゃなく私服姿だったのは、今日が土曜日だからだろう。
流石に休みの日に制服を着るのは可笑しい気がしたので、ユーニも荷物から私服を引っ張り出して着替えていた。
退院の手続きを済ませ、駐車場に停めてあるタイオンの車へと乗り込む。
車は昨日と同じ黒のセダンだった。
昨日叔母の家から持ち出したトランクケースを後部座席に詰め込み、2人は運転席と助手席に乗り込む。
シートベルトを絞めながら“好きなアーティストはいるか?”と急に聞かれ、最近SNSで流行りだしている男女混合バンドの名前を上げると、首を傾げながら“すまん知らない”と言われた。
どうやらこちらの好きなアーティストの曲を車内でかけようとしてくれたようだが、ユーニが挙げたバンドの楽曲はタイオンのプレイリストに入っていなかったらしい。
“なんでもいいよ”と言うと、彼は適当に曲を選んで流し始めた。
やがて車が発進し、病院の駐車場を出る。
車のスピーカーから流れてきたのは、10年くらい前に流行ったシンガーソングライターの曲。
随分古い曲をかけるんだな。
素直にそう口にすると、タイオンは苦笑いを浮かべながら“僕にとっては最近だ”と言った。
「タイオンってさ、何歳なの?あっ、待って当てるわ。うーんとね、23歳?」
「残念」
「えー、違う?じゃあ24?」
「28だ」
「えっ」
「正確に言うと今年で29歳だ」
流石に予想外の回答だった。
ノアやランツをはじめとする他のウロボロスの面々は、みんな同世代としてこの世界に存在している。
だからきっとタイオンも、スーツを着ているとはいえ20代前半あたりだろうと思っていた。
だが、まさか10歳も年上だったとは。
曲のチョイスが10年前のセンスだったのも頷ける。
「もっと下だと思ってた」
「それはどうも。アラサーにとってはこれ以上ない誉め言葉だ」
タイオン自らの口から出た“アラサー”という言葉に、急に距離を感じてしまった。
出会った直後、あんなに“未成年がどうの”と理由をつけて距離を取りたがっていたのは、彼が10歳も年上だったからなのかもしれない。
思えば、今この世界に存在しているタイオンのことは名前と年齢以外何も知らない。
どんな仕事をしているのか、どんな生活をしているのか、どんなものが好きなのか、家族はいるのか、友達は多いのか、そして、彼女はいるのか。
ふと隣の運転席を見てみると、そこには眼鏡をかけていないタイオンの顔がある。
アイオニオンでは視力が弱いがゆえに眼鏡がないとまともに生活できなかったはずだが、この世界のタイオンは目が悪くないのだろうか。
ハンドルを握る彼の手には、昨日と同じスマートウォッチがつけられている。
便利でスタイリッシュだと評判なその時計は、それなりに値段も張るはずだ。
車も飛びぬけて高いわけではないだろうが、安物には思えない。
そもそも出会ったばかりの女子高生を家に居候させようという判断が出来るということは、それなりに経済力はあるのだろう。
運転は非常に丁寧で、まるでタクシー運転手に運転してもらっているかのよう。
車内には装飾品や無駄なものが一切なく、汚れや埃も見当たらない。
車独特の妙な匂いもしない。煙草の匂いもしない。きっと非喫煙者なのだろう。
見本品のように整った車の中の様子から察するに、彼の几帳面かつ真面目な性格は変わっていないらしい。
知りたいことは山ほどある。聞きたいことだってたくさんある。
どこまで踏み込んでいいのか分からなかったが、とりあえず一番知りたいことだけをストレートに聞いてみることにした。
「ねぇ、彼女いる?」
「いたら女子高生を居候させようなんて思わないだろ」
「じゃあいないんだ?」
「あぁ」
「そっか。よかった」
自然と出た感想だった。
素直すぎるその一言を言い放った瞬間、タイオンは一瞬だけこちらに視線を向けすぐに前へ向き直る。
その薄い反応に、少しだけ寂しくなってしまった。
昔の、アイオニオン似た頃のタイオンなら、少し赤くなりながら動揺していたに違いない。
けれど今のタイオンは、あの頃のタイオンとは別人。
同じ顔、同じ名前、同じ声であっても、別の世界に生きる別人なのだ。
何もかも同じなわけがない。それは分かっているはずなのに、いちいちあの頃のタイオンと重ねてしまっている自分が嫌だった。
***
到着したのは、駅前に建っているファミリー向けの大きなマンションだった。
マンション住人専有の駐車場に車を停め、タイオンに案内されるがままに中へと入る。
トランクケースはタイオンが持ってくれていた。
さりげない気遣いに礼を言うと、“あぁ”と随分簡素な返事だけが返って来る。
タイオンの部屋は9階にあった。中に入ると、玄関から芳香剤のいい香りがふわっと漂ってきた。
「お邪魔します」
小さく呟いて中に入る。
間取りは3LDK。ファミリーで住むには普通だが、独身の男が1人で住むにはかなり広めだ。
リビングには大きなソファがひとつとローテーブル。
奥には食卓があるが、テレビが見当たらなかった。
キッチンは違和感を覚えるほど綺麗で、使用の痕跡が全くない。
あまり自炊をするタイプじゃないのかもしれない。
そう言えば、アイオニオンにいた頃のタイオンは料理が苦手だった。
この世界での彼もそうなのだろうか。
「結構片付いてるのな。他に一緒に住んでる人は?」
「いない。僕一人だ」
「ふぅん」
洗面所を覗いてみると、コップに立てかけられた歯ブラシが一本だけ蛇口の傍に置かれていた。
見えている棚には男物のワックスやジェル、シェーバーやメンズ用化粧水が置かれている。
女ものの美容品は一つも見当たらない。彼女がいないというのは本当だったらしい。
「アタシはどこで寝ればいいの?」
「予備の布団がある。リビングに敷くからそこで寝てくれ」
「ベッドは?」
「僕が使う」
「えー」
「“えー”じゃない。居候なんだから我慢してくれ」
「アタシベッドじゃないと寝れないタイプなんだよなぁ」
「知らん」
「一緒に寝ればよくね?」
半分冗談、半分本気な提案だった。
少しだけ揶揄ってみれば、前みたいに少し動揺して赤くなってくれるんじゃないかと思って。
けれどタイオンは、照れもしなければ動揺するそぶりも見せず、代わりに呆れたように一つため息を吐くと食卓を指さし“座りなさい”と指示してきた。
まるで親が子に命じるかのような口調だ。
子供扱いされているようで少し苛立ったが、居候を許してもらった身の上で生意気なことは言えない。
素直に従って食卓に着くと、タイオンもまた正面の席に腰掛けた。
「いいか。君を引き取ったのは事実だが無償で面倒を見る気はない。寝床と食事を提供する代わりに対価は払ってもらう」
「あー、もしかして身体で払え的な?」
「その通りだ」
余りにもあっけなく認めてきたタイオンに、ユーニは思わず目を見開いた。
相手はあのタイオンだ。正直嫌ではないが、彼がそれを望んでいるとは到底思えない。
すると案の定、彼は“勘違いしないでくれ”とため息交じりに呟き腕を組んだ。
「“肉体労働で払え”という意味だ。この家にいる間は、炊事洗濯掃除に買い出し、すべての家事を担ってもらう」
「ハウスキーパー的なことをしろってこと?」
「そうだ。だがそれでは行く当てのない君にとって抜本的な解決にならない。だからこちらも家事に対する相応の対価を払う。給料としてな」
「えっ、マジで?」
思わず身を乗り出して聞き返すユーニ。
興奮気味な彼女に対し、タイオンは淡々とした態度を貫いていた。
ポケットから私物のスマホを取り出し、電卓アプリを開いた状態でテーブルに乗せる。
そして、給料の内訳を話しながらスマホの電卓をたたき始めた。
「家事は常時発生するものだから時給換算が難しい。なので成果報酬ということで月18万の固定給にしよう」
「18万!? えっ、そんなに貰っていいの?」
「話しは最後まで聞いてくれ。ここから家賃として4万天引きさせてもらう」
「えっ」
「さらに食費として1万。光熱費として5千円。さらに君を引き取った僕への定額謝礼として4万5千引かせてもらう。すべて差し引くと合計が……」
タイオンの手によってたたき出された金額が、スマホに表示される。
金額はちょうど10万。随分と色々な名目で天引きされたが、家事をするだけで月に10万も手に入ると思えば非常に恵まれた環境である。
驚き言葉を失っていると、タイオンから更なる説明があった。
「これに加えていくつか条件がある。まず君の身を預かる以上非行は許さない。門限は夜9時だ。そしてバイトも禁止。金銭欲しさに妙なバイトに手を出されたら困るからな。そして学業も疎かにしないこと。テストがあるたび全てチェックさせてもらう。全教科平均点以上は必須だ。この条件、飲めるか?」
「全然平気!全然余裕!守れる!約束する!」
つらつら挙げられた条件は、教育ママが指定してきそうな厳しいものばかりだった。
だが、今のユーニには楽に守れそうな条件ばかり。
月に10万ももらえるならバイトの必要もないし、そもそも家事を担当するのだから遅くまで遊び歩いている時間は最初からないだろう。
勉強に関しても元々成績は悪くないため、全教科平均点以上獲得することはそこまで難しくはない。
あってないような条件を聞き流しながら、ユーニは目を輝かせ食卓から立ち上がる。
そして、タイオンの隣にそそくさと移動すると、彼の手を両手で握り込み褐色の瞳を真っすぐ見つめた。
「ホントにありがとう!タイオンは命の恩人だわ」
何の淀みもない素直な気持ちをぶつけたつもりだった。
けれど、両手を握り至近距離で見つめて来るユーニの行動に一切の照れも動揺も見せず、タイオンは彼女の手を掴み返してそっと放させる。
まるで“それ以上近づくな”とでも言いたげな対応だった。
「それと、一番重要なことだが、ここで面倒を見るのは君が高校を卒業するまでだ」
「えっ」
「高校を卒業してからは自立してもらう。今は5月だから、今から月10万の給料を貯金すれば卒業までにそれなりの金額になるはずだ。その資金は引っ越し費用に充ててくれ」
高校生に与えるにしては多すぎる給料の理由がようやくわかってしまった。
なるほど、これは自立を支援するための金額か。
住むところを提供されたとして、一定の金額を溜めなければ一生タイオンのもとで世話になる羽目になってしまう。
それでは抜本的な解決にはつながらない。
現実的なタイオンらしい考えである。
正直、卒業と同時にタイオンの元から去らなければならない事実は寂しいが、1年近く一緒に居られるだけましなのかもしれない。
最後に提示された条件にも頷いたことで、2人の契約は完了する。
こうして、18歳になったばかりの女子高生、ユーニは、28歳になっていたかつての相方、タイオンの元に身を寄せることとなった。
彼はアイオニオンにいた頃とは少し違う。
あの頃のように容易に赤面することもなければ、動揺することもない。眼鏡すらかけていない。
“タイオン”であって“タイオン”でない彼と、これからどんな距離感で接していくべきなのだろう。
記憶の中にいる彼よりも少し大人びているタイオンの横顔を盗み見つつ、ユーニは大きな期待と小さな不安を抱くのだった。
***
タイオンの家に引き取られた初日はあっという間に時間が過ぎて行った。
叔母の家から持って来た荷物を解き、家具や家電の使い方を一通りレクチャーされているうちにあっという間に夜がやって来る。
家事を担うのは明日からでいいそうなので、今日は何も作業をしていない。
夕食は出前を取った。
好きなものを食べていいと言うのでピザを選ぶと、少し苦い顔をされたが何も言わず注文してくれた。
ピザが届くまでの間、タイオンは“少し出掛けて来る”と言い残し家を出て行ってしまった。
“少し”と宣言した通り、10分もしないうちに帰って来たが、恐らくは近くのコンビニに行っていたのだろう。
タイオンが帰宅してすぐ、ピザも到着した。
注文したのはマルゲリータと照り焼きチキンピザ。
常に金欠だった叔母の元で育てられたユーニにとって、Mサイズのピザ2枚はご馳走以外の何物でもなかった。
目を輝かせながらピザにがっつくつゆーにを見つめながら、タイオンはあっけに取られてしまう。
そんなにお腹がすいていたのか、と。
2人でピザ2枚とサイドメニューのポテトは流石に多かったかと後悔していたタイオンが、どうやらそんなこともなかったらしい。
エンジン全開でがっつくユーニのおかげで、ピザもポテトもあっという間になくなってしまった。
女子とはいえ10代の若い胃袋は偉大である。
たっぷりのチーズで若干胃もたれ思想になっている自分との差を感じ、タイオンは少しだけ悲しくなった。
「ふひー、食った食ったァ、マジお腹いっぱい」
「それはなにより」
こんなご馳走をたらふく食べたのは久しぶりだった。
いつも食事は家計を気にして質素なもの作っていなかった。
食卓に良く並んでいた食材と言えば、もやしと豆苗、それに豆腐ばかり。
今夜の食事は、ユーニにとって家族を失って以来久しぶりの贅沢だった。
せっかくのご馳走を残すわけにはいかない。
次から次へと口へ運んでいった結果、これ以上ないほど満腹になってしまった。
満足げに顔を綻ばせているユーニの正面に腰掛けていたタイオンは、空になったピザの箱を食卓から持ち出すと、そのままキッチンへ引っ込む。
恐らく後片付けをしようとしているのだろう。
手伝うため立ち上がろうとした瞬間、冷蔵庫を開けたタイオンが声をかけて来る。
「そんなに満腹ならいらないか」
「え?何が?」
「デザート」
冷蔵庫からタイオンが取り出したのは、大き目のプリンアラモードだった。
恐らく先ほど出かけたコンビニで買ってきてくれたのだろう。
“新発売”と書かれたシールが貼られているそのプリンは、やたらと美味しそうに見えた。
「えっなにそれ。そんなの買ってきてくれたの?」
「あぁ。昨日誕生日だったんだろ?」
どうやら誕生日ケーキの代わりに買ってきてくれたらしい。
1日遅れだが、その気遣いが心から嬉しかった。
“満腹ならやめておくか?”とプリンを冷蔵庫に戻そうとするタイオンの手を止め、“食べるっ!”とプリンに飛びついた。
デザートは別腹だとよく言うが、まさにその通りである。
あんなに満腹だったのに美味しく食べられるのは、きっとタイオンがわざわざ買ってきてくれたものだからだろう。
「ん~うまっ。世界で一番美味い」
「たかが390円のプリンだぞ?大袈裟だな」
「美味さは値段で決まらねぇんだよ。タイオンがくれたからこんなに美味いんだって!」
素直にお礼の気持ちを口にした瞬間、正面に腰掛け缶コーヒーを飲んでいたタイオンは目を伏せた。
そして小さくため息を吐くと、手に持っていた缶コーヒーをテーブルの上に乗せ見つめ返してくる。
「分かっているとは思うが、親族でも何でもない僕が君のような女子高生と一つ屋根の下一緒に暮らしているこの光景は、第三者目線では異様に映るだろう。妙な勘違いをされないためにも、他人には従兄妹として偽るように」
「別にいいけど、なんで従兄妹?兄妹でもよくね?」
「僕に妹がいない事実を知っている人間もいる。そういう相手のことを考えると、従兄妹の方が信憑性がある」
「なるほどな」
手元のプリンはあっという間に完食していた。
空になったプリンの容器とスプーンをテーブルに置くと、ユーニは両手で頬杖を突きながらタイオンに微笑みかける。
「じゃ、仲良し従兄妹を演じるとしますか。なっ、タイオン?」
悪戯な笑みだった。
こちらの出方を伺うようなその態度に、タイオンは再び目を伏せる。
最近の女子高生はどうにもませている。
年上の男は皆魅力的に見える年頃なのだろう。
だが、彼女は分かっていない。
その無邪気で無遠慮な態度が、こちらの社会的地位を貶める可能性があることに。
子供の無自覚と純粋さは時に残酷だ。
悪いが、若い彼女の一時の“遊び”に付き合うつもりはない。
10歳も年下の“お子様”は、そもそも対象外なのだから。
「本当に分かっているのか……?」
独り言のように呟かれたタイオンのその言葉に、ユーニは返事をする代わりにまたニッコリと微笑むのだった。
***
“風呂、先にいいぞ”
そんなタイオンの言葉に甘え、ユーニは彼より先に風呂に入ることにした。
叔母の家の風呂に比べて随分と綺麗な浴室は、掃除が行き届いている。
彼の車に乗った時にも感じたが、恐らくタイオンは相当な綺麗好きなのだろう。
アイオニオンで一緒に旅をしていた頃も、服が汚れるとすぐに洗濯したがっていた。
そういう細かいところで共通点を見つけるたび、喜びを感じてしまう。
熱いシャワーを浴びながら考えることは、やはりタイオンのことばかり。
彼はあの頃よりも身長が少し高い。
アイオニオンの頃は隣に立てば簡単に視線が交わったのに、今では随分と見上げないと視線が合わないくなっている。
タイオンの身長が高くなっているのもあるが、きっと自分の身長もあの頃より少し小さくなっているのだろう。
年齢だけじゃなく、身長すらも大きな差が生まれている事実に切なくなる。
今のタイオンは、ユーニがよく知るあの頃のタイオンと違って“大人”だ。
照れることも動揺することもない。
どこか距離を感じるこの関係性は、再会する前に理想としていた距離感とは程遠い。
タイオンが自分と同じようにアイオニオンの記憶を取り戻してくれたなら、状況も少し変わるのかもしれないが。
ノアやランツたちが記憶を取り戻す気配がないように、きっとタイオンの記憶も戻ることはないのだろう。
思い出してくれさえすれば、きっとあの頃のように戻れるのに。
そこまで考えてハッとした。
タイオンとより近付きたいと思っている自分の存在に気付いてしまう。
そうか。やっぱり自分は、タイオンのことが未だに好きなんだ。
改めて実感するこの気持ちは、容赦なくユーニの心を締め付けてしまう。
この気持ちを馬鹿正直に伝えたところで、きっと彼は受け入れてくれないのだろう。
悲しい結果を容易に想像できるのが、たまらなく切なかった。
入浴を終え、タオルとドライヤーで髪を乾かし着替えを始める。
叔母に勝手に詰められた荷物には、部屋着が入っていなかった。
それを話すと、タイオンは自分の部屋着を快く貸してくれたわけだが、当然サイズはかなり大きかった。
袖も裾もあまりまくっているグレーのスウェットは、柔軟剤のいい匂いがする。
このぶかぶか加減が、まるで“彼シャツ感”があって胸がときめく。
こんなに簡単なことで胸を躍らせている自分に少し呆れつつ脱衣所を出ると、リビングのソファに腰掛けているタイオンの姿が視界に飛び込んできた。
「あっ……」
足を組みながらソファに腰掛け、目を伏せながら文庫本を読んでいるその姿には既視感があった。
あぁやって一人で読書にふけっている様子は、夜の休息地や旅の途中で立ち寄ったコロニーの天幕。そしてシティーの寄宿舎で良く見た姿だ。
こんなに懐かしい気持ちになるのは、先ほどまで裸眼だった彼が黒縁の眼鏡をかけているせいだろう。
あの頃のタイオンとは別人だと思っていたけれど、こうして眼鏡をかけている姿を見ていると、やはり彼は“タイオン”そのものなのだと思い知る。
頭からバスタオルを被りながらその場で立ち尽くし、じっと見つめて来るユーニの存在に気付いたらしく、タイオンは視線を寄越しながら首をかしげていた。
「なんだ?幽霊でも見たような顔をして」
「あ、いや……。なんか、懐かしいなって」
「懐かしい?」
不思議そうな顔をするタイオンに近付き、すぐ隣に腰を下ろす。
本に視線を落としたまま目を伏せているタイオンの横顔をじっと見つめると、やはり大人びたその顔にあの頃の面影がちらついている。
やっぱりタイオンだ。あの頃のタイオンが、目の前にいる。
懐かしさで泣きそうになったユーニだったが、涙が流れないように懸命にこらえることにした。
眼鏡姿を見て急に泣き出すなんて不気味だろうし、身に覚えのない記憶を引き合いにさめざめしく泣くような女は、今のタイオンの好みじゃないような気がして。
「眼鏡かけてたんだ」
「家でだけな。外ではコンタクトだ」
「なんで?」
「“なんで”と言われても。その方が楽だから」
「アタシ、眼鏡かけてる方が好き」
ページをめくろうとしたタイオンの手が一瞬だけぴたりと止まる。
けれど、すぐにその指先はいつも通り動き出し、文庫本の薄いページをめくった。
“それはどうも”と取り留めのない返事をするタイオンの心が分からない。
あの頃はインタリンクという手段があったおかげか、タイオンの気持ちなんて手に取るようにわかった。
だが今は、どんなに見つめても靄がかかったようにその心が掴めない。
もっと近付きたいのに、薄い壁に阻まれているかのようだ。
隣に居ながらも、タイオンという存在は手の届かない遥か遠くにあるような気がした。
Act.04 変わらない香り
枕元に置いたスマホのアラームで目が覚める。
微睡んだ目でディスプレイを確認すると、時刻は6時半を示していた。
アラームを止めて起き上がり、自分が横になっていた布団を畳んでリビングのクローゼットへ戻す。
カーテンを開けて室内に日の光を入れると、ようやく眠気が覚めてきた。
今日は月曜日。タイオンの家で暮らすようになって、初めての平日である。
昨日まではタイオンもユーニも用事がなかったのでずっと2人きりでこの家にいたが、今日はそういうわけにはいかない。
この家で厄介になる代わりにすべての家事を負担するという約束を果たすべく、今朝はいつもより早く起きたのだ。
身支度をある程度整えると、髪を結びキッチンに立つ。
6枚切りのパンを2枚取り出し、バターを塗ってオーブントースターに入れる。
パンを焼いている間に、冷蔵庫から取り出したベーコンと卵を焼き、塩と胡椒で味を着ける。
一連の流れは叔母の家にいるときとほとんど変わらなかった。
変わっているところがあるとすれば、使っている家電や食材が、叔母の家に置いてあったものとは比べ物にならないくらい豪華だというところだろうか。
今パンを焼いているトーストは、よくテレビの家電特集で取り上げられているお洒落で機能性の高い最新式の機種だし、フライパンも焦げ付きにくいと有名な取っ手が取れるタイプの便利なものだ。
冷蔵庫の品は勝手に使っていいと許可をもらっている。
バターは海外製の高価なものだったし、ベーコンに関しても肉厚で随分高そうだった。
前々から思っていたが、タイオンはそれなりに経済力があるのだろう。
どんな仕事をしているのか聞いてみたが、所謂システムエンジニアと呼ばれる職種らしい。
給料が高い分、なかなかの激務で帰りが夜遅くなることも頻繁にあるのだという。
だからこそ、家事手伝いを頼める存在が前々から欲しかったのだそうだ。
タイオンのそんな言葉は、ユーニのやる気に火を着けた。
ただ相手に寄りかかるだけの関係は嫌だった。
世話になるのなら、ちゃんと役に立ちたい。
幸い、叔母にこき使われていたおかげで家事は一通り問題なくこなせる。
むしろこの家にある最新式の家具家電を使って家事が出来ると思えば、一切苦痛には感じなかった。
トースターに放り込んだパンが焼き上がったと同時に、寝室からタイオンが出てきた。
元々癖の強い髪にさらに寝ぐせを着けた彼は、眼鏡姿のまま眠そうな顔でよたよた歩いている。
「あ、タイオンおはよ」
「あぁ、早いな」
「今日からアタシも学校だからな」
あくびを零しながら彼は洗面所へと入っていった。
その間に、焼き上がったパンにフライパンで火を入れたベーコンと卵焼きを乗せる。
サラダと一緒に食卓に出し、ついでに沸かしておいた湯でホットコーヒーを淹れる。
今のタイオンの味覚は知らないが、アイオニオンにいるときは根っからの甘党だった。
きっと甘い方が好きだろうと予想を立て、ミルクと砂糖を少し多めに入れてみた。
これで朝食の用意は完了だが、まだキッチンでやることが残っている。
棚から取り出したのは、昨日駅前の雑貨屋に行って買ってきた二つの弁当箱。
1つは黒くて少し大きいタイオン用の弁当で、もう一つは同じデザインで一回りサイズが小さいユーニ用の弁当箱である。
これに昨日の晩御飯の残りを詰めていると、いつの間にかスーツに着替えたタイオンがリビングに戻って来た。
ワイシャツ姿にネクタイを締めた彼は、袖のボタンを閉めながら食卓に着く。
先ほどまで寝ぐせで暴れていた髪はまともになっており、ついでに眼鏡も外している。
あーあ、眼鏡の方が好きなのに。そんなことを考えながら、先ほど淹れたコーヒーを差し出すと、“ありがとう”と素直に礼を言ってくれた。
やがて弁当の準備が終わり、ユーニも食卓に着く。
どうやらタイオンはこちらの準備が終わるまで待っていてくれたらしく、ユーニが食卓に着いたことでようやく朝食に手を付け始めた。
「今日は何時に出るんだ?」
「電車で40分くらいかかるから、7時半過ぎくらいかな。タイオンは?」
「8時くらいだな」
「じゃあアタシの方が早いのか」
こうして一緒に食卓に座り、朝食を共にしているとなんだか結婚したみたいだ。
こんなことを口にすればタイオンは迷惑がるのだろうが、長年探し求めてきたタイオンと時間を共有できていることが嬉しくてたまらない。
この家にはテレビがないため、2人の間に会話が生まれなければ必然的に室内が静かになってしまう。
必要以上に言葉を交わそうとしないタイオンとの距離感を測りながらの朝食は、ほんの10分程度で終わりを告げた。
そろそろ家を出る時間だ。
制服に着替え、髪を整えると、ユーニは冷蔵庫に仕舞っておいた2つの弁当箱を取り出し大きい方を食卓に腰掛けているタイオンへと差し出した。
「これは?」
「弁当。昨日の残り物詰めただけのやつだけど」
「ありがたいが、弁当作りまで頼んだ記憶はないぞ?」
「いいじゃん別に。人の厚意はありがたく受け取っとくもんだぜ?」
「まぁ、それは確かに。ありがたく受け取っておく」
保冷袋に入れられた弁当を受け取ったタイオンに、ユーニは内心ほくそえむ。
愛妻弁当を押し付けることに成功した今の彼女は、実に上機嫌である。
床に置いていた皮鞄を肩にかけ、明るい髪を耳に掛ける。
食卓に腰掛け、スマホで朝のニュースをチェックしているタイオンの横顔めがけて顔を近付ける。
唇が彼の頬に触れる直前、タイオンの右手がユーニの額を押さえ込む。
ペシンと小気味よい音を立て強制的にバリアを張られたことで、ユーニはむっと膨れ上がった。
「なにしてる?」
「“行ってきます”のちゅー」
「怒るぞ」
「なんだよぉ、冗談じゃん。そんなに睨まなくたってよくね?」
