【アクかな】
■推しの子
■アニメ2期時間軸
■短編
ここ数カ月の期間は芸能の世界に身を置き始めて以降一番の忙しさを極めた。
大人気漫画『東京ブレイド』の舞台出演が決まってからというもの、毎日のように稽古に明け暮れる日々。
内容的にも動きが多く、舞台上を全力で走り回ったり本格的な殺陣を披露する場面が多々あるため、一回の稽古における体力消費がかなり激しい。
稽古の終わり際には、汗だくで息を切らしていることも多かった。
レギュラーメンバーとして舞台に立つこと自体初めてだったアクアだが、日々蓄積していく疲労感に驚きを隠せない。
演劇を本業としている黒川あかねや有馬かな、その他劇団ララライのメンバーたちが一切愚痴をこぼしていない様子を見るに、演劇畑の人間からするとこれが普通なのだろう。
とはいえ、疲労と驚き、そして多忙にあふれた日々も、時を重ねれば次第に慣れていくものだ。
初回公演が1か月後に迫った今となっては、稽古尽くしの毎日に馴染んでいる自分がいる。
この時期になると通し稽古まで全て完了しており、個々の演技に関してはほぼ完ぺきな状態に仕上がりつつある。
この時期、一番力が入っているのは演者ではなく裏方。特に広報部隊だろう。
1か月後の幕開けに向け、各所で広告を打ち出している。
東京の主要駅構内には大々的にポスターが貼られ、ビルに設置された大型画面には派手なCMが流れている。
大人気漫画が原作の作品というだけあって、SNSを見る限りファンからの期待値もかなり高い。
各キャストへの注目度もどんどん高くなり、その影響か仕事が増え始めた面々もいる。
主演を務める姫川大輝はもちろん、黒川あかねも新しくネット配信ドラマのゲスト出演が決まったという。
注目作に出演すると一気に生活が変わると言うが、その波はこの小さな芸能事務所、苺プロにも押し寄せていた。
「トレインチャンネル?」
事務所で何気なくファッション雑誌を読んでいたアクアの耳に、聞き馴染みのない単語が飛び込んできた。
この芸能事務所を切り盛りする女社長ミヤコと、妹ルビー。そして舞台『東京ブレイド』でアクアと共演予定の元天才子役、有馬かな。
彼女たち3人の姦しい世間話の一端に、その単語は紛れ込んでいた。
初めて聞く単語が単純に気になり、雑誌から視線を上げて会話に割り込んでみる。
今までずっと黙ってソファに腰かけ雑誌を読んでいたアクアが急に会話に参入してきたことで、3人の女性陣による会話はいったん中断する。
「電車の中で流れてるニュースやら天気予報よ。貴方も見たことあるでしょ?」
アクアの純粋な疑問に答えたのは年長者のミヤコだった。
デスクに置いた自身のスマホを操作し、画面を見せてくる。
そこに映っていたのは動画投稿サイト。表示されていた動画は、電車の中でよく流れている無音のニュース画面だった。
確かに何度も見たことがある。電車の行き先案内などが表示されているドア上部の小さな画面。
あの画面に放映されている映像のことを、“トレインチャンネル”と呼ぶらしい。
だが、芸能事務所の女社長と十代の新人アイドル2人による会話の中に、何故トレインチャンネルという単語が登場したのかイマイチわからない。
“それがどうかしたのか”と問いかけると、母親そっくりな美しい目を煌めかせながら妹のルビーが前のめり気味に教えてくれた。
「先輩がね、このトレインニュースのCMに出ることになったんだって!」
「有馬が?」
「そう!しかもMeRay(ミレイ)のCMだって!すごくない!?」
「ルビー、いちいち大袈裟すぎるのよ……」
興奮した様子のルビーの肩越しに、あきれた表情で視線を逸らしている有馬かなの姿が見えた。
少し照れ臭いのか、ほんの少しだけ顔が赤くなっている。
電車内で流れるニュースや天気予報の合間には、無音のCMが何本が入ることがある。
ドラマのやゲーム、美容品や食べ物。内容は多岐にわたる。
テレビやネットのCMほどではないが、電車を利用することが多い人間にとってはかなりなじみ深い広告だろう。
CMといえば、芸能人やインフルエンサーにとって最も費用対効果が高いコンテンツだ。
報酬も高く、女優として成功している人間は何本もCMを持っているのが世間的な常識である。
たった1本のCMでさえ、その後の芸能生活を大きく左右してしまうほどの大きな仕事と言えるだろう。
「確かに凄いな。CMなんて簡単に決まる仕事じゃないだろ」
「だから大袈裟なのよ。CMって言っても電車内限定の無音CMだし、メトロでしか流れないらしいからそこまで人目に触れないだろうし」
「でもCMはCMじゃん!オファーが来るだけすごいよ先輩」
「そうね。それにあのMeRayのCMだし、電車内限定とはいえ若い子の目には必ず留まるはずよ」
「まぁ、MeRayからオファーが来たのは確かにびっくりしたけど……」
有馬にはかつて、天才的な演技力に胡坐意を掻いた結果この世界から爪弾きにされた過去がある。
そのトラウマからか、称賛に値する結果を得られても素直に喜べない可愛げのない女優に仕上がってしまった。
今回も、与えられた仕事を素直に喜び慢心することへの恐怖感があるのだろう。
喜びを必死に抑えながら視線を逸らすその表情は、喜びと不安が入り混じった複雑な色を醸し出していた。
トレインチャンネルのCMの仕事が決まったことは素直に喜ばしいことだ。
