Mizudori’s home

二次創作まとめ

ココロを捉えて離さない

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■ゲーム本編時間軸

■短編

 


ウロボロスの力を得た僕たち6人の兵士と2匹のノポンたちの旅は、決して快適とは言い難いものだった。
コロニーに属していた頃のように毎日入浴することも出来ず、一日何十キロも徒歩で移動しているせいで足は常に疲れている。

8割方野宿で夜を明かすため、ベッドで眠れる日の方が珍しい。
その日も僕たちは、このアエテア地方の草原で野営を張り、寄り添い合って夜を過ごした。
目が覚めたと同時に、シュラフの枕元に置いていた懐中時計に目を向ける。
時刻はまだ午前5時半。太陽が昇り始めたばかりのせいか、あたりはまだ少しだけ暗かった。

遠くでアルドンとアルマの群れが草原の野草をゆっくりと頬張っている。
その光景を横目に見ながら眼鏡をかけると、背後に人の気配を感じた。
既に火が消えている焚き木の前で、ユーニがちょこんと膝を立てながら地面に腰を下ろしている。
こんな早朝に起きているなんて珍しい。
声をかけようと近づいてみると、彼女はどうやら一冊の本を読んでいるようだった。
少々高価そうな皮製の表紙が目立つその本は、いつも僕が読んでいるケヴェスやアグヌスの教本とはまた違う何からしい。


「君が読書とは珍しいな」
「おわっ」


突然背後から声をかけたせいか、ユーニは軽く肩を震わせていた。
まん丸くなった青い目で僕の姿を捉えると、“なんだお前か”とでも言いたげな安堵した表情を浮かべ、再び活字へと視線を落とし始める。


「アタシだって本くらい読むっての」
「そんなイメージはないがな」
「馬鹿だって言いてぇの?失礼な奴」
「そうは言ってない。ただ君が教養の必須アイテムとも言える本に興味関心を抱くとはどうも思えなくてな」
「それ遠回しに馬鹿だって言ってるよな。マジで失礼な奴」


同じケヴェス出身者であるランツに比べれば、ユーニは比較的座学が得意な方だったという。
とはいえ、彼女が熱心に活字に向き合っている光景はなかなレアだ。
ユーニという女性に“本”というアイテムが結びつくことはないと勝手に思い込んでいた僕にとって、目の前に広がるのは実に意外性の高い光景だった。


「ま、アタシもこれがただの教本とか学術書とか難しい内容だったら読もうとすら思わなかったろうけどな」
「教本でも学術書でもないなら何を読んでいるんだ?」
「“レンアイショーセツ”ってやつ。ミオに借りた」


本を閉じたユーニは、何故か自慢に僕へと本を見せびらかしてきた。
手渡されるままに受け取ってみると、表紙にはシティーの言葉で“僕たちはまだ恋を知らない”と書いてあった。
どうやらこれがこの本のタイトルらしい。

ティーでは、この“ショーセツ”と呼ばれている書物が流行しているらしい。
なんでも空想上の物語を書き連ねた読み物らしいが、そんな創作物はケヴェスにもアグヌスにも存在していなかった。
試しに何冊か読んでみたが、興味深いものからクダラナイ稚拙なものまで内容は多岐にわたる。
本とは知識や教養を得るためのツールだと思っていたが、この“ショーセツ”というジャンルの読み物は知識の探求よりも読み手の感情起伏に重きを置いているらしい。
物語を読むことで共感や興奮、恐怖や感動と言った感情の波を起こさせ、読み手を楽しませるのだ。

娯楽の一種らしいが、一行の中でも特にミオがこの“ショーセツ”という読み物に強い興味を示していた。
ティーに寄るたび新しいショーセツを買い求め、恐ろしい速度で読破してはまた新しいショーセツを買い求める。
いつかショーセツで破産してしまうのではないかと心配になるほどのハマり様だった。
ユーニから手渡されたこのショーセツは、そんなミオから一時的に借り受けたものだったらしい。


「“レンアイショーセツ”?どういう内容なんだ?」
「主人公はアグヌスの男で、ケヴェスの女兵士と特別な関係になるって話しらしいぜ?アタシもまだ全部読んだわけじゃねぇけどさ」
「“特別な関係”とは?」
「さぁ。ミオ曰く、シティーで言うところの“恋人”ってやつらしいけど」
「“恋人”、か……」


ケヴェスやアグヌスにはない、シティーだけの独特な文化風習は数えきれないほどたくさんある。
その代表格こそがまさに、“恋人”や“夫婦”や“家族”といった人間関係である。
ゆりかごから生まれた人工的な命である僕たちの寿命は最大で10年。
しかし、人間の腹から生まれ出たシティーの人々の寿命はその何倍もの長さを誇っている。
命の長さが数倍に伸びただけで、人の生き方は、価値観はこうまで変わるのかと感心させられた。

長い生涯を一人の相手と共に生き、子供を作り後世に命を繋いでいく。
憧れを抱く一方で、僕はまだこの文化風習を100%理解できずにいた。
それは目の前にいるユーニも同じハズ。
この本に描かれているのは、そんな“レンアイ”という最も理解しがたい営みを題材にしているらしい。
ユーニも理解できていないはずなのに、そんな題材のショーセツを読んで面白いものなのだろうか。


「“恋”だの“愛”だの、そう言った感情をまだうまく理解できていないのに、読んでいて楽しいものなのか?」
「いやいや、理解してないからこそ読むんだろ」
「どういう意味だ?」
「この本、主人公が相手の女と出会ってから関係を深めていくまでがの描写がすんげぇ丁寧なんだよ。登場人物の心情も分かりやすく表現してるし、“恋人”になった2人がどんなことしてるのかもちゃんと描かれてる」
「つまり、“レンアイ”とかいう営みに関して勉強するには題材として最適だと?」
「そういうこと」


得意げな笑みを浮かべたユーニは、僕の手から本を奪い取っていく。
するりと手から奪われてしまった“レンアイショーセツ”を再び開くと、彼女はまた熱心に目で活字を追い始めた。

自分で言うのもおかしな話かもしれないが、僕はそれなりに探求心が強い方だ。
分からないことがあるなら理解できるまで考えたいし、答えが出ない問題は明確な解を得られるまでとことん突き詰めたいタイプである。
だからこそ、シティーの“レンアイ”という文化に対しても理解を深めたいと思っていた。
人として正しい姿でい続けるためには、“愛”や“恋”を理解するのが必須と言えるだろう。
そんな曖昧で漠然とした感情の先に、“結婚”や“出産”といった命の営みが待っているのだから。

件のショーセツを読んで“レンアイ”とやらの全容を解明できるのなら、是非自分も読んでみたい。
時間を割いて活字に向き合うだけの価値は大いにあるだろう。
ユーニの隣に腰を落ち着けると、僕は彼女に向かって催促するように手を出した。


「それ、僕にも貸してくれ」
「えー、まだ読み終わってねぇし」
「読み終わったらでいいから」
「タイオンも“レンアイショーセツ”に興味あんの?」
「というより、レンアイそのものの在り方に興味がある。創作物とはいえそこに書かれているのは一般的な事例だろ?参考になるかもしれない」
「お前はいつも考えることが固いよな。もうすこし単純に読み物を楽しもうって気にはならないわけ?」
「知識の探求をしているだけで十分楽しめているが?分からないことが解明されること以上の楽しさは他にないだろ」


知識欲豊かな自覚はあったが、やはり目の前にいるユーニは僕とは違い探求心のためにこの本を愛読しているわけではないらしい。
教材として興味を惹かれている僕と、単純に面白さに興味を惹かれているユーニ。
このショーセツに寄せる想いはそれぞれ少しずつ色合いが違くとも、“理解したい”という気持ちだけは共通しているようだった。
その証拠に、ユーニは“まぁ確かに”と頷きながらパラパラとページをめくり始めた。


「タイオンの言う通り、このショーセツ、知識が高まるって意味でも面白いと思う。でもやっぱり考えてもよく分からないところも多くてさ」
「具体的には?」
「例えば……。こことか」


ユーニが見せてきたのは、全体から見て中盤あたりのページだった。
主人公が特別な感情を寄せているケヴェスの女兵士に、“キスがしたい”と心の内で願望をぶちまけている描写である。

“キス”という行為がどんなものなのかは、既にシティーで何度か目にしていたため何となく知っている。
唇と唇を重ね合わせる行為である。
スキンシップの一種だと言うが、例えばハグしたり握手をしたりといった、戦友同士でもするような気軽なものとは一線を画している。
特別な関係にある相手としかしない、ある意味で神聖な行為なのだという。
ただ唇を合わせるだけの行為が何故そこまで特別視されているのか、正直僕にはわからない。
が、このショーセツの主人公もやはり相手の女兵士と唇を合わせることを渇望しているらしい。


