Mizudori’s home

二次創作まとめ

お似合いなふたり

【タイユニ】

ゼノブレイド3

■現パロ

■短編


Side:ユーニ

家族揃って今の家に引っ越してきたのは、アタシが小学校2年生の頃だった。
憧れだったマイホームの購入を叶えた両親がひどく喜んでいた光景は今も覚えている。
けれど、そんな両親の夢なんて当時子供だったアタシには全く関係ない。
引越しに伴い転校をしなくちゃいけなくなったことで、当時はかなり落ち込んだ。

両親が家を建てた土地は、住宅街の真ん中にあった。
既に周辺には何軒も家が建っていて、すぐ隣にも同じくらいの大きさの一軒家が建っていた。
お隣さんにもアタシと同い年の子供がいると分かったのは僥倖だった。
名前はタイオン。眼鏡をかけた大人しそうな男の子である。
どうやらクラスも同じだったらしく、新しいクラスに溶け込めるか不安だったアタシにとって彼の存在が安心材料になっていた。

アタシの親とタイオンの親は、お隣さん同士で同世代ということもありすぐに親しくなっていた。
家族ぐるみで一緒にBBQをしたり遠出したり、タイオン一家と過ごす時間はかなり多かった。
おかげでタイオンとの距離も縮まり、学校でも話す機会が多くなったのは言うまでもない。
毎朝一緒に登校して、帰りも一緒に下校する。
家に帰ってからも、毎日のように互いの部屋に遊びに行って一緒に漫画を読んだりゲームをしたり。
タイオンとは、親友と呼んで差し支えない関係性だった。

その関係は、中学に進学して以降も変わることはなかった。
制服であるセーラー服と学ランに身を包むようになっても、アタシたちは毎日互いの家に行き来する生活を続けている。
隣同士に並んでいる2人の家はかなり近い距離に建っていて、特にアタシの部屋とタイオンの部屋の窓は1メートルも離れていない。
互いの部屋に遊びに行くときはざわざわ玄関から入るのではなく窓から足をかけて入っていた。

その日の夕方も、アタシの部屋にはタイオンが遊びに来ていた。
学校が終わった放課後、一緒に下校してきたタイオンは学ラン姿のままアタシの部屋に窓から入って来る。
遊びに来ると言っても、期末テストを目前に控えた今、この部屋ですることと言えば専ら勉強だ。
タイオンは小学生の頃から頭が良かった。
そんな彼に色々と教わりながら一緒に勉強していたことで、中学の勉強に躓くとも少なくなっていた。


「まじでさー、理科って勉強する意味ある?水溶液の実験とか大人になってから使うと思えねぇんだけど」
「大人になってから使うかどうかじゃなくて、教わったことをどれだけ理解できてるかが問われてるんじゃないか?」
「そうなの?だったらもっと面白いこと教えて欲しいよな。水溶液が何色になるかなんてどうでもいいことじゃなくてさ」
「例えば?」
「うーん……、美味しいカレーの作り方とか?」
「馬鹿か」


アタシの部屋の真ん中に置かれたローテーブルで、手元に広げたノートから一切視線を上げようとせずタイオンはバッサリ言い放った。
馬鹿とはなんだ馬鹿とは。
ムカついて肩をグーで軽く小突くと、小さく睨まれた。


「大人になってから使うかどうかはともかく、少なくとも受験では使う知識なんだからちゃんと勉強しておいた方が身のためだぞ」
「あー、そんなこと言っちゃう?受験なんて2年も先のことじゃん。まだ気楽にやってたいよアタシは」


まだ中学に入学して半年も経っていない。
正直高校受験のことなんて考えてもいなかったし、気にしてもいなかった。
けれどタイオンはそんなこともないらしく、どうやら既に2年後の受験を視野に入れているらしい。

以前、隣の県にある進学校の男子校を狙っていると聞いたことがある。
警察官をやっているタイオンのお父さんの母校らしい。
タイオンも警察官を目指しているのかと質問したこともあるが、“まだ決めていないけど学歴はあるに越したことないと思うから”と大人びた返答が返って来た。

学歴がどうのとか、将来がどうのとか、そんなことはまだ考えられない。
だってまだ子供だし、タイオンみたいに未来のことを考えてる奴の方が珍しいと思う。


「受験なんて遠い先の話、あんまり想像できねぇな」
「2年なんてすぐだぞきっと。ぼやぼやしてるとあっという間に卒業だ」
「卒業かぁ……」


この前入学式に参加したばかりだというのに、もう卒業の話をされるとは思わなかった。
まだ見ぬ卒業式の日に思いを馳せていると、ふと隣に腰掛けているタイオンの黒い学ランが目に入る。
入学を機に新調したばかりの学ランには、金色のボタンが一定間隔に縫い付けられている。
普段真面目なタイオンは、学校にいるときは学ランを上のボタンまでしっかり閉めているが、学校を出た今は前のボタンを全て開けていた。


「卒業と言えば、うちの学校ってセーラーと学ランじゃん?卒業式に好きな人の第二ボタン貰うシステムってうちの学校でもあるのかな?」
「さぁな。気にしてる人はいるかもしれないが」
「自分が卒業する時、例えば後輩の可愛い子から“タイオン先輩、第二ボタンください”ってせがまれたらどうする?」
「どうって……。制服なんてもう使わないから、あげるんじゃないか?たぶん」
「ふぅん」


あまり興味なさげに呟かれた肯定の言葉に、少しだけ腹が立った。
手元のノートから視線を離さず、ずっとペンを走らせている。
その手を何とか止めてやりたくて、アタシは自分のノートの上に突っ伏しながらタイオンの顔を覗き込む。


「なぁ。欲しいってやつが誰もいなかったら、アタシが貰ってやろうか?タイオンの第二ボタン」


今まで絶えず動いていたタイオンの手が、一瞬だけぴたりと止まる。
眼鏡のレンズ越しに見える褐色の瞳が急に瞬きの回数を増やしている。
“まぁ構わないが”と呟くその声色は、いつもより少しか細かった。

タイオンが自分の部屋から持ち込んだのは、2冊の問題集と1本のコーラ。
問題集を1冊解き終えるころには、18時を過ぎていた。
そろそろお腹がすいてきた。あと30分もすれば、1階にいる母が夕食を作り終える頃合いだろう。
タイオンも食べて行くかな?
ふと隣を見ると、彼の手がローテーブルの上に置いてあったコーラのペットボトルへ延びていた。
“プシュッ”という炭酸が抜ける音と共にキャップを開け、飲み口に口を着けている様子をぼーっと横目で見ていると、こっちまで喉が渇いてくる。


「アタシにもちょうだい」


何気なく手を伸ばすと、タイオンは一瞬戸惑ったように目を見開き“えっ”と声を漏らした。
まだボトルの中のコーラはまだたくさん余ってる。
ほんの一口分けるのが嫌なのだろうか。ケチだな。
すると、タイオンは躊躇しながらもコーラのボトルを手渡してくる。
そんなに迷うほど嫌なのか。別にいいじゃん一口くらい。

お礼を言いながら飲みかけのコーラに口を着けると、少しだけ弱くなった炭酸が舌の上でピリピリ弾ける。
勉強の終わり際に飲むコーラは美味い。
キャップを閉めて再びノートに視線を戻すと、ちょっとした違和感が胸の奥に生まれた。

あ、もしかして今のって、間接キスか?

顔をノートに突き合わせたまま視線だけタイオンへと向けてみると、ノートに視線を落としたまま瞬きを繰り返していた。
先ほどまでノートに走らせていたペンの動きは、熱心に向けられている視線とは裏腹にぴたりと止まっている。
動揺してるんだ。タイオンも、アタシも。

心臓がトクトクと躍動している。
なんだか急に恥ずかしくなって、気まずさを覚えた。
甘いような、酸っぱいような、ちょこっと苦いようなこの空気は、妙に居心地が悪い。
今まで“友達”として接してきたアタシたちは、この日タイオンが持ち込んだたった1本のコーラに教えられた。
自分たちが、間違いなく“異性”であるということを。


***

1本のコーラを分け合って飲んだ日の翌日。
アタシはいつも通りタイオンと2人で登校した。
それはなんてことのもないいつも通りの朝だった。
ただ、運が悪かっただけだと思う。2人で学校の正門をくぐったそのタイミングで、同じクラスの男子数名と遭遇したのだ。

奴らは正直面倒なタイプだった。クラスの中心的な存在で、所謂やんちゃタイプのクラスメイトである。
あいつらは一緒に登校しているアタシたち2人を指さし、大声で無遠慮に言い放ったのだ。


「おっ、お前らまた一緒に来たのかよ」
「流石夫婦!仲いいなオイ!」
「どこまでいってんだよお前ら。ちゅーした?」


ニヤニヤ笑いながら揶揄ってくる男子たちの大声がグラウンドに響く。
おかげで周囲の見知らぬ生徒たちからも注目を集めてしまっていた。
小学校高学年に突入したあたりから、2人で一緒にいるとこうして周りから揶揄われることが多くなっていた。
昔はそんなことなかったのに、学年が上がるにつれてこの揶揄いの声はどんどん大きくなっているような気がする。
きっと、アタシたちが同性の幼馴染だったならこんな風に揶揄われることもなかったのだろう。


「うっせぇばーか!どっかいけ!」
「うわこわっ!タイオンも鬼嫁で大変だな!」
「お幸せにー!」


ゲラゲラ笑い声を上げながら男子たちは去っていく。
その背中をムッとしながら眺めていると、隣でタイオンが深く息を吐いたのが分かった。

多分迷惑に思っているのだろう。
実際、アタシとしても毎日あんな風に揶揄われることに若干ストレスを感じていた。
いつもなら“ハイハイ”と適当に流すのに、今日はスルー出来ず怒ってしまった。
多分、昨日のことをまだ意識してしまっているからだろう。
他人からの視線や言葉にいちいち心乱されているこの状況が、なんだか腹立たしかった。

その日の昼休み。
ひとりでトイレに立ち、教室に戻って来たタイミングでの出来事だった。
教室に入る寸前、黒板の前でクラスの男子たちが数人たむろして談笑している姿が目に入る。
その輪の中心にいたのは、他でもないタイオンだった。
他の男子たちからニヤニヤした顔で小突かれているその様子を見て一瞬で状況を察してしまう。
あぁ、またアタシとのことを揶揄われてるんだろうな、と


「だから違うって言ってるだろ」
「照れんなって。好きなんだろ?ユーニのこと」


たぶんタイオンは、アタシが隣の家に引っ越して来てからこの手の質問を何度もされてきたのだろう。
だってアタシも同級生の女子たちに同じ質問を数え切れないくらいされてきたから。
その度笑いながら否定して、ただの友達だと自分にも言い聞かせてきた。
タイオンにとってのアタシも、きっと同じ。
友達で、お隣さんで、幼馴染。ただそれだけの関係。
分かっていたはずなのに、この日タイオンの口から言い放たれた言葉はアタシの心に深刻な棘を残す羽目になった。


「好きじゃない。ガサツだし口も悪いし、あんなの好きになるわけないだろ!」


鋭く尖ったタイオンの言葉が、アタシの小さな心に深く突き刺さる。
怪我をしたわけでもないのに、身体のどこからか激しい痛みを感じた。
アタシだって同じような言葉でタイオンとの仲を否定してきたはずなのに、いざ自分が言われると無様に傷付いてしまう。

教室の入り口で呆然と立ち尽くすアタシに最初に気付いたのは、タイオンを揶揄っていた男子たちのうちの一人だった。
そいつが“あっ”と声を漏らしたことで、教室中の視線がアタシに向く。
当然、タイオンの視線もこちらに向けられていた。

アタシと目が合った瞬間、あいつは目を大きく見開き次の瞬間焦りを滲ませる。
聞かれていると思っていなかったのだろう。
まるでこの世の終わりを見たかのような、そんな絶望的な表情を浮かべている。

何その顔。傷付いたみたいなそんな顔。
鋭い言葉を投げてきたのはそっちじゃん。
悪いけど、アタシは気にしない。タイオンなんかの言葉で傷付くような弱いやつだと思われたくなかった。
ずたずたに傷がついた心を隠すように、アタシは薄い笑顔を作って腕を組む。


「はぁ?こっちこそタイオンなんて願い下げだっつーの。ばーか」
「また痴話喧嘩かよお前ら~」
「仲良しかよ!」


極力いつも通りを装うアタシの態度に、一瞬ぴりついた教室内の空気は柔らかくなった。
アタシがショックを受けてないと知るや、男子たちは少し安心したように笑いながらいつも通り揶揄ってきた。

そう、それでいい。アタシは傷付いてなんていないし、ショックを受けてなんてない。
何度心に言い聞かせても、胸の痛みがなくなることはなかった。
揶揄ってくる男子たちを笑顔でかわしながら自席につき、次の授業の準備をする。
気にしてないよう振る舞うアタシに、タイオンだけはまだ申し訳なさそうな視線を向け続けている。

ヤメロよその目。罪悪感なんて感じるなよ。
自分の言葉でアタシを傷付けた、なんて傲慢なこと考えるな。アタシはそんなに弱くない。
お前なんて、アタシにとってはどうでもいい存在なんだから。

傷付いていないふりをしながらも、結局心に負った傷は隠せない。
その日から、アタシはタイオンと一緒に登下校するのをやめた。


***

中学校在学中の3年間は、タイオンの言う通りあっという間に過ぎて行った。
こんなに時間が早く感じたのは、アタシの日常に“タイオン”という存在が登場しなくなったからかもしれない。

お隣さんであるタイオンを避けるのは難しいようで案外簡単だった。
登校する時はいつもアタシが決まった時間にアイツの家の前で待っていただけだったから、いつもより早い時間に出れば顔を合わせずに済む。

下校の時も同じ。
アタシがタイオンに声をかけて一緒に帰っていただけだったから、そもそも声をかけずにさっさと帰ればいい。

校内でもアタシから話しかけるのをやめたらあっという間に会話の機会はなくなった。
毎日のように互いの家を行き来していたけれど、そもそも誘っていたのはいつもこっちの方だった。
アタシが窓を開けて、タイオンの部屋の窓をノックしなければ、あいつはこの部屋を訪ねてくることもない。