だが、ルビーやミヤコも口ぶりから察するに、“トレインチャンネルのCM”が凄いというよりは、“MeRayのCM”が決まったことの方が称賛に値するらしい。
2人は当然のように“MeRay”が何なのか認知しているようだが、アクアにとっては未知の単語でしかなかった。
「さっきから言ってるMeRayってなんだ?人の名前か?」
雑誌を見つめたまま何気なく問いかけた瞬間、事務所内の空気が0.5℃ほど下がったような気がした。
一瞬の沈黙に居心地が悪くなり再び雑誌から視線を上げると、女性陣3人が“信じられない”とでも言いたげな表情でこちらを見つめている。
「え、お兄ちゃんマジで言ってる?」
「そんなに有名人なのか」
「有名人じゃなくてコスメブランドの名前。あんた本当にその辺疎いのね」
「こっちは男なんだから化粧品の名前なんて知るわけないだろ」
「今はメンズメイクとか当たり前の時代じゃん。それにお兄ちゃんだって一応舞台に出る程度には芸能人なんだからメイク知識が全くないのはどうかと思う」
あの能天気という言葉を体現化したような存在である妹のルビーに真理を突かれ、アクアは思わず押し黙ってしまう。
確かに芸能の世界に足を突っ込んでいる以上、自らのビジュアル管理のため美容やコスメに関する知識は並み以上に持っておく必要がある。
コスメに詳しくない理由として、“男だから”という理由はこの世界では通用しないのだ。
一応メジャーな化粧品会社やブランド名は知っているつもりだったが、その“MeRay”という名前は初耳だった。
だが、3人の女性陣の反応からして、本来知っていて当然なほど有名なブランドなのだろう。
「最近鬼バズりしてるコスメだよ。特にアイシャドウが人気なの。ホントに知らない?」
「知らない。有馬はそのアイシャドウのCMに出るのか?」
「私が出るのはティントのCM。新作が出るらしいのよ」
「ティント……?」
「まぁざっくり言うと口紅の一種ね。こういうの」
デスク下に置いていた随分と高そうな白いバックから、ミヤコは少し大きめのポーチを取り出した。
その中から出てきたのは一本の黒い口紅。収納されている芯は少しくすんだ赤色をしている。
要するに、有馬は最近若い女性から人気のコスメブランド、MeRayから出る新作の口紅のCMに出るらしい。
「先輩がこのCMでもっと知名度を上げれば、B小町の知名度もうなぎ上りになるかも……!」
「あんたはホントそれしか考えてないわね。ま、確かにCMが人目につけば他の仕事にも大きく影響するでしょうけどね」
「そうね。それこそ東京ブレイドの動員数にも響くかもしれない。期待値大ね」
基本的に舞台を観劇に来る客層のほとんどは原作ファンがほとんどだろう。
しかし、キャスト個人のファンが来るパターンも当然ある。
今回のCM出演で有馬のファンが増えれば、当然ながら東京ブレイドの動員数が増えたり注目度が上がる可能性も大いにあるだろう。
そういう意味でも、今回の仕事は大きな意味があると言える。
しかし、何故だか有馬の表情は沈んで見えた。
喜びの色よりも、不安の色の方が濃く出ているような気がする。
擦れた性格をしているとはいえ、仕事自体に不満を零すほど荒れたタイプではないはずだが、一体どうしたのだろう。
「有馬、どうかしたのか?」
「え?なにが?」
「やたらと暗い。CMが決まった人間の反応じゃないだろ」
「失礼ね。これでも一応アイドル業に片足突っ込んでんのよ?そんな女に対して“暗い”は酷いんじゃない?てか陰キャのあんたに暗いとか言われたくないわよ」
1投げると10返ってくるのが有馬かなという女だ。
確かに顔は暗いが、テンションまで下がっているわけではないらしい。
彼女が暗い表情をしていると、妙に落ち着かない。
いつも通り鋭く言い返してくる彼女の態度に、ほんの少し安堵している自分がいた。
***
都内某所。
高層ビルが多く立ち並ぶ都心とはいえ、以外にも自然を感じられるスポットは多い。
都内にいくつか点在する大きな公園のひとつで、アクアは恋人である黒川あかねと憩いのひと時を楽しんでいた。
恋人と呼称したが、“恋人役”と称したほうが正確だろう。
この公園でのデートは、二人が出会ったきっかけにもなった恋愛リアリティ番組、通称“今ガチ”のファンに向けたアリバイ工作の一環である。
互いのSNSでデート風景を発信することで、二人の交際を一つのコンテンツとして楽しんでいる層への需要を満たしているのだ。
公園内にある蓮が浮かんだ池の前で寄り添い、仲睦まじい様子で撮影したところで、本日のミッションは終了する。
この写真一枚を撮影したことで2人が一緒にいる理由はなくなってしまったわけだが、わざわざ待ち合わせて来たのだからこのまま解散するのは惜しい。
そんなあかねの一言がきっかけとなり、2人は撮影後もしばらく公園内を散策することにした。
「うそ!MeRayのCMやるの!?」
「俺じゃなくて有馬がな」
暫く公園内を歩き回った二人は、近くのカフェで冷たい飲み物を購入し、公園脇のベンチで並んで休憩することになった。
木々の合間から差し込む木漏れ日を観察しながらぽつぽつと世間話に花を咲かせていた2人だが、なんとなくアクアが口にした話題にあかねは過剰なまでに食らいつく。
「MeRayって……。それ、オファーされた仕事?」
