Mizudori’s home

二次創作まとめ

殺生丸様の許嫁

【殺りん】

犬夜叉

■未来捏造

■短編

 

まだ男女の関係になりきれていない殺生丸とりんの前に、殺生丸の許嫁を名乗る女の妖怪が現れるお話し。多少犬かご要素があります。オリキャラ注意です。
仕事が暇なときに片手間に書いたので支離滅裂で冗長かもしれませんがご容赦ください。

 

 

***

 

りんの膝の上で広げられた反物は、紫色の生地に白い蝶の模様があしらわれた上品なものだった。
つい先程、意中の男が持ってきたものである。
大妖怪として名を馳せている彼は、毎月のように何かしらの贈り物をしてきている。
時には装飾品、時には菓子類、そして今回のような反物。
その度りんは大いに喜び、惜しみない感謝を彼に伝えているのだが、今回の反物はとくにりんの好みを突いていた。


「あら、綺麗ねその反物。殺生丸から?」
「はい!さっき持ってきてもらったんです」


巫女姿のかごめが、薬草の仕分けをしながら問いかけてきた。
彼女にとって義理の兄にあたる殺生丸は、月に何度かりんに会うためこの村を訪れている。
人間の少女相手に物を貢ぐなど、かつての冷酷無情さからは考えられない行動だが、これもりんの人柄がなせる技なのかもしれない。
今年で15になるりんは、殺生丸らと旅をしていた頃に比べ、だいぶ大人の女性に近付いていた。
その年齢にしてはまだ背も小さく、幼さは残っているものの、かつて妖怪蠢く森の中を無邪気に走り回っていたあの頃よりはかなり落ち着いている。


「まったく、毎度毎度律儀な事だな。もうすぐ我が家の長持も、りんの反物や着物で埋まるというのに」


かごめの横で、弓の弦を張っていた楓がため息混じりに言う。
りんは背後を振り返り、壁に反って積まれた長持を見つめた。
りんが楓の家に厄介になってから、長持が3つほど増えてしまっている。
中身は全て殺生丸からの贈り物である。
楓は、年々部屋を圧迫してゆく長持に危機感を覚えていたが、相手があの殺生丸ということもありなかなか言い出せずにいた。


「楓ばあちゃん、ここは広い心で受け入れてあげて。お義兄さんにとって贈り物はついでみたいなものなんだし」
「ついで?」


かごめの言葉に首を傾げる楓。
りんに聞かれないよう、かごめは楓と距離を詰め、そっと耳打ちした。


「りんちゃんに会うための口実よ」


合点が行く説だった。
かごめの言葉に“なるほど”と手を打つと、楓は未だに嫁に対してぶっきらぼうな犬耳の半妖の姿を思い起こす。
戦いは慣れたものでも、好いた女に対しては不器用になってしまうのは、この兄弟の性らしい。
殺生丸から貰った反物を満足気に見つめるりんには、あの大妖怪からここまで好かれているという自覚があるのだろうか、と、楓は小さく笑った。

子供の頃からの変化は、見た目だけでなく殺生丸との関係にも表れていた。
楓の村に預けられて以降、しばらくは親子のような距離感を保っていた2人だったが、りんが13を過ぎたあたりから、その距離はだんだんと縮まっていった。
お互いに心のどこかで自覚していた想いを、素直に態度で示せる年齢に差し掛かった証拠であった。

とはいっても、2人はまだ口付けすらまともに交していない。
りんとしては、同じ村で暮らす殺生丸の弟夫婦や、子沢山な法師と退治屋の夫婦がコソコソと口付けを交わしている光景を何度も目撃しているため、その行為に対する憧れも強く、殺生丸が仕掛けてくることを心待ちにしていた。
しかし、自分よりも何倍も長く生きている彼は、どうやらまだその時ではないと思っているらしい。
口付けはおろか、まともに抱きしめてもらったことすら未だにない。
それでも、楓をはじめとする村の者たちの間には、“あの娘とあの犬妖怪はそういう間柄”という周知の事実が広まっていた。

のどかな昼下がり。
楓の家で各々の仕事をしていた楓、かごめ、りんだったが、外から聞こえてきた獣の声に顔を見合わせた。
狼のようにも聞こえるその鳴き声に、かごめは昔自分に好意を寄せていた妖狼族の若頭が会いに来たのかとも思ったが、感じられる妖気は明らかに別物。
続いて聞こえてきた村の者たちの悲鳴に、かごめたちはいよいよ危機感を感じ、ほぼ同時に立ち上がった。
かごめと楓が外へ飛び出してみると、そこには白い四つ足の獣たちが威嚇しながら闊歩していた。
見たところ、犬の妖怪である。


「りんちゃん、家から出ちゃだめよ!」
「は、はい!」


楓の家から控えめに顔をのぞかせているりんに向かってかごめが叫ぶと、りんは怯えた様子で頷いた。
涎を垂らして獲物を物色するようにあたりをうろつく犬妖怪たちから逃げるように、村の者たちが楓の家付近に集まっている。
弓を構え、村人たちをかばうように前へ出たかごめの姿に気付いた犬妖怪たちは、一斉にかごめへ威嚇の唸りを浴びせた。
村の人間たちを食らうために来たのか。
しかし、人を食らう目的でこの楓の村を襲う妖怪は極めて少ない。
霊力の高い巫女や法師、妖怪退治屋や、犬の兄弟まで出入りしているこの村は、妖怪たちの間でも噂になっているはず。
この犬妖怪たちも、その噂を知らないはずはない。
妖怪たちにとって攻めにくいこの村を、あえて襲う理由は何なのか。
かごめは犬妖怪たちと対峙しながら考えていた。


「あんたたち、いったい何なの? それ以上近づかないで!」


弓を引き絞り、先頭で唸っている犬妖怪に向かって狙いを定める。
それでも怯むことなく唸り続ける四つ足は、じりじりとかごめとの距離を詰めていた。
背後では、楓も同じように弓を構えている。
かごめほどの霊力はないが、姉の桔梗譲りの神通力は妖怪にとって厄介なはずだ。
緊迫する空気の中、かごめはこの状況に不信感を抱いていた。
この村に蔓延る妖気は、こんな雑魚妖怪のものではない。
おそらく、この犬妖怪たちを操る親玉がどこかにいるはずだ。
四つ足の雑魚妖怪たちだけならかごめと楓の2人で何とかなりそうなものだが、親玉がどこに潜んでいるのかわからない限りは油断できない。
額にかいた汗が、かごめの頬を伝って流れ落ちたその時だった。
村中に突風が吹きわたり、木の葉を舞い上げる。
弓を構えていたかごめと楓は、思わず目を覆い、犬妖怪たちから目をそらしてしまった。
なにが起きたのかと再び視線を向けると、村の入り口に建てられた赤い鳥居の上に、先ほどまではいなかった人影が立っていた。
銀色の長い髪をなびかせた、女性である。


「噂には聞いていたが、まさか本当にこのような人里に出入りしておられるとは」


村全体を見渡し、呆れるように言うその女からは、並々ならぬ妖気が漂っていた。
間違いなく、この犬妖怪たちを操っているのはあの女だろう。
楓は即座に弓を引き絞り、銀髪の女へと狙いを定めた。


「そこの女何者だ!? この村に何用で来た!?」
「人の村に用などない。あるのは、ここにいる犬妖怪だ」
「犬妖怪・・・?」


四つ足の犬妖怪を率いているところからすると、この女も犬の妖怪なのだろう。
犬夜叉殺生丸と同じように銀色の髪をしているのがその証拠。
楓の家から外を覗いていたりんは、鳥居の上で自分たちを見下ろしている女をじっと見つめ、昔のことを思い出していた。
子供の頃、殺生丸と共に旅をしていたころに、彼の母親に会ったことがあった。
今そこにいる女は、あの時会った殺生丸の母に雰囲気が少々似ているように思える。
もしかすると、殺生丸の親族だろうか。
りんがそう思った矢先、女が立っている鳥居めがけて赤い影が飛び出してきた。
犬夜叉である。
妖怪退治の仕事から帰ってきたらしい犬夜叉が、村の異変に気付き、いち早く鉄砕牙を抜いて駆けつけてきたらしい。
土を蹴り、瞬時に鳥居の上に飛ぶと、銀髪の女に容赦なく鉄砕牙を振りかぶるが、女は太刀をひらりとかわし地上に降り立った。


「てめぇなにもんだ。この村を襲おうなんていい度胸じゃねぇか」


女を追うように地上へ降り立った犬夜叉は、かごめや楓を背にして鉄砕牙を構えた。
犬夜叉の登場に、周りを取りまく四つ足の犬妖怪たちはより一層激しく威嚇する。
殺気を抑えられずにいる白い犬妖怪たちとは対照的に、女はいたって冷静である。


「かごめちゃーん!」
「かごめ様ー!」


自分の名前を呼ぶ声に振り向くと、そこには変化した雲母にまたがり村へ向かってくる弥勒、珊瑚、七宝の姿があった。
朝早くかごめ以外の面々は、隣村へと妖怪退治の仕事をするため出払っていた。
彼らが帰還したことで、怯え切っていた村の者たちも一様に安堵の表情を浮かべる。
かごめもまた、夫である犬夜叉や仲間たちの姿を見て笑顔を浮かべた。
ようやく犬夜叉に追いつき村へ到着した弥勒たちは雲母から飛び降り、各々武器を構える。


「なんじゃこれは!? どうなっとるんじゃ?」
「犬妖怪のようですが・・・。犬夜叉殺生丸と、何か関係があるのでしょうか」


弥勒の読みは当たっていた。
犬夜叉の姿を見た銀髪の女は、口元に笑みを浮かべ、氷のように冷たい視線を浴びせながら口を開いた。


「そなた、犬夜叉か。半妖と聞いていたが、なるほど確かに・・・我らが遠縁にしては妖力が薄いようだな」


あざ笑う女の言葉は、犬夜叉の神経を逆撫でする。
だが、後ろで控えていたかごめが気になったのは、女が発した“遠縁”という言葉。


「遠縁!? あの妖怪と親戚なの? 犬夜叉
「けっ! 知らねぇよあんな女!」
「無理もない。そなたは父の顔すら見たことがないのだろう? 半妖であるがために、一族とのかかわりを断絶された半端者」
「てめぇ!さっきから聞いてりゃ・・・半妖半妖うるせぇんだよ!」


犬夜叉が心の影としている“半妖”という言葉は、彼を怒らせるのに十分な効力を発揮する。
勢いよく飛び出した犬夜叉は、鉄砕牙を大きく振りかぶり容赦なく女を斬りかかろうと距離を詰めた。
しかし女は腰に差した細い剣を即座に抜き、舞うように体をくねらせて鉄砕牙をかわすと、細剣で鉄砕牙の刀身を突き、弾き飛ばしてしまう。
一瞬のことに怯んだ犬夜叉は、女の足掛けと肘打ちによって地面に伏せられてしまった。


犬夜叉!」


かごめが名前を叫び、ひれ伏している犬夜叉に駆け寄ると、犬夜叉は悔しさに唇を噛みながら顔をあげる。
どうやらこの銀髪の女、ただの犬妖怪ではないようだ。
犬夜叉殺生丸の遠縁を名乗るのも頷けるほどの妖力と腕を持っている。
だが、自分よりも何倍も力が強そうな犬夜叉をのしたというのに、女の息は全く乱れていない。


「半妖に用はない。私が会いに来たのは、そなたの兄だ」
「なんだと!?」


女の言葉に、その場にいた誰もが驚いた。
楓の家でその光景を見つめていたりんも、例外ではなかった。
犬夜叉の兄、すなわち殺生丸に用があるというその女は、犬夜叉を見下ろしながら笑みを浮かべている。
だが、村に吹くそよ風によって運ばれる匂いが、犬夜叉と女の様子を一変させた。
鼻が利く犬妖怪である二人には、この村に殺生丸が接近していることがわかるのだ。
2人は揃って村の入り口に視線を向ける。
そんな犬夜叉と女の様子を不思議に思い、かごめやりんたちも同じように村の入り口に目をやれば、舞い上がった砂ぼこりの中から一つの人影が浮かび上がってきた。
風になびく白い着物に、美しい銀色の髪。
近づいてくるその人影に、一同の緊張感は頂点に達した。