「キスってさ、唇と唇を合わせるだけの簡単なスキンシップだろ?正直なんでそこまでしたがってるのか分かんねぇんだよ」
「確かに。シティーでも特別な行為だと位置づけられているらしいが、行為そのものはそこまで仰々しいものには思えないしな」
「だろ?なのにこのショーセツの主人公は相手の女とめちゃくちゃキスしたがってんだよ。なんで?そんなにしたいもんか?」
「知らん。経験がある人間にしかわからない満足感や特別感があるんじゃないか?アルドン肉を食べたことがない人間にその甘さを伝えろと言われても難しいだろ。実際に食べてみなければ分からないこともある」
「じゃあ、実際に“キス”って行為をした人間じゃなきゃ、その満足感とか特別感は理解できないってこと?」
「そういうことだ」


武器や装備品にも言えることだが、実際に自分で使ったり体験してみなければ理解出来なことのほうが世の中には多い。
“キス”という行為は勿論だが、“レンアイ”そのものに関しても、実際にそういう状況に陥らなければその何たるかを理解するのは難しいのだろう。

活字の上で理解できるのは、表面的な事実だけ。
一組の男女が出会い、縁を結び、身体の接触を経て家族になるその物理的なプロセスだけだ。
描かれている2人が何を望み、何を想い、どんな心持でいるのかは、実際に経験してみなければ共感は難しいに違いない。

一部理解できない箇所があるのは承知の上だ。
そこを全て突き詰めて何もかも理解しようとは思わない。
とにかく今の自分の理解が及ぶ範囲だけ学べればそれでいい。そう思っていたのは、どうやら僕だけだったらしい。
探求心と知識欲は誰にも負けないと自負していたが、どうやらすぐ隣に腰掛けているユーニは及ばなかったようだ。
彼女は手元の本を閉じて地面に置くと、突然と僕との距離をぐっと縮めてきた。
こっちが“どうした?”と問いかける暇もなく、彼女の鼻先が僕の目の前まで迫って来る。
唇に柔らかな感触が触れたその瞬間、思考が停止した。

今、ユーニに“キス”されている。

この事実を脳が咀嚼するのに少し時間がかかってしまったのは、あまりに予想外な展開に頭が着いて行かなかったからだろう。
やがて、触れていた唇はゆっくりと離れていく。
驚き目を見開く僕とは対照的に、ユーニは何故か眉間にしわを寄せ随分と難しい表情を浮かべていた。


「な、何を……!」
「うーん。よく分かんねぇな。もう一回」
「は!? ちょ、んん……っ」


後ずさろうとする僕を許さず、ユーニは僕の肩に手を置いて引き留めると再び唇を押し付けてきた。
ユーニの気配が、ゼロ距離の位置にある。
彼女の匂いが、感触が、吐息が、すぐ目の前にある。
その事実だけでどうにかなってしまいそうだった。
他人とこんなに物理的な距離を縮めたのは初めてだ。
いつもは良く回るはずの頭が思考の回転を停止させ、今にもオーバーヒートしそうだった。
高鳴る心臓の音だけが、僕の耳に届いている。
あぁまずい。この無様な音がユーニにも聞こえているかもしれない。
そう思い、僕は焦ってユーニの肩を両手で押した。


「急に何するんだ!?」
「実際にやってみないと分からないってお前が言うから」
「だからって僕で試そうとするな!」
「なんで?」
「な、なんでって……」


至極不思議そうな表情で首をかしげるユーニ。
そんな風に真っすぐ疑問を呈されるとこっちも自信がなくなってしまう。
恐らく彼女はただの興味関心に従って、実験的な感覚で唇を押し付けてきたのだろう。
今のキスに深い意味などない。
気軽に試すような行為じゃないと頭で分かっていながらも、僕とユーニでキスをしてはならない理由がイマイチ思い浮かばなかった。

何故駄目なのかと聞かれても、具体的な理由を示せない。
けれど逆を言えば、僕とユーニでキスを交わしていい理由もない。
“キス”という行為は、シティーの文化風習にのっとって言えば特別な相手と交わす神聖なスキンシップだ。
実験感覚で誰彼構わずホイホイしていい行為じゃないはずだ。たぶん。


「キスは特別な相手とする神聖な行為なんだろ。僕たちはそう言う間柄じゃないし、軽々しくすべきじゃない!」
「じゃあどういう間柄なら軽々しく出来るわけ?」
「そりゃあ……。“恋人”とかだろ。互いに想い合っているような、特別な関係だ」


我ながら酷く曖昧な回答だったと思う。
“恋人”という間柄が具体的などんな関係なのか、“想い合っている”とはどういう状態のことなのか、明確な答えなど持っていないはずなのに、ユーニから逃げるための大義名分として使ってしまった。


「とにかく!僕と君とでそういうことをするのは変だ!違和感しかない。だから……!」
「分かったって。そんなに怒るなとは思ってなくてさ。嫌がるようなことしてゴメンな」
「い、いや、別に嫌だったわけじゃ……」


ユーニから唇を押し付けられた瞬間、心を支配したのは嫌悪感などではなく単純な驚きのみ。
嫌だったわけじゃない。ただ少しびっくりしただけ。
そう伝えようとした僕だったが、背後の方で人の気配を感じて振り向いた。
どうやら仲間たちが続々起床し始めたらしい。
シュラフやテントを片付け始めているノアやランツの様子に気付いたユーニは、僕の言葉を最後まで聞くことなくその場で立ち上がった。


「イキナリ変なことして悪かったな、タイオン。もうしないから安心しな」


そう言って、ユーニは件のショーセツを手に軽い駆け足で仲間の元へと戻って行った。
野営の荷物を片付けているノア達に“アタシも手伝う”と声をかけている彼女の様子は、拍子抜けするほどいつも通りだった。

ユーニとキスなんて、そんなの可笑しい。間違ってる。
僕たちはインタリンクできる相方同士で、運命共同体で、戦友だ。“恋人”じゃない。
キスをするに値しない間柄である僕たちは、それなりの距離感を保ち続ける必要がある。
近付き過ぎず、離れすぎない今の距離感がベストなはずなのに、キスなんてしてしまったらこの距離が崩れてしまうかもしれない。
だから、もう二度とすべきじゃない。

そう思いながらも、ユーニが口にした“もうしないから”という言葉に小さな引っ掛かりを感じているのは何故だろう。
それでいいはずなのに、何故、少しだけ落胆している自分がいるのか。
遠ざかるユーニの背を見つめながら、僕は自分の心に渦巻く曖昧な感情の正体を掴めずにいた。


***

「せぇーのっ!」


気合が入ったセナの掛け声が、高低差のあるモルクナ大森林に響き渡る。
助走を着けて地面を蹴り上げると、一行の中で一番小柄なセナの身体は軽く飛び上がり、地面に開いた溝を華麗に飛び越えていく。
溝の向こう側で手を広げて待っていたランツの腕に飛び込むと、無事飛び越えられたことが嬉しかったのか、セナは笑顔でランツのハイタッチに応えていた。

このモルクナ大森林は、古の文明が築いた鋼鉄の棟で出来た毒々しい森である。
上層にはコロニータウが設立されているせいかそこまで凶暴なモンスターはいないが、数百メテリ下層に落ちれば白銀ランクの兵士でも苦戦を強いられるほどの凶悪なモンスターたちが跋扈している危険地帯だ。
上層を歩いていた僕たちは、高鉄でできた道の真ん中に開いていた大きな溝にぶち当たる。
溝の真下は下層の毒沼が広がっており、落ちたらまず命はないだろう。

先に身軽な2匹のノポンに飛び越えてもらい、そのあとに男性陣が続く。
そして、ミオ、セナの順に飛び越えたわけだが、女性陣が溝を越える際は必ず相方が手を差し伸べ抱き留めていた。
最後のユーニが飛び越える番になり、自然と僕も対岸で手を伸ばす。

ユーニの運動神経を信頼していないわけではないが、彼女は高所を苦手としている。
恐怖で足をすくませた彼女が、いつもの力を出せず飛び越えるのに苦戦する可能性は大いにあった。
案の定、溝の向こうに1人だけ取り残されたユーニは不安げな表情を浮かべている。
そんな彼女に、一足早く溝を飛び越えたミオとセナがエールを贈る。


「頑張れユーニ!下見ちゃだめだよー!」
「タイオンが受け止めてくれるはずだから!安心して飛び込んで!」


ミオが僕の名前を出したことで、なんだか少しだけプレッシャーがかかってしまった。
延ばしていた片手を両手に増やし、受け入れ態勢を万全に整えると、ユーニはごくりと生唾を飲み背後に後ずさり始めた。
そして、勢いを着けて助走を始めると、溝の直前で地面を蹴り上げる。
勢いよく飛び越えてきたユーニの華奢な身体を、僕は見事両手で抱き留めた。

彼女の身体が、綺麗に僕の腕の中に納まる。
ふわりと香って来た石鹸のような香りと共に、ユーニの顔が接近する。
胸の中に飛び込んできたと同時に、鼻先が触れ合いそうなほど顔と顔が近づいたことで、あの光景がフラッシュバックする。