アタシが避け始めたことで、タイオンとの繋がりはあっという間に絶たれてしまう。
そして気付く。そう言えば、タイオンと過ごす時間はいつもこっちからきっかけを作っていた。
あいつから話しかけてきたこともなければ誘われたこともない。
なんだ。めちゃくちゃ一方通行じゃん。片想いじゃん。

……ん?片想い?
あぁそうか。片想いか。
アタシ、タイオンのこと好きだったんだな。

多分、本当はもっと前から気付いていた。
けれど友達だった頃の距離感が居心地よくて、この関係を壊したくなくて、気付かないふりをしていた。
タイオンから“好きじゃない”とハッキリ言われたことで傷付いてしまったこの心は、タイオンに恋をしていた事実を嫌というほどアタシに思い知らせてくれる。

馬鹿みたいだ。フラれてから自分の気持ちを自覚するなんて。
きっともうすべてが遅いのだろう。
あんなにハッキリ拒絶されているのに懲りずに好きでい続けるなんて無理だ。
だったらもう、忘れる努力をした方がいい。
そういう意味では、アイツと距離を取ることにしたアタシの選択は正しかったに違いない。

2年生に進学すると、タイオンとクラスが離れ本格的に距離が出来た。
今まではクラスメイトとして毎日顔を合わせていたけれど、もはや避ける努力が不要なほど顔を見る機会は減った。

3年生に上がってからもクラスは離れ離れのまま。
受験期に突入し、勉強嫌いのアタシも毎日机に向かう日々が始まった。
年明けの試験で、アタシは隣町の高校に合格。無事進路が決まった。
親から、タイオンは隣の県の進学校に受かった聞いた。以前タイオンが話していた例の男子校である。

かなり偏差値が高い難関高校だが、どうやらさほど苦労はしなかったらしい。
アタシがここに引っ越して以降、小学校中学校と同じ学び舎に通ってきた2人は、高校でついに離れることが決定した。
悲しさや寂しさは勿論あったけれど、正直安堵の方が強かった。
理由は単純。まだタイオンのことが好きだったから。

別々の学校に通うことになって物理的な距離が離れれば、きっとこの気持ちもいずれ鎮火する。
そう思っていたからこそ、タイオンと離れ離れになってよかったと思えるのだ。

受験が終われば、あっという間に卒業式がやって来る。
色々あったけれど、中学での3年間はアタシにとってそれなりにいい思い出だった。
タイオンという存在は失ったけれど、同じくらい大切な友達はたくさんできたし、笑い合った思い出も数えきれないくらいある。
校歌を歌っている最中涙ぐむ程度には、この学校に愛着があった。

卒業式はつつがなく終わり、アタシたち3年生は卒業証書片手に教室へ戻っていた。
ぞろぞろと階段を上がる最中、遠くに見える廊下の奥に2人の人影が見えた。
片方はタイオンだった。中1の頃に比べて格段に背が高くなった彼は、正面に立っている小柄な女子生徒と2人きりで話し込んでいる。
女子の方は可愛いけれど見覚えがない。多分後輩だろう。
見えたのは一瞬だけだったし、遠かったから会話の内容は聞こえなかったけれど、2人の周りに漂う空気で何となく何を話しているか察しがついてしまった。

あーあ。嫌なもの見ちゃったな。
まぁ卒業式だし、そういう流れになるのも頷けるよな。

最後のHRは、担任の熱いスピーチによって締めくくられた。
ありがちな卒業式だったけれど、それでも思い出に残るいい式だった。
チャイムが鳴り、クラスの皆はそれぞれ教室を出ていく。
まっすぐ家に帰る人もいれば、なんとなく離れがたくて教室に残っている人もいる。

アタシは友達と一緒に、この後カラオケに行く約束がある。
とはいえ皆すぐに移動しようとはしていなくて、卒業アルバム片手にクラスメイト達に寄せ書きをお願いして回っていた。
アタシも後で皆に頼んで一言書いてもらおう。
そんなことを思いながら、トイレに行くため一人教室を出たその時だった。

廊下の向こうから、背の高い男がこっちにやって来る。
見間違えるわけがない。相手はタイオンだった。
いつも学ランのボタンは全て閉めている真面目な奴だったが、今日は何故か前を全て開けている。
その理由はすぐに分かった。タイオンの学ランから、第二ボタンだけが消えているのだ。

なるほど、やっぱりさっき見あの光景は、後輩の女子に第二ボタンを強請られている光景だったわけか。
タイオンはこの3年間で随分身長が伸びて、さらに顔も大人っぽくなった。
真面目そうな眼鏡姿は相変わらずだけど、身長が高くて頭もいいアイツが後輩から憧れられるのも頷ける。
そっか。第二ボタンがないということは、さっきの後輩にあげたのか。

タイオンは覚えているだろうか。
“貰い手がいなかったらアタシが貰ってやる”と話したあの日のことを。
まぁ、例えあの後輩からせがまれていなくとも、たぶん今のアタシたちの距離感じゃタイオンから第二ボタンを貰うことなんてなかっただろうけど。
今さらショックを受けている自分が嫌だ。
そんな弱くて未練がましい自分から目を逸らすように、アタシは前から歩いてくるタイオンを見ないようにした。

昔は廊下ですれ違えば必ず声をかけていた。
“よっ、タイオン”と笑顔で声をかけると、彼は素っ気ないながらも視線をくれるのだ。
でも、今思えば向こうから話しかけてくることなんて無かったし、最初から迷惑だったのかもしれない。
アタシと親しくしているだけで揶揄われていたし、煩わしく思っていたに違いない。
タイオンを避け始めて以降、向こうから声をかけてこないのがその証拠。
距離が出来たことで揶揄われることも無くなり、きっと安堵していることだろう。

名前も知らない後輩の女子に、第二ボタンだけじゃなくタイオンという存在まで奪われてしまったような気がして辛かった。
歩く足を速め、タイオンに声をかけることなく脇をすり抜ける。
まるで他人みたいにすれ違ったアタシたちの間には、もはや“友達”という繋がりすら存在していない。

いつか、タイオンと街ですれ違ってもアイツだと分からずスルー出来る日が来るのだろうか。
早くそうなればいい。こんな不毛な気持ち、とっとと捨ててしまいたい。
中学を卒業しても、この苦しい初恋からは卒業できそうになかった。


***

Side:タイオン

 

「先輩の第二ボタンが欲しいです。私に譲ってもらえませんか?」


赤い顔でそう言ってきたのは、所属している生徒会の後輩だった。
彼女からの好意には何となく気付いていた。
けれど、女子から好意を持たれたことなんて無い僕はどう接していいか分からず、ずっと適当な理由を着けて彼女からの言葉をかわし続けていたのだが、どうやら限界が来たらしい。
卒業式が終わった直後、教室に帰る途中で呼び止められ、廊下の奥に連れ込まれ僕は予想通りの言葉を贈られていた。

彼女は可愛いし、僕を純粋に慕ってくれているのは分かるから、当然嬉しい。
けれど、一時の喜びに身を任せてこのボタンを譲り渡すわけにはいかない。
何故卒業式に好きな相手に第二ボタンを贈る風習が出来たのかはよく知らない。
けれど、この風習が存在している以上、このボタンを贈りたい相手は他にいる。


「すまない。これはあげられない」
「……先輩、付き合ってる人いたんですか?」
「いや、そうじゃない。好きな人がいるんだ。その人にあげたくて」
「そうですか……。分かりました」


“卒業おめでとうございます”
涙目で笑顔を作り、そう告げた彼女の背を見送ると、小さな罪悪感が生まれてきた。
人を振ったのは始めてだ。フラれる方の辛い気持ちは容易に理解できるが、振る側もそれなりに辛いものらしい。
第二ボタンを守り切った僕は、その足で教室へと戻った。

中学在学中の3年間は、それなりに楽しかった。
友達もいたし、思い出もある。けれど、正直失ったものの方が大きいような気がする。
僕には幼馴染がいる。性別も違ければ性格も真反対だったが、一緒にいて楽しい子だった。

ずっと友達でいられると思っていたのに、ある日彼女は、ユーニは僕を避けるようになった。
きっかけに心当たりがないと言えばウソになる。
明確に避けられるようになった前日、僕は彼女に酷いことを言ってしまったのだ。
ユーニは笑顔を作っていたけれど、付き合いが長い僕にはわかる。
あれは傷付いた心を必死に隠している顔だ。
そして反撃するかのように言い放たれた言葉で、僕の心にも同様に傷がついた。

“こっちこそタイオンなんて願い下げだっつーの”

あれはきっと本心からくる言葉だったのだろう。
そんなの分かってた。この気持ちが一方的なものだということは。
ユーニ一家が引っ越してきた当日。ご両親と一緒に挨拶に来た彼女を一目見て好きになった。
所謂一目惚れというやつである。
ユーニはずっと友達だと思っていたようだが、僕は違う。
一緒に登校している時も、並んで帰っている時も、2人で部屋を行き来して漫画を読んでいる時も、僕は彼女のことが好きだった。

けれど、中学に進学したばかりの頃の僕は、この心に隠した淡い恋心を素直に認められるほど大人になりきれていなかった。
同級生から揶揄われるたび嫌そうなふりをして否定する。
好きだという気持ちを知られたくなくて、棘まみれの言葉で自分を守る。
その棘がユーニに突き刺さる可能性があるなんて考えもせず、鋭利な言葉を無遠慮に飛ばしてしまったのだ。
結果、ユーニの僕に対する気持ちを不本意な形で知ることになる。
告白もしていないのにフラれた気分だった。

あの日以降、ユーニは僕を避けるようになった。
登下校も一緒にしなくなったし、廊下ですれ違っても声をかけられない。
暇になるといつも僕の部屋の窓を叩いていたくせに、それも一切なくなった。
視線を送っても目が合うことはなく、その声で名前を呼ばれることもない。

今思えば、登下校する時“一緒に行こう”と声をかけて来るのも、廊下ですれ違った時に先に名前を呼んでくるのも、暇な時窓を叩いて誘ってくるのも、全部ユーニの方からだった。
僕はいつも彼女から近付いてくることをただ待つばかりで、自分から行動したことなんて一切ない。
ユーニとの繋がりが薄くなり始めて、僕はようやく自分の臆病さに気付いてしまったのだ。

開いてしまった距離を埋めることは決して簡単とは言い難い。
相手に好かれていないという事実を思い知っているからこそ、行動できなかった。
せめて前のような“友達”に戻りたいけれど、距離を詰めようとした結果拒絶されたらどうしよう。
“好かれていない”から“嫌われている”に降格したと分かったら、きっと二度と立ち直れない。
卒業式を迎えるまで、この臆病な性格が変わることはなかった。

けれど、いつまでもこんな関係でいたくはない。
高校に進学すれば、僕たちは本当の意味で離ればなれになる。
この機を逃したら、一生元の関係には戻れないような気がする。
だからこそ、最後の勇気を振り絞ってこの第二ボタンをユーニに渡すことにした。
彼女は覚えているだろうか。
“貰い手がいなかったらアタシが貰ってやる”と言ってたいたあの日のことを。

欲しいと言ってくれる女子はいたけれど、それでも君に渡したい。
学ランからボタンをもぎ取り、彼女に渡すために教室から出た。
第二ボタンを失った学ランは前を開けるしかなくて、だらけた制服の着こなしに少しの違和感を感じつつ廊下を歩く。
ユーニのクラスが近付くごとに、心臓がどんどん高鳴っていった。

何て言って渡そう。
ストレートに“君に貰って欲しい”と言うべきか。
いや、そんな直球で勝負して“いらない”と切り捨てられたら傷付いてしまう。
ここは断られないよう保険をかけようか。
“貰い手がいなかったら受け取ると約束していただろ?”
そう言って渡せば、彼女は笑って受け取ってくれるかもしれない。
別に告白する気はない。しなくても結果は分かってる。
でも、この膨大に膨れ上がった気持ちのひとかけらくらいは受け取って欲しかった。
ボタンを押し付けることが、関係修復のきっかけになってくれることを願い、僕はユーニの元へ行く。

すると、ちょうどよく教室からユーニが外に出てきた。
呼ぶ手間が省けてホッとする間もなく、2人の視線が絡み合う。
こうして目が合ったのは久しぶりだった。
いざユーニを目の前にすると、一気に緊張が高まってしまう。
勇気を出せタイオン。今声をかけなければ、一生ユーニと疎遠になったままだ。
そんなの嫌だろ。“友達”でいいから傍にいたいんだ。

少し汗ばんだ手で第二ボタンを握り込む。
カラカラになった口を開いて彼女の名前を呼ぼうとしたその時だった。
真っすぐ向けられていたユーニの視線が、露骨に逸らされる。
見たくないものを見てしまった時のような、心から嫌そうな顔だった。
その顔を見た瞬間、背筋が寒くなる。

他人みたいな顔をしてすぐ横を通り過ぎて行ったユーニを、僕は呼び止めることが出来なかった。
あぁ、そうか。もう遅かったんだ。
“好かれてない”わけじゃない。もう、“嫌われている”のだ。

右手に握り込まれたままの第二ボタンは、結局誰の元に渡ることなく手元に残ってしまった。
こうして、僕はユーニとの繋がりをまた一つ失った。
“同じ学校に通っている”という共通点は予想以上に強い繋がりだったらしく、卒業して以降、僕たちは言葉を交わすどころか顔を合わす機会すら無くなってしまう。
あの第二ボタンは、制服を処分した今でも自室の机の中で眠っている。


***

僕が進学した高校は、このあたりでも有名な進学校である男子校だった。
父の母校でもあり、ずっと前から志望していた高校である。
地元が同じというだけで寄り集まった中学と違い、高校は同じレベルの人間が集まっているおかげかすぐに気の合う友人たちを見つけることが出来た。

男子校のいいところは、異性がいないおかげで妙に気を張る必要がないということにあるだろう。
だが、男子校の悪いところもまた、やはり異性がいないという点になる。
高校生という青春真っ只中の僕たちにとって、右も見ても男、左を見ても男、前を見ても後ろを見ても全員男なこの環境は実に不健全である。 

街中で同世代のカップルを目撃するたび、仲間たちは羨ましそうに様子を観察している。
同じクラスの仲間に彼女が出来ると、そのニュースはあっという間に広がり、まるでプロ野球のヒーローインタビューかの如くクラスメイト達から囲み取材が行われるのだ。
何処で出会ったのか、どんな子なのか、顔は可愛いのか、胸は大きいのか、そしてどこまでしたのか。
無粋な質問だらけだったが、興味は尽きない。