本気の拒絶は流石に傷付くものがある。
アイオニオンにいた頃のタイオンなら、真っ赤になって動揺してくれただろうに。
一抹の寂しさを抱きながら玄関に向かうと、背後から“車に気を付けるんだぞ”と声をかけられる。
明らかに子供扱いとしか思えないその言葉にさらに腹が立ち、ユーニは返事をせず出ていくのだった。
***
元々住んでいた叔母の家から学校までは徒歩で通える距離だったが、タイオンの家からは電車で通わなければならなくなった。
定期代はタイオンが出してくれている。
家事をする必要があるお陰で早起きしなければならなくなったが、金銭的な負担は一切ないため文句はなかった。
通学の時間が長くなっただけで、学校内での学生生活に関しては特に変わりない。
いつも通りノアやランツ、ヨランと楽しい時間を過ごし、眠気に負けそうになりながら授業を受け、そして昼休みには昼食をとる。
変わったことと言えば、いつもは安い菓子パンを買って食べていた昼食の内容が、今日からタイオンとおそろいの弁当になったことくらいだろう。
今頃タイオンは、会社で自分とおそろいの弁当を広げて食べているのだろうか。
そう思うと、心がウサギのように跳ね上がった。
自然と鼻歌を歌いながら自席で弁当を突いていると、背後からやって来たノアに声をかけられた。
「あれ?ユーニ、何書いてるんだ?“住所変更届”……?」
「あぁ、アタシ引越ししたからさ」
「引越し!?」
弁当をつつきながら、ユーニは右手で1枚の紙と向き合っていた。
“住所変更届”と一番上に大きく書かれたその書類は、文字通り住む場所が変わったことを学校側に知らせるものである。
担任のアシェラに引っ越ししたことを伝えると、“じゃあこれを書いておくように”と渡された。
引越しした事実をさらりと口にしたユーニに、ノアは当然ながら驚きを隠せなかった。
目を見開き、空いている前の席に腰掛け問いかけて来る。
「叔母さんの家出たのか?いつ?」
「金曜日。ちょっと遠くなったけど、あのボロ屋よりは断然快適」
「誰かと住んでるんだよな?」
「あー、うん。まぁ」
「誰と?」
「……従兄妹、かな」
タイオンは自分との関係を“従兄妹だと偽ろう”と提案してきた。
相手は親友のノアだ。正直に言っても良かったが、“街中でたまたま出会った見知らぬ男と住むことになった”と言えば流石に心配されるだろう。
厄介なことになることを恐れ、タイオンからの命令通り従兄妹と住んでいることにした。
「従兄妹?そんなのいたのか」
「うん、いたみたい。家事を負担する条件で家に置いてくれるって」
「そうか。ちなみにその従兄妹って、女の人だよな?」
「いや、男」
「えぇっ、大丈夫か?従兄妹とはいえ男の家に2人きりなんて」
端から見れば至極当然の反応だろう。
だが、残念ながらタイオンに手を出される心配はない。
彼は悲しいほどに常識的な人間で、モラルに反するようなことはしない。
女子高生に手を出すようなことは決してないだろう。
それはユーニにとって安心するよりも落胆の方が大きい事実だった。
“そういう奴じゃないから”と言って目を伏せるが、ノアはあまり納得がいっていないようだった。
複雑そうな顔をしながら、ユーニがペンを走らせている“住所変更届”に視線を落とす。
「ユーニ、何かあれば言ってくれよ?出来る限り力になるから」
「おっ、マジで?じゃあ明日から卒業まで昼飯奢ってもらおうかな」
「うっ、それは……」
「あははっ、嘘だって。大丈夫だよ、心配すんなって」
この世界のノアは、アイオニオンで縁を結んだノアと変わりなく優しい男だった。
困っている人間がいると、外聞など気にすることなく無償で手を差し伸べられる。
そんなノアは当然ながら同世代の女子によくモテていた。
彼には一つ年上の大学生であるミオという彼女がいるが、その存在を知らず彼にもうアプローチをかけ、玉砕していく女子たちを今まで何人も見てきた。
可哀そうだとは思うが、やはりアイオニオンで深い仲だったミオとの繋がりは、この世界でも変わりなく強固なものなのだろう。
ランツとセナに関しても、この世界では交際関係にある。
4人ともあの世界での記憶を持っていないはずなのに、彼らは自然と惹かれあっていた。
この不思議な引力にはきっと逆らえない。
ノアやミオ、ランツやセナのように、自分とタイオンとの間にも、その不思議な引力は働いているのだろうか。
出会えただけで嬉しい、なんて欲のないことは言えそうにない。
本当はもっと深い仲になりたい。自分にとってタイオンが唯一無二の存在であるように、タイオンにとっての自分もそうでありたい。
10歳も年上のタイオン相手にそんなことを考えてしまうなんて、自分はワガママなのだろうか。
***
タイオンが務めている企業は、IT業界でも名の知れた上場企業である。
若くして主任の地位に就任した彼は、同じ年に入社した同期たちの中で一番出世が早かった。
大きなプロジェクトをいくつか任された経験のおかげもあって、同年代の平均年収よりは幾分か多く貰っている。
見知らぬ女子高生を気前よく自宅で養う決心がついたのも、経済力にそれなりの余裕があったから。
散財するほどの趣味もなく、貢ぐ相手もいないおかげで貯金は有り余っている。
溜まる一方であるこの金で、身寄りのない一人の少女を救えるなら決して無駄とは言えないだろう。
仕事で帰りが遅くなりがちな身からすれば、家事を全て担ってくれる存在が家にいるのはありがたい。
弁当まで作ってくれたのは予想外だったが、昼休みになるたびエレベーターで1階に降りコンビニやカフェに入る手間が省けるため便利だ。
仕事に一区切りついたところで、今朝ユーニから手渡された弁当を鞄から取り出した。
コーヒーメーカーや常設の菓子類が置かれているマルチスペースで、弁当をレンジに放り込み温める。
中身は恐らく昨日の残り物だろう。
彼女は今時の女子高生には珍しく家庭的な一面がある。
叔母と一緒に暮らしていた時、押し付けられるようにこなしていたという家事の経験からくるスキルだろう。
温め終えた弁当箱をレンジから取り出し、自席に持って帰る。
さて食べようと弁当箱の蓋を開けた瞬間、視界に入って来た内容物を見て一瞬心臓が止まりかけた。
左側には鶏のから揚げと卵焼き、ほうれん草の胡麻和えとウインナー。
そして右側には白米が詰められているが、白い米の上には大きなハートの形をした桜でんぶがふんだんに散りばめられていた。
「お、美味そうだな」
背後から声がかかる。
その特徴的な低く響くような声で正体が一瞬で分かった。
上司である部長のイスルギだ。
声をかけられた瞬間、肩を震わせながら勢いよく弁当箱の蓋を閉めるが、どうやら手遅れだったらしい。
急いで弁当を隠したタイオンの行動にケタケタと笑いながら、イスルギは肩に手を置いてきた。
「そう照れるな。彼女に作ってもらったのか?健気でいいじゃないか」
「ち、違います。そんなんじゃありません」
「うん?そうなのか?なら自分で作ったのか?」
「い、いや……」
流石にハート型の桜でんぶを散りばめた弁当を自作するような変人には見られたくない。
かといって、家で面倒を見ている女子高生が作ったものだとは言えるわけがない。
彼女が出来たことにしてもいいが、その正体がまだ十代の女子高生である背景を考えればその案も受けれ難い。
ユーニと約束した通り従兄妹が作ったことにするべきか。
だが、従兄妹相手にハートの弁当を作るというのもいささか違和感がある。
どう答えるべきか迷っていると、タイオンの返答を待たずしてイスルギは口を開いた。
「まぁいいじゃないか。今時愛妻弁当を作ってくれる愛情深い人なんてなかなかいないぞ?大切にな」
イスルギは勘違いしたままにこやかに去っていった。
あれは自分に彼女がいると思い込んでいるに違いない。
いちいち訂正するのも可笑しいし、もう仕方ない。
イスルギは先日、同じくこの会社に所属していた女性と結婚したばかりである。
彼女はイスルギとの結婚を機に寿退社し、3か月後に挙式を控えている。
新婚まっただ中な彼は、部下であるタイオンの幸せを純粋に喜んでいるのだろう。
残念ながら彼とユーニはそういう仲ではないのだが。
ハートの桜でんぶが散りばめられた弁当を再び覗き込む。
どう見ても彼女や妻が作る愛妻弁のビジュアルをしている。
こんな可愛らしい弁当を会社で堂々と食べられるわけがないじゃないか。
ユーニめ、こんなデザインにしたのはわざとか?
何かの拍子で女子高生がうちにいる事実が周りに露見したらどうしてくれる。
その瞬間、この身には社会的な死が降りかかることだろう。
それは何としても避けなければならない。
弁当を作ってくれたありがたさと厄介な見た目に飾り立ててくれた腹立たしさを噛みしめながら、タイオンはため息交じりに弁当に手を付け始めるのだった。
***
その晩、タイオンが帰宅したのは20時を回ってからだった。
先に夕食を済ませていたユーニは、タイオンから帰宅する旨のメッセージを受け取った後、作った手料理を急いで温め直し始める。
帰宅したタイオンは随分と疲れている様子だった。
システムエンジニアが激務であるというのは本当だったらしい。
腕時計を外し、ネクタイを緩めるその仕草にちょっとした色気を感じてしまう。
働く男が疲れた顔をしながら武装解除していくさまは、まだ十代のユーニには何となくかっこよく見えるのだ。
コンタクトを外して眼鏡をかけ、部屋着に着替え直したタイオンは息を吐きながら食卓に着く。
温め直した夕食の皿を差し出すと、“ありがとう”と小さく礼を口にして手を付け始めた。
タイオンは食事をとるとき、いつも姿勢正しくゆっくり上品な所作を忘れない。
その折り目正しい手つきは、アイオニオンにいた彼と一切変わらない。
そんなタイオンを、正面の席に腰掛け両手で頬杖を突きながら観察する。
じーっと見つめていると、ユーニの蒼い目線が気になったのか眉間にしわを寄せながらこちらに目を向けてきた。
「なんだ?」
「おいしい?」
「あぁ」
「弁当食べた?」
「あぁ」
「美味かった?」
「美味かったが、明日からは作らなくて大丈夫だ」
「え?なんで?」
意味が分からず首を傾げながら聞き返すと、タイオンはため息をつきながら箸を置く。
なにか畏まった様子で両手を膝の上に置いたタイオンは、少し怒っている様子だった。
「いいか。何度も言っているが僕と君は従兄妹という設定だ。そんな子がハートの桜でんぶを乗せた弁当を作るのはおかしいだろ」
「えー、可愛いじゃん」
「可愛いとか可愛くないとかそういう問題じゃない。僕を社会的に殺す気か」
「じゃあ彼女ってことにすればよくね?」
「女子高生の彼女を作る趣味はない」
目を伏せながらきっぱり断言してきたタイオンの言葉は、あまりにも残酷だった。
希望を持たせない明確な態度は大人としては正解なのかもしれないが、ユーニという一人の少女の心を傷つけるには十分な威力を発揮してしまう。
そんなにばっさり言い切ることないじゃないか。
むっとしながら抗議の目線を送ってみるが、タイオンはそれ以上何も言わなかった。
一瞬だけこちらをちらっと見た彼だったが、フォローの言葉も撤回の言葉も何もくれない。
大人というのは時に正しさを優先させるために他人を傷つけることがある。
まだ十代のユーニには、タイオンの正しさからくる行動を“仕方ない”と割り切れるだけの度量はなかった。
***
耳をつんざくような爆音と、鼻をつく硝煙の匂いがする。
重たいエーテル銃を両手に抱えながら走る荒野は、砂ぼこりと火花が舞い散り、目の前の視界を塞いでしまう。
夢中で駆け抜けているうちに、後ろからついて来ていたはずの仲間たちは1人もいなくなっていた。
背後でそびえたっている巨大な鉄巨神は、つい先日黄金の名を拝したばかりである。
数々の鉄巨神やレウニスを屠って来た黄金の鉄巨神は、不気味な巨体をしたバケモノによっていとも簡単に破壊されてしまう。
もはや勝敗は決した。この戦場に勝機などどこにもない。
一瞬にして灰となった味方のレウニスの群れを前に立ち尽くしていると、すぐ眼の前に見慣れない巨体がドスンと着地した。
その瞬間、地面が僅かに揺れる。
紫色の不気味な光を放つその目を真っすぐ見つめながら、何も抵抗できず命が消えるその瞬間を予感する。
眉間めがけて迫りくる鋭い爪に怯えるこの光景は、いつの時代も脳裏に焼き付いて離れそうにない。
「っ!」
敷布団から飛び上がるように起きると、真っ暗なリビングが視界に飛び込んでくる。
ただの夢だと理解した瞬間安堵したが、乱れた息はなかなか整わない。
胸に手を当て必死に落ち着かせようとしても、心臓がバクバクと高鳴って仕方ない。
今まで何度この悪夢に苦しめられたことだろう。
あの不気味なまなざしに射抜かれ、苦しみながら死んだ夢は、アイオニオンで旅をしていた頃からこの心を蝕んでいる。
あの時、自分の命を奪ったのも、この世界で自分の家族を奪ったのも、あの“ディルク”という男だった。
自分はどの世界にいても、どんな生き方をしていても、あの男の存在に苦しめられるのが定めなのかもしれない。
背中にじんわりと嫌な汗をかいている。
ここにはもう、ディルクはいない。それは分かっているが、胸に襲い来る大きな孤独感や恐怖感は消えそうになかった。
暗いリビングで、たった一人きりで眠るのは怖い。
またあの夢を見るかもしれない。もしくは、家族を殺された時の夢を見てしまうかも。
どうにも恐ろしくなったユーニは、枕を抱えながらそっと布団から立ち上がる。
リビングを出て向かう先は、タイオンが眠っている寝室。
そっと扉を開けると、布団をかぶって眠っているタイオンの姿がそこにあった。
安らかに眠っているその横顔を見ていると、ひどく安心する。
じっと見つめていると、その視線に勘付いたのかタイオンは目を閉じたまま口を開いた。
「……なんだ?」
「一緒に寝ていい?」
「駄目だ」
「頼むよ」
「駄目なものは駄目だ」
「お願い」
懇願しても、タイオンの気が変わることはなかった。
それでも一人きりで眠るのは嫌だ。
何度も頼み込んでいるうちに、タイオンは深くため息をつきながらその褐色の目を開いてこちらを見つめて来る。
「安易に男と一緒に寝ようとするな。少しは危機感を持ってくれ」
「タイオンなら別にいい」
「あのな……」
タイオンは呆れているようだったが、当のユーニとしては至極真剣だった。
彼は10歳という年の差に壁を作っているようだったが、ユーニの気持ちを阻む理由にはならない。
この世界では大人と子供でも、アイオニオンでは対等な関係だった。
今この瞬間も、心の均衡がとれたイーブンな関係になりたい。
けれどそれは無理なのだろう。今の2人は、ユーニからの視線ばかりが熱を持ち、気持ちの大きさは明らかに釣り合いが取れていないのだから。
タイオンの言葉を聞くことなくベッドの縁に腰掛ける。
“おい”と咎める声がしたが、聞こえないふりをした。
「嫌な夢見たんだ。だから一人で寝たくない」
「……」
「今夜だけでいいから。お願い」
背中を向けたままお願いすると、彼はまた背後でため息を吐く。
「心が昂っているんだろう。気持ちを落ち着かせれば一人でも寝れるはずだ」
「落ち着かせられないから頼んでるんだろ?」
「仕方ないな」
ようやく一緒に寝てくれる気になったのだろうか。
期待を込めて振り向くが、タイオンはこちらの期待に反してそっとベッドから起き上がった。
ベッドを抜け出し寝室を出ると、彼はあくびをしながらリビングの方へと歩いて行く。
遠くの方でリビング明かりがつく気配がする。廊下の向こうがぽうっと明るくなったと同時に、ユーニもその背を追って寝室を出た。
リビングの方へ覗き込むと、キッチンに立っているタイオンの姿を見つけた。
「なにしてんの?」
「ハーブティーを淹れてやる」
「えっ」
「ハーブティーには心を落ち着かせる効果があるからな。嫌いか?」
「全然。すき!大好き!」
「そうか」
タイオンが棚から取り出したのは、ローズマリーのハーブだった。
アイオニオンにいた頃、彼が淹れるハーブティーには何度も助けられた。
まさかこの世界でもタイオンのハーブティーを口にできるなんて。
慣れた手つきでお茶を用意するタイオンの動きを横で観察しながら、ユーニは余計に心を躍らせていた。
やがて、スイッチがONになっていた電子ポッドからことことと音が聞こえて来る。
ポッドの小さな画面に表示されているデジタル式の温度表示が100℃になる直前、タイオンはスイッチを切る。
沸騰直前で止められた熱湯をティーパックが入ったカップにゆっくりと注ぐ。
そのひとつひとつの手つきが、なんだか懐かしかった。
「なんで沸騰する前にスイッチ切るの?」
「沸騰直前のお湯を使う方が美味く仕上がるからな」
その答えは、ずっと昔にタイオンから聞いた答えそのままだった。
あぁ、やっぱりタイオンはタイオンなんだ。
別の人生を生きているけれど、彼は間違いなく、あの時ハーブティーを差し出してくれたあのタイオンなんだ。
沸騰前のお湯のように、心がじんわり熱くなる。
やがて、タイオンの手によって淹れられたハーブティーが完成する。
キッチンに二人並んで立ったまま、差し出されたお茶のカップに口を着けた。
舌馴染みがあるのはセリオスアネモネのハーブティーだが、今目の前で香っているのはローズマリーの香りである。
味や香りは違えど、このハーブティーもとても美味しかった。
温かい風味を舌で味わうと、タイオンの思惑通り心がすっと落ち着いてゆく。
胸に渦巻く悪いものが浄化されていくような、そんな不思議な感覚だ。
味も香りも全然違うのに、どこか懐かしい。
「やっぱり美味いな、タイオンのお茶は」
「君にハーブティーを振舞ったのは初めてだったと思うが?」
「前にも飲んだことあるよ。あの時も悪夢を見た夜だった」
「またあの空想の話か?」
「現実だよ。アタシにとってはな」
長い睫毛が生えそろった目を伏せ、ユーニは再びカップに口を着ける。
そのどこか儚げな横顔を見つめていると、タイオンの胸に妙な感覚が芽生え始めた。
遠い昔、この横顔を見たことがあるような気がする。
そんなわけない。彼女とはつい先日出会ったばかりだ。
ユーニの話す現実離れした空想話に毒されてしまったのかもしれない。
ハーブティーをやけに美味そうに飲んでいる彼女の横顔を見つめながら、タイオンはこの不思議な感覚から目を逸らした。
結局、2人が一緒の床で眠ることはなかった。
ハーブティーで幾分か落ち着きを取り戻したユーニは、タイオンに促されるままに1人でリビングに敷かれた布団で横になる。
リビングを出ていこうとするタイオンの背に“おやすみ”と声をかけると、彼は足を止め振り返る。
“おやすみ”と返事をする彼は、柔い微笑みを向けてきた。
この世界で再会した今のタイオンが、そんな風に優しく微笑む瞬間を始めて目にした気がする。
その笑顔は少しだけ大人びていたけれど、あの頃のタイオンそのままだった。
Act.05 青臭い価値観
タイオンの仕事はそれなりに忙しいらしく、終電近くに帰ってくることも多かった。
夕飯は作り置きしてもらえれば自分で温めるから気を遣わなくていいと言われていたが、本当は一緒に食べたい。
遅くまで起きて待ってみるけれど、結局眠くなっていつも寝落ちしていしまう
そんな生活のせいで、ユーニがまともにタイオンの顔を見れるのは学校に行く前の朝くらいだった。
一緒に住んでいるにも関わらず、同じ時間を共有できる機会はあまりにも少ない。
ユーニがタイオンの家に居座り始めて2か月ほどが経過したある日のこと。
その日は珍しくタイオンの仕事が休みで、1日中家で暇を持て余しているようだったから買い物に付き合ってもらうことにした。
最初は“デートがしたい”と強請ってみたけれど、普通に却下された。
だから苦し紛れに“日用品の買い出しに付き合ってほしい”と言い分を変えると、タイオンは渋々首を縦に振った。
ただの買い出しとはいえ、休みの日にタイオンと一緒に外へ出かけられる貴重な機会であることに変わりはない。
行く先は近くの商店街だが、ある意味デートのようなものだ。
上機嫌で足取りも軽いユーニとは対照的に、隣を歩くタイオンはどこか呆れた様子を見せていた。
「シャンプー、洗顔、柔軟剤……。ほかに必要なものはあるのか?」
「いや、これで全部だな。付き合ってくれてありがとな、タイオン」
「まぁ、家事を任せているとはいえ僕の家のことだしな」
基本、日用品や食品の買い出しは家から徒歩10分圏内の商店街に行っている。
屋根付きのアーケード街であるその商店街は、古めかしい雑貨屋やチェーンの薬局、スーパーなど、いろいろな店が軒を連ねている。
薬局のビニール袋を互いに片手にぶら下げながら並んで歩くふたりは、事前に記しておいた買い物メモに視線を落としていた。
ユーニの右手にぶら下がっているビニール袋にはシャンプーや洗顔など軽いものしか入っていないが、タイオンが持っているほうのビニールには洗濯洗剤や柔軟剤、飲み物のペットボトルなど重いものばかり入っている。
自然と重いほうのビニール袋を持ってくれたのは、タイオンの優しさからくる行動だろう。
こういうさりげない優しさを忘れないところは、昔から変わっていない。
「あれ、タイオン君?」
不意に、正面から歩いてきた見知らぬ女性に声をかけられた。
といっても、名前を呼ばれたのはユーニのほうではなく、隣を歩いていたタイオンのほう。
無言で顔を上げたタイオンは、真正面に立っていたその女性の姿に一瞬驚いたように目を見開き固まった。
きっと顔見知りなのだろう。それも、ただの知り合いとは思えない。
一瞬にして気まずそうな顔をしたタイオンの表情が、その事実を物語っていた。
「久しぶりだね」
「あぁ……」
「タイオン君も買い物?」
「まぁな」
「そっか。家、この辺だったもんね」
穏やかに笑うその女性は、誰がどう見ても清楚な人だった。
ミディアムロングの黒髪に、白く透き通った肌。
ミモレ丈のスカートに白のカットソーを身に纏ったその恰好からも、品の良さが伝わってくる。
年齢はおそらく20代中ごろ。タイオンよりは年下だろうが、ユーニよりは断然大人だ。
そんなザ・清楚な女性は、タイオンの隣に立っているユーニへ一瞬だけ視線を送ると、不思議そうな顔で問いかけてくる。
「そちらの子は?妹さん?」
「いや、従妹だ。しばらくうちに滞在することになってな」
「そうなんだ。タイオン君にこんなに可愛い従妹がいたなんて知らなかった。女子高生たぶらかしてるのかと思って不安になっちゃった」
「僕がそんな人でなしに見えるか?」
「まじめ風な人ほど裏の顔があるってよく言うでしょ?」
「おい」
「ふふふっ、冗談冗談」
タイオンとその女性は、随分と打ち解けているように見えた。
二人を取り巻く空気が、どうも大人びているように感じる。
ただの知り合いとは言い難い空気感に、なんだかモヤモヤしてしまう。
「じゃあ、もうタイオン君の家では会えそうにないね。また今度飲みに誘ってね」
「あぁ。機会があればな」
「あー、それ絶対誘ってくれないやつだ」
清楚な笑顔を絶やさず、件の女性は“それじゃあ”と手を振りながら去っていった。
妙に引っかかる会話だ。
あのいい方から察するに、あの女性はタイオンの家に来たことがあるということだろう。
子供ならともかく、一人暮らしの男の家に同世代の女が遊びに行くなんて、何もなかったとは思えない。
去っていく女性の背中を横目で見送ると、じっとタイオンを睨み上げる。
その視線に気まずさを覚えたのか、タイオンはこちらを一切見ようとはせず眼鏡を押し上げながら再び歩き始めた。
あの目は間違いない。絶対あの女と何かあったんだ。
「なぁおい。アタシになんか言うことねぇの?」
「ない」
「あるだろ。言い訳しろよ。あの人はただの同僚なんだ!とか、ただの友達なんだ!とか」
「そういう無駄な嘘はつかない主義だ。それに君に言い訳をする理由もない」
「んだよそれ。じゃああの女はお前の何なんだよ!? 嘘つく気がないなら正直に答えろって」
「以前のプロジェクトで一緒になった協業他社の担当者だ。何度か一緒に飲んだことがある」
「ホントにそれだけ?」
「……」
「タイオン!」
足早に前へ前へと歩みを進めるタイオンの服の袖を引っ張り、強引に気を引こうとするユーニに、彼は深くため息をついた。
そしてようやく足を止め、こちらを振り返ることなく気怠そうに真実を教えてくれる。
「一度だけうちで飲んだ時、そういう流れになった。付き合ってはいない。その夜だけのことだ」
その口から淡々と語られる真実は、ユーニの心を容赦なく傷付ける。
いわゆる“ワンナイト”と呼ばれる関係が世の中にはあるという事実は知っていた。
けれど、アイオニオン時代の記憶を保持しているとはいえまだ10代のユーニには、そんな大人のインモラルな関係はやけに汚らわしく感じられた。
見知らぬ誰かの話だったなら普通に聞き流せたのかもしれない。
あの真面目で堅物だったタイオンが相手だったからこそ余計に受け入れがたかった。
「はぁ?なにそれワンナイトってこと!? 最低!無理!キモイ!なんでそんなことしたんだよ!」
「なんでと言われても」
「あの人のこと好きだったの?付き合いたかったけどフラれたの?」
「いや別に。ただ向こうがその気で、僕も悪い気はしなかったから乗っただけだ」
「それって結局好きでも何でもない奴とヤッたってことだろ!? 信じらんねぇ!アタシの知ってるタイオンはそんなことするような奴じゃなかったのに!」
聞きたくなかった。
タイオンがほかの女と。自分以外の女とそんなことしてたなんて。
言い知れぬ嫌悪感と怒りが湧き上がってくる。
無遠慮にその感情をタイオンの背中にぶつけると、少し苛立ったのか鋭い視線を向けてくるタイオンと目が合った。
「あのな、僕はもう30近い大人だぞ?君たち10代の青臭い価値観を押し付けないでくれ」
「でも……!」
「それとな、君の中にある空想上の“タイオン”と僕を一緒にされても困る。君の理想から外れていたからと言って、文句を言われる筋合いはない」
あまりにも冷たい言葉だった。
まるで“子供のお前には大人である自分のことなどわかるはずもない”と突き放されているかのよう。
確かに、ユーニとタイオンの年齢には開きがある。
アイオニオンにいたころのように同い年だったなら、もっと分かり合えたのだろうか。
好きでもない人と体を重ねるのは、大人として普通のことなの?