数日前、今のようユーニの顔が近づいて唇と唇が触れ合った。
すぐ目の前にあるユーニの蒼く美しい瞳に目を奪われ、あの時と全く同じように思考が停止する。
今、僕が少しでも顔を近付ければ、またユーニとキスを交わすことになる。
隔たれた距離はほんの拳一つ分。あまりにも近い距離感は、僕から冷静さを奪っていった。
だが、ユーニは思考を止めた僕とは対照的に嫌味なほど冷静だった。
安堵したように息を吐くと、すぐさま僕の肩を両手で押して腕の中から逃れるように距離を取って来る。


「ありがとなタイオン。助かった」
「あ、あぁ……」


呆気なく僕の腕からすり抜けて行ったユーニは、先に対岸へ渡っていたミオやセナと元へと駆け寄り“お疲れ”と声を掛け合っていた。
全員対岸に渡ったことで、ノアの“行こうか”という言葉と共に一行は再び歩き出す。
前方を歩くミオとセナ、そしてユーニの背を呆然と見つめながら、僕はまだ胸の高鳴りを消し去れずにいた。

なんだこれは。何でこんなに心臓がバクバクと高鳴っている?
ユーニを無事受け止められたことで、むしろ安堵して落ち着くのが普通なのに。
腕の中に抱き留めたユーニの身体の感触と、鼻腔をくすぐるシャンプーの匂いが頭と心にこびりついて離れない。
ユーニが腕の中からすり抜けた時、寂しさに似た感情が心に生まれたのはきっと気のせいなどではない。
この気持ちは一体なんだ。どうしてこんな妙な気分になる?
心臓に手を当てて問いかけてみるけれど、答えは得られなかった。


「タイオン、平気か?」
「へ?」
「お前さん、今顔真っ赤だぞ」
「なっ……」


“体調でも悪いのか?”
そう問いかけながら顔を覗き込んでくるランツの言葉に、戸惑いを隠せなかった。
発熱しているわけでも、体調を崩しているわけでもない。
顔が赤くなっているなんて、そんなの嘘だ。あるわけがない。
だが、彼から指摘された通り顔には熱がこもっている。今にも火を噴きそうなほどに熱い。


「な、なんでもないっ!少し暑いだけだ」
「暑いか?むしろ涼しいくらいだけどな」


赤くなった顔を隠すように眼鏡を押し上げてみるけれど、もはや誤魔化すには遅すぎたらしい。
心が浮ついて仕方ない。
熱を帯びた顔も、騒ぎ出した心臓も、ざわつく心も、思考力が停止した頭も、なかなかいつも通りに戻ることはなかった。
ユーニを視界に入れるたび動揺してしまっている自分に気付きつつも、何故だかその事実を素直に認められずにいた。


***


その日、僕たちはいつもより早く野営を敷いた。
マナナによる夕飯の支度を待つ間、一行は思い思いの時間を過ごしている。
武器の手入れをしているノア、日記をつけているミオ、各自のパワーアシストを調整しているリク、そして筋トレにいそしんでいるランツとセナ。
その輪の中に、ユーニの姿は見当たらない。

先ほどまではすぐそこにいたはずなのに、いつの間にか何処かへ行ってしまったらしい。
明日以降進む予定の道を“瞳”の地図で確認していた僕は、ユーニがいないことに今ようやく気が付いた。
きっとどこかで水でも汲みに行っているのだろう。
そこまで気にすることではない。どうせすぐに帰って来るだろう。
だが、ユーニの姿がないという事実を知った途端、何故だか落ち着かなくなった。

彼女の居場所が気になって仕方ない。
彼女の姿が視界にないだけで心がざわつく。
とうとう落ち着きを失った僕は、“瞳”をシャットダウンさせて立ち上がる。


「ユーニがいないようだが、どこに行ったんだ?」
「うん?あぁそういえばいないな」
「薪でも拾いに行ってんじゃねぇの?」


ノアとランツは、ユーニの姿が見えないことにそこまで不安感を抱いていないようだった。
彼女と付き合いが長い故の信頼か、はたまた興味がないだけなのか。
薪を拾いに行っただけにしては随分帰りが遅い気がする。
もしかしたら帰り際に手強いモンスターに襲われているのかもしれない。


「流石に帰りが遅すぎる。ちょっと探しに行ってくる」
「え?別に大丈夫だろ。そんなわざわざ行かなくても……」
「いや、でもモンスターに襲われている可能性もあるだろ」
「もしそうなら“瞳”で連絡が来ると思うけど……」


ノアとミオはさほど心配していないようだったが、一度気になりだしたら止まらなくなるのが僕の性分だ。
気にかけてしまった以上、ユーニの安全を確認できないと落ち着かない。
腕立てをしながら呟かれた“過保護だな、タイオンは”というランツの呟きを背に受けながら、僕は野営地を離れユーニを探すために歩き出した。

彼女の足跡は追跡できる。
歩幅から察するに歩いてここから去って行ったのだろう。
念のため“瞳”で通信を試みたが、彼女が応答することはなかった。
何故応答しないのか。取り込み中ということか。
それとも、通信に出られないほど危険な目に遭っているのだろうか。
心に浮かんだ嫌な予感に背中を押され、僕は駆け足で足跡を追った。

やがて、大きな湖のすぐそばまでやって来たところで足跡は途切れた。
足跡が消えているということは、ここで靴を脱いだということだろうか。

あたりを見渡してみると、1本だけ生えている木の根元にユーニがいつも履いている靴が脱ぎ捨てられていることに気が付いた。
駆け寄ってみると、靴のすぐ近くにはケヴェスの兵士服やメディックガンナーの装備が乱雑に脱ぎ捨てられている。
間違いなくユーニが着ていたものだ。
何故こんなところに?
疑問のままに顔を上げて周囲に目を向けると、パシャパシャと水が跳ねる音が聞こえてきた。


「あっ」
「うわっ」


目の前に広がる湖の浅瀬。
そこで、白い肌を晒したユーニの姿を見つけた。
服や装飾品、下着やパワーアシストといったすべての装備脱ぎ捨てた彼女は、文字通り何も身につけていない裸の状態。
しなやかな白い裸体を目にした瞬間、こちらを振り返ったユーニと目が合ってしまう。
彼女は小さく悲鳴を挙げながら湖の中に身体を隠すように沈め、僕も咄嗟に近くの木の後ろに隠れユーニから視線を逸らす。


「す、すまない!不可抗力だ!申し訳ない」
「いや、い、いいけど……。なんでここに?」
「なかなか帰ってこないから、少しその、気になって……」
「あ、あぁ、なるほどな。心配かけて悪かったな」
「いや、うん。ぼ、僕の方こそ……」
「……」
「……」
「……あの、ちょっとそこから離れててくんない?服、タイオンの足元にあるから」
「えっ、あ、あぁそうか。ご、ごめんっ」


足早に木の根元から距離を取ると、背後からまた水音が聞こえて来る。
恐らくユーニが湖から陸に上がったのだろう。
バシャリと派手な水音が耳に届いた瞬間、水に濡れたユーニの白い身体が脳裏に過る。
たった一瞬しか目に入らなかったというのに、彼女の身体は脳裏にこびりついたまま消えそうにない。
やがて衣擦れの音が聞こえた後に、こちらに歩み寄って来るユーニの足音が近づいてきた。
そして、小さな咳払いをした後気まずげに顔を覗き込んでくる。


「……見た?」
「……見てない」
「ホントか?」
「ほ、ほんとに」


嘘だった。ばっちり見てしまった。
華奢な肩から延びる細い腕も、綺麗な背中も、すらりとした足も、くびれた腰回りも、豊かな胸も、なにもかも。
けれど、“見た”と正直に言ってしまったら嫌な思いをさせる気がして、咄嗟に嘘を吐いてしまった。
僕の嘘をどこまで信じたのかは分からないが、“そっか”と目を伏せる彼女はガラにもなく顔を赤らめているように見える。
僕に裸を見られてほんの少し恥ずかしがっているその姿を見ていると、胸のあたりがきゅっと締め付けられた。


「最近風呂入れてなかったから、少しくらい水浴びしたくてさ。通信には気付いてたけど、服着てなかったから応答できなくて」
「な、なるほど。間が悪かったわけか。すまなかった」
「い、いいって。気にしない。だからそっちも気にすんな。てか忘れろ。全部まるっと忘れろ!」


そう言って、半ばやけくそのような勢いでユーニは僕の背中を平手で叩いてきた。
そして足早に野営地へ向かって歩き出す。
その背に後ろからついていきながらも、ユーニの“忘れろ”と言う命令に首を縦に振れなかった。

異性の裸など日常的に何度も見てきた。
ウロボロスの力を得て旅をする前、コロニーに所属していた時はいつも男女の隔たりなく入浴を共にしていた。
そこに疑問を抱くことなど一度もなかったし、今更女体を見ただけで驚いたり戸惑ったりする意味はない。
ユーニの裸を見たことは一度もなかったが、相手が誰であろうとそこに特別感などは生まれない。はずだった。