友人たちほど素直に羨ましがれないが、僕だって内心は同じだった。
男子校に進学したことを悔いているわけじゃないが、共学だからこその楽しさだってたくさんあるはずだ。
女子がいる学校に進学していたら、僕にも彼女が出来ていたのだろうか。
無駄な想像を働かせるたび、隣に寄り添う架空の彼女の顔はユーニの顔に書き換えられる。
どうやら僕は、未だに彼女を忘れられないらしい。
初恋をしつこく引きずっているのは、周りが男ばかりで新しい出会いがないせいなのかもしれない。

彼女も出来ず、恋の経験を積む機会に恵まれない灰色の高校生活は、無情にも時間だけを削っていく。
気付けば高校2年になっていて、入学以降2度目の秋がやってきた。
その日、僕は地元が同じクラスメイト達3人と一緒に、放課後寄り道をすることになった。
入ったのは駅前のファミレス。
昼食には遅く、夕食には早い微妙な時間だったためか、店内は空いているようだった。

一同は僕を先頭にぞろぞろとファミレスの扉をくぐる。
扉が開いたことを知らせる鈴が鳴ると同時に厨房の方から可愛らしい制服を身に纏ったバイトらしき女の人が駆け足で近付いてきた。
“いらっしゃいませ”と言いかけた彼女は、最後まで言い切る前に営業スマイルを引きつらせる。
対する僕も、彼女の顔を見るなり頭が真っ白になってしまう。
厨房から現れたバイトらしき女の人は、まぎれもなくあのユーニだった。


「あ、4人でお願いします」
「えっ、あ、はい。こちらへどうぞ」


呆然とした表情で見つめ合い、その場に立ち尽くしている僕たちだったが、背後からひょっこり顔を出した友人の一言で現実に引き戻される。
それまで目を見開き言葉を失っていたユーニは、友人からの言葉に驚いて肩を震わせると、慌ててバイトモードに切り替える。

他の店員がしているように空いているボックス席に僕らを案内すると、マニュアル通り本日のおすすめメニューとドリンクバーを勧めるセリフを言い放って足早に去っていった。
手前の席に腰掛けた僕を視界に入れないよう意識的に目を逸らしていたように見えたが、きっと気のせいなどではないのだろう。

何でこんなところにユーニがいるんだ?
いや、何でも何も、どう見てもここでバイトしてるんだろ。
知らなかった。ユーニがバイトをしている事実も、バイト先がここだということも。
知らなくて当然か。ユーニとまともに話さなくなって早くも3年以上が経過している。
もはや他人でしかない隣の家の元同級生に、わざわざバイトのことを話すわけがない。


「なぁ、さっきの子めちゃくちゃ可愛くね?」
「思ったわ。高校生かな?どこの学校だろう」


ユーニが去っていくと、メニューに目を通し始めた友人たちが浮かれた様子で噂し始めた。
やっぱり、贔屓目なしに見てもユーニは可愛いのか。
中学卒業後も、ユーニの姿はたびたび目撃していた。
朝は僕の方が先に家を出るためかち合うことはないが、帰りの駅でたまたま一緒になることはある。
とはいえ、見かけたからと言って声をかけることはないのだが。

ユーニの高校の制服は紺色のブレザーだった。
首元に赤いリボンを付けた彼女はもうすっかりイマドキの女子高生で、中学の頃よりも少しだけ派手になっている。
高校に進学して最初のうちは、なんとか声をかけようと努力していた。
けれど名前を呼ぶ直前になっていつも怖気づいて、結局何もできずその背を見送るだけ。
日に日に可愛く成長していくユーニを前に、どんどん声をかけにくくなっていった。

やがて注文が決まったので呼び出しボタンを押すと、またユーニが注文を取りにやって来た。
友人たちがひとしきり注文を終えると最後に僕の番がやって来る。
注文を取っていたユーニの視線が、自然と僕に注がれる。
その視線に緊張しつつ、平静を装いながらメニューを指さす。


「シーフードドリア1つ」
「シーフードドリアをお1つ……。ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい」
「ありがとうございます。少々お待ちください」


何年かぶりの会話は、客と店員が交わすマニュアル通りの会話でしかなかった。
薄い作り笑顔を浮かべながら、ユーニは背を向けて去っていく。
彼女が遠ざかったタイミングで、再び友人の一人が小声で“やっぱ可愛いよな?”と浮かれた様子で呟いていた。
大袈裟なまでに賛同する友人たちに対し、僕は言えなかった。
彼女は自分の幼馴染であることを。そして、長年片想いし続けている相手だということを。

運ばれてきた料理はものの15分程度で全員完食していたが、一緒に注文していたドリンクバーを肴に僕たちは席に居座り続けていた。
まだ店内はそこまで混在しておらず、長居しても迷惑にはなっていないだろう。
2杯目のメロンソーダが無くなったため、ドリンクバーが設置してある方へ向かったその時だった。
何も乗っていないトレイを小脇に抱えたユーニが厨房の中から突然現れ、空のグラスを持った僕とぶつかりそうになってしまう。

互いに“すみません”と言いかけて顔を上げ、相手の姿を確認した瞬間言葉を飲み込んだ。
予想外の遭遇だ。非常に気まずいが、一応僕たちは“お隣さん”で、かつ“元同級生”でもある。
このまま何も言わず立ち去る方がむしろ変な気がして、僕は勇気を振り絞り口を開いた。


「……久しぶりだな」
「だな」
「元気か?」
「うん」
「ここでバイトしてたんだな」
「まぁ」
「……」
「……」
「……え、えぇっと」
「ごめん。一応仕事中だからもう行くわ」
「あ、あぁそうか。邪魔してすまない」
「じゃあごゆっくり」
「う、うん」


呼び出しボタンが押されたことを知らせるベル音を聞き、ユーニは足早に去っていった。
彼女が去った後も、バクバクと高鳴る心臓は大人しくなりそうもない。

ユーニと喋れた。随分と素っ気なく感じたけれど、それだけですごく大きなことを成し遂げられたように感じた。
でも、昔みたいな軽くて楽しい会話とは言い難い。
もう少しにこやかに、楽しい話がしたかった。
前までの自分なら、もっと気の利いたことが言えたのだろうか。

そうだ。“お疲れ様”とか、“バイト頑張れ”とか、そういうねぎらいの言葉を口にすればよかった。
自分の口下手加減を今さら悔いても仕方ない。
肩を落としながらドリンクをグラスに注ぎ、自分の席に戻る。
すると、3人いたはずの友人たちのうち1人の姿が見当たらなかった。
トイレだろうか。残った2人に聞いてみると、呆れた笑みを見せながら背後を指さした。


「さっきの店員さんナンパしに行ってる」
「は!?」


視線を向けると、客がいなくなった席の後片付けをしているユーニに、姿が見えなくなっていた友人が声をかけていた。
さっきからユーニのことを可愛いと評価していた彼である。
積極的にユーニにアプローチをかけているその光景を見て、彼女が自分の幼馴染であることを伝えていればよかったと後悔してしまう。

あぁもう。ただでさえ嫌われているのに、僕のツレがあんな風にしつこくナンパしてきたと知ったら余計に嫌がられるじゃないか。
今からでも止めようかと迷っていると、声をかけに行っていた友人が早くも戻って来た。
席で待っていた友人の一人が“どうだった?”と問いかけると、彼は至極残念そうに肩をすくませながら口を開く。


「連絡先教えてって言ったら普通に断られた。彼氏いるから無理ってさ」


その言葉を聞いた瞬間、僕の思考は動きを止めた。
顔が引きつる。心臓が痛いくらいに締め付けられていく。
ナンパに失敗し肩を落としている彼に、友人たちは“まぁ仕方ないな”と軽口を叩きながら笑っているが、同じように笑い合うだけの余裕なんて僕にはなかった。

彼氏がいる。
ナンパした友人に向けられたその言葉は、友人を貫通して僕の胸に深く突き刺さる。
そうか。いるのか、彼氏。
そりゃあいるか。だって彼女は可愛いし、友達も多い。
むしろいない方がおかしいくらいだ。
同じ学校の男かな。それともバイト先の先輩とか?
誰でもいい。誰が相手だろうと、僕がその見知らぬ男に戦わずして負けた事実は変わらない。

ユーニには彼氏がいる。僕じゃない別の男と想い合っている。
その事実はひどく残酷で、子供の頃から丁寧に丁寧に積み上げてきた“恋心”という名の積み木が一瞬にして崩れ落ちる感覚に陥ってしまった。
ユーニを好きでいる期間なら誰にも負けない。
けれど、気持ちを伝えるどころか視界にすら入っていない僕が僻む権利なんてないのかもしれない。
でも、やっぱりズルい。ユーニにとって一番近い異性は、他の誰でもないこの僕だったはずなのに。

そのあとも暫くはボックス席に居座り取り留めのない会話を交わしていたが、正直内容は覚えていない。
相槌は打っていたものの、どこか上の空だったように思う。

やがて18時を過ぎ、店内が混雑してきた頃合いで僕たちは帰ることにした。
それぞれ食べたものを割り勘し、集約して一人が代表で払うのが僕たちのルールである。
今日はたまたま僕が会計する担当になった。
友人たちから現金を受け取り、伝票を持ってレジに向かうと、運がいいのか悪いのかユーニがレジを対応しにやって来る。

機械的なやり取りで会計を済ませ、お釣りを受け取る。
そこに雑談を挟み込む隙なんて一瞬たりともなかった。
この期に及んで諦め悪くユーニとの距離を縮めようとしている自分に腹が立つ。
どうせユーニには彼氏がいる。もういいじゃないか。諦めるしかないんだ。
脈がないことはずっと前から分かってた。今更どうあがいても無駄でしかないのに。


「ありがとうございました」


レジを後にする僕に、ユーニは店員として頭を下げた。
店の外で待っている友人たちを待たせるわけにはいかない。
なのに、僕の足は店を出る直前ぴたりと止まったまま動かなくなっていた。

このままでいいのか?
このまま、何も言わずに店を後にしていいのか?
ユーニには言いたいこと伝えたいことが山ほどある。
何一つ伝えられていないのに、ただ彼氏がいるという事実を聞いただけで尻尾を巻き逃げ帰っていいのだろうか。
告白も出来ず、第二ボタンも渡せない僕は、どう考えても男らしくない。
このままじゃだめだ。自分を嫌いになってしまう前に、少しくらい勇気を出さなくては。

踵を返し、再びレジの前へ戻ると、不思議そうに目を丸くしたユーニと視線が絡み合った。
こうして正面切って向き合って初めて、随分と身長差があることに気付かされる。
彼女はこんなに小さかっただろうか。いや、僕の身長が伸びただけか。
そんなことを頭の片隅で考えながら、勇気を振り絞る。


「バイト頑張って」


早口でそう言うと、ユーニはキョトンとしたまま“ありがとう”と返してきた。
急に踵を返し、ねぎらいの言葉をかけてきた僕の行動が意味不明だったのだろう。
“なんだこいつ”でも言いたげな表情だったが、これが今の僕に伝えられる最大限の甘い台詞だった。

よし言えた。なんとか言えた。目標達成だ。
緊張したままの表情で背を向け、出口へと向かう。
店の扉に手をかけたところで、なんとなく気になってレジの方へと再び視線を向けた。
彼女はまだ不思議そうな顔をしていたが、僕が振り返ったと同時に表情が柔らかく変化する。
そして、口元に薄く笑みを浮かべると、右手を軽く振って来た。

その瞬間、心がきゅんと可愛らしい音を立てる。
ユーニが手を振っている相手は間違いなく僕であり、笑いかけている相手もこの僕だ。
目の前に広がる光景があまりにも嬉しくて、心が沸き立つ。
たどたどしく手を振り返すと、すぐに気恥ずかしくなって眼鏡を押し上げた。

店の外で待っている友人たちが、“タイオン早く来いよ”と促している。
浮足立った心がこの身体ごと浮き上がってしまわないように冷静さを保ちながら、僕はユーニに背を向け店を後にする。
ユーニに彼氏がいると聞いて地の底に沈んでいたはずの心は、ユーニに手を振られただけであっという間に浮き上がってしまう。
我ながら実に単純だ。
明らかに機嫌がいい僕の様子に、友人たちは不思議そうな顔をしていたが、理由を話すことはなかった。


***

あの日以降、暫くユーニに会う機会はなかった。
毎朝家を出る時間をもう少し遅くすれば会えるかもしれないが、突然時間を変えたら待ち伏せをしていると思われるかもしれない。
ユーニに手を振られて浮かれていた僕だったが、だからと言って彼女に会うため行動を起こすだけの勇気はまだ出ない。
けれど、暇な時思い起こされるのはいつもユーニの顔で、僕に右手を振ってきた彼女を思い出すたびまた会いたくなる。
喋れなくたっていい。顔を見られればそれだけで満足できる。
未だ僕は、臆病者な自分と格闘していた。

そんなある日の夕方のこと。
テスト期間が近付いてきたこともあり、その日の僕は友人たちと寄り道することなくまっすぐ地元の駅に帰って来た。
夕方から雨が降る予報が出ていたから、振り出す前に帰って来たかったという思いもある。
しかし、雨は予報よりも早く降り出した。

電車から降りて地元の駅にたどり着くと、さらさらとした秋の雨が街に降り注いでいた。
傘を持ってきていてよかった。
駅の屋根の下で困った顔をしながら雨宿りしている群衆を横目に傘を開こうとしたその瞬間、空を見上げる人々の中に見知った顔を見つけた。
ユーニだ。紺色のブレザーを身に纏い、皮の黒いバッグを肩にかけ、憂い顔で空を見上げているユーニがいる。
恐らく、傘を持っていないのだろう。
憂いを帯びたその横顔を見つけ、僕は息をのんだ。

例えば、今この傘を差し出せばユーニは喜んでくれるだろうか。
少しは好感を抱いてくれるだろうか。
高鳴る緊張を必死で押さえ込み、僕はユーニの方へと歩き出す。
そして彼女の名前を上擦った声で呼ぶと、ユーニはその青い目を丸くしながら肩を震わせた。