殺生丸さま!」


りんがその名前を呼ぶと同時に、女は口角を上げる。
横に邪見を伴って現れた殺生丸は、村の中で繰り広げられている光景に目を細めた。
不快感がその表情からにじみ出ている。
犬妖怪たちの匂いを嗅ぎつけてやってきたのだろう。
己が玉のように大切にしているりんがいるこの村に異変があれば、殺生丸はどのような状況でも現れる。
今回も異変を察知して駆けつけた殺生丸だったが、犬夜叉を追い詰めていた女を目にし、ほんの少しだけこの場に来たことを後悔した。


「む? 殺生丸様、あの女は・・・」


隣の邪見にも、あの女に見覚えがあったらしい。
邪見の言葉を最後まで聞く前に、殺生丸は爆砕牙を抜いた。
静かに臨戦態勢に入った殺生丸をじっと見つめ、銀髪の女は、自らに向けられた殺気に構うことなく口を開く。


「お久しぶりですね、殺生丸様」
「何の用だ」
「約束通りお迎えに上がったのです。お忘れですか? 貴方様の許嫁たる、この華蘭の顔を」


華蘭と名乗ったその女の一言に、一同は一人残らず目を見開いた。


「なっ・・・!」
「えっ」
「ほう」
「許嫁ーっ!?」


かごめの甲高い叫び声が、静まり返った村にこだまする。
だが、叫び声をあげたくなる気持ちは犬夜叉たちにもよくわかる。
あのいつも涼しい顔をした殺生丸に、まさか許嫁がいたなど、にわかには信じがたい。
だが、当の本人である殺生丸は、相変わらず無表情で華蘭の顔を見つめている。
横の邪見もまた、驚くわけでもなくただあわあわと焦っている様子。
彼が事情を把握していることは誰の目にも明らかだった。


「のう弥勒、許嫁とはなんじゃ?」
「はぁ、許嫁とは簡単に言うと、将来を誓い合った仲ですな」
「しかし、殺生丸はりんを嫁にするのではなかったのか?」
「七宝、今その話はしないほうがいいような気がするよ」


殺生丸達には聞こえないよう、弥勒や珊瑚たちはこそこそと話しているつもりなのだろうが、本人たちには丸聞こえであった。
殺生丸がぎろりと背後の弥勒たちを睨みつければ、三人は石のように固まり、即座に目をそらす。
七宝の言う通り、殺生丸はりんを傍に置き、男女の中にはなっていないものの、特別な間柄にあるという認識は誰の頭にもあった。
もしこの華蘭という女の言う通り、彼女が本当に殺生丸の許嫁ならば、今最も居心地が悪い思いをしているのは間違いなくりんである。
かごめが背後で隠れているりんを盗み見ると、彼女は不安げな表情で殺生丸と華蘭を見つめていた。
その表情は、悲しみと戸惑いに満ちている。
妹のように可愛がっていたりんのその顔は、かごめに殺生丸への強い怒りを呼び起こさせた。


「ちょっと! 許嫁ってどういうことよ犬夜叉!!」
「お、俺が知るかよ! あの女がそう言ってんだからそうなんじゃねぇのか!?」
殺生丸ーーっ! ちゃんと説明あるんでしょうねー!?」


怒鳴りにも近いかごめの声だったが、殺生丸は全く返事をする気配がなく、さらにかごめの怒りを増長させる。
殺生丸がこの村にやってきてから、もっと詳しく言えば華蘭の存在に気が付いてから、殺生丸は一度もりんを視界に入れていない。
まるで避けているのかと疑いたくなるほど、りんを視界の端にすら入れようとしない殺生丸に、かごめはただただイラつきを覚えていた。
自分たち外野には何も言わなくてもいい。
けれど、せめてりんにはこの状況を一番に説明するべきではないのか。
意中の相手に女関係でいろいろと内密にされていた経験があるかごめには、今の不安と悲しみが入り混じったりんの感情が手に取るようにわかってしまう。


「100年前、殺生丸様が嫁を娶っていなければ、私と婚姻を交わすというあの約束、果たす時が来たのですよ」
「華蘭、貴様。わざわざそんなことのために西国から参ったのか」
「もちろんです。私は100年前に、あなた様の御母堂様から嫁ぐよう頼まれた身ですから」
「えっ・・・」


華蘭の言葉に、りんは小さく声を漏らした。
彼女の言う御母堂様に、りんは昔会ったことがある。
殺生丸の母は息子と同じ妖怪で、人間であるりんや琥珀を連れていた当時の殺生丸を不思議がっていたと記憶している。
殺生丸本人ではなく、あの方がこの華蘭を選び、嫁に据えようとしていると言われれば納得がいく。
状況が少しずつ見えてきたりんは、隠れていた壁を触れている手に力が入る。


「ふん、あれの気まぐれさは貴様も知っていいよう。100年も経てば気が変わっているはず」
「しかし約束は約束。それに、100年前はあなた様自身承諾なさっていたではありませんか」


え?承諾したの?
語られた衝撃の事実に、犬夜叉たちの心の声が共鳴する。
殺生丸が許嫁と添い遂げることを了承したなど、今の彼からは想像がつかないが、100年前の出来事ならば保証はできない。
その頃は当然りんと出会う前であるはずだし、彼女と旅をするまでの殺生丸は異常なまでの人間嫌いであった。
同じ犬妖怪の華蘭と結婚の約束をいていても、さほどおかしくはないのだ。
しかも、承諾したということはどうやら事実らしく、殺生丸はじっと華蘭を見つめたまま黙り込んでしまった。
ちょっとちょっと、なんでそこで黙るのよ!?
かごめは心の中で抗議してみるが、それが殺生丸の耳に届くことはない。
ここで黙っていたら、承諾したことを事実だと認めることになってしまう。
せめて何か言い訳をしてくれないと、りんが可哀そうではないか。
かごめは悔しさと怒りで拳を震わせた。


「それに、どうやら殺生丸様には、特定のお相手はいらっしゃらないご様子。独り身である限り、あの約束は有効のはずですよ?」


かごめが再び背後のりんに目を向ければ、悲し気に瞳を潤ませながらうつむいていた。
畳みかけるように言葉で攻めかかる華蘭に、やはり殺生丸は黙り込んだまま。
無口な彼は、必要最低限なこと以外は口にしない質である。
しかし、この状況では言葉を尽くしてりんに状況を説明するか、華蘭に“心に決めた相手がいる”としっかり断るべきだろう。
どちらも実行しようとしない殺生丸にしびれを切らしたのは、他の誰でもないかごめだった。


「あぁもう!見てらんない!」
「あ、おいかごめ!?」
「よせかごめ!何をするつもりだ!」


後ろで犬夜叉と楓が引き留めている声が聞こえる。
一切かまうことなく、かごめは殺生丸と華蘭のもとへと足を進めた。
いつもより足音が大きいのは、彼女が怒っているときにする癖である。
犬夜叉が無神経なことを言ったときによく発動する癖だが、まさか殺生丸相手に発動する日が来るとは犬夜叉も思わなかった。
あの二人の間に割って入るのはあまりに危険なため、止めたいのはやまやまだが、あんなに怒っているかごめを止めるのは困難である。
結局犬夜叉も楓もかごめを制止することはできず、かごめは殺生丸のすぐ前に立ち華蘭と対峙した。


「ちょっとアンタ!いきなり来て何なのよ!痴話喧嘩ならよそでやってよね! アンタが来たせいで村の人たちはすっごく困ってるの。迷惑なの!さっさとこの犬たちと一緒に帰ってくれない!?」


先ほど犬夜叉を簡単に制圧してしまった華蘭相手に食って掛かるかごめに、七宝らは度肝を抜かされていた。
昔から度胸があると思っていたが、この状況でも臆することなく怒鳴り散らせるとは。
だが犬夜叉の方はというと、明らかに焦っていた。
あの女は生半可な強さではない。
もしあんなに啖呵を切って華蘭の不興を買い、即座に手を出されたらいくら霊力の高いかごめでもひとたまりもない。
だが、そんな勇猛果敢なかごめに抗議したのは、華蘭ではなく背後の殺生丸の方だった。


「どいていろ。邪魔だ」
「あのねぇ、あなたが一切この状況を説明してくれないのが悪いんでしょ? この人にこのまま村に居座られたら困るのはこっちなのよ!?」
「貴様がでしゃばるようなことではない。どけ」
「なんですって!?」


かごめ自身、自分が無関係であることは自覚していた。
しかし、不安げなりんを想うと黙ってはいられない。
とにかくこの場を収めて殺生丸に状況の説明をしてもらわなくては。
その一心での行動だった。
しかし、そんなかごめの行動は、思わぬ思い違いを呼ぶことになる。


「ほう。殺生丸様が人間の女に入れ込んでいるという噂を耳にはしていたが、そなたがその女か」
「へ?」


言い合う殺生丸とかごめの様子を見つめ、華蘭は口元に妖艶な笑みを浮かべながら言った。
村で暮らしているかごめたちには分からなかったが、どうやら殺生丸が頻繁にりんへ会いに行っていることは、村の外の者たちの間でも噂になっていたらしい。
しかし、相手がりんだということはハッキリと認知されておらず、ただ“殺生丸が村に入り浸るほど人間の女に入れ込んでいる”という不確かな形で広まってしまっているようだ。
この村の住民ならばまだしも、詳しく知らない外の者が見たら、殺生丸に啖呵を切りつつその許嫁を名乗る者に怒鳴っているかごめは、嫉妬で怒っている噂の女としか見えないだろう。
面倒なことに華蘭は、かごめをそのように勘違いしてしまったらしい。
まさかの展開にかごめは焦り、殺生丸もまたその横で不快感に眉をひそめている。


「ちょ、ちょっと待ってよ! 私は別に・・・!」


急いで否定しようとするかごめだったが、華蘭は人間の言葉など耳に入れるつもりはないらしい。
かごめのことを一切視界に入れることなく、殺生丸を見つめながら言葉を続ける。


「人間の女などに心奪われるとは、どこまでも御父上に似ていらっしゃること」


華蘭の言葉は、殺生丸の心を大いに乱した。
自分だけでなく、父親のことすらも皮肉られたのだ。
大妖怪である父を誇りに思っていた殺生丸にとって、これほど屈辱的なことはない。
自分の前に立つかごめを左手で強引に押しのけると、すでに抜いてあった爆砕牙を振り下ろす。
剣圧によって放たれたせん閃光と衝撃波が地面を割り、破壊の波がまっすぐ華蘭に向かっていく。
しかし、寸前のところで華蘭は驚異的な飛躍力で舞い上がり、爆砕牙の衝撃波をかわした。
彼女が飛び上がったことで、どこからともなく突風が吹き荒れ、砂塵を巻き上げながら殺生丸犬夜叉を襲う。
その場にいた者たちは砂塵から目を守るため、一様に着物の袖で顔を覆っていたが、上空から聞こえたかごめの悲鳴で顔をあげた。


「かごめ!」
「かごめちゃん!」


犬夜叉と珊瑚が彼女の名前を呼んだのはほぼ同時であった。
突風と共に舞い上がった華蘭は、霧のような雲に乗って上空を漂い、地上の殺生丸達を見下ろしている。
そんな華蘭の傍らには、かごめの姿があった。
華蘭に腕をつかまれているかごめは必死で抵抗いている様子だが、華蘭の力が強いせいか全く逃げられそうにない。


「ちょっ、離して・・・!」
殺生丸様、この女は預かります。返してほしければ、我が館にお越しください」


それだけ言い残すと、華蘭は浮遊するようにその場から去っていく。
村に襲来していた数多くの犬たちも、主を追って一斉に駆け出す。
犬夜叉の名前を叫ぶかごめに応えるように、犬夜叉は彼女を取り戻すべく走り出す。
自分の大切な人を連れ去られた犬夜叉は、必死の形相でなんとか後を追おうと走るが、空を行く華蘭に追いつくはずもなく、足を止めて悔しさに歯を食いしばった。
弥勒や珊瑚、七宝らも、突然の出来事にただただ華蘭が去っていった空を見上げるしかなかった。