前を歩くユーニの背中を見つめる。
今はきちんと服を着こんでいる彼女の背中を見ているだけで、顔が熱くなる感覚に見舞われた。
僕は今、どう考えても動揺している。
らしくない。ユーニの裸体を見ただけでこんなに冷静さを削られるなんて。

脳裏にこびりついた彼女の白い肌を忘れようと努力すればするほど、あの光景は強く焼き付いてゆく。
件の光景が脳裏で想起されるたび、途方もない罪悪感が湧き上がる。
そして同時に、心がひどくざわめくのだ。
こんな気持ち、生まれてはじめてだった。


***

コロニー11が鉄巨神を構えているケヴェスキャッスル地方は、常に雷鳴が轟いている非常に珍しい地域である。
このコロニーに所属している兵士たちは所謂戦闘狂な者たちばかりで、コロニー全体が平和とは無縁な空気感を醸し出しているわけだが、空から響く雷鳴はコロニーの不穏な雰囲気によく似合う。
昼間のうちにコロニー11に到着した僕たち一行は、アシェラの計らいで専用の天幕を用意してもらった。
6人と2匹分のベッドが置かれたその簡素な天幕ではあったが、この雷鳴が轟くなか野宿で夜を明かすよりは快適である。

時刻は午前0時過ぎ。既に日付が変わって数分経つというにも関わらず、6人と2匹は誰も眠りについてはいなかった。
というのも、マナナによるちょっとした語りが始まってしまったからである。
彼女がコロニーガンマに所属する前に体験したという、不思議な出来事の体験談だ。
天幕の中に灯っているエーテル灯を常夜灯に切り替え、薄暗くなった天幕の中央でマナナはおどろおどろしい表情と声色で語り続ける。


「……と、その時デスも。すぐ後ろにいたはずの仲間がみーんないなくなっていたんデスも……!マナナ、ヒジョーに焦りましたも。戦闘があった直後の場所で一人ぼっちになるのはマズいと!」


マナナの語り口は妙に臨場感があった。
話半分に聞いていたのだが、人の興味を惹きつけるその話し方のおかげで、その場にいた全員がマナナの話に聞き入っている。

いつも通りの凛々しい表情を崩すことなくマナナの隣で話を聞いているリク。
その横には、少し引きつった表情で口を噤んでいるランツと、目をきらめかせながら聞いているセナの姿。
更にその横には、興味深げに腕を組みながら話を聞いているノアと、そんな彼に密着するように寄り添い蒼い顔をしているミオ。

そしてさらにその隣。僕の右隣に腰掛けているユーニは、いつもの男勝りな性格からは想像できないほど不安げな表情を浮かべ、自らの膝を両手で抱えながら小さくなっていた。
それぞれの反応を示す仲間たちを前に、マナナの語りはクライマックスを迎える。


「しばらく歩いていると、前方に白いアーマーを身に着けた兵士を発見したんデスも。味方だと思ってすぐに駆け寄ったマナナは、おかしなことに気付きましたも。その兵士、片手と片足が欠損していたんデスも」


話のオチが見えてしまった。
実によくある怪談だが、どうやら隣に居るユーニはマナナの語りにどっぷり集中してしまっているらしい。
ゴクリと生唾を飲む音がしたと思ったら、いそいそと僕との距離を詰めてきた。
予想はしていたが、彼女は普段の態度に反して随分と怖がりな性格らしい。
そして、マナナの語りは僕が予想したオチへと向かって展開し始める。


「片手片足が無くなっているのにまっすぐ立っているのは可笑しいハズなんデスも。でも気が動転していたマナナは、その兵士に話しかけてしまったんデスも。“大丈夫デスか?”と。そしたらその兵士、カッと振り向き、血走った目でこう言ったんデスも!“やぁっと見つけた~~~~”!!!!」


脅かすような表情と声色でオチを言い放った瞬間、天幕の外から大きな雷鳴が響き渡る。
一瞬の光の明滅と共に、割れんばかりのバリバリという雷の音がタイミングよく聞こえたことで、ミオとユーニによる甲高い悲鳴が天幕内に響いた。

2人の悲鳴に交じり、ランツの“ぎゃーーっ!”という濁った雄たけびも一緒に聞こえたのは気のせいではないだろう。
外の雷は、恐怖を煽るには最高の演出だったのだろうが、どうやら恐怖感を煽り過ぎたらしい。
隣に腰掛けていたユーニは僕の腕にしがみつき、半ば抱き着くようにしてきつく腕を回していた。
突然抱き着かれたことで驚く僕だったが、そんな僕の様子など気にする余裕がないらしく、ユーニは小さく震えながら顔を伏せている。


「そんなに驚いてくれるなんて嬉しいデスも」
「すごいなマナナ。怪談上手いんだな」
「話しが上手いのは美徳も。素直に感心したも」
「うんうん!マナナ凄い!怖かった!ね?ランツ」
「え˝!い、いや、お、俺はそうでもなかったけどな」


平気なふりをして否定しているランツだが、明らかに目が泳いでいる。
どうやら彼も、そしてノアの隣で青ざめた顔をしているミオもまた、怖い話は苦手だったようだ。
これほど怯えている人間が3人もいるのであれば、怪談としては大成功と言えるだろう。
満足げなマナナとは対照的に、ユーニは未だ僕の腕から離れずにいた。
頑なに僕から離れようとしないユーニに、また心臓が騒ぎ出したのは言うまでもない。

マナナの怪談が終わったすぐ後、僕たちは全員すぐにベッドに入った。
ノアやミオたちをはじめとする仲間たちはすぐに夢の世界に旅立てたようだったが、僕は外の雷鳴が気になって上手く寝付けずにいた。

元々神経質な性格だったせいか、少しの物音でも気になって眠れない。
なんとか目を閉じていれば眠れるだろうか。
そんなことを考えながら大人しくベッドに横になっていた僕だったが、すぐ横で聞こえた衣擦れの音に意識が持っていかれた。

隣のベッドで眠っていたのはユーニだ。どうやら寝床から起き上がったらしい。
上体を起こした体勢で暫く目を擦っていたユーニだったが、暫くすると彼女は僕が横たわっているベッドの方へと目を向け、かすかな声で囁いてきた。


「起きてる?」
「……」
「流石に寝てるか」
「……起きてるが?」
「なんで一回無視したんだよ」
「いやなんとなく。どうした?」
「寝れないんだけど」
「は?」
「寝れない」


だから何だと言うのか。
起き上がってこちらを見つめているユーニを見つめ返してみるが、眼鏡を外してしまっているため視界がぼやけてよく見えない。
彼女が何を求めているのかよく分からないまま、枕元に置いていた眼鏡に手を伸ばしてかけると、見たことがないくらいしおらしい表情を浮かべたユーニの姿があった。


「目を閉じていればいつか寝れるだろ」
「無理。寝れない」
「そんなこと言われても」


その瞬間、天幕の外から大きな雷鳴が聞こえてきた。
天幕越しにも分かるほど強い光が一瞬あたりをつつみ、耳をつんざくような鋭い轟音が鳴り響く。
と同時に、ユーニが大袈裟なほど肩を震わせたのを僕は見逃さなかった。
そして何となく察してしまう。彼女が眠れない原因を。


「くだらない怪談とただの雷鳴に怯えるのは兵士としてどうなんだ?」
「うっせぇ!ビビってねぇし!」


苛立ちに任せたユーニに喚きは天幕内に響き渡る。
この天幕で夜を過ごしているのは僕とユーニだけじゃない。他の仲間はすやすやと安眠を得ている。
人一倍聴覚に敏感なミオが、その特徴的な耳を僅かにはためかせながら寝返りを打っている様子が視界に入る。
このままここで問答を続けていれば、ミオを起こしてしまうかもしれないな。
寝ぼけた頭でそんなことを考えていると、ベッドから抜け出したユーニがこちらに近付き、僕の腕を突然引っ張り始めた。


「外行くぞ、外」
「え?なんでだ?」
「ここで話してたら誰か起きちまうかもしれないだろ」
「君1人で外に出ればいいだろ。なんで僕まで……」
「はぁ?この雷鳴の中アタシを一人きりにする気かよ」
「やっぱり怖いんじゃないか」
「怖くねぇって!ほら早く!」


ユーニの有無を言わさぬ強引さに、僕は引きずられるように天幕を出た。
彼女はこうなったら聞かない。満足するまで開放してはくれないだろう。
どうやら今夜はゆっくり眠ることを諦めたほうがいいかもしれない。

天幕の外には人影など一切なく、並べられたケヴェスのレウニスがエーテルラインを光らせながら不気味に鎮座していた。
ケヴェスのレウニスは、アグヌスのそれに比べて随分と不気味なデザインをしている。
顔のような部分が存在しているのが余計に恐ろしさを助長する。
元々アグヌスの兵として何度もこの顔つきレウニスと対峙していたせいか、未だにこのケヴェスのレウニスが並んでいる光景を見ると落ち着かなくなってしまう。