「みたいだな。うちの社長曰く、先方の広報担当が有馬をかなり推してたらしい。ブランドのコンセプトにぴったりだって」
これは最初にCMの話を聞いた後に耳にしたことだが、どうやらMeRayの広報担当と広告代理店の担当が、是非有馬かなに広告塔になってほしいと猛プッシュしていたらしい。
あまりの勢いに有馬本人が怪しんでいたほどだ。
贔屓目を取り払い、俯瞰して考えてみても今の有馬にそこまでの勢いや影響力はない。
“今日甘”の主演を張っていたが最終回以外の評価は散々で、“東京ブレイド”への出演が話題にはなったもののそこまでの起爆剤にはならなかった。
そんな今の有馬に猛プッシュをかける理由がイマイチわからなかったが、ありがたい話だったためミヤコも有馬も深く考えずこの仕事を受けたのだという。
「そっか。でもなんかわかっちゃう気がするなぁ、悔しいけど」
「有馬がMeRayのコンセプトに合ってるって話がか?」
「うん。なんていうか、MeRayっぽいもん。かなちゃん」
あかねは幼いころから有馬かなに憧れていた。
有馬に関する解像度は、アクア以上に高いと言える。
そんな彼女が納得できると言うのなら、MeRayの広報担当者の眼力に狂いはないのだろう。
だが、そもそもMeRayというコスメブランドのことをよく知らないアクアには、あかねの言に共感できるほど納得できていなかった。
「そもそもMeRayってどんなコスメブランドなんだ?」
「アクア君、あんまりメイクとかしない人?よくないよ~、表に出るお仕事してるのに」
先日妹から散々窘められたことをあかねにまで言われるとは思わなかった。
あかねにしろルビーにしろ有馬にしろ、積極的に表に出ていこうとする人間は自分のビジュアルを向上させる努力を怠らない。
アイの敵を討つ目的でこの世界に足を踏み入れたアクアとは違い、演技やアイドル活動で生きていこうとしている彼女たちとは、努力できる幅がそもそも違うのかもしれない。
気まずげに視線を外すアクアに、あかねはMeRayについて随分と丁寧に教えてくれた。
MeRayは老舗化粧品メーカー美麗堂が展開している比較的新しいブランドで、十代後半の女性をメインターゲットとしている。
価格帯も低く、所謂プチプラコスメと呼ばれる部類のものだが、十代のインフルエンサーがこぞって使い始めたことで最近一気に知名度を上げたのだという。
「高校生から大学生くらいの子がよく使ってるコスメって感じかな。値段は安いけど質がいいって評判で、業界でも使ってる人よく見るよ。私もアイシャドウ使ってるし」
「年齢的には有馬はターゲット層と同じ世代ってわけか」
「うん。でもそれだけが理由じゃないと思う」
両手で持っていたカフェラテを飲み干すと、あかねは足元に視線を落とす。
白洲になっている地面の小石をかかとで転がしながら、彼女は目を伏せる。
「MeRayはね、プチプラコスメって言われてはいるけど、高校生がアルバイト代で買うにしては少し高めの価格設定なの。その世代が使うには背伸びが必要なブランドというか……」
「こだわりがある奴が使いがちなブランドってわけか」
「そんな感じ。メイクを覚えて少し経った高校生や、ワンランク上のコスメに手を出したい子がまずチェックするのがMeRayなの。“少しいいコスメ”の王道的存在だから」
「王道的存在、か……」
「かなちゃんが選ばれた理由、なんとなくわかるでしょ?」
あかねの言葉に、アクアはエスプレッソのカップに口をつけながら小さく頷いた。
コスメのことはよくわからないが、この業界における有馬の立ち位置はよくわかる。
かつて天才子役と謳われ一世を風靡した彼女は、この世代を彩る女優たちの中では王道的存在といえる。
かつての煌めきや勢いはないが、演技力は間違いなく一流。
誰が見ても、“上手い女優”である彼女は、本気になればその場にいる者すべての視線をかき集めてしまう。
安定と話題性で言えば、彼女はまさに王道的女優だ。
そんな有馬の立場と、MeRayのブランドイメージがぴったりマッチしている。
だからこそ先方の担当者は有馬を起用したがったのかもしれない。
恐らくだが、CMとして打ち出す予定の新作の口紅は、爆発的な売り上げよりも無難に安定して売っていきたいのだろう。
爆発力はなくとも安定感のある王道的女優、有馬かなを起用したのがその証拠だ。
「なるほど。攻めよりも守りの姿勢で売っていきたいわけか。なら有馬は適任だな」
彼女は周囲の空気を読むのが異様にうまい。
自らが太陽になって周囲を照らすのではなく、照明の役割をして周囲を際立たせることができる。
これは彼女の賞賛すべき才能でもあるが、疎ましい欠点でもある。
彼女なら、安定的に売っていきたいという広報担当の思惑を読み取り、主張しすぎない無難な演技を披露できるだろう。
それが互いにとっての正解なら、有馬は駄々をこねることなく従うはずだ。
なにせ彼女は、自他ともに認める“使いやすい人材”なのだから。
だが、アクアはそんな有馬の演技が好きではなかった。
幼いころの彼女を知っているからこそ、最近の空気を読む演技が鼻に突く。
実力は間違いなくあるはずなのに、昂まる寸前に身を引き照明に徹する。
そんな彼女の立ち居振る舞いに、舞台の共演者としてちょっとした不満を抱いてもいた。
初めて会った頃の有馬かなは、照明ではなく太陽だった。
“私だけを見て!”