華蘭たちが去った村は、恐ろしいほど静かだった。
殺生丸は爆砕牙を鞘に戻すと、長い銀髪を翻しながら華蘭が去っていった方向に歩き出した。
華蘭の言葉通り、彼女の館とやらに向かうらしい。
殺生丸の性格上、かごめを助け出すために行くわけではないだろうが、華蘭との問題は解決すべきだと考えているのかもしれない。


「おい殺生丸。あの女なんなんだ。おめぇとはどういう関係だ?」
「貴様に話す義理はない」
「ふざけんな!かごめがさらわれてるんだぞ!」
「自ら首を突っ込んだ結果だ」
「なんだと!?」


殺生丸に今にも掴みかかりそうな犬夜叉を、弥勒が“まぁまぁ”と後ろから抑えた。
相変わらず仲が悪いこの2人だが、今度ばかりは殺生丸に非があるのではないかと弥勒は感じていた。
このような状況になっても、一切説明をしないどころか触れてほしくないのかと思うほど、他者に首を突っ込まれることを嫌がっている。
せめてりんにくらいは何か言葉をかけてやっても良さそうなものだが、そんなことをする様子も一切ない。
あの華蘭という女と殺生丸との間に一体何があったというのだろうか。
謎は深まるばかりであった。


殺生丸、あなたは華蘭の館の場所を知っているのですか?」


弥勒の問いかけに、殺生丸は何も語ることなく歩を進める。
そして、ほんの一瞬だけ楓の家の中で外の様子をうかがっていたりんに視線を送った。
不安げなりんの視線は、何かを訴えかけるようだったが、殺生丸はその訴えに全く応えることなくそのまま視線を逸らす。


「貴様らはこれ以上関わるな。これは私の問題だ」


なおも自分だけで解決しようとする殺生丸
再び抗議しようとする犬夜叉が言葉を発する前に、殺生丸はふわりと空に向かって飛び立ってしまった。
そよ風に乗るように舞い上がる殺生丸は、あっという間に犬夜叉たちの手に届かない遠くまで行ってしまう。


「あぁっ!殺生丸様お待ちくだされーっ!」


いつもなら殺生丸の白いもこもこ引っ付いてついていく邪見だったが、今回は掴まる前に主が飛び立ってしまったために置いて行かれる形になってしまった。
これで何度目になるかわからない置いてけぼりなこの状況に、邪見は瞳に涙をためて嘆くしかない。
楓の家からゆっくりと外に出てきたりんは、行ってしまった殺生丸の背を寂しげな表情で見つめていた。
これまで、去っていく殺生丸の背を見つめながら不安を感じたことは一度もなかった。
けれど今、りんは底知れぬ不安を感じている。
このまま、二度と帰ってきてはくれないのではないかという不安。
けれど、何の力もないただの人間であるりんには、殺生丸を追いかける術もなければ、つなぎ留めておくための力もない。
何もできないりんは、ただ去っていく殺生丸の背を黙ってみているしかないのだ。
りんの知らない人のところになんていかないで。
そんな本音を言えるわけもなく、りんは涙をこらえるようにうつむいた。


「あの野郎、いったいどういうつもりで・・・」
犬夜叉、我々も殺生丸を追いましょう」
「あの様子だと、きっと殺生丸は華蘭の館の場所を知ってるはずだ。今から追えば、かごめちゃんを助け出せるかも」


殺生丸が去っていく背を見つめていた犬夜叉だったが、弥勒や珊瑚の提案で我に返る。
2人の言う通り、迷いのない殺生丸の足取りから、彼が華蘭の館の場所を知っていることは明白。
関わるなと言われてはいるが、仲間であるかごめが連れ去られてはおとなしく従えるはずもない。
珊瑚と弥勒は、すでに変化している雲母の上にまたがり、出発する準備はできていた。
仲間たちのその様子を見た犬夜叉は強くうなずき、鉄砕牙を鞘に納めた。


犬夜叉様、お願い。あたしも連れて行って!」


今すぐにでも出発そうな勢いの犬夜叉に駆け寄り、りんは叫ぶ。
殺生丸に制止されれば、いつも大人しく従っていたりんの珍しい主張は、犬夜叉たちを驚かせる。
先ほど一瞬だけ刃を交えたあの華蘭という犬妖怪は、犬夜叉殺生丸達と同じ一族だと名乗っていた。
だが、疑いようがないほどに纏っている妖力は強い。
かごめを奪い返すために戦うことになれば、殺生丸を交えて激しい戦闘になることも十分予想できる。
そんな渦中に、戦う術がないりんを連れて行くわけにはいかなかった。


「馬鹿言うんじゃねぇ。あぶねぇからお前は村にいろ」
「いやだ!あたしも一緒に行く! かごめ様、あたしと間違われて連れていかれたんでしょ?かごめ様が危険な目に合ってるのに、大人しく待ってるなんて嫌だもん!」
「けどな・・・」

 

りんの認識通り、かごめは華蘭にりんと間違われて連れ去られてしまった。
殺生丸が日々時間を割いて会っていた相手がかごめではなくりんだと知っていたら、華蘭はかごめをさらうことはなかっただろう。
だが、犬夜叉はそのことに関してりんを責めるつもりなど一切なかった。
悪いのはややこしい約束を交わしてしまったらしい殺生丸と、強引すぎる華蘭の2人。
かごめだけでなく、りんも巻き込まれたうちの一人でしかなかった。
だが、りんにとっては全く関係のない他人事とは言い難い。
殺生丸に想いを寄せている者として、彼と華蘭が本当に許嫁の関係なのか確かめたい気持ちもあった。
危険は承知の上。それでもなお追う理由がりんにはある。
犬夜叉を見上げるりんの目には、強い決意が宿っていた。
そんなりんを後ろから後押ししたのは、楓だった。


「連れて行ってやれ、犬夜叉。りんにとって、これは他人事ではない。知る権利くらいはあるだろう」
「そうですな。殺生丸から事情は聞けずとも、事のあらましはこやつから聞けそうですしね」


そう言って弥勒は、殺生丸が飛び去って行った空を呆然と見つめていた邪見の頭を鷲掴みにして持ち上げた。
“ぎえっ!”という濁った声が邪見の口から飛び出したが、弥勒は構うことなく乱暴に雲母の上に載せる。
雲母のもふもふとした毛並みに顔を埋める邪見は、バツが悪いのか顔中に脂汗をかいていた。


「わ、わしも行くんか?」
「当然だろ?あんた、事情を知ってるみたいだったし」


珊瑚の責めるような視線に耐えかねたのか、邪見はぷいっと視線を逸らしてしまった。
邪見は、あまり積極的に話したがっていないようではあるが、殺生丸の後を追う道中で、100年前何があったのか聞けそうである。
この中で、その説明を誰よりも聞きたがっているのは、間違いなくりんのはずだ。
彼女の縋り付くような顔は、犬夜叉に圧力を加えていく。
兄の殺生丸ともども、彼は人間の女に対してどこまでも弱いのである。


「ったくしょーがねぇな!危ねぇ目にあっても知らねぇぞ!」
「ありがとう!犬夜叉様!」


犬夜叉はその場で膝をつき、りんに背を向ける。
いつもかごめと長距離を移動する時は、かごめを背に乗せて走っているため、今回もりんをおぶざろうとした犬夜叉だったが、りんは彼の背に乗ったことがないため、なんの合図か分からず首を傾げた。
犬夜叉が“乗れ”と言ったことて、りんはようやく意味を理解し、恐る恐る犬夜叉の広い背中にしがみつく。
勢いよく立ち上がられたせいで、りんは一瞬後ろに落ちそうになってしまうが、必死で彼の火鼠の皮衣を掴んだことで難を逃れた。
こうして男の人の背に乗るなど、死んだ父親にしてもらって以来初めてだった。
殺生丸に抱えられたことはあまりなく、あったとしてもほとんどの場合横抱きだ。
こうして背に乗れば、おぶってくれている人と同じ目線でものを見ることが出来る。
殺生丸の背に乗ることが出来たなら、一体どんな世界が見えるのだろうか。

そんなことを考えているうちに、犬夜叉が勢いよく走り出した。
空を駆ける雲母と併走し、ものすごい速さで前へと進んでいく。
ふと振り返ると、村に残った楓たちが既に遠くなっていた。


「で? 邪見、あの女は一体何なんだ。殺生丸の許嫁ってのはホントなのか?」
「だからそう言っておったであろう!」


改めて質問してみた犬夜叉だったが邪見が半ば投げやりに言った答えは、りんの心を余計に締め付けるだけだった。
無口で喜怒哀楽を感じにくい殺生丸の心を知るためには、長年彼のそばに付き従ってきた邪見に意見を聞くのが一番。
そんな彼が否定することなく、その通りだと言ってしまえば、華蘭の言葉は嘘偽りないと信じるほかなかった。


「では、華蘭は間違いなく殺生丸の・・・」
「けっ、信じられっかよ。あの殺生丸だぞ?」


弥勒の独り言に、犬夜叉はすかさず否定した。
確かに彼の言う通り、誇り高く、他人の指図を受けたがらない殺生丸の性格上、母親が決めたという許嫁の相手を素直に受け入れるようには思えない。
しかし、華蘭は100年前殺生丸本人が確かに承諾したという。
殺生丸の傍若無人さをよく知る犬夜叉は、どうにもこの状況に納得がいかなかった。


「おらも信じられん・・・。殺生丸は、りん以外にそういう相手を作るような男じゃろうか?」


七宝の言葉に、一同は黙り込んでしまう。
一瞬で重たい空気に変わってしまったことで、七宝は戸惑い、“何か”悪いこと言ったか?と弥勒に問いかけるが、困った顔で首を横に振るばかりで何も答えてはくれなかった。
一同のこんな重苦しい空気感を、七宝は昔何度か肌で感じたことがあった。
あれは奈落を倒すため、かごめも交えて旅をしていた頃のこと。
犬夜叉が桔梗に接触していた時の空気感と全く同じである。
あの二人がこそこそと密会している時、かごめは決まって視線を下に落とし、暗い顔をしていた。
今、犬夜叉の背に乗っているりんが、まさにあの時のかごめと同じ顔をしているのだ。
惚れた女にこんな顔をさせてしまうのは、犬兄弟の性なのか。
七宝は迷惑そうにため息をついていた。


「それより、早く話してくれない? 100年前、殺生丸とあの女に何があったのさ?」
「お前たちがそれを知ってどうする? なぁんにも関係ないじゃろうが」


珊瑚の問いかけに、邪見は口を紡ぐ。
邪見としては、過去とは言え主が話したがらなかった事を易々と話すべきではないと考えていた。
この場にはりんもいる。
おそらく主は、りんに一番聞かれたくないはずだ。
犬夜叉たちだけならまだしも、りんがそばにいるこの状況で真実を話してしまい。もしそれを主に知られれば、ぶん殴られるだけでは済まないかもしれない。
顔中に汗をかき、ふるふると小さく震えている邪見。
しかし、そんな彼の様子を一切顧みず、珊瑚の後ろに乗っていた弥勒はグイっと腕を回して小柄な邪見を持ち上げると、そのまま腕を伸ばして雲母の体から引き離した。
このまま弥勒が手を離せば、邪見は地面にたたきつけられてしまう。


「なっ、おいこら!何する!?」
「話す気がないのなら仕方ありませんね。このまま降りていただきましょう」
「じょ、冗談じゃないわ!やめろ!は、話す!話すから!」
「よろしい」


にこりと菩薩のような笑みを浮かべた弥勒は、ゆっくりと邪見を浮遊する雲母の体の上におろした。
落とされると思っていたらしい邪見は、ずいぶんと動悸が激しくなっているらしい。
ぜぇはぁと息を切らしていた。
妖怪相手とは言え、笑顔で容赦ないことをしでかす弥勒は相変わらずの法師の職とはかけ離れた男で、七宝は怯えている邪見に同情を寄せた。
ようやく話すことを約束した邪見は、乱れた息をなんとか整え、ちらりとりんに目をやった。
彼女はやはり不安げな瞳をしている。
あれの前でこの話をするのは気が引けるが、こうなってしまっては仕方がない。
邪見は、殺生丸にこっぴどく仕置きされている己の未来を想像しながら、静かに語りだした。