よくあることなの?非難されるようなことじゃないの?
だとしたら、大人という生き物はなんて汚いのだろう。
そんな汚い世界に、あの清廉潔白だったタイオンも足を踏み入れているということか。
だとしたら、大人の世界を汚いと思ってしまう自分には、どう頑張ってもタイオンの隣に立つ資格なんて手に入らないのかもしれない。
生まれた年が10年違うというだけで、こんなにも価値観や考え方に相違が生まれてしまうなんて。
この先、10年という開きはどんなに時がたとうとも埋まることはない。
自分とタイオンの心の距離も、このまま埋まることなく平行線をたどる羽目になるのだろうか。
そう思うと、たまらなく怖くなった。
***
オフィスのレンジで温めた弁当を取り出し、たまには外で食べようと近くの公園のベンチに腰掛け蓋を開けた瞬間、思考が停止した。
いつもは色とりどりのおかずが詰まっているはずなのに、今日は黒一色。
弁当にぎっしりつまった一面の白米のうえに、ひじきだけが敷き詰められている。
あまりにも色味のない、まるで嫌がらせのような弁当の内容に、タイオンは思わず息を吐く。
いや、“まるで”もなにもこれはれっきとした嫌がらせなのだろう。
喧嘩をした夫に弁当で抗議する新妻のような行動は、正直困ってしまう。
心当たりはある。
昨日の日曜日、ユーニとちょっとしたぶつかり合いがあった。
以前同じプロジェクトを任されていた協業他社の担当者と久しぶりに再会したのだが、彼女と一夜を共にした過去があることを打ち明けたところ癇癪を起されたのである。
正直、このぶつかり合いはタイオンにとってそこまで大事とは思っていなかった。
だが、1時間たっても半日たっても1日たっても、ユーニの機嫌は一向に直らない。
むくれた顔で視線を逸らし、話しかけても完全に無視。
約束通り家事はこなしているものの、必要最低限のコミュニケーション以外は断絶されている状態だ。
いつか時間が解決してくれるだろうと思っていたが、どうやらこれは長期戦になりそうだ。
件の女性と夜を過ごしたのは、もう3か月以上前のことで、あの日以降全く連絡を取っていなかった。
彼女は別にこちらに好意があったわけではない。おそらくお互いに“なくはない相手”だったというだけのことだ。
その場の流れでそうなったわけだが、あの夜のことは特に後悔していない。
自分に交際相手はいなかったし、相手もフリーだったことは事前に確認してあった。
同意の上での行為だったし、きちんと避妊だってした。
大人が自ら責任をもって決めた行動だ。28歳にもなればそういう機会があってもおかしくはないし、他人に、それも10代の未成年者に非難される謂れはない。
おそらく彼女はまだ恋に恋する純粋な年齢だから、体だけの関係を汚らわしく思うのだろう。
そんな青い価値観を、とっくに錆びついたアラサーの大人にあてはめないで欲しい。
キスをするだけでときめくだとか、好きだから付き合うだとか、そういう純粋無垢な段階はとうの昔に通過してしまったのだから。
とはいえ、このまま同居人にぷりぷりへそを曲げられていては居心地が悪い。
このまま放置していればいずれ解決へと向かうだろうが、長引かせるのは精神衛生上よくない。
なるべくさっさとユーニの機嫌を直さなければ。
10歳も年の離れた小娘の機嫌の取り方がわからず、タイオンは考えを巡らせながらひじき弁当に箸を入れた。
「意外に旨いな」
彩りが絶望的なことに目をつむれば、味は悪くない。
これはこれでありだなと考えていると、ふと足元に珍しいものを見つけた。
葉が4枚ついたクローバー、いわゆる四つ葉のクローバーである。
世間的に珍しいとされているこの植物をありがたがるほどロマンチストではないが、それを見た瞬間、反射的に手を伸ばしている自分がいた。
これはユーニが好きに違いない。
そんな何の根拠もない考えが思い浮かび、地面から引きちぎった綺麗な四つ葉をスーツのポケットにしまい込む。
その行動にためらいや迷いはなかった。
冷静に考えればこんな葉っぱ1枚でユーニの機嫌が上向くはずなんてないのに、これさえあれば平気だろという謎の確信があったのだ。
ひじき弁当を平らげたタイオンは、四つ葉のクローバーをポケットにしまい込んだままま、公園を後にした。
***
その日、家に帰ってこれたのは9時過ぎのことだった。
タイオンにしてはいつもより早い帰宅である。
鍵を開けて部屋の扉を開けると、ソファに膝を抱えるようにして腰掛けスマホをいじっているユーニの姿があった。
いつもはタイオンが帰ると目をきらめかせながら“おかえり”と言って駆け寄ってくるが、今日の彼女はやはり機嫌が悪いようだ。
こちらにちらっと視線をよこしたが、むっとした表情のまま無言で目を逸らす。
まだ先日のことを怒っているらしい。
正直、このユーニというこの少女との距離感を未だ掴めずにいる。
本気なのか冗談なのか計り知れないが、かなり頻繁に気を持たせるような言動を繰り返しているが、大人として彼女の言動を真に受けるわけにはいかない。
女子高生である彼女に熱を孕んだ視線や言葉を向けられるのは、はっきり言って困ったものだった。
もし、今の不機嫌な態度が幼い嫉妬からくる現象なら、かなり厄介だ。
その嫉妬心を和らげるような行動をとれば、妙な期待を持たせてしまうかもしれない。
そんな無責任なことはできない。
かといって放っておくわけにはいかない。
だからこそ、無難に機嫌を取るためのアイテムを入手してきたのだ。
「これ、食べるか?」
差し出したのはコンビニで買ってきたスイーツたち。
プリンにエクレアにシュークリームなどなど。目に入ったものは片っ端から買ってきたわけだが、袋の中身を見た彼女は少し複雑そうに唇をすぼませた。
スイーツ自体は欲しいようだが、まだ苛立ちを残しているため素直に受け入れられないのだろう。
無言でむっとしたまま見つめてくるユーニの前に袋を置くと、タイオンは首元のネクタイを緩め始めた。
「あっ」
すると、背後からユーニの声が漏れ聞こえてきた。
振り向くと、袋の中から一本の四つ葉を取り出しているところだった。
4枚の葉がついたクローバーを不思議そうに見つめている彼女に、タイオンはそのクローバーとの出会いを口にする。
「たまたま見つけたんだ。好きだろ、四つ葉のクローバー」
「えっ、なんでアタシがコレ好きだって知ってんの?」
「なんでって……」
指摘されて初めて違和感に気が付いた。
言われてみれば何故だろう。
ユーニから四つ葉のクローバーの話は一度も聞いたことがなかったのに、彼女はこれを気に入るに違いないと確信していた。
まるで最初から、ユーニの好みを知っていたかのように。
どこにそんな確信があったんだ?
子供じゃあるまいし、どんなに夢見がちな女子高生でも四つ葉のクローバーごときで機嫌は治らないだろう。
冷静に考えればわかることだ。なのにどうして――。
自らの根拠のない確信に初めて疑念を抱いたタイオンは、思わず言葉を喉の奥に詰まらせた。
珍しいものを見つけて柄にもなく舞い上がってしまっていたのかもしれない。
失敗した。そう口にしようとした瞬間、4枚の葉を優しいまなざしで見つめるユーニの表情が視界に入った。
その目は、まるで懐かしい思い出をなぞるような、そんな愛おし気な瞳だった。
「気が利くじゃん。ありがと」
「本当に好きだったのか、それ」
「うん。好き」
クローバーを見つめるユーニの優しい顔を見ていると、妙な感覚に陥ってしまう。
はるか昔、この柔らかな表情を見たことがあるような、そんな懐かしい感覚だ。
おかしい。ユーニとはまだ知り合って3か月程度しか経っていない。
懐かしさを覚えるほどの仲ではないはずなのに。
胸が、心臓が、心の奥が、急速に締め付けられる。
本能が、失われた何かを訴えるように、この心を渾身の力で握りこんでいるかのようだった。
今まで一度たりとも味わったことのない不思議な感覚に戸惑っていると、不意にユーニから名前を呼ばれる。
“タイオン”と囁かれたその声はかすれていて、弱弱しい声が一層心を締め付ける。
呼ばれた名前に“ん?”と反応すると、彼女はクローバーを手に持ったまま熱っぽい視線を向けてきた。
「アタシとデートして」
「は?」
「映画とか水族館とかじゃなくて、半日以上一緒にいられる場所に行きたい」
「いや、何を言って……」
「そうだ。ドライブ行きたい。日帰り旅行的な。もちろん2人っきりで」
「ユーニ」
咎めるように彼女の名前を口にすると、ユーニはまたむくれた顔で黙り込んだ。
何がデートだ。行けるわけがない。
自分は28歳の立派な大人で、彼女はまだ18歳の高校生だ。
“デート”なんて甘い言葉を使っていい立場じゃない。
緩めたネクタイをしゅるりと首元から解き、タイオンはユーニからの淡い要求を突っぱねる。
「そういうのは同世代の男と行ってくれ。誘う相手は僕じゃない」
「やだよ。アタシはタイオンと行きたいんだよ」
背を向けながら腕時計のベルトを緩める。
背後から聞こえてきた震え声に、嫌な予感がした。
「この前会った女には付き合ってもないのに簡単に手出したくせに」
やっぱりその件で怒っていたのか。
青い嫉妬を向けられても受け入れてやれる器はない。
そもそも20代半ばの“女性”と18歳の“女の子”を同じ土俵で見ろというのは無理がある。
「たった10コ歳が違うだけじゃん。大人ぶんなよ」
残念ながら28歳は誰がどう見ても大人だし、なんなら人によっては“おっさん”と揶揄されてもおかしくない年齢だ。
“大人ぶるな”と言われても、実際に大人なのだから仕方ない。
「アタシがもっと大人だったら、少しは変わったのかな」
どうしようもないことを言われても困る。
そりゃあ変わるだろう。大人同士だったなら躊躇する理由もない。
まっすぐな好意をぶつけられれば、相当気が乗らない相手でなければ受け入れていた。
だが、彼女はどうあがいても子供だ。その事実だけは変えられない。
「アタシがもっと大人だったら、普通にえっちとかしてたのかな」
思わずぎょっとして振り返ってしまった。
馬鹿なことを。最近の子はそういう隠すべきことを簡単に口にしてしまうほど恥じらいがないのか。
叱ろうと口を開いたが、窘めの言葉はまた喉の奥に引っかかってしまった。
ソファに腰掛け両膝を抱えるユーニが、肩を震わせうつむいているのを見てしまったから。
女という生き物は実に姑息で卑怯だ。
何かあれば、涙という必殺技を見せれば大抵のことは何とかなってしまう。
そうやってさめざめしく泣かれたら、これ以上拒絶できなくなってしまうじゃないか。
あぁもう!と癇癪を起したくなりそうな気持を必死で抑え、タイオンは観念したように息を吐いた。
「ドライブな。はいはいわかった。適当に鎌倉あたりでいいか?」
「えっ、いいの?」
「あぁ。ちょうど会社からも働きすぎだと注意されたところだ。たまには遠出もいいだろう」
「っしゃあ!」
突然背後から聞こえた男らしい叫び声に、思わず肩がはねた。
驚き振り返ると、きらきら輝くような顔でユーニが急速に詰め寄ってくる。
その顔は、先ほど泣いていた少女と同一人物には思えない。
「言ったな!? 絶対だからな!? ドライブデート確約な!?」
「あ、あぁ……。いや、これはデートとかじゃなく単なる遠出で……」
「デートっ、デートっ」
「おい聞け!人の話を聞け!」
うきうきとスキップしながら浮かれているユーニは、こちらの話をまったくと言っていいほど聞いていない。
上機嫌な様子で“おやすみ”と手を振りリビングを出ていく彼女は、先ほどのしおらしさが嘘のように爛々とした笑顔を浮かべていた。
楽しそうなその笑顔を見て、怒りとともに嫌な事実を察してしまう。
ウソ泣きだったのかあの小娘。
額に青筋が浮かぶ。
今からでもドライブの話をなかったことにしてやろうか。
いや、それではまたへそを曲げられる。
一度口約束を交わしてしまった以上、後戻りはできない。
「はぁ……。だから子供は苦手なんだ」
突然の爆弾発言やウソ泣きで容赦なく振り回してくるユーニに、10歳も年が上であるタイオンは哀れに翻弄されていた。
一方、リビングから出たユーニはまっすぐ一直線にトイレへと駆け込んだ。
用を足しに来たわけではない。気分を落ち着かせるため、今は一人になりたかったのだ。
閉めた扉に寄りかかると、ようやく安堵する。
タイオンから冷たくされるなんてこと、あの頃は一度だってなかった。
あったとしても、それは出会ってすぐのころのことで、記憶の中にいるタイオンはいつだって優しいし、ユーニを拒絶なんてしなかった。
だからこそかもしれない。タイオンに少し突き放された程度で、めそめそ泣いてしまうなんてらしくないことをしてしまったのは。
十代である自分と必要以上に境界線を引こうとする彼はだれよりも大人で、だれよりも真面目な男だ。
そんな彼の前では、さめざめ泣いたりなんてできない。
そんなことしたら、きっとまた子供だと呆れられてしまうから。
だから必死で取り繕い、無理やりテンションを上げてウソ泣きしたように振舞ってしまった。
多分あれで正解だ。
タイオンには、弱くて繊細な子供だとは思われたくはない。
瞳からあふれる涙をぬぐい、ユーニは必死で笑顔を作るのだった。
Act.06 こっち向いて
初めてシティーを訪れた時の衝撃は今でも覚えている。
触れたことのない価値観、見たことのない光景、新しい世界。
目に入るものすべてが新鮮で、それでいて理解不能で、これが“正しさ”というものなのかと初めて実感できた。
とりわけ誰よりも思慮深いタイオンは一行の中でも一番シティーへの興味関心が強かった。
シティーに滞在している最中は、暇さえあれば寄宿舎を抜け出し、医療施設や軍事施設を見回り、街中を歩いて人々を観察する。
好奇心に満ちた目をしなじっくり観察した結果、シティー独特の文化風習の一部は理解することができた。
だが、いくら考えても理解が及ばない分野もある。
その代表ともいえるのが、“愛”や“恋”と言った感情に紐づく曖昧な概念である。
「愛とは何だろうな」
ロストナンバーズ寄宿舎の目の前。
一行が休息所として使っている広場から眼下に広がる公園を見下ろしていると、隣に立っていたタイオンが急に問いかけてきた。
ユーニが“は?”と聞き返すよりも前に、彼は再び別の疑問を投げかけてくる。
「恋とは何だろうな」
どちらも哲学的な問いだった。
一行の中で一番頭脳明晰で理解力もあるタイオンがわからないのであれば、自分がわかるわけないじゃないか。
そんな気持ちを込めて“さぁ”と返事をすると、彼は少し不満げに目を細めながらこちらに視線を向けてきた。
「ちゃんと考えてないだろ」
「考えてるよ。けどわかんねぇものは分かんねぇんだよ。アタシらはシティーの連中みたく“正しく”生きてねぇんだから」
自分で言いながら少し悲しくなった。
眼下の公演で元気に遊んでいる“小さい人間”たちは、この世に生まれ堕ちて8、9年ほどしか経っていないらしい。
つまり、生きている年数としては自分たちとそう変わらないのだ。
だが、彼らは人工的なゆりかごで生まれた自分たちとは違い、母となる人間の腹から生まれている。
もし自分たちも正しい生まれ方をしていたら、あの人間たちのように無邪気に駆け回れていたのだろうか。
人の命を奪う必要もなく、愛だの恋だの曖昧な概念の意味などいちいち考えることもなく、長い生涯を年を重ねながら生きていいたのだろうか。
不毛な仮説であることを自覚しながらも、そんな妄想をせずにはいられなかった。
「いつかアタシたちも、正しく生きられる日が来るのかな」
「どうだろうな。メビウスを殲滅すれば、この体に課せられた限界時間を大幅に伸ばすことは可能かもしれないが、根付いた価値観はそう簡単には変わらない」
「けどさ、長く生きてれば理解できるかもじゃね?愛とか恋とか、そういう曖昧なやつ」
「長く生きたことがないから分らんが、そうだったらいいな」
たった10年しか生きられないからこそ、ケヴェスとアグヌスの兵は命を燃やすように生きるのだ。
その生涯に悔いが残らないよう、死を迎える瞬間に笑顔でいられるよう、余計なことなど考えずにひた走る。
その短い生涯には、人生や命について考える時間など片時もない。
この命が倍、いやもっと長く伸びれば、きっと思想にふける時間も増えるだろう。
長い年月をかけた末に、愛や恋を理解できたなら、それはきっと幸せなことに違いない。
「いつかアタシも、誰かを愛したり恋したりするのかな」
隣に並ぶタイオンが、一瞬だけユーニへと視線を落とす。
けれどその視線はすぐにそらされ、眼下の公演で遊ぶ“小さな人間”たちへと注がれる。
「可能性はあるんじゃないか?」
「どんな気持ちになるんだろうな」
「知らん」
「そっちだってちゃんと考えてねーじゃん」
「……なんで僕が君の愛だの恋だのについて考えなきゃならない?自分で考えてくれ」
先ほどまでの問答とは打って変わって、妙に冷たい対応だった。
突然そっけなくなったタイオンの言葉も表情も気に食わない。
なんとなく彼の気を引きたくなったユーニは考えを巡らせる。
タイオンの意識を強引に自分へと向けるにはどうしたらいいか。
そして思い出す。夜の公演で、シティーの男女が互いに求めあうように唇を合わせていた光景を。
タイオンの首に巻かれた橙色のマフラーを掴むと、彼はようやくこっちを向いてくれた。
視線が交じり合う。不思議そうにこちらを見つめているタイオンを前に、ユーニは何も言わずマフラーを引き寄せた。
かかとを上げて背伸びをすれば、2人の目線は平行になる。
目を瞑って唇を押し付けてみたが、残念ながら狙いが外れてしまったらしい。
タイオンの唇ではなく、そのすぐ端にちゅっと口付けていた。
あ、失敗した。
顔を話すと、面白いくらい顔を赤くしたタイオンの姿が視界に入る。
口元を手で押さえ、目を見開いている彼は、明らかに動揺していた。
「な、なんの真似だっ」
「いつか恋する相手が出来たとき、シティーの奴らみたいに唇にちゅってしたりするもんなんだろ?その時の予行練習」
「はぁ?僕を練習台に使うな!」
「何照れてんだよ~」
「照れてない!」
唇への口付けは失敗してしまったけれど、それでもまぁいいかと思えたのは、タイオンが思った以上に動揺してくれていたから。
自分からの些細な行動で、この堅物な相方はこうも顔を赤くしてくれるのだと思うとうれしくなった。
まるで彼の心が、自分の手中にあるかのようで。
もっと照れてほしい。もっと動揺してほしい。
自分の一挙手一投足にいちいち取り乱すタイオンが見たい。
そんな淡い悪戯心が、ユーニの心に芽生え始めていた。
今思えば、愛だの恋だのの意味なんて分からなかったけれど、頭ではきちんと理解していたのかもしれない。
タイオンという男にまとわりつきたくて仕方なかったあの気持ちは、間違いなく恋心そのものだ。
そして今も、その気持ちは変わっていない。
変わってしまったのは、2人の年齢と身長差くらいだろうか。
***
タイオンとのドライブデートは、うきうき日々を過ごしている間に当日を迎えていた。
彼は頑なに“これはデートじゃない”と主張していたけれど、都合の悪い言葉はすべて無視することにしている。
これはれっきとしたデートだし、今日一日、タイオンは自分だけのために時間を費やしてくれる。
その事実はユーニにとって非常に喜ばしいものだった。
目的地は鎌倉。
タイオンが運転する車で約1時間半の道のりである。
あまり興味のない神社仏閣をめぐり、古民家カフェで甘いものを堪能し、江の島で海を見るという素敵なプランを事前に立てている。
甘く、優しく、そして素晴らしい一日になるはずだった。なのに――。
「なんでこうなるんだよ……」
マンションの正面玄関前に立ち、ユーニは殺意に満ちた表情で空を見上げていた。
はるか上空には灰色どころか黒に近い色をした分厚い雲が鎮座し、バケツをひっくり返したような強い雨を降らせている。
吹き荒れる風は周囲の木々を揺らし、ゴオォォォッとまるで怪獣の雄たけびのような音を奏でている。
わくわくドライブデートin鎌倉の当日である今日、所謂爆弾低気圧と呼ばれる悪天候に見舞まわていた。
同じように隣で立ち尽くしているタイオンもまた、厄介な悪天候を前に苦々しい表情を浮かべていた。
「豪雨だな。これはドライブどころではないのでは?」
「……」
「中止にするか。鎌倉はまた今度ということで」
肩から抜けるように息を吐き、マンション内へ戻ろうとするタイオン。
そんな彼のジャケットを、ユーニは咄嗟に掴んで引き止めた。
女子高生にしては強すぎるその力によって、タイオンはいとも簡単に足止めされてしまう。
迷惑そうにユーニの方を振り向けば、目を血走らせ必死な形相でこちらを見上げている彼女と目が合ってしまった。
「鎌倉……イキタイ……!」
ドスの効いた声で囁かれたその言葉は、何故か片言だった。
人間の言葉を覚えたてのモンスターかの如く、鬼気迫る勢いで詰め寄ってくるユーニの様子に嫌な予感がよぎる。
“行きたい”と言われてもこの悪天候だ。
運転するにはそれなりに胆力がいるし、事故を起こす可能性も考慮するとあまり気が乗らない。
だがユーニは、そんなタイオンの考えを汲み取ることなくフルパワーで駄々をこね始めた。
「行きたい行きたい鎌倉行きたい!絶対行きたい!」
「あぁもう勘弁してくれ。また今度行けばいいだろ」
「今度っていつだよ?明日?」
「いや、明日は仕事だから……」
「そうやって先送りにして一生行かないつもりだろ!」
「そんなことな――」
「人間いつ死ぬかわかんねぇんだぞ!明日には通り魔に刺されて死んでるかもしれないし!」
「なんでそんな極端な考えになるんだ君は」
「行きたい行きたい今日行きたい今すぐ行きたい今度じゃヤダ!」
女子高生の甲高い駄々こね声は、タイオンの首を絞めてゆく。
マンションのフロントに立っている管理人が怪訝な表情でこちらを見ているのが横目に見える。
あぁまずい。不審に思われてしまう。
大人の男に女子高生が縋りついている絵面なんてろくでもない。通報してくれと言っているようなものだ。
このまま駄々をこねられたら地獄を見るのは自分に違いない。
そう判断したタイオンは、ため息を深くつきつつ観念することにした。
「わかったわかった。その代わり予定より早めに切り上げるからな?」
手に持っていた傘を広げ、タイオンは駐車場に向かって歩き出す。
ユーニの全力のおねだりは効果てきめんだったらしく、彼は渋々要望を書諾してくれた。
傘を広げて歩き出すタイオンの背を見つめながら、ユーニは内心ほくそ笑む。
“フッ、チョロいぜ”
そんな囁きを聞かれてしまったら、きっとタイオンの気が変わってしまうだろうから絶対に言わないようにしよう。
なんだかんだと文句を言いながら、最後はこちらの要望を受け入れてくれるのがタイオンという男だ。
相変わらずチョロくて優しいタイオンに心躍らせながら、ユーニは前方を歩く彼の傘の下へと潜り込む。
腕を絡ませ密着すれば、タイオンは焦って距離を取ろうと身をよじる。
「コラくっつくな!」
「ヤダ。駐車場まで相合傘しようぜ」
「自分の傘をさせばいいだろ」
「忘れた」
「絶対わざとだろ、まったく……」
振り払われてもめげずに腕に抱き着き続けていると、次第に疲れてきたのかタイオンは振り払うのをやめた。
気力も体力も、まだまだ若いユーニの方が圧倒的に勝っている。
ドライブを予定通り決行できたのも、腕を組んで相合傘で歩いていられるのも、ユーニの粘り強い根気の勝利と言えるだろう。
空はあいにくの曇天だが、これからタイオンの時間を独占できることが確定したユーニの心は青々と晴れ渡っていた。
雨が降りしきる中、タイオンの運電する車は鎌倉に向けて出発する。
Bluetoothによってスマホに繋がれたスピーカーから、タイオンが選んだ曲がしきりに流れてくる。
十代であるユーニにとって、流れてくる局のほとんどは小学生の頃に流行った曲だった。
“懐メロばっかりだな”と呟くと、ハンドルを握るタイオンが若干傷付いたような顔を見せた気がしたが気にしないことにした。
流れてくる懐かしい曲を口ずさみながら窓の外を見れば、一向に弱まることのない雨が打ち付けている。
この豪雨で遠出しようとする人自体が珍しいのか、高速道路は信じられないくらいすいていた。
「アタシドライブデートって初めて」
「だからデートじゃない」
「タイオンは?したことある?」
「あぁ」
「は?死ねよ」
「理不尽な」
「誰と?」
「当時の彼女だ」
「死ねよ」
「聞いたのはそっちだろ」
あまりに理不尽な問答に、ハンドルを握りつつ何度か深いため息が出た。
過去を掘り返してくるくせに、素直に答えると不機嫌になる。
この面倒なやりとりが頻発するのは彼女がそういう性格だからだろうか。それとも若いからだろうか。
どちらでもいいが、幼い嫉妬心をむき出しにしてくるユーニに少々疲れていた。
28年も生きていれば、交際相手の一人や二人いるのは普通だ。
それを糾弾されたところで困るだけだというのに。
斜めになったユーニの機嫌をどう取り戻そうかと迷っていると、それまでむくれ顔で助手席に腰かけていたユーニが急に喚起しながら声を挙げた。
「えっ、待って、山じゃん!」
前方に見えるのは豊かな自然あふれる山。
豪雨で視界が悪くなった今でもその雄大な景色ははっきりと見える。
誰がどう見ても山でしかない山を見つめ、当然のことを口にしたユーニに戸惑いつつ、タイオンは頷いた。
「あぁ、山だな」
「山スゲー!」
「すごいか……?」
「木めちゃくちゃ生えてるし。やばっ」
「何がだ……?」
両側に見える山々を交互に見つめ、きらめく目で“すげぇ”だの“やべぇ”だの口にしているユーニに、タイオンは首をかしげるしかなかった。
何がすげぇのか、何がやべぇのか全くわからない。
物事に対する感想を、抽象的な言葉でひとくくりにしてしまう若者独自の価値観が意味不明だ。
見るものすべてにいちいち感動している様子のユーニの語彙力はあまりにも低く、思わず眉をしかめるほどである。
もしかしてこの子、馬鹿なんじゃ……。
そんな仮説がタイオンの頭を過ったが、言わないでおくことにした、
せっかく戻った機嫌がまた悪くなったら大変だ。
とりあえず今は山で興奮しておいてほしい。
特に実のない会話を交わしているうちに、車は鎌倉市内へと突入する。
相変わらzう雨脚は弱まることを知らず、激しく降り続いている。
ダメもとで元々観光する予定だった鶴岡八幡宮に寄ってみたが、案の定豪雨のため正門は締まり切っていた。
無理もない。雨も風も尋常ではないくらい強く、神社の敷地内に生えている柳の木は腰が曲がった老婆の如くひん曲がって可哀そうな見た目を晒している。
こんな天候の中わざわざ鎌倉まで観光しに来る変わり者など自分たちしかいないのだろう。
2人は仕方なく、鶴岡八幡宮をあきらめ次の目的地に向かうことになった。
場所は件の神社からほど近い小町通り。
そこに立ち並ぶレトロな古民家カフェに、ユーニは前々から目をつけていた。
ふわふわぷるぷるのパンケーキが売りであるその店は、普段は1時間待ちの行列ができるほどの大行列なのだが、豪雨である今日は行列どころか自分たち以外の客は誰一人としていなかった。
「貸し切りじゃん。やったな」
誰もいない店内を見渡しながらユーニはにんまり笑う。
随分ポジティブなものだ。
だが、確かに豪雨だからこそこんなに静かで快適にお茶を楽しめているのかもしれない。
そういった意味では、雨の日の遠出も悪くはない。
ただしここまでの豪雨となると話は別だが。
やがて、二人の前にコーヒーとパンケーキが運ばれてきた。
雲のように柔らかいプリンみたいなパンケーキ、というこの店のコンセプトにふさわしく、確かに柔らかそうだ。
皿の上でぷるんぷるんと揺れるふたつのパンケーキを前に、タイオンは思わず妙な連想をしてしまう。
なんだか豊満な女性の胸みたいだ。
「なんかおっぱいみたいじゃね?」
ぎょっとして頭を抱えた。
ユーニと、十代の小娘と同じ発想をしてしまった自分の幼さが恥ずかしい。
あまりの恥ずかしさに項垂れているタイオンに、“どうした?”と声をかけるユーニだったが、まさか同じことを考えていたとは言えず、“なんでもない”と返すしかなかった。
さてさっそく手を付けようと、テーブルの上に置かれたナイフとフォークに手を伸ばすと、急にユーニから“待った”がかかった。