「うわっ吃驚した」
「あ、す、すまない急に」


急に背後から声をかけたことで驚かせてしまったらしい。
驚かれたことでこっちも態度がたどたどしくなってしまう。


「もしかして、傘ないのか?」
「あぁ、うん。雨降るの知らなくて」
「そうか。あの、よかったらこれ、使ってくれ」


差し出したのは右手に持っていた黒い傘。
今朝、雨が降る予報を見て家から引っ張り出してきたものだった。


「え、でもそっちは?どうすんの?」
「平気だ。一応折り畳みも持ってるはずだし……。あれ?」


鞄にいつも入れているはずの折り畳み傘を取り出そうとした僕だったが、鞄の中を覗き込んでみても折り畳み傘の姿は見当たらない。
そんな馬鹿な。僕としたことが折り畳み傘を忘れて来るなんて。
あれ、あれっと焦る僕に、ユーニは一旦受け取っていた黒い傘を突き返してきた。


「いいよ別に。あっちのコンビニで傘買うことにするから」
「えっ、いやでも……」
「気ィ遣ってくれてありがとな。じゃあ」


差し出した下心満載な優しさは、ユーニから丁重にお断りされてしまった。
僕の横を通り抜け、改札のすぐ横にあるコンビニへ入っていく彼女の背を見送る僕は、あまりにもかっこ悪い。
折り畳み傘さえ持っていれば、颯爽と傘を手渡してくれる優しい男を演じられたのだろうか。
今度雨の日に家を出るときは、絶対に折り畳み傘を忘れないようにしよう。
折角のチャンスを失ってしまった僕は、肩を落としつつ傘を広げた。

しんしんと降りしきる雨の中、家に向かって歩き始める。
雨の日は周囲の喧騒が静かになり、代わりに地面を叩く雨音だけが響いている。
この静けさは嫌いじゃないが、寂しい心を隠せない今はなんだか悲しくなってしまう。
暫く歩いていると、雨の音に交じって水を含んだぱちゃぱちゃという足音が聞こえてきた。
誰かがこちらに向かって走ってきているらしい。
なんとなく背後を振り返った瞬間、ユーニが僕の腕にしがみつくようにして飛び込んできた。

心臓が跳ねる。
雨の匂いと共にふわっと漂ってきたシャンプーの香りが、一層緊張を煽る。


「ごめん、やっぱり入れてくんない?」
「えっ」
「あそこのコンビニ、傘売り切れでさ」
「売り切れ……」
「やっぱダメ?」
「い、いや、全然!」


安堵したように“よかった”と呟く彼女を傘の中に入れ、2人はゆっくりと雨の街を歩き出す。
隣を歩く彼女は、少し濡れた髪を気にしている。
毛先に雨粒をたらしながら目を伏せているその横顔に、心が締め付けられた。

何年も話していなかったあのユーニと、僕は今、雨のなか相合傘をしている。
何だこれ。どういう状況だこれ。
緊張で自然と瞬きが多くなる。
大きめの傘とはいえ、2人で並んで歩くとなると少し狭い。
互いにくっついて歩かなければ、肩が雨でぬれてしまう。
自然と僕たちの距離は近付き、肩が触れるたび心臓がぴくりと跳ねる。

前を向いたまま並んで歩く僕たちの間に、会話はなかった。
沈黙が気になる。せっかく数年ぶりに一緒に帰っているというのに、つまらないと思われたくない。
何かユーニを楽しませるような話題を提供したいけれど、何一つとしてネタが思いつかない。
昔の僕はユーニと何を話していたのだろう。

結局、家に着くまでの15分間、僕たちは一言も話すことなく時間を過ごしてしまった。
ようやく家の屋根の下までたどり着いた彼女は、僕の傘から抜け出した。


「ありがとう。助かった」
「あぁ」
「今度なんかお礼する」
「そんなの別に……。いや、やっぱりしてくれ、お礼」


遠慮しようとしてすぐに取り消したのは、“次”に繋げるため。
ユーニのと会う大義名分が欲しかったのだ。
がめつくお礼が欲しいと口にした僕に、ユーニは小さく笑う。


「じゃあコンビニのプリンでいい?」
「なんでもいい」
「今度買っておく。じゃあ、またな」
「あぁ、また」


軽く手を振りながら、ユーニは家の中へと入っていった。
“また”の一言が次の機会を示唆しているようでうれしくなる。
この前手を振られた時よりも、ユーニの表情が柔らかく感じたのは気のせいだろうか。
顔がにやける。多分今の僕は、だらしなく鼻の下が延びているに違いない。

元々雨は嫌いだった。
気圧で体調が悪くなりがちだし、じめじめしていて居心地が悪いから。
けれど、ユーニと相合傘で歩けた今となっては、雨の日も悪くはないなと思える。
むしろ、ユーニとあんなに近い距離感で隣に並べるなら毎日のように降ってくれても構わない。
空は生憎の曇天だが、僕の心は快晴だった。


***

夕食を終え、風呂に入った後、寝る前に1時間ほど勉強するのが僕の日課だった。
志望校に合格出来たはいいものの、進学校というだけあってうちの高校は授業のレベルも高く、油断すればすぐに置いて行かれてしまう。
高校受験は無事クリアしたが、あと1年もすればあっという間に大学受験がやって来る。
人生というのは片時も油断が出来ないものだと父が言っていたが、まさにその通りなのかもしれない。

その日の夜も、僕はいつも通り自室で机に向かっていた。
1週間後に中間試験が控えていることもあり、今日からは勉強時間を増やすつもりでいる。
化学のテキストとノートを開き、集中して問題を解いていた僕だったが、不意に背後から物音が聞こえて振り返る。

コンコン、という音が、窓の方から聞こえている。
なんだろう。少々不気味に思いながらカーテンを開けると、思わず心臓が止まりそうになった。
向かい合った隣の家の窓から、ユーニが身を乗り出し僕の部屋の窓をノックしていたのだ。

突然のことに戸惑いながら、急いで窓を開ける。
すると、部屋着を着た彼女がコンビニの袋を手渡してきた。
中に入っていたのは“なめらかプリン”と書かれた旨そうなプリン。
目を丸くしていると、ユーニは窓のヘリに腰掛けながら微笑みを向けてきた。


「この前のお礼」
「あ、あぁ、ありがとう」


どうやら自分の分も買っていたらしい。
彼女の手にも同じプリンが握られている。
開いている窓に腰掛け、プリンの蓋を剥がして食べ始めるユーニを前に、僕は少し戸惑った。
今ここで食べるのか。


「あれ、食わねぇの?」
「いや、食べる」


ユーニと同じように窓に腰掛け、カップの蓋を剥がして付属のスプーンで食べ始める。
彼女からお礼と称して手渡されたそのプリンは、今まで食べたどのプリンよりもうまく感じた。
プリンをゆっくり食べ進めながら、不審がられない程度にユーニへと視線を送る。

昔はこうして互いの部屋の窓を開け、遅くまで喋っていることも多かった。
1メートル程度しか距離が離れていないこの窓から窓を伝って、互いの部屋に遊びに行くことだってあった。
けれど、いつもこの窓をノックしてくれたのはユーニの方で、僕は毎日彼女からのお誘いが来るのをただただ受け身で待っているだけ。

中1の頃話さなくなってからは、彼女がこの窓をノックすることも無くなった。
固く閉ざしていた窓を開け、こうして自室で彼女と顔を合わせるのはかなり久しぶりである。
筆舌に尽くしがたい懐かしさと嬉しさが、この胸を打つ。


「何してた?」
「勉強してた」
「相変わらず真面目だな」
「テストが近いから」
「あ、そっちも?うちもテスト近いんだよ」
「いつからだ?」
「再来週の月曜から。そっちは?」
「来週からだ」
「じゃあそっちの方が早いんだな」


プリンを食べ進める僕たちは、随分と軽やかなペースで会話を交わしていた。
なんだか、思ったよりも普通に話せている。
相変わらず緊張はしているが、今までみたいに必要以上に焦ったり切羽詰まってはいない。
ほんの少し、昔のような気楽さを取り戻せたような気がして嬉しかった。


「なぁ、もし余裕あったらアタシに勉強教えてくんない?」
「へ?」
「中学の頃よく教えてくれてたじゃん」


まさかそんな提案をされるだなんて1ミリも予想していなかった僕は、思わず手に持っていたプリンを落としそうになってしまう。
勉強を教えるって、それはつまり、あの頃のように互いの部屋で2人きりでってことか?

余裕ならある。毎日1時間欠かさず勉強する習慣を身につけているお陰で、テスト前に焦って徹夜しなくちゃいけないような状況にはなっていない。
このままいけば、それなりにいい点数は取れるだろう。
ユーニのために時間を割くことなんて容易だ。
むしろ頼まれなくても是非そうしたいくらい。

けれど、肝心のユーニはそれでいいのだろうか。
今の僕は、君の部屋に頻繁に出入りしていた中学1年の僕じゃない。
17歳になった僕は、13歳だったあの頃に比べて色々知っている。
“男の子”から“男”に成長した僕が、“女の子”から“女”になった君の部屋で2人きりになる危険性を、君は理解しているのだろうか。


「彼氏がいるのに、他の男に勉強を教えてもらうなんていいのか?」
「彼氏?何の話?」
「とぼけるな。いるんだろ?この前君のバイト先に行った時、そう言ってたらしいじゃないか」
「あぁ、やっぱあの客、お前の友達だったんだ」


呆れたような笑い方だった。
なんとなく気まずくなって、否定も肯定もせず目を逸らす。
すると彼女は、手元のプリンに視線を落としたまま再び口を開く。


「あぁやってナンパされる時は、面倒だからいつも適当な嘘ついてかわしてるんだよ」
「嘘……?じゃ、じゃあ、いないのか?彼氏」
「残念ながら」


それは僕にとって朗報以外の何物でもなかった。
そうか、嘘か。いないのか。
綻びそうになる顔を必死に引き締め、喜んでいることを悟られないよう平静を装いながら“そうか”と口にした。
本当は両手を挙げて喜びたいところだが、そんなカッコ悪いことは出来ない。


「……じゃあ、まぁ、勉強を見てやるのも問題ないか」


ユーニに彼氏がいなかった。
それだけで、僕にとっては無限の希望になる。
まだ間に合う。少しずつ距離を詰めて行けば、彼女の視界に入ることだって可能かも。
せめて友達に戻れたら、なんて思っていたが、理想は高く、彼氏の座に就ける可能性が出てきた。
冷静さを装っていながらも、この心は踊っている。
だが、そんな僕の心情を知ってか知らずか、ユーニは突然とんでもないことを打ち明けてきた。


「今だから言えるんだけどさ、アタシ、子供の頃タイオンのこと好きだったんだよね」
「えっ……」


一瞬、言われていることの意味が理解できなかった。
彼女があまりにも普通のトーンで言ってきたからかもしれない。
フリーズしたまま、向かいの窓に腰掛けているユーニを凝視すると、彼女は最後の一口となったプリンをパクリを口に運んだ。


「だからこうしてまた話せるようになってちょっと嬉しい」


それは同感だ。
僕だって嬉しい。嬉しくてたまらない。
こうして2人で一緒に顔を合わせて安いプリンを食べている状況も、君が僕を好きだったと言ってくれたその言葉も。
けれど、ひとつ気になることがある。
彼女から吐かれた甘い好意が、過去形であるということだ。


「“好きだった”って……。今は?」


恐る恐る問いかけると、空になったプリンの容器を自室のゴミ箱に投げ捨て、彼女は笑う。


「全然。普通にただの幼馴染としか思ってねぇから安心しな」


有頂天に昇り詰めた直後、急転直下で地面にたたきつけられるような感覚に陥った。
このわずかな時間に感情がこんなにもジェットコースターのように上下したのは初めてである。

ユーニには以前もばっさりフラれている。
けれど、あれからもう4年近く経過しているし、気が変わっているかもしれない。
少しはいいなと思ってくれているかも、なんて思った僕が馬鹿だった。

2度目の失恋は、1度目よりも深く心に傷がつく。
その日、ユーニから窓をノックされ嬉しかったはずなのに、以降うまく笑えていなかったかもしれない。


***

Side:ユーニ


“全然”なんて心にもないことを言ってしまったのは、タイオンの気持ちを既に知っていたから。
アイツはアタシをそんな風に見ていない。
中1の頃、友達に揶揄われていたアイツは至極いやそうに言い放ったのだ。
“ユーニのことなんて好きになるはずがない”と。

たぶんだけど、アイツの気持ちは変わっていない。
嫌われてはいないだろうけど、異性として好かれていないのは間違いない。
少なくとも、アタシとの仲を揶揄われて嫌な気持ちになる程度には、迷惑に思われているのだろう。
だから、バイト先にアイツが友達と一緒に来て以降も、なるべく会わないよう避けていた。

毎朝学校に行くため家を出るときも、タイオンと鉢合わせないようアイツが家を出たことを確認してから玄関を出た。
街でアイツと同じ制服を着た男子高生を見るたび、タイオンかもしれないからなるべく距離を取った。
徹底して避けていたつもりだったのに、予報が外れたあの雨の日、タイオンは再びアタシの前に現れた。

わかってたんだ。アイツと一度話してしまったら、どうせまた恋しくなってしまうことは。
案の定、気が付いたらアタシはアイツの傘の下に潜り込んでいた。
“コンビニの傘が売り切れだった”なんて嘘までついて。
ずっと前にアイツの気持ちは聞いてしまったというのに、やっぱりタイオンの隣は居心地が良くて、ずっとそこに縋りついていたくなる。
何年たっても、やっぱりアタシはこのマジメな幼馴染のことが好きなんだ。

だから、秘めていたこの気持ちがバレてまた迷惑がられないよう、何とも思ってないなんて嘘を吐いた。
甘い関係になれなくても、また友達みたいな関係で傍に居られればそれでよかったから。


「ここの問題ってこの解き方で合ってる?」
「あぁ。合ってる。でもこっちの公式を使った方が早く解けるぞ」
「えっ、何その公式。初めて知った。超便利じゃん」
「だろ?」


傘に入れてくれたお礼を渡したあの夜以降、放課後タイオンと一緒にテスト勉強をする日々が始まった。
場所はもっぱらアタシの部屋。
時間は17時から19時の間で、タイオンが窓からアタシの部屋にやってくることで勉強会は幕を開ける。
互いのテスト期間が終わるまでの期間限定で始まったこの勉強は、かつて疎遠になる前、一緒に部屋で勉強していたあの頃を想起させる。
子供の頃に戻ったみたいでなんだか楽しい。
この時間に特別感を感じているのは、アタシだけなのだろうか。