********************


それは今からちょうど100年前のこと。
邪見が殺生丸に付き従ったばかりの頃であった。
当時西国を練り歩いていた殺生丸は、亡き父の旧領を荒らす妖怪たちに絡まれることが多かった。
納めていた地を、長男である殺生丸に正式に譲ることなく急逝してしまった父。
そんな彼の所領を狙っていた愚かな妖怪たちは、西国の王たる地位を我が物とするため、こぞって殺生丸の首を狙っていたのである。

当の殺生丸は、力をつけることに興味はあっても、父の持っていた所領や配下に全く興味を抱かなかったため、継ぐべし守るべしと主張する父の元配下たちの言葉を一切耳に入れていなかった。
力を追い求め、気まぐれに放浪する殺生丸に、何度か母の使いを名乗るものが現れ、小言を言ってきていたが、ことごとく殺生丸の爪によって亡き者にされていたのは言うまでもない。
当時、邪見は殺生丸の母に会ったことはなかったが、顔も知らない主の母が、息子のぼんやりとした放浪に困り果てているということは何となく推察できた。

たしかあの日も、父の所領を狙う雑魚妖怪に絡まれ、殺生丸が軽く往なしていた。
姑息にも背後から不意打ちをかましてきた大鬼の妖怪に、邪見は絶叫したが、殺生丸は涼しい顔をしたまま毒爪で体を引き裂き、あっという間に決着をつけてしまう。
汚らしい鬼の血が爪に付着してしまったことを不快に思いながら、再び歩き出そうと一歩踏み出したとき、背後聞こえた女の声が殺生丸を呼び止めた。


「流石は殺生丸様。お見事でございます」


聞き慣れない声の主は、大木の上に潜んでいたらしく、殺生丸たちが立っている地上にふわりと降り立った。
かなりの高さがある場所から飛び降りたというのに怪我一つないその女は、その風貌から妖怪であることは一目瞭然である。
また、美しい銀髪と、もこもことした白い毛を付けた着物を纏っている点から、邪見は殺生丸の知り合いかと勘繰ったが、殺生丸自身の“誰だ”という問いかけによって、その推測は外れていたと気づかされた。


「私の名は華蘭。殺生丸様の遠縁にあたります」
「遠縁だと?」
「はい。そして、あなた様の妻でもある」
「はっ!?」


“妻”という言葉にいち早く反応したのは、殺生丸ではなく邪見の方であった。
主に伴侶がいたなど、一度も聞いたことがない。
まだ仕えて日が浅いために、ただ聞かされていなかっただけかもしれないが、それでも、旅の途中に妻の存在を気に掛けるそぶりなど一度もなかった。
しかも、殺生丸はこの女に対して開口一番“誰だ”と言い放った。
本当にこの女が妻であれば、そんなことは言わないはずだ。
さてはこの女も、主が受け継ぐはずだった広大な領地を狙って色仕掛けでもしようという輩か。
そう判断した邪見は、銀髪の女に抗議するよう前へ出た。


「おい女!殺生丸様の奥方を名乗るとは何事か!無礼にもほどがあるぞ!」
「御母堂様からの知らせはありませんでしたか?すでに話はついているものかと思っていたのですが」
「おいこら無視するんじゃない!」


わめく邪見など全く眼中にないようで、じっと殺生丸の目を見て話す華蘭は、彼の母の名前をだした。
どうやらこの女の正体について母から何か連絡があったらしいが、母の使者を名乗るものは要件を口にする前にことごとく切り捨てていた。
どうせ領地を守れだの父の後を継げなど、聞き飽きた要件だろうという判断の元での行為である。
しかし、何度もやってくる使者の一部は、この女の件について口にしていたらしく、殺生丸の知らないところで何か話が進んでいるらしいのは確かであった。


「御母堂様から伺いました。息子が父の所領安堵の任を無視し放浪している、と。義弟も半妖ゆえ頼るに値せず、息子の身を固めさせるために所帯を持たせたいとも」
「それで貴様を寄越したということか」
「いかにも」


気まぐれで強引な母の考えそうなことではあった。
殺生丸も所帯を持てば落ち着き、所領安堵を考えてくれるだろう、と。
だが、あいにく殺生丸にその気は一切ない。
所領も、女も、欲するに値しない、
殺生丸が欲しているのは、父を超えるほどの力だった。
力を手に入れた延長線上で所領や配下、女を得るのであれば拒絶する意味はないが、求めるべき力を放り出してまで、所領を大事にしたいとは思わない。
女を娶ってまで、父の後を継ぎたいとも思わない。
母は、息子の思いを読み違えていた。


「失せろ。私は妻を娶るつもりはない」
「御母堂様がお決めになったことでもですか?」
「ならば尚のこと。この殺生丸は誰の指図も受けん。たとえ母であろうとも」


思い返せば、邪見がこの男に付き従ってからというもの、主が女を侍らせているところを一度も見たことがなかった。
人間の女ともつながりを持った父とは違い、殺生丸の中での優先順位というものは、力や強さが大半を占めており、女は最下層に位置しているようである。
どこまでも己の強さを追い求めている殺生丸に対して尊敬の念を抱くとともに、変わったお人だという感想を抱いていた邪見だったが、主の気分を害しそうだったためずっと黙っていた。
しかし、邪見が長らく抱いていた素直な感想を、華蘭は恐れることなくさらりと言ってのけた。


「強情なお方」


殺生丸の鋭い視線が、華蘭をとらえる。
あぁ、殺生丸様は今、お怒りになっておられる。
そんな邪見の推測は大当たりであった。
しかし、華蘭は全く怖じることなくゆっくりと殺生丸に近づき、口元に妖艶な笑みを浮かべながら言葉を続ける。


「大妖怪の一族として代々受け継がれてきた御家は、お父君が人間の女と交わったことをきっかけにその威光が衰えつつある。この西国を根城にしている妖怪たちも、犬一族の時代は終わった、一族の威光は地に落ちたと口々に揶揄しております。それを、雑魚妖怪どものただの戯言と斬り捨てにならないのは、御母堂様が聡明な証でしょう。一族の威光というものは、周囲が崇め奉るがゆえに保たれる。今のご一族に、落ちつつある威光を保てましょうか。かわいらしい犬耳の生えた子が名を連ねてしまっているというのに」


最後の一言は、決定的に殺生丸の不興を買ってしまった。
怒りの感情が胸を突き、衝動的に女に向かって爪をたてる。
だが、華蘭は風のようにかわし、再び大木の上へと降り立った。
一族の遠縁を名乗るだけあって、それなりに動けるらしい。


「お怒りになられるのは図星の証拠。一族の威光がこのまま失われてゆくのは心苦しいでしょう」
「そんなものに興味はない」
「しかし、お父君の名が汚れることは耐え難いのではありませんか?」


華蘭の問いかけに、殺生丸は口を閉ざした。
一族の威光だの、所領だのはどうでもよかったが、敬愛する父が愚弄されている事実は確かに見逃すことができない。
そればかりは、華蘭の言う通りであった。
言い返さないのだろうかと殺生丸を見やる邪見だったが、何か口を挟まば八つ裂きにされてしまうかもしれないという恐怖が、邪見に口を固くした、


殺生丸様、ご一族のため、そしてお父君のため、私と所帯を持ち所領安堵に動かれませ。誰もがそれを望んでいるのですから」


力では殺生丸に敵うものなどいるはずもないが、口の達者さではこの華蘭はかなりの強敵に見えた。
母の同意という強い後ろ盾を得た華蘭を論理で打ち崩すことは難しい。
ならば殺してしまおうかと考えた殺生丸だったが、そうなるとまた母がうるさいだろう。
面倒くささに肩を落としながら、殺生丸は華蘭がいる大木に背を向けた。


「私には追い求めるものがある。それを手にするまで、身を固めるつもりはない」
「追い求めるもの・・・?」
「父の形見の妖刀、鉄砕牙」


その刀の名前は、華蘭も聞いてことがあった。
かつて名を馳せた殺生丸の父が持っていた複数の名刀のうちの一本。
一振りで百の妖怪をなぎ倒すというその鉄砕牙は、父の墓処に葬られているという。
しかし、その墓がどこにあるのか、正妻である殺生丸の母でさえ知らないのだとか。
力を追い求める殺生丸が、その鉄砕牙を求めていることは合点がいく。
母君の言う通り、この殺生丸という青年はいささか頑固で面倒な性格をしているらしいし、これ以上説得しても時間の無駄かもしれない。
そう判断した華蘭は、少し攻め方を変えてみるかと思い立った。


「では殺生丸様。その鉄砕牙とやらさえ手に入れば、迷われる理由はなくなるということですね」
「何が言いたい」
「100年後、再び伺いましょう。お強い殺生丸様のこと、100年もの時間があれば、どのような刀であれ手にしていることでしょう」
「ふん、100年経ったとしても、私が貴様を伴侶に迎える気になるかどうかは別の話だ」
「ならば、100年後までに心に決めた女を見つければよろしい。約束の期日、殺生丸様が未だ独り身であったときは、そのお心を射止めるだけの女が現れなかったということで、私を受け入れていただきます。お嫌なら別の伴侶を見つければよいだけのこと。これならば文句はありますまい」


華蘭は、あえて殺生丸に対して逃げ道を作った。
そうすることで、動きようによっては破談になるかもしれない可能性を残し、ならば良いかと承諾を得やすくするためである。
名のある妖怪は、人間の大名たちと同じで、ほとんどの場合は政略によって婚姻が決まる。
華蘭もその例に漏れず、いつかは周囲が決めた相手に嫁ぐことになるのだ、
ならば、強い相手に嫁ぎたい。
そんな考えを持っていた華蘭にとって、殺生丸は最高の相手であった。
確約だけでも取ってしまえば、あとは殺生丸に近づく女を裏で密かに殺してしまえばいいだけのこと。
とにかくこの場で首を縦に振らせさえすれば、華蘭の勝利に終わるのだ。
そして殺生丸は、そんな華蘭の心を知ってか知らずか、都合のいい答えを口にした。


「好きにしろ」


まさか承諾すると思っていなかった邪見は、開いた口が閉じなかった。
殺生丸としては、ただこれ以上問答をすることが面倒になったから投げやりになっただけ。
どうせこの先も、心乱されるような女は現れないだろう。
いや、たとえ居たとしても、それはきっと一時の気の迷いに他ならない。
ならばどうでもいい。
ただ母の指図通り今すぐ所帯を持つのは気に食わない。
その時が来たら適当に受け入れ、子を成し、次代へ繋げばいい。
女など、殺生丸にとってそのためだけの存在でしかなかった。

しかし、その時殺生丸は想像もしていなかった。
この時下した甘い決断が、100年後、自分自身の首を絞めることになることを。


********************


土砂崩れか何かでむき出しになった山肌に沿うように、その館は建てられていた。
そばには小さな滝が流れていて、景観もいい。
妖怪に誘拐されているこの状況でなければ、その眺めの美しさに魅入られていただろう。
赤い屋根のその館にたどり着いた華蘭は、かごめの手を強引に引き、廊下を突き進む。
ここに連れてこられるまでずっと手首を握られているため、血流が悪くなりかごめの手は真っ白になっていた。


「ちょ、ちょっと!いい加減離してよ!」
「うるさい女だ。少しは口を閉じられぬのか?」


かごめの抗議の言葉も、華蘭は全く受け入れる気はないようで、先ほどから適当に流されている。
ここに来る途中で、持っていた弓矢を森の中に落としてしまったため、抵抗の余地がない。
かごめは、ただ腕を引かれるがまま、とある部屋の前へと連れ出された。
鶴が描かれているその部屋の障子が開け放たれると、そこには立派な寝台がひとつ置かれていた。
乱暴に腕を引かれたせいで、かごめ華蘭が手首を離した拍子に寝台へと倒れこんでしまう。
ずいぶんと高価そうな寝台が置かれたこの部屋は、孔雀が描かれた金の屏風や装飾豊かな箪笥が置かれ、まるで公家の住居のように豪華な部屋だった。


「喜べ女。ここがそなたの部屋だ」
「は?部屋って・・・」
「ここは私が殺生丸様との新居として建てさせたもの。この部屋は側室用に設けた部屋だ」
「そ、側室!? 冗談じゃないわよ!なんで私が殺生丸の側室にならなきゃいけないのよ!」