そう主張するかのように煌めく演技をする彼女は、まさにスターの輝きを放っていた。
叩きのめされた経験が彼女から輝きを奪ってしまったのなら、彼女のもとから去っていった残酷な大人たちが恨めしい。
お前たちがちゃんと有馬を見ていれば、きっと彼女は今も太陽でいられたのに。
「ねぇアクア君。今何考えてる?」
遠くを見つめたまま有馬の顔を思い浮かべていたアクア。
そんな彼の顔を、隣に腰かけるあかねは覗き込んできた。
「別に何も」
「嘘が下手だね」
「どちらかというと上手い方だと思うけどな」
「下手だよ。私の前ではね。特にあの子のことになると余計に」
隣にいるあかねの方に顔を向けられなかった。
彼女がどんな顔をしているのか、想像できないほど馬鹿でも鈍感でもない。
けれど、都合のいい言い訳や思ってもいない甘い嘘を吐く気にはなれなかった。
あかねの言う通り、おそらく彼女に気休めは通用しない。
だからこそ、アクアは逃げるように沈黙を選んだ。
何も言わない“彼氏”に、あかねはふっと乾いた笑みを浮かべると、自らの両ひざの上に両腕で頬杖を突き囁いた。
「なんか悔しいな」
「有馬がCMやることがか?」
「それもだけど、それだけじゃないよ」
少しだけ拗ねた様子を見せるあかねだったが、アクアがそれ以上あかねに言葉を贈ることはなかった。
何を言っても嘘くさくなるような気がして。
ひとつ年上の17歳にしては大人びた風貌だが、彼女も年相応の嫉妬心を秘めているらしい。
黒川あかねは可愛い。間違いなく可愛い。
その事実を頭では理解していたが、心では理解しきれていない。
たとえば今、可愛らしい嫉妬心を向けてくるあかねにこの心が反応していたのなら、もっと単純な少年でいられたのかもしれない。
単純な“可愛い”だけでは、荒み切ったこの灰色の心は色付かないのだ。
それはきっと、遠い過去にこの心を蝕んだ真っ黒な根が、誰かを特別視しようとする淡く美しい気持ちを殺し続けているからなのだろう。
雨宮吾郎を宿したこの身体は、純粋な16歳ではいられない。
***
その日、有馬かなは東京ブレイドの舞台稽古を欠席した。
理由は単純。MeRayのCM撮影が入ったからだ。
今回は2回目の撮影で、数日前に行われたスタジオでの撮影とは打って変わり外での撮影となる。
「有馬さん入りまーす」
「よろしくお願いしまーす!」
周囲を固めるスタッフたちに元気よく挨拶すると、一斉に挨拶が返ってきた。
現場で演者が最も気を遣うべき相手は共演者ではない。撮影に携わるスタッフたちだ。
スタッフへの傲慢な態度が原因で業界から干された過去を持つ有馬は、出来る限り愛想よくスタッフに接することを心掛けている。
少しずつ少しずつ仕事が増えつつあるのは、彼女のそんな草の根活動が徐々に実を結び始めているからかもしれない。
「有馬ちゃん、今日もよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
一番最初に声をかけてきたのは監督だった。
CM業界においては巨匠と呼ばれるほどの実力を持つこの監督は、かつて子役時代にも何度か世話になったことがある。
確かあれはカレールーのCMで、母親が作ったカレーを美味しそうに頬張る娘の演技を求められた。
彼が撮ったCMの商品で売れなかったものは一つもない。
MeRayを展開している老舗化粧品メーカー、美麗堂は、ずいぶん昔からこの監督にCM制作を依頼している。
ふと周りを見れば、撮影に携わっているスタッフの中に、スーツ姿の小綺麗な大人たちが混じっている。
恐らくMeRay側の広報チームだろう。
ドラマや映画と違い、プロモーションの役割が強いCM撮影では、こうして企業側の人間が撮影現場にいること自体珍しくない。
ドラマや映画、舞台においては監督や演出家の判断が全てだが、CM撮影においては基本的に企業側が舵を握っている。
撮影が始まる前の打ち合わせ時、MeRayの広報担当たちの言でなんとなくこの商品の売り方が理解できた。
爆発的にヒットさせたいというよりは、安定的に売ってロングヒット商品としてのブランド力を確立させたいらしい。
となれば、好き嫌いが分かれるインパクト重視の演じ方よりも、万人受けする無難な演じ方で攻めるのが吉。それが企業側が望んでいる立ち回り方だろう。
同年代の中では誰よりも長くこの世界に身を置いている有馬かなにとって、作成側、広報側が求めている本質を見抜くことは容易だった。
「ではシーン3-aから始めます」
スタッフのそんな声と同時に、撮影隊が慌ただしく準備を始める。
今日の撮影場所はとあるカフェのバルコニー席。
二人掛けの席に座ると、正面の席には誰も腰かけずカメラマンがレンズを構え始める。
カメラは有馬を捉え、掲げられているすべての照明が彼女を照らしている。
CM撮影自体かなり久しぶりだった彼女は、内心密かに緊張していた。
このCMのコンセプトは事前に聞いている。
まず自宅でのメイクシーンから始まり、そこで有馬が商品であるティントを唇に塗る描写が挿入される。
場面は変わり、彼氏とデートをするシーンがスライド方式で流れる。
今日撮影するのは、主に後半のデートシーンである。
よーいアクション、の掛け声とともにカメラが回り始める。
台本の通り、目の前にあるカメラを見つめながら用意されたカフェラテに口をつける。
このCMは電車内で流れるため音声がない。当然台詞もないため、ただただ黙ってカメラを見つめるだけのシーンとなる。
10秒ほど撮影したところで、監督から“カット”の声がかかった。
「有馬ちゃん、もう一回。もう少し可愛くできる?」
「えっあ、はい」
“もう少し可愛く”という実にざっくりした指示に、有馬は戸惑った。