だが、今日に限っては僕よりもユーニの方が怯えているようだった。
誰もいない野外食堂に腰掛けている僕たちだが、すぐ隣にいる彼女は椅子の上に両足を立て膝を抱えるようにしながら身体を縮こませている。
雷鳴が轟くたびにいちいち肩を震わせ、仕舞には僕の腕に自らの腕を絡めながら密着してきた。


「雷がそんなに怖いのか」
「だから怖くねぇって。音に驚いてるだけ」
「それを怖がってるって言うんだろ」
「ちげーし」
「大体そんなに密着しても状況は変わらないと思うが?」
「んだよ。さっきから文句ばっかだな。そんなにアタシに引っ付かれるのが嫌なのかよ」
「嫌というか……。落ち着かないんだ」


ユーニは僕の右腕を自らの両手で抱きしめるようにして密着していた。
彼女の温もりに触れている右半身が緊張している。
正直、リラックス状態とは言い難かった。
だが、そんな僕の凝り固まった心と身体をあざ笑うが如く、ユーニは腕の力をきゅっと強める。


「アタシは落ち着くけどな」


強い力で腕を抱きしめらているせいか、ユーニの柔らかさが腕に伝わっている。
女性特有のその柔らかさの正体を察した瞬間、思考が乱れた。
僕たち男の身体には、その柔らかな膨らみは存在しない。
当然ながらそこをきちんと触ったことなど一度もないが、こんなにも柔らかいのか。
ただの脂肪の塊らしいそれは、ある意味で肥えた腹と何ら変わりない。
特に何の特別感もない、ただの身体の一部でしかないはずなのに、柔らかな感触が腕に当たっているだけで心臓がバクバク騒いでいた。

そして脳裏に、数日前不本意に目撃してしまったユーニの身体がありありとフラッシュバックする。
白くしなやかで、凹凸のはっきりしたあの身体が、今すぐそばにある。
腕に当たっているのはまさしくあの白い乳房であると認識すればするほど、必要以上に意識してしまう。
駄目だ。妙なことを考えるな。
また心臓がうるさくなる。心がざわめいてしまう。息が苦しくなってしまう。
理由も分からず動揺するのはもう嫌だった。


「タイオン?」
「へ?」
「さっきからなんでそんな顔逸らしてんだよ」


ユーニから顔を覗き込まれ、咄嗟に目を逸らす。
反射的な行動に、きっと理由なんてない。
ただ、彼女の蒼い目を真っすぐ見つめ返すのが気恥ずかしかっただけなんだ。
ユーニの顔を見ていると、どうにも平常心が削られる。
みっともなく動揺している自分が嫌で、なんとか“いつも通り”の自分でいようと必死に取り繕う。
そんな僕の不格好な魂胆を、ユーニは見抜いてしまったらしい。


「逸らしてない」
「逸らしてんじゃん。現に今も」
「こんな至近距離で見つめ合う必要ないだろ」
「あー、もしかしてあれか?人の目を見て話せないタイプか?シャイな奴なんだなタイオンは」
「誰がシャイだ!別に僕は……」
「じゃあほら、アタシの目を見て10秒耐久してみ?」


何でそんなことしなくちゃいけないんだ。
内心悪態を垂れながらも断れなかったのは、“シャイ”呼ばわりが気に入らなかったからだ。
人をコミュニケーション弱者のように言うなんて失礼すぎる。
僕がそんな人間じゃないことを今証明してやる。

そんな決意と共に、逸らしていた顔をユーニへと向ける。
目の前にはユーニの蒼い瞳とすらっとした鼻先。
白く綺麗な羽根を持つ彼女の整った顔を真正面から見つめ始めた瞬間、また胸が締め付けられた。
苦しい。なんで、どうして、ユーニを見ているとこんなに苦しくなるんだ。

だが目を逸らせない。怯むことなくこちらを見つめ返してくるユーニの蒼い視線から逃げたら、またシャイだのなんだの言われて揶揄われる羽目になる。
けれど、流石にその目をずっと一点集中で見つめ続けるのに限界を感じ始めていた。

バレないように少し視線を逸らしたい。
そんな企みと共にほんの少し視線を落とすと、ユーニの形のいい唇が視界に入る。
ほんのり色づいた小ぶりな唇の感触を僕は一度だけ味わったことがある。
あの時の柔らかさは未だに覚えている。
今もまだ、彼女の唇は柔らかいままなのだろうか。

そこまで考えて、僕ははっとした。
まさか、またキスがしたいとでも思っているのか、僕は。


「っ、」


突然、空がまばゆく光り再び大きな雷鳴が轟いた。
その瞬間、肩を震わせたユーニが顔を僕の胸に押し付けてきた。
雷鳴に怯え、胸板に顔を埋めてきたことでユーニのシャンプーの香りがふわりと漂ってくる。
彼女と接近するたび香ってきたあの匂いだ。
今までないほど密着してきているユーニを前に、僕は身体を固くさせていた。
戸惑う僕を尻目に、ユーニは僕の胸板に縋りつきながら囁く。


「ちげぇから。驚いただけだから」
「う、うん……」
「でも、もうちょっとこのままでいてもいい?」
「え……」
「嫌なら離れるけど……」


そんな風に縋りつかれて、不安げに声を震わせているユーニを冷たく突き放すなんて、僕にはできそうにない。
それに、正直そこまで嫌ではなかった。
ユーニとの物理的距離が縮まるたびに落ち着きが失われているくせに、離れてほしくないと思っている自分がいる。


「し、仕方ないな……」


なだめるように、落ち着かせるように、ユーニの頭に手を添える。
彼女の髪は艶があって柔らかい。撫でるたびにいい香りがする。
心臓がうるさく高鳴っているというのに、腕の中にいるユーニの身体を放すのは惜しい。
僕の胸板に顔を埋めているユーニに、この高鳴りが聞こえてしまっているかもしれない。
けれど、それでもいい。
もっと密着して、その体に触れて、香りに埋もれて、髪を撫でて、頬を撫でて、そして、そして……。

際限なく溢れ出るこの欲の存在に気付いた瞬間、僕は息をつめた。
密着するのも、身体に触れるのも、香りに埋もれるのも、髪を撫でるのも、頬を撫でるのも、全て僕とユーニの関係性では起り得ないスキンシップだ。
ただの戦友でしかない僕とユーニが、こんなにも近い距離感でいること自体がおかしいはずなのに。
なぜこんな分不相応な欲求ばかり抱いてしまうのだろう。
どれだけ考えても、やはり答えは出なかった。


***

ティーを訪れたのは久しぶりのことだった。
メビウスの側へと寝返ったシャナイアによる暴動で、一時甚大な被害を受けたシティーの街並みだが、今は少しずつ復旧が進んでいる。
とはいえ、味方に裏切り者を出し、さらには中核まで攻め込まれたことでシティーに住まう人々の心には暗雲が立ち込めている。
僕たちのコロニーでもよくあったことだが、人は良くない状況に身を置くと正常な判断力を鈍らせてしまいがちになる。
負け戦が続いたコロニーから脱走兵が多く出たり、少なくなりつつある物資を秘かに私物化する輩が出てくるのはそのせいだ。

このシティーは、六氏族の統治のもと穏健派と抗戦派で派閥が分かれている。
そんな複雑な背景があるこの場所だからこそ、少しのほころびで人々の心は荒んでしまうのだろう。
ロストナンバーズの長としての顔を持つモニカから、ここ数日シティーの治安が悪化していると報告を受けた。
1週間前は大通りの商店が白昼堂々強盗に遭い、その後は歓楽街の裏路地で大規模な暴動があり、数名が負傷。2名の死者まで出たという。
何よりモニカの頭を悩ませていたのは、“セイハンザイ”という違反行為らしい。


「“セイハンザイ”ってなんだ?」


その日、僕はユーニと一緒に医療施設のホレイス先生を訪ねていた。
旅をするために必要な薬品を定期的に彼から援助してもらっているのだが、今回も足りなくなった薬品類を分けてもらうための訪問である。
そんな時、廊下がやけに騒がしいことに気が付いた。
様子を伺うと、女性の衛生士に肩を抱かれ、ひとりの若い女性が随分と暗い顔でうつむき歩いていた。
何か大きな怪我でもしたのだろうか。
ユーニと顔を見合わせていると、おそらく患者であるその女性が入っていった診察室から見慣れた人影が出てきた。モニカである。

引き止めて何があったのか質問してみると、彼女は少し渋い顔をした後小声で言ったのだ。
“性犯罪に巻き込まれたのだ”と。
初耳な単語だった。言葉のニュアンスから察するによくないことだという事実はわかる。
恐らくはこのシティーの規律を乱すような違反行為なのだろう。だがその詳細がわからない。
詳細を聞こうとするユーニに、モニカはまた答えにくそうな顔をした。