現代にいたころ、祖父が好んで観ていた時代劇で、位の高い者は正室側室の制度を取り入れていたことを知っていたかごめは、華蘭の言葉に青くなる。
やはり、この女妖怪は勘違いをしている。
自分が殺生丸に抗議してしまったがために、かねてから噂になっていたりんと勘違いされ、この館に連れてこられてのだ。
まさか殺生丸とそういう関係だと勘違いされる日が来るとは夢にも思っておらず、かごめは慌てて声を荒げた。


「ほう。人間の分際で側室は気に入らぬと申すか? 殺生丸様の好き人だからと譲歩して、せっかく殺さずにいてやったというのに、強欲なことだな」
「だから!私はそういうんじゃないんだって!私と殺生丸は別に・・・!」


そこまで口に出して、かごめはハッと押し黙った。
このまま、自分は殺生丸とは何の関係もないということを証明してしまったら、この華蘭とかいう妖怪は次にどんな行動に出るだろう。
自分を殺すかもしれない。
それだけではない。ならば、殺生丸と良い仲になっている人間の女とはいったい誰なのか、と真犯人探しが始まる。
そうなれば、りんが本当の相手だと知られるのも時間の問題だろう。
本命の女が別にいると知った華蘭は、間違いなくりんの前に現れるはず。
そうなったら、身を守るすべのないりんは危険にさらされてしまう。
このまま素直に“違う”と否定してよいものだろうか。
突然黙り込んでしまったかごめを不審に思った華蘭は、首をかしげながら問いかけた。


「どうした? そなたが殺生丸様が入れ込んでいる人間の女なのだろう?」
「・・・・・え、えぇ、そうよ」


かごめが下した決断は、殺生丸の相手を演じることだった。
自分が代わりになることで、りんの安全が保障されるならそれでいい。
きっといつか、犬夜叉が助けに来てくれるはず。
その時までの辛抱だ。
かごめは自分を落ち着かせるために、心の中で犬夜叉の名を呼んだ。


「まったく、人間の女に心乱されてしまわれるとは。だが、そうなってしまっては仕方がない。せめてもの情けとして、側室に据えてやる。我が寛大さに感謝するのだぞ、女」
「んもう!さっきから女女ってなによ!私はかごめよ、かごめ!きちんと名前があるんだから呼びなさいよね!」
「人間の女の名前など、覚えるに値しない」
「なっ・・・!」


冷え切った華蘭の視線は、かごめを同じ生き物として見てはいない。
この冷たい態度と視線は、初めて会ったころの殺生丸のそれと瓜二つであった。
当時の殺生丸は、人間を限りなく下に見ていて、忌み嫌っていた、
華蘭もまた、あの頃の殺生丸同様、人間という生き物を自分たち妖怪と同等には見ていないようである。
こんな人に真実を言ってしまえば、余計にりんが危なくなってしまう。
なんとしても隠し通さなければと、かごめは内心意気込むが、かごめには一つの不安があった。
犬夜叉が、この館の場所を探り当てられるのかという問題だ。
楓の村からこの館まではかなりの距離があり、かごめや華蘭のにおいを追ってくるのは少々無理がある。
殺生丸であれば、この館の場所を知っているのかもしれないが、彼が自分を助ける目的でわざわざここまで足を運ぶとも思えない。
となれば、自分がこの館から救出までにかなりの時間がかかってしまうのではないだろうか。
数時間なら耐えられそうだが、これが数日ともなればずっと偽り続けるのも難しい。
偽る時間が長ければ長くなるほど、真実を知った時の華蘭の怒りは増すことだろう。
兎にも角にも、犬夜叉たちには早くここへ駆けつけてもらわなければ、
焦るかごめだったが、そんな彼女の心情など全く意に介さない華蘭は、冷たい視線をかごめに突き刺しながら言葉を続けた。


殺生丸様も、かの父君も、なぜ人間などい言う惰弱な生き物を寵愛なさったのか。お心が読めぬ」
「一緒にいたいと思った相手のそばにいて何が悪いのよ!相手が妖怪だろうが半妖だろうが関係ないわ!私は犬夜叉が好きだからそばにいるのよ!」
「・・・犬夜叉?」
「あっ」


売り言葉に買い言葉とは、まさにこのことであった。
華蘭としては、殺生丸が寵愛しているらしい人間の女に言ったつもりなのだろうが、かごめは自分自身の置かれた本来の立場に置き換えて反論してしまった。
犬夜叉の名前を出してしまったのは、とっさにやってしまった失敗だった。
無論、華蘭は突如としてかごめの口から出てきた殺生丸の弟の名前に疑問を抱く。
この女は何を言っているのだ?
冷たい視線は疑念の混じったものに変わり、かごめに注がれる。

このままではまずい。
自分が殺生丸の意中の相手ではないことがばれてしまう。
なんとかごまかさなければ。
かごめが必死に考えに考えを巡らせていたその時だった。

部屋を仕切る襖の向こう側で、大きな爆発音が聞こえてきた、
そして、その音とともに襖は吹き飛ばされ、部屋に飾ってあった装飾品も無残に畳の上へと落ちてゆく。
突然の出来事に、かごめは小さく悲鳴を上げるが、華蘭は全く動じていない様子だった。
まるでその爆発の正体が来ることを最初から分かっていたかのように。
吹き飛ばされた襖の向こう側、埃が舞い上がりよく見えない隣の部屋から、かごめらがいる部屋へと近づいてくる人影が見える。
爆砕牙を片手に銀色の髪をなびかせている、殺生丸であった。


「うそ・・・殺生丸?」


まさか殺生丸がここまでやって来るとは思わず、かごめは驚愕し目を丸くした。
しかし、やはり華蘭には彼がやって来ることは匂いでわかっていたらしい。
決して動じることなく対峙する。


「やはり来られましたか。それほどまでに人間の女が大事とは」
「貴様を斬りに来ただけだ」


爆砕牙を右手に握っている彼は、華蘭に対して明らかな殺意を向けている。
どうやらかごめを助けに来たというよりは、無礼を働いた華蘭を成敗しに来ただけのようだった。
鋭い視線に射抜かれているにも関わらず、華蘭は余裕の笑みを崩していない。
だが、何かの異変を察知したのだろう。
ふと、殺生丸の背後へと視線を向けた。
それとほぼ同時に、殺生丸が破壊した部屋の奥から、複数の人影が走ってくるのが見えた。
赤い衣に銀色の髪。あれは間違いなく、犬夜叉たちであった。


「かごめ!無事か!」
犬夜叉!」


最も頼りにしていた人物の到来に、かごめは安堵する。
殺生丸の後を追ってきたらしい彼は、弥勒や珊瑚といった仲間たちも後ろに引き連れていた。
その中に、気になる人物が一人。
犬夜叉の背におぶられている、りんである。
彼らが助けに来てくれたこと自体は喜ばしいが、せかっくかごめがりんを守るために嘘をついていたというのに、犬夜叉が当のりんを連れてきてしまっては意味がない。
これは少しまずいことになったのではないだろうかと、かごめは一瞬だけ殺生丸に視線を向けた、
するとやはり、あとからやってきた犬夜叉を見つめる殺生丸の顔は、怒りに満ちていた。


「何故来た犬夜叉。関わるなと言ったはずだ」
「うるせぇ!かごめがさらわれてるってのに、黙って見てられるか!」
「余計なことを」


犬夜叉がりんを連れてきてしまったことで、殺生丸の機嫌は一気に悪化した、
出来ることならば、りんはこの場にいてほしくなかった。
彼女がいたら戦いにくい。
しかし、来ることを望んだのはりん本人である。
犬夜叉は、背におぶっていたりんをゆっくり下すと、腰の鉄砕牙を抜いた。
そして大きく振りかぶり、部屋の奥に立っている華蘭めがけて風の傷を繰り出した。
だが華蘭はひらりと飛び上がり、鉄砕牙から放たれた金色の衝撃波をかわす。
打撃は与えられなかったものの、華蘭をかごめのそばから引き離すことに成功した犬夜叉は、急いでかごめの元へと駆け寄った。


「かごめ、怪我はねぇか!?」
「うん、大丈夫。ありがとう、犬夜叉


目立った怪我はおっていない様子のかごめに、犬夜叉は安堵した、
以前の殺生丸しかり、大きな揚力を持っている妖怪ほど、人間を毛嫌いする傾向がある。
連れ去った後、華蘭がかごめを容赦なく殺してしまうことも考えられたため、犬夜叉としては気が気ではなかった。
もう二度と、かごめを危険な目には合わせたくはない。
二人のそんなやりとりを横目で見ていた華蘭は、爆砕牙を構える殺生丸の前にふわりと降り立つと、その切れ長な目でかごめに視線を送った。


「ほう、どうやら殺生丸様だけでなく、半妖の弟にも唾をつけていたか。淫らな女よ」
「はっ!? ちょっと待ってよ!」
「お、おいどういうことだ!?  かごめ、まさかお前殺生丸と・・・!」
「いや違うから!それだけは絶対違うから!」


りんをかばうためについた嘘は、華蘭の言葉をいっかけに思わぬ方向へと動き出してしまった。
まさかそっちの方面に勘違いされるとは思っていなかったかごめは必至で否定するが、犬夜叉はぎょっとした顔でかごめを見つめている。
この問題の当事者である殺生丸とりんではなく、まったくもって部外者であった犬夜叉とかごめが言い争っている光景を見ていた弥勒、珊瑚、そして七宝は、これは帰ってから面倒な空気になりそうだぞ、と内心呆れていた。
犬夜叉とかごめの“どういうことだ”“だから違うって!”の攻防を煩わしく思ったのか、殺生丸は至極面倒くさそうな表情を浮かべながら小さく舌打ちをした。


「華蘭よ。その女は私とは何のつながりもない。この殺生丸がわざわざここに来たのは、その女を助けるためではない。100年前の錆びついた約束ごと貴様を葬るためだ」


殺生丸が口にした言葉に、りんは胸打たれた。
視線の先に立っている殺生丸は、相変わらず感情が読めない涼しい顔をしているが、彼の言葉から読み取れるのは、華蘭への拒絶であった。
邪見から聞いた100年前の約束というものが、決して翻せないものとして殺生丸が受け入れてしまうのではないかと危惧していたりんだったが、そんな心配は殺生丸自身の言葉で吹き飛んでしまう。
華蘭を受け入れる様子が全くない彼の言動に、喜びを感じずにはいられなかった。


「約束を諸諾した過去を認めたうえで、なかったことにしたいと? 随分と身勝手なこと」
「あの時も言ったはずだ。誰の指図も受けぬと。望むものがひとつある限り、それ以外のものはいらぬ」
「以前欲していた鉄砕牙は弟に譲り、それ以上の力を持つ刀を手に入れたとお聞きしました。それでもなお、殺生丸様が手に入れたいものとはいったい何なのです?」


強力な刀を手に入れ、失っていた左腕までも取り戻した殺生丸
彼は隙が無いと言ってもいいほどの強さを誇っていた。
誰もがうらやむ力を手にし、最強との呼び声も高い彼には、もはや他に手に入れたいものなどあるはずもないと華蘭は思っていた、
しかし、そんな殺生丸でも、まだ手にしたいと願うものがあるという。
長年力を追い求めていた殺生丸が、そこまで欲するものとはいったい何なのか、華蘭には想像もできなかった。
しかし、殺生丸はその答えを易々と教えるつもりはないらしい。
爆砕牙を握りなおすと、明確な殺気を孕んだ瞳で華蘭を捉えた。


「貴様に教える義理などない!」


殺生丸によって振るわれた爆砕牙の刀身からあふれ出した光の所撃破が、まっすぐ華蘭へと伸びていく。
かつて奈落をも苦しめたこの力を一身に受ければ、華蘭とてひとたまりもないだろう。
犬夜叉の風の傷以上に大きな力を前に、華蘭はとっさに腰に差していた細剣を抜き、畳に突き刺した、
すると、細剣が突き刺さった畳の割れ目が派手な音とともに広がってゆき、畳の裂け目からは銀色の衝撃波があふれ出す。