「流石タイオン。進学校に合格しただけのことはあるな」
「ま、まぁ、これくらい普通だ」


数学のテキストを開いて色々教えてくれるタイオンは、中学の頃以上に秀才ぶりに磨きがかかっていた。
このあたりでも有名な進学校に入学したのだから当然だろう。
素直に褒めると、彼は眼鏡を押し上げ少し照れたように顔を逸らしていた。

子供の頃みたいにローテーブルに並んでノートと向き合うと、なんだか無駄に緊張してしまう。
今までずっと疎遠だったタイオンがアタシの部屋に来ているという事実だけで、正直全く落ち着かなかった。
提案したのはアタシの方だけど、タイオンと一緒に勉強するというのは悪手だったかもしれない。
公式を落ち着いて暗記できる気がしない。


「もうこんな時間か」


壁にかかっている時計に目をやり、タイオンが呟く。
時刻は18時50分。そろそろ勉強に区切りをつける時間だ。
期間限定の勉強会初日は、思った以上にあっという間に過ぎてしまった。
独りでテスト勉強している間はビックリするくらい時間が経つのが遅いのに、好きな人が隣に居るだけでこんなに時の流れが早く感じるなんてなんだかちょっと理不尽な気がする。

時間を気にしてテキストや筆記用具を片付け始めたタイオンの姿に、途端に寂しさが襲ってくる。
あと少し、ほんの10分でいいからここにいて欲しい。
その一心で、アタシは無理矢理タイオンの気を惹こうと口を開いた。


「なんかお礼したほうがいいよな」
「お礼?」
「タイオンだってテスト近いのに勉強教えてくれてるわけじゃん?なんか悪いなぁって思って」
「別に気を遣ってくれなくていい。君に教えることで復習にもなるしな」


遠慮してくるタイオンの真面目さが恨めしい。
この鈍感。お前をここに引き留めるための口実なんだよ。
遠慮なんてしないで甘えとけ馬鹿。
タイオンの空気を読まない遠慮を無視し、アタシはアクセルを踏みつぶす。


「なにがいい?またコンビニでプリンでも買いに行く?奢ってやるよ」
「いやだからいいって」
「遠慮すんなよ。アイスでもいいよ?ハーゲンとか」
「いちいちお礼を買って寄越す気か?高くつくだろ。金欠になるぞ?」
「それもそっか、あ、じゃあ金のかからないお礼にしようかな。“ありがとうのちゅー”とか」
「は?」
「あれ、覚えてない?子供の頃よくやってたじゃん」


まだ出会って間もない子供の頃、アタシたちの間にはちょっとした決まりごとがあった。
相手に何か感謝すべきことをしてもらったら、お礼をする代わりに頬にキスをするという約束だ。
例えばアタシがタイオンに誕生日プレゼントを渡したとしたら、タイオンのお母さんは必ず彼に促していた。
“ほら、ありがとうのちゅーは?”と。
そして照れた様子でタイオンはアタシの頬に軽くキスを贈るのだ。
もちろん、アタシがタイオンにキスを贈ったこともある。

今思えば、あれは親同士が面白がって促したことによって生まれた決まり事だったのだろう。
お金のかからない手軽な“お返し”としては、“ありがとうのちゅー”は親としても非常に都合が良かったに違いない。
けれど、タイオンからしてみればあの決まり事も迷惑だったのかもしれない。
好きでもない女の子にキスするなんて、きっと嫌々やっていたのだろう。
今その話を引き合いに出したのは、ただ単に揶揄っただけのつもりだった。
どうせ断られるに決まってる。そう思っていたからこそ、軽い気持ちで提案できたのだ。

案の定驚いた様子のタイオンに、“うそうそ、冗談だよ。コンビニで何か買おうか”と笑いかけようとしたその時だった。
タイオンは眼鏡を指先で押し上げ、そっぽを向きながらか細い声で言い放つ。


「じゃ、じゃあそれで」
「え?」
「これからテストまで毎日勉強会を開くんだろ?その度何か奢られるのは気が引ける。だったらそれですませた方が安上がりじゃないか」
「“それ”って……」
「……あ、ありがとうのちゅー」


まさか受け入れられるとは思わなかった。
視線を逸らしたまま“ありがとうのちゅー”の利便性を力説するタイオンに、思わず言葉を失ってしまう。
え、うそ。迷惑じゃないの?
ぎょっとしているアタシに気まずくなったのか、タイオンは少し怒ったように眉を顰め始めた。


「何だその顔。君が言い出しことだろ。嫌なら別にいいっ」
「いや、別に嫌じゃねぇよ。そっちこそむしろいいの?」
「君が嫌じゃなければ僕は別に……」


嫌なわけがない。
一向にこっちを見ないタイオンの態度が気になるけれど、そんな彼と近付けるならそれでいい。
高鳴る心臓の音を聞きながら、アタシは隣に腰掛けるユーニにそっと近づいた。
タイオンの腕に軽く両手を添え、膝と膝を密着させ目を閉じる。
そして、タイオンの褐色の頬にゆっくりを唇を寄せた。

ちゅっ、と軽いリップ音が静かな部屋に響き、“ありがとうのちゅー”は完了する。
子供の頃何度もしてきた“お礼”なのに、今更ドキドキしてしまうのはアタシが少しだけ大人になったせいだろうか。

ゆっくり離れると、タイオンの真っ赤になった横顔が視界に飛び込んでくる。
瞬きの回数を増やしている彼は、耳まで赤くなっていた。
もしかして、アタシと同じように照れてるのかな。
少し嬉しくなったその瞬間、タイオンは広げていたテキストと筆記用具を持って勢いよく立ち上がった。


「じゃあまた明日っ」


今までに聞いたことがないくらいの早口だった。
止める間もなく窓の方に向かったタイオンは、逃げるように自分の部屋に帰ってしまう。
そして、ぱしゃりと派手な音を立てながら窓を閉められた。
あれっ、なんだか冷たい。
照れていたわけじゃないのかな。やっぱり迷惑だったのかな。嫌だったのかな。

不安になったアタシだったけれど、翌日、タイオンはいつもと変わらない様子でまたアタシの部屋にやって来た。
昨日のことが記憶から抜けているかのように、不自然なほど“いつも通り”なタイオンだったけれど、勉強が終わった別れ際、筆記用具を片付けた彼は目を逸らしながら言ってくる。


「今日は“お礼”をしてくれないのか?」
「え?昨日ので終わりじゃないの?」
「テスト期間中毎日勉強を見てほしいんだろ?1週間分の時間の対価にしては安くないか?」


昨日はあんなに遠慮していたくせに、何故か今更図々しくお礼を所望してきたタイオンに首を傾げた。
じゃあ何が欲しいのかと聞いてみれば、彼はやっぱり目を逸らしてぼそりと呟く。
“昨日と同じでいい”と。

2度目の“ありがとうのちゅー”は、1度目に比べてそこまで恥ずかしさを感じなかった。
相変わらず心臓は高鳴っていたけれど、こなしてしまえば意外に呆気ない。
ただ、タイオンは昨日と同じくらい耳を赤くしていたのが気になった。

“ありがとうのちゅー”が終わるや否や、まるで逃げるかのように筆記用具とノートを持って自室に帰っていく。
更にその翌日も、タイオンは別れ際“お礼”を所望した。
目を逸らし、ぶっきらぼうに所望するわりに、いざに頬にキスを贈ると耳を赤くして逃げていく。
こんなやり取りが3日も続けば、とある仮説がアタシの中で浮上してくる。

もしかしてアイツ、アタシのこと好きだったりする?

そんな都合のいい仮説が浮かんですぐ、いやいやあり得ないかと自分でその仮説を否定した。
だってアタシは、中1のとき既にタイオンにフラれている。
別に告白したわけではないから正確にはフラれているとは言えないけど、アイツがアタシを何とも思っていないのは本人の口からしっかり聞いてしまっていた。
タイオンにとってアタシはいつまでたってもお隣の幼馴染でしかなくて、恋の対象になることはない。

けれど、今はアタシたちはあの頃のと違って無垢な子供じゃない
17歳になったタイオンにとって、アタシは“恋の対象”になることはないのかもしれないけれど、“性の対象”にはなるのかもしれない。
前に彼氏が出来たばかりの友達が言っていた。
“彼氏が会うたびヤりたがる。ホントは私のことなんて好きじゃないんじゃないかな”と。

身体の接触ばかり求められることが、イコール“愛されていない”という答えに直結するとは思わない。
けれど、同世代の男が性に飢えているという事実は女であるアタシもちゃんと知っている。
欲を満たすため、未知なる経験を積むため、手近な女に手を伸ばしているだけなのかもしれない。
好きとか嫌いとか、そんな面倒な気持ちは関係なく、本能に従って簡単そうな餌に食らいつこうとしているだけ。
一瞬だけ浮かんだ都合のいい仮説より、そっちの可能性の方がよっぽど高かった。

もしそうだとして、アタシはどうしたらいいんだろう。
この心はいつだって単純だ。タイオンのことが好きだし、出来るなら彼女になりたい。
でも、だからと言ってただタイオンの欲を満たすだけの都合のいい存在にはなりたくない。
“ありがとうのちゅー”をし続けた先に何が待っているのか、経験不足なアタシには想像も出来なかった。

勉強期間4日目の木曜日。
タイオンはいつも通りアタシの部屋にやって来た。
秀才のこいつに毎日勉強を見てもらっているお陰で、テストへの不安は日に日に薄くなっているけれど、別の不安はどんどん濃くなっていく。
その不安は勉強の終わり際にピークを迎える。
タイオンが筆記用具をまとめ始めるのが横目に見えた瞬間、その時がやって来たのだと一気に緊張してしまうのだ。


「じゃあ、今日はこれで終わりだな」
「うん。ありがとう」
「……」
「……あー、お礼だよな?また“ありがとうのちゅー”でいい?」


何かを催促するような沈黙に耐え兼ねて自分から話を振ると、タイオンは鼻の頭を指先で搔きながら瞬きの回数を増やす。
言いにくいことを言おうとしている時の仕草だ。
何を言われるのか不安だった。そしてその不安は案の定的中することになる。


「今日はその……、違うお礼がいい」
「なに?」


恐る恐る聞き返すと、タイオンは目を逸らしたまま両手を広げてきた。
その仕草が語る“お礼”の内容はすぐに察しがついた。
頬へのキスよりも明らかにステップアップした“ハグ”の所望を前に、アタシは思わず固まってしまう。
望まれるままに受け入れていいのだろうか。
このまま要望がどんどんステップアップして、いつか後戻りできなくなるんじゃ……。
そんな迷いが顔に出ていたのかもしれない。
戸惑うアタシの様子に気付いたのか、タイオンは広げていた両手を引っ込めた。


「いやっ、嫌ならいいんだ!ごめん忘れてくれ」


目を伏せてまくしたてたタイオンの様子に、罪悪感が湧き上がる。
アタシが少しでも拒絶すれば、きっとタイオンは二度と近づいてくれなくなる。
コイツは慎重な奴だ。アタシが嫌がることはしない。
タイオンとのハグ自体は、アタシにとって“嫌なこと”じゃない。
このまま拒絶したら、タイオンとの距離が必要以上に開いてしまう気がして怖くなった。

隣に座っていたタイオンの傍に擦り寄り、上半身の重心をタイオンの胸板に預ける。
自分の柔らかな胸とは違う、しっかりとした“男の胸板”だった。
頭上でタイオンが息を詰める気配がする。
不安と恥ずかしさで震えそうになる声を抑えながら、アタシは顔が見えないタイオンに向かって囁いた。


「これでいい……?」
「あ、う、あぁ……」


タイオンの両腕が、恐る恐るアタシの背中に回る。
耳を押し当てているせいか、タイオンの早くなった鼓動が良く聞こえて来る。
アタシの心臓も負けないくらい早い速度で高鳴っている。
タイオンのこの鼓動は、アタシに触れているからこうなっているのか、それとも“女”に触れているからこうなっているのか、どっちなんだろう。
前者だったらいいな。多分違うのだろうけど。


「ユーニ」
「ん?」
「嫌じゃないのか?」
「……うん」
「そうか。そっか」


嫌じゃない。それは嘘じゃなかった。
だってアタシはタイオンのことが好きなわけだし。
でも、やっぱり漠然とした不安は消えそうにない。
アタシの背中に回ったタイオンの腕が、ほんの少し力を強めた気がしたけれど、たぶんこの行動に深い意味なんてないのだろう。

勉強期間5日目の金曜日も、タイオンはいつも通りやって来た。
勉強の進捗は悪くない。
このままいけば、それなりにいい点を取れるだろう。
その日の終わり際、タイオンは昨日と同じように無言で両腕を広げてきた。
いそいそと距離を詰めて胸板に頬を寄せると、また頭上でタイオンが息を詰める。
背中に腕が回って、バクバクと高鳴るタイオンの鼓動をただ黙って聞いていた。

アタシの身体を抱きしめている最中、タイオンは無言を貫いていた。
その代わり、アタシの背中を右手で優しく撫でている。
暫く背中を撫でていた手がゆっくりと上に上がってきていることに気が付いたのは、抱きしめられてから1分が経過した頃のこと。
上に上がって来たタイオンの右手は、アタシの後頭部に添えられた。
頭を撫で始めるその行動は、幼い子供をなだめるような優しいものだったけれど、手つきはどこかたどたどしい。
アタシの機嫌を損ねないように、距離感を間違えないように、慎重なその行動に一層不安は募ってゆく。

今、アタシが少しでもこの手を振り払おうとしたら、きっとタイオンは二度と手を伸ばしてくれなくなるんだろうな。
まるで、今にも逃げ出してしまいそうな臆病な野良猫を相手にしているみたいだ。
タイオンはアタシに合わせてくれているつもりみたいだけど、その実、この関係の主導権を握っているのはいつだってタイオンの方なのだ。

翌日。勉強期間6日目の土曜はお互い学校が休みだったので、昼過ぎからアタシの家で勉強を始めることにした。
いつもより長く一緒にいられることは嬉しい。
けれど、どんなに長く一緒にいても終わりの時間は確実に訪れる。
毎日着実に一歩ずつ距離を詰められているこの関係は、いつゴールを迎えるのだろう。
そもそも、ゴールはどこにあるんだろう。
頬にキスをして、抱き合って、いずれは唇にキスしたりして、最後に行きつく先はやっぱり、“そういうこと”なんだろうか。