何事かと目を見張ると、彼女は上着のポケットからスマホを取り出すと、パンケーキに向かってシャッターを切り始める。
様々な角度から撮影していることから察するに、おそらくSNSにでも投稿するのだろう。
彼女の承認欲求のためにお預けをくらわされているタイオンは、いつまでたっても終わらないユーニのパンケーキ撮影会にしびれを切らしていた。
「まだか?」
「あとちょっと」
「そんなにSNSが大事か」
「趣味なんだからいいだろ?今時インスタなんてみんなやってるし。タイオンはやってねぇの?」
「Facebookしかやってない」
「えー、つまんねぇな」
撮影を終えたユーニがスマホを懐にしまったことで、ようやく食事の時間が幕を開ける。
ぷるぷるのパンケーキにナイフを入れると、まるで羽毛布団のように柔らかな感触がナイフ越しに伝わってきた。
口に含めばあっという間にとろけだし、心地よい甘さが構内に広がる。
ユーニ曰く、インスタで人気を博していた店らしいが、曽於人気ぶりもうなずけるほどの味だった。
「うまぁ、やっぱこの店にして正解だったわぁ」
一口食べるごとに幸せそうな顔をするユーニに、思わず笑みがこぼれた。
少し大げさな反応だが、その素直な反応は微笑ましくもあり可愛らしい。
顔をほころばせて喜んでいるユーニの表情に、こっちまで口元が緩みそうになってしまう。
すると、正面の席で幸せそうにパンケーキを頬張っていたユーニは、不意に“さっきの話の続きだけどさ”と話題を引っ張り出してきた。
「なんでタイオンはSNSやらないわけ?」
「なんでと言われても困るな。書くことがないからと、そんな暇がないからかもな」
「最初からやってなかったの?」
「いや。学生の頃はいろいろやっていた。当時はインスタなんてなかったから、もっと原始的なSNSだったがな」
「原始的なSNS?」
SNSの歴史は案外深い。
スマホが本格的に普及し始めたのはタイオンが高校生の頃だったが、SNS自体はそれよりも前の時代から存在していた。
当時は今のように“若者はやるのが当たり前”な時代ではなかったし、ほぼ日記感覚でしかなかったため暇を持て余した学生にはうってつけだった。
当然、当時男子高生だったタイオンも例外なくSNSを利用していた。
目の前にいるユーニのように没頭するほどではないにしろ、浅く広く楽しんでいた。
「例えばTwitterなんかは僕が高校生の頃に一気に流行りだしたしな」
「あぁ、Xな」
「あとはmixiもやっていたきがする」
「みくしー?」
「モバゲーだのGREEだの、ブラウザ上で楽しめるSNSもたくさんあったな」
「もばげー?ぐりー?」
「あぁ、あとは同級生の女子たちがこぞってやっていたものがあったな、なんと言ったか……。確か、前略プロフィールだったかな」
「なにそれ」
「まぁ、10歳も年下な君が知ってるはずないか」
薄く笑みを浮かべながらコーヒーに口をつけるタイオン。
そんな彼の一言に悔しくなった。
まるで自分たちの年齢による格差をありありと見せつけられ、済む世界が違うのだと突き放されているかのようで。
だからこそ、対抗したくなった。
10歳なんて年の差、大したことない。自分たちは同じ目線でものを語れるのだと証明したかった。
「あぁあれだろ?タイオンの世代って、PHS使ってた世代だろ?数字でコミュニケーション取り合ってたんだろ?知ってる知ってる」
知っている知識を我が物顔で披露した瞬間、目の前に座っていたタイオンは“ぶっ”とコーヒーを吹き出しそうになっていた。
なにか変なことを言っただろうか。
目を丸くするユーニに、タイオンは笑いをこらえながら指摘し始めた。
「PHSは僕たちよりもっと前の世代だぞ。それに、数字でコミュニケーションがとれるのはPHSじゃなくポケベルだ」
うっすらと知っていた知識はどうやら間違っていたらしい。
“何も知らないじゃないか”と笑うタイオンに、ユーニは一層悔しくなった。
タイオンが高校生だった10年前、自分はまだ小学生だ。
その頃高校生の男たちが何に熱中し、どんなものを好んでいたかなんて知るわけがない。
上の世代への興味など1ミリたりとも湧かなかったが、こうしてタイオンと再会してからは知りたくて仕方がなくなっていた。
年齢という差を埋めるために、タイオンがこの世界でどんな青春を過ごしてきたのか知りたい。
自分と同じ男子高生だったころのタイオンは、どんな男だったのだろう。
どんなに追いかけても埋まることのないこの年の差を感じるたび、ユーニの心はささくれるのだ。
***
パンケーキを食べ終え、古民家カフェを後にする頃には、雨脚が少し弱まっていた。
豪雨から小雨程度になってはいるものの、未だ空の色は暗い。
この後は江の島方面へ向かい海を見る予定だったが、この天気では荒れた可愛げのない海しか見れないだろう。
仕方なく2人は車に乗り込み、自宅方面へと帰路につくこととなった。
海沿いの道をわざわざ選んでそうこうしているのは、タイオンなりの気遣いだった。
荒れていても海は海。何も見れないよりはましだろう。
波が高い湘南の海を横目に暫く走行してたのだが、雨の弾幕が次第に薄くなっていくのがわかった。
やがて10分ほど経過すると雨は完全に上がり、雲間からオレンジ色の日の光が差し込み始める。
灰色の雨雲から差し込む光は何とも幻想的で、運転に集中したいのに意識が持っていかれてしまう。
目の前の光景に見とれていると、助手席の窓に張り付いたユーニが不意に“あっ!”と声を挙げた。
「虹出てる!」
「えっ」
ユーニからの指摘に思わず視線を向けそうになったが、流石に運転中に目をそらすわけにはいかない。
隣に座っている彼女のはしゃぎ具合から冗談ではないのだろうと判断したタイオンは、好奇心に負け車を路肩に停車させた。
身を乗り出し助手席の窓から外を見てみると、灰色の雲の合間にうっすらと虹が見える。
雲間から差す光に照らされている虹は、光が幾重にも反射して幻想的な風景を作り出している。
「な?虹出てるだろ?」
「あぁ、ホントだ……」
「ここじゃよく見えない。降りてちゃんと見よっ」
そう言って、ユーニはシートベルトを外し車の外へ飛び出していった。
すぐそばには湘南の砂浜。
雨に濡れた靴で侵入するような場所じゃないが、ユーニは構わず波打ち際まで駆けだした。
靴が汚れるとかそんなことも気にせず走り出せるなんて、あれが若さか。
そんなことを考えていると、波打ち際ぎりぎりまで駆け寄ったユーニが振り返り大きく手招きしてきた。
「何してんだよ!早く来いよタイオン!」
海風に髪を靡かせながら、きらめく笑顔で彼女はこちらを見つめてくる。
その笑顔を見た瞬間、非常に厄介な言葉が頭に浮かんできてしまった。
“可愛い”なんて、28歳のアラサーが女子高生に抱いていい感想ではないのだろう。
手招きに応じるべく、タイオンは砂浜に一歩足を踏み入れた。
彼女の近くまで歩み寄ると、寄せる波がスニーカーのつま先部分をわずかに濡らす。
あぁ、もうこのスニーカーは履けそうにないな、なんて現実的なことを考えているタイオンとは対照的に、ユーニは濡れる靴を全く気にするそぶりも見せず虹を眺めていた。
「やばくね?めちゃくちゃ綺麗じゃん」
「そうだな」
「なんか感想薄い」
「虹なんて案外珍しいものじゃない。雨上がりの空にはたいてい浮かんでるだろ?そんなに感動するほどの者じゃない」
幻想的で美しい事実は認めるが、だからと言って声を挙げるほどありがたがる光景でもない。
幻想的な光景を前にしても現実的なことしか言わないタイオンに、ユーニは少しあきれていた。
もう少し感動してくれてもいいのに。
こんなに大盛り上がりしている自分がまるで子供みたいだ。
いや、“みたい”じゃなく、タイオンからすれば自分は間違いなく子供なのか。
少しだけ苛立ちを感じ、ユーニはため息交じりに素直な気持ちを口にした。
「タイオンと一緒だから感動してるのに」
なんとなくささやかれたその一言に、心をつかまれた気がした。
そして、厄介な感想が頭をよぎってしまう。
もし今自分が高校生だったなら、きっとこの彼女みたいな子を好きになっていたのだろうな。
隣の男がそんなことを考えているなど知る由もないユーニは、一向にこちらを見ようとしないタイオンの態度に焦れていた。
少しくらいこっちを見てくれてもいいのに。
何とかしてこの堅物で大人ぶっている男の意識をこちらに向かせたい。
かつてユーニは、同じようにタイオンの意識を無理やり自分に向けさせようとしたことがある。
不意にあの時のことを思い出したユーニは、まっすぐ虹を見つめているタイオンの横顔に向かって声をかけた。
「タイオン、こっち向いて」
言葉で促しても、タイオンが視線を向けてくることはなかった。
悔しくなったユーニは、両手で彼の左腕を掴む。
物理的な触れ合いがなされたことで、タイオンの視線はようやくこちらに向けられる。
視線と視線が混ざり合う。
眼鏡越しに見えるタイオンの顔は、あの頃と何ら変わっていない。
かかとを上げて背伸びをすれば、目を丸くしたタイオンの顔とゆっくりと距離が近づいていく。
けれど、唇が届く前に、額を押し返してくるタイオン本人の手のよって拒絶された。
「なにしてる?」
「拒否んなよ……」
「拒否るだろそりゃあ」
「むかつく」
「そういうのは同世代の男にやってくれ」
相変わらず腹立たしいほどにはっきりとした拒絶だった。
健全で正しい大人であろうとするタイオンとの間には、どんなに暴れても崩れない壁がある。
タイオンのほうから壁を壊してくれない限り、二人の距離は永遠に縮まらないのだろう。
あの時は顔を赤くしてくれたのに、今は一切顔色を変えないタイオンの態度に悔しくなって、ユーニは背を向け車のほうへと歩き出す。
背後から“もういいのか?”と声をかけられたが、返事はしなかった。
タイオンから思った反応が返ってこなかったことも悲しいけれど、何より切なかったのは、背伸びをしてもタイオンの唇に届かなかったこと。
あの頃は、少しかかとを上げれば目線は平行になった。
けれど今は、どんなに背伸びをしても目線は見上げたまま。
このわずかな差が、二人の心の距離を示しているようで辛かった。
Act.07 重なる顔
仕事に集中しすぎると頭が痛くなる。
ずっとPCの前から動かず、ブルーライトを浴び続けているせいだろう。
言語を打ち込む作業に一区切りつけたタイオンは、深く息を吐きながら椅子の背もたれに寄りかかり、かけていた眼鏡を外す。
割り当てられたプロジェクトのリリース日が近いせいか、最近は残業続きの日々が続いていた。
毎晩終電近くに帰宅しているため、体に疲労感が蓄積している。
目頭を右手でマッサージしていると、少し離れた席で作業している上司、部長のイスルギの姿が目に入った。
同じようにPCの前でタイピングを続けている彼を視界に入れた瞬間、数日前の居候との会話を思い出してしまう。
イスルギから届いた結婚式の招待状が届いたあの日、ユーニはイスルギの結婚相手であるナミの名前を言い当てていた。
“アイオニオンで知り合いだった”と、また妄言を口にしていたが、その言には確信に似た自信が感じられる。
試しに去年の社員旅行での集合写真を見せ、“知っているならイスルギ部長がどれか当ててみろ”と試してみた。
すると、彼女は一切迷うことなくイスルギの顔を指さした。
写真には100人近くの社員が映っている。
偶然にしてはものすごい確率だ。
前々からイスルギのことを知っていたのだろうか。
あの日以来抱き続けてきたこの違和感を解決させるため、タイオンは意を決し席から立ちあがった。
「イスルギ部長。今期の作業完了報告書です。確認お願いします」
「あぁ。流石タイオン。仕事が早いな」
イスルギのデスクまで歩み寄ったタイオンは、事前に印刷してい置いた報告書を差し出した。
件の書類を受け取ったイスルギはPCから視線を外し、差し出された書類に目を通し始める。
目を伏せ書類に不備がないか確認しているイスルギを前に、タイオンは疑念をぶつけた。
「部長。急に変なことを聞きますが、“ユーニ”という名前の知り合いはいますか?」
「うん?なんだ急に。ユーニ?」
「僕の従妹の女子高生なんですが、部長が結婚する話をしたらナミさんのことを知っているような口ぶりだったので」
「ふむ……。女子高生の知り合いはいないと思うが……」
「じゃあ、ナミさんと知り合いの可能性はありますか?」
「どうだろうな……。一度も話題に上がったことはないし、恐らくないと思うぞ」
「そう、ですか……」
一言二言言葉を交わすと、タイオンは肩を落としながら自席へと戻った。
イスルギにはユーニという名前の知り合いはいないらしい。
あの様子だと、おそらくナミのほうと知り合いというわけでもないのだろう。
もしや会社のホームページにイスルギの写真が載っていて、そこから推理したのかもしれない。
そう思って自社のホームページを確認してみたが、イスルギの写真もナミの写真も掲載されていなかった。
あの二人はネットに疎く、SNSはやっていないと以前聞いたことがある。
イスルギとナミ、そしてユーニを繋げる共通点が一つも見つからない。
まさか、彼女の言う通り“アイオニオン”なる平行世界が本当にあるというのか。
いやいやまさか。そんなの映画や漫画だけの話であって、そんな非現実的なことがリアルであるわけがない。
けれど、ユーニの馬鹿らしい妄言をすべて飲み込んでみれば、いろいろと辻褄が合う。
会ったこともないはずのイスルギの顔を知っていたのも、そんなイスルギの結婚相手がナミであると知っていたのも、何もかも頷ける。
思えば、初めて出会った日の夜、彼女は自分の名前を言い当ててきた。
名乗っていもいなければ名刺を渡したわけでもない。まして連絡先を交換したわけでもないのに、迷わず“タイオン”と呼んできたのも、彼女の言う通り平行世界で既に会っていたのだとしたら――。
「はぁ……馬鹿馬鹿しい」
女子高生の妄想に付き合っていられるほど、自分はロマンチストではない。
イスルギやナミ、そして自分の名前を言い当ててきたのも、何かトリックがあったに違いない。
どこかで目にしていたとか、名前を見る機会があったとか、どうせそんなところだ。
そんな“偶然の一致”で片づけられる事象ではないことは分かっていたが、タイオンは謎から目を逸らすように自分に言い聞かせていた。
***
0時32分。
終電近い時間に会社を出たタイオンは、すでに日付が切り替わった深夜に帰宅した。
システムエンジニアの仕事をしていれば、プロジェクトの繁忙期に終電帰りが続くことはざらにある。
今の会社に新卒で就職して約6年。
深夜帰りに文句が出ない程度に、タイオンはこの生活に慣れきっていた。
独身であるがゆえに、どんなに遅く帰宅しても心配してくれるような家族はいない。
休日に家族サービスをする必要もない。
ただただ自分の体に疲労感がたまる以外の弊害は特にない。
だがこの晩、家に帰ってリビングの電気がついたままになっている状況を見て、初めて弊害を感じた。
家で自分を待ってくれる“家族”はいないが、“居候”はいる。
ソファに腰かけスマホをいじっていた居候の女子高生、ユーニは、タイオンが帰宅するなり嬉しそうに笑顔を浮かべながら駆け寄ってくる。
「おかえりっ、遅かったな!」
「あぁ。まだ起きてたのか。先に寝ててよかったのに」
「最近のタイオン、アタシがまだ寝てる間に会社行って夜遅くに帰ってくるだろ?夜起きてないと会えないじゃん」
夜更かしは美容の大敵。などという言葉があるが、ユーニにとっては美容よりタイオンと言葉を交わすほうが重要だったらしい。
屈託なく笑顔を向けてくる彼女の態度になんと言葉を返していいかわからず、タイオンは逃げるように風呂へと向かった。
湯はすでに沸いていて、冷蔵庫には今晩の夕飯であるロールキャベツとオムライスが入っている。
今日のように終電帰りになる日は、決まってコンビニのカップ麺で夕食を済ませていたため、すでに完成している手料理が冷蔵庫に仕舞われているこの状況は非常にありがたかった。
夜遅くに帰ってきて、誰かが笑顔で“おかえり”と出迎えてくれるだけで、体の疲れが少しは軽くなったように思えた。
ボランティア精神でユーニを引き取ったタイオンだったが、彼女という存在に助けられている現状は否定できない。
“先に寝てていい”と伝えている割に、彼女が夜遅くまで起きて自分の帰りを待ってくれていることに、小さな幸福感を覚えていた。
例えば結婚したら、こんな小さな幸せを毎日甘受できるのだろうか。
そこまで考えたところで、タイオンは激しくかぶりを振る。
女子高生相手に結婚を連想するなんてどうかしてる。
きっと疲れているんだ。疲労感が蓄積しすぎているからこんなくだらないことを考えてしまうんだ。
早く寝よう。
湯船につかり、一日の汚れと疲れを洗い落として浴室から出る。
部屋着に着替え、自宅用の黒縁眼鏡をかけたタイオンは髪をバスタオルで拭きながら脱衣所から出た。
リビングにはまだユーニの姿がある。
ソファの上で胡坐をかき、スマホの画面を見つめていた彼女は風呂から上がったタイオンに目を向けてくる。
「まだ起きてたのか。いい加減寝なさい」
「なぁ、髪アタシが乾かしてやろうか?」
「話を聞いてないだろ。寝てくれ」
「タイオンだって眠いし疲れてるんだろ?ドライヤーかけるのめんどくね?手伝うぜ」
ユーニはこちらの“寝ろ”という命令を頑なに無視し、“髪を乾かしてやる”の一点張りだった。
彼女の言う通り、正直疲れきっていて髪を乾かすのさえ面倒な状況だ。
それに、ここでこれ以上の問答する気力も残っていない。
眠気もピークに達していたタイオンは、ユーニの提案を拒否する煩わしさに耐え兼ね、ため息混じりに承諾してしまった。
「あー……。じゃあ頼む」
「えっマジで?やった。すぐやるっ」
ソファから勢いよく立ち上がった彼女は洗面所へ走りドライヤーを引っ張り出してくる。
タイオンをソファへ横向きに座らせると、その隣に腰かけ背後から手を伸ばす。
ドライヤーの電源を入れると、温風が音を立てながらタイオンの髪を揺らし始める。
ドライヤーから吹いている暖かい風と、自分の髪を触るユーニの手つきがなんだか心地よくて、眠気が一気に襲ってきた。
「アタシさ、タイオンの髪好きなんだよね」
「んー……」
「このもじゃもじゃ感、触ってて気持ちいい」
「ん……」
「癖毛なのはアイオニオンのタイオンもこの世界のタイオンも変わらないんだな」
「……」
「おい聞いてんのかよ?」
ドライヤーで髪を乾かしながら、ユーニは何か言っていた。
しかし、もはや睡魔という名の魔物に襲われているタイオンには彼女の話など耳に入っていなかった。
完全に瞼を閉じ、こくりこくりと頭をもたげ始めたタイオンの様子に気付き、ユーニはドライヤーの温風を止める。
まだ完全に眠ってはいないようだが、放っておけば今すぐ眠りに落ちてしまうだろう。
無防備な姿を見せてくれるのは嬉しいが、さすがにソファで寝られるのは困ってしまう。
せめてベッドで寝てほしかった。
「おいここで寝んなよ」
「………」
「タイオン。タイオンってば」
「………」
「……10秒以内に起きないとキスするぞ」
「っ!」
そう囁いた瞬間、タイオンは肩を震わせながら目を開けた。
恐ろしいほどの反射神経である。
そして勢いよくソファから立ち上がると、重い瞼を必死でこじ開けながら彼は言う。
「先に寝る。おやすみ」
それだけ告げると、彼はふらつきながら寝室へと向かった。
一人残されたリビングで、ドライヤーを片手に持ったままユーニはむくれていた。
なんだよ。そんなにアタシからのキスが嫌かよ。
明確な拒絶を続けるタイオンの態度に、ユーニはいい加減焦れ始めていた。
アイオニオンでもこの世界でも、タイオンは真面目な男である。
そんな男が、まだ10代である自分に手を出してくるはずなんてない。
もはや時間を浪費した消化試合でしかないのではないかとすら考え始めていた。
10歳の年の差は、ユーニを柄にもなくネガティブにさせる。
「諦めるしかねぇのかな……」
なんとなく自分の頭に右手をやったのは、いつもの癖だった。
乱れた羽を整えようとする、アイオニオンにいたころの癖。
そういえば今は羽なんて生えてなかった。
こびりついたまま剝がれない自分の癖に嘲笑しつつ、ユーニは自分も眠りにつくため立ち上がった。
***
朝起きると、すでに家の中にタイオンの姿はなく、代わりにLINEのメッセージだけが入っていた。
“今夜も遅くなる。夕食は必要ない”
随分と事務的なメッセージだ。
この家に居候してから2か月ほどが経過したが、最近はどうもタイオンの仕事が立て込んでいるらしい。
毎晩終電近くに帰ってきては、ヘロヘロになりながら眠りに落ちている。
システムエンジニアという職をよく知らないが、タイオン本人曰く、プロジェクトの進捗によっては激務になることも珍しくないのだという。
“ふぅん”としか返答できなかったが、社会人である大人たちにしかわからない事情があるのだろう。
タイオンの体が心配ではあったが、まだ学生であるユーニにはどうしようもなかった。
ただ、こうもタイオンと話す時間が少ないと寂しくなってしまう。
夜遅くに帰ってきたかと思ったら、風呂に入り急いで食事をして会話する間もなくすぐに眠ってしまう。
朝起きれば当然のごとくタイオンの姿はなく、しゅんとしながら学校へ行く。
仕事で忙しいのは分かるが、こんな生活がいつまで続くのだろうかと不安になってしまう。
いつも通り学校に向かうと、いつも通りの面々がいつも通りの様子で出迎えてくれる。
7月に突入し、だんだんと蒸し暑くなってきた陽気に合わせ、制服は冬服から夏服に変わっている。
本日最後の授業がチャイムとともに終わりを告げ、いつも通りまっすぐ帰宅しようと席から立ち上がったユーニを、背後からノアが呼び止めた。
「ユーニ、今日これから暇か?ランツやヨランとカラオケ行こうって話が出てるんだけど、ユーニもどうだ?」
魅惑的なお誘いだった。
タイオンと一緒に暮らし始めてから、夕食を作らなければならないためいつも真っ直ぐ帰宅していた。
けれど、今夜はタイオンから“夕食はいらない”と言われている。
帰りも遅いようだし、わざわざ早く帰って夕食の準備をする必要もない。
門限の21時までに帰宅すれば何も問題ないだろう。
それになにより、久しぶりに学校の友達と遊びたいという欲もあった。
「行く!」
二つ返事で了承し、ユーニは久しぶりに友人たちと楽しむことになった。
学校を出て向かったのは、最寄り駅のカラオケボックス。
タイオンと暮らし始める前、ノアたちとはよくこのカラオケで夜まで遊んでいた。
3年に進級して以降は一度も来ていなかったが、たった数か月来ていなかっただけで随分と懐かしく感じてしまった。
カラオケに入ると、ランツが入れた流行りのロックバンドのヒット曲から幕を開ける。
恐ろしく声が大きいランツの歌を横で聞きながら、ユーニはノアやヨランと一緒に笑顔で合いの手を入れていた。
ノアやランツ、そしてヨランは、クラスメイトである以前にアイオニオンで縁を結んだ大事な幼馴染である。
本人たちはそんなこと一切知る由もないだろうが、彼らとの時間はユーニの心を癒してくれる。
もしタイオンも同い年で同級生だったなら、こんな風に同じ目線で過ごすことができていたのだろうか。
「ユーニ、お前さん、最近なんか暗くね?」
「え?」
ノアがバラードを歌いだしたタイミングで、隣に座っていたランツから話しかけられた。
ソフトドリンク片手に顔を近づけながら話すランツの言葉を聞き返すと、“落ち込むようなことでもあったのかよ?”と。
「別になんもねぇけど?」
「嘘つけ。なんかぼーっとしてるし、最近付き合い悪ぃし」
「んなことねぇと思うけど……」
「ノアから聞いた。あのクソみてぇな叔母さんの家から出られたんだろ?その割にやたらと暗いじゃねぇか。嬉しくて明るくなるのが普通じゃね?」
暗くなっている自覚はなかった。
けれど、確かにぼーっとする時間は増えていたかもしれない。
気が付けばタイオンとのことばかり考えて、先行きの不透明さを嘆いている。
たびたび見せるその様子が、ランツには思い悩んでいるように見えたのだろう。
「悩みがあるなら教えてね、ユーニ。僕たちも力になるから」
ランツの向こう側に座っていたヨランが、柔らかな笑顔で優しい言葉をかけてくる。
わざわざこのカラオケに誘ってくれたノアしかり、こちらの様子を気にするそぶりを見せてきたランツしかり、きっと心配してくれているのだろう。
深い絆を結んだ彼らからの思いやりは、沈みかけた心を優しく浮上させてくれる。
素直にお礼を伝えると、先ほどまで気持ちよく歌っていたノアが呆れた顔で“俺の歌聞いてた?”と問いかけてきた。
正直全く耳に入っていなかった。
苦笑いを返すと、ノアは傷ついた様子で肩を落とすのだった。
***
タイオンから定められた門限は21時。
その時間に間に合うよう、20時過ぎにはカラオケを出た。
一緒に遊んでいた面々の中で、電車を使わなければ帰れない距離に住んでいるのはユーニだけ。
帰るために駅に向かう彼女を見送るため、3人の同級生たちも一緒に駅へ向かっていた。
ロータリーに入ったところで、4人は妙な違和感に気が付いた。
この駅は付近に高校や病院がある関係でそれなりに利用客も多いが、今夜はいつも以上に人が多い。
駅の改札前に集まっていた人たちは、みんな一様にスマホの画面を見つめながらその場に立ち尽くしていた。
「あ、おい見ろよあれ」
人だかりの向こうに見える電光掲示板には、人身事故を知らせるメッセージが表示されている。
どうやら隣のターミナル駅で5分前に発生したらしい。
到着予定だった電車は運転見合わせとなっており、しばらく動く見込みはなさそうだ。
まずい。ただでさえこの駅から自宅の最寄り駅までは電車で40分ほどかかるというのに、今の段階で運転再開の見込みがないということは、どう考えても21時には間に合わない。
「まじかよ……どうしよ」
「一緒に住んでる従兄に迎えに来てもらえないのか?」
「仕事忙しいみたいだしな……」
毎晩終電で帰るほど忙しいのは知っている。
きっと“迎えに来て”と甘えたところできっと来てはくれない。
いつになるかわからないが、電車の運転再開を待つしか手はないのだろう。
とはいえ、黙って門限を破って後々ばれると面倒だ。
念のため連絡だけは入れておこう。
そう思い、ユーニはスマホを取り出しタイオンに電車が人身事故で止まって帰れなくなっている現状を報告した。
「結構ひどい人身事故だったらしいな。数時間は動かないみたいだ」
SNSで隣駅の人身事故の情報を収集していたノアが、スマホの画面を見つめながら言った。
どうやらここで長い間待たなければならないらしい。
いつ再開するかもわからない電車を待ち続けるのは辛いものがある。
先の見えない状況にため息をついたユーニに、すぐ後ろにいたヨランがうれしい提案をしてくれた。
「僕、ここで一緒に運転再開待つよ」
「え?」
「んじゃあ俺も。どうせユーニ一人じゃ暇だろ?」
「いやでも、何時になるかわかんねぇぞ?」
「俺たちはどうせ徒歩で帰れる距離だから心配いらない。ユーニを一人ここで残すほうが不安だしな」
「変な奴にホテル連れ込まれるかもしんねぇだろ?ここは甘えとけって」
「そうそう。みんなでしりとりでもしてれば時間なんてあっという間だよ」
3人からの提案は実にありがたいものだった。
駅前の繁華街で制服を着た女子高生が一人佇んでいる状況がいかに危険か、ユーニは経験上よく知っている。
男が3人も一緒にいてくれるだけでかなり心強い。
ノアたちまで巻き込んでしまうのは忍びないが、友人たちからの厚意はありがたく受け取っておこう。
「ありがとな。今度なんか奢る」
「おっ、マジ?じゃあ俺寿司で」
「じゃあ俺は焼肉」
「僕はケーキで」
「お前らなぁ……」
呆れた様子を見せると、3人の友人たちは声をあげて笑った。
コンビニで飲み物を買い、駅の改札口に続くロータリーの階段に腰かけて時間をつぶす。
不思議なもので、4人で下らない話をしていると時間の経過はあっという間だった。
やがてコンビニで購入したリプトンのミルクティーが全てなくなる頃、ようやくタイオンからLINEの返事が来た。
“今どこにいる?”