そういえばこの監督はこういうタイプだった。
具体的に演技指導するというよりは、感覚に頼って指示を飛ばすタイプ。
感覚ではなく頭で演技プランを組み立てている有馬にとっては、正直苦手な部類であった。
だが、撮り直しを指示された以上こちらとしては従うしかない。
指示通り“もっと可愛く”を意識してみたが、再び撮り直しを指示された。
見つめ方を変えても、微笑み方を変えても、首の角度を変えてみてもやり直し。
いい加減何がだめだったのか具体的に教えて欲しいものだが、監督は“もっと可愛く”と繰り返すだけで指示を変えてくれなかった。
そしてTAKE7が終了した時点で、流石に心が折れそうになってしまう。
演劇のキャリアはこれでも10年以上ある。にも関わらず、ほんの10秒足らずのカットにここまで時間をかけてしまうなんて。
自尊心が折れかけたその時だった。
今まで“もっと可愛く”以外の指示をしてこなかった監督が、初めて別の言葉を有馬に投げかける。
「有馬ちゃんね。このCMがトレインチャンネル専用のCMだってことは分かってるよね?」
「は、はい。もちろん」
「じゃあテレビやネットのCMと、電車内のCMでの一番大きな違いって何だと思う?」
「それは……。音声の有無ですかね」
「そう。今撮影している映像には音声が全くつかない。通勤や通学の電車内で、ほとんどの人は自分のスマホに視線を落としているはずだ。わざわざ好んで電車内のCMに目を向ける人はほとんどいない」
「えぇ、そうですね」
監督の言っていることに間違いはない。
このCMが流れる予定の液晶は、車両のドア部分上部に位置している。
わざわざ見ようと思わなければ視線が向くことはない場所である。
しかも無音となれば、余計に目につきにくいだろう。
「ほとんどの人がなかなか見ない場所で流れているうえ、音声が一切ついていない。そんな状況で見てもらうにはどんな演技をすればいいかわかる?」
「……人目を引きつけるために、表情で魅せる、ですか?」
「その通り。でも今の有馬ちゃんは全然魅力的な表情をしていない。彼氏とデートしてるって設定なのに、全然可愛くない」
監督の指摘は実に残酷だった。
演じること自体は出来ている。だが、台詞もBGMも流せないこのCMにおいては、演技の比率を表情に全振りする必要がある。
表情演技が苦手なわけではないが、表情だけに全神経を集中させる演技をした経験が少ないのだ。
そして何より、“彼氏とデートをした経験”が皆無なのも要因としてかなり大きい。
子供のころから芸能活動をしていた彼女にとって、異性と二人きりでデートらしきことをした経験が極端に少ない。
ドラマで恋愛ものを演じた経験はあるが、それは第1話から積み上げた“付き合うまでのエピソード”に没入できたからこそ問題なく演じることができた。
しかし所詮30秒ほどのCMには、彼氏と付き合うまでのエピソードは描かれていない。
だからこそ、想像で演じるしかないのだ。
「いい?有馬ちゃんが出演するこのCMは、普通に演じてたら誰も見てくれない。手元にあるスマホの方がよっぽど興味を煽るコンテンツを見せてくれるからね。電車内で流れる30秒の間だけ、乗客の視線を君に釘付けにさせないといけない。わかる?」
「はい」
「君は今、大好きな“彼氏”とデートしてるんだよ?もっと目で訴えなきゃ。“私を見て!私だけを見て!”ってね。じゃなきゃもっと可愛い子に彼氏の視線、持っていかれちゃうよ?」
監督から指摘された瞬間、心の奥からぞわりとした感覚が押し寄せてきた。
頭に浮かんだのはアクアの姿と、そんな彼の腕に自らの腕を絡める黒川あかねの姿。
そうだ。監督の言う通りだった。
うかうかしていたから、見て欲しかった人の視線がもっと可愛いあの子に取られてしまった。
こんなに擦れた女、好かれるわけがない。そんな諦めにも似たプライドが邪魔をして、アクアをまっすぐ見つめることができない。
本当はこっちを見てほしい。熱を孕んだ視線で見つめ合えたらどんなに幸せか。
目を伏せる。
自分の手元に視線を落とせば、メイク担当が綺麗に塗ってくれた薄桃色のネイルが指を彩っていた。
今自分が演じている女の子は、この新しいティントをつけて、指先まで気を遣い、最大限の“可愛い”を作り上げて“彼氏”に会いに来ている。
そこまで必死に着飾るほど好きな相手と一緒にいるとき、“私”ならどんな顔をするだろう。
「それじゃあもう一度いくよ」
監督の掛け声とともに、再びカメラが回る。
伏せていた視線をゆっくり上げると、カメラの向こうに“アイツ”がいるような気がした。
右側の髪を指でなぞって耳にかける。
左手で持ったカフェラテのカップに軽く口をつけてカメラを見つめると、そこにはいないはずの“アイツ”が笑みを向けてくれた気がした。
ただ、こっちを見て微笑んでくれることだけが嬉しくて、きっとこちらも自然に笑ってしまう。
そして、“アイツ”の視線を惹きつけることに成功した自分はこう思うはずだ。
そのまま、そのまま。
余所見なんてしないで。
目をそらさないで。
可愛いって言って。
好きだって言って。
少しでもいいから、ドキドキして。
私を、私だけを見て。
カメラを見つめ、訴えかける有馬かなの表情に、その場で撮影風景を見ていたスタッフや企業の広報担当たちは呼吸を忘れていた。
場の空気が、先ほどまでとはがらりと変わって甘くなる。
まるで本当にレンズの向こう側に“彼氏”がいるような、そんな没入感を与えてくれる。
モニターでチェックしていた監督は、そこに映る“恋する少女”を見つめて口角を上げた。
やっぱりこの子、太陽だな。
心の中でそう呟くと、監督はその日一番の声量で“カット!”と叫んだ。