18時54分。
そろそろ勉強時間が終わる頃合いだ。
外はもう暗い。どちらからともなく筆記用具を片付け始めたアタシたちは、互いに距離感を測りあっていた。
やがて、タイオンの手がアタシの手を握り込んでくる。
視線を向けると、いつもみたいに顔を逸らしていた。
距離は詰めるくせに、一向に目を合わせようとしないその態度が余計に不安を煽るって分かっているのかな。

手を優しく引かれ、また胸板に閉じ込められる。
アタシの身体を包み込むその腕には、ほとんど力が入っていない。
少しの力で胸板を押し返せば、すぐに振りほどけそうだ。
どうせなら、不安になる必要もないくらいもっと強い力で抱きしめてくれればいいのに。

暫くアタシたちは無言で抱き合っていた。
これは一応“お礼”という大義名分で行われている行為のはずだけど、たぶんもうタイオンはその建前を覚えていない。
トクトクと聞こえて来る心臓の音を黙って聞いていると、タイオンの右手がアタシの背中から頬に移動してきた。
頬を撫でられた瞬間、これからタイオンがしようとしていることを察してしまった。

タイオンの褐色の指が、今度は頬から顎に移る。
少しだけ強い力で顎を上に持ち上げられた瞬間、赤くなったタイオンと目が合った。
いつものアイツとは違う、熱に浮かされたその目を見て、少しだけ怖くなる。

その行為自体はずっと前から望んでものだった。
けれど、こんなに理想的な形じゃない。
このままだと、たぶん流される。
そう思うと、急に背筋が寒くなった。
関係性を曖昧にしたまま経験だけが積まれていく。
相手の気持がわからないまま物理的な距離が近づいていく。
そんなの絶対嫌だった。

予想通り、タイオンの顔がゆっくりと近づいてくる。
その唇が重なって後戻りできなくなる前に、アタシは無理矢理タイオンから顔を逸らした。
無言の拒絶に、アタシの顎を掴んでいたタイオンの指から力が抜ける。


「ユーニ……?」
「……あのさ、タイオンって、付き合ってなくても“そういうこと”出来るタイプなの?」
「えっ……」
「アタシはそういうの、嫌い」


声は震えていたと思う。
目の前にいるのはずっと前から好きだった男なのに、触れられるのが怖い。
2人の関係にはまだ明確な名前がついていないのに、展開だけ発展していくのが怖い。
矛盾を孕んだこの微妙な女心を明確に伝える言葉が思いつかなくて、実にストレートな表現で拒否してしまった。
タイオンの顔が見れない。力んでいた腕はゆっくりと脱力していって、顎に添えられた手は次第に離れていく。
見なくても、今タイオンがどんな顔をしているのかは察しがついた。


「ユーニ、入るわよ」


部屋の扉をノックする音と共に、外から母親の声が聞こえてきた。
焦ったアタシは、急いでタイオンの腕から逃れて距離を取る。
石像みたいに固まっているその腕の中から抜け出すのは簡単だった。
やがて、アタシの返事も待たずに母親は無遠慮に部屋へと入って来る。
アタシの隣に座っているタイオンの姿を見た母は、“あら”と一言声を漏らすと嬉しそうに微笑みを浮かべていた。


「もしかしてタイオン君?久しぶり!来てたのねぇ」
「は、はい。お邪魔してます」
「大きくなったわねぇ。あっ、そうだ。ご飯食べてく?ちょうど今出来たところだから」
「いえっ、遠慮しておきます。もう帰りますから!」
「えー、そう?ゆっくりしていけばいいのに」


母の言葉に甘えることなく、タイオンは逃げるようにアタシの部屋から去ろうとする。
窓から隣の部屋に帰ろうとする直前、一瞬だけこちらに視線を向けていたようだったけど、なんとなく気まずくて目を合わせられなかった。
“また明日”も言わず、結局タイオンは帰ってしまう。
自室に飛び移ったタイオンが窓をぴしゃりと閉めた後、母は苦笑いを浮かべながらこちらを見つめてきた。


「もしかして邪魔しちゃった?」
「いや、全然」


むしろ助かった。
あのまま母が入って来なければ、どうなっていたか分からない。
強引に幕を引いてくれる存在が来てくれたのは、アタシにとって僥倖でしかなかった。
問題は、明日も一緒に勉強をする約束をしていること。
週明けの月曜は、タイオンの学校がテスト初日を迎えるため、一緒に勉強をするのは明日が最終日である。
こんなにハッキリ拒絶しておいて、明日どんな顔で会えばいいんだろう。
気まずさに喘ぐアタシの元に、翌日の朝タイオンから意外な連絡が届いた。
“すまない。今日は行けそうにない”と。


***

Side:タイオン

ユーニの部屋から逃げ帰り、自室の窓とカーテンを閉めた瞬間、いたたまれなさが胸をつく。
やってしまった。とうとうやってしまった。
頭を抱えながらベッドの上に腰掛け、深いため息を吐く。

ここ数日の勉強期間は、僕にとって夢のような時間だった。
放課後、学校から帰ってきたら毎日ユーニの部屋を訪れ、ノートを並べて静かに勉強する。
時々ユーニが距離を詰めて、分からない問題を僕に質問してくる。
頼られている感覚に喜びを感じながら丁寧に教えてやると、柔らかく笑顔を向けながら“ありがとう”とお礼を言ってくれる。
まるで、疎遠になる前のあの頃に戻ったみたいだった。

お礼と称してユーニとの距離を詰められたのは、運が良かったからだと思う。
彼女から“ありがとうのちゅー”を提案された時、好都合だと思った。
だってそうだろ。頬とは言え好きな子からキスしてもらえるなんて、嬉しくないわけがない。
頬にユーニの唇が触れた瞬間、心臓が飛び出そうになった。
もう一度してほしい。もっとして欲しい。
一度味を占めた以上、欲望はどんどん強くそして濃くなっていく。

翌日も“ありがとうのちゅー”を所望したところ、彼女はあっけなくしてくれた。
少し欲を出して両手を広げてみたら、戸惑いつつも胸板に体重を預けてくれた。
息をするのも慎重になるほど緊張していたけれど、嫌じゃないと言ってくれた彼女の言葉に深く安堵した。
僕の要望に嫌がるそぶりを見せず受け入れてくれているその様子に、さらに喜びが増大していく。

もっともっと、もっとしたい。
日に日に欲は大きくなり、ただ抱きしめているだけでは足りなくなっていく。
頬へのキスだけじゃなく、ハグまで受け入れてくれた。
もしかしたら、その先も許してくれるかもしれない。
そんな邪な希望を抱き、一方的に浮かれてしまう。

危ういほど舞い上がっていた。
今思えば、調子に乗ってしまっていたのだろう。
嫌がるそぶりを見せないユーニに業を煮やし、傲慢になっていたのかもしれない。
いつかは拒絶される日が来ると分かっていた。
分かっていたはずなのに、いざ拒否の意を示されると心が死にそうになってしまう。

“そういうの嫌い”
目を伏せたユーニが口にしたのは、はっきりとした拒絶の言葉だった。
今まで存在していなかった鋼鉄の壁が、急にユーニとの間に現れたかのようだった。
いや、見えていなかっただけで、最初から壁はあったのかもしれない。

ユーニを前に、盲目になっていた。
本当は最初から嫌だったのかも。でもその場の流れで断れず、流されるまま僕の要望に応えていただけなのだろう。
そして、ついにラインを越えそうになったことで辛抱溜まらず拒絶した。
嫌がっているとは知らず、調子に乗ってキスだのハグだの猪突猛進気味に要求してきた僕の姿は、ユーニの目にどう映っただろう。
きっと、下心満載の気持ち悪い男に見えていたに違いない。


「あぁもう……。最悪だ……」


消え入りそうな声で呟き、サイドチェストに眼鏡を置いてベッドに横になる。
絶対に嫌われた。
明日からどんな顔して会えばいいんだ。
最悪、また避けられるかもしれない。
折角こうして普通に話せるようになったのに、どうしてあんな馬鹿なことをしてしまったのか。

できる事なら時間を巻き戻したい。
そして過去の自分に忠告したい。
調子に乗るな。舞い上がるな。暴走するな、と。

縮みつつあったユーニとの距離がまた離れるのは嫌だ。
謝らなくちゃ。もう二度とあんな真似はしないと誓って、誠心誠意謝らなくちゃ。
じゃないとまた、ユーニに距離を取られてしまう。
もう、彼女と疎遠にはなりたくない。ただの友達でいいから、幼馴染でいいから、近くにいたいんだ。

明日、いつも通りユーニの部屋に行ったら開口一番に謝ろう。
そう決心したのもつかの間。
心身ともに疲れていた僕は、布団も被らずいつの間にか眠りについてしまっていた。

翌日の日曜日。
テスト初日を明日に控えた今日は、午前中からユーニの部屋で一緒に勉強する予定だった。
だが、その日の朝は妙な気怠さで目を覚ました。
頭が上手く働かない。喉も痛いしなんだか熱っぽい。
まさかと思い熱を測ってみると、37.8度の微熱があった。

まずい。明日はテストだというのに体調を崩すなんて。
恐らくだが、布団もかぶらず薄着でふて寝してしまったせいだろう。
勉強自体は日々こつこつと復習を重ねているから問題ないだろうが、流石に体調不良でテストを受けられないのはマズい。
今日は安静にして、何とか風邪を治さなければ。
ぼーっとする頭で、ユーニに今日は行けないという旨のメッセージを送った。

本当は今日も会いたかった。会って昨日の愚行を謝りたかった。
けれど、テスト期間が近いのはユーニの学校も同じ。
無理に会いに行って、彼女にも風邪をうつしたくはなかった。

返事はすぐに来た。
“なんで?”と理由を聞いてくる彼女に、僕は素直に発熱したことを打ち明けた。
心配をかけないために隠すことも考えたが、変に理由を隠したら昨日のことを理由に避けていると勘違いされてしまうかもしれない。
妙な気遣いでまたぎくしゃくするのは嫌だった。

ベッドに入り込み、目を閉じて大人しく養生に徹する。
昼を過ぎれば、それなりに身体が楽になって来た。
とはいえ、依然体温は37度を超えている。
今日はこのまま丸一日ベッドの中で過ごすことになるだろう。
そんなことを思いながら天井を眺めていると、部屋の扉がノックされる。
母だろうか。“はい”と返事をすると、扉の向こうから予想外な声が聞こえてきた。


「アタシ。ユーニ」


その声を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。
なんでユーニがここに?
しかも窓からじゃなく部屋の扉から来るなんて。


「な、なんで……」
「熱出たんだろ?様子見に来た。大丈夫?入っていい?」
「えっ、いや、ダメだ!移してしまうかもしれないから……」


今にも回り切りそうなドアノブに向かって、必死で断った。
風邪をうつしてしまうのも申し訳ないが、何より今の自分をユーニに見られたくなかった。
風邪でみっともない姿をしているし、昨晩は風呂に入れていない。
汗でべたべたしている今の自分を、好きな人に見られるわけにはいかなかった。


「なに?そんなにしんどいの?」
「微熱だから大丈夫だ。でもほら、君だってテスト前だしうつったら大変だろ?」
「うーん。まぁ、そうだけど……。平気そうならよかった」
「……心配してくれたのか」
「そりゃあするだろ普通」
「そうか」


あんなことをしてしまったのに、心配してくれたのか。
枕元のシーツを掴む手に力が入る。
扉の向こうにいる君の顔が見たい。でも、今の自分の姿は見られたくない。
複雑で曖昧な感情が胸に渦巻き、心が痛くなった。


「とりあえずアイスとかゼリーとか買ってきたから、これおばさんに渡しとくな」
「あぁ。すまない」
「じゃあ、お大事に」
「あっ、ユーニ!」


扉の向こうにいるユーニの気配が遠ざかりかけた瞬間、反射的に引き留めてしまう。
彼女に伝えたい言葉はたくさんある。
そのほとんどが未だ臆病さを拭えない自分には口にできないセリフばかりだが、昨日の愚行を謝る
ことくらいは出来る。
せっかく来てくれたんだ。あと少しだけ彼女と言葉を交わしていたい気持ちもあった。


「昨日のこと、本当にゴメン。あんなこともう二度としないから……」


扉の向こうでユーニは暫く黙り込んでいた。
彼女の顔が見えない分、その沈黙が恐ろしい。
すると数秒後、扉の向こうでユーニのいつも通りな声色が聞こえてきた。


「いいって。気にしてない。風邪早く治せよ」


そう言って、ユーニは扉の前から去っていった。
遠ざかる彼女の気配に、途端に寂しさや孤独感が襲い掛かって来る。
気にしてないのか。気にしてくれていないのか。
ユーニから許してもらえたのは喜ばしいが、あの愚行がユーニの心に一切響いていないのは流石に哀しい。
あんなに緊張したのは僕だけだったのか。

いじけた心のまま夜を過ごし、朝を迎えればすっかり熱は下がっていた。
これも丸一日養生に徹したおかげだろう。
そのまま学校に行き、テストを受けることが出来た。
日々の復習が役にたったのか、初日の科目は全く問題なく解けた。

初日のテストは4教科だけだったため、午前中だけで帰宅が許されている。
早々に地元駅に到着した僕は、駅前のカフェに入ることにした。
窓際のカウンター席に座り、改札が見える位置を陣取る。

カフェに入った目的は2つ。明日の教科の勉強と、ユーニを待つためである。
彼女の学校では来週からテストが始まる。
今日はいつも通り授業があるはずなので、きっと帰りは夕方になるだろう。

昨日、ユーニとはきちんと話せなかった。
待ち合わせはしていないが、今日くらいは顔を合わせて話したい。
以前のように距離を取られるのだけは絶対に避けたかった。
迷惑かもしれないが、今の距離感を保つためには、少しは積極性を発揮しなければならない。

ユーニを待っている間、ずっと心臓が高鳴り続けていたせいで全く集中できなかった。
あの改札からユーニが出てきたとして、どうやって話しかけよう。
待ち伏せなんて気持ち悪がられないだろうか。
そもそもいつ頃帰って来るのだろう。
色々と考えているうちに、時刻は16時を回っていた。
ノートから顔を上げ、不意に改札の方へと視線を向けると、見慣れた人影が人混みの中からするりと抜け出ていくのが見えた。