「夜道を一人で歩いていた時に、見知らぬ男から強姦されたらしい」
「“ゴーカン”?」
「無理やり性行為に及ぶことだ」


性行為の何たるかはうっすら知っている。
初めてシティーを訪れた際、人として正しい営みをホレイス先生やモニカから教わったのだが、教授された内容にその項目も含まれていた。
人はゆりかごから生まれるのではなく、正しくは母となる存在の腹から生まれる。
母体に胎児を宿すには、異性と“性行為”を正しく行う必要がある。
この根本的な命の営みを土台として、“結婚”や“恋愛”という文化価値観が形成されているのだ。


「“見知らぬ男から”って……。パートナーでも何でもない相手にってことだよな?」
「そうだ」
「相手の男はなぜそんなことを?あの女性との子供が欲しかったのか?」
「いや。そういうわけじゃない。言ってしまえば、“性欲の発露”というものだろう」


女性が入っていった診察室の扉を見つめるモニカの目は、いつもより鋭かった。
恐らく怒っているのだろう。
彼女と同じ戦場に立ったこともあるが、ここまで嫌悪を滲ませているところは初めて見た。


「お前たちには理解が難しいだろうがな、人には“欲”というものがある。中でも睡眠欲と食欲に関しては、人間が生きていくうえで必要不可欠な欲と言える」
「まぁ確かに。アタシらも眠くなったら寝るし、腹減ったら飯食おうってなるもんな」
「だが、人には本来もう1つ重要な欲が備わっている。それが性欲だ。これも人が人としてあるためには欠かせない欲の1つ」
「性欲……。それが限界まで高まってしまったせいであの女性は襲われた、と?」
「そういうことだな」
「しかし、本来性行為というものは子供をつくるための尊い行為のはず。あの女性は随分と辛そうな顔をしていたな」
「そりゃそうだろ」


僕の素朴な疑問に返答したのは、モニカではなく隣に立っていたユーニの方だった。
目を伏せ、どこか悲しげな顔をした彼女は、かすれた声で怒りをにじませる。


「そういうのって大事な人とするもんなんだろ?何の感情もない相手に好き勝手触られたら気持ち悪いに決まってる」


思わず“えっ”と声が漏れそうになった。
彼女の言葉は、ここにはいない強姦魔に向けられたものであって、別に僕に対して言ったわけじゃない。
それはわかっているはずなのに、まるで喉元に刃物を突き付けられているような気分になった。
そんな気持ちになった理由は明白。心当たりがあるからだ。
“他人に触れたい”と強く思ってしまったことがあるからだ。
それも、相手は“他人からの接触など気持ち悪い”と言い放ったこのユーニである。
居心地の悪さを感じずにはいられなかった。


「ユーニの言う通りだ。本来そういった行為は、気持ちが通じ合っている相手とするもの。一方的な想いや欲の発露で迫ったところで、相手に恐怖や嫌悪感を与えるだけだ」


モニカの追撃に、僕は何も言えなくなってしまった。
あの女性が“性欲の発露”によって襲われたのであれば、猛烈にユーニ触れたいというこの気持ちも、歪で薄汚い性欲に過ぎないのではないだろうか。
この気持ちに従ってユーニに手を伸ばしたら、きっと彼女は僕を嫌悪するに違いない。
キスがしたいとか、抱きしめたいとか、心に渦巻く要望はまだ可愛らしいものだったが、その延長線上にあるのは確実に“性行為”だ。
そこへ直結する道を、僕は歩きたがっていたのか。

そう思うと、途端に怖くなった。
ユーニを傷つける可能性が、自分に秘められていることが。
ユーニに嫌悪される可能性が、この腕に潜んでいることが。


「タイオン、さっきからずっと黙ってるけどどうかした?」
「い、いや、別に……」


顔を覗き込んでくるユーニから焦って目をそらす。
この心を焦がすような焦燥感は、ユーニに薄汚い下心を見破られるのではとう不安からきている。
もし知られたら――。
これ以上は想像したくない。

隠さなければ。この衝動も、気持ちも、欲望も。
ユーニから嫌われないように。


***

フォーニス地方は、広大な荒野や砂漠と高低差の激しい草原地帯で構成された広いエリアである。
生息しているモンスターも多種多様で、資源もかなり豊富。
そんな背景もあってか、このあたりに陣を敷くコロニーも多い。

そのうちの一つであるコロニー30を訪れていた僕たちだったが、次の目的地であるコロニーイオタを目指すべく昨日出立した。
ルディには“もっといればいいのに”と引き止められたが、イオタの軍務長を務めているニイナからコロニー来訪の依頼を受けたのだ。
“至急”と前置きがあったため、なるべく約束の期日までに遅れたくはなかった。
コロニー30で長居していたと知られれば、30嫌いのニイナは烈火のごとく怒るだろう。
だからこそ、これ以上滞在期間を延ばすことはできなかった。

コロニー30を出立してから最初の夜がやってくる。
野営に選んだ場所は、天蓋の湖のほとり。
ノアから“今夜はここで夜を明かそう”という提案を受けたとき、とっさに“ここはやめようと”と突っぱねたくなってしまった。

かつて僕は水浴びをしていたユーニの裸を目撃してしまったのだが、この天蓋の湖こそがその現場なのだ。
ここに来ると、嫌でもあの瞬間の光景がフラッシュバックしてしまう。
だが、だからと言って他に休憩出来そうな安全地帯もない。
“ここは嫌だ”と意地を張ったところで、誰かに理由を聞かれてうまく答えられる自信もなかった。

いつも通りマナナの料理に舌鼓を打ち、一息ついたところで見張りを交互に行いながらシュラフに入る。
この日、一番最初に見張りをすることになったのは僕だった。
火が小さくなりつつある焚火のそばに座り込み、先ほど淹れたばかりのハーブティーを味わう。
優しい風味を舌で味わいながら、僕の視線は自然と仲間たちの方へと向いていた。
各々敷いたシュラフの上に寝転がり、すやすやと寝息を立てている。
右からノア、ミオ、ランツ、セナ、リク、マナナときて、一番端にユーニが眠っている。

ティーでの一件以来、僕はユーニと少し距離を取るよう心掛けている。
避けているわけじゃない。声をかけられればちゃんと返事をするし、雑談だってする。
ただ、物理的な距離をいつもよりとっているだけのこと。
この心には、未だユーニに触れたいという欲が残っている。
どんなに目をそらしても、僕がユーニに邪な下心を抱いている事実は変わらない。
だから、シティーで女性を襲った卑劣な強姦魔のように、この欲求がいつが爆ぜてしまわないよう近付くのをやめた。

けれどユーニという人物は、もともと人との距離感がやたらと近いタイプだったということを忘れていた。
2人でとりとめのない話をしている時、彼女は僕の目をじっと見る。
その青い純粋な視線で射貫かれるたび、この心はざわめくのだ。

ユーニの目を見て話せない。
見つめ合えば顔に熱が灯る。
顔が赤くなってしまったら、この下心に気付かれてしまう。気持ち悪がられてしまう。嫌われてしまう。
だから、ユーニと話すときはいつも目を合わせなかった。

起きている時はまともに顔を見れないくせに、眠っている時は何故か視線が彼女へと吸い込まれてしまう。
ユーニが目を閉じている今なら、その顔をまっすぐ見つめられるかもしれない。
焚火のそばからそっと立ち上がり、足音を立てないようにユーニのそばへと歩み寄る。
息を殺し、枕元に腰を下ろすと、彼女の安らかな寝顔がよく見えた。

いつもは開いている大きな目が瞼の向こうに封じられ、長く生え揃った睫毛がよく見える。
焚火のわずかな炎に照らされて、白い頬はオレンジ色が差していた。
暇さえあれば手櫛で整えている綺麗な羽根は、眠っているせいか力なくくたびれている。
形のいい唇はいつものやかましさを忘れ、ほんの少しだけ開かれひゅうひゅうと小さく寝息をたてている。
彼女の寝顔を構成するすべてのパーツが、たまらなく可愛らしく、そして愛らしく思えた。

ユーニは時折、そのあたりでピピットやカピーバを見つけては“可愛い”と目を輝かせ、襲ってくる危険がない個体だと判明すると無遠慮にそのもふもふした体を撫でまわしている。
撫でられている方は大体迷惑そうな顔しているが、当のユーニはナデナデに夢中。
そんな光景をいつも呆れながら見ていたのだが、たった今、あの時のユーニの気持ちがわかってしまった。

撫でたい。今、無防備に眠っているこの可愛らしい生き物を撫でたい。
たくさん撫でまわし、口付け、“可愛い”を連呼し、ぎゅっと抱きしめ、離さずに膝の上に乗せていたい。
こんな感情を人間に対して抱くなんておかしい。そう自覚していながらも、この衝動を止められそうになかった。

刻印のない右手を伸ばす。
ゆっくりゆっくり延ばされた手は、ユーニの明るい髪に触れた。
柔らかくてサラサラな髪を恐る恐る撫でつける。
ユーニがピピットやカピーバを撫でまわしていた時の手つきより、何倍も優しい撫で方だった。
指先が震えているのは、心臓がバクバクと高鳴って仕方ないからだろう。
ユーニの一部に触れているというだけで、この心はたまらなくなる。