***
東京ブレイドの舞台稽古は大詰めを迎えていた。
本番と同じ衣装をまとい、同じメイクを施した状態での通し稽古も終了し、あとは各々が演技の角度を上げていくだけ。
その晩、アクアは先に帰る他の面々を見送り、あかねと二人でスタジオに残り個人稽古をこなしていた。
台本上、アクアとあかねが同じ舞台上で演じるシーンはかなり多い。
こうして二人で遅くまで稽古に励むのは珍しい光景ではなかった。
2人きりでの稽古を始めて2時間後、ようやく一区切りついたところで解散の流れとなった。
あかねを家まで送ろうとしたアクアだったが、終電の時間が迫っており彼女を送ると自分まで帰る手段を失ってしまうため、あかねに遠慮される形で別々に帰路へとつくことに。
23時過ぎのメトロ車内はいつもより閑散としている。
座席はところどころ空いていて、吊革に掴まり立っている乗客は一人もいなかった。
端の座席に腰かけ、スマホを取り出す。
先ほど別れたばかりのあかねから届いていた“気を付けて帰ってね”というメッセージに、“そっちもな”と返事を返す。
メッセージを送信した瞬間、二人分の空席を挟んだ隣に座っているカップルの会話が聞こえてきた。
「あれって有馬かなじゃない?」
「あぁ今日甘の?」
「そうそう」
知った名前を耳にしたことで、思わず意識が浮上する。
隣のカップルを横目で観察すると、ふたりの視線は電車のドア上部に設置された画面へと向けられていた。
そういえば、今日は有馬が出演しているMeRayのCMが放映される日だった。
CMは問題なく流れているらしい。
カップルたちと同じように視線を上げ、なんとなく画面へと目を向けたその瞬間だった。
視界に入ってきた光景に、思わず声が漏れる。
「え……」
あどけなさが残る有馬の小さな頬に、骨ばった小麦色の手が添えられる。
有馬の煌めく大きな瞳がわずかに上を向き、迫る顔を受け入れるかのようにゆっくりと瞼を閉じた。
有馬の小ぶりな唇と、知らない男の唇が触れ合いそうになった瞬間、アクアの手からスマホが零れ落ちる。
あかねとのトークルーム画面が開いたままになっている彼のスマホは、派手な音を立てて電車の床に叩きつけられた。
ガタンっというスマホが落ちる音に反応し、周りの視線がアクアに集中する。
思わず焦り、大きな音を立ててしまったことを謝罪するつもりで軽く頭を下げスマホを拾い上げる。
急いで視線を画面に戻すと、CMは最後の商品紹介場面に切り替わっており、新作のティントが価格と共に大きく映し出されていた。
そして、最後に有馬が彼氏役の男と腕を組み楽しそうに笑っている場面からホワイトアウトする。
“可愛い”のその先へ。
美麗堂、MeRay。
社名とキャッチコピーが朱色のフォントで表示され、CMは終了した。
ほんの30秒足らずのそのCMは、アクアの視線を釘付けにしてしまった。
CMが終わると、同じように画面を見上げていた隣のカップルが再び会話を始める。
「えー、MeRayからティント出たんだぁ。買おっかなぁ」
「てか、有馬かなってあんなに可愛かったっけ?」
「あー思ったぁ。子役のイメージ強かったけど結構顔かわいいよね」
「インスタとかやってんのかな?」
「ちょっとぉ、何あたしの前で他の女フォローしようとしてんのー?」
「いやいや違うって。確認するだけだって。あ、やってんじゃん。へー東京ブレイドの舞台出るんだ」
「えっ、なに?東ブレって舞台やんの?行きたいんだけど!」
「一か月後だって。一緒に行くか」
「うん行く!」
大衆とは容易いものだ。
大抵の人間は、広報が導きたい道筋通りに進んでくれる。
隣にいるこのカップルも、苺プロ社長のミヤコの思惑通り、有馬に注目した結果東京ブレイドの舞台に興味を注いでいる。
少なくとも、有馬のCM効果で2人の新規客を呼び込むことができた。これだけでも功績と言えるだろう。
だが、アクアの心には暗雲が立ち込めたままだった。
有馬の頬に男の手が触れ、顔が近付いてゆくあのシーンが頭からこびりついて離れない。
キスシーンがあるなんて聞いてない。
そうか、有馬が少し不安そうにしていたのは、このシーンがあると知っていたからか。
なら事前に言ってくれればよかったのに。
いや、わざわざ撮影の内容を事細かに言う方がおかしいか。
自分は彼女のマネージャーでも何でもないのだから。
やがて地下鉄は自宅の最寄り駅へと到着し、アクアはいつも通りのふりをして改札を通った。
歩き慣れた道を進み、自宅マンションに到着する。
リビングでは風呂上がりの妹が豪快に牛乳を飲んでおり、口に白いひげをつけながら“お兄ちゃんおかえり”とほほ笑んできた。
適当に返事を返して自室へ引っ込むと、途端に身体から力が抜けた。
ベッドに腰かけ、スマホを手に取り動画投稿サイトを開く。
検索欄に入力した単語は“有馬かな”。
一番上に出てきたのは、先ほど電車で見たばかりのMeRayのCMだった。
母譲りの美しい瞳を細め、動画をタップする。
すると、BGMも効果音も何もついていない無音のCMが手元で流れ始めた。
有馬が自宅のドレッサーでメイクをしているシーンからCMは始まる。
うきうきと、楽しそうに商品の口紅を唇に塗る彼女は、いつもと空気が違って見えた。
次にカフェでお茶をしているシーンに転調する。
ここからは彼氏の主観視点を思わせるカメラワークとなっていた。
リンゴのように赤い髪を耳にかけ、伏せていた大きな目をカメラに向け、コーヒーのカップを口元に寄せながらほほ笑む彼女に、視線が吸い込まれる。
私を見て。
そう訴えかけるようなその視線は、ディスプレイを挟んでいるとは思えないほどのリアリティがあった。
目を逸らすことができない。もっとその顔を見ていたい。