時刻はまだ21時半。
タイオンの仕事が終わったにしては早すぎる。
たまたまスマホを確認し、着ていたメッセージを返しただけなのだろう。
深いことは考えず、ユーニは“西駅のロータリーで電車待ってる”とだけ返信した。
それから20分後。
相変わらず電車は動く気配すらなく、4人が座っている階段を上がった先のホームには続々人が集まり始めていた。
そろそろ22時になってしまう。高校生が外を出歩いていると補導されてしまう時間である。
これ以上ノアたちに付き合ってもらうのは流石に悪い。
3人にはもう帰ってもらおうかと思い始めた頃、駅のロータリーの道路に見覚えのある車が停まった。
あれはまさか――。いや、まだ22時前だ。あいつがいるわけがない。
だが、そんなユーニの考えに反し、車からは見慣れた男が降りてきた。タイオンである。
スーツを着たままの彼が、革靴をコツコツと鳴らしながら近づいてくる。
ここにいるはずのないその顔を凝視しながら、ユーニは言葉を失っていた。
一方、彼女のすぐそばに座っていた3人の友人たちは、近付いてくる見知らぬ大人に戸惑い始めていた。
やがて、タイオンはロータリーの階段に腰かけているユーニたちの目の前で立ち止まる。
「ここにいたのか」
「え、な、なんで……?仕事は?」
「切り上げてきた。ほら、帰るぞ」
延ばされたタイオンの手が、ユーニの腕を掴んで立ち上がらせる。
その手つきは少しだけ荒かった。
転びそうになりながら立ち上がると、反対側の腕を今度はランツに掴まれる。
「ちょ、おい。なんだよお前さん。ユーニの知り合いか?」
「保護者だ。君たちこそこんな時間に何してる?はやく家に帰りなさい」
「もしかして、一緒に住んでるっていう従兄か?」
ノアからの質問に、ユーニは素直に頷いた。
本当は従兄でも何でもない血の繋がらない他人だが、さすがに他人の男の家で暮らしているとは言えない。
ノアやヨランは従兄だというユーニの言葉をやすやすと信じたようだが、ランツはあまりタイオンにいい印象を抱かなかったらしく、怪訝な表情を浮かべている。
この3人は同級生で、一緒に電車の運転再開を待ってくれていたのだと話すと、タイオンは3人の友人たちに視線を向けた。
「ユーニが世話になった。礼を言う。車で家まで送ろうか?」
「いえ、大丈夫です。みんな家近いので」
「そうか。もう遅いから、気をつけて帰るように。それじゃあ」
タイオンは腕を掴んだまま、足早に先を急ごうとする。
そんな彼に引っ張られながら、ユーニはロータリーの階段に取り残された3人の友人たちに手を振りながらお礼と別れを告げた。
手を振り返してくる友人たちを背に、ユーニは促されるままにタイオンの車に乗り込んだ。
助手席に腰かけ、シートベルトを締めたタイミングで車はゆっくりと発進する。
もともと口数の少ない彼だが、今日のタイオンはいつも以上に静かだった。
前を見据えたまま口を貝のように閉じている。
仕事を切り上げてまで迎えに来る羽目になってしまったことを怒っているのだろうか。
この妙に重苦しい空気をなんとか変えるため、ユーニは恐る恐る口を開けた。
「仕事、途中で帰ってきてよかったのかよ?忙しかったんじゃねぇの?」
「うちの会社には優秀な人間がたくさんいる。僕一人がいなくなったところで代わりくらいいるさ」
「そっか」
「………」
「ありがとな、迎えに来てくれて」
「あぁ」
やはり口数は少なかったが、タイオンの優しさはきちんと伝わった。
多忙なはずなのに、わざわざ仕事を途中で切り上げてまで迎えに来てくれたその行動が嬉しくてたまらない。
心配してくれたのかな。もしそうならもっと嬉しい。
タイオンが少しでも自分のことを考えてくれているのだと思うと、心が跳ねる。
胸の奥が暖かくなる感覚を抱きながら、ユーニは口元に笑みを浮かべシートに腰かけている自分の手元に視線を落とした。
「ところで、さっきの男子高生たちと何をしていたんだ?」
「えっ、なにって、普通にカラオケ行ってただけだよ。20時ごろ帰ろうとしたら人身事故が起きてて……」
「4人だけで行っていたのか」
「うん」
「女子は君だけだったのか」
「そうだけど?」
「……そうか」
「……」
「……」
「……えっ、なに?」
「別に」
妙な質問をしてきたタイオンの真意がわからなかった。
何故そんなことを聞いてくるのだろう。
しかも、なんとなく機嫌が悪いように見える。
腑に落ちない態度が気に食わなくて詰め寄ると、彼は少し視線を泳がせながら妙なことを言い始めた。
「君、もしかして女子の友達はいないのか?」
「はぁ?いや普通にいるけど」
「ならその女子の友達と出かければいい。どうしてわざわざ男子の輪に入る?」
「“どうして”って、誘われたから乗っただけだよ」
「誘われたからってホイホイ男しかいない場に、しかもカラオケなんて密室に行くんじゃない。しかもあんな遅くまで一緒にいるなんて危ないだろ」
斜め上からの指摘に、ユーニは思わず言葉を失った。
ノアやランツやヨランは間違いなく男だが、彼ら3人に異性的な警戒心を抱いたことはない。
3人とは何度もカラオケの密室で数時間過ごしていた経験があるが、妙な展開になったことは一度たりともない。
彼ら3人への警戒を促すようなことを言われるとは予想すらしていなかった。
「ノアたちは友達だぜ?そんな風にはならないって」
「君はそう思っていても相手はどうかわからないだろ。男というのは常々“あわよくば”を狙っているものだ。たとえ友達でも男しかいない場に出かけるのはどうかと言っているんだ」
「アタシが誰と出かけようがタイオンには関係なくね?」
「ある。僕は君の保護者なんだぞ」
「彼氏ならともかくただの友達との遊びを制限される謂れはねぇよ。居候するときの条件にも“男と遊ぶな”なんて項目なかったし」
「なら今から追加する。以降、男だけしかいない場に遊びに行くのを禁ずる」
「はぁぁ?横暴すぎるだろ流石に。束縛激しい彼氏かよ」
「別に彼氏面をしているつもりはない。保護者として憂慮しているだけだ」
タイオンは昔から論理的で現実的な男だった。
彼の言葉に不条理や理不尽を感じたことはない。
なのに今は、何故だかタイオンの言葉に正当性を感じない。
やけに感情的で筋が通っていないのだ。
最初に設定した居候の条件を覆したり、急に異性と遊ぶことに口を出してきたり。
まるで嫉妬している重めの彼氏のようだ。
「もしかしてタイオン、やきもち妬いてる?アタシが他の男と遊びに行ったから」
車の窓に肘を立てながら、揶揄うように煽ってみる。
どうせまた冷涼な態度で否定してくるに違いない。
そう思っていたが、タイオンの反応は予想外なものだった。
「な、なに言ってる!? なんで僕が男子高生相手に嫉妬しなくちゃならない!?」
瞬きの回数を増やし、視線を泳がせているタイオンは誰がどう見ても動揺していた。
その分かりやすすぎる態度は、明らかに図星にしか思えない。
予想外の反応に、ユーニは思わず面食らう。
「いや、え…?図星じゃん」
「違う!」
「めっちゃ嫉妬してんじゃん」
「子供に嫉妬するほど落ちぶれちゃいない。僕はただ君が……」
むきになって言い返そうとしていたタイオンだったが、突然気まずそうに言葉を詰まらせた。
結局そのあとに続く言葉を口にすることはなく、“なんでもない”と顔を逸らすとまた黙り込んでしまう。
心なしか、むっとした表情を浮かべたタイオンの横顔はほんの少しだけ赤らんでいたような気がした。
いつも大人としての威厳を保とうとしているタイオンの少し幼い嫉妬心を垣間見たことで、胸がきゅんと締め付けられる。
10歳も年上だったはずのタイオンが、この時だけ初めて、アイオニオンにいた頃のタイオンの姿と重なって見えた。
Act.08 卑怯な大人
「リリース日が目前に迫っている。今まで以上にきつくなると思うが、みんなよろしく頼む」
そんなイスルギの締めくくりにより、1時間の会議は無事終了した。
タイオンが所属しているプロジェクトチームは、ここ数日ピリピリとした緊張感が漂っていた。
というのも、携わっているプロジェクトの納期が迫っているのが原因だろう。
彼が担当しているのは、とある大手通販ショップの新サービスに向けたシステム構築。
リリース日が1週間後に迫っている今、検証作業や最後の調整等でチーム内は大忙しなのだ。
当然、タイオンも例外ではない。
これまで数々のプロジェクトに携わってきたが、リリース直前は多忙になるものだ。
深夜まで残業することは珍しくなく、徹夜でPCに向かっていたこともある。
恐らく今回もそうなるだろう。
今までなら深く考えることなくその状況を飲み込めていたが、ユーニという同居人がいる今回ばかりはそうもいかない。
彼女のことだ。どうせこちらが帰宅するまで夜更かしするに違いない。
遅くなる旨を事前に連絡し、さっさと寝るよう促しておかなくては。
広げていた資料をまとめ、端末を閉じたタイオンは、他のメンバーたちと同じように会議室から出ようと席を立った。
だがその時、不意に上座の席に腰かけていたイスルギから声を掛けられる。
反射的に立ち止まり、イスルギの元へと歩み寄ると、他の社員が全員会議室からいなくなったことを確認し彼は小声で問いかけ始めた。
「例の話、考えてくれたか?」
両肘を机の上につき、前のめり気味に聞いてくるイスルギの言葉に、タイオンは一瞬だけ視線を逸らした。
気まずげなタイオンの様子に、察しのいいイスルギはすぐに苦笑いを浮かべ背もたれに上体を預ける。
「その様子では、色よい返事は聞けそうにないな」
「すみません」
「構わん。急な話だったからな。彼女がいることを知った時から断られるだろうと踏んでいたさ」
イスルギは例のハートのさくらでんぶ弁当を目撃したあの日から、“タイオンには毎日弁当を作ってくれる健気な彼女がいる”と勘違いしている。
上手い言い訳が思いつかずそのままにしているが、この話題が出るたびその“健気な彼女”の正体が女子高生であるという事実が露見する未来にびくびくと怯えていた。
「お前のことだ。きちんと将来を見据えた交際なのだろう?そんな彼女を残して海外転勤など、気が進まないだろうな」
イスルギの言う“例の話”とは、数日前に提案された海外転勤の話である。
勤務地はアメリカ。そちらで立ち上がるプロジェクトリーダーに、イスルギがタイオンを推薦したのだ。
かなり大規模なプロジェクトになることは確定しており、この話を呑めば最低でも3年、いや5年は向こうで働くことになるだろう。
会社としても大きな利益を見込んでいるこのプロジェクトのリーダーに抜擢されれば、出世は間違いない。
1人暮らしで身軽だった頃にこの話をされていれば、迷うことなく首を縦に振っていただろう。
だが、今は5年もの時間を海外で過ごす提案を易々とは受け入れられない。
自分が海外に行けば、ユーニは居場所を失ってしまう。
未成年である彼女を置いていくことなど、出来そうになかった。
「とはいえ、返答期間にはまだ時間がある。気が変わるかもしれないし、その時までじっくり考えてくれ」
「ありがとうございます。しかし、何故そこまで僕を?ほかにも技術力のあるメンバーはたくさんいます。その中から選出しては?」
「上から言われているんだ。“会社の命運を左右するほどの大きなプロジェクトだから、お前が一番信頼している人間を抜擢してほしい”と。だから迷わずお前に声をかけた」
「イスルギ部長……」
イスルギは、タイオンが新卒としてこの会社に入社したころから目をかけてくれていた直属の上司である。
恩もあれば尊敬もしている。
そんな相手にここまで言われれば、喜びを感じないわけがない。
柔らかい笑みを浮かべたまま席から立ち上がったイスルギは、そっとタイオンの肩に自らの手を添えた。
「お前はもっと上に行くべきだ。期待しているぞ」
そう言って、イスルギは端末を小脇に抱えながら颯爽と会議室を出て行ってしまった。
もし今、イスルギの背を追って“その話、受けさせてください”と言えば、彼は喜んでくれるのだろうか。もっと期待を寄せてくれるのだろうか。
そんな考えが頭に浮かんだが、すぐにかき消された。
ダメだ。自分にはユーニという保護すべき存在がいる。
彼女を引き取り、面倒を見ると決めた以上、途中で放り出すなんて無責任過ぎる。
せめて当初の約束だったユーニが高校を卒業するまでは、保護者として隣にいてやらなくては。
社会人としての出世欲と、大人としての理性が混ざり合う。
ユーニとイスルギ。ふたりを天秤にかけた結果、わずかにユーニの方へと天秤は傾いた。
静かに息を吐き、複雑な心境を振り払うかのようにタイオンは仕事に戻るのだった。
***
「今日も遅くなる。先に寝ててくれ」
朝。朝食を終え制服のジャケットに腕を通していると、スマホでニュースサイトをチェックしていたタイオンから事務的な話題が投げかけられた。
あまり歓迎できないその言葉に、ユーニはむっと唇をすぼませる。
最近のタイオンは毎晩帰りが遅かった。
終電で帰ってくるのは当たり前で、ここ1週間で日付が変わる前に帰宅した日は一度もない。
システムエンジニアは多忙だと聞いたことがあったが、ここまでとは知らなかった。
「最近マジで忙しそうだな」
「リリース日が近いんだ、今日から急に徹夜になる可能性が高くなる」
「ふぅん。じゃあまたノアたちとカラオケにでもいこっかな」
冗談で言ったつもりだった。
先日ノアたちクラスメイトとカラオケに行ったせいで帰宅が遅くなり、タイオンに迷惑をかけたばかりである。
だがそんな軽い冗談はタイオンには通用しなかったようで、彼は裸眼の瞳でキッとユーニを睨みつけた。
だが、不思議とそんなタイオンの圧はあまり怖さを感じなかった。むしろ可愛らしく思えてしまう。
理由は明確。ノアたちとカラオケに言ったあの夜、ぷりぷりと怒ってきたタイオンの小さな嫉妬心にある。
「冗談だって。そんなにやきもち妬くなよなー」
「はぁ……。だからそんなんじゃないと言っているだろ。僕はただ保護者として、カラオケという密室で異性と夜遅くまで遊んでいるのはどうなんだと思っていただけで――」
「ハイハイわかったわかった。もう他の男と遅くまで遊びにいかないって。タイオンの嫉妬は怖いからなー」
「だから違うと……。あぁもういい。さっさと学校に行ってくれ。遅刻するぞ」
ユーニがどこの誰と一緒にいようがどうでもいい。
だが、金銭的援助をしている保護者としては、彼女が非行に走らないよう見守る義務がある。
同じ男であるタイオンからしてみれば、ユーニがどれほど信頼を置いていたとしても相手は所詮男子高生。
彼らが四六時中エロいことを考えている生き物であるという事実はよく知っている。
カラオケなどという密室で、そんなオオカミ3匹と食べごろの羊であるユーニが数時間も一緒にいれば、何か間違いが起きてもおかしくはない。
そういったリスクを警戒しているだけだというのに、この恋愛脳な小娘は意地でもヤキモチを妬いていると思い込みたいらしい。
残念ながら、そんな小さなことでいちいち嫉妬心に駆られるような幼い段階はとうの昔に卒業している。
まして10歳も年が離れている子供相手に嫉妬なんてするわけがない。
都合のいい解釈をしてこちらを巻き込むのはいい加減にしてほしいものだ。
鬱陶しさを顔に出しながらため息をつくと、ユーニは“はいはい”とニヤついたまま鞄を肩にかけた。
ようやく学校に行く気になったらしい。
玄関に向かったユーニに安堵していると、1分も経たずに彼女はリビングへと帰ってきた。
なんだ?忘れ物か?