華蘭が繰り出した銀色の衝撃波は天井にまで延び、屋根を支えていた柱を破壊する。
殺生丸の光とぶつかり合い、突風を巻き起こしながら互いの力を相殺させた。
殺生丸の爆砕牙を受け止めっ来た華蘭の力に驚く犬夜叉たちだったが、彼らの意識はすぐに、がたがたと揺れ始める館の方へと向けられた。
先ほどの技のぶつかり合いのせいで館の一部が破壊され、今にも崩れ落ちそうになっている。

天井の一部がぼろぼろと崩れ、犬夜叉たちめがけて落下してきた。
とっさに犬夜叉はかごめを横抱きに抱えてその場を去り、弥勒や珊瑚らも、落ちてくる木材にを器用にかわしていた。
崩壊し始めた館に、一同が戸惑いだしたその瞬間だった。
部屋の中央に立っていた漆色の大柱がガタガタと傾き、りんが立っていた方へと倒れてきてしまう。
先ほどまで密集していた弥勒たちだったが、落ちてくる木材を避けているうちに散り散りになってしまい、誰もりんのそばにはいなかった。


「あぁ!りん!」
「りんちゃん!」


邪見とかごめがりんの名前を呼んだのは、ほぼ同時であった。
りんの窮地には気が付いているものの、全員助けに行ける場所にはいない、
自分の方へと倒れてくる柱を前に、りんは足がすくんで動けずにいた。
このままでは、大柱の下敷きになてしまう。
りんが恐怖に目をつむったその時だった。
白い影が、目にもとまらぬ速さでりんの体をさらった。


殺生丸様・・・?」


救い上げられるような感覚に目を開けたりんの視界いっぱいに広がったのは、愛しい男の顔。
敵対する者を引き裂く鋭い爪が食い込まないよう、優しく触れる殺生丸に抱かれ、りんは危機を回避した。
そっと畳の上におろされたりんは、まっすぐ自分だけを見つめる殺生丸の瞳に目を向ける。
いつもは冷淡な彼の金色の瞳が揺れている、
何かを訴えかけるように向けられたその瞳は、彼の絶対的な強さに反して、やけに弱弱しく感じられた。


「何故来た」
「えっ」
「危険だとわかっていて、何故来た」
「だって・・・!殺生丸様が、りんを置いてどこかに行っちゃう気がしたから」


気が付けば、りんは殺生丸の白い着物を強く握りしめていた。
目の前にいる彼は、りんとは何もかもが違う。
生き方も、種族も、流れている血も、時の流れすらも違う。
そんな彼の心を探ろうとして手を伸ばしても、いつも人間と妖怪という種族の壁が邪魔をする。
何があっても崩れることのないその壁は、かの殺生丸でも乗り越えることは困難だ。
壁の向こうにいる殺生丸が、いつか自分を見つめ続けることに飽きて、同じ側にいる存在に視線を向けてしまうのではないか。
壁際でいつもりんの存在を確かめてくれていた殺生丸が、いつか自分を忘れて遠くに行ってしまうのではないか。
常日頃から抱えていた爆弾のような不安は、華蘭の登場によって簡単に破裂してしまった。
今までに出したことがないような強い力が指先を伝わり、つかんでいる殺生丸の着物にしわを作る。

今にも涙の粒をこぼしそうなほど揺らめくりんの瞳を見つめながら、殺生丸はつかまれていない方の手で、りんの頬に触れた。
いくつもの命を引き裂いてきた手で触るには、無垢で柔いりんの肌は美しすぎる。


「どこにも行きはせぬ」


柄にもなく優しい口調でささやかれたその言葉は、崩れ落ちる館の喧騒にかき消され、りん以外は聞き取ることが不可能だった。
犬夜叉の陰に隠れながらその光景を眺めていたかごめは、ふと殺生丸と初めて会った日のことを思い出す。
自分を横目に見ながら、“なぜ愛せる”と犬夜叉に問いかけた殺生丸の瞳は氷のように冷たくて、優しさという言葉とは対極にいる存在だと思ったものだ。
けれど、今の彼のりんを見つめる瞳は、冷酷な大妖怪のものなどではなく、慈悲に満ちた優しいものだった。
情を重んじる人間と何ら変わりないその瞳は、彼を離すまいと着物をつかんでいるりんを捉えて離さない。
かごめの目には、二人の間にそびえる大きな壁は見えなかった。


「なるほど。私は勘違いをしていたようだ。噂の女というのは、その小娘なのですね、殺生丸様」


獲物を捕らえたかのような鋭い視線が、今度はりんへと向けられる。
殺気を一身に浴びることに慣れていないりんは、自分に向けられている視線に気づき、とっさに殺生丸の陰に隠れた。
しかし、その行為が華蘭の闘争本能をむき出しにさせてしまう。


「何も出来ぬ脆弱な人の子が、殺生丸様のお心を乱すなど、浅ましい」
「私が誰の手を取ろうと、貴様には関わりのないことだ」
「そうですか。では、その手を斬り落としてしまいましょう」


畳に突き刺した細剣を抜き取り、顔の前で構える華蘭。
彼女の細剣からは、計り知れないほどの妖気があふれ出ていた。
力をため込んでいるその様子に危機感を抱いた犬夜叉は、背後にいたかごめをかばうように前に出ると、鉄砕牙を構えた、
あのままではりんが危ない。
彼女をこの場に連れてきてしまった責任の一端を感じていた犬夜叉は、鉄砕牙を大きく振りかぶって華蘭の技を食い止めようとした。


「風の傷っ!」


刀身から飛び出た金色の閃光は、まっすぐ華蘭へと伸びていく。
彼女の体を引き裂くかと思いきや、浮かび上がて来た薄い膜のようなものが華蘭の体を囲み、風の傷からその身を守った。
結界である。
まさか結界を張れるとは思ってもいなかった犬夜叉たちは面食らい、完全に手が止まってしまう。
そして、華蘭は妖気を貯めた細剣を舞うように振り、白い衝撃波を殺生丸とりんに向けて放った。
先ほど繰り出した技よりも数倍威力が高そうなその技は、崩壊しかけたこの狭い館の中でかわすにのはあまりにも難しい。
爆砕牙で迎え撃ちたいのはやまやまだが、すぐ横にいるりんが爆砕牙の放つ衝撃に巻き込まれ、負傷する可能性もあった。
真正面から技を受けるしか選択がなくなってしまった殺生丸は、左腕でりんの体を強く抱き寄せ、右手で天生牙の柄を握る。


「せ、殺生丸様!!」


白い閃光が、殺生丸とりんの体を包み込む。
邪見の悲痛な叫びを聞きながら、その場にいた全員が息をのんだ。
灰色の埃が舞い上がり、やがて激しくあたりを包んでいた光が弱まっていく。
視界を遮っていたものがなくなり、一同の視界に飛び込んできたものは、天生牙を畳に突き刺し、りんをかばうように腕に抱いて膝をついている殺生丸の姿であった。
小さく息を切らし、肩で息をしている殺生丸は、珍しく憔悴している様子。
りんをかばうため、天生牙の結界に頼ったのである。
しかし、結界といえど自身への衝撃を和らげるほどの効果しかない。
莫大な妖気の塊を一心に受けながらも、かたくなに自分を離さなかった殺生丸の姿に、りんの瞳からは一筋の涙が零れ落ちる。
殺生丸のそんな行動に心突き動かされたのは、りんだけではなかった。
先ほどまで殺気を放っていた華蘭も、細剣を構えることを忘れ、人間を必死で守る殺生丸の姿を呆然と見つめている。


「わからない・・・。なぜそこまでして、人間などを・・・」


うわごとのようにつぶやく華蘭。
彼女の瞳からは、戦意が消えていた。
畳に突き刺した天生牙に体重をかけて立ち上がった殺生丸は、りんを背に隠すように左手でその肩を抱く。


「わかってもらおうなどと、最初から思っていない。だがこの殺生丸、一度決めた道は決して曲げぬ。それだけはよく覚えておけ」


誇り高く、誰よりも強い妖怪、殺生丸
りんが彼と出会ってから、もう何度目かの春が過ぎた。
それでも、彼は一度たりとも決定的な言葉を言ってはくれなかった。
感情ばかりが先走り、不安ばかりが募っていく。
振り返ることなく先を歩く彼に、いつか自分が追いつけなくなって、惨めにおいて行かれてしまうことを、りんはいつも恐れていた、
しかし、りんは今日、初めて彼が立ち止まってくれたような気がした。
好きだとか、惚れたとか、そんなわかりやす言葉をもらったわけではない。
ただ、いつもは霧がかかっていて見えない心のありかをほんの少しだけ見せてくれただけなのに、りんの心を覆っていた不安の雲はそみるみるうちに消滅していく。
長い間蓄積してきた大量の不安を一瞬で泡に変えてしまう殺生丸の存在が妙に憎らしく、そして愛おしかった。


「なるほど。やはり強情なところは変わっておられないのですね」


呆れたように笑いながら、華蘭は細剣を静かに鞘に戻した。
剣を収めるということは、戦いを終えるということ、
華蘭のすぐ横で鉄砕牙を構えていた犬夜叉は、ピクリと耳を動かし、不思議そうに華蘭を見つめた。


「ならば、今回は退きましょう」
「えっ」


あっけなく戦意をしまい込んでしまった華蘭に、思わず声を漏らしたのはかごめだった。
殺生丸のためにこんな館を立て、りんと間違えたとはいえ自分をさらってまで殺生丸の気を引こうとしていたにも関わらず、そんなにも素直にあきらめてしまうのか。
敵ながら、かごめにとって“それでいいのか”と問いかけたくなるほど聞き分けの言い判断だった。


「しかし、殺生丸様をみすみす逃すつもりは毛頭ございませぬ。あなた様がその人間に飽いたころ、再び会いに来ましょう。そうですね、その女が死ぬころ・・・ちょうど100年後あたりに」


そう言い残すと、華蘭は突風を巻き起こし、ふわりと宙に舞い上がった。
すでにボロボロになっている天井を突き破り、青い空めがけてゆるりゆるりと去っていく。
どうやら、災厄はようやく姿を消してくれたらしい。
しかし、犬夜叉たちに安堵している暇は残されていなかった。
館をかろうじて支えていた天井を、華蘭が派手に突き破って去って行ってしまったものだから、館の崩壊に拍車がかかってしまった。
がたがたと不穏な音を立てて柱や壁を揺らしているこの館を脱出すべく、犬夜叉たちは各々慌てて外に飛び出す。
ほうぼうの体で全員が脱出した後、館はもろくも崩れ落ちてしまう。
あんなに豪華な館だったというのになんだかもったいないな、などと思いながら、崩れ落ちてゆく館を見つめていたかごめだったが、ふと周囲に目をやり、肝心の二人の姿が見えなくなっていることに気が付いた。


「あれ?殺生丸とりんちゃんは?」
「あいつならとっととりんを抱えてどっか行っちまったぜ」
「え!?」


館から脱出したその足で、殺生丸がりんを抱え、少し離れた森の中へと入っていく様子を見ていた犬夜叉は、かごめの問いかけに素直に答えた。
おおかた、二人きりになりたかったのだろう。
今の二人には、きちんと話しておかなければならないことが多くありそうだから。
しかし、そんな二人の事情を全く汲み取る気のない邪見は、主が消えた事実に狼狽し、急いでその背を追おうと走り出す。
しかし、それを阻むように邪見の人頭丈をつかみ上げたのは、珊瑚だった。
殺生丸から贈られた大切な人頭丈を強く握っていた邪見は、持ち上げられた人頭丈と一緒に宙に浮いてしまう。


「な、なにするんじゃこら!」
「今くらい、そっとしておいてあげたら?」
「同感ですな。むしろ今行けば、殺生丸に半殺しにされるかもしれませんよ?」
「どういうことだ」


弥勒と珊瑚の言っている意味がよくわかっていない邪見は聞き返してみるが、二人は顔を見合わせて笑うだけ。
何が何だかわからないといった様子の邪見は、助けを求めるように弥勒の肩に乗る七宝に視線を送ってみるが、“おら子供だからようわからん”と都合のいい言い分で逃げられてしまった。
そんな光景をほほえましく眺めていたかごめであったが、突然背後からトントンと肩をたたかれて振り返る、
そこにいたのは、じっと恨めしそうな顔でこちらを見ている犬夜叉だった、