少しだけ触れればそれでよかったはずなのに、一度指先で触れてしまった以上もっと欲しくなる。
今度は素肌に触れたい。
ユーニのぬくもりをこの皮膚で感じたい。
小さく震える指先は、髪からゆっくりと移動しユーニの頬に触れた。

柔らかな頬を指先でつつき。指の腹で擦り、そして手のひらを添えるようにして触れてみる。
こうして実際に触ってみると、彼女の顔は驚くほどに小さかった。
白い頬は片手を添えただけで簡単に隠れてしまうほど面積が狭いし、肌は僕のものよりずっとなめらかで繊細だ。
少しでも爪を立てれば、すぐに傷付いてしまうかもしれない。

この柔肌が傷付かないよう優しく守ってやりたいと思う反面、一生消えることのない跡を残してやりたいとも思ってしまう。
頬を撫でていた親指が、不意にユーニの唇に触れる。
少し前、この唇には触れたことがあった。
あまりに唐突な出来事だったから正直記憶が曖昧だが、とにかく柔らかい感触だったのは覚えている。
髪や頬に触れただけでこんなにも心が昂るのだ。
再びこの唇に口付けたら、一体どうなってしまうのだろう。
下心を孕んだ好奇心が、僕の思考力を低下させていった。


「たいおん……?」


不意に名前を呼ばれ、白んでいた意識が一気に現実へと引き戻される。
唇にばかり注視していたせいで気付かなかった。
ユーニの青い目が、うっすらと開いていることに。
頬に触れていた手を急いで引っ込めてみたが、どう考えても手遅れだった。


「あ……」
「なにしてんの……?」
「いや、その……、なんでもないっ、気にするな」


言い訳ならできたはずだ。
ゴミが付いていたとか、髪が目に入りそうになっていたからよけてやっていたとか。
けれど、そんな都合のいい言い訳が一つも思い浮かばなかったのは、ひどく動揺していたせいだろう。
いつもはよく回る頭が、ユーニを前にするとどうにも使い物にならなくなる。

あまりのいたたまれなさに、僕は逃げるようにその場から立ち上がった。
今の自分はどう考えてもおかしい。頭を冷やさなければ。
ユーニの元から離れ、焚火のそばを通過し、休息地から背を向ける。


「ちょ、どこ行くんだよ!?」
「散歩だ散歩!」
「こんな時間にかよ?じゃあアタシも――」
「一人になりたいんだ。放っておいてくれ」


少し言い方に棘があったかもしれない。
けれど、優しい言い方をしてやれるほどの余裕はなかった。
とにかく今はユーニのそばから離れたい。
一人きりになって深呼吸して、冷静になりたい。
なにより、この火照って仕方のない顔を何とかしたかった。

速足で歩き、林の傍らへとたどり着く。
ユーニは後を追ってきてはいないようだった。
一番太い大木に背を預けて寄り掛かり、月夜に光る湖の水面を見つめていると幾分か落ち着いてきた。
そして同時に後悔と羞恥心に襲われる。

あの時、僕はいったい何をした?
ユーニが眠っているのをいいことに、寝顔を盗み見て髪や頬を触り、あまつさえ唇に触れようとした。
抵抗のしようがない相手を好き勝手触ろうなんてとんだ蛮行だ。
こんなの、シティーで見知らぬ女性を襲った強姦魔と変わりないじゃないか。
死んでしまいたい。穴があったら引きこもりたい。いっそこの木に頭を思い切り強打して記憶を飛ばしたい。

微睡の中、自分の顔や髪をべたべた触ってきた僕を見て、ユーニは何を思っただろう。
寝ている間に忍び寄る変質者だと思われたかもしれない。
不気味に見えていた可能性も高い。どうしてあんな馬鹿なことをしてしまったのか。


「気持ち悪いよな、そりゃあ……」
「何が?」


突然すぐ後ろから聞こえてきたその声に、また心臓が止まりそうになった。
勢いよく振り返ると、そこにはきょとんとした顔のユーニが立っている。
“わっ”と声を上げると、そんな僕の反応に驚いたユーニまでもが小さく“うおっ”と悲鳴を上げた。


「なんだよその反応。アタシはメビウスかっての」
「一人にしてくれと言っただろ?なんで来た!?」
「そりゃ赤い顔でぷりぷり出ていく相方放っておけねぇだろ?なんか怒ってるみたいだったし」
「い、いや、怒ってるわけじゃ……」


先ほどの鋭い口調のせいで、どうやらイラついて出て行ったのだと勘違いされているらしい。
赤面していたのは怒りで赤ら顔になっていたからじゃない。
死ぬほど恥ずかしかったから赤くなっていただけなのに。
今一番近付いてはいけない相手の登場に動揺を隠せない僕だったが、元来ガサツな彼女がそんな僕の気持ちを察してくれるわけもなく、無遠慮に顔を覗き込んできた。


「タイオンさぁ、最近なんかアタシと距離置こうとしてね?」
「えっ」
「近付いても逃げるみたいにどっか行くし、ちょっと手が触れただけで汚物触ったみたいにすぐ引っ込めるし、何より全然目合わせねぇし」


さりげなく距離を開けているつもりだった。
だが、ユーニは意外にもこの小さな変化に敏感だったようで、僕が距離を取っていたことに気付いていたらしい。
その指摘はすべて僕自身が徹底してやってきたことだが、少々誤解がある。
“アタシなんかした?”と悲しげに目を伏せるユーニの姿を視界にとらえた瞬間、先ほどまで頭をもたげさせていた羞恥心は一気に吹き飛び、代わりにとてつもない罪悪感がやってきた。

しまった。どうやらユーニを傷つけてしまったらしい。
そんな顔をさせたかったわけじゃない。
焦りに身を任せ、僕は無意識にユーニの華奢な両肩を力強く両手で捕まえていた。


「違うんだ!いや、距離を開けていたのは事実だが、別に君に非があったとかそういうことじゃ……」


まくしたてるように言い訳を口にした瞬間、距離感のおかしさに気付いてしまった。
ユーニの両肩を乱暴に掴み、顔を近づけて迫っている今の体勢は、あまりにも彼女との距離が近い。
心臓が跳ねる。“触れたい”という下心が顔を出す前にとっさに手を放して距離を取ると、ユーニはまた不満げな表情でむっと睨んできた。


「また距離取った」
「あ……」
「なんだよもう。嫌いになったならはっきりそう言えよ」


目を伏せるユーニの表情が見えないが、いつも強気な彼女に似合わず声は震えていた。
嫌い?まさか。とんでもない。ありえない。
こうして顔を見ているだけでどうしていいかわからなくなるほどなのに、嫌いになるなんてあるわけない。
けれど、胸に渦巻くこの曖昧な感情を、どう伝えるべきかわからない。
こんなぼんやりとした気持ちを押し付けたところで、君は迷惑がるんじゃないだろうか。
だからと言って、僕が君を嫌っているという根も葉もない疑惑は晴らさなければならない。
たとえ恥を晒すことになったとしても。


「嫌ってるわけじゃない。むしろ、嫌われたくないのはこっちの方だ」
「どういう意味?」
「君は人との距離感が近いから、このままだと、君の嫌がることをしてしまいそうで」
「嫌がること?」


素直な気持ちを打ち明けてみたが、ユーニはピンときていないようだった。
眉間にしわを寄せ数秒間考え込むと、怪訝な表情のまま問いかけてくる。


「アングと無理矢理戦わせたり?急に鳩尾のあたりをグーで殴ってきたり?」
「そんなことするわけないだろ」
「じゃあなんだよ?」
「だから、それはその……」


ユーニは遠慮なく詳細を詰めていた。
じっと見つめてくるその瞳が痛い。
暫くごにょごにょと誤魔化していると、ついにしびれを切らしたのか深いため息が聞こえてくる。


「てか、タイオンがしそうなことでアタシが嫌がることなんて思いかばねぇけどな。たぶんアタシ、タイオンになら何されても笑って流せるぜ?」
「適当いうな。超えてはいけないラインというものがあるだろ」
「え、そんなに酷いことしようとしてんの?」
「まぁそれなりに」


少なくとも、あのシティーの女性は見知らぬ男に性的な触れられ方をして呆然自失状態に陥っていた。
あそこまでとはいかずとも、ユーニも無理矢理触られたらそれなりに怒るはず。
酷いと罵られても無理はない。気持ち悪いと蔑まれても無理はない。
だが、どうやら僕は少々ハードルを上げ過ぎてしまったらしい。
引き気味だったユーニの目が、どんどん好奇心に染まっていく。