心臓が容赦なく締め付けられる。
心に巣食う真っ黒な根が、有馬の視線によって次々取り払われてゆく。
彼女の存在が、視線が、微笑みが、アクアをただの16歳の少年に戻してしまう。
だめだ、それはだめ。
この感情に身を任せてはいけない。
自分にはまだやることがある。
甘さも心地よさも幸福感も、この心と身体には不要なものなのに。
雨宮吾郎を押しのけて、星野愛久愛海が顔を出す。
“僕の心はここにある。欲しいものはそれだ。それをよこせ”とけたたましく主張してくるのだ。
2つに裂けた心は、どちらも同じ色をしているのだと思っていた。思い込んできた。
けれど、もはや誤魔化しがきかない。
16年前に生まれたもう一つ心は、年相応な淡い感情を抱いている。
自分の手元で太陽のように輝いている、この女の子に。
「そんな資格ないだろ……」
胸に手を当てる。
心臓があるはずのその場所は、嫌になるほど高鳴っていた。
その鼓動を感じるたび、この身体は16歳の思春期なのだと自覚してしまう。
心と身体、そして頭がそれぞれ別の意識に支配されているかのような、妙な気持ちになった。
“可愛い”のその先へ
最後に表示されたキャッチコピーを再び見た瞬間、思わず笑みがこぼれる。
この会社の広報は、キャッチコピーをつけるのがうまい。
まさにこのCMは、このキャッチコピーは、有馬かなにぴったりだった。
***
芸能活動をしている人間にとって、SNSの存在は武器にもなるが敵にもなりえる。
MeRayのCMに出演したばかりの有馬にとって、SNSは今のところ大きな武器ととなっていた。
フォロワー数は目に見えて増えており、東京ブレイドの初公演を目前に控えていることも考えればいい流れと言えるだろう。
幸運なことに、MeRayのCMは随分と好評だったらしく、商品の売り上げも上々らしい。
この分ならまた新作が出たときにCM出演の話が来るかもしれない、と社長のミヤコは言っていた。
昨日に比べ100人ほど増えたフォロー数を見つめながら、有馬は心躍らせていた。
だが、彼女にとって慢心は敵でしかない。
心緩みそうになっている今こそ、足を踏み外してしまうかもしれない。
ほころびそうになる表情を引き締め、有馬はいつも通り事務所の扉を開けた。
「おはようござ……、あれ」
事務所にミヤコをはじめとする社員は一人もいない。
いるのはソファに腰かけ開いた雑誌に視線を落としているアクア一人だけだった。
いつもならルビーやMEMの姿もあるのに、アクア一人しかいない事務所内はやけに閑散としている。
中に入ってきた有馬の姿を一瞥すると、アクアはすぐに雑誌へと視線を戻す。
「あんたひとり?ルビーたちは?」
「ルビーは寝坊だ。まだ家で寝てる」
「はぁ?今何時だと思ってんのよ……」
「まぁ特段仕事があるわけじゃないんだしいいだろ」
「あんた本当に妹に甘いわよね……」
足を組み黙々と雑誌を読み続けるアクアの正面に腰かける。
壁にかかっている時計に目をやると、時刻は午前10時を指していた。
今日は昼過ぎから東京ブレイドの稽古がある。
有馬はMeRayの仕事があったため少しの間稽古を休んでいた。
今日は彼女にとって久しぶりの稽古日である。
稽古に出ていない間も、自宅で自主練習は欠かさなかったため演技面での不安はない。
何か心配事があるとすれば、もっと別の事柄だ。
自分がスタジオに顔を出さなかった間、目の前のこの男とあの天才舞台女優がどこまで距離を近づけていたのかがどうにも気になる。
ビジネス上の付き合いとはいえ、世間的には二人は交際しているということになっている。
ルビー曰く、稽古期間中帰りが遅い日も多々あったらしい。
もしもアクアが、黒川あかねと遅くまで稽古をしていたとしたら。
考えれば考えるほど、胃がむかむかしてくるのだ。
だが、いちいちあかねとの仲を詮索しようとは思わない。
自ら深堀したところで傷付くのは目に見えている。
東京ブレイド初公演を目前に控えた今、軽率に心を傷つけてメンタルに影響を及ぼしたくはない。
だからこそ、あえて全く別の話題を投下してみることにした。
「……あのさ、見てくれた?MeRayのCM」
恐る恐る、石橋を叩いて渡るように問いかける。
CMは昨日から放映されている。
都内のメトロ限定で流れているCMだが、動画サイトにも投稿されておりそれなりに話題になっている。
現にルビーやMEMからは“素敵だった!”、“可愛かった!”などの嬉しい感想が届いている。
アクアも同じ事務所の仲間としてチェックしてくれているのではという一抹の希望を抱き、この話題を選んだのだ。
「あぁ、見たよ」
「ど、どうだった?」
感想を求めると、何故かアクアは黙り込んだ。
聞こえていないのかと思ったが、5秒ほどして彼はようやく口を開く。
「まぁ、よかったんじゃないか?」
実に無難な感想が飛んできたことで、有馬はわかりやすくむくれた。
もっとこう、心くすぐられるような嬉しい感想をくれるものだと思っていたのに。
この根暗に誉め言葉を期待するのは愚かだったか。
内心ため息を吐くと、有馬はソファの背もたれにもたれかかった。
「なんか適当ね。まぁ無難なCMって言いたいなら頷けるけど」
「出演した本人が言うか」
「だってそうじゃない?化粧品のCMで彼氏とのデート風景を描くって、割と普通っていうか、私でも考え付く内容だもの。インパクトに欠ける」
「……」
「なに?何か言いたげね」
「別に。インパクトはあっただろ。あんなシーンまであったわけだし」
「あんなシーン?あぁもしかしてキスシーンのこと?」
あっけらかんと口に出す有馬とは対照的に、アクアは一瞬だけ眉間にシワを寄せた。
彼の脳裏で、例のキスシーンが再生される。