「なに?」
「お前、本当に殺生丸とは何にもないんだな?」


疑わしいとでも言いたげな目で見てくる犬夜叉に、ふつふつと怒りがこみあげてくるかごめは、こぶしを震わせた。
よく考えればありえないことだというのに、この嫉妬深い半妖は確証を得るまで何度でも追及してくるという実に面倒なところがある。
まるで自分が誰彼構わず体を明け渡す簡単な女だと思われているようで、かごめは非常に不愉快だった。
ましてや、その疑いをかけているのは、自分が最も愛しく思っている犬夜叉である。
過去に自分を好きだと言ってくれた妖狼族の若頭相手ならまだしも、あの殺生丸相手にそんなことをするわけないだろう。
かごめは、受けた屈辱を一気に発散すべく、いつものあの言葉を叫び散らした。


「ないってい言ってるでしょ!しつこいのよ!おすわり!!」


いつもよりも大声で叫ばれた言霊は、いつもよりも大きな衝撃を犬夜叉の体に与えた。
山々に響く犬夜叉の叫び声と、彼が地面にたたき伏せられる独特な騒音は、少し離れた木陰に腰かけていた殺生丸とりんの耳にも届いていた。


「何の音だろう?」
「知らん」


殺生丸には、あの音が犬夜叉によって発せられたものと分かっていたが、今は半妖の弟の話をりんとする気にはなれなかった。
隣にいるりんは、全身から犬夜叉のにおいをこれでもかというほど纏っている。
あの館に来る途中、犬夜叉に負ぶってもらっていたのだろう。
彼女の全身から香る犬夜叉のにおいは、殺生丸を一層不機嫌にした。


「ねぇ殺生丸様、りんが勝手についてきたこと、怒ってる?」
「・・・・・怒ってなどいない」
「怒ってるよ」


恐る恐る聞いてきたりんの言葉を否定してみるが、嘘はすぐに見破られてしまった。
殺生丸は怒りを感じている。
ただしそれは、りんに対してではない。
面倒な現れ方をしてくれた華蘭と、危険だとわかっておきながらりんをここへ連れてきてしまった犬夜叉に対する怒りである。
話がこじれることも、りんの命が狙われることもわかっていた。
わかっていて、結局巻き込んでしまった自分自身にも、腹を立てていた。


「でも、しょうがないよ。気になっちゃったんだもん。殺生丸様に許嫁がいただなんて、知らなかったし。・・・・・教えてくれなかったし」


膝を抱え、小さく座っているりんは、まるで子供のようにいじけていた。
数年前、ともに旅をしていた時も、ささいなことで小さくなっては、寂しそうに膝を抱えていた。
これは、彼女が悲しみを感じた時にする癖なのだろう。
あの頃は、適当にその辺の木の実を与えていればすぐに機嫌を直していたが、彼女が思春期とかいう人間独特の期間を迎えてからは、子供のころにやっていた機嫌取りが効かなくなってしまっていた。
そのたびに殺生丸は、無表情ながらもどうしたものかと悩んでいたものだが、今回ばかりは解決までに相当な時間を要しそうである。


「100年も前のことだ。忘れていた。おそらくあの母も」


以前、りんが殺生丸の母に会った時、彼女は許嫁の話など一切していなかったと記憶している。
そして殺生丸もまた、そのうような話を母の前ではしていない。
あの変わった母のこと、殺生丸の言う通り、息子に女をあてがっていたことをすっかり忘れていたのかもしれない。
当の本人である殺生丸がそうであったように。


「100年かぁ。そうだよね、100年もあれば忘れちゃうよね。りんは100年も生きられないだろうからわかんないけど」


なかば吐き捨てられたようなその言葉は、殺生丸への当てつけでしかなかった。
少なくともりんには、殺生丸に好かれているという自信があった。
孤高を貫く彼が周りに置いている異性は自分だけだし、何より彼は、わざわざ人里に降りてきてまで自分に会いに来てくれている。
うぬぼれではない自信が、胸のあたりを渦巻いていたにもかかわらず、許嫁がいたなどという大切な事実を今までひた隠しにされていた。
本人は忘れたと言っていたけれど、そんなことはりんにとってどうでもいい言い訳にしか過ぎなかった。

条件付きとはいえ、承諾したのは事実。
過去のことだからどうしようもないだろうと言われればそれまでだが、それでもなお、心に巣食う黒い靄が晴れることはなかった。
人間にしかわからないこの黒く悲しい感情は、どれだけ言葉を尽くしても殺生丸に伝わることはないだろう。
彼と過ごしてきた長年の経験からそう判断したりんは、何も言わず黙り込む道を選んでしまった。
しかし、そんなことをされて困ってしまうのは殺生丸の方である。
嫌味を言われ、悲しげな表情を浮かべながら膝を抱えて黙り込むりんを、殺生丸は呆然と見つめていた。


「なにを拗ねている」
「拗ねてない」
「拗ねているだろう」
「違うもん」


かたくなに視線を逸らすりん。
全く自分の方を見ようともしない彼女に苛立ちを覚えた殺生丸は、そのしなやかな手を伸ばし、左手でりんの顎をつかむと、強制的に自分の方へと顔を向けさせた。
交わる視線に驚くりん。
殺生丸の端正な顔が目の前にあるこの状況に、息をのむ。


「私を見ろ、りん」


低くささやかれた声はやけに優しくて、まるで子供をあやすかのようだった。
けれど、それはりんにとって何より気に食わない機嫌の取り方だった。
また子ども扱いをされている。
長い時を生きる殺生丸にとって、数年で大人になったりんは、彼の感覚上ではまだ子供でしかないのかもしれない。
そう思うと、感情の波が涙とともにあふれ出してくる。


殺生丸様はいつもそう。なにも言ってくれない。何も教えてくれない。着物や食べ物はいっぱい持ってくるくせに、肝心の言葉は何も言ってくれない」
「りん」
「何か言うのが怖いの?感情をさらけ出して、拒絶されたりするのが怖いの?殺生丸様がそんなに意気地なしだなんて知らなかった!」
「黙れ」
「何も言ってくれなきゃ、不安になるのは当たり前でしょ?気になるのは当たり前でしょ?殺生丸様は、りんのことなんて何にも考えてないんだよ。りんはこんなに殺生丸様のことがす・・・」


たたきつけるようなりんの抗議は、殺生丸から押し当てられた唇によって阻まれた、
冷たい唇が触れている間、決して逃がすまいとりんの顎をつかんでいた殺生丸
そのおかげで、りんは少しも抵抗することができなかった。
何をされているのかきちんと頭で理解する前に、そっと唇は離れてゆく。
あまりにも近い距離に殺生丸の顔は、憎たらしいほどいつも通りの冷淡さで、りんは動揺しているのは自分だけなのだと思い知らされる。


「うるさい」


有無を言わさぬ彼の行動は、りんを無理やり黙らせるためのものだったらしい。
驚くほど強引で、傲慢な態度のままりんの唇を奪っていった殺生丸
彼の行動に、りんは先ほどまで感じていた怒りや悲しみをすっかり忘れてしまっていた。


「なに、今の」
「いちいち言葉にする必要などない。りん、お前は私のそばにいればそれで」
「だから今のなに!?」


りんが殺生丸の言葉を強引に遮ったのは、これが初めてのことだった、
当の殺生丸も、噛みつくように詰め寄ってくるりんの勢いに珍しく目を丸くしている。
今何をしたのかすらいちいち言葉で説明しなくてはならないのか、と殺生丸は呆れたが、無視をする気にはなれなかった。


「口吸いだ」
「わかってるよそんなの!」


ならばなぜ聞いたのだ。
あまりにも混乱している様子のりんは支離滅裂で、殺生丸の中にある常識という枠から大きく逸脱した言動をとっている。
真っ赤な顔で自分を見上げているりんは、涙目になりながら殺生丸を睨んでいた。
照れているのか泣いているのか怒っているのか、彼女がどんな感情を抱いているのか、今の表情からは全く読み取れなかった。
人間とは泣きながら顔を赤くして怒るものなのだろうか。
りんが何を訴えたいのかわからず、殺生丸は首を傾げた。


「りん初めてだったんだよ!?きすするの!」
「きす・・・?」
「かごめ様の国では口吸いのこと“きす”って言うんだって! あれ?“ちゅう”だっけ? どっちでもいいや!とにかく初めてだったの!」
「だからなんだ」
犬夜叉様とかごめ様がきすしてるの見て憧れてたの!でも殺生丸様とするときはもっとこう素敵な・・・お花畑とか、綺麗な小川とか、そういうところでしたいって思ってたの!」
「そうか」
「そう!だからもう一回しよ!」


その言葉を聞いた瞬間、遠くを見つめていた殺生丸が勢いよくりんの方へと顔を向けた。
先ほどまで怒っていたのか照れていたのかよくわからない顔をしていた彼女は、いつの間にか期待に目を輝かせながら殺生丸を見つめていた。
表情の変化に驚きつつも、殺生丸は先ほどのりんの発言を聞き逃すことができない。
“もう一回しよう”?
あの雰囲気で交わした行為をよくぬけぬけとおかわりできたものだ。
りんの相変わらずな図太さに驚嘆しながらも、殺生丸は何も言えずにいた。


「あっちにきれいな湖があるの!そこでもう一回しよう!」


立ち上がったりんは殺生丸の左手を取ると、彼を立ち上がらせるようにぐいぐいと引っ張る。
しかし、殺生丸は意地でも立ち上がろうとしなかった。


「やめろ」
「なんで? 初めてだったのに全然味わえなかったんだもん!もう一回ちゃんとして!」
「もう一度したところで“初めて”が済んでしまったことに変わりないだろう」
「じゃあさっきのなしにして!」
「ふざけるな」


めちゃくちゃな要望を押し付けてくるりんに対し、殺生丸は呆れるしかなかった。
子供のころは天真爛漫だったりん、
あれから数年が経過し、体や顔つきが大人になっても、その性格が大きく変わることはなかった。
あの時と同じように、大妖怪の殺生丸はたった一人のか弱い人間の少女に振り回されている。
そんな光景を、かなり近い位置から茂みに隠れて見ていた者たちがいた。
犬夜叉たちである。
あの冷酷無情だった大妖怪、殺生丸が、りんに手をつかまれ引っ張られている。
そんな珍妙な光景に、殺生丸の弟である犬夜叉は開いた口がふさがらなかった。


「タジタジね、殺生丸
「お、おう・・・」


かごめが声を潜めて犬夜叉にささやくと、未だに戸惑った様子で殺生丸たちの様子を覗き見ていた彼は小さくうなずいた。
かつて自分と殺しあうほどにいがみ合っていた冷たい兄が、人間の少女に口づけ、さらにはおかわりをねだられているこの状況は、犬夜叉にとってかなり違和感のある光景だった。
無表情が張り付いて剥がれないようなあの男が、りんの前ではあんな顔をするのか。
意外な一面を垣間見たことで、犬夜叉の中の殺生丸という男の印象が、ほんの少しだけ変わってしまった。


「けど、こんなに近くで覗き見てるのに、殺生丸はにおいで気づかないのかな?」
「さぁ。それだけ、二人だけの世界に入り込んでしまっているということなのでしょう」


珊瑚の疑問はもっともだった。
犬夜叉以上に鼻が利く殺生丸が、数歩後ろにいる自分たちのにおいに気が付かないはずもない。
彼の性格上、覗き込まれているとわかれば即座に睨みつけそうなものだが、先ほどから一切こちらに視線を送ってこない。
おそらく本当に覗かれていることに気づいていないのだろう。
それほど、りんに気を取られているということか。
弥勒の推察に、かごめはクスリと笑った。


「あんな光景を覗いてしまったと殺生丸様にばれたら、あとで間違いなくシバかれるぞ」
「おらもそう思う・・・」


のんきなかごめたちに対して、邪見は怯え切っていた。
殺生丸は、自分が許した範囲よりも内側に入ってくることを極端に嫌う。
自分たちがりんとの時間をこっそり盗み見ていたと知られれば、そこには恐ろしい仕置きが待っているに違いない。
邪見が、このことがのちに殺生丸にばれないよう祈りながら、隣の七宝と寄り添いあいぶるぶると震えるのだった。

 

***

 

 