「なんかそこまで言われたら気になってきた。今やってみろよ」
「は?何言ってる?」
「その“酷いこと”、今ここでアタシにやってみ?あ、でも痛いのは勘弁な?手加減だけは忘れずに」
「い、いや、馬鹿なこと言わないでくれ。やるわけないだろ」
「何されても値を上げないって証明してやるよ。ある種の肝試しだ」
「実際やってみてものすごく嫌だったらそうする?それで僕が君に嫌われても責任とれるのか?」
「ならないから大丈夫だよ」
「何を根拠に」
「いいから早く!ほら!」


まさかこんな展開になるとは思わなかった。
今から自分がされる“酷い事”とやらがどんなことなのか、ユーニは気になって仕方ないらしい。
両手の拳を握り、“さぁこい”と身構えているが、そんなユーニを前にただただ戸惑うしかなかった。

そんな受け入れ態勢を取られても、意気揚々と迫れるほどの度胸はない。
“嫌いにならない”と断言しているが、どうせ実際に触れられたら嫌悪で眉を顰めるに違いないのだ。

けれど、やはりしたい気持ちはある。
ユーニの方から“してみろ”と煽って来たのだ。もし激しく嫌がられたとしても、すべて彼女の責任に出来る。
この都合のいい状況に、僕の心は昂ぶりを隠せずにいた。


「じゃあ、手を……」
「手?」


握られていた拳を解き、ユーニは僕の前に両手を差し出してきた。
白くしなやかなその白い手を、僕の褐色の両手が包み込む。
普段重たいガンロットを握っていると思えない、綺麗な手だった。
すべすべしていて、少しひんやりしている。
その手に触れているだけで、心臓が痛いくらいに騒ぎ始めてしまう。


「え。“酷い事”ってこれ?」
「い、いや……」


違う。これはちょとした助走のようなもの。
本当はもっとたくさん触れ合いたい。
手だけじゃなくて、体中いたるところに触れたい。
たくさん触れて、たくさん撫でて、そして、願わくばユーニの方からも求めてくれたら——。
緊張に耐えかね、ごくりと生唾を飲む。
繋いでいた手を放し、今度は彼女の白い頬に両手を添える。


「いいんだな?本当にいいんだな?嫌な気持ちになっても知らないからな!?」
「だから大丈夫だって言って——」


話を最後まで聞くことなく、僕は彼女の唇めがけて食らいついた。
突然のことにユーニが息を詰める。
肩が跳ね、その体は石のように硬くなった。

彼女の唇は、前に触れた時と変わらず魅惑的なまでに柔らかかった。
口をふさがれた彼女が苦しそうに“んっ”と艶めかしい声を上げた瞬間、身体の奥が発火したように熱くなる。
一瞬だけ身を引こうとしたユーニだったが、両頬に手を添えている僕の手からは逃れられなかった。
今更嫌がっても遅い。してほしいと言ってきたのは、君の方なのだから。

口付けは5秒ほどで終わりを告げた。
ゆっくりと唇を離すと、ぎょっとした表情のユーニと目が合ってしまう。
驚きに満ちたその顔は、とてもではないが喜んでいるようには見えなかった。


「……その顔、やっぱり嫌なんじゃないか。嫌がらないと言ったくせに」
「えっ、あ、いや、別に嫌がってたわけじゃねぇって!ただちょっとビックリしただけっていうか……」


目を伏せ、右手で自らの唇を隠すユーニ。
動揺しているのは間違いないようだ。
前は君から強引にしてきたくせに、自分がやられたらそんな顔をするなんて。
やっぱり、ユーニの馬鹿な要望なんて無視してしまえばよかった。
そんな後悔の気持ちが生まれ始めた瞬間、ユーニがようやく顔を上げた。


「タイオンがしたかった“酷い事”ってこれ?全然酷くなくね?」
「いや酷いだろ。一方的に欲望を押し付ける行為だし、君だって何の感情もない相手に好き勝手触られるのは気持ち悪いと言っていただろ」
「言ったっけ?」
「言った」


あの言葉で僕がどれだけ悩んだと思ってる。
腹を立てていると、“でもさ、”と囁くユーニが僕の服をきゅっと掴んできた。


「嫌じゃなかったよ」
「え?」
「タイオンにキスされるの、嫌じゃない」
「な、なんで……?」
「さぁ、なんでだろうな」


そう言って微笑むユーニの顔は、ほんの少しだけ朱色に染まっていた。
拒絶されると思っていた。嫌がられて当たり前だとも思っていた。
だがユーニは嫌な顔をするどころか、柔らかな笑みを見せてくれる。
理由はわからない。たまたま機嫌が良かっただけなのかもしれない。
何にしても受け入れてくれたような気がして、未熟なこの心はどうしようもなく歓喜する。
そして訴えて来るのだ。“もっと彼女に触れたい”と。


「……なら、もう一度、いいか?」


何とも不格好な懇願だった。
顔は赤いし言葉もたどたどしい。
頼み方だって男らしくなかっただろう。
そんな僕に、ユーニはまた柔らかく微笑みながら言い放つ。


「いーよ」


ユーニから受け入れてもらうたび、心がとろけそうになる。
ユーニという存在は、僕の心を捉えて放そうとしないのだ。
彼女の気が変わらないうちに再び口付けを。
そう思ってまた顔を近付けてみたが、ユーニはその青い目をパッチリ開いたままじっとこっちを見つめていた。


「あの……目を閉じてもらえないか?」
「え?なんで?」
「そうじっと見られてたら気まずいだろ」
「恥ずかしいんだ?」
「うるさい。ほら、早く」
「はいはい」


彼女の蒼い目がようやく閉じられる。
口付けを大人しく待っているその顔をいつまでも見ていたかったが、そういうわけにもいかない。
今度は優しく唇を重ねると、僕の服を握りしめるユーニの手にほんの少し力が入った。
そのほんの些細な行動が何を意味するのかは分からないが、向こうも少し緊張しているのかもしれないと思うと嬉しくなった。

顔を離すと、また照れたように笑うユーニと目が合う。
こんなに近い距離で触れ合って、愛らしい笑顔を見せてくれるユーニが可愛らしくてたまらない。
君とひとつになりたい。そんな願望さえ抱いてしまう僕は、どうかしているのかもしれない。
別の生き物である以上、そんなこと無理に決まっているのに。
けれど、可能限り君との距離を埋めたくて、今度は彼女の華奢な身体を抱き寄せていた。

ぎゅうぅという音が聞こえてきそうなほ強く抱締めると、腕の中に閉じ込めたユーニが“痛い痛い”と笑いながら訴えて来る。
けれど、放してやる気にはなれなかった。
口付けたり抱きしめたりすれば幾分かは満足できるかと思っていたが、鼻腔をくすぐるユーニの髪の香りが、余計に僕の心を枯渇させる。
出来るだけ長く、ユーニのすべてを味わっていたかった。


「すまない。足りないんだ。口付けても抱きしめても、満足できない。もっと君が欲しくなる」
「あははっ、ワガママだな」
「……迷惑か?やっぱり」
「全然」


即答だった。
迷いのないその言葉が、また僕の心を歓喜させる。
彼女の髪に顔を埋め、抱きしめる力を強めると、ユーニが“うっ”と苦しそうなうめき声を上げた。


「あのさ、全然迷惑でも嫌でもないんだけどさ」
「ん?」
「いったん離れない?腕がしびれて……」


急に抱き寄せたせいか、僕の服を握っていたユーニの右腕が互いの身体に挟まれ抜け出せない状況になっていたらしい。
さっきから胸板のあたりでもぞもぞ何か動いていると思ったらそういうことか。
だが、いくら腕を開放するためとはいえ一瞬たりとも離れがたいと思ってしまう。


「駄目だ。我慢してくれ」
「ちょ、ヤバいんだって。もう腕の感覚無くなってきてるんだよ。1分でいいから放してくんね?」
「無理だ」
「えーっ」


僕の腕の中で暫く往生際悪くもがいていたが、パワーアシストを外した状態である今のユーニが僕に力で勝てるわけがない。
抵抗しても無駄だと分かったのか、彼女は一つため息を吐くとようやく大人しくなった。

ユーニの身体を抱きしめていると、かつて彼女が話題に挙げていた“レンアイショーセツ”の話を思い出してしまう。
物語の一節で、主人公の男が相手の女性に“キスがしたい”と心の内で願望をぶちまけている描写がある。
以前までは理解できなかったあのシーンのことが、今はほんの少し理解できてしまう。

あの物語の主人公も、きっと今の僕と同じ心境だったに違いない。
相手に受け入れてもらいたくて、距離を縮めたくて、でも嫌われたくなくて。
そんな二律背反に喘ぎながらも、相手を求めずにはいられない。

きっと夜が明ければ、君は“いつものユーニ”に戻ってしまう。
口付けも抱擁も、流石にノア達の目がある場所では気恥ずかしくて出来る気がしない。
君に触れられるのは、今夜のように2人きりになれた時だけなのだろう。
旅の途にある僕たちが、2人きりになれる時間は限られている。
貴重なユーニとの時間を命一杯堪能すべく、僕はユーニ首筋にそっと唇を寄せるのだった。


END