不審に思いながら視線を向けると、彼女は食卓に腰かけ足を組んでいたタイオンのそばに歩み寄ると、手に持っていた彼のスマホを奪いとる。
「おいなにを……」
「仕事頑張れよ、タイオン」
手を伸ばし、スマホを取り返そうとしたタイオンの頬に、柔らかな感触が触れる。
ちゅっと可愛らしい音と共に、ユーニの髪から漂うシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
頬に口付けられたのだと理解した瞬間、心臓が体から飛び出そうなほど跳ね上がった。
やられた。完全に油断していた。
急いで仰け反りユーニから距離を取るも、もう遅い。
満足そうにしているユーニの小生意気な笑顔を目の前に、タイオンは臍を噛む。
「何してる!?」
「激励のキス的な?」
「何度も言っているがそういう迂闊なことはやめてくれ。僕を社会的に殺す気か?」
「口ならともかくほっぺなら別によくね?海外じゃあいさつ代わりだし」
「この国にはそんな文化ないだろ!」
「タイオンさぁ、ちょっと考え過ぎじゃね?ほっぺにキスなんて親子でもやるスキンシップだろ」
「僕たちは親子じゃない」
「でもアタシの保護者である意味家族だろ?ほっぺにキスしたくらいでそんなに騒ぐとか、むしろタイオンの方がアタシを意識してんじゃねーの?」
「なっ……」
ぴしゃりと言い放たれた一言に、何も言えなくなる。
反論する言葉を失ってしまったのは、その指摘が一部図星だったからに過ぎない。
何も言えず目を大きく見開くことしかできないタイオンに、ユーニはまた悪戯な笑みを見せる。
“じゃあ行ってくる”と手を振りながら去っていく彼女の背を見つめながら、タイオンはふつふつと苛立ちを募らせていた。
あの小娘、こっちの気も知らないで……。
意識しているだと?そんなことあるはずがない。
だって相手は女子高生だ。自分が彼女と同じ高校生だったころ、彼女はまだ7歳で小学校に入学したばかりの年齢だ。
世代が違えば価値観も違う。そんな子供を相手に意識なんてするわけがない。
ありえない。あってたまるか。自分にそんな趣味はない。
そう言い聞かせながらも、ワイシャツの上から胸に手を当ててみるとバクバクと鼓動が高鳴っていた。
息が苦しい。これはあれだ。急に妙なことをされたから驚いただけ。
そうだ、不整脈だ。決してドキッとしたとか、そんな幼くてくだらない症状じゃない。
自分は大人だ、責任もモラルもある立派な大人だ。
女子高生の気まぐれな誘惑に翻弄されるなど、あってはならない。
「落ち着け僕。相手は21世紀生まれだ。2000年代生まれだ。物心ついた時からスマホがあった世代だ。大山のぶ代版のドラえもんを知らない世代だ。落ち着け僕」
ぶつぶつと現実を羅列していくも、ユーニによってかき乱された心が落ち着くことはなかった。
***
事前にイスルギから通達されていたように、件の会議以降ただでさえ忙しかったスケジュールはさらに忙しさを増していた。
朝から晩までPCを見つめ続けていれば、いくら仕事上慣れているとはいえ流石に目が疲れてくる。
コンタクトからブルーライトカットの眼鏡に変えたのは英断だった。
おかげで瞳への負担は幾分かマシになっている。
その日、予期せぬアクシデントが発生し現場がざわついたのは昼過ぎ頃のことだった。
明日完成予定のシステムが検証の結果上手く作動していないことが判明し、絶望の声が上がったのだ。
明日の朝までになんとか不具合を直さなくてはならない。
エンジニアたちは血走った目でPCに向かっている。
無論タイオンもそのうちの一人であり、黙々と指を動かし作業に没頭する。
夕方17時ごろ、これはどうも帰れそうにないなと判断した彼は、スマホでユーニに連絡を取った。
今夜は帰れそうにない。
明日の始発で帰るがすぐに会社に戻るので朝食の準備だけ頼みたい。と。
返事はすぐに来た。こちらの体調を心配する旨のメッセージだったが、返事を返す時間的余裕がなかった。
同じチームに所属している他のメンバーも、ほとんどが夜を徹し作業に打ち込むことになった。
栄養ドリンクと飲むタイプのゼリーで補給しつつ、必死に頭と手を動かし続ける。
何度も試行錯誤を繰り返し、検証しては失敗し、また検証しては失敗しの繰り返し。
やがて5回目の検証で、ようやくシステムが正常に動くことが確認され、現場からは歓喜の声が上がった。
時刻は朝4時半。
なんとか時間までに作業が完了し安堵したが、まだすべてのタスクを消化しきれたわけではない。
まだまだやらなくてはならない仕事は残っているが、これ以上の労働はパフォーマンスが落ちるという上の判断で、交代でそれぞれ帰宅し休むことになった。
ユーニに事前連絡していた通り、タイオンは始発に乗って自宅へ帰ることに。
家についたのは5時過ぎで、ようやく朝日が昇りはじめた頃合いだった。
朦朧とした頭で鍵穴に鍵を差し込み家の中へ入る。
帰宅できたものの、仕事が残っているため昼過ぎにはまた会社に戻らなくてはならない。
とりあえず体力回復のために2時間ほど仮眠をとりたいが、ベッドで横になると寝過ごしてしまうかもしれない。
ソファで横になって仮眠をとろう。
そんなことを考えながらふらふらとリビングに入ると、ソファで横になっているユーニの姿が視界に入った。
手にはスマホを持っており、クッションを抱きしめながら眠っているその様子から察するに、こちらの帰宅を寝ずに待っていたが途中で睡魔に負けて寝落ちしてしまったのだろう。
まったく、先に寝ていろと言ったのに。
このままではソファで仮眠が取れない。
スーツのジャケットを脱ぎネクタイを緩めると、タイオンはソファで横になっているユーニの背中と両ひざの裏に腕を滑らせた。
横抱きにして抱き上げると、小柄なユーニの身体はいとも簡単に持ち上がる。
規則正しい寝息を立てているユーニの頭が、タイオンの肩へと寄り掛かる。
彼女を起こさないよう寝室へ移動し、誰もいないベッドへとその体をそっと下した。
身体を持ち上げられたというのにユーニは一切起きる気配がなく、あどけない表情で眠り続けている。
小ぶりな唇からはすぅすぅと寝息が聞こえてくる。
なんとなくじっと見つめていたタイオンだったが、彼女の安らかな寝顔を見ていると妙に安堵している自分に気が付いた。
以前、彼女は夜中に寝ている自分を起こし、悪夢を見たから一緒に寝たいと縋ってきたことがある。
ハーブティーを淹れてやったらすぐに落ち着いたようだが、結局あの時どんな夢を見ていたのかは教えてくれなかった。
彼女はまだ子供だが、悪夢にうなされ一人で眠るのが怖くなるほど幼くはないはず。
あそこまで怯えた様子で同衾を求めてくるということは、相当嫌な夢を見たに違いない。
彼女には痛ましい過去がある。家族を目の前で強盗犯に殺されたという過去が。
そのおぞましい過去が、彼女に悪夢を見せたのかもしれない。
もしそうなら、まだ十代の彼女にとってその傷はあまりにも深い。
彼女はこれからも、家族を失った日のことをずっとトラウマとして胸に抱えながら生きていくことになるのだろうか。
そう思うと、こうして彼女が安らかに眠れている今の状況は喜ぶべきものなのかもしれない。
ユーニはもう十分傷付いた。これ以上過去に苦しめられることなく幸せに生きてほしい。
「タイ、オン……」
眠っているはずのユーニが、不意に自分の名前を呼んだ。
起こしてしまったのかと一瞬焦ったが、どうやらそうでもないらしい。
眠りの世界に意識を沈めながら、彼女は震える声で囁いている。
「おいて、いかないで……」
ユーニの白い肌に、一筋の涙が零れ落ちる。
幸せな夢を見ているようには思えなかった。
夢の中で彼女を苦しめているのは、例の強盗犯ではなく、この僕なのか。
長い睫毛が生えそろった瞼を、閉じたまま、唇はわずかに震えている。
一体何に怯えているのか。僕はここにいるのに。
自然と手が伸びる。頬に伝う彼女の涙を人差し指拭ったその瞬間だった。
ベッドの上で丸くなっているユーニの頭に、白い翼が浮かんで見えた。
あまりにも疲労が蓄積したことによる幻覚かとも思ったが、目に映る美しい翼には妙に現実味がある。
何だこれは。どうなってる?
戸惑いながら視線を移すと、自らの左手のひらに見慣れない模様が浮かんでいるのが見えた。
まるで賽の目のようなその模様は、一部が赤く染まっている。
なんだこの印は。こんなもの、つけた記憶はない。
動揺し再びユーニに視線を戻すと、先ほどまで見えていた白い翼は消えてなくなっていた。
左手に浮かんだ妙な刻印も、いつの間にか消えている。
幻か?にしては支離滅裂で意味不明だ。
背中ならともかく頭に羽が生えるなんて。
やはり疲れているのだろう。
次の作業に向けて少しでも体力を回復しなければ。
ふらつきながらベッドから立ち上がると、寝息を立てているユーニに背を向け、タイオンは寝室を後にした。
***
スマホのアラーム音で目が覚めて、まどろみの中で手を伸ばす。
音を鳴らし続けているスマホの画面を見つめると、そこにはいつもの起床時間が表示されていた。
いつもはリビングに敷いた布団の上で眠っているはずだが、昨日はソファでゴロゴロしながらタイオンの帰りを待っていたはず。
にもかかわらず、何故か寝室のベッドの上で眠っているこの状況に動揺してしまう。
どうしてこんなところで寝ているのだろう。
その答えはリビングに入室したことですぐで理解した。
タイオンがソファの上に仰向けで横になっている。
緩んだネクタイをつけたまま、ワイシャツ姿で眠っている様子から察するに、早朝帰ってきてそのまま眠ってしまったのだろう。
瞼を閉じている状態でも、タイオンが疲労困憊しているのがよくわかる。
仕事が忙しいとは聞いていたが、本当に徹夜するほどだとは思わなかった。
学校に行く支度をして、制服に身を包む。
朝食を作って食卓に置き、“目が覚めたら食べて”と書置きを残す。
おそらくタイオンはこの後も仕事に行くのだろう。
朝から晩まで働いて、ようやく帰ってきたと思ったらまたすぐに会社に行くことになるなんて、いつか体を壊してしまうんじゃないだろうか。
心配になりながら膝を折り、タイオンが眠っているソファの脇に腰を下ろす。
「お疲れタイオン。あんま無理すんなよ」
タイオンの褐色の頬を人差し指でかるくつついてみる。
だが、寝息を立てたままの彼は起きる気配がない。
相変わらず眠りの世界から覚めずにいるタイオンを前に、ユーニはちょっとした悪戯心を抱いてしまった。
「なぁタイオン。キスしてもいい?」
その小さな問いかけに、タイオンは目を閉じたまま答えない。
眠っているのだから返事がないのは当然だ。
ユーニはそれを分かったうえで聞いていた。
返ってくるはずのない返事を待たず、再び呟く。
「いいよな。返事しなかったお前が悪い」
手を伸ばし、横たわった腹の上に置かれているタイオンの手に自らの手をそっと重ねる。
息を殺し、ゆっくりと顔を近づけ、目を閉じる。
唇に柔らかな感触が触れると同時に、トクントクンと自分の心臓が高鳴るのを感じた。
タイオンが起きていたら、きっと烈火のごとく怒るのだろう。
だって自分たちは“そういう間柄”じゃない。
いつだってふたりは大人と子供で、10歳の年齢差はどれほど時が経とうとも埋まることはない。
タイオンから言わせれば、大人が子供に手を出すなんてご法度。大人失格だ。
けれど、子供から手を出せば問題ないはずだ。
こんなのただの言い訳。姑息な行為だということは分かっていた。
それでもなお、この淡く切ない気持ちは抑えられそうにない。
唇を離しても、タイオンが目を開けることはなかった。
相当疲れていたのか、眠りについたままその瞼はピクリとも動いていない。
「ズルいことしてごめんな」
儚い笑みをうっすら浮かべたユーニは、ゆっくりと立ち上がる。
寝室から毛布を持ってくると、ソファで眠ったままのタイオンの身体にかけてやった。
床に置いてあった鞄を手に持ち、リビングを出る。
今夜、また疲れて帰ってくるであろうタイオンのために甘いものでも買ってこよう。
そんなことを考えながら、ユーニはなるべく音をたてないように玄関から外へ出るのだった。
廊下の向こうから“ガチャっ”という玄関扉が閉まる僅かな音が聞こえてきたと同時に、ソファに横たわっていたタイオンはゆっくりと目を開ける。
見慣れた白い天井を視界に入れると、彼は深いため息をついた。
なんとなく想像はついていた。眠っている自分を前に彼女が何をするのかなんて。
常日頃から青い好意を隠そうとしないユーニは、隙を見せればその危うい積極性を発揮してしまう。
分かっていたはずなのに、止めなかった。
目を開けて拒絶し、“馬鹿なことはやめろ”と言えばそれでよかった。
なのに、しなかった。
大人である自分から行動するのはNG。
だが、眠っている間に向こうから行動を起こされるのは不本意な出来事であり、拒絶のしようがない。
そんな都合のいい大義名分を掲げて、狸寝入りを決め込んだ。
よこしまな期待と下心が、タイオンを“立派な大人”から“非常識な大人”へと変えていく。
「ズルいのは僕のほうだな……」
ユーニからの口付けのせいで、すっかり眠気など覚めてしまった。
罪悪感と自責の念に包まれながら、タイオンはソファから上体を起こすのだった。
***
「イスルギ部長、作業完了しました。こちら報告書になります」
「あぁ、ご苦労様」
昼過ぎに会社に帰ったタイオンは、すぐさま今朝終えたばかりの作業を報告書にまとめ、部長であるイスルギに提出した。
徹夜明けである今日は、会社に来ている社員の人数が少ない。
少々寂しいオフィスの中心で、イスルギはタイオンから受け取った報告書に目を通し始める。
「昨晩はすまなかったな。無理をさせた」
「いえ、仕事ですから」
「例の弁当を作ってくれる健気な彼女に心配されたんじゃないのか?」
「……」
「……タイオン?」
何も返事をせず俯くタイオンに、心配したイスルギは書類から目を逸らし首を傾げた。
脳裏に浮かぶのは、今朝囁かれたユーニの言葉。
“お疲れタイオン。あんま無理すんなよ”
慈しみ深い彼女の言葉に、喜びを感じなかったと言えばウソになる。
自分の身を案じ、帰りを待ってくれる人がいるなんて、こんなに喜ばしいことはない。
たとえ相手が、10歳も年下の少女であっても。
ユーニは多分、きっと、おそらく、いや確実に自分に好意を寄せている。
理由はよくわからない。
アイオニオンだのウロボロスだのよくわからない妄言を度々口にしているが、その現実離れした妄想のせいなのかもしれない。
どんな経緯であれ、好意は好意。
純粋無垢な少女から熱を孕んだ視線を向けられ続ければ、どんなに誠実で真面目な大人であっても揺らいでしまう。
その視線による熱によって自らの心が溶かされつつある事実に、タイオンは気付き始めていた。
彼女の近くにいると、健全で立派な大人である自分自身の理想像がいつか崩れる。
ぎりぎり“子供”として見れているユーニを、“女”として見てしまう日が来るかもしれない。
そんなインモラルな未来が恐ろしくて仕方なかった。
このままじゃいけない。ユーニの近くにいちゃいけない。
今朝の出来事で危機感を煽られたタイオンは、ひとつの決断を下していた。
「イスルギ部長、例の話、まだ生きてますか?」
タイオンの一言に、イスルギは驚いたように目を丸くさせた。
ユーニという蠱惑的な存在にこれ以上惑わされないよう、手を打つしかない。
心が吸い寄せられつつある今、できることはただ一つ。
物理的な距離を取ることだけだった。
Act.09 いかないで
その日のユーニはいつもより少し機嫌がよかった。
朝のアラームより5分早く起きられたし、朝食のパンケーキがうまく焼けた。
鼻歌を歌いながらパンケーキをフライパンから皿に盛りつけていると、スーツに着替えたタイオンがリビングに入ってくる。
“おはよ”と声をかけると、伏せた目で“あぁ”と返ってくる。
相変わらずの塩対応だが、そんなタイオンの冷たさが気にならない程度にユーニは上機嫌だった。
理由を聞かれても詳しくは口に出せない。
例えば馬鹿正直にタイオンに理由を話せば、盛大に怒られるだろう。
言えるわけがない。眠っているタイオンにそっとキスをしてしまっただなんて。
眠っていたタイオンはきっと気付いていないだろう。
卑怯で姑息な秘密のキスは、淡い気持ちを胸に宿しているユーニの機嫌を容易く上向かせてくれた。
制服への着替えが既に済んでいるユーニは、首からかけたエプロンを脱ぎ捨てると、ふわふわなパンケーキが乗った皿を二人分食卓へ運ぶ。
タイオンと向き合うように席につき、彼が“いただきます”と小声でつぶやいたと同時にユーニもパンケーキへと手を付けた。
「今日のパンケーキふわっふわじゃね?」
「そうだな」
「美味い?」
「あぁ」
「よかった。最近タイオン仕事忙しそうだったからさ、糖分取った方がいいかなと思って」
「それはどうも。昨日無事リリースを迎えられたから、今日からは仕事も落ち着くはずだ」
「えっ、マジで?じゃあ残業も休日出勤も無し?」
「あぁ、しばらくは」
タイオンの口からもたらされた情報は、なによりの朗報だった。
最近のタイオンは仕事があまりにも忙しいせいか、毎晩残業続きだったうえ頻繁に休日出勤までしていた。
おかげで同じ家に住んでいるというのに彼と顔を合わす機会は限りなく少なく、こうして朝の忙しいタイミングに一言二言話すだけのコミュニケーションに限られていた。
流石にそろそろ寂しくなっていたユーニとしては、タイオンの仕事がひと段落した事実は喜ばしい。
「じゃあさ、今度週末にまたドライブしようぜ!前は鎌倉だったから、今度は日帰り温泉とかどう?温泉入れば疲れも癒せるんじゃね?」
どうせ泊りはまた反対されるだろうから、最初から日帰り旅行を提案してみた。
タイオンと一緒に温泉なんて、絶対に楽しいに決まっている。
前のようにタイオンが運転する車で行くのもいいが、専用列車に乗って鉄道の旅をするのもいいかもしれない。
ここから日帰りで行ける有名な温泉観光地はどこだろう。
制服の内ポケットからスマホを取り出したユーニは、さっそく旅行サイトで温泉地を検索し始める。
既に行く気満々になっているユーニを前に、黙々とパンケーキを食べ進めていたタイオンは小さく息を吐き、音が鳴らないようそっとナイフとフォークを食器の上に置いた。
「ユーニ、大事な話がある」
まだ完食していないにも関わらず、わざわざナイフとフォークを置き、両手を膝の上に置いて背筋を伸ばすタイオンの様子に、なんだか嫌な予感がした。
たぶんきっと、いい話じゃない。
これから楽しい話をする人間の顔じゃない。
真剣なその表情は、まるで死刑を宣告する裁判長のようだった。
「なに、急に……」
自然と顔が引きつる。
スマホから視線を外して恐る恐るタイオンを見つめると、彼は無の表情を崩すことなく淡々と話し始めた。
「うちの会社では10月に大規模な人事異動が発生する。僕もそのタイミングで今の部署を離れることになるだろう。以前から持ち上がっていた大きなプロジェクトのリーダーを任されることになったんだ」
「えっ、そうなの?」
「会社としても大きな利益を見込める大規模プロジェクトらしい。無事成功させれば、社内での評価も上がるだろう」
「それって出世に繋がるってこと?よかったじゃん。流石だなタイオン」
一時は何事かと思ったが、どうやらただの栄転だったらしい。
なんだ、よかった。また朗報じゃないか。
迫真の顔で“大事な話がある”なんて言うからびっくりした。
嫌な予感がただの杞憂に終わったことに安堵感を覚え、全身から力が抜けていく。
「けど、大きなプロジェクトってことはまた忙しくなるってことなんだよな?」
「あぁ」
「そっか。家のことは心配すんな。アタシが完璧にしといてやるから。ちゃんと栄養バランス考えて食事も作ってやるからな」
「その必要はない」
「え?」
タイオンは仕事の日はいつも眼鏡をかけていないと言っていた。
平日の今日も例外ではない。
未だ見慣れない眼鏡をかけていないタイオンの目が、じっとこちらを見つめている。
いつもは嬉しいその視線が、今日は何故だか恐ろしかった。
逸らされることのない視線が、タイオンの決意を物語っているようで。
「10月以降、僕の食事を作る必要はない」
「なんで……?」
「新しいプロジェクトの本拠地は海外だ。10月初日から、アメリカに転勤する」
声が出なかった。
頭が真っ白になる、なんて表現を小説や映画でよく聞くが、今の自分がまさにその状態なのだろう。
そんな突拍子もない話、初耳だった。
アメリカなんて聞いてない。どうして急にそんなことに?
聞きたいことは山ほどあるはずなのに、押し寄せる疑問の波がユーニの頭を混乱させ、言葉を奪っていく。
黙ったまま固まっている彼女に、タイオンは相変わらず感情のない表情で言葉を続けた。
「安心してくれ。向こうに行くのは10月だが、君が高校を卒業するまではこの家の家賃は払い続ける。流石に家事の対価は払えないが、門限もバイト禁止令も解除する。無事高校を卒業して働き始めるまではここにいてくれて構わない」
「……どれくらい?」
「ん?」
「どれくらい、向こうにいるの?」
タイオンからの事務的な報告はほとんど耳に入っていなかった。
かすれた声で問いかけると、正面に腰かけるタイオンはホットコーヒーが入ったカップに口をつけ、一息ついてから回答する。
「最低でも3年と言われたが、プロジェクトが完全に落ち着くまで担当するとなると5年は帰れないと見込んでいる」
5年。まだ18年しか生きていないユーニにとって、それはあまりにも長く、途方もない時間に思えた。
5年もあれば、人はあっという間に変わってしまう。
これからタイオンときらきら輝くような日々を過ごして生きていけると思っていたのに、会いたくても会えない地獄の5年を生きろというのか。
「それ、もう決定なの?」
「あぁ」
「やだ」
「やだと言われても」
「やだ。無理。行かないで」
「ユーニ」
「アメリカとか聞いてない。絶対無理。他の奴が行けばいいじゃん」
「馬鹿なことを言わないでくれ」
「10月ってなんだよ。あと3か月もねぇじゃん。やだ。今から断って」
「わがままを言うな」
駄々をこねるユーニに対して、タイオンはあくまで迷惑そうな態度を貫いていた。
突き付けられた事実そのものも残酷だが、それを平気な顔で口にできるタイオンも残酷に思えた。
どうしてそんなに普通にしていられるのだろう。
5年だぞ。5年も会えなくなるんだぞ。
絶望感に打ちひしがれている自分と、平気な顔をしているタイオン。
ふたりの好意の天秤が、今明らかに目に見える形で表れている。
そうか。
タイオンにとって、アタシと5年も離れることなんて、人生において苦痛でも何でもないんだ。
その事実を咀嚼した瞬間、今までの自分の言動がすべて馬鹿らしく思えた。
この世界で再会できたことを喜んでいたのも自分だけ。
一緒に住めることに歓喜していたのも自分だけ。
距離を縮めたいと思っていたのも自分だけ。
ずっと一緒にいたいと思っていたのも自分だけ。
何もかも自分だけの、完全なる一方通行だった。
「なんでだよ……。なんでそんな大事なこと、アタシに相談も無しで決めんの?おかしいじゃんそんなの……っ」
声が震える。
感情が揺さぶられて、脳の命令とは反対に涙が出そうになった。
泣くな。今泣いたら面倒くさいと思われる。子供だと思われる。
“大人”であるタイオンとの距離が、また遠くなる。
そんなの嫌だ。
必死に涙をこらえながら意見をぶつけるユーニだったが、そんな彼女をタイオンは容赦なく突き放す。
「僕の人生だ。何故君の許可がいる?」
手元に落ちていたユーニの視線が、恐る恐る上がっていく。
熱を帯びたユーニの青い視線と、タイオンの冷めきった褐色の視線が交差して、互いの瞳に相手が映る。
「君は僕の家族でもなければ恋人でもない。赤の他人に人生の舵を握られるなんて御免だ」
短く言い放たれた拒絶の言葉は、ユーニをいともたやすく傷つける。
ふたりの間に鋭い線が引かれ、ここから先には入ってくるなと言われているかのよう。
ズタズタに傷つけられた心は、これ以上タイオンと一緒にいると粉々になってしまうかもしれない。
それが恐ろしくて、ユーニはパンケーキを残したまま鞄を持ち上げ玄関へと駆け出す。
「ユーニっ」
呼び止められた瞬間、反射的に足が止まる。
腹が立っているはずなのに、タイオンから名前を呼ばれただけで呆気なく足を止めてしまう自分が恨めしかった。
「約束したのに。迎えに行くって、一人にしないって約束したのに……」
嘘つき。
最後にそう呟いて、ユーニは逃げるように玄関から飛び出した。
タイオンが一人残されたリビングは、しんと静まり返っている。
痛いほどの静けさを感じながら、彼は深くため息をつく。
“迎えに行く”なんて、まして“一人にしない”なんて約束、交わした覚えはない。
また彼女はありもしない幻想の話をしていたのか。
彼女が思い描く“アイオニオン”とかいう世界に存在していた自分は、ユーニとどんな関係を築いていたのだろう。
ユーニと同じ目線で話せるイーブンな関係だったに違いない。
だが、今の自分とユーニはどう考えても対等とは言い難い。
10年も離れている年齢が、二人の関係に差をつける。
例えばふたりが同じ年に生まれていたら。
ユーニが自分と同じ28歳だったなら、
自分が彼女と同じ男子高生だったなら。
そんなくだらない仮説を頭で組み立てては、無駄だと知ってすぐに壊す。
こんな生産性のない思考に囚われるのはもう嫌だった。
ユーニはまだ子供で、生まれた年も価値観も違う遠く離れた存在だ。