明るい髪色を靡かせながら歩くブレザー姿の女子高生を見た瞬間、心臓は勢いよく跳ねた。
急いでノートをまとめ外に出ると、遠ざかる彼女の背中へと駆け寄る。


「ゆ、ユーニ!」


情けないほどに声が上ずっていたと思う。
僕の声を聞き、ユーニはぴたりと足を止め振り返る。
彼女の蒼い瞳に僕の姿が映った瞬間、無計画に声をかけてしまったことに少し後悔した。


「あれ?なんでいんの?今日テストだろ?」
「あぁ、まぁ」
「あ、もしかしてアタシのこと待ってた?」
「いや違う!たまたまそこのカフェで勉強してたら君の姿が見えたから……」
「あぁなるほどな」


君のことを待っていた、なんて素直に言えなかった。
家の方角が同じな僕たちは、自然な流れで一緒に帰ることになる。
隣を歩く2人の距離感は、あの雨の日ほどではないものの手を延ばせば簡単に触れられる程度には近付いている。

他愛もない会話を交わしながらチラチラと隣を歩く彼女に目をやれば、柔らかな髪を耳にかけて笑みを浮かべているユーニの姿が視界に入る。
やっぱり彼女はかわいい。
初めて会った日から今まで、身長や声色や話し方は変わっているけれど、君を好きだというこの気持ちは変わっていない。

例えば今、隣に並んでいる君に手を伸ばし、その白い手を握ったら君は握り返してくれるのだろうか。
不安定なバランスで成り立っているこの曖昧な関係を壊してしまわないだろうか。
心なんて、身体のどこにあるのか知りもしないし興味もなかったが、君のことを考えるたび心の在処が嫌というほどわかってしまうのだ。
未熟で無様な僕の心は、“君が好きだ。好きすぎてどうにかなってしまいそうだ”と激しく叫んでいるのだから。


「風邪は治ったのか?なんか昨日辛そうにしてたけど」
「あぁ。丸一日寝ていたら何とかなった。差し入れありがとう。美味かった」
「そりゃよかった。てか1日で風邪治るとか免疫力凄くね?ゴリラじゃん」
「誰がゴリラだ失礼な」
「あははっ」


あんな事があったのに、何事もなかったかのように接してくれているユーニの態度が嬉しい。
と同時に、少し切なくもあった。
仮にもキスされそうになった男と、こんなにも平気な顔で話せるのか、君は。

夕方の閑静な住宅街に、僕たちの声だけが響いている。
2人きりのこの時間が1分1秒でも長く続けばいいと、わざとゆっくり歩いていた僕だったが、あっという間に家の前へと到着してしまう。
先にユーニの家の前にたどり着いた僕たちは、自然とその場で足を止めていた。


「じゃあ、テスト頑張れよ」
「あぁ。君もな」
「タイオンのおかげで今回はいい点とれそうだよ。ありがとな。じゃあ」


片手を振って玄関扉に入ろうとするユーニ。
そんな彼女の手を取って引き留めてしまったのは咄嗟の行動だった。
隣を歩いている時はどんなに頑張っても手なんて握れなかったくせに、鳴りを潜めていた勇気はユーニが離れていく直前になってようやく顔を出す。

僕に手を握られ引き留められたユーニは、ただでさえ大きな青い目を一層大きく見開き、不思議そうな顔で振り返って来る。
好きだとか、付き合って欲しいだとか、言いたいことはたくさんある。
けれど今は、とにかく君との距離を縮めたい。
その一心で、僕は今まで1度たりとも振り絞れなかった勇気を全力で出し切った。


「来週の土日、うちの学校で文化祭があるんだ。よ、よかったら、遊びに来ないか?」
「えっ」
「あ、嫌なら無理しなくても……」


そこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。
思えば、僕はいつも君に近付くとき保険をかけてきた。
嫌がられるのが怖い。拒絶されるのが怖い。
だからユーニの心に寄り添うふりをして、自分が傷付かないよう主導権を相手に握らせていた。
でも、たぶんそれじゃダメなんだ。
待ってるだけじゃ報われない。
ブレーキを踏み続けていたって相手には伝わらない。
好きな気持ちをぶつけるなら、いっそ全力で突撃してやれ。
ぐっと息を飲み込んだ僕は、この日初めてアクセルを踏んだ。


「……いや、どうしても来てほしい。土日のどちらかだけでいいから、君の1日を僕にくれないか?」


子供の頃から、きっかけはいつもユーニが作ってくれていた。
一緒に遊ぶのも君の誘いから。一緒に学校から帰るのも君の誘いから。
僕が君を誘ったことなんて一度もない。理由は単純。恥ずかしかったからだ。
だが、そんなクダラナイ羞恥心なんて持っていても仕方がないことにようやく気付けた。
こんなに真っすぐ、正面から君を誘ったのは今日が初めてだった。
赤い顔で恐る恐る誘う僕に、ユーニは暫くキョトンとしていたが次第に照れたように瞬きの回数を増やし、そして目を逸らす。


「うん。分かった。行く」


ぽつりと囁かれた肯定の言葉に、僕の心が舞い上がったのは言うまでもない。


***

Side:ユーニ


土曜日の昼下がり。
その日アタシは、初めてタイオンが通う学校を訪れた。
このあたりでは有名な私立の進学校で、所謂男子校である。
文化祭を迎えた今日は外からの客も多いようだが、それでも普段男の花園で過ごしているこの学校の生徒たちにとっては同年代の女子が近くにいるのは珍しい光景らしい。
校門の前に寄り掛かり時間をつぶしているアタシに、この学校の制服を身にまとった男子生徒たちが何度か声をかけてきた。

そのたび“彼氏いるから”と噓をつくのもそろそろ面倒になってきた。
早く迎えに来てほしい。
スマホの画面に視線を落とし続けて約10分。
そろそろSNSチェックにも飽き始めてきた頃合いで、ようやく背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。


「ユーニ」


恐らく走ってきたのだろう。
振り返ると、そこには少しだけ息を乱したタイオンが立っていた。
浮かれ切った文化祭の背景に似合わず、タイオンは黒に近いグレーのブレザーをかっちり着こなしている。
背景の浮かれ具合とタイオンの真面目さがアンマッチしている光景に、思わずぷっと吹き出しそうになった。


「おっせー」
「すまない。ちょっとクラスの方が忙しくて」
「タイオンのクラス、模擬店なにやってるんだっけ?」
「ダーツバーだ。といっても酒じゃなく出しているのは紅茶だが」


タイオンに案内される形で、アタシはこの男子校の正門をくぐった。
この学校はアタシの学力なんかじゃ到底手が届くはずのないかなりレベルが高い進学校だ。
そのうえ男子校であるこの学校の門をくぐれる機会なんてそうそうないだろう。
アタシがこの学校の文化祭を訪れることになったのは、すぐ隣を歩いているタイオンに誘われたからだ。
1週間以上前の月曜日。たまたま帰りが一緒になったアタシたちは駅から家まで並んで歩いていた。
家の前に到着し、帰ろうとしたタイミング腕を掴まれ引き止められたのだ。

正直、あの時は少しドキッとした。
告白されるのかなと思って身構えたけれどそんなことはなく、赤い顔をしたタイオンは力みながら言ったのだ。
“文化祭に遊びに来てほしい”と。
そんなに気合を入れてまで言うことか?と不思議に思いながらも、アタシはその場で承諾した。

そして今日、約束の日を迎え意気揚々とこの学校へやってきたわけだが、タイオンは拍子抜けするほどいつも通りだった。
数日前、アタシにキスまでしようとしたくせに。
結局あれは何だったのだろう。
一応謝罪はされたけれど、どうしてあんなことをしたのか理由をまだ聞いていない。
けれど、今更あのことを掘り返してしまったらいよいよ気まずさがぶり返すのではないかと怖くなった。
だから聞いてない。どうしてあんなことをしたのか、“そういうこと”が出来るなら誰でもよかったのか、そしてアタシのことをどう思っているのか。


「おっ、会長!その子なに?」
「女の子連れかよ会長!やるじゃん」


校舎に入り、タイオンのクラスに向かう途中の廊下で同じ制服を着た同級生らしき男たちにたびたび声をかけられた。
そのたびタイオンが“会長”と呼ばれていたのが気になった。


「もしかしてタイオン、生徒会長だったりする?」
「あぁ。言ってなかったか?」
「まじかよ。初耳」


知らなかった。タイオンがこの学校の生徒会長を務めているなんて。
思えば、再び話すようになってまだ日が浅い。
疎遠になっていた頃のことはまだちゃんと聞いてもいないし話してもいない。
幼いころから知った仲ではあるけれど、すべてを知っているいるわけじゃない。
むしろ知らないことの方が多くて、アタシには見せていない顔がまだいくつもあるのだろう。
そう思うと、なんだか少し寂しくなった。

タイオンのクラスは3階の端に位置していた。
ダーツバーを開いているその教室内はそれなりに繁盛しているようで、広いようで狭い教室内は比較的混雑している。
中に入ると、黒板に立てかけられたダーツ盤がいくつか並んでいるのが見えた。
複数の客が一定の距離からその的めがけてダーツを投げている。
どうやら景品もあるらしく、廊下側の扉の近くに並べられた机の上には、お菓子や飲み物、ぬいぐるみや小物類が得点ごとに置かれていた。


「やってみるか?」
「アタシ、ダーツってやったことないんだよね」
「そうなのか。じゃあ何か欲しい景品はあるか?僕が取ってやる」
「えー、いけんの?」
「当たり前だ。任せろ」


妙に自信ありげなその表情に疑いが増す。
タイオンがダーツなんて全く似合わないし、得意な印象もない。
景品を獲得できるほどの腕前とは到底思えなかったため、ちょっとした悪戯心が芽生えてしまった。


「じゃああのクマのぬいぐるみがいい」


指さしたのは、一等の景品に相当する大きなクマのぬいぐるみ。
その存在感はかなりのもので、軽く小学校低学年の子供くらいの大きさを誇っている。
このダーツバーではカウントアップのルールを採用しており、得点が0から始まってひたすら高い点を狙うのだが、あの巨大なぬいぐるみは3本のダーツすべてを的の中心に的中させなければ獲得できないらしい。
正直言って、初心者にはかなり難しい。
無理難題を言ってタイオンを揶揄ってやろうと思っていたのだが、意外にもアイツはすんなり受け入れた。

えっ、大丈夫か?
絶対無理じゃね?
そう思っていた矢先、タイオンの一投目は見事ダーツ盤の中心に的中した。


「えっ、うそ」
「任せろと言っただろ?」


得意げに微笑むタイオンは、間髪入れずに二本目を投げた。
二投目も的の中心に突き刺さり、巨大なクマのぬいぐるみ獲得への道がまた近付く。
まさか本当に得意なのか。
気分が高揚してきたアタシは、“すげぇすげぇ”と素直に褒めたたえながらタイオンの腕を叩いた。
そんなアタシの歓声が目立っていたのだろう。入口の方から見知らぬ男子生徒が複数歩み寄ってくる。


「誰かと思ったらタイオンじゃん」
「女の子と一緒とか抜け駆けかよー」
「あ、もしかしてその子、噂のユーニちゃん?」


ニヤニヤしながら歩み寄ってきた彼らはタイオンのクラスメイトらしい。
適当に“どーも”とあいさつすると、男子生徒たちは挨拶を返してくれる。
男子校の学生だからだろうか、やっぱりみんな女慣れしていないみたいだ。
照れた様子で笑いながら返される挨拶はどれもこれもたどたどしかった。


「なぁんだよお前ー!彼女見せびらかすために来たわけ?」
「腹立つわー、こんな可愛い子隣に侍らせやがって」
「文化祭デートとかいいよなぁ。お似合いで羨ましいよ、会長サン」


3本目のダーツを手に持っているタイオンの肩を、同級生たちはしきりに叩いていた。
この感じ、なんだか懐かしい。
中学の頃も、同級生たちに毎日こんな風に揶揄われたっけ。
そのたびタイオンは嫌そうな顔をして、“違う、そんなんじゃない”と必死に否定していた。
今もきっと、こうして揶揄われるのは好きじゃないんだろうな。
そう思ってふと視線を向けると、タイオンは予想外に赤い顔をしていた。


「うるさいぞ。お似合いだと思うならそっとしておいてくれ。シッシッ」


左手で払う仕草をすると、同級生たちは口々に“ひでー”と言いながら笑っていた。
彼女だとか、お似合いだとか、そういう揶揄いは今まで何度だってされてきた。
そのたびあいつは必死に否定してきたくせに、今日は否定していない。
ただそれだけのことなのに、こんなにも心臓がバクバクと高鳴るのは何故だろう。
なんで否定しねぇの?勘違いされてもいいの?アタシたち、別に付き合ってなんかないのに。

じっとその横顔を見つめていると、一瞬だけタイオンと目が合った。
すぐに逸らされたけれど、その目は昔みたいな壁を感じる冷たいものではなかった。
少しの照れと、小さなときめきを秘めた、そんなくすぐったい目である。

やがて、タイオンの手によって3本目のダーツが投げられる。
真っすぐ飛んで行ったダーツは、最初からそこに刺さることが決まっていたかのように的のど真ん中に突き刺さる。
刺さった3本の矢が中央に集中している的を見つめながら、アタシは思わず“おわぁ!”と声を挙げてしまった。


「やばっ!タイオンすげぇ!まじかよ!」
「これくらい簡単だ」


事前の宣言通り、タイオンはいともたやすく景品を獲得してしまった。
得意げな笑みを浮かべながら、タイオンは景品が並んでいる机の方へ駆けていく。
知らなかった。タイオンがあんなにダーツが上手いだなんて。
単純に驚いていると、すぐ後ろから呆れたような笑い声が聞こえてきた。


「なぁにが“これくらい簡単だ”だよ。あんなに必死で練習してたくせに」
「え?練習?」


からかい半分でタイオンのダーツ裁きを見ていたクラスメイト達の一言に、アタシは思わず聞き返してしまっていた。


「アイツ、文化祭準備期間中毎日練習してたんだよ。今思えば彼女ちゃんにいいところ見せたかったんだろうなぁ」


ここで言う“彼女ちゃん”とは、たぶんアタシのことだ。
タイオンが、アタシのためにダーツの練習を?
そんなことがあり得るのか?
なんとなく腑に落ちないまま、“まぁ彼女じゃないんだけどな”と勘違いを否定すると、タイオンのクラスメイト達は驚いたような表情を浮かべながら顔を見合わせていた。