思い出すたびむかむかする気持ちを必死で抑えていたアクアだったが、そんな彼の様子に有馬が気付くことはなかった。
「あれはフリよフリ。カメラワークでしてるように見せてるだけで実際にはしてないのよ」
「……そうだったのか」
アクアの瞬きが無意識に多くなる。
フリだったと聞いて無様に安堵しているだなんて悟られたくなくて、彼は読んでいた雑誌を高く上げて顔を隠した。
役者としてのキャリアは長い有馬だが、子役から活躍していた影響か未だキスシーンの撮影は経験がない。
あるとしても今回のような“フリ”だけ。
いつか機会が巡ってくるかもしれないが、プライベートで一度も経験していない以上、ほんの少しの抵抗感があるのは否めなかった。
「事前打ち合わせの段階で、バズらせたいというよりは安定して売りたいみたいな感じだったから、インパクト重視より万人受け重視な内容になるのは正解なのかもね。私を起用したのも、単なるコスト削減のためだったりして」
「……いや、有馬を起用したのは完全に戦略だったと思う」
「え?」
思っていたことを深く考えずつらつらと口にする有馬だったが、不意にアクアから反論が飛んできたことで驚いてしまう。
正面に座っているアクアは、相変わらず雑誌から視線を逸らすことなく言葉を続けている。
「MeRayのキャッチコピー、覚えてるか?」
「“可愛い”のその先へ、ってやつ?それがなに?」
「MeRayは高校生から大学生がターゲットなんだろ?その世代が買い求めるには少し背伸びが必要な価格帯らしいな」
MeRayの存在すら知らなかったアクアが、何故MeRayのブランドイメージを理解しているのか、その理由は考えずとも察することができた。
誰かに聞いたのだろう。ルビーか、MEMか、あるいは……。
「メイクを覚えて少し経った女子たちが、自分の思う“可愛い”をワンランクアップさせるために手を伸ばすブランド。それがMeRayだ」
「そうね。だからこそ“可愛い”のその先へ、なんでしょうね。けどそのキャッチコピーと私の起用に何の関係があるのよ?」
視線を落としたままのアクアが、雑誌のページをめくる。
静かな空間に、時計の秒針とアクアがページをめくる紙の音だけが響いていた。
「有馬は誰もが知る子役の代表みたいな存在だ。世間的にはまだまだ子役のイメージは強い」
「知ってるわよ。どんな作品に出ても必ず言われるもの。“まだ役者やってたんだ”って。私から“子役”の肩書が外れるのは一体いつになるのかしらね~」
背もたれに肘をつき、遠くを見つめる。
子役時代に絶大な知名度を誇った有馬かなという存在は、何年経とうが“有馬かな=子供”という印象を大衆の脳裏に強く焼き付けたまま剥がれない。
17歳になった今でも子役として見られる現状に、有馬は不満を抱いていた。
「でも、あのCMの有馬は誰が見ても“子役”なんかじゃなかった」
アクアへと再び視線を向ける。
落とされた彼の視線と、彼に真っすぐ向けられる有馬の視線は絡み合わない。
一向にこちらを見てくれないアクアにほんの少しの寂しさを抱き始めていた有馬だったが、アクアの次の言葉でその寂しさは消え失せることとなる。
「CMを見た奴はみんな思うはずだ。“この子、こんなに可愛かったっけ?”ってな」
「え……」
「子役のイメージが強く根付いている有馬だからこそ出せるギャップだ。MeRayの広報担当はそれを狙ったんだろうな。だから有馬をキャスティングした。子役としての幼さから脱却した有馬は、まさに“可愛いのその先”にいる存在だからな」
さほど興味のないメンズメイクのページに視線を落としたまま、アクアは言葉を紡ぐ。
相変わらず自分を卑下して傷付く前に自らを傷つけようとする有馬に苛立ち、抗議の意味を込めて言ってやったのだ。
アクアの言葉は基本的に打算の末に紡がれている。
何を言えば相手の心に突き刺さるか。何を言えば相手が自分にとって都合のいい立ち回りをしてくれるか。
常々考えながら言葉を選び、笑顔を作り、関係を保っている。
だが、今日の言葉は打算も嘘もない、真っ白な事実だけを並べ立てているだけだった。
自分でも驚くほどにらしくない、素直すぎる言だ。
言ったことに後悔を抱き始めていると、正面に腰かけている有馬が不意に囁きはじめる。
「あんたって……」
その声は少しだけ震えていた。
思わず顔を上げると、視界に入ってきた有馬の表情を見た瞬間後悔した。
真っ赤な顔で視線を逸らす有馬かなの表情は、アクアの心を乱暴に鷲掴む。
やっぱり、安易に顔を上げるべきじゃなかった。
彼女の顔を見たら、また心が締め付けられてしまうから。
「なんでそう、歯の浮くようなこと簡単に言えんのよ。揶揄ってる?」
「いや、別に……」
「ばかっ、さいあく……」
真っ赤な顔で吐き捨てると、有馬は勢いよく立ち上がり事務所の扉から出て行ってしまった。
一人取り残された静かな事務所内で、アクアはそっと雑誌を閉じる。
有馬がこの事務所に入ってきて以降、雑誌の内容は全く頭に入っていなかった。
少し、心の内を晒しすぎたかもしれない。
利用できるものは何だって利用するつもりでいた。たとえ相手が有馬でさえも。
けれどここにきて、迷っている自分がいる。
有馬を傷つけたくないというよりは、有馬に嫌われたくないのだ。
今自分に向けられている淡い色をした感情が、いつか憎悪を孕んだ真っ黒な色に染まる日が来るかもしれない。
そう思うと、恐ろしくて仕方がなかった。
とっくに覚悟はできているはずなのに、今更嫌われたくないだなんて、都合がいいにもほどがある。
いっそ心なんて、捨ててしまえればいいのに。
そんなことを考えながら、アクアは誰もいない事務所で独りため息を吐くのだった。
END