手を伸ばすのは許されない。
だから、いっそ嫌われたほうがいい。
これから続くユーニの素晴らしい人生に、“女子高生に淡い感情を抱くインモラルな大人”なんて登場しちゃいけない。
彼女は一刻も早く自分という最低な人間のことを嫌いになって、綺麗さっぱり記憶から抹消して、もっと対等な立場の人間と愛を育むべきなのだ。
辛い思いを散々してきたユーニを包み込んでやれるのは、これから出会うであろう清廉潔白な同世代の男に違いない。
「思ってもないことを言うのは体力がいるな……」
椅子に座ったまま天井を仰ぐ。
言葉を刃に変えて突き立てたのはこちらの方だというのに、タイオンの心もまた、傷だらけになっていた。
***
「今回のプロジェクトリーダーを務めることとなりました、第三エンジニアリング部のタイオンと申します。よろしくお願いいたします」
端末越しに頭を下げると、投影されたスクリーンに映し出されている会議参加メンバーが一斉に拍手を送る。
6分割された画面それぞれに映っているのは、アメリカやイギリスを始めとする多国籍のチームメンバーたち。
全員英語話者のようだが、円滑なコミュニケーションをとるにはそれなりに配慮が必要そうだ。
そんなことを考えているうちに、イスルギも同席したプロジェクトチームのリモート顔合わせは無事終了した。
「どうだタイオン。やれそうか?」
「えぇ。全員共通して英語は話せるようで安心しました。多言語が飛び交って混乱するような現場にはならずに済みそうです」
リモート会議終了後、回線を切断してすぐ様子をうかがってきたイスルギにそう返答すると、彼は軽やかに笑った。
「まぁ途中で人員異動は発生するだろうが、基本的に3年以上はあのメンバーでやっていくことになる。親しくなれるといいな」
微笑むイスルギは、ねぎらうようにタイオンの肩を軽くたたき、端末を小脇に抱えて会議室から出て行った。
ふと、スーツの内ポケットにしまっていたスマホをに視線を落とす。
ユーニからの連絡は特に来ていないようだ。
今朝ちょっとした言い争いをしてしまったため少々気にかけていたのだが、やはりフォローのメッセージを入れた方がいいだろうか。
“今晩は外で夕食をとろうか”
ガラにもなく機嫌を取るような内容だった。
送信してみたが、既読はつかない。
いつもはこちらからメッセージを送れば、授業中だろうが何だろうがすぐに既読がついて返事が来るはず。
授業に集中しろと毎回小言を返していたが、いざこうしてすぐに既読がつかないとなると少々落ち着かなくなってしまう。
ただ気付いていないだけなのか、それとも無視されているのか。
「はぁ……何を気にしてるんだ僕は」
ため息をつき、スマホを内ポケットにしまって会議室を出た。
足早にオフィスに戻り、自分のデスクに腰を下ろすと、デスクの端に置かれた卓上カレンダーが目についた。
西暦2024年と書かれているそのカレンダーを呆然と見つめ、思想にふける。
最低でも3年。多く見積もって5年はこの国を離れることになる。
5年後のユーニは23歳、もう立派な大人と言える年齢だ。
基本的に、十代の精神年齢は男よりも女の方が高いと言われている。
今は同級生など子供にしか見えないのだろうが、5年も経てば同世代の男たちも精神的に成熟し、立派な大人の男へと成長するだろう。
一方で自分は5年後33歳になっている。間違いなくおっさんだ。
周囲に魅力的な同世代が増えているであろう5年後のユーニが、それでもなお33歳の男に魅力を感じ続けてくれるとは到底思えない。
時の流れは残酷だ。
子供から大人に成長する過程で、彼女はきっと様々な価値観に触れることになる。
外面も内面も成長した彼女は、いつか気付くことになるだろう。
10歳も年上の男に現を抜かすことの愚かしさに。
いつまでもうじうじと考え込んでいるのが馬鹿らしくなって、卓上カレンダーをぴんっと指で弾いた。
これでよかったのだ。物理的な距離が離れればユーニはきっと自分を忘れてくれる。
強く突き放せばきっと嫌ってくれる。
そうでもしないと、手を伸ばしてしまいそうになる。
彼女から離れることが、彼女の人生を守ることにもなるのだ。
そう言い聞かせながらも、既読がつかない彼女とのメッセージを気にしている自分がいた。
***
その夜、タイオンは久しぶりに定時で退社した。
相変わらずユーニからの返事はない。
時刻はまだ18時半だが、彼女はもう学校から家に帰っているはず。
10月には離れ離れになるとはいえ、あと2カ月半は一緒に暮らし続けなければならない。
気まずいままでいるわけにはいかないし、少し機嫌を取った方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら玄関に鍵を差し込み、中に入る。
いつもは明るいはずのリビングの照明が消えたままになっている。
ユーニが部屋の中で履いているスリッパも、玄関で脱ぎっぱなしのまま。
人の気配がしない室内に嫌な予感がよぎった。
「ユーニ……?」
彼女の名前を呼んで部屋中を見て回ったが、その姿はどこにもない。
時計を確認すると、時刻は18:42を指していた、
まだ門限は過ぎていない。きっとまた友達と出かけているのだろう。
心配するような時間じゃない、大丈夫だ。
だが、嫌な予感は一向にぬぐえない。
大丈夫、大丈夫。必ず帰ってくる。
そう言い聞かせていたタイオンだったが、1時間、2時間と経過していくごとに不安はどんどん大きくなっていった。
時刻は9時半を回っているが、一向に返ってくる気配がない。
何度かユーニのスマホに電話をかけているが、やはり出てはくれなかった。
まさかユーニの身に何かあったのでは。
いや、それよりも家出の可能性のほうが高いか。
アメリカへの転勤を聞いて、彼女はひどく怒っていた。
このまま帰らないつもりなのかもしれない。
焦りと恐怖感が頭を支配する。
気付けば上着を引っ張り出し、車のキーを片手にマンションを飛び出してしまっていた。
***
本日12回目のコールが鳴り響く。
テーブルに置いたスマホに視線を落とすと、ディスプレイには“タイオン”の文字が表示されていた。
いい加減しつこい。もうあきらめろよ。
ディスプレイを暫く睨みつけていると、ようやく着信は止まった。
放課後を迎え学校を出たユーニは、駅前をぶらぶら歩いた末にこの喫茶店に入った。
カウンター席に腰かけ、注文したカフェラテ一杯で3時間近く粘っている。
学校を出る直前、ノアたちに時間つぶしに付き合ってほしいと声をかけたが、あっさり断られた。
“従兄を心配させない方がいい”と言って。
仕方なく一人で学校を出たユーニだったが、真っすぐ家に帰るのは癪だったので寄り道することにした。
こうして同じ場所で長時間過ごしているうちに、どんどん家に帰るのが億劫になってくる。
原因はただ一つ。タイオンだ。
彼の顔を見たくなくなってしまった。
18時を過ぎてから、もう何度もタイオンから電話がかかってきている。
恐らく心配しているのだろう。だが絶対に応答してやらない。
もっと心配すればいい。もっともっと自分のことを考えて、ちゃんと優しくしておけばよかったと後悔すればいい。
これはもはや幼稚な意地でしかなった。
「こういうところが子供なんだろうな、アタシ……」
自分の幼さから目をそらすように、ユーニはカウンターに突っ伏した。
今朝、海外転勤になったと打ち明けてきたタイオンに、みっともなくわがままを言ってしまった。
やだ。無理。いかないで。
口から出る文句は全て自分本位で、実に子供っぽい。
タイオンが海外に行くのは仕事のためであって仕方のないことだ。
彼の言う通り、自分が嫌だと駄々をこねたところでどうにかるものじゃない。
もっと大人な女なら、“仕方ないね”と微笑んで気持ちよく送り出せるのだろうが、自分はそんな物分かりのいいことを言えるほど大人にはなり切れていないらしい。
タイオンの前では必死に背伸びをし続けていたつもりだったけれど、いくら背筋を伸ばしても、かかとに力を入れても、子供っぽい本性は隠せない。
どんなに手を伸ばしても、タイオンには届かない。
「すみません」
カウンターに伏せていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこには大学生くらいの女性店員が立っていた。
「そろそろ閉店となりますので……」
暗に“出ていけ”と言われているのだろう。
ぺこりと会釈をすると、ユーニは隣の椅子に置いていた鞄を肩にかけとぼとぼと喫茶店から外に出た。
スマホのディスプレイを確認すると、時刻は22時を回っていた。
制服姿で街を歩いていれば、警官に補導される時間である。
さてこれからどうしよう。行くあてがない。
喫茶店の店先で寄りかかりながら空を仰ぐと、真っ暗な空にぽつりぽつりと弱弱しい星の光が見えた。
この世界の空は明るすぎる。
アイオニオンで見た空は、あんなにも綺麗で美しかったのに。
「にゃあァ」
足元から聞こえてきたか細い鳴き声に視線を落とす。
黒い猫が、喫茶店の壁に寄り掛かっているユーニの足元にじゃれついていた。
恐らく野良猫だろう。
愛らしいその姿にふっと笑みを浮かべると、ユーニは膝を折り猫の隣にしゃがみこんだ。
「お前ひとり?」
「みゃーあ」
「人懐っこいな。アタシと一緒に来る?」
「ンみゃあ」
「名前はそうだなぁ……。モンドでどう?」
「にゃ」
「えーやだ?まぁモンドみたく白くないもんな、お前。じゃあ何がいいかな……」
「うちはペット不可物件だぞ」
突然頭上から聞こえてきた声に、黒猫は派手にびくついて逃げてしまった。
脱兎のごとく飛び出した黒猫は、人ごみに紛れてあっという間に見えなくなってしまう。
あーあ。可愛かったのに。
恨めし気な目で見上げると、やはりそこにはタイオンの姿があった。
「門限はとっくに過ぎているはずだが?」
「門限は解消するんだろ?」
「それは10月以降の話だ。僕が近くにいるうちは守ってもらう」
「……」
「ほら、帰るぞ」
しゃがみこんでいるユーニの腕を、タイオンが掴む。
だが、そんなタイオンの手を拒絶するようにユーニは腕を振り払った。
「アタシ、今日は帰らない」
「何言ってる?行くあてなんてないだろ」
「あるし。ノアとかランツに頼んで泊めてもらう」
「何を言って……。またそうやって他の男に頼る気か」
「高校卒業まで一緒にいてくれるって言ったくせに途中で投げ出すような大人よりよっぽど頼りになるよ」
途中で約束を放り出したというのに、今更保護者面しないでほしい。
勢いよく立ち上がってみるが、やはり自分よりも20センチ以上身長が高いタイオンとの視線はうまく合わない。
ユーニの言葉に、まるで傷付いたかのような表情で目を見開いたタイオンは、再び彼女の右腕を掴む。
「いいから帰るぞ!僕と一緒に来るんだ!」
「やだ!」
「ユーニ!」
力任せにタイオンの手を振り払う。
周りを行き交う人の目など気にする余裕もなく、ユーニは感情に任せて声を荒げた。
「アタシは赤の他人なんだろ!? だったらもう放っとけよ!」
「待てユーニ!」
背後からのタイオンの制止も聞かず、ユーニは脇目もふらず走り出した。
傍にいる、1人にしない。
そんな都合のいい言葉を並べるくせに、タイオンという男はいつも最終的には自分の隣からいなくなる。
離別を選んだ2つの地平に引き裂かれ、朝日の向こうに消えてゆくその姿を、一度だって忘れたことはない。
あの時のように、またタイオンは自分を置いて遠くに行ってしまう。
どんな時も一緒にいてくれなくちゃ意味がない。
ここにいて。行かないで。傍にいて。
そんな気持ちとは裏腹に、ユーニはタイオンの手を振り払い離れようとする。
人ごみをかき分け、イノシシのように突進した先には青信号の交差点。
交差点の歩行者信号を渡ってタイオンを振り切ろうとしたユーニだったが、横断歩道の真ん中でタイオンに追いつかれてしまう。
「ユーニ落ち着け!僕の話を聞け!」
「やだ!放せ!放せよ馬鹿!」
再び腕を掴まれ引き止められる。
必死で抵抗してみるが、今度は簡単に振りほどけなかった。
ユーニの細い手首を、タイオンが渾身の力で握りこむ。
この手を離せば、二度とユーニと会えなくなるような気がして力を抜けなかった。
「海外行きを勝手に決めたのは悪かったと思ってる!けどそうでもしなきゃ、僕が耐えられなかったんだ!」
「はぁ?」
「君は無遠慮に距離を詰めてくるし、こっちの事情なんてお構いなしだ。そんな君とこのまま一緒にいたら僕は……っ、いつかマトモな大人でいられなくなる」
その言葉を聞いた聞いた瞬間、抵抗していたユーニの手から力が抜ける。
ワンテンポ遅れて、驚きの色に染まった彼女の青い目がタイオンを見つめた。
こんなこと、言うつもりなんてなかった。
その時が来るまで胸にしまっておくつもりだったのに、ユーニから激しく拒絶された途端、引き止めるためになりふり構っていられなくなってしまった。
どうやら自分は、特別な感情を抱いた相手を徹底的に突き放せるほど大人にはなり切れていないらしい。
「君が大人になるまでは、手が届かないよう物理的に離れていたい。でも僕が帰ってきた時、もしもまだ君に気持ちが残っていたら、その時は―――」
こちらを見つめるユーニの青い目が、どんどん大きくなる。
吸い込まれそうなその色を、はるか昔に見たことがあるような気がした。
ユーニの顔の向こうに見える歩行者用信号が、青色を点滅し始める。
その瞬間、左手側からキュルルと耳をつんざくような異音が聞こえてきた。
聞き慣れないその音に意識が吸い込まれ、反射的に視線がそちらへ向く。
一瞬にして大きくなったその音と共に、交差点の物陰から物凄い速度で右折してくる赤い車が見えた。
どう考えても異常な速度のその車は、直進している対向車にガツンとぶつかりながら交差点に進入してきた。
交差点上に立っている二人の姿など、運転手には見えていなかったのかもしれない。
立ち尽くす二人めがけて突進してくる車は、ブレーキを踏む気配が一切なかった。
脳が危機信号を発信したと同時に、タイオンは隣で固まっていたユーニの華奢な体を両手で押していた。
渾身の力で押しのけられたユーニの身体は歩道に突き飛ばされる。
迫る車。点滅する青信号。歩道に倒れ込むユーニ。驚いた顔で車を見ている道端の傍観者たち。
そのすべてが、スローモーションに見えた。
「タイオンっ!」
迫りくる車が発する悲鳴のようなブレーキ音と共に、視界が暗転する。
最後に耳に届いたのは、自分の名前を叫ぶユーニの悲痛な叫び声だった。
Act.10 ここでキスして
さらら、さらら、と心癒される音が聞こえる。
これは水音か。おそらく波の音だ。
死んだら三途の川を渡ることになるとは聞いていたが、本当の話だったのか。
そんなことをぼんやり考えながら目を開けると、見慣れない光景が眼前に広がっていた。
硬い床の上に寝転がっていたらしい。
起き上がると、遠くの方まで一面黒い海が広がっていた。
空には大きな月が浮かんでいる。
海の水が黒いわけではなく、今が夜だから黒いのかもしれない。
どうやら船の甲板の上らしいが、どうしてこんなところにいるのだろう。
やけにメカメカしい船だが、三途の川はこんな小型戦艦のような船で渡るものなのか。
「よぉ、起きた?」
突然背後からかけられた声に心臓が跳ねた。
この声を聞き間違えるわけがない。
振り返ると、案の定そこにはユーニの姿があった。
船の手すりに寄り掛かりこちらを見つめている彼女は、海風に明るい髪を揺らしている。
だがその姿は、ユーニと瓜二つでありながら大きな違和感があった。
頭に白く美しい羽のようなものを生やしているのだ。
いつだったか疲れて家に帰ってきた日にも、同じ幻を見たことがある。
これはなんだ?夢を見ているのか?それとも一種の走馬灯なのか?
訳が分からないまま、タイオンはふらつきつつその場で立ち上がった。
「ユーニ……、なのか?」
「はぁ?当たり前だろ。船酔いでおかしくなっちまったのか?」
彼女はいつもの笑顔で、いつもの声色で言い放つ。
間違いなく彼女はユーニだ。だが、あの羽根は一体なんだ。
戸惑っていると、不意に船が大きめの波に揺れて少しだけ傾いた。
バランスを崩しかけたタイオンは転びそうになり、ユーニが寄り掛かっている手すりへと咄嗟に摑まる。
その瞬間、左の掌に何か妙な模様が描いてあるあることに気が付いた。
まるで賽の目のようなその模様は、前にも一度見たことがある。
ユーニの羽根と同じく、疲れた日に見た幻想に登場した模様だ。
「タイオン、上見ろよ、上」
「上?」
左手の模様に気を取られていたタイオンだったが、隣にいるユーニに促され上を見上げる。
広がる漆黒の空には無数の星々が光り輝き、数々の流星が水面に向かって曲線を描いていた。
いわゆる流星群というやつだ。
そのあまりにも美しい光景に、思わずため息が出る。
こんなに幻想的な光景は初めてみた。
都会の空では絶対に拝むことができない絶景だ。
「流星群だ。綺麗だよな」
「あぁ……」
「こんなに酷い世界なのに、空はこんなに綺麗だなんて。今更だけどなんか不思議だよな、アイオニオンって」
「アイオニオン……」
聞き覚えのある単語だった。
出会った日からユーニが幾度となく口にしていた異世界の名前。
かつて二人が縁を結んだという星の名前、アイオニオン。
そうか、ここがアイオニオンなのか。
現実なのか夢なのかいまいち掴めないが、目の前に広がる流星群はやけに現実味がある。
酔いそうになる船の揺れも、漂う潮の香りも、そして隣に立っているユーニの存在も、夢幻とはとても思えなかった。
「こういう綺麗な景色、正しい世界になったら見れなくなっちまうのかな?」
「“正しい世界”?」
「ほら、アグヌスの女王様が言ってただろ?この世界は元々別々の世界だったって。アイオニオンを正しい世界に戻すってことは、少なくとも今とは違う形になるんじゃねぇのかなって」
夜風に髪を揺らすユーニの表情は、どことなく寂しげだった。
そういえば出会った夜、アイオニオンとは何か彼女からざっと説明をされていた。
その顛末も聞いたはずだが、あの時は現実離れした妄想だと思っていたからあまり真剣に聞いていなかった。
悪者を倒した後、アイオニオンはどんなったんだ?ユーニは何と言っていた?
なかなか正しい記憶を引っ張り出せずにいるタイオンに、隣で夜空を眺めていたユーニはかすれた声で問いかけてきた。
「やっぱりアタシたち、離れ離れになるのか」
「え?」
「タイオン、この前言ってたじゃん。元々別の世界だったなら、二つの世界に分かれるのが正しい結末なんじゃないかって」
その言葉でようやく思い出した。
そうだ。アイオニオンは最後、元の世界に戻るように離別する形となったのだ。
世界は二つに裂け、それぞれの世界で生まれたふたりは別れることになる。
それがアイオニオンの、この世界での自分たちの結末だ。
「……アタシたち、二度と会えなくなるのかな?」
問いかけてくるユーニの青い瞳は、よく知る彼女と同じ色をしていた。
その目を見ていると、知らなかったはずの記憶が心の奥底から湯水のごとく溢れてくる。
感情の波が心を押し上げて、目頭を熱くさせる。
そして実感するのだ。ユーニがしていた話は、一つとして嘘などではなかったのだということを。すべて真実だったのだということを。
何故もっと早く思い出せなかったのだろう。
ユーニという運命共同体を、ずっと心で追い求めていた。
この世界で抱いた淡い感情の正体は、別れるその瞬間までわからなかったけれど、今ならよくわかる。
この世界でも、自分は彼女に恋をしていた。
「分からない。分からないけど、会いたいとは思っている」
ユーニの大きくて澄んだ瞳が、タイオンの顔をじっと見つめている。
その瞳の青さをまっすぐ見つめていると、無性に胸がどきどきした。
まるで十代の子供のように、初恋の相手を前にした少年のように、顔が赤くなってしまう。
「こことは違う別の世界で、一緒に時を過ごして、一緒に歳を重ねていけたなら、それ以上の幸せなんてない」
「へぇ。そういうことも言えるようになったんだ?どこで覚えてきたんだよ、そんな歯の浮くような台詞」
「う、うるさい。揶揄うな」
途端に恥ずかしくなって顔を逸らせば、ユーニは楽しそうに笑顔を向けてきた。
記憶の片隅にいる彼女は、いつもこうして揶揄ってきた。
そんな彼女の態度や言葉に悪態をつきながらも、どこか嬉しく思っている自分がいた。
彼女はいつだって強がりで、そのくせ人一倍繊細で傷つきやすい。
そんなユーニの力になりたくて、放っておけなくて、いつも彼女を見ていた。
この世界での自分とユーニは常に対等で、見つめれば容易に視線は絡み合う。
そこに10歳という格差はない。どこまでも対等で、平等で、イーブンな関係だ。
横たわっているその事実だけが、うらやましくて仕方なかった。
「そもそも、世界というのはこのアイオニオンだけじゃない。僕たちの世界があって君たちの世界があるように、もっとたくさんの世界が存在しているはずなんだ。どこか別の世界で再会する日が来てもおかしくはない」
「なんか夢みたいな話だな、それ。タイオンらしくない」
「別に僕は夢想を語っているつもりはない。可能性の話をしているんだ」
「ふぅん」
ユーニは半信半疑のようで、あまり真剣に聞いているようには見えなかった。
だがタイオンは知っている。遥か彼方遠い未来で、こことは違う別の世界で再会することになる事実を。
「じゃあさ、約束してくれる?何があってもちゃんとアタシを迎えに来るって」
「あぁ。約束する。絶対に迎えに行く。君を一人にはしない」
我ながらかなりクサイ台詞だったと思う。
けれど、当のユーニは嬉しそうに微笑んでくれているため許容範囲内だろう。
彼女が喜んでくれるなら、ガラにもないことでも口に出来る。
見つめる先にいるユーニは、いつもの世界で見ているよりも少しだけ目線が近い。
年の差がないと、こんなにも近く感じるのか。
「ユーニ、今更なことを言うが、僕と君は同い年だったよな?」
「え?うん。同じ9期だからそうじゃね?」
「そうか。じゃあ……」
そっと手を伸ばす。
ユーニの華奢な両肩に掴むと、真剣なまなざしで向き合った。
「その……、も、もし君が嫌じゃなかったら、キスがしたい」
「へ?キス?」
「あぁ。この前し損ねたから」
「あぁ、いつか恋する相手が出来た時の練習って言ってやってみた時か。でも嫌がってなかった?」
「嫌だったわけじゃないっ。ただ、少し気恥ずかしかっただけで……」
「ふぅん。また練習したいってこと?」
「いや……」
ユーニの両肩を掴む手に力が入る。
この体は9年しか生きていないせいか、些細なことで心臓が暴れやすくなっている気がする。
頭は28年も生きた大人なのに、心は成人前の思春期のように純粋無垢だった。
緊張を必死で抑え込みながら、タイオンはどうしようもなく赤くなった顔で言い放つ。
「これは本番だ」
ユーニの目が丸くなる。
驚くと青い瞳を丸くするのが、この頃からの彼女の癖だった。
そしてすぐに微笑むと、“いいよ”と囁いてくれた。
心臓が締め付けられる。
10歳も年が上である自分は、どうあがいてもユーニに自ら触れることなんてできない。
けれど対等な関係である今は、躊躇なく触れることができる。
同じ9期だから。対等な関係だから。
高鳴る心臓の音を聞きながら、ユーニの目を見つめる。
ゆっくりと近付いて、目を細める。
本当はこうしたくてたまらなかった。余計なことなんて考えず、気持ちのままに迫れたらどんなによかったか。
けれど、衝動的に動けるほどタイオンは愚かではない。愚かではいられない。
たとえ夢でも幻想でも構わない。ユーニに触れることが出来るなら、この状況を甘受しておきたかった。
けれど、残念ながら物事はそう上手くいかないものらしい。
ユーニの柔らかな唇を味わう寸前、脳内と視界はあっという間に白んでいった。
***
ふわりふわりと意識が戻ってくる。
ゆっくりと目を開けると、見知らぬ真っ白な天井が見えた。
薬品の匂いがほんのり漂っている。手足が痛い。
頭はまだ覚醒しきっていなかったが、なんとなく状況が理解できてしまった。
あぁ、ここは病院か。今まで見ていた光景は全て夢だったのか。
いいところだったのに、こんなタイミングで目を覚ましてしまうなんてついてない。
「タイオンっ、目が覚めたのか!」
天井を呆然と見つめていたタイオンの視界に、青い顔をしたユーニの顔が飛び込んでくる。
彼女の頭には、夢で見た美しい羽根は生えていない。
走馬灯の一種かとも思っていたが、どうやらなんとか命は助かったらしい。
車に轢かれたにも関わらずしぶとく生きている自分自身に、思わず笑ってしまいそうになる。
「ユーニ……?」
「痛いとこない?自分の名前分かる?」
「あぁ……」
「よかった……、ごめんタイオン。アタシのせいで……」
力なくベッドに置かれているタイオンの褐色の手を握り、ユーニは泣いていた。
自分の無事を喜び、安堵して泣いているユーニの姿を見ていると、こちらまで安堵感を覚えてしまう。
心配をかけてしまったようだ。
しびれる左手を懸命に動かし、ユーニの涙で濡れるユーニの頬に触れる。
親指で涙をぬぐうと、彼女は潤んだ瞳でこちらを見つめてきた。
その瞳は、アイオニオンで縁を交わした彼女と同じ色をしている。
「やっと会えたな、ユーニ……」
「タイオン……?」
不思議そうに目を丸くする彼女を見つめながら、微笑みを贈る。
次にタイオンが言葉を発する前に、たまたま病室に足を運んでいた看護師がこちらを見て声を挙げた。
“タイオンさん、目が覚めたんですね!今先生を呼んできます!”