「えっ、君、“ユーニちゃん”だよね?お隣さんで幼馴染の」
「そうだけど……」
「付き合ってないの?てっきり彼女なんだと思ってた。だってアイツ、毎日のように君の話して――」
「ユーニっ」


クラスメイト達の話を遮るように、アタシの名を呼ぶタイオンがこちらに駆けよってきた。
その腕には巨大なクマのぬいぐるみが抱きしめられている。
“ほら”と手渡されたそのぬいぐるみを受け取ると、あまりの大きさに視界がふさがれる。
まさかこんなに大きいものを本当に獲得できるなんて思わなかった。
嬉しさ半面、困惑半面の気持ちでお礼を言うと、タイオンはまたあの得意げな笑顔を見せてくる。


「ユーニ、昼はもう食べたか?」
「いやまだ。そういえば腹減ったな」
「よし、じゃあ何か買って食べよう。さ、行こうっ、ほらっ」
「ちょ、そんな引っ張んなよ!足元見えないんだから……!」


クマのぬいぐるみを抱えているアタシの腕を引き、タイオンは教室を出ていこうとする。
いつも仏頂面なタイオンからは想像もできないくらい楽しそうなその態度に、なんだかこっちまで胸が躍る。
教室を出る直前、あいつのクラスメイト達が“はしゃぎすぎだろ”笑いながら呟いていたのは聞き間違いなんかじゃないはずだ。


***

私立の高校ということもあり、うちの学校の文化祭と比べて模擬店の種類がかなり豊富だった。
適当に回った店でたこ焼きや焼きそばを購入したアタシたちは、タイオンの勧めで屋上に向かうことにした。

普段、屋上は解放されていないらしく、文化祭の今日も本当は立ち入りが禁止されているらしい。
にも関わらず侵入しようとするタイオンに“入っていいのかよ?”と問いかけると、彼はブレザーの内ポケットから屋上のカギを取り出し言った。
“屋上の管理を任されているのは生徒会だから”と。

職権乱用とはこういう時に使う言葉なのだろう。
けれど、あの真面目なタイオンが本来進入禁止の場所に自ら忍び込もうとするなんてらしくない。
それも、何故だかやたらと楽しそうだ。

屋上はやはり誰の姿もなく、校舎やグラウンドの喧騒が嘘のように静かだった。
フェンスに沿うように伸びているコンクリートの段差に並んで腰かけると、それまでずっと抱えていたクマのぬいぐるみも隣に座らせる。
こいつは校舎を練り歩いている間ずっと目立っていて、周囲からの視線がものすごく痛かった。


「なんでそこに置くんだ?」


アタシは、巨大なぬいぐるみを自分とタイオンの間に座らせていた。
するとタイオンは何故か不服そうな顔でぬいぐるみに視線を落とし始める。
“なんで”と言われても特に理由はなかった。
不服そうにしている意味が分からず“なにが?”と問いかけると、タイオンはおもむろにぬいぐるみの鼻先を鷲掴みにすると、思い切り持ち上げて自分の反対隣に座らせてしまった。
そして、アタシとの距離を詰める。


「……え、なにそれ」
「邪魔だったから」


そう一言だけ呟くと、タイオン手元のたこ焼きのパックを開封し始めた。
何気ない行動一つ一つに理由を探してみるけれど、きっと深い理由などないのだろう。
アタシも自分の焼きそばのパックを開封し、割り箸をぱきっと小気味よい音を立てながら割った。


「アタシ、学校の屋上って始めてきたかも」
「自分の学校の屋上にも行ったことないのか?」
「うちも基本的に屋上は立ち入り禁止だからな。だから地味に憧れてたんだ。こうやって学校の屋上で昼飯食うの」


焼きそばを一口食べる。
かなりの薄味だったが、文化祭クオリティにしては美味い方だろう。
家で食べたら大したことないのだろうが、祭りの空の下で食べるからこそなんとなく美味く感じた。
あとはたぶん、隣にタイオンがいるからだろう。


「そういえば、こうやって学校で2人並んで飯食うのなんて初めてじゃね?」
「そうか?」
「中学の頃は全然そんな流れにならなかったし、今はそもそも学校違うし」


すぐ横に腰かけているタイオンは、アタシがいつもものとは違う制服を身にまとっている。
家も、今現在の物理的な距離も隣同士のはずなのに、学校が違うというだけで随分遠く感じる。
この校舎で、このグラウンドで、タイオンはいつもだれとどんなふうに日常を過ごしているのだろう。
その日常に、アタシが入る余地はあるのだろうか。


「君は――」


ぽつりとつぶやかれたその一言は、喉の奥で引っかかったかのようにそのあとの言葉が聞こえてこなかった。
数秒の後、時間が巻き戻されたかのようにタイオンは再び呟き始める。


「君は……、普段誰と一緒にいるんだ?」
「ん?誰って?」
「休み時間に話す相手とか、昼休みに一緒に弁当を食べる相手とか、放課後寄り道する相手とか……。どんな人なんだ?」
「どんなって言われても、タイオンの知らないやつだよ」
「それはそうだろうが……。どういうタイプの人と一緒にいることが多いのかって聞いてるんだ」
「うーん……。普通に気が合う奴。話が合う奴」
「………」
「………」
「……その輪の中に、男はいるのか?」
「え?」
「……いや、なんでもない。気にするな」


視線を落とし、膝の上に開けたたこ焼きのパックに箸をいれる。
たこ焼きを器用に一つ摘まみ上げて口に放り込むと、熱かったのか“ほごっ”と情けない声を挙げながら口をパクパクと開閉させている。
なんだかよくわからない。
その態度も言葉も、いつもどこか曖昧で、決定的とは言い難い。
いっそ“僕の知らない男と仲良くするな”とでも言ってくれればよっぽど分かりやすいのに。


「タイオンってさ、分かりやすいようで分かりにくいよな」


未だ口内の熱さにはふはふ抵抗しているタイオンの横で、アタシは遠くを見つめながら口を開いた。


「態度は分かりやすいけど、結局何も言ってくれないし。何考えてるかわかんねー」


その言葉を最後にアタシたちの間に痛い沈黙が訪れた。
晴天の空に浮かぶ雲を突き動かすそよ風だけが吹いていて、アタシの髪を揺らす。
隣に座っているタイオンの顔をきちんと見れなかったのは、どんな顔をしているのかわからなかったから。
どんな顔をしていても、きっといい気分にはならないだろう。
冷たいことを知ってしまった。言わなきゃよかったとどうせ後悔することになるのだろう
だから見れなかった。

しゅるしゅると風が吹き、沈黙が訪れて3分ほどが経過したころ。
黙って隣に腰かけていたタイオンがようやく言葉を発した。


「あの――」
「……」
「渡したいものがあって」


聞き返すことはなく、アタシはただ視線をタイオンの足元へ向けた。
視界の端で何やらごそごそと動いている。
ポケットから何かを取り出したタイオンは、アタシの眼前にその“何か”を突き出した。
アタシのよりも大きなその手のひらの上にコロンと乗せられていたのは、見覚えのあるボタン。
けれど、記憶力に自信がないアタシにはそれが何か一瞬で判断するのは難しかった。


「なにこれ」
「第二ボタン。中学の頃の」
「えっ」


言われてようやく気が付いた。
そうだ。中学の制服のボタンだ。
学ランについていたボタン。
こんなものが急に視界に現れるなんて思ってもいなかったせいか、あからさまに戸惑ってしまう。


「これ、後輩にあげたんじゃ……?」
「欲しいとは言われたけど、あげてない。君に貰ってほしかったから」


押し付けられるように手渡されたボタンは、少しだけ色あせている。
“貰い手がいなかったら貰ってやる”なんて言ったけど、本当は喉から手が出るほど欲しかった。
疎遠にさえなっていなければ、きっと自ら貰いに行っていたであろうこのボタンは、結局アタシの手に渡ることなく素直に好意をぶつけられる誰かの手に渡ったのだろうと思っていた。
けれど、何の因果か今はアタシの手の中にある。
それもタイオン本人の意思によって手渡されたのだ。

何故、どうして。
この行動に、理由を求めずにはいられなかった。
そして、タイオンの本心を知るために口を開く。


「なんで――」
「好きだ」


理由を問いただすその前に、あまりにもストレートな言葉が飛んできた。
ダーツ盤に突き刺さった3本の矢のように、ど真ん中に飛んできたその鋭い言葉は、アタシの思考回路をショートさせる。
なに?なんていった?
困惑するアタシに念押しするかのように、タイオンは再び“君が好きだ”と言ってきた。


「返事はいらない。君の気持ちは分かってるから」
「いや、え?」
「昔は好きでいてくれたが、今は全然なんだろ?わかってる。わかってるから言わないでくれ。そう何度もフラれたくない」


たった今、アタシは過去の自分の言動に激しく後悔し始めた。
言った。そういえばそんなこと言った。
自分を守るためについた保身的な嘘が、こんな状況で首を絞める結果になるなんて。
突然の告白に驚きと戸惑いを隠せないアタシを前に、タイオンはずっと俯いていた。
真っ赤に染まった彼の耳が、その言葉の信憑性を物語っている。


「ハッキリ好きだと口にしたら、完全にフラれると思っていたから言えなかった。だから、この前は気持ちが先走ってあんなことを……。本当に申し訳ない」
「い、いつから?いつから好きだったの?」
「……初めて会った時から」


初めて会った時って、小学生の頃からか?
アタシよりも先に好きになってたのかよ。
少しくらいはその気があるんじゃないかと思っていたけれど、まさかそんな前から好かれていたとは思わなかった。
タイオンがアタシに手を伸ばしてくるのは、手近な女で経験を積むため。
抱きしめたりキスをしたり出来るなら誰でもいいのかとすら思っていたけれど、どうやら大きな勘違いだったらしい。


「あんな勝手なこともうしないと約束する。だから、その、よかったら友達のままでいてほしい。今まで通り勝手に好きでいるから……」


膝の上に置いたたこ焼きのパックをどかし、姿勢を正しながらこちらに向き直るタイオンは、至極真剣な様子だった。
たぶん、キスを拒んだアタシのあの行動が、タイオンを一層慎重にしてしまったのだろう。
好きな相手に拒絶される恐怖はアタシにも身に覚えがある。
きっと、赤裸々に気持ちを打ち明けてくれている今のタイオンは、想像もできないくらい懸命に勇気を振り絞ってくれているに違いない。
赤い顔で見つめてくるタイオンの真摯な好意に、アタシも全力で応えなくてはいけないような気がした。


「やだ」
「え?」
「友達は嫌。無理」
「そ、そんな……」


一気に絶望的な表情に変わるタイオンの顔を見て、思わず笑いそうになってしまう。
話は最後まで聞けよな。
膝の上に置いてあった焼きそばのパックをどかして同じように向き合うと、照れくさい気持ちを隠しながらタイオンの目をまっすぐ見つめた。


「なるなら“彼女”がいい」


そう告げた瞬間、タイオンの目が大きく見開かれる。
赤面したり絶望したり驚いたり、この一瞬のうちにコロコロ反応を変えるタイオンは見ていて飽きない。
また笑いそうになる顔を必死に引き締めていると、今度は動揺の色をにじませたタイオンが瞬きの回数を増やしながらにじり寄ってきた。


「えっ、そ、それはその、つまり、OKということか?付き合ってもいいと、そういうことか!?」
「そういうこと」
「……っ」


息を詰めたかと思ったら、タイオンは急にアタシの体を強引に抱きしめてきた。
突然のことに驚き、“うぐっ”と鈍い声が漏れ出てしまう。
その声にはっとしたのか、タイオンは焦ってすぐにアタシの体を解放する。
喜びのあまり勢い余って抱き着いてきたのだろう。
普段冷静沈着で真面目なこいつが、感情の発露を抑えられていない様子に、一抹の喜びを感じてしまう。


「ご、ごめんっ、こういうことはしないと言ったのに」
「アタシたち付き合うんだろ?だったらもうなにしたっていいんだよ。手を繋ぐのも、ハグするのも、キスだって……」


それは遠回しな催促だった。
気持ちが見えない間柄でのスキンシップは不安を煽るだけだけど、気持ちが通じ合っている相手との触れ合いは心を満たしてくれる。
アタシの催促を察してくれたのか、タイオンの赤らんだ顔がゆっくりと近付いてきた。
受け入れるように目を閉じると、唇に柔らかな感触が触れる。
子供のころからよく知っている幼馴染と、あのタイオンと、今キスをしている。
この事実は、長かった“友達”時代の終わりと、“恋人関係”の幕開けを示していた。

触れ合っていた2人の顔がそっと離れる。
目を開けると、やっぱり赤い顔をしたタイオンと目が合った。
背は随分高くなったけれど、顔つきだけはあの頃のまま何も変わらない。


「ユーニ」
「なに?」
「下に戻ったら、みんなに紹介してもいいか?“彼女だ”って」
「それは全然いいけど、揶揄われるんじゃね?そういうの嫌いだったじゃん」
「いや、もういいんだ」


先ほどの強引さが嘘のように、今度は優しくアタシの身体を抱き寄せてきた。
胸板に頬を寄せると、少しだけ早いタイオンの鼓動が聴こえてくる。
その鼓動に耳を傾けていたアタシの髪を撫でながら、タイオンは深い声で囁くのだった。


「今は、君を自慢して回りたい気分だから」


胸の奥がじんわり暖かくなる。
17年間生きてきて、こんなに幸福感を感じた瞬間はない。
タイオンと一緒にいれば、この感覚を毎日味わえるに違いない。
ガラにもなく泣きそうになっている事実を悟られたくなくて、アタシはタイオンの胸板に顔をうずめながらその背中に腕を回した。
“うん”と囁いた声は、少しだけ震えていた。

この日を境に、アタシたちの関係は“疎遠だった幼馴染”から“恋人”へ昇華した。
お互いの学校の同級生や中学時代の同級生、それぞれの家族に付き合い始めたことを報告するたび、これでもかというほど揶揄われたのは言うまでもない。
周囲からの“お似合いじゃん”という言葉を全く否定しなくなったタイオンに、アタシは喜びを感じていた。


END