「あぁ、そんなこともあったっけ」


左斜め上に視線を置き、母はとぼけたように言い放った。
そんな母の顔を恨めしく睨みつける息子。
母はそんな息子の批判的な視線を浴びながら、手元の扇子をパタパタと閉じたり開いたりを繰り返した。


殺生丸、そう睨むな。あの頃の母の苦労はそなたも知るところであっただろう?」
「勝手に女をあてがうなど、いらぬことを」
「勝手ではない。何度も使者をたて連絡していたにも関わらず、要件を聞かずに使者を斬り捨てたのはそなただ」
「・・・・・」


押し黙る殺生丸に、母は怪しく微笑んだ。
当時、父の跡目を継がず放浪する殺生丸に頭を抱えていた母は、何度も使者を送っていたのだが、ことごとく殺生丸に斬り捨てられていた。
それを、思春期を迎えた息子のやんちゃとして一笑できるほど、母の心は広くない。
ならば知らぬ。話を聞かぬ奴が悪い。
と開き直り、強引に嫁探しに乗り出した過去をふりかえり、母はひとり懐かしんでいた。
どこまでも可愛げがなく、口数も少ない気難しい息子の手綱を握れるだけの器量を持つ女を探していたところ、遠縁の華蘭という女にいきついた。
彼女は常日頃から強い男に嫁ぎたいと公言しており、殺生丸との縁談を持ち掛けたところ二つ返事で承諾した。
もちろん殺生丸本人にも使者を立てて知らせようとしたのだが、案の定要件を聞かずに使者が斬り捨てられたのは言うまでもない。
珍しく訪ねてきた息子がしてきた100年前の話に記憶を巡らせ、母はあの頃の思い出を飾ることなく語った。


「それにしても殺生丸、そなたよく100年前のことを覚えていたな」
「先日、華蘭が私の元を訪ねてきた」
「ほう、それは積極的なことだ。それで?嫁にとるのか?」


100年前、華蘭が殺生丸から追い返されたという話をしていたのは覚えていた母だったが、まさか100年の後に再挑戦を試みるとは思ってもいなかった。
挑戦的な女は嫌いではない。
母は、気難しい息子に臆することなく奇襲をしかけたらしい華蘭に好感を抱いていた。
これはようやく息子も身を固めてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら投げかけた質問に、殺生丸は想定外の答えをもたらした。


「ありえぬ」


やはりこの息子、可愛くない。
華蘭は見た目も美しく、なおかつ妖力も高い。
それでいて同じ犬妖怪であり、血筋も文句のつけようがないほど良い。
彼女を嫁にもらいたがる中流妖怪はごまんといるだろう。
そんな存在をあっけなく追い返してしまう息子はなんとも傲慢で、可愛げがない。
黙って受け入れていればいいものを、なぜそう食わず嫌いしてしまうのか。
母は呆れからくるため息をこぼした。


殺生丸、あれの何が不満なのだ?顔もよい、体つきもよい、なおかつ強い。それを断るとはそなたもしや・・・男色の気があるのか?」
「斬られたいのか」
「冗談だ」


今の一言は相当頭に来たのだろう。
殺生丸の美しい顔に青筋が浮かんでいる。
そんな会話をしている横から、しゃがれた声で息子の名前が呼ばれた。
彼が唯一臣下として引き連れている小妖怪。
名前が思い出せないその緑の小妖怪は、小さい体をよたよたさせながら着物を抱えている。

 

「こ、こちらでいかがでしょうか殺生丸様!」


小妖怪が持ってきた着物を手に取り、真剣な表情で見極める殺生丸
彼が母の館を訪れた名目は、“着なくなった着物を譲ってほしい”というものだった。
売って金にでもするのかと考えていた母だったが、殺生丸の口から飛び出した言葉に、別の仮設が思い浮かんでしまう。


「もっと色の薄いものを持ってこい。あれには似合わん」
「え、えぇ!?もっとでございますか? はい承知しました・・・」


殺生丸の要望に、小妖怪は脂汗をかきながら再びよたよたと隣の部屋に引っ込んだ。
母と殺生丸がいるこの座敷の隣は、母の古い着物が収納されている部屋である。
そこで箪笥を漁っている小妖怪は、ずいぶんと疲れている様子であった。


殺生丸。そなた着物を贈るような相手が出来たのか」
「・・・・・・・・・・」
「あれより薄い色彩の着物を要求するということは、かなり年若いおなごであろう? どこの者だ? 同じ犬妖怪か? それとも狼あたりか?」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・それとも人間か?」


母がそう聞いた瞬間、じっとこちらの目を見ていた殺生丸が、視線をぷいっと外した。
息子は幼いころから寡黙で、なにを考えているのか良く分からないと臣下の妖たちには言われていたが、母にとって彼ほどわかりやすい存在はいなかった。
殺生丸は、都合が悪くなるとすぐに目をそらす。
昔、せっかく母が新調してやった小袖を、剣舞の練習をしてた際に泥で汚してしまった時も、このように視線をそらしていた。
彼の口から答えを得られずとも、その表情と行動で、母は何でも分かってしまう。
不愛想で自尊心の高い息子が、人間の娘に着物を贈ろうとしていることも、見事に筒抜けである。


「はぁ~~~~、殺生丸、そなたは母似だと思うていたが、根っからの父似であったか。はぁ~~~~」

 

大袈裟なほど大きいため息をつき、母は頭を抱えた。
そんな母を、息子は目を細めながら黙って見つめている。
かつて彼の父も、母とは別の人間の女に心奪われ、言葉通り骨抜きにされていた。
あの頃の夫の様子を思い出し、母は痛む頭を優しくなでる。
人間が気に入るような物が何か分らず、ひたすら小袖や帯、反物を狂ったように贈り付けていた夫。
あるとき意中の人間の女、十六夜が、彼の妻である自分を訪ね、“そろそろ長持ちが埋まってしまいますゆえ・・・”とやんわり相談を持ち掛けてきたことを、母は忘れていない。

陰で迷惑がられている夫はなんとも哀れだったが、それでも好い人である十六夜が喜ぶ顔が見たいという一心で贈り物を続ける夫は、どこか童心に帰ったようできらめいていた。
“人間のおなごは何を欲しがると思う?”と相談してくる夫に対し、なぜ自分に聞くのかと内心文句を垂れながら“櫛でもやればよろしい”と適当に言い放ったこともある。
その翌日、なぜか櫛を10本も贈りつけ、ひきつった笑顔で礼を言われていた夫は満足そうであったが、一方の母は呆れていた。

人間など、か弱く、利己的で、すぐに死んでしまうような存在だというのに、どうしてそこまで愛せるのだろうか、と。
母には到底理解できなかった、人間を愛するという心は、数百年経って成長した息子に着実に受け継がれているらしい。
悲しいやら嬉しいやら、感慨深いやら。
夫と同じように贈り物攻撃をしようとしている息子に、母は一抹の懐かしさを覚えていた。


「母はわからぬ。そなたも、そなたの父上も、何故そこまで人間に固執するのか。母は人間と睦み合うたことはないが、人間の体というものは左様に悦いものなのか?」
「殺すぞ」
「冗談だ」


母の軽口に、殺生丸は露骨に不快感を露にした。
どうやら、件の娘とはまだ夜を共にしていないらしい。
あの夫の息子にしては、女に対して慎重なことだ。
というよりこやつは女と寝所を共にしたことがあるのか?
母は一瞬だけ不安になったが、余計なことを聞いたら再び機嫌を損ねそうなので何も言わないでおこうと決めた。


殺生丸様!こ、こちらでいかがでしょうか」


ようやく新たな着物を選び終わったらしい小妖怪が、隣の部屋から駆けてきた。
小さな手には、薄紫色の着物が抱えられている。
小妖怪からその着物を受取り、隅々まで吟味する殺生丸
しばらく着物を見つめた後、足元の小妖怪に着物を返すと、彼は小さくうなずいた。
これでよし。の合図である。
ようやく了承を得たことに安堵した小妖怪は一息つき、へなへなとその場に座り込んでしまうが、殺生丸はそんな臣下の様子を労わることなく座敷から立ちああった。


「ゆくぞ、邪見」
「えぇ!? もう行かれるのですか殺生丸様! ちょっと休憩を・・・」

 

小妖怪の懇願むなしく、殺生丸はとっとと回廊を抜けて座敷から出て行ってしまった。
大量の反物や着物と格闘して少々疲れたのだろう。
小妖怪はぜぇはぁ息を切らしながら手に持った杖に体重をかけて何とか立ち上がった。
必死で殺生丸の跡を追おうとしている小妖怪を、母は背後から引き留める。


「待て。小妖怪」
「邪見でございます。相変わらず覚えてくださらんのですね・・・」
殺生丸が入れ込んでいる娘の名はなんという?」


母の問いに、小妖怪はもともと大きな目をさらに見開いて驚いた。
母が人間の女のことを気にするとは思っていなかったのだろう。
もちろんあまり興味はないが、あの可愛げのない息子がわざわざ母の元を訪ねてまで着物を贈ろうとする娘であるのならば話は別。
あの気難しい息子に好かれてしまった哀れな娘の名前くらい聞いてやろうと思ったのだ。


「はっ。りんという娘にございます」
「りん・・・。あぁ、あの時の娘か」


数年前、殺生丸が冥道残月破を強化するために母を訪れた際に伴っていた人間の童。
あの少女が息絶えた時、悲しみに暮れていた息子の様子は印象深い。
なるほど、あの時の娘が成長し、氷のように冷たくなった息子の心を溶かしたのか。
人間の女に心開き、あの着物を贈っている息子の様を想像するとなんだかおかしくて、母は小さく笑ってしまう。


「りんのことは覚えているというのに何故この邪見めのことは覚えていてくださらんのか・・・!」
「泣くな、うるさい」


りんよりも顔を合わせているはずの邪見だが、母はその名前を一向に覚えようとはしなかった。
その事実に、邪見は盛大に涙を流す。
会うたびいつも泣いているような気がする小妖怪に、母は鬱陶しさを覚えてぴしゃりと言い放つ。
そんなやりとりのすぐあと、遠くの方から殺生丸の邪見を呼ぶ声が聞こえてきた。
どうやらいつまでも後を追ってくる気配のない従者にいら立ち、名前を呼んでいるらしい。
主を待たせていることを思い出し。焦った邪見は、急いで畳に三つ指をつき、母に別れの挨拶をする。


「そ、それでは御母堂様、これにて・・・」
「最後にひとつ」
「あ、はい」


そそくさと出ていこうとした邪見だったが、再び母に引き留められ、ぴたりと足を止める。
母は邪見を見つめて微笑むと、手元の扇子をパチリと閉じた。


殺生丸に伝えよ。孫は女子がいい。男子はそなたと似て可愛げがなさそうだからな、と」


母の言葉に、邪見は一瞬言葉を失っていたが、はっと我に返り深々と頭を下げながら承知した。
ものすごい速さでその場を去ると、遠くの方で“お待ちくだされ殺生丸様!”と息子の名を呼ぶ邪見の声が響く。
嵐のようにやってきた息子たちがいなくなり、屋敷は再び静かになる。
母は肩から抜けるように息を吐くと、そのまま天井を見つめた。
この屋敷は、夫が自分を嫁に娶ったと同時に建てられたものである。
建てられてかれこれ数百年は経過しているであろうこの屋敷の木目は、あの頃からずっと変わらない。
夫が人間の女を側室として迎えたいと申し出てきた時も、こうして天井を見つめていたような気がする。

従者からはよく、“殺生丸様はあまり父君に似ておられない”と言われるが、とんでもない。
あれは間違いなくあの夫の子だ。

おそらく殺生丸は、りんが死ぬまで他の女を迎え入れないだろう。
あれに、複数の女を愛するという器用さはない。
となれば、父の跡目を継ぐ者はいなくなる。
だが、それもまたよいだろう。
人間に比べれば長いとはいえ、妖怪の命にも限りがある。
いつかは終わりが来る命なら、好きに生きればよい。
夫が、彼の父がそうしたように。


「跡目のこと、私を責めてくれるなよ、闘牙殺生丸をあのようにしたのは、そなたの血なのだから」


天井の木目に向かい、ひとり呟く母の言葉は、誰に聞かれることもなく静寂に溶けていった。