そう言って看護師が走り去っていったすぐ後に、ぞろぞろと医者と大量の看護師がやってくる。
ばたばたと診察が始まるなか、ユーニは右足と右腕、そして頭に包帯を巻きつけたタイオンの様子を心配そうな眼差しで見つめ続けていた。
***
タイオンが緊急搬送された病院は、自宅であるマンションからもほど近い大学病院だった。
そのままその病院に長期入院することが決定し、仕事も長期休養という形で休みを取ることに。
猛スピードで交差点に突っ込んできた車の運転手は高齢者であり、ブレーキとアクセルを踏み間違えたことによる暴走だということが後に分かった。
ブレーキを踏んでいるつもりのはずが一向に止まらない自らの車に焦り、反射的にハンドルを切ったことで交差点に進入してしまったらしい。
タイオンは全身打撲と右足、右腕の骨折を負ったが、頭をそこまで強く打っていなかったおかげで命に別状はなかった。
全身打撲に関してもそこまで症状は重くなく、後遺症が残る心配もないという。
あのスピードで追突されたことを考えれば、奇跡に近い生還だったらしい。
とはいえ、決して軽い怪我とは言い難い。
完治するには2、3か月の入院が必要だと医者から伝えられた。
きちんと歩けるようになるにはリハビリも必要で、ほぼ毎日のようにリハビリルームに通うことになるという。
入院期間中、ユーニは毎日タイオンの病室に通った。
学校がある日も放課後まっすぐに病院に向かい、休みの日も半日近く彼のベッドに寄り添った。
タイオンが事故に遭ったのは自分を庇ったが故の結果である。
その事実に責任を感じてたせいもあるが、タイオンがいない家に一人でいるのがたまらなく寂しかったからだ。
肉親を失ったユーニにとって、タイオンはこの世で最も大切な存在である。
彼のためなら、毎日病院に通うことなど当たり前の行動でしかない。
毎日着替えや差し入れをもって病室を訪ねてくるユーニを、タイオンも拒絶しなかった。
それどころか、ぶっきらぼうながら歓迎している様子だった。
差し入れに持って行った果物の皮をむき、果実を突き刺したフォークで甲斐甲斐しく食べさせてやろうとしたときは流石に怒られてしまったが。
そんなある日の休日。
学校が休みのため一日暇を持て余していたユーニは、昼過ぎごろゼリーやヨーグルトといった差し入れを片手にいつも通りタイオンが入院している病院へ向かった。
制服ではなく私服を身に纏った彼女は、慣れた様子で見舞の手続きを済ませ、ナースステーションを通過し彼の病室へ向かう。
“タイオン”と名前が書かれている札の部屋に入ったユーニだったが、一番窓側にあるタイオンのベッドの脇に誰かが座っているのが見えた。
その人物には見覚えがある。かつてアイオニオンにいた頃タイオンと深い縁を結んでいた男、イスルギである。
「えっ……」
ユーニにとってもイスルギは知らない間柄ではない。
思わず彼の名前を口にしそうになったが、寸前でブレーキがかかった。
この世界での自分とイスルギは初対面のはずだ。
きっと彼もタイオンやノアたちと同じように、自分のことなど知らないはず。
思わず漏れた声に反応したイスルギは、ベッドに横になり会話していたタイオンから視線を外し、こちらを振り返ってきた。
「おや?君は……」
「あぁ、イスルギ部長、彼女は……」
ユーニの存在に気付いたイスルギが、不思議そうに目を丸くしている。
言葉を詰まらせているタイオンの様子を察したユーニは、事前に彼と約束していた通りの嘘をつくことにした。
「従兄妹です。お見舞いに来ました」
「おおそうだったか。従兄妹がわざわざ見舞に来てくれるとは仲がいいな。一瞬、同棲しているという彼女かと勘違いしてしまった」
「彼女?」
「あぁ。君は聞いてなかったのか?タイオンには毎日弁当を作ってくれる健気な彼女がいるらしい。全く羨ましいことだ」
「い、イスルギ部長……!」
にこやかに“タイオンの彼女”とやらの存在を話すイスルギに、ユーニは呆然としていた。
タイオンと同居していて、毎日弁当を作っている存在など、この世で自分一人しかいない。
2人の関係を“従兄妹”だと偽ろうと提案してきたのはタイオンのほうだ。
にも関わらず、彼は職場で自分の存在を“彼女”として話していたらしい。
タイオンに視線を送ってみると、彼は随分と気まずげな顔をしていた。
「さて、私はそろそろ失礼するとしよう。タイオン、お大事にな」
「は、はい……。部長、結婚式の件、参列出来ずすみませんでした」
「なに、気にするな。その怪我なら仕方ない。今は療養に専念しなさい」
ベッドの脇に置かれた丸椅子から立ち上がると、イスルギはすれ違いざまユーニに軽く会釈をして病室から去っていった。
その背を見送ったユーニは、ベッドで横になっているタイオンへと視線を向ける。
いたたまれない表情で目を逸らしているタイオンの様子は、イスルギの言葉が嘘などではなかったという事実を物語っていた。
「ふぅん。タイオン、アタシのこと彼女だって話してたんだぁ?アタシには従兄妹ってことにしろって言ってたのにな」
「し、仕方なかったんだ。何度も訂正しているのにイスルギ部長が全く聞く耳を持たないから……!」
「ふぅん、へぇ~」
「……なんだその顔。言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」
「別に何も~?まぁそういうことにしておいてやるよ」
顔のほころびが抑えられない。
先ほどまでイスルギが腰かけていた椅子ににやにやと笑みを浮かべながら腰を下ろしたユーニを、タイオンはわずかに顔を赤くしながら恨めし気な目で見つめていた。
***
タイオンがリハビリに精を出したおかげか、退院は当初の予定より少しだけ早まった。
入院したての頃は蝉が鳴いていたが、退院日にはすっかり静かになり秋の入り口に差し掛かっていた。
9月中頃。無事退院日を迎えたタイオンを、ユーニは徒歩で迎えに行った。
病院の入り口に差し掛かると、ちょうど荷物を持って建物から出てきた彼と出くわす。
自らの両足で入り口の段差をしっかり降りているタイオンの姿を見た瞬間、ユーニはほんの少し泣きそうになってしまった。
「タイオンっ」
名前を呼んで駆け寄ると、眼鏡をかけた彼の褐色の瞳が細められる。
「すまん。心配をかけたな」
「いいって。そもそもアタシのせいであんなことになったんだし。ホントにごめん」
タイオンが事故に遭って以降、ユーニはあの日の愚行を悔いていた。
自分が意地を張らなければ、彼は痛い思いをしなかったはず。
自身の幼稚な行動のせいで、タイオンを傷つけてしまった事実は、ユーニの心に一点の影を落としていた。
目を伏せ素直に謝罪するユーニだったが、頭にタイオンの手が乗せられたことで視線を上げる。
「君に怪我がなくてよかった」
柔らかく微笑むその表情は、眼鏡をかけているせいか、あの頃のタイオンと重なって見えた。
命の危機に瀕するほど危ない目に遭ったというのに、彼はどこまでも優しい。
ふいに向けられた温かな言葉と優しさに、ユーニの心臓は否応なく高鳴ってしまうのだ。
「帰ろうか」
タイオンの言葉と共に、二人は歩き出す。
この病院から家までは徒歩で通える距離だが、それなりに距離がある。
暫くは二人きりの散歩になるだろう。
タイオンの隣を歩き始めたユーニは、彼の顔色を一瞬だけ盗み見るとそっと右手を差し出した。
「なんだ?」
「手、繋ご?」
「は?」
「まだふらつくだろ?手繋いだほうが歩きやすいかなーって」
「足はもう完治してる。介助の必要はないぞ」
鈍感なのか、それとも分かっていて言っているのか、タイオンはユーニの手を取ろうとはしなかった。
当然、介助のためなんてただの言い訳だ。本当はタイオンと手をつないで歩きたいだけ。
いともたやすく断られてしまったことにむっとしたユーニは、あまり迫力のない目でタイオンを睨みつつ不満をこぼした。
「アタシが手繋いで歩きたいだけ。だめ?」
まっすぐ向けた好意が突っぱねられるのは慣れている。
どうせ今回もまた呆れたため息とともに“勘弁してくれ”と断ってくるのだろう。
そう予想していたユーニだったが、頭上から拒絶の言葉は一向に聞こえてこない。
なぜ何も言わないのだろう。不思議に思い視線を向けると、差し出されたユーニの右手をじっと見つめたまま複雑そうな顔をしているタイオンの姿がそこにあった。
「……」
「タイオン?」
「……い、いや。やっぱりやめておこう。そういうのはまだよくない」
そう言って、彼はユーニの右手を無視して歩く速度を速めた。
まるで逃げるようにスタスタ前を歩くタイオンの態度に、戸惑いが生まれる。
今一瞬、タイオンが手を繋ごうか迷っていたように見えたのは気のせいだろうか。
前までの彼なら、どんな誘いも躊躇うことなく断っていたはずなのに。
それだけじゃない。断った直後のタイオンの顔は、少しだけ赤らんでいた。
まるで照れているかのようなあの顔は、アイオニオンで同じ時を過ごしてきたあのタイオンと全く同じ顔である。
例の事故に遭って以降、自分に対するタイオンの態度が少しだけ柔和になったような気がしていた。
相変わらずスキンシップは断られるが、笑顔を見せてくれることが多くなり、不意に目が合う頻度も高くなっている。
大きな怪我をしたせいで少しだけ弱気になっているせいかとも思ったが、身体が完全に治ったこの瞬間までそんな態度が続いているとなれば話は別。
確実に変わりつつあるタイオンの優しい態度に、ユーニは喜びを覚えると同時に戸惑いも感じていた。
なんだか、まるであの頃のタイオンと一緒にいるみたいだ。
そんなことありえないのに。
未だタイオンとの記憶を引きずっている自分自身に呆れながら、ユーニは先を行くタイオンへと追いつくため駆け出した。
***
タイオンが無事退院を果たした半月後。
彼がアメリカへ発つその日がやってきた。
あんなに大きな事故に遭ってもなお、タイオンの海外赴任の話は立ち消えにならなかったらしい。
他の誰でもなく、タイオンだからこそ任せたいということなのだろう。
それほど会社から頼りにされているタイオンがかっこよく見えると同時に、恨めしくもあった。
彼がもう少し無能な社員なら、ずっと自分のそばにいてくれたかもしれないのに。
そんな幼い幻想を脳裏で思い描くユーニだったが、すぐに馬鹿らしくなってかき消した。
今思えば、タイオンがずっと自分の隣にいてくれる約束なんてひとつも交わしていない。
アイオニオンで迎えた結末と同じように、いずれ自分たちは離れ行く運命だったのかもしれない。
物理的な距離が離れただけで、この世界のどこかには存在している分、あの時の別れよりは幾分かマシに思えた。
離れていても、繋がろうとする意志さえあれば繋がっていられる。
そう自分に言い聞かせるしかなかった。
その日の朝、大きなキャリーケースを持ったタイオンと共にユーニは家を出た。
今日は平日だが、午後から登校する予定である。
いつも通り朝から学校に行けと言うタイオンに、どうしても見送りに行きたいと駄々をこねた結果、午後からの登校が決まったのだ。
タクシーに乗り込み、向かう先は空港。
タイオンのエアチケットを奪い取って燃やしてしまおうかとも考えたが、そんなことをしたら本格的に嫌われるような気がしてやめた。
空港のロビーではたくさんの人が忙しなく行き交っている。
平日ということもあり旅行客よりもタイオンと同じようなビジネスマンの方が多い。
搭乗口付近に到着した2人は、自然とその場で足を止めた。
目の前には荷物検査レーン。見上げれば、電光掲示板にタイオンが乗る予定の便が表示されている。
搭乗開始時刻まで、残り5分を切っていた。
「それじゃあ元気で」
「……うん」
「僕がいないからといって学校をサボらないように。門限は撤廃するが、夜遅くまで遊び歩いて補導されるなんてことがないようにな」
「うん」
「それとちゃんと勉強もすること。君は高校3年生なんだから、今後の進路も真剣に考えること。まだ若いからと言って適当に生きて、後々後悔しないように」
「分かってるってば」
「それとな――」
「まだ言うのかよ。もういいってわかったよ」
こんな時まで子ども扱いするタイオンの態度が気に食わない。
もう少し甘い言葉や声色で別れを惜しんでくれてもいいじゃないか。
良くも悪くも“いつも通り”なタイオンに不満を抱いたユーニは視線を逸らしてむくれるが、そんな彼女の様子にタイオンは柔らかく笑みを零し、男性にしては華奢な褐色の手をユーニの頭に優しく乗せた。
「小言くらい言わせてくれ。これが最後なんだから」
最後、なんて言わないで欲しかった。
懸命に現実から目を背けていたのに、否が応でも実感してしまうじゃないか。
「今度会う時は、君も社会人なっているんだろうな」
いつになるかわからない曖昧な未来の話なんてしたくはない。
そんな悲しい話を、平気な顔で出来る神経が分からなかった。
2人の年表は、これから数年の間空白になってしまう。
その事実は、まだ十代のユーニにとってはあまりに恐ろしく、あまりに悲しかった。
「ユーニ。僕にとっての5年と君にとっての5年は重みが違う。若い君は5年もあればたくさんの新しい出会いに恵まれて、新しい価値観に触れることになる。目まぐるしく変化する日々の中で、気持ちや考え方に変化が生じるかもしれない。アラサーの男なんて眼中に入らなくなるほど、魅力的な誰かに出会うかもしれない。君にとっての5年は、それくらい長く、そして価値があるものだ」
何が言いたいのかよくわからない。
頭に手を添えられながら視線を上げると、目を細めてこちらを見つめているタイオンと視線がぶつかった。
「5年後、君が大人になったその時も、僕を見ていてくれるだろうか」
揺れる瞳とかすれた声に、心がきゅうっと音を立てて締め付けられた。
こんな表情、初めて見る。
いや、正確には初めてではない。
遠い昔、アイオニオンで隣にいたタイオンも、時々こんな目でこちらを見つめてきていた。
行かないで、なんて言えない。
ここにいて、なんて言えない。
そんな子供みたいなこと、言えるわけがない。
でも、最後に一つだけわがままを言いたくなってしまった。
どうせ断られるだろうけど、それでも言わずにはいられない。
「タイオン」
「ん?」
「キスして」
「は?」
「今ここでキスして」
最後の小言が有効なら、最後のわがままだって有効なはずだ。
タイオンの腕を掴み、青い瞳で見つめるユーニは懇願するように駄々をこねた。
アイオニオンにいた頃よりも少し背が高いタイオンと、少し背が低いユーニの間には、埋まらない身長差がある。
ユーニがどんなに背伸びをしても、あの頃のようにタイオンの唇へは届かない。
だからこそ、彼の方から近付いてもらう必要があった。
どちらからともなくゆっくりと求めあう。そんなイーブンな関係になりたいのだ。
ユーニからの最後のわがままは、タイオンを困らせた。
目を見開き、かけていた眼鏡を押し上げるタイオンの視線は泳いでいる。
そして周りを行き交う人々をちらっと横目で盗み見ると、頭をふるふる横に振りながら掴まれた腕をそっと放してきた。
「だ、ダメだ」
「なんで」
「分かるだろ。ダメなものはダメなんだ。君はまだ子供なんだから」
やはりというか予想通りというか、タイオンは結局キスの要求に応えることはなかった。
大人として常識を弁えたいのだろう。
あくまで真面目であり続けようとするタイオンの誠実な対応は、ユーニを寂しくさせる。
「……そのわがままは聞けないが、代わりにこれを」
スーツの内ポケットから取り出されたのは、1冊の手帳だった。
前にもこんな風にタイオンから手帳を手渡されたことがある。
あれがタイオンからの、最初で最後のプレゼントだった。
あの手帳は今は手元にないけれど、内容はしっかり覚えている。
茶葉の植生や焙煎方法が事細かに書かれたハーブティーのレシピ帳だ。
「これ……」
「ハーブティーのレシピだ。悪夢をよく見るようだから、これで少しは改善するかと思って」
昔、タイオンは言っていた。
ハーブティーは沸騰直前の湯を使うのが一番美味く仕上がるのだと。
98℃の暖かさが、寂しさで荒んでいたユーニの心を温める。
したためられたレシピ帳は、あの時渡されたものと同じく、茶葉の特性や焙煎方法を細かく解説していた。
白い紙の上を踊る丁寧な字は、まるでタイオンの真面目な性格を表すかのよう。
開いたレシピ帳に視線を落としながら、ユーニは必死に涙をこらえていた。
これは悲しい涙ではない。うれしい涙だ。
年齢差も身長差も開いているけれど、今目の前にいるタイオンはあの時の彼と全く変わっていない。
真面目で堅物で、頭がよくてプライドが高くて、不器用で言葉足らずで、それでいて誰よりも優しい、あの頃のタイオンそのままなのだ。
「これがあれば、タイオンのこといつでも思い出せるな」
目頭にたまった涙をぬぐい、笑顔で笑いかける。
するとタイオンは、ふっと笑みを見せながら妙なことを言い始めた。
「どうだろうな。君のことだから僕のことなんてすぐに忘れてしまうんじゃないか?」
「はぁ?んなわけ――」
「なにせ僕は、君にとって“4番目”らしいからな」
「えっ……」
聞き覚えのある言葉に、思わず声が漏れる。
4番目。それはかつて、アイオニオンでの別れ際で自分が彼に贈った言葉だ。
淡い気持ちを込めて口にしたつもりだったが、鈍感だった当時の彼にはうまく伝わっていなかったらしい。
そんな特別な言葉を引き合いに出されたのは、きっと偶然などではない。
得意気な笑みを向けてくる眼鏡越しの瞳が、あの頃の小癪なタイオンの瞳とそっくり重なって見えた。
「タイオン、もしかして記憶が……」
『大変お待たせいたしました。10時25分発、ラムダ航空、アメリカ合衆国K空港行、間もなく搭乗開始となります――』
空港内に、タイオンが乗る予定の便が搭乗を開始する旨のアナウンスが響き渡る。
どうやらタイムアップらしい。
焦っていると、隣に立っていたタイオンがトランクケースを手に持ち歩き出した。
「それじゃあユーニ、元気でな」
「ちょ、ちょっと!」
制止の言葉も聞かず、彼はあっという間にユーニの元を離れ、荷物検査レーンに入ってしまう。
慣れた様子で手荷物を預け、金属探知機を通過しレーンの向こう側へと行ってしまう。
何度名前を呼んでも、彼は立ち止まることなく歩き続けている。
遠ざかるその背を見つめながら、ユーニはどうしようもなく悲しくなった。
別れ際に記憶が戻ったことを打ち明けるなんてズルい。
もっと寂しくなるとわかっているはずなのに、わざとこのタイミングで言うのは流石に酷いだろ。
せめてもう少し早く聞きたかった。そうすれば、たくさん思い出話ができたかもしれないのに。
心に生まれた物足りなさと寂しさは、ユーニという未だ幼い女を盲目にさせる。
こんな酷いことをされたら、忘れたくても忘れられなくなる。
一番恋しいタイミングで遠くに旅立ってしまった男のことを忘れられなくする呪いをかけられた。
きっとこれは策略だ。あの頭のいいタイオンの小賢しい策略に違いない。
別れ際に寂しくなるようなことを言って、忘れられなくなるようにする策略なのだ。
姑息だ。卑怯だ。
けれど、そんなタイオンのことが、たまらなく好きなのだ。
「タイオンっ!」
レーンの向こうに遠ざかる大人の男に向かって、制服姿の女子高生が叫ぶ。
だが、男は振り返ることなく歩き続けている。
突然大声を出した彼女の姿に周りの人々はぎょっとしているが、周囲の目など気にする余裕はなかった。
「アタシ、ちゃんと大人になるから!」
タイオンは相変わらず振り返らない。
こちらを気にするそぶりすら見せないその様子に腹が立って、ユーニは言葉を続ける。
「お前が帰ってきた時、余所見できないくらい魅力的な大人になって待ってるから!だからっ、だからお前も―――」
息を吸う。
今までの人生で出したことがないくらいの大きな声量で、遠ざかるタイオンの背中に向かってユーニは叫んだ。
「エイジングケアとかしろよーーーーーーっ!!!!!」
女子高生の口から大音量で叫ばれたその一言に、周囲がざわつく。
遠ざかっていたタイオンの足はぴたりと止まり、ぎょっとした表情でこちらを振り返っていた。
やっとこっちを見たな。
ほくそ笑むユーニとは対照的に、タイオンの顔は羞恥で真っ赤に染まっている。
大胆なユーニの餞別があまりにも恥ずかしかったのだろう。
赤い顔で睨みつけると、即座に背を向けて再び歩き始めた。
先ほどの颯爽とした歩き方ではなく、動揺しているのか明らかにおぼつかない足取りだった。
やっぱり寂しい。置いていかないでほしい。どんな時だって自分と一緒にいてほしい。
口に出せない気持ちはたくさんあるけれど、考えも無しに駄々をこねるほどユーニはもう子供ではない。子供ではいられない。
彼が帰ってくるとき、自分はきっと二十歳を超えているだろう。
かつて十年も生きられなかった一生を何度も繰り返していたユーニにとって、20年も生きた先に見える未来などまるで想像もつかない。
けれど、出来る限りきちんと生きたいと思えるようになった。
両親はいない。親戚もいない。頼れる大人もいない。けれど自分には大切な人がいる。
その存在が、自分の薄暗い人生に光をくれた。
彼が帰ってきたその時、胸を張って隣を歩ける大人でありたい。
そんなあどけない気持ちが、ユーニを変えたのだ。
こうして、十代の少女の恋は一旦幕を閉じた。
再びこの幕が開けるのは5年先。彼女が23歳になった年のことである。
***
平日の空港はこれから遠方に出張へ行くらしいビジネスマンであふれている。
到着口前で待ち続けて早くも30分が経過した。
周囲には海外からの友人を待っているらしい人々がウキウキ顔で“Welcome”と書かれたボードを持っている。
今の自分も、彼らと同じようなウキウキした顔をしているのだろうか。
行き交う人々の波を横目で観察しながら、ユーニはスマホで時刻を確認する。
既に予定の時間から5分も過ぎているが、到着が遅れているのだろうか。
少し不安になってメッセージアプリを起動してみるが、昨日の夜に送った“早く会いたい”という自分のメッセージにはまだ返事が来ていない。
今度はカメラアプリを起動させ、自撮りモードで自分の顔をチェックする。
メイクも完璧。耳につけたピアスも問題ない。毛先だけゆるく巻いてきた髪も乱れていない。
なるべく大人びて見える格好をしてきたが、彼は褒めてくれるだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、ようやく到着口の自動ドアが開いた。
同じ飛行機に乗っていたらしい見慣れない顔が大量に出てくる。
迎えに来ていた人と抱き合って再会を喜ぶ人もいれば、スマホに視線を落としながら足早に通過していく人もいる。
そんな人の流れを、ユーニは目を皿のようにして確認していた。
目当ての人物はいまだ視界に入ってこない。
この便に乗っているはずだが、どこだろう。
きょろきょろとあたりを見回していたユーニだったが、不意に背後から肩を叩かれた。
びくりと肩を震わせ振り返った先にいたのは、この5年間ずっと会いたかった男の姿。
「タイオン……」
「家で待っていてくれと言ったのに」
「いいじゃん。1分1秒でも早く会いたかったんだから」
「今日仕事は?」
「有給取ってる」
「そうか。準備がいいな」
「当たり前だろ?ずっとこの日を楽しみにしてたんだからさ」
素直な気持ちを伝えると、タイオンは褐色の瞳を細めながら微笑みかけてきた。
その笑顔も、纏っている雰囲気も、身長も、顔つきも、何もかも変わっていない。
5年の月日なんてまるで経っていないように思えるほど、タイオンの見た目には変化がなかった。
けれど、二人の間には確かに5年もの歳月が流れている。
2人がこの空港で別れた約半年後、ユーニは高校を無事卒業。
奨学金を借りて専門学校へ進学し、20歳で就職した。
就職先はネイルサロン。現在はネイリストとして働いている。
タイオンと一緒に住んでいる家は高校卒業と同時に出る予定だったが、専門学校に進学したことをタイオンに伝えると、学生のうちはそのまま住んでいていいと許しが出た。
そしていざネイルサロンへの就職が決まると、今度こそ家を出ようと準備していたのだが、“賃貸の更新をしたばかりだから勿体ない。もうしばらく住んでいてくれ”と言われた。
ユーニとしてはありがたかったが、不思議でもあった。
自分が住んでいるわけでもない物件の家賃を払い続けてまで自分をこの家に置いてくれるタイオンの優しさが。
何度か理由を聞いてみたが、“拾った猫は最後まで面倒を見る主義なんだ”と適当にかわされてしまった。
そんな経緯もあって、未だユーニはタイオンと暮らしていたあの家に一人で住んでいる。
彼が帰国した今、帰る先は一緒なのだ。
「久しぶりだな」
「テレビ通話で顔は見てるから、あまり久しぶりには思えないがな」
「でも対面で合うのは5年ぶりだろ?」
「そうだな」
突然タイオンは黙り込んでしまった。
目を伏せ、何か考え事をし始めたタイオンの顔を覗き込む。
すると彼は、意を決したように口を開いた。
「高校卒業おめでとう」
「え?お、おう」
「専門学校卒業もおめでとう」
「うん。今更じゃね?」
「面と向かって言えていなかったから。あと就職もおめでとう。ネイリストなんてすごいじゃないか」
「へへっ、まぁな。見て見て!今日のネイルも自分でやったんだぜ?」
両手を広げ、昨日施したばかりのジェルネイルを見せびらかしてみるが、タイオンの反応はあまりにも薄かった。
男はネイルに関する興味関心がない人がほとんどだが、タイオンに関しても例外ではなかったらしい。
薄い反応にムッとしていると、彼はユーニの手元から視線を上げ、再び口を開く。
「この5年で、君の環境は目まぐるしく変わったようだな」
「まぁな。5年もあればいろいろ変わるって」
「そうか。ならひとつ聞いておきたいことがある」
「なに?」
「……彼氏はできたか?もしくは好きな人とか」
突然投げかけられた質問に驚かされた。
離れていた5年間、2人は頻繁に連絡を取り合っていたものの、タイオンから恋愛に関する質問が飛んでくることは一度もなかった。
あまりに興味を示してくれないことに落胆していたのだが、まさか今このタイミングでそんな質問をされるとは予想外である。
いい女はこんな時、相手を翻弄するような駆け引きをするのだろうが、好きで好きでたまらない相手を前にしたユーニにそんな打算的な考えは浮かばなかった。
「彼氏はいない。でも好きな人は目の前にいる」
素直でまっすぐな返答だった。
今更気持ちを隠しても意味はない。
この5年間で、ユーニの環境は確かに変化した。
新しい出会いもあった。言い寄られることもあった。
けれど余所見などせず、ずっとひたむきに一人の男を待ち続けていた。
それくらい好きな相手だったからこそ、忍耐強く待てたのかもしれない。
ユーニの素直さを真っ向から浴びたタイオンは、少しだけ顔を赤らめ視線を外す。
赤くなった顔を隠すように眼鏡を押し上げると、“そうか”と短く相槌を打った。
そういえば、5年前一緒に暮らしていた時はこんな風に赤面した姿はほとんど見られなかった。
こちらの言葉に顔を赤らめてくれるようになっただけで、少しは進展したと言えるのかもしれない。
「よしっ、じゃあとっとと帰ろうぜ。タイオンのために今夜はごちそう作ってやるからさ」
にこやかに歩き出したユーニだったが、突然タイオンに腕を掴まれた。
足が止まり、彼の方へと振り返る。
自分を引き止めているタイオンの顔が、5年前よりも近く感じるのは気のせいだろうか。
「もう一つ聞きたい。今年で何歳になった?」
「え?えっと、23歳だけど?」
「そうか。なら、もう立派な“大人”だな」
目を細めたタイオンが、彼らしからぬ力強さでユーニの身体を引き寄せる。
左手で彼女の頬に触れると、顔がゆっくりと近付いてきた。
“えっ”と声を漏らす前に、ユーニの唇はタイオンの唇によって塞がれる。
青い目を見開きながら、彼女は呼吸すらもできなくなっていた。
そして思い出す。
5年前、この場所でタイオンに言った“ワガママ”の内容を。
“ここでキスして”
やっぱり、タイオンは優しい。
5年も前のワガママを叶えてくれるなんて。
そっと目を閉じると、高鳴る自分の心臓の音が聞こえてきた。
すっかり大人になったユーニは、タイオンからの口付けに内心子供のようにはしゃいでいた。
高鳴る心臓の音を感じながらゆっくりと目を閉じると、タイオンとの思い出が瞼の裏に浮かんでは消えてゆく。
目を閉じているせいか、自分たちに注がれている周囲の視線など気にならなくなっていた。
2人の新しい人生は、この瞬間、ようやく始まるのだ。
END